お気軽にお問い合わせください。 TEL 03-6233-7109 東京都新宿区早稲田鶴巻町511-4-106
2月の料理クラブは8日(土)13時から開催します。
本年最初の料理クラブはフィンランドの伝統的なカルヤラン・ピーラッカを作ります。フィンランドでは玉子バター”Munavoi”をのせて食べるのが一般的ですが、そのまま食べてもよし、バターやマーガリンをぬって食パン風に食べてもよし。スモークサーモンとディルをのせて絶妙な味覚を楽しむこともできます。フィンランドでカルヤラン・ピーラッカは家庭でも喫茶店でも食堂でも食べられるまさに”国民食”です。カルヤラン・ピーラッカを是非ご一緒に作って味わってみませんか?
参加費は一人1,500円です。
どなたでもお気軽にご参加ください。
お子様連れでもどうぞ!
お問い合わせ、お申し込みは、 moc.l1746069747iamg@1746069747arumi1746069747hsoy.1746069747iviap1746069747 まで。
アブラハムの信仰の足跡をたどる学び 今年のスオミ教会の月第三主日の聖書研究会は「アブラハムの生涯」をテーマに創世記11章27節から25章11節までを学びます。宗教改革のルターはアブラハムのことを、イエス・キリストが現れる以前に既にキリスト信仰者であった者と言います。それはどんな意味なのか、学びを通して明らかになり、私たちの信仰の成長に資することができればと思います。以下は、アブラハムの信仰について記した「ヘブライ人への手紙」11章8節の御言葉のルターによる説き明かしです(フィンランドの聖書日課「神の子たちへのマンナ」11月26日の日課)。 「アブラハムは、嗣業の地となる土地へ旅立つようにと神の招きを受けて、それに聞き従った。それはまさしく信仰を通してであった。どこに到着するのかも知らないまま出発したのだから(ヘブライ11章8節、フィンランド語の聖書に基づく)。」 以下はルータの説き明かし。 「どこに到着するかも知らずにアブラハムは出発した。それは彼にとって困難かつ途轍もない信仰の戦いであり試練だったに違いない。しかし結局、彼は旅立った。風が行き先もわからず吹いていくように。 神からの招きに対してアブラハムはどのように応じたであろうか?彼がしたことと言えば、次の神の御言葉だけを心に携えて旅立ったということである。すなわち、「私はお前に祝福を与える」という御言葉である。ここからもわかるように、信仰には見極めの目が伴う。光が全くない暗闇の中でも信仰は見ることができる目を持つ。信仰は、何も見えないところで見、何も感じられないところで感じるのである。 アブラハムの旅立ちが聖書に記されているのは、私たちのために他ならない。私たちも同じように神の御言葉を信仰の中軸に据えて御言葉の中に踏みとどまることを習得するためである。まさに御言葉の中で神は、私たちの身体と命そして魂までも世話し守って下さると約束されている。たとえ現実にはそう見えずそう感じられなくても、神はそうすると約束されている。だから、あなたは神が御言葉の中で約束されたことに信頼することだけに努めなさい。たとえ周りが全く逆の方向に進んでいるかのように見える時でも努めなさい。神はアブラハムに約束の成就まで長い年月を待たせたのだ。たとえ今、私たちに対しても時間がかかっても、信じることを止めてはならない。なぜなら、神は、あなたの信仰に忍耐が備って成長するように約束の成就を待たせているだけなのだから。」
これぞ、キリスト信仰の死生観
イエス様が死者を蘇らせる奇跡を行ったことは、会堂長ヤイロの娘(マルコ5章、マタイ9章、ルカ8章)やラザロ(ヨハネ11章)等々の事例があります。 ヤイロの娘とラザロの蘇らせの時、イエス様は死んだ者を「眠っているにすぎない」と言って生き返らせました。ただし、彼らには、将来の復活の日に起こる復活が起こったのではありません。なぜなら、二人ともその後で寿命が来てまた「眠り」についたのであり、今、本当の復活を待っているからです。それではなぜイエス様はこれらの奇跡を行ったのでしょうか?それは、復活させられる者にとって死は「眠り」にすぎないということと、その「眠り」から目覚めさせる力があるのは彼をおいて他にはないということを前もって具体的に人々にわからせるためでした。
以下は、マタイ9章24節のイエス様の言葉「娘は死んではいない。眠っているだけだ」についてのルターの説き明かしです(フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ」1月8日の日課から)。これぞキリスト信仰の死生観の真髄!
「我々は、自分の死というものを正しく理解しなければならない。不信心者が恐れるように、それを恐れてはならない。キリストと固く結びついている者にとっては、死とは全てを滅ぼしつくすような死ではなく、素晴らしくて優しい、そして短い睡眠なのである。その時、我々は休息用の寝台に横たわって一時休むだけで、別れを告げた世にあったあらゆる苦しみや罪からも、また全てを滅ぼしつくす死からも完全に解放されているのである。そして、神が我々を目覚めさせる時が来る。その時、神は、我々を愛する子として永遠の栄光と喜びの中に招き入れて下さるのである。
死が一時の睡眠である以上、我々は、そのまま眠りっぱなしでは終わらないと知っている。我々は、もう一度眠りから目覚めて生き始めるのである。眠っていた時間というものも、我々からみて、あれ、ちょっと前に眠りこけてしまったな、としか思えない位に短くしか感じられないであろう。この世から死ぬという時に、なぜこんなに素晴らしいひと眠りを怯えて怖がっていたのかと、きっと恥じ入るであろう。我々は、瞬きした一瞬に、完全に健康な者として、元気溢れた者として、そして清められて栄光に輝く体をもって墓から飛び出し、天上にいます我々の主、救い主に迎え入れられるのである。
我々は、喜んで、そして安心して、我々の救い主、贖い主に我々の魂、体、命の全てを委ねよう。主は御自分の約束の言葉に忠実な方なのだ。我々は、この世で夜、床に入って眠りにつく時、眠っている間、主のもとで安全なところでよく守られ、朝に再び主の手から返していただくことを知っている。この世から死ぬ時も全く同じである。」
主の約束の言葉「私は復活であり命である。私を信じる者は死んでも生きる。生きていて私を信じる者は誰も決して死ぬことはない。」ヨハネ傳福音書11章25節
ルターの御言葉の説き明かし(フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ」1月2日の日課から)
新年の新聞の特集に、20世紀に出現した大衆社会は国を戦争に引き込むような「勢い」を生み出してしまうことを識者たちが論じていました(朝日㋀㏢)。 「大衆」の特徴の一つに「自己懐疑の欠如」をあげる識者も。ひょっとしたらSNSはそれを助長するのではないかなどと心配になりました。そこで以下のルターの説き明かしを見れば、キリスト信仰とはいかに自己懐疑の信仰であるか、しかし、徹底した自己懐疑でありながら自己否定には向かわず自己形成に向かう信仰であるかがわかります。
「私はあなたに感謝を捧げます。私の祈りに応え、私の救い主になって下さったあなたに。」(詩篇118篇21節 フィンランドの聖書の訳から)
「神はまず初めに御言葉をもって私たちの全ての行いを裁き、私たちが持っていると思い込んでいる神聖さと知恵と力を無にされる。これほど大きな恵みがあるだろうか!神がこのようにされるのは、私たちが自身の罪性からくる罰を見ることができるためであり、また私たちの良心が震えるためであり、そして神の前に無力となった私たちがあらゆる不安と心配に晒されるためなのである。神はこのように私たちを徹底的にヘリ下させ、自分の業や知識に対する私たちの驕りと盲目な信頼を一回また一回ともみ消される。そして、それらが完全にもみ消される時が来る。私たちのこの世の人生が終わる時だ。このプロセスを忍耐強く歩み続けられる者は、神は自分にとって最善なことをされているとわかっている。それで神に感謝し賛美を捧げ、預言者イザヤと共に次のように口ずさむ。『主よ、あなたに感謝します。なぜなら、あなたはかつて私に怒りを示されましたが、今はそれを収め、私を慰めて力づけて下さったからです。』(イザヤ12章1節 フィンランド語の聖書から)
そう、怒りを転じた神は今度は私たちを慰め助けを与えて下さるのだ。それは、私たちの内にある霊と新しい人が滅びゆく肉と古い人に代わって成長するためである。このプロセスにおいて神は私たちにますます大きな豊かな賜物を与え、私たちが彼の御前でまた彼の中にあって勇気を持って立つことが出来、喜びをかみしめることができるようにと助けて下さるのだ。このように古きを脱ぎ捨て新しきを身にまとう者は次のように歌うであろう。『私はあなたに感謝を捧げます。私の祈りに応え、私の救い主になって下さったあなたに。』
このように神は私たちをヘリ下させる時、高く上げて下さるのあり、私たちを罪びとにする時、神の義を持つ者にして下さるのであり、私たちが打ち負かされるようにする時、勝利を与えて下さるのであり、私たちが泣くようにする時、喜ぶようにして下さるのであり、私たちを死に直面させる時、生ける者として下さるのである。」
ルターの御言葉の説き明かしから(フィンランドの聖書日課「神の子へのマンナ」12月27日)
「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」(マタイ1章23節)
「神の威厳の中には一体、どんな御心があってあなたに向けられているのか考えてみなさい。神は、惨めな状態や苦難の中にいるあなたに同情し、本当に憐れむ気持ちからあなたに、罪の状態にあるあなたに、何も条件をつけずに御自分のひとり子を贈られ、おとめの胸元に置かれたのだ。神はあなたに言われる。『見なさい、これは私の愛する子、あなたのために生まれ、あなたに与えられた子である。この子は、あなたを罪から救い、あなたを守り、助け、そしてあなたの幸いとなる。』
あなたに対して神はこのような御心をお持ちなのだ。考えてもみなさい、あなたでも誰でもいい、仮に自分のひとり子を全ての相続権と一緒に誰かに贈り物として与えたとする。そのような贈り物を与えた相手に危害を加えるようなことがありうるだろうか?私たちのために生まれ、私たちに与えられた御子を通して、私たちに神的な恵みを現わし、私たちの罪を赦し、私たちを愛することこそが神の御心なのだ。しかしながら、注意しなければならないのは、ひとり子はそれを受け取る者たちだけに、ひとり子から励ましと喜びを得ることを望む者たちだけに与えられるということである。そして、神の善性から来るこの大いなる贈り物を受け取った私たちは次のことを確信し、それを公けに言い表す。- 神はひとり子を受け取った者たちに対してもう怒りを持たず裁くこともしないということを。」
イエス様の誕生は本当に私たちにとって幸いであり神からの恵みなのです!
セイヤ&パーヴォ、イルセ&家族、カイサ&家族、ラウラ&家族・ヘイッキネン
(P.ヘイッキネン師は1993年から1999年までと2004年から2010年までスオミ教会の牧師を務めました。)
Suomi Kirkkoon kokoontunut joulujuhla väki. On ilo tervehtiä teitä kaikkia, jotka olette kokoontuneet Kuninkaan syntymäpäivä Juhlaa. Tämä Kuningas ei ole kuka tahansa kuningas. Juhlistatte henkilön syntymäpäivää, Marian Pojan, joka samalla on TAIVAAN JA MAAN KUNINGAS; ja samalla sinunkin Herrasi ja Vapahtajasi. Kaikukoon sydämestämme pyyntö: Tervetuloa!
(クリスマスをお祝いするためにスオミ教会にお集まりになった皆さま。王であられる方のご降誕をお祝いするために集まった皆さまにご挨拶申し上げられるのは喜びです。この王は普通の王ではありません。皆さまが誕生をお祝いするマリアの子はまた天と地の王であり、またあなたの主であり救い主でもあります。お生まれになる方に向かって私たちの心に「ようこそ!
が響きますように。)
シルッカリーサ&ペッカ・フフティネン(P.フフティネン師は1991年から1993年までスオミ教会の牧師を務めました。その後、P.フフティネン師はSLEYの海外伝道局長、シルッカリーサさんはSLEYの海外伝道局アジア地域コーディネーターを歴任。)
スオミ教会の兄弟姉妹の皆様
クリスマスおめでとうございます。
「いと高きところには栄光、神にあれ」(ルカ2章14節)
この喜びに満ちた賛美が、クリスマスの夜、天使と天の軍勢の口から響き渡りました。これは私たちとすべての人々に与えられた力強い賛美でした。世界中のキリスト教会は同じ賛美の歌を大声で歌うことができるように。罪の力はイエス・キリストの復活によって無にされました。
「いと高きところには栄光、神にあれ」ハレルヤ
ペンティ・マルッティラ師(SLEY海外伝道局アジア地域コーディネーター兼SLEYハメーンリンナ教会主任牧師)
”Älkää pelätkö! Minä ilmoitan teille ilosanoman, suuren ilon koko kansalle.
”Tänään on teille Daavidin kaupungissa syntynyt Vapahtaja. Hän on Kristus, Herra.” (Luuk. 2:10-11) Jeesus syntyi Vapahtajaksi kaikille maailman ihmisille. Ensiksi ilosanoma ilmoitettiin paimenille, jotka olivat eräs oman yhteiskuntansa halveksituimmista ihmisryhmistä. Hän on tullut sinuakin varten, vaikka ehkä ajattelet, että et kelpaa Jumalalle.
(『恐れるな。わたしは民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町であなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそメシアである。』(ルカ2章10~11節) イエス様は世界の全ての人の救い主としてお生まれになりました。この喜びの知らせは、当時の社会の中で取るに足らないと見なされた階層の人たちに真っ先に告げ知らされました。この方はあなたのためにも来られたのです。ひょっとしたら、自分は神聖な神に相応しくないと思ってしまっても、そのあなたのために来られたのです。)
ミカ&ティーナ・ラトヴァラスク(ラトヴァラスク夫妻は2007年~2013年までSLEYの日本派遣宣教師、現在ティーナさんはSLEY海外伝道局インターネット伝道部門日本語伝道担当及びSLEYのオンライン聖書講座Bible Toolboxの統括担当)
「キリストにある兄弟姉妹、スオミ教会の皆さま、クリスマスのこの素晴らしい季節に、神の愛と恵みが皆様の上に満ち溢れますように。今年も来年もこの救い主に結ばれて歩みましょう。ルカ2章10~11節を添えて。」
高木賢&アンナカイサ(高木氏はSLEY海外伝道局インターネット伝道部門日本語伝道担当、アンナカイサさんは80年代90年代にSLEYの日本派遣宣教師、SLEY海外伝道局アジア地域コーディネーターを歴任)
「御子イエス様のお誕生を感謝します。ここ数年、日本に行く機会がなかなかありませんが、スオミ教会のみなさんと天の御国で再会できることを今から楽しみにしています。それまで、ときおりよろめきながらも、光の子として光の中を共に歩んでまいりましょう。『しかし、神が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩くならば、わたしたちは互いに交わりをもち、そして、御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちを清めるのである。』(第1ヨハネ1章7節)
マリリーサ&ティモ・ハブカイネン(1980年代から2000年代までSLEYの日本派遣宣教師、ティモ師は現在ナーンタリ市のナーンタリ教会の青年活動主事、ご夫妻は2025年春にSLEYが派遣する日本伝道旅行を計画しています。)
「スオミ教会の皆さん、来年の3月に会うときを楽しみに待っています。クリスマスが近づいてきました。祝福されたキリストのお誕生日を過ごして下さい。ルカ2章10~11節を添えて。」
説教題:「主はご自身がご計画のうちに召したものを守り導かれる」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
1、「はじめに」
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
今日の箇所の直前では、御使いがナザレのマリヤに現れ、神様が旧約聖書の預言を通して約束してきた救い主が生まれると知らせたことが書かれてあります。しかし問題はその救い主が、まだ結婚もしていない処女マリア自身の中に聖霊によって妊り、彼女自身がその救い主となる赤子を産むという信じられない驚くべき知らせでもあったということでした。それはマリヤ自身にとっては喜びどころか、むしろ、戸惑いであり、恐れであったとも書かれています。そのようにマリヤは御使の告げることを、信じられず疑ってしまいます。けれども神の使いは、そんな信じられず怖れ不安になるマリヤを、疑って恐れているからと、救い主の母として相応しくないと責めたりはしませんでした。それどころかむしろ、御使いは「神があなたと共にいる、神にとって不可能なことはない、神が全てをなすのだ」と、どこまでも彼女を励ますのでした。そのような神様の驚くべき信じられない出来事が進められていく中で、神によって召された一人の罪深き女性は、神の慰めと励ましに支えられ、神によって与えられ召され神によって導かれる信仰の歩みを開始するのです。それは決して平穏でも薔薇色でもない「苦難の歩み」の始まりではあるのですが、真実な神様はその約束の初めから変わることなく、マリヤに絶え間ない励ましと慰めを与え続け導いているのが今日のところであると言えるでしょう。39節から見ていきましょう。
2、「エリサベトのところへ」
「そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。
御使いとの出来事の後、マリヤはユダの町に向かいます。それは40節にある通り、親類のザカリヤとエリサベト夫妻の家に行くためでした。そして56節にある通りに、そこで三ヶ月ほど過ごすためです。
この「マリヤのエリサベト訪問」はいくつかの理由と意味があると言えます。
まずよく言われるように、婚前の妊娠は当時のユダヤ社会では極めて不道徳なことでした。町中のさらし者になるのは避けられません。だからこそマタイ1章にある通り、ヨセフは内密に去らせようとさえしました。ですからまずナザレで予想されるその困難な状況を、このユダの町のザカリヤとエルサベトの家で三ヶ月過ごすことによって回避することができるということがあります。マタイの福音書にあるように、ヨセフが御使いからお告げを受けた後、ヨセフは御使いから言われた通りマリヤを花嫁として迎え入れ、そしてその後、マリヤだけ、ユダに行き三ヶ月過ごしたということは十分、考えられることです。
けれどもこの行動は、何よりこの直前に書かれている御使いが与えた励ましの言葉に導かれていることであると言うことこそ大事な点です。それは36節でした。マリヤが「まだ男の人を知らないにどうして子を宿すことなどあろうか」と不安を口にした時に、御使いは、マリヤを励ましました。聖霊が共にありその力が助けると。そしてこう言って励ました言葉でした。
「あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。
この言葉は、マリヤに対する励ましとなったのではないでしょうか。この言葉によって、マリヤは、自分と同じような神からの不思議をなんと親類のエリサベトも経験していることを知流ことになります。御使いはエリサベトにも現れたんだと。正しくはみ使いは夫のザカリヤに現れたのですが。このように御使いは、この言葉を持って、マリヤを励ますと同時に、エリサベトの家へと導いているとも言えるのではないでしょうか。マリヤはこのみ使いの言葉があったからこそ、エリサベトのもとに急いだことでしょう。
3、「神の言葉は私たちにとって何一つ無駄に語られない」
このように神様は、この救い主キリストを身ごもるという一つの出来事、計画が、一人の罪人であるマリヤにとってはとてつもない戸惑いであり恐れであるというその現実を、きちんと知ってくださっていることがわかるのです。神様は、マリヤのこと、つまり彼女の気持ちも恐れも心配も弱さも、そのようなことを一切、何も考えず、無責任に、ただお気楽に神様の喜びの計画や知らせを一方的に御使いに語らせているのでは決してありません。マリヤがこの結婚前に子を身ごもることによって、罪深い人間の社会であるナザレの村でどのような大変なことになるのかも、その不安も恐れも全てご存知なのです。同じように、恐れたヨセフが内密にマリヤを去らせようとした時に、み使いはヨセフに「去らせてはいけない。マリヤを妻として迎えなさい」と言ったことも、根拠のない無責任な言葉ではなく、神様の完全な計画のうちに、ヨセフもマリヤもきちんと導き助け、計画を成就させることをしっかりと見ていての言葉であったということが見えてくるでしょう。御使いがマリヤにエリサベトに起こっていることを伝えたことは、非常に深い意味があるのです。それはマリヤをエリサベトの元に三ヶ月滞在させ、マリヤを守るためなのです。もちろんそれは同時に、お腹の中の御子キリストをも守ることになるのです。
この事実は今日を生きる信仰者である私たちにとっての恵みでもあります。つまり、神様が私たち信仰者に、何よりも毎週、牧師による説教や、そして日々ディボーションなどを通して与えてくださるみ言葉には、私たちの思いをはるかに超えた、一つ一つ意味が必ずあるということです。そして何よりそれは、私たちを決して苦しめ恐れさせ重荷を負わせるためではなくて、苦しみや恐れや不安にある私たちを導き、守るために語りかけてくださっているということが、このところから教えられているのではないでしょうか。
そして、それは実際的な慰めとなってもいるのです。マリヤにとってはもちろんなのですが、エリサベトにとってもです。二人が互いに会うことは互いにとって大きな励みになるでしょう。男性には経験できないことですが、妊婦、特に初めての子の時、女性はものすごい精神的にも孤独、不安になると聞きます。そんな時に、妊婦同士の交わりや会話や情報交換によって安心したり、励まされたりすることがあることでしょう。まさにそんな二人の時となったはずです。ですから、確かに、エリサベトがやがて産むバプテスマのヨハネは、御子イエスの前に来て道を整え、イエスを指し示す預言者です。けれども、ある意味、今日のこの出来事は、それだけではなく、そのヨハネの母エリサベトが、イエスの母マリヤのために、神が備えてくださった助け手であったことも重なるように見えてくるのです。そしてそれは、マリヤがエリサベトにとっての励まし手であり、助け手であったということでもあるでしょう。みなさん、エリサベトも不安であったでしょう。高齢とはいえ、何人も子供を産んでいる女性ではありませんでした。御使いは「不妊の女」と言っています。それまで子供がなかったのでした。そして、初めての出産はもちろん、高齢であるからこその、エリサベトにとっての妊娠、出産への不安と恐れは、計り知れず大きかったはずです。けれどもそんな中で、マリヤの存在、そしてマリヤに起こった出来事は、エリサベトへの神からのまさに助けであり慰めであり希望ではありませんか。マリヤが来たことは、エリサベトにとっては間違いなく、慰めと希望になったのです。
どうでしょうか。このように、これらのことはまさにあのパウロがローマ8章28節で励ましている神の真理そのものです。
「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。
そのように、神様は確かにご自身が愛するご計画に従って召した人のために、その人の思いを遥かに超えて、時に背後で、全てのことに働いて益としてくださることの証しが見えてくるではありませんか。そのように、神様はそのご自身の言葉を持って約束したことに必ず責任を持ってくださるのです。私たちが立ち返りたいのは、神様の言葉、約束というのは、それほどまでの確かさ、真実さがある。そして、それは全て私たちのためであり、私たちへの愛と憐れみに満ちているということが教えられているのではないでしょうか。
4、「神は信仰者の不安や恐れを喜びと幸いに変える」
そして、さらにこの後のことは、神様は本当に慰めの上にさらに慰めに満ちている方であることがわかるでしょう。マリヤがエリサベトに挨拶した時に不思議なことが起こります。41節〜45節
「マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、 42声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。 43わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。 44あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。 45主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」
マリヤがエリサベトに挨拶した時に、エリサベトのお腹の中の子が踊ったというのです。そして「聖霊に満たされて」彼女は喜びと賛美に溢れてそのことを証しするのでした。まず、感謝な事実は、聖霊は、エリサベトとも共にあり、導いていたということです。何度もいうように、エリサベトも不安と恐れにあったのは間違いありません。けれどもこのように、主はご自身が選び召し出した人を決して見捨てないし、聖霊にあって共にあり、そして、その約束されたことを聖霊なる主が果たすために働いていることがここには現れています。そして、決して完全な存在では無い、不安と恐れのエリサベトに、マリヤに対してもそうであったように、聖霊はその度毎に彼女に働き、慰め、励まし続けていることが見えて来ます。
しかもここで、神は実際的なしるしを通しても示してくださっています。マリヤの挨拶に、もう一人の約束の男の子は答えるのです。それは不思議なことでしたが、エリサベトににとっては主の導きでした。それによって信仰が強められ、彼女の証しと告白に導かれているのです。
「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。
と。
まさにここにもルターの言う「聖徒であり同時に罪人である」信仰者の幸いな事実と証しがあるではありませんか。マリヤの時と同じです。繰り返しますが、私たちは皆一人一人、恵みにより義と認められた信仰者でありながらも、同時に、どこまでも罪人であり、戸惑い恐れる不完全な存在でもあります。それはエリサベト、マリヤであっても同じです。しかし、主がその彼女たちの弱さや不完全さをそのまま受け入れ、理解し、そして怒ったり、責めたり、見捨てたりするのではなく、絶えず、繰り返し、み言葉とその実現を持って励まし、慰めの上に慰めを与えることによって、主がその信仰を間違いなく、強めていることがここに教えられるでしょう。このように「信じる」ということ、信仰は決して律法ではなく、このようにどこまでも与えられる恵みであり、恵みのうちに神が進ませ神が実現する福音であるということがやはり貫かれているのです。そして、この後、46節以下で、同じように聖霊に導かれ、マリヤも賛美するわけです。喜びと希望の歌です。二人の女性に起こったことは、最初は恐れと戸惑いでした。信じられないことでした。しかしいずれも主が始め、主が計画し、主がもたらしたもの、主から天からの約束です。その主から来たもの、主から始まったものは、私たちの方で恐れと戸惑いに始まったとしても、最初は私たちの思いをはるかに超えたものであったとしても、しかし、主は約束の通り完全に私たちに働き、主が約束を必ず果たす、そして全てを益としてくださるのです。エリサベトやマリヤにそうであったように、私たちの恐れや戸惑いも、必ず、イエス様は、平安に、希望に、喜びに、賛美に変えてくださる、そのようにして、主はその恵みのうちに、福音の言葉を通して、聖霊を通して、そして具体的にしるしを通しても、働いてくださり、そのように私たちの信仰をも育て、励まし、強めてくださるのです。パウロはこう言っています。ローマ1章16〜17節
「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。 17福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。
新改訳聖書では
「その義は、信仰に始まり、信仰に進ませるから」
ともあります。
5、「救い主キリストは私たちのために世に人としてこられた」
私たちは、肉体も精神も弱り果てるものです。私たち自身は、どこまでも不完全な存在です。神の前に私たちは何もできません。罪深いものです。不信仰なものです。けれども今日見てきたことからもわかるように、神であるイエス様はそのような罪人である私たちのところに「こそ」人として生まれてくださるのです。それはヨハネ3章17節にあるように、私たちの罪を責め裁くためではありません。むしろその私たちの罪を私たちの代わりに全て背負って、十字架で死なれるために生まれるのです。しかし神がこの十字架で、神の御子に人類の全ての罪を見て、その罪の報いである死を私たちの代わりに御子に負わせ死なせたからこそ、この十字架のゆえに、そしてこの十字架のキリストを見るものを、神様はもうその罪を見ず全ての人々に「あなたの罪は赦されています」と罪の赦しを宣言してくださるのです。ですからこのイエスの誕生はイエスの十字架を示しています。神様から私たちへの真のクリスマスの贈り物は、イエス・キリストであり、この十字架にかかって死なれるイエス様とそこにある罪の赦しなのです。それが福音、良い知らせです。そして、それは全ての人々の前に差し出されていてもう誰でも受け取るだけになっているのです。信じるとは受け取ることです。その受け取る信仰さえも、イエス様は絶えず「与えます、さあ受けなさい」と語りかけ招いてくださっている恵みなのです。マリヤもエリサベトも私たちと変わらない罪人でしたが、その神の言葉とそこにある恵みの約束をそのまま受け取ったからこそ、弱さや不安や恐れは、希望と賛美に変えられていきました。それは「そうならなけれいけない、そうでなければならない」という律法としてではありません。神の恵みの約束、福音にただ信頼したがゆえです。ですから同じように私たちも、何度、人生で恐れたとしても躓いたとしても、倒れたとしても、戸惑ったとしても、失敗したとしても、その時、自分自身には何の力がなくても、このイエス・キリストのゆえに、イエス様が絶えず私たちに与えてくださる救いの恵み、福音のゆえにこそ、私たちは何度でも立ち上がることができる、いやイエス様が立たせて歩ませてくださるのです。イエス様が常に、今日も、来週も、来年も、いつもまで、み言葉を与えてくださり、励ましと慰め、愛と憐れみをもって私たちの手を取ってくださる。恐れや不安、戸惑いや失望を、喜びに、希望に、平安に、賛美に変えてくださる。それが信仰の歩み、救われていることの素晴らしさに他なりません。
今日もイエス様は宣言してくださいます。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。ぜひ私たちは、今日も罪赦され、この恵みの新しいいのちの道、イエス様のいのちに生かされている幸いと救いの確信を覚えながら、平安のうちにここから遣わされていきましょう。そして、その救いの確信と平安と喜びをもって、私たちは今週も神を愛し、隣人を愛していきましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
クリスマス愛餐会
今年最後の家庭料理クラブは12月14日に開催しました。今回はフィンランドのクリスマスの味がするスパイシー・チョコレートケーキとクリスマス・パイ”Joulutorttu”を作りました。
料理クラブはいつもお祈りをしてスタート。最初にケーキを作ります。材料を測って、生地に入れるカルダモンやシナモンなどのスパイスを粉類に混ぜると直ぐスパイスの香りが広がりました。たちまち「いい香り!」との声が。卵と砂糖をハンドミキサーで白い泡になるまで泡立てます。それに粉類と溶かしたマーガリンを交互に加えると生地が出来上がります。それをケーキの型に入れて焼き始めます。ケーキを焼いている間に今度はクリスマス・パイを作り始めます。
パイシートを少し綿棒で伸ばして四角の形に切ります。それからプルーンジャムを四角の生地の真ん中にのせて、可愛い星形のパイをどんどん鉄板に並べていきます。パイを作っている間にケーキのスパイスの香りが教会中に広がりました。ケーキが焼き上がりました。
パイをオーブンに入れて、今度はケーキのトッピングを作り始めます。材料をボールに順番に入れて混ぜると、もう出来上がり。トッピングをケーキ全体に伸ばして飾りつけをします。皆さん、イチゴとクランベリーをケーキの上に綺麗に並べて素敵なクリスマス・ケーキが出来上がりました!
今回はフィンランドのクリスマス・ホットドリンク”Glögi”も用意しました。それを温めると、またクリスマスの香りが台所から一気に教会中に広がりました。
今回は、テーブルのセッティングをクリスマスの雰囲気にしました。皆さんワクワクしながら席に着いてチョコレートケーキにナイフを入れます。それからケーキ、クリスマス・パイ、”Glögi”を一緒に頂いて歓談の時を持ちました。そこでフィンランドのクリスマス料理や子供向けテレビ番組「アドベントカレンダー」をモニターで見て、あわせて聖書に記されている世界で最初のクリスマスの出来事についてお話を聞きました。料理クラブが終わる頃に教会の玄関前のイルミネーションが輝き出して、中も外もクリスマスの雰囲気に満たされました!
今回の料理クラブでは参加者の皆さんと一緒にクリスマスの喜びを分かち合うことが出来、とても感謝しています。次回の料理クラブは、年明けの1月はお休みですが、2月から再開する予定です。詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。
それでは皆さま、天の父なる神さまが祝福されるクリスマスをお迎え下さい!
今日は皆さんと一緒にスパイシーなチョコレートケーキとクリスマス・パイ「Joulutorttu」を作りました。フィンランドではクリスマスの季節のパウンド・ケーキや飾りつけのケーキの種類はとても多いです。最近は新しいケーキの種類もどんどん増えてきました。新しいケーキは多くの人たちが作るように宣伝します。例えば「このケーキはクリスマスの味がします!」というのは宣伝文句の一つです。しかし、フィンランドの本当のクリスマスのお菓子の味は何でしょうか?普通は今日のケーキにも入れたスパイスの味が昔からあります。その他にはプルーン、シロップ、ドライフルーツなどもクリスマスの味がします。
この間フィンランドのクリスマス向けの雑誌をもらいました。そこにはクリスマスのメニューや飾り付けについての記事が沢山ありました。料理のきれいな写真は多かったですが、昔と同じメニューはありませんでした。お菓子も昔のお菓子と違いましたが、中に入れるスパイスはシナモンやカルダモンだったので、昔のクリスマスの味のものもありました。料理やお菓子の作り方は手間がそんなにかからないものが多かったので、現在の忙しいフィンランド人に合わせてレシピを作ったと思いました。しかし新しい美味しそうなクリスマス料理のレシピがあっても多くのフィンランド人はやはり伝統的なクリスマス料理を作りたいと思います。今年もフィンランド人のクリスマスの食卓には豚肉のオーブン焼き、ニンジンやポテトのキャセロール、ビーツのサラダなどが出されるでしょう。
ところでクリスマスの季節は子どもたちにとって特別な時期で皆クリスマスが待ち遠しいです。フィンランドでは毎年「アドベントカレンダー」という子ども向けのテレビ番組が放送されます。十分くらいの番組で12月1日から24日まで毎日放送されます。番組を通して子どもの育て方に関係する教え、例えば争いの解決や謝ることについての場面も出てきます。毎年の番組に共通してあるのはクリスマスを救え!ということです。今年のテーマは「いい子、悪い子」です。フィンランドのラップランドにあるKorvatunturiというところにサンタさんの活動拠点があります。そこでサンタさんのヘルパーたちが子どものプレセントを作ったり包んだりします。あるヘルパーは世界の子どもたちの様子を見て年をとっているマスターのヘルパーに報告します。マスターヘルパーは子どもがいい子か悪い子かカイドブックの規則を見て決めます。マスターヘルパーによると今年の子どもたちは皆悪い子です。「いい子」は一人しかいません。それで今年子どもたちはこのままではプレセントをもらえないことになってしまいます。他のヘルパーたちは困ってこの問題を解決する方法を考えています。解決出来なかったらクリスマスのお祝いは台無しで子どもたちはプレセントをもらえなくなります。それでヘルパーたちはクリスマスを救う方法を考えるのです。どんな解決になるのかこれからの楽しみです。
私たちはどうでしょうか。クリスマスの前に生活の中に何か大変なことがあったらクリスマスのお祝いは台なしになると思うかもしれません。そのような時はクリスマスのお祝いを救う方法を考えるでしょうか。そもそも私たちはクリスマスを救うことができるでしょうか。私たちにはそんなことは出来ないでしょう。というのは、クリスマスは本当は天と地と人間を造られた神さまが私たちに与えて下さったお祝いだからです。神さまは最初のクリスマスの時に起こった出来事ずっと前から計画されました。それは旧約聖書の時代の予見者たちを通して告げられたのです。
旧約聖書のイザヤ書には次のように書いてあります。「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝く。」イザヤ書9章1節です。これは、天と地と人間を造られた神様がイスラエルの民に語った言葉です。どんな意味でしょうか?イスラエルの民は神様の前で悪いことを沢山していたので、それは暗闇の中を歩むことと同じでした。しかし天の神様は民が光を見て歩めるようにしてあげようと、その思いを預言者イザヤを通して伝えました。それはどんな光でしょうか?神様は特別な方を私たちに送って、その方が光輝くとイザヤは言いました。この「光」は周りがよく見えるようになるための光ではなく、もっと深い意味がある光です。その光は2千年前の初めてのクリスマスの夜に現れました。新約聖書の「ルカによる福音書」の2章1~20節に詳しく書いてあります。それによると、初めてのクリスマスの夜に神様のひとり子イエス様がベツレヘムの馬小屋でお生まれになったのです。イザヤの預言が実現してイエス様がこの世の光としてお生まれになったのです。天と地と人間を造られた神様が私たち人間を救うためにひとり子のイエス様をこの世に送ってくださいました。クリスマスは私たちが救うことではなく、神さまが私たちや世界の全ての人たちを救うためにイエス様を送ってくださったことがクリスマスです。たとえクリスマスの時にプレセントをもらえなくてもクリスマスはやってきます。神さまはイエス様を通して私たちに最も大事なプレセント、救いの道を開いて下さったというプレセントを与えて下さったのです。私たちはただそれを受け取ればいいのです。そしてそのプレセントはクリスマスの時だけではなく一年中毎日喜びを与えてくれます。
今年のクリスマスは神様がイエス様を通して与えて下さる救いの贈り物を忘れずに過ごして行きましょう。
日本文化のキリスト教
昔、フィンランドの宣教師(故人)が大切にしていた日本の教会の信徒たちの短歌集を見せてもらったことがある。今でも一つの句を覚えている。
「礼拝の/恵みの手段に/与れし/祝福さやに/お茶会楽し」
時は戦前、場所は北海道。季節は不明だが、夏でなければ木造教会の石炭ストーブの音と湯気の情景が浮かぶ。礼拝の「恵みの手段」とはルター派なら御言葉と聖餐式のこと。牧師を通して祝福を受けた後の集会室でのお茶がなんと恵み深い味わいか。時代は暗雲立ち込めても、教会はともし火を絶やさない。
言葉数少なくともこんなに多くを語るとは、なるほど5、7、5は日本人にとって共感の道具であり武器でもある。ならば私も(中学の国語の授業以来の挑戦です)。
「涙もて/種を播くとも/刈り入れは/喜び溢れ/神は計らう」
ここ2週間ほど何故か頭を離れない詩篇126篇が元。キリスト信仰者は神が逆境を祝福に転じられることを、神自身の約束や(エレミヤ29章11節等々、フィリピ1章6節も)自分の経験と信仰の兄弟姉妹たちの証しから知っている(ヘブライ11章も証言集として有用)。しかし、信頼の大元にあるのはなんと言っても、アダムの堕罪をキリストによって逆転させた神の大業(ローマ5章)。アダムは楽園を去り労苦を持って耕さなければならなくなったが(創世記3章)、キリストは信仰者を豊かに実を結ぶ者に変えて下さった(ヨハネ15章等々、ガラテア5章22~23節も)。
もう一つお許しを。先日フェイスブックで初雪の八ヶ岳の写真を見て思い出したこと。以前、宣教師会議を清泉寮で行った時、自由時間にみんなで晩秋の森の小径を歩いた。なんだかフィンランドにいるみたい、と口々に皆はしゃぎ気味。話が弾み当てずっぽうに歩き続けると、突然前方が開け初雪を冠した急峻な峰々が。今いるところは母国ではないと思い知らされる瞬間。復路は口数少なく宿に戻った。そんな彼らの心情を代弁しての一句。
「清里の/行方知らずの/落ち葉道/森の故国に/山並みはなく」
待降節第一主日は教会の新年の幕開け
今年もまたクリスマスの準備期間である待降節/アドベントの季節になりました。教会のカレンダーでは今日が新年になります。 これからまた、クリスマス、顕現日、イースター、聖霊降臨などの大きな節目を一つ一つ迎えていくことになります。どうか天の父なるみ神が新しい年もスオミ教会と信徒の皆さま、礼拝に参加される皆さまを豊かに祝福して見守り導き、皆さま自身も神の愛と恵みの内に留まられますように。
今年もまた讃美歌307番「ダビデの子、ホサナ」を礼拝の中で歌います。毎年お話ししていることですが、この歌はフィンランドやスウェーデンのルター派教会の讃美歌集の一番最初にある歌です。両国でも待降節第一主日の礼拝の時に必ず歌われます。歌い方に伝統があります。朗読される福音書の個所が決まっていて、イエス様がロバに乗って群衆の歓呼の中をエルサレムに入城する場面です。ホサナは歓呼の言葉で、ヘブライ語のホーシィーアンナ、またはアラム語のホーシャーナーから来ています。もともとは神に「救って下さい」と助けを求める意味でしたが、ユダヤ民族の伝統として王様を迎える時の歓呼の言葉として使われました。さしずめ「王さま、万歳!」というところでしょう。
その個所が朗読される時、歓呼の前で一旦朗読が停まってパイプオルガンが威勢よく鳴りだし、会衆は一斉に「ダビデの子、ホサナ」を歌い出します。つまり、当時の群衆になり替わって歓呼を賛美歌で歌うということです。北欧諸国も近年は国民の教会離れ聖書離れが進み、普段の日曜の礼拝は人が少ないですが、なぜか待降節第一主日になると人が多く集まり、この歌を歌って国中が新しい一年を元気よく始めようという雰囲気になります。夜のテレビのニュースでも「今年も待降節に入りました。今映っているのは何々教会の礼拝での『ダビデの子、ホサナ』斉唱の場面です」などと言って、歌が響き渡る様子が映し出されます。毎年の風物詩になっています。
このリンクをクリックすると本場フィンランドの「ダビデの子、ホサナ」斉唱を聴くことが出来ます!(カルヴィア教会2024年12月1日)