2024年6月2日(日)聖霊降臨後第二主日 主日礼拝  説教 吉村博明 牧師

reihai

主日礼拝説教2024年6月2日 聖霊降臨後第二主日

申命記5章12ー15節
第二コリント4章5ー12節
マルコ2章23節ー3章6節

説教題 「日曜日に教会の礼拝に出席すると『安息日は人間のためにある』が本当のことになる」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

皆さんもご存じのことと思いますが、1週間に7日あって7日目が休みというのは、旧約聖書の創世記にある天地創造の出来事に由来します。創造主の神が天と地とその間にある全てのもの、人間も含めて万物を創造した時、6日間仕事をされ、7日目に仕事を離れて休まれて、その日を特別な日、神聖な日に定めたことに由来します(創世記2章1

3節)。その日は旧約聖書の言葉であるヘブライ語でヨーム ハッシャッヴァート(יומ השבת)、短くしてシャッヴァ―ト(שבת)とも言います。普通「安息日」と訳されます。大学の先生たちに与えられる長期休暇のことを英語でサバティカルと言いますが、このシャッヴァ―トから来ています。最近はビジネス界にも広まっているそうです。

天地創造の時、神は仕事を離れて安息された7日目を神聖な日としました。神は、私たち人間もそのようにしなさい、と私たちも7日目に仕事を離れて安息することを掟として与えられたのです。その掟は、太古の昔、モーセ率いるイスラエルの民が奴隷の国エジプトを脱出してシナイ半島の荒れ野にいた時、十戒の第三の掟として与えられました。
「安息日を心に留め、これを聖別せよ。6日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、7日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。6日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、7日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである」(出エジプト記20章8節)。

「休みなさい」と言ってくれるのはありがたいことですが、注意しなければならないことは、この「休め」というのは神がそうしたのでそれに倣えという命令です。休んだ神がお前も休めと言っているのに、そんなの認めない、俺は仕事する、などと言ったら神に反抗することになってしいます。安息日に「休む」というのは神の意思に従う行為であり、それをすることで自分は創造主の神に造られた者であると認め、だから造り主の意思に従うのであると自分にも他人にも示すことになるのです。ただし、仕事を休むと言う時、何でもかんでも休まなければならないのか、と言うと少し考えなければなりません。例えば、人の命を助ける仕事も休まなければならないのか、という問題については、イエス様ははっきり命を助けることが大事と言っています。なので、神の意思に沿う仕事の休み方とは何かを考えなければなりません。後でそのことを見ていきます。

神の意思に沿う仕事の休み方を考える材料の一つとして、本日の旧約の日課の申命記の個所は大事です。これは、イスラエルの民がエジプトを脱出した後40年間続いた荒れ野の移動がようやく終わりに近づいた時の出来事です。この時、神は民に十戒の復習をします。安息日の掟は、先ほどエジプトを脱出して間もない頃に与えた掟を見ましたが、それに興味深い補足をします。何かと言うと、かつてエジプトで奴隷だったイスラエルの民を神は解放して下さった。そのために/それゆえ(על–כן)、神は安息日を守るようにと命じたのだと言うのです(5章15節)。最初に掟を与えた時は、神が7日目に休んでその日を神聖な日に定めたから、人間もそれに倣えというものでした。ここではそれに加えて、神は民を奴隷状態から解放して下さった、だから安息日を守れ、と言うのです。神は天地創造の時に安息日を定めたのであるが、民を奴隷状態から解放したことで一層守らなければならないというのです。これはどういうことでしょうか?本日の説教では、奴隷状態からの解放と安息日を守ることがどうかかわっているのかを見て、神の意思に沿う安息日の守り方は何かを明らかにしようと思います。

2.アヒメレクかアビアタルか?

その前に少し脇道に逸れますが、本日の福音書の日課マルコ2章のことで一つ説明しておきたいことがあります。日課は、イエス様の弟子たちが空腹を満たすために麦畑で麦の穂を摘んでいるところを宗教エリートのファリサイ派の人たちが見つけて、安息日に仕事はしてはいけないのに何事か!とイエス様に怒ったという出来事です。その時、イエス様は次のように応じます。昔ダビデがサウル王から逃れる逃避行をしていた時にノブという町の祭司から供え物のパンをもらった。サムエル記上21章にある出来事です。祭司のもとには普通のパンはなかったので、聖別されたパンを与えた、しかも、その日はパンを供え替える日で、それはまさに安息日でした(レビ記24章5~9節)。つまり、安息日に祭司しか食べてはいけないパンをダビデとその家来たちは食したという出来事です。

イエス様はこの話をされた時、ダビデにパンを与えた祭司は大祭司のアビアタルと言いました。ところが、サムエル記上21章を見ると、違う名前でアヒメレクです。これはどういうことでしょうか?イエス様は名前を間違えたのでしょうか?以前、ある教会の礼拝説教で牧師がこの個所について、福音書を書いたマルコが間違えて書いた、と言ったのを覚えています。私は、そんなにあっさり間違えと言ってしまっていいのだろうかと思いました。こういう、聖書の中によく見られる食い違いの問題は、一牧師が分かり切った顔でひと言で一蹴してしまうにはあまりにも深いことがあるのです。牧師というのは聖書を教えて給料をもらう聖書のプロです。しかも、日本では牧師は限りなく神に近い存在と見なされます。普通の信徒さんは牧師の言うことを無批判に受け入れがちです。なので、マルコが間違ったと言ったら、信徒の皆さんは、ああ、そうかマルコは間違っているんだ、さすがは牧師先生、すごいなあ、と感心するのがおちです。

私は、この問題はマルコが福音書を書く時に資料として受け取った伝承の中にアヒメレクではなくアビアタルの名があった可能性を考えなければいけないと考えます。果たしてそんな可能性があるのか?まず最初に、いわゆるパピアスの伝承を見てみます。2世紀に司教として活躍したパピアスの伝えるところによると、マルコ福音書は、イエス様の直弟子であるペトロが話し伝えたことをマルコが記述して出来たと言われています。もしそれが本当なら、ペトロがアビアタルの名を言ったことになります。しかし、ペトロはイエス様がそう言ったからそう言ったと言うでしょう。さあ、アビアタルと言ったのはペトロかイエス様か?実を言うと、聖書の各書物の成立を研究する釈義学という学問分野ではこのパピアス伝承は歴史的信ぴょう性がないとしてほとんど顧みられません。

それならば、次に見るべきことは旧約聖書のギリシャ語訳です。旧約聖書はもともとはヘブライ語ですが、紀元前3~2世紀に大々的にギリシャ語に翻訳されていきます。もし、ギリシャ語のサムエル記上21章にアビアタルの名があれば、イエス様ないしペトロはその伝統に従ったということになります。ただし、旧約聖書のギリシャ語訳と言っても、オックスフォード版とかゲッティンゲン版とかいろんな版があり、全部調べるのは大変です。それでも、ギリシャ語訳の全部の版を調べてアビアタルの名がなかった場合は、次はヘブライ語の旧約聖書の写本の出番です。

写本というのは、15世紀にグーテンベルクが活版印刷術を発明する以前、本というのはオリジナルが出来たら、後は手書きでコピーして数を増やしていきました。それが写本です。実を言うと、聖書の各書物はオリジナルのものは現存しません。全ての書物は一番古いと目される写本を元にしています。釈義学の研究者が無数にある写本を突き合わせて、これがオリジナルに一番近いだろうと結論した写本です。旧約聖書の写本の中で重要な意味を持つのが、いわゆる死海文書です。今のイスラエル国の死海の近くから発掘された古文書の中に旧約聖書がたくさん含まれています。全部がイエス様の時代ないしはそれ以前のものです。死海文書のサムエル記上21章の復元可能な写本を全部調べて、それでアビアタルの名前がなければ、イエス様はアヒメレクと言ったのだがマルコが間違えてアビアタルにしたと言ってもいいかもしれません。ただし、言い方は次のように慎重にしなければなりません。「現存する写本から見る限りは、マルコが間違えた可能性がある。」現存しない写本も無数にあります。なので、あっさりマルコが間違えたと言うのは早急すぎます。

ここで、アヒメレクをアビアタルと言い換えるのは誤りではないということを述べてみたく思います。このことは、サムエル記上21章からサムエル記下15章までをよく読んでいくと見えてきます。アビアタルというのは、アヒメレクの息子です。親子ともども祭司です。父アヒメレクは、ダビデを世話したためにサウル王によって殺害されてしまいます。息子アビアタルは難を逃れ、後にダビデが正式に王になった時、祭司ツァドクと共に神の契約の箱を管理する任務に就きます。これはもう大祭司と言える位の地位です。それなので、イエス様がアビアタルのことを大祭司と言ったのは間違いではないのです。つまり、「後の大祭司アビアタル

という意味で言ったのです。問題は、サムエル記上21章の書き方がダビデにパンを渡したのはアヒメレクということです。これも、ダビデとアヒメレクが話をしていた時、他の祭司、つまり息子のアビアタルも居合わせたと考えたらどうでしょう?私たちの新共同訳では「アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、」と書いてあります。ギリシャ語の原文は次のように訳することも可能です。「ダビデは、大祭司アビアタル(つまり後の大祭司アビアタル)がいた神の家に入り、」(後注)。つまり、イエス様はサムエル記上の内容から外れたことは何も言っていないのです。そのイエス様の言葉を受け取ったマルコは、それをそのまま記述しただけなので、マルコも間違っていないのです。それなのに、マルコは間違って書いたなどと言うのは、どういうことでしょうか?今見てきたように調べたり考えたりしなかったのは明らかです。同業者として情けなく思います。何よりも信徒の方たちが気の毒です。

3.安息日は人間のためにある

アヒメレクとアビアタルの問題はここまでにして、神の意思に沿う安息日の守り方について見ていきましょう。本日の福音書の日課の個所で、イエス様は安息日の誤った守り方を指摘して、正しい守り方を教えます。弟子たちが麦の穂を摘んでファリサイ派の批判を受けた出来事では、安息日にそれを行ったことが問題になりました。ファリサイ派が問題としたのは、弟子たちが麦の穂を摘んだのは仕事だったということです。仕事は安息日にしてはいけないことなのにしたという論理でした。

少し馬鹿馬鹿しい論理ですが、当人たちは真面目そのものでした。ファリサイ派は、神に約束された神聖な土地に住む民は神聖さをしっかり保たなければならないということをとても強調していました。そのためには神の掟を完璧に守らなければならない。安息日に仕事をしてはならないという掟があれば、完璧にその通りにしなければならない。そうしないと神の目に適う者にはなれない。そのように一寸の隙もない位に細心の注意を払った結果がこうなったのです。

ファリサイ派の批判に対してイエス様は、先ほど見たように、サムエル記上21章にある出来事、安息日に祭司にしか食べることが許されていないパンをダビデと従者が食べたという出来事を引き合いに出して反論します。それに比べたら、安息日に自分の空腹を満たすためだけに麦の穂を摘むのは何の問題でもないのです。ダビデのパンの場合も、弟子たちの麦の穂の場合も、「安息日は人間のためにある」ということの実例としてあげるのです。これとは逆にファリサイ派の律法主義では「安息日のために人間がある」になってしまうのです。神の意思は、「安息日は人間のためにある」なのです。

本日の福音書の日課の後半も同じテーマが続きます。安息日にイエス様が手の萎えた人を癒したという出来事です(マルコ3章1ー6節、ルカ14章1ー6節も)。イエス様が癒しを行ったら訴える口実にしてやろうとファリサイ派の人たちが注視しています。それに気づいてイエス様が言います。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」ここまで言われたら誰も答えることができません。イエス様は人々のかたくなな心を悲しみながら(マルコ3章5節)、その人の手を元通りに治してあげました。ここでも、「安息日は人間のためにある」が実践されたのです。ファリサイ派の人たちは、自分たちこそが神の意思を一番知っていると自惚れがあり、掟をそれこそ人為的に作り変えて、それを守らなければ神の目に失格だと烙印を押すやり方でした。神の意思に従うなどと言いつつ、実は自分たちの意思に従わせるやり方だったのです。

4.安息日に行う礼拝も人間のためにある

イエス様は「人の子は安息日の主でもある」(28節)と言われます。これは、神のひとり子としての彼が安息日の意味や守り方を正確に知っているということです。イエス様は父なるみ神の意思を正確に知りうる立場にいるので、律法全体についても正確に知っています。安息日の主というのは律法の主でもあります。

ところが、安息日の主、律法の主というのは、イエス様がただ単にそれらについて正確に知っていて人々に教えることができるということだけではありません。イエス様は神のひとり子なので神の意思を体現しています。イエス様は、律法が全人格的に守られているというお方なのです。これが律法の主ということです。だからイエス様は真の意味での義人なのです。これは人間とは大きな違いです。なぜなら、人間は神の意思に背こうとする性向、罪を持ってしまっているので、律法を全人格的に守り通すことはできないからです。人間はそのままの状態では義人にはなれないです。

そこで神が人間にしてくれたことは、人間に義をプレゼントして、人間はそれを受け取ることで義人になれるようにするということでした。それを神は実行に移し、ひとり子のイエス様をこの世に贈りました。やがて時が来て彼に人間全ての罪を背負わせてその罰を受けさせて、ゴルゴタの十字架の上で死なせました。つまりイエス様を犠牲の生け贄にしたのです。それだけではありません。神は一度死んだイエス様を今度は死から復活させて、死を超える永遠の命があることをこの世に示し、永遠の命に至る道を人間に切り開いて下さいました。このように神はイエス様の犠牲に免じて罪を赦すことにしたのです。そこで人間がこれらのことは自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、イエス様が果たした罪の償いはその人にその通りになります。罪が償われたからその人は神から罪を赦された者と見なされます。神から義人と見なされるのです。

このように人間は洗礼と信仰を通して神から義をプレゼントされてそれを受けとって義人になるのです。ただし、キリスト信仰者になったとは言っても、肉の体を纏っているので罪は内に残っています。しかし、神はこう言われます。お前は高い犠牲を払ってもらって罪と死の支配状態から買い戻されたのだ。新しい命を与えられたのだから、これからは何が新しい命に相応しい生き方を考えて行きなさい。聖書の御言葉を武器にして心の中にある罪に反抗しなさい。死と罪の力に勝利したイエスがいつもそばについていることを忘れないようにしなさい。

かつてイスラエルの民にとってエジプトからの脱出は奴隷状態からの解放を意味しました。キリスト信仰者にはもっと重大な奴隷解放があります。それは、罪と死の力に支配されていたという奴隷状態です。神はこの奴隷状態から人間を解放するためにイエス様をこの世に贈られ、彼に十字架の死を受けさせて死から復活させたのです。まさにそれゆえに、安息日はキリスト信仰者にとって罪と死の奴隷状態からの解放を記念してお祝いする日なのです。

仕事を休んで安息日を神聖なものとせよ、と言うのは、仕事のことに心と時間が向けられていたのを中断して、心と時間を解放の神に向けよ、ということです。安息日に神以外のものに心と時間を向けないことこそ、安息日を神聖なものにするものです。また、仕事だけでなく生活一般のことでいろんな心配事があって頭が一杯になっていても、安息日にはそうした心の重荷を一旦肩から下ろして、心を解放の神に向ける日です。どうやってそんなことが出来るかと言うと、次のようにお祈りします。「天の父なるみ神よ。今日は安息日ですから、あなたに心を向けたいので、この重荷をあなたにお預けします。どうぞ、受け取って下さい。」そうお祈りして神の足元に投げ出してしまうのです。心配事を投げ出して出来た空白を今度は礼拝を通して得られる良いもので満たしていきます。御言葉や説教を聴くことで神が聖書の時代においても今の時代においても私たちにどんな大きなこと素晴らしいことをしてくれたかを思い起こします。讃美歌を歌うことで解放の神に感謝と賛美を言い表します。祈りの時に普段抱えている課題、自分自身と隣人の課題に解決を与えてくれるように助けをお願いします。また、今日のように聖餐式がある日であれば、、イエス様の血と肉を通して神との結びつきを一層強めてもらいます。こうして霊的な栄養と力と知見を沢山もらって、新しい1週間に臨むことができるのです。

主にある兄弟姉妹の皆さん、礼拝に出席するというのは時として「しなければならない」もののように律法的に感じてしまう人がいます。そのような人たちから見たら、礼拝は「安息日のために人間がある」ものに映ってしまうでしょう。礼拝をさぼる方が「人間のために安息日がある」ではないかと。しかし、そうではありません。礼拝をさぼることは「人間のために安息日がある」ことにはなりません。なぜなら、安息日は罪と死の奴隷状態からの解放をお祝いする日です。安息日に行う礼拝は、その解放を確かなものにします。だから礼拝は「人間のために安息日がある」ものなのです。

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 

後注 ギリシャ語の前置詞επιプラス属格は、新共同訳のように「~の時に」という意味もありますが、「~のところに」とか「~の前に」という意味もあります。

 

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

 

2024年5月26日(日)三位一体主日 主日礼拝 説教 吉村博明

礼拝

主日礼拝説教 2024年5月26日

イザヤ6章1-8節、ローマ8章12ー17節、ヨハネ3章1ー17節

Youtubeで説教を聞く

説教題 キリスト信仰にとって「汚れ」、「清め」、「霊的」、「新たに生まれる」とは?

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

本日は三位一体主日です。私たちキリスト信仰者は、天と地とその間にある全てのものを造り、私たち人間をも造って命と人生を与えてくれた神を三位一体の神として崇拝します。一人の神が三つの人格を一度に兼ね備えているというのが三位一体の意味です。三つの人格とは、父としての人格、そのひとり子としての人格、そして神の霊、聖霊としての人格です。三つあるけれども、一つであるというのが私たちの神なのです。

そうは言っても、三位一体はわかりにくいです。三つあるけれども一つだという。いち足す、いち足す、いちは三ではなくて一であると。どのようにしてそんなことが可能なのかと頭で考えると、もう無理です。しかし、キリスト信仰者はこういうものなんだと受け入れている。どうして受け入れられるかと言うと、三つがどういうからくりで一つになっているのかということはあまり気にかけないからです。それよりも、なぜ三つが一つでないといけないのかということの方が重要だからです。なぜ三つが一つなのか?それは、三つの人格が一つであることで神の愛というものがどのようなものであるかがよくわかるからです。

まず、神は創造主として私たち人間を造りこの世に誕生させました。これが造り主としての人格です。ところが、人間の内に造り主の意思に背こうとする性向、罪が入り込むようになってしまったために、神はひとり子を贈って、彼を犠牲の生贄にすることで私たち人間を罪と死の支配から解放して下さいました。これが贖い主としての人格です。こうして、私たちは罪の赦しの恵みの中で生きられるようになりましたが、人生の中でいろんなことがあって恵みから離れそうになります。そのたびに聖霊から指導や支援を受けられ、神の目に相応しい者として生きられます。これが、私たちを日々、汚れから清めて下さる人格です。

三つの人格の機能は別々のものに見えますが、それらは一丸となって一つのことを目指しています。それは、人間が罪と死の支配から解放されて永遠の命に至ることが出来るようにするということです。このように三位一体は私たちに進むべき道を示すだけでなく、それを進める力を与えてくれるものなのです。

以上のことは毎年、三位一体主日の礼拝説教で述べていることですが、今日は同じことを少し角度を変えて見ていこうと思います。どんな角度から見ていくかというと、キリスト信仰にとって「汚れ」、「清め」、「霊的」、「新たに生まれる」とはどういうことかを考えながら三位一体の神を見ていくということです。

2.キリスト信仰にとって「汚れ」、「清め」、「霊的」は倫理的な事柄である

まず最初に思い起こさなければならない大前提は、私たちは創造主の神に造られたということです。それを思い起こしたら、次に考えなければならないことは、造り主と私たち人間の関係はどうなっているのかということです。関係はいいのか?よくないのか?聖書の観点では、よくないというものです。どうしてよくないのか?それは、創世記に記されているように、神に最初に造られた人間が神の意思に背く性向、罪を持つようになってしまい、それがもとで死ぬ存在になってしまったからです。使徒パウロがローマ5章で述べるように、人間誰でも死ぬというのはみんな最初の人間から罪を受け継いでいることのあらわれです。もちろん、悪いことをしない真面目な人もいます。悪いこともするが良いこともするという人もいます。それでも、全ての人間の根底には神の意思に背く罪が脈々と続いているというのが聖書の観点です。このように人間が罪を持つ存在であるとわかると、神は全く正反対に神聖な存在であることがわかります。神と人間、それは神聖と罪という二つの全くかけ離れた存在です。

 罪を持つ人間にとって神の神聖さとはどんなものであるか、それについて本日の旧約の日課イザヤ6章の個所はよく表しています。預言者イザヤはエルサレムの神殿で肉眼で神を見てしまいました。その時の彼の反応は次のようなものでした。「私など呪われてしまえ。なぜなら私は滅びてしまうからだ。なぜなら私は汚れた唇を持つ者、汚れた唇を持つ民の中に住む者だからだ。そんな私の目が王なる万軍の主を見てしまったのだ」。これが罪ある人間が神聖な神を目にした時の反応です。罪の汚れを持つものが神聖な神を前にすると、焼き尽くされる危険があるのです。神から預言者として選ばれたイザヤにしてこうなのですから、預言者でもない私たちはなおさらです。

 イザヤは自分自身の罪と自分が属している民族の罪を告白しました。すると天使の一種であるセラフィムが来て、燃え盛る炭火をイザヤの唇に押し当てます。イザヤは大やけどを負いませんでした。それは、炭火が焼き尽くしたのは肉体のように目に見えるものではなく、目に見えない霊的なものだったということです。それは何か?セラフィムが、お前の不正は償われた、お前は罪から贖われたと言います。イザヤは自分も民族も汚れた唇を持つと告白しましたが、それは、神の意思に背く不正と罪があることを認めたのでした。このように聖書の観点では、清めというのは罪からの清めを意味します。罪というのは、先ほども申しましたように、神の意思に背こうとする人間誰しもが持ってしまっている性向です。背きには、造り主である神をないがしろにして、別の何かに願いをかけたりをしてしまうような神との関係での背きがあります。それと、他人を傷つけたり見下したり、嘘をついたり広めたり、他人のものを妬んだり、妬むだけでなく実際に横取りしてしまったり、不倫をしたり等々、人間関係で神の意思に背くこともあります。背くというのは、そうしたことを行いや言葉で出してしまうだけでなく、心の中で思ってしまうこと全てを含みます。聖書の観点ではそういうことが汚れなのです。そういうことが霊的なことなのです。このように聖書の観点では、「清め」とか「汚れ」とか「霊的」というのは極めて倫理的な事柄なのです。

 この点は他の宗教ではどうでしょうか?汚れと言ったら、倫理的な事柄ではなく、病気とか不運とか何か不都合なことを意味し、そういう不都合を取り除くことや予防することを汚れからの清めと言うのが多いのではないでしょうか?もちろん、イエス様も汚れた霊を追い出したり、重い皮膚病の人を癒してあげたりしました。しかし、よく見ると、汚れた霊の追い出しや皮膚病の癒しはサラッとしています。追い出して下さい、癒して下さいとお願いされると、イエス様は、出ていけ!治れ!と一声かけただけでみなその通りになりました。しかし、神の意思に背く罪については、イエス様が一声かけたらみんな義人になったという奇跡はありません。倫理的な汚れはその他の汚れよりも手ごわいのです。そう言うと、いや違う、汚れた霊の方が手ごわいと言う人もいるかもしれません。しかし、それは本当ではありません。どうしてかと言うと、汚れた霊とか悪霊というのは人間と神との結びつきを失くすることを本業としています。なので、イエス様を救い主と信じて神との結びつきを確立してさえいれば、汚れた霊や悪霊は手出しが出来なくなるのです。病気や不運の問題も、神との結びつきの上に立って治療や立ち直りを行っていくだけです。日本人もこういうスタンスに立てるようになれば、祟りなど汚れなどと言われて惑わされることはなくなるでしょう。

 それでは、罪の汚れを持つ人間が義人になることが出来るためにはどうしたらいいのか?イエス様は本日の福音書の日課の個所で、人間は新たに生まれなければならないと教えます。次にそれについて見ていきましょう。

3.「生まれ変わる」ではなく「新たに生まれる」

その前にイエス様に教えを乞うたニコデモが属していたファリサイ派について少し述べておきます。それは、ユダヤ民族は神に選ばれた民なので神聖さを保たねばならないということをとても重視したグループでした。彼らは旧約聖書にあるモーセ律法だけでなく、それから派生して出て来た清めに関する規則を厳格に実践していました。自分たちは神聖な土地に住んでいるのだから、汚れは許されません。ただし、清めというのは、異教徒がいる広場から帰ったら体を清めるだとか、外の汚れが体の中に入り込まないために食事の前に手を洗うとか、そういう外面的な清めでした。

 イエス様に言わせれば、神の前での清さというのはそのような外面的なことではない、心が神の意思に沿うものになっているという清さでなければならない。マルコ7章にあるファリサイ派との論争の中でイエス様ははっきり言いました。外から体の中に入るものは人を汚さない、だから手の清めをしないで食事をしても心を汚すことはない。食べたものはお腹に入って便となってトイレに流されるだけだと。人を汚すのは、人間の心から出てくる悪い思いである。すなわち、みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別であると具体例をあげます。ここからもわかるように、イエス様は汚れとは倫理的な汚れであるとはっきりさせます。神のひとり子が神の意思はこれだと教えたのです。

 神の意思が人間に倫理的な清さ、しかも、行為や言葉だけでなく思いも含めた全人的な清さを求めているとすると、人間はもはやどうあがいても神の前で清い存在にはなれません。それなのに、人間の方が自分で規則を作って、それを守ったり修行をすれば清くなれるなどと言って自分にも他人にも課すのは滑稽なことです。イエス様はファリサイ派が情熱を注いでいた清めの規則を次々と無視していきます。当然のことながら、彼らのイエス様に対する反感・憎悪はどんどん高まっていきます。

 ところで、ファリサイ派のニコデモはイエス様の教えと行動に何か真実を感じ取ったようです。彼は人目を避けるかのように「夜に」イエス様のところに出かけます。そしてイエス様から、人間が肉的な存在から霊的な存在に変わることについて、また神の愛や人間の救いとは何かについて教えられます。

 さて、イエス様とニコデモの対話で重要なテーマである「新たに生まれる」について見ていきましょう。「生まれ変わる」という言葉はよく聞きます。貧乏な人が生まれ変わったらお金持ちになりたいとか、人から注目されないことが悔しい人が生まれ変わったら有名になりたいとか。または、赤ちゃんが生まれた時、表情がおじいちゃん/おばあちゃんに似ている、この子は亡くなったおじいちゃん/おばあちゃんの生まれ変わりだ、などと言うこともあります。このように「生まれ変わる」という言葉は、現在の不幸な境遇から脱出を願う気持ちや、何かを喪失した空虚感を埋め合わそうとする気持ちを表現するものと言えます。時として、自分は前世では別の人物だったが、今の自分はその人物の生まれ変わりだとかいうような輪廻転生の考えを言う人もいます。ただ、輪廻転生の生まれ変わり先は人間とは限りません。動物や昆虫にもなります。

聖書の信仰には輪廻転生はありません。私、この吉村博明は、この世から死んだ後、何かに生まれ変わってまたこの世に出てくることはもうありません。宗教改革のルターも言うように、この世から死んだ後は「復活の日」が来るまではみな神のみぞ知る場所にいて安らかに眠っているだけです。「復活の日」とは、今のこの世が終わって天と地が新しく創造される日のことです。その日この吉村博明はイエス様に目覚めさせられて朽ちない復活の体を着せられて永遠の命を持って吉村博明として神の国に迎え入れられます。

そうすると、「生まれ変わり」ではない「新たに生まれる」というのはどういうことでしょうか?イエス様が教えます。「はっきり言っておく。人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(3節)。ニコデモが聞き返します。「年をとった者がどうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」(4節)。ここで明らかなのは、ニコデモも輪廻転生の考えを持っていないということです。もし持っていたら、「新たに生まれる」と聞いて、それを「生まれ変わる」と理解したでしょう。さすがイエス様が「イスラエルの教師」と呼んだニコデモです。ファリサイ派とは言え、聖書をちゃんと読んでいるので輪廻転生の考えは持っていません。「生まれる」というのは、文字通り母親の胎内を通って起きることなので、一度生まれて出てきてしまったら、もう同じことは起こりえません。ニコデモが「新たに生まれよ」と言われて、年とった自分がそのまま母親の胎内に入ってもう一度そこから出てこなければならない、と聞こえても無理はありません。

ところが、イエス様が「新たに生まれる」と言う時の「生まれる」はもはや母親の胎内を通って起こる誕生ではありませんでした。どんな誕生なのかと言うと、次のイエス様の教えをみてみましょう。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である」(5ー6節)。イエス様が教える新たな誕生とは「水と霊による誕生」です。これは、どういうことでしょうか?

人間は、最初母親の胎内を通してこの世に生まれてくるのですが、それは単なる肉の塊です。その肉の塊は、創世記2章やエゼキエル書37章で言われるように、神から霊を吹き込まれて生きものとして動き始めます。しかしながら、それはまだ肉的な存在で「肉から生まれたもの」に留まります。それが、その上に神からの霊、つまり聖霊を注がれると「霊から生まれたもの」に変わるのです。「水と霊による生まれ変わり」の「水」は洗礼を指します。つまり、洗礼を通して聖霊が注がれるということです。こうして、人間は最初母の胎内から生まれた時は肉的な存在であるが、洗礼を通して聖霊を注がれると霊的な存在になり、これが人間が新しく生まれるということになります。

4.イエス様の罪の償いを受け取って霊的な存在になる

それでは、霊的な存在になるというのは、どういう存在なのか?なんだかお化けか幽霊になってしまったように聞こえるかもしれませんが、そうではありません。どういうことか以下に見ていきましょう。洗礼を通して聖霊を注がれると、外見上は肉的な存在のまま変わりはないですが、内面的に大きな変化が起きる。そのことをイエス様は風のたとえで教えます。

「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者もみなそのとおりである。」(8節)

風は空気の移動です。空気も風も目には見えません。風が木にあたって葉や枝がざわざわして、ああ、風が吹いたなとわかります。聖霊を注がれた人も目には見えない動きがその人の内にあるのです。それはどんな動きなのでしょうか?ここでニコデモの理解力は限界に達してしまいました。水と霊から新しく生まれるだとか、その生まれが風の動きのように起こるだとか、そのようなことはどのようにして起こるのか?彼の問い方には途方に暮れた様子がうかがえます。

これに対してイエス様は厳しい口調で応じます。イスラエルの教師でありながら、その無知さ加減はなんだ!清めの規則とかそういう地上に属することについて私が正しく教えてもお前たちは聞こうとしない。ましてや、こういう天に属することを教えて、お前たちはどうやって理解できるというのだろうか?厳しい口調は相手の背筋をピンと立てて、次に来る教えを真剣に聞く態度を生む効果があったでしょう。イエス様は核心部分に入ります。

「天から地上に下った者つまり『人の子』以外には天に上る者はいない(13節)。

イエス様は自分が「水と霊による新たな生まれ」を起こす者であることをこのように言って証し始めます。「人の子」とは旧約聖書のダニエル書に登場する終末の時の救世主を意味します。イエス様は、それはまさに自分のことであると言い、さらに自分は天からこの地上に贈られた神の子であると言っているのです。それが、ある事を成し遂げた後で天にまた戻るということを言っているのです。そして、そのある事というのが次に来ます。14節です。

「モーセが荒野で蛇を高く掲げたのと同じように、『人の子』も掲げられなければならない。それは、彼を信じる者が永遠の命を持てるようになるためである。」

これは一体どういう意味でしょうか?モーセが掲げた蛇というのは民数記21章にある出来事のことです。イスラエルの民が毒蛇にかまれて死に瀕した時、モーセが青銅の蛇を旗竿に掲げて、それを見た者は皆、助かったという出来事です。それと同じことが自分にも起こると言うのです。これは何のことでしょうか?

イエス様が掲げられるというのは、彼がゴルゴタの丘で十字架にかけられることを意味しました。イエス様はなぜ十字架にかけられて死ななければならなかったのでしょうか?それは、人間の罪を神に対して償う犠牲の死でした。神の意思に背こうとする罪のゆえに人間と神との間に果てしない溝が出来てしまった。しかし、神は人間が自分との結びつきを回復してこの世を生きられるようにしてあげようと、そしてこの世から別れた後は造り主である自分のもとに永遠に戻れるようにしてあげようと、それで溝を超えて私たち人間に救いの手を伸ばされました。その救いの手がイエス様でした。神はこのひとり子をこの世に贈り、彼を犠牲の生贄にして本来人間が受けるべき神罰を彼に受けさせました。それによって、罪が償われて赦されるという状況を生み出しました。あとは人間の方が、神は本当にこれらのことを成し遂げて下さり、イエス様は本当に救い主だとわかって洗礼を受ける、つまり神が伸ばしてくれた救いの手を掴むと、この償いと赦しの状況に入れることになります。それからは自分から救いの手を振り払うことをしない限り、神との結びつきを持ってこの世を生きられるようになり、この世を去った後は永遠に造り主のもとに迎え入れられるようになります。このように神との結びつきを持って生きる者は、永遠の命と復活の体が待つ神の国を目指して進みます。まさにイエス様が言われたこと、水と霊を通して新たに生まれた者が「神の国を見る」、「神の国に入る」ということがその通りになるのです。このように新たに生まれて霊的な者になるというのは、神との結びつきを持って神の国を目指して歩む者になるということです。

5.キリスト信仰者の霊的な戦いと聖霊の支援と指導

しかしながら、新たに生まれて霊的な者になったとは言っても、最初に生まれた時の肉を持っていますので、まだ肉的な存在でもあります。そのため神の意思に背くことはしないように注意するようになりますが、それでも考えを持ってしまったり言葉に出してしまったりします。このように人間は霊的な存在になった瞬間、まさに同一の人間の中に、最初の人間アダムに由来する古い人と洗礼を通して植えつけられた霊的な新しい人の二つの凌ぎ合いが始まります。

これがキリスト信仰者の内なる霊的な戦いです。使徒パウロも認めているように、「他人のものを妬んで自分のものにしたいと欲してはいけない」と十戒の中で命じられていて、それが神の意思だとわかっているのに、すぐそう思ってしまう自分、神の意思に背く自分に気づかされてしまうのです。神の意思に心の奥底から完全に沿える人はいないのです。それではどうしたらよいのか?どうせ沿うのが不可能だと言うのなら、無駄なことはせず感情感覚のままに行けばいい、などと言ったら、神のひとり子の犠牲は意味のないことだったということになります。逆に、心の奥底から完全に沿えるようにしよう、しようと細心の注意を払えば払うほど、逆に沿えていないところが見えてきてしまう。

そのような時は心の目をゴルゴタの十字架に向けます。まさに、そのような時のためにあの十字架は打ち立てられたのです。その時、聖霊が心の耳に囁くように教えてくれます。あそこにいるのは誰だったか忘れたのか?あれこそ、神のひとり子が神の意思に沿うことができないお前の身代わりとなって神罰を受けられたのではなかったか?あの方の尊い犠牲と、あの方を真の救い主と信じる信仰のゆえに、神はお前に罰を下さないと言って下さっているのだ。お前が神の意思に完全に沿えることができたから赦してもらったのではない。そもそもそんなことは不可能なのだ。そうではなくて、神はひとり子を犠牲に供することで至らぬお前をさっさと赦して受け入れて下さることにしたのだ。救いに関してお前は先を越されたのだ、あとは何も考えずにその後を追いかけるのだ。あの夜、あの方がニコデモに言ったことを思い出しなさい。

モーセが青銅の蛇を高く掲げたように、人の子も高く掲げられなければならない。彼を信じる者が永遠の命を得るために。

神はそのような仕方でこの世を愛を示された。それで人の子を贈られたのだ。彼を信じる者が一人も滅びずに永遠の命を得るために(ヨハネ3章14~16節)。

こうしてキリスト信仰者は聖霊の働きで神の深い憐れみと愛の中で生かされていることを再び思い知り、神聖な神の意思にすっぽり包まれているとわかって、そこから外れないようにしようと襟を正します。そうして、また先を越されたことの後追いが始まります。

キリスト信仰者はこの世の人生でこういうことを何度も何度も繰り返していきます。そうすればそうするほど、神と人間の結びつきを失わせようとする罪は立場と面目を失い、圧し潰されて行きます。これが本日の使徒書の個所でパウロが「霊によって体の仕業を死なせる」と言っていることです(ローマ8章13節)。日本語訳では「体の仕業を絶つ」ですがギリシャ語では「死なせる」(θανατουτε)です。しかも、動詞は現在形なので「日々死なせる」です。日本語訳みたいに威勢よく一気に罪を絶つことが出来る人などいません。聖霊に何度も何度も助けられて毎日毎日死なせるのが真実な生き方です。

主にある兄弟姉妹の皆さん、このように私たちには造り主の主と贖い主の主、そして日々、汚れから清めてくれる主がいつも共にいてくれるのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

2024年5月19日(日)聖霊降臨祭 主日礼拝 説教 吉村博明 牧師

主日礼拝説教 2024年5月19日 聖霊降臨祭

Youtubeで説教を聞く

エゼキエル37章1-14章、使徒言行録2章1ー21節、ヨハネ15章26-27節、16章4b-15節

説教題 「聖霊 ― 弁護者であり真理の霊である方」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

本日は聖霊降臨祭です。復活祭を含めて数えるとちょうど50日目で、50番目の日のことをギリシャ語でペンテーコステー・ヘーメラーと呼ぶことから聖霊降臨祭はペンテコステとも呼ばれます。聖霊降臨祭は、キリスト教会にとってクリスマス、復活祭と並ぶ重要な祝祭です。クリスマスの時、私たちは、神のひとり子が人間の救いのために人となられて乙女マリアから生まれたことを喜び祝います。復活祭では、人間の救いのために十字架にかけられて死なれたイエス様が神の力で復活させられ、そのイエス様を救い主と信じる者も将来、復活の日に復活できるようになったことを喜び祝います。そして、聖霊降臨祭では、イエス様が天に上げられた後、約束通り聖霊を送って下さったおかげで、私たちがイエス様を救い主と信じる信仰に留まって勇気と希望を持ってこの世を生きられるようになったことを喜び祝います。

 本日の説教では三つのことについてお話します。一つ目は、聖霊降臨の出来事の時、ペトロがそれは旧約聖書のヨエル書の預言が実現したことだと言いますが、それはどういうことか?二つ目は、本日の旧約聖書の日課はエゼキエル書ですが、そこで霊について言われていました。この個所は実はキリスト教会に大いに関係するということについて。三つ目は、イエス様が福音書の日課の中で聖霊のことを「弁護者」とか「真理の霊」と呼んでいますが、それはどういうことか?以上の三つのことを見ていきます。

2.聖霊降臨の出来事とヨエル書の預言

聖霊降臨とは、先ほど朗読して頂いた使徒言行録2章にある通り、イエス様の弟子たちが聖霊を受けて群衆を前にして、群衆のそれぞれの母国語で話を始めたという出来事です。どんな言語にしても外国語を学ぶというのはとても時間と手間がかかることです。それなのに弟子たちは留学もせず語学学校にも行かず突然できるようになったのです。聖霊が語らせるままにいろんな国の言葉を喋り出した(2章4節)とあるので、まさに聖霊が外国語能力を授けたのです。それにしても、弟子たちは他国の言葉で何を話したのでしょうか?群衆の誰かが言いました。「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは(2章11節)」。

 弟子たちがいろんな国の言葉で語った「神の偉大な業」とはどんな業だったのか?ギリシャ語原文では複数形なので数々の業です。集まってきた人たちは出身民族は異なるが皆、旧約聖書の天地創造の神を信じるユダヤ教徒です。ユダヤ人が「神の偉大な業」と聞いてすぐ頭に浮かぶものと言えば、その筆頭は出エジプトの出来事でしょう。大昔イスラエルの民がモーセを指導者として奴隷の国エジプトから脱出し、シナイ半島の荒野で40年を過ごし、そこで十戒をはじめとする律法の掟を神から授けられて約束の地カナンに向かって民族大移動していく、そういう壮大な出来事です。それと、神の偉大な業としてもう一つ考えられるのは紀元前6世紀に起こったバビロン捕囚からの祖国帰還です。国滅びて他国に強制連行させられた民が、人知を超える神の歴史のかじ取りのおかげで祖国帰還が実現したという出来事です。

 ところが弟子たちが語った「神の偉大な業」の中には、以上のものに加えてもう一つ新しいものがありました。それは、弟子たちが自分の目で直に目撃したイエス様の出来事でした。あの「ナザレ出身のイエス」は単なる預言者なんかではなく、まさしく神の子、旧約聖書に預言されていた救世主メシアであった。その証拠に十字架刑で処刑されて埋葬されたにもかかわらず、神の力で復活させられて大勢の人々の前に現れて、つい10日程前に天に上げられた一連の出来事です。イエス様の出来事には旧約聖書の預言が無数に絡んでいました。なので、これもまぎれもない「神の偉大な業」でした。こうしてユダヤ教の伝統的な「神の偉大な業」に並んで、イエス様の出来事がいろんな国の言葉で語られたのです。太古の昔にバベルの塔が破壊されて人間の言語がバラバラになって以来、初めて人間が異なる言葉を通してでも一致して天地創造の神の偉大な業を称えることが起きたのです。

 そこでペトロは集まってきた群衆に向かって、この不思議な現象を説明します。群衆の中には新種のぶどう酒で酔っぱらってこんなことが出来るのだ、などと的外れなことを言う人もいました。それに対してペトロは、酔っぱらってなんかいません!今はまだ朝で酔っぱらっていい時間でないことくらいわかっています!などと真面目に応答するのがユーモラスに感じられます。それでは、この不思議な現象は一体何なのか?

 ペトロは、この現象はヨエル書3章1ー5節の預言の成就であると説き明かしします。分岐した炎のような舌が弟子たち一人一人の上にとどまって彼らは異国の言葉で「神の偉大な業」について語り出した。弟子たちは、これこそヨエル書にある神の預言そのままの出来事であり、そこで言われている神の霊の降臨が起きた、イエス様が送ると約束された聖霊は旧約の預言の成就だったとわかったのでした。

 ところでペテロは、ヨエル書の箇所を引用する時に「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ」と言いました。「終わりの時に」とはギリシャ語原文では「終わりの日々に」です。ところが、ヨエル書のヘブライ語原文を見ると、「終わりの日々」という言い方はありません。ペトロが原文を改ざんしたのか?そうではありません。旧約聖書のギリシャ語版で「終わりの日々」と訳されていました。旧約聖書をギリシャ語に翻訳した人たちは終末論の観点で訳したのです。ペトロはそれに倣ったのでした。

 それでは「終わりの日々」とはどんな日々でしょうか?それは、イエス様が天に上げられて以後の人間の歴史は彼の再臨を待つ日々になるということです。イエス様が再臨する日とは、今ある天と地が終わって新しく創造され直されるという天地大変動の時です。大変動の後に唯一残る国として神の国が現れる、その時、誰がそこに迎え入れられるかどうかという最後の審判が行われる。それで、イエス様の再臨を待つ日々は「終わりに向かう日々」なのです。イエス様の昇天からもう2千年近くたちました。しかし、仮に3千年かかろうとも、彼の再臨を待つ以上は「終わりの日々」なのです。19節からそういう天地の大変動について預言されています。20節で「主の日」が来ると言われています。これは旧約聖書の預言書によく出てくる言葉です。神が罪深い民に怒りを表す日で、バビロン捕囚の前は敵国が攻めてくるような災難を意味しました。捕囚の後の時代には終末論的に理解されるようになります。イエス様の十字架と復活の後の時代は、彼の再臨の日を意味するようになります。

 21節を見ると、そういう天地の大変動の時の破滅から救われて神の国に入れるのは、救い主の名により頼む者であると言われています。そして、22節から後のところで、ペトロは群衆に対してそのような者になりなさいと説いていきます。こうして聖霊降臨の日に異なる言語で神の偉大な業について証することが始まり、民族の枠を超えて福音を宣べ伝えることが始まりました。その最初の宣べ伝えの日に3000人もの人たちが洗礼を受けました。キリスト教会が誕生したのです。聖霊降臨祭がキリスト教会の誕生日と言われる所以です。

3.エゼキエルが神から示されたこと

本日のエゼキエル書の日課にある出来事は、イエス様が登場する500年以上も前のことです。かつて神に選ばれたイスラエルの民でしたが、国の指導者も国民もこぞって神の意思に背く生き方をし続けた結果、ついに神から罰として強大な敵国を送られてしまい、その攻撃を受けて滅びてしまいます。国民の主だった者たちは捕虜として異国の地バビロンに連行されてしまいました。世界史の古代史のところで出てくる「バビロン捕囚」の事件です。連行された者の中に預言者のエゼキエルがいました。ある日エゼキエルは、神の霊に導かれてある谷に連れて行かれます。そこで無数の枯れた骨を見ます。ところが、それに肉や皮膚がついて人間として生き返り出す光景を見せつけられます。これが500年後に起こる聖霊降臨やキリスト教会の誕生とどう関係するでしょうか?それについて見ていきましょう。

 37章11節に、なぜ天地創造の神はエゼキエルにこのような光景を見せたのかが言われます。大量の枯れた骨はバビロン捕囚の憂き目にあったイスラエルの民を象徴している。国滅びた自分たちは荒野に放置された骨も同然だ、希望はなく消滅するしかないと嘆いている。それに対して神は、否、お前たちは必ず祖国に帰還できると約束する。神は、約束を本当に実現する力があることを示すために、枯れた骨が生身の人間になって生き返る様子をエゼキエルに見せたのです。そこまでされたら信じないわけにはいかないでしょう。このように、この光景は国難に陥って国が滅びてしまった民が復興することを確信させるために見せられたのでした。

 ここで14節をよく注意して見ます。新共同訳では、「わたしがお前たちの中に霊を吹き込む」となっていますが、ヘブライ語原文は「わたしがお前たちに私の霊を与える」です。新共同訳では単に「霊」と言っていますが、原文では「私の」霊を与えると言っていて、与えるのが「神の霊」であることがはっきりしています。つまり、聖霊です。さて、歴史的事実としてイスラエルの民は紀元前538年から祖国帰還ができるようになり復興を遂げます。しかし、民は本当に聖霊を受けて復興を遂げたのでしょうか?

 確かに、民は祖国に帰還しエルサレムの町と神殿を再興しました。しかし、ユダヤ民族は相変わらずペルシャ帝国、アレキサンダー帝国そしてローマ帝国などの大国に支配され続け、かつてのダビデの王国の再興など夢の夢でした。さらに、民自身が神の意思に沿う生き方が出来ていないのではないかという疑念も起こっていました。イザヤ書2章に、異邦人がこぞって天地創造の神を拝みにエルサレムに上ってくるという預言がありますが、現実はほど遠いものでした。そうなると、民に聖霊が与えられて復興を遂げるというのは、祖国帰還と町や神殿の再興とは違うことを意味するのではないかと考えられるようになります。つまり、エゼキエルの預言はまだ未完という理解です。

 どうしてこんなことになったのかと言うと、神が本当に目指していたことは、特定の民族の復興ではなくてもっと大きなことだったからです。それは、堕罪の時に起きてしまった人間の罪の問題、罪のために神と人間の結びつきが失われてしまったという問題を解決することでした。神としては全人類の問題の解決を視野に入れて預言者たちに言葉を下したのです。しかし、言葉は具体的な歴史の中で下されます。そのため、言葉は歴史状況に結び付けられて理解されてしまいます。神は祖国帰還と復興を実現させることで、本当はもっと大きなことを行う力があることを前もって知らせたのです。

 それでは、全人類に関わる罪の問題が解決したのはいつでしょうか?それは、神がこの世に贈られたひとり子のイエス様が十字架の死を遂げて人間の罪の償いを果たし、人間を罪の支配から贖い出した時でした。そしてイエス様を死から復活させて死を超える永遠の命に至る道を人間に開いた時でした。そういうわけでエゼキエルの預言は実は、罪と死の支配下にあって枯れた骨同然の人間一般が、イエス様の十字架と復活のおかげで解放されて聖霊を与えられて「新しい命に生きる」(ローマ6章4節)ようになることを見越した預言だったのです。さらに「墓が開かれ、墓から引き上げられる」(エゼキエル37章12

13節)というのも、罪と死の支配から解放された者たちが将来の復活の日に復活を遂げて、天上のエルサレムとも呼ばれる神の国に「帰還」するという、復活の日をも見越した預言だったのです。このように旧約聖書の預言を見る時はいつも、預言が一旦実現したかに見える歴史的出来事だけに注目するのではなく、イエス様の十字架と復活の出来事と将来起こる復活の出来事にこそ真の実現があるということをいつも覚えて見なければいけません。

3.弁護者であり真理の霊である方

それでは、聖霊とは一体何者でしょうか?まず、キリスト信仰では神というのは、父、御子、聖霊という三つの人格が同時に一つの神であるという、いわゆる三位一体の神として信じられます。それじゃ聖霊も、父や御子と同じように人格があるのかと驚かれるかもしれません。日本語の聖書では聖霊を指す時、「それ」と呼ぶので何だか物体みたいですが、英語、ドイツ語、スウェーデン語、フィンランド語の聖書では「彼」と呼んでいます(ただし、フィンランド語のhänは「彼」「彼女」両方含む)。まさしく人格を持つ者です。

 それでは、人格を持つ聖霊とは一体どんな方なのか?ヨハネ福音書14章から16章にかけてイエス様は最後の晩餐の席上でこれから起こることについて語ります。自分はもうすぐ十字架にかけられて死ぬことになる。しかし、神の力で復活させられて、その後で天の神のもとに上げられる。弟子のお前たちとは別れることになってしまうが、神のもとから聖霊を送るので、お前たちがこの世で孤児のようになることはない。そこでイエス様は聖霊を送る約束をしますが、聖霊のことを「弁護者」とか「真理の霊」と呼びます。聖霊が弁護者ならば、何に対して私たちを弁護してくれるのか?真理の霊と言うとき、真理とは何を意味するのか?

 まず、聖霊が「真理の霊」であるということについて。キリスト信仰の観点では、聖霊の力が聖書の御言葉を通して働かないと人間はイエス様を救い主と信じる信仰に入ることは出来ません。人間の理解力、能力、理性だけでは、いくら聖書を読んでもイエス様は単なる歴史上の人物に留まります。約2,000年前の今のイスラエルの国がある地域でナザレ出身のイエスは旧約聖書の神と神の国について教えを宣べて多くの支持者を得たが、当時のユダヤ教社会の宗教エリートと衝突してしまい、その結果、ローマ帝国の官憲に引き渡されて十字架刑で処刑されてしまった。信仰なく理性だけですと、こういう歴史上の人物理解に留まります。歴史の教科書に書いてある理解です。

 ところが聖霊の力が働くと、これらの出来事は表層的なもので、深層部にはもっと大きなことがあるとわかるようになります。大きなこととは、万物の創造主である神の計画が実現したということです。つまり、イエス様が神の力で復活したことで彼が神から贈られたひとり子であることが旧約聖書の預言から明らかになった。じゃ、神のひとり子ともあろう方がなぜ十字架で死ななければならなかったのか?それは、人間が内に持ってしまっている、神の意思に背こうとする性向すなわち罪を神に対して償う犠牲の死であったことがやはり旧約聖書の預言から明らかになった。イエス様の死は人間が神罰を受けないで済むようにと人間を守るための犠牲の死であり、人間はイエス様を救い主と信じる信仰と洗礼を通して罪の償いを受け取ることが出来、償いを受け取ったら神から罪を赦された者と見てもらえるようになる。罪を赦されたから神との結びつきを持ててこの世を生きられるようになる。この世から別れた後も復活の日に神がイエス様の時と同じ力を及ぼして復活させてくれて神の国に迎え入れて下さる。以上の旧約聖書に約束されたことを実現するためにイエス様の十字架の死と死からの復活が行われた。これらのことが、歴史の表層部には見えない、深層部にある本当のこと、真理なのです。理性では到達できない領域です。イエス様を救い主と信じる信仰に生きる者は聖霊の力が働くのでこの真理に到達することができるのです。

 聖霊の力が働いたおかげで真理が見えるようになると、今度は聖霊は「弁護者」の働きをします。聖霊は何に対して私たちを弁護してくれるのか?それは私たちを告発する者がいるから弁護してくれるのです。何者が私たちを告発するのか?まず、サタンと呼ばれる霊があります。悪魔のことです。サタンとは、ヘブライ語で「非難する者」「告発する者」という意味があります。私たちが十戒の掟に照らされて、言葉も行いも心の中も神の意思に沿う者でないことが明るみに出ると、良心が私たちを責めて罪の自覚が生まれます。悪魔はそれに乗じて、罪の自覚を失意と絶望へ増幅させます。「どうあがいてもお前は神の目に相応しくないのさ。神聖な神の御前に立たされたら木っ端みじんさ」と。旧約聖書のヨブ記にあるように、悪魔は神の前に進み出て「こいつは見かけは善人ぶっていますが、一皮むけばどうしようもない罪びとなんですよ」などと言います。悪魔のそもそもの目的は人間と神の結びつきを失わせることです。もし私たちが神の罪の赦しを信じられなくなるくらいに落胆してしまったり、または罪を認めるのを拒否して神に背を向けて立ち去ったりすれば、それはもう悪魔にとって拍手喝采なことになります。

 聖霊は罪の自覚を持った人を神の御前で次のように弁護してくれます。「この人は、イエス様が十字架の死をもって全ての人間の罪の償いをして下さったとわかっています。それでイエス様を救い主と信じています。罪を認めて悔いています。それなので、この人が信じているイエス様の犠牲に免じて赦しが与えられるべきです」と。翻って聖霊は私たちにも向いて次のように囁きかけて下さいます。「あなたの心の目をゴルゴタの十字架に向けなさい。あなたの赦しはあそこにしっかりと打ち立てられて微動だにしていません」と。キリスト信仰者は神に罪の赦しを祈り求める時、このような素晴らしい弁護者がついているのです。神はすぐ、「わかった。お前が救い主と信じている、わが子イエスの犠牲に免じて赦そう。もう罪を犯さないようにしなさい」と言って下さるのです。その時、私たちは襟を正して本当にもう罪は犯すまいという心を強くするでしょう。

 悪魔の告発の他にもう一つ、聖霊が弁護者として働く場合があります。それは、キリスト信仰者が誤解や中傷、酷い場合は迫害を受ける時です。本日の福音書の日課は16章の1節から4節の前半までが省略されていましたが、そこのところでイエス様は弟子たちに迫害の危険があることを述べています。弁護者としての聖霊を送るというのは、このことに関してなのです。

 キリスト信仰者は、イエス様を救い主と信じる信仰に入った段階で神の意思である十戒を心に刻みつけられています。人を傷つけない、見下さない、敬意をもって接する、偽りを語ったり広めたりしない、盗んだり妬んだりしない、不倫をしない等々のことを行為だけでなく、言葉や考えにおいても守ろうとします。しかし、行為では守れても、言葉や考えで守り切れないことがあります。それで、先ほど述べたように弁護者に支えられて罪の赦しを何度も何度も確認して前に進むのです。そして、かの日に神の御前に立たされる時、神からこう言われます。「お前は罪の赦しの恵みに支えられて罪に反抗する生き方を貫いた。このことは弁護者から十分すぎるほど聞いている」と。

 そういうわけで、主にあって兄弟姉妹でおられる皆さん、誤解や中傷があっても、何も心配はありません。私たちには永遠の命の弁護者がついているのです。私たちはただ、罪の赦しの恵みを支えにして、神の意思に沿う生き方、罪に反抗する生き方をしていれば、何のやましいことも後ろめたいこともありません。神の意思に沿う生き方がどれほど社会のためになるのかわからない方が憐れで惨めなのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

2024年5月12日(日)主の昇天主日 主日礼拝  説教 田口聖 牧師(日本ルーテル同胞教団)

2024年5月12日

ルカによる福音書24章44〜53節:

「イエス・キリストはみ言葉を通して働かれる」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

1、「初めに」

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 今日の福音書は、ちょうど先月のルカ24章の箇所の続きになり、またルカの福音書の結びのところになります。前回は、私たちのイエス・キリストの救いは、どこまでも「イエス様の方から」の恵みであり、それは信仰もその生活も、決して律法ではなく、神の賜物であり、福音から生まれ始まり、福音によって強められていくことを教えられたのでした。今日の聖書箇所は、先月の最後で少し触れましたが、

2、「どのようにイエスは働かれるか」

 そのように「イエスの方から」の働きは具体的にどのように働かれるのか?ということから始まっています。復習を兼ねて見てきますが、44節

「44イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」

 イエスは弟子たちを最も大事な教えに立ち帰らせますが、それは突然、湧いて出てきたような新しい教えではありませんでした。最も大事なこと、それはイエス様自身が「これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたこと」とある通りに、十字架の前、一緒に旅をしてきてきた時にすでにイエス様が教えてきたこと、しかも旧約聖書から教えてきたこと、そして「わたしについて」、つまり、十字架も復活もその自身が教え聖書も約束してきた、み言葉の成就なのだとイエスはご自身のみ言葉に立ち返らせるのです。

A, 「聖書はイエス・キリストを指し示す」

 このイエス様の言葉から何を教えられるでしょうか。まず一つは、聖書は全てイエス・キリストを指し示している、イエスを伝え証しているということです。まさにイエスご自身が「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある」と言っています。このイエス様の時代は「旧約聖書」という言葉はなく、聖書といえば「モーセの律法、預言書、詩篇」の事です。つまりそれは私たちから見れば「旧約聖書」を指しているのですが、それについてイエスは「わたしについて書いてある」とはっきりと言っているのがわかります。ですから、旧約聖書の言葉もまた、皆、キリストを中心としていて、やがてくるキリストを証しているのだということは、キリストのメッセージは、後の弟子たちや教会の偉い人が勝手に考え出したり編み出した創作の教えでは決してないと言うことがわかります。それは紛れもない、神からの救い主イエス・キリストの証明のメッセージなのです。ですから私たちは旧約聖書を読んでいくときにも、このことは福音を理解するたの大事な助けになります。旧約聖書はただ律法的な言葉が並んでいる律法の言葉というのでは決してない。あるいは私たちと全く関係のないユダヤ人、イスラエル人に関わることだということでも決してないということです。旧約聖書もイエス・キリストを中心としイエスキリストを指し示しているのですから、十字架と復活を中心として読んでいくとき、旧約聖書にも私たちは福音と神の恵みによる救いの本当のメッセージを聞くことができるのです。旧約聖書にもキリストの福音は溢れているのです。

B, 「聖書の神のみことばを通して」

 第二に、このように、イエスご自身は絶えず聖書を通してみ言葉を語って教え、働かれてきたように、これからも変わらずイエス様は私たちにもそうであるという事にやはり立ち返らされます。事実この後、遣わされる使徒達もそのように、聖書を通して教え、そこにこそ主の力は現され教会もあり宣教もあったでしょう。そのことが今も変わらず、主なる神は、どこまで聖書のみ言葉を通し、み言葉を解き明か、み言葉の約束を与え続けることによって、その「イエスの方から」の恵みをずっと私たちに働かせ続けておられる。イエスは、これまでもそうであったし、これから宣教に遣わすこの時も、そこから決してずれないのです。

C, 「なぜか?それはみ言葉は真実であり力があるから」

 では第三に、それほどまでになぜみ言葉、あるいは「み言葉を通して」は重要なのでしょうか。それはここでイエスがいう通りです。

「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。

44節

 と。なぜ、み言葉を通してなのか?それはまさに「神の力はみ言葉にこそある」のであり、み言葉こそ「必ずすべて」その通りになる真実な力であるからに他なりません。イエスが言う通り、旧約聖書はその記録です。天地創造は「神の言葉による」創造です。ヨハネの福音書の最初に、「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。2 この方は、初めに神とともにおられた。3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」(新改訳聖書)とある通りです。そして神はその「言葉で」世界とアダムとエバを祝福し、言葉で二人を導きます。そのアダムとエバの堕落と罪が入ったのは、神の言葉への疑いと否定から生まれます。その後はどうでしょうか。アブラハムには神はその姿を具体的に現わされるところから始まっていません。まず見えない神が言葉と約束を語り、アブラハムを「まだ見ぬ地へ」と言葉で遣わすでしょう。そして人間の常識ではあり得ない、信じられないような言葉さえも告げられます。例えば、100歳のアブラハムとサラに子供が与えられると。二人は全く信ぜず笑います。しかしそれに対して主からの「主にとって不可能なことはあろうか」という言葉の通りに、つまり主の言葉こそ実現していくでしょう。アブラハムとサラの疑いの通りになっていったのではありません。神の言葉がその通りになって、イサクは生まれます。さらにあの不肖の息子ヤコブに対する神の愛と約束も言葉によるものでしょう。そして罪深いヤコブでしたが、彼はまさにその憐れみに満ちた神の言葉にこそ支えられ助けられ信じて歩んでいき、神の言葉の通りのことがヤコブの道にはことごとく起きました。モーセは、その背中以外は、神を見ることができませんでした。しかし神は言葉を持ってモーセを遣わし、言葉を持って助け、モーセの言葉や思いではなく、神の言葉こそがその通りに成就していきます。ヨシュアしかり、サムエルしかり、ダビデしかり、イザヤなどの預言者しかりです。詩篇の記者もそのことを沢山、証しています。それは新約聖書でも全く同じで、ルカの福音書の記録も、主のみ言葉はその通りになるということの証しで溢れていたでしょう。まさに、聖書はそのことで一貫しているのです。イエスはそのこと、つまり「み言葉は力ある、その通りに「必ず全て」実現する真実な言葉である」と言うことへ弟子たちを向けさせようとし、私たちをもそこへと向けさせようとしているのです。

3、「「イエスが心を開いて」とある」

 これまで見てきた「イエスの方から」「神の方から」の恵みの大原則。今でもイエスは、私たちへ「イエスの方から」絶えず、働いています。しかしその素晴らしい恵みをイエス様は、何よりみ言葉を通して、み言葉の真実な約束と、その通りになるその力を与え続けることで実現してくださっており、それによって私たちを力づけ、慰め、平安を与え、そして遣わしてくれているのです。そしてそのみ言葉には、私たちがクリスチャンとして歩むために、み言葉とともに私たちに力強く働く更なる神の恵みがあります。こう続いています。

「45そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、 46言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。 47また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、 48あなたがたはこれらのことの証人となる。

45−48節

 みなさん、これでまで「み言葉が大事」と繰り返していますが、しかしそれを律法的に捉えてしまっていることはないでしょうか?「ああそうか。み言葉が大事だから、もっと自分で頑張って努力してみ言葉をもっと悟らなければならない。み言葉を信じなければならない。」そのように「自分の力で〜しなければ行けない」と。しかし実はそうではないことがここにわかるでしょう。弟子たちはイエスからそう言われて、では「自分からもっと悟らなければ」と言って自分の力で悟りに至ってはいません。ここに「イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて」と書いてあるでしょう。何度も見てきた通りです。弟子たちは自らでは悟ることはできませんでした。誰一人です。ここでもそうです。彼らもみ言葉が大事なのはわかった、いや3年間共に歩む中で、すでに分かっていたかもしれません。しかしそのイエスの十字架と復活にある救いの真の意味を知り、それを信じ確信し喜ぶ信仰は彼ら自身からは生まれなかったのです。最初は同じように、彼らも律法的に「自分が聖書を」とか「自分が神のために、イエスのために、神の国のために」となったかもしれません。しかしそれだと前回も見たように、彼らはイエスの復活の日であっても、福音を全く悟っていなかったし、約束も全て忘れてしまっていたでしょう。悲しみと失望に暮れるしかなかったでしょう。彼らはどこまでも的外れでした。しかしみ言葉を福音として、喜びとして、救いとして、悟らせ、心を開いたのは、彼ら自身ではなくイエスであることがここにはっきりと書いてあるでしょう。「イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて」と。

 イエス・キリストは、み言葉を通して働きます。み言葉こそ力です。もちろん聖書を読むことや暗誦することは大事です。しかし私たちは「み言葉」を理解することを律法的に捉える必要はありません。私たちが頑張って理解するではないのです。むしろそれはできません。み言葉を通して、福音を悟らせ、私たちに喜びと平安を与えその歩みを導いてくださるのも実は、イエス・キリストご自身なのです。「あなたがたが自らで、聖書を信じて、理解し、確信を持って、頑張って努力して、喜びなさい、平安になりなさい」となると何か変でしょう。矛盾するでしょう。神や神の国のことを「頑張って、理解し、喜び、安心する」というのは矛盾するし、真の喜びや安心ではないし、そもそもできない、成り立たないことです。イエスはそのようには教えていないのです。むしろ、み言葉を持ってイエス様ご自身が、聖霊が、私たちに働き、そしてイエスが、聖霊が、心を開いて福音を悟らせてくださり、私たちに喜びと平安が与えられるのです。「イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて」とある通りに。だからこそ信仰はやはり私たちの行いでも律法でもなく神の恵み、賜物であることにつながっているでしょう。だからこそ、神が与え、悟らせ、神が喜びと平安で溢れさせるのも、それはみ言葉を通して「イエス様が心を開いて」私たちのところへ来るのだと言うことは、まさに天からの素晴らしい福音の出来事だとわかるでしょう。私たちは今、そのことに与っているのです。だからこそ毎週、礼拝でみ言葉に「聞くこと」は大事ですし意味があるのです。

4、「何を宣教するのか。福音とは何か」

 そしてそのことは47〜48節の言葉にも関わってくる恵みです。これは有名な宣教を示唆する言葉です。ここでは「罪の赦しを得させる悔い改めが」とあるでしょう。つまりこれは「宣教の内容」「福音の内容」です。はっきりと「罪の赦しを得させる悔い改め」こそ宣教すべきことであり伝えるべき律法と福音であるとイエスは言っているのです。けれども現代は「罪や悔い改めは暗い言葉、聞きたくない言葉だから語ってくれるな」と、教会から敬遠され語られなくなっていると言われています。その方が人が集まるからとも言います。しかしそこで一体どんな福音を語っているのでしょうか。確かに「愛」という言葉は強調されますが、しかしどんな愛なのでしょうか。自分の神の前の罪もわからず、悔い改めも知らず、十字架と罪の赦しのない「神の愛」などあるのでしょうか。しかしイエスははっきりと語るべき律法と福音とは何か、証すべき宣教すべきは何かを伝えています。それは罪の赦しを得させる悔い改めだと。悔い改めと十字架の事だと。そしてその罪の赦しこそ福音、その罪の赦しの十字架の証人こそ、教会であり、宣教なんだとイエスは言っているのです。そうです。人間の理性や常識では、神の前の罪の赦しなんてどうでもいいことかもしれません。むしろ人は自分にも世にも「罪などない」になっていきます。罪など聞きたくない暗いことです。人間の好みにそのまま従えば、罪の赦しや悔い改めなどは排除したいこと、それが普通かもしれません。人間は罪人だからこそ、罪の赦しの奥義、十字架は、私たちの常識や好みでは目を背けたい好ましくない脇に寄せたいことになるのは当然の流れなのです。しかしだからこそ、ここでその人が聞きたくない「悔い改めと罪の赦し」こそが、証しされるべき福音なのだとイエス様が言っていること自体に、私たちの思いをはるかに超えた、私たち自身ではできない「イエスがなさる、イエスが悟らせ心開く」という大原則が貫かれているのです。イエスが心開いて悟らせてくださることだから、人間自らでは理解できない、十字架の罪の赦しは、私たちの理解となり、本当に喜びと真の平安になります。そして「律法によって」ではなく本当に神から与えられ湧き出てくる喜びと平安であるからこそ、それは義務的でも律法でもない、本当の証し、本当の宣教になっていくのだと、イエスは伝えてくれています。そのことを保証するように49節の言葉が続いています。

5、「み言葉と聖霊」

「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。

49節

 と。聖霊を与える約束です。イエスはこの後、天に昇ります。しかし目に見える復活のイエスがいなくなったからと「イエスの方から」は止まってしまうでしょうか。そうではありません。イエスの霊が与えられ、イエスは常に共にいて「イエスの方から」はずっと続くでしょう。まさに聖霊は、み言葉に、そして信仰に豊かに働くイエス様の霊であり、主なる神です。目に確かに見えません。しかし弟子たちに対してと全く変わらず、今も聖霊は「聖霊の方から」み言葉を通して私たちの信仰にも働いてくださり、「イエスの方から」の恵みを続けてくださっているのです。それは「み言葉を通して、賜物である信仰に」なのです。ですからみ言葉が語られている時、それはイエスが私たちに語っている素晴らしい時です。私たちを信じさせ、喜ばせ、安心させるためです。罪の赦しの福音を喜びと感謝を持って証するように遣わすためにです。牧師はそのための道具にすぎません。私は何も与えることはできないし力はありません。しかしイエスにこそ力があり、イエスの言葉に力があるのです。そのようにイエスが私たちの心に働いて、イエスのみ言葉に力があるからこそ、み言葉によって罪の赦しの福音の奥義が私たちに開かれ、私たちに真の喜び、真の平安が満ち溢れるのです。それはイエスしか与えることができません。そのようにしてまさに52〜53節にある通り、弟子たちが約束の聖霊を受けるまでエルサレムに止まりながらも宮で非常な喜びに満たされ、賛美に溢れていたのです。その信仰、その喜びはどこから来るのか?賛美はどこから来るのか?もちろんキリストからですが、パウロはこう言っています。

「‘実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。 」(ローマ10:17)

 と。これはあのルカ10章、マルタの妹のマリヤが、ただイエスの言葉を聞いていたことこそを、イエスが「最も大事なこと」と伝えたのと一致しています。自分が、神をもてなさなけれならない、神を喜ばせなければいけない、喜ばなければいけない。賛美しなければいけない、とまず自分が主体で、主役で、神のためにまず自分が何かをしなければ、という信仰、賛美、礼拝、喜びも律法にすることに、そこに真の喜びや賛美はあるでしょうか?それは忙しなく動いていて、苛立ち、マリヤを裁き、イエスにまで不平を言うようになってしまった、マルタの結末になってしまいます。真の平安も喜びもありません。ルカの福音書は、喜びと賛美で始まり、52節以下、喜びと賛美で終わります。ルカの福音書の真ん中のルカ15章の放蕩息子に代表される三つの例えは、やはり救いの喜びですね。イエス様は真の喜びと平安を与えるために来らました。それは「まず私たちが神のためにしなければいけない」の律法からは生まれないでしょう?真の喜びと平安は、イエス様の方から、み言葉を通して、聖霊の豊かな働きによって来る、福音であり、福音からくるものであり、それ以外にはあり得ないのです。イエス様は言われるでしょう。

「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」ヨハネ14章6節

「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。」ヨハネ10章9節

 ぜひ、み言葉をとおして福音が与えられている幸い、イエスの語りかけである福音に聞くことができる幸いを賛美しましょう。そしてこの恵みに取り囲まれて、福音の喜びと平安に満たされて、私たちは罪の赦しの福音を証していこうではありませんか。今日もイエス様は宣言してくださいます。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。ぜひ安心してここから遣わされて行きましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

 

 

2024年4月14日(日)復活節第三主日 主日礼拝 説教 田口聖 牧師(日本ルーテル同胞教団)

ルカによる福音書24章36〜49節

「生きておられる復活のキリストからの賜物としての信仰」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

1、「初めに」

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 復活節の聖日の朝、今日もイエス様の復活の恵みを見ていきます。今日の箇所の前には、復活の日の出来事が書かれています。イエス様は弟子達に、十字架にかけられる前からご自身が死から復活することを予め伝えていたにもかかわらず、皆、そのことを忘れていました。忘れていただけではありません。復活のイエス様は女性たちに現れ、彼女達はそのことを弟子たちに伝えました。しかしその証言があっても11節、「使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。」と、弟子たちは信じなかったのです。しかし、その後、エルサレムを離れエマオへと向かう二人の弟子たちのところに、「イエス様の方から」現れてくださいます。二人はそれが復活のイエス様だと気づかないのですが、そんな二人にイエス様は、み言葉を繰り返し語り、思い出させ、ともにパンを裂くことによって二人の目を開き、イエス様がその弟子達の信仰をもよみがえらせました。エルサレムを離れエマオへと向かう二人の沈んだ閉ざされた心は「本当に約束の通りイエスはよみがえったのだ」と喜びに変えられ、彼らは向きを変えエルサレムへと戻って行ったのでした。今日はその続きですが、ここでもその復活の「イエス様の方から」の恵みの出来事を見ることができるのです。

2、「信仰は人の側からの熱心や意志の力やイエスとの親密さの強さなのか?」

「こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち

36節

A,「イエスのご自身の方から」

 「彼ら」というのは弟子たちです。しかも11人の使徒とその仲間、他の弟子たちが皆集まっています。そんな彼らは何を話していたのでしょう。それは33節以下に書かれていますが、復活のイエス様がシモンに現れたということ、そして、先ほど述べたエマオに帰る途中、二人の弟子にイエス様の方から出会った下さったその出来事でした。シモンも、そしてその二人の弟子たちも復活のイエスが現れてくださったと、証しているのですが、それでも他の弟子たちは信じられません。この後も弟子達の信じることの不完全さ、無力さが続いています。37節

B,「自ら信じることの無力さ」

「彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。

 シモンとエマオの二人の弟子たち以外の弟子たちだと思いますが、彼らはそのような証言、証しがあっても、驚き、恐れます。つまりこの後「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。」とイエスの言葉にある通りに、彼らはまだ疑っている現実があります。どう思ったのかというと、「「亡霊を見ている」のだと思った」というのです。本当にイエスが復活をしたと信じれないのです。このようにまずわかる事実は、このように、まだ信じる前ではありますが、「イエス様の方から」がないなら、つまり、イエス様が現れなかったのなら、イエス様の方から来なかったのなら、弟子たちはずっとイエス様の復活を信じることはできなかったことでしょう。失望、絶望に沈み、悲しみに沈み、ヨハネの福音書にある通り、人を恐れて、戸を閉ざして引きこもっていたことでしょう。いや、それだけではない、エマオへ帰る二人の弟子は失望と暗い顔で自分の村に帰って行ったように、弟子たちはみな解散し、自分たちの出身のガリラヤの町々、村々に帰って行ったことででしょう。宣教も始まらなかったことでしょう。「イエス様の方から」がなかったなら、です。しかも目撃証言があり、それでも信ぜず、さらには、イエス様の方から現れたとしても「亡霊」だと思い、取り乱すしかない、心に疑いを持つことしかできません。このように一緒にいた弟子であっても、人はどこまでも、神のなさること、つまり、神の国、救いのことについて、「神の力なしには」、弟子たちの側、人の側だけではどこまでも無力であり、神に対して後ろ向きになり、信じない、悟れないものであることがわかります。それは、堕落した時のアダムとエバの姿とその性質そのものですが、その自らでは決して信じられない、疑うという罪の性質は、この復活の日の弟子たちの姿にまで受け継がれているのを見るのです。そのように信仰とは、人の熱心とか努力とか、根性とか意思の力とか、あるいは、どれだけ長く近しく過ごしてきたとか、そんな人間の側のことは全く関係ないし意味もないことがわかるのです。

3、「そのような人間の現実へどこまでも「イエスの方から」の意味」

A,「恵みに限界はあるのか?」

 しかし、そのように弟子たちは霊だと思い、取り乱し、疑います。信じません。ではこのようにもう何度も「イエス様から」の働きかけがあるのに、恵みが繰り返されているのに、それでも「信じないから」と、イエスはどうでしょう?ここで「イエス様から」の恵みは尽きるでしょうか? 終わるでしょうか? ここでもうこの弟子達はだめだ。もう私の堪忍袋の尾が切れた。もうあなた方は信じないからだめだ、と。イエス様の態度や働きが変わるでしょうか? それまでの恵みが、裁き、怒り、断罪、見捨てる、に変わるでしょうか? 人間だったら、忍耐、許すのは、二度まで、三度まででしょうか?いや、一度だけの失敗でも許せないと、いつまでも攻め続けたり、裁き続ける場合もあるでしょう。しかし、イエス様は、神様はどうでしょう?人間の悟りの遅さ、罪深さ、不完全さが理由で、神の恵みに、限界を設けているでしょうか?この後、こう続いています。

B,「イエスの方から」の恵みに限界はない」

「39わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」 40こう言って、イエスは手と足をお見せになった。

 イエス様はそれでも、つまり何度「イエス様の方から」示しても、何度働いても、それでも信じない弟子たちを、見捨てたりしません。怒ったり、裁いたりしません。それでもイエス様は、「イエス様の方から」をやめないでしょう。このように、神の恵みは、私たちの側の足りなさ、弱さ、失敗、頑なさ、罪によって、途絶えたり、終わったり、取り下げられたりしていません。それでも、どんなに頑なで、信じられない心にさえも「イエス様の方から」は絶えることはないです。イエス様は、自分から、ご自身の復活の体、肉体を見せ触れさせるのです。「亡霊ではないことを示すため」です。ヨハネの福音書にもご自身の体を触れさせることが書かれていますが、そのところでは、その手と足と脇腹にある傷に触れさせています。何のことかというと、それは十字架の傷のことで、手と足に釘を刺されや傷であり、脇腹は、ローマの兵隊が、イエス様が十字架刑で死んだのを確認するために槍で脇腹を刺したということがヨハネの福音書にあるのですが、そのことです。つまり、霊でも幻でもなく、まさに十字架で死んだそのイエス様が、その肉体が、本当によみがえったことを示しているわけですが、その体に、その傷に触れさせているのです。弟子たちは、それに触れて、本当に十字架で死んだイエス様がよみがえったのだ、復活したのだと、信じたのでした。

 そのようにイエス様は、自分の方からご自身の身体に触れさせることによって、信じない弟子たちを、「信じてほしい」と「信じるように」どこまでも働き、導いていることがわかるのではないでしょうか。このように、イエス様の恵みと働きは尽きることがないですし、まず「私たちの側から」何か貢献しなければ、完全にならなければ、信じなければ、等々、ではなく、そのまず「イエス様から」こそがどこまでも貫かれているのです。

4、「私たちの疑いが喜びと平安に変わるために」

 それによってどうなるでしょか?41節です。

「彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。 42そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、 43イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。

41〜43節

A,「信仰は律法ではない。福音であり賜物である」

 みなさん、37節の「うろたえている」心が、まず「喜び」「うれしさ」に変わっています。「喜びのあまり信じられず」というのは、それは矛盾しているように見えますが、もう「認めざるを得ない」、つまり「信じざるを得ない」状況を示しているでしょう。信じがたいことが、信じさせられているという逆説的な言い回しです。それでもさらにイエス様は、食べ物を求めて、焼いた魚を食されるのです。そのようにして弟子たちはみな、イエス様は本当に死からよみがえったのだということを信じるのです。しかし先週のヨハネの福音書も、この前のところのエマオの途上の出来事でもそうであるように、その信仰は、律法や人間の力ではあり得ない、まさに賜物です。弟子たち自らでは信じることができませんでした。「イエス様の方から」がなければ、この「復活」の素晴らしい出来事が真実であることがわかりませんでした。しかしまさにイエス様の方からの優しい働きかけ、言葉によって弟子たちはこの復活の事実が真実であると悟り、悟らされることによって彼らは喜びに、信仰の復活に、導かれていることが教えられるのではないでしょうか。このように「復活を信じる信仰」、それは半分でも僅かでも、人の側の自分たちの努力があって、それで信じることができたという人間の力や理性や努力の産物ではないのです。「信じることができない、彼ら」が信じるために、信じるように、イエス様は、ご自身を現わされるのです。それは、創世記のアブラハムとサラなどをみていても一貫していることです。このように、「信じる」ということは、決して律法ではない、律法では不可能であり得ない。信仰はどこまでも福音であり、福音から生まれるのであり、恵みであり賜物であると言うことが聖書では貫かれているのです。

B,「私たちの信仰も同じである」

 そしてこのことが、私たちにも一貫して等しく働いている信仰とその歩みの原則であると言うことです。つまり私たちにも、どこまでも「神様から」「イエス様から」が常に働いているのです。「イエス様から」がなかれば、イエス様から働いてくださらなければ、私たちも信仰はありません。いや、そもそもイエス様が、イエスの方から、この世に来てくださなかったのなら、私たちの罪の赦しも救いも何もなく、堕落のまま、神の怒りの前に、私たちは死んで滅んでいくだけの存在であったでしょう。しかし、私たちは誰もキリストなど知らない存在であったのに、いやそれどころか知らされても初めは背いて反抗し信じないものだったのに、そんな私たちのために、イエス様の方から来てくださったから、語りかけてくださったから自分は、キリストも救いも知ったし信仰が与えられたと言うのではないでしょうか?福音書も証ししています。イエス様の方から、弟子たちを招いてくださいました。イエス様の方から、病人や、悪霊に憑かれている人々のところへ行き、手を差し伸べてくださいました。イエス様の方から、社会から忌み嫌われている罪人のところに行き、一緒に食事をされ、友となられているでしょう。イエス様の方から「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」とおっしゃったでしょう。そして、私たち信仰と救いの核心部分。まさに他の誰でもない、私たちがでもない、神の御子であり罪のないイエス様が、イエス様だけが、イエス様自ら、罪人の刑罰である十字架にかかって死なれたでしょう。それは本来は全人類が、つまり私たち一人一人、私自身が負わなければならなかった十字架であり死です。しかし神の御子であり主であるイエス様はその私たちの、そして私の罪を全てご存知の上で、それを責めるのではない、裁くのでも断罪するのでも滅ぼすのでもない、その罪を全て背負って私たちのために、私たちの代わりに十字架にかかって死なれるでしょう。イエス様自ら、イエス様の方からです。まさにそのことが、この復活の後でも一貫して弟子たちに現れていますし、それが今も変わらず私たちにも現されている現実であると言うことです。その十字架と復活のキリストの恵みがどこまでも私たちを取り囲んでいるからこそ、私たちのクリスチャンとしての今があり、今の平安も喜びも、このイエス・キリストにこそあるのだということを教えられるのです。感謝なことではありませんか。

5、「平安があるようにー信仰は重荷でも私たちが行動の主役でもない」

  信仰は律法では決してない。信仰はどこまでも賜物です。信仰を与えてくださるのもイエス様であるし、信仰を強めてくださるのもイエス様です。復活の信仰を与えられていく弟子たちの姿はその一つの証しです。ですから、もし自分は「信仰が弱い」と思うことが誰でもあるとしても、しかしだからと、自分の力、努力で「信じなければいけない」「信仰を強めなければいけない」とするなら、それは神からの賜物を「自分からの何か」にすることになり、キリストの福音を歪めてしまっています。それは知らず知らず神のわざを退け、自分が行動の主役になってしまいます。しかしそれは表向きや見た目は敬虔そうには見えますが、実は不可能なことであることは、十字架と復活の前はもちろん、復活の後の罪深い弟子たちの姿、言葉、行動が示す通りです。そして何よりそのような誤解した信仰や、信仰を行いや律法にしてしまうことは、結局は、信仰生活に平安がなくなり、重荷になってしまい、息苦しくなってしまうことになります。行き詰まってしまいます。イエス様は「平安があるように」と言っているのにです。矛盾していませんか。信仰を律法にしてしまうそのような経験は、私自身もあります。誰もが直面する誘惑であり落とし穴だと思います。

 しかしイエス様は、感謝な方です。何よりイエス様はこのところになんと言って入ってきていますか?36節の初め、「あなたがたに平和があるように」とあるではありませんか?その平和は、イエス様が約束した世の与えることができないキリストが与えることができる平和、平安です。そのように、復活のイエス様は私たちから平安を奪い、重荷を負わせるために来たのではないことこそ、今日のところでもはっきりとわかることではありませんか。私たちちが信じることができないものだから、頑なななものだから、悟るに遅いものだからこそ、イエス様はそんな私たちに絶えず働いてくださる、イエス様の方から来てくださる。何より説教のみ言葉と聖餐を通してです。だからこそ、イエス様は繰り返し何度でも語ってくださり与えてくださる。教えるために。信じさせるために。信仰を強めるために。何度でもです。そして、そのように信仰を強めることによって重荷ではなく、喜びと平安を与えるのです。そのことが今日のところでも見事に重なっています。

6、「今も毎週の説教と聖餐のみことばを通して、変わることなく」

 そして、44節以下はその証しです。

「44イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」 45そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、 46言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。 47また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、 48あなたがたはこれらのことの証人となる。

 「わたしについて」と始まります。それは救いの御子イエス様ご自身を指し示しているでしょう。そして、その「わたしについて」の全ては神が与えた律法、預言、詩篇の聖書のみ言葉の実現だと、やはりここでも人間の側の計画、予想、わざ、敬虔、そのようなものは何もなく、ただただ、三位一体の神の方からのその言葉を通しての実現こそ、イエス様は「わたし」なのだ。わたしを指し示しているのだ、そしてそれがはっきりと現されているのが十字架と復活なのだと断言するでしょう。そして、それは「これから」の変わらない約束として「罪の赦しの悔い改め」の宣教にも実現すると約束します。しかも48節「あなた方はこれらのことの証人となる」です。あなた方が自分で「なりなさい」「ならなければならない」とは言っていません。「なる」と断言しているでしょう。そして49節では、「49わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」とあります。つまり宣教については「助け主である聖霊が与えられるまで、待ちなさい。とどまっていなさい」とイエス様は命じているでしょう。まさに聖霊の助けなしには、み言葉は実現しない。宣教も虚しいし実現しない。福音は伝えられない。だから、約束を、聖霊を待ちなさい。とどまりなさい。と伝えていることがわかるのです。まさに、その創造の初めから変わることのない約束の事実と実現が、今も変わらず、イエス様は、ご自身のみ言葉と聖霊の働きを通して、つまり何より説教と聖餐を通して、弟子達に、そして私たちにも常に働いてくださり、何度も新しくし、そして導いて用いてくださるのです。それは当然、教会も宣教もです。イエス様がみ言葉を語り続け与え続けることを通して、その信仰の道を、救いの道、そしてその良い働きまでもイエス様が与えてくださり、全てを完成させてくださることがどこまでも約束されているのです。それが聖書の伝える恵みの完全さに他なりません。パウロはそのことを伝えています。エフェソ2:8〜10節

「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。

新改訳ですと10節は「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。」ともあります。

また、フィリピ1章6節ではこうもあります。

「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。 」ピリピ1:6

7、「結び」

 信仰はどこまでも賜物です。神が与えてくださるからこそです。そして、神である復活の生きておられるイエス様は、今日も明日も永久に私たちのために、私たちに与えてくださった信仰のために、み言葉と聖霊の働きで、さらなる恵みの上にさらに恵みを与えてくださり強めてくださいます。私たちの安心のために、私たちの救いの完成のためにです。今日もイエス様は変わらず、罪を認め悔いるイエス様の前にある私たちに言って宣言してくださるのです。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。ぜひ感謝を持って福音を受けましょう。受けることによって恵みが真実であることを実感し、受けることによって救われていることを確信しましょう。そこに平安があります。平安のうちに私たちはここから遣わされていくことができるでしょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

 

説教「教会の条件」吉村博明 牧師 、ヨハネによる福音書20章19ー31節

説教

主日礼拝説教 2024年4月7日 復活節第二主日

聖書日課 使徒言行録4章32ー35節、第一ヨハネ1章1節-2章2節、ヨハネ20章19ー31節

Youtubeで説教を聞く

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

本日の福音書の個所は、復活したイエス様が弟子たちの前に現れて、いろいろ大切なことを教えるところです。大切なことは三つあります。まず、イエス様が弟子たちに「あなたがたに平和があるように」と繰り返し言ったこと。イエス様の言う平和。それから、彼が聖霊を与えると言って弟子たちに息を吹きかけて罪を赦す権限を与えたこと。罪の赦しの権限。三つ目は、弟子の一人のトマスが自分の目で見ない限りイエス様の復活など信じないと言い張った挙句、目の前に現れたので信じるようになりましたが、その時イエス様が言った言葉、「見なくても信じる者は幸いである」です。この三つのこと、罪の赦しの権限、イエス様の言う平和、目で見なくても信じるということは、よく考えるとキリスト教会が成り立つ条件であると言えます。イエス様は復活後40日したら天の父なるみ神のもとに上げられますが、その後でこの世に誕生する教会の設立条件をここで定めたとも言えます。今日は、この三つの条件について学んで、それがスオミ教会に備わっているか各自で考えてみる一助になればと思います。

2.罪の赦しの権限

まず、罪の赦しの権限について。私たち人間には神の意思に反しようとする性向があります。人を傷つけるようなことを口にしたり時として行為に出してしまったり、そうでなくても心の中で思ってしまったりします。また、嘘をついたり、妬んだり、見下したり、他人を押しのけてまで自分の利害を振りかざそうとしてしまいます。それらを聖書では罪と言います。人間は罪を持つようになってしまったため創造主の神との結びつきが失われてしまって、その状態でこの世を生きなければならなくなってしまいました。この世を去る時も神との結びつきがないままで去らねばなりません。この悲惨な状態から人間を救うために父なるみ神はひとり子のイエス様をこの世に贈って、人間が受けるべき罪の罰を全部彼に受けさせました。それがイエス様のゴルゴタの十字架の死でした。しかし、神は想像を絶する力をもってイエス様を死から復活させ、死を超える永遠の命が存在することをこの世に示し、そこに至る道を人間に切り開かれました。

そこで人間はこれらのことは本当に起こったとわかって、それでイエス様は救い主なのだと信じて洗礼を受けると、イエス様が果たして下さった罪の償いを自分のものとすることができます。罪を償ってもらったから神から罪を赦された者として見てもらえるようになり、罪が赦されたから神との結びつきを持てるようになってこの世を生きられるようになります。永遠の命が待っている「神の国」に至る道に置かれて、その道を神との結びつきを持って進んで行きます。この新しい自分は神のひとり子の犠牲の上にあるとわかれば、罪に反対して生きていこうという心になります。

このように創造主の神はひとり子のイエス様を用いて罪の赦しを私たち人間に備えて下さいました。本日の福音書の個所で、イエス様が弟子たちに罪の赦しの権限を与えますが、それは、神が備えて下さった罪の赦しを人間に及ぼす権限を授けたということです。人間が罪の赦しを与えるのではありません。人間は罪の赦しを取り次ぐ道具のようなものです。そして、その権限は誰もが持てるというものではありません。使徒たちは、イエス様が聖霊を授けることをして権限が与えられました。イエス様が天に上げられると今度は、使徒たちが次に権限を与えられる者に手をかざす按手という儀式を行って、罪の赦しを取り次ぐ権限を伝授していきました。伝授された者たちも次に権限が与えられる者に同じように按手をして、それがずっとリレーのように繰り返されて今日に至ります。これが使徒的な伝統ということです。

2年前の復活節第二主日の礼拝の説教で、私は当時スオミ教会が用いていた日本福音ルーテル教会の式文に注文をつけたことがあります。皆さんはおぼえていらっしゃるでしょうか?それは、式の最初の部分で、会衆が一緒に行う「罪の告白」に続いて「罪の赦しの祈願祝福」というものがありました。その文句は「イエス・キリストを死に渡し、全ての罪を赦された憐れみ深い神が、罪を悔いみ子を信じる者に赦しと慰めを与えて下さるように」という具合に、牧師は「赦しがありますように」と赦しを祈り願う言い方でした。それに対して、フィンランドのルター派教会ではそのような祈願ではなく、ずばり罪の赦しを宣言します。言い方は、「ここに神から権限を委ねられた者として、あなたの罪は父と子と聖霊の御名によって赦されると宣言します。」ここで注意すべきことは、牧師が罪を赦すと言うのではなく、あくまで神から権限を委ねられた代理者として宣言しますということです。誰がそんな権限を委ねられているのか?先ほども申しましたように、最初の使徒たちがイエス様から委ねられました。本日のヨハネ福音書の通りです。その後は、使徒的な伝統に立って教会の牧会者に任命された者たちです。私は2年前の説教で、いつの日かスオミ教会でフィンランドと同じような罪の赦しの宣言がなされることを希望しますと申したのですが、それは本当にその通りになり感謝です。罪の赦しの権限を委ねられた牧会者がいるというのは教会の条件です。

3.目で見なくても信じられる

次に「見なくても信じる者は幸い」ということについて。この目で見ない限り信じないと言ったトマスの思いはもっともなことです。この目で見ない限り信じない。これは普通の宗教だったらどこでもそういうふうに考えるでしょう。何か目に見える不思議な業を行う、不治の病が治るという奇跡、そういうことを行う者を人々はこの方には不思議な力がある、普通の人間ではない、ひょっとしたら神さまだと信じ、自分たちも奇跡にあやかれると期待して、そこから宗教団体が生まれてくるでしょう。

ところが、イエス様がここで教えていることは、目で見て信じることではなく、目で見なくても信じるというのが本当の信じることだと言うのです。ちょっと変な感がしますが、よく考えたらわかります。私たちは誰でも目で見たら、本当はその時はもう、信じるもなにもその通りだということになります。その意味で「信じる」というのは、まさに見なくてもその通りだと言うことです。これがイエス様の主眼とすることです。復活したイエス様を見なくてもイエス様は復活したのだ、それはその通りだ、と言う時、イエス様の復活を信じていることになります。復活したイエス様を目で見てしまったら、復活を信じますとは言わず、信じるもなにも復活をこの目で見ましたと言います。

このようにキリスト信仰では目で見ないでも信じられるということを強調します。使徒パウロは第二コリント4章18節で「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」と言い、5章7節では「目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいる」と言います。またローマ8章24節では、キリスト信仰者は将来復活に与れるという希望を持っていることで救われているのだ、見えるものに対する希望は希望ではない、現に見ているものを誰がなお望むだろうか、と言います。さらに「ヘブライ人への手紙」11章1節では、信仰とはズバリ言って希望していることがその通りだということであり目には見えない事柄がその通りになるということなのだと言われています。

さて、イエス様は復活から40日後に天の父なるみ神のもとに上げられますが、それ以後は復活の主を目撃できません。それなので、目撃者の証言を信じるかどうかということがカギになります。実際、目で見なくても彼らの証言を聞いて、その通りだ、イエス様は本当に神の子で死から復活されたのだと信じられる人たちが出てきたのです。どうして信じられたのでしょうか?もちろん、目撃者たちが迫害に屈せず命を賭して伝えるのを見て、これはウソではないとわかったことがあるでしょう。ところが、信じるようになった人たちも目撃者と同じように迫害に屈しないで伝えるようになっていったのです。直接目で見たわけではないのに、どうしてそこまで確信できたのでしょうか?

それは、イエス様の復活には何かとても大切なことが秘められているということ、これがわかってそれを自分のものにしたからです。この秘められた大切なことは目撃者の弟子たちが最初に自分のものにしていました。もし、イエス様の復活にその大切なことがなくただ単に死んだ人間が息を吹き返しただけだったら、それはそれで人々に情報拡散したい気持ちにさせる出来事でしょう。しかし、拡散したら命はないぞと脅されたら、わざわざ命を捨ててまで言い広めたりはしないでしょう。しかし、復活には不思議な現象を超えた大切なことがあるとわかったから、脅しや迫害に屈しないで宣べ伝えるようになったのです。それを目撃者の証言を聞いた人たちもわかって持てるようになったのです。それでは復活に秘められた大切なこととは何か?それがイエス様の言われる平和なのです。次にそれについて見てみましょう。

4.イエス様が言われる平和

イエス様が言われる平和について。ヨハネ福音書が書かれた言語はギリシャ語で「平和」はエイレーネーという言葉です。イエス様は間違いなくアラム語で話しておられたので、シェラームשלמという言葉を使ったでしょう。そのアラム語の言葉が土台にしている言葉はヘブライ語のシャーロームשלומです。シャーロームという言葉はとても広い意味を持っています。国と国が戦争をしないという平和の意味もありますが、その他に、繁栄とか成功とか健康というように人間個人にとって望ましい理想的な状態を意味します。イエス様は「平和」という言葉に特別な意味を持たせていました。

それがどういう意味だったかわかるために、イエス様が十字架に掛けられる前日に弟子たちに言われた次の言葉を見てみます。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな」(ヨハネ14章27節)。イエス様は「平和」を与えるが、それは「わたしの」平和、イエス特製の平和であると。しかも、この世が与えるような仕方では与えないと言われます。一体それはどんな「平和」シャロームなのでしょうか?もし「この世が与えるような仕方」で平和シャロームが与えられるとすると、それは先ほど申しました国と国の平和、人間個人の繁栄、成功、健康、福利厚生ということになります。みな目に見える平和シャロームです。それに対するイエス様の平和は、この世が与えるようには与えないというものです。目に見える平和シャロームとどう違ってくるでしょうか?

イエス様が与える平和シャロームを理解する鍵となる聖書の箇所を見てみましょう。ローマ5章1節。「このようにわたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており.....」。つまり、「平和」とは、人間と神との間の平和です。イエス様の十字架と復活の業のおかげで人間の罪の償いが果たされ、人間が神との結びつきを回復できたという平和、罪のゆえに神と人間の間にあった敵対関係がイエス様のおかげで解消されたという平和、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで神と一体になれるという平和です。イエス様の十字架と復活の出来事の前は、人間と神の間は敵対関係だったということはコロサイ1章21ー22節にも明確に述べられています。「あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者として下さいました。」神と敵対関係にあった私たち人間は、イエス様の犠牲の死によって和解の道が開かれた、それでイエス様を救い主として受け入れたら、神のみ前に立たされても大丈夫でいられということです。

こうしてイエス様を救い主と信じる信仰と洗礼によって神との結びつきが持てるようになった者は神と平和な関係にあります。その人は永遠の命が待っている神の御国に向かう道に置かれてその道を進んでいます。進んで行く時、成功、繁栄、健康など目に見える平和シャロームがある時もあれば、ない時もあります。しかし、いずれの時にあっても、イエス様を救い主と信じる信仰に留まる限り、万物の造り主である神との結びつきは失われておらず、神との平和な関係は何の変更もなく保たれています。人間の目で見れば、失敗、貧困、病気などの不遇に見舞われれば、神に見捨てられたという思いがして、神と結びつきがあるとか平和な関係にあるなどとはなかなか思えないでしょう。しかし、キリスト信仰者は、礼拝のはじめで罪の告白を行うたびに罪の赦しの宣言を受けていれば、また聖餐式で主の血と肉に与って罪の支配から贖われていることを強化していけば、そして御言葉の説き明かしを通して信仰を揺るがないものにしていけば、神の目から見て神と一体であることは何ら変わらず、結びつきも平和な関係もしっかり保たれています。たとえ人間的な目にはどう見えようともです。そして、この世の人生の時に神との結びつきと平和な関係をこのように鍛えておけば、この世から別れる時、安心して自分の全てを神に任せることが出来ます。復活の日に目覚めさせてもらって主が御手をもって父なるみ神の御許に引き上げて下さることを確信して神に全てを委ねることが出来ます。

5.目撃者と証言を聞いた人たちの一体性

以上、キリスト教会の三つの条件、罪の赦しの権限を委ねられた牧会者が教会にいること、信仰と洗礼を通して信徒一人一人が神と揺るがない平和な関係にあること、そして一人ひとりは目で見なくともイエス様が復活されたことを信じられることについて見てきました。もし教会がこれらの条件を満たしていなかったら、教会とは言えないと言ってもいいかもしれません。

先ほど、目撃者たちは復活に秘められた大切なことをわかって自分のものにした、そして目撃者の証言を聞いた人たちもそれがわかって自分のものにした、だから目で見なくても信じられるようになったと申しました。その大切なこととは神との平和であるとも申しました。そのことについては本日の聖書日課の別の個所、使徒言行録の個所と第一ヨハネの個所でも述べられているので、最後にそれを見ておこうと思います。

そこでは、最初の目撃者と彼らの証言を受け入れて信じた人たちの間に一体性があるということが言われています。ヨハネは、目撃者の使徒たちがイエス様の復活を宣べ伝えるのは、ずばり、伝える者と伝えられた者が一体性を持つためであると言います(第一ヨハネ1章3節)。日本語訳では「交わりを持つため」と言っていて、なんだか礼拝の後のコーヒータイムみたいですが、ギリシャ語のコイノニアという言葉はもっと広くて深い意味です。フィンランド語訳やスウェーデン語訳では「一体性」を意味する言葉です(yhteys、gemenskap)。ドイツ語訳ではあのゲマインシャフトでまさに共同体です(ひるがえって英語ではフェローシップ、仲間です)。使徒言行録の日課の個所で信仰者たちが財産を共有する出来事がありました。ここではコイノニアの形容詞形コイノスが使われています。信徒たちが財産を共有する位に一体性を持っている、共同体を形成しているということです。このように、イエス様を救い主と信じ洗礼を受けた者は目では復活されたイエス様を見ていなくても、目撃者と同じように神との平和な関係を築けており、それで両者は一体で共同体を形成しているのです。

そこで一つ気になることは、その一体性、共同体性は自分の財産を放棄して共有にしなければならないのかということです。そこまでやらないと一体性、共同体性は本物にならないのか?これも教会の条件なのか?聖書に書いてあるから、自分の財産を捨てなさいなどと言ったら、それこそいかがわしい宗教団体になってしまうではないか?

ここで考慮にいれるべきことは、この財産の放棄はどうもイエス様が天に上げられた直後のエルサレムのキリスト信仰者の間で起こった特殊な出来事だったということです。パウロがコリントやガラティアやコロサイやフィリピやエフェソの教会に送った手紙を見ても、そこで財産の所有が禁じられて共有されていたことを示唆するものは見当たらないと思います。エルサレムのキリスト信仰者の集まりが共同体を形成するやり方として起こったことではないかと思います。どうしてエルサレムの集まりでそういうことが起こったのか?使徒言行録の記述からわかることは、まず彼らの心と魂は自分の所有物はないという位に一つになっていた状況があった、それからそのような状況が生まれた背景には使徒たちがイエス様の復活を大きな業をもって証ししていたことがあったということしかわかりません。それがどんな業だったかも具体的にはわかりません。それなので、イエス様が天に上げられた直後のエルサレムの信仰者たちは全財産を共有にするのが神の目に相応しいという状況だったということだと思います。

私たちの場合は、心と魂が一つになることの現れ方としては今のところは別の現れ方をするのが相応しいということだと思います。「今のところ」と言うのは、当時のエルサレムと同じような状況になれば共有するのが相応しいということも起こりえるということです。そういう日が来るかもしれないと心のどこかで準備をするのです。そのために宗教改革のルターが財産と信仰者の関係について教えたことは大事だと思います。ルターは、財産は別に持ってもいいと言います。ただし財産の奴隷になるな、財産の主人になれと言います。どういうことかと言うと、財産を困っている隣人のために役立てることに躊躇しないで用いられるのが財産の主人なのです。もちろん、財産を共有していない時にも信仰者の心と魂が一つになっていることがあります。それは聖餐式です。信仰者は聖卓の前に並んで一人ひとりパンとぶどう酒を受けますが、全員が天の父なるみ神と平和な関係を持ち神と結びついているからです。今日これから聖餐式があります。その時、私たちは神と平和な関係を持ち神と結びついている者として心と魂は一つになっていることを忘れないようにしましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

説教「永遠に散り終わらない桜の木の下で」 ― 今は隠されているが将来明らかになる素晴らしいことを目指して」吉村博明 牧師 、ヨハネによる福音書20章1~18節

主日礼拝説教 2024年3月31日 (日)復活祭/イースター 聖餐式礼拝

聖書日課 イザヤ書25章6~9節、第一コリント15章1~11節、ヨハネ20章1~18節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

今日は復活祭です。十字架にかけられて死んだイエス様が父なるみ神の想像を絶する力で復活されたことを記念してお祝いする日です。イエス様が死んで葬られた翌週最初の日の朝、かつて付き従っていた女性たちが墓に行ってみると入り口の大石はどけられ、墓穴の中は空っぽでした。その後で大勢の人が復活された主を目撃します。先ほど朗読された第一コリント15章に記されている通りです。まさに世界の歴史が大きく動き出すことになったと言っても過言ではない出来事が起きたのでした。

 本日の説教では、最初にヨハネ20章の出来事を見て、復活とはいかなる現象かということと、イエス様の復活は私たちが将来復活できるために起こったということを見ていきます。これらは以前にもお教えしたことですが復習します。その次に、私たちの復活とはどんなものか、将来復活する者として私たちはこの世をどう生きるかということを考えてみようと思います。

2.ヨハネ20章の出来事

復活とはいかなる現象か?よく混同されますが、復活は死んだ人が少しして生き返るという、いわゆる蘇生ではありません。死んで時間が経てば遺体は腐敗してしまいます。そうなったらもう蘇生は起こりません。聖書で言う復活は、肉体が消滅しても復活の日に全く新しい「復活の体」を纏わされて復活することです。これは、超自然的なことなので科学的に説明することは不可能です。聖書に言われていることを手掛かりにするしかありません。

 復活の体について、使徒パウロが第一コリント15章の本日の日課の後のところで詳しく教えています。「蒔かれる時は朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれる時は卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活する」(42ー43節)。「死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着る」(52ー54節)。イエス様も、「死者の中から復活するときは、めとることも嫁ぐこともせず、天使のようになるのだ」と言っていました(マルコ12章25節)。

 このように復活の体は朽ちない体であり、神の栄光を輝かせる体です。それはまた、天の御国で神聖な神のもとにいられる清い体です。この世で私たちが纏っている肉の体とは全くの別物の体です。復活されたイエス様はすぐ天に上げられず40日間地上に留まり人々の前で復活した自分を目撃させました。彼の体はまだ地上に留まっていましたが、それでも私たちのとは異なる体だったことは福音書のいろんな箇所から明らかです。ルカ24章やヨハネ20章では、イエス様が鍵のかかったドアを通り抜けるようにして弟子たちのいる家に突然現れた出来事があります。弟子たちは、亡霊だ!とパニックに陥りますが、イエス様は手足を見せて、亡霊には肉も骨もないが自分にはあると言います。このように復活したイエス様は実体のある存在でした。食事もしました。ところが、空間を自由に移動することができました。本当に天使のような存在です。

 復活したイエス様は本当は天のみ神のもとにいるのが相応しい体をしていたことは、今日のマリアとの再会の場面でもわかります。以前もお教えしましたが、この再会は尋常ではありません。というのも、イエス様は天にいるのが相応しい神聖な体を持っている、そのイエス様に地上の肉の体を持つマリアがしがみついているからです。かつて預言者イザヤは神殿で神聖な神を目撃して、罪に汚れた自分は焼き尽くされてしまう!と叫んでしまいました。神に選ばれた預言者にしてそうなのです。預言者でない私たちはなおさらでしょう。

 神聖な神の御前に相応しい「復活の体」を持つイエス様と地上の体を持つマリア。以前にもお教えしたことですが、イエス様はマリアに「すがりつくのはよしなさい」と言われますが、ギリシャ語の原文をみると「私に触れてはならない」(μη μου απτου)です。実際、ドイツ語のルター訳の聖書も、スウェーデン語訳の聖書も、フィンランド語訳の聖書も、みな「私に触れてはならない」です。英語のNIV訳は私たちの新共同訳と同じで「私にすがりつくな」です(後注1)。さて、イエス様はマリアに「触れるな」と言っているのか、「すがりつくな」と言っているのか、どっちでしょうか?

 イエス様が復活した体、天のみ神のもとにいるのが相応しい体ということを考えれば、マリアが仮にイエス様にすがりついていたとしても、ここは原文通りに「触れてはならない」と言った方がよいと思います。それはイエス様の次の言葉を見ればわかります。「私はまだ父のもとへ上っていないのだ」(17節)。触れてはいけない理由として、自分はまだ天のみ神のもとに上げられていないからだと言うのです。つまり、復活させられた自分は、この世の者たちが纏っている肉体の体とは異なる、神の栄光を現わす霊的な体を持つ者である。そのような体を持つ者が本来属する場所は天の父なるみ神がおられる神聖な所である、罪の汚れに満ちたこの世ではない。本当は、自分は復活した時点で神のもとに引き上げられるべきだったが、自分が復活したことを人々に目撃させるためにしばしの間この地上にいなければならない。そういうわけで自分は天上のものなので、地上の者はむやみに触るべきではない。このほうが、すがりつくなと訳すよりも前後の繋がりがはっきりします(後注2)。

 さて、復活の神聖な体を持って立っているイエス様、それを地上の体のまますがりつくマリア、本当は相いれない二つのものが抱きしめ抱きしめられている。そこにはかつてイザヤが神聖な神を目の前にして感じた殺気はありません。イエス様は、自分は地上人がむやみに触れてはいけない存在なのだと言いつつも、一時すがりつくのを許している。マリアに泣きたいだけ泣かせよう、としているかのようです。この世離れした感動を覚えさせる光景です。

 本当なら危険極まりないことなのに、なぜイエス様はすがりつくのを許しているのでしょうか?イエス様は愛に満ちたお方だからでしょうか?そんな常套文句で満足したら、肝心なことが見えなくなってしまいます。イエス様は、マリアが今は地上の体ではいるが、自分を救い主と信じている以上、彼女も復活の日に復活の体を持つ者になるとわかっていました。それが理由です。イエス様のその思いは次の言葉から窺えます。「わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と」(17節)。ここでイエス様は弟子たちに次のようなメッセージを送ったのです。「今、復活させられて復活の体を持つようになった私は、私の父であり私の神である方のところへ上る存在になった。そして、その方は他でもない、お前たちにとっても父であり神なのである。同じ父、同じ神を持つ以上、お前たちも同じように上るのである。それゆえ復活は私が最初で最後ではない。最初に私が復活させられたことで、私を救い主と信じる者が後に続いて復活させられるのだ。」このことをパウロは第一コリント15章20節で述べています。「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。」

3.イエス様の復活に続く復活

イエス様の復活が私たちの復活の先駆けで、私たちが将来復活できるために復活された。じゃ、私たちはこの世を去ったらみんな復活するのか?ここのところは注意が必要です。私たちはイエス様が復活したことを信じなければならないのです。復活を否定する者には復活は関係なくなってしまうのです。そう言うと、じゃ、イエスは復活したということにすればいいんだな、世界には不思議な現象が沢山あるんだから、そういうものの一つだと考えればいいんだ、と言う人も出てくるかもしれません。しかし、それではダメなんです。どうしてか?イエス様は復活に先立って十字架にかけられて死なれました。それで、なぜ神のひとり子ともあろう方があのような惨めな死に方をしなければならなかったのか?これがわかった上で復活が起こったことを信じないといけないのです。復活の本当の意味をわかって信じないと信じたことにならないのです。

 では、なぜイエス様は十字架で死ななければならなかったのか?それは、私たち人間が持ってしまっている神の意思に反しようとするもの、それを聖書は罪と呼びます、その償いを神のひとり子が私たち人間のために神に対して償うためだったのです。人間と神との結びつきを失くさせていた原因である罪をイエス様が自分を犠牲にして償って下さった、人間が神から罰を受けないで済むように守って下さったということなのです。それだけではありません。父なるみ神は一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させて、死を超える永遠の命があることをこの世に示され、私たち人間にその扉を開かれたのです。

 私たち人間は、この方こそ救い主と信じて洗礼を受けると、神との結びつきを回復でき、この世の人生を神との結びつきを持って歩めるようになります。この世から離れる時も神との結びつきを持ったまま離れられ、復活の日が来たら眠りから目覚めさせられて、肉の体に代わる復活の体を纏わされて、「神の国」と呼ばれる御許に永遠に迎え入れられるのです。イエス様が十字架の死を遂げて備えて下さった罪の償いと罪の赦しを私たち人間はそれを信じることと洗礼を受けることで自分のものにすることができます。そして、イエス様が切り開いて下さった復活に至る道を神との結びつきの中で進んでいきます。これが私たちの復活になります。

 私たちの復活についてもう一つ忘れてはならないことがあります。それは、聖書によれば復活は将来、天と地が新しく再創造されて今ある天と地に取って代わる時に起こるということです。聖書には終末と新創造の観点があります。今ある天と地はかつて創造主の神が造ったものだが、それはいつか終わりを告げて神は新しい天と地に創造し直すという観点です。今は目に見えない手の届かないところにある「神の国」が新創造の時に唯一の国として見えるものとして現れ、復活を遂げた者たちが迎え入れられるというのです。それなので、聖書で言う死者の復活は、かの日に一斉に起こることなのです。他の宗教だったら、一人ひとりこの世を去って各々ある年数を経たらこの地上とは別の安楽なところに行くという見方かもしれませんが、キリスト信仰ではそうではないのです。かの日には天と地は一新され、今の天と地はないのです。ここのところがキリスト信仰の死生観と他の宗教のが大きく違っている点ではないかと思います。パウロもイエス様も言うように、一人ひとりがこの世を去っても復活の日まではみんな眠り、その日が来たらみんなに一斉に起こされるということです。

4.今は隠されているが将来明らかになる素晴らしいこと

このような復活の信仰に立って自分が向かおうとしているところがわかると、今度は今のこの世をどう生きるかということもはっきりしてきます。復活の信仰に生きる者が向かっている「神の国」について、聖書にはいろいろな描き方がされています。黙示録19章では結婚式の祝宴にたとえられています。花婿は今の世が終わる時に再臨するキリスト、花嫁は「神の国」に迎え入れられた者たちの集合体です。「神の国」が祝宴にたとえられるのは、そこに迎え入れられた者たちがこの世での労苦を全て労われる至福の場だからです。さらに黙示録21章を見ると、「神の国」は嘆きや苦しみや労苦がないばかりか死もないと言われます。そこで神は迎え入れられた人たちの涙を全て拭われると言います。この涙は痛みや苦しみの涙だけでなく無念の涙も全て含まれます。つまり、この世でないがしろにされたり中途半端になってしまった正義が神の決済で最終的かつ完全に決着がつけられるということです。最後の審判があるのはそのためです。本日の旧約聖書の日課イザヤ書25章でも、神が死を永久に滅ぼすところが言われています。そこは祝宴があるところであり、神はその席につく人たちの涙を拭われます。7節で「布が滅ぼされる」と言うのは、肉の体に替えて復活の体を着せられることを意味します。

 ところで私は最近、こうした復活の信仰を否定する方と話をしました。その方は、人間は死んだら、もう何もかも消えてなくなってしまうと。私は礼拝の説教で、消えはしない、人間は復活を遂げると体の有り様は変わっても同じ名前を持つ自分は続くと言ったことがありますが、その方はそれに反対して言いました。人間一人ひとりは川と同じである、川にはそれぞれ多摩川、荒川と名前があるように人それぞれに名前がある、しかし、川が海に流れ込んだら、もう川はなくなって大海の中に消散してしまう、それと同じように人間も死んだら名前も何もなくなって果てしなく大きなもののなかに消散してしまうのだと。

 そのような考え方は、人間は肉の塊が全てという考え方です。もちろん人間には考えたり感じたりする部分もあるので単なる塊にすぎないと言えないかもしれないが、でも死ねばそれも肉と一緒に消滅するのでやはり肉の塊の部分にすぎなくなります。ただし、その方はこの世を生きる時、正しいこと倫理的なことを考えることは重要であるともおっしゃっていました。つまり、人間はどうせ消滅するのだから、この世でどう生きようが関係ない、好き勝手に生きればいいという考えはとらないと。しかしながら、正しいこと倫理的なこともこの世限りのことなので、死んだらそれも何も関係ないものになってしまいます。

 キリスト信仰では、正しいこと倫理的なことは復活や神の国が前提にあります。この世では、例えば他の人に何か危害を加えてしまって償いをしなければならなくなった時、一方ではこんな程度の償いでは納得いかないという思いが出ます。他方ではこんなに償わなければならないのはあんんまりだという思いが出ます。そのように完全な正義の実現は困難です。この世での正義はある時点での最適なものを目指すということにならざるを得ないと思います。でもそれも実現できるかどうかわかりません。しかし、復活の信仰は、最後の審判の時に全知全能の神が誰も文句が言えないような裁定をして完全な正義を実現するという見方をします。その内容はこの世の私たち人間にはわかりません。それは今は隠されているのです。しかし、それはかの日に明らかになるという見方を復活の信仰はするのです。なので、もし人間が、俺は完全な正義がわかった、今からそれを実現するなどと言ったら、神でない人間が神を気取ることになり大変なことになります。

 このように復活の信仰に生きる者は、完全な正義など自分は神ではないからわからない、神がそれを知っていて、それをかの日に実現して下さる、だから、今この世で私がすべきことはその神の意思に沿うように立ち振る舞うだけだ、人を傷つけない、欺かない、噓をつかない、妬まない、見下さない、他人を押しのけてまで自分の利害を振りかざさないようにしよう。神の意思に反することが周りにあれば、それに反対し、それに与しないようにしよう。神の意思に反することが自分に中に出てきてしまったらあれば神に赦しを祈り、イエス様の十字架の償いの力を与えてもらって襟を正そう。それなので、復活の信仰に生きる者は、何かを成し遂げようとして、たとえ上手く行かなかったり道半ばで終わってしまっても、神の意思に沿うように行っていたのであれば無意味だったとか無駄だったということは何もないのです。この世は負け犬の言い分だと言うかもしれませんが、そうではないというのがキリスト信仰なのです。逆に、何かを成し遂げたとしても神の意思に反してしたのであれば、かの日には全部ひっくり返されてしまうのです。それなので、人間は肉の塊で死んだら消滅するという考えは、神の意思に反して何かを成し遂げようとする人たちにとって都合のいい隠れ蓑になる危険があります。

 ここまでは復活を正義の視点から見てきました。最後に感性の視点で見てみましょう。フィンランドでは6月になると急にいろんな種類の花と木々の葉っぱの緑が一斉に咲き乱れ、この世とは思えないとても色彩豊かな季節になります。5月までは花も緑もなかったのでその変化の急なことと言ったらありません。日本では2月に梅、3月、4月に桜、5月にツツジ、6月にアジサイという具合に季節の花が順々に交替に咲くのとは大きな違いです。昔ある初夏の日、パイヴィと家の近くの森を歩いていた時、日本人にキリスト信仰の天の御国の素晴らしさを説明するのにこのフィンランドの初夏を紹介するのはいいのではないかと言ったことがあります。もちろん、天の御国、神の国は今ある天と地が終わった後のことなので、同じ自然形態があるという保証はありません。それが感性的にみてどれくらい素晴らしいかは、今の世の私たちには隠されていてわからないのです。それでも、そこがどれだけ素晴らしいところかを前もって、今持っている感性で予見するように感じ取ることは出来るのではないかと思いました。黙示録の終わりに書いてあることだけでは少し無味乾燥に感じられるならば、神の国はどれだけ素晴らしいところかを知るために、今この世で素晴らしいこと美しいことに触れることは将来の神の国の素晴らしさ美しさの氷山の一角のそのまた一角に過ぎない、それ位に神の国の素晴らしさはすごいのだ、ということがわかるだけでも意味があると思いました。

 そこでフィンランド人にとって、6月の自然の開花が神の国のとっかかりになるのであれば、日本人にとって感性に訴えるとっかかりはなんだろうかと考えました。それは、やはり桜の花ではないでしょうか?何週間か前にパイヴィと近くの神田川の桜並木に行った時のことです。もちろん並木はまだ立ち枯れの様態でした。そこに一本だけ河津桜が満開に咲いていました。それを見て、あと何週間かしたら周囲のソメイヨシノは満開になるのだと目に浮かびました。それで、河津桜は第一コリント15章で言われる、イエス様は復活の初穂で、彼に続いて私たちも復活するということを思い出しました。桜並木が満開になれば、その下にはシートが拡げられてあちこちでピクニックをする人たちで賑わうでしょう。詩篇23篇5節で神が羊飼いに導かれた者たちに食卓を整えられると言われます。ヘブライ語の原文では敷物を拡げて食事を供するという意味です。復活の日の祝宴はまるで桜の季節の野外の宴のようです。

 日本人にとって天の御国の素晴らしさを予見するのに、桜の木の下の宴会を持ち出すのはその感性に訴えるものでしょう。しかし、中には、その桜は永遠に咲きっぱなしなのか、桜は散ることが日本人の感性に訴えるのだと言う人もいるかもしれません。そのような人には次のように言ったらどうでしょうか?その桜は確かに散る、しかしそれは永遠に散り終わらないのだ、と。

 主にあって兄弟姉妹でおられるみなさん、このように創造主の神は、完全な正義を予見する理性と完全な素晴らしいものを予見する感性が備わるように私たち人間を造られたのです。今は隠されて見えないが、かの日には明らかになる完全な正義と素晴らしいものを満喫できる神の国を私たちキリスト信仰者は心に抱いて、聖書の御言葉を道しるべにしてそこに向かって歩んでいるのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。
アーメン

後注1

ドイツ語のルター訳の聖書はRühre mich nicht an!、スウェーデン語訳の聖書はRör inte vid mig、フィンランド語訳の聖書はÄlä koske minuun、みな「私に触れてはならない」です。英語のNIV訳は私たちの新共同訳と同じで「私にすがりつくな」(Do not hold on to me)です。

後注2

このように言うと、一つ疑問が起きます。それは、ルカ24章をみると、復活したイエス様は疑う弟子たちに対して、「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい」(39節)と命じているではありませんか。また、ヨハネ20章27節では、目で見ない限り主の復活を信じないと言い張る弟子のトマスにイエス様は、それなら指と手をあてて私の手とわき腹を確認しろ、と命じます。なんだ、イエス様は触ってもいいと言っているじゃないか、ということになります。

 しかし、ここは原語のギリシャ語によく注意してみるとからくりがわかります。ルカ24章で「触りなさい」、ヨハネ20章で「手をわき腹に入れなさい」と命じているのは、まだ実際に触っていない弟子たちに対してこれから触って確認しろ、と言っているのです。その意味で触るのは確認のためだけの一瞬の出来事です。ここで、ルカ20章39節の「触りなさい」とヨハネ20章27節の「手を入れよ」は、両方ともアオリストの命令形(ψηλαφησατε、βαλε)であることに注意します。ヨハネ20章17節の「触れるな」は現在形の命令形(απτου)です。本日の箇所では、マリアはもう既にしがみついて離さない状態にいます。つまり、触れている状態がしばらく続いるのです。その時イエス様は「今の自分は本当は神聖な神のもとにいる存在なのだ。だから地上の者は本当は触れてはいけないのだ」と一般論で言っているのです。つまり、イエス様がマリアに「触れるな」と言ったのは、神聖と非神聖の隔絶に由来する接触禁止規定なのです。確認のためとかイエス様が特別に許可するのでなければ、むやみに触れてはならないということなのです。

 新しい聖書の日本語訳「聖書協会訳」では、イエス様は「触れてはいけない」と訳していると聞きました。まだ確認していませんが、本当ならば喜ばしいことです。

説教「受難週と主の再臨を待つ者の心構え」吉村博明 牧師 、マルコによる福音書15章1-47節

主日礼拝説教 2024年3月24日 枝の主日

聖書日課 イザヤ63章15節-64章7節、第一コリント1章3-9節、マルコ15章1-47節

Youtubeで説教を聞く

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

今日は教会のカレンダーでは「枝の主日」です。イエス様がろばに乗って群衆の歓呼の中をエルサレムに入城した出来事を覚える日です。群衆はイエス様が進む道の上に衣服や木の枝を敷き詰め、王様を迎えるように出迎えました。このエルサレム入城の後、イエス様は十字架の受難の道に進んで行かれます。しかし、群衆は今、王としてお迎えしている方にそんなことが起こるとは夢にも思っていません。彼らは、この方こそ、ユダヤ民族を占領しているローマ帝国とそれに取り入る民族の指導者たちを追い払って、民族に真の独立と解放をもたらして下さると期待したのでした。その期待は見事に外れましたが、その代わりに一民族の期待をはるかに超える全人類の運命に関わる大きなことが起こりました。

このように今日はイエス様のエルサレム入城を覚える「枝の主日」の日ですが、ルター派教会のカレンダーでは、受難週の最初の日という扱いにもなっています。今日から始まる週はイエス様が受難の道を進まれる週であり、その頂点としてイエス様が十字架にかけられたことを覚える聖金曜日があります。イエス様は死なれた後、墓に葬られて金曜日、土曜日そして日曜日の朝まで葬られた状態にいます。そして日曜日の早朝に神の力によって復活させられます。

今日の福音書の個所は、ルター派教会の聖書日課を見ると2つ選択肢があります。一つは「枝の主日」の日課で、イエス様のエルサレム入城の出来事を扱ったマルコ11章ないしヨハネ12章。もう一つは、受難週の最初の日の日課で、最後の晩餐から十字架にかけられるところまでを網羅したマルコ14章と15章が定められています。今回、どっちを選ぼうかと迷いました。以前は「枝の主日」を選んでいました。しかし、今年はやり方を変えようと思いました。というのも、スオミ教会は小さな教会なので平日に礼拝を行うと集まる人はとても少なくなります。それは聖金曜日も同じ。フィンランドだとイースター期間は金曜日から翌週の月曜日まで休みですが、日本はそうではありません。聖金曜日の礼拝に出席できないと一つまずいことが起きます。枝の主日でイエス様が歓呼の中で迎えられて、次の日曜日には復活してしまって、めでたしめでたしになってしまう。受難なんかどこにもありません。何だか全てが春のおめでたいカーニバルのようになってしまいます。

そこで、スオミ教会で受難週の平日の夕刻に礼拝をやってもある程度人数が集まる日が来るまでは「枝の主日」はお預けにして、受難週の最初の日でいこうと思います。そうすると、マルコ14章と15章の2つの章を見ることになりますが、これを全部読むと30分以上かかります。これと別に説教の時間も考えないといけません。二つ合わせたら、ちょっと長すぎかなと思いました。幸運なことに、ルター派の聖書日課では、マルコは15章だけでもよいという選択肢もありました。それで、今回はそれを選んだ次第です。ただ、それでもイエス様の受難の前半部分が抜け落ちてしまいます。そこで、本説教ではまず、イエス様がエルサレムに入城するマルコ11章から逮捕される14章の終わりまでを駆け足で振り返ってみて、その後で15章を少し詳しく見てみようと思います。受難週の時、聖書を繙きながらイエス様と一緒に歩むように一日一日を過ごしていくと、主の再臨の日を待つ心構えが出来てくると思います。

――――――

イエス様がエルサレムに入城した後で何が起きたか?エルサレムの神殿で商売をしていた人たちを追い出した出来事が大きなものとしてあります。イエス様の行動は一見すると、神聖な神殿で金儲けなどけしからんと言っているように見えます。しかし、そうではありません。エルサレムの神殿は、人間が神との関係を正常にするために神の意思に反する罪を償わなければならない、それを動物の生贄を捧げて果たす場所でした。そのような儀式はそれはそれで人間に罪があることを自覚させ、罪はそのままにしてはいけないということを思い起こさせるものでした。しかし、規定通りに儀式を行ったら罪が消えて神のみ前に立たされても大丈夫でいられるかと言えば、そうではなかったのです。

そのような人間の手による罪の償いは不完全なものだからもう終わりにする、それに代えて神が完全な償いを人間に備えてあげよう、それでイエス様をこの世に贈ったのでした。神殿から商人を追い出したイエス様は当然のことながら宗教指導者たちから非難を受けます。商人と言っても、彼らはお土産屋さんを営んでいたのではなく、神殿で捧げる生贄用の動物を売っていた人たちです。その意味で彼らは神殿の宗教システムの一部だったのです。マルコ14章を見ると、イエス様が大祭司の前で取り調べを受けた時、彼が神殿を破壊して三日で新しいものを建てるなどと言ったという証言があります。ヨハネ福音書を見ると、宗教指導者たちに神殿を破壊してみろ、そうしたら私が三日で新しいものを建てると言っています。イエス様が破壊するのではありません。三日で新しい神殿を建てるというのは、まさに、人間が造った神殿では完全な罪の償いは不可能だったが、イエス様の十字架の死と三日後の復活によって可能になるという意味でした。

ユダヤ教社会の宗教指導者たちは、イエス様の活動に心穏やかではありません。あの男は旧約聖書の教え方があまりにも凄すぎる。人々はみなその通りだと信じていく。しかも、奇跡の業も行う。人々はますます彼を信奉し、偉大な預言者とか、かつてのダビデ王の王国を復興してくれるユダヤ民族の王などと担ぎ上げている。このままでは我々の権威が揺らいでしまう。さらによくないことは、占領国のローマ帝国とはせっかく波風立てずにうまくやっているのに反乱の疑いを持たれたら軍事介入を招いてしまう、そうならないうちに早く始末しなければならないと考えるようになっていました。そこに、神殿からの商人追い出しの事件が起きました。これは現行の宗教システムに対するあからさまな挑戦でした。指導者たちはイエス様を捕まえて死刑にすることに決めました。ユダヤ民族の解放と王国の復興を待ち望む人々の期待が高まっている時に、事態は正反対の方向に進んでいたのです。しかし、その正反対の方向がまさに神が考えていた正しい方向だったのです。なぜなら、それによって十字架と復活の出来事が起きたからです。

神殿からの商人追い出しから逮捕までの間、イエス様は人々に教え続けます。教えはよく見ると、どれもが将来イエス様を救い主と信じるようになる者たちは彼が再びやって来る再臨の日までどういう心構えを持つべきかを教えているとわかります。マルコ11章から12章までです。

イエス様が通りかかった時、実を実らせなかったイチジクの木は枯れてしまいました。イエス様が来る日に実がなっているように準備をしていなければならないのです。そのような準備には祈りが必要であると教えます。祈りを絶やさないことが準備をしていることになるのです。ただし祈る時、心の中で誰かを赦せないということがあってはならないとも教えます。イエス様の犠牲のおかげで神から罪の赦しを受けられて、それでイエス様を救い主と信じるようになったのであれば、彼の再臨を待つ者の心構えとして他者を赦すことは当然のことになるのです。

イエス様はまた、たとえの教えで、ぶどう畑の小作人が所有者の息子を殺害して罰として滅ぼされてしまう。そして、ぶどう畑は別のものに与えられる話をします。これは、罪の赦しの救いを地上で管理する者が神殿儀式のユダヤ教からキリスト教会に移ることを意味します。キリスト教会は主の再臨の日まで罪の赦しの救いを世の人々に伝え、かつそれを受け入れた人たちがその救いを携えてその日まで歩めるように支えなければならないのです。

イエス様はまた、神に選ばれたユダヤ民族は占領者のローマ皇帝に税金を納めていいのかどうかという挑発質問に対して、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返せばよいと答えました。この世の権威と権力は絶大なものに見えても、その上に立つもっと絶大な権威に目を向けなければならないということです。主の再臨を待つ者は、いつかは衰退して消え去るこの世の有限な権威権力に目を奪われず、その上に立つ永遠に栄光に輝く神の無限の権威に目を向けていなければならないのです。

さらに、死者の復活などないと言う宗教指導者たちに対してイエス様は、彼らがいかに旧約聖書をいい加減に読んでいたかを暴露します。主の再臨を待つ者は聖書を繙く時、聖書と復活と永遠の命は切っても切れない関係にあることを忘れてはいけないのです。

イエス様はまた、ユダヤ教社会の膨大な数の掟の中で、一番重要な掟は二つ、神を全身全霊で愛することと、神への愛に立って隣人を自分を愛する如く愛することであると教えました。膨大な掟集が二つに集約されてしまいました。しかし、そのためにこの二つの掟は途轍もなく広い深い掟になったのです。そのような偉大な掟に自分のあるがままの姿を照らし合わせると、神の意思に沿うことができない無力な自分に気づかされます。実はこれが罪の赦しの救いの入り口に立つことになります。イエス様は、この二つの掟に納得した律法学者のことを、お前は神の国から遠くない、と言ったのはまさにそのことです。主の再臨を待つ者は神の前に無力な存在であることを忘れてはいけないのです。だから、そんな自分を神の御前で大丈夫にして下さるイエス様が待ち遠しくなるのです。

さらにイエス様は、メシアの意味について、当時一般的に考えられていた民族の王様の意味を越えていること、かつてダビデが主と呼ぶくらいに越えている方であると教えます。人間の罪を償い、人間を罪の支配下から贖い出して復活を遂げた主、そして、いつか再臨される主は本当の意味でのメシアなのです。

イエス様はまた現行の神殿システムが宗教エリートを特権階級にしてしまうことや、神殿への捧げものの価値が外見で評価されてしまって、捧げる心が顧みられない現状を批判します。主の再臨を待つ者は、神によく見られるようになるために捧げるのではなく、神から罪を赦してもらったから捧げます、という心にならなければならないのです。

以上の教えはマルコ11~12章にあります。今見てきたように、どれもが、イエス様の再臨を待つ者のこの世で生きる心構えについて教えています。次の13章でイエス様は、イスラエルの地の近い将来の出来事から始めて、今のこの世が終わりを告げてイエス様が再臨する日までのことについて預言します。「キリストの黙示録」と呼ばれる箇所です。イエス様は、その日がいつ来ても大丈夫でいられるように目を覚ましていなさいと命じます。主の再臨の日まで目を覚ましているというのは、今まで見てきたような再臨を待つ者の心構えを持ってこの世を生きることです。

一連の教えが終わった後、事態は急速に受難に向かって進んで行きます。ある女性が非常に高価な香油を惜しみなくイエス様に頭からかけます。本当は遺体に塗って亡くなった方に最大の敬意を払うものでしたが、女性はイエス様がまだ生きている時に行いました。イエス様の受難と死はもう回避できないという印でした。イエス様はこの世の王として君臨するのではないことがはっきりしました。しかし、無残な殺され方をされるが、実は高価な香油を塗られるに値する高貴なことなのだと、無残さの裏側に大きな真実があることを示す行為だったと言えます。

そして、イエス様は弟子たちと一緒に過越し祭の食事をとります。イエス様はイスカリオテのユダが宗教指導者たちと組んでイエス様を引き渡す役を引き受けたことを知っています。また、イエス様が逮捕されたら他の弟子たちも逃げ去ってしまうことを知っています。これから全く一人で通過しなければならない受難が待っていると知っています。しかし、全てをやり遂げたら、人間はイエス様の犠牲のおかげで罪の償いを自分のものにすることができるようになります。このように罪を償ってもらった人はイエス様を救い主と信じる信仰を携えて世を神の子として歩めるようになります。信仰者が主の再臨の日まで信仰に留まって歩むことが出来るように、歩む力を得られるように、イエス様は最後の晩餐の時に聖餐式を設定して下さいました。主の再臨を待つ者にとって洗礼に並ぶ大事な儀式です。

食事の後、イエス様は弟子たちと一緒にゲッセマネに行ってそこで祈ります。イエス様はこれから起こる受難がどれほど辛く苦しいものであるかよく知っています。なぜなら、誰か一人の人間の罪ではなく、全ての人間の全ての罪の罰を神から受けなければならないからです。最初イエス様は、それを避けられる可能性を神に祈ったほどでした。しかし、神の意思が実現することが自分の思いよりも大事だと祈り直します。イエス様は全てを神の御手に委ねたのです。弟子たちは疲れ果てて眠ってしまいました。イエス様も同じ位疲れていたでしょう。しかし、イエス様は立ち上がって進みました。このように私たちが弱くても、イエス様は私たちのために立ち上がって私たちの代わりに進んで下さるのです。

まさにその時でした。指導者たちの回し者が押し寄せてきました。イエス様は逮捕されてしまいました。弟子たちは逃げ去ってしまいました。イエス様は最高法院に連行され、大祭司のもとで尋問を受けました。訴えは食い違いが多く、筋の通った決定的なものがありません。業を煮やした大祭司がイエス様に聞きます。お前はメシアなのか?そうだ、とイエス様は答え、さらに、人の子は神の右に座して、天の雲と共に到来すると、自分の再臨について述べます。怒り狂った大祭司は、イエス様が神を侮辱したと叫び出し、一同は死刑に処するべきと一致します。イエス様に容赦ない暴行が加えられました。遠くから様子を伺っていたペトロは、お前はあの男の仲間ではないかと聞かれ、三度、イエス様との関係を否定してしまいます。そしてイエス様が言った通りになってしまったと気づきました。あれほどどんなことがあってもついて行くと言ったのに、なんという失態!ペトロは激しく泣いてしまいます。イエス様を信じた者が周りに対する恐れから否定してしまうというのは途轍もない後悔を引き起こします。しかし、後でペトロは罪を赦され、信仰を公けにする者に変わります。主の再臨を待つ者とは、信仰を公けにする者なのです。

イエス様は最高法院からローマ帝国のユダヤ総督のピラトの元に送られます。当時ユダヤ民族はローマ帝国の支配下にあり、死刑は支配国の法律に基づいて行われたからです。ピラトはイエス様がひょっとしたらユダヤ民族の王かもしれないと思ったようです。宗教指導者たちがイエス様を引き渡したのは、彼が多くの人たちの支持を受けたため、自分たちの権威が脅かされると恐れたからだとわかっていました。別にこの男が王だとしても、ヘロデもローマに服従したし、誰が王になってもローマは服従させる自信はあります。

さて、過越し祭の時にはユダヤ人の希望を聞いて死刑囚を一人釈放する慣行がありました。今ピラトの前に宗教指導者たちが集めた人たちがいます。ピラトが提案しました。ユダヤ人の王イエスを釈放しようか?しかし群衆は釈放するのはバラバだと叫びます。十字架刑はイエスだ、と。彼らは指導者の指示通りに叫んだのです。驚いたピラトが、イエスは一体どんな悪事を働いたのかと聞きますが、群衆はただ十字架につけろと叫ぶだけです。ピラトは十字架につけるのはイエス様に決め、バラバを釈放しました。そこからは屈強なローマの兵士たちがイエス様に対して容赦ない暴行を加えます。その後、イエス様は自分が吊るされる大きな十字架の木を背負わされて処刑場まで運ばされます。恐らく半殺しのような状態だったのでしょう、背負いきれなかったので、兵士たちは通行人のシモンに命じて一緒に運ばせました。

ゴルゴタの処刑場に着くと、さっそく十字架につけられました。両腕を左右に引き伸ばし、両方の手首と一つに重ねた足首に五寸釘を打ち付けるのです。激痛といったらなかったでしょう。当時十字架刑は最も残酷な死刑の仕方でした。十字架の上で苦しんで死んでいく様子をずっと公けにさらしものにするのです。通りがかりの人が見て、指導者たちと一緒になってイエス様に嘲りと侮辱を叫びます。民族の解放者のように騒がれていたのに、なんだあのざまは、と。ついこの間、ロバに乗って群衆の歓呼の中をエルサレムの町に入城した面影は全くありません。

イエス様が十字架につけられて3時間ほどたった正午の頃でした。大地が突然暗くなるという事態が起きました。イエス様が神罰を受けて苦しまれている状態を象徴する現象でした。暗い状態は午後3時位まで続きました。ちょうど暗さが収まって明るくという境目の時に、イエス様が母語のアラム語で叫びました。「わが神、わが神、なぜ私を見捨てたのか?」これを聞いた人たちは、昔生きたまま天に上げられた預言者エリアが来て彼を天に上げてくれるように頼んでいると誤解しました。イエス様が直ぐ息を引き取らないようにと海綿に酸いぶどう酒を含ませて棒に付けて飲ませようとしました。しかし、イエス様はそのまま息を引き取られました。

ちょうどその時、神殿では大変なことが起きました。神殿の中の最も神聖な場所で、大祭司だけが入れて神と対峙する至聖所の前にかかっている垂れ幕が真っ二つに裂け落ちたのです。イエス様が十字架につけられて激痛の中を苦しんでいる時、大地が暗闇に覆われた時、イエス様は人間の全ての罪の罰を受けたのであり、同時にイエス様と抱き合わせの形で罪も滅ぼされたのです。暗闇が終わってイエス様が息を引き取ったのと同時に、罪ある人間と神聖な神を分け隔てていた垂れ幕が真っ二つに裂け落ちたのです。まさにイエス様の体を神聖な犠牲として捧げたので、人間と神を分け隔てていたものがなくなったことが明らかになった出来事でした。不思議な暗闇の中でイエス様の前に立って一部始終を見ていたローマの軍隊の隊長はイエス様が息を引き取るや否や暗闇が終わったことに恐れを抱いたのでしょう。この方は本当に神の子だったと叫んだのです。

イエス様の十字架刑の細かい出来事を見ると、例えば、兵士たちがイエス様の服を分け合うためのくじ引きを引いたこと、酸いぶどう酒を飲ませようとしたこと、またイエス様が最後に叫んだ言葉、これらはみな旧約聖書に預言されていたことでした。イエス様の受難は全て神の計画通りに進んだということです。

さて、イエス様が亡くなられた後、最高法院の議員ヨセフがピラトのもとに行ってイエス様の遺体の引き取りを願い出ました。彼は神の国を待ち望む人でした。つまり、イエス様が神の国について熱心に教えたことを信じたのです。ということは、今の世が終わる時に起こる死者の復活も信じていました。復活に与る者が神の国に迎え入れられます。今イエス様は死なれました。この後どうなるのか?あの方は3日後に復活すると言っていたそうだが、今の世がまだある時に復活が起こるのだろうか?しかし、今はまだ何もわかりません。しかし、今しなければならないことは、イエス様の遺体が宗教指導者に引き取られて打ち捨てられるようなことがあってはならない。彼は勇気を出して占領国の総督ピラトの元に行きました。幸いなことに引き取りは認められて、イエス様の遺体を埋葬します。彼が埋葬したおかげで、3日後の空の墓の出来事が起こりました。イエス様の復活の重要な証拠になったのです。このように、主の再臨を待つ者は、他人がどう見ようが何を言おうが、イエス様が教えたことを信じて彼に敬意を抱いて行動すると、神は予想もしない大きな業をもって返して下さるのです。

主の再臨を待つ者の心構えは、福音書の受難の出来事の他にも、本日の旧約の日課イザヤ書50章と使徒書の日課フィリピ2章にも示されています。

イザヤ書50章は、イエス様が暴行を加えられる場面を想起させます。しかし、この主の僕は、神が自分の正しさを認めてくれているとわかっています。暴力をもってしても曲げられないと。主の再臨を待ち、神の罪の赦しの恵みの中で生きる者は、誰かが私を訴えようとしても、天地創造の神が私の無実の証言者になってくれているので、私にはやましいところはないという気概を持てるのです。

フィリピ2章は、パウロがキリスト信仰者は自分のことだけを考えるのではなく、他の人たちのことも考えなければならない、それはイエス様がそうだったからだと言います。どのようにそうだったかと言うと、『神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられたからです。この世で、人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順だったからです。』主の再臨を待つ者は、自分のことだけを考えるのでなく他の人たちのことも考える時、イエス様を身近な例として持っているのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

説教「君は心の目でイエス様の十字架を見つめられるか?」吉村博明 牧師 、ヨハネによる福音書3章14-21節

主日礼拝説教 2024年3月10日 四旬節第四主日

聖書日課 民数記21章4-9節、エフェソ2章1-10節、ヨハネ3章14-21節

Youtubeで説教を聞く

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

旧約聖書と新約聖書は互いに密接に繋がっています。旧約聖書に来るべき救世主のことが預言されていて、それがイエス様の出来事で実現して新約聖書に記されました。それで、旧約、新約はそれぞれ天地創造の神の人間救済について計画段階と実現段階を述べていると言うことができます。このように聖書は全体として神の人間救済についての書物です。

 旧約と新約が互いに密接に繋がっているということは預言の実現だけではありません。それは、旧約にある出来事は将来のイエス様の出来事を初歩的な形で先取りしていたということがあります。その一つの例は、エルサレムの神殿で行われていた礼拝でした。イスラエルの民は神殿で毎年、罪を償う儀式として大量の牛や羊を生贄にして神に捧げました。それが、イエス様が十字架の上で死なれたことにより、人間の全ての罪の償いが果たされたということが起こりました。それで何かを犠牲にする必要はなくなり、神殿の存在理由がなくなってしまったのです。神殿の儀式は罪の償いの実物ではなく、実物はイエス様の十字架でした。神殿の儀式はそのミニアチュアのようなものだったのです(礼拝の説教中に一つ思い当たり、ひょっとしたら自動車のコンセプトカーと実際に生産販売される自動車の違いのようなものではないかとも申しました)。神殿では大量の生贄を毎年捧げなければならないので、神に対して罪を償うというのはとても大変なことだということは誰にでもわかりました。それが神のひとり子の一回限りの犠牲で未来永劫しなくていいということになったのですから、イエス様の犠牲の力の凄さと言ったらありません。

 本日の福音書の個所のイエス様の教えにもミニチュア/コンセプトと実物の関係があります。遥か昔モーセがシナイの荒れ野で蛇の像を掲げて、それを見た者が毒蛇の毒から救われた、それと同じように十字架に掲げられたイエス様を信じることで人間は永遠の滅びから救われるという教えです。これもイエス様の十字架が実物でモーセの蛇の像はそのミニチュアという関係にあることを示しています。今日はこの関係をよく見て神の私たちに対する愛と恵みをより深く知るようにしましょう。

2.信じるとは、心の目で見つめること

本日の福音書の箇所は、イエス様の時代のユダヤ教社会でファリサイ派と呼ばれるグループに属するニコデモという人とイエス様の間で交わされた問答(ヨハネ3章1ー21節)の後半部分です。この問答でニコデモはイエス様から、神の愛と人間の救いについて、そして人間は洗礼を通して新しく生まれ変われるということについて教えられます。

 まず、イエス様は「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命をえるためである」と述べます。モーセが荒れ野で蛇を上げた出来事は、本日の旧約の日課、民数記21章の中にありました。イスラエルの民が約束の地を目指して荒れ野を進んでいる時、過酷な環境の中での長旅に耐えきれなくなって、指導者のモーセのみならず神に対しても不平不満を言い始めます。神はこれまで幾度も民を苦境から助け出したのですが、それにもかかわらず民は、一時するとそんなことは忘れて新しい試練に直面するとすぐ不平を言い出す、そういうことの繰り返しでした。この時、神は罰として「炎の蛇」を大量に送ります。咬まれた人はことごとく命を落とします。民は神に反抗したことを罪と認めてそれを悔い、モーセにお願いして神に赦しを祈ってもらいます。モーセは神の指示に従って青銅の蛇を作り、それを旗竿に掲げます。それを見つめる者は「炎の蛇」に咬まれても命を落とさないで済むようになりました。新共同訳では、作った蛇を「見上げる」とか「仰ぐ」と訳していますが、9節のヘブライ語の動詞ヒッビートゥ、プラス前置詞エルは辞書によると英語のlook at、gaze atです。「見上げる」、「仰ぐ」ではなく、「見つめる」とか「注目する」です。じーっとよーく見ることです。

 イエス様は、自分もこの青銅の蛇のように高く上げられる、そして自分を信じる者は永遠の命を得る、と言います。イエス様が高く上げられるというのは十字架にかけられることを意味します。イエス様は、旗竿の先に掲げられた青銅の蛇と十字架にかけられる自分を同じように考えています。旗竿に掲げられた青銅の蛇を見つめると命が助かる。それと同じように十字架にかけられたイエス様を信じると永遠の命を得られる。ここには、両者がただ木の上に上げられたという共通点にとどまらない深い意味があります。

 本日の民数記の個所に「炎の蛇」が2回出てきます。最初は神がイスラエルの民に対する罰として「炎の蛇」を送ります。その次は神がモーセに「炎の蛇」を作りなさいと命じます。興味深いことに各国の聖書は最初の蛇を「炎の蛇」と訳さず「猛毒の蛇」と訳しています(英語NIV、フィンランド語、スウェーデン語)。ところが、ヘブライ語の辞書を見ると「猛毒の蛇」はなく、「炎の蛇」です。欧米の翻訳者たちはきっと、古代人は蛇が毒で人を殺すことを炎で焼き殺すことにたとえたのだろう、毒が回って体が熱くなるから炎の蛇なんて形容したんだろう、恐らくそんなふうに考えて辞書にはない「猛毒の蛇」で訳したのではないかと思われます。つまり、「炎の蛇」など現実には存在しないと言わんばかりに、合理的な解釈をしたのでしょう。どうも欧米人にはそういうところがあるように思われます。しかし、その欧米で作られた辞書に「炎の蛇」とあるのだから、別に「炎の蛇」でいいじゃないか。それと、神がモーセに作りなさいと言った「炎の蛇」も、各国の訳はそう訳していません。素直じゃないと思います。

 さて、モーセは「炎の蛇」を造りなさいと言われて青銅の蛇を造ってそれを旗竿に掲げました。それを見つめた人たちは命が助かりました。これは一体どういうことでしょうか?次のように考えたらよいと思います。

 モーセがとっさに作ったのは当時の金属加工技術で出来る青銅の加工品でした。土か粘土で蛇の型を作り、そこに火の熱で溶かした銅と錫を流し込みます。その段階ではまだ高熱なのでまさに「炎の蛇」です。しかし、だんだん冷めて固まります。それを言われた通りに旗竿の先に掲げます。そこにあるのは、高熱からさめて冷たくなった蛇の像です。金属製ですので、もちろん生きていません。何の力もありません。それに対して生きている「炎の蛇」は、人間の命を奪おうとします。これは罪と同じことです。創世記3章に記されているように、最初の人間アダムとエヴァが造り主の神に対して不従順になって神の意思に反しようとする性向つまり罪を持つようになってしまいました。それが原因で人間は死ぬ存在になってしまいました。これが堕罪の出来事です。

 イスラエルの民が「炎の蛇」に咬まれて命を失うというのは、まさに神の意思に反する罪を犯すと、罪が犯した者を蝕んで死に至らしめるということを表わしています。そこで、罪を犯した民がそれを悔い神に赦しを乞うた時、彼らの目の前に掲げられたのは冷たくなった蛇の像でした。これは、彼らの悔い改めが神に受け入れられて、蛇には人間に害を与える力がないことを表わしました。つまり、神が与える罪の赦しは、罪の死に至らしめる力よりも強いことを表わしたのでした。それを悔い改めの心を持って見つめた者は、冷たくなった蛇の像が現している罪の無力化がその通りになって死を免れたのです。

 これと同じことがイエス様の十字架でも起こりました。罪が人間に入り込んでしまったために、造り主の神と造られた人間の結びつきが壊れてしまいました。神はこれを回復しようとして、ひとり子イエス様をこの世に送りました。彼に全ての人間の全ての罪を背負わせてゴルゴタの十字架の上に運び上げさせて、そこで神罰を受けさせました。イエス様は全ての人間を代表して全ての罪を神に対して償って下さったのです。それと、全ての罪が十字架の上でイエス様と抱き合わせの形で断罪されました。その結果、罪もイエス様と一緒に滅ぼされて罪はその力を無にされました。罪の力とは、人間が神との結びつきを持てないようにしようとする力です。人間がこの世から去った後も造り主のもとに迎え入れられなくする力です。まさにその力が打ち砕かれ無力化したのです。こうしたことがゴルゴタの十字架の上で起こりました。そればかりではありません。一度滅ぼされたイエス様は三日後に神の想像を絶する力によって死から復活させられました。復活が起きたことで死を超える永遠の命があることがこの世に示され、そこに至る道が人間に開かれました。他方、イエス様と共に断罪された罪は、もちろん復活など許されず滅ぼされたままです。その力は無にされたままです。

 このように神はひとり子のイエス様を用いて全ての人間の罪の償いを全部果たし、罪の力を無にして人間を罪の支配下から贖って下さいました。そこで人間がこれらのことは歴史上、本当に起こった、だからイエス様は救い主なのだと信じて洗礼を受けると、罪の償いと罪からの贖いがその人に対してその通りになります。ここでまさにモーセの青銅の蛇と同じことが起こったのです。荒れ野の民は悔い改めの心を持って必死になって青銅の蛇を見つめました。そして蛇の像が表していた罪の無力化がその通りに起こって、もう炎の蛇にかまれても大丈夫になりました。ところが私たちはイスラエルの民が青銅の蛇を見つめたように肉眼でゴルゴタの十字架を見ることは出来ません。それははるか2000年前に立てられたものです。それで、モーセの蛇の場合と違って、イエス様の十字架の場合は「見つめる」ではなく「信じる」と言うのです。しかし、イエス様を信じるというのはゴルゴタの十字架を心の目で見つめることでもあります。次にそのことを見てみましょう。

3.一度だけでなく、何度でも見つめること

イエス様の十字架を心の目で見つめることは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受ける時に起こります。肉眼の目を通して見たわけではないのに、まるで肉眼の目で見たのと同じように頭の中に映像があるのです。もう心の目を通して見ているとしか言いようがありません。

 そこで、イエス様の十字架を心の目で見つめることは洗礼の時の一回だけで終わらないこと、洗礼の後も何度も何度も繰り返して見つめることになることを忘れてはいけません。どうしてかと言うと、キリスト信仰者になったと言っても、神の意思に反する性向、罪はまだ残っているからです。確かにキリスト信仰者になったら注意深くなって神の意思に反することを行いや言葉に出さないようにしようとします。それでも頭の中では反することを考えてしまいます。また、人間的な弱さがあったり本当に隙をつかれたとしか言いようがない

注意があって罪を言葉や行いで出してしまうこともあります。そんな時はどうなるのか?イエス様が果たしてくれた罪の償いと贖いを台無しにしてしまったことになり、神罰を受けるしかないのでしょうか?

 いいえ、そうではない、ということを毎週、本教会の説教で申しています。自分に神の意思に反することがあった時は、すぐそれを神の御前で認めて赦しを願い祈ります。「イエス様を救い主と信じますので赦して下さい。」そうすると神も次のように言われます。「お前がわが子イエスを救い主と信じていることはわかった。お前は心の目をあの十字架に向けるがよい。お前の罪の赦しはあそこで今も打ち立てられて微動だにしていない。イエスの犠牲に免じてお前を赦す、だから、これからは罪を犯さないようにしなさい。」

 こうしてキリスト信仰者はまた永遠の命が待つ神の国に向かう道に戻れて再びその道を進み始めます。ここで明らかなように、御国に向かう道に戻れて再出発できたのは、心の目で十字架を見つめることができたからでした。心の目で十字架を見つめることは、キリスト信仰者がイエス様を救い主であると確認する仕方です。キリスト信仰者の人生はこの世を去るまでは罪の自覚と告白と罪の赦しを受けることの繰り返しです。それで、十字架を見つめることは何度もします。そうやって何度も再出発します。キリスト教は真に再出発の宗教と言ってもいいくらいです。そもそも神は、人間が永遠の命が待つ神の国/天の御国に挫けずに到達できるようにとイエス様の十字架を打ち立てたのでした。私たち人間の救いのためにひとり子を犠牲に供しても良いとしたのでした。これが人間に対する神の愛です。そのことをヨハネ3章14~16節はよく言い表しています。

「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。それほどに神は世を愛された。それで、独り子をお与えになった。それは、独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである(後注)。」

4.信じない者は信じるに転ぶ可能性を秘めている

ヨハネ3章の本日の箇所の後半(18ー21節)で、イエス様は自分を信じない者についてどう考えたらよいか教えています。キリスト信仰者にとっても少し気になるところと思われますので、ちょっと見てみましょう。

 3章18節でイエス様は、彼を信じる者は裁かれないが、信じない者は「既に裁かれている」と言います。これは一見すると、イエス様を信じない人は既に地獄行きと言っているように聞こえ、他の宗教の人や無神論の人が聞いたら穏やかではないでしょう。確かに人間には善人もいれば悪人もいますが、先ほども申し上げたように、人間は神の意思に反しようとする罪を持つようになって以来、自分を造られた神との間に深い断絶ができてしまっている、これは善人も悪人も皆同じです。みんながみんな代々死んできたように、人間は代々罪を受け継いでいます。それでみんながみんなこの世を去った後は復活の日に永遠の命に与れず神の御国に迎え入れられなくなってしまう、永遠に自分の造り主と離れ離れになってしまう危険にある。しかし、イエス様を救い主と信じることで、人間はこの滅びの道の進行にストップがかけられ、永遠の命に向かう道へ軌道修正します。信じなければ状況は何も変わらず、滅びの道を進み続けるだけです。これが「既に裁かれている」の意味です。軌道修正されていない状態を指します。逆に、それまで信じていなかった人が信じるようになれば、それは軌道修正がなされたことになります。その時、「裁かれている」というのは過去のことになり今は関係ないものになります。

 3章19節では、「イエス・キリストという光がこの世に来たのに人々は光よりも闇を愛した。これが裁きである」と言っています。神はイエス様をこの世に送り、「こっちの道を行きなさい」と救いの道を用意して下さいました。それにもかかわらず、敢えてその道に行かないのは「既に裁かれている」状態を自ら継続してしまうことになってしまいます。

 3章20節では、人々がイエス様という光のもとに来ないのは、悪いことをする人が自分の悪行を白日のもとに晒されたくないからだと言います。これなども、他の宗教や無神論者からみれば、イエス様を信じない人は悪行を覆い隠そうとする悪人、信じる者は善行しかしないので晴れ晴れとした顔で光のもとに行く人、そう言っているように聞こえて、キリスト教はなんと独善的かと呆れ返るのではと思います。しかし、それは早合点です。キリスト教は本当は独善的でも何でもない。そのことがわかるために、キリスト信仰者とそうでない人の違いを見てみます。そうでない人は造り主を中心にした死生観がありません。だから、自分の行いや生き方、考えや口に出した言葉が全て造り主の神にお見通しという考え方がありません。そもそも、そういうことを見通している造り主自体を持っていないのです。

 キリスト信仰者の場合は逆で、自分の行い、生き方、考え方、口にした言葉は常に、造り主の意志に沿っているかいないかが問われます。結果は、いつも沿っていないので、そのために罪の告白をしてイエス様の犠牲に免じて神から赦しをいただくことを繰り返します。毎週礼拝で罪の告白と赦しを行っている通りです。これからもわかるように、イエス様は「信じる者は善い業しかしないので晴れ晴れした顔で光のもとに来る」などとは言っていません。3章21節を見ればわかるように、イエス様のもとに来る者は善い業を行うのではなく、「真理を行う」のです。「真理を行う」というのは、自分自身の真の姿を造り主である神に知らせるということです。善い業もしたかもしれないけれど実は罪もあった、それで罪も一緒に神に知らせるということです。私は神であるあなたを全身全霊で愛しませんでした、また自分を愛するが如く隣人を愛しませんでしたと認めることです。以前であれば滅びの道を進むだけでしたが、今はイエス様を救い主と信じる信仰のおかげで救いの道を歩むことが許されます。

 このようにキリスト信仰者は自分の罪を神の目の前に晒しだすことを辞しません。キリスト信仰者が光のもとに行くのは、こういう真理を行うためであって、なにも善い業が人目につくように明るみに出すためではありません。3章21節に言われているように、キリスト信仰者が行うことはまさに「神に導かれてなされる」ものです。そこでは善い業も自分の力の産物でなくなり、神の力が働いてなせるものとなります。そうなると、神の前で自分を誇ることができなくなります。

 翻ってイエス様を救い主と信じない場合、そういう自分をさらけ出す造り主を持たないので、イエス様という光が来ても、光のもとに行く理由がありません。しかし、これは、神の側からみれば、滅びの道を進むことです。そこから人間を救い出したいためにイエス様をこの世に送られたのでした。神はイエス様を用いて救いを整えて、全ての人間にどうぞ受け取りなさいと言ってくれているのに、多くの人はまだ受け取っていません。また一度受け取ったにもかかわらず、十字架を見つめなくなってしまう人たちもいます。人間を救いたい神からみればとても残念なことです。それなので、キリスト信仰者は救いを受け取っていない人には受け取ることが出来るように、既に受け取った人は手放すことがないように働きかけたり支えてあげたりしなければなりません。受け取っていない人が受け取ることが出来るように、既に受け取った人が手放すことがないようにするというのは、詰まるところ人々が心の目でゴルゴタの十字架を見つめることができるように導くことです。見つめることができるようになれば、死を超える永遠の命に向かって進めるようになります。隣人愛の中でこれほど大事なものはないのではないでしょうか?主にある兄弟姉妹の皆さん、このことをよく心に留めておきましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

 

(後注)ヨハネ3章16節の訳し方について。ουτωςを後ろのωστε~と結びつけて考えると、「神はひとり子を送るほどに世を愛された」となります。これは一般的な読み方です。

もう一つの読み方は、ουτωςを前の14節と15節で言われていること、つまり、「モーセが荒れ野で蛇を上げたのと同じように人の子も上げられなければならない、それは彼を信じる者が全員永遠の命を得るためであった

、ουτωςはこれを受けているという見方も可能です。そうすると訳は、「彼を信じる者が全員永遠の命を得るためであった。そのように神は世を愛した。それで、ひとり子をこの世に送られた」になります。

 どっちがいいか、是非皆さまでご検討下さい。

説教「いつ人は十戒の掟を仕方なくではなく、 喜んで守れるようになるか?」吉村博明 牧師 、出エジプト20章1-17節、ヨハネによる福音書2章13-21節

主日礼拝説教 2024年3月3日 四旬節第四主日

聖書日課 出エジプト20章1-17節、第一コリント1章18-25節、ヨハネ2章13-21節

Youtubeで説教を聞く

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.神を愛するから掟を守るのか、それとも神から愛されるので守るのか

本日の旧約の日課は有名な十戒についてです。十戒には、創造主の神の意思が明確に示されています。天と地と人間を造られ、人間に命と人生を与えられた創造主の神の意思です。それなので十戒は神に造られた全ての人間に関わる掟です。神はそれをモーセを通してイスラエルの民に、あたかも全ての民族の代表者のようにして与えました。それでイスラエルの民は自分たちこそ全知全能の神に選ばれた、神に一番近い民という誇りを持ったことは当然のことでした。

十戒はキリスト信仰者の皆さんはよくご存じのものですが、信仰者でない方もこの説教を聴いたり読んだりするので、少し内容を見ておきます。十戒は大きく分けてふたつの部分に分けられます。第1から第3までの掟は、神と人間の関係についての掟です。第4から第10までの掟は、人間同士の関係についての掟です。神と人間の関係についての掟を見ると、第1の掟は、天地創造の神以外の神を拝んではいけない、第2の掟は、神の名前を引き合いにして誤った誓いを立ててはいけない、また不正や偽り事に神の名前を引き合いにして唱えるのは神聖な名前を汚すことになるのでしてはならない、第3の掟は、一週間の最後の日は仕事を休み、神のことに心を傾ける日とすべし、という具合に、神と人間の関係について守らねばならない掟です。

人間同士の関係についての掟を見ると、第4の掟は、父母を敬え、第5の掟は、殺すな、第6の掟は、姦淫するな、つまり不倫はいけない、第7の掟は、盗むな、第8の掟は、隣人について偽証してはいけない、つまり、他人を貶めてやろうとか困らせてやろうとか、また自分を有利にしようとか、そういう意図で嘘やでたらめや誇張を言ってはいけないということです。まさにSNS時代に相応しい掟です。第9と第10の掟は重複しますが、要は他人の家とか持ち物、またその妻子を初めとする家の構成員を自分のものにしたいと欲してはならないということです。そういう気持ちや感情が行動に出れば、盗んでしまったり、不倫を犯してしまったり、偽証してしまったり、場合によっては殺人を犯してしまったりします。

私たちのルター派の教会では大人の方がキリスト信仰者になるべく洗礼を受けようとする時は、前もってルターの小教理問答書を学ばなければなりません。ルター派以外の教会から転入する人も同じです。小教理問答書の内容は、十戒の他に使徒信条、主の祈り、洗礼、聖餐式、罪の告白と赦しについての教えがあります。十戒の解説を見ると、一つ一つの掟の最初に次の言葉が来ます。「あなたは神をおそれ、愛さなければならない。」その後に掟の解説が続きます。神をおそれ、愛さなければならないというのは一体どういうことでしょうか?神をおそれるというのは、神を怖いと思う恐れの意味と、神を高く祀り上げて自分を低くする、畏れ多いという意味の二つが合わさっています。そんなおそれるべき神をどうして愛することができるでしょうか?十戒の一番最初の掟で、それはできる、だからそうしなければならないと言うのです。それを見てみましょう。

まず、「わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問う」と神は言われます。「わたしを否む者」というのは、ヘブライ語のもともとの意味は「わたしを憎む者」です。天地創造の神以外の神を拝む者は天地創造の神を否む者です。それは神を愛していないことになり、それで憎む者と言われるのです。そのような者が犯した罪は三代目、四代目の子もその責任を負うことになると言うのです。まさに罪の呪いです。そういうことを言う神は真に恐ろしい方です。

ところが神はすかさず言われます。「わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には幾千代にも及ぶ慈しみを与える。」先ほどの、神を否み、神を憎む者の反対のことが言われます。神を愛する者とは、創造主の神のみを神として崇拝する者です。神の戒めを守ると言う時の「戒め」はヘブライ語は複数形なので十戒の全部の掟を指します。神を愛し崇拝し十戒の掟を守る者には幾千代にも慈しみが及ぶ。「慈しみ」はヘブライ語のヘセド、神の恵み、親切、見捨てないことという意味があります。それで、永久と言えるくらいに神から恵みと親切を受けられ、見捨てないでずっとついていてくれると言われたら、神は真に愛すべき方です。

神は神を愛さず罪を犯す者にとっては恐ろしい方であり、神を愛し十戒を守る者には愛すべき方です。そうなると、罪を犯す者にとっては愛すべき方ではなく、逆に、十戒を守る者には恐ろしい方ではありません。しかし、私たちは神を恐れると同時に愛さなければならないというのはどうしてでしょうか?罪を犯す者が神を愛するようになることは可能なのか?十戒を守る者が神を恐れることはあるのか?エゼキエル書33章を見ると、神は十戒に背く者が神に立ち返って守るようになることを強く望んでいることが言われます。33章16節では、背く者が掟を守るようになり不正をしなくなれば神はその者の過ちを思い起こさない、不問にするとまで言われます。なので父が罪を犯しても、このように生き方を変えれば罪は問われなくなる。もし三代目、四代目の子孫もこの方針を続けていれば、問われなくなった父の罪は何の影響もありません。なので、罪を犯す者にとっても神は愛すべき方なのです。エゼキエル書の同じ33章では逆のことを言っています。もし神の掟を守る正しい人が「自分自身の正しさに頼って不正を行うなら、彼のすべての正しさは思い起こされることがなく、彼の行う不正のゆえに彼は死ぬ」(13節)。そうなれば、3代、4代先の子孫まで影響を及ぼす事態になります。なので、掟を守る者にとっても神は恐るべき方なのです。

そこで一つ問題が出てきます。十戒の掟を守ると神は恵みと親切を与え見捨てないでいて下さる、掟を守る者は神を愛しているから守る。そうすると、人間がまず神を愛して掟を守って、神から見返りに恩恵を受けるということになる。そうすると、第一ヨハネ4章10節で言われていることと相いれなくなります。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」神が先に私たちを愛したのであれば、私たちが掟を守ることは恩恵を受けるためではなくて、神から愛されたから守るということになります。ここにキリスト信仰の十戒の守り方の真髄があります。これからそれを見ていきましょう。

2.イエス様は究極の神殿

本日の福音書の箇所の出来事の背景に過越祭があります。それは、イスラエルの民がモーセの指導の下、神の力で奴隷の国エジプトから脱出出来たことを記念する祝祭です。その主な行事として、酵母の入っていないパンを食べるとか、羊や牛を神に捧げる生け贄として屠ってその肉を食することがありました。それで、神殿には生贄用の羊や牛が売買されていました。鳩も売られていたと言うのは、出産した母親が清めの儀式の捧げ物に鳩が必要だったからです(レビ12章)。イエス様を出産したマリアもこの儀式を行ったことがルカ福音書に記されています(2章24節)。両替商がいたと言うのは、世界各地から巡礼者が集まりますので、献げ物の購入や神殿税の納入のために通貨を両替する必要がありました。

 このようにイエス様の時代のエルサレムの神殿は、巡礼者が礼拝や儀式をスムーズに行えるよういろいろ便宜がはかられてマニュアル化が進んでいたと言えます。しかしながら、このような金銭と引き換えの便宜化、マニュアル化した礼拝・儀式は、表面的なものに堕していく危険があります。型どおりに儀式をこなしていれば自分は罪の汚れから清められたとか、神様に目をかけられたとか、そういう気分になって自己満足になっていきます。自分の生き方が本当に神の意思に沿っているかどうかという自己吟味がないがしろにされていきます。罪のゆえに壊れてしまった神と人間の関係を修復できる方、罪の赦しを与える方はまさに創造主の神です。しかし、形式的に儀式をこなせば神は修復して赦してくれて当然というような態度は傲慢です。実際、旧約聖書の預言者たちは、イエス様の時代の遥か以前から、生け贄を捧げ続ける礼拝・儀式の問題性を見抜いて警鐘を鳴らしていたのです(イザヤ書1章11-17節、エレミア書6章20節、7章21-23節、アモス書4章4節、5章21-27節など及びイザヤ29章13節も)。

 イエス様自身も、神殿での礼拝・儀式が表面的なものであること、偽善に満ちていたことを見抜いていました。本日の箇所に記されているようにイエス様は神殿の境内で大騒ぎを引き起こしました。どうして彼はそこまで憤ったのか?それは、本当ならばユダヤ民族だけでなく全世界の人々が礼拝に来るべき神聖な神殿(イザヤ56章7節、マルコ11章17節)が、金もうけをする場所になり下がってしまったためでした。イエス様は神殿を「わたしの父の家」と呼び、自分が神の子であることを人々の前で公言しました。すると当然のことながら、現行の礼拝・儀式で満足していた人たちから、「このようなことをしでかす以上は、神の子である証拠を見せろ」と迫られます。その時のイエス様の答えは、「神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」(ヨハネ2章19節)でした。「建て直す」という言葉は、原文のギリシャ語では「死から復活させる」という意味の動詞エゲイローεγειρωが使われています。神殿というのは本当なら、人間が神から罪を赦していただき罪の汚れから清めてもらう場所、神との関係を修復する場所でなければならない。なのに、それが見かけだおしになってしまっている。それゆえ、それにとってかわる新しい神殿が建てられなければならない。そこで、十字架の死から復活するイエス様が、まさにその新しい神殿になる、というのです。それはどういうことでしょうか?

 復活したイエス様が神殿になるというのは次のことです。創世記3章に記されているように、最初の人間が神に対して不従順になって神の意思に反する性向、すなわち罪を持つようになってしまいました。そのために人間は、神聖な神の御許にいられなくなってしまい神との結びつきを失って死ぬ存在となってしまいました。しかし、神は、せっかく自分が造って命と人生を与えてあげた人間なのだから、なんとかして助けてあげよう、自分との結びつきを回復してこの世を生きられるようにしてあげよう、この世から死んでも復活の日に目覚めさせて永遠に自分のもとに戻って来られるようにしてあげようと決めました。ところが、人間は罪の汚れを代々受け継いでしまっており、それが神聖な神と人間の結びつきの回復を妨げています。そこで神は罪から生じる罰を全て一括して自分のひとり子のイエス様に受けさせてゴルゴタの十字架の上で死なせたのです。つまり、罪と何の関係もない神のひとり子に全人類分の罰を身代わりに受けさせて、全人類分の罪を償わせたのです。イエス様は文字通り、犠牲の生け贄になったのです(第一コリント5章7節、ヘブライ9-10章)。

 イエス様の犠牲は、それまでの神殿の牛や羊などの動物の生け贄のように毎年捧げてはその都度その都度、神に対して罪の償いをするものではありませんでした。彼の犠牲は、一回限りの生け贄で全人類が神に対して負っている全ての罪の償いを果たすものでした。洗礼者ヨハネがイエス様を見て、世の罪を取り除く神の小羊と言いますが(ヨハネ1章29節)、まさにその通りでした。イエス様は犠牲の生け贄の小羊、しかも一度の犠牲でそれまで捧げられた犠牲をすべてご破算にして、それ以後の犠牲も一切不要にする(ヘブライ9章24~28節)、本当に完璧な生け贄だったのです。

 イエス様の十字架の死は、犠牲の生け贄だけにとどまりませんでした。イエス様が全人類の罪を十字架の上まで背負って運ばれ、罪とともに断罪されました。その時、罪が持っていた力も抱き合わせに無にされたのです。罪の力とは、人間が神と結びつきを持てないようにしようとする力です。人間が造り主のもとに戻れないようにしようとする力、人間を支配下に置こうとする力です。その力が無力にされたのです。あとは、人間の方がイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、罪の支配下から脱して神との結びつきを持って生きることが出来るようになります。その時、人間は罪の支配下から神のもとへ買い戻された、贖われたと言うことが出来ます。人間を買い戻すために支払われた代価が、神のひとり子イエス様が流した血でした。

 そういうわけで、イエス様を救い主と信じ受け入れたキリスト信仰者というのは、罪の償いを全部してもらったことと罪の支配から贖われたことを洗礼を通して自分のものにした者ということになります。まさにエルサレムの神殿が果たそうとして出来なかったことをイエス様が果たして下さったのです。そういうわけで十字架の死を遂げて復活されたイエス様は真に、人間の罪の赦しを実現して神との結びつきを永遠に回復してくれる神殿中の神殿、まさに究極の神殿なのです。

3.十戒の掟を感謝と喜びを持って守れるようになる。

ここで十戒に戻りましょう。イエス様は十戒について、とても本質的なことを教えました。有名な山上の説教の中で、たとえ人殺しをしていなくても心の中で相手を罵ったり憎んだりしたら同罪である(マタイ5章21-22節)と教えたのです。また、淫らな目で女性を見ただけで姦淫を犯したのも同然である(マタイ5章27-30節)とも。つまり、外面的な行為に出なくとも、心の中で思ったたけで、掟を破った、罪を犯したということになるのです。造り主の神は人間に心の中までも潔白性を要求しているのです。全ての掟がそのようなものならば、一体人間の誰が十戒を完全に守ることが出来るでしょうか?誰もいません。ローマ3章10節で使徒パウロが、神に相応しい義を持つ者は誰一人としてもいないと断言したのはそのためでした。このように十戒は、人間に守るようにと仕向けながら、実は人間は守れない自分に気づかされるという、人間の真実を神の御前で照らし出す鏡のような働きをするのです。

 神聖な神がこのような人間に不可能な完全さを要求するならば、人間はどうすればよいのでしょうか?掟をちゃんと守れないので神罰を恐れて神から逃げるか、または神は人間の本性を理解できない酷い方だと反発するかのどちらかでしょう。どっちをとっても神に背を向けて生きることになってしまいます。

 ところが、イエス様という神殿を持ち、その中で生きるキリスト信仰者は神から逃げることもなく、神に反感を抱くこともなく、神に向き合って生きています。ただしそれは、信仰者が十戒を内面的にもしっかり100パーセント守り切る汚れなき存在だからではありません。そうではなくて、神の神聖なひとり子が自分を犠牲にしてまで私たちの罪の償いをしてくれたこと、そして自分を身代金にして私たちを罪の支配下から買い戻して下さったこと、これらのことを洗礼を通して頭からすっぽり被せられているからです。だから十戒の鏡で罪を照らし出されても恐れや反感を抱かずに神に向き合うことができるのです。

 イエス様が果たしてくれたことを自分のものにしていない人は、罪を照らし出された時、自分は罪があるから神に相応しくないとわかります。しかし、イエス様が果たしてくれたことを自分のものにした人は、彼のおかげで自分は神に相応しいものにかえてもらった、という喜びがある自覚になります。その時、十戒の掟を守ることは神に罰せられないために仕方なく守るという消極的な守り方でなくなります。神から恩恵を受けるために守るという報酬主義もなくなります。こちらが何もしないうちに恩恵を与えてもらったので、イエス様を贈って下さった父なる神に感謝し愛することの現れとして神の意思に沿うように生きよう、十戒を守ろうという積極的な守りになっていきます。

 しかしながら、十戒の守り方が積極的になっても、再び罪を十戒の鏡に照らし出される時があります。その時は、罪の赦しの恵みの王座の前で罪を認めて告白し、ひとり子の犠牲に免じて罪が赦されるという神の恵みをまた受けます。そうしてまた恵みを受けた感謝と喜びがあって、神を愛する現れとして十戒を守るようになります。キリスト信仰者は人生の間、何度も何度も罪の赦しの恵みを受け、何度も何度も神を愛して十戒を守るようになることを続けていきます。この繰り返しは、復活の日に最終決着がつくのです。

 イエス様は十戒について、心の中の潔白さも問うものであると教え、十戒を表面に留まらないとても深いものにしました。それで十戒は罪を照らし出す鏡のような働きがあるのです。イエス様はさらに、十戒の「してはいけない」ことは実は「しなければならない」ことも視野に入れていることを教えました。それで十戒はとても広いものになったのです。イエス様は人間同士の関係を律する7つの掟について、その趣旨は隣人を自分を愛するが如く愛することであると教えました。それで7つの掟をその趣旨に照らして見ると、小教理問答書の中でルターも教えるように、「殺すなかれ」はただ殺人を犯さなかったら十分というのではない、助けを必要とする人を助けなければならないことも入ると教えました。他の掟も同じように広くなりました。このようにイエス様は、十戒の掟を広く深くして完全なものにしたのです。それが神の意思だったのです。十戒を広く深いものにして私たちが受け入れて守れるようにする、しかも感謝と喜びをもって守れるようにする、そのためにイエス様は十字架と復活の業を遂げられたのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン