5月31日(日)聖霊降臨祭「聖句と教え」吉村博明SLEY(フィンランド・ルーテル福音協会)宣教師

聖句 使徒言行録2章1~21節、ヨハネ7章37~39節
題 「聖霊 - 我らの人生の素晴らしき縁の下の力持ち」

教会賛美歌387番(はじめ)、175番(おわり)
歌とピアノ ミルヤム・ハルユSLEY宣教師

ビデオ編集 ティーナ・ラトヴァラスクSLEY宣教師

聖書の使徒言行録2章1~21節~
聖書のヨハネ7章37~39節~

 

 

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5月24日(日)主の昇天主日の「聖句と教え」「この世でのねじれは承知の上。復活の日に解消されればよいのだ。」吉村博明SLEY(フィンランド・ルーテル福音協会)宣教師、使徒言行録1章1〜11節、エフェソ1章15〜23節、ルカ24章44〜53節

聖書箇所 使徒言行録1章1〜11節、エフェソ1章15〜23節、ルカ24章44〜53節
題「この世でのねじれは承知の上。復活の日に解消されればよいのだ。」
吉村博明SLEY(フィンランド・ルーテル福音協会)宣教師
ピアノと歌 ミルヤム・ハルユSLEY宣教師
ビデオ編集 ティーナ・ラトヴァラスクSLEY宣教師

 

 

 

 

 

 

「テキスト」5月24日(日)復活後第7主日「聖句と教え」主の昇天主日 吉村博明SLEY(フィンランド・ルーテル福音協会)宣教師

主日礼拝説教 2020年5月24日 昇天主日

使徒言行録1章1-11節

エフェソ1章15-23節

ルカ24章44-53節

説教題 「この世でのねじれは承知の上。復活の日に解消されればよいのだ。」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1. はじめに

今日はイエス様の昇天を記念する主日です。イエス様は天地創造の神の力によって死から復活され、40日間弟子たちをはじめ大勢の人たちの前に姿を現し、その後で天のみ神のもとに上げられたという出来事です。復活から40日後というのは実はこの間の木曜日で、教会のカレンダーでは「昇天日」と呼ばれます。フィンランドでは祝日です。近年、国民の教会離れ聖書離れが急速に進んでいるフィンランドですが、それでもカレンダーを教会の伝統に合わせることがまだ残っているのは興味深いです。今日は昇天日に近い主日ということで、「昇天主日」とも呼ばれています。イエス様の昇天の日から10日後になると、今度はイエス様が天の父なるみ神の許から送ると約束していた聖霊が弟子たちに降るという聖霊降臨の出来事が起こります。次主日にそれを記念します。その日はカタカナ語でペンテコステと言い、キリスト教会の誕生日という位置づけで、クリスマスとイースターに並ぶキリスト教会の三大祝祭の一つです。

日本のルター派教会の昇天主日に定められた聖書の日課は毎年同じで使徒言行録1章とエフェソ書1章とルカ福音書24章の個所です。

さて、イエス様の昇天ですが、それは一体いかなる出来事で、今を生きる私たちに何の関係があるのかということを毎年礼拝の説教でお教えしているところです。昨年はエフェソ1章の中に以前あまり気に留めなかったことに目が留まり、それを結びつけて説き明かしをしました。何かと言うと、エフェソ1章の特に19節から21節にかけてです。一度死んだ人間を復活させて復活の体を纏わせることと、その者を創造主である神の御許に引き上げるということ、このことがイエス様に起こったわけですが、その実現には想像を絶するエネルギーが必要である。そのようなエネルギーを表現するのにパウロはこの短い文章の中に神の「力」を意味するギリシャ語の言葉を3つ違うものを用いています(δυναμις,、κρατος、ισχυς)。エネルギーという言葉も2回(ενεργεια、2回目は関係代名詞ですが)、エネルギーを働かせるという動詞(ενεργεω)も用いたりしています。なんとかこの想像を絶する莫大なエネルギーを描写しようとしていることが伺えます。創造主である神はそのエネルギーを働かせる力がある方である。だからイエス様の復活と昇天を起こせたというわけです。ところがそれだけにとどまりません。神はこれと同じエネルギーをイエス様を救い主と信じる者にも働かせると言うのです。つまり、キリスト信仰者も将来イエス様と同じように神の力を及ぼされて復活できて天の父なるみ神のもとに上げられるのです。それで、神がこのような力を持っていて、それをこの自分にも及ぼして下さる、と信じられるかどうかが信仰にとって一つの鍵になるということを昨年申し上げた次第です。

今年はさらにエフェソ1章の終わりの22節と23節に目が留まりました。教会は「キリストの体」であるとパウロは言います。この「教会」は、スオミ教会のような個別の教会ではなく、また複数の教会から構成される教団でもなく、ルター派とかカトリックというような教派のことでもありません。それは、永遠の命と復活の体が待っている天の御国に至る道に置かれて、今それを進んでいるキリスト信仰者の集合体です。個々の教会、教団、教派を超えた人的組織を離れた見えない教会です。それが「キリストの体」であると。そしてそのキリストはと言えば、今は天の父なるみ神の右に座して、この世のあらゆる「支配、権威、勢力、主権」の上に聳え立って、それらを足蹴にしていると。ここで言う「支配、権威、勢力、主権」とは現実世界にある国の権力だけでなく、見えない霊的な力も全部含みます。そうすると、キリストの体の部分部分である信仰者もキリストにあってこの世の権力や霊的な力の上に立つ者になっていることになるはずなのだが、どうもそんな無敵な感じはしません。そういったものの上に聳え立って足蹴にしているイエス様はそうかもしれないが、信仰者は正直なところいろんな力の足蹴にされている方ではないか?「キリストの体」だなんて、パウロはちょっとはったりを効かせすぎではないか?でもこれはやっぱり本当のことと言わざるを得ないのです。このことを後ほど見ていこうと思います。その前に毎年お教えしていることですが、イエス様の昇天とは何だったのかということについておさらいをしておこうと思います。

2.イエス様の昇天

私たちの新共同訳聖書では、イエス様は弟子たちが見ている目の前でみるみると空高く上げられて、しまいには上空の雲に覆われて見えなくなってしまったというふうに書いてあります(1章9節)。なんだか、スーパーマンがものすごいスピードで垂直に飛び上がっていく、ないしはドラえもんがタケコプターを付けて上がって行くようなイメージがわきます。しかし、ギリシャ語の原文をよくみると様子が違います。雲はイエス様を上空で覆ったのではなく、彼を下から支えるようにして運び去ったという書き方です。つまり、イエス様が上げられ始めた時、雲かそれとも雲と表現される現象がイエス様を運び去ってしまったということです。地面にいる者は下から見上げるだけですから、見えるのは雲だけで、その中か上にいる筈のイエス様は見えません。「彼らの目から見えなくなった」とはこのことを意味します(後注)。

そういうわけで、新共同訳の「雲」は空に浮かぶ普通の雲にしかすぎなくなります。しかし、聖書には旧約、新約を通して「雲」と呼ばれる不思議な現象がいろいろあることを忘れてはなりません。モーセが神から掟を授かったシナイ山を覆った雲しかり、イスラエルの民が民族大移動しながら運んだ臨在の幕屋を覆った雲しかりです。イエス様が高い山の上でモーセとエリアと話をした時も雲が現れてその中から神の声が響き渡りました。さらに、イエス様が裁判にかけられた時、自分は「天の雲と共に」(マルコ14章62節)再臨すると預言されました。本日の使徒言行録の箇所でも天使が弟子たちに言ったではありませんか。イエスは今天に上げられたのと同じ仕方で再臨する、と。つまり、天に上げられた時と同じように雲と共に来られるということです。そういうわけで、イエス様の昇天の時に現れた「雲」は普通の雲ではなく、聖書に出てくる特殊な「神の雲」ということになります。イエス様の昇天はとても聖書的な出来事なのです。

それにしても、イエス様を運び去ったのが神の雲だとしても、昇天は奇想天外な出来事です。大方のキリスト信仰者だったら、ああ、そのような普通では考えられないことが起こったんだな、とすんなり受け入れるでしょうが、信仰者でない人はきっと、馬鹿馬鹿しい、こんなのを本当だと信じるのはハリーポッターか何かの映画の特殊な撮影を本当のことと信じるのと同じだと一笑に付すでしょう。キリスト教徒の中にも最近は、そういうふうに考える人が増えているかもしれません。

ここで、忘れてはならない大事なことがあります。それは、天に上げられたイエス様の体というのは、これは普通の肉体ではなく、聖書で言うところの「復活の体」だったということです。復活後のイエス様には不思議なことが多くありました。例えば弟子たちに現れても、すぐにはイエス様と気がつかないことがありました。また、鍵がかかっている部屋にいつの間にか入って来て、弟子たちを驚愕させました。亡霊だ!と怯える弟子たちにイエス様は、亡霊には肉も骨もないが自分にはあるぞ、と言って、十字架で受けた傷を見せたり、何か食べ物はないかなどと聞いて、弟子たちの見ている前で焼き魚を食べたりしました。空間移動が自由に出来、食事もするという、天使のような存在でした。もちろん、イエス様は創造主である神と同じ次元の方なので、被造物にすぎない天使と同じではありません。いずれにしても、イエス様は体を持つが、それは普通の肉体ではなく復活の体だったのです。そのような体で天に上げられたということで、スーパーマンやのび太のような普通の肉体が空を飛んだということではないのです。

3.天の御国

天に上げられたイエス様は今、天の御国の父なる神の右に座している、と普通のキリスト教会の礼拝で毎週、信仰告白の部で唱えられます。果たしてそんな天空の国が存在するのか?毎年お教えしていることですを振り返ってみます。

地球を取り巻く大気圏は、地表から11キロメートルまでが対流圏と呼ばれ、雲が存在するのはこの範囲です。その上に行くと、成層圏、中間圏等々、いろんな圏があって、それから先は大気圏外、すなわち宇宙空間となります。世界最初の人工衛星スプートニクが打ち上げられて以来、無数の人工衛星や人間衛星やスペースシャトルが打ち上げられましたが、今までのところ、天空に聖書で言われるような国は見つかっていません。もっとロケット技術を発達させて、宇宙ステーションを随所に常駐させて、くまなく観測しても、天の御国とか天国は恐らく見つからないのではと思います。

というのは、ロケット技術とか、成層圏とか大気圏とか、そういうものは、信仰というものと全く別世界だからです。成層圏とか大気圏というようなものは人間の目や耳や手足などを使って確認できたり、また長さを測ったり重さを量ったり計算したりして確認できるものです。科学技術とは、そのように明確明瞭に確認や計測できることを土台にして成り立っています。今、私たちが地球や宇宙について知っている事柄は、こうした確認・計測できるものの蓄積です。しかし、科学上の発見が絶えず生まれることからわかるように、蓄積はいつも発展途上で、その意味で人類はまだ森羅万象のことを全て確認し終えていません。果たして確認し終えることなどできるでしょうか?

信仰とは、こうした確認できたり計測できたりする事柄を超えることに関係します。私たちが目や耳などで確認できる周りの世界は、私たちにとって現実の世界です。しかし、私たちが確認できることには限りがあります。その意味で、私たちの現実の世界も実は森羅万象の全てではなくて、この現実の世界の裏側には、目や耳などで確認も計測もできない、もう一つの世界が存在すると考えることができます。信仰は、そっちの世界に関係します。天の御国もこの確認や計測ができる現実の世界ではない、もう一つの世界のものと言ってよいでしょう。ここで、天の御国はこの現実世界の裏側にあると申しましたが、聖書の観点では、天の父なるみ神がこの確認や計測ができる世界を造り上げたというものです。それなので、造り主のいる方が表側でこちらが裏側と言ってもいいのかもしれません。

もちろん、目や耳で確認でき計測できるこの現実の世界こそが森羅万象の全てだ、それ以外に世界などない、と考えることも可能です。ただ、その場合、天と地と人間を造られた創造主など存在しなくなります。そうなれば、自然界・人間界の物事に創造主の意図が働くなどということも考えられません。自然も人間も、無数の化学反応や物理現象の連鎖が積み重なって生じて出て来たもので、死ねば腐敗して分解し消散して跡かたもなくなってしまうだけです。確認や計測できないものは存在しないという立場ですので、魂とか霊もなく、死ねば本当に消滅だけです。もちろん、このような唯物的・無神論的な立場を取る人だって、亡くなった方が思い出として心や頭に残るということは認めるでしょう。しかし、それも亡くなった人が何らかの形で存在しているのではなく、単に思い出す側の脳神経の作用という言い方になるのでしょう。

キリスト信仰者にとって、自分自身も他の人間もその他のものも含めて現実の世界は全て創造主に造られものです。そして、人間の命と人生は実は、この現実の世界だけでなく創造主の神がおられる天の御国にもまたがっていて、この二つを一緒にしたものが自分の命と人生の全体なのだ、という人生観を持っています。そういう人生観があると、神がどうしてひとり子を私たちに贈って下さったのか、それは私たちの人間の人生から天の御国の部が抜け落ちてしまわないためだったということが見えてきます。つまり、人間がこの現実の世界の人生と天の御国の人生を一緒にした大きな人生を持てるようにするというのが神の意図だったのです。

それでは、イエス様を贈ることでどうやって人間がそのような大きな人生を持てるようになるのかと言うと、次のような次第です。人間は生まれたままの自然の状態では天の御国の人生は持てない。というのは、創世記に記されているように、神に造られたばかりの最初の人間が神に対して不従順になって罪を持つようになってしまって、人間は神との結びつきを失ってしまったからです。人間の内に宿る罪、それは行為に現れる罪も現れない罪も全部含めて、そうした神の意思に反するようにさせようとする罪が神と人間の間を切り裂いてしまっている。そこで神は、失われてしまった結びつきを回復するために、人間の罪の問題を人間に代わって解決して下さったのです。

どのようにして解決して下さったかと言うと、神は人間に宿る罪を全部ひとり子のイエス様に背負わせて十字架の上に運ばせ、そこで人間に代わって神罰を全部受けさせました。こうして罪の償いがイエス様によってなされました。さらに神は、一度死なれたイエス様を死から復活させて死を超えた永遠の命があることを示し、それまで閉ざされていた天の御国への扉を開きました。そこで人間が、ああ、イエス様はこの私のためにこんなことをして下さったのだ、とわかって、それで彼を救い主と信じて洗礼を受けると罪の償いがその人に覆いかぶさります。神の目から見て償いが済んだ者、つまり罪が赦された者として見てもらえるようになります。罪が赦されたので神との結びつきが回復します。その人は永遠の命と復活の体が待つ神の御国に至る道に置かれて、神との結びつきの中でその守りと導きを得ながらその道を進んでいきます。この世を去ることになっても、復活の日に眠りから目覚めさせられて復活の体を着せられて父なるみ神の御許に永遠に迎え入れられます。このようにしてこの世の人生と天の御国の人生を一緒にした大きな人生を生きることになるのです。

4.この世でのねじれは承知の上。復活の日に解消されればよいのだ。

キリスト信仰者は、永遠の命と復活の体が待っている神の御国に至る道を進んでいます。その彼らが集まって見えない教会を形作っています。それが「キリストの体」ということなのですが、キリストご自身は天の父なるみ神の右に座していて、この世のあらゆる目に見える権力、目に見えない霊的な力全ての上に聳え立ってそれらを足蹴にしています。それらの力は聳え立つキリストに何もなしえない、歯向かえない、完全に負けている。それなのに、キリストの体であるはずの我々はキリストみたいに全ての力の上に立てていないではないか?神の意思に反させようとする力は周りで猛威を振るっている。神に背を向けさせようとする力、人を傷つけようとする力、偽証したり改ざんさせようとする力、妬んだり憎ませようとする力、不倫させようとする力、そうした力の被害者になってしまうだけでなく、それらに加担するようなことも起きてしまう。実は我々はキリストの体なんかではなく、全ての上に聳え立つ力あるキリストから遠く切り離されてしまった者たちではないのか?

ところが、そうではないのです。キリスト信仰者はキリスト信仰者である以上はキリストの体なのです。それならば、どうしていろんな力にいいように攻められなければならないのか?これは、キリストが天の父なるみ神のもとにいるのに対して、私たちがまだこの世に漬かっていることから生じる一種のねじれ現象なのです。キリストが天で我々が下、と言ったら、それはやはり我々がキリストに結びついた体ではなく切り離されているということではないのか?いや、それはやはり結びついているのです。凄まじいねじれがあるのです。

イエス様と私たちの結びつきについて言うと、パウロが教えるように洗礼を受けた者はイエス様の死と復活に結びつけられます(ローマ6章1~11節)。イエス様の死に結びつけられるというのは罪に対して死ぬことです。イエス様の復活に結びつけられるというのは神に対して生きることです。罪に対して死ぬというのは、罪が信仰者と神との結びつきを引き裂こうとしてもその力がない、空振りに終わるということです。どうしてかと言うと、キリスト信仰者が神の意思に反することを思ったり考える罪を犯す時、また不運にも考えに留まらず言葉や行為に出してしまう時、いずれの場合でも、すぐ神に赦しを願い祈ればいいからです。その時、神はすかさず私たちの心の目をゴルゴタの十字架にかかる主に向けさせて言われます。「あの、わが子イエスの犠牲に免じてお前の罪を赦す。もう犯さないように。」十字架が歴史上打ち立てられた以上は罪の赦しはそのまま微動だにせずある。それで私たちと神との結びつきは失われていないことがわかります。この時、私たちは主の犠牲のゆえに恥じる心と感謝の気持ちで一杯になり、そこから謙虚になって落ち着いた者に変えられていきます。いろんな力に攻められ煽られますが、イエス様の死と復活に結びついていれば、全てをかわせてはねのけられます。全てはキリストが全てに勝っていることによるのです。

やがて、戦いに明け暮れた歩みが終わる日が来ます。イエス様が再臨する日です。それは今のこの世が終わりを告げて天と地が新しく創造され直す日です。この世と一緒にこの世のあらゆる力も消滅します。復活の体を着せられて神の御許に迎え入れられる者を攻めたてるものはもうありません。復活者は天のキリストが持っていたのと同じ安泰さを得るのです。ねじれは解消したのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように

アーメン

 

(後注)フィンランド語訳、スウェーデン語訳、ルターのドイツ語訳の聖書を見ても、雲がイエス様を運び去るという訳をしています。英語訳NIVは、イエス様は弟子たちの目の前で上げられて雲が隠してしまった、という訳ですが、雲が隠したのは天に舞い上がった後とは言っていません。新共同訳は「イエスは彼らが見ているうちに天に上げられた」と言うので、イエス様はまず空高く舞い上がって、それから雲に覆い隠された、という訳です。しかし、原文には「天に」という言葉はありません。それを付け加えてしまったので、天に到達した後に雲が出てくるような印象を与えてしまうと思います。

5月17日(日)復活後第六主日「聖句と教え」 吉村博明SLEY(フィンランド・ルーテル福音協会)宣教師

聖句 使徒言行録17章22~31節
題 「文明の衝突 - あなたはどうする?」
教会賛美歌244番(はじめ)、339番(おわり)
讃美歌とピアノ ミルヤム・ハルユSLEY宣教師
ビデオ編集 ティーナ・ラトヴァラスクSLEY宣教師
使徒言行録17章を見る

 

 

 

 

5月10日(日)復活節第4主日 聖句と教え「神よ、我を統(す)べたまえ、我、おのが務めを果たすべし」神学博士 吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書14章1~14

2020年5月10日 復活後第四主日「聖句と教え」

使徒言行録7章55-60節

第一ペトロ2章2-10節

ヨハネ14章1-14節

説教題 「神よ、我を統(す)べたまえ、我、おのが務めを果たすべし」」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

本日の福音書の箇所は、イエス様が十字架刑にかけられる前夜、弟子たちと最後の晩餐を共にした時の教えです。初めに、「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしを信じなさい」と命じられます。「心を騒がせるな」とは、この時、弟子たちが大きな不安を抱き始めたために、イエス様が述べた言葉です。弟子たちはどうして不安を抱いたのでしょうか?

弟子たちにとってイエス様はユダヤ民族の期待のヒーローでした。無数の不治の病の人を癒し、多くの人から悪霊を追い出し、嵐のような自然の猛威も静め、わずかな食糧で大勢の人の空腹を満たしたりするなど無数の奇跡の業を行って、誰が見ても天地創造の神が彼と共にいることがわかりました。また、創造主の神の意思について人々に正確に教え、ユダヤ教社会の宗教エリートたちの誤りをことごとく論破しました。弟子たちも群衆も、この方こそユダヤ民族を他民族の支配から解放してかつてのダビデの王国を再興する本当のユダヤの王と信じていました。そうして民族の首都エルサレムに乗り込んできたのです。人々は、いよいよ民族解放と神の栄光の顕現の日が近づいたと期待に胸を膨らませました。ところが、イエス様は突然、自分はお前たちのところを去っていく、自分が行くところにお前たちは来ることができない、などと言い始めたのです(ヨハネ13章33、36節)。これには弟子たちも面喰いました。イエス様が王座につけば直近の弟子である自分たちは何がしかの高い位につけると思っていたのに突然、自分は誰もついて来ることができない所に行くなどと言われる。それではダビデの王国はどうなってしまうのか?イエス様がいなくなってしまったら、取り残された自分たちはどうなってしまうのか?ただでさえ、イエス様は支配者層やエリートたちの反感を買っているのに、彼がいなくなってしまったら自分たちは弾圧されてしまうではないか?こうして弟子たちは不安に襲われて心が騒ぎ出したのでした。そこで、イエス様は「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」と命じたのです。この世で敵に囲まれるように取り残されてしまう弟子たちが心を騒がせないで済むようにイエス様は教えていきます。その教えは現代を生きる私たちにも大事なものです。以下にそれについてみていきましょう。

2.

イエス様は、天の父なるみ神のもとに行って、そこで弟子たちのために場所を用意し、その後また戻ってきて弟子たちをそこに迎えると言われます。「神のもとに行く」というのは、死から復活して復活の体を持つイエス様がいるのに相応しい場所、すなわち天のみ神のもとに帰ることを意味します。「また戻ってくる」というのはイエス様が再臨する日のことです。それは、聖書の観点では今のこの世が終わって新たに創造される天と地のもとで新しい世が始まる時のことです。この時、死者の復活が一斉に起こり、神の目に義と見なされる者たちが見出されて父なるみ神の御許に迎え入れられます。

これら全てのことの初めにイエス様の死からの復活があるのですが、復活があるということはイエス様が死んだということが前提にあります。これらの出来事が一体何なのかは、神のひとり子であるイエス様がどうして死ななければならなかったのかがわかるとわかります。

まず、イエス様が十字架に掛けられて死なれたことで人間と神の間を引き裂こうとする力が消えました。人間と神の間を引き裂くものを「罪」と言います。その罪の力が十字架の出来事で消えたのです。どうしてかと言うと、罪のために本当だったら人間が神から受ける神罰を彼が代わりに引き受けて下さったのです。それで今度は人間の方が、イエス様は本当に身代わりになって死なれたのだとわかって彼を救い主と信じて洗礼を受けると、神は「わが子イエスの犠牲に免じてお前の罪を赦す」と言って、その人の罪を赦します。そのようにして創世記の堕罪以来失われていた神と人間の結びつきが回復します。もちろん人間はキリスト信仰者になっても、まだ肉をまとって生き続けますから、罪は内に残っています。力を失ったくせに隙を狙っては弱いところを突いてきます。そのような時、キリスト信仰者は次のように自分に言い聞かせます。今の自分は神のひとり子の犠牲の上に成り立っている、神はひとり子を犠牲に供するくらいにこの自分を大事なものと見て下さった、だからそれに相応しい生き方をしよう、神の犠牲を汚すようなことはしないのだ、と。そのように神に立ち返る人に対して神はイエス様の犠牲に免じて罪の赦しをお恵みのようにいつも与えて下さいます。その人は神との結びつきを持てて生きていけるのです。

十字架の出来事に加えて、神はイエス様を死から復活させられました。これによって、死を超える永遠の命に至る道が人間に開かれました。こうしてイエス様を救い主と信じて日々罪の赦しの恵みの中に留まる者は復活の日の永遠の命に至る道に置かれて、その道を神に守られて進んでいきます。この恵みに留まる限り、罪も死も悪魔もその人を邪魔することはできません。このように、ひとり子イエス様を用いて私たちを罪と死の支配から解放して下さり、永遠の命に至る道に置いて歩ませて下さる父なるみ神は永遠にほめたたえられますように。

イエス様はまた戻って来ると言われた後で、「お前たちはわたしが行こうとしている場所に通じる道を知っているのだ」と言われます(4節)。それに対してトマスが当惑して言い返します。あなたがどこへ行くのかわかりません。それなので、そこに至る道というのもわかりません。行先が分からなければ道なんかもわかりません。もっともなことです。これに対してイエス様は次の有名な言葉を述べます。

「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(6節)。これで、イエス様がこれから行こうとしている場所は、天の父なるみ神がおられるところ、すなわち天と地と人間を造られ人間一人一人に命と人生を与えられた創造主の神がおられるところであることが明らかになりました。そして、イエス様自身がその父なるみ神のもとに至る道であると言うのです。彼を介さなければ、だれも神のもとに行くことはできないという位、イエス様は創造主のもとに至る唯一の道なのです。唯一の道ということは、ギリシャ語の原文でもはっきりしていて、道、真理、命という言葉全部に定冠詞がついています(η οδος, η αληθεια, η ζωη 英語やドイツ語の訳も同様で、the way, the truth, the life、der Weg, die Wahrheit, das Lebenと言っています)。定冠詞がつくと、イエス様は道の決定版、真理の決定版、命の決定版という意味になります。いくつかある道の中の一つということでなくなり、この道を通らないと創造主のもとに行けないという唯一の道になります。

こういうことを言うと、宗教の業界では煙たがれるでしょう。ああ、キリスト教は独り勝ちでいたがる独りよがりな宗教だなど、と。ところで最近よく聞かれる考え方にこういうのがあります。天国でも極楽浄土でもなんでもいいが、この世から死んだあと何か至福の状態があるとすれば、そこに至る道はいろいろあっていいのだ、それぞれの宗教がそれぞれの道を持っているが到達点はみな同じなのだ、という考え方です。キリスト教の中にもそのように考える人がいます。しかしながら、神の言葉とされる聖書に神のひとり子の言葉としてある以上は、煙たがれようがなんだろうが御言葉を水で薄めるようなことはしないで、そのままの濃度で保つべきではないかと考えます。それに、同じ到達点と言っているものは本当に同じなのかどうか考えてみなければならないと思います。諸宗教が目指す至福は果たしてみんな同じものでしょうか?キリスト教の至福について今回は立ち入りませんが、次の4点は覚えておくべきでしょう。第一に、今の世が終わって新しい世が来るという終末論があること、第二に、「復活の体」という新しい世に対応する有り様があること、第三に、最後の審判というのがあり、この世での正義の問題にしっかり目が向けられていること、第四は、イエス様を救い主と信じる信仰に生きると、この世の段階で至福との繋がりが出来ているということ、以上です。

イエス様は道以外にも、自分は真理の決定版、命の決定版であると言われます。真理の決定版というのは次のような意味です。人間と造り主との結びつきが失われた原因は罪である。罪は人間が神の意思に反するように持っていこうとする。そこで神はひとり子の犠牲によってその力を無にした。こうした人間の罪ある状態と神の人間に対する愛と憐み、この二つが否定できない真理になっています。この神の憐れみと愛を実行に移したイエス様は真理そのものなのです。

命の決定版ということについて。イエス様が「命」とか「生きる」ということを言われる場合、いつもそれは今のこの世の人生のことだけでなく、今の世が終わった後に始まる次の世の人生も一緒にした、とてつもなく広大な人生を「生きる」「命」を意味します。死から復活させられたイエス様はまさにその広大な人生を生きる命を持つ方です。そればかりではありません。彼を救い主と信じる者たちにも同じ広大な人生を生きる命を与えて下さいます。それで、イエス様は命の決定版なのです。

3.

7節でイエス様は、「あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる」と言われます。イエス様を知ることは、父なるみ神も知ることになる。イエス様を見ることは、父なるみ神を見ることと同じである。それくらい、御子と父は一緒の存在であるということが、7節から11節まで強調されます。そう言われてもフィリポにはピンときませんでした。イエス様を目で見ても、やはり父なるみ神をこの目で見ない限り、神を見たことにはならない、と彼は思いました。つまり、イエス様と父なるみ神は一緒の存在であるということがまだ信じられないのです。これは、十字架と復活の出来事が起きる前は無理もなかったでしょう。十字架と復活の出来事の後、弟子たちはイエス様が真に天の父なるみ神から送られた神のひとり子であったとわかります。さらに、イエス様は父の人間に対する愛と憐みを実行に移すために自分を犠牲にするのを厭わなかったこともわかりました。それくらい御子は父に従順だった、彼が教え行ったことは全て父が教え行ったことであった、彼が自分から好き勝手に教えたり行ったのではなかったのだ、ということもわかったのです。

12節でイエス様は、「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである」と言われます。これは、ちょっとわかりにくいです。イエス様を信じる者がイエス様が行った業よりももっと大きな業を行うとは、一体どんな業なのか、まさかイエス様が多くの不治の病の人を完治した以上のことをするのか?自然の猛威を静める以上のことをするのか?しかも、信じる者が大きな業を行うことが、イエス様が天のみ神のもとへ行くこととどう関係があるのか?

弟子たちがイエス様の行う業を行うと言う時、まず、イエス様がなしたことと弟子たちがなしたことを並べて見てみるとわかります。イエス様は、人間が神との結びつきを回復して永遠の命に至る道に乗せてあげる可能性を開いた。これに対して弟子たちは、この福音を人々に宣べ伝えて洗礼を授けることで人々がこの可能性を自分のものとすることができるようにした。イエス様は可能性を開き、弟子たちはそれを現実化していったのです。しかし、両者とも、人間が神との結びつきを回復して永遠の命に至る道に乗せてあげられるようにするという点では同じ業を行っているのです。

さらに、弟子たちの場合は活動範囲がイエス様の時よりも急速に広がりました。イエス様が活動したのはユダヤ、ガリラヤ地方が中心でしたが、それが弟子たちが遠く離れたところにまで出向いて行ったおかげで救われた者の群れはどんどん大きくなっていきました。その意味で、弟子たちはイエス様の業よりも大きな業を行うことになると言えるのです。この弟子たちの活動はイエス様が天に上げられた後で本格化します。イエス様は自分が天の父のもとに戻ったら、今度は神の霊である聖霊を地上に送ると約束していました(ヨハネ14ー16章)。聖霊は福音が宣べ伝えられる場所ならどこででも働かれ、人間が罪に囚われた状態にあることと、そこから解放する神の愛と憐れみについて人々が気づけるように導きます。このようにイエス様が天の父のもとに戻って、かわりに聖霊が送られてきて、その働きに支えられて弟子たちが伝道して群れがどんどん大きくなっていったのです。

イエス様は13節と14節で、わたしの名によって願うことは何でもかなえてあげよう、と言われます。これを読んで、自分は金持ちになりたい、有名になりたい、とイエス様の名によって願ったら、その通りになると信じる能天気な人はまずいないでしょう。イエス様の名によって願う以上は、願うことの内容は父なるみ神の意思に沿うものでなければならない、利己的な願いは聞き入れられないばかりか神の怒りを招いてしまうとわかります。神との結びつきを持てて永遠の命に至る道を進む者が願うことと言えば、いろいろあるかもしれませんが、結局のところは「この結びつきがしっかり保たれて道の歩みがしっかりできますように」ということに行きつくのではないかと思います。同時に、まだ結びつきを持てておらず永遠の命の道への歩みも始まっていない隣人のために「始まりますように」という願い祈りも切実なものになると思います。イエス様がその通りにしてあげようと約束された以上は、たとえ何年何十年かかってもそれを信じて願い続け祈り続けなければなりません。キリスト信仰者の重要な任務です。

4.

以上、本日の福音書の箇所を駆け足で見てきました。最初に述べた問題に戻りましょう。イエス様が天のみ神のもとに戻ってしまったら、弟子たちはこの世で敵に囲まれるように取り残されてしまうことになる。それでも心を騒がせないで済むのだということをイエス様は教えられました。何を根拠にそうなれるのでしょうか?まず、イエス様を救い主と信じる信仰によって自分は父なるみ神との結びつきを持てた、そして永遠の命に至る道に置かれて今その道を進んでいるのだ、という救いの確信があります。それに加えて、自分がこの道を歩めるために、また他の人も歩めるようになるために願い祈ることはなんでも主は聞き入れてかなえて下さると約束された、これもキリスト信仰者にとって励ましと慰めになります。心を騒がせる必要はなくなります。

先ほど申しましたように、ヨハネ14章7~11節では父と御子が一緒の存在であることが強調されていました。宗教改革のルターは、そのことがわかると私たちの心は平安になり、全てのことは神の御心のままに起こってよいという心意気になるということを教えています。次のような教えです。

「主イエスは、自分を知れば自分をこの世に遣わした父も知ることができると言われた。どうしてそのようなことが可能なのだろうか?それは、こういうことである。君は、御自身の命を投げ打ってまで君に仕えたイエス様が神そのものであると知った時、イエス様は実は父が与えた務めを果たしたにすぎないということがわかる。その時、君の魂は、務めを果たした御子を経由してその務めを与えた父へと高められる。こうして君の心は父なるみ神への信頼で溢れ、神が本当に君の愛すべき父になる。

父なるみ神をこのように知ることができたら、君は全てのことは神の御心のままに起こってよいと、神の決定権を受け入れられるようになる。なぜなら父なるみ神は君にとって全てになっているからだ。この時、君の心は神の住む場所になって全てのことを静かに受け入れられる、へりくだった心に変わる。まさに、主イエスが自分を愛する者のところに父と一緒に行き、父と一緒にそこに住むと言われたことが実現するのである。

我々は神の栄光、力そして知恵を知りうる域に達しなければならない。そこに達した時、我々は神が我々に関する全てのことを決定するのを受け入れられるようになるし、また、全てのことは神の業であるということもわかる。そうなれば、我々はもう何も恐れるものはなくなる。寒さ、空腹、地獄、死、悪魔、貧乏その他これらに類するものを恐れなくなる。なぜなら、我々の内に住む神は、悪魔、死そして地獄の力の総和よりも勝っているとわかっているからである。このようにして我々の内に、この世の全てのことに立ち向かう勇気が育っていく。我々には神がついておられるので、その栄光と力と知恵に与ることが出来る。それなので、あとは何をも恐れずに自分たちに課せられた務めをしっかり果たしていくだけなのである。」

以上がルターの教えでした。キリスト信仰者にはそれぞれ神から与えられた務めがあります。仕事がある人はそれが務めであり、ない人はそれを探し求めることが務めであり、家族や他に世話をしたり助けたりする人があれば、世話をしたり助けるのが務めであり、病気の人は健康になることが務めです。人によっては複数の務めを同時に担う人もいます。いずれにしても務めは置かれた立場や状況や時によって変わります。しかし、違いや変化はあっても務めの果たし方にはいつも共通点があります。それは、神の意思に従って正しく果たすということです。「神の意思に従って正しく」務めを果たすというのは、大きく言えば、神を全身全霊で愛しながら果たし、隣人を自分を愛するが如く愛しながら果たすということです。細かいことは十戒を見るとわかります。務めを果たす時は、例えば人を傷つけたりしないで果たす、嘘をついたり偽証したり改ざんしたりしないで果たす、不倫などしないで果たすということです。キリスト信仰でこういう神の意思に従うということにこだわるのは、神がこわいからそうするのではありません。そうではなくて、神が大きな代償を払ってまでこの自分を大事に受け入れて下さったので、そうするのが当然というにすぎないのです。

神よ、我を統べたまえ。

我、おのが務めを果たすべし。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

教会讃美歌291番(はじめ)、171番(おわり)
歌とピアノ ミルヤム・ハルユSLEY宣教師

 

 

5月10日 復活節第4主日 「聖句と教え」 吉村博明 フインランド・ルーテル福音協会(SLEY)宣教師

聖句:ヨハネ 14:1~14
題:「神よ、我を統(す)べたまえ、我、おのが務めを果たすべし」、
教会讃美歌;291番(はじめ)  171番(おわり)
歌とピアノ:ミリヤム・ハルユ SLEY宣教師

 

 

 

 

 

 

5月3日 復活節第3主日 聖句と教え「羊の希望」マルッティ・ポウッカ 牧師、ヨハネによる福音書 10章1〜10節、歌 フルート演奏

復活節第三主日「聖句と教え」
説教 歌 フルート演奏 マルッティ・ポウッカ 牧師
聖書朗読 パイヴィ・ポウッカ 宣教師

 

 

 

 

 

 

 

「聖句と祈りのひと時」、「心配事の置き捨て場」第一ペトロ5章7節、神学博士 吉村博明 宣教師

聖句 「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。」聖書の第一ペトロ5章7節
メッセージ 「心配事の置き捨て場」
聖書の1、2節位の短い聖句をもとにした10分位のメッセージと祈りのひと時です。是非ご試聴下さい。

4月19日 復活祭第2主日 聖句と教え「見ないのに、なぜ信じられるのか? 見ないで信じるとどうなるのか?」神学博士 吉村博明 宣教師、使徒言行録2章14a、22‐32節 第一ペトロ1章3‐9節 ヨハネによる福音書20章19‐31節

主日礼拝説教 2020年4月19日 復活節第一主日

 

聖書のヨハネによる福音書20章19〜31節

 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.どうすれば復活の主を見なくても信じられるか?

本日の福音書の個所は、弟子の一人のトマスが自分の目で見ない限りイエス様の復活など信じないと言い張っていたのが、目の前に現れて信じるようになったという出来事です。その時イエス様は言いました。私を見たから信じたのか?見なくても信じる者は幸いである。

私たちは誰でも目で見たら、その時はもう、信じるもなにもその通りだと言うでしょう。ところが、「信じる」というのは、まさに見なくてもその通りだと言うことです。復活したイエス様を見なくてもイエス様は復活したのだ、それはその通りだ、と言う時、イエス様の復活を信じていることになります。復活したイエス様を目で見てしまったら、復活を「信じます」とは言わず、復活をこの目で見ましたと言います。

イエス様の弟子たちは主の復活の目撃者です。信じるも何もそうとしか言いようがなく、後に迫害が始まった時にも見たものを見なかったことにする改ざんは出来ませんでした。ところで、イエス様は復活から40日後に天の父なるみ神のもとに上げられます。そのため、その後は目撃者の証言を信じるか信じないかということになります。彼らの証言を聞いて信じるのは、どうしてできたのでしょうか?もちろん、目撃者たちが迫害に屈せず命を賭して伝えるのを見て、これはウソではないとわかったことがあるでしょう。ところが、信じるようになった人たちも後に目撃者と同じように迫害に屈しないで伝えるようになったのです。直接目で見たわけではないのに、どうしてそこまで確信できたのでしょうか?

もしタイムマシンに乗って2000年前のエルサレムに行くことが出来たら、ビデオ撮影をして、それをSNSで拡散することが出来ます。世界中の人が目撃できます。あっ、イエスは生き返っているぞ!壁をすり抜けたぞ、すごい、すごい、という具合に瞬く間に5,000万回、5億回と再生されて、いいね!や驚き顔の絵文字で溢れかえるでしょう。世界中の人がイエス様の復活はあったと言うでしょう。しかしながら、それは「信じる」ことではありません。使徒パウロはローマ10章9節で「口でイエスは主であると公けに言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われる」と述べます。「心で信じる」というのは、復活は頭では理解できないことだが心でその通りだと受け取ることです。SNSだと頭で理解する必要もないし心で受け取る必要もありません。瞬間的な反応だけです。そして、イエス様の復活の動画を見てすごいと感じても、もう次に投稿される凄いものを待ち始めています。イエス様の復活はギガバイトの堆積物の中に埋もれていくだけです。

パウロの言葉は、イエス様の復活というものは頭で一生懸命理解しようとしても受け取り不可なのだが、心は受け取り可と言っている、ということを意味します。心で受け取ることが出来るから目撃しなくても信じることができるのです。それでは、イエス様の復活を心で受け取るとはどういうことなのか?本日の使徒言行録の個所がそれを教えてくれます。そして、使徒書の日課第一ペトロの個所が、イエス様の復活を心で受け取った者はどのような心になるかについて教えてくれています。以下、それらについて見ていきましょう。

2.神の絶対的な意思と自由の前に立たされた時

本日の使徒言行録の個所は、ペトロが群衆を前にして大々的な説教をしたところです。この説教はイエス様が天に上げられた10日後に天から聖霊が弟子たちに下ったという聖霊降臨が起きた時になされました。ペトロの大説教を聞いて3,000人近くの人が洗礼を受けました。聖霊降臨日がキリスト教会の誕生日とされる所以です。

聖霊降臨日というのは、あまり気づかれていないかもしれませんが、実はまさに復活したイエス様を目撃しなくても目撃者の証言を聞いて信じることができたことを示す出来事です。3,000人の人たちは、ペトロも言っているように、イエス様のことを何らかの形で知っていました。しかし、ペトロが彼らに対して自分たちは主の復活を証言できるのだと言うのをみると(32節)、聞き手の群衆は目撃していなかったのでしょう。(第一コリント15章でパウロは弟子たちの他にも500人以上の目撃者がいるといっていますが(6節)、そういう人たちは使徒言行録1章15節、22~22節からうかがえるように既に聖霊降臨の前に弟子たちに合流していたと考えられます。)

さて、3,000人の復活したイエス様を見ていない人たちが信じました。ペトロの説教の何が影響したのでしょうか?それを見ていきましょう。

ペトロの大説教の内容は全体的に見て、イエス様の出来事は旧約聖書の預言の実現だった、死からの復活もそうである、という旧約聖書とイエス様の関係を明らかにするものです。そして、イエス様の出来事を通して預言が実現したことが私たち人間に大きな意味があることを明らかにします。この、旧約聖書とイエス様の関係、その関係が私たちに意味があること、この二つのことがあって、見なくても信じる、頭では受け取ることが出来なくても心で受け取ることが起きたと考えられます。

まず、旧約聖書とイエス様の関係。イエス様の十字架の死と死からの復活によって旧約聖書の謎めいた個所が次々と明らかになりました。スオミ教会での説教でも何度も取り上げましたが、イザヤ書53章の「神の僕」とはイエス様のことを指すとわかるようになりました。天地創造の神の意思に反しようとする人間の罪を自ら背負って神に対して人間に代わって神罰を受けて死ぬ「神の僕

です。人間は彼が身代わりとなって果たしてくれた罪の償いを自分のものとすることで神と平和な関係を持てるようになる。イエス様の十字架の死とはまさにそのための犠牲であったことがわかるようになりました。この他にも旧約聖書にはイエス様の誕生から始まって地上での活動の一つ一つに当てはまる文言が無数にあることが明らかになりました。それらについてお話しすると何時間あっても足りませんので割愛しますが、死から3日後に復活することに関係するものとして「ヨナのしるし」に触れておきます。イエス様は預言者ヨナが3日間大魚の腹の中に閉じ込められて一巻の終わりになる寸前に脱出できたことは自分のことを言っていると言っていました(マタイ12章39~40節)。死からの復活でその通りになりました。(また、ホセア6章2節では神は打ち砕いても3日後に立たせてくれるということが言われていますが、これもイエス様の復活を指していたとわかるようになりました。)

ペトロの説教の本日の個所を見ると、詩篇16篇がイエス様の死からの復活を預言しているとして引用しています。特に10節を次のように引用しています。「あなたは、わたしの魂を陰府にすてておかず、あなたの聖なる者を朽ち果てるままにしておかれない」(使徒言行録2章27節、後注1)。イエス様は一度死なれたが陰府に捨て去られなかった、朽ち果てるままにされなかった、そのことが彼の復活で文字通り起こったというのです。なぜ神はイエス様を復活させたかというと、彼が死の囚われ者になるのはそもそも不可能なのだ、とペトロは言います(24節)。これはイエス様が神のひとり子であることを意味します。神のひとり子だから死の囚われ者になるのは不可能なのです。だから神が復活させたのは当然のことだったのです。

ここで23節に驚くべきことが言われていることに注目します。それは、「神が前もって定めた計画と神が全てを見通していることの下で」イエス様が引き渡されたと言っていることです。新共同訳には「あなたがたに」引き渡されたと言いますが、ギリシャ語原文には誰にとはありません。私はこれは、イエス様がイザヤ書53章や詩篇で預言された受難に引き渡されたことと考えます(後注2)。

さて、「神が前もって定めた計画と神が全てを見通していることの下で」受難に引き渡されたイエス様、これを「君たちは律法を知らない、つまり旧約聖書を持たない異邦人つまりローマ帝国の官憲の手を借りて十字架につけて殺してしまったのだ」とペトロは言います。神のひとり子は旧約の預言通りに受難に入る準備ができている。あとはそれが具体的にどう実現するかです。それをユダヤ教社会の指導層がいかさまな裁判をして、死刑の権限を持つローマ帝国当局に刑の執行を委ねたことで実現しました。

当の指導層の人たちは、やった、これで我々の権威を脅かしたあの男を始末したぞ、あのままほおっておいたら群衆がユダヤ民族の王に担ぎ上げてローマ帝国の軍事介入を招いてしまうところだった、やれやれ、と思ったことでしょう。指導者たちとしては、自分たちは自分たちの意思に基づいて行動し、それを見事に成し遂げたという気分だったでしょう。ところがそうではなかったのです。全てのことは「神が前もって決めていた計画と神が全てを見通していることの下で」行われたのです。指導者たちはそんな神の計画とお見通しという枠の中で結局はゲームのコマのように動いていたなどとは思いもよりません。神の意思の前で人間の自由などちっぽけなものにすぎないことを思い知らされる出来事です。しかも、死刑にしたはずのイエス様が死から復活してしまったら、全てがご破算になってしまったことになります。人間の意思や自由ではびくともしない神の厳然とした聳え立つような意思と自由を思い知らされます。

ペトロは集まった群衆に対して「君たちが十字架に架けて殺してしまったのだ」と言いました。実際にそれを行ったのは宗教指導層でした。ただ、群衆の中にはひょっとしたら、イエス様の裁判の時に指導者たちに扇動されて、死刑にしろと叫んでしまった人がいたかもしれません。または、十字架にかけられたイエス様を通りすがりか人だかりの中で見て一緒に罵った人がいたかもしれません。その意味で指導者たちの殺すことに加担したと言えます。ただ、この他にも、もっと遠巻きにいて事情がわからないず特に叫んだり罵ったりしなかった人もいたかもしれません。また、イエス様が何を教え何を行ったか噂を聞いていただけの人もいたかもしれません。この最後のグループは現代にいる私たちに共通するものがあります。私たちも、世界史の授業などでナザレのイエスが何を教え何を行ったかを聞いたり読んだりするからです。

ペトロがそれらの人を全部ひっくるめて「君たちが十字架にかけて殺してしまったのだ」などと宗教指導層と同罪だというのは少し乱暴すぎではないかと思われるかもしれません。しかし、イエス様を死刑に追い込んだ指導者たちと私たちには共通するものがあります。それは、自分たちの持つ意思や自由が絶対と思い込んでいることです。イエス様の十字架と復活の出来事は全て「神が前もって定めた計画と神が全てを見通していることのもとで」起きました。人間はそのような大きな流れの中にいることに気づかず、自由だと思ってやったことは実は神の大いなる自由の制約の中でのことだったのです。特にイエス様が死から復活させられたことは神の自由が有無を言わせない絶対なもので人間の自由ははかないものであることを示しました。神の自由は死を超えているのに、人間のはそうではないからです。このことに気づかない人は宗教指導層と同じです。「君たちが十字架にかけて殺したのだ」とペトロが言ったのは、群衆も神の自由の絶対さがわからなければ同罪だということだったのです。

ペトロの説教を聞いた群衆は神が旧約聖書でその意思を示し、それをイエス様を通してことごとく自由に妨げなく成し遂げたことがわかりました。神の大いなる意思と自由を思い知りました。人間の意思と自由のちっぽけさも。そのような絶対的な意志と自由を持つ方の前で人間は何もなしえないと茫然となるでしょう。しかも、人間は自分の自由を過信すると神のひとり子さえも殺そうとするくらい、絶対的な自由を持つ神に立ち向かおうとする。

恐れおののいた群衆はペトロに尋ねました。本日の個所のあとになりますが、37節です。「私たちはどうすればよいのですか?」ペトロの答えはこうでした。「神に立ち返りなさい。」普通は「悔い改めなさい」と訳されるギリシャ語のメタノエオーという動詞ですが、その意味は何か自責の念に駆られて後悔と反省にあけくれることではありません。「神に背を向けていた生き方をやめて神の方を向いて生きなさい」という心の方向転換を意味します。その方向転換の具体的な仕方としてペトロは勧めました。「イエス・キリストの名に拠って洗礼を受けなさい、それは罪の赦しをもたらします」と。確かに洗礼を受けるとイエス様が果たしてくれた罪の償いが内に入り込み、神から罪を赦された者とされます。罪を赦されたから神との結びつきを持って生き始めます。それまでになかった新しい命の誕生です。

神がイエス様を死から復活させたことで人間は神の意思や自由が絶対的なものであることを思い知らされます。また自分が神聖な神に反しようとする罪深い者であることも思い知らされます。そして一瞬ぼう然と立ちすくみます。ところが、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた瞬間、絶対的な意志と自由を持つ神が一緒になります。自分の前に厳然と立ちはだかっていません。自分の脇にいて支えて下さるのです。この時イエス様の復活はもう何か思い知らさせてぼう然とさせるものではなくなります。どんなものになっているでしょうか?本日の使徒書の日課第一ペトロ1章は、イエス様の復活が「生ける希望」を与えてくれることを教えます。

3.復活がもたらす生ける希望

第一ペトロ1章3節でペトロは、キリスト信仰者というのは神がイエス様を復活させることで新たに生まれることになって「生ける希望」を持つようになった者と言います。新共同訳では「生き生きとした希望」となっていて希望が元気溌剌な感じですがそうではなく、「生ける希望」とは死なない希望、朽ちない絶えることのない希望です。復活の日に復活させられるという希望です。この希望はイエス様の復活を心で受け取ったら一緒に内に入って来ます。復活の日に復活させられるという希望が朽ちない希望であるということは4節でも言われます。「天には信仰者たちの受け継ぐものがちゃんと取っておかれている。それは朽ちず汚れがなく永久のものである。」この天に取っておかれている受け継ぐものとは、まさに復活の体と永遠の命です。5節をみると、キリスト信仰者がイエス様を救い主と信じる信仰にとどまることで神にしっかり守られて、イエス様の再臨の日に現れる救いに与ると言います。「再臨の日に現れる救い」

とは、その日に復活の体と永遠の命を目に見える形で受けるということです。6節では、このような「生ける希望」があり救いが待っているのだから、この世でいろんな試練にあって悲しむことがあっても、喜びもしっかりあるのだと言います。ペトロは試練について肯定的な見方をしています。試練を経ることでかえって信仰が金よりも純度を高められていき、イエス様の再臨の日に栄誉と栄光を受けるものになる、そういう精錬するような効用があるのだと言います。ここで注意しなければならないのは、試練の時に信仰が萎えないで純度を高められるようになるのは「生ける希望」をちゃんと持てているかどうかによります。「生ける希望」を持てているかどうかは、イエス様の復活を心で受け取っているかどうかによります。イエス様の復活を心で受け取っているかどうかは、神の前では自分はちっぽけな存在にすぎないことを思い知っているかどうかによります。

そして8節と9節でペトロは言います。あなたたちはイエス様を見なかったのに愛し、今見ていないのに信じていて、言葉で言い表せない大きな喜びで満たされている、と。どうしてそんなふうにしていられるのか?それは、あなたたちが「信仰の目標」に到達する者だからだと言います。イエス様を救い主と信じる信仰によって神との結びつきを持って生きられるようになりました。イエス様を救い主と信じる信仰の目標は「魂の救い」であると言います。「魂の救い」とは、復活の日に復活の体を着せられて永遠の命を持って父なるみ神のもとに迎え入れられることです。そうなることが「信仰の目標」です。ペトロがキリスト信仰者を「信仰の目標」に到達する者と呼んでいるのは、信仰者が復活の体と永遠の命を今もう見えない形で手にしているからです。それで主の再臨の日、復活の日に見える形で手にすることになるという確かな希望があるのです。だから言葉で言い表せない大きな喜びで満たされているのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

 

(後注1)聖書をよく読まれる方は、ペトロが引用した詩篇16篇10節と旧約聖書のそれとは違っていることに気づくでしょう。このことをどう考えたらよいかということは、ヘブライ語の旧約聖書とそのギリシャ語訳とギリシャ語の新約聖書の三つの関係を考えることをしなければなりません。詩篇16篇10節とペトロの引用については、4月5日の枝の主日の「聖句と教え」の原稿の後注に私の解決策を記しておきましたので関心のある方はご覧下さい。原稿はスオミ教会のホームページのニューズブログの4月5日のところにあります。

(後注2)

τουτον τη ωρισμενη βουλη και προγνωσει του θεου εκδοτον

-「神が定めた計画と神が全てを見通しであること」
のために/によって引き渡された?

-「神が定めた計画と神が全てを見通しであること」
に引き渡された?

どっちでしょう?

Carl Heinrich Bloch / Public domain