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老鯉(LaoLi)
<9 先にあったことは、また後にもある、先になされた事は、また後にもなされる。日の下には新しいものはない。10 「見よ、これは新しいものだ」と/言われるものがあるか、それはわれわれの前にあった世々に、すでにあったものである。11 前の者のことは覚えられることがない、また、きたるべき後の者のことも、後に起る者はこれを覚えることがない。 伝道の書1:9、10。11>
「解剖台上のミシンンと蝙蝠傘の偶然の出会いのように美しい」これは原作C.ボードレール(訳ロートレアモン)の「マルドロールの歌」の詩の一節です。この歌を切っ掛けに美術界に於けるシュールレアリスムの運動が始まりました。私の方は俎板ならぬ手術台の上に乗せられた老いた鯉と大きなモニタリング画面、それと対峙している二人の医師と手元の操作パネル。さらに二本の湾曲したアームが天球儀のように下の装置を覆いかぶさるように据えられています。その真下に老鯉が一匹横たわっています。やがて二本のアームが忙しく動き出したました。一本は縦方向に他の一本は横方向に動きます。それぞれにアームにはセンサーパネルが取り付けられています。突然、天頂からセンサーが私目掛けて急降下してきました。額の数センチ手前でピタリと止まりまたすぐ天頂目掛けて移動して行くと今度は横から滑るように他のアームが伸びて来て私の胸の辺りでピタリと止まりまたすぐに横にスライドして行きます。二本のアームが上下左右に天球儀の表面なぞる様に移動しながら私の胸の辺りを探っていました。やがて全てが止まり静寂の中で二人の医師が何やらぼそぼそと会話しています。思えばこれとよく似た装置がウクライナの戦場でも活躍しています。大きなモニタリングは小さなノートパソコンのサイズに、操作パネルは玩具のコントローラーに医師の代わりに兵士が、センサーパネルはカメラと爆弾を携えたドローンに老鯉の代わりに互いの戦車や兵士です。一方は人の命を救うために、もう一方は殺戮と破壊を目的に。なんと不条理な世界でしょうか。老いた鯉は手術台の上で大人しくなされるままに横たわっていました。会話が終わると再び天球儀が忙しなく動き回りました。暫くしてまた全てが止まって今度は胸の辺りに何か熱い物が注入されたような感じがしました。全てが終わり医師が私の所へきて13本目のステントが所定の位置におさまった事を告げてくれました。13本、凄いですね内訳は脳に8本、首(頸動脈)に1本、冠動脈に4本です。我ながら凄いなと感心していました。冒頭に載せた歌は偶然の出会いに美を感じさせていましたが現代の偶然の出会いに美を感じるでしょうか。ドローンに出会った兵士は死の恐怖を感じますし手術台に横たわった老鯉もまた恐怖を感じていました。(今回は此処まででこの後の集中治療室での修羅場についてはまた機会があればお話したいと思っています。)
私たちの父なる神と、主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなた方にあるように。アーメン
2026年8月30日(日)スオミ教会
聖書 マタイ福音書16章21~28節
説教題:「イエス、死と復活を予告」
今の時代”人生百年”と言われます。戦後の日本、敗戦直後の物のない時代でも人生五十年、或いは六十年とも言われていましたが今や百歳になる老人が彼方此方です。考えて見ると、自分の人生何年とか自分の未来に何時この世での終わりを迎えるのか誰にも決められないし又自分の運命など何もわからないのです。ところで、今日の聖書で主イエス様は驚くなかれ、これから自分がどういう苦しみの中で死んでゆくのかという事を弟子たちに予告されているのです。
マタイ福音書16章21節から見ますと。「この時からイエスはご自分が必ずエルサレムに行って長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され三日目に復活する事になっている、と弟子たちに打ち明け始められた。」これを聞いた弟子たちはもう吃驚です。誰が考えても当然でしょう。弟子たちは自分たちのこれまでの人生を、つまり職業を捨て家族を捨て収入もないこれからどうなってゆくかも分からない自分全てをイエス様に預けて弟子となったのです。全てをかけて頼りにしている主人、師匠がもうすぐエレサムで苦しみを受け殺されると言うのですから決してそんな惨い事があってはならないと大変な驚きともう反発でしょう。イスラエルの民を苦しめている権力者たちと戦って/\死んでしまうんだと言うのとは全く違う。イエス様はどのようにして、誰によって殺されるのかと言う事まで具体的に弟子たちに自分の運命を示されたのです。これまでイエス様を中心に弟子たちがやっている事、民衆の病を癒し考えらえない奇跡の業を起こして神の力神の業を示してゆかれる感動的な神の国の教え。これを見て聞いた大勢の群衆がイエス様について行っている。この大衆の動きを一番恐れて見ているユダヤ教の指導者とローマ帝国の皇帝たちからイエスを殺そうと命を狙っている連中から間もなくエレサムで殺されるんだ!イエス様ご自身がその事を分かって弟子たちに告白し弟子たちに覚悟を決めさせておられるわけです。イエス様のなさっている教えや業が余りにも活動が大きくなりそのうちに民衆の暴動が起こりかねない、といったローマ帝国の権力者たちの恐れと言った事より、もっと/\大事な事が此処で展開されているのです。暴動の社会民衆の動きよりイスラエルの民が長年待ち望んでいた救い主メシアこそがイエス様ではないかという問題です。弟子たちでさえイエス様の姿と活動の全ての中に我らの真の救い主メシアであられると内心期待していた事でしょう。
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今日の聖書の箇所の前のところの16章13節以下のところで「イエスはフィポ・カイサリア地方に行った時、弟子たちに『人々は人の子のことを何者だと言っているか』とお尋ねになった。」人々の言っている事を聞いて15節にイエスが言われた「それではあなた方は私を何者のだと言うのか」。シモン・ペテロが「あなたはメシア生ける神の子です」と答えたのです。それに対して20節を見ますと、「それからイエスはご自分がメシアである事を誰にも話さないようにと弟子たちに命じられた。」とあります。そうして今日の聖書でイエス様の運命の予告です。ですから弟子たちも皆んなイエス様こそメシアであられる、とこれからのイスラエルの救いを期待していたところへ、いきなり自分は苦しみを受け殺されるのだと言うのですからペテロをはじめ弟子たちはもう吃驚です。16章22節以下に「するとペテロはイエスを脇へお連れして諫め始めた。『主よとんでもないことです、そんな事があってはなりません。』ペテロはイエス様を「メシア、救い主」と告白したのです。イエス様に予告されてもイエス様の言葉を理解せずイエス様が受難の道に進まれる事を阻止しようとしました。それは主イエス様の道行きがペテロたちが期待したメシアの道とはあまりにもかけ離れたものであったからでありましょう。23節を見ますと、イエスは振り向いてペテロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは私の邪魔をする者。神の事を思わず人間の事を思っている。」と。主イエス様はこのように厳しくペテロを叱りつけられています。何故、このような言葉で言われたのか、次の24節以下で言われている「私について来たい者は自分を捨て自分の十字架を背負って私に従いなさい。自分の命を救いたいと思う者はそれを失うが私のために命を失う者はそれを得る。」と言って、ペテロに対して此処までの言葉を言って叱っておられるのです。「あなたはメシアです」と告白したペテロにそように告白する事も大切な事は確かですが自分の事を誰にも言うなと厳しく戒められた。その意味は主イエス様が更に言われている。「自分を捨て、自分の十字架を負って主に従うのでなければ軽々しくそのような事を口にするな」。このように仰せになっているのです。「サタンよ、引き下がれ」と厳しく叱られたペテロに更に言われる。口先だけの告白でなく人の子であるイエス様の苦難の道を死に至るまでペテロも共にする事をイエス様はペテロに求めておられるのであります。「自分を捨てて、自分の十字架を背負え」と言うのは自分を否定せよ、自分に死ねと言う事であります。パウロの言葉で言えばそれは霊の導きに従って生きる事であります。ガラテヤの信徒への手紙5章22節~25節で次のように言っています。「霊の結ぶ実は愛であり喜び平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。キリスト・イエスのものとなった人たちは肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。私たちは霊の導きに従って生きるなら霊の導きに従って前進しましょう。」弟子たちの実際の望みはメシアであられるイエス様に苦しみの中にあるユダヤの民を開放してくださる事であったのです。それをイエス様は私と共に苦しみの道に従って来いと説得しておられるのです。私のために命を失う者は永遠の命を得るのだ。26節「人はたとえ全世界を手に入れても自分の命を失ったら何の得があろうか」最も大事なことは27節で言われます。「人の子は父の栄光に輝いて天使たちと共に来るがその時、各々の行いに応じて報いるのである」だから、この世にあっては辛い言葉でも「自分を捨て自分の十字架を背負って私に従いなさい」このことは主イエス様のために、また福音のために命を失うこと、それはイエス様に従うことです。
みんなが牧師になれと言うのではない。キリスト者は皆、主イエス様のため、福音のため、イエス様を証しする事であり人生の究極の目的とする事です。何故、この事をイエス様は私たちに命じられるのでしょうか。それは、この事こそが命を救う事に通じるからであります。この命はもはや単なる自然的生命ではありません。死によっても途絶える事のない新しい命であります。パウロはロマ書6章4節で次のように言っています。「私たちは洗礼によってキリストと共に葬られその死に預かる者となりました。それはキリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように私たちも新しい命に生きるためなのです。」その新しい命を死に打ち勝って甦り給うた主イエス様が与えて下さるのです。受難の主イエス様に従う者の道は世の目には受難の道でしかありません。しかし、主イエス様のため、福音のために命を捨てる者はそこで新しい命を与えられる事を知らされ驚きと感謝であります。それはまた、主イエス様の十字架の死に根底から支えられている事を知っている人生でもあるのです。
人知ではとうてい測りに知ることのできない、神の平安があなた方の心と、思いとをキリスト・イエスにあって守るように。 アーメン
サンゴジュ
〈主は、「わたしは、決してあなたを離れず、あなたを捨てない」と言われた。 へブル書13:5〉
教会の近くの鶴巻公園にサンゴジュを見つけました。卒業後、憧れの設計事務所に入り初めての住宅の設計を任されました。図面が完成した後でクライアントの奥さんから生垣には何が良いか尋ねられました。咄嗟だったのでまごついていましたらすかさず脇から上司がサンゴジュが宜しいでしょうと言いました。この時初めてサンゴジュの木を知りました葉が大きく密生していますので目隠しにもなるので生垣に適しています。以来、個人的には好みの木ではありませんでしたが久し振りに見たサンゴジュはオレンジ色の実をたわわに実らせていました。今まで見たことのないサンゴジュの姿に改めて興味が湧いてきました。当分、この道を通って教会通いが続きます、サンゴジュとの再会が楽しくなりそうです。
2026年8月23日スオミ教会礼拝説教
マタイによる福音書16章13−20節
説教題 「信仰も教会も宣教も律法ではなく福音」
田口 聖
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなた方にあるように。アーメン。
1、「今日のメッセージ」
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様。
今日の福音書は、信仰は律法ではなく、恵みであり福音であるということ。教会も律法ではなく、恵みであり福音であるということ。そして宣教も律法ではなく、恵みであり福音であることを教えてくれています。
2、「人々はイエスが生ける神の御子キリストと告白できない」
イエス様は弟子たちに尋ねるのです。13節からですが、
「13イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。」
「人の子」と言う言葉は、イエス様がご自分を言い表すためによく用いている言葉です。福音書以外ではあまり見られませんが、福音書ではおよそ80回も用いられています。イエス様は真の救い主であり真の人であることを示す言葉でもあります。イエス様はここでご自身について人々はどのように言っているのかをまず尋ねるのです。弟子たちは答えます。14節
「 14弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」 」
世の人々は、イエス様が病気の人々を癒したり、悪霊を追い出したりしたことはよく知っていました。5千人以上の人々を5つのパンと2匹の魚だけで養ったことも知っていました。あるものは直接、それらを見たり聞いたりしたことでしょう。だからこそ人々はイエスのもとに集まってきていましたし、そこでイエス様が語る神の国の福音を聞いたのでした。
しかし群衆の多くの人々は、イエスを真の救い主、神の御子であるとはいいませんでした。彼らにとってはイエス様は、洗礼者ヨハネに並ぶもの、あるいはエリヤやエレミヤなど旧約の偉大な預言者の一人としてしか見ることができませんでした。確かに彼らは偉大な預言者であり尊敬されていました。しかし彼らは神でも救い主でもありませんでした。彼らは皆、私たちと同じ罪人でした。人々のあるものは、ヨハネにせよ旧約の預言者たちにせよ、彼らを神に遣わされた存在として見ていたでしょう。彼らはイエスを見てもそのような存在とは見ていたでしょう。しかし、イエスこそ真の神が約束し指し示してきた真のメシアであると誰も告白できなかったのでした。
3、「弟子たちの告白」
しかしイエス様は弟子たちに問うのです。15-16節
「15イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」 16シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。
A,「「あなたはメシア、生ける神の子です」の告白は経験や能力の度合いによる?
イエス様は今度は弟子たちに聞くのです。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」 それに対して、弟子のリーダー的な存在であったペテロが答えるのです。「あなたはメシア、生ける神の子です」。
弟子以外の人々は、イエスは真の救い主とは答えることができませんでした。しかしペテロは答えることができました。ではなぜペテロはそう答えることができたのでしょうか?それはほんのわずかな期間、イエス様と一緒に歩んできたのでわかってきたからなのでしょうか?そのように徐々に学んできたからなのでしょうか?そしてそれはペテロや弟子たち自身にそのように学ぶ力があり、そのように告白する力があったからなのでしょうか?人の目には確かにそのように見えるかもしれません。何か人間の側で説明できる、時間の長さとそれに関係する理解力など、物理的なものの蓄積が、つまり人間に経験や能力の度合いが高まることによって、このような告白に導いたのだ。そう見えるかもしれませんし、そのように教える説教もあるかもしれません。
B,「人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」
しかし、この後、そのことについて、そうではないことをイエス様がはっきりと答えているのです。17節
「 17すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」
イエス様は言うのです。
「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」
「ペテロ、そのわたしを生ける神の子、救い主と告白するその信仰の告白をあなたに現したのは、あなた自身から出たものではないのです。わたしの天の父によるもの、その信仰告白は神があなたに現したものなのだ。」それがイエス様が伝えた真実でした。ペテロも他の弟子たちも、まわりの人々と何ら変わりません。長く過ごした中で、彼らが経験を通して自分たちで理解力を養ってきて自分でその知識に至った、彼らにはそのような力があった、周りの環境や経験がそうさせた、と言うことではないのです。彼らも、天の父によらなければ「あなたはメシア、生ける神の子です」とは決して告白できないのです。確かにペテロの口からその言葉は出ました。そう、信仰の告白は人の口から出てくるものです。その通りです。しかし、そうであっても、その告白は人の力によって現されるものではないとイエス様ははっきりいうのです。事実、弟子以外の周りの人々もイエス様を体験してきたのです。しかしできなかったでしょう。弟子たちも彼らだけではそれと変わらないのです。しかし父なる神が弟子たちに現してくださったからこそ、ペテロは「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白したのです。それが神の前に真実なことなのです。もちろん、共に過ごしてきたことは関係ないと言うことでありません。しかし、それはその共に過ごしてきた時間で、弟子たちが自らの力で学び理解してきたということではありません。「人間ではなく」とある通りに。共に過ごしてきた時間に、イエス様が自らでは悟ることも信じることもできない弟子たちに、そのみ言葉と聖霊を通して働いていたからこそ、この告白に神が導いて神が現したと言う意味で、この共に過ごした時間は意味と価値があったのです。
C,「信仰は神の賜物。行いによらない」
そう、これはパウロが教えていることに一貫しています。エフェソ2章8−9節
「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。 9行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。」
信仰は、私たち自身から私たちの力で信じるようになったと言うものではないのです。信仰は律法ではないのです。信仰は、恵みとして神から与えられた神の賜物なのです。信仰が神の賜物であり恵みであるからこそ、そして聖書がそう約束しているからこそ、私たちが「信仰によって救われた」と言う時に、それは確かに恵みによって救われたと確信を持っていえるでしょう。もし信仰が自分たちの力で信じなければならない律法であるとするなら、みなさん。救いは人のわざになってしまいますよ?全ては私たちの力、私たちの努力になりますよ?それだと、教会で「救いはキリストの恵みです」と何度教えられても矛盾するのです。信仰は律法ではなく賜物、恵みであり、律法ではなく福音であるからこそ、私たちの救いは神の恵みによるのだと証しできるのです。そのような信仰、そのような信仰告白が、私たち自身からではなく、神が私たちにも恵みとして現してくださっている。これまでも。今日のこの日も。そしてこれからも。素晴らしい事実ではありませんか。まさに私たち自身には起こり得ないことが、私たちに起こっている。これは正しく神の奇跡です。神の奇跡が私たちに正しく起こっているのです。
4、「信仰告白の上に、主の教会を主ご自身が建てる」
そして、イエス様の教えはさらに恵みの上にさらに恵みを伝えています。18節以下
「 18わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。 19わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」 20それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。」
イエス様は、わたしは「この岩の上にわたしの教会を建てる」といいます。この岩の上とは、ペテロ一人を指す言葉ではありません。ペテロは確かにリーダー的存在であったかもしれません。そして、イエス様はペテロ、ヤコブ、ヨハネをとりわけ愛したと、確かにあります。しかし、12人の中でペテロだけ別格の地位を与えたわけではありません。イエス様は12人の使徒を任命し遣わしたのでした。悔い改めず自ら命を絶ったイスカリオテのユダの後にマッテヤが建てられ、その12人を、使徒として遣わし、その使徒たちの上に教会が始まっていきます。ペンテコステの朝、説教をしたのはペテロでしたが、12人が異国の言葉で話しました。そのようにまさに教会と宣教は父なる神、イエス様と聖霊によって、ペテロをはじめとする12人の、神から現された岩のごとき信仰告白の上にはじまっていくのです。
皆さん、私たちの教会と宣教。それは、人のわざではなく、キリストが教会を建てるのです。教会は人の作り出す組織や建物ではなく神の賜物の上に神が建てる神の恵みなのです。ゆえに、その宣教も神の宣教、キリストの宣教であり、キリストの福音の力が全世界に広がっていく神の恵みの現れなのです。なぜならイエス様が、使徒達に現した信仰の告白の上に自ら教会を建てられるとイエス様が言っているからです。
同じように私たちの信仰告白も、私たち人間の力によるものではなく天の父によるものです。読んでいただいた今日の使徒書の箇所、ローマ12章でパウロは確かに「神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい」と言っています。しかしそのところでパウロは「献げる」と言うことを、律法としての信仰のわざとして教えていないでしょう。3節では「わたしに与えられた恵みによって」とあり「各自に与えてくださった信仰」とあるでしょう。そう私たちは応答していきます。信仰によって生きます。しかしその信仰は決して律法ではありません。信仰は自分で掴んだり作り出したり達成したものではない。それはできないのです。聖書が約束する通り、信仰はどこまでも賜物であり恵みであり、信仰は律法ではなく福音なのです。イエス様はその御自身が与えた信仰の上にご自身の教会をイエス様が建てると言われているのです。そしてそれはイザヤでも約束されていることです。今日の旧約聖書のイザヤの言葉。そこで主はイザヤを通して、「あなた方が自分で平安を得なさいとか、自分で荒野を楽園にしなさい」とは決して言っていないでしょう。イザヤ51章3節「主が慰める」と言われる。「主が」荒野を楽園にすると言っているでしょう。主が私たち人間の力によるものではなくどこまでも、「わたしに聞け、耳を傾けよ」と主がその言葉で「主に始まり主がなす」と約束している、だからこそ6節「わたしの救いはとこしえに続きわたしの恵みの業が絶えることはない。」と励ますことができるでしょう。これが教会に約束されていることなのです。その変わらぬ神の恵みと真実があるからこそ、イエス様はそれは黄泉の力も対抗できないと言い、つまりその教会の歩みも、全て主が助け、守り、すべて与えてくださることを伝えているのです。
5、「鍵の権能」
そして、イエス様は教会に「鍵を与える」といいます。権能を与えると言われます。皆さん、教会の福音のわざ、教会が何であり、教会が何のために存在し、教会が何をなすかわかりますか?もちろん、隣人愛も大事なこと。社会で良いわざをしていくこと、困った人を助け、弱った人を力付けることも教会において大事なことです。しかしそれは世の人々や教会以外の様々な団体もするようなことです。しかしクリスチャンの良きわざは、単なる熱心から出る人のわざとは違います。エフェソ2章10節に「わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。」とあります。その言葉の通り、教会の真の良いわざとは、主が与えて下った福音と信仰から溢れ出る主のわざであり、私たちはそのために用いられている存在。主が与える福音によって力を与え、主が私たちを用いて主のわざを行なっているのです。だから、私たちは自分を誇りません。イエス様は
「良いことをしても「自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」(ルカ17章10節)
と言っています。そう、真の良いわざは、福音と信仰から溢れ出る神が私たちになさる信仰のわざです。イザヤはさらに切り出された岩、アブラハムとサラを見よといいます。二人はまさに罪人に与えられた信仰とその恵みの歩みの記録であり、その賜物としての信仰のゆえにアブラハムはその信仰を義と認められました。私たちと同じ罪深い人間が、神からの信仰を受けて歩んだ証です。同じように私たちも神から福音を受けるからこそ私たちの信仰からもその福音の証しが溢れ出てくるのです。ではその受ける福音とは何か?それはまさに、ここにある通り、罪の赦しです。教会に与えられた鍵とは、罪の赦しの宣言です。私たちはまさに教会においてイエス様によって罪赦されたからこそ救われた。教会を通してイエス様が私たちを罪から解いてくださった。罪の縄目から。鍵の権能を用いて。洗礼において、説教で、聖餐で、「あなたの罪は赦されています。安心して生きなさい」とイエス様が言ってくださり、罪の赦しを与えてくださり、それを受けるからこそ私たちは喜んで、この素晴らしい平安を喜びを、神の愛を、罪の赦しを隣人に分かち合い与えたいと出ていくことができます。それは人間の自分中心な愛ではありません。本当の隣人愛となっていきます。その全ての源は私たち自身にはありません。この十字架、この罪の赦しの福音からこそ宣教も隣人愛も溢れ出てくるのです。だからこそイザヤを通して主は「わたしにきけ」と言っているでしょう。パウロも、「神に喜ばれる聖なるいけにえ」と言っています。神が喜ばれる生贄は、前回の通り、砕かれた悔いた心でそのまま福音を受け取る信仰だと学びました。ですから、このローマ12章の言葉は、律法のようで律法ではない。これが可能になるのは、まず福音をそのまま受け取るからこそ、このことは可能になるのです。だからこそパウロは「与えられた恵みによって」と繰り返し述べていることを忘れてはいけません。決して私たちの意志の力とか私たちが搾り出す努力とかでこれをしなさいと言っているのではないのです。どこまでも真の生贄、砕かれた悔いた心で、神の憐れみを、十字架の罪の赦し、福音をそのまま受け取ることから始まります。その信仰、信頼からこそ、この真の礼拝、神が喜ばれること、良いことがわかり、各々が与えれれた賜物に従って、強いられてではない、喜んで、平安のうちに隣人に仕えていくことができ証ししていくことができるのです。それは律法ではなく福音から溢れ出る泉です。それがイエス様が私たちに与えてくださった信仰告白の上にイエス様が建ててくださっている、真の教会の姿であり現実なのです。
今日もイエス様は私たちに変わることなく福音を差し出し、そのまま福音を受けるように、宣言してくれています。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。主が用いてくださいます。ぜひ平安のうちに今日もここから遣わされて行きましょう。
人知ではとうてい計り知ることのできない神の平安があなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン。
臭木(kusagi)
〈43悪い実のなる良い木はないし、また良い実のなる悪い木もない。 44 木はそれぞれ、その実でわかる。いばらからいちじくを取ることはないし、野ばらからぶどうを摘むこともない。ルカ6:43,44 〉
散歩道の途中の藪の手前に白い小さな花をいっぱいつけた木があります。時々立ち止まって観察しています、近寄って花の香りを嗅いだら香水の香りによく似た香りでジャスミンの香りでした。調べてみたら「臭木(くさぎ)」と言う木でした。藪の所に最初に侵入する先駆植物です、この木も藪の先端に生えていました。花が終わると丸い小さな黒い実をつけます、根元の赤いガクと黒い実のコントラストは鳥たちの格好の餌のシグナルとなって多くの鳥たちがやって来ます。秋の林を歩くとこの実によく似たゴンズイと言う木を見かけます。樹木も子孫を残すために色々な工夫を凝らしていますね。ところで、木の名前の「臭木」は枝や葉を傷つけると強い不快な臭気を発することからつけられたようです。
ホルトの木
〈わたしの兄弟たちよ。いちじくの木がオリブの実を結び、ぶどうの木がいちじくの実を結ぶことができようか。塩水も、甘い水を出すことはできない。ヤコブの手紙3:12〉
近くの商店街の入り口に何の木か分からずに見過ごしていた木があります、近くに多くのクスノキがあるのでそれの仲間と思っていたのかも知れません。過日、朝の散歩でその木に不思議な花が咲いているのを見つけました。長年見ていましたが花を見たのはこれが初めてでした、家内も余程珍しかったのか一輪採ってきました。調べてみたら”ホルトの木”でした。ホルトとは江戸時代にポルトガルの事をホルトと呼んでいました。平賀源内がこの木をポルトガルのオリーブの木と間違えて名付けたようです。確かに実はオリーブの実に似ていますが全く別種で日本の在来種の木です。何時も何気なく見過ごしていた木が源内先生のミスリードの木だったとは、つゆ知らずでこれも灯台下暗しでした。
鉈の思い出
〈わたしはいにしえの日を思い出し、あなたが行われたすべての事を考え、あなたのみ手のわざを思います。 詩編143:5〉
先週の話の中に鉈が出てきましたがあの鉈にも苦い思い出があります。鶏の首を切り落として変な勇気が出たのか一年坊主の私はやたらに鉈を使うことを覚え振り回していました。或る日、何を切ろうとしていたのか覚えていませんが何かを押えて鉈を振り下ろした先に左手の親指がありました。小学一坊主の親指はあっけなく切られましたが幸い鉈の刃はなまくらだったので切断には至らずに皮一枚でつながっていました。母は血の滴る指を手拭いで縛り学校に駆けつけました。幸い校医がいて見てくれましたが指が小さすぎて縫うこともかなわずに広い部屋(講堂?)に腹ばいにさせられて母と医者に押さえつけられて親指に注射(麻酔?)を打たれて何やらやっていましたが痛くて思い切り泣きわめきました。漸く治療が終わり消毒して包帯でぐるぐる巻きにしておしまいでした。八十五歳になった今でも両手の親指を並べて見ると左の親指の先端に小さな突起が見えます。この小さな突起は小学一年坊主の時の私の親指の名残です、小さな指をしていたなと今でも時々眺めています。
続・小綬鶏
〈わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください。 マタイ6:11〉
先週、小綬鶏について述べましたが太田愛人先生は二羽の小綬鶏をいとも簡単に絞めたようです。流石に長野の辺境の地で長い間自給自足の生活をされていただけあって鶏の絞め方も熟知されていたのですね。実は私も鶏を絞めた事があります。疎開先で小学一年生の時でした。卵を産まなくなった鶏を母は病み上がりの妹のために栄養をつけたかったのでしょうか。東京育ちの母にはどうしたらいいのか分かりかねていたので僕がやると勇んで件の鶏を膝に押さえ込んで首を思い切りねじってみました、そのうちに鶏がぐったりしてきたので脇の鉈を振り上げて首を目掛けて降り下ろしましたが鶏は首を元通りにするとけたたましい叫び声をあげながら逃げて行きました。母と妹たちも一緒になって追いかけてやっと捕まえて私の手に返しました。今度は初めから鉈で首を叩き切りましたが妹たちは「トトコ可哀そう/\」と言っていましたが料理が出来て食べ始めると盛んに「美味しいね/\」とにこにこしながら食べていました。後で大人から教えられたのは鶏を絞める時は捻った後に少し首を引っ張ると良いと教わりましたが生憎その後がありませんでした。