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ニュースブログ | 日本福音ルーテルスオミ・キリスト教会 / 中野区 – 東京

来週の礼拝:2月24日 顕現節第8主日

  聖書 列王記    8:41~43

    ガラテア   1:1~10

     ルカ    7:1~10

 讃美歌  116 401 346 399

 担当   司式   吉村 博明 宣教師

      説教   吉村 博明 宣教師

      奏楽   青木千恵 姉

      当番     小林信一 兄

      応対   星野哲郎 兄

       

                                        

説教「罪の赦しと復活の希望を携えて」 神学博士 吉村博明 宣教師、ルカによる福音書6章37-49節

主日礼拝説教 2019年2月17日顕現節第七主日

 エレミア7章1-7節、第一コリント15章12-20節、ルカ6章37-49節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 皆さんは、本日の福音書の個所を読んでどう思われたでしょうか?イエス様の教えはそんなに難しくない、歴史的背景の知識がなくても常識の範囲で理解できる、そう思われたのではないでしょうか?ちょっと見てみましょう。

「人を裁くな。そうすればあなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうれば、あなたがなにも与えられる。あなたがたは自分の量る秤で量り返される。」

これらを聞いて、ああ、自分が何か悪いことをされても赦してあげれば、周りもそういう雰囲気になって自分が何か至らないことをしても赦してあげようという態度にみんななっていくんだな、そういう赦してあげようという雰囲気を生み出すためには自分から率先して行うべきなんだな、そう思われるのではないでしょうか?「与えなさい」というのも同じで、周りがケチケチせずに与える態度を持つようになるためにはまず自分から始めないといけないんだな、そんなふうに理解されるのではないでしょうか?

「押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる」というのは、小麦粉を升にぎゅうぎゅうに押し込んで、さらにとんとんと叩いて隙間をなくしてたっぷりな量を与えるということです。私などこの個所を読むと、夏のフィンランドのマーケット広場での買い物を思い出します。イチゴやいろんなベリーをリットルかキログラム単位で買うのですが、リットルで買う時(もちろん、ぎゅうぎゅうに押し込むことはしません、潰れてしまいますので)、目の前で店員が升に山のように入れてくれて、上からボロボロ落ちてしまうと、またすくっては山にして落ちないうちにサッと袋に入れてくれます。ケチケチした感じがなくて、それこそ「持ってけ、どろぼー」みたいな気前良さで入れてくれます。日本ではイチゴはケースの中にお行儀よく並べられて一粒一粒ピカピカに輝いて貴重品のようで、フィンランドのように乱雑に扱えません。

さて、こちらが気前よく沢山与えたら、周りもそれに倣って同じようにしてくれるでしょうか?中にはケチな人もいて、こっちは気前良くしたのにそうしてくれず、こっちは損をするということはないでしょうか?同じように、裁かない、赦すということも、こちらが率先しても、みんながみんなそれに倣ってくれるかどうか。ひょっとしたら、心が狭くて同じようにしない人がいて、こちらが馬鹿をみるということが起きないでしょうか?

イエス様の教えを先に進んでみていきます。盲人が盲人の道案内をすることはできない、二人とも穴に落ちてしまう、これは当たり前すぎることではないでしょうか?弟子は師を超えるものではないが、師のように完全なものになれる、というのは、文章としては理解できますが、何か意味をのあることを言っているのでしょうか?新共同訳では「修行を積めば」と訳されていますが、ギリシャ語原文では単に「師のように完全になれる」とだけ言われているにすぎません。そのために何かプロセスを経ることが前提されていますが、それが「修行を積む」ことなのかどうかは決め手は何もありません。

続いて、兄弟の目の小さなゴミを気にするのなら、自分の目の丸太に気づけ、と教えます。もちろん、丸太が目に入るわけはありませんが、これを聞く人は皆、自分のことを棚に上げて他人の至らなさをとやかく言うのは丸太が目に入っているのに気がつかないくらい鈍感ということを思い知らされるでしょう。日本の道徳の教科書に取り入れていい教えかもしれません。

これに続いて、良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶといういう教えが来ます。これは次に言われる人間の状態のたとえです。良い人間は心の良い倉から良いものを出し、悪い人間は心の悪い倉から悪いものを出す。「心の倉から出すもの」とは何か?その次に「人の口は心からあふれ出ることを語る」と言っているので、口から良い言葉や悪い言葉が出るのはそれぞれ心の状態を反映しているのだということになります。なんだか当たり前すぎて目新しい感じがしません。ノンクリスチャンが読んだら、なんだイエスなんて大したこと言わないな、世界にはもっと深いことを言う賢者が沢山いるのに、と思うかもしれません。

先に進みます。最後に来る教えが、二つの異なる家を建てる者のたとえです。イエス様の言葉を聞いてそれを行う者は嵐が来ても大丈夫な家を建てる人、言葉を聞いても行わない者は嵐が来て倒壊してしまう家を建てる人と言います。これはどういうことでしょうか?先ほどもみましたように、イエス様は、裁くな、赦せ、豊かに気前よく与えよ、他人の落ち度を取りざたする前に自分の落ち度を正しなさい、と教えました。もちろん、こちらが率先してこうしたことをしてみんなが見習ってくれたら言うことありません。しかし、こちらから謙虚に気前よくしても相手が同じようにしなかったらどうするのか?周りは赦すという態度を持っていないのに、こちらは赦す態度でいなければいけないというのは、どんなものか?そんなお人好しではつけあがられたり、弱みにつけこまれるだけではないだろうか?イエス様は何か倫理的な英雄になれ、とおっしゃっているのだろうか?そのように出来る者は嵐が来ても倒壊しない家を建てる者と同じと言われるが、周囲の無理解や悪意に晒されても気前良さとお人好し路線を続けられる強さを持てということなのか?そのような家はしっかりした土台の上に建てられていると言われるが、土台とはその人の強さのことなのか?一体だれがそんな強さを持てるのだろうか?イエス様は普通の人には無理なことをしろと教えているのでしょうか?

 

2.罪の赦しを携えて

 ここでイエス様の教えを詳しく見てみます。

「人を裁くな。そうすればあなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうれば、あなたがなにも与えられる。あなたがたは自分の量る秤で量り返される。」

新約聖書のギリシャ語の特徴の一つですが、受け身の文で「誰々によって」という言葉がない時は、大抵の場合それは「神」を意味しています。つまり、人を裁くな。そうすればあなたがたも神に裁かれることがない。人を罪人だと決めつけるな。そうすれば、あなたがたも神に罪人だと決めつけられることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも神から赦される。与えなさい。そうすれば、あなたがたも神から与えられる。あなたがたは自分の量る秤で神から量り返される。こういうことです。周りの人たちが同じようにしてくれるということではありません。

すると一つ疑問が起きてきます。神が私たちを裁かない、罪人に定めない、赦して下さる、与えて下さる、というのは、まず私たちが他人に対してそうできないといけません。でも、これはおかしくありませんか?キリスト信仰では、イエス様を救い主を信じる信仰によって神から罪の赦しを受けられると言っているではありませんか?特にルター派の場合、人間が神から罪の赦しを受けて神から裁かれないという意味での「救い」は何によると言ってましたか?人間の救いは人間の業績や達成に対する神のご褒美ではないと言っていたではありませんか?イエス様が十字架の上で人間の身代わりになって神罰を受けて死なれて、神に対して罪の償いを人間に代わってして下さった。そのイエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ、イエス様の犠牲のおかげの罪の赦しがその人にその通りになる、そういうことではなかったか?それなのに神から裁かれないためにしなければならないことがあるというのはどういうことか?このことについてルター派の張本人であるルターはどう教えているかを見てみましょう。彼の教えは「あなたがたは自分の量る秤で量り返される」という聖句の解き明かしです(本説教の趣旨に沿うように解説的に訳すので付け加え等あります。)

「これは奇妙な教えだ。まるで神は、自分に仕えることよりも隣人に仕えることの方が肝要なことだと言っているように聞こえるからだ。お前の私に対する罪、私への反抗心、私の意志に反すること、それらはわが子イエスの犠牲に免じて赦してやる、もうお前を責め立てない、そう言って下さった。なのに、我々が隣人に対して悪く立ち振る舞うならば、神はもう、イエス様のおかげで我々が持てた神との和解を忘れて、罪の赦しを撤回すると言われるのだ。

ここで言う『自分の量る秤』とは何か?それは、イエス様を救い主と信じる信仰に生きるようになって持つことになった秤である。君はイエス様を救い主と信じるようになった時、どんなだったか思い出すがよい。神は、君の業績や達成をご覧になって君の罪を赦して君を受け入れたのではなかった。イエス様の犠牲のゆえに君に罪の赦しをお恵みとして与えて君を受け入れたのだ。神は君が罪を持ったまま御前にヘリ下って来るのを追い返したりせず、来るのをお許しになって罪の赦しをお恵みとして与えて下さったのだ。今神は君に次のように言われる。『お前も他の人々に同じようにせよ。そうしなければ、お前が他の人々にするのと同じことがお前にも起こることになる。もし他の人々に善意を示さなければ、私もお前に示さない。もし他の人々を見捨てたり裁いたりしたら、私もお前を見捨てて裁く。もし他の人々から取るばかりで与えなければ、私もお前から取り何も与えない。』

イエス様を救い主と信じる信仰に生きるようになると、我々の心に神の赦しの思いが芽生える。それは、我々自身が罪の赦しをお恵みとして頂いたからである。それだけではない。我々は信仰にあっても内に宿る罪が時として我々を驚かせ悲しませることがある。罪の赦しを頂くと今度は自分の罪に気づくようになる。罪の自覚が生まれるのである。しかし神は、自覚を持つ度に十字架のもとに立ち返る我々をあの時と変わらぬ恵み深さで迎えて受け入れて下さる。つまり我々はあの時と同じ罪の赦しを毎日携えて歩んでいるのだ。だから、神は我々がどう隣人に振る舞っているかをご覧になって、我々が罪の赦しをちゃんと携えているかどうか知ろうとされるのだ。神の赦しの思いを持てない者は、それをどこかに置き忘れてしまって、イエス様を救い主と信じる信仰がなくなってしまったことを暴露するのだ。」

ここからも明らかなように、キリスト信仰者が他人を赦すというのは、神から罪の赦しを頂いたことが出発点にあります。お前には神罰を下さないと神に言ってもらえる。この世の人生をまさに天地創造の神の見守りと導きのもとで生きられるようになり、この世の人生を終えた後はまさに自分の造り主である神の御許に迎え入れられる。このようなことが罪の赦しに付随してきた。こんな大きなことをして頂いたら、もう他人が自分に何か至らないことをしたとか言ったとかは大したことでなくなります。恨みや憎しみが自分から分離して色あせていきます。神がひとり子イエス様を用いてこんな大きなことをしてくれたというのは、私のことをそれくらい大事に見てくれたということです。それがわかると、神やイエス様がしなさいと言われることは、周りが見習ってくれるかどうかに関係なく行って当然のことになります。

事が日常生活の中のことであれば、赦すとか裁かないとか与えるというのは大変なことではないかもしれません。しかし、もし犯罪の被害者になってしまうとか日常の枠を超えるようなことが起きたらどうなるでしょうか?社会には法律があって刑罰や損害賠償について定められています。イエス様が赦せ与えよと言うから、下された判決に対して無罪にしていいとか、不当に取られたものはくれてやる、と言うべきでしょうか?もちろん、そうはならないでしょう。というのは、神の意志を表す十戒というものがあるからです。盗むな、殺すな、姦淫するな、偽証するな等々あります。裁くな、赦せ、与えよ、というのは、神の意志に反することが大手を振ってまかり通るようにしていいということではありません。じゃ、法律が関わるところでは、それらは無効なのか?難しいところですが、次のように考えたらどうでしょう。

それは、裁くな、赦せ、与えよ、というイエス様の教えがあるところとないところでは法律の見方が異なってくるのではないかということです。それがないところでは、目には目を歯には歯をという考えが支配的になるのではないでしょうか?あるいは気が納まらなくて目には目以上のものを求めるかもしれません。裁くな、赦せ、与えよがあると、社会において神の意志が破られないようにするのにはどんな規定や判決が妥当なのか、まさにそれらとつき合わせながら考えなければならなくなります。具体的にはどんなことがあるかここでは申し上げる余裕はありませんが、少なくとも目には目をということではなくなるのではないでしょうか?こうして見ると、法律や社会規範の形成に信仰も無視できない要因になってくると言うことができると思います。

 

3.復活の希望を携えて

 キリスト信仰者というのは、現実にはいろいろな困難はあるが、「裁くな、赦せ、与えよ」ということを心掛けます。そうするのは、自分の造り主である神が本当にひとり子の犠牲も厭わないくらいに私を罪の支配下から救い上げて下さった、このことが大きなこととしてあるからです。先ほども申しましたように、罪の赦しを頂いてそれを携えていること、これが他の人々に対してもイエス様が教えたようにしようという心にします。イエス様を救い主と信じて生きる者が携えるのはこの「罪の赦し」の他に「復活の希望」もあります。復活の希望も、携えると「裁くな、赦せ、与えよ」を行う心に私たちをしていきます。このことを見ていきましょう。

復活の希望については、本日の使徒書の日課である第一コリント15章12-20節の中でも言われています。本説教ではそれに基づいてお話しします。

この個所で使徒パウロは、キリストは死者の中から復活した、とか、もしキリストが復活しなかったならば、とか、キリストの復活について6回繰り返します。そこで注意を引くのは、ギリシャ語の原文ではどれも動詞の現在完了形(εγηγερται)が用いられていることです。こんなことを言うと学校の英語の授業みたいで嫌だなと思われるかもしれませんが、ギリシャ語の現在完了形の意味と英語のそれは違いがあるので、英語のことはすっかり忘れて大丈夫です。パウロはイエス様の「復活」を繰り返して言う時、なぜギリシャ語特有の過去形(ηγερθη、アオリストのことです)を使わないで現在完了形を使うのか?今日この個所について説教する人は原文を読んで気づくでしょう。原文を読まない人は参考書に指摘されて気づくでしょう。気づいたら、どういうことか考えなければなりません(参考書の人は答えがあるので、それを引用するだけですむのかもしれません。後注)

ギリシャ語の現在完了形の基本的な意味は、過去に何か出来事が起きて、その状態が現在も続いているということです。過去に起きた出来事が過去に埋もれてしまわないで現在も表面に出ているような感じです。それで考えると、パウロがイエス様の復活をそのように言ったのは、イエス様が復活されて今も生きておられるということを意味しているというのが一つ可能性として考えられます。使徒言行録に記されているように、イエス様は復活した後、40日間弟子たちと共にあり聖霊降臨の10日前に弟子たちの目の前で天の父なるみ神のもとに上げられました。そして今は、キリスト教会の伝統的な信仰告白に言われるように、父なるみ神の右に座して再臨する日まで信仰者を守り導き、その日が来たら眠りについている信仰者を目覚めさせて神の御国に迎え入れらます。再臨が起きる前の今は生きておられ、守り導かれているのです。

パウロがイエス様の復活を現在も続いている状態で言い表したのは、このようにイエス様が今生きて治められていることを意味しようとしたと考えられます。もちろん、それもあるのですが、私としてはそれだと今生きておられることが前面になって復活の出来事が背後になってしまうのが少し気がかりでした。私としては、復活ということも前面に出てくるのではないかと、この個所のことでずっと悩んできました。今回それがわかったと思います。どういうことかと言うと、イエス様の復活というのは彼個人の出来事にとどまらず、私たち自身の将来の復活を確実にする出来事であるということです。イエス様の復活は過去の出来事として過去に埋もれてしまうものではなく、私たちをも復活に向かって押し出していく、まさに今もある復活ということです。

そのことがわかるためにパウロが17節で、キリストの復活がなければ私たちは罪の中にとどまっていると言っていることに注意します。罪の赦しを頂いたにもかかわらず罪の中にとどまってしまうというのはどういうことか?それは、罪の赦しを頂いても復活に向かって進まなければ、ただ単に神聖な神の御前で罪の自覚を持つだけで行き場がなくなるということです。私たちが復活に向かって進めるのは、復活の見本が打ち立てられたからです。イエス様の復活が起きなかったら私たちはどこに向かって進んでいいのかわかりません。そういうわけで、キリストに希望を置くことがこの世と次の世の双方にまたがるような置き方でなく、この世でストップしてしまったら、とても重くつらくなります。「裁かない、赦す、与える」ことも、損することや不利になることが気になってできなくなります。パウロが言うように、最も惨めな人間になります。罪の自覚など持たずに生きた方が楽だと思うようになります。

さらに20節をみると、キリストは復活して眠りについている人たちの「初穂」となったと言われます。「初穂」とは面白い訳です。日本の宗教的な伝統では最初に実った稲の穂を神仏に捧げるものです。ギリシャ語の単語απαρχηはそういう神に捧げるものの意味もありますが、穀物だけに限りません。動物もあります。それで「初穂」は訳としては限定しすぎです。確かにイエス様は十字架の上で私たちのために犠牲になって神に捧げられたことがありますが、その捧げが眠りについた人たちとどう関係するのかがはっきりしません。

ところが、ギリシャ語の単語には「最初の者」という意味もあります。それでいくと、イエス様は死んで眠りについて復活させられた最初の者、復活の先駆者ということになり、罪の赦しを携えて眠りについた者たちは彼に続く者になります。まさに初穂に続く穂になります。その意味では「初穂」という訳は詩的な言葉です。皆さん、麦畑でも田んぼでもいいから思い浮かべて下さい。秋の澄み渡った空の下、最初に穂となったのがイエス様です。後に続いて一斉に黄金色になるのが私たちです。真にイエス様は私たちにとって「初穂」です。

 

4.洪水にあっても倒壊しない家の土台とは?

 以上のように、キリスト信仰者とは、罪の赦しと復活の希望の双方を携えて復活に向かって押し出されるようにこの世の人生を歩む者です。これがわかると、本日の福音書の当たり前すぎてよくわからなかった個所が次々とわかるようになります。盲人が盲人を道案内することは出来ないというのは、復活の主なくして、復活に至る道を歩むことはできないということです。ちゃんと道案内できる師が必要となる。それがイエス様です。十字架の上で私たちの罪を償って私たちに罪の赦しを整えて下さり、さらに死から復活されることで私たちを復活に向かって押し出して下さる方です。その師であるイエス様に弟子はまさらない、つまりキリスト信仰者はまさることはありません。これは当たり前です。誰もイエス様の十字架と復活の業に並ぶことは出来ないからです。しかし、イエス様を救い主と信じる信仰に生き、罪の赦しと復活の希望を携えていけば、復活の日に復活します。イエス様と同じになれる、つまり師と同じになれるのです。

自分の目の木材とは?罪の赦しを携えて生きる者が持つ罪の自覚のことです。自覚がないのはそれを携えていないからです。良い人が心に良い倉があって良いものを出すというのは、罪の赦しと復活の希望を携えていると、「裁くな、赦せ、与えよ」ということを行うのが当然という心になっていきます。それが良い人の心の中にある良い倉です。心から出てくるものは、行為に限られず、口にする言葉もそうであると言われます。

そしてイエス様の言われることを聞いて行う者は洪水にも耐えうる家を建てる者とは?洪水というのは、この世が終わりを告げ今ある天と地が新しい天と地にとってかわられる終末の大変動を意味します。そのような大変動にあっても家が揺り動かされないで大丈夫というのは、復活させられて神の御国に迎え入れられることを意味します。「ヘブライ人の手紙」12章で、天と地が揺り動かされても唯一揺り動かされないものとして神の御国が現れるという預言があります。家がびくともしないですむその土台は何か?本説教の冒頭で考えたような、人間自身の強さではありません。罪の赦しと復活の希望がそれです。それが、家がしっかり立っていられる土台です。それを携えている者はみな、この世の人生を歩む時も、次の世に移行する際の大変動の時もしっかり守られていて何の心配もないのです。

兄弟姉妹の皆さん、本日の福音書の日課にはいろいろなことがありましたが、どれも捨てることなく解き明かしできました。父なるみ神に感謝です。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

 

後注 ギリシャ語の現在完了はアオリストと同じように考えてもよいと言う人もいるかもしれません。私が勉強したJ. Blomqvist & P.O. Jastrup の教科書(スウェーデン語デンマーク語の二言語で書かれている)には、古典時代後には叙事文の中で現在完了がアオリストと同じ意味で使われる例も若干ある、などと書かれていました。第一コリントは16章21節から明らかなように、パウロが口述して書きとらせている手紙であることに注意しました。  

 

手芸クラブのご案内、2月27日(火)10時~12時 「マイ帽子」を作ってみませんか。

手芸クラブは、月1回開かれています。

次回は、2月27日(水)10時から12時までです。作品はクローシェ網の「マイ帽子」です。クローシェ網の帽子は自分の好みで一色から何色でも作れます。冬用の帽子でしたら毛糸、夏用の帽子は綿糸で作ります。

素敵な帽子が出来ますので、お気軽にご参加ください。

持ち物:     毛糸か綿糸100g、色は好みです。
糸に合うかぎ針

 

 

 

申し込み問い合わ
paivi.yoshimura@sley.fi
電話03-3362-1105 
スオミ・キリスト教会

 

交わり

今日の教会ランチは炊き込みご飯でした、大好物のポテトサラダが嬉しかったです。ポテトのほかにリンゴ・ニンジン・キュウリそれにピクルスが隠し味?として忍ばせてありました、とても美味しかったです。

歳時記

池の氷も溶けて水鳥が泳ぎ出しました。まもなく渡りの季節が来るのでしょうか、以前勤めに出ていた頃早朝バスを待っていると暗がりの中頭上を渡り鳥が群れをなしながら北に向かって飛び去って行きました。彼らはどうやって方角がわかるのか不思議でなりませんでした。

 

 

説教:木村長政 名誉牧師

 

顕現節第6主日     2019210日(日)

「主によって、召された自由」

  創世記  45315

 Ⅰコリント 71724

  ルカ    62736

 コリントの教会の信徒への手紙を、今回もいっしょに、みことばに聞いて参りましょう。今日は、717節ー24節までです。

 パウロはこの手紙の中で、7章から、結婚に関する問題、男女の問題について書いています。そして、それは7章の終わりまで書いています。ところで、今日の17節から24節までは、少し話がちがうように思います。

 

 普通に考えれば、話の中にちがうことを書き入れたのではないかと思う程です。

 ここには、7章の結婚に関係することは書いてないからです。他の話を、取り込んだのであろう、という人もあります。

 しかし、ここに書いてあることは何か、と言うと、パウロは、これまでの視点よりちがった方向から、大きく、広げて、そして、それらの基本的な点を述べていくのです。 

 人間、1人びとりの立場はどういうものであるか、ということにふれていきます。

 ここでは、必ずしも、男と女の問題だけでなく、人間が生きていく、生活の仕方そのものにふれていく。今、自分がおかれている、この立場に立っていることは、何にもとづいているのか、ということであります。

 私たちは、各々の生き方をしていますが、自分がこの位置に置かれているのは、何によるのでしょうか。それは、自分が希望したからそうなったのか、それとも、偶然のことであろうか。今の自分にあるのは、自分が望んでいたのか、と言うと、イヤちがう。或いは、又、どうして自分はこんな星のもとに生まれてきたのか、いろいろ考えたりもします。兄弟の中でのことや、自分の仕事について、もっと、あんな仕事をやりたかった、とか、境遇についても思いどおりにいかないことばかり、この世はそんなものです。

 それなら、少しでも改善して、自分の希望するようにしたい、と願うでしょう。いろいろ努力してやってはみたが、結局はどうにもならない、何か大きな力で動かされているような気がして、自分がいかに小さい者であるか、無力な者でしかないと、思い知らされる。誰でも通る道ではないでしょうか。私たちの生き方は、これでいいのかと、深く考えます。何か、すっきりした道はないのか、と考えるのではないでしょうか。

 教会に行ったことのある人なら、神のみ心はどこにあるのだろうか、と考えるにちがいない。神は自分をどうお考えになっているのだろうか。

 

特にパウロがここで語っています中に、もう1つ深刻な問題がありました。それは、割礼を受けることであります。この時代の教会の中で、どうしても考えなければならなかったでしょう。

信者になっても、割礼は受けなければならないものなのか。或は、むしろ、割礼のあとは、なくしてしまった方がいいのかどうか。

 これらの事柄は、信仰に関係があることでした。したがって、自分の救いに、関係のあることでした。そのことは、結婚等とは比較にならない程、重要であったにちがいありません。

 それなら、これらすべての事について、神の御心はどこにあるのでしょう。神はただ、人間のしたいようにさせておられるのか。それとも、はっきりした道があったのでしょうか。その答えが17節であります。

 17節「おのおの、主から分け与えられた分に応じて、それぞれ、神の召された時の身分のままで歩みなさい。」そしてこれについては、すべての教会で、わたしが命じていることです。と言っています。

 

パウロは、ここに、すべての立場にいる者に与えられた道がある、と言っているのです。

 このことは、信仰を抜きにして考えると、ただ、あるがままでいいのである。というように見えます。もしそうなら、最もだらしのないことになってしまいます。それなら、この中で、どこに神のみ心があらわれているのでありましょうか。

 

ここには二つの大事な事があります。

 1つは、「各自は、主から賜った分に応じる」ということです。

 もう1つは「召されたままの状態」ということです。召される、ということは、聖書の中で、最も重要なことの1つであります。それは、「召される」ということが、いつでも救いに関係があるからです。

「救われる」ということと、「召される」ということは、いつも深い関係があります。「召される」というのはお呼びになる、ということであります。

 神が私たちをお呼びになる、というのは、召して、御自分のものとなさる、ということです。

 それなら、召されるのは、神のものになる、ということになるのである、と思います。神のものになる、というのは、何でもないことのように思われるかも知れません。或は、ただ、信仰の話である、と考えられるかも知れません。

 しかし、決してそんなに簡単なことではないのです。なぜなら、もし、神のもの、とされるのでなければ、私たちは、だれのものでありましょう。

 「自分は、自分のものにきまってるよ」と、ふつうの人なら、言うでしょう。しかし、ほんとうに、そうでしょうか。自分は自分のものにちがいないが、そうすると、いかに頼りないことか。ということを痛感させられます。

 ことに、大事な決心をしなければならないような時に、それがよくわかるのであります。自分が頼りないのであります。自分がどこにいるのかが、分からなくなります。

 あちらを立てれば、こちらを立てることができないなんてことは、しばしばです。自分の立場がはっきり定まっていないのです。

 そういう人間が、神に召されて、神のものとせられる、ということこそ、まことに救いではないでしょうか。今や、右を見たり、左のことを考えたりする必要はないのです。

 神のものに、せられたのでありますから、それを自分の足場とすればいいのであります。そうでないと、結局、自分の欲望に引きずられてしまう、ということになるのではないでしょうか。

 自分は、神から召されて、神のものとして、この新しい立場を与えられたのである、ということです。神から召されたことがはっきりした時、今の自分に与えられている仕事、家庭、友人、教会の人々、みんな、神から与えられたものであり、神のご用にある人間ということになります。

 

 神が必要として、与えて下さっている人々、そして又、それがどんなに貧しい業であっても、或は人から見れば、何もないかのように思われても、神はお求めになっておられる、ということであります。そうであれば、割礼があっても、なくても、それは問題ではない、大事なのは、ただ神の戒めを守ることであります。とパウロはここで言っています。

 イスラエルの民にとっては、割礼のことは大変大事なことがらなのです。割礼は、神が召してく、ださったしるしであって、それこそ、救いのしるしであると言わねばなりません。しかし、そこで大切なことは、神に召される、ということであります。割礼はただそのしるしでしかありません。

 神のものとせられた、ということが大切なことになるのであります。

 まことの割礼を受けること、私たちの場合は、洗礼を受けることにあたりましょう。今は、どこに属しているのでもなく、神に属しているのです。それならば、大事なことは、神に属する者らしくすることであります。

 今や、信仰を持った私たちは、自分の奴隷でもない、全く自由にせられ、みな、神のものであります。

 どの人間も、キリストによって救われたならば、神のもの、すなわち、神の奴隷、キリストの奴隷であります。しかし、このことを、ほんとうになかなかわかっていないのが私たちです。

 

 そこで、パウロは、信仰の奥義を語ります。

 「あなた方は、代価を払って買いとられたのだ。人の奴隷になってはいけない。」

 おれはおれの好きなように生きるんだ。そうはいかない、代価をもって買いとられたのである。自然のままの人間ではないということであります。

 代価を払って買いとられなければならないような状態にある、ということであります。

 代価とはなんでしょう。それはキリストであります。キリストの死と復活であります。そういう代価を払わないでは、罪の奴隷をやめて、神の奴隷となり、神のものとなることは、とうていできることではありません。

 こういうことが分かった時、はじめて、「兄弟たちよ、各自は、その召された状態で、神のみ前にいるべきである。」と言うことができるのであります。

 

 人の前ではなく、神のみ前にいる自分、その時人は、はじめてほんとうの人になることができるからであります。

 ある人が言いました。

 <すべてのことは神の憐れみの中にいること。神の憐れみの中にいて、神様に「そうだよ、それでよろしい」と言ってくださることです。>

 すばらしい生き方となるではありませんか。

 アーメン・ハレルヤ

 

 

 

 

2月のフィンランド家庭料理クラブのご報告

「ルーネベリ・ロールケーキ」

天気予報通りの雪の舞う寒い寒い土曜日の午後、家庭料理クラブは
「ルーネベリのロールケーキ」を作りました。
フィンランドの詩人ルーネベリが好物だったというルーネベリータルトをベースに、軽い味わいのロールケーキに仕上げました。

お祈りをしてスタートです。

最初に生地作り、焼いてる間に、こくのあるクリームを、そしてルーネベリタルトには欠かせないラズベリージャムも、ロールケーキ用に準備されました。

焼き上がった生地を冷ましてる間に、ヴォイレイパ作りと、テキパキ作業が進みます。

最後はとてもソフトな生地をロールケーキに仕上げます、
ラズベリージャムとクリームを塗って巻き込み、アイシングで飾りつけをして、最後にカットして、ラズベリージャムとアイシングでアクセントを付けて完成しました。

試食会の楽しい会話も一段落した頃、パイヴィ先生から、ルーネベリタルトのお話や聖書のお話も聞かせていただきました。

寒い中のご参加お疲れさまでした。

ルーネベリタルトの話

フィンランドでは新年が終わったら、次にお祝いの日になるのは2月5日の「ルーネベリの日」です。この日は昔は休日でしたが、今はそうではなく、ただ国旗を掲げるだけの祝日です。それで新年が終わると、ルーネベリタルトがお店で売られるようになります。しかし、販売期間は短くて、せいぜい一ヶ月くらいです。

ルーネベリとはどんな人だったでしょうか?彼はフィンランドの有名な作家で、1804年に生まれました。Albert Edelfelt [Public domain]詩や小説をたくさん書いて、彼の最も有名な詩「わが祖国」はフィンランドの国歌になりました。また、彼は教会のことも熱心で、60曲近い讃美歌の詩も書きました。

お祝いをするのが好きだったルーネベリは、50歳になってから毎年誕生日に大きなお祝いをしました。後に彼の誕生日である2月5日は、彼の記念日としてフィンランド全国で祝われるようになりました。彼の誕生日というよりは、フィンランドの文化の日として祝われます。オフィシャルなお祝いの会場でも家庭でも、ルーネベルイタルトが出されます。ルーネベリは小説や詩だけでなく、ルーネベルリタルトも残したと言うことができます。

ルーネベリは、この甘いお菓子を朝食で食べたくらい大好きだったそうです。このお菓子の始まりについては、いろいろな説があります。ある説によると、ルーネベリタルトはスイスで初めて作られて、そこからフィンランドのルーネベリが住んでいた町に伝わって、町の喫茶店で売られていたということです。ルーネベリはこのお菓子がとても気に入って、よく食べるようになったのが始まりだと言われています。ルーネベリは甘いお菓子が大好きだったので、奥さんのフレディリカもこのお菓子を作ったそうです。

現在、ルーネベリタルトのレシピはいろいろありますが、一番オーソドックスなものは、形が少し長めの円筒状で、上にのせるジャムはラズベリージャムです。レシピの面白いものの一つは、生地にピパルカックを入れるものです。クリスマスの期間に食べきれなかったピパルカックをつぶして生地の中に入れて、それで美味しいものが出来るのは素晴らしいことと思います。しかし最近の家庭はピパルカックを昔ほど沢山作らないので、つぶしたピパルカックの代わりにピパルカックのスパイスを入れるようになりました。もう一つルーネベリタルトの面白いことは同じ材料を使って、違う形のお菓子、ロールケーキが出来ることです。名前はルーネベリのロールケーキです。このように残ってしまったお菓子も上手に使って、新しくてもっと美味しいお菓子が出来て、国の記念日のお祝いに出されるようになったというのはとても不思議なことです。

旧約聖書のイザヤ書には次のような聖句があります。「見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか」(イザヤ書43章19節)。天の父なる神様は、人の目から見て価値がない、もう捨てるしかないと思われるものから新しい素晴らしいものを生み出される方です。ゼラニウムの花もそのことを思い出させてくれます。ゼラニウムは秋花が咲き終わってから、葉っぱも全部落ちて枯れてしまって、茎だけを残します。枯れてしまったゼラニウムの植木鉢はもう意味がない、捨ててしまおうと思われるかもしれません。ところがそうではないのです。枯れたゼラニウムの植木鉢を暗くて涼しい地下室に冬中置いておき、春になって地下室から出して暖かくて光があたるベランダに置きます。そうすると、最初は枯れた茎だけだったのが、しばらくすると新芽が出て育ち始め、やがては美しい花を咲かせます。このように一度捨てるしかないと思っていたものが、また育って花が咲くのはとても不思議に思えます。でもこれは、天の神様が成長を与えて下さるから起こるのです。

神様は、同じようなことを私たちにもしてくれます。私たちが自分のことを意味がない、価値がないと思ってしまう時は、私たちは暗い地下室に置かれているのと同じです。しかし、ゼラニウムを暗い地下室に置くのは、次の夏にきれいに咲かせるために必要なことなのです。暗い場所から明るい場所に置くと、ゼラニウムの新しい成長が始まり、素敵な花を咲かせます。天の父なる神様はこのように新しく造られる方です。神様は私たちをも素晴らしいものに成長させて下さいます。成長は私たちの思うように進まないかもしれません。ゼラニウムのように暗い場所に置かれてしまうかもしれません。でもそれは光の時が来た時に成長できるために必要なことでした。神様は光の時を来させて下さる方で、その時には私たちを暗闇から出して下さり新しい成長を与えて下さいます。このように神様は私たちを新しく造り変えて下さいます。

神様が私たちを新しく造り変えて下さるとどうしてわかるでしょうか?それは、神様が最初のクリスマスの日にイエス様をこの世に送って下さったことからわかります。イエス様はこの世の光です。光の時が来たのです。イエス様が私たちの罪を償うために十字架の上で死なれて、そのかわりに私たちの罪が赦されました。イエス様を救い主と信じる人は暗闇から光の中に出されて、心が新しくされます。

今週散歩した時に、一本だけでしたが梅の花が満開に咲いているのを見ました。神様が梅の花を新しく咲かせて下さったとわかって感謝しました。私たちは、こうした自然の移り変わりからも天の神様が私たちを新しくして下さる方だとわかります。これからもこの神様とひとり子イエス様のことを覚えて歩んでまいりましょう。

交わり

教会ランチを頂いたあとパイヴィ先生から昨日の料理教室で作った”ルーネベリのタルト”をデザートでご馳走になりました。先生からタルトの不思議な名前の由来を教えていただきました、その味はすこぶる美味、しかもクリスマスであまったクッキーなどを材料に使う極めてエコなケーキであると聞いて流石にフインランドの主婦の知恵と工夫に感心をいたしました。  

 

歳時記

ポウッカ先生からプレゼントされたフインランドの教会を紹介している写真集を前にスオミ教会を支援してくださっている多くの教会の概要を知りました。1人の写真家が南から北の果てまで踏破してまとめた写真集はそれだけでも重みのある本です、いまや私の大事な宝物です。

 

説教「神が全てを知っていて下さるという幸い」神学博士 吉村博明 宣教師、エレミア17章5ー8節、ルカによる福音書6章17ー26節、第一コリント12章27ー13章13節

2019年2月3日顕現節第五主日

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 本日の旧約聖書の日課エレミア書17章5ー8節は呪われた者と祝福された者ついて述べています。「呪い」とは物騒な言葉です。不幸とか何か良からぬことが起こって、その原因を何か超自然的なことに求める時に出てきそうな言葉です。「祟り」と同じことと考えられるでしょう。「祝福」とは何か?私たちの周りでどんな使われ方をするか見てみると、例えば、結婚式で新郎新婦にお祝いを述べる時に、みんなで二人の門出を祝福したなどと言います。ところが、聖書で言われる祝福はそれとは異なります。いろんな説明の仕方があると思いますが、大まかに言って聖書の祝福は天地創造の神が関係してきます。人間同士がお祝いの気持ちを表明するということではありません。日本語で「祝福」という訳語を当てはめたため、お祝いのイメージが付きまとうかもしれません。

聖書の祝福を理解する手がかりとして、民数記6章にあるアロンの祝福を見てみましょう。神が祭司のアロンにイスラエルの民を祝福する時は次のように言いなさいと命じます。この文句はキリスト教にも受け継がれて、私たちの礼拝の終わりでも唱えられるので皆さんもよくご存知です。

「主があなたを祝福し、あなたを守られるように。
主が御顔をあなたに向けてあなたを照らし
あなたに恵みを与えられるように。
主が御顔をあなたに向けて
あなたに平安を賜るように。」

この文句から、祝福はお祝いではなく、神が人間に目を注いで良いものを与えてくれることだとわかります。どんな良いものを与えて下さるのか?神が人間を危険から守ってくれるということがありました。また、御顔を人間に向けてその栄光の輝きを暗闇の中にいる人間に当ててあげて、人間に恵み深く接して下さるということがありました。新共同訳では「恵みを与えられるように」ですが、ヘブライ語原文では何かを「与える」とは言っていません。神が人間に「恵み深くおられますように」です。神が恵み深くおられるというのは、どういうことか?それは、人間に神の意志に反する罪があってもそれを赦して不問にするから新しくやり直しなさいと言って下さることです。罪の赦しをお恵みとして与えて下さるという意味での恵み深さです。

さらに、神が人間に御顔を向けると、平安も与えられるということもありました。「平安」はヘブライ語のシャロームですが、これは意味が広い言葉です。まず、繁栄、成功、健康、安全と言った、人間にとって良いことを意味します。神に守られている状態と言って良いでしょう。神の守りがあるということでシャロームは「救い」の意味も持ちます。その時、「救い」の内容は繁栄、成功、健康、安全と言った、この世的なものに尽きてしまうのか、それとももっと違うものもあるのではないかということが出てきます。キリスト教ではその違うものがはっきりしてくるのではと思います。どういうことかと言うと、人間はイエス様の十字架での犠牲の死のおかげで神の意志に反する罪を償ってもらった。そのイエス様を救い主と信じる信仰によって、神から罪の赦しをお恵みとしていただける。そうして人間は神との結びつきを回復して神との間に平和な関係を持てるようになった。もう神の罰を恐れなくてもいいんだ、神は自分の味方なんだ、ということになって、もう何が来ても怖いものはないという、まさに心が平安に満たされた状態です。キリスト信仰では「平和」とか「平安」はエイレーネ―という言葉ですが、まさに神との平和とそれから起こる心の平安が大きなものとしてあります。

 以上のように聖書の観点では、「祝福」とは神が人間に御顔を向けて目を向けてちゃんと見て下さっていることが土台にあります。そこから繁栄とか成功とか健康とか安全を頂けるということがあります。さらに進んで、罪の償いを人間に代わってして下さった恵み深い神が共にいて下さるから大丈夫という安心を頂けるということがあります。どっちの場合でも、聖書の祝福は神を抜きにしては語れないものです。

 「呪い」はこれと全く正反対のものです。人間が神から顔をそむけられて、背中も向けられてしまい、もう好き勝手にしなさいと見放されてしまう状態です。神に見放された結果、繁栄も成功も健康も安全も失われてしまう。あるいは、見放されてもタイムラグがあって繁栄や成功がしばらく続くこともあります。そんな時は神なんか馬鹿馬鹿しいと思うでしょう。しかし、繁栄や成功を失う時が来たら、罰が当たったのだと慌てふためくか、または引き続き神なんか馬鹿馬鹿しい路線を続けて、神など引き合いに出さないで自分の知恵と力だけで繁栄を取り戻そうとするかでしょう。

 以上から、聖書の観点では「祝福」と「呪い」は天地創造の神が人間にどうかかわっているか、人間は神に顔を向けてもらって見てもらっているか、あるいは顔を背けられて背を向けられて見てもらえなくなっているか、そうしたことが土台にあると言えます。

 ここで一つ気になることがあります。それは、成功、繁栄、健康、安全が祝福の産物のように見られるということです。確かにそうした面はあります。しかし、そうなると、それらが失われたら、それは祝福を受けられなくなったからだ、呪われたからだということになるでしょうか?いいえ、そういうことではありません。キリスト信仰ではお祈りしたにもかかわらず成功、繁栄、健康、安全が得られないとか、失われるということも想定しています。先にも申しましたように、神に罪の償いをしてもらって罪を赦されて神との間に平和な関係ができて神との結びつきの中で生きているということが確固とした事実としてあります。成功、繁栄などこの世的な輝きは失われても、神との平和、結びつき、そこからくる心の平安、外的な不穏にかき乱されない平安というものがあって、今度はそれらが輝きを放ちます。その時、神に目を注がれていることが一層わかるようになります。詩篇23篇で言われている、「たとえ我死の影の谷を歩むとも禍をおそれじ、汝われと共にいませばなり」ということが今まさに自分に起こっているとわかります。

 どうしてそんなことが可能なのでしょうか?それは、聖書というものは繙く者に二つの視点、つまりこの世を超えた永遠というものがあるという視点と森羅万象の上に創造主がおられるという視点を与えるからだと思います。本日の使徒書の日課第一コリント13章と福音書の日課ルカ6章もこの二つの視点を与えます。ただ、旧約聖書の日課エレミア17章は、祝福された人は水辺の木のように緑の葉を豊かに生い茂らせ、日照りが来ても大丈夫、実を絶えず実らせ続けられる、なんて言っています。一見、この世的な繁栄、成功、安全、健康を言っているように見えます。しかし、この個所は目をよく見開いて聖書全体で言われていることを思い出しながら読むと、やはり永遠の視点と創造主の視点が含まれていることがわかります。

 

2.エレミア17章5ー8節

  どういう人が神に顔を向けてもらって目を注いでもらう祝福された者なのか?どういう人が神から顔を背けられて背を向けられた呪われた者なのか?5節で「人間に信頼し、肉なる者を頼みとし、その心が主を離れ去った人」が呪われた人になると言われます。祝福された人になるのは「主に信頼する人」(7節)です。ここで、人間はこの世で何に拠り頼み何を拠り所にするのかという問題を提起しています。天と地と人間を造られて人間に命と人生を与えてくれた創造主の神に拠り頼むのか?それとも神に造られた被造物を拠り所とするのか?被造物である人間は肉の塊にしか過ぎません。それに対して創造主の神は霊的な存在です。肉の視点しか持たないで生きていくのか?霊的な視点を持って生きていくのか?被造物同士の関係の中に埋もれて生きるか?それとも、被造物同士の関係の中で生きながらも、片手は造り主である神の手をしっかり握って被造物同士の関係の中に埋もれ尽くされない、そういう突破口を持つのか?

さらに8節を見ると、霊的な神に拠り頼む人は水辺に植えられた木のようでいつも緑豊かで実を実らせると言われています。ここで、祝福された人が得られる良いものは繁栄とか成功といったこの世的な良いものにとどまらないということを見ていこうと思います。そのことはエレミア17章からは見えてこないかもしれません。でも、詩篇1篇を手掛かりにするとエレミア17章をよりよく理解できます。なぜ詩篇1篇が出てくるかというと、エレミア17章8節「彼は水のほとりに植えられた木。水路のほとりに根を張り 暑さが襲うのを見ることなく その葉は青々としている。干ばつの年にも憂いがなく 実を結ぶことをやめない」を見ると、これを読んだ人は、あれ、詩篇1篇と似ている、と気づきます。詩篇1篇3節「その人は流れのほとりに植えられた木。時が巡りくれば実を結び葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。」この二つの聖句の前半部分は、ヘブライ語原文では双子のように同じです。細かいことを言えば、詩篇は木が植えられたのは「水路」のほとりと言い、エレミアは「路」を取って単に「水」のほとりと言っている違いはありますが、あとは同じです。ヘブライ語でこのエレミアの個所を読んだ人は、詩篇1篇をヘブライ語で覚えていたら、それが頭にスーッと入ってきてそれを下敷きにしてエレミアの個所を読むようになるでしょう。

そうすると、エレミア17章の荒れ地で今にも干からびてしまいそうな灌木に例えられる呪われた人は、詩篇1篇で言われている神の意志に反する者と重なります。また水辺で緑豊かに実を実らせる木に例えられる祝福された人は、詩篇1篇で言われている幸いな人と重なります。さらに言うと、17章9節からエレミアは詩篇1篇の神の意志に反する者たちを自分を迫害する者に、幸いな者を自分自身に適用させていることもわかります。そうすることで、預言者として悲惨な状況に置かれても自分は神に見捨てられてはいない、神は常に目を注いでいて下さると確信することが出来たのです。本当に聖書はすごい書物だと思います。読めば読むほどいろいろな繋がりが見えてきて、神が本当に見捨てない方、目を注いで下さる方であることがわかってきます。

詩篇1篇の「幸いな人」を少し見てみます。3節で、水路のほとりに植えられた木が枯れずに実を結ぶのと同じように幸いな人は繁栄するのだと言われます。、繁栄というのは、この世的な良いものだけを意味するのでしょうか?詩篇1篇を終わりまで見ると、それだけではないことに気づきます。幸いな人と正反対の神の意志に反する人たちのことについても述べられています。彼らは、最後の審判の時に神から義なる者、つまり神の目から見て大丈夫な者と認めてもらえず、義なる者たちが集う所に到達できないと言われます。幸いな人はこれとは反対に、神から義なる者、神の目から見て大丈夫な者と認めてもらえる人です。詩篇1篇6節を見ると、幸いな人がこの世の人生で歩む道を神は知っておられると言われています。その道が向かうのは、義なる者たちが集う所、つまり神の御国です。この世が終わって死者の復活が起きて現れる神の御国です。神の意志に反する者たちはそこに到達できないと言われています。義なる者たちはその道を進み、神はその者たちが御国に到達できるように一時も目を離さず導いて下さっている。これが義なる者たちの道を神が知っているということです。

このように詩篇1篇の水辺の木が豊かに実を実らせるというのは、この世的な良いものを得られるということに尽きるのではありません。それは、神から義とされた者が神に始終見守られて神の御国に到達した状態も指しています。神の御国に到達することに比べたらこの世で得られる良いものは重きをなさないでしょう。そういうわけで、詩篇1篇はこの世を超えた永遠という視点と創造主の神がおられるという視点で語られている御言葉なのです。

この詩篇1篇を下敷きにしてエレミア17章の個所を見ると同じことが起きます。肉の塊にすぎない被造物ではなく、霊的な創造主の神に拠り頼む者は、水辺に植えられた木のようである、熱波に晒されずに緑豊かに葉を生い茂らせ、干ばつが来ても何も心配せず実を実らせ続ける木のようである、と言っています。このような木は、神の御国に到達した者を意味します。霊的な神に拠り頼み到達したのです。このようにエレミア17章の個所は詩篇1篇を下敷きにすると、この世を超える永遠の神の御国という視点があります。そして、そこに至るまでの道のりを神が見守って下さっているという視点もあります。

 

3.ルカ6章17ー26節

 本日の個所の20節から後は、マタイ5章のイエス様の山上の説教と同じ出来事を扱っていることがわかります。しかし、内容が少し異なっています。この違いをどう考えたらよいでしょうか?マタイとルカの記述のどっちかが史実を正確に反映し、どっちかがそうではないというのは不毛な議論です。マタイもルカも自分たちが入手した記録や資料を基にしています。イエス様が実際に喋ったことの再現は不可能です。それを聞いて他の人に伝えたり書き留めたりした人が、ひょっとしたら自分の観点で手短にしたりとか、逆に解説的に詳しくしたとかいうことはあり得ます。そんなことでは書かれたことは史実を正確に反映していないではないか、と言う人も出てくるかもしれません。

ここで忘れてはならないことは、伝えたり書き留めたりした人は自分の観点で手短にしたり詳しくしたりしたわけですが、それはどんな観点だったかということです。それは、イエス様というのは天地創造の神がこの世に贈られた神のひとり子であり、その彼が十字架にかけられることで人間の罪を神に対して償って下さった、そして死から復活されることで永遠の命の扉を開かれた、そういう方である、しかもそれらは旧約聖書の預言の実現として起こった、このような観点です。これは言うまでもなくキリスト信仰の観点です。それならば、手短にしようが解説を施そうが、みんなこの同じ観点の中で行ったわけだからキリスト信仰そのものには何の害も及びません。むしろ、いろいろな記述があるというのは、キリスト信仰の内容を明らかにするために役立つと思います。いろんなバージョンがあってそれぞれ違いがあってもそれらを全部神の御言葉として扱い、何かを軽んじることはせずに、全部をよく見てつき合わせて、それらを総合して全体像を掴むようにすべきでしょう。

ルカのこの個所には、永遠の視点が明確に出ています。このことを見る前に、「幸いな人」と言っている「幸い」とは何か、それは「幸せ」とどう違うのかということについて触れておきます。「幸せ」はこの世的な良いもの、良いことと結びつきますが、「幸い」はこの世を超えたことに関係してきます。聖書には終末の観点があります。この世はいつか終わりを告げて新しい天と地が創造される、その時神の御国が唯一揺るがないものとして現れるという観点です。神の御国へは、死から復活させられて神に迎え入れられる者がそこに入り、その者はそこで永遠の命を持つことになります。そのように神の御国に迎え入れられる人、そしてこの世ではそこに至る道の上に置かれてそこを歩む者が「幸い」な者になります。そういうわけで、この世で貧しかったり、飢えていたり、泣いている人というのは確かに「幸せ」ではないが、イエス様を救い主と信じる信仰に生きれていれば、復活の日に全てが逆転する、立場も正反対になって満たされて笑うようになる、それが「幸い」なのです。将来そのようになると約束されているのです。

先ほど詩篇1篇の「幸いな人」とエレミア17章の「祝福された人」のところで、水辺の木のように緑の葉を生い茂らせて実を結ぶというのは、この世が終わって死者の復活が起きた後に神の御国に到達した状態と申し上げました。そうなると、この世の段階はどうなってしまうのか?この世の人生で繁栄とか成功などこの世的な良いものを手に入れたら、それは祝福されたことではないのか?そうしたことも祝福になるのではないか?しかし、先にも申しましたように大事なことは、神の御国に到達した時に本当の意味で水辺に植えられた木のようになっているということです。もちろん、この世の段階で繁栄や成功があって立派な木だったかもしれないし、あるいはそれらがなくてみすぼらしい木だったかもしれない。しかし、大事なことは、この世での繁栄や成功に関係なく誰もが神の御国に到達して素晴らしい木になることです。そういうわけで、ルカ福音書中のイエス様の教えは、別にこの世で繁栄などしていなくとも、まさに神の御国に向かって進んでいれば祝福されたことに何も変わりはないと明確に教えています。

 

4.第一コリント12章27節―13章13節

  本日の使徒書の日課は第一コリント12章27節から13章の終わりまでですが、この個所は永遠の視点と創造主の神の視点がよく現れています。13章は有名な愛についての教えです。キリスト教式結婚式でよく朗読される聖書の個所です。ここで述べられている、愛は忍耐強い、情け深い、ねたまない、自慢せず、高ぶらない、礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない、不義を喜ばず、真実を喜ぶ、全てを忍び、全てを信じ、全てを望み、全てに耐える、以上は、夫婦間だけでなく一般的な人間関係の理想です。

どうしてここでパウロは愛について教えたのか、そこに至る流れを見てみます。12章でパウロは、キリストを一つの体に例えて、キリスト信仰者一人一人は体の手とか足とか目とか耳とかの部分である、それぞれが大事な働きをし、お互いにとってなくてはならないものだと教えます。どうしてこんな当たり前のことを言わなければならなかったのでしょうか?

コリントの教会の状況が背景としてありました。聖霊から賜物を与えられていろんな大きな業、不思議な業が行われていました。それが、自分がこれだけのことが出来るのは神に目をかけてもらったからだ、聖霊が自分に特別豊かに注がれたからだ、というような雰囲気がありました。そこでパウロは、与えられる賜物は違ってもそれは皆同じ聖霊に由来し、皆は洗礼を通して同じ聖霊と等しく結びついている、だから賜物については優劣はないのであって、キリスト信仰者全員はお互いがお互いにとって大事なのである、何の業が出来て何が出来ないかは関係なく、みんな、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けて罪の赦しの恵みを得た、そのおかげで最後の審判の時に神から大丈夫と見てもらえるようになった、この恵みは教会の全員が等しく与えられているのだ、とパウロは教えます。

このようにパウロは賜物を得意がっている人たちにちょっと控えなさいというようなことを言いながら、12章の終わりで、最も偉大な賜物を追い求めよ、などとたきつけるようなことを言います。しかし、偉大な賜物を追い求める際に、最高の道を通って行かないと追い求められない、そんな道があるのでそれを教えよう、と言います。それが愛ということです。それで、どんなに驚くべき業を行っても、例えば聞いたことのない言語で神を賛美するという異言を語る業がありますが、これが出来ても愛がなければ騒音にしかすぎない。また、預言の賜物があって山を動かすほどの信仰を持っていても、全財産を貧しい人に施しても、誇るために自分を死に引き渡しても、愛がなければ、どれも無意味なことである。

そこでパウロは愛とはどういうものかということを述べていきます。愛は忍耐する、柔和に振る舞う、嫉妬心を燃やさない、高ぶったり、傲慢にならない、礼節を知る、自分の利益を追い求めない、復讐心を持たない、悪い考えを抱かない、不正に喜びを見出さない、真実を喜ぶ。この最後の真実を喜ぶというのは今の世の中はとても難しくなっていないでしょうか?自分の利益や野望に邪魔な真実は消してしまおう歪曲してしまおうという人たちがいます。そこまでして追求しようとする利益や野望は正しくないということを証明しているようなものです。真実を喜ぶというのは、正しさというものに自分を服させることになるのではないかと思います。もちろん人によっては向き合うのが辛い真実もあると思います。その人が打ちのめされることなく真実を携えることができるように考えてあげなければなりません。

 パウロは、愛は全てを忍び、全てを信じ、全てを望み、全てに耐える、と言います。「全てを信じる」とはどういう意味でしょうか?まさか、全ての宗教を信じることでしょうか?もちろん、そうではありません。「全てを」と訳されているギリシャ語の単語πανταの意味は「全てにおいて」が正しいでしょう(後注)。「全てにおいて信じる」というのは、どんなことが起きようともイエス様を救い主と信じる信仰にとどまる、ということです。同じように、「全てにおいて望む」というのも、どんなことが起きようとも、自分は神のみ前に立たされても大丈夫と見なされて神の御国に迎え入れられてもらえるという希望を失わない、ということです。「全てにおいて忍び、耐える」というのは前述した愛の現れ方です。どんなことが起きようとも、忍耐し、高ぶらない、嫉妬しない等々の愛を持つということです。

愛とはそのようなものだと述べた後で、8節から永遠の視点が出てきます。この世が終わり、死者の復活が起こり、今の天と地が新しい天と地に取って代わわれて神の御国が現れる。その時、預言や異言という聖霊の賜物はなくなってしまう。というのも、預言や異言がこの世でもたらしたものは何か大きな全体の一部にしかすぎないものだったからで、神の御国という完全で全体的なものが現れたら、そういう不完全で部分的なものは意味を失ってなくなってしまうのです。

ところが、愛はなくなりません。神の御国に引き継がれます。それは、愛が聖霊の賜物と違って最初から完全で全体的ななものだったからです。しかしながら、それは神の側でそうなのであって、人間の側では愛を完全で全体的に持つことは出来ませんでした。それが、復活の日に神の御国に迎え入れられた時、自分も神と同じように愛を兼ね備えていることを見るのです。忍耐する、柔和に振る舞う、嫉妬心を燃やさない、自分の利益を追求しない、悪い考えを抱かない、不正を喜ばない、真実を喜ぶ、どんなことがあっても信じ希望する。今自分はこれらを全て持っているのです。かつてはこれらのものはいつも部分的、一時的にしか現れて来ず、現れては消えての繰り返しでした。それが今、これらのものは自分に完全に備わっていて、自分はまさに愛を体現しているのです。神と同じようにです。自分が愛そのものになってしまっていると言ってもいいでしょう。

かつて鏡におぼろに映ったものを見ていたが、今は顔と顔とを合わせて見るというのはどういうことか?当時の鏡は今のようにガラスに銀を塗装するものではなく青銅のような金属板でしたので、映る顔は否が応でもおぼろげでした。それが神の御国ではそれこそガラスの鏡を見るように自分の顔がはっきり見えている。かつてイエス様を救い主と信じて神の意志に沿うように生きよう、神の意志とは愛なのだから愛を持とうとしてもいつも部分的、一時的の繰り返しだった。だから、愛が自分に現れるのはおぼろげにしかならなかった。それが、神の御国に迎えられた今、愛が自分に完全に根付いて、自分は愛を体現するようになった今、愛は自分に明瞭に現れるようになった。それでパウロは復活の日、自分は愛を体現し愛そのものになっていることを次のように言うのです。「そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。」「はっきり知る」というのは、自分が愛を体現し愛そのものになっていることが明瞭に見えるということです。

ここで一つわかりにくいことがあります。「はっきり知られているように」とはどういうことか?さりげなく文の中に入っていますが、とても難しいところです。ギリシャ語の原文を直訳すると「私がはっきり知られていたように」です。新約聖書のギリシャ語では受け身の文の隠された主語はたいてい神なので、「私が神にはっきり知られていたように」という意味です(後注)。それでこの文を少し解説的に訳すと次のようになります。「神がこの世で私のことをはっきり知っていたのと同じように、私も将来の神の御国にてはっきり知るようになる。」神がこの世で私のことをはっきり知っていたこととは何でしょうか?それは神の国で私がはっきり知るようになっていること、つまり、私が愛を体現していることです。しかし、これは変です。というのは、神は私がこの世でも将来の神の御国と同じように愛を体現していたと見て下さったことになるからです。そんなことはありえません。そこで、かの日に神に次にように尋ねます。

「父なるみ神よ。今、あなたの御国に迎え入れられて私は愛を体現する者になっていることを驚き、感謝します。しかし、もっと驚きなのは、あなたは前の世で私のことを愛を体現する者と見て下さっていたのですか?私は、愛においていつも力不足でした。忍耐が不足していました。柔和に振る舞いませんでした。嫉妬心を燃やしたこともありました。高ぶったり傲慢になったりしました。」

 そこで神は答えられます。

「わが子よ。お前はイエスの白い衣を纏うようになってから、その衣を取り去らないように生きていたのを私は見て知っていた。お前は愛の足りなさに気づきながらいつもこの日を目指して歩んでいたのを私は見て知っていた。白い衣に覆われた罪は神聖な衣の中で日々圧迫され、力を失っていくのを見て知っていた。お前がイエスを主と信じる信仰と聖餐のパンと葡萄酒で衣を離さないように握りしめる力を保っていたのを見て知っていた。だから私はお前を見る時はいつも今日の完成された姿を見ていたのだ。それで、お前のことを愛を体現する者と前の世でも知っていた、と言ったのだ。」

  パウロはフィリピ1章6節で次にように述べています。

「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げて下さると、わたしは確信しています。」

兄弟姉妹の皆さん、この確信は真理です。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         
アーメン

 

後注(ギリシャ語がわかる人にです)

・πανταは、私はaccusativus limitationisと考えます。

 ・καθως (…) επεγνωσθηνは、私が神に知られていたのは、この世の段階のことか、それとも将来の神の御国でのことなのか、意見が分かれるかもしれません。私は、この世の段階と考えます。将来の神の御国でのことであれば、ここはκαθως (…) αν επιγνωσθωになると考えます。

・第一コリント13章3節は、日本語訳では「誇るために自分を死に引き渡しても」ですが、英語、ドイツ語、スウェーデン語、フィンランド語の聖書の訳は「自分を焼かれるために引き渡しても」です。どうしてこんな違いが生じたのかというと、訳に用いた写本が異なっているからです。日本語訳は、よりオリジナルのルカに近いと研究者が認めた写本を使用。他は、オリジナルのルカからは遠いかもしれないが、ダニエル書を想起させ意味が通るということで「焼かれる」の方を用いたわけです。このように聖書は一筋縄ではいかないところがありますが、何語で読もうとも、聖書の視点とは何かを意識してみることが肝要です。

 

 

聖餐式:木村長政 名誉牧師

  • 来週の礼拝:2月24日 顕現節第8主日 2019年2月17日
      聖書 列王記    8:41~43     ガラテア   1:1~10      ルカ    7:1~10  讃美歌  116 401 346 399  担当   司式   吉村 博明 宣教師       説教   吉村 博明 宣教師       奏楽   青木千恵 姉      ...
  • 説教「罪の赦しと復活の希望を携えて」 神学博士 吉村博明 宣教師、ルカによる福音書6章37-49節 2019年2月17日
     エレミア7章1-7節、第一コリント15章12-20節、ルカ6章37-49節 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン 私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様 1.はじめに  皆さんは、本日の福音書の個所を読んでどう思われたで...
  • 手芸クラブのご案内、2月27日(火)10時~12時 「マイ帽子」を作ってみませんか。 2019年2月17日
    手芸クラブは、月1回開かれています。 次回は、2月27日(水)10時から12時までです。作品はクローシェ網の「マイ帽子」です。クローシェ網の帽子は自分の好みで一色から何色でも作れます。冬用の帽子でしたら毛糸、夏用の帽子は綿糸で作ります。 素敵な帽子が出来ますので、お気軽にご参加ください。...
  • 交わり 2019年2月17日
    今日の教会ランチは炊き込みご飯でした、大好物のポテトサラダが嬉しかったです。ポテトのほかにリンゴ・ニンジン・キュウリそれにピクルスが隠し味?として忍ばせてありました、とても美味しかったです。...
  • 歳時記 2019年2月17日
    池の氷も溶けて水鳥が泳ぎ出しました。まもなく渡りの季節が来るのでしょうか、以前勤めに出ていた頃早朝バスを待っていると暗がりの中頭上を渡り鳥が群れをなしながら北に向かって飛び去って行きました。彼らはどうやって方角がわかるのか不思議でなりませんでした。    ...
  • 説教:木村長政 名誉牧師 2019年2月10日
      顕現節第6主日     2019年2月10日(日) 「主によって、召された自由」   創世記  45:3~15  Ⅰコリント 7:17~24   ルカ    6:27~36  コリントの教会の信徒への手紙を、今回もいっしょに、みことばに聞いて参りましょう。今日は、7章17節ー24...
このサイトに引用されているのは聖書新共同訳です。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会

Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988
  • 2月 24日 10:30 am
    主日礼拝
    司式・説教吉村博明宣教師「神の子として生きよ」(ルカ7章1~10),礼拝後交わり、読書会担当者木村長政先生
  • 2月 27日 10:00 am
    手芸クラブ
  • 2月 28日 11:00 am
    English Bible Study
    詳しく見る
  • 3月 3日 10:30 am
    主日礼拝
    司式・説教吉村博明宣教師(ルカ9章28~36),礼拝後交わり、役員会。
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