ニュースブログ

2026年5月17日(日)10時半 主の昇天主日 礼拝

司式 吉村博明 牧師 説教 田口聖 牧師(日本ルーテル同胞教団) 聖書日課 使徒言行録1章1~11節、エフェソ1章15~23節、ルカ24章44~53節 説教題 「み言葉を通して私達に働かれる主キリスト」 讃美歌 112、324、278、259、121 特別の祈り

全知全能の父なるみ神よ。

天のあなたのみ許(もと)に上げられたイエス様のおかげで日々、罪の赦しの恵みの中で生きられ、いつもあなたに見守られていることを感謝します。どうか、復活の初穂であるイエス様に続いて私たちも復活を遂げて御国に迎え入れられるようにして下さい。

あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストのみ名を通して祈ります。 アーメン

歳時記

〈1たしは山にむかって目をあげる。わが助けは、どこから来るであろうか。2 わが助けは、天と地を造られた主から来る。詩編121:1・2〉

半年ぶりに北斗市白州に行ってきました。山道に続く入口で「俺の木(誰の木か知りませんが、勝手に俺の木と呼んでいます)」が出迎えてくれました。「今年は来るのが遅かったじゃないか」と言って枝を少し揺すって見せました。上から見下ろしていた甲斐駒の団十郎が「ま、折角来たんだからいいじゃないか」と宥めてくれていました。

スオミ教会 手芸クラブのご案内

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5月の手芸クラブは27日(水)10時~13時に開催します。

今回はビーズ刺繡のテクニックを使ってアクセサリーを作ります。ビーズ刺繡とは布地に様々な形や色とりどりのビーズを縫い付ける刺繡です。もともと服の飾りに使われた伝統的な手芸のテクニックで、今でも人気があります。このテクニックを使ってアクセサリー、ブローチ、イヤリング、ボタンなど様々な模様の作品を作ることが出来ます。

是非ご一緒にビーズ刺繡をしてみませんか? shugei

参加費: 1000円
材料費: 500円 (ピーズ、糸、針 など)

手芸クラブでは今回のテーマ以外にもご自分の好きな編み物をすることができます。作りたいものがあれば、是非ご自由にお持ちください。
おしゃべりしながらワイワイ楽しく編みましょう!聖書のお話の時間もあります。

お子さん連れのご参加も大歓迎です!
皆様のご参加をお待ちしています。

お問い合わせ、お申し込み
moc.l1778975633iamg@1778975633arumi1778975633hsoy.1778975633iviap1778975633
℡ 03-6233-7109
www.suomikyoukai.org

牧師の週報コラム

覚悟と胆力を養うキリスト信仰その11

31日のスオミ教会定例総会にて採択された2026年度の主題聖句と主題およびその趣旨です。

主題聖句 「あなたの御言葉は、わたしの道の光 わたしの歩みを照らす光」

     詩篇119105

主題 「どんなに深い闇に覆われようともキリスト信仰者には失われない光がある」

主題の趣旨

「あなたの御言葉」とは「神の御言葉」のことです。聖書の御言葉が「神の御言葉」であると言われるのは、記述した人がみな神からこのように記しなさいと聖霊に教えられて書き記したものだからです。それで聖書は真に神からの贈り物です。そのようなものを手にして繙くことができるというのは何と言う幸いでしょうか。

神の御言葉が肉体を伴って人間の姿かたちを取ったのが御子イエス様です(ヨハネ1章)。なので、イエス様が教えたこと行ったこと、そして彼の十字架と復活の業を通して神の御言葉である聖書を正しく理解することができるのです。イエス様は「私は世の光である。私に従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」と言われました(ヨハネ812節)。「命の光を持つ」とは、死を超える永遠の命という光を持つことです。その光を目指してこの世を歩むので暗闇の中で躓いて倒れたり立ち往生することがないのです。イエス様という光はまた、人間には罪があることを明らかにする光であり、その真実に背を向けず悔い改める者を罪の赦しへと導く光でもあります(ヨハネ31921節を参照)。

このようにしてキリスト信仰者は聖書を与えられた神と結びつきを持ってこの世の人生を進んで行きます。人間的に見てどんなに深い闇に覆われようとも、霊的なキリスト信仰者には失われない光があるのです。何も光が感じられないような時は、目を閉じてみて下さい。目の前には瞼の裏側の黒赤のようなものしか感じられません。その時、イエス様の教えられたこと行ったこと、他の聖書の励ましの言葉を思い浮かべて下さい。好きな讃美歌を頭に響かせても宜しいです。そうすれば、すぐそこに光があることを感じられるはずです。そして目を開ければ大丈夫です。

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2026年5月17日(日)13時 キリスト教の終活セミナー

キリスト教式葬儀会社・株式会社ライフワークスのセレモニーディレクターの福島信氏(同社東京オフィス)をお招きして「キリスト教の終活セミナー」を開催します。ご関心ある方はどなたでも参加できます(参加費無料)。  スオミ教会員以外の方は前もってメールにてご一報下さい。宜しければ10時半に始まる主日礼拝にも是非どうぞ。礼拝後12時からセミナー開始の13時までは軽食付きのコーヒー・ティータイムの時を過ごしています(自由献金)。

スオミ教会・フィンランド家庭料理クラブのご案内

5月の料理クラブは16日(土)13時の開催です。

夏に向かって、これからはフィンランドでも新じゃがや野菜が美味しい季節になります。5月の家庭料理クラブでは「リンドストリョーム・ピヒヴィ」(ひき肉とビーツのハンバーグ)を作ります。ビーツがひき肉の味をまろやかにするので、ソースなしでも食べられるハンバーグです。フィンランドでは、ジャガイモ料理と一緒に味わうのが普通です。新じゃがが美味しいこの季節に合わせてオーブンで焼き上げる「ロホコ・ペルナ」(ポテトウェッジ)も作ります。今回のメニューはフィンランドの典型的な家庭料理の一つです。

「リンドストリョーム・ピヒヴィ」と「ロホコ・ペルナ」を一緒に作ってみませんか?

皆さんのご参加をお待ちしています!

参加費は一人2000円です。

どなたでもお気軽にご参加ください。お子様連れでもどうぞ!
皆さんのご参加をお待ちしています!

お問い合わせ、お申し込みは、 moc.l1778975633iamg@1778975633arumi1778975633hsoy.1778975633iviap1778975633 まで。

5月の予定

牧師の週報コラム

覚悟と胆力を養うキリスト信仰その10

ルターによる聖句の説き明かしと共に(フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ」25の日課から)

『私たちの忍耐と聖書が与える慰め励ましを通して私たちは希望を持ち続けることができるのです。』(ローマ154節、昨年度のスオミ教会の年間聖句、スウェーデン語訳の聖書”Bibel2000”から)

『この聖句でパウロは二つのこと、すなわち私たちの忍耐と聖書の慰め励ましを結びつけている。聖書は私たちを苦痛、逆境、死から解放してくれない。逆に聖書は神聖な十字架を私たちに負わせる。だから、忍耐が必要になるのだ。まさにその時、聖書は苦しみのただ中にある者を慰めて力づけてくれるものになる。忍耐が萎えることがないように、苦難を突き破って打ち克つことができるように聖書は力づけてくれる。私たちが喜んで勇気を持ってへりくだって苦難に臨むことができるのは、神が繰り返し語るあの御言葉を耳にするからである。「私はあなたと共にいて、あなたを守る。」

キリスト信仰者にとって忍耐強くあるというのは不可欠なことだ。なぜなら、この世の人生とは永遠の死に定められている内なる古い人間アダムを日々死なせていく過程に他ならないからだ。次に到来する世を私たちはまだ手にすることも感じることもできない。それ故、私たちには忍耐強くしがみつく何かが不可欠なのだ。それは神の御言葉に他ならない。神の御言葉に忠実でいれば、私たちは次に到来する世の人生を手に掴んでいることになり、それに繋がっていることになるのだ。私たちは神の御言葉を信頼し、御言葉に踏みとどまる。その時、私たちは安全な船で航海するが如く、この世の人生から次に到来する世の人生に向かって旅をする者となる。御言葉に留まる限り、希望が裏切られることはない。

私たちが苦難にある時、悲しんでいる時、死に直面している時に聖書が私たちを慰めるものになっていれば、それは正しく用いられていることになる。それゆえ、苦しみについて何も知らない者、死を自分に関係ないもののように考えている者は、聖書の慰め励ましについて何も知らないのである。それは言葉を通してだけでは学ぶことはできない。経験を通してでもないとできないのだ。』

スウェーデン語訳聖書を用いた理由 新共同訳は「忍耐」も「慰め」も聖書が与えるものとしています。フィンランド語訳も英語訳(NIV)も同じです。ギリシャ語原文は、忍耐は忍耐、慰めは聖書が与えるという書き方です。ドイツ語のルター聖書(1912年版)はギリシャ語の書き方のまま。スウェーデン語はそれに少し補足した形で分かりやすいので選んだ次第です。

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2026年5月10日(日)10時半 復活節第6主日 礼拝 説教 吉村博明 牧師

2026年5月10日 復活後第六主日 礼拝説教

使徒言行録17章22-31節

第一ペトロ3章13-22節

ヨハネ14章15-21節

説教題 「二つの文明、二つの信仰 - どっちになるかは聖霊次第」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1. はじめに

本日の使徒言行録17章の出来事は、使徒パウロが古代ギリシャのアテネにてイエス・キリストの福音を居並ぶ哲学者たちの前で弁明したという出来事です。これはとても世界史的な出来事です。というのは、この時、二つの異なる文明が衝突して火花を散らしたからです。二つの文明とは、一つはギリシャ・ヘレニズム文明。これは、人間の理性の力を信じて万物を理性で推し量ったり説明しようとする哲学的な文明です。それに対するはヘブライズム文明。これは天地創造の神という万物を司る方が自分の意思や計画を人間に啓示するという信仰的な文明です。つまり、ギリシャ・ヘレニズム文明は理性のような人間の内部に備わる能力に重きを置く文明、ヘブライズム文明は人間の外部に厳然としてある神とその啓示に重きを置く文明と言っていいでしょう。この本質的に異なる二つの文明が正面からぶつかったわけなのですが、興味深いことに、このお互い水と油みたいなものがいつしか西洋文明の二大底流となって、それを複雑に形作っていくことになります。

アテネの出来事は2000年前のことですが、話の内容は現代の、しかもこの日本で生きる私たちにとっても信仰について考えさせることがあります。それで、本日の説教はこの個所の説き明かしを中心にしていきます。他方で、福音書の日課ヨハネ14章の個所ではイエス様が聖霊を弟子たちに送ると約束します。イエス様は聖霊のことを弁護者と言ったり真理の霊と言ったりします。以前の説教で聖霊が弁護者であるとはどんな意味が教えたことがあります。本日の説教ではアテネの出来事は聖霊が真理の霊であるということに関係するので、そちらの方を見ていきます。

2.神を創り出す人間の文明と信仰

パウロは二回目の地中海伝道旅行の時にアテネに到達します。そこに着くまでは行く先々で、イエス様をメシア救世主と受け入れないユダヤ人の妨害や迫害に遭い、アテネへは避難するように着いたのでした。そこはそれまでの町々と違ってユダヤ人の妨害がありませんでした。そのかわりにパウロを困惑させたのは、町中いたるところで金や銀や石でできた神々の像すなわち偶像が溢れかえっていたことでした。いくら他の宗教のこととは言え、パウロは偶像崇拝を禁じる旧約聖書の伝統に立つ人ですから心穏やかではありませんでした(16節)。

さて、パウロはユダヤ人の会堂だけでなく、町の広場でもイエス・キリストの福音を宣べ伝えました。そこで、エピキュロス派、ストア派という哲学の学派を信奉する人たちと議論になりました。二つの派は古代ギリシャ世界を代表する哲学の学派です。5年前の説教でそれらはどんな主張をする学派であるか触れたことがあります。今回は割愛します。関心のある方はHPの説教集をご覧下さい。ごく簡単に言うと、両者とも森羅万象の成り立ちを理性的に明らかにしようとするもので、魂を含めて全ての事象は原子にまで分解できるというミクロ的な見方をしたり、魂を含む森羅万象は大きな法則の下に周期的に大きな火で焼かれるというマクロ的な見方をします。いずれにしても聖書にはない見方です。

こうした哲学者たちと議論をしたパウロはアレオパゴスという広場に連れて行かれ、そこで宣べ伝えていることを弁明することになりました。アレオパゴスとは、もともとは裁判所の機能を果たす市民の代表者の集会場でした。その頃は、いろいろな教えを調査する機能も果たしていました。

アレオパゴスの真ん中に立ったパウロは居並ぶ議員、哲学者の前で話し始めます。二つの異なる文明が火花を散らす瞬間です。ところで先ほど、ギリシャ文明は理性の力を重んじる哲学的な文明で、パウロが持ち込んできたのは神の啓示を重んじる信仰の文明と申し上げました。そう言うと、あれ、ギリシャ文明には沢山の神々がいたではないか、ゼウスを頂点に、美と愛の女神アフロディテだの、豊穣の神ディオニュソスだの、海の神ポセイドンだの、死者を陰府に導くヘルメス等々、沢山いたではないか?だから、ギリシャ文明も実は信仰の文明ではないか?それがどうやって理性の力を重んじる文明と一緒なのか、というもっともな疑問が出てくるでしょう。大体次のようなことだと思います。これらの神々は人間内部の思いや願いや恐れが結晶して出来たシンボルのようなものです。その意味で人間内部から生み出されたものです。それがあたかも人間の外部にあるように置かれて具体像をもって描写されて神として崇拝されるのです。そういうわけで、パウロがアテネで遭遇した人間知性の先端を行く哲学と多神教の神々という二つの異なるものは、実は双方とも人間内部から生み出されたものということになります。

ところで私たちの聖書の神ですが、これは人間内部の思いや願いや感情の結晶とかシンボルではありません。神は、完全に人間の外部にあって人間を含む万物を造った創造主で、人間から独立した意思と考えを持ち、人間の理性などで把握できる方ではない、というのが聖書の立場です。聖書の神が人間の内部から生み出されたものではなく、人間を越えてその外部に厳然としてあるということは、像を作って崇拝してはいけないと神が命じていることによく表れています。肉眼の目で見ることができない神、理性や知識をもってしても把握しきれない神は、まことに人間が造れる存在ではありません。人間の方が神に造られた存在なのです。

3.神に造られた人間の文明と信仰

さて、パウロは人間の理性と知識に重きを置く人たちに神の啓示を伝え始めます。まず、アテネの皆さん、あなた方が信仰あつい方であることをわたしは認めます、と言って敬意を表します。お前たちは偶像崇拝ばかりしてどうしようもない奴らだ!というような高飛車な態度ではありません。彼は、ある祭壇に「知られざる神に」という文句が書かれていたことに触れて、それを取っ掛かりにして、私はその神を知っているのでお教えしましょう、と言って話を始めます。「知られざる神」というのは、ギリシャ人の神々崇拝では前述したようないろいろな役割と名前を持った神々がいるのですが、ひょっとしたらまだ見つかっていない神が他にもいるのではないか(正確に言えば、まだ作りだしていない神がいるのではないか)、そういう不確かさがあるために、崇拝し忘れた神がないようにと念のためにそう書いたのです。そういう測り知れない神がいるという認識がギリシャ人にあったことが、パウロにとってよい取っ掛かりになりました。

その測り知れない神とは、世界とその中の万物、私たち人間も含めた万物を造られた方である、まさに万物の創造主であり天地の主であるから、人間の手で造った建物なんかに住まないし、また何か足りないものがあるかのように人間にいろいろ供え物をしてもらったり世話してもらう必要もない。逆に神こそが人間に必要なもの、命、息吹その他全てのものを与えて世話をして下さるのである。そのように神は人間に大事にされるお人形さんみたいではなくなって、私たち人間の方が神に大事にされる、というふうに視点を逆転させていきます。

次にパウロは、神が一人の人間から始めて諸民族を作りだした目的について述べます。神はそれぞれの民族に歴史と居住地域を定めたと言います。新共同訳では神は「季節を決め」たとありますが、少し怪しい訳です。ギリシャ語原文は少し複雑ですが、要は神はそれぞれの民族が「どのような歴史をたどるか前もって定めた」という意味です(後注)。それでは、神は何のために諸民族に歴史と場所を与えたのか?それは、彼らに神を探させるためであった、とパウロは言います。果たしてそれはうまく行ったのか?ギリシャ人たちは神を探しているようで、実は偶像ばっかり作ってしまって全然見つけられていないではないか。「彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです」と言っていますが、かなり苦労するんじゃないだろうかというニュアンスです。そして、実際は見いだすことはできていないのです。

ところが、神は私たちから遠く離れた方ではない、本当は近くにおられるのだ。神が私たちの近くにおられるというのは、あなたたちの昔の詩人(紀元前300年代の詩人アラトス)も書いているではないか?そのように言うことでパウロは、ギリシャの同胞にも同じことを考えた人がいましたと指摘して、人々の目を天地創造の神に向けさせようとします。問題の詩で言われていることは、「我々は神の中に生き、動き、存在する。我らもその子孫である」ということです。これがギリシャ人も神が近くにいると考えている根拠として言われます。ところが、パウロが神は近くにあると言う意味とギリシャの詩人がそう言うのでは意味内容は全く異なっています。そこに注意しましょう。ギリシャの詩人が言っていることは、神は人間界にも自然界にもどこにでも浸透しているように存在するという汎神論の考えを表わしています。

パウロが神は近くにおられるというのは、神は人間一人一人に向かって、断ち切れてしまった結びつきを回復してあげようという意思を持って働きかけて下さっている。そういうふうに神は近くにおられると言っているのです。神と人間の断ち切れてしまった結びつきを回復させるための神の働きかけとは何か?それは、神のひとり子イエス様がこの結びつきを壊す原因となった人間の罪を全部背負って十字架の上に運び上げ、そこで人間にかわって神の罰を受けられたということ、これが神の働きかけです。神のひとり子が身代わりになって罰を受けたので、人間はそれに免じて罪を赦してもらえ、罪の赦しの中で生きられる可能性が開かれました。そこで、こうしたことをされたイエス様は真に救い主であると信じて洗礼を受ければ、その人は罪の赦しの中で生きられるようになり、罪の赦しを受けたので神との結びつきが回復して、その結びつきの中でこの世を生きられるようになります。罪の赦しという神のお恵みに留まって生きていけば、神との結びつきは消えることはなく、人生いついかなる時にも神から守りと良い導きが得られます。この世から別れることになっても復活の日に目覚めさせられて復活の体を着せられて、神の御許に永遠に迎え入れられるようになります。このように、神はひとり子イエス様を用いて罪の赦しの救いを実現し、今度はそれを人間に向けてどうぞ受け取って下さいと提供している。それで近くにおられるのです。そしてそれを受け取った人は、近くにいるどころが、まさに「その中に生き、動き、存在する」ようになるのです。

このようにパウロは見かけ上の共通点を突破口にして切り込んでいきます。「神の子孫」ということについても、人間の頭で考えて金や銀や石を使って作った像を神にしてしまったら、じゃ人間はそうした像の子孫なのか、こんなものを先祖に持つのか、おかしいと思わないんですか?ところで私たちの日本でも、いろんなものに魂を注入して、そうしたものを敬い拝み、それらがあたかも生きているようにして、それらと穏やかな関係を保とうとすることがよくあります。なので、パウロの弁明を聞いていると、遠い世界の話と思えなくなります。

さて、パウロはたたみかけます。「神はこのような無知な時代を、大目に見て下さいましたが。つまり、大目に見ることは終わってしまったということです。そのことを明らかにした出来事が起きたのです。死者の復活という、天地創造の神の力が働かなければ起きないようなことが起きたのです。神は今、全ての人が悔い改めるようにと命じておられるのです。「悔い改める」という言葉はギリシャ語のメタノエオーですが、正確な意味は「これまで神に背を向けていた生き方を改めて方向転換して神に立ち返る生き方をする」ということです。ではなぜ、神に立ち返る生き方をしなければならないか?ここから先は旧約聖書の預言の世界に入っていきます。今あるこの世は初めがあったように終わりもある。今ある天と地はかつて神に創造されたものであるが、今の世が終わりを告げる時に神は新しい天と地に創造し直される。その時に死者の復活が起こり、新しい天と地の国に迎え入れられるか、入れられないかの審判が行われる。まさにそのために今は方向転換をして神に立ち返る生き方をしなければならないのだ。神がこの世を裁く日を決めたと言っているのは旧約聖書の数々の預言に基づいています。預言されたことが本当に起こるということが、ひとり子の死からの復活が起きたことで明白になったのだ。そして、その方は最後の審判の時に裁きを司る方なのだ、と。パウロの弁明はまさにキリスト信仰の宣べ伝えになったのでした。

ここまで耳を傾けてきたアレオパゴスの議員や哲学者たちは、どう受け取ったでしょうか?ここから先は今日の日課の個所の後になりますが、聖霊が真理の霊であることと関係するので見ていくことにします。議員や哲学者たちは、旧約聖書の伝統のない人たちです。天と地と人間その他全てを創造した神がいて、それは全ての民族の歴史と居住場所を定め、全人類の歴史の流れと共にある神である、全人類の歴史とその舞台であるこの世はいつかは終わりを告げ、新しい天と地に取って替わられる、などといったことは考えも想像もつかないことでしょう。これらは全て天地創造の神からの啓示として示されたものでした。人間の理性で推し測って組み立てた宇宙像とはあまりにもかけ離れていました。もちろんパウロも違いを知っていたでしょう。それで、旧約聖書の伝統のない彼らにいきなり、ナザレのイエスは預言されたメシア救世主だったと言って始めなかったのでした。誰がメシアかと言う問題はむしろ旧約聖書を持つユダヤ人向けのメッセージだったでしょう。それにしても、死者の復活ということがギリシャの哲学者たちにとって一番の躓きの石になったようです。人間は死ねば魂は原子に分解してしまうとか、森羅万象は周期的に大きな火で焼かれるとい理性で推し測って組み立てた宇宙像です。死を超える永遠の命、しかも肉体の体に代わる復活の体を着せられて生きる命など理性の力で組み立てられるものではありません。パウロの教えはあまりにもかけ離れすぎていてまともに受け入れられないものでした。ある人たちが嘲笑ったのも無理はありません。パウロも恐らく、今日のところはこれ以上何を言っても無駄と思ったでしょう。

4.勧めと励まし

ところが、何人かの人がパウロの後について行きました。アレオパゴスの議場からイエス様を救い主と信じる信仰に入る者が出たのです。彼らはパウロについて行ってメシア救世主についてもっと詳しく聞いたのです。彼らが何を聞いて信仰に入るに至ったか、それについては何も記されていないのでわかりません。ただ、次のようなことだったのではないかと推測できます。

アレオパゴスでのパウロの教えから「知られざる神」が天と地と人間を造られた神であることがわかった。まさに人間が生み出したのではない、逆に人間を造り出した神を知ることになった。しかも、その神は、人間に向かって私を見出しなさいと働きかける神であることもわかった。その働きかけがあることは、神がひとり子をこの世に贈って十字架の死を遂げさせたことで明らかになった、なぜなら、神と人間の結びつきを遮っていたものをひとり子が自分を犠牲にして取り除いて下さったからだ。それがユダヤ人が神聖な書物としている聖書の中で預言されているメシア救世主なのだ。そして、この世を去ることになっても消滅しない命があり、その命を生きられる世が到来することもわかった。なぜなら、パウロがアレオパゴスで述べたように、それが本当に起こることの確証として一度死なれたひとり子が死から復活させられたからだ。

パウロについていったギリシャ人たちはこれらのことがわかったのですが、それは理性や知識によるものではありませんでした。聖霊が働いたから福音の真理が心の中で点火して輝いて、人間の内部から生み出されたものの輝きを上回ったのです。聖霊は真に真理の霊です。パウロが教えた時に聖霊が働いたのは、彼の宣べ伝えた言葉が神からの言葉だったからです。私たちには聖書という神の言葉があります。その中にパウロの教えも収められています。私たちが聖書を繙く時、聖霊は必ず働き、福音の真理の光を輝かせてくれます。

そうすると一つ疑問が置きます。パウロの教えが神の言葉だったのなら、なぜアレオパゴスの多くの議員や哲学者たちには福音の光は点火しなかったのか?彼らには聖霊は働かなかったのか?もし聖書が神の御言葉ならば、なぜそれを宣べ伝えても聞いた人すべてがすぐイエス様を救い主と信じる信仰に入らないのか?彼らには聖霊は働かないのか?それは、こういうことではないかと思います。多くの人にとって、人間内部で生み出されたものの輝きは見慣れた輝きです。それで、福音の真理の輝きが来て、今のあなたの輝きはいつかは消える一過性のものだ、これこそが消えない輝きだと言われたら、大抵は脅威に感じ、そんな輝きはいらないと背を向けるのではないかと思います。ところが、ある人たちは、福音の輝きは消えない真理の輝きだとわかって、以前からの輝きに背を向けたのです。それが起こるのは早いか遅いかの違いがあると思います。しかし、いずれの場合でも神の御言葉が繙かれ宣べ伝えられていれば聖霊は必ず働いていつかは心の中を完全に福音の消えない光で満たしてくれます。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

(後注)英語、ドイツ語、フィンランド語、スウェーデン語の聖書も大体そのような訳です。ルター訳はずばり諸民族の存続期間が定められると言っています。

歳時記

野菜の花

5涙をもって種まく者は、喜びの声をもって刈り取る。6種を携え、涙を流して出て行く者は、束を携え、喜びの声をあげて帰ってくるであろう詩編126:5・6〉

野菜は美しい花を咲かせて見ていても楽しくなります、先日の散歩で丘の上の畑に見慣れない花が咲いていました。帰宅後調べてみましたらブロッコリーを「とう立ち」と言うかたちで咲かせた花でした。「とう立ち」とはブロッコリーを収穫せずに茎を伸ばして花を咲かせる事のようです。隣の畑にはエンドウも白い花をつけていました春の畑はまさに野菜の花園でもあります、北海道ではジャガイモ畑の花見があると帯広から来た同僚が言っていました。