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今日の聖書のお話
ルカによる福音書12章49〜53節
「イエスは天からの宝を与えるために」
2025年8月3日
説教者:田 口 聖
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなた方にあるように。アーメン。
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様。
1、「はじめに」
はじめに、私の奉仕の変更の関係で、今日の礼拝の福音書の箇所は、来週の箇所の後の部分、8月17日の福音書の箇所になります。話が来週と前後してしまいますが、ご了承ください。
さて、この12章、イエス様はエルサレムへとまっすぐに目を向けて進んでいます。すでにパリサイ人や律法学者達の敵意が強まってくる中で、イエスはみ言葉の説教を通して神の国はどのようなものなのかを弟子たちに伝えていきます。イエスはこれからを起こることを例えを用いて伝えていきますが、そこで一貫して変わることなくその根底に流れているのは、ご自身がこれから受ける十字架の死と復活によって実現し与えられる罪の赦しこそ救いの力であるという福音であり、 それはどんな困難があってもそのイエスと福音を信じる信仰こそ日々新しく生かし歩ませるいのちの賜物であるということでした。今日の箇所は、非常に難しく、一見、厳しくも感じられる言葉が続いているようではありますが、しかしここにもこれまで見てきたイエスのメッセージの土台にある十字架の福音から見ていく時に、やはり恵みのメッセージが伝えられていることがわかるのです。
2、「火を投げ込むため」
「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。」 49節
この一節の言葉だけでを見る時、どう思うでしょうか?何か恐ろしさやネガティブなイメージを抱かされるのではないでしょうか。「イエスが来たのは地上に火を投ずるため。」ーそれは何か世の終わりを思わせるような、神の怒りや裁きを伝えるような言葉にも感じられます。確かに「火」には神の裁きという意味があるのかもしれません。しかし神が世に送ったのは、いわゆる「裁きの天使」ではありません。神が遣わしたのは御子イエスでした。ですから、そのイエスにおいてこそ神の「裁き」の意味がむしろはっきりと示されているのです。聖書はその意味をこう伝えています。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」ヨハネによる福音書3章16〜17節
このみ言葉にあるように、私たちが誤解してはいけない何より大事なことは、神の怒りと裁きは、私たちではなく何よりイエス様が受けられたということに他なりません。ですから、今日の箇所のような一見、厳しさが見られるようなメッセージでも私たちは十字架中心に聖書を見て解釈することが大事です。つまり、まさにこの恐ろしい裁きは罪のゆえに誰も避けられないことではあります。しかしこのイエス様の十字架のゆえに私たちは裁きを受けなくていい。ただイエスを信じるだけでいい。それが神が計画されたことであり、イエスが来られた何より意味であり目的であるということが聖書の約束することなんだと常に立ち返らされるのです。このようにイエスが世にこられたのは、神の愛、福音によって、一人一人に信仰が与えられ救われることだと言っているのですから、あるいは、その福音をそのまま受け入れることに救いと神の国があるのですから、それこそ「福音と信仰に立つかどうか」が、ある意味、救いが決まる裁きといえるでしょう。そういう意味でこそ、福音はここでいう「火」であり、「福音である火」が燃え続けること、つまり、私たちに福音による救いと神の国が燃え続けることを何よりもイエスは願っているということが、聖書全体の十字架中心、キリスト中心から見えてくるこの箇所のメッセージなのです。
3、「イエスが受けるバプテスマ」
そしてここでイエスはまさにその火に十字架を見ているのです。50節。
「しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。」50節
イエスはこの時すでにエルサレムにまっすぐと目を向けて歩み始めていました。それはイエスがこれから受ける苦しみと十字架に向けて進んでいたということです。イエスのすべての動機はすでに十字架にありました。イエス様のすべての例えもメッセージも十字架が中心にあってのメッセージであり、ですから十字架の福音が中心にあってこそイエス様のメッセージの本当の意味が分かってきます。それはここでも貫かれています。イエスの時、「わたしが受けるバプテスマがある」と。それは罪の洗いを示す洗礼が待っている。そしてその完成まで自分は苦しまなければならないと言います。つまり十字架のことだとわかります。つまり、その「福音の火」が燃え続ける神の国の完成は十字架によって成就すると、イエスはしっかりと見て語っていることがわかるのです。その十字架の福音を踏まえてこの51節以下の言葉がくるのです。
4、「天からの福音と罪ある人との間」(51〜53節)
A, 「天の財産」
「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。 今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。父は子と、子は父と、母は娘と、娘は母と、しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、対立して分かれる。」(51−53節)
このことは何を伝えているでしょうか。これも非常に不条理に聞こえる言葉なので、イエスはその与えようとする救いに矛盾することを言っているかのように私たちには聞こえるかもしれません。しかしこの言葉はまさに神がもたらしてくださったイエスとその十字架、つまり福音のゆえに、地上や人の間に当然起こりうる現実を伝えているのです。どういうことでしょう。まず49節、「わたしが来た」とあります。どこからですか?それは天からです。イエスご自身は「天から」遣わされた神の御子、神ご自身にほかなりません。そしてさらには先ほどの言葉には「地に火を投げ込む」とありました。それもまた「天から地へ」ということを意味しているでしょう。このように、福音は「天から地へ」と与えられる天の宝です。巷では「地獄の炎」とはよく言いますが、聖書にあっては、福音は「天の炎」です。福音とは素晴らしいものであり、私たちにはない、作り出せない、自らでは所有することも発明することもできない、まさに「天の財産」「天からの宝」に他なりません。しかも何の行いの条件も付されていない、ただそれをそのまま受け取るようにと差し出されている恵みの贈り物です。
B, 「堕落した人の罪の性質」
けれどもただ受け取ればいいだけなのに、それをそのまま受け取らない、いや受け取ろうとしないでむしろ否定し拒む地上の人間の罪の性質があるでしょう。そのことをこのイエス様の言葉は描き出しています。この12章の始めには、イエスを拒み、イエスの伝える福音と神の国を否定し、そしてやがては殺そうとする人々のことが記されています。それはこの後も続き、復活、ペンテコステの後、教会の時代も続き、今も変わりません。まさに地上は神を拒み否定し、いないかのように、むしろ自分が神であるかのような堕落した世界です。私たちはみな神の恵みがなければ、そのままの性質では、神の前に、どこまでも神を信じようとしない、神を否定しようとする罪人です。福音についても、私たちは自らのままでは、むしろその素晴らしさを知るどころか、知らされても否定し、受け入れようとしない性質があるものです。たとえ、それがまったく恵みであると言われても、あるいは信じ受け取るだけでいいと言われても、あるいは信仰さえも賜物であるといわれても、「いやそうではない。それ以外の何かが必要なんだ」「人の行いが、努力が、貢献が必要なんだ」と人はなりやすいでしょう。世の宗教はキリスト教以外はみなそのような宗教ですね。クリスチャンの中でさえその呪縛の下から抜け出せません。恵みだけでは、み言葉の力だけでは不十分だ。もっと何かしなければいけないとか、むしろ何かする方が、つまり自分の行いのほうが、目に見えて自分で実感できることですから、確信を持てたり楽であったりしますし、福音よりもイエスよりも、イエス以外の何か、福音以外の何かに、拠り所や責任を求めたり、依存したりするほうが、むしろ人は楽なのです。目に見えますし自分の感情や欲求、自尊心や自己愛が即座に満たされるからです。律法に生きる方が罪に生きる人間にとっては理解しやすいし合理的で従いやすいのです。
それに対して、福音は、まさに神の国の奥義です。目に見えないことです。神によって明らかにされなければ知ることのない奥義です。そして信仰も与えられるものであり、それはヘブル書を見ると、目に見えないことを確信させることだともあります。それを人の自らの力で見出したり実現するというのは実に困難なことでしょう。いや無理なのです。私たちの力や行いや知恵や理解ではむしろ福音も信仰も受け入れられない、拒もうとさえする性質が罪の性質です。
事実、十字架の出来事はその証明です。イエスの十字架は華々しい成功と繁栄の出来事ではなかったでしょう。みなイエスを否定し、イエスを拒み、殺したのです。そして弟子たちもそれで皆が救われるとか、だから信じようとかにはまったくならずに、むしろ絶望と悲しみに陥ったでしょう。誰一人、そこに希望や喜びや救いなど見ていないのです。福音であるのにです。その通りです。福音は私たち自身では決してわからない。拒もうとさえするのです。しかし神の目と計画にあっては、そして聖霊が与える賜物である信仰においては、確かにそこに救いと光と喜びと私たちの平安がある。罪の赦しがある。そう信じます。それを私たちが今信じることができるのは、まさに不思議な奇跡でしょう。パウロははっきりとエペソ2章で「信仰は賜物」、み言葉と聖霊による賜物であり、「誰も誇らないため」とも伝えているではありませんか。福音とはそのようなものです。本当は、私たち地上においては手も届かないし、相容れない異なるものだということです。それが天から一方的に与えられているものなのです。しかしそのイエス、十字架、福音に対する応答は、まさに福音書に記されている通りです。多くの人は拒みます。私たちも始めはそうでした。弟子たちであっても、聞いていても、信じたと言っても、大きく間違って理解しました。事実、弟子たちは、神の国も福音も、十字架の死にあるなどとは誰一人思っていませんでした。ある者は、政治的な革命と思っていたり、メシアと呼ばれるイエスにつくグループにあることに満足し、その成功と繁栄だけを期待したり、そこでの自分たちの地位だけに関心があったりであったでしょう。まさに、それがみ言葉と聖霊による働きと助けのない、罪人のままの人間の福音への反応なのです。
C, 「天の宝がなぜ私たちのものになるのか?」
しかし、そこでなぜその福音が弟子たちのものになり、宣教がされていったのかは、聖書の通り、それはまさにすべて神の恵み、聖霊と神の力あることばのわざであったではありませんか。信仰がイエスによって与えられて、聖霊が与えられて、彼らは新しく歩き出すのです。「その信仰は恵みであった。救いであった」と弟子たちは証ししていくのです。そのように福音は教会の宝として伝えられていったでしょう。さらには、彼らの信じていた福音は、まさに十字架の福音で、成功や繁栄に神の国や教会があるのではなく、迫害と試練と、困難と死、人間の思うような期待するようなこととは逆の状況の中にこそ、本当の平安と祝福、神の導きと計画があると、ペテロやパウロはじめ弟子たちは証ししていったではありませんか。
D, 「分裂、不和、対抗の意味」
そのような福音です。逆説的な福音です。信仰は、まさに私たちの思いや理解をはるかに超えたことです。神の恵みなしには決して理解できないものです。しかし人は罪人であり自らでは理解できないし、人間の自由意志は堕落しただ神を否定し拒む自由なのですから、その人間の堕落した意思のゆえ、当然、そこには、福音に目が開かれ受け取った人々と、未だ頑なに信仰を拒む人々との間にイエスが言う分裂の現実が当然あるのです。家族同士、兄弟同士であっても、福音のゆえに、不和が起こります。対抗がおこり、分裂が生じるのです。それは、それほどまでに福音は天の宝であり、逆に、地上はそれほどまでに罪深いからなのです。まさにこのイエス様の言葉が示すことは、天の宝として来る福音と対照的な人間自身の罪深さから起こる現実を伝えているのです。
5、「福音は恵み。天からの財産が一方的にk私たちに」
けれどもまさにそうであるからこそ、私たちは奇跡を見るのです。弟子たちを見てください。一人一人は非常に罪深い、そして十字架の前ではイエスを見捨てて逃げて、さらには信じることもできず絶望の部屋の閉じこもっていた弟子たち、空っぽの墓を見てもなおも信じられなかった弟子たちです。しかしそんなバラバラでどこまでも不完全な罪深い弟子たちに、イエスが、イエスの方から現れるでしょう。そしてイエスの方から信仰を新たにし強めてくれたでしょう。約束を与えることによってです。そして、その約束の通り聖霊を与えてくれた、そしてその聖霊のゆえにこそ、あれほどまで福音も十字架も理解できなかったバラバラの弟子たちが、目が開かれて一つとなってまっすぐと十字架の福音、十字架による罪の赦しと信仰による義認、そして復活による新しいいのちを伝えていくのです。あれほど地位や繁栄と成功を求めていた自惚れた競争心まる出しの弟子たちが、パウロもペテロもヨハネも、福音と聖霊の力によって困難や試練の中にこそ十字架が輝いてイエスの本当の祝福と栄光があると福音の本当の意味を伝えていきました。それはまさに今日のところを見ていく時に人間には奇跡そのものであることがわかるのです。それはまさに福音もその福音のわざである宣教も全ては人間から出たものではない、全く天からの宝であり、天から与えられた聖霊による賜物であることの証明なのです。ですから宣教、伝道、教会は決して律法ではない。福音なのです。
事実、その福音が聖霊によって私たちのものにされるからこそ、私たちは本当に福音によって平安、平和になるではありませんか。イエスはここでは平和を与えるためではないといっていながらも、しかしヨハネ14章にある通り、最後の晩餐の席で、十字架と復活の先には、イエスが与える平安があると約束し、事実、ヨハネ20章、イエスは、シャローム「平和、平安があるように」と、入ってきて、平安のうちに弟子たちを遣わすでしょう。
6、「イエスは福音を与える」
今日の言葉から何かを誤解しないでください。これは福音に対する罪人の現実です。しかしこの現実に対して、神こそがイエスの十字架により私たちに平和を与え、私たちに神との和解を与えてくださり、この十字架の福音によってこそ、私たちが罪赦されて安心していくことができるというメッセージがあるのです。イエスがこの福音で、私たちに平安を与えるためにこそ、この十字架が私たちのために輝いているのです。そこで私たちの平和・平安、イエスが私たちに与える、世が与えるのとは違う特別な平和と平安が与えられるからこそ、そこからその平和と平安がヨハネ4章でイエス様が言う泉のごとく私たちから溢れ出して、地に平和、平安をもたらすということなのです。つまり私たちがイエスと福音にあって平和、平安であるからこそ、本当の平和、平安が家庭にも、父と子にも、嫁と姑にももたらされるというのが、神が私たちに福音を与え、福音を通して私たちを生かし、遣わしてくださる意味なのです。
ですから今日のところでも、まず私たちは「この福音は、本当に天から神から与えられた素晴らしい宝なんだ、私たちがこの福音の素晴らしさを知っていること自体が素晴らしい恵みなんだ、その恵みと約束によって確実に救われていることはなんと素晴らしいことなのか」と、まずぜひ感謝しほめたたえましょう。私たちがこの与えられた宝である福音を信じ、つまり差し出されている天からの贈り物をそのまま受け取り、福音に生きる時に、本当に私たちはイエスが与える平安と平和に満たされるのです。そのようにまず私たち自身がイエスにあって、福音にあって平安で平和であることが、世にあって生きる大事な鍵なのです。その時に平和・平安は泉のごとく溢れ出てくる。その時にこそ福音においてこそ真の教会の一致もある。私たち自身がまず福音によって平和であるからこそ、地にも、家族にも、平和の恵みをイエス様があふれださせてくださる。私たちの思いをはるかに超えてです。福音はそれほどまでの力があり、すべての解決ともなるのです。今日もイエス様は私たちに宣言してくださいます。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい。」と。福音が今私たちにあり、信仰が与えられている幸いを覚えながら、平安のうちに世に遣わされていきましょう。
人知ではとうてい計り知ることのできない神の平安があなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン。