ニュースブログ

2026年4月12日(日)10時半 復活節第二主日 礼拝 説教 吉村博明 牧師

主日礼拝説教 2026年4月5日 復活節第二主日

使徒言行録4章32-35節、第一ヨハネ1章1節-2章2節、ヨハネ20章19-31節

説教題 「神がキリスト教会を通して備えて下さる三つのもの ― 罪の赦し、神との平和、心の目」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

本日の福音書の個所で、復活したイエス様が弟子たちの前に現れて三つの大切なことを教えます。まず、イエス様は弟子たちに「あなたがたに平和があるように」と繰り返し言いました。イエス様の言う平和が一つ目。それから、彼が聖霊を与えると言って弟子たちに息を吹きかけて罪を赦す権限を与えました。罪の赦しとその権限が二つ目。三つ目は、弟子の一人のトマスが自分の目で見ない限りイエス様の復活を信じないと言い張った挙句、目の前に現れたので信じるようになりました。その時イエス様が言った言葉、「見なくても信じる者は幸いである」、これも大切なことです。これらの三つのこと、罪の赦しとその権限、イエス様の言う平和、肉眼の目で見なくても心の目で見て信じるということについて、以前の説教でキリスト教会を成り立たせる条件と申しました。ただ、条件と言うのはちょっと違うかなと思い直し、今回は、これらの三つは神がキリスト教会を通して人間に備えて下さる大切なもの、という言い方にしようと思います。それで以下、三つのことを見ていきます。

2.罪の赦しとその権限

まず、罪の赦しとその権限について。私たち人間には神の意思に反しようとする性向があります。人を傷つけるようなことを口にしたり時として行為に出してしまったり、そうでなくても心の中で思ってしまったりします。また、嘘をついたり、妬んだり、見下したり、他人を押しのけてまで自分の利害を振りかざそうとしてしまいます。それらを聖書では罪と言います。人間は罪を持つようになってしまったため創造主の神との結びつきが失われてしまって、その状態でこの世を生きなければならなくなってしまいました。この世を去る時も神との結びつきがない状態で去らねばなりません。この惨めな状態から人間を救うために父なるみ神はひとり子のイエス様をこの世に贈ったのです。まず人間が受けるべき罪の罰を全部彼に受けさせ、人間が受けないで済む状況を作り出しました。それがイエス様のゴルゴタの十字架の死でした。さらに神は、想像を絶する力をもってイエス様を死から復活させて、死を超える永遠の命が存在することをこの世に示し、そこに至る道を人間に切り開かれました。

そこで私たち人間はこれらのことは本当に起こったとわかって、それでイエス様は救い主なのだと信じて洗礼を受けると、彼が果たして下さった罪の償いがその人にその通りになります。その人は罪を償ってもらったから神から罪を赦された者として見てもらえるようになり、罪を赦されたから神との結びつきを持てるようになってこの世を生きられるようになります。神罰を受けないで済む状況に入れたのです。それで、永遠の命が待っている「神の国」に至る道に置かれて、その道を神との結びつきを持って進んで行きます。まさに、新しく天から生まれた者になったのです。キリスト信仰者は、新しく生まれた自分というものは神のひとり子の犠牲の上にあるのだとわかっています。それで、罪に与せず罪に反抗して生きていこうという心になります。

このように創造主の神はひとり子のイエス様を用いて罪の赦しを私たちに備えて下さいました。本日の福音書の個所で、イエス様が弟子たちに罪の赦しの権限を与えます。それは、神がイエス様を用いて備えて下さった罪の赦しを多くの人々に行き渡らせる権限です。人間が赦しを与えるのではありません。人間は罪の赦しを取り次ぐ道具のようなものです。そして、その権限は誰もが持てるというものではありません。使徒たちの場合は、イエス様が聖霊を授けて、その権限が付与されました。イエス様が天に上げられると、今度は使徒たちが次に権限が付与される人に手をかざす按手の儀式を行って権限を伝授していきました。伝授された人たちも次に権限が付与される人に同じように按手をして、それがずっとリレーのように繰り返されて今日に至ります。ここには使徒的な継承があります。

スオミ教会の礼拝の初めに罪の告白と赦しの宣言があります。牧師は罪の赦しを宣言する時に、「ここに神から権限を委ねられた者として、あなたの罪は父と子と聖霊の御名によって赦されると宣言します」と言います。ここでも明らかなように、牧師が罪を赦すと言うのではなく、あくまで神から権限を委ねられた者として宣言しますということです。

3.目で見なくても信じられる心の目

次に「見なくても信じる者は幸い」ということについて。この目で見ない限り信じないと言ったトマスの思いはもっともなことです。目で見ない限り信じない、これは普通の宗教だったらどこでもそういうふうに考えるでしょう。何か目に見える不思議な業を行う、不治の病が治るとか。そういうことをする者を人々はこの方には不思議な力がある、普通の人間ではない、ひょっとしたら神さまだと信じ、自分たちも奇跡にあやかれると期待して、そこから宗教団体が生まれる原因になります。

ところが、イエス様がここで教えていることは、目で見て信じることではなく、目で見なくても信じるのが本当の信じるだ、と言うのです。ちょっと変な感がしますが、よく考えたらわかります。私たちは誰でも目で見たら、本当はその時はもう、信じるもなにもその通りだということになります。その意味で「信じる」というのは、文字通り見なくてもそうだと信じることです。これがイエス様の主眼とすることです。復活したイエス様を目で見なくても、イエス様は復活した、それはその通りだ、と言えば、イエス様の復活を信じていることになります。復活したイエス様を目で見てしまったら、復活を信じますとは言わず、信じるもなにも復活をこの目で見ましたと言います。

このようにキリスト信仰では目で見ないでも信じるということを強調します。使徒パウロは第二コリント4章18節で「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」と言い、5章7節では「目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいる」と言います。またローマ8章24節では、キリスト信仰者は将来復活に与れるという希望を持っていることで救われているのだ、見えるものに対する希望は希望ではない、現に見ているものを誰がなお望むだろうか、と言います。さらに「ヘブライ人への手紙」11章1節では、信仰とはズバリ言って希望していることがその通りだということであり、目には見えない事柄がその通りになるということなのだと言われています。

さて、イエス様は復活から40日後に天の父なるみ神のもとに上げられます。それ以後は復活の主を目撃することはできません。そうなると、目撃者の証言を信じるかどうかがカギになります。実際、目で見なくても彼らの証言を聞いて、その通りだ、イエス様は本当に神の子で死から復活されたのだと信じられる人たちが出てきたのです。どうして信じられたのでしょうか?ひとつには、目撃者たちが迫害に屈せず命を賭して宣べ伝えるのを見て、これはウソではないとわかったことがあるでしょう。ところが、信じるようになった人たちも目撃者と同じように迫害に屈しないで伝えるようになっていったのです。直接目で見たわけではないのに、どうしてそこまで確信できたのでしょうか?

それは、イエス様の復活には何かとても大切なことが秘められていて、それをわかって自分のものにしたからです。この秘められた大切なことは、最初は目撃者の弟子たちが自分のものにしていました。もし、イエス様の復活にその大切なことがなくて、ただ単に死んだ人間が息を吹き返しただけだったら、それはそれで人々に情報拡散したい気持ちにさせる出来事でしょう。しかし、拡散したら命はないぞと脅されたら、わざわざ命を捨ててまで言い広めたりはしないでしょう。しかし、復活には不思議な現象ですまない大切なことがあるとわかったから、脅しや迫害に屈しないで宣べ伝えるようになったのです。それを、目撃者の証言を聞いた人たちもわかって持てるようになったのです。それでは復活に秘められた大切なこととは何か?それがイエス様の言われる平和なのです。次にそれについて見てみましょう。

4.イエス様が言われる平和

イエス様が言われる平和について。ヨハネ福音書が書かれた言語はギリシャ語で「平和」はエイレーネーという言葉です。旧約聖書の言葉ヘブライ語でシャーロームשלומと言います。イエス様は間違いなくアラム語で話しておられたので、シェラームשלמという言葉を使ったでしょう。シャーロームという言葉はとても広い意味を持っています。国と国が戦争をしないという平和の意味もあります。その他に、繁栄とか成功とか健康というような人間個人にとって望ましい理想的な状態も意味します。しかし、イエス様は「平和」という言葉に特別な意味を持たせました。どんな意味でしょうか?

イエス様は十字架に掛けられる前日に弟子たちに次の言葉を言われました。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな」(ヨハネ14章27節)。イエス様は「平和」を与えるが、それは「わたしの」平和、イエス特製の平和であると。しかも、この世が与えるような仕方では与えないと言われます。一体それはどんな「平和」シャロームなのでしょうか?もし「この世が与えるような仕方」で与えたら、それは先ほど申しました国と国の平和、人間個人の繁栄、成功、健康、福利厚生ということになります。みな目に見える平和シャロームです。それに対するイエス様の平和は、この世が与えるようには与えないというものです。目に見える平和シャロームとどう違ってくるでしょうか?

イエス様が与える平和シャロームを理解する鍵となる聖書の箇所があります。ローマ5章1節。「このようにわたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており.....」。つまり、「平和」とは、神と人間との間の平和です。イエス様の十字架と復活の業のおかげで人間の罪の償いが果たされ、人間が神との結びつきを回復できたという平和、罪のゆえに神と人間の間にあった敵対関係がイエス様のおかげで解消されたという平和、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで得られる平和です。コロサイ1章21~22節を見ると、イエス様の十字架と復活の出来事の前は、人間と神の間は敵対関係だったということが明確に述べられています。「あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者として下さいました。」神と敵対関係にあった私たち人間は、イエス様の犠牲の死によって和解の道が開かれたのです。

こうしてイエス様を救い主と信じる信仰と洗礼によって神との結びつきが持てるようになった者は神と平和な関係にあります。その人は永遠の命が待っている神の御国に至る道に置かれてその道を進んでいます。進んで行く時、成功、繁栄、健康など目に見える平和シャロームがある時もあれば、ない時もあります。しかし、どんな時にあっても、イエス様を救い主と信じる信仰に留まる限り、創造主の神との結びつきは失われず、神との平和な関係は微動だにしません。人間の目で見れば、失敗、貧困、病気などの不遇に見舞われれば、神に見捨てられたという思いがして、神と結びつきがあるとか平和な関係にあるなどとなかなか思えないでしょう。しかし、キリスト信仰者は、礼拝のはじめで罪の告白を行うたびに罪の赦しの宣言を受けていれば、また聖餐式で罪の支配から贖われている状態を強化していけば、神との結びつきと平和な関係はしっかり保たれています。たとえ人間的な目にはどう見えようともです。そして、この世の人生の段階で神との結びつきと平和な関係をこのように鍛えておけば、この世から別れる時、安心して自分の全てを神に任せることが出来ます。自分は復活の日に目覚めさせてもらって主が御手をもって父なるみ神の御許に引き上げて下さるという確信と信頼を持って神に全てを委ねることが出来ます。

5.勧めと励まし

以上、神がキリスト教会を通して信仰者に備えて下さる三つのものを見てきました。使徒的な継承に立つ罪の赦しとその権限、神との平和な関係、肉眼の目で見えなくても信じることができる心の目です。どうか、神がこのスオミ教会を通してもこの三つのものを皆さんに備えて下さいますように。

第一ペトロ1章3節でペトロは、キリスト信仰者はイエス様の復活によって新たに生まれて「生ける希望」を持つようになったと言います。説教の終わりにこの希望について述べたく思います。

新共同訳では「生き生きとした希望」と言って、希望が躍動感に溢れている感じがしますが、そうではありません。原語のギリシャ語を見ると、「生きる」という動詞の動名詞形なので文字通り「生きている」ですが、私が使う辞書(ギリシャ語・スウェーデン語)によれば「命を与える」という意味もあります。ヨハネ福音書でイエス様が「生きる」とか「命」と言う時、たいていは今の世の「生きる」、今の世の「命」だけではなく、次に到来する世の「生きる」と「命」も含めています。それなので「生きている希望」とは、「永遠の命を与えられる希望」、復活の日に復活させられるという希望です。この希望はイエス様の復活を心で受け取ったら一緒に内に入って来ます。復活の日に復活させられるという希望が朽ちない希望であるということが4節でも言われます。「天には信仰者たちの受け継ぐものがちゃんと取っておかれている。それは朽ちず汚れがなく永久のものである。」この天に取っておかれている受け継ぐものとは、まさに復活の体と永遠の命です。5節で、イエス様の再臨の日に現れる救いということが言われますが、それは、その日に復活の体と永遠の命を目に見える形で受け取るということです。6節では、このような希望があり救いが待っているのだから、この世でいろんな試練にあって悲しむことがあっても、喜びも失われずにあるのだと言います。ペトロは試練について肯定的な見方をしています。試練を経ることでかえって信仰が金よりも純度を高められ、イエス様の再臨の日に栄誉と栄光を受けるものになる、そういう精錬するような効用が試練にはあるのだと言うのです。ここで注意しなければならないのは、試練の時に信仰が萎えないで純度を高められるようになるのは「永遠の命を与えられるという希望」を持てているかどうかによります。その希望を持てているかどうかは、イエス様の復活を心で受け入れているかどうかによります。

そして8節と9節でペトロは言います。あなたたちはイエス様を見なかったのに愛し、今見ていないのに信じていて、言葉で言い表せない大きな喜びで満たされている、と。どうしてそんなことが言えるのか?ペトロは、あなたたちが「信仰の目標」に到達する者だからだと言います。「信仰の目標」とは「魂の救い」であると。「魂の救い」とは、復活の日に復活の体を着せられて永遠の命を持って父なるみ神のもとに迎え入れられることです。あななたちはそこに到達する者であるとペトロははっきり言うのです。どうしてそんなことが言えるのでしょうか?私たちは、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼を通して、実は復活の体と永遠の命を今すでに見えない形で手にしているのです。それで主の再臨の日、復活の日が来たら見える形で手にすることになるのです。だから言葉で言い表せない大きな喜びで満たされているのです。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

牧師の週報コラム

覚悟と胆力を養うキリスト信仰その7

ルターによる聖句の説き明かしと共に(フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ」48日の日課から)

『アダムによって全ての人が死ぬことになったように、キリストによって全ての人が生かされるようになるのです。』(第一コリント1522節)

『アダムによって全ての人が死ぬことになったように、キリストによって全ての人が生かされるようになるのです。』(第一コリント1522節)

『強い信仰は、この御言葉を大きな文字で心に書き記す。また、大地の上に聳え広がる大空いっぱいに描き切る。信仰は、この御言葉が伝えてくれること以外は何も見ない、何も聞かない、何も考えない。それはあたかも、この世界には他に書かれたものは何もないと宣言するようなものであり、我々が生きるのも活動するのも全てこの御言葉の中でそうするのだと観念するようなものだ。このように信じることができれば、我々は喜びのうちにこの世を生き、喜びのうちにこの世から別れることができよう。この信仰はまさに、キリストが死から復活したのは自分自身のためではなく、我々のためだったということを教えてくれるのだ。主を信じる者は彼の復活に完全に包み込まれてしまうということを。だから、我々も復活の日が来たら復活して主と共に永遠に生きることになるということを。

我々の復活は、まだ秘められていて公然のものになっていない。それでも既に起こったと言っていいくらい今、確実なこととしてある。このことをしっかり心に留めておきなさい。そうすれば、今目に見えるものは全て復活の日に消え去ってしまうことがわかるだろう。そして、天においても地においても復活の有り様以外に目にするものはないという心境になろう。それゆえ、キリスト信仰者が亡くなって墓に埋葬される時、そこで肉眼の目に映るのは腐敗する肉体でしかなくとも、信仰の目に映るのは墓地でも亡骸でもない。信仰の目は全く別の新しいものを見ているのだ。すなわち、新しい命と素晴らしい楽園を、そこで憩う新しい人たちと永遠の命に生きる幸いな人たちを。』(以上、ルターの説き明かし。昨年420日の週報コラムに掲載した訳をさらに進化させました。AIなんかに負けません※。)

強い信仰とは、このような目を持てることを言うのでしょう。そうすれば、喜びのうちにこの世を生き、喜びのうちにこの世から別れることができるという目を。

  • ルターのテキスト(フィンランド語訳)を訳した後で、Chatgtpに訳させました。私の訳といろいろ違いがあり、私はどうして自分のような訳をしたかを説明しました。そうしたら、あなたの訳は日本語読者の受け取り方を考えながら伝達するdynamic/functional equivalenceの訳で、「かなり高度な解釈的翻訳です」と言ってきました。そして、こうすればもっと良くなりますなどと提案もしてきました。私はそれは受け入れませんでしたが、やろうと思えば、それについて対話はもっと続いたと思います。Kiitos hyvästä palautteestasi ja antoisasta kommentistasi!と言って今回は終わりにしました。
DSC_3767

 

スオミ教会・フィンランド家庭料理クラブのご案内

4月の料理クラブは18日(土)13時の開催です。

春たけなわの季節になりました。4月の家庭料理クラブでは「シュガーフレーク・フルーツケーキ」を作ります。フィンランドではこの季節になると、ピーチやパイナップルなどのフルーツをケーキに入れて作ることが多いです。それで、今回のケーキの中身もピーチとパイナップルですが、その上にレモンで味つけた水切りヨーグルトを重ねます。トッピングのシュガーフレークはケーキの風味を高めます。しっとり柔らかいケーキとサクサクとした表面のバランスが絶妙です。

「シュガーフレーク・フルーツケーキ」を是非一緒に作って味わってみませんか。

参加費は一人2000円です。

どなたでもお気軽にご参加ください。お子様連れでもどうぞ!

皆さんのご参加をお待ちしています!

お問い合わせ、お申し込みは、 moc.l1775985930iamg@1775985930arumi1775985930hsoy.1775985930iviap1775985930 まで。

歳時記

榛の木(ハンノキ)

<22 主なる神はこう言われる、「わたしはまた香柏の高いこずえから小枝をとって、これを植え、その若芽の頂から柔らかい芽を摘みとり、これを高いすぐれた山に植える。
23 わたしはイスラエルの高い山にこれを植える。これは枝を出し、実を結び、みごとな香柏となり、その下にもろもろの種類の獣が住み、その枝の陰に各種の鳥が巣をつくる。
24 そして野のすべての木は、主なるわたしが高い木を低くし、低い木を高くし、緑の木を枯らし、枯れ木を緑にすることを知るようになる。主であるわたしはこれを語り、これをするのである」。 エゼキエル書17:22・23・24>

春は花の季節ばかりではありませんね、新緑の季節でもあります。何時もの散歩道の尾根緑道にも新緑の季節がやって来ました。フレッシュグリーンの中に一際目立つ木の芽を見つけました、調べてみたら「榛の木・ハンノキ」の新芽でした。榛の木は雑木の代表のような木ですがカバノキ科で白樺とは親類の関係ですね。炭焼きが盛んだった頃は榛の木は良質の炭が焼ける事から持て囃されてきましたが今ではすっかりすたれてしまっています。夏を過ぎた頃になると小さな松毬のような実が垂れ下がっているのをよく見かけます。此処、多摩丘陵は炭焼きで生計を立てた農家が多く多摩ニュータウンが出来る前までは至る所で炭焼きが盛んに行われてきました。雑木林に榛の木が多いのはその名残かも知れません。

牧師の週報コラム

覚悟と胆力を養うキリスト信仰その7

前回、マタイ924節のイエス様の言葉(「娘は死んではいない。眠っているだけだ。」)のルターの説き明かしを紹介しました。それに対してスオミの信徒の方々からあがった疑問点を考えています。今回はその続き。

二つ目の疑問点は、ルカ16章の「金持ちとラザロ」のたとえは、復活についてのイエス様や聖書の教えと矛盾しているのではないかというもの。もし復活や最後の審判が今の天と地が終わって新しい天と地に再創造される境目の時に起こるのであれば、たとえでは、まだ今の天と地がある状態で天国と地獄への振り分けが起こったことになり、おかしいのではないか?

この点に関して、昔神学部で勉強していた時、あるセミナーで一人の学生がこれを取り上げました。私の記憶では、イエス様は当時ユダヤ人の間でよく知られていたエジプト由来の逸話を教訓話に改変したという論点でした。ただ、セミナーのペーパーはもうなく確認できません。その可能性を残しつつも、私としては、聖書には将来の復活の日を待たずして神のみ許にあげられた人の例があり(エノクとエリヤは生きたまま、死んだモーセは恐らく)、イエス様はたとえの中でラザロを同じカテゴリーに扱ったのではないかと考えます。いずれにしても復活は一括一斉に起こるというのが基本(エリザベス女王の葬儀礼拝で大主教がgeneral resurrectionと言っていた、まさに”総復活”!)。ただし、神の御心により例外もあるということです。

三つ目の疑問点は、この世を去った方が復活の日まで神のみぞ知る所で眠っているとすれば、この世にいる私たちは亡くなった方に話しかけてはいけないのか?これは日本人には痛いところかもしれません。というのは、みんな仏壇やお墓の前で、いつも見守っていてくれてありがとうございます、と言い、見えない相手に思いを伝え話しかけるからです。お寺の住職もそういう交信を推奨します。聖書の神は霊媒を用いることを禁じているので(レビ記1931節、申命記1811節、サムエル上28章、列王下216節、イザヤ819節)死者との交信はするべきではありません。キリスト信仰では、見守りを感謝したり、思いを伝え話しかける相手はあくまで私たちをお造りになった神です。ただ、亡くなった方への思いを言葉にすると、どうしても言葉をかける相手としてその方が相応しく感じられます。どうしたら良いでしょうか?私としては、それは、あくまで独り言に留めるべきと考えます。例えば、すやすや眠っている子供の寝顔を見て、今日は楽しかったね、とか、いい子に育ってね、とか、わざわざ起こさないで言葉をかけるのと同じように。そして、楽しかった今日の日を感謝するのは神であり、この子がいい子に育ちますようにと願いを打ち明けるのも神ということです。

DSC_3767

 

 

2026年4月5日(日)10時半 復活祭/イースター 礼拝 説教 マルッティ・ポウッカ 牧師(フィンランド・ルター派国教会)

司式 吉村博明 牧師 説教 マルッティ・ポウッカ 牧師(フィンランド・ルター派国教会) 聖書日課 エレミヤ31章1~6節、コロサイ3章1~4節、マタイ28章1~10節 説教題 「キリスト者の希望」 讃美歌 88、91、337、263、92 特別の祈り

全知全能の父なるみ神よ。

この日、主イエス様の復活を喜び祝う私たちの心をどうかあなたの愛と恵みで満たし、空(むな)しい思いを蹴散らして下さい。罪と死の支配から解放されて復活の希望に生きる私たちを世の光、地の塩にして下さい。隣人にも復活の主を伝えることが出来るように知恵と力と勇気をお与え下さい。

あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストのみ名を通して祈ります。 アーメン

祝会の様子です、今年も美味しい食べ物と堀越姉のハンドベル指導でにぎやかに祝会を楽しみました。

 

た。

歳時記

ヴェロニカ

枝の主日の礼拝後、ポウッカ牧師夫妻制作監修された「ヴィア・ド・ロローサ」を鑑賞しましたパイヴィ先生のナレーションとマルッティ牧師の讃美歌の歌唱とフルートが盛り上げていました。スオミ教会でも過去に何度かこの ヴィア・ド・ロローサ を寸劇で行いました、ヴィア・ド・ロローサ 、苦難の道には十字架を背負ったイエスがゴルゴダの丘に至るまで、14のステージがあります。その中の第6ステージでイエスの額の汗をぬぐう聖女ヴェロニカの物語が出て来ます。春になると足もとの叢の中に小さな青い花を見つけます、「オオイヌノフグリ」と言うまことに嬉しくない名を付けられていますが西洋ではヴェロニカと呼ばれています。今年も春一番に咲いていました、何時の間にか咲いていつの間にか消えてゆくこの可憐な小さな花を我が家ではヴェロニカと呼んでいます。

2026年4月3日(金)19時 聖金曜日 礼拝

主日礼拝説教 2026年4月3日 聖金曜日
イザヤ52章13節~53章12節
ヘブライ10章16~25節
ヨハネ18章1節~19章42節

説教題「君はイエス様の十字架を通して二つの大きなことが見えるか」

2

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあ
るように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1. はじめに

イエス様が十字架刑に処せられました。十字架刑は当時最も残酷な処刑方法
の一つでした。処刑される者の両手の手首のところと両足の甲を大釘で木に打
ちつけて、あとは苦しみもだえながら死にゆく姿を長時間公衆の前で晒すとい
うものでした。イエス様は十字架に掛けられる前に既にローマ帝国軍の兵隊た
ちに容赦ない暴行を受けていました。加えて、自分が掛けられることになる十
字架の材木を自ら運ばされ、エルサレム市内から郊外の処刑地までそれを担い
で歩かされました。そして、やっとたどり着いたところで残酷な釘打ちが始っ
たのでした。
イエス様の両側には二人の犯罪人が十字架に掛けられました。罪を持たない
清い神聖な神のひとり子が犯罪者にされたのです。釘打ちをした兵隊たちは処
刑者の背景や境遇に全く無関心で、彼らが息を引き取るのをただ待っています
。彼らはこともあろうにイエス様の着ていた衣服を戦利品のように分捕り始め
、くじ引きまでしました。少し距離をおいて大勢の人たちが見守っています。
近くを通りがかった人たちも立ち止って様子を見ています。そのほとんどはイ
エス様に嘲笑を浴びせかけました。民族の解放者のように振る舞いながら、な
んだあのざまは、なんという期待外れだったか、と。群衆の中にはイエス様に
付き従った人たちもいて彼らは嘆き悲しんでいました。
このようにイエス様の十字架の出来事は残酷であり悲劇なことでした。しか
し、この出来事には少なくとも二つの大きなことが伴ってありました。私たち
は残酷と悲劇に目を奪われて、それを見失ってはいけません。確かに残酷と悲
劇はありますが、それを透かすようにして大きなことを心の目で見ることが出

3

来なければなりません。まさにそれが、この出来事が起こることをお許しにな
った神の御心だからです。

2.二つの大きなこと ― 神の計画の実現

二つの大きなことの最初のものは、十字架の出来事は神がずっと前から計画
していたことの実現であったということです。神が計画したこととは、先ほど
朗読したイザヤ書の個所が明らかにしています。イエス様の時代の何百年も前
に書かれた預言です。
「彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれ
たのは、わたしたちの咎のため」とありました(53章5節)。「私たちの背き
」、「私たちの咎」とは何のことでしょうか?それは、私たち人間が内に持っ
てしまっている神の意思に反しようとする性向、罪のことです。神は、人を傷
つけたり欺くようなことをしてはいけない、口にしてもいけない、心に思って
もいけない、嘘をついてはいけない、そう言っているのに、私たちはそうして
しまいます。SNSを用いてもしてしまいます。神のみ前に立たされた時、とて
も潔白ではいられないのです。そのためか、そんな都合悪いことを言う神など
胡散臭いと、神は近年ますます遠ざけられていきます。
そんな罪の言いなりになって罪の奴隷になっている憐れな人間を神は言いな
りの奴隷状態から解放してあげようと手立てを考えました。それで、本当なら
人間が受けるべき罪の罰を全部愛するひとり子に身代わりに受けさせて、人間
が受けないで済むようになる状況を作り出したのです。イエス様の十字架の残
酷さと悲劇を通して、この神のひとり子が受けた罰の重みに思いを馳せること
が出来ると人間の心は変わり奴隷から自由になるのです。馳せることが出来な
ければ心は変わらず奴隷のままです。
こうしてイエス様は、イザヤ書の預言通りに、私たち人間のかわりに神から
罰を受けて苦しみ死んだのでした。それは、私たちが罪のゆえに神との結びつ

4

きを失った状態にあって、迷える羊のように行き先もわからずこの世を生きて
いたからでした。それで、神との結びつきが回復できて行き先がわかるように
なるために神は人間の罪をひとり子のイエス様に全て負わせてその罰を受けさ
せたのです。それがゴルゴタの十字架で起こったのでした。イエス様が息絶え
る直前に「成し遂げられた」と言ったのはこのことだったのです。
あとは人間の方が、成し遂げられたことは自分のためだったのだ、だからイ
エス様は私の救い主だと信じて洗礼を受ける、そうすると、イエス様が果たし
てくれた罪の償いはその人にその通りになり、その人は神から罪を赦されたも
のと見てもらえるようになります。罪の言いなりになって自らも傷つき心が病
んでしまった人間の癒しは赦しから始まります。こうして人間は、神のひとり
子の「受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷
によって、わたしたちはいやされ」ると言われている通りになるのです。

3.二つの大きなこと ― 勇気、本物の心、希望の証しの備わり

もう一つの大きなことは、十字架の出来事が神の計画の実現だったとわかっ
てイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、私たちには新しいものが備わる
ようになるということです。先ほど朗読したヘブライ10章19~23節に3つの新
しいものが言われています。一つは、神聖な神の御前に進み出ても大丈夫とい
う勇気(παρρησια)、二つ目は、イエス様を救い主と信じる信仰を持つことで
私たちの心が偽物でない本物の心になること(αληθινη καρδια)、三つ目は、今
の世と次に到来する世の双方を神との結びつきを持って生きられるという希望
を人前で告白できること(ομολογια της ελπιδος)。短く言えば、勇気、本物の
心、希望の告白です。これらが私たちに備わるのです。新共同訳はギリシャ語
原文を崩すようにして訳してしまったのでこの3つははっきり見えてきません
が、原文でははっきり見えるので、以下この3つについてお教えします。

5

イエス様を救い主と信じて洗礼を受けるとこれらのものが備わるのは、イエ
ス様の十字架の業が神殿の礼拝を無意味にしたからです。かつてエルサレムの
神殿の中には最も神聖な場所という所があって、そこは大祭司しか入れません
でした。何しろ神のみ前に立つという神聖中の神聖な場所だったからです。し
かし、大祭司でもそのままでは入れませんでした。まず、民の罪を動物の生贄
を捧げることで償う儀式をして、それから自分に生贄の血を振りかけて自分の
罪の汚れを落とすという儀式を経なければ入れませんでした。それが、今や、
神のひとり子が十字架の上で血を流され、私たちは洗礼を受けることで罪を赦
された者にしてもらえるようになりました。まさに、イエス様の犠牲の血で罪
の汚れは落とされて神の前に立つことが出来るようになったのです。かつて神
殿の中には、最も神聖な場所とそれ以外の場所を分け隔てる垂れ幕がかかって
いました。マタイ27章51節に記されているように、イエス様が十字架にかけら
れて体を突き刺された時、その垂れ幕は真っ二つに裂け落ちました。かつて大
祭司は動物の血をかけられて垂れ幕を通って神のみ前に進み出ることが許され
ていました。今や、イエス様の血で罪の汚れを落とされた者は彼の犠牲の体を
通過するようにして神の御前に進み出ることができるのです。
十字架の業のゆえにイエス様は真の大祭司中の大祭司であることが明らかに
なりました。人間の大祭司は神と人間の仲介者の役割を果たしていましたが、
それでも大祭司自身が儀式で自分を清めなければならない位のレベルの低い仲
介者でした。イエス様は神聖な神のひとり子なので自分を清める必要がない方
です。その彼が自身を犠牲に供して神と人間の間に恒久的な平和な関係を打ち
立てたのです。これぞ正真正銘の大祭司、完璧な仲介者です。
このような大祭司を抱くキリスト信仰者は、自分にはやましい所があって神
から罰を受けてしまう、神に見捨てられてしまうという恐れから解放されてい
ます。その肉体も動物の血ではなく洗礼の水をかけられて罪の呪いが洗い落と
されています。なので、神を前にしても、イエス様のおかげで私のことをやま
しいところがないと見て下さる、潔白と見て下さるとわかるので、恐れはあり

6

ません。これが私たちが持つべき本物の心であり、それはイエス様を救い主と
信じる信仰をもって洗礼を受ければ持つことができるのです。その心があれば
、この世を前にしても堂々と入っていくことができるし、かの日には神の前に
堂々と立つことができるのです。
キリスト信仰者は罪の赦しの恵みに与かることで、今の世と次に到来する世
の双方を神との結びつきを持って生きられるという希望があります。神は計画
されたことを預言者を通して知らしめ、最後にはイエス様を通してそれを実現
されました。このように神は約束に忠実な方です。それをわかっていれば、希
望についての私たちの証しは確固としたものになるはずです。
このようにキリスト信仰者には勇気、本物の心、希望の揺るがない証しが備
わっているのだから、あとはお互いにお互いのことを配慮し合って、愛と善い
行いに励めばよいのです。24節で言われる通りです。
そこで一つ忘れてはならないことがあります。それは、キリスト信仰者にと
って礼拝を守ることは大事ということです。なぜなら、イエス様が大祭司であ
ること、そのおかげで私たちには勇気と本物の心と希望の揺るがない証しが備
わっていること、これらを確認し確信できるのは礼拝をおいて他にはないから
です。これが25節の教えです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いと
をキリスト・イエスにあって守るように         アーメン