お気軽にお問い合わせください。 TEL 03-6233-7109 東京都新宿区早稲田鶴巻町511-4-106
全知全能の父なるみ神よ。
あなたは日々、罪の赦しの恵みを新しくして下さり、祝福を豊かに与えて下さいます。あなたがどれだけ私たちを愛して下さっているかもっと気づけるようにして下さい。感謝のうちにあなたと隣人を愛し、喜んで仕えることができるようにして下さい。
あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストのみ名を通して祈ります。 アーメン
合歓の種
〈主はあなたが地にまく種に雨を与え、地の産物なる穀物をくださる。それはおびただしく、かつ豊かである。その日あなたの家畜は広い牧場で草を食べ、 イザヤ書30:23〉
家内の好きな詩人、石垣りんのエッセイに”ベランダの鉢植えの合歓の木に花が咲いた”というくだりに誘われて自分もベランダで合歓の花が見たいと数年前から近所の公園を合歓の種を探し回っていました。何処の合歓の木も秋になると来るのが遅かったのか種は既に地に落ちていて風邪に飛ばされたのか、雨に流されたのか見つける事が出来ませんでした。最近になって風の丘公園の途中に格好の合歓の木を見つけました。花の時期も終わりやがて種が出来ました。公園に行く度に種の観察を続けていましたが先日、種の採取に手ごろな時期がきたようで三つほど大きめの種の入った鞘を持ち帰りました。鞘を透かして見ると種らしい影が見えています。鞘は脆く少し力を入れるとあっ気なく壊れ種が出てきました。大豆ほどの大きさで扁平な種です、全部で二十粒ありました。ネットで播種の時期を調べたら三月頃が良いとありそれまでは冷蔵庫で保管するべしとありました。冷蔵庫には”駿河台匂い”の桜の種もあり、こちらも三月に播く予定です。早くも春が待ち遠しいです。
次回の手芸クラブは10月21日(水)10時~13時に開催します。
一足早くクリスマスに向けてフィンランドのクリスマス・オーナメント「タハティ(星)」や「ヒンメリ」を作ります。フィンランドでは藁(オルキ)で作るクリスマス・オーナメントは伝統的なもので、現代でも手作りの「星」や「天使」や「ヒンメリ」は昔ながらのクリスマスの雰囲気を高めてくれます。天然の藁で作るオーナメントは僅かな光が当たっても白い控えめな輝きを放ち、暗い冬の季節のお部屋で不思議と心を和ませてくれます。どんな形のオーナメントにするかはご自由にお決め下さい。
フィンランドのクリスマス・オーナメントを是非ご一緒に作ってみましょう!
手芸クラブでは自分の好きな編み物をすることもできますので、作りたいものがあれば、ご自由にお持ちください。おしゃべりしながら楽しく作りましょう!
持参するもの:パールピン20本
参加費: 1000円
お子さん連れの参加も大歓迎です! 皆様のご参加をお待ちしています。
お問い合わせ、お申し込み paivi.yoshimura@gmail.com ℡ 03-6233-7109 スオミ・キリスト教会 東京都新宿区鶴巻町511-4―106
秋の最初のフィンランド家庭料理クラブは青空ひろがる秋晴れの10月10日に開催しました。今回のメニューはフィンランドの家庭でもよく作られるラズベリー・ケーキです。
料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。最初にそれぞれの材料を計って準備します。それからマーガリンと砂糖をハンドミキサーで泡立て、白く泡立ったら卵などを加えます。出来上がった生地を冷蔵庫にしばらく置いておきます。次はフィリングの準備です。水切りヨーグルトなど順番にボールに入れて混ぜると出来上がります。
それから生地をパイ皿に伸ばしてその上に冷凍のラズベリーをパラパラとのせます。その時「ラズベリー美味しそう!」という声があちこちから聞こえてきました。最後にラズベリーの上にフィリングを流し込んでオーブンに入れて焼きます。
ケーキをオーブンに入れてしばらく経つと、台所から美味しいそうな香りが教会中に広がります。出来上がりはどんなものになるだろうかと皆さん待ち通しそうにしていました。
ケーキをオーブンで焼いている間、ケーキの香りと一緒に参加者の皆さんの楽しそうな会話も教会中に広がりました。皆さんは、どんなケーキになるかなぁ、と興味をもって何度もケーキの焼き具合を覗いては、「きれいに膨らんでいるわ」「美味しそうね」などと話されていました。
ケーキが焼き上がってからしばらく冷まして、その間にテーブルのセッティングをします。皆さん席に着き、出来たてのラズベリー・ケーキをコーヒー紅茶と一緒に味わいました。たちまち「美味しい!」との声があちこちから聞こえてきました。今回も楽しい歓談の時を持ちました。歓談の時にはまたフィンランドのラズベリーの話と天の神さまの祝福についてのお話を聴きました。
今回の料理クラブも無事に終えることができて天の神さまに感謝します。次回は11月7日の予定です。11月は第1の土曜日になりますのでご注意ください。詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。
今日はラズベリーのケーキを作りました。料理クラブではこれまでに、ブルーベリーやイチゴのケーキを作ったことがありますが、ラズベリーのケーキは初めてです。フィンランドではラズベリーは比較的高価なベリーでブルーベリーやイチゴほどケーキなどに使うことはありません。日本ではラズベリーは簡単に手に入らないので、ラズベリーを使ったお菓子やデザートは高価で珍しいです。
フィンランドではラズベリーは、野生のものと庭で栽培されるものと二つの種類があります。私が子どもの頃は、庭でラズベリーを栽培する家庭はまだそれほど多くなかったので栽培されたラズベリーはあまり食べたことがありませんでした。その代わり野生のラズベリーは殆ど毎年実ったので夏によく採りに行きました。現在ラズベリーは庭でもよく育てられるようになりましたが、それでもフィンランド人は、野生のラズベリーをよく採ります。私の父は、収穫の良い年には20リットル以上も採ったことがあります。野生のラズベリーがよく育つ場所は、森の端っことか、日差しが良い畑の横にある水路の周りです。野生のラズベリーの実は庭のラズベリーより小さいですが、味は甘くて、ラズベリー本来の美味しい風味が感じられます。収穫時期は7月の終わりから9月の初めころまでです。実は熟すると手で簡単に摘まむことが出来ます。しかし時々、実の中に虫が入ることがあるので、実を摘む時によく確認しなければなりません。虫は特に雨の多い夏によく出てきます。
今年の夏フィンランドでは野性のラズベリーが沢山実りました。私は、実家の近くで今まで見たことがないほど沢山の赤いラズベリーが実っている場所を見つけました。そこで沢山摘んで久しぶりにラズベリーのジャムを作ったり冷凍したりしました。
今年のフィンランドの夏は特別でラズベリーだけではなく他のベリー、ブルーベリーやリンゴンベリーなども沢山実りました。リンゴも、枝が折れそうになる位に沢山実っているのを見ました。この間、実家の地方の新聞で89歳の男性が102キロもリンゴンベリーを採ったったという記事を読みました。これはとても珍しいことです。このように今年の夏ベリーやリンゴが沢山実っているのを見て「天の神さまが祝福して下さったことだ」と考えて感謝しました。神さまの祝福は素晴らしいことだと思いましたが、少し後で祝福とはどんな意味があるのだろうかと考えました。
祝福という言葉は生活の中でも良く聞きます。皆さんも聞いたことがあるでしょう。フィンランドでは収穫の豊な年や仕事がうまく行った時などに「神さまが祝福して下さった」とよく言います。また、クリスチャン同士のメールの終わりや会って別れる時の挨拶としても使われます。これはどんな意味なのでしょうか。それは「イエス様がこれからもあなたと共に歩んでくださいますように」という願いの挨拶です。
聖書にはイエス様が人々を祝福された話がいろいろあります。例えば親たちが子どもたちをイエス様の元に連れてきた時イエス様は子どもたちを祝福されました。また、イエス様が天に上がられる前にイエス様に従ってきた弟子たちを祝福された美しい場面があります。その時イエス様は「私は世の終わりまでいつもあなた方と共にいる。」と約束されました。それは私たちにも向けられた約束です。イエス様は今も同じように私たちを祝福して下さいます。
祝福には他の意味もあります。神さまの良いみ心が目に見える形や見えない形で現れることも意味します。神さまの良いみ心が目に見える形で現れるものとして自然の美しさや豊かさがあります。私たちの日常の生活の中にもあります。私たちが当たり前のように持っている食べ物、服、住まい、健康にも神さまの良いみ心が現れています。しかしもし食べ物に困ったり、病気になったりしたら神さまの良いみ心がなくなってしまったということなのでしょうか。イエス様を信じる人はそのように考えません。信じる人は食べ物に困ったり、病気になった時にも、神さまは助けて下さると信頼してお祈りしながら歩み続けます。困っている時にも神さまの良いみ心が見えない形で働いていると信じているからです。どうしてそのように信じられるでしょうか。使徒パウロがローマの信徒への手紙の中でこう言っています。
「私たち全ての為に、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものを私たちに賜らないはずがありましょうか。」 ローマの信徒への手紙8章32節
神さまの良いみ心は私たちの生活の中で目に見える形でも見えない形でも働いています。それが天の神さまから与えられる祝福なのです。友達同士の祝福の挨拶はこのような深い意味があるのです。
この夏フィンランドのカルックで開催されたSLEYの研修大会でのこと、夕べのサウナの時間、牧師や神学者たちとサウナに入って湖でひと泳ぎしてはまたサウナを繰り返して桟橋で一息ついていた時、一人の神学者が私に聞いた。 「君は礼拝説教を作る時、何の注釈書を使うのか?」 「何も使わないよ、原語の聖書(つまりギリシャ語、ヘブライ語、アラム語)で十分だよ」と答えると、周りにいた者がホォという感じでこっちを見たので、発言を少し注釈して聞かせた。
もちろん注釈書は大学の研究員をしていた時は使った。それが仕事だったから。基本中の基本は、英語の Anchor Bible と Word Biblical Commentary、ドイツ語は Herder と Evangelisch-katholischer Kommentar の4つ。それらをもとに他のものへと幅を広げていったわけだが、どれも議論がちゃんと組み立てられているかどうかと懐疑的・批判的な目で見たので、注釈書はどれもケチをつけるためのものになってしまった。それで説教を作る時にはあまり使う気がしなくなってしまった。ならば直接原語の聖書にあたって自分の目で見た方が話が早い。
原語の聖書にあたる際、いつも日本では何が問題かということを意識して、その問題解決を翻訳でなく原語の聖書に見つけるというスタンスを取っていると思っている。例えば、死者にお伺いを立てたりコミュニケーションを取ろうとする日本的霊性には復活の信仰を対峙させる、この世の不条理に対しては人間を相手にした正しさ(正義)と神を相手にした正しさ(神の義)という視点でどう乗り越えられるかを考える等々。日本語の聖書でも解決は見つかると思うが、日本語の感性に流されないためには聖書を何度も何度も読み通す必要がある。私は、原語で一回根気よく読んだら、翻訳の10回分になるのではないかと思っている。(ただし、原語で読むと言っても解説書に頼るのは苦労を他人にさせることになりダメ。あくまで文法書と辞書を使って自分で格闘しないと。ないしは日本語で10回以上読み通さないと。)
忘れてはならないことは、原語で読んでも直ぐ解決を得られないことが多いということだ。一つの単語に沢山の意味がある、どれを選ぶか?この語はどこにかかるか?この形は統語論的にどう説明できるか?等々。一つ違えば意味も大きく違ってくる。そこで、ルター派の私はそういう分岐点に差し掛かった時はルター派の教義を道しるべにしている。信仰義認、律法と福音の関係、信仰と理性の関係等々の争点でルター派の基軸から外れないように歩を進める。そう言うと、なんだ結局は正統主義に流れているだけじゃないかと言われてしまうが、実はそうなのである。使徒的伝統に立つことをモットーとしているのでそれでいいと思っている(※)。ただ私の問題は、「一致信条集」をきちんと学んでいないこと。そこは、ヘルシンキ在住の神学者・高木賢氏がフォローしていて毎週私の説教を見てコメントしてくれる。彼は聖書を原語で何度も読み通す強者で、一致信条集もラテン語とドイツ語で読みこなすまさにウォーキング・ルーセランなのだ。
(※ 使徒的伝統に立つとはどういうことかについては週報コラムの10月4日号を参照のこと。)
フィンランド人宣教師の恵みのレシピ」
パイヴィ宣教師がスオミ教会のフィンランド家庭料理クラブで教えてきた料理のレシピと料理にちなんだ聖書のメッセージから24つを選んで本にまとめ上げました。「幸福度世界一」の国からの心とおなかを満たすレシピ集です。
全国のキリスト教書店にて好評発売中。定価1,430円
スオミ教会にて著者割引の1,100円で購入できます!
この秋最初の手芸クラブは9月30日に開催しました。東京では雨の日がずっと続いてこの朝も小雨がぱらついていましたが、これから少しずつ秋晴れの過ごしやすい季節になっていくのを楽しみにしています。
今回のテーマはビーズ刺繡です。最初に作品のモデルを見て自分の作りたいものを決めます。「素敵な色合いね」、「可愛いわ」、「きれいな形ね」などと参加者の方たちから声をあがりました。作りたい作品に合わせてビーズと布を選び、さっそくビーズを縫い付けていきます。針は細くビーズも小さくて目が疲れやすい作業ですが、それでも皆さん楽しくおしゃべりしながら一生懸命ビーズを増やしていきます。すると、丸い形、幾何学的な形、雪の結晶の形などが現れてくると、お互いに相手の作品を見て「わぁー可愛い!」「素敵!」「きれいな色合い!」とほめ合います。
今回はビーズ刺繡の他に刺繡や織物をされる方もいらっしゃいました。スオミ教会の手芸クラブではその日のテーマの他に自分の好きな手芸をすることもできます!刺繡の方のは、細かい刺繡の布に縫い続けていくと素敵な模様がはっきり見えてきました。織物の方は、難しいカード織を巧みに織られ、織物がどんどん長くなって素敵な模様が現れました。既に沢山の作品を織られ、みんなでそれを見て「素敵!」「きれいな模様!」などと感嘆の声があがりました。
今回もあっという間に時間が過ぎました。皆さんもう少し続けたい気持ちでしたが、細かい作業なので目や手は思った以上に疲れています。ビーズ刺繡のブローチを完成させた方はご自分のブラウスに取り付けて大喜びでした。そこでコーヒータイムにして一息入れることにしました。今回はフィンランドのコーヒーブレッド(Pulla)も味わって楽しい歓談の時を持ちました。その時にフィンランド語で真珠を意味するHelmiという言葉の使い方やイエス様が聖書で語られた真珠の例えについてのお話を皆で聞きました。
次回の手芸クラブは10月21日に開催予定です。10月は第3水曜日ですのでご注意ください。開催日が近づきましたらまたホームページに案内を載せますので是非ご覧ください。
夏の前の手芸クラブでもピーズ刺繡をしました。その時皆さんから「もっと続けたい」と希望があったので、今日もピーズ刺繡をテーマにしました。私自身はそれまでこの刺繡をしたことはなかったのですが、皆さんと一緒に作っているうちにもっといろいろなものを作ってみたいという気持ちになりました。作り始めると、なかなか途中でやめることは出来ません。皆さんはいかがでしょうか。
ピーズはフィンランド語で真珠と同じ意味がありますが、フィンランド語で真珠はHelmiと呼ばれます。「Helmi」には少し独特な使い方があります。「真珠」そのものだけではなく、高価で美しい特別の価値があるものについて語る時によく使われます。例えば食器を集める人にとって高価な美しいコップは宝石のように価値があるものです。フィンランド人はそのようなコップを「食器の中のHelmi」と言います。また値段はそれほど高くなくても古くて家族から受け継いだものは特別な思い入れがあるから「Helmi」と呼ぶことがあります。
さらにHelmiはもっと広い意味でも使われます。自分にとって大切な出来事や心に残る思い出を表す時にも使われます。今年の夏、私自身にとってHelmiのように価値があると感じた景色があります。
私たちの家族は何度もフィンランドの多島海にサイクリングに行きました。今年も行きました。その時は雨も降らず天気に恵まれてきれいな景色を見ながらサイクリングを楽しみました。今回はそれほど多くの島に行きませんでしたが、以前にも泊まったことがある「Sottunga」という島に行きました。私たちはこの小さい島が好きになり、そこで一泊しました。「Sottunga」はフィンランドの中で最も小さい自治体で人口は300人ほどしかいません。島の雰囲気は明るくて、小さな港に沢山のヨットが停泊して観光客も多かったです。私たちはそこでもっと長く過ごしかったですが、今回は一泊だけでした。出発の朝私は早く起きて「Sottunga」の景色と朝の雰囲気を楽しみました。その景色は心に残り夏の「Helmi」のような思い出になりました。その朝太陽が輝いて静かな海を照らしていました。小鳥の鳴き声が聞こえました。その島の静かな美しい景色は強く心に残り私にとって夏の思い出の「Helmi」になりました。皆さんもこのようなかけがえのない価値がある思い出があるのではないでしょうか。
聖書の中にも宝石のように高価な「真珠」についてのお話があります。今日はそのお話を紹介したいと思います。これはイエス様が集まってきた人たちに話された例えです。タイトルは「天の国」です。イエス様は「天の国は次のように例えられる」と言われました。ある商人がきれいな真珠を探していました。特に価値が高い真珠が欲しかったのです。そのような真珠は見つかることが出来るでしょうか。商人はいろんな場所を探して、やっと高価な真珠を一つ見つけました。その真珠はとても価値が高いので、商人は「どうすればこの真珠を手に入ることができるだろうか」と考えました。「簡単に手に入らないかもしれません」と心配したかもしれません。しかし、商人はその真珠をどうしても欲しかったので、驚くことに自分が持っているものを全部売ってそのお金で真珠を買いました。その商人にとってそれほど価値があるものだったからです。商人は真珠を手に入れるために自分の財産を全部売ってしまいました。
この例えでイエス様は天の御国について何を教えられたのでしょうか。この例えの意味を少し見てみましょう。商人や真珠は何を意味しているでしょうか。先ず商人は私たち人間を意味します。私たちも商人のように真珠のような価値があるものを探し求めることではないでしょうか。私たちにとっての真珠とは一体どのようなものでしょうか?お金、素敵なお家、高級な自動車、社会的に地位の高い職場などでしょうか。今の私たしたちはこのようなものに価値があると思って欲しいと願うかもしれません。しかしこの例えに出てくる真珠は決してそのようなものではありません。例えの真珠は天の神さまのみ言葉を意味します。神さまのみ言葉を読んだり聞いたりすることで、私たちは神さまの私たちに対するみ心やご計画を知ることが出来るようになります。
神さまのご計画とはどのようなものでしょうか。それは私たち人間を救う計画です。私たちは完璧な存在ではなく、時には悪いことをしてしまうこともあります。それにもかかわらず神さまは私たち一人一人を愛して独り子のイエス様の十字架の出来事を通して私たちを救ってくださいました。この出来事を、自分のために起こったことだと素直に信じて受け取ると、神さまの御国への道が開かれます。天の御国への道が開かれるというのは人が所有する金銭や資産を上回る価値があるものです。だから商人は自分が持っているものを全て売り払ってこの真珠を手に入れたのです。天の神さまは私たちや世界の全ての人々の為にこのようなとても大きなな価値がある「天の神さまの元に入れる道」を開いて下さいました。それは真珠のように輝く最高の価値があるものです。
フィンランドの聖歌の中にこのような歌があります。「私はあの尊い真珠を見つけました。もう他に探し求めることはありません。これこそが私の宝、私はイエスを見つけたのです。」
福音ルーテル・スオミキリスト教会
聖霊降臨後第20主日 礼拝
マタイによる福音書 22章 01節
「主の婚礼の宴に招かれている恵み」
田口 聖
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなた方にあるように。アーメン。
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様。
イエス様は今日の箇所で、例えを用いてご自身の到来と救い、そして天のみ国について教えてくれています。21章では、イエス様はエルサレムに入りました。群衆はシュロの枝を敷き「ダビデの子ホサナ」とイエスを歓迎します(9節)。しかし、そのエルサレムのある人々は、その騒ぎを怪しみました。また神殿では、両替商や動物売りが座って商売をしていましたが、イエス様はそれを見て、『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている。」(13節)と言って、その腰掛けを倒されたのでした。一方で、そばに寄ってきた盲人や足の不自由な人々をイエス様は憐んで癒してあげました。しかし、エルサレムの宗教指導者たちは、それを見て、またエルサレムへ入る時のイエスへの歓迎を見て腹を立てます。彼らは救いの約束を与えられた民の聖書を教える指導者でありながら、つまり今日のところに照らして言えば、その約束が実現した宴に招かれているものでありながらも、イエス様に、そして、イエス様への歓迎する声や神の国のしるしに腹を立て拒んだのでした。
このエルサレムで、イエス様はやがて逮捕され裁判を受け苦しめられ十字架にかけられ死なれます。そのような約束を与えられた民からの拒絶はそのイエス様の受難、苦しみと死の序章ともなるものです。しかしここでイエス様が語られる例えは、恐ろしくもありながら、しかし同時に、救いの恵みを教えてくれているところでもあるでしょう。
2節、イエス様はこう語り出します。
「02節「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。 王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。
まず、イエス様は、父である王は、父なる神、そして王子は、その子、キリストを表していることがわかります。イエス様は、ご自身が神の御子であることを例えを通して示してくれています。
そして、イエス様は天のみ国、そして救い主であるご自身の到来を、「婚礼の宴」に例えています。これは決して新しいことではありませんでした。むしろこれは聖書が伝え約束してきたことでした。今日の旧約聖書のイザヤ書でも25章6節
「6節万軍の主はこの山で祝宴を開く。」
と約束されました。 また62章5節でも、
「若者がおとめをめとるようにあなたを再建される方があなたをめとり花婿が花嫁を喜びとするようにあなたの神はあなたを喜びとされる。
イザヤ書/ 62章 05節
とあります。また福音書でも、マルコによる福音書2章19−20節で、ユダヤ人たちから弟子たちはなぜ断食をしないのかと問われたイエス様は「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客が断食できるだろうか。花婿が一緒にいる間は、断食できない。
と答えます。またこのマタイ25章でも、灯火を持って「花婿」の到来を待ち望む乙女の例えをしています。さらにヨハネの福音書では、洗礼者ヨハネは、イエス様を指し示し「花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」(ヨハネ3章29節)と言いいました。このように、神は救い主イエス様の到来、そしてイエス様による天のみ国の実現を、婚礼として見ています。つまり、それは裁きでもなければ、上からの支配とか強制とか、そのようなものとして見ていません。「教会はキリストの花嫁」とも言われますが、イエス様は世に来られた花婿として、世との和解はもちろん、結婚という「一つとなる関係」の実現として見ていることがわかります。そしてそれは婚礼の「宴」であるでしょう。つまり、キリストの到来、そこにある天のみ国の実現は祝福であり、喜びであることをイエス様は示しているでしょう。しかし、イエス様は捕らえられ苦しめられ十字架にかけられ死ぬことを分かった上でエルサレムへと入ります。それこそを目的として実現するためにエルサレムに真っ直ぐに目を向けて歩んできました。しかしその苦しみと十字架を前にして、その苦難と十字架にこそ、私たちの救い、私たちの神の国が開かれ、しかもそれは苦しみや悲しみではない、重荷でもない、それは祝福であり喜びであることをも示していると言えるでしょう。みなさん、そのイエスの十字架の死と復活による救い、私たちが受けている救いは、決して律法や重荷ではない、紛れもなく祝福であり喜びである。これがまず第一に教えられます。
しかしです。当初招いていた人々は来ようとしなかったのでした。選びの民であるイスラエル、まさにエルサレムの宗教指導者たちは、そのように主の選び、主の約束を伝え、待ち望み、歓迎するべき人々でした。しかしそんな彼らは拒んだ、そのことをイエス様は示唆しています。さらに、こう続いています。4節以下です。
「そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。『招いておいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」』しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、 また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。
4節の、主人が家来たちに言わせた招く言葉は、イザヤ書25章6節にリンクしています。しかし、招かれていた人々は、それを無視しました。ともに喜ぶ祝宴の時への招待です。約束の花婿、救い主の到来です。しかし、その宴に赴こうとしません。それどころか、あるものは、自分たちの仕事に費やします。21章でイエス様が述べているように、神殿は祈りの家です。神に祈り求め、救い主を期待し待ち望むところです。しかしその場所を両替や商売の家にしてしまっていたのとこれは重なります。またこの無視をして仕事に行った人々の描写は、同時に、私たちに一方的な救いを与えてくださる恵みの救い主の到来を喜ぶのではない、恵みの神の恵みと憐れみのわざと約束にすがることに背をむけ自分自身で自分の利益を求める、自分自身の力で全てを実現していこうとした、あの初めの人たちの堕落の出来事、そしてそれを受け継いでいる私たち人間の性質にも重なるようにも思わされます。そして、6節、さらに別の人々はその使いの家来たちをなんと殺してしまったのでした。このことは旧約聖書の出来事を思い起こされるのではないでしょうか?列王記上18章では、北イスラエルのアハブ王の王妃イゼベルは主の預言者たちをことごとく虐殺しました。その悲惨な出来事から命狙われ荒野へ逃れたのがエリヤでした。エリヤは40日40夜歩き続けホレブの山の洞窟にたどり着いた時に、列王記上19章10、14節にある神への嘆きの言葉を述べているでしょう。それ以外にも、歴代誌下24章で、南のユダ王国でも、ゼカリヤが王の偶像崇拝を批判した時に、彼は王の命令により民によって石打ちで殺されました。エレミヤ書2章30節には、神がイスラエルの民を非難する言葉として「あなたがたの剣は、滅ぼし尽くす獅子のように、あなたがたの預言者たちを食い尽くした」ともあるのです。北のイスラエルも南のユダもまさに約束を受けた選びの民であり、まさに招待されていた人々であったのですが、彼らはその神の言葉を伝え、悔い改めを教えた預言者達を殺したということが事実あったのでした。そして、このイエス様の時代でも、同じように救い主の到来を伝え、イエス・キリストこそ罪を取り除く神の子羊であると、指し示した洗礼者ヨハネを、殺してしまうでしょう。そして何より、彼らは婚礼を拒むどころか、その花婿であるキリストを殺すことにもなります。しかしこのような主の言葉への拒絶や無視や暴力性はイスラエルに限ったことではありません。ルーテル教会の一致信条書にある和協信条では、神のみ言葉を軽んじるのは、歪んだ人間の意思によるものだ。それは聖霊の手段を拒絶し歪めることだとも述べられています(和協信条、根本宣言第11条41)。拒絶は神の責任ではありません。堕落した人間、私たちに一人一人の性質でもあるのです。そして7節にある通り、招待していた人々、選びの民の拒絶に対する神の怒りは明確なのです。選びの民だから罪は見過ごされる、何をしても多めにみられる、なんてとんでもない。神の特別な民だから特別扱いである。それもとんでもない曲解です。選びの民は、神の祝福と恵みの喜びを世に取り次ぐための「宣教の民」であるよう召されました。しかし選びの民の拒絶は、そのみ旨に反するだけでなく、神の前に罪であり、何より約束の救い主への拒絶は神の怒りであり、その裁きは免れない。そのことがはっきりとわかるのです。
しかし神の計画は裁きでは決して終わりません。祝宴も決して延期されないしキャンセルされないのです。花婿の到来は揺るぎません。8節以下、
「そして、家来たちに言った。『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。 だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』 そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。
「見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。」これは幸いな言葉ではありませんか。神様は、その婚礼の喜びを、世界中に広げたい。その想いがわかるでしょう。「誰でも」です。通りには、当時は虐げられていた女性も子供も、外国人も、貧しいものも罪人もいたでしょう。まさにこの福音書を書いた徴税人のマタイは、通りで税金を集めていた罪人でした。そのような罪人も通りにも沢山いるのです。しかし、主人は言うのです。「誰でも」です。ここに異邦人への福音宣教の主なる神、子なるキリスト、御霊なる主の御心が伝わってくるでしょう。事実、イエス様は、すべての人が避けて交わらない、そして救いには相応しくないとされていた罪人のところに行き食事をしました。彼らに悔い改めと福音を語りました。イエス様は言いました。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。
(マタイ9章12−13節)と。マタイはそのようにして救われついてきた一人です。そして、マタイの福音書は復活のイエス様が使徒達に「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、
(マタイ28章19節)と言って遣わすでしょう。まさに「誰でも」は、罪人はもちろん異邦人、全世界の人々へと向けられているのです。そのイエス様の福音がその言葉の通りに、アメリカにもフィンランドにも、そしてこの日本にも、私たち一人一人のところへと届けられているからこそ、私たちも救われている、婚礼の宴に招かれ、今その喜びにある。そのことを感謝したいのです。
そして、最後のところです。11節から
「王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。 王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。この者が黙っていると、 王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」
最後は厳しい言葉で終わっています。しかし、これは決して律法で私たちを遣わそうとしているのではないのです。「礼服を着ていないもの」とは何を指しているでしょう。当時は、婚礼に礼服を着て出席するのですが、個人で準備するのではありません。宴会の主人が礼服を準備して、招かれたものはそれを着て宴会に出席するのです。ですから礼服を自分たちが選んで買って準備をして来ていき出席するという現代の理解とは異なります。礼服は主人に準備されているのです。しかしそれを着ないと言うのは当然、失礼なことなのですが、このことは何を意味しているでしょう。
私たちは皆、主の婚礼に招かれています。そこに与る「ふさわしさ」はなんですか?それは信仰であり義認です。信仰も義認も神が一方的に与えてくださるものです。それは、私たちの義ではなく、キリストの義であり、それが与えられている、それが私たちに着せられている、まさに神の恵みです。それが神が準備してくださっている婚礼に出席するふさわしさです。ですから、私たちは今日も主が与えてくださった賜物である信仰をもって、主が備え与えてくださるキリストの義の衣を着せられてこの礼拝に集められています。そして、そのキリストの義の衣を着せられ、賜物である信仰をもって、それが何よりの相応しさとして聖餐に与るでしょう。それが婚礼の礼服です。救い、神の国は、花婿であるキリストが教会を花嫁としてくださっている喜びの婚礼の席です。私たちは皆、そこに招かれています。そこには何が必要ですか?何か立派な行いでしょうか?私たちがまず日常において何か立派な人間や社会に貢献でき、神の律法を完全に行って来たという自信や自慢が必要なのでしょうか?そうではありません。私たちはどこまでも罪深いものです。律法を完全に行えないものです。その律法に自分を照らすなら、何より心を尽くし、思いを尽くし、精神を尽くして神も隣人も愛することのできない、一人の罪人であることを何よりも気付かされるものです。ルターが言うように、私たちは「聖徒であり同時に罪人」なのです。私自身一人の罪人です。しかし、神はそのような私たちのために、キリストを送ってくださった。キリストはそんな私たちの友となってくださった。そして、そんな私たちの罪のために十字架にかかって死んでくださり、復活してくださった。そしてそんな私たちのために信仰を与えてくださり、キリストの義を着せてくださり、洗礼と聖霊を与えてくださった。そして今日も変わることなく、そんな私たちに、福音の約束と聖餐を与え、十字架の罪の赦しと復活の新しいいのちを宣言してくださいます。私たちはそれらの福音を、与えるために差し出されている救いを空っぽの手にそのまま受け取ること、そしてその祝宴、その救い、その神の国を、重荷とするのでも律法とするのでもなく、福音を心から喜ぶこと、それこそ婚礼の主人である神様が何より喜んでくださり、それこそ何よりの相応しさなのです。そして福音を受け取るからこそ私たちは福音によって世に遣わされ、福音にあって隣人のために用いられていくのです。今日もイエス様は変わることなく私たちに福音を宣言してくださいます。「あなたの罪は赦されています。安心していきなさい」と。ぜひ喜びと平安のうちにここから今日も世に遣わされていきましょう。
人知ではとうてい計り知ることのできない神の平安があなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン。