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2026年4月19日(日)スオミ教会
聖書 ルカ福音書24章13~35節」
説教題:「復活の主、エマオで現れる」
今日の聖書はルカによる福音書の最終章、24章であります。13節~35節には復活されたイエス様がエマオという村へ向かって帰る二人の弟子に現れるという出来事です。英国の聖書学者ウイリアム・バークルーは「これは、もう一つの不朽の短編である」と言っています。そして、日没に向かってイエス様の二人の弟子が故郷のエマオに歩いて帰っています。この二人がイエス様に気づかなかったのはエマオの村はエルサレムの西にあった。もう日が沈みかけていて、沈みゆく太陽が二人をまばゆく照らし、そのために彼らは主イエス様を見分けることが出来なかったのではないかと言っています。ルカは24章15節ではこう書いています。イエス様ご自身が近づいて来て一緒に歩き始めた。しかし、二人の目は遮られていてイエスだとは分からなかった。マルコは此処の場面をごく簡単に16章12節~13節の2節で書いています。「彼らのうちの二人が田舎の方へ行く途中、イエスが別の姿でご自身を現わされた。」ある聖書学者は、こう表現しています。これは、あきらかにルカ福音書24章13節以下に記されているエマオ途上の弟子たちにイエス様が現れた事と同じ話でルカのあの箇所の限りなく美しい物語で例えようもなく感動的である。マルコはその感動をわずか二行の短い文章で記しているだけです。情緒的、感傷に流れるのを恐れてでもいるかのようにあっさりと、しかし決定的な断言として二人の弟子たちに甦りの主がご自身を現わされた事を記している。週の初めの日、墓を訪れたマリヤの時と違って、此処では主は「別の姿」でご自身を現わされたと言っています。別の姿というのは身に着けておられた衣服が違っていたとか様子が全く変わっておられた、そういう事ではなく新しい姿、地上的な姿ではなく天的な姿と言う事ではないでしょうか。エマオに帰っている二人の弟子というのはあのイエス様の直接の12人の弟子ではないけれどもイエス様の行く先々を共にイエス様の教えを聴き病人を癒される奇跡を見、五千人の人々に五つのパンと二匹の魚で腹を満たす奇跡など驚くべきイエス様の業を目で見てこの方こそメシヤであると期待していたでしょう。ところがイエス様は十字架の死を遂げてしまわれた。彼らがどんなに失望、落胆したか道々これからどうしたら良いものかと語り合っていたのです。そこへ復活されたイエス様がスーッと現れ二人に近づいて、イエス様の方から「歩きながら遣り取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人はちょっとびっくりしてクレオパという人が答えた。「エレサムに滞在していながらこの数日そこで起こった事をあなたはご存知なかったのですか」こうしてイエス様が十字架につけられて亡くなってしまった事、彼らが如何に希望を持っていた方であった事、仲間の婦人たちが墓へ行ったらイエス様の遺体が無く天使が現れ「イエスは生きておられる」と告げた事などを話してあげています。婦人たち、そして二人の弟子も天使に「イエス様は甦って生きておられる」と言われてもにわかには信じれれなかったのです。そうして、もう田舎に帰ろうとエマオに向かったのです。この二人の弟子に復活されたイエス様が旧約聖書の予言者たちからイエス様ご自身が死んで復活する事を既に話されていたではないか、とこんこんと説明された。それでも十字架に死んでしまったイエス様が生き返るなんて到底思えない、話されてもとても信じられない。これが二人の正直な心情だったでしょう。日も暮れて同じ宿に泊まることになり食事の時、イエス様のパンを裂かれる時二人の目が開けイエス様だとわかった!次の瞬間イエス様の姿は見えなくなった。こうして二人は甦られたイエス様は生きておられる・・・と信じたでしょうか。32節でルカは書いていますね「二人は道で話しておられる時、また聖書を説明して下さった時私たちの心は燃えていたではないか」と語り合ったのです。そうです!十字架の死を超えて甦り給ったイエス様に出合いの言葉に聴く瞬間、私たちの心は熱く燃えるのです。一瞬でもいい復活の主のみ言葉が私たちの心を熱くする言い知れない力がみ言葉から受ける事が出来るのであります。
信じるというのはどういう事でしょうか。イエス様は確かに十字架で死なれた。ただ一回だけ死んでしまわれた、これは事実です。神にみ子イエス様は十字架の死をもって信じる人全ての罪を全部この死を代償として我が身に受けて贖い死んでしまわれたのです。しかし、それで終わりではない死から神のみ力によって甦られされて復活の主イエス様は生きて信じる者の内にも生きて働いて下さるのであります。この事、復活されたイエス様が私のうちに生きて同じ復活の命に生かさせて下さる、この事をあなたは信じるかどうかです。もともと信じると言うのは見たから信じると言うものではないでしょう。証拠を見せて欲しい、そうしたら信じるとよく言います。それは証拠を見て納得する事であって信じる事ではありません。何の証拠もない、けれども信じるということではありませんか。世の中には何も信じられない、学校の先生も信じられなくなった、政治家も全く信じられないという人間は沢山います。信じる信じないというのはこの場合信頼するしかない、ということでしょう。その根拠はそう考える自分自身にあるのです、自分自身が判断の基準になっているのです。しかし、神を信じる聖書のみ言葉を信じるというのは神ご自身が根拠になっているのです、聖書そのものが根拠になっているのです。私たちが自分が証拠を手にしてそれで納得して受け入れるそういうものではありません。納得することは信じることでは決してありません。私たちは自分を根拠にして一体何が出来るのでしょうか。私たちは人でも物でも最後の最後まで信じ抜いてゆくことなど到底できないでしょう。自分自身さえ信じられなくなったとさえ言うではありません。私たちは老いてゆけば思うようになかなか出来なくなって自分自身の頼りなさを嘆きます。私たちは自分の健康も今まで何でも出来ると思っていた事も頼りなくなり自分も信じられなくなったら、もうただ神様を信じイエス・キリスト様を信じて頼ればよいのです。
使徒言行録26章を見ますと、パウロがアグリッパ王の前で弁明した演説が記録されています。8節に「神が死者を復活させて下さると言うことをあなた方は何故信じ難いとお考えになるのでしょうか」復活がどうして信じられないのかと聖書は私たちに問い掛けています。主イエス様は復活されたままのお姿であの疑い深いトマスに言われました。「信じない者ではなく信じる者になりなさい」。神様が信じる根拠となって下さる。主イエス・キリストはあなたのために十字架にかかり死なれたのです。そして、死から復活された。そして、甦りの主イエス・キリストは今も生きて働いておられるのです。私たちは復活の命にあの世に於いて永遠の命に生かされています。エマオに向かって失望の中にあった二人の弟子はイエス様の言葉に心が燃えた、同じようにそこに私たちの心にも復活されたイエスが生きて働いて下さるのであります。英国の有名な宣教師ジョン・ウェスレーは英国の儀式に縛られたキリスト教から脱出してアメリカへ宣教師の新天地を求めて、イギリスから船に乗って行く船の中でモラビア派の熱心なクリスチャングループを見ます。そして、後にこのモラビア派の有名な一人スパンゲン・ベルグという人と会う事が出来た。スパンゲン・ベルグはウェスレーに尋ねた。「あなたはイエス・キリストをご存知ですか」。ウェスレーはこれを聞いて自分は英国の国教会、聖公会の古いしきたりや形骸化している教会から新たに宣教に燃えているのに!「イエス・キリストをご存知ですかって」その心の内で思ったのでしょう。ウェスレーは答えたのです。「知っていますとも、彼は世の救い主です」。すると、スパンゲン・ベルグは更に言った。「そうです!しかし、あなたは『イエスがあなたを救った』と言う事をご存知ですか」・・・・。十字架にかかり復活されたイエスがあなたを救ったのですよ、どれだけ救われて来たのか・・・あなたはご存知ですか」と言ったのです。この時からジョン・ウェスレーの生涯のモットーは<生きた実際的なキリスト教を広める>と言う事に集中したと言われる。
復活されたイエス様は今も生きて働いて、私たちを救って下さっています。
人知ではとうてい測り知ることのできない、神の平安があなた方の心と、思いとをキリスト・イエスにあって守るように。 アーメン
4月の手芸クラブは22日(水)10時~13時に開催します。
4月の手芸クラブは前回のモチーフ編みの続きです。モチーフ編みはかぎ針編みの定番で、今も人気があるかぎ針編みの一つです。英語でグラニースクエア(おばあちゃんの正方形)と言い、フィンランド語でも同じ意味の言葉Isoäidin neliöで呼ばれます。モチーフ編みは余った毛糸を用いても可愛い彩りの作品が出来ます。作品はコースターや鍋敷きが代表的ですが、正方形の編み物を編みつけていくとブランケット、バッグ、服など応用範囲が広がるのも特徴です。是非ご一緒にモチーフ編みの作品を編んでみませんか?
参加費: 1000円
持参するもの: 作りたい作品に合わせた毛糸や綿糸、それに合わせたかぎ針
手芸クラブでは今回のテーマ以外にもご自分の好きな編み物をすることができます。作りたいものがあれば、是非ご自由にお持ちください。 おしゃべりしながらワイワイ楽しく編みましょう!聖書のお話の時間もあります。
お子さん連れのご参加も大歓迎です! 皆様のご参加をお待ちしています。
お問い合わせ、お申し込み moc.l1776681876iamg@1776681876arumi1776681876hsoy.1776681876iviap1776681876 ℡ 03-6233-7109 www.suomikyoukai.org
覚悟と胆力を養うキリスト信仰その8 ルターによる聖句の説き明かしと共に(フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ 」4月24の日課から) 『婦人が子供を産む時、彼女は苦悶に見舞われる。彼女の時が来たからである。」(ヨハ ネ16章21節にある主イエス・キリストの御言葉、1933年のフィンランド語訳聖書を参考に しました。) 『このたとえで主は、人間の力がいかに無力であるかを示される。たとえ100人の婦人が 出産に臨む婦人を助けようと集まって来ても、どうすることもできない。そんなことは、 わかりきったことだ。出産というものほど、人間がいくら自由意思を駆使しても無力さを 思い知らされることはない。子供が母親の胎内から生まれてくるというのは、母親がどう こうできるものではないからだ。それは人間の造り主である神が取り仕切ることだからだ 。だから母親は全てを神に任せるしかないということをよくわかるのだ。神が助け導いて 下さるのなら、助けと導きは確実にある。しかし、神の助けがなければ、たとえ全世界が 駆けつけても、万事休すである。神は出産ということを通して婦人に自分の力量、能力、 強さがちっぽけなものに過ぎないことをわからせるのだ。 これと同じことは出産と無関係な人すべてにも当てはまる。キリストはこのたとえを実は 彼を信じる者たちに向かって言われているのだ。出産に臨む婦人は何か不測の事態が起き やしないかと恐れる。しかし、全てのことは神の御手の中にあるとわかっていれば、神を 信頼して委ねることが出来る。我々が様々な逆境の渦に巻き込まれた時、また古い人間か ら新しい人間へと変えられる時も、全く同じである。だから、君は踏みとどまって、神の 働きを妨げないようにしなさい。神は我々の助けなどなくても全てを良く取り仕切って下 さる方なのだ。逆境の渦中にある時、新しい人間に変えられる時、我々は自分では何もな しえないのだから。自分の力で取り仕切ろうとすれば、死と地獄が目の前に立ちはだかる ことになる。それはちょうど、神に心を向けない出産の婦人が自分で自分を助けることが できず痛みと苦しみと恐れしか感じられないのと同じことだ。』(以上、ルターの説き明 かし。迫力が伝わるように"爆訳"しました。) そして神に信頼して神が働くようにした後で何が待っているか?イエス様は次のように続 けて言います。「しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために 、もはやその苦痛を思い出さない。」(ヨハネ16章21節の続き)
桜の饗宴
〈天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。 コヘレト3:1〉
先日、小雨降る尾根緑道の桜見物に出かけました。尾根緑道の東側のソメイヨシノは既に葉桜となっていましたが、こちらの西側は山桜と八重桜は今が盛りと言わんばかりに咲き誇っていました。「シロタエ」や「ヨウキヒ」などの八重桜に混じって山桜の「駿河台匂い」も芳しい香りをあたりに漂わせていました。今年の桜の季節もそろそろ終盤に差し掛かってきたようです。この桜の饗宴をいつまで見られるか気になっているところです。
覚悟と胆力を養うキリスト信仰その7
ルターによる聖句の説き明かしと共に(フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ」4月8日の日課から)
『アダムによって全ての人が死ぬことになったように、キリストによって全ての人が生かされるようになるのです。』(第一コリント15章22節)
『強い信仰は、この御言葉を大きな文字で心に書き記す。また、大地の上に聳え広がる大空いっぱいに描き切る。信仰は、この御言葉が伝えてくれること以外は何も見ない、何も聞かない、何も考えない。それはあたかも、この世界には他に書かれたものは何もないと宣言するようなものであり、我々が生きるのも活動するのも全てこの御言葉の中でそうするのだと観念するようなものだ。このように信じることができれば、我々は喜びのうちにこの世を生き、喜びのうちにこの世から別れることができよう。この信仰はまさに、キリストが死から復活したのは自分自身のためではなく、我々のためだったということを教えてくれるのだ。主を信じる者は彼の復活に完全に包み込まれてしまうということを。だから、我々も復活の日が来たら復活して主と共に永遠に生きることになるということを。
我々の復活は、まだ秘められていて公然のものになっていない。それでも既に起こったと言っていいくらい今、確実なこととしてある。このことをしっかり心に留めておきなさい。そうすれば、今目に見えるものは全て復活の日に消え去ってしまうことがわかるだろう。そして、天においても地においても復活の有り様以外に目にするものはないという心境になろう。それゆえ、キリスト信仰者が亡くなって墓に埋葬される時、そこで肉眼の目に映るのは腐敗する肉体でしかなくとも、信仰の目に映るのは墓地でも亡骸でもない。信仰の目は全く別の新しいものを見ているのだ。すなわち、新しい命と素晴らしい楽園を、そこで憩う新しい人たちと永遠の命に生きる幸いな人たちを。』(以上、ルターの説き明かし。昨年4月20日の週報コラムに掲載した訳をさらに進化させました。AIなんかに負けません※。)
強い信仰とは、このような目を持てることを言うのでしょう。そうすれば、喜びのうちにこの世を生き、喜びのうちにこの世から別れることができるという目を。
榛の木(ハンノキ)
<22 主なる神はこう言われる、「わたしはまた香柏の高いこずえから小枝をとって、これを植え、その若芽の頂から柔らかい芽を摘みとり、これを高いすぐれた山に植える。 23 わたしはイスラエルの高い山にこれを植える。これは枝を出し、実を結び、みごとな香柏となり、その下にもろもろの種類の獣が住み、その枝の陰に各種の鳥が巣をつくる。 24 そして野のすべての木は、主なるわたしが高い木を低くし、低い木を高くし、緑の木を枯らし、枯れ木を緑にすることを知るようになる。主であるわたしはこれを語り、これをするのである」。 エゼキエル書17:22・23・24>
春は花の季節ばかりではありませんね、新緑の季節でもあります。何時もの散歩道の尾根緑道にも新緑の季節がやって来ました。フレッシュグリーンの中に一際目立つ木の芽を見つけました、調べてみたら「榛の木・ハンノキ」の新芽でした。榛の木は雑木の代表のような木ですがカバノキ科で白樺とは親類の関係ですね。炭焼きが盛んだった頃は榛の木は良質の炭が焼ける事から持て囃されてきましたが今ではすっかりすたれてしまっています。夏を過ぎた頃になると小さな松毬のような実が垂れ下がっているのをよく見かけます。此処、多摩丘陵は炭焼きで生計を立てた農家が多く多摩ニュータウンが出来る前までは至る所で炭焼きが盛んに行われてきました。雑木林に榛の木が多いのはその名残かも知れません。
使徒言行録4章32-35節、第一ヨハネ1章1節-2章2節、ヨハネ20章19-31節
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
本日の福音書の個所で、復活したイエス様が弟子たちの前に現れて三つの大切なことを教えます。まず、イエス様は弟子たちに「あなたがたに平和があるように」と繰り返し言いました。イエス様の言う平和が一つ目。それから、彼が聖霊を与えると言って弟子たちに息を吹きかけて罪を赦す権限を与えました。罪の赦しとその権限が二つ目。三つ目は、弟子の一人のトマスが自分の目で見ない限りイエス様の復活を信じないと言い張った挙句、目の前に現れたので信じるようになりました。その時イエス様が言った言葉、「見なくても信じる者は幸いである」、これも大切なことです。これらの三つのこと、罪の赦しとその権限、イエス様の言う平和、肉眼の目で見なくても心の目で見て信じるということについて、以前の説教でキリスト教会を成り立たせる条件と申しました。ただ、条件と言うのはちょっと違うかなと思い直し、今回は、これらの三つは神がキリスト教会を通して人間に備えて下さる大切なもの、という言い方にしようと思います。それで以下、三つのことを見ていきます。
まず、罪の赦しとその権限について。私たち人間には神の意思に反しようとする性向があります。人を傷つけるようなことを口にしたり時として行為に出してしまったり、そうでなくても心の中で思ってしまったりします。また、嘘をついたり、妬んだり、見下したり、他人を押しのけてまで自分の利害を振りかざそうとしてしまいます。それらを聖書では罪と言います。人間は罪を持つようになってしまったため創造主の神との結びつきが失われてしまって、その状態でこの世を生きなければならなくなってしまいました。この世を去る時も神との結びつきがない状態で去らねばなりません。この惨めな状態から人間を救うために父なるみ神はひとり子のイエス様をこの世に贈ったのです。まず人間が受けるべき罪の罰を全部彼に受けさせ、人間が受けないで済む状況を作り出しました。それがイエス様のゴルゴタの十字架の死でした。さらに神は、想像を絶する力をもってイエス様を死から復活させて、死を超える永遠の命が存在することをこの世に示し、そこに至る道を人間に切り開かれました。
そこで私たち人間はこれらのことは本当に起こったとわかって、それでイエス様は救い主なのだと信じて洗礼を受けると、彼が果たして下さった罪の償いがその人にその通りになります。その人は罪を償ってもらったから神から罪を赦された者として見てもらえるようになり、罪を赦されたから神との結びつきを持てるようになってこの世を生きられるようになります。神罰を受けないで済む状況に入れたのです。それで、永遠の命が待っている「神の国」に至る道に置かれて、その道を神との結びつきを持って進んで行きます。まさに、新しく天から生まれた者になったのです。キリスト信仰者は、新しく生まれた自分というものは神のひとり子の犠牲の上にあるのだとわかっています。それで、罪に与せず罪に反抗して生きていこうという心になります。
このように創造主の神はひとり子のイエス様を用いて罪の赦しを私たちに備えて下さいました。本日の福音書の個所で、イエス様が弟子たちに罪の赦しの権限を与えます。それは、神がイエス様を用いて備えて下さった罪の赦しを多くの人々に行き渡らせる権限です。人間が赦しを与えるのではありません。人間は罪の赦しを取り次ぐ道具のようなものです。そして、その権限は誰もが持てるというものではありません。使徒たちの場合は、イエス様が聖霊を授けて、その権限が付与されました。イエス様が天に上げられると、今度は使徒たちが次に権限が付与される人に手をかざす按手の儀式を行って権限を伝授していきました。伝授された人たちも次に権限が付与される人に同じように按手をして、それがずっとリレーのように繰り返されて今日に至ります。ここには使徒的な継承があります。
スオミ教会の礼拝の初めに罪の告白と赦しの宣言があります。牧師は罪の赦しを宣言する時に、「ここに神から権限を委ねられた者として、あなたの罪は父と子と聖霊の御名によって赦されると宣言します」と言います。ここでも明らかなように、牧師が罪を赦すと言うのではなく、あくまで神から権限を委ねられた者として宣言しますということです。
次に「見なくても信じる者は幸い」ということについて。この目で見ない限り信じないと言ったトマスの思いはもっともなことです。目で見ない限り信じない、これは普通の宗教だったらどこでもそういうふうに考えるでしょう。何か目に見える不思議な業を行う、不治の病が治るとか。そういうことをする者を人々はこの方には不思議な力がある、普通の人間ではない、ひょっとしたら神さまだと信じ、自分たちも奇跡にあやかれると期待して、そこから宗教団体が生まれる原因になります。
ところが、イエス様がここで教えていることは、目で見て信じることではなく、目で見なくても信じるのが本当の信じるだ、と言うのです。ちょっと変な感がしますが、よく考えたらわかります。私たちは誰でも目で見たら、本当はその時はもう、信じるもなにもその通りだということになります。その意味で「信じる」というのは、文字通り見なくてもそうだと信じることです。これがイエス様の主眼とすることです。復活したイエス様を目で見なくても、イエス様は復活した、それはその通りだ、と言えば、イエス様の復活を信じていることになります。復活したイエス様を目で見てしまったら、復活を信じますとは言わず、信じるもなにも復活をこの目で見ましたと言います。
このようにキリスト信仰では目で見ないでも信じるということを強調します。使徒パウロは第二コリント4章18節で「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」と言い、5章7節では「目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいる」と言います。またローマ8章24節では、キリスト信仰者は将来復活に与れるという希望を持っていることで救われているのだ、見えるものに対する希望は希望ではない、現に見ているものを誰がなお望むだろうか、と言います。さらに「ヘブライ人への手紙」11章1節では、信仰とはズバリ言って希望していることがその通りだということであり、目には見えない事柄がその通りになるということなのだと言われています。
さて、イエス様は復活から40日後に天の父なるみ神のもとに上げられます。それ以後は復活の主を目撃することはできません。そうなると、目撃者の証言を信じるかどうかがカギになります。実際、目で見なくても彼らの証言を聞いて、その通りだ、イエス様は本当に神の子で死から復活されたのだと信じられる人たちが出てきたのです。どうして信じられたのでしょうか?ひとつには、目撃者たちが迫害に屈せず命を賭して宣べ伝えるのを見て、これはウソではないとわかったことがあるでしょう。ところが、信じるようになった人たちも目撃者と同じように迫害に屈しないで伝えるようになっていったのです。直接目で見たわけではないのに、どうしてそこまで確信できたのでしょうか?
それは、イエス様の復活には何かとても大切なことが秘められていて、それをわかって自分のものにしたからです。この秘められた大切なことは、最初は目撃者の弟子たちが自分のものにしていました。もし、イエス様の復活にその大切なことがなくて、ただ単に死んだ人間が息を吹き返しただけだったら、それはそれで人々に情報拡散したい気持ちにさせる出来事でしょう。しかし、拡散したら命はないぞと脅されたら、わざわざ命を捨ててまで言い広めたりはしないでしょう。しかし、復活には不思議な現象ですまない大切なことがあるとわかったから、脅しや迫害に屈しないで宣べ伝えるようになったのです。それを、目撃者の証言を聞いた人たちもわかって持てるようになったのです。それでは復活に秘められた大切なこととは何か?それがイエス様の言われる平和なのです。次にそれについて見てみましょう。
イエス様が言われる平和について。ヨハネ福音書が書かれた言語はギリシャ語で「平和」はエイレーネーという言葉です。旧約聖書の言葉ヘブライ語でシャーロームשלומと言います。イエス様は間違いなくアラム語で話しておられたので、シェラームשלמという言葉を使ったでしょう。シャーロームという言葉はとても広い意味を持っています。国と国が戦争をしないという平和の意味もあります。その他に、繁栄とか成功とか健康というような人間個人にとって望ましい理想的な状態も意味します。しかし、イエス様は「平和」という言葉に特別な意味を持たせました。どんな意味でしょうか?
イエス様は十字架に掛けられる前日に弟子たちに次の言葉を言われました。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな」(ヨハネ14章27節)。イエス様は「平和」を与えるが、それは「わたしの」平和、イエス特製の平和であると。しかも、この世が与えるような仕方では与えないと言われます。一体それはどんな「平和」シャロームなのでしょうか?もし「この世が与えるような仕方」で与えたら、それは先ほど申しました国と国の平和、人間個人の繁栄、成功、健康、福利厚生ということになります。みな目に見える平和シャロームです。それに対するイエス様の平和は、この世が与えるようには与えないというものです。目に見える平和シャロームとどう違ってくるでしょうか?
イエス様が与える平和シャロームを理解する鍵となる聖書の箇所があります。ローマ5章1節。「このようにわたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており.....」。つまり、「平和」とは、神と人間との間の平和です。イエス様の十字架と復活の業のおかげで人間の罪の償いが果たされ、人間が神との結びつきを回復できたという平和、罪のゆえに神と人間の間にあった敵対関係がイエス様のおかげで解消されたという平和、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで得られる平和です。コロサイ1章21~22節を見ると、イエス様の十字架と復活の出来事の前は、人間と神の間は敵対関係だったということが明確に述べられています。「あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者として下さいました。」神と敵対関係にあった私たち人間は、イエス様の犠牲の死によって和解の道が開かれたのです。
こうしてイエス様を救い主と信じる信仰と洗礼によって神との結びつきが持てるようになった者は神と平和な関係にあります。その人は永遠の命が待っている神の御国に至る道に置かれてその道を進んでいます。進んで行く時、成功、繁栄、健康など目に見える平和シャロームがある時もあれば、ない時もあります。しかし、どんな時にあっても、イエス様を救い主と信じる信仰に留まる限り、創造主の神との結びつきは失われず、神との平和な関係は微動だにしません。人間の目で見れば、失敗、貧困、病気などの不遇に見舞われれば、神に見捨てられたという思いがして、神と結びつきがあるとか平和な関係にあるなどとなかなか思えないでしょう。しかし、キリスト信仰者は、礼拝のはじめで罪の告白を行うたびに罪の赦しの宣言を受けていれば、また聖餐式で罪の支配から贖われている状態を強化していけば、神との結びつきと平和な関係はしっかり保たれています。たとえ人間的な目にはどう見えようともです。そして、この世の人生の段階で神との結びつきと平和な関係をこのように鍛えておけば、この世から別れる時、安心して自分の全てを神に任せることが出来ます。自分は復活の日に目覚めさせてもらって主が御手をもって父なるみ神の御許に引き上げて下さるという確信と信頼を持って神に全てを委ねることが出来ます。
以上、神がキリスト教会を通して信仰者に備えて下さる三つのものを見てきました。使徒的な継承に立つ罪の赦しとその権限、神との平和な関係、肉眼の目で見えなくても信じることができる心の目です。どうか、神がこのスオミ教会を通してもこの三つのものを皆さんに備えて下さいますように。
第一ペトロ1章3節でペトロは、キリスト信仰者はイエス様の復活によって新たに生まれて「生ける希望」を持つようになったと言います。説教の終わりにこの希望について述べたく思います。
新共同訳では「生き生きとした希望」と言って、希望が躍動感に溢れている感じがしますが、そうではありません。原語のギリシャ語を見ると、「生きる」という動詞の動名詞形なので文字通り「生きている」ですが、私が使う辞書(ギリシャ語・スウェーデン語)によれば「命を与える」という意味もあります。ヨハネ福音書でイエス様が「生きる」とか「命」と言う時、たいていは今の世の「生きる」、今の世の「命」だけではなく、次に到来する世の「生きる」と「命」も含めています。それなので「生きている希望」とは、「永遠の命を与えられる希望」、復活の日に復活させられるという希望です。この希望はイエス様の復活を心で受け取ったら一緒に内に入って来ます。復活の日に復活させられるという希望が朽ちない希望であるということが4節でも言われます。「天には信仰者たちの受け継ぐものがちゃんと取っておかれている。それは朽ちず汚れがなく永久のものである。」この天に取っておかれている受け継ぐものとは、まさに復活の体と永遠の命です。5節で、イエス様の再臨の日に現れる救いということが言われますが、それは、その日に復活の体と永遠の命を目に見える形で受け取るということです。6節では、このような希望があり救いが待っているのだから、この世でいろんな試練にあって悲しむことがあっても、喜びも失われずにあるのだと言います。ペトロは試練について肯定的な見方をしています。試練を経ることでかえって信仰が金よりも純度を高められ、イエス様の再臨の日に栄誉と栄光を受けるものになる、そういう精錬するような効用が試練にはあるのだと言うのです。ここで注意しなければならないのは、試練の時に信仰が萎えないで純度を高められるようになるのは「永遠の命を与えられるという希望」を持てているかどうかによります。その希望を持てているかどうかは、イエス様の復活を心で受け入れているかどうかによります。
そして8節と9節でペトロは言います。あなたたちはイエス様を見なかったのに愛し、今見ていないのに信じていて、言葉で言い表せない大きな喜びで満たされている、と。どうしてそんなことが言えるのか?ペトロは、あなたたちが「信仰の目標」に到達する者だからだと言います。「信仰の目標」とは「魂の救い」であると。「魂の救い」とは、復活の日に復活の体を着せられて永遠の命を持って父なるみ神のもとに迎え入れられることです。あななたちはそこに到達する者であるとペトロははっきり言うのです。どうしてそんなことが言えるのでしょうか?私たちは、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼を通して、実は復活の体と永遠の命を今すでに見えない形で手にしているのです。それで主の再臨の日、復活の日が来たら見える形で手にすることになるのです。だから言葉で言い表せない大きな喜びで満たされているのです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン
前回、マタイ9章24節のイエス様の言葉(「娘は死んではいない。眠っているだけだ。」)のルターの説き明かしを紹介しました。それに対してスオミの信徒の方々からあがった疑問点を考えています。今回はその続き。
二つ目の疑問点は、ルカ16章の「金持ちとラザロ」のたとえは、復活についてのイエス様や聖書の教えと矛盾しているのではないかというもの。もし復活や最後の審判が今の天と地が終わって新しい天と地に再創造される境目の時に起こるのであれば、たとえでは、まだ今の天と地がある状態で天国と地獄への振り分けが起こったことになり、おかしいのではないか?
この点に関して、昔神学部で勉強していた時、あるセミナーで一人の学生がこれを取り上げました。私の記憶では、イエス様は当時ユダヤ人の間でよく知られていたエジプト由来の逸話を教訓話に改変したという論点でした。ただ、セミナーのペーパーはもうなく確認できません。その可能性を残しつつも、私としては、聖書には将来の復活の日を待たずして神のみ許にあげられた人の例があり(エノクとエリヤは生きたまま、死んだモーセは恐らく)、イエス様はたとえの中でラザロを同じカテゴリーに扱ったのではないかと考えます。いずれにしても復活は一括一斉に起こるというのが基本(エリザベス女王の葬儀礼拝で大主教がgeneral resurrectionと言っていた、まさに”総復活”!)。ただし、神の御心により例外もあるということです。
三つ目の疑問点は、この世を去った方が復活の日まで神のみぞ知る所で眠っているとすれば、この世にいる私たちは亡くなった方に話しかけてはいけないのか?これは日本人には痛いところかもしれません。というのは、みんな仏壇やお墓の前で、いつも見守っていてくれてありがとうございます、と言い、見えない相手に思いを伝え話しかけるからです。お寺の住職もそういう交信を推奨します。聖書の神は霊媒を用いることを禁じているので(レビ記19章31節、申命記18章11節、サムエル上28章、列王下21章6節、イザヤ8章19節)死者との交信はするべきではありません。キリスト信仰では、見守りを感謝したり、思いを伝え話しかける相手はあくまで私たちをお造りになった神です。ただ、亡くなった方への思いを言葉にすると、どうしても言葉をかける相手としてその方が相応しく感じられます。どうしたら良いでしょうか?私としては、それは、あくまで独り言に留めるべきと考えます。例えば、すやすや眠っている子供の寝顔を見て、今日は楽しかったね、とか、いい子に育ってね、とか、わざわざ起こさないで言葉をかけるのと同じように。そして、楽しかった今日の日を感謝するのは神であり、この子がいい子に育ちますようにと願いを打ち明けるのも神ということです。
春たけなわの季節になりました。4月の家庭料理クラブでは「シュガーフレーク・フルーツケーキ」を作ります。フィンランドではこの季節になると、ピーチやパイナップルなどのフルーツをケーキに入れて作ることが多いです。それで、今回のケーキの中身もピーチとパイナップルですが、その上にレモンで味つけた水切りヨーグルトを重ねます。トッピングのシュガーフレークはケーキの風味を高めます。しっとり柔らかいケーキとサクサクとした表面のバランスが絶妙です。
「シュガーフレーク・フルーツケーキ」を是非一緒に作って味わってみませんか。
参加費は一人2000円です。
どなたでもお気軽にご参加ください。お子様連れでもどうぞ!
皆さんのご参加をお待ちしています!
お問い合わせ、お申し込みは、 moc.l1776681876iamg@1776681876arumi1776681876hsoy.1776681876iviap1776681876 まで。