Warning: strpos() expects parameter 1 to be string, object given in /home/suomikyoukai/suomikyoukai.org/public_html/wp-includes/functions.php on line 3676
ニュースブログ | 日本福音ルーテルスオミ・キリスト教会 / 中野区 – 東京

来週の礼拝:2019年4月28日 復活後第1主日

聖書   使徒言行録   5:12~32

     黙示録     1:4~18

     ルカ     24:13~35

讃美歌  90 301 108 130

担当  司式  吉村 博明 宣教師

    説教  吉村 博明 宣教師

    奏楽   堀越教子 姉  

    当番   青木千恵 姉

    応対   折笠博子 姉

     

 

 

    

                                        

説教「罪よ、くたばれ!死よ、さらば!ようこそ、復活の主よ!」吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書20章1-18節、第一コリント15章21節ー28節

主日礼拝説教 2019年4月21日 復活祭

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 今日は復活祭です。十字架にかけられて死んだイエス様が天地創造の父なるみ神の偉大な力で復活させられたことを記念してお祝いする日です。日本ではイースターという英語の呼び名が一般的です。ところで、クリスマスは誰でも知っています。イエス様が天のみ神のもとからこの世に降って、乙女マリアから生身の人間として生まれたことを記念してお祝いする日です。日本語では降誕祭と言います。実は復活祭・イースターは、キリスト教会ではクリスマスに劣らず大事なお祝いです。ディズニーランドでもハッピーイースターをやっているそうです。イエス様の復活の何が人をハッピーにさせるのでしょうか?一度死んだ者が復活したというのは、ちょうど暗くて寒い冬が明るい暖かい春にかわる嬉しさに重なるのでハッピーになるのかもしれません。しかし、ここはキリスト教会ですので、イエス様の復活がハッピーなことだということを聖書に照らし合わせて見ていきたく思います。

 まず、次のように言ったらどうでしょう?イエス様は沢山の苦しみを受けて十字架につけられて死なれたが復活したということで、復活祭とはイエス様の不運が幸運に逆転したことを喜ぶお祝いである、と。これに付随して、イエス様が死んだため悲しみにくれていた弟子たちが復活したイエス様に出会って喜び勇気づけられたということで、弟子たちの不運が幸運に逆転したことを喜ぶお祝いである、と。こういうふうに言うと、復活祭というのは何だかテレビ・ドラマでも観るように、昔の人たちの運命の変転をハラハラしながら追って最後にめでたしめでたしの気分を味わえるお祝いになります。しかし、そういう理解ではまだ聖書をちゃんと読んだことにはなりません。というのは、イエス様が死から復活させられたことは実は、当時の人たちの時代の壁を突き破って、今を生きている私たちの運命や生き方にも関係してくるからです。そのことがわかるために、イエス様の復活とはそもそも何なのかを考える必要があります。

そこで、イエス様の復活とは何なのかをわかるためには、イエス様はなぜ死ななければならなかったのかがわからないといけません。歴史的事件としてみると、ガリラヤ地方のナザレ出身のイエスが当時のユダヤ教社会の宗教エリートに楯突いて反感を買い、ローマ帝国の官憲に引き渡されて処刑された、ということになります。しかし、それは見かけ上の出来事です。聖書が聖書である所以は、それが天地創造の神の人間に対する思いや計画を知る唯一の手がかりであるということです。聖書をそのような書物と見なせば、見かけ上の出来事の奥にある真実が見えてきます。その真実とは何か?それは、旧約聖書に記された神の計画がイエス様の十字架と復活という形で実現したということです。

 

2.罪よ、くたばれ!死よ、さらば!

 それでは、旧約聖書に記された神の計画とは何か?創世記に記されているように、人間は創造主の神に造られた後、神に対して不従順になって罪を犯したために罪が内に入り込んでしまって神との結びつきを失って死ぬ存在になってしまいました。罪とは、人間が神の意志に反することをするように仕向けたり、また神の意志に沿うことを難しくするようにして、人間を造り主の神から遠ざけようとする悪いものです。そこで神は、人間がこの罪の恐るべき力から解放されて神との結びつきを回復できるようにしよう、そして、その結びつきを持ってこの世を生きられるようにしよう、この世を去った後は造り主である自分のもとに永遠に戻れるようにしよう、そういう計画を立てたのです。それでは、この神の人間を救うという壮大な計画とイエス様の十字架と復活はどう関係するのでしょうか?

まず、イエス様が十字架にかけられたことで、私たちの罪の罰を彼が全部代わりに受けてくれて、罪の償いを神に対して全部果たして下さいました。それからは罪は、以前のように人間を神の前で有罪者にしようとしても、神のひとり子が果たした償いはあまりにも完璧すぎて思うようにできません。はっきり言って罪は破綻してしまったのです。加えて、神がその偉大な力でイエス様を死から復活させたことで、死を超える永遠の命があることが示され、その扉が私たち人間に開かれました。人間は、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、神がイエス様を用いて整えた罪の償いと赦しをしっかり受け取れて、永遠の命に至る道に置かれて後はその道を歩むことになります。

その人は罪の償いと赦しを受けているので、罪はもうその人を神の前に有罪者にすることは出来ません。それでも罪は、まだ力があるかのように見せかけて信仰者の隙や弱いところをついてきます。不意を突かれてしまう信仰者もいるかもしれません。しかし、神に罪の赦しを祈れば、神は私たちの心の目を十字架につけられたイエス様に向けさせて下さり、私たちは神の赦しは本当にあるとわかって、これからは罪を犯さないようにしようと心を新たにします。このように私たちは十字架の下に戻ることをすればするほど、罪に対して強烈なパンチを加えることになります。まさに、罪よ、くたばれ!です。

もし罪が思いや考えの中に留まらず、言葉や行いで出てしまい、誰かを傷つけてしまった場合は、その人に対して謝罪や償いをしなければならないことは言うまでもありません。ここで忘れてはいけないことは、神は隣人愛をせよと言われるので、それを破ったことにもなるということです。それなので、神に対しても赦しを乞わなければなりません。その時も神は、イエス様の十字架の犠牲に免じて赦して下さいます。ところが、隣人が赦してくれない場合もあります。「神は赦せても私は赦せない」などという人もいます。キリスト信仰者はどんなに憤っても絶対にそう言ってはいけません。自分を神よりも高い地位に置いてしまうからです。でも、そう言われる立場になってしまったらどうしてよいかわかりません。しかし、神との関係で見ると、神に赦しを乞えば神はひとり子の犠牲の業に免じて赦して下さいます。人間との関係では行き詰まりかもしれないが、神との関係では大丈夫ですから、それを信じて絶望せずに打開の糸口を見つけていきましょう。神に祈りながらやれば、必ず見つかります。

イエス様を救い主に持って神から罪の赦しと償いを受けた人は、神との結びつきを持って生きる人です。神との結びつきがあると、罪はその人をもう神の前で有罪者に仕立てることは出来ません。イエス様がその人を罪の力から贖い出して下さったからです。

このように、罪が人間に対して持っていた絶大な力は破綻しました。その結果、死も人間に対する力を失いました。本日の使徒書の日課の中で使徒パウロは、死からの復活はイエス様が最初で、その次は彼に結びつく人たちが彼の再臨する日に復活すると言っています(第一コリント15章23節)。また本日の日課の前では「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」と言っています(20節)。信仰者にとって死は、復活の日に目覚めさせられるまでの特別なひと眠りになったのです。ルターによれば、この「眠り」はこの世の痛みや苦しみから解放された心地よい眠りであると同時に、眠っている本人にすれば目を閉じてから復活の日までの眠りは、ほんの一瞬にしか感じられないという眠りです。眠っているだけなので、飢えも渇きもないし、またこの世で生きている人を見守ったり影響力を及ぼすこともありません。実はずっと起きて目を覚ましていて、この世の人を見守ったり影響力を及ぼすのは天地創造の神だけです。死んだ人の霊や魂などではありません。これが聖書の観点です。

パウロはまた、本日の日課の後のところで復活の体について述べています。私たちが復活する時、地上の時に着ていた朽ちる肉の体にかわって朽ちない栄光の体を着ることになる、と。そうなるとキリスト信仰者にとって死というのは実に、復活の日までひと眠りして着替えをするということになります。罪と共同して人間を神から切り離して永遠の滅びに陥れようとしていた死でしたが、それも破綻してしまったのです。まさに、死よ、さらば!です。

本日の旧約の日課はモーセが、神の偉大な力でイスラエルの民がエジプトの軍勢から守られたことを賛美するところでした。エジプトの軍勢は海水に巻き込まれて全滅してしまいました。これは一見すると罪や死ということと無関係に見えます。ところが、旧約聖書に記された昔の出来事というのは、将来起こることのミニチュアというか象徴的な先駆けになっているということが多くあります。エジプトの軍勢に起きた出来事が罪と死の破綻の象徴的な先駆けというのは、旧約聖書のミカ書7章19節を見ればわかります。「主は再び我らを憐れみ 我らの咎を抑え すべての罪を海の深みに投げ込まれる(後注)」。つまり、神の民イスラエルを襲おうとしたエジプトの軍勢が壊滅したように、イエス様に結びつく者を襲おうとする罪と死も同じ運命にあるというわけです。

このように罪と死の力から人間を救い出そうとする神の計画がイエス様の十字架と復活を通して実現しました。罪の赦しの救いを受け取った私たちは、自分たちもイエス様と同じように将来復活させられることがはっきりしました。そういうわけで、復活祭とはイエス様が復活させられたことで実は私たち人間の将来の復活が可能になったことを喜び祝う日です。さらに、自分自身が復活させられるという希望に加えて復活の日に懐かしい人たちと再会できるという希望も持てるようになりました。復活祭は、この二つを希望を与えて下さった神に感謝し喜び祝う日です。確かにあの日復活した主人公はイエス様でしたが、それは私たちのための復活だったことを忘れてはいけません。イエス様自身のためでもなく、弟子たちを喜ばせるためでもなく、イエス様に続いて私たちが復活させられるための復活だったのです。私たちの復活のためにイエス様の復活が起きた - それで復活祭は私たちにとって大きな喜びの日になるのです。

3.ようこそ、復活の主よ!

  さて、本日の福音書の箇所を見てみましょう。復活の主イエス様とマグダラのマリアの再会が記されていますが、これは想像を絶する出来事です。というのは、この地上の体を持つマリアが復活の体を持つイエス様にすがりついているからです。復活したイエス様が有する復活の体とはどんな体なのか?それについては、パウロが第一コリント15章の中で詳しく記しています。「蒔かれる時は朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれる時は卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活する」(42ー43節)。「死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着る」(52ー54節)。イエス様も、ずばり「死者の中から復活するときは、めとることも嫁ぐこともせず、天使のようになるのだ」と言われます(マルコ12章25節)。

 復活というのは、ただ単に死んだ人が少しして生き返るという、いわゆる蘇生ではありません。死んで時間が経てば、遺体は腐敗してしまいます。そうなったらもう蘇生は起きません。復活というのは、肉体が消滅しても、復活の日に新しい復活の体を着せられて復活することです。その体は、もう朽ちない体であり、神の栄光を輝かせている体です。天の御国で神聖な神のもとにいられる体です。この地上は、そのような体を持つ者のいる場所ではありません。イエス様は本当なら復活の後、吸い取られるよう天に昇らなければならなかった。なのに、なぜ40日間も地上にとどまったのか?その期間があったおかげで、弟子たちをはじめ大勢の人に自分が復活したことを目撃させることが出来ました。きっと、それが目的だったのでしょう。

復活したイエス様が、私たちがこの地上で有する体と異なる体を持っていたことは、福音書のいろいろな箇所から明らかです。ルカ24章やヨハネ20章では、イエス様が鍵のかかったドアを通り抜けるようにして弟子たちのいる家に突然現れた出来事が記されています。弟子たちは、亡霊が出たと恐れおののきますが、イエス様は彼らに手と足を見せて、亡霊には肉も骨もないが自分にはある、と言います。このように復活したイエス様は亡霊と違って実体のある存在でした。ところが、空間を自由に移動することができました。本当に天使のような存在です。

 復活したイエス様の体について、もう一つ不思議な現象は、目撃した人にはすぐイエス様本人と確認できなかったということです。ルカ24章に、二人の弟子がエルサレムからエマオという村まで歩いていた時に復活したイエス様が合流するという出来事が記されています。二人がその人をイエス様だと分かったのは、ずいぶん時間が経った後のことでした。本日の福音書の箇所でも、悲しみにくれるマリアに復活したイエス様が現れましたが、マリアは最初イエス様だとはわかりませんでした。このようにイエス様は、何かの拍子にイエス様であると気づくことが出来るけれども、すぐにはわからない何か違うところがあったのです。

 さて、天の御国の神聖な神のもとにいられる復活の体を持つイエス様と、それにすがりつく、地上の体を持つマリア。イエス様はマリアに「すがりつくのはよしなさい」と言われます。「すがりつく」というのは、相手が崇拝の対象である場合は、ひれ伏して相手の両足を抱き締めるということだったと考えられます。イエス様に気づく前、マリアはずっと泣いていました。イエス様が死んでしまった上にその遺体までなくなってしまって、その喪失感と言ったらありません。では、イエス様に気づいてすがりついた時のマリアはどうだったでしょうか?泣き続けたでしょうか?次のように考えたらどうでしょう?最愛の人が何か事故に巻き込まれたとします。もう死んでしまったとあきらめていたか、またはまだあきらめきらないというような時、その人が無事に戻ってきて目の前に現れるとする。その場合、たいていの人は感極まって泣き出して抱きしめたりするでしょう。イエス様にしがみつくマリアもおそらく同じだったでしょう。

イエス様が「すがりつくな」と言ったということですが、ギリシャ語の原文をみると「私に触れてはならない」(μη μου απτου)です。実際、ドイツ語のルター訳の聖書も(Rühre mich nicht an!)、スウェーデン語訳の聖書も(Rör inte vid mig)、フィンランド語訳の聖書も(Älä koske minuun)、みな「私に触れてはならない」です。英語のNIV訳は私たちの新共同訳と同じで「私にすがりつくな」(Do not hold on to me)です。なんだか聖書の訳の中に日米同盟と欧州連合の対決があるみたいですが(もっとも、ドイツ語ルター訳でないEinheitsübersetzung訳をみると、「私にすがりつくな」Halte mich nicht festでした)、イエス様はマリアに対して、「触れるな」と言っているのか「すがりつくな」と言っているのか、どっちでしょうか?

私は、イエス様が復活した体、まさに天の御国の神のもとにいることができる体を持っているということを考えると、ここは原文通りに「私に触れてはならない」の方がよいと思います。イエス様は、この言葉の後にすぐ理由を述べているからです。「私はまだ父のもとへ上っていないのだから」(17節)。イエス様は、自分に触れるな、と言われる。その理由として、自分はまだ父なるみ神のもとに上げられていないからだ、と言う。つまり、復活させられた自分は、この世の者たちが有している肉体の体とは異なる、神の栄光を体現する霊的な体を持つ者となった。そのような体を持つ者が本来属する場所は天の父なるみ神がおられる神聖な所であり、罪の汚れに満ちたこの世ではない。本当は、自分は復活した時点で神のもとに引き上げられるべきだったが、自分が復活したことを人々に目撃させるためにしばしの間はこの地上にいなければならない。そういうわけで、自分は天上のものなので、地上に属する者はむやみに触るべきではない。

 このように言うと、一つ疑問が起きます。それは、ルカ24章をみると、復活したイエス様は疑う弟子たちに対して、「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい」(39節)と命じていることです。また、ヨハネ20章27節では、目で見ない限り主の復活を信じないと言い張る弟子のトマスにイエス様は、それなら指と手をあてて手とわき腹を確認しろ、と命じます。なんだ、イエス様は触ってもいいと言っているじゃないか、ということになります。しかし、ここは原語のギリシャ語によく注意してみるとからくりがわかります。ルカ24章で「触りなさい」、ヨハネ20章で「手をわき腹に入れなさい」と命じているのは、まだ実際に触っていない弟子たちに対してこれから触って確認しろ、と言っているのです。その意味で触るのは確認のためだけの一瞬の出来事です(後注)。本日の箇所では、マリアはもう既にしがみついて離さない状態にいます。つまり、触れている状態がしばらく続いるのです。その時イエス様は、「今の自分は本来は神聖な神のもとにいるべき存在なのだ。だから触れてはいけないのだ」と言っているのです(後注)。そういうわけで、イエス様がマリアに「触れるな」と言ったのは、神聖と非神聖の隔絶に由来する接触禁止なのです。確認のためとかイエス様が許可するのでなければ、むやみに触れてはならない、ということなのです。

神聖な復活の体を持って立っているイエス様。それを地上の体のまますがりつくマリア。本当は相いれない二つのものが抱きしめ、抱きしめられている、とても奇妙な光景です。そこには、かつて旧約の時代にモーセやイザヤが神聖な神を目前にして感じた殺気はありません。イエス様は、自分は地上人がむやみに触れてはいけない存在なのだ、と言いつつも、一時すがりつくのを許している。マリアに泣きたいだけ泣かせよう、としているかのようです。これを感動的と言わずして何を感動的と言えるでしょうか。イエス様も、今マリアは地上の体ではいるが、自分を救い主として信じている以上は復活の日に復活の体を持つ者になる、とわかっていたのでしょう。イエス様の次の言葉から、そのことがよく窺えます。「わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と」(17節)。

ここでイエス様は、弟子たちに次のようなメッセージを送ったのです。「今、復活させられて復活の体を持つようになった私は、私の父であり私の神である方のところへ上る存在になった。そして、その方は他でもない、お前たちにとっても父であり神なのである。同じ父、同じ神を持つ以上、お前たちも同じように上るのである。それゆえ復活は私が最初で最後ではない。最初に私が復活させられたことで、私を救い主と信じる者が後に続いて復活させられる道が開かれたのである。

4.おわりに

 兄弟姉妹の皆さん、今日は復活祭です。イエス様の復活のおかげで私たちにも復活の道が開かれました。イエス様が復活の初穂ならば、私たちはそれに続いて実を実らせる穂です。イエス様は有名な種まき人のたとえの中で、良い土地に蒔かれた種はしっかり成長して、30倍、60倍、100倍の実を実らせると教えました。

十字架の贖いの業のゆえにイエス様を救い主と信じて洗礼を受けてイエス様に結びつく者、

神の意思に照らせばまだ自分に罪が宿ることを思い知らされつつも、

その度に心の目を十字架の主に向けて、罪の赦しが揺るがないことを繰り返し覚え、

神に対する感謝の念を新たにし、本当に神の意思に沿うように生きようと志向する。

 

この時、私たちは良い土地に蒔かれた種であり、「罪の赦しの救い」から絶えず栄養を受けて成長していて、やがて30倍、60倍、100倍と実を結び、初穂のイエス様に続いて、復活の日に復活するのです。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。     アーメン

 

 後注(ヘブライ語とギリシャ語がわかる人にです)

  エジプトの軍勢に起きた出来事がミカ書719節の預言の象徴的な先駆けと言うことに対して、言語的な繋がりが弱いと指摘されるかもしれません。出エジプト記15章で「投げ込む」という動詞はרמה 1節)とירה4節)を使っているのに対して、ミカ719節ではשלךを使っているからです。出エジプトでは投げ込む場所を「海に」ביםと言っていますが、ミカでは「海の深みに」במצלות יםです。他方で「深みに」במצולתは、出エジプト155節で海に投げ込まれた軍勢が石のように落ちていく場所を言い表す時に使われています。ミカの預言には出エジプト記の出来事が響いていると考える者です。 

ルカ2039節の「触りなさい」とヨハネ2027節の「手を入れよ」は、両方ともアオリストの命令形(ψηλαφησατεβαλε)であることに注意。

ヨハネ2017節の「触れるな」は現在形の命令形(απτου)であることに注意。

  

聖餐式:木村長政 名誉牧師

復活祭祝会

 持ち寄りスタイルで今年も復活祭を祝いました、ポウッカ先生も音楽のご奉仕とパイヴィ先生からのメッセージを披露してくださいました。吉村先生からはフインランドの兄弟姉妹から届いた祝いのメセージを読んでいただきました。テーブルの上のご馳走も何時しか銘々のお腹に納まり、祝いの席は和やかに続きました。

 

 

 

 

 

 

 

歳時記

何時もの散歩道で足元の枯葉の間から宝石のような小さな花を見つけましたフデリンドウです。昔飯豊山で見かけたイイデリンドウを思い出しました、まことに小さな花です。したがってこの花をよく見たければ跪かなければなりません。それに価する高貴な花のようでした。

聖金曜日 説教「希望の元」マルッティ・ポウッカ牧師、ヨハネによる福音書 19章 17−30節

去年の二月にイスラエルに行っていた時、もちろんエルサレムに行きました。エルサレムは、その時大変寒かった所でしたが、とても、とても面白かったです.聖書の歴史に関係がある建物、にわと道をたくさん見ました。

エルサレムのはイエスが歩いた苦しい道、Via Crux もあります。それを見ると色々な聖書の言葉を考え始めました。

例えば マタイによる福音書/ 27章32節

兵士たちは出て行くと、シモンという名前のキレネ人に出会ったので、イエスの十字架を無理に担がせた。

イエスは本当に色々な苦しみを受けました.あなたの為にも、私の為にも.これは神様の人間には理解出来ない、愛でいっぱい計画です。

私達人間の生活の中にも苦しみがあります。多分ほとんど希望を失うほど大変な苦しみです.苦しい日があると希望はどこでしょうか。

苦しみを考えるとは三種類あると思います。 

初めに

自分のせいの苦しみです。例えば、歩行者が赤信号であっても賑やかな道をわたると、きっと交通事故になりますよ。そして苦しみにもなる。これは自分のせいの苦しみです。  

第二に

5歳の女の子が道を歩いていて、酔っている運転手の車に跳ねられるとします。誰の責任でしょうか。やっぱりその酔っぱらい 運転手の責任だと思います。警察もそう判断します。  

第三に

かわいい赤ちゃんが生まれるとします。お母さんもお父さんも喜んでいます。しかし、後一年で赤ちゃんががんで死ぬとわかる。父親と母親にとって大変な苦しみです。けれども、責任が誰にあるのか、分かりません。説明できない苦しみです。  

今日の聖書の箇所にも苦しみについて書いてあります。イエスの苦しみについてです。  

17−19 大変なでき事でした 

   ヨハネによる福音書/ 19章 17節

イエスは、自ら十字架を背負い、いわゆる「されこうべの場所」、すなわちヘブライ語でゴルゴタという所へ向かわれた。

そこで、彼らはイエスを十字架につけた。また、イエスと一緒にほかの二人をも、イエスを真ん中にして両側に、十字架につけた。

ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上に掛けた。それには、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いてあった。

これは大変なできことだと思います。イエスはとても良い方ですから。  

どんな方なのでしょうか。イエスの人格というのは。  

イエスは父の偉大なる御業を喜び、人類の罪と悩みを見ては、大変苦しみました。

イエスは神が御自身にその使命をお与えになったことを知っていましたので、何も恐れることなく、権威ある者のように教えました。

イエスは御自分の民とその聖なる嗣業とを愛していましたが、同時に彼は人間のあらゆる制約から完全に自由でした。  

そして、イエスは良い業を背一杯なさいました。  

イエスの御業について

イ エスは苦しむ者を助け、病める者を癒し、死者を甦らせました。また、神から与えられた権威をもって、人の罪を赦されました。これらの業は彼の愛を示すと同 時に、神の国の力がすでに影響を及ぼしつつあることを示しているのです。イエスは良い方だと言われても宜しいでしょうね。

これらのことを読むと、私達の人間の考え方で、イエスの苦しみは説明できません。私の知恵は足りませんと思います。  

また、イエスは人々からいじめをうけました。良い業ばかりなさったのに。  

 ヨハネによる福音書/ 19章 20節

イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がその罪状書きを読んだ。それは、ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていた。

ユダヤ人の祭司長たちがピラトに、「『ユダヤ人の王』と書かず、『この男は「ユダヤ人の王」と自称した』と書いてください」と言った。 

しかし、ピラトは、「わたしが書いたものは、書いたままにしておけ」と答えた。  

兵士たちは、イエスを十字架につけてから、その服を取り、四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした。下着も取ってみたが、それには縫い目がなく、上から下まで一枚織りであった。  

そこで、「これは裂かないで、だれのものになるか、くじ引きで決めよう」と話し合った。それは、/「彼らはわたしの服を分け合い、/わたしの衣服のことでくじを引いた」という聖書の言葉が実現するためであった。兵士たちはこのとおりにしたのである。  

良い業ばかりなさっていたイエス様は、今いじめられました。悪口も言われました。着るものもなくしました。全部預言者が語られた通りです。  

大変な苦しみがあったのに 

ヨハネによる福音書/ 19章 25節

イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。  

イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。  

それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。  

イエスはまだまだケアを考えていました。本当に本当に母親の世話をなさいました。これほどの愛は説明できませんね。  

次に

イエスの苦しみは人間の考え方では説明できません。しかし、神様は人間と全く違います。神様の考えは私達の考えを明らかに超えます。  

イエスの苦しみと言うのは、あなたと私のための苦しみです。  

イ エスは苦難と試練と死の危険を忍び、父の御旨に従順でした。父からの使命に忠実であったキリストは、その血を流し、その生命を、私たちの贖いのためにお与 えになりました。すなわち、罪無きキリストは十字架の上で、苦難を受けられることによって、私たち自身が罪のために受けなければならない罪責と刑罰とを、 代わってその身に受け、神の怒りを取り除いたのです。このようにしてキリストは、罪と死と悪魔の力に打ち勝ったのであり、キリストの苦難と死こそが、私たちを 罪から贖うための犠牲なのです。

イエスの苦しみの結果として、私達は希望を持っています。

キリスト者の希望というのは

時代の混乱の最中にあって、キリスト教会は神の国が栄光の中に現れる栄光の日を、神の御約束を信じて待ち望んでいます。その時に神は全てにおいて全てとなられるのです。  

最後に今日の聖書の箇所の終わりを読みましょう。  

ヨハネによる福音書/ 19章 28節 

この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。  

そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。  

イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。  

まとめて、この聖書の箇所を読むとイエスの道は本当に苦しい道でした。

それは、私達の罪人のためでした。これは不思議な愛です。これは、私達の希望の元です。 

祈りましょう 

天の父なる神様、あなたは御自分の御子を死に渡して、人間を救う計画を作ってくださいました。イエスは私達のために大変な苦しみを受け入れました。今日私達 は特にその苦しみを覚えています。イエスの苦しみも神様の計画の通りです。教会はその計画について教えます。そこに恵みがあります。救われるために、行い は必要ではありません。私たち弱い人間には、あなたの知恵と力のすべては理解できませんが、どうか、私たち を助けてください。あなたは人間ではなく、私たちの考えを超える神様でいらっしゃいます。ですから、約束の全てを守ってくださいます。
聖書を読むと、贖い主のイエスがあと3日目に復活されたということが分かります。これは私たちの一番大きな喜びの元です、希望のもとです。あなたはイエスを私たち人間の救いのために、罪の 赦しのために送ってくださいました。そして、私たちの本国である天への道も教えてくださいました。それは私たちの人生の目的です。どうか私たちに天国への 道を見せてください。私たち一人一人にあなたからの使命を教えてください。今年もあなたの教えを聞けるように導いてください。

私たちは信仰によってあなた の子どもです。私たちは恵みによって救われます。どうか、私たちがあなたの父なる神様のみ守りに信頼できるように私たちを強めてください。イエスと共に人 生の道を歩めますように。私たちがあなたの子どもとして、また、教会として出来る社会的な義務や御国のためにできる仕事を教えてください。福音と神の招 き、また、復活の喜びをどうすれば世界へ伝えることができるのか、私たち一人一人に教えてください。教会も導いて下さい。また、あなたに与えられた力に よって子どもと隣人を大切に出来るように、互いに支え合うことが出来るように私たちの愛を主イエスキリストによって強めてください。心の中にあなたの光を 照らすことができますように。この祈りを主イエスキリストのみ名によってお祈りいたします。  アーメン。



説教「主がお入り用なのです」マルッティ・ポウッカ牧師、ルカよる福音書19章28−48節

説教2019年4月14日

少し、例えの話しをしたいと思います。 

台所には、ナイフもフォークもあります.値段は大体同じですが、使い方は全く違います。ナイフはナイフとして、フォークはフォークとして使わなければなりません。反対は無理です。

今日の、聖書の箇所を読みましょう。これはとても有名な聖書の教えだと思います。



最初に
イエスは小子ロバに乗ってエルサレムに行かれました。


ルカよる福音書/ 19章 28節

イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムに上って行かれ

29 そして、「オリーブ畑」と呼ばれる山のふもとにあるベトファゲとベタニアに近づいたとき、二人の弟子を使いに出そうとし
30 言われた。「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい。
31 もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。
32 使いに出された者たちが出かけて行くと、言われたとおりであった。

 預言者たちも前から神様の計画を知っていました.そして、人々に語りました。そして、イエスが言われとことも実現になりました。

33 ろばの子をほどいていると、その持ち主たちが、「なぜ、子ろばをほどくのか」と言った。
34 二人は、「主がお入り用なのです」と言った。
35 そして、子ろばをイエスのところに引いて来て、その上に自分の服をかけ、イエスをお乗せした。

弟子達はイエスの教えに従って、神様の計画は進歩しました

36 イエスが進んで行かれると、人々は自分の服を道に敷いた。
37イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた。
38「主の名によって来られる方、王に、/祝福があるように。天には平和、/いと高きところには栄光。

 皆、イエス様を見ると大喜びしました。踊りました、歌いました。イエスがこの世に来て下さるのは、神様のご計画でした。 


  

時が満ちた、と言ってもいいでしょう。神様の計画が進展(しんてん)しました。

  でわ、イエスはいったい、どなたでしょうか。これはとても大切な質問です。

 このような教えがあります。
神は長い時間をかけて、人類が救い主を迎えることができるように、準備されました。そして、ついに時が満ち、神はその独り子を 世の救い主としてお送りになりました。聖書にはイエスの人生について、また教えの奇跡についてたくさん書いてあります。

 
「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました」(ガラテヤ4:4)。

 そして、イエスはお生まれになりました。

 人間としてイエスは罪を別にして、全ての点において、私たち人間と同様でした。イエスは生まれ、成長し、疲れ、空腹を感じ、また喜びや悲しみを味わいました。

「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された」(ルカ2:52)。

 イエスは御業をどう行われましたか。

イエスは苦しむ者を助け、病める者を癒し、死者を甦らせました。また、神から与えられた権威をもって、人の罪を赦されました。これらの業は彼の愛を示すと同時に、神の国の力がすでに影響を及ぼしつつあることを示しているのです。

 そして、イエスは恵みの主でいらっしゃいます。

イ エスは特に失われた者や罪人と交際しました。このことは彼らにとっては大きな慰めでしたが、他の人々には躓きとなりました。しかしイエスはこれによって罪 人を求めてこれを救う神の言い尽くし難い愛を示したのです。このように私たちに何らの価値も無いのに与えられる神の愛が「恵み」と呼ばれるのです。

「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マタイ9:13)。

イエスは本当に本当私達人間を愛して下さいました.けれども、皆はイエスの教えを聞いてくれませんでした.イエスは泣いていました。

聖書の箇所に戻りましょう。

41 エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、
42 言われた。「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない。

 イエス様はその平和への道でいらっしゃいます.イエスは道であり、心理であり、命であります。どうして人々は聞いてくれませんでしたか。イエスは無泣いてしまいました。

 そして、イエスは怒りました。

45 それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで商売をしていた人々を追い出し始めて、
46 彼らに言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』/ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にした。

 どうしてイエスは怒ってしまいましたか。

神の国の教えは商売より最も大切な事だからです。

47 毎日、イエスは境内で教えておられた。祭司長、律法学者、民の指導者たちは、イエスを殺そうと謀ったが、
48 どうすることもできなかった。民衆が皆、夢中になってイエスの話に聞き入っていたからである。

イエスは良い業ばかりなさったのに、皆は好きではありませんでした.イエスは、苦しみを受けなければなりませんでした。これも神様の計画の部分でした。

 まとめて。神様は、このようなイエス様をお送りになりました。

この神様の計画は、私たちの永遠の命の希望の元です。ですから、今日の聖書の箇所の人々と弟子たちがしたように感謝しましょう。

自分の栄光を求めていた ファリサイ派の人々などはイエスのことが好きではありませんでした。イエスがいるとファリサイ派の人々の力は弱くなるという恐れがあったと思います。けれど も、私たちにとって、イエスは素晴らしい方です。

 私たちはイエスによる永遠の命の希望のプレゼントを頂きました。このプレゼントを教会として家族や友人たちに分けることは私たちの大きな喜びです。

そして、私達の一番の最大事です。私達は色々な神様に頂いた賜物を持っています。

ナイフでしょうか、フォークでしょうか、主がお入り用なのです。

 
祈りましょう


 天の父なる神様、あなたは、人間を救う計画を作ってくださいました。教会はその計画について教えます。そこに恵みがあります。救われるために、行いは必要で はありません。私たち弱い人間は、あなたの知恵と力のすべては理解できませんが、どうか、私たちを助けてください。あなたは人間ではなく、私たちの考えを 超える神様でいらっしゃいます。ですから、約束の全てを守ってくださいます。
聖書を読むと、贖い主のイエスが復活されたということが分かります。 これは私たちの一番大きな喜びの元です。あなたはイエスを私たち人間の救いのために、罪の赦しのために送ってくださいました。そして、私たちの本国である 天への道も教えてくださいました。それは私たちの人生の目的です。どうか私たちに天国への道を見せてください。私たち一人一人にあなたからの使命を教えて ください。今年もあなたの教えを聞けるように導いてください。私たちは信仰によってあなたの子どもです。私たちは恵みによって救われます。どうか、私たちがあなたの父なる神様のみ守りに信頼できるように私たちを強めてください。イエスと共に人生の道を歩めます ように。私たちがあなたの子どもとして、また、教会として出来る社会的な義務や御国のためにできる仕事を教えてください。福音と神の招き、また、復活の喜 びをどうすれば世界へ伝えることができるのか、私たち一人一人に教えてください。教会も導いて下さい。また、あなたに与えられた力によって子どもと隣人を 大切に出来るように、互いに支え合うことが出来るように私たちの愛を主イエスキリストによって強めてください。心の中にあなたの光を照らすことができます ように。この祈りを主イエスキリストのみ名によってお祈りいたします。  アーメン。



交わり、その後VIA DOLOROSA

交わりの後スオミ教会恒例の「VIA DOLOROSA-イエス・キリストの受難の道」が行われました。ポウッカ先生のフルート演奏、オルガン演奏と独唱を交えながら今年も感動的な受難劇でした。

歳時記

散歩の途中公園の一角で山菜のモミジガサを見つけました。別名シドケとも言うようです、かねてから一度味わってみたいと思いましたが公園の山菜ではいけませんね、じっと我慢をして通り過ぎました。

「トリベット」を作ってみませんか。手芸クラブのご案内、4月24日(火)10時~12時


手芸クラブは、毎月1回開かれています次回は、4月24日(水)10時から12時までです。作品は編み物のトリベット・鍋敷きです。鍋つかみ・ヨッダとしても使えて、フィンランドでは一般的なキッチン道具です。自分の好みに合ったトリベットを作ってみませんか。

誰でもお気軽にご参加ください。お子様連れでもどうぞ!

持ち物:     綿糸かジュートまたは毛糸50g位、色は好みです。
糸に合うぼう針かかき針

申し込み問い合わせ
paivi.yoshimura@sley.fi  
電話03-3362-1105  
スオミ・キリスト教会

 

説教「見よ、神は新しいことを行う」神学博士 吉村博明 宣教師、イザヤ書43章16ー28節

主日礼拝説教 2019年4月7日 四旬節第五主日

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.
本日の旧約の日課イザヤ書の個所の中で神は、「見よ、新しいことをわたしは行う」と言っていました。新しいこととはどんなことでしょうか?ちょうど日本では新しい元号が公表されて、世間は新しいことへの期待が高まった感があります。しかし、聖書のことですので、聖書外のことに結びつけて理解しようとするのではなく、あくまで聖書内で理解しようと思います。そうなるとイザヤ書43章16節から28節をよく読まなければならないのですが、少しわかりにくい個所と思います。イザヤ書全体のことを念頭に置く必要があります。面白いことに、本日の福音書の日課と使徒書の日課を何度も読んでいくうちに、イザヤ書43章で神が行うと言われる「新しいこと」を理解するのに役立つことに気がつきました。福音書の日課は、イエス様がブドウ園のたとえを使って教えを述べる個所でした。使徒書の日課は、パウロがイエス様を救い主と信じることで、それまで勝ち取ったと思っていたことは皆損失になったと言っているところです。そういうわけで本日の説教では、福音書と使徒書の日課と結びつけて神が行う「新しいこと」を明らかにしていきたいと思います。

まず、イザヤ書43章の個所を見てみましょう。分かりにくい個所かもしれませんが、解きほぐすようにしていけば分かってきます。最初の16節と17節で神は海の中に道を与えたとか、戦車や強大な軍隊が倒された状態にあることが言われていますが、これが出エジプト記の出来事を指していることは申し上げる必要はないでしょう。モーセ率いるイスラエルの民のために神は海を開いて通り道を与え、後を追ってきたエジプトの軍勢は海水が戻ったので海底に沈んでしまったという出来事です。そして18節で神は「初めのことを思い出すな、昔のことを思い巡らすな」と言われますが、「初めのこと」、「昔のこと」は何を指すのかはっきりしません。そこで25節を見ると、神は「民の背きの罪をぬぐい、彼らの罪を思い出さないことにする」と言っています。神が過去の罪を思い出さないことにする、忘れてやる、と言っている以上、私たちもそれに倣って、違うことに思いを巡らさなければならない。それが、神が行う「新しいこと」なのです。

それでは、私たちが思い巡らさなければならない神の「新しいこと」とは何か?この個所をまず、書かれている内容に関係する歴史の文脈に置いて考えてみます。そうすると、「新しいこと」とはイスラエルの民がバビロン捕囚から解放されて祖国に帰還させてもらえることを指します。歴史の文脈に置いて見た場合、それが「新しいこと」になります。その背景にあるものが21節から24節に記されています。イスラエルの民は神の意志に背くことばかりし、その結果、罰として国滅ぼされて異国の地バビロンに連行されてしまいました。これは、紀元前6世紀初めに起きた歴史上の出来事です。神としては、民が悔い改めればいつでも罪をぬぐい不問にしてあげる用意があったのに、民の態度と言ったらまるで、自分たちには落ち度はない、神は根拠もないのに民に罰を与えて苦しめている、そんな神を相手に裁判しても構わない、そういう傲慢さがありました(26節、後注)。それは自滅を招いてしまう態度でした(27ー28節)。

しかしながら神は、民の捕囚が70年近くに及ぼうとする段階で、民の罪の償いは果たされたと見なします(イザヤ書40章2節)。それで、祖国帰還を認めるのです。それは、ペルシャ帝国がバビロン帝国を滅ぼして、ペルシャの王がイスラエルの民の帰還を認める勅令を出すことで実現します。これも歴史上の出来事です。かつて出エジプトの頃、神が力を発揮してエジプトの軍勢を滅ぼしてイスラエルの民が安全に移動出来るようにしたことや、荒れ野の中で進むべき道を示したり、水や食べ物を与えたこと、それと同じことがバビロンからの祖国帰還にも起きたのです。19節と20節を見ればわかるように、神は祖国帰還するイスラエルの民のために荒れ野に道を敷く、砂漠に大河を流れさせて民に水を飲ませると言われます。これが、民の罪の償いが果たされたことを示す祖国帰還でした。それで、もう過去の罪は思い出さなくてもよい、私も思い出さないから、そう神は言われたのでした。罪の償いを果たした者として帰還する祖国で新しくやり直しなさいと言って下さったのでした。

ところがどうでしょう、祖国帰還した民は神の意志に沿う生き方をしていないことが次第に明らかになりました。イザヤ書の終わりの方やマラキ書にそのことが伺えます。他方で、祖国帰還後に再建した神殿には世界の諸国民が天地創造の神を崇拝しにやって来るという預言があって、神の力で帰還できたのだから、その預言も帰還後に実現するという期待がありました。ところが現実には、ユダヤ民族はほんの一時を除いてずっと大国の支配下に置かれ続けていました。祖国帰還はまだ預言の本当の実現ではなかったのか?ならば、それはさらなる将来に実現するものなのか?かつて民を奴隷の国エジプトから解放し、さらには捕囚の地バビロンからも解放した神であれば、それらに並ぶような偉大な解放を実現して下さるのではないだろうか?そんな期待が持たれていた時にイエス様が歴史の舞台に登場したのです。果たして神は、イエス様を通してどんな「新しいこと」を行おうとしたのでしょうか?本日の福音書の個所のイエス様の教えがそれを明らかにしています。以下そのことを見てまいりましょう。

 
2.
イエス様のブドウ園のたとえの内容は以下のものでした。ブドウ園の所有者が雇われ農夫に園を任せ、収穫の実を持ってこさせるべく僕をつかわすが、これを農夫たちは袋叩きにして手ぶらで帰してしまいます。三人の僕が同じ目にあった後で、所有者は自分の息子なら敬意を払ってちゃんとブドウの実を持たせるだろうと期待して送ります。ところが、農夫たちはこともあろうに、息子を殺害して園を自分たちのものしようと企み、本当にそうしてしまいます。そんなことしたら自分たちのものになるどころか、所有者に報復されてしまうのは目に見えているのに。イエス様はどうしてそんな頭の悪い農夫たちを登場させたのでしょうか?

この問いに答える前に、ブドウ園のたとえに続いてイエス様が語る「隅の親石」の話を見てみます。隅の親石とは、石造りの家を建てる時の大事な基となる石、つまり礎石のことです。イエス様の話は実は、詩篇118篇22節からの引用です。石造りの家を建てる者がこの石は使い物にならないと言って捨てた石が後で本当の礎石になるという預言です。イエス様はこの聖句に対する補足説明として次のように言います。この石につまずく者は深い傷を負うことになり、その石が上から落ちて当たった者は粉々に粉砕する、と(ルカ20章18節)。実はこれも、イザヤ書8章14節からの引用です。このようにイエス様はブドウ園のたとえに続けて二つの旧約聖書の個所を結び付けて引用しました。

 ところで、イエス様のブドウ園のたとえは、これを初めて聞いた当時の人々にとってわかりそうでわかりにくい話だったと言えます。まず、当時のユダヤ教社会の人たちだったら、ブドウ園と聞くとイザヤ書5章にある「ブドウ園の歌」を思い出します。神が一生懸命に守り育てたブドウ園からはろくな実がならなかった、イスラエルの民の現状もそれと同じだとして、神に背を向けて不正にまみれて生きる民が批判される、そういう内容の歌です。このように、ブドウ園はイスラエルの民を指します。しかしながら、イエス様のたとえでは、ブドウ園自体はこのような悪い存在ではなく、悪いのは雇われ農夫です。イエス様のたとえを聞いた人たちは、イザヤ書をもとに、ブドウ園はイスラエルの民、所有者は神だとは連想はできても、雇われ農夫や所有者が派遣した家来や息子についてはイザヤ書にない要素なので、少し考えてみなければなりません。所有者の息子が殺されてしまうというのも、神のひとり子が殺されるということになりますが、まだイエス様が十字架に架けられる以前の段階では何のことか見当もつかなかったでしょう。

 そこで、イエス様のたとえでブドウ園の所有者が雇われ農夫に園を委ねると旅に出ることに注目します。日本語で「長い旅に出た」と言っているのは、ギリシャ語原文では「外国に旅立った」(απεδημησεν)というのが正確な意味です。どうして外国かというと、当時、地中海世界ではローマ帝国の富裕層が各地にブドウ園を所有して、現地の労働者を雇って栽培させることが普及していました。所有者が労働者と異なる国の出身ということはごく普通でした。「外国に出かけた」というのは、故国に戻ったということでしょう。

このような背景を考えると、14節で雇われ農夫が所有者の息子を殺せばブドウ園は自分たちのものになると考えたことがわかってきます。普通だったら、そんなことをすれば自分たちのものになるどころか、すぐ処罰されてしまうでしょう。ところが、息子は始末したぞ、跡取りを失った所有者は遠い外国にいる、もう邪魔者はいない、さあブドウ園を自分たちのものにしよう、ということになるのです。このようにブドウ園のたとえは、当時の人たちにとって、その社会状況から起こり得そうな身近な話に聞こえます。しかし、登場人物全ては誰を指して、一体なんの出来事について教えようとしているのかはわかりません。イザヤ書のことがあるから、何かイスラエルの民に関する教えだろうとはうすうす感じていながらも、現実の身近な世界で起こりうる出来事として理解できるだけです。つまり、遠い国にいるブドウ園の所有者が、邪悪な雇われ農夫に息子まで殺害されて、ブドウ園を乗っ取られてしまう。そして所有者は報復として農夫たちを滅ぼして、ブドウ園を別の者たちに委任するという具合にです。大方の人にとっては、これは当然の報いだと受け取られたでしょう。

ところが、群衆の中にはイエス様のたとえのポイントを理解し始めた人たちがいました。祭司長や律法学者がそれでした。ユダヤ教社会の指導層です。イザヤ書の「ブドウ園の歌」からブドウ園はイスラエルの民、所有者は神と理解できると、雇われ農夫というのは、神から委託されてブドウ園つまりイスラエルの民を世話する役割を与えられた人というイメージが湧きます。つまり、民の指導層です。祭司長や律法学者たちは、雇われ農夫が自分たちをさすのだ思い至ります。彼らは、イエス様が奇跡の業と権威ある教えで多くの人々を引き付けていることをいまいましく思っていました。何とかしないと自分たちの権威が揺らぐと危惧していました。それにも増して、もし群衆があの男をユダヤ民族の王にでも祭り上げたら、占領者のローマ帝国が鎮圧部隊を派遣して国中は大混乱に陥ってしまう、早く手を打たなければならないと危機感を抱いていました。しかし、彼を殺害することは神のひとり子を殺害することになって罰として神に滅ぼされてしまうなどとたとえを用いて語っている。自分を神同等に扱い、民の指導層を侮辱している。「そんなことがあってはならない!」と叫んだのは外ならぬ彼らだったのです。

この指導層のブーイングに対してイエス様は、詩篇118篇22節の「隅の親石」の預言を述べるのです。この預言がブドウ園のたとえと結びつけて言われるとどうなるでしょうか?家を建てる者に捨てられた石というのは農夫たちに殺された所有者の息子、すなわち捨てられた石は指導層に殺される神のひとり子を指すとわかります。その殺されたひとり子が「隅の親石」になると言うのです。これに対する補足説明としてイエス様は、その「隅の親石」が何をするのかということを述べます。これが指導層の堪忍袋が切れるだめ押しとなります。「その石に躓く者は、深い傷を負うことになり、その石が上から落ちて当たった者は粉々に粉砕する」(18節)。この言葉は先ほども申しましたように、イザヤ書8章14ー15節の預言の引用でした。旧約聖書を詳しく知っている指導層であれば、ブドウ園のたとえは、指導層に対する痛烈な批判であり、全く不都合な預言であることがわかります。しかも、詩篇の「隅の親石」の預言とイザヤ書の「躓きの石」の預言も自分たちのことを言っていると言われてしまったのです。つまり、指導層は神のひとり子を殺害して神罰として滅ぼさる。さらに、殺害されたひとり子は隅の親石になって、指導層はその石に木端微塵にされてしまうのだ、と。激怒した指導層はイエス様を捕えようとしましたが、周囲はイエス様に付き従う群衆が取り巻いていて果たせませんでした。

 

3.
果たしてイエス様が預言したこと、つまり指導層が神のひとり子を殺害し、その後で滅ぼされてしまうこと、そしてイエス様が「隅の親石」になって指導層を木っ端みじんにするということ、これらの預言は見事に実現します。まず、イエス様は過越し祭の期間に指導層に捕らえられて死刑判決を受けて十字架にかけられました。たとえの中でブドウ園の外に追いやられて殺害されると言われていましたが、十字架が立てられた場所はエルサレムの町の外のゴルゴタという名の処刑場でした。そして、指導層が滅ぼされる出来事も起きます。イエス様の十字架の出来事から約40年程経った西暦70年、エルサレムの町と神殿はローマ帝国の大軍の攻撃にあい灰燼に帰してしまいました。

さらに、もう一つの預言、捨てられた石のように十字架にかけられたイエス様が今度は隅の親石になって宗教指導層を木っ端みじんにするという出来事も起きました。イエス様の死からの復活がそれです。十字架の死を遂げたイエス様は天の父なるみ神の力で三日後に復活させられました。出来事の目撃者となった弟子たちを皮切りとして、イエス様は本当に天地創造の神のひとり子だった、旧約聖書に預言されていたメシア・救世主であったということが理解され出します。イエス様の復活が起きたことで、死を超える永遠の命というものが本当にあってその扉が人間に対して開かれたことがわかりました。その扉は、かつて人間が天地創造の後で神に対して不従順になって罪を持つようになってしまって以来閉じられていたのです。それが、イエス様が人間の罪を人間に代わって背負い十字架の上で神罰を人間に代わって受けられたことで開かれました。イエス様が人間の罪の償いを果たして下さったことになり、それで人間が神から罪の赦しを頂けるようになったのです。

このようにイエス様のおかげで神から罪の赦しが頂けるとわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、神から罪の赦しが頂けます。神から罪の赦しを頂くということは、神との結びつきを持ってこの世を生きられるということであり、同時に復活されたイエス様と同じ永遠の命に与れるということです。万が一この世を去る時が来ても、復活の日までのひと眠りの後で神の御許に永遠に迎え入れてもらえることになります。

そうなると、罪の赦しを頂いて永遠の命に与れるために必要なことというのは、神がイエス様を用いて罪の償いを果たして下さったことをその通り起こったと信じてイエス様を救い主と信じて洗礼を受けることに尽きます。イエス様の十字架と復活の出来事が起きる前は、罪の赦しも永遠の命も手掛かりはと言えば、律法の掟を守ったり宗教的な儀式を積み重ねることだけでした。それが、先ほども申しましたように、西暦70年にエルサレムの神殿が破壊されてしまうと神から罪の赦しを頂くための儀式を行う場所がなくなってしまいました。その場所は、毎年動物の生贄を犠牲に捧げたり穀物の初穂を捧げたりして罪の償いの更新を繰り返すところでした。ところが、神がご自分のひとり子を犠牲にすることで罪の償いを一回限りで済むように、文字通り未来永劫に果たしてしまいました。あとは神がイエス様を用いて整えて下さったものを受け取るだけで大丈夫になったのです。

神殿の儀式に関する掟以外の掟についても革命的なことが起きました。十戒の掟のことです。イエス様は、それらは見かけ上外面的に守れても十分ではない、心の有り様までも問うていると教えました。そうなると人間は誰も神が義と認めるくらいに十戒を守れる人はいません。ところが、イエス様を救い主と信じて洗礼の時に被せられる、見えない神聖な純白な衣を纏うようになると、それで人間は神の前に義とされるようになったのです。それから後は、神から贈り物として頂いた義はひとり子の尊い犠牲の上に成り立っているとわきまえるので軽々しいことはできなくなります。だからと言って、重苦しくなることもありません。なぜなら、神が贈り物として与えて下さる義は、人間を罪に追いやろうとする力や罪の赦しなんかないと思わせる力など陽炎のように消え去るにしかすぎないと映し出してくれます。ここから何とも言いようのない大きな解放感と安堵感が沸き起こります。心は神への感謝で満たされ、これからは神の意志に沿うように生きていこうと志向する有り様になります。

律法の掟を守って神から義とされることを目指していたが行き詰ってしまった、ところが、イエス様がもたらしてくれた義を受け取ることで解放感を得た、このことはパウロの教えによく出てきます。本日のフィリピ3章の個所も同じ教えです。パウロはまず、自分が律法の掟を遵守することで神から義とされることを目指す筋金入りのファリサイ派であったこと、それゆえにイエス様を救い主と信じる者たちを迫害した過去を持つと明かします。ところが、イエス様が神のひとり子の身分でありながら人間の罪の償いを全部果たしてしまったことを知って以来、自分の力で獲得しようとした義は屑同然になってしまった。償いを果たして下さったイエス様を救い主と信じる信仰を神が見て下さり、また洗礼によってイエス様の死と復活に結びついたことも見て下さり、それで神は自分のことを義と見て下さる。その義が本物の義である、そうパウロは証ししているのです。

 

4.
以上から、イザヤ書の中で神が行おうとする「新しいこと」が明らかになりました。それは、ユダヤ民族という特定の民族を他民族支配という特定の歴史状況での従属状態から解放することではありませんでした。それは、民族に関わらず人間全体を罪と死の支配という普遍的な従属状態から解放するということでした。バビロン捕囚からの解放の時は民が罪の償いをしたと見なされました。つまり、祖国帰還は民が行った償いと結びついていたのです。しかし、それは律法の掟の外面的な遵守と生贄を使う贖罪に戻る運命にありました。「ヘブライ人への手紙」で言われるように、律法の掟の外面的な遵守や生贄を使う贖罪というものは、将来来るべき本物の遵守と贖罪のミニチュアのようなもので、本物が来たら消え去るものだったのです。そして本物が来たのです。十戒を完全に実現している状態の神のひとり子が人間の罪の償いを完全に果たして下さったのです。これが神が行うと言った「新しいこと」だったのです。

かつて民がバビロン捕囚から解放された時、神の御心は、もう過去の罪は思い出さなくてもよい、私も思い出さないから。あなたたちは罪の償いを果たした者としてこれから帰還する祖国で新しくやり直しなさいというものでした。今、本当の解放、普遍的な解放を得た私たちに対しても神は同じように言われます。あなたはもう過去の罪を思い出さなくてもよい、私も思い出さないから。あなたは、尊い犠牲を払ってもらって罪の償いを果たしてもらった者として生きていきなさい。そうすれば、罪と死はあなたが永遠の命に至る道を歩むのを邪魔できないのである。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

 

聖餐式:木村長政 名誉牧師

 

  • 来週の礼拝:2019年4月28日 復活後第1主日 2019年4月21日
    聖書   使徒言行録   5:12~32      黙示録     1:4~18      ルカ     24:13~35 讃美歌  90 301 108 130 担当  司式  吉村 博明 宣教師     説教  吉村 博明 宣教師     奏楽   堀越教子 姉       当番 ...
  • 説教「罪よ、くたばれ!死よ、さらば!ようこそ、復活の主よ!」吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書20章1-18節、第一コリント15章21節ー28節 2019年4月21日
     私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン  わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様 1.はじめに  今日は復活祭です。十字架にかけられて死んだイエス様が天地創造の父なるみ神の偉大な力で復活させられたことを記念してお祝いする...
  • 復活祭祝会 2019年4月21日
     持ち寄りスタイルで今年も復活祭を祝いました、ポウッカ先生も音楽のご奉仕とパイヴィ先生からのメッセージを披露してくださいました。吉村先生からはフインランドの兄弟姉妹から届いた祝いのメセージを読んでいただきました。テーブルの上のご馳走も何時しか銘々のお腹に納まり、祝いの席は和やかに続きました。 ...
  • 歳時記 2019年4月21日
    何時もの散歩道で足元の枯葉の間から宝石のような小さな花を見つけましたフデリンドウです。昔飯豊山で見かけたイイデリンドウを思い出しました、まことに小さな花です。したがってこの花をよく見たければ跪かなければなりません。それに価する高貴な花のようでした。...
  • 聖金曜日 説教「希望の元」マルッティ・ポウッカ牧師、ヨハネによる福音書 19章 17−30節 2019年4月19日
    去年の二月にイスラエルに行っていた時、もちろんエルサレムに行きました。エルサレムは、その時大変寒かった所でしたが、とても、とても面白かったです.聖書の歴史に関係がある建物、にわと道をたくさん見ました。 エルサレムのはイエスが歩いた苦しい道、Via Crux もあります。それを見ると色々な聖書の言葉...
  • 説教「主がお入り用なのです」マルッティ・ポウッカ牧師、ルカよる福音書19章28−48節 2019年4月14日
    少し、例えの話しをしたいと思います。  台所には、ナイフもフォークもあります.値段は大体同じですが、使い方は全く違います。ナイフはナイフとして、フォークはフォークとして使わなければなりません。反対は無理です。 今日の、聖書の箇所を読みましょう。これはとても有名な聖書の教えだと思います。 

最...
このサイトに引用されているのは聖書新共同訳です。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会

Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988
  • 4月 28日 10:30 am
    主日礼拝
    司式・説教吉村博明宣教師(ルカ24章13~35),礼拝後交わり。
聖書を学びたいなら: