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ニュースブログ | 日本福音ルーテルスオミ・キリスト教会 / 中野区 – 東京

来週の礼拝:2019年8月25日  聖霊降臨後第11主日

 聖書   イザヤ     66:18~23

      ヘブライ    12:18~29

      ルカ      13:22~30

 讃美歌  172 238 345 499

 担当   司式   田中良浩 牧師

      説教   田中良浩 牧師

      奏楽   堀越教子 姉

      当番   星野哲郎 兄

      応対   木村たか子 姉

     

 

 

    

                                        

説教:田中良浩 牧師

 

聖霊降臨後第10主日(スオミ教会 3)        2019818

エレミヤ23:23~29、ヘブライ12:1~13、ルカ12:49~53

説教「真の平和をもたらすために」

序 父なる神さまとみ子主イエス・キリストからの恵みと平安があるように!

 

1今日の福音書の日課の見出しは「分裂をもたらす」である。また日課の冒頭の主の言葉は、「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである」で、さらに

「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。」である。

これは実に衝撃的な言葉である!異常さをさえ覚える言葉である。

今日、8月半ばの日曜日、「平和を考える主日」としてふさわしい日である。

8月に入ってから、TVやラジオで「戦争と平和」を特集し、報道している。

 「真の平和が、祝福がもたらされ、実現するために

、主なる神さまのみ心と

お導きが、いかに深いものであるかが、ここに内包されている、と私は思う。

 

 ここで主イエスは先ず、「火を投ずるために来た」と言われる。

 旧約聖書から学ぶことが出来るのは、「火は聖なるもの

である。

 (1)先ず「火は神ご自身の臨在を示すもの

である。

モーセの召命の出来事において、ご自身を現された。

「見よ、柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない。・・神は言われた

 わたしはあなたの神である。・・・わたしはあなたと共にいる」と。

                    (出3:2~12

   ◎神の民の出エジプトの荒れ野で、夜は火をもって神の民を導いた。

「主は彼らに先立って進み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされたので、彼らは昼も夜も行進することができた。

昼は雲の柱が、夜は火の柱が、民の先頭を離れることはなかった。

                    (出13:21~22)

シナイ山頂で神の民に十戒を与える時、神は火の中から語りかけた。

「主は火の中からあなたたちに語りかけられた。あなたたちは語りかけられる声を聞いたが、声のほかには何の形も見なかった。・・・

それが十戒である。        (民4:12、出19:18)

(2)続いて、「火は神の裁きの力」を示すものであった。

    ◎主なる神に背いた退廃の町ソドムとゴモラは火をもって滅ぼされた。

    「主はソドムとゴモラの上に天から、主のもとから硫黄の火を降らせ、

    これらの町と低地一帯を、町の全住民、地の草木もろとも滅ぼした。

 

                       (創19:24~25)

    ◎詩編からダビデの詠んだ歌にもある。

    「逆らう者に災いの火を降らせ、熱風を送り、燃える硫黄をその杯に注がれる。主は正しくいまし、恵みの業を愛し、御顔を心のまっすぐな人に向けてくださる。

 

                         (詩11:6~7)

    ◎イザヤの裁きの預言にも、火の裁きが語られる。

    「万軍の主の燃える怒りによって、地は焼かれ、民は火の燃えくさのようになり、だれもその兄弟を容赦しない。

 

                          (イザヤ9:18)

 

 

2 今日、主イエスは、「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。

その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。」と言われる。

 「その火が既に燃えていたら」とは、極めて終末的な表現である!

  <私はここで主の道を備えた洗礼者ヨハネの言葉を想起する>

 荒れ野に出てきた群衆にヨハネは語る、「蝮の子らよ!斧は既に木の根元に置

かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」

 (ルカ3章9節)と。

 この火は、今日の主イエス・キリストの言葉の文脈から言えば、それは

 “裁き”であり、また同時に“清め”の言葉である。

 

  1. 裁きというのは、言うまでもなく「罪の裁き、断罪

  2. である。

  洗礼者ヨハネの言葉から学ぶことができる。洗礼者ヨハネは、周知のように主イエス・キリストの道を備える者、先駆者として来た、すでに預言者イザ

  そのヨハネが語った。

  「悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などという  考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」

                        (ルカ3章9節、10節)

  主イエスも、宣教活動開始直後から神の民イスラエルの不信に対して、厳し

  い裁きの言葉を語られたのである。(ルカ4章25節以降参照)。

 

  このように洗礼者ヨハネも、主イエスも、神の民の不信、人間の罪ある現実

をするどく指摘し、悔い改めを促した。この信仰に生きる姿勢は宗教改革者

ルターにも受け継がれている。宗教改革の発端となった「95か条の提題」

第1条には語られている。「私たちの主イエス・キリストは、キリスト者の  

全生涯は悔い改めであることを欲したもう」とある!

 

  1. 清めというのは、「罪からの清めであり、そこには希望

  2. がある。

  洗礼者ヨハネは、裁きと同時に、悔い改めの勧めと、救いの道を備えた。

  それは主イエスによる洗礼である。

  「そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼

を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」 (ルカ3章16節参照)。

  主イエスは洗礼者ヨハネによって洗礼を受けられた。そして私たちにも

主イエスにより洗礼の恵みが与えられるのである!ここに希望がある。

 

  1. 裁きと清め、終末の裁き、それは「十字架と復活、命の源」である。

  飛躍した表現を取れば、これは決定的な神さまの救いのみ業である。

  主は言われた『わたしには受けねばならない洗礼がある』(ルカ1250)と。

  これは救いを実現するために、主の苦難、十字架が必要であったのである。

主イエスは言われた、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、(十字架に)

  殺され、三日の後に復活する」(マルコ8章31節、マタイ16章21節、

  ルカ9章22節)と。この十字架と復活にこそ、救いと命の源がある。

3 今日の主題「平和」について、使徒書ヘブライ人への手紙から学ぶ。

  1. 日常生活体おいて、信仰による個人の成長が求められている!

<ヘブライ12章11節>「およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。

 

   今日の使徒書であるヘブライ12章の日課は「主による鍛錬」とある。

  ◎先ず、ヨブを想起する。5章17節~18節

   「見よ、幸いなのは神の懲らしめを受ける人。全能者の戒めを拒んではならない。彼は傷つけても、包み、打っても、その御手で癒してくださる。

 

   続いて、申命記律法の言葉がある。8章5節

   「あなたは、人が自分の子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを心に留めなさい。

 

 

  1. 人との平和である!家庭の、日本の、世界の平和が求められている!

<へブライ12章14節>「すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求めなさい。聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできません。

=使徒パウロの言葉を想起する。ロマ5章3節~5節

   「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。

   希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖 霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。

 

4 最近のホスピスでの出来事:Sさんの牛込の家は、第二次世界大戦の東京大空襲で牛込の家は全焼した。彼女は小学生でその時、学童疎開で茨城の親戚の家にいて無事であった。1年後、戦地で大きな負傷をした父親がよれよれになって帰ってきた。それまで家族は、バラバラであったが、牛込の土地に穴を掘り、土塀を作り、トタンで屋根を葺いて、生活を始めた。当時彼女は教会学校へ行きだした。それから70年数後、Sさんはホスピスにいた。

  「疲れた者、重荷を負うものは、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませ

  てあげよう。」(マタイ11章28節)のコピーを手に持って、「神さまのお   

  与えくださる平安は最高!」と言って、最後の時を迎えたのである。

                4

交わり

今朝の天気予報では最高温度を37℃と予報していましたがこの暑さにも負けず礼拝参加者が比較的多めに集い、交わりのテーブルを3台にしました。夏休みの期間も終わり世間は次第に日常に戻りつつあるようです、裏の小道にも蝉の死骸が点々と転がっていて季節のほうも夏の終盤を告げているようです。

歳時記

先週は夏休みで二か月ぶりに山梨に行ってきました。I夫人の農園はブルーベリーがたわわに実り少しずつ色ずんでいました。夫人が手招きをしているのでそっと近づいてみますと小さな鳥の巣があり更に小さな卵が二個並んでいました。近づく前に一羽の鳥が飛び立って行きましたので母鳥だったのでしょう、しばらくは夫人も母鳥も落ち着かない日々が続くことでしょう。そうそう鳥はヒヨドリのようでした。

説教:木村長政 名誉牧師

コリント信徒への手紙    10章1~5節         2019年 8月11日

 

 先週に続いて、コリント信徒への手紙を見ていきます。

 今日は10章1節からです。今回のテーマは、7節で言っていますように「偶像を、礼拝してはいけない」ということです。

 パウロが伝道しました時代、コリント地方はいろんな宗教があって、人々の心は混乱していたでしょう。パウロが、あれ程、心血注いで、キリストにある信仰を宣べ伝えた教会の中にも、いわゆる偶像の問題が起って、パウロはこれに対して、だまっておれない、どうしても、しっかりと、コリントの教会の人々に信仰に目覚めて欲しい。

 手紙の中で、こうして10章にいたって、書かざるを得ない気持で記しているのであります。

 6節「彼らが悪をむさぼったように、私たちが悪をむさぼることのないために。」

 又、8節には「彼らの中の、ある者がしたように、みだらなことをしないように。」

 みだらなことをしていた者に対して、神は、ようしゃなく神の罰を与えられた。一日で、みだらなことをした者2万3千人倒れて死にました。キリストを試みないようにしよう。試みた者は、蛇にかまれて、滅びました。不平を言った者も滅ぼされました。こうしたことを面々と書いて、10章での結論は、11節です。「これらの事は前例として、彼らに起ったのです。それが書き伝えられているのは、時の終りに直面している、わたしたちに、警告するためなのです。それで14節に書きそえています。「わたしの愛する人たち、こういうわけですから、偶像礼拝を避けなさい。」と、パウロは万感の思いをこめて、筆をとったのです。

 さて、以上のことを書いて、読んだだけで、コリントの教会の人々の中の偶像に心みだれている者が、新しく、変るでしょうか。

 パウロは、10章の冒頭に、突然、モーセの話を、出してきたのであります。

 これまた、おどろきでありますね。

 パウロの持ち味の、自由奔放な、広い信仰の中から、力強く、美しい言葉をつらねて書いています。

 1節、「兄弟たち、次の事は、ぜひ知って欲しい。」とこう言う。イスラエルの民が、モーセによって導かれ、エジプトを脱出し、長い旅をしていくのであります。壮大なこの出来事を出していきます。<出エジプト記32章にある話であります。>

 モーセが、シナイ山で、神から十戒を受けていました時、その帰りが遅いので、イスラエルの民は、モーセの兄、アロンに、自分たちのために、神を造ってくれと迫りました。アロンは、みんなに、金等を持ってこさせ、それをとかして、金で偶像を造って、拝ませたのであります。<全く、おどろくべき話です。>

 一方で、モーセが神に会っている、最も尊い、聖なる瞬間に、もう一方では、山のふもとで、イスラエルの民は、もう、長い旅に疲れはてた。そうして、自分たちの偶像を造って、拝むという事が、起っていきます。実に、人間の愚かさを示しています。

 人間が、神がなくては、生きていくことができない、ということであります。今の今まで、モーセが、神のみを頼り、導かれて、長い旅をしている最中です。モーセによって、神を拝む生活をしていながら、モーセが見えなくなると、すぐに偶像を造ったのです。人間が拝むものなしには、生きられないものである事を、よく表しています。

 私たちは、自分たちが、そんなにやすやすと、偶像礼拝するような人間であると思っていないはずでしょうが、そう思いながら、あらゆる事で偶像を造らなければ、生きることができないのであります。

 偶像と言っても、そんなことはない、と思うかも知れませんが、これこそ頼りにすべきもの、偶像に似たものはいくらでもあるのではないでしょうか。神以外に、これがなければ生きられないものをさしているでしょう。

 14節、パウロは、こん身をこめて、言っています。それだから「愛する者たちよ、偶像礼拝を避けなさい。」

 しかも、ここには、奇妙なことが書いてあります。

 それは、何の前触れもなしに、洗礼と聖餐のことが書いてあることであります。

 洗礼と聖餐をもって表されるものは、言うまでもなく、教会生活であります。

 それならば、どうしてパウロは、偶像礼拝の問題と、洗礼と聖餐とをもって表される教会に於ける礼拝生活とを比べて、語ろうとしているのでしょうか。

 ここには、教会という字は出てきませんが、それが、教会であることは、明らかなことです。

 その教会の中心的なことが、礼拝であることもよくわかります。そうであれば、パウロが偶像礼拝について、きびしく戒めようとした事が、一層はっきりするのではないでしょうか。

 しかし、この事を語るのに、パウロは、イスラエルと教会との関係を、いきなり語るのです。

 教会は、イスラエルから出たものであり、又、新しいイスラエルなのであります。そのことを言うのに、洗礼と聖餐のことを述べようとするのであります。

 教会は、新しいイスラエルである、と言う代わりに、洗礼と聖餐とが、イスラエルの経験した事と、どのように関係しているのかを告げるのであります。

 イスラエルの最大の経験は、エジプトにおける奴隷状態から、救い出されたことでありました。

 旧約聖書は、ことある毎に、この神の救いの出来事を語るのであります。神もまた、ご自分をあらわすのに、自分は、お前たちを、エジプトから救い出したものである、と言われるのです。それ故に、イスラエルにとって、最も重要なことの1つは、エジプトから出る時、紅海で海を渡ったことでありました。海が二つに分かれて、彼らが、陸地を通るようにして、海を越えることができたことであります。しかし、そのことを、パウロは、モーセが海の中でバプテスマを受けたのである、と、説明するのであります。それならば、モーセをはじめ、イスラエルの民は、紅海の中で、これを渡ることによって、洗礼を受けたのであって、教会が行う洗礼は、そのことをモデルにしたものである、と言うのであります。

 このような導きは、言うまでもなく、神によるものであります。神は昼は雲の柱、夜は、火の柱をもって、ご自分の、ご臨在を示されました。ここに、2節のところで、雲の中、海の中と言われているように、雲のことが言われているのは、そのためであります。出エジプト記13章21節に記されています。

 ところで、海の中を通ったイスラエルは、霊の食物を食べ、霊の飲み物を飲んだのであります。

 旧約聖書は、神がマナを降らせ、うずらを与えて、イスラエルを養われたことを、記しております。

 しかし、ここに書かれているのは、彼らが飲んだ水のことであります。荒野の長い旅の中で、彼らの生命の源となったものが水であったことは、言うまでもありません。その水を得ることが困難であったところから、かえって、更に難しい方法で、水が与えられることが信じられるようになりました。それは、岩から水が出る、という事であります。

 モーセが手を上げ、杖で二度打つと、岩から水がわき出したので、会衆と家畜とが、共に、それを飲んだのであります。民数記20章11節に記してあります。

 その事から、やがて、その岩からはじまって、彼らは、いつでも水が飲めるようになった、ということです。

 それが、ここに、パウロが書いている事であります。

 この水は、どんな時にも、どこででも、彼らが飲むことのできるもであって、もし、それを今の信仰生活にあてはめて言えば、この岩は、キリストにあたるわけではないか、と言うのです。

 この水が聖餐であるとは、書いてありませんが、しかし、イスラエルに、このような命を与えたものを、もし私たちの信仰生活に、あてはめて言えば、それは、聖餐にあたる、と言ってもいいのであります。

 まことのイスラエルとは、まことの神の民、神を拝むことを知っており、偶像を拝まない、イスラエルと言わねばなりません。

 神の約束を信じて、新しく出発した民でありましたが、その多くの者は、神をあなどったために滅びてしまいました。これらのことについては民数記14章にあります。

 そこには、この民が、神に背き、神の怒りをひき起したことを述べ、それに対して、モーセがどんなに神にゆるしを求めたか、が記してあります。

 イスラエルの人々は、少しつらいことがあると、「ああ、私たちは、エジプトの国で、死んでいたらよかったのに」と騒ぎ立ちました。又、わざわざこの荒野に来て苦しい目にあうぐらいならエジプトで奴隷のままで死ねばよかった、」と言うのです。

 このことは、信仰生活をする者に、しばしば、おそってくる誘惑ではないでしょうか。

 そういう不安や、つぶやきが、ただ、自分の気持ちをぶちまけているにすぎないのです。それが神に対する不平であるとは思わない愚かさがあります。 

 神様は、これに対して、「わたしが、もろもろのしるしを、彼らのうちに行ったのに、彼らは、いつまでも私を信じないのか」と仰せになりました。   民数記14章11節に記してあります。

 信仰生活とはどんなものか。それは信仰をもって見るほかありません。神のなさることが気に入らないと、その神からのしるしが見えないのであります。モーセは、そのことがわかっておりました。彼は熱心に、その民のために神にとりなしたのであります。

 私たちが信じている神の恵みは、神のさばきを乗り越えたものである、という事であります。

 それゆえにこそ、たしかな恵みである、ということが言えるのです。

 私たちに与えられている救いは、確かなものであります。

 パウロはだから、モーセのひきいた出エジプトの出来事を見よ、と叫びたいのであります。

 偶像礼拝の誘惑に人間がいかに弱いかを、パウロは、この話を持ち出したのであります。

 パウロは警告するのです。

 偶像礼拝を避けなさい、と。           <アーメン>

 

 

交わり

連休初日とあって出席者の少ない交わりでした。飲み物を前におやつをつまみながら礼拝後のひと時を過ごしました。外は今日もうだる様な暑さです、窓の外の緑も伸び放題で退去後は一気に荒廃が始まることでしょう。

   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

歳時記

早稲田の新会堂の近況です。近況と言っても先週の水曜日でしたので現在はガラスなども入り更に進んでいると思います。エアコンも決まり月末の竣工に向けて休み明けから一気に進むはずです。

 

 

 

 

説教:木村長政 名誉牧師

コリント信徒への手紙  第1  9812章 

                                              201984日(日)

 

 私の説教では、コリント信徒への手紙を学んでまいりました。

 今日は9812節までです。

 今回のテーマは、「働いたら、報酬を受けるのは、当然ではないか」ということです。

 パウロは、この事を、モーセの律法のことを引き合いに出してまで言っています。

 89節を見ますと、「わたしがこう言うのは、人間の思いからでしょうか。律法も言っているではないですか。」 モーセの律法に、「脱穀している牛に口籠をはめてはならない」と書いてあります。この事は私たち人間のためにも言われていることではないか、と言って、耕す者が望みをもって耕し、脱穀する者が、分け前にあずかる事を期待して働くのは、当然です。ましてや、このことは、神様のために働いている、伝道する者についても、言われているのではないでしょうか。

 パウロが、この報酬のことについて、これまで、どうしても言っておかねばならない、と思ったからでしょう。

 実は、コリントの教会内で、パウロへ批判の言葉をいろいろ言う者がいて、「パウロは、報酬のために伝道していたのではないか」というふうな、悪口として言われていたらしいのです。

 パウロはこれに大変憤慨して言っていくのです。「人が働いたら報酬を受けても当然である。」

 けれども、パウロは言う。「報酬のために伝道している人はいないのだ。」

 パウロ自身は報酬を受けてはおりませんでした。しかし、報酬を受けている伝道者のために弁明しているわけであります。

 パウロの本心は、「福音を宣べ伝える、ということは、どういうことか」ということを教えようとするのです。そうしながら、福音の性質を示したいのであります。

 大部分の伝道者は教会から、報酬を受けているかも知れません。

 しかし、報酬のために、伝道している人はいないのです。

 福音というのは、神の恵みによって、救われる事であります。それならば、伝道者の生活の仕方が、それを誤解させることもありましょうし、正しく知らせることも、できるでありましょう。

 パウロは、そのためにこれを書いているのであります。

 人は、どんな事についても、報酬を求めるものではないでしょうか。

 パウロはすでに97節で、パウロ流の例を次々と上げています。

 自分で費用を出して軍隊に加わる者があるでしょうか。軍隊に加わるとは命を投げ出していくことでしょう。

 ぶどう畑に行く者は、その実を食べることではないでしょうか。

 羊を飼えば、羊の 乳を飲むことでしょう。

 そして更に、モーセの律法のことを引き合いに出しました。

 モーセの時代だけの事でなく、このことは、自分たち伝道する者についても、言われていることではないでしょうか。

 自分たちが、霊のものを与えたならば、肉のものを返礼として返すのが、あたり前のことではないでしょうか。

 実はその事こそ、もっと大切なことであるはずです。

 しかし、それならば、そういう報酬を求めて、働いているのでしょうか。

 断じて違う、とパウロは叫びたいのです。伝道者もほかの商売と同じことをしようとしているのでしょうか。

 断じてちがうのだ。

 信仰のある者は、当然、自分の力で得たものすら、神の恵みとして受けとるのではないでしょうか。

それどころか、報酬を受けるこの体、この心も、神から与えられたものであるはずであります。

 それならば、ここに、人間の権利のように書かれている事は、実は、神のご配慮を語っているのです。

 穀物をこなして働いている牛は、権利の事など、考えていないはずです。

 それは、神が、その事をお望みになるのであります。

 それなら、神のお望みにあるのと、人間とを、同じように扱う事は、できないはずであります。

 つまり、もう、神の霊の世界の事柄です。

 人間には、そのような権利が与えられているように見えます。人が働いた分、報酬を受けてもいい権利がある。

 そのように言えるでしょうが、実は、それも神から与えられているにすぎません。

 ですから、人間は、そういう要求めいたものを持ちながら、無償の働きを尊いものとするのではないでしょうか。何も要求せずに、人のため、働く事こそ望ましいと、考えるのではないでしょうか。実にりっぱなことです。

 しかし、現実には、例えば教会の牧師は、無償の働きで、何も食べずには、生きていけません。

 パウロは1人身で伝道しました。それに、自分で食う分は、自分で他に働いて生活して、その上、伝道していきました。

 教会の牧師の中には、独身者ばかりではありません。

 教会のほとんどの牧師は、牧師夫人と23人位の子供、といった、家族を養っていかねばならない。食べるだけの牧師の給料では、子供の教育、教養、文化的な生活は、ほとんどできません。 

 現実の教会の牧師給の一覧表を見たら、とてもなげかわしい、きびしいものです。

 パウロは申します。

 人が働いた分の報酬は当然受けるものである。

 伝道者は、報酬を得ようと、福音の伝道のために働いているのではない。

 ただただ、主に召されて、すべてを神様の恵みのうちに、ゆだねきって、生かされていくのであります。主が共にいて下さる希望があるのです。

              <アーメン・ハレルヤ>

 

 

交わり

今日も35℃の猛暑でした。司式、説教、聖餐式と三役をこなされた木村牧師も流石にお疲れになられたことと思います。今日初めて来られた若い人も交えて持ち寄った茶菓を前に雑談が尽きませんでした。

歳時記

この教会に来始めたころからこの窓際の席が気に入り以来たびたびここに座っていました。ある日いつものように空を見ていたら空の色が紺碧に見えていました、こんな色の空は3000m級の山でしか見られないと思っていましたので内心驚きでした。しかしその後二度と見ることはありません。来月からは新教会に移動ですこの窓からの景色も二度と見ることがないでしょう、残念!

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このサイトに引用されているのは聖書新共同訳です。
聖書 新共同訳:(c)共同訳聖書実行委員会

Executive Committee of The Common Bible Translation
(c)日本聖書協会 Japan Bible Society, Tokyo 1987,1988
  • 8月 25日 10:30 am
    主日礼拝
    司式・説教田中良浩牧師「神の国の宴会に招かれている」(ルカ13章22~30),礼拝後交わり。
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