来週の礼拝:6月24日 聖霊降臨後第5主日

聖書 申命記    5:12~15

   Ⅱコリント  4:7~18

   マルコ    2:23~28

賛美歌 149 382 291 340

司式 田中良浩 牧師

説教 田中良浩 牧師

奏楽 青木千恵 姉

当番 西尾ひろ子 姉

応対 折笠博子 姉

 

説教「新しく創造された者として生きる」神学博士 吉村博明 宣教師、マルコによる福音書2章18-22節

主日礼拝説教2018年6月17日 聖霊降臨後第四主日

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 本日の福音書の箇所のイエス様の教えは少しわかりにくいと思います。まず、断食についての教えがあります。ファリサイ派や洗礼者ヨハネの弟子たちは断食をするのに、なぜイエス様の弟子たちはしないのか、とイエス様が問われました。ファリサイ派というのは、当時のユダヤ教社会の宗教エリートと言ってもよい人たちです。イエス様の答えは、花婿が一緒にいる時に婚礼の客たちは断食などできない、というものでした。つまり、イエス様が花婿、イエス様の弟子たちが婚礼の客ということで、それで断食する必要はない、というのです。これは一体、どういう意味でしょうか?

イエス様は続けて、花婿がいなくなってしまう日が来て、その時に婚礼の客たちは断食することになる、とも言われます。つまり、イエス様がいなくなって弟子たちが断食することになる、ということです。新共同訳では「花婿が奪い取られる」となっていて、イエス様が「奪い取られる」ということですが、ギリシャ語原文の動詞(απαιρω)はそんな略奪のような強い意味で訳する必要はなく、イエス様が私たちのもとから「取り去られてしまう」程度でよいと思います(英語のNIV訳もドイツ語、スウェーデン語、フィンランド語の訳もそうです)。そういうわけで、この箇所は、イエス様が天に上げられて弟子たちのもとを離れていくことを意味します。そうなると、イエス様が天の父なるみ神のもとにいる時が断食する時ということになります。それでは、私たちも断食をしなければならないのでしょうか?このことも後ほど考えてみます。

 次にイエス様は、古い服に継ぎあてするのに織りたての新しい布を使う人はいない、そんなことをしたら新しい布切れが古い服を引き裂いてしまう、と教えます。これはもっともなことです。織りたての布はまだ洗濯して乾かしていないので縮んでいません。古い服は何度も洗濯して乾かしているので既に縮んでいるし、生地も使い古されて弱くなっています。そんな服に新しい布切れを継ぎあてにして縫い付けて洗濯して乾かしたら、どうなるでしょうか?新しい布はギュッと縮んで、古い弱くなった周りの布を引っ張って、ひどい時は引き裂いてしまいます。古い服には古い布の継ぎあてを、新しい服には新しい布の継ぎあてを、などとイエス様は何か暮らしに役立つ情報を提供しているのでしょうか?

 これに続く、新しいぶどう酒を古い革袋に入れてはいけないという教えも同じように聞こえます。熟成した古いぶどう酒と違い、新しいぶどう酒は酸味が強いです。古い革袋というのは、弾力性もなくなって硬直していたり擦り切れたりしています。そこに酸味の強い液体を流し込んだら、すぐ裂け目ができてぶどう酒は漏れ出してしまうでしょう。これも暮らしに役立つ情報です。

ところが、これらの箇所をよく目を凝らして読んでみると、イエス様の意図は暮らしに役立つ情報提供ではないことがわかります。イエス様は言われます。新しい布で古い服に継ぎあてする人など誰もいない、新しいぶどう酒を古い革袋に入れる人など誰もいない、と。つまり、こんなことは誰でも知っている当たり前の話である、と言っているのです。それでは、イエス様はなぜ誰でも知っていることをわざわざ話したのでしょうか?それは、こうした日常生活の当たり前のことを話しながら、それを何かにたとえているのです。そのたとえられたことは、生活の当たり前のことと同じくらいに当然のことなのだと言おうとしているのです。それでは、イエス様は何のたとえを話されているのでしょうか?以下、断食の話とあわせてこれらのことも見ていきたいと思います。

 

2.神の国の祝宴と断食

 最初に断食についてのイエス様の教えを見てみましょう。断食と言うのは、多くの宗教に見られる行為です。ある決められた期間とか、何か特別なことが起きた時に食べ物を摂らない、ないしは食べ物飲み物双方を摂らないということをします。断食と聞いて私たちがよく耳にするのは、イスラム教でラマダーンと呼ばれる月に日の出から日没までの間毎日行われる断食があります。断食の目的はそれぞれの宗教により様々と思われますが、おおざっぱに言えば、食べる飲むという人間の基本的な欲求を制限することを通して、それぞれの宗教が崇拝しているものと近づきになろうとすることがあるのではと思います。

ユダヤ教の伝統の中では、断食のなかで大きなものとして旧約聖書レビ記16章に定められている、毎年秋の第七月の十日の贖罪日、つまりイスラエルの民全体の罪を贖う儀式の日が断食の日と定められていました。これとは別に、ダビデ王がサウル王とヨナタンの戦死を聞いて悲しんで断食したということがあります。深い悲しみの心を神に捧げる意味合いで断食することがあったと思われます(サムエル記下1章12節、サムエル記上31章13節も)。

時代が下ってイエス様の時代のユダヤ教社会では前述の贖罪日の他に、宗教エリートのファリサイ派が週二回断食していたことが知られています(ルカ18章12節)。洗礼者ヨハネの弟子たちも本日の福音書の箇所から、断食をしていたことが窺われます。イエス様自身は、洗礼者ヨハネから洗礼を受けた後、荒野で悪魔から試練を受けた時に40日断食をしました。しかし、彼自身は特に弟子たちに断食を命じることはありませんでした。その理由が、先ほど見ました花婿と婚礼の客たちのたとえでした。このたとえについて見てみましょう。

イエス様を花婿とする婚礼とは何か?これは黙示録19章や21章に記されていますが、将来今ある天と地が新しい天と地にとってかわられる日、それはまたイエス様が再臨されて神の国が目に見える形で現れる日ですが、その神の国での祝宴を指します。その日、死者の復活が起こり、創造主である神に選ばれた者たちがこの祝宴に招かれて、神から全ての涙を拭われて(黙示録21章4節)、前世に失ったものを百倍にして返されるなど(マタイ19章29節)大いなる労いと報いを受けます。この祝宴に招かれた者たちがひとくくりになってイエス様の「花嫁」と呼ばれます。普通、結婚式では花婿と花嫁が主役ですが、この祝宴に迎えられた者全員が主役ということになります。このような神の国での救い主と救われた者たちの結婚は、先ほど読んで頂いた本日の旧約聖書の日課ホセア書2章21~22節にも預言されています。新共同訳では、神が「あなたと契りを結ぶ」などと一昔前の歌謡曲か演歌みたいな訳ですが、ヘブライ語原文の動詞ארשの意味は文字通り「婚約する」、「結婚の約束をする」です。

神の国の「結婚式」の祝宴につく者たちは皆、天地創造の神のもとに永遠にいることが出来るようになった者たちです。わざわざ断食などして神とお近づきになる必要などありません。祝宴に招かれたのに、断食しますと言うのは招待を断るようなものです。それでは、イエス様が地上におられた時、断食など必要ないと言ったのなら、そのような祝宴が催される神の国が来ていることを意味します。でも、神の国というのは今ある天と地が新しい天と地に取って替わる時に到来するというのが聖書の立場です。イエス様の時代の天と地は今の私たちの天と地と同じように、かつて天地創造の時に造られたもののままです。イエス様は少しせっかちだったのでしょうか?

実はイエス様が地上で活動していた時、神の国は将来のように見える形ではないが、イエス様にくっつくようにして一緒だったのです。どういうことかと言うと、将来現れる神の国は、黙示録にも記されているように、嘆きも苦しみもなく死さえないところです。また、前世の労苦が全て労われ、前世に被った不正義が最終的に清算され、神の愛と恵みと正義が完全に実現されるところです(黙示録19章5-9節、21章1-4節、マタイ25章31-46節、ルカ16章19-31節、ダニエル12章1-3節、本日の旧約の日課ホセア書2章21-22節も)。そこで、イエス様が地上で活動していた時、数多くの奇跡の業を成し遂げられたことを思い出しましょう。病気の人に治れと命じると病気はなくなり、悪霊に出て来けと命じると言われるままに出て行きました。また嵐に静まれと命じれば静まり、何千人もの人たちの空腹を僅かな食糧で満たしたりしました。

イエス様のこうした奇跡の業は、まさに将来現れる神の国がどういうところであるかを人々に体験させることでした。奇跡の業を受けた人たちは、嘆きや苦しみや死もない神の国を垣間見たというか、味わうことができたのです。このようにイエス様が弟子たちと共に行動し、群衆に教え、奇跡の業を行ったというのは、将来現れる神の国への迎え入れの予行演習のようなものだったのです。将来断食など不要になる大いなる祝宴の日が来る、今自分が地上にいるのはその前触れなのだ、ということなのです。本日の福音書の箇所の前を見ると、イエス様が大勢の罪びとたちを招いて一緒に食事をしたことが宗教エリートたちのひんしゅくを買ったという出来事があります。イエス様はこれらの罪びとたちに「付き従いなさい」と命じ、彼らは言われるままに付き従ったのでした(マルコ2章14節、15節)。そこでイエス様は自分のことを医者である、と言われますが(17節)、彼らは心の病を癒してもらい、これからは天地創造の神の意思に沿うように生きようと立ち返った人たちだったのです。そういうわけで、この食事会も将来の神の国での祝宴の予行演習のようなものだったのです。

ところで、イエス様は昇天日に天に上げられ、再臨の日までは天の父なるみ神の右に座しています。イエス様が地上におられないこの期間は断食することになるとイエス様は言われるのですが、なにがなんでもしなければならないということではないことに注意しなければなりません。マタイ6章11節でイエス様は、断食する場合、自分はどれだけ苦行を積んでいるかを周りの人に知られるためにやってはいけない、自分がどれだけ信心深いかを他人に見てもらうために行ってはならない、と教えています。同じようなことは既に旧約聖書の中にも言われています。イザヤ書58章やエレミア書14章で神は、いくら断食や祈りをしても、する者たちが神の意思に背くような生き方をしていれば、そうした苦行は何の意味も持たない、と言われます。つまり、断食というのは神の意思に沿うような生き方をしている者が行わなければ意味がない、ということです。断食することが神の意思に沿って生きていることの証しであるというのはダメなのです。断食する以前に既に神の意思に沿うように生きるようになっていないとダメなのです。そうなると、神の意思に沿う生き方とはどんな生き方かを見なければなりません。それを知る鍵が、イエス様の新しい布きれと新しいぶどう酒のたとえの中にあります。

 

3.古い服から新しい服へ、古い革袋から新しい革袋へ

 先ほど申しましたように、イエス様の教えは暮らしの知恵ではなく、何かをたとえる教えです。何のたとえなのでしょうか?教えのポイントは、最後の節22節の「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ」と言うところにあります。どういうことかと言うと、古い服や古い革袋を引き裂く力を持つ新しい布きれとか新しいぶどう酒というのは、イエス様自身のことを指します。引き裂かれてしまう古い服や古い革袋とは、イエス様を継ぎあてられたり、注がれたりして耐えられない状態にある人間を指します。つまり、イエス様は私たちに、新しいぶどう酒である彼を入れてもずたずたにならない新しい革袋たれ、新しい継ぎあてをあてられても破れない新しい服たれ、と勧めているのです。イエス様を内に入れられないままだと、古い革袋は古い革袋のままで、ただ硬直した、やがて擦り切れて使い物にならなくなってしまうものでしかない。しかし、そのままの状態で新しいぶどう酒を入れたら耐えられるような代物でもない。新しい革袋に変身しなければ、イエス様をしっかり内に留めて置くことはできない。どうしたら古い革袋がそのような革袋になることできるのでしょうか?断食のような苦行を積んだり、掟や戒律を守ったりすることで自分をそのように一新することができるでしょうか?苦行や掟や戒律というものは、言わば古い状態での完璧さを追求するもので、行えば行うほど、古い状態に満足して新しいものを一層受けつけなくなってしまうのではないでしょうか?

創造主の神とそのひとり子イエス様が成し遂げたことは、まさに古い服だった私たちがイエス様という新しい継ぎあてを縫い付けられても大丈夫な新しい服に変えるものでした。また古い革袋だった私たちがイエス様という新しいぶどう酒を注がれても大丈夫な新しい革袋に変えるものでした。そのような変化はどのようにして起きたのでしょうか?それは、ゴルゴタの十字架の上で起きました。人間を造られた神聖な神と人間の間を引き裂いてしまった原因に罪の問題があります。神は自らこの問題を解決して人間との結びつきを回復させようとして、ひとり子イエス様に人間の全ての罪を背負わせて十字架の上まで運ばせて、そこで罪の罰を受けさせました。イエス様は神の前であたかも自分が全ての罪の責任者であるかのように振る舞わなければならなかったのです。神聖な神のひとり子ですから、本当はそうする必要はなかったのに。しかし、人間には背負いきれないので、その役を買って出たのです。イエス様は、真に犠牲の生け贄になられました。そこで私たち人間が、これら全てのことは自分のためになされたとわかって、それでイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けると、罪の赦しが効力を持ち始めます。なぜなら、この罪の赦しは神がイエス様の犠牲に免じて与えるものだからです。まさに神から罪を赦してもらったので、人間は神との結びつきを回復できます。

今、「イエス様を救い主と信じて洗礼を受けると」と申しました。洗礼を持ち出すと、イエス様を救い主と信じるだけでは足りないのか、と驚かれるかもしれません。聖書の観点では、人間がイエス様を自分の救い主と信じることができるのは、神の霊である聖霊の力が働いたことによります。聖霊の力が働かないと、イエス様のことは知識として知っている単なる歴史上の人物にとどまります。今を生きる自分とは直接に関係のない過去の人物です。これが、私の罪をゴルゴタの十字架の上で神に対して償って下さった方、私が神との結びつきを持ってこの世を生きられるようにして下さり、私がこの世を去った後は神の御許に永遠にいられるようにして下さった方、そのようにイエス様のことがわかるというのはもう歴史上の人物としての知識を超えています。今を生きる自分と直接かつ重大に関わる人物です。こういうふうになるのは、聖霊が働いたからです。

 イエス様のことを救い主とわかって信じるようになるのは聖霊が力を働かせたからですが、洗礼を受けると、完全に聖霊の影響の下に置かれることになります。受けないと、せっかく聖霊の力が働いて一瞬イエス様を救い主とわかっても、次の瞬間にはイエス様から遠ざかることが起きてきます。まだ完全に聖霊の影響の下にいないからです。このように洗礼を受けた者は完全に聖霊の影響の下に置かれるので、それ以後は自分の立ち位置をしっかり自覚さえしていれば、洗礼を受ける前に見られたブレはなくなります。洗礼を受けたのが言葉を発しない赤ちゃんでも、両親が家庭の中で信仰生活を保てば子供も自然にイエス様を救い主と信じて育ちます。聖霊の影響の下で生きることを親から受け継ぐのです。

他方で、イエス様を救い主と信じる信仰に至って洗礼を受けた人でもその後の人生の中でイエス様を忘れさせる力に何度も直面します。それだけに、洗礼を受けた人はいつも聖霊の影響の下にあることを思い出してそれを自覚して生きることは大事です。創造主の神は、ひとり子をこの世に送られたことからもわかるように、とにかく人間との結びつきを回復させることを願っている方です。まさにそのために神は、人生に起こるいろいろな出来事を通しても、人がイエス様と出会えるように導こうとされます。出来るだけ多くの方がそのような神の導きに気づくよう願ってやみません。

4.神の意思に沿う生き方

 以上から、人間はどうすればイエス様という新しい布きれを継ぎあてられても大丈夫な新しい服となり、イエス様という新しいぶどう酒を注がれるにふさわしい新しい革袋になれるかが明らかになりました。イエス様を救い主と信じる「信仰」と聖霊の影響の下で生きられるようにする「洗礼」の二つです。この二つによって人間は新しくされるのです。信仰と洗礼が人間を新しくするということについて、使徒パウロもガラテア3章26一27節で次のように述べています。「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです」。第二コリント5章17節のパウロの言葉も同じことを意味しています。「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しい者が生じた」。

 新しく創造された人は、神の愛の何たるやを知っています。それは、ひとり子を犠牲に供することも厭わない位にこの私を大事に見て下さるという愛です。その愛を知った者は、これからは神の意思に沿うように生きようと志向します。この志向は断食をすることでは生まれません。神の愛を知ることで生まれるのです。そこで、「沿うように志向する」という、その神の意思とは何かと言うと、それをイエス様がわかりやすく短く要約しています。「神を全身全霊で愛する」ことと、その愛に立って「隣人を自分を愛するが如く愛する」ことの二つです。それでは大ざっぱすぎて具体性に欠けると言う人がいれば、聖書を一生懸命繙くことをお勧めします。神を愛することと隣人を愛することの具体例を沢山見出すことができます。

本日の使徒書の日課である第二コリント3章の6節で、「文字は殺すが、霊は生かす」と言っていました。「殺す文字」とは律法を指します。「生かす霊」とは聖霊です。ここでパウロは、自分がお仕えしているのは、聖霊に基づく新しい契約であって、律法に基づく旧約的な契約ではない、と言っています。先ほど、聖書から具体例を見つけながら神の意思に沿うように生きる、と申しました。それでは律法を遵守することになって新しい契約の生き方と相いれないのではないかと疑う向きもあるかもしれません。ここで注意しなければならないのは、私が「神の意思に沿うように生きようと志向する」と言うのは、イエス様の犠牲のおかげで神から罪を赦されて神との結びつきを回復した人がそのように志向するということです。パウロが「律法は殺す」と言っているのはこれとは逆で、人間が律法を守ることで神との結びつきを回復しようとするのです。つまり、イエス様を抜きにして自分の力でそうしようとするのです。これは無謀なことです。というのは、律法というのはつまるところ、パウロも言うように、人間が本質的に神の意思に反する存在であることを明らかにする鏡だからです。従って、律法は追求すればするほど、人間を罪の赦しから遠ざけてしまうのです。罪の赦しがなければ裁きと罰しかなくなり、律法はまさに殺すものです。

キリスト信仰の場合は、聖霊の影響を受けてイエス様を救い主と信じており、その信仰のゆえに神から義と認められて、罪の赦しを受けます。本当はまだ内面に罪を宿しているにもかかわらず、神は、わが子イエスの犠牲に免じてお前の罪を赦す、イエスを救い主と信じる信仰のゆえにお前には罪の罰を下さない、と言って下さるのです。イエス様のおかげで、神聖な神の前に出されても大丈夫でいられる、あたかも罪のない人間にされてしまったのです。ここまで来たらもう、神にそう見なされる新しい自分を本当の自分と認めて、それに合わせていくしかありません。それに相いれない、神の意思に反しようとする古い自分は、これはもう本当の自分ではないと認めて捨てて行くしかありません。これはこの世の人生を通して続くプロセスです。それが始まると、それからは人生の中で出会うこと、出会う人の全てはこのプロセスを前に進めるために必要なものになります。いろいろ大変なこともあります。しかし、復活の日、全てのプロセスは完結し、目指していた本当の自分が全てになります。

そうは言っても、目に見えるものを目指すのではないので、雲を掴むような話に聞こえてしまうかも知れません。しかし、それだからこそ、兄弟姉妹の皆さん、パウロの次の言葉は神が彼を通して言わしめた真理として胸に刻みつけるのに値する御言葉です。

「だからわたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、私たちの『内なる人』は日々新たにされていきます。私たちの一時の艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存在するからです」(第二コリント4章16-18節)。

兄弟姉妹の皆さん、この御言葉を胸に刻みつけて、日々を歩んでまいりましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

交わり

週末にフインランドに一時帰国される吉村先生ご家族とその間礼拝の担当をお願いしている木村牧師、田中牧師、鷲見牧師を交えての交わりでした。これから約二ヶ月間の留守を守るのが教会員の努めになります、をさをさ気を締めて行きたいと思います。

読書会:木村長政 名誉牧師

前回に続き「放蕩息子の帰還」(H.ナウエン)の二回目です、まだプロローグの段階ですがこのレンブラントの大作を前にした著者の感激がひしと伝わってきました。

歳時記

梅雨の中休みを利用して清泉寮(山梨県)に行って来ました、牧場は草刈のま最中で美味しそうな草の香りを胸いっぱいに吸い込んできました。後ろの八ヶ岳はあいにく雲に隠れていましたが鳥のさえずりを聞きながら長閑かな一日を過ごしてきました。

説教「神に買い戻されて生きる」神学博士 吉村博明 宣教師、イザヤ44章21節-22節

主日礼拝説教 2018年6月10日(聖霊降臨後第三主日)

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

 本日の旧約の日課はイザヤ書からです。イザヤ書は全部で66章ある長い書物です。その中の40章から55章まではひとまとまりになっていて、内容的には紀元前6世紀初めにバビロン捕囚の憂き目にあったイスラエルの民が解放されて祖国に帰還できると預言していることが主題のように見えます。実際、この預言は歴史上は紀元前538年に実現しました。バビロン帝国を滅ぼしてオリエント世界の新しい覇者となったペルシャ帝国のキュロス王がユダヤ人の祖国帰還を認める勅令を出し、帰還した民はエルサレムの町と神殿の再建を始めます。そもそも天地創造の神に選ばれた筈のイスラエルの民がどうして国滅びて捕囚の憂き目にあったかというと、それは民が神の意思に反する生き方を続け、民に送られた預言者たちの警鐘にも耳を傾けず、国の指導層から民衆までこぞって罪を犯し続けたことが原因でした。そこで天地創造の神は、大帝国バビロンをもってイスラエルの民に対して罰を下す道具とし、民の王国を滅ぼさせたのです。バビロン捕囚は、まさに民に対する神の神罰でした。

 その後、神はイスラエルの民が異国の地で辛酸を舐めることで罪の償いを果たしたと見なし解放を約束します。民は反逆の民だったが、もともとは神がご自分の民として諸民族の中から選んだという愛すべき民であった。それで、お前たちを見捨てることはしないという約束は必ず果たすと言われるのです。その時、バビロン捕囚はそれまでの神罰に代わって罪滅ぼし、贖罪の意味を持つようになります。そのような神の約束の預言がイザヤ書40章から出て来ます。その預言は、今度は神がペルシャ帝国をもってバビロン帝国に対して罰を下す道具とし、これを滅ぼさせます。そして先ほども申し上げたキュロス王の勅令が出てイスラエルの民の祖国帰還が実現し、預言は実現します。

このように旧約聖書には、神がイスラエルの民をどう取り扱うかということが軸になって、それに応じて諸国が動く、動かされる、という歴史観が見られます。普通ですと、国が興ったり衰退したりするのを説明する時、そんな軸はなく、その国の政治や経済や人口動態、さらに周辺諸国との関係や自然条件等を調べるでしょう。それが旧約聖書では、天地創造の神がイスラエルの民に何を求め、それに民はどう応じ、それに神はどう報いたかということが、周辺諸国の動静や興亡の要因になるという観点です。そこから、歴史や世界を見る時、創造主の神と自分の関係はどうなっているか、ちゃんとしているか、それとも何か問題があるか、そういう自省が結びついた見方が生まれるのではないと思われます。そういう自省が結びついた歴史や世界の見方を持つと、歴史や世界はどう見えるか?そこでどう生きるかということが明らかになるか?そういうことはまた別の機会に考えてみたく思います。神など持ち出して歴史や世界を見るなどとはいかがわしいことだ、原理主義や宗教紛争のもとになるなどと疑いの目で見られるかもしれません。しかしながら、聖書の立場に立てば人間はどうあがいても創造主の神と並び立つことはできず、歴史や世界を見る時は先ほど申し上げた自省に立っています。こんなに自分をへりくだらせる見方は他にあるでしょうか?

 少し話が脇道にそれましたが、本日の旧約の日課はイザヤ書44章21節と22節でした。21節で天地創造の神は「ヤコブよ、イスラエルよ、思い起こせ、私がお前を私の僕に造り上げた」と言っています。これが意味することは、イスラエルの民がバビロン捕囚という贖罪の業を行ったことにより、神は民を新たに造り上げた、かつての反逆の民は新たに神の僕に造り上げられた、ということです。22節で神は「民の罪や背きを雲や霧を吹きはらうように吹き払った、そのように民を贖った、だから神のもとに立ち帰れ」と言います。新たに神の僕に造られた民から罪や背きが吹き払われ、そういう一新されたものとして祖国帰還を果たすことになるという預言です。

 ところが、いざ祖国帰還を果たし、廃墟となっていた町と神殿の再建を果たしても、民の状態は罪・背きを吹き払ってもらった状態からは程遠く、見かけは神殿礼拝を守っていますが、現実は神の意思に背く生き方をしていることが明らかになってきます。そうした祖国帰還後の現実と理想のギャップの問題はイザヤ書の最後の部分56~66章に表面化します。そうなると、40~55章までの素晴らしい預言は実は祖国帰還で完結するものではなく、本当の実現はまだだったという理解がされるようになります。罪や背きが完全に吹き払われる日はもっと後に来るということです。イザヤ書53章に有名な「主の僕」についての預言があります。「主の僕」が他人のために犠牲になって他人の罪を代わりに背負って神の罰を受けるという内容です。この「主の僕」は、バビロン捕囚の文脈に即して理解しようとした時、捕囚で苦しみを受ける民全体を指すと考えられました。ところが祖国帰還の後、「主の僕」は人間の罪を身代わりになって背負って苦しむ一個人を意味するようになります。さらにそれがメシア救い主の役割と理解されるようになります。それはイエス様の十字架によって実現しました。

 このように、旧約聖書というのは一見すると、現代の私たちから見て過去の歴史の中で既に実現してしまったものを指しているように見えながらも、実は本当の意味での実現はまだ先のことだった、というものも沢山あります。「先のこと」というのは、時代下ってイエス様や使徒たちの時代に実現したこともあれば、さらに現代を生きる私たちに実現することもあるのです。

 

2.

 旧約聖書の預言が現代を生きる私たちにも実現することの一例として、本日の旧約の日課を見ることが出来ます。イザヤ書44章22節が重要です。直訳すると、「私はお前の反抗をかすみのように、お前の罪を雲のように一掃した、私のもとに立ち帰れ、なぜなら私はお前を買い戻したからだ」となります。人間の罪すなわち神の意思に反する行い、考え、言葉、心の有り様、それらを皆、神がかすみや雲のように一掃した、と言うのですが、それは一体どういうことでしょうか?少し考えてみましょう。

空にある雲をいろいろ思い浮かべて下さい。空全体をどんよりと覆っている雲とか激しく巨大に出来上がる積乱雲とか青空に浮かぶ羊の群れのような雲、そうした雲を私たちは一掃できるでしょうか?ここにいる皆さん一緒に今、外に出て、空の雲に向かって一斉にふーっと息を吹きかけても雲は消えません。また、何百機のヘリコプターをチャーターして、雲のそばまで行ってふーっとやっても消えないでしょう。もやや霞も同様です。梅雨の時など山々の懐に留まっているかと思うと這い上がろうとする霞。人間がふーっとやって何の影響があるでしょうか?罪も同じように人間の力では消し去ることはできないのです。罪は人間に深く根付いてしまっているので、人間が罪を消そうとしてもそれは雲に息を吹きかけるようなことなのです。それを、神は一掃する、というのです。どうしてそんなことが可能なのでしょうか?答えは後ほど見てまいりましょう。

 イザヤ書44章22節で、もう一つわかりにくいことがあります。それは「贖う」という言葉です。難しい宗教用語です。一般には「罪の償い」をするという意味で考えられます。それで「罪を償う」と「罪を贖う」が同じような意味で考えられます。そうすると、新共同訳の「お前を贖う」というのは少し奇異な感じがします。そこでは「贖う」ものが「罪」ではなく、「お前」になっているからです。つまり、「お前を償う」からです。ヘブライ語の動詞גאלの基本的な意味は「買い戻す」です。他者の手に渡ってしまったものを買い戻す、とか、奴隷の身分に落ちてしまった人が代価を払って自由な身分を買い戻す、ということです。お前を「買い戻す」です。ここで言う「お前」ですが、罪を持つ者なら誰でも、ということです。もはやバビロン捕囚の憂き目にあったイスラエルの民に限られない、私たち人間全てです。それでは、天地創造の神は私たちを何者から買い戻すのでしょうか?そもそも私たちは何者に売り渡されてしまって、それで神は買い戻されなければならなかったのでしょうか?

 答えは創世記の最初の部分にあります。人間は神に造られた当初は良いものでした。ところが、「これを食べたら神のようになれるぞ」という悪魔の誘いに引っかかったがために、神に対する不従順が人間に生じ罪がその内に入り込んでしまいました。これからもわかるように、人間が造り主と張り合おうとしたり、造り主のことを忘れることが罪の原点になっています。罪が内に入り込んでしまった人間は、神聖な神のもとにはいられなくなり、神との結びつきを失って死ぬ存在となってしまいました。罪と言うと、何か犯罪を犯すことのように考えられて、赤ちゃんにはとても罪があるとは思えない、とか、罪なんか無縁な善人だっているじゃないか、と言われるかもしれません。しかし、聖書の立場は、使徒パウロが「罪の報酬は死である」と述べているように(ローマ6章23節)、人間は死ぬということが罪を持っていることの表れである、というものです。行為や言葉や考えで罪を犯す時には土台になる罪があり、それらを犯さなくてもその土台はそれとしてあるのです。人間はこの土台の罪に支配されており、あの時その罪に売り渡されてしまったのです。

そこで神は、人間をこの悲惨な状態から救おう、人間が再び自分との結びつきを持てるようにしてあげよう、その結びつきを持ってこの世を生きられるようにしてあげよう、この世を去った後は永遠に自分の許に戻れるようにしてあげよう、そう決意してひとり子イエス様をこの世に送られました。神がイエス様を用いて私たち人間のために成し遂げられたことは以下のことです。人間の持つ罪を全部イエス様に背負わせてゴルゴタの十字架の上にまで運ばせて、そこで罪の罰を全部イエス様に受けさせました。私たちの代わりに罰を受けて下さった方がいるおかげで、私たちの罪が神から赦されるという奇妙な状態が生まれました。私たち自身は何も罪の償いはしていません。そもそも人間は神聖な神の罰を受けることなど耐えられるものではありません。それでイエス様が犠牲となられたのですが、彼は神のひとり子でした。犠牲としてこれ以上のものはないという文字通り神聖な犠牲だったのです。

そこで私たち人間が、イエス様が本当にそうして下さった、それゆえ彼こそ救い主なのだ、と信じて洗礼を受ければ、この神の準備した罪の赦しはその人にそのまま効力を持ち始めます。罪を赦されたのであれば、神との結びつきが回復し、その結びつきを持ってこの世を生きられるようになり、この世を去った後も永遠に造り主である神の許に戻れるようになります。まさにその人は、罪に売り渡されていた状態から神に買い戻されたのです。その代価は神が支払ってくれました。御子イエス様が十字架で流された血がその代価だったのです。天地創造の神は私たちのことをそれくらい高い犠牲を払うに値すると見て下さっているのです!

神の行った私たちの買い戻しは、イエス様の十字架の死で終わりませんでした。まだ続きがありました。神はイエス様を死から復活させて、死を超えた永遠の命があることを示され、その扉を人間のために開いて下さいました。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けて罪の赦しの恵みを受け取った者は、永遠の命に至る道に置かれてその道を歩み始めます。罪はまだ内に残存していて本来ならば永遠の命に至る道などに入れる筋合いはないのだが、罪の赦しがあるおかげで罪はそれを阻止できなくなっている。罪が持っていた、人間を死に追いやる力は消されてしまった。その意味で罪は一掃されているのです。このようにして神から罪を赦された以上は、キリスト信仰者というのは、イエス様の尊い犠牲を無にしないように生きよう、神の意思に沿うように生きようと志向し始めます。

 

3.

 しかしながら、それはいつもうまく行くとは限りません。罪の赦しを得られたとは言っても、まだ残存している土台の罪が隙をとらえては、まだ力を持っているかのように見せかけて来て、私たちが言葉か考えか、場合によっては行いによって神の意思に反することをするよう仕向けます。しかし、キリスト信仰者が罪の赦しを神に祈り求めれば、神はすぐ「お前がわが子イエスを救い主と信じていることはわかった。イエスの犠牲に免じてお前を赦す。もう罪を犯さないように」と言って下さり、信仰者は再びイエス様の尊い犠牲を無にしないように生きよう、神の意思に沿うように生きようと志向し出します。

キリスト信仰者のこの世の人生というのは、今見てきたような罪の自覚から生じる悔恨と罪の赦しから得られる平安と安心を繰り返しながら進むものだと言うことができると思います。その繰り返しの中にいると、果たして自分は向上しているのかわからなくなり不安になるかもしれません。しかし、罪の赦しの恵みの中に留まっていれば、洗礼の時に生まれた新しい霊的な人は日々育っていき、肉なる古い人は日々衰退しているはずです。そして復活の日に不完全なものが完全にされ、信仰者は完全に新しい人として立ち現われ、悔恨は過ぎ去り、平安と安心だけを手にすることになります。

キリスト信仰者にとって「信仰」とは、言うまでもなく、イエス様を救い主と信じることです。なんでイエス様が私の救い主になるのかと言うと、それは、彼が十字架と復活の業で私を神の許に買い戻して下さって、罪を無力にして一掃して下さったからです。このことがはっきりしていれば、たとえ今の自分は古い人と新しい人が相克し合っているのが現実だとしても、復活の日に自分は100%新しい人として立ち現われると確信できます。今自分の内にある新しい人と将来の復活の日の新しい人は同一の者です。違いは、今の新しい人は古い人と相克し合っている状態にあるが、将来の復活の日には完全に主人になっている、ということです。

こういうふうにキリスト信仰には、希望しているものが現実にあるんだ、今目に見えないものが見えるんだという境地があります。まさに「ヘブライ人への手紙」11章1節で言われている通りです。そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、私たちの希望は決して失われないものですから、安心して罪の赦しの恵みの中に留まって生きて参りましょう。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

交わり

久しぶりの梅雨空の一日でした、はじめての礼拝参加者も3名参加して和やかな歓談のひと時でした。

歳時記

亡くなった家内の書道の先生から頂いた鉢がはじめて美しい花を咲かせました、あいにく花の名前を忘れてしまいました。どなたかご存知のかた花の名前を教えてくださいませんか?

説教「キリスト者への謙遜な生活」木村長政 名誉牧師、コリントへの手紙5章1〜8節

2018年6月3日(日)

第18回

コリントへの手紙  5章1〜8節                  

「キリスト者への謙遜な生活」

 今日の御言葉は5章1〜8節です。5章から内容ガラリと変わりまして、1節のところを読んだだけで

驚く事と思います。

1節を見ますと、「現に聞くところによると、あなた方の間に淫らな行いがあり、しかもそれは異邦人

の間にもない程の淫らな行いで、ある人が父の妻を我がものとしている との事です」。

コリントの教会の人々の中が、どんなに堕落していたか、驚きの思いです。

パウロは、それにしてもこんな事をなぜ言わなければならなかったのでしょうか。

 

これまでパウロは伝道者の弱さ、や強さについて語って来ました。それはまた人間の弱さや強さの事でもあります。

 5章にはいって、まず、コリントの教会内の腐敗、堕落を追求していきます。

問題は、もちろん、それらの不品行にありますが、同時にパウロが一番大切な事として、指摘するのは、

「コリントの教会の人々が高ぶっている。」ということであります。

それで2節には、「それだのに、なお、あなた方は高ぶっているのか」と書いています。

6節でも書いています。「あなた方が誇っているのはよくない」と。不品行きわまりないことが、教会の中であっているのに、「高ぶっているのは」のは何事か、と言うのです。

そうなると、ここの話は、高ぶっていること、誇っていることに重点をおいて言っているのです。

もちろん、不品行のことが問題ではある、ここではそういう人がいるのであるから、「むしろそんな行いをしている連中をあなた方の中から除かれねばならない。そのことを思い、悲しむべきではないのか」。

それなのにあなた方は、なお高ぶっているのか。と言うのであります。

人間にとって、最もやっかいな問題が、この「高ぶる」ということであります。

 この当時のコリントの教会は町全体に不品行に満ちていた。特に異邦人の神殿のかくされた所では、

みだらなこと、不品行が横行していたのです。ですからパウロが伝道した教会の中にも入り込んでむしろ、誇らしげにしていたのでしょう。

パウロはゆるせないことであったでしょう。

人間の弱いところは:高ぶるところにあるのです。

人はどうしても、生きるために、自分を守らねばならない、と考えています。従って、誰に対しても

自分は、その人より上である、と思わないではおれないのであります。又そうでなければ、相手の事を軽蔑することになるのであります。

無意識に暗黙のうちに相手を軽蔑したいと思っているのです。

 パウロ自身が誇り高い人でありましたから、この事がよく見えるのであります。大した事ではなくても、何か!自分が上である、と思う、そうでないと、生きられない、とまで心の内で思うのでしょう。

もし、そうであるなら、パウロは伝道者としての、自分もコリントの教会も、みな、「キリストにならって謙遜な生活をしなければならない、と思った事でしょう。

これは1つの、教会の話であります。又同時に今日の私たちの教会のことでもあります。

どの教会も、どんな事件があっても、なくても、主のように、へりくだった生活をすることが必要なのであります。

     1章26節以下のところを見ますと、すでにパウロは書いています。

「兄弟たち、あなた方が召された時のことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て、知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や家柄のよい者が多かったわけでもありません。」しかし、そういう人が多くいたとしても、高ぶった思いを持っては、よい教会にはなりません。

そらなら、不品行な恥ずべき事柄は、どうするのでしょう。パウロはそれをいい加減にするつもりはありません。高ぶりは高ぶりのこと。しかし、このことは別であります。

3節では、「わたしは、体では離れていても、霊ではそこにいて、現に居合わせた者のように、そんな事をした者を既に裁いています。」と言っています。

教会は、何の汚れもないような所ではないかもしれません。いろんな汚れたところもあるんです。

しかし、その事と、神の裁きとは別であります。

教会は、愛による交わりの生活である、といって愛の名のもとに、神がお許しにならないような事があってはならないのであります。

 

パウロは、コリントとは離れたところにいても、まことに、きびしく、この事を処分しよう、と、しました。きびしく問いつめるのは、パウロの好みによるのではない。しかし、教会というものがそういう清さ、というものを持っていなければならないからです。

そういう意味からも、パウロは、この不品行の事を、取り上げているのです。

  それなら、どのようにして、裁くのか。

パウロは何かの規則によって、事を扱うとは考えませんでした。

彼は、どこまでも、信仰によって、それを処理しようと、したのです。

教会は、いつでも戒規を持っていました。教会の清さを保とうと、するのであります。

しかし、戒規のようなものは、どこまでも、人間が作ったものであります。まことの裁きはキリストの権威により、生き、死にを、超えたものであります。

 パウロがここで語ろうとすることはそのことであります。彼が離れていても、そのことは問題にならないのです。パウロは体を離れていても、霊において、教会のものと共にある、と言いました。

まことの裁きは、霊によって、行なわれるべきものであります。

 主イエスの権威のもとにパウロも、コリントの教会の人たちも、霊と共にある、というのであります。

ぞれは、信仰によって、行なわれるべきものである、ということであります。大切な事は人間が裁くのではないということであります。

 さて、6節からパウロは別の話を例にして語っていきます。「あなた方が誇っているのはよくない。わずかなパン種が練り粉、全体を膨らませる事を知らないのですか」と言っています。

パウロは日頃、誰もが知っているパン種の事を例に出しました。パン種はパンを膨らますものであります。パウロはパン種の力を取り上げて、人間がふくれあがって、誇っている生活を説明しています。

コリントの教会の人々が、おごり高ぶって、ふくれ上がったのは、そのパン種のせいである、と言いたいのであります。

従って、新しいパンが作りたいのであれば、古いパン種を捨てなければならない。

すべての人は、そのパン種によって、自分の生活をつくっているのです。しかも、そのことに気づいていないのではないか、と、パウロは言うのです。聖書の生活から言えば、パン種なしのパンは特別な意味を持ったパンでありました。

イスラエルの民にとって、最も重要な意味を持つ祭りに、種なしのパンが用いられるのであります。

イスラエルの民族が決して忘れてはならないのは出エジプトの奇跡の出来事でした。

モーセに率いられて、エジプトで奴隷の状態で苦しんでいたイスラエルの民を、神様は脱出させるということをなさるのです。

大事なことは、イスラエルがこの日特別にほふられる小羊を食べることになっていたことです。その

小羊の血を、かもいに塗っておくのであります。それによって、子供を殺す天使たちが、その家だけは避けて通る事になっていました。こうして、イスラエルは無事脱出することになるのであります。イスラエルは、その時、大急ぎで食事をしなければなりません。大あわてで、滅びの町を出なければ、ならなかったのであります。その記念すべき夜、種入れぬパンを食べることを命じられたのであります。他のいくつかの食べ物と共に、種入れぬパンが必要でありました。

パンは重要な食物です。しかしパン種は、又腐敗のしるしのように思われました。 だから、この日には、パン種を入れないパンこそ、必要であったのです。

もちろん、パン種のないパンがおいしいはずはないでしょう。しかし、これが過越しの祭りに用いられた時には。それこそ救いのパンであったはすであります。

救われたいがために焼いたパンであったわけであります。

 イスラエルにとっては重要な事でありました。 そこでパウロは、今、救いの、パン種のない話を持って来るのであります。パン種の入ったパンと、入らないパンを取り上げ、一方は腐ったり、よけいな内容のあるパンです。もう一方は腐ることのないパンです。それだけではありません。「新しい粉のかたまりになるために、古いパン種を取り除きなさい。あなた方は事実、パン種なしのパンなのだから」。と7節で言います。信仰者は種の入っていないパンである、ということです。

だから、信仰には、パン種の入ったパン等ないはずではないか。それなのにコリントの教会には、パン種の入ったふくらんでしまっている、おごり高ぶった生活をしているではないか。

それでは、なぜ、パン種のないものなのか、ということですが、それは、私たちキリスト者は、過越しの小羊といわれる キリストによって、救われたのであります。そうであれば、そのほふられたキリストが救い主であるのなら、私たちは、あの時に用いられた種入れぬパンであるのです。

それでパウロは8節のところで言うのです。「だから、古いパン種や、悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない、純粋で、真実のパンで、過越しを祝おうではありませんか。」

パウロはこのようにすすめているのです。

ほふられた小羊こそ、キリストであり、キリスト者はこのキリストのように謙遜であるべきであります。

 

                                    アーメンハレルヤ。

 

聖餐式:木村牧師

歳時記

入梅前のひと時、何時もの公園でウォーキングです。フインランドは6月は夏の月、自慢の青空が空を覆っていることでしょう。

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