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私たちの父なる神と、主イエス・キリストから、恵と平安とが、あなた方にあるように。
アーメン
2026年1月18日(日)スオミ教会説教
聖書:ヨハネ福音書1章29~42節
説教題:「見よ神の子羊、最初の弟子たち」
新しい年を迎えました。
人生に於いて「人との出会い」と言うものが、自分の生涯を決定するほど重要な出来事となる、ことがあると思います。今日の聖書はそのような不思議な導きと出合でイエス様の弟子となった出来事です。1章29節から34節までを見ますと、此処には一貫してバプテスマのヨハネは自分の事を控えてイエス・キリストと呼ばれる救い主を紹介することに全力を注いでいます。まず、29節で「ヨハネは自分の方へイエスが来られるのを見て言った。『見よ!世の罪を取り除く、神の子羊だ。』」
そう言ってヨハネはイエス様の事を三つの角度から紹介しています。第一は、「この方は世の罪を取り除く神の子羊である。」第二は、「私よりも先におられた方である。」第三は、「この人こそ御霊によってバプテスマを授ける方。」そうして、32節でこう言います。そして、ヨハネは証しした。「私は霊が鳩のように降って、この方の上に留まるのを見た。この人が聖霊によって洗礼を授ける人である。」と確信しているので言う。「この方こそ神の子である。」と証しするのだ。まず、イエス様こそ世の罪を取り除く神の子羊と表現して指し示す事であったのです。この神の子羊は私たちの罪を負って下さる方なのです。私たちの人生の中で様々の重荷をそっくり代わって担って下さる、どのようにして担って下さるのでしょうか。神の子羊であるイエス様が十字架の上で私たちの全ての罪を自分の死を犠牲にしてご自分の肩に担って下さるのです。ですから、この御方、イエス様を信じるあなたは最早あなたの肩にその重荷は無いのです。イエス・キリストの上にある筈です。このお方を私の救い主と知って理解して信じて受け入れる事です。
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次にヨハネはバプテスマについて「水によるバプテスマ」と「御霊によるバプテスマ」とを区別して言いました。自分のする水の洗礼はせいぜい今までの生活を水で洗い流す面であるけれども、イエス様の霊による洗礼は新しい命に生まれ変わるもので、この方こそ神のメシアとして優れたお方である、とイエス様を強調して言っております。さて、1章35節以下では「その日また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。そして、歩いておられるイエスを見つめて「見よ!神の子羊だ」と言った。二人の弟子はそれを聞いてイエスに従った。ヨハネがイエス様をはっきりと差し示して、見よこの方こそ神の子羊だよ、と言う確信の言葉に二人の弟子はすぐ様、何の躊躇もなくイエスに従ったのです。その一人アンデレが兄弟ペテロに伝えて言った「私たちはメシアに出会った」。そして、シモン・ペテロをイエス様のところに連れて行ったのです。此処にはキリスト教の伝道の姿があるように思います。自分が「私の救い主」であると信じたらその方のところへ連れて行く。そうして、その方を先ずは知る事によって真に心からイエス様に出会う事であります。イエス様と心から出合ったら人は変わります、信仰が与えられれば人は全く新しく変えられるのです。現代に於いてイエス様に出合う事とはどんな事でしょうか。それは言い換えるとキリストの教会へと一緒に誘い教会の礼拝に於いて神の言葉である説教を聞くことによって、説教で語られるイエス様と出合う事であります。そういう意味で礼拝での説教は一番大切な事であります。自分の救い主メシアと一瞬でも出合う事であります。
さて、今日の聖書のところでバプテスマのヨハネは非常にくどくどと自分はイエスが救い主だとは知らなかった。と繰り返し言っています。31節を見ますと「私は、この方を知らなかった」と言っています。言い換えますと、私は、イエスと言う方とは関係がない、もっと分かり易く言いますとこのお方と私は違う、一緒に見ないでくれ。この方は、36節で「私の後から来られる、私より優れた方、桁外れに凄い、驚くべき方と言ってその方は私に勝る、私より先に既におられたからだ」とも言っています。バプテスマのヨハネは何故このように「知らなかった」と強調しているのでしょうか。この当時のユダヤの社会の様子を知る必要があります。当時のユダヤでは”隠れたるメシア”と言う信仰がありましたのでヨハネは”私をメシアだと思ってはいけない、私は違うのだ”と言いたいためにくどくどとこの方を知らないと、実はこの方こそあのお忍びのメシアです、と言いたかったのです。
この福音書が書かれました紀元一世紀末頃にヨハネ派と名付けても良いような異端的なグループが蔓延っていたようです。イエスよりもヨハネの方を偉大だと主張していたグループです。このヨハネ派の異端と言うのは、一体どういうところから出て来たかと言いますと二つの切っ掛けがあると思われます。その一つはイエス様の活動の始めの頃イエスはバプテスマのヨハネから洗礼を受けたではないか。洗礼を受ける人が洗礼を授ける人より優れている訳がない。洗礼を授けた方が上に決まっている、このことが切っ掛けです。もう一つはルカの福音書の1章36節以下で明らかにしているように、バプテスマのヨハネの方がイエスより半年、年上で生まれてきています。預言者として姿を現したのもバプテスマのヨハネの方が先輩であり優れていると考えられたのでしょう。けれどもこれは違うとヨハネ福音書の方で、イエスは私より先におられたと言い表しています。ヨハネ福音書1章1節に「始めに言があった・・・言は神であった」そして14節に「肉体となり私たちのうちに宿った」と、このようにイエス様はもっともっともっとバプテスマのヨハネより以前に世の初めから永遠に存在しておられるのである。だから、先におられたイエスこそ優れたお方である。こうしたヨハネ派と言われた異端がユダヤの社会で蔓延っていた中でバプテスマのヨハネは隠れたる真のメシアであられるお方こそイエス様であると言うのであります。さて次に、ここでイエス様の事をヨハネは「神の子羊だ」と言っています。この呼び方は何を意味しているのでしょう。この言葉には三つの意味があります。第一にはイエス様は過ぎ越しの子羊であり給うと言う事です。昔、エジプトの奴隷として虐げられているイスラエルの民を救い出すため神はエジプトを罰し給いました。どうしても言う事を聞かないエジプトの王に対して神様は夜、滅びの使いを送られましてエジプトの家々の長男を殺されました。ただ、神様の約束を信じて傷のない子羊を屠ってその血を門の柱と鴨居に塗り家の中に閉じこもって信じて従った家は過ぎ越してもらえる、こう信じて従ったイスラエルの民はこの子羊によって難を免れたのでありました。(出エジプト12章)
コリント第1の手紙、5章7節には、こうあります。「キリストが私たちの過ぎ越しの子羊として屠られたからです」。イエス様は過ぎ越しの子羊として屠られ、神の刑罰とその悲惨な滅びから私たちを免除させて下さった方であります。その意味で彼は「神の子羊」であられます。
第二に「神の子羊」とはイザヤ書53章に預言された受難の僕を表します。53章7節を見ますと、私たちの罪のため鞭打たれ殺されて行く、この受難の僕が子羊として描かれています。「彼は虐げられ苦しめられたけれども口を開かなかった。屠り場に引かれて行く子羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように口を開かなかった。」黙々として神の刑罰を私たちに代わって受けて死んで行く受難の僕、これこそ神の子羊であります。それは、まさにイエス様の事を指しています。この子羊のように罪の刑罰を身代わりに受ける者こそイエス様の事であります。
第三に「神の子羊」とは、この世と、この世の力に対しての勝利者を意味します。勝利者と言うと何か勇ましい勝利の大物を思い浮かべますが実は紀元前1~2世紀頃からユダヤで救い主の事を譬えで描く黙示文学が流行っておりました。これは、「12族長の遺言」ヨセフ19:8やベニヤミン3:8
エノク書90:38とか言った記録に次のようにあったと言う「そこで私は見た、一人の処女が一頭の子羊を生んだ。その左手には獅子のような者がいた。そこで、全ての獣が彼に襲い掛かったが子羊は彼らを打ち倒し彼らを滅ぼし足の下に踏みつけた。彼の故にみ使いたちも人たちも全地も喜び踊った」或いは、新約聖書の最後のヨハネ黙示録にも何度も「屠られた子羊」と言うのが出てきます。
(5:16、12・13:8など)この子羊は決して屠られて敗北した子羊でもなければ大人しい子羊でもない、むしろ「力と富と知恵と勢いと誉と栄光と賛美を受けるに相応しい」そういう勝利の栄光に満ちた王者であります。(5:12)17章14節「彼らは子羊に戦いを挑んでくるが子羊は主の主、王の王であるから彼らに打ち勝つ。また、子羊と共にいる召された選ばれた忠実な者たちも勝利を得る」
このように、子羊は主の主、王の王。世の全ての敵対者に打ち勝つところの勝利者であります。
人知では、とうてい測り知ることができない、神の平安があなた方の心と思いをキリスト・イエスにあって守るように。 アーメン
古い歌を新しい歌に
ギター教室に通っている息子が新しい課題曲に「花は咲く」を練習したいと先生に申し出た。いつも息子の希望を聞いてくれる先生はもちろんOKだったが、私は少し困ってしまった。 というのは、メロディーはとても美しい歌だが、内容はキリスト信仰者としてどうかなというところがあるからだ。東日本大震災の後で歌が公表された時、歌詞の主人公は生きている人か死んでいる人かどっちかというちょっとした議論が起きたと聞いたことがある。もし後者なら、キリスト信仰とは相いれない。死者とコミュニケーションは取らないというのが聖書の立場なので、死者が何を考えているか思いを馳せたりはしない(レビ記19章31節、申命記18章11節、サムエル上28章、列王上21章6節、イザヤ8章19節を参照のこと)。キリスト信仰者は、あの方と共に歩めた日々を父なる神に感謝し、今は神のみぞ知る場所にて安らかに眠るその方と「復活の日」に再会できるという希望を神に祈り願いながら、その希望を胸に抱いて今を生きるというスタンスなのだ。創造主の神を介して過去の思い出と将来の復活の希望が現在を満たすのだ。
歌詞の中には「いつか生まれる君に」とあって、まるで主人公がこの世とは別の世界でこれから生まれる人間を見ているようなところがある。童話の「青い鳥」の中に確かチルチルとミチルがこれから生まれる子供たちが舟に乗ってこの世に旅立つ場面に出くわすところがあった。イエス・キリストの少し前の時代のユダヤ啓示思想文書の一つ「エノク書」にもエノクがそういう場面を天使に示される下りがあった。「青い鳥」の作者メーテルリンクは「エノク書」を読んだのだろうか。しかし、それらはいずれも、生きた者が天使に別の世界を見せてもらうというもので、死んだものが見る筋合いではないのだ。
さて、「花は咲く」はどうしたらよいか?特別支援の息子のやる気を失わせないためにも希望を叶えてあげたいが、キリスト信仰と異なる霊性とは距離を置いてほしい。そこで、考えたのは歌詞を少し替えてみることだ。次のようにしてみた。
「いつか生まれる君に」 ⇒ 「いつか生まれる人に」
「わたしは何を残しただろう」 ⇒ 「わたしは何をすべきだろう」
どうだろう、これで歌詞は生きている人の呟きになることがはっきりするのではないだろうか?ギターの先生にも歌詞の変更を理由を添えてお願いしたら了承してもらえた。自分がキリスト信仰者であることも公けにでき、まさに一石二鳥であった。
まだ冬が続きます。今回は、レッグウォーマーを編みます。フィンランド語で「Säärystimet (サーリスティメット)」と言います。
足元を温めてくれるレッグウォーマーはお家の中だけでなく、散歩やお買い物など外出時にも大活躍。レッグウォーマーは難しくなく初心者の方にも編みやすいものです。単色・多色のどちらでも、また模様編みに挑戦することもできます。
参加費: 1000円
持参するもの: 毛糸100g、毛糸に合わせた編み棒4本または5本
手芸クラブでは今回のテーマ以外にご自分の好きな編み物をすることもできますので、作りたいものがあれば、ご自由にお持ちください。
おしゃべりしながらワイワイ楽しく編みましょう!聖書のお話の時間もあります。
お子さん連れのご参加も大歓迎です!
皆様のご参加をお待ちしています。
お問い合わせ、お申し込み moc.l1768779641iamg@1768779641arumi1768779641hsoy.1768779641iviap1768779641
℡ 03-6233-7109 スオミ・キリスト教会
梅
<天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある。 コヘレト3:1>
何時もの散歩道で今年初めての白梅を見ました。紅梅の方は少し前に見ていましたが白梅の方は二月になってからと思っていました、が今年は早いのでしょうか。しかしこれをもって温暖化などとは申しませんが少し気になりました。調べてみますと、一般に春の花、梅、桜の開花には春の暖かさだけではなく、冬の5度前後の寒さも必要でした、この寒さがスイッチとなって花芽が休眠から覚める「休眠打破」と言う現象が引き起こされるようでした。この日も梅の木に近づくと懐かしい香りが漂って来ました、山梨の家にも梅の木を植えて花と実を楽しみにしておりますが肝心の時に不在になり何時も残念に思っています、古人も歌っていますね”東風吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ 。菅原道真”
宮沢賢治「雨ニモ負ケズ」 vs. パウロ「ローマの信徒への手紙」12章(その4最終回)
(1月4日のコラムの続き)カギは2節の聖句にある。
「あなたたちは、『心』を新たにされたのだから、何が神の意思であり、何が善いことか御心に適うことか完全なことかを熟慮する者へと自分を変えていきなさい。」 (これは新共同訳と異りますが、以下の議論から妥当な訳と考えます。もちろん文法的にも説明できます。)
「心」の元にあるギリシャ語の言葉はヌース。この日本語訳は厄介である。私は「意識」や「自覚」もありかなと思うのだが、「心」が無難かもしれない(ただし、ルター派は以下の議論から明らかなように絶対に「理性」と訳してはいけない)。
実はヌースは既に7章の23節と25節に出ていて、その正体が明らかにされていた。肉体は罪が命じることに従ってしまうものだが、ヌースは神の命じることに従って罪が命じることに反抗するものなのだ。まさにイエス様を救い主と信じて洗礼を受けることでヌースが新しくされたのだ。上記2節の聖句はこのことを指すのだ。キリスト信仰者は、新しくされたヌースにおいて神の命じることに従うが、肉体において罪の命じることに従うという苦しい二律背反の状況に置かれてしまうのだ。パウロはローマ7章でその苦悩を正直に告白する。理性は、ルターに言わせれば、信仰を骨抜きにするものにしかすぎずこの二律背反に真の解決をもたらさない。それでパウロは、救いにとってはヌースが新しくされたことで十分、それで神の裁きに定められないというギリギリの真実に踏みとどまる(8章1節)。聖霊が、新しくされたヌースのお伴としてあり、肉体の罪の実行を阻止できるように助けてくれる(同13節)。そのように生きる者は実は復活に与かれるという希望をあらゆる希望の大元にしているのだ(同24節)。
ヌースを新しくされたキリスト信仰者は、何が神の意思で何が御心に適うことか吟味する。パウロが2節で倣ってはいけないと言う「この世はそんなことをしない。吟味しない生き方は世に倣う生き方であり、理性を含めて肉体だけで生きる生き方である。御心に適うことを吟味してその通りにしようとすることが、まさに罪に従う肉体を神聖な生贄にして捧げることになるのだ(1節)。具体的には、3節から21節まで言われていることが肉体を生贄にして捧げることになる。3節から8節までは信仰者同士の関係において、9節から21節までは信仰者同士から人間関係一般に広がるキリスト信仰者の立ち振る舞い行動様式の全容だ。どちらの場合もキリスト信仰者は相手よりも高く出ないでとことん自分をヘリ下させることが貫かれている。
キリスト信仰者は、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼によってそのような「心」を好むと好まざるとにかかわらず宿命的に植え付けられた者である。そういう者になりたいという問題ではないのだ。洗礼を受けてイエス・キリストを救い主と公けにする者が気づいていないのならば、すぐローマを3章から12章までじっくり読み通すべきだ。それが難儀ならば、毎週日曜日の礼拝に出るべきだ。そもそも礼拝というのは、キリスト信仰者に新しくされたヌースがあることを思い出させ、その新しさを保たせ強めるためにあるのだから。
以上のことを思い巡らした後、急接近していた巨大彗星はまた宇宙の彼方へと飛び去って行ったのである(了)。
主日礼拝説教 2026年1月11日(主の洗礼日) スオミ・キリスト教会
イザヤ42章1-9節 使徒言行録10章34-43節 マタイ3章13-17節
説教題「イエス様が受けた洗礼と私たち」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
本日の福音書の日課は、イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けた出来事です。これは驚くべき出来事です。どうしてイエス様が洗礼を受ける必要があったのか?ヨハネの洗礼は、救世主メシアの到来に備えて人々を準備させるものでした。どのように準備させるかというと、人々が罪の告白をして神のもとに立ち返る決心をしてメシアをお迎えするのに相応しい状態になることです。ところが、ヨハネのもとに来た人たちは彼の洗礼ですぐ罪が洗い流されて神の裁きを免れると思ったようです。しかし、ヨハネの洗礼は罪を帳消しにするような決定的なものではありませんでした。ヨハネ自身、自分の後に来る方の名のもとに行われる洗礼こそが決定的な洗礼になると述べています。
救世主メシアであるはずのイエス様がヨハネから洗礼を受けるというのは、つじつまが合わないことです。なぜならイエス様は神聖な神のひとり子だからです。乙女マリアから人間の体を持ってこの世に生まれこそしますが、それは聖霊の力によるものであって罪の汚れを持たない神のひとり子としての性質はそのままです。それなのでイエス様は罪の告白をして神のもとに立ち返る決心などする必要はありません。それだから、ヨハネはイエス様が目の前に現れた時、驚いてしまったのです。「私の方が、あなたから洗礼を授けられる必要があるのに」と言っているほどです。ヨハネの戸惑いはもっともです。では、なぜイエス様は洗礼を受けにヨハネのもとに行ったのでしょうか?
この問いに対する答えとして、「イエスは我々と同じレベルになることに徹した。それで罪ある者たちの中に入って洗礼を受けたのだ」と言う人がいます。つまり、人間にとことん寄り添う憐れみ深いイエス様、強い連帯心をお持ちの方ということです。しかし、ここにはもっと深い意味があります。もちろん、寄り添いや連帯ということは否定しませんが、そうした捉え方では収まりきれない、もっと大きなことがあります。今日の説教では、このもっと大きなことを明らかにしていこうと思います。
なぜイエス様はヨハネから洗礼を受けなければならなかったのか?答えは本日の福音書の箇所の中にあります。マタイ3章15節でイエス様が躊躇するヨハネに次のように言います。「今は言う通りにしなさい。義を全て成就することは我々にとって相応しいことだからだ。」新共同訳では「今は止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」となっています。これだと、イエス様がヨハネから洗礼を受けるのは「正しいこと」だから受けるというのですが、なぜそれが正しいのかは見えてきません。イエス様とヨハネが正しいことを行うというのは何だか当たり前すぎて、それがどうイエス様の洗礼と関係するのかわかりません。これを理解するためにはギリシャ語の原文を見てみる必要があります。このことは以前にもお教えしましたが、少し復習します。
15節を忠実に訳すと先ほど申し上げたようになります。「今は言う通りにしなさい。義を全て成就することは我々にふさわしいことだからだ」。つまり、ふさわしいこととは「正しいことをすべて行う」ことではなくて、「義を全て成就すること」です。これが私の好き勝手な訳でないことは、いくつかの国の聖書を繙いてみてもわかります。英語訳の聖書(NIV)、ドイツ語のルター訳、スウェーデン語やフィンランド語の聖書を見ても、みな同じように「義を成就すること」が言われています(後注1)。本説教も「義を全て成就する」でいきます。
そこで問題となるのが、「義を全て成就する」とは何かということです。まず、「義」という言葉ですが、これはルター派がよく強調する信仰「義」認の「義」です。人はイエス様を救い主と信じる信仰によって神から義人と認められるという時の「義」です。「義」とは、神の意思が完全に実現されていて神の目に相応しい状態にあることを意味します。それはまさしく十戒が完全に実現されている状態です。十戒は「私以外に神をもってはならない」という掟で始まります。最初の三つの掟は神と人間の関係について神が人間に求めているものです。残りの七つは、「父母を敬え」、「殺すな」、「姦淫するな」、「盗むな」、「偽証するな」、「貪るな」など人間同士の関係について神が人間に求めているものです。神自身は十戒を完全に実現した状態にある方、十戒を体現した方ですから、神そのものが義の状態にある、義なる存在であるということになります。
この神の義を人間の立場から見ると、人間はそのままでは義を失った状態にあります。なぜなら、人間は神の意思に反しようとする性向、罪を持っているからです。人間が義を失った状態でいると、創造主の神との結びつきが失われた状態でこの世の人生を歩むことになります。そして、この世から別れた後は創造主の神のもとに迎え入れられなくなってしまいます。人間が神の義を持てて、この世と次に到来する世にまたがって神と結びつきを持って生きられるためにはどうしたらよいか?それについてユダヤ教では、十戒や律法の掟をしっかり守ろうと言って、義を自分の力で獲得することが目指されてきました。しかしイエス様は、人間がいくら自分たちの作った規則や儀式で罪を拭い去ろうとしても、罪は人間の内に深く根を下ろしているので不可能と教えました(マルコ7章、マタイ5章)。使徒パウロも、神が与えた十戒の掟は自分に課せば課すほど、逆に自分がどれだけ神の意思に反するものであるか、義のない存在であるか、思い知らされてしまうと観念したのです(ローマ7章)。
この世と次に到来する世にまたがって創造主の神としっかり結びついていられるためには神の義を持てなければならない。しかし、人間の力ではそれを持てない。この行き詰まり状態を神自身が打開して下さったのです。どのようにしたかと言うと、ご自分のひとり子をこの世に送って、彼に全ての人間の全ての罪の罰を受けさせてゴルゴタの十字架の上で死なせたことです。神は、イエス様の身代わりの犠牲に免じて人間の罪を赦すことにしたのです。イエス様が受けた洗礼には寄り添いや連帯を超えた大きなことがあるというのはこのことです。神のひとり子であるイエス様は罪など持たないお方だったのに、人間の罪を全部引き取って十字架にかかって神罰を受けたのです。使徒パウロが第二コリント5章21節で次のように言います。「罪と何のかかわりのない方を神は罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。」人間が神の義を得ることができるために、神は罪と何のかかわりのないイエス様を罪とされたのでした。洗礼者ヨハネの洗礼は罪の自覚と告白が伴うものでした。そんな自覚も告白の必要のないイエス様がヨハネの洗礼を受けることで人間の罪を背負うこととなったのです。
人々がヨハネの洗礼を受けたのは、来るべき救世主メシアを迎える準備の意味でした。イエス様が洗礼を受けたのは、人々が神の義を得られるようにするという神の計画を開始する意味でした。人々の洗礼とイエス様の洗礼の違いを明らかにしたのが、イエス様に聖霊が降って天から神の声が轟いたことです。人々の洗礼にはなかったことでした。イエス様の洗礼の目的が「義を全て成就する」というのは、まさに人間が神の義を持てるようにする神の計画を成就することだったのです。
イエス様が十字架と復活の業を遂げられたことで人間が神の義を得られる可能性が開かれました。あとは人間の方がそれを自分のものにするだけです。どうやって自分のものにできるのかと言うと、それは、このような業を成し遂げたイエス様こそ救い主と信じて洗礼を受けることでです。そうすることで神から義人と見てもらえるようになります。この場合の洗礼は復活されたイエス様が定めた洗礼です。ヨハネの洗礼とは異なります。パウロがローマ6章で言うように、人はイエス・キリストの洗礼によってイエス様の死と復活に結びつけられます。そこがヨハネの洗礼と決定的に異なる点です。人はイエス様の死と結びつけられると、罪と死がその人の運命を支配する力を失います。イエス様の復活に結びつけられると、自分もイエス様のように復活して永遠の命に与かれるという確信が得られ、それがあらゆる希望の大元の希望になってこの世を歩めるようになります。
ただし、洗礼を受けてイエス様を救い主と信じても、人間は肉を纏っている限り神の意思に反しようとする罪の思いを持ち続けます。しかし、神から罪の赦しを受け取ることができると、神との結びつきを失わずに生きることができます。この罪の赦しという神の恵みに留まる限り、神との結びつきは微動だにせず、残存する罪には人間と神の間を引き裂く力も人間を死の滅びに陥れる力もありません。「イエス様を救い主と信じます。私の罪を赦して下さい」と祈ると、神は「わかった、わが子イエスの犠牲に免じてお前を赦そう。もう罪を犯さないように」と言ってくれるのです。 このように神から罪の赦しを受ける者は繰り返し受けることで、残存する罪に対して、罪よ、お前は私に対して何の権限も持てないのだと言い聞かせてあげることになります。それを思い知らされる罪はその度に干からびていきます。イエス様を救い主と信じ洗礼を受けることで罪は決定的な打撃を受けますが、それでも罪は隙を狙ってきます。しかし、イエス様を救い主と信じる信仰と罪の赦しの恵みに留まる限り、結局は罪の無駄な抵抗に終わります。
イエス様が洗礼を受けた時、聖霊が彼に降りました。加えて天から「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という父なるみ神の声が轟きました。これは今申し上げたように、イエス様が神の計画を実現する方であることを明らかにした出来事でした。それはまた、本日の旧約聖書の日課イザヤ書42章1-7節の預言が成就したことでもありました。この預言の内容を見ると、キリスト信仰者がこの世でどう生きるか、どのような立ち位置でいるかがわかってきます。次にそのことを見ていこうと思います。
イザヤ書42章1節に神の僕つまりイエス様が「国々の裁きを導き出す」とあります。3節にも「裁きを導き出す」とあり、4節には「裁きを置く」と言われています。少しわかりにくいです。「裁きを置く」とはどういうことか?日本語として意味をなしているのか?どうやって「裁き」を「置く」のか?私は「裁き」という言葉も「置く」という動詞も意味を理解できますが、理解できる言葉をくっつけたら理解できなくなるというのは不思議です。スオミの礼拝で何度も申し上げてきましたが、ヘブライ語のミシュパートという言葉をどう訳すかが問題です。新共同訳ではほぼ自動的に「裁き」と訳されます。私の使う辞書(後注2)にはその訳はなく、多くの場合は「正義」がピッタリな訳です。試しに英語やスウェーデン語やフィンランド語の聖書を見ると、「正義をもたらす/実現する」、「正当な権利をもたらす/実現する」と訳しています。なので、この説教では「正義」でいきます。
すると一つ問題になってくることがあります。イエス様は神の計画を実現して人間が神の義を持てるようにしたのであるが、果たしてそれで諸国に正義がもたらされるようになったのか?人間の歴史は反対のことばかり起こってきたのではないか?特に現在はどうでしょうか?国と国の関係で正義が失われる状況が顕著です。ますます多くの国が軍事力に物を言わせて現状変更しようとするようになってしまいました。もちろん現状が全ていいというわけではありませんが、それでも変える必要があるということならば、それを国際的なフォーラムで提起して議論して外交的に解決を図るというのが筋です。軍事力で変えていいということになれば、軍事力のない国は言いなりになるだけです。言いなりにならないために、あるいは自分も自由に現状変更したいという国は軍事力の増強に走ります。まさに「力は正義」ということになってしまいます。しかし、それは正義ではありません。
本当の正義についてイザヤ書42章3節が象徴的な言い方で教えます。傷ついて折れかかった葦を踏みにじるようなことをしない、風前の灯にある灯心をかき消すようなことをしない。そんなことをしないことが正義が一過性ではなく永続的なものになることだと神は3節で言っているのです。続く4節で神はたたみかるように言います。神の僕が地上に正義を打ち立てる日まで、折れかかった葦が踏みにじられることはない、風前の灯がかき消されることはないと。
それでは地上に完全な正義が打ち立てられる日が来るのでしょうか?聖書の観点では、完全な正義は今ある天と地にとってかわって新しい天と地が創造される時、最後の審判を経た時に最終的に打ち立てられます。それで、この世の不正義がなんの償いもなしに永久に見過ごされることはありえないのです。正義は必ず実現されるのです。たとえ、この世で不正義の償いがなされずに済んでしまっても、今のこの世が終わって新しい世が到来する時に必ず償いがなされというのが聖書の立場なのです。昨年の終わりの説教でお教えしたことの繰り返しになりますが、黙示録20章を見るとキリスト信仰のゆえに命を落とした殉教者たちが最初に復活を遂げます。次に復活させられる者たちは神の書物に記録された旧い世での行いに基づいて審判を受けることになっています。特に「命の書」という書物に名前が載っていない者の行先は炎の海となっています。人間の全ての行いが記されている書物が存在するということは、神はどんな小さな不正も見過ごさない決意でいることを意味します。仮にこの世で不正義がまかり通ってしまったとしても、いつか必ず償いはしてもらうということです。天地創造の神が御心をもって造られたものに酷い仕打ちをする者の運命、また神が御心をもって整えて下さった福音を受け取った人たちに酷い仕打ちをする者の運命も火を見るよりも明らかでしょう。たとえ償いや報いが将来のことになっても正義は必ず実現されるので、イザヤの預言はイエス様の洗礼で成就しているのです。
この世で多くの不正義が解決されず、多くの人たちが無念の涙を流さなければならない現実があります。それなのに次に到来する世で全てが償われるなんて言ったら、来世まかせになってしまい、この世での解決努力がおざなりになってしまうと批判されるかもしれません。しかし、キリスト信仰はこの世での正義を諦めよとは言いません。神は、人間が神の意思に従うようにと十戒を与え、神を全身全霊で愛し隣人を自分を愛するが如く愛せよと命じておられるからです。それなので、たとえ解決が結果的に新しい世に持ち越されてしまう場合でも、この世にいる間は神の意思に反する不正義や不正には対抗していかなければなりません。それで解決がもたらされれば神への感謝ですが、力及ばず解決に至らない場合もある。しかし、解決努力をした事実を神はちゃんと把握していて下さる。神はあとあとのために全部のことを全て記録して、事の一部始終を細部にわたるまで正確に覚えていて下さいます。神の意思に忠実であろうとして失ってしまったものについて、神は何百倍にもして報いて下さいます。それゆえ、およそ人がこの世で行うことで、神の意思に沿うように行うものならば、どんな小さなことでも目標達成に遠くても、無駄だった無意味だったというものは神の目から見て何ひとつないのです。イエス様の洗礼で成就したイザヤの預言はこのことも視野に入れているのです。主にあって兄弟姉妹でおられる皆さん、神がそういう目で私たちのことを見ていて下さっていることを忘れないようにしましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
(後注1)[英]to fulfill all righteousness、[独ルター]alle Gerechtigkeit zu erfüllen、[ス]uppfylla allt som hör till rättfärdigheten、[フィン]täyttäisimme Jumalan vanhurkaan tahdon)
(後注2)Holladay, ”A Concise Hebrew and Aramaic Lexicon of the Old Testament”
芭蕉庵と関口
<あなたが水の中を過ぎるとき、わたしはあなたと共におる。川の中を過ぎるとき、水はあなたの上にあふれることがない。あなたが火の中を行くとき、焼かれることもなく、炎もあなたに燃えつくことがない。イザヤ書43:2>
宮沢賢治「雨ニモ負ケズ」 vs. パウロ「ローマの信徒への手紙」12章(その3)
(12月28日のコラムの続き)確かにローマ12章は命令文が多い。しかし、「ローマ」を最初から丹念に中断することなく根気強く読み進めて12章に到達すると、これらの命令は普通の命令とは異なる響きを持つのだ(ギリシャ語原文では12章は動詞の命令形は少なくて大半は分詞の形である、この観点からの考察は別の機会に譲る)。どんな響きかというと、「読者諸君よ、君たちの立ち振る舞い行動様式はこのようなものになるのだ」と気づかせてあげるようなものなのだ。どうしてそんなことが言えるのかというと、読者は12章に到達する前に少なくとも2回、心を揺さぶられて神の御前に跪くような心の状態になっているからだ。
まず3章から8章までパウロは、イエス・キリストを救い主と信じる信仰と洗礼によって人は神から義人と認められ死の滅びから救われるという「信仰義認」を説く。そして8章の終わりで、何ものもこの義認と救いを奪い取ることはできない、それ位に神の愛は強いものであることが説得力をもって説かれる。読者はここで心を揺さぶられて感謝のあまり神の御前に跪くことになる。
次は9章から11章まで。パウロはユダヤ人の多くが信仰義認を受け入れず、掟を守ることで義人と認められようとする路線を取り続けている現状を悲しむ。他方で異邦人が信仰義認のキリスト信仰をどんどん受け入れる現状がある。これをパウロは、将来ユダヤ人が信仰義認を受け入れるようになるために今異邦人のキリスト信仰受け入れが起こっているのだ、神はユダヤ人を決して見捨ててはいないのだという恩恵を旧約聖書の預言に見出だす。11章の終わりで読者はパウロと共に人知を超える神の先見にただただ敬服し神の御前に跪くしかなくなる。
このように読者は2回心を揺さぶられて神の御前に跪くという、とことんへりくだった状態で12章に到達する。そこで冒頭の「神の憐れみによってあなたたちに勧めます」を目にすると、もうその通りにするしかない、それ以外に在りようがないという心になるのだ。なぜなら「神の憐れみ」には、3章~8章と9章~11章で言われていたことと8章と11章の終わりで結実しているものが詰まっているからだ。
このようにローマ12章の諸々の命令は、神の御前に跪きへりくだった状態にあるキリスト信仰者が聞いてその通りにするしかない、それ以外に在りようがないというものばかりなのだ。しかし、信仰者がそれらをそのように当たり前のように聞き入れる心を持てるのは、「神の憐れみ」に対する感謝と敬服のゆえだけではない。実は聞き入れる「心」そのものを神から与えられているのだ。(さらに続く)