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2026年6月14日スオミ教会礼拝説教 マタイによる福音書9章35ー10章8節 「弱り果て打ちひしがれる私たちへの神の国の福音」
田口 聖 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなた方にあるように。ア ーメン。 1、「全ての人々へ御国の福音を宣べ伝えるため」 私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様。 このマタイによる福音書の9章では、イエス様が、ガリラヤの町々を巡り、イエスに 助けを求めて訪れる病の人々を癒し、悪霊に憑かれている人々を救ったことが書かれて います。それはガリラヤをくまなく回り行われたのでした。35節、こう始まっていま す。 「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆ る病気や患いをいやされた。 」35節 イエス様は、ガリラヤの町や村を「残らず」回られます。それは行ってない町や村が ないように、つまり助けを求めている人々がいる町や村を見落とすことがないようにと 、イエス様はすべての人々を心に留めておられることが伝わってきます。しかし何より そのように町や村をくまなく回られる目的はここにある通り、「会堂で教え、御国の福 音を宣べ伝え」るためでした。「神の国の福音」、それこそまさに全ての人々への神の 国、救いのメッセージでした。確かにイエス様はご自身に癒して欲しいとやってくる人 々の病を癒し、悪霊につかれている人々から悪霊を追い出したりされたことは福音書の 最初の方、ガリラヤ地方を回っているところでは多く記されています。しかし、この後 、見ていくとわかる通り、イエス様の十字架が近くなるにつれてその記述は少なくなり ます。なぜならしるしを示すことそれだけがイエス様の目的ではなく、十字架と復活こ そイエス様が人となられた目的の中心です。ですからもちろん、奇跡はイエス様が真の 神の子、真の救い主であることを示すための証しとしてご自身の御心のままに現されて きたのですが、全ての人々にそれが現されたのではありませんでした。もちろん、この 後、12の弟子たちにその権威が与えられて弟子たちも癒しの奇跡を行います。そして 、使徒の時代も、しるしはありました。もちろん今も奇跡はあります。しかしそれは全 ての人々へではありません。それは神が御心に従って定めて行われることです。しかし 、まさに「全ての人々のために」イエス様が止めることなく行い続けてきたのは、神の 国の福音を宣教することでした。それはまさしく全ての人々のための救いの良き知らせ であり、恵みです。何より、そのために世にこられ人となられたという十字架の死は、 全ての人々の罪のための十字架でありその死であったでしょう。そして、そこに現され た救いのための「キリストの義」は、それは誰でも差し出されたままそのまま受けとる 時に、誰でも義と認められる「全ての人々への救いの恵み」でしょう。使徒達もそうで す。しるしも行いました。しかし何よりもイエス様が彼らに託された使命は、福音を宣
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教し、洗礼を授けることであったでしょう。このマタイの福音書の最後の宣教の恵みの 命令でこうあるからです。 「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。 だから、あなたがたは行って、すべ ての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あな たがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、 いつもあなたがたと共にいる。」 その約束の通りに、弟子たちは約束の聖霊を受けて、全ての人々をイエス様の弟子と するように父と子と聖霊の名によって洗礼を授けていきました。地の果てまで福音を伝 え、福音を与えていったのです。ですから、10章の初め、5、6節で、12人の弟子たち を召し権能を与え遣わすときに「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の 町に入ってはならない。 むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい 。」とあるのですが、ある人々は「イエス様は異邦人を除外しているではないか、サマ リヤ人を除外しているではないか、ユダヤ人だけではないか」と、言うのです。しかし 、そんなことはないでしょう。これはこの時の弟子たちの役割を述べているのであり、 異邦人やサマリヤ人の救いのためには神様の計画がしっかりとあるのです。事実、イエ ス様は、ヨハネの福音書では、あえてサマリヤの道を通り、ヤコブの井戸のところでサ マリヤの女に素晴らしい神の国の福音を宣教しているでしょう。そして何より先ほども 触れた宣教の命令にあるでしょう。「すべての民をわたしの弟子にしなさい」と。そし てその通り、使徒行伝にある通り、異邦人についての計画を持ってイエス様はローマの 隊長コルネリオにペテロを遣わし、そしてパウロに現れ、異邦人へイエスを伝えるため に召命を与え遣わすでしょう。そのようにパウロは、地中海地方のユダヤ人だけではな くむしろ異邦人の民へ向かって神の国の福音を宣教していきました。そして聖書には書 かれていませんが、外典や歴史の書では、他の使徒達も、東の方の異邦人たちへ宣教を していったとも言い伝えられています。イエス様が世にこられ人となられ十字架にかか って死なれたその目的は全ての人々の罪からの救いです。神の国の福音こそ全ての人々 のために与えられている神の義であり救いであり、平安です。私たちの罪の赦しと新し いいのちと真の平安は、しるしや経験にあるのではない、私たちの何か行いや律法にあ るのでもありません。イエス様が残すことなく伝えられた神の国の福音、このイエス・ キリストの十字架と復活の福音にこそあるのです。 2、「飼い主のいない羊のように」 次に、その神の福音を伝えているとき、36節以下、こう続いています。 「また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深 く憐れまれた。」36節 イエス様は群衆を見てですが、彼らが「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひ しがれている」と見たのでした。深い憐みの心で、です。ただ、これまで群衆に霊的な 指導者がいなかったわけではありませんでした。35節でわかる通り、イエス様は「会 堂に入り」、神の国の福音を伝えています。ユダヤ人の会堂で旧約の律法と詩篇と預言 書の巻物を開いて福音を説教したのでした。つまり普段はそこで同じように聖書から教 える人々がいたのでした。それは教師たち、つまり律法学者たちやパリサイ人たちでし
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た。しかし、9章を見ていただくとわかる通り、彼らはことあるごとに感情のまま、あ るいはユダヤ社会でこれまで守られてきた慣習や規則に基づいてイエスに反発していま す。9章2節でイエス様が中風の人に「元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」と いった時に、3節、ある律法学者達が「この男は神を冒涜している」と思っているのを イエス様は見抜いています。また、9節以下、徴税人のマタイを召し出しマタイがイエ ス様を招いて食事をしているのを見てファリサイ派の人々は11節で「なぜ、あなたの 先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言いました。それに対して語った有名 な福音の言葉は12節以下、 「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。 『わたしが求めるのは憐れ みであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来 たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(9章12−13節) でした。そして今日の箇所の直前では、悪霊に取り憑かれていた人々をイエス様が救っ た時も、ファリサイ派の人々はイエスを指差し「あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出 している」と言いました。このように、羊である群衆に飼い主、霊的な指導者がいなか ったわけではありません。会堂で教える教師達がいました。しかし彼らは律法や預言書 から福音を語るのではなく、どこまでも律法、というよりはむしろ、彼らの習慣や規則 に基づいて律法を解釈した行いによる義の教えを語っていました。そして、その彼らの 解釈する律法の要求を行なっているかどうかが彼らの教えの基準であり、人々やイエス や弟子達を評価する基準でもあったのでした。さらに言えば彼らがイエスへ反対するの は「妬み」からくるものでもありました。イエス様は聖書から神の国の福音を説教しま した。それは羊を神の国へと導く羊飼いは、律法だけではなく何よりも福音によって導 くと言う大事な真理とその使命に従っているでしょう。事実、私たちは律法の言葉だけ ではなく、その先に「あなたの罪は赦されています」という福音の言葉を聞くからこそ 、神の国、救いを確信し「平安のうちに」ここから行くことができるでしょう。そのこ とを考えてみてください。群衆は、福音ではなく律法だけで教えられていました。しか しそれは弱り果てるのです。ただ打ちひしがれるのです。事実どうでしょうか。もし教 会が律法だけの説教、あるいは、福音が先にあっても結局は私たちの律法のわざや行い に救いや信仰生活がかかっているような説教をされるなら、それによって強められるで しょうか?何より平安があるでしょうか?確かに律法は一時の促しとなり、駆り立てる ことがあるかもしれません。「ああ頑張らなければ」と立ち上がらせることがあるかも しれません。しかし私たちの行いに神の前での全てのふさわしさや祝福や成功が、神の 国がかかっている、とか、あるいは、まず私たちが完全に律法を実現すれば教会に、私 に祝福がある、救いが確かになる、イエス様に愛される、等々、と教えられて、そこに 喜びがありますか?救いの確信がありますか?救いを喜べますか?平安がありますか? それでもイエス様は愛だと信じられますか?そもそも私たちがそのようにまず行いが求 められるとするなら、それを完全に果たすことができますか?完全に答えることができ ますか?律法学者達やファリサイ派の人々は「自分たちはそれが完全にできている」と 言う自負はあったでしょう。しかし自負でしかありません。神の前では皆不可能でしょ う?不完全で罪深い現実だけが突きつけられます。そう、結局は、律法によって遣わさ れる歩み、まず私たちの行いが先になければならないと、律法で促され強いられ遣わさ
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れる教会もクリスチャンの歩みも、結局は弱り果てるのです。律法は罪を気づかせるた めに必要ですが、救うことはありません。責めるだけです。だから打ちひしがれるので す。そのように律法によって遣わされる歩みは、信仰も礼拝の出席も奉仕も皆、ただ重 荷になる。疲れ果てます。どんなに外面は立派で、どんなに功績を残し、多くの大きな 教会へと成長させ、多くの人々を導いたと自負する教師であっても、律法で導く会堂、 教会は、あるいは、会衆は、飼い主のいない羊達と同じことなのです。律法学者たちや ファリサイ派の人々は表向きは立派な人々だったことでしょう。しかし、イエス様はそ のような教師たちの律法の教えで導かれる会衆を見て会衆が弱りはて打ちひしがれるの を見て深く憐れまれたのでした。律法の教えに弱り果て打ちひしがれた羊たちに必要な のは神の国の福音、罪の赦しの福音であったのでした。それこそ人々に本当に必要なこ とでした。中風の人にもイエス様は「病が去り良くなれ」と言うのではなく、「あなた の罪は赦される」と言っているでしょう。中風の人に癒しも必要でしたが、それよりも 何よりも必要なのは全ての人々が弱りはて打ちひしがれる罪の苦しみからの解放、神の 前での罪の赦しとそれによる平安なのです。それは全ての人々に必要なことです。だか らこそイエス様は全ての人々のために十字架にかかって死なれるではありませんか? 3、「収穫、そして、働き手とは?」 そのことが、37節以下につながっています。 「そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。 だから、収穫の ために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」」37−38節 A,「収穫とは?」 収穫とは、全ての人々が罪の赦しを受けることです。そして全ての人々に罪の赦しの 福音と平安がイエス様によって差し出され、多くの人々がそれをそのまま受け取り救わ れ平安になることです。それがご自身の十字架によって実現することを指し示していま す。その収穫のことです。しかもその収穫は多いとイエス様は言います。それは全世界 を指しています。しかしその働き手、伝えるものは少ない。その通りです。弟子たちが 選ばれ遣わされていきますが訓練中です。そして、そこから使徒達が選ばれやがて聖霊 を受けて教会の時代が始まり福音は全世界へと広がっていくでしょう。そのために働き 手は最初は少ないのですから、世界に広がっていくためにさらに必要だとイエス様は言 うのです。 B,「どんな働き人か?」 ではそれはどんな働き人でしょうか?私たちはこの所をどう教えられるでしょう。確 かに「み言葉の」説教者、教会の牧会者、献身者が与えられるように祈りなさい、そう 教えられているのだと思うかもしれません。その通りです。それは間違いありません。 しかし、さらに踏み込んで言うなら、どんな説教者、牧会者でしょうか?ただ「み言葉 」を伝えればそれでいいのでしょうか?律法も神のみ言葉です。つまり、律法もみ言葉 だから、律法で私たちを派遣する説教者、牧会者でも良いということでもあるのでしょ うか? 教会の歴史においていつの時代も、そして今でも、律法で教え、律法で教会を 建てあげ、律法を説教の「最後の言葉」「派遣の言葉」として、会衆を遣わす教会は存 在します。福音を語っているようであっても、福音は最初の言葉であり、最後の派遣の
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言葉は律法で終わり遣わす説教は実は少なくありません。もちろん、律法も大事な神の 言葉です。しかし律法は福音への道標、案内係であり、決して救いの言葉ではありませ ん。律法は私たちに罪を示し、私たちが律法によって罪が示され刺し通され、自分では どうすることもできない、神よ憐んでください、兄弟よどうしたら良いでしょうか、と 叫ぶしかないところに、絶望と悔い改めに導く言葉です。しかしその罪を認め悔い改め る時にこそ、十字架の福音が明らかになります。そこにこそイエス様は福音を語ってく ださり、「あなたの罪は赦されています」と罪の赦しを宣言してくださるのです。まさ に福音こそ、神の国の門を開き、救いの道を通らせてくださるいのちの言葉です。弱り 果てたものに命を与え、打ちのめされたものに罪の赦しを宣言し立ち上がらせます。そ して平安のうちに「行きなさい」と遣わすのはこの福音の言葉でしょう。そう律法と福 音の言葉、しかも律法が最後ではなく福音こそ最後の言葉、派遣の言葉として説教し教 えるようにとイエス様は「働き人」を求めておられるのではないでしょうか?律法で派 遣する働き人の群れは、まさに飼い主がいない羊のようなのです。イエス様はただみ言 葉を伝える働き人ではない、律法と福音の言葉で、福音を最後の言葉、派遣の言葉とし て説教する働き人をみているのです。そのために「祈りなさい」なのです。 4、「働き人も収穫も律法ではない」 最後に、イエス様はその「働き人が必要だ」ということさえも教会の律法にしてない のは幸いです。とかくあるところでは「牧師がいない、献身者がいない」、だからと主 に求め期待する希望を告白し祈るのではなく、ただ目に見える現象だけで「いない、い ない」「組織が危ない」などなど、危機感と強迫観念に駆られ、何とか教会があるいは 牧師が、誰かが牧師になるように献身者を起こさなければダメなんだ、と律法的に駆り 立てるような教団や教会の声を聞くことがあります。しかしそうではありません。イエ ス様ははっきりと言っているでしょう。 「収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」 と。つまり「働き手」を送ってくださるのは、教会や牧師や、その努力や力や説得力 のわざではなく、あるいは誰かが力や意志を振り絞って律法的に立ち上がることでもあ りません。送ってくださる、建ててくださる、与えてくださるのは、どこまでも主イエ ス様です。み言葉と聖霊です。しかも「収穫の主」とあるように収穫をするのも人では なく主です。つまりみ言葉と福音のわざとして、働き人を主が起こしてくださり送って くださるのです。そして収穫、人の救いも人ができるのではなく、救うのも信仰を与え るのも、どこまでも収穫の主のみです。だからこそ律法の心ではなく福音を信じ、私た ちが希望と信頼を持って主に祈り求め、主にのみすがることが何よりも神の前に価値が あり、ふさわしいことなのです。ぜひ福音を信じ祈っていきましょう。今日のイエス様 は私たちに福音の言葉を宣言をして使わしてくださいます。「あなたの罪は赦されてい ます。安心していきなさい」と。平安のうちに遣わされていきましょう。 人知ではとうてい計り知ることのできない神の平安があなた方の心と思いとを、キリス ト・イエスにあって守るように。アーメン。
アウグスブルグ信仰告白20条と現代
礼拝後のコーヒータイムの時に行っている、アウグスブルグ信仰告白の学びも、今やっと20条「善い行いについて」に到達。これは内容的に、信仰とは何か、宗教とは何かを改めて考えさせるものではないか、それで500年近く経った今でもそうしたことを考える材料として有用ではないかと考える者である。
20条は内容的に三つに分けられる。一つ目は、「信仰の教理」と「行いの教理」の対比。前者は、人間が神から義と認められる(神から見て正しい者、神の目に適う者と認められる)のはイエス・キリストを自分自身の救い主と信じる信仰によるという教理。それに対して後者は、神の掟や教会が決めたことを「善い行い」として行うことで神から認められるという教理。ルター派は前者を掲げ、後者を排する(「行い」は「業」と言い換えてもよいのではないかと思う)。
二つ目は、「信仰」と「知識」の対比。聖書に書いてある、イエス・キリストを巡る出来事は歴史的事実だと信じても、それはまだ知識にすぎず信仰ではない。それらの歴史的出来事、特に十字架と復活の出来事が自分にどんな効能をもたらすのか、その効能を信じるのが信仰である。その信仰から神を深く信頼する心が生まれ、その信頼がある限り悩み苦しむ心は慰めと励ましを得る。
三つ目は、ルター派は「行いの教理」を排したが、「信仰の教理」は信仰者が全く異なる土台に立って善い行いをする者に変える。歴史的出来事の効能を信じる信仰と一体となって聖霊が働き、心をそのように改革する。善い行いとは実は「信仰の教理」の帰結なのだ。「行いの教理」では心は何も改革されないのだ。
20条では、悩み苦しむ良心の戦いがなければ「信仰の教理」を自分のものにすることはできないと言われる。自分は神の目に適う者ではないのでは?という恐れの自覚があるところでのみ「信仰の教理」は真の心の平安と神への信頼をもたらすからだ。政治家でも一般市民でも、何か宗教を信奉する者が例えば平気で嘘をつき苦しむ良心の戦いを戦わずにその宗教の集会や儀式を続けるのは、「行いの教理」の成れの果てである。
今やAIは全人類の知識の集積となり、人間の問いや悩みに応えるばかりか、創造めいたことも始め、人間にとって神よりも身近な存在になりつつある。しかし、いくらAIが、聖書の神は御子の受難を通して死の苦しみを味わった、と知識で知っていても、自分ではその苦しみを味わあない。また、「信仰の教理」や良心の戦いについて知識はあっても、自分でその戦いは戦わない。なので「信仰の教理」を自分のものにしていない。近年、聖書の歴史的出来事について、理性にそぐわないものを事実ではないとし、出来事の効能を無効化する傾向がある。それはキリスト信仰を知識の集積に置き換えてしまわないだろうか?それに20条はまた、キリスト信仰の義は社会的正義や哲学が構想する正義とは別物であるとも言っている。
以上のようなことを考えさせる20条を次回から本コラムで紹介します。
山とAI
〈121:1 (京まうでの歌) われ山にむかひて目をあぐ わが扶助はいづこよりきたるや 121:2 わがたすけは天地をつくりたまへるヱホバよりきたる 121:3 ヱホバはなんぢの足のうごかさるるを容したまはず 汝をまもるものは微睡たまふことなし 121:4 視よイスラエルを守りたまふものは微睡こともなく寝ることもなからん 121:5 ヱホバは汝をまもる者なり ヱホバはなんぢの右手をおほふ蔭なり 121:6 ひるは日なんぢをうたず夜は月なんぢを傷じ 121:7 ヱホバはなんぢを守りてもろもろの禍害をまぬかれしめ並なんぢの霊魂をまもりたまはん 121:8 ヱホバは今よりとこしへにいたるまで 汝のいづると入るとをまもりたまはん 詩編121〉
尾根緑道の桜美林教会前のテラスにベンチが四脚並んでいます。私の好きなベンチは左から二番目のベンチです。何故ならばそこから丹沢を眺めると正面に丹沢で一番高い蛭ヶ岳と日本一高い富士山とが並んで見えるからです。丹沢の右端に以前から気になる双耳峰の山がありました、或る日その山を写真に収めて帰宅後AIにその山の名を尋ねましたら「この写真の山は丹沢の大山です」と答えてきました。まさかと思いました大山は双耳峰ではありません、しかも大山は丹沢の左端の山です、AIの仕組みは如何なるものかは知りませんが山に関しては全くあてにならないものと知りました。やむを得ずFacebookで山好きの人たちに尋ねましたら早速それは道志の「今倉山」と教えてくれました。道志山塊の山が見えていたとは嬉しかったですね、また一つ楽しみが増えました。
牧師の週報コラム ― 古い歌を新しい歌に(その2) ギター教室に通っている息子が次の課題曲に選んだのは、Eテレの「おかあさんといっし ょ」で歌われている「ありがとうの花」。レッスン中、何度も聴かされているうちに、こ んな歌詞で歌ったらどうだろうと退屈しのぎに言葉を紡いでいたら、以下のようなご機嫌 な子供讃美歌になりました。まだ微調整が必要ですが、取りあえず歌ってみて下さい(サ ビの部分は、a、bと二つあります)。 1.イェスさまとでしたちが こぶねにのって おおきなみずうみに のりだすと あらしにおそわれて しずみそうになり イェスさまがしかると あらしはおさまった a. しゅは わたしのひつじかい b. しのかげのたに ゆくときも わたしに かけるものはない わたしは なにもおそれない まきばみぎわで やすませて しゅがいっしょに あゆむから たましいを いやされる なにも こわくないよ
2.おおぜいのひとたちが おなかをすかせてる いつつのパンだけじゃ たりないよ イェスさまが しゅくふくし わけあたえてみると びっくり みんなにたりたんだ (a. または b. または両方)
3.ザアカイはわるいひと こころのよわいひと けんりょくをかさにきて おかねをためこんだ イェスさまにであったら こころはつよまって こまってるひとたちに ぜんがくわたしたよ (a. または b. または両方)
4.ひゃっぴきのこひつじが かこいにかえると ひつじかいはおおあわて いっぴきたりないよ
2 のとやまをかけめぐり やっとみつかった かたにかついで よかった、よかったと (a. または b. または両方)
主日礼拝説教 2026年6月7日(聖霊降臨後第二主日)
ホセア5章15節-6章6節、ローマ4章13ー25節、マタイ9章9-13、18-26節
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがにあるように。 アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
本日の福音書の日課は、イエス様が徴税人のマタイにつき従うように命じ、マタイはその通りにした、そして自分の家にイエス様と弟子たちを招いた、他の徴税人その他もろもろの罪びとたちも一緒の食事の席についた、そこをファリサイ派の人たちに目撃されて非難されたという出来事です。当時は招かれて一緒に食事をするというのは家族並みの近い関係になったことを意味しました。
徴税人は当時のユダヤ教社会のなかで罪びとの最たるものとみなされていました。どうしてかと言うと、彼らの主たる任務は、イスラエルを支配しているローマ帝国のために住民から税金を取り立てたり、交通の要所で通行税を取ったりしたからでした。なぜ、占領された国民から、占領側に仕える仕事につく者が出たかというと、これが金持ちになる早道であったからです。各福音書を見ると、徴税人が認められている額以上の税を取り立てていたことが窺い知れます。例えば、ルカ福音書の3章では、洗礼者ヨハネが洗礼を受けに集まってきた徴税人を叱りつけて、「定められた以上を取り立てるな」と戒めています。同じルカ19章で改心した徴税人のザアカイは、イエス様に次のように言いました。「過剰に取り立ててしまった人には4倍にして返します。」このように、占領国の利益のためのみならず、自分の私腹も肥やしたわけですから、徴税人が自分の利益しか考えない国の裏切り者と見なされ憎まれたのは当然でした。
イエス様は、神由来の権威をもって天地創造の神について人々に教え、無数の奇跡の業も行い、大勢の群衆が付き従うようになっていました。宗教エリートのファリサイ派は、この男は伝統的な権威に挑戦する危険人物なのかと気が気でなりません。このように大勢の人に支持されたイエス様が、突然、徴税人その他罪びとと同じ食事の席についたのです。これは、ファリサイ派にとってイエス様の教えが間違っていることを示す証拠になりました。なぜなら、罪びとは神の裁きを受ける者なのに、これを断罪するどころか、一緒に食事までするとは、この男にはもう神について教える資格はない、と。
イエス様が罪びとを招き受け入れる仕方はよく見ると、私たちがイエス様を救い主と信じる信仰に入るプロセスを先取りしています。今日はそれを明らかにします。きっと、この出来事は私たちの身に覚えにあることがわかってくるでしょう。それと、本日の福音書の日課には12年間出血の病が治らなかった女性を癒したことと、ユダヤ教社会のある指導者の娘を生き返らせた奇跡もあります。これらもよく見ると、信仰に入った者が信仰者としてこの世を歩むとどういうことになるかということを先取りするように示しています。このことを説教の終わりで述べようと思います。
ファリサイ派の批判に対して、イエス様は次の言葉を返しました。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐みであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪びとを招くためである」(12ー13節)。ここには大事なことが沢山詰まっています。まず、イエス様は、自分と罪びととの関係を医者と患者の関係にたとえます。そうすると、イエス様は罪びとの抱える病気を治してあげるということになります。それはどんな病気で、イエス様はそれをどのように治されるのでしょうか?それから、「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」というのは、本日の旧約の日課、ホセア書6章6節にある神の御言葉の引用です。これはイエス様が罪びとを受け入れて招くこととどう関係するのでしょうか?さらに、イエス様がこの世に送られてきたのは「罪びとを招くため」と言われますが、罪びとを招くとはどういうことなのか?まさか一緒に飲み食いすることではないことは誰でもわかります。「招く」とは、どこに「招く」ことでしょうか?以下、これらのことを明らかにしていきましょう。
当時、徴税人は罪びとの最たるものと見なされていましたが、興味深いことに、福音書に登場する徴税人は少し勝手が違います。例えば、ルカ3章では、洗礼者ヨハネが神の裁きの日が来ることを大々的に告げ知らせると、大勢の人たちに混ざって徴税人たちも洗礼を受けにやって来ました。彼らは、不安におののきながらヨハネに尋ねます。「先生、私たちは何をしたらよいのでしょうか?」これらの徴税人は、神のもとに立ち返る必要性を感じていたのです。同じルカの18章にイエス様のたとえの教えで、自分の罪を自覚して神に赦しを乞う徴税人が出てきます。たとえなので実際にあったことではないのですが、それでも、ヨハネのもとに集まって来た不安におののく徴税人のことを考えれば、全く非現実的な話ではありません。ルカ19章の徴税人ザアカイにしても、イエス様をなんとか一目見ようと木に登り、それに気づいたイエス様が彼を受け入れた途端、悪いことをして蓄えた富を捨てるという決心をしました。ルカ5章で、イエス様に従いなさいと声を掛けられた徴税人は「全てを捨てて」つき従いました。つまり、イエス様につき従うや否や、それまでの生き方を捨てたのです。ここが重要です。
このように福音書に登場する徴税人は、それまでの生き方は良くないと感じつつも、自分の力では変えることが出来ないでいた、それが、イエス様の招きを受けた瞬間に生き方が変えられたのでした。ここが大事なポイントです。イエス様と一緒に食事の席についた徴税人その他の罪びとは生き方が変えられた人たちだったのです。その意味で彼らはその時はもう元罪びとだったのです。しかしながら、宗教エリートはこの変化を本当のものとして受け入れられません。彼らの目ではまだ現役の罪びとです。どうしてでしょうか?
それは、罪の赦しが宗教エリートが重視する、戒律的な手順を踏まえておらず、イエスという一個人を通して赦しが与えられてしまったからでした。それでは、エリートたちが教えたこと守れと言っていたことが一気に意味を失ってしまいます。そのため、イエスがやっていることは神が認める罪の赦しなんかでない、罪びとたちの新しい生き方も本当ではないという見方になってしまうのです。イエス様の招きや受け入れには本当に罪の赦しがあり新しい生き方をもたらすものであるというのは、旧約聖書の神の言葉に基づいているのです。
イエス様はホセア書6章6節の神の言葉を引用しました。「わたしが求めるのは憐みであって、いけにえではない。」
罪びとたちが罪の赦しを得て新しい生き方を始めたのに、それを疑う宗教エリートに向かって、この言葉の意味を学びなさいと言いました。私たちもその意味をわからなければなりません。ここからが正念場です。
ヘブライ語の原文を忠実に読むと、「私が求めるのは『誠実』であって、いけにえではない」です。福音書はギリシャ語で書かれているのでイエス様が引用した言葉はギリシャ語のエレオス「憐れみ」です。引用元のヘブライ語の言葉はヘセド「誠実」です。ヘセドは辞書によるとfaithfulnessで、日本語では「誠実」とも「忠実」とも訳せます。以前の説教では「忠実」にしましたが、やっぱり「誠実」がいいと思いました。私たちの新共同訳ではヘセドは「愛」と訳されていますが、これは後で述べるように正しくありません。
元の言葉は「誠実」なのにイエス様が引用すると「憐れみ」に変わってしまいました。この変化の意味がわかると、イエス様の招きと受け入れが罪びとの生き方を変えたことがわかります。まず、ホセア書のホセアは、ダビデ・ソロモンの王国が南北に分裂した後に活動した預言者です。紀元前700年代の人です。南のユダ王国の国民はエルサレムの神殿で、神から罪の赦しを得るために律法に従って多くの羊や牛を犠牲の生け贄として捧げていました。しかし、それはいつしか心を伴わない表面的な行為になってしまった、儀式を重ねる一方で神の意思に反することを繰り返すようになってしまった、これではいくら生け贄を捧げても何の意味もありません。人間が自分の罪を心から悔いて神の意思に沿う生き方をしますという儀式なのに、心は改めず儀式さえしていればOKと自己満足に陥ってしまったのです。それで神は、そんな生け贄はもういらないと言われたのです。
それでは、神は生け贄に換えて何を民に求めたかと言うと、それがヘセド「誠実」なのでした。民の神に対する誠実さとは、神に背を向けた生き方をやめて神のもとに立ち返って神の意思に沿うように生きるということです。これが神に対して誠実に生きるということです。新共同訳では「愛」と訳されているのが正しくないと言うのは、ホセア書の大切なポイントの一つとして、民が天地創造の神に背を向けて違う神々を拝むようになってしまったことを結婚相手の不倫にたとえることがあるからです。そういう背景を考えるならば、ヘセドは相手を裏切らないという意味、辞書にある「誠実」がピッタリなのです(ちなみにフィンランド語訳の聖書は「誠実」、英語訳とスウェーデン語訳は「愛」でした)。
マタイ福音書はギリシャ語で書かれていて、イエス様はホセア書6章6節を引用した時にエレオス「憐れみ」と言ったことになっています。出来事の現場ではイエス様はアラム語という言葉で話しをしています。イエス様はアラム語で「憐れみ」を意味する言葉を発して、それが後にギリシャ語に訳されてエレオスになったわけですが、イエス様はなぜヘブライ語原文の「誠実」を「憐れみ」という別の言葉に置き換えたのでしょうか?
実はこの変換には背景があります。イエス様の時代の200年前位に旧約聖書がギリシャ語に翻訳されました。そこでホセア書6章6節の「誠実」ヘセドは「憐れみ」エレオスと訳されたのでした。つまり、この個所の「誠実」という言葉を見てそれを「憐れみ」の意味を含ませる考え方が当時のユダヤ教社会の中に出てきたのです。ファリサイ派に反論する時にイエス様はそっちを取ったのです。どうしてか?こういうことです。ホセア書で神は、民には「誠実」が欠けていると指摘しました。生贄の捧げよりも神に対する誠実が必要なのだと。そしてイエス様は、宗教エリートには「憐れみ」が欠けていると指摘したのでした。罪びとが神のもとに立ち返って神に誠実な者になれるためには戒律に従って生贄の捧げを命じるのは意味がなく、罪びとに「憐れみ」を示すことが必要なのだ、それを自分は罪びとを受け入れて招くことで示しているのだということなのです。これが、イエス様がヘブライ語の「誠実」をギリシャ語の「憐れみ」に置き換えたからくりです。兄弟姉妹の皆さん、このことを通してでも聖書はまことに奥が深い、侮れない書物であることがおわかりになったでしょう。
ところが話はここで終わりません。からくりがわかったからと言って満足してはいけません。なぜなら、イエス様が示した「憐れみ」は当時の罪びとを越えて全ての人間、現代を生きる私たちにも及んでいるからです。次にこのことを見てみましょう。イエス様が示した「憐れみ」は、罪びとを受け入れて招くことでした。受け入れられて招かれた罪びとたちは、今度は神に背を向けていた生き方を止めて神に対して誠実な者に変わりました。イエス様の罪びとを受け入れて招く「憐れみ
は、受け入れられて招かれた者の側に生き方の変化をもたらす力を持っていました。これは、まさにイエス様が行った病の癒しや悪霊の追い出しと同じ奇跡の業です。この同じ奇跡の業は時代を超えて今を生きる私たちにも及んでいるのです。徴税人のように何か具体的な悪行はなくとも、私たち人間はみな神聖な神の目から見たら、神の意思に反しようとする性向、罪を持つ「罪びと」です。そのような私たちをイエス様は憐れみで受け入れて招いて下さり、招きを受けた私たちは神に背を向けていた生き方をやめ、神のもとに立ち返り、神の意思に沿うように生きようという心になる、つまり神に対して誠実になる、そういう憐れみを私たちは受けたのです。いつ受けたのでしょうか?
イエス様の憐れみの招きは、彼が十字架の死と死からの復活を遂げた時に本格的に始まりました。イエス様は私たちが持ってしまっている罪を全部引き取ってゴルゴタの十字架の上に運び上げてそこで神の罰を受けて死なれました。私たちが罰を受けないで済むように私たちに代わって受けられて、私たちの罪を償って下さいました。神は一度死なれたイエス様を途方もない力で復活させて、死を超える永遠の命があることをこの世に示され、そこに至る道を私たちに切り開いて下さいました。そこで、私たちがこれらのことは本当に起こったのだ、だからイエス様は救い主なのだと信じて洗礼を受けると、イエス様が果たしてくれた罪の償いがその通りになるのです。罪を償われたので神から罪を赦された者と見なされるようになって、神との結びつきを持ててこの世を生きられるようになるのです。そして、永遠の命が待つ神のみ国に至る道に置かれて、その道を神との結びつきを持って歩めるようになるのです。
このように神は私たち人間を憐れんで、ひとり子を贈って私たちが歩むべき道と進むべき方角を照らし出して下さったのです。かつて道を誤ってそれぞれの方角に向かっていた羊の群れのようだった私たちは、罪のゆえに神との結びつきを失うという病に冒されていました。それをイエス様は担って下さり、彼が受難で受けた傷によって私たちは癒されたのでした。まさにイザヤ書53章の預言の通りです。そのイエス様を救い主と信じて洗礼を受けたことが、この神の憐れみの招きを受け入れたことなのです。それで私たちはもう、神に背を向けていた生き方をやめて神のもとに立ち返って神の意思に沿うように生きようと志向する者になったのです。神に対して誠実な者になったのです。イエス様と同じ食事の席につける元罪びとなのです。
このように神の憐れみの招きを受けて神に誠実な者になると、この世の歩みはどんなものになるか、福音書の日課のもう二つの出来事が先取りするように示しているので、最後にそれを見ておきましょう。
12年間出血の病に苦しんでいた女性は、イエス様の衣に触れたら治ると信じてそうしました。それに気づいたイエス様は、「あなたの信仰があなたを救った」と言います。それを言った直後に女性は健康になりました。ギリシャ語の原文の「救った」はギリシャ語の特有な現在完了形で、その意味は「過去のある時点から今のこの時まであなたは救われた状態にあった」です。過去のある時点とは、イエス様を救い主と信じ出した時点ですので、「あなたは、私を救い主と信じる信仰に入った時から今のこの時まで救われた状態にあった」という意味になります。女性が治る前にこの言葉が言われたことに注目します。治る前です。つまり、救われるというのは必ずしも病気が治ることではないのです。もっと広い意味があるのです。イエス様を救い主を信じる信仰に入ったら、病気だろうが健康だろうが神との結びつきは変わらずにあり、天の御国に向かう道を歩んでいることにも何ら変わりはないということです。もちろん、この出来事は、まだイエス様の十字架と復活に基づく憐れみの招きが出てくる前のことですが、将来の信仰の有り様を先取りしているのです。
指導者の娘の生き返らせも同じです。「娘は死んではいない、眠っているだけだ」と言うのは、イエス様にとっては、彼を救い主と信じる信仰に生きる者は復活の日に眠りから目覚めさせられて天の御国に迎え入れられるのだから、この世からの死はその日までの眠りにすぎなくなります。この出来事もまだイエス様の復活が起きていない時のことですが、天の御国に至る道に置かれてその道を歩む私たちにはその通りのことなのです。それで、この出来事もキリスト信仰の有り様を先取りしているのです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
桑の実とホトトギス
〈 神はまた言われた、「水は生き物の群れで満ち、鳥は地の上、天のおおぞらを飛べ」。 創世記1:20〉
私の朝の散歩道には三本の桑の木があります。最初の木は尾根緑道の桜美林教会の少し先に、二本目はその先の小学校の校庭を見下ろすあたりに、最後の木は尾根緑道を離れた家の近くの公園にあります。この季節になると三本の桑の木にたわわになった桑の実をおやつ代わりに摘みながら歩いています。ジューシーな桑の実は散歩の折に喉の渇きを潤してくれる素敵な実でもあります。今朝(6/2)も最初の桑の木で摘まんでいたら遠くの方からホトトギスの啼き声が聞こえてきました。今年、初めて聞くホトトギスです、去年は残念ながら聞き逃してしまいました。ホトトギスの啼き声を聞く度に徒然草の第百七段の先輩の女官たちが新入りの若い男をからかう話を思い出します。録音しようとカメラをいじっていたらいつの間にか聞こえなくなったいました。
5月の手芸クラブは27日に開催しました。梅雨になる前の爽やかな天候の朝に開催することができました。
今回のテーマはビーズ刺繡です。最初に作品のモデルを見て自分の作りたいものを選びます。モデルを見る参加者の方々から、「素敵な色合い」、「可愛いわ」、「きれいな形ね」と感心の声をあがりました。モデルとビーズの種類は沢山あって、どんな色や模様の作品をするか決めるのは簡単ではありません。決まったら、次は作品に合う布かフェルトを選んで、それからビーズを縫い付けていきます。針は細くビーズも小さくて目が疲れやすい作業ですが、それでも皆さん楽しくおしゃべりしながら一生懸命ビーズを増やしていきます。次第に形が見えてくると、お互いにそれを見て、「わぁー可愛い!」「素敵!」「きれいな色合い!」とお互いにほめたたえます。
今回もあっという間に時間が過ぎてしまいました。皆さん、もう少し続けたい気持ちがありましたが、細かい作業なので目や手は思った以上に疲れています。未完成のものは自宅で続けることができます。完成したら、カバンやブラウスに取り付けて素敵な装飾になるでしょう。そこで、コーヒータイムで一息入れることにしました。今回は参加者の方が持参して下さった珍しい果物「山桜梅」と「桑の実」を味わいました。みんなで「甘くて美味しい!」と言いながら楽しみました。あわせて、フィンランドのコーヒーブレッド(Pulla)も味わって楽しい歓談の時を持ちました。その時にフィンランドの伝統的な「名前の日」についてと、聖書に出てくる、あらゆる名前にまさる名前についてお話を聞きました。
手芸クラブは夏の間6月から8月までお休みになります。秋の再開の日程は教会のホームページでお知らせしますので、是非ご覧ください。天の神さまがこの夏も皆様のご健康を守られますように。それでは、またお会いしましょう!
今日はビーズ刺繡のテクニックを使って素敵なアクセサリーを作りました。ビーズ刺繡は古くからある手芸のテクニックの一つです。昔は布地に様々な形や色とりどりのビーズを縫い付けて服などの価値を高めました。今でもビーズ刺繡は人気があり、このテクニックを使ってアクセサリー、ブローチ、イヤリング、ボタンなど様々な模様の作品が作られます。フィンランドのラップランドに住む先住民族のサーミ人の民族衣装も鮮やかな色彩のビーズ刺繡で作られています。
真珠はアクセサリーとしては高価なものですが、安価なビーズでもこのように真珠に負けない素敵なアクセサリーができます。しかも、安心して着用できます。例えば、ビーズのネックレスが切れてしまっても大きな損失になりません。しかし、子どもにはそうではないかもしれません。私の娘は小さい頃ビーズのネックレスをもらって、それをとても気に入っていました。毎日首にかけていました。ただ、ビーズはゴムに通してあったので、ある日ネックレスを首に掛けようとしたら、ぷつっと切れてしまいました。娘は悲しくて泣いてしましました。その後ビーズを大事に取っておいて、それを使って人形のネックレスを作りました。その人形にHelmi(ヘルミ)という名前をつけました。
フィンランド語のHelmiは真珠を意味します。それは女性の名前でもあります。古い名前ですが、2000年代の初めに女の子の名前として人気がありました。Helmiは女性の名前の中で最も美しい名前の一つとも言われています。
フィンランドには名前を大切にする伝統があります。フィンランドのカレンダーには、全ての日付の下に何人かの名前が書かれています。それをその名前の人たちの「名前の日」と言います。自分の名前の日になると、みんなからお祝いされるのです。毎朝のラジオのニュースと天気予報の後にその日の名前が読み上げられます。Helmiの名前の日は5月7日です。私の名前パイヴィの日は6月16日です。その日は他にパイヴィッキとパイヴァの名前もお祝いされます。
「名前の日」には誕生日のようにカードを送ったり花を贈ったりします。職場でもコーヒーとお菓子を出してお祝いすることが多いです。「名前の日」があることで、友達や同僚や親戚の人たちを覚えてお祝いする機会が増えるのです。
聖書の中にも名前に関係する神さまのみ言葉があります。例えば、イザヤ書43章1節には次のように書いてあります。
「恐れるな、わたしはあなたを贖う。 あなたはわたしのもの。 わたしはあなたの名前を呼ぶ。」
フィンランド人も、友達や同僚や親戚の「名前の日」をうっかり忘れてしまうことがあります。しかし天と地と私たち人間を造られた神様は私たちのことを忘れたりしません。神様は私たちの造り主ですので、私たち一人ひとりのことを私たちの親よりも良くご存じです。それで私たちは子どもが自分の親を信頼して頼りにするのと同じように神様を信頼して頼りにすることができるのです。そうすれば親から得られる安心よりも大きな安心が得られます。
私たちは時々、他人のことを悪く考えたり、口で言ってしまったりすることがあります。それは神さまの目から見て悪いことですが、私たちは自分は神さまの目に届かないところにいると考えて何も問題ないと思うかもしれません。しかし、私たちは神様の目に届かないところにいることができるでしょうか?私たちはいろいろ隠れ場所を作るかもしれませんが、それは小さい子供のかくれんぼと同じです。子供は頭を隠して、体は見えているのに、自分はうまく隠れたと思っています。捜す人が、みーつけた!と言って名前を呼ぶと、見つかった子供はどうして見つかったのかと驚きます。私たちも同じで、神さまから隠れたい、目の届かないところにいたいと思っても、神さまは私たちがどこで何をしているかをご存じで、私たちに向かって名前で呼びかけます。神さまが名前で呼ばれたら、私たちは隠れている場所から出るでしょうか?
私たちは神さまから隠れたり逃げる必要はありません。神さまは私たち人間のために素晴らしい計画を立てて実現されました。その計画とは、一人の方の名前、神さまのひとり子イエス様の名前を最も偉大な名前にするというものです。フィリピの信徒への手紙2章9~10節で次のように言われています。
「神はキリストを高くあげ、あらゆるな名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものが全て、イエスの名にひざまずき、すべての舌が『イエス・キリストは主である』と公けに宣べて、父である神をたたえるのです。」
どうしてイエス様にあらゆる名にまさる名前が与えられたのでしょうか?それは、イエス様を通して神さまが私たち人間を救ってくださったからです。私たちの救いはイエス様の十字架の業によってのことです。イエス様が十字架の業を通して私たちと世界の全ての人々を救ってくださったので、イエス様の名前はあらゆる名前にまさる名前になったのです。
私たちは神さまから逃げたり隠れたりする必要はありません。イエス様を救い主と信じていれば、神さまは私たちを見捨てることはなくいつも一緒にいて下さいます。神さまは私たち一人一人のことを名前で呼ぶくらいによくご存じで、ひとり子イエス様を贈って下ったくらいに私たちを愛しておられるのです。それで神さまは私たちが信頼しても大丈夫な方なのです。
歌 全ての名前にまさる唯一の名前がある。