来週の礼拝:11月26日 聖霊降臨後最終主日

司式  李 明夫 牧師

説教  李 明夫 牧師

聖書  エゼキエル 34:11~16、23~24

    Ⅰテサロ 5:1~11

    マタイ 25:31~46

賛美歌 171 139 388 399

奏楽 青木千恵 姉

当番 堀越教子 姉

応対 木村たか子 姉

 

 

 

 

 

説教「神が備えて下さった愛に生きよ」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイによる福音書25章1-13節

主日礼拝説教 2017年11月19日(聖霊降臨後第24主日)マタイ25章1-13節、ホセア11章1-9節、第一テサロニケ3章7-13節

下の開始ボタン(黒三角)を押すと説教を聞くことができます。

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

 本日の福音書の箇所から、イエス様の時代のユダヤ教社会の結婚式の様子が窺い知れます。当時の習わしとして、婚約中の花婿が花嫁の家に行って結婚を正式に申し込みます。先方の両親からOKが出ると、新郎新婦は行列を伴って新郎の家に向かいます。そこで祝宴が盛大に催されました。その婚礼の行列におとめたちがともし火をもって付き従う役割を担います。Phoebe Anna Traquair [CC BY-SA 4.0 (https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0)], via Wikimedia Commonsこうしたおとめたちの付き従いは婚礼の行列に清廉さや華やかさを増し加えたことでしょう。

本日の福音書の箇所でイエス様は、こうした婚礼の行列に付き従うことになった10人のおとめたちに何が起きたかを話します。わかりそうでわかりにくい話だと思います。わかりそうなことと言えば、10人のうち賢い5人は、花婿が花嫁の家を出るまで時間がかかるかことを見越して、ともし火が消えないように予備の油を準備する。愚かな5人はそうしない。案の定、花婿はなかなか出て来ず、10人とも疲れて眠ってしまう。すると突然、花婿が出てきて、これから祝宴に向かって出発するぞ、と号令がかかる。はたと目が覚めたおとめたちは支度をするが、愚かなおとめたちはともし火が消えそうなのに気づいて慌てて買いに行く。その間に行列は出発してしまい、さっさと祝宴会場に行ってしまう。油を買って来たおとめたちは閉ざされた門の前でおろおろするばかり。中に入れて下さいと懇願するが、花婿からお前たちなど知らないなどと言われて文字通り門前払いを食ってしまう。

こういうことを言っていることくらいは誰にでもわかります。何がわかりにくいかと言うと、花婿は5人に対してなぜそんなに冷たく振る舞うのか、ということがあると思います。5人はただ見通しが甘かっただけなのに、花婿自らが門の反対側から「お前たちなど知らない」などと言うのは、ちょっと冷たすぎはしないか?結婚式のお祝いの行列にともし火を持って付き従うというのは、そんなに花婿の名誉にかかわるもので、それをちゃんと果たせないというのはそれほどの大失態になったということなのか?これは、当時の民衆の生活史を綿密に調べないとわかりません。ただ一つ言えることは、この話はたとえということです。架空の話で実際に起こったことではありません。イエス様は教えを述べる時によく誇張を用いました。一粒の種は良い土地に落ちれば30倍、60倍、100倍の実がなるんだ、とか、からし種という数ミリ程度の種から鳥が巣を作れる位の大きな木が育つ、とか、また、罪を犯した兄弟を許すのは7回までですかと聞かれて、いや7の70倍許しなさい、とか、聞く人の度肝を抜くような言い方をします。それを考えると、本日の5人のおとめに対する冷たい仕打ちも、聞く人に何かを強く警告するために言っているのだとわかります。それでは何を警告しているのか?

それがわかるためには、このたとえは何についてのたとえかがわからなければなりません。それは、本日の福音書の箇所の冒頭に明確に言われています。この10人のおとめのたとえは「天の国」についてのたとえです。天の国、「神の国」とも言い換えられますが、それがどんな国かをわからせるために、このたとえが話されているのです。それでは、このたとえから神の国とはどんな国であるとわかるでしょうか?そのことをこれから明らかにしていきましょう。

 

2.

神の国について、最初に一般的に、大ざっぱに述べておきます。これまでの説教の中で何度も取り上げてきましたが、神の国とは、天と地と人間その他万物を造られた創造主の神がおられるところです。それは「天の国」、「天国」とも呼ばれるので、何か空の上か宇宙空間に近いところにあるように思われますが、本当はそれは人間の五感や理性で認識・把握できるような、この現実世界とは全く異なる世界です。神はこの現実世界とその中にあるもの全てを造られた後、ご自分の世界に引き籠ってしまうことはせず、むしろこの現実世界にいろいろ介入し働きかけてきました。旧約・新約聖書を通して見れば、神の介入や働きかけは無数にあります。その中で最大なものは、ひとり子イエス様を御許からこの世界に送り、彼をゴルゴタの十字架の上で死なせて、三日後に死から復活させたことです。

 神の国はまた、神の神聖な意思が貫徹されているところです。悪や罪や不正義など、神の意思に反するものが近づけば、たちまち焼き尽くされてしまうくらい神聖なところです。神に造られた人間は、もともとは神と一緒にいることができた存在でした。ところが、神に対して不従順になり罪に陥ったために、神との関係が壊れ、神のもとから追放されてしまいました。その時、人間は死ぬ存在になってしまいました。この辺の事情は創世記3章に記されています。

 神の国は、今はまだ私たちの目に見える形にはありません。それが、目に見えるようになる日が来ます。復活の日と呼ばれる日がそれです。それはイエス様が再臨される日でもあり、また最後の審判が行われる日でもあります。イザヤ書65章や66章(また黙示録21章)に預言されているように、天地創造の神はその日、今ある天と地に替えて新しい天と地を創造する、そういう天地の大変動が起こる。「ヘブライ人への手紙」12章や「ペトロの第二の手紙」3章に預言されているように、その日、今のこの世にあるものは全て揺るがされて崩れ落ち、唯一揺るがされない神の国だけが現れる。その時、再臨したイエス様が、その時点で生きている者たちとその日死から目覚めさせられた者たちの中から御心に適う者を見出して神の国に迎え入れます。

その時の神の国は、黙示録19章に記されているように、大きな結婚式の祝宴にたとえられます。これが意味することは、この世での労苦が全て最終的に労われるということです。また、黙示録21章4節(7章17節も)で預言されているように、神はそこに迎え入れられた人々の目から涙をことごとく拭われます。これが意味することは、この世で被った悪や不正義で償われなかったもの見過ごされたものが全て清算されて償われ、正義が完全かつ最終的に実現するということです。同じ節で「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」と述べられますが、それは神の国がどういう国かを要約しています。イエス様は、地上で活動していた時に数多くの奇跡の業を行いました。不治の病を癒したり、わずかな食糧で大勢の人たちの空腹を満たしたり、自然の猛威を静めたりしました。こうした奇跡は、完全な正義、完全な安心と安全とが行き渡る神の国を人々に垣間見せ、味わさせるものだったと言えます。

神の国を結婚式の祝宴として述べている黙示録19章によれば、花婿はイエス様であり、花嫁はイエス様を救い主と信じた者たちの集合体です。マタイ22章の最初のところでもイエス様は「神の国」について結婚式の祝宴を題材にしてたとえを述べていますが、そこでの花婿はイエス様自身を指しています。

 そうしますと、本日のたとえにある結婚式の祝宴は将来現れる「神の国」を意味します。そうすると、ともし火に買い置きの油を用意した賢い5人は、神の国の入ることができた者たち、用意しなかった愚かな5人は入ることができなかった者たちということになります。イエス様は、愚かな5人のようになってはならない、神の国に入れなくなってしまわないように注意しなさい、と警告していることがわかってきます。ここで一つ難しいことが出て来ます。イエス様はたとえの結びで、「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから」と述べるところです。あれ、神の国に入れるために目を覚ましていなさい、居眠りしてしまったら入れなくなってしまうぞ、と言うのなら、賢いおとめたちだって眠りこけてしまったではないか、ということになるからです。賢いおとめたちは、予備の油を準備したおかげで神の国に入れたのであって、頑張って目を覚ましていたからではありません。この「目を覚ましていなさい」という命令には、文字通りの事柄ではなく、何か深い意味が込められています。それはどんな意味なのでしょうか?

 

3.

 5人の賢いおとめたちは、10節で「用意のできている5人」とも言われています。そうすると、「目を覚ましていなさい」というのは、具体的に寝ずに起きていることを意味するのではなく、なにか用意ができている状態にあることを意味する、そういう象徴的な意味を持っているのだと分かります。そうすると、5節で「皆眠気がさして眠り込んでしまった」と言っているところで「眠り込んでしまった」というのも、本当に具体的に寝てしまうことではなく、何かを象徴的に意味しているとわかります。どんな意味でしょうか?「眠り込んでしまった」という言葉は、ギリシャ語ではカテウドーκαθευδωという動詞ですが、これは「眠る」という意味の他に「死ぬ」という意味もあります(第一テサロニケ5章10節)。さらに7節で「おとめたちは皆起きて」と言うところの「起きて」という言葉は、ギリシャ語では、エゲイローεγειρωという動詞で、これも「起きる」という意味の他に「死から復活する、蘇る」という意味もあります。新約聖書の中ではこの意味で使われることが多いのです。

こうして見ると、「10人のおとめ」のたとえは、イエス様が再臨して死者の復活が起こる日のことについて教えていることがわかります。今のこの世が終わりを告げ、神が天と地を新しく創造し直す日のことです。その日、死から目覚めさせられた者のうちある者は祝宴にたとえられる神の国に迎え入れられ、別の者は迎え入れられないということが起こる。イエス様は、神の国に迎え入れられるために、この世の人生で用意をしなければならない、と教えられます。賢いおとめたちが油を用意してともし火が消えないようにしたような用意をしなければならない。それでは、その用意をするとは何をすることなのかを考えなければなりません。

これからそれを見ていきますが、ここで一つ申し添えておきたく思います。イエス様の教えというのは、このように、今の世と次に来る新しい世とか、死者の復活とか、そういう今のこの世を超えた視点を持って語られているということをよく覚えておく必要があります。その視点を抜きに本日の箇所を理解しようとしたら、人間何事も準備が大切だ、とか、先を見越して行動することが大切だ、とか、そんな誰でもわかるような人生訓をイエス様が述べていることになってしまいます。そんなことを教えるためにイエス様は創造主の神のもとから送られてきたのではありません。人間が将来の神の国に迎え入れられるために「用意する」生き方ができるために送られてきたのです。

 

4.

それでは、「用意する」生き方とはどんな生き方かをみていきましょう。答えはすぐお話しできるのですが、せっかく今日の聖書日課に旧約聖書と使徒書の日課もあるので、ちょっと遠回りになるかもしれませんが、それらを手掛かりに述べていきたく思います。

まず旧約の日課のホセア書をもとにして「用意する」生き方の解明に入って行こうと思います。ホセアとは、イエス様が活動する700年以上も前の時代の預言者です。当時イスラエルの民は北のイスラエル王国、南のユダ王国に分裂していました。本日の箇所のエフライムというのは北王国を指します。イスラエルの民は分裂以前から異教の神々を拝む偶像崇拝に走るようになり、特に北王国は重症に陥っていました。天地創造の神としては、せっかく数ある民族のなかからスラエルの民を選んで、彼らを通して神の意思を全人類に知らしめる役割を担わせたにもかかわらず、しかも我が子のように守ってあげたにもかかわらず、民の心は神を離れて他の霊的なものに移ってしまった。十戒などの神が与えた掟も守られなくなって、その結果、政治的にも社会的にも不正義がまかり通るようになってしまった。

天地創造の神というのは、罪を目の前にすると即焼き尽くしてしまう神聖さを有する方です。民の罪は消滅してもらわなければなりません。そのことが歴史の中で実現します。アッシリア帝国という大国が北王国を攻撃して滅ぼしてしまうという出来事がそれです。紀元前722年のことでした。ホセア書11章5~7節でそのことが預言されます。「剣は町々で荒れ狂い、たわ言を言う者を断ち、たくらみのゆえに滅ぼす」(6節)というところで、「たわ言」と言うのは、偶像崇拝を行った祭司や預言者たちの「空虚な言葉」のことです。「たくらみ」というのは彼らが国の指導者たちに語って惑わした助言を指します。神は罪を滅ぼすために天から炎を送るのではなく、敵軍を送ってその剣で滅ぼしてもらったということです。

しかし、神の神聖さに反する罪を滅ぼそうとすると、それを持っている人間をも抱き合わせで滅ぼすことになってしまう。これが神にとって痛いところであるということが8~9節で言われます。アドマとツェボイムというのは、創世記19章で罪の町ソドムとゴモラが天からの炎を浴びて滅ぶ出来事がありますが、炎を浴びた地域の中にあった町のことです(申命記29章22節)。神は性質上、罪を焼き尽くさずにはいられない神聖さを有する。しかし、自分が選んで世話し導いた民を焼き尽くしたくはない。そこで神は、一度国家滅んで異国の地に連行された民はある期間が過ぎれば、罪の償いを果たしたということにして、祖国に帰還させると約束します。この約束は多くの預言書の中で繰り返され、それは最終的に紀元前538年にイスラエルの民が祖国に帰還できた時に実現します。

ところが神は、この一民族の歴史的な出来事を行った時、それ自体のために行ったのではありませんでした。神はユダヤ民族のみならず人類全てに関しても罪を焼き尽くす神聖な方であるということ、それにもかかわらず人間に赦しを与えて焼き尽くされないように大丈夫にしてくれる方であるということ、このことを一民族の歴史の出来事を通して全人類に前もって示したのです。

そして、前もって示されたことがはっきり現れる日が来ました。それがイエス様の十字架の死と死からの復活でした。神聖な神のもとから送られた神聖なひとり子でありながら、イエス様は全人類の罪を背負って神の罰を受けて十字架の上で死なれました。まさに罪を焼き尽くす神の神聖さによって滅ぼされたのです。神はひとり子をこのように犠牲に供することで人間が焼き尽くされないですみようになる道を整えました。さらにイエス様を死から復活させることで、死を超えた永遠の命に至る扉を人間に開きました。このような人間を罪から贖いだす業を行って下さったイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、罪の赦しがその者に効力を持ち始めます。その人は、神がイエス様を用いて整えた罪の赦しの中で生き始めます。自分で罪を償ったわけではないのに、神のひとり子の犠牲のおかげで罪を赦されて焼き尽くされないようにされている。イエス様の犠牲を重く受け止めれば受け止めるほど、与えられた罪の赦しを損なわないようにしよう、汚さないようにしようと注意して生きるようになります。そのために神の意思をちゃんとわかるようにしようと聖書の御言葉にますます触れようとします。

 しかしながら、御言葉を通して神の意志を知ろうとすればするほど、自分はそれから遠い存在であること、罪や神に対する不従順に満ちていることに気づかされます。神を全身全霊で愛することが神の意志なのに、自分はそうしていないではないか、その愛に基づいて隣人を愛することが神の意志なのに、そうしていないではないか、と。ルターも、このことはよく承知で、彼に言わせれば、キリスト信仰者というものは、実は、完全な聖なる者なんかではなく、始ったばかりの初心者であり、これから成長していく者だということになるのです。そのため、キリスト信仰者の間でも、憎しみ、欲望、誤ったものへの偏愛、また神の守りを信用しないで心配事に身も心も委ねてしまうこと、その他もろもろの欠点に出くわすのです。

 そうなると、古い自分を捨てて新しく生まれ変わったと喜んだ人はがっかりしてしまうかもしれません。なんだ、洗礼を受けても何の意味もないじゃないか、と。でも実は新しく生まれ変わっているのです。信仰者は洗礼を通して神の霊、聖霊を受けます。聖霊があると、神への不従順、罪をつきとめてくれて、「それは神への不従順です。あなたにはそれがあります」、「それは罪です。あなたにはそれがあります」と明確に心に教えてくれます。これに目や耳をそむけずにすぐ神に向かって自分の非を認めて、主イエス様のゆえに赦して下さい、と祈ると、神は「わかった、わが子イエスの犠牲に免じて赦す。もう罪を犯さないように」と言って下さいます。この時信仰者の心の目はゴルゴタの十字架に向けられ、そこで十字架にかけられた主の両肩や頭の上に自分の罪が覆いかぶさっていることに気づきます。あそこに罪の赦しが本当にあることがわかります。その時、もう罪は犯すまいと決心を新たにします。

このようにキリスト信仰者の生き様というのは、洗礼の時に植えつけられた内なる新しい人を日々育て、肉に結びつく古い人を日々死なせることの繰り返しになります。そして、私たちがこの世を去る時、肉は完全に取り去られて、ひと眠りの後、目覚めさせられて復活の命と体を与えられ、ルターの言葉を借りるなら、その時「完全なキリスト教徒」になるのです。

さて、5人の賢いおとめのともし火の火が燃え続けるというのは、こうした新しい人を日々育て、古い人を日々死に引き渡す信仰の戦いが不断に続くことを意味します。信仰の戦いが終息せずに不断に続くようにするものは何かと言うと、それは聖書の神の御言葉の上に立つこと、聖礼典の恵みに結びついていることです。御言葉の上に立つこと、聖礼典と結びつくこと、これが買い置きの油になります。これがある限り、信仰の戦いは不断に続き、ともし火の火が消えることはありません。「目を覚ましていなさい」の象徴的な意味は、まさに信仰の戦いをしっかり戦いなさいということです。そうすることが、将来の復活の日に向けて「用意をする」生き方です。時として、神を全身全霊で愛することをせず、隣人を自分を愛するが如く愛さず、神の意志に背いてしまう時があるでしょう。また外見上は大丈夫のようでも心の中でそうなってしまうことがあるでしょう。それは避けられません。しかし大事なことは、そのたびに父なるみ神に赦しを祈り、主の十字架のもとに立ち返ることです。父なるみ神は罪を焼き尽くさないではいられない神聖な方であるにもかかわらず、人間がそうなってしまわないためにイエス様をこの世に送られました。完璧な正義と完璧な憐れみ、神の愛とはこの二つが完璧にあるのです。神が正義だけを振りかざしたら、人間は皆滅んでしまいます。逆に、憐れみだけだと、人間はつけ上がります。人間がつけ上がらず、逆にへりくだって謙虚になるような、そんな憐れみを神は示されたのです!イエス様を送ることによってです。こんな完璧な愛が他にあるでしょうか?兄弟姉妹の皆さん、この愛にとどまって生きようではありませんか!

5人の愚かなおとめについて一言申し上げれば、彼らは誰を指すのか?洗礼を受けた後、新しい人を育てて古い人を死なせるという信仰の戦いを放棄してしまった人のことか、それともそもそもそういう戦いに入ることもなく、肉だけで生きる人のことか、確定は難しいと思います。大事なことは、イエス様は警告としてこのたとえを話しているということです。つまり、今肉だけに生きる人も、信仰の戦いから離脱してしまった人も、はやくこの戦いを始めなさい、戦いに戻りなさい、ということです。それが将来の復活の日に向けて用意をすることになります。本日の使徒書の日課で使徒パウロは「どうか、主があなたがたを、お互いの愛とすべての人への愛とで、豊かに満ちあふれさせてくださいますように」と祈っています(第一テサロニケ3章12節)。お互いの愛と全ての人への愛と二つの愛がありますが、お互いの愛とは、信仰者が互いに向け合う愛で、信仰者が戦いを続けられるように支え合うことです。全ての人への愛というのは、信仰者でない人が同じ神の愛に生きられるように祈り導くことです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように   アーメン

手芸クラブのご案内。11月29日(水)10時―13時

日本に江戸時代から伝わる技法「つまみ細工」を作ってみませんか?

糸も針も使わず簡単に作れます。リネンやコーデュロイを使ってモダンなアクセサリーを作りましょう。

つまみ細工

素敵な髪飾りやブローチなどが出来ますので、ぜひご参加ください。

材料の布はこちらで準備しますが、もしご自分の好みの布があったら、それを持って来ても結構です。

お話しながらワイワイ楽しく作りましょう.

持ち物:ピンセットです。つまみ細工

材料費: 500円

手芸クラブは、お子さん連れの参加も歓迎です。
皆様のご参加をお待ちしています。

問い合わせ、お申し込み paivi.yoshimura@gmail.com
電話03-3362-1105

日本福音ルーテルスオミ・キリスト教会、東京都中野区上高田1-36-20

 

クリスマス子ども料理教室のご案内。12月9日 (土) 10:30

交わり

ノルウェイから来日されたTさん夫妻を交えての和やかな交わりのひと時でした。フインランドを訪れた人は結構いましたがノルウェイを訪れた人は僅かに一人でそれもオスロ滞在5時間、かの国はやはり遠い国でした。

歳時記

今日礼拝当番のニュウフェースがデビューしました。Aさんは赤ちゃんの頃からの付き合いです、立派な後継者の誕生に私たちも喜びを分かち合いました、神様のご計画の一端を垣間見た一日でした。

T.H

説教「神の宮として輝く」木村長政 名誉牧師

12回コリント信徒への手紙 31017節               20171112日(日)

 

今回のみ言葉で中心となる大切な言葉は最後にあります17節です。17節〔あなた方は神の神殿なのです〕と言うことです。9節でもパウロは強調しました。〔私たちは神のために力を合わせて働く者でありあなた方は神の畑、神の建物なのです。〕この最後のあなた方は神の建物なのです、と同じことを記しています。信仰者は教会を互いに建て合うほかありません。そして決して易しいことではありません。それでパウロは10節で言うのです。教会を建てる中心人物になっているところの自分について「神が賜った恵みによって熟練した建築師のように土台を据えた」と。この仕事は人間の知恵や努力だけではどうにもならない。神から賜った「恵み」によって、と言う事が大切であります。教会は人間のためにあるものですが、神の教会であります。それなら神の恵みを受けて神の力によらねば出来ないことであります。神の力により神の御心にかなうようにするわけであります。それは神の恵みによる他ないでありましょう。その上、パウロは「熟練した建築師として」と言っています。家を建てるのですから熟練した建築師が必要なことは言うまでもありません。まして、神の家を建てると言うことになると、よほどの熟練が必要であります。信仰の熟練であります。いろいろな困難にあうことは当然であります。その時に何よりも信仰的にどうしたら良いのか。それを知っているのは神の恵みによって熟練者になった人でなければならない。神のお気に入るように神のみ業に役立つようにするには熟練が必要でしょう。ところが、ここに注目すべきことが書いてあります。それはパウロが土台を据えた、と言っていることであります。そして「その土台の上に」他の人が「家を建てるのである」と言うのであります。つまりパウロは自分の仕事は土台を据えることだけである、とい思っていたらしいのであります。つまり、パウロは自分の仕事は土台を据えることだけである、と思っていたらしいのであります。土台は言うまでもなく建物では一番大事なものであるに違いありません。しかし、パウロが特にこのように土台にこだわるのは何か特別な意味があるにちがいありません。それで11節に書いています〔イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれも他の土台を据えることはできません。〕この土台以外には誰も土台を据えることはできない、その土台はイエス・キリストであると言っているのです。パウロが自分は神の恵みによる熟練を持っていた、と言っていますが、その熟練はまさにイエス・キリストを土台に据える、その熟練さであるということです。ここにこの建物の秘密があり力があるわけです。

 

それならば、キリストが土台であるというのはどういうことでしょうか。これは実際の建築の話ではありませんから、つまり例えて言っている訳です。土台というのも信仰上のことであります。教会がイエス・キリストに対する信仰の告白を持っているということです。イエス・キリストに対する信仰の告白というのはイエス・キリストと言い表す信仰告白といっても良いでしょう。イエスが神の子キリストである、と信仰をもって告白することは何でもないようでいて決してそうではないのであります。教会の信仰告白の歴史を見ますといつでも問題はあのナザレ人イエスを神のお遣わしになった救い主キリストと信じているかどうか、ということです。多くの人々が「イエス」という人物を偉い人だと考えたり或いは「たぐい稀な人間離れの人類の教師だ」と見る人々、学者など神を信じていない人でもそれくらいは考えているのであります。しかし、そのキリストによって救われるということになれば話は別であります。それは人間的に言えば大変難しいことであります。しかし、そう信じなければ救われたということにならないでありましょう。もし救われたというのでなければキリスト教はただの人生の教えと言うことになってしまう。その信仰が「土台」になっているというのはどういうことでしょう。土台ですからその上にあるものをすべて支える力を持っているものである、ということです。それならばイエス・キリストを土台に持つ教会はあらゆる事においてイエス・キリストを表すものでなければならない。それはイエス・キリストがその教会の支配者になるということであります。教会の中の一切のことを運営するのにイエス・キリストがご主人になっていてくださるようにするのであります。それはキリストを頭と仰ぐというようなことでなくて自分がキリストに救われたのだから何事もキリストのみ心のままにしようとということであります。次にパウロが12節以下で書いていることはどういうことでしょう。12

〔この土台の上に誰かが金、銀、宝石,木、草、わらで家を建てる場合各々の仕事は明るみに出されます。〕と書いてあります。するとパウロ自身は土台を据えるだけであったのでしょうか。「既に据えられている土台以外のものを据えることは誰でもできない」と言っているのですからパウロはこの土台を据えるだけで他の人はその土台の上に建てるだけである。ということになります何れにせよもう土台は据えられた。これからはその上に建てるだけである。それは多くの人に任せるほかはないと思ったのでしょう。人々はどのようにして教会を作るのでしょうか。ここに書いてあるようにある者は金を用い、ある者は銀を用い、他の人々はそれぞれ宝石や木や草や、わら等で建てるというのです。勿論これは実際の家の建て方のことではなくて各々がその信仰によって建てることを言ったのでしょう。信仰には強弱があります、また長い信仰生活の人も短い信仰生活の人もあったでしょう或いはお金持ちのように見えるが実際には草か、わらしか提供できなかったかもしれません。その反対に思いがけない人が思いも及ばないような献げ物をすることもありましょう。金を献げたか、銀を献げたか、草であったか判断することはできません。神がご覧になってどう判断されるか神のみがご存知であります。そして神がきびしくお裁きになることであります。

 

そのことを13節以下に詳しく記しています。〔各々の仕事は明るみに出されています。かの日に火と共にあらわれ、その火は各々の仕事がどんなものであるかを吟味するからであります。〕ある学者はここで火と言っているのは聖霊の判断のことであろうと言います。ここで言っていることが具体的に何を言うのか良く分かりません。ともかく神の御心にかなわない業は滅び去り御心にかなったものだけが残るというのでしょう。1617節ではいかにも突然のことのように「我々は救われる」と言って急に「あなた方は神の宮である」と言っています。信仰を持っている者は神のものとされるということです。「神のもの」というのは神に仕え神のお喜びになるようにすることであります。ここではそれが「神の宮になる」ということであるのです。神のものであるからには神に喜ばれるものということですから、それなら神が一番お喜びになることは何でしょうか。詩篇19編に次のようにあります。〔もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空は御手の業を示す。〕神がおつくりになった天地は神の栄光をあらわしている。それなら神のものである私たちも何より神の栄光を表し神を讃えるものでなければなりません。それが神のものの特徴であるはずであります。神のものは神の宮と言っても

良いのであります。神の宮ではどこを眺めても神の栄光をあらわし御手の業を示しているはずでしょう。わたしたち信仰者はどんな仕事をしていてもその仕事と生活を通して神を崇めること、それを神はお望みになっているのであります。神の宮というのは言うまでもなく神殿ということです、神殿での仕事は決まっています。それは神に会うということです、私たちが神の宮であると言うのはいつでも神に会うことのできるような生活が与えられたということであります。信仰を持っている者は祈ることを知っています、いつどんな時でも祈ることが出来ますし神様にお目にかかることができる、これこそ大きな恵みであります。最大のことは礼拝が出来ることであります、神の神殿であるのですから神を拝むことができるということです。

 

しかし自分たちがはたして神の宮といえるのでしょうか、何の力もなく知恵もなく自分たちのどこにそのような資格があるのでしょうか、と惑ったりします。それでこう書いてあります。〔神の御霊が自分の内に宿っているのをしらないのか。〕〔知らないのか〕と言っているのですからそれはまるで私たちの弱い心を見通しているように思われます。あなた方は神の宮であることに気づいていないであろう。しかし神の御霊がすでにあなた方の内に宿っているではないか、というのです。神の御霊はキリストを信じてくださいました、救いも確信させてくださいました。こうして信仰のすべてが神の御霊によって与えられているのであります。こうして信仰生活をしていることが私たちが神の宮であることが示されている、ということになるのではないでしょうか。私たちはもっと自分が神の宮であることを意識して良いのであります。そして一層熱心に神を拝み神に仕えなけらばならないのではないでしょうか。          アーメン・ハレルヤ!

下の開始ボタン(黒三角)を押すと説教を聞くことができます。

11月のフィンランド家庭料理クラブのご報告

 
穏やかな初冬の到来に、この日のキャセロールメニューはぴったりでした。

最初にお祈りからスタートです。

今回の参加者は6名、丸形と長方形の型で2台のサーモンとジャガイモのキャセロールをつくりました。

フィンランド人の男性の参加もあり、ジャガイモの皮むきのスピードと綺麗な出来上がりに、子供の頃からお手伝いすると聞き、流石だなと思いました。

下ごしらえした材料を器に敷き込み、卵液を流し込みオープンへ入れて、次は付け合わせの人参です。
人参のすりおろしとパイナップルのあえ物は、簡単で美味しいサラダになりました。

キャセロールの焼き上がりまで1時間程あるのです、パイブィ先生から、キャセロール料理の思い出や聖書のお話を聞かせて頂きました。

オープンからはキャセロールの焼ける香ばしく美味しい香りがしてきます。
焼き上がりのチェックをして、完成です。

熱々のキャセロールを取り分け、バイブィ先生の焼いて下さったパンと一緒に、美味しく頂きました。

下ごしらえをして、後はオープンにお任せできるキャセロール料理は、寒い季節の重宝な一品になりました。

参加の皆様お疲れ様でした。

料理クラブの話 2017年11月 サーモン・ポテト・キャセロール

フィンランドの家庭ではいろいろなキャセロールを作ります。例えばキャベツ・キャセロール、人参キャセロール、以前こちでも作ったマカロニ・キャセロールなどがよく作られます。キャセロールは特にフィンランドのクリスマスの食卓の伝統的な料理です。クリスマスの前に多くの家庭では人参キャセロールやポテト・キャセロールなどを早めに作って、クリスマスまで冷凍で保存します。サーモン・ポテト・キャセロールはフィンランドの伝統的な料理で、1700年ころから貴族の食卓の料理でした。普通の家庭では1800年くらいから作られるようになりました。

今日作ったサーモン・ポテト・キャセロールは私の家でも母が良く作った料理です。母はいつもパンを自分で焼きました。パンを焼く日に母は薪でオーブンを温めました。パンを全部焼き終えると、母はサーモン・ポテト・キャセロールをオーブンに入れて、夕食は簡単にできました。なぜなら、オーブンに入れたままでいいからです。それで母はパンを沢山焼いた後、一休みが出来ました。このように、オーブン料理が好まれる理由の一つとして、オーブンに入れたら他の家事を休むことが出来ることがあります。

サーモン・ポテト・キャセロール「lohiperunalaatikko」は、フィンランドでは寒い季節の料理の一つです。11月になると、外はだんだん暗く寒くなってきますので、フィンランド人は体を温めるご飯を食べたくなります。オーブンで焼く料理を作ると、部屋も暖かくなります。こうして寒い季節にオーブンで作る料理のおかげで体はとても温かくなります。しかし、心はどうでしょうか?温かいご飯と暖かい部屋があれば、心も温かく感じるかもしれませんが、心には体と違う、心を温かくするものがあると思います。例えば、心を温める言葉があると思います。例えば「ありがとう」「楽しいね」「うれしい」と言ったら、言う人も言われた人も心が温かく感じるでしょう。そういう言葉は「心が味わうオーブン料理」と言っても、いいのではないでしょうか?言葉だけでなく、心を温めるお話もあります。皆さんもそのような映画や本を沢山知っているでしょう。私は「心を温めるお話し」を考えると、聖書にある「放蕩息子」の話を思い出します。これはイエス様がたとえを使って人々に語った教えの一つです。それを紹介したく思います。

ある家に息子が2人いました。それは雇い人が沢山いる裕福な家でした。弟の方は好きなことばかりやって暮らしていました。ある日、外国に行きたくなって、父親に強く言いました。「お父さん、お父さんが死んだら僕のものになる財産を今すぐ分けてよ。外国に行ってしたいことがあるんだ。」父親が何を言っても息子は聞きません。父親は自分勝手な息子のことを悲しく思いましたが、財産を兄弟に分けることにしました。弟はそれを全部お金に換えると遠い国に旅立ちました。

息子はそこでとても華やかな生活をしました。高価な服を着て、そこで出来た友人たちと美味しいものを食べ、お酒を飲んで毎日遊んでばかりいました。しかし、いつしかお金はなくなってしまいました。ちょうどその時、その国にひどい飢饉が起こって、彼は食べ物に困り始めました。お金がなくなると、友達もいなくなってしまいました。みんな、お金が目当てだったのです。だれも助けてくれる人はなく、息子は一人ぼっちになってしまいました。

それで息子は仕事を探しました。やっと豚の世話する仕事をもらえましたが、お腹はいつもペコペコでした。きたなくて冷たい豚の餌を食べたいと思うくらいでしたが、持ち主はダメだと言いました。その時、息子は父親の家には温かい食べ物も暖かい部屋もあることを思い出し、もう帰ろうと思いました。でも、父親の財産を無駄に使ってしまった自分はもう息子と呼ばれる資格はないとわかっていました。それで、家の雇い人の一人にしてもらえるように頼んでみようと思いました。父親の前でこう言おうと考えました。「お父さん、僕は天に対しても、お父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。」

息子は家に帰る途中ずっと、父親は自分と口をきいてくれるだろうか、ドアもあけてくれないのではないかと心配しながら帰りました。やっと懐かしい家が見えました。すると、父親の方が遠くからやってくる息子に気がつきました。着ている服はボロボロで、体じゅう汚く、顔も痩せていましたが、すぐ息子だと分かりました。父親は息子に向かって走って行きました。息子は父親が走り寄ってきたのに驚きました。その時、考えたことを言おうとしましたが、父親の顔をまっすぐ見ることが出来ませんでした。すると父親は息子を抱きしめたのです。驚いた息子は、抱きしめられたまま言いました。「お父さん、僕は天に対しても、お父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はないんです。」息子が「雇い人の一人にして下さい」と言う前に、父親は家来たちに言いました。「さあ、急いで一番良い服を持って来て、息子に着せなさい。手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから最高の食材をそろえて、盛大なお祝いの準備をしなさい。息子は死んでいたのに、生き返ったのだ。見失われていたのに、見出されたのだ。祝うのは当然のことではないか!」父親が罰ではなくて愛をもって受け入れたので、息子は生まれ変わることができました。

イエス様がこのたとえを話したのは、神様はどのような方であるかを教えるためでした。父親は神様のこと、息子は私たち人間のことを指します。私たちも神様のもとに戻って行けば、神様はこの放蕩息子の時と同じように必ず私たちを喜んで抱きしめて迎えて下さいます。このように神様の私たちに対する愛は、私たちの罪を赦して受け入れて下さることです。神様のもとに帰る人は皆、神様の子どもになれるのです。「ヨハネの第一の手紙」3章1節に次のように言われています。「御父がどれほど私たちを愛して下さるか、考えなさい。それは、私たちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、その通りです。」

交わり

きょうは臨時総会の日です、教会ランチの炊き込みご飯を頂いて総会に臨みました。

歳時記

立冬を過ぎても暖かな日が続いていますね、でも今週から寒波がやって来るとか・・・・紅葉も一気に進むことでしょう。

聖書を学びたいなら: