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私たちの父なる神と、主イエス・キリストから、恵と平安とが、あなた方にあるように。
アーメン 2025年8月17日(日)スオミ教会
聖書:ルカ福音書12章13~21節
説教題:「愚かな金持ちの譬え」
今日のみ言葉はルカ福音書12章13~21節までです。13節から見ますと、群衆の一人が言った。「先生、私にも遺産を分けてくれるように言ってください」イエスはその人に言われた。「誰が私をあなた方の裁判官や調停人に任命したのか」。ここでイエス様は群衆の一人の訴えに対して少々怒っておられます。イエス様に向かって言ったこの人は、何故こんな事を言い出したのでしょうか。恐らくイエス様の話を聞いて感銘を受け、この立派な先生の話を自分の兄弟も聞いたなら権威ある崇高な教えに触れ欲張りな兄弟も謙虚になり分別も良くなって私の遺産の分け前を分けてくれるのではないかと、考えたのです。この人はイエス様の尊い教えを兄弟に聞かせて、いま自分が財産の分け前の事で不利になっている惨めな問題に利用しようとしています。それに反してイエス様は「問題はあなたではないのか」と言っておられるのです。そこでイエス様ははこの人に譬えの話を語られるのです。譬えの話は何の説明もいらない分かり易い話であります。「或る金持ちの畑が豊作で作物を入れる倉を作って貯えておこう。もっと大きい倉を建て、そこに穀物や財産をみなしまい、さあ自分に言うのだ。「これから先、何年も生きて行くだけの蓄えが出来たぞ、食べたり飲んだりして楽しめ」。さて、この譬えで彼は豊かであった上に更に豊かになりました。ますます豊かになって行くけれどもその豊かさが何にもならないと言うことです。この譬えでは人間が何者であるか、と言う事ではなくて、人間にとって持ち物がどういう意味を持つのか、と言う事を言おうとしているのです。さて、畑が豊作であった時、この金持ちは作物を余らせて腐らせてしまう様な事はしませんでした。長年に渡って作物を貯蔵する事が出来るような大きいしっかりした倉を建て替えるのです。賢い人は作物が取れ過ぎて余った時、それが無駄にならないようにするのであります。この譬えの主人公である金持ちはただ物を沢山持っているというだけでなくて、その沢山の物を上手く管理するだけの賢さをも持っている人でした。人間には将来に備える知恵というものがあります。これまでの経験が蓄積されて、そこから考えて今後、困る事があるだろうから貯えておくと言う知恵であります。ところが、人間は物を持っていますとその物を自分がどうにでも出来る、支配しているつもりでいます。しかし物を本当に支配しているのではありません。イエス様は教えられました。「地上の宝と言う物は虫が喰うし又錆びてしまう、或いは盗人が来て盗んで行く。」そいう不確かな物があるという事です。人間は将来の事を考え、将来への備えが出来ると思っています。果たしてそうでしょうか。ところが彼は決して自分の将来を確保しているわけではないのです。更にこの人間が自分の魂を自由にすることが出来ると思うに至るのであります。魂、即ち命を保つのに必要な食料は長年分が確保された、これで長年に渡る命を保証する事が出来る、と言うのです。人は一生涯、喰うために働き追われています。それが働かないで食べて行けるなら人は苦労から解放されると思うわけです。大きい問題は解決されたかのようでありますが実は何も解決していない。 ――――――――――――――――◇―――――――――――――――――
20節を見ますと「すると神が言われた『愚かな者よ!あなたの魂は今夜のうちにも取り去られるであろう。そうしたらあなたの用意したものは誰のものになるのか』」。今晩、命がとられる!。すると一切が空しくなってしまうのです。それまで働いて生み出した実りも自分自身も空しくなってしまうのです。この譬えの話に出てくる金持ちは私たちの姿を写した鏡であります。いや、自分はこのような金持ちと違うと言うでしょうか。今夜、お前の命は取られてしまう。このひと声で彼がこれまで持っていると思っていたもの、保証されていると思っていたものが一挙に消えてしまうのです。まるで!朝日がさして霜が見る々うちにサーッと消えて行くように。神のひと声は一瞬にして一切を消してしまう、日の光のようです。この光を当てても消えないものを私たちは持っているでしょうか。私たちは私たち自身の人生のあらゆる面にこの光を当ててみる必要があります。この光に当てて消えゆくものが沢山あります。私たちは本当に空しくない人生を生きているかどうか。「今宵、命が取られるとしても、なお意味を持っているもの」それこそが私たちの人生の目標として大事に生きて行くことです。もし、明日死ぬことが分かると、もう励む目標も失って人生諦めて、せめて生きている、今日だけでも楽しもうとなるでしょうか、それもまた空しいことです。イエス様は言われました。「あなた方は世の光である」と。私たちキリスト者は光であってあのひと声を聞いても終わりに備える生き方とはどういうものか。私たちは何時あのひと声を聞いても良いように黙々と本当の生き方を求め続けて行く、その終わりの時が来ても崩れない。いよいよ生き々として生きるようにしなければならない。それはどういう生き方でしょうか。最後の一節で言われた。「自分のために宝を積んで神に対して富まない者はこれと同じである。」金持ちのした事です。イエス様ご自身の解説の言葉であります。この譬えの金持ちは自分のために宝を積んで神に対して富まない典型でありました。この人が金持ちであったことが悪いのではない。しかし、彼はこの取り入れたものを全部、自分の物にしようとしたのです。自分の畑で取れたものだからそれは自分のものではないか。そう考えても悪い事ではない。他の人たちの事はどうだったでしょうか。彼は他の人たちの事を全く考えない。イエス様の譬えの言葉の中には「彼は他の人の事を考えなかった」とは一言もない、けれども「自分のために」という一言は他の人たちの貧しさは考えにない、と言う事を含んでいるのです。この人は自分のために宝を積むばかりでした。人の事まで考えが及ばないのです。こうして神のひと声が彼に響くのです。即ち、神の前に立つ時、自分の富であると思っていたものが無になってしまう。富を持っていると思っている自分自身が実は惨めなものでしかない、この事が明らかになります。しかし、神の前に立っても自分が惨めにならないで祝福に満ちた状態になれる道があります。それが「終わりの日の備え」なのであります。私たちは実はある方の後ろに続いているのです。その方の歩みに依っているのです。その方と言うのはイエス・キリストであります。イエス様はこの世にあっても神の国を示し御国の自由な生き方をされてきました。イエス様ほど人のために生きた方はおれれません。自らを犠牲にして人のために生きられた。ですから、私たちも「人のために生きる」このことを目標に据えて生き々とあの光のひと声を聞いても喜んで御国への希望を持って生きる事であります。これが新しい生き方です。この新しい生き方はこの世のあらゆる価値の尺度が違うのです。イエス・キリストが示して下さった尺度の中で生かされて行く事であります。この新しい生き方は終わりの日にこそ本当の意味があり正しい事が明らかにされるのであります。
人知では、とうてい測り知ることができない、神の平安があなた方の心と思いをキリスト・イエスにあって守るように。 アーメン