歳時記

花樗 (はなおうち)

楝、 樗はいろいろな呼び名があります。あうち・あふち・おうち、その他栴檀というのもあります。

公園の楝の木に淡い紫色の花が咲きました。足元をよく見ると小さな花びらがいっぱい落ちていました。拾い集めて水を張ったガラス器に浮かべて眺めています。花の中央の黒い突起は雌蕊でしょうか、花の割には大きいなと思いました。

「どむみりと樗や雨の花曇り」
             芭蕉

「妹が見し楝の花は散りぬべし我が泣く涙いまだ干なくに 」

          万葉集 第5巻798番歌 詠み人知らず

2022年5月22日(日)復活節第6主日 主日礼拝

主日礼拝説教 2022年5月22日復活後第六主日 スオミ教会

使徒言行録16章9-15節

黙示録21章10、22節-22章5節

ヨハネ14章23-29節

説教題 「神との平和 心の平安」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.イエス様が約束されたのは平和か、平安か?

本日の福音書の箇所でイエス様は弟子たちに「わたしの平和」を与えると約束します。「平和」とは何か?普通は、国と国が戦争をしないでそれぞれの国民が安心して暮らせる状態というように理解されます。今私たちはウクライナに平和が戻るように願い毎日祈っています。ところで、国と国が戦争しなければ国民は平和に安心して暮らせるかというとそうでもありません。例えば国が複数の民族から構成されていて、民族間で紛争が起きれば、それはもう国同士の戦争と同じになってしまいます。また、そういう集団同士の紛争がなくても、国の経済が破綻するとか、国家権力が国民の権利や自由を制限したり締め付けたりしたら、もう平和に安心して暮らすことは出来ません。

イエス様が弟子たちに与えると約束した「平和」とは何か?イエス様の約束は実は弟子たちだけに限られません。ヨハネ福音書を手にしてこの御言葉を読む人、礼拝の説教を通して聞く人全員に向けられています。イエス様は私たちが国内外の紛争や社会の動揺を免れて安心して暮らせると約束しているのでしょうか?残念ながら人間の歴史を振り返ると、戦争や紛争、動乱や内乱、社会の不安定は無数にありました。キリスト信仰者といえどもいつもそうしたものに巻き込まれてきました。イエス様は約束を守れなかったのでしょうか?

そうではありません。イエス様が約束された「平和」にはもっと深い意味があり、普通に考えられる「平和」とちょっと違うのです。このことがわかるために、この御言葉のルターの説き明かしを見てましょう。以下の通りです。

「ヨハネ14章27節で主が与えると約束した平和、これこそが真の平和である。それは、不幸がないので心が落ち着いているという平和ではない。それは、不幸の真っ只中にあっても心を落ち着かせる平和である。外面的にはあらゆることが激しく揺れ動いていても心を落ち着かせる平和である。

それなので、『この世が与える平和』と『主が与える平和』には大きな違いがある。この世が与える平和とは、外面的な揺れ動きを引き起した害悪がなくなるという平和である。主が与える平和はこれと全く反対である。外面的には疫病や敵、貧困や罪や死それに悪魔といったものが絶えず我々を揺さぶってもあるという平和である。そもそも、我々がいつもこうした害悪に取り囲まれているというのは逃れられない現実である。それにもかかわらず、我々の内面では心に慰めや励ましや平安がある。これこそが主が約束した平和である。この平和が与えられると、外面的には不幸でも心は外面的なものに縛られない。そればかりか、不幸の時の方が不幸でない時よりも心の中で勇気と喜びが強まるのである。それゆえ、この平和は使徒パウロが「フィリピの信徒への手紙」4章で述べたように「あらゆる人知を超えた神の平和」(7節)なのである。

人間の理性が把握できるのは「この世が与える平和」である。理性はその性質上、不幸や害悪があるところに平和があるということは到底理解できない。理性は不幸や害悪がある限り平和はありえないと考える。そのためそのような状態に陥った時、理性は心を落ち着かせる術を知らない。ところで主は、なんらかの理由で我々を不幸や害悪の中に置くということがある。しかし、決して忘れてならないことは、主は我々を必ず強めて下さるということだ。主は、良心の咎に苛まれた我々の心を晴れ晴れした心に変えて下さる。それで、我々の臆病な心は恐れない心に変えられるのだ。主から平和を与えられてそのような心を持てるようになった人は、この世が怯える不幸や害悪があるところでも、喜びを失わず揺るがない安心を持っていられるのである。」

以上がルターの教えでした。外面的には平和がなく不幸や害悪がのさばって激しく揺り動かされた状態の中に置かれても内面的には平和があるというのです。この場合、内面の平和は「平安」と言い換えても良いでしょう。どうして聖書の日本語訳は「平安」と言わないで「平和」と言うのか?これは、ギリシャ語のエイレーネーειρηνηという言葉が外面的な平和と内面的な平安の両方の意味を含んでいることによると思います。参考までに聖書の英語訳、フィンランド語訳、ドイツ語訳を見てみますと、エイレーネーを同じ言葉(peace, rauha, Frieden)と訳しています。それらの言葉もギリシャ語のように外面的なものと内面的なもの両方を含んでいるので、それらを用いても大丈夫なのです。興味深いのはスウェーデン語には、外面的な平和を意味する言葉(fred)と内面的な平安(frid)を意味する言葉が別々にあって、このヨハネ14章27節でイエス様が約束しているものはまさに内面的な平安(frid)です。参考までに、使徒パウロの書簡の初めの決まり文句は日本語で「神の恵みと平和があなたがたにありますように」と訳されていますが、スウェーデン語の訳はみんな「平和」(fred)でなく内面的な「平安」(frid)を用いています。

日本語もスウェーデン語と同じように「平和」と「平安」と分けてあるのに全部「平和」で訳しています。ヨハネ14章27節を「平和」と訳したら内面的な「平安」が見えなくなってしまわないか?この問題の解決は説教の終わりでお教えします。

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2.神との平和

ルターの教えから、イエス様が与えると約束した内面の平安とは、外面的には揺り動かされ不幸や害悪の中に置かれても、内面的には勇気と喜びが失われず、むしろ増し加わり、それで揺るがない安心を持つことが出来ることだとわかりました。それでは、どうしたらそのような平安を持てるようになるのでしょうか?そんな平安を持てたら怖いものは何もなくなりそうです。誰もがも持ちたいと思うでしょう。

どうしたらそんな平安を持てるようになれるのか?答えは難しくありません。イエス様が与えるよと言っているものを、ありがとうございますと言って素直に受け取ればいいのです。なんだ、とあっけに取られてしまうかもしれませんが、実際そうなのです。そうすると今度は、イエス様が与えると言っている平安とは何か、それはどこにあるのか、それがわからないと受け取ろうにも受け取ることが出来ません。それで次に見ていきましょう。

イエス様が弟子たちに平安の約束をしたのは十字架にかけられる前日、最後の晩餐の時でした。この後に受難の出来事が起こり、十字架の死があって死からの復活がありました。イエス様が神の力によって死から復活させられた時、弟子たちは、あの方は本当に神のひとり子で旧約聖書に約束されたメシア救世主だったと理解しました(使徒言行録2章36節、ローマ1章4節、ヘブライ1章5節、詩篇2篇7節)。そうすると、じゃ、なぜ神聖な神のひとり子が十字架にかけられて死ななければならなかったのかという疑問が生じます。これもすぐ旧約聖書に預言されていたことの実現だったとわかりました。つまり、人間の罪に対する神の罰を一身に受けて、人間が受けないで済むようにして下さったのだとわかったのです(イザヤ53章)。人間が神罰を受けないで済むようになるというのは、イエス様の犠牲に免じて罪が赦されるということです。

このようにして神から罪の赦しを頂けると今度は、かつて最初の人間アダムとエヴァの堕罪の時に壊れてしまった神と人間との結びつきが回復します。神との結びつきが回復すると今度は、復活の主が切り開いて下さった道、死を超える永遠の命に至る道に置かれてその道を歩むようになります。神との結びつきをもって永遠の命に至る道を進むとどうなるか?それは、この世でどんなことがあっても神は絶えず見守って下さり、いつも助けと良い導きを与えて下さるということです。そして、この世から去った後も、復活の日に目覚めさせられて永遠に神の御許に迎え入れてくれるということです。

このようにイエス様の十字架の死と死からの復活というのは、神がひとり子を用いて人間に罪の赦しを与えて自分との結びつきを回復させようとする、神の救いの業だったのです。もともと人間と神との結びつきは万物の創造の時にはありました。しかし、堕罪の時に人間の内に神の意思に反しようとする罪が入り込んだために結びつきは失われてしまいました。その失われたものが罪が赦されることで回復する可能性が開かれたのです。神は罪を焼き尽くさずにはおられない神聖な方です。罪のために神との結びつきが途絶えてしまったというのは、神と人間は戦争状態に陥ったのも同然でした。それで神と結びつきを回復するというのは、神と人間の間に平和をもたらすことになります。実に神と人間の間の平和は、神自身がひとり子を犠牲に供することで打ち立てられたのでした。

人間は神のこの救いの業がわかった時、ああ、イエス様は本当に神のひとり子、メシア救世主だったんだ、彼が十字架にかけられたのは同時代の人たちのためだけでなく後世を生きる人間全てを救おうとして行ったことだったんだ、時代を超えて今を生きる自分のためにもなされたんだ、とわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、神から罪の赦しを頂けて神との結びつきが回復するのです。そのような人は、まさに使徒パウロがローマ5章1節で言うように、「主イエス・キリストによって神との間に平和を得て」いるのです。

3.心の平安

 しかしながら、私たちが肉を纏って生きているこの世というところは、あらゆる手立てを尽くして私たちを疲れさせたり絶望させたりして、神との結びつきを弱めよう失わせようとする力に満ちています。私たちを罪の赦しから遠ざけて、再び罪が支配するところに引き戻そうとする力に満ちています。例えば、私たちが苦難や困難に遭遇すると、本当に神との結びつきはあるのか?神は自分を見捨てたのではないか?私のことを助けたいなどと思ってはいないのではないか?と疑うことが起きてきます。この時、一体自分には何の落ち度があったというのか、と神に対して非難がましくなります。また逆に、自分には落度があった、だから神は見捨てたんだと意気消沈することもあります。どちらにしても、神に対して背を向けて生きることになってしまいます。

そこで、自分には何も落度はないのにどうしてこんな目にあわなければならないのかと非難がましくなることについて見てみましょう。このことは、有名な旧約聖書ヨブ記の主人公ヨブにみられます。神の御心に適う正しい良い人間でいたのにありとあらゆる悪い事が起きたら、正しい良い人間でいたことに何の意味があるのか?そういう疑問を持ったヨブに対して神は最後のところで問い始めます。お前は天地創造の時にどこにいたのか?(38章)一見、何の関係があるのかと言い返したくなるような問いですが、神の言わんとすることは次のことでした。自分は森羅万象のことを全て把握している。なぜなら全てのものは自分の手で造ったものだからだ。それゆえ全てのものには、私の意思がお前たち人間の知恵ではとても把握できない仕方で働いている。それなので、神の御心に適う正しい良い人間でいたのに悪い事が起きたからと言っても、正しい良い人間でいたことが無意味だったということにはならない。人間の知恵では把握できない深い意味がある。だから、正しい良い人間でいたのに悪い事が起きても、神が見捨てたということにはならない。神の目はいついかなる境遇にあってもしっかり注がれている。

神の目がしっかり注がれていることを示すものとして、「命の書」というものがあります。本日の黙示録の個所(21章27節)にも出てきましたが、旧約聖書、新約聖書を通してよく出てきます(出エジプト32章32、33節、詩篇69篇29節、イザヤ4章3節、ダニエル12章1節、フィリピ4章3節、黙示録3章5節)。イエス様自身もそういう書物があることを言っています(ルカ10章20節)。黙示録20章12節で神は最後の審判の日にこの書物を開いて死んだ者たちの行先を言い渡すと言われます。それからわかるように、この書物には全ての人間がこの世でどんな生き方をしたかが全て記されています。神にそんなこと出来るのかと問われれば、神は一人ひとりの人間を造られた方で髪の毛の数までわかっておられるので(ルカ12章7節)出来るとしか言いようがありません。そうなると全て神に見透かされて何も隠し通せない、自分はもうだめだとなってしまうのですが、そうならないためにイエス様は十字架にかけられ、復活させられたことを思い出しましょう。イエス様を救い主と受け入れて神に立ち返る生き方をすれば、神はお前の罪は忘れてやる、過去のことは不問にすると言って下さるのです。

ここで忘れてはならないのは、神は全ての人間に目を注いでその境遇をわかってはいるがそれで終わりというようなただの傍観者ではないということです。神は、人間が自分との結びつきを回復してかの日には復活を遂げて永遠に神の御許に迎え入れられるようにと、それでひとり子をこの世に贈って犠牲に供することをしたのです。それで神は、イエス様を救い主と信じる信仰に生きる者がどんな境遇に置かれてもこの道をしっかり歩めるようにとあらゆる支援を惜しまない方です。なぜなら、神がひとり子の犠牲を無駄にすることはありえないからです。人生の具体的な問題に満足のいく解決を早急に得られないのは、神が支援していないことの現れだと言う人もいるかもしれません。しかし、キリスト信仰の観点で言わせてもらえれば、聖書の御言葉も日曜の礼拝や聖餐式も神に祈ることも全部、私たちを力づけてくれる神の立派な支援です。

このようにイエス様を救い主と信じる信仰にある限り、どんな境遇にあっても神との結びつきには何の変更もなく、見捨てられたなどということはありえません。境遇は、神との結びつきが強いか弱いかをはかる尺度ではありません。大事なことは、イエス様の成し遂げて下さった業のおかげで、かつそのイエス様を救い主と信じる信仰のおかげで、この二つのおかげで、私たちと神との結びつきがしっかり保たれているということです。周りでは全ての平和が失われるようなことが起きても、神との平和は失われずにしっかりあるということです。

 次に、この世の力が私たちに落ち度があると思わせて意気消沈させ、自分は神に相応しくないんだと思わせて、神から離れさせる場合を見てみます。これについても私たちがイエス様を救い主と信じる信仰にある限りは、神は私たちのことを目に適う者と見て下さるというのが真理です。それにもかかわらず、私たちを非難し告発する者がいます。悪魔です。良心が私たちを責める時、罪の自覚が生まれますが、悪魔はそれに乗じて、自覚を失意と絶望に転化しようとします。ヨブ記の最初にあるように、悪魔は神の前にしゃしゃり出て「こいつは見かけはよさそうにしていますが、一皮むけばひどい罪びとなんですよ」などと言います。しかし、本日の福音書の箇所でイエス様は何とおっしゃっていましたか?弁護者である聖霊を送ると言われています(14章26節)。

私たちの良心が悪魔の攻撃に晒されて、必要以上に私たちを責めるようになっても、聖霊は私たちを神の御前で文字通り弁護して下さり、私たちの良心を落ち着かせて下さいます。「この人は、イエス様の十字架の業が自分に対してなされたとわかっています。それでイエス様を救い主と信じています。罪を認めて悔いています。赦しが与えられるべきです」と。すかさず今度は私たちに向かってこう言われます。「あなたの心の目をゴルゴタの十字架に向けなさい。あなたの赦しはあそこにしっかり打ち立てられているではありませんか!」と。私たちは罪の赦しを神に祈り求める時、果たして赦して頂けるだろうかなどと心配する必要はありません。洗礼を通してこの聖霊を受けた以上は、私たちにはこのような素晴らしい弁護者がついているのです。聖霊の執り成しを聞いた神はすぐ次のように言って下さいます。「わかった。わが子イエスの犠牲に免じてお前を赦す。もう罪は犯さないようにしなさい」と。その時、私たちは安心と感謝の気持ちに満たされて、もう罪は犯すまいと決心するでしょう。

 以上みてきたように、イエス様の十字架と復活の業によって私たちと神との間に平和が打ち立てられました。この平和は、私たちがイエス様を救い主と信じる信仰にある限り、私たちの内で微動だにしない確固とした平和です。それに揺さぶりをかけるものが現れても、その度、聖霊が出動して、神はイエス様を用いて私に何をして下さったかということを思い起こさせて下さいます。その思い起こさせに自分を委ねてしまい、思い起こせばそれでよいのです。その時、心は安心と喜びを取り戻して神の御心に沿うように生きようと勇気も湧いてくるでしょう。

 まさにこの時キリスト信仰者は、自分の内に大きな平安があることに気づきます。この平安は、神から罪の赦しを頂いて神との平和を打ち立てられた時に与えられます。これでヨハネ14章27節のイエス様が約束されたのは「平和」なのか「平安」なのかという問いの答えが得られます。両方です!イエス様が私たちの救いのために十字架と復活の業を成し遂げて下さったおかげで私たちと神との間に平和がもたらされました。この平和を持てると今度は、外面的な揺れ動きにも動じない本当の心の平安がついてきます。イエス様は両方を与えると約束し、それは果たされているのです!

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

 

 

 

5月18日19時45分 水曜聖句と祈りのひと時「白樺の十字架の下で」時吉村博明 宣教師 、詩篇118篇1節

水曜聖句と祈りのひと時
「白樺の十字架の下で」

Youtubeで見る 5月18日19時45分~

聖句 詩篇118篇1節
「恵み深い主に感謝せよ。
慈しみはとこしえに。」

ピアノと歌 ミルヤム・ハルユ宣教師
ビデオ編集 ティーナ・ラトヴァラスク宣教師

スオミ教会 手芸クラブ&チャーチ・カフェのご案内

5月の手芸クラブは25日(水)10時~13時の開催です。

「かぎ針のコースター」を編みます。

かぎ針のコースターは早く簡単に作れる手芸の一つです。色は何色でもよいので、残り毛糸の良い使い方にもなります。可愛い、きれいな色のコースターはテーブルの飾り物にもなります。

おしゃべりしながら楽しく作りましょう!

材料費 500円

人数制限がありますので、ご注意ください。

お子さん連れの参加も歓迎です!

お問い合わせ、お申込み
Tel 03⁻6233‐7109

 

注目!Huomio! Attention!
手芸クラブの開催中、教会の集会スペースにてチャーチ・カフェも開いています。

コーヒーやプッラ(フィンランド風菓子パン)を味わいながら、モニターでフィンランドの讃美歌や風景に触れて、心休まるひと時をお過ごしください。

手芸クラブに参加されない方でもご自由にお好きな時間帯にお立ち寄り下さい。

ご希望あれば礼拝スペースにて一人静かにお祈りすることもできます。
(コーヒー・プッラ準備費として300円ご協力お願いします。)                

洗礼式・聖餐式

浅野牧師(市ヶ谷教会牧師・スオミ教会主任牧師)のもとで大岡美也子 姉の洗礼式が執り行われました。新しい教会員の誕生を皆で祝福いたしました。

 

引き続き浅野牧師による聖餐式が行われました、久しぶりの聖餐式に緊張しました。

料理クラブの報告

5月のスオミ教会・家庭料理クラブは9日に開催しました。今回はパスティヤPasteija を作りました。

料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。最初にパスティヤの生地を作ります。材料を計って小麦粉をマーガリンの中に混ぜていくと生地はあっという間に出来上がります。ヨーグルト風味にした生地をラップに包んで冷凍庫にしばらく入れて固くします。

生地の次は中身の番です。今回パスティヤの中身はサーモンとひき肉の二種類にしました。参加者の皆さん、一生懸命焼いたサーモンとひき肉を細かく切ったりほぐしていきます。中身も早く出来上がりました。

今度は生地を伸ばして丸い型で型を抜きます。丸い生地の上に二つの中身を別々にのせて形を作り、鉄板にどんどん並べていくと整ったパスティヤの列ができました。オーブンをつける前にパスティヤの上に卵を塗り、それから焼き上げを開始します。しばらくすると、台所から美味しそうな香りが広がってパスティヤが焼き上がったことを告げます。テーブルのセッティングも終わって皆さん席に着きました。出来たてホヤホヤのパスティヤをサラダと一緒に召し上がります。コロナのため今回歓談は静かな声で行いました。

パスティヤを味わった後で、フィンランドのカレンダーにある「名前の日」と名前に関係するる聖書のお話を聞きました。

次回の料理クラブは6月に予定していますが、コロナ感染の状況を見て日程を決めます。教会のホームページにお知らせしますので是非ご覧ください。

料理クラブの話2022年5月14日「パスティヤ」

フィンランドは春と夏になると、お祝いが多い季節になります。フィンランドではお祝いのパーティーは普通は自宅で開きます。春と夏はお祝いの季節で、高校生の卒業式、若者の教会での堅信礼、結婚式などがあります。その時お母さんたちは一生懸命パーティーの食事の準備をします。パーティーに出すものはお菓子、クッキー、ケーキはもちろん、食事は軽食で行う時はサンドイッチ、パイ、それに今日作ったパスティヤが出されます。

パスティヤの歴史を少し調べましたが、あまり詳しく出ていませんでした。カレリア地方ではパスティヤの形の小さいパイが作られましたが、生地と中身はパスティヤと違って名前も別でした。

残念ながら、パスティヤの名前はどこから来たのかははっきり分かりませんでした。ただ、フィンランドのベーカリーのものの名前はおもにスウェーデン語とロシア語からきたものです。現在新しい名前のベーカリーのものがどんどん出てきて、名前も英語や他の国の言葉からです。それで、名前だけを聞くと、どんなベーカリーのものか想像出来ないくらいです。

フィンランドでも最近は人の名前に外国のものが使われるようになってきました。例えばアリオス、オカヴィリという名前は聞いてもどこの国のものかわかりません。日本では皆さんの名前はほとんど漢字で書くので、名前の意味が豊かになると思います。アルファベットで書く名前は漢字のような豊かな意味にするのは難しいと思います。それでも、フィンランドには名前を豊かにする伝統があります。それは何でしょうか?フィンランドのカレンダーには、毎日の日にちに数字の下に何人かの名前が書いてあります。これを「名前の日」と言います。自分の名前がある日に来ると、みんなからお祝いされるのです。毎朝のラジオのニュースと天気予報の次にその日の名前が読み上げられます。私のパイヴィの名前の日は6月16日です。その日は他にパイヴィッキとパイヴァの名前もあります。

「名前の日」はカードを送ったり花をプレゼントしたりします。職場でも簡単にコーヒーとお菓子を出してお祝いします。「名前の日」があることで、友達や同僚や親戚のことを覚えてお祝いする機会が増えるのです。

聖書の中にも名前に関係する神さまのみ言葉があります。例えば、イザヤ書43章1節には次のように書いてあります。「恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名前を呼ぶ。」
フィンランド人も、友達や同僚や親戚の「名前の日」をうっかり忘れてしまうことがあります。しかし天と地と人間一人一人を造られた神様は私たちのことを忘れません。神様は私たちの造り主ですので、私たち一人ひとりのことを私たちの親よりも良くご存じです。それで私たちは子どもが自分の親を信頼するのと同じように神様を信頼して安心を得ることができるのです。

ところで、私たちは時々、他人のことで良くないことを考えたり、口で言ってしまったりすることがあります。それが神さまの目から見て良くないこととわかると、自分は神様の目に届かないところにいると考えて、何も問題ないと思うかもしれません。しかし、私たちは神様の目に届かないところにいることができるでしょうか?私たちは自分でいろいろ隠れ場所を作るかもしれませんが、それは小さい子供のかくれんぼと同じです。小さい子供がかくれんぼをすると、子どもは頭を隠して、体は見えているのに、自分はうまく隠れて誰にも見つからないと思っています。捜す人が、みーつけた!と言って名前を呼ぶと、見つかった子供はどうして見つかったのかと驚きます。私たちも同じで、神様から隠れたい、目の届かないところにいたいと思いますが、神様は私たちがどこで何をしているかをご存じで、私たちを名前で呼ばれます。私たちは神様から名前で呼ばれたら、隠れている場所からすぐ出るでしょうか?

私たちは神様から隠れたり遠ざかる必要はありません。神様は私たち人間のために素晴らしい計画を実現されました。そのご計画の中で一人の名前、神様のひとり子イエス様の名前が偉大になりました。フィリピの信徒への手紙2章9~10節で次のように言われています。
「神はキリストを高くあげ、あらゆるな名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものが全て、イエスの名にひざまずき、すべての舌が『イエス・キリストは主である』と公けに宣べて、父である神をたたえるのです。」

天の神様はどうしてイエス様にあらゆる名にまさる名前を与えられたのでしょうか?それは、神様が私たち人間を救う計画を持っていたからです。それはどんな計画でしょうか。天の神様は私たち人間を愛して、私たちが神さまから罰を受けないで済むようにするという計画です。そのために神様はご自分のひとり子イエス様をこの世に送られて、十字架の上で私たちの罪の罰を身代わりに受けて死なせたのです。しかし、神さまはイエス様を死から3日目に復活させられました。このように神様は私たちを罪から救うためにイエス様を身代わりにしたのです。そのため神様はイエス様を高く天のみもとに上げたのです。それでイエス様の名前はあらゆる名前の上にある名前になったのです。

私たちは神さまの目から見て何か良くないことをしたら、神さまから逃げたり隠れたりする必要はありません。このような時、イエス様を救い主と信じて神さまに赦しをお願いすれば、神さまは必ず赦して下さいます。このように私たち一人一人のことや名前をよくご存じの神様は私たちを本当に愛しておられ、私たちも信頼して大丈夫な方です。

歌 全ての名前にまさる唯一の名前がある。(フィンランド語)

2022年5月15日(日)復活節第5主日 主日礼拝

主日礼拝説教 2022年5月15日復活後第五主日

使徒言行録11章1-18節

黙示録21章1-6b節

ヨハネ13章31-35節

説教題 「神の愛に挟まれて」

礼拝をYouTubeで見る

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 本日の福音書の日課の個所はイエス様が十字架にかけられる前日、弟子たちと一緒に過越祭の食事をしている場面です。よく「最後の晩餐」と呼ばれる場面です。イエス様を裏切ることになるイスカリオテのユダが食事の席から立ち去りました。その時イエス様は「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった」と言われます。裏切る者が目的を果たそうと立ち去ってイエスが栄光を受けた、神も栄光を受けた、とはどういうことでしょうか?それを言った後で今度は弟子たちに新しい掟を与えると言って「互いに愛し合いなさい」と命じます。

 裏切る者が出ていってイエス様が栄光を受けることになるというのは、わかりにくいことです。そしてその後すぐに、互いに愛し合いなさいと言われる。この二つは一見関係ないように見えますが、実は深く結びついています。イエス様が栄光を受けることがどういうことかわかると、キリスト信仰の愛がどういうものかもわかるのです。逆に、イエス様が栄光を受けることがわからないとキリスト信仰の愛もわからないのです。今日はこのことをわかるようにしていきましょう。

2.イエス様が栄光を受けるとは?

 裏切る者が目的を果たそうと出て行って、イエスが栄光を受けた、神も栄光を受けた、とは、どういうことか?それはまず、イエス様が受難を受けて死ぬことになるということが、もう後戻りできない位に確定したということがあります。それでは、死ぬことがどうして栄光を受けることになるのか?しかもそれで、神も栄光を受けることになるのか?

 イエス様が死ぬことには、普通の人間の死にはない非常に特別な意味がありました。それはどんな意味でしょうか?人間は創造主の神に造られた最初のアダムとエヴァの時から罪というものを代々受け継いできてしまいました。それでイエス様はこの罪から人間を解放するために自分を犠牲にしたということです。確かに、人間は良い人もいれば悪い人もいるので全ての人間が罪を持っているというのは言い過ぎではないかと言われてしまうかもしれません。特に生まればかりの赤ちゃんは無垢そのもので、それも罪を持っているなどと言うのは酷いと思われるかもしれません。しかし、アダムとエヴァの堕罪の時に人間は死ぬ存在になったので、死ぬということが人間誰もが罪を持っているということなのです。たとえ一時の間、悪い言葉や思いや行いが出なくとも人間だれもが神の意思に反しようとする性向を持っているというのが聖書の立場です。

 人間はこの罪をそのままにしておくと、いつまでたっても神との関係は切れたままです。この世から別れた後も神のみもとに戻ることはできません。それで神は、人間が自分と結びつきを持ててこの世の人生を生きられ、この世から死んだ後は復活の日に自分のもとに迎え入れてあげよう、それによって永遠の滅びに落ちないようにしてあげようと決めました。それで、ひとり子イエス様をこの世に贈り、人間全ての罪を全部彼に請け負わせて人間に代わって罰を受けてもらうというやり方を取ったのです。少し法律的な言葉で言うと、本当は有罪なのは人間の方なのに、その罰は人間が背負うにはあまりにも重すぎるので、神はそれを無実のひとり子に背負わせて有罪者が背負わないですむようにした。有罪者は気がついたら無罪になっていたのです。

 罪は、人間が神との結びつきを持てなくするようにする力を持っています。また、人間がこの世から別れた後で復活を遂げられず神のみもとにも迎え入れられないようにする力も持っています。人間をこの悪い力から解放するために神は、ひとり子を犠牲に供してその犠牲に免じて人間の罪を赦し神罰に定めないという手法を取ったのです。そこで今度は人間の方が、イエス様の十字架の死とは自分のためになされた犠牲の業なのだとわかって、それで彼を救い主と信じて洗礼を受ける、そうすると、神が打ち立てた罪の赦しが自分の中に入ってきます。そして神との結びつきを持ててこの世を生きられるようになり、この世から別れた後も復活の日に復活を遂げて永遠に神のみもとに迎え入れられるようになったのです。このように罪はキリスト信仰者に対してはかつての力を失ったのです。加えて、イエス様が死から復活させられたことで死を超える永遠の命が人間に打ち立てられました。罪と死はキリスト信仰者に対しては支配する力を引き抜かれたのです。

3.神の愛に挟まれて

 このようにイエス様が受難を受けて死ぬというのは、神による人間の救いが実現するということなので、それでイエス様は栄光を受けることになるというのです。このような救い方を考えて実行した神も栄光を受けることになるのです。つまり人間のためになることが起こることで神とひとり子が栄光を受けるというのです。聖書の神は一体なんという神でしょう!私たち人間は、この救いを神に従って成し遂げたイエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ、本当に罪を赦されて罪の支配から脱せられるのです。そして神との結びつきを持てて復活と永遠の命に向かう道を歩むようになるのです。もちろん、道中いろんなことが起こります。それでも神との変わらぬ結びつきがあるから何があっても大丈夫、いつも導きと力を頂けます。この世から別れることになっても復活の日に目覚めさせられて永遠にみもとに迎え入れられます。

 これだけの途方もないこと、今のこの世と次に到来する世の双方にまたがるスケールの大きなことを父なる神とひとり子イエス様はこの私のために成し遂げて下さったのだ、とわかった時の安心感と感謝の気持ちと言ったらないでしょう。この安心と感謝があると、この場合の神の意思はどうだったかといつも思い起こして、それに沿うように生きようという姿勢になります。これが神に対する愛です。神が与えた掟を守ることが自然で当たり前になっているのです。これとは逆に、神が自分に途方もないことをしたということがわからないと、神への本当の感謝もなく本当の安心もありません。そのような状態で掟を守ろうとしたら自然で当たり前に守ることになりません。イヤイヤで無理に守ることになります。

 このように、神がイエス様の十字架と復活という、歴史の過去にこれほどのことをして下さったとわかると安心と感謝が生まれ、そこから神の意思に沿うように生きようと向かいだします。それ加えて、神は将来何をしてくれるのかも知っておくと神の意思に沿おうとする心に勇気が加わります。本日の黙示録21章の日課では、今の天と地が終わって新しい天と地が再創造されて死者の復活が起こる日、神がみもとに集めた者たちをどうされるかが預言されています。「神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取って下さる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである(3ー4節)」。

 目から「全ての涙」(παν δακρυον)を拭われるというのは、この世の人生で被った害悪が最終的かつ完全に償われるということです。もちろん、この世の段階でも正義の実現のために努力がなされて原状回復や補償や謝罪などを勝ち取ることはできます。しかし、それでも心の傷は簡単に癒えないことが多く、正義も残念ながら実現に至らないことがあります。いろんなことがこの世の段階でやり残ってしまい、未解決のまま無念の思いでこの世を去らねばならないことが多くあります。ところがキリスト信仰にあっては、復活の日が来ると神の尺度から見て不完全、不公平に残ってしまったもの全てが完全かつ最終的に清算されるのです。そのことを全部一括して「目から全ての涙をぬぐう」と言うのです。キリスト信仰者はそういう時が来ると知っているので、この世でおよそ神の意思に沿うことであれば、たとえ志半ばで終わってしまっても、また信仰が原因で害悪を被ってしまっても、無駄だったとか無意味だったということは何もないとわかるのです。聖書の至るところに「命の書」という、最後の審判の時に開かれる書物が登場します。それは、全ての人間に関する神の記録書です。そのような書物があるというのは、神は自分が造られた人間全員一人一人に何が起きたか全てご存知で、何も見落としていないということです。誰も自分のことをわかってくれないと悲しむ人もいますが、神は誰よりもその人のことを知っているのです。髪の毛の数さえ知っておられる神ですから、その人自身以上よりもその人のことを知っているのです。

 復活の日は神の国で全てのことが清算され報われる日ですが、その日は結婚式の盛大な祝宴にもたとえられます(黙示録19章5ー9節、マタイ22章1ー14節、黙示録21章2節も参照)。つまり、この世での労苦が完璧に永久に労われるということです。

 キリスト信仰者というのは、過去に神がひとり子イエス様を用いて「罪の赦しの救い」を打ち立ててくれたことを知っているだけではありません。将来自分が死から復活させられる時、神がこの世の労苦や害悪に対する労いや償いを限りなくしてくれることも知っています。このように過去に神がしてくれたこと、将来してくれることの両方に挟まれるようにしていると、神に大きな感謝、深い安心と強い勇気を持つことができます。それで神を全身全霊で愛そう、神の御心に沿うように生きようとするのが当然になるのです。

4.隣人愛のための視点

 神の愛に挟まれるようにして生きるキリスト信仰者は神の意思に沿うように生きようとする。このように神の愛を受けて神に対する愛が生まれる。それでは、隣人に対する愛はどのように生まれるでしょうか?隣人を愛せよと言うのは神の意思です。それなので、神の意思に沿うようにしようとすれば隣人を愛することも当然のことになります。しかし、それでも難しいことがあります。相手が神の場合は神が大きなことをして下さったので神を愛する心が生まれます。相手が隣人の場合はいつもいいことをするとは限らないし、逆の場合もあります。それなのに愛せよというのは難しい感じがします。どうしたら隣人を愛せよと言う神の意思に沿うことができるでしょうか?ここでは2つの視点をあげてみましょう。

 まず一つは、神が自分にどれだけのことをして下さったかをもう一度確認することです。マタイ18章にイエス様の一つのたとえの教えがあります。50億円の借金を抱えた男が主人に泣き叫んで帳消しにしてもらったのに自分に50万円の借金ある者を赦さずに牢屋に送ってしまった、それを聞いた主人は激怒して、私はお前の多額の負債を帳消しにしてやったのだからお前も同じようにすべきではなかったかと言って牢獄に送ってしまうという話です。50億円を帳消しにしてもらったら50万円を帳消しにするなんて容易いことではないかという話です。キリスト信仰の有り様も大体これと同じですが、ただ桁数が違いすぎます。人間が永遠の滅びに落ちないで復活を遂げて永遠の命に入れるように神のひとり子が犠牲になって罪という負債を帳消しにしたということです。これだけ大いなる帳消しは50億と50万の比どころではありません。永遠の命がかかっているので1千兆円と1円の比以上です。それだけの赦しを受けたら自分も隣人を赦してあげるのが当然になるのではないでしょうか?

 ただ問題が深刻な場合もあります。相手が与えた害悪が重大すぎる場合とか、相手が自分には全然問題がないと思っている場合です。どうしたらよいでしょうか?このような場合は、キリスト信仰の基本的なスタンス、大いなる赦しを得たので自分も赦すというスタンスにとどまります。ただなかなか気持ちは収まりません。その場合でも、社会の秩序が保たれるために法律的に解決しなければならないことはします。自分自身だけでなく自分の周りでも十戒が破られることを放置してはいけないからです。ただしその場合でも、パウロがローマ12章で教えるように復讐心で行ってはいけません。それは、先ほども申したように最後の審判で神が正義の不足分を全て最終的に完全に清算されるからです。

 もう一つの視点は、キリスト信仰者というのは宗教改革のルターも言うように、完全な聖なる者なんかではなく、この世にいる限りは常に霊的に成長していかなければならない永遠の初心者であるという自覚です。つまり、皆が皆、何かしら支援を必要としているということです。そこをわきまえていないと完全だと思っている人とそう思っていない人が現れて両者の間に亀裂が生まれてしまいます。本日の箇所でイエス様は、私たちが愛を持っていれば周りの人たちは私たちが彼の弟子であるとわかる、と言っています。しかし、もし亀裂や分裂や仲たがいをしてしまったら、イエス様の弟子ではないことを周りの人に知らしめてしまい、目もあてられなくなります。そのためにパウロが第一コリント12章で教えるように、キリスト信仰者の集まりはキリストの体であり、一人一人はその部分である、という観点はとても大事です27節)。このことについて宗教改革のルターは次のように教えています。

「主にある兄弟姉妹が君に不愉快な思いをさせた時、次にように考えよう。彼は注意深さが欠けていたのだ。あるいはまた、それを回避する力が不足していたのだ。悪意をもってそれをしたのではなく、ただ弱さと理解力の不足が原因だったのだ。もちろん、君は傷ついて悲しんでいる。しかし、だからと言って体の一部分をはぎ取ってしまうわけにもいくまい。させられた不愉快な思いなど、ちっぽけな火花のようなものだ。唾を吐きかければ、そんなものはすぐ消えてしまう。さもないと、悪魔が来て、毒のある霊と邪悪な舌をもって言い争いと不和をたきつけて、小さな火花にすぎなかったものを消すことの出来ない大火事にしてしまうだろう。その時はもう手遅れだ。どんな仲裁努力も無駄に終わる。そして、教会全体が苦しまなければならなくなってしまう。」

5.キリスト信仰者の隣人の場合、信仰者でない隣人の場合

 以上の述べてきたことはキリスト信仰者同士の愛についてでしたが、相手が信仰者でない人の場合はどうなるでしょうか?それでも基本的なスタンスは同じだと思います。自分は父なるみ神から莫大な赦しを受けたので、今この世の人生を神との結びつきを持てて生きられる、この世から去った後も復活の日に復活を遂げて永遠に神のみもとに迎え入れられる道を歩んでいるというスタンスです。それと、歩んでいる自分はこの世にいる間は不完全なままで罪の自覚がありそれで神に赦しを祈る、イエス様の十字架と復活がある以上、赦しは確実にあることを確認しながら生きていくというスタンスです。

 このスタンスに立った場合、信仰者でない人たちに対する隣人愛も目指す方向が出てきます。それは彼らも罪の赦しを得られるようにして神との結びつきを持ててこの世を生きられるようにしてこの世を去った後も復活を遂げて神のみもとに永遠に迎え入れられる道を歩めるように信仰者は導いてあげるということです。どうしてそんな方向が出てくるのでしょうか?

 それはイエス様のそもそもの愛の実践とは何であったかを振り返ると火を見るよりも明らかです。イエス様の愛の実践は、人間と造り主である神との結びつきを回復させて、人間が神との結びつきのなかでこの世の人生を歩めるようにして、この世から死んだ後は永遠に神のもとに戻れるようにする、このことを実現するものでした。そして、それを妨げていた罪の力を無力にして罪から来る神罰を私たちに代わって全部引き受けるというものでした。そういうわけで、キリスト信仰の隣人愛とは、神のひとり子が自分の命を投げ捨ててまで人間に救いをもたらしたということがその出発点にあり、この救いを多くの人が持てるようにすることが目指すべきゴールとしてあります。それなので、隣人愛と聞いて普通頭に浮かぶ、苦難や困難に陥っている人を助ける場合でも、キリスト信仰の場合はこの出発点とゴールの間で動くことになります。これから外れたら、それはキリスト信仰の隣人愛ではなくなり、別にキリスト信仰でなくても出来る隣人愛になると言っても言い過ぎではありません。

 そうなると、キリスト信仰の隣人愛とは、相手が既にイエス様を救い主と信じて「罪の赦しの救い」を受け取った人が相手の場合は、その人が受け取った救いにしっかり留まれるように助けることが視野に入ります。まだ受け取っていない人の場合は、受け取るように導いてあげることが視野に入ります。受け取っていない人の場合はいろいろ難しいことがあります。もしその人がキリスト信仰に興味関心を持っていれば、信仰者は教えたり証ししたりすることができます。しかし、興味関心がない場合、または誤解や反感を持っている場合、それは難しいです。それでも信仰者はまず、お祈りで父なるみ神にお願いすることから始めます。「父なるみ神よ、あの人がイエス様を自分の救い主とわかり信じられるように導いて下さい」と一般的に祈るのもいいですが、もう少し身近な課題にして「あの人にイエス様のことを伝える機会を私に与えて下さい」と祈るのもよいでしょう。その場合は、次のように付け加えます。「そのような機会が来たら、しっかり伝え証しできる力を私に与えて下さい」と。神がきっと相応しい機会を与えてくれて、聖霊が必ずそこで働いて下さると信じてまいりましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

 

歳時記

ミヤマオダマキ(深山苧環)

オダマキと言えば静御前が歌った「しづやしづ しずのおだまきくりかえし むかしをいまに なすよしもがな」という歌 を思い出します。長い間静御前のオダマキと花のオダマキとの関係が分からず謎でしたが「オダマキの名前は、中心を空洞にして巻いた麻の糸玉『 苧環 』に花の形が似ているところから付けられました。花が開いた形と言うより、つぼみの形が苧環に近いと思います。」 と言う説を知り納得しました。白州の家の庭に自生していた中から一株ベランダの鉢に移して育てていましたら毎年このような綺麗な花を咲かせてくれています。

5月11日19時45分 水曜聖句と祈りのひと時「白樺の十字架の下で」時吉村博明 宣教師 、詩篇107篇30節

水曜聖句と祈りのひと時
「白樺の十字架の下で」

Youtubeで見る 5月11日19時45分~

聖句 詩篇107篇30節
「彼らは波が静まったので喜び祝い/
望みの港に導かれて行った。」

ピアノと歌 ミルヤム・ハルユ宣教師
ビデオ編集 ティーナ・ラトヴァラスク宣教師

 

 

 

 

2022年5月8日(日)復活節第4主日 主日礼拝

主日礼拝説教 2022年5月8日 復活節第四主日

使徒言行録9章36節-43節

黙示録7章9節-17節

ヨハネ10章22-30節

説教題 「羊飼いが羊を守り導くようにメシアも守り導かれる」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1. はじめに

 復活祭の後の福音書の日課は死から復活したイエス様が弟子たちの前に姿を現した出来事が中心でした。今日の福音書の日課は舞台を再び十字架と復活の前に戻します。イエス様の教えと業は、十字架と復活の出来事の前は聞く人見る人にとってわかりにくいことが多くありました。それが、十字架と復活の後になって、それらがどんな意味なのかが正確にわかるようになりました。本日の日課についても私たちは、イエス様の十字架と復活の出来事を知る者として意味を確認してまいりましょう。

 イエス様は、数多くの奇跡の業と神の権威がある教えでローマ帝国シリア州(マタイ4章24ー25節)において名声を博していました。イエス様自身、自分は父なるみ神から送られた「神の子」であると、また旧約聖書ダニエル書に出てくる救世主的人物「人の子」であると公言していました。それに対してユダヤ教社会の宗教指導層は、あれは神の子でも救世主でもない、民衆を惑わす危険な男だと見なしていました。宗教指導者たちが神と人間の関係を取り仕切っていたところに、別の誰かが勝手に取り仕切るようになったら、それは彼らの権威に対する挑戦になります。しかし本当は、イエス様の取り仕切りが神の意思そのものだったのです。宗教指導者たちはそれが全くわからず、自分たちの教えや流儀が神の意思たと思い込んでいました。

 それで宗教指導者たちは、なんとかこのイエスを捕まえて殺してしまおうと考えるようになっていました。そこで、エルサレムの神殿の祭事の時に大勢の人でごった返す中にイエス様を見つけて取り囲み尋問を始めます。イエス様が何か間違ったことを言えば、大勢の人が目撃者となる状況です。指導者たちは聞きます。いつまで我々に気をもませるのか、お前がメシアなら、はっきりそう言え、と。イエス様は答えます。自分は既にそう言ったのに、君たちが信じようとしないのだ、と。

 ここで、ヨハネ福音書をさかのぼってみると、イエス様が自分のことをメシアだと指導者たちに公言したことは見当たりません。4章のサマリア人の女性とのやりとりの中で、自分がメシアであると明かしますが(26節)、ユダヤ人の前では信奉者に対しても反対者に対しても、自分は父なるみ神から送られた「神の子」とか、救世主的人物である「人の子」とか言うだけで、ずばりメシアであるとは言っていません。もっとも、ユダヤ人の中にはイエス様がメシアだと信じる人も出ていました(7章31節)。イエス様は自分からは言っていないのに、既にそう言ったというのはどういうことでしょうか?これは当時、メシアという言葉が人々に誤って理解されていたという問題があります。

 メシアとは、もともとは頭に油を注がれて聖別された者を意味しました。神から特別な使命を与えられた者です。実際には、ダビデ王朝の王様が代々即位する時に油を注がれたので、ダビデ家系の王様を意味するようになりました。ところが、ダビデ王朝の王国は紀元前6世紀初めのバビロン捕囚の時に滅びてしまいます。イスラエルの民は同世紀の終わりにユダの地に帰還を果たしますが、それ以後はある一時期を除いて諸外国の支配下におかれ、ダビデ王朝の王国は再興しませんでした。何世紀もの間ユダヤ民族の間では、将来ダビデ家系の王が現れ、外国支配を打ち破って王国を再興し諸国に大号令をかけるという期待がずっと抱かれていました。この王がメシアと考えられたのです。

 他方で、バビロン捕囚から帰還した民の中には、旧約聖書イザヤ書の終わり(65章や66章など)にある預言に注目して、今ある天と地はやがて終わりを告げて新しい天と地に再創造される時が来るとわかった人たちがいました。そのような預言を通してメシアとは創造の秩序が一新される時に現れて、創造主の神の目に適う者を御許に迎え入れてくれる方という、そういう終末的な救世主を意味するということがだんだん明らかになってきます。この意味のメシアはユダヤ民族を解放する王様とは違います。全人類にかかわる救世主です。

 そうすると、イエス様が尋問を受けた時、それまで自分がメシアであるとはっきり言っていなかったのに、どうして既に言ったなどと答えたのかがわかってきます。イエス様は、特定民族の解放のためにこの世に送られたのではなく、文字通り全人類の救い主として送られたということがポイントです。もし「私はメシアだ」と言ったら、聞いた人たちの多くは、イエスは自分がメシアだと言ったぞ、ダビデの末裔の王で、これからイスラエルをローマの支配から解放すると宣言したぞ、と捉えたでしょう。そうなれば、宗教指導者たちにとってはしめたものです。この男は反乱を企てています、とローマ帝国の官憲に引き渡せばいいだけです。イエス様自身は、もちろん自分は本当の意味でメシアであるとわかっていました。しかし、聞く側がそう受け取らないこともよく知っていました。それで、人々がメシアを正しく理解していない間は、自分でその言葉を使うのは控え、かわりに父なるみ神から送られた「神の子」であるとか、終末の救世主「人の子」であると言い換えていたのです。でも、それがメシアの本当の意味だったのです。もちろん、「神の子」、「人の子」と言うのも宗教指導者たち苛立たせました。なぜなら、神を冒涜していると思ったからです。

2.本当のメシア

 ユダヤ教社会の宗教指導層は旧約聖書に集積された天地創造の神の言葉を維持管理する立場にありました。それなのになぜ彼らはイエス様が「神の子」であること「人の子」であることを信じられなかったのでしょうか?イエス様が数多くの奇跡の業を行っていたことは広く知れ渡っていました。しかも、それを自分の父である神の名によって行っていました。業自体が既に神の子であることを証明しているのに、指導者たちは信じない。イエス様は呆れ返ります(10章25ー26節)。

 指導者たちの不信仰の理由の一つは、先ほども申しましたように、イエス様が指導者たちを飛び越えて神と人間の関係を取り仕切ろうとした、そのことが指導層の権威に対する挑戦と受け止められたことがあります。彼らは自分たちのしていることが神の意思だと信じて疑わなかったのです。4つの福音書を見ると、宗教指導層に対する批判が多くあるので彼らは即悪党集団という印象がもたれがちです。ところが歴史的事実として、彼らの中には、自分たちは神の意思を究めたい、究めた神の意思をしっかり守り実現していきたい、と自分なりに神に忠実であろうとした人たちも大勢いたのです。それなのにどうしてイエス様を神の子、救世主と信じることができなかったのでしょうか?それは、自分たちの教えや流儀こそが神の意思であると固く信じていたからです。このためイエス様がいくら奇跡の業を行っても、お前を神の子と信じるにはまだ足りない、という位に頑なになってしまったのです。この頑なさはさらに度を増します。イエス様は労働を禁じる安息日に病の人を癒す奇跡を行いました。すると、人が助かったことよりも安息日を破ったということに目が行ってしまい、この男は神の意思に逆らう者だ、などと奇跡の偉大さが見えなくなってしまうほどでした。

 宗教指導層が神の意思を誤って理解していた原因としてもう一つ、旧約聖書に書かれている神の約束をユダヤ民族のみに関わると理解していたこともあります。確かに、旧約聖書を繙くと、神とイスラエルの民の関係の歴史が延々と語り伝えられています。それで、ユダヤ民族以外の世界の諸民族はその他大勢に括られてしまうだけに感じられます。しかし、たとえユダヤ民族の歴史の記述が大半を占めていても、旧約聖書に述べられている神の約束は全人類に関わるものです。

 それは、創世記の出来事から明らかです。神に造られた最初の人間が神に対して不従順となり、神の意思に反しようとする罪を持つようになってしまったために人間は死ぬ存在となってしまいました。人間はユダヤ民族か否かに関わらず、誰でも死ぬ以上、誰もが造り主である神に背を向けようとする罪の性向を受け継いでいます。罪を言い表す時、フィンランドやスウェーデンのルター派教会では、具体的な行為に現れる罪(tekosynti、verksynd)と具体的には現れなくても遺伝して誰でも持っている罪(perisynti、arvsynd)という二つの言葉があるくらいです。このような受け継がれる罪があるので、たとえ具体的に行為や言葉や思いに現れなくても人間は皆罪びとであるというのが聖書の立場です。

 この罪のために、人間は神聖な神との結びつきを失ってしまいました。それに対して神は、人間が再び自分との結びつきを持ててこの世を生きられ、この世から別れた後は永遠に自分のもとに戻れるようにしようと決めました。神はそれを人間の歴史の中で実行したのです。どのように実行したでしょうか?

 アブラハムが歴史の舞台に登場しました。モーセ率いるイスラエルの民が奴隷の地エジプトを脱出して約束のカナンの地に移住しました。この過程でイスラエルの民、ユダヤ民族が出来てきました。神は、この自分が選んだ民とのやり取りを通して、自分はいかなる者で、いかなる意思を持ち、何を考えているかをたえず知らしめ、その都度その都度、将来実現する人間の救いについて預言者を通して明らかにしました。これらをまとめたものが旧約聖書です。

 そして、救いを実現する時が来ました。神はひとり子をこの世に送ったのです。ひとり子はダビデ家系のヨセフの婚約者、乙女マリアを通して人間として誕生しイエスの名をつけられました。神がイエス様に課した役割は、人間の罪を全部彼に背負わせて人間の代わりに神罰を受けさせて人間が受けないで済むようにすることでした。神はひとり子の身代わりの犠牲に免じて人間を赦すという手法をとったのです。そのことがゴルゴタの十字架の上で起こりました。人間はただイエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで、この神の赦しを自分のものにすることができます。それで人間は神との結びつきを回復出来、結びつきを持ってこの世を生きられ、この世から別れた後は復活の日に復活の体を着せられて造り主のもとに永遠に迎え入れられるようになったのです。

 神のひとり子がこの世に送られた場所は、まさに神の意思である十戒と御言葉と約束の維持管理を任されていたユダヤ民族の真っただ中でした。イエス様は神の意思を誤って理解していた指導者たちに本当の神の意思と神の業を示したのに反対されて処刑される、そういう形で人間を罪から贖う、いわゆる贖罪を自ら行ったのです。さらに神はイエス様を死から復活させ、この世に対して死を超えた永遠の命が本当にあることを示されました。そこに至る道を人間に切り開かれたのです。このように神の約束は、かつて人間が失ってしまったもの、造り主との関係を回復するという約束でした。それは特定の民族にとどまらない全人類に関わるものだったということが明らかになりました。願わくは、神の約束が特定の民族や文化文明に向けられたのでなく、全世界の人々に向けられていることが多くの人にわかってもらえますように。

3.本当のメシアは良き羊飼い

 本日の福音書の箇所でイエス様は自分の羊について語ります。「わたしの羊は私の声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。私は彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない」(10章27ー28節)。永遠の命を与えられ、この世から死んでも決して滅ぶことはない「彼ら」とは誰のことか?それは復活したイエス様を救い主と信じ洗礼を受けて神との結びつきを持てるようになった者、キリスト信仰者のことです。

 イエス様の「声を聞き分ける」とは、十字架の前に彼の教えを耳で直に聞いたということだけではありません。死から復活して天に上げられたイエス様の声を私たちは直に耳で聞くことはできません。しかし、イエス様が肉声で語った教えは、彼の弟子たちの目撃録・証言録となって福音書の中に収められています。イエス様が救い主と信じないで福音書を読むと、それはただの古代中近東の空想的歴史物語にしかすぎません。しかし、信じて読むとそれは自分を造って命と人生を与えてくれた神が語りかける言葉になり、その神と自分との結びつきを取り戻して下さった救い主メシアの言葉になります。彼が私たちに語りかける言葉です。福音書以外の書物も、使徒たちが記した書簡は復活したイエス様が、あなたたち、伝えなさい、と彼らに託した自分の言葉の集大成です。旧約聖書も、ひとり子の受難と復活を通して人間に救いをもたらすことになる神がどのような方であるかを明らかにする書物群です。総じて聖書はイエス・キリストを向き、イエス・キリストに結びついています。聖書を繙くことで、私たちはイエス様から直接言葉を聞くのと同じくらいに、イエス様のことを知ることができます。

 イエス様はまた、彼の羊、つまりキリスト信仰者をみな知っていると言われます。10章3節で、羊飼いであるイエス様は「自分の羊の名を呼んで連れ出す」と言っています。このようにイエス様は、私たち一人ひとりを名前で呼ぶくらいに私たちのことを個人的に知っているのです。個人的に知っているから、私たちが日々何を考え、何をし、何を必要としているのかご存知です。ご存知ではあるけれども、イエス様の方では、私たちがそれらのことをお祈りして打ち明けることを望んでいます。そうすることで、私たちはイエス様に信頼をおいていることをイエス様にも示し自分自身にも言い聞かせることができます。イエス様や父なるみ神はどうせ全部ご存知だから祈る必要もない、というのは信頼をおくことを怠けることになります。

 死から復活したイエス様を救い主と信じ洗礼を受けたキリスト信仰者は、造り主の神との結びつきを持ってこの世の人生を歩むことになると申しました。人生の歩みでは、いつも私たちの祈りを聞いてくれる、個人的な思いや願いを聞いてくれる主がいつもそばにいるとも申しました。しかし、人生の歩みの中で、本当に神との結びつきはしっかり保たれているだろうかと疑問や不信を抱くことが多くあることも事実です。特に罪に陥った時とか、苦難や逆境に陥った時がそうです。

 罪に陥った時、陥ったのはあくまで自分ですから、それで十字架と復活がもたらす救いと恵みの力が減ることはありません。救いと恵みに力がなくて罪に陥るのを阻止できなかったということではありません。救いと恵みの力と価値は私たちがどんな状況にあるかにかかわらず不変です。それゆえ、罪に陥った時、私たちに出来ること、またしなければならないことは、罪を罪として認めて神の御前で赦しを祈ることです。そうすると十字架と復活に現れた神の恵みと愛は私たちが洗礼を受けた時と全くかわらない力と輝きを持って私たちを包み込みます。このように洗礼を受けた者はいつも立ち返れる地点があります。

 それから、私たちは自分自身の罪が原因ではないのに苦難や逆境に陥ることもあります。この問題はとても難しいです。一つ言えることは、そのような時でも、救いと恵みに力がなくて、自分が苦難と困難に陥るのを阻止できなかったということではありません。「主はわたしの羊飼い、わたしには何も欠けることがない」で始まる詩篇23篇の4節に「たとえ死の陰の谷を行くときもわたしは災いを恐れない。あながた共にいてくださる」と謳われています。主がいつも共にいてくださるような者でも死の陰の谷のような暗い時期を通り抜けねばならないことがある、災いが降りかかる時がある、と言うのです。主が共にいれば苦難も困難もないとは言っていません。苦難や困難が襲って来ても主は見放さずに共にいて共に苦難の時期を一緒に最後まで通り抜けて下さる、だから私は恐れない、と言うのです。実に、洗礼の時に再興された神との結びつきは私たちの方で捨てない限り、いかなる状況にあっても保たれているのです。

 今日の説教の中で、キリスト信仰者は神との結びつきを持ってこの世を進むとか歩むとか申しました。一体どこに向かって進むのでしょうか?それについても申しました。復活の日に復活を遂げて神の御許に迎え入れられるところです。このことが今日の黙示録の中でも言われていますので、最後にそれを見ておきましょう。

7章14節「彼らは大きな苦難を通ってきた者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。」

 イエス様がゴルゴタの十字架で流した血で私たちは罪から清められる道に置かれてその道を進みます。復活の日、私たちは内も外も完全に白くされているのを自分の目で見ます。イザヤ書1章18節の神の言葉「お前たちの罪が赤くとも、お前たちは雪のように白くされる」がイエス様の十字架の血のおかげで本当になるのです。また詩篇51篇9節のダビデの祈り「私を雪よりも白くして下さい」も本当になるのです。

7章15~17節「玉座に座っておられる方がこの者たちの上に幕屋を張る。彼らはもはや飢えることも乾くこともなく、太陽もどのような暑さも彼らを襲うことはない。玉座の中におられる小羊が彼らの牧者となり、命の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとく拭われるからである。」

 ここに、イザヤ書49章10節、詩篇121篇6節、詩篇23篇1、2節、イザヤ書25章8節の御言葉がそのまま実現するのを見ることが出来ます。

 兄弟姉妹の皆さん、このように旧約聖書はイエス・キリストを向き、イエス・キリストに結びついていると言うのは誠にその通りです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように

アーメン

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。