来週の礼拝:1月21日 顕現節第3主日 

司式 吉村博明 宣教師(SLEY)

説教 吉村博明 宣師(SLEY)

聖書  エレミア  16:14~21
    Ⅰコリント  7:29~31
    マルコ   1:14~20

賛美歌 56 288 170 278

奏楽 堀越教子 姉
当番 青木千恵 姉 
応対 折笠博子 姉

説教:木村長政 名誉牧師

第14回

コリントの信徒への手紙 3章18~23節

『この世の知恵と神の知恵』 2018年1月14日(日)

今年もコリントの信徒への手紙の御言葉と聞いていきたいと思います。今日は、3章18節から23節までです。今日の聖書の中心点は「この世の知恵と神の知恵」ということです。19節を見ますと、「この世の知恵は、神の前では愚かなもの」であると言っています。

その前のところで1章18節では次のように言っています。「十字架の言は滅び行く者には愚かであるが、救いにあずかる私たちには神の力である」とあります。十字架の言の力強い事を強調しています。更に1章25節には「神の愚かさは人よりも賢く神の弱さは人よりも強いからである」と言っています。人間というのはいつの間にか、神と人間の賢さとか、愚かさといったことを比べてしまうものです。自分でも気づかないうちに神のことが自分の思うようにならない、合点が行かないと思ったりしています。そうして人間の方が賢いように思ったりしているんです。

詩篇53篇1節に「愚かな者は心のうちに『神などいない』と思っているのではないか、ただ、そういう人は本当は愚かなのである。というわけです。

賢いとか愚かと言っても、普通の知恵や知識での話ではありません。

自分の持っている知識は神の知識に比べれば大海と砂浜に遊ぶ子どもの持っている貝殻の中の水ほどに少ないと言ったものである。

ここでは、そういう事を言っているのではなく、もっともっと神と対面して自分の貧弱さ、貧しさ救われなければならない罪の中にあるみじめな状態を知った者の言うことであります。

そこでパウロは言うのです。18節です。「誰も自分を欺いてはならない。もしあなた方の誰かが自分はこの世で知恵のある者だと考えているなら本当に知恵のある者となるためには愚かな者になりなさい。」というのであります。

この世の知恵は神の前では愚かなものだからです。ここで「この世」というのは目に見える、この世界のことだけでなく、目に見えないことも含めて、人間が支配者になっているように見える、この世ということであります。

知恵というのは何でしょうか。確かに知恵は人間をまことに生かすべきものであるはずです。しかし、知恵のあるところには誇りがあります。こうすれば自分は生きることができるという自信であります。

しかし自分の生き死について、本当は誇ることができません。なぜなら人間の生き死にについてはどんな人もどうすることもできないからであります。

自分の命を伸ばすことも短くすることもできません。

この手紙は神の愚かさと人間の賢さのことをしばしば取り上げています。そして神の前にまことに愚かになることによって心に賢くなることをすすめるのです。

神の賢さによって救われることを教えようとするのであります。

この世の知恵が神の御前に愚かであるのは、まずこの世の知恵は神の知恵に及ばないからであります。

神は天と地を創造しこれを支配しておられます。それに対して人間はその中に住む小さなものに過ぎません。その人間の知恵はとうてい神に及びません。私たちはこの世に生まれながら、何のために生まれたのかも知りません。この命は絶対に失われてはならないものであると確信しています。しかしなぜこの命がそんなに尊いものであるかは誰にもわかりません。この命は絶対に大切なものであると言いながら、また、その命の危うさを知っています。それはちょっとしたわずかなことに傷つき、心を痛め、悩んでしまうのであります。いろんな思わぬ出来事が起こっています。しかもそれが毎日のように私たちの周りで起こっていることであります。それにもかかわらず、私たちには、その理由がわかりません。生きていても漫然と月日は過ぎています。生きている事についてわからなければ、死についてはなおさらわかりません。死ほど毎日の私たちの周りで繰り返されているものはありません。

例えば、私の住んでいるマンションの前を毎日何回も救急車がピーポーピーポーと走って行きます。それで死についてつぶさに見ることも調べることもできません。

何十年も生きてきた命すらよくはわからないのです。

ここに言われているこの世の知恵が神の前に愚かであると言う事は、その程度のことを言っているのではありません。1章18節の言葉がそれを示しています。「十字架の言葉は滅びる者には愚かであるが救われるものには神の力である。」と言うことであります。私たちは生き死にについてなぜ知りたいのでありましょうか。

それはそのことを知ることによって本当に安心したいからであります。聖書の言葉で言えば、救われたいからであります。安心を得たい。揺らぐことのない幸福を得たい、と願って苦しみ続けるのであります。しかし私たちの考える事は空しくなってしまいます。

それは、生きることについても死ぬことについても最大の問題である罪から逃れることができないからであります。

罪を追い払うすべがないからであります。そういう知恵はどんなに利口そうに見えても愚かしいものであります。

それに対して神がお与えになった知恵は何であったでしょうか。それは神の御子が十字架にかかって人間の罪のために死ぬと言うことであります。

これこそ十字架の言葉であります。

これはまことに愚かしいもの知恵らしからぬことでありました。

多くの人がはじめにはそれを軽蔑いたしました。この単純なことが何の役に立つのかと思うからであります。

しかしこれを信じたものは皆ここにこそ救いがあったことを発見いたしました。それは簡単な話ではなく神が考えに考え抜いた愛の極みであることがわかったからであります。

人間の欲深い知恵と違ってこれは神が人間を愛しその罪を救うためにとられた最後の愛の御業であったからであります。

それは知恵の好きなギリシア人にはわからない神の知恵でありました。神の力でありました。それゆえに人間の知恵は神の前に愚かなものなのであります。それでパウロは19節と20節に旧約聖書からの引用を二つ持ってきています。

19節はヨブ記512節です。

「神は知恵のある者たちをその悪賢さによって捕えられる」。

そして20節の方では詩編9411節であります。「主は知っておられる。知恵のある者たちの論議が空しいことを」と書いてある。

ここで言われている事はそれほどに神の救いの知恵が大きいと言うことなのであります。だから人間は誰も自分を誇ってはならないのであります。

知恵の話がただの知恵や知識のことでなくて救いの話であります。そのことは旧約聖書からの引用を示してパウロは突然に21節に書いています。

「全てはあなた方のものです」あなた方とは誰のことでしょうか。ここではコリントの教会のことです。これは教会を指しているのです。そうであれば全てはあなた方のものと言うのは、すべては教会に属する事と言うことです。つまり教会のことを正しく知ることですべての事は分かると言うのです。

前回3章1617節で突然に「あなた方は神の宮である」と書いていました。これらを信仰の立場から言えばわかりやすいことです。つまり信仰生活の最後の目的は教会生活であると言うこと。それだからパウロは言ったのです。あなた方は神の宮であると。そして最後に建てられるべきものは神殿であります。

目に見える神殿ではなく、最後の願いは信仰による神殿が建てられ、そこで全ての人間が神を礼拝することを喜びとするようになることです。そうであれば今は惨めなみすぼらしいものかもしれません。しかしそこでは一切のものが神のために自分があるということがわかるでしょう。そうするとすべてのものが自分は何のために生き、何のために死ぬかもわかってくるでしょう。

このように神殿は一切のことを受け入れすべてのものを生かす場所になる。そうしますとパウロが22節で言っていることがじーんと深くわかってくるのです。

22節には「パウロもアポロもケパも世界も生も死も、現在のものも将来のものもことごとくあなた方のものである」。この言葉にダイナミックに深く分かってくるのであります。

信仰を持ったあなたがあったが一人ひとりの役割を十分に活かして互いに協力し合い組み合わさって大きな1つの神殿となることであります。こうした教会が神殿であればそれこそキリストの教会であり、キリストの神殿、教会はキリストのからだであると言われます。これらの全てのものはキリストに受け入れられると言うことになるのであります。ですからパウロは最後のところで23節に「あなた方はキリストのもの」なのだ。そして「キリストは神のものである」と言うのです。

そして信仰生活に入ると言う事は何か特別な人生観を持ったり特別な生活をすることでなくそれはキリストのものになることであります。自分のものであってもはや自分のものでなくなるのであります。誰でも自分こそ自分のものであると思いながらそれが重荷でどうしようもないような気持ちになるのではありませんか。その時自分が自分のものでなくキリストのものであると言われることこそ救いであります。

自分が救われた経過から言えば自分は神のものであるに違いないが、まず、キリストに救われた、キリストのものと言うべきでありましょう。そしてそのキリストこそはまことに神の子であられるのです。

アーメンハレルヤ!

1月20日「家庭料理クラブ」のご案内

野菜たっぷりのスープ

1/20(13:00~)の家庭料理クラブは、野菜たっぷりのスープとオートミールのパンを作ります。

野菜スープとオートミールたっぷりのパンは、どちらも食物繊維が多く、優しい味わいです。
スープにはカッテージチーズを添えて召し上がって頂きます。

寒い季節、暖かなスープとホカホカのパンをご一緒に作りましょう‼
ご参加お待ちしています。

料理クラブは、要予約です。メールアドレスはこちらのページにご覧下さい。

交わり

今日は寒い一日でしたがはじめて来られた方も交えて楽しく歓談しパイヴィー先生の炊き込みご飯を美味しくいただきました。

聖書研究会:神学博士 吉村博明 宣教師(SLEY)

今日のテーマは「ローマ信徒への手紙 3章」でした、今回は難解な「義」について解説したいただきました。

歳時記

先月のこの時間(凡そ16時)には日が暮れて夜の帳が下りていましたがご今は覧のとおり木立が残照を浴びて黄金色に輝いていました。これから夏至に向かって一日一日と日が延びてゆくことでしょう、地球と太陽の関係では簡単に説明できますがやはり天地創造の神の御業を思い起こさずにはいられませんでした。 T.H生

説教「自分を見つめる座標軸」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイによる福音書2章1-12節

主日礼拝説教 2018年1月7日(顕現主日)

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

 本日の福音書の箇所は、何かおとぎ話めいて本当にこんなことが現実にあったのか疑わせるような話です。はるばる外国から学者のグループがやってきて誕生したばかりの異国の王子様をおがみに来るとか、王子様の星をみたことが彼らが旅立つきっかけになったとか、そして、その星が学者たちを先導して王子様のいる所まで道案内するとか、こんなことは現実に起こるわけがない、これは大昔のおとぎ話だと決めつける人もでてきます。

 本日の箇所に限らず、聖書には、奇跡や超自然的な現象が数多く登場します。イエス様についてみても、おとめからの誕生、難病や不治の病を次々に完治したり自然の猛威を静めたりするなどの数々の奇跡の業、そして死からの復活等々、枚挙にいとまがありません。聖書を読む人のなかには、そのような記述は古代人の創作だと決めてかかる人もいます。そういう人にとって聖書は信仰の書でも神の言葉でもなく、古代オリエント世界の人たちの考えや文化を知るための一つの文化遺産にしかすぎません。他方では、奇跡や超自然的な現象は信じないが、イエス・キリストは「信奉」してもいいという人もいます。イエス・キリストは当時のユダヤ教社会でとても革新的なことを教え、その教えの多くは現代にも通じるものがある、だからその通じるものに注目して(逆に言えば通じないものは排除して)現代社会の諸問題の解決に役立てていこうと。つまり、イエス・キリストを何か一つの主義とか思想を打ち立てた思想家、イデオローグと見なすということです。また、彼がもとでキリスト教が生まれたのだから、仏陀やモハメッドのように一つの宗教の教祖とみなす人もいます。教祖であれば、仏陀やモハメッドが人間だったのと同じように、イエス・キリストも彼ら同様一人の卓越した人間だったとみられていきます。そうなると、イエス様を三位一体の神の一をなす神の子であると信じる信仰となじまなくなります。イエス様が「信仰」の対象というより、「信奉」の対象になります。

 本説教では第一の教えとして、本日の福音書の箇所はおとぎ話と決めつけるには歴史的信ぴょう性が高い記述であるということを述べます。歴史を100パーセント復元してみせることは不可能です。しかし、本日の箇所は100パーセントとはいかなくとも、80パーセント位は歴史的事実と言っていいのではないか、それくらい信ぴょう性が高いということを見ていこうと思います。このことは、実は2年前の当教会の説教でも申し上げました。お聞きにならなかった方もいらっしゃるので、駆け足でおさらいをしておきます。その次に第二の教えとして、聖書に書いてある出来事が80パーセントくらいは真実とみなせるなら、それなら信じてもいい、ということになるのか?それとも、いや、やはり100パーセント確実でないと信じられない、ということになるのか?そういう疑問にどう答えたらよいかを見ていこうと思います。2年前の説教では、聖書に書いてある出来事が100パーセント真実であると確かめることは信仰の出発点にはならない、信仰の出発点は100パーセントの信ぴょう性とは別のところにある、ということを申し上げました。本日の説教でも同じ答えですが、今回は別の角度から見ていこうと思います。そういうわけで本日の説教は二部構成です。

2.

本日の福音書の箇所に記された出来事の歴史的信ぴょう性についてみてみましょう。出来事の中でも特に思議な星についてはいろいろな説明があるようですが、本説教はスウェーデンの著名な歴史聖書学者イェールツ(B. Gierts)の説明に多くを負っています。

1600年代に活躍した近代天文学の大立者ケプラーは太陽系の惑星の動きをことごとく解明したことで有名です。彼は、紀元前7年に地球から見て木星と土星が魚座のなかで異常接近したことを突き止めていました。他方で、現在のイラクを流れるチグリス・ユーフラテス川沿いにシッパリという古代の天文学の中心地があって、そこから古代の天体図やカレンダーが発掘され、その中に紀元前7年の星の動きを予想したカレンダーもありました。それによると、その年は木星と土星が重なるような異常接近する日が何回もあると記されていました。二つの惑星が異常接近するということは、普通よりも輝きを増す星が夜空に一つ増えて見えるということです。

そこでイエス様の誕生年についてみると、本日の福音書の箇所に続くマタイ2章13-23節によれば、イエス親子はヘロデ王が死んだ後に避難先のエジプトからイスラエルの地に戻ったとあります。ヘロデ王が死んだ年は歴史学では紀元前4年と確定されていて、イエス親子が一定期間エジプトにいたことを考慮に入れると、木星・土星の異常接近のあった紀元前7年はイエス誕生年として有力候補になります。ここで決め手になりそうなのが、ローマ皇帝アウグストゥスによる租税のための住民登録がいつ行われたかということです。残念ながら、これは記録が残っていません。ただし、シリア州総督のキリニウスが西暦6年に住民登録を実施した記録が残っており、ローマ帝国は大体14年おきに住民登録を行っていたので、西暦6年から逆算すると紀元前7年位がマリアとヨセフがベツレヘムに旅した住民登録の年として浮上します。このように、天体の自然現象と歴史上の出来事の双方から本日の福音書の記述の信ぴょう性が高まってきます。

次に、東方から来た正体不明の学者グループについて。彼らがどこの国から来たかは記されていませんが、チグリス・ユーフラテス川の地域は古代に天文学がとても発達したところで、星の動きが緻密に観測されて、それが定期的にどんな動きをするかもかなり解明されていました。ところで、古代の天文学は現代のそれと違って、占星術も一緒でした。星の動きは国や社会の運命をあらわしていると信じられ、それを正確に知ることは重要でした。もし星が通常と異なる動きを示したら、それは国や社会の大変動の前触れでと考えらました。それでは、木星と土星が魚座のなかで重なるような接近をしたら、どんな大変動の前触れと考えられたでしょうか?木星は世界に君臨する王を意味すると考えられていました。土星についてですが、もし東方の学者たちがユダヤ民族のことを知っていれば、ああ、あれは土曜日を安息日にして神に仕える民族だったな、とわかって、土星はユダヤ民族に関係する星と理解されたでしょう。魚座は世界の終末に関係すると考えられていました。以上、木星と土星が魚座のなかで異常接近したのを目にして、ユダヤ民族から世界に君臨する王が世界の終末に結びつくように誕生した、という解釈が生まれてもおかしくないわけです。

 それでは、東方の学者たちはユダヤ民族のことをどれだけ知っていたかということについてみてみましょう。イエス様の時代の約600年前のバビロン捕囚の時、相当数のユダヤ人がチグリス・ユーフラテス川の地域に連れ去られていきました。彼らは異教の地で異教の神崇拝の圧力にさらされながらも、天地創造の神への信仰を失わず、イスラエルの伝統を守り続けました。この辺の事情は旧約聖書のダニエル書からもうかがえます。バビロン捕囚が終わって祖国帰還が認められても、全てのユダヤ人が帰還したわけではなく、東方の地に残った者も多くいたことは、旧約聖書のエステル記から伺えます。そういうわけで、東方の地ではユダヤ人やユダヤ人の信仰についてはかなり知られていたと言うことができます。「あの、土曜日を安息日として守っている家族は、かつてのダビデ王を超える王メシアが現れて自分の民族を栄光のうちに立て直すと信じて待望しているぞ」などと隣近所は囁いていたでしょう。そのような時、世界の運命を星の動きで予見できると信じた学者たちが二つの惑星の異常接近を目撃した時の驚きはいかようであったでしょう。

学者のグループがはじめベツレヘムでなく、エルサレムに行ったということも興味深い点です。ユダヤ人の信仰をある程度知ってはいても、旧約聖書自体を研究することはなかったでしょう。それで、本日の箇所にも引用されている、旧約聖書ミカ書にあるベツレヘムのメシア預言など知らなかったでしょう。星の動きをみてユダヤ民族に王が誕生したと考えたから、単純にユダヤ民族の首都エルサレムに行ったのです。それから、ヘロデ王の反応ぶり。彼は血筋的にはユダヤ民族の出身ではなく、策略の限りを尽くしてユダヤ民族の王についた人なので、「ユダヤ民族の生まれたばかりの王はどこですか」と聞かれて慌てふためいたことは容易に想像できます。メシア誕生が天体の動きをもって異民族の知識人にまで告知された、と聞かされてはなおさらです。それで、権力の座を脅かす者は赤子と言えども許してはおけぬ、ということになり、マタイ2章の後半にあるベツレヘムでの幼児大量虐殺の暴挙に出たのです。

以上みてきたように、本日の福音書の箇所の記述は、自然現象から始まって当時の歴史的背景全てに見事に裏付けされることが明らかになったと思います。しかしながら、問題点もいくつかあります。一つ大きなものは、東方の学者グループがエルサレムを出発してベツレヘムに向かったとき、星が彼らを先導してイエス様がいる家まで道案内したということです。これなど本日の箇所で一番SFじみていて、まともに信じられないところです。人によっては、ハレー彗星のような彗星の出現があったと考える人もいます。それは全く否定できないことです。ただし、本説教では、確認できることだけをもとにして記述の信ぴょう性をみていこうという方針なので、彗星説は可能性はあるけれどもちょっと脇においておきます。先に述べたように、木星と土星の重なるような接近は紀元前7年は一回限りでなく、何回も繰り返されました。エルサレムからベツレヘムまで10キロそこそこの行程で学者たちが目にしたのは同じ現象だった可能性があります。星が道案内したということも、例えば私たちが暗い山道で迷って遠くに明かりを見つけた時、ひたすらそれを目指して進みますが、その時の気持ちは、私たちの方が明かりに導かれたというものでしょう。劇的な出来事をいいあらわす時、立場をいれかえるような表現も起きてくるのです。もちろん、こう言ったからといって、彗星とか流星とかまた何か別の異例な現象があったことを否定するものではありません。ここでは、ただ確認できることだけに基づいて福音書の記述をみてみるということです。

確認できることはとても限られています。現在の時点で入手可能な資料や天文学や科学の成果をもってしても確認できないことに出会った時は、すぐ「ありえない、存在しない」と決めつけてしまうのではなく、それは、現在の知識の水準を超えたことで肯定も否定もできないのだと、一時保留の態度がよいのではないかと思います。とにかく神は太陽や月や果ては星々さえも創造された(創世記1章16節)方なのですから、東方の星やベツレヘムの星が、現在確認可能な木星と土星の異常接近以外の現象である可能性もあるのです。

(ここで、ひとつ余計なことを述べますが、歴史的信ぴょう性ということについて、キリスト教は他の宗教にない負荷を負っていると思います。他の宗教では、教典に書かれていること、創始者の言ったこと行ったことの記述の歴史的信ぴょう性が果たしてキリスト教のようにうるさく問われているでしょうか?皆さん、案外、何の疑問もなくその通りだと素直に信じているのではないでしょうか?キリスト教神学の特に聖書の成立を扱う分野などは、「このイエスの言葉は、実は本人が言ったものではなく、初代のキリスト教徒の考えをイエスが言ったものにして書いた」などという批判的な研究がごまんとあります。もちろん、そういう結論に対する反論もあるのですが、同じような批判的な研究手法を用いて他の宗教の教典を分析したら、どんなことになるでしょうか?)

3.

以上、本日の福音書の箇所の記述は、現時点で確認できる事柄をもってしても、空想の産物として片づけられない真実性がある、主観が混じっているかもしれないが実際に起きたことについての忠実な記録であると言っても大丈夫なことが明らかになりました。それでは、これであなたは聖書に書いてあることが本当であるとわかって、イエス様を救い主と信じますかと聞くと、なかなかそうはならないのではないかと思います。仮に本日の箇所はOKだとしても、他の奇跡や超自然的な出来事の真実性はどう確認できるのか、と問い始めるでしょう。そういう人は、タイムマシンにでも乗って聖書に書かれてある出来事が全て記述のとおりに起きたことを自分の目で見て確認できない限りは信じないと言っているのと同じです。ところが、キリスト信仰者はイエス様を目で見たことがなく、彼の行った奇跡も十字架の死も復活も見たことはないのに、彼を神の子、救い主と信じ、彼について聖書に書かれてあることは、その通りであると受け入れています。タイムマシンはいらないのです。どうしてそんなことが可能なのでしょうか?

 そこでまず、イエス様を救い主と信じる信仰が歴史上どのように生まれたかをみてみます。はじめにイエス様と行動を共にした弟子たちがいました。彼らはイエス様の教えを直に聞き、時には質疑応答をしたりして、しっかり記憶にとどめました。さらにイエス様に起こった全ての出来事の目撃者、生き証人となり、特に彼の十字架の死と死からの復活を目撃してからはイエス様こそ旧約聖書の預言の成就、神の子、救世主メシアであると信じるに至りました。自分の目で見た以上は信じないわけにはいきません。こうして、弟子たちが自分で見聞きしたことを宣べ伝え始めることで福音伝道が始まります。支配者たちが、イエスの名を広めてはならない、と脅したり迫害したりしても、見聞きしたことは否定できませんから弟子たちとしては伝道を続けるしかありません。

そうした彼らの命を顧みない証言を聞いて、今度はイエス様を見たことのない人たちが彼を神の子、救い主と信じるようになりました。そのうちに信頼できる記録や証言や教えが集められて聖書としてまとめられ、今度はそれをもとにより多くのイエス様を見たことのない人たちが信じるようになりました。それが時代ごとに繰り返されて、2000年近くを経た今日に至っているのです。

 では、どうして聖書に触れることで、会ったことも見たこともない方を神の子、救い主として信じるようになったのでしょうか?それは、遥か昔のかの地で起きたあの十字架と復活の出来事は、実は後世を生きる自分にも関わっていたのだ、あの出来事は神がこの私のためにイエス様を用いて成し遂げられたのだ、そう気づいて信じたからです。それでは、どのようにしてそう気づき信じることができたのでしょうか?皆さんはどのようにしてそうできたか覚えていらっしゃいますか?

 イエス様を救い主と信じ受け入れた人たちみんなに共通することがあります。それは、自分というものを見つめる時に神との関係においてそうするということです。ご存知のように、聖書の立場では、神というのは天と地と人間を造り、人間一人一人に命と人生を与える創造主です。それで、神との関係において自分を見つめるというのは、自分には造り主がいると認め、その造り主と自分はどんな関係にあるかを考えることになります。

自分には造り主がいると認めると、造り主は自分に何か考えや目的を託してこの世に送り出したのだ、ということもわかってきます。まさに、この世を生きることには意味があるということが、自分を造り主との関係に置くことでわかってくるのです。

しかしながら、造り主の神は自分にどんな考え、何の目的をもって自分を造ってこの世に送り出したのか、その考え、目的ははっきりわかりません。仮に、自分は自分の持てる能力を駆使して何か大きな事業を起こして名声と財産を得よう、それこそが神が自分を造った目的だと考えて、それを目指すとします。もし、それが達成できたら、自分は神が託した目的を果たしたと考えることになるでしょう。しかし、もし達成できなかったり失敗したりしたら神の目的を果たせなかったということになってしまいますが、果たしてそう言ってよいでしょうか?また仮に成功しても、それが神の意思に反する仕方で行われたものなら、たとえ成功しても神の目的を果たしたと言えるでしょうか?

神の意思というのは、十戒に凝縮した形であります。もし成功や達成が、父母をないがしろにしたり、他人を肉体的精神的に傷つけたり、困っている人を見捨てたり、不倫をしたり、事実に反することを言ったり行ったりしたり、妬みや嫉妬を原動力にして獲得されたものならば、それは神の目的とは言えません。十戒には「~してはならない」という否定の命令が多くありますが、宗教改革のルターは、そこには「~しなければならない」という意味も含まれていると教えます。例えば、「汝殺すなかれ」は殺さないだけでなく、隣人の命を守り、人格や名誉を尊重しなければならないこと、「汝盗むなかれ」は盗まないだけでなく、隣人の所有物や財産を守り尊重しなければならないこと、「姦淫するなかれ」は不倫しないだけでなく、夫婦が愛と赦し合いに立って結びつきを守らなければならないことを含むのです。これらも神の意思なのです。

加えて、十戒の最初は天地創造の神以外を崇拝してはならないという掟です。これを聞いて大抵の人は、ああ唯一絶対神の考えだな、こんな掟があるから宗教戦争が起きるのだと考えがちです。しかし事はそう単純ではありません。使徒パウロは「ローマの信徒への手紙」12章で「悪に対して悪で報いるな、善で報いよ」と教えていますが、その根拠として「復讐は神のすることである」と言います。神がする復讐とは、最後の審判の日に全ての悪が最終的に神から報いを受けることを意味します。つまり唯一絶対神を信じるというのは実に仕返しの権利を全部神に譲り渡すということなのです。そんな丸腰では危ないではないか、やられたのにやり返さなかったら相手の言いなりではないかと言われるでしょう。しかしパウロはただ、「全ての人と平和な関係を持ちなさい、相手がどんな出方をしようが自分からは平和な関係をつくるようにしなさい」と言うだけです。このように唯一絶対神を持つということは、神の正義と人間の正義の緊張関係の中に置かれて、もがかなければならないことを意味します。

さて、造り主である神が自分にどんな目的を託しているのかという問題に戻ります。以上のような神の意思というものを考えると、人間が何かを成し遂げる、その「何か」そのものに神の目的があるのではなく、むしろ、「どのように」成し遂げるか、というところに注意しなければなりません。神の意思に注意しながら「どのように」ということを考えていくと、成し遂げる「何か」も見えてくるのではないかと思います。特に自分が置かれた境遇や状況をよく見て、またそれまで歩んだ道や経験を踏まえて、神の意思に注意していけば何をすべきかは自ずと方向性が決まってくるのではないかと思います。神は拠り頼む者の祈りを必ず聞き遂げて下さるというのが聖書の立場です。神との関係において自分を見つめ捉え直そうとする人の祈りを、神は必ず聞き遂げて、道を示して下さる筈です。

 造り主との関係において自分を見つめるようになると、神の前に立たされた時、自分は神に相応しくない者であることに気づくことも起きてきます。というのは、神は罪を忌み嫌う神聖な方であり、人間の罪を汚れとみなし、それを焼き尽くさずにはいられない方だからです。自分は完璧で、神の前に立たされても何も問題はない、神と対等にやっていける、などという人間はいません。自分は神の意思に沿えない者だと気づかされると、人間は後ろめたさや恐れから神から遠ざかろうとします。そうなってしまうと、自分を見つめたり捉えることを造り主との関係に置かないで、別のものに置いてするようになってしまいます。

まさにそのような時に、イエス様が何をして下さったか、神はどうしてイエス様を送られたのかを思い返します。神聖な神のひとり子が人間の罪を自ら被って人間のかわりに神罰を受けて死なれた、そのかわりに彼を救い主と信じて受け入れる者に彼の神聖さを被せて下さった、それでイエス様を信じる者は神の前に立たされても大丈夫とされ、後ろめたさや恐れを拭い去ることができるのです。本日の使徒書であるエフェソ3章の12節で使徒パウロは「わたしたちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって、大胆に神に近づくことができます」と述べます。これを少し注釈しながら言い換えますと、「私たちは、イエス様を救い主と信じる信仰により彼としっかり結びついているのであり、その信仰を通して、神の前に立たされても大丈夫という確信がある、それで、神の前に勇気をもって歩み出ることができる」ということです。これは真理です。そのようにしてもらった以上は、これからは神に背を向けるのではなく、逆に、被せてもらった神聖さに恥じない生き方をしよう、それを汚さないようにしよう、という心になります。

 そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、造り主である神との関係の中に自分を置くことは、まさに自分を見つめる座標軸です。今年もその座標軸をしっかり持って歩みましょう。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

聖餐式:木村長政 名誉牧師

交わり

今年初めての教会ランチはカレーライスでした、キッチンの方からカレーの良い匂いしてきますのですぐ分かりました。、食後は皆でクリスマスの後片付けで腹ごなしをしました。

歳時記

目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。わたしの助けは来る 天地を造られた主のもとから。 詩篇121

今年もしっかり目を上げて主の助けを求めます、主よスオミ教会の進むべき道を照らしてください。 T.H生

説教「あわてるな、落ち着け、イエス様が共におられる」神学博士 吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書2章1節-11節

主日礼拝説教 2017年12月31日 降誕後主日

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.本日の福音書の箇所は、ガリラヤのカナという町でイエス様が行った奇跡の業についてです。これは福音書の中でよく知られている話の一つです。結婚式の祝宴でお祝いに飲むぶどう酒が底をついてしまった。そこで、イエス様が水をぶどう酒に変える奇跡を行って、祝宴は無事に続けられたという話です。奇跡と呼ぶには、少し大げさに聞こえるかもしれませんが、結婚式の祝宴はイエス様の時代にも大がかりなものであったことを考えてみるとよいでしょう。祝宴会場にユダヤ人が清めに使う水を入れた水瓶が6つあり、それぞれ2,3メトレテス入りとあります。一つにつき80-120リットル入りです。それが6つありました。すでに出されていたぶどう酒が底をついてしまった時に、イエス様は追加用にこの水瓶の水全部480-720リットルをぶどう酒に変え、祝宴が続けられるようにしたのです。一人何リットル飲むかわかりませんが、相当大きな祝宴であったことは想像つきますし、大量の水を一瞬のうちにぶどう酒に変えたというのは、やはり奇跡と言うしかありません。

 この福音書の箇所はまた、イエス様が困難に陥った人を助けてくれる心優しい方であることを述べている箇所としても知られ、結婚式に関わる出来事なので、キリスト教会の結婚式や婚約式での説教にもよく用いられます。あなたたちはこのように見守ってくれる主の御前で式をあげているんですよ、あなたたちにはこのような優しい方がついておられるんですよ、というメッセージは、新郎新婦のみならず列席者の人たちみんなに微笑ましい雰囲気を与えるものでしょう。

ところが、この箇所はよく読んでみると、わかりにくいことがいろいろあります。それは、ぶどう酒が底をついた時に、イエス様の母マリアが彼に、もうぶどう酒がない、と言った時のイエス様の答えです。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」という答えです。「わたしとどんなかかわりがあるのです」というのは、ギリシャ語の原文が少しわかりにくいのですが、直訳すると「この件に関して、私とあなたとの間にはどんな関係があるのか」、もう一歩訳し進めると「この件に関して、あなたはわたしに何を求めるのか」という意味になります。そのすぐ後にイエス様は、「わたしの時はまだ来ていないのだ」と続けます。ぶどう酒がなくなった、と言われて、イエス様は、はい、わかりました、ひと肌脱ぎましょう、とは言いません。彼の答え方はまるで、自分の知ったことではない、と突き離すものに聞こえます。心優しいどころか、何と冷たい人なのかと思わされます。しかも、自分の母親に対して、お母さん、とか母上ではなくて、「婦人よ」とは何と他人行儀も甚だしく、思いやりのない言葉に聞こえます。ところが、このような冷たい答えにもかかわらず、マリアは何を思ったのか祝宴の召使いに、イエスが何か命じたらすぐそれを実行するように、と言いつけます。つまりマリアは、イエス様の一見冷たく聞こえる答えの中に拒否ではないものを感じ取って次の動きに備えたのです。

結果は、大量の、しかも上等のぶどう酒が出てきて、優しいイエス様の面目は保たれます。それにしても最初のやりとりはわかりにくいです。イエス様はあまのじゃくで、素直な方ではないと思わされます。しかしながら、実はイエス様はあまのじゃくでもなんでもなく、ちゃんと意味の通る会話をしているのです。そのことは、「わたしの時はまだ来ていない」という言葉を理解できればわかります。以下それを見ていきたいと思います。

2.その前にもう少し出来事の状況を把握してみましょう。テキストはそんなに詳しく記していませんが、手掛かりはいろいろあります。まず、マリアもイエス様も弟子たちも祝宴に招かれていましたが、興味深いのは「イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた」(2‐3節)と言われ、マリア、イエス様、弟子たちが招かれた、とは言われていないことです。マリアは、ただ単に招かれたイエス様と弟子たちと別扱いです。後の方でマリアは召使たちに命じることもして、召使たちは聞き従っていますから(5節)、彼女は単なるお客様でなくて何か役割を持っていたのではないかと思われます。それならば、ぶどう酒がもうすぐ底をつく時の心配は他人事ではなかったでしょう。

そうすると、マリアがイエス様に「ぶどう酒がなくなりました」と言った時(3節)、それは落ち着きを失って慌てふためいた言い方だったと思われます。それに対してイエス様は、「婦人よ、この件で私に何を求めるのか、私の時はまだ来ていない」と答えました。さて、マリアはイエス様に、お願い、何とかして!と頼んだのでしょうか?それとも、ぶどう酒がない、ぶどう酒がない、ああ、どうしよう、とおろおろしている様子を示しているだけだったのでしょうか?11節をみると、このぶどう酒の奇跡がイエス様が公けに行った奇跡の最初と言われています。そうならば、マリアも弟子たちもイエス様が水をぶどう酒に変える力があるとはまだわかりません。お願い、何とかして、と言うのだったら、早く弟子たちと一緒に買い集めてきて、というお願いになったでしょう。でも、13人の男で500リットルのぶどう酒をどうやって大至急で調達と搬送ができるでしょうか?それが不可能であることはマリアにもわかるはずです。それで、「ぶどう酒がなくなりました」というのは、もう本当におろおろしている状態で言ったのだと思われます。

そうすると、イエス様の言葉は、慌てふためいているマリアを落ち着かせるものであることが見えてきます。お母さん、しっかりして!と言わないで、婦人よ、と少し距離を置いて、この件で私を関与させつつ何をどうしたいのか、言葉に出して言ってみなさい、と促すのです。しかし、マリアとしては、何をどうしたいかはわかりますが、不可能なことなので言葉にしても意味がないと思ってしまいます。そうしたら、何も言えないでしょう。そこでイエス様は言われました。「私の時はまだ来ていない。」いよいよこの言葉の意味を見ていきましょう。

3.「わたしの時」とはどんな時で、その時が来るのはいつなのでしょうか?ヨハネ12章で、次のような出来事があります。イエス様が最後のエルサレム入城を果たして、大勢の群衆の前で神や神の国について教え、またユダヤ教社会の指導層と激しい論争を行っていた時でした。地中海世界の各地から巡礼に来ていたユダヤ人たちが、イエス様に会いたいと言って来ました。それを聞いたイエス様は弟子たちに次のように言いました。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(12章23節)。さらに、ヨハネ17章で、十字架にかけられる前夜の最後の晩餐の席上、イエス様は次の祈りを父なるみ神に捧げました。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を顕すようになるために、子に栄光を与えて下さい」(17章1節)。

つまり、「イエス様の時」とは、イエス様が拷問などの苦しみを受けて十字架にかけられて死を遂げる時、そして十字架の後で神の力で死から復活させられて神の栄光を現わす時のことです。イエス様が苦しみを受けて十字架にかけられて死ななければならなかったのは、これは、人間が全ての罪を神から赦していただくための神聖な身代わりの犠牲となるためでしたから、これは神にとっても人間にとっても大事な時だったのです。さらに、イエス様が死から復活させられたことで、死の力が無力にされて死を超える永遠の命の扉が開かれることになりました。人間は、父なるみ神とみ子イエス様のおかげで、神との結びつきを持ってこの世を生きて、死を超えた永遠の命に至る道を歩む可能性を与えられたのです。「イエス様の時」とは、まさに人間にこの可能性を与える出来事を起こす時、十字架と復活の時を意味したのです。各地からイエス様に会いたいと人が来たのを聞いて、イエス様はいよいよ、この出来事が起きた後でその知らせが世界中に伝わる素地が整ったと判断されたのでしょう。

そういうわけで、「わたしの時はまだ来ていない」というのはどんな意味かというと、「まだ、私が十字架の苦しみの道に入ってお前たちから離れる時ではない。まだおまえたちのもとにいて神の意思と神の国について教え、神がおまえたち人間をどれだけ愛してくれているか、それを教えと奇跡の業を通して示していかなければならないのだ。まだ十字架と復活の前の今は、私はお前たちと共にいてこのミッションを行う時なのだ」という意味になります。

 

4.このように「わたしの時はまだ来ていない」というのは、まだ十字架と復活の時ではない、まだおまえたちのもとにいてミッションを行う時だ、という意味だとわかれば、「わたしの時はまだ来ていない」という言葉は奇跡の業を行うことと関係があるとわかってきます。

イエス様の奇跡の業は枚挙にいとまがありません。大量の水を一瞬のうちにぶどう酒に変えた本日の出来事を皮切りに、数多くの難病や不治の病を癒してあげたり、一度息を引き取った人を生き返らせたり、大勢の群衆の空腹を僅かな食糧で満腹にしてあげたり、自然の猛威を静めたり、悪霊に憑りつかれている人からそれを追い出したり、と無数にあります。

イエス様がこのように人助けの奇跡の業を数多く行った理由として、イエス様も彼を送った父なるみ神も、優しい愛に満ちた方で困っている人を助けずにはいられない方、というふうに考える向きが多いと思われます。もちろん、イエス様も父なるみ神も優しくて愛に満ちた方というのは否定できないから、そう見ることもできますが、それだけが奇跡の業を行った理由というのは一面的すぎるでしょう。もし、それだけならば、イエス様はなぜもっと地中海の東海岸地方だけでなくてもっと広く世界各地を回って奇跡の業をし続けなかったのか、ということになります。世界各地にはまだまだ病気や飢饉はあちこちにあったのですから。しかし、イエス様は時間一杯とばかり、30歳そこそこでミッションを打ち切ってさっさと十字架の苦しみの道に入られました。しかしそれは、イエス様と父なるみ神にとって、十字架と復活の出来事を起こして、早く神と人間の結びつきを回復して、人間を永遠の命に至る道に置いて歩めるようにすることが何にもましてすべきことだったからです。

イエス様が、十字架と復活の時が来るまで奇跡の業を行った理由として、そのことを通して、人々が彼を神のひとり子であると信じさせるひとつの手段として用いていたことがあります。ヨハネ14章でイエス様は、イエス様がまだ神から送られた方だと実感できないと言う弟子のフィリポに対して、次のように言いました。「フィリポ、こんなに長い間、一緒にいたのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見たものは、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父を示してください』と言うのか。わたしが父の内にいて、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におわれる父が、その業を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい」(14章9-11節)。人間は、ただ言葉で聞いても信じられない、それならば、イエス様が行った業をもとに信じなさい、ということです。

しかしながら、こうした信仰の手段として奇跡を用いることはイエス様自身、問題があることをよくご存知でした。ヨハネ6章で、5千人の群衆がわずかな食糧で空腹を満たされた後、イエス様の後を追いかけてきます。その群衆に対してイエス様は次のように言われました。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」(6章26節)。奇跡を経験した人々は、それをイエス様が神から送られたひとり子であることを示すしるしとまでは捉えるには至らなかった。イエス様のことを、ただ人々の欲や必要を満たしてくれるありがたい方、一緒にいればまだまだいいことがある、そういう期待を持って追いかけてきたことをイエス様は見抜いたのです。奇跡を経験した人が、もしイエス様を神のひとり子と本当にわかって信じることができれば、その人の心は、どうやって自分の必要や欲をさらに満たしてくれるかということから離れて、どうやって自分は神の御心に従って生きることができるか、ということに向けられるようになります。それができるというのは、やはり、十字架の死と死からの復活という、奇跡中の奇跡が起きないとなかなか難しいのです。

このようにイエス様は、人間というものは、言葉だけでは信じられない弱さがあると知って、奇跡の業を信仰に至る手段として用いつつも、それが必ずしも正しい信仰をもたらさないリスクを持っていることを知っていました。このように人間とはしょうもない存在なのです。それにもかかわらず神は、そんな私たち人間が神との結びつきを持ってこの世を生きられるようにと、しかもその生きる道が死を超えた永遠の命に至る道であるようにするために、イエス様をこの世に送られ、彼を犠牲にまで用いて人間の救いを実現して下さったのです。このような神は、永遠にほめたたえられますように。

 

5.イエス様が母マリアに「私の時はまだ来ていない」と言ったのは、彼はまだ人々と共にいてミッションを行う立場にある、ということを意味します。ミッションの中には、人々を信仰に導くための奇跡の業も含まれますから、このぶどう酒が底をついて祝宴が台無しになり出した状況に対しても、何かしなければならないことは、イエス様自身よくわかっていました。そうすると、イエス様の言葉、「この件に関して、あなたはわたしに何を求めるのか。わたしの時はまだ来ていないのだ」というのは、私の知ったことか、という意味では全くなく、慌てふためくマリアに、あわてるな、落ち着きなさい、私が共にいる、という意味なのです。もちろんマリアも弟子たちも十字架と復活の出来事が起きる前は、イエス様の時とはどんな時かまだわかりません。しかし、マリアに関して言えば、かつて赤ちゃんのイエスを抱き上げたシメオンは、この子は将来神と神の民の間を取り持つ何かとてつもないことをすると預言していたので、何か将来重大なことが起きるとわかっていたでしょう。それが何であるかはまだわからない。しかし、今はまだその時ではなく、この、聖霊の力で生まれたこの方は今私たちと共にいる。そうわかれば、イエス様の答えに拒否の意味は感じられず、言葉では言い表せない形にはならない信頼が彼に対して生まれて、落ち着きを取り戻して、召使たちに待機するよう命じたということになります。

イエス様は大量の水を上等のぶどう酒に変える奇跡を行いましたが、それを行ったのは、自分が神のひとり子であることを示す以外の目的では行うのではない、母親を含めて単に人にお願いされたから自動的にそうしてやるのではない、ということがあることを忘れてはなりません。マリアはイエス様の言葉を聞いて、落ち着きを取り戻し、信頼したのです。

 

6.イエス様とマリアのやりとりは、奇跡が私たちの信仰にとって持つ意味を考えるよい機会かと思います。当時の人たちと違って、私たちの目の前には奇跡の業をそれこそ目の前で行ってくれるイエス様がいらっしゃいません。彼は今、天の御国の父なるみ神の右に座し、再臨の日まではそこから私たち一人一人に対して大抵は見えない形で働きかけられます。もし、イエス様が当時のように私たちの目の前におられ、奇跡の業を行ってくれれば、私たちも信じやすくなるのにな、と私たちは思いがちです。ここで、イエス様の奇跡を受けたり目撃したりした当時の人たちと私たちの間には大きな違いがあることに注意しましょう。当時、奇跡を目のあたりにした人たちは、「イエス様の時」がまだ来ていない時に生きていました。イエス様の十字架と復活の出来事が起きる前に生きて奇跡を目撃した人たちでした。私たちはと言えば、十字架と復活の出来事の後の時代を生きる者です。イエス様の時が来た後の時代を生きる者です。この違いは決定的です。

しかし、ここに大事なポイントがあるのです。どういうことかと言うと、イエス様の同時代の人たちも、やがて十字架と復活の出来事を目撃して、イエス様が神の子であることが、これ以上の証拠はいらないという位にわかって信じることになりました。その結果、自分の必要や欲を満たしてくれるから神の子として認めてやるという考え方は消え去りました。自分を犠牲にしてまで人間と神との結びつきを回復しようとされた救い主として信じるようになったのです。それで、どうしたら神の御心に沿う生き方ができるかを真剣に考えるようになったのです。実は私たちも、このように十字架と復活の出来事の後、つまり「イエス様の時」が来た後に、心が入れ替わった信仰者と同じ立場にあり、同じ信仰を持っているのです。自分の置かれた状況や境遇に振り回されない信仰です。落ち着きを取り戻したマリアが抱いた不思議な信頼、イエス様に全てを任せられる信頼を私たちも持てるのです。この信頼があれば、あとはイエス様が私たちの思いと予想を超えることをして下さいます。マタイ28章20節で死から復活されたイエス様は弟子たち、そしてイエス様を救い主と信じる者たちに言われました。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」皆さん、イエス様が共にいて下さいます。このことを忘れないようにしましょう。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

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