歳時記

飯豊リンドウ

 <28  また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよ い。働きもせず、紡ぎもしない。
29  しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどに着飾ってはいなかった。  マタイ6:28・29 >

初めてこの花を見たのは、何回目かの飯豊の山旅でした。飯豊本山の山小屋を朝早く出立してハイマツ帯に掛かると足元に朝露に濡れたブルーサファイアのような色をした小さなリンドウを見つけました。あまりにも小さいので膝間ついてしげ々と見ていました、これが噂に聞いていた飯豊リンドウとすぐ分かりました。以来、最初に見た時の感激が忘れられなく飯豊に行くとこの飯豊リンドウを探して歩きますがなか々見つかりません。探しても見つからず、歩いている途中に偶然というハプニングでしか見る事が出来ないのかもしれません。

2025年8月17日(日)聖霊降臨後第十主日 主日礼拝 説教 木村 長政 名誉牧師(日本福音ルーテル教会)

私たちの父なる神と、主イエス・キリストから、恵と平安とが、あなた方にあるように。

アーメン              2025年8月17日(日)スオミ教会 

聖書:ルカ福音書12章13~21節

説教題:「愚かな金持ちの譬え」

今日のみ言葉はルカ福音書12章13~21節までです。13節から見ますと、群衆の一人が言った。「先生、私にも遺産を分けてくれるように言ってください」イエスはその人に言われた。「誰が私をあなた方の裁判官や調停人に任命したのか」。ここでイエス様は群衆の一人の訴えに対して少々怒っておられます。イエス様に向かって言ったこの人は、何故こんな事を言い出したのでしょうか。恐らくイエス様の話を聞いて感銘を受け、この立派な先生の話を自分の兄弟も聞いたなら権威ある崇高な教えに触れ欲張りな兄弟も謙虚になり分別も良くなって私の遺産の分け前を分けてくれるのではないかと、考えたのです。この人はイエス様の尊い教えを兄弟に聞かせて、いま自分が財産の分け前の事で不利になっている惨めな問題に利用しようとしています。それに反してイエス様は「問題はあなたではないのか」と言っておられるのです。そこでイエス様ははこの人に譬えの話を語られるのです。譬えの話は何の説明もいらない分かり易い話であります。「或る金持ちの畑が豊作で作物を入れる倉を作って貯えておこう。もっと大きい倉を建て、そこに穀物や財産をみなしまい、さあ自分に言うのだ。「これから先、何年も生きて行くだけの蓄えが出来たぞ、食べたり飲んだりして楽しめ」。さて、この譬えで彼は豊かであった上に更に豊かになりました。ますます豊かになって行くけれどもその豊かさが何にもならないと言うことです。この譬えでは人間が何者であるか、と言う事ではなくて、人間にとって持ち物がどういう意味を持つのか、と言う事を言おうとしているのです。さて、畑が豊作であった時、この金持ちは作物を余らせて腐らせてしまう様な事はしませんでした。長年に渡って作物を貯蔵する事が出来るような大きいしっかりした倉を建て替えるのです。賢い人は作物が取れ過ぎて余った時、それが無駄にならないようにするのであります。この譬えの主人公である金持ちはただ物を沢山持っているというだけでなくて、その沢山の物を上手く管理するだけの賢さをも持っている人でした。人間には将来に備える知恵というものがあります。これまでの経験が蓄積されて、そこから考えて今後、困る事があるだろうから貯えておくと言う知恵であります。ところが、人間は物を持っていますとその物を自分がどうにでも出来る、支配しているつもりでいます。しかし物を本当に支配しているのではありません。イエス様は教えられました。「地上の宝と言う物は虫が喰うし又錆びてしまう、或いは盗人が来て盗んで行く。」そいう不確かな物があるという事です。人間は将来の事を考え、将来への備えが出来ると思っています。果たしてそうでしょうか。ところが彼は決して自分の将来を確保しているわけではないのです。更にこの人間が自分の魂を自由にすることが出来ると思うに至るのであります。魂、即ち命を保つのに必要な食料は長年分が確保された、これで長年に渡る命を保証する事が出来る、と言うのです。人は一生涯、喰うために働き追われています。それが働かないで食べて行けるなら人は苦労から解放されると思うわけです。大きい問題は解決されたかのようでありますが実は何も解決していない。   ――――――――――――――――◇―――――――――――――――――

20節を見ますと「すると神が言われた『愚かな者よ!あなたの魂は今夜のうちにも取り去られるであろう。そうしたらあなたの用意したものは誰のものになるのか』」。今晩、命がとられる!。すると一切が空しくなってしまうのです。それまで働いて生み出した実りも自分自身も空しくなってしまうのです。この譬えの話に出てくる金持ちは私たちの姿を写した鏡であります。いや、自分はこのような金持ちと違うと言うでしょうか。今夜、お前の命は取られてしまう。このひと声で彼がこれまで持っていると思っていたもの、保証されていると思っていたものが一挙に消えてしまうのです。まるで!朝日がさして霜が見る々うちにサーッと消えて行くように。神のひと声は一瞬にして一切を消してしまう、日の光のようです。この光を当てても消えないものを私たちは持っているでしょうか。私たちは私たち自身の人生のあらゆる面にこの光を当ててみる必要があります。この光に当てて消えゆくものが沢山あります。私たちは本当に空しくない人生を生きているかどうか。「今宵、命が取られるとしても、なお意味を持っているもの」それこそが私たちの人生の目標として大事に生きて行くことです。もし、明日死ぬことが分かると、もう励む目標も失って人生諦めて、せめて生きている、今日だけでも楽しもうとなるでしょうか、それもまた空しいことです。イエス様は言われました。「あなた方は世の光である」と。私たちキリスト者は光であってあのひと声を聞いても終わりに備える生き方とはどういうものか。私たちは何時あのひと声を聞いても良いように黙々と本当の生き方を求め続けて行く、その終わりの時が来ても崩れない。いよいよ生き々として生きるようにしなければならない。それはどういう生き方でしょうか。最後の一節で言われた。「自分のために宝を積んで神に対して富まない者はこれと同じである。」金持ちのした事です。イエス様ご自身の解説の言葉であります。この譬えの金持ちは自分のために宝を積んで神に対して富まない典型でありました。この人が金持ちであったことが悪いのではない。しかし、彼はこの取り入れたものを全部、自分の物にしようとしたのです。自分の畑で取れたものだからそれは自分のものではないか。そう考えても悪い事ではない。他の人たちの事はどうだったでしょうか。彼は他の人たちの事を全く考えない。イエス様の譬えの言葉の中には「彼は他の人の事を考えなかった」とは一言もない、けれども「自分のために」という一言は他の人たちの貧しさは考えにない、と言う事を含んでいるのです。この人は自分のために宝を積むばかりでした。人の事まで考えが及ばないのです。こうして神のひと声が彼に響くのです。即ち、神の前に立つ時、自分の富であると思っていたものが無になってしまう。富を持っていると思っている自分自身が実は惨めなものでしかない、この事が明らかになります。しかし、神の前に立っても自分が惨めにならないで祝福に満ちた状態になれる道があります。それが「終わりの日の備え」なのであります。私たちは実はある方の後ろに続いているのです。その方の歩みに依っているのです。その方と言うのはイエス・キリストであります。イエス様はこの世にあっても神の国を示し御国の自由な生き方をされてきました。イエス様ほど人のために生きた方はおれれません。自らを犠牲にして人のために生きられた。ですから、私たちも「人のために生きる」このことを目標に据えて生き々とあの光のひと声を聞いても喜んで御国への希望を持って生きる事であります。これが新しい生き方です。この新しい生き方はこの世のあらゆる価値の尺度が違うのです。イエス・キリストが示して下さった尺度の中で生かされて行く事であります。この新しい生き方は終わりの日にこそ本当の意味があり正しい事が明らかにされるのであります。

人知では、とうてい測り知ることができない、神の平安があなた方の心と思いをキリスト・イエスにあって守るように。  アーメン

 

 

2025年8月10日(日)聖霊降臨後第九主日 主日礼拝 説教 田口聖 牧師(日本ルーテル同胞教団)

ルカによる福音書12章35〜40節

説教題:「賜物である信仰に生かされる歩み」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1、「はじめに」

 このルカ12章は、1節にあるように、沢山の群集がイエスのもとに集まってくる中で弟子たちへの「ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさい。それは偽善である」と言う厳しい言葉と教えから始まっています。ファリサイ派は、人に見えるように祈ったり断食したりなど、目に見える行いで人に評価される敬虔さや立派さで、神の前に義を立てようとしていました。それは、ただ律法だけではなく、むしろ律法が教えていることさえも超えた人間の作った社会の慣習を立派に行うことによって、より神に近いとされると教えるような、どこまでも目にみえる行いを誇るようなものでした。それは確かに社会では、周りの人々から高く評価され彼らは敬虔な人々とされていたのです。しかし、イエス様は、それに対して注意するようにいい、偽善とまで言うのです。しかしその意味するところは、2節でイエス様が「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない。」と続けているように、そのような目に見える「人の前」だけを意識し、ただ人に見せ、人と比較し、人に賞賛されるような生き方ではなく、むしろ「神の前」に罪人である自分を認め告白しながら、全てを行なってくださる神に謙りどこまでも信頼する生き方、信仰の生き方にこそ真の敬虔があることを示すことにありました。それがこの12章では貫かれています。だからこそ、イエス様は絶えず弟子たちを慰め、信仰を励ますように語りかけています。7節では「恐れてはならない。誰を恐れるべきか教えよう

と言います。なぜなら一羽の雀さえ神はお忘れにならないからだと。だから恐れるなと教えます。11節でも「心配してはならない

。なぜなら全て語るべきことは準備されているからと言います。22節では「思い悩むな」。なぜなら神は鳥さえも養ってくださる。あなたがたは鶏よりも価値があるからだと。そして28節ではこうあります。

「今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことである。信仰の薄い者たちよ。あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな。それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。

 と。そして言います。「神の国を求めなさい」と。このように、イエス様は「神の前」にあっては、人のどんな優れた行いや知恵に義を求めたりより頼んだりしても、そこには決して義などない。むしろあなた方にはどんな罪深く不完全でもキリストにあるならそんなあなた方にこそ神の恵みと憐れみはいつでも深く満ち満ちている。だから、どこまでも神の国を求めなさい、つまり、神を信じ、信頼しなさい。と励まし続けているのがこの12章なのです。

2、「帰ってくる:腰に帯を絞め、灯火を」

 同じように今日のこの箇所も、32節でも「小さな群れよ。恐れるな」で始まります。なぜなら、その小さいものに神は喜んでその国を与えてくださるからと。そしてその後に施しの勧めがありますが、それは、神が与えてくださるのだから心配する必要がないという神への信頼があってこその教えであり、単なる律法の教えではなく、福音から生まれる信仰の実としてイエス様は施しを勧めているでしょう。そして、35節からこうあります。

「「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。」

 「腰に帯を締める」。これはすぐに行動できるということを意味しています。そのように備えているように、準備しているように。イエス様は教えるのです。ここでイエス様は、弟子たちは、主人のもと、つまりイエス様のもとにある僕という位置付けです。当時の婚礼というのは一日ではなく、数日行われます。そして終わる時間が定められてはいません。婚礼の祝宴はいつまで続くのか、どれぐらいで終わるのかということはわからないのです。ですから、僕はいつに主人が帰ってくるかわからないのです。婚礼に出かけた主人は、突然、家に帰ってくるということです。

 そのためにイエス様は、いつでも目を覚まし主人が帰ってくるのを見られるよう備えているようにと教えます。ここでイエス様は、まず帰ってくることを「ご自分の時」のことを指しているでしょう。ヨハネの福音書などを見るとやがて来る「わたしの時」「ご自分の時」という言葉で、イエスはやがてご自身が受ける十字架と復活の時を絶えず指し示しています。イエス様ご自身は十字架の時が迫っていることを知っていました。そして見てきましたように、ルカによる福音書ではこの時はもうすでに、エルサレムにまっすぐと目を向けて進んでいた時です。イエス様ご自身もそのご自分の時である十字架と復活のことを神の国の到来の教えとして伝えてきました。しかし、弟子たちはその意味も時も知りません。いやすでにイエスが前もって伝えてもいましたが、それでも彼らは理解できませんでしたし、わからなかったのです。そのようにわからないからこそ目を覚まし準備しなさいなのです。まさにそのことをイエス様は示唆しているでしょう。

 では、ここからの弟子たち、そして私たちへのメッセージは何でしょうか。まず第一にイエス様は、「帰ってくる

ことを示唆しています。

 イエス様はやがて逮捕され、裁判を受け有罪とされます。罵られ、鞭うたれ、唾をかけられ、処刑である重い十字架を背負わされるでしょう。そしてついにはゴルゴダの丘で、手と足に釘を打たれ晒されます。そして息をひきとります。その身体はローマ兵によって死を確認され、そして墓に葬られるのです。

 それは弟子たちにとっては大きな悲しみだけでなく、苦しみであり絶望となります。それが起こる前、弟子達は誰もそんなことが起こるはずがないと思っていました。さらには彼らはみんな言いました。もし他の誰かが裏切るとしても「自分は決して裏切らない」と誓い断言しました。けれども彼らのその決心はその通りになりませんでした。イエスが伝えたとおり、イスカリオテのユダが僅かの銀貨との引き換えでイエスを売り裏切ります。そればかりか、自分たちの建てた「他は裏切っても自分は裏切らない」と言う決心を果たせませんでした。それどころかみなイエスが逮捕された時、逃げていくのです。そしてそれでも隠れて見にいったペテロは、「イエスの仲間では?」と問われ、イエスのことを三度知らないと誓って呪いを込めて言ってしまうのです。ペテロはその時、外に出て泣いたとありました。さらには十字架の出来事は、まさに目を覆うばかりの残酷さと悲しみとなります。そしてその後の弟子たちは、恐れと悲しみと絶望で、部屋の戸を閉ざしてしまうのです。イエスご自身は復活すると約束しているのに、です。しかしイエス様は、まさにその真ん中に「帰ってくる」でしょう。

 そしてもちろんこの例えにはもう一つの意味があるでしょう。それは、人の子が思いがけない時に来るのは、復活の後、天に昇られるその時に約束される通りに、キリストが再び来られることをも当然意味していることでしょう。その時に備えていなければ、41節以下で記されているような受ける報いがあることや、やがて起こることなどに直面することになります。しかし、イエス様がここで伝えたいことは、そんなイエスが再び帰って来ることを、いつとかどんな時とか、私たちがわからないことを人間が不完全な知恵で特定することでないのです。そうではなく、そのやがて来ることの意味がどちらであっても、イエス様にあっては「備えるべき」その「備え」こそしっかりとあなた方は持っていなさいと言うことが、変わることのないイエス様から私たちへの大事なメッセージなのです。それは何か?それは一貫しています。それはファリサイ派のように行いによる義や人に見せるためだけ、自尊心、自己愛を満たすための、偽善に満ちた偽りの信仰ではない。神ではなく自分への信頼でもありません。黙示録3章21節に「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」とあるように、どこまでも神を神とし、神を見、神を待ち望み、神に信頼する、いつでも神の招く食事の席に喜んで着く、まさにそのための備え、そのための信仰こそが、その信仰だけが、あなた方が常に持つべき備えであると言うことに他なりません。

3、「十字架の苦しみと死は喜びの婚礼:その信仰は律法ではない」

A,「イエスが受ける十字架は神のみ心、喜びのために」

 しかし、繰り返しますが、その信仰は決して律法ではありません。そのことを示すように、そのイエス様の時、つまり、イエス様は自分の受ける十字架であるにせよ、再び来られることであるにせよ、イエス様はここでその時をなんと「婚礼」という「喜びの席」に例えているでしょう。イエス様がまさに受けようとしている十字架は、まさに苦しみと死です。イエス様は「我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのですか」と叫ぶほどの大きな苦しみと死をその身に負います。しかし、そのご自身の受けるその時をイエス様は「婚礼」だと言うのです。私たち人間の目では、ご自身の苦しみと死と婚礼の喜びとでは全く逆のことのように見えます。しかしイエス様にとって、それは決して矛盾しない福音なのです。なぜなならその十字架でこそ神の喜びだけでなく、人類の喜びが実現することを、神様は御心として見ているからです。イエス様はそのことを伝えているのです。

 イエス様は事実「ご自身の時」をよく婚礼に例えています。マタイの福音書9章でも、イエス様ご自身がご自分を花婿と呼んでご自分が来たことを婚礼の時に例えています。そしてマタイ25章でも、天の御国は、灯火をもって花婿を出迎える十人の娘のようだとも話しているでしょう。イエス様が世に人として生まれたのは、確かに十字架で死ぬためでした。しかしそうであっても、それは花婿の到来。婚礼の時、喜びの時であることを伝えているのです。さらにヨハネ3章では預言者であるバプテスマのヨハネもイエス様の到来を花婿の到来、婚礼に例えています。そして「喜びに変わる」ということもはっきりと言っている場面がありました。ヨハネ16章22節、捕らえられる直前の晩餐での教えです。こうあります。

「今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。 」

 今は悲しみの時。しかしわたしは帰って来る。もう一度会うのだ。その時、喜びに変わる。誰も奪うことができない喜びに満たされる。それはまさに十字架の死の先にある復活と新しいいのちの約束のことをイエス様は伝えているのです。さらに旧約聖書でもイザヤ書53章では、苦難の僕は「彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する」(11節)ともあります。まさにこの時すでに、イエス様は、十字架にまっすぐと目を向けて、その十字架の苦しみも死も待っていることを知っていながら、同時に、ご自身の時が、婚礼の喜びに例えられる、喜びの時となることを、イエス様はまさに見ているのだと示されます。

 そこで主人は帰ってくる。その通りですね。イエス様は約束の通りよみがえり、弟子たちのところに帰ってくるのです。その時に、腰に帯を締め、あかりをともして、すぐに戸を開けれるように、その帰りを待っている人のようでありなさい。つまりみ言葉を、約束を信じて待っていなさい、なのです。もちろんここには、やがて来る、つまり再びくるイエス様の再臨の時という二重の意味でもありますが、やはりどちらの意味でも、いつ来ても良いように信じて待ちなさい、なのです。

B,「賜物である信仰がいかに大切であるか」

 イエス様は、ここで私たちに神を信じ、信頼し、待ち望むということがいかに神の国にとって、重要なのかを12章全体を通して示しています。12章8節以下でも、イエス様はイエス様を人の前で認めるもの、つまりイエスへの信仰を告白するものを、イエス様も神の前で知っていると証言するとあります。神の国はみ言葉を聞き信仰を告白するものにこそあるとイエス様は教えています。そして10節以下では、たとえ人間の罪の行いや言葉によってイエスをそしることがあっても赦されるけれども、聖霊を冒涜するもの、つまり聖霊の賜物である信仰を侮り否定し汚すものは赦されないと、やはりそれもみ言葉と聖霊の賜物である信仰こそ大切であると伝えていました。人のいのちは神の手にあり、一羽の雀さえも忘れられていないように、カラスや野の草さえも養うように、神は私たちを憐れみ満たしてくださる、神は喜んで神の国を与えてくださる、その神の子イエスとその約束、み言葉を信じるように、それこそ神の国を求めることなんだと、イエス様は神を信頼することこそ道であると繰り返してきました。福音と賜物である信仰こそが神が与える救いの力だからです。人は行いではなく神を信じることによって救われるということこそ、まさに堕落した時から、アブラハムの時から変わることのない神の道であったからです。いや創造の初めから、神は人を神に信頼するものとして創造しています。神への信頼こそ人の本来の姿。信仰は本当の人間の回復であり、神と人の関係の回復はただこの信頼、信仰にのみにかかっている。それが神が聖書の初めから、預言者たち、そしてイエスを通して、使徒たちを通して語ってきた福音であったのでした。

 その信仰こそ、信頼こそ、何にも勝る神の国の備えであるとイエス様はここで教えています。信仰は何が起こっても動じない力です。地上で艱難があっても、神が突然来たとしても、喜んで安心してそれを迎えることができるのは信仰だけです。そのように艱難の時代にあるからこそ、神にいつでもどんな時でも信頼して、すべてを任せ、神を待ち望むことが神の国の姿なのだと、イエス様は教えてくれているでしょう。そのように備えている人は、突然、主人が帰ってきても幸いだとあるのです。ですからそれはただ、起きていないと主人が裁くとか怒るとか、そういう意味ではないのです。むしろ待っている側の喜びの心のことを言っているでしょう。その喜びの心、救いの確信は、律法や行いとしての間違った信仰にはあり得ません。それはその神の約束である福音を恵みとして受け取る信仰のみにあります。神の福音の約束を恵みとして受け取り信じていることこそ、神の前にいつ立ったとしても、突然、立つことがあったとしても、確信と平安のうちに立つことができる備えです。むしろその真の信仰がなければ、神の前に立つことができないでしょう。そこには平安も確信も失われます。まさにこのように、これは律法から解放されただ神の約束を待ち望む信仰に生ずる私たちの心の喜び幸いを伝えてくれているのです。恵みの約束をそのまま信じて待つ時、突然何があっても、心は喜びと平安と確信で揺るぐことがないということなのです。

C,「信仰は重荷、律法ではない。信仰は平安、福音である」

 みなさん。イエス様が教えるように、信じることは重荷ではない、どこまでも幸いなのです。それは平安があるからです。イエスを喜ぶことができるからです。そしてそれは誰も奪い去ることができない、世が与えるのとは違う、特別なイエスの与える平安だともヨハネの福音書14章にはあるでしょう。不安や疑いではなく、平安のうちに待ち望むことは幸いではありませんか。イエス様はその備えを、つまり信仰の幸いと素晴らしさを私たちに伝えているのです。

 しかし、やはり忘れてはいけない大事な点ですが、その信じるということは律法ではないと言うことです。それは福音であり恵みです。その素晴らしい恵みの上の恵みがここには証しされているでしょう。

 イエス様は、弟子たちの弱さと不完全さ、罪深さをすべて知った上でこの教えをしています。事実、弟子たちは、信じて待っていることはできません。復活の日の朝、悲しみと絶望で戸を閉ざしていました。しかしそこに「イエス様の方から

戸をノックもせずに、開けもせずに、通り抜けて、彼らの前に現れて、死からよみがえったその生ける身体を触らせたでしょう。さらにはその場にいないで疑ったトマスにも、もう一度現れ、同じように触らせたのです。そのような疑うトマスの不完全さをご存知の上でイエス様は、「見ずに信じる者は幸いです」と言っているのです。このように使徒達弟子達の信仰は、不完全で罪深く不信仰な彼らでありながらも、そのようにイエス様の言葉に支えられ助けられながら、そのイエス様の教える「見ずに信ずる信仰」へと導かれている事実がわかるでしょう。それが弟子たちの歩みであり、私たちクリスチャンの恵みの歩みでもあるということです。

D,「礼拝も律法ではない、礼拝は主が仕えてくださる福音である」

そして37節の後半部分の言葉は実に意味深いです。

「主人のほうが帯を締め、そのしもべたちを食卓に着かせ、そばにいて給仕をしてくれます。」

 これは思い出すでしょう。エマオの途上の二人にもイエス様がパンを裂いたとありました。そしてヨハネ21章でも、漁から帰ってきた弟子たちに、イエス様が食事を準備していたとあったでしょう。イエス様の目的であった十字架と復活を境に、関係が逆転しているでしょう。もはや弟子達が、あるいは私たちがイエス様にではない、イエス様が弟子達、私たちに仕えてくださる、そのことをイエス様は示してくれています。それはまさにイエス様が私たちに仕えてくださるのが、新しい命の道、信仰の道、クリスチャンの歩みであるとうことを示唆しています。ですから、信仰の歩みは、私たちが先ず神のために自分たちの知恵や力や理性を振り絞って私たちが実現しなければいけない律法ではもはやないと言うことです。イエス様がみ言葉で仕えてくださり、絶えず支え励まし導き成長させる恵みだということです。この礼拝さえもそうです。礼拝は律法ではありません。礼拝は、人が神に仕えるからサービスではありません。ドイツ語では、礼拝は「ガッデス ディーンスト」「神が仕える」と言う意味です。み言葉を通してイエス様が教えてくださり、聖餐を通してイエス様がイエス様のからだと血を与えてくださる。まさにイエス様が仕えてくださり、それを受ける、ともにみ言葉と聖餐の食事をするのが礼拝であるということです。礼拝も福音なのです。決して律法ではないのです。

4、「結び:教会は花嫁」

 イエス様がそのように信仰を与え絶えずみことばで仕えてくださる、充してくださる、支えてくださり、助けてくださる、力を与え用いてくださる、良い行いも備えてくださり、愛のわざを私たちのうちに行わせてくださる、それが神の国の幸いであることをイエス様は伝えてくれているのです。だからこそ、イエス様が花婿であり、教会はまさにその花嫁であるとも言われているでしょう。イエス様はだからこそ婚礼の譬えや花婿の到来を私たちに伝えているのです。私たちは今日も罪を示されこの十字架の元にありますが、まさにこの十字架の故にこそ今日もイエス様は罪の赦しを宣言してくださり、絶望は喜びに、不安は平安に変えられ新しく歩んでいくことができます。今日もイエス様は変わることなく宣言してくださいます。「あなたの罪は赦されています。安心していきなさい」と。その約束を今日もそのまま受け取り、どこまでも仕えてくださるイエス様を信頼する歩みを続けていきましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

歳時記

ヘ長調は緑色

シベリウスの家はアイノラの家として有名ですが、この家を建てる時、彼は建築家に二つだけ注文をしました、「書斎からトゥースラ湖が見渡せること、そして暖炉が緑色であること。・・・作曲家にとって緑色はヘ長調なのだ。」ヘ長調を色で表すと、黄緑色や薄い緑色といった自然を連想させる色がイメージされることが多いい、と言われています。牧歌的な長閑な田園のイメージなのでしょうか。モーツァルトの「ピアノ協奏曲21番」や、ベートーヴェンの「田園」などが有名です。教会讃美歌の「やすかれ わがこころよ・・・」もシベリウスの交響詩「フインランディア」からのメロディーを用いていますね。フインランディアの冒頭も矢張り、ヘ長調で始まり途中で変イ長調の変わり最後にまたヘ長調に戻るそうです。確かに聴いているとフインランドの森と湖のどことなく牧歌的な風景をイメージを感じさせられます。昔、LP盤のフインランディアを持っていて何度も繰り返して聞いていました。生憎、当時のLP盤はプレイヤーを処分した時に一緒に処分してしました。男性コーラスの重厚なコーラスが忘れられません。当時を思い出しながらyoutubeで探したらヘルシンキ大学の男性コーラスの合唱がありましたので添付しておきました。

https://www.suomikyoukai.org/2020/wp-content/uploads/2025/08/シベリウス:フィンランディア讃歌-作品26の7-ヘルシンキ大学男声合唱団.mp4

歳時記

宵待ち草(Yoimachikusa)

 <神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。 コヘレト3:11>

裏の茂みに今年も宵待ち草が咲き出しました、気のせいか何時もの花より小振りです。それに勢いもないように見受けられます。暑さのせいでしょうか、蝉の声もあまり聞こえてきません。自然界が全体に少し狂って来たようにもみえます。しかし、全て暑さのせいだけではなさそうですが気になります。暦の上では8月は秋ですが、秋を実感できるのは9月以降になるかもしれませんね。

2025年8月3日 聖霊降臨後第八主日 説教 田口聖 牧師(日本ルーテル同胞教団)

今日の聖書のお話

ルカによる福音書12章49〜53節

「イエスは天からの宝を与えるために」

2025年8月3日

説教者:田 口  聖

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなた方にあるように。アーメン。

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様。

1、「はじめに」

 はじめに、私の奉仕の変更の関係で、今日の礼拝の福音書の箇所は、来週の箇所の後の部分、8月17日の福音書の箇所になります。話が来週と前後してしまいますが、ご了承ください。

 さて、この12章、イエス様はエルサレムへとまっすぐに目を向けて進んでいます。すでにパリサイ人や律法学者達の敵意が強まってくる中で、イエスはみ言葉の説教を通して神の国はどのようなものなのかを弟子たちに伝えていきます。イエスはこれからを起こることを例えを用いて伝えていきますが、そこで一貫して変わることなくその根底に流れているのは、ご自身がこれから受ける十字架の死と復活によって実現し与えられる罪の赦しこそ救いの力であるという福音であり、 それはどんな困難があってもそのイエスと福音を信じる信仰こそ日々新しく生かし歩ませるいのちの賜物であるということでした。今日の箇所は、非常に難しく、一見、厳しくも感じられる言葉が続いているようではありますが、しかしここにもこれまで見てきたイエスのメッセージの土台にある十字架の福音から見ていく時に、やはり恵みのメッセージが伝えられていることがわかるのです。

2、「火を投げ込むため」

「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。」 49節

 この一節の言葉だけでを見る時、どう思うでしょうか?何か恐ろしさやネガティブなイメージを抱かされるのではないでしょうか。「イエスが来たのは地上に火を投ずるため。」ーそれは何か世の終わりを思わせるような、神の怒りや裁きを伝えるような言葉にも感じられます。確かに「火」には神の裁きという意味があるのかもしれません。しかし神が世に送ったのは、いわゆる「裁きの天使」ではありません。神が遣わしたのは御子イエスでした。ですから、そのイエスにおいてこそ神の「裁き」の意味がむしろはっきりと示されているのです。聖書はその意味をこう伝えています。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」ヨハネによる福音書3章16〜17節

 このみ言葉にあるように、私たちが誤解してはいけない何より大事なことは、神の怒りと裁きは、私たちではなく何よりイエス様が受けられたということに他なりません。ですから、今日の箇所のような一見、厳しさが見られるようなメッセージでも私たちは十字架中心に聖書を見て解釈することが大事です。つまり、まさにこの恐ろしい裁きは罪のゆえに誰も避けられないことではあります。しかしこのイエス様の十字架のゆえに私たちは裁きを受けなくていい。ただイエスを信じるだけでいい。それが神が計画されたことであり、イエスが来られた何より意味であり目的であるということが聖書の約束することなんだと常に立ち返らされるのです。このようにイエスが世にこられたのは、神の愛、福音によって、一人一人に信仰が与えられ救われることだと言っているのですから、あるいは、その福音をそのまま受け入れることに救いと神の国があるのですから、それこそ「福音と信仰に立つかどうか」が、ある意味、救いが決まる裁きといえるでしょう。そういう意味でこそ、福音はここでいう「火」であり、「福音である火」が燃え続けること、つまり、私たちに福音による救いと神の国が燃え続けることを何よりもイエスは願っているということが、聖書全体の十字架中心、キリスト中心から見えてくるこの箇所のメッセージなのです。

3、「イエスが受けるバプテスマ」

 そしてここでイエスはまさにその火に十字架を見ているのです。50節。

「しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。」50節

 イエスはこの時すでにエルサレムにまっすぐと目を向けて歩み始めていました。それはイエスがこれから受ける苦しみと十字架に向けて進んでいたということです。イエスのすべての動機はすでに十字架にありました。イエス様のすべての例えもメッセージも十字架が中心にあってのメッセージであり、ですから十字架の福音が中心にあってこそイエス様のメッセージの本当の意味が分かってきます。それはここでも貫かれています。イエスの時、「わたしが受けるバプテスマがある」と。それは罪の洗いを示す洗礼が待っている。そしてその完成まで自分は苦しまなければならないと言います。つまり十字架のことだとわかります。つまり、その「福音の火」が燃え続ける神の国の完成は十字架によって成就すると、イエスはしっかりと見て語っていることがわかるのです。その十字架の福音を踏まえてこの51節以下の言葉がくるのです。

4、「天からの福音と罪ある人との間」(5153節)

A, 「天の財産」

「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。 今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。父は子と、子は父と、母は娘と、娘は母と、しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、対立して分かれる。」(51−53節)

 このことは何を伝えているでしょうか。これも非常に不条理に聞こえる言葉なので、イエスはその与えようとする救いに矛盾することを言っているかのように私たちには聞こえるかもしれません。しかしこの言葉はまさに神がもたらしてくださったイエスとその十字架、つまり福音のゆえに、地上や人の間に当然起こりうる現実を伝えているのです。どういうことでしょう。まず49節、「わたしが来た」とあります。どこからですか?それは天からです。イエスご自身は「天から」遣わされた神の御子、神ご自身にほかなりません。そしてさらには先ほどの言葉には「地に火を投げ込む」とありました。それもまた「天から地へ」ということを意味しているでしょう。このように、福音は「天から地へ」と与えられる天の宝です。巷では「地獄の炎」とはよく言いますが、聖書にあっては、福音は「天の炎」です。福音とは素晴らしいものであり、私たちにはない、作り出せない、自らでは所有することも発明することもできない、まさに「天の財産」「天からの宝」に他なりません。しかも何の行いの条件も付されていない、ただそれをそのまま受け取るようにと差し出されている恵みの贈り物です。

B, 「堕落した人の罪の性質」

 けれどもただ受け取ればいいだけなのに、それをそのまま受け取らない、いや受け取ろうとしないでむしろ否定し拒む地上の人間の罪の性質があるでしょう。そのことをこのイエス様の言葉は描き出しています。この12章の始めには、イエスを拒み、イエスの伝える福音と神の国を否定し、そしてやがては殺そうとする人々のことが記されています。それはこの後も続き、復活、ペンテコステの後、教会の時代も続き、今も変わりません。まさに地上は神を拒み否定し、いないかのように、むしろ自分が神であるかのような堕落した世界です。私たちはみな神の恵みがなければ、そのままの性質では、神の前に、どこまでも神を信じようとしない、神を否定しようとする罪人です。福音についても、私たちは自らのままでは、むしろその素晴らしさを知るどころか、知らされても否定し、受け入れようとしない性質があるものです。たとえ、それがまったく恵みであると言われても、あるいは信じ受け取るだけでいいと言われても、あるいは信仰さえも賜物であるといわれても、「いやそうではない。それ以外の何かが必要なんだ」「人の行いが、努力が、貢献が必要なんだ」と人はなりやすいでしょう。世の宗教はキリスト教以外はみなそのような宗教ですね。クリスチャンの中でさえその呪縛の下から抜け出せません。恵みだけでは、み言葉の力だけでは不十分だ。もっと何かしなければいけないとか、むしろ何かする方が、つまり自分の行いのほうが、目に見えて自分で実感できることですから、確信を持てたり楽であったりしますし、福音よりもイエスよりも、イエス以外の何か、福音以外の何かに、拠り所や責任を求めたり、依存したりするほうが、むしろ人は楽なのです。目に見えますし自分の感情や欲求、自尊心や自己愛が即座に満たされるからです。律法に生きる方が罪に生きる人間にとっては理解しやすいし合理的で従いやすいのです。

 それに対して、福音は、まさに神の国の奥義です。目に見えないことです。神によって明らかにされなければ知ることのない奥義です。そして信仰も与えられるものであり、それはヘブル書を見ると、目に見えないことを確信させることだともあります。それを人の自らの力で見出したり実現するというのは実に困難なことでしょう。いや無理なのです。私たちの力や行いや知恵や理解ではむしろ福音も信仰も受け入れられない、拒もうとさえする性質が罪の性質です。

 事実、十字架の出来事はその証明です。イエスの十字架は華々しい成功と繁栄の出来事ではなかったでしょう。みなイエスを否定し、イエスを拒み、殺したのです。そして弟子たちもそれで皆が救われるとか、だから信じようとかにはまったくならずに、むしろ絶望と悲しみに陥ったでしょう。誰一人、そこに希望や喜びや救いなど見ていないのです。福音であるのにです。その通りです。福音は私たち自身では決してわからない。拒もうとさえするのです。しかし神の目と計画にあっては、そして聖霊が与える賜物である信仰においては、確かにそこに救いと光と喜びと私たちの平安がある。罪の赦しがある。そう信じます。それを私たちが今信じることができるのは、まさに不思議な奇跡でしょう。パウロははっきりとエペソ2章で「信仰は賜物」、み言葉と聖霊による賜物であり、「誰も誇らないため」とも伝えているではありませんか。福音とはそのようなものです。本当は、私たち地上においては手も届かないし、相容れない異なるものだということです。それが天から一方的に与えられているものなのです。しかしそのイエス、十字架、福音に対する応答は、まさに福音書に記されている通りです。多くの人は拒みます。私たちも始めはそうでした。弟子たちであっても、聞いていても、信じたと言っても、大きく間違って理解しました。事実、弟子たちは、神の国も福音も、十字架の死にあるなどとは誰一人思っていませんでした。ある者は、政治的な革命と思っていたり、メシアと呼ばれるイエスにつくグループにあることに満足し、その成功と繁栄だけを期待したり、そこでの自分たちの地位だけに関心があったりであったでしょう。まさに、それがみ言葉と聖霊による働きと助けのない、罪人のままの人間の福音への反応なのです。

C, 「天の宝がなぜ私たちのものになるのか?」

 しかし、そこでなぜその福音が弟子たちのものになり、宣教がされていったのかは、聖書の通り、それはまさにすべて神の恵み、聖霊と神の力あることばのわざであったではありませんか。信仰がイエスによって与えられて、聖霊が与えられて、彼らは新しく歩き出すのです。「その信仰は恵みであった。救いであった」と弟子たちは証ししていくのです。そのように福音は教会の宝として伝えられていったでしょう。さらには、彼らの信じていた福音は、まさに十字架の福音で、成功や繁栄に神の国や教会があるのではなく、迫害と試練と、困難と死、人間の思うような期待するようなこととは逆の状況の中にこそ、本当の平安と祝福、神の導きと計画があると、ペテロやパウロはじめ弟子たちは証ししていったではありませんか。

D, 「分裂、不和、対抗の意味」

 そのような福音です。逆説的な福音です。信仰は、まさに私たちの思いや理解をはるかに超えたことです。神の恵みなしには決して理解できないものです。しかし人は罪人であり自らでは理解できないし、人間の自由意志は堕落しただ神を否定し拒む自由なのですから、その人間の堕落した意思のゆえ、当然、そこには、福音に目が開かれ受け取った人々と、未だ頑なに信仰を拒む人々との間にイエスが言う分裂の現実が当然あるのです。家族同士、兄弟同士であっても、福音のゆえに、不和が起こります。対抗がおこり、分裂が生じるのです。それは、それほどまでに福音は天の宝であり、逆に、地上はそれほどまでに罪深いからなのです。まさにこのイエス様の言葉が示すことは、天の宝として来る福音と対照的な人間自身の罪深さから起こる現実を伝えているのです。

5、「福音は恵み。天からの財産が一方的にk私たちに」

 けれどもまさにそうであるからこそ、私たちは奇跡を見るのです。弟子たちを見てください。一人一人は非常に罪深い、そして十字架の前ではイエスを見捨てて逃げて、さらには信じることもできず絶望の部屋の閉じこもっていた弟子たち、空っぽの墓を見てもなおも信じられなかった弟子たちです。しかしそんなバラバラでどこまでも不完全な罪深い弟子たちに、イエスが、イエスの方から現れるでしょう。そしてイエスの方から信仰を新たにし強めてくれたでしょう。約束を与えることによってです。そして、その約束の通り聖霊を与えてくれた、そしてその聖霊のゆえにこそ、あれほどまで福音も十字架も理解できなかったバラバラの弟子たちが、目が開かれて一つとなってまっすぐと十字架の福音、十字架による罪の赦しと信仰による義認、そして復活による新しいいのちを伝えていくのです。あれほど地位や繁栄と成功を求めていた自惚れた競争心まる出しの弟子たちが、パウロもペテロもヨハネも、福音と聖霊の力によって困難や試練の中にこそ十字架が輝いてイエスの本当の祝福と栄光があると福音の本当の意味を伝えていきました。それはまさに今日のところを見ていく時に人間には奇跡そのものであることがわかるのです。それはまさに福音もその福音のわざである宣教も全ては人間から出たものではない、全く天からの宝であり、天から与えられた聖霊による賜物であることの証明なのです。ですから宣教、伝道、教会は決して律法ではない。福音なのです。

 事実、その福音が聖霊によって私たちのものにされるからこそ、私たちは本当に福音によって平安、平和になるではありませんか。イエスはここでは平和を与えるためではないといっていながらも、しかしヨハネ14章にある通り、最後の晩餐の席で、十字架と復活の先には、イエスが与える平安があると約束し、事実、ヨハネ20章、イエスは、シャローム「平和、平安があるように」と、入ってきて、平安のうちに弟子たちを遣わすでしょう。

6、「イエスは福音を与える」

 今日の言葉から何かを誤解しないでください。これは福音に対する罪人の現実です。しかしこの現実に対して、神こそがイエスの十字架により私たちに平和を与え、私たちに神との和解を与えてくださり、この十字架の福音によってこそ、私たちが罪赦されて安心していくことができるというメッセージがあるのです。イエスがこの福音で、私たちに平安を与えるためにこそ、この十字架が私たちのために輝いているのです。そこで私たちの平和・平安、イエスが私たちに与える、世が与えるのとは違う特別な平和と平安が与えられるからこそ、そこからその平和と平安がヨハネ4章でイエス様が言う泉のごとく私たちから溢れ出して、地に平和、平安をもたらすということなのです。つまり私たちがイエスと福音にあって平和、平安であるからこそ、本当の平和、平安が家庭にも、父と子にも、嫁と姑にももたらされるというのが、神が私たちに福音を与え、福音を通して私たちを生かし、遣わしてくださる意味なのです。

 ですから今日のところでも、まず私たちは「この福音は、本当に天から神から与えられた素晴らしい宝なんだ、私たちがこの福音の素晴らしさを知っていること自体が素晴らしい恵みなんだ、その恵みと約束によって確実に救われていることはなんと素晴らしいことなのか」と、まずぜひ感謝しほめたたえましょう。私たちがこの与えられた宝である福音を信じ、つまり差し出されている天からの贈り物をそのまま受け取り、福音に生きる時に、本当に私たちはイエスが与える平安と平和に満たされるのです。そのようにまず私たち自身がイエスにあって、福音にあって平安で平和であることが、世にあって生きる大事な鍵なのです。その時に平和・平安は泉のごとく溢れ出てくる。その時にこそ福音においてこそ真の教会の一致もある。私たち自身がまず福音によって平和であるからこそ、地にも、家族にも、平和の恵みをイエス様があふれださせてくださる。私たちの思いをはるかに超えてです。福音はそれほどまでの力があり、すべての解決ともなるのです。今日もイエス様は私たちに宣言してくださいます。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい。」と。福音が今私たちにあり、信仰が与えられている幸いを覚えながら、平安のうちに世に遣わされていきましょう。

人知ではとうてい計り知ることのできない神の平安があなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

 

 

歳時記

街角の聖句(続き)

木曽谷の外れに奈良井宿という宿場町があります。何故か此処には三度ほど訪れました。此処にはマリア観音と言う隠れキリシタンが密かに拝んでいた地蔵があります。 こんな奥深い山間の宿場町にもキリスト教が入って来ていたことに驚きましたが更に町を歩いていたらとある家の壁に大きな緑板があり訝って見てみると,なんと聖句が書き込まれていました。特に教会の名前もなくクリスチャン個人の辻説法のようでもありました。良く見ると実に一字々丁寧に書かれています、字はその人の人柄を現わすそうで、これを書いた人もこの大きな緑板に向かって真剣に書いた事でしょう。改めてこうやって意外な所で聖句を見るのも新鮮な気持ちにしてくれました。

2025年7月27日(日)聖霊降臨後第七主日 礼拝 説教 木村長政 牧師(日本福音ルーテル教会)

私たちの父なる神と、主イエス・キリストから、恵と平安とが、あなた方にあるように。

アーメン                    スオミ教会 2025年7月27日(日)

説教題:ルカ福音書11章1~13節

   説教題: 「天の父は求める者に聖霊を与えて下さる」

今日の聖書はルカ福音書11章1~13節までです。この箇所にはイエス様が弟子たちに「何を祈ったら良いか」教えられました。礼拝で何時も祈っている「主の祈り」です。それが1節から4節までです。その後、続いて5節から13節までのところで「如何に祈るべき」「祈りの大切さ」と「熱心に祈れ」と、たとえ話を用いて話されます。

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まず、11章1節を見ますと、此処に弟子の一人がイエス様に言いました。「主よ,

ヨハネが弟子たちに教えたように私たちにも祈りを教えて下さい」。イエス様はこう祈りなさい、と「主の祈り」を教えて下さいました。イエス様はまことに祈りの人でありました。それがルカの福音書で最もよく示されいます。イエス様は時々弟子たちと離れて真剣に一人で深い祈りをされた。そうしたイエス様の祈りの姿に心打たれる事もあったでしょう。それである時、イエス様の祈りの様子を見ていた弟子の一人が自分達もイエス様のように祈りたい、そういう思いを持ったのでしょう。当時のユダヤ人の祈りは形式的で枠の中に縛られたような祈りであって、それに比べバプテスマのヨハネの祈りは形式的なところはなくユダヤ人の祈りに対して改革的意味を持って単純率直で厳粛で道徳的でもあったようです。ところで3章16節以下を見ますとそのバプテスマのヨハネ自身が「私より優れた方が来られる。その方は聖霊と火であなた方に洗礼をお授けになる」と言いましたから、バプテスマのヨハネが弟子たちに祈りを教えているのを比べればイエス様の祈りはもっと優れた父なる神に対する新しい関係であられる、そうした思いを込めて私たちにも祈りを教えて下さい、と言ったのです。イエス様が教えられた祈りの言葉をルカ11章2節から4節のところで書いています。ここを読みますと、いま礼拝で祈っている「主の祈り」と少しニュアンスが違います。私たちが祈っています「主の祈り」はマタイ福音書の6章9節から13節までにあります。ここでの「主の祈り」は5章のはじめの山上の説教から続いて祈る時にはこう祈りなさい、と祈る時の姿勢について偽善者のように祈るな、とか人に見られようとして大通りで長々と祈るな、とか異邦人のようにくどくど祈るな、等など細かい注意項目が長々と書かれて9節で「だから、こう祈りなさい」。となって主の祈りです。マタイの方といちいち細かく比較してみようとは思いませんが、ただ注意項目の中の「異邦人のようにくどくどと長く祈ればよいと言うものではない」と言う事は大切な事です。

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さて、今日の聖書の日課のルカの方を見てゆきますと、マタイより祈りの項目が簡潔になっています。最初の2項目は父なる神についての祈りです。終わりの3項目は自分についての祈りです。まず、神のことを祈り、次いで自分のことに及ぶのがイエス様の祈りの根本であります。この事は旧約聖書に於けるモーセの十戒が最初の5つは神に関してのこと、終わりの5つが人間に関する律法であるのと同様であります。第一項「神の御名が崇められること。」この事を人間の根本的な祈りとするところに神本位、神中心の信仰を表すものであります。子として私たちも神の子とせられて父の名を何にも優って崇められる事であります。宇宙、万物は神の栄光を顕し人類の歴史も神の摂理の妙なることを証しています。神の知恵と権威と能力と恩恵は全被造物によって顕されています。この神を仰ぎ賛美し喜ぶ事こそ私たちの衷心とするところであります。私たちの目を神の栄光に注ぐことはまことに喜ばしいことであり、祈りの第一であります。次の第二項にありますのは「御国が来ますように。」私たちの目を神の御名の栄光から、今度は現実のこの世に目を移す時私たちはそこに神を信じない者の不信仰と不義の姿をみます。地球の自然が汚されている。排気ガスや人間の科学技術が進んでも緑の森林が壊れている、地球の海水が熱く上がると地球上の気候が狂って来ています。人間同士の憎しみ合い戦争によって罪なき人々の命や建物が一瞬にして失われている、核兵器の恐ろしさ等測り知れない人間の悪辣な世は神の裁きがくだる。地上の国に神の義、神の平安、神の支配が完全に行われるようになるのはどうすれば可能でしょうか。地上の世界を永遠の正義と平和の行われる理想の社会と、なす事は人間のどんな努力や科学が進んでも出来ないであろう。神の国の実現は理想よりほど遠い。此処に於いて私たちは知るのです。神の国は人間の努力の積み重ねで、その上に築かれる事は出来ない。人類社会が進化して理想状態に到達するのではない。何年も何十年も続いている痛ましい戦争を人間は止められないでいる。神の国は神より出て、地上に来るのである。それは神の意志、御心とによって神の思いと導きに基づき神の審判を通して地上に臨むのであります。それであってこそ神の国の完成に希望と確信を持つことができるのであります。この故に、この故にです。イエス様は「御国の来たらんことを」という祈りを教え給おうのです。「来たり給え」「主イエスよ来たり給え」来たりて「神の御国を地にならせ給え。」と祈り神の栄光と地の平和とを祈りの中に結ばれるのであります。人類社会に平和がもたらされますように、神の救いがもたらせますように、と切なる希望と期待がこの祈りに凝結されているのであります。神の栄光と支配の神への祈りから、第三に急転直下、イエス様は自分のための祈りを教え給うています。それは私たちの生活の只中に必要な日毎のパンのための祈りであります。イエス様は日毎のパンが如何に人間に必要であるか、それなしには生きられない事を御自身の体験からも熟知しておられたのです。パンの祈りに次いで第四には罪の赦しを求める祈りであります。パンは一日々ずつ与えられねばならないように私たちの罪の赦しも日毎に与えられる必要がある、と言う事です。私たちは神に対して、また隣人に対して日毎に罪を犯しています。自分で気づかないうちにも罪を犯してしまう、心に傷を負わせてしまっているのです。それ故に日毎に罪を赦して頂かなければ心に安らぎを得ないのです。罪の赦しを得、新しい一日を迎え勇気をもって歩み始めるのであります。私たちの罪の赦しを神に祈り求める事について私たち自身が隣人の罪を許す事が自分の罪が赦される条件になっているのです。もし、此処に兄弟を憎む心を持ちながら己の罪を神に赦して頂かこうなんて、そんな祈りを捧げることは不可能であります。そこで、神の助け、聖霊の力を受けて、隣人の罪を許してゆくのです。神の前に素直な心をもって己が罪の赦しを神に求める時、神は私たちの罪を赦して心に永遠の平安を与え給うのであります。ルカの表現ではマタイより、より強力で直接的にイエス様の言葉を書いています。

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4節「私たちの罪を赦してください。私たちも自分に負い目のある人を皆、赦しますから。」最後には第五の「私たちを誘惑に遭わせないでください。」この祈りは私たちの日常生活がサタンの試みによって信仰の一番大切な根本を揺るがしてしまわぬように、神の御守りを求めるものであります。私たちの信仰は弱いものですからサタンの試みに遭わぬことが最も安全です。以上の三つは人の生活上の必要を全面的に渡って素朴で基本の祈りをイエス様は教えておられるのであります。次に5節から13節に渡って分かり易い譬え話を用いて「如何に祈るべきか」について、実に力強く、熱く語っておられます。此処での譬え話は一言で言えば、祈りは執拗にまで熱心であらねばならない。また真実にして、真に迫ったものでなければならない。と言う事です。それが真夜中であろうと、実に困っている状況であるなら、求めて、求めてゆく、そこには友人の家の戸を真夜中にドン、ドン、ドンと叩く音が聞こえそうです。こうして強く迫って、求めてゆく熱意が高まってゆきます。熱心に求め、天国を求める者は必ず開けてもらえる、と言う約束が添えられています。しかしながら、どんなに熱く、何回も、何回も祈っても、そこに祈り求めた通りにはならないかもしれない。私たちのこれまでの祈りがこの経験をしているのではないでしょうか。ところで後になってみれば、たとえ求めた通りのものではないが、それ以上の善き物を神様は私たちのに与え賜うのです。此処が大切な事です、私たちの必要を更に深く満たし給うのです。そうして、その熱心な祈り求めと、信頼に対して天の父なる神様から聖霊が送られるのであります。天の父なる神からの聖霊によって、彼らの心は一層強められ、そして天に繋がるのです。更に彼らの目は一層、明らかに神を見る事が出来るのであります。13節の終わりで「天の父は求める者に聖霊を与えて下さる」と約束して言って下さっているのであります。神様はそれ以上に「善き物」として何故「聖霊」を与えて下さるのでしょうか。イエス様の御心に適う祈りだけが天の父の御許に達し、天の父はこれに対して「善き物」を私たちに与え賜います。そして私たちの喜びを満たし給うのです。そして、その「善き物」の中の善き物こそ聖霊であるのです。それを賜わる時、真に私たちの喜びは満たされるのであります。

人知では、とうてい測り知ることができない、神の平安があなた方の心と思いをキリスト・イエスにあって守るように。  アーメン

牧師の週報コラム 

「信仰ノ証ノススメ」

以下は20231217日の週報コラムに掲載したものです。

『教会の信徒の皆さんには、特にクリスマス、復活祭、聖霊降臨祭の時に礼拝後の祝会で「信仰の証し」をお願いするのですが、皆さん、どうも消極的。前任者の時は積極的にされていたそうで、証しを聴いた宣教師が感激のあまり泣いてしまったこともあるなどと聞いています。当時の熱意はどこに行ってしまったのか?まさか、今の牧師のせいなのか

 「信仰の証し」の何が難しいのか?基本的なことを申し上げると、自分はどのようにして十字架と復活の業を成し遂げたイエス様と出会ったか、とか、一時そのイエス様は遠くになってしまったが、また身近な方になった、とか、または、今大変な人生を歩んでいるが、それでも十字架と復活の主が身近におられることは揺るがない、というようなことを、聖書の何々の個所がそういう出会い/再会/伴走を確信させてくれました/確信させてくれます、というようなことをお話し下さればよいのです(長文ですみません)。聞く人も、ああ、あの聖句はやっぱりそのような力があるんだ、自分もそうだと確認したり、または、その個所にはそんな力があったのか、知らなかった、と新たな発見をしたりして、信仰の豊かな分かち合いになります。

 聖書の御言葉が決め手となって十字架と復活の主が身近になるというのは、まさに聖霊が御言葉を通して働くということです。どの御言葉が決め手になるのかは人それぞれ。それで信徒さんの証しは牧師にとっても新しい発見になるのです。どうか宜しくお願いします。』(以上)

「信仰の証し」は「聖徒の交わり」に内容を与えて霊的に豊かにします。一つ注意することは、何か聖句が結びついているということです。聖句がなければ、ただの思い出話、自慢話になってしまいます。それはそれで聞いて楽しいですが、でもそれは「信仰の証し」ではありません。別に聖句を教えたり解説する必要はありません(それは牧師の仕事)。修羅場と波乱万丈を経験した者でないと立派な証しは出来ないなどということはありません。無理して人を感動させる必要はありません。ただ、「私はこの聖句からこんな励ましを受けました(今受けています)、支えられました(今支えられています)」ということをお話し下さればそれでもう立派な証しです。それを皆と一緒に分かちあえるのは恵みです。聖句の代わりに讃美歌や聖歌もOKです。本日コーヒータイムで牧師が一つお話ししますので、参考にして夏の間少し意識して過去を振り返ったり今を自省したりして、自分にも何かあるか考えてみて下さい。秋に名乗り出る方を期待しています!

本日の牧師の証しは、原稿なしで行ったので本コラムには掲載されません。あしからず。

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歳時記

街角の聖句

私の住む団地の一角に保育園があり、そこのフェンスに一枚のマルコ福音書12章31節の聖句を書いた看板が掲げられています。何故その前の29節の第一の教えが無いのか不思議に思っていましたが、29節には神を敬えとあります。保育園は厚生省の管轄なので宗教的な教育はご法度でした。幼稚園ならば文部省の管轄なので信仰の自由が保証されていますから当然29節も堂々と掲げたでしょう。保育園側の苦心の作だったのですね。ところで、保育園の先生は幼い子供たちに「愛する」とはどのように教えていたかに興味がりました。中世、ポルトガルから来た宣教師たちはキリスト教の「愛する」を「御大切に」と教えていました。保育園の先生は幼い子供たちに「愛する」を教えるためにポルトガルの宣教師のような難しさを感じた事と思います。それと日本古来の「相手を愛おしい」「可愛い」「守りたい」などの言葉もあわせて園児たちに教えていたと想像しますが、どうでしょうか。

参考:『「どちりなきりしたん」というキリスト教の教理書には、「一には、ただ御一体のでうすを万事にこえて、御大切に敬ひ奉るべし。二には、我身のごとく、ぽろしも(隣人)を思へという事是なり」と神への愛と同時に隣人への愛も説く。 』