ニュースブログ

2026年4月26日(日)復活節第四主日 礼拝

司式・説教 吉村博明 牧師 聖書日課 使徒言行録2章42~47節、第一ペトロ2章19~25節、ヨハネ10章1~10節 説教題 「罪の赦しという神のお恵みに留まって生きる」 讃美歌 338、322、337、255、384 特別の祈り

全知全能の父なるみ神よ。

あなたに罪を赦して頂いたので十戒を喜んで守る心をお与え下さい。それをしっかり守れない私たちのためにひとり子イエス様を贈って下さったあなたに感謝する心をお与え下さい。そして感謝のうちに、あなたを全身全霊で愛し、その愛に立って隣人を自分を愛するが如く愛する心もお与え下さい。

あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストのみ名を通して祈ります。 アーメン

歳時記

キランソウ

〈ヒソプをもって、わたしを清めてください、わたしは清くなるでしょう。わたしを洗ってください、わたしは雪よりも白くなるでしょう。 詩編 51:7〉

早春の叢に地面を這うように一群の小さな草花を見かけます、その草花はやがて周りの草などの成長に伴って何時しか消えてしまいます。先日、尾根緑道の脇道の石垣にあの地を這うように咲いていた草花を見つけました。その名も「キランソウ」と言う野草でした。キランソウは別名「医者殺し、地獄の釜の蓋」などと可憐な花に似合わない名がついていて万病に効く薬草として知られてきました。石垣ならば他の草花にも邪魔をされずに存分に成長が出来ますね、石垣はキランソウの安住の地でもありました。

4月の料理クラブの報告

4月の料理クラブは18日、つつじが咲き始めた初夏のような陽気の中で開催しました。今回はこの季節にピッタリのシュガーフレーク・フルーツケーキを作りました。

料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。最初にケーキの生地を作ります。今回はハンドミキサーは使いません。ケーキの粉類を計ってそれに溶かしたマーガリンを加えると、シュガーフレークのもとが出来ます。トッピング用にその一部を取っておきます。残りのものに生地用の他の材料を順番に混ぜ加え、それを型に伸ばします。

その次は中身の番です。水切りしたヨーグルトに砂糖、レモン汁を加えてクリーミーにし、それを生地の上に注ぎます。細かく切った缶詰のピーチとパイナップルをクリームの上に並べトッピングのシュガーフレークをかけて、ケーキをオーブンに入れて焼きます。ケーキが焼けている間にパプリカとキューリを切ってクラッカーの上にのせるなどして、塩気のものも少し準備しました。

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ケーキが焼けると美味しそうな香りが教会中に広がり、きれいな黄色のケーキが焼き上がりました。みなさん、「春らしいケーキね!」と声を合わせます。
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ケーキを少し冷ましてから切って、ケーキとクラッカーをコーヒー紅茶と一緒に美味しく頂きながら、楽しい歓談のひと時を過ごしました。キリスト教会では2週間前にイースター・復活祭のお祝いをしました。それで、今回の話は今日作ったケーキのことやイースターの後に起こった出来事についてでした。

次回の料理クラブは5月16日に予定しています(ご注意 5月は月の第三土曜日になります)。 詳しい案内は教会のホームページをご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。

料理クラブのお話2026年4月

今日は「シュガーフレーク・フルーツケーキ」を作りました。フィンランドでは黄色のフルーツケーキはイースター・復活祭のお祝いの時によく作られます。以前、料理クラブでは似たようなピーチケーキを作りましたが、今回はピーチに加えてパイナップルもケーキの中に入れました。水切りヨーグルトを使ったしっとりしたケーキにトッピングのシュガーフレークを‘かけると、ケーキの風味が高まり美味しくなります。

この季節になるとフィンランドの家庭では、前の年に冷凍したベリーを殆ど使い切ってしまうため、ケーキ作りには缶詰のフルーツが使われます。パイナップルもその一つです。パイナップルは甘いお菓子だけではなくて肉料理やピザ、サラダなどにも使われます。

パイナップルは熱帯地域で育つ果物です。実が出来るまで2年もかかります。昔はとても希少で高価な果物で、身分の高い客をもてなすために使われたりしましたが、現在では生や缶詰のものがどこでも販売されているので、かつての特別な意味を知る人は少ないと思います。

今日のケーキは黄色いフルーツに加えて水切りヨーグルトも使ったので、イースターのケーキのイメージが高まりました。ちょど2週間前には教会ではイースターのお祝いをしました。これから聖書にあるイースターの後で起こった出来事についてお話したく思います。

イースターとは何の日でしょうか。それは、十字架にかけられて亡くなられたイエス様が神様の力で復活されたことを覚えてお祝いする日です。十字架の死から三日後の朝、復活されたイエス様が弟子たちや彼の教えをよく聞いていた女性たちの前に現れました。そして同じ日の夜、弟子たちがある家に集まっていると、突然イエス様が部屋の真ん中に立って「あなた方に平和があるように」と言われました。弟子たちは幽霊だと思って恐れました。しかし、イエス様は弟子たちに自分の手と足と十字架の時に受けた傷を見せて、幽霊には骨も肉もないが自分にはあると言われました。弟子たちは最初驚くばかりで信じられない気持ちでしたが、次第にイエス様の復活を本当のことと分かって、心が平和に満たされていたのです。

イエス様は弟子たちの前に現れた時、一番初めに「あなたがたに平和があるように。」という挨拶の言葉を語りました。つい三日前の金曜日、イエス様は十字架に付けられて死なれました。その時の弟子たちは皆、イエス様を見捨てて逃げてしまいました。悲しんで後悔している弟子たちに、復活されたイエス様は責めるようなことは何も言わず、ただ「あなたがたに平和があるように」と挨拶されたのです。

神様が平和を与えて下さるという約束は、聖書の中で最も重要な約束の一つです。この神さまの約束は私たちにも向けられています。しかし私たちは今生きているこの世界の中で本当に平和に生きることができるでしょうか。今この世界は落ちしく揺れ動き国と国の間の紛争や戦争が数多く起こり、それらがどれくらい広がっていくか不安に感じさせます。さらに私たち一人一人の生活の中にも様々な不安があります。自分や家族の健康のこと、自分や子どもたちの将来のこと、人間関係のことなど多くの心配ことがあると思います。このような状態の中でどのようにして平和な心で生きられるでしょうか。イエス様が与えて下さる「平和」とはどんな平和でしょうか。

イエス様が言われた「平和」とは神さまが私たちの心に与えて下さる平和です。イエス様のお掛けで神さまと私たちは平和な関係があるという平和です。全ての造り主の神さまと平和な関係があるとわかれば、神様が共におられることが分かり、神さまを信頼して生きることができます。この時私たちの心の中には神さまからの平和があります。神さまは不安や悩みにとらわれている私たちを解放して全てを御手に委ねることができるようにしてくださいます。その時私たちは心の平安を得ることができるのです。

イエス様は弟子たちと出会われた時に彼らはイエス様に起こった出来事のために恐れに満たされ不安で一杯でした。しかしイエス様は彼らに「あなた方に平和がありますように」と語りかけました。私たちも弟子たちと同じです。生活の中に心配事があるかもしれませんが、イエス様は私たちにも「あなた方に平和があるように」と励まして下さいます。

何かを恐れている人、心配なことや後悔がある人も皆、イエス様のおかげで神様と平和な関係が持つことができるとわかれば、心に平安を得ることができるのです。イエス様は私たちにもこの励ましの言葉「あなた方に平和がありますように」と語りかけておられます。

牧師の週報コラム

覚悟と胆力を養うキリスト信仰その8
ルターによる聖句の説き明かしと共に(フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ
」4月24の日課から)
『婦人が子供を産む時、彼女は苦悶に見舞われる。彼女の時が来たからである。」(ヨハ
ネ16章21節にある主イエス・キリストの御言葉、1933年のフィンランド語訳聖書を参考に
しました。)
『このたとえで主は、人間の力がいかに無力であるかを示される。たとえ100人の婦人が
出産に臨む婦人を助けようと集まって来ても、どうすることもできない。そんなことは、
わかりきったことだ。出産というものほど、人間がいくら自由意思を駆使しても無力さを
思い知らされることはない。子供が母親の胎内から生まれてくるというのは、母親がどう
こうできるものではないからだ。それは人間の造り主である神が取り仕切ることだからだ
。だから母親は全てを神に任せるしかないということをよくわかるのだ。神が助け導いて
下さるのなら、助けと導きは確実にある。しかし、神の助けがなければ、たとえ全世界が
駆けつけても、万事休すである。神は出産ということを通して婦人に自分の力量、能力、
強さがちっぽけなものに過ぎないことをわからせるのだ。
これと同じことは出産と無関係な人すべてにも当てはまる。キリストはこのたとえを実は
彼を信じる者たちに向かって言われているのだ。出産に臨む婦人は何か不測の事態が起き
やしないかと恐れる。しかし、全てのことは神の御手の中にあるとわかっていれば、神を
信頼して委ねることが出来る。我々が様々な逆境の渦に巻き込まれた時、また古い人間か
ら新しい人間へと変えられる時も、全く同じである。だから、君は踏みとどまって、神の
働きを妨げないようにしなさい。神は我々の助けなどなくても全てを良く取り仕切って下
さる方なのだ。逆境の渦中にある時、新しい人間に変えられる時、我々は自分では何もな
しえないのだから。自分の力で取り仕切ろうとすれば、死と地獄が目の前に立ちはだかる
ことになる。それはちょうど、神に心を向けない出産の婦人が自分で自分を助けることが
できず痛みと苦しみと恐れしか感じられないのと同じことだ。』(以上、ルターの説き明
かし。迫力が伝わるように"爆訳"しました。)
そして神に信頼して神が働くようにした後で何が待っているか?イエス様は次のように続
けて言います。「しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために
、もはやその苦痛を思い出さない。」(ヨハネ16章21節の続き)

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歳時記

桜の饗宴

〈天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。 コヘレト3:1〉

先日、小雨降る尾根緑道の桜見物に出かけました。尾根緑道の東側のソメイヨシノは既に葉桜となっていましたが、こちらの西側は山桜と八重桜は今が盛りと言わんばかりに咲き誇っていました。「シロタエ」や「ヨウキヒ」などの八重桜に混じって山桜の「駿河台匂い」も芳しい香りをあたりに漂わせていました。今年の桜の季節もそろそろ終盤に差し掛かってきたようです。この桜の饗宴をいつまで見られるか気になっているところです。

2026年4月19日(日)10時半 復活節第三主日 礼拝 説教 木村長政 名誉牧師(日本福音ルーテル教会)

私たちの父なる神と、主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなた方にあるように。アーメン

2026年4月19日(日)スオミ教会

聖書 ルカ福音書24章13~35節」

説教題:「復活の主、エマオで現れる」

今日の聖書はルカによる福音書の最終章、24章であります。13節~35節には復活されたイエス様がエマオという村へ向かって帰る二人の弟子に現れるという出来事です。英国の聖書学者ウイリアム・バークルーは「これは、もう一つの不朽の短編である」と言っています。そして、日没に向かってイエス様の二人の弟子が故郷のエマオに歩いて帰っています。この二人がイエス様に気づかなかったのはエマオの村はエルサレムの西にあった。もう日が沈みかけていて、沈みゆく太陽が二人をまばゆく照らし、そのために彼らは主イエス様を見分けることが出来なかったのではないかと言っています。ルカは24章15節ではこう書いています。イエス様ご自身が近づいて来て一緒に歩き始めた。しかし、二人の目は遮られていてイエスだとは分からなかった。マルコは此処の場面をごく簡単に16章12節~13節の2節で書いています。「彼らのうちの二人が田舎の方へ行く途中、イエスが別の姿でご自身を現わされた。」ある聖書学者は、こう表現しています。これは、あきらかにルカ福音書24章13節以下に記されているエマオ途上の弟子たちにイエス様が現れた事と同じ話でルカのあの箇所の限りなく美しい物語で例えようもなく感動的である。マルコはその感動をわずか二行の短い文章で記しているだけです。情緒的、感傷に流れるのを恐れてでもいるかのようにあっさりと、しかし決定的な断言として二人の弟子たちに甦りの主がご自身を現わされた事を記している。週の初めの日、墓を訪れたマリヤの時と違って、此処では主は「別の姿」でご自身を現わされたと言っています。別の姿というのは身に着けておられた衣服が違っていたとか様子が全く変わっておられた、そういう事ではなく新しい姿、地上的な姿ではなく天的な姿と言う事ではないでしょうか。エマオに帰っている二人の弟子というのはあのイエス様の直接の12人の弟子ではないけれどもイエス様の行く先々を共にイエス様の教えを聴き病人を癒される奇跡を見、五千人の人々に五つのパンと二匹の魚で腹を満たす奇跡など驚くべきイエス様の業を目で見てこの方こそメシヤであると期待していたでしょう。ところがイエス様は十字架の死を遂げてしまわれた。彼らがどんなに失望、落胆したか道々これからどうしたら良いものかと語り合っていたのです。そこへ復活されたイエス様がスーッと現れ二人に近づいて、イエス様の方から「歩きながら遣り取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人はちょっとびっくりしてクレオパという人が答えた。「エレサムに滞在していながらこの数日そこで起こった事をあなたはご存知なかったのですか」こうしてイエス様が十字架につけられて亡くなってしまった事、彼らが如何に希望を持っていた方であった事、仲間の婦人たちが墓へ行ったらイエス様の遺体が無く天使が現れ「イエスは生きておられる」と告げた事などを話してあげています。婦人たち、そして二人の弟子も天使に「イエス様は甦って生きておられる」と言われてもにわかには信じれれなかったのです。そうして、もう田舎に帰ろうとエマオに向かったのです。この二人の弟子に復活されたイエス様が旧約聖書の予言者たちからイエス様ご自身が死んで復活する事を既に話されていたではないか、とこんこんと説明された。それでも十字架に死んでしまったイエス様が生き返るなんて到底思えない、話されてもとても信じられない。これが二人の正直な心情だったでしょう。日も暮れて同じ宿に泊まることになり食事の時、イエス様のパンを裂かれる時二人の目が開けイエス様だとわかった!次の瞬間イエス様の姿は見えなくなった。こうして二人は甦られたイエス様は生きておられる・・・と信じたでしょうか。32節でルカは書いていますね「二人は道で話しておられる時、また聖書を説明して下さった時私たちの心は燃えていたではないか」と語り合ったのです。そうです!十字架の死を超えて甦り給ったイエス様に出合いの言葉に聴く瞬間、私たちの心は熱く燃えるのです。一瞬でもいい復活の主のみ言葉が私たちの心を熱くする言い知れない力がみ言葉から受ける事が出来るのであります。

信じるというのはどういう事でしょうか。イエス様は確かに十字架で死なれた。ただ一回だけ死んでしまわれた、これは事実です。神にみ子イエス様は十字架の死をもって信じる人全ての罪を全部この死を代償として我が身に受けて贖い死んでしまわれたのです。しかし、それで終わりではない死から神のみ力によって甦られされて復活の主イエス様は生きて信じる者の内にも生きて働いて下さるのであります。この事、復活されたイエス様が私のうちに生きて同じ復活の命に生かさせて下さる、この事をあなたは信じるかどうかです。もともと信じると言うのは見たから信じると言うものではないでしょう。証拠を見せて欲しい、そうしたら信じるとよく言います。それは証拠を見て納得する事であって信じる事ではありません。何の証拠もない、けれども信じるということではありませんか。世の中には何も信じられない、学校の先生も信じられなくなった、政治家も全く信じられないという人間は沢山います。信じる信じないというのはこの場合信頼するしかない、ということでしょう。その根拠はそう考える自分自身にあるのです、自分自身が判断の基準になっているのです。しかし、神を信じる聖書のみ言葉を信じるというのは神ご自身が根拠になっているのです、聖書そのものが根拠になっているのです。私たちが自分が証拠を手にしてそれで納得して受け入れるそういうものではありません。納得することは信じることでは決してありません。私たちは自分を根拠にして一体何が出来るのでしょうか。私たちは人でも物でも最後の最後まで信じ抜いてゆくことなど到底できないでしょう。自分自身さえ信じられなくなったとさえ言うではありません。私たちは老いてゆけば思うようになかなか出来なくなって自分自身の頼りなさを嘆きます。私たちは自分の健康も今まで何でも出来ると思っていた事も頼りなくなり自分も信じられなくなったら、もうただ神様を信じイエス・キリスト様を信じて頼ればよいのです。

使徒言行録26章を見ますと、パウロがアグリッパ王の前で弁明した演説が記録されています。8節に「神が死者を復活させて下さると言うことをあなた方は何故信じ難いとお考えになるのでしょうか」復活がどうして信じられないのかと聖書は私たちに問い掛けています。主イエス様は復活されたままのお姿であの疑い深いトマスに言われました。「信じない者ではなく信じる者になりなさい」。神様が信じる根拠となって下さる。主イエス・キリストはあなたのために十字架にかかり死なれたのです。そして、死から復活された。そして、甦りの主イエス・キリストは今も生きて働いておられるのです。私たちは復活の命にあの世に於いて永遠の命に生かされています。エマオに向かって失望の中にあった二人の弟子はイエス様の言葉に心が燃えた、同じようにそこに私たちの心にも復活されたイエスが生きて働いて下さるのであります。英国の有名な宣教師ジョン・ウェスレーは英国の儀式に縛られたキリスト教から脱出してアメリカへ宣教師の新天地を求めて、イギリスから船に乗って行く船の中でモラビア派の熱心なクリスチャングループを見ます。そして、後にこのモラビア派の有名な一人スパンゲン・ベルグという人と会う事が出来た。スパンゲン・ベルグはウェスレーに尋ねた。「あなたはイエス・キリストをご存知ですか」。ウェスレーはこれを聞いて自分は英国の国教会、聖公会の古いしきたりや形骸化している教会から新たに宣教に燃えているのに!「イエス・キリストをご存知ですかって」その心の内で思ったのでしょう。ウェスレーは答えたのです。「知っていますとも、彼は世の救い主です」。すると、スパンゲン・ベルグは更に言った。「そうです!しかし、あなたは『イエスがあなたを救った』と言う事をご存知ですか」・・・・。十字架にかかり復活されたイエスがあなたを救ったのですよ、どれだけ救われて来たのか・・・あなたはご存知ですか」と言ったのです。この時からジョン・ウェスレーの生涯のモットーは<生きた実際的なキリスト教を広める>と言う事に集中したと言われる。

復活されたイエス様は今も生きて働いて、私たちを救って下さっています。

人知ではとうてい測り知ることのできない、神の平安があなた方の心と、思いとをキリスト・イエスにあって守るように。   アーメン

牧師の週報コラム

覚悟と胆力を養うキリスト信仰その7

ルターによる聖句の説き明かしと共に(フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ」48日の日課から)

『アダムによって全ての人が死ぬことになったように、キリストによって全ての人が生かされるようになるのです。』(第一コリント1522節)

『アダムによって全ての人が死ぬことになったように、キリストによって全ての人が生かされるようになるのです。』(第一コリント1522節)

『強い信仰は、この御言葉を大きな文字で心に書き記す。また、大地の上に聳え広がる大空いっぱいに描き切る。信仰は、この御言葉が伝えてくれること以外は何も見ない、何も聞かない、何も考えない。それはあたかも、この世界には他に書かれたものは何もないと宣言するようなものであり、我々が生きるのも活動するのも全てこの御言葉の中でそうするのだと観念するようなものだ。このように信じることができれば、我々は喜びのうちにこの世を生き、喜びのうちにこの世から別れることができよう。この信仰はまさに、キリストが死から復活したのは自分自身のためではなく、我々のためだったということを教えてくれるのだ。主を信じる者は彼の復活に完全に包み込まれてしまうということを。だから、我々も復活の日が来たら復活して主と共に永遠に生きることになるということを。

我々の復活は、まだ秘められていて公然のものになっていない。それでも既に起こったと言っていいくらい今、確実なこととしてある。このことをしっかり心に留めておきなさい。そうすれば、今目に見えるものは全て復活の日に消え去ってしまうことがわかるだろう。そして、天においても地においても復活の有り様以外に目にするものはないという心境になろう。それゆえ、キリスト信仰者が亡くなって墓に埋葬される時、そこで肉眼の目に映るのは腐敗する肉体でしかなくとも、信仰の目に映るのは墓地でも亡骸でもない。信仰の目は全く別の新しいものを見ているのだ。すなわち、新しい命と素晴らしい楽園を、そこで憩う新しい人たちと永遠の命に生きる幸いな人たちを。』(以上、ルターの説き明かし。昨年420日の週報コラムに掲載した訳をさらに進化させました。AIなんかに負けません※。)

強い信仰とは、このような目を持てることを言うのでしょう。そうすれば、喜びのうちにこの世を生き、喜びのうちにこの世から別れることができるという目を。

  • ルターのテキスト(フィンランド語訳)を訳した後で、Chatgtpに訳させました。私の訳といろいろ違いがあり、私はどうして自分のような訳をしたかを説明しました。そうしたら、あなたの訳は日本語読者の受け取り方を考えながら伝達するdynamic/functional equivalenceの訳で、「かなり高度な解釈的翻訳です」と言ってきました。そして、こうすればもっと良くなりますなどと提案もしてきました。私はそれは受け入れませんでしたが、やろうと思えば、それについて対話はもっと続いたと思います。Kiitos hyvästä palautteestasi ja antoisasta kommentistasi!と言って今回は終わりにしました。
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スオミ教会 手芸クラブのご案内

モチーフ編み

4月の手芸クラブは22日(水)10時~13時に開催します。

4月の手芸クラブは前回のモチーフ編みの続きです。モチーフ編みはかぎ針編みの定番で、今も人気があるかぎ針編みの一つです。英語でグラニースクエア(おばあちゃんの正方形)と言い、フィンランド語でも同じ意味の言葉Isoäidin neliöで呼ばれます。モチーフ編みは余った毛糸を用いても可愛い彩りの作品が出来ます。作品はコースターや鍋敷きが代表的ですが、正方形の編み物を編みつけていくとブランケット、バッグ、服など応用範囲が広がるのも特徴です。是非ご一緒にモチーフ編みの作品を編んでみませんか?

参加費: 1000円

持参するもの: 作りたい作品に合わせた毛糸や綿糸、それに合わせたかぎ針

手芸クラブでは今回のテーマ以外にもご自分の好きな編み物をすることができます。作りたいものがあれば、是非ご自由にお持ちください。
おしゃべりしながらワイワイ楽しく編みましょう!聖書のお話の時間もあります。

お子さん連れのご参加も大歓迎です!
皆様のご参加をお待ちしています。

お問い合わせ、お申し込み moc.l1776942227iamg@1776942227arumi1776942227hsoy.1776942227iviap1776942227
℡ 03-6233-7109
www.suomikyoukai.org

歳時記

榛の木(ハンノキ)

<22 主なる神はこう言われる、「わたしはまた香柏の高いこずえから小枝をとって、これを植え、その若芽の頂から柔らかい芽を摘みとり、これを高いすぐれた山に植える。
23 わたしはイスラエルの高い山にこれを植える。これは枝を出し、実を結び、みごとな香柏となり、その下にもろもろの種類の獣が住み、その枝の陰に各種の鳥が巣をつくる。
24 そして野のすべての木は、主なるわたしが高い木を低くし、低い木を高くし、緑の木を枯らし、枯れ木を緑にすることを知るようになる。主であるわたしはこれを語り、これをするのである」。 エゼキエル書17:22・23・24>

春は花の季節ばかりではありませんね、新緑の季節でもあります。何時もの散歩道の尾根緑道にも新緑の季節がやって来ました。フレッシュグリーンの中に一際目立つ木の芽を見つけました、調べてみたら「榛の木・ハンノキ」の新芽でした。榛の木は雑木の代表のような木ですがカバノキ科で白樺とは親類の関係ですね。炭焼きが盛んだった頃は榛の木は良質の炭が焼ける事から持て囃されてきましたが今ではすっかりすたれてしまっています。夏を過ぎた頃になると小さな松毬のような実が垂れ下がっているのをよく見かけます。此処、多摩丘陵は炭焼きで生計を立てた農家が多く多摩ニュータウンが出来る前までは至る所で炭焼きが盛んに行われてきました。雑木林に榛の木が多いのはその名残かも知れません。