2025年12月24日(水)19時(18時開場) クリスマス・イブ礼拝

司式・説教 吉村博明 牧師 聖書箇所 創世記3章14~15節、イザヤ9章1~6節、ルカ2章1~20節 説教題「天には栄光、神に。地には平和、御心に適う人に」 讃美歌 9、17、26、32、175、37

牧師の週報コラム(2025年12月21日)

フィンランドからのクリスマスの挨拶

今年もスオミ教会の元牧師、SLEYの現元宣教師などSLEY関係者からクリスマスの挨拶が届きました。今年は皆さん1130日にアドベントが始まってすぐ送られた方が多かったです。以下、SLEY関係者の方々の挨拶をご紹介します。

その前に、最近フィンランドから残念なニュースがありました。一部の心ない人たちの愚かな行為のために日本人に不愉快な思いを抱かせました。しかし、それをもってフィンランド人全員が同じ考えでいるのではないことは、国内で愚行に対する非難が沸き起こり、首相自ら日本はじめアジア諸国に公式に謝罪を表明したことに明らかです。愚行を行った本人たちも謝罪し、それらは日本でよく耳にする「もし誤解を与えたとしたら謝罪する」というようなわかりにくいものでなく率直な謝罪です。赦しを与えて然るべきものです。

今回の件でフィンランドに対するイメージに傷がついてしまったかもしれませんが、スオミ教会が礼拝や様々な集会で集中的に宣べ伝えている2000年の歴史を持つキリストの福音はたかが独立107年目の国の好感度とは全く別次元別世界のものです。ルター派では、たとえ人間の方が信仰で躓いたり罪に陥ったとしても、福音はそんなことに一切左右されず、イエス・キリストの十字架の贖いと復活の希望は微動だにせずその輝きには一かけらの陰りも起きないと考えます。だから堕ちた人間は贖いと希望の光に立ち返ればよいのです。何が起きても立ち返る地点、目指す光を持てるというのは素晴らしいことです。

 

 

以下、SLEY関係者からの挨拶です。

Pentti Marttila SLEYアジア地域コーディネーター(フィンランド語からの訳)

私たちは今、私たちの救い主キリストのご降誕を祝うクリスマスに向けて準備をしています。

クリスマスとイースター(復活祭)は、切り離すことのできない関係にあります。イエス・キリストは十字架の死を通して、私たちに罪の赦し、神との結びつき、そして神との平和をもたらすためにお生まれになりました。イエスは、世の罪を取り除く神の小羊です(ヨハネ1章29節)。

マティアス・グリューネヴァルトの有名な絵画「イーゼンハイム祭壇画」は、この福音のメッセージを深く心に訴える形で描いています。この作品の中で、洗礼者ヨハネは見る人の視線をキリスト、すなわち全世界の罪を贖うお方へと導いています。ヨハネは自分自身について語るのではなく、十字架につけられた救い主、すなわち世の罪を取り除く神の小羊をまっすぐに指し示しているのです。

この祭壇画は、アルザス地方のイーゼンハイム修道院に置かれていました。そこでは重い麦角中毒(エルゴティズム)に苦しむ患者たちの世話をしていました。この病は激しい痛み、皮膚の黒化、組織の壊死を引き起こします。グリューネヴァルトは、イエスの御体をまさに次のような姿で描いています。引き裂かれた傷、苦痛に歪む体、そして息絶えた姿です。

見る者は、キリストの御体の中に自分自身の苦しみを見いだすことができました。神は苦しみから遠く離れておられる方ではありません。むしろ、ご自身がその苦しみの中に入って来られたのです。この絵は、イエスの受難が美化されたものでも、単なる現実離れした霊的なものでもなかったことを教えます。それは現実の苦しみであり、肉体の苦しみであり、極限的な苦しみでした。キリストは、人間存在のすべての苦しみと罪の現実をその身に担われたのです。

洗礼者ヨハネの、誇張され、ほとんど不自然なほど長い指は、この作品の中心的な象徴です。その身振りは力強く宣べ伝えています。「見よ、ここに神の小羊がいる。」ヨハネは絵画の鑑賞者を見ているのではなく、キリストを見つめています。歴史的には、ヨハネは十字架の下にいませんでした。しかし神学的には、彼はそこに属するのです。彼は旧約聖書全体を代表し、キリストを指し示す者なのです。

十字架の足もとにいる小羊(アニュス・デイ)は、ヨハネの言葉(ヨハネ1章29節)を直接的に示しています。小羊の傷はキリストの傷に相当し、その血は杯へと流れています。これは罪の贖いと聖餐を示す象徴です。十字架は、単なる苦しみのしるしではなく、救いをもたらす犠牲なのです。

ヨハネの脇に記された言葉は、彼の召命のすべてを要約しています。

Illum oportet crescere, me autem minui.「あの方は栄え、私は衰えなければならない。」
(ヨハネ3章30節)

私たちの救い主イエス・キリストの祝福に満ちたご降誕を心からお祈りします。

ペンッティ・マルッティラ
Sleyアジア地域コーディネーター

 

Paavo ja Seija Heikkinen 元スオミ教会宣教師(フィンランド語からの訳)

スオミ教会の クリスマス祝会に集う皆さまへ

フィンランドでよく歌われているクリスマスキャロルに「雪が高くずっしり積もって」という歌があります。しかし、今年のクリスマスはそうではありません。少なくともここラハティ周辺では、雪はとても少ないです。1~2週間前には雪がありましたが、今日は様子が違います。ところどころに小さな白い場所があるだけです。しかし、雪があるかどうかは大事なことではありません。大切なのは、私たちの救い主の誕生のお祝いがあるかどうかということです。

今から2025年前、イスラエルの地で唯一無地で比類のない例外的な出来事が起こりました。森羅万象を司るお方の御子、イエス・キリストが人間としてお生まれになったのです。この出来事は唯一無二のものです。

少しの間、主の誕生の場所とその周囲について考えてみましょう。本来どのようであるべきだったのか、そして実際にはどのようであったのか。

まず、日本で皇室に子どもが生まれる場合を考えてみましょう。出産する病院は当然、最高水準のものであり、すべてが完璧に整えられていることでしょう。それは当然なことです。国の元首となられる方の後継者が生まれるのですから。世界中どこでも、支配者の子どもが生まれる時はどこも同じでしょう。

しかし2025年前、森羅万象の造り主であり治め主である神の御子が人間としてお生まれになりました。完全に唯一無地の出来事です。ところが、「生まれたのは誰か」を考えると、その誕生の場所は完全な驚きでした。なんと、馬小屋、動物の休む場所だったのです。天と地の支配者の御子が馬小屋でお生まれになったのです。本来なら、そうであるべきではありませんでした。水晶でできた宮殿であるべきでした。しかし、そうではありませんでした。主は馬小屋で生まれたのです。

誕生の場所に馬小屋が選ばれたことは、私たちに何を伝えているのでしょう?そのメッセージは非常に大きなものです。誰一人、外に追いやられることはないということです。主のもとに行くための敷居は低いのです。タキシードも立派な服装も必要ありません。それは偶然そうなったことではありません。天のエリートが人間としてお生まれになった神の御子は誰をも遠ざけることはありませんでした。成人して伝道の働きを始められてから、彼は学識者とも学識の無い人たちとも話し合いました。ニコデモにも名も知られぬ罪深い女性にも、イエス様は天に至る道を示されました。一緒に十字架に架けられた犯罪者も、長年聖書を学んだ専門家サウロ(後のパウロ)も遠ざけることはしませんでした。主はそのメッセージを次のように要約されたのです。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは、彼を信じる者が一人も滅びることなく、永遠の命を持つためである。

スオミ教会のクリスマス祝会に集われた皆さまに、心からクリスマスのお祝いを申し上げます。

セイヤ、パーヴォ、イルセ、カイサとラウラ、そしてそれぞれのご家族より

 

Mari-Liisa ja Timo Havukainen SLEY宣教師(フィンランド語からの訳)

スオミ教会のクリスマス祝会にお集まりの皆様へ!

昨年の春、3月から4月にかけて皆様と過ごした時間を心温まる思いで思い出しています。ありがとうございました!

アンナ=マリ・カスキネンとペッカ・シモヨキによる「ホサナと歌いなさい!

という歌をもって皆さんにご挨拶を申し上げたく思います。その第1節には次のような歌詞があります。

「枝や衣服が道に投げ出され、イエスはエルサレムへ向かった。今、私たちの王にホサナと歌いなさい!ホサナと歌いなさい。主は私たちのもとに来られる。」

喜び溢れる救い主の降誕のお祝いの時を過ごされますように!

ティモとマリ=リーサ・ハブカイネン

Päivi ja Martti Poukka SLEYスオミ教会宣教師(日本語で書かれました)

スオミ・キリスト教会の皆様へ

クリスマスおめでとうございます!

「ひとりのみどりごがわたしたちのために⽣まれた。ひとりの男の⼦がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、⼒ある神/永遠の⽗、平和の君」と唱えられる。」(イザヤ書/ 09 章 05 節)

7 ⽉ 4 ⽇には、私たちはみ⾔と同様に「ひとりの男の⼦がわたしたちに与えられた」と神様に感謝して喜びました。

2 番⽬の孫が無事に

⽣まれたからです。12 ⽉の下旬の今は、私たちはのみ⾔の通りに「ひとりのみどりごがわたしたちのために⽣まれた」と皆様と共に賛美します。イエス・キリストの誕⽣のお祝いを迎えているからです。何と不思議なことでしょう。神の⼀⼈⼦であるイエスは⾃分が作られた⺟親によって⼈間の姿をとってお⽣まれになりました。そして私たちのために⾃分の⺠のところへ、この世に来られました。⺟乳を飲む⾚ちゃんなのに、権威が彼の肩にありました。「驚くべき指導者、⼒ある神、永遠の⽗、平和の君」という名前の救い主をご⼀緒にほめたたえましょう!!!

残念なことに、今年は⽇本伝道旅⾏はできませんでした。何度何度も去年の懐かしい旅を思い出しました。そしてその旅⾏についてあちらこちらで報告をしました。しかし、神様のみ⼼だったら、来年の春にまた皆様に会う機会があるでしょう!

新 キリストからの恵みと平和が、あなたがた
にあるように。」(テサロニケ ⼆ 1 章 2 節)

Päivi & Martti 年 2026 年に「わたしたちの⽗である神と主イエス・

 

高木賢 SLEYインターネット伝道担当(日本語で書かれました)

皆さんと救い主イエス様の生誕を覚えてお祝いできることを感謝します。

イエス様のおかげで、イエス様を通して、私たちは国と民族と空間と時間の境を超えて結び付けられています。

互いに祈り合うこともできています。

個人的にもとりなしの祈りをしていただいていて深く感謝しています。

これからも互いに励まし合い、祈り合い、救い主イエス様を信じて歩んでまいりましょう。

いつかまた実際にお会いできるとよいですね。

 

Tiina ja Mika Latva-Rasku SLEY宣教師、SLEYインターネット伝道担当(日本語で書かれました)

スオミ・教会の皆様、

私たちの救世主イエス・キリストの誕生を祝うとき、

皆様の心が喜びと感謝で満たされますように。

新年が素晴らしいものでありますように!

ミカ&ティ―ナ

「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。

(テモテへの手紙一1章15節)

 

Sirkka-Liisa ja Pekka Huhtinen SLEYスオミ教会宣教師(日本語で書かれました)

キリストにあるスオミ・教会の皆様

クリスマスおめでとうございます。スオミ・教会の兄弟姉妹と共にイエス様の海馬桶のそばに集い、天の父なる神様が全世界に示してくださった恵みと愛を感謝します。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)  

「馬槽のなかにうぶごえあげ、大工の家にひととなりて、貧しきうれい生くるなやみつぶさになめしこの人を見よ。」(子供の賛美歌より)

Pekka と Sirkka-Liisa Huhtinen, Helsinki, Finland, 2025

 

Sointu ja Veli-Matti Sallinen SLEYスオミ教会宣教師日本語で書かれました

歳時記

 

晩祷の鐘

散歩の行き帰りに胸が苦しくなり気になっていたので主治医に話したら直ぐ検査をしてくれました。狭心症の疑いがあると言う事で急遽いつもの病院に入院し16日に手術をしました。手術は無事に終わりそのまま集中治療室のベッドで休んでしました。病室の突き当りの腰には色々な機械が埋め込まれていてその上は大きな窓でした。外には欅の木立が見えていて素敵な雰囲気の部屋でした。夕方、何処からともなく鐘の音が聞こえてきます。確か近くに鐘楼のある教会があったのでそこからの晩祷の鐘の音かと思いました。私たちが40年以上前に小山田の里に越してきた当時は近くの桜美林教会の晩祷の鐘の音が良く聞こえていました。桜美林教会の鐘はカリヨンでしたので色々な鐘の音が楽しめましたが此処のは一つだけの鐘です。単調ながらも済んだ綺麗な鐘の音でした。そのうちにこの鐘の音が荒野で叫ぶヨハネの「悔い改めよ」の叫び声に聞こえてきました。カーン・・カーン・・悔い改めよ・・悔い改めよ・・もしかしたらこれは神が信仰の薄き私へのヨハネに託したメッセージかもしれないと思うようになりました。間もなくヨハネよりも優れた方がおいでになる、神の子イエス・キリストの生誕を祝うクリスマスですね。

ホサナ!Hoosianna ! クリスマスおめでとうございます。

後記

鐘の音が余りにも規則正しく打っているので腕の脈拍で測ったら15秒間隔でした、余程几帳面な牧師、神父が打っているのかも知れないと思っていました。丁度通り掛かった病室のスタッフに尋ねたら黙って私の指先のクリップをきちんとはめ直して去りました、そして鐘の音も止みました。鐘の音はクリップについていた装置のアラーム音だったのですね、難聴も案外いいものだなと思いました。

2025年12月21日(日)待降節第四主日 礼拝 説教 田口聖 牧師(日本ルーテル同胞教団)

マタイ1章1〜25節

「神はご自分の民を罪から救うために」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1、はじめに

今日の福音書から語られている神の真理のみ言葉は、私たちの救い主イエス・キリストの誕生が、人の思いや知恵、あるいは人の計画や努力によるものではなく、どこまでも神ご自身が、遥か昔から約束された人類の救いの約束を、その約束の通りに実現してくださった、という素晴らしいメッセージを伝えています。

2、神の計画:罪人を用いて

A,罪人マリヤを通して

 しかしその世界を救う救い主の誕生、実に不思議ではありませんか。それはここにある通り「聖霊による」と言う不思議もあるのですが、さらにヨハネの福音書1章に「人の間に」とある通り、神はその救いを、人を用い、人の間に、しかも人として生まれるという方法で、救い主を世に与えると言う不思議です。それらは私たち人間の想像や思いをはるかに超えることでしょう。キリスト教の間でさえも、人間中心で理性信仰の神学者や牧師たちは、これは事実ではなく、神話であるのだと言ったりもします。しかしこの救い主の誕生という神のみわざとその救いの約束の成就は、まさに人間には計り知れないことの実現であるということが今日のマタイ一章にははっきり現れているのです。そしてその人の間に、人を用いてお生まれになると言うことには、もう一つ大事な事実があるのです。それは「人の間に」という時のその「人」、それは「一人の罪人」であるマリヤの胎に身籠り、そこで貧しい姿で弱々しい人間の肉体を持った赤子として生まれるということです。世の救い主イエス様は、人間が神というとすぐ思い浮かべるような目にも神々しい神の姿で来られたのではありません。あるいは、目に見えない幽霊のような姿であるのでもなければ、あるいは、見るからに神の力に溢れたような力強い姿で来たのでもありませんでした。そうではなく、一人の罪人の胎に宿り、もちろん聖書にある通り、罪はない方ですが(ヘブル4章15節)、それ以外は私たちと同じ弱さを持った人間の肉体をとり、赤ちゃんで、痛みと苦しみを通して、しかも貧しい中にお生まれになられたのです。これは人の思いや理性では信じられないことです。思いもしないし、計り知れないし、説明しつくせないことです。人間の限られたちっぽけで狭い知識の範囲では当てはまらないことです。受け入れ難いことです。確かに教会でさえも、有名な神学者でさえも、これは神話だと言いたくもなるでしょう。しかし、聖書の伝える救い主は、人間の小さな知識の枠に当てはまり理解できるような小さな神では決してない。この人間には計り知れない出来事にこそ神からわたしたちへのクリスマスの福音のメッセージがあるのです。

B, 約束の系図

 そのことはこの前の箇所も含めて、このマタイ1章全体に現れています。マタイはこの福音書の書き出しの1節、イエスのことをまさに伝え始めるその言葉を、18節にある言葉で語り出していないでしょう。とっても大事な箇所なので私は触れずにはいられないので、以前と繰り返しになってしまいますが、マタイはまず最初に、人の目には単調で、つまらない、何の意味があるのかと思うかもしれないこの系図から語り出しています。その事実、その系図は私たちに何を伝えていますか?それはまず第一に約束された救い主、真の神であるお方が、人の家系に、つまりまさしく「人の間」にお生まれになるという証に他なりません。そして系図が伝えるもっと大事なことがあります。ルカの福音書にもある系図を見るとそちらでは最初の人アダムにまで遡って書かれているのですが、何を意味して何を伝えているでしょうか。それは、まさにこの「救い主の誕生」が、創世記3章でアダムとエバの堕落の時すでに語っていた「最初の福音の約束」とも言われるあの約束につながっていると言うことです。創世記3章15節、こうありました。

「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間にわたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕きお前は彼のかかとを砕く。

 そうです。イエス・キリストの誕生の系図は、まさに神が、人間が堕落したその時、すぐに約束されたこの「最初の救いの約束」にまでしっかり繋がっており、その約束の成就だと言うことを示しているでしょう。ですからイエス・キリストの誕生、クリスマスは2000年のローマの時代のパレスチナにいきなり起こった出来事では決してないのです。それは天地万物の創造者である真の神である方が、堕落した人類を決して見捨てず、その救いの約束も反故にしたり忘れたりせず、その「最初の救いの約束」の通り、その計画の通り、女の子孫として、ご自身が罪深い人間の体を通して人となられ人と人との間に宿られた、来られた、お生まれになられたその驚くべき出来事なのです。これは実に不思議なことです。繰り返しますが、本当に、人の思いでは計り知れない、理解できない。まさに理性でも常識でも「信じられない」ことです。実に人間の小さな知識の枠にははまらないことです。しかし、神はこの聖書を通し、使徒であるマタイとヨハネ、福音書記者でありパウロと一緒に宣教をしたルカを用いて、これがあなた方一人一人に約束した、救い主イエス様の誕生なのだ、約束の実現なのだと、今日も、このクリスマスにも、まず私たちにはっきりと伝えているのです。

C, それは罪人の系図でもある

 さらにこの系図を見れば、実に、大いなる不思議と恵みがあります。これも繰り返しになりますがとても大事な事実です。その系図は「神の系図」ではありません。「聖人君子の系図」「完全な人間の系図」でもありません。そう、それはまさしく「罪人の系図」であるということがわかるでしょう。確かに偉大な信仰者とも呼ばれるアブラハムやダビデの名前があり、マリヤもヨセフもアブラハム、ダビデの家系であることはわかります。しかし、旧約聖書は、ダビデが巨人ゴリアテを倒した武勇伝やいかにも敬虔な綺麗事だけを記録しているのではなく、ダビデが一度ならず何度も罪を犯したことも正直に記録しています。マタイの記した系図を見ると、1章6節「ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ」とあります。つまりまさしく、読む人であれば誰でもわかる、あのダビデの犯した重大な罪と彼の悔い改めの出来事さえも隠さず記しています。信仰の父アブラハムでさえもそうでしょう。彼は100%完全で、罪も穢れもない、信仰も完璧な人間としては決して描かれていません。創世記を読んでください。彼は何度も弱さに葛藤し、失敗し、それでも彼が信仰の父と呼ばれるのはなぜですか?それは、彼が完全であったからではなく、神の約束とわざが完全であったからです。むしろアブラハムはどこへ行くのかわからなかった。彼にとっては自ら説明することも理解することもできなかったスタートであり歩みでした。しかし、彼ではなく神がその完全な真実な約束のゆえに、アブラハムを絶えず教え、戒め、日々悔い改めに導きながら、支え助け励まし導いた、そしてその主とその真実な言葉に絶えず立ち返り、計り知れない神とその言葉に信頼した、そんな信仰に歩んだ生涯であったからに他なりません。その孫のヤコブしかりです。彼の罪深さや欠点は溢れているでしょう。それだけではない、この系図にあるダビデの子孫のソロモンに始まる王達の歴史を見るなら、まさに罪人の歴史であり系図ではありませんか。神はその罪人の系図を知らなかったのでしょうか?そうではありません。分かっていてあえてその系図を私たちに示しています。聖書が「人の間に」と言われるとき、それは、「神の間」でもない。「神のような完全な人々の間でも、聖人君子の間」でもない、「罪人の間」にこそ救い主イエス様は宿られる。お生まれになるのです。そして、その罪人を用いてこそ神は救い主の誕生という素晴らしことをなされる、実現される、ということを私たちに示しておられるのです。以前も引用し紹介しました。ルター派のLuthran Study Bibleのこの箇所にはこうディボーションの勧めがあります。

「イエス・キリストの系図で、マタイは、罪人や恥ずべきことを隠そうとしていません。実際にマタイはそれらを目立たせています。イエスが生まれる家計には、売春婦、姦淫の罪を犯すもの、暴力的な人、そしてその他、説明できる他の罪を犯した人々をも含んでいます。このことは私たちを驚かせるかもしれませんが、事実、キリストの系図を構成しているのは、罪人に他ならなかったということです。イエスの先祖達は、私たちが救い主を必要とするのと同じくらい、救い主を必要としていたのです。もし神が、主の恵みにおいて、そのような欠点のある罪深い人々を用いることができるなら、今、救い主の罪のない生贄を証し、その主を信じている罪人を、主はどれだけ沢山、用いることができるでしょうか!主イエス・キリストよ、あなたが救うためにこられた人の間に、一人の罪人である私を加えてくださったことを感謝します。」(p1578、 Lutheran Study Bible(ESV), Concordia Publishing House, 2009)

 イエス・キリストの誕生。それは間の側の計画や思いによるのではありません。まさに神は人類が、そしてご自身が選んだ民でさえも皆罪人であることを知った上で、その罪人を救うために、その罪人のために、つまり私たちのために、そしてなんと、その罪人の間、罪人を用いて、救いと罪の赦しを実現される。神はそのことこそを遥昔からご計画とされた、そしてその通りに神が100%なさった、その証しなのです。

3、神がなさった約束の成就

A,人の側には恐れと戸惑い

 事実、今日の箇所18節以下は、そのことこそ現れています。まず、罪人である人間の側には何があるでしょうか?人間の側で何かそんな素晴らしいことをなせる何か要素、知恵や知識や、他の何らかの強さや力があるでしょうか?ヨセフにはまず恐れがありました。18節からこうあります。

「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。

 ヨセフは神の律法に従って生きることを望んでいた人でした。ですから、まだ夫婦としての関係を持っていない状況で子を宿したマリヤとの婚約関係を解消しようとするのです。しかも「内密に」です。なぜなら、律法(申命記22章23−24節)は、婚約した女性が、姦淫の罪を犯したなら、石打ちにされなければならないと教えるくらい社会においては恥ずべき重大な罪であったからでした。ヨセフはマリヤのためにも、静かに人知れず、婚約を解消し、マリヤを静かにさらせることで解決しようとしたのでした。

B, 人の決心がなるのではない、神の約束を神がなさる

 しかしです。ヨセフのある意味、マリヤへの愛情とマリヤを守るための非常に心のこもった行動ではあるのですが、その彼の判断の通りに行われることは、逆に神の計画がならないことになり、ヨセフとマリヤの家族も存在しないことになります。神の計画の通りにならないでしょう。しかしです。そのようなヨセフの心配や恐れ、人間のそのような知恵を絞った、ある意味人間の愛ある解決が、神の計画にまさって、神の計画や約束を覆したり、邪魔したり、ならないようにしたりすることはできるでしょうか?人間理性中心の神学者たちは、人間の愛の力が神の計画や約束や言葉に勝るというかもしれません。しかし、人間の判断や決断が神の真実の約束に勝らない、神の約束を変更することは決してできないのです。まさに19節ではヨセフは「決めた」ともある固い決意にあるヨセフ、そのままでは、ヨセフとマリヤは夫婦にならず、イエスはナザレの大工の家の子としても育たなかったかもしれない、そんなヨセフの決心に、主は介入されるでしょう。20節

「 このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。 マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」 」

 御使いがヨセフの夢の中で現れて言います。「恐れてはいけない」と。そのように神はご自身のみ言葉によって、語りかけによって約束を必ず実現されるのです。そしてこの「恐れないで」と言う言葉。ルカの福音書でも、御使いは、マリヤに「恐れなくても良い」と語りかけています。このように神がみ言葉を与え、語りかける理由がこの言葉にはあります。それは何よりも人々の恐れを取り除くためです。世の中は罪の世ですから、人には恐れや不安が絶えません。もちろんみ言葉には確かに罪を刺し通し悔い改めに導く律法の言葉もあります。しかし律法は決して最後の言葉ではありません。神と神の言葉、何よりそのイエス・キリストの約束は、その罪の世に不安と恐れで生き、罪に刺し通され悔いる私たちに、さらに重荷を負わせ恐れさせ心配させるためではないのです。何よりもこのように「恐れなくて良い」とどこまでも平安を与えてくださるために神は私たちに語りかけるのです。

C, 御使いは律法で導かない

 そんな恐れるヨセフ、密かに婚約を解消しようとするするヨセフに、神は御使いを通して告げます。「その子は聖霊によるのだ」と。さらには具体的なことも約束しています。それは男の子だと。名前はイエスとつけなさい。皆さん、この箇所は伝えています。この「恐れないで」という言葉。あるいは聖書には命令で「恐れるな」と言う言葉も沢山あります。それは一見「命令」ですから、一歩間違うと律法と理解されます。つまり「恐るな」と神が言うのだから、それは私たちが自分の力で頑張って、恐れないようにしなければいけない。つまり「私たちが頑張って恐れないようにしよう」とか、まず私達人間の意志の力でその神に応えなければいけないかのように考えることはないでしょうか?それは「いつも喜んでいなさい」(第一テサロニケ5章16節)も同じです。それは命令だからと、律法と理解する人がいます。自分の力や意志の力で神のために、いつでも喜んでいなければいけないのだと。つまり律法なんだと。そのような教えは、救いや信仰、信仰生活は、神の恵みだけでは十分ではなく、数パーセントでも人間の意志の力の協力や努力が必要なんだ、決心と決意など意志の力が重要なんだと教えるような教会ではそう考えたり教えたりするかもしれません。しかしルーテル教会ではそれが聖書の教えであるとは教えません。なぜ「恐れるな」、または、「恐れなくて良い」と神様は私たちに言われるのでしょうか?それは、神様の、神様ご自身がこれから実現するという計画と約束がそこにあるがゆえなのです。ここでもそのことがわかります。「恐れなくていい」のは、それが人ではなく「聖霊による」ものであり、人ではなく「神が」聖霊によって、男の子をマリヤに産ませるのであり、名前も人が決めるのではなく、「神が」イエスと決めているからであり、そして何と幸いではありませんか。その子がなす救いの計画がはっきりと告げられているでしょう。「この子は自分の民を罪から救うからである」と。そう「恐るな」、あるいは、「恐れなくていい」のは、神が確かにその通りに必ず実現すると言う神ご自身の約束があるからこそ「恐れなくていい」なのです。恐れからの解放、平安、喜び、何であっても、神がそのように励ますのは、人間の側が自分の力や意志の力でそうしなければいけないという律法ではなく、イエス様の約束が100%真実であり、その通りに神ご自身が実現するから、心配しなくていい。恐れなくていい。喜んでいなさい。なのです。そのように「平安」というのは、私たちの努力や意志の力で頑張って得るものではなく、イエス様が、その約束によってもたらす平安だということなのです。イエス様自身がヨハネ14章で「わたしの与える平安」と言っているでしょう。ですから「恐れるな」も、「喜んでいなさい」も、そして何より「信じなさい」という信仰も、決して「人がなさなければならない」「律法」ではない。紛れもなくそれらは福音の言葉の力によって「神がなす」「福音」だということなのです。福音の確かな真実な約束があるからこそ、「恐るな」「心配しなくて良い」なのです。この平安や喜びは聖書は真実な言葉ではなく、信じられない理性には合わない説明できないから神話なんだ、と聖書の権威を信じない人や教会には、決して起こり得ません。それはまさにイエスが福音を通して与える信仰においてイエスだけが与えることができる真の平安の他なりません。聖書は真実であると信じればこそなのです。

D,御使いは確信を得させるためにどうするか?

 そしてこのところ使徒マタイは実にその真実なみ言葉の誠実な真の宣教師ではありませんか。ここで彼は、この福音書を読む人達に、現代のリベラルな神学者たちが、理性中心に人間の常識で理解できるような合理的な解釈で聖書を空想話で塗り固めて説明しようとはしません。あるいは、現代流行りの説教で、流行って好まれるからと人間の知恵の巧みな方法論や説得力で確信させるとか、流行りの魅力的で面白い例話に溢れさせて説明しようと安易な方法には走らないでしょう。マタイははっきりと私たちに証しします。22節

「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。

 これは旧約聖書のイザヤ書7章14節の預言です。このように使徒マタイは、聖書を引用します。そしてその主が預言者を通して言われたことが実現するためであったと、まさに「聖書がこう言っている。聖書がこう約束してきた。聖書は指し示してきた。その聖書の約束がその通りに実現するのだ、主の約束は真実であるのだ」ということこそを指し示すでしょう。その言葉がその通り、その約束の通りに実現したのだとただイエスとその約束の言葉のみを指し示すのです。全ては神が約束した通り、聖書の通り、みことばの通りにその通りになったのだ。それが使徒的なクリスマスのメッセージなのです。

4 結び:神はご自分の民、私たちを罪から救うために

 私たちはどこまでも罪人です。生まれながらに神を信じない神に背を向けて生まれ育ち、自らでは聖書の言葉もイエス・キリストも見出すことも信じることもできないものです。自らでは、神の戒めの第一の戒め、心をつくし、思いを尽くし、精神を尽くして神を愛することができない、そればかりではなく、隣人さえを愛することできない存在です。隣人を愛していると思っているようで実は、自分自身しか愛することができないことに気付かされる存在です。それは私自身が、聖書の律法に照らされる時に刺し通される自分自身の惨めな姿であり、救いようない罪人は私自身です。

 しかし皆さん。神の計画はそんな罪人を滅ぼし見捨てることでもありませんでした。神はアダムの堕落の時から女の子孫が悪魔を滅ぼすと約束しておられましたが、その約束の通り、堕落した罪深い女の子孫の罪人の系図の先に、ヨセフとマリヤがいます。神はその二人の罪人の間に、約束の通りに女の子孫を与えてくださいました。その神の最初の約束の通りにその神の言葉は実現しました。その通りに罪人の間に生まれ、その救い主は罪人の間に育ち、罪はありませんでしたが罪人と一緒に食事をし友となります。そして何よりその罪とその結果である、私たちの苦しみ、悲しみ、絶望、そして何より死を背負って、つまり、それは私たちが負わなければならない全てのものを代わりにその身に負って、私たちのために十字架にかけられ死なれるでしょう。その十字架のために、つまり私たち一人一人のためにこの御子は生まれるのです。「この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方」とある通りに。その身代わりの十字架のゆえに、私たちの罪が赦されるため、そして罪赦され、義と認められ、私たちの義ではなくイエス様の義を受けて、そして、復活の新しいいのちによって、今日も私たちが新しくされ平安のうちにここから出ていくことができるためです。

 以前ある信徒が相談しました。自分が弱っている時にある教会の先輩から「あなたは信仰者なんだから、もっと一生懸命、心配しないで、熱心に信じないと天国に行けないよ」と言われた。と、だから自分は天国に行けないのかと不安になっている、そう言うのです。私はそれを聞いて切なくなりました。皆さん。そういう考えや励ましは間違いであり聖書の伝える福音を律法に混同し聖書の教えを歪めてしまっています。盲人が盲人の手引きをしてしまっています。皆さんは心配しないでください。皆さんは確実に天国に行けます。なぜなら、私たちの何かではありません。神の約束、神のみ言葉によって恵みとして信仰が与えられ、人の名前ではなくキリストの名で洗礼を授けられ、その私たちを新しく生まれさせたイエス・キリストの福音によって、今日も明日もいつまでも、日々悔い改める私たちに、イエス様が、その十字架と復活のゆえに「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と言ってくださるからです。救いの確信は、私たちが律法を一所懸命、自分の力や理性で実現するから確信があるのではありませんし、それでは一生確信はありません。救いの確信は、イエス様の揺るぎない、朽ちることのない、真実のみことば、約束、福音のゆえです。今日もイエス様は悔い改めを持って主の前にいる一人一人に、このイエス・キリストの十字架とそのキリストの義のゆえに言ってくださっています。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。ぜひこの福音をそのまま受け取り、救いの確信を持って、安心して、今日もここから遣わされて行きましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

クリスマス祝会

スオミ教会・家庭料理クラブの報告

今年最後の家庭料理クラブは12月13日に開催しました。今回はフィンランドのクリスマスの風味豊かなクリスマス・リース”Joulukranssi”とピパルカックを作りました。

料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。まず、リースの生地を作ります。材料を測って順番にボールに入れてから小麦粉を加え始めます。生地をよく捏ねてから柔らかくしたマーガリンを入れて、またよく捏ねて生地は出来上がりです。暖かい場所において一回目の発酵をさせます。待っている間に中身を作ります。マーガリンの中に砂糖やフィンランドのクリスマスお菓子に使うシナモン、グローブなどのスパイスを加えて混ぜます。それから中身のドライフルーツを計ってレーズンは細かく切ります。

生地が大きく膨らんだらリースの形づくりに入ります。生地を長方形に綿棒で伸ばしてその上にスパイス入りのマーガリンを塗ります。その上にドライフルーツをかけると、「わあ、きれいな色!」「香りも素敵ね!」との声がしました。

それから生地をロール状にして、それを鉄板に丸い形のリースにしてからハサミで切ります。ロールを新しい形にすると中身のドライフルーツがきれいに見えてきます。「面白い!」「こんなの初めて」との声がします。それから二回目の発酵です。

発酵させている間にピパルカック作りです。前日に作った生地を綿棒で薄く伸ばして、それから型でクッキーを抜いて、鉄板の上に次々と沢山のクッキーが並べられます。今回はお子さまの参加もあったので、大人の方々と一緒に一生懸命楽しくクッキーやリースを作りました。

リースの二回目の発酵も早くすみ、卵を塗って砂糖とアーモンドダイスをかけてオーブンに入れます。しばらくするとクリスマスのスパイスの香りが教会中にどんどん広がって参加者の皆さんは何度もオーブンを覗きに行きました。「大きく膨んでいるわ」「美味しいそう!」「良い香りね」とみんなワクワクでした。

今回はフィンランドのクリスマス・ホットドリンク”Glögi”も用意しました。それを温めると、またクリスマスの香りが台所から一気に教会中に広がりました。

テーブルのセッテングをしてみんなワクワクしながら席に着いて焼きたてのクリスマス・リース、ピパルカック、”Glögi”を一緒に頂いて歓談の時を持ちました。皆さん一緒にフィンランドのクリスマスの味を美味しく楽しく味わいました。その時にフィンランドのクリスマスや世界の初めてのクリスマスの出来事についてのお話を聞きました。料理クラブが終わる頃に教会の玄関前のイルミネーションが輝き出して、外も中もクリスマスの雰囲気で一杯になりました!

今回の料理クラブでは参加者の皆さんと一緒にクリスマスの喜びを分かち合うことが出来、とても感謝しています。次回の料理クラブは、年明けの1月はお休み、2月から再開する予定です。詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています

それでは皆さま、天の父なる神さまが祝福されるクリスマスをお迎え下さい!

料理クラブのお話2025年12月

教会のカレンダーでは明日は待降節(アドベント)第三の日曜日でクリスマスがどんどん近づいています。この季節になると、フィンランドの多くの家庭ではクリスマスの準備のためにお菓子を焼いたり、クリスマスの飾りを作ったり、大掃除をしたりします。家の中からクリスマスの香りが外まで広がります。

今日皆さんと一緒に作ったクリスマス・リース「Joulu kranssi」とピパルカックはフィンランドの伝統的なクリスマス菓子です。最近は新しいクリスマスのお菓子が次々と登場しています。それらは伝統的なお菓子を元にして少し変えるだけで新しくしたもので、変化を求める人にとって新しいクリスマスお菓子を作れるチャンスです。私は毎年インターネットで様々なレシピを検索しますが、結局いつも同じ伝統的なお菓子を作ってしまいます。それらは私の母も作っていたものだったので、同じお菓子を作る方が、クリスマスの雰囲気がより高まると思います。

今日皆さんと一緒に作ったリースの生地は料理クラブで何度も作ったコーヒー・ブレッドの生地と殆ど同じですが、リースの形に作るのは初めてです。クリスマス・リースの特徴はクリスマス・スパイス、ドライフルーツやアーモンドダイスを使うことです。リーズの形自体も本当のクリスマスシースの印象を与えるのでクリスマスのお祝いの気分を高めてくれます。

クリスマスのお菓子や料理に加えて飾り物や音楽もクリスマスの雰囲気を高めてくれます。このようにクリスマスはさまざまな感覚、味、香り、視覚、聴覚を通して体験されます。しかし最も大切なことは2千年前に起こったベツレヘムという町の出来事、神さまの子イエス様がお生まれになったことを覚えて日常の慌ただしさの中で立ち止まってみることです。

この間私はフィンランドのクリスマス向けの雑誌でベツレヘムの出来事についての記事を読みました。今日はそれを紹介したいと思います。これはある昔の教会の指導者が語ったお話です。その指導者はイエス様がお生まれになったベツレヘムの町で多くの時間を過ごし、イエス様の誕生の意味について深く思い巡らしました。彼はこう語ります。「私はベツレヘムの町の出来事を思う時、心の中で赤ちゃんのイエス様とよく会話をします。」

その会話は次のようなものです。「イエス様、あなたは寒そうで、震えているようにみえます。横になっている飼い葉おけも固くて楽ではないしょう。しかし同じ指導者は自分に対して言います。「そこに横になっているのは私の救いのためなのです。しかし私はどうすれば救いの恵みに報いることが出来るでしょうか?」すると、指導者は心の中で赤ちゃんのイエス様の答えを次のように思います。「安心しなさい。私はあなたから何も望んではいません。私はこれからもっと大変な時を通らなければなりません。それはゲッセマネの庭園での苦しみや十字架の時です。」指導者はさらにイエス様に語ります。「それでは私は、どうしてもあなたに何か差し上げたいのです。私の持っているお金を全て捧げたいのです。」赤ちゃんは答えます。「私はこの天と地と全てを支配して、それらは全て私のものです。あなたのお金は受け取る必要はありません。お金を貧しい人々に与えなさい。そうすれば、私はそれらを自分に捧げられたものと同じように受け取ります。」

指導者は語り続けます。「愛する赤ちゃんのキリストよ、私はお金を喜んで貧しい人々に分け与えます。しかし私はあなたご自身にも何か差し上げたいのです。何を捧げたらよいでしょうか。何も差し上げないと、とても悲しくなるのです。」すると赤ちゃんは再び答えます。「あなたはとても寛大な人です。それでは、あなたが私に与えなければならないものを教えましょう。それはあなたにある悪いこと全て、良心の咎め、そしてあなたの罪です。」「私がそれらを与えたらあなたはどうされるのですか?」指導者が尋ねます。イエス様は答えます。「私はそれらを引き受けて背負います。あなたからそれらを取り除きます。私の支配力はまさにその為にあります。預言者イザヤの言葉にあるように私はあなたの罪を全て背負って取り除くのです。」この言葉に深く心を動かされた指導者はこう告白します。「あなたのお言葉を聞いて、心は涙が溢れます。あなたは私から何か良いものを望んでおられると思っていましたが、求めておられるのは私の悪いものだけだったのです。それでは私の全ての罪を取り除いてください。そしてあなたのものを私にお与え下さい。そうすれば私は罪から解放され永遠の命の確かな希望を頂くことが出来ます。」指導者は喜びをもってお話を終えました。

この教会の指導者と同じように私たちも世界の全ての人々もベツレヘムのイエス様が置かれた飼い葉おけの前に立ち止まることが出来ます。クリスマスは、よい雰囲気を感じるかどうかに関係なく、クリスマスのメッセージ「今日ダビデの町であなた方のために救い主がお生まれになった。」というみ言葉を心で受け取ることが出来れば、本当のクリスマスの喜びで心が満たされます。

皆さん、どうか良いクリスマスをお迎えください。

手芸クラブの報告

12月の手芸クラブは3日に開催しました。その日は12月の初めにしては暖かい日でした。

今回の作品はフィンランドのクリスマス・オーナメント「オルキ・タハティ(藁の星)」です。材料はフィンランド直送の天然の藁です!

初めに星のモデルを見て自分の作りたいものを選びます。それから水で柔らかくした藁を星の形に合わせて8本か12本の束にします。束をパールピンでプレートに取り付けてから星の形を作ります。プレートに取り付けるパールピンはどんどん増えていきますが、形はまだはっきり見えません。その後、赤い糸で藁を結んでいくと形が少しづつ見えてきました。ここから参加者の皆さんの手の動きが早くなってどんどん赤い糸が増え、星はあっという間に出来上がりました。「わあ、可愛い!」「きれいな形ね」との嬉しそうな声があちらこちらから聞こえてきました。時間はまだあったので、二つ目の星を作ることも出来ました。

以前手芸クラブで使ったテクニックでストールを編んだ方がお二人、完成された素敵なストールを持ってきて見せて下さいました。「柔らくて暖かそう!」皆で素敵な出来栄えを感嘆しました。

今回も皆さん、楽しくおしゃべりしながら藁の星を作って時が経つのを忘れてしまうほどでした。あっという間にコーヒータイムの時間になりました。

みんなでテーブルのセッティングをして、星の形のクリスマス・プルーン・パイをコ―ヒーと一緒に味わいながら楽しく歓談を続けました。いつものように聖書のお話も聞きました。今回のお話は、今回作った星の材料の藁や2千年前のクリスマスの出来事についてでした。

 

次回の手芸クラブは年明けの1月28日の予定です。詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています!

手芸クラブのお話2025年12月

藁はフィンランドでは昔からクリスマス・オーナメントの材料として使われ、現在も人気がある素材です。藁で作る「ヒンメリ」、「星」、「天使」などの伝統的なクリスマス飾りを藁で作る人は今も多いです。藁は農業から生まれる素朴な素材ですが、このような可愛らしいオーナメントにも用いられます。現在は穀物は機械的に脱穀されているために長い藁を見つけるのは難しいです。もしどこかで見つけることができればラッキーです。

クリスマス・オーナメントに使われる藁は主にライ麦と小麦のもが多いです。どちらも丈夫で光が当たると、白い控えめな輝きを放ちます。お部屋の天井に吊るされた藁の「ヒンメリ」や窓に掛けた「星」はクリスマスの心が温める雰囲気を高めてくれます。

ところで、クリスマスオーナメントに使われる「藁」は世界で初めてのクリスマスの出来事と深い関係があります。それはどんなことでしょうか。

その出来ことは2000年くらい前の昔に起こりました。CC0初めてのクリスマスの夜に神さまの独り子であるイエス様がお生まれになりました。母マリアとイエス様を育てることになるヨセフはベツレヘムという町に住民登録に行き、そこで泊まる宿屋を探しました。しかし町は旅人が多くて泊まる場所がありませんでした。ところがある宿屋の馬小屋は空いてそこで休むことが出来ました。ちょうどその時マリアは月が満ちて男の子を産みました。それがイエス様でした。マリアは馬小屋の飼い葉桶に藁を敷いて赤ちゃんのイエス様を寝かせました。

ところで、この馬小屋の出来事の知らせはすぐ広まりました。その夜ベツレヘムの外れの野原で羊飼いが羊の番をしていた時に天使が現れて言いました。「今日ダビデの町で、あなた方のために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなた方は、布にくるまって飼い葉桶の中に眠っている乳飲み子を見つけるであろう。」飼い葉桶の中に眠っている赤ちゃんがその「しるし」であるというのです。羊飼いたちは天使の言葉を素直に信じ、すぐベツレヘムの町に向かいました。そして馬小屋の飼い葉桶の藁の上に眠っているイエス様を見つけました。このようにイエス様がお生まれになったことの最初の目撃者は羊飼いたちでした。

イエス様の誕生は他の国の人たちにも知られるようになりました。この初めてのクリスマスの少し前に遠い東の国の占星術の学者たちが夜空に不思議な輝きをする星を確認しました。彼らはこれを新しい王様の誕生の印と考え、今のイスラエルがあるユダヤの地に旅をして、エルサレムまでやってきました。そこで、その時王だったヘロデに「新しく王になるためにお生まれになった方はどこにおられますか。私たちは東方でその星を見たので拝みに来ました」と尋ねました。ヘロデ王はとても驚き、自分の地位が危なくなると心配しました。王は旧約聖書の専門家たちを集めて預言について聞きました。すると彼らは、救世主はユダヤのベツレヘムに誕生するという預言があることを教えました。ヘロデ王は東方の学者たちを呼んで、その子供を見つけたら知らせるようにと言いました。それはその子を殺すためでした。学者たちはそのことを知らずに出発しました。すると、東方で見た星が彼らに先立つように見えて、それを目指していくとイエス様がお生まれになったベツレヘムの馬小屋に到着しました。彼らは馬小屋に入ると、イエス様と母マリアとヨセフを見つけました。

学者たちはこの世の救い主となる方が王様のようにお城で生まれるのではなく、馬小屋で生まれたことに驚きましたが、旧約聖書の預言や不思議な星の導きがあったので、信じることが出来たのです。

このように今日作った藁の星は初めてのクリスマスの出来事に深く結びついています。藁は生まれたばかりのイエス様が置かれた場所、星は神様が学者たちに示したしるしです。それで彼らはイエス様がお生まれになった馬小屋に導くことができたのです。CC0私たちも世界で初めてのクリスマスにお生まれになったイエス様のもとに行くことが出来ます。どのようにして出来るでしょうか?それは聖書の御言葉を聞いたり読んだりする時です。聖書の御言葉は私たちにベツレヘムの星と同じ役割を果てくれます。聖書を読むと、イエス様はこの世の全ての人々の救い主としてお生まれになったことが分かります。こうしてクリスマスに飾られる藁の星は私たちにこの出来事を思い起こさせてくれてクリスマスの喜びを感じさせてくれるのです。

牧師の週報コラム

宮沢賢治「雨ニモ負ケズ」 vs. パウロ「ローマの信徒への手紙」12

なぜ「雨ニモ負ケズ」とローマ12章を突き合わせるのか?私の個人的な経験が絡む話なので、以下は一つの信仰の証しとしてお読み下さい。

今は昔、中学の国語の授業で平家物語の冒頭文を暗記する宿題があった。それを母に聞かせたところ、昔は歴代天皇の名前や教育勅語を暗記しなければならなかったと言って、神武スイゼイアンネイと唱え始め、途中で、もう忘れた、と。教育勅語は?と聞くと、それはもういい、と言って唱えなかった(因みに母は東京の墨田区本所の出身、東京大空襲の時に九死に一生を得た経験を持った人)。

それから歳月は過ぎ大学時代、政治学徒として日本国憲法を見たら、前文がとてもいい。これぞ戦後日本人の精神的支柱として暗記するに相応しいと思い暗記。ただし、憲法前文は政治的、社会的な理念が中心。もっと個人レベルの理念は何か?前文で言われる「人間相互の関係を支配する崇高な理想」に中身を与える理念は?ちょうどその頃、作家の丸谷才一が国語教育に関するコラムで「子供に詩を作らせるな、優れた詩を暗記させよ」と主張したのをもっともなことと思い、詩と理念の一石二鳥ということで宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」に注目してこれも暗記(ただし、その時は詩の後に念仏が続くという、仏教的な祈りの性格がある詩とは知らず)。

さらに歳月は過ぎフィンランド留学中に聖書を学び、洗礼を受けてキリスト教徒になって帰国。日本で繋がることになった教会で年配の信徒の方たちが暗唱聖句をスラスラ唱えるのを見て、自分もそうあらねばと思うが、聖書はフィンランド語が身近になってしまい日本語の聖書になかなか馴染めず怠けることに。

もっと歳月は過ぎ、フィンランドで神学徒として牧師助手の仕事もするようになり、何度か堅信礼教育の教師を務めた(フィンランドの14歳の児童は堅信礼を受ける前にキリスト教の教義を合宿制で学ばなければならない。国教会に属する児童の90%以上が参加する)。そこで生徒たちは重要な聖句を暗記しなければならない。十戒から始まり、主の祈り、使徒信条、アロンの祝福、黄金の戒律(マタイ712節)、愛の二重戒律(マルコ122931節)、小福音(ヨハネ316節)、イエスの大宣教令(マタイ281820節)。ということは、日本の子供たちが19世紀後半から1945年まで歴代天皇の名前と教育勅語を暗記し、それ以後は平家物語の冒頭文を暗記してきた間、フィンランドの子供たちは宗教改革の時代から現在に至るまで聖書のこれらの御言葉を暗記してきたわけだ。ここ30年ほどフィンランドの教会を巡る状況は動揺があり、かつての安定性は失われてしまったが、信仰にとどまる人たちはこれからもそうし続けるであろう。堅信礼教育で私は生徒の達成度をテストする立場だったので私も覚えなければならない。これが私の暗唱聖句の始まりであった。

それからまもなくして、釈義学徒として博士論文に従事することとなり、作業を捗らせる必要から論文テーマに関係するイザヤ6章とマルコ4320節をそれぞれヘブライ語とギリシャ語で暗記。それから暗唱聖句は少しずつ増えていった。

聖句を原語で暗唱するとどうしても音やリズムが中心になって意味が遠のいてしまう。つい先日、ローマ12章の意味を確認していたら、9節から後で急に宮沢賢治の詩がどこからともなく響いてきた。巨大彗星が地球に接近するような気がした。(続く)

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歳時記

アンデレクロス(アンデレの十字架)

白州の我が家の上空は定期便の通い路らしく冬の晴れ渡った青空を西に向かって幾筋もの飛行機雲がその軌跡を残して行きます。今まさに一機の西行きの定期便が青空を切り裂いて真っ白な雲を曳きながら驀進しています。暫くすると青空には大きなXの字が浮かびあがりました、このXは清泉寮のアンデレ教会の十字架でもあります。アンデレは死してもなお大空にその軌跡を残したと想いに耽っていました。

2025年12月14日(日)待降節第三主日 礼拝 説教 吉村博明 牧師

主日礼拝説教 2025年12月14日 待降節第三主日 スオミ教会

イザヤ35章1~10節

ヤコブ5章7~10節

マタイ11章2~11節

説教題 「荒野のようなこの世にあっても、キリスト信仰者にとっては緑の大地の道を進むようなもの」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 本日の福音書の個所も、わかりそうでわかりにくいところです。まず背景としてあるのは、洗礼者ヨハネがガリラヤの領主ヘロデの不倫問題を批判したために牢屋に入れられてしまったことがあります。ヨハネは恐らく面会に来た弟子たちからイエス様が権威ある教えを宣べ伝え奇跡の業を行っていることを聞いたでしょう。それで、弟子たちをイエス様のもとに送って、あなたは来たるべきメシアなのか、それとも別の者を待たねばならないのかと聞きました。イエス様は答えとして、自分がどんな奇跡の業を行っているかを述べて、それをヨハネに伝えよと言って弟子たちを返しました。そこで今度は群衆に向かって、ヨハネがどういう人物か話します。風にそよぐ葦とかしなやかな服を着た人の話があります。ヨハネのことを預言者以上の者と言ったりします。女から生まれた者のなかで最も偉大な者というのは、人間から生まれた者の中でという意味です。イエス様は聖霊の力で乙女マリアから生まれたので比較の対象外ということが暗示されています。ところが、最も偉大な者だと言ったかと思いきや、天の国で最も小さな者の方がヨハネより偉大だなどと言います。

 さあ、これらが何を意味しているのかをこれから説き明かしてみましょう。その際に注意すべきことは、これはキリスト信仰を持つ説教者がキリスト信仰を持つ会衆に向けて行う話なので、キリスト信仰の観点での説き明かしということです。聖書の言葉を理解しようとする時、キリスト信仰がなくても信仰と無関係な理解はできます。しかし、それは聖書を神が与えた言葉の集大成とみることではなく、人間が創り出した文学作品と同じに扱うことです。キリスト信仰がない方が信仰にとらわれないいろんな解釈ができます。そういう解釈が新しい見方を生み出すと見方が深まったと思う人もいます。しかし、キリスト信仰の観点がない解釈ならば、それは信仰の深まりにはなりません。それでは、キリスト信仰の観点で聖書を繙くというのはどういうことか?それは、まず繙く人が自分はイエス・キリストを救い主と信じ、洗礼を受けて聖霊を与えられた者であるとわかっていることが前提です。では、なぜイエス・キリストが救い主かと言うと、彼が十字架にかかって私の罪を神に対して私の代わりに償って下さったからであり、彼が死から復活されて永遠の命に至る道を私にも切り開いて下さったから救い主なのです。そして今はこの主が整えて下さった道を主に守られ導かれながら共に歩んでいるとわかっているのがキリスト信仰者なのです。この信仰の観点で聖書を繙くと難しいところは結構わかってきます。難しすぎて今はわからないところでも、わからないなりにそういうものなんだと一旦受け止めて、いつか目が開かれたようにわかる日が来るから大丈夫と心の中にしまって、今はただ道を歩き続けるのみという物分かりのよさでいるのがキリスト信仰者だと私は思っています。

2.洗礼者ヨハネの奇妙な質問

 イエス様が権威ある教えを宣べ伝えて奇跡の業を行っていることを牢獄にいた洗礼者ヨハネが伝え聞きました。彼は自分の弟子をイエス様のもとに送り、来るべきメシアはあなたか、それとも別の者を待たねばならないのかと尋ねさせます。この質問は一見奇妙に思えます。なぜなら、ヨハネは以前にイエス様のことを自分とは比べものにならない偉大な方とわかっていて、イエス様に洗礼を授けることを躊躇したほどでした。ヨハネ福音書では、イエス様のことを「神の子」と証ししています。それならば、なぜイエス様が来るべき方かどうかまだわからないでいるような質問を送ったのでしょうか?これについては、いろんな説明の仕方があるようです。一つには、ヨハネは投獄されて意気消沈してしまいイエス様のことを信じられなくなったのでそういう質問を送っただとか、ヨハネの弟子たちは質問をしたのではなく、あなたは来たるべきメシアですと述べたのが正しい文だとかいう説明を聞いたことがあります。でも、ギリシャ語の原文ではちゃんと疑問文になっています。なので、解釈が正しくて聖書の文章が間違っているというような説明は無視しましょう。

 もし洗礼者ヨハネがイエス様の教えや業を聞いたのであれば、メシアであることに疑いはなかったはずです。それならば、なぜ聞いたのでしょうか?それは、イエス様の答えをよく目を見開いて見ればわかります。イエス様は次のことをヨハネに伝えよと言いました。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、らい病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人には福音を告げ知らされているということです。これらは皆、イザヤ書の預言の成就です。イザヤ書の26章19節、29章18節、35章5~6節、42章18節、61章1節にある預言です。イエス様は、来たるべきメシアはあなたですか、と聞かれて、ハイ、そうです、で済ませるのではなく、その根拠として自分が行っていることは全部旧約聖書に預言されていることであるとまさに旧約聖書に基づいて自分がメシアであることを証ししているのです。ヨハネにはわかっていたことですが、それをイエス様が自分の口で根拠づけて証しするようにさせたのです。この証しはヨハネに向けられたものに見えますが、実はヨハネの弟子たちや周りにいた群衆も聞いたので、大勢の人にとっても証ししたことになります。一見おかしな質問に見えても、もしヨハネがこの質問をしなかったら、イエス様自身による旧約聖書に基づいたご自分の証しは生まれなかったのです。現代を生きる私たちの目にも触れることはなかったのです。つまり、これは洗礼者ヨハネとイエス様の見事な連係プレーだったのです。

 証しをした後でイエス様は言われます。「わたしにつまづかない人は幸いである。」つまり、旧約聖書の預言の成就という有無を言わせない証拠がある以上、私のメシアとしての地位は明確である、これ位の確証があれば、ちょっとやそっとのことでも私に疑いを抱いたりして私に躓いて離れてしまうことはないのだ、私を信頼して復活の日の永遠の命に至るまでしっかりこの世を歩むことができるのだ、それでまことに幸いなのだということです。しかし、弟子たちをはじめ大勢の人がイエス様に躓く時が来ます。彼が裁判にかけられて十字架刑に処せられた時です。しかし、その後に起こる彼の死からの復活がダメ押しの確証になりました。これも旧約聖書の預言の成就でした。死を超える永遠の命が現実のものになった以上、確証は究極の確証になりました。それからは、この確証を抱いている限りイエス様を救い主と信じる人はもう躓く理由がないのです。

3.荒野が緑の大地に変わる時

 イエス様が群衆に尋ねます。お前たちは何を見に荒野に行ったのか?風にそよぐ葦か?それとも、しなやかな服を着た人か?それとも預言者か?ヨハネがユダヤの荒野とヨルダン川を舞台にして活動を開始した時、彼は大勢の人に悔い改めに導く洗礼を授けました。実に多くの人たちがヨハネのもとにやって来ました。彼の宣べ伝えを聞いて、天地創造の神の怒りの日が近い、神の意思に沿わない者はみな罪人として断罪されると恐れ、罪を悔い改める印として洗礼を受けたのです。人々が荒野に来て見たのはまさしくこの洗礼者ヨハネでした。

 それでは、風にそよぐ葦とは何のことか?一つの説明の仕方はこうです。風にそよぐ葦とはすぐ権力になびいてしまうような信念のない人のことであると。しかし、ヨハネは支配者の不正を公けに批判して投獄されたので風にそよぐ葦などではありません。それでここのイエス様の趣旨は、お前たちが荒野に行ったのは風にそよぐ葦を見るためだったのか?そうではなかっただろう、というふうに考えられます。次にイエス様は、では、しなやかな服を着る人を見に行ったのか、と聞きます。しなやかな服とは高価な服、位の高い人の着る服のことです。洗礼者ヨハネは駱駝の毛衣を着て腰に皮の帯を締めていたので、全く正反対の服装です。群衆が荒野に行って見たのは真の預言者であり、それは風にそよぐ葦とも王宮にいる人たちとも全然異なる者であるということを言うのがイエス様の趣旨だったと考えられます。

 しかしながら、ここのところはもっと深い意味があります。ここまでの理解はキリスト信仰を持たない人でも出来るものです。深い意味というのは、ここの部分はイザヤ書35章が底流として脈打っているということです。イザヤ書35章は、まず、荒地が喜びの声をあげ、花が咲き誇るようなことが起きると言って始まります。荒地の中にいるような状態の神の民に対して、弱った手足に力を込めよ、恐れるなと呼びかけがあります。そこで何が起こるかと言うと、神が立場のどんでん返しを起こすのです。それはあたかもマタイ福音書5章の山上の説教のはじめイエス様が約束されたこと、悲しむ者は慰められる、へりくだった者は約束の地を受け継ぐことができる、神の義に飢え乾く者は満たされるということが起きるのです。イザヤ35章では、どんでん返しの日、目の見えない人は見えるようになり、聞こえない人は聞こえるようになり、足の不自由な人は飛び跳ねるようになり、口のきけない人は話すようになることが起こるのです。まさにその時、渇いた荒地はみずみずしい緑豊かな大地にかわり、そこには天の御国に通じる真っ直ぐな道が整備されると。その道は罪から贖われた人たちが猛獣などの危険から守られて歩むと。そして最後は目的地にて歓呼の声で迎えられ、苦しみや悩みは逃げ去ると言われます。この終わりの言葉は黙示録21章に響く言葉です。古い天と地に代わって新しい天と地が創造され、そこに現れる神の国に迎え入れられた人たちはみな涙を拭われて、もはや死も悲しみも嘆きも労苦もないと言われます。

 イザヤ書35章は、キリスト信仰のない人が読めば、バビロン捕囚から解放されたイスラエルの民が荒野を通って祖国に帰還する旅を美しく描いたもの以上でも以下でもありません。しかし、キリスト信仰者が繙くと、ここは、神が民の祖国帰還という歴史上の出来事を材料にして、罪から贖われた者が復活の日を目指して歩むことになる道のりを描いているとわかるのです。

 ここで、風にそよぐ葦が何を意味するかもう一度見てみます。イザヤ書35章に荒野がみずみずしい緑豊かな大地に変わって葦が生い茂る様子が描かれています。イエス様が風にそよぐ葦を見に行ったのかと群衆に聞いたのは実は、お前たちはこの世という荒野が今まさにイザヤの預言のように緑豊かな大地にかわったことを洗礼者ヨハネの登場からわかったのかという意味もあるのです。しなやかな服を着た人は王宮にいると言うのも、イザヤ35章7節の「山犬がうずくまるところは葦やパピルスの茂るところとなる」と関係してきます。「山犬」と言うのはジャッカルのことです。ジャッカルは乾いた荒地に住む動物なので、土地が渇いて荒地であることを言い表す時にジャッカルが住む土地と言うくらいです。エレミヤ書49章33節でそういう言い方をしています。イザヤ35章7節では、そんな土地が葦やパピルスが生い茂る土地に変化することが言われているのです。エレミヤ書13章22節を見ると、バビロン帝国が滅ぼされた後、その王宮はジャッカルの住みかになるという位に荒廃することが言われています。つまり、しなやかな服を着た者は王宮にいると言うのは、それが本当の荒野なのです。洗礼者ヨハネが活動した荒野というのは、イザヤ書の預言のように、荒野にたとえられたこの世が緑豊かな大地に変わって真っ直ぐな道が敷かれるところになることを暗示しているのです。

 そこでイエス様は洗礼者ヨハネを預言者以上の者と言って、出エジプト記23章20節とマラキ書3章1節の御言葉を引用します。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの前に道を準備させよう。」神はイエス様より先に洗礼者ヨハネを遣わし、イエス様の前に道を準備させたのです。先週の福音書の日課でヨハネがイザヤ書40章で預言された荒野で叫ぶ声であったこと、そしてその役割は来るべきメシアのために道を整えることであることを見ました。ヨハネは人々に罪の自覚を呼び覚まし悔い改めの必要を感じさせてその印として洗礼を授けました。そして、イエス様が十字架と復活の業を遂げたおかげで人間に罪の赦しの恵みが与えられることになりました。ヨハネは真にイエス様の前に道を整えたのでした。洗礼者ヨハネが預言者以上だったというのは、普通は預言者は預言をしますが、ヨハネの場合は来るべきメシアについて証しをしただけでなく、旧約聖書の預言の実現そのものでもあったのです。かつて預言者によって預言されていたことを真実にしたのです。だから預言者以上の者というのは当たっています。

 イエス様は、洗礼者ヨハネのことを人間から生まれた者の中で最も偉大な者と言いながら、天の御国の最も小さい者の方がヨハネより偉大であると言っていますが、これはどういうことでしょうか?ヨハネが人間から生まれた者の中で最も偉大な者と言うのはわかります。彼は預言者の預言を実現した者であり、メシアが完成する救いのお膳立て、罪の赦しに導く悔い改めの洗礼を授け、メシアが成就する人間の救い、罪の償いと罪からの贖い、永遠の命への道の切り開き、これらの救いのお膳立てをしたこと、他の人間にはできないことをしたからです。それでも、天の御国で最も小さい者の方が彼より偉大だというのはどういうことでしょうか?

 イエス様は洗礼者ヨハネが整えた道を踏み進みました。ヨハネは人々に悔い改めの心を起こし赦しを受け取る心の準備をさせました。それらを踏まえてイエス様は十字架と復活の業を遂げました。私たちはこのイエス様がもたらして下さった罪の償いと罪からの贖いを洗礼と信仰をもって受け取りました。そして復活の日の永遠の命に至る道に置かれてその道を歩むようになりました。だから、私たちは天の御国に迎えられる時、イエス様の救いの恵みという完成品を受け取った者として迎え入れられます。私たちは、たとえヨハネのようなイエス様の救いの業の準備というような偉大なことは何もしていなくとも、まだ完成品を持っていなかった地上のヨハネよりも偉大ということになるのです。

4.勧めと励まし

 ここで、一つ申し上げたいことがあります。それは、私たちが地上のヨハネよりも偉大な者でいられるのは天の御国に入った段階だけでなく、そこに向かう道を歩んでいるこの世の段階でもそうだということです。なぜなら、神が約束されたことを信じて歩んでいるというのは、もう半分くらいは天の御国に入っているのと同じだからです。ただし、それでもこの世にいる以上は、躓く危険はいつもあります。イエス様では頼りにならない、本当に一緒に歩んでいるのか心もとないなどと疑い始めたら躓きの石はいつでも足元に置かれます。

 だから、キリスト信仰者はキリスト信仰を持って聖書の御言葉を繙くこと、神に祈り礼拝から霊的な力を受けることが必要になるのです。本日の使徒書の日課ヤコブの手紙の個所では忍耐の必要性が強調されていました。「兄弟たち、主の名によって語った預言者たちを、辛抱と忍耐の模範としなさい。」本日の預言書はイザヤ35章でした。そこで預言されている罪から贖われた者が御国に至る道を歩むということは既に実現しています。私たちがそうだからです。肉眼ではこの世は荒野のようにしか見えなくとも、信仰の目では私たちが歩んでいる道はまことに緑の大地に切り開かれた真っ直ぐな道なのです。道を踏み外させようとしたり、歩むことを断念させようとする力や危険から私たちは守られているのです。最後は終着点で歓呼を持って迎え入れられ、嘆きや苦しみは逃げ去るのです。信仰の目で人生の歩みをこのように見れれば、忍耐は備わってくるはずです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

牧師の週報コラム

アウグスブルグ信仰告白16条のキリスト信仰者が「正しい戦争に従事することは正当である」を考える(フィンランドの視点を交えて)

昨年末から礼拝後のコーヒータイムの終わりに「一回一条15分のアウグスブルグ信仰告白の学び」を不定期でしたが行ってきました。今日は16条です。その中にキリスト信仰者が「正しい戦争に従事することは正当である」という下りがあり、読む人聞く人に様々な思いを抱かせる個所ではないかと思います。これをどう理解するか、少しでも秩序だって考える一助になればと思い、私なりにまとめたものを学びの時に配布します。それに沿って学びを進めて行こうと思います。

アウグスブルグ信仰告白はキリスト教ルター派の教義にとって最も重要な信条の一つで1530年に起草されました。同信仰告白は古代のキリスト教信条(古典信条)とアウグスブルグ以後の教義文書も併せて「一致信条書」という名で1580年に出版されました。ルター派の教義の集大成です。日本ではその全部の翻訳が1982年に日本福音ルーテル教会によって出版されました。

ところが、出版後に誤訳や訳語の不統一が指摘され、翻訳は批判に晒されるようになり、正誤表を作らなければならない事態となりました。そこで教会は、後に日本ルーテル神学校の教授を務めることになる鈴木浩牧師に正誤表作成のため翻訳の見直しを委嘱、アウグスブルグ信仰告白は彼が見直しを担当した文書の一つでした。鈴木牧師が特に関心を持ったのがこの16条で、その”正確な理解に資するために”として論文 ― 「正しい戦争」と「法に従って戦う」『一致信条書』CA16条の“iure”の訳語の問題 ― を発表しました(日本での翻訳出版にまつわる上記の出来事も同論文の記述に基づいています。CAとはアウグスブルグ信仰告白Confessio Augustanaのこと)。

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以下は吉村がまとめて「学び」の時に配布したもの。終わりに「学び」の時の質疑応答の一部を紹介します。質疑応答を踏まえ配布したものを少し修正しました。

1.鈴木論文 「正しい戦争に従事する」iure bellareの意味

1)鈴木論文では、ラテン語版の緻密な歴史言語学的分析に加えて、アウグスブルグ信仰告白の弁証の16条および双方のドイツ語版の16条と比較しながら考察されている。

iureの意味は「法に従って(よって、基づいて)」(iusの奪格)、bellareは動詞「戦う」である。

2)そうすると、iure bellareは「法に従って(よって、基づいて)戦う」と訳すべきであるが、鈴木氏によれば、「法に従って」の「法」は、実定法のことではなく、もっと広い意味の法であり、「正義に従って」とも訳しえる。当時の人々はこれを具体的な「国際法」とか「戦時法」に従うというような法律論の問題として考えなかった。彼らは、戦争を行うことが「信仰的に見て」正当かどうかという神学的な問題で考えた。従って、ここの背景にあるのは戦争の神学的正当性を論じた「正戦論」である。

3)「正しい戦争」という観念を神学的に正当化し、後世に影響力を与える仕方で定式化したのはアウグスティヌス。それを更に体系化し、ほとんど自明のものとしたのは、トマス・アクィナス。宗教改革者たちも基本的にはその線に立っていた。

4)従って、「正しい戦争に従事する」は適切な訳語である。

5)以上を読んで吉村が考えたことは、iure bellareを「法に従って/によって/に基づいて/正義に従って戦争に従事する」と訳すべきと言いながら、「正しい戦争に従事する」でよいとするのは、「法に従って戦う」も「正しい戦争に従事する」も同義だということになる。果たしてそうだろうか?ここで、参考までにフィンランド語訳を見ると、「正当な(oikeutettu)戦争に従事する」と言っていて、「正しい(oikea)戦争」とは言っていない。oikeutettuは「正当防衛」oikeutettu puolustusの「正当な」である。吉村の印象では、「正当な」と言ったら、限定的・条件付き「正しさ」となるが、ただ「正しい」と言ったら、何かタガが外れた感じにならないだろうか?

2.アウグスブルグ信仰告白16条のフィンランド語訳

そこで、参考までに16条全文のフィンランド語訳の和訳(吉村)を以下に掲げる。

16条 社会的生活について

  1. 社会的生活の事柄について我々の諸教会は、社会の合法的な秩序は神の善きみわざであると教える。
  2. そして、以下のことも教える。キリスト信仰者は、権力の職務につくこと、裁判権を行使すること、帝国レベルの法律※その他の有効な法律に従って法律的な問題を解決すること、法律が定める刑罰を確定すること、正当な戦争に従事すること、兵役につくこと、合法的な契約を結ぶこと、私有財産を所有すること、権力が要求する時に宣誓を行うこと、婚姻関係を結ぶことは許される。
  3. 我々の諸教会は、キリスト信仰者にこれらの社会的な任務を遂行することを禁じる再洗礼派を拒否する。
  4. 我々の諸教会はまた、キリスト教的完全さは神への畏れと信仰ではなく、社会的な義務を拒否することであると教える者たちを拒否する。もちろん、福音は心の永遠の義を教えるものではある。
  5. それは、国家や家族を破棄するものではなく、それらをまさしく神的な秩序として維持しなければならないことと、愛はこれらの秩序の枠内で実践されなければならないことを福音は教える。
  6. それゆえ、キリスト信仰者は不可欠に権力とその法律に従わなければならない。
  7. ただし、それらが罪を犯すことを命じない限りにおいてである。なぜなら、その場合はキリスト信仰者は人間よりも神に従わなければならないからである(使徒言行録5章)。

※「帝国レベルの法律」とは、ルターの時代の神聖ローマ帝国レベルの法律のこと

3.アウグスブルグ信仰告白16条の構成(訳はフィンランド語に倣う)

1)iure bellareの意味を考える時、鈴木論文のようにその言葉に特化して、言語学的、神学的背景を明らかにして意味を確定することも大事だが、この言葉が16条のコンテクストの中でどんな位置づけにあるのかを明らかにして確定することも大事だと考える。16条のコンテクストを明らかにするために、その構成を見ると以下のようになる。

① 合法的な社会的秩序は神のよいみわざである(上記1)。

② キリスト信仰者が(上記2で言われている10項目の社会的事柄と務めを)することは許される(ラテン語スウェーデン語の辞書によれば「ふわわしいことである」)。

③ 社会的な務めを禁じる諸派を拒否する(上記3、4)。

④ それらの諸派を否定する根拠として、

  • 福音は、国や家庭を破壊するものではなく、逆にそれらを神の定めとして保つことと、そのような秩序の中での愛の実践を求めるからである(上記5)。
  • 従って、キリスト信仰者は必然的に権力や法律に従わなければならない(上記6)。
  • ただ、それらが罪を犯すことを命じた場合は、この限りではない。そのような時には、人よりも神に従うべきであるからである(上記7)。

2)この構成からわかること

・「合法的な社会秩序は神のみわざ」なので、権力に従わなければならない。しかし、権力が罪を犯すことを命じた場合は従わなくてもよい。つまり、そのような社会秩序は合法的でも神のみわざでもない。

・キリスト信仰者が正当な戦争に従事することは、他の社会的事柄・務めと同様に、それを命じる権力が合法的で神のみわざである場合になる。

・パウロはローマ13章で権力に従うように命じた。権力は神によってたてられたものと言っている。当時その権力はキリスト教ではない。しかし、パウロがそう言うのは、権力がキリスト教徒が信仰の実践と礼拝を公けに行うことを一応認めているから。それでパウロの権力服従論は、消極的な服従であると言える。しかし、信仰の実践と礼拝が禁じられれば、信仰者は人よりも神に従うこととなる。その時の権威は合法的でも神のみわざでもなくなる。

・パウロの時代のキリスト教は、公認宗教religio licitaであったユダヤ教の一部と見なされていた(使徒言行録を参照)。ところが、成長を遂げるにつれ当局に警戒され、やがて迫害された。

・その後キリスト教は迫害時代の後、313年に公認され、信仰の実践と礼拝を公けに行っても権力との関係で問題がなくなった。ところが380年に国教になり、他の宗教は禁止されるくらいの支配的な宗教となった。こうなると権力服従論は消極的なものから積極的なものに変るのではないだろうか。なぜなら、権力そのものがキリスト教だから。

・2で挙げられている社会的な事柄と務めは16世紀のものである。21世紀は内容が異なるであろう。例えば、「帝国レベルの法律」は現代では憲法と言い換えてもよいだろう。「合法的な社会の秩序」も現代では民主主義と基本的人権を実効的なものにする秩序と言い換えてよいだろう。しかし、内容が現代化したとは言っても、重要なことは次の三つの原則は変わらないということ、①キリスト信仰者にとって「合法的な社会の秩序

は神のよいみわざであること、②信仰者はそのような社会において社会的な事柄と務めに就くことは当然であること、③権力が罪を犯すこと、つまり神の意思に反することを命じる場合はキリスト信仰者は人ではなく神に従うこと。

・現代において「正当な戦争に従事する」ことは当時ほど自明なことではなくなって、大いに議論をしなければならないことになったのではないだろうか?というのは、1928年のパリ不戦条約は国の政策としての戦争を禁じた。つまり、それ以前は戦争は国の政策の一つとして考えられていたのが、それが当たり前ではなくなった。しかし、自衛のための戦争は認められるというのが国際法の現実である。現代では戦争をする国は、常識や良識からそう見えなくても、みな自衛だと主張する。

・アウグスブルグ信仰告白16条の「正当な戦争に従事する」は現代では、①命じる権力が神のみわざと言える位の「合法的な社会の秩序

の実現者であるかどうか、②その戦争がそうした社会の秩序を守る自衛のものかどうか、この二つを明確にすることを求めているのではないだろうか?

4.質疑応答から

(吉村)フィンランドで何人かの牧師に「正当な戦争に従事する」について質したところ、答えは一様に「権力esivaltaが命じることだから従う」であった。フィンランドで牧師に限らずキリスト信仰者は皆同じ答えをすると思う。

(質問者)フィンランドの軍隊は国防の軍隊で他国を侵略することはないと思うが※、それでも軍隊が国民に何か特定の信条を押し付ける力の象徴のようになる危険はないのか。

(吉村)確かにフィンランドには国教会があるが、実はここ30年位、国民の聖書離れ教会離れが急速に進み、1980年代までは国民の90%以上が国教会に所属していたのが、現在は60%すれすれである。国教会とは言っても、別に所属していなくても国民の法律上の地位や権利義務には何の影響もない(近年では国教会に所属しない人も大統領になったことがある)※※。軍隊がキリスト教を押し付ける力の組織とはとても考えにくい。ところで、はっきりした信仰を持つ国民は、ルター派の信仰から正当な戦争に従事するのは当然と考えるが、キリスト教をやめた国民は違う考えを持つかもしれない。その点をフィンランド人はどう思うか?(学びの会には3人の日本語を解するフィンランド人が参加、質問を彼らに向けたところ)

(3人のフィンランド人、声をあわせるように日本語で)(戦争に)行きますよ。だって、義務ですから。

(吉村)ルター派の信仰がなくても戦争に従事するのは当然と考えるのは、どういうことだろう?やはり国が民主主義や人権や社会福祉の指標で世界のトップレベルにあることと無縁ではないということなのか?他に何か考えられるだろうか?

  • フィンランドは2023年にNATOに加盟して、それまでの武装中立から集団的安全保障の安保体制に変わった。これが国防や自衛の考え方にどんな変化をもたらしたかは識者の分析に委ねるしかない。
  • ※ フィンランドのルター派教会を国教会と呼ぶのは、1923年の宗教自由法で国教会所属無所属は国民の法的地位、権利義務に影響はなくなって以後は、相応しい呼び方かどうかという問題がある。フィンランド自身、皮肉る以外は国家教会valtiokirkkoとは言わない、国民教会kansankirkkoと言うのが一般的。それでも、ルター派教会とロシア正教の二つの教会は公法上特別な地位にあり、他の宗派宗教は宗教法人立法の管轄に置かれているのとは別格の存在である。