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2026年5月3日(日)10時半 復活節第五主日 礼拝 説教 吉村博明 牧師

スオミ・キリスト教会

2026年5月3日 復活節第五主日 主日礼拝説教 スオミ教会

使徒言行録7章55-60節

第一ペトロ2章2-10節

ヨハネ14章1-14節

説教題 「心を騒がせるな、ただイエスの名によって祈り求めよ」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 本日の福音書の日課の箇所は、イエス様が十字架にかけられる前夜、弟子たちと最後の晩餐を共にした時の教えです。初めに「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしを信じなさい」と命じます。「心を騒がせるな」とは、この時、弟子たちが不安を抱き始めたためイエス様が述べたのです。弟子たちはどうして不安を抱いたのでしょうか?

 弟子たちにとってイエス様はユダヤ民族の期待のヒーローでした。無数の不治の病の人を癒し、多くの人から悪霊を追い出し、嵐のような自然の猛威も静め、わずかな食糧で大勢の人の空腹を満たしたりするなど沢山の奇跡の業を行いました。誰が見ても天地創造の神が彼の味方にいるとわかりました。さらに、創造主の神について人々に正確に教え、ユダヤ教社会の宗教エリートたちの誤りをことごとく論破しました。弟子たちも群衆も、この方こそユダヤ民族を他民族の支配から解放してかつてのダビデの王国を再興する真の王と信じていました。そうして民族の首都エルサレムに乗り込んできたのです。人々は、いよいよ民族解放と神の栄光の顕現が近づいたと期待に胸を膨らませました。

 ところが、イエス様は突然、私はお前たちのもとを去っていく、私が行くところにお前たちは来ることができない、などと言い始めたのです(ヨハネ13章33、36節)。これには弟子たちも面喰いました。イエス様が王座につけば直近の弟子である自分たちは何がしかの高い位につけると思っていたのに突然、自分は誰もついて来ることができない所に行くなどと言われる。それでは王国の復興はどうなってしまうのか?イエス様がいなくなってしまったら、取り残された自分たちはどうなってしまうのか?ただでさえイエス様は宗教エリートの反感を買っているのに、肝心のリーダーがいなくなってしまったら自分たちは弾圧されてしまうのではないか?こうして弟子たちは不安に襲われて心が騒ぎ出したのでした。そこで、イエス様は「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」と命じたのです。この世で敵に囲まれて取り残されてしまう弟子たちが心を騒がせないで済むようにイエス様は教えていきます。その教えは当時の弟子たちだけでなく現代を生きるキリスト信仰者にとっても大事なものです。以下そのことを見ていきましょう。

2.イエス様は道の決定版、真理の決定版、命の決定版

 イエス様は、天の父なるみ神のもとに行って、そこで弟子たちのために場所を用意し、その後また戻ってきて弟子たちをそこに迎えると言われます。「神のもとに行く」というのは、言うまでもなく天の父なるみ神のもとです。イエス様が死から復活して復活の体を持ってそこに帰ることを意味します。「また戻ってくる」というのはイエス様が再臨する日のことです。その日イエス様は弟子たちを自分が用意した場所に連れて行ってくれると言うのです。それは、今のこの世が終わって天と地が新しく再創造される日、死者の復活が一斉に起こり、神の目に義と見なされる者たちが見出されて神の御許に迎え入れられる日です。この迎え入れられる場所のことを聖書は「神の国」とか「天の国」などと言います。

 そこは黙示録で言われているように全ての涙が拭われて痛みも嘆きも死もない国です。全ての涙というからには痛み悲みの涙だけでなく無念の涙も含まれます。それで、その国は旧い世の不正義の報いが完璧に果たされた国なのです。また、それは盛大な結婚式の祝宴にも例えられます。イエス様は祝宴に迎え入れられる一人ひとりのために席を用意しに行き、時が来たら迎えに来ると約束しているのです。また来るから心配するな、来たら直ぐお前たちを新しい世の神の国に連れて行ってやると約束しているのです。神を信じイエス様を信じるということは、神とイエス様は約束を必ず果たすと信じることです。信じたら、この世で神の意思に沿うように生きようとして困難や苦難にあっても、この約束があるので何も心配いらないという気持ちでいられるのです。

 ところが、イエス様の十字架の死と死からの復活が起こる前に将来の復活の話をされても何のことか理解できません。自分はまた戻って来るから大丈夫だと言った後でイエス様は恐らく反論を予想して言います。「お前たちはわたしが行こうとしている場所に通じる道を知っているのだ」(4節)。予想通りトマスが当惑して言い返します。あなたがどこへ行くのかわかりません。それなので、そこに至る道というのもわかりません。行先が分からなければ道なんかもわからない。もっともなことです。これに対してイエス様は待ってましたとばかりだったでしょう、とても有名な言葉を述べます。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(6節)。

 イエス様自身が天の父なるみ神のもとに至る道であると言うのです。しかも、彼を介さなければ、だれも神のもとに行くことはできないという位、イエス様は創造主のもとに至る唯一の道だと言うのです。唯一の道ということは、ギリシャ語の原文でもはっきりしていて、道、真理、命という言葉全部に定冠詞へーがついています。定冠詞とは皆さんご存じの英語のtheと同じもので、the way, the truth, the lifeです。定冠詞がつくと、イエス様は道の決定版、真理の決定版、命の決定版という意味になります。いくつかある道の中のどれか一つではないのです。その場合は定冠詞はつかず、英語ならa way, a truth, a lifeになります。イエス様はそうは言っていません。日本語は定冠詞がないので、注意しないと、沢山ある中の一つを言っていると誤解する人が出てきます。 

 イエス・キリストが道の決定版などと言うと、宗教の業界では煙たがれます。ああ、キリスト教は独り勝ちでいたい宗教なんだ、と。それでか、最近はキリスト教関係者の間でも、この世から死んだあと天国でも極楽でもなんでもいい、そういう至福の状態に至る道はいろいろあっていいのだ、それぞれの宗教がそれぞれの道を持っているが到達点はみな同じなのだ、そうことを言う人が増えてきました。そういうふうに言えば、キリスト教はなんと懐の深い宗教だろうと評価されます。

 しかしながら、至福に至る道についてキリスト教を他の宗教と同列にできないことがあることを忘れてはいけません。多くの宗教では人間はこの世を去ってあの世に行ったら、そこからこの世にいる私たちを見守っているというような、この世とあの世が同時に存在してあるという見方をしているのではないかと思われます。キリスト教の場合は復活と天地の再創造があるので同時の存在はありえません。今ある天と地が終わって新しい天と地が再創造される、そこに旧い世の時には異次元にあって見えなかった神の国が唯一の国として現れてくる、死者が一斉に眠りから覚まされる復活が起きて創造主の神の前で義とされる者は復活の体を着せられてそこに迎え入れられるという流れになります(後注)。それなので、キリスト教がゴールと考えているところは他の宗教がゴールと考えているところと次元が全く異なります。他の宗教ではこの世から別れると至福の地点に到達するまで修行の旅をするというような見方をするところもあります。キリスト信仰では復活の日まで特に何もせず、ただ静かに安らかに眠っているだけです。

 道以外にもイエス様は、自分は真理の決定版、命の決定版であると言われます。真理の決定版というのはどういうことでしょうか?真理とは普通、時や場所に関係なくいつどこででも妥当する普遍的な法則のようなものです。例えば、イエス様の十字架と復活の業によって人間は罪の支配下から解放されて将来復活を遂げることができるようになる可能性が生まれたこと。これは、時や場所や人種民族に関係なく全ての人間にその可能性が生まれたので、これは真理です。さらに、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、それは可能性に留まらず本当のことになるということ。これも、時や場所や人種民族に関係なく全ての人間に本当のことになるので、真理です。ところが、最後の審判はキリスト教徒だけの問題だ、キリスト教以外の人は最後の審判は関係ないと言ったら、キリスト教から真理を取り下げることになります。なぜなら、最後の審判はキリスト教徒か教徒でないかに関係なく全ての人間に関わるというのが聖書の立場だからです。それで最後の審判も真理です。

 命の決定版ということについて。イエス様が「命」とか「生きる」という言葉を使う時は、いつもそれは今のこの世の人生だけでなく、今の世が終わった後に到来する新しい世の人生も一緒にした、とてつもなく広大な人生を「生きる」「命」を意味します。死から復活させられたイエス様はまさにその広大な人生を生きる命を持つ方です。そればかりではありません。彼を救い主と信じて洗礼を受けた者たちにも同じ広大な人生を生きる命を与えて下さる方なのです。それで、イエス様は命の決定版なのです。

3.父なるみ神と御子は一体

 7節でイエス様は、「あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる」と言われます。イエス様を知ることは、父なるみ神も知ることになる。イエス様を見ることは、父なるみ神を見ることである。それくらい御子と父は一体であるということが7節から11節までずっと言われます。そう言われてもフィリポにはピンときませんでした。イエス様を目で見ても、やはり父なるみ神をこの目で見ない限り、神を見たことにはならない、と思いました。イエス様と父なるみ神は一体であるということがまだわからないのです。これは、十字架と復活の出来事が起きる前は無理もなかったでしょう。しかし、十字架と復活の出来事の後に全てが一変します。弟子たちはイエス様が真に天の父なるみ神から贈られた神のひとり子だったとわかったのです。さらにこのひとり子は、人間を罪の支配下から解放して将来復活を遂げられるようにしてあげようとする神の人間への愛を自ら実践した、それで十字架の死は人間の解放のための犠牲の死であったこともわかりました。そのようなことを成し遂げる位にひとり子は父に従順だったこと、彼が人間に教えたり行ったことは全て父が教えたり行ったことで、自分で好き勝手に教えたり行ったのではないこと、それくらい父と御子は一体だったことが明らかになったのです。

 12節でイエス様は、「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである」と言われます。これは、ちょっとわかりにくいです。イエス様を信じる者がイエス様が行った業よりももっと大きな業を行うとは、一体どんな業なのか?まさかイエス様が多くの不治の病の人を完治した以上のことをするのか?自然の猛威を静める以上のことをするのか?しかも、信じる者が大きな業を行うことが、イエス様が天のみ神のもとへ行くこととどう関係があるのでしょうか?

 弟子たちがイエス様の行う業を行うと言う時、まず、イエス様がなしたことと弟子たちがなしたことを並べて見てみるとわかります。イエス様は、人間が神との結びつきを回復して広大な人生を生きられるようにする可能性を打ち立てました。これに対して弟子たちは、この福音を宣べ伝えて洗礼を授けることで人々がこの可能性を自分のものとすることができるようにしました。つまりイエス様は可能性を打ち立て、弟子たちはそれを現実化していったのです。しかし、両者とも、人間が神との結びつきを回復して、この世とこの次に到来する世を合わせた広大な人生を生きられる道に乗せてあげられるようにするという点では同じ業を行っているのです。

 それから、弟子たちの場合は活動範囲がイエス様の時よりも急速に広がったことが重要です。イエス様が活動したのはユダヤ、ガリラヤ地方が中心でしたが、それが弟子たちが遠く離れたところにまで出向いて行ったおかげで救われた者の群れはどんどん大きくなっていきました。使徒たちの伝道は地中海世界の東側全域に及びました。パウロはスペインを目指しましたが果たせませんでした。パウロの後に続く者たちに委ねられました。伝説によるとトマスはインドにまで伝道しに行ったとのことです。地理的な意味で、弟子たちはイエス様の業よりも大きな業を行うことになったのです。ヨハネ16章7節でイエス様は、自分が天の父のもとに戻ったら、今度は聖霊を送ると約束しました。お前たちをみなしごのようにしないと言うのです。聖霊は福音が宣べ伝えられるところならどこででも働き、人間が罪のなすがままの状態にあるという真理と、そこから解放するのが神の愛であるという真理を人々が見れるようにと導きます。このようにイエス様が天の父のもとに戻って、かわりに聖霊が送られてきて、弟子たちが伝道すると聖霊が働き、キリスト信仰者の群れはどんどん大きくなっていったのです。

4.勧めと励まし

 イエス様は13節と14節で、わたしの名によって願うことは何でもかなえてあげよう、と言われます。これはとても難しいところです。昔、私の知り合いのキリスト信仰者の方が、自分の抱えている問題がとても大きくて人間的に見て解決はどう見ても不可能、祈っても解決を得られなかったら、自分はイエス様に失望してしまうかもしれない、それが怖くて祈れないと言われた方がいらっしゃいました。気持ちはよくわかったのですが、私としてはやはり、神に全てを打ち明けることは十戒の第一の掟に入るので、義務としてでも祈らなければならなかったと思います。「何でもかなえよう」がその方にとって躓きの石になったと思います。

 自分は金持ちになりたい、有名になりたい、というようなことをイエス様の名によって願ったら、その通りになると信じる能天気な人はまずいないでしょう。イエス様の名によって願う以上は、願うことの内容は父なるみ神の意思に沿うものでなければなりません。利己的な願いは聞き入れられないばかりか神の怒りを招いてしまいます。キリスト信仰者は神との結びつきを持って復活の日を目指して歩む者です。キリスト信仰者が願うことはもちろん、いろんなことがありますが、つまるところは「イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼によって得ることができた神との結びつきがしっかり保たれて、道の歩みがしっかりできますように」という祈りに行きつくのではないかと思います。「これしきの困難で歩みが出来なくなるようなことがないように」と祈ると、神はその人の歩みが出来るように、困難を解消してくれるか、または困難を耐えられる忍耐力のどちらかをお与えになります。さらに、まだ神との結びつきを持てておらず復活の日を目指す歩みも始まっていない隣人のための祈り、その方に歩みが始まりますように、そのために何か相応しい言葉や働きかけを教えて下さいと願う祈りも切実なものになると思います。復活の日の再会がかかっていればなおさらです。イエス様がその通りにしてあげると約束された以上は、どんなに時間がかかっても、それを信じて願い続け祈り続けなければなりません。

 冒頭で述べた問題に戻りましょう。イエス様が天のみ神のもとに戻ってしまったら、弟子たちはこの世で敵に囲まれるように取り残されてしまうことになる。それでも心を騒がせないで済むのだということをイエス様は教えられました。何を根拠にそうなれるか?まず、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼によって自分は父なるみ神との結びつきを持てた、そして永遠の命に至る道に置かれて今その道を進んでいるのだ、という救いの確信がまず一つ。もう一つは、自分がこの道を歩めるために、また隣人も歩めるようになるために願い祈ることはなんでも主は聞き入れてかなえて下さると約束されたこと。救いの確信と神の約束、これらはキリスト信仰者にとって大きな励ましと慰めです。これらがあるのだから、心を騒がせる必要はないのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

(後注)もちろん、この説明は大雑把なもので、細かいことを言えば、復活の日を待たずに神の御許に迎え入れられた聖人はいるし、復活も黙示録を見ると2段階あるように書かれています。詳細は人間の理解力では把握できませんが、大きく見れば、この世とあの世の同時併行ではなく、この世がなくなってあの世に取って代わられるということです。

牧師の週報コラム

覚悟と胆力を養うキリスト信仰その10

ルターによる聖句の説き明かしと共に(フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ」25の日課から)

『私たちの忍耐と聖書が与える慰め励ましを通して私たちは希望を持ち続けることができるのです。』(ローマ154節、昨年度のスオミ教会の年間聖句、スウェーデン語訳の聖書”Bibel2000”から)

『この聖句でパウロは二つのこと、すなわち私たちの忍耐と聖書の慰め励ましを結びつけている。聖書は私たちを苦痛、逆境、死から解放してくれない。逆に聖書は神聖な十字架を私たちに負わせる。だから、忍耐が必要になるのだ。まさにその時、聖書は苦しみのただ中にある者を慰めて力づけてくれるものになる。忍耐が萎えることがないように、苦難を突き破って打ち克つことができるように聖書は力づけてくれる。私たちが喜んで勇気を持ってへりくだって苦難に臨むことができるのは、神が繰り返し語るあの御言葉を耳にするからである。「私はあなたと共にいて、あなたを守る。」

キリスト信仰者にとって忍耐強くあるというのは不可欠なことだ。なぜなら、この世の人生とは永遠の死に定められている内なる古い人間アダムを日々死なせていく過程に他ならないからだ。次に到来する世を私たちはまだ手にすることも感じることもできない。それ故、私たちには忍耐強くしがみつく何かが不可欠なのだ。それは神の御言葉に他ならない。神の御言葉に忠実でいれば、私たちは次に到来する世の人生を手に掴んでいることになり、それに繋がっていることになるのだ。私たちは神の御言葉を信頼し、御言葉に踏みとどまる。その時、私たちは安全な船で航海するが如く、この世の人生から次に到来する世の人生に向かって旅をする者となる。御言葉に留まる限り、希望が裏切られることはない。

私たちが苦難にある時、悲しんでいる時、死に直面している時に聖書が私たちを慰めるものになっていれば、それは正しく用いられていることになる。それゆえ、苦しみについて何も知らない者、死を自分に関係ないもののように考えている者は、聖書の慰め励ましについて何も知らないのである。それは言葉を通してだけでは学ぶことはできない。経験を通してでもないとできないのだ。』

スウェーデン語訳聖書を用いた理由 新共同訳は「忍耐」も「慰め」も聖書が与えるものとしています。フィンランド語訳も英語訳(NIV)も同じです。ギリシャ語原文は、忍耐は忍耐、慰めは聖書が与えるという書き方です。ドイツ語のルター聖書(1912年版)はギリシャ語の書き方のまま。スウェーデン語はそれに少し補足した形で分かりやすいので選んだ次第です。

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スオミ教会・フィンランド家庭料理クラブのご案内

5月の料理クラブは16日(土)13時の開催です。

夏に向かって、これからはフィンランドでも新じゃがや野菜が美味しい季節になります。5月の家庭料理クラブでは「リンドストリョーム・ピヒヴィ」(ひき肉とビーツのハンバーグ)を作ります。ビーツがひき肉の味をまろやかにするので、ソースなしでも食べられるハンバーグです。フィンランドでは、ジャガイモ料理と一緒に味わうのが普通です。新じゃがが美味しいこの季節に合わせてオーブンで焼き上げる「ロホコ・ペルナ」(ポテトウェッジ)も作ります。今回のメニューはフィンランドの典型的な家庭料理の一つです。

「リンドストリョーム・ピヒヴィ」と「ロホコ・ペルナ」を一緒に作ってみませんか?

皆さんのご参加をお待ちしています!

参加費は一人2000円です。

どなたでもお気軽にご参加ください。お子様連れでもどうぞ!
皆さんのご参加をお待ちしています!

お問い合わせ、お申し込みは、 paivi.yoshimura@gmail.com まで。

5月の予定

歳時記

ヤマザクラの実

ソメイヨシノの実

サクランボウ

27夜昼、寝起きしている間に、種は芽を出して育って行くが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。28 地はおのずから実を結ばせるもので、初めに芽、つぎに穂、つぎに穂の中に豊かな実ができる。 マルコ42728

散歩の途中でソメイヨシノの枝に小さな実が成っているのを見つけました。確かソメイヨシノはクローン桜で実はつかないと思っていましたが調べてみると稀にですがソメイヨシノも周囲に山桜などの他の桜の木があれば受粉をして結実をするようです。ソメイヨシノをはじめ多くの桜は様々な環境に適応できる、多様な性質をもった子孫を残すために同じ遺伝子の花粉では受粉できない仕組みになっているとありました。ソメイヨシノのサクランボウがその後どのようになるかに興味が湧きました。一方、山桜の木には小さな桜の実が一杯ついていました。六月頃になると更に大きくなり黒ずんできます、その頃が丁度食べ頃となりサクランボウ好きが三々五々やってきて味見をしながら批評し会っています。我が家は二人ともその仲間となり味比べに参加しています、皆それぞれに好みの木があるようでこの季節が待ち遠しいです。

牧師の週報コラム 

覚悟と胆力を養うキリスト信仰その9

ルターによる聖句の説き明かしと共に(フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ」26日の日課から)

『我らに日ごとの糧を今日も与えたまえ』(マタイ611節)

『あなたは、「父なるみ神よ、我らに日ごとの糧を今日も与えたまえ」と祈る時、それは次の内容を含んでいると理解せよ。「父なるみ神よ、この哀れで苦しむわが身を神であるあなたが発する言葉をもって強め励まして下さい。私は、あなたの御手が重くのしかかるのを耐えられません。しかし、耐えられないと、私は破滅してしまいます。だから、父よ、あなたが私を強めて勇気を失うことがないようにして下さい。」

神が我々に苦しみや困難が降りかかるのをお許しになる際に、我々に求めていることは、我々が右往左往したりあちこちに目を移すことではない。そのような時こそ一層神のもとに留まり神だけに目を注ぐことである。やみくもに苦しみや困難からの脱出を計ってはならない。そんなことをしたら、神の意志が我々を通して実現されるのを妨げてしまう。それは我々の利益ではない。我々は、そのような神の意志に最後まで付き合うことができる強さを身に着けることを求めなければならない。なぜなら、人間は誰一人として神から強めてもらわない限り、怖れを抱かずに苦しみや困難に立ち向かうことはできないのだし、また神が定めた時を示される時に怖れを抱かずに死に立ち向かうこともできないからだ。一切の被造物は、この「強める」ことができない。全ての被造物とりわけ人間というものは、そこから力づけを得ようとすれば、逆に我々をますます無力にし不安定で軟弱なものにするだけである。それ故、罪の赦しを保証する神の御言葉が我々を強める他はないのである。これこそが、我々が祈り求める「日ごとの糧」である。

マタイ福音書11章で主は、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と言われる。このような、神の御言葉を糧にして、神の意思の中に踏みとどまり、神に強めてもらうという教えは、聖書に満ちている、満ちている、満ちている。』(以上、ルターの説き明かし、吉村の激訳でした。)

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手芸クラブの報告

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4月の手芸クラブは22日に開催しました。この日は太陽が明るく輝き様々な花も咲くようになって美しい季節の朝でした。

今回の手芸クラブのテーマは前回に続いてモチーフ編みです。初めにモデルを見て自分の作りたい正方形の編み物を選びます。参加者の皆さんは前回にもモチーフ編みをされたので、今回はスムーズに編み始めることができました。お家で編まれた方は可愛い彩りの正方形の編み物を何枚も持ってこられました。皆でそれを見て、「わぁー可愛い!」「素敵」「きれいな色合い」と感心の声をあげました。モチーフ編みは鎖編みと中網の繰り返しだけなので、皆さんはマイペースで編み進めます。次第に作品の形が見えてきました。皆さんの手は早く、何枚も正方形を編まれました。正方形の数が増えると、最後はどんな作品になるか、完成品が楽しみです!

編み物に集中すると目や手が疲れます。コーヒータイムで一息入れることにしました。今フィンランドの季節は5月のお祭Vappu(メーデー)に近づいているので、季節のドーナツ菓子Munkkiを味わいながら楽しい歓談の時を持ちました。そこでパイヴィのお祖母さんたちの思い出話や、新約聖書のフィリピの信徒への手紙の「思い悩むな」についてお話を聞きました。

次回の手芸クラブは5月27日の予定です。詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。

 

手芸クラブのお話2026年4月

今日の手芸クラブはモチーフ編みの続きをしました。皆さんは素敵な彩の正方形の編み物を何枚も編みました。それらをつなぎ合わせると、どんなものになるのかこれからの楽しみです。この編み方は英語でグラニースクエア(おばあちゃんの正方形)と言い、フィンランド語でも同じ意味「Isoäidin neliö」と呼ばれます。とても可愛い呼び名の手芸です。昔お祖母さんたちが始めた編み方かもしれません。昔、お母さんたちは家族の皆の靴下や手袋などを編んでいたので、毛糸が沢山余ったでしょう。お祖母さんになってから余った毛糸を使ってモチーフの編み方が生まれたかもしれません。

私はこのIsoäidin neliöという言葉を聞くと、自分のお祖母さんたちのことをよく思い出します。母の母である私のお祖母さんはかぎ針編みがとても上手でレース編みのカーテンやベッドのカバーなどを編んでいました。彩のモチーフ編みの美しいベッドカバーも作りました。11人の子どもを育てたお祖母さんは手袋や靴下を沢山編みました。余った毛糸を使ってモチーフ編みのベッドカバーを編みながらいろいろ思い出を巡らせていたのだろうと思います。

私のもう一人のお祖母さん、父の母はかぎ針編みはしませんでしたが、棒編みで靴下を冬でも夏でも編んでいました。家族の皆は毎年クリスマスプレゼントに暖かい靴下をもらいました。いつもサンタの奥さんが編んでくれたかのように思いました。父の母は私たちが住んでいた家と同じ家に住んでいました。母は農家の仕事で忙しかったので、お祖母さんは私たち兄弟姉妹の世話をしてくました。

一緒に過ごす時間が多くて私たちはお祖母さんととても親しくなりました。お祖母さんは聖書を毎日読んでお祈りを大切にしていました。私たち兄弟姉妹は学校でテストの日や勉強で忙しい時に少しプレッシャを感じることがありました。そんな時お祖母さんはいつも聖書の御言葉で励ましてくれました。お祖母さんがよく言われた言葉は今でも印象に残っています。それは新約聖書のフィリピの信徒への手紙の言葉です。

「どんな時でも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めた祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなた方の心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」
フィリピの信徒への手紙4章6-7節

子どものころこの言葉を聞いてもその意味を深く理解することはできませんでした。しかしお祖母さんはこの言葉でいつもで励ましてくれて、そしていつもお祈りしてくれたので心は軽く感じられました。大人になってからこのことを思い出すと感謝の気持ちで一杯になります。

この使徒パウロが語った言葉はどのような意味があるのでしょうか。

私たちは生活の中で心配事や悩む事が多くあると思います。そのようななかで生きていると、人生に対する喜びや希望を失ってしまうこともあります。しかし、いくら悩んでも何かを得ることは出来ず、ただ疲れてしまうだけです。では私たちはどうしたらよいのでしょうか。

神さまは私たちにとても大切なことを与えて下さいました。それは祈りです。祈りを通して天の神さまに全てのことを打ちあけることができます。私たちは全ての悩みを神さまの力強い御手に委ねることがでるのです。神様が私たちの祈りにどのように答えて下さるのかは分かりません。神さまは私たちの造り主であり、私たちに最も相応しい答えを与えて下さいます。また、神さまは私たちの父でもあるので、相応しくないものを与えることはなさいません。私たちは、神様が与えてくださったことにすぐ気がつかないこともあるかもしれませんが、神様は心の中に平安を与えて下さいます。どのような状態にあっても、お祈りすることで全てのことを神さまの御手に委ねることができるので、心の中に平安を得ることができるのです。

お祖母さんが教えてくれた聖書の箇所は今でも私を励ましてくれる言葉の一つです。聖書には励ましてくれる言葉は数多くあり心を癒してくれます。

最後に旧約聖書のイザヤ書のみ言葉です。

「恐れることはない、私はあなたたと共にいる神。たじろくな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助けわたしの救いの右の手であなたを支える。」
イザヤ41章10節

私たちは、神さまのみ言葉を信じることができれば、心は軽くなり、平安に満たされます。

 

 

 

4月の料理クラブの報告

4月の料理クラブは18日、つつじが咲き始めた初夏のような陽気の中で開催しました。今回はこの季節にピッタリのシュガーフレーク・フルーツケーキを作りました。

料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。最初にケーキの生地を作ります。今回はハンドミキサーは使いません。ケーキの粉類を計ってそれに溶かしたマーガリンを加えると、シュガーフレークのもとが出来ます。トッピング用にその一部を取っておきます。残りのものに生地用の他の材料を順番に混ぜ加え、それを型に伸ばします。

その次は中身の番です。水切りしたヨーグルトに砂糖、レモン汁を加えてクリーミーにし、それを生地の上に注ぎます。細かく切った缶詰のピーチとパイナップルをクリームの上に並べトッピングのシュガーフレークをかけて、ケーキをオーブンに入れて焼きます。ケーキが焼けている間にパプリカとキューリを切ってクラッカーの上にのせるなどして、塩気のものも少し準備しました。

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ケーキが焼けると美味しそうな香りが教会中に広がり、きれいな黄色のケーキが焼き上がりました。みなさん、「春らしいケーキね!」と声を合わせます。
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ケーキを少し冷ましてから切って、ケーキとクラッカーをコーヒー紅茶と一緒に美味しく頂きながら、楽しい歓談のひと時を過ごしました。キリスト教会では2週間前にイースター・復活祭のお祝いをしました。それで、今回の話は今日作ったケーキのことやイースターの後に起こった出来事についてでした。

次回の料理クラブは5月16日に予定しています(ご注意 5月は月の第三土曜日になります)。 詳しい案内は教会のホームページをご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。

料理クラブのお話2026年4月

今日は「シュガーフレーク・フルーツケーキ」を作りました。フィンランドでは黄色のフルーツケーキはイースター・復活祭のお祝いの時によく作られます。以前、料理クラブでは似たようなピーチケーキを作りましたが、今回はピーチに加えてパイナップルもケーキの中に入れました。水切りヨーグルトを使ったしっとりしたケーキにトッピングのシュガーフレークを‘かけると、ケーキの風味が高まり美味しくなります。

この季節になるとフィンランドの家庭では、前の年に冷凍したベリーを殆ど使い切ってしまうため、ケーキ作りには缶詰のフルーツが使われます。パイナップルもその一つです。パイナップルは甘いお菓子だけではなくて肉料理やピザ、サラダなどにも使われます。

パイナップルは熱帯地域で育つ果物です。実が出来るまで2年もかかります。昔はとても希少で高価な果物で、身分の高い客をもてなすために使われたりしましたが、現在では生や缶詰のものがどこでも販売されているので、かつての特別な意味を知る人は少ないと思います。

今日のケーキは黄色いフルーツに加えて水切りヨーグルトも使ったので、イースターのケーキのイメージが高まりました。ちょど2週間前には教会ではイースターのお祝いをしました。これから聖書にあるイースターの後で起こった出来事についてお話したく思います。

イースターとは何の日でしょうか。それは、十字架にかけられて亡くなられたイエス様が神様の力で復活されたことを覚えてお祝いする日です。十字架の死から三日後の朝、復活されたイエス様が弟子たちや彼の教えをよく聞いていた女性たちの前に現れました。そして同じ日の夜、弟子たちがある家に集まっていると、突然イエス様が部屋の真ん中に立って「あなた方に平和があるように」と言われました。弟子たちは幽霊だと思って恐れました。しかし、イエス様は弟子たちに自分の手と足と十字架の時に受けた傷を見せて、幽霊には骨も肉もないが自分にはあると言われました。弟子たちは最初驚くばかりで信じられない気持ちでしたが、次第にイエス様の復活を本当のことと分かって、心が平和に満たされていたのです。

イエス様は弟子たちの前に現れた時、一番初めに「あなたがたに平和があるように。」という挨拶の言葉を語りました。つい三日前の金曜日、イエス様は十字架に付けられて死なれました。その時の弟子たちは皆、イエス様を見捨てて逃げてしまいました。悲しんで後悔している弟子たちに、復活されたイエス様は責めるようなことは何も言わず、ただ「あなたがたに平和があるように」と挨拶されたのです。

神様が平和を与えて下さるという約束は、聖書の中で最も重要な約束の一つです。この神さまの約束は私たちにも向けられています。しかし私たちは今生きているこの世界の中で本当に平和に生きることができるでしょうか。今この世界は落ちしく揺れ動き国と国の間の紛争や戦争が数多く起こり、それらがどれくらい広がっていくか不安に感じさせます。さらに私たち一人一人の生活の中にも様々な不安があります。自分や家族の健康のこと、自分や子どもたちの将来のこと、人間関係のことなど多くの心配ことがあると思います。このような状態の中でどのようにして平和な心で生きられるでしょうか。イエス様が与えて下さる「平和」とはどんな平和でしょうか。

イエス様が言われた「平和」とは神さまが私たちの心に与えて下さる平和です。イエス様のお掛けで神さまと私たちは平和な関係があるという平和です。全ての造り主の神さまと平和な関係があるとわかれば、神様が共におられることが分かり、神さまを信頼して生きることができます。この時私たちの心の中には神さまからの平和があります。神さまは不安や悩みにとらわれている私たちを解放して全てを御手に委ねることができるようにしてくださいます。その時私たちは心の平安を得ることができるのです。

イエス様は弟子たちと出会われた時に彼らはイエス様に起こった出来事のために恐れに満たされ不安で一杯でした。しかしイエス様は彼らに「あなた方に平和がありますように」と語りかけました。私たちも弟子たちと同じです。生活の中に心配事があるかもしれませんが、イエス様は私たちにも「あなた方に平和があるように」と励まして下さいます。

何かを恐れている人、心配なことや後悔がある人も皆、イエス様のおかげで神様と平和な関係が持つことができるとわかれば、心に平安を得ることができるのです。イエス様は私たちにもこの励ましの言葉「あなた方に平和がありますように」と語りかけておられます。

2026年4月26日(日)復活節第四主日 礼拝 説教 吉村博明 牧師

主日礼拝説教 2026年4月26日 復活後第四主日

使徒言行録2章42-47節

第一ペトロ2章19-25節

ヨハネ10章1-10節

説教題 「罪の赦しという神のお恵みに留まって生きる」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

本日の福音書の日課はイエス様のたとえの教えです。最初の1節から5節までをもう一度見てみます。

「羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊を連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」

これは、当時の社会のごく日常的なことを言っています。羊の飼育が盛んなところでは、羊を牧草地に連れて行かない時は木材や石材で作った塀の囲いの中に入れていました。泥棒が「乗り越える」と言うから、それなりの高さがあったのでしょう。イエス様の話し方からすると、囲いの中には複数の所有者の羊が一緒に入れられていたことがわかります。ある羊飼いが、さあ、これから僕の羊を牧草地に連れて行こう、とやってくる、門番に本人確認をしてもらって門を開けてもらう、そして、自分の羊を呼び集める。羊は羊飼いを声で聞き分けられるので、別の羊飼いが近づいてくれば、すぐわかって引き下がる。こうして、羊飼いと羊の群れは一緒になって囲いの外に出て牧草地を目指して進んでいきます。

これは、当時の人には日常的な当たり前な話でした。ところが、これを聞いたファリサイ派の人たちは「その話が何のことか分からなかった」のでした(6節)。どうしてかと言うと、当たり前のことなので話としてはわかるが、だから一体何なのだという感じになったのです。その反応を見たイエス様は今度は、自分は囲いの門であると言い、さらに自分は良い羊飼いであると言います。本日の日課は囲いの門のところまでです。

これらのたとえが何を意味しているかは、イエス様の十字架の死と死からの復活の後でわかるようになります。そもそもイエス様の教えというのは、十字架と復活の出来事と結びつけて、その出来事の意味を知った上でないとわからないのです。それは本日の箇所に限ったことではありません。イエス様の十字架や復活を度外視してイエス様の教えを理解しようとすると、イエス様が教えようとしたことからどんどん離れていきます。注意しないといけません。

私たちは十字架と復活の出来事が起きたことも、その意味も知っているので、今日のたとえの意味をわかる立場にあります。以下それを見ていきましょう。

2.イエス様は羊の囲いの門

9節「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。」ここで注意すべきことは、日本語訳では「門を出入りして」と言って、出たり入ったする日常的な放牧のイメージを出しています。ところが、原文では、「囲いの中に入って、外に出ていく」と言っています。それも未来形で言っています。牧草地を見つけることも未来形で言っています。つまり、囲いの中に入ることと外に出ていくこと、そして牧草地を見つけることは全て日常的な放牧を超えた事柄を意味しているのです。それはどんな事柄でしょうか?さあ、十字架と復活の意味を知る者の出番です。

イエス様という門を通って中に入るというのは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けてキリスト信仰者の群れに入ることを意味します。それは、人間に命と人生を与えた創造主の神と結びつきを持ってこの世の人生を歩む者たちの群れです。そして、この世から別れても将来の復活の日に眠りから目覚めさせられて復活の体を着せられて神のみもとに永遠に迎え入れられる者たちの群れです。永遠に迎え入れられる神のみもととは、「神の国」とか「天の国」とか呼ばれるところです。8節で言われるように、彼らはいろんな霊的な声がするのを聞いたけれども聞き従わず、イエス様の声だけに聞き従った者たちです。

このようにイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、イエス様という門を通って中に入って救われた群れに加わる。そうすると、今度は「外に出て牧草地を見出す」ことになります。これは、イエス様を羊飼いのように先頭にしてこの世の荒波の中に乗り出して行き、最後は緑豊かな牧草地にたとえられる神の国に到達することを意味します。荒涼として渇いた荒地を長く歩いた羊にとって牧草地は安息の場です。それと同じように、この世の荒波を生きぬいた者たちにも神の国という安息の地が約束されているのです。

このように、この世の人生を天地創造の神と結びつきを持って生き、神の国に迎え入れられる日を目指して進み、最後には迎え入れが実現する、この世とこの次に到来する世の二つの世の人生を生きられること、これが「救われる」ことです。10節で「命を持つことが出来るように、それももっともっと持つことが出来るように」と言っているのは、まさに二つの世にまたがる壮大な人生を生きることを意味します。

二つの世にまたがる人生を生きられるために、なぜイエス様を救い主と信じて洗礼を受けないとダメなのか?それは、神と結びつが必要不可欠で、その結びつきはイエス様を抜きにしては持てないからです。もともと人間は天地創造の時に造られた時は良いものとして神との結びつきを持っていました。ところが、神の意思に反しようとする性向、罪を持つようになってしまったために失われてしまったのです。神聖な神との結びつきを回復するためには、人間は内に持っている罪をどうにかしなければならない。人間は自分の力で罪を除去できないというのが聖書の立場です。この問題を解決するために神はひとり子をこの世に贈ったのです。あたかも彼が全ての人間の罪の責任者であるかのようにして彼に人間の罪を全て背負わせてゴルゴタの十字架の上に運び上げさせて、そこで神罰を受けさせたのです。人間の罪の償いを神のひとり子に果たさせたことは、本日の使徒書の日課、第一ペトロ2章でも言われていました。そこでペトロは十字架の出来事が旧約聖書イザヤ書53章の預言の成就だったことを証ししているのです。

そこで今度は人間の方が、これは本当に起こったんだとわかって、それでイエス様は救い主だと信じて洗礼を受けると、罪の償いはその人にその通りになり、罪が償われたからその人は神から罪を赦された者として見なされるようになり、罪を赦されたから神との結びつきを持てて生きられるようになるのです。

このように、私たちが神との結びつきを持てて、今のこの世と次に到来する世の二つにまたがって生きられるようになるためには、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けるかどうかにかかっているのです。まさにこれがイエス様という門を通って救われた群れに加わるということなのです。イエス様はさらに、救いの門は自分一つだけであるということをヨハネ14章6節で宣言します。

「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」

3.勧めと励まし 罪の赦しというお恵みに留まって生きる生き方 その1

こうして、イエス様という門を通って救われた群れに加わった者は今度は、良い羊飼いのイエス様を先頭にして囲いを出て荒波猛るこの世に乗り出していきます。牧草地に例えられる永遠の安住の地、神のみもとに向かって進んでいきます。その進みはどのような進みでしょうか?詩篇23篇はこの進みの現実を的確に言い表わしています。4節「たとえ我、死の陰の谷を往くとも、禍を怖れじ。汝、我と共にませばなり」。つまり、死の陰の谷を通らなければならない時もある、だから、いつも安全とは限らない、しかし、主が共にいるから安心なのだ、と言っています。キリスト信仰者にとって死の陰の谷に例えられる危険とはどんな危険でしょうか?

それは、キリスト信仰者がゴールに到達できなくなるようにする危険です。そのために神との結びつきを失わせようとする危険です。キリスト信仰者はそうした危険に囲まれて生きています。イエス様を救い主と信じ洗礼を受けたと言っても、神の意思に反しようとする性向、罪はまだ私たちの内に残っています。もちろん、罪の赦しがある以上、罪は残っていても信仰者を神罰下しに陥れる力はなくなっています。それでキリスト信仰者は、この罪の赦しは神のひとり子の尊い犠牲と引き換えに頂いたものだからそれを台無しにするような生き方はやめよう、神の意思に沿うように生きようと志向します。ところが、実生活を生きていると自分には神の意思に反することが沢山あることと気づかされます。神に失格者と見なされてしまうのではと心配したり、そういう至らない自分にがっかりします。しかし、その時は直ぐ心の目をゴルゴタの十字架に向けます。あの時あそこに打ち立てられた罪の赦しは今も微動だにせず打ち立てられていることがわかります。これがキリスト信仰者の希望です。信仰者は神の意思に沿うようにしなければと再び心を新たにし、そのような再出発を可能にして下さる神に感謝します。

キリスト信仰者は実にこのような罪の自覚、赦しの願い、赦しの確認を繰り返しながらこの世を歩んでいきます。これこそが罪の赦しのお恵みに留まる生き方です。この世には、キリスト信仰者をこの繰り返しの人生から引き抜こうとする力が沢山働いています。それが、本日の福音書の個所でイエス様が盗人とか強盗と言っているものです。お前は何をしても赦されないと言って絶望に陥れたり、または、そんなのは罪でも何でもないから平気だよ、などと言って神を畏れる心を失くさせようとする力です。さらには、十字架や復活なんて本当のことじゃないよ、などと言って聖書を嘘つき扱いします。しかし、私たちはそれらには耳を貸さず、ただひたすらに罪は罪として認めて心の目をゴルゴタの十字架に向けて罪の赦しの恵みに留まります。そうすることが罪に反抗して生きている、罪を憎んでいることの証しになります。人間は神がお恵みのように与えて下さった罪の赦しにひたすら留まることで神から義とされるのです。

4.勧めと励まし 罪の赦しというお恵みに留まる生きる生き方 その2

このように罪の赦しのお恵みに留まって生きるというのは、イエス様という門を通って救われた者が復活の日の神の国を目指して進んで行く時の生き方です。この時、罪の自覚と赦しの確認を繰り返すことがこの恵みに留まって生きることになります。

罪の赦しの恵みに留まって生きることには、もう一つ大事なことがあります。それは、罪の赦しが神からの一方的なお恵みであるということが真理であるという生き方をすることです。人間が何か神の目にかけられるようなことをして、その見返りとして赦しが与えられるということではない。あるいは、イエス様は十字架と復活をやった、自分はそれに何かを付け加えて赦しを確実なものにするということでもない。罪の赦しは徹頭徹尾、神が人間にして下さった純粋に神的な業で、人間はそれに対して何も付け加えたり加工したりできない、完全に純粋に神のお恵みである。そう観念して、罪の赦しがお恵みとして保たれるようにする。これこそ罪の赦しのお恵みに留まって生きることです。

この生き方を本日の使徒書の日課、第一ペトロの個所が明確に教えています。

20節「しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。」「神の御心に適うことです」と言っているのはギリシャ語原文を直訳すると「神にすれば恵みです」です。善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶのは、神から見れば恵みだと言うのです。日本語に訳した人がギリシャ語のカリスを「神の御心に適うこと」と訳したのは、「恵み」という日本語は何かいいものを豊かに受けるという意味なので、善を行って苦しみを受けるのを「恵み」と言うのに違和感を覚えたのではないかと思います。フィンランド語の聖書ははっきり「恵み」と訳しています。19節も同じです。「不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心にかなうことなのです。」とありますが、ここも「御心にかなうこと」は、ギリシャ語原文ではカリス「恵み」です。フィンランド語の聖書ではちゃんと「恵み」と訳しています。不当な苦しみを受けることになるのが「恵み」だと言うのです。19節でもう一つあります。「神がそうお望みだとわきまえて」とありますが、ギリシャ語原文を直訳すると「神の良心のゆえに」です。「神の良心のゆえに不当な苦しみを受ける」とは一体どんな意味でしょうか?これはまさしく、かつてルターがドイツの帝国議会で自説を撤回せよと迫られた時、「私の良心が神のみ言葉に縛られているゆえに」と言って拒否した、「良心が神に縛られている」ことです。フィンランド語の聖書もずばり、「良心が神に縛られているゆえに苦痛を耐えるのは恵みなのである」と訳しています(後注)。

さあ、大変なことになりました。善を行うことが裏目に出て不当な苦しみを受けることになっても、良心が神に縛られているために、それを回避しないで耐える、これは神からすれば恵みであるというのです。そんな恵みがあるのでしょうか?実は、ここに「恵み」の本質があるのです。

そういうことが恵みであるというのは、まさにぺトロが言うように、善を行えという神の命令に従う時、褒められもせず褒美ももらえず、逆に不当な扱いを受けて苦しんだり耐えなければならない方が、恵みが恵みとして保たれるのに好都合なのです。もし褒められたり褒美をもらってしまったら、善い業をすると見返りがあることが当然になってしまいます。罪の赦しは見返りでも褒美でもない、神の一方的なお恵みです。善い業は神の命令だからしなければならない、しかし、それは神に目をかけてもらって罪の赦しを得られることとか、救われることとかには何の関係もない、何の役にも立たない、だけど、神の命令だからしなければならない、それだけです。善い業をすることは神から赦しや救いを受けることと何の関係もない、何の役にも立たないということは、善い業をすることで不当な扱いを受けて苦しむ時に一番はっきりします。この時、神の命令はもう普通考えらる律法とは異っています。善い業を行って裏目に出たら嫌だ、褒められたり褒美をもらえるほうがいいと思って行うと、命令は律法になります。ペトロの教えは、神の命令が律法でなくなる教えなのです。神の恵みが恵みとして保たれるようにする教えです。極端な教えですが、それだけに真理をついているのです。

もちろん、現実には善い業を行ったらいつも必ず不当な扱いを受けるというわけではありません。しかし、そういう理にかなわないことはありうるのだ、その時が来たら神の命令を律法にしないで行える最上のチャンスなのだと心の中で準備する。そうすれば神の恵みを恵みとして保つ姿勢が出来ていることになります。

これとは逆に褒められたり褒美を与えられたりしたらどうしたら良いでしょうか?その時は、ルカ17章でイエス様が教えたことを思い出します。「自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足らない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」ただし、これを人前で口にすると恐らく、何を気取ってやがるんだ、などと言われるのがおちでしょう。なので、それは心の中で言って、人前ではニコニコ顔で感謝の言葉を述べるのがいいでしょう。しかし、心の中では、褒め言葉や褒美が自分の中に蓄積しないように、父なるみ神よ、これはあなたのものです、と言って、天に向かって一生懸命に押し上げます。こうすることも、自分の業は救いに関係ない、役に立たないという姿勢の表われになります。

以上、罪の赦しというお恵みに留まって生きるとはどういう生き方かお話ししました。一つは、日々罪の自覚と赦しの確認を繰り返して生きること。もう一つは、恵みが恵みとして保たれるように生きることでした。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

(後注)この19節と20節は、日本語、英語、ドイツ語、スウェーデン語、フィンランド語の聖書の訳を比べると皆さんとても苦労していることがわかります。興味深いことに、ドイツ語とフィンランド語は堂々と「恵み」と訳しています。

歳時記

キランソウ

〈ヒソプをもって、わたしを清めてください、わたしは清くなるでしょう。わたしを洗ってください、わたしは雪よりも白くなるでしょう。 詩編 51:7〉

早春の叢に地面を這うように一群の小さな草花を見かけます、その草花はやがて周りの草などの成長に伴って何時しか消えてしまいます。先日、尾根緑道の脇道の石垣にあの地を這うように咲いていた草花を見つけました。その名も「キランソウ」と言う野草でした。キランソウは別名「医者殺し、地獄の釜の蓋」などと可憐な花に似合わない名がついていて万病に効く薬草として知られてきました。石垣ならば他の草花にも邪魔をされずに存分に成長が出来ますね、石垣はキランソウの安住の地でもありました。