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2月28日(日)四旬節第2主日 主日礼拝 司式・説教 吉村博明SLEY(フィンランド・ルーテル福音協会)宣教師 聖書日課 創世記17章1〜7、15〜16節、ローマ4章13〜25節、マルコ8章31〜38

聖書日課 創世記17章1〜7、15〜16節、ローマ4章13〜25節、マルコ8章31〜38節 説教題「一般常識からキリスト信仰の常識に駆け上がれ!」 讃美歌 73(2)、354(2)、187(2)、468(6)

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

 

 

全知全能の父なるみ神よ。

あなたはかつて、あなたの民を荒野(あれの)の中を通って約束の地へ導かれました。今、この世の荒野で救い主に従って歩む民を、栄光のみ国へ導いてください。この歩みの中で辛いことがあっても、あなたへの信頼を失わず、主にある喜びを常に喜ぶことができ、あなたに感謝することを忘れない心をお与えください。

あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストのみ名を通して祈ります。アーメン

歳時記

待ち焦がれていた辛夷の花が咲き出しました。近づいてみたら小さな蜂の巣がありました、花の色と同じ白なのでよく見ないと気が付きません。幸い蜂は飛び立った後なのでゆっくり観察することが出来ました。

2021年2月21日(日)四旬節第1主日 主日礼拝 司式・説教 吉村博明(フィンランド・ルーテル福音協会)宣教師

主日礼拝説教 2021年2月21日 四旬節第一主日

創世記9章8節-17節

第一ペテロ3章18-22節

マルコ1章9-15節

説教題「キリスト信仰者の鉄壁の防御」

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1. はじめに

今年も四旬節/受難節の季節になりました。今年の復活祭/イースターは4月4日に定められています。その日まで主日を除いて数えた40日間が四旬節です。この間の水曜日2月17日がその始まりの日でした。そういうわけで本日は四旬節最初の主日となります。四旬節の背景ですが、古いキリスト教会の伝統として西暦300年頃から復活祭の前に主日を除く40日間に断食することが行われるようになったことがあります。どうして40日間の断食かというと、イエス様が荒野で悪魔から誘惑の試練を受けた時40日間何も食べなかったということに由来します。そもそもイエス様の生涯は人間の救いのためにゴルゴタの十字架にかけられる犠牲の死に備えるものでした。それゆえ、キリスト教徒たちは40日間の断食を通して主の備えの生涯を身近なものにしようとしたのです。

四旬節は英語ではレントLentと呼ばれ、それは古代英語の春を意味する言葉に由来するそうです。フィンランドやスウェーデンではカトリックの時代の伝統を受け継いで「断食の時期」paastonaika、fastetidと呼ばれます。もちろん、両国ともルター派の国なので外面的な規則の順守が救いを左右するという考え「断食」と言っても名前だけです。それでも、人によっては、この期間は何か好物のものを食べなかったり、好きなTV番組とか愛着のあるものを遠ざけようとする人もいて、牧師にもそのようなことを勧める人もいます。ただし皆さん、そういうことをして神に認められるとか、救いを確実にするとか、そんなことは全く関係ないとわかっています。好物を食べなくても食事はちゃんととるので断食には程遠いです。それでは、どうしてそんなことをするのかと言うと、日常生活の中に普段よりもイエス様の受難に注意が向くようにするための一種のトレーニングのようなものです。別に好物や愛着のあるものを遠ざけなくても注意が向くのならしなくてもいいのです。ただ、普通しないことをあえてすることで、いつもよりもイエス様のことに心が向くようになるということです。

本日の説教の聖書日課ですが福音書を中心に説き明かしをします。使徒書の第一ペトロの個所は死んで陰府に下ったイエス様が死者の霊に福音を宣べ伝えたという難しいところです。これについては3年前の四旬節第一主日の説教で「死者のための祈り」という題で説き明かししました。その時も申し上げましたが、この個所は少なくとも4章6節まで見ないと説教は不可能です。今回3年前の説教を読み返してみて考え方は基本的に変更はなく、もう少し洗礼の重要性を出した方が良かったかなと思ったくらいでした。それで今回は第一ペトロを取り上げず、福音書の日課の説き明かしに専念することにしました。(3年前の説教にご関心ある方は、ここをクリック! 

本日の福音書の箇所の中にイエス様の荒野の試練があります。この出来事はマタイ福音書とルカ福音書では詳細に記述されていますが、マルコ福音書ではたったの二節しかありません。荒野の試練の時、イエス様にはまだ弟子がおらず一人でしたので、目撃者がなく、この出来事はイエス様が後に弟子たちに語られたものと考えられます。マタイ福音書とルカ福音書には詳細に語られたものが伝承されて記載されましたが、マルコ福音書には要約された形のものが記載されたと言えます。たった2節をもとに説教をするというのは簡単なことではありません。しかし、ルターだったら1節だけでも1時間位は説教できたでしょう。しかも彼の場合は、聖書外のことには言及せず聖書だけで話が出来ました。私も彼を見習って説き明かしをしていこうと思います。

2.野獣の危険と天使の守り

本日のマルコ福音書の記述は要約された形ですが、それでもマタイ福音書やルカ福音書にはないことが含まれていますので、それを見てみましょう。

「イエスは40日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。」皆さん、この文章の意味わかりますか?この新共同訳の訳ですと、イエス様は40日間サタンから誘惑を受けたと同時に、野獣とも一緒にいて、さらに同時に天使たちに仕えられた、という具合にいろんな出来事が同時に混在しています。原文のギリシャ語の文がわかりそうでわかりにくい形なので、そんな訳になってしまったのでしょう。マタイ福音書の記述を見ると、天使が来てイエス様に仕えるのは、イエス様がサタンの誘惑を撃退した後に起きるという順番です(マタイ4章11節)。

この順番を踏まえてマルコの記述をわかりやすくすると次のようになります。「イエスは荒野にいてまず40日間、悪魔から誘惑を受けられた。その後、野獣のただ中にいたが、天使たちに仕えられていた。」

新共同訳の「野獣と一緒におられた」というのは、イエス様が野獣と仲よく暮らしたみたいですが、そうではありません。日本語で「~と一緒に」と訳されているギリシャ語の言葉(μετα)は「~の間に、~の中に」とも訳すことができます。それで、荒野で野獣のただ中にいたという危険な状態にあったということです。(ちなみに、フィンランド語訳とスウェーデン語訳の聖書では「野獣のただ中に」です。英語のNIVは日本語と同じ「野獣と一緒に」でした。)

さてイエス様は、荒野で野獣のただ中という危険な状態に置かれたが、天使たちに仕えられ守られたので何も危害はなかったということです。荒野の野獣というのは目に見える具体的な危険です。天使というのは人間同様、神に造られたものですが、普通は人間の目には見えない霊的な存在です。つまり、イエス様は悪魔の誘惑の後も、見に目える危険な状態に置かれたが、目には見えない霊的な守りのなかにあり、危害は及ばなかったということです。このように理解すると、この13節の野獣の危険と天使の守りというのは、ただ単に荒野の出来事だけでなく、その後イエス様が置かれていった状況全般を指しているとも言えます。つまり、野獣のような危険な敵対者に何度も遭遇するが、目には見えない天使という霊的な守りの中にあったということです。

マタイ福音書とルカ福音書の記述では、イエス様が悪魔からどんな試練を受け、それにどう打ち勝ったかということが詳しく記されていますが、その後の野獣の危険と天使の守りについては触れられていません。ここでイエス様の天使の守りということについてよく考えてみると、悪魔の誘惑の時にはそれはなく、それに打ち勝った後にありました。そして最後にイエス様が逮捕されて十字架にかけられる時はありませんでした。十字架の時に天使の守りがなかったということは後で見ます。このようにイエス様に天使の守りがあったりなかったりしたというのは、どういうことか見ていこうと思います。というのは、そのことが私たちキリスト信仰者にとって大きな意味を持っているからです。どんな意味かと言うと、キリスト信仰者には鉄壁の防御があるということです。

3.人間の救いにとって際どい瞬間だった

マタイとルカの記述によると、イエス様は40日間飲まず食わずの状態で悪魔から誘惑を受け続け(特にルカ4章2節)、最後に三つの誘惑を受けます。最初の二つは「お前が神の子なら、石をパンにかえて、空腹を満たしてみろ」

というのと、「お前が神の子なら、エルサレム神殿の屋根の上から神殿の背後にまっさかさまに切り落ちている谷に向かって身を投げて、天使に助けさせてみろ」というものでした。イエス様は多くの人の不治の病を治したり、自然の猛威を静めたりする奇跡を行える神のみ子です。だから、パンを石に変えたり、谷に身を投げて天使に飛んできてもらうことなど容易に出来たはずです。それなのになぜ、これらのことをせず、あえて凄まじい空腹を選ばれ、また目のくらむような高い所にとどまることを選んだのでしょうか?

それは、もしそうしていれば確かに神のみ子の力を見せつけることができたでしょうが、しかしその瞬間、イエス様は悪魔が命令したからこれらのことをした、ということになってしまい、これらの奇跡を行った瞬間に悪魔の意思に従うことになってしまうからです。悪魔がやれと言ったからやったことになってしまうのです。凄まじい空腹や危険の恐怖という弱みにつけこんで、どうだ、そこから逃れたいだろ?お前が神の子ならわけないだろ、それとも逃れられないのか?だったらお前は神の子でもなんでもないんだ、と巧みに追い詰めていったのです。しかし、イエス様は悪魔の言う通りにはしないということを貫きました。たとえそれが空腹と恐怖の中に留まることを意味しようとも。

三つ目の誘惑は、イエス様に世界の国々とそれらの豪華絢爛を全て見せた上で、もし俺にひれ伏せば、これらを全部お前にやろう、というものでした。しかし、イエス様はこれにも応じませんでした。この誘惑をはねつけたことは、先の二つに増して、私たち人間の救いにとって決定的な意味を持ちました。というのは、イエス様は荒野の試練の直前にヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を授かったばかりでした。その時、神の聖霊が降り、また神のみ子であるとの認証を神から受けていました(マルコ1章10ー11節)。それで、もし、その神の子が悪魔にひれ伏してしまったならば、神の子が受けた神の霊もひれ伏したことになります。こうして神と同質である神の子と神の霊が悪魔よりも下であれば、もはや神そのものも悪魔の下になったのも同然で、そうなれば天上でも地上でも地下でも悪魔より強い者は存在しなくなります。しかし、そうはなりませんでした。イエス様は、豪華絢爛などいらない、だからお前にひれ伏すこともしない、ときっぱり拒否したのです。こうして天上でも地上でも地下でも神の権威は揺らぐことなく保たれました。実に際どい瞬間でした。

4.聖書の御言葉は悪魔の攻撃を撃退する力に満ちている

それでは次にイエス様はどのようにして悪魔の誘惑に打ち勝ったかをマタイとルカの記述に即してみていくことにします。結論から言うと、誘惑をはねつけて悪魔を退散させるのにイエス様は聖書(旧約)の神の御言葉を武器に用います。

まず、「神の子なら、石をパンに変えて空腹を満たしてみろ」という誘惑に対しては、イエス様は申命記8章3節の御言葉ではねつけます。その箇所の全文はこうです。「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」出エジプト記のイスラエルの民はシナイ半島の荒野の40年間、まさに飢えない程度の食べ物マナを天から与えられて、神のみ言葉こそが生きるための本当の糧であることを身に染みて体験します。従って、この申命記の言葉は空虚な言葉ではなく経験に裏付けられた真実の言葉です。それなので、もし悪魔が空腹の満たしのような人間の最も基本的な必要に訴えて私たちを自分の言いなりにしようとしたら、私たちもこの申命記の言葉を突き出して悪魔に対して次のように言い返すことができます。「悪魔よ、私の命はパンがある時もない時も常に神の御言葉を拠りどころとして立つのだ。パンがあっても御言葉がなくなってしまったら、それはもう私の命ではない。このことをお前はこの御言葉から思い知るがよい。」

次に、悪魔がイエス様に神殿の上から飛び降りて天使に助けさせてみろと誘惑した時、今度は巧妙にも聖書の御言葉を使います。それは詩篇91篇11ー12節です。「主はあなたのために、御使いに命じてあなたの道のどこにおいても守らせてくださる。彼らはあなたをその手にのせて運び、足が石に当たらないように守る」。神の御言葉にそうあるのだからその通りになるだろ、だから飛び降りてみろ、と言うのです。

それに対してイエス様は、申命記6章16節をもって誘惑をはねつけます。それはこういう箇所です。「あなたたちがマサにいたときにしたように、あなたたちの神、主を試してはならない。」この「マサにいたときにしたように」というのは出エジプト17章にある出来事で、イスラエルの民が荒野で飲み水がなくなって指導者モーセに不平不満を言い始め、神に水を出すよう要求した事件です。実に荒野の40年間、イスラエルの民は困難に遭遇するたびに、すぐ神に不平不満をぶつけました。彼らは神の奇跡の業を何度も目にしてきているのに、新たな困難が生じる度に右往左往し、すぐ要求が叶えられないと神を疑い、「言うことを聞いてくれないなら、もうエジプトに帰ってやるから」と、それこそ神の堪忍袋と言うか忍耐力を試すようなことばかりを繰り返してきました。申命記6章というのは、イスラエルの民がやっとシナイ半島からカナンの地に移動するという時、神が40年の出来事を振り返って、あの時のように「神を試してはならない」と命じるところです。

それでは、私たちは困難に直面したらどうすればよいのでしょうか?希望した解決がすぐ得られない時、どうすればよいのでしょうか?その時は、ただただ神に信頼して、神は必ず解決を与えて下さると信じること。たとえ祈って与えられたものが自分の意にそぐわないものでも、それを神の導きとして受け取る、それくらいに神を信頼するということです。この申命記6章16節の御言葉を用いたイエス様の生き方こそ、こうした神への深い信頼を示しています。

実を言うと、イエス様の神への深い信頼は、悪魔が誘惑用に使った詩篇91篇全体の趣旨だったのです。この篇の最初をみると次のように言われています。「主に申し上げよ、『わたしの避けどころ、砦。わたしの神、依り頼む方』と。神はあなたを救い出してくださる。仕掛けられた罠から、陥れる言葉から」(2ー3節)。このような神に対する深い信頼がある限り、神の守りや導きを疑って神を試す必要はなくなります。悪魔は、詩篇91篇全体に神への深い信頼が貫かれていることを無視して、真ん中辺にある天使の守りの部分だけをちょこっと文脈から取り外してイエス様に投げつけたわけです。まさしくコピー・アンド・ペーストです。しかし、そんなやり方で真理と張り合えるなどと思うのは愚の骨頂です。それにしてもコピペというのは真実のかけらを大いなるウソの塗り固めに用いてしまうものです。悪魔的な業と言ってもいいかもしれません。そういうわけで兄弟姉妹の皆さん、私たちがウソを見破ることができて真理にどまることができるように日々の聖書の繙きを怠らないようにしましょう。

さて、三つ目の誘惑「世界の支配権と豪華絢爛と引き換えに悪魔の手下になれ」に対して、イエス様は申命記6章13節の御言葉を突きつけて誘惑をはねつけます。その御言葉は「あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい」というものです。「神を畏れる」というのは、聖書の中で最も大切な教えの一つです。それは、神をまさに天と地と人間を造り人間に命と人生を与えた造り主として仰ぎ、天においても地においても神より力ある者は存在しないと畏れ敬うことです。たとえ神の力が働いていないように見える時でも、目に見えて働いている時と同じくらいに神は全てに優る力を持つ方であると畏れることです。神より力ある者は存在しないというのは、神に敵対する者からすれば恐怖以外の何ものでもなく、そのような者は神から逃避しなければなりません。しかし、神と平和な関係にある者からみれば、神よりも力あるものはいないのだから、神以外に何も恐れるものはなく、神のもとにいて大きな安心を得ることが出来ます。

悪魔の下に服して神に敵対するようになってしまったら、たとえこの世の支配権と豪華絢爛を手にしていても、それが何の安心になるでしょうか?たとえ、この世で権力と富を維持拡大できても、神に敵対していれば、この世から死んだ後は最後の審判の日に、永遠に止まない滅びの中に投げ込まれます。そこには権力も富も持ち運ぶことはできません。しかし神と平和な関係にある者はこの世にいる時は順境の時も逆境の時もいつも大きな安心が伴っています。この世を去った後はそれこそ手ぶらで大きな安心の源である神のもとに永遠に迎え入れられます。それがわかれば、悪魔がやると言った権力や富はなんと頼りない儚いものであるかがわかります。そんなもののために神との平和な関係を捨ててみろなどとは、悪魔はなんと情けないことを聞くのでしょうか?

5.イエス様が天使の守りを遠ざける時

以上のように、イエス様は聖書にある神の御言葉を用いて悪魔の誘惑をはねつけました。これからもわかるように、神の御言葉は悪魔の攻撃を撃退する力を持っています。私たちも聖書の御言葉をよく学び、その力に服するようにしましょう。

さて、悪魔はイエス様のもとから退散しましたが、イエス様は今度は野獣のただ中にいて、天使に仕えられて守られた状態に入りました。これは、ユダヤの荒野にいた時の状況だけでなく、その時から始まって十字架の受難の道に入るまでの全ての状況を含むと考えてよいでしょう。どうしてかと言うと、この「野獣の危険と天使の守り」というのはよく見ると、先ほど見た詩篇91篇で言われていることの実現だからです。つまり、神は天使を通して守ってくれるということの実現です。このことを少し詳しくみてみます。悪魔が愚かなコピペをした11ー12節の中で天使の守りについて言われていました。それに続く13節には野獣の危険から守られることが言われているのです。11節から13節まで全部見てみましょう。

「主はあなたのために、御使いに命じてあなたの道をどこにおいても守らせてくださる。彼らはあなたをその手にのせて運び、足が石に当たらないように守る。あなたは獅子と毒蛇を踏みにじり、獅子の子と大蛇を踏んでいく。」

悪魔から誘惑を受けている時のイエス様は、悪魔の魂胆を見抜いたので、天使を呼び寄せて自分を助けさせることはしませんでした。あたかも天使たちに次のように命じた如くです。「天使たちよ、お前たちは今は来なくて良い。私は神の御言葉で悪魔に打ち勝つから心配はいらない。もしお前たちが来たら、私が助かった瞬間に私は悪魔に従ったことになってしまう。」そして、イエス様は、見事に一人で悪魔に打ち勝ちました。悪魔が退散した後で、野獣の危険の中に入りましたが、今度は天使たちに来るのを許して仕えさせたのです。ユダヤの荒野でも、またその後でガリラヤ地方にいた時も、いろいろな危険が身に迫りましたが、イエス様は天使に仕えられ守られていました。

ところが、十字架の受難が始まると、イエス様は守りが全くない状態に陥ってしまいました。イエス様が逮捕された時、弟子のある者が剣を抜いて官憲に抵抗しようとしました。これに対してイエス様は、剣をさやに納めろと命じて言いました。「わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は12軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう」(マタイ26章53ー54節)。つまり、イエス様は天使の軍勢の助けを得られる可能性を持ちながら、あえてそれを用いず、逮捕されるにまかせたのです。なぜでしょうか?

それは彼自身が言った通り、聖書の預言が実現するためでした。それは、創造主である神が計画した人間救済計画を実現することでした。罪がもたらす永遠の滅びから人間を救い出すことでした。この救いを実現するために、神のひとり子が私たちの身代わりとなって神罰を受けられて十字架の上で死なれました。まさに私たちのために罪の償いを神に対して果たして下さったのです。もしイエス様が天使の軍勢を呼び寄せて十字架の死を回避してしまったら、人間の救いは起こらなかったのです。それでイエス様は、あえて十字架の道を選ばれたのです。ちょうど本日の福音書の出来事のように、本当は回避出来るけれども、悪魔の言いなりにならないために、あえて空腹と恐怖を選んだのと同じです。

6.キリスト信仰者の鉄壁の防御

以上から、イエス様は悪魔の誘惑の試練の時と十字架の受難の時に天使の守りを遠ざけたことが明らかになりました。このことが私たちキリスト信仰者にとってどんなに大きな意味を持つことかを見てみましょう。

荒野で悪魔の誘惑をはねつけた時、イエス様は天使の守りを求めず、聖書の御言葉をもってはねつけました。このように聖書の御言葉は悪魔の攻撃を撃退する力を持っているのです。ただし、御言葉がコピペのような使われ方、つまみ食いのような使われ方をしないで、御言葉をそれがある文脈に沿って正しく理解した時に撃退力は発揮されます。それなので、聖書を日々繙いて主日は説教を聞き、他の日は自分で少しずつでも聖書に習熟するようにすることが肝要です。キリスト信仰者は聖書の御言葉という強力な守り手を持っているのです。

次に、イエス様は天使の守りを求めないで、十字架の受難の道に入られました。そのおかげで神に対する私たちの罪の償いが果たされて、神罰が私たち人間に下されないですむ道が開けました。これで、神と人間の間を引き裂いて敵対関係に追い込もうとする悪魔の目論見は破綻してしまったのです。人間はイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると彼が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになります。それと同時に悪魔の目論見の破綻もその人にその通りになります。

このようにキリスト信仰者は悪魔の攻撃を撃退する力に満ちた御言葉を持っています。また洗礼を通して罪の償いと悪魔の破綻が身に備わっているのです。主にあって兄弟姉妹の皆さん、このことを忘れないようにしましょう。キリスト信仰者というのは洗礼を通して、復活の体と永遠の命が待っている神の国に向かう道に置かれてそこを進む者です。そこで何者かがその歩みを妨げようとしても、私たちには御言葉と罪の赦しと悪魔の破綻があるのでそれらを撃退できるのです。しかも、キリスト信仰者には守りの天使も付いています。ヘブライ1章14節で言われるように、天使というのは、神の国への迎え入れに向かって進む者たちに仕える霊だからです。

しかし、次のように言う人もいるかも知れません。何者かが神の国への歩みを妨げようとしたら、それを撃退するものが自分に備わっていることはわかった。しかし、信仰者の内に神の意思に反しようとする罪がある。自分の内にあるものが歩みを妨げる時はどうすればよいのか?それへの答えはいつも説教でお教えしていますが、いつも神のもとに立ち返って罪の告白をして赦しを頂くことを繰り返すことです。それを繰り返せば繰り返すほど、内に留まる罪は日々圧し潰されていきます。次のルターの教えを聞けば、キリスト信仰者は外側も内側も鉄壁の防御で守られていることがわかるでしょう。

「罪、高慢、利己心、憎むことその他これらに類することが我々の内にぶら下がっている。しかし、そうしたものは我々を信仰の中で成長させるためにあるのだ。我々の信仰が日に日に前に進み、最後に完全なキリスト信仰者になれるためにあるのだ。その時我々はキリストの懐に飛び込んで御国の祝宴の席につくことができる。

海の荒波を思い浮かべるがよい。大きな波が次から次へと岩に打ちつける。それはさながら、力づくで岩を打ち砕こうとするかのようだ。しかし、打ち砕かれるのは波の方で、岩に当たった後は退いて消えてなくなってしまう。罪もこれと同じだ。罪が我々の頭上から襲い掛かり、我々を絶望へと追いやろうとする。しかし、退散しなければならないのは罪の方であって、それは最後には消散してしまうのである。」

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

 

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特別の祈り

全知全能の父なるみ神よ。

どうか、私たちが聖書を繙(ひもと)く時、御言葉を通してあなたの私たちに対する御心をお示しください。聖書の中であなたが約束されていることを私たちが信じて、アブラハムのようにあなたから義と認められ、あなたと平和な関係のうちに生きられるようにして下さい。

あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストのみ名を通して祈ります。アーメン

歳時記

窓際のエサ台にゴジュウカラ(五十雀)が来ました。この鳥に初めて会ったのは丹沢の最高峰ヒルガ岳(蛭ヶ岳)の頂上直下のブナの古木でした。 幹を下向に或は枝の下側を仰向けに掴まり走り回っている不思議な鳥がゴジュウカラでした。この鳥を見かけるのは稀で数も少ないと聞いております。よくぞ来てくれたと餌のヒマワリの種を大奮発しました。

2021年2月14日(日)主の変容主日 主日礼拝 司式・説教 吉村博明SLEY(フィンランド・ルーテル福音協会)宣教師

主日礼拝説教 2021年2月14日 変容主日

列王記下2章1節-11節

第二コリント4章3-6節

マルコ9章2-10節

説教題 「復活とは変容なのだ」

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1. 本日は教会の暦では1月に始まった顕現節が終わって、来週からイースター/復活祭へと向かう四旬節の前の節目の日です。毎年この日に定められた福音書の日課はイエス様が高い山の上で「姿が変わった」(9章2節)という出来事についての個所なので、「姿が変わった」、「変容した」ということで変容主日とも呼ばれます。イエス様の「変容」は、ギリシャ語の原文では正確には受動態ですので「変容させられた」です。誰によってさせられたかというと万物の造り主である神によってです。新約聖書のギリシャ語では受動態の形で「誰によって」がない時は大抵の場合は神を指します。神を名指しすることは畏れ多いのであえて言わないのです。そういうわけで、イエス様は父なるみ神の力で変容させられたのです。これと同じことはイエス様の死からの復活にも当てはまります。普通は「復活した」と言いますが、原文では受動態なので「復活させられた」、つまり神の想像を絶する力で復活させられたのです(後注)。しかも、復活した後の体はそれまでの肉の体と異なっていました。どんなふうに異なっていたかはイースターの時にお話しすることになるでしょう。

キリストの変容“The Glory of Christ” by Lawrence OP is licensed under CC BY-NC-ND 2.0

イエス様の変容はどのようなものであったかと言うと、衣服が非常に白く輝いたことが言われています。マタイ福音書の同じ出来事を扱った個所を見ると(17章2節)、衣服だけでなくイエス様の顔が太陽のように輝き始めたとあります。ルカ福音書では(9章29節)、やはり衣服だけでなく顔のみかけが別物だったと記されています。マルコ福音書で言われているのは衣服だけですが、最初に「変容させられた」(2節)と言って、その後で衣服が白く輝きだした(3節)と言っているので衣服以外の部分も変わっているのは明らかです。ただ、衣服の白さの輝きがあまりにも尋常ではなかったので、マルコはそれを特筆したのでしょう。

この高い山の上での出来事はマルコ、ルカ、マタイの3つの福音書に取り上げられていて大筋は同じです。細部は異なっていますが、それは、福音書記者それぞれの視点があって、これを強調したい、これはしなくてもいい、ということがあるからです。そういうわけでこの出来事の本日の説き明かしは、マルコの視点に立ったものになります。

ここで言われる「高い山」について。毎年お話ししていますが、ヘルモン山という現在のシリアとレバノンの国境にある2,814メートルの山であるのは間違いないでしょう。どうして特定できるかと言うと、マルコ8章27節にイエス様と弟子たちの一行がフィリポ・カイサリア近郊まで来たとあります。そこから本日の個所まで地理的な移動は述べられていません。もし一行がまだ同地方に滞在していたとすれば、この高い山はフィリポ・カイサリアの町から30キロメートル北に聳えるヘルモン山の可能性が大です。

ここのギリシャ語原文を見るといろいろ面白いことに気づきます。例えば、新共同訳では「ペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた」と訳していますが、「登る」という動詞は使われていません。正確には「イエス様は3人を運び上げた」です。イエス様が3人をおんぶしたみたいですが、実際は疲れた3人を励まし続けたか、なんで俺たちにこんなきついことをさせるのか不平不満があって叱咤し続けたのか、とにかく足取り重い弟子たちをなんとか頂上まで引き連れたのが「運び上げた」ということだったのでしょう。

ここでヘルモン山の登山がどれだけ大変なものか思い巡らしてみましょう。フィリポ・カイサリアは海抜300メートル位のところなので、頂上まで標高差は2,500メートル位あります。登山する人ならどれ位の時間とエネルギーを使うかすぐわかるでしょう。私の家族はしょっちゅうと言っていいほど高尾山に登ります。麓の高尾山口から標高599メートルの頂上まで標高差は400メートル位で、それを1時間のペースで登るとかなり汗だくになります。ヘルモン山はそれを6回繰り返さなければならないので本当に大変です。ちなみに私は高校時代によく山登りしたのですが、北アルプスの剣岳を早月尾根という尾根から登ったことがあります。標高差2,200メートルです。若かった当時は休憩含めて10時間かからなかったと思います。しかも連続する岩場のスリルと目を奪う壮大な眺めのおかげで文字通り登山の醍醐味を堪能でき、それで疲れたという記憶もありません。

ところが3人の弟子たちの場合は別に登山が趣味でもなく、しかも目的も告げられていないので、何でこんな疲れることをしなければならないのかという雰囲気になったことは容易に想像できます。イエス様はこれから山の上で起こることを後々のために見届けさせようとしたのでした。何を見届けさせようとしたのか?それは一言でいうと、復活とは変容であるということです。高い山でのイエス様の変容の出来事はこのことを私たちに教えているのです。今日はそのことをマルコの視点で明らかにしていきましょう。
 

2.山の上でイエス様が変容した時、マルコの注意を最も引いたのは、イエス様の着ている服が非常に真っ白に輝いたということでした。どうして服が白く輝いたことが「変容」の出来事の中で最も注意を引いたのでしょうか?それは続きの文を見ればわかります。「この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった」とあります(9章3節)。「さらし職人」というのは、衣服や布の汚れや余計な色を洗い落として純白にする職業の人です。今で言えば、漂白ということでしょう。当時はどのように漂泊したのか特に調べませんでしたが、いずれにしても古代世界においても衣服や布を純白にする専門家がいたということです。ここで重要なのは「この世のどんなさらし職人」もできないくらいに白く輝いたということです。イエス様が放った白い輝きはこの世的でない白さ、天上の白さだったということです。イエス様は乙女マリアから肉体を伴って人間として生まれたけれども、この時は神の力で神聖な神のひとり子としての神聖な姿形に変えられていたのです。神の御許にいるのに相応しい姿形です。

イエス様がこの世的でない天上の白さで輝いた時、それは私たち人間がどれだけそのような白さから遠ざかった存在であるかを如実に示した瞬間でもありました。私たち人間は神の御許にいるのに相応しくない存在であるということです。どうしてそうなのかと言うと、創世記の最初に記されているように最初の人間が神の意思に反しようとする性向、それを聖書では罪と呼びますが、それを持ってしまったために神聖な神の御許にいられなくなって神との結びつきを失ってしまったのです。もちろん、この世には悪い人だけでなく良い人も沢山います。しかし、創世記2章17節と「ローマの信徒への手紙」5章に記されているように、最初の人間が罪を持つようになったことが原因で人間は死ぬ存在になってしまいました。それで、人間は代々死んできたように、代々みんな罪を汚れのように受け継いできたのです。

人間が罪の汚れから洗い清められ、神の目に相応しいものとなって最終的に復活の日に復活を遂げて神聖な神の国に迎え入れられるようになるためには、神の神聖な意思に完全に沿うようになっていなければなりません。しかし、それは不可能なことです。どうしてかと言うと、神の神聖な意思を表しているものとして十戒の掟があります。しかし、それは、使徒パウロがローマ7章で明らかにしているように、人間が神の目に相応しいと認めてもらうために実行していくものではありません。そもそも完全に守り切ることなど人間には出来ません。そうではなくて、人間が神の神聖な意思からどれだけ遠ざかった存在であるかを思い知らせる鏡なのです。詩篇のなかでダビデは神に「わたしの咎をことごとく洗い、罪から清めて下さい」(51章4節)、「わたしを洗ってください 雪よりも白くなるように」(9節)と嘆願の祈りを捧げています。これからも明らかなように人間の罪の汚れからの洗い清めは、もはや神の力に拠り頼まないと不可能なのです。

それでは神は人間を洗い清めて下さるのでしょうか?もちろん、洗い清めて下さいます。どのようにしてでしょうか?それは次のような次第で行われました。神はひとり子のイエス様をこの世に送り、本来人間が受けるべき罪の神罰を全てイエス様に負わせてゴルゴタの十字架の上で受けさせて死なせました。イエス様が罪の償いを私たち人間に代わって神に対して果たして下さったのです。そこで人間はこのことが本当に起こったのだとわかってイエス様を自分の救い主であると信じて洗礼を受けると罪の償いがその人にその通りになります。罪を償ってもらったので神から罪を赦された者として見なされるようになります。パウロがガラテア3章27節とローマ13章14節で言うように、洗礼を受けた者はイエス様を衣のように頭から被せられるのです。父なるみ神は私たちを見る時、私たちの内に残っている神の意思に反しようとする罪よりも、私たちに纏われたイエス様という純白な衣の方に目を向けようとされるのです。

イエス様は十字架の上で私たちの罪を償う身代わりの死を遂げただけではありませんでした。3日後に神の想像を絶する力によって死から復活させられて、死を超えた永遠の命があることをこの世に知らしめ、そこに至る門を私たちに開いて下さいました。それで、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者は永遠の命が待っている神の国に至る道に置かれて、イエス様の純白な衣を着せられて歩み出すこととなったのです。

 

3.イエス様という純白な衣を頭から被せられたと言っても、私たちの内にはまだ神の意思に反しようとする罪が残っています。イエス様の犠牲のおかげで罪を赦された者と見てもらえ、神の目に相応しい者にしてもらったとは言っても、それに相応しくないことが自分に沢山あることに気づかされます。人を傷つける行いや言葉は出さないようには出来ても、心の中で思ったりしてしまいます。神の意思についてイエス様は心の中まで問われると指摘しました。また、どんなに注意しても、人間的な弱さがあったり隙をつかれたりして罪が言葉や行いになって出てしまうこともあります。そのような時はイエス様の衣を汚したとして取り去られてしまうのでしょうか?もう神の目から見て一生失格者なのでしょうか?

そうではないのがキリスト信仰なのです。罪の思いを持ってしまった時、罪の言葉や行いを出してしまった時、その事実から目を背けずにそれを神の意思に反する罪と認めて次のように神に祈ります。「父なる神さま、せっかくイエス様が罪を償って下さったのにそれを台無しにするようなことをしてしまいました。イエス様を救い主と信じますので、どうか赦して下さい。」さあ、神はどう出るでしょうか?神は次のように言われます。「お前がわが子イエスを救い主と信じていることはわかった。お前の心の目をゴルゴタの丘の上に立つ十字架に向けよ。お前の罪の赦しはあそこで打ち立てられてそれは今も微動だにしない。イエスの犠牲に免じてお前の罪を赦す。だから、これからはもう罪を犯さないようにしなさい。」そう言って私たちを新しく送り出して下さるのです。その時私たちは復活された主が墓を後にして出て行ったように私たちも新しい歩みを始めるのです。

キリスト信仰者の人生はこのような罪の告白と赦しの繰り返しです。それを断ち切らないで続けることがイエス様の純白の衣を纏い続けることになります。たとえ罪が内に残っていても、神の方を向いて罪の告白と赦しを繰り返すことでイエス様の衣を手放さなずにしっかり纏い続けていくと、罪は衣の神聖な重みで日々圧し潰されていきます。そして、いつの日か神の御前に立たされる時、自分の人生は罪が内に残っていた人生だったかもしれないが、イエス様の衣を最後まで手放さなかったことで罪を圧し潰す側に立って生きていたことが明らかになります。神はこれをよしと認めて下さるのです。これがキリスト信仰者に下される審判です。この世で罪を圧し潰す側に立って生きると、馬鹿にされたり爪はじきされたりすることが多くなります。でも、それは間違いではなかったと復活の日にはっきりします。その時、信仰者にはもう圧し潰す罪がなくなっています。外側だけでなく内側も純白になって変容を遂げているのです。

 

4.ここでイエス様が3人の弟子たちに山の上で見たことを自分が復活する時まで人に話してはいけないと命じたことについて考えてみます。これは実は本日のテーマである、復活と変容の関係に関わります。なぜイエス様はそのようなことを命じたのでしょうか?

先週の説教でも触れたことですが、イエス様が自分は何者であるかとか、自分が奇跡の業を行った時とか、そういうことを他の人に知らしてはいけないと命じたことが沢山あります。これについて、W.ヴレーデというドイツの歴史聖書学者が120年前に発表した学説が今でも影響力を持っているということをお話ししました。ヴレーデの説は、マルコは福音書を書いた時、イエス様は自分の正体を復活の日まで秘密にするように命じ、その日に全てが明らかになるような仕掛けで福音書を書き上げたというものでした。彼の学説には沢山の反論もあり、私も与しない立場ですが、それならばイエス様のかん口令はどのように説明できるのか、これを説明できなければなりません。先週は悪霊に対するかん口令を説明しました。今日は3人の弟子たちに対するかん口令です。今日のは特にイエス様が自分の復活の時まで話してはいけないと言うので、ヴレーデの説明が一番響くところです。この個所をマルコの創作ではなく、イエス様が実際に話された言葉としてみたら、どのように説明できるでしょうか?

イエス様が自分の復活の時まで話してはいけないと命じた時、弟子たちは復活とは一体何なのかわからなかったとあります(10節)。弟子たちがわからなければ他の人たちもわからなかったでしょう。復活というものがわからない段階で山の上の出来事を知らせるのは時期尚早、イエス様が復活を遂げて復活というものが起こるのだとわかった段階で知らせたら復活がわかるようになるということです。つまり、イエス様の復活の後ならこの出来事は復活の理解に資するが、復活の前では資さないということです。さあ、どういうことでしょうか?

この問いに答えられるためにモーセとエリアの出現について考えることが役立ちます。遥か昔の時代の預言者が突然現れたというのは、これは幽霊でしょうか?そうではありません。二人は神の御許から送られてきたのです。ここは少し複雑なところなので、よく注意して聞いて下さい。聖書の観点では人間がこの世を去った後に神の国に迎え入れられるというのは、今の世が終わって神が新しい天と地を創造される時になってからのことです。その時までは亡くなった人たちは神のみぞ知る場所にて安らかに眠っています。その眠りから目覚めさせられるのが復活です。

ところが聖書には、そういう将来の復活の日を待たずに神の御許に迎え入れられた人たちがいることが言われているのです。本日の旧約の日課に出てくるエリアがその一人です。モーセの場合は少し微妙で、申命記34章では「死んだ」と言われていますが、彼を葬ったのは神自身で、その葬られた場所は誰にもわからないという謎めいた最後の遂げ方です。それでモーセの場合も、この世を去る時に神の力が働いて通常の去り方をしないで、復活の日を待たずして神の御許に迎え入れられたと考えられます。その証拠に彼はエリアと一緒に神の御許からヘルモン山頂に送られてきました。これは、もう幽霊などという代物ではありません。このように、聖書の観点ではこの世を去った人は原則として復活の日までは神のみぞ知る場所で安らかに眠るのが筋です。ただ、例外的に復活の日を待たずに神の御許に迎え入れられた者もいるということです。

さて3人の弟子たちは目の前に現れたエリアとモーセを見てどう思ったでしょうか?イエス様が復活された時、突然弟子たちの前に現れて弟子たちは幽霊だと思って大騒ぎになりました。イエス様は自分は幽霊ではないと言って、新しい復活の命を持つ自分を示して弟子たちを納得させました。しかし、イエス様の復活が起きる前のヘルモン山の上で弟子たちはまだ復活について何も知りません。彼らにとってエリアとモーセはやはり幽霊だったのではないかと思います。しかし、この二人は本当は既に神の御許に迎え入れられた者として現れたのです。その証拠に、ルカ9章31節を見ると、二人は「神の栄光に包まれて現れた」と言われています。幽霊にはそんな神の栄光などありません。それなので、幽霊として出てくるというのは、神の御許からではないので、私たちは一切関りを持たないように注意しなければなりません。それは万物の造り主である神の意思でもあります。なぜかと言うと、旧約聖書の多くの個所で神は死者の霊とのコミュニケーションを禁じているからです(レビ19章31節、申命記18章11節、サムエル上28章、列王記上21章6節、イザヤ8章19節)。日本人には痛いところかもしれませんが、これが聖書の立場なのです。

さあ、3人の弟子たちの驚きと恐れはいかほどのものだったでしょうか?神は死者の霊とのコミュニケーションを禁じているのに、なんとイエス様はエリアとモーセと話をしているではないか!しかし、イエス様は天上の純白さで輝き、エリアとモーセも神の栄光に包まれている。これは幽霊ではない。じゃ、一体何なんだ!という具合にです。でもこれは、私たちも復活を遂げたらエリアとモーセのように神の栄光に包まれた者に変容させられて、天上の純白さに輝くイエス様とお話ができるという、自分たちの未来像が示されていたのです。これは本当に、死からの復活、死を超えた永遠の命があることがわからないと未来像として受け取ることは不可能です。だからイエス様の復活の後でなければわからないことであり、人々に正しく伝えられるためには主の復活を待たねばならなかったのです。

 

5.最後に山上に現れた雲についてひと言述べておきます。登山する人は高い山では天候があっと言う間に急変すること、例えば、ちょっと前まで晴れていたのが冷たい空気が流れ始めるといつの間にか周囲は霧で真っ白になることを知っています。登山用語でガスと言いますが、それは麓から見たら山にかかる雲ということになります。それなので、ヘルモン山上で急に雲が覆ったというのは普通の自然現象としてもあり得ます。普通の自然現象を超えるような雲については出エジプト記の中で述べられています。モーセがシナイ山に登って神から十戒を初めとする掟を受け取った時、山は厚い雲に覆われました。出エジプト記33章を見ると、モーセが神の栄光を見ることを望んだ時、神は人間は誰も神の顔を見ることは出来ない、見たら死んでしまうと言われました(18~23節)。これが神聖な神を目の前にした時の人間の立ち位置です。被造物にすぎない私たちはこのことをわきまえていなければなりません。

そういうわけでシナイ山の雲は、生身の人間が神の神聖さに焼き尽くされないための防護壁のようなものでした。ヘルモン山上でのイエス様の変容の時も、神がすぐ近くまで来ていたとすれば、雲は同じようにペトロたちを守るものだったと言えます。そして、私たちが復活を遂げて肉の体にかわる、神の栄光を映し出す復活の体を着せられる時、私たちも変容させられたのであり、その時はもう防護壁はいりません。パウロが第一コリント13章12節で言うように、「そのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる」からです。まさに復活とは変容のことなのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

(後注)復活を意味する動詞はεγειρωとανιστημιがあり、受動態で使われるのは前者です。

特別の祈り

全知全能の父なるみ神よ。

あなたはあの高い山でイエス様が変容(へんよう)した時、彼に聞き従え、とお命じになりました。どうか私たちが、イエス様のおかげで天のみ国を受け継ぐことが出来るようになったことを常に覚えて感謝し、彼の教えられたことを喜んで行えるようにして下さい。

あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストのみ名を通して祈ります。アーメン

 

 

 

フィンランドのラスキアイネン

ラスキアイネン

2月16日はフィンランドのカレンダーではラスキアイネンです。この時期になると多くの家庭ではラスキアイスプッラというプッラお菓子パンを作ります。 フィンランドではプッラはいろんな形や味のものが作られます。いろいろ季節に合うものが作られます。冬から春にかわる今の季節はラスキアイスプッラがお店で一番売られています。このプッラは1月頃から四旬節の前までの期間に食べられます。四旬節というのはイースター・復活祭の前の40日間の期間です。フィンランドでは四旬節に入る「灰の水曜日」の前日の火曜日がラスキアイネンと呼ばれます。この日の習慣としてフィンランド人は雪の中をそりですべったり、美味しいラスキアイスプッラを味わったりします。大人も子供も寒い中そりで滑った後で暖かい部屋に入ってラスキアイスプッラを暖かい飲み物と一緒に楽しみます。それがラスキアイネンの雰囲気を作ります。私は子どもの時、兄弟たちとラスキアイネンの朝に誰が一番早くそりで滑るか競争したので、その日は学校に行く前に朝5時や6時に滑ったこともあります。

ラスキアイスプッラ

ラスキアイネンのあとに来る四旬節とはどんな期間でしょうか?四旬節は40日の期間です。それはイエス様が荒野で40日間何も食べないで悪魔から誘惑を受けて打ち勝ったことに由来します。それでこの40日間はイエス様が活動を始める前の準備の期間にもなりました。四旬節の時、私たちはイースター・復活祭の前にイエス様が苦しみを受けたことを覚えて心の中で思い巡らします。イエス様は天の神様のひとり子で罪を持たなかったのに苦しみを受けて十字架で死なれました。イエス様は私たち人間の罪を十字架の上にまで背負って下さったのです。それで四旬節はイエス様の十字架の意味を心の中で思い巡らすのにとても良い期間なのです。

イエス様は荒野で40日間食を断った後で悪魔から誘惑を受けて次のように言われました。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」。それに対してイエス様は「人はパンだけで生きるのではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と答えられました。四旬節の時、私たちは聖書を読んで神様が私たちにどんなことを語って下さるかを知ることは生きる力になります。そして神様のみ言葉は、私たちの心の中で神様に対する信頼を強めてくれます。

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「成長の支え 〜 自分と子どもへ」というFacebookグループにご参加いただければ幸いです。そこで、2月14日から、フィンランド風のイースターカレンダーを読むことが出来ます。文と写真を通して、イースターのメッセージを味わうことができます。

天気が良ければ、今度の日曜日に大勢のフィンランド人はそり滑りに出かけます。そして家に帰ってから、ラスキアイスプッラを食べます。それはいったい何のことでしょうか。イースターというお祝いの準備をする時間の始まりです。今年のイースターは4月4日に当たります。イースターは大きいお祝いなので、その準備をする時間も長いです。

「イースターに向かって」というイースターカレンダーを通して、このお祝いについて楽しく学ぶことができます。物語のヴィッレくん(Ville)とアンニちゃん(Anni)とともに、家族の小さい子どもも、イースターを喜んで待ち望める助けになるでしょう。

読者の皆さんが、イースターの深いメッセージを味わうことができるようにお祈りいたします。

文・写真:パイヴィ・ポウッカ宣教師

2021年度の主題と主題聖句

スオミ教会の2021年度の主題と主題聖句について以下の宣教師提案が2月7日の教会定例総会にて採択されました。

主題「試練と不運の真っ只中でも神に感謝することはある。それを忘れないでいこう。」

主題聖句 詩篇118篇1節「主に感謝せよ。主は良い方なのだから。主の慈しみは永遠にあるのだから。」(フィンランドのルター派国教会の1938年版聖書に倣った訳)

提案理由

コロナ禍のこの1年、多くの人たちが苦難や困難に陥りました。感染を免れても別の苦難や困難がありました。この状況はまだ続きそうです。このような時、キリスト信仰者はどのように苦難や困難に立ち向かっていけるのか?詩篇118篇1節の御言葉についてルターが説き明かしたことは、立ち向かう心構え、基本姿勢を教えています。それを以下に引用します。

我々はいかなる不運に直面しても、それは本当は神が我々に灯した光なのだと理解しなければならない。それは、神の恵みと善き業が実は数えきれないくらいの出来事の中にあったことが照らし出されて見えるようになるための光なのである。まさにその時、不運などというあの取るに足らない害悪は、我々からすれば燃え盛る炎に落ちていく一滴の雫にしかすぎなくなる。あるいは、大海の中に落ちていくちっぽけな火花にしかすぎなくなる。そのようになっていくのは、まさにこの聖句が我々にとって身近で麗しいものになるためなのである。「主に感謝せよ。主は良い方なのだから。主の慈しみは永遠にあるのだから。」この御言葉で言い表される気持ちは次のようなものになろう。「ああ、あなたは私になんと誠実で慈しみ深い神聖な神でおられることか。私に対してもこの世全てに対してもこんなに大きくて沢山の善いことをいつも行って下さるのだから。私の感謝は全てあなたに帰せられますように。」

これと同じ聖句は聖書の中、特に詩篇の中でしばしば用いられる。この聖句は我々に正しくて神の御心に最も適う捧げものについて教えてくれる。我々は、神に感謝する以上に大きくて優れた業を行うことはできないし、心がこもった礼拝を守ることもできないのである。

この説き明かしでルターは私たちが見落としがちなことを強く教えています。苦難や困難に陥った時、私たちは神に助けを祈りますが、その時、神に感謝することがあるなどとは思いもよらないでしょう。逆に苦難や困難がない時は、感謝するどころかさして祈る必要もないという態度でしょう。しかし、いつも神に感謝できていると、不運は一滴の雫、ちっぽけな火花に変わってしまうのです。自分の人生は不運だらけだった、だから神に感謝することなどない、などという考えはキリスト信仰者には無縁です。なぜなら神がひとり子を私たちに贈られたことが全ての感謝の基礎にあって中心にあるからです。このひとり子が十字架の死を遂げて私たちの罪を神に対して償って下さったおかげで私たちは神との結びつきを持ててこの世を生きられるようになりました。そのような御子を贈って下さった神は良い方です。さらに彼を死から復活させることで私たち自身が将来の新しい世の復活に到達できる道を切り開いて下さいました。それで神の慈しみは永遠にあるのです。

詩篇118篇1節は、新共同訳では2~4節の形にあわせて「恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに」と詩的に訳しています。ヘブライ語原文を直訳すると冒頭に掲げたような「主に感謝せよ。主は良い方なのだから。主の慈しみは永遠にあるのだから。」となります。なぜ主に感謝するのか、それは、主が良い方だから、その慈しみが永遠にあるからだ、と理由を言っているのです。その方がルターの説き明かしとよく合うのではと考えて直訳を掲げた次第です。余談ですが、フィンランドのルター派国教会の1938年版聖書もこのように訳しています。

 

 

2021年2月7日(日)顕現後第5主日 主日礼拝 司式・説教 吉村博明SLEY(フィンランド・ルーテル福音協会)宣教師

主日礼拝説教 2021年1月31日 顕現節第四主日

イザヤ40章21-31節

第一コリント9章16-23節

マルコ福音書1章29-39節

説教題「神の国に向かって進む者は疲労しても必ず回復する」

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.カファルナウムの長い一日

今日の福音書の個所を読んだ皆さんは、ここにある出来事は先週の出来事の続きで全部が一日の内に起こったことと分かったでしょうか?実にたくさんのことが一日の内に起こりました。少し遡ってみてみますと、イエス様はヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けて、その後で荒野で悪魔から試練を受けてこれに打ち勝ちます。その時、ヨハネがガリラヤ地方の領主ヘロデ・アンティパスに捕らえられたという知らせを聞き、イエス様はガリラヤに乗り込んで行きます。そこでまずペトロとアンドレの二兄弟とヤコブとヨハネの二兄弟を弟子にして付き従わせます。そして、ガリラヤ湖畔の町カファルナウムにやって来て、安息日に会堂に行って教えを宣べます。この安息日に沢山のことが起こったのです。会堂にいた人々はイエス様の教えに律法学者にはない権威を感じ恐れ入ります。丁度その時、会堂にいた悪霊に取りつかれた人が叫びだし、イエス様はその人から悪霊を追い出します。会堂にいた人々はイエス様の教えにはそのような力が伴っていることも思い知ります。この会堂の出来事が先週の福音書の個所でした。この出来事はその日のうちにガリラヤ地方に伝わっていきます。

今日の個所はその続きです。会堂から出たイエス様とペトロ、アンドレ、ヨハネ、ヤコブの4人はペトロとアンドレの家に向かいます。家にはペトロの奥さんの母親が熱を出して苦しんでいました。イエス様は彼女に癒しの奇跡を行います。そして日が暮れて夜になると、なんと、カファルナウムの町中から病気の人や悪霊に取りつかれた人が大勢連れて来られて家の門の前に群れを成したのです。日が暮れた時に連れて来られたというのは、安息日が日暮れと共に終わったからでした。安息日は仕事をしてはいけない日で、病人を運ぶことも仕事とみなされたのです。町の人たちは癒しの奇跡を行う者が現れた、漁師のペトロとアンドレと一緒だと聞いて、日が暮れるや否や一気に押し寄せたのです。

イエス様はそこで大勢の人の病気を治し悪霊を追い出します。会堂に行って教えを宣べて悪霊を追い出してから、本当に長い安息日になりました。本当にお疲れ様でした。さて、癒しや悪霊追い出しが夜通し続いた途中だったのか、あるいは一息ついたところかははっきりわかりませんが、イエス様は夜明け前の一番暗い時にその場を抜け出して人気のないところに行ってそこで祈っていました。すると、ペトロたちがやって来て、人々があなたを探していますと伝えます。早く戻って来て癒してあげて下さいということでしょう。それに対してイエス様は、もっと近隣の町や村に行って教えを宣べ伝えなければならないと言います。そのために自分は家を抜け出してきたのだと言うのです。それでペトロの家には戻らず、ガリラヤ地方の会堂を回って教えを宣べ伝えます。

これを読むと、あれっ、イエス様は少し冷たいな、もう少しペトロの家の所で癒しと悪霊追い出しをしてあげればよかったのになどと思ってしまいます。でも、イエス様にとっては教えを宣べ伝える方が先決だったようです。ところで、新共同訳では「教えを宣べ伝える」と言わないで「宣教する」と訳しています。もとにはκηρυσσωというギリシャ語の単語がありますが、それは「教えを宣べ伝える」という意味です。「宣教する」も同じではないかと思われるかもしれませんが、実はそうとも言えないのです。こんなことがありまして、日本福音ルーテル教会の東教区の中央線沿線の7教会が毎年「一日教会祭」という、各教会がそれぞれのタレントをお互いに披露しあうというイベント行事を市ヶ谷教会を会場にして行っています。昨年はコロナで中止でしたが、2年前の一日教会祭である教会が教会外部のベリーダンス・グループを招いて自分の教会の出し物としてダンスを披露させました。その後で牧師と役員の会合があったのですが、私が、あの出し物は一日教会祭の趣旨に合わないのではと疑問を呈したところ、あれは立派な「宣教」なのだ、そんなこともわからないのか、と呆れかえられてしまいました。私が神学を学んだフィンランドでそういう「宣教」に類する言葉はあるかどうか考えてみたのですが思い当たらず言葉に詰まってしまいました。それ以来、私は「宣教」という言葉を使うのをやめることにしました。「福音の伝道」と言うことにしています。

話が横道に逸れましたが、イエス様が重視した「教えの宣べ伝え」を今日の説教で見ていこうと思います。イエス様が癒しや悪霊の追い出しを軽視したということではないのですが、ただそれらが「教えの宣べ伝え」とどういう関係にあるのかを明らかにする必要があります。

2.イエス様は教えることを優先するが、その教えには力が伴っていた

イエス様が宣べ伝えた「教え」とはどんな教えだったでしょうか?イエス様はガリラヤ地方で伝道活動を開始した時に、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」と宣べました。2週間前の説教でお教えしたことですが、「時は満ちた」というのは「神の人間救済の計画が実行に移される時が来た」という意味です。「神の国は近づいた」というのは、「神の国がイエス様と一緒にすぐそばに来ている」という意味です。「悔い改めよ」とは、「神に背を向けた生き方をやめて神の方を向いて生きよ」と言う意味、「福音を信じなさい」は「旧約聖書にある神の約束がいよいよ実現するという良い知らせを信じなさい」ということです。イエス様の教えの中心にあるものは「神の国」です。人間が「神の国」に迎え入れられるようにするためにはどうしたらよいか?これがイエス様の教えと業の双方を理解する鍵であると言っても過言ではありません。

 「神の国」については本教会の説教でも何度もお話ししましたが、ここでも振り返ってみます。「神の国」は「天の国」とか「天国」とも言い換えられるので、何か空高いどこか宇宙空間に近いところにあるようなイメージがもたれます。しかしそうではなくて、「神の国」は今私たちが目で見たり手で触れたりして、また測定したり確定できる世界とは全く別の世界です。今の私たちには見たり触れたりできない、測定も確定もできない世界です。その世界におられる神が、今私たちが目にしている森羅万象を造られたというのが聖書の立場です。万物の造り主の神は天地創造の後で自分の世界に引き籠ってしまうことはしませんでした。そこから絶えずこちら側の世界に関わりをもってきました。神の関わりの中で最大なものは何と言っても、ひとり子イエス様をこちら側に送って、彼を用いて人間の救いを実現したことでしょう。

そこで、イザヤ書の終わりの方(65章17節、66章22節)や新約聖書のいくつかの箇所(第二ペトロ3章13節、黙示録21章1節、ヘブライ12章26ー29節など)を見ると、今あるこの世は終わりを告げるという預言があります。その時、神は今の天と地にかわって新しい天と地を創造して、そこに唯一残るものとして神の国が現れてくるという預言です。そう言うと、「神の国」すなわち天国はこの世の終わりに現れてくるということになり、あれっ、キリスト教は死んだらすぐ天国に行けないの?という疑問が起きます。実はキリスト教には「復活」の信仰があるので、そうはならないのです。「神の国」に入れるというのは、この世の終わりの時に死者の復活が起きて、入れる者と入れない者とに分けられる、これが聖書の言っていることです。

そうなると、亡くなった人たちは復活の日までどこで何をしているの?という疑問が起きます。これもルターによれば、亡くなった人は復活の日まで神のみぞ知る場所にて安らかに静かに眠り、復活の日に目覚めさせられて神の栄光に輝く復活の体を着せられて神の国に迎え入れられるということになります。

 さて、イエス様は「神の国は近づいた」と言いましたが、それはこの世の終わりが近づいたことを意味したのではありませんでした。イエス様の時代から2000年たった今でもまだ天と地はそのままです。イエス様は神の国の近づきを終末論と違った意味で言っていたのです。どういうことかと言うと、イエス様が行った奇跡の業が神の国の近づきを示していたのです。イエス様は大勢の人たちの難病や不治の病を癒したり悪霊を追い出したり、自然の猛威を静めたり、何千人の人たちの空腹を僅かな食糧で満腹にしたり、とにかく沢山の奇跡の業を行いました。イエス様はどうして奇跡の業を行ったのでしょうか?もちろん困っていた人たちを助けてあげるという人道支援の意味があったでしょう。また、自分は神の子であるといくら口で言っても人間はそう簡単に信じない。それで信じさせるためにやったという面もあります(ヨハネ14章11節)。しかし、人道支援や信じさせるためなら、どうして、もっと長く地上に留まって困っている人たちをより多く助けてあげなかったのか、もっと多くの不信心者をギャフンと言わせてもよかったではないか、なぜ、さっさと十字架の道に入って行ってしまったのか、そういう疑問が起きます。

 実はイエス様は奇跡の業を通して、来るべき神の国がどんな国であるかを人々に垣間見せて味あわせたのです。神の国は、黙示録19章で結婚式の壮大な祝宴にたとえられます。つまり、この世の人生の全ての労苦が最終的に神から労われるところです。また、黙示録21章で言われるように、そこに迎え入れられた人の目から神が全ての涙を拭い取って下さるところです。この涙は痛みだけでなく無念の涙も含まれます。つまり、この世の人生で被った不正義や害悪が最終的に神によって償われ、不正義や害悪をもたらした悪が最終的に報いを受けるところです。このように最終的に労われたり償われたりするところがあるとわかることは大事です。というのは、私たちが何事かを成し遂げようとする時、神の意思に沿うようにやってさえいれば、たとえうまく行かなくとも無駄だったとか無意味だったということは何もないとわかるからです。

 このように神の国とは、神の正義が貫徹されていて害悪や危険や死もない、永遠の平和と安心があるところです。そこで、イエス様が奇跡の業を行った時、病気というものがなく、悪霊も近寄れず、空腹もなく、自然の猛威に晒されることもない状態が生まれました。つまり、イエス様の一つ一つの奇跡の業を通して神の国そのものが人々に接触したのです。まさにイエス様の背後には神の国が控えていたのであり、彼は言わば神の国と共に歩き回っていたのです。この世の自然や社会の法則をはるかに超えた力に満ちた神の国、それがイエス様とセットになっていたのです。

 しかしながら、ここで一つ注意しなければならないことがあります。それは、神の国がイエス様と共に到来したと言っても、人間はまだ神の国と何の関係もなかったということです。最初の人間アダムとエヴァの堕罪の出来事以来、人間は神の意思に反しようとする罪を持つようになってしまいました。それで人間はそのままの状態では神聖な神の国に入ることはできません。いくら、難病や不治の病を治してもらっても、悪霊を追い出してもらっても、空腹を満たしてもらっても、自然の猛威から助けられても、人間はまだ神の国の外側に留まります。また、いくら神の掟や律法を守ろうとしたり宗教的な修行を積んでも、人間は体と心に沁みついている罪を除去することはできません。自ら神聖なものに変身して神と対等になることなどできません。

この罪の問題を解決して人間が神の国に迎え入れられるようにしてくれたのが、イエス様の十字架の死と死からの復活だったのです。私たち人間は、イエス様の十字架と復活が自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、イエス様が十字架の上で果たしてくれた人間の罪の償いがそのまま自分にその通りになります。罪を償ってもらった者になったら今度は神から罪を赦された者と見なされて、永遠の命が待つ神の国に向かう道に置かれてその道を進むことになります。イエス様の死からの復活のおかげで永遠の命への扉が人間に開かれました。キリスト信仰者はそこに至る道を順境の時も逆境の時もいつも変わらず神に守られ導かれて進みます。たとえこの世を去ることになっても復活の日に目覚めさせられて神の国に永遠に迎え入れられるようになったのです。

以上、イエス様は教えを宣べ伝えることをとても大事にしたということと、彼の教えの主眼は人間を神の国に迎え入れられる者にすることであったことを見てきました。イエス様の教えには癒しや悪霊追い出しの力が伴っていましたが、それは神の国が彼と共にあったからということも見ました。

3.悪霊の言うことには耳を貸すな

本日の個所のイエス様の癒しと悪霊追い出しの業の中でひとつ難しいことがあります。それは34節にあります。「イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである。」

これを読むと、悪霊がイエス様のことを知っていたので、イエス様は悪霊に話をすることを許さなかったということになります。これはどういうことでしょうか?悪霊がイエス様のことを知っていて、イエス様が話をすることを許さないというのは既に先週の個所にありました。24節で悪霊が取りついている男の人の口を通して叫びます。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」これに対してイエス様は𠮟りつけて言います。25節です。「黙れ。この人から出ていけ!」ここで「神の聖者」という訳についてひと言申し上げます。「聖者」と言うと「聖者の行進」という有名なゴスペル・ジャズの歌があるので何だか死んだ人みたいに聞こえてきます。それではイエス様が可哀そうです。ギリシャ語原文を見ると「神の神聖な方」です。定冠詞がついているので「神の神聖な方の決定版」です。英語で言えばThe holy one of Godです。「聖者」ではありません。悪霊はイエス様が神の神聖なお方で、悪霊を滅ぼす力があるとわかっていました。それに対してイエス様は「黙れ!」と言って、それを口にしてはいけないと言うのです。マルコ3章でも、悪霊がイエス様のことを「神の子だ」と言って恐れおののき、イエス様はそれを人々に知らしてはいけないと戒めます。これは一体どういうことでしょうか?

福音書を見ると悪霊の追い出し以外にも、イエス様が癒しの業を行った時に誰にも言ってはならないとか、自分が行ったこと自分が神のもとから来た者であることを口外してはならないという場面が多くあります。イエス様のこうしたかん口令について、ドイツの歴史聖書学者のW.ヴレーデという人が1901年という昔に「メシアの秘密」という有名な研究書を出しました。彼によると、マルコ福音書を書いた人は、イエス様が自分の正体を人々に隠し続け、復活の時になって全てが明らかになるという仕掛けで福音書を書き上げたと言うのです。これからわかるように、福音書というのは歴史的事実を伝えるものではなく福音書作者の文学作品という立場です。ヴレーデの学説は長く影響力を持って、学会だけでなく礼拝の説教でもイエス様のかん口令を説明する際によく使われたのではないかと思います。ただし、ヴレーデの説に対する反論も沢山あります。私も賛成しません。それでは、悪霊がイエス様のことを知っていたからイエス様は悪霊が話をすることを認めなかったということは、どうやって説明できるでしょうか?

先週の説教で、悪霊と悪魔の区別についてお話ししました。悪魔・サタンは悪霊の頭、悪霊は悪魔・サタンの手下です(マルコ3章等にあるベルゼブル論争を参照)。悪魔は人間を神から引き離して神罰を受けるように陥れようとします。悪霊は人間に苦しみを与えて救いなどない、神などいないという気持ちに持って行こうとします。ところが、イエス様の十字架と復活の業のおかげで神から罪の赦しを受けられる可能性が打ち立てられました。さらに、永遠の命に至る扉も人間に開かれ神の国に迎え入れられる可能性が打ち立てられました。まさにそのために悪魔と悪霊の企ては破たんしてしまいました。それにもかかわらず両者は機会を捉えては、人間が罪の赦しがあることも神の国への迎え入れの可能性も知らないようにしようとします。仮に知ることになっても忘れるようにしようします。

さて、悪霊がイエス様のことを「神の神聖な方の決定版」とか「神の子」と呼ぶのは、本当にその通りで間違ってはいません。ただそれは信仰告白ではありません。私たちがイエス様のことを「神の子」と呼ぶのは信仰告白です。なぜなら私たちは、イエス様が私たちに罪の赦しと神の国への迎え入れをもたらして下さった、だから彼は真に「神の子」です、と告白するからです。これが信仰告白です。ところが、悪霊の場合は、イエス様が自分たちを滅ぼす力を持っているから「神の子」なのです。これはその通りですが、信仰告白ではありません。なぜなら、人間の神の国への迎え入れということが全然出てこないからです。イエス様が自分は神の神聖な者、神の子であるということを悪霊に話させないようにしたのは、信仰告白と無関係に正体の暴露はするなということです。イエス様と悪霊のやり取りは周りの人たちにも聞こえます。悪霊を黙らせるというのは、それらの言うことに耳を貸してはならないということも意味しています。ここでもイエス様が人間の神の国への迎え入れを大事に考えておられることが見えてきます。

4.神の国に至る道を進む者は疲労しても必ず回復させられる

先ほども申しましたように、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者は、永遠の命が待っている神の国に向かう道に置かれてその道を進むようになります。しかしながら、その道を進むことはいつも楽ではないということが、本日の旧約の日課イザヤ書40章の終わりでも言われます。まず、27節に「わたしの道は主に隠されている、わたしの裁きは神に忘れられた」と嘆きの言葉があります。ヘブライ語原文をもう少ししっかり見ると、「私の歩む道は主の目に届いていない、私の正義は神のみ前を素通りしてしまう」です。父なるみ神に見放されたと思って嘆いているのです。ところが神は、そうではないと、28~31節で言います。「疲れた者に力を与え、勢いを失っている者に大きな力を与えられる。若者も倦み、疲れ、勇士もつまづき倒れようが、主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いていても疲れない。」

「主に望みをおく人」というのは、これも原文に忠実に見ると「主を待ち望む人」です。「主」というのはヤハヴェと書いてあるので、聖書の神のことです。それで「主を待ち望む」と言うのは、「神が救ってくれるの待ち望む」ことです。「神の救いを待ち望む」とは言うまでもなく、復活の日に目覚めさせられて復活の体を着せられて神の国に迎え入れられる、その時を待ち望むことです。その時を待ち望む者は、神の国に向かう道を進んでいる時に疲労しても必ず回復が与えられるということを、このイザヤ書40章の終わりで約束しているのです。主にある兄弟姉妹の皆さん、疲労回復のカギは何と言っても神の国への迎え入れを常に待ち望んでいるかどうかにかかっていることを忘れないようにしましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

 

 

特別の祈り

全知全能の父なるみ神よ。

あなたは、ひとり子イエス様の十字架の死と死からの復活によって、私たちの心の目と耳を開いてくださいました。 どうか私たちが、開かれた目と耳をもって聖書の御言葉が伝える真の希望を見出し聞こえるようにして下さい。 

あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストのみ名を通して祈ります。アーメン

歳時記

池の氷も融けて、春一番の南風も吹いて、例年より少し早めの春が来そうです。梢の蕾も膨らんできました、神の御業に目を見張るばかりです。

歳時記

居間の窓際のクロガネモチの実を狙って毎日ヒヨドリが数羽ずつやって来ました、 今朝見たらあれほど沢山あった実がすっかりなくなっていました恐るべしヒヨドリの食欲です。今週の初めに珍しくメジロがやって来ました、メジロの小さなくちばしにはクロガネモチの実は少々大きすぎると思いましたがヒヨドリの脇でせっせと啄んでいました。