来週の礼拝:8月26日 聖霊降臨後第14主日

聖書 ゼファニア 3:18~20

   Ⅰコリント 6:8~11

   マルコ   6:45~52

賛美歌 170 289 333 423

司式 木村長政 名誉牧師

説教 木村長政 名誉牧師

奏楽 青木千恵 姉

当番 西尾ひろ子 姉

応対 木村 姉

 

説教:田中良浩 牧師

2018年8月19日(聖霊降臨後第13主日)礼拝

担当 田中 良浩

 

聖書日課 エレミヤ2316、エフェソ21122、マルコ63044

説教題 「五つのパンと二匹の魚]

 

 

序 今日の主日の「説教題」についても、あれこれ考えた。

  けれども以下の三つの理由で私はこの奇跡の物語をそのまま説教題にした。

  一つは、パンとは主イエスが祝福され与えられた“命のパン”であること。

  二つは、魚(ギリシャ語:イクツゥス)が「イエス・キリスト、神の子、

  われらの救い主

という“信仰告白”の意味に、古来使われてきたこと。

  三つには、現在奉仕しているホスピスの“食堂の名前”であること。

 

私は毎週火曜日と木曜日に、杉並区和田にある救世軍の運営するブース記念病院でのホスピスのチャプレンとして働いている。時々、スタッフや

  患者さんから、直接、間接に「いくつ(何才)ですか?」と尋ねられる。

  先日もある看護師から尋ねられ、「お元気ですね。何か特別なものを召しあがっていますか?」と尋ねられたので、私は真面目な顔で「パンと魚を食べているからです。」と答えた。看護師はキョトンとした表情をしていた。

後日、その看護師に食堂で会った。ニコニコしていたので、私は「この食堂の名前知っていますか?」と尋ねたら、彼女は「勿論ですよ。五つのパンと二匹の魚」と答えて、大きな声で笑った。彼女は私が言わんとしたことを

理解しただろうか?やがて理解してくれることを期待している。

 

  私は勤務の日は、その「五つのパンと二匹の魚」という食堂でスタッフと

一緒に食事をしている。この食堂では、病院のホスピス病棟に入院している患者さんの日々の食事にも責任をもっている。

ご存知のようにターミナルな(人生の最後の時を過ごす)患者さんの多くは、

殆ど私たちが食べる普通食を摂ることができない。そこで食堂の責任をもつ

管理栄養士が一人一人を訪ねて、どのような食事ができるか、食べたいかを

相談する。最後の時の食事は、一人一人にとってかけがえのないものである。

考えてみれば、日常を生きる私たちにとっても同様である。

まさに、『医食同源』は、私たちの命と生活に大切な言葉である。

 

  ある日外国の方が食堂に入って来て、暫く入り口の所であちらこちらを 

 見回している。初めてこの食堂に来て不案内な様子なので、私は近寄って

挨拶をすると、非常に喜んで「私はアメリカ人です。日本人と結婚したが

日本語は殆ど話せない。今朝主人がここに来ると、話が出来て、食事もでき

る、と言ったので来ました」と。私は一瞬そのご主人の意向を図りかねたが、

あまり深く詮索しないで、率直にお迎えすることにした。

 私はその方と一緒に食事をした。とても喜んで、帰って行った。こうして、彼女は二度、三度この食堂に来た。彼女はアメリカでも教会の会員であった。

結果的に私は彼女にすぐそばの教会を紹介した。今でも教会の礼拝に連なっていることは感謝である。

 ここで私は『信食同源』という表現を提案したい。(愛餐はまさにそれ!)

 

 

1 今日の福音書の主題は有名な「五つのパンと二匹の魚」の物語である。

 結論をいえば、「主イエス・キリストは、私たちの命の主」である。

 これを現代風に言い換えれば、「主イエス・キリストは私たちのQOL(生命・

生活の本質)の中心である」と言えるであろう。

 具体的には「5000人もの人に食べ物を与えた」という奇跡物語である。

 ◎この奇跡の出来事にも、導入の物語がある。(福音書の冒頭の部分)

  「さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。

 そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。

 

 

つまり、宣教に遣わされた使徒たち(弟子たち)が主イエス・キリストの

もとに帰ってきて、それぞれの宣教について報告したのである。

  けれどもここには宣教の成否、つまり良い結果があたえられたか、あるい

  は思わしくなかったか、成功したか、挫折したかは語られていない。

   では主イエス・キリストは宣教がどのようなものであったか?無関心な

  のであろうか?決してそうではない。宣教の主はイエス・キリストである。

主イエスにとって宣教は最大の関心事である。主イエスは宣教のすべてを受け入れて下さる。疲れて帰って来た弟子たちに、「人里離れた所へ行って休むように、お命じになったのである。そして一同は、“自分たちだけで”(主イエスと弟子たち)人里離れた所へ行ったのである。

教会で用いられてきたリトリート(Retreat)の出発点はここにある。リトリートとは、「後退、退却、また避難」という意味である。同時に、教会では「修養会、研修会、黙想会」として用いられている。

 

 

2 このような状況にあるにも拘わらず、群衆は、主イエスを追いかけてきた。

  「主イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。」(マルコ6:34)

  この表現の源は、荒れ野でのモーセの祈りである。(民数記27:17) 

  「彼らを率いて出陣し、彼らを率いて凱旋し、進ませ、また連れ戻す者とし、主の共同体を飼う者のいない羊の群れのようにしないでください。」

  

   しかし、モーセの祈りにも拘わらずイスラエルの状況は、次第に悪化していった。預言者ゼカリヤは言う。(102

   「テラフィムは空虚なことを語り、占い師は偽りを幻に見、虚偽の夢を語る。その慰めは空しい。それゆえ、人々は羊のようにさまよい羊飼いがいないので苦しむ。」と。

   <テラフィムとは、イスラエルで用いられた「神の像」、占い師とは

   「神のみ心を伺う者」である。背景には、祭司、指導者たちが、真正な神の言葉を語ることがないからである!>

   結果的に、神の民は彷徨い歩き、真の羊飼いはいないのである!

   聖書にはこの表現が、しばしば語られている!

(エゼキエル348、ゼカリヤ102、マタイ936

 

 3 それ故に、主イエスは人々を深く憐れみ、教え始められたのである。

  そして記されている、「そのうち、時もだいぶたったので・・・」と

  弟子たちは、「食事のために群衆を解散させてください」と主に願った。

  しかしながら、主イエスは弟子たちに「あなたがたが食事を与えなさい」

と言われた。

 

  弟子たちは答えた、「わたしたちが百デナリオンものパンを買ってきて、みんなに食べさせるのですか?」とお聞きした。

  弟子たちのこの言葉には、どのような意味、思いが込められているのか?

  <こんなに大勢の群衆!そんなお金もパンもない!>

  ◎弟子たちは、途方に暮れてしまった!これが現実である!

               3

4 主イエスの聖なる御業

  そこで主イエスは「パンはいくつあるか、見て来なさい」と言われた。

  弟子たちは、「パンが五つあります。それに魚が二匹です」と答えた。

  (ヨハネによれば(69)、パンと魚を持っていたのは少年である!)

 このようにして聖なる出来事が起こった。け

 第一は(マルコ6:39~40):「主は群衆を整えられた

 

 「そこで、イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせるようにお命じになった。人々は、百人、五十人ずつまとまって腰を下ろした。

 

 

 ◎群衆は、まとまりのない、三々、五々集まって来た人間の集団である。

  主イエスは、このような群衆を、弟子たちに命じて、基本的に“組に分

  て”、50人、100人のグループに分けて座るようにされたのである。

  これは無制約、無秩序に集まっている群衆を、この地上にあって一つの「群衆の整えられた姿」を求められたのであろう。

つまり主イエスの近くに集まってきた人々で、主イエスによって

整えられた人々の姿=それは祝福を受ける教会の原型であろう。

 

  第二は(マルコ6:41):「主は讃美の祈りによって、パンを祝福して

配らせた。魚も同様にして与えた

 

  「イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。

 

    ◎主はここで讃美の祈り、祝福の祈りをささげた。

これは主イエスの宣教(ミニストリー)の中で行われたものであり、  十字架を前にして行われた最後の晩餐の時に設定された、聖餐の出来事の予表になっている。

ちなみに、ヨハネ福音書6:33~35によれば、「神のパンは、天か

ら降って来て、世に命を与えるのである。・・・イエスは言われた、

『わたしが命のパンである』と。」

主イエス・キリストの「十字架における自己投与」の予告である。

 

   第三は(マルコ6:42~44)「五千人の人々は満足した」

   「すべての人が食べて満腹した。そして、パンの屑と魚の残りを集めると十二の籠にいっぱいになった。パンを食べた人は男が五千人であった。

 

 

  ◎この主イエス・キリストの聖なる御業に与ったすべての人々は、満足し、

   大きな恵みと祝福に与ったのである。大いなる喜びであり、感謝である!

  

「12の籠」とは、イスラエルの12部族を意味するものであろう。

  けれども12部族留まらないであろう。5000人の群衆の中には、

地中海沿岸諸国、異邦の国からも大勢の人たちが集まって来ていたからである。つまり、恵みと祝福は全世界に及ぶのである。

 

 

5 エレミヤが語った預言(エレミヤ23:3~4)の成就

  「このわたしが、群れの残った羊を、追いやったあらゆる国々から集め、

もとの牧場に帰らせる。群れは子を産み、数を増やす。彼らを牧する牧者をわたしは立てる。群れはもはや恐れることも、おびえることもなく、また迷い出ることもない」と主は言われる。見よ、このような日が来る、と主は言われる。わたしはダビデのために正しい若枝を起こす。王は治め、栄え、この国に正義と恵みの業を行う。」と。

エレミヤは厳しい裁きの言葉を語った。しかし彼は同時に、神の恵みによって、神の民の回復、新しい救い主到来の預言(31:31)を語った。

  この預言は、主イエス・キリストの十字架と復活において成就、実現した。

 

6 フィンランドにおける祝福された交わりの経験

  オウルという北の街でセンニ・ラウマさんという老婦人の出迎えを受けた。

  教会の修養会に出かけるために、私たちをホームステイさせてくださった。

  小さなアパート。センニさんは私たちを“日本からの天使”と言って

  温かく迎えてくださった。センニさんは台所に寝て、私たちはセンニさんのベッドで寝たのである。結果的には彼女も二泊三日の修養会に参加して、

  祝福された交わりを与えられた。=ここでも『信食同源』を体験した。

  毎年のクリスマスカードは「シユウナウスタ!」の一語で十分であった。

 

 最後に今日の詩編は、有名な23編である。「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。 主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い

魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしくわたしを正しい道に導かれる。 死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。・・・」 昔も、今も、後も!

  主イエス・キリストは、世界の大牧者として私たちを日々導いてくださる!

交わり

交わりのひと時です、途中で声優のマルタ マリさんが紙芝居を披露してくれました。懐かしい童話でみんな幼時に帰って楽しみました。田中良浩牧師の礼拝担当は今日が最後でした、来夏もまたお宜しく願いしますと言う事で先生ご夫妻の健康を願いつつ一同でお送りいたしました。

 

 

歳時記

山法師(ヤマボウシ)の実です、今年は昨年に比べて沢山実りました。美味しいのですが食べる人は少ないようです、うす甘くねっとりした感じが好まれないのかも知れません。

 

説教:田中良浩 牧師

2018年8月12日(聖霊降臨後第12主日)礼拝

担当 田中 良浩

3 8月12日(聖霊降臨後第12主日)

  聖書日課 アモス71015、エフェソ13

14、マルコ6;6b~13

  説 教 「宣教に遣わされた弟子たち

 

 

序 今日の主題:私たちクリスチャンは、弟子たちと同様に、主なる神さまに

  召された者であり、そして「この世に遣わされた者、派遣された者」である。いわゆる「キリストの恵みのミッションに与る者

である。

 

1 私は人生の最終章(アメリカでの牧師の務めが終わった直後)に、ひとりの「命の先覚者」に出会った。日野原重明先生である。私をホスピスの

チャプレンとして働くように、“熱心に”お誘いくださって、私はホスピス、ピースハウス病院に働くことになり、結果的に7年間奉仕した。しばしば、先生と一緒に働き、海外旅行を含めて、共にあるよい機会が与えられた。

  

  そのような中で、私が腎盂癌になり、やがて膀胱癌が発見された時に、

先生は「大丈夫ですよ。治りますよ!」と仰った。しかし私はそれらの癌と戦い、7度の手術を経ても、抗癌剤の苦しみを経ても殆ど10年間、治る希望は見えなかった。病理検査の結果はいつも、ローマ数字のVであった。

  日野原先生はお会いする度に「病はあっても、イエスさまがお与え下った使命によって健やかに生きることが出来る。私もです!」と仰った。

  最終的に、私は右の腎臓も膀胱も摘除する手術をしたが、今なお、日々を健康を与えられて生きることができて感謝している!

 

  私たちの人生、それは私たち自身のものである。決して、人と取り換えられるものではない。これは当たり前のことである。両親から生まれそして、

  それぞれの環境で養われ、遊び、学び、自己に目覚めて人格形成していく。

それは決定的に自己が中心であり、その意味で自己中心で、主体的である!

にも拘らず、私たちは「召され、この世に遣わされた者」である。

  何故か?主イエス・キリストが私たちに介在されるからである。

つまり主イエス・キリストが語りかけ、それぞれの生活や職場で私たちを召し、私たちをそれぞれの生活の場へ、職場へと遣わされて行く、派遣されて行くのである!

2 「12人の弟子たちの派遣」は、今日の福音書の中心の物語である。

  世界の歴史を見ても、このような出来事は他にない。つまり「主が弟子たちを召し、教え、そして不思議な聖霊の力を与え世界に派遣する」これは言うまでもなく、主イエス・キリストにおいてのみ起こった出来事である。

 

  1. 先ず、今日の福音書の冒頭には、「それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。」(マルコ6:6)と記されている。

この言葉は、実に簡単ではあるが、この出来事の重要な原点を示している。言うまでもなく、他の共観福音書(マタイ10:1、5~15、ルカ9:1~6)にもこの「12弟子の派遣」の物語が記さ

れているが、この事実は同じである。

 

マルコ1:39には最も古い形で「(主イエスは)そしてガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された」とある。

 

また、マタイ4:23では「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。」と記されているし、全く同様な言葉が、同じくマタイ9:35にも、繰り返し記されている。

 

つまりこのことは、「教会の働きとしての宣教の主は、イエス・キリストご自身」であるということである。かつて弟子たちの時代、また初代教会の時代と同様、現在においても同様である。

「宣教の主は、イエス・キリスト」なのである。そして弟子たちも、

また、私たちもその宣教に召され、与る者なのである。

 

  1. マルコ福音書を始め、ルカもマタイも、12弟子の召命と派遣を

「二段構え」に記している。(マタイは連続的に記している)。

特にマルコの12弟子の召命と任命は(3:13~16)によれば

「イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。こうして十二人を任命された。」と記されている。ルカも場所を山と記している。

     「山」とは、祈りの場、神の顕現の場である。神聖な場である。

  (3)派遣についての、いくつかの興味深い内容について:

  ① (マルコ6:7)「二人ずつ、組にして」

=宣教のためには協働者が必要である。初代教会も同様であった。

      具体的には、かつて世界的な流れとして、伝道のために献身した

夫婦は、教会の協働者であった事実を見過ごせない。

      <現在、このような姿が消失してしまったことは、残念である>

 

  ② (マルコ6:7)「汚れた霊に対する権能」

=神の霊、聖霊に逆らう力に、打ち勝つことができる権能である。

      7月8日(聖霊降臨後第7主日)の礼拝において学んだように、

      神によって与えられる聖霊こそ、私たちが日常生活を生きる根拠

      であり、悪の力、罪に打ち勝つ力なのである。

 

  ③ (マルコ6:8)「旅には(杖一本のほかには)何も持たず、パンも、袋も、金ももたず・・・下着も二枚着てはならない」と厳しく戒められた。

<物質的な貧しさにおいて、神の豊かさを伝える!>

     =これは神の国の到来を告げ知らせること、宣教がそれほどまでに、

一人ひとりの「現実の生活に緊急的な必要性」をもち、全世界の人々にとって「終末的な、生きる希望の必要性」をもっていたからである。これは、現代社会においても「然り」である。

  

   ④ (マルコ6:10)「その家にとどまりなさい。」

=初代教会から、今に至るまで宣教の展開は、家を基盤にしている。

初代教会においても(ペトロの伝道 使徒10章=コルネリウスの家で)、また、(パウロの伝道 使徒16章=紫布の商人 リディアの家で)それぞれ行われた。日本でも「家庭集会」はごく一般的であった。私もどこの教会でも、「家庭集会」を開いてきた。

 

   ⑤ (マルコ6:13)「12人は出かけて行って、宣教した」

=そしてマルコは、素晴らしい宣教の結果を報告している。    「多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。」と。

      これはイエスの宣教そのものに与る、祝福された結果である!

      これに対して現在の教会の姿はどうであろうか?神は沈黙して

おられるのであろうか?Aトフラーのいう第三の波(情報化の波)

呑まれて、アップアップしているのが現実であろうか?

3 ところで今日の旧約の日課「預言者アモス

について語る必要がある!

  アモスは、いわゆる預言者が盛んに活動する初期の預言者である。

  その時代は、南王国ユダの王はウジヤ、北王国イスラエルの王はヤロブア 

  ムであった。この時代はBC8世紀の半ばである。

  この時代は、ソロモン王国の再興と思われるほど、政治的には強固となり、

経済的にも繁栄した。その結果、政治的支配階級を始め、宗教的な指導者たちも、倫理的にも、道徳的にも、堕落し、退廃していた。

  そのためにアモスは政治的、社会的な堕落に対して、痛烈な批判を加えた。

  同時に宗教的な指導者たちにも宗教的な祭儀の堕落を強く非難した。

 

  しかも、アモスは自ら語るように、彼は「コアの牧者(羊飼い)の

  一人であった」時に、預言者としての召命を受けた。

  そのような理由からか、アモスの審判の預言は痛烈であった。

 

  そのためにべテルの神殿の祭司、アマツヤは王ヤロブアムにも伝えて、

アモスに「北王国イスラエルを離れ、ユダの地へ逃れて、そこで預言せよ」

と命じている。しかしアモスは答えた。(アモス7:14~15)

「アモスは答えてアマツヤに言った。「わたしは預言者ではない。預言者の弟子でもない。わたしは家畜を飼い、いちじく桑を栽培する者だ。

主は家畜の群れを追っているところから、わたしを取り、『行って、わが民イスラエルに預言せよ』と言われた。」と。

 

  つまりアモスは王の君臨する神殿において、宗教的な祭儀を執り行う一人としての預言者ではなかった。むしろ神殿とは遠く離れた、在野の預言者であった。それゆえに、真のカリスマ性をもった預言者であった。

  有名な預言の言葉がある。(アモス8:11~12)

  「見よ、その日が来ればと、主なる神は言われる。わたしは大地に飢えを送る。それはパンに飢えることでもなく、水に渇くことでもなく主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ。

  人々は海から海へと巡り、北から東へとよろめき歩いて、主の言葉を探し求めるが見いだすことはできない。」と。

 

  アモスは裁きの厳しい預言の言葉は、最終的には、神の国イスラエルの

  繁栄回復の預言で閉じているのである。(アモス9:13~15)

  <これは現代社会に生きる私たちへの大きな希望である!>

4 今日の福音書の内容は「宣教に遣わされた弟子たち」である。

  けれども、同時に私たちも、現在の生活、社会において、弟子たち同様

  宣教に遣わされていることを、改めて確認したい。

 

キリスト者は「神の恵みに生かされる者」である。=<それは受動的生>

今日の使徒書(エフェソ1:6~9)によれば

「神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。

神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。

 

 

ここで使徒パウロの言う、神の「秘められた計画」とは異邦人伝道である。

私たちにとっては、何であろうか?一人びとりに与えられた課題である。

 

  つまり神の十字架と復活の恵みによって生かされて私たちは、同時に

その出来事を証しし、伝える者つまり、この意味で、主イエス・キリスのミッションに与り「この世に派遣された者」でもある。=<それは能動的生>

 

  一人びとりがどのような状況にあっても、このような生き方を自覚することができるのは、本当に幸いである!

 

  最後に、今日の詩編85編から読もう!

  「わたしは神が宣言なさるのを聞きます。主は平和を宣言されます。

御自分の民に、主の慈しみに生きる人々に、

彼らが愚かなふるまいに戻らないように。

   主を畏れる人に救いは近く、栄光はわたしたちの地にとどまるでしょう。

   慈しみとまことは出会い、正義と平和は口づけし

   まことは地から萌えいで、正義は天から注がれます。

   主は必ず良いものをお与えになり、

わたしたちの地は実りをもたらします。

   正義は御前を行き、主の進まれる道を備えます。」アーメン!

 

   <主なる神さまの平和と正義に与り、

           神さまの平和と正義を宣べ伝えよう!>

交わり

今朝は久しぶりに涼しい朝でした、暑さも一段落でしょうか。礼拝の参加者も18人前後で活気に満ちていました、Aさん差し入れの黄色いスイカに齧り付きながらあちらこちらで談笑が尽きませんでした。

宣教師のフィンランド便り(1)

日本の皆様、お元気ですか?こちらフィンランドは、7月16日にヘルシンキで米ロ首脳会談があった前の週から急に連日30℃の猛暑の日々となりました。日本の酷暑ほどではないですが、基本的にクーラーの備えのない国なのでうだる様な暑さです。日本の豪雨洪水はこちらのテレビ・ニュースでもトップ扱いで報じられていました。被災地の方々にお見舞いの意を表したく思います。

6月29日から7月1日にかけてヘルシンキから北へ500キロ程のところにあるカラヨキ市にて、私どものミッション団体「フィンランド・ルター派福音協会」(SLEY)の全国大会が開催されました。今回はその報告です。

SLEYというのは、フィンランドのルター派国教会の中で活動するルター派のリヴァイヴァル運動の団体で、1873年に結成されました。ルター派のリヴァイヴァル運動というのは、「ルターを通して福音の真髄に」という趣旨の信仰活性化の運動です。国民向け伝道の勢いが海外伝道に発展し、フィンランドが独立する前の1900年に日本伝道を開始。現在はケニア、ロシア、エストニア、南スーダン、ミャンマーにも宣教師を派遣しています(今年からドイツにも派遣開始、これは難民移民向けの伝道)。

SLEYは聖書解釈において保守的な立場なので、そうでない国教会とは難しい関係にあります。しかし、国教会の牧師・信徒の中にSLEYに共鳴する人は少なくなく、加えて近年フィンランドの国教会は脱退する人が毎年3~4万人出るなど(昨年は5万2千人が脱退)凋落傾向が著しく、それを憂える人たちの賛同も得ています。

SLEYの全国大会は1874年から毎年開催されており、唯一例外は第二次大戦中の1941年、旧ソ連軍の空襲のために中止になったことでした。従って今年で143回目となります。

カラヨキ市はフィンランドでは珍しく大きな砂浜があるリゾート地で、人口は1万2千人程。SLEYの全国大会には1万4千人が参加したということですから、大会期間は人口が倍増したことになります。

 

 

 

 

 

 

会場はイヴェント・パークと呼ばれる、4千人収容のホールと、追加の席はホールの外にベンチを並べます。

会場には、SLEYが宣教師を派遣している国々の国旗が掲げられます。

メイン会場の回りに、食堂、若者用、子供用プログラム会場、海外伝道テーマの大天幕が張られます。

大会はまずカラヨキ市長と国教会オウル監督区関係者の歓迎の挨拶から始まります。3日間の大会は、SLEY会員の年次総会、聖書の学びの時間、各界著名人のスピーチ、聖歌の時間、コンサート、聖餐式礼拝それに海外伝道地からの報告からなり、これらとは別に、若者向けプログラム、子供向けプログラムが併行して行われます。全体集会のハイライトは3つあり、土曜日の夕方ポップ調メロディーが奏でられる聖餐式礼拝と日曜日朝の伝統的な聖餐式礼拝そして宣教師の派遣式です。

吉村、パイヴィ宣教師のスオミ教会での福音伝道についての報告の様子、ステージの様子が大スクリーンに映し出されます。

若者向けプログラムの一コマ、ゴスペル・ロックの熱演。

演奏の合間に教会のユースリーダーがスピード感溢れる言葉遣いで聖書を教えます。子供向けプログラムでは、国営テレビの子供番組の人気司会者がお遊戯の合間に聖書を教えていました。

宣教師の派遣式。初めに、派遣国の国旗を持った子供たちが宣教師たちの前で歌を歌います。

これから派遣の按手の儀式に臨みます。按手を授けたのは、フィンランド国教会オウル監督区サルミ監督、ケニアのルター派教会のマトンゴ神学校のオモロン校長それにサイラSLEY会長とアウヴィネン同海外伝道局長。

按手を受けるエッサイ、右側はパイヴィ宣教師。吉村宣教師は悦才の左側(SLEYのSanansaattaja紙の記事から)。宣教師の子供も派遣される者として按手を受けます。大学生となった長女のヨハンナは一人ヘルシンキに残ることとなっため、派遣者と見なされず按手を受けられません。子供のいる宣教師家族は皆、子供が大きくなるとこのような別離を経験します。

以上がカラヨキ市で開催されたSLEYの全国大会の報告でした。

全国大会の後、当地で猛暑が始まるや、家族でオーランド諸島をフェリーを乗り継ぎながら、4日間サイクリング旅行をしてきました。写真は、チョーカル島にて次の島に行くフェリーを待っているところと、クムリンゲ島の聖アンナ教会の壁画に見入るパイヴィ宣教師。

この壁画は1500年代半ばのもので、聖書に記述されている出来事が教会の壁中に描かれています。

歳時記

いま街中いたるところで、さるすべり(百日紅)の花で溢れていますね。何時の頃からこんな現象になったのか思い出せません、でも色とりどりな花を愛でています

説教『互いに愛し合いなさい』鷲見達也 牧師

平和の日主日説教 2018年8月5日


ヨハネによる福音書 159-12

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、皆さまお一人お一人の上に、豊かにありますように    アーメン

暑い夏です、特に今年は酷暑の夏です。

さて、8月に入りますと、8月15日の終戦記念日があり、また、8月6日に広島、8月9日に長崎に原爆が落とされ、もう絶対に核戦争などは起こしてはならないことを肝に銘じて、私たちは、この8月には、特に「平和」について考えます。

今日は「平和の日」主日です。

私は、牧師になった初任地の広島教会で2年間を過ごしました。この夏の時期、特に8月6日を中心とした日には、日本人のみならず外国の方々も平和につき、また原爆について考えるためでしょう、広島市にはたくさんの方々が見えました。

神道、仏教、カトリック・プロテスタント教会など、広島の宗教者の会が枠を超えて、一緒に共に祈る集会を平和公園にて早朝行いましたが、8月6日、私も広島におりました時にはそれに参加をいたしました。そして、その集会等を通して、改めて広島市民の核兵器廃絶に対する強い思いを体験いたしました。

 

今年は、アメリカと北朝鮮のトップ会談が6月12日に行なわれ、トランプ大統領は北朝鮮に対して体制の保証を提供する約束をし、キム委員長は朝鮮半島の完全な非核化について、断固として揺るがない決意を確認した、とされております。これが実現するかは予断を許さないところですが、平和を希求する全世界の願いが成就されることを望みます。

このような時、私たちは、改めて、平和とは何かについて聖書から聞いてまいりたいと思います。

 今日の旧約聖書の日課はミカ書です。預言者ミカの活動は、北イスラエルのサマリア陥落の前、紀元前725年頃から、サマリア陥落後の紀元前701年の前ころまでであろうと考えられております。

この時期に、ミカは北のサマリアが偶像礼拝の故に神の裁きによって滅びること、また南のエルサレムも不正義の故に神の審判は逃れられないことを語りました。

この預言が紀元前722年/721年のサマリヤ陥落によって成就した時、更に紀元前587年にエルサレムがバビロンによって陥落させられた時には、ミカの滅亡預言は捕囚の民にとって非常に重い意味を加えたのでした。

 徹底的な裁きを告げたミカの預言が、バビロニア軍によるエルサレム崩壊によって遂に成就したと受け止められたとき、ミカは絶望の中にある捕囚民に向かって、紀元前8世紀、既に、慰めと希望のメッセージを語っておりました。

神は将来イスラエルの民を救うであろうとミカは告げます。神がバビロン捕囚の民を連れ帰り、エルサレムでもう一度礼拝をささげられるようにすると申しました。それが今日読まれた旧約の「終わりの日の約束」の日課です(4:1-13)。

ミカ書4章3節にこのようにありました。「4:3主は多くの民の争いを裁き/はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない。」。

ミカは、さらに、主が良い羊飼いのように民を養い守る指導者を選び、平和がもたらされる(5:1-5)と申します。すなわち、律法がすべての国々で守られ、剣や槍が鋤と鎌に作り直される日がやがてやって来る(4:1-3、イザ2:2-4)と申します。そのあとの、5章4節で「[MIC] 5:4彼こそ、まさしく平和である。…」とあります。すなわち、主イエスの出現によって「平和」がもたらされるとミカは語っておりました。

また、今日の使徒書の日課、エフェソの信徒への手紙2章からも、教えられます。

エフェソ書2章13節から14節、「2:13しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。2:14実に、キリストはわたしたちの平和であります。」とあります。

敵意を持っていたイスラエルと異邦人との間のことを「遠く離れていた」と言うのですが、遠く離れていた者が、「今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。」と記されます。

この「キリスト・イエスにおいて」ということはどういうことでしょうか。

それは「キリストとイスラエル」、「キリストと異邦人」と言うように両者が、それぞれキリストに近いものとなり、そのことによってイスラエルと異邦人の、両者が遠い関係から近い関係になることができたということです。

キリストによって、両者が、それぞれに神と近い関係になり、そのことによって両者が近い関係になって「敵意」という隔ての壁が取り除かれたと申します。

そこに平和があり、これによって平和がもたらされるということが、聖書が伝えている真の平和です。

私たちの日常生活の中で、どうしてもあの人は許せない、という感情を持たざるを得ない人が私たちには居るかもしれません。しかし、「私と神さま」との関係、「許せないと思っている人と神さま」との関係を考えて見ますと、「私」と「赦せないと思っている人」、それぞれが神によって許されている者です。それぞれが神さまによって執りなしをされている者です。

2章13節・14節「2:13しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。2:14 実に、キリストはわたしたちの平和であります。」

 このように、今日の旧約聖書、使徒書の日課によれば、キリスト・イエスの出現とそのイエスの業によって平和がもたらされることが示されております。

そこで改めて、主イエスが語ったところの福音書によって、今日の主題である「平和」について聞きたいのです。

今日の福音書の日課で、イエスはこのようにおっしゃいました。

「父なる神が私を愛したように、私もあなた方を愛してきた。あなた方を愛してきた私の愛に留まりなさい。私が、父なる神の掟を守り、その愛に留まっているように、あなた方も私の掟を守るならば、私の愛に留まっていることになる。このようなことを話したのは、私の喜びがあなた方の内にあり、あなた方の喜びが満たされるためである。私があなた方を愛したように互いに愛し合いなさい。この、互いに愛し合いなさいということ、これが私の掟である。」

ここには、御父のイエスへの愛、イエスが示すイエスにつながれた人々への愛、そして人々の愛が描かれております。これは一つの愛の連動です。

 イエスは9節で「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。」と述べてから、「わたしの愛にとどまりなさい。」と諭します。弟子に対するイエスの愛は、イエスに対する御父の愛に根ざしておりますから、弟子たちがイエスの愛にとどまるとき、父なる神の愛にとどまることに通じております。

主イエス御自身は神さまに完全に服従なさいました。その服従を通して、弟子たちに模範を示され、人びとが主イエスの愛の中に捕えられるよう願いました。

御子イエスは、御父の戒めを守ってまいりました。主イエスは愛を偽りのないものとして示され、そして、愛からの実りとして、御父の愛の中にとどまり、その愛に生かされ、人々を導かれたのでした。

 愛には、つねに喜びが伴います。

 11節「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。」とあります。

御子イエスは弟子たちを御自身の愛の中に置くことによって弟子たちから不安・心配・苦痛を取り除きました。

こうしてイエスは、弟子たちの中に、イエス御自身のもつ「父なる神への服従の喜び」を呼び起こし、それがイエス御自身から弟子たちの中に照り輝き、何ものにも害されず、曇らされない全くの完全な喜びが満ちるようになさいました。

そして12節で「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」と申しました。

「互いに愛し合いなさい。」というイエスの「新しい掟」(13:34)に生きることが求められております。

「互いに愛し合いなさい。」はあまりにも有名な主イエスの言葉です。

ここでイエスは確かに命令法で「愛し合いなさい」と言い、さらに「これがわたしの掟である」と言っております。

しかし、「愛とは命令されたから愛するというようなものか」という疑問を感じる人がいるかもしれません。愛というのは心の中から自然に湧き上がるもので、命令されて義務的に愛するというのは、ほんとうの愛ではない、と言うこともできるでしょう。

そのようなことを考えるとき、「わたしがあなたがたを愛したように」という言葉はとても重要な意味を与えます。

イエスは、愛の掟をただの命令として弟子たちに与えているのではありません。イエスが弟子たちを愛した、その愛に基づいて、弟子たちに互いに愛し合う生き方を命じておられます。

弟子たちの側からすれば、「イエスがわたしたちを愛してくださった。そのようにわたしたちは互いに愛し合うべきだ」ということになりますが、このとき、弟子たちにとってイエスの愛は単なる模範ではなく、弟子たちが愛することの根拠だと言えるのではないでしょうか。

「このわたしを愛してくださった」というイエスの愛を深く受け取ったからこそ、弟子たちは愛することができますし、愛さずにはいられなくなります。これは義務や命令の世界ではなく、恵みの世界です。

「掟」や「命令」と言っても実は外面的な規則のようなものではなく、わたしたちの内面に働きかけて、わたしたちの生き方を新たにしていく神の導きによることです。

そのわたしたちの中に「互いに愛し合いなさい」というイエスの言葉が実現するならば、イエスは復活して今もわたしたちのうちに生きていてくださると言えます。

愛は決して命令されるものではありません。愛は要求によって得られるものではありません。この「愛するように」との命令は、「父は、神の愛を知る者たちが、互いに自分自身を無償で与えることを望まれる」ということができます。

愛する道は他にはありません。それは無償でなされるのであり、そうでなければそれは愛ではありません。

  神さまは、私たちに「互いに愛しなさい」と言われますが、それが簡単にできるとは思っておられないのではないでしょうか。

神は出来上がった信仰や行動を望まれているのではありません。私たちの弱さ、迷い、不安、すべてを知り尽くされてなお、「わたしの愛にとどまりなさい」と言われ、私たち一人一人を受け入れて下さっております。その上で、「互いに愛しなさい」とおっしゃるのです。

  今日は「平和の主日」です。私たちの平和は、「互いに愛し合う」ということの中に見出されることを福音書から聞いてまいりました。

 「私があなた方を愛したように」と主イエスはおっしゃいました。主イエスがどのように私たちを愛されたかを、私たちは常に聖書の み言葉によって聞いてきました。

 主イエスはどんなに疲れていても、群衆の、癒して欲しい・聞いて欲しい・助けてほしいという願いに応えられました。悲しむ人・苦しむ人・弱い人の友となりました。安息日にも関わらず、奇跡を起こし病む人を助けました。

そして、父なる神の意思に従って、私たち人間の悪を帳消しにするために十字架にかかって私たちの身代わりになられました。言えば、私たちのような、本当に傲慢で罪深く、弱い者に対して、どこまでも仕えてくださったのです。

そのような主イエスが私たちを愛してくださったように、私たちが互いに愛し合うこと、それを主イエスは望んでおられます。

使徒書のエフェソの信徒への手紙でも、敵対するそれぞれが、神の恵みを信じて、神の執り成しのうちに、隔ての壁が取り去られて、神にある平和が実現することが示されておりました。

私たちは、主イエスが私たちを愛してくださっているように、私たちがお互いに愛し合うことによって神にある平和を実現したいのです。

繰り返しますが、主イエスは「15:12 わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」とおっしゃっておられます。

 私たちは、絶対者なる神がお送りくださった主イエスが私たちを徹底的に愛してくださった、そしてそのイエスが望むように、私たちがお互いに愛し合うことによって神にある、そして神が望む本当の平和を実現したいのです。

 いにしえの預言者、イザヤもエゼキエルも、そして今日の旧約聖書の日課のミカも、大国の実力のまえに右顧左眄しなければならなかったイスラエルの民に、絶対者なる神に委ねて、主の み言葉にのみ頼るべきことを繰り返し述べております。

 翻って、オウム真理教から名前を変えた「アレフ」が、今年7月6日に死刑が執行された麻原彰晃、本名・松本智津夫元死刑囚の教えを忠実に守る形で今も教義を広めているそうです。また、中国の膨張主義の不安、IS(イスラミックステイト)のテロの不安など、私たちの現実は、まだまだ多くの緊張の中にあり、わが国の内閣は平和憲法を改正してまで、集団的自衛権をもって、力で対処する用意をしようとしているように見えます。

  私たちは、単に平和という理念を旗印として、他を批判・攻撃するというのでなく、共に生きることができる道を、誠実に、粘り強く、訊ねようではありませんか。この道こそは、活きて働きたもう主が私たちに恵みと賜物として許しておられるものであり、私たちをお導きになる道です。そこから、「平和」についても、私たちがなすべきことが導かれてまいります。

 現代の世界のこの上なく深刻な問題の中にあっても、主を賛美し、これに感謝することができるとともに、主から与えられている課題を喜びつつ、詩編34編のことばなどに示されるように「[PSA] 34:15 …平和を尋ね求め、追い求めよ」ということを精一杯聴き、追い求めて行くことができます。

「平和を尋ね求め、追い求めよ」ということは、共に生きることを探求しこれを追求することに他なりません。共に生きることの中で、人間は互いに真実に、自由に、大胆に生きることができ、敵対と陰謀から救われるのであり、そこでこそ人間性が真に確立されます。

私たちが腹をくくって神様に委ねることができれば、互いに愛し合うことに導かれ、それが平和につながっていくものとなるのです。

 私たちは、憲法がないがしろにされる瀬戸際におります。どのように改正するのかなど課題がありますが、私たちは全てを導いておられる主の御心を問う必要があります。

主イエスは「マタ26:52・・・「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。」ともおっしゃいました。

主イエスは愛と平和、非暴力を説かれました。折しも今年は、非暴力主義を貫いた、マーティン・ルーサー・キング牧師が1968年4月4日、テネシー州メンフィスで宿舎の部屋を出たところを狙撃されてから、50年の節目の年です。

私たちは改めて、主にある本当の平和を作り出してゆく者として、主のみ言葉、「互いに愛し合う」ということをまず第一にしてまいりたいのです。

その上で、平和を求めて今、私たちにできることは精いっぱいしつつ、いつも執り成していてくださる主イエスに、全てをゆだねて過ごしてまいりたいと思うのです。

 どうか、恵みの神が信仰から来るあらゆる喜びと平安とをあなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを恵みにあふれさせてくださるように。アーメン

 

聖餐式:木村長政 名誉牧師 

 

交わり

言うまいと思いつつ口に出るのが「熱いですね!」ですね今日も猛暑でした。今日は司式・聖餐式が木村牧師、説教が鷲見牧師でした。外へ出るのが億劫でつい腰が重くなりました、差し入れのメロンを美味しくいただきながら談笑に午後のひと時を過ごしました。

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