6月4日(木)18時30分「聖句と祈りのひと時」パイヴィ・ヨシムラSLEY(フィンランドルーテル福音協会)宣教師

聖句 エレミア書18章1~4節 題 「陶工と粘土」 歌とピアノ ミルヤム・ハルユSLEY宣教師 ビデオ編集 ティーナ・ラトヴァーラスクSLEY宣教師

「テキスト」5月31日(日)聖霊降臨祭「聖句と教え」吉村博明SLEY(フィンランド・ルーテル福音協会)宣教師

スオミ・キリスト教会

主日礼拝説教 2020年5月31日 聖霊降臨祭

使徒言行録2章1-21節

第一コリント12章3-13節

ヨハネ7章37-39節

説教題 「聖霊 - 我らの人生の素晴らしき縁の下の力持ち」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.聖霊降臨とは?聖霊とは?

 今日は聖霊降臨祭です。ペンテコステとも呼ばれますが、それはギリシャ語の50番目を意味するペンテーコステーπεντηκοστήという語に由来し、復活祭から(それを含めて)50日目に天の父なるみ神から聖霊がイエス様の弟子たちに下った出来事を記念する日です。聖霊降臨祭は、キリスト教会にとって、クリスマスや復活祭に並ぶ大事な祝日です。それは、イエス様がかねてから送ると約束していた聖霊が彼の昇天後に約束通りに天の父なるみ神のもとから送られたからです。

加えて聖霊降臨祭はキリスト教会の誕生日の意味を持っています。そのことは、先ほど読みました使徒言行録の2章を終わりまで読んでいくとわかります。聖霊を注がれたイエス様直近の弟子たち、すなわち使徒たちの一人であるペトロが群衆の前で、イエス様の十字架の死と死からの復活について堂々と証言します。これらのことは全て旧約聖書の随所に預言されていた、それが実現したのだ、この期に及んでも神のもとに立ち返らなかったら、君たちは神のひとり子を十字架にかけた者どもと同じ罪にとどまることになってしまうのだぞ、それでも良いのか?そう聞く人たちに人生の何か重大な岐路に立たされていることを知らしめます。ペトロの言葉を聞いて心を突き刺された(2章37節)群衆はすぐさま洗礼を受け、その数は3千人にのぼりました(41節)。これらの人々は、「使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、つまり聖餐に与ることです、そして、祈ることに熱心」(42節)な集団を形成したのです。これがキリスト教会の始まりとなりました。全ては、聖霊が使徒たちに注がれたことから始まったのです。

 ところで、キリスト信仰では神というのは父、御子、聖霊という三つの人格が同時に一つの神であるという、いわゆる三位一体の神として崇拝されます。それじゃ、聖霊も、父や子と同じように人格があるのかと驚かれるかもしれません。確かに日本語の聖書では聖霊を指す時、「それ」と呼ぶので何か物体みたいですが、英語、ドイツ語、スウェーデン語、フィンランド語の聖書では「彼」と呼ぶので(フィンランド語のhänは「彼」「彼女」両方含むが、聖霊は男性扱い)、まさしく人格を持つ者です。三つの人格はそれぞれ果たすべき機能、役割を持っています。父は無から万物を造り上げる創造の神です。子は人間を罪の支配から救い出す贖いの神です。聖霊はキリスト信仰者をこの世から聖別する機能を果たします。この世からの聖別とは、人間を神聖な神の御前に出しても恥ずかしくない者にするということです。

今日の説教では、福音書の日課ヨハネ7章37~39節のイエス様の言葉を説き明かすことを通して、この人格と役割を持つ聖霊がどんな方であるかを明らかにしようと思います。そこで見えてくるのは、聖霊はキリスト信仰者にとって人生の素晴らしい縁の下の力持ちということです。他方で第一コリント12章を見ると、聖霊が自分の考えに従って信仰者一人ひとりに様々な賜物を与えることが言われています。賜物を与えることも聖霊の役割の大事な側面です。今日はヨハネ福音書のイエス様の言葉に基づいて別の側面を見てみましょう。

2.仮庵祭の二つの異なる水

イエス様がエルサレムにて群衆の前で「生きた水」について話しをしたのは、ユダヤ民族の仮庵祭という、丸1週間続く盛大な祝祭の最後の日でした。仮庵祭というのは、時期的には私たちのカレンダーで秋分の日の後に催されるもので、作物や果物の収穫を神に感謝するためのお祝いでした。祝い方の詳細はレビ記23章33~44節、申命記16章13~15節に記されています。このお祝いに特徴的なことは、名前が示すように木の枝で掘立て小屋を作ってお祝いの期間はそこに入るということが行われていました。これはかつてモーセがイスラエルの民を率いてエジプトから約束の地カナンまで民族大移動した時の生活を再現して振り返る意味がありました。約束の地までの貧しい生活に思いを馳せ、その地での豊かな収穫を神に感謝する時、神への感謝と賛美は一層高まったでしょう。

仮庵祭の最終日はまた、神殿の祭司たちがシロアの池から水を汲んでそれを大祭司が黄金の水差しに入れて祭壇にかけることをしました。水を汲んだ祭司たちが神殿に到着すると群衆は歓声をあげ、祭司たちはイザヤ書12章3節の聖句を歌にして歌いました。「あなたたちは喜びのうちに救いの泉から水をくむ。」まさにその日にイエス様は群衆を前にして叫んで言ったのです。「渇いている人は誰でもわたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は聖書に書いてあるようにその人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」まさに祭司たちが祭壇にかける水を汲んでそれを「救いの泉」から汲んだと言っている時に、イエス様は自分が与える水は渇く者をいやすことができ、それだけでなく与えられた人は今度は内から「生きた水」が川のように流れ出ると言うのです。これを聞いただけでも、イエス様が与える水は「救い」ということに関して祭司たちが汲んだ水よりも優れているものであることが直感できます。さらに、この出来事を記述したヨハネは、イエス様が与えると言っている水は聖霊を意味するのだと解説します。しかしながら、まだイエス様が栄光を受ける前だったので聖霊はまだ降っていなかったとも。イエス様が栄光を受けるというのは、十字架と復活の出来事を経て天の父なるみ神の右の座に上げらることです。実際、聖霊降臨はイエス様の昇天の後に起こりました。それなので聖霊降臨の前では誰もイエス様の言われた「生きた水」の意味はわからなかったでしょう。しかし、イエス様の言葉には聖霊がどんな役割を果たすかが明確に言われているのです。どんな役割かそれを見てみましょう。

3.聖霊は人間の霊的な渇きを癒して目的地に押し出していく

イエス様は「生きた水」という言葉を使いました。ギリシャ語の言葉を直訳すると「生きている水」です。生きている水とはどんな水でしょうか?

まず、「渇いている人」はイエス様のところに来て彼から飲むことができる、つまり、イエス様に渇きを癒してもらえるということです。「渇いている」と言うのは普通の喉の渇きのことではありません。霊的に渇いているということです。霊的な渇きとは、救いを求めているということです。そこで、救いとは何かと言うと、それは、この世を生きる時、自分は創造主である天の父なるみ神と結びついているか切り離されているかどうかということです。天と地と人間を造り人間に命と人生を与えた、まさに自分の造り主である神と結びつきを持ててこの世を神の守りと導きを受けながら生きられ、この世から別れることになっても神のもとに永遠に迎え入れられる、こうした今の世と次に来る世の両方の世にまたがる神との結びつきがある、これが救いです。

イエス様が渇きを癒して下さるというのは、彼がこうした救いの願いを叶えてくれるということです。救いの願いが叶えられるというのは、まさにイエス様の十字架の死と死からの復活によって実現しました。イエス様は人間と神の結びつきを壊していた原因である罪を全部背負って十字架の上に運び上げて、そこで人間に代わって神罰を受けて文字通り身代わりとなって死なれました。さらに、死から復活させられたことで永遠の命に至る道を人間に開かれました。この時、人間はイエス様こそ自分の救い主と信じて洗礼を受けると、イエス様が果たして下さった罪の償いを頭から被せられて、彼の犠牲に免じて神から罪を赦されます。罪を赦してもらったので神との結びつきが回復します。それからは神との結びつきの中で生きていけます。この世だけでなく、次に来る世においてでもです。

 そこで、イエス様から渇きを癒されて救いが叶えられた人は今度はその内から「生きた水」、「生きている水」が急流のようにほとばしるようなるということについてみてみましょう。それはどんな水でしょうか?それについては、ヨハネ福音書の4章に理解の鍵があります。イエス様とサマリア人の女性が水について問答するところです。イエス様が自分は「生きた水」、「生きている水」を与えることが出来ると言うと、女性はそれを井戸から汲める水と勘違いしている。そこでイエス様は言われます。「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(4章14節)。ギリシャ語の原文に忠実に訳すと、「私が与える水はその人の内で、永遠の命を目指して流れ続ける水の水源となる」です。つまり、人がイエス様から「生きた水」を受けると、今度は、その「生きた水」がその人のなかで水源となって、そこから流れ出る水は永遠の命に向かって流れゆくというのです。そういうわけで「生きた水」、「生きている水」とは、人を「永遠の命に押し出す水」であり、その意味で「永遠の命を与える水」です。

そこで、このイエス様が与える「永遠の命に押し出す水」が聖霊を意味するということについてみてみましょう。人がイエス様からその「水」を与えられて霊的な渇きを癒される。つまり、イエス様によって救いが叶えられたことを知り、それで彼を救い主と信じるようになる。そして洗礼を通して聖霊を受けることになる。すると今度は聖霊がその人の中で水源となって、そこから流れ出る水は永遠の命を目指して流れ続ける。つまり、聖霊はキリスト信仰者を霊的に潤し、もし渇きそうになっても止まることのない流れでいつでも癒される。それはさながら信仰者を永遠の命まで押し出してくれるようである。まさにイエス様を救い主と信じる信仰に生きる者にとって聖霊はその人の水源地となって、その人を内側から永遠の命という目標に押し出していく働きをするのです。それは素晴らしいことです。しかしながら、キリスト信仰者の人生はそんな結構な水の流れに乗って、この世をすいすいと渡って永遠の命に向かって進んでいくものでしょうか?そんなに甘いものではないという気がします。実際はどうでしょうか?次にこのことについてみてみましょう。

4.聖霊は我らの人生の素晴らしき縁の下の力持ち

人間は、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けて聖霊を注がれても、まだ肉を纏って生きています。それなので、実はまだ神への不従順と罪を内に持っています。それでは、洗礼を受ける前と何も変わってはいないではないか?キリスト教では「あなたの罪は赦された」とか「罪は帳消しにされた」などと言うが、それは一体どうなるのか?神に対する不従順と罪を相変らず内に抱えているのに何が変わったと言うのか?いや、やはり決定的に変わったのです。一体何が変わったのか?

キリスト信仰者が神の意思に反することを考えたり思ったりする時、または弱さや隙があったためにそれらが行為や言葉で出てしまった時、神に向いてイエス様の犠牲に免じて赦しを願い祈ると、神は次のように言って下さいます。「お前が我が子イエスを救い主と信じていることはわかっている。イエスの犠牲に免じてお前の罪を赦すから、もう犯さないように。」この時、信仰者は恥じる気持ちと感謝の気持ちから本当にそうしなければと心を新たにします。このようにキリスト信仰者は罪の自覚と告白、そして赦しを繰り返しながら永遠の命に至る道を踏み外すことなく進んでいきます。このように、キリスト信仰者は罪が残っているにもかかわらず、イエス様が築き自分が受け取った罪の赦しがあるおかげで神との結びつきには何も変更はありません。何も失われていません。罪は信仰者を振り回すことはあるかもしれませんが牛耳る力はもう持っていません。牛耳る力は全て父なるみ神の手中にあります。信仰者はそれくらい父なるみ神に守られているのです。このことが、罪は残っているが帳消しにされたということです。

ところが、この世で作用する見えない力とその背後にいる悪魔は、このような神と人間の麗しい関係を壊さないではいられません。これは堕罪の時からずっとそうです。悪魔のやり口として、まずキリスト信仰者に罪びとであることを思い知らせようとします。信仰者は自分と神との結びつきは大丈夫かどうかということを気にして生きますから、結びつきを危うくする罪の問題には敏感です。そこを付け狙ってくるのです。もし悪魔が、「ほれ見ろ、お前はやっぱり罪びとだったのだ。神はお前に呆れ返っているぞ」と暴露戦術で攻撃をしかけてきます。そんな時は神に赦しを願い祈っても赦してもらえるかどうか、何かしないと足りないのではないかと途方にくれます。その時こそイエス様が聖霊のことを「弁護者」と言っていたことを思い出す絶好の機会です(ヨハネ14~16章)。聖霊は父なるみ神の前で弁護してくれるのです。「父よ、この人はひとり子イエスを救い主と信じて、彼が果たした罪の償いの他には何も持てないという位に受け入れています、すぐ赦しが与えられるべきです!」という具合にです。同時に聖霊は返す刀で途方に暮れている私たちに向かって言われます。「あなたの心の目をあのゴルゴタの十字架に向けなさい。あそこで神罰を受けてうなだれた神のひとり子がいる。彼の肩に重くのしかかっている罪の中にあなたのもちゃんと含まれています!あなたの罪はあそこで償われています。あとは復活されたあの方の後をついて行きなさい!」この時、聖霊は私たち人間の罪性という真理と神のひとり子の贖罪が完璧であるという真理を私たちの目の前に示すのです。イエス様が聖霊を真理の霊と言っていたのはまさにこのことです(ヨハネ14~16章)。

さらに、この世で作用する力と悪魔が罪とは別の問題で信仰者を惑わして意気消沈させることもあります。それは、信仰者が自分の罪が原因でないのに大きな苦難に陥ってしまった場合がそうです。そのような時、「これこそ、お前が神に見捨てられた証拠だ」とか、「神はお前に背を向けている。いつまで神に対して無垢を気取っているんだ。そんな神などさっさと袂を別てば良いではないか」というようなこちらの痛みと弱みに付け込む攻撃が仕掛けられます。

神としっかり結びついて生きるなどというと、人生順風満帆という感じがします。なにしろ、全知全能で天地を創造した神が味方についているのですから。しかし現実は、キリスト信仰者と言えども不幸や苦難に陥ることにかけては信仰者でない人たちとあまり大差はないのではと思います。それにもかかわらず、信仰者はどうして苦難困難の時でも神との結びつきを信じられるのでしょうか?それはキリスト信仰者は命や人生というものを、今生きているこの世の人生とこの次に来る神の国の人生の二つをセットにした大きな人生を生きているということが真理になっているからです。この真理に立てば、この世では絶体絶命の状態になっても、それで全てが終わってしまうということにはならないとわかります。苦難が大きければ大きいほどこの世の方に目を奪われてしまいますが、聖霊は私たちが見失いがちな真理を聖書の御言葉に結びつけて改めて目の前に示してくれます。聖霊の働きは私たちが聖書の御言葉に結びついている時に一番よく現れます。それなので、真理を見失わないために聖書を常日頃繙くことは大事です。

5.おわりに

以上から、聖霊は私たちが洗礼を受けて注がれてからは私たちの救いの渇きをいやしてくれる霊的な水であること、そして一度注がれたら今度は私たちの内で水源となって私たちを永遠の命へと押し出してくれる水にもなってくれること、そういう働きをされることが明らかになりました。永遠の命に向かう途上で罪や苦難のために神との結びつきが見失われる時があっても、聖霊は神の御前で私たちのために弁護して下さり、罪の赦しと神との結びつきは微動だにせずあるという真理を明らかにして下さいます。本当に私たちを永遠の命に向けて押し出してくれているとしか言いようがありません。それくらい聖霊は永遠の命を目指して進む私たちにありとあらゆる支援を惜しまない真に素晴らしい縁の下の力持ちなのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

歳時記

公園の中の細流にジュズ玉の花が咲きだしました。水辺を好むようです、紫の色合いがとても良いですね。

5月28日(木)18時30分「聖句と祈りのひと時」 吉村博明SLEY(フィンランド・ルーテル福音協会)宣教師

聖句 ローマ12章12節
「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。」
題 「神は祈りを聞き遂げられる」
歌とピアノ ミルヤム・ハルユSLEY 宣教師
ビデオ編集 ティーナ・ラトヴァラスクSLEY宣教師

 

 

 

 

 

 

動画、スオミ・キリスト教会料理クラブ、フィンランド風チョコレート・イチゴケーキ、聖書のお話

スオミ・キリスト教会のパイヴィ・ヨシムラ宣教師と一緒にフィンランド風チョコレート・イチゴケーキを作りましょう。出来上がってから聖書のお話「神様の素晴らしい創造の業」も聞きましょう。

チョコレート風味のイチゴケーキ

ケーキ

卵  4個
砂糖  150 ml
小麦粉  100 ml
片栗粉  75 ml
ココア 大さじ3
ベーキングパウダー  小さじ1 ½

中身

生クリーム  200ml
クリームチーズ  50g
砂糖  大さじ3
チョコレート  30g
イチゴ  5-6個
トッピング
イチゴジャム  100 ml
イチゴ  1 ½ パック
ゼリエース粉  大さじ3
お湯  50ml
水  50ml

1. 小麦粉、片栗粉、ココア、ベーキングパウダーを振るっておく。
2. 卵と砂糖をよく泡立て、1.のものを二回に分けて、加え混ぜる。
3. 2.の生地をオーブンシートを布いた鉄板に流し入れ、表面をならす。
4. 200℃のオーブンで10分から12分くらい焼く。
5. 別のオーブンシートの上にアーモンドスライスを少しかけて、焼いたケーキをその上にひっくり返して冷ます。
6. 中身を作る。チョコレートとイチゴを細かく切る。
7. 生クリームを泡立てて、その中にクリームチーズと砂糖を加えて混ぜ、6のものを中に加えて軽く混ぜる。
8. 冷ましたケーキを二つに切って、一枚に中身の7をのせて伸ばす。
9. 8の上にもう一枚のケーキをのせて、上にイチゴジャムを伸ばす。
10. 上にのせるものを作る。トッピングのゼリエース粉にお湯を入れて溶かして、水を加えて、冷ます。
11. トッピングのイチゴを細かく切って、9の上にのせる。
12. 10のゼリーが卵の白身のようになったら11の上に塗って1時間くらい冷やす。

 

歳時記

塩辛トンボです。むかし朝日連峰を縦走していた時、池塘のそばで休憩していましたら目の前でトンボの羽化するところに出会いました。羽化が終わり閉じていた羽を開くと朝日を受けてキラキラさせて一気に下界を目指して飛び立って行きました。その時のトンボもこの塩辛トンボでした、このトンボを見るたびにあの日のことを思い出します。

「テキスト」5月17日(日)復活後第六主日「聖句と教え」 吉村博明SLEY(フィンランド・ルーテル福音協会)宣教師

スオミ・キリスト教会

2020年5月17日 復活後第六主日「聖句と教え」

使徒言行録17章22-31節

第一ペトロ3章13-22節」

ヨハネ14章15-21節

説教題 「文明の衝突 - あなたはどうする?」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.「文明の衝突」?

今お読みしました使徒言行録17章の出来事は、使徒パウロが古代ギリシャのアテネにてイエス・キリストの福音を居並ぶ哲学者たちの前で弁明したという出来事です。これはとても世界史的な重要な出来事だと思います。というのは、この時、二つの異なる文明が衝突して火花を散らしたからです。二つの文明というのは、一つはギリシャ・ヘレニズム文明です。これは、人間の理性の力を信じて万物を理性で推し量ったり説明しようとする哲学的な文明です。それに対するはヘブライズム文明です。これは天地創造の神という万物を司る方が自分のことや自分の意思や計画を人間に啓示するという信仰の文明です。簡単に言うと、ギリシャ・ヘレニズム文明は人間の内部に備わる理性に重きを置く文明、ヘブライズム文明は人間の外部から来る神の啓示に重きを置く文明ということになります。この本質的に異なる二つの文明が正面からぶつかったわけなのですが、興味深いことに、この水と油みたいにお互い相いれないものがいつしか西洋文明の二大底流となって、それを複雑に形作っていくことになります。

ところで、「文明の衝突」

などと言うと、1990年代にアメリカのハンティントンという政治学者が出した論文を思い起こす人もいるかもしれません。私も読んだ時は、せっかく冷戦が終わって世界が平和になれると思っていたのに冷や水を浴びせかけられたような思いを持ったことを記憶しています。また欧米諸国が自分たちのヘゲモニーを維持できるためには次はイスラムに注意しろと言っているような印象さえ受けました。しかしながら、それから30年近く経った今、世界は自由や民主主義をものともしない勢力や風潮が欧米の外だけでなくその足元でも強まってしまって、事態はむしろ「文明の衝突」というよりは新しいイデオロギーの衝突ではないかと思われるのですが、どうでしょうか?今次のコロナウイルス問題の解決も含めて、自由と民主主義と市民の健康で文化的な生活を守ることが出来るような国、利己的でなく下心のない国際協調ができるような国に指導的な役割を果たしてもらいたいなどと希望する者です。

話がかなりわき道にそれたので戻ります。ユダヤ人のパウロがギリシャの哲学者たちを前に演説したことが二つの文明の衝突と言うのは、政治的、経済的、軍事的なヘゲモニー争奪戦とは全然違います。知的レベルの衝突です。2000年前の出来事ですが、話の内容は現代の、しかもこの日本を生きる私たちにとっても「生き方」について考えさせるものを含んでいると思われます。それなので、本日はこの出来事の個所の説き明かしをしていこうと思います。

2.神を創り出す人間の文明

 まず、出来事の背景を述べておきます。パウロは二回目の地中海伝道旅行でギリシャのアテネに到達しました。そこに着くまでは行く先々で、イエス様をメシア救世主と受け入れないユダヤ人の妨害や迫害に遭い、アテネへは避難するように着いたのでした。そこはそれまでの町々と違ってユダヤ人の妨害がありませんでした。そのかわりにパウロを困惑させたのは、町中いたるところで金や銀や石でできた神々の像すなわち偶像が溢れかえっていたことでした。いくら異なる宗教の人たちのこととは言え、パウロは偶像崇拝を禁じる旧約聖書の伝統に立つ人ですから、17章16節で言われるように心穏やかでなかったことは言うまでもありません。

パウロはまず、これまでのように現地のユダヤ人の会堂でイエス・キリストの福音を宣べ伝えます。その内容は記されていませんが、イエス様は神が約束されたメシア救い主である、そのことは彼の十字架の死と死からの復活で明らかになった、そういう内容だったのは間違いないでしょう。パウロは伝道旅行をする時は大抵、まずユダヤ人の会堂に行ってナザレのイエスが約束のメシア救世主であると伝えました。ところが、イエス様を受け入れないユダヤ人たちが追いかけるようにやってきては妨害、迫害する。会堂の人たちの多くは背を向けてしまいますが、会堂の外の人たち、つまり異邦人に宣べ伝えると、そちらの方が受けがいいということが起きてくる。パウロの伝道旅行は大体そういう構図でした。

アテネではユダヤ人からの妨害、迫害はなかったかわりにとても大きなことが待っていました。それがまさに、パウロが旧約聖書の伝統と何の関わりもない人たちとその精神世界とに文字通り火花を散らすようにぶつかり合ったという文明の衝突です。本日の個所の少し前に記されていますが、町にはエピキュロス派、ストア派という哲学の学派を信奉する人たちが大勢いました。二つとも古代ギリシャ世界を代表する哲学の学派です。これらの著作を読まないで大学の講義録程度のおおざっぱ知識で申し上げてしまいますが、エピキュロス派というのは簡単に言うと、人間にとって最高の善は幸福である、それはこの世で獲得されなければならない、なぜなら人間は死ねば魂は分解して原子になってしまうから。そういう唯物的な考え方をしていました。言葉は悪いですが、死んでしまえば元も子もない、だからこの世の中ではとことん幸福を追求しよう、ということでしょう。ストア派というのは、森羅万象を支配するものを「神」

とするが、それは人格がなくて心のない法則のようなものである。人間はその法則に従って生きることで道徳的になれる。ただし森羅万象には周期があって大きな火で焼かれては繰り返される。魂は死んだ後も残るが、それは人格のない神のところに行って時期が来たら森羅万象と一緒に焼かれてしまう。なんだか想像を絶する話ですが、これだけ大いなるものに支配されていると観念できれば、本能や欲望を抑えてひんやりと平静に生きていけるかもしれません。

 さて、パウロはユダヤ人の会堂だけでなく、町の広場でもイエス・キリストの福音を宣べ伝えました。そこで前述したような哲学者たちと議論することになったのです。その結果、アレオパゴスというところに連れて行かれ、そこで宣べ伝えていることを弁明することになりました。アレオパゴスとは、もともとは裁判所の機能を果たす市民の代表者の集会場でした。その頃は、いろいろな教えを調査する機能も果たしていました。

パウロはアレオパゴスの真ん中に立って、居並ぶ議員、哲学者の前で話し始めます。二つの異なる文明が火花を散らす瞬間です。ところで先ほど、ギリシャ文明は理性を重んじる哲学的な文明で、パウロが持ち込んできたのは神の啓示を重んじる信仰の文明と申し上げました。そう言うと、あれ、ギリシャ文明には沢山の神々がいたではないか、ゼウスを頂点に、美と愛の女神アフロディテだの、豊穣の神ディオニュソスだの、海の神ポセイドンだの、死者を陰府に導くヘルメス等々、沢山いたではないか?多神教のギリシャ文明も実は信仰の文明ではないか?それがどうやって理性を重んじる哲学的な文明と一緒なのか?詳しいことは専門家に聞かなければなりませんが、大体次のようなことだと思います。これらの神々は人間の思いや願い恐れが結晶して出来たシンボルのようなものです。その意味で人間内部から生み出されたものです。それが人間の外部にあるように置かれて神として崇拝されるのです。そういうわけで、パウロがアテネで遭遇した人間知性の最先端を行く哲学と多神教の神々という二つの異なるものは、実は双方とも人間内部から生み出されたものということになり、同じ範疇に入れても良いものでしょう。

 そこで、私たちの聖書の神ですが、これは人間の思いや願いや感情の結晶、シンボルではありません。神は、完全に人間の外部にあって人間を含む万物を造った方で、人間の理性などで把握できる方ではない、というのが聖書の立場です。

 

3.神に造られた人間の文明

さて、パウロは人間の理性に重きを置く人たちに神の啓示を伝え始めます。まず、アテネの皆さん、あなた方が信仰あつい方であることをわたしは認めます、と言って敬意を表します。お前たちは偶像崇拝ばかりしてどうしようもないやつらだ!というような高飛車な態度ではありません。彼は、ある祭壇に「知られざる神に」という文句が書かれていたことに触れて、それを取っ掛かりにして、自分はその神を知っているのでお教えしましょう、と言って話を始めます。「知られざる神」というのは、ギリシャ人の神々崇拝では前述したような名前と役割の神々がいろいろいるのですが、ひょっとしたらまだ見つかっていない神が他にもいるのではないか(正確に言えば、まだ作りだしていない神がいるのではないか、ということですが)、そういう不確かさがあるために、崇拝し忘れた神がないようにと念のためにそう書いたのです。そういう測り知れない神がいるという認識がギリシャ人にあったことが、パウロにとってちょうどよい取っ掛かりとなりました。

その測り知れない神とは、世界とその中の万物、私たち人間も含めた万物を造られた方である、まさに万物の創造主であり天地の主であるから、人間の手で造った建物なんかに住まないし、また何か足りないものがあるから人間にいろいろ供え物してもらったり世話してもらう必要もない。逆に神こそが人間に必要なもの、命、息吹その他全てのものを与えて下さるのである。そのようにして、神は人間に大事にされるお人形さんみたいではなくなって、私たち人間の方が神に大事にされる、というふうに視点を逆転させていきます。

次にパウロは、神が一人の人間から始めて諸民族を作りだした目的について述べます。神はそれぞれの民族に歴史と居住地域を定めたと言います。ここのところは新共同訳では神は「季節を決め」たとありますが、少し怪しい訳です。ギリシャ語原文は少し複雑ですが、要は神はそれぞれの民族が「どのような歴史をたどるか前もって定めた」という意味です。英語、ドイツ語、フィンランド語、スウェーデン語の聖書も大体そのような訳です。ルター訳はずばり諸民族の存続期間が定められると言っています。

神は何のために諸民族に歴史と場所を与えたのかと言うと、それは、彼らに神を探させるためであった、とパウロは言います。果たしてそれはうまく行ったのか?ギリシャの人たちは神を探しているようで、実は偶像ばっかり作ってしまって全然見つけられていないではないか。新共同訳では、「彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです」となっていますが、探し求めても実際は見いだすことはできていないのです。ギリシャ語原文も新共同訳のような楽観的な意味はないと思います。「もし、手探りをして見つけられるんだったら、やってみよう、という思いで神を探させたが、現実はそう甘くはなかった」というような残念でしたという意味だと思います(後注)。

ところが、神は私たちから遠く離れた方ではない、本当は近くにおられてちゃんと見つけることが出来る方である、見つけられれば、もう偶像など作る必要もなくなるのだ。神が私たちから遠く離れていないというのは、あなたたちの先人の詩人(紀元前300年代の詩人アラトス)も書いているではないか?そのように言うことでパウロは、ギリシャの同胞にも同じことを考えた人がいました、と指摘して、人々の目を天地創造の神に向けさせようとします。問題の詩で言われていることは、「我々は神の中に生き、動き、存在する。我らもその子孫である」ということです。これがギリシャ人も神が近くにいると考えている根拠として言われます。ところが、パウロが神は近くにあると言う意味とギリシャの詩人がそう言うのでは意味内容は全く異なっています。ギリシャの詩人が言っていることは、神は人間界にも自然界にもどこにでも浸透しているように存在するという汎神論の考えを表わしています。

パウロが神は近くにおられるというのは、神は人間一人一人に対して、断ち切れてしまっていた結びつきを回復してあげようと働きかけて下さっている、そういうふうに、人間界、自然界という大きなことはひとまず脇において、一人一人の小さな人間に神が自分から働きかけている、そういう意味で神は近くにおられると言っているのです。神と人間の断ち切れてしまった結びつきを回復させるための神の働きかけとは何か?それは、神のひとり子イエス様がこの結びつきを壊す原因となった人間の罪を全部背負って十字架の上に運び上げ、そこで人間にかわって神の罰を受けられたということ、これが神の働きかけです。神のひとり子が身代わりになって罰を受けたので、人間はそれに免じて罪を赦してもらえ、罪の赦しの中で生きられる可能性が開かれました。そこで、こうしたことをされたイエス様は真に救い主であると信じて洗礼を受ければ、その人は罪の赦しの中で生きられるようになり、罪の赦しを受けたので神との結びつきが回復して、その結びつきの中でこの世を生きられるようになります。神との結びつきがあれば、順境の時も逆境の時も神から絶えず守りと良い導きが得られ、万が一この世を去って眠りにつくことになっても復活の日に目覚めさせられて復活の体を着せられて、造り主の神の御許に永遠に迎え入れられるようになります。このように、神はひとり子イエス様を用いて実現した罪の赦しの救いを全ての人間に向けてどうぞ受け取って下さいと提供している。それで近くにおられるのです。そしてそれを受け取った人は、近くにいるどころが、まさに「その中に生き、動き、存在する」ようになるのです。ギリシャの詩人の詩の中で歌われる神の近さは、このような神からの人間に対する働きかけとそれを受け取ることから生じる近さではありません。近い、近い、と言っても何を根拠に言っているのかわかりません。

このようにパウロと詩人の考えは根本的に違っているのですが、パウロは見かけ上の共通点を切り口にして教え続けます。神の「子孫」ということに関しても、金や銀や石を使って人間の頭で考えて作った像を神にしてしまったら、じゃ人間はこんなものの子孫なのか、こんなものに起源を持つのか、つじつまが合わないではないか!君たちは自分で何を言って何をしているのか自分でもわかっていないのだ、なんと無知なことか!

ここでパウロはたたみかけます。「神はこのような無知な時代を、大目に見て下さいましたが」

。つまり、大目に見ることは終わってしまったのである。それを知らせる出来事が起きたのである。何かと言うと、死者の復活という、天地創造の神の力が働かなければ起きないようなことが起きたのである。神は全ての人が「悔い改めるように、と命じておられます」とありますが、この「悔い改める」というのはギリシャ語のメタノエオーです。これの正確な意味は「これまで神に背を向けていた生き方を改めて方向転換して神に立ち返る生き方をする」ということです。なぜ、神に立ち返る生き方をしなければならないか、と言うと、ここから先は旧約聖書の預言の世界に入っていきます。今あるこの世は初めがあったように終わりもある。今ある天と地はかつて神に創造されたものであるが、今の世が終わりを告げる時に神は新しい天と地に創造し直される。その時に死者の復活が起こり、新しい天と地の国に誰が迎え入れられて誰が入れられないかの審判が行われる。まさにそのために方向転換をして神に立ち返る生き方をしなければならない。もちろん、パウロはそこまでは立ち入っていませんが、神がこの世を裁く日を決めたということは旧約聖書の数々の預言に基づいています。預言されたことが本当に起こるということが、一人の者の死からの復活が起きたことで確証が与えられた。そして、その者は最後の審判の日に裁きを司る方である、と。

ここまで耳を傾けてきたアレオパゴスの議員たち、哲学者たちは、どう受け取ったでしょうか?彼らは、旧約聖書の伝統のない人たちです。天と地と人間その他全てを創造した神は、全ての民族の歴史と居住場所を定め、全人類の歴史の流れと常に共にある神である。全人類の歴史とその舞台であるこの世はいつかは終わりを告げ、新しい天と地に取って替わられる。これらのことは考えも想像もつかないことでしょう。これらは全て天地創造の神からの啓示として与えられたものでした。人間の理性で推し測って組み立てた宇宙像とはあまりにも異なっていました。もちろんパウロもその相違を知っていたでしょう。それで、旧約聖書の伝統のない彼らにいきなり、ナザレのイエスはメシア救世主だったと言って始めなかったのでしょう。誰がメシアかと言う問題はむしろ旧約聖書を持つユダヤ人向けのメッセージだったでしょう。それにしても、死者の復活ということがギリシャの哲学者たちにとって一番の躓きの石になったようです。先にも述べたように、エピキュロス派にすれば人間は死ねば魂は原子に分解してしまうのだし、ストア派にしても魂はいつかは燃やされてしまう。加えて、神が人間を罪の支配から救い出そうという意思を持ってひとり子をこの世に送ってそれを実行するというのは、人格を持たない法則のような神からあまりにもかけ離れています。

つまりは、理性の知性を磨きあげた人たちからみて、パウロの教えはあまりにもかけ離れすぎていてまともに受け入れられないものでした。ある人たちが嘲笑ったのも無理はありません。別の者は、いずれまた聞かせてもらうことにしよう、と言いますが、哲学者というのは疑問や関心があれば日が暮れるまでとことん議論し合う人たちです。そうしないでこう言ったのは、もうこれで十分、お引き取り下さい、ということを丁寧に述べたのではないかとも受け取れます。人々は席を立ちました。パウロも恐らく、今日のところはこれ以上何を言っても無駄と思ったかもしれません。

4.あなたはどうする?

ところが、そうではなかったのです。何人かの人がパウロの後について行きました。ついて行った人たちの中で信仰に入った者が出たのです。信仰に入るというのは、イエス様を救い主と信じることですから、アレオパゴスを出て行った後で、パウロからさらに教えを聞いて、イエス様のことを聞いたのです。彼らがアレオパゴスでのパウロの話を聞いて、どのようにして、もっと聞いてみようと思うようになったのか、それについては何も記されていません。ただ、背景全体から考えると、次のようなことではないかと思います。よくお聞き下さい。

これまでずっと何かおかしいと思いつつも、何がどうおかしいのか、はっきりさせようにも、伝統の重みとか、知識人の言葉の重みとかに遮られて明確にできないでいた。例えば、自分たちが神に起源を持つと言いながら偶像を造って崇拝することの矛盾。そして、死んだら全て消滅してしまうとか、冷徹な法則の一部分のようにしか生きられないのなら、この世で生きる意味と目的は本当にあるのか?それが、パウロの教えから「知られざる神」が天と地と人間を創造した神であり、人間に向かって私を見出しなさいと働きかける神であるということ、そして、この世を去っても消滅しない命があり、その命を生きられる世が来ること、それが本当に起こることの確証として一人の者が死から復活させられたということを聞かせれる。では、その者とは誰なのか?ここまで来たら、あとはイエス様がメシア救い主であるという福音を聞くことだけです。この福音を聞いた時、天地創造の神は約束されたことを守り、それを必ず実現される方であるとわかったでしょう。不確かさと変転極まりないこの世にあって、信頼して絶対に大丈夫な方がおられるというのは、何と励まされ勇気づけられることでしょうか!

兄弟姉妹の皆さん、私たちも聖書の御言葉を通して同じ信頼を持つことができ、同じ励ましと勇気が与えられます。そのことを忘れないようにしましょう!

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

(後注)動詞ψηλαφησειανとευροιενのアオリスト・オパティヴの意味をよく考えなければなりません。ドイツ語も突き放した感じの訳だと思います。英語、スウェーデン語、フィンランド語は「多分、見つけることができるかもしれない」と見つけられる可能性に踏み込んでいます。

歳時記

散歩道の途中に10年ほど前から放置されたままの宅地造成中の土地があります。10年間も放置されますと草木も生い茂りもとの景色に戻っていました。そんな雑木林の中にニセアカシヤの木がたくさん生えているの見つけ花の時期を狙って出かけましたところ見事に開花していました。付近には上品な花の香りが漂っていました、香りの良い花房は天ぷらにすると味も格別かと思っています。

5月14日(木)18:30より「聖句と祈りのひと時」パイヴィ・ヨシムラSLEY(フインランド・ルーテル福音協会)宣教師

聖句 詩篇91篇4〜6節
題「主の守りの翼の中で」
フィンランドの讃美歌552
歌とピアノ ミルヤム・ハルユSLEY宣教師

 

 

 

 

 

 

 

子どもの料理教室、オートミールパンとストロベリーシェイク、フランネルの劇「良い羊飼いと100匹の羊」

子どもの料理教室

パイヴィ・ヨシムラ宣教師と一緒にフィンランドのオートミールパンとストロベリーシェイクを作りましょう!出来上がった後、フランネルの劇「良い羊飼いと100匹の羊」」という聖書のお話を観ます。

オートミールのパン

オートミール 200ml
小麦粉(薄力粉) 200ml
ベーキングパウダー 小さじ2
塩 小さじ1/2
すりおろした人参(大きめ ) 1/2 本
シロップ 大さじ1
油 大さじ3
牛乳 120 ml

1. オートミール、小麦粉、ベーキングパウダー、塩をボールに入れて混ぜる。
2. 人参の皮をむいてすりおろす。
3. すりおろした人参、油、シロップと牛乳を1.に入れて混ぜる。生地は柔らかくて大丈夫です。
4. 鉄板の上にパイシートをしく。
5. 生地を二つに分けて、パイシートの上にのせる。
6. 生地の上に少し小麦粉をふりかけて、手で丸く伸ばす。
7. 丸くした生地の表面にナイフで四等分の十字の印をつけて、フォークで少しさす。
8. 200℃のオーブンで15分くらい焼く。きれいな焼き色が出来るまで焼く。

ストロベリーシェイク(4人分)

牛乳 250ml
バニラアイス 200ml
バナナ 1本
イチゴ 200g

1. イチゴを洗って葉っぱをとる。
2. イチゴをボールに入れて、ミキサーで混ぜる。
3. バナナと牛乳をボールに入れて、ミキサーで混ぜる。
4. バニラアイスを3.に入れて混ぜる。シェイクをコップにそそぐ。