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2022年11月27日(日)待降節第一主日 主日礼拝

主日礼拝説教2022年11月27日 待降節第一主日

イザヤ2章1-5節

ローマ13章11-14節

マタイ24章36-44節

説教題 「キリスト信仰者よ、新しい光の世を先取りしてこの世を歩もう」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 今年もまたクリスマスの準備期間である待降節/アドヴェントの季節になりました。教会のカレンダーでは今日が新年になります。これからまた、クリスマス、顕現日、イースター、聖霊降臨などの大きな節目を一つ一つ迎えていくことになります。どうか、天の父なるみ神が新しい年もスオミ教会と信徒の皆様、礼拝に参加される皆様を豊かに祝福して見守り導き、皆様自身も神の愛と罪の赦しの恵みの中に留まられますように。

 今日もまた讃美歌307番「ダビデの子、ホサナ」を歌いました。毎年お話ししていることですが、これはフィンランドやスウェーデンのルター派教会の讃美歌集の一番目の歌です。両国でも待降節第一主日の礼拝の時に必ず歌われます。歌い方に伝統があります。その日の福音書の日課が決まっていて、イエス様がロバに乗って群衆の歓呼の中をエルサレムに入城する場面です。ホサナは歓呼の言葉で、ヘブライ語のホーシィーアーンナー、あるいはアラム語のホーシャーナーから来ています。もともとは神に「救って下さい」と助けを求める意味でしたが、ユダヤ民族の伝統として王様を迎える時の歓呼の言葉として使われました。さしずめ「王様、万歳!」というところでしょう。

 その個所が朗読される時、歓呼の直前で一旦止まってパイプオルガンが威勢よくなり出し、会衆は一斉に「ダビデの子、ホサナ」を歌いだします。つまり、イエス様の群衆になり代わって歓呼を歌で歌うのです。北欧諸国も近年は国民の教会離れが進み普段の日曜礼拝は人が少ないですが、待降節第一主日は人が多く集ってこの歌を歌い、国中が新しい一年を元気よく始めようという雰囲気になります。

 さて、スオミ教会のホサナですが、北欧の国と同じようにしたかったのですが、2年前に日本のルター派教会の聖書日課が改訂されて、待降節第一主日の福音書の個所はイエス様のエルサレム入城ではなくなってしまいました。昨年と一昨年はルカ21章とマルコ13章のイエス様のこの世の終わりの預言でした。そういう話は聖霊降臨後の終わりの頃に相応しいと思うのですが、待降節になってもまだ終末テーマを続けなければならないというのは少し気が重いです。しかし、それでも今日の聖書の箇所はイエス様の再臨にどう備えるかという内容なので、それはそれで主を迎えることに関係することと思い、日本の日課に従うことにしました。

2.イザヤ2章1~5節

 最初に旧約の日課イザヤ書2章を見ていきます。これは、この世の終わりの時に何が起こるかについての預言です。主なる神の神殿のある山が地上のあらゆる山の中で一番高くそびえて、他の山々は揺り動かされてしまうが、主の山だけは揺るがない。そこを目指して諸民族が大河のようにやってくる。彼らは次のように言う。「主の山に上り、ヤコブの神が住まわる神殿に行こう。神は私たちが神の意思に従って生きられるように私たちを教えられる。なぜなら神の掟はシオンから、神の御言葉はエルサレムから出てくるのだから。」そう諸民族は述べてやって来る。一つ余計なことですが、新共同訳では、諸民族が言う言葉は、私たちはその道を歩もう、までです。しかし、正しくは「なぜなら、主の教えはシオンから、御言葉はエルサレムから出る」までです。接続詞「なぜなら」が抜け落ちているので付けてあげて、カギかっこを後ろに移動します。

 諸民族がそう言いながら天地創造の神のもとにやって来る時、神は裁きを行う。諸民族の間に正義を打ち立てるが、多くの者は裁かれるという書き方です。諸民族が持っていた武器は農具に変えられ、もうお互いに対する武力行使はなく戦について学ぶこともない、そういう時が来る、だからヤコブの家の者である我々は主の光の中を歩もうではないか。そういうことが述べられています。

 さて、この世の終わりに世界の諸民族がエルサレムに上って行くとか、主の掟と御言葉はシオンやエルサレムから出るとか言うのを聞くと、本当に諸民族が一斉にあの中東の地に向かって飛行機か何かに乗って行くのだろうかと疑わしくなります。ヤコブの家などと言うと、ユダヤ民族のことを言っているように聞こえます。しかし、そうではありません。黙示録を見ればわかる通り、今ある天と地が終わって新しい天と地が再創造される日に現れるエルサレムとは、今の世界地図にあるイスラエル国の都市ではなく、天上のエルサレムのことです。天地創造の神から義と認められた人たちが迎え入れられるところです。そこに向かう諸民族の大移動ももうこの世の移動手段によらない、何か霊的な移動です。ヤコブの家というのは狭く考えればユダヤ民族ですが、新約聖書の観点から見ると、イエス様を救い主と信じることで神から義と認められた者の集合体です。血筋上のユダヤ民族ではなく、信仰によって神の民の一員とされた者たちです。

 また、ここでは裁きのことが言われているので最後の審判があります。最後の審判では旧い世で損なわれたり中途半端になってしまった正義が回復して完全なものになります。イザヤ2章はそのことについて、個人レベルの正義ではなく民族や国レベルの正義について言っています。かつて旧い世では、正義の実現のため、などと言って振りかざしていたあらゆる武器が新しい世で農具に変えられます。武器なんかでは正義は実現しない、農具の方が正義に相応しいということです。農具に変えるというのは、新しい天と地の世で農耕文明が始まるということではなく、武器を作るくらいの暇と力があるのなら最初から農具にしていれば旧い世はパラダイスになったのに、そうしなかったのは実に愚かなことだったと思い知らせるシンボル的な意味があります。

 そういうふうに考えると、人間はどうしてそうすることが出来ないのか?今の世界情勢を見るにつけ嘆かわしくなります。ひょっとしたら、今の戦争を機に人類は武力に凝りて軍縮を一生懸命にやるようになるだろうか?その時、武器に費やした巨額のお金を気候変動や貧困や疫病の対策に向けられるようになるだろうか?どうでしょうか?そんなのユートピアすぎて非現実的だ、と言ってしまったら、もう無理だとあきらめることになります。聖書が言うように、新しい天と地の再創造の後にそうなることを信じ期待して、今はもうなるようになれと落ちるところまで落ちるしかないのか?

 聖書が今の世に対してそういう投げやりな態度の書物でないことは5節の言葉から明らかです。「ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。」「ヤコブの家」とは、神から義と認められた人たちを意味します。まさに「神の民」です。神に義と認められた人たちとは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者たちです。ひょっとしたら、全人類が心を入れ替えて一致団結して叡智を働かせて戦争や気候変動をストップさせることができるかもしれない。もちろんそうなることにこしたことはありません。しかし、たとえそうなっても、今の天と地がいつか終わって新しい天と地に再創造されて最後の審判を経て神の御国への迎え入れがあることに変更はありません。逆に、人間が頑張っても危機を解決できない場合でも天地の再創造と神の御国への迎え入れは起こります。危機の回避か突入か、どっちを経由しても再創造と迎え入れに至るわけです。それでどっちになるにしても、今は主の光の中を歩まないといけないのです。既にイエス様を救い主と信じている人はこの光の中に留まって歩むこと。光を失わないようにすること。まだその光の中に入っていない人はこれから入るようにするということです。それでは、主の光の中を歩むとは具体的にはどういうことでしょうか?それが、今日の使徒書と福音書の日課で明らかにされています。

3.ローマ13章11~14節

 この個所は天地の再創造と最後の審判の時に起こる復活に向けての心構えを教えています。それが、主の光の中を歩むとはどういうことかを明らかにします。まず、「あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています」と言います。「覚めるべき」と言うと、今寝ぼけた生き方から目を覚ませ!と言っているように聞こえます。しかしパウロが第一コリント15章で言っているように、復活とはこの世から死んだあと眠りにつき、そこから起こされることです。それなので、ここはこの世で寝ぼけた生き方をやめよという命令ではなく、もうすぐ眠りから目覚めさせる時、すなわち復活の日が来るという必然について言っているのです。

 次に、「今、救いが近づいた。あなたたちがイエス様を救い主と信じる信仰に入った時よりも近づいた」というのは当たり前のことです。時間が経過したのですから。キリスト信仰には今の天と地が新しい天と地に取って代わられる日が来るという終末論と新生論があり、その日がいつかは神しか知らないが、とにかくその日は来る、だから、私たちが一年一年過ごしていく度にその時に近づいていることになります。パウロが言う「救い」とはローマ8章23節で言っていた「体の解放」、つまり今纏っている肉の体に代わって神の栄光を映し出す復活の体を着せられることです。このように、パウロはここで復活の日が近いことを言っているのです。パウロはその期待が強かったようです。しかし、実際はどうだったでしょうか?パウロがこの世を去って2000年近く経ちましたが、同じ天と地はまだ続いています。イエス様は福音が世界の隅々まで伝わるまでは今の世は続くと言っていました。当時の人たちにとって世界は地中海とその周りが全てでしたから世界は今より小さく見られていました。しかし、いまだ福音が宣べ伝えられていなかったり自分の言語で聖書を読めない民族は世界に多く残っているので、今の世の終わりは当分まだなのでしょう。

 「夜は更け、日は近づいた」というのも同じ考えです。今のこの世の有り様が夜の暗闇に例えられています。日と言うのは新しい世のことです。今の世の有り様が終わりに近づいている、復活を経た新しい世の到来が近いということです。そのように今はまだ夜で暗いが、夜が終わって夜明けが来るのと同じように復活と新しい世も来る。それで、もうすぐ光の中を歩むことになるのだから、今はもうすぐ終わる暗闇に従うことを止めて、暗闇の力に対抗できる光の武具を身につけよ、とパウロは喚起します。光の武具を身に着けるとはどういうことか、パウロはそれを説明します。「日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。」「品位をもって」というのは、すぐ後に酒宴、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみというものが言われるので、それらの対極として品行方正の意味に訳にしたと思います。もちろん、酒宴、酩酊、淫乱や好色は日中よりは暗い夜に行うことが多いと思います。しかし、ここで日中と言うのはあくまで暗闇の今の世に対する光の新しい世のことを意味します。それなのでここのパウロの意図は、新しい世はまだ来ていないが、今は既にその中にいるがごとく、そういう者として歩もうということです。光の新しい世はまだであるが、キリスト信仰者はもう一足早くその光の世にいるがごとく、今はこのもうすぐ終わる暗闇の世を生きなさい、ということです。それが光の武具を身に着けるということになります。一足早く光の世にいるようにして光の武具を身に着けるとはどういうことか?二つの大事なことがあります。一つは隣人愛で愛すること、もう一つは罪に反対して生きることです。その二つについてみてみます。

 まず、隣人愛で愛することについてですが、実はそれについて今日の個所の直前で言われています。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな、その他どんな掟があっても、隣人を自分のように愛しなさいと言う言葉に要約されます(13章9節)」等々。パウロは今の世がもうすぐ終わることを次の所で言う前に、隣人愛で愛せよと命じるのです。さて皆さん、今の世がもうすぐ終わるということをわかった上で本当に隣人愛で愛することができるでしょうか?どうせ世界が終わるのに無意味なことを言っていると思う人もいるかもしれません。もし自分の命があと少ししかないと前もって分かったら、取り乱したり無力感に陥ったり自暴自棄になるかもしれません。しかし、人生の最後を人のために尽くそうという心も生まれることもあります。黒澤明の古い映画「生きる」の主人公がその例です。余命僅かと告げられた主人公は最初は快楽に走りますが、最後は人のために尽くそうと必死になりました。死を目前にした者が自分の生き方が無意味にならない、意味のある生きた方になることを他人のために尽くすこと他人が喜ぶ顔を見ることで見出したと言ってもよいでしょう。

 パウロの隣人愛で愛せよという教えはどうでしょうか?「生きる」の主人公のように、この地上での残された時間を意味のある生き方をするのだ、そのために隣人愛で愛するのだということでしょうか?そういう面もあるかもしれませんが、キリスト信仰の場合は、映画の主人公と違って、地上の残された時間の先を見ています。光の新しい世では愛と正義が完全なものになっている。それらを損なったり汚すものはもう存在しない。自分はイエス様のおかげでそこに迎え入れられて完全な愛と正義に包まれて生きることになるのだから、今はあたかも既に迎え入れらた者のようにこの世で立ち振る舞おう、新しい光の世を先取りした者としてこの世を生きよう、パウロは言っていることはそういうことです。黒澤明の映画はこの世を超えたことはないので人間中心主義です。文字通りヒューマニズムです。キリスト信仰の場合はこの世を超えたことを視野に入れています。何主義と言ったらよいでしょうか?皆さん、何か言葉を考えて下さい。

 光の武具のもう一つ大事なことは、罪の自覚を持ち罪を告白し罪の赦しを受ける生き方をすることです。パウロは14節で「主イエス・キリストを身にまといなさい」と言います。これは、洗礼の時にイエス様を白い汚れない衣のように頭から被さられて、神からはさも罪の汚れがない者のように見なされることを象徴して言っています。既に洗礼を受けてこの神聖な衣を身に纏った人はそれを手放さないようにしなさい、まだ纏っていない人は暗闇の世が終わるまでに早く纏いなさいということです。

 イエス様という汚れのない衣を被されたとは言っても、私たちの内には神の意志に反する罪がまだ残っています。それなので、洗礼の後はこの衣の神聖な重みで罪を圧し潰していく生き方が始まります。どういうことかと言うと、罪の自覚が起きるたびに神のみ前で罪を告白して(神のみ前です、人間の前ではありません)、聖霊からゴルゴタの十字架を心の目に映し出してもらって、罪の赦しが揺るがずにあることを確認して罪の赦しの中に留まることです。その時、父なるみ神は言われます。「お前がわが子イエスを救い主と信じていることは分かっている。イエスの犠牲に免じてお前の罪は赦された。これからは注意しなさい」と。この時キリスト信仰者は襟を正し、畏れ多い気持ちと感謝に満たされて日常生活に戻ります。このような罪の自覚と告白と赦しはこの世を去る時まで繰り返されますが、神はこれを罪に与さずに生きた証、罪に反抗して生きて証、罪を圧し潰す生き方をした証しと認めて下さいます。そして復活を果たした後はこの繰り返しはもうありません。罪がなくなっているからです。

4.マタイ24章36~44節

 ここでは、イエス様の再臨のことが述べられています。イエス様の再臨というのは天地の再創造と最後の審判と復活にくっついている出来事です。イエス様は、キリスト信仰者はその時に備えて目を覚ましていなければならない、準備が出来ていなければならないと言います。ノアの洪水のことが例として言われます。ノアは目を覚まして準備が出来ていた人の例です。目を覚まして準備をしていれば、箱舟に入って洪水から守られたように守られて神の御国に迎え入れられると言うのです。反対に目を覚ましておらず準備もしていないと悲劇的なことになると。

 畑にいる二人の男と臼を引く二人の女の話は分かりにくいと思います。これは、神の国に迎え入れられるというのは選別があるということ、みんながみんな天国に行けてハッピーになるわけではない、なぜなら最後の審判があるということを意味しています。二人のうち一人というのは、50%の確立と言っているのではなく、迎え入れられる者と入れられない者の二つに分かれるということです。もう一つ気を付けなければならないことがあります。畑にいる二人の男の人も臼を引く二人の女の人も両方とも同じ仕事をしています。外側から見たらみんな同じ仕事をしていて一体何の違いがあって何の落ち度、デメリットがあって、一人は迎え入れられて、一人は迎え入れられないのかわかりません。これは、神は、人間の目で外から見て気がつかないこと、見えないことを全てご存じであるということを意味しています。神は造り主で私たちの髪の毛の数まで把握しておられる方ですから、私たちの行いや言葉について人には知られないこと、心の中のことまでご存じです。

 そこまで言われると、自分は神のみ前ではもうだめかと思ってしまいます。しかし、さっき言ったことを思い出しましょう。罪の自覚と告白と罪の赦しの繰り返しに生き、神の罪の赦しのお恵みの中に留まり、被されたイエス様の衣を手放さないように歩んでいれば何も心配ないのです。それが目を覚ましていること準備していることになります。泥棒に入られないように起きているというのも、泥棒とは罪のことです。自覚と告白と赦しがあれば、罪に支配されることはありません。イエス様の衣をしっかり握りしめれば握りしめるほど、罪は圧し潰されて行きます。

 以上、キリスト信仰者は新しい光の世を先取りして、このもうすぐ終わる暗闇の世を進んでいけることについてお話ししました。先ほどの映画「生きる」の主人公についてもう一つ述べておくことがあります。それは、主人公が快楽から人のために尽くそうとする転機になったことについてです。彼の職場を辞めて別の仕事に就いた若い女性がとても活き活きして仕事をしているのを目撃して、自分もあのように輝きたいと思ったことが転機でした。キリスト信仰は輝きを与える信仰です。その輝きは、新しい光の世の輝きであり神の栄光の輝きです。復活の日に自分もその輝きを映し出す復活の体を与えられて神のもとに迎え入れられます。キリスト信仰者は私自身も含めてですが、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼によって新しい光の世を先取りしていることにもっと気づくべきだと思います。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

宣教師の週報コラム  待降節は教会の新年

今日は待降節第一主日です。教会の暦では今日、新しい一年がスタートします。フィンランドのルター派国教会の礼拝ではこの日、 全国の教会で一斉に「ダビデの子、ホサナ(日本の教団讃美歌307番)」を元気よく歌います。スオミ教会でも歌います。

「ダビデの子、ホサナ」が斉唱される場面のビデオです(エスポー教会、2015年11月29日収録)

今日からまた、降誕祭(クリスマス)、顕現日、受難節、聖金曜日、復活祭(イースター)、聖霊降臨祭(ペンテコステ)などの大きな節目を一つ一つ迎えていくことになります。聖霊降臨祭の後は、聖霊降臨後第何主日という形で続き、待降節第一主日の前の最後の主日は、北欧のルター派教会では「裁きの主日」と呼ばれ、最後の審判がテーマになります。

このように教会のカレンダーは、イエス様の誕生から十字架と復活の出来事までをフォローでき、私たち自身の復活にも思いを馳せられるようになっています。

それなので教会の暦に従って礼拝出席を欠かさないようにすれば、主の再臨を心に留めつつ、この世での自分の歩みを造り主である神の御心に照らし合わせて反省したり、また神から罪の赦しの恵みと愛が豊かに注がれていることを絶えず確認できます。しかも、一人ではなく信仰の兄弟姉妹たちと共にです。それなので、日々の歩みを教会の暦に合わせて日曜礼拝を守りながら生きることは、キリスト信仰者としてのアイデンティティーを確立し、この世を生きる上で大きな力を与えてくれるます。

どうか、天の父なるみ神がこの新しい一年もスオミ教会と教会に繋がる皆様を顧みて、皆様お一人お一人の日々の歩みの上に祝福を豊かに与えて下さいますように。また皆様が神の愛と恵みのうちにしっかりとどまることができますように。(2020年11月29日初稿掲載)

歳時記


ツワブキ  

寄らば大樹の陰ならぬ懐でしょうか。ツワブキはこのように樹の根本が好きなようで他にも同じようなツワブキを何箇所かで見かけました。「花も紅葉もなかりけり・・・」、この季節ツワブキの花の黄色と葉の緑がひと際枯れた景色に色を添えています。

11月23日19時45分 スオミ教会・聖書研究会

Youtubeで見る

聖句 ローマの信徒への手紙10章11節~11章10節

聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります。ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と書いてあるとおりです。しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っています。実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。それでは、尋ねよう。彼らは聞いたことがなかったのだろうか。もちろん聞いたのです。「その声は全地に響き渡り、/その言葉は世界の果てにまで及ぶ」のです。それでは、尋ねよう。イスラエルは分からなかったのだろうか。このことについては、まずモーセが、/「わたしは、わたしの民でない者のことで/あなたがたにねたみを起こさせ、/愚かな民のことであなたがたを怒らせよう」と言っています。イザヤも大胆に、/「わたしは、/わたしを探さなかった者たちに見いだされ、/わたしを尋ねなかった者たちに自分を現した」と言っています。 」しかし、イスラエルについては、「わたしは、不従順で反抗する民に、一日中手を差し伸べた」と言っています。

では、尋ねよう。神は御自分の民を退けられたのであろうか。決してそうではない。わたしもイスラエル人で、アブラハムの子孫であり、ベニヤミン族の者です。神は、前もって知っておられた御自分の民を退けたりなさいませんでした。それとも、エリヤについて聖書に何と書いてあるか、あなたがたは知らないのですか。彼は、イスラエルを神にこう訴えています。「主よ、彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇を壊しました。そして、わたしだけが残りましたが、彼らはわたしの命をねらっています。」しかし、神は彼に何と告げているか。「わたしは、バアルにひざまずかなかった七千人を自分のために残しておいた」と告げておられます。同じように、現に今も、恵みによって選ばれた者が残っています。もしそれが恵みによるとすれば、行いにはよりません。もしそうでなければ、恵みはもはや恵みではなくなります。では、どうなのか。イスラエルは求めているものを得ないで、選ばれた者がそれを得たのです。他の者はかたくなにされたのです。「神は、彼らに鈍い心、見えない目、/聞こえない耳を与えられた、今日に至るまで」と書いてあるとおりです。ダビデもまた言っています。「彼らの食卓は、/自分たちの罠となり、網となるように。つまずきとなり、罰となるように。彼らの目はくらんで見えなくなるように。彼らの背をいつも曲げておいてください。

新共同訳

スオミ教会 手芸クラブ&チャーチ・カフェのご案内

11月の手芸クラブは30日(水)10時~13時開催です。

マクラメでクリスマスの飾り物を作ってみませんか。

今回はマクラメのテクニックを使ってクリスマス・リース、クリスマス・スターを作ります。クリスマスツリーのミニチュアも作れます!

手芸クラブでは自分の好きな編み物をすることもできます。おしゃべりしながら楽しく作りましょう!

 

参加費は材料費の500円-1000円
(作るものによって変わります)です。

人数制限がありますのでご注意ください。

お子さん連れの参加も歓迎です。

皆様のご参加をお待ちしています。

 

お問い合わせ、お申し込みは、

日本福音ルーテル・スオミ教会
新宿区鶴巻町511ー4-106
03-6233-7109

 

手芸クラブの開催中、教会の集会スペースにてチャーチ・カフェも開いています。

コーヒーやプッラ(フィンランド風菓子パン)を味わいながら、モニターでフィンランドの讃美歌や風景に触れて、心休まるひと時をお過ごしください。

手芸クラブに参加されない方でもご自由にお好きな時間帯にお立ち寄り下さい。

ご希望あれば礼拝スペースにて一人静かにお祈りすることもできます。(コーヒー・プッラ準備費として300円ご協力お願いします。)

日本福音ルーテルスオミ・キリスト教会
東京都新宿区早稲田鶴巻町511-4-106
www.suomikyoukai.org

宣教師の週報コラム

「贖い」と「償い」の違いについて

キリスト信仰にとって大事な言葉「贖い」と「償い」は似ているようで意味が違います。 両者を混同すると、朝に「おやすみ」、夜に「おはよう」と言うのと同じ間違いをすることになりますので、キリスト信仰者は意識して使い分けできるようにしましょう。

「償い」とは罪を償うことです。社会生活や人関関係で罪や過失を犯したら、賠償したり刑罰を受けることが償うことになります。殺すな、姦淫するな等々神の掟を行動や心で破って神に対して罪を犯した場合の償いは神罰を受けることになります。キリスト信仰では、人間が神罰を受けないで済むようにと神のひとり子が自分で人間の罪を引き取って十字架の上で神罰を受けられました。イエス様が人間の罪を人間に代わって償って下さったのです。

「贖い」はとてもわかりにくい言葉です。フィンランド語やスウェーデン語や英語では「買い取る、買い戻す」という言葉が用いられます。日本語のように敢えてわかりにくい物々しい言葉を充てることはしないのです。それでは、何を「買い取る、買い戻す」のか?人間です。罪の言いなりになって心も体も罪に支配されている人間を神のもとに買い戻すということです。その時に支払われた代価が、神のひとり子が十字架の上で流した血だったのです。

そういう訳で、「償う」のは罪、「贖う」のは人間ということになります。

時々「罪の贖い」という言い方を耳にします。それは「罪からの人間の贖い」を縮めて言っているのだなと理解してあげれば済むことかもしれませんが、紛らわしいです。すっきりさせるためにも罪は「償い」に結びつけた方がよいでしょう。フィンランド人やスウェーデン人や英語圏の人と信仰の話をする時に、「罪を贖う」という日本語をそのまま直訳して話したら混乱します。父なるみ神がひとり子を犠牲にしてまでご自分のもとに買い戻したいのは人間であって罪ではないからです。

2022年11月20日(日)聖霊降臨後最終主日 主日礼拝

主日礼拝説教 2022年11月20聖霊降臨後最終主日)スオミ教会

エレミヤ23章1-6節

コロサイ1章11-20節

ルカ23章33-43節

説教題 「イエス様と一緒に十字架にかけられた犯罪人の信仰」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.メシアと神の国

 本日の福音書の個所はイエス様が十字架にかけられた場面です。イエス様の両側に犯罪人が二人、一人は右側に、もう一人は左側に十字架にかけられました。三人とも五寸釘を両手首と重ねた足首に打ち付けられています。イエス様は既に拷問を受けていて血みどろです。三人とも激痛の中を苦しみ悶えています。後は息を引き取るのを待つだけです。真に残酷な場面です。

 犯罪人の一人がイエス様を罵って言いました。お前はメシアなんだろう?だったら、自分と俺たちを救ってみろ!と。この男は、イエス様のことをメシアと言いましたが、メシアとは何でしょうか?普通は救世主を意味すると言われます。この男の人は救世主の意味で言ったのでしょうか?メシアはもともと聖別の油を頭に注がれた者を意味しました。ユダヤ民族の王様は代々、油を注がれる儀式を受けて王位につきました。イエス様の十字架の上には「この男はユダヤ人の王」という札が掲げられていました。メシアはユダヤ民族の王の意味があったのです。そのため彼の十字架刑は、当時ユダヤ民族を占領下に置いていローマ帝国の官憲にとっていい見せしめになったでしょう。本当に王かどうかはどうでもいい、俺たちに盾突くとなこうなるぞ、という具合に。

 このようにメシアにはユダヤ民族の王という意味があり、特にイエス様の時代には、将来ダビデ家系の王様が現れてユダヤ民族を外国支配から解放して王国を復興させてくれるという期待が抱かれていました。イエス様はそういう民族解放の英雄に見られていたのです。ところが当時、このような民族解放と王国復興の期待について少し異なる期待の仕方もありました。どんか期待の仕方かと言うと、復興される王国というのは、民族自決国家というようなこの世的な国を超越した国という期待です。それは、今の天と地に取って代わって新しい天と地が創造される時に現れる神の国のことでした。それをメシアが王として君臨するというのです。それは、この地上の有り様を飛び越え新しい有り様の世のことです。さて、地上の国か、超越した国か、旧約聖書にはどっちにも取れる箇所が沢山あります。それで、イエス様の時代のユダヤ民族にはこの世的でない超越的な王国とメシアに対する期待を抱く人たちもいたのです。その証拠に、聖書には収められていない数多くのユダヤ文書の中にはそのような期待が記されていました。イエス様の十字架の死と死からの復活の出来事は実に、神の国が地上の国ではなく将来の新しい有り様の世であることをはっきりさせたのです。

 イエス様を罵った犯罪人は、イエス様のことを地上の王、民族解放の英雄の意味でメシアと言ったと思われます。民族の英雄と祀り上げられておきながら、なんだこのざまは、ということだったのでしょう。十字架の近くで見物していたユダヤ教社会の指導者たちも同じでした。ところが、もう一人の犯罪人はこう言ったのです。「イエスよ、あなたがあなたの御国に入られる時に私を思い出して下さい。」つまり彼は、もうすぐ息を引き取ってこの世から別れることになっても、イエス様の方は「あなたの御国」、つまりイエス様が王である国にイエス様が入ると信じたのです。メシアが君臨する国はこの地上の国ではない、今の世を超えたところにある国であり、イエス様はその王であると信じたのです。つまり犯罪人は超越的な国とメシアの存在を信じたのです。

 それに対してイエス様は「お前は今日わたしと一緒に楽園にいる」と答えました。この答えはよく注意して見ないといけません。「今日一緒に楽園にいる」と言うと、今十字架にかけられて苦しみ悶えているのにそれがどうして楽園にいることになるのかという疑問が起きます。なんだか苦しみを和らげるための気休め言葉か、イエス様みたいに権威のある方が言えば、苦しみの中にあっても耐えられるありがたい励まし言葉ということなのか?そういうことではありません。ギリシャ語原文で「楽園にいる」と言っているのは未来形です。それなので今は苦しみ悶えているが、今日中の内に一緒に楽園にいることになる、と言っているのです。息を引き取ってこの世から別れたら一緒に楽園にいることになる、ということです。

 そう言うと今度は、あれ、キリスト信仰では復活というのがあって、神以外誰も知らない将来の時、今ある天と地が終わりを告げて新しい天と地に再創造される、その時、イエス様の再臨と最後の審判が起こって、神に義と認められた者は神の栄光を映し出す復活の体を着せられて永遠に神の御許に迎え入れられる、認められない者は永遠の炎に投げ込まれる、そういうことが起こるのではなかったのか?そういうプロセスを経て天の御国に入ることが出来るのではなかったのか?今日中に楽園にいることになると言ってしまったら、プロセスはなくなってしまうのではないか?

 この疑問は、ルターが復活について教えていることを思い出すと解決できます。ルターによれば、人間はこの世から別れた後はイエス様が再臨する日まで安らかな眠りにつく。たとえ眠った時間は地上にいる人間から見たらどんなに長くても、眠っている本人にしたら、目を閉じた瞬間に目を覚まさられるようなもので、その間の眠りの時間は瞬きの一瞬にしか感じられないと。それなので、イエス様が今日中に楽園にいることになると言っても、最後の審判や復活の日までの期間は全部入っているので間違いではありません。

2.犯罪人の罪の告白と赦しの宣言

 イエス様に「私のことを思い出して下さい」という犯罪人の言葉ですが、これはよく目を見開いて何度も読んでみると、これはキリスト信仰者が行っている罪の自覚と告白それに信仰者が受け取る罪の赦しが全部出そろっていることがわかります。

 最初の犯罪人がイエス様を罵った時、彼は諫めて言いました。「お前は神を恐れないのか。同じ刑罰を受けているのに。」この訳は不十分です。ギリシャ語原文を忠実に見るとこうなります。お前がこの方と同じ罰を受けているからという理由で、この方をお前と同等に扱うようなことを言うなんて、お前はなんと大それたことを言うのか、お前は神を恐れないのか、という意味です。ユダヤ教社会の指導者たちもローマ帝国の兵士たちも、イエス様に対して「お前がユダヤ人の王なら自分を救ってみろ」と繰り返し言っていました。この犯罪人はイエス様に対して「自分を救ってみろ」だけではなく、「自分と俺たちを救ってみろ」と、自分たちのことも入れたのです。

 これに対してもう一人は、それは間違っている、神を冒涜することになると否定したのです。なぜなら、自分たちは犯罪を犯して刑罰を受けて当然の報いを受けている、しかし、イエス様の場合は何も悪いことをしていないのに自分たちと同じ刑罰を受けている、だから同等に扱うのは間違っているというのです。そして、その犯罪人は、イエス様がこの世の王国を超えた新しい世の王であると信じています。別の犯罪人と指導者たちは、メシアはこの世の王国の王のことで、イエスはそれになるのに失敗したという見方です。しかし、こっちの犯罪人は、イエス様は新しい世の王でもうすぐそこに入ることになると信じています。イエス様は何も失敗していない、今、人間的な目では全てが失敗で恥と痛みと苦しみしかないが、実は紙一重で全然違うことが待っている。イエス様には何か人間の理解を超えた大きなことが起こる。今、神の計り知れない計画が行われている。イエス様のことを自分たちのように本当に犯罪を犯して罰を受けている者と同等に扱うのは神を冒涜することになる、と。

 この犯罪人にはイエス様が王として新しい世の国に入ることが見えていました。しかし、自分は犯罪を犯して刑罰を受けてしまった。イエス様に、私も一緒に御国に入らせて下さいなどと言える資格はないことは百も承知です。それで、御国に入られる時に私を思い出して下さい、というのが精一杯でした。これは、自分が罪びとであると告白していることになります。自分は落第だと認めているからです。しかし同時に、御国に入ることは許されなくても、心の片隅でもいいですから私のことを覚えておいて下さい、と最小限の憐れみを乞うているのです。罪の赦しをお願いしているのです。これに対するイエス様の答えはどうだったでしょうか?イエス様はなんと、大丈夫、一緒に御国に入れるよ、とおっしゃったのです!最小限の憐れみどころが、最大限のお恵みを与えたのです。罪の赦しのお恵みです。神の御国に入れるというのは罪が赦されたということです!死を間近に控えた絶体絶命の時にこのような言葉をかけて下さる方がおられるというのは何と勇気づけられることでしょうか!

 この犯罪人の罪の告白と彼が受けた罪の赦しは、キリスト信仰者が行う罪の告白と受ける罪の赦しそのものです。方や犯罪人、方やキリスト信仰者、果たして同じと言えるのか?疑問を抱く方がおられるかもしれません。同じだとわかるために、ここで少し罪と罰の問題を考えてみます。キリスト教は罪を赦すと言っているから、犯罪を犯しても罰を与えないということなのか?それでは犯しても構わないということにならないか?などと聞く人がいます。そういうことではありません。神は十戒で殺すな、盗むな等々と命じています。それらは神の意志なのでやってはいけないこと、許されないことなのです。やったら神の意志に反したので罰せられることなのです。

 社会の法律が罪や罰について規定する時、それは人間が人間に対して行った罪についてです。人を傷つけたら、それは人間に対して罪を犯したことになり、法律が想定している社会の安定を損ねたことになります。それに対して賠償なり刑罰が課せられます。課せられる賠償や刑罰の大きさは社会によって異なり、何が妥当かについて議論は絶えず起こります。キリスト信仰の場合、罪は人間に対して犯したというだけでなく、人間に対して犯したことを通して神に対して犯したということが出てきます。神に対する罪の罰は神罰です。神罰とは、人間が造り主である神と切り離された状態でこの世を生きなければならないということです。そして、この世から別れた後は切り離された状態が永遠のものになってしまうということです。

 社会の罪と罰とキリスト信仰の罪と罰の違いについて、神に対する罪ということの他にもう一つ重要なことがあります。それは、殺すな、姦淫するな、盗むな等々の神の掟は、行動だけでなく心の中でも破ったら、同様に神に対して罪を犯したことになり神罰の対象になるということです。法律の規定だけでしたら、人間に対する罪は行動や言葉で現れるものが罰の対象になります。キリスト信仰の場合は心の中で神の意志に反するものを抱いたら、それでもう神罰の対象になるのです。人間は心の中まで見通せないので法律をもってしても心の中にあるものを罰することはできません。キリスト信仰では神は人間を造られた方なので心の中も全てお見通しです。神の意志に反することが心の中にあれば、それも罪になり神罰の対象になるのです。

 しかし、人間が神罰を受けることは神の御心ではありませんでした。神は人間が自分との結びつきを持ててこの世を生きられるようにしてあげたい、この世から別れる時も自分との結びつきを持ったまま別れられるようにしてあげたい、別れた後は復活の日に目覚めさせて永遠に自分のもとに迎え入れてあげたいと思いました。それを可能にするためにひとり子のイエス様をこの世に贈られたのです。神はイエス様に人間の罪を全て背負わせてゴルゴタの十字架の上にまで運ばせて、そこで神罰を下して彼を死なせました。神のひとり子が人間の全ての罪を償うことで、その犠牲の死に免じて人間を赦すという手法を取ったのです。そればかりではありません。神は一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させて、死を超えた永遠の命があることをこの世に示し、人間のために永遠の命に至る道を開かれたのです。

 そこで人間が、これらのことは本当に起こったことだ、それでイエス様は自分の救い主なのだ、と信じて洗礼を受けると、イエス様が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになり、その人は神から罪を赦された者として扱われるようになります。神から罪を赦されたから神との結びつきを持ってこの世を生きていくことになります。復活の日に神の栄光を映し出す復活の体を着せられて永遠の命を与えられる地点に向かう道を進んでいくことになります。この神との結びつきは逆境の時でも順境の時となんら変わらずにあります。それでいつも状況に応じた守りと導きを得られます。この世から別れた後も結びつきはそのままなので、復活の日が来たら目覚めさせられて神のみもとに永遠に迎え入れられます。

 ところで、神から罪を赦された者として扱ってもらえるとは言っても、信仰者から罪が全く消え去ったわけではありません。心の中に神の意志に反するものがいつも渦巻いています。それに気づいた時、キリスト信仰者は失望したり不安に陥ったり時には絶望しそうになります。しかし、信仰者にはいつも引き上げてくれるものがあります。ゴルゴタの十字架です。あそこに自分の罪の罰を代わりに受けて下さった方がおられる。神の壮大な計画によってあの十字架が歴史上に打ち立てられた以上は、あの方は自分の救い主であり続け、神は私のことを罪を赦された者として扱って下さるとわかります。もう失望や不安や絶望に浸る必要はないのです。そのようにしてキリスト信仰者は罪の自覚を持ち、それを告白するたびに神から罪の赦しを受ける、これを繰り返しながらこの世の道を進んでいきます。繰り返しがあるのは、自分にはまだ罪が残っていることを意味しています。しかし、繰り返しをするのは、自分は罪と敵対している、神の罪の赦しのお恵みの力で罪と戦っていることを意味します。この繰り返しは、復活の日、神の御国に迎え入れられる日に完全に終結します。

3.神の祈りの学校

 本日の福音書の個所は、犯罪人が息を引き取る寸前に罪を告白して赦しを受けたという出来事です。それに関連して、ある方が言われたことを思い出しました。その方はキリスト信仰者ではないのですが、ミッション系の学校に通ったことがあり、聖書のこともよくご存じの方でした。ある日、その方に洗礼を受ける考えがあるか尋ねたところ、自分は死ぬ寸前にイエス様助けてと言うからそれで十分、今は縛られないで生きていたいということでした。確かに、本日の福音書の個所の犯罪人の例があるので、最後の瞬間の前にイエス様を救い主と告白すれば天の御国に迎え入れられる可能性も否定できません。しかし、ここには考えなければならないことが二つあります。

 まず、洗礼を受けると聖霊が授けられるということがあります。少し別の言い方をすると、洗礼によって聖霊が常駐するようになるということです。人間は聖霊の力が働かないとイエス様を自分の救い主と信じることはできない、理性だけではできない、というのがキリスト信仰の立場です。理性だけですと、イエス・キリストは過去の歴史上の人物に留まります。イエス様には現代を生きる人にとって何か感銘を与える思想と行動があるので、それで興味と共感を覚える人もいます。しかし、それはまだ理性止まりです。それだけですと、イエス様のことを、自分がこの世と次に到来する世の双方の世を生きられるようにしてくれる救い主とは考えません。イエス様をそのような救い主であると分かりだすのは聖霊が働いているからだというのがキリスト信仰の立場です。洗礼を受けるとこの働きをする聖霊が腰を据えて留まることになります。洗礼を受けないでいると、一時イエス様と大いなる人生についての真理を垣間見ることがあっても、すぐ見えなくなります。この世にはいろんな霊が跋扈しているからです。本日の犯罪者の場合は、他の霊が入り込む隙がない位の最後の瞬間でした。このように最後の瞬間の告白で十分だとする考え方の問題点は聖霊を持てないということです。

 もう一つ問題点があります。それは、「神の祈りの学校」の生徒としての研修期間がなくなってしまうということです。「祈りの学校」はフィンランドのキリスト信仰者の間で口にされる言葉の一つです。どんな学校かと言うと、キリスト信仰者は学校の生徒のようなもので、いろんなことを通して神から教えられる、例えば、祈っても願い通りにならなずに失望や挫折もあるかもしれない、しかし、そういうことを通しても神は人間の願いよりも大きなことを教え、そういうやり方で人間を成長させ鍛えて下さる、信仰生活とはそんな実践的な学びの場であるということです。実践的な学びを通して神がどんな方であるかを知ることができます。研修期間が長くて神のことを知れば知るほど、神は本当に信頼に値する方であり、この方が共にいて下されば本当に何も恐れることはないということがわかります。そういうわけで、神の祈りの学校の在学期間が長ければ長い程、この世から別れる時、これから自分の全てを委ねる方はどんな方なのかがよくわかっています。とても身近な存在になっています。在学しないで私は最後の時に委ねるからいいです、と言うのは、神がどんな方かまだよくわからず、まだ身近な存在になっていないで委ねることになります。その時、安心して自信を持って委ねることができるでしょうか?委ねる方がどんな方か自分でよくわかっていて身近な存在になっている場合の方が安心して自信を持って委ねることができるのではないでしょうか?

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

 

 

歳時記

蜘蛛の巣  

この時期木の葉が落ちた林は明るいです。楓の木の下を通りかかったら楓の葉が一枚宙ぶらりんになっていました。 そばに行って見ると蜘蛛の巣の糸が絡まっていました、蜘蛛も迷惑だったでしょう。明るくなった林には蜘蛛の巣が目立つようになってきました。差し込む陽の光を受けてキラキラ光っています。蜘蛛は巣の中央で日向ぼっこをしているようにも見えました。

スオミ教会・家庭料理クラブの報告

11月のスオミ教会・家庭料理クラブは12日、晩秋にしては暖かい陽気の中で開催しました。今回は「オーツのリング・パン」Reikäleipä とそれにあわせてサーモンスープも作りました。

料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。まず、パンの生地を作ります。生地をよく捏ねてから暖かい場所において一回目の発酵をさせます。生地はあっという間に大きく膨らみました。パンを形作るタイミングです。生地を三つに分けて皆で一生懸命に丸めて、手とめん棒で平らに伸ばして真ん中に穴を開けます。鉄板にリングパンをきれいに並べて二回目の発酵をさせます。

パンを発酵させている間にサーモンスープの準備に入ります。野菜の皮をむいてレシピ通りに切ります。もちろんサーモンも。サーモンと野菜を鍋で煮込み始めて、発酵したリングパンをオーブンに入れます。少し経つと教会の中はサーモンとディル、焼きたてパンの香りで一杯になりました。

出来上がったサーモンスープをお皿に盛りつけ、焼きたての香ばしいパンにマーガリンを塗って、一緒に頂きます!サーモンスープは味付けも上手くできて皆さんおかわりもされて、お鍋は空っぽに。スープとパンを味わいながら、フィンランドの70年代の有名なテレビドラマ「嵐の岬のマイヤ」の主題歌を皆さんで聴き入りました。その後で、フィンランドのパンや聖書に出てくるパンの話についてのお話がありました。

今回の料理クラブも無事に終えることができて天の神さまに感謝します。次回は待降節(アドベント)の期間の12月10日に予定しています。詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。

 

料理クラブの話2022年11月12日

今日皆さんと一緒に作った「リング・パン」Reikäleipäはフィンランドの伝統的なパンの形の一つです。このような「リング・パン」は私の実家があるフィンランドの西の地方では普通に作られました。私の母や祖母もいつもこの形のパンを作りました。母や祖母が作ったパンは普通はライ麦のパンでしたが、今では生地にオートミールや大麦や野菜などを入れるようになってパンの種類はどんどん増えました。このようなパンは健康にもよいのです。

フィンランドではパンは昔から毎日の食事の一部でした。今は消費が減ってきましたが、それでもフィンランド人の食事の中でパンはまだ重要な食べ物です。例えばフィンランドではパンは栄養価の高い食品として推奨されます。また、フィンランドでは毎年9月に「パンの週」と呼ばれる行事があります。その週は学校やお店でパンが健康に良いことが宣伝されます。「パンの週」には毎年テーマもあります。今年のテーマは「パンはどこで育つか?」というテーマでした。テーマの意味は、今パンを家で作らずに店で買うようになったフィンランド人に原料の麦を作ることや粉にするまでのプロセスを知ってもらうようにすることでした。人々が食物連鎖の意味やその重要性をもっとよく分かって国産の食料品の価値も高めるという狙いもあります。今年は学校でも「パンはどこで育つか?」という絵の教材を通して麦からパンになるまでの段階を教えたりしました。パンを自分で作っていた昔の人にとって、そうしたことは当たり前のことでした。

今年の夏に私は一つの小説を読みました。その小説は1800年代後半のフィンランドの西にある多島海に住んでいた漁師の家族の生活についてでした。小説の名前は「嵐のみさきのマイヤ」です。「嵐のみさきのマイヤ」はテレビドラマにもなり、主題歌はとても素敵な曲でした。小説の主人公はマイヤという女性です。この小説の中でもパンの重要性がよく出ていたので、それを少し紹介したいと思います。

マイヤの家族が住んでいる多島海の土地は不毛で麦などの食物を育てるのは簡単ではありませんでした。その上に天候の影響で収穫が少ない不作の年もよくありました。マイヤの家族には子どもが四人もいてパンの為の麦は足りるかどうかという心配がよくありました。家族の生活は貧しかったでしたが、パンを作る日は皆にとって大喜びの日でした。その日、子どもたちは蒔きオーブンの近くでパンが焼きあがるのを目をキラキラさせて待ちました。温かい焼きたてのパンの上にバターを塗る時はとても幸せな気持ちになりました。その時お母さんのマイヤは喜びに溢れていつも天の神様に感謝の祈りをささげました。

マイヤは一生懸命に家族が幸せになる為に働きました。しかし、作物が不作の年にはパンを焼く日は少なくなり、子どもたちに古くなった固いパンしか食べさせられないのは辛いことでした。そのような時でもマイヤは神様の助けがあることを信じて祈りながら働き前向きに生活していました。マイヤは、パンは神様が与えて下さるものと分かっていたのです。それは、聖書の中にパンについての教えが沢山あるからです。

旧約聖書の「列王記上」の17章にある、預言者エリアとやもめの話はその一つです。昔イスラエルに雨がずっと降らなかったため、麦が育たず、多くの人々は飢えに苦しんでいました。その時、一人のやもめは息子と一緒にとても貧しい生活をしていました。預言者エリアはやもめのところに行きました。やもめには小麦粉一握りと油少ししかなく、これはパン一回分の材料でした。やもめは、これを食べたら息子と死ぬのを待つしかないと思いました。

CC2.0, 著作権 Lawrence Lew, OP

はじめにエリアはやもめに「水をくださいと」お願いしました。やもめが水を持ってくると、今度は「パンを一切れ持って来て下さい」とお願いしました。息子と自分のための一回分のパンの材料しか持っていなかった女性はエリアのお願いを聞いて怖くなったでしょう。残りの小麦粉と油でパンを作って、それを渡したら、もう自分たちのパンは無くなってしまうからです。

しかし、エリアはやもめに「心配しなくてもいい」と言い、最後の小麦粉と油でパンを作って持ってくるように命じました。そして、その後で彼女と息子のためにパンを作りなさいと言ったのです。やもめは、なぜそのようにしなければならないのか、と聞きました。エリアが答えて言いました。「天の神様が、『私が地の面に雨を降らせる日まで壺の粉は尽きることはなく、瓶の油もなくならない』とおっしゃって下さったのだよ。」これを聞いたやもめはどうしたでしょうか?彼女はエリアの言うことを信じてその通りにしたのです。すると小麦粉と油は本当になくならず、やもめと息子とエリアの3人にずっと足りたのです。このようにやもめは神様の言葉を信じて、やもめと息子は神様から命をいただいたのです。

私は、この話を読んだり聞いたりすると、いつも不思議な感じがします。これは神様が私たち人間にできないことをする奇跡です。神様はどうしてこの奇跡を起こしたのでしょうか?私は、それは神様はこの奇跡を通してどれだけ人間を愛して守って下さるかを示そうとしたのだと思います。神様はいつの時代の人々も、現在の私たちのこともみんなご存じで私たちを見守ってくださる方です。神様の愛はイエス様の十字架の出来事で一番よくあらわされています。神様の人間に対する愛は、「壺の粉は尽きることなく、瓶の油は無くならない」と言うように、いつまでも続くものです。

パウロは新約聖書の「ローマの信徒への手紙」の中で神様の愛について次のように教えています。「誰が、キリストの愛から 私たちを引き離すことが出来ましょうか。艱難か。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。」8章35節です。その答えはこうです。何があっても、どんなことが起こっても、「私たちの主キリスト・イエスによって示される神の愛から、私たちを引き離すことは出来ないのです。」8章39節です。

神様は、約束されたようにいつも私たちを守って下さいます。このことを忘れず日々を感謝の気持ちを持って過ごしていけたらと思います。

11月16日19時45分 水曜聖句と祈りのひと時 「白樺の十字架の下で」

聖句 ヨハネによる福音書 11章25ー26節

イエスは言われた。
「わたしは復活であり、命である。
わたしを信じる者は、死んでも生きる。
生きていてわたしを信じる者はだれも、
決して死ぬことはない。このことを信じるか。」

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