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主日礼拝説教 2020年9月27日(聖霊降臨後第17主日)スオミ教会
エゼキエル18章1-4、25-32節
フィリピ1章1-13節
マタイ21章23-32節
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
本日の旧約聖書の日課エゼキエル書の個所と福音書の日課マタイの個所は全く異なる出来事が記されていますが、よく見ると共通するものが見えてきます。過去の呪縛から解放されて新しく生きるということです。
エゼキエル書の個所は紀元前500年代の時の話です。かつてダビデ・ソロモン王の時代に栄えたユダヤ民族の王国は神の意思に背く生き方に走り、多くの預言者の警告にもかかわらず、指導者から国民に至るまで罪に染まり、国は分裂、社会秩序も乱れ、外国の侵入にも晒され続けます。最後は神の罰としてバビロン帝国の攻撃を受けて完全に滅びてしまいます。民の主だった者たちは異国の地に連行されて行きました。世界史の授業にも出てくる「バビロン捕囚」の出来事です。
ユダヤ民族の首都エルサレムが陥落する直前の時でした。人々はこんなことわざを口々に唱えていました。「先祖が酢いぶどうを食べれば、子孫の歯が浮く。」熟していない酸っぱいぶどうを食べて歯が浮くような違和感を覚えるのは食べた本人ではなく子孫だと言うのです。これは、先祖が犯した罪の罰を子孫が受けるという意味です。滅亡する自分たちは、まさに先祖が犯した罪のせいで神から罰を受けていると言うのです。民の間には、それは当然のことで仕方がないというあきらめがありました。それをこのことわざが代弁していました。先祖のせいで神罰を受けなければならないのなら、今さら何をしても無駄、自分たちの運命は先祖のおかげで決まってしまったのだと。これに対して神は預言者エゼキエルの口を通して民のこの運命決定論の考えを改めます。今こそ悪から離れて神に立ち返れ、そうすれば死ぬことはない必ず生きる、と。そして、このことわざも口にすることがなくなる、と。以上がエゼキエル書の個所の概要です。
マタイ福音書の方は、バビロン捕囚から600年位たったあとの、ユダヤ民族がローマ帝国に支配されていた時代の出来事です。イエス様が民族の解放者と目されて群衆の歓呼の中を首都エルサレムに入城しました。そこの神殿に行き、敷地内で商売をしていた人たちを荒々しく追い出しました。商売というのは神殿で生贄に捧げる動物などを売っていた人たちですが、イエス様の行動は神殿の秩序と権威に対する挑戦と受け取られました。さらにイエス様は群衆の前で神と神の国について教え、病気の人たちを癒す奇跡の業を行いました。人々は彼のことをますます王国を復興する王メシアと信じるようになりました。
これに対して民族の指導者たちは反発し、イエス様のもとに来て聞きます。「お前は何の権威でこのようなことをしているのか?」イエス様はそれには直接答えず、洗礼者ヨハネの洗礼は神由来のものか人間由来のものか、と尋ね返します。指導者たちははっきり答えなかったので、イエス様も答えるのを拒否しました。これを読むとなんだか素っ気ない感じがします。私など、洗礼者ヨハネのことなんか持ち出さないで、すぐ自分の権威は天の父なるみ神から来たと言えばよかったのになどと思ったりします。
その後に二人の息子のたとえが続きます。父親にブドウ畑に行って働きなさいと言われて、一番目の息子は最初行かないと言ったが思い直して行った、二番目のは最初行くと言ったが実際は行かなかったという話でした。イエス様は、一番目の息子は洗礼者ヨハネの教えを信じた徴税人や娼婦たちのことで、彼らは指導者たちに先駆けて神の国に迎え入れられるなどと言います。洗礼者ヨハネのことがまた出てきました。きっと先のイエス様と指導者たちのやり取りが続いているということなのですが、どう続いているのか繋がりがよく見えません。実は、このマタイ福音書の個所も過去の呪縛から解放されて新しく生きることを言っていることがわかると、その繋がりが見えてきます。そういうわけで、本日の説教はエゼキエル書の個所とマタイ福音書の個所を中心に見ていこうと思います。
エゼキエル書の個所で問題となっていたのは、イスラエルの民が滅亡の悲劇に遭遇しているのは先祖たちの罪が原因で今自分たちはその神罰を受けているという見方でした。そのことを皆が口にすることわざが言い表していました。先祖たちがどんな罪を犯していたか、本日の日課から外されている5~21節に記されています。それを見てみますと、偶像を崇拝したりその供え物を食べること、他人から奪い取ったり負債を抱える者に情けを示さないこと、不倫を行うこと、食べ物や衣服に困った人を助けないこと、貸す時に高い利子を付けて貸すなど自分の利益しか考えないこと、不正に手を染めること、事実に基づかないで裁きを行うこと等々、神の意思や掟に従わないことです。なんだか現代の日本の社会のことを言っているみたいですが、どうでしょうか?神は、こうしたことをやめて神に立ち返る生き方をしなさい、そうすれば死なないで生きるのだ、と言われます。
この、死なないで生きるというのは深く考える必要があります。一見すると、神の意思に沿うように生きれば外国に攻められて死ぬことはなく平和に長生きできるというふうに考えられます。しかしながら、聖書では「生きる」「死ぬ」というのは実は、この世を生きる、この世から死ぬというような、この世を中心にした「生きる」「死ぬ」よりももっと深い意味があります。この世の人生を終えた後で、永遠に生きる、あるいは、永遠の滅びの苦しみを受けるという、そういう永遠を中心にした「生きる」「死ぬ」の意味で言っています。天地創造の神は、ご自分が選んだイスラエルの民の歴史の中で、神の意思に沿えば国は栄えて民は生きられるが、逆らえば滅んで死んでしまうという出来事を起こします。そのようにして神は、特定の民族の具体的な歴史をモデルにして、自分には永遠の「生きる」や「死ぬ」を決める力があることを全ての人間にわかりやすく示しているのです。
先にも申しましたように、イスラエルの民の問題点は、自分たちの不幸な境遇は先祖の犯した罪が原因だと思っていたことにありました。そうであれば、自分たちが何をしても運命は変えられません。先祖がそれを決定づけてしまったのですから。今さら神の意思に沿うように生きようとしても無駄です。しかし、神はそのような見方から民を解き放とうとします。そこで神は言います。裁きは罪を犯した者だけに関わるのであると。だから、お前たちがこれから神の意思に沿うように生きることは無駄なことではなく、お前たちは死なずに生きることになるのだ、と。この「死なない」「生きる」は先にも申しましたように、滅亡寸前の祖国でうまく敵の手を逃れて生きながらえるという意味よりも大きな意味です。たとえ、敵の手にかかって命を落とすことになっても、永遠の滅びの苦しみには落ちないで永遠の命に迎え入れられるということです。神のもとに立ち返って神の意思に沿う生き方を始めることが無意味、無駄ということはなくなるのです。
さて、罪の責任は先祖や他人のものはもう自分は負わなくてすむことになりました。そこには大きな解放感があります。もう、自分と神の関係を考える際に、先祖は神とどんな関係だったかは全く無関係になりました。日本風に言えば、先祖の祟りとか何かの祟りとか全く関係なくなったのです。だとすると、ちょっと、待てよ、そうなると自分と神の関係は全て自分の問題になるということになるではないか?つまり、今度はこの自分の罪、自分が神の意思に背いて生きてきたことが問われて、まさにそのことが自分の永遠を中心として生きるか死ぬかを決定づけることになる。これは大変なことになった。永遠の命に迎え入れられるかどうかを決定づけるのは他の何ものでもない自分自身なのです。
聖書を繙くと、今あるこの世が終わりを告げるという終末論の観点と、その時には新しい天と地が創造されると言う新しい創造の観点があります。終末と新しい創造の時には死者の復活と最後の審判というものがあります。全ての人、死んだ人と生きている人の全てが神の前に立たされる時です。その時、この私は神のもとに立ち返る生き方を始めてその意思に沿うように生きようとしたのだが、果たしてそれはうまくいったのであろうか?神はそれをどう評価して下さるのだろうか?また、立ち返る前の生き方は何も言われないのだろうか?なんだか考えただけで今から心配になってきます。ここで、マタイ福音書の個所を見るよいタイミングとなります。
ユダヤ教社会の指導者たちがイエス様に権威について問いただした時、もちろんイエス様としては、自分の権威は神から来ていると答えることが出来ました。ただ、そうすると指導者たちは、この男は神を引き合いに出して自分たちの権威に挑戦していると騒ぎ出すに決まっています。それでイエス様は別の仕方で自分の権威が神から来ていることをわからせようとします。
二人の息子のたとえに出てくる父親は神を指します。一番目の息子は、最初神の意思に背く生き方をしていたが、方向転換して神のもとに立ち返る生き方をした者です。洗礼者ヨハネの教えを信じた徴税人と娼婦たちがこれと同じだと言うのです。二番目の息子は神の意思に沿う生き方をしますと言って実際はしていない者で、指導者たちがそれだというのです。それで、徴税人や娼婦たちの方が将来、死者の復活に与ってさっさと神の御許に迎え入れられるが、指導者たちは置いてきぼりを食うというのです。
ここで徴税人というのは、ユダヤ民族の一員でありながら占領国のローマ帝国の手下になって同胞から税を取り立てていた人たちです。中には規定以上に取り立てて私腹を肥やした人もいて、民族の裏切り者、罪びとの最たる者と見なされていました。ところが、洗礼者ヨハネが現れて神の裁きの時が近いこと、悔い改めをしなければならないことを宣べ伝えると、このような徴税人たちが彼の言うことを信じて悔い改めの洗礼を受けに行ったのです。先ほど申しましたように、聖書には終末論と新しい創造の観点があり、死者の復活と最後の審判があります。旧約聖書の預言書にはその時を意味する「主の日」と呼ばれる日について何度も言われています。紀元前100年代頃からユダヤ教社会には、そうした預言がもうすぐ起きるということを記した書物が沢山現れます。当時はそういう雰囲気があったのです。まさにそのような時に洗礼者ヨハネが歴史の舞台に登場したのでした。
娼婦についても言われていました。モーセ十戒には「汝姦淫するなかれ」という掟があります。それで、多くの男と関係を持つ彼女たちも罪びとと見なされたのは当然でした。そうすると、あれ、関係を持った男たちはどうなんだろうと疑問が起きます。彼らは洗礼者ヨハネのもとに行かなかったのだろうか?記述がないからわかりません。記述がないというのは、こそこそ行ったから目立たなかったのか、それとも行かないで、あれは女が悪いのであって自分はそういうのがいるから利用してやっただけという態度でいたのか。現代にもそういう態度の人はいますが、そんな言い逃れて神罰を免れると思ったら、救いようがないとしか言いようがありません。
話が少し逸れましたが、このようにして大勢の人たちがヨハネのもとに行き洗礼を受けました。その中に徴税人や娼婦たちのような、一目見て、あっ罪びとだ、とすぐ識別できる人たちもいたのでした。ヨハネが授けた洗礼は「悔い改めの洗礼」と言い、これは後のキリスト教会で授けられる洗礼とは違います。「悔い改めの洗礼」とは、それまでの生き方を神の意思に反するものであると認め、これからは神の方を向いていきますという方向転換の印のようなものです。キリスト教会の洗礼は印に留まりません。人間が方向転換の中で生きていくことを確実にして、もうその外では生きられないようにする力を持つものです。印だけだったものがそのような力あるものに変わったのは、後で述べるように、イエス様の十字架と復活の業があったからでした。
さて、人々はもうすぐ世の終わりが来て神の裁きが行われると信じました。それはその通りなのですが、ただ一つ大事なことが抜けていました。それは、その前にメシア救世主が来るということでした。メシアが人間の神への方向転換を確実なものにする、しかもそれを旧約聖書の預言通りに特定の民族を超えた全ての人間に及ぼすということ。それをしてから死者の復活と最後の審判が起こるということでした。ヨハネ自身も自分はそのようなメシアが来られる道を整えているのだと言っていました。その意味でヨハネの洗礼は、悔い改めの印と、来るメシア救世主をお迎えする準備が出来ているという印でもありました。それなので、世の終わりと神の裁きはまだ先のことだったのです。当時の人々は少し気が早かったのかもしれません。
ヨハネから悔い改めの洗礼を受けた人たち、特に徴税人や娼婦たちはその後どうしたかと言うと、イエス様に付き従うようになります。彼らは、方向転換したという印をヨハネからつけてはもらったけれども、裁きの日が来たら、自分の過去を神の前でどう弁明したらいいかわかりません。方向転換して、それからは神の意思に沿うようにしてきましたと言うことができたとしても、転換する前のことを問われたら何も言えません。それに方向転換した後も、果たしてどこまで神の意思に沿うように出来たのか、行いで罪を犯さなかったかもしれないが、言葉で人を傷つけてしまったことはないか?心の中でそのようなことを描いてしまったことはないか?たくさんあったのではないか?そう考えただけで、ヨハネの洗礼の時に得られた安心感、満足感は吹き飛んでしまいます。
まさにそこに、私には罪を赦す権限があるのだ、と言われる方が現れたのです。神が贈られたひとり子イエス様です。罪を赦すとはどういうことなのか?過去の罪はもう有罪にする根拠にしない、不問にするということなのか?でも、そういうことが出来るのは神しかいないのではないか?あの方がそう言ったら、神自身がそう言うことになるのか?どうやって、それがわかるのか?口先だけではないのか?いや、口先なんかではない。あの方は、全身麻痺の病人に対してまず、あなたの罪は赦される、言って、その後すかさず、立って歩きなさい、と言われて、その通りになった。罪を赦すという言葉は口先ではないことを示されたのだ。真にあの方は罪を赦す力を持っておられるのだ!そのようにして彼らはイエス様に付き従うようになっていったのです。もちろん、付き従った人たちの中には罪の赦しよりも民族の解放ということが先に立ってしまった人たちが多かったのは事実です。しかし、罪からの解放が切実な人たちも大勢いたのです。
イエス様が持つ罪の赦しの権限は、彼の十字架の死と死からの復活ではっきりと具体化して全ての人間に向けられるものとなりました。イエス様は、十字架の死に自分を委ねることで全ての人間の全ての罪を背負い、その神罰を全て人間に代わって受けられました。人間の罪を神に対して償って下さったのです。さらに死から三日後に神の想像を絶する力で復活させられて、死を超える永遠の命があることをこの世に示しました。そこで人間がこのようなことを成し遂げられたイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、罪の償いがその人にその通りになります。罪が償われたから神から見て罪を赦された者と見なされます。神は過去の罪をどう言われるだろうかなどと、もう心配する必要はなくなったのです。神は、我が子イエスの犠牲に免じて赦すことにした、もうとやかく言わない、だからお前はこれからは罪を犯さないように生きていきなさい、と言われます。もう方向転換した中でしか生きていけなくなります。
イエス様が指導者たちに自分の権威は神に由来するとすぐ言わなかったのは、まだ十字架と復活の出来事が起きる前の段階では無理もないことでした。言ったとしても、口先だけとしか受け取られなかったでしょう。そこでイエス様はヨハネの悔い改めの洗礼を受けた罪びとたち、正確には元罪びとたちのことに目を向けさせたのです。彼らは今まさにイエス様の周りにいて指導者たちも目にしています。今、方向転換の印を身につけていて、もうすぐそれは印を超えて実体を持つようになる時が来るのです。その時になれば、イエス様の権威が神由来であったことを誰もが認めなければならなくなるのです。
主にあって兄弟姉妹でおられる皆さん、私たちは、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼をもって神を向いて生きる方向転換を遂げてその中で生きていくことになりました。そこでは、自分に弱さがあったり、また魔がさしたとしか言いようがないような不意を突かれることもあって、神の意思に反することが出てくることもあるでしょう。しかし、あの時ゴルゴタの十字架で打ち立てられた神のひとり子の罪の償いと赦しは永遠に打ち立てられたままです。そこはキリスト信仰者がいつも立ち返ることができる確かなところです。この世のふるさとよりも確かなところです。そこでのみ罪の赦しが今も変わらずあることと、神と自分の結びつきが揺るがずにあることを知ることが出来ます。
そして、いつの日か神のみ前に立つことになる時、父なるみ神よ、私はあなたが成し遂げて下さった罪の赦しが本物であると信じて、それにしがみつくようにして生きてきました。そのことががあなたの意思に沿うように生きようとした私の全てです。そう言えばいいのです。その時、声を震わせて言うことになるでしょうか、それとも平安に満たされて落ち着いた声でしょうか。いずれにしても、神は私たちの弁明が偽りのない真実のものであると受け入れて下さいます。そう信じて信頼していくのがキリスト信仰者です。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
聖餐式 木村長政 名誉牧師
礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。
彼岸花・曼殊沙華
彼岸の時期に合わせて此 処かしこに彼岸花が咲きだします。我が白州の庭にも突然一輪だけ咲きました。不思議な事に此のあたりでは一度も彼岸花を見かけたことがありませんでした。通りがかりのIさんがいち早く見つけて自分の畑に植えたいと言うので喜んで進呈しました。野菜を育てるのが上手いIさんの事だから今頃彼岸花が彼女の農園を飾っているでしょう。
万葉集ではただ一首だけ彼岸花を詠った歌があります「道の辺の壱師(いちし)の花のいちしろく人知りにけり継ぎてし思えば」。(訳 路のほとりの壱師の花のようにはっきりと人はみんな知ってしまった 私の恋しい妻を) 柿本人麻呂 第11巻2480番歌 壱師の花は彼岸花ではないかと牧野富太郎博士は言っているが定かではないようです、確かな事は人麻呂さんに聞くしかないようですね。
<声が聞える、「呼ばわれ」。わたしは言った、「なんと呼ばわりましょうか」。「人はみな草だ。その麗しさは、すべて野の花のようだ。 イザヤ 40:6 >
今フィンランドはキノコの季節です。フィンランドではキノコをベリーと同じように森で自由に採ることが出来ます。 それでキノコのパイは秋に家庭でよく作られます。色んな種類のキノコを入れてよく、ベーコン、パプリカ等も一緒に入れるとパイの風味は一層高まります。トッピングにはサワークリームやチーズ。美味しいパイが出来上がります。そんな味覚豊かなベーコン・キノコパイをご一緒に作ってみませんか?
参加費は一人1,500円です。
どなたでもお気軽にご参加ください。
お子様連れでもどうぞ!
人数制限がありますのでご注意ください。
お問い合わせ、お申し込みは、 *protected email* まで。
主日礼拝説教 2023年9月24日(聖霊降臨後第十七主日)
ヨナ3章10-4章11節、フィリピ1章21-30節、マタイ20章1-16節
先週に続いて今日の福音書の日課もイエス様のたとえの教えです。日の出から日の入りまで12時間炎天下の中で働いた人たちが最後の1時間しか働かなかった人たちと同一賃金だったので、雇用者に不平を言う。もっともなことです。ところが雇用者は朝雇う時に1デナリオンで合意したではないか、別に契約違反ではない、と。これももっともなことです。しかし、長く働いた者からすれば、一番短く働いた者が1デナリオンもらえるのなら自分たちはもっともらえて当然ではないか、と。もっともな話です。それに対して雇用者たるぶどう畑の所有者は「私の気前の良さをねたむのか」と言って自分のしたことは間違っていないと言う。ギリシャ語の原文は少しわかりにくくて、直訳すると「私が善い者であることでお前の目は邪悪なのか?」、つまり「私が善い者であることをお前は邪悪な目で見るのか?」ということです。お前は私が善いことをしたのに正しくないと言って覆すつもりか、私は間違ったことはしていない、それに反対するのは悪い心だと言うのです。
これは一体どういう教えなのでしょうか?1デナリオンは当時の低賃金労働者の一日の賃金です。先週もやりましたが、今のお金の感覚で言えば、東京都の最低時給が今年1,113円、それで12時間働いたら13,356円です。1時間働い人が同じ額をもらえたとなると12時間の人は心穏やかではなくなるのは当然です。まさか、キリスト教は自己犠牲の愛を教える宗教なので、一番長く働いて苦労した人は一番短く働いて楽した人と同じ扱いを受けて当然と思わなければいけないということなのか?でも、このたとえのどこに自己犠牲があるでしょうか?一番短く働いた人が13,356円もらえたのは、長く働いた人のおかげではありません。専ら所有者の方針によるものです。
ここのイエス様の趣旨は、私たちも給料や報酬を支払う時は同じようにしなければならないということではありません。この教えはたとえです。なにをたとえて言っているか知ることが大事です。初めに「天の国」はブドウ畑の所有者にたとえられると言います。「天の国」とは天地創造の神がおられるところです。「神の国」とも呼ばれます。マタイは「神」という言葉を畏れ多く感じてよく「天」に置き換えます。本説教では「神の国」と言うことにします。
「神の国」がブドウ畑の所有者、国が人にたとえられるのは変な感じがします。これは、「神の国」というのはこれから話すブドウ畑の所有者の方針が貫かれている国だということです。所有者は神を指します。イエス様はこのたとえで、神はどのようにして人間を神の国に迎え入れるか、その方針について教えているのです。本説教では神の方針について次の3つの点に注目して見ていこうと思います。第一点は、人間はイエス様を救い主と信じる信仰と洗礼を受けることによって神の国に迎え入れられる、そこでは信仰と洗礼がいつだったか、早かったか遅かったかは問題にならないということ。第二点目は、人間は自分の能力や業績や達成によっては神の国に迎え入れられない、迎え入れは神のお恵みとしてあるということ。そして第三点目は、洗礼と信仰によって神の国に迎え入れられる道を歩み始めたら、この世では罪との戦いが仕事になるということ。
神の国に迎え入れられるとはどういうことか?それは、聖書が打ち出す人間観と死生観がわかればわかります。聖書の人間観とは、人間というものは神の意思に反するものを内に持っていて、それを心に抱いたり言葉に出したり行いに出したりしてしまう。それをひっくるめて罪と呼びますが、そういうものを持っているということです。聖書の死生観とは、人間はそういう罪を持つがゆえに造り主の神と結びつきを失った状態に置かれてしまっている。もしそのままでいたら神との結びつきがない状態でこの世を生きなければならなず、この世を去る時も神との結びつきがないまま去らねばならないということです。そこで、これではいけないと思った神は、人間が自分と結びつきを持ってこの世を生きられるようにしてあげよう、この世を去った後も自分のもとに、つまり神の国に迎え入れられるようにしてあげよう、そのために人間の罪の問題を解決しなければ、ということで、ひとり子のイエス様をこの世に贈られました。これが人間に対する神の愛ということです。
それでは、神はイエス様を贈ることでどのようにして罪の問題を解決したのか?それはまさに、イエス様に人間の罪を全部負わせて神罰を受けさせて人間に代わって罪の償いをさせることで果たされました。ゴルゴタの十字架の出来事がそれだったのです。さらに、一度死んだイエス様を今度は想像を絶する力で三日後に復活させて、死を超える永遠の命があることをこの世に示し、その命に至る道を人間に切り開かれました。神の人間に対する愛がイエス様を通して示されたというのはこのことです。
そしてその次は、人間の方がこれらの出来事は本当に自分のために起こされた、それでイエス様は救い主なのだと信じて洗礼を受ける、そうすると、イエス様が果たしてくれた罪の償いはその人にその通りになり、その人は永遠の命が待つ神の国に至る道に置かれてその道を歩むようになります。その人は罪を償われたので罪を赦された者と神から見てもらえます。罪を赦されたから神との結びつきを持ってこの世を生き神の国を目指して進みます。この世の人生の後、復活の日に目覚めさせられて神の国に永遠に迎え入れられます。これら全てをひっくるめたことが、キリスト信仰でいう救いです。その救いを命を賭してまで私たち人間に備えて下さったイエス様は真に救い主です。
ここで、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けるということですが、そのタイミングは人それぞれです。親がキリスト信仰者で赤ちゃんの時に洗礼を受けて神との結びつきを持つようになり、信仰者の親のもとでイエス様が救い主であることが当たり前という環境の中で育って大人になる場合があります。また、大人になってイエス様を救い主と信じるようになって洗礼を受けて神との結びつきを持つようになる場合もあります。このように子供の時からずっとキリスト信仰者である場合があり、また、大人になってから、それこそ晩年でも死ぬ直前でもキリスト信仰者になる場合もあります。しかし、どの場合でも神の国への迎え入れということについて差は生じません。信仰者の期間が長かったから迎え入れられやすいということはありません。みな同じです。そのことを、たとえの労働者がみんな同じ1デナリオンをもらったことが象徴しています。神から頂く罪の償いと赦しは全て同じ値なのです。
そういうことであれば、晩年やこの世を去る直前に洗礼を受けることになっても何も引けを取ることはないとわかって安心します。長年キリスト信仰者の人も神の愛はそういうものだとわかっています。なので、あの人は信仰歴が短すぎるなどと目くじら立てません。全く逆で、私が神から頂いた計り知れないお恵みにあの方もやっと与ることが出来て本当に良かった、と言ってくれます。
ここで一つ気になることは、赤ちゃんの時に洗礼を受けても、イエス様が救い主であることがはっきりしない状態で大人になってしまう場合があることです。近年のヨーロッパではそう言う人が多いです。この場合、神の国への迎え入れはどうなるのか?この問題は本説教の終わりで触れます。
次に、神の国への迎え入れは人間の能力、業績、達成によるのではなく、神のお恵みとしてあるということについて。本日のイエス様のたとえは実は前の19章の出来事の総括として述べられています。どんな出来事があったかと言うと、金持ちの青年がイエス様のもとに駆け寄って来て「永遠の命を得るためには、どんな善いことをしなければならないのか」と聞きました。イエス様は十戒の中の隣人愛の掟を述べて、それを守れと答える。それに対して青年は、そんなものはもう守ってきた、何がまだ足りないのか、と聞き返す。それに対してイエス様は、足りないものがある、全財産を売り払って貧しい人に分け与え、それから自分に従え、と命じる。青年は大金持ちだったので悲痛な思いで立ち去ったという出来事です。
この対話の中で、青年が「どんな善いことをしなければならないか」と聞いたときに、イエス様が返した言葉はこれでした。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。」善い方はおひとりと言う時、それは神を指します。イエス様は話の方向を善い「こと」から善い「方」へ変えるのです。青年は「善い」は人間がすること出来ることと考えて質問しました。それに対してイエス様は「善い」は神の属性で、「善い」を体現するのは神しかいないと言い換えるのです。そもそも「善い」を体現していない人間が神の国への迎え入れを保証する「善い」ことをすることが出来ると考えるのは的外れと言うのです。神の国への迎え入れは、神が土台にならないといけないのに、青年は人間を土台にしているのです。
このように、神が「善い」を体現していることを忘れると、人間は救いを自分の能力や業績に基づかせようとします。それはいつか必ず限界にぶつかります。青年の場合は、イエス様が全財産を売り払えと命じたことでその限界が明らかになりました。救いは人間の能力や業績にではなく、ただただ神が「善い」ということに基づかせなければならないのです。
イエス様と青年の対話から、神が「善い」方ということが救いの大前提であることが明らかになりました。神が「善い」方ということは本日のたとえの中にまた出てきます。冒頭で申し上げましたが、「わたしの気前の良さをねたむのか」というのは、ギリシャ語原文では「私が善い者であることをお前は邪悪な目で見るのか」ということでした。ここの「善い」と青年との対話に出てきた「善い」は両方ともギリシャ語原文では同じ言葉アガトスαγαθοςです。日本語訳では本日のところは「気前の良さ」と訳されてしまったので繋がりが見えなくなってしまいますが、原文で読んでいくと本日のたとえは青年との対話と繋がっていて、それを総括していることがわかります。どう総括しているかと言うと、永遠の命が待つ神の国への迎え入れは人間の能力や業績や達成に基づくのではない、神が「善い」方であることに基づくということです。神がそのような「善い」方であるというのは、ひとり子イエス様を私たち人間に贈って、彼を犠牲にしてまで私たちを罪と死の支配から解放して、私たちが神の国に迎え入れられるように全てを備えて下さったということです。これが神が「善い方」ということです。
神の国への迎え入れが人間の能力や業績に基づかず、善い神のお恵みに基づくなどと言ったら、じゃ、人間は迎え入れのために何もしなくてもいいのか?と言われてしまうかもしれません。それだったら、所有者はわざわざ何度も広場に出向いて人を雇うのではなく、夕暮れ時にみんなを集めてお金を渡してもいいではないか?しかし、1時間でも働いてもらうというからには、何か人間の側でもしなければならないことがある。それは何だろう?洗礼を受けてクリスチャンになったら、毎週がんばって礼拝に通い、ちゃんと献金して人助けや慈善活動をすることか?
そういうこともあるにはあるのですが、ここではもっと根本的なことが問題になっています。教会通いとか献金とか慈善活動はその根本的なことがあってこそ出てくるものです。それがないと教会通いなどは見かけ倒しになります。それでは、人間の側でしなければならない根本的なこととは何か?それは、神の国への迎え入れが人間の能力や業績ではなく善い神のお恵みによるものであるということ、これが自分にとって本当にその通りであるという生き方をすることです。それでは、神の国への迎え入れが神のお恵みによるものであることが自分にとってその通りであるという生き方はどんな生き方か?答えは、罪と戦う生き方です。罪と戦う時にキリスト信仰者は、神の国への迎え入れは神のお恵みによるものであることがその通りであるという生き方をするのです。
罪と戦うというのはどういうことか?キリスト信仰者は罪が償われて罪が赦されて罪から解放されたと言っているのに、まだ戦わなければならないというのはどういうことなのか?それは、キリスト信仰者とは言っても、この世にある限りは肉の体を纏っているので神の意思に反する罪をまだ内に持っています。なんだ、それではキリスト信仰者になっても何も変わっていないじゃないか、と言われるかもしれません。しかし、変わっているのです。神から罪を赦された者と見なされて神との結びつきを持って生きるようになりました。なので、神の意思に沿うような生き方をしようと神の意思に敏感になり、それでかえって自分の内に罪があることに気づくようになります。イエス様は、十戒の掟は外面的に守れても心の中まで守れていなければ破ったことになると教えました。
自分の内に神の意思に反する罪があることに気づいた時、神は、せっかくひとり子を犠牲にしたのになんだこのざまは、と呆れて失望するだろうか怒るだろうか、神との結びつきは失われてしまうだろうかと不安になります。その時は、神に罪の赦しを祈り願います。イエス様は私の主です、どうか彼の犠牲に免じて私の罪を赦して下さい。そうすると、神は、お前がわが子イエスを救い主と信じていることはわかっている、安心していきなさい、お前の罪はあそこで赦されている、もう罪は犯さないように、と言ってゴルゴタの十字架を指し示されます。十字架の上で首を垂れる主を心の目で見たキリスト信仰者は、厳粛な気持ちになって、これからは罪を犯さないようにしようと襟を正します。
しかしながら、この世を生きていろんなことに遭遇すると、また自分の内に神の意思に反する罪があることに気づきます。そして、また赦しの祈り願いがあり、神からの十字架の指し示しがあり、襟を正しての再出発となります。キリスト信仰者はこれを何度も繰り返しながら進んでいくのです。教会の礼拝の最初で罪の告白と赦しの宣言が毎週繰り返して行われるのも同じです。
やがてこの繰り返しが終わりを告げる日が来ます。神の御前に立たされる日です。神はこの繰り返しの人生を見て、お前はイエスの十字架と復活の業に全てをかけて罪に背を向ける生き方、罪に与しない生き方をした、罪に反抗する生き方を貫いたと認めて下さいます。まさに罪と戦う人生を送ったと。そう認めてもらったら、朽ち果てた肉の体に代わって神の栄光を映し出す復活の体を着せられて神の国に迎え入れられます。その体の内に罪はなく、罪の自覚も赦しの祈り願いも赦しの宣言もなくなるのです。
このように、罪を自覚して、イエス様を救い主と信じる信仰により頼んで罪の赦しのお恵みにしっかり踏み留まることができていれば、立派に罪と戦っていることになります。戦いがこの世の人生の長い期間であっても短い期間であっても、戦う人からすればどれも、神の国への迎え入れが神のお恵みによることが本当になる戦いです。12時間働いたろうが、1時間しか働かなかったろうが、神から見たら、内容的には同じ働きをしたことになるのです。
ここで一つ忘れてはならないことを手短に述べておきます。詳しいことは後日に譲りたく思います。何かと言うと、神の意思に反する罪が内に留まらないで表に出てしまった場合はどうするかということです。言葉に出たり行いに出てしまう場合です。その場合は相手がいます。表に出してしまったことが神の意思に反するもので神に赦しを祈り願うべきものであれば、相手に対して謝罪しなければなりません。ただしその場合、神に対する罪の赦しの願いと相手に対する謝罪は別々に考えるべきと思います。というのは、もし相手の方が、絶対に許せないと言って謝罪を受け入れない場合、とても動揺し不安になります。それは残念なことですが、そのような時でも忘れてはならないことは、たとえ相手の方との関係はこじれてしまっても、神との関係はイエス様の十字架と復活の業により頼む限り大丈夫ということです。心は動揺し不安はありますが、安心して大丈夫です。その安心の上に立って、あとは取り乱さずに正しく立ち振る舞っていけばいいと思います。
最後に、赤ちゃんの時に洗礼を受けても、イエス様が救い主であるとわからないで大人になってしまう場合はどうなるかということについてひと言。これはやっかいな問題です。教派によっては、赤ちゃん洗礼は意味がない、イエス様が救い主であるとわかって告白してから受けないと意味がないというところもあります。私たちのルター派の場合は、救いは人間の能力や業績に基づかず神のお恵みとしてあるということにこだわるので、自分を出来るだけ無力な者として受けた方がお恵みということがはっきりする、それで、むしろ赤ちゃんの方が相応しいということになってしまうのです。しかしながら、子供に洗礼を授けることを願う親は皆が皆、イエス様が救い主であると教え育てたり、信仰の生き方をするとは限らない現実もあります。
その場合はどうしたらよいのか?これはもう、まだわかっていない人に教えていくしかありません。あなたが受けた洗礼はあなたと神を結びつけるものなのだ、それをわからず罪と戦わないままでいると、せっかくある結びつきからどんどん遠ざかっていってしまう、しかし、わかるようになって罪と戦う生き方を始めれば大きな祝福があるのだ、と。
このように教える活動があります。私とパイヴィを派遣しているフィンランドのミッション団体「フィンランド・ルター派福音協会SLEY」は海外伝道だけでなく国内伝道もやっています。国内伝道とは、まさに洗礼を受けても何もわからずに生きている人たちに伝道することです。国内伝道のキャッチフレーズはまさに「おかえりなさい!Tervetuloa kotiin!」です。翻って、海外伝道はまだ洗礼の恵みに与っていない人たちにその恵みを伝えて分け与えることです。国内伝道は恵みに与っている筈なのに分からない人たちがわかるようにすることです。両方行っているのです。ただ、最近はフィンランドも、キリスト教以外の国からの移民や難民が増えたので彼らに対する伝道も行っています。またフィンランド人でも洗礼を受けない人が増えていて、ヘルシンキ首都圏では生まれてくる子供の受洗率は50%以下になってしまいました。それで国内伝道も海外伝道みたいになってきています。
ホトトギス
秋の花を探していたらホトトギスを見つけました。花弁の斑点が鳥のホトトギスの胸の模様に似ているところから名付けられたようです、ホトトギスは日本の特産種で主に太平洋側に自生する多年草です。 万葉集を探してみましたが、詠まれるのは鳥のホトトギスだけのようです。万葉人にはホトトギスの花を知らなかったのか、或いは自生しているところが奥深い所で見る機会がなかったのかもしれません。
<24 種をまくために耕す者は絶えず耕すだろうか。彼は絶えずその地をひらき、まぐわをもって土をならすだろうか。 25 地のおもてを平らにしたならば、いのんどをまき、クミンをまき、小麦をうねに植え、大麦を定めた所に植え、スペルト麦をその境に植えないだろうか。 26 これは彼の神が正しく、彼を導き教えられるからである。 イザヤ28:24・25・26>
本日、礼拝後スオミ教会の今後を決める大事な会議がありました。結果スオミ教会は日本福音ルーテル教会としての組織を解散してSLEYと行動を共にすることになりました。 前途多難が待ち構えている事と思いますが兎に角船出しました。どうか主よ我らを守り給え。
主日礼拝説教 2023年9月17日(聖霊降臨後第十六主日)スオミ教会
創世記50章15-21節
ローマ14章1-12節
マタイ18章21-35節
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
今日のイエス様のたとえの教えはこうでした。王様に多額の負債があった家来が泣きついて情けをかけられて借金を帳消しにしてもらった。ところが、その家来は自分に対して少額の借金がある仲間の家来に対しては泣きつかれても耳を貸さず、返済するまで牢屋に入れてしまった。それを知った王様はこの情けのない家来を怒って、自分がしたように情けをかけるべきではなかったかと言って、返済するまで牢屋に入れてしまった。これを読んだ人は、ああイエス様は、情けをかけてもらったら他の人にもそうしなければならないと教えているんだなと思うでしょう。なんだか当たり前な話に聞こえます。
ここに出てくる金額を少し具体的に見てみます。そうすると情けをかけることが当然ということがよくわかります。情けのない家来が仲間の家来に貸していたのは100デナリオン。1デナリオンは当時の低賃金労働者の1日の賃金です。それで100デナリオンは100日分の賃金。これを今の金額で考えてみます。少し乱暴な比較になりますが、東京都の最低賃金は今年から時給1,113円になりました。一日8時間働いたら8,904円。端数を切捨てて一日8,900円として、100日分だったら89万円。これが100デナリオン。それだけの貸しがあった。そこで、情けのない家来が王様に負っていた負債額を見ると、1万タラントン。1タラントンは6,000デナリオンなので、5,340万円になります。これが1万あるとすると、0をさらに4つつけて5340憶円になります。情けのない家来は5340億円の負債を帳消しにしてもらったのに、他人の89万円の借金は免除してあげなかった。なんとも度量の狭い人間です。これだけ大きな情けを受けたら、普通は他者に対しても同じようにするのは当たり前なことに感じられます。イエス様はなんでこんな当たり前な話をしたのでしょうか?
このたとえは、イエス様がペトロのある質問に答えてその続きとして話したものです。ペトロの質問とは、兄弟が自分に罪を犯したら何回まで赦してあげるべきか、7回までかというものでした。つまり、赦しには限度があってそれを越えたらもう赦さなくていいのか、というです。それに対するイエス様の答えは、7回までではない、7を70回繰り返すまでだ、つまり490回でした。聖書の訳によっては77回とするものもあります。ギリシャ語原文を見るとどっちにも取れます。どちらにしても、イエス様の意図は赦すことに制限を設けるなということです。赦すことに制限を設けない根拠として、情けのない家来のたとえを話したのです。
キリスト信仰者は罪を犯した兄弟を無制限に赦さなければならないというのは、信仰者自身が1万タラントンの負債を帳消しにされたような罪の赦しを受けているからだ、だから兄弟の犯した罪など5340憶円に対する89万円くらいのみみっちいものにすぎない、それがわかれば兄弟の罪を赦すのは大したことではなくなるのだ、という趣旨なのです。そういうわけで今日は、キリスト信仰者は巨大な負債を帳消しにされたと言えるような罪の赦しを受けているということについて少し深く見ていこうと思います。
まず初めに3つの基本的な事柄を整理しておきます。一つ目は、「私の兄弟が罪を犯したら」と言いますが、兄弟とは誰のことか?二つ目は、罪を犯すとはどんな悪さをすることか?そして三つ目は、罪を赦すとはどうすることか?についてです。
まず、「私の兄弟」とは、イエス様を救い主と信じるキリスト信仰者のことです。信仰者が別の信仰者から罪を犯されるという問題について論じているのです。それでは、キリスト信仰者が信仰者でない人から罪を犯されたら、どうなのか?赦さなくていいのか?いや、やはり赦すべきなのか?この問題は説教の終わりの方で明らかにします。
次に、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けたキリスト信仰者が同じ信仰を持つ者に「罪を犯す」とはどんな悪さをすることでしょうか?「罪を犯す」などと言うと、何か法律上の犯罪を犯すことを連想します。しかし、これはもっと広い意味があります。要は、十戒の掟に示されている神の意思に反することをしてしまうことです。殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな等々を行為だけでなく、言葉に出してしまったり、心の中で持ってしまうことです。このように神の意思に反することを行為のみならず、心の中で持ってしまったり、言葉で言い表してしまうことが罪を犯すことです。
三つ目はとても難しい問題です。罪を赦すとはどういうことか?キリスト信仰で罪を赦すというのは、単純化して言うと、相手が神の意思に反する罪を犯した時、犯された側が、それをさもなかったかのようにする、今後は取りざたしない、とやかく言わない、というのが赦しです。イザヤ書43章25節で、神は言われます。「わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたの背きの罪をぬぐい、あなたの罪を思い出さないことにする。」思い出さないことにするというのが赦すことです。エレミヤ書31章34節でも神は同じように言われます。「わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。」もう心に留めないというのが赦すことです。ミカ書7章19節で預言者は言います。「主は再び我らを憐れみ、我らの咎を抑え、すべての罪を海の深みに投げ込まれる。」神は民の罪を表ざたにしないで奥深く沈めてしまう、これが罪の赦しです。神の意思に反する罪は起きてしまった、それはもう打ち消すことができない事実である、しかし、それをさもなかったかのようにするから、新しく出直しなさい。そういうふうに、神の罪の赦しには罪を犯した者が新しく出発できるようにするということが一緒になっています。
ここで一つ注意しなければならないことがあります。私も時々聞かれるのですが、キリスト教は罪を赦すので処罰はなにもないのか、犯罪を犯しても、さもなかったかのようにしてしまったら、犯罪は野放しになってしまうではないか、というものです。罪を赦すとは、してもいいよと罪を許可することではありません。日本語の「ゆるす」は二つの異なる漢字があるので混同されやすいと思います。罪は神の意思に反することなのでしてはいけないのです。心の中で思っても口に出してもいけないのです。もし犯したら、「命の書」に書き留められて最後の審判の時にお前はこうだったと突きつけられるのです。まさに、本日の使徒書の日課ローマ14章で言われるように、かの日には各自一人一人が神の前に立たされて自分自身について申し開きをしなければならなくなるのです。果たして神に対して申し開きなど出来るでしょうか?
ヨハネ8章でイエス様は罪を犯したために石打の刑にかけられそうになった女性を助け出して次のように言いました。「わたしもあなたを裁かない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」ギリシャ語原文では「裁かない」ですが、新共同訳では「罪に定めない」です。悪くない訳です。イエス様が裁かないと言うのは、お前の罪は「命の書」に書き留められてしまったが、最後の審判者からとやかく言われることはもうない、だから申し開きの必要もないということです。なぜそうなったかと言うと罪が赦されたからです。まさに罪に定められていないということです。イエス様からそのような赦しを受けて、「もう犯したらだめだよ」と彼に言われたら、本当にその通りにしなければと思うでしょう。このように罪を赦すというのは罪を許可することと全く正反対な方向に向かうのです。
犯罪は処罰しないのかということが出たので、少し考えてみます。社会には法律があり、犯罪について規定があり、刑罰や賠償について規定があります。それらに従って犯罪を確定して刑罰や賠償が課せられるのは当然だと思います。神は、殺すな、傷つけるなと命じているので、そのようなことが社会で好き勝手に行われるのを放置してはいけないのです。そう言うと、じゃ、やはり、なかったかのようにしていないじゃないか、赦していないじゃないか、と言われるかもしれません。しかし、犯罪の場合の罪の赦しというのは、被害を受けた人の心に関わることだと思います。処罰や賠償というのは、社会の秩序が正義に基づくために設けられたものです。なので処罰や賠償は社会に関わることです。このように罪の赦しと処罰や賠償は別々に考えられると思います。
罪の赦しは心に関わるということをもう少し見てみます。キリスト信仰では、完全な正義は最後の審判の時に実現するという立場です。パウロはローマ12章で、キリスト信仰者は自分で復讐をしてはならない、神の怒りに任せよと注意喚起します。神の怒りに任せよというのは、最終的な判決、処罰、賠償は最後の審判の時に神が行うのでそれに任せよ、ということです。最終的な判決、処罰、賠償をこの世で目指すと復讐することになってしまうと思います。自分で復讐をしないで最後の審判の神の怒りに任せるのがキリスト信仰者だとすると、信仰者がこの世で正義を実現しようとすると次のようになると思います。万能薬ではない社会の規定を、神の意思から外れないように用いて、最善の正義を目指すということになると思います。そういうふうにキリスト信仰者は正義を目指しつつ、同時に、敵が飢えていたら食べさせ、乾いていたら飲ませよ、とパウロは教えます。実際に行動に移せる可能性があるかどうかは別にして、少なくとも心の有り様はこのようになっていなければならないのです。果たしてキリスト信仰、イエス様を救い主と信じる信仰で、このよう心の有り様は生まれるでしょうか?本日のイエス様のたとえは、それが生まれることを教えるものです。
そこで、本日のイエス様のたとえが、キリスト信仰者にとって罪の赦しは莫大な負債を帳消しにされたのと同じだと言っていることについて見ていきましょう。このたとえを最初に聞いた弟子たちは、莫大な負債を帳消しにしてもらったら他人の小さな借金など取るに足らないものに感じられるというのはわかったでしょう。しかし、それが罪の無制限の赦しとどう結びつくのか?お前たちは莫大な負債を帳消しにしてもらったのだ、だから兄弟の罪など小さな借金と同様だ、兄弟の罪を無制限に赦してやるのは当然だ、そう言われても、自分たちにとって莫大な負債の帳消しとは一体何なんだ?ということになってしまいます。兄弟の罪に対する無制限の赦しと自分たちの莫大な負債の帳消しの結びつきが見えてきません。
ところが、それがはっきりわかる日が来るのです。イエス様の十字架の死と死からの復活の日です。イエス様が神の想像を超える力で死から復活されて天の神のもとにあげられたのを目撃した弟子たちは、あの方は、かつてダビデ王自身が私の主と呼んだ方で、父なる神の右に座すことになった方なのだ、つまり神のひとり子だったのだということが明らかになりました。それではなぜ、神のひとり子ともあろう方が十字架にかかって痛々しく死ななければならなかったのか?これも旧約聖書に預言されていたように、人間の罪に対する神罰を人間に代わって受けて、神に対して人間の罪を償う犠牲の死だったことがはっきりしました。このように全てのことが事後的に次々とわかるようになったのです。十字架と復活の出来事の後にわかるようになった使徒たちは次のように記しました。
パウロ「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。」(エフェソ1章7節)
ペトロ「知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。」(第一ペトロ1章18~19節)彼らはイエス様が十字架の前に言われた次の言葉の意味がわかったのです。
「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来たのである。」(マルコ10章45節)
神聖な神のひとり子が十字架の上で流した血を代償として罪と死の支配から神の御許に買い戻される道が人間に開けたのでした。神の子の命が身代金になったのです。この代償の価値から見たら5342億円など1円にも満たないものです。神は、私たちがこの世で神との結びつきを持って生きることを妨げていたもの、この世の人生の後で神の国に迎え入れられることを妨げていたもの、罪という負債を帳消しにしたのです。
このようにして人間は自分では何も犠牲を払っていないのに、神のひとり子の十字架と復活の業のおかげで罪を償ってもらった者、償ってもらったから罪を赦された者として見てもらえる、そういう状況が生み出されました。
そこで今度は人間の方が、イエス様の十字架と復活の出来事は本当に自分のために起こったのだとわかってそれでイエス様は自分の救い主だと信じて洗礼を受けると、この罪の赦しの状況に入れることになりました。そこに入れると、人間は死を超えた永遠の命に向かう道に置かれてその道を歩み始めることになります。この世を去る時が来ても、その時は安心して信頼して神の御手に自分を委ねることができます。本日の使徒書の日課ローマ14章でパウロが、キリスト信仰者は生きる時も死ぬ時も主のものとしてあると言っている通りです。この世を離れて復活の日までの眠りの時も主のものであり続けるのです。そして、復活の日に目覚めさせられて永遠に自分の造り主である神の御許に迎え入れられるのです。このように人間は、イエス様の十字架と復活の業によって、かつ、そのイエス様を救い主と信じる信仰によって、罪と死の捕らわれ状態から解放されて神の御許に迎え入れられる地点を目指して歩む者となったのです。これがキリスト信仰者です。
ただしキリスト信仰者と言えども、肉を纏ってこの世を生きる以上は罪はまだ残っています。しかし、洗礼と信仰によって神との結びつきが生まれました。その結びつきの中で神の国に迎え入れられる日を目指して歩んでいることは、礼拝の罪の赦しと聖餐式を受けることで確実なことになりました。やはり罪は帳消しになったのです。
これでキリスト信仰者は莫大な負債の帳消しが自分たちに起こったことがわかりました。罪という神に対する負債で、そのままにしておくと、この世で神との結びつきを持てず、この世の次に到来する世で神の国に迎え入れられなくなってしまうという負債です。それを神はひとり子を犠牲にして帳消しにして下さったのです。このような帳消しを受けたら、この世で兄弟が犯した罪などちっぽけなものになるはずです。しかし、ここで忘れてはならない大事なことがあります。それは、兄弟の罪を無制限に赦さなければならないというのは、それが取るに足らないものだからそうせよ、ということではないからです。取るに足らないというのは、赦さなければならない理由ではなく、難しいことではないと言っているだけです。赦さなければならない理由は別にあります。
兄弟の罪を無制限に赦さなければならない理由とは何でしょうか?兄弟が罪を犯したというのは、その人の神との結びつきが揺らいで御国への道の歩みに支障が生じたことです。そのようになってしまった兄弟をキリスト信仰者は助けてあげなければなりません。兄弟が神との結びつきに戻れるように道の歩みに戻れるようにすることが助けることです。そのためにどうすべきか?その時はやはり、兄弟が自分自身もイエス様の莫大な犠牲を払われて罪の赦しを得たことに思い当たることが大事です。そのことに思い当たれるために無制限の赦しの態度を示すべきだというのがイエス様の趣旨だと思います。同じことは、キリスト信仰者でない人の罪の場合にも当てはまるのではないかと思います。その人の場合は、まだ神との結びつきがなく、復活の日を目指す道の歩みをしていません。キリスト信仰者の兄弟の場合は戻れることが目指されますが、信仰者でない場合は結びつきと道の歩みに入れるようにすることが目指されます。その時、イエス様の莫大な犠牲に思い当たれるために無制限の赦しの態度を示すことは大事になると思います。
以上、罪の無制限の赦しは、神との結びつきと御国への道の歩みから離れてしまった兄弟が戻れるようにすること、まだ結びつきを持たず道に入っていない隣人が入れるようにするということが目的としてあることを忘れないようにしましょう。こういう目的があることを忘れて罪の無制限の赦しを目指すと、人間が自分で自分を高潔な倫理的存在にすることになってしまい、キリスト信仰から離れて行ってしまうと思います。
最後に、罪の無制限の赦しなど果たして兄弟や隣人が神の莫大な負債帳消しを思い至らせるのに役立つだろうか、案外、悪用されたりして馬鹿を見てしまうのではないかという疑いも出てくるかもしれません。私もそうです。でも、聖書にはそういう疑いを失くさせる話が沢山あります。本日の旧約の日課でヨセフが兄たちに述べた言葉はその一つです。ヨセフの兄たちはかつて弟をエジプトに奴隷として売り飛ばしたことを後悔し、ヨセフが復讐しないように憐れみを乞います。ヨセフは今やエジプトの高官の地位につき国民を大飢饉から救った英雄です。しかし、彼は権力を振りかざすことはなく、何も心配はいらないと言って兄たちを安心させます。復讐心を剥き出しにするどころが、逆に兄たちの悔恨を聞いて涙ぐんでさえしまいます。なんと心の清い人なのでしょう。ヘブライ語原文に忠実に訳します(創世記50章20節)。
「あなたがたは私に悪を企みましたが、神はそれを良いことと見なしたのです。そう見なしたのは、今日において多くの人々の命が助かるようになさるためでした。」神は悪いことが起きてもそれを全く別物に作り替えられるのです。
パウロもローマ8章28節で同じことを言っています。「神を愛する者たちのため、ご決定により選ばれし者たちのため、神は万事が良いものになるように働かれる、」
このようにキリスト信仰者は、害悪を被っても失望や絶望、悲しみや復讐心に埋没してしまわない超越的な視野と、真っ暗闇の中でも消えない光を聖書から得ることができるのです。
盗人萩・ぬすびとはぎ(日本・台湾・朝鮮)
高円の 野べの秋萩 いたづらに 咲きか散るらむ 見る人なしに(訳 高円山の野のほとりの秋萩は空しく咲き散っているだろうか、見る人もいなくなったいまも。 ) 万葉集第2巻230番歌 作:笠金村 。 この季節家の周りの叢には盗人萩がはびこっています。花だけ見ていると確かに萩の花に似ていますが花が終わり枝先に種が出来ると厄介です。うっかり叢に入り込むとあっという間にズボンやコートの裾にくっついてなかなか取れません。面倒でも一粒づつ指で取り除かなければなりません。今年は特に多く咲いていました、裏の道にも異常に繁茂して通り抜ける時は裾に注意しながら歩いています。
「順境の日には楽しめ、逆境の日には考えよ。神は人に将来どういう事があるかを、知らせないために、彼とこれとを等しく造られたのである。 コヘレト 7:13」
[私たちの、父なる神と主イエス・キリストから恵みと、平安とが、あなた方にあるように。アーメン]
聖書 マタイ福音書18章15~20節 2023年9月10日(日)
説教題 「神の愛による、ゆるし」
皆さんも、よくご存知の美空ひばりさんの歌に「一本の鉛筆」という歌があります。”一本の鉛筆があれば、私は戦争はイヤだ、と書く”この歌の一言に胸がジーンとせまります。戦争はイヤだ、と誰でも思っている。しかし、現実には世界で今も戦争で多くの人が殺されている。戦争は無くならない。マルチンルターは「主の祈りの講解」でこう書いています。「この世に於いては平和がない。」我らの平和は神のうちにある。神の愛につながっていなければ、安らぎはないのです。神様は人を創造されました。しかし、その人間が神に背き、人間の意のままに、何でもなして行こうとする。この罪というものが人間の根底にある。そして戦争を引き起こします。この「罪を犯してしまう」人間の根本の大問題をどうしたらよいか。今日の聖書でのイエス様の教えです。マタイ福音書18章15~20節のところで、あなたの貴重な兄弟が罪を犯した場合、彼に対して、どういう対処をしたらよいか。もし、自分の大切な兄弟が自分に対して個人的な問題として裏切り罪を犯した事を知った時、なすべき事は二つあります。第1は「行って忠告しなさい」という教えです。これは「行って、そして、忠告しなさい」と言うような悠長な命令ではない。「そして」という接続詞ぬきの「行け、忠告せよ」という慌ただしい命令です。一刻の猶予もなし、即、行けという事です。旧約聖書レビ記19章17~18節に次のようにあります。隣人愛の教えです。「あなたは、心に兄弟を憎んではならない。あなたの隣人をねんごろに,諫めて、彼のゆえに罪を身に負ってはならない。復讐してはならない。あなたの民の人々に、恨みを抱いてはならない。あなた自身のように、あなたの隣人を愛さなければならない。私は主である。」ここでは、隣人を愛する人は罪を犯した隣人をねんごろに、諫めるべきです。という事。「諫めなさい」という原文では、強く戒めている言葉です。ですから、「ねんごろ」に「諫めなさい」そうしないと罪を負う事になる。何故なら、罪を犯した兄弟は必ずしも自分のした事の罪深さに感づいていないからです。旧約聖書サムエル記上24章5節以下には、ダビデがサウル王に追われ洞窟の奥に潜んで隠れている所にサウル王が来て用を足す間にダビデはサウル王の上着の端を密かに切り取った、しかし、ダビデはこのことを後悔し心に責めを感じるほど良心的なダビデでしたが、サムエル記下12章を読みますと、ダビデは自分の家臣ウリヤの妻バト・シェバを自分のものにしようとウリヤを戦場に出し戦死させてしまった。この事を預言者ナタンがダビデに責め寄ります。その時までダビデは良心の呵責を感じませんでした。このように、どんな良心的な人といえども,何時も同じように良心が済み切っているわけではありません。人間って強いようで弱いところがあるものです。ですから、兄弟が罪した時には、その都度、即、彼を諫める必要があるのです。それも、早く諫めなければなりません。何故なら、話し合いを一旦延ばすうちに、心に「憎しみ」或いは「恨み」を抱き軽蔑と増悪が募るからです。
さて、第2にはその忠告を「彼と二人だけの所でする事です。」15節で述べています、それは、あなた自身に対する、個人的な罪である場合、なるべく、穏便に済ませるためです。たとえ、公の場合でも率直に懺悔を語られるようにしてあげるためです。自ら良心の呵責に苦しんでいる兄弟の魂、或いは忠告されて良心が疼き始めた兄弟の魂は傷ついています。その心の傷口を労わりながら、静かに、しかも厳かな雰囲気の部屋で二人だけで話合うべきです。もし、この段階で聞いてくれないなら、他に1人・2人を一緒に連れて行きなさい。(16節)それは旧約聖書の申命記19章15節にこうあります。「どんな不正であれ、どんな咎であれ、総ての人の犯す罪はただ1人の証人によって定めてはならない、2人の証人の証言により、または3人の証人の証言により、その事を定めなければならない。」とあるからです。申命記の時代、原告も証人として扱われれていましたので、1人の証人ではだめで、2人・3人以上の証言が必要なんだ、ということです。こうして、罪を犯した兄弟に決してこちらの忠告は個人的中傷ではない事を悟らせる事、そして彼が一層、厳粛に自分の罪に気づくよう導かれねばなりません。そうは言っても、このようにうまく忠告を素直に受け入れてくれるか難しいところでしょう。しかし、相手のためを思って密かに忠告する配慮を忘れてはならないでしょう。その他、それが、ただ自分一人の意見でなく、正義の戒めである事を厳かに証言して、兄弟を悔い改めへ、と導くべきでありましょう。それでも、もし、彼らの言う事も聞かないなら教会へ申し出なさい。17・18節を見ますと、それでも、なお、聞かないならその人を異邦人又は収税人同様の扱いにしなさい。よく言っておく、あなた方が地上でつなぐ事は天でもみなつながれ、あなた方が地上で解く事は天でもみな解かれるでああろう。 ここには、兄弟が自分の説得もきかない、又他の友人2人或いは3人の手を変え品を変えて忠告しても聞こうとしない。”頑固”という
罪で教会に於いて神の前で悔い改めを訴えても聞かない。もう、どうにも手に負えない、彼はもはや”兄弟愛”、”真理と正義への従順”と言った、キリスト者に本質的な、美徳を捨てたも同然、公の犯罪者だからです。そこで、もともと、私だけの罪を犯したのだから、私さえ我慢すれば、済むことだ・・・と言う変な諦め、から放置しておくのは恐ろしい罪の中に放置しておくことに他ならない。
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だとすれば、素人療法で直せない病人を病院に連れて行くのは家族や兄弟としての当然の配慮でしょう。しかし、ここで、「教会に申し出る」それでも「教会の言う事を聞かない」なら、と漠然とした表現で語られています。実際に誰に申し出たらよいのか、或いは誰の手で審議され判決が宣告されるのか、ここから結論する事はできません。最終的に教会戒規はこの不従順な罪人を「異邦人,又は収税人同様に扱う」ところで終わるしかない、ということです。イエス様の時代、その兄弟を「異邦人、又は収税人同様に扱う」という事は要するに教会の兄弟になる前の状態に逆戻りした者として、教会から除名することに他なりません。しかし、教会の戒規というものは、あくまで、彼が悔い改めて、神に立ち返る事を願っての愛の鞭、としての役を持つものであります。コリント第一5章2~5を見ますとパウロはコリントの教会内で不品行な兄弟を除名するよう命じて申しました。「そんな行いをしている者があなた方の中から除かれなければならない、ことを思って悲しむべきではないか」しかし、私自身としては体は離れていても霊では一緒にいて、その場に居合わせた者のように、、そんな行いをした者を既に裁いてしまっている、即ち主イエスの名によって、あなた方と私の霊が共に私たちの主イエスの権威のもとに集まって、彼の肉が滅ぼされるように、彼をサタンに引き渡したのです。それは主の裁きの日に彼の霊が救われるためです。つまり、除名の戒規はあくまでも彼の霊が救われることを願っての処分であったのです。あとでパウロはコリント第二2章6~8のところで「その人にとっては多数の者から受けたあの処罰でもう充分なのだから、あなた方はむしろ彼を赦し又慰めてやるべきである。そうしないと、その人はますます、深い悲しみに沈むかもしれない。そこで私は彼に対して愛を示すようにあなた方に勧める」と忠告しています。
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教会に、この兄弟愛がない、ところでは教会のどんな戒めの規律も正しくは行われないからです。そこで、18節では言われています。「よく言っておく、あなた方が地上でつなぐ事は天でも皆つながれ、あなた方が地上で解く事は天でも皆、解かれるであろう」とあります。ペテロを代表として教会が受けた「天国の鍵」の権能は教会の戒めの規則に於いてそのまま行われている、ということです。ですから、もし「教会は私を戒めの規則に処分したが神様は、きっと私を赦して下さるにちがいない。」或いは「地上の教会は私を有罪にしたが私は天の法廷で判決を覆してみせる」等というような、自惚れた反逆心を犯人に決して持たせてはならない。ということです。ここで言われている事は、地上での教会決議は天の決議と等しいという断言でもあります。教会の兄弟姉妹のわずか2人・3人が集まっているところには、その中にキリストが臨在し、すべてを守って下さる、ということです。19節でイエス様は言われました。「もしあなた方の内の二人が 願うどんな願い事についても
天の父はそれをかなえて下さる」と約束してくださいます。しかし、罪を犯した兄弟の扱い方を論じて来た教えの中では「どんな願い事も、皆、彼が自分の罪を悔い、神に立ち返る事に結びついているべきこと」は言うまでもありません。それは2人・3人の集まりにキリストが臨在して下さる約束があくまでも「私の名によって集まっている」正しい集まりでなくては無意味だからです。
大切な事は「心を合わせて、イエス・キリストの名によって」集まり、祈り合うことであります。何故なら14節の「これら小さい者の1人が滅びることは、天にいます、あなた方の父のみ心ではない、」からであります。最後にペテロは第一の手紙4章8節で次のように書いています。「何よりも、まず、互いの愛を熱く保ちなさい。愛は多くの罪を覆うものである」「愛を持って祈り合う」それが多くの罪を覆い、兄弟を罪から引き戻す力であります。
<人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなた方の心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。 アーメン>
棗(ナツメ)の実
梨棗黍に粟つぎ延ふ葛の後も逢はむと葵花咲く(訳 梨(なし)や棗(なつめ)や黍(きび)に続いて粟(あわ)が実り、葛(くず)が蔓を延ばし、その後も逢いたいと葵(あおい)の花が咲く。 万葉集第16巻3834番歌 詠み人知らず。)棗は奈良時代に中国から入って来てその実の滋養満点さから日本人に愛されてきた果実です。先日何時ものマーケットを覗いたら棗の実を売っていました。木になっていたのは見たことがあり落果した実を拾ったこともありましたが、売り物になるとは知りませんでした。嬉しくなり買い求めて家に帰り添え書きを見ましたら、青リンゴの味、と書いてありましたので早速齧ってみたらなるほど青りんごそのものの味でした。干すと甘みが増すそうで目下ベランダで干している最中です。
(「見よ、これは新しいものだ」と言われるものがあるか、それはわれわれの前にあった世々に、すでにあったものである。 コへレト1:10)