2025年7月6日(日)聖霊降臨後第四主日 礼拝 説教 吉村博明 牧師

主日礼拝説教 2025年7月6日(聖霊降臨後第三主日)スオミ教会

イザヤ66章10~14節

ガラテア6章1~16節

ルカ10章1~11、16~20節

説教題「『神の国』と『命の書』

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 今日の福音書の個所は、イエス様が72人の弟子たちを町々に送ったという出来事です。イエス様は以前に12人の弟子たちを各地に派遣したことがあります。いずれの場合も弟子たちの役目は大体同じでした。神の国が近づいたことを宣べ伝えること、イエス様から委ねられた力で病気の癒しや悪霊の追い出しを行うことです。派遣に際していろいろな指示が与えられました。財布も着替えも持っていくなとか。一見無茶な指示ですが、これは、行く先々で弟子たちを受け入れて世話をしてくれるところが必ずある、だから心配はいらないということです。もっと掘り下げて言えば、神がそのような人たちを用意される、それを信頼しなさいという、神への信頼が弟子たちにあるかどうかが試されているのです。

 もう一つわかりにくいことがあります。それは、道中誰にも挨拶をするなという指示です。イエス様はどうしてそんな冷たい指示を与えたのでしょうか?難しいところですが、私は次のように考えてみました。当時、ユダヤ人の間で挨拶する時の決まり文句は「平和があなたにあるように」でした。平和はヘブライ語でシャーローム、当時イスラエルの地域でユダヤ人たちが話していた言葉であるアラム語ではシェラームです。これがあなたにあるように、という挨拶の仕方でした。シャーロームは普通「平和」と訳されますが、言葉の意味はもっと広くて、繁栄とか健康とか成功の意味も含みました。つまり、あなたに繁栄/健康/成功がありますように、という挨拶の仕方でした。それをイエス様は道端でしてはいけないと。ただし、弟子たちが誰かの家に入った時は「この家に平和がありますように」と言いなさいと指示しました。つまり、道端で禁じた挨拶をしなさいということです。その家に「平和の子」がいれば、弟子たちの願った平和はその人に留まり、いなければ平和は弟子たちに戻ってきてしまうと。弟子たちの願った平和が留まる人と留まらない人がいると。平和が留まる人は「平和の子」であると。

 ここで、イエス様が大事に考えていた「平和」とは、神と人間の間の平和だったことを思い出しましょう。人間には神の意思に反する性向、罪がある、そのために神と平和な関係を持てなくなってしまっている。それを正すためにイエス様はこの世に贈られたのでした。それで「平和の子」とは、自分には神の意思に反する罪があると自覚して神との平和な関係を希求する人だったと言えるでしょう。しかしながら、みんながみんなそうではありませんでした。自分と神との関係は大丈夫、だって、ちゃんと律法の掟を守って神殿にきちんと捧げものをしている、と言う人はイエス様の平和の挨拶が心に届かなかったのです。弟子たちを拒否する人は彼らを送ったイエス様を拒否し、イエス様を拒否する人は彼を送った神を拒否してしまったのです。イエス様は、弟子たちを送ることは狼の群れの中に羊を送り込むようなことだと言っているので、受け入れないところでは命の危険があったのかもしれません。イエス様やその弟子たちを受け入れるところと入れないところがあるというのは、イエス様の時代に限らず時代や国を問わずいつもあるのです。自分には自分を造った創造主の神がいるとわかり、その神との関係はどうなっているか自問し、今のままではいけないと考えるようになった人は「平和の子」なのです。

 72人の弟子の派遣は、イエス様と弟子たちの一行がエルサレムを目指して南下の旅を続けていた時に行われました。エルサレムはイエス様の受難と十字架の死、そして死からの復活の出来事が待っているところです。イエス様が72人を派遣したのは、彼がこれから通ることになる町や村への先遣隊のようなものでした。この72人と12人を合わせてイエス様には少なくとも84人弟子がいたことになります。72人を選んだということは選ばれなかった人もいたことになるので、弟子はもっと多かったでしょう。なので、イエス様一行を受け入れて世話をする人たちをあちこちで準備しなければなりません。72人は2人一組で派遣されたので36カ所に派遣されたことになります。それぞれの場所で何が起きたか詳しいことはわかりませんが、戻って来た弟子たちが皆、悪霊は出て行きましたと喜んで報告しているので派遣は概ね成功だったようです。ルカ19章にエリコの町で徴税人のザアカイの家に泊まった出来事があります。イエス様の一行が町に入った時、大勢の人たちが待ってましたとばかり街道に押しかけました。エリコは先遣隊を受け入れた町の一つだったのでしょう。

 前置きが長くなりましたが、本日の説教では次の2つのことに焦点をあてて福音を宣べ伝えたく思います。一つは、弟子たちの役目の一つに、神の国が近づいたと人々に告げ知らせることがありました。弟子たちを受け入れる人たちにも受け入れない人たちにも知らせるのです。神の国の近づきとは一体何か?これが第一点目。二点目は、たとえイエス様から悪霊を追い出す力や、あらゆる危険を足蹴にできる力を頂いたとしても、そんなことで喜んではいけない、あなたたちの名前が天に書き記されていることを喜びなさいと言ったこと。名前が天に書き記されていることが何にも優る喜びであるということは一体どういうことか?この二つに焦点をあてて見ていきます。

2.「神の国は近づいた」

 イエス様は、活動を開始した時から「神の国は近づいた」と人々に告げ知らせて「神の国」について沢山教えました。そんな国が近づいたとはどういうことでしょうか?そもそも「神の国」とはどういう国なのでしょうか?

 神の国とは、まず、天地創造の神、私たちの周りの森羅万象を造られた創造主がおられるところです。神はこの世を造られた後、引きこもってしまって、あとは勝手にどうぞ、とは言いませんでした。そうではなく、この世に対していろいろ働きかけをしてきました。どんな働きかけがあったかは、聖書を見ればわかります。全ての人間に対してご自分の意思を示す律法を、ご自分が選んだ民に委ねたこと、そのイスラエルの民の歴史を通してご自分の考えやご自分がどのような方であるかを知らしめたことがあります。神はご自分の意思に反することを罪と言い、それを焼き尽くさないではいられない神聖な方であるが、同時に罪を持つ人間が悔い改めて神のもとに立ち返れば罪を不問にして新しく生きられるようにして下さる憐れみ深い方でもある、そういうお方であることを知らしめました。そして、神の働きかけの中で最大のものは何と言っても、ひとり子を私たち人間の救いのために贈ったということです。

 聖書は、「神の国」は将来、私たちの目の前に現れて、私たちはそれを自分の国として受け継ぐことが出来ると知らせます。「神の国」が現れる日とは、今のこの世が終わり、今ある天と地が新しい天と地に造り変えられる時です。このように聖書は終末論と創造論がセットになっています。ヘブライ12章では、今のこの世のものは全て揺り動かされて除去されてしまうが、揺り動かされない唯一の国が現われる、それが「神の国」であると。黙示録21章では、新しく創造された天と地のもとで神の国が現われ、そこは苦しみも嘆きも死もない、全ての涙が拭われる国であると言われます。全ての涙というのは、痛みや苦しみの涙だけでなく無念の涙も含まれます。つまり、この世でないがしろにされてしまった正義が最終的に完全に実現し、全ての不正に対して借りを全部返す大清算が行われるのです。

 ところで、イエス様が「神の国は近づいた」と言った時、本当に近づいたのでしょうか?まだ、この世が終わるような天と地の大変動は起きなかったではありませんか?実はこれは、イエス様が行った無数の奇跡の業を通して神の国の近づきが明らかになったということです。難病の癒し、自然の猛威を静めたこと、何千人の人たちの空腹を超自然的な仕方で満たしてあげたこと、一度息を引き取った人たちを蘇らせたこと、これらはどれを取っても嘆きも苦しみも死もない「神の国」の有り様でした。つまり、「神の国」はイエス様と一緒に抱きあわせの形で来ていたのでした。

 しかしながら、人々は難病が癒されても、自然の猛威から助けられても、空腹を満たされても、生き返らせてもらっても、それでまだ「神の国」に入れたわけではありませんでした。人間はそのままの状態では「神の国」に入れない障害がありました。それは、神の意思に背く性向、罪を人間は持っているということでした。人を傷つけてはいけない、他人のものを妬んだり横取りしてはいけない、真実を曲げてはいけない、不倫をしてはいけない等々の神の意思に反することを行いや言葉で出してしまったり、考えで持ってしまいます。反対に、しなければならない正しいこと良いことをしなかったり、言葉に出さなかったり、考えなかったりするのも神のみ前では立派な罪になります。罪のために人間は神との結びつきがない状態に置かれ、この世を生きる時もこの世を去る時も結びつきがない状態になってしまいます。神はこの状態を直して、人間が神との結びつきを持ててこの世を生きられ、この世を去った後も復活の日に眠りから目覚めさせて「神の国」に迎え入れられるようにしてあげようと、それでひとり子をこの世に贈られたのでした。

 神は、本当なら私たちが受けなければならない罪の罰をひとり子に全部受けさせてゴルゴタの十字架の上で死なせました。もし私たちが神罰を受けてしまったら、私たちは永遠の滅びに陥り「神の国」に迎え入れられなくなるのです。イエス様は私たち人間の罪を命をもって償って下さったのです。それだけではありません。神は一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させ、死を超えた永遠の命があることをこの世に示し、そこに至る道を人間に開かれました。それで、私たち人間は、これらのことは本当に起こった、だからイエス様は救い主だとわかって洗礼を受けると、イエス様が果たして下さった罪の償いを自分のものにすることができます。罪が償われたから、神から罪を赦された者として見てもらえるようになります。罪を赦されたから神との結びつきが回復します。そして、復活の日に現れる「神の国」に至る道に置かれて、その道を神との結びつきを持って歩む人生が始まります。

 キリスト信仰者はこの世ではまだ「神の国」に迎え入れられてはいませんが、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼によってそれを受け継ぐ者になっているのです。さらに、聖書の御言葉と聖餐式があるので「神の国」に至る道を踏み外さずに歩むことができるのです。聖書の御言葉は生ける神のみ言葉です。なので、信仰の目を持って読み、信仰の耳を持って聞けば、聖霊が働いて父なるみ神とみ子イエス様を身近な存在にして下さいます。聖餐式では私たちの口を通してイエス様を体の内に取り込みます。だから、人生の状況がいかなるものであっても、御言葉と聖餐に繋がっている限りは、道は確か道で、歩みも確かな歩みです。何も心配はありません。

3.命の書

 天のみ神のもとに何か書物があって、そこに名前が記されていることが大きな祝福である、しかし、名前が記されていなかったり削除されるのは悲劇であるという、そういう書物が存在することは旧約聖書の出エジプト記32章32節、詩篇69篇29節、イザヤ書4章3節、ダニエル書12章1節で言われてます。新約聖書もその伝統を受け継いでいて、本日の福音書の日課でも明らかなようにイエス様自身がそのような書物があると言っているのです。新約聖書の中では他にフィリピ4章3節、ヘブライ12章23節、黙示録3章5節で言われています。これらの中で、ダニエル12章1節とヘブライ12章23節と黙示録3章5節を見ると、この「命の書」と呼ばれる書物に名前がある者は復活の日に「神の国」に迎え入れられる者を意味していることがわかります。

 さらに黙示録20章を見ると、「命の書」の他に全ての人間の全ての行いが記された書物があることも言われています。最後の審判の時に神の国に迎え入れられるか、それとも滅びに陥るかの判決はその書物に記されたことに基づいて下されるとあります。今ある天と地のもとに存在した人間全て一人一人の全ての事柄について記録など膨大過ぎてあり得ないと思われるかもしれません。しかし、神は人間を一人一人造られ、母親の胎内にいる時からみんな知っていたという位の創造主です。イエス様も言われたように、髪の毛の数も一本残らず数え上げるくらい私たちのことを知り尽くしてい方です。そうなると私たちは神に対して何も隠し事はできなくなります。審判の日に神の意思に反してしまったことを一つ一つ指摘されてしまったら、取り繕うことも申し開きも一切できません。絶体絶命です。それにしても神に対して申し開きしなくて済むような完璧で潔癖な人間なんて存在するのでしょうか?

 実に神は、私たちが申し開きしなくてすむようにひとり子のイエス様を贈って下さったのです。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで罪を赦された者として生きることが始まりました。ところが、神の意思に反することが自分の内にあることにいつも気づかされてしまいます。その時は、聖霊がいつも私たちの心の目をゴルゴタの十字架に向けさせて、大丈夫、あの方のおかげであなたは罰を免れている、あなたの生きることはあの方の尊い犠牲の上に成り立っているのだと思い出させて下さいます。その時、私たちは畏れ多い気持ちと感謝に満たされて、これからは軽々しく立ち振る舞わないようにしようと襟を正します。審判の日に神は、このように罪の赦しの恵みに留まって生きたことがキリスト信仰者の真実であると認めて下さるのです。確かに神の意思に反するものを持ってしまったことがある、しかし、その度に罪を罪として認めて赦しを願い祈り、赦しがあることを確認してもらった。これこそ罪に与しない、罪に敵対する生き方であった。こっちの方が罪を持ってしまったことよりもキリスト信仰者の真実なのです。神はこれを認めて下さるので、キリスト信仰者は申し開きする必要はないのです。ここからもわかるように罪の赦しの恵みというのは人間にとって生命線なのです。

  1. 勧めと励まし

 主にあって兄弟姉妹でおられる皆さん、神のもとには「神の国」に迎え入れられる者の名前が記された「命の書」と、全ての人間の全てについて記された書物があります。罪の赦しの恵みに留まって生きる者は審判の日に神に申し開きする必要がありません。罪の赦しの恵みには、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼をもって入れます。罪の赦しの恵みに留まって生きられるために、聖書の御言葉と聖餐式が与えられているのです。これらをよく用いない手はありません。

 神の国が現われる日、それは今の天と地が新しい天と地に取って代わられる、想像を絶する天変地異の時であり、神の審判が行われる時です。神の恵みに留まって生きたキリスト信仰者は想像を絶する苦難や困難を全てクリアーできるのです。それなのでキリスト信仰者が持っている安心感と言ったら相当なものです。そんな安心感を持てれば、この世で苦難や困難に遭遇しても、本当は平気なはずです。なぜならこの世の終わりの苦難や困難に比べたらこの世の苦難や困難は小さいものだからです。それでキリスト信仰者というのは、本当は大胆不敵で肝が据わっている種族なのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

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