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ニュースブログ | 日本福音ルーテルスオミ・キリスト教会  東京都新宿区早稲田

来週の礼拝:2019年12月15日  待降節第三主日

  聖書    イザヤ  7:10~14

        ローマ  1:1~7

        マタイ  1:18~23

 讃美歌   3 7 11 9

       司式:吉村 博明 宣教師

       説教:吉村 博明 宣教師

       奏楽:堀越教子 姉

       当番:小林信一 兄

       応対:西尾ひろ子 姉

       

説教「我々が目指す旗印」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイによる福音書3章1-12節

主日礼拝説教 2019年12月8日待降節第2主日

 

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

  本日の福音書の箇所は、洗礼者ヨハネが活動を開始したことについて述べています。ヨハネはルカ福音書1章によれば、エルサレムの神殿の祭司ザカリアの息子で、神の霊によって強められて成長し、ある年齢に達してからユダヤの荒野に身を移し、神が定めた日までそこにとどまりました。らくだの毛の衣を着、腰に皮の帯を締めるといういでたちで、いなごと野蜜を食べ物としていました。そして、神の定めた日がついにやってきました。神の言葉がヨハネに降り、ヨハネは荒野からヨルダン川沿いの地方一帯に出て行って、「悔い改めなさい。天の御国は近づいたのだから」(マタイ3章2節)と大々的に宣べ伝えを始めます。大勢の人が、ユダヤ全土やヨルダン川流域地方からやってきて、ヨハネから洗礼を受けようと集まってきました。ルカ3章には、この出来事がいつだか詳しく記されています。ローマ帝国皇帝ティベリウスの治世の第15年で、ポンティオ・ピラトが帝国のユダヤ地域の総督だった時でした。ティベリウスは、あのイエス様が誕生した時の皇帝アウグストゥスの次の皇帝で西暦14年に即位します。その治世の第15年ということです。彼が即位したのは西暦14年の9月で、その年を数え入れて15年目なのかどうかは不明です。それで、西暦28年か29年の出来事いうことになります。いずれにしても、洗礼者ヨハネの登場もイエス様の登場も歴史的出来事です。おとぎ話ではありません。

 

2.洗礼者ヨハネのスローガン ‐「悔い改めなさい」と「神の国は近づいた」

  洗礼者ヨハネのスローガンは、「悔い改めなさい。天の国は近づいたのだから」でした。まず、「天の国が近づいた」ということは何のことか?「天の国」とは天国のことですが、普通、日本人が天国と聞いたら、人が死んだらふわふわと上がって上から私たちを見下ろしている居心地にいい場所というイメージがあるでしょう。それが、私たちのいるところに「近づいてきた」と言うのです。これは一体どういうことでしょうか?

「天の国」とは、他の福音書では「神の国」と言われています。マタイは「神」と言う言葉を畏れ多くて避ける傾向があり、「天」と言い換えます。それでは、「天の国」、「神の国」とはどんな国かと言うと、「ヘブライ人への手紙」12章には次のように言われています。この世の全てのものが揺り動かされて除去されてしまうという、この世の終わりが来る。その時、唯一揺り動かされてしまわないものとして現れる国です。この世の全てのものが揺り動かされて除去されてしまうというのは、イザヤ書65章や66章にあるように、天地創造の神が今ある天と地に替えて新しい天と地を創造するということです。黙示録21章にはもっと端的に、新しい天と地が創造される時に神の国が見える形で現れることが預言されています。

 キリスト信仰に特徴的なこととして、この世には終わりがあるという立場をとります。しかし、この世が終わってもそれで終わりっぱなしではなくて、その後に新しい世が来るから今のは終わるという立場です。新しい世では神の国が唯一存在する国となり、そこに迎え入れられるか入れられないかを決する最後の審判というものがある。迎え入れられる者は「復活の体」という創造主の神の栄光を現わす体を与えられて迎え入れられる。この壮大な大変動の時にイエス様が再臨して最後の審判を執り行う。黙示録21章4節を見ると、神の国では「涙が全て拭われ、死も心配も嘆きも苦しみもない」と言われます。涙には痛みや苦しみの涙だけでなく無念の涙も含まれます。それなので、この世でないがしろにされたり中途半端で済んでしまった正義が完全なものにされます。さらに、神の国は黙示録19章で言われるように結婚式の盛大な祝宴にもたとえられます。この世での労苦が全て労われるところです。

 さて、そんな夢のような国が2000年前に「近づいた」とヨハネが言ったのは、一体どういうことなのか?そもそも神の国というのは、今ある天と地がなくなってこの世が終わる時に出現するものではないか?今私たちのまわりにある天と地は当時と全く同じではないか?新しい天と地などまだ創造されてはいないではないか?いろんな疑問が沸き起こります。

 実は、2000年前に神の国が近づいたというのは、イエス様が行った無数の奇跡の業と関係があります。皆様もご存知のようにイエス様は不治の病の人々を完治したり、わずかな食物で大勢の群衆の空腹を満たしたり、大嵐を静めたり、悪霊を憑りつかれた人々から追い出したり、とにかく無数の奇跡の業を行いました。それで、2000年前のイエス様の存在と活動というのは、将来の神の国を、まだ今の天と地がある段階で人々に体験させる、味あわせるという意味がありました。それで、神の国が本格的に出現するのは、やはり今の天と地が新しい天と地にとって替わられる日だったのです。そういうわけで、洗礼者ヨハネが「神の国が近づいた」と宣べ伝えたのは、この世の終わりが今すぐ来て神の国が本格的に現れるということではなく、この神の国を人々に体験させられる方、イエス様が来られる、イエス様が神の国と一体としてある、彼のすぐ後ろに控えている、それくらい一緒にあるということを意味したのです。

 洗礼者ヨハネのスローガンのもう一つは「悔い改めなさい」でした。「悔い改め」と言うと、何か悪いことをして後で悔いる、もうしませんと反省する、そういうニュアンスがあると思います。ところが、この「悔い改め」と訳されるギリシャ語の言葉メタノイアμετανοια(動詞メタノエオーμετανοεω)には、もっと深い意味があります。この語はもともと「考え直す」とか「考えを改める」という意味でした。それが、旧約聖書によく出てくる言葉で「神のもとに立ち返る」という意味のヘブライ語の動詞שובと結びつけて考えられるようになります。それで、「考え直す、考えを改める」というのは、それまで自分の造り主である神に背を向けて生きていた生き方を改めて生きる、生き方を方向転換して、神のもとに立ち返る生き方をする、そういう意味を持つようになりました。

 そういうわけで、洗礼者ヨハネのスローガン「悔い改めなさい。天の御国は近づいたのだから」というのは、「あなたがたはもともと自分の造り主である神に背を向けていた生き方をやめて、神のもとに立ち返りなさい。なぜなら、神の国と一体になった方が来られるからだ。その方のおかげで、あなたたちは神の国に迎え入れられることになるのだ」という意味になります。

 

3.洗礼と神の国への迎え入れについて

  ところで、洗礼者ヨハネのもとに集まってきた大勢の人たちは、まだイエス様のことを知りません。それで、ヨハネのスローガンを聞いた時、ああ、この世の終わりがすぐ来るんだ、今ある天と地が預言者の言った通りに新しい天と地に取って替えられる日がすぐに来るんだ、と理解したようです。そうなると、預言書に言われているように(イザヤ書24章21ー22節、26章20ー21節)最後の審判も来てしまう。これは大変だ、ということになりました。ヨハネは、特にファリサイ派やサドカイ派というユダヤ教社会の宗教エリートの人たちには特に手厳しく、蝮の子らよ、お前たちは神の怒りから免れると思っているのか、お前たちは斧が根元に置かれた木と同じで、良い実を結ばない木だから、切り倒されて火に投げ込まれてしまうんだぞ、などと言います。宗教エリートでさえダメなんだから、人々は神の怒りと裁きから免れるために神への不従順と罪を赦してもらわなければならないと考えたのは無理もありません。皆こぞって洗礼者ヨハネに洗礼を授けてもらおうと彼のもとに集まってきました。そして、洗礼に際して罪を告白したのです(6節)。

 人々は、どうしてヨハネから洗礼を受けると罪を赦してもらえると考えたのでしょうか?当時のユダヤ教社会には、水を用いた清めの儀式がありました。それでヨハネから洗礼を受けたら罪から清められると考たと思われます。しかし、ヨハネの洗礼の意図は別のところにありました。どういうことかと言うと、マルコ7章の初めにイエス様と律法学者・ファリサイ派との論争があります。そこでの大問題は、何が人間を不浄のものにして神聖な神から切り離された状態にしてしまうか、という論争でした。ファリサイ派が特に重視した宗教的行為として、食前の手の清め、人が多く集まる所から帰った後の身の清め、食器等の清め等がありました。それらの目的は、外的な汚れが人の内部に入り込んで人を汚してしまわないようにすることでした。しかし、イエス様は、いくらこうした宗教的な清めの儀式を行って人間内部に汚れが入り込まないようにしようとしても無駄である、人間を内部から汚しているのは人間内部に宿っている諸々の悪い性向なのだから、と教えるのです。つまり、人間は本質的に神の神聖さに相反する汚れに満ちている。律法を外面的に守っても、宗教的な儀式を積んでも、内面的には何も変わらない、神の意思に沿ったりそれを実現することには程遠く、神の国への迎え入れを保証するものではない、とイエス様は教えるのです。

人間が自分の力で罪の汚れを除去できないとすれば、どうすればいいのか?除去できないと、この世を去った後、復活させられて神の御国に迎え入れられません。この大問題に対して神が編み出した解決策はこうでした。御自分のひとり子をこの世に送り、本来は人間が受けるべき罪の罰を全部彼に担わせて彼に罪の償いをさせる。その身代わりの犠牲に免じて人間を赦すというものでした。このことがゴルゴタの十字架の上で起こりました。そこで人間が、ひとり子を犠牲に用いた神の解決策はまさに自分のためになされたのだとわかって、そのひとり子イエス様こそ自分の救い主と信じて洗礼を受けると、してもらった罪の償いがその人のものになる。それでその人は罪を赦された者と神に見てもらえるようになる。使徒パウロが教えるように、人間は、洗礼を受けることで、罪の汚れを残したままイエス様の神聖さを頭から被せられる、イエス様を純白な衣のように着せられるのです(ガラテア3章27節、ローマ13章14節、さらにエフェソ4章23ー24節とコロサイ3章9ー10節では、着せられるのは霊に結びつく新しい人となっています)。あとは、この白い衣を手放さないようにしっかり纏うことで内に残っている罪を押しつぶしていきます。パウロが言うように、洗礼を受けた者は聖霊を受けているので、その聖霊の支援を受けながら肉から生じる罪の思いや行いを日々死なせていく、そうすれば復活の日に復活させられて神の国に迎え入れられるのです(ローマ8章13節)。

ところで、ヨハネの洗礼は、まだイエス様の十字架と復活の出来事が起きる前のことでした。神が人間に贈り物として与える罪の赦しはまだありません。ですから、ヨハネから洗礼を受けても、それは人間を神への立ち返りに向かわせるきっかけか出発点にしかすぎません。これとは別に、神の国に迎え入れられるのを確実にする完璧な罪の赦しが必要です。それが、先ほど申しました、イエス様の身代わりの犠牲がもたらした罪の赦しです。ヨハネは、イエス様が設定する洗礼は聖霊と火を伴うと預言しました。キリスト信仰では、洗礼を通して神からの霊、聖霊が与えられると信じます。「火を伴う」というのは、金銀が火で精錬されるように(ゼカリヤ13章9節、イザヤ1章25節、マラキ3章2ー3節)、罪からの浄化を意味します。もちろん、洗礼を受けても、人間は肉を纏う以上は罪を内在させています。しかし、洗礼を受けることで人間は罪の赦しの救いを受け取る者となり、たとえ罪を内在させてはいても、信仰にとどまって白い衣をしっかり纏う限り、罪は人間を神の国への迎え入れを邪魔する力を失っている。その意味で人間は罪から浄化されるのです。

 そういうわけで、ヨハネの洗礼は罪の赦しの救いをもたらす洗礼ではありませんでした。けれども、彼が人々に自分の洗礼を呼びかけたのは、宗教エリートが唱道する清めの儀式では神のもとに立ち返ることなどできない、それほど人間は汚れきっている、むしろその汚れきっていることを認めることから出発せよ、そうすれば、もうすぐ実現する罪の赦しの救いを受け取れる器になれる、ということでした。預言者イザヤが述べた、道を平らにする、まっすぐにする、というのはこのことでした。もし、人間の掟や儀式で汚れが無くなると言うのなら、神が実現した救いはいらなくなってしまいます。それでは、道は整えられず、でこぼこのままです。

 

4.神の国と完全な正義

  こうして人間は、イエス様が罪を償って下さったおかげと、その彼を救い主と信じる信仰と洗礼によって神の国に向かう道に置かれて、その道を歩むようになりました。死からの復活が起こる日に復活の体を与えられて神の国に迎え入れられるようになりました。

ところで、復活の体を与えられて神の国に迎え入れられると言われても、何かかけ離れすぎて縁遠い話に思われるかもしれません。クリスチャンが伝道する時によく口にする言い方に「イエス様を信じましょう、そうすれば天国に行けます!」というのがあります。もちろん正しいことを言っているのですが、天国つまり神の国がどうして素晴らしいのか、どのように素晴らしいところか、それを言わないと空しいスローガンになってしまわないでしょうか?「天国に行けます」というのは、聞きようによっては、イエスを信じたら死んでしまう、縁起でもない、と思われてしまうでしょう。

天国が素晴らしいところというのは、何か綺麗な花が一杯に咲いている楽園をイメージするというような感覚に訴えてわからせることがあると思います。最初の天地創造の時にエデンの園がありました。次に起こる天地創造の時はどうでしょうか?黙示録21章と22章をみると神の国は都市のように描かれています。光はもはや太陽の光ではなく神の栄光の輝きです。その国のなかを輝く川が流れ、岸には「命の木」なる木がありますが単数形なので1本です。神の国には今私たちが美しいと感じる自然に類する自然はあるのでしょうか?それとも、同じ自然ではないかもしれないが、今の自然から美しいと感じるその「美しい」がもっと完成された「美しい」になっている。それで、今感じる「美しい」はその完成された「美しい」の前触れのようなものということなのか?もし、そうならば、私たちは神が最初の天地創造の時に造って下さったものの中にある「美しい」をもっと見つけ出して大切にする、そうすることで天国が感覚的に身近になるのでと思います。

聖書の観点は、天国をこのように感覚的だけではなく認識的に捉えるということもあると思います。「認識的」というのは正確な言葉ではないかもしれません。どういうことかと言うと、本説教のはじめで、神の国というのは、この世の労苦が全て労われて無念の涙を含む全ての涙が拭われて死も心配も嘆きも苦しみもない国、この世でないがしろにされたり中途半端で済んでしまった正義が完全にされる国と申しました。正義の問題については前回と前々回の説教でお話ししました。少し振り返りますと、正義というのは、この世の段階で人間同士の間で実現するのはとても難しい、一筋縄ではいかない。もちろん、損なわれたら回復しなければならない。そのために国や社会には法律や司法制度があり、国と国の間には国際機関がある。しかし、出来事を全て隅々まで100%詳細に正確に客観的に把握できる人はいません。それで、大きな悪や害を被ったのに、どんなに頑張っても償いが小さすぎるとか、逆に本当はそこまで要求する必要はないのに法外な償いや謝罪を求められることが起こる。人間同士が行うことは不完全で不釣り合いなことばかりです。

聖書の立場は、全ての人間の全てのことを知っている全知全能の神とそのひとり子のイエス様が下す判決が釣り合いがとれた完全なものである。だから、私たちがこの世で正義の実現を努力するにしても、全ては最後の審判の時に決着がつけられるということに託さなければならない。このことがローマ12章のパウロの教えからわかります。最後の審判での正義の実現に全てを託すと、キリスト信仰者はこの世では次のような姿勢にならざるを得ない。悪を憎む、しかし悪に対して悪で返すことはしない、迫害する者のために祝福を祈る、高ぶらず身分の低い人たちと交わる、相手を自分より優れた者として敬意をもって接する、喜ぶ人と共に喜び泣く人と共に泣く、自分で復讐せずに神の怒りに任せる、敵が飢えていたら食べさせ乾いていたら飲ませる等々、神の正義実現に全てを託すとこういう生き方になるとパウロは教えます。正義の回復や実現のために努力はしても自分自身は神にならないということです。そうならないのは、最後の審判で完全な正義が実現することに全てを託しているからです。

 そこで、神の国で完全に実現している正義とはどんなものなのか?「釣り合いが取れた」だの「完全」だの、言葉で飾らないでもっと具体的に言えないのか?具体的なことは天国がやって来ないとわかりません。それでも、本日の旧約の日課イザヤ書11章の預言を見ると、完全な正義が実現する神の国が垣間見ることが出来ます。本説教の締めとして、それを垣間見てみましょう。

まず1節の「エッサイの株」。「株」とは木の切り株のことです。木が切り倒されて無残にも切り株だけが残されている。そこから芽が出てくる。若枝が伸びてくる。これは何か?エッサイとはダビデの父親なのでダビデの家系が暗示されています。木が切り倒されたというのは、歴史的に見ると、ユダヤ民族の王国がバビロン帝国の攻撃を受けて滅亡することを指します。イザヤ書6章終わりにそのことを暗示する預言があります。神の意思に反する生き方をしてしまった民に対して神が罰として強大な帝国を送り込む。その攻撃を受けて国は荒れ果てて民は異国の地に連行されてしまう。それはさながら、大木が切り倒されたような様である。しかし、残された切り株が神聖な種になる、という預言です。預言通り国は滅びました。その後でバビロン連行から解放されて祖国に帰還できましたが、かつてのような栄華を誇った王国は復興できないでいました。そのような切り株から若枝が萌え出る、ダビデ家系から出てくるイエス様が登場したのです(後注)。

そのイエス様が最後の審判で裁きを下す時、どのような資質を備えているかが2節から5節まで言われます。神の霊に満たされている。その霊は知恵の霊であり洞察力の霊、助言する霊、力の霊、知識の霊、神を畏れる霊である。知恵は神の知恵ですから人間の知恵を超えています。洞察力も、助言も、力も、知識も皆、神のもので人間のものではありません。こうした資質を備えた方が正義を実現する判決を下す。その際、目で見えることや耳にすることに基づいて行わない。つまり、目に見えない部分も見極められる。声にならない声も聞き分けられるということです。

「弱い人のために正当な裁きを行い」というのは、ヘブライ語原文を直訳すると「立場の弱い人たちのために『正義をもって』(בצדק)判決を下す」です。「この地の貧しい人を公平に弁護する」も、「この世のへりくだった人たちのために『ストレートに』(במישור)判決を下す」です。「その口の鞭をもって地を打ち」というのは、辞書によれば「口」(פיו)は「口から発せられる決定」の意味があるので「決定の杖で地を打つ」です。王様が自分の決定を告げる時、杖で床を打つと臣下の者たちは「ははー」と畏まります。最後の審判者は決定を告げる時、その杖で大地を打ちます。大地は震え恐れおののきます。「唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる」というのは、「口から吐かれる息(ברוח)が強風のようで有罪判決を受ける者たちを永遠の死に吹き飛ばす」という意味になります。「永遠の死」については、本日の福音書の洗礼者ヨハネが「永遠に消えない炎」と言っています(ヘブライ語の辞書はHolladyの”Concise”です)。

最後の審判者は、まさに正義と真実を腰の帯のように身にまとっている。「真実」と訳されている言葉(האמונה)は、辞書では「信頼性のある」という意味です。最後の審判者を見れば、そのいで立ちは文字通り正義を体現し、信頼しきって大丈夫な方だとわかるものということです。

6節から9節までは、野獣や猛獣が家畜や幼子と一緒にいて何も危険がないということが言われます。それくらい完璧な安心と安全がある夢のような国です。ヘブライ語原文を見ても、同じ言葉や似た表現が繰り返され、詩の美しさを感じさせる個所です。何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。神を知っているということが全地に行き渡っている。まさに神を知らないことが一掃されるので、正義に反することも一掃されています。正義が隅々まで行き渡っています。

10節「その日」というのは、旧約聖書では「その日」、「主の日」、「神の怒りの日」という言い方でよく出てきます。それはバビロン捕囚の前の時代なら、敵が攻めてきて国が亡びる日という理解がされましたが、バビロン帰還の後の時代は、私たちの今の時代も含めて、それは今の世が終わり新しい世が来る時、イエス様の再臨の時、最後の審判の時、復活の起きる時を指します。その日に、エッサイの根は全ての民の旗印と立てられる。日本語訳では「国々がそれを求めて集う」と言ってますが、原語(גוימ「諸民族」)は「諸民族が旗印を目指して行く」です。黙示録でも言われるように、神の国に迎え入れられるのは、イエス様を救い主と信じる信仰に生きた者であれば、イエス様の出身民族であろうがその他の民族であろうが関係ないということです。

最後の「そのとどまるところは栄光に輝く」。「とどまるところ」と訳されている言葉(מנחתו)は辞書によると「休息の場」です。神の国とは、この世で流さなければならなかった涙を全て拭われて完全な労いを受ける永遠の休息の場です。「栄光に輝く」と訳される言葉(כבוד)は訳が難しく、impressive appearanceという意味があり、まさに息をのむ、目を見張る、そういう光景が目の前に広がるということです。今まで見てきたことを踏まえたら、神の国、天国はまさにそういうところだと言うほかありません。兄弟姉妹の皆さん、私たちが目指して進む旗印はこれではっきりしたでしょう。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

(後注)ただし、イザヤ11章1節の「切り株」はגזעで、6章13節のמצבתהとは違っています。

スオミ・キリスト教会のクリスマス

画像をクリックすると大きな画像が表示されます。 

 

スオミ教会は2019年の9月、新しい場所に移転しました。所在地は、新宿区 早稲田鶴巻町 511-4-106です。Googleマップで見る

クリスマス・子ども料理教室のご案内。12月14日(土)10:30~13

クリスマス・子ども料理教室

12月14日(土)10時30分から13時くらい

小学生くらいまでの皆さん、ぜひいらしてください。

チラシを見る

スオミ教会は2019年の9月、新しい場所に移転しました。所在地は、新宿区 早稲田鶴巻町 511-4-106です。Googleマップで見る

スオミ教会・フィンランド家庭料理クラブのご報告

クリスマスの飾り付けも素敵な、
移転した早稲田のスオミ教会での家庭料理クラブは、
お祈りをしてスタートです。

作業はグループに別れて始まりました、
事前に塩とスパイスで絞めたスライスしたサーモンで、クリームチーズのフィリングをロール状に包み、冷凍庫で休ませます。

次は、クリスマスのスパイスの香りのチョコレートケーキ作りです。

材料の計量をして、ハンドミキサーで泡立て生地を作り、焼いてる間に、コーヒーやココアを使ったクリーム作りと、作業は進み、
焼き上がった生地を冷まして、イチゴでデコレーションされたケーキは、ゴージャスで可愛い出来上がりになりました。

サーモンロールをカットして、フィンランドらしくジャガイモや、
ヨウルリンプー(クリスマスのパン)も添えられ、華やかで豪華なテーブルは完成しました。

試食会も一段落した頃、パイヴィ先生から、フィンランドのクリスマスやツリーに飾られる星のお話も聞かせて頂きました。

参加の皆様お疲れ様でした、素敵なクリスマスをお過ごしください。

 

 

 

 

 

 

料理クラブの話2019年12月7日

クリスマスはフィンランド人にとって一年で最も大きなお祝いです。クリスマスの前の4週間の期間をアドベント、日本語で待降節と呼びます。アドベントはラテン語からきた言葉で「主イエス様をお迎えする時を待つ」という意味があり、クリスマスを迎える準備をする期間です。この前の日曜日にアドベントの期間に入りました。それはアドベント第1の日曜日でした。明日はアドベント第2の日曜日です。この期間になると、フィンランド人はクリスマスの準備で忙しくなります。クリスマスカードを送ること、家の大掃除、クリスマスの飾り物やイルミネーションをつけること、クリスマス料理を作ることなどをします。

クリスマス料理はフィンランド人にとって、クリスマスの雰囲気を高めるものの一つです。フィンランドの伝統的なクリスマス料理は種類がとても豊富です。クリスマスの季節になるとどの家庭でもクリスマスの料理やお菓子の準備をします。子どもたちもクリスマス料理やお菓子を作ることに興味を持つので、よく親と一緒に作ります。それで家族のクリスマス料理の味は世代から世代へと伝わっていくのです。

フィンランドのクリスマスの食卓には魚の料理の種類も多いです。今日皆さんと一緒に作ったサーモンロールはその一つです。それは近年よく作られるようになりましたが、まだそんなに伝統的でないかもしれません。伝統的なクリスマスの魚料理はいわしやニシンのビネガー漬けです。ビネガー漬けはビネガー、砂糖、塩やスパイスを使うので長く持ち、クリスマスの季節の食卓によく出されます。魚料理の他に伝統的なクリスマス料理は、豚肉のオーブン焼き、人参やジャガイモのキャセロール、生野菜や茹で野菜のサラダなどがあります。クリスマス料理の他に、もちろんお菓子も、クッキーやケーキなどを作ります。今日皆さんと一緒に作ったケーキの中に入れたシナモン、クローブ、ジンジャーなどの調味料は他のクリスマスケーキやクッキーの生地に入れるので、これらの調味料はクリスマスの香りがをするとも言われます。

クリスマスの季節はフィンランドでは一年で最も暗い季節です。明るい時間はフィンランドの南の地方で5-6時間だけです。このためにクリスマスが近づくと電気のろうそくとイルミネーションを家庭でも町でも飾ります。多くの町でクリスマス・ストリートのイルミネーション点灯のイベントがあります。これは大きなイベントで大勢の人が集まります。イルミネーションが点灯される通りは町の一番にぎやかな通りで、明かりはとてもはなやかです。町のあちらこちらできれいなクリスマスの飾りも見られます。私たちが住んでいたトゥルクという町はクリスマスのイルミネーションやクリスマスの雰囲気が有名でクリスマス・タウンとも呼ばれます。ちょうど1週間前にトゥルク大聖堂の前に高さ22メートルのクリスマス・ツリーが立てられてライトがつけられました。沢山の人たちが見に集まってきました。ランプは全部で720個あるというので全部いっぺんにつけた時、きっときれいだったでしょう。この写真をよく見ると、クリスマス・ツリーのてっぺんに星が輝いています。星はクリスマスの飾り物の一つで、クリスマス・ツリーの他に家の窓にもよく飾られます。星はクリスマスの飾り物として大きな意味があります。それはどんな意味でしょうか?

星は、世界で初めてのクリスマスの出来事に深い関係があります。初めてのクリスマスはいつだったでしょうか?それは神様のひとり子であるイエス様が誕生した時です。クリスマスはそこから始まったのです。

救世主の誕生は旧約聖書にも預言されていました。それで多くの人々はこのことが起こることを待ちのそんでいました。この初めてのクリスマスの少し前に遠い東の国の占星術の学者たちが不思議な輝きをする星を確認しました。彼らはこれを新しい王様の誕生の印と考え、今のイスラエルの地に旅をして、エルサレムまでやってきました。そこで、その時王だったヘロデに「新しく王になるためにお生まれになった方はどこにおられますか。私たちは東方でその星を見たので拝みに来ました」と言いました。ヘロデ王はとても驚き、自分の地位が危なくなると心配しました。ヘロデ王は旧約聖書の専門家たちを集めて預言について聞きました。すると彼らは、救世主はユダヤのベツレヘムに誕生するという預言があることを教えました。ヘロデ王は東方の学者たちを呼んで、その子供を見つけたら知らせるようにと言いました。それはその子を殺すためでした。学者たちはそのことを知らずに出発しました。すると、東方で見た星が先立つように見え、それを目指していくとイエス様がお生まれになったベツレヘムの馬小屋に着きました。学者たちが中に入ると、イエス様は母マリアの腕に抱かれて安心そうに眠っていました。学者たちは世の救い主となる方が王様のようにお城で生まれるのではなく、馬小屋で生まれたことに驚きましたが、旧約聖書の預言や不思議な星の導きがあったので、神のみ心を知ることが出来ました。

クリスマスに飾られる星は、私たちにこの出来事を思い出させてくれます。この出来事は2000年たった今の私たちにも大きな意味があります。私たちも世界で初めてのクリスマスにお生まれになったイエス様のもとに導かれることが出来ます。どのようにして出来るでしょうか?それは聖書の御言葉を聞いたり読んだりする時です。聖書の御言葉は私たちにはベツレヘムの星と同じ役割を果たします。聖書を読むと、イエス様はこの世の全ての人々の救い主としてお生まれになったことが分かります。このメッセージを受け入れる時、クリスマスの本当の喜びを得られます。クリスマス料理やイルミネーションや星の飾りはクリスマスの雰囲気のために大切なものですが、クリスマスの季節が終われば片つけたりしてなくなります。しかし、聖書の御言葉は季節に関係なく私たちに喜びと感謝の気持ちを与えてくれます。

聖書研究会:吉村博明 宣教師

交わりの食事のあと前回からの続きで「ローマ信徒への手紙」8章18~38節までを学びました。神の霊を注がれたクリスチャン、神の国を相続する神の子・・・・いろいろと難解であるけれど深い教えがあることを吉村先生は丁寧に解説してくださいました。

歳時記

春は桜、秋は紅葉と市民に愛されている公園です。かつては戦車道路と言って近くの兵機廠で作られた戦車のテスト走行に使われていました。戦後は自衛隊の管轄になり市民はオフリミットの状態でしたが私たちが越してきた40年ほど前に返還されて現在は尾根緑道としゃれたネーミングで呼ばれています。

説教「闇は深くても、夜明けは必ず来る。」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイ21章1~11節、イザヤ書2章1~5節、ローマ13章11~14節

主日礼拝説教2016年11月27日 待降節第1主日

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

  フィンランドやスウェーデンのルター派教会では待降節第一主日の礼拝で必ず「ダビデの子、ホサナ」が歌われます。キリスト教会の新年の幕開けを元気に迎えるに相応しい歌だと思います。スオミ教会でも今皆さんと一緒に歌いました。フィンランド語やスウェーデン語では「ホサナ」は「ホシアンナ」ですが、この言葉は詩篇118篇25節にある言葉「主よ、どうか救って下さい」ヘブライ語のホーシィーアーンナァהושיעהנאに由来します。それで、フィンランド語訳とスウェーデン語訳の聖書でも本日の福音書の個所の群衆の歓呼は「ホシアンナ」になっています。どうして日本語の聖書と讃美歌では「ホサナ」になっているかと言うと、恐らくヘブライ語のホーシィアーンナァをアラム語に訳したホーシャーナהישע־נא 用いているのではと思います。アラム語というのは、イエス様の時代の現在のイスラエルの地域の主要言語です。ヘブライ語は旧約聖書を初めとする書物の書き言葉として残っていましたが、人々が日常に話す言葉はアラム語でした。会堂シナゴーグで礼拝が行われる時も、ヘブライ語の旧約聖書の朗読の後にアラム語で解説的な通訳がつけられていました。それなので、群衆が叫んだ言葉も、ヘブライ語のものよりはアラム語だった可能性が高いです。どっちの言葉にしても、もともとは「主よ、どうか救って下さい」の意味だったのが、古代イスラエルの伝統では群衆が王様を迎える時の歓呼の言葉として用いられるようになりました。日本語的に言えば、「王様、万歳!」になるでしょう。

 とすると、本日の福音書の箇所で群衆は、ロバに乗ったイエス様をイスラエルの王として迎えたことになります。しかし、これは奇妙な光景です。普通王たる者がお城のある自分の町に入城する時は、大勢の家来ないし兵士を従えて、きっと白馬にでもまたがった堂々とした出で立ちだったしょう。ところが、この「ユダヤ人の王」は群衆には取り囲まれていますが、ロバに乗ってやってくるのです。これは一体何なのでしょうか?

 同じ出来事を記したマルコ福音書11章やルカ福音書19章を見ると、イエス様が弟子たちにロバを連れてくるように命じた時、まだ誰もまたがっていないものを持ってくるようにと言います。まだ誰にも乗られていないというのは、イエス様が乗るという目的に捧げられるという意味で、もし誰かに既に乗られていれば使用価値がないということです。これは聖別と同じことです。神聖な目的のために捧げられるということです。イエス様は、ロバに乗ってエルサレムに入城する行為を神聖なものと見なしたのです。さて、周りをとり囲む群衆から王様万歳という歓呼で迎えられつつも、これは神聖な行為であると、ロバに乗ってトコトコ、エルサレムに入城するイエス様。これは一体何を意味する出来事なのでしょうか?

 

2.群衆の目に映ったロバに乗ったイエス様の凱旋

  このイエス様の奇妙なエルサレム入城は何かのパロディーでもなんでもなく、まことに真面目で、人類の運命に関わる重大かつ神聖な出来事でした。このことについては以前の説教でもお教えしましたが、今回は旧約の日課イザヤ書2章とローマ13章も用いて解き明かしを深めていこうと思います。

 まず、イエス様のこの行為は旧約聖書のゼカリヤ書にある預言が成就したことを意味しました。ゼカリヤ書9章9ー10節には、来るべきメシア・救世主の到来について次のような預言があります。

「娘シオンよ、大いに踊れ。/娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。/見よ、あなたの王が来る。/彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ロバの子であるろばに乗って。/わたしはエフライムから戦車を/エルサレムから軍馬を絶つ。/戦いの弓は絶たれ/諸国の民に平和が告げられる。/彼の支配は海から海へ/大河から地の果てにまで及ぶ。」

「彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく」というのは、ヘブライ語原文を忠実に訳すと「彼は義なる者、勝利に満ちた者、へりくだった者」です。「義なる者」というのは、神の神聖な意志を体現した者ということです。「勝利に満ちた者」というのは、今引用した箇所から明らかなように、神の力を受けて世界から軍事力を無力化するような、そういう世界を打ち立てる者です。本日の旧約の日課イザヤ書2章でもそのような平和な世界が到来することが言われていました。「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣をあげず、もはや戦うことを学ばない。」これを読むと、本当に世界中の戦車や戦闘機や軍艦を一斉にスクラップにして、全世界の核兵器やミサイルも全部どこか、アリゾナの砂漠でもゴビ砂漠でもシベリアのツンドラ地帯でもどこでもいいから一ヵ所に集めて全世界の人たちが注視する実況中継の前で一斉に解体・分解したら、どんなにかせいせいすることか。そんなことされては困ると言う人もいるかもしれません。兵器の解体、スクラップ化を妨げる要因は何かを列挙して、それらを一つ一つを除去する手立てを考えるというのは、新兵器をどんどん開発することよりも難しいことなのでしょうか?

 話がそれました。旧約聖書の「世界の平和」についての預言に戻ります。そういう平和な世界を打ち立てる者が、大軍隊の元帥のように威風堂々と凱旋するのではなく、ロバに乗ってやってくるという預言がありました。イエス様が弟子たちにロバを連れてくるように命じたのは、この壮大な預言を実現する第一弾だったのです。民衆の期待が高まったのは無理もありません。彼らが考えていた預言の実現というのは、ダビデ家系の者が王となって神の偉大な力を得てユダヤ民族を占領者ローマ帝国から解放してイスラエルの王国を再興するということでした。それが成就すると今度は、神の力を思い知った諸国民が神を崇拝するようになってエルサレムの神殿に上って来る。このような理解が預言に対して生まれたのは、先ほどのイザヤ2章の3節の預言「国々はこぞって大河のようにそこに向かい、多くの民が来て言う。『主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう』と。」これがあることは言うまでもありません。

 後世の私たちから見たら、そんなことはイエス様のエルサレム入城の後に起きなかったと事後的にわかるので、預言は見事に外れたと言うでしょう。しかし、当時の人たちは預言をまさにユダヤ民族の解放と諸国民のエルサレム神殿参拝の日である理解していたので、ロバに乗って凱旋するイエス様を見て、ついにその日が来たと思ったのです。それでイエス様を熱狂的な大歓呼の中で迎えたのでした。ところが、その後で何が起こったでしょうか?華々しい凱旋は、全くの期待外れの結果で終わってしまいました。イエス様はエルサレムの市中でユダヤ教社会の指導者たちと激しく衝突します。まず、神殿から商人たちを追い出して、当時の神殿体制に真っ向から挑戦しました。また、イエス様が群衆の支持と歓呼を受けて公然と王としてエルサレムに入城したことは、占領者であるローマ帝国当局に反乱の疑いを抱かせてしまう、せっかく一応の安逸を得ているのに占領者の軍事介入を招いてしまう、そういう懸念を生み出しました。さらに、イエス様が自分のことをダニエル書7章に預言されている終末の日のメシア「人の子」であると公言したり、自分を神に並ぶ者とし、果てはもっと直接的に自分を神の子と見なしている、これも指導層にとって赦せないことでした。これらがもとでイエス様は逮捕され、死刑の判決を受けます。逮捕された段階で弟子たちは逃げ去り、群衆の多くは背を向けてしまいました。この時、誰の目にも、この男がイスラエルを再興する王になるとは思えなくなっていました。王国を再興するメシアはこの男ではなかったのだと。

 

3.イエス様の凱旋の本当の意味

  イエス様が十字架刑で処刑されて、これで民族の悲願は潰えてしまったかと思われた時でした。とても信じられないことが起こって、旧約聖書の預言は実はユダヤ民族の解放を言っているのではなく、何か人類全体に関わることを言っていることがわかるようになる、そんな出来事が起こりました。それは、イエス様が神の力で死から復活させられたことです。これによって死を超えた永遠の命が打ち立てられたことが誰の目にも明らかになりました。ダニエル書12章に預言されていた復活ということが本当に起こるものであることが明確になりました。死の力を上回る命があるということがはっきりしたのです。死の力を上回るものが現れた時、人間を死に追いやる役目を果たしていた罪も存在する意味を失いました。

どのようにして、そうしたことが起きたかと言うと以下の次第です。創世記に記されているように、最初の人間が創造主の神に対して不従順になり罪を自分の内に入り込ませてしまった。その結果、人間は神との結びつきを失って死ぬ存在になってしまった。それを神のひとり子のイエス様が人間の罪を全部自分で引き取ってゴルゴタの十字架の上で人間に代わって神罰を受けて死なれた。まさにイザヤ書53章にある、人間が神罰を受けないで済むようにするために神の僕が自分を犠牲にするという預言が実現したのです。そしてイエス様が死から復活させられたことで、死は永遠の命を突き付けられて自分がもう絶対的な者ではないことを思い知らされました。人間を死に追いやる役目を果たしていた罪も存在する意味を失いました。

そこで人間がイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、死は絶対者でない、罪も存在する意味がない、という状況の中に置かれることになります。そこでは、イエス様が成し遂げて下さった罪の償いを純白の衣のように頭から被せられて、神からは罪を赦された者として認めてもらえます。罪を赦されたのですから、神との結びつきが回復しています。進むべき道として、死を超える永遠の命に至る道に置かれて、その道を歩むことになります。罪がキリスト信仰者に神罰が下るようにとそそのかしても、既に罪を償われて赦されてしまったので、神罰の下しようがありません。このようにして人間は罪の支配から脱することが出来るようになりました。永遠の命に向かうので、イエス様を救い主と信じる信仰に留まる限りは、死もその人には何もなしえまえせん。

このようにロバに乗ってのイエス様のエルサレム凱旋は、ある特定の民族の解放の幕開けなんかではなかったのです。旧約聖書をそのように解したのは一面的な理解でした。でも、そのような理解が生まれたのは、ユダヤ民族が置かれた状況や悲願を思えばやむを得ないことでした。しかし、イエス様の十字架と復活の出来事はこうした一面的な理解に終止符を打ちました。神の御心は全人類の課題を解決することにあるということが明らかになりました。罪と死からの解放、造り主との結びつきの回復、そして死を超えた永遠の命の獲得、そうした全人類に関わる課題の解決がいよいよ幕を切って落とされる、それがイエス様のロバに乗ってのエルサレム凱旋だったのです。

 

4.キリスト信仰者と平和の実現

  イエス様の十字架と復活の業によって全人類にとっての課題が解決されたと言うのなら、ゼカリア書9章やイザヤ書2章にある、世界の完全な平和についての預言はどうなるのでしょうか?十字架と復活の出来事が起きて、そのような世界が果たして実現したでしょうか?人類の歴史を見渡せば、戦争が起きて終わって、少し和平が続いて、また戦争が起きるという繰り返しでした。武器のスクラップ化ということも、弓矢や刀の時代なら簡単に考えることができますが、現代のように装備、技術、規模とも途方もないものになってしまっては、そう単純なことではないのではないか。そうなると、預言された完全な平和というのは、ますます実現困難に見えてしまいます。

 兄弟姉妹の皆さん、実は、聖書で言われる、武器が存在しない世界、誰も戦争の仕方を学ばない世界、それくらい完璧な平和というのは、これは今の世の次に来る新しい世での平和のことです。父なるみ神が今ある天と地に替えて、新しい天と地を創造し、そこに唯一揺るがない神の国が現れる。この神の国にある平和がゼカリア9章やイザヤ2章で言われている完全な平和です。聖書の立場に立つと、今の世が終わる終末というものがあります。その時、イエス様が再臨して、「生ける人と死んだ人を裁く」という最後の審判があります。審判の結果、神の国に迎え入れられる人たちは神の栄光に輝く復活の体を着せられて祝宴の席に着き、この世の全ての労苦の労いを受けます。イザヤ書2章を読むと、諸民族がエルサレムに向かって進むとか「ヤコブの家」とか、ユダヤ民族に結びつく言い方がされるので、どうしても同民族の解放について言っているという理解になりやすい。しかし、イザヤ書の預言を黙示録と重ね合わせて読むと、実は預言は終末と新しい世のことを先取りして言っているとわかります。黙示録の方でも神の国を「天のエルサレム」などと呼びますが、それは名称だけのことで、現在中東にある都市とは関係はありません。

このように聖書では武器が全く存在しない、戦争の知識もないという信じられない平和な世が預言されています。そこで、この平和は今の世の次に来る新しい世の状態であるというのが聖書の立場だとすると、今の世ではそういう完全な平和は無理ということなのか?そうしたら、この世で平和の実現を求め努力することは意味がないのか?どうせ次の世で実現するのなら、今は別に何もしなくてもいいという考えになってしまわないか?聖書はこの世の平和問題について消極的な態度なのか?等々、いろんな疑問や反論が出るでしょう。

 この問題については、先週の説教でお教えした、完全な正義の実現ということを重ね合わせて考えてみたらよいと思います。この世では完全な正義は実現しない。例えば、とても大きな悪や害を被ったのに、その解決を目指してどんなに頑張っても得られる償いは小さすぎるということがある。また、他人に与えてしまった害に対してあまりにも法外な補償や謝罪を要求されることもある。そうしたことは、日々のニュースからでも、また自分の身の回りからでも、よく起こるとわかるでしょう。このように、人間同士の間で実現しようとする正義はどうしても偏ったり、不釣り合いなものになってしまう。しかし、神は最後の審判の時、不完全で未解決だった正義の問題に決着をつけるので、神の国は完全な正義で覆いつくされる世界となる。黙示録21章4節で、神は「彼らの目の涙をことごとく拭い取って下さる」と言われる時、その涙とは痛みや苦しみの涙だけでなく無念の涙も含まれます。文字通り「全ての」涙です。ギリシャ語原文でも「全ての」πανとついています。

神は最後の審判の時に無念の涙を含む全ての涙を拭って完全な正義を実現すると言われる。それじゃ、この世ではそういう正義は実現しないということなのか?もしそうなら、正義の実現のために努力するのは意味のないことになってしまうのか?実はそうならないということを先主日の説教でお教えしました。その時、ローマ12章でのパウロの教えが鍵になると申しました。もう一度みてみますとパウロは、悪を憎め、ただし悪に対して悪で返してはならい、迫害する者のために祝福を祈れ、相手を自分より優れた者として敬意を持って接しろ、高ぶらず身分の低い人たちと交われ、喜ぶ人と共に喜び泣く人と共に泣け、自分で復讐しないで神の怒りに任せろ、敵が飢えていたら食べさせ乾いていたら飲ませろ等々、そういうふうに教えました。神が正義を完全に実現するということに全てを託すと、そういう生き方になるのです。次の世に実現するからと言って、この世で何もしないで手をこまねいているわけではありません。不正義や不正には当然対抗していく。しかし、その場合、正義を振りかざして逆に不幸をまき散らさないようにするための神の知恵がここにあります。

完全な平和の実現もこれと同じです。預言にあるような完全な平和は次の世に実現するものである。だから、今この世にいる間は、ローマ12章の神の知恵に従って、平和に反することに対抗していかなければならない。知恵に従えるのは、神が平和を完全に実現することに全てを託しているからです。さらにローマ12章の18節をみてみると、パウロは全ての人たちと平和な関係を持つことを勧めています。他の人たちとの平和な関係を持てるかどうか、それがあなたがた次第であるならば是非そうしなさい、と教えます。つまり、キリスト信仰者は少なくとも自分から平和を崩すようなことはしてはいけない。それじゃ、相手がどんな出方をしても、こっちは何もしないで言いなりか?と言うと、そうではない。最後の審判の時に全てが決せられるということに全てを託して、この世では神の知恵に従って不正や悪に対抗していくということです。

 

5.闇は深くても、夜明けは必ずやって来る

 次の世での完全な正義と平和の実現に全てを託して、この世ではその正義と平和を遠くに見据えるようにして生き、神の知恵に従って不正や悪に対抗していく、これを本日の旧約の日課イザヤ2章は「主の光の中を歩く」ことと言います。使徒書の日課ローマ13章では、この光についてもう少し具体的に述べられています。

12節の「夜は更け、日は近づいた」。「日」とはお日様が出ている「日中」ですが、ここでは新しい天と地が創造されて復活の体を着せられた者たちが神の国に迎え入れられる日のことです。神の栄光の輝きに満ちた光の日中です。従って「夜」は、復活の栄光の前の時代なので、今のこの世の時代です。「闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身につけましょう」。「日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。」今はまだ新しい天と地の創造が起きていない「夜」の段階であるが、この「夜」はもうすぐ終わる。だから、キリスト信仰者は約束されているのだから疑わずに、今はもう復活させられて神の栄光を現わす者になっているかの如く、そのような者としてこの「夜」が終わりつつある最後の時代を生きようということです。

この「夜」が終わる時代にあって、「日中」の復活させられた者として生きるためには「光の武具」を身に着けることが必要である。この世というところは、神との結びつきを持つ者や将来復活させられる者を見つけたら、すぐ引き離そうとするからです。キリスト信仰者が身に着けるべき武具はエフェソ6章にリストがあります。帯として神の真理、胸当てして神の正義、履物として平和の福音を告げる準備、盾として信仰、兜として救い、剣としての霊がそれです。これらの武具は神がキリスト信仰者にちゃんと取り揃えて下さるものです。信仰者は自分が纏っているこれらの武具をいつも確認しなければなりません。そうすることで、「欲望を満足させようとして、肉に心を用いない」ようになります。この文は、私なら意訳して「肉の言うことに耳を傾けたり聞き従うと欲望が欲望を生む状態となる」とするでしょう。これが闇の行いです。酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみが言われています。肉の言うことに耳を傾けて聞き従ってしまうと、こうした闇の行いに走って行ってしまいます。夜が終わって明るくなったらその人は存在する場所がありません。しかし、イエス様が成し遂げて下さった罪の償いを白い衣のように被せてもらうことは、今からでも間に合います。夜は必ず終わります。急がないといけません。

 夜の闇は深くても

夜明けは必ず来る。

だから今のこの闇の残りの時間は、

もう光の中にいるつもりで生きよう。

もう闇の行い、肉の思いへの従属はやめよう。

夜が明けた時に手遅れにならないために。

だから、今から光の中にいるつもりで生きよう。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         

アーメン

 

 

聖餐式:木村長政 名誉牧師

 

 

 

 

 

交わり

アドベント初日の日です。教会もすっかりクリスマスの飾りつけも済み降誕の日を待ち望んでいます。幾つのなっても待ち望むということは楽しいものですね。

歳時記

公園の池に冬の渡り鳥(キンクロハジロ?)がやってきました。頭の感じから見て幼鳥かもしれません、はるばるシベリヤ?からやって来たようですねお疲れ様。

このサイトに引用されているのは聖書新共同訳です。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会

Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988
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    Tervetuloa laulamaan joululauluja! Nyyttikestit.
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