ニュースブログ

2025年6月15日(日)三位一体主日 礼拝 説教 木村長政 名誉牧師(日本福音ルーテル教会)

 

私たちの父なる神と、主イエス・キリストから恵みと平安があなた方とあるように。 アーメン                  2025、6月15日(日)

聖書:ヨハネ福音書16章12~15節

題:「御霊の導き」

ヨハネ福音書16章ではイエス様は弟子たちに5節以下のところでこう告げておられます。「今、私は私をお遣わしになった方のもとへ行こうとしている。」この事を告げるとあなた方の心は悲しみで満たされているだろう。しかし、私が去って行くのはあなた方のためになる。私が去って行かなければ弁護者はあなた方のところに来ないからである。弁護者と訳してありますが、真理の御霊とも言えます。わかり易く言えば助け主です。もし、私が行けばそれをあなた方に遣わそう。とこう話されて、イエス様はやがて父なる神の身許に去って行かれる時にイエス様の代わりに助け主として御霊が来てくださる。その御霊の働きについて8節から語られてゆきます。そうして、いよいよ今日の聖書16章12節になります。

12節「言っておきたい事はまだ沢山あるが、いまあなた方には理解できない。しかし、その方、即ち真理の御霊が来るとあなた方を導いて真理を悉く悟らせる。」

―――――――――――――――――――◇――――――――――――――――

此処からはイエス様が弟子たちに心に沿って丁寧に言っておられます。私はいつまでも復活の姿でお前達といるわけにはいかない。間もなく天の父のもとへと帰って行かなければならない。そうすると弟子たちだけでこれから全世界へとこれまでイエス様が教えられた事を広めて行かねばならない。そこで私の代わりに真理の御霊をあなた方のところへ来させよう。まだまだお前たちに言っておきたい事は沢山あるが、今はあなた方には理解できない。私の代わりに来る真理の御霊が助け手となって真理にの事如くを悟らせてくれる。口語訳の方では此処のところを「あらゆる真理に導いてくれるであろう」となっています。「あらゆる真理に導く」とはどう意味であろう、という問題で議論されたのであります。ある人々の考えでは文字通りどんな文化や学問、あらゆる科学やあらゆる人間の領域の分野に渡って真理に導いてくれるのだ。そうすると御霊によって導かれたたクリスチャンはあらゆる分野に渡ってその真理へと導かれ世の中で偉い者になれるはずだ・・となる。いや、そうではない。此処で「あらゆる」と言うのは前後の文脈から見て、ここで御霊が遣わされて来るのは、あくまでイエス・キリストの罪の購いをなして下さった業に基づいて来るところの救いの助けの事を語っているのだから「あらゆる真理」とは言うまでもなく救いに関わる真理へと導いてくれる、キリスト的なあらゆる真理の事である。こちらの方が大方の考えの用であります。

―――――――――――――――――――◇――――――――――――――――

次に16章13節の終わりの言葉で、イエス様は「来るべき事をあなた方に知らせるであろう」と言われました。御霊が知らせてくれる「来るべき事」「これから起こる」というのはどういう事でしょう。いろいろ意見の違いもありますが、ある人々の考えは教会に聖霊が降ってこの御霊が預言者たちを霊感して未来の出来事を預言させる。例えば使徒言行録11章28節にはアンティオキア教会の預言者アガボという者が世界中に大飢饉が起こるだろう、と御霊によって預言したところ果たしてそれがクラウディウス帝の時に起こった、とあります。そのように旧約聖書の預言者のように新約時代の教会にも預言者が御霊によって立てられ、いろいろ預言した、この事を言っているのではないかと考える人々もあった。或いはまた、此処で言われた「来るべき事」と言うのはユダヤの言葉で「来るべき者」と言えばメシヤのことを言っていた。そのように「来るべき事」とは起こり来る全ての事を言うのではなくメシヤの現れる終末の事を指すのである、と考える人々もあった。いや、そうではないと第三は「来るべき事」とは今イエス様が語っていらっしゃる最後の晩餐という時点から考えてこれから起ころうとしている事、即ちご自分の十字架の死と蘇えりと父のもとに昇天される…そういうごく目の前に迫った事を言うのであると考える。この考えが一番良いのではないかと言われています。共同訳で書かれている「これから起こる事を聖霊があなた方に告げるからである。」という言葉と合います。だから、此処で約束されています御霊の導きは結局あのイエス様の十字架の死と蘇えり、という歴史的な出来事の啓示の意味を深く理解させて行く導きのことであります。14節に「御霊は私に栄光を与える。私のものを受けてあなた方に告げるからである。」このようにイエス様が仰るように、あくまでも此処の聖霊の導きはイエス・キリストに栄光あらしめる働きに他なりません。イエス様の身にこれから起こる事、十字架の死と蘇えり、そして父のもとに昇天されるという、この一連の起こり来る全ての事を弟子たちは想像だに出来ないし、とても理解出来ない事であったでしょう。その全てを聖霊だけが目に見えない形で弟子たちの中に導いて行ける、啓示の働きであります。この聖霊によって働く啓示の事をある聖書学者は次のように表現しています。聖霊である御霊の偉大な働きは神の真理を人々にもたらすことである。「神の真理をもたらす」ことを現すのに一つの特別な名前がつけられている、それは「啓示」と呼ばれている。新約聖書の中でこの箇所ほど啓示の原則と呼ばれるものを良く示している箇所は無いのである。それで啓示の特徴としては。

第一に啓示は漸進的な過程であらねばならない。つまり、一つ一つの順序を追って進まねばらない、ということです。イエス様は何時も父なる神と相談し、祈って行かれた、だから父なる神のものはイエス様のもの、多くのことを知っておられたが、それを弟子たちに一度に教えるわけには行かなかった。彼らはそれを一度に把握する事が出来なかったのです。ですから相手が理解できるだけしか教える事は出来ない。どんな啓示もそれを受け入れる人間の能力に合ったものでなければ教えられない。子どもに数学を教えるのにいきなり多項式とか因数分解など教えない、その子どもの能力に合わせ一つ一つ順序を踏んで進むことです。

  • 人間に対する神の啓示も同様であります。神が人間に教える事が出来るものは人間が学び得るもの、学ぶにふさわしいものです。
  • 聖霊が神に代わって順序を踏んで導いてくれる、と言うものであります。

第二に神の啓示には終わりが無い、と言うことです。神の真理を人々にもたらす啓示には何時の時代でも何処の場所であっても聖霊として働いてゆく終わりの無い働きであります。神の啓示は歴史のある時点で止められたのではない。神の御霊は常に活動している。神は常にご自分を啓示しておられる。明らかに示しておられる神の最高の啓示はイエス・キリストにおいてもたらされたものです。イエス・キリストは聖書の中の一人物ではない、今も生きて働いて下さるお方です。今ひとつの啓示の原則についてです。啓示されるものは神から来る、と言うことです。神は真理の所有者であると共に真理を与える方、真理は人間の発見物ではない。それは神の賜物であります。啓示は書物や信条や印刷された文字を通して私たちに顕されるものではない。

  • 啓示は生ける人間を通して私たちに顕されるものです。そして私たちは主なるイエス様を信じ、全てを主に委ねてイエス様をより深く知れば知るほど益々イエス様は私たちにより近く語ってくださるようになるのです。

イエス様によって顕された啓示を受けるためには、私たちはイエス様が主であることを受け入れなければならない。私たちはどうしても自分が主であるのではないでしょうか。主キリストへの明け渡しとキリストを知ることが同心歩調で進むこと、そこに神がその啓示を顕すことが出来るのです。

人知ではとうてい測り知ることが出来ない神の平安が、あなた方の心と思いを

キリスト・イエスにあって守るように。  アーメン

牧師の週報コラム 

キリスト教系老人ホーム「東中野キングスガーデン」の小礼拝「心の時間」にて行った説教の抜粋(2025611日)

「岩の上に家を建てる人と砂の上に立てる人」

マタイ72427節 「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」

岩の上に家を建てれば土台がしっかりしているので嵐や洪水がきても大丈夫。しかし、砂の上に建てたら嵐や洪水が来たら倒壊してしまう。岩の上に家を建てる人とはイエス様の教えたことをする人、しっかりした土台がある人。砂の上に建てる人はイエス様の教えたことを聞くだけで行わない人、土台がない人。イエス様の教えたことをすれば、苦しいことや辛いことがあっても倒れないですむ土台を持てる。ならばイエス様が教えたことをしようではないか。

ところが、イエス様の教えたことは難しいことばかり。人を憎んではいけないとか。悪いことをされても、神さま、あの人をやっつけて下さいとお願いしてはいけない、反対に、あの人に善いことをしてあげて下さいとお願いしないといけないとか。明日のことを今日心配してはいけないとか。それと、神さまの国という、目には見えない国を沢山思う心を持たないといけないとか。神さま、あなたの国に私を迎え入れて下さいとお願いしないといけないとか。他にもまだまだ難しいことをたくさん教えました。これらをしないと、砂の上の家みたいになってしまうと。さあ、大変。

でも、神さまは私たちが自分の力で土台を持てないことを存じでした。それで土台を持てるようにとイエス様を贈って下さったのです。イエスさまは完璧な神さまと至らない私たちを結びつけて下さる方です。それで、至らない私たちがイエス様を信じて教会で洗礼の儀式を受けると、神さまと結びつきができます。その時、神さまは、ようこそ、私の国に、と仰って下さいます。私たちの心は神さまの国を沢山思う心になります。そうすると、憎んではいけない、仕返ししてはいけないは、その通りだなあと思うようになります。心配ごとも全部神さまにお伝えして持っていってもらえます。そうしたら今日は明日のことを心配しなくなります。イエス様のおかげでしっかりした土台を持てるようになります。

DSC_3767

歳時記

桃(Peach)

<夜昼、寝起きしている間に、種は芽を出して育って行くが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。 マルコ4:27>

春に咲いた花々が6月になると一斉に果実に変わります。中でも成長の早い桃の木は辺りを制して一早く実を付けていました、その傍若無人振りには毎度驚かされます。前年の晩秋に伸びた枝を過ぎるくらいに剪定した筈がかえってそれが功を奏したかのように再び枝を広げていました。古来お隣の中国では桃はその生命力の強さから仙果とされてきました。国道20号線を山梨に入り道を間違えて桃畑の中に迷い込みました、曲がりくねった道の両側には袋を被った桃の実がたわわに実っていました。これから夏の陽を存分に浴びて夏の終わりごろになると甘い桃になり私たちを楽しませてくれます。

スオミ教会・フィンランド家庭料理クラブのご案内

6月の料理クラブは14日(土)13時から開催します。

フィンランドは新じゃかの美味しい季節になりました!6月の料理クラブではジャガイモをふんだんに使った料理を二品を作ります。

一つは、フィンランドの伝統的なポテト・フラットブレッド「Perunarieska」。マッシュドポテトを使ってイーストを使わず焼き上げる薄型パンです。焼きたてのPerunarieskaはエッグバターをのせたり、ただバター塗るだけでも美味しく頂けます。

もう一つはサーモン・ポテトサラダ。蒸かしたポテトをビネガー、スパイス、刻みレッドオニオンで味付けし、オーブン焼きのサーモンをまぶします。フィンランドでは田舎風サラダ「Maalaissalaatti」と呼ばれますが、田舎の素朴さを超えた味のシンフォニーが楽しめます!

参加費は一人1,500円です。

どなたでもお気軽にご参加ください。

お子様連れでもどうぞ!

皆さんのご参加をお待ちしています!

お問い合わせ、お申し込みは、 moc.l1750024530iamg@1750024530arumi1750024530hsoy.1750024530iviap1750024530 まで。

牧師の週報コラム 

ルターの聖句の説き明かし(フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ」2月7日の日課から)

キリスト教徒はじたばたしない、往生際が良いのだ(その5)。

『心配事は全て神に放り投げよ。神はあなたたちの面倒を見て下さる方なのだから。』 (第一ペトロ57節、フィンランド語訳聖書にもとづく)

(牧師注 日本語(新共同訳)は「思い煩いを神にお任せしなさい」とお上品な訳ですが、ギリシャ語の「エピリプトー」は辞書(Heikel&Fridrichsen)を見ると、「投げ出す、放り出す」です。英語(NIV)、ドイツ語(ルター版)、フィンランド語、スウェーデン語の聖書もそれで訳しています。また、日本語は「神はあなたがたを心にかけている」と控えめな訳ですが、上記4カ国語はギリシャ語の「与格・メレイ・ぺリ・属格」を「神は面倒を見る、世話を焼く、ケアをする」と訳しています。日本語訳では見えてこない、この聖句の力強さがわかると、以下のルターの説き明かしがぐっと心に迫ってきます。)

『事を自分の重荷にとどめてはいけない。あなたはそれを運びきれず、遅かれ早かれ押しつぶされてしまうだろう。そんなことはやめて、それを捨てなさい。つまり、喜びながら信頼して神にパスしてしまうのだ。パスする時、次のように祈りなさい。「天の父よ、あなたは私の主、私の神です。あなたは、私など何も存在しなかった時に私をお造りになり、その上、ひとり子を用いて私を罪の支配から贖って下さいました。そして、果たしなさいと言ってこの務めと課題を私にお委ねになりました。しかし、それは私が望んだようには上手くいきませんでした。多くのことが私に重くのしかかり、心配事が次から次へと押し寄せてきます。どうしていいのか途方にくれています。これらを全部お渡ししますので、あなたの助けとアドバイスをお願いします。どうか、この務めと課題の全局面に一緒にいて、隅々まであなたの目を注いで下さい。」

 これこそ神の御心に適う対処法である。神が私たちにしなさいと言っているのは、委ねられた務めと課題に取り組みなさいということだけだ。取り組むことで何を成し遂げられるかについての心配は神のすることであって、私たちのすることではないのだ。

 このようにキリスト信仰者は他の者にはない大きな可能性を持っている。ひとり子を救い主と信じる信仰があるので心配事を放り出してよい父が天におられるからだ。そうでない人たちは心配事を抱いて自分を痛めつけ、最後には絶望に陥ってしまう。翻って信仰は、「神はあななたちの面倒を見る」という御言葉を握りしめ、神は嘘をつかない方だから御言葉はその通りだと信頼して前に進む。(以上ルターの説き明かし)』

 

DSC_3767

歳時記

茱萸・グミ(Gumi)

<主よ、あなたのみわざはいかに多いことであろう。あなたはこれらをみな知恵をもって造られた。地はあなたの造られたもので満ちている。 詩編104:24>

グミが日本固有種とは知りませんでした、道理でグミの英語名を探しても出て来なかった筈です、漢字の茱萸は不思議な字ですが山茱萸と同じシュユとも読めますね。私も始めは茱萸をグミと読むことに驚いていました。茱萸の謂れを調べてみましたら口にすると渋みがある事から「えぐみ」、実を含むから「ぐみ」など、漢字の茱萸は草冠に朱で赤い、草冠に臾(ユ)をユと読ませカワハジカミ、グミを現わしたとありました。公園の入り口付近にこのグミの木が3本あります、毎年このグミの実を楽しみに先日も出かけて来ました。嬉しい事に目当てのグミの木はたわわに実をつけていました。最近の人はグミの実が食べられる事を知らないようです、グミだけではありません桑の実、山法師の実、山桃、木苺、イチジク、アケビ、ヤマナシ等の木の実が食べられる事を親から教わらなかったのか或いは単に知らないのかも知れません。昭和生まれには食べられる木も実を見ると自然に手を伸ばします。

2025年6月8日(日)聖霊降臨祭 礼拝 説教 田口聖 牧師(日本ルーテル同胞教団)

2025年6月8日

ヨハネ14章8−17節、25−27節

「平安のうちに遣わす聖霊の恵み」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

1、「はじめに」

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

イエス様は捕えられる前の最後の晩餐の席で弟子たちに、聖霊が与えられると言う幸いな約束を与えてくださいました。その聖霊の恵みがいかに素晴らしいものであるのかをイエス様はこの14章で伝えています。14章は1節にある通り「心を騒がせるな」で始まり、終わりの26、27節では「平和」、それは新改訳聖書では「平安」という言葉ですが、その「平安」を与えますと言う約束の言葉と、やはり「心を騒がしてはなりません」で結ばれています。それは6節にある「道であり、真理であり、命である」イエスを通るなら、誰でも父のもとに行くことができるとある真理の道と真の命の歩みは、キリストから与えられる「平安ある歩み」であり「心騒がせる必要がない」恵みの歩みであることを約束するものであり、それを実現するのはまさしく聖霊であると、今日の箇所は伝えています。

2、「神を見せてください。そうすれば満足します」

まず弟子の一人フィリポはイエスに尋ねます。

「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」8節

 これは新改訳聖書では「主よ。私たちに父を見せてください」とあります。フィリポのこの言葉は、7節でイエス様が、「あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」と言ったことに対してでした。フィリポはこのイエス様の言葉の意味がわかりませんでした。イエス様はご自身を見ているあなた方はまさに神ご自身を見ているのだ、神がここにいるのだと、ある意味、曖昧ではなくはっきりと、イエスご自身が父なる神と一つであり真の神であることを宣言しているのですが、その三位一体の真理を、人間はその理性でも知識でも自分の力では決して理解できないことを、フィリポの言葉は示しています。

 そしてイエスの「ここに父がいる」と言う明確な「言葉」があるにもかかわらず、その言葉の通りに、イエスに父なる神を見ようとせず、どこまでも「神を見せてください」と言うこの言葉は、「人間が神をどこに見ようとするのか、どこに神を求めるのか」を示すものでもあります。彼は明らかにイエスの「言葉」に満足していません。彼は弟子であっても、いくら先生でもナザレの大工の子イエスに父なる神を見るなんて現実的にありえない馬鹿げたことだと思ったことでしょう。「そうすれば満足できます」と言う言葉は、イエスの言葉にも現状にも満足していないと言う思いを示しています。彼は3年一緒に歩んできてイエスの言葉にもイエスそのものにも神がいる、真実であるとは信じることができなかったのでした。そして神を実際に見せてほしいといいます。それはまさに、人間の側の五感、知覚、理性でわかり判断できるように、物質的に目にみえる形で目の前に見せて欲しい、あるいは、それは彼自身が予め思い描き期待している通りの姿、形で見せて欲しい、という意味でした。その「神をどこに求めるのか、見ようとするのか」という問題とフィリポの問いかけですが、これはおそらく誰でもフィリポと同じように求めるのではないでしょうか。事実、教会へ来たり聖書に触れたりする未信者は沢山いますが、皆がそれを信じるわけではありません。多くの人々は信じないのですが、その時の彼らの「問いかけ」は大体これでしょう。「神がいるなら神に会わせてよ。見せてよ。科学的に証明してよ。」等々ではありませんか?そのように、人間は目にみえる形で、しかも彼らが自分の思いの中で仮定し予測し期待する考えに当てはまるように、しかも目に見える物質、被造物の中に神を見ようとするし求めるし探そうとするのです。

 そしてそれはイエス様と三年一緒に歩んできて多くを学んだはずの弟子でさえもそうであると言うことは注目したいです。既にイエスの弟子である皆さんも、神はどこにいると考えるでしょうか?神をどこに探したり求めたりするでしょうか?イエス様は常に変わらず、私たちにみ言葉を通して、何よりこの福音である「十字架の言葉」という人から見れば躓きであり愚かな言葉にこそ、神がおられ、神の救い、力、働きがあることを教え続けています(第一コリント1章18節)。あるいは、信仰とは目に見えないことの確信だとも聖書は教えています(ヘブライ11章1節)。そして救いや義認は、私たち人間があたかもそこにあるかのように期待し易い目に見える何らかのわざや功績や、何を持っているとか何を達成したとか、そのようなことにあるのではなく、どこまでもキリストの十字架に現された神の恵みと約束、このキリストの十字架と復活のみに救いの本質、神の真理があると聖書を通して指し示し続けてくれているでしょう。しかしそれなのに、弟子のフィリポでさえもそうであるように、教会やクリスチャンであっても、自分たちや誰か、人間の側で勝手に期待し思い描く何らかの目に見えるわざや行い、結果や成功に何か救いや救いや祝福があるかのように求めやすいでしょう?それらの期待する目に見えるわざや結果に、神をみたい、神を見せてほしい、そこに救いの確かさ、救いの原因や根拠があるかのような考えにすぐに陥ってしまったり、そのような教えや勧めを聞いたりすることがあるのではありませんか?「神はどこにいるのか、どこに探すか、求めるのか」それは、何か私たちや誰かが自分たちの思い描いた通りに教会のために一生懸命やったから、成果を出したから、計画通りに成功し実現させたから、だから神に祝福されるんだ、そこに神はいるんだと、考えてしまったり、それが宣教や伝道だとしてしまい、クリスチャン生活や伝道や教会運営を、まず私たちの側で何かを果たし、行い、頑張って、そうすれば祝福されます、そうしなければ祝福されません、と律法的に駆り立てるような教会は、実は少なくありません。しかしそれはまさに、先ほど読みました、創世記11章の神の恵みやみことばや神がなさるという約束をそっちのけで、人間の力で天に届く塔を建てようとすることと同じではありませんか?または、このフィリポのように、まさに彼の予想し「見たい」と期待し思い描いた先に目に見える形で「神を見せてください。証明してください。そうすれば満足します」という求めと同じことでしょう。イエス様は、あなた方が目で見たいと望んだ先に神がいるとか、あるいは、目にみえる形で自分たちの目に見えるわざで何かを果たした先に神を見ることができるとは言っていないですね。そのように「あなたの栄光を見せてください」と神を見たいと望んだモーセにさえも神の通りすぎる時の神の背中しか見せませんでした(出エジプト33章18節、22-23節)。イエス様ははっきりと言います。「わたしを見たものは神を見たのだ、わたしに父がいるのだ」と。イエス様は人でもその行いでも、人が何らかの目に見え思い描く先を指し示してそこにいると言うのではなく、イエス様ご自身をさし示し、そこに神はいるのだと示しているでしょう。

3、「弟子であるキリスト者はどこに神を見るか?」

 イエス様はフィリポにいいます。9節以下、

「9イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。 10わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。 11わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。

 見えない神の本質、真理は、イエス様ご自身にあり、見えない神がイエス様を通してその真実なわざを、つまり、真実な言葉を語っている、そこに父は確かにおられるとイエス様はご自身をさし示し、信じるように招いているです。特に、「わざそのもの」と言っていますね。その「わざ」とは何でしょう。この場面は最後の晩餐の席です。つまり、イエス様は明らかに十字架にかけられ復活されるご自身を指し示し救いのわざである「十字架と復活に神を見ることができる」「神の約束の救いと祝福はあるのだ」と伝えているのです。

 私たちはどこに神を見るでしょう?どこに神を探すでしょうか?何らか目に見える被造物、その中でも偶像礼拝のように並外れたものすごい物質にでしょうか?確かに特に日本では八百万の神信仰と言われ、そのような並外れた特別な被造物、石や岩、木や自然、あるいは並外れたすごい人に神を見ようとしたり神にしたりします。立派な人の行いや功績には何でも神がかったものを見ようとしたり称賛したりもします。野球の好きな方は聞いたことがあるかと思いますが、「神様、仏様、稲生様」なんて言葉もありますし、最近だと村神様なんて言葉もありましたね。しかしそこに本当の神はいるのでしょうか?教会やクリスチャンはどうでしょう。どこに神を探しますか?教会やクリスチャンの中にも確かに何かまず自ら思い描いて期待し、それを果たした先に、あるいはそのように良い行いや功績を残した先や、教会を成功さえた繁栄させた先に、神はおられ、そこで初めて祝福や救いや恵みが与えられるのだと考えたり教えたりする教会やクリスチャンは確かにいます。しかし果たしてそうなのでしょうか?皆さんは、そのように考えていませんか?それが正しいとするなら、逆に、そうならなかった時、つまり、試練や逆境、苦しみや悲しみ、失敗や挫折や罪深さを覚えさせられる時、クリスチャンでもそこに神はいないかのように考え易いのですが、しかし本当にそこに神はいないのでしょうか?それは実はクリスチャンが一番陥りやすいところです。私もそのように思わされる時もあります。今でもあります。しかし違うでしょう。11節「もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。

。何より十字架がそのわざですが、その他にも、それまでイエス様が宣教の歩みでなさったわざもそのことの答えでしょう?イエス様はまさに誰も近寄らず敬遠するような罪人、罪に苦しむ人々のところにこそ、歩み寄り、近づき、友となり、一緒に食事をし、悔い改めを教え、神の国を伝えたでしょう。あの徴税人ザアカイに語りかけ、彼の家で食事をし、彼が悔い改めた時に何といいましたか?ルカ19章9−10節

「イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。 人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」

 失われていた罪人ザアカイのところに神はいなかったでしょうか?いや、神は確かにおられました。そしてこの最後の晩餐の後、イエスを3度知らないというペテロ、そして逃げていく弟子たちのために、イエス様は何と言われましたか?ルカ22章32節

「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

3年間、ともに歩んできて教えてきてもなおも罪深い弟子たちに神はいませんか?とんでもない。彼らを見捨てず、ともにおられ、そのために祈られるイエス様がいるでしょう。そして、何より、私たちが見るべきイエスのわざであるこの十字架は私たちに証ししています。

 この重罪の刑罰である十字架には誰がかかりましたか?この十字架に誰がいますか?そこに神はいませんか?いや、まさに十字架におられるのは天地創造の神である御子イエス様ではありませんか。しかも神であるこの十字架のイエス様は、全人類の罪人のために、私たちの罪をその身におわれ死なれ、私たちに罪の赦しを与えるでしょう。まさに人の間に来られたイエス様は、罪人の間に来られ、罪人の間、隣に立ち、その罪汚れに触れ、そこから救い出してくださるお方でしょう。そう、イエス様は、罪に苦しむ私たちの間に来られ、おられるのです。試練や逆境、苦しみや悲しみ、失敗や挫折や罪深さを覚えさせられる中に、神はいないのではない、むしろそこにこそ来られ、そのために来られ、その只中に神であるイエス様は確かにおられるのです。その十字架のゆえに、十字架にかかられたイエス様のゆえにこそ私たちにも罪の赦しが宣言され、悔い改め信じ、その赦しをそのまま受ける人は誰でも、その罪の赦し、義認、救いが恵みとしてその人のものになると聖書は約束しているでしょう。そしてその人は、まさにただそこにいるイエス様のゆえに「既に」祝福されています。私たちが目に見える形で何かをするから達成するからそこに神はいて、だから祝福されるのではありません。私たちは神をこの十字架のイエスにこそ見ることができる、神はここにいる、十字架のイエス様に。これを信じ受け取るなら「既に」それは祝福なのです。

4、「「大きなわざを行うようになる」とは?」

 しかし、そうは言ってもこの後のイエス様の言葉を見て多くの人は反論するでしょう。12節「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。

15節「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る

、そう書いてあるではないか、だから結局は律法なんだ。福音だけではダメなんだ。福音の後にはやはり律法なんだ、私たちの行い、私の達成が来るんだ、と思うかもしれません。しかし、皆さん、その行いはどこからきますか?イエス様は何と言ってますか?その行いのために、イエス様は、13節「13わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。 14わたしの名によってわたしに何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」

 と言っており、16節以下では、

「16わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。 17この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。

 と言ってます。イエス様はそのことを弟子たちが行うことができるように、「祈り」、「願い」とあり、それに応えくださるとあり、尚且つ、イエス様自身が願い取りなしてくださる。そして、そこで、まさにそのことをかなえるため、行わせるために一緒にいてくださる「弁護者」、この弁護者はピンと来ません。英語のESVバイブルでは「Helper」とあります。新改訳聖書ではその通り「助け主」とありますが、そちらがわかり易いです。まさにそれらのことを行わせる助け主、真理の御霊である聖霊を与えてくださると、イエス様は約束しているでしょう。しかもその聖霊は「あなた方と共にいるため」だと言っているでしょう。まさにそのように悔い改め信じ、福音によって新しく歩むものに、神であるイエス様がそのわざを行わせてくださる。そして、もっと大きなわざを行うようにさせ、何でも願うことをかなえ、そして掟、律法を守らせるのは、私たちの力ではない、三位一体の聖霊であることをイエス様ははっきりと伝えています。しかも、イエス様は、弁護者、助け主である聖霊、26節「父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」とも言っているでしょう。聖霊は何より私たちにみ言葉を思い起こさせ、み言葉に働き、みことばを通して働き、すべてのことを教えてくださると言うのです。何よりそれは十字架の言葉である福音の言葉を通してです。パウロはこう言っています。

「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。 」第一コリント1章18節

 と。十字架の言葉である福音の約束こそ、救いの全てを行わせ実現させる神の力だとパウロは教えているでしょう。事実、使徒言行録1章で、復活のイエス様は弟子たちに、いきなり「あなたたちの力で教会を始め宣教を始めなさい、伝道し教会を大きくしなさい」とは言わなかったでしょう。何といっていますか?イエス様は聖霊を受けるまでは都に留まっていなさい、待っていなさいといいました。そしてまさに「今こそ栄光が現される時か」と勢いづく弟子たちにイエス様は「いつとかどんな時とかはあなた方は知らなくていい、神が権威を持って定めている」と自ら動き出そうとする行動主義を諌めています。イエス様の命令は約束の聖霊を「待ちなさい」なんです。そして聖霊を受けるときに、力を受けて、神の御心である地の果てまで証人になっていきますとイエス様は約束していますね。その通りに、使徒言行録2章、聖霊を受けた時に、聖霊の力で、まさに更なる大きなことが、キリストの教会が、神の宣教が、始まっていくでしょう。律法を行うことは大事な神の御心です。しかし新しく生まれたクリスチャンは、福音から始まる、しかも聖霊の力によって、まさにヨハネ4章でイエス様が言われたように、福音から湧き出て溢れ出て流れていく泉のように、宣教や良きわざを行なわされていくのです。神の宣教の道具としてです。

5、「安心して行きなさい」

 そして最後に結びますが、更なる幸いは、その福音と聖霊による歩みも宣教も良きわざも平和のうちに、平安のうちに行われていくと約束されているということです。27節

「27わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。

これは新改訳聖書の方がわかりやすいです。

「27 わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしててはなりません。恐れてはなりません。

 聖霊が福音を通して与える平和、平安は、世が与えることができないものです。つまり私たちの力や理性で果たすような行為義認によっては得られない、イエス様ご自身が福音のうちに、聖霊を通して与えてくださる特別な平安なんだとイエス様は教えています。皆さん、聖霊の力も何もなく、自分たちの力で、救いを、神の国を達成しなさい、そうすれば罪赦されます、祝福されます、救われます、と言われ、そのように生きて、そのクリスチャン生活に平安はありますか?ないでしょう。自己義認は自分で天に届く塔を建てることと同じです。それは神の怒りを買うだけでなく何よりそこに平安はないでしょう。私たちの宣教は福音を宣教することでありイエスが与える平安を証しすることなのに、その平安がないなら平安を証できません。宣教が律法なら平安はありません。私たちに平安がないなら福音宣教は成り立たないのです。しかし逆に、あなたの罪は赦されています、わたしはあなたを助ける助け主を送ります。それはあなたと共にいます。だから安心して行きなさい、と言われるとどうですか?安心していけますね。平安を心から証しできるでしょう。これが福音から始まる新しい歩み、そこに完全と働く聖霊の恵みなのです。

 みなさん、イエス様が福音を語り与えてくださり、洗礼を授けられた時、私たちは確かに聖霊を受けました。私たちは今日も、福音と聖霊の豊かな助けのうちに遣わされています。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。ぜひ福音を受け、今日も平安のうちに遣わされて行きましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。        アーメン

ペンテコステ祝会

牧師の週報コラム 

ルターの聖句の説き明かし(フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ」5月28日の日課から)

キリスト教徒はじたばたしない、往生際が良いのだ(その4)。

『いつも喜びなさい。』 (第一テサロニケ5章16節)

『この御言葉は、信仰が我々にとっていかに不可欠なものであるかを教えてくれる。信仰は重々しいもの苦々しいものを全て軽くし甘くする。そのことは、殉教者たちが証ししている。しかし、信仰がなければ、たとえ全世界の絢爛や享楽を手に入れたとしても、全てのことは重々しく苦々しいものになってしまうのだ。そのことは、悲惨な生涯を送った金持ちたちが証ししている。

 次のように言う人がいる。「私が望んでいなかった状況に陥ってしまったのは自分の愚かさや悪魔のせいではなく、神がそのようにされたからと確信できたら、喜ぶことなど出来るだろうか?」 なんという信仰の欠如!キリストは、神がお決めにならなければ鳩は地面に落ちることはないと言われたではないか。また、私たちは髪の毛の数も一本残らず神に数えられているのだとも。

 ここで、あなたが望んでいなかった状況に、あなたの罪はそこにはないのにそういう状況に陥ったとしよう。もちろん、罪と愚かさによっても同じ状況には陥るのだが、それらがなくてもそういう状況に陥ってしまったとする。それは実は、神の御心に適う状況なのだ。罪以外のものは全て神の御心に適うものだからだ。

 あなたが、あなたの罪はそこにはないのに厄介な課題に取り組まなければならなくなったとする。その課題は間違いなく神があなたにお与えになったものだ。だからあなたは課題に取り組む時はただ正しく取り組めばよいのだ。課題の取り組みの中で感じてしまう不本意さや無念さというものも実は、あなたがまさに神の御心に適う課題に取り組んでいることの証しなのである。その時、神は課題のあるところにおられる。神は悪魔に対してあなたの信仰を試すように許可したのだ。あきらめて神に背を向けてしまうか、それとも、神が共におられることを信じて解決を目指して取り組んでいくか。神はあなたが信仰の戦いを戦い、信仰の中で成長する機会を与えて下さっているのだ。(以上、ルターの説き明かし)』

「課題に正しく取り組む」というのは、人を傷つけない、奪わない、妬まない、真実を曲げない、不倫をしない等々、十戒にある神の意思、要約すれば、「神を全身全霊で愛し、隣人を自分を愛するが如く愛する」に沿って取り組むということです。

DSC_3767