説教「神の栄光を現わすキリスト」V.アウヴィネン牧師、ヨハネによる福音書13章31~35節

アウヴィネン先生フィンランドのミッション団体SLEYの海外伝道局長Vアウヴィネン先生

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ヨハネによる福音書13章31~35節
「さて、ユダが出て行くと、
イエスは言われた。
「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。
神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。
子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。
あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」

通訳中、「フィリピの信徒への手紙」のことを「フィリポ」とか「フィリプ」とか言い間違えていますが、正しくは「フィリピ」です。お詫び申し上げます。

説教「救われるために何をしなければならないか?」トゥマス・ルッカロイネン兄(ヘルシンキ大学神学部学生)、通訳:吉村博明 宣教師

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説教の後は、フィンランドのヤンググループ”ミッション ポシブル”がゴスペルソングを日本語で歌います。

説教「洗礼ー新しい命の扉」V.アウヴィネン牧師(SLEY)、ヨハネによる福音書 3章1-12節

2018年5月27日 三位一体主日 礼拝説教

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説教者 ヴィッレ・アウヴィネン牧師
フィンランド・ルター派福音協会海外伝道局長、神学博士

聖句 ヨハネ 3章1-12節

説教題 「洗礼 - 新しい命の扉」

私たちの父なるみ神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがた一同にあるように。アーメン

祈りましょう。神聖な神、愛する天の父よ、あなたの御言葉を感謝します。私たちに語りかけて下さい。アーメン

ユダヤ教社会の学識ある指導者でファリサイ派に属するニコデモがイエス様に興味を持ちました。新約聖書に記されている出来事の中で、ファリサイ派の人たちがイエス様にいろんなことを問いただす場面が多くありますが、それはイエス様を陥れようと謀って行ったことでした。ただニコデモの場合は、イエス様に対する関心は純粋なものだったようです。彼は、イエス様のことを神が送られた方とまで言ったのです。さて彼は、イエス様と神の御国についてもっと知りたいと思いました。

イエス様の最初の答えはびっくりさせるものでした。「人間は新しく天の神から生まれなければならない。そうでないと神の御国に入ることはできない。」この答えをニコデモは理解できませんでした。そこで、イエス様とニコデモの間に対話が始まります。その終わりの方で、イエス様は最も単純明快な福音を宣べてニコデモに真理を伝えようとしました。イエス様は次のように教えました。「神は、そのひとり子を送るほどにこの世を愛された。ひとり子を送るという仕方でこの世を愛されたのである。それは、彼を信じる者が一人として滅びることなく、永遠の命に与るためであった(ヨハネ3章16節)。

なぜニコデモはイエス様の教えを理解することが難しかったのでしょうか?難しいというより、理解するのが不可能でした。その理由について、イエス様は次のように答えています。「肉から生まれた者は肉である。神の霊から生まれた者は霊である」(ヨハネ3章6節)。これと同じことを、使徒パウロは次のように言い表しています。「人間は自然の状態では神の霊が教えることを受け取らない。というのは、それは彼にとって馬鹿げたことに見えるからだ。それは神の霊の力を借りてのみ把握できるものなので、自然の状態では気づくこともできないのだ」(第一コリント2章14節)。パウロのこの言葉は何を意味するでしょうか?それは、神の御国に関する事柄は理性では理解できないということです。また、人間的な思考に頼ってでは神はどんなお方かを知ることが出来ないということです。人間の限りある論理は人間を神のもとに連れて行くことはできません。聖書が教えるように、私たち人間は堕罪のゆえに霊的に目が見えなくなっており、霊的に耳が聞こえなくなっており、また霊的に死んでしまっているのです。私たちには霊的な命がないのです。もちろん人間は宗教的になることは出来ますし、あれこれの神々について語ることは出来ます。それらに祈ったり、宗教的な儀式を行ったりすることは出来ます。しかしながら、そうしたからと言って、私たちの心に真の霊的な命があるということにはなりません。本当は神ではないものを神であると言って崇拝することは、それこそが霊的に死んでいることを表わしています。私たちの命にとって一番重要な問いは、「いかにして霊的に死んだ者が生き返ることができるか?」ということです。

私の生まれ育ったフィンランドのトゥルクという町に古い教会があります。それは1300年に献堂式が執り行われ、今年で718歳になる教会です。その大きな教会の中に入ると、扉の左側に洗礼の水を入れる石で出来た器があります。今では使われていませんが、かつてはその水で洗礼が施され、人をキリスト信仰者にしていました。その器が扉のところにあるのは、それが洗礼について大事なことを教えるからです。つまり、洗礼とは、それを受ける教会の一員になって教会の中に入る扉を意味します。また、洗礼を受ける教会だけでなく世界を覆うキリスト教会の一員になってその中に入る扉を意味します。さらに、洗礼を受けることで、イエス様の弟子、彼に付き従う者になります。洗礼を通して、神の子とされた者たちの群れに加えられるのです。そして何よりも、洗礼を受けると、イエス様が十字架で流された血の力で私たちの罪が洗い流されて私たちは清くされ、イエス様がニコデモに言ったように、水と神の霊から新しく生まれるということが起きるのです。神の霊が新しく生まれさせてくれると、目の見えなかった者は見えるようになり、耳の聞こえなかった者は聞こえるようになり、死んでいた者は生き返ります。パウロがエフェソの信徒たちに次のように書き送っている通りです。「神の意思に反することを行ったために、罪のために死んでいたあなたたちを、神が生ける者にして下さったのです」(エフェソ2章1節)。洗礼を受けたキリスト信仰者は、神のことや神の御国のことを理解し始めるようになります。神の霊が、聖書の神の御言葉の力を借りて信仰者に教えます。そのようにして神を知ることが始まり、それは深まっていくのです。

洗礼は、神の恵み、つまり罪の赦しの恵みの中に入る扉です。パウロはローマの信徒たちに次のように言います。「キリストは、今私たちがしっかりと留まっているこの恵みの中に入る道を開いて下さった」(ローマ5章2節)。あなたは、洗礼を受けたキリスト信仰者として、またイエス様を救い主と信じる者として、この神の恵みに包まれているのです。たとえあなたが弱く、依然として罪びとのままで、時に過ちを犯してしまうことがあっても、罪の赦しの恵みはあなたを包み、覆いかぶさっているのです。あなたは、神から罪の赦しを受けた神の子なのです。洗礼を通して、あなたはまず、この罪の赦しの恵みの中に入りなさいという神の指導を受け、次に、この恵みの中にしっかり留りなさいという指導を受けます。この恵みの中に入り留まるということは、自分が一員となった教会に留まって生きることであり、また、イエス様のことを罪の赦しを与えて下さる方として信じることです。それは、さらに、神聖な聖餐式を罪の赦しの確かな印として、また信仰を強めるものとして味わうことでもあります。もちろん、聖書の神の御言葉を聞き読むことも入ります。

イエス様が開けて下さった扉から中に入ったあなたは、もはや外側にはいません。扉を通って中に入るということは、一つの状態から新しい別の状態に移行したということです。扉の隙間に留まって、中に入ろうか外に留まろうか、とどっちつかずの状態にいることは出来ません。同じことが洗礼についても言えます。洗礼が神の御国に通じる扉であると言う時、それは何かを後にする扉なのです。洗礼は、それまでの生き方、それまで人生にあったことを後にする扉です。このことをパウロは力強く次のように述べています。「キリストに繋がっている者は全て、新しく造られた者である。古いものは姿を消し、新しいものに取って代わられた」(第二コリント5章17節)。次のようにも述べています。「あなたがたも自分自身について同じように考えてみなさい。『あなたたちは罪に対して死んだので罪と無関係になった。そして、イエス・キリストと繋がって神の方を向いて生きる者となった』」(ローマ6章11節)。これは何を意味するでしょうか?歴史上最初のキリスト教徒たちにとって、それは何よりもまず、古い神々や魔術や霊的な力を捨てることを意味しました。彼らは、古い神々や宗教的な儀式は古い生き方に属するものであり、自分たちはそれらを後にして新しい命に移行したとわかったのです。使徒言行録に記録されていますが、エフェソの町でキリスト信仰者になった多くの者たちは、以前は魔術を行っていたが、それをやめて、それに関係する書物を集めて、群衆の見ている前で全て燃やしました。彼らは、古い生き方から離脱したことを公けに示したかったのです(使徒言行録19章19節)。キリストは、古い命を象徴する偶像が自分と同列に置かれることを認めません。私たちも、何が私たちの古い命を象徴する偶像かを考えてみなければなりません。それらは、もう私たちの命を支配することは出来ないので、私たちはそれらを後にしなければならないのです。

新しい命に移行するということは、最初のキリスト教徒たちにとって、それまでと違う新しい生き方、生活態度、隣人との関わり方を持つことも意味しました。キリスト信仰者というのは、生きている間、神の意思は何であるかを絶えず問います。その答えは、聖書から見いだすことが出来ます。キリスト信仰者は、それに従って生きようとします。しかしながら、それはいつもうまく行くとは限りません。失敗することも度々あります。まさにその時こそ、次のことを思い出すべきです。罪の赦しの神の恵みは、洗礼を受けてイエス様を救い主と信じる者を包んでいるということを。罪に陥っても、赦しを得られます。そして、いつの日か、天の御国の神の御許にて、不完全だった者は完全な者に変わります。罪は永久に背後に押しやられ、残るものはただ、喜びと平安と神を完全に知ることだけになります。

アーメン

 

説教「天使の御告げ」木村長政 名誉牧師、ルカによる福音書1章26~38節

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イエス様の御降誕を祝うクリスマスがもうすぐです。今日の礼拝ではクリスマスの喜ばしい出来事が起こる前に神様がどんな出来事をなさったのか、今日はマリアに起こった出来事を中心に御言葉に聞いてゆきたいと思います。ユダヤのガリラヤの町ナザレと言う村に一人の乙女マリヤがおりました。ガリラヤの町ナザレと言ってもこの当時誰にも知られていない片田舎です。26節によりますと〔6ヶ月目に天使ガブリエルはナザレと言うガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフと言う人の許婚である乙女のところに遣わされたのである。その乙女の名はマリアと言った。〕とあります。純粋で清らかな心を持っていたマリアに突然天使ガブリエルが現れたのですから彼女はどんなに驚いたことでしょう。そしてマリアに大変なことを告げたのであります。「恵まれた女よ、おめでとう。主があなたと共におられます。」マリアはいきなりこう言われて」驚きと恐れの思いで聞いたでしょう。天使の言葉は祝福の言葉ですが、なぜ祝福されねばならないのか全く分からなかったからであります。マリアは何を考えてよいのか天使に告げられたことが理解できないのです。何が自分の身に起きようとしているのか、天使の言われるままを聞いたいます。聞いていくうちにだんだん分かって来たのです。何が分かったにかと言いますと「主が一緒にいてくださる」ということであります。30節から見ますと天使がマリアに告げました。「マリア恐れることはない。あなたは神からの恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人となり、いと高き方の子と言われる。神である主は父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治めその支配は終わることがない」。マリアに対して、恐れなくて良いあなたは身ごもって男の子を産むと言われる。更に天使は告げます。「その子にはダビデ王の座をくださる」と言うのです。天使ガブリエルが告げた言葉は凄いことでした。マリアにはとてもとても考えられないことばかりです。マリアは思い迷って迷って心が乱れたことでしょう。どうしていいか何もかも分からなくなってしまった。マリアが驚いたのは自分にはあり得ないことであるからです。それで34節でマリアは言いました。「どうしてそんな事があり得ましょうか。わたしはまだ夫がありませんのに」。ヨセフとは許婚の仲で結婚はまだしていないのに、どうしてあり得ましょうか、と言うのであります。マリアの言葉はそのとおりに違いありませんが、ただそれだけのことでしょうか、ただ田舎の小娘が慌て恐れてこう言っているだけでしょうか。この前にルカはザカリヤの妻に起こったことを書いています・。

ルカはわざわざ聖書に書き残しておく必要がどこにあるでしょうか。〔実はルカはマリアの話だけでなく、1章5節から25節に至るまで祭司ザカリヤの妻に年老いてから子供が授かっていることを延々と書いているのです。〕年老いたザカリヤの妻に子供が産まれるという、どうしてそんなことがあり得ましょうか。マリアの身に起ころうとしていることが、その6ヶ月前に神様はもう90歳近いこの老夫婦に凄いことをおこされている。「どうしてそんな事があり得ましょうか」人間の目から見ると絶望的なこと、全く無力なことでした。確かにザカリヤ夫婦は子供を望んでいたでしょうが、もうずうっと子度は与えられなかった、それに老人になってしまって子供が出来るなんて考えられないことに絶望していたことでしょう。どう考えても人間の力ではどうにもならないことです。これがクリスマスを迎える全ての人に投げかけられる神からの不思議な神秘であります。そこで35節を見ますと天使

ガブリエルはマリアに答えてあげます。それは壮大な世界しかも深遠な神の霊の世界に触れて、その神秘のベールをあらわにされています。天使は告げます、「聖霊があなたに降りいと高き方の力があなたを包む。だから生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」というのです。今や聖霊がマリアをすべて包んでいます。聖霊の出来事です。マリアが乙女であったとか神ご自身がどうして人間の姿をもってみどり子としてお生まれになったのか、そんなことより次元の違う神の霊の次元にマリアはただ恵みを得ているのです。だから生まれる子は聖なる者です、神の子と呼ばれるでしょう。マリアはもう神の霊に満たされて、すべてが神のご計画の中にあってその尊い御業は進められて行きます。マリアは天使の御告げを聞き彼女はそれを正しく受け止めることができました。そこには聖霊の助けとマリア自身の清らかな貧しくしかし純粋な信仰をもっていたからでしょう。カトリック教会の人々はマリアを聖母として特別な人間のようにお祈りをしたりします。しかしマリアが偉いのはそんな事のためではありません、マリアは主なる神が自分に対してなさったことをそのまま信頼をもって受け入れたことであります。そうしてマリアは心のそこから賛美があふれ出て言います。38節にありますように「わたしは主のはしためです、お言葉どおりこの身に成りますように」、といっています。天使の言葉からマリアはこのような想像もつかないことが自分の身に起こって行く、それが主のために用いれられ生かされて行くというのです。わたしは、すべてを主に献げて信頼してゆきます、わたしは主のはしためです、と言っています。はしためと言うのは女奴隷のことです、だから、わたしは神様の奴隷でございます、と告白しているのです。奴隷は御主人様の言うままになる者です、その生命もすべて主人のものです。マリアは特別な運命の御業をすべて身に受けて自分を全く神の御手にまかせきったのです。マリアのこれからの身に起こってくる、いろいろな辛い苦難や人々からの非難が襲ってくる、そして家族や許婚のヨセフ、身にも影響して行くすべての事柄を「主のお言葉どおり従って行きます」といっています。それは、計り知れない大きなこと、そして大きな恵みであります、神の子を産むという大きな恵みです。マリアが奴隷と言ったのは少し言いすげでしょうか、神様の思いのまま、そのお考えがどんなものになるのか・・・どこまで思いのままに従うことなのでしょうか。私たちもマリアだけでなく信仰を持つということは神様に委ねて神様に従ってゆく生活です。けれども神の思いのままに従って行きます、とは言っても程度があると言うことになるのでしょうか。毎週の日曜日の朝を神に礼拝しに行くたびに、いろいろと自分の都合を挟み込んで考えてしまいます。自分のうちに口では言えないもろもろの課題が降り注いできます。マリアの思いがどんなに重いものであったか、私たちの神様にお任せする程度などちりのように吹き飛んでしまうほどしかないものでしょうか。

マリアと共にこれから先のことも私たちは一切を神にお任せして従って参ります。神に任せた者の祝福を受けるものがどんなものか、そこには及びもつかない神の祝福がいつもあるということです。マリアは主のはしためです、と言いましたが私たちは神の奴隷としてキリストの奴隷として信頼して主に委ねて行きます、と言うのでしょうか。私たちは神のみ前に罪の奴隷になっていたのにキリストの救いによって購われたのです、キリストに買い取られたのです。そしてキリストのものとなってしまっているのです。今日私たちが信仰生活をするとき少し真剣に考えてみると自分は自分で造ったものでない。両親が造ったものでもない、本当は神様によって造られた自分であることを思えば自分は神様に対して奴隷どころではない、自分は何もせず努力もしないで神様によってだけ造られて今があるのです。それならばマリアと同じように「お言葉どおりにしてください」と言うほかありません。天使は去って行きましたマリアはどうしたでしょうか、ルカは39節以下に一生懸命に書き記しています。マリアはザカリアの家を訪ねエリザベトに会いに行きました。エリザベトは聖霊に満たされてマリアを迎え喜び合います。42節にありますように「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。」マリアは感謝と喜びに満たされて彼女の最大の心を込めて主を賛美しました。それが46~55節のマリア賛歌です。「私の魂は主をあがめ私の霊は救い主である神を喜び讃えます。・・・」実はマルチン・ルターはこのマリア賛歌を、分かりやすくドイツ語で請解説教のように書きました。1520~21年に書いてルターの身の危険から保護してくれたマイセンの領主ザクセン公ヨハン・フリードリッヒ殿下に捧げています。〔殿下よわたしは先日お送りくださいました殿下の親愛なるお手紙、恭しく拝受いたしましたその慰めに満ちたお手紙のおもむき全てを喜びを持って拝承しました、しかしながら殿下よ私が長い間お約束してまいりました「マリア賛歌講解」は多くの反対者との不幸な論争にしばしば妨げられていまだにその責任を果たしていません。それで私は同時にこの小冊子をもって殿下のお手紙に対するお返事に代えたいと存じます。〕王や君主は神のみ前にどうあるべきか、マリアの賛歌の51~53節をもって強調して行きます。

ルター自身がこの時カトリックの会議で破門されるかどうか生死との危険の只中で自分の身を重ね合わせている訳です。そして序言の書き出しには次のようにあります、〔この聖なる賛歌を順序正しく理解するには祝福された処女マリアが彼女自身の経験から語っていることを心にとめることが必要である。この経験において彼女は聖霊によって照らされ教えられたのである。というのは何人も直接聖霊から与えられない限り神も神の言葉も正しく理解することはできない。しかし何人もそれを経験し試し体得することなしには聖霊からそれを受けることはできない。かくして聖処女は彼女が価値なく卑しく貧しい、そして軽蔑された者にも関わらず神がかくも大いなる事を彼女のうちになしたもうたことを経験したときに聖霊は彼女に神はかくの如き主にいまし低き者を高うし高き者を低くしたもう、ということ、知恵と知識とを与えた。〕今回はこれまでにしましょう。 アーメン・ハレルヤ!

説教「神が備えて下さった愛に生きよ」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイによる福音書25章1-13節

主日礼拝説教 2017年11月19日(聖霊降臨後第24主日)マタイ25章1-13節、ホセア11章1-9節、第一テサロニケ3章7-13節

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

 本日の福音書の箇所から、イエス様の時代のユダヤ教社会の結婚式の様子が窺い知れます。当時の習わしとして、婚約中の花婿が花嫁の家に行って結婚を正式に申し込みます。先方の両親からOKが出ると、新郎新婦は行列を伴って新郎の家に向かいます。そこで祝宴が盛大に催されました。その婚礼の行列におとめたちがともし火をもって付き従う役割を担います。Phoebe Anna Traquair [CC BY-SA 4.0 (https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0)], via Wikimedia Commonsこうしたおとめたちの付き従いは婚礼の行列に清廉さや華やかさを増し加えたことでしょう。

本日の福音書の箇所でイエス様は、こうした婚礼の行列に付き従うことになった10人のおとめたちに何が起きたかを話します。わかりそうでわかりにくい話だと思います。わかりそうなことと言えば、10人のうち賢い5人は、花婿が花嫁の家を出るまで時間がかかるかことを見越して、ともし火が消えないように予備の油を準備する。愚かな5人はそうしない。案の定、花婿はなかなか出て来ず、10人とも疲れて眠ってしまう。すると突然、花婿が出てきて、これから祝宴に向かって出発するぞ、と号令がかかる。はたと目が覚めたおとめたちは支度をするが、愚かなおとめたちはともし火が消えそうなのに気づいて慌てて買いに行く。その間に行列は出発してしまい、さっさと祝宴会場に行ってしまう。油を買って来たおとめたちは閉ざされた門の前でおろおろするばかり。中に入れて下さいと懇願するが、花婿からお前たちなど知らないなどと言われて文字通り門前払いを食ってしまう。

こういうことを言っていることくらいは誰にでもわかります。何がわかりにくいかと言うと、花婿は5人に対してなぜそんなに冷たく振る舞うのか、ということがあると思います。5人はただ見通しが甘かっただけなのに、花婿自らが門の反対側から「お前たちなど知らない」などと言うのは、ちょっと冷たすぎはしないか?結婚式のお祝いの行列にともし火を持って付き従うというのは、そんなに花婿の名誉にかかわるもので、それをちゃんと果たせないというのはそれほどの大失態になったということなのか?これは、当時の民衆の生活史を綿密に調べないとわかりません。ただ一つ言えることは、この話はたとえということです。架空の話で実際に起こったことではありません。イエス様は教えを述べる時によく誇張を用いました。一粒の種は良い土地に落ちれば30倍、60倍、100倍の実がなるんだ、とか、からし種という数ミリ程度の種から鳥が巣を作れる位の大きな木が育つ、とか、また、罪を犯した兄弟を許すのは7回までですかと聞かれて、いや7の70倍許しなさい、とか、聞く人の度肝を抜くような言い方をします。それを考えると、本日の5人のおとめに対する冷たい仕打ちも、聞く人に何かを強く警告するために言っているのだとわかります。それでは何を警告しているのか?

それがわかるためには、このたとえは何についてのたとえかがわからなければなりません。それは、本日の福音書の箇所の冒頭に明確に言われています。この10人のおとめのたとえは「天の国」についてのたとえです。天の国、「神の国」とも言い換えられますが、それがどんな国かをわからせるために、このたとえが話されているのです。それでは、このたとえから神の国とはどんな国であるとわかるでしょうか?そのことをこれから明らかにしていきましょう。

2.

神の国について、最初に一般的に、大ざっぱに述べておきます。これまでの説教の中で何度も取り上げてきましたが、神の国とは、天と地と人間その他万物を造られた創造主の神がおられるところです。それは「天の国」、「天国」とも呼ばれるので、何か空の上か宇宙空間に近いところにあるように思われますが、本当はそれは人間の五感や理性で認識・把握できるような、この現実世界とは全く異なる世界です。神はこの現実世界とその中にあるもの全てを造られた後、ご自分の世界に引き籠ってしまうことはせず、むしろこの現実世界にいろいろ介入し働きかけてきました。旧約・新約聖書を通して見れば、神の介入や働きかけは無数にあります。その中で最大なものは、ひとり子イエス様を御許からこの世界に送り、彼をゴルゴタの十字架の上で死なせて、三日後に死から復活させたことです。

 神の国はまた、神の神聖な意思が貫徹されているところです。悪や罪や不正義など、神の意思に反するものが近づけば、たちまち焼き尽くされてしまうくらい神聖なところです。神に造られた人間は、もともとは神と一緒にいることができた存在でした。ところが、神に対して不従順になり罪に陥ったために、神との関係が壊れ、神のもとから追放されてしまいました。その時、人間は死ぬ存在になってしまいました。この辺の事情は創世記3章に記されています。

 神の国は、今はまだ私たちの目に見える形にはありません。それが、目に見えるようになる日が来ます。復活の日と呼ばれる日がそれです。それはイエス様が再臨される日でもあり、また最後の審判が行われる日でもあります。イザヤ書65章や66章(また黙示録21章)に預言されているように、天地創造の神はその日、今ある天と地に替えて新しい天と地を創造する、そういう天地の大変動が起こる。「ヘブライ人への手紙」12章や「ペトロの第二の手紙」3章に預言されているように、その日、今のこの世にあるものは全て揺るがされて崩れ落ち、唯一揺るがされない神の国だけが現れる。その時、再臨したイエス様が、その時点で生きている者たちとその日死から目覚めさせられた者たちの中から御心に適う者を見出して神の国に迎え入れます。

その時の神の国は、黙示録19章に記されているように、大きな結婚式の祝宴にたとえられます。これが意味することは、この世での労苦が全て最終的に労われるということです。また、黙示録21章4節(7章17節も)で預言されているように、神はそこに迎え入れられた人々の目から涙をことごとく拭われます。これが意味することは、この世で被った悪や不正義で償われなかったもの見過ごされたものが全て清算されて償われ、正義が完全かつ最終的に実現するということです。同じ節で「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」と述べられますが、それは神の国がどういう国かを要約しています。イエス様は、地上で活動していた時に数多くの奇跡の業を行いました。不治の病を癒したり、わずかな食糧で大勢の人たちの空腹を満たしたり、自然の猛威を静めたりしました。こうした奇跡は、完全な正義、完全な安心と安全とが行き渡る神の国を人々に垣間見せ、味わさせるものだったと言えます。

神の国を結婚式の祝宴として述べている黙示録19章によれば、花婿はイエス様であり、花嫁はイエス様を救い主と信じた者たちの集合体です。マタイ22章の最初のところでもイエス様は「神の国」について結婚式の祝宴を題材にしてたとえを述べていますが、そこでの花婿はイエス様自身を指しています。

 そうしますと、本日のたとえにある結婚式の祝宴は将来現れる「神の国」を意味します。そうすると、ともし火に買い置きの油を用意した賢い5人は、神の国の入ることができた者たち、用意しなかった愚かな5人は入ることができなかった者たちということになります。イエス様は、愚かな5人のようになってはならない、神の国に入れなくなってしまわないように注意しなさい、と警告していることがわかってきます。ここで一つ難しいことが出て来ます。イエス様はたとえの結びで、「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから」と述べるところです。あれ、神の国に入れるために目を覚ましていなさい、居眠りしてしまったら入れなくなってしまうぞ、と言うのなら、賢いおとめたちだって眠りこけてしまったではないか、ということになるからです。賢いおとめたちは、予備の油を準備したおかげで神の国に入れたのであって、頑張って目を覚ましていたからではありません。この「目を覚ましていなさい」という命令には、文字通りの事柄ではなく、何か深い意味が込められています。それはどんな意味なのでしょうか?

3.

 5人の賢いおとめたちは、10節で「用意のできている5人」とも言われています。そうすると、「目を覚ましていなさい」というのは、具体的に寝ずに起きていることを意味するのではなく、なにか用意ができている状態にあることを意味する、そういう象徴的な意味を持っているのだと分かります。そうすると、5節で「皆眠気がさして眠り込んでしまった」と言っているところで「眠り込んでしまった」というのも、本当に具体的に寝てしまうことではなく、何かを象徴的に意味しているとわかります。どんな意味でしょうか?「眠り込んでしまった」という言葉は、ギリシャ語ではカテウドーκαθευδωという動詞ですが、これは「眠る」という意味の他に「死ぬ」という意味もあります(第一テサロニケ5章10節)。さらに7節で「おとめたちは皆起きて」と言うところの「起きて」という言葉は、ギリシャ語では、エゲイローεγειρωという動詞で、これも「起きる」という意味の他に「死から復活する、蘇る」という意味もあります。新約聖書の中ではこの意味で使われることが多いのです。

こうして見ると、「10人のおとめ」のたとえは、イエス様が再臨して死者の復活が起こる日のことについて教えていることがわかります。今のこの世が終わりを告げ、神が天と地を新しく創造し直す日のことです。その日、死から目覚めさせられた者のうちある者は祝宴にたとえられる神の国に迎え入れられ、別の者は迎え入れられないということが起こる。イエス様は、神の国に迎え入れられるために、この世の人生で用意をしなければならない、と教えられます。賢いおとめたちが油を用意してともし火が消えないようにしたような用意をしなければならない。それでは、その用意をするとは何をすることなのかを考えなければなりません。

これからそれを見ていきますが、ここで一つ申し添えておきたく思います。イエス様の教えというのは、このように、今の世と次に来る新しい世とか、死者の復活とか、そういう今のこの世を超えた視点を持って語られているということをよく覚えておく必要があります。その視点を抜きに本日の箇所を理解しようとしたら、人間何事も準備が大切だ、とか、先を見越して行動することが大切だ、とか、そんな誰でもわかるような人生訓をイエス様が述べていることになってしまいます。そんなことを教えるためにイエス様は創造主の神のもとから送られてきたのではありません。人間が将来の神の国に迎え入れられるために「用意する」生き方ができるために送られてきたのです。

4.

それでは、「用意する」生き方とはどんな生き方かをみていきましょう。答えはすぐお話しできるのですが、せっかく今日の聖書日課に旧約聖書と使徒書の日課もあるので、ちょっと遠回りになるかもしれませんが、それらを手掛かりに述べていきたく思います。

まず旧約の日課のホセア書をもとにして「用意する」生き方の解明に入って行こうと思います。ホセアとは、イエス様が活動する700年以上も前の時代の預言者です。当時イスラエルの民は北のイスラエル王国、南のユダ王国に分裂していました。本日の箇所のエフライムというのは北王国を指します。イスラエルの民は分裂以前から異教の神々を拝む偶像崇拝に走るようになり、特に北王国は重症に陥っていました。天地創造の神としては、せっかく数ある民族のなかからスラエルの民を選んで、彼らを通して神の意思を全人類に知らしめる役割を担わせたにもかかわらず、しかも我が子のように守ってあげたにもかかわらず、民の心は神を離れて他の霊的なものに移ってしまった。十戒などの神が与えた掟も守られなくなって、その結果、政治的にも社会的にも不正義がまかり通るようになってしまった。

天地創造の神というのは、罪を目の前にすると即焼き尽くしてしまう神聖さを有する方です。民の罪は消滅してもらわなければなりません。そのことが歴史の中で実現します。アッシリア帝国という大国が北王国を攻撃して滅ぼしてしまうという出来事がそれです。紀元前722年のことでした。ホセア書11章5~7節でそのことが預言されます。「剣は町々で荒れ狂い、たわ言を言う者を断ち、たくらみのゆえに滅ぼす」(6節)というところで、「たわ言」と言うのは、偶像崇拝を行った祭司や預言者たちの「空虚な言葉」のことです。「たくらみ」というのは彼らが国の指導者たちに語って惑わした助言を指します。神は罪を滅ぼすために天から炎を送るのではなく、敵軍を送ってその剣で滅ぼしてもらったということです。

しかし、神の神聖さに反する罪を滅ぼそうとすると、それを持っている人間をも抱き合わせで滅ぼすことになってしまう。これが神にとって痛いところであるということが8~9節で言われます。アドマとツェボイムというのは、創世記19章で罪の町ソドムとゴモラが天からの炎を浴びて滅ぶ出来事がありますが、炎を浴びた地域の中にあった町のことです(申命記29章22節)。神は性質上、罪を焼き尽くさずにはいられない神聖さを有する。しかし、自分が選んで世話し導いた民を焼き尽くしたくはない。そこで神は、一度国家滅んで異国の地に連行された民はある期間が過ぎれば、罪の償いを果たしたということにして、祖国に帰還させると約束します。この約束は多くの預言書の中で繰り返され、それは最終的に紀元前538年にイスラエルの民が祖国に帰還できた時に実現します。

ところが神は、この一民族の歴史的な出来事を行った時、それ自体のために行ったのではありませんでした。神はユダヤ民族のみならず人類全てに関しても罪を焼き尽くす神聖な方であるということ、それにもかかわらず人間に赦しを与えて焼き尽くされないように大丈夫にしてくれる方であるということ、このことを一民族の歴史の出来事を通して全人類に前もって示したのです。

そして、前もって示されたことがはっきり現れる日が来ました。それがイエス様の十字架の死と死からの復活でした。神聖な神のもとから送られた神聖なひとり子でありながら、イエス様は全人類の罪を背負って神の罰を受けて十字架の上で死なれました。まさに罪を焼き尽くす神の神聖さによって滅ぼされたのです。神はひとり子をこのように犠牲に供することで人間が焼き尽くされないですみようになる道を整えました。さらにイエス様を死から復活させることで、死を超えた永遠の命に至る扉を人間に開きました。このような人間を罪から贖いだす業を行って下さったイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、罪の赦しがその者に効力を持ち始めます。その人は、神がイエス様を用いて整えた罪の赦しの中で生き始めます。自分で罪を償ったわけではないのに、神のひとり子の犠牲のおかげで罪を赦されて焼き尽くされないようにされている。イエス様の犠牲を重く受け止めれば受け止めるほど、与えられた罪の赦しを損なわないようにしよう、汚さないようにしようと注意して生きるようになります。そのために神の意思をちゃんとわかるようにしようと聖書の御言葉にますます触れようとします。

 しかしながら、御言葉を通して神の意志を知ろうとすればするほど、自分はそれから遠い存在であること、罪や神に対する不従順に満ちていることに気づかされます。神を全身全霊で愛することが神の意志なのに、自分はそうしていないではないか、その愛に基づいて隣人を愛することが神の意志なのに、そうしていないではないか、と。ルターも、このことはよく承知で、彼に言わせれば、キリスト信仰者というものは、実は、完全な聖なる者なんかではなく、始ったばかりの初心者であり、これから成長していく者だということになるのです。そのため、キリスト信仰者の間でも、憎しみ、欲望、誤ったものへの偏愛、また神の守りを信用しないで心配事に身も心も委ねてしまうこと、その他もろもろの欠点に出くわすのです。

 そうなると、古い自分を捨てて新しく生まれ変わったと喜んだ人はがっかりしてしまうかもしれません。なんだ、洗礼を受けても何の意味もないじゃないか、と。でも実は新しく生まれ変わっているのです。信仰者は洗礼を通して神の霊、聖霊を受けます。聖霊があると、神への不従順、罪をつきとめてくれて、「それは神への不従順です。あなたにはそれがあります」、「それは罪です。あなたにはそれがあります」と明確に心に教えてくれます。これに目や耳をそむけずにすぐ神に向かって自分の非を認めて、主イエス様のゆえに赦して下さい、と祈ると、神は「わかった、わが子イエスの犠牲に免じて赦す。もう罪を犯さないように」と言って下さいます。この時信仰者の心の目はゴルゴタの十字架に向けられ、そこで十字架にかけられた主の両肩や頭の上に自分の罪が覆いかぶさっていることに気づきます。あそこに罪の赦しが本当にあることがわかります。その時、もう罪は犯すまいと決心を新たにします。

このようにキリスト信仰者の生き様というのは、洗礼の時に植えつけられた内なる新しい人を日々育て、肉に結びつく古い人を日々死なせることの繰り返しになります。そして、私たちがこの世を去る時、肉は完全に取り去られて、ひと眠りの後、目覚めさせられて復活の命と体を与えられ、ルターの言葉を借りるなら、その時「完全なキリスト教徒」になるのです。

さて、5人の賢いおとめのともし火の火が燃え続けるというのは、こうした新しい人を日々育て、古い人を日々死に引き渡す信仰の戦いが不断に続くことを意味します。信仰の戦いが終息せずに不断に続くようにするものは何かと言うと、それは聖書の神の御言葉の上に立つこと、聖礼典の恵みに結びついていることです。御言葉の上に立つこと、聖礼典と結びつくこと、これが買い置きの油になります。これがある限り、信仰の戦いは不断に続き、ともし火の火が消えることはありません。「目を覚ましていなさい」の象徴的な意味は、まさに信仰の戦いをしっかり戦いなさいということです。そうすることが、将来の復活の日に向けて「用意をする」生き方です。時として、神を全身全霊で愛することをせず、隣人を自分を愛するが如く愛さず、神の意志に背いてしまう時があるでしょう。また外見上は大丈夫のようでも心の中でそうなってしまうことがあるでしょう。それは避けられません。しかし大事なことは、そのたびに父なるみ神に赦しを祈り、主の十字架のもとに立ち返ることです。父なるみ神は罪を焼き尽くさないではいられない神聖な方であるにもかかわらず、人間がそうなってしまわないためにイエス様をこの世に送られました。完璧な正義と完璧な憐れみ、神の愛とはこの二つが完璧にあるのです。神が正義だけを振りかざしたら、人間は皆滅んでしまいます。逆に、憐れみだけだと、人間はつけ上がります。人間がつけ上がらず、逆にへりくだって謙虚になるような、そんな憐れみを神は示されたのです!イエス様を送ることによってです。こんな完璧な愛が他にあるでしょうか?兄弟姉妹の皆さん、この愛にとどまって生きようではありませんか!

5人の愚かなおとめについて一言申し上げれば、彼らは誰を指すのか?洗礼を受けた後、新しい人を育てて古い人を死なせるという信仰の戦いを放棄してしまった人のことか、それともそもそもそういう戦いに入ることもなく、肉だけで生きる人のことか、確定は難しいと思います。大事なことは、イエス様は警告としてこのたとえを話しているということです。つまり、今肉だけに生きる人も、信仰の戦いから離脱してしまった人も、はやくこの戦いを始めなさい、戦いに戻りなさい、ということです。それが将来の復活の日に向けて用意をすることになります。本日の使徒書の日課で使徒パウロは「どうか、主があなたがたを、お互いの愛とすべての人への愛とで、豊かに満ちあふれさせてくださいますように」と祈っています(第一テサロニケ3章12節)。お互いの愛と全ての人への愛と二つの愛がありますが、お互いの愛とは、信仰者が互いに向け合う愛で、信仰者が戦いを続けられるように支え合うことです。全ての人への愛というのは、信仰者でない人が同じ神の愛に生きられるように祈り導くことです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように   アーメン

説教「神の宮として輝く」木村長政 名誉牧師

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第12回コリント信徒への手紙 3章10~17節               2017年11月12日(日)

今回のみ言葉で中心となる大切な言葉は最後にあります17節です。17節〔あなた方は神の神殿なのです〕と言うことです。9節でもパウロは強調しました。〔私たちは神のために力を合わせて働く者でありあなた方は神の畑、神の建物なのです。〕この最後のあなた方は神の建物なのです、と同じことを記しています。信仰者は教会を互いに建て合うほかありません。そして決して易しいことではありません。それでパウロは10節で言うのです。教会を建てる中心人物になっているところの自分について「神が賜った恵みによって熟練した建築師のように土台を据えた」と。この仕事は人間の知恵や努力だけではどうにもならない。神から賜った「恵み」によって、と言う事が大切であります。教会は人間のためにあるものですが、神の教会であります。それなら神の恵みを受けて神の力によらねば出来ないことであります。神の力により神の御心にかなうようにするわけであります。それは神の恵みによる他ないでありましょう。その上、パウロは「熟練した建築師として」と言っています。家を建てるのですから熟練した建築師が必要なことは言うまでもありません。まして、神の家を建てると言うことになると、よほどの熟練が必要であります。信仰の熟練であります。いろいろな困難にあうことは当然であります。その時に何よりも信仰的にどうしたら良いのか。それを知っているのは神の恵みによって熟練者になった人でなければならない。神のお気に入るように神のみ業に役立つようにするには熟練が必要でしょう。ところが、ここに注目すべきことが書いてあります。それはパウロが土台を据えた、と言っていることであります。そして「その土台の上に」他の人が「家を建てるのである」と言うのであります。つまりパウロは自分の仕事は土台を据えることだけである、とい思っていたらしいのであります。つまり、パウロは自分の仕事は土台を据えることだけである、と思っていたらしいのであります。土台は言うまでもなく建物では一番大事なものであるに違いありません。しかし、パウロが特にこのように土台にこだわるのは何か特別な意味があるにちがいありません。それで11節に書いています〔イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれも他の土台を据えることはできません。〕この土台以外には誰も土台を据えることはできない、その土台はイエス・キリストであると言っているのです。パウロが自分は神の恵みによる熟練を持っていた、と言っていますが、その熟練はまさにイエス・キリストを土台に据える、その熟練さであるということです。ここにこの建物の秘密があり力があるわけです。

それならば、キリストが土台であるというのはどういうことでしょうか。これは実際の建築の話ではありませんから、つまり例えて言っている訳です。土台というのも信仰上のことであります。教会がイエス・キリストに対する信仰の告白を持っているということです。イエス・キリストに対する信仰の告白というのはイエス・キリストと言い表す信仰告白といっても良いでしょう。イエスが神の子キリストである、と信仰をもって告白することは何でもないようでいて決してそうではないのであります。教会の信仰告白の歴史を見ますといつでも問題はあのナザレ人イエスを神のお遣わしになった救い主キリストと信じているかどうか、ということです。多くの人々が「イエス」という人物を偉い人だと考えたり或いは「たぐい稀な人間離れの人類の教師だ」と見る人々、学者など神を信じていない人でもそれくらいは考えているのであります。しかし、そのキリストによって救われるということになれば話は別であります。それは人間的に言えば大変難しいことであります。しかし、そう信じなければ救われたということにならないでありましょう。もし救われたというのでなければキリスト教はただの人生の教えと言うことになってしまう。その信仰が「土台」になっているというのはどういうことでしょう。土台ですからその上にあるものをすべて支える力を持っているものである、ということです。それならばイエス・キリストを土台に持つ教会はあらゆる事においてイエス・キリストを表すものでなければならない。それはイエス・キリストがその教会の支配者になるということであります。教会の中の一切のことを運営するのにイエス・キリストがご主人になっていてくださるようにするのであります。それはキリストを頭と仰ぐというようなことでなくて自分がキリストに救われたのだから何事もキリストのみ心のままにしようとということであります。次にパウロが12節以下で書いていることはどういうことでしょう。12節

〔この土台の上に誰かが金、銀、宝石,木、草、わらで家を建てる場合各々の仕事は明るみに出されます。〕と書いてあります。するとパウロ自身は土台を据えるだけであったのでしょうか。「既に据えられている土台以外のものを据えることは誰でもできない」と言っているのですからパウロはこの土台を据えるだけで他の人はその土台の上に建てるだけである。ということになります何れにせよもう土台は据えられた。これからはその上に建てるだけである。それは多くの人に任せるほかはないと思ったのでしょう。人々はどのようにして教会を作るのでしょうか。ここに書いてあるようにある者は金を用い、ある者は銀を用い、他の人々はそれぞれ宝石や木や草や、わら等で建てるというのです。勿論これは実際の家の建て方のことではなくて各々がその信仰によって建てることを言ったのでしょう。信仰には強弱があります、また長い信仰生活の人も短い信仰生活の人もあったでしょう或いはお金持ちのように見えるが実際には草か、わらしか提供できなかったかもしれません。その反対に思いがけない人が思いも及ばないような献げ物をすることもありましょう。金を献げたか、銀を献げたか、草であったか判断することはできません。神がご覧になってどう判断されるか神のみがご存知であります。そして神がきびしくお裁きになることであります。

そのことを13節以下に詳しく記しています。〔各々の仕事は明るみに出されています。かの日に火と共にあらわれ、その火は各々の仕事がどんなものであるかを吟味するからであります。〕ある学者はここで火と言っているのは聖霊の判断のことであろうと言います。ここで言っていることが具体的に何を言うのか良く分かりません。ともかく神の御心にかなわない業は滅び去り御心にかなったものだけが残るというのでしょう。16~17節ではいかにも突然のことのように「我々は救われる」と言って急に「あなた方は神の宮である」と言っています。信仰を持っている者は神のものとされるということです。「神のもの」というのは神に仕え神のお喜びになるようにすることであります。ここではそれが「神の宮になる」ということであるのです。神のものであるからには神に喜ばれるものということですから、それなら神が一番お喜びになることは何でしょうか。詩篇19編に次のようにあります。〔もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空は御手の業を示す。〕神がおつくりになった天地は神の栄光をあらわしている。それなら神のものである私たちも何より神の栄光を表し神を讃えるものでなければなりません。それが神のものの特徴であるはずであります。神のものは神の宮と言っても

良いのであります。神の宮ではどこを眺めても神の栄光をあらわし御手の業を示しているはずでしょう。わたしたち信仰者はどんな仕事をしていてもその仕事と生活を通して神を崇めること、それを神はお望みになっているのであります。神の宮というのは言うまでもなく神殿ということです、神殿での仕事は決まっています。それは神に会うということです、私たちが神の宮であると言うのはいつでも神に会うことのできるような生活が与えられたということであります。信仰を持っている者は祈ることを知っています、いつどんな時でも祈ることが出来ますし神様にお目にかかることができる、これこそ大きな恵みであります。最大のことは礼拝が出来ることであります、神の神殿であるのですから神を拝むことができるということです。

しかし自分たちがはたして神の宮といえるのでしょうか、何の力もなく知恵もなく自分たちのどこにそのような資格があるのでしょうか、と惑ったりします。それでこう書いてあります。〔神の御霊が自分の内に宿っているのをしらないのか。〕〔知らないのか〕と言っているのですからそれはまるで私たちの弱い心を見通しているように思われます。あなた方は神の宮であることに気づいていないであろう。しかし神の御霊がすでにあなた方の内に宿っているではないか、というのです。神の御霊はキリストを信じてくださいました、救いも確信させてくださいました。こうして信仰のすべてが神の御霊によって与えられているのであります。こうして信仰生活をしていることが私たちが神の宮であることが示されている、ということになるのではないでしょうか。私たちはもっと自分が神の宮であることを意識して良いのであります。そして一層熱心に神を拝み神に仕えなけらばならないのではないでしょうか。         
 アーメン・ハレルヤ!

説教「聖書の人間観と死生観」神学博士 吉村博明 宣教師、エゼキエル37章1~14節、ヨハネによる福音書15章1~17節

主日礼拝説教 2016年11月6日(全聖徒主日)

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.
キリスト教会のカレンダーでは本日は聖霊降臨後から第22の主日ですが、日本のルター派教会では「全聖徒主日」としても定められています。キリスト教会では古くから11月1日を、キリスト信仰の故に命を落とした殉教者を聖徒とか聖人として覚える日としてきました。加えて11月2日を、キリスト信仰を抱いて亡くなった人を覚える日としてきました。ラテン語で、殉教者を覚える日はFestum omnium sanctorum、信仰者を覚える日はCommemoratio omnium fidelium defunctorumと呼ばれてきました。フィンランドでは、これらを合わせて11月最初の土曜日を「全聖徒の日」として両者を覚える日にしています。

日本のルター派教会のカレンダーでは、11月1日が「全聖徒の日」、それに近い主日が「全聖徒主日」と定められています。今日のことです。11月1日が中心なのを見ると、ラテン語の伝統の殉教者中心のようにみえます。それでも多くの教会では私たちのもとを旅立った信仰の兄弟姉妹の遺影を飾ることが行われていますので、フィンランドと同じように殉教者と信仰者両方を覚える日として定着しているのではないかと思います。

 ここで、亡くなった方を「覚える」ということはどういうことかを注意しなければなりません。というのは、こうして遺影を飾っていると、さも亡くなった方が今見えない形で私たちと一緒に礼拝を守っているかのような感覚を持たれる方がいらっしゃるかもしれないからです。ルターが教えていますが、人は死ぬと、この世が終わりを告げて死者の復活が起きる日までは、神のみぞ知る場所にいて静かに眠るのであります。終末と復活の日が来たら目覚めさせられ、神に相応しいとされた者は輝く復活の体を着せられて、天の御国の祝宴に迎え入れられるのであります。その日までは眠るだけです。イエス様も、死んだ者を蘇らせる奇跡を行った時、「この者は死んではいない。眠っているだけだ」と言って蘇らせました(マルコ5章39節等共観箇所、ヨハネ11章11節)。まことにキリスト信仰にとって、「生きる」とはこの世の体を着て生きる日々と復活の輝く体を着て生きる日々の両方を合わせて生きることです。「死ぬ」とは、この世の体を着て生きた後は輝く体もなく祝宴への迎え入れもないことです。本日の福音書の箇所のイエス様の言葉を借りれば、「枝のように外に投げ捨てられ枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう」(ヨハネ15章6節)ということです。

 亡くなった方は、復活の日まで安らかに眠っているとすれば、私たちを見守るとか、導くとか、助言するとかいうことはありません。私たちを見守り、導き、助言をするのは、これは、私たちを造られ、私たちに大事な命と人生を与えて下さった造り主の神以外にはいません。今見えない形で、礼拝を守るために集まった私たちと一緒にいるのは、他でもないこの神です。

 そういうわけで、亡くなった方たちを覚えるというのは、その方たちと共に過ごした日々を何ものにも換えがたい大切なものとして心に抱くことです。そして、そのような日々とそのような方たちを与えて下さった神に絶えず感謝し、復活の日の再会に希望を託すことを許していただけるよう神に祈ることです。このようにしてキリスト信仰者は、過去の思い出を大切にして、それを神に感謝しながら将来の希望の日のことを神に委ねて今日を生きていくのであります。

このように全聖徒主日の意味を考えると、復活や終末などキリスト教の死生観の中心的な事柄に触れることにもなります。死生観という言葉には、「死」と「生」の両方が含まれています。生を考える時、死というものを切り離さないで考えるということです。キリスト信仰においては、この世を去る死は一時の眠りに入る段階であって、本当の死はその後に来るか来ないかがわかるということだ、と先ほど申しました。また、人間にはこの世の体を持って生きる日々だけではなく、復活の体を持って生きられる可能性があることも申しました。二つの異なる体があるというので、キリスト信仰には死生観と結びつく人間観もあると言えます。本日の旧約聖書の日課エゼキエル書の箇所は、キリスト信仰の死生観と人間観をよく表している箇所だと思います。もちろん、聖書の他の箇所でも表わされています。本日の説教題に「聖書の人間観と死生観」などと大見得切ったものをつけてしまいましたが、正確には「エゼキエル書37章1節から14節を通して見る聖書の人間観と死生観」です。もし聖書の関連個所全部について見ることができたら、文字通り「聖書の人間観と死生観」の話が出来ます。でも、合計14節だけでも30分近い話になるのに、そんなことしたら何日位かかるでしょうか?

2.
本日のエゼキエル書の箇所にある出来事は、イエス様が登場する500年以上も前のことです。かつて神に選ばれたイスラエルの民でしたが、国の指導者も国民もこぞって神の意思に背く生き方をし続けた結果、ついに神から罰として強大なバビロン帝国を遣わされてしまい、その攻撃を受けて滅びてしまいました。国民の主だった者たちは捕虜として異国の地バビロンに連行されてしまいました。世界史の古代史にも「バビロン捕囚」として登場する歴史的な事件です。連れて行かれた者の中に預言者のエゼキエルがいました。本日の箇所は、神の霊に導かれてある谷に連れて行かれたエゼキエルが、そこに無数の枯れた骨を見る。

Book of Ezekiel Chapter 37-1 (Bible Illustrations by Sweet Media)

ところが、それに肉や皮膚がついて人間として生き返り出す光景を見せつけられたという出来事です。最近はやりのハロウィーンのせいで、こんな話は真剣に受け取るに値しないと思う人がいるかもしれません。でも、ここはこの世の喧騒から一時自分を遮断して、静かに聖書の神の御言葉に心の耳と目を向けましょう。教会とはそういう場所です。礼拝とはそういう時間帯なのです。実はこのエゼキエルの出来事には、紀元前500年代当時を生きる人々にとって有する意味と、歴史を越えて現代を生きる私たちにとって有する意味の二つの意味があります。

 まず、当時の人々にとって有する意味について見てみます。37章11節に、なぜ天地創造の神はエゼキエルにこのような光景を見せたのかが明らかにされます。この大量の枯れた骨はバビロン捕囚の憂き目にあったイスラエルの民を象徴している。国滅びた自分たちは荒野に放置された枯れた骨も同然だ、希望はなく消滅するしかない、などと嘆いている。それに対して神は、否、お前たちは必ず祖国に帰還できる、と約束する。神は、約束を本当に実現できる力があることを示すために、枯れた骨が生身の人間になって生き返る様子をエゼキエルに見せたのです。ここまで見せつけられたら、神の約束を信じないわけにはいかないでしょう。

 このように、この光景は国難に陥って国が滅びてしまった民が復興することを確信させるために見せられたのでした。しかし、ここには同時に、人間というものは神に造られた被造物であるという、聖書の人間観がよく出ています。そこにも注意しなければなりません。8節に言われるように、骨に肉や皮膚がついてもまだ生きてはいませんでした。なぜなら、霊がなかったからです。神は霊を「与える」と言います(6節、下注参照)。神は霊を次のように与えました。エゼキエルに「霊に預言せよ」と命じ(ヘブライ語の辞書HolladayのConciseによれば「預言者として霊に語れ、命じろ」、つまり「預言者の権威を持って命じろ」ということです)、霊が風のように四方から来てこれらの骨に吹きつけるようにせよ、と命じます。すると横たわっていた肉体は霊を受けて生き返ります。霊が風のように言われますが、これはヘブライ語の言葉רוחが霊と風の両方を意味することによります。これは絶妙な言葉だと思います。風は空気の移動なので目には見えません。木の枝や葉がざわざわなって風の力が働いたのを見て、吹いたことがわかります。霊も人間の目には見えません。その力が働いた結果を見ることしかできません。このことは、イエス様もヨハネ3章8節の有名な「風は思いのままに吹く」と述べているところで教えています。

以上から、人間が生きるためには神が与える霊を受けなければ生きられず、霊がなければ肉体はあってもただの物体にしかすぎないというのが聖書の立場であることが明らかになります。ここで一つ付け加えますと、霊がなければ動かないのは肉体だけではありません。人間には手足、目耳口、内臓や血管などの体の部分や器官の他に、感情や気持ちを生み出す心もあります。「心臓」と聞けば、それは血液を送り出すポンプのことを言うとわかります。血液循環に何か問題があって痛みを感じれば、「心臓」が痛いと言いますが、「心」が痛いとは言いません。「心」が痛いと言ったら、ジェスチャーとして心臓の部分に手をあてて言いますが、それは気持ちや感情の問題で血液循環の問題ではありません。そういう心や精神の部分も、肉体と同じように、霊を受けないと作動しません。このように、人間が神に造られたというのは、肉体や心や精神の部分を造っていただいただけでなく、最後の仕上げとして霊を与えて下さったということです。

このように霊とは人間を肉体や心や精神を持って生きるものにする決め手ということがわかりましたが、本日の箇所をよく見るともう一つ別の霊があることに注意しなければなりません。実は、これはヘブライ語の原文を見ないと気づくことができません。14節で神は「また、わたしがお前たちに私の霊を与えると、お前たちは生きる」と言われます。新共同訳では「吹き込む」ですが、ここもヘブライ語原文は「与える」です。それよりも重要なことは、新共同訳では単に「霊」を吹き込む、と言っていますが、原文では「私の」霊を与えると言っていて、与えるのが「神の霊」であることがはっきりしています。14節の前で枯れた骨が生き返る光景の時に出て来る「霊」は全部、「私の」はなく単に「霊」だけです。14節で問題となっていることは枯れた骨の生き返りではなく、イスラエルの民の祖国帰還です。その時民は生き返ったも同然で、その時与えられる霊は「私の」霊、つまり神の霊なのであります。こうなると、二つの異なる霊があることになります。両方とも神から与えられるものですが、一つは人間を生きるものにする時に与えられる霊、もう一つはイスラエルの民が祖国帰還と復興を遂げる時に与えられる神の霊です。神が与えられる霊には二つあるということは、どう理解したらよいのでしょうか?

3.
理解の鍵は、使徒パウロが「ローマの信徒への手紙」8章14‐16節で次のように教えているところにあります。それを少し見てみましょう。

「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になってあかしして下さいます。」

いろんな霊が出て来るので、解きほぐしていきましょう。まず、「神の霊」というのは、父、御子、御霊の三位一体の神の御霊つまり聖霊を指します。人間は、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、この神の霊、聖霊を受けます。聖霊を受ける受けないで何が違ってくるかと言うと、イエス様のことを現在パレスチナと呼ばれる地域で2000年前に活動した歴史的人物だと言う場合には聖霊は働いていません。それが、イエス様のことを歴史的人物のみならず、彼のゴルゴタの十字架の死や死からの復活というのは実は現代を生きる自分のためになされたのだとわかり、それでイエス様は自分の救い主だと信じるというようになれば、それは聖霊が働いたからそうなったということになります。

 これに対して「人を奴隷として恐れに陥れる霊」とは、天地創造の後で人間に罪を吹き込んで、人間を神の罰を受ける存在にしてしまった悪魔のことを指します。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者は、この霊の力に支配されないように守られています。これが、本日の使徒書の日課「ローマの信徒への手紙」6章の中で使徒パウロが、洗礼を受けた者は「罪に対して死んでいる」と言っていることなのです(2節)。「罪に対して死んでいる」と言うのは、罪と無関係になったということです。イエス様を救い主と信じる信仰に留まる限り、罪には人間を再び支配下に置く力はないのです。

洗礼を受けることでイエス様の十字架の死に結び付けられて、このように罪に対して死んだ者になると、今度はイエス様の死からの復活に結び付けられて、神に対して生きるようになると言われます(11節)。これはどういうことか?イエス様はゴルゴタの十字架で人間の罪を請け負って代わりに神罰を受けられました。彼の身代わりの犠牲のおかげでこの自分も神から罪の赦しを受けられるようになったのだ、まさに神がひとり子を犠牲に用いて準備した罪の赦しを頂けるのだ、このように神のひとり子の犠牲を重々しく受け止め、神から受け取ったものの大切さが分かればわかるほど、心は聖書に明らかにされている神の意思に沿うように生きようと志向し出します。神を全身全霊で愛そう、その愛に立って隣人をしっかり愛そう、という心意気になって行きます。神の意思に背くような生き方はしないようにしようという心意気になって行きます。この時、天地創造の神は裁く神でなく慈愛に満ちた父親になっています。それで、神のことを「アッバ」と呼ぶのだとパウロは言います。アッバとは、イエス様をはじめ当時のパレスチナの地域の人の言葉であるアラム語で「お父さん!」と呼びかける言葉です。天地創造の神を、そのように身近で慈愛に満ち、見守り助けてくれる父親として抱き、お祈りを通して思いや願いを全て打ち明けられるのは、これは聖霊が働いているからです。

先ほどのローマ8章に戻ります。ここでのパウロの教えで興味深いのは、キリスト信仰者の内には二種類の霊があるということです。一つは先ほど申し上げた神の霊、聖霊ですが、もう一つは、信仰者が神の子であることを聖霊と一緒に証する「わたしたちの霊」です。これは、私たちが肉体や心や精神を持った生き物になるために神から与えられる霊です。キリスト信仰者もそうでない者も、生き物として持っていなければならない、神から与えられた霊です。それがキリスト信仰者になると、聖霊がその上に被せられるように与えられます。聖霊がなくてただの霊だけでも、もちろん生きられます。肉体や心や精神を用いた活動を行うことが出来ます。ただ、イエス様が歴史上の人物とは知ってはいても、自分の救い主にはなっていません。ひとり子を犠牲にすることをいとわないくらい人間のことを思って下さった神を慈愛に満ちた父であるということもわかりません。神がひとり子イエス様を犠牲にしてまでもたらしてくれた罪の赦しもまだ受け取っておらず、罪が償われたという解放の喜びや安堵もありません。さらに、人間を罪の支配下に留めたがる悪魔の霊に対して隙だらけになってしまいます。

4.
以上、人間は生き者になるために天地創造の神から霊を与えられなければならないこと、さらに神のことを慈愛に満ちた父親と抱ける「神の子」となるためには神の霊、聖霊が与えられなければならないことが明らかになりました。この二つの異なる霊は、エゼキエル書の二つの霊に重なります。37章の1節から10節までは、枯れた骨が生身の人間に生き返ることを言っていました。そのために神から与えられる霊が必要とされました。この光景を見せられたエゼキエルは、枯れた骨のようになったイスラエルの民ではあるが、神はこれを生き返らせて下さる、つまり祖国に帰還させて復興させて下さると確信できました。そして、それは実際に紀元前538年に歴史的出来事として実現しました。37章の14節で「私の霊」と出て来るのは、これは祖国に帰還するイスラエルの民がどんな霊を受けるかを示しています。実際に祖国に帰還したのは、旧約聖書のネヘミア記やエズラ記を見てもわかるように生身の人たちです。枯れた骨に肉と皮膚がついて霊が与えられて生き返った者たちが帰還したのではありません。帰還した人たちは生き者としていたので、そのための霊は既に持っています。

そういうわけで、帰還の時に与えられる「私の霊」とは生き者にする霊ではなくて、神の子にする聖霊を指します。さて、歴史的事実としてイスラエルの民は祖国帰還を果たし復興しました。しかし、本当に聖霊を受けて神の子となって果たしたのかというと、そこには複雑な問題がありました。聖霊を受けて神の子となって祖国に帰還・復興するというのが預言でした。ところが帰還と復興は遂げても、民は神の意思に沿う生き方が出来ていないということが明らかになってきました。国民は復興したとは言っても、国は相変わらずペルシャ帝国、アレキサンダー帝国そしてローマ帝国に支配され続けていました。イザヤ書2章にあるように異邦人がこぞって天地創造の神を拝みにエルサレムに上ってくるという預言からほど遠い現実がありました。そうなると、民に聖霊が与えられて神の子とされるのはまだ実現していないのではないか?預言書に言われる祖国帰還と復興というものも実は別のものを指し、それはまだ実現していないのではないか?そう考えられるようになります。つまり、預言はまだ未完だという理解です。

どうしてこのようなことになったかと言うと、神は天地創造の後に生じた人間の罪の問題の解決を図るとき、一民族の歴史的復興でそれを果たすつもりはありませんでした。なぜなら問題は全人類にかかわる問題だからです。一民族の復興で解決される類のものではありません。神としては全人類の問題の解決を視野に入れて預言者に言葉を下しますが、歴史の限られた状況の中で下され、また下された預言者もその状況を手掛かりにしてしか言葉を理解できません。その結果、イスラエルの民の祖国帰還や復興という一民族の歴史的出来事は、本当の預言実現の模型のようになっていきます。

全人類に関わる罪の問題が解決したのは、イエス様が十字架の死をもって人間を罪の支配から贖い出した時、そして死から復活されることで永遠の命への扉を開いた時でした。そういうわけでエゼキエルの預言は、罪の支配下にあって枯れた骨同然の人間一般が、イエス様の十字架と復活のおかげで罪の支配から解放されて聖霊を与えられて神の子として「新しい命に生きる」(ローマ6章4節)ようになることを見通した預言でした。さらに「墓が開かれ、墓から引き上げられる」(エゼキエル37章12~13節)というのは、神の子となった者たちがまさに復活の体を着せられて、天上のエルサレムとも呼ばれる神の国に「帰還」するという、まさに復活の日をも見通す預言だったのです。このように旧約聖書の預言を見る時はいつも、預言が一旦実現したかに見える歴史的事実だけに注目するのではなく、イエス様の十字架と復活の出来事と将来起こる復活の出来事にこそ真の実現があるということを忘れてはいけません。

5.
先ほど、聖霊を与えられて神の子となった者は、悪魔が支配しようとする力から守られていると申しました。守られてはいても、攻撃は受けます。しかし、攻撃は受けても守られています。このことをルターが本日の福音書の箇所にあるヨハネ15章1節「わたしはまことのぶどうの木、私の父は農夫である」を解き明していますので、それを引用して本日の説教の締めとしたく思います。

「見よ、主イエス様は受難と死を目の前にしてこのように述べて自分自身を励まされた。そればかりではない。主は我々もこの同じ励ましの言葉に拠り頼みなさいと教えておられるのだ。主が言わんとされるのは次のことだ。『私は真のぶどうの木である。私の父が自ら植え愛される木である。あなたたちは、私と私の父の愛すべき枝である。ぶどうの木が一生懸命肥料を与えられ刈り込まれ、丁寧に世話をされるならば、そのような木はまさに私のことである。悪魔よ、この世の闇よ、来るなら来てみよ、私に成し得ることをしてみるがよい。どちらにしても、お前たちは愛する私の父が認める範囲を越えて私に何かしでかすことは不可能なのだ。』

 父なるみ神は私たちのことも同じように守って下さる。それで私たちに悪が襲いかかっても、それはそのまま神に対して襲いかかることになって結局は悪は自滅せざるを得ない。果たして、これ以上の励ましがこの世にあるだろうか?農夫というものは、ぶどうの木の近くに住み、どこにも行かず、いつも全部の枝の世話をし、他の誰にも木を任せたりはしない。父なるみ神も同じである。

 イエス様を救い主と信じる信仰に留まって、この美しい御言葉を完全に自分のものとして所有する者は、どんな困難にあってもきっと勇気を失わないであろう。しかしながら、このような御言葉やそれが与えるイメージが我々の内に命を持てるためには、それこそ肉ではない霊的な耳と目が必要とされる。なぜなら、肉の目から見て、困難にある信仰者はぶどうの木や枝なんかではなく、雑草や灌木にしか映らない。しかし、霊的な目からみたら真のぶどうの木にしっかり繋がる枝以外の何者でもないのである。」

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

下注 新共同訳では「吹き込む」と訳されていますが、ヘブライ語の原文では「与える」です。どうしてそのように訳されたかについて、天地創造の時に神が最初の人間を造られた時に「命の息を吹き入れられた(創世記2章7節)」とあることに拠ると考えられます。本説教では原文に忠実に見ていくことにします。

説教「神の国の実を結ぶ者」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイによる福音書21章33-44節、イザヤ書5章1-7節

主日礼拝説教 2017年10月22日 聖霊降臨後第20主日

 

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

本日の福音書の箇所のタイトルは「ブドウ園と農夫のたとえ」です。正確には、農夫は自営農ではなく雇われ人ですので、「ブドウ園と雇われ農夫」です。さて、聖書を読んだことのある人だったら、このたとえは容易に理解できるのではないかと思います。ブドウ園の所有者は天地創造の神を指し、雇われ農夫たちはユダヤ教社会の指導者やそれに従う人たち、所有者が送って迫害される僕たちは神が遣わした旧約聖書の預言者たち、そして所有者が最後に送る自分の息子はイエス様という具合に登場人物が誰を指すかは一目瞭然です。

 これがわかれば、イエス様がたとえで言いたいこともわかります。世界の数ある民族の中から天地創造の神に選ばれたイスラエルの民。彼らはモーセの律法を授けられて、それを一生懸命に守ろうとした。ところが、人々の生き方は次第に神の意思から離れていって、エルサレムの神殿を中心とする崇拝も外面的な儀式の繰り返しに堕してしまった。神はそれを正そうと、預言者を立て続けに送ったが、指導者も民も耳を貨さず迫害して殺してしまった。最後に神はひとり子イエス様をこの世に送ったが、それも彼らは殺してしまった。神はイスラエルの民に神の国を託していたが、これを機に民を見限ってそれ以外の民族に神の国を委ねることにした。その、ユダヤ民族にかわって新たに神の国を担うことになったのがキリスト教徒ということになります。イエス様がここで話していることは過去の出来事の復習と将来についての預言で、預言は具体的な歴史の中でその通り実現しました。このように世界史の復習も兼ねて、イエス様の預言が見事に当たったことに感心しながら、このたとえを理解できます。

2.イザヤ書5章の「ぶどう畑」のたとえ」

このような理解が出来るのは、私たちが、イエス様の十字架の死と死からの復活の出来事の後で歴史上何が起こったかを知っているからです。たとえで言われていること一つ一つを歴史上起きたことに結びつけることができるからです。ところが、イエス様と面と向かい合って初めてこのたとえを聞いた当時の人たちは、当然ながら、歴史を遡って確認するような理解はできません。このたとえは、イエス様がエルサレムに入城した後、神殿の中でユダヤ教社会の指導者たちを相手に論争している時に話されました(21章23節)。まだイエス様の十字架と復活の出来事の前のことです。

ただし、指導者たちがこのたとえを理解できる鍵がひとつありました。それは、先ほど読んで頂いた本日の旧約聖書の日課イザヤ書5章1~7節の聖句です。どのような聖句だったかと言うと、天地創造の神とその「愛する者」があたかも一心同体のようにひとつのぶどう畑を持っていた、というたとえの教えです。一心同体のように、と言うのは、神の「愛する者」が持つぶどう畑と言われつつも(1節)、神はそれを自分のぶどう畑とも言います(3節、ただし4節の「ぶどう畑」も5節の「このぶどう畑」もヘブライ語原文ではちゃんと「私の」ぶどう畑と言っています)。畑を耕したり、見張りの塔を立てたり、「酒ぶね」(ぶどうを足で踏んでぶどう酒用の汁を搾り出すところ)も作ったり、そういうふうに神の「愛する者」が一生懸命働きますが(2節)、働いたのは神自身であるとも言います(4節)。

さて、一生懸命働いて、良いぶどうが実るのを待ったが、出来たのは酸っぱいぶどうであった。「酸っぱいぶどう」というのは、野生のぶどうとも訳される単語ですが、要するにぶどう酒造りに役立たないぶどうが出来たということです。そういう出来事を述べた後で神は、実はこの恩知らずのぶどう畑は神に選ばれたはずのイスラエルの民の情けない現状である、という解き明しを始めます。その時ブドウ畑の所有者は天地創造の神を指すことが明らかになります。神と一心同体になってぶどう畑を所有して世話を焼く「愛する者」とは、キリスト信仰の観点では神の御子イエス様を指すことは間違いないでしょう。

さて神は、ぶどう畑が良い実を実らせるようにと、できるだけのことをしてあげた。つまり、民を奴隷の地エジプトから解放して、約束の地カナンに定住させた。その途上で神の意思を明らかにする律法を授け、敵対する民族の攻撃から守ってくれたりした。それなのに民は、神の意思に沿わない生き方に走ってしまった。この神の御言葉を記した預言者イザヤはイエス様の時代から700年以上も前に活躍した人です。イスラエルの民が良い実を実らせないぶどう畑にたとえられるというのは、当時の状況をよく言い表していていました。当時イスラエルの民には南北二つの王国がありましたが、北王国はちょうどその頃アッシュリアという大帝国に滅ぼされます。南王国は100年近く持ちこたえますが、これも最後はバビロン帝国に滅ぼされてしまいます。まさに神に見捨てられたぶどう畑となってしまったのです。

3.イエス様の「ブドウ園と雇われ農夫たち」のたとえ

 それから700年以上経った後で、イエス様がブドウ園と雇われ農夫のたとえを話しました。話す相手はユダヤ教社会の指導的地位にある人たちでした。みんな旧約聖書の中身をよく知っている人たちです。イエス様が「ブドウ園の所有者が垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立てて」などと話すのを聞いて、彼らはすかさずイザヤ書5章の冒頭を思い浮かべたでしょう。それで、所有者は天地創造の神を指すということもわかったでしょう。「この、預言者の再来と騒がれている男はイザヤ書の聖句を引き合いに出して何か自説を展開しようとしているな、聞いてやろうじゃないか」ということになりました。ところが、イエス様の教えにはイザヤ書にないものがいろいろ出て来ました。雇われ農夫がその一つです。「あれ、イザヤ書には農夫なんか出なかったぞ、一体何を指すのだろう。」違いは聞く人の注意を引いたでしょう。イエス様の狙いもそこにありました。

 イエス様のたとえのブドウ園の所有者は雇われ農夫に園を任せて旅に出ます。日本語で「旅に出た」と訳されているギリシャ語原文の動詞(αποδημεω)ですが、これは「外国に旅立った」というのが正確な意味です。どうして外国が旅先かと言うと、当時、地中海世界ではローマ帝国の富裕層が各地にブドウ園を所有して、現地の労働者を雇って栽培させることが普及していました。所有者が労働者と異なる国の出身ということはごく普通だったのです。「外国に出かけた」というのは、所有者が国に帰ったということでしょう。こうした背景を考えると、雇われ農夫が所有者の息子を殺せばブドウ園は自分たちのものになると考えたことが納得できます。普通だったら、そんなことをしたら自分たちのものになるどころか、すぐ逮捕されてしまいます。ところが、息子は片づけたぞ、跡取りを失った所有者は遠い外国にいる、もう邪魔者はいない、さあブドウ園を自分たちのものにしよう、ということなので筋は通っています。

 さて、収穫の時が来て、所有者は収穫を受け取るために僕を繰り返し雇われ農夫のもとに送るが、農夫は僕たちを殺してしまう。しまいには、これならいくらなんでも言うことを聞くだろうと、自分の息子を送るが、これも殺してしまう。これらの出来事の意味は、私たちには明らかです。先にも申しましたように、所有者は神、雇われ農夫はユダヤ教社会の指導層、僕は神が送った預言者たち、所有者の息子は神のひとり子イエス様です。ところが、十字架と復活の出来事が起きる前、イエス様が本当に神の子なのか疑いがもたれていた頃、人々は私たちと同じようには理解できなかったでしょう。所有者は神だとわかるとしても、農夫とは一体誰のことだ?神が送って農夫が殺した僕たちとは誰なのだ?それにしても、所有者の息子つまり神の息子とは一体誰のことだ?

まさに疑問の渦が沸き起こるや否や、イエス様は指導者たちに質問します。「ブドウ園の所有者が戻ってきたら、雇われ農夫たちをどうするだろうか?」指導者たちの答えは的を得たものでした。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ブドウ園はきちんと収穫を収めるほかの農夫たちに貸す。」この答えは、たとえに出てくる登場人物が誰を指すかはっきりわからない状態で、たとえを額面通りに理解した時に出たものです。まさか自分たちのこの答えが、自分たちの運命を自分で言い表すものになっていたとは、彼らにとっても想像できなかったでしょう。

 指導者たちの答えの後、イエス様はすぐ「隅の親石」の話をします(42節)。家を建てる者が捨てはずの石が、逆に建物の基となる「隅の親石」になったという、詩篇118篇22~23節の聖句です。これも、私たちから見れば、意味は明らかです。捨てられたのは十字架に架けられたイエス様、それが死からの復活を経て、神の国という大建築の基になったのです。それを捨てた建てる者というのは、イエス様を十字架の死に引き渡したユダヤ教社会の指導者たちです。十字架と復活の出来事が起きる前にここでこの聖句を聞いた人たちは一体何のことかさっぱりわからなかったでしょう。ただ、「隅の親石」を捨てた者たちというのは、価値あるものを理解できず、価値のないものにしがみつく者という連想を生むので、先ほどの農夫同様に良からぬ者たちを指していることに気づきます。さて、イザヤ書5章と詩篇118篇の聖句をもとにして、この男は何を言いたいのか?雇われ農夫、家を建てる者とは誰を指すのか?指導者たちはイエス様の口から出て来る次の言葉を固唾を飲んで待ちます。

 そこでイエス様は、全ての謎の解き明かしをします。「それゆえ、お前たちから神の国は取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる」(43節)。日本語で「民族」と訳されているギリシャ語の言葉(εθνος)は、たいていの場合ユダヤ民族以外の民族「異邦人」を指す言葉です。ここにきてイエス様の教えの全貌がはっきりしました。ブドウ園を神の国と言うのなら、その所有者はやっぱり神ではないか!神が送って迫害され殺された僕たちは、旧約聖書に登場する預言者たちではないか!つまり、邪悪な雇われ農夫とは自分たち、ユダヤ教社会の指導層のことを指していたのだ!この時点で指導者たちはたとえは自分たちについて言っているとわかった、と45節で言われています。それまで旧約聖書の聖句と外国人所有者と現地人雇われ農夫の悲惨な出来事のごちゃまぜだったものが、急にユダヤ教社会の指導層と神の民イスラエルの運命についての痛烈な批判に急変したのです。ましてや、神の国が自分たちから取り去られて異邦人に渡されてしまうということを、自分たちの口を通して言わせるとは!怒りが燃え上がった指導者たちは寸でのところでイエス様を捕えようとしましたが、まわりにイエス様を支持する群衆が大勢いたためできませんでした(46節)。

4.「神の国」とは?

 このイエス様のたとえは、私たちから見たら歴史の復習になるので、ああそういうことが後で起きましたね、という受け止め方が出来ます。ところが、まだイエス様の十字架の死と死からの復活も起きていない、神の国の移譲も起きていない段階にいる人たちにとっては、そんなことは認められない、と反発するしかありません。そして、全てが起こってしまった後は、起こってしまったことに対して認められない、などとは言えません。

 それでは、本日の福音書の箇所は、もう実現してしまった預言として、私たちからみたら過去の出来事として、ああ、イエス様は将来のことを見事に言い当ててすごいなあ、と言って終わるものでしょうか?たとえの中で言われていることは全て実現してしまったので、それに対して何も付け加えることも削ることもできない。それで本日の福音書の箇所の説教は、ただ歴史の復習のような解説で終わってしまうのでしょうか?

 そうではありません。このイエス様のたとえの教えは、全てのことが実現した後でも、人間にどう生きるべきかを教えるものになっています。イエス様の時代から2000年過ぎた今でもそうです。説教というのは、聖句の正確な解説だけではありません。できる限り正確な解説の上に立って、それが今を生きる自分に何を語ろうとしているか、これを正確な解説の上に立って明らかにすることが説教です。聖書の聖句は生ける神の御言葉ですから、その神が今を生きる自分に何を語ろうとしているかを明らかにするのが説教です。

 この、一見私たちの目からすれば過去のことを言っているだけにすぎない聖句は、もちろん今を生きる私たちにどう生きるべきかを教えています。それがわかるために、「神の国」が「神の国の実を結ぶ民族」に与えられる、と言っていることに注目しましょう。新共同訳では「それにふさわしい実を結ぶ民族」となっていますが、「それ」は「神の国」を指します。「神の国にふさわしい実を結ぶ」というのは、ギリシャ語の原文を忠実に訳すと「神の国の実を結ぶ」です。「ふさわしい」はなくて「神の国の実」そのものを結ぶということです。「民族」というのは、先ほども申し上げたように、ユダヤ民族以外の民族すなわち「異邦人」です。ユダヤ民族以外の、「神の国の実を結ぶ者」に「神の国」が与えられる、と言っているのです。それでは、「神の国の実を結ぶ」とはなんなのか?何をすることが「神の国の実を結ぶ」ことなのか?そもそも、その「神の国」とは何なのか?ユダヤ民族は取り上げられると言われて激怒するが、異邦人の我々は与えられて嬉しいものなのか?

 「神の国」については、説教で何度もお話ししてきました。ここでもまた繰り返します。これからお聞きになればわかるように、聖書の「神の国」について知るということは、キリスト教の死生観を知ることにもなります。

神の国とは、天と地と人間その他万物を造られた創造主の神がおられるところです。それは「天の国」とか「天国」とも呼ばれるので、何か空の上か宇宙空間に近いところにあるように思われますが、本当はそれは人間が五感や理性を使って認識・把握できる現実世界とは全く異なる世界です。神はこの現実世界とその中にあるもの全てを造られた後、自分の世界に引き籠ってしまうことはせず、むしろこの現実世界にいろいろ介入し働きかけてきました。旧約・新約聖書を通して見れば、神の介入や働きかけは無数にあります。その中で最大なものは、ひとり子イエス様を御許からこの世界に送り、彼をゴルゴタの十字架の上で死なせて、三日後に死から復活させたことです。

 神の国はまた、神の神聖な意思が貫徹されているところです。悪や罪や不正義など、神の意思に反するものが近づけば、たちまち焼き尽くされてしまうくらい神聖なところです。神に造られた人間は、もともとは神と一緒にいることができた存在でした。ところが、神に対して不従順になり罪に陥ったために、神との関係が壊れ、神のもとから追放されてしまいました。その時、人間は死ぬ存在になってしまいました。この辺の事情は創世記3章に記されています。

 神は、このような悲劇が起きたことを深く悲しみ、なんとか人間との関係を回復させようと考えました。神との関係が回復すると、人間はこの世の人生を神との結びつきを持って歩めるようになり、絶えず神から良い導きと守りを得られるようになります。さらに、万が一この世から死ぬことになっても、その時は御許に引き上げてもらい、永遠に自分の造り主である神のもとに戻れるようにしてくれます。こうしたことが実現するためには、関係を壊している罪の汚れを人間から除去しなければならない。そのためには人間は罪のない清い存在にならなければならない。しかし、神の意思を実現できない人間にそれは不可能である。しかし、神は人間を救いたい。

 このジレンマを解決するために神はひとり子イエス様をこの世に送りました。そして、人間と神との関係を壊していた原因である罪を全部イエス様に負わせて、罪から来る神罰を全部彼に肩代わりさせてゴルゴタの十字架の上で死なせました。神は、まさにイエス様の身代わりの犠牲に免じて人間を赦すことにしたのです。話はそこで終わりませんでした。神は一度死なれたイエス様を復活させて、死を超えた永遠の命があることを示され、その扉を人間のために開かれました。そこで私たち人間が、これらのことは全てこの自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様は自分の救い主であると信じて洗礼を受けると、イエス様に免じた罪の赦しがその人にその通りになります。その人はあたかも有罪判決が無罪帳消しにされたようになって感謝に満たされて、これからは罪を犯さないように生きよう、罪を忌み嫌い、神聖な神の意思に沿うように生きようと志向するようになります。

 ところが、キリスト信仰者と言えども、信仰者でない人と同様にまだ肉を纏って生きていますから、もちろん罪をまだ内に持っています。しかし、信仰者の場合は、神の意思に反する何かが心のどこかで頭をもたげるとすぐ罪だと気づき、すかさず心の目をゴルゴタの十字架に向けて、「イエス様を救い主と信じますから赦して下さい」と神に祈ります。すると神は、「わかった、わが子イエスの犠牲の死に免じてお前を赦す、だからもう罪を犯さないように」と言って赦してくれて、信仰者が新しいスタートを切れる力を与えてくれます。

 このようにキリスト信仰者は罪の汚れを残しているのだけれども、イエス様のおかげで全く清いと見なしてもらえるようになった、それで、それに相応しく生きなければと襟を正すのです。かつて自分の造り主である神に背を向けていたが方向転換をして、これからは神の方を向いて、神との結びつきにしっかりとどまろうと日々を歩むのです。これがキリスト信仰者です。歩む先は死を超えた永遠の命が待つ神の国です。この道を歩む時、既に神の国に予約席を持っています。

 ところで、神の国は、今はまだ私たちの目に見える形にはありません。それが、目に見えるようになる日が来ます。復活の日と呼ばれる日がそれです。それはまた最後の審判が行われる日でもあります。イザヤ書65章や66章(また黙示録21章)に預言されているように、天地創造の神はその日、今ある天と地に替えて新しい天と地を創造する、そういう天地の大変動が起こる。「ヘブライ人への手紙」12章に預言されているように、その日、今のこの世にあるものは全て揺るがされて崩れ落ち、唯一揺るがされない神の国だけが現れる。その時、再臨されるイエス様が、その時点で生きている信仰者たちと、その日死から復活させられる者たちをあわせて、これらを神の国に迎え入れられます。

その時の神の国は、黙示録19章に記されているように、大きな婚礼の祝宴にたとえられます。これが意味することは、この世での労苦が全て最終的に労われるということです。また、黙示録21章4節(7章17節)で預言されているように、神はそこに迎え入れられた人々の目から涙をことごとく拭われます。これが意味することは、この世で被った悪や不正義で償われなかったもの見過ごされたものが全て清算されて償われ、正義が完全かつ最終的に実現するということです。同じ節で「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」と述べられますが、それは神の国がどういう国かを要約しています。イエス様は、地上で活動していた時に多くの奇跡の業を行いました。不治の病を癒したり、わずかな食糧で大勢の人たちの空腹を満たしたり、自然の猛威を静めたり無数にしました。こうした奇跡は、完全な正義、完全な安心と安全とが行き渡る神の国を人々に垣間見せ、味わさせるものだったと言えます。

5.神の国の実を結ぶ者

以上「神の国」がどういう国かについてお話ししました。(当時のユダヤ教社会の指導層が「神の国」を同じように理解していたかどうかは別の問題になるので、ここでは取り上げません。)今度は「神の国」が与えられることになる「異邦人」、「神の国の実を結ぶ異邦人」とは誰なのかを考えてみましょう。「異邦人」は、先ほども申し上げましたように、ユダヤ民族以外のその他の民族です。日本人も中国人も欧米人もアフリカ人も皆、ユダヤ民族から見たら「異邦人」です。それが「神の国の実を結ぶ」というのは、どういうことか?答えは、その実を結ぶ者に「神の国」が与えられると言っているので、誰に「神の国」が与えられるかを思い出せばいいのです。それは、前にも述べましたように、イエス様を救い主と信じる者です。イエス様を救い主と信じる者に神の国が与えられる。神の国の実を結ぶ者に神の国が与えられる。つまり、イエス様を救い主を信じる者と神の国の実を結ぶ者はイコールで結ばれるのです。イエス様を救い主と信じることが神の国の実を結ぶことなのです(後注)。

 そこで、イエス様を救い主と信じることが神の国の実を結ぶなどと言われても、実際本当に何か実を結んでいるのか実感がわかない人が多いかもしれません。そもそもキリスト信仰者というのは、神の意思に沿うように清く正しく生きようとし、それに反するものに与しないようにしようとします。果たして反するものが自分の前に立ちはだかってきたら、その時はゴルゴタの十字架から来る解放の力、罪と死の支配からの解放の力で打ち破ってもらいます。それが本当に打ち破られるのは、キリスト信仰者には罪の赦しと永遠の命が洗礼を通して植えつけられているからです。そしてイエス様を救い主と信じる信仰のおかげで、それらが植えつけられているのは動かせない事実だとわかっています。そのようにしてキリスト信仰者は毎日毎日、罪の赦しと永遠の命に相応しい者へと変えられていきます。これが神の国の実を結ぶことです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

(注)ここで注意しなければならないのは、単純にユダヤ民族が失格で異邦人が合格ということではないことです。ユダヤ民族でもイエス様を救い主と信じた人たちがいます。ペトロもパウロもマリアも皆ユダヤ民族出身のキリスト信仰者です。ユダヤ民族は、イエス様の十字架と復活の出来事の後でイエス様を救い主と信じる者と信じない者と真二つに分かれました。異邦人も同じでした。パウロのような伝道者が異邦人にもイエス・キリストの福音を宣べ伝えた結果、欧米人、日本人、中国人、アフリカ人にもイエス様を救い主と信じる人が生まれるに至りました。要は、ここで言われる「異邦人」とは、何民族に属するか関係なくイエス様を救い主と信じる者全てを指すということです。

説教「植える者と水を注ぐ者」木村長政 名誉牧師

2017年10月1日(日)日曜礼拝説教

第11回コリント信徒への手紙 3章5~9節

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私の礼拝説教ではコリント信徒への手紙のみ言葉を連続での説教です、今回で11回目になります。今回は3章5~9節まで聞いていきたいと思います。コリントの教会で伝道した二人、パウロとアポロの使命についてスポットを当ててみたいと思っています。3章5節には「アポロとは何者か、またパウロとは何者か。この二人はあなた方を信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて使えた方です」。とあります。これがきょうのテーマですね。パウロは自分が伝道した教会が今どうなっているか、この手紙の最初から問題としてきました。1章11~12節にあらわに記しています。〔私の兄弟たち実はあなた方の間に争いがあるとクロエの家の人たちから知らされました。あなた方はめいめいに「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロにつく」「わたしはケファにつく」「わたしはキリストにつく」などと言い合っているとのことです。〕こうしてコリントの教会の中が四つに分かれて争い合っているというのです。なんの言うことだろうか。パウロの思いはどうであったでしょうか。自分はパウロにつくとか自分はアポロにつくと言い合っている、それどころかパウロこそが神の人だ!と言い、いやアポロこそが神に仕える者だなどと神にまで祭り上げようとしている。ところで1章では四つの分派で争って混乱している様子を書いていますが3章のところでは四つの中でもパウロにつく者とアポロにつく者について言っています。この二人だけが特にコリントの人々を導いたからでありましょう。二人だけが直接にこの教会で働いた人であったからでしょう。パウロは自分を慕ってくれている人気に甘えて得意になったでしょうか、いいえそうではありません。それどころか「アポロは何者か」「パウロはいったい何者か、何ができるというのか」と怒り心頭に言うのであります。そこで普通でしたら自分を「神なんかではない。」と卑下して「アポロもパウロも普通の人ではないか。」と言うところであります。ここのところが本当のところ微妙な問題であります。簡単なようでそうではないのです。パウロもアポロも心血を注いで伝道したのです。この二人は救いの言葉を語っているのです。人の知らない神の救いを知っているのです。それならその人々を崇めようとしても何も不思議ではない思われます。どんな宗教でも救いを教える人ならその人に特殊な能力を持っていると考えられて普通の人より上に扱われたりします。人間の力でどうしようもない苦難を神の力に頼むのに神に取り次ぐ特別な役割を負って働いてきた二人です。パウロ自身からはこうしたことは言い難いかもしれません。自分たちが扱っているものが全く自分たちの力が及ばないものであったからです。それは特別な経験をしたり、特別な能力をもっているからではなく神の救いのの言葉を神から託されているだけであったからであります。

自分と教会との関係は「語る人」と「聞く人」との関係であってそこに取り扱われている事柄は神の救いの言葉であったからです。大事なのは神の救いの言葉そのものであってそれを語る人ではないからであります。そう意味で信仰に導いただけであったということであります。伝道者の謙遜という者は自分が神の業に対して全く無力であることを知っているからであります。パウロもアポロもわざと謙遜しているわけでもありません。自分たちが伝道しているものは全く自分たちの力の及ばないものであることを十分知りつつしかし語らざるを得ないのであります。もう伝道に夢中であります、そうして彼らの熱意が周りの人々へと信仰を起こし広がって教会をつくって行ったのであります。神の言葉を受けて熱意に心が燃えなければどうして信仰が与えられ起こっていきますか。パウロとアポロとは対照的な人であり辿ってきた人生も性格も全く違っております。パウロもアポロも当時としては学識豊かな人であったと言えるでしょう。パウロについてはもう使徒言行録を見れば9章や22・26章に詳しく記されています。パウロはキリキヤのタルソという所から生涯が始まっています。エレサレムでラビとしての厳しい訓練を受け又エレサレム最高議会の議員としてもそうとうの権力を持った人となります。そうしてキリスト者を迫害し捕らえていく人でありましたがダマスコの途上で神によって劇的な回心をします。人生のどん底からキリスト者の信仰を与えられ命がけで伝道に気が狂ったように情熱を注いで伝道しコリントの教会を築いていったのでありました。その教会が内部分裂して崩壊しようとしているわけです。パウロの重大使命が与えられていくことになります。一方アポロはどんな人であったか聖書に詳しく記してないのです。アポロは アレキサンドレアの出身で彼は聖書に詳しい人であった、しかも雄弁な人であった。使徒言行録18章24~28節に記してあります。アレキサンドレアは旧約聖書のギリシャ語訳をしたところで有名でした。従ってギリシャ文化とヘブル文化とが接触し融合したところでありました。彼はそういう中で特に旧約聖書に精通するほどに学問をした人でありました、加えて雄弁であった。こうしたパウロとアポロの全く違った二人がこの教会の伝道に熱心に関わったのでした。そう見ますと教会の中に両方それぞれにつく人ができることは不思議なことではないでしょう。そこで大事なことは「私はアポロにつく」とか「私はパウロにつく」といった分裂や相対立することではなく、お互いの与えられている才能や能力を信仰の面で生かして用いていくべきでしょう。(教会は二人の優れた面を用いて相働く場であるべきでしょう。)パウロにとってはキリスト教の福音は何か信仰の基本的なことを語る役目を大切にしていったということです。パウロの数々の手紙を見ればそこに丁寧に分かり易く繰り返し繰り返し救いの根本を語っています。アポロはどうであったかと言うとギリシャ哲学や教養豊かな面で優れていましたから基本を教えると言うよりも信仰生活に肉付けした美しさが備えられているのが得意でありました。例えばヘブル人への手紙はアポロが書いたのではないかという学者もいるくらいこのヘブル人への手紙には旧約聖書を素材にしながら華麗な書き方をしているからであります。

今日のみ言葉の結論を言いますと神様はこのパウロとアポロという伝道者をコリントの教会の重要な役目を最も適切な働きに用いられた。それぞれにイエス・キリストのみ力を受けて教会の大事な人々を選び神の栄光のために働いていった。そうして絶妙の表現で次のように記しています。〔私は植え、アポロは水を注いだ。しかし成長させてくださったのは神です。〕この世の風雪に耐えて信仰が養われていくのには神様が与えてくださる種を良い土地に植え大切に育て、そして水を注ぐ。アポロもパウロもそのために用いられます、成長させてくださるのは神様であるということをしっかり覚え教会の成長と栄光を望んでいきたいと思います。     
アーメン・ハレルヤ

 

説教「教会にしかない鍵」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイによる福音書16章13-20節

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.
By Nheyob (Own work) [CC BY-SA 3.0 (http://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0)], via Wikimedia Commons 本日の福音書の箇所は一回読むとなんとなくわかった感じになります。ああ、イエス様は弟子たちに質問して、人々は「人の子」を誰だと考えているか、と聞くんだな。それに対して弟子たちは「人々は『人の子』を洗礼者ヨハネとか旧約聖書のいろんな預言者だと思っています」と答えるんだな。次にイエス様はペトロに「お前は私を何者と思うか」と尋ねて、ペトロは「メシアです、生ける神の子です」と答えるんだな。それに対してイエス様は、ペトロがそう答えたのは神がわからせたからだ、と言っているんだな。そしてイエス様はペトロを将来のキリスト教会の長にする、教会の鍵を与えると言って、彼を教会内で権威ある地位につけるんだな。なるほど、なるほど、簡単じゃないか。

ところが本日の箇所は本当はとても難しいのです。一つ例を挙げると、イエス様が弟子たちに、人々は「人の子」を誰だと考えているかと尋ねるところです。「人の子」と言うのは、皆様もご存知のように、旧約聖書ダニエル書7章でダニエルがみた預言の幻の中に登場します。今あるこの世が終わりを告げる時、神の国が到来する。それを統治する者が「人の子」です。イエス様は、この「人の子」が誰かということについて、当時の人々の見解を弟子たちに聞いたのです。弟子たちの答えは、洗礼者ヨハネだと言う人もいれば、エリヤだとかエレミアだとか旧約聖書の預言者の名をあげる人もいます、というものでした。このように「人の子」についての人々の見解を尋ねた後で、イエス様は今度は、それでは弟子たちは彼のことを誰だと思うか、と尋ねます。つまり質問が「人の子」についての人々の見解から、イエス様自身についての弟子たちの見解にかわるのです。これは一体どういうことでしょうか?「人の子」について、人々はああ思っている、こう思っている、と答えた後だから、続く質問としては、それでは弟子のお前たちは「人の子」をどう考えるか、というのが自然な流れではないでしょうか?イエス様の二つの質問 - 「人の子」についての人々の見解とイエス様についての弟子たちの見解 - これらは一体どう繋がっているのでしょうか?

 もう一つ難しいことは、イエス様が弟子たちに自分がメシアであることを人々に話してはならないと命じたことです。メシアとは、これも皆様ご存知のように、ヘブライ語の「油を注がれて聖別された者משיח」という意味です。旧約聖書では神から特別な任務を与えられた者を指し、イスラエルの歴代の王が代表的な例です。そういうわけで、「油注がれた者משיח」はユダヤ民族の現実の王様の印でした。これがバビロン捕囚の後の時代になると次第に、ダビデ王の子孫で将来イスラエルの王国を再建する待望の王様を意味するようになります。さらに紀元前3,2世紀頃になると、ユダヤ教社会のなかで、今あるこの世の終わりとその後に来る新しい世ということに関心が高まりだします。そうした時、メシアとは、そういう終末の時に現れて、天地創造の神への信仰を守り抜いた者たちを苦難から救い出して、これを死から復活させた者たちと合流させて新しい世に迎え入れてくれる、そういう救い主と考えられるようになります。

さて、イスラエルの王国を再建するダビデ家系の王様を意味するにせよ、また終末の救世主を意味するにせよ、どちらをとるにしても、問題は、なぜイエス様は、自分がメシアであることを人々に話してはならない、と命じたのか?彼が無数の奇跡の業を行ったことは既に多くの人たちに知れ渡っているし、その教えは神から授かったとしか言いようがないくらいの権威をもっていたことも誰の目にも明らかだった。それなのに、なぜズバリ、あの方こそメシアだ、と公に言ってはならないのか?

 三つの目の疑問は、ペトロがイエス様のことを「あなたはメシアです。生ける神の子です」と答えた時、イエス様は、そのことをお前にわかるようにしたのは神である、と言って、そのペトロを教会の基にすると言います。「ペトロ」という名前は「岩」を意味するギリシャ語のペトラから来ています。「陰府の力も教会には対抗できない」と言いますが、具体的に何を意味するのか?さらに、ペトロに天の御国の鍵を渡し、ペトロが「地上でつなぐことは天上でもつながれ、地上で解くことは、天上でも解かれる」とは何を意味するのか?ペトロに教会内での権威ある地位を与えるんだな、ということはわかりますが、具体的に何を意味しているのか?

本日の箇所は、以上の三つのことがわからないとわかったことにならないのです。それで、本日の説教ではそれら三つの疑問点、イエス様の二つの質問はどう結びつくのか?なぜイエス様はメシアと公言してはならないと命じたのか?ペトロを土台にして建てられる教会とは何か?これらを明らかにしたいと思います。

 

2.

 最初の疑問。イエス様が「人の子」についての人々の見解を尋ねた後で、今度は彼自身についての弟子たちの見解を質問したことは、どう繋がるか?これを明らかにする鍵は、「人の子」とは何かということです。実は、このダニエル書に出てくる「人の子」というのは、当時のユダヤ民族にとっても、また現代の旧約聖書学の研究者にとってもやっかいな問題でして、それを一礼拝の説教で説明することはほとんど不可能です。大ざっぱで荒っぽい説明になることを承知で話を進めていきます。

初めに触れましたように、「人の子」はダニエル書7章に登場します。この世の終末の時、ある強大な国家が「日の老いたる者」に滅ぼされて、そこで「人の子のような者」が登場します。「日の老いたる者」とは、原語(アラム語のעתיק יומין)の意味では「年齢を無限に重ねた者」、つまり天地創造の神を指します。この神から、「人の子」は王権と権威を授けられて、終末後に現れる神の国を統治します。これがダニエル書の預言です。

ところで、紀元前2世紀半ば頃からイエス様が登場するまでの200年位の間に、パレスチナのユダヤ教社会の中で、「人の子」のことをダニエル書のような新しい世に登場する王だけでなく、ずばりメシア救世主と同一視する思想が現れます。他方で、本日の福音書の箇所が示すように、イエス様の時代の人々は「人の子」を洗礼者ヨハネとかエリヤとかエレミアとか迫害を受けた預言者たちと見なしていました。つまり、迫害を受けた預言者の誰かがこの世の終わりの時に再び現れて、新しい世の神の国の指導者として君臨するというイメージを「人の子」に抱いていたのです。

このように当時の人々が「人の子」のことを、迫害を受けた者と考えていたとすれば、イエス様も十字架の受難を受けたのだから、名だたる預言者のリストに彼を付け加えてもいいではないか、と思われます。しかし、時はまだ、イエス様の十字架の出来事が起きる前のことです。誰もそんなことが起きるなどとは予想もしていなかったので、それは無理です。弟子たちの答えを聞いたイエス様は、人々が「人の子」の正体に自分を含めていないことがわかりました。それで弟子たちに、それではお前たちは私のことを誰だと思うかと尋ねました。イエス様は自分が「人の子」であると知っていて、それで弟子たちに自分を誰だと思うかと聞かれたのです。果たして弟子たちは、あなたこそ「人の子」ですと答えられるだろうか?しかし、イエス様の十字架の受難や死からの復活をまだ見ていない弟子たちにとって、彼を「人の子」とみなすのは無理でした。以上からわかるように、イエス様の一見結びつかない二つの質問は実は、「人の子」を主題にしているという点で結びついているのです。

ペトロは、イエス様のことを「人の子」と答えるかわりに、メシア救世主、生ける神の子である、と答えました。「生ける神」というのは、金や銀や銅や木や石で作った像ではなく、本当に生きていて万物を創造し影響力大の言葉を発する神ということです。イエス様はまさしく「人の子」であると同時に、メシア救世主であり神の子でもあるので、ペトロの答えは「人の子」は抜け落ちたけれども間違ってはいません。興味深いことに、本日の箇所に続く21節から23節にかけて、イエス様はまさに自分の受難について預言されます。つまり、迫害を受けるという意味で自分は「人の子」でもあると明らかにされるのです。「人の子」とは誰かという質問の答えをここで自ら示すのです。

 

3.

 二番目の疑問は、なぜイエス様は自分がメシアであることを公にしてはならないと命じたかということです。先ほど、イエス様の時代のユダヤ教社会ではメシアについて、二つの思潮、現世的で民族的な英雄として考える思潮と、現世から新しい世の永遠の命へ橋渡しをする救世主と考える思潮、この二つがあると申しました。イエス様は確実に後者の意味での救世主ですが、十字架と復活の出来事が起きる前は、弟子たちもイエス様をどこまでそういう救世主として理解していたか、むしろ現世的民族的英雄観が強かったのではないか、そういうことが福音書の他の箇所から窺うことができます。弟子たちにしてそうでしたから、イエス様を歓呼で迎えた群衆はなおさらそうだったでしょう。

そういうメシア理解がされていた当時のユダヤ教社会において、まだ十字架と復活の出来事が起きる前に、この方はメシアだと広めたらどうなるでしょうか?現世的な民族的英雄として理解されれば、ローマ帝国の支配からの解放を夢見る愛国的ユダヤ人は熱狂するでしょう。しかし、帝国当局は彼を危険な反乱者として断固たる措置をとらなければならなくなるでしょう。他方で、救世主ということを前面に打ち出せばどうなるか?ユダヤ教の指導者たちはそれを神への冒涜と受け取り、やはり抹殺しなければならないということになるでしょう。イエス様に対する疑念は既に高まっていました。もし彼に対する迫害がもっと早く起きてしまったら、エルサレムを舞台にした十字架と復活の出来事は、実際に起きたように起こることができなくなってしまいます。ヨハネ福音書の中に、イエス様が群衆の前で公然と教えを宣べていて、逮捕するまたとない機会だったにもかかわらず、誰も彼に手を下さなかったという不思議な場面があります。ヨハネはそれを「時がまだ来ていなかったからだ」と説明します(7章30節、8章20節)。そして、あの運命的な過越祭の直前、エルサレムに入城したイエス様は「人の子が栄光を受けるときが来た」と自ら述べます(ヨハネ12章23節)。つまり、「時」が来るまでは、イエス様は無傷でいなければならなかったのです。

イエス様はまさに、私たち人間を罪と死の支配下から救い出して、造り主である神のもとに私たちを贖い出すために、犠牲の生け贄となるべくエルサレムに入ったのです。この世の終わりの時に天地創造の神は最後の審判を司り、全ての民族を裁きにかけるのですが、その神に前もって捧げられた完全無傷な生け贄、それがイエス様でした。以上のような次第で、十字架と復活の出来事が起きる前の段階では、イエス様について正確なことを言うと、エルサレムで実現されなければならない神聖な贖いの業を妨げてしまう恐れがあったのです。この段階でイエス様がメシアであることを公にしてはならないというのは、以上のような背景を考えればよいと思います。もちろん、十字架と復活の出来事の後は逆に、イエス様をメシアであると公けにしてよくなりました。否、公けにしなければならなくなったのです。

 

4.

 三つの目の疑問は、ペトロを土台にして建てられる教会とは何か、というものです。本日の箇所の17節から19節までのたった3節だけですが、内容がぎっしりですので、じっくり見ていきます。

 まず、17節のイエス様の言葉、イエス様がメシア、生ける神の子であるとペトロに現したのは「人間ではなく、わたしの天の父なのだ」。ギリシャ語の原文を忠実にみると、「お前に明らかにしたのは血と肉ではない。私の天の父なのだ」です。新共同訳にあるような「人間」ではなくて「血と肉」σαρξ και αιμαと言っています。この「血と肉」というのは、もちろん「人間」を意味する熟語なので、訳のように言っても間違いではないのですが、ただ、それだと、ペトロにわからせたのは神であって誰か他の人間が入れ知恵したのでははない、ということになってしまいます。しかし、そういう意味ではありません。神から霊的な影響力を及ぼされないと人間は単なる血と肉の塊にとどまり、その状態ではイエス様の正体を理解できない、ということです。ペトロがわかったというのは、彼が神から霊的な影響力を及ぼされて、単なる血と肉の塊でなくなった、ということです。

そういうわけで、ペトロがイエス様のことを「メシアです、生ける神の子です」と言った時、彼は神からの霊的な影響力に服していたことになります。ただし、この影響力に服することはまだ決定的ではありませんでした。というのは、皆さんもご存知のように、ペトロはイエス様が十字架に掛けられる直前に主を見捨てて逃げてしまったからです。しかし、十字架と復活の出来事の後は全てが一変しました。まず、霊的な影響力に決定的に服することが聖霊降臨の時に起こりました。それからは、ペトロも他の使徒たちもどんな迫害にも屈せずに、イエス様こそ神の子、救い主メシア、将来再臨する「人の子」であると公けに宣べ伝え始めたのです。そのように見ていくと、十字架と復活の出来事の前に、ペトロがイエス様のことをメシア、生ける神の子と言い表したというのは、霊的な影響力に服することの走りだったと言うことができます。

イエス様の十字架と復活の出来事の後、そしてそれに続く聖霊降臨の後、人間が天地創造の神からの霊的な影響力に服するというのはどういうことかが明らかになりました。それは神がイエス様を用いて実現した人間救済が人間の心にすっと入るようになったということです。どういうことかと言うと、旧約聖書の創世記の初めにありますように、最初の人間アダムとエヴァの堕罪の出来事で人間の内に罪が入り込み、人間と神との関係は壊れてしまいました。神はそれを深く悲しみ、なんとか関係を回復させようと考えました。神との関係が回復すると、人間はこの世の人生を神との結びつきを持って歩めるようになり、絶えず神から良い導きと守りを得られるようになります。さらに万が一、この世から死ぬことになっても、その時は御許に引き上げてもらい、永遠に自分の造り主である神のもとに戻れるようにしてくれます。これらが実現するためには、関係を壊している罪の汚れを人間から取り除かなければならない。そのためには人間は罪のない清い存在にならなければならない。しかし、それは不可能である。しかし、神は人間を救いたい。

このジレンマを解決するために神はひとり子イエス様をこの世に送りました。そして、人間と神の関係を壊していた原因である罪を全部イエス様に負わせて、罪からくる神罰を全部彼に肩代わりさせて十字架の上で死なせました。まさにイエス様の身代わりの犠牲に免じて人間を赦すことにしたのです。話はそこで終わりません。神は今度は一度死なれたイエス様を復活させて、死を超えた永遠の命があることを示し、その扉を人間に開かれました。そこで私たち人間が、これらのことは全部自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様は自分の救い主であると信じて洗礼を受けると、イエス様に免じた罪の赦しがその人にその通りになります。その人はあたかも有罪判決が無罪帳消しにされたようになって感謝に満たされて、これからは罪を犯さないように生きよう、罪を忌み嫌い、神聖な神の意思に沿うように生きようと志向するようになります。イエス様のことを単なる過去の歴史上の人物ではなく、現代を生きる自分自身の救い主とわかるというのは、天地創造の神の霊的な影響力が働いていることを示しています。洗礼を受けるというのは、その影響力に服することを決定的にすることです。

イエス様がペトロを基にして教会を建てると言うのは、教会というのは単なる建物ではなくて、まさに天地創造の神の霊的な影響力に服してもはや単なる血と肉の塊でなくなった者たちから構成されるものを意味します。

このことがわかると、イエス様の次の言葉「陰府の力もこれ(教会)に対抗できない」の意味もわかってきます。この言葉もギリシャ語原文に忠実にみると「陰府の門も教会を圧倒することはできない」です。日本語訳で「力」と言っているのは「門」πυλαι(複数形)です。フィンランド語、スウェーデン語、英語(NIV)の聖書も「陰府の門」と訳しています。(ドイツ語訳Einheitsübersetzungは「陰府の力」でした。)「陰府」(ギリシャ語αδης、ヘブライ語שאול)というのは、死者が安置される場所という意味ですが、これはよく混同されますが、火が燃え盛る地獄(ギリシャ語γεεννα、アラム語גיהנס)とは別のものです(ルカ16章でイエス様がたとえを使って教えている箇所で陰府と地獄が一緒になっていますが、これは例外的です)。火が燃え盛る地獄というのは、今ある世が終わりを告げる時、今ある天と地が創造主の神によって新しい天と地に造りかえられる時、最後の審判が行われて、罪の支配下に甘んじていた者たちがそこに投げ込まれてしまうというように、火の地獄というのは最後の審判の時に出て来るものです。陰府というのは、その日が来るまでこの世を去った者が眠りについている場所です。ルターに言わせれば、この世の痛みや苦しみから解かれて復活の日まで安らかに眠る場所です。

陰府はよく地下にあるイメージを持たれますが、それは埋葬されるのが地面の下だったり墓石の下だったりするためでしょう。しかし、この世の向こう側のことなので、下とか上とかは言えません。いずれにしても、人間は死んで陰府の門を一度くぐってしまうと門は固く閉ざされ、もうこちら側には戻っては来れません。その意味でこの門は何ものをも寄せ付けない力を持っている。ところが、イエス様を救い主と信じる者は、復活の日に復活の命と体を与えられて神のもとに引き上げられる。固く閉ざされた門をぶち破るようにして出てくるのです。教会とはそういう者たちから構成されるので、それで陰府の門は教会を圧倒することはできない、ということになるのです。

 最後に、天の御国の鍵をもらったペトロが「地上でつなぐことは、天上でもつながれ、地上で解くことは、天上でも解かれる」とイエス様が言われたことを見てみましょう。この「地上でつなぐこと、解くこと」は一体何を意味するのでしょうか?まず、「地上で解くこと」から見てみます。これはギリシャ語原文の言葉(λυω)の背景にあるアラム語(イエス様が話していた言葉)の言葉(שרא)から見ると、「地上で許可すること」になります。何を許可するのかというと、天の御国に入れてもらうことです。ペトロが地上で天の御国への入国を認めるとした者は天の方でもそれに倣うということです。「地上でつなぐ」も同様にギリシャ語の言葉(δεω)の背景にあるアラム語の言葉(אסר)からみると「地上で縛りつける、禁止する」という意味になります。天の御国への入国を許可しないということです。つまり、ペトロが地上で天の御国への入国は認めないとした者は天の側でもそれに倣うということです。これで、ペトロに託される鍵が何の鍵であるかが明らかになりました。

ところが、ここで注意しなければならない大事なことがあります。それは、天の御国への入国を許可するか否かを決めるのは、これは最後の審判を司る天地創造の神であって、いくら神からの霊的な影響力に服するとはいえ、人間個人が行う筋のものではないということです。それなら、なぜイエス様はペトロがそれを決められるかのように言っているのでしょうか?イエス様の趣旨を理解するようにしましょう。

神から霊的な影響力を受けてイエス様をメシア、生ける神の子と証したペトロを中心にして、共に聖霊降臨を受けた使徒たちを土台にして教会が誕生しました。先にも申しましたように、教会は神からの霊的な影響力に服する者たちから構成されるものです。ここでのイエス様の趣旨は、天の御国に入れるための鍵、つまり復活の日に死から目覚めさせられて復活の命と体を与えられて造り主の御許に迎え入れらえるための鍵、その鍵はまさに教会にあって、それ以外にはない、ということです。教会は神の御言葉、つまり十字架と復活の業を成し遂げたイエス様を神のひとり子、メシア救い主と証する神の御言葉を持っています。そしてその御言葉を外に伝える役割を果たしています。教会はまた、天地創造の神からの霊的な影響力に服することを決定的にする洗礼を持っています。そして洗礼を受けた者たちに霊的な栄養を与える聖餐式も持っています。この栄養を受けると、神の御心に沿うようにこの世の旅路を歩む力が得られます。このように、教会にこそ、天の御国への鍵があるのです。イエス様は、この鍵と関わりを持ちなさいとおっしゃっているのです。関わりを持たないと天の御国への入国を認めてもらえなくなる、だから関わりを持ちなさい、と促しているのです。この私にはその鍵で扉を開けてもらえるのだろうか、などと心配するには及びません。イエス様を救い主と信じる者が「その鍵で私にも開けて下さい」とお願いすれば、必ず開けてもらえる、そうイエス様は約束されているのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         
アーメン