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全知全能の父なるみ神よ。
この日、主イエス様の復活を喜び祝う私たちの心をどうかあなたの愛と恵みで満たし、空(むな)しい思いを蹴散らして下さい。罪と死の支配から解放されて復活の希望に生きる私たちを世の光、地の塩にして下さい。隣人にも復活の主を伝えることが出来るように知恵と力と勇気をお与え下さい。
あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストのみ名を通して祈ります。 アーメン
覚悟と胆力を養うキリスト信仰その7
前回、マタイ9章24節のイエス様の言葉(「娘は死んではいない。眠っているだけだ。」)のルターの説き明かしを紹介しました。それに対してスオミの信徒の方々からあがった疑問点を考えています。今回はその続き。
二つ目の疑問点は、ルカ16章の「金持ちとラザロ」のたとえは、復活についてのイエス様や聖書の教えと矛盾しているのではないかというもの。もし復活や最後の審判が今の天と地が終わって新しい天と地に再創造される境目の時に起こるのであれば、たとえでは、まだ今の天と地がある状態で天国と地獄への振り分けが起こったことになり、おかしいのではないか?
この点に関して、昔神学部で勉強していた時、あるセミナーで一人の学生がこれを取り上げました。私の記憶では、イエス様は当時ユダヤ人の間でよく知られていたエジプト由来の逸話を教訓話に改変したという論点でした。ただ、セミナーのペーパーはもうなく確認できません。その可能性を残しつつも、私としては、聖書には将来の復活の日を待たずして神のみ許にあげられた人の例があり(エノクとエリヤは生きたまま、死んだモーセは恐らく)、イエス様はたとえの中でラザロを同じカテゴリーに扱ったのではないかと考えます。いずれにしても復活は一括一斉に起こるというのが基本(エリザベス女王の葬儀礼拝で大主教がgeneral resurrectionと言っていた、まさに”総復活”!)。ただし、神の御心により例外もあるということです。
三つ目の疑問点は、この世を去った方が復活の日まで神のみぞ知る所で眠っているとすれば、この世にいる私たちは亡くなった方に話しかけてはいけないのか?これは日本人には痛いところかもしれません。というのは、みんな仏壇やお墓の前で、いつも見守っていてくれてありがとうございます、と言い、見えない相手に思いを伝え話しかけるからです。お寺の住職もそういう交信を推奨します。聖書の神は霊媒を用いることを禁じているので(レビ記19章31節、申命記18章11節、サムエル上28章、列王下21章6節、イザヤ8章19節)死者との交信はするべきではありません。キリスト信仰では、見守りを感謝したり、思いを伝え話しかける相手はあくまで私たちをお造りになった神です。ただ、亡くなった方への思いを言葉にすると、どうしても言葉をかける相手としてその方が相応しく感じられます。どうしたら良いでしょうか?私としては、それは、あくまで独り言に留めるべきと考えます。例えば、すやすや眠っている子供の寝顔を見て、今日は楽しかったね、とか、いい子に育ってね、とか、わざわざ起こさないで言葉をかけるのと同じように。そして、楽しかった今日の日を感謝するのは神であり、この子がいい子に育ちますようにと願いを打ち明けるのも神ということです。
春たけなわの季節になりました。4月の家庭料理クラブでは「シュガーフレーク・フルーツケーキ」を作ります。フィンランドではこの季節になると、ピーチやパイナップルなどのフルーツをケーキに入れて作ることが多いです。それで、今回のケーキの中身もピーチとパイナップルですが、その上にレモンで味つけた水切りヨーグルトを重ねます。トッピングのシュガーフレークはケーキの風味を高めます。しっとり柔らかいケーキとサクサクとした表面のバランスが絶妙です。
「シュガーフレーク・フルーツケーキ」を是非一緒に作って味わってみませんか。
参加費は一人2000円です。
どなたでもお気軽にご参加ください。お子様連れでもどうぞ!
皆さんのご参加をお待ちしています!
お問い合わせ、お申し込みは、 moc.l1775398840iamg@1775398840arumi1775398840hsoy.1775398840iviap1775398840 まで。
ヴェロニカ
枝の主日の礼拝後、ポウッカ牧師夫妻制作監修された「ヴィア・ド・ロローサ」を鑑賞しましたパイヴィ先生のナレーションとマルッティ牧師の讃美歌の歌唱とフルートが盛り上げていました。スオミ教会でも過去に何度かこの ヴィア・ド・ロローサ を寸劇で行いました、ヴィア・ド・ロローサ 、苦難の道には十字架を背負ったイエスがゴルゴダの丘に至るまで、14のステージがあります。その中の第6ステージでイエスの額の汗をぬぐう聖女ヴェロニカの物語が出て来ます。春になると足もとの叢の中に小さな青い花を見つけます、「オオイヌノフグリ」と言うまことに嬉しくない名を付けられていますが西洋ではヴェロニカと呼ばれています。今年も春一番に咲いていました、何時の間にか咲いていつの間にか消えてゆくこの可憐な小さな花を我が家ではヴェロニカと呼んでいます。
主日礼拝説教 2026年4月3日 聖金曜日 イザヤ52章13節~53章12節 ヘブライ10章16~25節 ヨハネ18章1節~19章42節
説教題「君はイエス様の十字架を通して二つの大きなことが見えるか」
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあ るように。 アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1. はじめに
イエス様が十字架刑に処せられました。十字架刑は当時最も残酷な処刑方法 の一つでした。処刑される者の両手の手首のところと両足の甲を大釘で木に打 ちつけて、あとは苦しみもだえながら死にゆく姿を長時間公衆の前で晒すとい うものでした。イエス様は十字架に掛けられる前に既にローマ帝国軍の兵隊た ちに容赦ない暴行を受けていました。加えて、自分が掛けられることになる十 字架の材木を自ら運ばされ、エルサレム市内から郊外の処刑地までそれを担い で歩かされました。そして、やっとたどり着いたところで残酷な釘打ちが始っ たのでした。 イエス様の両側には二人の犯罪人が十字架に掛けられました。罪を持たない 清い神聖な神のひとり子が犯罪者にされたのです。釘打ちをした兵隊たちは処 刑者の背景や境遇に全く無関心で、彼らが息を引き取るのをただ待っています 。彼らはこともあろうにイエス様の着ていた衣服を戦利品のように分捕り始め 、くじ引きまでしました。少し距離をおいて大勢の人たちが見守っています。 近くを通りがかった人たちも立ち止って様子を見ています。そのほとんどはイ エス様に嘲笑を浴びせかけました。民族の解放者のように振る舞いながら、な んだあのざまは、なんという期待外れだったか、と。群衆の中にはイエス様に 付き従った人たちもいて彼らは嘆き悲しんでいました。 このようにイエス様の十字架の出来事は残酷であり悲劇なことでした。しか し、この出来事には少なくとも二つの大きなことが伴ってありました。私たち は残酷と悲劇に目を奪われて、それを見失ってはいけません。確かに残酷と悲 劇はありますが、それを透かすようにして大きなことを心の目で見ることが出
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来なければなりません。まさにそれが、この出来事が起こることをお許しにな った神の御心だからです。
2.二つの大きなこと ― 神の計画の実現
二つの大きなことの最初のものは、十字架の出来事は神がずっと前から計画 していたことの実現であったということです。神が計画したこととは、先ほど 朗読したイザヤ書の個所が明らかにしています。イエス様の時代の何百年も前 に書かれた預言です。 「彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれ たのは、わたしたちの咎のため」とありました(53章5節)。「私たちの背き 」、「私たちの咎」とは何のことでしょうか?それは、私たち人間が内に持っ てしまっている神の意思に反しようとする性向、罪のことです。神は、人を傷 つけたり欺くようなことをしてはいけない、口にしてもいけない、心に思って もいけない、嘘をついてはいけない、そう言っているのに、私たちはそうして しまいます。SNSを用いてもしてしまいます。神のみ前に立たされた時、とて も潔白ではいられないのです。そのためか、そんな都合悪いことを言う神など 胡散臭いと、神は近年ますます遠ざけられていきます。 そんな罪の言いなりになって罪の奴隷になっている憐れな人間を神は言いな りの奴隷状態から解放してあげようと手立てを考えました。それで、本当なら 人間が受けるべき罪の罰を全部愛するひとり子に身代わりに受けさせて、人間 が受けないで済むようになる状況を作り出したのです。イエス様の十字架の残 酷さと悲劇を通して、この神のひとり子が受けた罰の重みに思いを馳せること が出来ると人間の心は変わり奴隷から自由になるのです。馳せることが出来な ければ心は変わらず奴隷のままです。 こうしてイエス様は、イザヤ書の預言通りに、私たち人間のかわりに神から 罰を受けて苦しみ死んだのでした。それは、私たちが罪のゆえに神との結びつ
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きを失った状態にあって、迷える羊のように行き先もわからずこの世を生きて いたからでした。それで、神との結びつきが回復できて行き先がわかるように なるために神は人間の罪をひとり子のイエス様に全て負わせてその罰を受けさ せたのです。それがゴルゴタの十字架で起こったのでした。イエス様が息絶え る直前に「成し遂げられた」と言ったのはこのことだったのです。 あとは人間の方が、成し遂げられたことは自分のためだったのだ、だからイ エス様は私の救い主だと信じて洗礼を受ける、そうすると、イエス様が果たし てくれた罪の償いはその人にその通りになり、その人は神から罪を赦されたも のと見てもらえるようになります。罪の言いなりになって自らも傷つき心が病 んでしまった人間の癒しは赦しから始まります。こうして人間は、神のひとり 子の「受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷 によって、わたしたちはいやされ」ると言われている通りになるのです。
3.二つの大きなこと ― 勇気、本物の心、希望の証しの備わり
もう一つの大きなことは、十字架の出来事が神の計画の実現だったとわかっ てイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、私たちには新しいものが備わる ようになるということです。先ほど朗読したヘブライ10章19~23節に3つの新 しいものが言われています。一つは、神聖な神の御前に進み出ても大丈夫とい う勇気(παρρησια)、二つ目は、イエス様を救い主と信じる信仰を持つことで 私たちの心が偽物でない本物の心になること(αληθινη καρδια)、三つ目は、今 の世と次に到来する世の双方を神との結びつきを持って生きられるという希望 を人前で告白できること(ομολογια της ελπιδος)。短く言えば、勇気、本物の 心、希望の告白です。これらが私たちに備わるのです。新共同訳はギリシャ語 原文を崩すようにして訳してしまったのでこの3つははっきり見えてきません が、原文でははっきり見えるので、以下この3つについてお教えします。
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イエス様を救い主と信じて洗礼を受けるとこれらのものが備わるのは、イエ ス様の十字架の業が神殿の礼拝を無意味にしたからです。かつてエルサレムの 神殿の中には最も神聖な場所という所があって、そこは大祭司しか入れません でした。何しろ神のみ前に立つという神聖中の神聖な場所だったからです。し かし、大祭司でもそのままでは入れませんでした。まず、民の罪を動物の生贄 を捧げることで償う儀式をして、それから自分に生贄の血を振りかけて自分の 罪の汚れを落とすという儀式を経なければ入れませんでした。それが、今や、 神のひとり子が十字架の上で血を流され、私たちは洗礼を受けることで罪を赦 された者にしてもらえるようになりました。まさに、イエス様の犠牲の血で罪 の汚れは落とされて神の前に立つことが出来るようになったのです。かつて神 殿の中には、最も神聖な場所とそれ以外の場所を分け隔てる垂れ幕がかかって いました。マタイ27章51節に記されているように、イエス様が十字架にかけら れて体を突き刺された時、その垂れ幕は真っ二つに裂け落ちました。かつて大 祭司は動物の血をかけられて垂れ幕を通って神のみ前に進み出ることが許され ていました。今や、イエス様の血で罪の汚れを落とされた者は彼の犠牲の体を 通過するようにして神の御前に進み出ることができるのです。 十字架の業のゆえにイエス様は真の大祭司中の大祭司であることが明らかに なりました。人間の大祭司は神と人間の仲介者の役割を果たしていましたが、 それでも大祭司自身が儀式で自分を清めなければならない位のレベルの低い仲 介者でした。イエス様は神聖な神のひとり子なので自分を清める必要がない方 です。その彼が自身を犠牲に供して神と人間の間に恒久的な平和な関係を打ち 立てたのです。これぞ正真正銘の大祭司、完璧な仲介者です。 このような大祭司を抱くキリスト信仰者は、自分にはやましい所があって神 から罰を受けてしまう、神に見捨てられてしまうという恐れから解放されてい ます。その肉体も動物の血ではなく洗礼の水をかけられて罪の呪いが洗い落と されています。なので、神を前にしても、イエス様のおかげで私のことをやま しいところがないと見て下さる、潔白と見て下さるとわかるので、恐れはあり
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ません。これが私たちが持つべき本物の心であり、それはイエス様を救い主と 信じる信仰をもって洗礼を受ければ持つことができるのです。その心があれば 、この世を前にしても堂々と入っていくことができるし、かの日には神の前に 堂々と立つことができるのです。 キリスト信仰者は罪の赦しの恵みに与かることで、今の世と次に到来する世 の双方を神との結びつきを持って生きられるという希望があります。神は計画 されたことを預言者を通して知らしめ、最後にはイエス様を通してそれを実現 されました。このように神は約束に忠実な方です。それをわかっていれば、希 望についての私たちの証しは確固としたものになるはずです。 このようにキリスト信仰者には勇気、本物の心、希望の揺るがない証しが備 わっているのだから、あとはお互いにお互いのことを配慮し合って、愛と善い 行いに励めばよいのです。24節で言われる通りです。 そこで一つ忘れてはならないことがあります。それは、キリスト信仰者にと って礼拝を守ることは大事ということです。なぜなら、イエス様が大祭司であ ること、そのおかげで私たちには勇気と本物の心と希望の揺るがない証しが備 わっていること、これらを確認し確信できるのは礼拝をおいて他にはないから です。これが25節の教えです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いと をキリスト・イエスにあって守るように アーメン
覚悟と胆力を養うキリスト信仰その6
ルターによる聖句の説き明かしと共に(フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ1月8日の日課から)
スオミ教会の説教や聖研でも何度も取り上げてきました、キリスト信仰の死生観です!
『娘は死んではいない。眠っているだけだ』(マタイ9章24節のイエス様の言葉)
『キリスト信仰者は死というものを正しく理解しなければならない。不信心者が恐れるようにそれを恐れてはならない。キリストと固く結びついている信仰者にとっては、死とは全てを滅ぼしつくすような死ではなく、素晴らしくて優しい、そして短い睡眠なのである。その時、我々は休息用の寝台に横たわって一時休むだけで、別れを告げた世にあったあらゆる苦しみや罪から、また全てを滅ぼしつくす死からも完全に解放されているのである。そして、神が我々を目覚めさせる時が来る。その時、神は我々を愛する子として永遠の栄光と喜びの中に招き入れて下さるのである。
キリスト信仰者にとって死が一時の睡眠である以上、我々はそのまま眠りっぱなしでは終わらないと知っている。我々は、もう一度眠りから目覚めて生き始めるのである。眠っていた時間というものも、我々からみて、あれ、ちょっと前に眠りこけてしまったな、としか思えない位に短くしか感じられないであろう。この世から死ぬという時に、なぜこんなに素晴らしいひと眠りを怯えて怖がっていたのかと、きっと恥じ入るであろう。我々は、瞬きした一瞬に、完全に健康な者として、元気に溢れた者として、そして清められた者として栄光に輝く体をもって墓から飛び出し、天上にいます我々の主、救い主に迎え入れられるのである。
我々は喜んで、そして安心して我々の救い主、贖い主に我々の魂、体、命を全て委ねよう。主は御自分が約束した言葉に忠実な方なのだ。我々キリスト信仰者は、この世で夜、床に入って眠りにつく時、眠っている間は主のもとで安全なところでよく守られ、朝に再び主の手から返していただくことを知っているではないか。この世から死ぬ時も全く同じである。』(以上、ルターの説き明かし)
ルターのこの説き明かしを教えた時、信徒の方々からいくつか疑問点があがりました。それを少し見ていきます。
まず、死んだ人は復活の日まで眠っていて、その日が来て初めて神の国すなわち天国に迎え入れられるんだったら、死んだ人のことを「天に召された」と言うのは時期尚早ではないかという疑問。ルターの説き明かしをもう一度みましょう。神に全てを委ねてこの世を去る時、目を閉じて再び開けた瞬間、もう壮大なドラマが始まっているのです。この世の時間では何百年が経過しても、キリストに結びついて去る者には「瞬きした一瞬」のことなのです。私はこれは全身麻酔の手術を受けた時の感覚に近いのではないかと思っています。医者に全てを任せて目を閉じ再び開けた瞬間、全ては終わっていた。神は人間よりも偉大な医者なのです。なので、「天に召された」と聞いたら、ああ、この世を去った人の観点で言っているのだな、「眠りについている」と聞いたら、この世にいる我々の観点で言っているのだな、と思えばよいのです。(まだ2つの疑問があります。次週に続く。)