説教「復活の再会の希望は、死の別離の悲しみよりも深い」神学博士 吉村博明 宣教師、ヨハネ11章1―45節、ローマ8章6―11節、エゼキエル37章1―14節

主日礼拝説教 2020年3月29日(四旬節第五主日)

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

本日の福音書の日課はヨハネ11章のイエス様が死んだラザロを生き返らせる奇跡を行ったことについてです。イエス様が死んだ人を生き返らせる奇跡は他にもあり、例えば、シナゴーグの会堂長ヤイロの娘(マルコ5章、マタイ9章、ルカ8章)とある未亡人の息子(ルカ7章11~17節)の例があります。ヤイロの娘とラザロを生き返らせた時、イエス様は死んだ者を「眠っている」と言います。使徒パウロも第一コリント15章で同じ言い方をしています(6節、20節)。日本でも、亡くなった方を想う時に、「安らかに眠って下さい」と言う時があります。しかし、大抵は「亡くなった方が今私たちを見守ってくれている」などと言うので、本当は眠っているとは考えていないのではないかと思います。ところが、キリスト信仰では本当に眠っていると考えます。じゃ、誰がこの世の私たちを見守ってくれるのか?それは言うまでもなく、天と地と人間を造られて私たち一人ひとりに命と人生を与えてくれた創造主の神ということになります。

キリスト信仰で死を「眠り」と捉えるのには理由があります。それは、本日の個所のイエス様とマルタの対話にあるように、死からの「復活」というものがあるからです。

復活とは、マルタが言うように、この世の終わりの日に死者の復活が起きるということです。この世の終わりとは何か?それは聖書の観点では、今ある森羅万象は創造主の神が造ったものである、造って出来た時に始まったものである、それが神に再び新しく造り直される時が来る、それが今のこの世の終わりということになります。天と地の造り直しですので新しい世の始まりです。なんだか途轍もない話でついていけないと思われるかもしれませんが、聖書の観点はそういうものなのです。死者の復活はまさに今の世が終わって新しい世が始まる境目の時に起きます。イエス様やパウロが死んだ者を「眠っている」と言ったのは、復活とは眠りから目覚めることと同じという見方があるからです。それで死んだ者は復活の日までは眠っているということになります。

ここで注意しなければならないのは、イエス様が生き返らせた人たちは本当の意味での「復活」ではないということです。「復活」は、死んで肉体が腐敗して消滅してしまった後に起きることです。パウロが第一コリント15章で詳しく教えているように、神の栄光を現わす朽ちない「復活の体」を着せられて永遠の命を与えられることです。イエス様が行った生き返らせの奇跡は、みんなまだ肉体がそのままなので「復活の体」ではありません。「蘇生」と言うのが正確でしょう。ラザロの場合は4日経ってしまったので死体が臭い出したのではないかと言われてました。ただ葬られた場所が洞窟の奥深い所だったので冷却効果があったようです。蘇生の最後のチャンスだったのでしょう。いずれにしても、みんな生き返らせてもらったけれども、その後で寿命が来て亡くなったわけです。そして今、神のみぞ知る場所にて「眠っている」のでしょう。

ここで一つ脱線します。本日の個所で「4日経っている」とか「2日滞在された」と時間の経過が言われています。それが、本日の個所で難しい9節と10節の説きあかしに関係すると思いました。イエス様はどんな時間配分を考えて動かれたのか?まず、イエス様がおられた所とマリアとマルタがいた所はどれくらい離れていたか考えます。イエス様がおられてところはガリラヤ地方と考えられますが、どの町かわかりません。同地方でイエス様は本拠地にしていたカペルナウムとします。マリアとマルタがいたベタニアはエルサレムの近くとありますので、カペルナウムからエルサレムまでの距離をみてみます。グーグルマップで163キロと出ました。電車で3時間4分、車で2時間8分だそうです。徒歩だと35時間。イエス様は9節で、日中に歩くことが大事であることを言います。それが12時間分あるとも言います。そうすると、ガリラヤ地方からユダヤ地方まで歩いて3日かかったことになります。ラザロが死んで葬られてから4日経ったときに到着したので、イエス様は埋葬の翌日に出発したことになります。そうすると、ラザロの病気の知らせを聞いたのはその2日前となり、マリアとマルタの使いがベタニアを出発したのはその3日前となります。

大体、以上のような時間的地理的な状況が浮かび上がります。9節と10節でイエス様が日中歩くことを言って、埋葬後4日を超えないように出発を決めたということがわかります。9節と10節を見ると、そういう具体的な事柄に関してだけでなく、「この世の光」とか「人の内の光」という別次元の事柄も含まれています。イエス様はよく、具体的な事象に結びつけて霊的、信仰的なことを教えました。たとえの教えです。9節と10節もたとえの教えであることがわかります。そこで言われている霊的、信仰的な教えは何かということは、また別の機会に譲ることとします。

イエス様のこのラザロの生き返らせの奇跡についてわかりにくいことがあります。イエス様がこの奇跡を行ったそもそもの動機は何かよく見えてこないのではないでしょうか?4節で、ラザロの病気は死で終わらない、神の栄光が現れるため、イエス様が神の子としての栄光を現わすため、などと言います。15節では、「私は、ラザロが死んだとき彼のところにいなかったことを喜ぶ。そうしたのはお前たちのためだったのだ。つまりお前たちが信じるようになるためにそうしたのだ」と。42節でも、周りにいる人たちがイエス様のことを神に遣わされた者と信じるため、などと言います。他方で、イエス様はラザロが重病で死にそうだとの知らせを聞いた時、すぐ助けに行きませんでした。イエス様は無数の難病を癒す奇跡を行った方です。ラザロの病気も治せたでしょう。それなのに2日間もどこかで油を売って、まるで死ぬのを待っていたみたいです。人々がイエス様のことを神の子と信じられるようにするために、ラザロにちょっと死んでもらったということなのでしょうか?そんなのありかと思われるかもしれません。逆に、どうせ生き返らせてもらったんだから、よかったんじゃないかと言う人もいるかもしれません。イエス様はなんのためにこの奇跡をこのようなやり方で行ったのか?本説教では少し検証してみようと思います。

2.

ここではイエス様とマルタの対話がカギになると思われます。そこには驚くべきことがいろいろ言われているからです。そこで、対話の内容を注意深くみてみます。

イエス様がやって来たと聞いてマルタはマリアを家に残して会いに出て行きます。イエス様を見るなり、マルタは開口一番、こう言います。「主よ、もしあなたがここにいらっしゃったならば、兄は死なないで済んだでしょうに(21節)」。この言葉には、「なぜもう少し早く来てくれなかったんですか」という失望の気持ちが見て取れます。しかし、マルタはその気持ちの表明を取り消すかのようにすぐ次の言葉を言い添えます。「しかし、私は、あなたが神に願うことは全て神があなたに与えて下さると今でも知っています(22節)」と。「今でも知っています」というのは、今愚痴を言ってしまいましたが、それは本当の気持ちではありません、イエス様が神に願うことはなんでも神は叶えて下さることは決して忘れていません、ということです。これをラザロが死んでしまった後で言うのは、「イエス様、神さまにお願いして兄が生き返るようにして下さい」と言っていることを暗に意味します。ここでマルタはイエス様にラザロの生き返りをお願いしているのです。

それに対してイエス様はどう応えたでしょうか?生き返らせの奇跡をするためにイエス様はわざと到着を遅らせてやって来たのです。果たして、「わかった、お前の兄を生き返らせてあげよう、それを父にお願いしよう」と言ったでしょうか?そうではありませんでした。イエス様は唐突に「お前の兄は復活する」と言いました(23節)。先ほども申しましたように、「復活」は「生き返り」とは別物です。マルタはそのことを十分理解していました。次の言葉からそれがわかります。「終わりの日の復活の時に兄が復活することはわかります(24節)」。この言葉を述べたマルタはハッとしたでしょう。ああ、イエス様は兄の「生き返り」ではなく、将来の「復活」のことを言われる。ということは、兄と再び会えるのは復活の日まで待ちなさいということで、今は生き返らせることはしてくれないのだろう、と少しがっかりしてしまったでしょう。もちろんマルタは、復活が起こることを信じているのでその時に兄と再会できることには疑いはありません。ただ、それはあまりにも遠い将来のことです。「生き返り」で今すぐ再会できるのと比べると実感が沸きません。

そこをイエス様は突いてきました。25節と26節です。

「私は復活であり、命である。」イエス様が「命」とか「生きる」という言葉を使う時、それはほとんどと言っていいほど「永遠の命」や「永遠の命を生きる」ことを意味しています。この世だけの命、この世だけを生きることではなく、永遠の命、永遠に生きるということです。「私は復活であり、永遠の命である」というのは、真の復活や永遠の命は私のところにあって他のところにはない、それゆえ真の復活や永遠の命を与えることが出来るのは私しかいないという意味です。

それではイエス様は誰に真の復活と永遠の命を与えるのでしょうか?次にその答えが来ます。「私を信じる者は、たとえ死んでも生きる」。この「生きる」は今申しましたように「永遠の命を持って生きる」ことです。イエス様を信じる者は、たとえ死んでも復活の日に復活させられて永遠の命を持って生きることになるということです。イエス様はさらに続けて言います。「生きていて私を信じる者は永遠に死ぬことはない」。「生きていて私を信じる」と言うのはどういうことでしょうか?イエス様を救い主と信じて洗礼を受ける者は永遠の命と繋がりが出来ます。この世を生きている段階でその命と繋がりを持つのです。それで、その繋がりを持って生きる者は、イエス様を信じて生きる限り、その繋がりを失わず、復活の日に永遠の命そのものを手にすることが出来ます。それで永遠に死なないのです。「イエス様を信じる」というのはどういうことでしょうか?イエス様の何を信じることでしょうか?それは、そんなに難しいことではありません。それは、「イエス様が本当に復活と永遠の命を手に持っていて、それを与えることが出来る方である」と信じることです。イエス様とはそういう方であると信じるだけです。そういうことが出来るお方なんだと信じて、それで安心が得られれば信じたことになります。

イエス様はこれらのことを一通り言った後、たたみかけるようにして聞きます。お前は今言ったことを信じるか?私は復活と永遠の命を与えることが出来ると信じるか?

これに対するマルタの答えは驚くべきものでした。「はい、主よ、私は、あなたが世に来られることになっているメシア、神の子であることを信じております(27節)。」なぜマルタの答えが驚くべきものかと言うと、二つのことがあります。まず第一にマルタはイエス様がメシアであることを復活や永遠の命と結びつけて言ったことです。実は「メシア」という言葉は当時のユダヤ教社会の中でいろんな理解がされていました。一般的だったのは、ユダヤ民族を他民族の軛から解放してくれる王様でした。イエス様の周りに大勢の群衆が集まった理由の一つは、彼がそうした救国の英雄になるとの期待があったからでした。そのため、彼が逮捕されて惨めな姿で裁判にかけられた時、群衆は期待外れだったと言わんばかりに背をむけてしまったのでした。しかし、メシアの本当の意味は特定の民族の解放者などというスケールの小さなものではない、全人類的な救い主なのだ、という理解もされるようになっていました。そうした理解は旧約聖書の中にあったのですが、ユダヤ民族が置かれた歴史的状況の中ではどうしても民族の解放者という理解に埋もれがちでした。そのような中でも、マルタの理解は全人類的な救い主の方を向いていたのです。

もう一つ驚くべきことは、イエス様が救世主であることをマルタが「信じております」と言ったことです。ギリシャ語の原文ではここの動詞は現在完了形πεπιστευκαなので、「過去の時点から今日の今までずっと信じてきました」

という意味です。今イエス様と対話しているうちにわかって初めて信じるようになったということではありません。ずっと前から信じていたということです。このことがわかると、イエス様の話の導き方が見えてきます。それは私たちにとっても大事なことです。どういうことかと言うと、マルタは愛する兄を失って悲しみに暮れています。将来復活というものが起きて、そこで兄と再会するということはわかっていました。しかし、愛する肉親を失うというのは、たとえ復活の信仰を持つ者でも悲しくつらいものです。これは何かの間違えで、出来ることなら今すぐ生き返ってほしいと思うでしょう。復活の日に再会できるなどと言われても、遠い世界の縁遠い話にしか聞こえません。

しかしながら、復活には、死が持つ引き裂く力よりもはるかに強い力があるのです。聖書の観点は、人間の内には神の意思に反しようとするものがあって、それが神と人間の間を引き裂く原因になっているということを見据えます。その神の意思に反しようとするものが罪ということになります。人間なら誰でも生まれながらにして持ってしまっているというのが聖書の観点です。人間が神との結びつきを持ってこの世を生きられ、この世を去った後は造り主のもとに永遠に戻れるようにする、そのためには結びつきを持てなくさせようとする罪の問題を解決しなければならない。まさにその解決のために神はひとり子イエス様をこの世に贈り、彼が人間の罪を全て引き受けてゴルゴタの十字架の上にまで運び上げ、そこで人間に代わって神罰を受けることで罪の償いを果たしてくれたのでした。さらに神は一度死なれたイエス様を死から復活させて死を超えた永遠の命の扉を人間に開かれました。その意味でもイエス様は「復活であり、永遠の命」なのです。

神がひとり子を用いてこのようなことを成し遂げたら、今度は人間の方がイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ける番となります。そうすれば、イエス様が果たしてくれた罪の償いを受け取ることができます。罪を償ってもらったということは、これからはイエス様の犠牲に免じて神から罪の赦しを頂くことになります。頂いた罪の赦しに人生を方向づけられて歩んでいくことになります。その時、目指す目的地は、死を超えた永遠の命と神の栄光を現わす体が与えられる復活です。そこでは死はもはや紙屑か塵にしかすぎません。この世で罪の償いと赦しから離れずにしっかりとどまっていれば神との結びつきは保たれます。この結びつきを持って生きていけば、死は私たちの復活到達を妨害できません。

マルタは復活の信仰を持ち、イエス様のことを復活に与らせて下さる救い主メシアと信じていました。ところが愛する兄に先立たれ、深い悲しみに包まれ、兄との復活の日の再会の希望も遠のいてしまいました。今すぐの生き返りを期待するようになりました。これはキリスト信仰者でもみなそうなります。しかし、イエス様との対話を通して、復活と永遠の命の希望が戻りました。対話の終わりにイエス様に「信じているか?」と聞かれて、はい、ずっと信じてきました、今も信じています、と確認でき、見失っていたものを取り戻しました。兄を失った悲しみは消滅しないでしょうが、一度こういうプロセスを経ると、希望も一回り大きくなって悲しみのとげも鋭さを失い鈍くなっていくことでしょう。あとは、復活の日の再会を本当に果たせるように、キリスト信仰者としてはイエス様を救い主と信じる信仰にしっかり留まるこだけです。

ここまで来れば、マルタはもうラザロの生き返りを見なくても大丈夫だったかもしれません。それでも、イエス様はラザロを生き返らせました。それは、マルタが信じたからそのご褒美としてそうしたのではないことは、今まで見て来たことから明らかでしょう。マルタはイエス様との対話を通して信じるようになったのではなく、それまで信じていたものが兄の死で揺らいでしまったので、それを確認して強めてもらったのでした。

イエス様が生き返りを行ったのは、彼からすれば死なんて復活の日までの眠りにすぎいこと、そして彼に復活の目覚めさせをする力があること、これを前もって人々にわからせるためでした。ヤイロの娘は眠っている、ラザロは眠っている、そう言って生き返らせたので、それを目撃した人たちは本当に、ああ、イエス様からすれば死なんて眠りにすぎず、復活の日が来たら、タリタ クーム!娘よ、起きなさい!ラザロ、出てきなさい!と彼の一声がして自分も起こされるんだ、と誰でも予見したでしょう。

以上、ラザロの生き返らせの奇跡は、イエス様が死んだ者を蘇生する不思議な力があることを示すのが目的ではありませんでした。マルタとの対話と奇跡の両方をもって、イエス様は復活であり永遠の命であることを示したのでした。

3.

最後に、イエス様はこの目的のためにラザロを死なせて姉妹に悲しい思いをさせたことを何とも思わなかったのか?もちろん、これをすることで私たちが死を超えた強い希望を持てるようになったとわかるし、ラザロも生き返らせてもらったので文句なしと思われるかもしれません。でも、イエス様という方は目的遂行のためなら誰かを泣かせてもいいという方なのか?本日の個所をよく見ると、そういうことではなさそうです。

マルタとの対話が終わるとイエス様は今度はマリアを呼んできなさいと言います(28節)。マリアがやってきました。大勢の人たちも一緒にきました。イエス様の周りをマリアを中心に多くの人が取り巻いています。みんな泣いています。これに対してイエス様はどう反応されたでしょうか?新共同訳では「心に憤りを覚えて」とありますが、何を怒ってしまったのでしょうか?実は、ギリシャ語の原文ではこの部分は「心が動揺した」とか「心が揺り動かされた」とか「気が動転した」とか「感動した」などとも訳せるところです。実際、英語、ドイツ語、スウェーデン語、フィンランド語の聖書もそのような訳をしています。どこもイエス様が怒ってしまったとは訳していません。私もそっちの方がいいと思います。どうして「憤りを覚えた」などと訳したのか?おそらく、イエス様はこの時、人々が復活も彼の力も信じないことに呆れかえってしまったのだと受け取ったのかもしれません。でも、人々が悲しみに打ちひしがれて泣いている様子を見て、イエス様も泣いてしまうのです(35節)。これは、信じてくれないことに対する悔し涙なんかではないでしょう。本当に人々の悲しみを間近にして、心が動揺して共感して泣いたのです。ヘブライ4章15節の聖句と照らし合わせて見ても、そのように受け取るのがピッタリだと思います。

「この大祭司(イエス様のこと)はわたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯さなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。」

私たちに死を超えた復活と永遠の命を与えることが出来る途轍もない方は、このように私たちに共感を覚えて下さる方なのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

説教「神の栄光を現わすクリスト」V.アウヴィネン牧師、ヨハネによる福音書13章31~35節

アウヴィネン先生フィンランドのミッション団体SLEYの海外伝道局長Vアウヴィネン先生

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ヨハネによる福音書13章31~35節
「さて、ユダが出て行くと、
イエスは言われた。
「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。
神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。
子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。
あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」

通訳中、「フィリピの信徒への手紙」のことを「フィリポ」とか「フィリプ」とか言い間違えていますが、正しくは「フィリピ」です。お詫び申し上げます。

説教「救われるために何をしなければならないか?」トゥマス・ルッカロイネン兄(ヘルシンキ大学神学部学生)、通訳:吉村博明 宣教師

下の開始ボタン(黒三角)を押すと説教を聴くことができます。説教の後は、フィンランドのヤンググループ”ミッション ポシブル”がゴスペルソングを日本語で歌います。
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説教「洗礼ー新しい命の扉」V.アウヴィネン牧師(SLEY)、ヨハネによる福音書 3章1-12節

2018年5月27日 三位一体主日 礼拝説教

 

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説教者 ヴィッレ・アウヴィネン牧師
フィンランド・ルター派福音協会海外伝道局長、神学博士

聖句 ヨハネ 3章1-12節

 説教題 「洗礼 - 新しい命の扉」

私たちの父なるみ神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなたがた一同にあるように。アーメン

祈りましょう。神聖な神、愛する天の父よ、あなたの御言葉を感謝します。私たちに語りかけて下さい。アーメン

 ユダヤ教社会の学識ある指導者でファリサイ派に属するニコデモがイエス様に興味を持ちました。新約聖書に記されている出来事の中で、ファリサイ派の人たちがイエス様にいろんなことを問いただす場面が多くありますが、それはイエス様を陥れようと謀って行ったことでした。ただニコデモの場合は、イエス様に対する関心は純粋なものだったようです。彼は、イエス様のことを神が送られた方とまで言ったのです。さて彼は、イエス様と神の御国についてもっと知りたいと思いました。

 イエス様の最初の答えはびっくりさせるものでした。「人間は新しく天の神から生まれなければならない。そうでないと神の御国に入ることはできない。」この答えをニコデモは理解できませんでした。そこで、イエス様とニコデモの間に対話が始まります。その終わりの方で、イエス様は最も単純明快な福音を宣べてニコデモに真理を伝えようとしました。イエス様は次のように教えました。「神は、そのひとり子を送るほどにこの世を愛された。ひとり子を送るという仕方でこの世を愛されたのである。それは、彼を信じる者が一人として滅びることなく、永遠の命に与るためであった(ヨハネ3章16節)。

 なぜニコデモはイエス様の教えを理解することが難しかったのでしょうか?難しいというより、理解するのが不可能でした。その理由について、イエス様は次のように答えています。「肉から生まれた者は肉である。神の霊から生まれた者は霊である」(ヨハネ3章6節)。これと同じことを、使徒パウロは次のように言い表しています。「人間は自然の状態では神の霊が教えることを受け取らない。というのは、それは彼にとって馬鹿げたことに見えるからだ。それは神の霊の力を借りてのみ把握できるものなので、自然の状態では気づくこともできないのだ」(第一コリント2章14節)。パウロのこの言葉は何を意味するでしょうか?それは、神の御国に関する事柄は理性では理解できないということです。また、人間的な思考に頼ってでは神はどんなお方かを知ることが出来ないということです。人間の限りある論理は人間を神のもとに連れて行くことはできません。聖書が教えるように、私たち人間は堕罪のゆえに霊的に目が見えなくなっており、霊的に耳が聞こえなくなっており、また霊的に死んでしまっているのです。私たちには霊的な命がないのです。もちろん人間は宗教的になることは出来ますし、あれこれの神々について語ることは出来ます。それらに祈ったり、宗教的な儀式を行ったりすることは出来ます。しかしながら、そうしたからと言って、私たちの心に真の霊的な命があるということにはなりません。本当は神ではないものを神であると言って崇拝することは、それこそが霊的に死んでいることを表わしています。私たちの命にとって一番重要な問いは、「いかにして霊的に死んだ者が生き返ることができるか?」ということです。

 私の生まれ育ったフィンランドのトゥルクという町に古い教会があります。それは1300年に献堂式が執り行われ、今年で718歳になる教会です。その大きな教会の中に入ると、扉の左側に洗礼の水を入れる石で出来た器があります。今では使われていませんが、かつてはその水で洗礼が施され、人をキリスト信仰者にしていました。その器が扉のところにあるのは、それが洗礼について大事なことを教えるからです。つまり、洗礼とは、それを受ける教会の一員になって教会の中に入る扉を意味します。また、洗礼を受ける教会だけでなく世界を覆うキリスト教会の一員になってその中に入る扉を意味します。さらに、洗礼を受けることで、イエス様の弟子、彼に付き従う者になります。洗礼を通して、神の子とされた者たちの群れに加えられるのです。そして何よりも、洗礼を受けると、イエス様が十字架で流された血の力で私たちの罪が洗い流されて私たちは清くされ、イエス様がニコデモに言ったように、水と神の霊から新しく生まれるということが起きるのです。神の霊が新しく生まれさせてくれると、目の見えなかった者は見えるようになり、耳の聞こえなかった者は聞こえるようになり、死んでいた者は生き返ります。パウロがエフェソの信徒たちに次のように書き送っている通りです。「神の意思に反することを行ったために、罪のために死んでいたあなたたちを、神が生ける者にして下さったのです」(エフェソ2章1節)。洗礼を受けたキリスト信仰者は、神のことや神の御国のことを理解し始めるようになります。神の霊が、聖書の神の御言葉の力を借りて信仰者に教えます。そのようにして神を知ることが始まり、それは深まっていくのです。

 洗礼は、神の恵み、つまり罪の赦しの恵みの中に入る扉です。パウロはローマの信徒たちに次のように言います。「キリストは、今私たちがしっかりと留まっているこの恵みの中に入る道を開いて下さった」(ローマ5章2節)。あなたは、洗礼を受けたキリスト信仰者として、またイエス様を救い主と信じる者として、この神の恵みに包まれているのです。たとえあなたが弱く、依然として罪びとのままで、時に過ちを犯してしまうことがあっても、罪の赦しの恵みはあなたを包み、覆いかぶさっているのです。あなたは、神から罪の赦しを受けた神の子なのです。洗礼を通して、あなたはまず、この罪の赦しの恵みの中に入りなさいという神の指導を受け、次に、この恵みの中にしっかり留りなさいという指導を受けます。この恵みの中に入り留まるということは、自分が一員となった教会に留まって生きることであり、また、イエス様のことを罪の赦しを与えて下さる方として信じることです。それは、さらに、神聖な聖餐式を罪の赦しの確かな印として、また信仰を強めるものとして味わうことでもあります。もちろん、聖書の神の御言葉を聞き読むことも入ります。

 イエス様が開けて下さった扉から中に入ったあなたは、もはや外側にはいません。扉を通って中に入るということは、一つの状態から新しい別の状態に移行したということです。扉の隙間に留まって、中に入ろうか外に留まろうか、とどっちつかずの状態にいることは出来ません。同じことが洗礼についても言えます。洗礼が神の御国に通じる扉であると言う時、それは何かを後にする扉なのです。洗礼は、それまでの生き方、それまで人生にあったことを後にする扉です。このことをパウロは力強く次のように述べています。「キリストに繋がっている者は全て、新しく造られた者である。古いものは姿を消し、新しいものに取って代わられた」(第二コリント5章17節)。次のようにも述べています。「あなたがたも自分自身について同じように考えてみなさい。『あなたたちは罪に対して死んだので罪と無関係になった。そして、イエス・キリストと繋がって神の方を向いて生きる者となった』」(ローマ6章11節)。これは何を意味するでしょうか?歴史上最初のキリスト教徒たちにとって、それは何よりもまず、古い神々や魔術や霊的な力を捨てることを意味しました。彼らは、古い神々や宗教的な儀式は古い生き方に属するものであり、自分たちはそれらを後にして新しい命に移行したとわかったのです。使徒言行録に記録されていますが、エフェソの町でキリスト信仰者になった多くの者たちは、以前は魔術を行っていたが、それをやめて、それに関係する書物を集めて、群衆の見ている前で全て燃やしました。彼らは、古い生き方から離脱したことを公けに示したかったのです(使徒言行録19章19節)。キリストは、古い命を象徴する偶像が自分と同列に置かれることを認めません。私たちも、何が私たちの古い命を象徴する偶像かを考えてみなければなりません。それらは、もう私たちの命を支配することは出来ないので、私たちはそれらを後にしなければならないのです。

 新しい命に移行するということは、最初のキリスト教徒たちにとって、それまでと違う新しい生き方、生活態度、隣人との関わり方を持つことも意味しました。キリスト信仰者というのは、生きている間、神の意思は何であるかを絶えず問います。その答えは、聖書から見いだすことが出来ます。キリスト信仰者は、それに従って生きようとします。しかしながら、それはいつもうまく行くとは限りません。失敗することも度々あります。まさにその時こそ、次のことを思い出すべきです。罪の赦しの神の恵みは、洗礼を受けてイエス様を救い主と信じる者を包んでいるということを。罪に陥っても、赦しを得られます。そして、いつの日か、天の御国の神の御許にて、不完全だった者は完全な者に変わります。罪は永久に背後に押しやられ、残るものはただ、喜びと平安と神を完全に知ることだけになります。

 アーメン

 

 

説教「天使の御告げ」木村長政 名誉牧師、ルカによる福音書1章26~38節

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 イエス様の御降誕を祝うクリスマスがもうすぐです。今日の礼拝ではクリスマスの喜ばしい出来事が起こる前に神様がどんな出来事をなさったのか、今日はマリアに起こった出来事を中心に御言葉に聞いてゆきたいと思います。ユダヤのガリラヤの町ナザレと言う村に一人の乙女マリヤがおりました。ガリラヤの町ナザレと言ってもこの当時誰にも知られていない片田舎です。26節によりますと〔6ヶ月目に天使ガブリエルはナザレと言うガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフと言う人の許婚である乙女のところに遣わされたのである。その乙女の名はマリアと言った。〕とあります。純粋で清らかな心を持っていたマリアに突然天使ガブリエルが現れたのですから彼女はどんなに驚いたことでしょう。そしてマリアに大変なことを告げたのであります。「恵まれた女よ、おめでとう。主があなたと共におられます。」マリアはいきなりこう言われて」驚きと恐れの思いで聞いたでしょう。天使の言葉は祝福の言葉ですが、なぜ祝福されねばならないのか全く分からなかったからであります。マリアは何を考えてよいのか天使に告げられたことが理解できないのです。何が自分の身に起きようとしているのか、天使の言われるままを聞いたいます。聞いていくうちにだんだん分かって来たのです。何が分かったにかと言いますと「主が一緒にいてくださる」ということであります。30節から見ますと天使がマリアに告げました。「マリア恐れることはない。あなたは神からの恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人となり、いと高き方の子と言われる。神である主は父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治めその支配は終わることがない」。マリアに対して、恐れなくて良いあなたは身ごもって男の子を産むと言われる。更に天使は告げます。「その子にはダビデ王の座をくださる」と言うのです。天使ガブリエルが告げた言葉は凄いことでした。マリアにはとてもとても考えられないことばかりです。マリアは思い迷って迷って心が乱れたことでしょう。どうしていいか何もかも分からなくなってしまった。マリアが驚いたのは自分にはあり得ないことであるからです。それで34節でマリアは言いました。「どうしてそんな事があり得ましょうか。わたしはまだ夫がありませんのに」。ヨセフとは許婚の仲で結婚はまだしていないのに、どうしてあり得ましょうか、と言うのであります。マリアの言葉はそのとおりに違いありませんが、ただそれだけのことでしょうか、ただ田舎の小娘が慌て恐れてこう言っているだけでしょうか。この前にルカはザカリヤの妻に起こったことを書いています・。

ルカはわざわざ聖書に書き残しておく必要がどこにあるでしょうか。〔実はルカはマリアの話だけでなく、1章5節から25節に至るまで祭司ザカリヤの妻に年老いてから子供が授かっていることを延々と書いているのです。〕年老いたザカリヤの妻に子供が産まれるという、どうしてそんなことがあり得ましょうか。マリアの身に起ころうとしていることが、その6ヶ月前に神様はもう90歳近いこの老夫婦に凄いことをおこされている。「どうしてそんな事があり得ましょうか」人間の目から見ると絶望的なこと、全く無力なことでした。確かにザカリヤ夫婦は子供を望んでいたでしょうが、もうずうっと子度は与えられなかった、それに老人になってしまって子供が出来るなんて考えられないことに絶望していたことでしょう。どう考えても人間の力ではどうにもならないことです。これがクリスマスを迎える全ての人に投げかけられる神からの不思議な神秘であります。そこで35節を見ますと天使

ガブリエルはマリアに答えてあげます。それは壮大な世界しかも深遠な神の霊の世界に触れて、その神秘のベールをあらわにされています。天使は告げます、「聖霊があなたに降りいと高き方の力があなたを包む。だから生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」というのです。今や聖霊がマリアをすべて包んでいます。聖霊の出来事です。マリアが乙女であったとか神ご自身がどうして人間の姿をもってみどり子としてお生まれになったのか、そんなことより次元の違う神の霊の次元にマリアはただ恵みを得ているのです。だから生まれる子は聖なる者です、神の子と呼ばれるでしょう。マリアはもう神の霊に満たされて、すべてが神のご計画の中にあってその尊い御業は進められて行きます。マリアは天使の御告げを聞き彼女はそれを正しく受け止めることができました。そこには聖霊の助けとマリア自身の清らかな貧しくしかし純粋な信仰をもっていたからでしょう。カトリック教会の人々はマリアを聖母として特別な人間のようにお祈りをしたりします。しかしマリアが偉いのはそんな事のためではありません、マリアは主なる神が自分に対してなさったことをそのまま信頼をもって受け入れたことであります。そうしてマリアは心のそこから賛美があふれ出て言います。38節にありますように「わたしは主のはしためです、お言葉どおりこの身に成りますように」、といっています。天使の言葉からマリアはこのような想像もつかないことが自分の身に起こって行く、それが主のために用いれられ生かされて行くというのです。わたしは、すべてを主に献げて信頼してゆきます、わたしは主のはしためです、と言っています。はしためと言うのは女奴隷のことです、だから、わたしは神様の奴隷でございます、と告白しているのです。奴隷は御主人様の言うままになる者です、その生命もすべて主人のものです。マリアは特別な運命の御業をすべて身に受けて自分を全く神の御手にまかせきったのです。マリアのこれからの身に起こってくる、いろいろな辛い苦難や人々からの非難が襲ってくる、そして家族や許婚のヨセフ、身にも影響して行くすべての事柄を「主のお言葉どおり従って行きます」といっています。それは、計り知れない大きなこと、そして大きな恵みであります、神の子を産むという大きな恵みです。マリアが奴隷と言ったのは少し言いすげでしょうか、神様の思いのまま、そのお考えがどんなものになるのか・・・どこまで思いのままに従うことなのでしょうか。私たちもマリアだけでなく信仰を持つということは神様に委ねて神様に従ってゆく生活です。けれども神の思いのままに従って行きます、とは言っても程度があると言うことになるのでしょうか。毎週の日曜日の朝を神に礼拝しに行くたびに、いろいろと自分の都合を挟み込んで考えてしまいます。自分のうちに口では言えないもろもろの課題が降り注いできます。マリアの思いがどんなに重いものであったか、私たちの神様にお任せする程度などちりのように吹き飛んでしまうほどしかないものでしょうか。

 マリアと共にこれから先のことも私たちは一切を神にお任せして従って参ります。神に任せた者の祝福を受けるものがどんなものか、そこには及びもつかない神の祝福がいつもあるということです。マリアは主のはしためです、と言いましたが私たちは神の奴隷としてキリストの奴隷として信頼して主に委ねて行きます、と言うのでしょうか。私たちは神のみ前に罪の奴隷になっていたのにキリストの救いによって購われたのです、キリストに買い取られたのです。そしてキリストのものとなってしまっているのです。今日私たちが信仰生活をするとき少し真剣に考えてみると自分は自分で造ったものでない。両親が造ったものでもない、本当は神様によって造られた自分であることを思えば自分は神様に対して奴隷どころではない、自分は何もせず努力もしないで神様によってだけ造られて今があるのです。それならばマリアと同じように「お言葉どおりにしてください」と言うほかありません。天使は去って行きましたマリアはどうしたでしょうか、ルカは39節以下に一生懸命に書き記しています。マリアはザカリアの家を訪ねエリザベトに会いに行きました。エリザベトは聖霊に満たされてマリアを迎え喜び合います。42節にありますように「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。」マリアは感謝と喜びに満たされて彼女の最大の心を込めて主を賛美しました。それが46~55節のマリア賛歌です。「私の魂は主をあがめ私の霊は救い主である神を喜び讃えます。・・・」実はマルチン・ルターはこのマリア賛歌を、分かりやすくドイツ語で請解説教のように書きました。1520~21年に書いてルターの身の危険から保護してくれたマイセンの領主ザクセン公ヨハン・フリードリッヒ殿下に捧げています。〔殿下よわたしは先日お送りくださいました殿下の親愛なるお手紙、恭しく拝受いたしましたその慰めに満ちたお手紙のおもむき全てを喜びを持って拝承しました、しかしながら殿下よ私が長い間お約束してまいりました「マリア賛歌講解」は多くの反対者との不幸な論争にしばしば妨げられていまだにその責任を果たしていません。それで私は同時にこの小冊子をもって殿下のお手紙に対するお返事に代えたいと存じます。〕王や君主は神のみ前にどうあるべきか、マリアの賛歌の51~53節をもって強調して行きます。

ルター自身がこの時カトリックの会議で破門されるかどうか生死との危険の只中で自分の身を重ね合わせている訳です。そして序言の書き出しには次のようにあります、〔この聖なる賛歌を順序正しく理解するには祝福された処女マリアが彼女自身の経験から語っていることを心にとめることが必要である。この経験において彼女は聖霊によって照らされ教えられたのである。というのは何人も直接聖霊から与えられない限り神も神の言葉も正しく理解することはできない。しかし何人もそれを経験し試し体得することなしには聖霊からそれを受けることはできない。かくして聖処女は彼女が価値なく卑しく貧しい、そして軽蔑された者にも関わらず神がかくも大いなる事を彼女のうちになしたもうたことを経験したときに聖霊は彼女に神はかくの如き主にいまし低き者を高うし高き者を低くしたもう、ということ、知恵と知識とを与えた。〕今回はこれまでにしましょう。 アーメン・ハレルヤ!

説教「神の宮として輝く」木村長政 名誉牧師

 

第12回コリント信徒への手紙 3章10~17節               2017年11月12日(日)

 

今回のみ言葉で中心となる大切な言葉は最後にあります17節です。17節〔あなた方は神の神殿なのです〕と言うことです。9節でもパウロは強調しました。〔私たちは神のために力を合わせて働く者でありあなた方は神の畑、神の建物なのです。〕この最後のあなた方は神の建物なのです、と同じことを記しています。信仰者は教会を互いに建て合うほかありません。そして決して易しいことではありません。それでパウロは10節で言うのです。教会を建てる中心人物になっているところの自分について「神が賜った恵みによって熟練した建築師のように土台を据えた」と。この仕事は人間の知恵や努力だけではどうにもならない。神から賜った「恵み」によって、と言う事が大切であります。教会は人間のためにあるものですが、神の教会であります。それなら神の恵みを受けて神の力によらねば出来ないことであります。神の力により神の御心にかなうようにするわけであります。それは神の恵みによる他ないでありましょう。その上、パウロは「熟練した建築師として」と言っています。家を建てるのですから熟練した建築師が必要なことは言うまでもありません。まして、神の家を建てると言うことになると、よほどの熟練が必要であります。信仰の熟練であります。いろいろな困難にあうことは当然であります。その時に何よりも信仰的にどうしたら良いのか。それを知っているのは神の恵みによって熟練者になった人でなければならない。神のお気に入るように神のみ業に役立つようにするには熟練が必要でしょう。ところが、ここに注目すべきことが書いてあります。それはパウロが土台を据えた、と言っていることであります。そして「その土台の上に」他の人が「家を建てるのである」と言うのであります。つまりパウロは自分の仕事は土台を据えることだけである、とい思っていたらしいのであります。つまり、パウロは自分の仕事は土台を据えることだけである、と思っていたらしいのであります。土台は言うまでもなく建物では一番大事なものであるに違いありません。しかし、パウロが特にこのように土台にこだわるのは何か特別な意味があるにちがいありません。それで11節に書いています〔イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれも他の土台を据えることはできません。〕この土台以外には誰も土台を据えることはできない、その土台はイエス・キリストであると言っているのです。パウロが自分は神の恵みによる熟練を持っていた、と言っていますが、その熟練はまさにイエス・キリストを土台に据える、その熟練さであるということです。ここにこの建物の秘密があり力があるわけです。

 

それならば、キリストが土台であるというのはどういうことでしょうか。これは実際の建築の話ではありませんから、つまり例えて言っている訳です。土台というのも信仰上のことであります。教会がイエス・キリストに対する信仰の告白を持っているということです。イエス・キリストに対する信仰の告白というのはイエス・キリストと言い表す信仰告白といっても良いでしょう。イエスが神の子キリストである、と信仰をもって告白することは何でもないようでいて決してそうではないのであります。教会の信仰告白の歴史を見ますといつでも問題はあのナザレ人イエスを神のお遣わしになった救い主キリストと信じているかどうか、ということです。多くの人々が「イエス」という人物を偉い人だと考えたり或いは「たぐい稀な人間離れの人類の教師だ」と見る人々、学者など神を信じていない人でもそれくらいは考えているのであります。しかし、そのキリストによって救われるということになれば話は別であります。それは人間的に言えば大変難しいことであります。しかし、そう信じなければ救われたということにならないでありましょう。もし救われたというのでなければキリスト教はただの人生の教えと言うことになってしまう。その信仰が「土台」になっているというのはどういうことでしょう。土台ですからその上にあるものをすべて支える力を持っているものである、ということです。それならばイエス・キリストを土台に持つ教会はあらゆる事においてイエス・キリストを表すものでなければならない。それはイエス・キリストがその教会の支配者になるということであります。教会の中の一切のことを運営するのにイエス・キリストがご主人になっていてくださるようにするのであります。それはキリストを頭と仰ぐというようなことでなくて自分がキリストに救われたのだから何事もキリストのみ心のままにしようとということであります。次にパウロが12節以下で書いていることはどういうことでしょう。12節

〔この土台の上に誰かが金、銀、宝石,木、草、わらで家を建てる場合各々の仕事は明るみに出されます。〕と書いてあります。するとパウロ自身は土台を据えるだけであったのでしょうか。「既に据えられている土台以外のものを据えることは誰でもできない」と言っているのですからパウロはこの土台を据えるだけで他の人はその土台の上に建てるだけである。ということになります何れにせよもう土台は据えられた。これからはその上に建てるだけである。それは多くの人に任せるほかはないと思ったのでしょう。人々はどのようにして教会を作るのでしょうか。ここに書いてあるようにある者は金を用い、ある者は銀を用い、他の人々はそれぞれ宝石や木や草や、わら等で建てるというのです。勿論これは実際の家の建て方のことではなくて各々がその信仰によって建てることを言ったのでしょう。信仰には強弱があります、また長い信仰生活の人も短い信仰生活の人もあったでしょう或いはお金持ちのように見えるが実際には草か、わらしか提供できなかったかもしれません。その反対に思いがけない人が思いも及ばないような献げ物をすることもありましょう。金を献げたか、銀を献げたか、草であったか判断することはできません。神がご覧になってどう判断されるか神のみがご存知であります。そして神がきびしくお裁きになることであります。

 

そのことを13節以下に詳しく記しています。〔各々の仕事は明るみに出されています。かの日に火と共にあらわれ、その火は各々の仕事がどんなものであるかを吟味するからであります。〕ある学者はここで火と言っているのは聖霊の判断のことであろうと言います。ここで言っていることが具体的に何を言うのか良く分かりません。ともかく神の御心にかなわない業は滅び去り御心にかなったものだけが残るというのでしょう。16~17節ではいかにも突然のことのように「我々は救われる」と言って急に「あなた方は神の宮である」と言っています。信仰を持っている者は神のものとされるということです。「神のもの」というのは神に仕え神のお喜びになるようにすることであります。ここではそれが「神の宮になる」ということであるのです。神のものであるからには神に喜ばれるものということですから、それなら神が一番お喜びになることは何でしょうか。詩篇19編に次のようにあります。〔もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空は御手の業を示す。〕神がおつくりになった天地は神の栄光をあらわしている。それなら神のものである私たちも何より神の栄光を表し神を讃えるものでなければなりません。それが神のものの特徴であるはずであります。神のものは神の宮と言っても

良いのであります。神の宮ではどこを眺めても神の栄光をあらわし御手の業を示しているはずでしょう。わたしたち信仰者はどんな仕事をしていてもその仕事と生活を通して神を崇めること、それを神はお望みになっているのであります。神の宮というのは言うまでもなく神殿ということです、神殿での仕事は決まっています。それは神に会うということです、私たちが神の宮であると言うのはいつでも神に会うことのできるような生活が与えられたということであります。信仰を持っている者は祈ることを知っています、いつどんな時でも祈ることが出来ますし神様にお目にかかることができる、これこそ大きな恵みであります。最大のことは礼拝が出来ることであります、神の神殿であるのですから神を拝むことができるということです。

 

しかし自分たちがはたして神の宮といえるのでしょうか、何の力もなく知恵もなく自分たちのどこにそのような資格があるのでしょうか、と惑ったりします。それでこう書いてあります。〔神の御霊が自分の内に宿っているのをしらないのか。〕〔知らないのか〕と言っているのですからそれはまるで私たちの弱い心を見通しているように思われます。あなた方は神の宮であることに気づいていないであろう。しかし神の御霊がすでにあなた方の内に宿っているではないか、というのです。神の御霊はキリストを信じてくださいました、救いも確信させてくださいました。こうして信仰のすべてが神の御霊によって与えられているのであります。こうして信仰生活をしていることが私たちが神の宮であることが示されている、ということになるのではないでしょうか。私たちはもっと自分が神の宮であることを意識して良いのであります。そして一層熱心に神を拝み神に仕えなけらばならないのではないでしょうか。          アーメン・ハレルヤ!

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説教「神の国の実を結ぶ者」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイによる福音書21章33-44節、イザヤ書5章1-7節

主日礼拝説教 2017年10月22日 聖霊降臨後第20主日

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

本日の福音書の箇所のタイトルは「ブドウ園と農夫のたとえ」です。正確には、農夫は自営農ではなく雇われ人ですので、「ブドウ園と雇われ農夫」です。さて、聖書を読んだことのある人だったら、このたとえは容易に理解できるのではないかと思います。ブドウ園の所有者は天地創造の神を指し、雇われ農夫たちはユダヤ教社会の指導者やそれに従う人たち、所有者が送って迫害される僕たちは神が遣わした旧約聖書の預言者たち、そして所有者が最後に送る自分の息子はイエス様という具合に登場人物が誰を指すかは一目瞭然です。

 これがわかれば、イエス様がたとえで言いたいこともわかります。世界の数ある民族の中から天地創造の神に選ばれたイスラエルの民。彼らはモーセの律法を授けられて、それを一生懸命に守ろうとした。ところが、人々の生き方は次第に神の意思から離れていって、エルサレムの神殿を中心とする崇拝も外面的な儀式の繰り返しに堕してしまった。神はそれを正そうと、預言者を立て続けに送ったが、指導者も民も耳を貨さず迫害して殺してしまった。最後に神はひとり子イエス様をこの世に送ったが、それも彼らは殺してしまった。神はイスラエルの民に神の国を託していたが、これを機に民を見限ってそれ以外の民族に神の国を委ねることにした。その、ユダヤ民族にかわって新たに神の国を担うことになったのがキリスト教徒ということになります。イエス様がここで話していることは過去の出来事の復習と将来についての預言で、預言は具体的な歴史の中でその通り実現しました。このように世界史の復習も兼ねて、イエス様の預言が見事に当たったことに感心しながら、このたとえを理解できます。

 

2.イザヤ書5章の「ぶどう畑」のたとえ」

このような理解が出来るのは、私たちが、イエス様の十字架の死と死からの復活の出来事の後で歴史上何が起こったかを知っているからです。たとえで言われていること一つ一つを歴史上起きたことに結びつけることができるからです。ところが、イエス様と面と向かい合って初めてこのたとえを聞いた当時の人たちは、当然ながら、歴史を遡って確認するような理解はできません。このたとえは、イエス様がエルサレムに入城した後、神殿の中でユダヤ教社会の指導者たちを相手に論争している時に話されました(21章23節)。まだイエス様の十字架と復活の出来事の前のことです。

ただし、指導者たちがこのたとえを理解できる鍵がひとつありました。それは、先ほど読んで頂いた本日の旧約聖書の日課イザヤ書5章1~7節の聖句です。どのような聖句だったかと言うと、天地創造の神とその「愛する者」があたかも一心同体のようにひとつのぶどう畑を持っていた、というたとえの教えです。一心同体のように、と言うのは、神の「愛する者」が持つぶどう畑と言われつつも(1節)、神はそれを自分のぶどう畑とも言います(3節、ただし4節の「ぶどう畑」も5節の「このぶどう畑」もヘブライ語原文ではちゃんと「私の」ぶどう畑と言っています)。畑を耕したり、見張りの塔を立てたり、「酒ぶね」(ぶどうを足で踏んでぶどう酒用の汁を搾り出すところ)も作ったり、そういうふうに神の「愛する者」が一生懸命働きますが(2節)、働いたのは神自身であるとも言います(4節)。

さて、一生懸命働いて、良いぶどうが実るのを待ったが、出来たのは酸っぱいぶどうであった。「酸っぱいぶどう」というのは、野生のぶどうとも訳される単語ですが、要するにぶどう酒造りに役立たないぶどうが出来たということです。そういう出来事を述べた後で神は、実はこの恩知らずのぶどう畑は神に選ばれたはずのイスラエルの民の情けない現状である、という解き明しを始めます。その時ブドウ畑の所有者は天地創造の神を指すことが明らかになります。神と一心同体になってぶどう畑を所有して世話を焼く「愛する者」とは、キリスト信仰の観点では神の御子イエス様を指すことは間違いないでしょう。

さて神は、ぶどう畑が良い実を実らせるようにと、できるだけのことをしてあげた。つまり、民を奴隷の地エジプトから解放して、約束の地カナンに定住させた。その途上で神の意思を明らかにする律法を授け、敵対する民族の攻撃から守ってくれたりした。それなのに民は、神の意思に沿わない生き方に走ってしまった。この神の御言葉を記した預言者イザヤはイエス様の時代から700年以上も前に活躍した人です。イスラエルの民が良い実を実らせないぶどう畑にたとえられるというのは、当時の状況をよく言い表していていました。当時イスラエルの民には南北二つの王国がありましたが、北王国はちょうどその頃アッシュリアという大帝国に滅ぼされます。南王国は100年近く持ちこたえますが、これも最後はバビロン帝国に滅ぼされてしまいます。まさに神に見捨てられたぶどう畑となってしまったのです。

 

3.イエス様の「ブドウ園と雇われ農夫たち」のたとえ

 それから700年以上経った後で、イエス様がブドウ園と雇われ農夫のたとえを話しました。話す相手はユダヤ教社会の指導的地位にある人たちでした。みんな旧約聖書の中身をよく知っている人たちです。イエス様が「ブドウ園の所有者が垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立てて」などと話すのを聞いて、彼らはすかさずイザヤ書5章の冒頭を思い浮かべたでしょう。それで、所有者は天地創造の神を指すということもわかったでしょう。「この、預言者の再来と騒がれている男はイザヤ書の聖句を引き合いに出して何か自説を展開しようとしているな、聞いてやろうじゃないか」ということになりました。ところが、イエス様の教えにはイザヤ書にないものがいろいろ出て来ました。雇われ農夫がその一つです。「あれ、イザヤ書には農夫なんか出なかったぞ、一体何を指すのだろう。」違いは聞く人の注意を引いたでしょう。イエス様の狙いもそこにありました。

 イエス様のたとえのブドウ園の所有者は雇われ農夫に園を任せて旅に出ます。日本語で「旅に出た」と訳されているギリシャ語原文の動詞(αποδημεω)ですが、これは「外国に旅立った」というのが正確な意味です。どうして外国が旅先かと言うと、当時、地中海世界ではローマ帝国の富裕層が各地にブドウ園を所有して、現地の労働者を雇って栽培させることが普及していました。所有者が労働者と異なる国の出身ということはごく普通だったのです。「外国に出かけた」というのは、所有者が国に帰ったということでしょう。こうした背景を考えると、雇われ農夫が所有者の息子を殺せばブドウ園は自分たちのものになると考えたことが納得できます。普通だったら、そんなことをしたら自分たちのものになるどころか、すぐ逮捕されてしまいます。ところが、息子は片づけたぞ、跡取りを失った所有者は遠い外国にいる、もう邪魔者はいない、さあブドウ園を自分たちのものにしよう、ということなので筋は通っています。

 さて、収穫の時が来て、所有者は収穫を受け取るために僕を繰り返し雇われ農夫のもとに送るが、農夫は僕たちを殺してしまう。しまいには、これならいくらなんでも言うことを聞くだろうと、自分の息子を送るが、これも殺してしまう。これらの出来事の意味は、私たちには明らかです。先にも申しましたように、所有者は神、雇われ農夫はユダヤ教社会の指導層、僕は神が送った預言者たち、所有者の息子は神のひとり子イエス様です。ところが、十字架と復活の出来事が起きる前、イエス様が本当に神の子なのか疑いがもたれていた頃、人々は私たちと同じようには理解できなかったでしょう。所有者は神だとわかるとしても、農夫とは一体誰のことだ?神が送って農夫が殺した僕たちとは誰なのだ?それにしても、所有者の息子つまり神の息子とは一体誰のことだ?

まさに疑問の渦が沸き起こるや否や、イエス様は指導者たちに質問します。「ブドウ園の所有者が戻ってきたら、雇われ農夫たちをどうするだろうか?」指導者たちの答えは的を得たものでした。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ブドウ園はきちんと収穫を収めるほかの農夫たちに貸す。」この答えは、たとえに出てくる登場人物が誰を指すかはっきりわからない状態で、たとえを額面通りに理解した時に出たものです。まさか自分たちのこの答えが、自分たちの運命を自分で言い表すものになっていたとは、彼らにとっても想像できなかったでしょう。

 指導者たちの答えの後、イエス様はすぐ「隅の親石」の話をします(42節)。家を建てる者が捨てはずの石が、逆に建物の基となる「隅の親石」になったという、詩篇118篇22~23節の聖句です。これも、私たちから見れば、意味は明らかです。捨てられたのは十字架に架けられたイエス様、それが死からの復活を経て、神の国という大建築の基になったのです。それを捨てた建てる者というのは、イエス様を十字架の死に引き渡したユダヤ教社会の指導者たちです。十字架と復活の出来事が起きる前にここでこの聖句を聞いた人たちは一体何のことかさっぱりわからなかったでしょう。ただ、「隅の親石」を捨てた者たちというのは、価値あるものを理解できず、価値のないものにしがみつく者という連想を生むので、先ほどの農夫同様に良からぬ者たちを指していることに気づきます。さて、イザヤ書5章と詩篇118篇の聖句をもとにして、この男は何を言いたいのか?雇われ農夫、家を建てる者とは誰を指すのか?指導者たちはイエス様の口から出て来る次の言葉を固唾を飲んで待ちます。

 そこでイエス様は、全ての謎の解き明かしをします。「それゆえ、お前たちから神の国は取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる」(43節)。日本語で「民族」と訳されているギリシャ語の言葉(εθνος)は、たいていの場合ユダヤ民族以外の民族「異邦人」を指す言葉です。ここにきてイエス様の教えの全貌がはっきりしました。ブドウ園を神の国と言うのなら、その所有者はやっぱり神ではないか!神が送って迫害され殺された僕たちは、旧約聖書に登場する預言者たちではないか!つまり、邪悪な雇われ農夫とは自分たち、ユダヤ教社会の指導層のことを指していたのだ!この時点で指導者たちはたとえは自分たちについて言っているとわかった、と45節で言われています。それまで旧約聖書の聖句と外国人所有者と現地人雇われ農夫の悲惨な出来事のごちゃまぜだったものが、急にユダヤ教社会の指導層と神の民イスラエルの運命についての痛烈な批判に急変したのです。ましてや、神の国が自分たちから取り去られて異邦人に渡されてしまうということを、自分たちの口を通して言わせるとは!怒りが燃え上がった指導者たちは寸でのところでイエス様を捕えようとしましたが、まわりにイエス様を支持する群衆が大勢いたためできませんでした(46節)。

 

4.「神の国」とは?

 このイエス様のたとえは、私たちから見たら歴史の復習になるので、ああそういうことが後で起きましたね、という受け止め方が出来ます。ところが、まだイエス様の十字架の死と死からの復活も起きていない、神の国の移譲も起きていない段階にいる人たちにとっては、そんなことは認められない、と反発するしかありません。そして、全てが起こってしまった後は、起こってしまったことに対して認められない、などとは言えません。

 それでは、本日の福音書の箇所は、もう実現してしまった預言として、私たちからみたら過去の出来事として、ああ、イエス様は将来のことを見事に言い当ててすごいなあ、と言って終わるものでしょうか?たとえの中で言われていることは全て実現してしまったので、それに対して何も付け加えることも削ることもできない。それで本日の福音書の箇所の説教は、ただ歴史の復習のような解説で終わってしまうのでしょうか?

 そうではありません。このイエス様のたとえの教えは、全てのことが実現した後でも、人間にどう生きるべきかを教えるものになっています。イエス様の時代から2000年過ぎた今でもそうです。説教というのは、聖句の正確な解説だけではありません。できる限り正確な解説の上に立って、それが今を生きる自分に何を語ろうとしているか、これを正確な解説の上に立って明らかにすることが説教です。聖書の聖句は生ける神の御言葉ですから、その神が今を生きる自分に何を語ろうとしているかを明らかにするのが説教です。

 この、一見私たちの目からすれば過去のことを言っているだけにすぎない聖句は、もちろん今を生きる私たちにどう生きるべきかを教えています。それがわかるために、「神の国」が「神の国の実を結ぶ民族」に与えられる、と言っていることに注目しましょう。新共同訳では「それにふさわしい実を結ぶ民族」となっていますが、「それ」は「神の国」を指します。「神の国にふさわしい実を結ぶ」というのは、ギリシャ語の原文を忠実に訳すと「神の国の実を結ぶ」です。「ふさわしい」はなくて「神の国の実」そのものを結ぶということです。「民族」というのは、先ほども申し上げたように、ユダヤ民族以外の民族すなわち「異邦人」です。ユダヤ民族以外の、「神の国の実を結ぶ者」に「神の国」が与えられる、と言っているのです。それでは、「神の国の実を結ぶ」とはなんなのか?何をすることが「神の国の実を結ぶ」ことなのか?そもそも、その「神の国」とは何なのか?ユダヤ民族は取り上げられると言われて激怒するが、異邦人の我々は与えられて嬉しいものなのか?

 「神の国」については、説教で何度もお話ししてきました。ここでもまた繰り返します。これからお聞きになればわかるように、聖書の「神の国」について知るということは、キリスト教の死生観を知ることにもなります。

神の国とは、天と地と人間その他万物を造られた創造主の神がおられるところです。それは「天の国」とか「天国」とも呼ばれるので、何か空の上か宇宙空間に近いところにあるように思われますが、本当はそれは人間が五感や理性を使って認識・把握できる現実世界とは全く異なる世界です。神はこの現実世界とその中にあるもの全てを造られた後、自分の世界に引き籠ってしまうことはせず、むしろこの現実世界にいろいろ介入し働きかけてきました。旧約・新約聖書を通して見れば、神の介入や働きかけは無数にあります。その中で最大なものは、ひとり子イエス様を御許からこの世界に送り、彼をゴルゴタの十字架の上で死なせて、三日後に死から復活させたことです。

 神の国はまた、神の神聖な意思が貫徹されているところです。悪や罪や不正義など、神の意思に反するものが近づけば、たちまち焼き尽くされてしまうくらい神聖なところです。神に造られた人間は、もともとは神と一緒にいることができた存在でした。ところが、神に対して不従順になり罪に陥ったために、神との関係が壊れ、神のもとから追放されてしまいました。その時、人間は死ぬ存在になってしまいました。この辺の事情は創世記3章に記されています。

 神は、このような悲劇が起きたことを深く悲しみ、なんとか人間との関係を回復させようと考えました。神との関係が回復すると、人間はこの世の人生を神との結びつきを持って歩めるようになり、絶えず神から良い導きと守りを得られるようになります。さらに、万が一この世から死ぬことになっても、その時は御許に引き上げてもらい、永遠に自分の造り主である神のもとに戻れるようにしてくれます。こうしたことが実現するためには、関係を壊している罪の汚れを人間から除去しなければならない。そのためには人間は罪のない清い存在にならなければならない。しかし、神の意思を実現できない人間にそれは不可能である。しかし、神は人間を救いたい。

 このジレンマを解決するために神はひとり子イエス様をこの世に送りました。そして、人間と神との関係を壊していた原因である罪を全部イエス様に負わせて、罪から来る神罰を全部彼に肩代わりさせてゴルゴタの十字架の上で死なせました。神は、まさにイエス様の身代わりの犠牲に免じて人間を赦すことにしたのです。話はそこで終わりませんでした。神は一度死なれたイエス様を復活させて、死を超えた永遠の命があることを示され、その扉を人間のために開かれました。そこで私たち人間が、これらのことは全てこの自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様は自分の救い主であると信じて洗礼を受けると、イエス様に免じた罪の赦しがその人にその通りになります。その人はあたかも有罪判決が無罪帳消しにされたようになって感謝に満たされて、これからは罪を犯さないように生きよう、罪を忌み嫌い、神聖な神の意思に沿うように生きようと志向するようになります。

 ところが、キリスト信仰者と言えども、信仰者でない人と同様にまだ肉を纏って生きていますから、もちろん罪をまだ内に持っています。しかし、信仰者の場合は、神の意思に反する何かが心のどこかで頭をもたげるとすぐ罪だと気づき、すかさず心の目をゴルゴタの十字架に向けて、「イエス様を救い主と信じますから赦して下さい」と神に祈ります。すると神は、「わかった、わが子イエスの犠牲の死に免じてお前を赦す、だからもう罪を犯さないように」と言って赦してくれて、信仰者が新しいスタートを切れる力を与えてくれます。

 このようにキリスト信仰者は罪の汚れを残しているのだけれども、イエス様のおかげで全く清いと見なしてもらえるようになった、それで、それに相応しく生きなければと襟を正すのです。かつて自分の造り主である神に背を向けていたが方向転換をして、これからは神の方を向いて、神との結びつきにしっかりとどまろうと日々を歩むのです。これがキリスト信仰者です。歩む先は死を超えた永遠の命が待つ神の国です。この道を歩む時、既に神の国に予約席を持っています。

 ところで、神の国は、今はまだ私たちの目に見える形にはありません。それが、目に見えるようになる日が来ます。復活の日と呼ばれる日がそれです。それはまた最後の審判が行われる日でもあります。イザヤ書65章や66章(また黙示録21章)に預言されているように、天地創造の神はその日、今ある天と地に替えて新しい天と地を創造する、そういう天地の大変動が起こる。「ヘブライ人への手紙」12章に預言されているように、その日、今のこの世にあるものは全て揺るがされて崩れ落ち、唯一揺るがされない神の国だけが現れる。その時、再臨されるイエス様が、その時点で生きている信仰者たちと、その日死から復活させられる者たちをあわせて、これらを神の国に迎え入れられます。

その時の神の国は、黙示録19章に記されているように、大きな婚礼の祝宴にたとえられます。これが意味することは、この世での労苦が全て最終的に労われるということです。また、黙示録21章4節(7章17節)で預言されているように、神はそこに迎え入れられた人々の目から涙をことごとく拭われます。これが意味することは、この世で被った悪や不正義で償われなかったもの見過ごされたものが全て清算されて償われ、正義が完全かつ最終的に実現するということです。同じ節で「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」と述べられますが、それは神の国がどういう国かを要約しています。イエス様は、地上で活動していた時に多くの奇跡の業を行いました。不治の病を癒したり、わずかな食糧で大勢の人たちの空腹を満たしたり、自然の猛威を静めたり無数にしました。こうした奇跡は、完全な正義、完全な安心と安全とが行き渡る神の国を人々に垣間見せ、味わさせるものだったと言えます。

 

5.神の国の実を結ぶ者

以上「神の国」がどういう国かについてお話ししました。(当時のユダヤ教社会の指導層が「神の国」を同じように理解していたかどうかは別の問題になるので、ここでは取り上げません。)今度は「神の国」が与えられることになる「異邦人」、「神の国の実を結ぶ異邦人」とは誰なのかを考えてみましょう。「異邦人」は、先ほども申し上げましたように、ユダヤ民族以外のその他の民族です。日本人も中国人も欧米人もアフリカ人も皆、ユダヤ民族から見たら「異邦人」です。それが「神の国の実を結ぶ」というのは、どういうことか?答えは、その実を結ぶ者に「神の国」が与えられると言っているので、誰に「神の国」が与えられるかを思い出せばいいのです。それは、前にも述べましたように、イエス様を救い主と信じる者です。イエス様を救い主と信じる者に神の国が与えられる。神の国の実を結ぶ者に神の国が与えられる。つまり、イエス様を救い主を信じる者と神の国の実を結ぶ者はイコールで結ばれるのです。イエス様を救い主と信じることが神の国の実を結ぶことなのです(後注)。

 そこで、イエス様を救い主と信じることが神の国の実を結ぶなどと言われても、実際本当に何か実を結んでいるのか実感がわかない人が多いかもしれません。そもそもキリスト信仰者というのは、神の意思に沿うように清く正しく生きようとし、それに反するものに与しないようにしようとします。果たして反するものが自分の前に立ちはだかってきたら、その時はゴルゴタの十字架から来る解放の力、罪と死の支配からの解放の力で打ち破ってもらいます。それが本当に打ち破られるのは、キリスト信仰者には罪の赦しと永遠の命が洗礼を通して植えつけられているからです。そしてイエス様を救い主と信じる信仰のおかげで、それらが植えつけられているのは動かせない事実だとわかっています。そのようにしてキリスト信仰者は毎日毎日、罪の赦しと永遠の命に相応しい者へと変えられていきます。これが神の国の実を結ぶことです。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

(注)ここで注意しなければならないのは、単純にユダヤ民族が失格で異邦人が合格ということではないことです。ユダヤ民族でもイエス様を救い主と信じた人たちがいます。ペトロもパウロもマリアも皆ユダヤ民族出身のキリスト信仰者です。ユダヤ民族は、イエス様の十字架と復活の出来事の後でイエス様を救い主と信じる者と信じない者と真二つに分かれました。異邦人も同じでした。パウロのような伝道者が異邦人にもイエス・キリストの福音を宣べ伝えた結果、欧米人、日本人、中国人、アフリカ人にもイエス様を救い主と信じる人が生まれるに至りました。要は、ここで言われる「異邦人」とは、何民族に属するか関係なくイエス様を救い主と信じる者全てを指すということです。

説教「植える者と水を注ぐ者」木村長政 名誉牧師

2017年10月1日(日)日曜礼拝説教

第11回コリント信徒への手紙 3章5~9節 

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 私の礼拝説教ではコリント信徒への手紙のみ言葉を連続での説教です、今回で11回目になります。今回は3章5~9節まで聞いていきたいと思います。コリントの教会で伝道した二人、パウロとアポロの使命についてスポットを当ててみたいと思っています。3章5節には「アポロとは何者か、またパウロとは何者か。この二人はあなた方を信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて使えた方です」。とあります。これがきょうのテーマですね。パウロは自分が伝道した教会が今どうなっているか、この手紙の最初から問題としてきました。1章11~12節にあらわに記しています。〔私の兄弟たち実はあなた方の間に争いがあるとクロエの家の人たちから知らされました。あなた方はめいめいに「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロにつく」「わたしはケファにつく」「わたしはキリストにつく」などと言い合っているとのことです。〕こうしてコリントの教会の中が四つに分かれて争い合っているというのです。なんの言うことだろうか。パウロの思いはどうであったでしょうか。自分はパウロにつくとか自分はアポロにつくと言い合っている、それどころかパウロこそが神の人だ!と言い、いやアポロこそが神に仕える者だなどと神にまで祭り上げようとしている。ところで1章では四つの分派で争って混乱している様子を書いていますが3章のところでは四つの中でもパウロにつく者とアポロにつく者について言っています。この二人だけが特にコリントの人々を導いたからでありましょう。二人だけが直接にこの教会で働いた人であったからでしょう。パウロは自分を慕ってくれている人気に甘えて得意になったでしょうか、いいえそうではありません。それどころか「アポロは何者か」「パウロはいったい何者か、何ができるというのか」と怒り心頭に言うのであります。そこで普通でしたら自分を「神なんかではない。」と卑下して「アポロもパウロも普通の人ではないか。」と言うところであります。ここのところが本当のところ微妙な問題であります。簡単なようでそうではないのです。パウロもアポロも心血を注いで伝道したのです。この二人は救いの言葉を語っているのです。人の知らない神の救いを知っているのです。それならその人々を崇めようとしても何も不思議ではない思われます。どんな宗教でも救いを教える人ならその人に特殊な能力を持っていると考えられて普通の人より上に扱われたりします。人間の力でどうしようもない苦難を神の力に頼むのに神に取り次ぐ特別な役割を負って働いてきた二人です。パウロ自身からはこうしたことは言い難いかもしれません。自分たちが扱っているものが全く自分たちの力が及ばないものであったからです。それは特別な経験をしたり、特別な能力をもっているからではなく神の救いのの言葉を神から託されているだけであったからであります。

 自分と教会との関係は「語る人」と「聞く人」との関係であってそこに取り扱われている事柄は神の救いの言葉であったからです。大事なのは神の救いの言葉そのものであってそれを語る人ではないからであります。そう意味で信仰に導いただけであったということであります。伝道者の謙遜という者は自分が神の業に対して全く無力であることを知っているからであります。パウロもアポロもわざと謙遜しているわけでもありません。自分たちが伝道しているものは全く自分たちの力の及ばないものであることを十分知りつつしかし語らざるを得ないのであります。もう伝道に夢中であります、そうして彼らの熱意が周りの人々へと信仰を起こし広がって教会をつくって行ったのであります。神の言葉を受けて熱意に心が燃えなければどうして信仰が与えられ起こっていきますか。パウロとアポロとは対照的な人であり辿ってきた人生も性格も全く違っております。パウロもアポロも当時としては学識豊かな人であったと言えるでしょう。パウロについてはもう使徒言行録を見れば9章や22・26章に詳しく記されています。パウロはキリキヤのタルソという所から生涯が始まっています。エレサレムでラビとしての厳しい訓練を受け又エレサレム最高議会の議員としてもそうとうの権力を持った人となります。そうしてキリスト者を迫害し捕らえていく人でありましたがダマスコの途上で神によって劇的な回心をします。人生のどん底からキリスト者の信仰を与えられ命がけで伝道に気が狂ったように情熱を注いで伝道しコリントの教会を築いていったのでありました。その教会が内部分裂して崩壊しようとしているわけです。パウロの重大使命が与えられていくことになります。一方アポロはどんな人であったか聖書に詳しく記してないのです。アポロは アレキサンドレアの出身で彼は聖書に詳しい人であった、しかも雄弁な人であった。使徒言行録18章24~28節に記してあります。アレキサンドレアは旧約聖書のギリシャ語訳をしたところで有名でした。従ってギリシャ文化とヘブル文化とが接触し融合したところでありました。彼はそういう中で特に旧約聖書に精通するほどに学問をした人でありました、加えて雄弁であった。こうしたパウロとアポロの全く違った二人がこの教会の伝道に熱心に関わったのでした。そう見ますと教会の中に両方それぞれにつく人ができることは不思議なことではないでしょう。そこで大事なことは「私はアポロにつく」とか「私はパウロにつく」といった分裂や相対立することではなく、お互いの与えられている才能や能力を信仰の面で生かして用いていくべきでしょう。(教会は二人の優れた面を用いて相働く場であるべきでしょう。)パウロにとってはキリスト教の福音は何か信仰の基本的なことを語る役目を大切にしていったということです。パウロの数々の手紙を見ればそこに丁寧に分かり易く繰り返し繰り返し救いの根本を語っています。アポロはどうであったかと言うとギリシャ哲学や教養豊かな面で優れていましたから基本を教えると言うよりも信仰生活に肉付けした美しさが備えられているのが得意でありました。例えばヘブル人への手紙はアポロが書いたのではないかという学者もいるくらいこのヘブル人への手紙には旧約聖書を素材にしながら華麗な書き方をしているからであります。

今日のみ言葉の結論を言いますと神様はこのパウロとアポロという伝道者をコリントの教会の重要な役目を最も適切な働きに用いられた。それぞれにイエス・キリストのみ力を受けて教会の大事な人々を選び神の栄光のために働いていった。そうして絶妙の表現で次のように記しています。〔私は植え、アポロは水を注いだ。しかし成長させてくださったのは神です。〕この世の風雪に耐えて信仰が養われていくのには神様が与えてくださる種を良い土地に植え大切に育て、そして水を注ぐ。アポロもパウロもそのために用いられます、成長させてくださるのは神様であるということをしっかり覚え教会の成長と栄光を望んでいきたいと思います。     アーメン・ハレルヤ