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主日礼拝説教 2026年3月22日(四旬節第五主日)
エゼキエル37章1-14節、ローマ8章6-11節、ヨハネ11章1-45節
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
本日の福音書の日課はイエス様が死んだラザロを生き返らせる奇跡の業を行った出来事です。これを読んだ人は、ああ、イエス様は何と愛に満ちたお方なんだろう、悲しみにくれる姉妹を助けるために死んだ兄を生き返らせて下さったのだから、と思うでしょう。死んだ人を生き返らせる位の強い愛を示されたのだ、と。しかし、これを自分に当てはめて考えたら同じことが言えるでしょうか?イエス様は、もし私の愛する肉親が亡くなって悲しみに打ちひしがれた時、祈ってお願いしたら生き返らせてくれるのだろうか?もし、生き返らなかったら、イエス様は私のことをラザロやマルタやマリアよりも愛していないということなのだろうか?だから生き返らせてくれないのか?
このような疑問は、一見筋が通った疑問に聞こえますが、実は筋違いです。イエス様がラザロの病気のことを「神の栄光のため」と言ったことに注目しましょう。普通それは、イエス様がラザロを生き返らせたことが神の栄光の現れと思われます。ところがそれはまだまだ浅い理解です。本当はもっと深い意味があります。ラザロの生き返らせの奇跡と神の栄光の深い本当の意味を理解しなければなりません。本日の説教でそれを明らかにしてまいります。
深い本当の理解に入る前に予備知識として、キリスト信仰の復活についてひと言述べておきます。イエス様が死んだ人を生き返らせる奇跡は他にもあります。特に出来事を具体的に記してある箇所は、ラザロの他に会堂長ヤイロの娘(マルコ5章、マタイ9章、ルカ8章)と未亡人の息子(ルカ7章11~17節)の例があります。ヤイロの娘とラザロを生き返らせた時、イエス様は死んだ者を「眠っている」と言います。使徒パウロも第一コリント15章で同じ言い方をしています(6節、20節)。日本でも、亡くなった方を想う時に「安らかに眠って下さい」と言う時があります。しかし、ほとんどの人は「亡くなった方が今私たちを見守ってくれている」などと言うので、本当は眠っているとは考えていないと思います。ところが、キリスト信仰では本当に眠っていると考えます。じゃ、誰がこの世の私たちを見守ってくれるのか?それは言うまでもなく、天と地と人間を造られた創造主の神、私たち一人ひとりに命と人生を与えてくれた生ける神であるというのがキリスト信仰です。
キリスト信仰で死を「眠り」と捉えるのには理由があります。それは、本日の個所のイエス様とマルタの対話にあるように、死からの「復活」ということがあるからです。
復活とは、マルタが言うように、この世の終わりの時に死者の復活が起きるということです。この世の終わりとは何か?聖書の観点では、今ある森羅万象は創造主の神が造ったものである、造って出来た時に始まったが、新しく造り直される時が来る、それが今のこの世の終わりということになります。天と地の造り直しですので新しい世の始まりです。なんだか途方もない話に聞こえますが、聖書の観点とはそういうものなのです。死者の復活はまさに今の世が終わって新しい世が始まる境目の時に起きます。イエス様やパウロが死んだ者を「眠っている」と言うのは、復活は眠りから目覚めることと同じと見ているからです。それで死んだ者は復活の日までは眠っているということになります。
そういうわけでイエス様が行った生き返らせの奇跡は、実は「復活」ではありません。「復活」は、死んで肉体が腐敗して消滅してしまった後に起きることです。パウロが第一コリント15章で詳しく教えているように、神の栄光を現わす朽ちない「復活の体」を着せられて永遠の命を与えられるのが復活です。イエス様が生き返らせた人たちはまだみんな肉体がそのままなので「復活の体」を持っていません。彼らの場合は「蘇生」と言うのが正確でしょう。ラザロの場合は4日経ってしまったので死体が臭い出したのではないかと言われました。ただ葬られた場所が洞窟の奥深い所だったので冷却効果があったようです。蘇生の最後のチャンスだったのでしょう。それと当時の日数の数え方は最初の日も入れて数えるので、今ふうに言えば3日です。イエス様が3日後に復活したというのも今ふうに言えば2日後です。いずれにしても、生き返らせてもらった人たちも、その後で寿命が来て亡くなったのです。そして今は、神のみぞ知る場所にて「眠っている」のでしょう。
それでは、ラザロを生き返らせた奇跡の業の本当の深い理解に入っていきましょう。理解のカギはイエス様とマルタの対話にあります。対話の内容を注意深くみてみます。
イエス様を前にしてマルタは開口一番、こう言いました。「主よ、もしあなたがここにいらっしゃったならば、兄は死なないで済んだでしょうに(21節)」。この言葉には「なぜもう少し早く来てくれなかったんですか」という失望の気持ちが見て取れます。しかし、マルタはそれを打ち消すかのようにすぐ次の言葉を言い添えます。「しかし、私は、あなたが神に願うことは全て神があなたに与えて下さると今でも知っています(22節)」と。「今でも知っています」というのは、今愚痴を言ってしまいましたが、それは本当の気持ちではありません、イエス様が神に願うことはなんでも神は叶えて下さることは決して疑っていません、ということです。これは、「イエス様、神さまにお願いして兄が生き返るようにして下さい」と暗に言っているのです。つまり、マルタはイエス様にラザロの生き返りをお願いしているのです。
それに対してイエス様はどう応えたでしょうか?「わかった、お前の兄を生き返らせてあげよう、それを父にお願いしよう」とは言いませんでした。イエス様は唐突に「お前の兄は復活する」と言ったのです(23節)。先ほども申しましたように「復活」は「生き返り」とは別物です。マルタはそのことを十分理解していました。次の言葉から明らかです。「終わりの日の復活の時に兄が復活することはわかります(24節)」。この言葉を述べたマルタはハッとしたでしょう。ああ、イエス様は兄の「生き返り」ではなく将来の「復活」のことを言われる、ということは、兄と再び会えるのは復活の日まで待ちなさいということで、今は生き返らせてはくれないのだ、と少しがっかりしてしまったでしょう。もちろんマルタは復活が起こることを信じているのでその時に兄と再会できることは疑っていません。ただ、それは遠い将来のことです。「生き返り」ならば、今すぐ再会できるのに「復活」だと実感が沸きません。
そこをイエス様は突いてきました。25節と26節です。「私は復活であり、命である。」イエス様が「命」とか「生きる」という言葉を使う時、それはほとんど「永遠の命」や「永遠の命を生きる」ことを意味します。この世だけの命、この世だけを生きることではなく、永遠の命、永遠に生きるということです。「私は復活であり、永遠の命である」というのは、復活と永遠の命は私の手の中にあって他の誰にもない、それゆえ復活と永遠の命を与えることが出来るのは私をおいて他にはいないという意味です。
それではイエス様は誰に復活と永遠の命を与えるのでしょうか?その答えが次に来ます。「私を信じる者は、たとえ死んでも生きる」。この「生きる」は今申しましたように「永遠の命を持って生きる」ことです。イエス様を信じる者は、たとえこの世から別れても復活の日に復活させられて永遠の命を持って生きることになるということです。イエス様はさらに続けます。「生きていて私を信じる者は永遠に死ぬことはない」。「生きていて私を信じる」と言うのはどういうことでしょうか?イエス様を信じて洗礼を受けると永遠の命に至る道に置かれてその道を歩むことになります。イエス様を信じて生きると神に守られ導かれながらその道を歩みます。そして、復活の日が来たら永遠の命を持って生きることになります。それで永遠に死なないのです。
それでは「イエス様を信じる」というのは具体的にどうすることでしょうか?それは、イエス様が復活と永遠の命を手に持っていて、それを与えることが出来る方だと信じることです。イエス様がそういう方であることは、彼の十字架と復活の業を通してはっきりします。彼の十字架の死は私たち人間が内に持ってしまっている罪を私たちに代わって神に償うための死でした。彼の死からの復活は、死を超える永遠の命に至る道を私たちに切り開いて私たちにそれを歩ませるための復活でした。イエス様を復活と永遠の命を与えることが出来るお方だと信じて安心が得られればそれでもう信じているのです。
イエス様はこれらのことを一通り言った後、たたみかけるようにしてマルタに聞きます。お前は今言ったことを信じるか?私は復活と永遠の命を与えることが出来ると信じるか?
これに対するマルタの答えは真に驚くべきものでした。「はい、主よ、私は、あなたが世に来られることになっているメシア、神の子であることを信じております(27節)。」なぜマルタの答えが驚くべきものかと言うと、二つのことがあります。まず、マルタはイエス様がメシアであることを復活と関連付けて述べました。「メシア」という言葉は当時のユダヤ教社会の中でいろんな理解がされていました。一般的だったのは、ユダヤ民族を他民族の支配から解放してくれる王様でした。イエス様の周りに大勢の群衆が集まった理由の一つは、彼がそうした救国の英雄になるとの期待があったからでした。それで、彼が逮捕されて惨めな姿で裁判にかけられた時、群衆は期待外れだったと背をむけてしまったのでした。他方では、メシアは民族の解放者などというスケールの小さなものではない、全人類的な救い主なのだという理解もありました。そういう理解は旧約聖書の中にあったのですが、ユダヤ民族が置かれた歴史的状況の中ではどうしても民族の解放者という理解に傾きがちでした。しかし、マルタの理解は全人類的な救い主の方を向いていたのです。
マルタの答えのもう一つ驚くべきことは、イエス様が救世主であることを「信じております」と言ったことです。ギリシャ語の原文ではここは現在完了形です。イエス様は「信じるか?」と現在形ピステウエイスで聞きました。それに対してマルタは現在形のピステウオーで答えず、現在完了形のぺピステウカで答えたのです。この時制のチェンジはとても絶妙です。ギリシャ語の現在完了のマルタの答えぺピステウカの意味は「私は過去の時点から今のこの時までずっと信じてきました」です。なので、今イエス様と対話しているうちに悟って信じるようになりました、ではないのです(その場合はアオリストのエピステウサになります)。そうではなくて、ぺピステウカ、ずっと前から今の今までずっと信じてきました、と言うのです。
このからくりがわかると、イエス様の話の導き方が見えてきます。それは私たちにとってもとても大事なことです。マルタは愛する兄を失って悲しみに暮れている、もちろん、将来復活というものが起きて、その時に兄と再会できることはわかってはいた、しかし、愛する肉親を失うというのは、たとえ復活の信仰を持っていても悲しくつらいものです。こんなこと受け入れられない、今すぐ生き返ってほしいと誰でも思うでしょう。復活の日に再会できるなどと言われても、遠い世界の話にしか聞こえません。
ところが、イエス様との対話を通して復活と永遠の命の希望がマルタに戻ったのです。イエス様に「信じているか?」と聞かれて、はい、ずっと信じてきました、今も信じています、と確認でき、見失っていたものを取り戻したのです。兄を失った悲しみは簡単には消えませんが、一度こういうプロセスを経ると希望も一回り大きくなって悲しみのとげの鋭さも鈍くなっていくことでしょう。あとは、復活の日の再会を本当に果たせるように、キリスト信仰者としてイエス様を救い主と信じる信仰と罪の赦しの恵みに留まって生きるだけです。
ここまで来れば、マルタはもうラザロの生き返りを見なくても大丈夫だったかもしれません。それでも、イエス様はラザロを生き返らせました。それは、マルタが信じたからご褒美としてそうしたのではないことは、今まで見て来たことから明らかでしょう。マルタはイエス様との対話を通して信じるようになったのではありません。それまで信じていたものが兄の死で揺らいでしまった、それを確認させられて強めてもらったのでした。そうなれば将来の復活は少なくとも心の中では実現してしまったのも同然です。兄ラザロとの再会が現実味を帯びた瞬間です。イエス様を救い主と信じて罪の赦しの恵みに留まって生きるキリスト信仰者についても同じです。ルターの言葉を借りれば、キリスト信仰者にとって復活はもう半分以上実現しているのです。
イエス様が生き返りの奇跡の業を行ったのは、彼にすれば死など復活の日までの眠りにすぎないことと、彼こそ復活の目覚めをさせる力があること、この2つを人々に前触れ的にわからせるためでした。ヤイロの娘は眠っている、ラザロは眠っている、そう言って生き返らせました。それを目撃した人たちは、ああ、イエス様からすれば死なんて眠りにすぎないんだ、復活の日が来たら、タビタ、クーム!娘よ、起きなさい!ラザロ、出てきなさい!と彼の溌溂とした一声が私にも聞こえて私も起こされるんだ、と誰もが予見したでしょう。
主にあって兄弟姉妹でおられる皆さん!これで、イエス様がラザロの病気は神の栄光のためと言った意味がわかったでしょう。神の栄光とは、ラザロを生き返らせたことよりももっと大きなことを意味したのです。まず、悲しみにくれるマルタとの対話を通して、失われかけていた復活の信仰を確認させて強くしてあげました。そして、生き返らせの奇跡の業を通して、イエス様を信じる者にとってはこの世からの死は眠りにすぎず、その眠りから目覚めさせる力はイエス様が持っていることを人々に具体的にわからせました。これが神の栄光です。このことは、当時の人々だけでなく、全ての時代のイエス様を信じる人々に当てはまりませう。もちろん、私たちにもです。もし、私たちの復活の信仰が揺らぐようなことがあれば、イエス様はマルタにしてあげたように私たちの信仰を確認させて強くして下さいます。マルタの場合はイエス様との対話を通してでしたが、私たちの場合はイエス・キリストについて証言している聖書の御言葉を通してです。以上が神の栄光の全容です。
最後に、本日の個所にまだ2つほど難しいことがあるのでそれを駆け足で見てみます。一つは、イエス様が大勢の人たちが泣いているのを見て「心に憤りを覚えた」というところです。以前の説教でもお教えしましたが、これはギリシャ語原文では「心が動揺した」、「気が動転した」という意味で、英語、ドイツ語、フィンランド語、スウェーデン語の聖書は皆そのように訳しています。イエス様は人々の悲しみを間近に見て、心が動揺して本当に共感して泣いてしまったのです。私たちに死を超える復活と永遠の命を与えることができる途轍もない方は、このように私たちに共感を覚えて下さる方なのです。
もう一つの難しい所は9節と10節です。よし、ラザロのところに行くぞ、とイエス様が言った時、弟子たちは、反対者が待ち構えている所に行くのは危険ですと押しとどめようとしました。それに対してイエス様は言いました。
「日中明るい時間は12時間あるではないか?明るい日中に歩む者は危険な目に遭わない。この世の光を見ているからだ。暗い夜に歩む者は危険な目に遭う。その者の内には光がないからだ。」
分かりそうで分かりにくい言葉です。要は、一日には明るい時間と暗い時間がある、それが危険とどう関係するか考えてみなさい、太陽が照る日中は明るいから転んだりぶつかったりしてケガをしなくてすむが、夜は暗くて危ない、それと同じことだ、君たちが私というこの世の光を目で見て、私も君たちの中にいると言えるくらいに私に結びついていれば、何も危険なことはない、ということです。もちろん、私たちは当時の弟子たちと違ってイエス様を肉眼の目で見ることはできません。それでも、彼を救い主と信じてゴルゴタの十字架と空っぽの墓を心の目で見れれば、イエス様というこの世の光を持てることになり、神の守りのうちに復活と永遠の命というゴールに到達できるということです。ところが、イエス様というこの世の光を持たない者は暗い夜道を歩む者と同じになって危険に晒されてゴールに到達できないのです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
3月の手芸クラブは25日(水)10時~13時に開催します。
今回はかぎ針編みをします。かぎ針編みは昔ながらの手芸テクニックですが、今も広く人気を博しています。今回はモチーフ編みの作品を編みます。モチーフ編みはかぎ針編みの定番で、英語でグラニースクエア(おばあちゃんの四角モチーフ)、フィンランド語でもIsoäidin neliöと呼ばれます。モチーフ編みは余った毛糸を使っても可愛い彩りの作品が出来ます。作品はコースターや鍋敷き、ブランケットや服までと応用範囲が広いのも特徴です。是非ご一緒にモチーフ編みの作品を編んでみませんか?
参加費: 1000円
持参するもの: 作りたい作品に合わせた毛糸や綿糸、それに合わせたかぎ針
手芸クラブでは今回のテーマ以外にもご自分の好きな編み物をすることができます。作りたいものがあれば、是非ご自由にお持ちください。
おしゃべりしながらワイワイ楽しく編みましょう!聖書のお話の時間もあります。
お子さん連れのご参加も大歓迎です!
皆様のご参加をお待ちしています。
お問い合わせ、お申し込み moc.l1774267478iamg@1774267478arumi1774267478hsoy.1774267478iviap1774267478 ℡ 03-6233-7109 www.suomikyoukai.org
覚悟と胆力を養うキリスト信仰その5
ルターによる聖句の説き明かしと共に(フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ」1月2日の日課から)
『私はあなたに感謝します。私に答えて下さり、私の救い主になって下さったあなたに。』 (詩篇118篇21節、フィンランド語訳の聖書に基づく)
『神の大いなる恵みは、まず第一に、み言葉をもって我々の業を裁きにかけ、我々の神聖さ、知恵、力を無にすることに現れる。なぜそういうふうに言えるのかと言うと、それは、我々が罪深さから来る罰に気づくためであり、良心が恐れを抱くためであり、あらゆる心配事が堰を切って押し寄せて来るのに気づくためだからである。神はこのようにして我々をとことんヘリ下させて、我々の自尊心や自己の業績と博識に対する過信を一気に消し去るのだ。このへり下させは、たとえこの世の人生の段階で起きなくとも、どんなに遅くともこの世の人生が終わる時に必ず起こる。この世の人生でこのヘリ下りを何度も経験し耐え抜ける者は、しかも、神は私にとってこれが一番良いことだからそうされるのだとわかって感謝する者は、預言者イザヤの言葉をもって歌うであろう。「主よ、わたしはあなたに感謝します。あなたはわたしに怒りを燃やされたが、その怒りを取り下げ、わたしを慰め励まして下さったからです。」(イザヤ書12章1節、フィンラン語訳の聖書に基づく)
神の大いなる恵みは、第二に、我々を慰め励まして、我々の霊と内なる新しい人が日々成長し、肉と古い人が日々衰退するように助けて下さることに現れる。神は時の進むに応じて我々に一層大きく豊かな賜物を与えて下さり、神を前にしても神と結びついた者として雄々しくしていられ喜びに満ちた勝利者に我々をして下さる。冒頭の詩篇のみ言葉はまさに神の大いなる恵みの両面に与かった者が口ずさみ歌う言葉なのだ。「私はあなたに感謝します。私に答えて下さり、私の救い主になって下さったあなたに。」
見よ、神は我々をヘリ下させて高く上げて下さる、我々を罪びとに定めて義なる者として下さる、我々が敗者になることを許し勝利を与えて下さる、我々が泣かずにいられなくなるようにし喜びに溢れて歌えるようにして下さる、我々を死に引き渡し生きる者にして下さる。』(以上、ルターの説き明かし、吉村がかなり解説的に訳しました。)
私たちはこの世を去る時、業績や博識や財産や名誉には何の力もない、とことんヘリ下った状態になります。神の大いなる恵みに与かる人生はその訓練になると言えます。業績云々がないと言う人には訓練は妬みや卑屈を削ぎ取る意味があると思います。業績云々が大きければ大きい程、訓練は大変かもしれませんが、そこで得られるヘリ下りはこの世を去る時の真の力になるのではないかと思います。
花大根
<28 また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。 29 しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。 マタイ6:28・29>
尾根緑道に花大根の季節がやって来ました。毎年、同じ場所に群れになって咲いています。野菜の大根の花は白い花ですが花大根の方は菫のような紫色ですね。江戸時代に中国からの渡来種ですから比較的新しい野草です。現役で働いていた頃、成城学園前駅が地下ホームになる前は駅の手前は切通しの崖のような斜面でした。その斜面に季節が来ると一面に花大根が咲き春到来を楽しみにしていました。娘もこの花が好きで学生時代は摘んで来ては机に飾っていました、花屋の花よりもこの様な野の花に美しさを感じるのは嬉しいことです
料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。最初は生地作りです。材料を測って順番にボールに入れて小麦粉を加えます。よく捏ねてから柔らかくしたマーガリンを入れて、またよく捏ねて生地は出来上がりです。暖かい場所において一回目の発酵をさせます。
発酵させている間に中身を作ります。ひき肉を炒めて味付けをして冷まします。最後にすりおろしたチーズを加えると「美味しそう」との声が聞こえてきます。生地が大きく膨らんだのでLihapiirakkaの形作りをします。生地を伸ばして丸い型を抜き、生地の上に中身をのせて閉じていきます。
皆さん、一生懸命にLihapiirakkaの形を作って鉄板にどんどん並べていきます。Lihapiirakkaの列が沢山できました。それをオーブンに入れて焼きます。しばらくすると美味しそうな香りが漂ってきました。味わうのが待ち遠しくなります。焼き上がったLihapiirakkaは、最後に溶かしたマーガリンを塗って出来上がりです。
お皿にサラダをきれいに盛りつけてピックルスを添えて焼きたてのLihapiirakkaを味わいました。たちまち、「美味しい!」「美味しい!」と嬉しそうな声があがりました。今回も楽しい歓談の時を持ちました。今キリスト教会は復活祭の前の受難節の季節なのでその過ごし方やお祈りについてお話を聞きました。
今回の料理クラブも無事に終えることができ、天の神さまに感謝です。次回の料理クラブは4月18日に予定しています(ご注意 4月は月の第三土曜日になります)。詳しい案内は教会のホームページをご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。
今日はフィンランドの伝統的なLihapiirakkaを作りました。Lihapiirakkaには様々な種類があり、パイ生地で作る大きいものや小さいもの、そして今日みたいなパン生地で作るものもあります。今日作ったパン生地のLihapiirakka はロシアからフィンランド全国に広がり、1950年頃ファーストフードとしてキオスクでも販売されるようになりました。油で揚げて作るのは伝統的ですが、最近では少し健康的なバージョンとしてオーブンで焼くことも多くなっています。今日もそのタイプのものを作りました。Lihapiirakka はハイキングやお花見など出かける時のお伴にもぴったりで、これからの季節にちょうどよい軽食の一品ではないでしょうか。
今フィンランドでは季節が春に向かて進んでいます。雪が溶けて地面はぐちゃぐちゃで木はまだ枯れているように見えますが、フィンランドの人々はもうすぐ春の花が美しく咲くことを楽しみにしています。この季節になると、フィンランドのカレンダーでは「受難節」という期間に入ります。これはイスター・復活祭に向けた準備の期間です。フィンランド語では、この期間は「断食の期間」と呼ばれます。これは、昔カトリック教会の時代の言い方が今でも残っていることを意味します。もちろんフィンランド人はこの期間に断食をしませんが、それでも普段の食事にちょっと変化をつけることがあります。例えば、肉があまり入ってない料理を食べるとか、甘いお菓子を控えたりすることがあります。このように受難節を通して人々は自分の生活や時間の使い方を見直すことをするのです。しかし、受難節にはもっと深い意味があります。
それは、イースター・復活祭の前の40日の間、イエス様が十字架につけられた苦難を覚えて心の中で思いめぐらす期間であるということです。この期間にイエス様が歩んだ苦難の道について聖書の教えを読んだり聞いたりしながら、心を静めて天の神様にお祈りすることも多くなります。クリスチャンはお祈りする時イエス様がそばにいて聞いて下さることを知っています。
しかし天の神さまにするお祈りとはどのようなものでしょうか?
キリスト教で祈りとは心の中で天の神さまとお話しすることです。聖書の中には決まった形の祈りも教えられていますが、もちろん自分の言葉でお祈りしていいのです。祈りの中で私たちは天の神さまに感謝の言葉を述べたり、困った時に助けをお願いしたりするからです。
新約聖書の「マルコによる福音書」にはバルティマイという盲人の人のお祈りの話があります。それを紹介したいと思います。これはイエス様が弟子たちと一緒にエリコという町に来て、それから出発しようとした時に起こりました。道端には盲人のバルティマイが座っていました。バルティマイはイエス様がそこを通りかかると聞いて、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください。」と叫んで祈りました。多くの人たちは彼を黙らせようとしましたが、彼はもっと大きな声で「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。」と祈りました。その時イエス様はどうされたでしょうか。祈りを聞かずに通り過ぎてしまったでしょうか。いいえ、そうではありませんでした。イエス様は立ち止まってバルティマイを呼び寄せて「何をしてほしいのか」とお聞きになりました。盲人は「先生、目が見えるようになりたいのです」と答えました。イエス様は「行きなさい、あなたの信仰があなたを救った」と言われました。すると、盲人は見えるようになり、イエス様に従っていきました。
私たちはこの盲人の男性と同じような希望がない状態になることがあるかもしれません。このような時、私たちはどうしたら良いでしょうか。そのような時は、私たちもこの盲人と同じようにイエス様にお祈りすることができます。イエス様は私たちのお祈りも聞いて下さり、私たちのところに立ち止まって、尋ねてくださいます。「何をしてほしいのか。」イエス様が私たちが必要なことが全てご存じですが、尋ねることで私が勇気をもって願いや必要なことを自分の言葉で言うようにするのです。
私たちも願うこと困ったことや悩みがいろいろあります。それらをお祈りを通してイエス様に伝えることは、その全てをイエス様の御手に委ねることになります。すぐにお祈りした通りになるかどうかは分かりませんが、イエス様は必ず聞いてくださいます。そして祈ったことの結果や時間はいつもイエス様が決めて下さいます。そのようにイエス様を信頼することができると、私たちの心は軽くなり、静かな平安に満たされます。
このように受難節はイエス様の苦難を心の中で思いめぐらすことと彼を信頼して祈ることを通して心を静めて平安を得る期間です。皆さんの心も静かな平安に満たされますように。
覚悟と胆力を養うキリスト信仰その4 ルターによる聖句の説き明かしと共に(フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ 」2月18日の日課から) 『財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか』 (マルコ10章23節) 『誰も自分の力で救いを勝ち取ることはできない。そうなのは、原罪が我々にもたらした 被害のためなのである。それがゆえに我々の自然の本性は造り主の神よりも造られた被造 物に執着してしまうのだ。 人間には、信頼を寄せ喜びを頂く神がいなければならない。人間は真の神か偽りの神か のいずれかを持つ。我々の自然の本性が、賜物を与える神ではなく、与えられた賜物の方 に執着する時、人間は不可能にもかかわらず自分の力で救いを勝ち取ろうとする。そのよ うな時、神は御手をもって介入する。神は繰り返し人間をヘリ下させて屈服させる。そう するのは、人間が次の真理を口にすることができるようになるためなのだ。「私には神が 与えて下さった多くの贈り物がある。しかし、そこからのみ喜びを見出そうとする位に愛 しいものにしてはならない。私はそれらを神がお認めになる間だけ用いることにしよう。 一つには神の栄誉のため、二つには自分の必要のため、三つには隣人の役に立つために。 もし神が贈り物を与えることをやめると言われれば、私は失うことから生じる困難や恥を 耐え忍ぼう。私にとっては、贈り物を与える神を失うよりも贈り物を失うことの方が良い からだ。」 我々をこのような心意気にするために神は全てを手中に収め、替わりに我々に御言葉を お与えになる。与えられた御言葉を通して聖霊が働き、我々を古いものから新しいものへ と変えるために。そうでなければ、救いも何も全てが失われるであろう。』 (以上ルタ ーの説き明かし、吉村がかなり解説的に訳しました)
「神のみことばは かたく世に立ちて み霊とたまもの わがうちに溢る。 わがいのちも わが妻子も 取らばとりね、神の国は なおわれのものぞ。」
ルターの作詞作曲による讃美歌から 教会讃美歌450番4節