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2024年10月22日(日)聖霊降臨後第二十二主日 説教 吉村博明 牧師

主日礼拝説教 2024年10月20日 聖霊降臨後第22主日

イザヤ53章4-12節

ヘブライ5章1-10節

マルコ10章35-45節

説教題 「贖いと償い」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

イエス様の弟子のヤコブとヨハネがイエス様に聞きました。「栄光をお受けになる時、私どもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」つまり、あなたが栄光の王座についたら私たちを右大臣、左大臣にして下さいとお願いしたのです。この抜け駆けに他の弟子たちが憤慨し、それをイエス様が諫めて言います。偉くなりたい者は皆に仕える者になれ、いちばん上になりたい者は全ての人の僕になれ(ギリシャ語のδουλοςは「奴隷」の意味もあります)になれ、と。これを読んだ人の多くは、ああ、イエスは人のために尽くす人こそ偉い人なんだと教えているんだな、地位の高い人は謙虚になれと教えているんだな、と思うでしょう。(日本は今衆院選の真っ最中です。候補者に聞かせてやりたいと思う人もいるでしょう。実はこの個所はちょうど3年前の10月にもありました。その時も衆院選がありました。天のみ神はよほどこの聖句を国権の最高機関を目指す人たちに知らしめたいのでしょう。)

 しかしながら、人のために尽くすことが偉いとか、地位の高い人は謙虚たれという教え自体は別にキリスト教でなくても、他の宗教でもまたは無宗教の人にも見られる道徳です。イエス様はそういう一般的な道徳を教えるためにわざわざこの世に来られたのではありませんでした。それでは、なんのために来られたのか?答えは本日の個所の最後にあります。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来たのである。」イエス様が自分の命を身代金として捧げるというのはどういうことか?確かにイエス様はゴルゴタの十字架で死なれましたが、それが身代金を払う行為であり人に仕えることだというのは、どういうことなのでしょうか?今日はこのことを明らかにしていこうと思います。

2.メシアと王国

まず、ヤコブとヨハネがイエス様に大臣にして下さいとお願いする直前に何があったか見てみます。イエス様はエルサレムで起こる自分の受難と死そして死からの復活について予告しました。予告は本日の日課にはありませんが、この直ぐ後で二人は閣僚ポストを要求したのです。二人はイエス様の予告を聞いて、いよいよイエス様を王に戴く神の国が実現すると直感したのでした。それでは、イエス様の死と復活が神の国の到来とどう関係するのでしょうか?3年前の説教でお教えしたことですが、駆け足で復習します。

 イエス様が地上で活動された時代のユダヤ教社会では、民族の将来について次のような期待が抱かれていました。かつてのダビデのような王が現れて、ダビデ家系の王がみなそうだったように油を注がれて聖別された王になる。メシアとはもともとは聖別の油を注がれた者を意味しました。その新しい王メシアがユダヤ民族を支配しているローマ帝国を打ち破って王国を再興してくれる、そして諸国に大号令をかけて従わせる、こうして世界に神の国イスラエルを中心とする平和を実現させる、そういう壮大な期待です。そのような期待が抱かれたのは、旧約聖書にそのことを預言しているとみられる箇所がいろいろあるからです。例えばミカ書5章には、ベツレヘムからユダ族出身の支配者が現れて外国勢力を打ち破るという預言があります。イザヤ書11章には、ダビデ家系の子孫が現れて天地創造の神の意思に基づく秩序を世界に打ち立てるという預言、同じイザヤ書2章には、世界の諸国民が神を崇拝しにこぞってエルサレムにやってくるという預言があります。

 これらの預言をみれば、将来ダビデ家系から偉大な王が現れて外国勢力を追い払って王国を復興し、世界に大号令をかけるという期待が生まれたとしても不思議ではありません。ところで、このようなダビデ家系の王が王国を復興するという考えは、現世に実現するものです。王も現世的な王です。ところが、当時のユダヤ教社会には、メシアや王国についてもっと違った考えもありました。それは、今あるこの世はいつか終わりを告げる、その時、今ある天と地は創造主の神が新しい天と地に再創造する、その時、今存在するものは崩れ去り、ただ一つ崩れ去らない神の国が現れる。まさにこの天地大変動の時に死者の復活が起こり、創造主の神に義とされた者は神の国に迎え入れられる、というこれまた壮大な考えです。この一連の大変動の時に神の手足となって指導的な役割を果たすのがメシアでした。現世的なメシアと王国復興の考えとは異なる、終末論的なメシアと神の国の考えです。このような考えを示す書物が、紀元前2,3世紀からイエス様の時代にかけてのユダヤ教社会に多数現れました(例として、エノク書、モーセの遺言、ソロモンの詩編があげられます。さらに死海文書の中にも同じような考え方が見られます)。

 どうしてそういう終末論的な考えがあったかというと、実はこれも旧約聖書にそういうことを預言している箇所があるからです。今ある天と地が新しい天と地にとってかわられるというのは、イザヤ書65章、66章にあります。死者の復活と神の国への迎え入れについてはダニエル書12章、今の世の終わりの時に指導的な役割を果たす者が現れるということはダニエル書7章にあります。この考えに立つと、それまで現世的な王が現世的な王国を復興すると言っているように見えた旧約聖書の預言は、実は次に到来する世の出来事を意味するというふうに理解が組み替えられていきます。終末論的なメシアや神の国の考えからすれば、現世的なメシアや王国復興の考えはまだ旧約聖書の預言をしっかり読み込めていないことになります。

 こうしてみるとヤコブとヨハネはイエス様の死と復活の預言を聞いて神の国の到来を直感したので、終末論的な神の国の考えを持っていたと言えます。しかし、彼らのメシアと神の国の理解はまだ正確ではありませんでした。彼らは神の国は死者の復活に関係があるとわかってはいても、その国は現世の国のように位の高い者と低い者の序列があると思ったようです。それで自分たちを大臣にして下さいとお願いしたのでした。イエス様は、神の国はそういうものではないと教えます。お前たちの間で偉大な者になりたい者は互いに仕える者になれ、お前たちの間でいちばん上になりたい者は全ての人の僕(奴隷)になれ、と。そして、大事な言葉が続きます。「人の子は仕えられるために来たのではなく、仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来たのである。」イエス様が多くの人の身代金として自分の命を捧げるというのはどういうことか、次に見てみましょう。

3.償いと贖い

身代金とは、誘拐事件や人質事件のような忌まわしい事件が起こった時に、捕らわれた人を解放するために犯人に渡すお金を意味します。イエス様が多くの人のために自分の命を身代金として捧げたというのは、人が捕らわれた状態にあったので、そこから解放するために捧げたということです。では人は何に捕らわれた状態にあっだのでしょうか?そこから解放されたらどんな状態になるのでしょうか?

 まさのこのことについて明らかにするのが聖書です。人間は罪に捕らわれた状態にあると聖書は教えます。罪と言うと、普通は何か犯罪を犯すことを考えます。何も犯罪を犯していないのに、キリスト教は人間のことを罪びと罪びとと言うので嫌がられます。しかし、聖書でいう罪とは、神の意思に反しようとする、人間誰もが持ってしまっている性向を意味します。十戒の中に「汝殺すなかれ」という掟があります。イエス様が教えたように、実際に人を殺さなくても、心の中で相手を憎んだら同罪なのです。人を傷つけることを行いや言葉に出してしまうことだけでなく、心の中でそのような思いを持つことも神の意思に反するのです。このように十戒の掟は、外見上守れたら神に認められるというものではなく、人間が内面的にも神の意思に反する存在であることを暴露する鏡なのです。

 人間はこのような神の意思に反するものを堕罪の時に持つようになってしまいました。そのため、神との結びつきを失ってこの世を生きなければならなくなってしまいました。この世から別れる時も神との結びつきがないまま別れなければなりません。神はこの不幸な状態から人間を救い出そうとして、御許からひとり子をこの世に送られたのです。このひとり子イエス様に人間の全ての罪を背負わせてゴルゴタの十字架の上に運び上げさせて、そこで罪の罰を受けさせたのです。それは人間が神罰を受けないで済むようにする犠牲の死でした。イエス様は人間に代わって神に対して罪を償って下さったのです。それだけではありません。神は一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させて、死を超えた永遠の命があることをこの世に示されたました。

 そこで人間はこれらのことは自分のためになされたとわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、イエス様が果たして下さった罪の償いを自分のものにすることができます。神のひとり子の犠牲を本当のものとして受け入れたので、神は、わが子イエスの犠牲に免じてお前を赦そう、と仰るのです。こうして神から罪を赦された者は神との結びつきを持てるようになります。そして、永遠の命と復活の体を与えられる復活の日に至る道に置かれ、その道を進むようになります。この道の歩みはいつもバラ色とは限りません。波風猛る時もあります。しかし、神からの罪の赦しで築かれた神との結びつきはどんな時にも波風の時も全く変わらずにあります。この世から別れる時も結びつきを持ったままった別れられ、復活の日が来ると目覚めさせられて復活の体を着せられて永遠に神の国に迎え入れられます。

 ところで、神との結びつきを持てるようになる前の人間は、罪と結びついていたので罪の支配下にありました。それをそのままにしておくと、人間はこの世から別れる時、神との結びつきはなく、復活も神の国への迎え入れもなくなってしまいます。イエス様の犠牲の死は、文字通り人間を罪の支配から解放して神との結びつきに入れるようにする救いの業でした。だから、イエス様が捧げた命は人間を罪の支配から解放する身代金だったのです。神と結びつきを持って生きられるようになったというのは、神のひとり子の命を代価として罪の支配から神のもとに買い戻されたということです。この犠牲を伴う「買い戻し

のことを、宗教的な言葉で「贖う」と言います。イエス様はこの私を罪の支配から神のもとへと贖って下さった。「贖う

の代わりに、イエス様は自分の命を代償として私を神のもとへ買い戻して下さった、と言っても同じです。ただし、「罪を贖う」と言わないように注意しましょう。贖うのは人間です。神が人間を罪から贖う、買い戻すのです。反対に、罪は償うものです。人間を贖うのに、罪を贖うと言ったら、神は罪を買い戻すことになってしまいます。神は罪なんか買い戻したくありません。買い戻したいのは人間です。

 人間はイエス様を救い主と信じる信仰と洗礼によって神に贖われた者、罪の支配から解放された者になります。そうするとキリスト信仰者は罪のない無つみの者になったのかというとそうではありません。信仰者になっても、神の意思に反するものが自分に残っていることに何度も気づかされます。それじゃ、キリスト信仰者になっても何の意味もないじゃないかと言われるかもしれません。しかし、そうではないのです。神聖な神のひとり子の尊い犠牲をもって罪を償ってもらったので、今度は罪に背を向けて生きるようになります。罪は忌まわしいもので間違っているとわかり、それに迎合しないように生きようとします。自分の内に神の意思に反するものが出てきてしまったら、慌てずに心の目をゴルゴタの十字架に向け、そこに罪の赦しが打ち立てられていることを確認します。神聖なひとり子の犠牲の上に今の自分があるとわかれば、もう軽率なこと愚かなことはすまいと心の襟を正します。これがパウロがローマ8章で言う、聖霊の力で肉の業を日々死なせるということです。まさに霊的な戦いです。そして、かの日に神の御前に立たされる時、神は私たちが罪の赦しという神のお恵みに留まって生きていたことを認めて義とされ、御国に迎え入れて下さるのです。私たちが完全に無つみになれたから義とされるのではありません。無つみに向かう道を恵みに留まって踏み外さずに歩んだことを義とされるのです。

4.勧めと励まし

終わりに、仕える者になれというイエス様の命令についてひと言。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた段階で人は復活と神の国に至る道に置かれて今それを歩んでいます。その道を歩む者はお互いに仕え合うようにして歩まなければならないということです。ルターは、神の国への迎え入れに至る道を旅路に例えて、信仰者はみな旅路の途上にあると言います。ある者は先にいて別の者は後ろにいる。歩みが早かろうが遅かろうが問題はない、ただ私たちが歩む意思を捨てずに進んでいれば神は満足される、そして復活の日に主が私たちの信仰と愛に欠けていたところを一気に満たして瞬く間に私たちを永遠の命を持って生きるものに変えて下さると教えます。

 この旅路において、ルターは、いつもお互いの重荷を背負いあわなければならないと教えます。それは、イエス様が私たちの罪の重荷を背負って下さったことから明らかなように、信仰者は誰一人として完全な者はいないのであり、それだからこそ背負い合わなければならないのだと。

 信仰者がお互いの重荷を背負い合うというのは、神の国に向かう道をしっかり歩めるように助け合い支えあうということです。物心両面でそうすることです。物質的な問題のために歩みが難しくなるのなら、それを支援する、心の面で難しくなるのなら、それも支援します。それともう一つ、お互いの弱点や欠点という重荷を背負い合うこともあります。あの人はなぜあんなことを言ったのか、人の気も知らないで!とならない。きっと不注意とか言葉足らずだったのだろう、人間的な弱さだろう、それはこの自分にもある、だから本気で私の全てをそう決めつけたのではないのだ、そういうふうに考えてそれ以上には進まないことです。ルターは、不和や仲たがいの火花にペッと唾を吐きかけて消しなさいと教えます。さもないと大量の水をもってしても消せない大火になってしまうと。水ではなく唾を吐いて消せというのが決まっています。それ位、イエス様に背負ってもらっておきながら他人の欠点や弱点に目を奪われることは軽蔑すべきことだということです。

 以上申し上げたことは、キリスト信仰者が神の国への道を歩めるようにお互いに仕え合い、重荷を背負い合うということでした。そのように言うと、じゃ、相手が信仰者でなかったら仕え合い背負い合いは関係ないのか、同じ道を歩いていないのだから、という疑問が起こるかもしれません。それについては、神の望まれることはなんであったかを思い起こせば答えは明らかです。神は全ての人が神との結びつきを持てて神の国への迎え入れの道を歩めるようにとひとり子を贈られたのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

聖餐式

スオミ教会 手芸クラブのご案内

次回の手芸クラブは10月30日(水)10時~13時に開催します。

前回に続いてフィンガーレス手袋(フィンランド語でカンメッカートKämmekkäät)を編みます。今回初めての方も編み方をお教えしますので大丈夫です!

今から始めても冬の準備には遅すぎません。

おしゃべりしながら楽しく作りましょう!

参加費: 1000円

材料 毛糸 60g、編み棒(毛糸に合わせる)

好みの色の毛糸と編み棒をご持参ください。

お子さん連れの参加も大歓迎です!

皆様のご参加をお待ちしています。

お問い合わせ、お申し込み

℡ 03-6233-7109

スオミ・キリスト教会 東京都新宿区鶴巻町511-4―106
www.suomikyoukai.org

料理クラブの報告

秋の最初のフィンランド家庭料理クラブを10月19日に開催しました。10月後半のこの日も夏のように暑い日となりました。今回はフィンランドの家庭でもよく作られるベリーのケーキです。

料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。今回ケーキに入れるベリーは冷凍のベリーミックスを使いました。初めにベリーを少し細かく刻んでまた冷凍に入れておきます。次にケーキのトッピングの生地を作って冷やします。それからケーキの生地の準備。材料を計って卵と砂糖をハンドミキサーで泡立てます。白く泡立ったら他の材料を加えて生地を作り、それをパイ皿に流し込みます。刻んだ冷凍ベリーを生地の上全体にかけていきます。「色とりどりできれい!」との声が聞こえてきます。最後にトッピング用の生地をベリーの上にのせてオーブンに入れて焼きます。

ケーキが焼けている間に一休み。楽しそうな会話が教会中に広がる時になりました。もちろん美味しそうなケーキの香りも。

ケーキは焼き上がってからしばらく冷まします。その間にテーブルのセッティング。みんなで席に着き、出来たてのベリーのケーキにバニラアイスを添えて、コーヒー・紅茶と一緒に味わいながら歓談の時を持ちました。この時フィンランドのベリーと聖書が教える神さまの恵みについてのお話を聴きました。

今回の料理クラブも無事に終えることができて天の神様に感謝します。次回は11月9日の予定です。詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。

 

料理クラブの話  2024年10月19日

今日皆さんと一緒に作ったベリーのケーキはフィンランドの家庭でもよく作られるケーキの一つです。フィンランドでは夏や秋に新鮮なベリーを森で採ったり、朝市で買ったりしてベリーのケーキを作るのは家族みんなの楽しみです。フィンランドの森ではブルーベリー、リンゴンベリー、グランベリー、クラウドベリーなどのベリーはだれでも自由に採ることが出来ます。それで多くのフィンランド人はベリーを沢山採って冷凍したり、ジャムを作ったりしてベリーのケーキやデザートは冬でも作って味わうことが出来ます。

最近フィンランドではスーパーフードという言葉をよく耳にします。スーパーフードとは何でしょうか?これはビタミンやミネラルや繊維質などの栄養が特別に豊かな食料品を意味します。スーパーマーケットにはスーパーフードのコーナーもあります。特にフィンランドのベリーはビタミン、ミネラル、繊維、フラボノイドなどが沢山含まれているので、ベリーはフィンランドのスーパーフードと言われます。べリーは2デシリットルを食べると、一日分のビタミンCとミネラルをとることが出来ます。もちろんベリーが含んでいるビタミンとミネラルはベリーの種類によって変わります。例えば海岸に生えるシーバックソーンというベリーはビタミンCがとても豊富です。ブルーベリーはビタミンCをあまり多く含みませんが、目に良い影響があると言われていています。最近ベリーの栄養や健康への良い影響が注目されているので、フィンランド人はベリーを沢山食べるようになりました。

フィンランド人はベリーを採る国民と言われます。フィンランドの東にある町ではベリーを採る世界選手権も行われるようになりました。この行事は少し遊びの競争ですが、フィンランドの全国や海外からも選手が参加します。ある男性の選手は一時間で70リットルもとる人で、もう何回も優勝しました。

ベリーを採るのはかつては中年の女性の趣味でしたが、現在は若者もベリーの栄養性の価値を分かって採るようになりました。ベリーを採る習慣は世代から世代へ伝わっていきますので、これからもフィンランド人はベリーを採る国民と言われるでしょう。

フィンランドで食べられるベリーの種類は多くて37種類もあります。森で一番多く採れるベリーはブルーベリーとリンゴンベリーです。今年の夏はベリーが育つのに良い気候だったので収穫は良かったです。今年は私たちは森に採りに行けなかったですが、イチゴ狩りに行ったり友達からブルーベリーを沢山もらったのでベリーのケーキを何回も作りました。

フィンランドの森は私有地の森でも、ベリーを自由にとることが出来ます。それでフィンランドではベリーを沢山採るのは、だれにとっても当たり前のように感じられます。しかし、少し考えてみると、これは奇跡のようにも感じられます。私たちは自分で種を蒔いたり水や肥料をあげなくても、こんなに美味しくて、しかも健康に良い食べ物が沢山得ることが出来るからです。ブルーベリーの実も他の自然の豊かな実りもみな、天と地と自然全てを造られた神様が私たちに与えてくださる恵みです。天の神さまの恵みはこのように造られた自然を通して具体的な形をとって私たちに与えられます。今年は神さまはベリーが育つために十分な雨や陽の光を与えて下さったので、美味しいベリーが沢山できたのです。私たちはこのように神さまの私たちに対する恵みを周りに見ることが出来るのです。

天の神さまは恵みの素晴らしさを自然だけでなく聖書を通しても私たちに教えて下さいます。旧約聖書の詩編には「主は憐み深く、恵みに富み忍耐強く、慈しみは大きい。」詩編103篇8節。神さまの恵みは自然の中で現れて私たちに美味しくて栄養豊かなベリーを与えて下さいます。私たちは神さまの恵みの素晴らしさをもっと知ることが出来るでしょうか?聖書はこのことを教えます。神さまの恵みは私たち一人一人に向けられています。

私たち人間は神さまの御前で正しい者とは言えず、神さまの御前で相応しいことだけをする者でもありません。しかし神さまはこのような私たちを慈愛に満ちた父親のように愛して下さいます。慈愛に満ちた父親は、子どもが言うことを聞かなくても、後で後悔して「ごめんなさい」と言うと赦してくれます。天の神さまは私たちも同じように赦して下さるので私たちは神さまの目に相応しい者にしていただきます。これは神さまがイエス様を通して与えて下さった救いです。このように神さまの素晴らしい救いの恵みはイエス様に現れているのです。私たちはイエス様を信じると救いの恵みを頂けるのです。

今日はケーキのベリーから神さまが与えて下さる自然の恵みを味わって体の栄養にしました。聖書のみ言葉の恵みは心で受け取ると魂の栄養になることも忘れないようにしましょう。

牧師の週報コラム 

なぜ日本では牧師は「先生」なのか?

昔、フィンランド留学中に現地のキリスト教会(ルター派)で聖書の学びと洗礼を受けて日本に帰国する時、教会関係者から東京にあるルーテルO教会を紹介してもらった。 帰国後、早速電話すると事務の方が応対。「牧師のKさんをお願いします。」相手は少し間をおいて「牧師のK先生ですね。少しお待ち下さい。」 思わず、エーッ、日本では牧師は「先生」と呼ばないといけないのか!フィンランドでは牧師と信徒はファーストネームで呼び捨て。その東京の教会にはSLEYの牧師も宣教師として働いていて、彼とフィンランド語で話す時は、「おい、ペッカ」、「なんだ、ヒロアキ」だが、周りの人も一緒に日本語で話すと、「あの、フフティネン先生」、「なんですか、吉村さん」と全く別人格の世界を行ったり来たりするようであった。

牧師を「先生」と呼ぶのは、聖書を教えるからか?日本の神学校では牧師養成の課程を「教職」課程と呼ぶところもある。しかし、それだけではなさそうだ。14年前、SLEYの宣教師として日本に来た時、日本の協力教団(当時)のお偉方と初の顔合わせの会合の席、私の仕事の内容の打合せが始まり、最初の議題はなんと私を「先生」と呼んでいいのかどうか(当時はまだ牧師の按手を受けていなかった)。だめだ!だめだ!牧師でもない者を先生呼ばわりするのは認められない、と剣幕の人もいれば、「でもフィンランドの大学の神学部で博士号を取ったと言っているから、聖書くらい教えられるでしょ。」「でも、牧師でなければダメ!」と結局コンセンサスは得られず、その教団の中では暫く先生という人もいれば、さんづけの人もいた(次第に先生に統一されていったが)。

牧師を「先生」と呼ぶ理由として聖書を教えること以外に何があるか考えてみた。洗礼や聖餐式の聖礼典を執行するという牧師の職責、また結婚式や葬式のような宗教的な儀式も。しかし、住職や神主は「先生」と呼ばれるだろうか?それから、教会を一つにまとめ、信徒一人ひとりの信仰を御言葉と聖礼典を通して支えると共に、見舞ったり話を聞いたりお祈りしたりして支える牧会者としての役割。しかし、教会の頭はあくまでキリスト。その前には牧会者も信徒同様、一弟子にしかすぎない。

先日チャーチカフェで、私のことを昔から知っているT氏が私のことを吉村牧師と言ったり、昔ながらに吉村さんと言ったりした。彼は上記O教会の信徒。自分の教会の牧師は先生と呼んでいると思うが、昔から知っている吉村さんを吉村先生に変更すると、今まで同列にいたのが上下の序列になってしまうようで何か変、今まで通りがいい、でも牧師であることははっきりさせたい、ということなのだろうか。私はそれで良いと思った。フィンランドで例えば同じ人が「Aさん、牧師が呼んでいるよ」と言う時もあれば、「Aさん、ペッカが呼んでいるよ」と言う時もある。それに似ているのではないかとも思った。

歳時記

ホトトギス

28 また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。29  しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。 マタイ62829

路傍の花壇にホトトギスが咲いていました、ユリ科のこの花は殆どが日本固有種です。一見地味な花ですがよく見ると小紋交じりの味わいの深い色をしています。江戸時代の町民文化に粋と言う言葉があります、奢侈禁止令により着物に関して庶民が身につけられるものには、柄や色、生地まで細かく厳しい規制がされおり、生地素材は「麻」「綿」、色は「茶色」「鼠色」「藍色」のみと限定されていました。しかし、「他の人とは違うものを着たい」という欲求は今も昔も変わず、色の中に微妙な色調を生みだし楽しむ日本人ならではの美意識から「四十八茶百鼠」などの落ち着いた渋い色がたくさん生まれました。一見地味に見えながらもよく見るとおしゃれと言うのが江戸文化の粋でした、ホトトギスはそんな粋の感じがする花だと思います。

2024年10月13日(日)聖霊降臨後第二十一主日 主日礼拝 説教 吉村博明 牧師

主日礼拝説教2024年10月13日 聖霊降臨後第21主日

アモス5章6-7,10-15節
ヘブライ4章12―16節
マルコ10章17-31節

説教題 「永遠なるものを前にしての人間の無力さ、しかし、神が道を開いて下さる」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

本日の福音書の個所のイエス様の教えには難しいことが二つあります。一つは、金持ちが神の国に入れるのは駱駝が針の穴を通り抜けるよりも難しいと言っていることです。ああ、イエス様は、金持ちは神の国に入ることはできない、と言っているんだな、と。じゃ、貧乏人ならできるのかと言うと、そうでもないことが弟子たちの反応からうかがえます。金持ちが神の国に入るのは駱駝が針の穴を通り抜けるより難しいのだったら、いったい誰が救われるのだろうか?と。つまり、金持ちでさえダメなんだからみんな無理だという反応です。しかし、イエス様は人間には不可能でも神には不可能ではないと言われます。ということは、神の国に入れることを神が可能にしてくれるということです。神はどのようにそうするのか?後ほど見ていきます。

 もう一つの難しい教えは、イエス様が親兄弟家財を捨てないと永遠の命を持てないぞと言っているように見えることです。なんだか危ない宗教団体のように聞こえます。それだけではありません。十戒の第四の掟「汝、父母を敬え」はどうなるのか?家財はともかく親兄弟を捨てよなどとは「父母を敬え」に反するのではないか?しかし、イエス様の教えには反社会的なことも矛盾もないのです。このことも後ほど見ていきましょう。

2.「神の国」、「永遠の命」について

まず、「神の国」とか「永遠の命」とは何かを確認しなければなりません。意味をあいまいにしたまま話をするととんでもない方向に話は行ってしまいます。最近のキリスト教会では、「神の国」や「永遠の命」は将来本当に起こることではなく、キリスト信仰者が心の中で描く像のようなものだ、とか、この世の何か大切なものを象徴して言っているだけだ、などと教えるところもあります。しかし、このスオミ教会で私はイエス様やパウロが教える通りに、将来本当に起こることとして教えていきますので、ご了承ください。

 男の人は、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるのか?と聞きました。「永遠の命」と聞くと、普通は死なないこと、不死を思い浮かべます。この世で何百歳、何千歳になっても死なないで生き続けることです。ところが、聖書で言われる「永遠の命」は不死とは違います。なぜなら、それは一度この世で死ぬことを前提としているからです。だから、不死ではないのです。キリスト信仰では、いつか将来今のこの世が終わって新しい天と地が再創造される日が来る、その時すでに死んで眠りについていた人たちが起こされて、神から義(よし)と見なされた者は復活の体という、神の栄光を映し出す体を着せられて創造主の神の御許に永遠に迎え入れられる、そういう復活の信仰があります。このように復活を遂げて神の御許に迎え入れられて永遠に生きる命が「永遠の命」です。

 復活した者たちが迎え入れられる神の御許が「神の国」です。そこはどんなところかは聖書に言われています。まず、盛大な結婚式の祝宴に例えられます(黙示録19章、マタイ22章、ルカ14章)。これは、この世の労苦が完全に労われるところということです。また、「全ての涙が拭われる」ところとも言われます(黙示録21章4節、7章17節、イザヤ25章8節)。「全て」ですから、痛みの涙も無念の涙も全部含まれます。この世で被った不正義や悪が神の手で完全かつ最終的に清算されるところです(ローマ12章19節、イザヤ35章4節、箴言25章21節)。もう復讐心に引き回される苦しみも泣き寝入りの辛さも遠い世界になるところです。さらに、フィンランドの教会の葬儀ではいつも「復活の日の再会の希望」が言われます。つまり、「神の国」は懐かしい人たちとの再会の場所であるということです。

 復活した者たちが迎え入れられるところをキリスト教では「神の国」とか「天の御国」とか「天国」と言います。そういうわけで、永遠の命を受け継ぐいうのは復活させられて永遠に「神の国」に迎え入れられることです。

3.永遠の命は人間の力や努力で獲得できるものではない

さて男の人は、永遠の命を受け継ぐには何をすべきかと聞きました。男の人はお金持ちだったので、永遠の命も何か正当な権利があれば所有できる財産か遺産のように考えたのでしょう。何をしたらその権利を取得できるのか?十戒の掟も若い時からしっかり守ってきました、もし他にすべきことがあれば、おっしゃって下さい、それも守ってみせます、と迫ったのです。これに対してイエス様はとんでもない冷や水を浴びせかけました。「お前には欠けているものがひとつある。所有する全ての物を売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすればお前は天国に宝を持つことになる/持つことができる(εξεις未来形)。それから私に従って来なさい」と。「天国に宝を持つ」とは、まさに永遠の命をもって神の国に迎え入れられることを意味します。地上の富と対比させるために永遠の命を天国の宝と言ったのでした。

 男の人は悲しみに打ちひしがれて退場します。永遠の命という天国の宝を取るか、それとも地上の富を取るかの選択に追い込まれてしまいました。一見するとこれは、人間というのは天国の宝という目に見えないものよりも目に見え手にすることができる地上の富に心が傾いてしまうものだ、という宗教・文化を問わずどこにでもありそうな教訓話に聞こえます。しかし、ここにはキリスト信仰ならではのもっと深い意味があります。それを見てみましょう。

 まず、この男の人は私利私欲で富を蓄えた人ではありませんでした。イエス様のもとに走り寄ってきて跪きました。息をハァハァさせている様子が目に浮かびます。永遠の命を受け継げるために何をしなければならないのですか、本当に知りたいのです、と真剣そのものです。イエス様に十戒のことを言われると、若い時から守っています、と。これは、自分が非の打ちどころのない人間であると誇示しているというよりは、自分は若い時から神の意思を何よりも重んじて、それに従って生きてきました、という信仰の証しです。イエス様もそれを理解しました。新共同訳には「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた」と書いてあります。「慈しんで」というのはギリシャ語の原文では「愛した(ηγαπησεν)」です。イエス様がその男の人を「愛した」とは、その人の十戒を大事に思う心、神の意思を重んじる心が偽りのないものとわかって、それで、その人が永遠の命を得られるようにしてあげたいと思ったということです。ところが同時に、その人が永遠の命を得られない大きな妨げがあることも知っていました。その妨げを取り除くことは、その人にとって大きな試練になる。その人はきっと苦悩するであろう。イエス様は、そうしたことを全てお見通しだったのです。愛の鞭がもたらす痛みをわかっていました。そして愛の鞭を与えたのです。

 それでは、この男の人の問題は一体なんだったのでしょうか?それは、神の掟を守りながら財産を築き上げたという経歴があったため、なんでも自分の力で達成・獲得できると思うようになり、永遠の命も財産と同じように自分の力で獲得できるものになってしまったということです。神の意思に従って生きて成功した人は往々にして、自分の成功はそうした生き方に対する神からのご褒美とか祝福と考えるようになることがあります。それで弟子たちが驚きの声をあげたことも理解できます。神から祝福を受けて繁栄した人が神の国に入れるのは駱駝の針の穴の通り抜けよりも難しいと言うのならば、それほど祝福を受けていない人はどうなってしまうのか?駱駝どころかディノザウルスが針の穴を通るよりも難しくなってしまうのではないか?財産を売り払ってしまいなさいというイエス様の命令は、今まで神の祝福の現れと思われていた財産が永遠の命に直結しないことを思い知らせるショック療法でした。永遠の命は、人間の力や努力で獲得できるものではないということを金持ちにも弟子たちにも思い知らせたのでした。

4.「永遠の命」の受け継ぎと「神の国」への迎え入れは神が可能にした

それでは、永遠の命を得て神の国に迎え入れられるのはどうやって可能でしょうか?イエス様は言われます。人間には不可能だが神には不可能ではない、と。つまり、人間の力で出来ないのなら、神が出来るようにしてあげようということです。どのようにして出来るようにするのでしょうか?

 神はそれをイエス様の十字架と復活の業をもって出来るようにしました。人間が持ってしまっている神の意志に反しようとする性向、すなわち罪が人間の神の国への迎え入れを不可能にしている、その罪の壁を打ち破るためにイエス様は身を投じたのです!それがゴルゴタの十字架の出来事でした。イエス様は自分を犠牲にして神の怒りと神罰を人間の代わりに受けて、人間が受けないで済むようにして下さったのです。人間は、イエス様の身代わりの死は自分のためになされたとわかって、それでイエス様は救い主だと信じて洗礼を受けるとイエス様が果たしてくれた罪の償いがその通りになります。罪を償われたら神から罪を赦された者として見なされるようになります。神から罪を赦してもらったから、神との結びつきを持ってこの世を生きられるようになります。罪の赦しという神のお恵みの中にとどまっている限り、この結びつきはなくなりません。結びつきがあるおかげで逆境の時も順境の時も全く変わらない神の守りと導きを受けて生きることができます。この世から別れることになっても復活の日に目覚めさせられて、復活したイエス様と同じように神の栄光に輝く復活の体を着せられて神の国に迎え入れられます。この大いなる救いは人間が成し遂げるものではなく、神がひとり子を用いて人間のために成し遂げたものです。人間はただそれを信じて受け取るだけでいいのです。そういうわけで、人間の力では不可能だった「永遠の命」の受け継ぎと「神の国」への迎え入れは、神の力で可能になったのです。本当に神にしか出来ないことでした。だからイエス様は、神が唯一の善い方であると言われたのです。

5.キリスト信仰は親兄弟家財を心で捨てている

しかしながら、この時はまだイエス様の十字架と復活の出来事は起きていません。なので、人間には不可能でも神には不可能でないと言われても、まだ理解できません。ペトロの言葉はまだ理解できていないことを示しています。イエス様、あなたは金持ちの男に対して、全てを捨てて貧しい人に施せば永遠の命を得られると言われました。その人は捨てられませんでしたが、私たちは全てを捨ててあなたに従ってきました。それならば、私たちは永遠の命を得られるのでしょうか?という具合です。これに対してイエス様は、私のため福音のために親兄弟家財を捨てる者は永遠の命を得ると言ったことになっています(新共同訳では)。これだと、ペトロたちは得られると言っていることになります。しかし、それだと永遠の命も結局は、人間がエイヤー!と気合を入れて親兄弟家財を捨てたら得られるものになってしまいます。人間の力が決め手になってしまいます。これでは人間に不可能なことではなくなってしまいます。話が滅茶苦茶になります。

 この混乱は問題の個所のギリシャ語の原文が少し複雑なために起きます。二重否定があったりして少し厄介な原文ですが、素直に訳すと次のような流れになります。ペトロが、私たちは全てを捨ててイエス様に従いました、私たちは永遠の命は大丈夫でしょうか?と聞きます。それに対してイエス様は次のように答えたのです。「もしこの世で捨てたものを100倍にできず、次の世で永遠の命も得られないのなら、この世で私と福音のために親兄弟家財を捨てたことにならない。」つまり、もしこの世で捨てたものを100倍にできて、次の世で永遠の命も得られるのなら、この世で親兄弟家財を捨てることになる、というのです。この世で100倍のものを得て次の世で永遠の命を得ることが先で、その次に親兄弟家財を捨てることが来るというのです。普通は逆に考えます。親兄弟家族を捨てたら100と永遠の命が来ると。ご褒美だからです。しかし、原文の素直な訳はその逆で、先に100と永遠の命を得ないと、親兄弟家財を捨てることもないと。本日の福音書の個所の最後のところでイエス様は、後のものが先になり先のものが後になる、と順序が逆転することを言っていますが、それと見事にかみ合うのです!(素直な訳がどうしてこのようになるかについて、本説教のテキストの終わりに解説をつけて教会ホームーページに載せます。興味ある方はご覧下さい。)

 ペトロは、私たちは全てを捨てました、永遠の命は大丈夫ですか、と聞いたのに対して、イエス様は、先に永遠の命を得ないと捨てたことにならないと応じました。それでは、どのようにして先に100倍と永遠の命を得られるのか?言うまでもなくそれは、十字架と復活の出来事の後でイエス様を救い主と信じて洗礼を受けるとそうなるのです。神と結びつきを持って生きられるようになることが、捨てたものを100倍にして得られることです!この結びつきを持って生きる者に永遠の命が約束されているのです。それでは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けたキリスト信仰者は本当に親兄弟家財を捨てているのでしょうか?ここで宗教改革のルターに登場してもらいます。ルターが問題の個所を素直な訳で考えていることは明らかです。

 ルターは、親兄弟家財を持っていてもイエス様を救い主と信じる信仰と衝突しない限り持っていいのだ、律法の掟に従って父母を敬い、財産を隣人のために役立てよと教えます。ただし、持つことと信仰が衝突して、どっちかを選ばなければならなくなったら親兄弟家財を捨てるのだ、と言います。この心構えを持っていれば、衝突がない時でも既に「心で捨てている」ことになると言うのです。「捨てる」とは「心で捨てている」ということなのです。「心で捨てる」なんて言うとなんだか真心がこもっていない冷たい感じがします。しかし、そうではないのです。先週の説教でもお教えしたように、親兄弟家財は全て神から世話しなさい守りなさい正しく用いなさいと託された贈り物です。贈り主がそう言って贈った以上は感謝して受け取って一生懸命に世話し守らなければならない。肝心なことは、贈り主が贈り物よりも上にあるということです。これが「心で捨てる」ことです。もし、贈り物が贈り主を捨てろと言ってきたら、信仰者は贈り物を捨てなければならないのです。

6.勧めと励まし

それでは、もし贈り主と贈り物が衝突したらどうなるでしょうか?もし肉親がキリスト信仰に反対して捨てろと言ってきたら、どうしたらいいのか?もう心の中ではなくて文字通り捨てて家を出るということになるのでしょうか?イスラム教国のようにキリスト教徒になれば家族といえども身の危険が生じる場合は家を出るのはやむを得ないと思います。現代の日本ではそういう危険はないでしょう。家に留まっても、イエス様と福音を選んで永遠の命と神の国への道を歩んでいれば、それに反対する肉親を心で捨てているということは起きています。ただ、同じ屋根の下にいて「心で捨てている」などと言うと、何か冷え切った人間関係の感じがします。しかし、信仰者の側ではそうではありません。そのことを最後に述べて、本説教の締めにしたいと思います。

 これは以前にもお話したことですが、私が昔フィンランドで聖書の勉強を始めた時、教師に次の質問したことがあります。「もし親が子供のキリスト信仰を悪く言ったり信仰をやめさせようとしたら、第4の掟『父母を敬え』はどうしたらよいのか?」彼は次のように答えて言いました。「何を言われても取り乱さずに落ち着いて自分の立場を相手にも自分にもはっきりさせておきなさい。意見が正反対な相手でも尊敬の念を持って尊敬の言葉づかいで話をすることは可能です。ひょっとしたら、親を捨てる、親から捨てられるという事態になるかもしれない。しかし、ひょっとしたら親から宗教的寛容を勝ち取れるかもしれない。場合によっては親に信仰の道が開ける可能性もある。だから、すべてを神のみ旨に委ねてたゆまず神に自分の思いと願いを打ち明け祈りなさい」。使徒パウロはローマ12章の中で、イエス様を救い主と信じ洗礼を受けた者は高ぶることや偉ぶることと無縁であると教えます。使徒ペトロは第一ペトロ3章の中で、キリスト信仰の希望について説明を要求されたら穏やかに敬意をもって正しい良心で弁明しなさいと教えています。誠にその通りです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

問題となっているマルコ10章29~30節

 ουδεις εστιν ος αφηκεν οικιαν η αδελφους η αδελφας η μητερα η πατερα η τεκνα η αγρους ενεκεν εμου και ενεκεν ευαγγελιου,

 εαν μη λαβη εκατονταπλασιονα νυν εν τω καιρω τουτω οικιας και αδελφους και αδελφας και μητερας και τεκνα και αγρους μετα διωγμων, και εν τω αιωνι τω ερχομενω ζωην αιωνιον.

1)素直な解釈は、主節文をουδεις εστιν (…)του ευαγγελιουまでとして、εαν 以下は英語のifの文と同じように考えます。

「親兄弟家族を私と福音のために捨てた者はいない、もし(捨てたものを)この世で100倍にして得ず、次の世で永遠の命を得ないのならば。」

 この解釈だと、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼で永遠の命を先に得たのなら、親兄弟家財という贈り物はいつでも捨てられる、心で捨てている、ということになります。ルターはここをこのように解釈したのではないかと思います。

2)親兄弟家財を捨てたら永遠の命を得るという理解は、εαν 以下を関係節ος αφηκεν (…) の中に含めてος(αφηκεν …)εαω μη λαβη (…) と見なす解釈ではないかと思います。

「親兄弟家財を私と福音のために捨てて、それらをこの世で迫害は伴うが100倍にして得ない者、次の世で永遠の命を得ない者は誰もいない。」

これだと、捨てないと得られないということになり捨てないといけないというプレッシャーがかかります。

聖餐式

牧師の週報コラム 

一つの音楽の流れのような礼拝を目指して

この夏フィンランドで支援教会訪問を行った時、ある教会で礼拝の説教と聖餐式を担当しました。 説教は20分と少しの長さで、讃美歌は全部の節を歌い、聖餐式は20名(田舎の教会なので少なめ)、それで1時間15分で終わりました。スオミでは説教は今まで30分以上でしたが、これを20分位にしても1時間半位かかります。どうしてだろう?先週の役員会で長い話し合いになりました。

そこで一つ分かったのは、フィンランドの(ルター派の)礼拝は流れるような感じがあるということでした。スオミでは、合間合間に「次は~です」と言いますが、それがなく、会衆は皆、いつ立つか、いつ歌うか、朗読があるか、わかっている。初めて来た人も静かに全体の流れにあわせればよく、何度か通ううちに慣れていきます。讃美歌の個所も、金属製の数字の掲示板がどの教会にもあり(会堂の壁のあちこちに)、それを見ればいいので司式者はあえて言いません。自然に伴奏が始まり、皆で歌い始めます。聖餐式も、設定辞以外は司式者と会衆が交互に歌いながら進む感じです。設定辞のところで音楽の流れが一時止まって静まり、会衆は設定辞に全身全霊を集中させるかのようです。

そういうふうに礼拝を一つの音楽の流れのようにしていくことを考えています。説教の長さですが、20分はあくまで目安で、聖句と説き明かしがどうしても要求するものであれば、長くなることもあることをご了承ください。関西のルーテル教会で展開しているフィンランドの宣教師(SLEYとは別団体)たちは4050分位の説教をすると聞いたことがあります。彼らは、よもやま話や高尚な世間話は一切しない、聖書一筋の人たちなので御言葉に渇く会衆にとっては大いなる恵みです。(私など一度40分位の説教したら、長すぎると怒られたことがあります。関西はいいなぁ、などと思ってしまいました。)

追記 SLEYの前海外伝道局長のフフティネン先生が、地元ヘルシンキの教会から上記の讃美歌掲示板を譲り受けて、それをスオミにプレゼントすることを考えています。ただとても大きいので金属ノコギリ等で小さくできるか思案中とのこと。

 

スオミ教会フィンランド語クラスのご案内

秋の最初のフィンランド語クラスは10月17日 (木)
19時~20時10分

今のところフィンランド語クラスは【初級】だけとなります。

初級はフィンランド語がはじめての方向けですが、フィンランド語が少し出来る方もどうぞ!

授業は19時~20時、その後10分くらい聖書日課を読んだり讃美歌を歌ったりします。

参加費 1000円

お問い合わせ、お申し込み

03-6233-7109

スオミ・キリスト教会 東京都新宿区鶴巻町511-4

スオミ教会・フィンランド家庭料理クラブのご案内

秋のフィンランド家庭料理クラブは10月19日(土)13時の開催です。

フィンランドでは夏と秋はベリーの季節です。イチゴの他に、ブルーベリー、リンゴンベリー、ラズベリー、クラウドベリーなど森で自由に採れるベリーが沢山あります。森で採ったり、朝市で売っている新鮮なベリーを使って色とりどりのデザートやお菓子を作るのはフィンランドではとても普通です。次回の料理クラブでは家庭でもよく作られるベリーのケーキを作ります。このケーキはベリーそのものの味が美味しさを引き立てるだけでなく、焼きあがった生地の表面はサクサクするので香ばしさも一緒です。このフィンランドの典型的なお菓子の一つ、ベリーのケーキを是非ご一緒に作って味わってみませんか?

参加費は一人1,500円です。
どなたでもお気軽にご参加ください。
お子様連れでもどうぞ!

お問い合わせ、お申し込みは、  まで。

電話03-6233-7109
日本福音ルーテルスオミ・キリスト教会

歳時記

露草・蛍草・青花、帽子花、万葉時代には月草とも呼ばれていました。

<7 主の息がその上に吹けば、草は枯れ、花はしぼむ。たしかに人は草だ。 8 草は枯れ、花はしぼむ。しかし、われわれの神の言葉はとこしえに変ることはない。 イザヤ40>

ある日の朝ベランダの鉢に露草が生えているのに気が付きました。可愛い花なので切花にして部屋にち込むと残念ながらすぐ萎れてしまいます。野の草花は自然にのままにして置くのがベストのようですね。和の色に露草色という色がありますが実際の露草の色はもう少し青味の濃い透明感のある青と思いますが如何でしょうか。露草の花の色がなぜ際立って青色に見えるのか気になっていましたがそれは花芯が補色の黄色だからと思いました。補色の対比は自然界ではよく見られますね、恐らく蝶や昆虫などに花粉のありかを知らせるためかも知れませんね。露草の色水は水で色落ちをするので手描きの友禅などの下絵を描くのにこの花の色水を使っています。

月草に衣は摺らむ朝露に濡れての後はうつろひぬとも (月草色に衣は摺ろう。朝露に濡れた後は色が落ちてしまってもよい。 ) 万葉集 巻7-1351詠み人知らず