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スオミ・キリスト教会
2026年5月3日 復活節第五主日 主日礼拝説教 スオミ教会
使徒言行録7章55-60節
第一ペトロ2章2-10節
ヨハネ14章1-14節
説教題 「心を騒がせるな、ただイエスの名によって祈り求めよ」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1.はじめに
本日の福音書の日課の箇所は、イエス様が十字架にかけられる前夜、弟子たちと最後の晩餐を共にした時の教えです。初めに「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしを信じなさい」と命じます。「心を騒がせるな」とは、この時、弟子たちが不安を抱き始めたためイエス様が述べたのです。弟子たちはどうして不安を抱いたのでしょうか?
弟子たちにとってイエス様はユダヤ民族の期待のヒーローでした。無数の不治の病の人を癒し、多くの人から悪霊を追い出し、嵐のような自然の猛威も静め、わずかな食糧で大勢の人の空腹を満たしたりするなど沢山の奇跡の業を行いました。誰が見ても天地創造の神が彼の味方にいるとわかりました。さらに、創造主の神について人々に正確に教え、ユダヤ教社会の宗教エリートたちの誤りをことごとく論破しました。弟子たちも群衆も、この方こそユダヤ民族を他民族の支配から解放してかつてのダビデの王国を再興する真の王と信じていました。そうして民族の首都エルサレムに乗り込んできたのです。人々は、いよいよ民族解放と神の栄光の顕現が近づいたと期待に胸を膨らませました。
ところが、イエス様は突然、私はお前たちのもとを去っていく、私が行くところにお前たちは来ることができない、などと言い始めたのです(ヨハネ13章33、36節)。これには弟子たちも面喰いました。イエス様が王座につけば直近の弟子である自分たちは何がしかの高い位につけると思っていたのに突然、自分は誰もついて来ることができない所に行くなどと言われる。それでは王国の復興はどうなってしまうのか?イエス様がいなくなってしまったら、取り残された自分たちはどうなってしまうのか?ただでさえイエス様は宗教エリートの反感を買っているのに、肝心のリーダーがいなくなってしまったら自分たちは弾圧されてしまうのではないか?こうして弟子たちは不安に襲われて心が騒ぎ出したのでした。そこで、イエス様は「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」と命じたのです。この世で敵に囲まれて取り残されてしまう弟子たちが心を騒がせないで済むようにイエス様は教えていきます。その教えは当時の弟子たちだけでなく現代を生きるキリスト信仰者にとっても大事なものです。以下そのことを見ていきましょう。
2.イエス様は道の決定版、真理の決定版、命の決定版
イエス様は、天の父なるみ神のもとに行って、そこで弟子たちのために場所を用意し、その後また戻ってきて弟子たちをそこに迎えると言われます。「神のもとに行く」というのは、言うまでもなく天の父なるみ神のもとです。イエス様が死から復活して復活の体を持ってそこに帰ることを意味します。「また戻ってくる」というのはイエス様が再臨する日のことです。その日イエス様は弟子たちを自分が用意した場所に連れて行ってくれると言うのです。それは、今のこの世が終わって天と地が新しく再創造される日、死者の復活が一斉に起こり、神の目に義と見なされる者たちが見出されて神の御許に迎え入れられる日です。この迎え入れられる場所のことを聖書は「神の国」とか「天の国」などと言います。
そこは黙示録で言われているように全ての涙が拭われて痛みも嘆きも死もない国です。全ての涙というからには痛み悲みの涙だけでなく無念の涙も含まれます。それで、その国は旧い世の不正義の報いが完璧に果たされた国なのです。また、それは盛大な結婚式の祝宴にも例えられます。イエス様は祝宴に迎え入れられる一人ひとりのために席を用意しに行き、時が来たら迎えに来ると約束しているのです。また来るから心配するな、来たら直ぐお前たちを新しい世の神の国に連れて行ってやると約束しているのです。神を信じイエス様を信じるということは、神とイエス様は約束を必ず果たすと信じることです。信じたら、この世で神の意思に沿うように生きようとして困難や苦難にあっても、この約束があるので何も心配いらないという気持ちでいられるのです。
ところが、イエス様の十字架の死と死からの復活が起こる前に将来の復活の話をされても何のことか理解できません。自分はまた戻って来るから大丈夫だと言った後でイエス様は恐らく反論を予想して言います。「お前たちはわたしが行こうとしている場所に通じる道を知っているのだ」(4節)。予想通りトマスが当惑して言い返します。あなたがどこへ行くのかわかりません。それなので、そこに至る道というのもわかりません。行先が分からなければ道なんかもわからない。もっともなことです。これに対してイエス様は待ってましたとばかりだったでしょう、とても有名な言葉を述べます。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(6節)。
イエス様自身が天の父なるみ神のもとに至る道であると言うのです。しかも、彼を介さなければ、だれも神のもとに行くことはできないという位、イエス様は創造主のもとに至る唯一の道だと言うのです。唯一の道ということは、ギリシャ語の原文でもはっきりしていて、道、真理、命という言葉全部に定冠詞へーがついています。定冠詞とは皆さんご存じの英語のtheと同じもので、the way, the truth, the lifeです。定冠詞がつくと、イエス様は道の決定版、真理の決定版、命の決定版という意味になります。いくつかある道の中のどれか一つではないのです。その場合は定冠詞はつかず、英語ならa way, a truth, a lifeになります。イエス様はそうは言っていません。日本語は定冠詞がないので、注意しないと、沢山ある中の一つを言っていると誤解する人が出てきます。
イエス・キリストが道の決定版などと言うと、宗教の業界では煙たがれます。ああ、キリスト教は独り勝ちでいたい宗教なんだ、と。それでか、最近はキリスト教関係者の間でも、この世から死んだあと天国でも極楽でもなんでもいい、そういう至福の状態に至る道はいろいろあっていいのだ、それぞれの宗教がそれぞれの道を持っているが到達点はみな同じなのだ、そうことを言う人が増えてきました。そういうふうに言えば、キリスト教はなんと懐の深い宗教だろうと評価されます。
しかしながら、至福に至る道についてキリスト教を他の宗教と同列にできないことがあることを忘れてはいけません。多くの宗教では人間はこの世を去ってあの世に行ったら、そこからこの世にいる私たちを見守っているというような、この世とあの世が同時に存在してあるという見方をしているのではないかと思われます。キリスト教の場合は復活と天地の再創造があるので同時の存在はありえません。今ある天と地が終わって新しい天と地が再創造される、そこに旧い世の時には異次元にあって見えなかった神の国が唯一の国として現れてくる、死者が一斉に眠りから覚まされる復活が起きて創造主の神の前で義とされる者は復活の体を着せられてそこに迎え入れられるという流れになります(後注)。それなので、キリスト教がゴールと考えているところは他の宗教がゴールと考えているところと次元が全く異なります。他の宗教ではこの世から別れると至福の地点に到達するまで修行の旅をするというような見方をするところもあります。キリスト信仰では復活の日まで特に何もせず、ただ静かに安らかに眠っているだけです。
道以外にもイエス様は、自分は真理の決定版、命の決定版であると言われます。真理の決定版というのはどういうことでしょうか?真理とは普通、時や場所に関係なくいつどこででも妥当する普遍的な法則のようなものです。例えば、イエス様の十字架と復活の業によって人間は罪の支配下から解放されて将来復活を遂げることができるようになる可能性が生まれたこと。これは、時や場所や人種民族に関係なく全ての人間にその可能性が生まれたので、これは真理です。さらに、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、それは可能性に留まらず本当のことになるということ。これも、時や場所や人種民族に関係なく全ての人間に本当のことになるので、真理です。ところが、最後の審判はキリスト教徒だけの問題だ、キリスト教以外の人は最後の審判は関係ないと言ったら、キリスト教から真理を取り下げることになります。なぜなら、最後の審判はキリスト教徒か教徒でないかに関係なく全ての人間に関わるというのが聖書の立場だからです。それで最後の審判も真理です。
命の決定版ということについて。イエス様が「命」とか「生きる」という言葉を使う時は、いつもそれは今のこの世の人生だけでなく、今の世が終わった後に到来する新しい世の人生も一緒にした、とてつもなく広大な人生を「生きる」「命」を意味します。死から復活させられたイエス様はまさにその広大な人生を生きる命を持つ方です。そればかりではありません。彼を救い主と信じて洗礼を受けた者たちにも同じ広大な人生を生きる命を与えて下さる方なのです。それで、イエス様は命の決定版なのです。
3.父なるみ神と御子は一体
7節でイエス様は、「あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる」と言われます。イエス様を知ることは、父なるみ神も知ることになる。イエス様を見ることは、父なるみ神を見ることである。それくらい御子と父は一体であるということが7節から11節までずっと言われます。そう言われてもフィリポにはピンときませんでした。イエス様を目で見ても、やはり父なるみ神をこの目で見ない限り、神を見たことにはならない、と思いました。イエス様と父なるみ神は一体であるということがまだわからないのです。これは、十字架と復活の出来事が起きる前は無理もなかったでしょう。しかし、十字架と復活の出来事の後に全てが一変します。弟子たちはイエス様が真に天の父なるみ神から贈られた神のひとり子だったとわかったのです。さらにこのひとり子は、人間を罪の支配下から解放して将来復活を遂げられるようにしてあげようとする神の人間への愛を自ら実践した、それで十字架の死は人間の解放のための犠牲の死であったこともわかりました。そのようなことを成し遂げる位にひとり子は父に従順だったこと、彼が人間に教えたり行ったことは全て父が教えたり行ったことで、自分で好き勝手に教えたり行ったのではないこと、それくらい父と御子は一体だったことが明らかになったのです。
12節でイエス様は、「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである」と言われます。これは、ちょっとわかりにくいです。イエス様を信じる者がイエス様が行った業よりももっと大きな業を行うとは、一体どんな業なのか?まさかイエス様が多くの不治の病の人を完治した以上のことをするのか?自然の猛威を静める以上のことをするのか?しかも、信じる者が大きな業を行うことが、イエス様が天のみ神のもとへ行くこととどう関係があるのでしょうか?
弟子たちがイエス様の行う業を行うと言う時、まず、イエス様がなしたことと弟子たちがなしたことを並べて見てみるとわかります。イエス様は、人間が神との結びつきを回復して広大な人生を生きられるようにする可能性を打ち立てました。これに対して弟子たちは、この福音を宣べ伝えて洗礼を授けることで人々がこの可能性を自分のものとすることができるようにしました。つまりイエス様は可能性を打ち立て、弟子たちはそれを現実化していったのです。しかし、両者とも、人間が神との結びつきを回復して、この世とこの次に到来する世を合わせた広大な人生を生きられる道に乗せてあげられるようにするという点では同じ業を行っているのです。
それから、弟子たちの場合は活動範囲がイエス様の時よりも急速に広がったことが重要です。イエス様が活動したのはユダヤ、ガリラヤ地方が中心でしたが、それが弟子たちが遠く離れたところにまで出向いて行ったおかげで救われた者の群れはどんどん大きくなっていきました。使徒たちの伝道は地中海世界の東側全域に及びました。パウロはスペインを目指しましたが果たせませんでした。パウロの後に続く者たちに委ねられました。伝説によるとトマスはインドにまで伝道しに行ったとのことです。地理的な意味で、弟子たちはイエス様の業よりも大きな業を行うことになったのです。ヨハネ16章7節でイエス様は、自分が天の父のもとに戻ったら、今度は聖霊を送ると約束しました。お前たちをみなしごのようにしないと言うのです。聖霊は福音が宣べ伝えられるところならどこででも働き、人間が罪のなすがままの状態にあるという真理と、そこから解放するのが神の愛であるという真理を人々が見れるようにと導きます。このようにイエス様が天の父のもとに戻って、かわりに聖霊が送られてきて、弟子たちが伝道すると聖霊が働き、キリスト信仰者の群れはどんどん大きくなっていったのです。
4.勧めと励まし
イエス様は13節と14節で、わたしの名によって願うことは何でもかなえてあげよう、と言われます。これはとても難しいところです。昔、私の知り合いのキリスト信仰者の方が、自分の抱えている問題がとても大きくて人間的に見て解決はどう見ても不可能、祈っても解決を得られなかったら、自分はイエス様に失望してしまうかもしれない、それが怖くて祈れないと言われた方がいらっしゃいました。気持ちはよくわかったのですが、私としてはやはり、神に全てを打ち明けることは十戒の第一の掟に入るので、義務としてでも祈らなければならなかったと思います。「何でもかなえよう」がその方にとって躓きの石になったと思います。
自分は金持ちになりたい、有名になりたい、というようなことをイエス様の名によって願ったら、その通りになると信じる能天気な人はまずいないでしょう。イエス様の名によって願う以上は、願うことの内容は父なるみ神の意思に沿うものでなければなりません。利己的な願いは聞き入れられないばかりか神の怒りを招いてしまいます。キリスト信仰者は神との結びつきを持って復活の日を目指して歩む者です。キリスト信仰者が願うことはもちろん、いろんなことがありますが、つまるところは「イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼によって得ることができた神との結びつきがしっかり保たれて、道の歩みがしっかりできますように」という祈りに行きつくのではないかと思います。「これしきの困難で歩みが出来なくなるようなことがないように」と祈ると、神はその人の歩みが出来るように、困難を解消してくれるか、または困難を耐えられる忍耐力のどちらかをお与えになります。さらに、まだ神との結びつきを持てておらず復活の日を目指す歩みも始まっていない隣人のための祈り、その方に歩みが始まりますように、そのために何か相応しい言葉や働きかけを教えて下さいと願う祈りも切実なものになると思います。復活の日の再会がかかっていればなおさらです。イエス様がその通りにしてあげると約束された以上は、どんなに時間がかかっても、それを信じて願い続け祈り続けなければなりません。
冒頭で述べた問題に戻りましょう。イエス様が天のみ神のもとに戻ってしまったら、弟子たちはこの世で敵に囲まれるように取り残されてしまうことになる。それでも心を騒がせないで済むのだということをイエス様は教えられました。何を根拠にそうなれるか?まず、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼によって自分は父なるみ神との結びつきを持てた、そして永遠の命に至る道に置かれて今その道を進んでいるのだ、という救いの確信がまず一つ。もう一つは、自分がこの道を歩めるために、また隣人も歩めるようになるために願い祈ることはなんでも主は聞き入れてかなえて下さると約束されたこと。救いの確信と神の約束、これらはキリスト信仰者にとって大きな励ましと慰めです。これらがあるのだから、心を騒がせる必要はないのです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
(後注)もちろん、この説明は大雑把なもので、細かいことを言えば、復活の日を待たずに神の御許に迎え入れられた聖人はいるし、復活も黙示録を見ると2段階あるように書かれています。詳細は人間の理解力では把握できませんが、大きく見れば、この世とあの世の同時併行ではなく、この世がなくなってあの世に取って代わられるということです。
4月の手芸クラブは22日に開催しました。この日は太陽が明るく輝き様々な花も咲くようになって美しい季節の朝でした。
今回の手芸クラブのテーマは前回に続いてモチーフ編みです。初めにモデルを見て自分の作りたい正方形の編み物を選びます。参加者の皆さんは前回にもモチーフ編みをされたので、今回はスムーズに編み始めることができました。お家で編まれた方は可愛い彩りの正方形の編み物を何枚も持ってこられました。皆でそれを見て、「わぁー可愛い!」「素敵」「きれいな色合い」と感心の声をあげました。モチーフ編みは鎖編みと中網の繰り返しだけなので、皆さんはマイペースで編み進めます。次第に作品の形が見えてきました。皆さんの手は早く、何枚も正方形を編まれました。正方形の数が増えると、最後はどんな作品になるか、完成品が楽しみです!
編み物に集中すると目や手が疲れます。コーヒータイムで一息入れることにしました。今フィンランドの季節は5月のお祭Vappu(メーデー)に近づいているので、季節のドーナツ菓子Munkkiを味わいながら楽しい歓談の時を持ちました。そこでパイヴィのお祖母さんたちの思い出話や、新約聖書のフィリピの信徒への手紙の「思い悩むな」についてお話を聞きました。
次回の手芸クラブは5月27日の予定です。詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。
今日の手芸クラブはモチーフ編みの続きをしました。皆さんは素敵な彩の正方形の編み物を何枚も編みました。それらをつなぎ合わせると、どんなものになるのかこれからの楽しみです。この編み方は英語でグラニースクエア(おばあちゃんの正方形)と言い、フィンランド語でも同じ意味「Isoäidin neliö」と呼ばれます。とても可愛い呼び名の手芸です。昔お祖母さんたちが始めた編み方かもしれません。昔、お母さんたちは家族の皆の靴下や手袋などを編んでいたので、毛糸が沢山余ったでしょう。お祖母さんになってから余った毛糸を使ってモチーフの編み方が生まれたかもしれません。
私はこのIsoäidin neliöという言葉を聞くと、自分のお祖母さんたちのことをよく思い出します。母の母である私のお祖母さんはかぎ針編みがとても上手でレース編みのカーテンやベッドのカバーなどを編んでいました。彩のモチーフ編みの美しいベッドカバーも作りました。11人の子どもを育てたお祖母さんは手袋や靴下を沢山編みました。余った毛糸を使ってモチーフ編みのベッドカバーを編みながらいろいろ思い出を巡らせていたのだろうと思います。
私のもう一人のお祖母さん、父の母はかぎ針編みはしませんでしたが、棒編みで靴下を冬でも夏でも編んでいました。家族の皆は毎年クリスマスプレゼントに暖かい靴下をもらいました。いつもサンタの奥さんが編んでくれたかのように思いました。父の母は私たちが住んでいた家と同じ家に住んでいました。母は農家の仕事で忙しかったので、お祖母さんは私たち兄弟姉妹の世話をしてくました。
一緒に過ごす時間が多くて私たちはお祖母さんととても親しくなりました。お祖母さんは聖書を毎日読んでお祈りを大切にしていました。私たち兄弟姉妹は学校でテストの日や勉強で忙しい時に少しプレッシャを感じることがありました。そんな時お祖母さんはいつも聖書の御言葉で励ましてくれました。お祖母さんがよく言われた言葉は今でも印象に残っています。それは新約聖書のフィリピの信徒への手紙の言葉です。
「どんな時でも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めた祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなた方の心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」 フィリピの信徒への手紙4章6-7節
子どものころこの言葉を聞いてもその意味を深く理解することはできませんでした。しかしお祖母さんはこの言葉でいつもで励ましてくれて、そしていつもお祈りしてくれたので心は軽く感じられました。大人になってからこのことを思い出すと感謝の気持ちで一杯になります。
この使徒パウロが語った言葉はどのような意味があるのでしょうか。
私たちは生活の中で心配事や悩む事が多くあると思います。そのようななかで生きていると、人生に対する喜びや希望を失ってしまうこともあります。しかし、いくら悩んでも何かを得ることは出来ず、ただ疲れてしまうだけです。では私たちはどうしたらよいのでしょうか。
神さまは私たちにとても大切なことを与えて下さいました。それは祈りです。祈りを通して天の神さまに全てのことを打ちあけることができます。私たちは全ての悩みを神さまの力強い御手に委ねることがでるのです。神様が私たちの祈りにどのように答えて下さるのかは分かりません。神さまは私たちの造り主であり、私たちに最も相応しい答えを与えて下さいます。また、神さまは私たちの父でもあるので、相応しくないものを与えることはなさいません。私たちは、神様が与えてくださったことにすぐ気がつかないこともあるかもしれませんが、神様は心の中に平安を与えて下さいます。どのような状態にあっても、お祈りすることで全てのことを神さまの御手に委ねることができるので、心の中に平安を得ることができるのです。
お祖母さんが教えてくれた聖書の箇所は今でも私を励ましてくれる言葉の一つです。聖書には励ましてくれる言葉は数多くあり心を癒してくれます。
最後に旧約聖書のイザヤ書のみ言葉です。
「恐れることはない、私はあなたたと共にいる神。たじろくな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助けわたしの救いの右の手であなたを支える。」 イザヤ41章10節
私たちは、神さまのみ言葉を信じることができれば、心は軽くなり、平安に満たされます。
4月の料理クラブは18日、つつじが咲き始めた初夏のような陽気の中で開催しました。今回はこの季節にピッタリのシュガーフレーク・フルーツケーキを作りました。
料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。最初にケーキの生地を作ります。今回はハンドミキサーは使いません。ケーキの粉類を計ってそれに溶かしたマーガリンを加えると、シュガーフレークのもとが出来ます。トッピング用にその一部を取っておきます。残りのものに生地用の他の材料を順番に混ぜ加え、それを型に伸ばします。
その次は中身の番です。水切りしたヨーグルトに砂糖、レモン汁を加えてクリーミーにし、それを生地の上に注ぎます。細かく切った缶詰のピーチとパイナップルをクリームの上に並べトッピングのシュガーフレークをかけて、ケーキをオーブンに入れて焼きます。ケーキが焼けている間にパプリカとキューリを切ってクラッカーの上にのせるなどして、塩気のものも少し準備しました。
ケーキが焼けると美味しそうな香りが教会中に広がり、きれいな黄色のケーキが焼き上がりました。みなさん、「春らしいケーキね!」と声を合わせます。 ケーキを少し冷ましてから切って、ケーキとクラッカーをコーヒー紅茶と一緒に美味しく頂きながら、楽しい歓談のひと時を過ごしました。キリスト教会では2週間前にイースター・復活祭のお祝いをしました。それで、今回の話は今日作ったケーキのことやイースターの後に起こった出来事についてでした。
次回の料理クラブは5月16日に予定しています(ご注意 5月は月の第三土曜日になります)。 詳しい案内は教会のホームページをご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。
今日は「シュガーフレーク・フルーツケーキ」を作りました。フィンランドでは黄色のフルーツケーキはイースター・復活祭のお祝いの時によく作られます。以前、料理クラブでは似たようなピーチケーキを作りましたが、今回はピーチに加えてパイナップルもケーキの中に入れました。水切りヨーグルトを使ったしっとりしたケーキにトッピングのシュガーフレークを‘かけると、ケーキの風味が高まり美味しくなります。
この季節になるとフィンランドの家庭では、前の年に冷凍したベリーを殆ど使い切ってしまうため、ケーキ作りには缶詰のフルーツが使われます。パイナップルもその一つです。パイナップルは甘いお菓子だけではなくて肉料理やピザ、サラダなどにも使われます。
パイナップルは熱帯地域で育つ果物です。実が出来るまで2年もかかります。昔はとても希少で高価な果物で、身分の高い客をもてなすために使われたりしましたが、現在では生や缶詰のものがどこでも販売されているので、かつての特別な意味を知る人は少ないと思います。
今日のケーキは黄色いフルーツに加えて水切りヨーグルトも使ったので、イースターのケーキのイメージが高まりました。ちょど2週間前には教会ではイースターのお祝いをしました。これから聖書にあるイースターの後で起こった出来事についてお話したく思います。
イースターとは何の日でしょうか。それは、十字架にかけられて亡くなられたイエス様が神様の力で復活されたことを覚えてお祝いする日です。十字架の死から三日後の朝、復活されたイエス様が弟子たちや彼の教えをよく聞いていた女性たちの前に現れました。そして同じ日の夜、弟子たちがある家に集まっていると、突然イエス様が部屋の真ん中に立って「あなた方に平和があるように」と言われました。弟子たちは幽霊だと思って恐れました。しかし、イエス様は弟子たちに自分の手と足と十字架の時に受けた傷を見せて、幽霊には骨も肉もないが自分にはあると言われました。弟子たちは最初驚くばかりで信じられない気持ちでしたが、次第にイエス様の復活を本当のことと分かって、心が平和に満たされていたのです。
イエス様は弟子たちの前に現れた時、一番初めに「あなたがたに平和があるように。」という挨拶の言葉を語りました。つい三日前の金曜日、イエス様は十字架に付けられて死なれました。その時の弟子たちは皆、イエス様を見捨てて逃げてしまいました。悲しんで後悔している弟子たちに、復活されたイエス様は責めるようなことは何も言わず、ただ「あなたがたに平和があるように」と挨拶されたのです。
神様が平和を与えて下さるという約束は、聖書の中で最も重要な約束の一つです。この神さまの約束は私たちにも向けられています。しかし私たちは今生きているこの世界の中で本当に平和に生きることができるでしょうか。今この世界は落ちしく揺れ動き国と国の間の紛争や戦争が数多く起こり、それらがどれくらい広がっていくか不安に感じさせます。さらに私たち一人一人の生活の中にも様々な不安があります。自分や家族の健康のこと、自分や子どもたちの将来のこと、人間関係のことなど多くの心配ことがあると思います。このような状態の中でどのようにして平和な心で生きられるでしょうか。イエス様が与えて下さる「平和」とはどんな平和でしょうか。
イエス様が言われた「平和」とは神さまが私たちの心に与えて下さる平和です。イエス様のお掛けで神さまと私たちは平和な関係があるという平和です。全ての造り主の神さまと平和な関係があるとわかれば、神様が共におられることが分かり、神さまを信頼して生きることができます。この時私たちの心の中には神さまからの平和があります。神さまは不安や悩みにとらわれている私たちを解放して全てを御手に委ねることができるようにしてくださいます。その時私たちは心の平安を得ることができるのです。
イエス様は弟子たちと出会われた時に彼らはイエス様に起こった出来事のために恐れに満たされ不安で一杯でした。しかしイエス様は彼らに「あなた方に平和がありますように」と語りかけました。私たちも弟子たちと同じです。生活の中に心配事があるかもしれませんが、イエス様は私たちにも「あなた方に平和があるように」と励まして下さいます。
何かを恐れている人、心配なことや後悔がある人も皆、イエス様のおかげで神様と平和な関係が持つことができるとわかれば、心に平安を得ることができるのです。イエス様は私たちにもこの励ましの言葉「あなた方に平和がありますように」と語りかけておられます。
ヤマザクラの実
ソメイヨシノの実
サクランボウ
〈27夜昼、寝起きしている間に、種は芽を出して育って行くが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。28 地はおのずから実を結ばせるもので、初めに芽、つぎに穂、つぎに穂の中に豊かな実ができる。 マルコ4:27・28〉
散歩の途中でソメイヨシノの枝に小さな実が成っているのを見つけました。確かソメイヨシノはクローン桜で実はつかないと思っていましたが調べてみると稀にですがソメイヨシノも周囲に山桜などの他の桜の木があれば受粉をして結実をするようです。ソメイヨシノをはじめ多くの桜は様々な環境に適応できる、多様な性質をもった子孫を残すために同じ遺伝子の花粉では受粉できない仕組みになっているとありました。ソメイヨシノのサクランボウがその後どのようになるかに興味が湧きました。一方、山桜の木には小さな桜の実が一杯ついていました。六月頃になると更に大きくなり黒ずんできます、その頃が丁度食べ頃となりサクランボウ好きが三々五々やってきて味見をしながら批評し会っています。我が家は二人ともその仲間となり味比べに参加しています、皆それぞれに好みの木があるようでこの季節が待ち遠しいです。
覚悟と胆力を養うキリスト信仰その9
ルターによる聖句の説き明かしと共に(フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ」2月6日の日課から)
『我らに日ごとの糧を今日も与えたまえ』(マタイ6章11節)
『あなたは、「父なるみ神よ、我らに日ごとの糧を今日も与えたまえ」と祈る時、それは次の内容を含んでいると理解せよ。「父なるみ神よ、この哀れで苦しむわが身を神であるあなたが発する言葉をもって強め励まして下さい。私は、あなたの御手が重くのしかかるのを耐えられません。しかし、耐えられないと、私は破滅してしまいます。だから、父よ、あなたが私を強めて勇気を失うことがないようにして下さい。」
神が我々に苦しみや困難が降りかかるのをお許しになる際に、我々に求めていることは、我々が右往左往したりあちこちに目を移すことではない。そのような時こそ一層神のもとに留まり神だけに目を注ぐことである。やみくもに苦しみや困難からの脱出を計ってはならない。そんなことをしたら、神の意志が我々を通して実現されるのを妨げてしまう。それは我々の利益ではない。我々は、そのような神の意志に最後まで付き合うことができる強さを身に着けることを求めなければならない。なぜなら、人間は誰一人として神から強めてもらわない限り、怖れを抱かずに苦しみや困難に立ち向かうことはできないのだし、また神が定めた時を示される時に怖れを抱かずに死に立ち向かうこともできないからだ。一切の被造物は、この「強める」ことができない。全ての被造物とりわけ人間というものは、そこから力づけを得ようとすれば、逆に我々をますます無力にし不安定で軟弱なものにするだけである。それ故、罪の赦しを保証する神の御言葉が我々を強める他はないのである。これこそが、我々が祈り求める「日ごとの糧」である。
マタイ福音書11章で主は、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と言われる。このような、神の御言葉を糧にして、神の意思の中に踏みとどまり、神に強めてもらうという教えは、聖書に満ちている、満ちている、満ちている。』(以上、ルターの説き明かし、吉村の“激訳“でした。)
キランソウ
〈ヒソプをもって、わたしを清めてください、わたしは清くなるでしょう。わたしを洗ってください、わたしは雪よりも白くなるでしょう。 詩編 51:7〉
早春の叢に地面を這うように一群の小さな草花を見かけます、その草花はやがて周りの草などの成長に伴って何時しか消えてしまいます。先日、尾根緑道の脇道の石垣にあの地を這うように咲いていた草花を見つけました。その名も「キランソウ」と言う野草でした。キランソウは別名「医者殺し、地獄の釜の蓋」などと可憐な花に似合わない名がついていて万病に効く薬草として知られてきました。石垣ならば他の草花にも邪魔をされずに存分に成長が出来ますね、石垣はキランソウの安住の地でもありました。
覚悟と胆力を養うキリスト信仰その8 ルターによる聖句の説き明かしと共に(フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ 」4月24の日課から) 『婦人が子供を産む時、彼女は苦悶に見舞われる。彼女の時が来たからである。」(ヨハ ネ16章21節にある主イエス・キリストの御言葉、1933年のフィンランド語訳聖書を参考に しました。) 『このたとえで主は、人間の力がいかに無力であるかを示される。たとえ100人の婦人が 出産に臨む婦人を助けようと集まって来ても、どうすることもできない。そんなことは、 わかりきったことだ。出産というものほど、人間がいくら自由意思を駆使しても無力さを 思い知らされることはない。子供が母親の胎内から生まれてくるというのは、母親がどう こうできるものではないからだ。それは人間の造り主である神が取り仕切ることだからだ 。だから母親は全てを神に任せるしかないということをよくわかるのだ。神が助け導いて 下さるのなら、助けと導きは確実にある。しかし、神の助けがなければ、たとえ全世界が 駆けつけても、万事休すである。神は出産ということを通して婦人に自分の力量、能力、 強さがちっぽけなものに過ぎないことをわからせるのだ。 これと同じことは出産と無関係な人すべてにも当てはまる。キリストはこのたとえを実は 彼を信じる者たちに向かって言われているのだ。出産に臨む婦人は何か不測の事態が起き やしないかと恐れる。しかし、全てのことは神の御手の中にあるとわかっていれば、神を 信頼して委ねることが出来る。我々が様々な逆境の渦に巻き込まれた時、また古い人間か ら新しい人間へと変えられる時も、全く同じである。だから、君は踏みとどまって、神の 働きを妨げないようにしなさい。神は我々の助けなどなくても全てを良く取り仕切って下 さる方なのだ。逆境の渦中にある時、新しい人間に変えられる時、我々は自分では何もな しえないのだから。自分の力で取り仕切ろうとすれば、死と地獄が目の前に立ちはだかる ことになる。それはちょうど、神に心を向けない出産の婦人が自分で自分を助けることが できず痛みと苦しみと恐れしか感じられないのと同じことだ。』(以上、ルターの説き明 かし。迫力が伝わるように"爆訳"しました。) そして神に信頼して神が働くようにした後で何が待っているか?イエス様は次のように続 けて言います。「しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために 、もはやその苦痛を思い出さない。」(ヨハネ16章21節の続き)
桜の饗宴
〈天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。 コヘレト3:1〉
先日、小雨降る尾根緑道の桜見物に出かけました。尾根緑道の東側のソメイヨシノは既に葉桜となっていましたが、こちらの西側は山桜と八重桜は今が盛りと言わんばかりに咲き誇っていました。「シロタエ」や「ヨウキヒ」などの八重桜に混じって山桜の「駿河台匂い」も芳しい香りをあたりに漂わせていました。今年の桜の季節もそろそろ終盤に差し掛かってきたようです。この桜の饗宴をいつまで見られるか気になっているところです。
2026年4月19日(日)スオミ教会
聖書 ルカ福音書24章13~35節」
説教題:「復活の主、エマオで現れる」
今日の聖書はルカによる福音書の最終章、24章であります。13節~35節には復活されたイエス様がエマオという村へ向かって帰る二人の弟子に現れるという出来事です。英国の聖書学者ウイリアム・バークルーは「これは、もう一つの不朽の短編である」と言っています。そして、日没に向かってイエス様の二人の弟子が故郷のエマオに歩いて帰っています。この二人がイエス様に気づかなかったのはエマオの村はエルサレムの西にあった。もう日が沈みかけていて、沈みゆく太陽が二人をまばゆく照らし、そのために彼らは主イエス様を見分けることが出来なかったのではないかと言っています。ルカは24章15節ではこう書いています。イエス様ご自身が近づいて来て一緒に歩き始めた。しかし、二人の目は遮られていてイエスだとは分からなかった。マルコは此処の場面をごく簡単に16章12節~13節の2節で書いています。「彼らのうちの二人が田舎の方へ行く途中、イエスが別の姿でご自身を現わされた。」ある聖書学者は、こう表現しています。これは、あきらかにルカ福音書24章13節以下に記されているエマオ途上の弟子たちにイエス様が現れた事と同じ話でルカのあの箇所の限りなく美しい物語で例えようもなく感動的である。マルコはその感動をわずか二行の短い文章で記しているだけです。情緒的、感傷に流れるのを恐れてでもいるかのようにあっさりと、しかし決定的な断言として二人の弟子たちに甦りの主がご自身を現わされた事を記している。週の初めの日、墓を訪れたマリヤの時と違って、此処では主は「別の姿」でご自身を現わされたと言っています。別の姿というのは身に着けておられた衣服が違っていたとか様子が全く変わっておられた、そういう事ではなく新しい姿、地上的な姿ではなく天的な姿と言う事ではないでしょうか。エマオに帰っている二人の弟子というのはあのイエス様の直接の12人の弟子ではないけれどもイエス様の行く先々を共にイエス様の教えを聴き病人を癒される奇跡を見、五千人の人々に五つのパンと二匹の魚で腹を満たす奇跡など驚くべきイエス様の業を目で見てこの方こそメシヤであると期待していたでしょう。ところがイエス様は十字架の死を遂げてしまわれた。彼らがどんなに失望、落胆したか道々これからどうしたら良いものかと語り合っていたのです。そこへ復活されたイエス様がスーッと現れ二人に近づいて、イエス様の方から「歩きながら遣り取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人はちょっとびっくりしてクレオパという人が答えた。「エレサムに滞在していながらこの数日そこで起こった事をあなたはご存知なかったのですか」こうしてイエス様が十字架につけられて亡くなってしまった事、彼らが如何に希望を持っていた方であった事、仲間の婦人たちが墓へ行ったらイエス様の遺体が無く天使が現れ「イエスは生きておられる」と告げた事などを話してあげています。婦人たち、そして二人の弟子も天使に「イエス様は甦って生きておられる」と言われてもにわかには信じれれなかったのです。そうして、もう田舎に帰ろうとエマオに向かったのです。この二人の弟子に復活されたイエス様が旧約聖書の予言者たちからイエス様ご自身が死んで復活する事を既に話されていたではないか、とこんこんと説明された。それでも十字架に死んでしまったイエス様が生き返るなんて到底思えない、話されてもとても信じられない。これが二人の正直な心情だったでしょう。日も暮れて同じ宿に泊まることになり食事の時、イエス様のパンを裂かれる時二人の目が開けイエス様だとわかった!次の瞬間イエス様の姿は見えなくなった。こうして二人は甦られたイエス様は生きておられる・・・と信じたでしょうか。32節でルカは書いていますね「二人は道で話しておられる時、また聖書を説明して下さった時私たちの心は燃えていたではないか」と語り合ったのです。そうです!十字架の死を超えて甦り給ったイエス様に出合いの言葉に聴く瞬間、私たちの心は熱く燃えるのです。一瞬でもいい復活の主のみ言葉が私たちの心を熱くする言い知れない力がみ言葉から受ける事が出来るのであります。
信じるというのはどういう事でしょうか。イエス様は確かに十字架で死なれた。ただ一回だけ死んでしまわれた、これは事実です。神にみ子イエス様は十字架の死をもって信じる人全ての罪を全部この死を代償として我が身に受けて贖い死んでしまわれたのです。しかし、それで終わりではない死から神のみ力によって甦られされて復活の主イエス様は生きて信じる者の内にも生きて働いて下さるのであります。この事、復活されたイエス様が私のうちに生きて同じ復活の命に生かさせて下さる、この事をあなたは信じるかどうかです。もともと信じると言うのは見たから信じると言うものではないでしょう。証拠を見せて欲しい、そうしたら信じるとよく言います。それは証拠を見て納得する事であって信じる事ではありません。何の証拠もない、けれども信じるということではありませんか。世の中には何も信じられない、学校の先生も信じられなくなった、政治家も全く信じられないという人間は沢山います。信じる信じないというのはこの場合信頼するしかない、ということでしょう。その根拠はそう考える自分自身にあるのです、自分自身が判断の基準になっているのです。しかし、神を信じる聖書のみ言葉を信じるというのは神ご自身が根拠になっているのです、聖書そのものが根拠になっているのです。私たちが自分が証拠を手にしてそれで納得して受け入れるそういうものではありません。納得することは信じることでは決してありません。私たちは自分を根拠にして一体何が出来るのでしょうか。私たちは人でも物でも最後の最後まで信じ抜いてゆくことなど到底できないでしょう。自分自身さえ信じられなくなったとさえ言うではありません。私たちは老いてゆけば思うようになかなか出来なくなって自分自身の頼りなさを嘆きます。私たちは自分の健康も今まで何でも出来ると思っていた事も頼りなくなり自分も信じられなくなったら、もうただ神様を信じイエス・キリスト様を信じて頼ればよいのです。
使徒言行録26章を見ますと、パウロがアグリッパ王の前で弁明した演説が記録されています。8節に「神が死者を復活させて下さると言うことをあなた方は何故信じ難いとお考えになるのでしょうか」復活がどうして信じられないのかと聖書は私たちに問い掛けています。主イエス様は復活されたままのお姿であの疑い深いトマスに言われました。「信じない者ではなく信じる者になりなさい」。神様が信じる根拠となって下さる。主イエス・キリストはあなたのために十字架にかかり死なれたのです。そして、死から復活された。そして、甦りの主イエス・キリストは今も生きて働いておられるのです。私たちは復活の命にあの世に於いて永遠の命に生かされています。エマオに向かって失望の中にあった二人の弟子はイエス様の言葉に心が燃えた、同じようにそこに私たちの心にも復活されたイエスが生きて働いて下さるのであります。英国の有名な宣教師ジョン・ウェスレーは英国の儀式に縛られたキリスト教から脱出してアメリカへ宣教師の新天地を求めて、イギリスから船に乗って行く船の中でモラビア派の熱心なクリスチャングループを見ます。そして、後にこのモラビア派の有名な一人スパンゲン・ベルグという人と会う事が出来た。スパンゲン・ベルグはウェスレーに尋ねた。「あなたはイエス・キリストをご存知ですか」。ウェスレーはこれを聞いて自分は英国の国教会、聖公会の古いしきたりや形骸化している教会から新たに宣教に燃えているのに!「イエス・キリストをご存知ですかって」その心の内で思ったのでしょう。ウェスレーは答えたのです。「知っていますとも、彼は世の救い主です」。すると、スパンゲン・ベルグは更に言った。「そうです!しかし、あなたは『イエスがあなたを救った』と言う事をご存知ですか」・・・・。十字架にかかり復活されたイエスがあなたを救ったのですよ、どれだけ救われて来たのか・・・あなたはご存知ですか」と言ったのです。この時からジョン・ウェスレーの生涯のモットーは<生きた実際的なキリスト教を広める>と言う事に集中したと言われる。
復活されたイエス様は今も生きて働いて、私たちを救って下さっています。
人知ではとうてい測り知ることのできない、神の平安があなた方の心と、思いとをキリスト・イエスにあって守るように。 アーメン
覚悟と胆力を養うキリスト信仰その7
ルターによる聖句の説き明かしと共に(フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ」4月8日の日課から)
『アダムによって全ての人が死ぬことになったように、キリストによって全ての人が生かされるようになるのです。』(第一コリント15章22節)
『強い信仰は、この御言葉を大きな文字で心に書き記す。また、大地の上に聳え広がる大空いっぱいに描き切る。信仰は、この御言葉が伝えてくれること以外は何も見ない、何も聞かない、何も考えない。それはあたかも、この世界には他に書かれたものは何もないと宣言するようなものであり、我々が生きるのも活動するのも全てこの御言葉の中でそうするのだと観念するようなものだ。このように信じることができれば、我々は喜びのうちにこの世を生き、喜びのうちにこの世から別れることができよう。この信仰はまさに、キリストが死から復活したのは自分自身のためではなく、我々のためだったということを教えてくれるのだ。主を信じる者は彼の復活に完全に包み込まれてしまうということを。だから、我々も復活の日が来たら復活して主と共に永遠に生きることになるということを。
我々の復活は、まだ秘められていて公然のものになっていない。それでも既に起こったと言っていいくらい今、確実なこととしてある。このことをしっかり心に留めておきなさい。そうすれば、今目に見えるものは全て復活の日に消え去ってしまうことがわかるだろう。そして、天においても地においても復活の有り様以外に目にするものはないという心境になろう。それゆえ、キリスト信仰者が亡くなって墓に埋葬される時、そこで肉眼の目に映るのは腐敗する肉体でしかなくとも、信仰の目に映るのは墓地でも亡骸でもない。信仰の目は全く別の新しいものを見ているのだ。すなわち、新しい命と素晴らしい楽園を、そこで憩う新しい人たちと永遠の命に生きる幸いな人たちを。』(以上、ルターの説き明かし。昨年4月20日の週報コラムに掲載した訳をさらに進化させました。AIなんかに負けません※。)
強い信仰とは、このような目を持てることを言うのでしょう。そうすれば、喜びのうちにこの世を生き、喜びのうちにこの世から別れることができるという目を。