8月9日 主日礼拝(聖霊降臨後第10主日)  司式・説教:マルッティ・ポウッカ 牧師

説教題「恐れることはない」

祈り・聖書日課パイヴィ・ポウッカ 宣教師

聖書日課列王記上19章9~18節、ローマ10章5~15節、マタイ 14章22~33節

賛美歌187  240   371   333

音楽マルッティ・ポウッカ、谷八智子

ビデオ編集:パイヴィ・ポウッカ

礼拝はスオミ・キリスト教会ではなく、YouTubeだけで配信し、後でもそこで見ることが出来ます。

YouTube放送、日10時30分~ アクセス

歳時記

露草または蛍草

朝早く草むらの中でよく見かけます、その青い色が何とも言えないはかなさを感じさせます。夕方にはしぼんでしまうそうで何となくカゲロウを思わせます。はかなさは共に短い命を連想してしまうからでしょうか。

主日礼拝8月9日 10時30分 (ビデオ礼拝)

スオミ・キリスト教会主日礼拝8月9日 10時30分 (ビデオ礼拝)
礼拝はYoutubeで8月9日(日)10時30分〜見ることが出来ます。
アクセス   https://www.youtube.com/channel/UCttMNU_tjIJmcbWUM0X7haA
御注意:礼拝はスオミ・キリスト教会ではなく、YouTubeだけで配信し、後でもそこで見ることが出来ます。
司式・説教:マルッティ・ポウッカ 牧師
説教題:「恐れることはない」
聖書日課:列王記上19章9~18節、ローマ10章5~15節、マタイ14章22~33節
賛美歌:187  240   371   333
音楽:マルッティ・ポウッカ、谷八智子
祈り・聖書日課:パイヴィ・ポウッカ 宣教師
ビデオ編集:パイヴィ・ポウッカ

 

 

 

 

 

「テキスト」8月2日(日)聖霊降臨後第九主日 主日礼拝  司式・説教 吉村博明SLEY(フィンランド・ルーテル福音協会)宣教師

 

主日礼拝説教 2020年8月2日(聖霊降臨後第九主日)スオミ教会

イザヤ55章1-5節

ローマ9章1—5節

マタイ14章13-21節

説教題 「神の国に向かって進む者には奇跡は本当のことになる」

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 本日の福音書の日課の個所は、イエス様の有名な奇跡の業についてです。お腹をすかせた5千人以上の群衆にわずか五切れのパンと二匹の魚でみんなをお腹いっぱいにしたという奇跡です。これと同じ出来事についての記述が今日のマタイ13章の他にマルコ6章、ルカ9章、ヨハネ6章にもあります。他にも大勢の群衆をわずかな食糧で満たした出来事が、マタイ15章に4千人以上を相手にして七切れのパンと少しの魚で行ったことが記されています。これと同じ出来事はマルコ8章にもあります。人数は5千人から若干少なくなり元手のパンも5切れから少し増えますが、それでも想像を超える話には変わりありません。言われる人数も、女子供は除いてということですから、実際は5千人、4千人よりもずっと多かったでしょう。

一体この出来事は何なのでしょう?自然の摂理に反しすぎています。目の前にいるのは5千人以上の群衆。手元にあるのは5切れのパンと2匹の魚。5人に分け与えてもお腹いっぱいになんかならないでしょう。これを読んだ人は誰だって、こんなこと起こりっこない、大昔の人のファンタジーだと言うでしょう。ただ、話は聖書という宗教の本に載っていることなので本当かどうかは大事ではない、宗教の教祖というのは不思議な力を持って慈悲深い者であると描くのは古今東西どこにでもある、ここもそれなのだと言って、ありえないと騒ぎ立てることもしない、そういうのが普通の受け止め方ではないでしょうか?

 しかしながら、この話が群衆の空腹の満たしで終わらず、残ったパン屑を集めたら籠12個分が一杯になったというのを聞くと、あっけに取られてしまいます。これじゃ、最初の5切れよりも増えてしまったじゃないか?これは一体何なんだ?命と体のために必要なものを消費する。ところが、消費したはずのものは無くならないで、逆に消費すればするほど増えしまう。ここまでくると、教祖の慈悲深さを超えて、自然の法則を足蹴にして鼻で笑っているような感じさえします。

私も含めてキリスト信仰者の多くは、全員ではないかもしれませんが、そういう信じられない出来事が実際に起こったのだと言います。それは、私たちが科学的に無知でイエス・キリストの慈悲深さにすがりたいあまり、現実世界に目をつぶっているということではないと思います。もちろん、このようなことは普通はあり得ないとわかっているので科学的に無知ではありません。ただ、この場合は普通あり得ないことが起こったのだ、と言うだけです。そういう例外を認めることが無知ということになるのであれば無知でもいいです。また、イエス・キリストの慈悲深さにすがりたいあまり、あり得ないことを起きたことにしているのでもないと思います。イエス様が慈悲深いというのはその通りと思いますが、人間が病気や食べ物がないから可哀そうだから助けてあげるという人道主義を超えたことがあると考えています。というのは、もしイエス様のこの世での活動が人道主義で説明できるのなら、30そこそこの年齢で活動を打ち切ってさっさと十字架刑にかけられる道には進んだのはどうしてでしょうか?せっかく超能力に溢れているのだから、もっと長生きして世界各地に赴いて人道支援を続けた方が理に適っていると思います。なぜイエス様はあの時点で打ち切って受難が待ち受けるエルサレムにわざわざ向かって行ったのでしょうか?

全てのことは、イエス様の活動の主眼が「神の国」にあったということで説明がつくと思います。そういうわけで本日の説教では、イエス様の教えや業が「神の国」に結びついていることを明らかにしていこうと思います。

2.「悔い改めよ、神の国は近づいた」

 

イエス様がこの地上で活動した時の主眼は人々に「神の国」について知らせ、人々の目と心をそれに向けさせることにありました。

活動を開始した時、イエス様は「悔い改めよ、神の国は近づいた」と宣べていました。どんな意味でしょうか?「悔い改める」と言うと、悔恨の念を持って一人で暗くねちねち反省しまくっているようなイメージがわきます。何か、日本の職場や学校で反省文を書かされるようなイメージと結びつけられてしまうかもしれません。しかし、ギリシャ語のメタノエオーという動詞の基本的な意味は「考えを改める」です。そして、その動詞の背景にあるヘブライ語のシューブは、神に背を向けていた生き方を方向転換して神の方を向いて生きるということです。ねちねちなんかしていられません。神の意思に反する生き方をしてしまった、それは罪なのだ、だからこれからはそれをやめて神の意思に沿うように生きなければ、と言って、エイ、ヤーと方向転換するのです。

ただし、ことはそう単純ではないことも事実です。方向転換とは言っても、神の意志に反していたことはどうなるのか?神は、そんなこともういいよ、と気安く言ってくれるのか?神がそんなに手軽で手ごろな方だったら、誰がもう罪を犯さないように生きようなどと思うでしょうか?逆に、もし神が罪を簡単には赦さない方ならば、どうしたらいいのか?何か償いをしなければならないのか?神が、お前の償いは完璧だから赦してやることにする、と言ってくれても、その後の人生でいいことがなければ、そんな神に方向転換したことを後悔するでしょう。逆に、いいことがあって、それで神の方を向き続けることが出来たとしたら、それでは足元はおぼつかないでしょう。

実は、イエス様は人間が神に向かう方向転換がおぼつかないものではない、完璧なものにしてくれたのです。そのことを後で見ていきます。悔い改めなさい、方向転換しなさい、と言うのは、これからそれが出来るようにしてあげよう、だから、私のところに来て私の教えることを聞きなさい、私の行うことを見なさい、ということです。

3.イエス様と共にあった「神の国」

 イエス様は併せて、「神の国は近づいた」と宣べました。これは驚くべきことです。神の国というのは本来は、終末の時、天と地が新しく創造し直されて、今の世が新しい世に生まれ変わった時に現れるものだからです。

 「神の国」に終末論が関係することについて少し触れておきましょう。ここ数週間の説教でもお教えしてきたことですが、聖書には終末論の観点があります。今のこの世が終わり新しい天と地が創造され、新しい世が始まるということです。終末論とは言いますが、正確には終わりだけでなく始まりも考えられます。新しい世では「神の国」が唯一現れる国となり、再臨するイエス様が最後の審判を行い、誰が「神の国」に迎え入れられ誰が入れられないかを決めます。その時、死者の復活が起こり、迎え入れられる者たちはこの世で纏っていた朽ち果てる肉の体にかわる神の栄光を映し出す朽ちない復活の体を着せられます。

 「神の国」がどんな国かを考える時、黙示録21章4節で言われていること、つまり神が迎え入れられた者たちの目から全ての涙を拭われた国であり、死も悲しみも嘆きも労苦もない国であることに着目すべきと先週申し上げました。死も悲しみも嘆きも労苦もないので、安心安逸な天国そのものです。それに加えて、神が拭われる涙はギリシャ語原文で「全ての涙」なので、痛みや苦しみの涙だけでなく無念の涙も含まれます。この世で中途半端や不完全に終わってしまっていた正義が最後の審判の時に完結させられ完全なものにされるということです。神の正義が完全と言うのは、人間は他人のことのみならず自分のことさえも知り尽くすことはできません。それなので人間が下す判断はいつも偏って不完全です。人間のことを知り尽くしているのは、人間を造られて一人ひとりの髪の毛の数まで知っておられる創造主の神だけです。その神が下す判断が偏らず完全で、それが隅々まで行き渡っている国が神の国です。

イエス様はその「神の国」が近づいたと言ったのですが、それじゃ、もうその時は終末だったのか?しかし、あの時から今日まで天と地は全然変わっていないじゃないか?そういう疑問が起きます。イエス様は何を意味したのか?

それは、「神の国」

がイエス様と共にあった、というか、イエス様の背後に控えるようにしてあった、ということです。どういうことかと言うと、イエス様の行った奇跡の業を思い出しましょう。無数の病人の癒し、悪魔の追い出し、自然の猛威の静め、そして今日の個所のように、わずかな食糧で大勢の人たちを満たすことがありました。健康、安心、安全、魂の守り、全て神の国に当たり前のようにあるものです。イエス様の奇跡の業と言うのは、「神の国

がどういう国であるかを人々に垣間見せた、味わわせたという意味を持ちます。もちろん、イエス様が慈悲深い方で困っている人を助けないではいられなかったと言うことも否定はしません。しかし、それならば、もっと大勢の人たちを助けるためにもっと地上にいてもっと多くの国々を回った方がよかったではないかということになります。イエス様は、まず当時の人々に「神の国」

で当たり前にあることに与らせることをして、人々の目と心を神の国に向けさせました。後世の人は、それらの証言や記録に触れることで目と心を向けることが出来るようになりました。

イエス様は人々の目と心を神の国に向けさせただけに留まりませんでした。人々がそこに迎え入れられる手はずも整えたのです。イエス様の十字架と復活の出来事がその手はずでした。

人間に神の意思に反する罪が備わっていることは、世界や自分の周りに起きている痛々しい出来事を見ればわかります。自分自身を振り返ってみてもわかります。また自分は周囲に対して何も迷惑をかけていないと、優等生のつもりでいても、十戒の掟を鏡として自分を見れば、神の意志に沿うものでないことがわかります。人間はそのままの状態では、神の目から見て相応しい者ではないのです。神とイスラエルの民との間の旧い契約に基づけば、人間は神から与えられた掟を守れば、神の目から見て相応しい者になれるということでした。ところが、神が求めているのは外面的な行いだけでなく心の中の清さもそうなので、それは人間には不可能なことが明らかになりました。

そこで神が採った策は、誰かに人間の罪を全て償ってもらい、人間の罪を帳消しにした状況を創り出して、人間をその中に入れて人間を神の目に相応しい者に変えていこうというものでした。それでは、誰が人間の罪を償う役割を果たすのか?それが神のひとり子のイエス様だったのです。神聖な神の神聖なひとり子です。これ以上の身代わりはないという犠牲でした。これがイエス様のゴルゴタの丘の十字架の死の出来事の真相だったのです。人間は、この神の策による罪の償いが自分に対しても行われたのだとわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、神から罪を赦された者として見られるようになり、それからは神との結びつきを持ってこの世を歩むようになります。神の目に相応しくなろうとして自分で何かを成し遂げたのではなく、神のひとり子にそうしてもらったのです。畏れ多いことです。自分がしたことと言えば受け取るだけで、他は何もしなかったのに、天地創造の神が毎日、私の傍にいて祈りや願いを聞いてくれる神になったのです。

それからは、神のこの深い恵みに背くような生き方は出来なくなります。 もちろん、キリスト信仰者になっても弱さはあるし、隙をつかれることもあります。しかし、たとえ神の意思に反することがあってどうすれえばいいのか、ということになっても、一度打ち立てられた十字架の贖いの力は消えません。罪の赦しがそこにあるのだと確認できれば、また前に進んでいくことができます。その時の方向転換は本物です。進んでいく先とは「神の国」です。そして、この世を去った後、復活の日に目覚めさせらる時、神は、このように絶えず十字架に戻りながら前に進んでいたことを覚えていて下さるのです。

4.神の国を知らしめる教え

 イエス様が奇跡の業を行ったのは「神の国」

を垣間見せた、味わわせた、ということであり、それは人々を、当時の人も後世の人も皆、「神の国」に導くためでした。しかも、イエス様は、十字架と復活の業を通して、その導きを具体的なもの、現実のものにして下さったのです。ただ単に超能力を行使していたということではなかったのです。もしそれだったら、人々の目は「神の国」になど向かず、イエス様を教祖として拝むだけでしょう。

イエス様は、奇跡の業で私たちの目を「神の国」に向けさせるだけではありませんでした。教えを通しても、神の国がどのような国であるかを知らせました。先々週と先週のたとえの教えは、まさに「神の国」とそこに迎え入れられる者はどういう者かについて教えるものでした。「からし種」

と「パン種」のたとえでは、朽ち果てる肉の体を纏った、取るに足らない私たち人間が、イエス様を救い主と信じる信仰に入ることで、最後には神の栄光を映し出す復活の体を纏う者に変わるということが教えられていました。「畑の宝石」

と「真珠」

のたとえでは、人間は神のひとり子の血を代償として神のもとに買い戻されるという位、神に高価なものと見なされて、神の国が現れる日までずっと守られているということが教えられていました。「良い麦と毒麦」と「魚を捕る網」のたとえでは、終末の時、神の国に迎え入れられる者と入れられない者の選別があるということが言われ、特に、最初迎え入れの候補者だった者も除外される可能性があるということ、だから、まさに今これからイエス様が果たした償いを受け入れて、十字架に戻りながら前に進むことを始めるかどうかにかかっているということが教えられていました。

イエス様の「神の国」を教えるたとえには、神の正義について教えるものもあります。マタイ20章にあるブドウ園の所有者と労働者のたとえでは、朝から晩まで一日中働いた者と夕方に来てちょっと働いた者の賃金が同じになることがあります。これは、神の国への迎え入れということについて、子供の時からキリスト信仰者として信仰ゆえにいろいろ苦労があった人も、晩年にイエス様を救い主と信じて洗礼を受けてそういう苦労がほとんどなかった人も、神の招きに応じたのだから神の目から見て同じくらい相応しいということを意味します。神の国への迎え入れに関しては、神がイエス様を用いて用意したことを受け取るかどうかが本命になります。そこには人間社会の正義の尺度からはみ出すものがあるのです。

4.神の国の奇跡と聖餐式

以上から、本日の日課の5,000人以上の空腹を満たす奇跡の出来事も、他の奇跡も全て、イエス様を救い主と信じて「神の国」

に向かって進む者にとっては起きて当然のものになることがわかって頂けるのではないかと思います。「神の国」に向かって進んでいない人にとっては、あり得ない話に留まるでしょう。

本説教の最後の部分です。本日の旧約の日課はイザヤ書55章の個所でした。一見すると、お金がなくても神が食べ物と飲み物を与えてくれるような内容です。4節と5節を見ると、諸国民に対する証人、諸国民の指導者、統治者とあるので、イエス様のことを指しているとわかります。そうすると、この個所は5,000人の奇跡を暗に意味していると考えることが出来ます。そこで、5,000人の奇跡が単なる空腹の満たしの超能力ではなく、「神の国」を知らせ迎え入れに導く奇跡であれば、このイザヤ書の個所も同じです。

1節で「穀物を求めて、食べよ、来て、銀を払うことなく穀物を求め」の「求め」はヘブライ語原文では「買う」です。お金がないのに「買う」というのは変なので「求め」に訳したのではないかと思われますが、要は「タダで手に入れる」ことです。私たちは罪の償いと神の国への迎え入れを神からタダで頂きました。2節で「なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い、飢えを満たさぬもののために労するのか」というのは、せっかく神が無償で与えてくれる救いがあるのに、人間は違うものに救いがあると思って、それに自分の持っているものや労力を費やそうとしている。そこで、神は、私に聞けと命じます。「聞け」が何度も繰り返されます。と何度も繰り返されます。

2節の中ほどに「わたしに聞き従えば」とありますが、ここはヘブライ語原文は命令形です。それもとても強調された言い方の命令です。それで、「しっかり聞くんだ!」としておきます。実はここのところをヘブライ語で読んでいくと、シムアー・シャーモーアと読みますが、いきなりイザヤ書6章9節に引き込まれます。というのは、そこにも同じ言い方があるからです。ただし、使われ方は180度正反対です。6章9節は、神の意思に反する生き方をするイスラエルの民に神が罰を下すところです。「しっかり聞け!しかし、お前たちは理解するな」と命じるのです。神との旧い契約が破綻したことを示しています。

それとは対照的に55章2節の「しっかり聞け!」は、「そうすればお前たちは良い物を食することが出来、魂に命を吹き込むことが出来る」と続きます。続く3節では新しい契約について言われます。新しい契約とは何か?それは、律法を守ることで神の目に相応しくなろうとするのではなく、神のひとり子が果たしてくれた罪の償いを受け入れることで神の目に相応しくなることです。神の目に相応しいものにされた以上は、これからは神の意思に沿うようにと自分を方向づけていきます。そこでは神に聞くことが重要になります。

神に聞くこととは、聖書を繙くこと、説教で御言葉の説きあかしを聞くことです。聖餐式のパンと葡萄酒は、神の国に向かって進んでいく時に起きてくる霊的な空腹を満たすものです。神が無償で与えて下さる糧です。消費すればするほど満たされ、消費してもなくなることもありません。まさに聖餐式は、全てが満たされている神の国を先取りするものです。聖餐式で私たちは神の国を味わい垣間見ることになるのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

洗礼式

礼拝のあと星野マサ子さんの洗礼式が浅野直樹主任牧師(市ヶ谷教会)と吉村博明宣教師(SLEY)によって執り行われました。式後のコーヒータイムの席で教会とパイヴィ先生とヨハンナさんから心のこもったプレゼントを贈られました。

歳時記

夏のはずなのに、まだ蝉が鳴いていないと訝っていたらそばでとっくに鳴いていると言われた、またかと思うと寂しくなりました。確かに裏の草藪にセミの抜け殻を見つけて納得しました。他の音には概ね反応するのですが何故か蝉の鳴き声だけは聞こえません、波長が合わないのかな。

「テキスト」7月26日(日)聖霊降臨後第八主日 主日礼拝 司式・説教 吉村博明SLEY(フィンランド・ルーテル福音協会)宣教師

主日礼拝説教 2020年7月26日(聖霊降臨後第八主日)スオミ教会

列王記上3章5-12節

ローマ8章26-39節

マタイ13章31-33、44-52節

説教題 「神の国に向かって進む子らよ、これだけは忘れないでほしい」

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

先々週から福音書の日課はマタイ13章のイエス様のたとえの教えです。先々週は「種まき人」のたとえ、先週は「良い種と毒麦」のたとえでした。今日は、短いたとえがいくつかあります。まず、「からし種」と「パン種」の二つのたとえ、これは群衆を前にして語られました。その後でイエス様は群衆と別れてある家に行き、そこで弟子たちに四つのたとえ、「畑の宝物」と「良い真珠を探す商人」と「魚取りの網」、そして「天の国のために弟子になった律法学者」のたとえを話されました。最後のたとえは、新共同訳では「天の国のことを学んだ学者」ですが、ギリシャ語原文の正確な訳は今申した通りです。

今日は合計六つのたとえがあることになりますが、先週の「良い種と毒麦」と今日の最後のもの以外の五つは全部、イエス様が言うように「神の国

をたとえるものです。ただし全部について「神の国」とは言わず「天の国」と言われています。これは、マタイが「神」という言葉を畏れ多くて使わず、「天」に言い換えていることによります。「天の国」も「神の国」も同じことです。後で「神の国」について見ていきます。

イエス様はこれらのたとえを神の国が理解できるために語られました。私たちは、これらを聞いて神の国がどういう国であるか理解できるでしょうか?そういうわけで本日の説教では、これらのたとえをもとにして神の国を理解してみようと思います。まず説教の第一部は、聖書で言われる神の国について少し一般的なことを述べておきます。そうすると後でたとえの教えがわかりやすくなると思います。第一部ではまた、本日の旧約の日課、列王記上の個所が役に立つと思います。第二部では、本日のイエス様のたとえの教えをみます。第三部では、神の国を信じる者はこの世をどのように生きることになるかということについて見ていきます。そこでは、本日の使徒書の日課、ローマ8章が役に立つでしょう。

2.神の国について

先週の説教でもお教えしましたが、聖書には終末論の観点があります。今のこの世が終わり新しい天と地が創造され、新しい世が始まるということです。終末論とは言いますが、正確には終わりだけでなく始まりも考えられます。新しい世では神の国が唯一現れる国となり、再臨するイエス様が最後の審判を行い、誰が神の国に迎え入れられ誰が入れられないかを決めます。その時、死者の復活が起こり、神の国に迎え入れられる者たちはこの世で纏っていた朽ちる肉の体にかわって神の栄光を映し出す朽ちない復活の体を着せられます。

神の国がどんな国かを考える時、黙示録21章4節で「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」とあるので、安心安逸な世界、天国そのものとわかります。ただ同じ節に、神は御許に迎え入れられた者たちの目から涙をことごとく拭われると言われているので、そこにも着目します。この涙は、痛みや苦しみの涙だけではなく、無念の涙も含まれる、文字通り「全ての涙」です。この世で中途半端や不完全に終わってしまっていた正義が最後の審判の時に完結に至らされ完全なものにされるということです。正義というのは、とても難しいことです。大きな悪や害を被ったのに、どんなに頑張っても補償や償いが見合わないということがあります。逆に、本当はそこまで要求する必要はないのに法外な償いや謝罪を求めるということもあります。そういうことは日々のニュースを見ても気づかされるし、私たちの身の回りにもよくあります。このように人間同士が行うことは、不釣り合いで不完全なことばかりなのです。釣り合いが取れた完全な判断というものは、全ての人間の全てのことを知り尽くしている者でないと出来ません。そのような者は、人間そのものを造られ、人間一人ひとりの髪の毛の数まで知っておられる神をおいて他にありません。神の国とは、神の判断が隅々まで行き渡っている国なので完全な正義があるのです。

本日の旧約の日課の個所でソロモン王が神にお願いしたことは、そういう神の正義を求めるものです。ソロモンは父ダビデからイスラエルの国と人民を受け継ぎました。彼はこの勢いある国をちゃんと統治できるか自信がありませんでした。もちろん権力があるので、自分の好きなようにやることは可能です。自分にたて突く者は排除し、自分に媚を売る者を周りに集めてやりたい放題できます。しかし、王はそれを望みませんでした。「あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与え下さい」(3章9節)と願い出ました。長寿も富も敵の命も要らない、本当に正しい決定を行える心を望んだのです。国を統治する時、多くの決定を下さなければなりません。いろんな利害や対立を解決しなければなりません。その時、いろんな声を聞かなければならなくなるでしょう。人間が把握できることは限られています。全てを把握しようとすると無制限になってしまって何も決められなくなります。見切り発車したら多くのことを見落としてしまい、ある人たちは満足しても別の人たちはしないということになります。

しかし、全てを把握している全知全能の神は誰が見てもこれ以上のものはないという決定を下せます。私たちはそういう超えた判断をされる方がおられるとわかった時、例えば、自分が得た利益は他人に犠牲を強いたものだったかどうか振り返ってみることができます。また他人の重荷を軽くするために自分はこれくらいの犠牲は担えると言うこともできます。ソロモンはまさに人間的な思いが入り込まない、神の思いを自分の思いにして決定を下したかったのです。どうしてそう言えるのかというと、3章11節で神がソロモンに、お前が望むのは(ヘブライ語で)”ミシュパート”が分かるということだな、と言っているからです。”ミシュパート(משפט)”というのは、ずばり「正しい決定」、「正義」を意味する言葉です。新共同訳では「訴え」と訳されていますが、正確ではありません。このソロモンの望みが神の御心に適っていたのは言うまでもありません。神はソロモンに知恵を与えました。ソロモン王の治世の間、イスラエルの王国は繁栄の頂点に達しました。ただ、繁栄に伴って富や名声も膨れ上がり、やがて人間的な思いが入り込むようになって神の思いが脇に追いやられていきます。それが後に禍のもとになっていきます。そのことについてはまた別の機会にお話しすることになるでしょう。

2.神の国を構成する復活の者たち

以上、神の国とは、新しい天と地のもとでの新しい世に現れる国であり、神の栄光を映し出す復活の体を纏われた者たちが迎え入れられる国、痛みも苦しみもない天国そのものであるだけでなく、神の意志と判断が隅々まで行き渡り正義が完全に実現される国であることを見てきました。その国をイエス様は本日のたとえでどう教えているでしょうか?

神の国は新しい世に現れるからと言って、今の世にまったく何もないということではありません。先週の「良い種と毒麦」のたとえの教えでもお教えしましたように、「人の子」イエス・キリストは今は父なるみ神のもとにいながら、今この世で行われている福音伝道や教会生活を通して将来神の国に迎え入れられる人たちを増やし育てています。神の国が目に見える形で現れるのは将来のことですが、それは今は目には見えない形で始まっているのです。それでは何が始まって、今どう進んでいるのでしょうか?

確かにこの世の段階では、復活の体を纏った者たちが集い、正義も健康も安全も全てが完全になっている国は夢物語です。今あるのは何かと言うと、イエス様がゴルゴタの丘の十字架で果たして下さった人間の罪の償いがあります。それから、それを受け入れて神との結びつきを回復して神の国に向かう道を進んでいる者たちがいます。彼らはまだ復活の体を纏っておらず肉の体ですので、神の意思に反することにいつも晒されてしまいます。それで心はいつもイエス様の十字架の下に立ち返り、神から罪の赦しを確認してもらいながら、また進んでいくという生き方です。キリスト信仰者はまだ不完全な状態ですが、イエス様の十字架による罪の償いという完全な償いを持てています。今、神の国という完全な国に向かう道を神との結びつきを持って歩んでいるということです。不完全なものが完全なものになる前に完全なものに結びつけられているということです。

そこで、「からし種」と「パン種」のたとえを見てみましょう。まず、「からし種」のたとえ。神の国は今は目に見えないものであるが最後には結果がはっきり現れるというのは、数ミリ位のあるかどうかわからない「からし種

が成長して最後には鳥たちが巣を作るくらいの木になるのと同じだということになります。天の鳥たちが木の枝に巣を作るというのは、旧約聖書の預言で神の国をたとえるものとして言われています(ダニエル4章9、18節、エゼキエル17章23節、31章6節)。

「パン種」

というのは、以前に作ったパンの生地の小さな残りを発酵させて、次のものを作る時に生地に混ぜると、良い香りがしてパンも膨らむというものです。三サトンというのは小麦粉39リットル位の量でそれから出来る生地なので、かなり大量のパンが出来ます。小さな発酵した生地のかけらは、それ自体では何の価値もないのですが、それがふっくらした香ばしい大きなパンを生み出すのです。これも、取るに足らないものから大きく目に見える素晴らしいものが現れるということで神の国にたとえられています。

ここで私は見方を拡げて、パン種もからし種も復活の体を纏わされた者たちのことも指していると考えます。取るに足らない、それ自体何の価値もないようであるが、撒かれて神に成長を与えられて立派な木に育つ、または捏ねられるように神に手をかけてもらってふっくらした香ばしいパンに変わる。これは、朽ち果てる肉の体が神の栄光を映し出す復活の体に変えらることと同じです。神の国とは、そのような者たちを構成員とする国なのです。

次に「畑の宝物」と「良い真珠を探す商人」。これらのたとえが解釈される時は普通、宝物と真珠は神の国を意味する、つまり神の国がそれほど素晴らしいので登場人物は自分の全財産を売り払ってまでして購入する。そういう神の国の何ものにも代えがたい素晴らしさを語っているのだと考えられることが多いと思います。神の国が素晴らしい価値あるものというのは私も同意見ですが、今回はこう考えたらどうかという解釈の提案をいたします。それは、宝物を見つけた人や商人が全財産を売り払ってまで購入したというのは、これは神がひとり子イエス様を犠牲にしてまで私たち人間の罪を償って下さったことを意味するのということです。人間はイエス様が十字架で流された血を代償として、罪と死の支配下から神のもとへ買い戻されました。それ位、私たち人間は神の目から見て価値あるものと見なされたのです。- どうか多くの人がこの素晴らしい真理に気づくことが出来ますように - そうすると、たとえの宝物や真珠はイエス様に罪を償ってもらった価値ある人間ということになります。これを高い代価を払って買い取ったのは神ということになります。神は畑ごと買うので、誰もそこに足を踏み入れることが出来ません。これはまさしくイエス様を救い主として受け入れて罪の償いを自分のものにしたキリスト信仰者が復活の日まで守られていることを意味します。

次の「魚を捕る網」のたとえは、先週の「良い種と毒麦」のたとえと同じ内容です。最後の審判の時に誰が神の国に迎え入れられ誰が迎え入れられないかということが決められる、その日が来るということです。せっかく同じ網にかかっても投げ捨てられてしまうというのは、「良い種と毒麦」にあったのと同じ問題提起があります。それは、神の国に迎え入れられる予定の者だったのに神の意思に反する不法を行う者だったので毒麦と一緒に燃やされるということでした。つまり、キリスト教徒でも、自動的に神の国に迎え入れられるということではないのです。つまづきとなるものをことごとく踏みつぶし不法を行わない者が迎え入れられるのです。つまり、自分自身のキリスト信仰を保ち、他人のキリスト信仰も支え、神の意志に沿う生き方をする者です。神からの罪の赦しの中にとどまって神との結びつきを守る者です。そういうわけで、今の時点で自分はキリスト教徒だと言っていても、将来倉に納められる麦のように、また器に入れられる良い魚のように神の御国に迎え入れられるという保証はありません。逆に、今の時点でキリスト信仰者でないからと言って、それで今後も火に投げ込まれる毒麦や悪い魚のままだと言うことも出来ません。イエス様のことを救い主と信じるきっかけはいつ転がって来るかわからないからです。要は、最後の審判の時に「人の子」イエス様にどう判断されるかということです。それなので、問われているのは、これまでの時点でキリスト教徒だったかどうかではなく、これからどうするのか、例えばこの説教を聞いた後でどうするのか、ということです。

最後のたとえ「神の国のために弟子になった律法学者」はわかりにくいかもしれません。それを見ていきましょう。「律法学者が神の国のために弟子になると皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す屋敷の主人のようになる」というのはどいういうことでしょうか?律法学者とはモーセ律法の専門家で、神とイスラエルの民との間で結ばれた契約について熟知している専門家です。彼らが今度はイエス様が教える神の国を受け入れると、こういう屋敷の主人のようになるというのです。イエス様が教える神の国を受け入れるというのは、イエス様の十字架と復活は本当に起きたのだ、それは神の計画の実現であり、人間が神の国に迎え入れられるようにするために行われたのだ、そう信じることです。イエス様を救い主と信じることで神との結びつきが生まれるとそれは神との新しい契約になります。こうして律法学者の専門知識には古い契約と新しい契約の両方が入ることになります。新しい契約が来たからと言って十戒の掟が廃棄されることはありません。十戒は新しい契約の中で新しい役割を果たすようになります。守らなければ神の罰を受けるぞと人間を追い込むものではなくなりました。かわりに人間が神の意志に沿えない罪深いものであることを映し出す鏡になって、人間に罪の自覚を生み出してイエス様の贖いの業の必要性を覚えさせて 人間をイエス様の下に送り出す役割を持つようになりました。

そういう律法学者が実際にいたかどうかは聖書からではわかりません。ある律法学者がイエス様との問答で最も大事な掟は何かと聞いて、イエス様が神を全身全霊で愛し、その愛に基づいて隣人を自分を愛するが如く愛せよ、と答えたことがあります。その答えに感銘を受けた律法学者はそれを復唱し、イエス様から「お前は神の国から遠くはない」と言われたことがあります(マルコ12章34節)。「遠くはない」だから、まだ神の国の弟子にまでは至らなかったようです。でもそれは無理もないことでした。まだイエス様の十字架と復活の出来事が起きていなかったのですから。

3.神の国に向かって進む者が忘れてはいけないこと

以上、本日のイエス様のたとえを見てきました。神の国やその構成員は、今のこの世では取るに足らないものであるが、神は手をかけて育てたり捏ねたりして、最後には必ず結果が目で見えるものになって現れるということ。さらに神は、私たち人間のことをひとり子を犠牲に供してもよいと考えるほど価値あるものと見なし、イエス様を救い主と信じて受け入れた者を復活の日まで守って下さり、その守りの中に留まる限り必ず神の国に迎え入れて下さることがわかりました。

復活の日まで守って下さると言われて、その通りだと信じますとは言ったものの、本当にそうだろうか、守ってもらっていないのではないかと思う時があります。また、守ってもらっていながら、自分は神の意志に反することばかりではないか、いつ守りの手を離されてもおかしくない、実はもう離されてしまったのでは?と心配することもあります。そんな時は、本日の使徒書の日課ローマ8章の個所を見てみると、そんなことはない、神は私から手を離さないばかりか、私自身がその手を離さないように力を下さっていることがわかります。

先週8章に入りました。洗礼を受けた者には、神の霊、聖霊が宿っているということが言われました。聖霊が肉の体に楔のように打ち付けられているので、その通りに出来るかできないかは別として、神の意志に沿おうとする意志と心があります。それが内面の戦いを生み出し、キリスト信仰者はため息をつくようなことばかりだが、将来神の栄光を現わす復活の体を纏わされて神の国に迎え入れられる希望を持っています。この希望を持っている限り、もう救われた、神の国に迎え入れられるから心配するなということになります(8章24節)。この希望がないとどこに向かっていけばいいかわからなくなり、救われないことになります。

希望があって向かうべきところがわかって進むと、今度はそれを邪魔するようなことが起きてきます。悪魔がキリスト信仰者の心と目を罪だけに向けさせて赦しがあることを忘れさせようとします。この世の誘惑や迫害が信仰を捨てさせようとします。それで、本日の個所では聖霊が弱い私たちを助けてくれるということが言われます。先週、私たちには聖霊があるので一人孤独の中で進んでいるのではないことがわかりました。本日の個所では聖霊とイエス様が私たちの祈りを父なるみ神に取り次いでくれていること、そして神自身も私たちを本当に手をかけて守り導いて下さっていることが強調されます。「神を愛する者たち、つまり御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働く」と言います(8章28節)。この訳では万事が益になるのは自動的になるような意味です。その訳も可能ですが、神自身が益をもたらすとはっきり言う訳も可能です(後注)。それに基づいてギリシャ語原文を訳すと次のようになります。「神が万事において影響力を行使して最善のものにしていく。

私たちは、イエス様が果たして下さったことは全て神の御心によるものであったとわかって、それで神を愛するようになると、神はその者を守り導きます。たとえ今起きていることはその人にとって最善のものになっていないかもしれないが、神は全てのことを驚くべき仕方で組み換え組み合わせてよいものに変えて下さるのです。

このような神がキリスト信仰者の側に立っていて下さるので、本当はもう怖いものはありません。本日の個所でパウロが言っていることを忘れないように毎日読み返しましょう。神はひとり子のイエス様を私たちに贈って下さったくらいに、私たちを罪と反対の義なる者にしようとされたのです。もし私たちを罪に定めることが目的なら、ひとり子など送らなかったはずです。だから、私たちには神の愛、キリストの愛が疑いもなく注がれており、何ものも私たちをこの愛から引き離す力を持っていません。私たちの目と心を惑わすことは出てくるかもしれませんが、それは惑わされた目と心がそう感じただけの話で、神の愛自体は全然変わっていないのです。そのことを忘れないようにしましょう。神の愛が全然変わっていないことは聖書の御言葉からいつも確認できます。聖書を繙き説教を聞くことも忘れないようにしましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

(後注)動詞συνεργειの主語をπανταとすれば、新共同訳のような訳になります。主語を神θεοςとすれば、ここで申し上げたような訳になります。その場合、πανταは名詞ではなくなり、「万事において」という副詞用法になります。

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

 

 

歳時記

路傍の草むらにヒオウギの花を見かけるようになりました。この季節は”ノウゼンカズラ・カンゾウ”と・似た色の花が咲きます、なかでもこのヒオウギの花の色は緋色・朱色・茜色に通じる古代色だからでしょうか、この季節の好みの色です。

「テキスト」7月19日(日)聖霊降臨後第七主日 主日礼拝 司式・説教 吉村博明SLEY(フインラ・ルーテル福音協会)宣教師

 

主日礼拝説教 2020年7月19日(聖霊降臨後第七主日)スオミ教会

イザヤ44章-8節

ローマ8章12-25節

マタイ13章24-30、36-43節

説教題 「キリスト信仰者はため息をつきながら希望に燃える」

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.「良い種と毒麦」のたとえ

本日の福音書の日課は先週に続いてイエス様のたとえの教えです。良い種と毒麦のたとえです。先週は「種まき人」のたとえでした。マタイのバージョンでは種は福音を聞いた人を意味しました。迫害や誘惑に遭っても信仰を保ち続け、神の意志に沿う生き方をすることで善を生み出す、そのことが良い土地に撒かれて実を結ぶということにたとえられているとお教えしました。ルカのバージョンでは種は神の御言葉であり、マルコのバージョンでは神の御言葉と人間の双方を意味するので、教えの内容も視点が変わってくるということも申しました。

本日のたとえも種は人間を指していますが、実る実は人間のままなので、「種まき人」で実が善であるのとは違います。加えて、種は二種類あります。つまり、二つの異なる人間のタイプがあるということです。一つは良い種でこれは麦に育つ。もう一つは毒麦になる種です。毒麦というのは、ちょっとネット情報を見ましたが、イネ科の植物で、写真を見ると、なるほど穂が出たばかりだと麦と見分けがつきにくいようです。麦がちゃんと黄金色に実ったら区別できるようです。毒麦という名前ですが、それ自体に毒性はないのだが、何か悪い菌が付きやすく、家畜が食べると中毒を起こすことからその名が付いたとのことでした。

 そこで、このたとえをもう一度見てみましょう。ある人が良い種を畑に撒いた。知らない時に敵が来て毒麦を撒いて行ってしまった。麦が育って穂が出始めた時、毒麦も一緒に育っていた。僕たちが主人に毒麦を抜きましょうかと聞くと、主人は今の段階では区別がはっきりしないから麦も一緒に抜いてしまうおそれがある、刈り入れ時まで待って区別がはっきりつくようになったら、まず毒麦を抜いて集めて燃やし、麦は刈り入れて倉に納めると言います。

 イエス様はこのたとえを群衆に聞かせた後で弟子たちに限ってその説明をします。それを見ますと、実にこのたとえは聖書の終末論の観点が結晶したものと言えます。まず、良い種を撒く者は「人の子」と言いますが、それはイエス様を意味します。ただし、イエス様はイエス様でも「人の子」のイエス様は、十字架と復活の出来事の前にこの世で活動されたイエス様というよりは、終末論的な存在です。どうしてかと言うと、ダニエル書7章に預言されている「人の子」とは、まさにこの世の終わりに現れる救世主だからです。イエス様は自分がそれであると言うのです。そこで終末論的なイエス様とは何かと言うと、復活された後、天に上げられて今は天の神の右に座しているが、将来この世に再臨して最後の審判を司ることになる救世主イエス・キリストということです。この方が再臨の日までずっとこの世で良い種を撒いているのです。種が撒かれる畑とは世界そのものと言われます。そして良い種とは御国の子、つまり将来、神の国に迎え入れられる者たちです。正確に言えば、迎え入れられるのは種が育った実ですので、種は候補者ということになります。つまり、天上のイエス様は、地上で行われる福音伝道や教会生活を通して将来の神の国に迎え入れられる人たちを増やし育てているのです。

 そこで、毒麦というのは、良い種と正反対のもので悪い者の子と言われます。正反対なので将来神の国に迎え入れられない者たちです。毒麦を撒いた敵は悪魔です。悪魔とは、創世記の初めに最初の人間に神の意思に反することをするように仕向けて神と人間の結びつきを失わせた張本人です。悪魔の目的は人間が造り主である神との結びつきを失ったままでこの世を生き、この世を去った後も永遠に神のもとに戻れなくすることにあります。それで、毒麦を撒いて、正しい麦と入り混じるようにして、正しい麦の成長を邪魔したり、また慌てた主人が急いで毒麦を刈り取ろうと正しい麦も一緒に刈り取ってしまい一緒に燃やされたら、悪魔にとって大成功なのです。しかし、そうはなりませんでした。主人は刈り入れの時を待つことにしました。正しい麦も毒麦も育つだけ育って、しっかり見分けがつくようになった時に、毒麦は毒麦で正しい麦は正しい麦で刈り取って、一方は燃やし一方は倉に納めることにしました。

 イエス様は、刈り入れの時は世の終わりを意味すると言います。つまり、今のこの世が終わって新しい天と地の創造が起こって、そのもとで神の国が唯一の国として現れる時です。世の終わりとは言いつつも、実は新しい世の始まりも意味します。聖書にはこのような今の世の終わりと新しい世の到来という観点があります。イエス様の再臨と最後の審判は、この二つの世の過渡期に起こることです。最後の審判の時にはまた、眠りについている者も起こされて、誰が新しい世の神の国に迎え入れられるかが明らかにされます。神の国に迎え入れられた者たちは倉に納められた麦ということになります。彼らは太陽のように輝き、毒麦は燃えるさかる炉の中に投げ込まれると言われます。これは明らかにダニエル書12章の預言を土台にしています。

以上のように、良い種と毒麦のたとえは聖書の終末論を凝縮したような教えです。そこで問題になるのが、それでは、良い種から育って倉に納められる麦、つまり神の国に迎え入れられる者たちとは具体的に誰のことを指すのか、ということです。そして、火の中に投げ込まれてしまう毒麦とは誰のことか?「人の子」イエス・キリストが地上の福音伝道と教会生活を通して、神の国に迎え入れられる人を増やし育てようとしているので、良い種や麦の実はキリスト教徒ということになります。そうすると、火に投げ込まれるのはそれ以外の者たちということになります。こういうのは他の宗教の人たちや無宗教の人たちは顔をしかめるでしょう。キリスト教会の中でも現代の宗教対話の思潮にそぐわないと思う人がいるでしょう。そのような人は、このたとえを現代の思潮にあうように解釈するかもしれません。しかし私としては、イエス様やイエス様のことを伝えた使徒たちが思いもよらないことを、イエス様が言ったことにしてしまうのはイエス様に気の毒というか申し訳ない気持ちになるのでしません。時代の要請はそれとして、それには耳栓をして聖書の御言葉の中に潜り込んでいくことをします。そしてまた水面に浮上した時に世の中や時代はどう見えて、御言葉はどんなインパクトを与えるかを考えたく思います。もちろん、御言葉の中に潜り込むなどというのは、いくらヘブライ語やギリシャ語やアラム語が出来てもそんなに簡単なことではありません。それはよくわかっています。しかし、このようなスタンスで私は聖書の説き明かしをしているということを申し上げておきたく思います。

話が脇道に逸れましたが、このたとえがキリスト教徒とそうでない人たちの二分法で言っているということに関して、一つ注意しなければならないことがあります。それは41節でイエス様が、「人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものをすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、燃え盛る炉の中に投げ込ませる」と言っているところです。つまづきとなるものとは、キリスト信仰を持つ人に対して持てなくなるようにしてやろうと躓かせることです。誘惑や迫害があります。不法とは、神の意志に反すること全てです。具体的には十戒の掟に反することです。天地創造の神を唯一の神、自分の造り主としてお祈りしないこと、神の名を汚すこと、安息日を無視すること、両親を敬わないこと、人を傷つけること、異性をふしだらな目で見たり不倫をすること、他人のものを奪うこと、偽証したり真実を曲げること、他人を妬んだり他人や他人のものに執着心を抱いてしまうこと等々です。

ここのイエス様の言葉をよく見ると、「自分の国から集めさせ」ると言います。つまり、神の国に迎え入れられる予定の者だったが、神の意思に反する不法を行う者だったので毒麦と一緒に燃やされるということです。つまり、キリスト教徒でも、自動的に神の国に迎え入れられるということではないのです。キリスト教徒でも、つまづきとなるものをことごとく踏みつぶし不法を行わない者が迎え入れられるのです。つまり、自分のキリスト信仰を保ち、他人のキリスト信仰も支え、神の意志に沿う生き方をする者です。そういうわけで、今の時点で自分はキリスト教徒だと言っていても、将来倉に納められる麦のように神の御国に迎え入れられるという保証はない。逆に、今の時点でキリスト信仰者でないからと言って、それでこれからも火に投げ込まれる毒麦のままだと言うことも出来ません。イエス様のことを救い主と信じるきっかけはいつ転がって来るかわからないからです。要は、最後の審判の時に「人の子」イエス様にどう判断されるかということです。それなので、問われているのは、これまでの時点でキリスト教徒だったかどうかではなく、これからどうするのか、例えばこの説教を聞いた後でどうするのか、ということです。

誰が倉に納められて、誰が炉に投げ込まれるかという問題については、ここではこれ以上のことはもう言えないので、ここでやめておきます。ここから先は、キリスト信仰者は本当につまづきとなるものをことごとく踏みつぶして神の意志に沿うような生き方が出来るのかどうかということを見ていこうと思います。これを考える際に、本日の使徒書の日課ローマ8章がよい手引きになります。

2.キリスト信仰者のため息と希望

3週間前から使徒書の日課はローマ6章から章を追って見ています。6章で使徒パウロは、洗礼を受けた者はイエス様の死と復活に結びつけられる、それで罪に対して死に神に対して生きるようになると説きます。罪に対して死ぬと、罪が支配しようとしても出来ない位こっちは死んでしまっている。だから、罪に服従することはない。代わりに神に服従するようになった。しかしながら、自分はまだ肉の体を纏っており、それは罪が肉の思いをたきつける格好の道具になっている。そのためパウロは、キリスト信仰者は洗礼を受けた自分の立ち位置をよく自覚して体を罪のための道具とせず、意識して神の意思のための道具にせよと説きます。ところが、信仰者にとって一つ足枷になるのは、律法の掟が罪を罪として白日の下に晒してながら鏡のように自分の前に現れてくることです。キリスト信仰者は律法の掟を通して何が神の意志かわかっているのだが、その通りに行えない、語れない、思えないということばかりの自分にやはり律法の掟を通して気づかされてしまう。そのことをパウロは7章25節で自分を例にして、信仰者というのは意識や理解の面では神の命じることに従っているが、肉の面では罪の命じることに従っていると言います。

しかしながら、パウロは8章1節で断言します。洗礼を通してイエス様と結ばれている者には神の裁きはない、と。つまり、意識や理解の面で神の命じることに従っていることが大事なのです。もちろん肉の面でも従えれば言うことなしですが、それは復活の日に神の栄光に輝く復活の体を着せられる日まで待たなければなりません。今の肉の体の時は、意識や理解の面で神の意志に従うということが楔のように肉に打ち込まれているのです。まさに肉に対して聖霊が楔のように打ち込まれています。それでパウロは11節で次のように言います。キリスト信仰者には洗礼の時に注がれた聖霊が宿っており、神はその聖霊を通して信仰者の滅びの体を永遠に生きる体すなわち復活の体に変えて下さるのだ、と。キリスト信仰者にとってこの約束は絶対である、と先週の説教で申し上げた次第です。

今日はその続きの12節からです。今は肉の体を纏ってはいるが、そこに聖霊が楔のように打ち込まれました。それで肉の思いに相対立する神の意思を知っています。罪の命じることに真っ向から対立する聖霊の命じることに耳を傾けるようになりました。復活の日に肉も罪も消滅して復活の体を纏うことになるので、今は何か大きな過渡期を進んでいるようなものです。この過渡期では、先にも申し上げたように、キリスト信仰者は洗礼を受けた自分の立ち位置をよく自覚して体を罪のための道具とせず、意識して神の意思のための道具にしなければなりません。そこでパウロは13節で言います。聖霊によって体から生じてくる業を死なせるならば、あなたがたは永遠の命に入れます、と。新共同訳では「体の仕業を絶つならば」ですが、ギリシャ語の動詞タナトオ―は「殺す」「死なせる」とかなりどぎついです。しかも、「絶つ」と言ったら、エイ!ヤー!と罪を一気に断ち切ってしまうみたいですが、そんなことは無理です。そんなこと出来たら苦労はいりません。「ローマの信徒への手紙」の6章とと7章は要らなくなります。ギリシャ語の動詞の用法は死なせることが常態、日々繰り返し行われるという意味です(タナトゥーテは現在形の命令 アオリストの命令タナトーサテだったら「絶つ」の訳でいいでしょう)。罪との戦いは一気にケリがつくものではなく不断に続くものなのです。

体から生じてくる業を死なせるというのは具体的にはどういうことか?ルターが次のように教えています。まず、神の意思に反することをしてしまった、言ってしまった、思ってしまった、それは罪であると神の御前で認め、それを憎むこと。そして、イエス様を救い主と信じる信仰に留まって罪の赦しをゴルゴタの十字架にかけられた主に見出すこと。そこで神の手から罪の赦しを受け取ること。こうすることで、罪が私たちを支配下に置こうとするのを打ち破ることが出来るとルターは教えます。これが、体から生じる業を日々死なせていくことです。

この戦いは一人孤独に暗中模索で行うものではありません。パウロは、この戦いの真っただ中で聖霊が私たちキリスト信仰者を導いてくれていると言います。罪と戦っていること自体が聖霊に導かれていることの表れと言えます。パウロはこのように罪と戦って聖霊に導かれる者は「神の子」

であると言います。14節からあとはこの「神の子」のテーマが教えを深めていきます。聖霊がキリスト信仰者を神の子にしていることは、信仰者が祈る時に神のことを「アッバ!」と呼びかけることから明白だと言います。「アッバ」というのは、アラム語のアッバーという父親を呼び掛ける言葉です。お父さん、父ちゃん、パパです。罪と戦って聖霊に導かれる「神の子」は神に祈る時、神を父親呼ばわりするのは当然なのです。

16節を見ると、聖霊と私たちの霊が一緒になって私たちのことを神の子であると証言していると言います。「私たちの霊」

というのは何か?人間は神に造られる時、体と心という肉の部分に対して神から息を吹きかけられるようにして霊を吹き込まれて生きる者になります。こうした人間誰しもが持つ霊に加えて、洗礼を受けてキリスト信仰者になると聖霊が注がれます。それでキリスト信仰者には聖霊と各自の霊があって、それらが一緒になってキリスト信仰者のことを神の子と言うのです。

キリスト信仰者が神の子ならば、やはり神の子であるイエス様と兄弟ということになります。そうなると神の国もイエス様と一緒に相続することになります。このようにイエス様と同一の扱いを受ける者になると、今度はイエス様が苦しみを受けたことも一緒のものになると言います。イエス様と同一扱いでせっかくいい気になれたのに、苦しみも一緒だなどとは冷や水を浴びせらる感じがします。しかし、パウロはすかさず、イエス様の苦しみに与るのは、実はイエス様が受けた復活の栄光に与るためだと言います。さらにたたみかけるように、復活の栄光というのはこの世での苦しみなど色あせたものにしてしまうくらいのとてつもない価値があると言います(18節)。

19節からあとは話のスケールが急に壮大になります。神に創造されたこの世の被造物全てが、今この世で苦しむ神の子の復活の日の栄光を待っているというのです。復活の栄光が現れるのは、天と地が新しく創造し直される時ですので、その時は今ある被造物は全て消え去ってしまいます。その日を被造物が待っていると言うのです。一体どういうことでしょうか?そもそも今ある被造物は朽ち果てる運命に定められていると言います。それを定めたのは神だと言います。しかし、神がそれを定めたのは希望と抱き合わせだったと言います。どんな希望かと言うと、被造物が滅びという奴隷状態から解放されて、神の子たちが復活の栄光に変えられる解放に合流できるという希望です。神はこのような希望と抱き合わせで被造物を朽ち果てる運命に置いたのでした。

それなので、パウロはこの世の被造物は今、キリスト信仰者と一緒にため息をつき産みの苦しみにうめいていると言います。新共同訳では「共にうめき、共に産みの苦しみを味わっている」ですが、ギリシャ語原文では後者は「共に産みの苦しみを味わう」(シュノーディネイ)で同じですが、前者は「共にため息をつき」(シュステナツェイ)です。フィンランド語訳の聖書もその通りに「ため息をつき、産みの苦しみを味わう」と訳しています。

ところが、23節からあとを見ると、希望ということが神の子に関わることとして述べられていきます。そのため希望をもって生きるのは神の子たちの方で、被造物の方は希望を与えられているのにそれを持っていないようなのです。パウロは、神の子が現れるのは肉の体が復活の体に変えられる時で、今はそれをため息をつきながら待っている状態だと言います。また「ため息をつく」という言葉が出てきました(ステナツォメン)。ため息をつくというのは、キリスト信仰者は復活の栄光に変えられる日までは、神の意志は分かっていても肉の思いに遮られる現実にため息をつく日々なのです。復活の日に必ず栄光に変えられると知っていて、その希望は持ってはいるが、希望が叶えられる日までまだ待たなければならないので産みの苦しみにうめいているのです。先ほど見た、アッバ、お父さん、と叫ぶ神の子はまだこの世の肉の体を纏っている時のことです。23節で言う神の子は肉の体が復活の体に変えられた正真正銘の神の子になった時のことです。しかし、それはまだ起こっておらず、希望の中のことです。ここでパウロは重要なことを言います。24節です。キリスト信仰者は復活の体をまだ目で見ていない状態、それを希望している状態で救われたのだ、と。どうしてそんなことが可能でしょうか?

イエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、肉の体を纏いながらも聖霊が楔のように打ち付けられて、神の意志に沿うように生きようとします。肉の思いに反抗しようとします。人生の中でこれまでなかった大きな決定的な変化です。あとは復活の日まで聖霊に導かれて行きます。その日、復活の体を目で見ることになります。そうなったらもう希望することはありません。希望したことを目にしたからです。しかし、その日までは希望して生きていきます。それで今は復活の体を目で見ないで希望で感触を得ているようなものです。「希望している状態で救われた

というのは、復活の体の希望を持ったことが肉の体に挑戦状を叩きつけたことになり、神の側に立ったことを宣言したことであると言えます。この希望を持って生きると沢山のため息をつくことになるでしょう。しかし、この希望を持っている限り、つくため息はいつも次から次へと過ぎ去っていき、私たちは前に進めるのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

 

 

歳時記

散歩道の尾根緑道にある藕絲館(ぐうしかん)の蓮が咲き出しました。藕絲とは蓮の茎にある蜘蛛の糸ほどの繊維を捩って作る糸のことだそうです。気の遠くなるような作業を来る日も来る日も続けている方々に感動を覚えます。