2025年5月11日(日)復活節第四主日 礼拝  説教 吉村博明 牧師

主日礼拝説教 2025年5月11日 復活後第四主日

使徒言行録9章36節ー43節、黙示録7章9節ー17節、ヨハネ10章22ー30節

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説教題 「小羊の血で衣を白くされた者として」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 本日の福音書の箇所でイエス様は自分の羊について述べます。「わたしの羊は私の声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。私は彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。」(10章27ー28節、後注1)。イエス様の羊は、彼の声を聞き分けて従い、永遠の命を与えられて、この世においても次に到来する世においても滅ぼそうとする者から完全に守られている。そのような羊とは誰のことか?それは言うまでもなく、イエス様を救い主と信じ洗礼を受けて神との結びつきを持って生きるキリスト信仰者のことです。

 イエス様の「声を聞き分ける」とはどういうことか?死から復活して天に上げられたイエス様の肉声を私たちは直に聞くことはできません。しかし、イエス様が肉声で語った言葉は、弟子たちの目撃録・証言録となって福音書の中に収められています。もしイエス様を自分の救い主と信じないで、ただ単に歴史上の人物に留めて福音書を読むと、それはただの古代中近東の空想的歴史的な物語、または一種の道徳説話集にしかすぎなくなります。しかし、イエス様を自分の救い主と信じて読むと、それはこの自分を形作って命と人生を与えてくれた創造主の神が語りかける言葉になり、その神と自分との結びつきを取り戻してくれた救い主メシアの言葉になります。まさに彼が私たちに語りかける言葉になるのです。聖書の福音書以外の書物についても、使徒たちの手紙は復活の主が彼らに託したご自分の意思の集大成です。旧約聖書も、神のひとり子の受難と復活を通して人間に救いをもたらした神がどのような方であるかを前もって明らかにした書物群です。総じて聖書はイエス・キリストが至るところにいる書物です。聖書を繙くと、私たちはイエス様から直接言葉を聞くのと同じくらいに彼のことを知ることができるのです。

 イエス様はまた、彼の羊つまりキリスト信仰者をみな知っていると言われます。10章3節で、羊飼いのイエス様は「自分の羊の名を呼んで連れ出す」と言っています。このようにイエス様は、私たち一人ひとりを名前で呼ぶくらいに私たちのことを個人的に知っているのです。ということは、私たちが日々何を考え、何をし、どんな状況に置かれて何を必要としているか全てご存知です。そして、何ものも彼の手から羊を奪い取ることはできないと言われる通り、信仰者を守る決意でいます。人生歩んでいろんな苦難や困難に遭遇するとキリスト信仰者と言えども、自分は本当に守られているのだろうかと疑いを持つことがあります。しかし、永遠の命を与えてくれた以上、その命が本当のことになるまで守り導くと言うのです。羊の方は彼の声を聞き分ける、つまり聖書の御言葉を心に留めてイエス様に従っていけば、永遠の命が本当のことになる地点までちゃんと送り届けてあげると約束しているのです。

 本日のもう一つの聖書の日課、黙示録の7章では小羊の血で衣を白くされた大勢の群衆が登場します。天使はヨハネにこの光景を見せることで、イエス様がキリスト信仰者を日々守り導き目的地まで送り届けてくれることは間違いないと示しているのです。今日は、黙示録のこの個所を通してヨハネ福音書にあるイエス様の約束が本当であることを見ていこうと思います。

2.小羊の血で衣を白くされて

 黙示録は、今ある天と地が消え去って新しい天と地が創造される時、その前後を通して何が起きるかについて記した預言書です。本日の箇所は、「あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に」立つという場面です。玉座というのは、天地創造の神が座しているところ、小羊というのは神のひとり子、復活の主イエス・キリストのことです。場所は明らかに天の御国です。時は、今ある天と地がまだある時でしょうか?それとも新しい天と地が創造された時でしょうか?黙示録という書物は時間の流れが複雑です。出来事の順序が前後しているようなことが沢山あります。異なる時間に起こることが同時に起こっているようなこともあります。なので、この群衆が出てくる場面は新しい天と地が創造される前のことか後のことかについてはここでは考えないことにします。

 神の座する玉座と小羊の前に白い衣を身に着けた大群衆が集います。いろんな国民や民族の中から集まった、今風に言えばグローバルな集団です。彼らは何者か?天の長老がヨハネに教えます。「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである」(14節)。

 「小羊の血」とは、言うまでもなくイエス様がゴルゴタの丘の十字架の上で流された血のことです。イエス様が流された血で衣が洗われて白くされた、というのはどういうことか?衣服を血なんかで洗ったら白くなるどころか赤くなってしまうではないか?

 イエス様が流された血で衣が白くされるとは次のことです。イエス様は、人間が神から罪の罰を受けないで済むようにと身代わりの犠牲の生け贄になって血を流して死なれました。つまり、イエス様は私たちの罪をご自分の血を代償にして償って下さったのです。だから私たちは、彼こそ自分の救い主と信じて洗礼を受けると、彼の果たしてくれた罪の償いを自分のものにすることができます。そうすると罪を償ってもらったことになるので、神からは罪を赦された者とみなされてそれで神との結びつきを持ててこの世を生きられるようになります。イエス様が復活を遂げて切り開いてくれた永遠の命への道を私たちは神との結びつきを持って歩むことができるようになったのです。

 私たちに償ってもらわないといけない罪があるなんて、身に覚えはないと言う人もいるかもしれません。しかし、私たちは神に造られた最初の人間の堕罪の出来事以来、神の意思に反しようとする性向を受け継ぐようになってしまったというのが聖書の観点です。神の意思を凝縮したものに十戒があります。人を傷つけるな、妬むな憎むな、真実を曲げるな、夫婦関係を守れ等々いろいろあります。私たちは、行為で反することはしなくても、心の中で反したり言葉やその他の表現の仕方でこれらに反することをしてしまいます。それで私たちは皆、神のみ前に立たされたら罪を持つ者なのです。

 聖書はそのような罪は洗い落とさねばならない汚れであると言います。例えばゼカリヤ3章に汚れた衣が人間の罪を表わすという比喩があります。天使が大祭司ヨシュアから汚れた衣を脱がせ、天使はそれでヨシュアから罪を取り去ったと言います(イザヤ1章18節も参照のこと)。生け贄の血が清めの役割を果たすことについては、モーセがイスラエルの民を率いてエジプトを脱出してシナイ半島の荒れ野にて神と契約を結ぶ時、神聖な神の面前に出ても大丈夫なように雄牛の血を民に振りかけたという出来事があります(出エジプト24章8節)。エルサレムに神殿が建設されてから後は、民が個人的な罪や国民的な罪の償いのために動物の生け贄の血を捧げるということが普通に行われるようになりました(レビ記17章11節)。

 しかしながら、動物の生け贄の血で本当に罪が償われるのか、本当に神の御前に立たされてやましいところがない、潔癖だと言える者になれるのかどうかについて意外な事実が隠されていました。生け贄の血にせよ、その他の罪の償いや清めの定めにせよ、それらは実は真の罪の償い、清めの予行演習のようなものにすぎなかったのです。まだ本番ではなかったのです。「ヘブライ人への手紙」9章で、エルサレムの神殿やそこでの礼拝儀式は「まことのものの写しにすぎない」(23節)と言われています。「まことのもの」が来たら無用になると言うのです。神殿では罪の償いのために生け贄の捧げを繰り返し繰り返し行っていました。ところが、一回限りの犠牲で全ての人間の罪を未来永劫にわたって償うという、とてつもない生け贄が捧げられたのです。それが、神の神聖なひとり子、イエス様の十字架の死だったのです。

 こうしてイエス様の犠牲のおかげで神から罪を赦されたと見てもらえるようになった人は、かの日に神のみ前に立つことになっても、私はイエス様を救い主と信じて生きてきました、神聖なあなたの前で私がすがれるのはイエス様しかいません、と言えば、神は、わかっている、心配はいらない、とおっしゃって下さるのです。このように人間が神聖な神のみ前に立たされても大丈夫でいられるのは、神の目に相応しい者になれているからです。ただし、それは私たちが自分の力で相応しい者になれたということではありません。イエス様が果たしてくれた償いと、それをその通りですと受け入れる信仰のおかげでなれたのです。ヘブライ9章で、動物の生け贄の血では人間の良心までは清められない、せいぜいみかけの清めにすぎない、イエス様の血こそ人間の良心を死んだ業から清めると言われます(9~10、14節)。ガラテア3章27節では、洗礼を受けてキリストに結ばれた者は皆、キリストを着ていると言われます。ローマ13章14節では、洗礼の後でも残存する罪と戦うためにキリストをしっかり身に纏うことが大事だと言われます。

 このようにキリスト信仰者とは、イエス様の血によって罪の汚れを洗い落とされて、イエス様という神聖な衣を頭から被せられて、それで神の目に相応しいとされている者です。

 白い衣を着た群衆というのは、イエス様の血で衣を白くされることを自分の事にしたキリスト信仰者のことです。彼らは「大きな苦難を通って来た者」です(14節)。「大きな苦難」とは、黙示録が書かれた背景を考えると迫害を指すと考えられます。しかし、迫害以外にも「大きな苦難」はあります。ここで注意しなければならないことは、迫害による殉教にしろ、何か別の苦難のために命を落としたにしろ、神の御許に迎え入れられるのは、信仰者自身が流した血のご褒美・見返りではないということです。彼らの衣が白いのはイエス様の流した血のおかげです。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者は誰でも同じように白い衣を纏えるので、自分からそれを手放さない限りみな同じように神の御許に迎え入れられるのです。

3.衣を手放さないように神が支えてくれる

 この衣を白く保ち、手放さずにしっかり纏い続けるにはどうしたらよいかということについて考えてみたく思います。

 何が白い衣を汚し、それを手放させようとするのか、二つのことが考えられます。一つは、罪が頭をもたげてしまうということがあります。もう一つは、自分の罪が原因ではないのに苦難や困難に陥ってしまうということがあります。

 まず、白い衣を汚そうとしたり手放させようと力はまさに罪の力です。私たちは、イエス様の果たされた私たちの罪の償いと彼を救い主と信じる信仰によって、罪を洗い落され罪の支配から解放されました。にもかかわらず、神の意思に反するような思いや考えを持ってしまうことがあります。言葉に出してしまうこともあります。最悪の場合は行いに出してしまうこともあります。これは、イエス様の白い衣を頭から被せられても、内側にはまだ罪が残っていることによります。罪は十字架の上でイエス様と一緒に断罪されたのだから、本当は人間と神との結びつきを失わせる力がなくなっています。それでもまだ力があるかのように思わせようと信仰者を惑わします。どうしたら惑わされないですむか、それはもう、罪が頭をもたげたら、それを罪として認め、本気で跳ねのけるしかありません。心の目をゴルゴタの十字架に向けて、罪はあそこで断罪されたことを思い出します。それを思い出されてしまった罪は地面にたたきつけられます。その瞬間、衣を手放させようとした強風はやみます。神は私たちがこのように衣をしっかり纏っていることを見て、よしとされるのです。その時、私たちは汚れがついてしまったのではと心配した衣は以前と変わらぬ白さを持って輝いていることに気づきます。

 そもそも、イエス様の白い衣は汚れなど付着することは不可能で、罪が私たちの目を惑わして汚れが付着しているように見せかけて、纏っていても意味がないと私たちをあきらめムードにして手放させようとしているのです。イエス様が果たした償いの業と彼が纏わさせてくれた白い衣は、私たちに罪が頭をもたげようがもたげまいが全く無関係に同じ力強さ同じ輝きを誇っているのです。

 もう一つ、白い衣を手放させようとするものに、私たちが自分自身の罪が原因ではないのに苦難や逆境に陥ることがあります。難しいことですが、一つ忘れてならないことは、イエス様が果たした償いの業と彼が私たちに纏ってくれた衣に力がなくて、私たちが苦難と困難に陥るのを阻止できないということではありません。

 「主はわたしの羊飼い、わたしには何も欠けることがない」ではじまる詩篇23篇の4節に「死の陰の谷を行くときもわたしは災いを恐れない。あながた共にいてくださる」と謳われます。主がいつも共にいてくださるような人でも、死の陰の谷のような暗い時期を通り抜けねばならないことがある、災いが降りかかる時があると言うのです。主がともにいれば苦難も困難もないとは言っていません。そうではなくて、苦難や困難が来ても、主は見放さずに、しっかり共にいて共に苦難の時期を一緒に最後まで通り抜けて下さる、だから私は恐れない、と言うのです。実に、洗礼の時に築かれた神との結びつきは、私たちが罪の赦しの恵みに留まり、聖書の御言葉から絶えずイエス様の声を聞き、聖餐に与ることをしていれば、何があっても失われず保たれているのです。

4.勧めと励まし

 天の長老は「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである」と言いました。新共同訳では「彼らは大きな苦難を通って来た者」、「通って来た」と過去の形になっています。ギリシャ語の原文をみるとなぜか「苦難の中から来る者」、「来る」と現在形になっています(後注2)。はて、群衆は一通り苦難を通って来た後で天の神のみ前にいるのだから「通って来た者」と言った方が正確ではないか?(後注2)なぜ「苦難を通って来た者」ではなくて、「現在、苦難の中から来る者」なのか?

 これは、天の長老とヨハネの視点が将来のところから今のこの世に戻って、今この世で苦難を通っている人たちを念頭に置いているからです。ヨハネが目の前で見せられている終末の出来事は遠い将来のことで、そこから過去を振り返って見れば「苦難を通って来た者」になります。ところが現在形で「今、苦難の中から来ている者」と言うと、ヨハネの同時代のこの世で苦難を通っている人を指すことになります。加えて、ヨハネの後の時代に黙示録を手にする人みんなにとって自分の同時代の苦難を通っている人を指すことになります。このように、この箇所を読んだり聞いたりする人は、自分が今通過している苦難の現実のすぐ反対側には神のみ前に群衆が集まっている現実があって、二つの現実が紙一重のようになっていることに気づくのです。衣を白くしてくれた小羊は私たちを命の水の源に連れて行ってくれる、そこは太陽の灼熱のような苦難や困難はなく、神が全ての涙を拭って下さるところである、そのような場所が今の現実のすぐ反対側にもうあるのです。復活の主が必ずそこへ連れて行って下さるのです。まさに、ヨハネ福音書の日課の個所のイエス様の言葉、私たちに永遠の命を与え、私たちは彼の手のうちに守られ何ものも私たちを彼の手から奪い取ることはできないというのは真にその通りなのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。
アーメン

 

(後注1)ヨハネ10章29章はとても厄介な個所なので今回は扱いませんでした。

新共同訳では「わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり」となっていて、偉大なものは父なる神がイエス様に与えたものです。

フィンランド語訳では「羊たちを私に与えてくれた父は他の何よりも偉大であり」となっていて、偉大なものは父なる神です。

さあ、偉大なものは神なのか?神が与えたものなのか?英語訳(NIV)とドイツ語訳(ルター訳)はフィンランド語訳と同じです。スウェーデン語訳は新共同訳と同じです。この違いの原因は、ギリシャ語の原文がどっちにも取られるものだからです。私としては、「全てのものより偉大なもの」と言ったらやはり神が来るのが自然ではないかと思います。少し時代が下ったギリシャ語の写本もそのように修正(?)を施しています。

(後注2)13節の長老の質問では、これらの者は「どこから来たのか?」と過去の形になっていることに注意。ギリシャ語原文もそうです。それなので、答え方も分詞の現在形ερχομενοιでなく、アオリストのελθοντες(現在完了形ελελυθοτες?)の方が普通だったら筋が通るのではないかと思いました。だからここは普通ではないことがあるのです。

2025年5月4日(日) 復活節第三主日 礼拝 説教 吉村博明 牧師

主日礼拝説教 2025年5月4日 復活節第三主日

使徒言行録9章1節-20節

黙示録5章11節-14節

ヨハネ21章1-19節

説教題 「現代日本における神の愛と栄光の表し方に関する一考察」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

(なんだか説教題は文系の学生の卒論のテーマみたいになってしまいましたが、内容的にはまさしくそれなのでこの説教題でいきます。)

 本日の福音書の日課は復活されたイエス様がガリラヤ湖にて弟子たちの前に現れた出来事です。ペトロと他の6人の弟子たちがガリラヤ湖で夜通し漁をしましたが、何も獲れませんでした。体も疲れ、お腹も空いて、がっかりぐったりの状態だったでしょう。 そうしているうちに夜が明け始めました。その時、イエス様が湖岸に現れました。弟子たちのいる舟と湖岸の間は200ペキス、今の距離にして86メートル程です。弟子たちは現れた男に気づきますが、初めはイエス様だとはわかりません。それが、イエス様とのやり取りを通してわかるようになります。

 まず、イエス様は弟子たちに「子たちよ、何か食べ物があるか」と聞きます。「子たちよ」というのはギリシャ語原文で大人の男たちに呼びかける言い方です。それで、新共同訳のように直訳せずに「君たち!」とか「お前たち!」というのが正確でしょう。「何か食べ物があるか」というのも、実はギリシャ語原文では、「ありません」という否定の答えを期待する疑問文です(μηで始まる)。なので、「君たちには何も食べる物がないんだろ?」と訳さなければなりません。「ないんだろ?」と聞かれて弟子たちは「そうだよ。ないんだよ」と答えたのでした。答えを受けてイエス様は「それじゃ、舟の右側に網を打ってみなさい。そうすれば見つかるから」とアドバイスします。

 このやりとりから推測するに、弟子たちは、かつて主が群衆を従えていた時と違って、今は処刑された男の仲間だと知られたくない状況になってしまった。以前のように気前よく食事の提供も受けられなくなってしまい、自分たちで食べ物を探すしかない状況になってしまった。彼らは空腹だったでしょう。イエス様は、舟の右側に網を打てば食べる物が見つかると助言しました。そして、見つかるどころか、溢れかえるくらいでてきたのです。

 まさにこの時、弟子たちは、かつてガリラヤ湖岸の町ゲネサレトで起きた出来事が脳裏に蘇ったでしょう。ルカ5章1ー11節に記述されている出来事です。夜通し漁をしたにもかかわらず何も獲れなかったと言うペトロにイエス様は沖に漕いで網を下ろしてみなさいと命じました。そうしたら舟が沈まんばかりの魚がかかったという出来事です。福音書の記者ヨハネが、あれは主だと叫びました。それを聞くや否やペトロは一足先に復活の主に会おうと湖に飛び込もうとします。が、自分が裸同然であることに気づきます。これでは失礼にあたると思ったのか、慌てて服を着てそれで飛び込んでしまいました。ずぶ濡れになってしまうのに。ペトロらしい行動様式ではないでしょうか?

 こうして弟子たち全員が岸にあがると、イエス様は炭火をおこしてすでに魚を焼き始めていました。パンもありました。イエス様は、「さあ、来て、朝食をとりなさい」とねぎらいます。復活の主に再び会えただけでなく、その主から今まさに必要としているものを準備してもらって、弟子たちの喜びはいかほどのものであったでしょう。このように、肉体的、精神的または霊的に疲労困窮した者をねぎらい励まし力づけることはイエス様の御心です。マタイ11章28節で、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と言われる通りです。

2.神の人間に対する愛 アガペーの愛

 食べ終わった後でイエス様がペトロに「他の誰よりも私を愛しているか?」と聞きます。ペトロは「愛しています」と答えますが、三度同じことを聞かれたので、信じてもらえないと思って悲しくなります。イエス様が三度聞いたのは、彼が裁判にかけられた時ペトロが群衆の前でイエス様のことなど知らないと三度言ってしまったことに対応すると言われます。「あなたを愛しています」と三回言わせることで、三度拒否したことを赦す意味があると言われます。それは表面的な意味です。本当はもっと深い意味があります。

 イエス様が「私を愛しているか?」と聞く時のギリシャ語の動詞と、ペトロが「愛しています」と答える時の動詞が違っています。イエス様が聞く時の動詞はアガパオーαγαπαωですが、ペトロが答える時の動詞はフィレオ―φιλεωです。新共同訳では両方とも「愛する」と訳しているのでこの区別が見えません。二回目のイエス様の質問とペトロの答えも同じです。ところが三回目になると、イエス様は突然動詞を変えてペトロと同じフィレオ―で聞きます。そしてペトロはフィレオ―で答えます。このことを少し見ていきましょう(後注)。

 「愛」とか「愛する」という言葉はいろんな意味が含まれるので厄介です。古代ギリシャ語は、異なる愛の形を異なる言葉で言い表していました。男女間の性愛はエロースερωςと言っていました。兄弟愛とか同志愛とでも言うべきものはフィラデルフィアφιλαδελφια、愛する対象が兄弟や同志より広がって人間愛を意味する時はフィラントローピアφιλανθρωπιαという言葉がありました。ペトロの「愛しています」フィレオーという動詞は、このフィラデルフィア、フィラントローピア兄弟愛、同志愛、人間愛に関係する愛です。

 それでは、イエス様が「愛しているか」と聞いた時のアガパオーはどんな愛でしょうか?ヨハネ15章13節でイエス様はこう言います。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」ここでは、愛は名詞のアガペーαγαπηですが、動詞のアガパオーと同じ愛の形です。アガパオー、アガペーの愛は、自分の命を犠牲にすることも厭わない愛ということになります。

 そう言うと、兄弟愛、同志愛、人間愛にも大切な人のために自分を犠牲にすることがあるのではないか、と言われるかもしれません。ここは、日本語の言葉に囚われず、もう一度ギリシャ語の言葉を見てみます。兄弟愛、同志愛のフィラデルフィアと人間愛のフィラントローピアは、新約聖書の中での使われ方を見ると、親切とか思いやりとか友好的とか敬意を払うとか、そういう人間同士が平和な関係でいられる態度ないし行動様式の意味で使われています(ローマ12章10節、使徒言行録28章2節、形容詞として第一ペトロ3章8節、副詞として使徒言行録27章3節、ただしテトス3章4節は神のものとして)。それなので、それらには自己犠牲を厭わない位の強い愛はないと思います。

 それで、親が子供の命を守るために自分を犠牲にするということが起これば、それはアガペーの愛になります。聖書は、天地創造の神の人間に対する愛はまさにそういう愛だと教えます。神の愛が自己犠牲をも厭わない愛ならば、神は人間を何の危険から守るためにどんな自己犠牲を払ったのでしょうか?「ヨハネの第一の手紙」4章10節で次のように言われています。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」ここで言われる「愛」、「愛する」はまさにアガペー、アガパオーです。その愛は、人間が神との結びつきを持てないようにしていたもの、人間がこの世を去った後で神の御許に迎え入れられないようにしていたもの、そうした妨げを神がひとり子を犠牲にして全て取っ払って下さったということです。その犠牲がゴルゴタの十字架で起こったのでした。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、イエス様が果たしてくれた罪の償いが私たちの償いになり、私たちは神から罪を赦された者と見なされ、こうして神との結びつきを持ってこの世を生きられるようになります。この世を去る時も神との結びつきを持ったまま去り、復活の日に目覚めさせられて神の御許に永遠に迎え入れられるようになるのです。

 イエス様とペトロの対話に戻ります。イエス様はペトロに「愛しているか」と聞いた時、神が人間に示したような深い愛で愛しているかと聞いたのです。それに対してペトロは兄弟愛、同志愛、人間愛のレベルの愛で愛していますと答えたのです。ペトロは、他の弟子が見捨てても私はあなたを見捨てません!などと威勢の良いことを言っておきながらいざとなると見捨ててしまいました。自己犠牲からほど遠い自分を露呈してしまった手前、あまり偉そうなことは言えません。そんなジレンマが神的な愛を避けて人間的な愛で答えたことに窺われます。イエス様はペトロに「お前は神的な愛で私を愛するか?」と聞き、ペトロは「人間的な愛で愛しています」と答えたのです。イエス様はもう一度同じ質問をし、ペトロは同じ答えをします。そして三度目の質問。今度はイエス様は神的な愛アガパオーで聞かず、ペトロと同じ人間的な愛フィレオーで聞きます。「じゃ、お前は人間的な愛だったら私を愛するんだな」とたたみかけたわけです。ペトロの反応は、イエス様!私がフィレオーで愛することも疑うのですか?あんまりです!という様子が窺われます。

 ここでイエス様がなぜ三回聞いたのかを考えてみましょう。ペトロは三回知らないと言ったので、一回の答えでは信用できなかったというのは本当でしょうか?実はイエス様は既に一回目の答えでペトロを信用していたのです。どうしてかというと、ペトロの答えの後で「わたしの小羊を飼いなさい」と言ったからです。イエス様の小羊、つまりイエス様を救い主と信じる者たちが神との結びつきに留まって復活の日を目指してこの世を進んでいけるように彼らを守り導きなさい、ということです。つまり牧会をしなさいということです。「わたしの小羊」と言うように、牧会者は信徒をイエス様から預かって牧会するのですから、その責任はとても大きいです。ペトロにそのような責任を委ねたのです。もし、信用していなかったら、こんな大きな責任は委ねなかったでしょう。三回繰り返すことで、イエス様を愛することは牧会の基礎であるということを心に刻みつけたのです。

3.私たちのイエス様に対する自己犠牲の愛

 それでは、私たちがイエス様を愛する愛とはどんな愛でしょうか?イエス様は人間のために自己犠牲の重荷を背負われました。私たちがイエス様のために自己犠牲することがあるのでしょうか?ここでヨハネ14章21節と23節でイエス様が、彼を愛する人は彼の掟、彼の教えたことを守る人であると言っていることに注目します。イエス様の掟、イエス様が守るようにと教えたことは何か?ヨハネ13章34節と15章12節のイエス様の言葉に凝縮されています。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これが私の掟である」。イエス様には自分を犠牲にしてまで神と人間の結びつきを回復してあげようと駆り立てた愛がありました。その愛で互いに愛し合いなさいと言うのです。お互いをそういうふうに愛することができれば、イエス様を愛することになると言うのです。

 それではイエス様を自己犠牲に駆り立てた愛で互いに愛するとはどういうことでしょうか?それは、イエス様のおかげで神との結びつきを持てて生きられるようになったのだから今度は、隣人も同じように神との結びつきを持ててこの世を生きられるように、そしてこの世を去ったら今度は復活させられて神の御許に迎え入れられるようにすることです。

 そこで、もし隣人がキリスト信仰者ならば、その人が既に持つ神との結びつきを失わないように支え助けてあげることです。キリスト信仰者が苦難や困難に陥ることはしょっちゅうです。それで信仰者を苦難や困難から助ける時は、神との結びつきがしっかり保たれるようにするということが視野に入ります。

 イエス様が互いに愛し合いなさいと言ったのは弟子たちだったので、隣人がキリスト信仰者でない場合は関係ないような感じがしてしまいますが、よく考えるとそうではありません。天の父なるみ神は、イエス様の弟子たちだけではなくて、全ての人間が神との結びつきを回復できるようにとイエス様をこの世に贈られて十字架の死に引き渡したのです。それなので、隣人が信仰者でない場合でも苦難や困難から助ける時は、神との結びつきを持てるようにすることが視野に入ります。信仰者の場合は結びつきを「保てるようにする」ですが、信仰者でない場合は「持てるようにする」のです。いずれの場合も助ける時は自分の持てる力や時間や財産を使わなければならないことは覚悟に入れる必要があるでしょう。宗教改革のルターは、財産や命を失う可能性すらあると言っているほどです。これが、イエス様に対する自己犠牲の愛ということです。

4.神の栄光を現わすということ

 ペトロの三回目の答えの後でイエス様は謎めいたことを言います。「はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」それについてこの福音書を書いたヨハネは少し不気味な解説を付け加えます。「ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。」このイエス様の言葉を見てみましょう。

 キリスト教会の古い言い伝えによれば、ペトロは西暦63ないし64年頃にローマで殉教の死を遂げました。ちょうどキリスト教徒迫害で有名な皇帝ネロの時代です。ペトロは十字架にかけられる時、私は主と同じ死に方をする値打ちはないと兵隊たちに言ったところ、じゃ、これで満足だろう、と頭を下にして逆さまに十字架にかけられたということです。イエス様が「お前は年を取った時、両手を広げ、別の者がお前を縛って行きたくないところに連れて行く」と言ったのは、後世の人から見たらペトロが殉教の死を遂げたことを意味すると事後的にわかります。まだ出来事が起きる前の人たちにとっては、なんのことかわからなかったでしょう。ヨハネは福音書を書いていた時に既にペトロの処刑を目撃していたか、またはその知らせを耳にしたのでしょう。それで、ああ、あの時ガリラヤ湖畔で復活の主がペトロに言ったことはその通りになったのだと事後的にわかって、それで解説をしたのです。

 ペトロの殉教は神の栄光を現すものであるとヨハネは解説しました。これは私たちを重苦しい気持ちにさせます。神の栄光を現すというのはこれくらいのことをすることなのかと。日々平穏無事に過ごしていたら、それは神の栄光を現す生き方ではないのかと。ここで注意しなければならないのは、天の父なるみ神の栄光や栄誉というものは、被造物である私たちの業績や達成に左右されないということです。私たちの業績が多かろうが少なかろうがそんなことに関係なく、神は超然として既に栄光と栄誉に満ちています。それならば、私たちが神の栄光を現すというのはどういうことでしょうか?

 それは、私たちが自分の言葉や行いや生き方をもって、神の動かすことのできない真理を人前で証しすることです。つまり、あなたは何者かと聞かれたら、私は次の三つの者であると答えることです。まず第一に、私は天と地とそこに収まる全てのものを造られた神に造られた者であると答えることです。第二に、私はその神のみ前に立たされることになっても、神のひとり子イエス・キリストの犠牲のおかげで罪を赦されて大丈夫でいられるようになった者であると答えることです。そして第三には、私はこの世の人生の向こうで復活の日に神の御許に永遠に迎え入れられるところに向かう道を今歩んでいる者であると答えることです。以上の三つを胸をはって答えることです。何も聞かれなければ、そのような者として胸をはって生きるだけです。

このような神の真理を胸張って証しするように生きようとすると、いろんな反対に遭遇します。というのは、この世というのは本質的に造り主を忘れさせる自分中心主義と、この世を超えた永遠を忘れさせるこの世中心主義に染まっているからです。翻って、福音というものは、まさにこの世を超える永遠と万物の造り主に目を向けさせるものです。従って、この世が福音と福音に生きる者に敵対するのは避けられません。それで、もし神の真理など取り下げないと命はないぞという迫害の時代だったらそれこそ殉教しかないでしょう。しかし、自分は造り主に造られた者であるということをどうして取り下げられましょうか?自分は造り主が送られたひとり子の犠牲によって罪が償われて新しくされたということをどうして取り下げられましょうか?自分は神に見守られてこの世を生き御許に迎え入れられる道を今歩んでいるということをどうして取り下げられましょうか?ペトロは、「取り下げない」という生き方をしたら一巻の終わりという時代状況にあって、それを貫いてこの世の人生を終えたのです。そうすることで神の真理を証しし、神の栄光を現したのです。

 私たちの生きている時代状況はどうでしょうか?神の真理に従って生きようとしたら、どんなことに遭遇するでしょうか?良心や信条の自由が保障されている現代社会ならば何も問題なく平穏無事でしょうか?人間はどこから来てどこに行くのかという根源的な問いについて、キリスト信仰と違う見解が社会の多数派を占めていれば、いろいろな軋轢が出て来るでしょう。多数派にいれば考えなくて済むようなことを信仰者は沢山考えなければならなくなるでしょう。でも、そういう余計なことを抱え込むことが現代社会では神の栄光を現わすことになると思います。信仰者が沈黙していたら多数派は何も気づかず、みんな同じ考えだと勘違いしてしまいます。それなので言葉や行いや生き方を持って証しをすることは良心・信条の自由が存続するためにも大事です。

5.勧めと励まし

 最後に、本日の使徒言行録の日課の個所で復活の主がパウロに述べた言葉の中に信仰者にとって励みになるものがあるのでそれを述べておきます。パウロが声の主が誰であるかを尋ねた時、イエス様は「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」(9章5節)と答えました。イエス様を救い主と信じる者が苦難や困難に陥った時、イエス様はそれを自分のことのように受け止めるということです。聖書を信仰をもって読んだり聞いたりする時、また聖餐を受ける時、目には見えなくともイエス様は臨在します。臨在するというのは、ただボーっと突っ立っていることではありません。私たちの境遇や状況を自分事として受け止めて事を動かそうと影響力を及ぼすことです。このことが分かれば、私たちの祈りは必ず聞き遂げられて、必ず脱出口や解決に導いて下さると確信できます。

 今日の福音書の個所でも、イエス様は弟子たちに食べる物がないことを知っていました(「君たちには何も食べる物がないんだろ?」)。まさにその時に現れました。そしてアドバイスし、労って力づけて下さいました。このように主は、必ず助けに来て下さり、私たちが力を取り戻して新しいスタートを切れるよう力づけて下さるのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。
アーメン

(後注)イエス様とペトロのやりとりはアラム語でなされていたでしょう。もしそうなら、この箇所は、出来事を目撃した使徒ヨハネが後日ギリシャ語に訳して記したものです。イエス様とペトロがアラム語でどんな動詞を使い合っていたかはもう知りようがありませんが、ヨハネは二人のやりとりのニュアンスをしっかり捉えて福音書にあるように訳したのだと考えればよいでしょう。そもそも使徒とは、目撃者、証言者として働くべくイエス様ご自身が選んだ者たちです。それゆえ、そうした使徒たちを信頼し、彼らの証言やその伝承を信じ、彼らの教えを守ることはキリスト信仰の基本です。

聖餐式

2025年4月20日(日)復活祭/イースター 礼拝 説教 吉村博明 牧師

主日礼拝説教 2025年4月20日 復活祭

イザヤ書65章17~25節

第一コリント15章19~26節

ルカ24章1~12節

説教題 「過越祭から復活祭へ」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 今日は復活祭です。十字架にかけられて死んだイエス様が天地創造の父なるみ神の想像を絶する力で復活させられたことを記念してお祝いする日です。日本ではイースターという英語の呼び名が一般的です。フィンランド語ではパーシアイネンと言って、その意味は「過越し」です。あのモーセ率いるイスラエルの民がエジプトを脱出した時の出来事であり、それを記念する祝祭です。つまり、フィンランド語では旧約聖書の「過越祭」とキリスト教の「復活祭」を同じ言葉で言い表すのです。英語や日本語では別々の言い方をしているのに、どうして一緒なのかと言うと、イエス様の十字架と復活の出来事が過越祭の期間に起こったからでした。なので、フィンランド人はキリスト教会がパーシアイネンをお祝いしているのを見たら、これは「復活祭」、ユダヤ教の人たちがパーシアイネンをお祝いしているのを見たら、それは「過越祭」という具合に頭の中で切り替えしているのです。(因みに、スウェーデンでも「過越祭」と「復活祭」は同じ言葉で言い表します。ポスクと言います。)

 さて、イエス様が十字架に架けられて死んで葬られた次の週の最初の日の朝、付き従っていた女性たちが墓に行ってみると入り口の大石はどけられ、墓穴の中は空っぽでした。その後で大勢の人が復活された主を目撃しました。まさにここから世界の歴史が大きく動き出すことになる出来事が起きたのでした。遺体がなくて途方にくれていた女性たちに天使が言いました。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方はここにおられない。復活されたのだ。」「死者の中に」と言うのは、ギリシャ語原文では複数形なので、正確には「なぜ、死んだ者たちの中から生きておられる方を捜すのか」になります。古今東西この世から亡くなった人は無数にいたわけですが、十字架刑に処せられて死んでしまったイエス様もその中に加えられてしまった、ところが、突然そこから飛び出すように出て行ってしまったということです。つまり、復活というのは、イエス様が死と縁を切った、無関係になったということです。

 それと、大勢の死んだ者たちの中から真っ先に飛び出したということは、今日の使徒書の日課、第一コリント15章20節で言われていること、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられたことです。つまり、イエス様が死を踏み越える復活を遂げたのは初穂で、私たちも後に続く、言わば、先陣を切ったということです。そういうわけで、今日の説教では、復活とは死と無関係になるということと、私たちもイエス様に続いて復活を遂げられるようになったことについて見ていこうと思います。

2.復活とは何か

 その前に、そもそも復活とは何かということについて述べておきます。これは毎年復活祭の礼拝説教で述べていることですが、大事なことなのでおさらいしておきます。

 よく混同されますが、復活はただ単に死んだ人が少しして生き返るという、いわゆる蘇生ではありません。死んで時間が経てば遺体は腐敗してしまいます。そうなったらもう蘇生は起こりません。聖書で復活というのは、肉体が消滅しても将来の「復活の日

に全く新しい「復活の体」を着せられて復活することです。これは、超自然的なことなので科学的に説明することは不可能です。聖書に言われていることを手掛かりにするしかありません。

 「復活の体」については、使徒パウロが第一コリント15章の今日の日課の後で詳しく教えています。「蒔かれる時は朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれる時は卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活する」(42ー43節)。「死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着る」(52ー54節)。イエス様も、「死者の中から復活するときは、めとることも嫁ぐこともせず、天使のようになるのだ」と言っていました(マルコ12章25節)。

 このように復活の体は朽ちない体であり、神の栄光を輝かせる体です。この世で私たちが纏っている肉の体とは全くの別物です。復活されたイエス様はすぐ天に上げられず40日間地上に留まり人々の前で復活した自分を目撃させました。彼の体は地上に留まっていましたが、それでも私たちのとは異なる体だったことは福音書のいろんな箇所からうかがい知ることができます。ルカ24章やヨハネ20章で、イエス様が鍵のかかったドアを通り抜けるようにして弟子たちのいる家に突然現れた出来事があります。弟子たちは、亡霊だ!とパニックに陥りますが、イエス様は手足を見せて、亡霊には肉も骨もないが自分にはあると言います。このように復活したイエス様は亡霊と違って実体のある存在でした。食事もしました。ところが、空間を自由に移動することができました。本当に天使のような存在です。他にもいろいろあります。エマオに向かう道で二人の弟子に起きた出来事、墓の前でのマグダラのマリアとのやり取りなど。それらについては、当該箇所が日課になった時に改めてお話しします。

3.イエス様の十字架の死で罪は打撃を被り、彼の復活で死は足蹴にされた

 復活によりイエス様が死と無関係になったことは、ローマ6章の中でパウロが教えています。「キリストが死から復活したということは、もう死なないということであり、死は彼を支配下に置けなくなったということである。それなので、キリストが死んだというのは、一度にして罪に打撃を与える死だったのである。そして、キリストが生きるというのは、神に結びついて生きるということである。」新共同訳では「ただ一度罪に対して死なれた」となっていますが、これはギリシャ語の用法で「罪が不利益を被るように死んだ」という意味なので、キリストの「罪に対する死」は「罪に打撃を与える死」と理解します(後注)。イエス様が十字架で死なれたことで罪は打撃を被り、復活することで死を足蹴にしたということです。ここで、罪と死が結びつけられて言われています。キリスト信仰の人間観がここに凝縮されています。

 キリスト信仰で罪というのは、単なる犯罪行為ではなく、もちろん、それも含みますが、もっと広く、神聖な神の意思に反しようとする性向のようなものです。人間誰しもが持ってしまっているというのが聖書の観点です。神の意思は十戒の中に凝縮されています。他人を傷つけるな、夫婦間の貞潔を守れ、真実を曲げるな、他人に対して妬みや憎しみを抱くな等々、私たちの行動様式や思考様式の現実を映し出す鏡のようなものです。たとえ行いや言葉に出さなくても、私たちの造り主の神は心の中はどうかと見ておられます。今でこそ言葉や行いに出さなくても、境遇や環境が変われば出してしまうかもしれないので、人間は誰でも潜在的に持ってしまっているというのです。今の世界で起きていること、世の中の周りで起きていることを見れば誰もが持っていると認めざるを得ないでしょう。このような罪は、神が最初の人間アダムを造った後で人間の中に入り込んでしまったことが創世記の中に記されています。それがもとで人間は死ぬ存在になってしまったことも。パウロがローマ6章23節で罪の報酬は死であると言っているのはこのためです。人間は代々死んできたことから明らかなように、罪も代々受け継いでしまったのです。それで、今日の使徒書の日課、第一コリント15章22節で、アダムを通して全ての人間が死ぬと言うのです。

 ところが、同じ個所には続きがあります。「アダムを通して全ての人間が死ぬように、キリストを通して全ての人間が生きられるようになる。」つまり、最初の人間アダムが罪を人間の中に内在化してしまったためにその後の人間の運命を死に定めてしまった。しかし、キリストがそれを逆転して人間の運命を死から死を超えた命に移し替える可能性を開いたということです。イエス様はどのようにして人間の運命を逆転させたのでしょうか?

 それは彼の十字架の死をもってなされたのでした。イエス様は人間皆が持っている罪を全部引き受けてゴルゴタの十字架の上に運び上げて、そこで罪が必ず受けなければならない神の罰、神罰を人間に代わって受けられたのでした。人間が受けて神のみ前から滅び去ってしまうことがないようにと神のひとり子が身代わりになって受けられたのでした。さて、神罰は下されたので罪が償われた状況が生まれました。あとは人間がこの状況に入りさえすれば、人間は罪を償ってもらった者として生きることができます。その時、罪はもう神罰を人間に誘導する力を失っています。干からびた虫けらのようになったのです。このことがイエス様が神罰を受けて死なれたことで起こったのです。罪はイエス様と抱き合わせの形で断罪されたのです。

 このことからも、なぜ神のひとり子が人間として生まれて来なければならなかったかがわかります。もし神のひとり子が天の父なるみ神のもとで永遠に悠々自適の生活をしていたら、身代わりの断罪など永遠に起きません。乙女マリアから生まれ人間の肉体を持つことで、神のひとり子は死ぬことができるようになったのです。。神罰を受けるのにピッタリな存在になったのです。それだけではありません。ヘブライ4章で言われるように、神のひとり子として罪を持たない側面はそのままだったが、人間として生まれてきたことで、人間の苦しみや悲しみもその心と体でわかるようになったのです。天でふんぞり返っていたらわかりません。このようにひとり子をご自分のもとから私たち人間のもとに贈って下さった神の御名は永遠に讃えられますように。そして、私たちのもとに贈られて神の御心通りに務めを果たされた御子は永遠にほめたたえられますように。

4.罪が償われた者として、復活の日を目指す者として

 さて、イエス様の十字架の業のおかげで、罪が償われた状況が生まれました。あとは人間がこの中に入ることができさえすれば、罪を償われた者として神との結びつきを持てて生きることができるようになります。どうすれば入ることができるでしょうか?それは、神の計らいによって罪の償いは本当に起こった、それを実行したイエス様は本当に救い主です、と信じて洗礼を受けることで入れます。その時、罪はもう神罰を人間に誘導する力を失っています。しかし、それでも人間はこの世から死にます。しかも、イエス様を救い主と信じる信仰に生きるようになっても自分の内にはまだ神の意思に反するものがあることに気づきます。イエス様がもらした逆転はどこに行ってしまったのか?まだ自分はアダムの末裔のままなのか?

 いいえ、そういうことではありません。イエス様を救い主と信じ洗礼を受けたものはイエス様のもたらした逆転の中にちゃんといます。そのことは、パウロがローマ6章で明らかにしています。洗礼を通して人間はイエス様の十字架の死に結びつけられる、そうするとイエス様が罪に大打撃をくらわしたことがその人にもその通りになります。信仰者が罪に対して、お前は打撃を受けているのだ、わからないのか、と言えば、罪はおずおずと引き下がります。洗礼を通して人間が結びつけられているのはイエス様の死だけではありません。イエス様の復活にも結びつけられます。ここが微妙なところです。復活されたイエス様は確かに肉の体ではない復活の体を持っていて、いつでも天の父なるみ神のもとに戻れる状態にありました。しかし、私たちは洗礼を受けても肉の体はそのままです。復活の体ではありません。

 それは、洗礼を通してイエス様の復活に結びつけられたというのは、将来の復活の日に向かう道に置かれて今そこを歩んでいるということなのです。将来の復活の日とは、今日の日課の第一コリント15章23節にあるように、イエス様が再臨する日のことです。その日に向かって延びる道を私たちは神との結びつきを持って進んで行きます。なので、神がイエス様を通して与えて下さった罪の赦しの恵みの中に留まっている限り、私たちは道を踏み外すことはないのです。それで私たちにとって復活は、ルターが言うように、もう半分は起こったことなのです。残り半分は約束されたものとして今はまだ秘められているのです。

5.勧めと励まし

 説教の初めに、フィンランドやスウェーデンでは過越祭と復活祭は同じ言葉で言い表すと申しました。二つの全く異なる祝祭には驚くほど共通点があります。モーゼの過越しの時は小羊の血を家の入口に塗ることで、神はそれを見てその家に罰を下すことはしませんでした。イエス様が十字架に架けられて犠牲になって下さったおかげで、私たちは神から罰を受けないで済むようになりました。イエス様が贖罪の小羊にたとえられるゆえんです。マルコ10章でイエス様は、多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来たと言われます。キリスト教会ではイエス様が十字架で流された血が人間を罪と死の支配下から救い出す代価になったと言います。

 モーゼ率いるイスラエルの民は奴隷の国エジプトを脱出して約束の地カナンを目指して40年間シナイの荒野を進みました。キリスト信仰者は、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼をもって罪と死が支配する状況から脱出しました。そして復活の体を纏ってもらえる神のみ国を目指して今はこの世という荒野の中を進みます。ところで、イスラエルの民は移動中、神に何度も窮地を救ってもらいながら反抗して罰を受けました。私たちもこの世の荒野の中で試練を受け、神を疑うこともあります。しかし、私たちがどう思おうが、罪の赦しの恵みはそんなのおかまいなしに微動だにしません。なので、私たちがあらゆる疑いをかなぐり捨ててその恵みに留まりさえすれば、私たちと神との結びつきは同じように微動だにしないのです。イスラエルの民はなんとかカナンの地に到達しますが、それはまだハッピーエンドの最終目的地ではありませんでした。復活の日に現れる神のみ国こそが最終目的地です。このように復活祭は、過越祭を花のつぼみにたとえると見事に咲き開いた花と言えます。それはまた旧約聖書に対する新約聖書の姿形でもあります。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。     アーメン

(後注)「罪に対して」の与格はdativus incommodiに解しました。そうすると「神に対して」の与格はdativus commodiになり、「神にとって益となるように」の意味になります。それをもっと具体的に言い表せないか、ということでローマ14章に「主のために」の与格が何度も出てくるところに注目しました。「主のために」とはどういうことか、それは8節で「主のもの」(属格)となると言っていることと同じです。なので、6章の「神に対して」/「神にとって益となるように」も同じように「神のものとなる、神と結びつく」というふうに理解しました。

礼拝の中でAさんの受洗式が執り行われました。

聖餐式

礼拝後、恒例のイースター祝会が催されました。

2025年4月18日(金) 聖金曜日 礼拝

司式・説教 吉村博明 牧師 聖書日課 イザヤ52章13節~53章12節、ヘブライ10章16~25節、ヨハネ18章1節~19章42節 讃美歌:71、309、85、81 説教題 「イエス様の十字架 ー 私たちの出発点、いつでも立ち返られる原点」 特別の祈り 全知全能の父なるみ神よ。
私たちの主イエス様の十字架の受難を覚えるこの日、どうか私たちの心からあらゆる妬(ねた)みや憎しみを取り去り、あなたのみ前にへりくだることが出来るように私たちを清めて下さい。
あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストのみ名を通して祈ります。アーメン

2025年4月13日(日)「主の受難」の主日 説教 田口聖 牧師(日本ルーテル同胞教団)

2025年4月13日スオミ教会礼拝説教

ルカによる福音書23章1〜25節

「その声はますます強くなった」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなた方にあるように。アーメン。

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様。

1、「ピラトの前に立たされる」

 この23章では、祭司長や律法学者たちに捕えられたイエス様が大祭司、そして議会である最高法院での尋問の後に、今度は、ローマの総督であるピラトのところに連れて行かれるところから始まっています。ピラトからの裁判を受けるためです。ピラトはローマの皇帝から任命され派遣された総督で、この地域の実質的な支配者です。イエス様は大祭司、議会と前に立たされ、23章ではローマという当時の世界の覇権であった帝国の統治者の代理人の前に立たされるのです。そのユダヤの宗教指導者達の訴えですが、2節にこうあります。

2、「偽りの証言」

「そして、イエスをこう訴え始めた。「この男はわが民族を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、また、自分が王たるメシアだと言っていることが分かりました。」

2節

22章では、祭司長たちは「お前がメシアなら、そうだと言うがよい」あるいは「ではおまえは神の子か」と尋ね、イエス様は確かに「そうだ」とは答えているのですが(ルカ22:67〜70)、しかしそれ以上に、ここでのピラトへの彼らの訴えにはかなり事実でないことが含まれていることが分かります。

 確かにイエス様の教えた「神の国」の教えは、当時のユダヤ教徒にとって新しい教えであったでしょう。ですから全く誰も「惑わされる」人がいなかったということではないかもしれません。しかし多くの人はその教えを喜びました。イエス様は惑わすどころか、むしろ誰も交わず避けるような罪人のところに行きました。そして、彼らを裁くのではなく、むしろ受け入れて共に食事をし、友になり、罪の赦しを伝えました。人々はそれを見て、聞いて、そして実際、受け取り、喜び、安心を得た場面がいくつもあります。確かにある人々は勝手に、イエスに「政治的な」解放や革命としてのメシアを望んではいたことでしょう。けれども、イエス様自身は、決してそのような政治的に扇動をしたり、社会を混乱させたり不安にさせたりするということは全くなかったわけです。なぜなら、イエス様の与える神の国は、地上の政治的な王国ではなく、十字架の死と罪の赦しを与えることによって開かれる神の国であったからです。決して国民を惑わしてはいませんでした。

 そして「皇帝の税」については思い出すエピソードがあります。ファリサイ人たちは以前、20章22節ですが彼らは「わたしたちが皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」 (20:22)と質問したのでした。それは20章20節に「イエスの言葉じりをとらえ、総督の支配と権力にイエスを渡そうとした」とあるように彼らの悪巧みでした。良いことだと言えば、ユダヤ人たちの支持を失うし、悪いことだと言えば、ローマに訴える口実ができる、そのような罠としての質問でした。けれども、イエス様はその質問に対して、デナリオン銀貨に皇帝の肖像があるのだから、皇帝のものは皇帝に返しなさいと、答えたのでした。イエス様は皇帝に税金を収めることを禁じてはいないことがわかります。ですから、今日のところの彼らの訴えは、イエスが「自分はキリストだ」と言ったこと以外は、全て虚偽の証言、偽り、うそであることがわかるのです。そのような彼らの言動はむしろ皮肉なことに、彼らが大事にするモーセの十戒に「隣人について偽りの証言をしてはいけない」とあるのですが、そのイエスを告発している議員や祭司たちが錦の御旗の如く掲げ、自分は完全に守っていると自負してきたはずの神の律法に、彼ら自らが反し背く罪を犯してしまっているという皮肉というか矛盾が現れています。けれどもそんなことはお構いなしなのか、気づかないでいるのか、彼らは告発するのです。そのような偽りの証言をするほどに、彼らのイエスへの妬み、憎しみ、なんとしてでも有罪にして殺したいという思いが強いのがわかります。

3、「世界の覇権ローマからの総督による裁判」

A, 「わたしはこの男に何の罪も見いだせない」

しかしその訴えに対するピラトです。3節以下です。

「そこで、ピラトがイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」とお答えになった。 4ピラトは祭司長たちと群衆に、「わたしはこの男に何の罪も見いだせない」と言った。」(3〜4節)

 ピラトはユダヤ人たちの「国民を惑わした」という訴え、「皇帝に税金を納めることを禁じた」という訴えについては触れません。なぜなら、マタイの福音書27章18節にあるように、そもそもピラトはユダヤ人たちの訴えは妬みから出ていることを知っていたからです。さらにはマタイの福音書27章19節には、ピラトが奥さんからも「「あの正しい人に関係しないでください。その人のことで、わたしは昨夜、夢で随分苦しめられました。」 (27章19節)と訴えを受けていたことまで書かれています。他の福音書でも、ピラトはイエスに彼らの訴えに当たるようなことは認められなかったとも記録しています。ですから、ピラトはここでもはっきりと言うのです。「わたしはこの男に何の罪も見いだせない」と。しかし訴える人々はそれに反論します。5節、イエスの宣教は「民衆を扇動しているのだ」と。

 ピラトはその後、8節以下になりますが、今度はヘロデのところにイエスを送り返します。しかしヘロデは自分の感情のままに対応するだけで、イエスを侮辱し、ピラトに送り返します。そこでピラトは再度言います。14節以下ですが、13節からお読みしますと、

「ピラトは、祭司長たちと議員たちと民衆とを呼び集めて、 14言った。「あなたたちは、この男を民衆を惑わす者としてわたしのところに連れて来た。わたしはあなたたちの前で取り調べたが、訴えているような犯罪はこの男には何も見つからなかった。 15ヘロデとても同じであった。それで、我々のもとに送り返してきたのだが、この男は死刑に当たるようなことは何もしていない。 16だから、鞭で懲らしめて釈放しよう。」

 ピラトは再度言います。取り調べた上で、この人にその訴えに当たるような罪は何の罪も見つからないと。より具体的です。そしてはっきりと言っています。「死刑に当たることは何もしていない」と。「死刑」と言ってますが、ユダヤ人たちの訴えが、イエスの死刑であることも知っています。しかしそのような罪は全くないとピラトは断言するのです。

B, 「バラバか?罪のない正しい人か?」

 しかしです、18節以下ですが、

「しかし、人々は一斉に、「その男を殺せ。バラバを釈放しろ」と叫んだ。 19このバラバは、都に起こった暴動と殺人のかどで投獄されていたのである。 20ピラトはイエスを釈放しようと思って、改めて呼びかけた。

 他の福音書を見るとわかりますが、バラバは、ピラトがイエスを釈放するために身代わりとして連れてきた人物です。バラバこそ「死罪に値する人物」だったわけで、もはや誰が見ても判断しても罪が明らかな人物を連れてきてイエスと比べさせるわけです。バラバこそ死罪になるべきだと誰もが言うだろうと。しかし、なんということでしょう。それさえも祭司長たち律法学者たちは覆していうわけです。「その男を殺せ。バラバを釈放しろ」と。もはやユダヤ人たちに理性とか法とかはありません。彼らの妬み、そして「除け」という感情がまさっていて、もはや歯止めが効いていません。それでもイエスを無罪にするよう訴えるピラトに対して、彼らはさらに叫びます。

「十字架につけろ。十字架につけろ」

 と。それでもピラトは3度目、言います。22節

「ピラトは三度目に言った。「いったい、どんな悪事を働いたと言うのか。この男には死刑に当たる犯罪は何も見つからなかった。だから、鞭で懲らしめて釈放しよう。」

 ピラトは一度だけではなく、「三度」、イエスに罪は認められない、何の悪いこともしていない。死罪には当たらないと、断言するのです。

C,「世界の最高権力の代理人が「罪がない」と宣言した」

 このことは何を伝えているでしょう。イエス様は「神の御子」である方が、聖霊によって人となられた方です。そして、イエス様の洗礼の時の「天からの声」にあるように、まさしく「神の前」にあって神が宣言した「正しい聖なる方、神の喜び」です。罪のないお方です。しかしそれだけでなくて、当時の地上の最高権力のローマの総督が、正しく裁判をして「この人には何の罪も認められない」と宣言しています。このようにイエス様は、天においてはもちろん、地においても、正しいお方であったということが宣言されているということを意味しているのです。しかもそれとともにイエスには「死罪に当たる罪が何も見つからない」と繰り返されています。つまり、イエス様は「十字架の刑に値する方ではない」という宣言も地上の最高権力によってされているということでもあるのです。

4、「それでもイエスは十字架の死へ」

 しかしそれにもかかわらず、イエス様は十字架にかけられるのです。23節

「ところが人々は、イエスを十字架につけるようにあくまでも大声で要求し続けた。その声はますます強くなった。 24そこで、ピラトは彼らの要求をいれる決定を下した。 25そして、暴動と殺人のかどで投獄されていたバラバを要求どおりに釈放し、イエスの方は彼らに引き渡して、好きなようにさせた。

A,「罪の世、人の罪がイエスを十字架につける」

 この「その声はますます強くなった」という言葉ーこれは新改訳聖書ですと「ついにその声が勝った」と訳されていますが、この言葉は実に意味深いです。「その声」というのは「ピラトの声」ではありません。「地上の最高権力の正義の声」ではありません。「妬みと憎しみにかられ、理性を失い感情的になったその罪深い声」が、ますます強くなった。あるいは、勝ったということです。ピラトは何とか釈放しようとしました。しかし、マタイの福音書では、彼はその群衆の勢いに押されて、コントロールができなくなり、暴動になりそうになるのを恐れたとも書いていますし、マルコでは、彼は群衆の機嫌を取ろうとしたとも書いています。その通り彼も結局は、公の正義よりも、自分だったわけです。しかしそんな彼の姿を見て「ああなんてみっともない」「なんて身勝手な、なんて愚かな」と他人事のように私たちは言えるのでしょうか?いやむしろ、彼の姿は誰にでも起こりうる人間の弱さであり罪深さではありませんか。それはもちろん地上の正義を否定するということではありません。そうではなく総督、いや皇帝でさえも、どんな最高権力であっても人はどこまでも不完全であるということであり、「人の正義」は、決して完全ではないということです。この記事はそのことをまず私たちに気づかせてくれています。事実「悪が正義のようになり、正義が悪のようになる」ということは、どこの社会でも、私たちの社会でも当然、起こることでしょう。そして「扇動」に関して言えば、一部の人、あるいは多数派の思いや感情によって世の中が動かされていくことは今まさに起こっていることでしょう。現代は、そのような扇動や風潮がまさに吹き荒れ、本当かどうかわからない情報によって人々が扇動されています。しかし、それは決して新しい現象ではなく、いつの時代も人間は繰り返してきていることです。まさにこの場面でも、イエスが民を扇動したと彼らは訴えるのですが、民を扇動しているのは、イエスではなく、祭司長た律法学者たちであるのも皮肉なことです。しかも偽りの都合の良い情報によってでです。彼らはそれに気づいていません。そしてピラトも時の権力者でありながら、そのことに流され、まさに扇動されていっているのです。そのようにして死罪に当たる罪は全く見当たらないイエス様が、十字架の刑の宣告を受けるのです。

 この出来事は何を伝えているでしょうか?それはこの世は「罪の世」であることをまさに明らかにしています。人は皆、どんな人であっても、これほどまでに罪深い。つまりイエス様を十字架につけたのは、他でもない人間であり人の罪です。人の妬み、人の憎しみ、人の偽りの証言、人の扇動、人の自己保身やプライド、正義よりも自分の立場、などなどが、イエス様を十字架につけるのです。人間の理性や良心、正義などもここでは打ち勝てませんでした。人間の罪の前に、理性や良心はある程度は抵抗しても、しかしどこまでも不完全でしょう。そして「負けた時」には、理性も良心も罪の力に対してはもはや何もできません。まさにピラトの姿を通して、この十字架の前に、その現実が実に鮮明に浮かび上がってきます。罪に対する人間の無力さです。そして、そのことは同時に、まさに人間が、そしてその罪深さこそが、イエス様を十字架につけるのだということです。

B,「私がイエスを十字架につけた」

 みなさん、そのピラトの姿、人々の姿は、私たち人間を現しています。いや私自身です。祭司長、律法学者たちの姿、周りで十字架につけろと叫ぶ群衆の姿、そして何が正しいかをわかっていながらも自分を守り、自分のプライドのために判断してしまうピラトの姿を、皆様も自分自身に当てはめてみるなら、あるいはその立場に自分を置いてみるなら「自分は彼らのように、群衆のように、ピラトのようには決してしない」「正しい人を命を賭しても守り切る」「扇動されている群衆に刃向かってでも正義を守る」とは誰も言えないでしょう。弟子たちでさえも皆「他の誰かが裏切っても自分は決して裏切らない。イエスを知らないなどとは決して言わない」と誓って自信に溢れて断言しました。しかしその結果は逆でした。みな、イエスを見捨て逃げました。ペテロは3度「知らない」と言いました。実に、イエスを歓迎し支持していながら、イエスを信じていながら、イエスに従えない自分、背いてしまう自分、知らないという自分、裏切ってしまう自分、除いてしまう自分、そのようにして感情のまま思いのままに行動してしまう自分、それは弟子だけではない、周りのユダヤ人だけではない、誰でも日々の生活を振り返る時に痛感させられる自分自身の姿、いや、私自身の姿であることを気付かされます。実に、イエス様を十字架につけたのは、私であり、私たち人間の罪なのです。私たち自身、私自身なのです。まさに今日のピラトの記録、弟子たちの記録を通して私たちは自らの罪を示され心を刺し通されるのです。

,「罪を示され刺し通される私たちのための福音」

 しかし、聖書のメッセージはそれで終わりではありません。私たちがそのように罪を示され心が刺し通される時に、聖書はそのように私たちを断罪して裁いて終わりの書なのでしょうか?それだけが聖書が伝えたいメッセージなのでしょうか?それなら一切、聖書には救いはありません。むしろそのような現実が私たちに示されるからこそ、その時に聖書が何よりも伝えたい聖書の中心のメッセージが私たちに明らかにされるでしょう?そう、まさにそれら、正しい人を十字架につけるような私たちの圧倒的な罪の全てをご存知の上で、裁くためではなく、その罪から救うため、罪の赦しを与えるため、その罪の全てを黙って、その身に負われこの十字架に従われるお方がいるではありませんか?それはイエス・キリストご自身であり、その十字架こそ私たちに指し示されているのです。

 そこで改めて「ついにその声がますます強くなった、勝った」という言葉。実に意味深い言葉です。皆さん、イエス様はゲッセマネの祈りで何と祈りましたか?「みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころの通りにしてください」と祈ったでしょう。みなさん「ついにその声が強くなった、勝った」その時に何が起こっているでしょうか?ーその時、その罪の力、罪の声が勝った、その時、神様は沈黙されているでしょう。しかしその沈黙にこそ、イエス様のゲッセマネの祈りの求めに対する神様の御心、答えがあるでしょう。聖書には「神にとって不可能なことは何一つありません」とあります。つまり、神様はその群衆の罪深いの声を覆し、ピラトの正義の声を勝たせることもできますし、イエス様ご自身の言葉にもあるように、イエス様が天の軍勢を遣わして罪深い声の人々全てをそこで裁いて滅ぼすこともできるのです。しかし神はそうなされないでしょう?神は沈黙されているではありませんか?そう、だからその声が、罪の声が勝ったのです。それは神が沈黙されるからです。そして、そこに「主よ、御心の通りになりますように」と祈ったことへのその答え、神様の御心があるからです。それは、その声が勝ち、ピラトの声が負け、その人々の罪によってイエスが十字架にかけられること、その十字架で死ぬことこそ、神様の御心だということです。しかしそこに私たちへの救いの福音があるでしょう。そうそのようにイエス様が十字架にかけられるからこそ、つまり、イエス様がその全ての罪を背負って十字架にかけられるからこそ、イエス様が代わりにその罪をおって十字架で刑を受けるからこそ、私たちは神様からその本来私たちが受けるべき罪の刑罰を課せられない。罪を課せられない。神の前に罪ある者とされない。このイエス様の私たちの身代わりの十字架のゆえにこそ、イエス様が私たちが受けなばければいけない罪の罰を代わりに受けてくださったからこそ、私たちは神の前に罪赦され、罪のない者とされる。そう事実、尚も私たちは罪人のままですが、それにもかかわらず、私たちの義ではなく、イエス様の正しさ、その十字架の義のゆえに、神はそれを信じそのまま受け取る私たちに「あなたは正しい、あなたには罪を認めない」と宣言してくださる。それは全て私たちの苦しみ、私たちの十字架のゆえではなく、全てこのイエス様の苦しみ、十字架、死のゆえに、ではありませんか。イザヤ53章の約束にもある通り、イエス様の打傷のゆえに、私たちは皆、癒され、救われるのです。その遥か昔の約束が、まさにこのイエス様の十字架のゆえに私たちに実現しているでしょう。ですから「ついにその声が強まった、勝った」その時。その神の沈黙の中で、神は誰を見ているでしょう。それは私たち一人一人を見ているのです。私たちの罪を赦すため。滅びから死から、裁きから救うため。「ぜひあなたを救いたい」というその眼差し、その想いです。その眼差しがこのみ言葉に見えてきませんか?私は見えるのです。そう、そして聖書にある通り、それほどまでに、愛する一人子の十字架の死の決定に沈黙され、イエスを十字架の死に引き渡すほどに、神は私たちを愛してくださっているという福音が響いてくるでしょう。そのことがこのところからの変わることのない、私たちへの救いの答えに他なりません。

6、「終わりに」

 イースターを前にし受難週を迎えた今日の聖日もイエス様はその真実な約束のゆえに、私たちに「受け取りなさい」と福音を差し出してくださっています。今日もイエス様がここにおられイエス様がみ言葉とパンと葡萄を持ってこのイエス様のからだと血を与えてくださり、この十字架と復活のゆえに私たちに今日も宣言し遣わしてくださいます。「あなたの罪は赦されていまます。今日もあなたのいのちは日ごとに新しい。だから安心して行きなさい」と。ぜひその信仰を持ってそのまま福音を受け取り、平安のうちにここから世へと遣わされ行きましょう。

人知ではとうてい計り知ることのできない神の平安があなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

説教「ナルドの香油から洗礼へ」 吉村博明 牧師 、ヨハネによる福音書12章1ー8節

主日礼拝説教 2025年4月6日 四旬節第五主日

聖書日課  イザヤ43章16~21節、フィリピ3章4~14節、ヨハネ12章1~8節

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに - なぜ福音書は4つあるのか

 本日の福音書の日課は、イエス様の受難が近づく頃、マルタの姉妹のマリアが高価な香油をイエス様の足に塗ってそれを髪の毛で拭いたという出来事についてです。過越祭の6日前ということは、イエス様の受難と十字架の出来事の6日前のことです。そのため、マリアの行いは、死んで葬られるイエス様の遺体に香油を塗ることを前触れのように行ったものとして考えられてきました。イエス様の死を先取りした行いということです。

 マリアが塗った「純粋で非常に高価なナルドの香油」というのは、ナルドというインドが原産地の植物で赤紫色の花が咲き、香りは葉っぱから出るそうです。旧約聖書の雅歌の中にも出てきます。その時代からインド産のものがパレスチナの地に出回るような交易があったのかと驚かされます。ただ、パウロの出身地のタルソスにはナルドの香油が作られていたということなので、地中海沿岸でも栽培されていた可能性があります。どの位高価なものか、1リトラが300デナリ相当と言われています。リトラはローマ帝国の重量の尺度で1リトラは大体300グラム、デナリの方は当時の労働者の一日の賃金が1デナリだったので、300デナリは300日分の賃金。ちなみに、今の東京の最低賃金は1,163円、一日8時間働いて9,304円、その300日分は279万円。これが300グラムの値段なので1グラム9,000円です。誰が見ても高価な香油です。

 この香油の出来事はマタイ福音書26章とマルコ福音書14章にもあります。ただし、マタイとマルコはヨハネと記述が異なっています。場所はエルサレム郊外のべタニア、食事の時の出来事だったことは同じです。誰の家での食事だったか、ヨハネは記していませんが、マタイとマルコは「らい病の人シモンの家」と明記しています。他方でヨハネは、イエス様が死から生き返らせたラザロが食事に招かれていたこと、彼の姉妹のマリアとマルタもいて、マルタの方は給仕の手伝いをしていたことを記しています。マルタが給仕をしてマリアが別のことをするというのはルカ10章にもありました。マリアはイエス様の教えを聞くことに集中してマルタから文句を言われました。今日のところでもマルタが忙しそうにしているのが目に浮かびます。ここでもマリアは給仕とは無関係のことをします。それが香油注ぎでした。ただし、今日のところで文句を言うのはマルタではなく、イスカリオテのユダでした。

 マルコ福音書とマタイ福音書は、香油はイエス様の頭から注がれたと記しています。ヨハネ福音書は足に塗ってそれを髪の毛で拭ったと。そこで高価な香油をそんな使い方したことを憤慨し、貧しい人々に施すべきだったとイスカリオテのユダが言います。マタイとマルコでは誰が言ったかはわかりません。

 こういうふうに4つの福音書は、同じ出来事を扱っていても細かい点で違っていることがよくあります。どうしてそうなるのかと言うと、福音書を書いた人たちは記録や歴史の専門家ではなく、直接の目撃者だったり、目撃者から話を聞いて書き留めたものを後でまとめた人たちです。こうして最終的に4つの別々の記録が出来上がったということです。彼らにとって、自分の目で見たこと耳で聞いたことが大事な資料です。目で見たこと耳で聞いたことから受けた印象や影響が違ったりすると、同じ出来事を扱っても、人によってはある面を前面に出し別の面は背後にする、別の人は別の面を、ということが出てきます。スウェーデンの有名な釈義学者のB.イェールツが言っていますが、何かの事件の裁判で証人が4人いたとする、もし全員の証言が細部まで一致していたら、裁判官はこれは裏で辻褄を併せる相談をしたに違いないと疑うだろう、逆に細部は食い違っても出来事そのものが一致していれば証言の信ぴょう性は高いと考えるだろう、福音書もこれと同じなのだ、と。

 それなので、福音書で同じ出来事を扱っている個所に出くわしたら、これはマタイの視点で見たもの、マルコの視点で見たもの、というふうに受け止めて、それぞれの視点でそれぞれは真実であると受け入れる、同時に、マタイが見落としていることをマルコが自分の視点で取り上げたと受け止めて、最終的には4つの視点が大きな全体を作り上げているのだと把握する、つまり、真実はそれぞれのところと全体的なところの両方にあるという観点で福音書を繙くことが大事です。なぜかと言うと、そうすることで信仰は深まり強まるからす。だから、福音書が4つあるのはまさに神の御心なのです。

2.ナルドの香油から洗礼へ

 そういうわけで、今日はべタニアの香油の出来事をヨハネの視点で見ていきましょう。マルコとマタイの記述では香油はイエス様の頭からかけられました。ヨハネでは足に塗られて、それを髪の毛で拭うことをしました。それを行ったマリアはイスカリオテのユダから非難されます。なぜ、香油を売って貧しい人に施さなかったのか、と。そこで福音書記者のヨハネはユダがそう言った本心について注釈します。本当は貧しい人のことを思ってそう言ったのではなく、イエス様一行のお金をちょろまかしていたので、それで香油が現金化されなかったのが悔しかったのだと。このユダの偽りの発言に対してイエス様が言い返します。

「この人のするままにさせておきなさい。私の葬りの日のために、それを取って置いたのだから。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」

 この言葉はユダのマリア批判のすぐ後に言われます。それで、「するままにさせる」とは、この時マリアが髪の毛で香油を拭っていることを指します。

 イエス様の言葉の次の部分、「私の葬りの日のために、それを取って置いたのだから」はギリシャ語の原文がとても厄介です。素直に直訳すると「彼女が私の葬りの日まで香油を保てるために」です(後注)。これは変です。イエス様は、マリアが彼の足に塗った香油を髪の毛で拭っているのをそのままさせなさい、と言いました。そして、それをさせるのは、マリアが葬りの日まで香油を保てるためだと言うのです。今している髪の毛による拭いをさせるのは、葬りの日まで香油を保てるようにするためなのだと。香油は使ってしまったではありませんか!なので、それを葬りの日まで保つことなど出来ません。

 ここは訳をする人は皆悩んだと思います。訳者たちが考えた解決方法は次のことです。マルコ福音書とマタイ福音書では香油はもうすぐ起こる葬りのために前もって体に塗ったと言っています。本当は遺体に塗るべき香油であるが、まだ生きている段階で塗って葬りの準備をした、イエス様の死は不可避だという印をつけたという意味です。それと同じ意味を訳者たちは、このヨハネ福音書の不可解な個所、塗った後も香油は保たれるなどと言う箇所に当てはめたのです。日本語の訳も英語の訳もフィンランド語もスウェーデン語もドイツ語も皆同じです。本当は葬りの日に使うべき香油を前もって使用したという意味にしたのです。

 この解決法は、マタイとマルコの視点とヨハネの視点を一致させるものですが、私としては違う言い方をしている以上は、やはりヨハネは別の視点があるのではないかと疑います。それで、この難解な個所をマタイとマルコを参考にしないでヨハネの視点は何かを追求していこうと思います。

 マリアがイエス様の足に塗った香油を髪の毛で拭うのは、イエス様の葬りの日まで香油を保つためである。これがヨハネの書き方でした。マルコとマタイの場合は、香油は頭からかけられ、遺体に香油を塗ることを前もって行ったのだという書き方です。なので、塗られた香油を髪の毛はおろか何か拭うもので拭うこともしません。ヨハネの場合は、塗るのは足に限定していて遺体のように体全体に塗ることとは趣きが異なります。まず、足に香油を塗ることを足を清める意味に理解すます。というのは、ヨハネ13章でイエス様が最後の晩餐の時に弟子たちの足を洗って、君たちもお互いに同じようにしなさいと教えたことがあるからです。上に立つ者も下にいる者に対して仕えることをしなければならない。このように、足を清めることが仕えることを意味するならば、マリアがイエス様の足に高価な香油を塗ったのも仕えたことになります。ただし、イエス様の場合は罪のない神聖な神のひとり子なので足洗いのような罪の洗い清めの意味はありません。高価な香油を塗ってこれから十字架の死に向かう受難の道を歩む足を聖別する意味になります。このようにマリアは仕えることをしたのです。

 もっと大事なのは、マリアが足に塗った香油を今度は髪の毛で拭ったことです。そうすることでマリアの髪の毛にも香油が塗られたことになり、部屋いっぱいに広がる位の強い芳香はイエス様の足だけでなくマリアの髪の毛にも漂うことになります。これがまさに、マリアが葬りの日まで香油を保つこと、自分の体の一部にして保つということなのです。マリアのこの香油の保ちはイエス様の受難を自分に身近なものにする、自分のものにするということです。イエス様は、自分の葬りの日まで香油をつけておいて自分の受難を身近なものにしていなさいということを意味したのでした。

 それでは、イエス様が葬られたら受難は終わったので髪についた香油を取り除かなければならないのか?洗い落とさなければいけないのか?でもそれは、たとえ香油の香りが髪の毛に残っていたとしても、イエス様の受難は終わってしまったのだから、その香りにはもう受難を身近なものにする、自分のものにする意味はなくなります。

 しかし、その代わりにイエス様の受難を自分のものにする新しい仕方が始まりました。洗礼です。使徒パウロはローマ6章で、洗礼を受けてイエス・キリストに結びつけられた者はキリストの死にも結びつけられたと教えます。キリストの死に結びつけられたからにはキリストと共に葬られたのだと。しかし、洗礼が人を本当にキリストに結びつけるものならば、死と葬りとの結びつきはまだ道半ばです。なぜなら、キリストは死んで終わったのではなく、三日目に創造主の神の想像を絶する力で復活させられたからです。だから、洗礼を受けてキリストに結びつけられた者はキリストの復活にも結びつけられたのです。キリストの復活に結びつけられると、永遠の命に結びつけられます。それまで神の意思に反しようとする性向、罪のために永遠の命から切り離されていた人間は洗礼によって永遠の命に結びつけられます。無理やりと言っていい位に力強く結びつけられます。その瞬間、罪はその人からはじき出されたみたいになって、その人を支配する力、コントロールする力、牛耳る力を失います。

 もちろん、人間はキリスト信仰者になっても肉を纏っている以上は罪が残存しています。しかし、それは信仰者から永遠の命を切り離す力をもう持っていないのです。干からびた虫けらのようなものなのです。それで、信仰者が自分の内に神の意思に反するものがあることに気づいた時はいつも心の目をゴルゴタの十字架に向けます。そうすれば、あの時打ち立てられた罪の赦しは微動だにしていないこと、自分は罪の赦しの恵みの中で生きていることをいつも確認できます。その度に、あの抗しがたく感じられた罪の思いは潮が引くように退いていきます。その度に、罪は本当に支配力を失っていることと、それを可能にしているのはまさしく罪の赦しの恵みであることがわかり、その確信は日々強まっていくのです。これがパウロの言う、罪に対して死に神に対して生きるということです。

3.勧めと励まし - 貧しい人々を神の国へ

 イエス様は再臨する日までこの世から離れていますが、貧しい人々をキリスト信仰者に委ねました。それにどのように応じたらよいのでしょうか?イエス様がこの世にいない今の時は300デナリを分け与えるのが良いやり方でしょうか?でも、それだと300人に一日分の賃金を与えた後はどうなるか?支給対象を100人に絞ってそれぞれに三日分の賃金を与えるのは?そのようなやり方では資金はすぐなくなってしまいます。もっと持続可能なやり方を考えないといけません。キリスト信仰者にとって持続可能な貧しい人々の支援策はなんでしょうか?

 イエス様が貧しい人々について何を言っていたかを見てみましょう。ルカ6章で「貧しい人々は幸いである。神の国はあなたがたのものである」と言っています。マタイ5章を見るともっと限定して「霊的に貧しい人々は幸いである。神の国はあなたがたのものである」と言っています。「霊的に貧しい」は日本語訳では「心の貧しい」ですが、ギリシャ語原文も他国の訳も「霊的に貧しい」です。「霊的に貧しい」というのは、神の意思は正しい、十戒は正しい、だからそれに沿うように生きなければと思っているのに、それに反することを考えてしまったり、言葉や行いに出してしまう。それで、自分は神から離れてしまっていると気づいて悲しんだり沈んでいる人たちです。どうしてそのような人たちが復活の日に復活を遂げて神の国に迎え入れられるのでしょうか?

 それは、そのような人たちは、自分の力では神に義と認められないとわかっているからです。自分の力でできないので、別の力が必要だと痛感している人たちです。イエス・キリストの十字架の業による罪の償い、罪からの贖いの業がまさにそうした別の力の働きです。イエス様の業のおかげで、彼を救い主と信じて洗礼を受けると、神に義と認められるのです。キリスト信仰者は、基本的に皆、も霊的に貧しい人たちです。自分の至らなさを自覚しています。だからイエス様を救い主と信じる信仰のおかげで神から義と認められて、将来、神の国に迎え入れられるのです。

 それなので、キリスト信仰者は霊的に貧しい人も経済的に貧しい人も、まずは神の国に迎え入れられるように導くこと、イエス様の十字架と復活の業のおかげで神の国がその人のものになるように導くこと、これが持続可能な助け方ではないかと思います。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

(後注) ヨハネ12章7節

αφες αυτων, ινα εις την ημεραν του ενταφιασμου τηρηση αυτο.

これを英語にそのまま転換すると、

Let her (do this) /Allow her (to do this) so that she might keep it (=perfume or ointment?) until the day of my burial.

 

2025年3月30日(日)四旬節第四主日 主日礼拝 説教 ハヴカイネン ティモ 宣教師(SLEY)

説教の原稿は頂けませんでしたのでYou Tubeでご覧ください。 オープニング 説教 交わり

またお会いしましょう。

 

ハブカイネン夫妻の紹介

ティモはフィンランドのルター派国教会の青年活動主事、マリリーサは保育士、夫妻は3人の息子と共に1987年から2003年までSLEY(フィンランド・ルーテル福音協会)の宣教師として日本で伝道活動。帰国後ティモはナーンタリ市にあるナーンタリ教会の青年活動主事、マリリーサはノウシアイネン市で保育士を務めてきました。二人ともコーラスで歌うことと自然の中を歩くことが大好き。

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

 

 

2025年3月23日(日)四旬節第三主日 主日礼拝 説教 木村長政 名誉牧師(日本福音ルーテル教会)

私たちの父なる神と、主イエス・キリストから、恵と平安とが、あなた方にあるように。

アーメン                    スオミ教会 2025年3月23日(日)

説教題「神の前に悔い改めよ」

聖書: 聖書ルカ福音書13章1~9節

今日のみ言葉には二つの事件を引き合いにしてイエス様が警告を発しておられる。そして最後には譬え話を語って折られます。この箇所の前12章でイエス様は「あなたを訴える者と仲直りをしなさい、さもないと捌かれるぞよ!」と審判の事のついて語っておられます。そして13章になりますと、そこで丁度其の時に何人かの人が来てピラトがガリラヤ人の血を彼らの生贄に混ぜた事を告げた。当時ピラトはパレスチナを管轄していた総督でありました。何故、ピラトはガリラヤ人を虐殺するような事をしたのか。この頃ガリラヤは熱心党と言われる人々ぼ故郷でありまして活動の中心地だった。恐らくこのガリラヤ人たちはローマ帝国の圧政に反抗して度々武力闘争によってメシア時代を来たらせようと計ったんですが失敗したのでしょう。ピラトはしばしばユダヤ人の宗教感情に故意に武力によって残酷な振る舞いで傷つけていた。こうした背景があってエレサレム神殿に礼拝に来て、祭壇に犠牲を捧げていたガリラヤ人をピラトは虐殺して其の血を流したという事件が起こった。この事件はたちまちユダヤの人々にも伝わって行ったでしょう、なんと酷い悲惨な事か…・と。そうしてイエス様とその一行のもの達にも告げたのでしょう。この殺害事件のニュースをもたらしたのはパリサイ主義の者であったにではないか、そういう説もある。彼らの律法主義の考えからこような酷い目にあったのは罪の結果ではないか、という避難の声が隠されてイエス様の元へともたらされたのではないか。当時パリサイ派の人たちは因果応報の考えを持っていた、つまり行った事には報いがある。善い行いには善い報いがあるし、悪い行いには悪い報いがある。ですから災難に会った人々ぶは神の審きがあったのだ、と思ったのでした。しかし此処でイエス様はそのような考えを根本的に否定なさいました。それはちがう!と言われたのです。ルカは2節のところでこう書いています。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に会ったのは他のどのガリラヤ人よりも積み深い者だったからだと思うのか、決してそうではない。言っておくがあなた方も悔い改めなければ皆同じように滅びる。」続いて、全て同じような事件を引き合いに出されて、イエス様は警告を語られる。4節です、「また、シロアムの塔が倒れて死んだ、あの18人はエレサレムに住んでいた他のどの人よりも罪深い者だったと思うのか、決してそうではない、言っておくがあなた方も悔い改めなければ皆同じように滅びる」。イエス様の教訓の大事な点は他人の上に起こった災難の話を聞くにつけ自分自信の悔い改めがどんなに大切である、ということを気づかせておられるもです。他人は災害を被ったが自分は審きを受ける事はない、とか災害を受けた者は罪に対する罰を被ったのである、が自分にはその心配はない、とかそのように思うべきではない。他人の被った災害のニュースは自分に対する警告である、これを聞いて自分の罪を恐れ悔い改めるのでなければ、それと同じような災いが自分に落ちてくるであろう。だから悔い改めよ、と警告されているのです。現実の私たちの日常生活の中で矢張り時々あの人は何か悪い行いをしたから、今その報いとしてあのような災難に会っているのだ、と考えてしまう。そのような時私たちは自分を棚に上げて自分の事は別にして自分の罪深いことは忘れてまるで傍観者のように他人の罪を眺めています。他人の災難や不幸を非難する事で自分と言う者を気づかない内にその事で自分を隠してしまって良く見せようともします。自分は違うあんな悪い人とは違うと言いたいのであります。

パウロはローマ人への手紙3章10節から23節のところで次のように言います。「正しい人は一人もいません、一人もいません、神を求める人は一人もいません。全ての人が迷い出てみんな堕落しています」。全ての罪を犯したため神の栄光を失っています。今、本当の捌きの前に立つ時あの人は誰よりも罪深いと簡単に言えるでしょうか。神の前に悔い改めは私たち全ての事なのです。それできょうのみ言葉イエス様は言われます。「あなた方も悔い改めなければ全て同じように滅びる」私たちは「悔い改め」と言うと何か道徳的な思いが先に立ちます。そして、泥棒が悔い改めて真人間になったり、不良少年が立ち直ってまじめに回心したりする事を考えたりします。しかし、そうでしょうか。パウロが神の前に「全ての人は罪がある」と言った時決して道徳的基準をあてはめているのではありません。パウロは言っています、「私は自ら省みて何の疚しいところはない」と(第一コリント4:4)またピリピ書3:6では「律法の義については非のうちどころのない者でした」と言っています。ダマスコ途上で回心する前にはパウロは少しもやましいところがなく立派な人でした。20世紀最大の神学者カールバルトが「悔い改め」と言う説教の中で」こう言っています。「イエスは私たちをお招きになります。真理を私たちに告げようとなさいます。神を私たちに告げようとなさるのです。これを聞いて受け入れる者は悔い改めます。」悔い改めとは私たちがいつも見落としている最も近くにあるものへの立ち返りにほかなりません。私たちが何時も見えない大事な生き方中心に立ち返ることです。神は私たちの最も近くにいます。神は私たちの中心であります。私たち一人々を創られた方です。その神に立ち返る事です。この事はほかの全ての方が私たちに最も良く理解されうる以上に自然で単純で自明な事であります。悔い改めとは、ほかでもない私たちの中心へ立ち返ることです、が人間は果たしてそう簡単になるでしょうか。旧約聖書エレミヤ書31章31節から31節を見ますと「見よ、私がイスラエルの家ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る。」と主は言われる。この契約はかつて私が彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出した時、結んだものではない。」預言者であるエレミヤが神様からの大切な言葉を告げるのですがそれは昔イスラエルの民をエジプトの地で奴隷の状態から救い出し、モーセによって40年の荒野の旅の途中シナイ山でモーセに十戒を授けられます。この律法によって神とイスラエルの民との間に契約を結ばれます。ところがイスラエルの民はこの契約を破ってしまった。そのため此処に新しい契約が立て直されなければならない。エレミヤ31章32節の続きを見ますと、「私が彼らの主人であったにも関わらず彼らはこの契約を破った、と主は言われる。」エレミヤは此処に一つの大きな問題を提出しているのです。この問題は何かと言いますと人間の罪の問題です。これはイスラエルの民だけの問題ではない。人間の奥底にある根本的な問題です。パウロが信仰を宣べます時必ず課題となった問題です。

その問いは古代教父アウグスチヌスも真剣に神の前に告白して来ました。そしてマルチン・ルターも、そして20世紀最大の神学者カール・バルトもこの問題に取り組みずうっと共通の問題です。神と人が常に契約の関係に役立つため律法が行わなければならない。律法は実に人間に対する神の命令をはっきり示しているものです。ところが人間は神の命令を素直に受け入れない。神の命令をそのまま実行する事ふぁなかなか容易ではない。旧約の、あのアダムとエヴァは神の命じられた禁断の知恵の木の実を食べてしまった。蛇にそそのかされて神の命令を破ったのです、神に背いてしまったのです。人間一人々の心に天使が存在する、と共に悪魔も存在する。…うまく言ったものです。此処に人間にどうにもならない罪の問題があるのです。それ故エレミヤにとっても、この新しい契約を結ぶと言われるのです。この神の命令はそのまま実行できるかどうか!問題となったのです。パウロはローマ人への手紙7章15節にこう叫んでいます。「私は自分のしている事がわからない。何故なら私は自分の欲する事を行わずかえって自分の憎む事をしているからである。」このパウロの叫びはエレミヤの嘆きでもあった。人間は真実でなければならない、これがエレミヤのもっとうでした。この事を充分承知していながら偽りを言ったり行ったりする。何故かそれは人間が悪に染まっているからだ。とエレミヤ書17章9節で言っています「人の心はなににもまして捕らえがたく病んでいる。」。この言葉によって彼は人間性の中に潜む根本的な矛盾をどう解決するか。この解決なくしてイスラエルの民が神の民であると言えない。また神の子であり得ない。そこにエレミヤが「罪に赦し」ということを特に言わざるを得なかった。34章の最後のところで主が言われる「私は彼らの悪を赦し再び彼らの罪に心を留めることはない。」ここに福音が予言されているのです。神様の罪の赦しがある。そのために「悔い改めなさい」とイエス様は言っておられる!「あなた方も悔い改めなければ皆同じように滅びる。」主なる神様私たちの罪を赦そうと「悔い改める」ことを忍耐して待っておられるのです。神がどんなに忍耐しておられるか、イエス様はこの事を譬え話で語っておられます。それが6節から9節にある「実のならない無花果の木」の譬えです。ぶどうの園に植えてある一本の無花果の樹は3年になっても実らない、主人はとうとう怒って言った。「これを切り倒せ!何故土地を塞がらせておくのか」園丁は答えた「ご主人様、今年までこのままにしておいて下さい。樹の周りを掘って肥やしをやってみます。」この3年待った意味について神様は旧約時代を通じて長い年月イスラエルの民が神に従うのを待たれたのだ、と言う意味に取るのか或いは神のみ子をこの世に遣わしてイエス様が宣教を始められてから約3年待たれた、つまり洗礼者ヨハネが「悔い改めよ、と叫んで斧ははや樹の根元に置かれている。善き果を結ばぬ樹は切られて火に投げ込まれる」このように叫んで既に3年、今なおユダヤ人は「悔い改め」ようとしたない、「これを切り倒せ」と命じておられる。それに対して園丁は1年の猶予を請うて悔い改めの実を結ぶように伝道に万心の力を尽くして仕えます!。

パウロはロマ書9章22節で言っています。「神はその怒りを示し、その力を知らせようとしておられたが、怒りの器として滅びることになっていた者たちを寛大な心で耐え忍ばれたとすれば、それも憐れみの器として栄光を与えようと準備しておられた者たちにご自分の豊かな栄光をお示しになるためであった。」これがイエス様のみ心でもあるのです。なんと言う寛容と憐れみであろうか、なんと言う愛と慈哀でありましょうか。神が待っていて下さる間に、今こそ悔い改めよ、今は恵みの時である。世の終わりに於いてキリストが裁き主として再び現れ給う時世界全体に渡り全ての国民、全ての民族、全ての人が審かれる。罪を悔い改めてキリストを信ずる者は永遠の生命に入り、高ぶってキリストを信じない者は永遠の滅びに定められる。その時の来る事を予め警告しておられるのであります。今は悔い改めの時恵みの時なのであります。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない、神の平安があなた方の心と、思いとをキリスト・イエスにあって守るように。   アーメン

 

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

 

 

2025年3月16日(日)四旬節第二主日 主日礼拝 説教 アウヴィネン ヴィッレ 牧師(SLEY海外伝道局長)

説教:内容はyou tubeをご覧ください

 

SLEYとスオミ教会との間の諸問題について話し合いをしました。

 

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

 

フィンランドのミッション団体SLEYの海外伝道局長V.アウヴィネン先生が来日されます

3月16日のスオミ教会の礼拝にて説教を担当されます(通訳付き)。

SLEYは、日本とフィンランドが外交関係を結ぶ前の1900年から日本に宣教師を派遣してきた北欧のルター派ミッションのパイオニアです。是非この機会に礼拝に御参加下さい。

V.アウヴィネン先生の略歴

  • 1966年生まれ(トゥルク市出身)
  • 1988年オーボ・アカデミー大学神学部卒(神学修士)及びフィンランド・ルター派国教会牧師就任
  • 2003年神学博士(オーボ・アカデミー大学神学部)博士論文”Jesus’ Teaching on Prayer” (Åbo Akademis förlag)
  • ルター派国教会牧師、SLEY専属牧師、SLEY海外派遣宣教師(ザンビア)、フィンランド神学研究所事務局長、SLEY海外伝道局付けを経て、2017年から現職およびトゥルク市議会議員(キリスト教民主党)
  • キリスト教、聖書関係の著作多数。国教会保守派の論客としてテレビの時事討論番組にも多数出演

 

2025年3月9日(日)四旬節第一主日 主日礼拝 説教 田口聖 牧師(日本ルーテル同胞教団)

ルカによる福音書4章1〜13節「誘惑の歩みにある主の助け」

礼拝をYouTubeで見る

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

1、「はじめに」

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 3章では、福音書記者であるルカが、歴史的事実や系図、そして当時の優れた預言者であった洗礼者ヨハネの証言を通して「イエスは本当の救い主である」と伝えているということを見てきました。今日の箇所はその後、イエス様が荒野へ導かれ受けられた「悪魔の誘惑」の箇所です。

 3章ではイエス様が、洗礼者ヨハネから洗礼を受けた時、御霊が鳩のようにくだり、天から「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ」という声があったとありましたが、4章1節は、その下った「御霊に満ちて」という言葉から始まります。

「1さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、」

 聖霊に満ちたイエス様は、「霊」に引き回され「荒れ野」にいました。「霊に引き回され」とある言葉は新改訳聖書では「御霊に導かれ」とも訳されています。そして、2節ですが、

「2四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。 」

 と続いています。聖霊に満たされたイエス様は霊、あるいは御霊によって「荒れ野」を引き回され、あるいは「導かれて」そして「悪魔の誘惑」に会われたのでした。

2、「荒れ野」

 皆さんはこのことをどう思うでしょうか?私たちも同じように、洗礼を受け、聖霊が与えられ、みことばとそこに働く聖霊によって導かれて歩んでいる私たちです。しかしある人にとってはここはこう思うかもしれません。それは、聖霊に満たされているのに、それなのに、聖霊なる神、助け主に満たされ導かれるのが荒れ野なのか?そしてそこに悪魔の誘惑があるのはどういうことか?と。つまり「聖霊に満たされ導かれるのだから、良いことでなければ、神、聖書は、おかしいじゃないか?何で悪いことへ導くのだ」と。

A,「聖徒であり同時に罪人」

 しかしこの聖書の箇所は私たちに一つの大事な事実を教えてくれています。それは、私たちはみ言葉の通り、信じて洗礼によって救われました。聖霊が与えられました。新しいいのちを与えられました。しかし、私たちに与えられた信仰の新しい歩みは、苦しみも罪もない天国に来た訳ではなく、「この地上に」尚も生きる信仰の歩みでもあるのです。そして、その地上にある「この世」は、聖書にある通り「罪の世」です。つまり悪魔の誘惑の力がまだ働いている世でもあり、罪の奴隷にある世です。私たちは確かに「神の前」にあっては、イエス様の十字架と復活のゆえ、私たちの義ではなくイエス様の義のゆえに、それを信じ受け入れる私たちの罪は見られません。それは私たちたちの義ではなく、イエス様の義のゆえに信仰によって私たちも義と認められていて、そして聖霊によって新しく生かされている者ではあるのです。しかし「同時に」、まだ尚も、この罪の世に生きる者でもあり、私達自身、一人一人誰も例外なく、つまり私自身も、肉にあっては、尚も同時に罪人でもあるのも事実です。今日、悔い改めても、私たちは罪を全く犯さない完全な人間になったのではなく、直ぐに行いにおいても心においても、罪を犯してしまう者です。キリストにあって信仰が与えられて霊にあって新しくても、同時に肉にあっては尚も、私たちは、もちろん私自身も自分勝手で、むしろ、肉の性質は、神と神のみことばを信じないで退けよう、背を向けようとする、まさに同時に罪人のままの私たちでもあります。それはルターも教える通りです。彼は教えました。私達は、キリストのゆえに霊にあって「神の前にあっては聖徒であっても、同時に罪人である」と。ですから、クリスチャンである私たちのこの罪の世、地上での歩みは、尚もその悪魔、誘惑との戦いに日々、生きる歩みなのです。だからこそ、主イエス様は主の祈りを私たちに与えて下さっているでしょう。「私たちの罪をお赦し下さい〜私たちを試みに会わせず悪より救いたまえ」と祈るのです。

B,「荒れ野のキリスト者は、誘惑との戦い」

 もちろん、救いの道は、必ず勝利の道でもあります。聖霊とみことばは私たちを最後には天国、そして新しい天と新しい地へと導く最強の力です。しかしこの罪の世は、まだ過ぎ去っておりません。尚も絶えず強く私たち一人一人を誘惑してくる事実はあるでしょう。私たちはそこで証しと愛に召され生かされている者ではあるのですが、この世にあって肉にあっては本当に罪に対して悪に対して、そして悪魔に対して弱い存在で、尚も罪深い日々です。ですから、聖霊による新しい道、私たちクリスチャンの道は、やはり、今日の箇所のイエス様のように日々、荒野なのです。日々、誘惑との戦いの道なのです。むしろそれは、救われる前より厳しい闘いになるでしょう。なぜなら私たちに与えられている聖霊は聖なる方ですから私たちを増々、罪に敏感にするからです。だからこそ、聖霊の導く道は、ここにあるような荒野、悪魔との戦い、罪との戦いの道なのです。イエス様も「あなたがたは世にあっては艱難があります」(ヨハネ16:33)とも言っているでしょう。日々、誘惑です。その誘惑は、ただ行いの罪を犯させようとするだけでなく、心の中の罪の思いも誘惑です。そして、何よりの誘惑は、イエス様こそが完全な私たちの救い主であるということを、私たちが信じないように、あるいは、洗礼や聖餐の福音の力を疑わせて、信仰の確信、救いの確信を奪い、イエス・キリストの恵みよりも、他の目にみえる目先のことや、他の人の行いや力、あるいは自分や自分の行い、名誉、プライドのほうが、救いのための力、光であるかのように思わせて、イエス様とそのみことばを捨てさせようとすることこそ、最大の誘惑です。そして捨てさせて、悔い改めのない歩みをさせ、ついには私たちを滅ぼすこと、永遠の死に堕とすことが、悪魔の最大の目的です。そのために働いてきます。私たちはイエス様と同じように、その荒野に導かれているのです。イエス様のように、日々、誘惑との戦いなのです。

 けれども恐れることはありません。今日のこのイエス様の受ける荒野の誘惑とそれに対するイエス様の姿はそんな私たちに、何のためにキリストは世に来られ、聖霊が私たちにも与えられ、その聖霊が私たちを導いているのかを証しし、そして、いかにしてイエス様は誘惑を退けるのかを私たちに示し教えてくれているのです。その事実が、この誘惑とイエス様にはよく現れているでしょう。まず悪魔はどのように誘惑するでしょうか。三つの誘惑が書かれています。

3、「悪魔の三つの誘惑」

 一つ目は、3節

「3そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」」

 第二の誘惑は、6〜7節。

「6そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。 7だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」 」

 第三の誘惑は、9〜11節です。

「9そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。 10というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる。』11また、『あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える。』」

 これが悪魔のイエス様への三つの誘惑でした。この三つの誘惑を見る時に、悪魔の誘惑の一つの特徴が分ると思います。

A,「悪魔の巧妙さ」

 それは、私たちが悪の苦しみというとイメージする迫害とか肉体の痛みとか以上に、つまり目に見えて明らかな悪いものではなくて、むしろ、誘惑なのですから、人間の欲求・欲望をかき立て魅了する、魅力的な良いものを餌にしているということがわかると思います。私たちは悪魔の攻撃と言うと、迫害とかを連想するです。もちろん、迫害も妨げなのですが、しかし、ここにあるように、むしろ人が騙されやすい、誘惑に負けやすいのは、あのアダムとエバの罪の初めで、人にとって甘く美味しそうな実にこそ彼らは心奪われたように、まさに、人間のそのような罪の性質の根っこ、罪深く自己中心な願望こそを悪魔はみごとについてきているといえるでしょう。創世記三章のアダムとエバの堕落の所です。創世記の3章5節。そこでエバはサタンの「あなたがそれを食べる時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪の知識をしるようになることを神は知っているのです」(5節)というその誘惑のことばにこそ魅了されます。そしてエバはその誘惑の言葉を聞き「その木はまことに食べるの良く、目に慕わしく、賢くすると言うその木はいかにも好ましかった」(6節)と彼女の誘われる心を描いているでしょう。そのように彼らはその誘惑に負け神のみことばを退け、食べてはいけないと言われた木の実を食べるのです。今の世の中でも、実に沢山の詐欺事件が伝えられていますが、その手口のどれを見てみても、はじめは「美味い話」あるいは「利益・財産の話」から始まって、騙される人は引き込まれていきます。また多くのカルト信仰も溢れていますね。そのカルトにも多くの人が集まってきますが、そのカルト入信のきっかけも、やはり「美味い話」であったり、その人々の一時の不安解消やご利益をみごと刺激するようにして入信する人を魅了するのです。さらには広告メールや迷惑メールも、そのタイトルは、人々が開きたい、読んでみたいような、まず人の気をひく「美味い話」「利益の話」のタイトルが踊っています。誘惑とはそのようなものです。

1)「石をパンに」

 悪魔の誘惑もそうです。一つ目の誘惑を見てください。それは石をパンにするということです。パンは物質的な豊かさを示しています。そしてイエス様は確かに神の子ですから石をパンに変えることは出来るのです。もしその辺りの無数の石をパンに、つまり溢れるばかりの豊かさに変えることが出来るなら、なんと幸いでしょうか。毎日、食べるに困りません。そればかりでなく、有り余るほどのパン、食べ物を、人に配ることができます。そうすると、人からありがたいと賞賛され、尊敬される存在、人気者にもなれます。支配者にもなれるでしょう。これまでの世の統治者は、この力が得られるなら、直ぐにでも飛びついて得たい力と誘惑となるものでしょう。この直ぐにでも見たい手にしたい眼にみえる物質的な豊かさや数の多さ、大きさは、教会にとっても誘惑になります。石を豊かさ、富に変える。それは教会でも、その力があるなら、ぜひ、人を沢山、お金、富を沢山、集めるために、数を伸ばすために、人を惹きつけるためには、魅力的な材料であり、欲しい力であると見る人もいるかもしれません。

2)繁栄を全てあなたに

 第二の誘惑はどうでしょうか?悪魔は、世界の国々を全部見せました。ローマ皇帝のもの凄い繁栄と富を見せられただけでなく、悪魔は過去のこれまでの文明の繁栄、そして未来の、現代のこの繁栄や豊かさも見せたのかもしれません。その全て、その権力、栄光、繁栄が全て自分のものとなる。力と誉れが自分のものになる。それはどの国の支配者も、いかなる軍事力を駆使してでも奪い取りたい特権に映るものでしょう。エバを誘惑した「神のようになれる」というサタンの誘惑のまさに最たるものともいえます。教会も例外ではありませんね。世界の福音派のある人々は、まさに繁栄の神学の虜になり、地上の人間的な繁栄を約束し希望とするような都合の良い間違った福音、間違った偽りの光や愛で、人々を律法的に、マンパワーや理性や人間の直感や感情や欲求により頼むように、導いています。その中でもある熱狂的な教会やカリスマ牧師の教会は、教会が人の数やお金の数字の上で大きくならない、成長しないのは、信徒であるあなた方が熱心でないから、一生懸命でないからダメなんだと、教会や宣教や伝道を律法にして脅すように駆り立てますし、逆に信徒がそのような価値観であると、み言葉に誠実に仕え伝えている牧師に対してさえ、牧師が熱心ではないからだ、”営業努力”が足りないからだ(彼らはよくそんな牧師に「もっと「成功したビジネスマンの本」を読め」といいます)、能力、魅力がないからだと責め立てます。そのようなマンパワーで導くことは確かに数的には多くの人を集め、メガチャーチにまでもなります。それは、人の目には成功しているように見え、多くのクリスチャンはこれが成功した宣教・伝道だと決めつけてしまう、そのように更に間違った宣教、教会へと逸れていっているという深刻な現実がありますね。悪魔の誘惑はまさにキリストの姿をしてやってくる偽キリストであり、実に巧妙です。

3、「神を試みる:自分の思いの通りに神はするだろう」

 そして三つの誘惑。神を試みること、試すこと。つまり、神を人間の都合の良い解釈や想いのままに試す。これは「神が人を」ではなく、「人が神を」支配する誘惑です。それは先の繁栄の神学やリベラルや現代の流行の神学の共通の傾向ですが、人の思いのままに神を動かしたい、神に働いてほしい、神はそうするに違いないと決めつける、そのような誘惑です。これもまた誰にでも起こりうる誘惑ですね。私達は神の恵み、神のみ言葉や約束をその通りですと信じる信仰なのに、しかし私達の罪の性質は、神中心ではなく、自分中心に、自分の願うまま、思いのまま、期待するように、神がしてくれるだろうと思ってしまいます。そして自分の願う通り、思っていた通りにならないと、今度は、神がおかしい、神が矛盾している、間違っていると、神や神のことばを否定したり、呪ったり、批判したりします。これも、誰でも陥りやすいことで、クリスチャンであっても、もちろん私自身もしてしまいやすいことです。このように、サタンは人にとって「美味そうな人参」をぶら下げて誘惑して来るのです。いや、ひょっとしたら、誘惑されている、あるいは逸れてしまっていることさえも分らないということもあるくらいに、悪魔の誘惑は巧妙である恐ろしいものであるのです。

 イエス様ご自身が言っています。「偽預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼である」と(マタイ7:15)。パウロも、第二テモテ4章2節以下で、教会が、自分たちに都合のいい空想話に逸れていき、そのような偽りの説教者を集めるような時代が来ると、預言的に警告しましたが、今まさにそのパウロの警告のようなことが教会では起きています。自分が語ってほしい甘い言葉を語らないと牧師を批判したり、律法を語ると罪や悔い改めを語るなと言い出したりして牧師を退けたり、そして自分に都合のいいことを言ってくれる説教者や牧師やメッセンジャーばかり求めたり集めたりするようなことは、実際に教会で起こっていることです。私たちの歩みは今も荒野です。いつでもサタンの誘惑があります。それは明らかな罪への誘惑もあり、迫害のような誘惑もありますが、まさにこの荒野の誘惑のように、人には気付かないようにして羊のなりをして信仰と言う大事な宝を奪い取っていく内は凶暴は狼の誘惑があり、むしろそのほうは怖いともいえるのです。私たち自身はそれに対して、実に弱く、脆い存在です。私たち自身ではそれを判断することも、勝つこともできないほど、弱く無力だともいえるのです。

B,「聖霊とみ言葉の正しい教えによる誘惑への勝利」

 しかし、十字架と復活への道を歩み始め、まず荒野へと導かれているイエス様であり、聖霊によって満たされ導かれたイエス様はどのようにして、この悪魔の誘惑を退けているでしょうか?

 イエス様は全て「みことば」をもって退けているでしょう。第一のみことばに対しては、4節

「4イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。 」

 申命記8章3節の引用です。そして二つ目の誘惑に対しても、8節ですが、

「8イエスはお答えになった。「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」」

 申命記6章13節の引用です。そして最後の三つ目の誘惑は非常に面白い所で、サタンもみことばを用いて誘惑しているでしょう。まさに羊のなりをしてやってくる偽預言者の姿で、これは教会に絶えず起こり続けけいることであり、聖書を都合のいいように解釈した間違ったみことばで誘惑して来る姿そのものです。しかしそれに対して対抗しうるのも、聖書のみことばであり、そして大事な点ですが、その聖書のみことばの正しい解釈、正しい教え、つまり、正しい教理、正しい信仰告白こそ、悪魔のこの誘惑さえも退ける力であることが示されています。12節ですが

「12イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。 」

 やはり聖書、申命記6章12節の引用になります。

 聖霊に満たされて導かれるイエス様は、このように聖書のみことば、しかもその正しい教え、つまり正しい教理、正しい信仰告白、信条、そのように正しい教えで誘惑を退けました。そしてそこにこそ聖霊は、みことばにおいて、豊かに働いて力を現しているのです。みことばとその正しい教理、教えこそ、誘惑に対して何より強いということを、このところは私たちに伝えているのです。

4、「罪人は誘惑と罪に対して無力」

 私たち人間は堕落前の姿にあるように、本来の創造されたままの人間は、神のみことばによって、神の言葉に信頼して、それによって安心して平安に生きるものでした。本来は、そのように作られているのです。神の創造において良いもの、祝福の存在として創造され、いのちを与えられ、神の愛のもと、みことばによって導かれ、みことばを霊の糧として生き存在するものでした。しかし堕落は、サタンの誘惑、肉の欲に見るに麗しい慕わしい「神のようになれる」という美味しそうな実に負けることによって始まりました。罪の世は、そのようにサタンが私たちをキリストとそのことばから背を向けさせよう、自分を神に、中心にさせよう、そして救いから落とそうと、絶え間なく激しく誘惑して来るこの世なのです。私たちはこの世に尚も生きている者です。私たちも荒野を生きるものです。そしてそこでの私たち自身は、自らの力では実に弱く、無力で、罪深く、誘惑に勝つ力のないものです。直ぐに神と神のことば、キリストの十字架、罪の赦しを忘れ、疑い、自分が正しい、罪のない、神のように、生きようとしやすいものです。

5、「結び:だからこそキリストは信仰者に聖霊を与え働き勝利する」

 しかし、今日の箇所は教えます。イエス様を信じる信仰のゆえにイエス様の与える洗礼の恵みに与り、イエス様から聖霊が与えられているということ、その聖霊が常に力強く、みことばとその正しい教え、信仰告白、そして、洗礼と聖餐を通して働いてくださるのだということです。そしてその聖霊がみことばと正しい教えをもっていつでもサタンと誘惑を退けてくださり、勝利してくださる、まさに真の「助け主」だということをです。そのように今日もイエス様はこのみ言葉の説教と聖餐を通して私たちを励ましているのです。「あなた方の歩みは荒野の誘惑との戦いの歩みだからこそ、わたしは決してあなた方を一人にはしない、一人にし重荷を負わせ、一人で戦わせたりはしない、むしろ、そんな闘いに弱いあなた方にこそわたしは絶えず伴い、みことばを持って、十字架と復活の福音で、あなたを助けよう」と。だからそのまま福音を受けなさいと。イエス様はその思いで、今日もここにおり、イエス様がこの卑しい者による説教を通してですが、みことばを私たちに語ってくださっています。そして、今日もこのように救いの恵みである聖餐を、つまりみことばの結びついた、真のイエス様ご自身のからだと血、イエス様の救いのいのちをイエス様は私たちに与えてくださるのです。そして今日もイエス様は私たちに宣言してくださいます。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。ぜひ罪の赦しを受け平安のうちに今週もここから遣わされて行きましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン