2023年1月1日降誕節第二主日 主日礼拝

司式・説教 吉村博明 (フィンランド・ルーテル福音協会)宣教師
聖書日課 イザヤ書63章7~9節 (旧1164頁)、ヘブライ2章10~18節(新402頁)、 マタイ2章13~23節(新2頁)
讃美歌 49、198、164、467

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説教題 「全知全能の神とこの世の悪」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.神は悪に対して無力か?

本日のマタイ福音書の箇所は、旧約聖書の預言が3つ成就したことについて述べています。

初めに、2章15節にある言葉「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」。これはホセア書11章1節にある神の言葉です。イエス様親子はヘロデ王の追っ手を逃れてエジプトに避難しました。そして王が死んだのでイスラエルの地に帰還できました。マタイはこの出来事がホセア書の預言の実現とみました。あるいは初代のキリスト教徒たちがそう見て、マタイが福音書を書いた時にそれに倣ったということかもしれません。

二つ目は、2章18節にある言葉「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、慰めてもらおうともしない、子供たちがもういないから」。これはエレミア書31章15節の引用です。ヘロデ王が赤ちゃんのイエス様を殺そうとして、どこにいるかわからないのでベツレヘム周辺の2歳以下の子供を皆殺しにするという残虐な事件が起こりました。マタイないしは初代のキリスト教徒たちがエレミア書の預言はこの事件を指しているとみたのです。

三つ目は、2章23節にある言葉「彼はナザレの人と呼ばれる」。実は、旧約聖書の中にこれと同じ預言の言葉は見当たりません。ひとつ明らかなことは、ナザレという言葉は、「若枝」を意味するヘブライ語の言葉ネーツェル(נצר)と関係があります。「若枝」というのはイザヤ書11章1節にでてくる有名なメシア預言「エッサイの株からひとつの芽が萌えいでその根からひとつの若枝が育ち」のそれです。同じイザヤ書の53章には人間が受けるべき神の罰を神の僕がかわりに受けて苦しむという預言があります。イエス様の十字架の死と死からの復活を目撃した人たちは、エッサイの若枝ネーツェルとはイエス様のことだとわかりました。このようにイエス様が「ナザレの人」と呼ばれたのが預言の実現だったというのは、彼が住んでいた町がナザレだったということよりも、ネーツェル預言があったからでした(「ナザレ」については、この他に民数記6章1-21節や士師記13章5、7節にある「ナジル人」との関係を考えることも可能です。ただ、これらは預言の言葉ではないので本説教では立ち入りません。)

ところで、本日の福音書の中で一番難しいことは、ベツレヘムの幼児虐殺の事件です。一人の赤子の命を救うために大勢の子供たちが犠牲になったことに納得しがたいものを多くの人は感じるかもしれません。もし、その赤子は将来救世主になる人だから多少の犠牲はやむを得ない、などと言ったら、それは身勝手な論理でなはないか、救世主になる人だったら逆に自分が犠牲になって大勢の子供たちが助かるようにするのが本当ではないか、という反論がでるでしょう。ここでひとつはっきりさせておかなければならないことがあります。それは、幼児虐殺の責任はあくまでヘロデ王にあって神ではないということです。神はイエス様をヘロデ王の手から守るために天使を遣わして、まず東方の学者たちを導いてヘロデに報告しに行かないようにしました。それから、イエス様親子をエジプトに避難させました。学者たちが戻ってこないのに気づいたヘロデ王は、さては赤子を守るためだったなと悟って、ベツレヘム一帯の幼児虐殺の暴挙にでたのでした。天使がヨセフに警告したことは「ヘロデがイエスを殺すために捜索にくる」でした。それなのに、ヘロデは捜索どころか大量無差別殺人の暴挙にでたのでした。神の予想を超える暴挙でした。

そう言うと今度は、神の予想を超えるとは何事か!神は創造主で全知全能と言っているのにヘロデの暴挙も予想できないというのは情けないではないか?大勢の幼子を犠牲にしないで済むようなひとり子の救出方法は考えつかなかったのか?そういう反論がでるかもしれません。この種の反論はどんどんエスカレートしていきます。神はなぜヘロデ王のみならず歴史上の多くの暴君や独裁者の登場を許してきたのか?なぜ戦争や災害や疫病が起こるのを許してきたのか?そもそも、なぜ人間が不幸に陥ることを許してきたのか?もし神が本当に全知全能で力ある方であれば、人間には何も不幸も苦しみもなく、ウクライナの戦争もコロナも東日本大震災もなかったはずではないか?人間はただただ至福の状態にいることができるはずではないか等々の反論がでてくるでしょう。

そういうわけで、本説教では、神は本当に悪に対して力がないのか?もしあるのなら、どうして悪はなくならないのか?そうしたことを本日の日課をもとに考えていきたいと思います。

2.全知全能の神とこの世の悪 ― キリスト信仰の観点

もし神が本当に悪に対して力ある方ならば、人間は悪から守られて不幸も苦しみもなく、至福の状態にいることができるではないか、そうではないのは神に力がないか、あるいは神など存在しないからではないか?この問題についてキリスト信仰者はどう考えるかということを以下に述べていきたいと思います。

聖書によれば、天地創造当初の最初の人間はまさに至福の中にいました。そして、それは創造主の神の御心に沿うものでした。ところが、神の意図に反して人間は自分の仕業でこの至福を失うことになってしまったことが、創世記の1章から3章まで詳しく記されています。何が起きたかというと、「これを食べたら神のようになれる」という悪魔の誘惑の言葉が決め手となって、最初の人間は禁じられていた知識の実を食べ、善いことと悪いことがわかるようになってしまいます。つまり善いことだけでなく悪いこともできるようになってしまいました。そして、その実を食べた結果、神が前もって警告したように人間は死ぬ存在になってしまいました。使徒パウロが「ローマの信徒への手紙」のなかで明らかにしているように、最初の人間が神に不従順になったことがきっかけで神の意志に反する罪が人間に入り込み、人間は神との結びつきを失って死ぬ存在になってしまったのです。人間は別に神のようになる必要はなく、神のもとで神の守りの中で生きていればよかったのに、神のようになりたい神と張り合いたいという考えを持ったことが間違いの元だったのです。

ところで、何も犯罪をおかしたわけではないのに、キリスト教はどうして「人間は全て罪びとだ」と強調するのかと煙たがれます。しかし、キリスト教でいう罪とは、個々の犯罪・悪事を超えた、全ての人に当てはまる根本的なものを指します。神の意志に反しようとする性向です。神の意志とは十戒に凝縮されています。殺すな、姦淫するな、盗むな、嘘をつくな、妬むな等々、実際にそうしてしまうだけでなく心で思い描くことも罪があることを示しています。もちろんこの世には悪い人だけでなくいい人もたくさんいます。しかし、いい人悪い人、犯罪歴の有無にかかわらず、全ての人間が死ぬということが、私たちは皆等しく罪を持っていることの証なのです。

このように人間は神の意図に反して自ら滅びの道に入ってしまいました。そこで人間から不従順をつきつけられた神はどう思ったでしょうか?自分で蒔いた種だ、自分で刈り取るがよいと冷たく突き放したでしょうか?いいえ、そうではありませんでした。失われてしまった結びつきを人間が取り戻せるために神は計画を、人間救済の計画を立てました。人間の歴史はこの計画に結びつけられて進むことになりました。神の人間救済の計画は旧約聖書の預言を通して少しずつ明らかにされていき、最後にそれはイエス様の十字架の死と死からの復活をもって実現しました。そのことを明らかにするのが新約聖書です。

それでは、神と人間の結びつきはどのようにして回復したでしょうか?人間は皆、罪の呪いのために死の滅びに定められています。その呪いをイエス様が全部自分で請け負って、私たちの身代わりに十字架にかけられて神罰を受けて死なれました。神のひとり子の犠牲の死が人間にとてつもなく大きな意味を持っていることが、本日の使徒書の日課ヘブライ2章でも言われています。神聖な神のひとり子が人間と同じように血と肉を備えた者になったのはなぜか?それは、人間を死の滅びに陥れる悪魔の力を無力にするためであった。そのためには、神のひとり子が犠牲になって人間が陥る死を代わりに死んでもらわなければならない。その神のひとり子が死ねるためには、神の姿形では無理なので人間の姿形を取らなければならない。こうして人間が陥る運命にあった死をイエス様が代わりに死んで下ったことで人間が陥らないですむ状況を作って下さったのです。

そういうわけでイエス様が人間と同じようになったのは、ヘブライ2章15節の言葉を借りれば、生きている間ずっと死に対する恐怖の中にいて罪の奴隷になっていた者たちを解放するためだったのです。それでは人間を解放した後はどうなるのか?罪の奴隷状態から解放されるのはわかった、じゃ、どこへ解放されるのか?それは、神との結びつきを持ってこの世を生きられるようになって、この世から別れる時も神との結びつきを持って別れられ、将来復活の日が来たら、神との結びつきを持つ者として目覚めさせられる、そういう神との永遠の結びつきへと解放させられるのです。

もしイエス様が人間の形をとらず神のままでいたら、神罰を受けたとしても、それは見かけ上のことで痛くも痒くもなかったでしょう。人間として受けたので本当の罰受けになって人間の罪を償うことが出来ました。ヘブライ 2章17節で言っている通りです。そして18節で言われるように、イエス様は神のひとり子でありながら人間として試練を受けて苦しみました。それがあるので試練を受けている人たちを助けることが出来るのです。痛くも痒くもなかったら試練を受けることがどんなことかわからず、何をどう助けてよいかわからないでしょう。イエス様は神のひとり子でありながら、それがわかるのです。

イエス様の十字架の死が起きたことで、人間が死の滅びに陥らない状況が生み出されました。もう一つ大事なことが起きました。父なるみ神は想像を絶する力でイエス様を死から3日後に復活させました。これにより死を超えた永遠の命が存在することがこの世に示され、そこに至る道が人間に開かれました。解放された人間が行く行き先が確立したのです。悪魔は人間を死に陥れる力を無力にされただけでなく、行き先も奪われてしまったので二重の打撃です。

神はこのようにして人間に救いを整備して下さいました。今度は人間のほうが、神が整備した死に至らない状況、復活と永遠の命に導かれる状況、そうした状況に人間が入り込まなければなりません。そうしないと、神がイエス様を用いて整備した救いは人間の外側によそよそしくあるだけです。では、どうしたら整備された状況の中に入れるのか?それは、「2000年前に神がイエス様を用いてなさったことは、実は今を生きる自分のためであった」とわかって、イエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けることです。洗礼を受けるとイエス様が果たした罪の償いを純白な衣のように被せられます。そうするとと、もう呪いは近寄れません。罪の償いを纏っているので、神からは罪を赦された者として見てもらえます。罪を赦されたのだから、神との結びつきが回復しています。もちろん自分の内には罪が残存しているが、被せてもらった償いがどれだけ高価で貴重なものであるかがわかれば、もう軽々しいことは出来なくなります。なにしろ、神のひとり子が十字架で流した血が神との結びつきを回復させる代償になっているからです。あとは、この高価な衣をしっかり纏って、その神聖な重みで内にある罪を圧し潰していきます。かの日に神の御前に立たされる時、しっかり纏っていたことを認めてもらって、今度は神の栄光に輝く復活の体を与えられます。

このようにキリスト信仰者は復活の日の永遠の命に向かう道に置かれてそれを歩んでいきます。神との結びつきがあるので順境の時も逆境の時も絶えず神から助けと導きを得られます。順境と逆境の両方ということは、平穏と無事だけでなく苦難や困難もあります。しかし、それは詩篇23篇でも言われています。「たとえ我、死の陰の谷を往くとも禍を怖れじ、汝、我と共にませばなり、汝の杖、汝の鞭、我を慰む」と。イエス様を救い主と信じていても「死の陰の谷」進まなくてはならない時があるのです。しかし、聖書の御言葉の繙きを通して聖餐を通して祈りを通してイエス様はいつも私たちと共におられるので災いを恐れる必要はないのです。イエス様の衣を纏って進む限り、復活と永遠の命に向かっていることには何の変更もないのです。

以上申し上げたことから見えてくるのは、世界に悪と不幸がはびこるのは神が力不足だからという見解は、キリスト信仰の観点ではズレた見解ということです。キリスト信仰の観点では、悪と不幸がはびこる世界に対して神が人間の救済計画を立ててそれを実現した、そして人間一人一人がこの救済に与れるようにと手を差し伸べている、という見解になります。もちろん、これはこの世の観点からはズレた見解です。しかし、それでいいと言うのがキリスト信仰です。キリスト信仰の観点で見れるようになれば、神が何々をしてくれなかったとか、何々ができなかったということで悩むことはなくなります。神がこの私にこんなに大きな救いを果たして下さったということの方に目が向いて、自分が復活の永遠の命に向かう道に置かれていることに気づきます。悩むよりその道を歩むようになります。

3.正義と赦し

終わりに、キリスト信仰にあっては、不正義がなんの償いもなしにそのまま見過ごされることはありえない、正義は必ず実現される、ということを強調したく思います。たとえ、この世で不正義の償いがなされずに済んでしまっても、今のこの世が終わって新しい世が到来する時に必ず償いがなされというのが聖書の立場です。黙示録20章4節を見ると「イエスの証しと神の言葉のために」命を落とした者たちが最初に復活することが述べられています。続いて12節には、その次に復活させられる者たちについて述べられています。彼らの場合は、神の書物に記された旧い世での行いに基づいて、神の御国に入れるか炎の海に落とされるかの審判を受けることになっています。特に「命の書」という書物に名前が載っていない者の行先は炎の海となっています(15節)。天地創造の神が御心に従って造り上げたものに対して、また神が御心に従って与えて下さるものに対して、それらを受け取った人たちに対して酷い仕打ちをする者たちの運命は火を見るよりも明らかでしょう。ヘロデ王の行いもこの観点から判断されます。

人間の全ての行いが記されている書物が存在するということは、神はどんな小さな不正も見過ごさない決意でいることを示しています。仮にこの世で不正義がまかり通ってしまったとしても、いつか必ず償いはしてもらうということです。この世で多くの不正義が解決されず、多くの人たちが無念の涙を流さなければならないという現実があります。そういう時に、来世で全てが償われるなんて言ったら、来世まかせになってしまい、この世での解決努力がおざなりになってしまうと批判的になる人もいます。しかし、キリスト信仰はこの世での正義は諦めよとは言いません。神は、人間が神の意思に従うようにと十戒を与え、神を全身全霊で愛し隣人を自分を愛するが如く愛せよと命じておられます。このことを忘れてはなりません。それなので、たとえ解決が結果的に新しい世に持ち越されてしまうような場合でも、この世にいる間は神の意思に反する不正義や不正には対抗していかなければなりません。それで解決がもたらされれば神への感謝ですが、力及ばず解決に至らない場合もある。しかし、解決努力をした事実を神はちゃんと把握していて下さる。神はあとあとのために全部のことを全て記録して、事の一部始終を細部にわたるまで正確に覚えていて下さいます。神の意思に忠実であろうとして失ってしまったものについて、神は何百倍にして埋め合わせて下さいます。それゆえ、およそ人がこの世で行うことで、神の意思に沿うようにしようとするものならば、どんな小さなことでも目標達成に遠くても、無意味だったというものは神の目から見て何ひとつないのです。神がそういう目で私たちのことを見ていて下さっていることを忘れないようにしましょう。

最後に、キリスト信仰は罪の赦しを専売特許のように言うくせに、炎の地獄とか最後の審判とか言うのはどういうことか?やっぱり赦しはないということなのか?それについてひと言。もちろん、キリスト信仰は先ほども申しましたように罪の赦しを土台とする信仰です。しかし、取り違えをしてはいけません。キリスト信仰の罪の赦しとはまず、この私にかわって命を捨ててまで神に対して罪の償いをしてくれたイエス様にひれ伏すことと表裏一体になっています。これと併せて、神に背を向けて生きていたことを認めて、これからは神のもとへ立ち返る生き方をするという方向転換とも表裏一体になっています。それなので、方向転換もなし、イエス様にひれ伏すこともなしというところには本当の赦しはありません。これを逆に言うと、どんな極悪非道の悪人でも、このような神への立ち返りをすれば、神は赦して受け入れて下さいます。たとえ世間が赦せないと言っても、神はそうして下さるということです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

 

 

2022年12月11日(日)待降節第3主日 主日礼拝

「あなたこそ来るべき方、メシア」       2022年12月11日

マタイ福音書11章2~11節

今日の福音書は、バプテスマのヨハネとイエスの活動についての話です。どういう場面かと言いますと。マタイ11章2節でわかりますが。「ヨハネは牢の中でキリストのなさったことを聞いた。」とあります。ヨハネは、今獄中に入れられています。なぜ獄中に捕らえられているか、ということを先ず簡単にふれたいと思います。マタイ14章3節を見ますと、領主ヘロデは自分の兄弟フイリポの妻であるヘロディアを自分のものにしようと夫のフイリポを戦場に出して戦死させた。そしてヘロディアを自分の女にしたわけです。こうした人道から外れた事をローマ帝国の領主たる者が衆知の中で、やっている事が許されることではない、と厳しくヘロデ王を咎めたために投獄されたわけです。ところで、2節~3節のところを日本語訳のまま読んでみますと、バプテスマのヨハネが獄中から、まるでイエスを疑って弟子たちをイエスのもとに行かせて「来るべき方はあなたでしょうか、それともほかの方を待たなければなりませんか。」と質問しているかのように読み取れます。このことが昔からここは福音書の中でも最も難解な箇所の一つであると言われました

。2節を見ますとマタイはこう書いています。「さて、ヨハネは獄中でキリストの御業について伝え聞いた。」とあります。これまで、バプテスマのヨハネという人は人々に「来るべき方」を紹介するという特別な任務を神様から授かっている預言者でありました。彼は神の啓示に従って「イエスこそ待望のメシアである」と人々にも弟子たちにも紹介してきました。ところが、その後ガリラヤの領主ヘロデの怒りにふれ投獄されてしまいました。

この事については「ユダヤ古代史」を書いたヨセフォスという人の記録にもあります。それによるとバプテスマのヨハネが入れられた牢獄はヨルダン川の東にあるぺーレアという所にありました。そこは深い谷で囲まれた死海の海面から1200mもそびえる山の頂にある天然の砦であった、と言われます。まだ30才の預言者ヨハネは囚われの身となって死海の彼方に広がる山々を見ていたにちがいありません。その彼の耳にイエス様と弟子たちの活動の様子が伝えられていたのです。

マルコ福音書6章19節によると、ヨハネを捕らえて殺そうとした張本人は領主ヘロデの不義の妻であるヘロディアでありましてヘロデ王の方は「ヨハネは正しく聖なる人である事を知って彼を恐れ彼に保護を加えていた。」とあります。ですから「獄中」とは言え彼にはかなりの自由な弟子との連絡が許されていたようです。そうした事からイエスの活動ぶりが逐一報告されていたものと思われます。報告を聞いてヨハネはどう思ったでしょうか。自分は山の中の獄に捕らわれているのに対して、自分が「この方こそメシアだ」と世に紹介したイエスが眼下に広がる湖の彼方で活動している噂を聞いて預言者の胸中はどのようなものだったでしょうか。聖書はそれをドラマチックに描き出してはおりません。ただ一言「来るべき方はあなたなのですか、それとも他に誰かを待つべきでしょうか。」という彼の言葉が記録されているだけです。ここのこの言葉についていろいろ想像がめぐらされてきました。第一には、ここをそのまま読んで獄中のヨハネも余りの辛さに短気を起こし救い主の救いを待っていたが、もう我慢できないと、あなたなどメシアでも何でもないと、弟子たちを遣わして確かめたかった。という説です。預言者も現実の苦しみの前には信仰を捨て始めたのか・・・・というのです。しかし、これは聖書が預言者ヨハネのこの世に於ける働きの意義を重要な使命と教えている、ところから見るとそうは思えない。また、信仰を捨て始めたなどとはとても考え難いことです。例えば使徒言行録13章24節~25節を見ますと、彼の働きをこう要約しています。24節にヨハネはイエスがおいでになる前にイスラエルの全体に悔い改めの洗礼を宣べ伝えました。そして、自分の事をヨハネはこう言いました。「私を何者だ、と思っているのか。私はあなた方が期待しているような者ではない。その方は私の後から来られるが、私はその方の足の履物をお脱がせる値打ちもない。」ここに引用されているヨハネの言葉は福音書では、彼の預言者としての開口一番のメッセージとして記されているものです。それ以後ヨハネが殺されるまでの年月はほんのわずかしかありませんでした。そうして見るとヨハネのメッセージは預言者として登場してから死ぬまで首尾一貫して同じであった。それは、私の後にくる方「イエスこそメシアである。」と力強く叫んでいます。それがヨハネでありました。ですから今獄中にあって「来るべき方はあなたなのですか、それとも誰かを待つべきでしょうか。」とイエスを疑って本当かどうか聞いて来いと弟子たちに言うはずがない。ヨハネがそんな不信を抱くような事はないのです。

次にもう一つの見解があります。これは殆ど古代キリスト教の学者たちの説です宗教改革者のカルヴァンもこの見方です。これによると”ヨハネの信仰 ”はびくともしなかったがヨハネの弟子たちはいつまで経ってもメシアに従って行こうとしない。捕らわれの身にあるヨハネを慕っている。それで弟子たちに従わせるため彼らをイエスのもとへ遣わしたのだ、という説です。この説に対して反論がありました。ヨハネの弟子たちがこんな形でイエスのもとへ行ってしまったという例はほかにない。つまり、この説で言っているようにヨハネの意図したように弟子たちがイエスについて行ったでしょうか。さて、第三の見解があります。これが近代と現代の殆どの学者たちが辿り着いた説と言われます。神の啓示によってヨハネは「イエスをメシアである。」と紹介したのに今頃になって、その啓示を疑うはずがない。そこでヨハネがイエスを理解していたメシア観は木の根元に斧を振り下ろす審き主のメシア、蓑を以て、麦と殻とを分け殻を火で焼き滅ぼす審きのメシアという信仰であった。そこで、彼はそのメシアがあの領主ヘロデ夫妻を審いてくれるにちがいない。今は捕囚の身であるけれども正義を貫いている自分を救ってくれるにちがいないと期待していた。ところが、実際のイエスは憐みの業と福音伝道ばかりに熱中していて一向に審きを行おうとはしない。それで、ヨハネはイエスがメシアであることの事実は疑いはしなかったが、メシアの性質を考え違いをしたために、痺れを切らした。と言うのです。

しかし、ルカ福音書7章21節によれば「その時、イエスは病気や苦しみや悪霊に悩んでいる多くの人々を癒し、大勢の盲人を見えるようにしておられた。」とあるように、ちょうどヨハネの弟子たちが来た時イエスはその憐みの業の真っ最中だったが、それを見られても恵みと憐みのメシアとしての姿を示された。そして、憐みのメシアである私に躓かない者は幸いである、とも言われている。そこに、忍耐を求めておられるのでありました。

これらの第三の解釈が大方の見方であります。ところで、第三の見方についてもいくらかの疑問がある、という点を注意してみたいところであります。一つには2節で言われている弟子たちの情報からヨハネが獄中で聞いた「キリストの御業」と言っていますが、ここでヨハネはイエス様のなさっている事を、救い主メシアらしからぬ御業と誤解したのでしょうか。いや、そうではないヨハネ自身はイエスのなさっている働きを「キリストの御業」と理解して聞いていたであろうと思われます。次に、ヨハネの聞いた報告はヨハネの信じていたメシア観から見て期待外れのつまらぬ報告だったのでしょうか。その答えは、マタイの記す前後文からわかります。20節でイエスは数々の力ある業がなされたのに悔い改める事をしなかった町々を呪っておられます。イエスの御業はそれらの町の人々が見てはっきりとメシアの到来を認めねばならぬはずの「力ある業」だったのです。この事はルカ福音書の方でも記しています。ヨハネが弟子たちをイエスのもとへ派遣する前の事です。そこには、死人を生き返らせた大奇跡を記しています。その奇跡の結果、人々は皆恐れを抱き「大預言者が私たちの間に現れた」と言っているのです。また「「神はその民を顧みてくださった」と言って神をほめたたえた。イエスについてのこの話はユダヤ全土及び付近の至るところにも広まった。、これ程の業をイエスがなさって皆知っているわけですからヨハネの弟子たちもこれらの事を全部牢獄の中にいるヨハネにも報告しているわけです。だから、ヨハネは獄中で「なんだ、まだグズグズしてメシアらしい力を表さないのか」という思いで聞いてはいないのです。むしろ、メシアの力ある業を聞き「神がその民を顧みてくださる。」そういうメシアの時代が来た、と人々も認めている。こうした嬉しい報告を聞いているのです。

次に、ヨハネは果たしてメシアを審き主とだけ期待していたのであろうか。マタイ福音書3章7節以下を見ますと、バプテスマのヨハネの始めた頃はヨルダン川で洗礼を授けていた時「悔い改めよ」と叫んで「私の後に来る方は火で焼き払われるぞ」と審きのメシアを叫んでいましたが、後では変わっています。マタイ福音書3章13~17節を見ますとわかりますがイエスがヨルダン川にやって来られてヨハネから洗礼を受けられた。そのお姿は罪人の如く悔い改めてバプテスマを受けようとされるメシアです。へりくだった恵みのメシアです。そこで天から御声があった。「これは私の愛する子、私の心に適う者である」と。ヨハネはこういうメシアであるイエス様を充分知っているのです。だから、獄中からヨハネは審き主としてのメシアの力を発揮して「早く閉じ込めている領主ヘロデを審いて滅ぼしてください」といった考えは持っていないのです。こうして、イエスの返事は4節にあるように「行って見聞きしている事をヨハネに伝えなさい。」目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、思い皮膚病に患っている人々は清くなっている。耳の聞こえない人は聞こえるようになり、死者は生き返り、貧しい人々は福音を聞かされている。これら全部の事実こそメシアに相応しい印なのだ、ということです。そうして、イエスは言われる。「ヨハネこそ、あなたはこの私を『ナザレから出たメシア』だと紹介し続けてきた。この点で私に躓かない者であり、幸いなものである」と言っているのです。ですから、イエスの返事はヨハネに対する全面的な祝福と賛同の気持ちに満ちているのです。ヨハネのもとから遣わされた弟子たちはイエスの言葉に満足して帰ることができたでしょう。ヨハネの理解とイエス様の返事とは共にいまイエス様がしておられる恵みの業と力あるメシアの働きとを観る点で一致したのです。

さて、最後に11章3節にあるヨハネの言葉は今の日本語訳で、そのまま読めばどうしても疑問文です。そのことがどうしてもひっかります。実は、聖書学者の研究によれば、ここのところのギリシャ語原文は疑問文にはなっていない。そして、「たずねさせた」という文も原文にはない。というのです、むしろこの文章は力強い肯定文或いは断定文として訳したい構造になっている。これをありのまま訳すと「あなたこそ、かの来たるべき方です。それとも、我々は他の人を待っているべきでしょうか。いやいや、あなただけだ」と訳すのが一番自然と言われます。今日の聖書の箇所は難解でわかり難い面もあったかと思いますが、要するに結論的に申しますと、バプテスマのヨハネが預言者としての大切な働きをし、彼の人生の終わりが近づいている中でイエス様の活動をメシアの力ある御業として聞き、喜んで使者を遣わしイエス様に対する祝辞と力強い応援の声を送った、ということであります。ここには、メシアを民に紹介したヨハネとメシアであるイエス様との間に取り交わされた「祝福」と「賛美」にあふれたものであったのです。「イエスこそ神の子、救い主メシアである」とメシアの伝道を一筋に書いてきたマタイにとって、最高にうたいあげているメッセージであります。獄中にあってもヨハネにとって生涯の終わりまでメシアを指してきた、この働きは預言者ヨハネの最も輝かしいクライマックスでありました。

人知では、とうてい測り知る事のできない、神の平安がキリスト・イエスにあって守るように。>  アーメン

2022年12月4日(日)待降節第2主日 主日礼拝

司式・説教 吉村博明SLEY(フィンランド・ルーテル福音協会)宣教師 聖餐式 木村長政 名誉牧師 聖書日課 イザヤ11章1~10節、ローマ15章4~13節、マタイ3章1~12節
讃美歌 17(1)、240(3)、12(4)、259(1)、11(3)

説教題 「神への立ち返りに相応しい実を結べ」

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.洗礼者ヨハネのスローガン その1「悔い改めよ」

本日の福音書の日課の箇所は洗礼者ヨハネの活動開始についてです。これは旧約の日課イザヤ書11章と使徒書の日課ローマ15章と結びつけて見ると内容がとても深くなります。限られた時間で全部をお話しすることはできませんが、特に今日大事と思われることをお話ししようと思います。

洗礼者ヨハネはルカ福音書1章によれば、エルサレムの神殿の祭司ザカリアの息子で、神の霊によって強められて成長し、ある年齢に達してからユダヤの荒野に身を移し、神が定めた日までそこにとどまりました。らくだの毛の衣を着、腰に皮の帯を締めるといういでたちで、いなごと野蜜を食べ物としていました。そして、神の定めた日がついにやってきました。神の言葉がヨハネに降り、ヨハネは荒野からヨルダン川沿いの地方一帯に出て行って、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたのだから」(マタイ3章2節)と大々的に宣べ伝えを始めます。大勢の人がユダヤ全土やヨルダン川流域地方からやってきて、ヨハネから洗礼を受けようと集まってきました。ルカ3章には、この出来事がいつだか記されています。ローマ帝国皇帝ティベリウスの治世の第15年です。ティベリウスは、あのイエス様が誕生した時の皇帝アウグストゥスの次の皇帝で西暦14年に即位します。その年を数え入れて15年目なのかどうかは定かではありませんが、いずれにしても西暦28年か29年の出来事です。このように洗礼者ヨハネの登場もイエス様の登場も歴史的出来事です。おとぎ話ではありません。

洗礼者ヨハネのスローガンには二つのことがありました。一つは「悔い改めなさい」、もう一つは、悔い改めなければならない理由として「天の国が近づいたのだから」でした。まず「悔い改め」とはどういうことか見ていきます。「悔い改め」と聞くと、何か悪いことをして後で悔いる、もうしませんと反省する、そういうニュアンスがあると思います。ところが、もとのギリシャ語の言葉メタノイアμετανοια(動詞メタノエオーμετανοεω)にはもっと深い意味があります。この語はもともと「考え直す」とか「考えを改める」という意味でした。それが、旧約聖書によく出てくる言葉で「神のもとに立ち返る」という意味のヘブライ語の動詞שובと結びつけて考えられるようになります。それで、「考え直す、考えを改める」というのは、それまで自分の造り主である神に背を向けて生きていた生き方を改める、生き方を方向転換して神のもとに立ち返る生き方をする、そういう意味を持つようになりました。それなので、この説教ではこれからは「悔い改め」という言い方はしないで、「神のもとに立ち返る」という言い方をしますのでご了承ください。

2.洗礼者ヨハネのスローガン その2「神の国が近づいたのだから」

次に悔い改めなければならない理由としてある「天の国が近づいたのだから」を見ていきます。「天の国が近づいた」ということは何のことでしょうか?「天の国」とは天国のことですが、普通、日本人が「天国」と聞いたら、人が死んだらふわふわと上がって上から私たちを見下ろしている居心地のいい場所というイメージがあるでしょう。それが、私たちのいるところに「近づいてきた」と言うのです。これは一体どういうことでしょうか?

「天の国」とは、他の福音書では「神の国」と言われています。マタイは「神」と言う言葉を畏れ多くて避ける傾向があり「天」と言い換えます。それでは、「天の国」、「神の国」とはどんな国でしょうか?「ヘブライ人への手紙」12章に次のように言われています。この世の全てのものが揺り動かされて除去されてしまうという、この世の終わりが来る。その時、唯一揺り動かされないものとして現れるのが「神の国」です。この世の全てのものが揺り動かされて除去されてしまうというのは、イザヤ書65章や66章にあるように、天地創造の神が今ある天と地に替えて新しい天と地を再創造するということです。黙示録21章にはもっと端的に、新しい天と地が創造される時、神の国が見える形で現れることが預言されています。

このようにキリスト信仰はこの世には終わりがあるという立場をとります。しかし、終わっても終わりっぱなしではなくて、その後に新しい世が到来する、それで今のは終わるということです。新しい世では神の国が唯一存在する国となり、そこに迎え入れられるか入れられないかを決する最後の審判というものがある。この壮大な天地大変動の時にイエス様が再臨して審判を執り行うのです。イエス様が行う審判のことが今日の洗礼者ヨハネの言葉、麦の殻は永久に消えない火に投げ込まれるという言い方で言われています。これとは逆に神の国に迎え入れられる者はパウロが第一コリント15章で言うように「復活の体」という創造主の神の栄光を映し出す体を与えられて迎え入れられます。黙示録21章4節を見ると、神の国では「涙が全て拭われ、死も心配も嘆きも苦しみもない」と言われます。涙には痛みや苦しみの涙だけでなく無念の涙も含まれます。それなので、この世で損なわれたり中途半端に終わってしまった正義が修復され完全なものにされます。さらに、神の国は黙示録19章で言われるように結婚式の盛大な祝宴にもたとえられます。この世での労苦が全て労われるところです。
この将来到来する神の国と審判を行う者については今日の旧約の日課イザヤ11章でも預言されています。どのように預言されているか見てみましょう。

まず1節の「エッサイの株」。「株」とは木の切り株のことです。木が切り倒されて無残にも切り株だけが残されている。そこから芽が出てくる。若枝が伸びてくる。これは何か?エッサイとはダビデの父親なのでダビデの家系が暗示されています。木が切り倒されたというのは、歴史的に見ると、ユダヤ民族の王国がバビロン帝国の攻撃を受けて滅亡したことを指します。イザヤ書6章終わりにそのことを暗示する預言があります。神の意思に反する生き方をしてしまった民に対して神が罰として強大な帝国を送り込む。その攻撃を受けて国は荒廃し民は異国の地に連行されてしまう。それはさながら、大木が切り倒されたような様である。しかし、残された切り株が神聖な種になる、という預言です。預言通り国は滅びました。その後でバビロン連行から解放されて祖国に帰還できました。しかし、かつてのような栄華を誇った王国は復興できないでいました。そのような切り株から若枝が萌え出る、それがダビデ家系に属する者として生まれたイエス様だったのです。

そのイエス様が最後の審判で裁きを行う時、どのような資質を備えているかが2節から5節まで言われます。神の霊に満たされている。その霊は知恵の霊であり洞察力の霊、助言する霊、力の霊、知識の霊、神を畏れる霊である。知恵は神の知恵ですから人間の知恵を超えています。洞察力も助言も力も知識も皆、神のもので人間のものではありません。こうした資質を備えた方が判決を下す。その際、目で見えることや耳にすることに基づいて行わない。つまり、目に見えない部分も見極められる。声にならない声も聞き分けられるということです。

「弱い人のために正当な裁きを行い、この地の貧しい人を公平に弁護する」というのは、旧い世で損なわれたり中途半端に終わってしまった正義が修復され完全なものにされるということです。「「この地の貧しい人」というのはヘブライ語の辞書を見ると、貧乏な人たちでなく「神の前にへりくだった人たち」のことです。「その口の鞭をもって地を打ち」というのは、辞書によれば「口」(פיו)は「口から発せられる決定」の意味があるので「決定の杖で地を打つ」です。最後の審判者は決定を告げる時、その杖で大地を打ちます。大地は震え恐れおののきます。「唇の勢い」というのは辞書を見ると、「口から吐かれる息(ברוח)」で、それが強風のように神に逆らう者たちを永遠の死に吹き飛ばすという意味になるでしょう。

最後の審判者は、まさに正義と真実を腰の帯のように身にまとっている。「真実」と訳されている言葉(האמונה)は、辞書では「信頼できること、頼れること」という意味です。最後の審判者はいでたちからして、文字通り正義を体現して信頼しきって大丈夫な方だということです。

6節から9節までは、野獣や猛獣が家畜や幼子と一緒にいて何も危険がないということが言われます。それくらい完璧な安心と安全がある夢のような国です。ヘブライ語原文を見ても、同じ言葉や似た表現が繰り返され、詩のような美しさを感じさせる個所です。何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。神を知っているということが全地に行き渡っている。それはあたかも水が海を覆い満たしているのと同じであると。このように「神の国」では、神を知らないことが存在しないので、神の意志に反する罪も存在しません。ここで野獣や猛獣が草食動物のようになっていますが、新しい世の有り様がかつての天地創造の最初の状態に戻ったことを表しています。創世記1章30節を見ると、堕罪が起きる前、獣もみな草を食べていたことが言われています。

10節「その日」、つまり新しい世が到来する時です。それは、イエス様の再臨の時、最後の審判の時、復活の起きる時です。その時、エッサイの根は全ての民の旗印と立てられる。日本語訳では「国々がそれを求めて集う」と言ってますが、原語(גוימ「諸民族」)は「諸民族が旗印を目指して行く」です。黙示録でも言われるように、神の国に迎え入れられるのは、イエス様を救い主と信じる信仰に生きた者であれば、ユダヤ民族であろうがその他の民族であろうが関係ないということです。(この10節をパウロが本日の使徒書の日課ローマ15章12節で引用しています。双方をよく比べて見るといろいろ違いがあることに気づかされます。これは、パウロが引用しているのはギリシャ語版の旧約聖書だからです。ヘブライ語の方は諸民族の動きに焦点が置かれていますが、ギリシャ語の方はエッサイの芽つまりメシアのイエス様の動きに焦点が置かれています。)

最後の「そのとどまるところは栄光に輝く」。「とどまるところ」と訳されている言葉(מנחתו)は辞書によると「休息の場」です。神の国とは、この世で流さなければならなかった涙を全て拭われて完全な労いを受ける永遠の休息の場です。「栄光に輝く」と訳される言葉(כבוד)は訳が難しく、impressive appearanceという意味があり、まさに息をのむ、目を見張る、そういう光景が目の前に広がるということです。今まで見てきたことを踏まえたら、神の国、天国はまさにそういうところだと言うほかありません。

さて、そんな夢のような国が2000年前に洗礼者ヨハネが「近づいた」と言ったのです。これは一体どういうことなのでしょうか?神の国というのは、今ある天と地がなくなってこの世が終わる時に出現するものではないか?ヨハネの時代から今までを振り返ってもそんなことは起きなかったではないか?

実は、2000年前に神の国が近づいたというのは、イエス様が行った無数の奇跡の業と関係があります。皆様もご存知のようにイエス様は不治の病の人々を完治したり、わずかな食物で大勢の群衆の空腹を満たしたり、大嵐を静めたり、悪霊を憑りつかれた人々から追い出したり、とにかく無数の奇跡の業を行いました。それで、2000年前のイエス様の活動というのは、将来の神の国を、まだ今の天と地がある段階で人々に体験させる、味あわせるという意味がありました。それなので、神の国が本格的に出現するのは、やはり今の天と地が終わって新しい天と地が再創造される日だったのです。そういうわけで、洗礼者ヨハネが「神の国が近づいた」と宣べ伝えたのは、この世の終わりが今すぐ来て神の国が本格的に現れるということではなく、神の国を人々に体験させられる方が来られる、その方が神の国と一体としてある、彼のすぐ後ろに控えている、それくらい一緒にあるということを意味したのです。

そういうわけで、洗礼者ヨハネのスローガン「悔い改めなさい。神の国が近づいたのだから」というのは、「あなたがたは自分の造り主である神に背を向けていた生き方をいい加減やめて、神のもとに立ち返りなさい。なぜなら、神の国と一体になった方が来られるからだ。その方のおかげで、あなたたちは神の国に迎え入れられることになるのだ」という意味になります。

3.洗礼と神の国への迎え入れの関係

ところで、洗礼者ヨハネのもとに集まってきた大勢の人たちは、まだイエス様のことを知りません。それで、ヨハネのスローガンを聞いた時、ああ、この世の終わりがすぐ来るんだ、今ある天と地が預言者の言った通りに新しい天と地に取って替えられる日がすぐに来るんだ、と理解したようです。そうなると、預言書に言われているように(イザヤ書24章21-22節、26章20-21節)最後の審判も来てしまう。これは大変だ、ということになりました。ヨハネは、特にファリサイ派やサドカイ派というユダヤ教社会の宗教エリートの人たちには特に手厳しく、蝮の子らよ、お前たちは神の怒りから免れると思っているのか、お前たちは斧が根元に置かれた木と同じで、良い実を結ばない木だから、切り倒されて火に投げ込まれてしまうんだぞ、などと言います。宗教エリートでさえダメなんだから、神の怒りと裁きから助かるためには、神の意思に反する罪を犯してしまったと正直に認めて赦してもらわなければ、と人々が考えたのは無理もありません。皆こぞってヨハネに洗礼を授けてもらおうと彼のもとに集まってきました。そして、洗礼に際して罪を告白したのです(6節)。

人々は、どうしてヨハネから洗礼を受けると罪を赦してもらえると考えたのでしょうか?当時のユダヤ教社会には、水を用いた清めの儀式がありました。それでヨハネから洗礼を受けたら罪から清められると考えたと思われます。しかし、ヨハネの意図は全く別のところにありました。彼が言うように、罪の問題の解決のために自分よりも強力な方がもうすぐ来られると。つまり、神の国に迎え入れられるために神の怒りと裁きから助けられるのはその方である、自分はその方が成し遂げる解決を人間が受け取ることが出来るように、そのために人間を罪の自覚と告白に導く役割を果たすということだったのです。それがイエス様の到来に備えて道を整えるということだったのです。

それでは、イエス様はどのように罪の問題を解決して下さったのでしょうか?それは、彼が神から贈られた神聖なひとり子でありながら、否、神聖なひとり子であるがゆえに、これ以上のものはないという位の神聖な犠牲の生贄になって私たち人間の持っている神の意志に反する罪を私たちに代わって神に対して償って下さったのです。そのことがゴルゴタの十字架の上で起こりました。イエス様は私たちに代わって罪の神罰を受けられたのです。神はひとり子の身代わりの犠牲に免じて人間を赦し神罰を受けないで済むようにするという手法を取ったのでした。そこで人間が、このことはまさに自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けると、してもらった罪の償いを自分のものにすることができます。それでその人は罪を赦された者と神から見なされるようになります。

しかしながら、洗礼を受けたとは言っても、人間はまだ肉を纏っているので神の意志に反する罪を内に持っています。それでは、洗礼の後はどうしたらいいのでしょうか?それは、罪の自覚を持ち、神に対してそれを告白して、神から罪の赦しを頂く、これを繰り返していくことです。自覚と告白のたびに神は洗礼の時に与えた聖霊を通してゴルゴタの十字架にかけられたイエス様を私たちに示して下さいます。そこに罪の赦しが確実にあることを教えて下さいます。この時人間は畏れ多い気持ちと感謝の気持ちに満たされて罪の言いなりにならないようになる力を頂きます。これを繰り返していくのです。繰り返しをすることで神は、あなたが罪に反抗する生き方をしていると認めて下さいます。ヨハネは、イエス様が設定する洗礼は聖霊と火を伴うと言いました。キリスト信仰では、洗礼を通して神からの霊、聖霊が与えられると信じます。「火を伴う」というのは、金銀が火で精錬されるように(ゼカリヤ13章9節、イザヤ1章25節、マラキ3章2-3節)、罪からの浄化を意味します。先ほど申したように人間は洗礼を受けても罪を内に持っています。しかし、洗礼を受けることで人間は罪の赦しの中で生きることになり、罪の自覚と告白と赦しの繰り返しの人生が始まります。罪から浄化されるプロセスに入るのです。やがて、このプロセスが終結する日が来ます。肉の体に代わる、神の栄光を映し出す体を着せられる復活の日がそれです。

4.神への立ち返りに相応しい実を結べ

終わりに、ヨハネが結びなさいと命じている「悔い改めに相応しい実」とは何かについて述べておきます。この説教では「悔い改め」とは「神への立ち返り」のことだとしたので、「神への立ち返りに相応しい実」です。これはいろいろな内容を含みますが、何にしても、この「実」を考える際に忘れてはならないことがあります。それは、「神への立ち返り」とは何かを覚えていることです。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けて神の罪の赦しのお恵みの中で生きることがそれです。その中で生きるとは、罪の自覚と告白と罪の赦しを受けることを繰り返して生きることです。これが神への立ち返りです。ここからどういう「実」が実るのかを考えるのです。

私は、ローマ12章から後に書いてあることにその具体的な内容があると思います。今日の日課はその15章ですので、今日はそれに限定して「実」の内容を見てみます。日課は4節からですが、この区切りは良くなく、1節から見るべきです。「実」を理解するカギは7節にあります。パウロの言葉を借りると、次のことが「実」であることがわかります。

キリストは、もともと神の民・ユダヤ民族に属さない異邦人であるあなたがたを受け入れた。それは、神の栄光がこの世で一層明らかにするためであった。だから、あなたがたもキリストに倣ってお互いを受け入れなさい。そうすることで神の栄光がこの世で一層明らかにされるのだ。このように、キリストに倣ってお互いを受け入れることで神の栄光をこの世に現わすことが「実」なのです。

そこでキリスト信仰者がお互いを受け入れるというのはどういうことかが1節からの箇所にあります。

力ある者は、ない者の弱さを辛抱してあげること、自分のことだけを考えないこと、隣人にとって何が良いかを考えて隣人を強めてあげられるようにすること、隣人が蔑みを受けたら代わりに受けてあげること。つまり、キリストがあなたにしてくれたことを思い起こして、相手にも同じようにしてあげること。このようにキリストのことを思い起こして、仲たがいなどせず、皆で思いを一つにすること。これが「実」です。

「思いを一つにしている」は、次のように出来ていれば、そうなっていることになります。お互い同じ復活の希望を持っているのだ、それでお互い同じ喜びと平安を持っているのだとわかって、それで一緒に、この罪の赦しのお恵みの神に感謝し、一緒に神を賛美すること。これが「実」です。そうすると、今まさに皆さんがしているように、心から礼拝に参加することが実を結ぶことになるとわかるでしょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

2022年11月27日(日)待降節第一主日 主日礼拝

主日礼拝説教2022年11月27日 待降節第一主日

イザヤ2章1-5節

ローマ13章11-14節

マタイ24章36-44節

説教題 「キリスト信仰者よ、新しい光の世を先取りしてこの世を歩もう」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 今年もまたクリスマスの準備期間である待降節/アドヴェントの季節になりました。教会のカレンダーでは今日が新年になります。これからまた、クリスマス、顕現日、イースター、聖霊降臨などの大きな節目を一つ一つ迎えていくことになります。どうか、天の父なるみ神が新しい年もスオミ教会と信徒の皆様、礼拝に参加される皆様を豊かに祝福して見守り導き、皆様自身も神の愛と罪の赦しの恵みの中に留まられますように。

 今日もまた讃美歌307番「ダビデの子、ホサナ」を歌いました。毎年お話ししていることですが、これはフィンランドやスウェーデンのルター派教会の讃美歌集の一番目の歌です。両国でも待降節第一主日の礼拝の時に必ず歌われます。歌い方に伝統があります。その日の福音書の日課が決まっていて、イエス様がロバに乗って群衆の歓呼の中をエルサレムに入城する場面です。ホサナは歓呼の言葉で、ヘブライ語のホーシィーアーンナー、あるいはアラム語のホーシャーナーから来ています。もともとは神に「救って下さい」と助けを求める意味でしたが、ユダヤ民族の伝統として王様を迎える時の歓呼の言葉として使われました。さしずめ「王様、万歳!」というところでしょう。

 その個所が朗読される時、歓呼の直前で一旦止まってパイプオルガンが威勢よくなり出し、会衆は一斉に「ダビデの子、ホサナ」を歌いだします。つまり、イエス様の群衆になり代わって歓呼を歌で歌うのです。北欧諸国も近年は国民の教会離れが進み普段の日曜礼拝は人が少ないですが、待降節第一主日は人が多く集ってこの歌を歌い、国中が新しい一年を元気よく始めようという雰囲気になります。

 さて、スオミ教会のホサナですが、北欧の国と同じようにしたかったのですが、2年前に日本のルター派教会の聖書日課が改訂されて、待降節第一主日の福音書の個所はイエス様のエルサレム入城ではなくなってしまいました。昨年と一昨年はルカ21章とマルコ13章のイエス様のこの世の終わりの預言でした。そういう話は聖霊降臨後の終わりの頃に相応しいと思うのですが、待降節になってもまだ終末テーマを続けなければならないというのは少し気が重いです。しかし、それでも今日の聖書の箇所はイエス様の再臨にどう備えるかという内容なので、それはそれで主を迎えることに関係することと思い、日本の日課に従うことにしました。

2.イザヤ2章1~5節

 最初に旧約の日課イザヤ書2章を見ていきます。これは、この世の終わりの時に何が起こるかについての預言です。主なる神の神殿のある山が地上のあらゆる山の中で一番高くそびえて、他の山々は揺り動かされてしまうが、主の山だけは揺るがない。そこを目指して諸民族が大河のようにやってくる。彼らは次のように言う。「主の山に上り、ヤコブの神が住まわる神殿に行こう。神は私たちが神の意思に従って生きられるように私たちを教えられる。なぜなら神の掟はシオンから、神の御言葉はエルサレムから出てくるのだから。」そう諸民族は述べてやって来る。一つ余計なことですが、新共同訳では、諸民族が言う言葉は、私たちはその道を歩もう、までです。しかし、正しくは「なぜなら、主の教えはシオンから、御言葉はエルサレムから出る」までです。接続詞「なぜなら」が抜け落ちているので付けてあげて、カギかっこを後ろに移動します。

 諸民族がそう言いながら天地創造の神のもとにやって来る時、神は裁きを行う。諸民族の間に正義を打ち立てるが、多くの者は裁かれるという書き方です。諸民族が持っていた武器は農具に変えられ、もうお互いに対する武力行使はなく戦について学ぶこともない、そういう時が来る、だからヤコブの家の者である我々は主の光の中を歩もうではないか。そういうことが述べられています。

 さて、この世の終わりに世界の諸民族がエルサレムに上って行くとか、主の掟と御言葉はシオンやエルサレムから出るとか言うのを聞くと、本当に諸民族が一斉にあの中東の地に向かって飛行機か何かに乗って行くのだろうかと疑わしくなります。ヤコブの家などと言うと、ユダヤ民族のことを言っているように聞こえます。しかし、そうではありません。黙示録を見ればわかる通り、今ある天と地が終わって新しい天と地が再創造される日に現れるエルサレムとは、今の世界地図にあるイスラエル国の都市ではなく、天上のエルサレムのことです。天地創造の神から義と認められた人たちが迎え入れられるところです。そこに向かう諸民族の大移動ももうこの世の移動手段によらない、何か霊的な移動です。ヤコブの家というのは狭く考えればユダヤ民族ですが、新約聖書の観点から見ると、イエス様を救い主と信じることで神から義と認められた者の集合体です。血筋上のユダヤ民族ではなく、信仰によって神の民の一員とされた者たちです。

 また、ここでは裁きのことが言われているので最後の審判があります。最後の審判では旧い世で損なわれたり中途半端になってしまった正義が回復して完全なものになります。イザヤ2章はそのことについて、個人レベルの正義ではなく民族や国レベルの正義について言っています。かつて旧い世では、正義の実現のため、などと言って振りかざしていたあらゆる武器が新しい世で農具に変えられます。武器なんかでは正義は実現しない、農具の方が正義に相応しいということです。農具に変えるというのは、新しい天と地の世で農耕文明が始まるということではなく、武器を作るくらいの暇と力があるのなら最初から農具にしていれば旧い世はパラダイスになったのに、そうしなかったのは実に愚かなことだったと思い知らせるシンボル的な意味があります。

 そういうふうに考えると、人間はどうしてそうすることが出来ないのか?今の世界情勢を見るにつけ嘆かわしくなります。ひょっとしたら、今の戦争を機に人類は武力に凝りて軍縮を一生懸命にやるようになるだろうか?その時、武器に費やした巨額のお金を気候変動や貧困や疫病の対策に向けられるようになるだろうか?どうでしょうか?そんなのユートピアすぎて非現実的だ、と言ってしまったら、もう無理だとあきらめることになります。聖書が言うように、新しい天と地の再創造の後にそうなることを信じ期待して、今はもうなるようになれと落ちるところまで落ちるしかないのか?

 聖書が今の世に対してそういう投げやりな態度の書物でないことは5節の言葉から明らかです。「ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。」「ヤコブの家」とは、神から義と認められた人たちを意味します。まさに「神の民」です。神に義と認められた人たちとは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者たちです。ひょっとしたら、全人類が心を入れ替えて一致団結して叡智を働かせて戦争や気候変動をストップさせることができるかもしれない。もちろんそうなることにこしたことはありません。しかし、たとえそうなっても、今の天と地がいつか終わって新しい天と地に再創造されて最後の審判を経て神の御国への迎え入れがあることに変更はありません。逆に、人間が頑張っても危機を解決できない場合でも天地の再創造と神の御国への迎え入れは起こります。危機の回避か突入か、どっちを経由しても再創造と迎え入れに至るわけです。それでどっちになるにしても、今は主の光の中を歩まないといけないのです。既にイエス様を救い主と信じている人はこの光の中に留まって歩むこと。光を失わないようにすること。まだその光の中に入っていない人はこれから入るようにするということです。それでは、主の光の中を歩むとは具体的にはどういうことでしょうか?それが、今日の使徒書と福音書の日課で明らかにされています。

3.ローマ13章11~14節

 この個所は天地の再創造と最後の審判の時に起こる復活に向けての心構えを教えています。それが、主の光の中を歩むとはどういうことかを明らかにします。まず、「あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています」と言います。「覚めるべき」と言うと、今寝ぼけた生き方から目を覚ませ!と言っているように聞こえます。しかしパウロが第一コリント15章で言っているように、復活とはこの世から死んだあと眠りにつき、そこから起こされることです。それなので、ここはこの世で寝ぼけた生き方をやめよという命令ではなく、もうすぐ眠りから目覚めさせる時、すなわち復活の日が来るという必然について言っているのです。

 次に、「今、救いが近づいた。あなたたちがイエス様を救い主と信じる信仰に入った時よりも近づいた」というのは当たり前のことです。時間が経過したのですから。キリスト信仰には今の天と地が新しい天と地に取って代わられる日が来るという終末論と新生論があり、その日がいつかは神しか知らないが、とにかくその日は来る、だから、私たちが一年一年過ごしていく度にその時に近づいていることになります。パウロが言う「救い」とはローマ8章23節で言っていた「体の解放」、つまり今纏っている肉の体に代わって神の栄光を映し出す復活の体を着せられることです。このように、パウロはここで復活の日が近いことを言っているのです。パウロはその期待が強かったようです。しかし、実際はどうだったでしょうか?パウロがこの世を去って2000年近く経ちましたが、同じ天と地はまだ続いています。イエス様は福音が世界の隅々まで伝わるまでは今の世は続くと言っていました。当時の人たちにとって世界は地中海とその周りが全てでしたから世界は今より小さく見られていました。しかし、いまだ福音が宣べ伝えられていなかったり自分の言語で聖書を読めない民族は世界に多く残っているので、今の世の終わりは当分まだなのでしょう。

 「夜は更け、日は近づいた」というのも同じ考えです。今のこの世の有り様が夜の暗闇に例えられています。日と言うのは新しい世のことです。今の世の有り様が終わりに近づいている、復活を経た新しい世の到来が近いということです。そのように今はまだ夜で暗いが、夜が終わって夜明けが来るのと同じように復活と新しい世も来る。それで、もうすぐ光の中を歩むことになるのだから、今はもうすぐ終わる暗闇に従うことを止めて、暗闇の力に対抗できる光の武具を身につけよ、とパウロは喚起します。光の武具を身に着けるとはどういうことか、パウロはそれを説明します。「日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。」「品位をもって」というのは、すぐ後に酒宴、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみというものが言われるので、それらの対極として品行方正の意味に訳にしたと思います。もちろん、酒宴、酩酊、淫乱や好色は日中よりは暗い夜に行うことが多いと思います。しかし、ここで日中と言うのはあくまで暗闇の今の世に対する光の新しい世のことを意味します。それなのでここのパウロの意図は、新しい世はまだ来ていないが、今は既にその中にいるがごとく、そういう者として歩もうということです。光の新しい世はまだであるが、キリスト信仰者はもう一足早くその光の世にいるがごとく、今はこのもうすぐ終わる暗闇の世を生きなさい、ということです。それが光の武具を身に着けるということになります。一足早く光の世にいるようにして光の武具を身に着けるとはどういうことか?二つの大事なことがあります。一つは隣人愛で愛すること、もう一つは罪に反対して生きることです。その二つについてみてみます。

 まず、隣人愛で愛することについてですが、実はそれについて今日の個所の直前で言われています。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな、その他どんな掟があっても、隣人を自分のように愛しなさいと言う言葉に要約されます(13章9節)」等々。パウロは今の世がもうすぐ終わることを次の所で言う前に、隣人愛で愛せよと命じるのです。さて皆さん、今の世がもうすぐ終わるということをわかった上で本当に隣人愛で愛することができるでしょうか?どうせ世界が終わるのに無意味なことを言っていると思う人もいるかもしれません。もし自分の命があと少ししかないと前もって分かったら、取り乱したり無力感に陥ったり自暴自棄になるかもしれません。しかし、人生の最後を人のために尽くそうという心も生まれることもあります。黒澤明の古い映画「生きる」の主人公がその例です。余命僅かと告げられた主人公は最初は快楽に走りますが、最後は人のために尽くそうと必死になりました。死を目前にした者が自分の生き方が無意味にならない、意味のある生きた方になることを他人のために尽くすこと他人が喜ぶ顔を見ることで見出したと言ってもよいでしょう。

 パウロの隣人愛で愛せよという教えはどうでしょうか?「生きる」の主人公のように、この地上での残された時間を意味のある生き方をするのだ、そのために隣人愛で愛するのだということでしょうか?そういう面もあるかもしれませんが、キリスト信仰の場合は、映画の主人公と違って、地上の残された時間の先を見ています。光の新しい世では愛と正義が完全なものになっている。それらを損なったり汚すものはもう存在しない。自分はイエス様のおかげでそこに迎え入れられて完全な愛と正義に包まれて生きることになるのだから、今はあたかも既に迎え入れらた者のようにこの世で立ち振る舞おう、新しい光の世を先取りした者としてこの世を生きよう、パウロは言っていることはそういうことです。黒澤明の映画はこの世を超えたことはないので人間中心主義です。文字通りヒューマニズムです。キリスト信仰の場合はこの世を超えたことを視野に入れています。何主義と言ったらよいでしょうか?皆さん、何か言葉を考えて下さい。

 光の武具のもう一つ大事なことは、罪の自覚を持ち罪を告白し罪の赦しを受ける生き方をすることです。パウロは14節で「主イエス・キリストを身にまといなさい」と言います。これは、洗礼の時にイエス様を白い汚れない衣のように頭から被さられて、神からはさも罪の汚れがない者のように見なされることを象徴して言っています。既に洗礼を受けてこの神聖な衣を身に纏った人はそれを手放さないようにしなさい、まだ纏っていない人は暗闇の世が終わるまでに早く纏いなさいということです。

 イエス様という汚れのない衣を被されたとは言っても、私たちの内には神の意志に反する罪がまだ残っています。それなので、洗礼の後はこの衣の神聖な重みで罪を圧し潰していく生き方が始まります。どういうことかと言うと、罪の自覚が起きるたびに神のみ前で罪を告白して(神のみ前です、人間の前ではありません)、聖霊からゴルゴタの十字架を心の目に映し出してもらって、罪の赦しが揺るがずにあることを確認して罪の赦しの中に留まることです。その時、父なるみ神は言われます。「お前がわが子イエスを救い主と信じていることは分かっている。イエスの犠牲に免じてお前の罪は赦された。これからは注意しなさい」と。この時キリスト信仰者は襟を正し、畏れ多い気持ちと感謝に満たされて日常生活に戻ります。このような罪の自覚と告白と赦しはこの世を去る時まで繰り返されますが、神はこれを罪に与さずに生きた証、罪に反抗して生きて証、罪を圧し潰す生き方をした証しと認めて下さいます。そして復活を果たした後はこの繰り返しはもうありません。罪がなくなっているからです。

4.マタイ24章36~44節

 ここでは、イエス様の再臨のことが述べられています。イエス様の再臨というのは天地の再創造と最後の審判と復活にくっついている出来事です。イエス様は、キリスト信仰者はその時に備えて目を覚ましていなければならない、準備が出来ていなければならないと言います。ノアの洪水のことが例として言われます。ノアは目を覚まして準備が出来ていた人の例です。目を覚まして準備をしていれば、箱舟に入って洪水から守られたように守られて神の御国に迎え入れられると言うのです。反対に目を覚ましておらず準備もしていないと悲劇的なことになると。

 畑にいる二人の男と臼を引く二人の女の話は分かりにくいと思います。これは、神の国に迎え入れられるというのは選別があるということ、みんながみんな天国に行けてハッピーになるわけではない、なぜなら最後の審判があるということを意味しています。二人のうち一人というのは、50%の確立と言っているのではなく、迎え入れられる者と入れられない者の二つに分かれるということです。もう一つ気を付けなければならないことがあります。畑にいる二人の男の人も臼を引く二人の女の人も両方とも同じ仕事をしています。外側から見たらみんな同じ仕事をしていて一体何の違いがあって何の落ち度、デメリットがあって、一人は迎え入れられて、一人は迎え入れられないのかわかりません。これは、神は、人間の目で外から見て気がつかないこと、見えないことを全てご存じであるということを意味しています。神は造り主で私たちの髪の毛の数まで把握しておられる方ですから、私たちの行いや言葉について人には知られないこと、心の中のことまでご存じです。

 そこまで言われると、自分は神のみ前ではもうだめかと思ってしまいます。しかし、さっき言ったことを思い出しましょう。罪の自覚と告白と罪の赦しの繰り返しに生き、神の罪の赦しのお恵みの中に留まり、被されたイエス様の衣を手放さないように歩んでいれば何も心配ないのです。それが目を覚ましていること準備していることになります。泥棒に入られないように起きているというのも、泥棒とは罪のことです。自覚と告白と赦しがあれば、罪に支配されることはありません。イエス様の衣をしっかり握りしめれば握りしめるほど、罪は圧し潰されて行きます。

 以上、キリスト信仰者は新しい光の世を先取りして、このもうすぐ終わる暗闇の世を進んでいけることについてお話ししました。先ほどの映画「生きる」の主人公についてもう一つ述べておくことがあります。それは、主人公が快楽から人のために尽くそうとする転機になったことについてです。彼の職場を辞めて別の仕事に就いた若い女性がとても活き活きして仕事をしているのを目撃して、自分もあのように輝きたいと思ったことが転機でした。キリスト信仰は輝きを与える信仰です。その輝きは、新しい光の世の輝きであり神の栄光の輝きです。復活の日に自分もその輝きを映し出す復活の体を与えられて神のもとに迎え入れられます。キリスト信仰者は私自身も含めてですが、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼によって新しい光の世を先取りしていることにもっと気づくべきだと思います。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

2022年11月13日(日)聖霊降臨後第13主日 主日礼拝

「イエスの神殿崩壊預言」 2022年11月13日 スオミ教会

木村長政 名誉牧師

聖書 ルカによる福音書21章5~19節

<私たちの父なる主イエス・キリストから恵みと平安とがあなた方にあるように。>アーメン

今日の聖書は、イエス様の預言と弟子たちへの警告の話です。イエス様はご自分の十字架の死が近づいて来たことを、だんだん深刻に感じ始めておられます。どうしても、今弟子たちに大切な事を伝え、弟子たちがその使命に耐えて行けるように訓練と警告を告げられています。そこで、ユダヤ教の最大のシンボルであり礼拝の場である神殿へイエス様は毎日のように行って弟子たちに教えておられます。ルカ19章47節に「毎日イエスは境内で教えておられた」とあります。ユダヤ教の祭司長、律法学者たちが総力をあげて守っているエルサレムの神殿です。弟子たちは神殿の壮大な建物と高価な装飾品に思わずうっとりして感嘆の声をあげて見たいたのでした。そこへイエス様が来られて言われた。6節に「あなた方はこれらの物に見とれているが一つの石も崩されずに他の石の上に残る事のない日が来る。」この頑丈で壮大な神殿が粉々に崩壊してしまう日が来る、と預言されたのです。これを聞いて弟子たちはびっくりしたでしょう。更に7節には「彼らはイエスにたずねた。『先生、ではその事はいつ起こるのですか。またその事が起こる時にはどんなしるしがあるのですか。』」と問うています。イエス様にたずねた彼らというのは実はマルコ福音書13章1節によれば「ペテロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレの四人が密かにたずねた」、と記しています.イエス様は最も信頼している四人の弟子に預言されている、このことは秘密の様式であったらしいのです。何故かと言うとこの神殿を管理していたのはユダヤ教の祭司長たち、律法学者たちでした。ルカ19章の終わりのところには、「祭司長たち、律法学者たちはイエスを殺そうと謀っていた。」とあります。そういう危険の中で今イエス様がやがてこの神殿はことごとく破壊されてしまうなどと予言されたことは、もう大変な事でした。ですから、今は密かに信頼のおける四人の弟子だけに秘密裏に告げておられるのです。祭司長たち及び律法学者たちは何とかイエスの言葉尻を掴んで捉えてやろうと次々に難問を吹っかけてきています。特にルカ19章の終わりの方45節を見ますと、「イエスは神殿の境内に入り、そこで商売をしていた人々を追い出してしまわれた。」とあります。この事件以来彼らはますますイエスを殺そうと息巻いています。境内で商売をさせて、陰で金を儲けていたわけですから、そうとう頭に来ているわけです。彼らに対してイエス様は外側は立派に見えている神殿も粉々に破壊されるぞ、と預言されているのですから、ここに真っ向から激突する時が切迫しつつあるのです。このような、激しい危機的状況の中で弟子たちは、これから大切な福音の担い手となって世界へ向けて使命を果たして行かねばならない。こうした時代を悟らせ彼らの信仰を堅くしておくための訓練と警告を告げておられるわけであります。更には弟子たちが想像もしていなかった終末が来る、その直前に大変な苦難と迫害がくることも預言されているのです。考えてみますと、イエス様の十字架の死と弟子たちを取り巻く危機的状況は現在の私たちの世界の危機的状況でもある、と言えるでしょう。まず、新型コロナウィルスが流行し想像だにもしなかったスピードで世界中に蔓延して行きました。何百万人という人が死ぬという、ひどいウィルスです。色々型を変え未だに収まりません。それから連日テレビ、新聞などで報道されているウクライナ侵攻の戦争が起こって未だに続いています。恐ろしい事は、ロシアとウクライナだけの戦いではなく、背後にウクライナを応援しているアメリカを始めヨーロッパの民主国家が一つになってロシアと世界戦争にまでなってしまうことの懸念です。更には核爆弾という一瞬にして何百万何千万の人々が死んでしまう、それによって地球上の放射能汚染によるあらゆる生き物まで死滅し続けて行く、世の末が起こってしまうのではないか、まさに世紀の危機に直面している時代です。イエス様の神殿崩壊の預言は歴史の中で事実となって起こってしまいました。

紀元70年ローマ帝国によってエルサレム神殿は包囲され神殿はことごとく破壊されました。(ユダヤの歴史家ヨセフスとローマの歴史家タキトスによる記録もあります。)弟子たちはイエス様の預言と実際の滅亡となって行く過程のすべてを苦しみ味わった事でしょう。弟子たちがエルサレム滅亡の前にどんなことが起こりますかとイエスに問うた時、イエス様は10節以下にあるように、具体的に起こる事を答えておられます。「民は民に、国は国に敵対し立ち上がる。そして大きな地震が起こり、飢餓や疫病が起こり恐ろしい天体現象が現れる。」12節では「しかし、これらの事が起こる前には、人々はあなた方に手をかけ迫害し、会堂や牢に引き渡す。私の名のために、王や総督の前に引っ張って行く。」更に16節以下を見ますと、「あなた方は親兄弟、親族、友人にまで裏切られる。また、私の名のために、あなた方はすべての人に憎まれる。」とあります。イエス様は弟子たちに恐ろしい預言を告げるだけでなく、これらの苦難に対してどう生きて行くかを示されます。「イエス様の名を名のる偽預言者が現れるから惑わされないように気をつけなさい。戦争や暴動の事を聞いても怯えてはならない。主の前に出されたら、それは証しする機会と思って大胆に語れ、語るべき言葉と智恵は与えられるから大胆に語れ、臆する事無く勇気を持って語れ。」と言われる。やがて、イエス様の十字架の死後、弟子たちはどうしたか、と言うと一丸となって祈り、聖霊の力が注がれて、数々の迫害に会っても死に物狂いで戦って行ったのでした。

26節には「人々はこの世界に何が起こるのか、と怯え恐ろしさのあまりに気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。大地震が起こって生活も町も根底から揺り動かされて恐怖に落ちてしまう。その時、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを見る。」とあります。驚きと恐怖の連続です。そこでは、人間のいかなる力も科学の力も機械の力も、なすすべがありません。大自然の襲ってくる力にはどうすることも出来ない。毎年やって来る台風の嵐、夥しい山火事、地球温暖化による海水の増加で海面が上がり町の大半が水浸しとなってしまう、こうした事が起こっています。地球全体の規模で大異変が現実に起きている中、人間の力は無力です。それは、全能の神の怒り、罰が下されているのでしょうか。エルサレムの滅亡は地上に住む国々の民に対し、終わりの日の警告であり、人類の大いなる艱難の日であります。「しかし、エルサレムの滅亡をもって、直ちに世の終末が来るのではない。」とイエス様は言われます。エルサレムの滅亡によって、ユダヤの民が、神の真理の担い手である時代は終わった。神の救いの福音はキリストの弟子たちによって、広く世界へ、異邦人へと向かって行く。全世界へと福音が宣べ伝えられる時代が始まる。エルサレムの滅亡はこの意味において、大きな時代の一大転換期であり、人類の歴史の重要な一段階であります。マタイによる福音書の方を見ますと、24章13~14節でイエスは警告しておられます。「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。そして、御国の、この福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。」とあります。神の選びによって導かれて来た神の強力な力はユダヤ人の主導的地位から失われ、それから後は異邦人によって神の救いの道は移り、救われるべき異邦人の数の満ちるに及んで人の子が来る。(その様子はマタイ24章29節以下にあります。)世の終わりが来て、キリスト再臨による大いなる審判が行われる。(マタイ福音書25章31節に記されています。)そうして、全く新たな神の国が地上に現れるのであります。全能の神の御心のままに全てはなって行くのであります。

 <人知では、とうてい測り知ることの出来ない神の平安が、あなた方の心と思いをキリストにあって守るように。> アーメン

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

子供祝福式

 

 

2022年11月6日(日)全聖徒主日(聖霊降臨後第22主日)主日礼拝

主日礼拝説教 2022年11月6日(聖霊降臨後第22主日)

ヨブ19章23-27a節

第二テサロニケ2章1-5、13-17節

ルカ20章27-38節

説教題 「聖書の神があなたの神になる時、あなたは復活の日に復活する」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.キリスト信仰の復活について

 本日の福音書の箇所は、復活という、キリスト信仰の中で最も大切な事の一つについて教えるところです。復活は、人間はこの世から死んだ後どうなるかという問いに対する聖書の答えの核心です。キリスト信仰の死生観の土台と言ってもよいでしょう。本教会の礼拝説教でも何度も取り上げてきました。この個所については3年前にも説教しましたが、今日は少し視点を変えて説き明かしをします。結論は全く同じです。

 ところで、復活だの死ぬだの、どうしていつも暗い話ばかりするのか、もっと現世的な明るい話題を取り上げてハッピーな気分にできないのかと言われてしまうかもしれません。誤解して頂きたくないのですが、キリスト信仰者は年がら年中、死んだらどうなるかを考えて生きているわけではありません。普段はそんなことを考えないで普通に生きています。ただ何かの拍子でふと、あれっ、人間は、または自分は死んだらどうなるんだっけ、と頭によぎる時はあります。そんな時はすぐ、ああ、聖書はこう言っていたなと思い出して、それを確認したらまた普通に戻って普通を続けます。だから、死んだらどうなるかという問いに埋没して前に進めなくなるということもないし、逆にそんな問いには来てもらいたくないと必死に避けることもしない。問いが来たら来たで、確認してハイ終わり、です。そういうふうに確認するものがあるというのはいいことです。

 本日の説教は福音書の個所の説き明かしが中心になります。本題に入る前に、復活について要点を復習しておきます。復活は、まず十字架にかけられて死んだイエス様の死からの復活があります。これは約2000年前に起きた過去の出来事です。それと、イエス様を救い主と信じる者たちが与る、将来起きる復活があります。ここで注意すべきことは、将来の復活は将来のある時に人類全員一括して関係してくる出来事ということです。人間が一人亡くなるたびにその都度復活するということはありません。それで、将来のある時とはいつかと言うと、それは今ある天と地が終わりを告げて新しい天と地に再創造される時です(イザヤ65章17節、66章22節、黙示録20章11節、22章1節)。それはまた、今ある全ての被造物が揺るがされて除去され、かわりに唯一揺るがされずに残る神の国が現れる時です(「ヘブライ人への手紙」12章27ー28節)。イエス様が再臨するのも同じ時期になります。

 黙示録20章を見ると、そういう天地の大変動が起こる時に、まずイエス様を救い主と信じる信仰のゆえに命を落とした殉教者たちが復活させられる。これは第一の復活と言われています。その次に残りの死んでいた者に対して神が裁判官になって裁判を行います。神の手元には全ての人が旧い世でどんな生き方をしたか記録した書物があって、それに基づいて判決が言い渡されます。ある者は神の国に迎え入れられますが、別の者は永遠に燃えさかる火の海に投げ込まれます。黙示録には「第二の復活」という言葉はありませんが、神の国に迎えられた者たちがその復活に与ることになります。

 また、第一テサロニケ4章を見ると、使徒パウロは復活について次のように述べています。イエス様再臨の時、まずイエス様と結びついている死者たちが復活させられる。それと、再臨の時点でまだ生きている信仰者たちが彼らに合流して神のもとに迎え入れられる。このようにパウロは、イエス様再臨の時点で生きている人たちにも目を向けています。

 ここで、復活について二つ注意すべきことを申し上げます。一つは、パウロが第一コリント15章で言うように、復活させられる者は皆この世の肉体のように朽ちる体ではなく、神の栄光を現わす復活の体を着せられるということです。つまり復活させられる者は、既に死んでいた者も、その時点で生きている者も、この世の姿かたちのまま天の御国に迎え入れられることはありえないということです。みな同じ復活の体を着せられるのです。誰もこの世の姿かたちで天の御国には迎え入れられないので、皆がこの世の肉体から離別するということになります。

 このことは、本日の旧約の日課ヨブ記の中でも言われています。ただ、日本語訳は何か抜け落ちていたりしてはっきりしません。実は、英語、ドイツ語、フィンランド語、スウェーデン語の訳もまちまちで、ここは各国の訳者にとってやっかいな箇所のようです。そこで、19章の23節から27節の前半までをヘブライ語の原文に出来るだけ忠実に訳すと次のようになります。

「(25)私は知っている、私を贖って下さる方は生きておられると。将来、その方はこの滅びゆく大地の上に立ち上がる。(26)私の皮膚が引き裂かれた後で、私は肉体から離れた状態で神を見る。(27a)その方を私自らが見るのだ。私の目が見るのだ。その方はよそよそしい方ではない。」

 このように、ここは復活の時の有り様がこの世の有り様と違うことが言われているのです。さらに贖い主つまりイエス様の再臨のことも言われています。聖書の学会では普通、ヨブ記は知恵文学に属すると言われるのですが、このように復活という黙示文学の要素も持っているのです。聖書の書物を~文学、~文学とジャンル分けすると、他のジャンルの要素があっても気に留めなくなる危険があると思います。各国の訳者は案外、この危険に陥って黙示文学の要素などあり得ないという視点で訳したのかもしれません。

 復活に関してもう一つ忘れてはならないことは、迎入れられる者たちと入れられない者たちの二つに分かれるということは、やはりそれを決める最後の審判があるということです。

 復活は将来に一括して起きること、人間一人一人死ぬたびに起こることではないなどと言うと、じゃ、死んだ人たちは将来起こる復活の日まではどこで何をしているの?という疑問が起きます。これも、本教会の説教でルターの教えに基づいて何回もお教えしました。亡くなった人は復活の日まで神のみぞ知る場所にて安らかに眠っているのです。ところで我が国日本では普通、人は死んだらすぐ天国か何かわからないがどこか高いところに舞い上がって、今そこから私たちを見守ってくれているという考え方をする人が大半です。しかし、復活を信じるキリスト信仰から見ると、そんなことはありえません。死んだ人は今、神のみぞ知る場所で眠っている。高いところに行くのは将来のことで、その日その高いところから地上を見下ろしても、その時はもう天地大変動の後ですので、今ある地上はもう存在していません。

 そう言うと今度は、死んだ人が本気で眠ってしまったら、誰が起きていて見守ってくれるのかと心配する人たちが出てきます。これもキリスト信仰では、見守って下さる方は亡くなった者ではなく、天と地と人間を造られた神、人間に命と人生を与えた創造主の神だけです。私たちを見守って下さるのは私たちの造り主である神であり、この方が、私たちの仕えるべき相手です。日本人もこういう心になれば、祟りだの、ナントカ商品だのと言われてもびくともしなくなり、この日本も安心して住める国になるのにと思わざるを得ません。

 そこで、天の御国への迎え入れが起こるのは復活の日だからそれまで待たないといけないとすると、じゃ、天国は今空っぽなのか、という疑問が起きるかもしれません。もちろん、父なるみ神自身はおられます。天に上げられたイエス様も神の右に座しておられます。あと天使たちもいます。他にはいないのでしょうか?そこで気になるのが本日の福音書の個所です。イエス様が言います。かつて神はモーセに対して、自分はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であると言った、と。そして神は生きている者の神である、死んだ者の神ではないとも。そうなると、この三人は今生きているということになって、それはもう復活の日を待たずに一足先に神の御許に迎え入れられてしまったことになります。聖書はそういう可能性があることも言っています。例えば、創世記5章に登場するエノクと列王記下2章のエリアはその例です。

2.イエス様の論点(1)- この世での有り様と復活の有り様

以上、復活の要点を復習しました。これから本日の福音書の個所の説き明かしに入りましょう。サドカイ派というグループがイエス様を陥れようと議論を吹っかけました。サドカイ派というのは、エルサレムの神殿の祭司を中心とする貴族階級のエリート・グループです。彼らは、旧約聖書のモーセ五書という律法集を最重要視していました。また彼らは復活などないと主張していました。これは面白いことです。ファリサイ派というグループは復活はあると主張していました。復活という信仰にとって大事な事柄について意見の一致がないくらいに当時のユダヤ教は様々だったのです。

 サドカイ派の人たちが、イエス様の教えが間違っていることを人前で示そうとして復活をテーマに議論を吹っかけました。同じ女性と結婚した7人兄弟の話です。申命記25章5節に、夫が子供を残さずに死んだ場合は、その兄弟がその妻を娶って子供を残さなければならないという規定があります。7人兄弟はこの規定に従って順々に女性を娶ったが、7人とも子供を残さずに死に、最後に女性も死んでしまった。さて、復活の日にみんなが復活した時、女性は一体誰の妻なのだろうか?ローマ7章でパウロが言うように、夫が死んだ後に別の男性と一緒になっても律法上問題ないが、夫が生きているのに別の男性と関係を持ったら十戒の第6の掟「汝、姦淫犯すべからず」を破ることになる。復活の日、7人の男と1人の女性が一堂に会した。さあ大変なことになった。復活してみんな生きている。この女性は全員と関係を持っていることになる。ここからわかるようにサドカイ派の意図は、イエス様、復活があるなんて言うと、こういう律法違反が起きるんですよ、律法を与えた神はこんなことをお認めになるんですかね。サドカイ派はどんな表情で聞いたでしょうか?群衆の前で、イエスよ、これでお前の権威もがた落ちだ、とニヤニヤ顔だったでしょうか?それとも、ニヤニヤは心の中に留め、表情はあたかも素朴な疑問なんです、と無垢を装う演技派だったでしょうか?

 これに対するイエス様の答えは、サドカイ派にとって思いもよらないものでした。イエス様の答えには二つの論点がありました。一つは、人間のこの世での有り様と復活した時の有り様は全く異なるということです。第二の論点は、神が自分のことをアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と名乗ったことです。まず、復活の有り様を見てみます。

 人間は復活すると、この世での有り様と全く異なる有り様になる、嫁を迎えるとか夫に嫁ぐとかいうことをしない有り様になる。つまりサドカイ派は、人間は復活した後も今の世の有り様と同じだと考えて質問したことになります。それは全く誤った前提に基づく質問でした。それでは、復活した者はどんな有り様になるのか?まず、復活した者がいることになる場所は、今の天と地が新しい天と地に取って代わられた新しい世になります。そして、復活した者はもう死ぬことがなく、天使のような霊的な存在になり、先ほど見た第一コリント15章のパウロが言うように、復活の体、朽ちることのない体、神の栄光で輝いている体を着せられた者になります。そういう復活に与る者は「神の子」であると言われます(36節)。それなので復活した者は、誰を嫁に迎えようか、誰に嫁ごうか、誰に子供を残そうか、そういうこの世の肉体を持って生きていた時の人間的な事柄に神経をすり減らすことはなくなって「神に対して、神のために」生きるようになる。この、復活した者が「神に対して生きる/神のために生きる」ということが第二の論点のところで鍵になります。

 以上、イエス様の第一の論点を見てみました。サドカイ派は復活を正しく理解していませんでした。だから、女性は7人兄弟の誰の妻になるのか、などという的外れな質問が出来たのでした。もし復活を正しく理解していれば、そんな質問は出なかったでしょう。

3.イエス様の論点(2)-「神に対して生きる/神のために生きる」とは?

 イエス様の第二の論点は出エジプト記3章6節です。そこで神はモーセに対して、自分はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であると名乗り出ます。モーセから見れば、アブラハムもイサクもヤコブもとっくの昔に死んで既にいなくなった人たちなのに、神は彼らがさも存在しているかのように自分は彼らの神であると言う。これを引用したイエス様はたたみ掛けて言います。「神は死んだ者の神ではなく生きている者の神なのだ」(38節)。

 ここで問題となっていることは、神が自分のことをアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と名乗ったことが、復活があることの根拠になっていることです。それで、アブラハム、イサク、ヤコブは将来の復活の日を待たずに一足先に神の御許に迎え入れられたと考えることができます。以前の説教では、3人が復活の日まで眠っていてその日に復活させられる可能性について考えてみました。今回は3人が既に神の御許にいる可能性に立って話を進めます。

 イエス様の最後の言葉「すべての人は、神によって生きているからである」は要注意です。実は、この日本語訳はよくありません。「神によって」と言うと、「神に依拠して」とか「神のおかげで」という意味になります。実はこの個所はそういう意味ではないのです。もちろん、「すべての人は神によって生きている」という言うこと自体は間違っていません。全ての人間は神によって造られて神から食べ物や着る物や住む家を与えられているわけですから、その意味で「全ての人は神によって生きている」と言うのはその通りです。しかし、その言い方はこの復活について教える個所と全然かみ合いません。本日の文脈から乖離してしまいます。文というものは、それ自体は正しく意味を成すことを言っていても、文が置かれた文脈と無関係だったら意味を成さなくなるのです。加えて、「全ての人」というのもここでは全人類のことを指していません。誰を指しているかと言うと、35節に言われている人たち、「復活に与るのに相応しいとされた人たち」です。これも注意しないといけません。文脈から遊離してはいけません。

 それでは、このイエス様の言葉はどう理解できるでしょうか?まず、「神によって」と訳されているギリシャ語のもとの言葉は「~によって」と訳さず、ほとんど素直に直訳的に「神に対して」とか「神のために」と訳します(後注1)。これが私個人の勝手な訳でないことは、英語訳の聖書NIVを見てもto him「彼に対して」と言っていて、「によって」byとは言っていません。ドイツ語のEinheitsübersetzung訳ではfür ihn「彼のために」、スウェーデン語訳でも「彼のために」(för honom)、フィンランド語訳でも「彼のために」でも「彼に対して」でもとれる訳(hänelle)です。このように少なくとも4つの言語で「神によって」と訳しているものはありません。

 次に「神に対して生きる/神のために生きる」というのは、どういう生き方かをわからないといけません。わかりそうでわかりにくい文です。イメージとして、神にお仕えするように生きるということが思い浮かぶかもしれません。もっと具体的にわかることができるでしょうか?それができるのです。「神に対して生きる/神のために生きる」という同じ言い方がローマ6章10~11節にあります。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者は罪に対して死んでおり、神に対して生きている、と言っているところです。このようにギリシャ語で読むと両方とも同じ言い方をしているとすぐわかるのに、日本語訳では一方は「神によって」、他方は「神に対して」と違う言い方で訳されてしまうので関連性が見えなくなってしまうのです(後注2)。そこでローマ6章の「神に対して生きる/神のために生きる」がどんな生き方かを言っているかがわかれば、本日のイエス様の言っていることもわかります。

 ローマ6章のパウロの教えは、スオミ教会の聖書研究会の復習になりますが、こういう流れです。神の意思を表す律法は、人間が神の意志に反しようとする性向、罪を持つことを暴露する。しかし、神のひとり子のイエス様が十字架の上で神罰を受けたことで、人間の罪を全て人間に代わって神に対して償って下さった。だからイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、罪の償いがその人にその通りになり、罪を償われたから神から罪を赦された者と見なされるようになる。まさに罪の赦しが神から「お恵み」として与えられる。それなので、律法を通して罪が暴露されようとも、罪の赦しのお恵みは常にそれを上回ってある。以前は罪が人間を永遠の死に陥れていたが、イエス様の十字架と復活の出来事の後は罪の赦しのお恵みが人間を復活と永遠の命に導くようになった。

 そういうふうに言うと、罪の赦しがお恵みとしてあるのなら別に罪にとどまってもいいじゃないか、どうせ赦されるんだから、などと言う人が出てくる。パウロは、勘違いするな!と言って反論する。「我々キリスト信仰者は罪に対して死んでしまったので、罪にとどまって生きることなど不可能なのだ」(6章2節)。ここで「罪に対して死んでいる」ということが出てきます。さあ、どういうことか?パウロは、それは洗礼の時に起きたと言います。どういうふうに起きたか?人間は洗礼を受けるとイエス様の死に結びつけられると同時に彼の復活にも結びつけられる。イエス様の死に結びつけられると、我々の内にある罪に結びつく古い人間も十字架につけられたことになり無力化する。そうして我々は罪の言いなりになる生き方から離脱する。加えてイエス様は死から復活されたので、もう死は彼に力を及ぼせない。死が力を及ぼせないというのは、人間を死に陥れようとする罪も力を失ったということだ。イエス様は十字架で死なれたが、それは彼が罪と死に負けたのではなく、事実は全く逆で、イエス様の死は罪と死が壊滅的な打撃を受ける出来事であったのだ。日本語訳で「罪に対して死なれた」というのは、このように罪に対して壊滅的な打撃を与えて死なれたということなのです。そのことが十字架という歴史上の出来事をもって未来永劫にわたって起きたのです。

 さてイエス様は罪に対して壊滅的な打撃を与えて死なれた後、復活されました。その後は生きることは、神の栄光を現わす器として生きることになります。ローマ6章10節)。この、罪に壊滅的な打撃を与えて神の栄光を現わす器として生きることは、パウロがローマ6章11節で言うように、イエス様のことだけでなく、洗礼を受けたキリスト信仰者にもそのまま当てはまります(後注3)。キリスト信仰者が罪に壊滅的な打撃を与えて神の栄光を現す器として生きるというのはどういう生き方か?本教会の説教でも毎回のように教えています。罪の赦しのお恵みの中に留まって生きることです。罪の自覚が起こる度に心の目をゴルゴタの十字架に向けて罪の赦しが確かなものであることを毎回確認して、畏れ多い厳粛な気持ちと感謝の気持ちを持って絶えず新しく歩み出すことです。そのようにして罪に背を向け神に向く生き方を貫くと、復活の日に神の栄光を現す復活の体を着せられて罪との戦いは終結します。

4.神は復活に向かう者の神

 イエス様の言葉「神に対して生きる/神のために生きる」は、パウロの言い方からわかるように、罪の赦しのお恵みに留まって、罪に壊滅的な打撃を与えて神の栄光を現す生き方をすることです。イエス様が「神は生きている者たちの神である」と言うのは、既に神の御許に迎え入れられた者たちだけでなく、今そこに向かって進んでいる者も含むのです。「生きている者」というのは、ただ単にこの世で生存している者のことではなくて、まさに復活に至る道に置かれてその道を歩む者のことです。神はそういう者たちの神であると言うのです。それなので、「神は~の神である」と言う時、その~は既に神の御許に迎え入れられた者だけでなく、そこに至る道を歩んでいる者も含むのです。

 兄弟姉妹の皆さん、その~に自分を当てはめてみて下さい。皆さんが聖書の神つまり創造主でありイエス・キリストの父である神を「私の神です!」と言うと、皆さんはその神の御許に向かって歩んでおり、復活の日に神が自分を復活させてくれると確信していると告白することになります。聖書の神が私たちの神になるとき、私たちは復活の日に復活させられるのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

(後注1)αυτω代名詞、男性、単数、与格

(後注2)ルカ20章38節αυτω ζωσιν、ローマ6章10節ζη τω θεω、11節ζωντας (…) τω θεω (…)。

(後注3)「罪に対して死ぬ」の「~に対して」の与格はdativus incommodiです。なので、罪に対して壊滅的な打撃を与えるように死ぬことを意味します。「神に対して生きる」の「~に対して」の与格は対照的にdativus commodiです。神に栄光を帰する、神の栄光を現す器として生きることを意味します。

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

聖餐式 木村長政 名誉牧師

 

2022年10月2日(日)聖霊降臨後第17主日 主日礼拝

主日礼拝説教 2022年10月2日(聖霊降臨後第十七主日)

ハバクク1章1~4節、2章1~4節

2テモテ1章1-14節

ルカ17章5-10節

説教をYoutubeで見る

説教題 キリスト信仰者の自己肯定感といわゆる「信仰の成長」について

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

本日の福音書の日課の最初の部分は、イエス様の有名な「からし種」の話です。弟子たちがイエス様に「信仰を増して下さい」とお願いしました。「信仰を増す」というのは、ギリシャ語(προσθες πιστιν)の直訳でわかりそうでわかりにくいです。各国の聖書訳を見ると、英語NIVは「信仰を増やして下さい」と日本語訳と同じですが、他は「信仰を強めて下さい(ドイツ語)」、「もっと大きな信仰を下さい(スウェーデン語)」、「もっと強い信仰を下さい(フィンランド語)」です。次に来るイエス様の答えから推測すると、弟子たちの質問の意図は、何か奇跡の業が出来るようになるのが大きな信仰だと考えていたことが伺えます。奇跡の業を行えるような信仰を与えて下さいということだったでしょう。それに対するイエス様の答えはどうだったでしょうか?お前たちにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に命じると木は自分から根こそぎ出て行って海に移動するなどと言う。

 からし種というのは、1ミリ程の極小の種でそれが3~4メートル位の木に育つと言われています。それなので、イエス様の答えを聞くと、弟子たちが桑の木に命じてもそんなことは起きないから、彼らの信仰は極小のからし種にも至らない、超極小だ、と言っているように聞こえます。せっかく弟子たちが自分たちの信仰は大きくないと認めて、だから大きくして下さいとお願いしたのに、お前たちの信仰はからし種よりも小さくて救いようがないと言ってることになってしまいます。しかも、どうしたらからし種位の信仰が得られるかということについては何も言いません。イエス様は教育的配慮が欠けているのでしょうか?

 もう一つの教えは、召使いを労わない主人のたとえです。職務を果たして当たり前、労いも誉め言葉もありません。召使いもそれが当たり前と思わなければならない。一般に子育てや教育の場では、ほめることは子供に達成感を味わさせて、自己肯定感を育てることになると言われます。ほめられたり労らわれるというのは、自分のしたことが認められたということで、そこから自分が存在することには意味があるんだ、自分はいて良かったんだという思いを抱かせます。イエス様の言っていることは自己肯定感の育成にとってマイナスではないか、教育者として失格ではないか?そんな疑問が生まれます。からし種の教えを見ても、イエス様は思いやりに欠けるのではと思わせます。果たしてそうなのか?以下に見ていきましょう。

2.キリスト信仰者の自己肯定感

最初に、召使いを労わない主人のたとえを見ていきます。イエス様は自己肯定感の育成にマイナスなことを教えているのか?ここで注意しなければならないことは、ここでイエス様が言われる「命じられたこと」とは、神が人間に命じることです。人間が人間に命じることではありません。というのは、イエス様のたとえの教えで「主人」とか「王様」が出てきたら、たいていは天の父なるみ神を指しているからです。それで「命じられたことをする」というのは、神が人間に命じたことをするということ、つまり、人間が神の意思に従って生きることです。人間の雇用者と被雇用者、親と子、先生と教え子の関係ではありません。

 神が命じていることをする、人間が神の意思に従って生きるというのは、突き詰めて言うと、イエス様が教えたように、神を全身全霊で愛することと、その愛に基づいて隣人を自分を愛するが如く愛するということに集約されます。キリスト信仰者は神から何も労いも誉め言葉もないと観念して、神から何も見返りを期待しないでそれらのことを当たり前のこととして行わなければならない。たとえ自分としては、神さま、こんなに頑張ったんですよ、と言いたくなるくらいに頑張っても、神の方からはそんなの当たり前だ、と言われてしまう。そうなると、何か成し遂げても顧みられず、次第にやっていることに意味があるのかどうかわからなくなってきます。これでは、自己肯定感なんか生まれません。

 ところが、神は、私たちにとって労いや誉め言葉など取るに足らないものだ、そんなものがなくても私たちは全然平気だ、と思わせるような、そんな大きなことを実は私たちにして下さったのです。何をして下さったのかと言うと、御自分のひとり子イエス様をこの世に贈られたことです。それは、私たちが持ってしまっている神の意志に反しようとする性向、罪のために神と私たちの結びつきが断ち切れていた、それを神はイエス様を犠牲にしてまで回復して下さったのです。どのようにして回復して下さったかというと、イエス様が私たちの罪をゴルゴタの十字架の上にまで背負って運び上げて、そこで私たちの身代わりに神罰を受けて、私たちに代わって罪の償いを神に対して果たして下さったのです。

 さらに神は一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させることで、死を超える永遠の命があることをこの世に示され、そこに至る道を私たち人間に開かれました。私たちは、このイエス様こそ救い主と信じて洗礼を受けると、彼が果たした罪の償いを自分のものにすることができて、永遠の命に至る道に置かれて、その道を歩き始めます。私たちは、この与えられた神のひとり子の償いを手放さずにしっかり携えてこの道を歩み続けると、かの日、創造主の神のみ前に立たされる時、大丈夫、何もやましいところはない者として見てもらえると安心して立つことができます。本当を言うと、失敗だらけ至らないことだらけだったのだが、その度にいつも心の目をゴルゴタの十字架に向けて罪の赦しを祈った。すると、一度打ち立てられた罪の赦しは揺るがずにある、だから心配しなくてもよい、といつも神から言われた。その度に心は畏れ多い気持ちと感謝の気持ちで満たされて再び永遠の命の道を歩み始めることが出来た。永遠の命の道とは、このように繰り返し繰り返し赦されるという道です。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、そのような道に置かれて歩む人生になるのです。その道を歩む者を神は義なる者と見て下さり、それでその人はかの日に神のみ前に心配せずに立つことが出来るのです。

 ここにキリスト信仰者の自己肯定感があります。本当は自分には神の目から見て至らないことが沢山ある、神の意思に反する罪がある、しかし、イエス様のおかげで、そしてそのイエス様を救い主と信じる信仰を携えて歩めたおかげで、神のみ前に立たされても全く大丈夫でいられる、何もやましいことはないと見なしてもらえる。そのようになれるために神は私にイエス様を贈って下さった。まだ私が何か神の目にかけてもらえるようなことをするずっと以前に贈って下さった。それどころか、私は神に背を向けて生きていたにもかかわらず、神はこの私にイエス様を贈って下さったのだ。

 このことがわかると、やるべきことをして労われて誉められるというのはどうでもよくなります。というのは、やるべきことをする前に先回りされて労われて誉められたような感じになるからです。だからキリスト信仰者は、後はただ神に命じられたことをするだけ。別に労われたり誉められたりしなくても全然平気なのです。そんなものは一足先に十分すぎるほど頂いてしまったからです。この私が神の前に立たされても大丈夫でいられる、やましいところはないと見なしてもらえるということを、神はひとり子を犠牲にしてして下さった。創造主の神がこれだけ私に目をかけて下さったのだ。これがキリスト信仰者の自己肯定感です。何かしたことに対して神から見返りを期待しないでいられる自己肯定感です。別に見返りなんかなくても平気でいられる自己肯定感です。

 もちろん、人間同士の間でほめたり労ったりすることは、やる気や自己肯定感を生み出すために大切です。ただ、キリスト信仰者の場合は、人間同士の関係から生まれてくる自己肯定感よりももっと深いところで創造主の神との関係から生まれてくる自己肯定感があります。それなので、これをすればあの人にほめられる、目をかけてもらえる、便宜を図ってもらえるというようなことが出てきた時、もしそれが神の意思に沿わないことならば、別に人間なんかにほめられなくてもいいや、と言って神の意思に踏みとどまります。それは、神にほめられるためにそうするのではなく、何度も言うように、既に神に十分すぎるほど目をかけてもらっているからです。神がひとり子を犠牲にしてもいいと言う位に目をかけてもらったのです。それでせいせいした気持ちでいられます。

 本日の旧約の日課ハバクク書の箇所には、周囲は不正と暴力が溢れ、正義が歪曲されてしまった状況が描かれています。その中で、神の義に生きる者はどうしたらいいのかという問いに対する答えがあります。それは、神の救いの約束はなかなか実現しないように見えても、必ず実現するから、神の意志に反する者たちの言うことを聞くな、神の意志に従えば永遠の命に与れるということを明らかにしています。このことは、イエス様が来られる前の時代には確信を持つことは難しかったかもしれません。しかし、イエス様が来られた後は神の約束は実現すると確信が持てるようになったのです。この確信を得たキリスト信仰者は臆病の霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊を与えられているとパウロは本日の使徒書の日課第二テモテの個所で述べています。

 それなので、自己肯定感が神との関係から生まれてくるものがなくて、人間同士の関係から生まれるものだけだと、少し心もとない感じがしてきます。何をすれば何を言えば周囲から評価されるか注目されるか便宜を図ってもらえるか、果ては選挙で投票してもらえるか、ということに心を砕いてしまって、それに自分を一生懸命あわせていかなければならなくなります。自己肯定感のためにやっていたはずのことが、いつの間にか肝心の自己が周囲や便宜を図る者に造られていっていまうのです。

3.からし種のように成長するのは信仰か?

次にからし種のたとえの教えを見てみましょう。イエス様の答えは、お前たちの信仰は極小のからし種にも至らない超極小だと言っているように聞こえ、それでは弟子たちをがっかりさせてしまうのではと思わせます。それで、お前たちは、せめてからし種くらいの信仰を持て、そうすれば奇跡を起こせるぞ、と言っているように聞こえます。イエス様は本当にそういうことを言っているのでしょうか?もしそうだとすると、どうして、こうすればからし種程度の信仰が得られると教えてくれないのでしょうか?

 まず、イエス様の言葉に肉迫してみましょう。日本語訳は「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば」と言っています。後の文と一緒にしてみると、実はお前たちにはからし種一粒ほどの信仰さえない、ということを暗示します。そうすると、「もしあなたがたに(…..)あれば」というのは、あなたがたにはないことを前提に言っていることになります。高校の英文法で言えば、事実に反することを暗示する仮定法過去です。ところがギリシャ語原文は仮定法過去ではなく素直な仮定法現在です(後注1)。つまり、ここは事実に反することを暗示してはおらず、ただ単に「もし信仰をからし種のように持っていれば、次のようなことになるだろうし、もし持っていなければならないだろう」と中立的に言っているだけです。お前たちは今持っていないとも持っているとも言っていないのです。そして不思議なことに、続く文が仮定法過去に変わっていて事実に反することを暗示しています。つまり、「お前たちが桑の木に命じたら言うことを聞くだろうが、実際にはお前たちは命じないだろうから、桑の木も実際にはそういうことをしないだろう」という意味です。

 さあ、混乱してきました。今まで多くの方が理解していた理解がぐちゃぐちゃになってきたと思いますので、整理してまいりましょう。

 からし種というのは先にも申しましたように、1ミリにも満たない極小の種から数メートルの立派な木が出てくるという位の驚異的な成長を遂げる種です。弟子たちは「信仰を増やして下さい」とイエス様に願いました。それに対してイエス様は、からし種を思い浮かべなさい、極小なものから大きな木が育つではないか、お前たちも同じだ、極小のものが大きなものに育つのだ、信仰を大きくして下さいと言って、一挙に、ハイ大きくしてもらいました、というものではない。プロセスを経て大きくなるものだ。しかし、必ず大きくなる、からし種が木に育つように(後注2)。

 このように、ここは、お前たちの信仰は極小のからし種にも及ばないと言っているのではなく、信仰とは極小から大きな木に育つからし種のように成長することに関係しているということなのです。弟子たちをがっかりさせているのではなく、からし種が成長するのと同じように成長を遂げると勇気づけているのです。ここで問題になるのは、じゃ、成長したら奇跡の業を行えるようになるのか?行えなければ成長したことにならないのか?ということです。ここで、奇跡の業というのは、神の「恵みの賜物」(χαρισμαカリスマ)の領域であることを思い出しましょう。みんながみんな行えるものではないのです。誰が奇跡の業を行えて、誰が行えないか、これは神が聖霊を通して自由に決めることです。人間は立ち入ることは出来ません。奇跡の業を行う者が持てないような「恵みの賜物」もあるのです。だから、人目を引く業ができるからと言って、あの人の信仰は成長したと言ってはいけないのです。人目を引かない業もあるのです。しかしながら、人は往々にして人目を引くものに基づいて判断しがちです。

 それでも、恵みの賜物がどれだけ異なっていても、キリスト信仰者全員が共通して持つことになる奇跡の業があります。それは神のみ前に立つことになるその日、至らないこと失敗がいろいろあったにもかかわらず、神から大丈夫、やましいところはないと宣せられて、栄光に輝く復活の体を着せられることです。ルターも、キリスト信仰者が完全なキリスト信仰者になるのは肉の体が滅び去って復活の体を持つときだと言っています。「恵みの賜物」は異なっていても、これだけは全員同じです。

 そこでもう一つ大事なことを申し上げます。「信仰が成長する」とよく言われますが、正確には「信仰を携えて私たちが成長する」ということです。信仰とはイエス様を救い主と信じる信仰ですが、それが成長するのではなく、それを携えた私たちが成長するということです。どういうことかと言うと、先週スオミ教会の礼拝の後で聖書研究会を行いました。学んだ箇所はローマ10章1~13節。かつてモーセは、律法は難しくない、それは人間が行えるようにと口と心の中に置かれているのだ、と教えました。それに対してパウロは、人間を罪の支配から贖い出して下さったキリスト自体が信仰と洗礼を通して人間の口と心の中に置かれているのだと教えました。それで、かつては、口と心の中にある律法を行うことで人間は神から義と認められて救われるということだったが、今度は、口と心の中にあるキリストの贖いを、口にあるからそのままイエスは主である言い表し、心の中にあるからそのままイエスは死から復活したと信じれば義と認められ救われるのだ、と教えたのです。パウロにとって信仰とは、キリストの贖いが口と心の中にある位に身近にあって、それで口でその通りに言い表して心でその通りに信じることなのです。

 それなので、キリストの贖いを口と心の中に持つキリスト信仰者は口でその通りに言い表し心でその通りに信じることを、この世の人生の中で行う。これが信仰を携えて成長することです。それはあたかも、口と心の中にあるキリストの贖いという大きなものに小さな自分を適合させていくようなことです。先ほども申しましたように、毎日自分が神の目から見て至らないことがある、罪を持っているということに気づかされ、その度にゴルゴタの十字架に心の目を向け、自分が罪の償いを着せられていることを確認してまた歩み出すという繰り返しがあります。その繰り返しをすることもキリストの贖いを口と心の中で携えて成長することです。最初は極小の種みたいだったのが最後は大きな木になります。その時が復活の日なのです。

 こういうふうに見ていくと、イエス様の主眼とするところは、だんだん、奇跡の業を起こせることで信仰が大きいとか小さいとか判断することをやめよ、ということになっていきます。先にも申しましたように、奇跡の業を起こせることは「恵みの賜物」の領域で人間が立ち入ることは出来ません。奇跡の業を起こせて信仰が大きい起こせなくて小さいという問題ではないのです。イエス様は弟子たちに、お前たちがそんな考えにとらわれているんだったら、これでどうだ、と言わんばかりにこのからし種の話を出してきたことがわかります。奇跡の業を起こすのは別に大きな信仰なんかではないと思い知らせるために、奇跡の業をからし種のような極小のものに結びつけて見方をひっくり返す。そして、奇跡の業の例として取り上げたものも、たまたまその辺に生えていた桑の木を指さして、その木が自分から抜け出して海に行ってそこで生えるというような、あまり意味のないどうでもいいものにする。このように見ることができれば、イエス様の主眼は一般に言われるような、お前たちはからし種位さえの信仰もないので奇跡は起こせない、せめて、からし種位の信仰を持て、そうすれば起こせる、ということではありません。そうではなくて、奇跡の業を起こすのが大きな信仰ではない、信仰者にとって大事なのは神から与えられたキリストの贖いの信仰を携えてからし種のように成長することである、ということなのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

(後注1)ギリシャ語原文は、ει εχετεです。仮定法過去にしようとしたら、ει ειχετεかει εσχετεになるべきでしょう。

(後注2)εχετε - ως ~は、「~のように-を持つ」ですが、私の辞書(I. Heikel & A. Fridrichsenの”Grekisk–Svensk Ordbok till Nya Testamentet och de apostoliska fäderna”)には、「~として-を考える、~として-を見なす」というのもあります。

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

 

2022年8月14日 聖霊降臨後第10主日 主日礼拝はフインランドからのヴィデオ礼拝になります。

司式・説教 ティモ・ハヴカイネン宣教師

説教題 「キリストの火」

礼拝をYouTubeで見る

聖書 エレミヤ23:23-29

   ヘブライ11:29-12:2

   ルカ12:49-56

讃美歌 238,131,467,154

音楽 マリ・リ-サ・ハヴカイネン

   ティモ・ハヴカイネン

ヴィデオ編集 ティモ・ハヴカイネン

2022年8月7日 聖霊降臨後第9主日 主日礼拝はフインランドからのヴィデオ礼拝になります。

司式・説教 ティモ・ハヴカイネン宣教師

説教題 「婚宴から帰って来た主人」

礼拝をYouTubeで見る 8月7日10時30分~

聖書 創世記15章1-6節

   ヘブライ11章1-3節

   ルカ12章32-40節 

讃美歌 244,236,200,371

音楽 マリ・リ-サ・ハヴカイネン

   ティモ・ハヴカイネン

ヴィデオ編集 ティモ・ハヴカイネン

 

2022年6月26日(日)聖霊降臨後第3主日 主日礼拝

主日礼拝説教 2022年6月26日(聖霊降臨後第三主日)

列王記上19章15~16、19~21節
ガラテア5章1、13~25節
ルカ9章51~62節

礼拝をYouTubeで見る

説教題「将来の神の国の一員として、神の国について証ししよう」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 これまでガリラヤ地方を主な活動舞台にしてきたイエス様が、ついに運命的なエルサレム行きを決意し、そこを目指して歩み始める。本日の福音書の箇所の冒頭は、このことを記しています。イエス様は、既に弟子たちに前もって告げ知らせていたように(ルカ9章22節、44節)、エルサレムでどんな運命が待ち受けているか、自分でもよく知っていました。行けば、苦しみを受け殺される、しかも普通の人間が被る死とは異なる、もっと重い死を被ることになる。それを知って向かうのです。しかし、それは、神の人間救済計画の実現のためにしなければならないことでした。まさにそのために、イエス様は、天の父なるみ神のもとからこの世に贈られてきたのですから。

 さて、ガリラヤ地方からエルサレムに行こうとすると、その間にサマリア地方があります。そこに住むサマリア人たちとユダヤ人たちは、歴史的・宗教的な理由からお互いに反目し合っていました。サマリア地方は古くは、ダビデの王国が南北に分裂した後は北王国の中心でした。しかし、北王国は次第に、天地創造の神でありまたイスラエルの民を奴隷の国エジプトから導き出した神から離れ、カナンの地の土着の霊であるバアルの信仰に染まっていきます。この辺の事情は、預言者エリアの孤独な戦いについて列王記上の中に記されています。神から離れた北王国は紀元前700年代にアッシリア帝国に滅ぼされます。国の主だった人たちは占領国に連行され、代わりに異民族が送られてきます。そうして、サマリア地方は宗教的・民族的な純粋さを失っていきます。サマリア人たちは、旧約聖書のモーセ五書は持ち続けましたが、預言書は無視しました。また神に生け贄を捧げる場所としてゲリシムという山を選び、エルサレムの神殿も無視していました。そういうわけで、ユダヤ人たちはサマリア人を毛嫌いし接触を避けていました。ユダヤ人のそういう態度は福音書の随所に出てきます。本日の福音書の箇所で、イエス様一行がサマリアの村に宿と食事の提供を願い出て拒否されますが、その理由として、イエス様がエルサレムを目指して進んでいたからと記されています。サマリア人としては、誤った礼拝場所に巡礼に行く者たちをどうして世話しなければならないのか、ということだったのでしょう。この拒否に怒った弟子たちが、こんな村は神の力で焼き尽くされるべきだといきり立ちました。これに対してイエス様は、そんなことを言ってはいけないとたしなめ、その村はそのままにして、別の村を経由して行きました。

 このサマリア地方での出来事に加えて、本日の福音書の日課では、イエス様に付き従うことについての教えがあります。三人の男の人が登場します。そのうち二人は自ら志願します。一人はイエス様が付き従いなさいと声をかけます。しかし、いずれの場合もイエス様は、付き従うことに二の足を踏ませるような厳しいことを言います。特に、イエス様が自分で付き従いなさいと声をかけた人に対して、その人がまず死んだ父親を埋葬してから来ます、と言ったのに、イエス様は、埋葬は他人に任せて、あなたはただ神の国を言い広めなさい、と命じます。これは、日本のように死んだ人の霊を崇拝する伝統が強いところでは、キリスト教はなんとひどい宗教だという反感を生み出すことになります。このイエス様の教えについて、本説教の後の方で見てみます。

 サマリア地方の出来事は一見すると、イエス様は慈悲深い愛に満ち方であることを言っているように見えます。イエス様につき従うことの教えの方は逆に、彼の弟子になることにとても厳しい条件を課しているように見えます。しかし、そういうイエス様の優しさとか厳しさという理解はまだまだ浅い理解です。このサマリアの出来事と弟子の条件の教えは、一見すると関連性がないみたいですが、実はあります。それを理解するカギは今日の個所に2回出てくる言葉「神の国」です。人間と「神の国」の関係が今日の日課の中で問題になっているとわかると、イエス様は心優しいお方とか厳しいお方とかいうような頼りない理解を突き破って堂々とした理解に入ることができます。

2.「神の国」とはどんな国?

 そのためには、まず「神の国」がどんな国かわからないと話になりません。特に一般的また俗に言う「天国」と大きく違うことがわからないといけません。両者を混同してはいけないのです。俗に言う「天国」は人間が死んだら天使のように空に舞い上がって行くところで、亡くなった方が上からこちらを見下ろしているとか見守っているとかいう所です。ところが、キリスト信仰の「神の国」は全く異なります。聖書では、「神の国」は人間が「行く」ところではありません。そっちの方がこちらに「やって来る」ものです。

 例えば、イザヤ書の終わりの方で(65章17節、66章22節)、今ある天と地が新しい天と地に再創造される日についての預言があります。黙示録21章ではまさにその再創造の日に「神の国」が新しい天と地のもとに降りてくると預言されています。「ヘブライ人への手紙」12章では、今ある天と地と全ての被造物が共に激しく揺さぶられて崩壊していくなかで、ただ一つ揺さぶられずに現われるのが「神の国」であると言っています。黙示録21章はまた「神の国」がどういう国か次のように述べています。そこは「神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」(黙示録21章3‐4節)。神が全ての涙を拭うというのは、痛みの涙だけでなく無念の涙も全て含まれます。「神の国」が現われる天地の大変動の時はまた、最後の審判が行われます。それなので、前の世で被ってしまった不正義は全て最終的に清算されて完全な正義がやっと実現する国です。さらに「神の国」は黙示録19章で盛大な結婚式の披露宴にたとえられます。つまり、この世の労苦がすべて報われて労われる国ということです。

 「神の国」がそういう遠い将来に新しく再創造された天と地のもとにやって来る国となると、誰がそこに迎え入れられるかという問題があります。不正義は入り込む余地がないことから、誰もがということではないことが明らかです。誰が将来到来する「神の国」に迎え入れられるかという問題に取り組んでいるのが聖書です。その問題の解決策として、天地創造の神はひとり子をこの世に贈った、これが聖書の一番伝えたいことです。

 聖書の立場は、人間はそのままの状態では「神の国」に迎え入れられないというものです。ヨハネ3章でイエス様がはっきりそう言っています。どうしてかと言うと、人間には最初に造られた人間の時から神の意志に反しようとする性向、罪を持ってしまっているからです。そのため、人間は神との結びつきを失ってしまい、死ぬ存在になってしまったと創世記に記されています。人間はそのままの状態では神との結びつきを持たないでこの世を生きることになり、この世から去った後も神のもとに戻ることは出来ません。それで神は、人間が再び自分との結びつきをもって生きられるようにしてあげよう、この世から去った後も天地再創造の日に復活を遂げさせて永遠に自分のもとに戻れるようにしてあげよう、そう決めてひとり子を贈られたのでした。そのひとり子イエス様を贈って何をしたかと言うと、神と人間の結びつきを失わせている罪を全てイエス様に背負わせてゴルゴタの十字架の上に運び上げさせて、そこで人間に代わって罪の罰を受けさせたのです。つまり、人間に代わってイエス様を断罪して、この神のひとり子の身代わりの死に免じて人間を赦すという手法を取ったのです。

 そこで今度は人間の方が、十字架の出来事は自分のためになされたとわかって、それでイエス様は自分の救い主だと信じて洗礼を受けると、神から罪の赦しをお恵みのように頂けます。神はまた、一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させて、死を超える永遠の命があることをこの世に示し、そこに至る道を人間に切り開かれました。それで、イエス様を救い主と信じ洗礼を受けて罪の赦しを受け取った者は、その道に置かれて歩み出します。行き先は、天地再創造の復活の日に復活を遂げて父なるみ神のもとに永遠に迎え入れられる地点です。それが「神の国」です。

 それなので、キリスト信仰にあっては、「神の国」は死んでフワフワ上がって行ってそこから下を見下ろす所ではありません。遠い将来にそれが到来する日を目指して進んでいくところです。イエス様が祈りなさいと命じた「主の祈り」の中でも「御国を来たらせたまえ」と祈ります。ここにキリスト信仰とそれ以外の死生観の大きな違いがあります。

 ここで起こって来る疑問は、この世で「神の国」が到来する日を目指しながら歩んでも、その日の前に死んでしまったらどうなるのかということがあります。キリスト信仰にあっては、その日までは安らかに眠っているのです。イエス様もパウロも、キリスト信仰者にとって死は復活の日までの眠りに過ぎず、その日に復活の主であるイエス様が来て起こしてくれると言っています。眠っているから、下を見下ろしたり見守るということもありません。ここにもキリスト信仰の死生観のユニークさがあります。

3.サマリアの人たちは方向転換した

 それでは、福音書の日課に戻りましょう。イエス様は、エルサレムを目指し始めました。それは、受難と十字架の死と死からの復活を全てこなして神の人間救済計画を実現するためでした。それを実現すれば、人間はたとえ罪の汚れを持っていても、イエス様を救い主と信じる信仰のゆえに、神聖な神の国に迎え入れることができるようになります。

 このような全人類史的な意義を持つ任務を負ったイエス様をサマリア人の村が受け入れを拒否しました。憤慨した弟子のヤコブとヨハネは天から火を送って焼き払ってしまったらどうですか、イエス様に聞きます。彼らの言葉づかいは、列王記下の1章で預言者エリアがバアル崇拝に走る国王の使者を天からの火で焼き殺した時の言葉を思い出させます。実際、弟子たちは、この出来事が脳裏にあったのでしょう。しかし、イエス様は、拒否したサマリア人の村はそのままにしておきなさい、と言われる。なぜでしょうか?

 イエス様が心優しい慈愛に満ちた方だからと言うのは、まだ核心を捉えていません。イエス様は、父なるみ神同様、全ての人間が神との結びつきを回復して、その結びつきを持ってこの世を生きられるようにしてあげたい、そしてゴールとして「神の国」に迎え入れてあげたい、と考えていました。それで、もし反対者をいちいち焼き滅ぼしてしまったら、せっかく罪びとが神の国の一員になれるようお膳立てをしに来たのに、それでは受難を受ける意味がなくなってしまいます。マタイ福音書5章45節で、イエス様は、神が悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しいものにも正しくない者にも雨を降らせる、と言っていたことを思い出しましょう。なぜ、イエス様はそのように言ったのでしょうか?神は、悪人が悪行をさせるままにまかせる気前の良い方だということなのでしょうか?いいえ、そうではありません。悪人に対しても、善人同様に太陽を昇らせ、雨を降らせる、というのは、悪人がいつか神に背を向けた生き方から方向転換して神に立ち返る生き方に入って神の国に迎え入れられるようにしようと猶予期間を与えているのです。もし太陽の光も与えず水分も与えないで悪人を滅ぼしてしまったら、方向転換の可能性を与えないことになってしまいます。それだから、悪人の方も、いい気になって、いつまでも方向転換をしないで済ませていいはずがない、と気づかなければならないのす。もし、この世の人生の段階で方向転換がないと、それは神罰を受けないで済むための「罪の赦し」を拒否したことになります。

 それでは、このサマリア人の村はどうだったのでしょうか?猶予期間を与えられて方向転換したでしょうか?それがしたのです!使徒言行録の8章を見て下さい。ステファノが殉教の死を遂げた後、エルサレムにおいてキリスト信仰者に対する大規模な迫害が起きました。多くの信仰者がエルサレムから脱出して、近隣諸国に福音を宣べ伝え始めます。その時、まっさきにキリスト信仰を受け入れた地域がサマリア地方だったのです。あの、エルサレム途上のイエス様を拒否した人たちが、イエス様を救い主として信じる信仰に入ったのです。これで、なぜイエス様が、村を焼き滅ぼすことを認めなかったのかが理解できます。イエス様の考えには、人間が「神の国」に迎え入れられることが全てに優先されるということがあったのです。そのことが受け入れを拒否したサマリア人にも適用されたのです。イエス様は、まさにこれから、人間が神との結びつきを回復させて、「神の国」に迎え入れられるようにするお膳立てをしに行くところだったのです。

4.将来の神の国の一員として、神の国について証ししよう

 次に、イエス様に付き従うことも、神の国に迎え入れられることに関係することを見てみましょう。

 三人の男の人が登場します。最初の人は、イエス様に付き従うことを志願します。それに対するイエス様の答えは、付き従いの生活はそんなに甘くはない、というものです。エルサレムまで一緒に上っていく途上で、いつもマリアやマルタの二姉妹のような支持者から食事と床を提供される保証はない、場合によっては食べるものもなく、雨風にさらされて寝ることにもなる、そのようにしてエルサレムまで行って、イエス様の十字架と復活につきあって目撃者となったら、あとはどうなるのか?復活後のイエス様は天に上げられてしまう。そうなると、もう付き従うイエス様はいらっしゃいません。イエス様につき従うこともそれで終わってしまうのか?実はイエス様の発言は、昇天以後のことも視野に入っていたのです。一度、神の国に迎え入れられる道に置かれてそれを歩み出したら、今度は他の人もそこに迎え入れられるように働きかけをしなければならないのです。なぜなら、全ての人が神との結びつきを回復して生きられるようになることは神の御心だからです。そうするとこの働きも、イエス様と一緒にエルサレムに上っていくことと同じように、安逸の保証がないものになります。いつも支持者や賛同者に囲まれるとは限らず、いつも寝食が満足に得られる保証もないのです。

 このことが、二番目の男の人のところで明確に出てきます。父親の埋葬には行かず、神の国を言い広めよ。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」と言うのは、死体を死体のところにほおっておけというような、死体遺棄ではありません。「死んでいる者たち」とは、神との結びつきを回復していない人たちを指します。永遠の命に至る道を歩んでおらず、この世から死んだら、復活を果たせず永遠の滅びに陥ってしまう人、これを「死んでいる者たち」と言っているのです。父親の埋葬はそのような人たちに任せて、あなたのなすべきことは、「神の国」について教え伝えることだとイエス様は言うのです。つまり、人々が「神の国」に迎え入れられるように働きなさいということです。人々が神との結びつきを持って生きられるように助けなさい、永遠の命に至る道に入って歩めるようにしなさい、つまり、「死んでいる者たち」をそのように生きる者にしなさいということです。

 こうして見ると、ここのイエス様の教えは、キリスト信仰者は親の葬儀をするな、軽んじろ、ということではないことがわかります。葬儀をするにしても、人々を「神の国」に迎え入れられるように導きなさい、ということです。その意味でキリスト教会の葬儀はこの任務に取り組んでいます。故人にゆかりのある人たちが集まって、その方の死を悲しみ、遺族の悲しみと個人の懐かしい思い出を心を一つにして分かち合い、また遺族に慰めの言葉をかけて励まし合う、ここまではキリスト教に限らず他の宗教も同じでしょう。しかし、この先は大きく異なります。先ほども申しましたように、キリスト信仰では、死は復活の日までの安らかな眠りに過ぎず、復活の日に復活を遂げられたら、今度は懐かしい人との再会があるという希望があります。復活の体と永遠の命を持つ者同士が合いまみえるという希望です。キリスト教の葬儀では、悲しみの中でもこの再会の希望が確認されます。そのようにして、参列する人たちが「神の国」に迎え入れられることを再確認し合い、参列者がキリスト信仰者でない場合は、「神の国」がどのようなものであるかを伝える伝道的な意味を持つ、これがキリスト教の葬儀です。「あなたは行って、神の国を言い広めなさい」という主の命令は、そこでも守られているのです。

 ここで日本のキリスト信仰者にとって重い課題となるのは、参列する葬儀がキリスト教式でなかったらどうすべきか、ということです。これも、「あなたは行って、神の国を言い広めなさい」が原則になります。つまり、まだ「神の国」に向かう道を歩んでいない人たちに、自分がまさにその道を歩んでいることを証し、さらにその人たちをその道に導いていくことができれば、この原則に沿ったものとなります。その時、死んだ者の葬りを死んだ者に任せるくらいに「神の国」を言い広めることになっています。しかし、証しや導きは具体的にはどういう形をとるでしょうか?本説教では、こうしなさい、ああしなさい、ということは言わず、皆さんお一人お一人の心に問題提起をすることにとどめておくことにします。

 さて、三番目の男の人の場合です。「鋤に手をかけて後ろを振り返る者は、神の国にふさわしくない」と主は言われました。ここで早合点してはいけないのは、イエス様は家族を見捨てろと言っているのではないということです。イエス様の原則からすれば、家族ももちろん「神の国」に迎え入れられるように導く働きかけの対象です。その意味で、家族のもとには留まれるのです。この三番目の男の人のところで問題になっていることは、家族に対して「神の国」に向かう道に導く働きかけをしないで家族のもとに留まると、自分自身が道を踏み外してしまうリスクがあるということです。家族の絆というのはそれ位強力なものです。しかし、家族の人たちが「神の国」に迎え入れられるように働きかけをすれば、絆は保っていても「神の国」に相応しいのです。そうは言っても、家族の人たちがイエス様に関心があるとか、救い主として受け入れる準備があるとか、そういう理想的な場合はなかなかないでしょう。イエス・キリストの名を口にしただけで嫌な顔をされてしまうのが大半なのではないか?それなら、まず祈ることから始めます。私たちの愛する人たちが私たちと一緒に「神の国」に向かう道を歩めるように、一緒に復活を遂げて将来そこに迎え入れられるように父なるみ神に知恵と力と勇気をお願いします。

 兄弟姉妹の皆さん、以上からおわかりのように、イエス様の厳しい教え、葬式に出るなとか家族を捨てろと言っているように見える教えは、そうすることが目的なのではなく、「神の国」を証しし言い広めることが真の目的なのです。そのために「神の国」がどういう国かわからないと話になりません。今日の説教でもそれがわかるようにお話しした次第です。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン