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9月27日(日)聖霊降臨後第17主日 主日礼拝 司式・説教 吉村博明SLEY(フィンランド・ルーテル福音協会)宣教師

主日礼拝説教 2020年9月27日(聖霊降臨後第17主日)スオミ教会

エゼキエル18章1-4、25-32節

フィリピ1章1-13節

マタイ21章23-32節

説教題 「過去の呪縛から解き放たれて生きる」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

本日の旧約聖書の日課エゼキエル書の個所と福音書の日課マタイ福音書の個所は全く異なる出来事が記されていますが、双方をよく見ると共通するものが見えてきます。何かと言うと、過去の呪縛から解き放たれて新しい生き方に入るということです。

 エゼキエル書の個所は、紀元前500年代の時の話です。かつてダビデ・ソロモン王の時代に栄えたユダヤ民族の王国はその後、神の意思に背く生き方に走り、多くの預言者の警告にもかかわらず、指導者から国民に至るまで罪に染まり、国は分裂、社会秩序も乱れ、外国の侵入にも晒され続けます。そして、最後は神の罰としてバビロン帝国の攻撃を受けて完全に滅びてしまいます。民の主だった者たちは異国の地に連行されて行きました。世界史の授業にも出てくる「バビロン捕囚」の出来事です。

 ユダヤ民族の首都エルサレムが陥落する直前の時でした。人々はこんなことわざを口々に唱えていました。「先祖が酢いぶどうを食べれば、子孫の歯が浮く。」熟していない酸っぱいぶどうを食べて歯が浮くような違和感を覚えるのは食べた本人ではなく子孫だと言うのです。これは、先祖が犯した罪の罰を子孫が受けるという意味です。滅亡する自分たちは、まさに先祖が犯した罪のせいで神から罰を受けていると言うのです。民の間には、それは当然のことで仕方がないというあきらめがありました。それをこのことわざが代弁していました。先祖のせいで神罰を受けなければならないのなら、今さら何をしても駄目、いくら自分たちが神の意思に沿うように生きようとしても無駄ということになってしまいます。自分たちの運命は先祖のおかげで決まってしまったからです。これに対して神は預言者エゼキエルの口を通して民のこの運命決定論の考えを改めます。今こそ悪から離れて神に立ち返れ、そうすれば死ぬことはない必ず生きる、と。そして、このことわざも口にすることがなくなる、と。以上がエゼキエル書の個所の概要です。

マタイ福音書の個所の方は、バビロン捕囚から600年位たったあとの、ユダヤ民族がローマ帝国に支配されていた時代の出来事です。イエス様が民族の解放者と目されて群衆の歓呼の中を首都エルサレムに入城しました。そこの神殿に行き、敷地内で商売をしていた人たちを荒々しく追い出しました。商売というのは神殿で生贄に捧げる動物などを売っていた人たちですが、イエス様の行動は神殿の秩序と権威に対する挑戦と受け取られました。さらにイエス様は首都の中で人々の前で神と神の国について教え、病気の人たちを癒す奇跡の業を行いました。人々は彼のことをますます王国を復興する王メシアと信じるようになりました。

これに対して民族の指導者たちは反感を抱き、イエス様のもとに来て聞きます。「お前は何の権威でこのようなことをしているのか?」イエス様はそれには直接答えず、洗礼者ヨハネの洗礼は神由来のものか人間由来のものか、それに答えたら教えようと尋ね返します。指導者たちははっきり答えなかったので、イエス様も答えるのを拒否しました。これを読むとなんだか素っ気ない感じがします。私など、洗礼者ヨハネのことなんか出さないで、すぐ自分の権威は天の父なるみ神に由来すると言えばよかったのになどと思ったりします。

その後に二人の息子のたとえの教えが続きます。父親にブドウ畑に行って働きなさいと言われて、一番目の息子は最初行かないと言ったが思い直して行った、二番目のは最初行くと言ったが本当は行かなかったという話でした。イエス様は、一番目の息子は洗礼者ヨハネの教えを信じた徴税人や娼婦たちのことで、彼らは指導者たちに先駆けて神の国に迎え入れられるなどと言います。洗礼者ヨハネのことがまた出てきました。きっと先のイエス様と指導者たちのやり取りが続いているということなのですが、どう続いているのか繋がりがよく見えてきません。実は、このマタイ福音書の個所も過去の呪縛から解き放たれて新しい生き方に入ることを言っていることがわかると、その繋がりが見えてきます。そういうわけで、本日の説教はエゼキエル書の個所とマタイ福音書の個所を中心に見ていこうと思います。

2.エゼキエル18章1~4、25~32節

 エゼキエル書の個所で問題となっていたのは、イスラエルの民が滅亡の悲劇に遭遇しているのは先祖たちの罪が原因で今自分たちはその神罰を受けているという見方でした。そのことを皆が口にすることわざが言い表していました。先祖たちがどんな罪を犯していたか、本日の日課から外されている5~21節に記されています。それを見てみますと、偶像を崇拝したりその供え物を食べること、他人から奪い取ったり負債を抱える者に情けを示さないこと、不倫を行うこと、食べ物や衣服に困った人を助けないこと、貸す時に高い利子を付けて貸すなど自分の利益しか考えないこと、不正に手を染めること、真実に基づかないで裁きを行うこと、その他の掟や神の意思に従わないこと等々です。なんだか現代の私たちの社会のことを言っているみたいです。神は、こうした自分の意思に反することをやめて神に立ち返る生き方をしなさい、そうすれば死なないで生きるのだ、と言われます。

 この、死なないで生きるというのは少し意味を考える必要があります。一見すると、神の意思に沿うように生きれば外国に攻められて死ぬことはなく平和に長生きできるというふうに考えられます。しかしながら、聖書では「生きる」「死ぬ」というのは実は、この世を生きる、この世から死ぬというような、この世を中心にした「生きる」「死ぬ」よりももっと深い意味があります。この世の人生を終えた後で、永遠に生きる、あるいは、永遠の滅びの苦しみを受けるという、そういう永遠を中心にした「生きる」「死ぬ」の意味で言っています。天地創造の神は、ご自分が選んだイスラエルの民の歴史の中で、神の意思に沿えば国は栄えて民は生きられるが、逆らえば滅んで死んでしまうという出来事を起こします。そのようにして神は、特定の民族の具体的な歴史を表面的なモデルにして、自分には永遠の「生きる」や「死ぬ」を決める力があることを全ての人間にわかりやすく示しているのです。

 先にも申しましたように、イスラエルの民の問題点は、自分たちの不幸な境遇は先祖の犯した罪が原因だと思っていたことにありました。そうであれば、自分たちが何をしても運命は変えられません。先祖がそれを決定づけてしまったのですから。今さら神の意思に沿うように生きようとしても無駄です。しかし、神はそのような見方から民を解き放とうとします。そこで神は言います。裁きは罪を犯した者だけに関わるのであると。だから、お前たちがこれから神の意思に沿うように生きることは無駄なことではなく、お前たちは死なずに生きることになるのだ、と。この「死なない」「生きる」は、滅亡寸前の祖国でうまく敵の手を逃れて生きながらえるという意味ではありません。たとえ、敵の手にかかって命を落とすことになっても、すでに神のもとに立ち返って神の意思に沿う生き方を始めていたのであれば、永遠の滅びの苦しみには落ちないで永遠の命に迎え入れられるということです。神のもとに立ち返って神の意思に沿う生き方を始めることが無意味、無駄ということはなくなるのです。

 さて、罪の責任は先祖とか他人のものはもう自分は負わなくてすむことになりました。そこには大きな解放感があります。もう、自分と神の関係を考える際に、先祖と神の関係がどうだったかは全く関係なくなりました。すると、ちょっと、待てよ、そうなると自分と神の関係は全て自分の問題になるということになるではないか?つまり、今度はこの自分の罪、自分が神の意思に背いて生きてきたことが問われて、まさにそのことが自分の永遠を中心として生きるか死ぬかを決定づけることになる。これは大変なことになった。永遠の命に迎え入れられるかどうかを決定づけるのは他の何ものでもない自分自身なのです。聖書を繙くと、今あるこの世が終わりを告げるという終末論の観点と、その時には新しい天と地が創造されると言う新しい創造の観点があります。終末と新しい創造の転換点には死者の復活と最後の審判というものがあります。全ての人、死んだ人と生きている人の全てが神の前に立たされる時です。その時、この私は神のもとに立ち返る生き方を始めてその意思に沿うように生きようとしたのだが、果たしてそれはうまくいったのであろうか?神はそれをどう評価して下さるのだろうか?また、立ち返る前の生き方は何も言われないのだろうか?なんだか考えただけで今から心配になってきます。ここで、マタイ福音書の個所を見るよいタイミングとなります。

3.マタイ21章23~32節

エルサレムの神殿の祭司や長老といったユダヤ教社会の指導者たちがイエス様に権威について問いただしました。もちろんイエス様としては、自分の権威は神から来ていると答えることが出来ましたが、そうすると指導者は、この男は神を引き合いに出して自分たちの権威に挑戦していると騒ぎ出すに決まっています。それでイエス様は別の仕方で自分の権威が神から来ていることをわからせようとします。

二人の息子のたとえに出てくる父親は神を意味します。一番目の息子は、最初神の意思に背く生き方をしていたが、方向転換して神のもとに立ち返る生き方をした者です。これと同じなのが洗礼者ヨハネの教えを信じた徴税人と娼婦たちであると言うのです。二番目の息子は神の意思に沿う生き方をしますと言って実際はしていない者で、指導者たちがそれだというのです。それで、徴税人や娼婦たちの方が将来、死者の復活に与ってさっさと神の御許に迎え入れられるが、指導者たちは置いてきぼりを食うというのです。

ここで徴税人というのは、ユダヤ民族の一員でありながら占領国のローマ帝国の手下になって同胞から税を取り立てていた人たちです。中には規定以上に取り立てて私腹を肥やした人もいて、民族の裏切り者、罪びとの最たる者と見なされていました。ところが、洗礼者ヨハネが現れて神の裁きの時が近いこと、悔い改めをしなければならないことを宣べ伝えると、このような徴税人たちが彼の言うことを信じて悔い改めの洗礼を受けに行ったのです。先ほど申しましたように、聖書には終末論と新しい創造の観点があり、死者の復活と最後の審判があります。旧約聖書の預言書にはその時を意味する「主の日」と呼ばれる時について何度も言われています。紀元前100年代頃からユダヤ教社会には、そうした聖書の預言がもうすぐ起きるということを記した書物が沢山現れます。当時はそういう雰囲気があったのです。まさにそのような時に洗礼者ヨハネが歴史の舞台に登場したのでした。

娼婦についても言われていました。モーセ十戒には「汝姦淫するなかれ」という掟があります。それで、多くの男と関係を持つ彼女たちも罪人と見なされたのは当然でした。そうすると、あれ、関係を持った男たちはどうなんだろうと疑問が起きます。彼らは洗礼者ヨハネのもとに行かなかったのだろうか?記述がないからわかりません。記述がないというのは、こそこそ行ったから目立たなかったのか、それとも行かないで、あれは女が悪いのであって自分はそういうのがいるから利用してやっただけという態度でいたのか。そんな言い逃れて神罰を免れると思ったら、救いようがないとしか言いようがありません。

話がすこし逸れましたが、このようにして大勢の人たちがヨルダン川のヨハネのもとに行き洗礼を受けました。人々の中に、徴税人や娼婦たちのような、一目見て、あっ罪びとだ、とすぐ識別できる人たちもいたのでした。ヨハネが授けた洗礼は「悔い改めの洗礼

と言い、これは後のキリスト教会で授けられる洗礼とは違います。「悔い改めの洗礼

とは、それまでの生き方を神の意思に反するものであると認め、これからは神の方を向いていきますという方向転換の印のようなものです。キリスト教会の洗礼は印に留まらず人間が方向転換の中で生きていくことを確実にして、もうその外では生きられないようにする力を持つものです。印だったものがそのような力あるものに変わったのは、後で述べるように、イエス様の十字架と復活の業があったからでした。

さて、人々はもうすぐ世の終わりが来て神の裁きが行われると信じました。それはその通りなのですが、ただ一つ大事なことが抜けていました。それは、その前にメシア救世主が来るということでした。メシアが人間の神への方向転換を確実なものにして、しかもそれを旧約聖書の預言通りに特定の民族を超えた全ての人間に及ぼすということ。それをしてから死者の復活と最後の審判を迎えさせるということでした。ヨハネ自身も自分はそのようなメシアが来られる道を整えているのだと言っていました。その意味でヨハネの洗礼は、悔い改めの印と、来るメシア救世主をお迎えする準備が出来ているという印でもありました。いずれにしても、世の終わりと神の裁きはまだ先のことだったのです。当時の人々は少し気が早かったのかもしれません。

ヨハネから悔い改めの洗礼を受けた人たち、特に徴税人や娼婦たちはその後どうしたかと言うと、イエス様に付き従うようになります。彼らは、方向転換したという印をつけてはもらったけれども、裁きの日が来たら、自分がしてきたこと自分の過去を神の前でどう弁明したらいいかわかりません。方向転換して、それからは神の意思に沿うようにしてきましたと言うことができたとしても、転換する前のことを問われたら何も言えません。それに方向転換した後も、果たしてどこまで神の意思に沿うように出来たのか、行為で罪を犯さなかったかもしれないが、言葉で人を傷つけてしまったことはないか?心の中でそのようなことを描いてしまったことはないか?たくさんあったのではないか?そう考えただけで、ヨハネの洗礼の時に得られた安心感、満足感は吹き飛んでしまいます。

そこに、私には罪を赦す権限があるのだ、と言われる方が現れたのです。罪を赦すとはどういうことなのか?過去の罪はもう有罪にする根拠にしない、不問にするということなのか?そういうことが出来るのは神しかいないのではないか?あの方がそう言ったら、神自身がそう言うということなのか?いや、ひょっとしたら印の洗礼では不安な人たちを口先だけで引き寄せようとしているのではないか?いや、口先なんかではない。あの方は、全身麻痺の病人に対してまず、あなたの罪は赦される、言って、その後すかさず、立って歩きなさい、と言われて、その通りになった。罪を赦すという言葉は口先ではないことを示されたのだ。真にあの方は罪を赦す力を持っておられるのだ!そのようにして彼らはイエス様に付き従うようになっていったのです。もちろん、付き従った多くの人たちには罪の赦しよりも民族の解放ということが先に立って、罪の赦しが少し脇に追いやられていた者も多かったのは事実です。しかし、罪からの解放が切実な人たちも大勢いたのです。

イエス様が持っていた罪の赦しの権限は、彼の十字架の死と死からの復活ではっきりと具体化して全ての人間に向けられるものとなりました。イエス様は、十字架の死に自分を委ねることで全ての人間の全ての罪を背負い、その神罰を全て人間に代わって受けられました。人間の罪を神に対して償って下さったのです。さらに死から三日後に父なるみ神の想像を絶する力で復活させられて、死を超えた永遠の命があることをこの世に示しました。そこで人間がこのようなことを成し遂げられたイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、罪の償いがその人に効力を持ち始めます。罪が償われたのだから神から見て罪を赦された者と見なされます。神は過去の罪をどう言われるだろうかなどと、もう心配する必要はなくなったのです。神は、我が子イエスの犠牲に免じて赦すことにしたのだ、もうとやかく言わない、だからお前はこれからは罪を犯さないように生きていきなさい、と言われます。もう方向転換した中でしか生きていけなくなります。

イエス様が指導者たちに自分の権威は神に由来するとすぐ言わなかったのは、まだ十字架と復活の出来事が起きる前の段階では無理もないことでした。というのは、言ったとしても、口先だけとしか受け取られなかったでしょう。そこでイエス様はヨハネの悔い改めの洗礼を受けた罪びとたち、正確には元罪びとたちのことに目を向けさせたのです。彼らは今まさにイエス様の周りにいて指導者たちも目にしています。今、方向転換の印を身につけていて、もうすぐそれは印を超えて実体を持つようになる時が来るのです。その時になれば、イエス様の権威が神由来であったことを誰もが認めなければならなくなるのです。

4.勧めと励まし

 主にあって兄弟姉妹でおられる皆さん、私たちは、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼を通して神を向いて生きる方向転換を遂げてその中で生きていくことになりました。そこでは、自分に弱さがあったり、また魔がさしたとしか言いようがないような不意を突かれることもあって、神の意思に反することが出てくることがあるでしょう。しかし、あの時ゴルゴタの十字架で打ち立てられた神のひとり子の罪の償いと赦しは永遠に打ち立てられたままです。そこはキリスト信仰者がいつも立ち返ることができる確かなところです。そこでのみ罪の赦しが今も変わらずあることを知ることが出来ます。

そして、いつの日か神のみ前に立つことになった時には、父なるみ神よ、私はあなたが私に成し遂げて下さった罪の赦しが本物であると信じて、それにしがみつくようにして生きてきました。そのことががあなたの意思に沿うように生きようとした私の全てです、そう言えばいいのです。その時、声を震わせて言うことになるでしょうか、それとも平安に満たされて落ち着いた声でしょうか。いずれにしても、神は私たちの弁明が偽りのない真実のものであると受け入れて下さいます。そう信じて信頼していくのがキリスト信仰です。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

歳時記

春に先駆けて白い花をつけていたコブシの実です、少し前まで不気味な感じの鞘に収まっていましたが弾けるとこんな可愛らしい実が入っていました。

 

9月20日(日)聖霊降臨後第16主日 主日礼拝 司式・説教 吉村博明SLEY(フィンランド・ルーテル福音協会)宣教師

主日礼拝説教 2020年9月20日(聖霊降臨後第十六主日)スオミ教会

ヨナ3章10-4章11節

フィリピ1章21-30節

マタイ20章1-16節

説教題 「神の国への入門講座」

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歳時記

珍しくイナゴを見つけました。はるか昔疎開先で一年生の僕は上級生に交じって近くの田んぼにイナゴ取りに出掛けました。小さな竹筒に布袋を巻き付けて捕まえたイナゴをせっせと入れて行きます。収穫のイナゴは母が鍋で炒ってくれました、妹たちとおやつ代わりに頂いた思い出がよみがえって来ました。

 

木村長政牧師から2通めの便りがありました先生のお許しを得てご紹介します。白馬岳の絵葉書なので先生病室を抜け出して山に行かれたかなと喜んでいましたが内容はかなり深刻なものでした。以下葉書の引き写しです「最近の様子をお知らせします。九月二日~三日、一泊前立腺肥大の検査をしました結果九月十一に判りました。中程度のガンであるということでした。他に肺とか骨に転移しているか調べる予定です。あまり治療したくない気持ちです。この種のガンは進行が遅いそうです、気長につき合っていくつもりです。」今日18日に電話でその後の様子をお尋ねしましたら九月三十日に骨の検査結果が出るとおっしゃっていました。 皆様の祈りの中に先生のご快復を覚えてください。星野

9月13日(日)聖霊降臨後第十五主日 主日礼拝 司式・説教 吉村博明SLEY(フィンランド・ルーテル福音協会)宣教師

礼拝の動画へのリンクは以下の説教テキストの初めの部分にあります。

主日礼拝説教 2020年9月13日(聖霊降臨後第十五主日)スオミ教会

創世記50章15-21節

ローマ14章1-12節

マタイ18章21-35節

説教題 「罪という神に対する負債を帳消しにされて」

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

本日の福音書の個所はそんなに難しくない感じを持たれるのではないでしょうか?王様に多額の負債があった家来が泣きついて情けをかけられて借金を帳消しにしてもらう。しかし、自分に対して少額の借金がある仲間の家来に対しては、泣きつかれても耳をかさず非情な態度で厳しく取り立てる。それを知った王様はこの情けのない家来を牢屋に入れて完済するまで出さないことにした。これを読んだ人は、ああイエス様は、情けをかけてもらったら自分も他の人に同じようにしてあげなければならない、そう教えているのだなと思うでしょう。でもそれはなんだか当たり前の話で、別にキリスト教でなくても、聖書を持ち出さなくても、道徳教育で教えることができると思うかもしれません。さらには、情けをかけられたらお返しに他の人にもかけられるだけでなく、むしろ自分が最初に情けをかける人になって周りの人がそれに倣うことができるような模範になることも大事だと教える人もいるかもしれません。つまり、たとえの中の王様になることです。聖書はそこまでは言っていないので、そのように教える人は聖書なんか大したことないなどと思うかもしれません。

しかし、イエス様がここで教えていることはそういう道徳論ではありません。では、何を教えようとしているのか?これから、それを見ていくわけですが、結論を先に申し上げます。道徳論だと先に申し上げたように人間と人間の間の関係はこうあるべきだという話になりますが、ここでは、もっと根底的なこと、天地創造の神、万物の造り主の神と人間の関係はこうあるべきだという話です。そこから派生して人間と人間の間の関係はこうあるべきということも出てきます。まず、神と人間の間のあるべき関係があって、それに続いて人間と人間の間のあるべき関係が来ます。

そういうわけで、このたとえの中で教えられる神と人間のあるべき関係とはどんなものか、そしてそこから導かれる人間と人間の間のあるべき関係とはどういうものかについて見ていきましょう。

2.

このたとえはペトロの質問に対するイエス様の答えとして話されました。ペトロがした質問は、もし兄弟が自分に罪を犯したら何回まで赦してあげていいのか?7回までか?というものでした。つまり、赦しには制限があってそれを超えたらもう赦してあげなくてもいいのか、という質問です。それに対するイエス様の答えは7回までではない、7を70回繰り返すまでだ、でした。聖書の訳によっては77回とするものもあります。それは、創世記4章24節に数字の7と77の対比があるからですが、ギリシャ語原文を見るとどっちにも取れます。どちらにしてもイエス様の意図は赦すことに制限を設けるなということです。イエス様は教える時、よく相手の度肝を抜くような誇張を用います。数ミリしかない小さなからし種から大木が育って天の鳥たちが来て巣を作るとか、麦の種が30倍、60倍、100倍の実を結ぶとか、ここも7回なんてみみっちいことを言うな、77回だ、7の70倍だ、と少しぶっきらぼうに相手があっけに取られるような言い方をしているのです。制限のない赦しとはどんなものか教えるためにたとえが話されます。

たとえの説き明かしに入る前に、先週のイエス様の教えを少し振り返ってみます。というのは、ペトロの質問は先週の教えの続きとしてあるからです。「私の兄弟」とは、イエス様を救い主と信じるキリスト信仰者のことです。信仰者が別の信仰者に罪を犯すという問題です。先週の教えもそのことについてでした。

まず、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者が同じ信仰を持つ者に「罪を犯す

ということはどういうことか。これは何か法律的な犯罪を犯すことよりももっと広い意味で、要は十戒の掟に示されている神の意思に反することをしてしまうことです。イエス様は、殺すな、姦淫するな、盗むな等々の掟の核心は全て「隣人を自分を愛するが如く愛せよ」なのだと教えました(マルコ12章31節等)。隣人を自分を愛するが如く愛さないで、殺す、姦淫する、盗む等々の掟を破る、こうしたことを行為のみならず考えや言葉でも行ってしまうことが「罪を犯す」ことです。

 ここで「隣人」というのは、イエス様が「善きサマリア人」のたとえで教えているように、自分が属している民族、グループその他共同体の境を超えた全ての人が相手です。それで隣人愛はキリスト信仰者にとって信仰者であるなしにかかわらず全ての人に向けられるべきものです。ただ、今見ているマタイ18章では問題が絞られていて、隣人の中でもキリスト信仰者が別の信仰者に隣人愛を破るようなことをしたらどうするかということです(後で見るように、問題が信仰者以外の隣人の場合にはどうするかということにも応用がききます)。

イエス様の教えは、罪を犯された信仰者は犯した信仰者が罪を認めて赦しを願うように導かなければならない、ただし、大っぴらにならないように出来るだけ内輪でしなければならないというものでした。もし罪を犯した信仰者が心をかたくなにして赦しを願わず、最後に教会の代表者の言うことも聞かなければ、その時はその人は教会の外側の人間のようになってしまうのだ、ただし、それは罪を犯された人についてそうなのだ、と教えます。少し微妙な言い方ですが要は、罪を犯した者は教会員全員にとって外側の人間になってしまうのではなく、罪を犯された者に関してのみそうなるのである、しかも外側の人間そのものになってしまうというより、そのような者になると言っていて、そこには断罪の視点がありません。断罪の視点がないというのは、裁きは神がすることとして神に委ねられているということです。人間がすることと言えば、犯された罪は罪であると明確にはするが、罪の赦しを受け取れるように導くことです。罪を犯した者がキリスト信仰者であれば、罪の赦しの恵みに再び戻れるようにすることです。信仰者でない場合はその恵みに初めて入ることが出来るように導くことです。

以上のことを教えた後で、今日のペトロの質問が出てきます。信仰の兄弟が罪を犯した、話し合いの結果、赦しを願ったのでめでたしになったが、残念なことにまた犯してしまった。それで話し合ったら、また赦しを願った。そんな繰り返しは何回まで許されるのか?あるいは、話し合いをしたが、心がかたくなで赦しを願わなかった。その状態でまた罪を犯した。それで話し合って、今度こそ赦しを願うかと思ったらまた願わなかった。こんな状態で罪の赦しの恵みに戻ることが出来るように導くことをずっと続けるのか?イエス様の答えは明快でした。ずっと続けるのだ、赦しを願ってまた犯しても赦しを願ったら何度でも赦すべし、赦しを願わなくてまた犯しても罪の赦しの恵みに戻ることが出来るように導くことを続けるべし。裁きはしないと言う以上は、そうにしかならないのです。裁きというのは、罪の赦しの恵みに戻れるようにしない、入れるようにしない、とシャットアウトしてしまうことです。それは人間がすることではありません。そもそも人間には出来ないことです。

他人を裁くことは人間がすることでなく、そもそも出来ないということは、本日の使徒書の日課ローマ14章10~12節でも言われています。「わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです(10節)。わたしたちは一人一人、自分のことについて神に申し述べることになるのです(12節)。」この「自分について神に申し述べる」と言うのは、ギリシャ語原文ではなにか収支報告をするような意味の言葉です。自分ではどんなに正確に報告しているつもりでも、神の御手にはその人のことの全てを記した「命の書」があるので、見落としていることは全て指摘されてしまいます。ましては誤魔化しなどは一切通用しません。この人生の収支報告はまさに自分自身についてであって、他人がどうだったということは全く関係ないのです。全知全能の神の前ではあなた自身、私自身のことだけが問われるのです。

3.

さて、赦しを願う心になってもまた罪を犯してしまった、それでも赦しを願ったら何度でも赦さなければならない。または、赦しを願わないまままた罪を犯してしまった、それでも、その人が罪の赦しの恵みに戻ることが出来るように導くことを続けなければならない。そういう無制限の赦しをイエス様はたとえで教えるわけですが、その教えで無制限の赦しが納得できるでしょうか?以下、見ていきましょう。

まず、言われている金額について見てます。これは以前にもお話したことがありますが、まだ聞いていない人もいらっしゃるので今一度お話しします。1万タラントンというのは誰でも何か大きな額だろう、100デナリオンは小さな額だろうと推測できると思います。具体的にどれくらいの額かと言うと、まず100デナリオンですが、1デナリオンは当時の低賃金労働者の1日の賃金です。それなので100日分の賃金となります。少し身近な金額で考えてみますと、今東京都の最低賃金は時給1,013円ということで、仮に8時間働いて8,000円ちょっと、その100日分で80万円強。これが、王様から情けをかけてもらった家来が仲間の家来には情けを示さなかった借金の額です。仲間の家来は情けを乞いましたが、問題の家来は返済が済むまで彼を牢屋に入れてしまいました。

次に1万タラントン。1タラントンは6,000デナリオンなので1万タラントンは6,000万デナリオンになります。1デナリオンを8,000円とすると、6,000万デナリオンは4,800億円。問題の家来は4,800億円の借金を返すことが出来ず王様に泣きついて情けを乞い、王様は憐れんで帳消しにしてくれました。なのに、仲間の家来が抱える80万円の借金は情けを乞われても聞いてあげませんでした。

普通に考えると、4,800億円の借金を帳消しにしてもらったら、80万円の借金など帳消しにしても痛くも痒くもないだろうに、なんと心の狭い家来だということになるでしょう。しかし、ここは心の狭い広いという問題を超えた大きなことがあります。問題の家来は王様の怒りを買って、牢屋に入れられてしまいます。返済が済むまで出られないということですが、借金を返す余裕がない人がどうやって返済できるでしょうか?これはもう永遠に牢屋に入っていることになります。1万タラントンという金額はイエス様流の度肝を抜く言い方ですが、要は返済は一生かかっても無理、永遠にかかるという意味です。

そこで詩篇49篇にある御言葉を思い出します。

「神に対して、人は兄弟をも贖いえない。神に身代金を払うことはできない。魂を贖う値は高く、とこしえに払い終えることはない。」(8~9節)

「贖う」というのは難しい言葉ですが、捕らわれた状態にある人を代償と引き換えに解放するという意味です。「買い戻す」と言い換えてもいいです。さて、問題の家来は「とこしえに払い終えること」のない状態に陥ってしまいました。彼は本当ならば初めの段階で永遠の捕らわれの状態に陥っていたはずなのですが、王様から常識では考えられないような憐れみをかけられて陥らないで済んだのでした。詩篇の御言葉、魂を買い戻す値は高く、永遠に払い終えることはないというのは、人間は誰かに買い戻してもらわないと天国に入れないということです。人間は何かに捕らわれた状態になっている、そこから解放されないと天国に入れないということです。それでは人間は何に捕らわれているのでしょうか?

そこでマルコ10章45節にあるイエス様の言葉を思い出します。

「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来たのである。」

イエス様が人間のために身代金になったというのはどういうことでしょうか?この言葉はイエス様が十字架にかけられる前に話されました。これを聞いた弟子たちは何のことか理解できませんでした。しかし、イエス様の十字架の死と死からの復活の出来事が起きた後で全てのことがはっきりとわかるようになりました。イエス様が神の想像を超える力で死から復活された時、彼は本当に死の力を超える永遠の命を持つ方、まぎれもなく旧約聖書に預言されていた神のひとり子であることがはっきりしました。それではなぜ、神のひとり子が十字架にかかって死ななければならなかったのか?これも旧約聖書に預言されていたように、人間の罪に対する神罰を人間に代わって受けて、神に対して人間の罪を償う犠牲の死だったことがはっきりしました。人間は自分では何も犠牲を払っていないのに、神のひとり子イエス様のおかげで神から罪を赦された者として扱ってもらえる、そういう状況が生み出されたのです。

そこで今度は人間の方が、イエス様の十字架と復活の出来事は本当に自分のために起こったのだとわかってそれでイエス様は自分の救い主だと信じて洗礼を受けると、この罪の赦しの状況に入れます。そこに入れると、人間は死を超えた永遠の命に向かう道に置かれその道を歩み始めることになります。この世を去る時が来ても、その時は安心して信頼して神の御手に自分を委ねることができます。そして、復活の日に目覚めさせられて永遠に自分の造り主である神の御許に迎え入れられます。このように人間は、イエス様の十字架と復活の業によって、かつ、そのイエス様を救い主と信じる信仰によって、罪と死の捕らわれ状態から解放されて神の御許に移行できるようになったのです。そこにはイエス様の犠牲の死があります。彼が人間を神のもとに買い戻す身代金になったのです。十字架と復活の出来事の後、やっとこのことがわかった使徒たちは次のように記しました。

パウロ「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。」(エフェソ1章7節)

ペトロ「知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。」(第一ペトロ1章18~19節)

神聖な神のひとり子が十字架の上で流した血を代償として罪と死の支配から神の御許に買い戻される道が人間に開けたのでした。イエス様を救い主と信じるキリスト信仰者はその道に入ったのです。

4.

イエス様を救い主と信じる信仰で神から罪を赦された者であると見てもらえるようになったとは言っても、最後の審判の時に神の御前に立たされて人生の収支報告をしなければなりません。神は細かいところまで全てお見通しだと言うのなら、その時自分は罪は全然ありませんでした、あなたの意思に完全に一致するように生きてきましたなどとは言えないのではないか。そういう不安が起きます。その時はパウロの次の言葉を思い出します。

「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。」(ガラテア3章27節)

実に洗礼を受けるというのは、イエス様を神聖な衣のように頭から被せられることなのです。その衣を被せられたら、神は内側に残る罪よりもその衣に目を向けられます。自分が編み出したのではなく、着せてもらった神聖な衣に神は目を向けられて内側の汚れを覆い隠して下さるのです。

そう言うと、罪を隠し持っていてもいいのか、それなら神の意思に反することを行ったり考えたりしても大丈夫ではないか、と思われるかもしれません。しかし、そういうことでは全然ないのです。着せられたものは神の神聖さそのものです。覆われたものは神の意思に反する罪です。神聖と罪は全く相いれません。死の力を超える神聖は、一度覆いかぶさると内に残る罪を圧し潰そうとします。嫌でもそういうことになるのです。イエス様を衣のように纏ったら、あとはその神聖さが罪を圧し潰していくことに身も心も任せるしかありません。もちろん罪は抵抗しようとします。無駄な抵抗ですが、罪は肉を通して人間が抵抗に加担するように仕向けるので、時として物凄い戦いが起きます。イエス様を衣のように纏う者がどのような内的な戦いに身を投じることになるかということをパウロの次の言葉はよく表しています。

「主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません。」(ローマ13章14節)

神の御前で人生の収支報告をしなければならない時、神は信仰者がイエス様という衣を最後までしっかり身に纏っていたかどうかに目を留められます。衣を手放さずに纏っていたということ自体が、自分は罪を罪としてはっきりさせてそれに加担しない生き方をしたという証しだからです。衣を手放せという暴風雨のような力にも屈せず、手放さなかったからです。この時、イエス様をしっかり纏っていた人は、あの暴風雨の時、神はもう自分から離れてしまったと思ってしまったが、全然そうではなかった、あの時もずっと一緒だったとわかるのです。

5.

このように天地創造の神、万物の造り主である神はイエス様を通してまことに人間の贖い主でもあります。人間を罪と死の支配のもとから御自分の御許に買い戻すために、ひとり子の血を流すことまでされました。それは、人間がこの世を御自分としっかり結びついて歩むことができ、この世を去った後は永遠に御許に迎え入れられるようにするためでした。真に永遠ということがかかっているので、それこそ死を超える価値がないと買い戻すことができません。金や銀をいくら積み上げてもその価値は生まれません。人間には払えないので神が代わりに支払って下さったのでした。このことがわかれば、隣人が罪の赦しを受け取れるように導くことが神の御心であることがわかります。罪という神に対する莫大な負債を帳消しにしてもらったら、隣人にも帳消しが起きるように導かなければなりません。あの家来が仲間の家来にしたことは導くどころかシャットアウトしてしまったことを意味します。罪を犯した者がキリスト信仰者であれば、罪の赦しの恵みの中に再び戻れるようにすること、信仰者でない場合はその恵みに初めて入ることが出来るように導くことが何よりも大事です。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

 

 

歳時記

薄の穂が出そろいました。虫の声も一段と良く聞こえるようになりました、蝉の時は殆んど聞こえませんでしたが。音の領域が違うのでしょうか。

9月6日(日)聖霊降臨後第14主日  主日礼拝 司式・説教 吉村博明SLEY(フィンランド・ルーテル福音協会)宣教師

礼拝の動画へのリンクは以下の説教テキストの初めの部分にあります。

主日礼拝説教 2020年9月6日(聖霊降臨後第十四主日)スオミ教会

エゼキエル33章7-11節、ローマ13章8-14節、マタイ18章15-20節

説教題 「罪は罪であると言うが、我のすべきは神への立ち返らせであり裁きにあらず」

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

 本日の福音書の箇所でイエス様は、「あなたの兄弟があなたに罪を犯したら、どうすべきか」について教えます。ここで言う「あなた」と「あなたの兄弟」は、双方ともイエス様を救い主と信じる者です。17節を見ると、問題が当事者同士で解決できなければ教会に持ち込めと言っているので、二人とも教会に属する者です。つまり、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者です。それでは、キリスト信仰者が別の信仰者に罪を犯したとき、どう対処すればよいのでしょうか?

それを見る前に、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者が同じ信仰を持つ者に「罪を犯す」ということはどういうことか考えてみます。「罪を犯す」と言うと、何か犯罪を犯すみたいに聞こえますが、要は十戒の掟に示された神の意思に反することをしてしまうことです。本日の使徒書の日課ローマ13章でパウロは、殺すな、姦淫するな、盗むな等々の掟の核心は全て「隣人を自分を愛するが如く愛せよ」なのだと教えます(9節)。これと同じ教えはパウロよりも前にイエス様も教えていました(マルコ12章31節等)。パウロはイエス様の教えを受け継いでいるのです。隣人を自分を愛するが如く愛さないで、殺すな、姦淫するな、盗むな等々の掟を行為のみならず考えや言葉でも破ってしまうことが「罪を犯す」ということです。

「隣人」というのは、イエス様が「善きサマリア人」のたとえで教えているように、自分が属している民族、グループその他共同体の境を超えた全ての人が相手になります。それで隣人愛はキリスト信仰者にとって信仰者であるなしにかかわらず全ての人に向けられるべきものです。本日の福音書の個所のイエス様の教えでは問題が絞られていて、信仰者が別の信仰者に隣人愛を破るようなことをしたら、その者に対してどうするかということです。

少し脇道に逸れますが、「コリントの信徒への第一の手紙」の6章をみると、信仰者同士の間で利害の対立があって、その解決を当時まだキリスト教と何のかかわりもなかったローマ帝国の法廷に委ねられていたことがうかがえます。それについてパウロは、問題解決を信仰者同士で行うのではなく、信仰を持たない者に委ねるとは何事かと叱責します。どんな利害の対立があったのかははっきり述べられていませんが、「相手から損害を被っても耐えろ」とか「相手から奪い取るな」とか言っているところをみると(6章7ー8節)、金銭上のトラブルがあったことが窺えます。すぐ法廷に持ち込むということに自己の利益しか頭にないということをパウロは見抜いていました。

金銭上のトラブルに加えて、信仰者同士の罪の問題には性関係の乱れがあったことも、同じコリント第一の手紙の中に記されています(5章)。キリスト教の性モラルの基本は、イエス様の教え「神は人間を男と女とに創りあげ、男と女は親元を離れて、神によって一つに結ばれる」(マルコ10章6ー9節)にあります。つまり、徹底して男女の間の永続する一夫一婦制です。当時の地中海世界の性モラルは、この第一コリント5章の他にローマ1章などからも伺えるようにイエス様やキリスト教会が教えるものとは異なっていました。それで、なかなかそこから抜け出られない信仰者もいたに違いありません。

 

2.

本題に戻りましょう。罪を犯された信仰者は犯した信仰者にどう対応したらよいか?

ここで一つ細かいことで恐縮ですが、私たちの新共同訳では「兄弟があなたに対して罪を犯したなら」とあります。ここには写本の問題があります。写本の問題というのは、私たちが手にする聖書の中にある書物はみなオリジナル版の写本に基づいているということです。というのは、書物のオリジナル版は現存せず、それを手書きで写した写本、写本の写本、そのまた写本を手掛かりにするしかないからです。無数の写本の中からどれがオリジナル版に近いかということが研究され、それが聖書の翻訳に反映されるのです。このマタイ18章15節について、古い写本によっては「あなたに対して」がないものもあります。その場合、兄弟の罪は具体的に誰に対して犯されたということがないので、それを目撃したあなたはどうするかという意味になります。新共同訳では罪を犯されたあなたはどうするかという意味です。ギリシャ語”原文”の新約聖書(Nestle-AlandのNovumu Testamentum Graecaeです)の解説部分を見ると、第25版では「あなたに対して」がある写本に基づいていたが26版からはないものに基づくと言っています。それでフィンランド語の聖書も1938年の訳は「あなたに対して」がありましたが、1992年の現行訳では外されました。このように写本やその他学会の研究が進むと聖書の文言も変わるということが起きるのです。日本では最近「聖書協会訳」が出ましたが、そこでは「あなたに対して」はどうなったでしょうか?

さらにギリシャ語聖書の解説部分を見ると、このマタイ18章15節のところはどの写本に基づくべきか最も困難な個所の一つである、各自しっかり調べて判断しなさいというようなことが述べられています。まさに説教者の力量が問われるところです。私もどっちにするか随分悩みましたが、マタイ18章全体の流れからみて「あなたに対して」があった方がよいという結論に至り、新共同訳の通りにいこうと決めた次第です。

話をもとに戻します。罪を犯された信仰者は犯した信仰者に対してどうすべきか?イエス様が教えることは、まず、二人だけのところで、「君が行ったことは我々の神の意思に反することである。罪である」とはっきり教え戒めるべきである、ということです。もし罪を犯した者が「おっしゃる通りです」と認めて、罪を悔いて赦しを願えば赦してあげる。そうすることで、罪を犯された信仰者は信仰の兄弟を取り戻したことになる。なぜなら、神の意思に沿うように生きようと、お互いの心がまた同じ方向を向くようになったからです。

ここで一つ注意しなければならないことがあります。それは、この「二人だけのところで教え戒めよ」というイエス様の教えは、レビ記19章17節にある神の命令「心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない」に基づいているということです。どういうことかと言うと、罪を犯された信仰者は、それに対して何もせずにただ心の中で、こんちくしょう、あの野郎、と憎しみを燃やしてはいけない。そうではなくて、その人の前に行って「君がしたことは我々の神の意思に反することなのだ。罪なのだ」とはっきり教え戒めなければならない。それをしないでいるのは罪の放置・黙認になり、放置した人もその罪に関与したと神に見なされてしまう、と言うのです。教え戒めて相手が聞き従えば、それは神から大きな祝福が与えられたことになります。しかし、聞き従わない場合は罪の責任は犯した人が全部神に対して負うことになり、教え戒めた人は責任解除になるのです。これと同じことが、本日の旧約聖書の箇所エゼキエル書33章7ー9節でも言われていました。「あなたが悪人に警告し、彼がその道から離れるように語らないなら、悪人は自分の罪のゆえに死んでも、血の責任をわたしはお前の手に求める。しかし、もしあなたが悪人に対してその道から立ち返るよう警告したのに、彼がその道から立ち返らなかったのなら、彼は自分の罪のゆえに死に、あなたは自分の命を救う。」

以上から、「二人だけのところで教え戒める」というのは、単に仲直りの手続きではないことがわかります。それは、罪を犯した者にそれは神の意思に反することであると認識させて、その上で赦しを願うように導くということです。罪を犯された者はその導きをする大事な役割を持つということです。

そこで、罪を犯した者が悔いて赦しを願う時は、犯された者は赦さなければなりません。それも神の意思です。なぜそうかと言うと、神がイエス様を私たちに贈られたのは私たちが罪の赦しの中で生きられるようにするためだったからです。創世記の堕罪の出来事以来、人間には神の意思に反しようとするものが備わってしまいました。それを聖書は「罪」と呼ぶのですが、そのために初めにあった神と人間との結びつきが失われてしまいました。失われた結びつきを神は人間に取り戻してあげようと決めました。そうすれば人間は神との結びつきを持ってこの世を生きられ、この世を去った後も永遠に自分のもとに戻れるようになれる。それで、本当なら人間が受けなければならない罪の罰を御自分のひとり子のイエス様に代わりに受けさせて、人間が受けないで済むようにしました。それが、ゴルゴタの十字架でイエス様が死なれたことでした。こうしてイエス様は神罰を引き受けて死なれましたが、神はそのイエス様を三日後に復活させて、死を超えた永遠の命があることを示し、その命に至る扉を人間に開きました。

そこで人間が、自分の罪は真にイエス様に償なってもらった、だから彼こそは真に私の救い主だと信じて洗礼を受けるとイエス様の死と復活に結びつけられて、古い自分は死に新しい自分が生き始めます。そして、神との結びつきを持ってこの世を生きられるようになり、その結びつきは自分から手放さない限り何があっても失われません。この世を去った後も結びつきのゆえに復活の日に目覚めさせられて、神の御許に永遠に迎え入れられるようになるのです。

イエス様の償いによる罪の赦しを受け取って、このような神の恵みの中で生きられるようになった者は、罪の赦しを願う者に対しては自分も神からしてもらった以上、赦しを与えなければならない。また、罪が何かわからず赦しを願うこともしない者に対してはまさに罪の赦しの恵みを受け取ることが出来るように導いていかなければなりません。

罪の赦しを願う者に赦しを与えるというのは、何かその者に対して優位に立つということではありません。自分こそが神から赦しを与えられた者であることに思い至らなければなりません。そして、赦しを与えるというのは、赦した後は犯された罪はさもなかったかのように振る舞い、以後不問にするということです。ミカ7章19節に「主は再び我らを憐れみ、我らの咎を抑え、すべての罪を海の深みに投げ込まれる」とあります。神が人間から罪の汚れを取り除くというのは、まさにこのことです。まず、罪を包み隠さずに罪は罪であるとはっきり言い、そこから赦しを与えることで罪を帳消しにしていくということです。どうか、全てのキリスト教会がこのようにして罪の汚れから清められていきますように。

イエス様の教えの次に進みましょう。残念なことに「二人だけのところで教え戒める」ことが功を奏せず、罪を犯した信仰者が教え戒めに耳を貸さなかった場合はどうするか?自分は罪を犯していないとか、自分のやったことは罪ではない、と言い張った時です。その時は、証人を信仰者の中から一人か二人呼んで、それは神の意思に反することだったということを確認してもらうことになる、とイエス様は教えます。この証人を立てるというイエス様の教えは、旧約聖書の申命記19章15節にある神の命令に基づいています。「いかなる犯罪であれ、およそ人の犯す罪について、一人の証人によって立証されることはない。二人ないし三人の証人の証言によって、その事は立証されねばならない。」イエス様が旧約の伝統の上に立っていることの一例です。

さて、証人の証言が出ました。これで罪を犯した信仰者が赦しを願えば、信仰の兄弟を取り戻したことになりますが、耳を貸さない場合はどうなるのか?その時は問題の解決は教会に委ねられるとイエス様は教えます。なんだか教会員みんなの前でつるし上げにあうような感じがしますが、そうではありません。最初は二人だけで、それがだめなら二人か三人の証言で、と言っているように、罪を大っぴらにしない方向性がはっきりあります。罪を犯した者の神との結びつきを修復することが目的です。糾弾したり、ましては裁くことではありません。教会を代表する者が当事者と証人と話し合うということになるのでしょう。

そこで罪を犯した信仰者がそれを認めて赦しを願えば、問題は解決します。しかし、それでも耳を貸さない場合はどうなるのか?その時は「その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」と言われます。異邦人とは、天地創造の神、御子イエス様をこの世に送られた神を信じない人のことです。徴税人とは、当時ユダヤ民族を支配しているローマ帝国の租税官吏となって同胞から不当に取り立てて私腹を肥やしていた人たちです。民族の裏切り者と見なされていました。罪を犯しても最後までそれを認めない、心がかたくなな信仰者はこうした神の民に属さない者、裏切り者と同様である、とイエス様が教えていることになります。

ところで、日本語訳の「異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」を注意して見てみます。ギリシャ語原文をしっかり見ると、「その人は、あなたに関して言えば、異邦人か徴税人のようになってしまえばいい、そうなってしまうのはやむを得ない」というような意味です。ここは三人称単数の命令形なのでちょっと難しいのですが、少なくとも日本語訳の「見なしなさい」みたいに、罪を犯された者に向けた命令文ではありません。

それではどういうことかと言うと、「その人は、あなたに関して言えば、異邦人か徴税人のようになってしまえ」と言っているので、「あなたに関して言えば」と限定的に考えています。全ての人に関してそうだとは言っていません。しかも、「異邦人のように」なので「異邦人」そのものだとも言っていません。ここは断罪的ではないのです。そうなると問題の兄弟の神との結びつきを回復することを考えることができます。このことについて神自身、本日の旧約の日課エゼキエル33章11節で次のように言われています。「わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。

(その前の10節ではイスラエルの民が罪の告白をしています。罪は罪であるとはっきり認めた後で神はこのように裁きではなく憐みの言葉をかけて下さるのです!)

それなので、罪を犯された者は教会の訓戒が功を奏しなかった場合でも、あいつなんか最後の審判の時に神罰を受けてしまえばいい、などと呪ってはいけないのです。このことは、本日の福音書の箇所に続く21ー22節を見るとよくわかります。ペトロがイエス様に、信仰の兄弟が罪を犯したら何回赦すべきか7回までか、と尋ねるところがあります。それに対してイエス様は、7回どころか7の70倍までも赦せ、と答えます。これはもう、赦すことにおいて回数に制限を設けるなという意味です。このことについては次主日の説教でお話しします。ここでは、兄弟を教え戒めることに続くイエス様の教えを見ていきましょう。

3.

18節「あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」「あなたがた」は、18章の最初を見ればわかるようにイエス様の弟子を指します。「つなぐ」というのは禁止することを意味します。「解く」というのは、許可することを意味します。イエス様は以前16章で同じこと「地上でつなぐこと、解くこと」は将来教会の代表格になるペトロがすると言っています。今日の18章では弟子たちがすることとして言っています。ペトロを中心にした弟子たち、すなわち使徒たちが教会を形成して、彼らがこの地上で禁止したり許可したりすることは、神がおられる天の国でもお墨付きを得るということです。使徒たちは、かつてイエス様の教えと業をつぶさに目撃して彼の十字架の死と復活の証人になって、その後は迫害にも屈せずイエス様が神から送られた人間の救い主であると宣べ伝えました。彼らが神の意思はなんであるかを地上で明らかにする権限を持っているということです。

続く19節から20節をみると、どんな願い事でも、信徒が二人集まって心ひとつにして願い求めたら、天の父なるみ神はかなえて下さるというような、一見、願い事は何でもかなうと言っているように見える教えです。実はこれはもっと広い意味です。これは先ほどの18節の使徒たちの権限の教えの続きです。しかも、先の16節でイエス様が基づいた旧約の伝統「二人か三人の証人の証言」を一段高い次元に引き上げるものです。どういうことかと言うと、まず、19節の意味ですが、これをギリシャ語原文を解説的に訳すと次のようになります。「お前たちのうち二人がこの地上で祈り求めようとする全ての事柄について合意して祈り求めれば、その事柄は天の父なるみ神のお墨付きを得て実現される」ということです。18節では使徒たちが決めたことが天の国のお墨付きを得ると言っていました。19節ではそのためには使徒一人ひとりが勝手に決めるのではなく二人以上が合意することが必要だ、そして20節でイエス様の名前のもとに集まって合意することが必要だと言います。願い事が何でもかなうということもあるかもしれませんが、ここの全体の流れから見ると、信仰者同士のいろいろな問題について、何が神の意思に沿っているか、反しているかを明らかにしなければならない。その時、二人以上がイエス様の名前のもとに集まって合意したら、それは天のお墨付きを得たことになり、その通りになるという意味です。

ここで見落としてはならないことは、二人以上が集まる時、「イエス様の名前のもとに」そうするということです。先の申命記19章15節では二人以上の証言をもって事の立証がなされるということでした。イエス様は、この二人以上の証人ということに「自分の名前のもとに」を付け加えました。罪を犯した信仰者を二人以上の証人をもって教え戒める時も、イエス様の名前のもとに集まることになります。このように旧約聖書の掟に「イエス様の名前」という新しい要素が付け加わりました。信仰者が集まる時、祈る時、イエス様の名前が付け加えられることで、集まる者たち祈る者たちがみんなイエス様のおかげで天地創造の神との結びつきを持てていることを確認・告白します。

こうしてみると、まだイエス様の名前がない旧約の時には、神との結びつきを持たねばならないと思っても、手掛かりがなかったことになります。イエス様の名前が付くと、イエス様の十字架と復活の業のおかげで神との結びつきが持てるようになったことがはっきりします。神が罪を海の深みに沈めると言うミカの預言も、それだけ聞くと神は憐れみ深い方だとわかりますが、どのようにしてそんなことが起きるのかはわかりません。ありがたくは聞こえますが、よく考えると漠然としすぎています。それが、イエス様の十字架と復活の出来事があったことで、もう考えるまでもなく神は本当に罪を海の深みに沈められたのだとわかります。それがわかれば隣人に対する私たちの心も一気にそれに倣うようになっていきます。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

 

 

歳時記

夏を代表していたノウゼンカズラも夾竹桃もそろそろ陰りを見せてきました。代わって秋の花、萩が裏の茂みに咲いていました。そろそろ虫の声が聞こえてくる季節ですね。

2020年8月30日 主日礼拝(ビデオ礼拝、聖霊降臨後第13主日)  司式・説教:マルッティ・ポウッカ 牧師

説教題:「希望の元です」  

祈り・聖書日課パイヴィ・ポウッカ 宣教師

聖書日課エレミヤ15章15―21節、ローマ 12章9−21節、マタイ16章21~28節

賛美歌: 187:1      245   167:1   333:4

音楽マルッティ・ポウッカ、谷八智子

ビデオ編集:パイヴィ・ポウッカ

 

礼拝はスオミ・キリスト教会ではなく、YouTubeだけで配信し、後でもそこで見ることが出来ます。YouTube放送、8月16日10時30分~ アクセス

https://www.youtube.com/channel/UCttMNU_tjIJmcbWUM0X7haA  

 

パイヴィ先生からフインランドの森の中で採取したブルーベリーの写真をいただきました。

歳時記

夏草で覆われていた庭の一隅に桔梗が咲き出しました。野菊、萩、薄・・・秋の花が一面に咲き揃うのももうすぐです。

木村先生から近況についてのお便りがありました。懸念されていた体調の方は何事もなかったようで何よりでしたが左手の小指を骨折して現在ギブスをしているとのことでした。皆様に宜しくお伝えくださいとのことでした。