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主日礼拝説教 2025年7月6日(聖霊降臨後第三主日)スオミ教会
創世記18章1~10a節
コロサイ1章15~28節
ルカ10章38~42節
説教題「福音の力」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1.はじめに
本日の福音書の個所もよく知られている話です。マリアとマルタという姉妹がエルサレムに向かうイエス様一行を迎えて食事や恐らく宿を提供する。その準備にマルタは一生懸命なのに、マリアの方はイエス様の教えを聞く方に専念して何もしない。業を煮やしたマルタはイエス様に、私一人で全部しなければならないなんて不公平です、マリアに手伝うように言って下さい、と文句を言う。それに対してイエス様は、教えを聞くことは大事だからマリアにそれを止めさせてはならないというようなことを言う。マルタ、マルタ、と名前を繰り返して言ったことから、マルタがそれ位苛立っていたことがうかがえます。
このイエス様の言葉を皆さんはどう思うでしょうか?救世主メシアであるイエス様の教えを聞くのは大事なことだから、マリアに聞くのを止めさせてはいけない、イエス様の言うことはもっともだと思われるでしょうか?それとも、マリアは座ってイエス様の話を聞けているのに、マルタは一人で忙しく立ち働かなければならないのはやはり不公平だ、マルタの言うことがもっともだと思われるでしょうか?多分、大方は、イエス様の言うことはもっともだ、しかし、それでも不公平感は拭えないというものではないでしょうか?
この出来事でもう一つ気になることは、イエス様の発言の後で何が起こったかは記されていないことです。マルタは、はい、わかりました、と言って一人台所に戻って行ったのか、それとも、それなら、私もあなたの教えを聞きます、と言って、食事の準備そっちのけでマリアと一緒に座って教えを聞くようになったのか、それとも、イエス様は気をきかして、今回の私の教えはこれで終わりだ、さあ、マリア、マルタのところに行って一緒に準備しなさい、と言ったのか?さあ、どれでしょうか?他にも可能性があるでしょうか?
福音書に後のことが書かれていないのは、福音書記者のルカがイエス様の発言で十分である、伝えるべき大事なことはしっかり伝えられた、だからその後のことは書く必要なしと考えたからです。それでは、伝えるべき大事なこととは何でしょうか?それは言うまでもなく、イエス様の終わりの言葉です。「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マルタは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。
この言葉は、後のことを記さなくても大丈夫という位、重みのある言葉です。それで、イエス様の訪問の場面を超えて時と場所を超えて広く普遍的な意味を持っているのです。今日の説教ではその意味を明らかにしていきましょう。
2.二人とも「平和の子」であった
まず、イエス様の一行を受け入れたマリアとマルタの二姉妹について少し情報収集してみます。マリアとマルタはヨハネ福音書11章に兄のラザロの死からの蘇りの出来事のところでも出てきます。さらにヨハネ12章でイエス様がマリアから高価な香油を注がれた時にも出てきます。少し厄介なのは、ヨハネ11章と12章のマリアとマルタの舞台はべタニアでこれはかなりエルサレムに近い所です。今日のルカ福音書の出来事の舞台はイエス様一行がエルサレムに向かって南下している時のことで、まだべタニアよりも遠いエリコにも到着していません。ルカ10章とヨハネ11、12章のマリアとマルタの繋がりがよく見えないので、今回はヨハネ福音書のことは脇に置いてルカ福音書のマリアとマルタに集中します。そうなると、二姉妹について他に情報がなくなるので情報収集が難しくなります。
ここで一つの手がかりとして、ルカ10章の初めにイエス様が72人の弟子を町々や村々へ派遣した出来事があったことを思い出しましょう。二週間前の福音書の個所です。それについて説教をしました。その時、イエス様が弟子たちに与えた指示の中に道中誰にも挨拶するなというのがあり、どうしてそんな指示を出したのか考えてみました。当時ユダヤ人の間で挨拶する時の決まり文句は「平和があなたにあるように」でした。平和はヘブライ語でシャーローム、当時イスラエルの地域でユダヤ人たちが話していた言葉であるアラム語ではシェラームです。シャーロームは普通「平和」と訳されますが、言葉の意味はもっと広くて、繁栄とか健康とか成功の意味も含みました。つまり、あなたに繁栄/健康/成功がありますように、という挨拶の仕方でした。それをイエス様は道端でしてはいけないと言うのです。ただし、誰かの家に入った時は「この家に平和がありますように」と言いなさいと。つまり、道端で禁じた挨拶をしなさいというのです。その家に「平和の子」がいれば、弟子たちの願った平和はその人に留まる、いなければ平和は弟子たちに戻ってきてしまうと。弟子たちの願った平和、イエス様から言付かった平和が留まる人と留まらない人がいるわけです。平和が留まる人は「平和の子」です。
このようにイエス様は普通とは違う「平和」の挨拶を弟子たちに指示したのです。ここから、イエス様が考えていた「平和」は一般的に考えられていたのとは違うものであることがわかります。イエス様が考えていた「平和」とはどんな平和だったでしょうか?それは、神と人間の間の平和でした。人間には神の意思に反する性向、罪がある、そのために神と平和な関係を持てなくなってしまっている。人間が神と平和な関係を持てるようにするために神はひとりこのイエス様をこの世に贈ったのでした。それで「平和の子」とは、自分には神の意思に反する罪があると認めて神との平和な関係を希求する人だったのです。まだ平和な関係を持てておらず希求する段階なので「子
なのです。
しかしながら、みんながみんな「平和の子」ではありませんでした。私と神さまの関係は大丈夫、だって、ちゃんと律法の掟を守って神殿にきちんと捧げものをしているから、と言う人はイエス様の平和の挨拶が心に届かなかったのです。しかし、自分には自分を造られた創造主の神がいるとわかって、その神との関係はどうなっているか自問し、今のままではいけないとわかって神と平和な関係を希求する人はもう「平和の子」なのです。実際に希求が叶えられて人間が神と平和な関係を持てるようになるのは、イエス様の十字架の死と死からの復活の出来事が起きてからのことでした。それで平和な関係を持てるようになると、「平和の子」は「平和を実現する者」になるのです。マタイ5章でイエス様が言うように者は「神の子」と呼ばれるのです。
72人の弟子の派遣は、イエス様と弟子たちの一行がエルサレムを目指して南下の旅をしていた時に行われました。エルサレムはイエス様の受難と十字架の死、そして死からの復活の出来事の舞台となるところです。イエス様の弟子派遣は、彼がこれから通ることになる町や村への先遣隊のようなものでした。マリアとマルタの家はまさに弟子たちの訪問を受けた家だったのです。弟子たちの口を通してイエス様の平和の挨拶を受けた時、二人は「平和の子」であることが明らかになったのでした。神との平和な関係を持てるために今の罪ある状態ではいけないとわかっていて神との平和を希求していたのです。イエス様の一行はそのような家々を見つけて訪問して世話してもらってエルサレムへの旅を続けました。弟子たちの数は12人プラス72人さらにプラスアルファです。かなりの人数です。一行はマリアとマルタの村で分散したでしょう。マリアとマルタがイエス様を受け入れて世話をすることになりました。他にも何人かの弟子たちが一緒だったでしょう。以上が二人についてルカ福音書に基づく情報収集とその分析の結果です。
3.律法的な生き方でなく福音的な生き方を
マリアとマルタは、神との平和な関係を持てるためには今の罪ある状態ではいけないとわかっている、それで「平和の子」であることが明らかになりました。ところが、イエス様が来られてからの二人の対応は全く異なりました。マルタは一生懸命に食事の準備をし、マリアは恐らくイエス様が弟子たちに教えているところに行って、そこで教えを聞いたのです。それに対してマルタがイエス様に文句を言ったのでした。
まず、イエス様が「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」と言われたことに注目します。これは一見すると、食事の準備のことであれこれ悩み心配しているように聞こえます。食材は足りるか、味付けは大丈夫か、客を長く待たせてしまわないか等々。全てが上手くいくかどうか気が気でないという感じです。しかし、マルタが思い悩み心を乱している「多くのこと」とは果たして食事の準備だけのことだったのでしょうか?実はそうではなかったということを後で明らかにします。
次に、イエス様が「マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」と言っていることに注目します。日本語訳では「良い方」となっているので、これはイエス様の教えを聞く方が良いのだと理解されます。そして、「それを取り上げてはならない」というのは、イエス様の教えを聞くことを中断させてはいけないと理解されます。ところが、日本語で「方」と訳されるギリシャ語のメリスという単語は「分」とか「取り分」という意味です。なので、教えを聞くという動作ではなく、何か与えられるものを意味するのです。教えを通して与えられものです。取り上げてはならないというのも、教えを通して与えられるものを取り上げてはならないということです。聞くことを中断させてはならないということではないのです。
それでは、イエス様が教えを通してマリアや弟子たちに与えようとしたことは何だったでしょうか?それがわかるために、イエス様は何を教えて何を行ったかを振り返ってみます。イエス様は「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と宣言して活動を開始しました。イエス様は神の国について教え、自分をこの世に贈った父なるみ神についても沢山教えました。また無数の奇跡の業を行って、死も苦しみも嘆きもない神の国を人々に垣間見せたり味わせたりしました。そして最後に十字架と復活の業を行って、人間が神の国に迎え入れられないようにしていた罪の問題を解決して下さいました。本当なら人間が受けるべき神罰を代わりに受けて人間が受けないで済むようにして下さったのです。それで、彼は本当に救い主なのだと信じて洗礼を受けると、罪を赦された者になれて神との結びつきが回復します。そして神の国に迎え入れられる復活の日に向かう道に置かれて、その道を神との結びつきの中で進むことになります。これで神と平和な関係が構築されたのです。他でもない神と平和な関係にあるのでもう何があっても大丈夫と、心は安心と平安に満たされ、周囲に対しても柔和でへりくだった態度になれるのです。高ぶったりいきり立ったりする必要はなくなるのです。まさに「平和を実現する人」になるのです。
マリアとマルタは神との平和な関係を持てるためには今のままではいけないとわかっていました。それで「平和の子」とされたのでした。ところがその後で二人は正反対の方向に進みました。マリアは、神との平和な関係を持てるためにイエス様の教えを通してでなければ得られないものを得ようとしてイエス様のもとに行ったのです。イエス様の教えを聞けば聞くほど平和な関係は自分の力では得られない、それはきっとイエス様が整えて下さる、だからイエス様にすがるしかないということになったのです。それで、マリアが選んだ良い取り分というのはつまるところイエス様そのものになるのです。ところが、マルタの方は、神との平和な関係を持てるために今のままではいけないとわかってはいても、マリアのようにイエス様のもとに行きませんでした。そうなると、平和な関係を持てるためには自分の力で何かしなければならなくなります。イエス様抜きで神との平和な関係を得ようとすると律法主義になります。しかし、罪の問題を人間の力で解決することは不可能です。不可能なのにしようとすればするほど、思い悩み心を乱すことになります。マルタが「多くのこと」に思い悩み心を乱しているといういのは、食事の準備のことだけではなかったのです。マルタの生き方全てに関わることだったのです。
そういうわけで、マルタも同じ「平和の子」なのだから最初からマリアと一緒にイエス様の教えを聞けばよかったのです。食事の準備は多少遅れても、後で二人で一緒にやれば遅れは取り戻せます。イエス様も本当はそれを望んだはずです。しかし、二人が別方向に走ったことで、イエス様にしがみつく福音的な生き方と律法的な生き方の違いがあらわれました。それでイエス様は福音的な生き方をするようにと教えたのです。十字架と復活の出来事の後で福音書を書いたルカはこのポイントがわかりました。それで彼からすれば、その後のことは述べる必要はなくなったのです。
4.勧めと励まし
主にある兄弟姉妹の皆さん、人間は神でも霊でも仏でも何か超越的なものを拝みます。それで、もし人生で何か困難や苦難に遭遇したら、超越的なものにお伺いを立てたり、何か捧げものや供えものをして宥めることをしたり、清めの儀式を受けたりします。私たちのキリスト信仰ではどうでしょうか?超越的なものとは言うまでもなく天と地とその間にある全てのものを造られた創造主の神です。私たち人間も一人一人造られ、髪の毛の数も全て把握されている真の造り主です。私たちの神は造り主であることに加え、倫理的な問題ではっきり態度表明する方です。人を傷つけるな、人のものを奪い取るな、真実を曲げるな、不倫をするな、そうしたことを心の中で思い描いてもいけないと言います。そのため、私たちはこの神との関係はどうなっているか絶えず自問し自省します。神の態度表明を知れば知るほど自分は神の前に立たされたら何も申し開きできず持ちこたえられないと思い知ることになります。何を捧げても供えても清めの儀式を受けても何の役にも立たないと思い知らされます。
だから、神は私たちにイエス様を贈られたのでした。この神聖な神のひとり子が神を宥める捧げもの供えものになったのです。彼が十字架の上で流した血が私たちを罪から洗い清めたのです。イエス様を救い主と信じる信仰と罪の赦しの恵みに留まっていれば、神の御前に立たされた時、神から義と認められるのです。人間の力では不可能なことが福音の力で可能になるのです。
では、キリスト信仰者が苦難や困難に遭遇したらどうなるのか?それはやはり神が怒ったり背を向けたことなので捧げもの供えものをして宥めたり清めの儀式を受ける必要があるのではないかと言う人がいるかもしれません。ナンセンスです。イエス様を救い主と信じる信仰と罪の赦しの恵みにとどまっていれば、苦難や困難があっても神との平和は何の変更もなくそのままなのです。だから試練があっても、それは神が怒って私たちに罰を与えていることだ、だから宥めないといけないのだ、などという考え方からキリスト信仰者は解放されています。これも福音の力によるものです。そのような考え方から解放されると、試練というのは神がこのトンネルのような暗闇の道を光が差す出口まで一緒に歩んでくれる絶好の機会になるのです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン