来週の礼拝:4月29日 復活後第4主日

聖書 使徒言行録 8:26~40

   Ⅰヨハネ  3:18~24

   ヨハネ   15:1~10

賛美歌 92 119 366 164

司式 吉村博明 宣教師

説教 吉村博明 宣教師

奏楽 井川幸子 姉

当番 堀越 明 姉

応対 堀越教子 姉

 

説教「自己犠牲を厭わない愛」神学博士 吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書21章15-19節

主日礼拝説教 2018年4月22日 復活後第三主日

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.神の栄光を現わすということ

今日は福音書の日課をもとに二つのテーマについてお話ししたく思います。一つ目は、福音書の箇所の終りでイエス様が、ペトロがどのような死に方をするのかを預言しているところです。この福音書の記者であるヨハネはその死に方を神の栄光を現すものと解説しています。それで、この「神の栄光を現す」ということについて考えてみたく思います。二つ目のテーマは、イエス様を愛するとはどういうことか、という本日の説教題に直接かかわることです。

まず「神の栄光を現すこと」についてみていきましょう。キリスト教会の古い言い伝えによれば、使徒ペトロは西暦63ないし64年頃にローマで殉教の死を遂げました。ちょうどキリスト教徒迫害で有名な皇帝ネロの時代です。ペトロは十字架にかけられる時、自分は主と同じ死に方をする値打ちはない、と兵隊たちに言ったところ、それじゃ、これで満足だろう、と頭を下にして逆さまに十字架につけられたということです。本日の箇所にあるイエス様の預言「お前は若かった時には腰に帯びを縛って行きたいところを歩き回ったが、年を取った時、お前は両手を広げ、別の者がお前を縛って、行きたくないところに連れて行く」(ヨハネ21章18節)、これは、起きた出来事を知っている後世の人からすれば、十字架刑に処せられることだなとわかります。しかし、まだ出来事が起きる前の人たちにとっては、なんのことかわからなかったでしょう。福音書記者のヨハネはペトロの処刑を目撃したか、またはその知らせを耳にしたのでしょう。その時、ああ、あの時ガリラヤ湖畔で復活の主がペトロに言ったことは、このことを意味していたのだ、と事後的にわかったのです。

さて、ペトロの殉教は、ヨハネが19節で解説しているように、神の栄光を現すものでした。これは私たちをしばし考えさせます。神の栄光を現すというのは、これくらいのことをすることなのか、と。日々平穏無事に過ごしていたら、それは神の栄光を現す生き方ではないのか、と。ここで注意しなければならないことは、天の父なるみ神の栄光や栄誉というものは、被造物である私たちの業績や達成に左右されない、ということです。私たちの業績や達成が多かろうが少なかろうがそんなことに関係なく、神は超然として既に栄光と栄誉に満ちた方です。それならば、私たちが神の栄光を現すというのはどういうことでしょうか?

それは、神の動かすことのできない真理を、私たちが自分の言葉や行いや生き方を通して人前で証しすることです。つまり、あなたは何者かと問われたら、私は次の三つの者である、と答えることです。三つの者とは、まず、私は、天地とそこに収まる全てのものを造られた神に造られた者である、と答えること。次に、神聖な神の前に立たされても、神のひとり子イエス・キリストの身代わりの犠牲のおかげで大丈夫でいられる者である、と答えること。三つ目は、この世の人生の向こうで造り主である神のもとに永遠に戻ることができる道を今歩んでいる者である、と答えること。以上の三つを胸をはって答えることです。何も問われなければ、そのような者として胸をはって生きるだけです。

このような神の真理に従って胸をはって生きていこうとすると、いろんなことに遭遇します。そんな真理は取り下げないと命はないぞ、という迫害の時代だったら殉教しかないでしょう。しかし、自分は造り主に造られた者であるということをどうして取り下げられましょうか?また、自分は造り主が送られたひとり子の身代わりの犠牲によって罪が償われて新しい命を頂いたことをどうして取り下げられましょうか?そして、自分は造り主の神に見守られてこの世を生き、神の御許に戻る道を今歩んでいることをどうして取り下げられましょうか?ペトロは、「取り下げない」生き方をしたら一巻の終わりになるという時代状況にあって、それを貫いてこの世の人生を終えたのです。そうすることで神の真理を証しし、神の栄光を現したのです。

私たちの生きている時代状況はどうでしょうか?神の真理に従って生きようとしたら、どんなことに遭遇するでしょうか?良心・信条の自由が保障されている現代社会ならば何も問題なく平穏無事でしょうか?人間がどこから来てどこに向かって行くのかということについてキリスト信仰と異なる立場を取る人たちが社会の多数派を占めていれば、いろいろ軋轢が出て来るでしょう。多数派にいれば考えなくて済むようなことをいろいろ考えなければならなくなるでしょう。でも、そういう余計なことを抱え込むことも、現代社会では神の栄光を現わすことになると思います。少数派が黙っていたら、多数派は何も気づかず、みんな同じ考えでいると勘違いしてしまうので、口に出すことは良心・信条の自由が存在するためにも非常に大事なことです。

 

2.神の自己犠牲を厭わない愛

 次に二つ目のテーマ「イエス様を愛するとはどういうことか?」についてみていきましょう。まず初めに、イエス様とペトロの対話をみてみましょう。イエス様が「私を愛しているか?」と三度ペトロに同じ質問をしたことは、十字架の出来事の時にペトロがイエス様のことを人前で三度「知らない」と言ったことに対応すると言われています。「私はあなたを愛しています」とペテロに三回言わせることで、拒否したことを赦す意味合いがあるとみなされています。ここでは、もう少し詳しくこの対話をみてみます。

 イエス様が「私を愛しているか?」と聞く時のギリシャ語の動詞「愛する」と、ペトロが「私はあなたを愛しています」と答える時の動詞「愛する」が違っています。イエス様が聞く時の動詞はアガパオーαγαπαωという動詞を使いますが、ペトロが答える時の動詞はフィレオ―φιλεωという動詞を使います。新共同訳では両方とも「愛する」と訳しているので、この区別が見えません。二回目のイエス様の質問とペトロの答えも同じです。三回目になると今度は、イエス様は突然動詞を変えてペトロと同じ動詞フィレオ―で聞きます。そしてペトロはフィレオ―で答えます。この二つの動詞の違いを見てみましょう。

 「愛」とか「愛する」という言葉は厄介なものです。というのは、この言葉は、一般には男女の情愛とか性愛の意味が強くこめられることが多いので、それ以外の愛の形が背後に退きがちになるからです。当スオミ教会で以前牧師をされていたヘイッキネン先生が言っていたのですが、日本で中学生位の女の子たちに聖書の勉強会を行っていた時、「イエス様は私たちを愛されました。私たちもイエス様を愛して、互いに愛し合いましょう!」と言ったら、女の子たちは互いに顔を見合わせてくすくす笑っていたということです。

古代ギリシャ語は、異なる形の愛を異なる言葉で言い表していました。男女間の情愛とか性愛に関係する愛はエロースερωςと言っていました。兄弟愛とか同志愛とでも言うべきものとしてフィラデルフィアφιλαδελφιαという語がありました。対象が兄弟や同志より広がって人間愛を意味する時は、フィラントローピアφιλανθρωπιαという語が使われました。本日の箇所のペトロの答え「愛しています」に出てくるフィレオーという動詞は、このフィラデルフィア、フィラントローピア兄弟愛、同志愛、人間愛に結びついた愛です。

それでは、イエス様がペトロに聞く時に使った「愛する」アガパオーはどんな愛でしょうか?ヨハネ福音書13章34節と15章12節をみると、イエス様は弟子たちに新しい掟を与える、と言って、「私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と命じます。その時、イエス様の弟子たちに対する愛も、またそれを模範にして弟子たちが互いにしなければならない愛もアガパオーです。それでは、イエス様が弟子たちを愛する愛とはどんな愛でしょうか?ヨハネ15章13節でイエス様はこう言います。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」ここでは、愛は動詞ではなく名詞のアガペーαγαπηですが、動詞のアガパオーも名詞のアガペーも同じ愛の形を意味します。ここで、アガパオー、アガペーの愛の形は、自分の命を犠牲にすることも厭わないことが関係してくることが明らかになります。

そうすると、兄弟愛、同志愛、人間愛は自己犠牲をしないのか、それらの愛にも大切な人のために自分を犠牲にするということがあるのではないか、と思われるかもしれません。ここは、日本語の言葉に囚われず、もう一度ギリシャ語の言葉を見てみますと、兄弟愛、同志愛のフィラデルフィアと人間愛のフィラントローピアですが、新約聖書の中でのそれらの使われ方を見ると、親切とか思いやりとか友好的とか敬意を払うとか、そういう人間同士が平和な関係でいられる態度ないし行動様式のように使われています(ローマ12章10節、使徒言行録28章2節、形容詞として第一ペトロ3章8節、副詞として使徒言行録27章3節、ただしテトス3章4節は神のものとして)。その意味でそれらには自己犠牲を厭わないくらいの強い愛はないと言えます。

そうすると、例えば親が子供の命を守るために自分を犠牲にするということが起きれば、それはアガペーの愛になります。聖書は、天地創造の神の人間に対する愛はまさにそういうものであると教えます。人間に対する神の愛が自己犠牲をも厭わない愛ならば、それでは神は人間を何の危険から守るためにどんな犠牲を払ったのかということをはっきりさせなければなりません。「ヨハネの第一の手紙」4章10節で次のように言われています。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」ここで言われる「愛」、「愛する」は、アガペー、アガパオーです。その愛の内容は、人間が造り主である神のもとに戻れるのを妨げていたものを、神が御自分のひとり子を犠牲にして全て取っ払って下さったということです。

人間は堕罪の時に、神に対して不従順に陥り罪を持つようになったために死ぬ存在となってしまいました。造り主である神と造られた人間との結びつきが失われてしまいました。人間は代々死んできたように代々罪を受け継いできました。神は、人間が再び自分との結びつきを持ててその見守りと導きのうちに生きられるようにしようと、また万が一この世から死んでもその時は永遠に自分のもとに戻ることが出来るようにしようと、それでひとり子イエス様をこの世に送りました。もし人間が自分で罪を背負い続けてしまったら、この世を去る時にその重みで大いなる滅びの世界に落ちてしまいます。しかし神はイエス様に人間の罪を全部背負わせて、十字架の上で罪の罰を全ての人間に代わって受けさせました。さらに、死んだイエス様を今度は復活させることで、死を超えた永遠の命があることを示し、その扉を人間のために開かれました。人間がすることと言えば、この神がひとり子を用いて完成した救いをただ受け取ることだけです。イエス様が成し遂げたことはこの自分のためであったとわかり、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで受け取りは完了します。どうして洗礼が出て来るかというと、イエス様を救い主と信じた人がその後の人生の歩みの中でその信仰に留まれるために必要だからです。洗礼は、神と人間の結びつきを守る大事な鍵です。

イエス様とペトロの対話に戻りましょう。イエス様はペトロに「愛しているか」と聞いた時、そういう神の人間に対する深い大きな愛と同じような愛で愛しているかと聞いたのです。人間が神との結びつきを持てるようになるためにひとり子を犠牲にした愛と同じような愛です。さてペトロはどうしたかというと、先ほど見た兄弟愛、同志愛、人間愛のレベルの愛で「愛しています」と答えました。たとえ他の弟子が見捨てても自分は主を見捨てない、などと威勢の良いことを言っておきながら見捨ててしまい、自己犠牲からほど遠い自分を露呈してしまった手前、あまり偉そうなことは言えません。そんなジレンマのゆえに、ペトロが神的な愛を避けて人間的な愛をもって答えたことが窺われます。イエス様はペトロに、「お前は神的な愛で私を愛するか?」と聞き、ペトロは「はい愛します。ただし、人間的な愛ですが」と答えるのです。イエス様は二度同じ質問を繰り返し、ペトロは同じ答え方をします。そして三度目の質問で、イエス様は今度は神的な愛の形のアガパオーを使わず、ペトロと同じ人間的な愛の形フィレオーを使います。つまり、「それじゃ、お前は人間的な愛だったら私を愛するんだな」とたたみかけたわけです。ペトロの反応を見ると、イエス様!私がフィレオーで愛することも疑うのですか?いくらなんでもあんまりです!という様子が窺われます。

(ひとつ余計な注ですが、イエス様とペトロのやりとりはほぼ確実にアラム語でなされていたでしょう。もしそうなら、この箇所は、出来事を目撃した使徒ヨハネが後日ギリシャ語に訳して記したものです。イエス様とペトロがアラム語でどんな動詞を使い合っていたかはもう知りようがありませんが、ヨハネは二人のやりとりのニュアンスをしっかり捉えて福音書にあるように訳したのだと考えればよいでしょう。そもそも使徒とは、目撃者、証言者として働くべくイエス様ご自身が選んだ者たちです。それゆえ、そうした使徒たちを信頼し、彼らの証言やその伝承を信じ、彼らの教えを守ることはキリスト信仰の基本です。)

 ところで、イエス様が同じ質問を三回したのはなぜか?ペトロに三回拒否されたので、一回の答えでは信用できなかったからか?実は、イエス様は既に一回目の答えで、ペトロがイエス様を愛していることを信用していたのです。どうしてそんなことが言えるのかというと、ペトロの答えの後に、イエス様は「わたしの小羊を飼いなさい」と言います。イエス様の小羊、つまりイエス様を救い主と信じる者たちが信仰をしっかり携えてこの世の道を歩めるために彼らを守り指導しなさい、つまり牧会をしなさいという意味です。「わたしの小羊」と言われているように、牧会者は信徒をイエス様から預かって牧会するのですから、その責任ははかりしれないものがあります。ペトロにこのような責任を委ねたのです。もし、イエス様がペトロを信頼していなかったら、こんな重要な命令は下さなかったでしょう。それほどペトロを信頼していたのであれば、なぜイエス様は三度も確認させたのか?そうすることで、牧会とはイエス様を愛することが土台になっていなければならない、ということが明確になります。

 

3.私たちの自己犠牲を厭わない愛

私たちがイエス様を愛する時の愛はどんな愛でしょうか?人間のために自己犠牲の重荷を背負って下さったのはイエス様です。私たちがイエス様のために自己犠牲するということは、もちろんありえません。イエス様は神のひとり子ですから、神との結びつきを回復する必要などないからです。そこで注目すべきは、ヨハネ14章21節と23節でイエス様が、彼を愛する人は彼の掟、彼の教えたことを守る人である、と言っていることです。それでは、イエス様の掟、イエス様が守るようにと教えたことは何か?それは先ほども見ましたようにヨハネ13章34節と15章12節のイエス様の言葉に凝縮されています。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これが私の掟である」。イエス様が自分を犠牲にしてまで人間と神の結びつきを回復しようと駆り立てられた愛、その愛で互いに愛し合いなさい、と言うのです。互いをそういうふうに愛することができれば、それはイエス様を愛することになる、と。

それではイエス様を自己犠牲に駆り立てた愛で互いに愛し合うとはどういうことでしょうか?それは、イエス様のおかげで神との結びつきを持って生きられるようになったら今度は、隣人も同じように神から見守りと良い導きを受けながらこの世を生きられるように、またこの世を去る時は神のもとに永遠に戻れるように働くことです。その働きはどんな働きでしょうか?

もし隣人がキリスト信仰者ならば、その人が既に受け取った神との結びつきを失わないように見守り、必要が生じたら助けてあげることです。それをお互いにすることです。キリスト信仰者も苦難や困難に陥ることはしょっちゅうあります。そのような時、もし何らかの理由で解決が長引けば、どうして神は黙っているのかと疑念が生じ、それが神に対する失望や不信にかわる危険があります。苦難や困難から助けるというのは、神との結びつきや信頼がしっかり保たれるように助けることが視野に入っています。

イエス様は弟子たちに向かって互いに愛し合いなさいと言われたので、隣人がキリスト信仰者でない場合は関係ない感じがしますが、よく考えるとそうではありません。全知全能の父なるみ神は、イエス様の弟子たちだけのためではなくて、全ての人間が神との結びつきを回復できるようにとイエス様をこの世に送られ、十字架の死に引き渡したのです。それなので、信仰者でない隣人を苦難や困難から助けるというのは、神との結びつきや信頼が持てるようにすることが視野に入っています。信仰者の場合は「保てるようにする」ですが、信仰者でない場合は「持てるようにする」のです。いずれの場合も助けることにおいて、自分の持てる力や時間や財産を使わなければならない時があることはいつも肝に銘じておかなければなりません。ルターは、そのような時、財産や命を失う可能性もあることを覚悟しなさい、と言っています。

自己犠牲を厭わない愛と言う場合、もちろん、神との結びつきの回復ということと無関係に行われるものもあるでしょう。例えば、親が自分の命を顧みず子供の命を守ろうとすることが考えられます。そのようにして助かった子供は、その後の人生をどう生きるでしょうか?自分の命が親の犠牲の上に成り立っているとわかったら、その犠牲は尊いものに感じられ、軽々しい生き方はできなくなるのではないでしょうか?そのような強烈な体験は、普通そんなにあることではありません。しかしながら、イエス様の十字架と復活のことを聞いて、それがこの自分にも関係している、自分のために起こされたとわかれば、普通の人でも同じような強烈な体験をすることになります。親の犠牲に比べたら身近な感じがしないと言われるかもしれません。しかし、イエス様のおかげで、この罪ある自分が神聖な神の前に立たされても大丈夫と見なされる、その神の見守りと導きを受けてこの世の人生を生きられる、この世を去る時に神の御許に手を取って迎え入れられる、これら全てはイエス様の犠牲のおかげだとわかれば、やはりそれは自分にとって尊いものになり、軽々しい生き方はしてはならないという心を強く持つことになると思います。

最後に、キリスト信仰の愛には、隣人が神との結びつきを保てるように/持てるようにすることが当然、視野に入っているということがルターの次の教えにもよく表れているので、それを引用して本説教の締めとしたく思います。ルターが解き明しに用いている聖句は、ローマ15章3節「キリストも御自分の満足はお求めになりませんでした」です。

 「イエス様は神の恵みに満たされた神聖な方であったにもかかわらず、ファリサイ派の人たちのように私たちを見下したり、私たちが持たないものを持っていることに満足するような方ではなかった。主は、私たちが何も有さず、彼が全てを有していることに不満だったのである。満足しても良かったのだが、主は逆に私たちが何も有さないがゆえに苦しまれる道を選ばれた。私たちが主のようになれるために、また主が有するものを私たちも有することが出来るために、さらには私たちが罪に支配された状態から解放されるために、私たちにどのように舞ったらよいか?このことに主は心を砕いたのである。それらを実現するのはちょっとやそっとのことではないとわかると、主は、自分自身が何者であるか、自分が何を有しているか、そういったことを顧みず一切を投げ捨てて、私たちの罪が御自身に降り注ぐに任せ、そうやって私たちから罪を取り除こうとされた。あたかも主は、私たちがこれだったら受け入れてもいいというような、私たちが満足できるようなことをして下さったのだ。

ファリサイ派の人たちが取税人たちに対して振る舞ったように、また高ぶった者たちが弱い罪びとたちに振る舞ったように、もし主が同じように私たちに振る舞ったならば、一体私たちの誰が罪の支配下から贖われることが出来たであろうか?それだからこそ、私たちも隣人の罪に対しては、主が私たちに振る舞ったのと同じように振る舞わなければならない。私たちは、裁いたり、陰口をたたいたり、見下したりしてはいけないのであって、かわりにその人が罪から解放されるように助けてあげなければならないのである。そうすることで私たちが命、生活、所有物、名誉その他私たちが有しているもの全てを失うことになろうとも、そうしなければならないのである。そうしない者は、キリストを失い、その信心はキリスト信仰の信心とは別の信心になってしまったことを知るがよい。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

 

 

手芸クラブのご案内、4月25日(水)10時―13時

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スモッキング刺繍とは布にヒダを寄せて刺繍する技法で古くからイギリスなどで親しまれてきました。

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お話しながらワイワイ楽しく作りましょう.

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皆様のご参加をお待ちしています。

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お申し込み・お問い合わせ paivi.yoshimura@gmail.com
電話03-3362-1105        
日本福音ルーテルスオミ・キリスト教会
東京都中野区上高田1-36-20

木村先生の読書会

交わりの昼食後は木村先生の読書会が開かれました、「ルターの『キリスト者の自由』を読む」の最終回でした。次回からは木村先生ご推薦の「放蕩息子の帰郷」です楽しみですね。

歳時記

公園の桐の大木に花が咲きました、山藤の花も負けじと一斉に咲いています。薄紫色の花の見比べが出来るのもこの季節ながらですね。

 

説教「目撃者の勇気 真実に生きる勇気」神学博士 吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書21章1-14節、使徒言行録4章5-12節

主日礼拝説教 2018年4月15日 復活後第二主日

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 
1.ペトロの弁明

皆様お気づきのように、日本のルター派のキリスト教会のカレンダーでは、復活祭から聖霊降臨祭までの2ヶ月弱の期間、主日礼拝で朗読される聖書の日課に旧約聖書がありません。通常ですと、第一の朗読に旧約聖書、第二の朗読に新約聖書の使徒書簡、第三の朗読に新約聖書の福音書の三つが読まれます。ところが復活祭から聖霊降臨祭までは第一の朗読は旧約聖書ではなく、かわりに新約聖書の使徒言行録です。ちなみにフィンランドのルター派教会では第一の朗読は旧約聖書のままです。どうしてそういう違いがあるのかはわかりませんが、スオミ教会の聖書日課は日本のカレンダーに従っていますので、使徒言行録の日課も解き明しの対象にしていきます。

使徒言行録は、復活されたイエス様が天に上げられ、その後で弟子たちに聖霊が降り、その力で彼らがイエス様を救い主であると宣べ伝え始める、というところから始まります。弟子たちの宣べ伝えがエルサレムから始まって、現在のトルコ、ギリシャを経てイタリアへと地中海世界に広がって行く過程が躍動感一杯に描かれています。最後はパウロがローマに護送されたところで終わりますが、大体30年間位の出来事が記録されています。本日の日課の箇所は、聖霊が降った出来事からまだ間もない頃、ペトロとヨハネがエルサレムでユダヤ教社会の指導者たちに捕えられて尋問を受けた出来事です。なぜ、捕えられたかと言うと、3章に出来事の発端があります。ペトロが、エルサレムの神殿で奇跡の業を行います。足の不自由な物乞いに向かってイエス様の名前を口にした途端にその人の足が治ってしまったのです。驚いている群衆を前にペトロは、イエス・キリストという名前自体にこのような奇跡を起こす力がある、その名前を持つ方を素直に受け入れれば名前に備わっている力がこのように発揮される、ということを述べます。加えて、国の指導者たちはイエス様を十字架刑で殺してしまったが、父なるみ神は彼を死から復活させられた、自分たちはその復活されたイエス様の目撃者であると証言します。

このように言われると、イエス様の十字架刑というのは、執行した時こそ指導者たちは自分たちの権威を脅かす危険人物を抹殺できたと思っていたのが、イエス様の復活によって覆されてしまったことがわかります。しかも、神は初めからイエス様の受難を見越していて彼を死から復活させるおつもりだった、ということであれば、指導者たちが自分たちの意志と力でやったと思っていたことは全て、神の計画を実現するために駒のように動かされていたに過ぎなかったということもわかります。そうなると、群衆としても、神に逆らうことなど不可能だ、何をやっても全部お見通しで神の良いように持って行かれてしまう、逆らえれば逆らうほど袋のネズミになってしまうと観念せざるを得ません。ペトロの説教の後で、男性だけでも5,000人がイエス様を信じるようになったと記されています(4章4節)。

しかしながら、群衆がイエス様を信じるようになったのは、神に逆らうことは愚かなことと観念したからだけではありません。ペトロは、群衆に対する説教を次のような勧告で締めくくります。3章の25ー26節です。「お前たちは神が先祖と契約を結ぶ時、かつてアブラハムに言われたことが出発点にあることを覚えているか?神はアブラハムに『お前の子孫を通して、地上の全ての民族は神から祝福を受けることになる』と言われたのだ。それゆえ、神がイエス様を死から復活させられたのは、まずイスラエルの民に属するお前たちのためであった。今のままではお前たちは、イエス様を十字架刑に処してしまった側についてしまうことになる。それでは、イエス様がこの世に送られたことはお前たちにとって呪いになってしまう。しかし、お前たちが悪を断ち切るならば、イエス様が送られたことは祝福になる。この祝福はお前たちから始まって全世界の民族に及ぶことになる。

大体このようなことをペトロは述べました。群衆は、神のひとり子を十字架にかけるという、まさに神に対する反逆行為が祝福に転換して、かつそれがアブラハムに約束された全世界の祝福になるとわかったのです。全知全能の神に逆らうことは出来ないという観念と過ちを祝福に転換できるというチャンス。こうなったら、常に神がついていて復活させられたイエス様を神のひとり子であると信じないわけにはいかないでしょう。

イエス様の十字架は、一見すると、自分の権威を守りたい指導者たちの神に対する反逆行為と見ることができますが、実はそれよりももっと大きい、本質的な意味があります。それは、神と人間の関係が崩れてしまった原因である罪の問題、それを解決したことです。それが、イエス様の十字架の本質的な意味です。神は、崩れてしまっていた人間との結びつきを回復するために、人間の罪の問題を次のように解決しました。まず、人間に宿る罪を全部イエス様に負わせて、十字架の上に運ばせて、そこで神罰を人間に代わって全部イエス様に受けさせたのです。こうして罪の償いがイエス様によってなされました。そこで人間が、ああ、イエス様はこの私のためにそうして下さったのだ、とわかって、それで彼を救い主と信じれば、その瞬間に罪の償いがその人に起こって、神の目から見て償いが済んだと見てもらえるようになったのです。その人には、自分の命はイエス様の尊い犠牲の上にあるという自覚が生まれます、これからは神の意思に沿うような生き方をしようと志向します。その時、その人は神との結びつきを持ててこの世を生きるのであり、順境の時も逆境の時も神から絶えず見守られ良い導きを受けていると信じることができ、また、万が一この世から死ぬことになっても、その時こそ神は御手をもって御許に引き上げて下さると安心することができます。今の世にあっても次の世にあっても神との結びつきは変わりません。これがアブラハムの子孫であるイエス様を通して全世界の民に与えられる祝福だったのです。

以上のようにイエス様の十字架とは、人間が神の祝福を受けるための神の側での犠牲行為であり、それが起こることは既に旧約聖書の中で預言されていました。ただ、具体的にいつ何年に、どんな形で起こるかは記されていませんでした。それが約2,000年前の具体的な歴史状況の中で起こりました。ユダヤ民族がローマ帝国の占領下に置かれていた時、民族の指導者たちが占領者に気づかいながら伝統と権威を保持できているという状況の中で起こったのです。そういう状況だったから、神のひとり子の犠牲は、ローマ帝国の厳罰である十字架刑という形をとって実現したのです。

本日の使徒言行録の箇所で、指導者たちはペトロとヨハネを尋問します。自分らが処刑に委ねてしまったイエスが実は神のひとり子、旧約聖書に預言された救世主であったなどと広められてはたまりません。自分たちこそが旧約聖書の伝統の権威ある守り手だと思っているのに、そんなことを言われたら権威はガタ落ちです。ここからもわかるように、指導者たちは旧約聖書がユダヤ民族を超えて全人類に意味を持つことを把握できていませんでした。尋問されたペトロは全く怯みません。彼は真理を述べます。それは大体次のような内容でした。「足の不自由な人が癒されたのは、その人がイエス・キリストの名前を聞いて、その名前が冠せられた人物をそのまま受け入れたことによる。ただし、癒しそのものは名前自体にそうする力があるためで、受け入れたことでその力が現れたにすぎない。このようにイエス・キリストの名前にははかりしれない力が秘められているが、力の中で最大のものは何と言っても、罪の償いと赦しを確立した力である。そしてそれを受け入れる者に対していつも神と共にいられる永遠の命を与える力である。」

それでペトロは弁明の締めくくりで、イエス様をおいて他に救いはない、人間を救うことが出来る名前はイエス様の名前以外にこの世には与えられていない、と結んだのです(4章12節)。

ここの大事なポイントは、イエス様の名前は神の前で人間の罪を赦し永遠の命を与える力、つまり人間を救う力を持つということです。ただ、そう言っただけでは、救いは目で見たり手で触ったり出来ないので口先だけのものにしか聞こえないでしょう。それで、イエス様の名前には本当に力があるということを具体的に示すために、足の不自由な人を群衆の前で癒したのです。

弁明の中でペトロはまた、イエス様の十字架と復活の意味を明らかにするために、旧約聖書詩篇118篇22節の預言「家を建てる者が捨てた石が隅の親石になった」を引用します。その意味は次のことです。「ユダヤ教社会の指導者たちは、『これをすれば、あれを守れば、神の目に相応しいものとされる』と言って、人間の業に基づく救いのシステムを構築してきた。そこに、そのシステムは間違っていると主張するイエス様が登場したが、指導者たちは石を捨てるように彼を排除してしまった。しかし、イエス様は死から復活させられて、神の目に相応しくなれるのはこの自分を救い主と信じることによってである、そういう救いのシステムを作り上げてしまった。

つまり、イエス様があたかも新しい建物の土台になったわけです。

 

2.目撃者の勇気 真実に生きる勇気

本日の日課のペトロとヨハネの尋問は、キリスト信仰者が権力側から受ける尋問の最初のものでした。使徒言行録のこの後は、尋問のみならずイエスの名を宣べ伝えてはならないという警告・脅しそれに迫害ということもどんどん増えていきます。それもキリスト教が地中海世界に広がるにつれて、ユダヤ教社会の権力者だけではなく、ユダヤ教と関係のないローマ帝国の権力者にまで拡大します。他方でイエス様を救い主と信じる人たちも、ユダヤ民族から他の民族へと広がって行きます。そうした進展と拡大が使徒言行録によく記されています。

ペトロを初めとする使徒たちが、度重なる尋問や迫害にもかかわらず、怯まずにイエス様のことを宣べ伝え続けた理由として、本日の箇所でも言われますが、「聖霊に満たされた」(4章8節)ことが挙げられます。もちろん、イエス様の出来事を自分の目で目撃したということも、彼らに勇気を与えたでしょう。目で見た以上は、そんなことはなかったと言うことはできないからです。しかしながら、聖霊は、イエス様の十字架と復活の出来事の真の意味を信仰者に明らかにします。一見、権威に楯突いた者の処刑にしか見えなかった出来事が、実は神の人間救済計画の実現だったとわかるのは、聖霊が働いたからです。まず出来事を目撃することで、それが弟子たちにとって動かせない事実になる。それに加えて出来事の真の意味を聖霊から知らされる。こうなると、イエスの名を宣べ伝えるなと言われても、それは無理な話です。自分たちが目で見た出来事には、天地創造の神が全ての人間に与えたがっている大事なものがあるとわかっているからです。

自分がこの目で目撃したことには大きな意味がある、とわかる。そうなると、それを見ていないとは言えなくなります。そんなことは見なかったことにしろ、起こらなかったことにしろ、言う通りにしないとどうなっても知らないぞと圧力をかけられて、その通りにしたら嘘をつくことになります。なんだかある国の国会論戦での関係者の発言内容が頭に浮かびますが、たとえ名誉と地位を失うことになっても、身を危険に晒すことになっても、目撃したことが持っている大事な意味のゆえに見たことは見たと言う、これは真実に生きることです。そしてそれは勇気のいることです。その勇気が使徒たちにはありました。ただし、イエス様の復活の前はありませんでした。イエス様が十字架にかけられた時、皆逃げてしまったのですから。しかし、復活された主に再び会えたことと聖霊の力を受けたことで十字架の意味がわかりました。わかった以上は、真実を曲げることは出来ません。

さて、私たちはどうでしょうか?私たちは十字架の意味はわかりますが、出来事を目撃していません。弟子たちと立場が異なります。しかし、出来事の大事な意味がわかった目撃者たちの目撃録が聖書に収められているのです。彼らは記録の専門家ではありませんから、記述は荒っぽいかもしれません。しかし、私たちは聖書を読み聞くことで目撃者たちと同じ視点、観点を持つことが出来るのです。ということは、目撃者と同じ真実に生きる勇気を持てるのです。これが本当かどうか、試しに本日の福音書の箇所ヨハネ21章をよく目を見開いてみてみましょう。

 

3.復活したイエス様とガリラヤ湖で出会う

 本日の福音書の日課はヨハネ21章の出来事、復活されたイエス様がガリラヤ湖にて弟子たちの前に現れた出来事です。ペトロが他の6人の弟子たちと一緒にガリラヤ湖で漁をしようということになりました。そこで弟子たちは夜通し漁をしましたが、何も獲れませんでした。体も疲れ、お腹も空いてきて、がっかりぐったりの状態だったでしょう。

 そうしているうちに夜が明け始めました。その時、イエス様が湖岸に現れました。弟子たちのいる舟と湖岸の間は200ペキス、今の距離にして86メートル程です。弟子たちは現れた男に気づきますが、初めはイエス様だとはまだわかりません。それが、イエス様とのやり取りを通してわかるようになります。どんなやり取りがあったのかを見てみましょう。

イエス様は弟子たちに「子たちよ、何か食べ物があるか」と聞きますが、ギリシャ語原文で「子たちよ」というのは、実は複数の大人の男たちを相手に呼びかける言い方です。それで、新共同訳のように直訳せずに、「君たち!」とか「お前たち!」というのが正確でしょう。「何か食べ物があるか」というのも、実はギリシャ語原文では、「ありません」という否定の答えを期待する疑問文です(μηで始まる)。それなので、本当は、「君たちには何も食べる物がないんだろ?」と訳さなければなりません。そういうわけで、ここは、「君たち!君たちには何も食べる物がないんだろ?」となります。「ないんだろ?」と聞かれた弟子たちの答えは、「そうだよ。ないんだよ」となります。答えを受けてイエス様は、「それじゃ、舟の右側に網を打ってみなさい。そうすれば見つかるから」とアドヴァイスします。

このやりとりから推測するに、弟子たちは、かつて主が群衆を従えていた時と違って、今は自分たちが処刑された男の仲間であると知られたくない状況になってしまった。以前のように気前よく食事の提供も受けられなくなってしまった。自分たちで食べ物を探すしかないという状況になってしまった。弟子たちは、空腹だったでしょう。イエス様は、舟の右側に網を打てば食べる物が見つかる、と助言しました。そして、食べる物は見つかるどころか、溢れかえるくらいでてきたのです。

まさにこの時、かつてガリラヤ湖岸の町ゲネサレトで起きた出来事がペトロの脳裏に蘇ったでしょう。それは、ルカ5章1ー11節に記述されている出来事です。「あの時、主は舟に乗って岸辺の群衆に教えを宣べられていた。教え終わった時、主は私に網を下ろすように命じられた。私は、夜通しやってみたが何も捕れなかったと言ったのだが、主がおっしゃるのでその通りにした。すると、網には舟が沈まんばかりの魚がかかっていた。それと同じことが今また起きたのだ。あの湖岸に立つ男は、実は主なのだ。」この結論を先に口にしたのは、この福音書の記者であるヨハネでした。ペトロは、ヨハネが「主だ!」と言うのを聞くや否や、復活の主に相まみえるべく湖に飛び込もうとしますが、その瞬間、ほとんど裸同然であることに気づきます。これでは光栄ある謁見に相応しくない。すかさず上着をつけます。そして、せっかくの身なりが台無しになるのも意に介さず、上着のまま湖に飛び込みます。これなど、誠にペトロの性格がよく現れている出来事です。記述のリアリズムが溢れています。

ペトロは先に岸に泳ぎ着きました。少しして舟が魚で一杯の網を引きずって到着しました。その間、イエス様とペトロの間にどんなやりとりがあったかは記されていません。本福音書の記者ヨハネはまだ舟に乗っているので、やりとりを聞いていないわけです。このことがまた、この箇所が目撃者の視点で書かれていることを示しています。

こうして弟子たち全員が岸にあがると、イエス様は炭火をおこしてすでに魚を焼き始めていました。パンもありました。弟子たちは疲労と空腹がかなりあったでしょう。イエス様は、弟子たちに「さあ、来て、朝食をとりなさい」とねぎらいます。復活の主に再び会えただけでなく、その主から今まさに必要としているものを整えてもらって、弟子たちの得た安堵はいかほどのものであったでしょう。このように、肉体的、精神的または霊的に疲労困窮した者をねぎらい、励まし、力づけることはイエス様の御心です。マタイ11章28節で自分自身、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11章28節)と言われる通りです。

 このように、ヨハネ21章の出来事の記述は、福音書記者ヨハネ自身の目撃したことに基づく生き生きした記述であることがわかります。この記述はイエス様の復活が実際にあったという証言にとどまらず、キリスト信仰者にとって多くのことを示唆するものです。弟子たちは、夜通し網を打っても何も捕れませんでした。疲労と空腹の只中で、イエス様が助言して、それに従うと、予想を超えることが起きました。そしてイエス様に疲労を癒してもらい、空腹を満たしてもらいました。イエス様が用意されたのは朝食でしたので、それを食べて元気をつけたらまたその日の務めに向かいなさい、そういうひと時を整えて下さいました。

この出来事からもキリスト信仰者は、イエス様は自分を信じる者を決して見捨てないということを知ることが出来ます。残念ながらこの世では信仰者といえども、苦難や困難から逃れることはできません。というのは、この世は本質的に、造り主を忘れさせる自分中心主義と、この世を超えた永遠を忘れさせるこの世中心主義に染まっているからです。翻って、福音というものは、まさにこの世を超える永遠と万物の造り主に目を向けさせるものです。従って、この世が福音と福音に生きる者に敵対するのは避けられません。しかし、私たちが苦難や困難に遭遇しても、イエス様はそのことを知らないということはありません。本日の箇所でもイエス様は弟子たちに食べる物がないことを知っておられ(「君たちには何も食べる物がないんだろ?」)、まさにその時に現れました。そしてアドヴァイスし、労って力づけて下さいました。このように主は、必ず助けに来て下さり、私たちが力を回復して新しいスタートを切れるよう力づけて下さるのです。これらのことがわかれば、目撃者でない私たちも目撃者たちと同じように真実に生きる勇気を持つことができます。兄弟姉妹の皆さん、このことを忘れないようにしましょう。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

4月14日 スオミ教会家庭料理クラブのご報告

キャベツのキャセロール色とりどりの春の花が咲く穏やかな土曜日の午後、
家庭料理クラブは「キャベツのキャセロールとジャガイモのサラダ」を作りました。
出盛りの淡いグリーンのキャベツは、なんと大きなボウルに山盛り三杯、
茹でて使いますが、他の材料を加えて三台のキャセロール型に収まるのか、
少し心配になりました。

ジャガイモのサラダは、ピクルスを使ったさっぱりしたお味、
新じゃがの風味も生きた、美味しい一品の完成です。

特別にパイヴィ先生の焼いて下さった
「マーラスレイパ」の差し入れもあり、牧師館は、豪華な食卓になりました。

春の花お料理が出揃い、お祈りをして試食会のスタートです。

会話も進み、賑やかな食卓も一段落したころ、
パイヴィ先生から、フィンランドのキャベツの種類や、
色々な料理法の説明を受けたり、復活されたイエス様のお話を聞かせて頂きました。

参加の皆様、綺麗に最後まで片付けてください
まして、ありがとうございました。またご一緒出来るのを、楽しみにしています。


2018年4月14日キャベツとイースターの話

キャベツのキャセロール

キャベツのキャセロール

キャベツのキャセロールはフィンランドの家庭料理の伝統的な料理の一つです。それをオーブンで焼いていると、外から家の中に入ったら、キャベツの香りでご飯は何かすぐ分かります。キャベツが好きな人ならご飯が待ち遠しくなりますが、キャベツがあまり好きではない人は少しがっかりかもしれません。今日料理教室に参加された皆さんは、キャベツはお好きだったでしょうか?

キャベツのキャセロールは作るのはあまり難しくありません。作る段階は、キャベツを茹でること、ひき肉を炒めること、そして最後にキャセロールをオーブンで煮込むことの三つです。美味しいキャベツ・キャセロールを作るのに大事なのはオーブンの中で長く煮込むことです。焼く時間が長ければ、美味しい出来上がりになります。今日は時間が限られているので、煮込む時間はあまり長くありませんでしたが、美味しいキャセロールができたのではと思います。

キャベツキャベツはフィンランドでは昔から育てられて、今もよく使われる野菜の一つです。残念なことに、キャベツの料理は最近、家庭で作られることが減っていると言われています。フィンランドではキャベツの種類は、新キャベツ、夏キャベツ、秋キャベツ、冬キャベツと4つあります。6月から7月の中ごろまでの新キャベツと夏のキャベツの葉っぱは柔らかくて、キャベツの玉も軽いです。秋と冬のキャベツは固い感じで、玉も重いです。キャベツは健康にもとても良い食材です。カロリーは低く、繊維、ビタミン特にビタミンC,E、K,そしてミネラルが沢山入っています。カロリーが低いため、キャベツを使うダイエットで体重を減らす方法がフィンランドの雑誌に時々紹介されます。

フィンランドではキャセロールの他にどんなキャベツの料理が作られるでしょうか?一番一般的なものはキャベツのスープです。スープにはキャベツの他にひき肉か羊の肉や人参などを入れます。羊の肉はキャベツの料理によく合います。他には、スープと似ていますが、キャベツの煮込み、キャベツロールがあります。もちろん、キャベツのサラダも作られます。ところでもう一つフィンランド独特のキャベツの料理があります。それはハパンカーリという、発酵させたキャベツです。臭いは強く、味も酸っぱくて漬物みたいです。これは家では作るのが難しく、店で売られています。

日本では新キャベツが店に出るのは3月の終わり頃です。ちょうど日本のきれいな春の季節の時です。春はキリスト教会のカレンダーではイースター・復活祭の季節です。スオミ教会でも2週間前にイースターのお祝いをしました。イースターというのは、十字架にかけられて死なれたイエス様が神様の力で復活されたことを覚えてお祝いする日です。これから、イエス様の復活の後に何が起きたかについて聖書に書かれていることをお話したく思います。

十字架の死から三日後の朝、復活されたイエス様が弟子たちや自分の教えをよく聞いていた婦人たちの前に現れました。そして同じ日の夜、弟子たちがある家に集まっていると、突然イエス様が部屋の真ん中に立って「あなた方に平和があるように」と言われました。弟子たちは恐れて、幽霊だと思いました。しかし、イエス様は弟子たちに自分の手足と十字架の時に受けた傷を見せて、幽霊には骨も肉もないが自分にはあると言われました。弟子たちは最初驚くばかりで信じられない気持ちでしたが、次第にイエス様の復活を受け入れて、心が平和に満たされていきました。

「あなたがたに平和があるように。」これは、イエス様が弟子たちの前に現れた時に一番初めに言われた挨拶の言葉でした。つい三日前の金曜日、イエス様は十字架に付けられて死なれました。その時弟子たちは皆恐くなって、イエス様を見捨てて逃げてしまいました。悲しんで後悔している弟子たちに、復活されたイエス様は責めるようなことは何も言わず、ただ「あなたがたに平和があるように」と挨拶されたのです。

神様が平和を与えて下さるという約束は、聖書の中で最も重要な約束の一つです。旧約聖書のイザヤ書の53章には、「彼の受けた懲らしめによって私たちに平和が与えられる」と預言されていました。イエス様が受けた苦しみによって与えられた平和とはどんな平和でしょうか?イエス様は神様のひとり子としてこの世に送られました。神様のことについて人々に教え、聖書のヘブライ人への手紙2章また困っている人や苦しんでいる人たちを奇跡の業で助けました。イエス様は十字架にかけられて死なれましたが、それは、私たち人間が持っている、神様の目から見て悪いことを全部背負って、私たちのかわりに神様の罰を受けられたのでした。しかし、神様は、イエス様を死から復活させることで、死を超えた永遠の命への道も開かれました。それで、イエス様を信じると罪が赦されて、神様との間に平和な関係が生まれることになったのです。これが、イエス様が受けた苦しみによって与えられた平和です。歴史の一番最初のイースターの日に起きたイエス様の復活によって、平和の約束が実現されたのです。

イエス様が弟子たちに言われた平和の挨拶は、この世の全ての人々、私たちにも向けられています。何かを恐れている人、心配なことや後悔がある人も皆、イエス様のおかげで神様と平和な関係が持つことができるとわかれば、心に平安を得ることができるのです。

交わり

今日の交わりは2台のテーブルを使ってこじんまりと行われました。気がついたら何時の間にか女性と男性に分かれて話が弾んでいました、荒れるはずの天気予報も外れたようで皆のんびり昼下がりのひと時を楽しんでいました。

歳時記

アヤメが咲きました、今年最初の一輪です。神の御業は折々の季節ごとに私たちを楽しませてくれています。

説教:木村長政 名誉牧師、コリントの信徒への手紙 4章8~13節

第16回

コリントの信徒への手紙 4章8~13節

2018年4月8日(日)

コリントの信徒への手紙の講解説教をずうっとやってきました。今回は4章8~13節の箇所であります。

まず4章からパウロが言っている事の要点を見てみますと、福音を宣べ伝える者は神の言を人間が語るのですから、どうして、もそこで自分がどういう立場にあるか、という事を言わないわけにはいかない。そこでパウロは4章1節でまず私たちをキリストに仕える者、神の秘められた計画を委ねられた管理者と考えてもらいたいと言いました。伝道者である自分を話す時、その聞く相手と、ここではコリントの教会の人々とをついつい比べて見ることになります。そうして結局「人間とは何か」という事を語ることになる、というのです。伝道者である自分の立場を語るうちに伝道者に対する批判に答えようとする。そうすると相手のことを言わないわけにいかない。コリントの教会の内情の混乱を聞いてパウロの語調もだんだん激しくなってきました。そうして皮肉交じりの、厳しい言葉にまでなって行くことになります。前回そのことを見てきました、7節であらわに記しています。「あなたを他の者たちより優れた者としたのは誰ですか。いったい、あなたの持っているもので、頂かなかったものがあるでしょうか、もし頂かなかったのならなぜ頂かなかったような顔をして高ぶるのですか」ここに「高ぶっている者」を断罪して次に8節から「あなた方は既に満足し既に大金持ちになっており、私たちを抜きにして王様になっています」。このように皮肉たっぷりに厳しく語っています。君たちは貰っているのに、貰っていない者のように誇っている。いやそれどころではない、満腹切っているではないか、と言うのであります。もう、そこには神の恵みが入る余地は全くないではないか、と言うのであります。自分の生活に充分満足している者など、まずいないでしょう。と私たちは思っている。しかしそう思いながら実際には、あのこと、このこと、どのことも自分が自分で得たもののように思っている、そこでは満足しきっているのであります。自分に貰ったものでないものなど一つもない、つまりみんな貰ったものばかりじゃないか。この事実に比べて気持ちとしては富み栄えた気持ちになっている、としか言いようがない。そうじゃないのか、とパウロは皮肉って言っているのです。福音によって救われている、と言うことを,はき違えて自分の持っている全てが自分のものであって信仰による謙虚などもうとっくにどこかへ行ってしまっている。そこには正しい信仰のかけらすらない。そのような奢り高ぶった思いになっているではないか。信仰生活は神により頼む、信仰によって生きる生活であります。それなのに私たちはしばしば、もう信仰などなくとも、これで満腹していると思っている、神に祈ったり、神を求めたりする気持ちは薄れてしまっている。神のことは、むしろ煩わしいとさえ思うようになってしまっている。自分で満足した生活をしているのではないでしょうか。パウロはそれを言うのであります。従ってお前たちは神の国の王様にでもなってしまっている、そういう気持ちになっているではないか、と言うのです。8節でパウロは言っています。「私たちを抜きにして勝手に王様になっている」と言っています。何より雄弁に皮肉ってぴしゃりと言っています。自分たちが語る福音を抜きにしているのではないか、と言うのです。続いてこう言います「いや実際王様になっていてくれたら、そうしたら私たちもあなた方と一緒に王様になれたはずですから」と言っています。信仰によって王となるなら信仰を持つほかありません。それならその信仰を福音として伝える伝道者を無視するなど出来ませんよね。それなのにぬけぬけと勝手に私たちを差し置いてよくも無視しているのか・・・・・パウロたち伝道者の立場の怒りでありますね。さて、そうした皮肉から伝道者の生活はどうでなければならないか、パウロは自分たち伝道者の生活は神によって見世物にせられたと言っています。9節の最後で言っています、見世物には自分の生活はありません。ただ見せる人の考えに従って動くだけです。別の言い方で言うと、自分の立場というものを持ってはならないと言うことになりましょう。見世物は見せる人の考えの通りにする、つまり伝道者はその主人である神がなさる通りに動くのです。それがたとえ、どんなに自分にとって不利であっても、惨めであっても見せる人の考えが先に立つのであります。コリントの教会の人々は自分たちが望むようにそれを満腹している。しかし伝道者は神がお望みになるようにするのであります。パウロはそれを、ここでは自分たち伝道者は「見世物」となったと言います。見世物になる者はやり切れきれないでしょう。しかし見せようとする人の望むままに動くのでなければ見世物になりません。見世物にされる者も人間であります、それなら自分の考えがあるはずでしょう。しかし見世物になる時はそれを捨てなければならない、すなわち自分の思いを捨てて見せようとされる神の思いのままに動く他ありません。そこに伝道者の辛さというものがあります。パウロは全世界に対してだけでなく、御使いに対してさえも見世物にならなければならない、と言っています(4章9節)。それでは立つ瀬がありません、人は見世物にするかもしれないが天の使いくらいは知っていてくれるなら救いがあります。パウロの書き方はまことに惨酷ですね。まず自分を死刑囚のようだ、と言っています(9節です)、最も惨めな立場の者のことをいっています。神が伝道者を死刑囚の最後に引き出される者のようになさると言うのです。「最後に引き出される者」と言うのはローマの屋外劇場で一番最後に引き出される者です。劇場の人々は興奮して少しくらいの刺激では湧かない、そういうところに最後の見世物として引きずり出される者だ、と言うのです。なんという対照的な姿でありましょう。ここには得意になれるものは何もない、ただただ自分を失うこと、見世物の主人の思いに従うことしかない。そこには自分はない、自分を通して神があらわされるだけ。伝道者が見世物にせられるのは伝道者を見せるためではなく神を見せるためであります。神はどのようにして御自分をあらわしておられるか、神がまことに神にいますことは人間の知恵でわかることではありません。ただ神の恵みをあらわされることによる他ありません。ただ神の恵みです、そのために神の御子主イエス・キリストが十字架にかけられて、さらし者にされました。それならばそのために伝道者がさらし者になることくらいは特別なことではありません。そういうことから言えばキリストの救いが行われるために伝道者と伝道される者とは全く反対な立場に立たされるわけです。神の救いの御業のための犠牲を恐れてぬくぬくと暮らしパウロやアポロたちの労苦が少しも分からないコリントの教会の人々に対する厳しい批判があるのです。自分たちはキリストのゆえに愚か者となっている、コリントの教会人々は反対に賢い者になっている、と言いたいのであります。人の目から見てコリント教会の人が賢く見えパウロたちが愚かに見える、神のために働く者が愚かである。いや!神御自身すら人間の賢さに比べ愚かである、とさえ言いたいのであります。そのことはこの手紙ですでに、はじめから言っていることであります。キリストのゆえに自分たちは弱いがあなた方は強い、そして又神は私たちが弱い時こそその強さを一層発揮されます。そのようにして救われる者を強くするためであります。同じ事が「尊さと卑しめられること」について言えるのではないでしょうか、卑しめられることに耐えることができないものであります。従ってパウロがこのように言うことは決してあたり前のことではなくて身を切られるような思いを持って言えることでありましょう。

 

彼は自分が神のために働いていることの栄光を片時も忘れたことはなかったでありましょう。ただ彼は自分が神のために、また救われる人のためになるのであればどんな立場にでも立つ用意があるのです。同時に彼は自分のような立場の者に加えれている神の恵みを忘れることはなかったに違いないのであります。パウロの時代の伝道者は伝道者の典型のようなものでした。それゆえ伝道者の姿が生のまま現れている、と言って良いのではないでしょうか。つまり典型的な伝道者の姿というものは、神の御業のためであるゆえに、ただ神にのみより頼むということであります。そうすればここにパウロが描き出していることは決して誇張でもなく、まして偽りではなかったのであります。11節を見ますと、まことに差し迫った厳しい状況を言っています。「今の今まで私たちは飢え、渇き、裸にされ、打たれ、宿無しであり、苦労して自分の手で働いている」と言うのであります。パウロはそれこそ今の今までこういう生活をしていたと言うのであります。人間が社会的に何の地位もなく社会的に少しの保護もされないとしたらどうでしょう。パウロがここで言っていることは誰にでもわかることであります。今日のような教会の組織がなく全くただ一人で伝道するとしたら、このようになることは少しも不思議ではありません。どこからも食べるものは来ないでありましょう、しかも人々から見れば異教とされるような福音を宣べ伝えるのです。信仰と信仰の戦いは激しいものがあります。パウロは異なる神を冒涜する者だとユダヤ人たちから迫害されたでありましょう。ユダヤ教以外の者にとってはパウロのような伝道者は全く関係がないか邪魔者でしかありません。それゆえに、ある時は裸にされ鞭打たれ、ある時は宿無しである、これが毎日のことでありました。パウロが幼い頃から習い覚えた天幕造りをしていた事はコリントの教会の人々も良く知っていました、使徒言行録18章に詳しく出ています。孤立無援!どこからの援助もなく孤独で立っていかねばならない。ただ頼みとするのは神だけの伝道生活でありました、苦労して自分の手で働くしか他ないのであります。彼の仕事は福音を宣べ伝えること、人々を祝福することでありました。それを、どういう状況のもとで行っていくか、これが最大の課題でありました。祝福は豊かな境遇にある者の出来ることであるかもしれません、或いは人から尊敬されている者だけがなし得ることであるかもしれません。パウロの現実はそうではなく伝道者としての生活そのものが辱められていたのであります。迫害は日常のことであったでしょう、その迫害も耐え忍ぶことも又日常のことであったでしょう。パウロは12節~13節でこう言っています「侮辱されては祝福し、迫害されては耐え忍び、罵られては優しい言葉を返しています」。パウロもアポロも他の伝道者と同じように自分をあらわさないで、ただただ神の栄光のために苦労して言ったのでありました。私たちは洗礼を受けてもはやキリスト者になった、そうであるならキリストの十字架の苦しみを受けて復活されたキリストによって罪を買い取られた。すべてが神のものとせられたのであります。私たちは信仰生活の全てを持って神の栄光をあらわすものであります。           アーメン・ハレルヤ

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