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アカンサス(葉アザミ)
<あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。(マタイ7:16) >
藕絲館の庭にアカンサスの花が咲きました。アカンサスは古代からヨーロッパデザインの元になっています。その源流はギリシャ、ローマ建築の柱頭の飾りに用いられました、建築科に入学した当時教室の隅に先輩たちが描き残していったコリント式柱頭のスケッチがありました。幸い私たちにはこのような不毛の修練はありませんでした、でも改めてアカンサスの葉を見ているとW・モリスの壁紙を思い出したりして何故か少し残念な気持ちになりました。
私たちの父なる神と、主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなた方にあるように。アーメン
2026年7月5日(日)スオミ教会
聖書 マタイ福音書11章16~30節
説教題:「今の時代を何にたとえたらよいか」
今日の聖書はマタイ福音書11章16節~19節、25~30節です。16節から見ますと、「今の時代を何にたとえたらよいか、広場に座って他の者にこう呼びかけている子供たちに似ている。」イエス様のこの話の場面を理解するのに、まずバプテスマのヨハネの事を見た方がわかりやすいでしょう。イエス様の目から見ればこの時、時代の大きな転換の時代であります。11章の始め2節から見ますと、バプテスマのヨハネは牢の中でキリストのなさっている事を聞いた。そこでヨハネは弟子をイエス様のもとに遣わしているのです。イエス様はいま実際に行っている活動を語ってゆかれる。4節から見ますとイエス様はお答えになった。「行って見聞きしている事をヨハネに伝えなさい。目の見えない者は見え、足の不自由な者は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人々は福音を聞かされている。」
7節、ヨハネの弟子たちが帰るとイエスは群衆に向かってヨハネについて話始められた。バプテスマのヨハネは今でこそ捕らわれの身になっていますが、イエス様がガリラヤ伝道に乗り込まれる前には悔い改めを叫びヨルダン川で洗礼を授け、華々しい活動をしていた。マタイ3章5~6節にあります。このヨハネは救い主であるイエス様の活動の前に準備する神からの大切な使命を授かった最後の大預言者でもあった、と最大の誉め言葉で語っています。13節を見ますと「全ての預言者と律法が預言したのはヨハネの時までである。」さて、これからは新しい時代が大きく変わってゆく。それは、これから神の御子イエス様が働かれる時代となってゆくのだ。ところが実際の今の時代はどうか、こうして今日の聖書である16節から語っておられるのであります。
イエス様は此処で「今の時代を何にたとえたらよいか、と問われて、それは広場で子供たちが遊んでいる姿に似ている。と言われます。この子供たちは始めは結婚式のような祝いの場面を演じようとして「笛を吹いたのに誰も相手になってくれない。次に葬式ごっこをしますが、それも相手になって乗ってこない。」そのようにブツ/\と不平を並べています。このような相手にされない無視された遊びの譬えを語ってイエス様は何を言おうとされているのか。ユダヤの人々が快楽生活を求めたのにバプテスマのヨハネがその笛に乗らず、むしろ慎み深い宗教生活を呼びかけ悔い改めを迫ってきた。次には人々がしめやかで荘厳な救いの日を期待したのにメシアであるイエスは平気で飲み食いし罪人や徴税人と言った連中と共に飲み食いし期待していたメシアらしからぬ振舞いに対してブツ/\と不満を抱いていたのであります。この譬えの解釈にとって大切な事実をルカは福音書7章29節~30節で書いています。
「民衆は皆ヨハネの教えを聞き、徴税人さえもその洗礼を受け、神の正しさを認めた。しかし、ファリサイ派の人々や律法学者たちは彼から洗礼を受けないで自分に対する神の御心を拒んだ。」イエス様が子供の遊びに譬えて言われた「今の時代」と言うのはこのように神の御心を無視したファリサイ派の人々や律法学者たちの事であります。つまり、彼らは”結婚ごっこをしよう”とか”葬式ごっこ”をしようと決めてしまった事に調子を合わせてくれないと怒っている子供のようである、と言う事です。彼らは”預言者なら、こう言って欲しかった”とか”メシアならこういうふうに救って欲しい”と決めつけているのです。要するに彼らは自分たちの心で作り上げたイメージ、偶像を崇拝しているのです。もう一つの点は、ファリサイ派の人々や律法学者たちは自分たちの都合の良いように理屈をつけて変えてゆく。それこそ、子供たちの遊びのように結婚ごっこをしたかと思えば葬式ごっこに変えてゆく。ああ言ったかと思うとこう言う。実に定めなき我儘で権力を奮っているのです。バプテスマのヨハネが命がけで「悔い改め」を叫び、真の救い主イエス様の天の御国の働きのため、その準備の道備えの役を果たしているのに彼らにはこの最大の預言者であるバプテスマのヨハネの本当の働きを分からないのでいるのです。分かろうともしない、かえって邪魔をして敵対してゆくのです。それで、19節で言われているのはヨハネのような悔い改めの使者を送られた神の知恵、また罪人の友となる救い主イエス様を遣わされた神の知恵の正しい事はその働きそのもので証明しているのです。イエス様があらゆる病を癒し奇跡を起こしてゆかれる働きこそメシアとしての働きの結果であり、それは神の知恵の作品であると言う事です。
さて、後半の25節から30節ではイエス様は「私のもとに来なさい」と言って下さっています。まず25節を見ますとイエス様は「天地の主である父よ、あなたを褒め称えます」と語りだしておられます。ルカ福音書の方では10章21節で「聖霊によって喜び溢れて言われた」と記しています。神の御国の福音をイエス様が一生懸命に宣べ伝えてもイスラエルの社会を支配し権力で神の民を苦しめているローマ帝国の指導者、また宗教をもって支配する律法学者やファリサイ派の連中から敵対視されているにもかかわらず、イエス様は聖霊に満たされ喜びと賛美をもって語りだしておられるのです。「あなたを褒め称えます。」この「褒め称える」という言葉には「承認する」とか「告白する」と言う意味も含まれていると言われています。周りの状況が悲観的であってもイエス様が神様を賛美できたのは天地の主なる父を自分の内に納得して承認しておられるからこそ賛美に溢れる事が出来るのです。そうして27節で「全ての事は父から私に任せられています。」と言っておられます。父の事は御一人子イエス様だけが一番よく知っておられます。ですから天地の中の何者も賢い人でも知恵ある者であっても、この天地の父なる神の僕に過ぎないのです。誰も神と対等の場に立って論じたり神を探求しうる者はいないのです。ファリサイ派の人々や律法学者たちが何故バプテスマのヨハネの悔い改めに従わず洗礼も受けなかったのか。或いはイエスの弟子たちが伝道に出かけても何故かカナペウムやコラジンやベッサイダの町の人々が弟子たちの神の国の救いを無視したのか。究極的には神が彼らの心から「これらの事を隠された」からに他ならない。そうして、一方では無学な庶民や徴税人が洗礼を受け幼な子のような者に神のみ心はお示しになるのです。全ての事はみ心のままに、全く神のなみ手の内に事を表し、なしてゆかれるのであります。
つまり、人間の側の何かが決めてとなるのではないのです。専ら神の主権的な啓示だけが決めてであると言う事です。その事を27節にシンプルな言葉で語られました。「全ての事は父から私に任されています。」そこには神からの全幅の信頼がイエス様に与えられていると言う事です。「全ての事」は「救い」も「審き」も魂の事も世間一般の何もかも全ての事が含まれているのです。さて、最後の28節から30節に於いて、神の御心と神の救いの全ての権限を父から授かっておられるイエス様が三つの事を語られています。第一、「私のもとに来なさい。」第二、「私のくびきを負いなさい。」第三、「私に学びなさい。」イエス様を通してしか”神と救い”とを知ることが出来ないのであれば「私のもとへ来なさい」。重荷を負うて苦労している者は誰でも招かれています。そして「あなた方を休ませてあげよう」と約束して下さっているのです。そうしてイエス様と同じ「軛(くびき)」を共に負うのです。
「私の軛は負いやすく軽い。それは、あなた方にとっては有益であり喜ばしい事です。」そして第三の「私に学びなさい。」何を学ぶのでしょうか。「私は柔和で心の減り下った者である」という事を学ぶのであります。イエス様ご自身が柔和でへりくだった方であるからイエス様を手本として学びなさい。打ち砕かれて真に心へりくだる人について第二イザヤと言われる預言者が神の言葉を次のように告げています。<イザヤ書57章15節>「いと高く、崇められて永遠にいまし、その名を聖と唱えられる方がこう言われる。私は高く聖なる所に住み、打ち砕かれてへりくだる霊の人と共にあり、へりくだる霊の人に命を得させ、打ち砕かれた心の人に命を得させる。」
人知ではとうてい測り知ることのできない、神の平安があなた方の心と、思いとをキリスト・イエスにあって守るように。 アーメン
アウグスブルグ信仰告白20条と現代(その3)
私は、アウグスブルグ信仰告白20条は内容的に、信仰とは何か、宗教とは何かを改めて考えさせるものではないか、500年近く経った今でもそうしたことを考える材料として有用ではないかと思います。同告白のフィンランド語訳を読んだ時にそれを強く感じました。それで今回、同20条をフィンランド語訳に基づいて、ラテン語原文をチラチラ覗きながら訳してみました。紙に書いたものをコーヒータイムの時に読み上げます。(このコラムの後に添付します。)
殆どはフィンランド語訳に引きずられた訳ですが、ラテン語に関していくつか申し上げますと、
・ bona opera「善い行為」は、先週のコラムで述べたように、「御心に適う行為」と意味を特定化しました。
・ 17項のcertamen perterrefactae conscientiae「恐れ脅える良心の戦い」は何を意味するのか?良心の平安を得るための戦いではないかと考えて解説的に意訳しました。
・ 36項のprimi aut secundi praecepti「第一あるいは第二の掟」は、イエス様が十戒を二つにまとめたもの、神を全身全霊で愛するという掟と隣人を自分を愛するが如く愛するという掟のことと解しました。
・ あと、最後の歌ですが、ラテン語版とフィンランド語訳では内容が異なっています。フィンランド語訳の解説によると、歌はVeni Sandte Spiritus(来たまえ、聖霊よ)の一つのバリエーションとのこと。ラテン語版の方は、聖文舎の日本語訳がそれで、同じ歌の一部とのこと。どうして違う内容なのかは調べていないのでわかりません。紙には両方載せておきます。
20条にはよく、恐れる心、脅える良心、脅える魂などと、平安が失われた状態の問題が出てきます。これは、一義的には、神の意思に反するもの、罪が自分にあることを自覚して、神の怒りや裁きを恐れる心を意味します。そのような心は、イエス様の十字架と復活の業を信じて自分のものにすることで平安を得ます。それでは、罪以外が原因で心に平安がなくなった時は、どうなるのか?私は、これもイエス様の十字架と復活の業が平安を与えてくれるものであると考えます。私たちは、罪と関係なくて困難や苦難に見舞われて、心が心配や恐れに覆われてしまった時は、神は目を注いでくれない、私のことを無関心でいる、神は私に背を向けた、という疑いを持ちます。しかし、その場合でも、イエス様の十字架と復活の業を信じて自分のものにすることができれば、まず、そういう疑いはなくなります。そして、試練は神と一緒に通り抜け乗り越えるプロセスに変わります。
アウグスブルグ信仰告白 第20条 信仰と神の御心に適う行為について
1)彼ら(ルターの改革に賛同する教師たち)が神の御心に適う行為を禁じているなどと言って我々のことを非難するのは間違いである。
2)彼らが、いかなる生活の仕方や行為が各人の召命において神を喜ばせるものであるかを説明する時、あらゆる生活様式と義務について有益な仕方で教えきたことは、彼らの十戒について論じた書物や同じテーマに属する他の書物が証明している。
3)これらの事柄について、説教者たちは以前はほんの少ししか教えなかった。彼らはただ子どもじみた不必要な行為を勧めてきた。定められた聖日を守ること、特別に決められた断食、同胞団の結成、巡礼、聖人崇拝、ロザリオの使用、修道院に入ること、その他類似の事柄がそれである。
4)こうしたことについて、我々に反対する者たちは注意を喚起されてきた。彼らは今ではこれらのことを止めつつあり、もはや以前のようにはこれらの無益な行為について説教することはなくなった。
5)彼らはまた信仰について語り始めるようになった。それについては、驚くべきかな、以前は彼らは沈黙していたのだ。
6)彼らは、我々は行為のみによっては義なる者になれないと教えている。しかし、彼らは、信仰と行為を結びつけて、我々は信仰と行為によって義なる者になれると言っている。
7)この教理は、彼らの古い教理よりは許容できるもので、またより多くの慰めを与えてくれるものである。
8)教会の中心的な教理でなけらばならない「信仰の教理」がこれほどの長い間忘れ去られてしまったため、- 説教では信仰による義認が完全に沈黙させられ、代わりに「行為の教理」が教会内で多すぎるほど論じられてきたことは全ての者が認めなければならない - そのために我々に属する者たちは信仰について諸教会に次のように注意を喚起してきたのだ。
9)第一に、我々の行為は神との和解をもたらすことはできず、また罪の赦しや恵みや義を見返りとして得させることもできない。我々がそれを達成できるのは、キリストのおかげで我々は恵みの中に受けいれられると信じる時、まさにその信仰を通してのみ達成できるのである。そのキリストは、唯一の仲介者、和解の道具として立てられた方であり、彼を通してでなければ父なる神との和解は得られないという方なのである。
10)それゆえ、行為によって恵みを見返りに得るということに信を置く者は、キリストがご自分について「私は道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14章6節)で言っているにもかかわらず、彼こそが見返りであることと彼の恵みを排除し、神のもとに至る道をキリストなしに人間の力で探し求める者である。
11)この「信仰の教理」はパウロがいたるところで論じているものである。「あなたがたは恵みによって信仰を通して救われたのである。救いはあたたちから出てくるものではない。神の贈り物である。行為から出てくるものではない」等々(エフェソ2章8節)。
12)誰も我々がパウロの新しい解釈を作り出したなどと非難する口実を得ることができなくなるために、この教理の全ては教父たちの証しの中に土台があることを示そう。
13)アウグスティヌスは多くの書物の中で行為の見返りの役割に反対して、恵みと信仰による義が正しいと論じている。
14)アンブロシウスも著書『異邦人の召しについて』やその他のところで同じことを教えている。同著書の中で彼は次のように言う。「義認は恵みによって起こるものなのに、もし前提にあるのだと言って行為の見返りということに依拠してしまったら、キリストの血による贖いは無価値になり、神の赦しの憐れみは人間の行為の陰に隠れてしまうであろう。そうすることで義認は与える方が見返りなど無関係に自由に与える贈り物ではなくなり、行為者が見返りに得る報酬になってしまうのである。」
15)この教理はたとえ信仰の経験の浅い者からは軽蔑されても、敬虔で神を畏れて震える良心は、まさにそれこそが最大の慰めと励ましを与えてくれると経験を通して知っているのだ。なぜなら、良心はいかなる行為をもってしても平安を得ることはできないからである。そうではなく、キリストのおかげで神との関係が保たれていると良心が本当に納得した時に、この信仰を通してのみ平安を得ることができるからである。
16)パウロは次のように教えている。「われわれは、信仰によって義とされたのだから、我々には神と平和な関係がある」(ローマ5章1節)。
17)この教理全体は、恐れ脅える良心が平安を得るための戦いの武器としてあるのであって、その戦いがなければ把握することができないものである。
18)それゆえ、信仰的に無経験な人々または世俗的な人々がキリスト信仰の義は社会正義ないし哲学が構築する正義以外のものではないと夢想する時、自分たちの粗悪な理解力を露呈するのである。
19)良心は以前、「行為の教理」に煩わされていて、福音から何の慰めも励ましも聞くことができななかった。
20)そのような良心に駆りたてられて、ある人たちは荒野へ行き、あるいは、修道士の生活をすれば見返りに恵みを得られると期待して修道院に入った。
21)別の人たちは、恵みを見返りに勝ち得て罪を償うことができるための別の行為を考案した。
22)それゆえ、このキリストを信じる「信仰の教理」を提示し新装することは真にもって必要不可欠だったのである。それは、恐れ苦しむ良心から慰めと励ましが欠け落ちてしまうことがないようにするためであり、恵みと罪の赦しと義はキリストを信じる信仰にあって得られるということを良心が知るためであった。
23)さらに人々の注意を喚起しよう。「信仰」という言葉は単に歴史的知識を意味するものではない。そのような知識は神を信じない者や悪魔でさえ持っている。「信仰」は歴史的出来事に向けられるものだけでなく、それらの出来事の効用、すなわち罪の赦しの表明にも向けられる信仰を意味する。この教理によれば、キリストを通して我々には恵みと義と罪の赦しがあるのだ。
24)さて、キリストを通して自分には恵み深い父があると知っている人は、本当に神のことを知っているのであり、自分が神に世話されているとわかっており、神に助けを呼び求める者であり、異邦人のように神なしで存在する者ではない。
25)悪魔と神を信じない人たちはこの教理、すなわち罪が赦されることを信じることができない。このため彼らは、神が敵であるかのように神を憎む。彼らは神に助けを叫び求めることもせず、神から良いものが与えらえることを信じもしない。
26)アウグスチヌスも読者に「信仰」の概念についてこのように注意を喚起しているのであり、聖書の「信仰」という言葉を習得された知識として捉えてはならないと教えている。そのようなものは神を信じない者も持っているからだ。そうではなくて、脅える魂を慰め励ましてくれる信頼として捉えるべきであると教えているのだ。
27)我々に属する者たちはさらに、御心に適う行為をすることは必要であると教える。それらは、することで恵みを見返りとして得ることができるなどと信頼するがために行ってはならない。そうではなくて、行うことは神の意思だから行わなければならないのだ。
28)ただ信仰によってのみ罪の赦し、すなわち恵みを手にすることができる。
29)そして、信仰によって聖霊が受け取られるので、心はすぐ新しくされ、新しい方向性を得て、その結果、神の御心に適う行為に自分を合わせることができるようになるのである。
30)アンブロシウスもこのように教えているではないか。「信仰は御心に適う意思と正しい行為の親である。」
31)というのは、聖霊がなければ人間の力は神を信じない心の動きに満たされしまい、神の御前で御心に適う行為を生み出すには弱すぎるからだ。
32)加えて、人間の力は悪魔の支配下にあり、悪魔は人間をあらゆる罪に、神を信じない考え方に、そして明白な悪へと駆り立てる。
33)このことは、哲学者たちの辿った人生から見て取ることができる。彼らは、自分では申し分のない生き方をしようとしたのであるが、それに成功しなかったばかりでなく、多くの明白な悪に手を染めてしまったのだ。
34)人間は、信仰と聖霊なしで生きようとする時、また、人間的な力だけで自分を律しようとする時、こんなにも弱いのである。
35)この教理を、御心に適う行為を禁じているなどと言って非難してはならないことは明白である。それどころか、いかなる仕方で御心に適う行為をすることができるかを示しているので感謝されなければならないのである。
36)というのは、信仰がなければ、人間の本性は第一の掟にしろ第二の掟にしろその行為を行うことができないからである。
37)信仰がなければ、人間の本性は神に助けを叫び求めることもせず、神から助けが来ることを待つこともせず、十字架を忍耐強く背負うこともしない。その代わりに人間の支援を求め、それに信頼する。
38)信仰と神に対する信頼が離れ去る時、心を支配するのはあらゆる種類の欲望と人間的なはかりごとである。
39)そのためにキリストは言われる。「私なしでは、あなたたちは何も成しうることができない」(ヨハネ15章5節)。
40)そして教会も次のように歌うのである
「もしあなたがあなたの霊を取り上げるならば、
無垢な者は存在せず、
あるのは空っぽで貧しい人間だけ。」
「あなたのみ力なしには
人の中には何もなく
無害なものは何もない」
その後のソメイヨシノの実
〈このような人は流れのほとりに植えられた木の時が来ると実を結び、その葉もしぼまないように、そのなすところは皆栄える。 詩編1:3〉
クローン桜のソメイヨシノにも実がなる事もあるという事を先刻知りました。その後その実を見に行ったら成程、立派な実になっていました、試食してみるととても甘く種もありました。その中から五粒ほど種を取り出窓の鉢に植えてみました。さて、果たしてどうなるか見ものです。
アウグスブルグ信仰告白20条と現代(その2)
「アウグスブルグ信仰告白」は教文館から出ている「一致信条集-ルーテル教会信条集」(1982年)の中に収められている。それを学びの時のテキストに用いているが、はっきり言って日本語の文体がわかりにくいところが多く、何度か読み返さないと先に進めないことがよくある。フィンランド語訳を読むとスッと頭に入るのに。それで、学びの時はいつもフィンランド語訳とラテン語原文を脇に置いている。
ChatGPTに「日本語訳はわかりにくい」とコメントしたところ、「それは格調高いから」などと返って来た。何を寝ぼけたことを!大学受験の高校生の英文解釈の答案のような日本語を格調高いなどとは笑止千万(今の高校生の日本語力と英語力は昔よりも向上しているでしょう)。それで、ChatGPTにラテン語の訳を頼むのはやめた。
Lithon社が2015年に出した「アウグスブルク信仰告白」はスッと頭に入る訳である。ところが、それはラテン語版ではなくドイツ語版の訳。両者はいろいろ違いがあり、20条もラテン語版にはあるがドイツ語版にないものがあったりして厄介である。フィンランド語訳の解説に「神学用語の観点からするとラテン語版の方が正確なので優先させるべき」などとあるので、結局は自分で頑張るしかない。
ラテン語能力は、神学部時代の23年前に中級までは行ったが、上級はまさに「アウグスブルグ信仰告白」を独習して、持ち込みなしで試験を受けるというもの。折しもアラム語の授業も受けていて、二つの同時履修は、二人の幼い子供を抱え、妻は仕事という身では無理(他にも履修科目はある)。それで上級は断念(ただ、アラム語がわかるようになったおかげで修士論文と博士論文が書けた)。しかし、まさか今になって上級の知識が必要になるとは夢にも思わなかった。なので、学びの時はフィンランド語訳を基準にしてラテン語文をチラチラ覗いて、これはこれ、と照合するのが精一杯。
20条の日本語訳で私が一番困ったのは、bona operaの訳。教文館のでは「よい行い」。「行い」では広すぎて、礼儀正しいことや心がけが良いことも入ってしまい、20条で言わんとしていることから離れてしまうのでは?英語ではworks、ドイツ語ではWerkenである。仕事みたいに、やるべきこと、達成すべきことなのだ。ドヴォルザークの「新世界」の「遠き山に日は落ちて」の中に「今日のわざをなしおえて」とある、あの「わざ」なのだろう。しかし、日本語で「業」と言ったら、仏教の「業(ごう)」の思考が紛れ込むリスクも。「務め」と言ったら、行き過ぎだろう。Lithon社のでは「行為」と言っている。これだと、「行い」の範囲を狭められるか。でも、まだ何か足りないような気がする。そこで一工夫したのは、bonus「よい」の意味を「神の御心に適う」に定めてしまうこと(私の辞書にbonus「適っている」の意味あり、辞書はラテン語-スウェーデン語)。それで、bona operaは「御心に適う行為」に。そういうわけで、これからは20条をフィンランド語訳に基づいて、ラテン語版をチラチラ覗きながら、教えることにします。
楮(kouzo)
<あなたが来るときに、トロアスのカルポの所に残しておいた上着を持ってきてほしい。また書物も、特に、羊皮紙のを持ってきてもらいたい。 テモテⅡ4:13>
何時もの散歩道には楮の木が何本かあります。この季節になると小さな赤い実つけます、木苺より水気が少なく少し粘質の実です。先日、この木の下に行ったら赤い実が枝いっぱいになっていました。摘まんで味見をしましたら少し埃っぽい感じでした。楮は三椏、雁皮と並んで和紙の材料になります。ルーブル美術館の絵画の修復に和紙が用いられる事を知りました、和紙の特質である、「長期的な耐久性があること」「作品を化学的に傷めないこと」「必要であれば将来取り外せること」などといった条件 を満たしているからだそうです。楮、三椏、雁皮、等の特色については、楮は繊維が長く太いため、非常に丈夫な紙になります。三椏は繊維が細く、上品で滑らかな仕上がりが特徴です。そして、雁皮は「紙の王」とも称され、美しい光沢と防虫性を備えていますが、栽培が難しく非常に希少な原料とされています。因みに聖書に使われる紙は最初に葦によって作られたパピルスでしたが後に木材パルプから作られるバイブルペーパーと呼ばれる独特の紙です、薄いながらも非透明である事が特徴です。冒頭にあげた”テモトへの手紙”にもあるように羊皮紙はパピルスよりも耐久性がありましたが矢張り高い湿度や日光によって劣化もしました。
アウグスブルグ信仰告白20条と現代
礼拝後のコーヒータイムの時に行っている、アウグスブルグ信仰告白の学びも、今やっと20条「善い行いについて」に到達。これは内容的に、信仰とは何か、宗教とは何かを改めて考えさせるものではないか、それで500年近く経った今でもそうしたことを考える材料として有用ではないかと考える者である。
20条は内容的に三つに分けられる。一つ目は、「信仰の教理」と「行いの教理」の対比。前者は、人間が神から義と認められる(神から見て正しい者、神の目に適う者と認められる)のはイエス・キリストを自分自身の救い主と信じる信仰によるという教理。それに対して後者は、神の掟や教会が決めたことを「善い行い」として行うことで神から認められるという教理。ルター派は前者を掲げ、後者を排する(「行い」は「業」と言い換えてもよいのではないかと思う)。
二つ目は、「信仰」と「知識」の対比。聖書に書いてある、イエス・キリストを巡る出来事は歴史的事実だと信じても、それはまだ知識にすぎず信仰ではない。それらの歴史的出来事、特に十字架と復活の出来事が自分にどんな効能をもたらすのか、その効能を信じるのが信仰である。その信仰から神を深く信頼する心が生まれ、その信頼がある限り悩み苦しむ心は慰めと励ましを得る。
三つ目は、ルター派は「行いの教理」を排したが、「信仰の教理」は信仰者が全く異なる土台に立って善い行いをする者に変える。歴史的出来事の効能を信じる信仰と一体となって聖霊が働き、心をそのように改革する。善い行いとは実は「信仰の教理」の帰結なのだ。「行いの教理」では心は何も改革されないのだ。
20条では、悩み苦しむ良心の戦いがなければ「信仰の教理」を自分のものにすることはできないと言われる。自分は神の目に適う者ではないのでは?という恐れの自覚があるところでのみ「信仰の教理」は真の心の平安と神への信頼をもたらすからだ。政治家でも一般市民でも、何か宗教を信奉する者が例えば平気で嘘をつき苦しむ良心の戦いを戦わずにその宗教の集会や儀式を続けるのは、「行いの教理」の成れの果てである。
今やAIは全人類の知識の集積となり、人間の問いや悩みに応えるばかりか、創造めいたことも始め、人間にとって神よりも身近な存在になりつつある。しかし、いくらAIが、聖書の神は御子の受難を通して死の苦しみを味わった、と知識で知っていても、自分ではその苦しみを味わあない。また、「信仰の教理」や良心の戦いについて知識はあっても、自分でその戦いは戦わない。なので「信仰の教理」を自分のものにしていない。近年、聖書の歴史的出来事について、理性にそぐわないものを事実ではないとし、出来事の効能を無効化する傾向がある。それはキリスト信仰を知識の集積に置き換えてしまわないだろうか?それに20条はまた、キリスト信仰の義は社会的正義や哲学が構想する正義とは別物であるとも言っている。
以上のようなことを考えさせる20条を次回から本コラムで紹介します。
山とAI
〈121:1 (京まうでの歌) われ山にむかひて目をあぐ わが扶助はいづこよりきたるや 121:2 わがたすけは天地をつくりたまへるヱホバよりきたる 121:3 ヱホバはなんぢの足のうごかさるるを容したまはず 汝をまもるものは微睡たまふことなし 121:4 視よイスラエルを守りたまふものは微睡こともなく寝ることもなからん 121:5 ヱホバは汝をまもる者なり ヱホバはなんぢの右手をおほふ蔭なり 121:6 ひるは日なんぢをうたず夜は月なんぢを傷じ 121:7 ヱホバはなんぢを守りてもろもろの禍害をまぬかれしめ並なんぢの霊魂をまもりたまはん 121:8 ヱホバは今よりとこしへにいたるまで 汝のいづると入るとをまもりたまはん 詩編121〉
尾根緑道の桜美林教会前のテラスにベンチが四脚並んでいます。私の好きなベンチは左から二番目のベンチです。何故ならばそこから丹沢を眺めると正面に丹沢で一番高い蛭ヶ岳と日本一高い富士山とが並んで見えるからです。丹沢の右端に以前から気になる双耳峰の山がありました、或る日その山を写真に収めて帰宅後AIにその山の名を尋ねましたら「この写真の山は丹沢の大山です」と答えてきました。まさかと思いました大山は双耳峰ではありません、しかも大山は丹沢の左端の山です、AIの仕組みは如何なるものかは知りませんが山に関しては全くあてにならないものと知りました。やむを得ずFacebookで山好きの人たちに尋ねましたら早速それは道志の「今倉山」と教えてくれました。道志山塊の山が見えていたとは嬉しかったですね、また一つ楽しみが増えました。
2026年6月14日スオミ教会礼拝説教 マタイによる福音書9章35ー10章8節 「弱り果て打ちひしがれる私たちへの神の国の福音」
田口 聖 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなた方にあるように。ア ーメン。 1、「全ての人々へ御国の福音を宣べ伝えるため」 私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様。 このマタイによる福音書の9章では、イエス様が、ガリラヤの町々を巡り、イエスに 助けを求めて訪れる病の人々を癒し、悪霊に憑かれている人々を救ったことが書かれて います。それはガリラヤをくまなく回り行われたのでした。35節、こう始まっていま す。 「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆ る病気や患いをいやされた。 」35節 イエス様は、ガリラヤの町や村を「残らず」回られます。それは行ってない町や村が ないように、つまり助けを求めている人々がいる町や村を見落とすことがないようにと 、イエス様はすべての人々を心に留めておられることが伝わってきます。しかし何より そのように町や村をくまなく回られる目的はここにある通り、「会堂で教え、御国の福 音を宣べ伝え」るためでした。「神の国の福音」、それこそまさに全ての人々への神の 国、救いのメッセージでした。確かにイエス様はご自身に癒して欲しいとやってくる人 々の病を癒し、悪霊につかれている人々から悪霊を追い出したりされたことは福音書の 最初の方、ガリラヤ地方を回っているところでは多く記されています。しかし、この後 、見ていくとわかる通り、イエス様の十字架が近くなるにつれてその記述は少なくなり ます。なぜならしるしを示すことそれだけがイエス様の目的ではなく、十字架と復活こ そイエス様が人となられた目的の中心です。ですからもちろん、奇跡はイエス様が真の 神の子、真の救い主であることを示すための証しとしてご自身の御心のままに現されて きたのですが、全ての人々にそれが現されたのではありませんでした。もちろん、この 後、12の弟子たちにその権威が与えられて弟子たちも癒しの奇跡を行います。そして 、使徒の時代も、しるしはありました。もちろん今も奇跡はあります。しかしそれは全 ての人々へではありません。それは神が御心に従って定めて行われることです。しかし 、まさに「全ての人々のために」イエス様が止めることなく行い続けてきたのは、神の 国の福音を宣教することでした。それはまさしく全ての人々のための救いの良き知らせ であり、恵みです。何より、そのために世にこられ人となられたという十字架の死は、 全ての人々の罪のための十字架でありその死であったでしょう。そして、そこに現され た救いのための「キリストの義」は、それは誰でも差し出されたままそのまま受けとる 時に、誰でも義と認められる「全ての人々への救いの恵み」でしょう。使徒達もそうで す。しるしも行いました。しかし何よりもイエス様が彼らに託された使命は、福音を宣
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教し、洗礼を授けることであったでしょう。このマタイの福音書の最後の宣教の恵みの 命令でこうあるからです。 「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。 だから、あなたがたは行って、すべ ての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あな たがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、 いつもあなたがたと共にいる。」 その約束の通りに、弟子たちは約束の聖霊を受けて、全ての人々をイエス様の弟子と するように父と子と聖霊の名によって洗礼を授けていきました。地の果てまで福音を伝 え、福音を与えていったのです。ですから、10章の初め、5、6節で、12人の弟子たち を召し権能を与え遣わすときに「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の 町に入ってはならない。 むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい 。」とあるのですが、ある人々は「イエス様は異邦人を除外しているではないか、サマ リヤ人を除外しているではないか、ユダヤ人だけではないか」と、言うのです。しかし 、そんなことはないでしょう。これはこの時の弟子たちの役割を述べているのであり、 異邦人やサマリヤ人の救いのためには神様の計画がしっかりとあるのです。事実、イエ ス様は、ヨハネの福音書では、あえてサマリヤの道を通り、ヤコブの井戸のところでサ マリヤの女に素晴らしい神の国の福音を宣教しているでしょう。そして何より先ほども 触れた宣教の命令にあるでしょう。「すべての民をわたしの弟子にしなさい」と。そし てその通り、使徒行伝にある通り、異邦人についての計画を持ってイエス様はローマの 隊長コルネリオにペテロを遣わし、そしてパウロに現れ、異邦人へイエスを伝えるため に召命を与え遣わすでしょう。そのようにパウロは、地中海地方のユダヤ人だけではな くむしろ異邦人の民へ向かって神の国の福音を宣教していきました。そして聖書には書 かれていませんが、外典や歴史の書では、他の使徒達も、東の方の異邦人たちへ宣教を していったとも言い伝えられています。イエス様が世にこられ人となられ十字架にかか って死なれたその目的は全ての人々の罪からの救いです。神の国の福音こそ全ての人々 のために与えられている神の義であり救いであり、平安です。私たちの罪の赦しと新し いいのちと真の平安は、しるしや経験にあるのではない、私たちの何か行いや律法にあ るのでもありません。イエス様が残すことなく伝えられた神の国の福音、このイエス・ キリストの十字架と復活の福音にこそあるのです。 2、「飼い主のいない羊のように」 次に、その神の福音を伝えているとき、36節以下、こう続いています。 「また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深 く憐れまれた。」36節 イエス様は群衆を見てですが、彼らが「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひ しがれている」と見たのでした。深い憐みの心で、です。ただ、これまで群衆に霊的な 指導者がいなかったわけではありませんでした。35節でわかる通り、イエス様は「会 堂に入り」、神の国の福音を伝えています。ユダヤ人の会堂で旧約の律法と詩篇と預言 書の巻物を開いて福音を説教したのでした。つまり普段はそこで同じように聖書から教 える人々がいたのでした。それは教師たち、つまり律法学者たちやパリサイ人たちでし
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た。しかし、9章を見ていただくとわかる通り、彼らはことあるごとに感情のまま、あ るいはユダヤ社会でこれまで守られてきた慣習や規則に基づいてイエスに反発していま す。9章2節でイエス様が中風の人に「元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」と いった時に、3節、ある律法学者達が「この男は神を冒涜している」と思っているのを イエス様は見抜いています。また、9節以下、徴税人のマタイを召し出しマタイがイエ ス様を招いて食事をしているのを見てファリサイ派の人々は11節で「なぜ、あなたの 先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言いました。それに対して語った有名 な福音の言葉は12節以下、 「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。 『わたしが求めるのは憐れ みであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来 たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(9章12−13節) でした。そして今日の箇所の直前では、悪霊に取り憑かれていた人々をイエス様が救っ た時も、ファリサイ派の人々はイエスを指差し「あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出 している」と言いました。このように、羊である群衆に飼い主、霊的な指導者がいなか ったわけではありません。会堂で教える教師達がいました。しかし彼らは律法や預言書 から福音を語るのではなく、どこまでも律法、というよりはむしろ、彼らの習慣や規則 に基づいて律法を解釈した行いによる義の教えを語っていました。そして、その彼らの 解釈する律法の要求を行なっているかどうかが彼らの教えの基準であり、人々やイエス や弟子達を評価する基準でもあったのでした。さらに言えば彼らがイエスへ反対するの は「妬み」からくるものでもありました。イエス様は聖書から神の国の福音を説教しま した。それは羊を神の国へと導く羊飼いは、律法だけではなく何よりも福音によって導 くと言う大事な真理とその使命に従っているでしょう。事実、私たちは律法の言葉だけ ではなく、その先に「あなたの罪は赦されています」という福音の言葉を聞くからこそ 、神の国、救いを確信し「平安のうちに」ここから行くことができるでしょう。そのこ とを考えてみてください。群衆は、福音ではなく律法だけで教えられていました。しか しそれは弱り果てるのです。ただ打ちひしがれるのです。事実どうでしょうか。もし教 会が律法だけの説教、あるいは、福音が先にあっても結局は私たちの律法のわざや行い に救いや信仰生活がかかっているような説教をされるなら、それによって強められるで しょうか?何より平安があるでしょうか?確かに律法は一時の促しとなり、駆り立てる ことがあるかもしれません。「ああ頑張らなければ」と立ち上がらせることがあるかも しれません。しかし私たちの行いに神の前での全てのふさわしさや祝福や成功が、神の 国がかかっている、とか、あるいは、まず私たちが完全に律法を実現すれば教会に、私 に祝福がある、救いが確かになる、イエス様に愛される、等々、と教えられて、そこに 喜びがありますか?救いの確信がありますか?救いを喜べますか?平安がありますか? それでもイエス様は愛だと信じられますか?そもそも私たちがそのようにまず行いが求 められるとするなら、それを完全に果たすことができますか?完全に答えることができ ますか?律法学者達やファリサイ派の人々は「自分たちはそれが完全にできている」と 言う自負はあったでしょう。しかし自負でしかありません。神の前では皆不可能でしょ う?不完全で罪深い現実だけが突きつけられます。そう、結局は、律法によって遣わさ れる歩み、まず私たちの行いが先になければならないと、律法で促され強いられ遣わさ
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れる教会もクリスチャンの歩みも、結局は弱り果てるのです。律法は罪を気づかせるた めに必要ですが、救うことはありません。責めるだけです。だから打ちひしがれるので す。そのように律法によって遣わされる歩みは、信仰も礼拝の出席も奉仕も皆、ただ重 荷になる。疲れ果てます。どんなに外面は立派で、どんなに功績を残し、多くの大きな 教会へと成長させ、多くの人々を導いたと自負する教師であっても、律法で導く会堂、 教会は、あるいは、会衆は、飼い主のいない羊達と同じことなのです。律法学者たちや ファリサイ派の人々は表向きは立派な人々だったことでしょう。しかし、イエス様はそ のような教師たちの律法の教えで導かれる会衆を見て会衆が弱りはて打ちひしがれるの を見て深く憐れまれたのでした。律法の教えに弱り果て打ちひしがれた羊たちに必要な のは神の国の福音、罪の赦しの福音であったのでした。それこそ人々に本当に必要なこ とでした。中風の人にもイエス様は「病が去り良くなれ」と言うのではなく、「あなた の罪は赦される」と言っているでしょう。中風の人に癒しも必要でしたが、それよりも 何よりも必要なのは全ての人々が弱りはて打ちひしがれる罪の苦しみからの解放、神の 前での罪の赦しとそれによる平安なのです。それは全ての人々に必要なことです。だか らこそイエス様は全ての人々のために十字架にかかって死なれるではありませんか? 3、「収穫、そして、働き手とは?」 そのことが、37節以下につながっています。 「そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。 だから、収穫の ために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」」37−38節 A,「収穫とは?」 収穫とは、全ての人々が罪の赦しを受けることです。そして全ての人々に罪の赦しの 福音と平安がイエス様によって差し出され、多くの人々がそれをそのまま受け取り救わ れ平安になることです。それがご自身の十字架によって実現することを指し示していま す。その収穫のことです。しかもその収穫は多いとイエス様は言います。それは全世界 を指しています。しかしその働き手、伝えるものは少ない。その通りです。弟子たちが 選ばれ遣わされていきますが訓練中です。そして、そこから使徒達が選ばれやがて聖霊 を受けて教会の時代が始まり福音は全世界へと広がっていくでしょう。そのために働き 手は最初は少ないのですから、世界に広がっていくためにさらに必要だとイエス様は言 うのです。 B,「どんな働き人か?」 ではそれはどんな働き人でしょうか?私たちはこの所をどう教えられるでしょう。確 かに「み言葉の」説教者、教会の牧会者、献身者が与えられるように祈りなさい、そう 教えられているのだと思うかもしれません。その通りです。それは間違いありません。 しかし、さらに踏み込んで言うなら、どんな説教者、牧会者でしょうか?ただ「み言葉 」を伝えればそれでいいのでしょうか?律法も神のみ言葉です。つまり、律法もみ言葉 だから、律法で私たちを派遣する説教者、牧会者でも良いということでもあるのでしょ うか? 教会の歴史においていつの時代も、そして今でも、律法で教え、律法で教会を 建てあげ、律法を説教の「最後の言葉」「派遣の言葉」として、会衆を遣わす教会は存 在します。福音を語っているようであっても、福音は最初の言葉であり、最後の派遣の
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言葉は律法で終わり遣わす説教は実は少なくありません。もちろん、律法も大事な神の 言葉です。しかし律法は福音への道標、案内係であり、決して救いの言葉ではありませ ん。律法は私たちに罪を示し、私たちが律法によって罪が示され刺し通され、自分では どうすることもできない、神よ憐んでください、兄弟よどうしたら良いでしょうか、と 叫ぶしかないところに、絶望と悔い改めに導く言葉です。しかしその罪を認め悔い改め る時にこそ、十字架の福音が明らかになります。そこにこそイエス様は福音を語ってく ださり、「あなたの罪は赦されています」と罪の赦しを宣言してくださるのです。まさ に福音こそ、神の国の門を開き、救いの道を通らせてくださるいのちの言葉です。弱り 果てたものに命を与え、打ちのめされたものに罪の赦しを宣言し立ち上がらせます。そ して平安のうちに「行きなさい」と遣わすのはこの福音の言葉でしょう。そう律法と福 音の言葉、しかも律法が最後ではなく福音こそ最後の言葉、派遣の言葉として説教し教 えるようにとイエス様は「働き人」を求めておられるのではないでしょうか?律法で派 遣する働き人の群れは、まさに飼い主がいない羊のようなのです。イエス様はただみ言 葉を伝える働き人ではない、律法と福音の言葉で、福音を最後の言葉、派遣の言葉とし て説教する働き人をみているのです。そのために「祈りなさい」なのです。 4、「働き人も収穫も律法ではない」 最後に、イエス様はその「働き人が必要だ」ということさえも教会の律法にしてない のは幸いです。とかくあるところでは「牧師がいない、献身者がいない」、だからと主 に求め期待する希望を告白し祈るのではなく、ただ目に見える現象だけで「いない、い ない」「組織が危ない」などなど、危機感と強迫観念に駆られ、何とか教会があるいは 牧師が、誰かが牧師になるように献身者を起こさなければダメなんだ、と律法的に駆り 立てるような教団や教会の声を聞くことがあります。しかしそうではありません。イエ ス様ははっきりと言っているでしょう。 「収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」 と。つまり「働き手」を送ってくださるのは、教会や牧師や、その努力や力や説得力 のわざではなく、あるいは誰かが力や意志を振り絞って律法的に立ち上がることでもあ りません。送ってくださる、建ててくださる、与えてくださるのは、どこまでも主イエ ス様です。み言葉と聖霊です。しかも「収穫の主」とあるように収穫をするのも人では なく主です。つまりみ言葉と福音のわざとして、働き人を主が起こしてくださり送って くださるのです。そして収穫、人の救いも人ができるのではなく、救うのも信仰を与え るのも、どこまでも収穫の主のみです。だからこそ律法の心ではなく福音を信じ、私た ちが希望と信頼を持って主に祈り求め、主にのみすがることが何よりも神の前に価値が あり、ふさわしいことなのです。ぜひ福音を信じ祈っていきましょう。今日のイエス様 は私たちに福音の言葉を宣言をして使わしてくださいます。「あなたの罪は赦されてい ます。安心していきなさい」と。平安のうちに遣わされていきましょう。 人知ではとうてい計り知ることのできない神の平安があなた方の心と思いとを、キリス ト・イエスにあって守るように。アーメン。