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2024年3月17日(日)四旬節第五主日 主日礼拝  説教 木村長政 名誉牧師 

 

私たちの父なる神と、主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなた方にあるように。アーメン                               2024年3月17日(日)

説教題:「人の子が栄光を受ける時が来た」

聖書:ヨハネによる福音書12章20~33節

今日の聖書はヨハネ福音書12章20~33節です。20節を見ますと「さて、祭りの時、礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に何人かのギリシャ人がいた。」彼らはイエス様にお目にかかりたい、まずフイリポに頼んだ、と言うのです。何故フイリポに頼んだのか、フイリポという名は実はギリシャ風の名でありましたから、何となく仲間意識が働いてフイリポを呼んだのでしょう。このギリシャ人たちはどんな人たちだったのか。どうも彼らはギリシャからわざわざエルサレムまでやって来た、という事ではなさそうです。ギリシャからだとすれば、そうとう遠い道のりです。この当時パレスチナで彼方此方にギリシャ風の町があったようで、そこにギリシャ人も住んでいた。彼らは祭りのため、各地から礼拝するためにエレサレムに上っていたであろうと思われます。いわば巡礼して来たのかもしれません。ギリシャ人ではありますが、割礼まで受けた純粋なユダヤ教徒ではなく、しかし神を敬う心があって巡礼して来たのいでしょう。このような割礼を受けない異邦人の巡礼者たちはエレサレム神殿の一番外側の“異邦人の庭”と言われる所で礼拝するようになっていました。その異邦人の庭では両替をする者の台とか生贄をする鳩を売ったりする市場となっていました。マルコ福音書11章15節を見ますと、イエス様はこの庭で商売をしている台をひっくり返し、所謂宮清めをなさった、その時こう言われたのです。「私の家は全ての国の民の祈りの家と呼ばれるべきである。」と書いてあるではないか。ヨハネ福音書ではイエス様のエレサレム入城の直後の宮清めの事は書いていませんが、その代わり“異邦人の庭”で全ての異邦人のための宗教を主張されました。そのイエス様にギリシャ人たちが、是非お目にかかりたい、詳しく教えを聞きたい、という形で書かれているわけです。ですから、ここでは「ギリシャ人」のような異邦人が主イエス・キリストを信じて求めて行くという、象徴的な場面が描かれているのであります。ギリシャ人たちの願いをイエス様がどのように満たされたか、本当に彼らにお会いになったのか、と言うことまではヨハネは書いていません。むしろ、これを一つの象徴的な序文のように紹介して、「人の子が栄光を受ける時が来た」とイエス様が語りだされた事を記すのであります。そこでイエス様は「豊かに実を結ぶようになる時が来た」あるいは23節の表現では「全ての人を私のところへ引き寄せる」時が来た、と言うわけです。

こういうわけで、エレサレム神殿に礼拝に来たギリシャ人たちがイエス様に聞きたいということから始まって「全ての人」イエスのもとに来るようになるにはどういう道筋があるのだろう、また、どういう方法があるのだろうか、という問題が展開されて行きます。まず23節でイエス様は「人の子が栄光を受ける時が来た」。と宣言されました。では、どういう方法で栄光をお受けになるのか、と言うと24節で明らかにされるように、「一粒の麦が地に落ちて死ぬ」という形で「豊かに実を結ぶ」のだ。そこに栄光がある。この「一粒の麦が死ぬ」という意味をもう少し詳しく27節から33節までに言われています。次に「豊かに実を結ぶ」と言うのだけれども「豊かな実」ちはどういう「実」なのか、というと、それが25節から26節に教えられています。つまり、自分の命を憎む者、イエス様に仕える者なのだ、と言っておられるのです。更に「光を信じなさい」という招きが続いていくわけです。さて、23節にイエス様が言われました「人の子が栄光をうける時が来た」。これまでにイエス様は何度も「私の時はまだ来ていない」と繰り返し言われてきました。<例えば>2章の始めにカナの婚宴の席で葡萄酒がなくなってきた、それでマリやがイエス様に「もう葡萄酒がなくなりました」となんとかして、といわんばかりに言われた時「私の時はまだ来ていない」とおっしゃいました。それでは、いつその時が来るのか。・・・・

異邦人ギリシャ人たちに向って全ての人々のために、今、その栄光の時は来た。と宣言されています。これまで閉じられていた、その時は今開かれて「人の子が栄光を受ける時」が来たのです。ユダヤの人々が「人の子」と言われるのを聞いた時、「本当に待望の王が現れた。雲に乗って永遠の御国と、主権を確立される、栄光に満ちる王があらわれた」と、すぐ考えたのです。それは旧約聖書で予言されたダニエル書7章13節にあります。当時の人々が「人の子が栄光を受ける時が来た」と聞けば、ではどこから、と言って天を見上げるほど、すぐさま栄光を期待したわけです。ですから、ここでイエス様が宣言されている、「栄光が現れる」と言われたのは、ユダヤの人々が期待しているような栄光ではない。それは「一粒の麦が地に落ちて死んだ時、豊かに実を結ぶ」その実こそ人の子の栄光が現れたことなのだ、この事を聞いた人々は非常にショックを受けたでしょう。思いもかけない教えであったのです。人の子が死ぬのか!その、死によって栄光を受ける時が,今、来た、その今を更にイエス様は27節以下で告白しておられます。「今、私は心が騒いでいる、何と言おうか、父よ、私をこの時から救ってください」と言おうか。ここでの27節から29節までに記されている記事はある意味では、有名なイエス様のゲッセマネの園での祈りの場面を、もう一つの別の物語として描かれている、と言ってもよいほどであります。ヨハネ福音書では「ゲッセマネの園での祈り」を書いていません、ここにもう一つの違った形でヨハネは書いているのです。マルコ福音書によりますと、14:34にゲッセマネで激しい祈りをされています。「私は悲しみのあまり、死ぬほどである」とペテロたちに打ち明けなさったのです。そして更に「アバ、父よあなたには出来ない事はありません、どうか盃を取りのけてください」と祈られたのであります。そのように、ヨハネの書いている、ここでは「父よ、この時から私をお救いください」と祈っておられます。ゲッセマネでイエス様は血の汗滴るような葛藤の末に、ついに「しかし、私の思いではなく御心のままになさって下さい」と結論をご自分に下されたのです。それがヨハネの書いています、ここでは「しかし、私はこのために、この時に至ったのです、父よ御名が崇められますように」と言って結論へと導かれています。それから、またルカ福音書によれば22章43節で「すると、天使が天から現れて、イエスを近づけた。イエスは苦しみ悶え、いよいよ切に祈られた」。とあります。ヨハネ福音書のほうでは28節に「すると、天から声が聞こえた。」29節で、人々はそれを「御使いが彼に話しかけたのだ」と言っております。こうして見ると、いろいろな点から実にゲッセマネの園でイエス様の祈りの姿と、殆ど同じである、と見られます。ここで私たちに三つの事が教えられています

第一は、人の子が十字架の死を遂げる事は避けることの出来ない、神様の御定めである、という事です。

第二は、イエス様が神様の定めに十字架の死を遂げるのは、嫌々ではなく、むしろイエス様の自然的な率先した歩みであり給うた、という事であります。「私は、このために、この時に至ったのだ」とイエスご自身が確認しておられます。

第三は、大切な事は、この十字架の死を私が歩む事によって栄光が来るのだ、というイエスの確信――これを通して「御名が崇められますように」というイエスの祈り――これが独りよがりでなくて確かに天からの御声があった、それは「私は、すでにあなたの働きを通して栄光を表したが、更にあなたの十字架の死において栄光を表すであろう」この事で約束なさった事であります。これはイエス独りの思い込みではなく、確かな神様の御声の裏付けのある事であります。人々はこの天からの声を聞きましたけれども、しかし「雷」だろう、とか「御使い」だろうとか言っておりますとおり内容は理解出来なかったわけであります。それは、ちょうどパウロがダマスコへの途上、復活のイエスの幻に打たれ「サウロ、サウロ、なぜ私を迫害するのか」と言う御声を聞き分けた時、傍らにいた者たちは声は聞いたけれど言葉は理解出来なかったのと同じであります。<使徒言行録9:7>つまり、普通の人間の声ではない、天来の御声である、ということがよくわかります。イエス様の祈りに即座に天からの答えが返ってきたのであります。“一粒の麦が地に落ちて死んだ時、豊かに実を結ぶのだ”と言われたイエス様が正しいことであった、と人々にこれでよくわかった筈であります。その意味でイエス様は30節で「この声があったのは私のためではなく、あなた方のためである」と言われたのです。一方では、このイエスの言葉を信じない人々、また頑なな人々、これほどの天からの声があっても、主イエス・キリストの御教えを信じないで疑っている,或いは殺そうとしている「この世」は裁かれるのであります。もし、イエス様の言うとおり、信じるならば「私がこの地上から上げられる時には、全ての人々を私のところに引き寄せるであろう」と32節で言われています。一粒の麦が死ぬ事によって豊かな実が結び全世界の人々が主イエス・キリストのもとに来る。主イエスはこう言って、自分がどんな死に方で死のうとしていたか、をお示しになったのであります。私たちも主に従って自分流の一粒の実となって行ければ、イエス様はどんなにお喜びになさるでありましょうか。あなた方は光の子となるために光のあるうちに光を信じなさい。

人知ではとうてい測り知ることのできない、神の平安があなた方の心と、思いとをキリスト・イエスにあって守るように。   アーメン

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

 

 

牧師の週報コラム

 ロシアのフィンランド系少数民族のルター派教会について

SLEY(フィンランド・ルーテル福音協会)はロシアにも宣教師を派遣しているが、同国での協力教会はフィンランド系少数民族のルター派教会である。正式名称を「イングリア福音ルーテル教会」と言う(以下イングリア教会)。

 ロシアのサンクトペテルブルグを中心に半径50100キロ範囲の地域は伝統的にフィンランド系民族が住む地域でイングリアと呼ばれる(フィンランド語でインケリ)。同地域は中世の時代からカトリックとロシア正教が覇を競い合う地域だったが、1500年代の宗教改革の時代にスウェーデンがルター派の国になり、1600年代にはバルト海をほぼ内海とする大国に。その時に多くのフィンランド人がイングリアに移住して同地域はルター派の地域となった。イングリア教会の正式な設立年は1611年である。

 ところが、1700年代初期の大北方戦争でロシアがスウェーデンに勝利すると、イングリアはバルト三国の大半と共にロシア領に。さらにピョートル大帝がイングリアのど真ん中に大都市サンクトペテルブルグの建設を開始。イングリア・フィンランド人は同地域で少数派に転落。他方で、1800年代初期にフィンランドがスウェーデンからロシアに半独立国のような形で併合された結果、フィンランドのルター派教会とイングリア教会の協力関係が深まることに。加えて、ナポレオン戦争後のロシアは欧州キリスト教の擁護者の自負が強かったこともあって、イングリア教会は帝国の保護も受けられ発展を遂げていく。多くの立派な教会堂が建てられたのもこの時期である。

 ところが、1917年のロシア革命後は共産党政権の下で徹底的に弾圧を受け、1930年代から60年代までは公けに活動ができなくなり、江戸時代日本の潜伏キリスト教徒さながら、地下で集会を守っていた。70年代に入って弾圧が収まり出し、ペレストロイカの時代になってフィンランドをはじめとする諸国の支援を受けられるようになり、接収されていた教会堂を次々と取り戻して通常の教会活動を再開、1991年には法的な地位を回復した。ところが、現政権の時代になってからロシア語化の圧力が高まり、若い世代のフィンランド語習得も減少を続け、礼拝もロシア語で行われる所が増えてきてしまった。現在のイングリア人にとってアイデンティティーの中核はルター派の信仰なのである。

 イングリア教会の神学校が修士課程を設置したことで博士レベルの講師が必要ということになり、昨年春SLEYから私に打診があった。今の国際情勢のもとでは現地で教えることなど出来ないが、オンラインで良いということなので引き受けた次第である。 

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歳時記

ささやきの小道―馬酔木

<我がが背子に我が恋ふらくは奥山の馬酔木の花の今盛りなり 。 万葉集 巻11-1903 詠み人知らず>(愛しい人に恋をするわたしの気持ちは、ちょうど今、奥山のあしびの花が人知れず満開になっているようであります)

若い頃奈良が好きでよく出かけました。定宿は日吉館と言う奈良マニアの溜り場のような民宿でした。ある日の朝、新薬師寺に出かけるつもりで歩き始めて迷い込んでしまったのが―ささやきの小道―と言われた馬酔木の名所でした。人気のない道でした、背丈ほどの馬酔木の花の間を歩いた先に新薬師寺を見つけたときはホットしました。都立小山内裏公園は良く散歩に利用している公園です。八王子から多摩、町田へと続く長い尾根道です。北から南へ続く長い道には多分に季節の移ろいの時間差があるようで元気な頃は時々端から端まで通して歩きました。今の季節は何といっても馬酔木の花ですね。簪のように垂れ下がった英の濃いえんじ色からパール調の薄桃色までの色の変化が楽しませてくれます。
11 見よ、冬は過ぎ、雨もやんで、すでに去り、12 もろもろの花は地にあらわれ、鳥のさえずる時がきた。山ばとの声がわれわれの地に聞える。 雅歌2:11・12>

スオミ教会 フィンランド語クラスのご案内

フィンランド

日時 3月21日 (木) 19時~20時10分

フィンランド語クラスは【初級】だけとなります。

初級はフィンランド語が
はじめての方向けですが、
フィンランド語が少し出来る方もどうぞ!

授業は19時~20時、その後10分くらい聖書日課を読んだり讃美歌を歌ったりします。
フィンランド

参加費 1000円

申し込み順で受け付けます。

お問い合わせ、お申し込み

03-6233-7109
スオミ・キリスト教会
東京都新宿区鶴巻町511-4
www.suomikyoukai.org

 

フィンランド

スオミ教会 チャーチ・カフェのご案内

2024年3月30日(土)11~15:30

素晴らしい音楽の演奏とおいしいお菓子を用意してお待ちしています。どうぞよろしくお願いします。

ミニコンサートは予約の必要はありません。お好きな時にいらしてください。

チャーチカフェ

スオミ教会・家庭料理クラブの報告

3月の料理クラブは9日に開催しました。冷たい北風が吹く日でしたが、太陽は明るく輝き春間近を感じさせる日でもありました。今回はイースター・復活祭に向けてパイナップル・ココナツケーキを作りました。

料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。初めにケーキの材料を測ります。小麦粉は測りではなく計量カップで測ると新しい方々はビックリ。ボールのマーガリンと砂糖をハンドミキサーでよく泡立てて他の材料を順番に加えると、生地はあっという間に出来上がります。生地をパイ皿に伸ばしてからオーブンで焼きます。その間にケーキの上にのせるものを準備します。水切りをしたパイナップルを細かく切ったり、トッピングのココナツを鍋で温めます。その時、オーブンからカルダモンの香りが広がってきて、中を見るとケーキもきれな色になってきました。焼き上がったケーキを取り出し、その上にパイナップルをたっぷりのせて、さらにトッピングのココナツをのせます。ケーキを再びオーブンに入れてきれいな焼き色が出るまで待ちます。すると今度はココナツの香ばしい香りが教会中に広がりました。「どんな味になるかなぁ」と皆さん、興味津々。出来上がったケーキはどれもきれいな焼き色がついて美味しそうでした。

今回は段階がいろいろあって作業の交替もあったので、少し忙しい雰囲気になりました。今回はまた幼稚園と小学生のお子さんがお母さんと一緒に参加して、大人たちと一緒に一生懸命にケーキ作りをしました。

出来たてのパイナップル・ココナツケーキを早速コーヒー・紅茶と一緒に味わいます。「美味しい!」の声があちらこちらから聞こえてきました。「カルダモンとパイナップルとココナツの組み合わせがこんなに美味しくなるとは!」と驚きの声もあがりました。こうして皆さんと一緒に美味しさ一杯の雰囲気で歓談の時を過ごしました。この時にフィンランドのイースタ・復活祭や神さまから頂く新しい命についてのお話がありました。

今回の料理クラブも無事に終えることができて天の神さま感謝です。次回の料理クラブは4月13日に予定しています。詳しい案内は教会のホームページをご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。

 

料理クラブの話2024年3月

イースター復活祭が近づく季節になりました。フィンランドではイースターは一年の中でクリスマスの次に大きなお祝いです。イースターは日曜日になりますが、前の金曜日から翌日の月曜日まで4日間フィンランドは休みになります。この大きなお祝いのために家庭では様々な準備をします。家の掃除を普段より丁寧に行い、イースターのお祝いの料理やいろんなお菓子を作ります。

私の母はイースターのお祝いも大事にして、いろんな種類のケーキやクッキーを作りました。それでいつも早めに準備を始めました。母が毎年必ず作った伝統的なデザートの一つにMämmiというものがあります。それは、ライ麦とライ麦のモルトで作った甘い黒い色のデザートです。作り方はライ麦とモルトをお湯に混ぜて、それを何時間も暖かい場所に置きます。そうすると甘味と黒い色が出ます。それに少しシロップと塩を入れてからオーブンの型に入れて低い温度で何時間も焼きます。母はいつもMämmiを大きい鍋で作りました。作る時に鍋を冷やさなければならないこともありました。冷やすために母は鍋を雪の中に置きました。私たち兄弟姉妹はいつもMämmiを少し早めに味見したかったので、この時を楽しみに待っていました。母が気づかないうちに子供たちは雪の中の鍋の中身を味見して指のあとが鍋の表面に残りました。味見した鍋のものは美味しかったですが、イースターのお祝いの日に出来たてのMämmiに生クリームか牛乳をかけて食べると、Mämmiの本当の美味しさがもっとよく分かりました。Mämmiは今もイースターのデザートの一つですが、作る家庭はあまりありません。お店で買うものになりました。

CC BY-SA 3.0 via Wikimedia CommonsMämmiの色は黒ですが、それはイースターの色ではありません。フィンランドではイースターの色は黄色とうす緑色と言われています。今日皆さんと一緒に作ったパイナップル・ココナツケーキはきれいな黄色なので、イースターにピッタリの色です。このケーキは私が一番初めに先生を務めた専門学校でもイースターのお祝いの時に良く作られました。ケーキの生地に入れるカルダモンとケーキの上にのせるパイナップルとトッピングのココナツは美味しい組み合わせです。フィンランドではパイナップルの他にピーチやアプリコットもイースターのケーキやお菓子の飾り物です。イースターの黄色にピッタリ合うからです。

黄色とうす緑色はどうしてイースターの色でしょうか?それは、イースターは神様から新しい命を頂くお祝いなので、黄色は卵の中から出るひよこの色、うす緑色は木の新しい葉っぱの色になり、それで新しい命を象徴する色になるのです。

ところで、最近フィンランドの女性の雑誌には、人はどのように新しく変わるかという記事がいろいろあります。人はどのように変わるでしょうか?私たちは外見を変えることで新しくなりたいと思うことがあります。髪の型を違うものにしたり、素敵な新しい服を着たりすることで、外見を変えることが出来ます。それで自分自身が新しく変わったと感じるでしょう。しかし、しばらく時間が経つと、また新しく変わることを望むでしょう。私たちはもっと深い意味で人生を新しく変えることを望むこともあります。

聖書の中には多くの人たちの人生が新しく変わったことについて書いてあります。一つの有名な話を紹介したく思います。それは、ザアカイという人の話です。ザアカイの人生はどのように新しく変わったでしょうか?

イエス様がエリコという町に来られた時の話です。大勢の群衆がイエス様を出迎えました。町には徴税人で大金持ちのザアカイという人が住んでいました。ザアカイは人々から決まり以上の税金を取ってお金儲けをしていたので人々から嫌われていました。ザアカイはイエス様を一目見たいと思いましたが、背が低かったので群衆に遮られて見ることが出来ません。そこで、道端にある大きなイチジクの木に登りました。木の上からだったらイエスがよく見えるでしょう。2006-09-08 by MMBOX PRODUCTION, www.christiancliparts.netザアカイは木の上からイエス様が道を歩いて来られるのを見ていました。するとイエス様は、ザアカイがいる木の方に近づいて来て、木の下で立ち止まって、見上げて大きな声で言いました。「ザアカイ、急いで降りてきなさい。今日はあなたの家に泊まろう。」これを聞いた群衆は驚いて言いました。「なんでイエス様は、あのような罪深い男の家に行くのだろう?」

ザアカイはどうしたでしょうか?彼は急いで木の上から降りてきて、イエス様を自分の家に連れて行きました。イエス様はザアカイが人々に嫌われていたことをご存知でした。イエス様はザアカイの家で神様について教えました。それを聞いたザアカイは、「主よ、私がしたことは間違いでした。これからは心を入れ替えます。今までだましとってきたお金を四倍にしてみんなに返します。」と言いました。それを聞いたイエス様は、「今日、神様はこの家の人たちを救って下さいました。」と言われました。ザアカイはイエス様を受け入れて、彼が世の救い主であることを信じるようになったので、人生が新しく変わったのでした。

このようにイエス様はザアカイがいるところに立ち止まって、自分のもとに来るように呼ばれました。イエス様は私たちがいるところも良くご存じで私たちのことも名前で呼ばれます。私たちもイエス様を受け入れると、ザアカイと同じように新しいものに変わってイエス様と共に人生を歩むようになります。イエス様の姿は見えませんが、イエス様は「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と聖書で言われています。

私たちはイースターの時期に自然も新しく変わることを見ることが出来ます。これから咲く桜の花もその一つです。それまで枯れたような桜の木がピンク色の花で一杯になると、いつもイースター・復活祭の新しい命のことを思い出させます。皆さんも今年は桜を見てイースターの喜ばしいメッセージを覚えて下さい。

2024年3月10日(日)四旬節第四主日 主日礼拝 説教 吉村博明 牧師 

主日礼拝説教 2024年3月10日 四旬節第四主日

民数記21章4-9節
エフェソ2章1-10節
ヨハネ3章14-21節

説教題  「君は心の目でイエス様の十字架を見つめられるか?」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

旧約聖書と新約聖書は互いに密接に繋がっています。旧約聖書に来るべき救世主のことが預言されていて、それがイエス様の出来事で実現して新約聖書に記されました。それで、旧約、新約はそれぞれ天地創造の神の人間救済について計画段階と実現段階を述べていると言うことができます。このように聖書は全体として神の人間救済についての書物です。

 旧約と新約が互いに密接に繋がっているということは預言の実現だけではありません。それは、旧約にある出来事は将来のイエス様の出来事を初歩的な形で先取りしていたということがあります。その一つの例は、エルサレムの神殿で行われていた礼拝でした。イスラエルの民は神殿で毎年、罪を償う儀式として大量の牛や羊を生贄にして神に捧げました。それが、イエス様が十字架の上で死なれたことにより、人間の全ての罪の償いが果たされたということが起こりました。それで何かを犠牲にする必要はなくなり、神殿の存在理由がなくなってしまったのです。神殿の儀式は罪の償いの実物ではなく、実物はイエス様の十字架でした。神殿の儀式はそのミニアチュアのようなものだったのです(礼拝の説教中に一つ思い当たり、ひょっとしたら自動車のコンセプトカーと実際に生産販売される自動車の違いのようなものではないかとも申しました)。神殿では大量の生贄を毎年捧げなければならないので、神に対して罪を償うというのはとても大変なことだということは誰にでもわかりました。それが神のひとり子の一回限りの犠牲で未来永劫しなくていいということになったのですから、イエス様の犠牲の力の凄さと言ったらありません。

 本日の福音書の個所のイエス様の教えにもミニチュア/コンセプトと実物の関係があります。遥か昔モーセがシナイの荒れ野で蛇の像を掲げて、それを見た者が毒蛇の毒から救われた、それと同じように十字架に掲げられたイエス様を信じることで人間は永遠の滅びから救われるという教えです。これもイエス様の十字架が実物でモーセの蛇の像はそのミニチュアという関係にあることを示しています。今日はこの関係をよく見て神の私たちに対する愛と恵みをより深く知るようにしましょう。

2.信じるとは、心の目で見つめること

本日の福音書の箇所は、イエス様の時代のユダヤ教社会でファリサイ派と呼ばれるグループに属するニコデモという人とイエス様の間で交わされた問答(ヨハネ3章1ー21節)の後半部分です。この問答でニコデモはイエス様から、神の愛と人間の救いについて、そして人間は洗礼を通して新しく生まれ変われるということについて教えられます。

 まず、イエス様は「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命をえるためである」と述べます。モーセが荒れ野で蛇を上げた出来事は、本日の旧約の日課、民数記21章の中にありました。イスラエルの民が約束の地を目指して荒れ野を進んでいる時、過酷な環境の中での長旅に耐えきれなくなって、指導者のモーセのみならず神に対しても不平不満を言い始めます。神はこれまで幾度も民を苦境から助け出したのですが、それにもかかわらず民は、一時するとそんなことは忘れて新しい試練に直面するとすぐ不平を言い出す、そういうことの繰り返しでした。この時、神は罰として「炎の蛇」を大量に送ります。咬まれた人はことごとく命を落とします。民は神に反抗したことを罪と認めてそれを悔い、モーセにお願いして神に赦しを祈ってもらいます。モーセは神の指示に従って青銅の蛇を作り、それを旗竿に掲げます。それを見つめる者は「炎の蛇」に咬まれても命を落とさないで済むようになりました。新共同訳では、作った蛇を「見上げる」とか「仰ぐ」と訳していますが、9節のヘブライ語の動詞ヒッビートゥ、プラス前置詞エルは辞書によると英語のlook at、gaze atです。「見上げる」、「仰ぐ」ではなく、「見つめる」とか「注目する」です。じーっとよーく見ることです。

 イエス様は、自分もこの青銅の蛇のように高く上げられる、そして自分を信じる者は永遠の命を得る、と言います。イエス様が高く上げられるというのは十字架にかけられることを意味します。イエス様は、旗竿の先に掲げられた青銅の蛇と十字架にかけられる自分を同じように考えています。旗竿に掲げられた青銅の蛇を見つめると命が助かる。それと同じように十字架にかけられたイエス様を信じると永遠の命を得られる。ここには、両者がただ木の上に上げられたという共通点にとどまらない深い意味があります。

 本日の民数記の個所に「炎の蛇」が2回出てきます。最初は神がイスラエルの民に対する罰として「炎の蛇」を送ります。その次は神がモーセに「炎の蛇」を作りなさいと命じます。興味深いことに各国の聖書は最初の蛇を「炎の蛇」と訳さず「猛毒の蛇」と訳しています(英語NIV、フィンランド語、スウェーデン語)。ところが、ヘブライ語の辞書を見ると「猛毒の蛇」はなく、「炎の蛇」です。欧米の翻訳者たちはきっと、古代人は蛇が毒で人を殺すことを炎で焼き殺すことにたとえたのだろう、毒が回って体が熱くなるから炎の蛇なんて形容したんだろう、恐らくそんなふうに考えて辞書にはない「猛毒の蛇」で訳したのではないかと思われます。つまり、「炎の蛇」など現実には存在しないと言わんばかりに、合理的な解釈をしたのでしょう。どうも欧米人にはそういうところがあるように思われます。しかし、その欧米で作られた辞書に「炎の蛇」とあるのだから、別に「炎の蛇」でいいじゃないか。それと、神がモーセに作りなさいと言った「炎の蛇」も、各国の訳はそう訳していません。素直じゃないと思います。

 さて、モーセは「炎の蛇」を造りなさいと言われて青銅の蛇を造ってそれを旗竿に掲げました。それを見つめた人たちは命が助かりました。これは一体どういうことでしょうか?次のように考えたらよいと思います。

 モーセがとっさに作ったのは当時の金属加工技術で出来る青銅の加工品でした。土か粘土で蛇の型を作り、そこに火の熱で溶かした銅と錫を流し込みます。その段階ではまだ高熱なのでまさに「炎の蛇」です。しかし、だんだん冷めて固まります。それを言われた通りに旗竿の先に掲げます。そこにあるのは、高熱からさめて冷たくなった蛇の像です。金属製ですので、もちろん生きていません。何の力もありません。それに対して生きている「炎の蛇」は、人間の命を奪おうとします。これは罪と同じことです。創世記3章に記されているように、最初の人間アダムとエヴァが造り主の神に対して不従順になって神の意思に反しようとする性向つまり罪を持つようになってしまいました。それが原因で人間は死ぬ存在になってしまいました。これが堕罪の出来事です。

 イスラエルの民が「炎の蛇」に咬まれて命を失うというのは、まさに神の意思に反する罪を犯すと、罪が犯した者を蝕んで死に至らしめるということを表わしています。そこで、罪を犯した民がそれを悔い神に赦しを乞うた時、彼らの目の前に掲げられたのは冷たくなった蛇の像でした。これは、彼らの悔い改めが神に受け入れられて、蛇には人間に害を与える力がないことを表わしました。つまり、神が与える罪の赦しは、罪の死に至らしめる力よりも強いことを表わしたのでした。それを悔い改めの心を持って見つめた者は、冷たくなった蛇の像が現している罪の無力化がその通りになって死を免れたのです。

 これと同じことがイエス様の十字架でも起こりました。罪が人間に入り込んでしまったために、造り主の神と造られた人間の結びつきが壊れてしまいました。神はこれを回復しようとして、ひとり子イエス様をこの世に送りました。彼に全ての人間の全ての罪を背負わせてゴルゴタの十字架の上に運び上げさせて、そこで神罰を受けさせました。イエス様は全ての人間を代表して全ての罪を神に対して償って下さったのです。それと、全ての罪が十字架の上でイエス様と抱き合わせの形で断罪されました。その結果、罪もイエス様と一緒に滅ぼされて罪はその力を無にされました。罪の力とは、人間が神との結びつきを持てないようにしようとする力です。人間がこの世から去った後も造り主のもとに迎え入れられなくする力です。まさにその力が打ち砕かれ無力化したのです。こうしたことがゴルゴタの十字架の上で起こりました。そればかりではありません。一度滅ぼされたイエス様は三日後に神の想像を絶する力によって死から復活させられました。復活が起きたことで死を超える永遠の命があることがこの世に示され、そこに至る道が人間に開かれました。他方、イエス様と共に断罪された罪は、もちろん復活など許されず滅ぼされたままです。その力は無にされたままです。

 このように神はひとり子のイエス様を用いて全ての人間の罪の償いを全部果たし、罪の力を無にして人間を罪の支配下から贖って下さいました。そこで人間がこれらのことは歴史上、本当に起こった、だからイエス様は救い主なのだと信じて洗礼を受けると、罪の償いと罪からの贖いがその人に対してその通りになります。ここでまさにモーセの青銅の蛇と同じことが起こったのです。荒れ野の民は悔い改めの心を持って必死になって青銅の蛇を見つめました。そして蛇の像が表していた罪の無力化がその通りに起こって、もう炎の蛇にかまれても大丈夫になりました。ところが私たちはイスラエルの民が青銅の蛇を見つめたように肉眼でゴルゴタの十字架を見ることは出来ません。それははるか2000年前に立てられたものです。それで、モーセの蛇の場合と違って、イエス様の十字架の場合は「見つめる」ではなく「信じる」と言うのです。しかし、イエス様を信じるというのはゴルゴタの十字架を心の目で見つめることでもあります。次にそのことを見てみましょう。

3.一度だけでなく、何度でも見つめること

イエス様の十字架を心の目で見つめることは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受ける時に起こります。肉眼の目を通して見たわけではないのに、まるで肉眼の目で見たのと同じように頭の中に映像があるのです。もう心の目を通して見ているとしか言いようがありません。

 そこで、イエス様の十字架を心の目で見つめることは洗礼の時の一回だけで終わらないこと、洗礼の後も何度も何度も繰り返して見つめることになることを忘れてはいけません。どうしてかと言うと、キリスト信仰者になったと言っても、神の意思に反する性向、罪はまだ残っているからです。確かにキリスト信仰者になったら注意深くなって神の意思に反することを行いや言葉に出さないようにしようとします。それでも頭の中では反することを考えてしまいます。また、人間的な弱さがあったり本当に隙をつかれたとしか言いようがない

注意があって罪を言葉や行いで出してしまうこともあります。そんな時はどうなるのか?イエス様が果たしてくれた罪の償いと贖いを台無しにしてしまったことになり、神罰を受けるしかないのでしょうか?

 いいえ、そうではない、ということを毎週、本教会の説教で申しています。自分に神の意思に反することがあった時は、すぐそれを神の御前で認めて赦しを願い祈ります。「イエス様を救い主と信じますので赦して下さい。」そうすると神も次のように言われます。「お前がわが子イエスを救い主と信じていることはわかった。お前は心の目をあの十字架に向けるがよい。お前の罪の赦しはあそこで今も打ち立てられて微動だにしていない。イエスの犠牲に免じてお前を赦す、だから、これからは罪を犯さないようにしなさい。」

 こうしてキリスト信仰者はまた永遠の命が待つ神の国に向かう道に戻れて再びその道を進み始めます。ここで明らかなように、御国に向かう道に戻れて再出発できたのは、心の目で十字架を見つめることができたからでした。心の目で十字架を見つめることは、キリスト信仰者がイエス様を救い主であると確認する仕方です。キリスト信仰者の人生はこの世を去るまでは罪の自覚と告白と罪の赦しを受けることの繰り返しです。それで、十字架を見つめることは何度もします。そうやって何度も再出発します。キリスト教は真に再出発の宗教と言ってもいいくらいです。そもそも神は、人間が永遠の命が待つ神の国/天の御国に挫けずに到達できるようにとイエス様の十字架を打ち立てたのでした。私たち人間の救いのためにひとり子を犠牲に供しても良いとしたのでした。これが人間に対する神の愛です。そのことをヨハネ3章14~16節はよく言い表しています。

「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。それほどに神は世を愛された。それで、独り子をお与えになった。それは、独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである(後注)。」

4.信じない者は信じるに転ぶ可能性を秘めている

ヨハネ3章の本日の箇所の後半(18ー21節)で、イエス様は自分を信じない者についてどう考えたらよいか教えています。キリスト信仰者にとっても少し気になるところと思われますので、ちょっと見てみましょう。

 3章18節でイエス様は、彼を信じる者は裁かれないが、信じない者は「既に裁かれている」と言います。これは一見すると、イエス様を信じない人は既に地獄行きと言っているように聞こえ、他の宗教の人や無神論の人が聞いたら穏やかではないでしょう。確かに人間には善人もいれば悪人もいますが、先ほども申し上げたように、人間は神の意思に反しようとする罪を持つようになって以来、自分を造られた神との間に深い断絶ができてしまっている、これは善人も悪人も皆同じです。みんながみんな代々死んできたように、人間は代々罪を受け継いでいます。それでみんながみんなこの世を去った後は復活の日に永遠の命に与れず神の御国に迎え入れられなくなってしまう、永遠に自分の造り主と離れ離れになってしまう危険にある。しかし、イエス様を救い主と信じることで、人間はこの滅びの道の進行にストップがかけられ、永遠の命に向かう道へ軌道修正します。信じなければ状況は何も変わらず、滅びの道を進み続けるだけです。これが「既に裁かれている」の意味です。軌道修正されていない状態を指します。逆に、それまで信じていなかった人が信じるようになれば、それは軌道修正がなされたことになります。その時、「裁かれている」というのは過去のことになり今は関係ないものになります。

 3章19節では、「イエス・キリストという光がこの世に来たのに人々は光よりも闇を愛した。これが裁きである」と言っています。神はイエス様をこの世に送り、「こっちの道を行きなさい」と救いの道を用意して下さいました。それにもかかわらず、敢えてその道に行かないのは「既に裁かれている」状態を自ら継続してしまうことになってしまいます。

 3章20節では、人々がイエス様という光のもとに来ないのは、悪いことをする人が自分の悪行を白日のもとに晒されたくないからだと言います。これなども、他の宗教や無神論者からみれば、イエス様を信じない人は悪行を覆い隠そうとする悪人、信じる者は善行しかしないので晴れ晴れとした顔で光のもとに行く人、そう言っているように聞こえて、キリスト教はなんと独善的かと呆れ返るのではと思います。しかし、それは早合点です。キリスト教は本当は独善的でも何でもない。そのことがわかるために、キリスト信仰者とそうでない人の違いを見てみます。そうでない人は造り主を中心にした死生観がありません。だから、自分の行いや生き方、考えや口に出した言葉が全て造り主の神にお見通しという考え方がありません。そもそも、そういうことを見通している造り主自体を持っていないのです。

 キリスト信仰者の場合は逆で、自分の行い、生き方、考え方、口にした言葉は常に、造り主の意志に沿っているかいないかが問われます。結果は、いつも沿っていないので、そのために罪の告白をしてイエス様の犠牲に免じて神から赦しをいただくことを繰り返します。毎週礼拝で罪の告白と赦しを行っている通りです。これからもわかるように、イエス様は「信じる者は善い業しかしないので晴れ晴れした顔で光のもとに来る」などとは言っていません。3章21節を見ればわかるように、イエス様のもとに来る者は善い業を行うのではなく、「真理を行う」のです。「真理を行う」というのは、自分自身の真の姿を造り主である神に知らせるということです。善い業もしたかもしれないけれど実は罪もあった、それで罪も一緒に神に知らせるということです。私は神であるあなたを全身全霊で愛しませんでした、また自分を愛するが如く隣人を愛しませんでしたと認めることです。以前であれば滅びの道を進むだけでしたが、今はイエス様を救い主と信じる信仰のおかげで救いの道を歩むことが許されます。

 このようにキリスト信仰者は自分の罪を神の目の前に晒しだすことを辞しません。キリスト信仰者が光のもとに行くのは、こういう真理を行うためであって、なにも善い業が人目につくように明るみに出すためではありません。3章21節に言われているように、キリスト信仰者が行うことはまさに「神に導かれてなされる」ものです。そこでは善い業も自分の力の産物でなくなり、神の力が働いてなせるものとなります。そうなると、神の前で自分を誇ることができなくなります。

 翻ってイエス様を救い主と信じない場合、そういう自分をさらけ出す造り主を持たないので、イエス様という光が来ても、光のもとに行く理由がありません。しかし、これは、神の側からみれば、滅びの道を進むことです。そこから人間を救い出したいためにイエス様をこの世に送られたのでした。神はイエス様を用いて救いを整えて、全ての人間にどうぞ受け取りなさいと言ってくれているのに、多くの人はまだ受け取っていません。また一度受け取ったにもかかわらず、十字架を見つめなくなってしまう人たちもいます。人間を救いたい神からみればとても残念なことです。それなので、キリスト信仰者は救いを受け取っていない人には受け取ることが出来るように、既に受け取った人は手放すことがないように働きかけたり支えてあげたりしなければなりません。受け取っていない人が受け取ることが出来るように、既に受け取った人が手放すことがないようにするというのは、詰まるところ人々が心の目でゴルゴタの十字架を見つめることができるように導くことです。見つめることができるようになれば、死を超える永遠の命に向かって進めるようになります。隣人愛の中でこれほど大事なものはないのではないでしょうか?主にある兄弟姉妹の皆さん、このことをよく心に留めておきましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

 

(後注)ヨハネ3章16節の訳し方について。ουτωςを後ろのωστε~と結びつけて考えると、「神はひとり子を送るほどに世を愛された」となります。これは一般的な読み方です。

 もう一つの読み方は、ουτωςを前の14節と15節で言われていること、つまり、「モーセが荒れ野で蛇を上げたのと同じように人の子も上げられなければならない、それは彼を信じる者が全員永遠の命を得るためであった

、ουτωςはこれを受けているという見方も可能です。そうすると訳は、「彼を信じる者が全員永遠の命を得るためであった。そのように神は世を愛した。それで、ひとり子をこの世に送られた」になります。

 どっちがいいか、是非皆さまでご検討下さい。

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

歳時記

北帰行

北へ帰る渡り鳥が近くの池に羽を休めに集まって来きます、その群れから逸れたのでしょうか一羽の渡り鳥が谷戸池で羽を休めていました。 昔、朝早く薄暗い中をバス停で佇んでいると頭上を渡り鳥が羽音をたてながら北を目指して飛んで行きました。小グループで飛び立って行きますが家族なのでしょうか。やがてグループは上空で一団となって見事な編隊を組みながら北へ向かって帰って行きます。春ではありませんが秋深く丹沢で奥多摩の方から湘南方向へ向かって飛んで行く渡り鳥の編隊をよく見かけました、不思議な事に彼らは尾根を越す時はかなり低く地上すれすれに飛んで行きます。中央線の笹子トンネルの北側と大菩薩峠の南側にそれぞれ笹子鴈ケ腹摺山と牛奥鴈ケ腹摺山があり更に北には雁坂峠もあります。沿線には初狩・初鹿野(現在は甲斐大和)と言う名の野趣に富んだ駅もあります。子供の頃東北本線に初雁と言う戦後初めての特急列車が走っていました、SLが主流の時代でしたが始めて見るカラフルなヂーゼル機関車がとても珍しかったです、これも懐かしい思い出です。

<空のこうのとりでもその時を知り、山ばとと、つばめと、つるはその来る時を守る。しかしわが民は主のおきてを知らない。エレミヤ8:7 >

スオミ教会の2024年度の活動方針

3月3日、教会の2023年度の年次総会が開かれました(教会員、オブザーバー、委任状提出含めて20名の参加)。宣教師がまとめた総会資料に基づいて昨年度の活動の総括と収支報告の承認を行い、新年度の活動や予算を話し合って採択しました。

以下、総会資料中の「牧師報告」の巻頭言「激動の時代にあって流されない生き方」と、採択された教会の新年度の主題と聖句、活動方針について紹介します。

 牧師報告

【総会巻頭聖句】

「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。心を新しくされた者として自分を変えていき、何が神の御心であるか、何が善いことで、御心に適うことか、また完全なことであるかを吟味するようになりなさい。」ローマ12章2節(ギリシャ語原文からの訳※)

(※ 総会の時に、なぜ日本語訳の聖書を用いず、ギリシャ語原文から直接訳したものを掲げたか説明しました。日本語訳では「心を新たにして」というふうに、人間が心を新たにしなければならなくなっていますが、ここは本当は、キリスト信仰者は神によって既に心が新たにされたという意味です。それなので「新しくされた心をもって」とか、「心を新しくされた者として」と訳したほうが良いと思います。「心」はギリシャ語でヌースνους、「意識」、「自覚」とも訳すことが出来ます。「理性」と訳す人もいますが、それはルター派的ではありません。キリスト信仰者は既にヌースが新しくされているということは、ローマ7章のパウロの教えからはっきりわかります。)

【激動の時代にあって流されない生き方】

世界を見回すと、ウクライナ戦争はまだ続く上に、10月にはイスラエルとパレスチナのガザ地区が戦争に突入してしまいました。内戦状態や市民への弾圧が続く国々が数多くあります。悲しむべきことはこれらを解決できない状態が続いていることです。自由と民主主義の国々が国の内外から挑戦状をたたきつけられているような状況に陥っています。温暖化の阻止も待ったなしです。

日本国内を見ても、人口や経済の縮小が続き、国の将来に悲観的な見方が広がっていると思います。国の政治も、統一教会問題や裏金問題のため、政治に対する不信と諦めが漂っていると思います。

そして私たちが繋がるキリスト教会も世界を見渡すと、いろいろな教派があるのは昔からですが、伝統的な教会が見解の相違のために分裂状態に陥っています。フィンランドでも国民の教会離れが進み、1980年代までは国民の90%以上がルター派の国教会に属していましたが、現在は60%程度、ヘルシンキ首都圏では50%まで落ちています。国民の教会離れ聖書離れは、キリスト教が伝統的な宗教であった国々で進んでいます。

ただ、そのような時代にあっても、フィンランドでは、教会を支えよう、聖書の御言葉を大事にする信仰者としてこの世を生きよう、という人たちは大勢残っています。彼らが国内と海外の伝道を支えています。私たちのスオミ教会もそのような兄弟姉妹の支援を受けていることを忘れないようにしましょう。

この世がどのような方向に流れていくにしても、私たちは、上記の聖句が教えるように、イエス様の十字架と復活の業と洗礼のおかげで心を新しくされた者として、何が神の御心か、何が善いことで、御心に適うことか、完全なことであるか、吟味しながら日々を生きる(吟味のためには聖書を開く必要があります)、そうすることで、流れを変えることは出来ないかもしれないが、ただ単に流されるだけで自分を見失ってしまうことはないと信じます。

♰♰ 2024年度の主題聖句、主題、主題の趣旨、伝道方針、年間行事予定

【2023年度の主題聖句と主題】

主題聖句 詩篇23篇4

「たとえ我、死の陰の谷を往くとも禍を怖れじ。汝、共にませばなり。」(文語訳)

「死の陰の谷を行くときも、私は災いを恐れない。あなたが私と共にいて下さる。」(新共同訳)

主題 「いかなる状況にあっても御言葉と聖礼典がある限り主が共にいて下さることは揺るがない。」

【主題の趣旨】

吉村が牧師になったことで、聖礼典も執行できるようになりました。これでやっと、御言葉と聖礼典という「恵みの手段」(ルター派の言い方)を用いて、信徒一人一人の信仰の成長の手助けができます。

「信仰の成長」とは何か、少し具体的に述べます。昨年12月17日の週報コラムで「信仰の証し」についてお教えしました。「信仰の証し」とは、①自分はどのようにして十字架と復活の業を成し遂げたイエス様と出会ったか、②一時そのイエス様から遠ざかってしまったが、また身近になった、③現在、平穏な時/大変な時にあるが、それでも十字架と復活の主が身近におられることは揺るがない、この3つのいずれかについて話し分かち合うことです。その際、聖書の何々の個所がそういう出会い/再会/随伴を確信させてくれたということがあれば申し分なし。日々聖書を開いて、自分の日々の歩みや思いを御言葉に照らし合わせて見直すことをしていれば、主が身近におられることが当たり前になり、「証し」をして下さいとお願いされても慌てないですみます。これが「信仰の成長」であると考えます。礼拝の説教と聖餐はまさに主が身近におられることを揺るがないものにするものです。また、牧師・宣教師と話をしたり祈ることでも、聖書のあの個所が決め手になった!というようなものが見つかります。

主が身近な存在になるかどうかは結局は信徒一人ひとりにかかっていますが、牧師・宣教師はそのお手伝いをするというスタンスでいます。

【2024年度の伝道方針および年間行事予定等】

礼拝は会堂とオンラインのハイブリッド方式を続けますが、礼拝と聖餐と聖徒の交わりを実現する本来の場所は会堂です。様々な事情で会堂に来れない方が教会に繋がれるための手段としてオンラインはやむを得ないと思います。

諸集会はコロナ前と同じ水準で行っていきます。諸集会に教会員やキリスト信仰者の参加があると、ノンクリスチャンに対する伝道力が一気に高まることをお覚え下さい。今年もチャーチカフェを開催します。新宿区の保健所から菓子製造販売の許可証を得たので堂々と開催できます。

教会歴に沿った年間行事予定は、大きなものは3月24日受難週、同29日聖金曜日、同31日復活祭、5月19日聖霊降臨祭、12月1日待降節、同22日クリスマス礼拝、同月24日イブ礼拝となります。伝統のバザーもクリスマス期間に出来るでしょうか?

今年の宣教師の一時帰国は長めのものになります。6月中旬から9月初旬まで位になると思います。期間については正確にわかり次第お伝えします。

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聖書入門ご案内

 次回3月13日 (水) 10時30分~11時30分

聖書をわかりやすく解説します。毎回違うテーマでお話します。

フィンランドのルター派教会の聖書の学びです。講師はフィンランドの大学の神学部で博士号を取得した吉村博明牧師です。

是非ご参加ください。

お申し込み、問い合わせはヨシムラ・パイヴィまで。


03-6233-7109
福音ルーテル・スオミ・キリスト教会
東京都新宿区鶴巻町511-4―106
www.suomikyoukai.org