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2026年1月11日(日)顕現後第一主日 礼拝 説教 吉村博明 牧師

主日礼拝説教 2026年1月11日(主の洗礼日)
スオミ・キリスト教会

イザヤ42章1-9節
使徒言行録10章34-43節
マタイ3章13-17節

説教題「イエス様が受けた洗礼と私たち」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 本日の福音書の日課は、イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けた出来事です。これは驚くべき出来事です。どうしてイエス様が洗礼を受ける必要があったのか?ヨハネの洗礼は、救世主メシアの到来に備えて人々を準備させるものでした。どのように準備させるかというと、人々が罪の告白をして神のもとに立ち返る決心をしてメシアをお迎えするのに相応しい状態になることです。ところが、ヨハネのもとに来た人たちは彼の洗礼ですぐ罪が洗い流されて神の裁きを免れると思ったようです。しかし、ヨハネの洗礼は罪を帳消しにするような決定的なものではありませんでした。ヨハネ自身、自分の後に来る方の名のもとに行われる洗礼こそが決定的な洗礼になると述べています。
 救世主メシアであるはずのイエス様がヨハネから洗礼を受けるというのは、つじつまが合わないことです。なぜならイエス様は神聖な神のひとり子だからです。乙女マリアから人間の体を持ってこの世に生まれこそしますが、それは聖霊の力によるものであって罪の汚れを持たない神のひとり子としての性質はそのままです。それなのでイエス様は罪の告白をして神のもとに立ち返る決心などする必要はありません。それだから、ヨハネはイエス様が目の前に現れた時、驚いてしまったのです。「私の方が、あなたから洗礼を授けられる必要があるのに」と言っているほどです。ヨハネの戸惑いはもっともです。では、なぜイエス様は洗礼を受けにヨハネのもとに行ったのでしょうか?
 この問いに対する答えとして、「イエスは我々と同じレベルになることに徹した。それで罪ある者たちの中に入って洗礼を受けたのだ」と言う人がいます。つまり、人間にとことん寄り添う憐れみ深いイエス様、強い連帯心をお持ちの方ということです。しかし、ここにはもっと深い意味があります。もちろん、寄り添いや連帯ということは否定しませんが、そうした捉え方では収まりきれない、もっと大きなことがあります。今日の説教では、このもっと大きなことを明らかにしていこうと思います。

2.イエス様が受けた洗礼と私たち

 なぜイエス様はヨハネから洗礼を受けなければならなかったのか?答えは本日の福音書の箇所の中にあります。マタイ3章15節でイエス様が躊躇するヨハネに次のように言います。「今は言う通りにしなさい。義を全て成就することは我々にとって相応しいことだからだ。」新共同訳では「今は止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」となっています。これだと、イエス様がヨハネから洗礼を受けるのは「正しいこと」だから受けるというのですが、なぜそれが正しいのかは見えてきません。イエス様とヨハネが正しいことを行うというのは何だか当たり前すぎて、それがどうイエス様の洗礼と関係するのかわかりません。これを理解するためにはギリシャ語の原文を見てみる必要があります。このことは以前にもお教えしましたが、少し復習します。
 15節を忠実に訳すと先ほど申し上げたようになります。「今は言う通りにしなさい。義を全て成就することは我々にふさわしいことだからだ」。つまり、ふさわしいこととは「正しいことをすべて行う」ことではなくて、「義を全て成就すること」です。これが私の好き勝手な訳でないことは、いくつかの国の聖書を繙いてみてもわかります。英語訳の聖書(NIV)、ドイツ語のルター訳、スウェーデン語やフィンランド語の聖書を見ても、みな同じように「義を成就すること」が言われています(後注1)。本説教も「義を全て成就する」でいきます。
 そこで問題となるのが、「義を全て成就する」とは何かということです。まず、「義」という言葉ですが、これはルター派がよく強調する信仰「義」認の「義」です。人はイエス様を救い主と信じる信仰によって神から義人と認められるという時の「義」です。「義」とは、神の意思が完全に実現されていて神の目に相応しい状態にあることを意味します。それはまさしく十戒が完全に実現されている状態です。十戒は「私以外に神をもってはならない」という掟で始まります。最初の三つの掟は神と人間の関係について神が人間に求めているものです。残りの七つは、「父母を敬え」、「殺すな」、「姦淫するな」、「盗むな」、「偽証するな」、「貪るな」など人間同士の関係について神が人間に求めているものです。神自身は十戒を完全に実現した状態にある方、十戒を体現した方ですから、神そのものが義の状態にある、義なる存在であるということになります。
 この神の義を人間の立場から見ると、人間はそのままでは義を失った状態にあります。なぜなら、人間は神の意思に反しようとする性向、罪を持っているからです。人間が義を失った状態でいると、創造主の神との結びつきが失われた状態でこの世の人生を歩むことになります。そして、この世から別れた後は創造主の神のもとに迎え入れられなくなってしまいます。人間が神の義を持てて、この世と次に到来する世にまたがって神と結びつきを持って生きられるためにはどうしたらよいか?それについてユダヤ教では、十戒や律法の掟をしっかり守ろうと言って、義を自分の力で獲得することが目指されてきました。しかしイエス様は、人間がいくら自分たちの作った規則や儀式で罪を拭い去ろうとしても、罪は人間の内に深く根を下ろしているので不可能と教えました(マルコ7章、マタイ5章)。使徒パウロも、神が与えた十戒の掟は自分に課せば課すほど、逆に自分がどれだけ神の意思に反するものであるか、義のない存在であるか、思い知らされてしまうと観念したのです(ローマ7章)。
 この世と次に到来する世にまたがって創造主の神としっかり結びついていられるためには神の義を持てなければならない。しかし、人間の力ではそれを持てない。この行き詰まり状態を神自身が打開して下さったのです。どのようにしたかと言うと、ご自分のひとり子をこの世に送って、彼に全ての人間の全ての罪の罰を受けさせてゴルゴタの十字架の上で死なせたことです。神は、イエス様の身代わりの犠牲に免じて人間の罪を赦すことにしたのです。イエス様が受けた洗礼には寄り添いや連帯を超えた大きなことがあるというのはこのことです。神のひとり子であるイエス様は罪など持たないお方だったのに、人間の罪を全部引き取って十字架にかかって神罰を受けたのです。使徒パウロが第二コリント5章21節で次のように言います。「罪と何のかかわりのない方を神は罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。」人間が神の義を得ることができるために、神は罪と何のかかわりのないイエス様を罪とされたのでした。洗礼者ヨハネの洗礼は罪の自覚と告白が伴うものでした。そんな自覚も告白の必要のないイエス様がヨハネの洗礼を受けることで人間の罪を背負うこととなったのです。
 人々がヨハネの洗礼を受けたのは、来るべき救世主メシアを迎える準備の意味でした。イエス様が洗礼を受けたのは、人々が神の義を得られるようにするという神の計画を開始する意味でした。人々の洗礼とイエス様の洗礼の違いを明らかにしたのが、イエス様に聖霊が降って天から神の声が轟いたことです。人々の洗礼にはなかったことでした。イエス様の洗礼の目的が「義を全て成就する」というのは、まさに人間が神の義を持てるようにする神の計画を成就することだったのです。
 イエス様が十字架と復活の業を遂げられたことで人間が神の義を得られる可能性が開かれました。あとは人間の方がそれを自分のものにするだけです。どうやって自分のものにできるのかと言うと、それは、このような業を成し遂げたイエス様こそ救い主と信じて洗礼を受けることでです。そうすることで神から義人と見てもらえるようになります。この場合の洗礼は復活されたイエス様が定めた洗礼です。ヨハネの洗礼とは異なります。パウロがローマ6章で言うように、人はイエス・キリストの洗礼によってイエス様の死と復活に結びつけられます。そこがヨハネの洗礼と決定的に異なる点です。人はイエス様の死と結びつけられると、罪と死がその人の運命を支配する力を失います。イエス様の復活に結びつけられると、自分もイエス様のように復活して永遠の命に与かれるという確信が得られ、それがあらゆる希望の大元の希望になってこの世を歩めるようになります。
 ただし、洗礼を受けてイエス様を救い主と信じても、人間は肉を纏っている限り神の意思に反しようとする罪の思いを持ち続けます。しかし、神から罪の赦しを受け取ることができると、神との結びつきを失わずに生きることができます。この罪の赦しという神の恵みに留まる限り、神との結びつきは微動だにせず、残存する罪には人間と神の間を引き裂く力も人間を死の滅びに陥れる力もありません。「イエス様を救い主と信じます。私の罪を赦して下さい」と祈ると、神は「わかった、わが子イエスの犠牲に免じてお前を赦そう。もう罪を犯さないように」と言ってくれるのです。
 このように神から罪の赦しを受ける者は繰り返し受けることで、残存する罪に対して、罪よ、お前は私に対して何の権限も持てないのだと言い聞かせてあげることになります。それを思い知らされる罪はその度に干からびていきます。イエス様を救い主と信じ洗礼を受けることで罪は決定的な打撃を受けますが、それでも罪は隙を狙ってきます。しかし、イエス様を救い主と信じる信仰と罪の赦しの恵みに留まる限り、結局は罪の無駄な抵抗に終わります。

3.イザヤ42章の預言と私たち

 イエス様が洗礼を受けた時、聖霊が彼に降りました。加えて天から「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という父なるみ神の声が轟きました。これは今申し上げたように、イエス様が神の計画を実現する方であることを明らかにした出来事でした。それはまた、本日の旧約聖書の日課イザヤ書42章1-7節の預言が成就したことでもありました。この預言の内容を見ると、キリスト信仰者がこの世でどう生きるか、どのような立ち位置でいるかがわかってきます。次にそのことを見ていこうと思います。
 イザヤ書42章1節に神の僕つまりイエス様が「国々の裁きを導き出す」とあります。3節にも「裁きを導き出す」とあり、4節には「裁きを置く」と言われています。少しわかりにくいです。「裁きを置く」とはどういうことか?日本語として意味をなしているのか?どうやって「裁き」を「置く」のか?私は「裁き」という言葉も「置く」という動詞も意味を理解できますが、理解できる言葉をくっつけたら理解できなくなるというのは不思議です。スオミの礼拝で何度も申し上げてきましたが、ヘブライ語のミシュパートという言葉をどう訳すかが問題です。新共同訳ではほぼ自動的に「裁き」と訳されます。私の使う辞書(後注2)にはその訳はなく、多くの場合は「正義」がピッタリな訳です。試しに英語やスウェーデン語やフィンランド語の聖書を見ると、「正義をもたらす/実現する」、「正当な権利をもたらす/実現する」と訳しています。なので、この説教では「正義」でいきます。
 すると一つ問題になってくることがあります。イエス様は神の計画を実現して人間が神の義を持てるようにしたのであるが、果たしてそれで諸国に正義がもたらされるようになったのか?人間の歴史は反対のことばかり起こってきたのではないか?特に現在はどうでしょうか?国と国の関係で正義が失われる状況が顕著です。ますます多くの国が軍事力に物を言わせて現状変更しようとするようになってしまいました。もちろん現状が全ていいというわけではありませんが、それでも変える必要があるということならば、それを国際的なフォーラムで提起して議論して外交的に解決を図るというのが筋です。軍事力で変えていいということになれば、軍事力のない国は言いなりになるだけです。言いなりにならないために、あるいは自分も自由に現状変更したいという国は軍事力の増強に走ります。まさに「力は正義」ということになってしまいます。しかし、それは正義ではありません。
 本当の正義についてイザヤ書42章3節が象徴的な言い方で教えます。傷ついて折れかかった葦を踏みにじるようなことをしない、風前の灯にある灯心をかき消すようなことをしない。そんなことをしないことが正義が一過性ではなく永続的なものになることだと神は3節で言っているのです。続く4節で神はたたみかるように言います。神の僕が地上に正義を打ち立てる日まで、折れかかった葦が踏みにじられることはない、風前の灯がかき消されることはないと。
 それでは地上に完全な正義が打ち立てられる日が来るのでしょうか?聖書の観点では、完全な正義は今ある天と地にとってかわって新しい天と地が創造される時、最後の審判を経た時に最終的に打ち立てられます。それで、この世の不正義がなんの償いもなしに永久に見過ごされることはありえないのです。正義は必ず実現されるのです。たとえ、この世で不正義の償いがなされずに済んでしまっても、今のこの世が終わって新しい世が到来する時に必ず償いがなされというのが聖書の立場なのです。昨年の終わりの説教でお教えしたことの繰り返しになりますが、黙示録20章を見るとキリスト信仰のゆえに命を落とした殉教者たちが最初に復活を遂げます。次に復活させられる者たちは神の書物に記録された旧い世での行いに基づいて審判を受けることになっています。特に「命の書」という書物に名前が載っていない者の行先は炎の海となっています。人間の全ての行いが記されている書物が存在するということは、神はどんな小さな不正も見過ごさない決意でいることを意味します。仮にこの世で不正義がまかり通ってしまったとしても、いつか必ず償いはしてもらうということです。天地創造の神が御心をもって造られたものに酷い仕打ちをする者の運命、また神が御心をもって整えて下さった福音を受け取った人たちに酷い仕打ちをする者の運命も火を見るよりも明らかでしょう。たとえ償いや報いが将来のことになっても正義は必ず実現されるので、イザヤの預言はイエス様の洗礼で成就しているのです。

4.勧めと励まし

 この世で多くの不正義が解決されず、多くの人たちが無念の涙を流さなければならない現実があります。それなのに次に到来する世で全てが償われるなんて言ったら、来世まかせになってしまい、この世での解決努力がおざなりになってしまうと批判されるかもしれません。しかし、キリスト信仰はこの世での正義を諦めよとは言いません。神は、人間が神の意思に従うようにと十戒を与え、神を全身全霊で愛し隣人を自分を愛するが如く愛せよと命じておられるからです。それなので、たとえ解決が結果的に新しい世に持ち越されてしまう場合でも、この世にいる間は神の意思に反する不正義や不正には対抗していかなければなりません。それで解決がもたらされれば神への感謝ですが、力及ばず解決に至らない場合もある。しかし、解決努力をした事実を神はちゃんと把握していて下さる。神はあとあとのために全部のことを全て記録して、事の一部始終を細部にわたるまで正確に覚えていて下さいます。神の意思に忠実であろうとして失ってしまったものについて、神は何百倍にもして報いて下さいます。それゆえ、およそ人がこの世で行うことで、神の意思に沿うように行うものならば、どんな小さなことでも目標達成に遠くても、無駄だった無意味だったというものは神の目から見て何ひとつないのです。イエス様の洗礼で成就したイザヤの預言はこのことも視野に入れているのです。主にあって兄弟姉妹でおられる皆さん、神がそういう目で私たちのことを見ていて下さっていることを忘れないようにしましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

(後注1)[英]to fulfill all righteousness、[独ルター]alle Gerechtigkeit zu erfüllen、[ス]uppfylla allt som hör till rättfärdigheten、[フィン]täyttäisimme Jumalan vanhurkaan tahdon)

(後注2)Holladay, ”A Concise Hebrew and Aramaic Lexicon of the Old Testament”

牧師の週報コラム

宮沢賢治「雨ニモ負ケズ」 vs. パウロ「ローマの信徒への手紙」12章(その4最終回)

14日のコラムの続き)カギは2節の聖句にある。

「あなたたちは、『心』を新たにされたのだから、何が神の意思であり、何が善いことか御心に適うことか完全なことかを熟慮する者へと自分を変えていきなさい。」 (これは新共同訳と異りますが、以下の議論から妥当な訳と考えます。もちろん文法的にも説明できます。)

「心」の元にあるギリシャ語の言葉はヌース。この日本語訳は厄介である。私は「意識」や「自覚」もありかなと思うのだが、「心」が無難かもしれない(ただし、ルター派は以下の議論から明らかなように絶対に「理性」と訳してはいけない)。

実はヌースは既に7章の23節と25節に出ていて、その正体が明らかにされていた。肉体は罪が命じることに従ってしまうものだが、ヌースは神の命じることに従って罪が命じることに反抗するものなのだ。まさにイエス様を救い主と信じて洗礼を受けることでヌースが新しくされたのだ。上記2節の聖句はこのことを指すのだ。キリスト信仰者は、新しくされたヌースにおいて神の命じることに従うが、肉体において罪の命じることに従うという苦しい二律背反の状況に置かれてしまうのだ。パウロはローマ7章でその苦悩を正直に告白する。理性は、ルターに言わせれば、信仰を骨抜きにするものにしかすぎずこの二律背反に真の解決をもたらさない。それでパウロは、救いにとってはヌースが新しくされたことで十分、それで神の裁きに定められないというギリギリの真実に踏みとどまる(81節)。聖霊が、新しくされたヌースのお伴としてあり、肉体の罪の実行を阻止できるように助けてくれる(同13節)。そのように生きる者は実は復活に与かれるという希望をあらゆる希望の大元にしているのだ(同24節)。

ヌースを新しくされたキリスト信仰者は、何が神の意思で何が御心に適うことか吟味する。パウロが2節で倣ってはいけないと言う「この世はそんなことをしない。吟味しない生き方は世に倣う生き方であり、理性を含めて肉体だけで生きる生き方である。御心に適うことを吟味してその通りにしようとすることが、まさに罪に従う肉体を神聖な生贄にして捧げることになるのだ(1節)。具体的には、3節から21節まで言われていることが肉体を生贄にして捧げることになる。3節から8節までは信仰者同士の関係において、9節から21節までは信仰者同士から人間関係一般に広がるキリスト信仰者の立ち振る舞い行動様式の全容だ。どちらの場合もキリスト信仰者は相手よりも高く出ないでとことん自分をヘリ下させることが貫かれている。

キリスト信仰者は、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼によってそのような「心」を好むと好まざるとにかかわらず宿命的に植え付けられた者である。そういう者になりたいという問題ではないのだ。洗礼を受けてイエス・キリストを救い主と公けにする者が気づいていないのならば、すぐローマを3章から12章までじっくり読み通すべきだ。それが難儀ならば、毎週日曜日の礼拝に出るべきだ。そもそも礼拝というのは、キリスト信仰者に新しくされたヌースがあることを思い出させ、その新しさを保たせ強めるためにあるのだから。

以上のことを思い巡らした後、急接近していた巨大彗星はまた宇宙の彼方へと飛び去って行ったのである(了)。

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歳時記

芭蕉庵と関口

<あなたが水の中を過ぎるとき、わたしはあなたと共におる。川の中を過ぎるとき、水はあなたの上にあふれることがない。あなたが火の中を行くとき、焼かれることもなく、炎もあなたに燃えつくことがない。イザヤ書43:2>

過日、教会の近くの細川庭園で勉強会が開かれました、その帰りに庭園脇の細道を下っていましたら芭蕉庵なるものがありました。こんな所に何故と訝っていましたが後にしらべてみたら以下の事が分かりました。江戸時代この辺一帯は関口村と言われ神田川と深い関わり合いを持っていました。関口の関は堰(ダム)の事です、徳川家康が江戸入りをする以前から此処に住んでいた農民が灌漑用に堰を築いていたので堰口と呼んでいたのかも知れません。時代が下って徳川家康は江戸市内の飲料水の確保のために近くの大滝橋付近に大洗堰と言う本格的な堰を作らせました、堰は江戸湾の満潮時の海水が侵入しないように高く築かれていました。此処に溜めた水を当時の神田や日本橋方面に給水していました。此の堰を管理していたのが松尾芭蕉だと言われています、管理と言っても堰の掃除程度だったようです。それで芭蕉庵が何故此処にあるのかの謂れが分かりました。 写真は明治時代の関口大洗堰です、正面奥の堰に溜めた水を手前の箱樋で配水していたのでしょうか。右手の小高い丘は目白台で現在の細川庭園や椿山荘のある場所のようです。因みに水道橋とはこの水が下流で仙台堀の上空を横切って神田、日本橋方面に水を送るための給水専用の橋の事でした。

牧師の週報コラム

宮沢賢治「雨ニモ負ケズ」 vs. パウロ「ローマの信徒への手紙」12章(その3)

1228日のコラムの続き)確かにローマ12章は命令文が多い。しかし、「ローマ」を最初から丹念に中断することなく根気強く読み進めて12章に到達すると、これらの命令は普通の命令とは異なる響きを持つのだ(ギリシャ語原文では12章は動詞の命令形は少なくて大半は分詞の形である、この観点からの考察は別の機会に譲る)。どんな響きかというと、「読者諸君よ、君たちの立ち振る舞い行動様式はこのようなものになるのだ」と気づかせてあげるようなものなのだ。どうしてそんなことが言えるのかというと、読者は12章に到達する前に少なくとも2回、心を揺さぶられて神の御前に跪くような心の状態になっているからだ。

まず3章から8章までパウロは、イエス・キリストを救い主と信じる信仰と洗礼によって人は神から義人と認められ死の滅びから救われるという「信仰義認」を説く。そして8章の終わりで、何ものもこの義認と救いを奪い取ることはできない、それ位に神の愛は強いものであることが説得力をもって説かれる。読者はここで心を揺さぶられて感謝のあまり神の御前に跪くことになる。

次は9章から11章まで。パウロはユダヤ人の多くが信仰義認を受け入れず、掟を守ることで義人と認められようとする路線を取り続けている現状を悲しむ。他方で異邦人が信仰義認のキリスト信仰をどんどん受け入れる現状がある。これをパウロは、将来ユダヤ人が信仰義認を受け入れるようになるために今異邦人のキリスト信仰受け入れが起こっているのだ、神はユダヤ人を決して見捨ててはいないのだという恩恵を旧約聖書の預言に見出だす。11章の終わりで読者はパウロと共に人知を超える神の先見にただただ敬服し神の御前に跪くしかなくなる。

このように読者は2回心を揺さぶられて神の御前に跪くという、とことんへりくだった状態で12章に到達する。そこで冒頭の「神の憐れみによってあなたたちに勧めます」を目にすると、もうその通りにするしかない、それ以外に在りようがないという心になるのだ。なぜなら「神の憐れみ」には、3章~8章と9章~11章で言われていたことと8章と11章の終わりで結実しているものが詰まっているからだ。

このようにローマ12章の諸々の命令は、神の御前に跪きへりくだった状態にあるキリスト信仰者が聞いてその通りにするしかない、それ以外に在りようがないというものばかりなのだ。しかし、信仰者がそれらをそのように当たり前のように聞き入れる心を持てるのは、「神の憐れみ」に対する感謝と敬服のゆえだけではない。実は聞き入れる「心」そのものを神から与えられているのだ。(さらに続く)

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新年の小礼拝の説教 2026年1月1日 主の命名日 説教 吉村博明 牧師

新年の小礼拝の説教 2026年1月1日 主の命名日
スオミ・キリスト教会

民数記6章22~27節
ガラテヤ4章4~7節
ルカ2章15-21節

説教題 「主にある大元の喜びと嬉しさを忘れずに」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 西暦2026年の幕が開けました。キリスト教会のカレンダーは昨年の11月30日に始まった待降節が新年の幕開けでした。今日は、日常というのか世俗というのか、普通のカレンダーの新年の幕開けです。どちらにしても、新しい年が始まる日というのは、古いものが過ぎ去って新しいことが始まることを強く感じさせる時です。前の年に嫌なことがあったなら、新しい年は良いことがあってほしいと期待するでしょうし、前の年に良いことがあったならば、人によってはもっと良くなるようにと願うかも知れないし、またはそんなに欲張らないで前の年より悪くならなければ十分と思う控えめな人もいるでしょう。
 新年のこの日、日本では大勢の人がお寺や神社に行って、そこで崇拝されている霊に向かって手を合わせて新しい年に期待することをお願いします。神社仏閣に参拝する人数を合計すると日本の総人口より多くなるということを聞いたことがあります。それ位ひとりでいくつもの場所を駆け回る人が大勢いるということなのでしょう。そういうわけで新年の期間というのは、多くの日本人を崇拝の対象に強く結びつける期間です。
 キリスト教では新年最初の日はイエス様の命名日に定められています。天地創造の神のひとり子がこの世に送られて乙女マリアから人の子として誕生したことを記念してお祝いするクリスマスが12月25日に定められています。その日を含めて8日後は、今日のルカ福音書2章の聖句にあるように、このひとり子がイエスと名付けられたことを記念する日となっていて、それが1月1日の今日となります。このイエス様の命名の出来事を通しても聖書の神、天地創造の神とはどんな方か、そしてそのひとり子のイエス様はどんな方かがわかりますので、新年のこの日そのことについて見ていきましょう。

2.イエス・キリストの名前の意味

 まず誰でも知っているイエス・キリストという名前について。少し雑学的になるかもしれませんが、知っていると聖書の神が身近な存在になります。「イエス・キリスト」の「キリスト」は苗字のように思う人もいるのですがそうではありません。新約聖書が書かれているギリシャ語でクリストスχριστοςと言い、その意味は「油を注がれた者」です。「油を注がれた者」というのは、旧約聖書が書かれたヘブライ語ではマーシーァハמשיחと言い、日本語ではメシア、英語ではメサイアMessiahです。このマーシーァハ/メシアがギリシャ語に訳されてクリストス/キリストになったということで、キリストとは実はメシアのことだったのです。
 そこで、メシア/マーシーァハ「油注がれた者」とは何者かと言うと、古代ユダヤ民族の王は即位する時に王の印として頭に油を注がれたことに由来します。民族の王国は紀元前6世紀のバビロン捕囚の事件で潰えてしまいますが、それでも、かつてのダビデの王国を再興する王がまた出てくるという期待が民族の間でずっと持たれていました。ところが紀元前2世紀頃からメシアに新しい意味が加わりました。それは、今のこの世はもうすぐ終わり新しい世が来る、創造主の神が天と地を新しく創造し直す。その時、最後の審判が行われて神に義と認められた者は死から復活させられて「神の国」に迎え入れられる。そういう終末論が旧約聖書の預言にはあると見抜く人たちが出てきたのです。彼らによると、終末の時「神の国」の指導者になる王が出て、この世の悪と神に逆らう者を滅ぼし、神に義と認められる者を救い出して神の国に迎え入れる。それがメシアである、と。そういうこの世的でない、超越した王のことです。この世的であれ超越したものであれ、メシア「キリスト」は苗字ではなく、称号が通名になったようなものです。
 次に「イエス」の方を見てみましょう。これもギリシャ語の「ィエースース」Ἰησοῦϛから来ています。日本語ではなぜか「イエス」になりました。英語では皆さんご存知のジーザスです。「ィエースース」Ἰησοῦϛはヘブライ語の「ユホーシュアッ」יהושעをギリシャ語に訳したものです。「ユホーシュアッ」יהושעというのは、日本語でいう「ヨシュア」つまり旧約聖書ヨシュア記のヨシュアです。この「ユホーシュアッ」יהושעという言葉は「主が救って下さる」という意味があります。このようにイエス様の名前には、ヘブライ語のもとをたどると「主が救って下さる」という意味があるのです。ヨセフもマリアも生まれてくる赤ちゃんにユホーシュアッと付けなさいと天使に言われました。それでこちらが本名です。そういうふうに、イエス・キリストという名はヘブライ語で見るとユホーシュアッ・マーシーァハ(日本語ではヨシュア・メシア)となり、キリスト教が地中海世界に広がっていった時にギリシャ語に直されてィエースース・クリストス(日本語のイエス・キリスト)になったのでした。

3.律法の下に生まれ、律法の支配下にある者を贖い出す

 さて、イエスの名前の意味が「主が救って下さる」ならば、誰を何から救って下さるのでしょうか?天使がヨセフにこの名を付けなさいと言った時、その理由は「彼は自分の民を罪から救うことになるからだ」と言いました(マタイ1章21節)。つまり、「主が救って下さる」のは何からの救いかということについて、「罪からの救い」であるとはっきりさせたのです。
 そもそも「神が救う」というのは、ユダヤ教の伝統的な考え方では、神が自分の民イスラエルを外敵から守るとか、侵略者から解放するという理解が普通でした。ところが神は天使を通して、救われるのが国の敵からではなく、罪と死という人間一般の敵からであるとはっきりさせたのです。「罪から救って下さる」というのは、人間を永遠の滅びに陥れようとすることから救って下さることです。端的に言えば、罪の呪いから救い出すということです。創世記に記されているように、最初の人間アダムとエヴァが造り主である神に対して不従順になったことがきっかけで人間の内に神の意思に反しようとする罪が入り込みました。それで神と人間の結びつきが失われて人間は死する者になってしまいました。またかと思われてしまうかもしれませんが、キリスト教は何も犯罪を犯したわけではないのに「人間は全て罪びとだ」と言います。でも、キリスト教でいう罪とは、個々の犯罪・悪事を超えた(もちろんそれらも含みますが)、すべての人間に当てはまる根本的なものを指します。造り主である神の意思に反しようとする性向です。もちろん世界には悪い人だけでなくいい人もたくさんいます。しかし、いい人悪い人、犯罪歴の有無にかかわらず、全ての人間が死ぬということが私たちは皆等しく罪を持っていることを表しているのです。
 イエス様が人間を罪から救い出すというのは、罪の呪いの力を無にして人間が罪の罰を神から受けないで済むようにすることでした。人間が神との結びつきを持ってこの世を生きられようにし、この世から別れた後は復活の日に目覚めさせてもらって神の国に永遠に迎え入れられるようにすることでした。それを実現するために、イエス様は人間に向けらていた神罰を全て引き受けて私たちの身代わりになって十字架にかけられて死なれました。イエス様は神のひとり子で神と同質の方で神の意思に完璧に沿う方であるにもかかわらず、神の意思に反する者全ての代表者のようになったのです。誰かが私たちの身代わりとなって神罰を本気で神罰として受けられるためには、その誰かは私たちと同じ人間でなければなりません。そうでないと、罰を受けたと言っても、見せかけのものになります。これが、神のひとり子が人間としてこの世に生まれて、神の定めた律法に服するようにされた理由です。本日の使徒書の日課ガラテア4章で言われていことが起こったのです。「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。」
 神の定めた律法に服するようにさせたということは、本日の福音書の個所にあるように割礼の儀式を受けたことにも示されています。割礼と言うのは、天地創造の神がかつてアブラハムに命じた儀式で、生まれて間もない男の赤ちゃんの性器の包皮を切るものです。律法の戒律の一つとなり、これを行うことで神の民に属する印となりました。こうしてユダヤ民族が誕生しました。イエス様は神のひとり子として天の父なるみ神のもとにいらっしゃった方でしたが、この世に送られてきた時は、旧約聖書の伝統を守る民族の只中にその旧約聖書に約束されたメシア救世主として乙女の胎内から生まれてきました。それで割礼という律法の掟に従ったのでした。全ては人間を罪の呪いから救い出すためでした。
 イエス様の十字架の死と死からの復活の後で全てが一変します。イエス様が十字架で果たして下さったことは、現代を生きるこの私のためでもあったとわかって彼を救い主と信じて洗礼を受けることで神との結びつきが回復するようになりました。洗礼が天地創造の神の民の一員であることの印として、割礼にとってかわるものになりました。使徒パウロが、人間が罪の呪いから救われるのは律法の戒律を守ることによってではなく、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼によってであると主張したのです。人間は信仰と洗礼でもって創造主の神との結びつきを持ててこの世を生きられるようになったのです。
 このように私たちには、人間を罪の呪いから解放するために民族の違いを超えてご自分のひとり子を犠牲にするのも厭わなかった父なるみ神がおられるのです。そしてその神と同質の身分であることに固執せず、父の御心を身をもって実現して私たちに救いをもたらして下さった御子イエス様もおられます。このような神と結びきを持ててこの世を歩めることを私たちは心から喜び感謝することができますように。

4.勧めと励まし

 このような神との結びつきを持ててこの世を歩めるというのは、暗闇の中で光を見失わないことと同じです。私たちは身近な願いや希望が叶えられると嬉しくなります。叶えられないと目の前が暗くなったような感じがします。しかし、キリスト信仰者には身近な願いや希望が叶う叶わないに左右されずにある大元の嬉しさ、喜びがあります。イエス様の十字架と復活の業のおかげで私たちは神の目に相応しい者になれることからくる嬉しさ、喜びです。この礼拝の初めでベートーベンの第九の「歓喜」の歌に触れました。星空の彼方に創造主は必ず住んでおられることが大きな喜びの元にあることを表現している歌であると。創造主が必ずおられることがどうして大きな喜びになるのか、それを詩篇8篇が明らかにしてくれていると申しました。創造主の神が私たち人間を覚えてくれて面倒を見て下さるからですが、神が覚えてくれて面倒を見て下さることはひとり子を私たちに贈って下さったことに一番強く表れているのです。
 私たちはどのくらい神の目に相応しくなっているのでしょうか?それは、今のこの世の次に到来する新しい世において神の御許に迎え入れてもらえるくらいに、つまり、天のみ国に迎え入れてもらえるくらいに相応しいということです。もし神社やお寺で、天国に行けますように、などと声に出して祈ったら、周りの人から、この人少しおかしいんじゃないか、早く死にたいのか、と思われるでしょう。しかし、キリスト信仰者には、もちろん身近なこの世的な願いもありますが、同時に神に義とされて神の国に迎え入れられるという希望があります。しかも、その希望はイエス様のおかげで既に叶えられているから大丈夫という安心があります。もちろん、身近な願いが叶えられず、どうして?神は聞いてくれなかったのか?神は何か私にご不満なのか?そういう疑いはキリスト信仰者でも抱く時があります。しかし、神は、そうではないのだ、イエスを救い主と信じるお前を私は見捨ててなどいない、お前は天の国に至る道に置かれて、その道を私と共に歩んでいる、物事がお前の思う通りに進まなくても、私の思う通りに進むから心配するな、私の目は常時お前に注がれているから安心しなさい、何も恐れることはない、と神は言って下さるのです。これが神との結びつきを持って生きるということです。この結びつきは聖書を繙く時、聖餐式に与かる時に強まっていきます。
 そういうわけで兄弟姉妹の皆さん、私たちには神との揺るがない結びつきがあるゆえに大元の嬉しさと喜びがあるのですから、それを忘れずに新しく始まった年を歩んでまいりましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

歳時記

新年あけましておめでとうございます。今年も宜しくお願い致します。

写真に写っているのは明治23年(1890年)頃の新宿区戸塚町です、現在はこの戸塚町はありませんが今の早稲田中学校のあたりです。ですからこの景色はまさにスオミ教会のある鶴巻町のごく近くです、明治時代はこんな田圃のある所だったのですね。夏目漱石の住んでいたのは早稲田通りの南側の喜久井町でした。正岡子規と一緒に散歩したのが関口町付近ですからこれも教会のすぐ近くです。正岡子規の「墨汁一滴」と言う随筆があり、その中に「稲」と「米」について漱石が東京生まれで田んぼのそばに住んでいたにもかかわらず、稲が実り米になると言う事を知らずにいたことを記したのがありますのでその一節を「・・・余が漱石と共に高等中学に居た頃漱石の内をおとづれた。漱石の内は牛込の喜久井町で田圃からは一丁か二丁しかへだたつてゐない処である。漱石は子供の時からそこに成長したのだ。余は漱石と二人田圃を散歩して早稲田から関口の方へ往たが大方六月頃の事であつたらう、そこらの水田に植ゑられたばかりの苗がそよいで居るのは誠に善い心持であつた。この時余が驚いた事は、漱石は、我々が平生喰ふ所の米はこの苗の実である事を知らなかつたといふ事である。都人士の菽麦を弁ぜざる事は往々この類である。もし都の人が一匹の人間にならうといふのはどうしても一度は鄙住居いをせねばならぬ。・・・」とユーモラスに記しています。

2026年1月4日(日)10時半 降誕節第二主日 礼拝 説教 田口聖 牧師(日本ルーテル同胞教団)

ヨハネによる福音書1章1〜18節
「恵みと真理に満ちた父の独り子としての栄光」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように
。アーメン。
1、「はじめに」
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
使徒ヨハネは、福音書の初めを、御子キリストが世の始まる前からおられ、天地を創
造をされた神であること。そしてその神が、堕落し闇を彷徨う人類を決して見捨てず、
その闇から救い出すために闇に輝く光である御子イエス・キリストを私たちに与えてく
ださったその三位一体の神による救いの恵みを高らかに宣言します。そして6節以下、
光ではないけれども、その光である救い主を指し示す預言者を約束しその通りに与えて
くださったと伝えます。その預言者が指し示すまことの光の到来について、使徒ヨハネ
は次のようにいいます。
2、「すべての人」
「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」9節
と。「すべての人」です。3節では「すべて」は天地創造のことを指しているでしょ
う。ですからこの「全ての人」は、誰一人漏れる事も、例外もない「全ての人」です。
つまり救いも恵みもその対象は神の前にあっては、選びの民イスラエルだけではない。
あるいは、世の人々や社会がそれぞれの価値観や正義で、良い悪い、救われる救われな
いと評価したり判断したりする、そのような人間が作り上げる制限や資格や条件なども
全く関係ない、あるいは、異なる宗教の人々は除外される、でもないのです。実に、マ
タイ2章ではその救い主の知らせは東の占星術の学者に伝えられたことを記しています
。それは東方ペルシャの異教の民です。そのように聖書のまことの真実な神、救いの神
は、星を用い、この当時も異教であったその民にも世の救い主の到来と喜びを伝え、礼
拝に招きました。また、ルカ2章、野で夜番をしていた羊飼い達にも真っ先に救い主の
到来は伝えられました。羊飼いは、最も身分の低い、貧しい、3Kの仕事をする人々で
した。しかしそんな彼らがこの最初のクリスマスの礼拝に招かれています。御遣いは彼
らに「あなたがたのための救い主が生まれた」と言いました。そして御遣いは彼らの前
で喜びを讃美したでしょう。そしてその救い主イエス様は成長し宣教を開始された時、
世が蔑み、退けるような取税人達や罪人達とさえも、いや彼らのところにあえて行き友
となり、ともに食事をし「ここに救いが来た」「医者を必要とするのは病人です。私は
罪人を悔い改めさせるために来た」といって、彼らにまさに救いの光を輝かせたではあ
りませんか。まさに「全ての人」です。誰一人例外はありません。除外されないのです
。つまり、私たち一人一人もです。それは私たちがどんなものであっても、どんなに罪
に打ちひしがれて、自分が神の前にふさわしくないものだと思っても、しかし主はその
ようなあなたのために、わたしたちのために、あなたを、私たちを照らすために、来ら
れた救い主、まことの光、それがイエス・キリストだという約束なのです。

2 /

3、「人によらない」
A.「人は知ることができなかった」
そして10節以下、その「救い」というのは、私たちのわざや力ではできない、あり
えないことなんだと、この福音書の記者、使徒ヨハネは続けています。「この方はもと
から世におられ、世はこの方によって造られた」と、全てのものはこの方から生まれ、
この方がすべて、この世、私たちの初めであったのに、しかしその世界、そのすべての
人は、この方を知らなかったとあるのです。その通り神が遣わした「指し示し、この方
こそ救い主だ」と示す人が遣わされたからこそ民は救い主の到来を知りました。同じよ
うに私たちも、自分からキリストを知って信じたのではありません。まさに私たちもみ
ことばによって示されたから、聖霊によって教えられたからこそ、キリストと出会いそ
の救いを知ったでしょう?私たち人間は誰も、みことば、聖霊、そしてそのみ言葉と聖
霊によって召され遣わされた伝えるもの、そのような神の恵みがなければ「この方をし
らなかった」、知ることができなかったのです。さらに11節、
B、「民は受け入れなかった」
「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。」
と続いています。言葉であるその方は、ご自分のもの、ご自分の所有の所に来られた
のに「ご自分の人々」は受け入れなかったというのです。このところも「民」というの
はイスラエルの人々をさすのだと理解する人もいますが、1節からの文脈をみても、そ
の「民」は、まさに私たち「すべての人」のことでしょう。つまり、私たちは神に命を
与えられた神のものであり、神の所有する人間であるのに、私たちはこの方、救い主を
受け入れなかったのです。これは、人の堕落以来、変わることのない罪の性質を伝えて
います。私たちは堕落の子であり、私たちは自らではこの方を知らない、そればかりか
神そのものを拒むもの、受け入れないものである事実、現実です。まさに最初の人は、
神の言葉よりも、誘惑するものの「目が開かれ賢く、神のようになれる。善悪を自分が
判断して自分が裁判官になれる」そのような声を受けれます。実にその通りに、今も人
は、神の言葉よりも、自分のことば、思い、考え、知識を中心に、それらをすべての判
断の基準にするのが当たり前です。それはキリスト教会の中でさえも、神の言葉に人間
の理性を従わせるのではなく、逆で、神の言葉を人間の堕落した理性や感情や知識に従
わせる。それらに基づいて神の言葉を理解することのほうが正しいという声は少なくあ
りません。旧約聖書の歴史はまさにそのような人間の歴史であり、カイン然り、ノアの
家族以外の人々然り、バベルの塔の人々然りです。そればかりではありません。まさに
神の恵みでエジプトから脱出した救いの民、イスラエルの民さえもそうであったでしょ
う。目の前の困難な現象だけで、神の恵みを忘れてモーセを批判し神へ不平不満を言い
、神への信仰を軽んじてアロンに金の子牛を造らせ、神に背きました。そのように神に
助け出され救われ、神の恵みを知っている人々でさえ、神の言葉の真実さを疑い、神の
恵みを忘れ神を捨てようとする、それが人間の性質であることを聖書は見事に描き出し
ています。「この方はご自分のくににこられたのに、ご自分の民は受け入れなかった
。」ーこれは、旧約聖書を通して証しされている堕落した人間の姿であり同時に今も変
わらない私たち人類の姿なのです。

3 /

C、「誰でも受け入れ救われる。しかしそれは人の力によらない」
しかし、まさにその現実があるからこそ使徒ヨハネは福音を宣言します。12節
「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与
えた。」新改訳聖書では「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じ
た人々には、神の子供とされる特権をお与えになった。」
この方を受け入れた人々、イエスの名を信じた人々は、神の子とされる特権が与えら
れる。誰でも、どんな人でも、その名を信じるなら、キリストを受け入れるなら、救わ
れる。神の子とされる。素晴らしい福音の約束です。しかし、13節でもこう続いてい
ます。
「この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもな
く、神によって生まれたのである。」
その信じる事、神の子とされること、救われる事、それは人の肉の力、人の思いや意
欲、熱心、情熱、願望でさえないと、ヨハネは言いきっています。皆さん、どうでしょ
うか?「受け入れる、信じる」ということ。それは、私たちの努力や行いの結果だと思
っていないでしょうか?救われるために、信じるために、恵みに値するものとなるため
に、まず私たちの行動、思いや熱意、あるいは決心が必要なんだ、そう思っていなかっ
たでしょうか?皆さん、それは違います。それは間違いだと使徒ヨハネははっきりと言
っています。まさにヨハネやパウロの時代はギリシャ哲学全盛の時代です。アリストテ
レスなどは、救いのためには、人の最善のわざがまず必要だと教えましたが、そのよう
な人気のある教えやそこから派生した様々な哲学の教えが教会を脅かしていた時代に生
きていた説教者が使徒ヨハネであったのです。そのような哲学の影響はヨハネの後の中
世の時代の教会の神学にさえ及んでいきます。著名な神学者達は、救いのためには、恵
みだけでは不十分で、人の行いや決心や意志が救いのために必要だ、数パーセントでも
人の側のわざが救いのためには必要なんだと教えていきます。使徒ヨハネはいつの時代
にもそのように流行っていく間違った行為義認の救いの教えに対してはっきりと「ノ
ー」というのです。
「この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神
によって生まれたのである。」
と。私たちの信仰も救いも、それは、人の行い、人の側のなんらかの貢献に一切より
ません。人の思いや意志、熱心、決意にさえも一切よりません。人のわざ、肉にわざ、
血のわざではない、ただただ「神による」のだ、これはまったく100%恵みなんだ。ヨ
ハネの非常に明確な福音の説教がここに私たちにも伝えられているのです。
皆さん、私たち自身には、数%も、キリストを受け入れる、信じる力などありません
。私たち自身はどこまでも神を知らない、受け入れない罪人です。その現実を前に、私
たちの血、私たちの肉の意欲、決心、わざに救いに貢献しうる力などあり得ないのです
。しかし、聖書は使徒ヨハネを通して伝えます。私たちは神によって、神の創造の力、
みことば、神の恵みによって、そして御子イエス・キリストによって、私たちは新しく
生まれたのだと。神が、神の方から、キリストを私たちに与え、御言葉を与え、信仰を
与え、洗礼を与え、救いを、聖霊を、新しいいのちを、神が与えて下さった。ただただ
神の恵みにより、恵みの賜物、信仰を与え、私たちを受け入れるもの、信じる者として

4 /

下さった、神の子としてくださった、『神が』そのようにしてくださった、『神が』生
んで下さった、その神の恵みのゆえに、今私たちクリスチャンは存在する。信仰は律法
ではありません。信仰はどこまでも福音なのです。その福音の確かさ、真実さがここに
私たちに、私たちのために今日も宣言されているのです。
4、「恵みと真理とに満ちた父と独り子としての栄光」
そしてそれは実に不思議な方法です。14節
「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。わたしたちはその栄光を見た。それ
は父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」
A、「救い主は私たちの間に」
天地万物を創造された「ことば」である方は、なんと「人となって、私たちの間に住
まわれた」とヨハネは見たままを証しします。創造の神である方が人となられた。それ
だけでない、ヨセフとマリヤの記録で見てきたように、戸惑い恐れるものに喜びと平安
を約束される。異教の東の民にも喜びの知らせは告げられ、最も身分の低い羊飼いを最
初の礼拝者として招き、彼らの前で天使の軍勢は賛美をし、救い主のところへと導いた
。さらにその人となられた創造の神である方は、人の間に一緒に生活し、社会が避け嫌
う罪人を裁くのではなく、断罪し滅びを宣言するのでもない、蔑み差別し退けるのでも
ない。むしろ彼らと友になり一緒に食事をし喜びも悲しみも苦しみも共にされます。そ
して、なんとその私たちの罪を全て代わりに背負って十字架にかかって死なれた。そし
て復活された。創造の神である方が人となられ私たちの間に住まわれた出来事。それは
全世界を創造された果てしなく大きなお方が、なんとその全世界の中で塵よりも小さな
反逆の罪深い存在を愛された、その証しなのです。
B、「神の愛とは何か?栄光とは何か」
そしてさらにヨハネはその「栄光」を見たと言っています。その「栄光」とはなんで
すか?みなさん、神の愛も、その栄光も、何よりも、その父の一人子としての栄光、そ
れはまさに十字架にこそはっきりと現されているものに他なりません。なぜならヨハネ
はこう記し私たちに伝えているからです。ヨハネの手紙第一4章9−10節。
「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるよ
うになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。 わたしたちが
神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとし
て、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」
私たちは誰も受け入れなかったのに、そのような私たちのために、世の初めにおられ
、天地万物を創造された言葉であるお方が、神であるお方が、神の方から、なんと、そ
んな罪深い、信じない受け入れない、どこまでも自分中心で自分を愛することしかでき
ないようなそんな罪人である私たちのために、私たちのその罪とその咎、私たちが本来
受けなければならなかった罪の報いをすべて代わりに背負って償ってくださった。そし
てその十字架のゆえに「あなたの罪は赦されています」と罪の赦しを宣言し与えてくだ
さる。それほどの大きな愛はないと聖書は伝えます。いやキリスト教の伝える愛という
のは、まさにキリストが十字架で現された愛であり、この十字架を指してこそ神は愛で
あると聖書ははっきりと伝えているのです。ですから「神は愛」というのは、単なる隣

5 /

人愛や道徳の指針でもなければ、現代流行りの、人間の側で何か都合よく解釈され人間
の都合に当てはめ利用されるような便利な言葉としての「ポップな神の愛」では決して
ないのです。現代のキリスト教会では、現代人は聞きたくない、人が教会に集まらない
からと、なるべく罪や悔い改めなどに触れず、十字架までも傍に置いて、人間の都合の
良い耳に優しく解釈された「神の愛」が「人間的な愛」にミックスされたり歪められた
りして伝えられるというのが教会のトレンドなのかもしれませんし、その方が人は集ま
るかもしれません。しかし、聖書は明らかです。この十字架を抜きに神の愛は語れませ
ん。そしてこのキリストの十字架の死ほど大きな愛はないのです。そしてこの十字架を
指してヨハネは「わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であっ
て、恵みと真理とに満ちていた。」と伝えているのです。つまり、よく教会内で私たち
が自分の力で神の栄光を表すことに敬虔さがあるように言われますが、栄光は、私たち
の栄光ではないのです。私たちが努力して達成し実現し獲得する、そんな栄光ではあり
ません。「父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」とはっき
りあるではありませんか。それを私たちの行いや努力でまず表す栄光、それを神のため
に表し、神に捧げるそんな私たちにかかっている栄光であるなら、それはある意味、こ
の聖書の言葉に反対する偶像礼拝になるでしょう。栄光は私たちが自分の力で達成する
わざではないのです。どこまでも
「父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」ーイエス様の十字
架と復活にこそ神の栄光が表され、それは恵みとして私たちに与えられるもの、それは
恵みと真理に満ちているとヨハネは証しします。
5、「終わりに」
救いはどこまでも恵み、すべての人々のために来られた救い主がすべての人の前にそ
のまま受け取るように差し出してくださっている、十字架に現された神の栄光を誰でも
そのまま受け取る、それは恵みですから、そのまま受け取る、救いはそれだけでいいの
です。そしてそれはクリスチャンとして生きる信仰生活も変わることなく貫かれている
のです。「救いは初めだけ洗礼の時まで天からの恵みで、洗礼の後の生活や聖化は私た
ちのわざと達成によるのだ」と思っていないでしょうか。そうではありません。この「
ことばは、神は、人となって私たちの間に住まわれ」「神が私たちのところへ、私たち
のために」という原則、栄光と恵みと真はキリストに満ちているということは、クリス
チャン生活においても天に帰るときまで変わらないのです。洗礼を受けたら、それらキ
リストの恵みもまことも私たちから無くなり、あとはあなた方の努力で神の栄光を一生
懸命、達成してくださいとはならないのです。聖書は、クリスチャンに、律法に生きな
さいとは言わず、御霊にあって福音に生きなさいとどこまでも勧めているでしょう。「
信仰」「信じる」とはそのように恵みであり福音なのです。「信仰生活」の「信仰」と
は何でしょうか?それは「信頼」です。信頼とはどういうことでしょうか。それは、ま
さに幼子と親です。幼子が親の愛情にただすがり、頼り、依存し安心する姿です。その
ような子供の信頼は達成するものではないでしょう。親の助けが必要な弱い幼子が、た
だ受け取りただすがるものではありませんか。それが信仰、そして信仰生活だというこ
とです。ですから、12節でもヨハネは、救いは「神の子とされる」ことだとも言って

6 /

いるでしょう。信頼です。それはクリスチャンになってからもずっと真実な神とその約
束、福音への信頼なのです。私たちのところへ来て下さった神様へ、子供が安心して父
親、母親に抱かれるように、神様に抱かれるように信頼することなのです。今日もイエ
ス様はそんな子である私たちに宣言してくださいます。「あなたの罪は赦されています
。安心して行きなさい」と。ぜひ今日もイエス様の福音をそのまま受け取り、イエス様
に全てをお任せして、安心してここから世に遣わさされていきましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリス
ト・イエスにあって守るように         アーメン

 

2026年1月1日(木)10時半 新年礼拝

司式・説教 吉村博明 牧師

聖書日課 民数記6章22~27節、ガラテヤ4章4~7節、ルカ2章15~21節

説教題 「主にある大元の喜びと嬉しさを忘れずに」

讃美歌 49、3、467、51

特別の祈り

全知全能の父なるみ神よ。

あなたは天と地と人間を造られ、私たち一人一人に命と人生を与えて下さいました。その上、罪を持つ私たちを救いの業によってあなたの目に適う者になれるようにして下さいました。どうかこの新しい年も、この救いの実現して下さったイエス様を真(まこと)の救い主と信じる信仰を携えて、日々あなたへの感謝を忘れず、あなたの意思に沿うように毎日を送れるように私たちを力づけ見守って下さい。

あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストのみ名を通して祈ります。アーメン

牧師の週報コラム

 宮沢賢治「雨ニモ負ケズ」 vs. パウロ「ローマの信徒への手紙」12章(その2)

1214日のコラムの続き)ローマ12章の意味を確認していた時、16節は新共同訳では「高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい」となっているが、「身分の低い人々」のギリシャ語は、私の使っている辞書では「取るに足らないこと」、つまり人ではなく事柄である(私の辞書はギリシャ語・スウェーデン語、神学を勉強した大学がスウェーデン語系の大学だったため)。「交わりなさい」も「心を注ぎなさい」だ。どっちが正しいのか?前の文の「高ぶらず」を正確に訳すと「大業なことを考えない」となる。つまり事柄を言っている。それで、二つの文は二つの事柄を対比していると考えると、ここの訳は「自分を高くするようなことは考えず、自分を低くするようなことに心を傾けよ」になるのでは、と思った瞬間、賢治の「みんなにでくの坊と呼ばれ褒められもせず苦にもされず」が響いてきた。

そこでもう一度、9節から意味を意識しながら唱えてみた。愛は見かけではいけない、悪を忌み嫌い、善から離れないようにし、互いに兄弟愛をもって心から愛し、お互いを尊敬をもってたたえ合い、怠けず熱心になり、霊に燃え、主に仕え、希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、祈りを絶やさず、聖なる者の欠乏を自分事とし、完璧なもてなしを目指し、迫害する者を祝福して呪わず、喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣き、互いに思いを一つにし、自分を高くするようなことは考えず、低くするようなことに心を注ぎ、自分は賢い者と自分で決めず、誰に対しても悪をもって悪に報いず、全ての人の前で良いことのために力を尽くし、少なくとも自分の側からは全ての人と平和な関係を築くようにし、自分では復讐せず、神の怒りに任せ、敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませ、悪に凌駕されず、善をもって悪に打ち勝て、という内容だ。

自分をとことん低くして自分ファーストにならずに社会に善が増し加わり悪が廃れるように立ち振る舞い行動するというのは、雨ニモ負ケズの精神と相通じるのではないかと思いきや、すぐ違いにも気がついた。賢治の場合は最後に「そういう者に私はなりたい」と言っている。つまり、「雨ニモ負ケズ」から始まってずっと述べてきた立ち振る舞い行動様式は追い求める理想像なのだ。他方、パウロの場合は「~しなさい」、「~してはならない」と命令形なのだ。ということは、仏教徒は自分で追い求める理想像を描けるが、キリスト教徒は命令されないとわからない動かないという情けない存在なのか?(さらに続く)

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2025年12月24日(水)19時(18時開場) クリスマス・イブ礼拝  説教 吉村博明 牧師

降誕祭前夜礼拝説教 2025年12月24日

スオミ・キリスト教会

ルカ2章1-20節

説教題 「天には栄光、神に

地には平和、御心に適う人に」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

1.はじめに

 今朗読されたルカ福音書の2章はイエス・キリストの誕生について記しています。世界で一番最初のクリスマスの出来事です。この聖書の個所はフィンランドでは「クリスマス福音」(jouluevankeliumi)とも呼ばれますが、国を問わず世界中の教会でクリスマス・イブの礼拝の時に朗読されます。

 「クリスマス福音」に記されている出来事は多くの人に何かロマンチックでおとぎ話のような印象を与えるのではないかと思います。星の輝く夜空に羊飼いたちが羊の群れと一緒に野原で野宿をしている。そこに突然、輝く天使が現われて救い主の誕生を告げる。すると、大勢の天使が現れて一斉に神を賛美する。賛美し終えた天使たちは天に帰り、あたりはまた闇に覆われる。羊飼いたちは生まれたばかりの救い主に会いに行こうとベツレヘムに急行する。そして、馬小屋の中で布に包まれて飼い葉桶に寝かせられている赤ちゃんのイエス様を見つける。

 これを読んだり聞いたりする人は、闇を光に変える天使の輝きと救い主誕生の告げ知らせ、飼い葉桶の中で静かに眠る赤ちゃん、それを幸せそうに見つめるマリアとヨセフと動物たち、ああ、なんとロマンチックな話だろう、本当に「聖夜」にふさわしい物語だなぁ、とみんなしみじみしてしまうでしょう。

2.聖夜の真相

 でも、本当にそうでしょうか?皆さんは馬小屋や家畜小屋がどんな所かご存知ですか?私は、パイヴィの実家が酪農をやっていたので、よく牛舎を覗きに行きました。それはとても臭いところです。牛はトイレに行って用足しなどしないので全て足元に垂れ流しです。馬やロバも同じでしょう。藁や飼い葉桶だって、馬の涎がついていたに違いありません。なにがロマンチックな「聖夜」なことか。天地創造の神のひとり子で神の栄光に輝いていた方、そして全ての人間の救い主になる方は、こういう不潔で不衛生きわまりない惨めな環境の中で人間としてお生まれになったのでした。

 問題は劣悪な環境だけではありません。クリスマス福音に書いてあることをよく注意して読めば、マリアとヨセフがベツレヘムに旅したことも、また誕生したばかりのイエス様が馬小屋の飼い葉桶に寝かせられたのも、全ては当時の政治状況のなせる業だったことがわかります。普通の人の上に権力を行使する者がいて、人々の人生や運命を牛耳って弄んだことに翻弄されたことだったのです。そのことを「クリスマス福音」は明らかにしています。

 ヨセフとマリアはなぜイエス様を自分たちが住むナザレの町で出産させないで、わざわざ150キロ離れたベツレヘムまで旅しなければならなかったのでしょうか?それは、ローマ帝国の初代皇帝アウグストゥスが支配下にある地域の住民に、出身地で登録せよと勅令を出したからです。これは納税者登録で、税金を漏れることなく取り立てるための施策でした。その当時、ヨセフとマリアが属するユダヤ民族はローマ帝国の占領下にあり、王様はいましたがローマに服従する属国でした。ヨセフはかつてのダビデ王の家系の末裔です。ダビデの家系はもともとはベツレヘム出身なので、それでそこに旅立ったのでした。東京から軽井沢までの距離を徒歩で行く旅です。出産間近なマリアはロバに乗ったでしょうが、それでも無茶な旅です。町と町の間は荒野が拡がり、もちろんコンビニなんかありません。場所によっては強盗も出没します。しかし、占領国の命令には従わなければなりません。当時の地中海世界は人の移動が盛んな、今で言うグローバル世界だったので故郷を離れて仕事や生活をしていた人たちは多かったでしょう。皇帝のお触れが出たので大勢の人たちが慌てて旅立ったことは想像に難くありません。

 やっとベツレヘムに到着したマリアとヨセフでしたが、そこで彼らを待っていたのはさらなる不運でした。宿屋が一杯で寝る場所がなかったのです。町には登録のために来た旅行者が大勢いたのでしょう。そうこうしているうちにマリアの陣痛が始まってしまいました。どこで赤ちゃんを出産させたらよいのか?ヨセフが宿屋の主人に必死にお願いする姿が目に浮かびます。気の毒に思った主人は、馬小屋なら空いているよ、一応屋根があるから星の下よりはましだろうと言ってくれました。さて、生まれた赤ちゃんはすぐ布に包まれました。飼い葉桶にそのまま寝かせると硬くて痛いから、馬の餌の干し草をクッション代わりに敷きました。これがイエス様がベツレヘムの馬小屋で生まれた聖夜の真相です。

3.究極の権力者が共に歩んで下さる

 しかしながら、聖書をもっと読み込める人はこれよりももっと深い真相に達することが出来きます。どんな真相でしょうか?それは、普通の人の上に権力を行使する者たちがいても、実はそのまた上にそれらの者に権力を行使する方がおられるという真相です。上の上におられる方が下にいる権力者の運命を手中に収めているという真相です。この究極の権力者とは、まさに天地創造の神、天の父なるみ神のことです。なぜなら、神は既に何百年も前に旧約聖書の中で、救い主がベツレヘムで誕生することも、それがダビデ家系に属する者であることも、処女から生まれることも全て前もって約束していたのです。それで神は、ローマ帝国がユダヤ民族を支配していた時代を見て、いよいよ約束を実現する条件が出そろったと見なしてひとり子を贈られたのでした。あるいはこうかもしれません、神はその当時存在していたいろんな要素をうまく組み合わせて、約束実現の条件を自分で整えたのかもしれません。神は条件が整ったのを見いだしたのか、それとも自分でそれを整えたのか、どっちにしても、この世の権力行使者たちが我こそはこの世の主人なり、お前たちの人生や運命を弄んでやると得意がっていた時に、実は彼らの上におられる神が彼らをご自身の目的達成の道具か駒にしていたのです。

 人間的な目で見たら、マリアとヨセフは上に立つ権力者に翻弄させられたかのように見えます。しかしながら、彼らはただ単に神の計画の中で動いていただけなのです。翻弄させられるということは全然なかったのです。なぜなら、神の計画の中で動けるというのは、神の守りと導きを受ける確実な方法だからです。それなので、イエス様誕生にまつわる惨めさは、神の目から見たら惨めでもなんでもなく、神の祝福を豊かに受けたものだったのです。そのようにして二人には究極の権力者である天地創造の神がついておられ、その神に一緒に歩んでもらえる者として、彼らはこの世の権力者たちの上に立つ立場にあったのです。彼らの心の在りようを聖書の御言葉で言い表すとすれば、詩篇23篇4節が相応しいでしょう。「たとえ我、死の陰の谷を往くとも禍を怖れず、汝、我とともにませばなり。」神とは信じたら人生を順風満帆、商売繁盛、無病息災にしてくれるものだ、と考える人は聖書の神の真実を知ったら信じたいと思わなくなるでしょう。聖書は、神を信じても死の陰の谷を進まなければならないような苦難や困難に遭遇するとはっきり教えます。しかし、それと同時に紙一重でもっと肝心なことも教えます。それは、苦難や困難の谷を究極の権力者である神が私たちの傍にいて一緒に歩んで下さるということです。苦難と困難の中で恐れと不安はある、しかし、自分の命と運命はこの世の権力者ではなく、それを超えた究極の権力者である神の手中にある、救い主を与えて下さった神であれば自分の命と人生が彼の手中にあるのは正しい場所なのだ、そういう恐れと不安を超える安心が紙一重にあるのです。マリアとヨセフはそのような心を持ってベツレヘムに旅立ったのでしょう。

 実は私たちも、マリアとヨセフと同じ心を持つことが出来ます。それは、マリアから人間としてお生まれになったイエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで持つことが出来ます。どうしてイエス様が救い主なのかと言うと、それは彼が十字架の死を受けることで私たち人間の罪を全部神に対して償って下さったからです。それに加えて、イエス様は死から復活されたことで死を滅ぼして永遠の命への道を私たちに切り開いて下さったからです。このイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、人間は神との結びつきを回復しでき、神との結びつきを持ってこの世を歩むことができるようになります。この結びつきは人生の順境の時も逆境の時も変わらずにあり、この世から別れる時にもあり、そして復活の日が来たら目覚めさせられて、神のもとに永遠に迎え入れられるのです。この神との永遠の結びつきのゆえに、キリスト信仰者はクリスマスの時に飼い葉おけに寝かせられた赤ちゃんのイエス様を心の目で見る時、透かして見るように将来の十字架と復活にも思いを馳せるのです。それで信仰者はイエス様の誕生を自分事のように喜び、神に感謝するのです。

4.天使の賛美の意味

 説教の終わりに、大勢の天使たちが歌った賛美を少し見てみます。

「天には栄光、神に

地には平和、御心に適う人に」

この賛美は少し難しいです。原文のギリシャ語を見ると、詩の形で動詞がありません。なので、天には栄光が神にある、と事実を述べているのか、それとも、栄光が神にありますように、と願望を述べているのかはっきりしません。続く言葉も、地には平和が御心に適う人にある、と事実を述べているのか、平和が御心に適う人にありますように、と願望なのかはっきりしません。そして一つ気になるのは、平和とは何かということです。神の御心に適う人、つまり神が贈られた救い主を受け入れた人は戦争に巻き込まれないで済むようになるのか、それとも彼らがそれらに巻き込まれませんようにと願望を述べているのか?

 ここで言う平和とは、戦争がない状態が全てではありません。キリスト信仰で平和と言ったら、一番目に来るのは神と平和な関係にあるということです。神との平和な関係は、イエス様が人間の罪を人間に代わって神に対して償って下さったことで確立しました。神と結びつきを持って生きるということが神との平和な関係にあるということです。神との平和な関係にある人が今度は、誰のおかげで神が人生の歩みのお伴になったかわかった以上は、もう誰に対しても高ぶることができなくなり、ただただへりくだった者として他者と平和な関係を築こうとする、そのことが新約聖書の使徒たちの手紙で沢山教えられます。(特にパウロの「ローマの信徒への手紙」12章にはっきり出ています。)

 さて、天使たちの賛美の歌の意味ですが、この言葉だけで考えるのではなく、賛美の前に一人の天使が知らせた「救い主の誕生」と結びつけて見れば意味がわかってきます。イエス様が救い主なのは、神と人間の間に平和をもたらし、人間が神と何があっても揺らぐことのない結びつきを持って人生を歩めるようにして下さり、この世を去る時も結びつきの中で去ることができ、復活の日に神に目覚めさせてもらえる、こうしたことを可能にしたのがイエス様です。それで彼は救い主なのです。そのような救い主が生まれたことと結びつけて天使の賛美をみるとこうなります。

「救い主がお生まれになりました。なので、天の上では栄光が神に一層増し加えられますように。

救い主がお生まれになりました。なので今こそ、地上では御心に適う人たちに平和が与えられますように。」

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン