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全知全能の父なるみ神よ。
イエス様が十字架の死に至るまであなたに従順だったおかげで、この世界に死と絶望を超える復活の希望が打ち立てられました。どうか、この希望を持って生きる私たちを日々見守り導き支え、いつも主にある喜びに満たされるようにして下さい。
あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストのみ名を通して祈ります。 アーメン
杜若・カキツバタ・Kakitsubata
<15 人は、そのよわいは草のごとく、その栄えは野の花にひとしい。 16 風がその上を過ぎると、うせて跡なく、その場所にきいても、もはやそれを知らない。 詩編103:15・16>
近くの池に今年もまた杜若が咲いていました、何時咲くかと先週から幾度も様子を見に行っていましたが恐らく今朝(29日)早くに咲いたのでしょう。間もなく五月で夏になりますね初夏の花と言えばこの杜若と卯の花(ウツギ)ですが先日みた卯の花はまだ蕾でした。アヤメ・ショウブ・カキツバタ?なかなか判断が難しいです。アヤメ→乾燥した所、畑など・ショウブ→水気の多い所、田圃など・カキツバタ→水のある所、池など。と覚えておけば便利です。春先のフデリンドウから始まってヤマフジ、カキツバタ、キリと青系の花を追いかけてきましたが好きな青色に惹かれたせいでしょうか。
かきつはた佐紀沼の菅を笠に縫ひ着む日を待つに年ぞ経にける (カキツバタが咲く沼に生える菅を笠に縫い立ててかぶる日を待っているうちに年月が経ってしまった。)万葉集11:2818 詠み人知らず
ルターの聖句の説き明かし(フィンランドの聖書日課 「神の子らへのマンナ」4月17日の日課
「その一人の方は全ての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。」(第二コリント5章15節)
『自分の益のために生きる生き方は呪われよ!神から頂いた賜物が大きなものであると気づけば気づくほど、我々は自分を低い者へと自らヘリ下させて他者に仕えることができるようにしなければならない。正しいキリスト信仰者は、キリストが行ったように全ての人に仕え、神から頂いた賜物のゆえに偉ぶるということがなく、他者を見下すことをしない者である。しかし、我々は、死ねばミミズの餌にしかなれない惨めな存在でありながら、与えられた賜物がちっぽけなものだったら動転して、自分たちこそ仕えられなければならないと騒ぎ立てるだろう。つまり、全ての人は自分たちに仕えなければならないのであって、自分たちは仕えなくていいというのだ。
他者に仕えて助けてあげるというのはキリスト信仰者にとって自然なことである。たとえ我々が神の召しによって社会的に高い地位につけ名望を博そうとも、生き方自体は他者の益を中心にしなければならない。高い地位につければつけるほど、それに応じて自分を一層低くし他者の益の増進に務めなければならない。
神も、ひとり子イエス・キリストを通して、我々を罪と死と悪魔と地獄とあらゆる不運から救い出して、我々の上に恵みを豊かに注いで下さったのだ。この恵みのゆえに我々は、律法を守らないとこれらのものから救い出してもらえないという律法主義を脱することができたのだ。神が先手を打って我々を一方的に救い出して下さったからだ。恵みを通してお与えになった賜物に関して神が我々に求めているのは、神が我々に対して振る舞ったように隣人に対して振る舞いなさいということに他ならない。』
「神が我々に対して振る舞ったように隣人に対して振る舞え」というのは普通、神が私たちの罪を赦されたのだから、私たちも互いに赦さなければならないと理解されると思います。しかし、もっと深いことがあります。神がイエス様を通して確立した「罪と死と悪魔と地獄とあらゆる不運からの救い出し」を隣人に及ぼすことがそれです。つまり、キリスト信仰者が「罪の赦しの恵み」に留まれるように励まし支えること、そして、まだ恵みの外にいる人たちをそこに導いてあげることです。
今フィンランドでも春の季節が深まってきています!5月の料理クラブではフィンランドの伝統的なドーナツ「ムンキ」を作ります。表面はサクサク、中身はソフトな甘いムンキの秘密はプッラの生地で作ること。
全国どこのカフェでも味わえる、フィンランド人の大好きなドーナツ風プッラです。「ムンキ」は特に5月1日のお祭り「ヴァップ」に欠かせません。それを味わえなかったらヴァップのお祝いにならないと言われるくらいです。そんなフィンランドの春の風物詩ムンキを一緒に作って味わいませんか?
参加費は一人1,500円です。
どなたでもお気軽にご参加ください。
お子様連れでもどうぞ!
人数制限がありますのでご注意ください。
お問い合わせ、お申し込みは、 moc.l1746122075iamg@1746122075arumi1746122075hsoy.1746122075iviap1746122075 まで。
4月の手芸クラブは23日に開催しました。暖かい雨の日で梅雨を思わせる陽気でしたが、今は色んな花が咲いているので、とても美しい季節です。
今回の作品は前回に続いてバンド織りのキーホルダーです。はじめに前回と同じように参加者がキーホルダーの毛糸の色を選びます。選んだ毛糸でどんなキーホルダーが出来るか楽しみです。
それではバンド織りに入りましょう。まずワープになる毛糸をカードの穴に通します。穴は小さいので皆さん集中して毛糸を一本一本通していきます。それから各自、自分の作業する場所を決めて織り始めます。カードでワープを開いてからよこ毛糸をワープの間に入れます。これを繰り返しながら織り進めます。以前参加された方だけでなく今回初めての方も手が早くて、間もなくして毛糸のきれいな色合いが見えるようになりました。慣れた方々はもう少しレベルアップしてハートなどの模様も作られました。皆さんは自分が作っているものに集中していましたが、他の方が作っているものにも興味があって少し見に行ったりしました。その時は、かわいい!きれい!素敵な色合いね!と感心し合う声があちこちから聞こえてきました。出来あがったNauhaに輪を入れて結ぶと可愛い色とりどりのキーホルダーの完成です!
今回も時間はあっという間に過ぎてコーヒータイムになりました。イースター・パイナップル・マフィンを味わいながら楽しい歓談の時を持ちました。その後で、ハートやそれに関連してイースター復活祭の後に起こった出来事についてお話がありました。
次回の手芸クラブは5月28日の予定です。詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。
今日は前回に続いて、織物のNauha を作りました。皆さんと今日も素敵なNauhaを織ることが出来て、嬉しいです。今日はNauhaに可愛いらしいハートの模様も作りました。少し難しかったですが、織れるようになると、もっとたくさん作りってみたいという気持ちになります。次はどんな模様が織れるようになるのか楽しみです。
ハートのシンボルはあちらこちらで見かけられ、様々なことを象徴しています。例えば愛、友情、感謝、信頼などを象徴しています。最近は、友達同士がメールやメッセージでハートの絵文字を使って相手を喜ばせるのも、普通になっています。ハートは色んな意味を持っていますが、最も一般的なのはやはり愛でしょう。
聖書には愛について沢山書かれています。この前の日曜日はイースター復活祭のお祝いでした。スオミ教会でも盛大なお祝いを行いました。これからお話するのは、イースター復活祭の後に起こった出来ことです。イースターの前にイエス様が十字架で亡くなられましたが、三日後週の初めの日に天の神さまの力で蘇らせられたのです。その後イエス様は何度も弟子たちの前に現れました。弟子のペテロにも現れました。ペテロはイエス様が十字架に付けられる前にイエス様の裁判様の様子を遠くから見ていましたが、イエス様の弟子であることを人の前で三回も否定してしまいました。
次の場面はティベリアス湖という湖のほとりで起きたことです。そこにペテロもいました。イエス様は弟子たちに食事を用意して一緒に食べました。その後、イエス様はペテロにこう尋ねました「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペテロが、「はい、主よ、私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」と答えました。イエス様はかつて、ペテロが自分のことを知らないと言ったことをよくご存じでした。イエス様はこの質問「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」をペテロに三度も繰り返されました。ペテロはイエス様が不信感を抱いていると思い過去のことを思い出して悲しくなりました。同時に自分の愛は不完全であることにも気づきました。ペテロは自分の弱さもよく知っていたのです。完全な愛を持っておられるのはイエス様だけだということもペテロは理解していました。
もし私たちがペテロの立場にいたら、どう感じるでしょうか。私たちもペテロと同じように弱く、自分の愛の不完全さに気づくでしょう。その時、イエス様の質問を逆に「イエス様は私たちを愛しているか」と考えてみると良いでしょう。聖書はこの質問に明確な答えを示しています。新約聖書のヨハネの第一の手紙4書10節には次のように書かれています。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛して、私たちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」
神さまの愛は、人間の愛と比較することは出来ません。神さまの愛は無条件の愛でとても深いのです。私たちは神さまが教えて下さることを忘れてしまったり、神さまの御心に従って生きることが出来ません。私たち人間の愛は不完全です。そのことが、嘘をついたり、悪いことを話したりすることを通して現れてきます。イエス様の弟子たちも同じような弱さをもっていました。それにも拘わらず、神さまはそんな弱い私たちを愛して下さいます。
神さまの愛はどのように現れたのでしょうか。それはイエス様の十字架の出来事を通してはっきり示されました。イエス様は十字架にかかって死ぬことを通して私たちや世界の全ての人の救い主になられたのです。これより深い無条件の愛はこの世にはありません。このようなイエス様の全ての人々に対する愛は私たちに向けられているのです。私たちはその愛をただ受け取るだけでよいのです。ここに、神さまの私たちや世界全ての人々に対する愛があるのです。
イエス様がイースターに復活されて弟子たちに現れた時、彼らはやっと神さまの人間に対する愛、救いのご計画を理解することが出来ました。私たちはイエス様のお姿は見えませんが、
聖書を読んだり、み言葉を聴いたりすると神さまの愛を信じることが出来るようになります。その時、私たちは弟子たちと同じようにイエス様の愛に包まれます。
今日はハートの模様のNauha を作りました。これからハートの印を見る時にイエス様の深い愛のことを忘れないように行きましょう。
子ども料理教室は4月19日に開催しました。この日はちょうどイースター/復活祭の前日だったので、みんなでイースター・パイナップル・マフィンを作ってイースター・エッグの飾りつけをしました。
子ども料理教室は、お祈りをしてからスタートします。最初にマフィンの生地を作ります。小麦粉などの粉類を計ってボールに入れ、別のボールにはヨーグルト、卵などを入れてよくかき混ぜます。さっそく「美味しそうな香りね!」との声が聞こえてきました。粉類をヨーグルトと卵のボールに少しずつ加え、子どもたちはさらに一生懸命かき混ぜました。だんだん生地の感じになってきます。そこで、パイナップルを細かく切って生地の中に入れてさらに混ぜて、これで生地の出来上がりです。子どもたちは生地を一つ一つマフィンカップに入れて「どんな味になるかなぁ」と楽しそうです。鉄板はあっという間に生地のマフィンカップで一杯になりました。それからオーブンに入れて焼き始めます。
マフィンを焼いている間にイースターエッグの飾りつけをしました。可愛らしい模様のラッピングで卵をくるんでお湯の中に入れると、ラッピングはピタッとくっつきます。くっつく度に「わー不思議!」、「可愛い!」との声が聞こえてきます。可愛い模様のイースター・エッグが沢山出来上がりました。
ここまでは作ることが多くて少し一休みします。そこでイースター/復活祭の時に何が起こったかをみんな一緒に聖書のフランネル劇を観ました。イースターの前の週イエス様は私たち人間が救われるために多くの苦しみを受けて死ななければなりませんでした。しかし、次の週の始めの日、日曜日にイエス様は神さまの力で死から復活したのです。イースターの時、私たちはこの出来事を覚えて喜んでお祝いするのです。そしてイエス様を復活させて下さった神さまを感謝するのです。
フランネル劇が終わる頃、マフィンの香りが教会中に広がっていました。マフィンにはきれいな焼き色がつきました。どんな味になったかはこれからの楽しみです。今回は子どもの家族の他にも大人の方々のご参加もありました。それでマフィンも沢山できあがりました。
みんなで食前のお祈りをして、さあ、自分たちで作ったマフィンをいただきましょう!子供たちは食べることに集中。大人たちはコーヒー紅茶と一緒に味わい歓談の時を持ちました。子どもたちはみな友達になって食べ終わってからも楽しそうに遊びました。こうして久しぶりの子ども料理教室で参加者の皆さんとおいしくて温かい一時を分かち合うことができました。
<・・・・あなたがたの名が天にしるされていることを喜びなさい。 ルカ 10:20
ここで、あなたがたに奥義を告げよう。わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。 Ⅰコリント 15:51>
先週の復活祭の祝会の席で堀越姉から教わった「聖歌 世の終わりのラッパ」が忘れらなくネットで調べたら引退牧師でしょうか、オールドボーイたちが声を張り上げて歌っていました。救世軍の社会鍋で聴いたことがあるかもしれません、聴いていて胸が熱くなってきました。
礼拝後の帰路、甲州街道沿いの小さな神社の境内に藤棚があり藤の花が咲いていました。もう藤の花の季節がやって来たのかと思っていましたら翌朝ベランダの先の木立に見事な山藤の花を見つけて歓喜しました。家内も私も大の山藤が好きなので間近にこんな素晴らしい山藤を見られるとは今まで気が付きませんでした。夕方もう一度見たら今度は夕日が当たり山藤の花が輝いていました、これでホトトギスが啼いてくれれば万葉の世界になりますね。
(藤波の咲き行く見れば霍公鳥鳴くべき時に近づきにけり 万葉集巻18 4042田辺福麻呂 )
私たちの父なる神と、主イエス・キリストから恵みと平安があなた方にあるように。 アーメン
2025・4月27日(日)
聖書:ヨハネ福音書20章19~23節
説教題:「聖霊を受けよ」
先週の礼拝はイースターでした。イエス様が十字架の死を遂げ三日目に蘇えられた。今日の聖書ではイエス様が蘇られて弟子たちはどうなったでしょうか!と言う弟子たちが聖霊を受けて変身して行く出来事です。あの漁師であった弟子たちは三年の間いつもイエス様と寝食を共にして、ローマ帝国の支配やユダヤ教祭司連との戦いの連続でした。イエス様は神の力を持って数々の奇跡の業を起こして多くの群衆を助けて行かれた。そうして群集も弟子たちもこのイエス様をメシアとして仰いでいった。そのイエス様は十字架の処刑によって死んでしまわれた。これからどうしていったらいいんだ、途方にくれ絶望し、どん底に落とされ、今度は自分も殺されるかも知れない、という恐怖の中で、あのイエス様と最後の晩餐を過ごした二階家の秘密の場所に集まって全部の戸を閉め密かに隠れて過ごしたのです。そんな彼らの真ん中に復活されたイエス様が突然現れたのです。弟子たちはもう吃驚仰天でしょう。あの十字架で死んでしまったイエス様が生きたままの姿で蘇って現れたのです。幽霊ではないのです、生きた姿です。それをはっきりさせるため、わざわざ弟子たちの前で掌と脇腹をお見せになって「安かれ」と言われた、彼らは主を見て喜んだ。イエス様の十字架処刑でおわれた傷跡である掌と脇腹を彼らは見た。十字架によって死んでしまわれた主イエス様が蘇って現れる。人間が死んで三日経って生き返って目の前に見ている。どうしてそんな事があり得ようかなどの理屈ではないのです。いま見ているイエス様、「あー、確かに生きておられるイエス様だ!」と喜んだだけではない。彼らが主を見て喜んだ、とヨハネが表現している中にはこの私の罪を十字架の死によって全てを購って下さって復活して生きておられるイエス様を「私たちの救い主である主として」喜んだのです。イエス様は16章21節以下のところで既にこの「喜び」を予告しておられたのです。こういう表現です。「女が子を産む場合にはその時が来た、というので不安を感じる。しかし、子を産んでしまえばもはやその苦しみを覚えてはいない。一人の人がこの世に生まれたという喜びがあるためである。このようにあなた方も今は不安がある、しかし、私は再びあなた方と会うであろう。その喜びをあなた方から取り去る者はいない。」ここで大事な事は、今弟子たちの目の前におられるイエス様はあの三年間イエス様と一緒に過ごした肉体の身体の、この世にあった時のイエス様とは全く違う、死を超えたところの復活の主としておられる。外から見たお姿は同じように見えたでしょう。弟子たちは今や復活された主にお会いして、もう喜びいっぱいに満ちているのです。そこでイエス様はこの弟子たちに、21節~23節に記されている、非常に大事な使命を授けていかれます。「安かれ」「父が私をお遣わしになったように私もあなた方を遣わす」ここに「安かれ」と言われたヘブル語で「シャローム」と言う言葉はイスラエルの人々が挨拶の言葉として使いますが、ここでのイエス様が言われる「シャーロム」は全く違う意味があります。それは「大事な事を啓示なさる」と言う深い意味を持っています。メシアであるイエス様だけが与える平安と言う事です。イエス様はヨハネ14章27節で、この「平安」を約束しておられました。「私は平安をあなた方に残して行く。私の平安をあなた方に与える。私が与えるのは世が与えるようなものとは異なる。あなた方は心を騒がせるな。また怖じけるな。」
このメシア的平安と喜びは決してこの世の喜びや平安のように休憩して安らぐ、という安らぎではない。むしろ「父が私をお遣わしになったように、私もあなた方を遣わす。」と言う一つの使命を与える平安であります。ユダヤ人を恐れていた弟子たちに、死に打ち勝ち給うた「メシアの平安と喜び」とを授けるから、さあ!出て行きなさい!と、メシアは呼びかけておられるのです。私たちは、死に打ち勝ち給うた復活の主が共におられる、そして安らぎと喜びに満ちた使命に生きているだろうか。ここで私たちはヨハネ16章33節で言っておられるイエス様の言葉を覚えたいのです。「あなた方は、この世では悩みがある。しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている。」私たちが教会の礼拝で復活されたイエス様と出会っているなら、それは弟子たちと同じように私たちにもこの世にあって遣わされている、ということです。イエス様は言われた。「父が私をお遣わしになったように、私もあなた方を遣わす」と弟子たちに言われました。この弟子たちにはイエス様と共に暮らした一人の弟子だけでなく、エマオで復活のイエス様に会ってエレサレムに戻ってきた二人を含め、他にも多くの弟子たちがいた。そして更に現代において教会で復活の主に出会っているあなた方全ての者にイエス様は使命を授けておられるのです。
神から遣わされた神のみ子、イエス・キリストはあなた方の罪を十字架の死を持って購って下さった。この主イエス様は復活してあなたの救い主となって下さったのです。この福音を宣べ伝えて行く使命を負って行くのに神様からのお力を与えられねばならない。だから、「聖霊を受けなさい。」そう言って彼らに息を吹きかけられたのです。「聖霊を受けよ!」この時、復活のイエス様が弟子たちに息を吹きかけて授けられた聖霊はどういうものであったでしょうか。復活されたイエス様が弟子たちの真ん中に、スーッと姿を現された、この時の弟子たちはユダヤ人やローマ帝国の軍隊を恐れ暗闇の中で息を潜め、精神的にも絶望の内に最早死んでいた状態です。恐怖の暗闇の中に霊的には最早死んでいたのであります。その彼らの上に蘇り給うた主イエス様から命の息を吹き込まれて聖霊を授けられ新しく造られた者とされ生きる者とされたのです。死んでいたも同然の弟子たちは、ここに新たに命を与えられ生きた者とされたのです。
ルカが使徒言行録で記していますように、その後五十日の間彼らはひたすら祈り 合い、助け合い、愛し合って一団となって生活した、後、当時の世界からエレサレム神殿に多くの人々が礼拝のため集まってきた、その大勢の中であのペンテコステの聖霊が本格的に爆発して弟子たちの上に下ったのであります。こうして弟子たちはペンテコステに下った更に大きな聖霊の力を受けて新たに福音伝道の働きへと押出されて行ったのあります。これら全ての前準備としてあの復活された日にイエス様は前もって聖霊を与え生きる者とされ、23節には更に弟子たちに新たな権限を授ける言葉を言われたのです。「あなた方が許す罪は誰の罪でも許され、あなた方が許さずにおく罪はそのまま残るであろう」。これは大変な特権を約束された言葉であります。彼らがやがて全世界へと教会形成をなして行く中で教会の規定を設ける時に厳粛な、また大変光栄ある約束を与えられているのであります。
マルコ福音書16章16節には、こうあります。「信じてバプテスマを受ける者は救われる。しかし不信仰の者には罪に定められる」。23節で弟子たちに言われた言葉は神様からの重大な神の権限です。人間のどうにもならない罪を許すか、許さないかの権限であります。罪の許しの特権を神に代わって宣言する力であります。ですから神の特権は教会の手に委ねられていくわけです。教会は至るところでイエス・キリストのなさった業と教えを宣べ伝えて行かねばならない。また教会はイエス・キリストを必要としてるのです。遣わされた人にはその遣わした人が必要なのです。教会はイエス・キリスト様こそが救い主である、と言う使信、つまり福音の裏打ちをしてくれる神の力、権限が仏要で必要であります。
疑いや困難に出会う時に助けが必要であるように、教会は主イエス様の助けを必要としているのであります。大事な事は教会は自分自身の福音を伝えようとしてはならない。教会は自分勝手な人間の作り上げた方策に従おうとしてはならない。教会に委ねられている権限を誤った方向に利用とした時、その責任は重いということです。
英国の聖書学者ウイリアム・バークレイはヨハネ20章の23節のイエス様が言われた言葉は極めて重い、深い意味を持っていると言われています。この言葉の意味を理解するには十分な注意を要する、と言っています。そして更に言っています。一つの事だけは確かである、それは誰も他人の罪を許す権限は無い、と言う事である。だが同様に確かな事がもう一つある。それは、人間に対する神の許しの事実とその宣言及び使信を伝えると言う事は教会の大いなる特権だ、と言う事であります。ある学者はこうも言っています。聖霊によってキリストに連なる教会はこの世の人々との間にあってその教会の媒介者、また仲介者としての役割を果たす、ということである。しかし、それは教会が神から独立して罪の許しの権限を行使すると言う事ではない。この権限はあくまで神のみ属する。しかし、この神のもとに世の人々を導いてゆく媒介者としての役割を果たす限りにおいて教会の存在は実に決定的な重要性を持つものとなる。マタイ福音書10章40節にはこうイエス様の言葉があります。「あなた方を受け入れる者は私を受け入れるのである。私を受け入れる者は、私をお遣わしになった方を受け入れるのである。」
ヨハネが書いている、この20章23節のイエス様の言葉はヨハネ独特の表現で記されているのです。弟子たちは今後、イエス様のみ業と教えを全世界へと宣べ伝えて行かねばならない。この重大な使命を受け継いで行く弟子たちに与えられた権威と課題が「罪の許し」という一点に集中して語られているのであります。この事は極めて意味が深い。何故なら神から賜る「永遠の生命(いのち)」の恵みとはまさに「罪の許し」に他ならないからであります。
人知では、とうてい測り知ることの出来ない、神の平安があなた方の心と思いを
キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン
ルターによる御言葉の説き明かし(フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ」4月8日の日課から
「全ての人がアダムを通して死ぬように、全ての人はキリストを通して生けるものにされるのです。」 第一コリント15章22節
「強い信仰は、この御言葉を大きな文字で心に書き刻み、天が大地の上に聳え立つようにそれを高く掲げる。信仰は、この御言葉で言われていること以外は何も見ず、何も聞かず、何も考えない。それはあたかも、この世界には他に書かれたものは何もないと宣言するようなものであり、我々が生きて活動する全てはこの御言葉の中でのみと観念するようなものだ。もしこのように信じることができれば、我々は生きるのも死ぬのも喜んでするようになるだろう。この信仰はまた、キリストは自分自身のために復活したのではなく、我々のために復活されたのだということも教えてくれる。我々も同じように復活を遂げられ主と共に永遠に生きることができるためにキリストは復活されたのだということを。
我々の復活は、まだ隠されていて公然のものになっていない。それでも既に起こったことのように今、確実なこととしてある。このことをしっかり心に留めておきなさい。そうすれば、全て目に見えるものは復活の日が来たら消滅してしまうことがわかるだろう。今、天においても地においても他に目にするものはないという心境だ。それゆえ、キリスト信仰者が亡くなって墓に埋葬される時、そこで肉眼の目に映るのは腐敗する肉体しかなくとも、信仰の目が見ているものは墓場や体ではない。別の新しいものを見ているのだ。すなわち、新しい命と素晴らしい楽園を、そこで憩う新しい人たちと新しい永遠の命に生きる幸いな人たちを。」
復活祭/イースターおめでとうございます!
復活祭おめでとうございます。
季節の花のシャガが至る所で見られるようになりました。暫くの間シャガはラン系の花だと思い込んでいましたがアヤメ系の花でした、確かに良く見ると花芯の模様がアヤメによく似ていました。シャガは中国からの帰化植物で中国名は胡蝶花でそうです、綺麗な名前ですね。