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2026年3月8日(日)10時半 四旬節第三主日 礼拝 説教 吉村博明 牧師

主日礼拝説教 2026年3月8日 四旬節第三主日

出エジプト記17章1-7節、ローマ5章1-11節、ヨハネ4章5ー42節

説教題 「聖霊は心の中で湧き出る泉の如く」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

本日の福音書の日課は「サマリアの女」の話です。福音書の中でよく知られる話の一つです。イエス様と女性が交わす会話の中に、「生きた水」という言葉が出て来ます。イエス様がその水を与えると、飲んだ人は永遠に喉が渇くことがなくなる。そればかりか、水は飲んだ人の中で泉となって、そこから湧き出る水が永遠の命に向かって流れていくということが言われます。永遠に喉が渇くことはない、とか、人の中に泉が湧き出てそこから溢れ出る水は永遠の命に向かって流れ出す、と言うのは、何かをたとえて言っているのですが、一体何のたとえでしょうか?

本日の個所にはもう一つたとえがあります。刈り入れをする人と種をまく人のたとえです。イエス様は弟子たちにこれを話す時、目を上げて麦畑が黄金色なのを見なさい、と言いました。弟子たちは刈り入れをする人で、別の者が労苦した結果を刈り入れて、労苦を分かち合うなどと言います。

これらのたとえは具体的な何かを指しています。それを「生きた水」とか「別の者の労苦」にたとえて言っているのですが、その具体的なものとは一体何でしょうか?イエス様のたとえの教えは、字面を追って一瞬わかったような感じにはなりますが、では、それらは何を指していますかと聞かれたら、はた、と困ってしまうことが多いです。本日の説教では、「生きた水」と「他の者の労苦」が何を指すか明らかにします。それがわかって、もう一度この箇所を読むと味わいが一層深くなります。

2.刈り入れをする人、種を播く人、他の者たちの労苦

まず、本日の出来事の流れをざっと追ってみましょう。イエス様と弟子たちの一行はユダヤ地方とガリラヤ地方の間にあるサマリア地方を通過します。サマリア地方とは、遥か昔、ダビデとソロモンの王国が南北に分裂した後に出来た北王国にあたる地域でした。それが、紀元前8世紀に東の大帝国アッシリアに攻められて滅ぼされてしまいます。その時、国の主だった人たちは東の国に連行され、逆に東から異民族がサマリア地方に強制移住させられて来ました。それで同地方は民族的にも宗教的にも混じり合う事態となってしまいました。住民は旧約聖書の一部は用いていましたが、サマリア人の女性が言うようにエルサレムの神殿とは違う場所で礼拝を守っていました。これに対してユダヤ民族は自分たちこそ旧約聖書の伝統とエルサレムの神殿の礼拝を守ってきたと自負していました。それでサマリア人を見下して交流を避けていたのです。そのことはサマリア人の女性の発言からもよく伺えます。

イエス様一行はサマリア地方のシカルという町まで来て、その近くの井戸のところで休むことにしました。旧約聖書の伝統では(創世記48章22節、ヨシュア記24章32節)、付近の土地はかつてヤコブが息子のヨセフに与えた土地と言い伝えられていました。そのため、サマリア人はそこにある井戸をヤコブから受け継がれた井戸と信じていました。

さて、弟子たちは町に食べ物を買いに出かけ、イエス様は井戸のそばで座って待っていました。そこへサマリア人の女性が水を汲みにやって来ました。時刻は正午ごろでした。中近東の日中の暑さでは、誰もこの時間に水汲みなどにやって来ません。まるで誰にも会わないようにするかのようにやってきたのです。何かいわくがありそうです。イエス様がこの女性に水を求めると、女性は驚いて、なぜサマリア人を忌み嫌うユダヤ人が自分に水を求めるのか、と聞き返します。そこから二人の対話が始まります。やりとりの中でイエス様は、自分は「生きた水」を与えることが出来ると自分について証し始めます。女性は、それが何をたとえて言っているのかわからず、本当の飲み水と考えるので話がかみ合いません。最後にイエス様が女性に「夫を呼んで来なさい」と命じると、女性は「夫はいません」と答えます。それに対してイエス様は、その通り、お前には5人の夫が入れ代わり立ち代わりいた。そして今連れ添っているのは正式な婚姻関係にない男だ、だから「夫はいない」と言ったのは正解だ、などと言い当ててしまいます。これで、なぜ女性が人目を避けるようにして井戸に来たかがわかります。

女性はイエス様のことを預言者と見なしますが、イエス様は、自分はメシア救世主であると証します。女性は町の人々にイエス様のことを知らせに走り去りました。人目を避ける境遇にあることを忘れてしまいました。それほど人々に知らせないではいられなかったのです。

女性が町に走り去ったのと入れ代わり立ち代わりに弟子たちが食べ物を買って戻ってきます。イエス様はサマリア人の女性と何を話していたのだろうかと訝しがりますが、それでも、食べるように勧めると、イエス様は突然、自分には食べる物があるなどと言いだします。弟子たちは、自分たちが買い物に行っている間に誰かが持ってきてくれたのだろうか、などと考えます。ここでも、イエス様は何かを食べ物にたとえて言っているのですが、弟子たちは具体的な食べ物を考えて話がかみ合いません。イエス様は、天の父なるみ神の意思を行い、神のみ業を成し遂げることが自分の食べ物であると言います。これは弟子たちにとってちんぷんかんぷんの話だったでしょう。イエス様は構わずに続けて、刈り入れ人、種まき人、他の者の労苦について話していきます。

ここで、イエス様が「刈り入れまでまだ4カ月ある」と言ったことに注目します。イエス様の言葉はこうでした。「あなたがたは『刈り入れまでまだ4カ月ある』と言っているではないか。わたしは言っておく。目をあげて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている(35節)」。これは少し変ですね。刈り入れまで4カ月あると言っておきながら、畑は既に刈り入れ状態にあると言っているからです。これは一体どういうことでしょうか?

イエス様が目を上げて見よと言ったのは実は、畑のことではなかったのです。イエス様は何かを黄金色の畑にたとえているのです。それは何か?イエス様は、目を上げて見なさい、と言いました。そこで今いる場所よりも高い所にあるシカルの町を見上げると、大勢の人たちがこちらに下ってやって来るではありませんか!サマリア人の女性が、預言者なのかメシアなのか、すごい人がやってきた、と言うのを聞いて、すぐに会おうと出かけてきた人たちです。つまり、女性の証言を聞いて、それを信じてイエス様のもとにやって来たのです。これは、将来起こることを先取りしています。つまり、イエス様が天に上げられた後で使徒たちの証言を聞いてイエス様を救い主と信じる人たちが出ることです。最初は目撃者から直接イエス様のことを聞いて信じるようになる。後には目撃者の証言が記録された聖書を通して信じるようになる。どちらの場合でも、イエス様を救い主と信じる人が刈り入れを待つ実にたとえられているのです。

イエス様は、自分の食べ物とは神の意思を行い、神のみ業を成し遂げることだと言われます。これは、神のひとり子が十字架の死をもって人間の罪を神に償い、さらには死から復活することで死と罪を滅ぼして人間を罪の支配下から解放することを意味します。この使命を果たすことは、人間にとって食べ物が大事なのと同じように自分にとって大事なことなのだとイエス様は言うのです。

それから、刈り入れ人と種まき人について話すところで「別の者たちの労苦」が出てきます。「別の者たち」と複数形になっています。つまり労苦とは、み子イエス様と父なる神が人間の罪の償いを成し遂げることを意味します。父とみ子の労苦です。それを目撃した弟子たちは、迫害にも屈せず命がけで証言し記録に残して伝えました。そのおかげで、多くの人たちが父とみ子の労苦の結晶である「罪の赦しの救い」を受け取ることが出来るようになりました。こうして救いを受け取った人たちは豊かに実る実になり、救いを伝えた弟子たちは実を集め刈り取る者であり、救いは父と子の労苦なのです。

3.生きた水 聖霊

それでは、イエス様が言われる「生きた水」について見ていきましょう。「生きた」水などと聞くと、水が動物のように呼吸して生きているように聞こえます。原語のギリシャ語を見ると「生きる」という動詞の動名詞形なので文字通り「生きている水」です。私が使う辞書はギリシャ語・スウェーデン語のものですが(後注1)、それによれば「生きている」の他に「命を与える」という意味もあります。ヨハネ福音書でイエス様が「生きる」とか「命」と言う時、たいていは今の世の「生きる」、今の世の「命」だけではなく、次に到来する世の「生きる」と「命」も含めています。それなので「生きている水」というのは、飲む人に今の世の命を超えて次に到来する世の命に与らせる水ということで、文字通り「永遠の命を与える水」です。

この、イエス様が与える「永遠の命を与える水」を飲むと、それは飲んだ人の中で泉になって、そこから「永遠の命に至る」水が湧き出る。そもそも泉とは、地下水が地表に湧き出てくるところにできます。穴を掘って地下水が溜まると池になりますが、それは泉ではありません。掘らないでも自然のまま地下から水が押し上げるように絶えず湧き出るのが泉で、溢れ出る水は小川となって外に向かって流れ出て行きます。イエス様が与える水を飲むと、そのような水が絶えず湧き出る泉が飲んだ人の内に生じて、そこから溢れ出た水は永遠の命に向かって流れて行く。美しい描写です。でも、具体的にはどういうことでしょうか?イエス様の与える水が飲んだ人の中でこんこん湧き出る泉になって、そこから溢れ出る水が死を超えた永遠の命へと導いていく。イエス様は何をそのような水にたとえているのでしょうか?

この問いの答えがヨハネ7章にあります。イエス様が仮庵祭りの時にエルサレムにて群衆に向かって述べた言葉です。

「『渇いている人はだれでもわたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。』イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている”霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、”霊”がまだ降っていなかったからである。」
(37~39節)

ここで言われている”霊”とは神の霊、聖霊のことです。イエス様は私たち人間の罪を神に対して償うために十字架にかけられて死なれ、三日後に死から復活されて死を超える永遠の命があることをこの世に示されました。これが神の栄光を受けることです。その後でイエス様が天の父のもとに上げられる出来事があり、それに続いて聖霊がこの世に降るという出来事が起こります。イエス様が「渇いている人は私のところに来て飲みなさい」と言うのは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けると聖霊が注がれることを意味したのです。聖霊が注がれた人は、その内に「生きた水が川となって流れ出るようになる」のです。このようにイエス様が与える水とは実に、十字架と復活の出来事の後でこの世に下って来る聖霊のことなのです。

それでは、聖霊を注がれると人の内に泉が湧き出て、溢れ出た水が尽きることなく永遠の命に向かって流れていくというのはどういうことでしょうか?

人間はイエス様を救い主と信じて洗礼を受けて聖霊を注がれることで神との結びつきを持って生きるようになります。ところが、この世にいる間はまだ肉を纏った状態が続きます。それで、キリスト信仰者の内に、最初の人間アダムに由来する古い人と洗礼を通して植えつけられた霊的な新しい人の二つが凌ぎ合うことが始まります。信仰者の中に内的な戦いが始まります。使徒パウロも認めているように「他人のものを妬んだり欲したりしてはいけない」と十戒の中で命じられて、それが神の意思だとわかっているのに、そうしてしまう自分に、つまり、神の意思に反する自分に気づかされてしまう。心の奥底まで100%神の意思に沿えることが出来ない自分に気づかされてしまうと。それではどうしたらよいのか?心の奥底まで100%沿えるようにしようしようと細心の注意を払えば払うほど、逆に沿えていない自分に気づいてしまうのです。どうしたらよいのでしょうか?

まさにここで洗礼の時に注がれた聖霊の出番が来るのです。聖霊が私たちの心の目を向けるべきところを示してくれます。ゴルゴタの十字架の上で息を引き取られたイエス様が向けられるべきところです。あそこにいるのは誰だったか忘れたのか?あれこそ、神が送られたひとり子が神の意思に沿うことができないお前の身代わりとなって神の罰を受けられたのではなかったか?あの方がお前のために犠牲の生け贄となって下さったおかげで、神はお前の罪を赦して下さったのだ。お前はそのことを信じたからイエスはお前の救い主になったのではなかったのか?

こうして聖霊の働きで心の目を開けてもらった信仰者は、神の大いなる憐れみと愛の中で生かされていることを思い起こし、神の意思に沿うように生きようと心を新たにします。神を全身全霊で愛し、隣人を自分を愛するが如く愛そうと。このようにキリスト信仰者は、聖霊のおかげで、絶えず神との結びつきを保つことができ、順境にあっても逆境にあっても神から常に同じ守りと良い導きを得てこの世を歩みます。万が一この世を去ることになっても、神との結びつきを持って去ることができ、復活の日が来ると復活させられて神のみ許に永遠に迎え入れられるのです。

4.勧めと励まし

本日の使徒書の日課ローマ5章を見ると、パウロは、イエス様を救い主と信じる信仰によって人は神の目に義なる者とされ、その人は神との間に平和があると言います(1節)。人間は、イエス様の十字架の業がなされる以前は実に神と戦争状態にあったのです。神との平和な関係は、神からお恵みとして与えられました。なぜなら、神はひとり子を本当に無償の贈りものとして私たちに与えて下さったからです。だから、罪の赦しは恵みなのです。パウロは言います、私たちは神のお恵みの中で立っていられるのであり、それを誇りとしている、と(2節、後注2)。さらに、神との平和な関係をお恵みとして頂いている限り、私たちに降りかかる試練は誇りに思うことができるとまで言います(3節)。どうしてそこまで言えるのか?理由は、一度神との平和な関係に入ったら、試練は忍耐をもたらすものになり、忍耐は鍛えられた心をもたらし、鍛えられた心は希望をもたらすようになるからだ、と言います(3~4節)。このように神との平和な関係に入ってしまうと、試練が希望に転化してしまうのです。(新共同訳で「練達」と訳してある言葉δοχιμηは私の辞書では「思いが鍛えられたこと、揺るがないこと、自信」などとあります。)

ここでパウロが言う希望とは、復活の日に神の栄光に与れるという希望です(2節)。人間が持てる希望の中で究極の希望です。パウロは、この希望は裏切られることがない、必ず成就する希望であると言います(5節)。なぜなら、「洗礼の時に注がれた聖霊を通して私たちの心に神の愛が注がれるからだ」と言います(5節)。この御言葉は真理です。先ほども申しましたように、私たちが罪の自覚のために神が遠ざかってしまったと感じる時、聖霊は私たちの心の目をイエス様の十字架に向けさせ、神は遠ざかってなどいない、神のあなたに対する愛は一寸も変わらないと示してくれます。神が遠ざかったと感じるのは罪の自覚の時だけではありません。私たちが直面する試練、苦難や困難の時にもそうなります。神は私を見捨てたとか私に背を向けたとか思ってしまいます。しかし、聖霊は神の愛が何も変わっていないことを示してくれて、パウロが言うように、試練を希望に転化してくれるのです。

兄弟姉妹の皆さん、神と平和な関係にあり、聖霊を注がれた私たちキリスト信仰者は、このように試練があればあるほど究極の希望が強まっていくという循環の中にいるのです。このことをもっと自覚しましょう。人によっては、究極の希望が復活の栄光に与れる希望だなんて、そんなのはこの世離れしていてこの世の試練の解決に何の役にも立たない、と言う人がいるかもしれません。しかし、もし希望がこの世に関するものだけだったら、そんな希望はいつかは潰えてしまう儚いものです。復活の希望はこの世離れしているからこそ潰えません。まさに究極の希望です。そのような希望があって、それが強められるからこそ、この世の試練を乗り越えられるのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

 

(後注1)Heikel, I. & Friedrichsen, A. “Grekisk-svensk ordbok till Nya testamentet och de apostoliska fäderna”

(後注2、ギリシャ語分かる人にです)ローマ5章2節の「誇る」ものは何か?復活の日に神の栄光に与れる希望を誇るのか?以前は私もそう取っていましたが、今回は「このお恵み」την χαριν ταυτηνを「誇る」ものと取りました。というのは、5章1~11節だけ見ても、パウロは動詞「誇る」の目的語に付ける前置詞をενにする傾向があるからです(3節、11節)。それでは、επ’ ελπιδι της δοξης του θεουはどうするかと言うと、「誇る」際の付帯状況と取ったらどうかと。

大体、以下のような感じになります。

δι΄ ου και την προσαγωγην εσχηκαμεν τη πιστει εις την χαριν ταυτην

イエス・キリストを通して我々は信仰によりこのお恵み(=イエス様を救い主と信じる信仰によって義とされたこと)に入る地位をも得ている

εν η εστηκαμεν και καχωμεθα επ΄ελπιδι της δοξης του θεου.

このお恵みの中に我々は立っているのであり、それを誇りにしている、復活の日に神の栄光に与れるという希望にあって

ου μονον δε,

誇りにしているのはこのお恵みだけではない、

αλλα και καυχωμεθα εν ταις θλιψεσιν,

我々は試練をも誇りにするのである。

牧師の週報コラム 

覚悟と胆力を養うキリスト信仰その3

ルターによる聖句の説き明かしと共に(フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ」1月27日の日課から)

『この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った』 (マタイ422節)

『ペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネの4人の漁師が主イエスの呼びかけに応じて全てを捨てて従って行ったのを聞いて、キリスト信仰者も同じように財産、家、妻子を捨てて行かなければならないのかと思うかもしれない。しかし、そういうことではない。心のどこかで家、財産、妻子を捨てていなければならないということなのだ。つまり、家族と共に暮らし、彼らのために糧を取得し、彼らの世話をするのは神の定めである以上そうするのであるが、それと同時に心のどこかで捨てていなければならないということなのだ。もし実際に捨てるべき時が来たら、全てのものを神に委ねなければならない。これがまさしく神のゆえに全てのものをいつでも捨てる用意があるということである。このような思いでいることができれば、あなたはもう全てを捨てていることになる。心は囚われた状態になってはいけない。心から独占欲、執着心、依存心を洗い清めなければならない。

 このようにすれば、財産があっても、心で捨てることが出来ている。そして実際に捨てるべき時が来たら、あとは神の名においてそうするのだ。ただしそれは、「私は別に妻子や財産なんかなくても良いのだ」などと無感情のようになって捨てることではない。そうではなくて、次のような切ないとも言えるような思いを持つことなのだ。「神さま、あなたがお許しになる期間、私はそれらを自分の許に留めます。あなたがお許しになる期間、彼らを世話することであなたにお仕えします。」

 自分の心の状態はどれかよく注意しなさい。何を持っているか持っていないか、それが沢山あるかないかといったことに心が占拠されないようにしなさい。今自分のもののように見える財産があっても、それを脇に置いておきなさい。あたかも最初からそんなものはなかったかのように、あるいは、いつでもなくなってしまうもののように。そうすることで私たちは常に神の国に結びついているのである。』(以上ルターの説き明かし、吉村がかなり解説的に訳しました)

所有するものをさも所有していないかの如く振る舞うというのは、ボンフェッファーの著作のどこかにもあったと記憶しています。

「主が与え、主が取られたのだ、主の御名はほめたたえられよ」ヨブ記121

今自分のもとにある人は神が許された期間あるものなのだとわかれば、それは一層愛おしいものになって、その人と一緒にいる時間は貴重なものになって、一層大切にするのではないでしょうか?

 

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スオミ教会・フィンランド家庭料理クラブのご案内

3月の料理クラブは14日(土)13時から開催します。

季節は春になりました。フィンランド人も春になると多くの人たちが自然の中にに出かけます。今回の料理クラブのメニューは、ハイキングのお伴としても人気のあるLihapiirakka(ひき肉パン)です。パンの中身はスパイスで味付けした炒めひき肉とチーズ。ケチャップやピクルスを添えても美味しく味わえます。パンは油で揚げるのが多いですが、料理クラブではオーブンで焼き上げます。フィンランドの喫茶店のショーケースでもよく見かけるLihapiirakkaを是非ご一緒に作って味わってみませんか?

参加費は一人1,800円です。

どなたでもお気軽にご参加ください。お子様連れでもどうぞ!

皆さんのご参加をお待ちしています!

お問い合わせ、お申し込みは、 moc.l1773077002iamg@1773077002arumi1773077002hsoy.1773077002iviap1773077002  まで。

歳時記

木瓜(boke)

<それでも、ご自分のことをあかししないでおられたわけではない。すなわち、あなたがたのために天から雨を降らせ、実りの季節を与え、食物と喜びとで、あなたがたの心を満たすなど、いろいろのめぐみをお与えになっているのである」。 使徒言行録14:17>

季節の花の木瓜を探していました、毎年咲いている場所を知っていましたので何時もの散歩コースを少し変えてみました。しかし、何れも蕾だけで開花には至っていませんでした諦めて帰路のコースを少し変えてみましたら家のすぐ近くに満開の木瓜が咲いていました。どうも、最近は灯台下暗しが多いようです。木瓜は平安時代に中国から来た外来種です、その朱色は古来から日本人に好まれてきました、木瓜の花を見ると如何にも春が来たなと思っています。

「百万人の福音」吉村牧師の論考が掲載されています。

ちょっと気の早い話ですが..。
今は受難節、聖週金曜日はまだです、復活祭はまだまだです、主の昇天日に至ってはまだ
まだのまだ..。なのに、2月に発売された「百万人の福音」はもう主の復活から昇天まで
を特集しています。その中で気の早いスオミ教会の牧師もイエス様の昇天について何か書
いています。今年の昇天日は5月14日ですが、それまでに5~6月号が出てしまうので、ご
興味ある方は今のうちにお求め下さい(読むのは後の方が宜しいかと)。フィンランドの
ルター派の中の保守的なグループにいるとこういう考え方、教え方をするという一例です

受難節の皆様の歩みの上に父なるみ神から恵みと平安とが豊かにありますように。

牧師の週報コラム

覚悟と胆力を養うキリスト信仰その2

ルターによる聖句の説き明かしと共に(フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ」27日の日課から)

『心配事は全て神に放り投げよ。神はあなたたちの面倒を見て下さる方なのだから。』 (第一ペトロ57節)

(牧師注 日本語(新共同訳)は「思い煩いを神にお任せしなさい」とお上品な訳ですが、ギリシャ語の「エピリプトー」は辞書(Heikel & Fridrichsen)を見ると「投げつける、放り出す」です。英語(NIV)、ドイツ語(ルター版)、フィンランド語、スウェーデン語の聖書もそう訳しています。また、日本語は「神はあなたがたを心にかけている」と控えめな訳ですが、上記4カ国語はギリシャ語の「与格・メレイ・ぺリ・属格」を「神は面倒を見る、世話を焼く、ケアをする」と訳しています。日本語訳では見えてこない、この聖句の力強さがわかると、以下のルターの説き明かしがぐっと心に迫ってきます。)

『事を自分の重荷にとどめてはいけない。あなたはそれを運びきれず、遅かれ早かれ押しつぶされてしまうだろう。そんなことはやめて、それを捨てなさい。つまり、喜びながら信頼して神に投げつけてしまうのだ。投げつける時、次のように祈りなさい。「天の父よ、あなたは私の主、私の神です。あなたは、私など存在しなかった時に私をお造りになり、その上、ひとり子を用いて私を罪の支配から贖って下さいました。そして、果たしなさいと言ってこの務めと課題を私にお委ねになりました。しかし、それは私が望んだようには上手くいきませんでした。多くのことが私に重くのしかかり、心配事が次から次へと押し寄せてきます。どうしていいのか途方にくれています。これらを全部お渡ししますので、あなたの助けとアドバイスをお願いします。どうか、この務めと課題の全局面に一緒にいて、隅々まであなたの目を注いで下さい。」

これこそ神の御心に適う対処法である。神が我々にしなさいと言っているのは、委ねられた務めと課題に取り組みなさいということだけだ。取り組むことで何を成し遂げられるかについての心配は神のすることであって我々のすることではない。

キリスト信仰者はこのように他の者にはない大きな可能性を持っている。ひとり子を救い主と信じる信仰があるので心配事を投げつけてもよい父が天におられるからだ。そうでない人たちは心配事を抱きかかえて自分を痛めつけ、最後には絶望に陥ってしまう。翻って信仰は、「神はあななたちの面倒を見る」という御言葉を握りしめて、神は嘘をつかない方だから御言葉はその通りだと信頼して前に進む(以上ルターの説き明かし)。』(週報コラム202568日に掲載したものを少し修正)

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手芸クラブの報告2026年2月25日

2月の手芸クラブは25日に開催しました。週の初めは春一番が吹きましたが、この日の朝は雨が降り肌寒い一日となりました。

今、春が近づく季節ですが、今回は1月に続いて足元を温めるレッグウォーマー「Säärystimet (サーリスティメット)」を編みました。今回はまた「ストール」や「スマホケース」を編み続けられる方々もいらっしゃいました。このようにスオミ教会の手芸クラブではその日のテーマだけでなく、ご自分の編みたいものを編んでも大丈夫なのです。

はじめにお家で頑張って編んできたものをみんなで見せ合います。「きれいな色ね」、「模様が素敵」、「暖かそう」、「柔らかい」などとお互いにほめたたえます。それからみんなで編み始めます。皆さんとても上手でおしゃべりしながらどんどん編んでいきます。レッグウォーマーやストールは完成まで時間がかがるので、お家や次の手芸クラブでも続きをすることができます。

春に向かって暖かくなっていきますが、まだ寒さが戻ってくるかもしれません。編まれたレッグウォーマーやストールが必要になるかもしれません。ご自分で編まれたものだから特に暖かさを身近に感じるのではないでしょうか。

今回も楽しくおしゃべりしながら編み物をしました。

編み物に集中すると目や手が疲れます。コーヒータイムで一息入れます。先週フィンランドはラスキアイスプッラの時期だったので、ジャムとクリームを挟んだラスキアイスプッラをコーヒーと一緒に味わいながら歓談の時を持ちました。その後でフィンランドにある手工芸センターやそのセンターのスローガン「幸せを呼ぶ手芸の一時」についてと、聖書が教える幸せについてお話を聞きました。今回も楽しい歓談のひと時でした。

次回の手芸クラブは3月25日の予定です。詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。

手芸クラブのお話2026年2月

今日は1月に始めた編み物の続きをしました。編み物は手芸クラブではこれまで何回もテーマにしました。フィンランドでは編み物は最も人気のある手芸の一つで、年配の人たちだけではなく若者も楽しんで編んでいます。以前にもお話したようにフィンランドでは毎年編み物の競争も行われ、多くの人たちが参加します。また靴下のデザインを作成して編むコンテストも開催さえれます。このような行事はフィンランド全国にある手芸工芸センターを通して開催されます。センターの働きの目的は手芸工芸の伝統を大切に守り続けることです。センターでは様々な講座や行事が開かれ、手芸のアドバイスを行ったりします。また、センターでは織機を借りることも出来るので、織物を織ることも出来ます。センターは毎年、全国的な工芸のテーマも選びます。今年のテーマは「パッチワーク」です。

手芸工芸センターでは「幸せを呼ぶ手芸の一時」というスローガンも決めました。このスローガンにはどのような意味があるのでしょうか。それは、手芸が私たちの日常生活の中で大切な役割を果たし、手作りの作品には特別な価値があることを表しています。手芸は多くの人たちに愛されている趣味の一つです。新しい手芸のテクニックが出来るようになったり、美しい作品が完成したりすると喜びを感じます。また、手芸をしている時間は日常生活から少し離れることが出きて、良いリフレッシュにもなります。それでこのスローガンのように手芸は幸せを呼ぶ一時と言えるのでしょう。

皆さんにとって幸せとはどのようなものしょうか。幸せな人とはどんな人でしょうか。お金持ちで大きな家に住み、家の自動車が何台もある人のことでしょうか。職場で高い地位にある人でしょうか。権力を持っている人でしょうか。

私たちは皆幸せを願って生きています。私たちは幸せを自分自身の中から見つけることができるでしょうか。確かに、幸せは日々の生活のさまざまな出来事を通して感じることができます。しかし、それは深いものでしょうか?長く続くものでしょうか。

聖書にも幸せにについて書かれています。旧約聖書の詩編に次のようにあります。「神様のそばにいることは私の幸せです。神様は私の避難場所。私は神様の御業を全て語り伝えます。」詩編73章28編。

「神様のそばにいることは私の幸せです」とは天と地と人間を作られた神様と共に生きることを意味しています。それは一時的に幸せを感じることではなく、ずっと続いていく幸せです。神様と共に生きることが人生の土台になれば、生活の中で様々なことが起こってもその土台は揺らぐことがありません。では、私たちはどのようにして神様と共に生きることができるでのしょうか。聖書を読んで、天の神様にお祈りして、神様はお祈りを聞いてくださると信じるとき、私たちは神様の近くにいることができます。天の神様と共に生きるのは幸せの源になります。生活の中に不幸があっても神様はともにいてくださいます。神様が私たちを見捨てるということはないからです。

フィンランドのある聖歌に幸せについて歌うものがあります。息子が小さい時にこの聖歌が大好きでした。聖歌の言葉は簡単ですが、意味は深いです。それを紹介したく思います。「ボクは幸せさ、ボクは幸せさ。ボクの幸せはイエス様のところにある。イエス様はボクのすべての罪を十字架に運んで取りのぞいでくださった、それでボクは幸せさ。」

私たちが天の神様と共に生きることができるのは、神様の一人子であるイエス様の十字架の御業のおかげです。私たち人間は聖歌に歌われているように弱さや罪を持っています。そのために私たちは神様から離れてしまうようになります。しかし、私たちを愛する天の神様はイエス様を通して神さまのもとへ帰る道を備えて下さいました。この救いの道は世界の全ての人に与えられています。私たちがイエス様がなさったことを全て信じて、この救いの道を歩むようになれば、それが私たちの幸せの源となるのです。

今、この世界には必要なものが十分に与えられない人たちが大勢います。しかし、そのような人たちも、先ほどの聖歌のように喜びを持って歌うことができます。イエス様の十字架の御業を素直に信じることが出来れば、歌の中で歌われる幸せを得られます。

手芸の時間も私たちに小さな幸せを与えてくれます。しかし、日々の生活の中で「神様がそばにいることは私の幸せ」ということを覚えて、それが私たちの幸せの源になりますように。

牧師の週報コラム

ルターによる聖句の説き明かしと共に(フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ
」2月8日の日課から)
キリスト信仰者は苦難困難に遭遇するとこのように立ち向かうのだ。
「主に感謝せよ。主は良い方なのだから。主の慈しみは永遠にあるのだから。」(詩篇
118篇1節)
『我々はいかなる不運に遭遇しても、それ自体に目を奪われてはいけない。そんなものは
神が我々に灯してくれた光なんだと思わなければならない。それは、神の恵みと善き業が
本当は数えきれない位の出来事の中にあったことが照らし出されて見えるようになるため
の光なんだと。そうすれば、不運などというあの虫けらのような害悪は、我々からすれば
燃え盛る炎の海に落ちていく一滴の雫にしかすぎなる。そうでなければ、せいぜい大海の
中に落ちていく微小な火花にしかすぎない。不運がこの光にかき消された時、日課の聖句
は我々に最も身近で麗しいものになる。「主に感謝せよ。主は良い方なのだから。主の慈
しみは永遠にあるのだから。」
この言葉で言い表される心意気は次のようなものになろう。「ああ、あなたは私になんと
誠実で慈しみ深く神聖な神でおられることか。私に対してもこの世に対しても大いなるこ
と善いことをこんなに沢山して下さっていたとは。私の感謝は全てあなたに向けられます
ように。」
これと同じ聖句は聖書の中で、特に詩篇の中でしばしば登場する。この聖句は我々に正し
くて最も御心に適う捧げものについて教えてくれる。我々は、神に感謝する以上に大きく
て優れた業を行うことはできないし、心がこもった礼拝を守ることもできないのである
。』(以上ルターの説き明かし)
このように不運を神が灯してくれた光と受け止めると、本当に神の恵みと善き業が数えき
れない出来事にあったことが見えるようになるのでしょうか?私は思います、数えきれな
い出来事を積み重ねた山の頂上にイエス様の十字架と復活があるとわかれば見えるように
なると。(2025年3月2日の週報コラムに掲載)