来週の礼拝:10月28日 聖霊降臨後第主23日

聖書  エレミヤ  31:7~9

    ヘブライ  4:1~13

    マルコ  10:46~52

賛美歌 299 296 365 450

司式     吉村博明 宣教師

説教  吉村博明 宣教師

奏楽  青木千恵 姉

当番  堀越教子 姉

応対  和田英一 兄

 

説教「救われるために何をしなければならないか?」トゥマス・ルッカロイネン兄(ヘルシンキ大学神学部学生)、通訳:吉村博明 宣教師

下の開始ボタン(黒三角)を押すと説教を聴くことができます。説教の後は、フィンランドのヤンググループ”ミッション ポシブル”がゴスペルソングを日本語で歌います。

 

礼拝にて

福音書の朗読は日本・フインランドの担当者が行いました。

SLEYの学生グループ「ミッション・ポシブル」が歌の奉仕をしてくました。

手芸クラブのご案内、10月24日(水)10時―13時

刺繍を作ってみませんか。

次回の手芸クラブは、今年のフィンランドの手芸のテーマにも選ばれた刺繡をします。
今度はいろいろなテクニックを使って模様を作ります。

おしゃべりしながらワイワイ楽しく作りましょう!

材料費: 500円

手芸クラブは、お子さん連れの参加も歓迎です。

誰でもお気軽にご参加ください。

 問い合わせ、お申込み paivi.yoshimura@gmail.com
電話03-3362-1105
日本福音ルーテルスオミ・キリスト教会、東京都中野区上高田1-36-20

交わり

今日の礼拝は教会に滞在中のフインランドから来日した学生諸君が参加してくれました。過去にも4~5名のゲストを迎えたことがありましたが今回は10名の大所帯で吉村先生ご夫妻も応対に大変な様子でした。食事に出たスープも彼らの奉仕によるもので大変美味しかったです、食事の後の対話にも話が弾み時のたつのも忘れて話し合いました。

会開セミナーのご案内 キリスト教式のお葬式について

歳時記

草叢の中に黄色コスモスが乱れ咲いていました、整然と咲きそろっているコスモスも綺麗ですが雑草の中に咲く黄色コスモスも捨て難い風情があります。

説教「神の創造の秩序と結婚」神学博士 吉村博明 宣教師、マルコによる福音書10章1ー16節

主日礼拝説教2018年10月14日 聖霊降臨後第二十一主日

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.イエス様はなぜ、離婚は神の創造の秩序に反すると教えるのか?

 本日の福音書と旧約聖書の日課は、男女の関係について人間の造り主である神はどうあるべきと考えておられるか、ということを教えています。福音書の個所で、ファリサイ派の人たちがイエス様を試そうとして質問してきました。夫が妻を離縁することは許されるか、という質問でした。ファリサイ派というのは当時のユダヤ教社会の宗教エリートで律法の規定をとても重んじて自分たちこそ天地創造の神の意志をしっかり守って生きていると思っていました。イエス様は彼らの律法の理解が神の意図するものと違っていることをいつも指摘するので、ファリサイ派はイエス様を排斥しようと企むようになっていました。

ファリサイ派がイエス様を試すために質問したというのは、旧約聖書の申命記の24章に夫が妻に離縁状を書いて家から追い出してもよいという規定があることによります。モーセの律法の規定の一つです。イエス様は活動を開始した最初の頃に、十戒の第6の掟「汝、姦淫するなかれ」について、みだらな思いで他人の妻を見る者は行為で犯していなくとも心の中で姦淫を犯したことになる、と教えていました。さらに離縁状も相手が裏切ったという位の重い理由がない限り書いてはいけない、と教えました(マタイ5章)。それでイエス様が結婚をとても重んじていたことは知られていました。それなら、なぜモーセの律法に離縁状の規定があるのか、離縁状を書いて別れてもいいというのが神の御心ならば、このイエスは十戒を勝手に厳しく解釈して人々に不安を与えているのではないか、今それを公衆の面前で明らかにしてやろう、そういう魂胆なのです。

夫が妻と別れるのは許されるのかという質問に対して、イエス様は質問者の魂胆はお見通しでしたが、モーセは何を命じているかと聞き返します。ファリサイ派は待ってましたとばかり、離縁状の規定のことを言います。そこでイエス様は神のもとから送られた神のひとり子として父である神の御心を明らかにします。モーセが離縁状の規定を定めて離婚を認めたのは、人間の心がかたくなになっていることを考慮してそうしたのだ、と。私たちの新共同訳では「心が頑固」と言いますが、それだと何か意地っ張りとか、妥協しないというような、そんなに悪い意味には捉えられないのではないでしょうか。ギリシャ語のσκληροκαρδιαは「心がかたくなな状態」という意味で、「頑固」に比べてもっと深刻な状態のことを言います。どんな状態かと言うと、イザヤ書6章10節で神が罪深いイスラエルの民に罰を下そうとして、民の心を一層「かたくなにせよ」、それで神の御心を見たり聞いたりできないようにせよ、と言うところがあります。それと同じことで、「心がかたくなな状態」というのは、神に対してかたくなになって、神に背を向けて、神の御心を知ろうともわかろうともしない状態です。

それでは、結婚について何が神の御心かと言うと、イエス様は「神が結び合わせたものを、人は離してはならない」、つまり結婚を壊してはいけない、離婚してはいけない、これが神の御心であると言います。どうしてそれが神の御心だとわかるのかというと、それは神の創造の秩序がそういうものだからだと言うのです。神の創造の秩序とはどのようなものか?イエス様は創世記2章を引き合いに出して言います。「天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々でなく、一体である。」イエス様の言葉が書かれたギリシャ語を見ても、彼が引用した創世記2章のヘブライ語を見ても、二人は「一つの肉」になると言われます。結婚というのは、神が人間を男と女に造り、男と女がある段階に達すると自分たちを生み出した男と女、つまり父と母から離れて父と母のように一緒になることで、その一緒というのは神の目からすれば融合と言っていいくらいの結びつきです。そういう流れになるのが神の御心ならば、一度結びついたものを引き離すのは神の創造の秩序に反することになるのです。

それなら、なぜモーセ律法の中に離縁状の規定があるのか?それは、神に背を向ける心のかたくなさが人間の心にあるからだ、とイエス様は明かします。心のかたくなさがあるため、創造の秩序に現われる神の御心を知ろうともわかろうともせず、伴侶を裏切って別の相手と一緒になるということが起きます。イエス様は、そのような重大なことが起きれば、離縁状はやむを得ないと言っているのであって、自分の好みや都合でもう一緒にいたくない程度で書くものではないと言うのです。離縁状は認可されてはいるが、その発動は神の創造の秩序を損なうようなことが起きてしまった時できるというものです。創造の秩序を損なうこととして、伴侶を裏切ることの他に伴侶に命の危険をもたらす事態も考えてよいと思います。そういう重大なこともないのに離縁状を書くのは、今度はそれが神の創造の秩序を損なうことになるので、離婚はしてはいけないということなのです。

そのようなイエス様の方針は、弟子たちから見ても厳しすぎるようでした。マタイ19章を見ると、イエス様とファリサイ派のやり取りを聞いていた弟子たちが、夫婦の結びつきはそこまでして維持しなければならないのなら、結婚しない方がましです、などと言います(マタイ19章10節)。イエス様の弟子のくせに何を情けないことを言うか、と思わせますが、やはり弟子とは言え、離婚の可能性は開かれていたほうがいいと思うくらい、当時も夫婦の関係はいろいろ大変だったことをうかがわせます。イエス様が離縁状の条件をとことん狭めたことからも伺えるように、実際には重大な理由なくしても離縁状を書いて離婚することは結構あったのかもしれません。それも、人間の心がかなくなであることの現れです。

ここで気づかなければならない大事なことがあります。それは、人間の心からかたくなさが取れること、つまり神に背を向けた生き方をやめよう、神の御心をわかって、それに沿うように生きよう、そういう心が得られれば、離縁状など不要になるということです。どうしたら、そんな心を持てるでしょうか?キリスト信仰が主眼とするところを思い出しましょう。それは、神のひとり子であるイエス様が人間の罪を人間に代わって神に対して償うために十字架にかけられて死なれた、彼の身代わりの犠牲のゆえに神から罪の赦しを得て生きられる道が人間に開かれたということです。

人間はこの良い知らせを聞いて、イエス様は救い主とわかって洗礼を受けると、罪の赦しを頂いた者としてそれに恥じない生き方としようという心になります。もう神に背を向けて生きるのはやめよう、神の御心を知って、それに沿うように生きようと志向します。夫婦も、自分は神から罪の赦しという大きな赦しを頂いていることがわかれば、ちょっとしたことで相手を怒ったり責めたりせず、言葉を選んだりするようになります。万が一火花が散ってしまっても、赦しを願うこと、赦しを与えることがどれだけ大切なことかはイエス様の十字架を思い出せばわかるはずです。自分の受けた大きな赦しは、いつも自分に言い聞かせなければなりません。そうしないと、すぐ血と肉の思いに振り回されてしまいます。自分への言い聞かせはどうやってするのかと言うと、それは、聖書にある神の御言葉が宣べ伝えられるのを聞いたり、また自分で聖書を繙いて自省することです。そして神に祈り、自分の非力さや未熟さを直してくれるようにお願いすることです。

 

2.イエス様はなぜ、離婚した後の再婚は姦淫になると教えるのか?

 本日の福音書の個所のイエス様の教えの中で、夫婦は別れてはいけないということに加えて、離婚した後の再婚は姦淫、姦通になるという驚くようなことが言われます。「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」ここで、日本語で「姦淫」とか「姦通」と言う言葉は何を意味するか見てみますと、十戒の第6の掟は「姦淫」、本日のマルコの個所では「姦通の罪」という言葉が使われますが、双方とも同じことを指しています。旧約聖書のヘブライ語の言葉נאף、新約聖書のギリシャ語μοιχευω, μοιχαομαιがもとにありますが、これらの言葉のドイツ語、スウェーデン語、フィンランド語の訳はとても単純明快で「結婚を破ること、壊すこと、結婚に対する罪」という言葉で訳されています(Ehebruch, äktenskapsbrott, aviorikos)。英語の訳はadulteryで、ドイツ語等に比べたら一目で意味がわかりませんが、英英辞書を見ると「結婚している者が、結婚相手ではない者と自発的に性的関係を持つこと」とあります。つまり、日本語で姦淫とか姦通と言っているものは、最近の日本で新聞・週刊誌の報道で聞かない日はないと言えるくらいよく耳にする「不倫」ということになります。

そこでイエス様が離婚後の再婚を姦淫と言うのはどうして驚きかと言うと、正式に離縁したのであれば、もう結婚関係はないから、新しい相手と一緒になっても結婚を壊したことにならないのではと思われるからです。しかし、イエス様はそう思わない。なぜでしょうか?それは、神の創造の秩序から見てそうなるからです。神の創造の秩序とは何か、もう少し詳しく見てみましょう。それは、本日の旧約聖書の日課である創世記2章18節から24節までの個所で述べられていることです。イエス様はファリサイ派とのやり取りの中でこの個所の最後の24節を引用していますが、この個所全体を念頭に置いて話されたのは間違いないでしょう。

創世記2章18節から24節は、人間の女性が造られた経緯が記されています。2章の初めに男性が土から造られたことが記されています。最初人間はこの男性が一人だけでした。神は、彼が独りでいるのは良くない、彼に「合致するような助け」(עזר כנגדו)を造ろう、と言って、まず土からいろんな動物を造って彼の前に出します。男性が動物たちにどんな名前をつけるか、それを神が見るというのは、男性が動物たちの中からそのような助けを見つけるかどうか見るということです。男性は動物たちに名前を付けましたが、「合致するような助け」は見出すことはできませんでした。それなら、と神は今度は、男性の骨や肉を材料にして、動物たちとは違うものを造ります。男性のあばら骨一本から女性を造ったような書き方ですが、初めはそうだったかもしれないが最終的にはいろんな骨や肉も材料になったようです。新共同訳で男性が女性のことを「わたしの骨の骨、わたしの肉の肉」と言っていますが、ヘブライ語はもっとはっきりしていて、女性の骨は「わたしの骨からである」(עצמ מעצמי)、女性の肉は「わたしの肉からである」(בשר מבשרי)、と言っています。女性を見た男性は、これこそ自分に「合致する助け」と見なしました。

あと新共同訳に男性の言葉の下にカッコがあって「イシュ」、女性には「イシャー」とカタカナで書かれていますが、これは何かと言うと、「イ(-)シュ」(איש)は男性を意味する単語で、「イ(ッ)シャー」(אשה)はそれの女性形の形です。ドイツ語の名詞には男性、女性、中性と性別がありますが、それと同じことです。男性「イ(-)シュ」が自分の一部を材料にして造られたものを自分に「合致する助け」と見なし、これに「イ(-)シュ」を女性形にした形「イ(ッ)シャー」という名前を付けたということです。

さて、女性が男性の「助け人」として造られたとか、男性の骨や肉を材料にして造られたなどと聞くと、聖書は女性を男性の付属物にしていると怒られてしまうかもしれません。しかし、女性が男性を助けられるためには、男性も女性を助けなければできません。例えば、仕事をする女性が家事育児全部任されて男性が仕事だけ専念してよいということになったら女性は潰れてしまい、助けるどころではなくなります。最初は男性の助けのために女性を造ると言いますが、いったん造られたらお互い助け合う関係になるのではないでしょうか?(ヘブライ語の言葉כנגדוにそんな相互性を含めてもいいような気さえするのですが、専門家はどう思うでしょうか?)それから、男性の骨と肉を材料にしているということも、もし男性が女性を低くみたら、それは材料がその程度だったと自分で認めることになってしまうので、男性は女性に対してあまり大きな顔をしない方がいいということになります。

そこで、男性と女性が自分たちがそれぞれ生まれ出てきた男性と女性、つまり父と母のもとを出て一緒になることを一体になる、一つの肉になると言います。同じ肉と骨がもとにあるので分離したものがまた一つになることが結婚ということになります。それで、離婚は一つに融合していたものを二つに分かれてしまうことと言ってよいでしょう。姦淫とは二つのものが融合してできたものを二つ以外のものが入り込んで融合が壊れてしまうことと言ってよいでしょう。そうすると、離婚したらもう融合もなくなっているのだから再婚は姦淫にならないのではと思われるのですが、イエス様はそうだと言われる。どうしてでしょうか?それは、一度一つになった肉は、人間の目では別々になって解消したとしても、神の目からすれば、一度一つになったことはとても大きなことで、その事実は消せないということのようです。だから、別れても新しい相手と一緒になると、神の記録にある一つになったものに対して外のものが入り込んでくる、つまり姦淫と同じことになるというのです。

しかしながら、現実には離婚の後の再婚は沢山あります。イエス様の教えに従っていたら、「新しい出会い」や「人生の再出発」ができなくなってしまうと言われるでしょう。それを神の意志に反するなどと言われては、もう神なんか相手にしたくないという気持ちになるかもしれません。あるいは、自分の信じたい神はそんな偏狭ではない、もっと気前がいい方だ、という考えになってしまうかもしれません。でも、それは創造主の神に対して心をかたくなにすることになってしまうのです。

どうしたらよいでしょうか?「新しい出会い」、「人生の再出発」と思っていたことは実は神の意志に反する、そう言った張本人のイエス様は何をしたでしょうか?そういう厳しいことを言って、さらには心の中で描いただけでも同罪だと言ったのです、そこまで厳しいことを沢山言って、その通りに出来ない人たちに後ろめたい気持ちを与えたり不愉快にさせて、自分は偉そうにして出来ない人たちに軽蔑の眼差しだったでしょうか?いいえ、そうではありませんでした。イエス様は、人間が持っている神の意志に反すること、行い、考え、言葉すべてにかかわる神の意志に反すること、これが神の怒りをもたらして人間があまりにも無防備になっている、この状態をなくして人間が神から優しく守られて生きられるようにしよう、それで、ゴルゴタの十字架の上で自分を犠牲にして神の怒りと罰を人間の代わりに受けられたのです。

イエス様を救い主と信じるところには、神の罪の赦しがあります。何も知らずに新しい出会いや再出発をした人は、一度起きてしまったことはもう元には戻せませんが、イエス様を救い主と信じて神から罪の赦しを頂く者として生きることはできます。神のひとり子が自分の身を投じてまで与えて下さった罪の赦しです。人間が神から守られて生きられるようになるためにひとり子も惜しまなかった神の愛です。自分がしてしまったこと、考えてしまったこと、口にしてしまったことは全て神のひとり子を死なせなければならないほどの重大なことだったのだと思い知れば、人間は十字架のもとにひれ伏すしかありません。これからはどう生きたらいいか、行ったらいいか、考えたらいいか、全てにおいて何が神の意志に沿うことか考えるようになります。そのようにして神の創造の秩序に沿わなかった出会い、再出発も罪の赦しの救いに沿うものに変えられていくと思います。

 

3.独身でいることは神の創造の秩序に反しない。一人でいようがいまいが肝要なことは終末・復活への備え

 最後に、神の創造の秩序に男と女の結婚という結びつきがあるとすると、結びつきを持たないで一人でいるというのは、創造の秩序に反することになるのでしょうか?そういうことではないようです。マタイ19章12節でイエス様は「結婚できないように生まれついた者、人から結婚できないようにされた者もいるが、天の国のために結婚しない者もいる」とおっしゃっています。それぞれが具体的にどんな人なのか、ここでは立ち入りませんが、一人でいても創造の秩序に反することにならないのです。

使徒パウロは第一コリントの7章で結婚について教えていますが、読むと未婚者とやもめに対して、結婚しないで一人でいる方がいいなどと言います。加えて、結婚しても罪を犯すことにはならないとも言っていて、我慢できなければ仕方ないですね、結婚してもいいですよ、という調子です。このような言い方をするのは、今の世の終わりが近づいているという終末観があるからです。イエス様の十字架と復活の出来事の後しばらくは、今ある天と地が新しい天と地にとってかわられて最後の審判や死者の復活が起きる日がもうすぐやってくる、そういう切迫した思いが当時のキリスト信仰者の間で強く持たれていました。それくらい、イエス様の十字架と復活の出来事は本当につい最近起きた出来事としてまだ大きなインパクトがあったのです。しかしながら、パウロの時代から2000年近くたちましたが、まだ今ある天と地はそのままです。これは、新しい天と地の創造がもう起こらないということではなく、イエス様も言われたように、福音が世界の隅々まで宣べ伝えられるまでは終わりは来ないということなのです(マタイ24章14節など)。

それでも、キリスト信仰者はいつその日が来ても慌てないようにいつも目を覚ましていなければなりません。これもイエス様が命じられていることです(マタイ24章44節など)。しかし、終末のことを考えながら、家庭を築くとか、子供を育てるというのは矛盾があるように感じられます。今愛情を注いでいるものが、無駄なことのように感じられてしまうからです。その場合は、ルターのように考えます。つまり、家族とか伴侶とか子供とかは、神が世話しなさい、守りなさい、育てなさい、と言って私たちに贈って下さったものである。神がそうしなさいと言って贈って下さった以上は、感謝して受け取って、それらを忠実に世話し守り愛し育てる。贈られる神はまた取り上げられる神でもある。だから、もし神の定めた時が来て神にお返ししなければならなくなったら、素晴らしい贈り物を持てて世話できたことを感謝してお返しする。もちろん、これは痛みを伴います。その時こそ、キリスト信仰には「復活の再会の希望」があることを思い起こす時です。神が世話しなさいと定めた期間はどのくらいかはわかりませんが、その期間は限られているのでとても大事なものとわかります。贈られたものと共にいる一時一時が貴重な時になり、贈られたものは一層愛おしくなります。そのように考えれば、終末を頭のどこかで覚えながら、今愛情を注ぐものがあることは矛盾しないのではないでしょうか?

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

 

聖餐式:木村長政 名誉牧師

10月13日 スオミ教会家庭料理クラブのご報告


心待にしていた涼やかな気候のなか、
お休みを頂いていた「スオミ教会家庭料理クラブ」は再開しました。
メニューは「お母さんのベリーケーキ」Mamman  marjapiirakka
フィンランドでも人気の高いブルーベリーを使ったケーキです。

最初にお祈りをしてスタートです。

計量をして生地を作り、冷蔵庫で休ませます。
次は生地に流すクリーム作りです、
計量した材料を混ぜ、使った道具類は洗われ、スムーズに作業が進みながらも、
楽しい会話も盛り上り、4台のケーキはオーブンに入りました。

焼き上がりを待つ間、キュウリとパプリカを添えたクラッカーに、
飲み物や食器類の用意と、牧師館のキッチンは大忙しでした。

きれいに焼き上がったケーキを、最初はアツアツで頂き、
次は少し冷めてからと、ケーキの味の変化も楽しみました。

パイヴィ先生からは、フィンランドで過ごされた夏休みの楽しいエピソードや、
ベリーのお話、聖書と詩編34章の一節を聞かせて頂きました。

次回のスオミ教会家庭料理クラブは11月開催予定です。

参加の皆様、お疲れさまでした、ご一緒できる機会を楽しみにしています。


ブルーベリーの 話「Mamman marjapiirakka」

今日皆さんと一緒に作ったブルーベリー・ケーキはフィンランドの家庭でよく作られるケーキの一つです。ブルーベリーの季節になるとどの家庭でも作られて、家族皆で出来上がりのケーキを美味しく味わいます。名前はフィンランド語で「Mamman marjapiirakka」と言います。日本語に訳すと、「お母さんのベリーケーキ」です。

「Mamman marjapiirakka」はフィンランドの伝統的なベリーのケーキで、私の母もよく作りました。このケーキは、1976年に「Valio」というフィンランドの乳製品の会社の試験所でJarvinenという家庭科の先生が作ったのが始まりだそうです。「Valio」は新しい乳製品を沢山開発する会社なので、Valioから出されている乳製品の種類はとても多いです。1970年代にValioは酸っぱみがあるKermaviili という乳製品を開発して、これを多くの人たちが使うようになるために、Järvinen先生は「Mamman marjapiirakka」のレシピを作りました。この時ケーキのレシピは多くの雑誌にのせられて、フィンランド全国に広がりました。それで、「Mamman marjapiirakka」はあっという間に多くの家庭で作られるようになって、フィンランド人の好きなケーキの一つになりました。50年前に初めて作られたケーキが現在多くの家庭で作られるようになったのは興味深いことです。

今では「Mamman marjapiirakka」にはいろいろなバージョンがあります。上にのせるベリーはブルーベリーだけではなく、リンゴンベリー、ラズベリーなども使われます。スパイスに、シナモンかカーダモンを入れたら味の変化も出ます。

今年の夏私たちの家族はフィンランドに一時帰国をしました。今年のフィンランドの夏は珍しく暑くて、30℃くらいの日が一か月ずっと続きました。雨の日は多くありませんでしたので、夏休みを過ごす人たちにとって良い夏の天気でした。しかし雨が少なかったため、自然の植物や畑の野菜や麦などの成長はよくありませんでした。雨が少ない影響で森のブルーベリーやリンゴンベリーもあまり沢山出来なくて、しかも出来たベリーは大きさが普通より小さかったです。こんな夏でしたが、私の父は森にブルーベリーを採りに行って、けっこう沢山採りました。父はベリーがよく採れる森を知っていて、毎年同じ場所で採ります。ブルーベリーはいつもより小さかったでしたが、それでも甘くて美味しかったです。父が採ったブルーベリーのおかげで、私は「Mamman marjapiirakka」を作ることが出来ました。父は余ったブルーベリーを冷凍して、冬それを毎朝のオートミールのおかゆの上にのせて食べます。

父は森でブルーベリーを採りましたが、私たちは父の家の庭の「くろくずり」を採りました。森と違って庭には蚊や蠅はいないので庭でベリーを採るのは森より簡単でした。しかし今年の夏は蜂が多かったので、刺されないように注意しなければなりませんでした。蜂は周りで飛ぶだけではなく、ベリーの汁を飲もうとしてベリーにもくっついていました。刺されないように注意してベリーを採りましたが、博明も私も刺されてしまいました。庭の「くろくずり」も去年より少なかったでしたが、「くろくずり」のジュースを作るくらいは十分採れました。

私たちは毎年新鮮なベリーや果物を食べることが出来ます。これは当たりまえのように感じられますが、少しよく考えてみると、美味しいベリーや果物などを食べられるのは私たち人間の努力のおかげではありません。ベリーや果物が育つのに適した光や温度などが必要です。これらは人間にはコントロールは出来ないことです。ベリーや果物の成長は天と地を造られた神様が与えて下さるものです。天の神様は自然を通して私たちに良いものを沢山与えて下さいます。旧約聖書の詩篇には良いものを与えて下さる神様に感謝したり賛美する歌が多くあります。詩篇34篇9-11篇には次のように言われています。「味わい、見よ、主の恵み深さを。いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は。主の聖なる人々よ、主を畏れ敬え。主を畏れる人には何も欠けることがない。若獅子は獲物がなくて飢えても主に求める人には良いものの欠けることがない。」私たちは天の神様の良い業をこのように気づいて賛美することが出来るでしょうか。私たちは自然を通して神様の御手の良い業を見ることが出来るのです。それがわかれば、私たちの心に神様に感謝する気持ちが生まれるでしょう。私たちの日常生活の中で神様に感謝することが他にもあるでしょうか?

生活の中には嬉しい、素晴らしいことが沢山あると思います。しかし、それらが当たりまえのようになってしまうと、感謝するのを忘れてしまうのではないでしょうか?また、生活の中に困難がある時には感謝することなどできないでしょう。そのような時、感謝することなんか何もないと思ってしまいます。でも、本当はあるのです。困難の時にも感謝することがあることに気づくと心に平安が得られます。どこに感謝することがあるでしょうか?悩みや苦しみがある時、私たちはお祈りして神様に全部のことを打ち明けることが出来ます。もし私たちが自分の父親は頼りに出来る人と思うならば、同じような信頼を持って天の父である神様にお祈りして全部のことを打ち明けてよいのです。神様は私たちも私たちの父親母親もお造りになった創造主です。その方が、私を信頼しなさい、全てのことをお祈りで打ち明けなさい、とおっしゃって下さるのです。それが出来れば、全てのことを神様の御手に委ねて、自分一人で心配事を抱える必要はなくなります。神様が一緒に背負って下さいます。先ほど読んだ詩篇には「いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は」と書いてありました。私たちは神様に信頼することが出来たら、心に平安も得ることが出来ます。そこから神様に感謝の気持ちも生まれます。

このように、困難の時に天の父である神様にお祈りして全てを打ち明けて委ねることが出来れば、神様に感謝の気持ちが起こってきます。この時、私たちは困難の中にあっても心には平安があります。これは神様が与えて下さる平安です。

いろんなベリーも、他の素晴らしいものも全ては私たちのためになるようにと、神様が与えて下さるものです。だから、私たちの感謝もいつも、最終的には創造主である神様に向けられるのがふさわしいのです。

フィンランドの ヤング・ミッション・グループ“Mission possible”が来日します!


ヤング・ミッション・グループ ”Mission Possible”とは?

フィンランドの国教会(ルター派)のミッション団体「フィンランド・ルター派福音協会SLEY」は1900年から今日に至るまで日本でキリスト教伝道を行ってきた団体です。そのSLEY傘下の学生団体「福音学生連合EO」のメンバーのうち日本に関心のある大学生たちが今回、日本訪問団”Mission Possible”を結成して来日することとなりました。

以下の日程でルター派の教会や付属施設を訪問します。

10月21日(日)スオミ教会の日曜礼拝(10時半開始)
  と礼拝後の交流。注目!ヘルシンキ大学の神学部
  の学生が礼拝説教をします!(通訳付)

10月25日(木)スオミ教会の
  イングリッシュ・バイブル・スタディー

  市ヶ谷教会のイングリッシュ・サークル

10月27日(土)大岡山教会の若者集会「ユースナイト」

10月28日(日)市ヶ谷教会の日曜礼拝(10時半開始)
  と礼拝後の交流

フィンランドのクリスチャンの若者と交流できるまたとない機会です。クリスチャン、ノン・クリスチャンにかかわらずご関心ある方は是非いらして下さい!

ポスターで見る(PDF)

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プログラムの詳細は各教会にお問い合わせください。

日本福音ルーテル スオミ教会 中野区上高田1-36-20 ℡(03)3362-1105
日本福音ルーテル大岡山教会 大田区南千束3-16-5 ℡(03)3726-7317
日本福音ルーテル市ヶ谷教会 新宿区市ヶ谷砂土原町1-1 ℡(03)3269-0609

公開セミナー
11月11日
13時半~15時
キリスト教式のお葬式ってどんなお葬式?
聖書を学びたいなら: