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2023年3月26日(日)四旬節第5主日 主日礼拝

主日礼拝説教 2023年3月26日(四旬節第五主日)スオミ教会

エゼキエル37章1-14節

ローマ8章6-11節

ヨハネ11章1-45節

説教題 「復活の日の再会の希望は死別の悲しみよりも深い」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

本日の福音書の日課はイエス様が死んだラザロを生き返らせる奇跡の業を行った出来事です。この出来事は、先週の日課の出来事、生まれつき目の見えない男の人の目を見えるようにした奇跡の出来事と共通点があります。先週の個所でイエス様は、男の人の目が生まれつき見えないのは神の業が現れるため、と言いました。今日の個所では、ラザロの病気は神の栄光のためである、と言います。病気や障害が神の業のため、神の栄光のため、などと聞くと、大抵の人は、目が見えるようになること、死んだ人が生き返ることが神の業、神の栄光の現われであると理解すると思います。ところがそうではないということを先週お教えしました。

 少し振り返りますと、旧約聖書の預言者イザヤの時代から人間の霊的な目が見えるようになる時が来るという預言がありました。目の見えない男の人の場合は肉眼の目が見えないことが問題だったのですが、人間の本当の問題は霊的な目が見えないこと、それがイエス様とファリサイ派の人たちとの対話からわかります。実にイエス様は肉体的な目が見えるようになる奇跡の業を行うことで、霊的な目を見えるようにする力が自分にあることを前もって思い知らせたのです。

 人間の霊的な目が見えるようになるのは、イエス様の十字架の死と死からの復活の出来事をもって始まりました。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、神との結びつきを持ててこの世を生きられることになり、永遠の命に至る道に置かれてその道を進むことになるという、肉眼の目で見えないことが見えるようになるのです。

 このように、生まれつき目が見えないのは神の業を現すためと言う時、肉眼の目が見えるようになることが神の業の現われであるという理解は理解はまだ浅く本当の理解ではありません。奇跡の業は霊的な目が見えるようになる前触れ的な出来事で、その目が見えるようになることが本当の神の業を現すものなのです。それが深い理解で本当の理解です。

 本日のラザロの生き返らせも同じです。死んだラザロを生き返らせたことが神の栄光の現われであると言ったら、それは浅くて本当の理解ではありません。では、ラザロを生き返らせることで神の栄光が現れると言ったら、何が神の栄光なのか?今日はラザロを生き返らせた奇跡の業の深い本当の理解ができるようにしましょう。

2.キリスト信仰の復活について

深い本当の理解に入っていく前に、理解に役立つ予備知識として、キリスト信仰の復活についてひと言述べておきます。イエス様が死んだ人を生き返らせる奇跡は他にもあります。特に出来事を詳しく記してある箇所は、ラザロの他に会堂長ヤイロの娘(マルコ5章、マタイ9章、ルカ8章)と未亡人の息子(ルカ7章11~17節)の例があります。ヤイロの娘とラザロを生き返らせた時、イエス様は死んだ者を「眠っている」と言います。使徒パウロも第一コリント15章で同じ言い方をしています(6節、20節)。日本でも、亡くなった方を想う時に、「安らかに眠って下さい」と言う時があります。しかし、大方は「亡くなった方が今私たちを見守ってくれている」などと言うので、本当は眠っているとは考えていないと思います。ところが、キリスト信仰では本当に眠っていると考えます。じゃ、誰がこの世の私たちを見守ってくれるのか?それは言うまでもなく、天と地と人間を造られて私たち一人ひとりに命と人生を与えてくれた創造主の神であるというのがキリスト信仰です。

 キリスト信仰で死を「眠り」と捉えるのには理由があります。それは、本日の個所のイエス様とマルタの対話にあるように、死からの「復活」ということがあるからです。

 復活とは、マルタが言うように、この世の終わりの時に死者の復活が起きるということです。この世の終わりとは何か?それは聖書の観点では、今ある森羅万象は創造主の神が造ったものである、造って出来た時に始まったが、新しく造り直される時が来る、それが今のこの世の終わりということになります。天と地の造り直しですので新しい世の始まりです。なんだか途方もない話でついていけないと思われるかもしれませんが、聖書の観点はそういうものなのです。死者の復活はまさに今の世が終わって新しい世が始まる境目の時に起きます。イエス様やパウロが死んだ者を「眠っている」と言うのは、復活とは眠りから目覚めることと同じという見方があるからです。それで死んだ者は復活の日までは眠っているということになります。

 そういうわけでイエス様が行った生き返らせの奇跡は、実は「復活」ではありません。「復活」は、死んで肉体が腐敗して消滅してしまった後に起きることです。パウロが第一コリント15章で詳しく教えているように、神の栄光を現わす朽ちない「復活の体」を着せられて永遠の命を与えられるのが復活です。イエス様が生き返らせた人たちはまだみんな肉体がそのままなので「復活の体」を持っていません。彼らの場合は「蘇生」と言うのが正確でしょう。ラザロの場合は4日経ってしまったので死体が臭い出したのではないかと言われました。ただ葬られた場所が洞窟の奥深い所だったので冷却効果があったようです。蘇生の最後のチャンスだったのでしょう。いずれにしても、生き返らせてもらった人たちも、その後で寿命が来て亡くなったわけです。そして今、神のみぞ知る場所にて「眠っている」のでしょう。

3.イエス様は復活と永遠の命を手中に持つ方

それでは、ラザロを生き返らせた奇跡の業の深い本当の理解に入っていきましょう。理解のカギはイエス様とマルタの対話にあります。対話の内容を注意深くみてみましょう。

 イエス様がやって来たと聞いてマルタは彼に会いに出て行きます。イエス様を見るなり、マルタは開口一番、こう言います。「主よ、もしあなたがここにいらっしゃったならば、兄は死なないで済んだでしょうに(21節)」。この言葉には、「なぜもう少し早く来てくれなかったんですか」という失望の気持ちが見て取れます。しかし、マルタはその気持ちの表明を取り消すかのようにすぐ次の言葉を言い添えます。「しかし、私は、あなたが神に願うことは全て神があなたに与えて下さると今でも知っています(22節)」と。「今でも知っています」というのは、今愚痴を言ってしまいましたが、それは本当の気持ちではありません、イエス様が神に願うことはなんでも神は叶えて下さることは決して忘れていません、ということです。これをラザロが死んでしまった後で言うのは、「イエス様、神さまにお願いして兄が生き返るようにして下さい」と言っていることを暗に意味します。つまり、ここでマルタはイエス様にラザロの生き返りをお願いしているのです。

 それに対してイエス様はどう応えたでしょうか?「わかった、お前の兄を生き返らせてあげよう、それを父にお願いしよう」と言ったでしょうか?そうではありませんでした。イエス様は唐突に「お前の兄は復活する」と言ったのです(23節)。先ほども申しましたように、「復活」は「生き返り」とは別物です。マルタはそのことを十分理解していました。次の言葉からそれがわかります。「終わりの日の復活の時に兄が復活することはわかります(24節)」。この言葉を述べたマルタは自分でハッとしたでしょう。ああ、イエス様は兄の「生き返り」ではなく、将来の「復活」のことを言われる。ということは、兄と再び会えるのは復活の日まで待ちなさいということで、今は生き返らせることはしてくれないのだろう、と少しがっかりしてしまったでしょう。もちろんマルタは、復活が起こることを信じているのでその時に兄と再会できることには疑いはありません。ただ、それはあまりにも遠い将来のことです。「生き返り」の場合だと今すぐ再会できるのに「復活」だと実感が沸きません。

 そこをイエス様は突いてきました。25節と26節です。「私は復活であり、命である。」イエス様が「命」とか「生きる」という言葉を使う時、それはほとんどと言っていいほど「永遠の命」や「永遠の命を生きる」ことを意味しています。この世だけの命、この世だけを生きることではなく、永遠の命、永遠に生きるということです。「私は復活であり、永遠の命である」というのは、復活と永遠の命は私の手の中にあって他の誰にもない、それゆえ復活と永遠の命を与えることが出来るのは私をおいて他にはいないという意味です。

 それではイエス様は誰に復活と永遠の命を与えるのでしょうか?その答えが次に来ます。「私を信じる者は、たとえ死んでも生きる」。この「生きる」は今申しましたように「永遠の命を持って生きる」ことです。イエス様を信じる者は、たとえ死んでも復活の日に復活させられて永遠の命を持って生きることになるということです。イエス様はさらに続けて言います。「生きていて私を信じる者は永遠に死ぬことはない」。「生きていて私を信じる」と言うのはどういうことでしょうか?イエス様を救い主と信じて洗礼を受けると永遠の命と繋がりが出来ます。この世を生きている段階でその命と繋がりを持つのです。それで、その繋がりを持って生きる人は、イエス様を信じて生きる限り、その繋がりはなくならず、復活の日が来たら永遠の命そのものを持つことになります。それで永遠に死なないのです。「イエス様を信じる」というのは具体的にどうすることでしょうか?それは、そんなに難しいことではありません。それは、「イエス様が本当に復活と永遠の命を手に持っていて、それを与えることが出来る方である」と信じることです。イエス様とはそういう方であると信じるだけです。そうすることが出来るお方なんだと信じて、それで安心が得られれば信じたことになります。

 イエス様はこれらのことを一通り言った後、たたみかけるようにしてマルタに聞きます。お前は今言ったことを信じるか?私は復活と永遠の命を与えることが出来ると信じるか?

 これに対するマルタの答えは真に驚くべきものでした。「はい、主よ、私は、あなたが世に来られることになっているメシア、神の子であることを信じております(27節)。」なぜマルタの答えが驚くべきものかと言うと、二つのことがあります。まず、マルタはイエス様がメシアであることを復活と結びつけて言ったことです。実は「メシア」という言葉は当時のユダヤ教社会の中でいろんな理解がされていました。一般的だったのは、ユダヤ民族を他民族の支配から解放してくれる王様でした。イエス様の周りに大勢の群衆が集まった理由の一つは、彼がそうした救国の英雄になるとの期待があったからでした。それで、彼が逮捕されて惨めな姿で裁判にかけられた時、群衆は期待外れだったと背をむけてしまったのでした。他方では、メシアは民族の解放者などというスケールの小さなものではない、全人類的な救い主なのだ、という理解もありました。そういう理解は旧約聖書の中にも見られたのですが、ユダヤ民族が置かれた歴史的状況の中ではどうしても民族の解放者という理解に傾きがちでした。しかし、マルタの理解は全人類的な救い主の方を向いていたのです。

 マルタの答えのもう一つ驚くべきことは、イエス様が救世主であることを「信じております」と言ったことです。ギリシャ語の原文ではここは現在完了形です。イエス様は「信じるか?」と現在形ピステウエイスで聞きました。それに対してマルタは同じ現在形のピステウオーで答えず、現在完了形のぺピステウカで答えたのです。この時制のチェンジはとても絶妙です。現在完了などと言うと、中学高校の英語の授業みたいで嫌だと思われてしまうかもしれませんが、ギリシャ語の現在完了は英語のとは違うので忘れて大丈夫です。むしろ忘れた方が都合がいいです。マルタの答えぺピステウカの意味は「私は過去の時点から今のこの時までずっと信じてきました」です。なので、今イエス様と対話しているうちに悟ることができて信じるようになりました、ではないのです。その場合は、エピステウサになります。そうではなくて、ぺピステウカ、ずっと前から今の今までずっと信じてきました、と言うのです。

 このからくりがわかると、イエス様の話の導き方が見えてきます。それは私たちにとってもとても大事なことです。それを明らかにします。マルタは愛する兄を失って悲しみに暮れています。もちろん、将来復活というものが起きて、その時に兄と再会できることはわかっていました。しかし、愛する肉親を失うというのは、たとえ復活の信仰を持っていても悲しくつらいものです。こんなこと受け入れられない、今すぐ生き返ってほしいと誰でも思うでしょう。復活の日に再会できるなどと言われても、遠い世界の話にしか聞こえません。

 しかしながら、復活には、死の引き裂く力よりもはるかに強い力があるのです。聖書の観点は、人間の内には神の意思に反しようとする罪があって、それが神と人間の間を引き裂く原因になっているという観点に立ちます。そして、罪は人間誰でも生まれながらにして持ってしまっているというのが聖書の観点です。神としては、人間が自分との結びつきを持ててこの世を生きられるようにしてあげたい、この世を去った後は自分のもとに永遠に戻れるようにしてあげたい、そのためには結びつきを持てなくさせてしまっている罪の問題を解決しなければならない。まさにその解決のために神はひとり子イエス様をこの世に贈り、彼に人間の罪を全部受け負わせてゴルゴタの十字架の上に運び上げさせ、そこで人間に代わって神罰を受けさせる、そのようにして人間の罪の償いを彼に果たさせたのでした。さらに神は一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させて死を超える永遠の命があることをこの世に示されました。同時にそこに至る道を人間に切り開かれました。それでイエス様は復活と永遠の命を手に持っていらっしゃる方なのです。

 神がひとり子を用いてこのようなことを成し遂げたら、今度は人間の方がイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ける番となります。そうすれば、イエス様が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになります。その人は罪を償ってもらったから、神から罪を赦された者として見てもらえるようになります。罪を赦してもらったから神との結びつきを持ててこの世を生きられるようになります。この世を去った後は、それこそ復活の日に眠りから目覚めさせられて永遠の命と復活の体を与えられて神のもとに永遠に迎え入れられます。

4.生き返りの奇跡の業の深い本当の意味

マルタはこのような復活の信仰を持ち、イエス様のことを復活させて下さる救い主メシアと信じていました。ところが愛する兄に先立たれ、深い悲しみに包まれ、兄との復活の日の再会の希望も遠のいてしまいました。今すぐの生き返りを期待するようになりました。これはキリスト信仰者でもみなそうなります。しかし、イエス様との対話を通して、復活と永遠の命の希望が戻りました。対話の終わりにイエス様に「信じているか?」と聞かれて、はい、ずっと信じてきました、今も信じています、と確認でき、見失っていたものを取り戻しました。兄を失った悲しみは消えないでしょうが、一度こういうプロセスを経ると、希望も一回り大きくなって悲しみのとげの鋭さも鈍くなっていくことでしょう。あとは、復活の日の再会を本当に果たせるように、キリスト信仰者としてイエス様を救い主と信じる信仰と罪の赦しのお恵みにしっかり留まるだけです。

 ここまで来れば、マルタはもうラザロの生き返りを見なくても大丈夫だったかもしれません。それでも、イエス様はラザロを生き返らせました。それは、マルタが信じたからご褒美としてそうしたのではないことは、今まで見て来たことから明らかでしょう。マルタはイエス様との対話を通して信じるようになったのではなく、それまで信じていたものが兄の死で揺らいでしまったので、それを確認して強めてもらったのでした。

 イエス様が生き返りの奇跡の業を行ったのは、彼からすれば死なんて復活の日までの眠りにすぎないこと、そして彼に復活の目覚めをさせる力があること、この2つを前もって人々にわからせるためでした。ヤイロの娘は眠っている、ラザロは眠っている、そう言って生き返らせました。それを目撃した人たちは本当に、ああ、イエス様からすれば死なんて眠りにすぎないんだ、復活の日が来たら、タビタ、クーム!娘よ、起きなさい!ラザロ、出てきなさい!と彼の溌溂とした一声がして自分も起こされるんだ、と誰でも予見したでしょう。

 以上、ラザロの生き返らせの奇跡の業は、イエス様が死んだ者を蘇生する不思議な力があることを示すのが目的ではありませんでした。マルタとの対話と奇跡の業の両方をもって、イエス様こそが復活と永遠の命を手中に収めており、それを私たちに与えて下さる方であることを示したのでした。これが、この奇跡の業が現す神の栄光です。これがこの奇跡の業の深い本当の理解です。

4.おわりに

最後に、本日の個所にまだ2つほど難しいことがあるのでそれを駆け足で見てみます。一つ目は、イエス様が大勢の人たちが泣いているのを見て「心に憤りを覚えた」というところです。以前の説教でもお教えしましたが、これはギリシャ語原文では「心が動揺した」、「気が動転した」という意味で、英語、ドイツ語、フィンランド語、スウェーデン語の聖書を見ても皆そのように訳しています。イエス様は人々の悲しみを間近に見て、心が動揺して本当に共感して泣いてしまったのです。

 もう一つの難しい所は9節と10節です。よし、ラザロのところに行くぞ、とイエス様が言った時、弟子たちは、反対者が待ち構えている地方に行くのは危険です、と押しとどめようとしました。それに対してイエス様は言いました。

「日中明るい時間は12時間あるではないか?明るい日中に歩む者は危険な目に遭わない。この世の光を見ているからだ。暗い夜に歩む者は危険な目に遭う。その者の内には光がないからだ。」

 分かりそうで分かりにくい言葉です。要は、一日には明るい時間と暗い時間がある。明るさと暗さが危険とどう関係するか考えてみなさい。太陽が照る日中は明るいから転んだり何かにぶつかったりしてケガをしなくてすむが、夜は暗くて危ない、それと同じことだ、あなた方がこの世の光である私を見て、私もあなた方の内にいると言えるくらいに私と結びついていれば、何も危険なことはない、ということです。当時の弟子たちと違って私たちはイエス様を肉眼の目では見れませんが、彼を救い主と信じてゴルゴタの十字架と空っぽの墓を霊的な目れれば、イエス様というこの世の光を持てていることになり、守りのうちに復活と永遠の命というゴールに到達できるということです。ところが、イエス様というこの世の光を持たない者は暗い夜道を歩む者と同じになり危険に晒されてゴールに到達できないということです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

イースター子ども料理教室

iisutaa

4月8日(土)10時30分から12時30分まで
ミニ・ピザを作ります。
イースターエッグの飾りつけもします。

小学生くらいまでの皆さん、ぜひいらして下さい!
小さなお子さんは、お母さんお父さんもご一緒にどうぞ。

アツアツのミニ・ピザを味わって
イースターエッグを楽しく飾りましょう。

このほかに、フランネル使ったたイースター・
ドラマを見たり、こども讃美歌を歌ったりします。

 

材料費は一家族につき 500円

申し込み 

 

 

 

 


スオミ・キリスト教会は、日本福音ルーテル教会に属し、フィンランド国教会のミッション団体SLEYの宣教師が常駐するルター派の教会です。「スオミ」とは、フィンランド語でフィンランドを意味します。

交わり

SLEYから派遣されていたロサさんが任期を終え今週水曜日にフインランドに戻られます。 短い期間でしたが教会の人気の女性でした。今日の交わりの席で信仰の証をしてくださいました、身近に経験した飛行機の中での出来事を交えながら感慨深い証でした。

スオミ教会 手芸クラブのご案内

 

次回は3月29日(水)10時―13時の開催です。

マクラメのコースター

前回に続いてマクラメのテクニックを使ってコースターを作ります。今回は、細目のマクラメの糸を使います。

可愛いらしい、きれいなコースターはテーブルの飾り物にもなります。

手芸クラブでは自分の好きな編み物もすることができます。

おしゃべりしながら楽しく作りましょう!

材料費は500円~800円です(作るものによって変わります)。

お子さん連れでもどうぞ!

皆様のご参加をお待ちしています。

お問い合わせ、お申し込みは、

03-6233-7109
日本福音ルーテルスオミ・キリスト教会
東京都新宿区鶴巻町511-4―106

歳時記

山桃 ヤマモモ

住んでいる建物の入り口近くに1本の山桃の木があります。 この建物の完成時に植えられたものと思います、約40年以上になりますか。今まで一度も花を咲かせたことがありませんでしたが今春はじめて花をつけました。どうやら雌株の花のようです、上手くすれば好物の山桃の実が楽しめそうです。

<何事にも時があり 天の下の出来事にはすべて定められた時がある。  コヘレトの言葉3:1>

スオミ教会・修養会

 

講師:SLEY(フインランド・ルター派福音協会)宣教師・神学博士 吉村博明

宣教師の週報コラム  修養会「キリスト教、特にルター派は死者にどう向き合うか?」

  3月19日春の青空が広がる爽やかな午後、スオミ教会から徒歩15分位のところにある肥後細川庭園に場を移し、庭園内にある松聲閣(しょうせいかく)の集会室にて修養会を行いました。テーマは「キリスト教、特にルター派は死者にどう向き合うか?」。テーマの趣旨について2月12日の週報コラムでお知らせしたものを以下に紹介します。

“旧統一教会の問題が今やこの国の政治や社会を揺るがす大問題になっています。どうして日本人は「霊感商法」にかかりやすいのかということについて、先日新聞の生活欄に識者のインタビュー記事がありました(朝日9月13日、「霊感商法トリック知り防いで」聞き手は社会心理学者の西田公昭・立正大教授)。

 西田教授いわく、「超自然的なパワーや『ご先祖様のおかげ』『たたり』などを信じる日本文化が影響しているのは確かだと思います。」

 確かに見渡せば、大多数の日本人は、仏壇や墓の前で死者に話しかける、死者とのコミュニケーションの宗教性を持っています。お寺の住職もそれを推奨するし、今健康でいられるのは先祖のおかげとか、亡くなった方が見守って下さっていると普通に言われます。そのため、何か不運なことが起こると、霊的な原因を求める土壌があると考えられます。

 西田教授は続けて、「『私は信じない』と反応する人は圧倒的に多い。でもそれは、あなたがいま幸せに暮らせているからそう言えるんです。人生にはいろいろなことが起きる。問題を抱えたタイミングで声をかけられたときの怖さや、トリックに気づけているかが大切です。」

 ルター派のキリスト信仰は、死者とのコミュニケーションを取らない宗教性を持ちます。当教会の礼拝や聖書の学びで教えてきたように、「復活」の信仰があるからです。先立った方は今、復活の日まで神のみぞ知るところにて安らかに眠っている、だから、今見守って下さっているのは他でもない神であると観念し、不運なことがあったら「たとえ死の陰の谷を往くとも、我、禍を恐れじ、なんじ共にませばなり」(詩篇23篇)という心意気でいます。

 こういう時世ですので、キリスト信仰の「復活」について復習し、ルター派の信条集「一致信条集」の関連個所(聖人に対してどう向き合うかという問題について)を学ぶ機会を持つことは時宜を得ていると思います。日本人の大半が言う「無宗教」は「無神論」でないこともわかります。乞うご期待”

発題は吉村が行い、最初に死者とコミュニケーションを取る日本人の宗教性について具体例や識者の観察について紹介、次にキリスト信仰の復活についてのルターの教えを紹介しました。それから、ルター派教会の教義集「一致信条集」の中にある関連箇所を一緒に見てみました。関連個所とは、一つは、(復活の日を待たずに一足早く天国に迎え入れられた)聖人たちに助けを祈り求めてはならないという教え、もう一つは、死者の救いの為に聖餐式礼拝が行われていたという宗教改革前の慣行を批判するところです。

関連個所を二つに絞りましたが、それだけでもかなりの内容で、大事なことを全て手短にまとめられたか自信がないままの発題になってしまいました。また関連個所は以上の2つの他にもあると思います。発題後の話し合いの時間に参加者からいろいろな意見やコメントがありました。後日、発題の欠けている部分を補ってテーマの論考を公けにできたらと思っています。

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2023年3月19日(日)四旬節第4主日 主日礼拝

主日礼拝説教 2023年3月19日 四旬節第四主日

サムエル上16章1-13節

エフェソ5章8-14節

ヨハネ9章1-41節

礼拝をYouTubeで見る

説教題 「霊的な目が開かれるということ」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.イエス様は人道支援の模範を超える方

本日の福音書の日課は、目の見えなかった男の人がイエス様の奇跡の業のおかげで見えるようになったという出来事です。イエス様と弟子たちの一行が通りかかったところで、生まれつき目の見えない男の人が物乞いをして座っていました。それを見て弟子たちがイエス様に尋ねます。この人が生まれつき目が見えないのは、自分で罪を犯したからか?それとも親が罪を犯したからか?要するに、本人ないし親が犯した罪の罰としてそうなってしまったのかという質問です。しかし、よく見るとこの質問にはおかしいところがあります。男の人が目が見えないのは生まれた時からです。罰を受けるような罪を生まれる前に犯していたということになるからです。もちろん、キリスト信仰では、人間は誰しも母親の胎内にいる時から最初の人間アダムの罪を受け継いでいると言います。ただ、その罰として目が不自由な者として生まれたと言ってしまったら、何も問題なく生まれてきた人は罰を受けなかったことになってしまいます。人間は生まれながらにしてみな罪びとだと言っているのに不公平な話です。それでは、罰の原因は本人ではなく親が犯した罪なのか?

この質問に対するイエス様の答えは人間の視野を超えています。人が何か障害を背負って生まれてきたのは何かの罰でもたたりでもない。そのように生まれてきたのは、創造主の神の業がその人に現れるためなのである、と言うのです。その人に現れる神の業とは何でしょうか?本日の個所を読めば、ああ、それはその人の目が見えるようになる奇跡の業のことだなと思うでしょう。もちろん、奇跡的に重い病気や障害が治ることもありますが、治らなかったら神の業が現れなかったということなのでしょうか?人間誰でも病気や障害が治ることはとても切実なことですので、「神の業」と聞いたらそれにつきると考えてしまいます。しかし、神の業には、目が見えるようになる癒しを超えたもっと大きなこともあったのです。その大きなこととは何か?それがわかると、イエス様という方は、単に困った人を助けてあげる人道支援の模範を大きく超えた方であることがわかります。

2.肉体的な目の開きから霊的な目の開きへ

神の業には癒しを超える大きなことがある、そのことがわかるために、目が見えるようになる奇跡には特別な意味があることを明らかにしようと思います。男の人の奇跡の出来事の後でイエス様は周りにいる人たちに聞こえるような声で驚くべきことを言いました。自分がこの世に来たのは裁くためであると言って、裁きの内容がどんなものかを言います。それは、「見えない者が見えるようになり、見える者は見えないようになる」でした。これを聞いたイエス様に敵対するファリサイ派の人たちが、見えない者とは自分たちのことを言っているのかと聞き返します。それに対するイエス様の答えは分かりにくいです。もし、お前たちが目の見えない者であれば罪はないのだが、お前たちは「見える」と言い張るのでお前たちの罪は留まることになる、と。つまり、目が見えませんと認めれば、お前たちの罪は留まらないのだと。これは一体どういうことでしょうか?

この「見える」、「見えない」ということには旧約聖書の背景があります。それを少し見てみましょう。イエス様の時代から約700年以上も昔のことでした。イスラエルの民が王様から国民までこぞって神の意思に反する生き方をし続けたたため、神は預言者イザヤに罰下しを命じます。どんな罰かと言うと、民の心をかたくなにせよ、その目が見えなくなるようにし、耳が聞こえなくなるようにせよ、と言うのです(イザヤ6章9~10節)。ただしこれは、文字通りに肉眼の目を見えなくなるようにするとか聴覚を不調にするということではありません。そうではなくて、神の御心が見えなくなってしまう、神の声が聞こえなくなってしまう、という霊的な目と耳の塞ぎを意味しました。

この罰下しの役目を負わされたイザヤは不安の声で神に聞きます。「主よいつまで民をそのような状態に陥れておくのですか?(6章11節)」それに対する神の答えはこうでした。イスラエルの民が他国に攻撃されて荒廃し、人々は連れ去られ、残った者も大木のように切り倒され焼かれて、そして最後に切り株が残る時までだ、その切り株が「神聖な種」になる、と(11~13節)。そのような切り株が現れるまでは霊的な目が見えない、耳が聞こえない状態になるのだ、と言うのです。これは逆に言えば、切り株が現れることが霊的な目が見え耳が聞こえる民の誕生ということになります。この預言の後、イスラエルの民に何が起こったでしょうか?

当時イスラエルの民は南北の王国に分かれていました。まず紀元前700年代に北の王国がアッシリア帝国に滅ぼされます。残った南の王国はすんでのところでアッシリアの攻撃を撃退しますが、その後も一時を除き神の意思に反する生き方を続けてしまい、最後はバビロン帝国の攻撃に遭い紀元前500年代初めに滅ぼされます。国の主だった人々は異国の地に連れ去られて行きました。それから半世紀程たった後、ペルシア帝国がバビロン帝国を倒してオリエント世界の覇者となると、ペルシャ王の計らいでイスラエルの民は祖国帰還を果たします。イザヤ書の後半を見ると、神の僕なる者が現れて祖国帰還の民の目を開き耳を開くという預言が出てきます(イザヤ書42章7節、50章4~5節)。帰還を果たした民は、神が再び自分たちのそばに来て自分たちも神の意思に従える民になったと希望で胸が一杯になったことでしょう。

ところが、イスラエルの民は帰還した後もペルシャ帝国、アレキサンダー帝国、ローマ帝国と他民族が支配する状況が続きました。国内状況を見ても、神の意思に従う生き方をしているか疑問が持たれるようになりました。イザヤ書の終わりの方にある預言者の嘆きの言葉がそれを言い表しています。「主よ、いつまで私たちの心をかたくなにされるのですか?(63章17節)」つまり祖国帰還した後も、まだ民の目と耳は開かれていなかったのです。一時、民の目と耳が開かれる預言は祖国帰還の時に実現すると考えられたのですが、次第に、民の目と耳が開かれるのは祖国帰還の時ではなく、もっと将来のことを指していると理解されるようになります。

イエス様が歴史の舞台に登場したのはまさにそのような時でした。なんと、この方は目の見えない人たちの目を開け、耳の聞こえない人たちの耳を聞こえるようにする奇跡を行うではありませんか!もちろん、旧約聖書をよく知っていた人たちは、目や耳を開けるという預言はあくまでも霊的な目と耳のことだとわかっていました。しかし今、目の前で起きていることは、霊的な目や耳が開いたかどうかはともかく、肉体的な目と耳が開くということが起きているのです。あまりにも具体的です。もし、この人の霊的な目は開かれたと言ったら、それが本当かどうか誰もわからないでしょう。しかし、肉眼の目が見えるようになったら、あの人は見えてなんかいないと誰も否定することはできません。

実は同じようなことは他の奇跡の所でも起きていました。全身麻痺状態の人がイエス様の前に運ばれてきました。イエス様は最初、お前の罪は赦されると言いました。周りにはそれを信じようとしない人たちがいました。そこでイエス様は、それならば、と言って、その人が立って歩けるようにしました。これを見た人たちは、この方は口先だけの人ではない、本当に罪を赦す力があるのだと思わざるを得なかったでしょう。

また、会堂長の娘とラザロが死んだ時、イエス様は、死んではいない、眠っているだけだ、と言って生き返らせました。これは復活について具体的に教えるものでした。イエス様を救い主と信じる者にとって、死というのは復活の日に目覚めさせられるまでの眠りにすぎないということ、そして、眠りから起こす力はイエス様が持っていることを教えるものでした。そういうことを口で言っても誰も信じないでしょう。しかし、生き返らせる奇跡と一緒に言ったら、誰も信じないではいられないでしょう。同じように、目や耳を開けるイエス様の奇跡の業は、後で霊的な目と耳の開きが起こることを信じさせる前触れ的な業だったのです。

それでは霊的な目と耳の開きはどのようにして起こったでしょうか?それは、イエス様の十字架の死と死からの復活の出来事が起こったことで起きました。イエス様は、人間が内に持ってしまっている罪、神の意思に反しようとする罪を全部背負ってゴルゴタの十字架の上にまで運び上げました。そこで、神から神罰を人間に代わって受けて死なれました。それは、人間が罪の重荷を自分で背負わないですむように、また神の罰を受けないで済むようにするためでした。しかも、神の救いの業はイエス様の十字架の死で終わりませんでした。神は一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させられました。これで死を超えた永遠の命があることがこの世に示されました。このようして神はひとり子イエス様を用いて人間の救いをお膳立てしたのでした。

そこで今度は人間の方が、これらのことは本当に自分のために行われたのだ、だからイエス様は救い主なのだ、と信じて洗礼を受ける。そうするとイエス様が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになります。その人は罪を償ってもらったことになるので、神から罪を赦された者と見なされます。罪を赦されたので、太古の昔に失われてしまった神との結びつきが回復します。神との結びつきを持てて復活の日を目指してこの世を生きることになります。この世から別れることになっても、復活の日までのひと眠りの後で目覚めさせられて、今度は朽ちない復活の体を与えられて造り主である神のもとに永遠に迎え入れられます。その人はイエス様を救い主と信じるようになって以後は、十字架に架けられたイエス様と彼が葬られた墓が空っぽになっていたことを肉眼の目ではない霊的な目で見ていたのです。聖書を繙く時、神が語りかけているのが霊的な耳に響いていたのです。このようにイエス様の十字架と復活が起こったことで人間の霊的な目と耳が開かれることが始まったのです。

そこでファリサイ派の問題は何かと言うと、霊的な目が見えないのに見えると思っていたことでした。もしそうなら、彼らにはイエス様の十字架も復活も必要ありません。でも、それでは罪の償いも赦しも得られません。逆に霊的な目が見えないと認めることが出来れば、イエス様を救い主と信じることですぐ見えるようになります。霊的な目が見えるようになれば、罪の赦しのお恵みの中で人生を歩めるようになります。見えないのに見えると思っていることが問題だったのです。

3.神の業は私たちにも及ぶ

これで、イエス様とファリサイ派のやり取りの意味がわかるようになったと思います。本日の日課の中でもう一つ難しい箇所があります。9章4~5節です。そこでイエス様は、我々は私を遣わした神の業を日中の内に行わなければならない、誰も行うことが出来なくなる夜が来る、私がこの世にいる間は私は世の光である、と言います。これは、以上述べたことを踏まえて考えれば、次のように理解することが出来ます。

日中の明るい時とは、イエス様という光がまだこの地上におられる時です。その時に彼をこの世に贈った神の業を行わなければならない。しかし、暗い夜が来たら、つまりイエス様がこの地上からおられなくなったら、神の業を行うことが出来なくなると。それは一体どんな業なのでしょうか?

先ほども申しましたように、イエス様の十字架と復活の出来事が起きて人間の霊的な目と耳の開けが始まりました。ただ、十字架と復活の出来事の前にイエス様は、前もって霊的な目と耳が開かれることを信じられるようにする業を行いました。肉体の目と耳を開けることがそれです。そうすることで、霊的な目と耳が開かれることが起こると前もって信じさせようとしたのです。全身麻痺状態の人を癒すことで罪の赦しがあることを信じさせようとしたのです。死はイエス様を救い主と信じる者にとっては復活までの眠りにしか過ぎないことを信じさせるために生き返らせることをしたのです。それらを信じさせるために具体的に目と耳を開けてあげる、歩けるようにする、生き返らせることをしたのです。これらの具体的な奇跡の業は、十字架と復活が起きた後はもう、別になくても大丈夫になりました。なぜなら、イエス様を救い主と信じ洗礼を受けれさえすれば、霊的な目と耳は開かれ、罪は赦され、復活を遂げられるからです!

さて、イエス様が天に上げられてからは、彼が行ったのと同じ奇跡の業をする者はこの地上にはいません。ただし、聖霊の賜物として癒す力を与えられた人が癒しの奇跡の業を行うことはあるかもしれません。しかし、キリスト信仰者全てに共通する最も大事なことは、霊的な耳と目が開かれて、罪の赦しのお恵みに留って、自分も復活を遂げると確信を持って生きることです。

イエス様は今、一時的にこの世にいません。それで今は夜ですが、しかし何も心配はいりません。エフェソ5章8節に書いてある通りだからです。

「あなたがたは、以前は暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。」

霊的な目と耳が開かれて罪の赦しのお恵みに留まって復活を遂げることになる者、すなわちキリスト信仰者は、夜の暗闇のようなこの世の中で光の子になっているのです。そして、パウロがローマ13章12節で言うように、夜は更け、日は近づいているのです。イエス様の再臨の日は毎日、一日ずつ近づいているのです。

本日の肉体の目が見えるようになった男の人は、まだ十字架と復活の出来事の前ではありますが、霊的な目が開かれて光の子として歩み出したことが見て取れます。特に真実を曲げなかったということに見て取れます。彼の両親は息子の癒しについて知っていましたが、シナゴーグから追放されることを怖れて、本当のことを言いませんでした。しかし、男の人は全然怯みませんでした。ファリサイ派の人たちは何としてでも、奇跡がなかったことにしようとか、安息日に行った奇跡は律法違反なので神の働きなどないという態度でした。男の人は真実を曲げなかった結果、シナゴーグから追放されました。日本語訳では「外に追い出された」で、男の人がファリサイ派の尋問を受けた部屋から外に追い出されたという意味です。ここは微妙な箇所で、シナゴーグから追放されたことを意味することも可能です。

男の人が追放されたと聞いてイエス様はすぐ戻ってこられました。イエス様のせいで大変な目に遭ってしまったが、目の前にいるイエス様を見て、そんなことは次第にどうでもよくなりました。男の人はイエス様を「人の子」、つまり終末の時にこの世に現れる救世主であると告白しました。私たちも男の人のように真実を曲げないでいると、曲げることで利益を得る人たちの反感や怒りを買います。それこそ追放されて天涯孤独のようになってしまうかもしれません。しかし、イエス様はすぐ男の人のところに戻ってきて、自分が救い主であると告白するように導きました。私たちの場合も、イエス様は聖書の御言葉を通して、聖餐式を通して私たちのすぐそばにいらっしゃいます。私たちの祈りをいつも聞き遂げて下さいます。このように私たちのすぐそばにおられることで、私たちを信仰告白に導かれます。

私たちも男の人と同じように告白ができたら、天涯孤独など些細なことになります。なにしろ告白は、万軍の主である神が私の味方について下さっていることを自分でそのとおりだと認めるものだからです。男の人の信仰告白は私たちの信仰告白を先取りしています。イエス様は、男の人が生まれつき目が見えないのは「神の業がこの人に現れるためである」と言いました。本当に肉体的な癒しを超える神の業が男の人に現れたのでした。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

宣教師の週報コラム  「聖書の理解は日々深化する」

マタイ福音書の16章に、イエス様が弟子たちにこれからエルサレムで起こる自分の受難について予告した時、それを否定したペトロを叱責する場面があります。 その時イエス様がペトロに言った言葉、「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」(16章23節)。ペトロをサタン呼ばわりして、失せろ!と言うのはとても厳しいお言葉です。

先日フィンランドのトゥルク市にあるSLEYのルター教会の礼拝説教を聞いていると、T.ニスラ牧師が、今回説教を準備した時、ひとつ新しい発見をしたと言って以下のことを教えました。

「引き下がれ」(フィンランド語訳では「どけ」)はギリシャ語原文では、ヒュパゲ(行け/立ち去れ)オピソームー(私の後ろに)である。「引き下がれ」と訳したら、オピソームーの意味が消えてしまう。オピソームーは大事な句である。イエス様がペトロとアンドレに「私について来なさい」と言った時に使われた(正確には「私の後ろについて来なさい」マタイ4章19節)。「自分の十字架を背負って私に従いなさい」と言った時にも使われた(正確には「私の後ろについて来なさい」マタイ16章24節)。それなので、マタイ16章23節は本当は、「私の前に立ちはだかるのをやめて私の後ろにつけ」という意味になる、ということでした。

イエス様は神と人間の失われていた結びつきを回復するために十字架の死の受難を受けて復活を遂げるという使命を帯びていました。それを否定しようとするのは結びつきを邪魔する悪魔と同じ立場になってしまいます。ペトロよ、即刻その立場から離れて、私の後ろにつけ、お前は私の前に立ちはだかるのをやめて私の後に従ってついてくればよいのだ、ということなのです。そして、十字架と復活の出来事の後、イエス様の後ろについていくというのは、彼が打ち立ててくれた罪の赦しのお恵みから外れないようにその中に留まって生きるということになります。そうすることで私たちは復活の初穂であるイエス様に続いて復活を遂げるのです。

言い訳がましくなってしまいますが、私の辞書(ギリシャ語・スウェーデン語)がオピソームーを、基本は「私の後ろに」だが、マタイ16章23節は「私のもとから」と訳していいなどと言うので見落としてしまったのでした。本当は、「私の前に立ちはだかるのをやめて私の後ろにつけ」なのに、「私のもとから立ち去ってしまえ」になってしまったのでした。イエス様の本意は過ちをした人を遠ざけてしまうことではなく、ご自分の後につき従わせて罪の赦しのお恵みに与らせることなのでした。

どうして辞書がそんな理解を示してしまったか少し考えてみました。旧約聖書のヘブライ語ではよく「行け」という命令形の「レーク」が次に来る文の導入的な役割を果たします。例えばサムエル上16章、次主日の日課なので見てみると1節「レーク(行け)エシュラ―ハカー(私はお前を送る)」。「私はお前を送る」が主で、「行け」はそれに注意を喚起する飾り言葉のようなものです。イエス様のペトロ叱責も同じように考えてもいいのではないだろうか?もちろん、イエス様とペトロはアラム語で会話していますが、動詞「行く」はヘブライ語もアラム語も同じ「ハーラク」です(命令形は違いますが)。同じようにイエス様の「ヒュパゲ」(行け)も、次に来る「オピソームー」(私の後ろに)の導入的なものとみなして、強調点は「私の後ろに」に置かれるという具合に。

そのように考えると辞書を書いた人たちは「ヒュパゲ」にこだわりすぎて、「立ち去れ、私の後ろに」とつじつまがあわなくなって、「私の後ろに」ではなく「私から」に訳したほうがいいなんていったのではないかと思われた次第です。

歳時記

土筆 ツクシ

辛夷の花が満開になり、山桜の花芽が大きくなり、と上ばかりに気を取られていたら足元では土筆が生え始めていました。毎年決まった時期に、決まった場所に今年も生えてきました。

<何事にも時があり 天の下の出来事にはすべて定められた時がある。  コヘレトの言葉3:1>

3月の料理クラブの報告

3月の料理クラブは11日、春らしい暖かい陽気の日に開催されました。今回はフィンランドの惣菜パン「サルヴィ」Sarviを作りました。

料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。はじめに生地を作ります。計量した材料を順番にボールに入れて、強力粉を少しづつ加えてよく捏ねると生地の形が見えてきます。次にマーガリンを入れてさらに捏ねて生地が出来上がります。ここで一回目の発酵をさせます。その間にサルヴィの中身を準備します。ハムとパプリカを細かく切ってチーズはすりおろしたものを使います。生地が大きく膨らんだのでサルヴィを作り始めます。丸い形に伸ばして、いくつもの三角形の形に切ります。それぞれの上に中身のものをのせます。それからクルクル巻いて角の形に作ります。みんなで楽しく作りました。あっという間に鉄板にはきれいなサルヴィが沢山並びました。それから二回目の発酵をして、オーブンに入れて焼きます。サルヴィはまた大きく膨らんで美味しそうな焼き色がつきました。

早速テーブルのセッティングをして席に着き、出来あがったサルヴィをサラダと一緒に頂きました。もちろん、コーヒー紅茶も一緒です。歓談のひと時に、今フィンランドからスオミ教会にボランティアとして来ている大学生の紹介、それから食べるサルヴィと聖書に出てくるサルヴィ(角)についてのお話を聞きました。

今回の料理クラブも無事に終えることができて天の神さまに感謝です。4月は都合により料理クラブはお休みとなります。次回の料理クラブの日程等が決まりましたら、ホームページでご案内しますので、どうぞフォローしてください。

料理クラブの話サルヴィ「Sarvi」2023年3月11日

今日は皆さんと一緒にサルヴィを作りました。サルヴィはフィンランドの惣菜パンの一つです。日本にはコロッケパン、カレーパン等の惣菜パンがありますが、フィンランドではサルヴィの他にもひき肉や魚の肉が入った揚げパン、色んな種類のパイがあります。フィンランドのパンの歴史の中でサルヴィはそんなに昔から作られたパンではありませんが、私は中学生の時、学校の家庭科の調理で簡単なサルヴィを作ったことがあります。

フィンランドではサルヴィはおやつやスナックとして、またパーティの軽食としても出されます。あまり店で売っていなくて、ほとんど家庭で作られます。サルヴィのレシピはいろいろあります。生地は、今日作った材料のものが一番多いです。他には、牛乳のかわりに水を切ったヨーグルトを入れるレシピもあります。今日はイーストを入れて発酵させましたが、生地にベーキングパウダーを入れて早く作れるレシピもあります。サルヴィの生地はソフトでマイルドな味わいなので、中身には風味の強い食材、例えばチーズ、パプリカ、ハム、ハーブチーズ、スパイスキノコ、サンドライト・トマト等が選ばれます。入れる中身によって「チーズ・サルヴィ」、「キノコ・サルヴィ」などと呼ばれます。一番よく作られるのはチーズ・サルヴィです。

サルヴィはフィンランド語で動物の角を意味します。角のような形をしているのでそのように呼ばれます。食べ物と動物の角との関係は、サルヴィだけではありません。フィンランドでは昔、ソーセージを作る時に牛の角を使ってソーセージを作りました。私の実家の引き出しに角が入っているのを見て驚いたことがあります。母はソーセージを作る道具だと教えてくれたものでした。

角は動物にとって大事な部分です。というのは、敵や脅威が近づいていたらそれで守るからです。角は動物の体の最も強い部分だから身を守ることができるのです。私たち人間に角はありませんが、角みたいに私たちを守る者があります。そのことについて聖書には書いてあります。旧約聖書の中に角という言葉が出てきたら、それは「力」や「権力」を意味しました。

新約聖書の中では「ルカによる福音書」1章の「ザカリアの預言」のところで角が出てきます。ザカリアとは、聖書の中に出てくる洗礼者ヨハネという人のお父さんです。ザカリアと奥さんのエリザベトは子どもに恵まれず、もう年をとっていました。2008-04-20 by MMBOX PRODUCTION http://www.christiancliparts.netある日、天使がザカリアに現れて「エリザベトは男の子を産む」と告げ知らせました。ザカリアはこんな年寄りにそんなことは起こらないと疑いました。すると彼は口を聞くことができなくなりました。しかし、その後でエリザベトは本当に妊娠して男の子を産みました。名前を決める時に近所の人たちはお父さんにならってザカリアがいいと言いましたが、エリサベトは、いいえ、ヨハネです、と言いはりました。人々が驚いてザカリアに聞くと、彼は板に「この子の名前はヨハネ」と書きました。すると突然ザカリアは話せるようになって、次の預言を語ったのです。「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて開放し、我らの為に救いの角を、僕ダビデの家から起こされた。」ルカ1章68~69節。

ザカリアは「我らの為の救いの角」と言いました。「救いの角」とは何を意味するのでしょうか?角が動物を守る部分であるのと同じように、「救いの角」は世界中の人々を悪いものから守る方を意味しました。つまり、クリスマスの時にお生まれになったイエス様のことです。イエス様は神の子なので角のように強く、私たち人間を守る為にこの世にお生まれになりました。それではイエス様は私たちをどのように守るでしょうか?

私たち人間は心の中にある罪や周りにある悪いことから自分を完全に守ることができません。イエス様は私たちの心の中にある罪を全部かわりに背負ってくださって、十字架の上で私たちの罪の罰を私たちにかわって受けて死なれました。しかしそれで全てが終わったのではありませんでした。十字架の上で死なれたイエス様は三日後に復活されて、死を超えた永遠の命に入れる道を開いてくださいました。このようにイエス様は私たちが罪の罰を神さまから受けないですむよう守って下さったのです。さらに、悪いものが奪い取ることが出来ない永遠の命を私たちに与えて下さり、私たちが神さまの子どもになれるようにして下さったのです。神さまは子どもを守られます。イエス様は本当に「救いの角」なのです。イエス様が救い主であると信じて受け入れると、この「救いの角」は私たちをあらゆる悪いものから守って下さるのです。

今日はサルヴィ「角」の惣菜パンを作りました。パンと一緒に聖書のみ言葉の「救いの角」の意味も覚えて行きましょう。