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宮沢賢治「雨ニモ負ケズ」 vs. パウロ「ローマの信徒への手紙」12章(その4最終回)
(1月4日のコラムの続き)カギは2節の聖句にある。
「あなたたちは、『心』を新たにされたのだから、何が神の意思であり、何が善いことか御心に適うことか完全なことかを熟慮する者へと自分を変えていきなさい。」 (これは新共同訳と異りますが、以下の議論から妥当な訳と考えます。もちろん文法的にも説明できます。)
「心」の元にあるギリシャ語の言葉はヌース。この日本語訳は厄介である。私は「意識」や「自覚」もありかなと思うのだが、「心」が無難かもしれない(ただし、ルター派は以下の議論から明らかなように絶対に「理性」と訳してはいけない)。
実はヌースは既に7章の23節と25節に出ていて、その正体が明らかにされていた。肉体は罪が命じることに従ってしまうものだが、ヌースは神の命じることに従って罪が命じることに反抗するものなのだ。まさにイエス様を救い主と信じて洗礼を受けることでヌースが新しくされたのだ。上記2節の聖句はこのことを指すのだ。キリスト信仰者は、新しくされたヌースにおいて神の命じることに従うが、肉体において罪の命じることに従うという苦しい二律背反の状況に置かれてしまうのだ。パウロはローマ7章でその苦悩を正直に告白する。理性は、ルターに言わせれば、信仰を骨抜きにするものにしかすぎずこの二律背反に真の解決をもたらさない。それでパウロは、救いにとってはヌースが新しくされたことで十分、それで神の裁きに定められないというギリギリの真実に踏みとどまる(8章1節)。聖霊が、新しくされたヌースのお伴としてあり、肉体の罪の実行を阻止できるように助けてくれる(同13節)。そのように生きる者は実は復活に与かれるという希望をあらゆる希望の大元にしているのだ(同24節)。
ヌースを新しくされたキリスト信仰者は、何が神の意思で何が御心に適うことか吟味する。パウロが2節で倣ってはいけないと言う「この世はそんなことをしない。吟味しない生き方は世に倣う生き方であり、理性を含めて肉体だけで生きる生き方である。御心に適うことを吟味してその通りにしようとすることが、まさに罪に従う肉体を神聖な生贄にして捧げることになるのだ(1節)。具体的には、3節から21節まで言われていることが肉体を生贄にして捧げることになる。3節から8節までは信仰者同士の関係において、9節から21節までは信仰者同士から人間関係一般に広がるキリスト信仰者の立ち振る舞い行動様式の全容だ。どちらの場合もキリスト信仰者は相手よりも高く出ないでとことん自分をヘリ下させることが貫かれている。
キリスト信仰者は、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼によってそのような「心」を好むと好まざるとにかかわらず宿命的に植え付けられた者である。そういう者になりたいという問題ではないのだ。洗礼を受けてイエス・キリストを救い主と公けにする者が気づいていないのならば、すぐローマを3章から12章までじっくり読み通すべきだ。それが難儀ならば、毎週日曜日の礼拝に出るべきだ。そもそも礼拝というのは、キリスト信仰者に新しくされたヌースがあることを思い出させ、その新しさを保たせ強めるためにあるのだから。
以上のことを思い巡らした後、急接近していた巨大彗星はまた宇宙の彼方へと飛び去って行ったのである(了)。
まだ冬が続きます。今回は、レッグウォーマーを編みます。フィンランド語で「Säärystimet (サーリスティメット)」と言います。
足元を温めてくれるレッグウォーマーはお家の中だけでなく、散歩やお買い物など外出時にも大活躍。レッグウォーマーは難しくなく初心者の方にも編みやすいものです。単色・多色のどちらでも、また模様編みに挑戦することもできます。
参加費: 1000円
持参するもの: 毛糸100g、毛糸に合わせた編み棒4本または5本
手芸クラブでは今回のテーマ以外にご自分の好きな編み物をすることもできますので、作りたいものがあれば、ご自由にお持ちください。
おしゃべりしながらワイワイ楽しく編みましょう!聖書のお話の時間もあります。
お子さん連れのご参加も大歓迎です!
皆様のご参加をお待ちしています。
お問い合わせ、お申し込み moc.l1774600742iamg@1774600742arumi1774600742hsoy.1774600742iviap1774600742
℡ 03-6233-7109 スオミ・キリスト教会
宮沢賢治「雨ニモ負ケズ」 vs. パウロ「ローマの信徒への手紙」12章(その3)
(12月28日のコラムの続き)確かにローマ12章は命令文が多い。しかし、「ローマ」を最初から丹念に中断することなく根気強く読み進めて12章に到達すると、これらの命令は普通の命令とは異なる響きを持つのだ(ギリシャ語原文では12章は動詞の命令形は少なくて大半は分詞の形である、この観点からの考察は別の機会に譲る)。どんな響きかというと、「読者諸君よ、君たちの立ち振る舞い行動様式はこのようなものになるのだ」と気づかせてあげるようなものなのだ。どうしてそんなことが言えるのかというと、読者は12章に到達する前に少なくとも2回、心を揺さぶられて神の御前に跪くような心の状態になっているからだ。
まず3章から8章までパウロは、イエス・キリストを救い主と信じる信仰と洗礼によって人は神から義人と認められ死の滅びから救われるという「信仰義認」を説く。そして8章の終わりで、何ものもこの義認と救いを奪い取ることはできない、それ位に神の愛は強いものであることが説得力をもって説かれる。読者はここで心を揺さぶられて感謝のあまり神の御前に跪くことになる。
次は9章から11章まで。パウロはユダヤ人の多くが信仰義認を受け入れず、掟を守ることで義人と認められようとする路線を取り続けている現状を悲しむ。他方で異邦人が信仰義認のキリスト信仰をどんどん受け入れる現状がある。これをパウロは、将来ユダヤ人が信仰義認を受け入れるようになるために今異邦人のキリスト信仰受け入れが起こっているのだ、神はユダヤ人を決して見捨ててはいないのだという恩恵を旧約聖書の預言に見出だす。11章の終わりで読者はパウロと共に人知を超える神の先見にただただ敬服し神の御前に跪くしかなくなる。
このように読者は2回心を揺さぶられて神の御前に跪くという、とことんへりくだった状態で12章に到達する。そこで冒頭の「神の憐れみによってあなたたちに勧めます」を目にすると、もうその通りにするしかない、それ以外に在りようがないという心になるのだ。なぜなら「神の憐れみ」には、3章~8章と9章~11章で言われていたことと8章と11章の終わりで結実しているものが詰まっているからだ。
このようにローマ12章の諸々の命令は、神の御前に跪きへりくだった状態にあるキリスト信仰者が聞いてその通りにするしかない、それ以外に在りようがないというものばかりなのだ。しかし、信仰者がそれらをそのように当たり前のように聞き入れる心を持てるのは、「神の憐れみ」に対する感謝と敬服のゆえだけではない。実は聞き入れる「心」そのものを神から与えられているのだ。(さらに続く)
司式・説教 吉村博明 牧師
聖書日課 民数記6章22~27節、ガラテヤ4章4~7節、ルカ2章15~21節
説教題 「主にある大元の喜びと嬉しさを忘れずに」
讃美歌 49、3、467、51
特別の祈り
全知全能の父なるみ神よ。
あなたは天と地と人間を造られ、私たち一人一人に命と人生を与えて下さいました。その上、罪を持つ私たちを救いの業によってあなたの目に適う者になれるようにして下さいました。どうかこの新しい年も、この救いの実現して下さったイエス様を真(まこと)の救い主と信じる信仰を携えて、日々あなたへの感謝を忘れず、あなたの意思に沿うように毎日を送れるように私たちを力づけ見守って下さい。
あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストのみ名を通して祈ります。アーメン
宮沢賢治「雨ニモ負ケズ」 vs. パウロ「ローマの信徒への手紙」12章(その2)
(12月14日のコラムの続き)ローマ12章の意味を確認していた時、16節は新共同訳では「高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい」となっているが、「身分の低い人々」のギリシャ語は、私の使っている辞書では「取るに足らないこと」、つまり人ではなく事柄である(私の辞書はギリシャ語・スウェーデン語、神学を勉強した大学がスウェーデン語系の大学だったため)。「交わりなさい」も「心を注ぎなさい」だ。どっちが正しいのか?前の文の「高ぶらず」を正確に訳すと「大業なことを考えない」となる。つまり事柄を言っている。それで、二つの文は二つの事柄を対比していると考えると、ここの訳は「自分を高くするようなことは考えず、自分を低くするようなことに心を傾けよ」になるのでは、と思った瞬間、賢治の「みんなにでくの坊と呼ばれ褒められもせず苦にもされず」が響いてきた。
そこでもう一度、9節から意味を意識しながら唱えてみた。愛は見かけではいけない、悪を忌み嫌い、善から離れないようにし、互いに兄弟愛をもって心から愛し、お互いを尊敬をもってたたえ合い、怠けず熱心になり、霊に燃え、主に仕え、希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、祈りを絶やさず、聖なる者の欠乏を自分事とし、完璧なもてなしを目指し、迫害する者を祝福して呪わず、喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣き、互いに思いを一つにし、自分を高くするようなことは考えず、低くするようなことに心を注ぎ、自分は賢い者と自分で決めず、誰に対しても悪をもって悪に報いず、全ての人の前で良いことのために力を尽くし、少なくとも自分の側からは全ての人と平和な関係を築くようにし、自分では復讐せず、神の怒りに任せ、敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませ、悪に凌駕されず、善をもって悪に打ち勝て、という内容だ。
自分をとことん低くして自分ファーストにならずに社会に善が増し加わり悪が廃れるように立ち振る舞い行動するというのは、雨ニモ負ケズの精神と相通じるのではないかと思いきや、すぐ違いにも気がついた。賢治の場合は最後に「そういう者に私はなりたい」と言っている。つまり、「雨ニモ負ケズ」から始まってずっと述べてきた立ち振る舞い行動様式は追い求める理想像なのだ。他方、パウロの場合は「~しなさい」、「~してはならない」と命令形なのだ。ということは、仏教徒は自分で追い求める理想像を描けるが、キリスト教徒は命令されないとわからない動かないという情けない存在なのか?(さらに続く)
フィンランドからのクリスマスの挨拶
今年もスオミ教会の元牧師、SLEYの現元宣教師などSLEY関係者からクリスマスの挨拶が届きました。今年は皆さん11月30日にアドベントが始まってすぐ送られた方が多かったです。以下、SLEY関係者の方々の挨拶をご紹介します。
その前に、最近フィンランドから残念なニュースがありました。一部の心ない人たちの愚かな行為のために日本人に不愉快な思いを抱かせました。しかし、それをもってフィンランド人全員が同じ考えでいるのではないことは、国内で愚行に対する非難が沸き起こり、首相自ら日本はじめアジア諸国に公式に謝罪を表明したことに明らかです。愚行を行った本人たちも謝罪し、それらは日本でよく耳にする「もし誤解を与えたとしたら謝罪する」というようなわかりにくいものでなく率直な謝罪です。赦しを与えて然るべきものです。
今回の件でフィンランドに対するイメージに傷がついてしまったかもしれませんが、スオミ教会が礼拝や様々な集会で集中的に宣べ伝えている2000年の歴史を持つキリストの福音はたかが独立107年目の国の好感度とは全く別次元別世界のものです。ルター派では、たとえ人間の方が信仰で躓いたり罪に陥ったとしても、福音はそんなことに一切左右されず、イエス・キリストの十字架の贖いと復活の希望は微動だにせずその輝きには一かけらの陰りも起きないと考えます。だから堕ちた人間は贖いと希望の光に立ち返ればよいのです。何が起きても立ち返る地点、目指す光を持てるというのは素晴らしいことです。
以下、SLEY関係者からの挨拶です。
Pentti Marttila SLEYアジア地域コーディネーター(フィンランド語からの訳)
私たちは今、私たちの救い主キリストのご降誕を祝うクリスマスに向けて準備をしています。
クリスマスとイースター(復活祭)は、切り離すことのできない関係にあります。イエス・キリストは十字架の死を通して、私たちに罪の赦し、神との結びつき、そして神との平和をもたらすためにお生まれになりました。イエスは、世の罪を取り除く神の小羊です(ヨハネ1章29節)。
マティアス・グリューネヴァルトの有名な絵画「イーゼンハイム祭壇画」は、この福音のメッセージを深く心に訴える形で描いています。この作品の中で、洗礼者ヨハネは見る人の視線をキリスト、すなわち全世界の罪を贖うお方へと導いています。ヨハネは自分自身について語るのではなく、十字架につけられた救い主、すなわち世の罪を取り除く神の小羊をまっすぐに指し示しているのです。
この祭壇画は、アルザス地方のイーゼンハイム修道院に置かれていました。そこでは重い麦角中毒(エルゴティズム)に苦しむ患者たちの世話をしていました。この病は激しい痛み、皮膚の黒化、組織の壊死を引き起こします。グリューネヴァルトは、イエスの御体をまさに次のような姿で描いています。引き裂かれた傷、苦痛に歪む体、そして息絶えた姿です。
見る者は、キリストの御体の中に自分自身の苦しみを見いだすことができました。神は苦しみから遠く離れておられる方ではありません。むしろ、ご自身がその苦しみの中に入って来られたのです。この絵は、イエスの受難が美化されたものでも、単なる現実離れした霊的なものでもなかったことを教えます。それは現実の苦しみであり、肉体の苦しみであり、極限的な苦しみでした。キリストは、人間存在のすべての苦しみと罪の現実をその身に担われたのです。
洗礼者ヨハネの、誇張され、ほとんど不自然なほど長い指は、この作品の中心的な象徴です。その身振りは力強く宣べ伝えています。「見よ、ここに神の小羊がいる。」ヨハネは絵画の鑑賞者を見ているのではなく、キリストを見つめています。歴史的には、ヨハネは十字架の下にいませんでした。しかし神学的には、彼はそこに属するのです。彼は旧約聖書全体を代表し、キリストを指し示す者なのです。
十字架の足もとにいる小羊(アニュス・デイ)は、ヨハネの言葉(ヨハネ1章29節)を直接的に示しています。小羊の傷はキリストの傷に相当し、その血は杯へと流れています。これは罪の贖いと聖餐を示す象徴です。十字架は、単なる苦しみのしるしではなく、救いをもたらす犠牲なのです。
ヨハネの脇に記された言葉は、彼の召命のすべてを要約しています。
Illum oportet crescere, me autem minui.「あの方は栄え、私は衰えなければならない。」 (ヨハネ3章30節)
私たちの救い主イエス・キリストの祝福に満ちたご降誕を心からお祈りします。
ペンッティ・マルッティラ Sleyアジア地域コーディネーター
Paavo ja Seija Heikkinen 元スオミ教会宣教師(フィンランド語からの訳)
スオミ教会の クリスマス祝会に集う皆さまへ
フィンランドでよく歌われているクリスマスキャロルに「雪が高くずっしり積もって」という歌があります。しかし、今年のクリスマスはそうではありません。少なくともここラハティ周辺では、雪はとても少ないです。1~2週間前には雪がありましたが、今日は様子が違います。ところどころに小さな白い場所があるだけです。しかし、雪があるかどうかは大事なことではありません。大切なのは、私たちの救い主の誕生のお祝いがあるかどうかということです。
今から2025年前、イスラエルの地で唯一無地で比類のない例外的な出来事が起こりました。森羅万象を司るお方の御子、イエス・キリストが人間としてお生まれになったのです。この出来事は唯一無二のものです。
少しの間、主の誕生の場所とその周囲について考えてみましょう。本来どのようであるべきだったのか、そして実際にはどのようであったのか。
まず、日本で皇室に子どもが生まれる場合を考えてみましょう。出産する病院は当然、最高水準のものであり、すべてが完璧に整えられていることでしょう。それは当然なことです。国の元首となられる方の後継者が生まれるのですから。世界中どこでも、支配者の子どもが生まれる時はどこも同じでしょう。
しかし2025年前、森羅万象の造り主であり治め主である神の御子が人間としてお生まれになりました。完全に唯一無地の出来事です。ところが、「生まれたのは誰か」を考えると、その誕生の場所は完全な驚きでした。なんと、馬小屋、動物の休む場所だったのです。天と地の支配者の御子が馬小屋でお生まれになったのです。本来なら、そうであるべきではありませんでした。水晶でできた宮殿であるべきでした。しかし、そうではありませんでした。主は馬小屋で生まれたのです。
誕生の場所に馬小屋が選ばれたことは、私たちに何を伝えているのでしょう?そのメッセージは非常に大きなものです。誰一人、外に追いやられることはないということです。主のもとに行くための敷居は低いのです。タキシードも立派な服装も必要ありません。それは偶然そうなったことではありません。天のエリートが人間としてお生まれになった神の御子は誰をも遠ざけることはありませんでした。成人して伝道の働きを始められてから、彼は学識者とも学識の無い人たちとも話し合いました。ニコデモにも名も知られぬ罪深い女性にも、イエス様は天に至る道を示されました。一緒に十字架に架けられた犯罪者も、長年聖書を学んだ専門家サウロ(後のパウロ)も遠ざけることはしませんでした。主はそのメッセージを次のように要約されたのです。 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは、彼を信じる者が一人も滅びることなく、永遠の命を持つためである。
スオミ教会のクリスマス祝会に集われた皆さまに、心からクリスマスのお祝いを申し上げます。
セイヤ、パーヴォ、イルセ、カイサとラウラ、そしてそれぞれのご家族より
Mari-Liisa ja Timo Havukainen 元SLEY宣教師(フィンランド語からの訳)
スオミ教会のクリスマス祝会にお集まりの皆様へ!
昨年の春、3月から4月にかけて皆様と過ごした時間を心温まる思いで思い出しています。ありがとうございました!
アンナ=マリ・カスキネンとペッカ・シモヨキによる「ホサナと歌いなさい!
という歌をもって皆さんにご挨拶を申し上げたく思います。その第1節には次のような歌詞があります。
「枝や衣服が道に投げ出され、イエスはエルサレムへ向かった。今、私たちの王にホサナと歌いなさい!ホサナと歌いなさい。主は私たちのもとに来られる。」
喜び溢れる救い主の降誕のお祝いの時を過ごされますように!
ティモとマリ=リーサ・ハブカイネン
Päivi ja Martti Poukka 元SLEYスオミ教会宣教師(日本語で書かれました)
スオミ・キリスト教会の皆様へ
「ひとりのみどりごがわたしたちのために⽣まれた。ひとりの男の⼦がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、⼒ある神/永遠の⽗、平和の君」と唱えられる。」(イザヤ書/ 09 章 05 節)
7 ⽉ 4 ⽇には、私たちはみ⾔と同様に「ひとりの男の⼦がわたしたちに与えられた」と神様に感謝して喜びました。
2 番⽬の孫が無事に
⽣まれたからです。12 ⽉の下旬の今は、私たちはのみ⾔の通りに「ひとりのみどりごがわたしたちのために⽣まれた」と皆様と共に賛美します。イエス・キリストの誕⽣のお祝いを迎えているからです。何と不思議なことでしょう。神の⼀⼈⼦であるイエスは⾃分が作られた⺟親によって⼈間の姿をとってお⽣まれになりました。そして私たちのために⾃分の⺠のところへ、この世に来られました。⺟乳を飲む⾚ちゃんなのに、権威が彼の肩にありました。「驚くべき指導者、⼒ある神、永遠の⽗、平和の君」という名前の救い主をご⼀緒にほめたたえましょう!!!
残念なことに、今年は⽇本伝道旅⾏はできませんでした。何度何度も去年の懐かしい旅を思い出しました。そしてその旅⾏についてあちらこちらで報告をしました。しかし、神様のみ⼼だったら、来年の春にまた皆様に会う機会があるでしょう!
高木賢 SLEYインターネット伝道担当(日本語で書かれました)
皆さんと救い主イエス様の生誕を覚えてお祝いできることを感謝します。
イエス様のおかげで、イエス様を通して、私たちは国と民族と空間と時間の境を超えて結び付けられています。
互いに祈り合うこともできています。
個人的にもとりなしの祈りをしていただいていて深く感謝しています。
これからも互いに励まし合い、祈り合い、救い主イエス様を信じて歩んでまいりましょう。
いつかまた実際にお会いできるとよいですね。
Tiina ja Mika Latva-Rasku 元SLEY宣教師、SLEYインターネット伝道担当(日本語で書かれました)
スオミ・教会の皆様、
私たちの救世主イエス・キリストの誕生を祝うとき、
皆様の心が喜びと感謝で満たされますように。
新年が素晴らしいものでありますように!
ミカ&ティ―ナ
「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。
(テモテへの手紙一1章15節)
Sirkka-Liisa ja Pekka Huhtinen 元SLEYスオミ教会宣教師(日本語で書かれました)
キリストにあるスオミ・教会の皆様
クリスマスおめでとうございます。スオミ・教会の兄弟姉妹と共にイエス様の海馬桶のそばに集い、天の父なる神様が全世界に示してくださった恵みと愛を感謝します。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)
「馬槽のなかにうぶごえあげ、大工の家にひととなりて、貧しきうれい生くるなやみつぶさになめしこの人を見よ。」(子供の賛美歌より)
Pekka と Sirkka-Liisa Huhtinen, Helsinki, Finland, 2025
Sointu ja Veli-Matti Sallinen 元SLEYスオミ教会宣教師(日本語で書かれました)
今年最後の家庭料理クラブは12月13日に開催しました。今回はフィンランドのクリスマスの風味豊かなクリスマス・リース”Joulukranssi”とピパルカックを作りました。
料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。まず、リースの生地を作ります。材料を測って順番にボールに入れてから小麦粉を加え始めます。生地をよく捏ねてから柔らかくしたマーガリンを入れて、またよく捏ねて生地は出来上がりです。暖かい場所において一回目の発酵をさせます。待っている間に中身を作ります。マーガリンの中に砂糖やフィンランドのクリスマスお菓子に使うシナモン、グローブなどのスパイスを加えて混ぜます。それから中身のドライフルーツを計ってレーズンは細かく切ります。
生地が大きく膨らんだらリースの形づくりに入ります。生地を長方形に綿棒で伸ばしてその上にスパイス入りのマーガリンを塗ります。その上にドライフルーツをかけると、「わあ、きれいな色!」「香りも素敵ね!」との声がしました。
それから生地をロール状にして、それを鉄板に丸い形のリースにしてからハサミで切ります。ロールを新しい形にすると中身のドライフルーツがきれいに見えてきます。「面白い!」「こんなの初めて」との声がします。それから二回目の発酵です。
発酵させている間にピパルカック作りです。前日に作った生地を綿棒で薄く伸ばして、それから型でクッキーを抜いて、鉄板の上に次々と沢山のクッキーが並べられます。今回はお子さまの参加もあったので、大人の方々と一緒に一生懸命楽しくクッキーやリースを作りました。
リースの二回目の発酵も早くすみ、卵を塗って砂糖とアーモンドダイスをかけてオーブンに入れます。しばらくするとクリスマスのスパイスの香りが教会中にどんどん広がって参加者の皆さんは何度もオーブンを覗きに行きました。「大きく膨んでいるわ」「美味しいそう!」「良い香りね」とみんなワクワクでした。
今回はフィンランドのクリスマス・ホットドリンク”Glögi”も用意しました。それを温めると、またクリスマスの香りが台所から一気に教会中に広がりました。
テーブルのセッテングをしてみんなワクワクしながら席に着いて焼きたてのクリスマス・リース、ピパルカック、”Glögi”を一緒に頂いて歓談の時を持ちました。皆さん一緒にフィンランドのクリスマスの味を美味しく楽しく味わいました。その時にフィンランドのクリスマスや世界の初めてのクリスマスの出来事についてのお話を聞きました。料理クラブが終わる頃に教会の玄関前のイルミネーションが輝き出して、外も中もクリスマスの雰囲気で一杯になりました!
今回の料理クラブでは参加者の皆さんと一緒にクリスマスの喜びを分かち合うことが出来、とても感謝しています。次回の料理クラブは、年明けの1月はお休み、2月から再開する予定です。詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています
それでは皆さま、天の父なる神さまが祝福されるクリスマスをお迎え下さい!
教会のカレンダーでは明日は待降節(アドベント)第三の日曜日でクリスマスがどんどん近づいています。この季節になると、フィンランドの多くの家庭ではクリスマスの準備のためにお菓子を焼いたり、クリスマスの飾りを作ったり、大掃除をしたりします。家の中からクリスマスの香りが外まで広がります。
今日皆さんと一緒に作ったクリスマス・リース「Joulu kranssi」とピパルカックはフィンランドの伝統的なクリスマス菓子です。最近は新しいクリスマスのお菓子が次々と登場しています。それらは伝統的なお菓子を元にして少し変えるだけで新しくしたもので、変化を求める人にとって新しいクリスマスお菓子を作れるチャンスです。私は毎年インターネットで様々なレシピを検索しますが、結局いつも同じ伝統的なお菓子を作ってしまいます。それらは私の母も作っていたものだったので、同じお菓子を作る方が、クリスマスの雰囲気がより高まると思います。
今日皆さんと一緒に作ったリースの生地は料理クラブで何度も作ったコーヒー・ブレッドの生地と殆ど同じですが、リースの形に作るのは初めてです。クリスマス・リースの特徴はクリスマス・スパイス、ドライフルーツやアーモンドダイスを使うことです。リーズの形自体も本当のクリスマスシースの印象を与えるのでクリスマスのお祝いの気分を高めてくれます。
クリスマスのお菓子や料理に加えて飾り物や音楽もクリスマスの雰囲気を高めてくれます。このようにクリスマスはさまざまな感覚、味、香り、視覚、聴覚を通して体験されます。しかし最も大切なことは2千年前に起こったベツレヘムという町の出来事、神さまの子イエス様がお生まれになったことを覚えて日常の慌ただしさの中で立ち止まってみることです。
この間私はフィンランドのクリスマス向けの雑誌でベツレヘムの出来事についての記事を読みました。今日はそれを紹介したいと思います。これはある昔の教会の指導者が語ったお話です。その指導者はイエス様がお生まれになったベツレヘムの町で多くの時間を過ごし、イエス様の誕生の意味について深く思い巡らしました。彼はこう語ります。「私はベツレヘムの町の出来事を思う時、心の中で赤ちゃんのイエス様とよく会話をします。」
その会話は次のようなものです。「イエス様、あなたは寒そうで、震えているようにみえます。横になっている飼い葉おけも固くて楽ではないしょう。しかし同じ指導者は自分に対して言います。「そこに横になっているのは私の救いのためなのです。しかし私はどうすれば救いの恵みに報いることが出来るでしょうか?」すると、指導者は心の中で赤ちゃんのイエス様の答えを次のように思います。「安心しなさい。私はあなたから何も望んではいません。私はこれからもっと大変な時を通らなければなりません。それはゲッセマネの庭園での苦しみや十字架の時です。」指導者はさらにイエス様に語ります。「それでは私は、どうしてもあなたに何か差し上げたいのです。私の持っているお金を全て捧げたいのです。」赤ちゃんは答えます。「私はこの天と地と全てを支配して、それらは全て私のものです。あなたのお金は受け取る必要はありません。お金を貧しい人々に与えなさい。そうすれば、私はそれらを自分に捧げられたものと同じように受け取ります。」
指導者は語り続けます。「愛する赤ちゃんのキリストよ、私はお金を喜んで貧しい人々に分け与えます。しかし私はあなたご自身にも何か差し上げたいのです。何を捧げたらよいでしょうか。何も差し上げないと、とても悲しくなるのです。」すると赤ちゃんは再び答えます。「あなたはとても寛大な人です。それでは、あなたが私に与えなければならないものを教えましょう。それはあなたにある悪いこと全て、良心の咎め、そしてあなたの罪です。」「私がそれらを与えたらあなたはどうされるのですか?」指導者が尋ねます。イエス様は答えます。「私はそれらを引き受けて背負います。あなたからそれらを取り除きます。私の支配力はまさにその為にあります。預言者イザヤの言葉にあるように私はあなたの罪を全て背負って取り除くのです。」この言葉に深く心を動かされた指導者はこう告白します。「あなたのお言葉を聞いて、心は涙が溢れます。あなたは私から何か良いものを望んでおられると思っていましたが、求めておられるのは私の悪いものだけだったのです。それでは私の全ての罪を取り除いてください。そしてあなたのものを私にお与え下さい。そうすれば私は罪から解放され永遠の命の確かな希望を頂くことが出来ます。」指導者は喜びをもってお話を終えました。
この教会の指導者と同じように私たちも世界の全ての人々もベツレヘムのイエス様が置かれた飼い葉おけの前に立ち止まることが出来ます。クリスマスは、よい雰囲気を感じるかどうかに関係なく、クリスマスのメッセージ「今日ダビデの町であなた方のために救い主がお生まれになった。」というみ言葉を心で受け取ることが出来れば、本当のクリスマスの喜びで心が満たされます。
皆さん、どうか良いクリスマスをお迎えください。
12月の手芸クラブは3日に開催しました。その日は12月の初めにしては暖かい日でした。
今回の作品はフィンランドのクリスマス・オーナメント「オルキ・タハティ(藁の星)」です。材料はフィンランド直送の天然の藁です!
初めに星のモデルを見て自分の作りたいものを選びます。それから水で柔らかくした藁を星の形に合わせて8本か12本の束にします。束をパールピンでプレートに取り付けてから星の形を作ります。プレートに取り付けるパールピンはどんどん増えていきますが、形はまだはっきり見えません。その後、赤い糸で藁を結んでいくと形が少しづつ見えてきました。ここから参加者の皆さんの手の動きが早くなってどんどん赤い糸が増え、星はあっという間に出来上がりました。「わあ、可愛い!」「きれいな形ね」との嬉しそうな声があちらこちらから聞こえてきました。時間はまだあったので、二つ目の星を作ることも出来ました。
以前手芸クラブで使ったテクニックでストールを編んだ方がお二人、完成された素敵なストールを持ってきて見せて下さいました。「柔らくて暖かそう!」皆で素敵な出来栄えを感嘆しました。
今回も皆さん、楽しくおしゃべりしながら藁の星を作って時が経つのを忘れてしまうほどでした。あっという間にコーヒータイムの時間になりました。
みんなでテーブルのセッティングをして、星の形のクリスマス・プルーン・パイをコ―ヒーと一緒に味わいながら楽しく歓談を続けました。いつものように聖書のお話も聞きました。今回のお話は、今回作った星の材料の藁や2千年前のクリスマスの出来事についてでした。
次回の手芸クラブは年明けの1月28日の予定です。詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています!
藁はフィンランドでは昔からクリスマス・オーナメントの材料として使われ、現在も人気がある素材です。藁で作る「ヒンメリ」、「星」、「天使」などの伝統的なクリスマス飾りを藁で作る人は今も多いです。藁は農業から生まれる素朴な素材ですが、このような可愛らしいオーナメントにも用いられます。現在は穀物は機械的に脱穀されているために長い藁を見つけるのは難しいです。もしどこかで見つけることができればラッキーです。
クリスマス・オーナメントに使われる藁は主にライ麦と小麦のもが多いです。どちらも丈夫で光が当たると、白い控えめな輝きを放ちます。お部屋の天井に吊るされた藁の「ヒンメリ」や窓に掛けた「星」はクリスマスの心が温める雰囲気を高めてくれます。
ところで、クリスマスオーナメントに使われる「藁」は世界で初めてのクリスマスの出来事と深い関係があります。それはどんなことでしょうか。
その出来ことは2000年くらい前の昔に起こりました。初めてのクリスマスの夜に神さまの独り子であるイエス様がお生まれになりました。母マリアとイエス様を育てることになるヨセフはベツレヘムという町に住民登録に行き、そこで泊まる宿屋を探しました。しかし町は旅人が多くて泊まる場所がありませんでした。ところがある宿屋の馬小屋は空いてそこで休むことが出来ました。ちょうどその時マリアは月が満ちて男の子を産みました。それがイエス様でした。マリアは馬小屋の飼い葉桶に藁を敷いて赤ちゃんのイエス様を寝かせました。
ところで、この馬小屋の出来事の知らせはすぐ広まりました。その夜ベツレヘムの外れの野原で羊飼いが羊の番をしていた時に天使が現れて言いました。「今日ダビデの町で、あなた方のために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなた方は、布にくるまって飼い葉桶の中に眠っている乳飲み子を見つけるであろう。」飼い葉桶の中に眠っている赤ちゃんがその「しるし」であるというのです。羊飼いたちは天使の言葉を素直に信じ、すぐベツレヘムの町に向かいました。そして馬小屋の飼い葉桶の藁の上に眠っているイエス様を見つけました。このようにイエス様がお生まれになったことの最初の目撃者は羊飼いたちでした。
イエス様の誕生は他の国の人たちにも知られるようになりました。この初めてのクリスマスの少し前に遠い東の国の占星術の学者たちが夜空に不思議な輝きをする星を確認しました。彼らはこれを新しい王様の誕生の印と考え、今のイスラエルがあるユダヤの地に旅をして、エルサレムまでやってきました。そこで、その時王だったヘロデに「新しく王になるためにお生まれになった方はどこにおられますか。私たちは東方でその星を見たので拝みに来ました」と尋ねました。ヘロデ王はとても驚き、自分の地位が危なくなると心配しました。王は旧約聖書の専門家たちを集めて預言について聞きました。すると彼らは、救世主はユダヤのベツレヘムに誕生するという預言があることを教えました。ヘロデ王は東方の学者たちを呼んで、その子供を見つけたら知らせるようにと言いました。それはその子を殺すためでした。学者たちはそのことを知らずに出発しました。すると、東方で見た星が彼らに先立つように見えて、それを目指していくとイエス様がお生まれになったベツレヘムの馬小屋に到着しました。彼らは馬小屋に入ると、イエス様と母マリアとヨセフを見つけました。
学者たちはこの世の救い主となる方が王様のようにお城で生まれるのではなく、馬小屋で生まれたことに驚きましたが、旧約聖書の預言や不思議な星の導きがあったので、信じることが出来たのです。
このように今日作った藁の星は初めてのクリスマスの出来事に深く結びついています。藁は生まれたばかりのイエス様が置かれた場所、星は神様が学者たちに示したしるしです。それで彼らはイエス様がお生まれになった馬小屋に導くことができたのです。私たちも世界で初めてのクリスマスにお生まれになったイエス様のもとに行くことが出来ます。どのようにして出来るでしょうか?それは聖書の御言葉を聞いたり読んだりする時です。聖書の御言葉は私たちにベツレヘムの星と同じ役割を果てくれます。聖書を読むと、イエス様はこの世の全ての人々の救い主としてお生まれになったことが分かります。こうしてクリスマスに飾られる藁の星は私たちにこの出来事を思い起こさせてくれてクリスマスの喜びを感じさせてくれるのです。
宮沢賢治「雨ニモ負ケズ」 vs. パウロ「ローマの信徒への手紙」12章
なぜ「雨ニモ負ケズ」とローマ12章を突き合わせるのか?私の個人的な経験が絡む話なので、以下は一つの信仰の証しとしてお読み下さい。
今は昔、中学の国語の授業で平家物語の冒頭文を暗記する宿題があった。それを母に聞かせたところ、昔は歴代天皇の名前や教育勅語を暗記しなければならなかったと言って、神武スイゼイアンネイ…と唱え始め、途中で、もう忘れた、と。教育勅語は?と聞くと、それはもういい、と言って唱えなかった(因みに母は東京の墨田区本所の出身、東京大空襲の時に九死に一生を得た経験を持った人)。
それから歳月は過ぎ大学時代、政治学徒として日本国憲法を見たら、前文がとてもいい。これぞ戦後日本人の精神的支柱として暗記するに相応しいと思い暗記。ただし、憲法前文は政治的、社会的な理念が中心。もっと個人レベルの理念は何か?前文で言われる「人間相互の関係を支配する崇高な理想」に中身を与える理念は?ちょうどその頃、作家の丸谷才一が国語教育に関するコラムで「子供に詩を作らせるな、優れた詩を暗記させよ」と主張したのをもっともなことと思い、詩と理念の一石二鳥ということで宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」に注目してこれも暗記(ただし、その時は詩の後に念仏が続くという、仏教的な祈りの性格がある詩とは知らず)。
さらに歳月は過ぎフィンランド留学中に聖書を学び、洗礼を受けてキリスト教徒になって帰国。日本で繋がることになった教会で年配の信徒の方たちが暗唱聖句をスラスラ唱えるのを見て、自分もそうあらねばと思うが、聖書はフィンランド語が身近になってしまい日本語の聖書になかなか馴染めず怠けることに。
もっと歳月は過ぎ、フィンランドで神学徒として牧師助手の仕事もするようになり、何度か堅信礼教育の教師を務めた(フィンランドの14歳の児童は堅信礼を受ける前にキリスト教の教義を合宿制で学ばなければならない。国教会に属する児童の90%以上が参加する)。そこで生徒たちは重要な聖句を暗記しなければならない。十戒から始まり、主の祈り、使徒信条、アロンの祝福、黄金の戒律(マタイ7章12節)、愛の二重戒律(マルコ12章29~31節)、小福音(ヨハネ3章16節)、イエスの大宣教令(マタイ28章18~20節)。ということは、日本の子供たちが19世紀後半から1945年まで歴代天皇の名前と教育勅語を暗記し、それ以後は平家物語の冒頭文を暗記してきた間、フィンランドの子供たちは宗教改革の時代から現在に至るまで聖書のこれらの御言葉を暗記してきたわけだ。ここ30年ほどフィンランドの教会を巡る状況は動揺があり、かつての安定性は失われてしまったが、信仰にとどまる人たちはこれからもそうし続けるであろう。堅信礼教育で私は生徒の達成度をテストする立場だったので私も覚えなければならない。これが私の暗唱聖句の始まりであった。
それからまもなくして、釈義学徒として博士論文に従事することとなり、作業を捗らせる必要から論文テーマに関係するイザヤ6章とマルコ4章3~20節をそれぞれヘブライ語とギリシャ語で暗記。それから暗唱聖句は少しずつ増えていった。
聖句を原語で暗唱するとどうしても音やリズムが中心になって意味が遠のいてしまう。つい先日、ローマ12章の意味を確認していたら、9節から後で急に宮沢賢治の詩がどこからともなく響いてきた。巨大彗星が地球に接近するような気がした。(続く)