8月の予定

歳時記

サンゴジュ

〈主は、「わたしは、決してあなたを離れず、あなたを捨てない」と言われた。 へブル書13:5

教会の近くの鶴巻公園にサンゴジュを見つけました。卒業後、憧れの設計事務所に入り初めての住宅の設計を任されました。図面が完成した後でクライアントの奥さんから生垣には何が良いか尋ねられました。咄嗟だったのでまごついていましたらすかさず脇から上司がサンゴジュが宜しいでしょうと言いました。この時初めてサンゴジュの木を知りました葉が大きく密生していますので目隠しにもなるので生垣に適しています。以来、個人的には好みの木ではありませんでしたが久し振りに見たサンゴジュはオレンジ色の実をたわわに実らせていました。今まで見たことのないサンゴジュの姿に改めて興味が湧いてきました。当分、この道を通って教会通いが続きます、サンゴジュとの再会が楽しくなりそうです。

 

2026年8月23日(日)10時半 聖霊降臨後第十三主日 礼拝 説教 田口 聖 牧師(日本ルーテル同胞教団)

2026年8月23日スオミ教会礼拝説教

マタイによる福音書16章13−20節

説教題 「信仰も教会も宣教も律法ではなく福音」

田口 聖

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなた方にあるように。アーメン。

1、「今日のメッセージ」

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様。

 今日の福音書は、信仰は律法ではなく、恵みであり福音であるということ。教会も律法ではなく、恵みであり福音であるということ。そして宣教も律法ではなく、恵みであり福音であることを教えてくれています。

2、「人々はイエスが生ける神の御子キリストと告白できない」

 イエス様は弟子たちに尋ねるのです。13節からですが、

13イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。」

 「人の子」と言う言葉は、イエス様がご自分を言い表すためによく用いている言葉です。福音書以外ではあまり見られませんが、福音書ではおよそ80回も用いられています。イエス様は真の救い主であり真の人であることを示す言葉でもあります。イエス様はここでご自身について人々はどのように言っているのかをまず尋ねるのです。弟子たちは答えます。14節

14弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」 」

 世の人々は、イエス様が病気の人々を癒したり、悪霊を追い出したりしたことはよく知っていました。5千人以上の人々を5つのパンと2匹の魚だけで養ったことも知っていました。あるものは直接、それらを見たり聞いたりしたことでしょう。だからこそ人々はイエスのもとに集まってきていましたし、そこでイエス様が語る神の国の福音を聞いたのでした。

 しかし群衆の多くの人々は、イエスを真の救い主、神の御子であるとはいいませんでした。彼らにとってはイエス様は、洗礼者ヨハネに並ぶもの、あるいはエリヤやエレミヤなど旧約の偉大な預言者の一人としてしか見ることができませんでした。確かに彼らは偉大な預言者であり尊敬されていました。しかし彼らは神でも救い主でもありませんでした。彼らは皆、私たちと同じ罪人でした。人々のあるものは、ヨハネにせよ旧約の預言者たちにせよ、彼らを神に遣わされた存在として見ていたでしょう。彼らはイエスを見てもそのような存在とは見ていたでしょう。しかし、イエスこそ真の神が約束し指し示してきた真のメシアであると誰も告白できなかったのでした。

3、「弟子たちの告白」

 しかしイエス様は弟子たちに問うのです。15-16節

15イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」 16シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。

A,「「あなたはメシア、生ける神の子です」の告白は経験や能力の度合いによる?

 イエス様は今度は弟子たちに聞くのです。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」 それに対して、弟子のリーダー的な存在であったペテロが答えるのです。「あなたはメシア、生ける神の子です」。

 弟子以外の人々は、イエスは真の救い主とは答えることができませんでした。しかしペテロは答えることができました。ではなぜペテロはそう答えることができたのでしょうか?それはほんのわずかな期間、イエス様と一緒に歩んできたのでわかってきたからなのでしょうか?そのように徐々に学んできたからなのでしょうか?そしてそれはペテロや弟子たち自身にそのように学ぶ力があり、そのように告白する力があったからなのでしょうか?人の目には確かにそのように見えるかもしれません。何か人間の側で説明できる、時間の長さとそれに関係する理解力など、物理的なものの蓄積が、つまり人間に経験や能力の度合いが高まることによって、このような告白に導いたのだ。そう見えるかもしれませんし、そのように教える説教もあるかもしれません。

B,「人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」

 しかし、この後、そのことについて、そうではないことをイエス様がはっきりと答えているのです。17節

17すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」

 イエス様は言うのです。

「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」

 「ペテロ、そのわたしを生ける神の子、救い主と告白するその信仰の告白をあなたに現したのは、あなた自身から出たものではないのです。わたしの天の父によるもの、その信仰告白は神があなたに現したものなのだ。」それがイエス様が伝えた真実でした。ペテロも他の弟子たちも、まわりの人々と何ら変わりません。長く過ごした中で、彼らが経験を通して自分たちで理解力を養ってきて自分でその知識に至った、彼らにはそのような力があった、周りの環境や経験がそうさせた、と言うことではないのです。彼らも、天の父によらなければ「あなたはメシア、生ける神の子です」とは決して告白できないのです。確かにペテロの口からその言葉は出ました。そう、信仰の告白は人の口から出てくるものです。その通りです。しかし、そうであっても、その告白は人の力によって現されるものではないとイエス様ははっきりいうのです。事実、弟子以外の周りの人々もイエス様を体験してきたのです。しかしできなかったでしょう。弟子たちも彼らだけではそれと変わらないのです。しかし父なる神が弟子たちに現してくださったからこそ、ペテロは「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白したのです。それが神の前に真実なことなのです。もちろん、共に過ごしてきたことは関係ないと言うことでありません。しかし、それはその共に過ごしてきた時間で、弟子たちが自らの力で学び理解してきたということではありません。「人間ではなく」とある通りに。共に過ごしてきた時間に、イエス様が自らでは悟ることも信じることもできない弟子たちに、そのみ言葉と聖霊を通して働いていたからこそ、この告白に神が導いて神が現したと言う意味で、この共に過ごした時間は意味と価値があったのです。

C,「信仰は神の賜物。行いによらない」

 そう、これはパウロが教えていることに一貫しています。エフェソ2章8−9節

「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。 9行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。」

 信仰は、私たち自身から私たちの力で信じるようになったと言うものではないのです。信仰は律法ではないのです。信仰は、恵みとして神から与えられた神の賜物なのです。信仰が神の賜物であり恵みであるからこそ、そして聖書がそう約束しているからこそ、私たちが「信仰によって救われた」と言う時に、それは確かに恵みによって救われたと確信を持っていえるでしょう。もし信仰が自分たちの力で信じなければならない律法であるとするなら、みなさん。救いは人のわざになってしまいますよ?全ては私たちの力、私たちの努力になりますよ?それだと、教会で「救いはキリストの恵みです」と何度教えられても矛盾するのです。信仰は律法ではなく賜物、恵みであり、律法ではなく福音であるからこそ、私たちの救いは神の恵みによるのだと証しできるのです。そのような信仰、そのような信仰告白が、私たち自身からではなく、神が私たちにも恵みとして現してくださっている。これまでも。今日のこの日も。そしてこれからも。素晴らしい事実ではありませんか。まさに私たち自身には起こり得ないことが、私たちに起こっている。これは正しく神の奇跡です。神の奇跡が私たちに正しく起こっているのです。

4、「信仰告白の上に、主の教会を主ご自身が建てる」

 そして、イエス様の教えはさらに恵みの上にさらに恵みを伝えています。18節以下

18わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。 19わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」 20それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。」

 イエス様は、わたしは「この岩の上にわたしの教会を建てる」といいます。この岩の上とは、ペテロ一人を指す言葉ではありません。ペテロは確かにリーダー的存在であったかもしれません。そして、イエス様はペテロ、ヤコブ、ヨハネをとりわけ愛したと、確かにあります。しかし、12人の中でペテロだけ別格の地位を与えたわけではありません。イエス様は12人の使徒を任命し遣わしたのでした。悔い改めず自ら命を絶ったイスカリオテのユダの後にマッテヤが建てられ、その12人を、使徒として遣わし、その使徒たちの上に教会が始まっていきます。ペンテコステの朝、説教をしたのはペテロでしたが、12人が異国の言葉で話しました。そのようにまさに教会と宣教は父なる神、イエス様と聖霊によって、ペテロをはじめとする12人の、神から現された岩のごとき信仰告白の上にはじまっていくのです。

 皆さん、私たちの教会と宣教。それは、人のわざではなく、キリストが教会を建てるのです。教会は人の作り出す組織や建物ではなく神の賜物の上に神が建てる神の恵みなのです。ゆえに、その宣教も神の宣教、キリストの宣教であり、キリストの福音の力が全世界に広がっていく神の恵みの現れなのです。なぜならイエス様が、使徒達に現した信仰の告白の上に自ら教会を建てられるとイエス様が言っているからです。

 同じように私たちの信仰告白も、私たち人間の力によるものではなく天の父によるものです。読んでいただいた今日の使徒書の箇所、ローマ12章でパウロは確かに「神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい」と言っています。しかしそのところでパウロは「献げる」と言うことを、律法としての信仰のわざとして教えていないでしょう。3節では「わたしに与えられた恵みによって」とあり「各自に与えてくださった信仰」とあるでしょう。そう私たちは応答していきます。信仰によって生きます。しかしその信仰は決して律法ではありません。信仰は自分で掴んだり作り出したり達成したものではない。それはできないのです。聖書が約束する通り、信仰はどこまでも賜物であり恵みであり、信仰は律法ではなく福音なのです。イエス様はその御自身が与えた信仰の上にご自身の教会をイエス様が建てると言われているのです。そしてそれはイザヤでも約束されていることです。今日の旧約聖書のイザヤの言葉。そこで主はイザヤを通して、「あなた方が自分で平安を得なさいとか、自分で荒野を楽園にしなさい」とは決して言っていないでしょう。イザヤ51章3節「主が慰める」と言われる。「主が」荒野を楽園にすると言っているでしょう。主が私たち人間の力によるものではなくどこまでも、「わたしに聞け、耳を傾けよ」と主がその言葉で「主に始まり主がなす」と約束している、だからこそ6節「わたしの救いはとこしえに続きわたしの恵みの業が絶えることはない。」と励ますことができるでしょう。これが教会に約束されていることなのです。その変わらぬ神の恵みと真実があるからこそ、イエス様はそれは黄泉の力も対抗できないと言い、つまりその教会の歩みも、全て主が助け、守り、すべて与えてくださることを伝えているのです。

5、「鍵の権能」

 そして、イエス様は教会に「鍵を与える」といいます。権能を与えると言われます。皆さん、教会の福音のわざ、教会が何であり、教会が何のために存在し、教会が何をなすかわかりますか?もちろん、隣人愛も大事なこと。社会で良いわざをしていくこと、困った人を助け、弱った人を力付けることも教会において大事なことです。しかしそれは世の人々や教会以外の様々な団体もするようなことです。しかしクリスチャンの良きわざは、単なる熱心から出る人のわざとは違います。エフェソ2章10節に「わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。」とあります。その言葉の通り、教会の真の良いわざとは、主が与えて下った福音と信仰から溢れ出る主のわざであり、私たちはそのために用いられている存在。主が与える福音によって力を与え、主が私たちを用いて主のわざを行なっているのです。だから、私たちは自分を誇りません。イエス様は

「良いことをしても「自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」(ルカ1710節)

 と言っています。そう、真の良いわざは、福音と信仰から溢れ出る神が私たちになさる信仰のわざです。イザヤはさらに切り出された岩、アブラハムとサラを見よといいます。二人はまさに罪人に与えられた信仰とその恵みの歩みの記録であり、その賜物としての信仰のゆえにアブラハムはその信仰を義と認められました。私たちと同じ罪深い人間が、神からの信仰を受けて歩んだ証です。同じように私たちも神から福音を受けるからこそ私たちの信仰からもその福音の証しが溢れ出てくるのです。ではその受ける福音とは何か?それはまさに、ここにある通り、罪の赦しです。教会に与えられた鍵とは、罪の赦しの宣言です。私たちはまさに教会においてイエス様によって罪赦されたからこそ救われた。教会を通してイエス様が私たちを罪から解いてくださった。罪の縄目から。鍵の権能を用いて。洗礼において、説教で、聖餐で、「あなたの罪は赦されています。安心して生きなさい」とイエス様が言ってくださり、罪の赦しを与えてくださり、それを受けるからこそ私たちは喜んで、この素晴らしい平安を喜びを、神の愛を、罪の赦しを隣人に分かち合い与えたいと出ていくことができます。それは人間の自分中心な愛ではありません。本当の隣人愛となっていきます。その全ての源は私たち自身にはありません。この十字架、この罪の赦しの福音からこそ宣教も隣人愛も溢れ出てくるのです。だからこそイザヤを通して主は「わたしにきけ」と言っているでしょう。パウロも、「神に喜ばれる聖なるいけにえ」と言っています。神が喜ばれる生贄は、前回の通り、砕かれた悔いた心でそのまま福音を受け取る信仰だと学びました。ですから、このローマ12章の言葉は、律法のようで律法ではない。これが可能になるのは、まず福音をそのまま受け取るからこそ、このことは可能になるのです。だからこそパウロは「与えられた恵みによって」と繰り返し述べていることを忘れてはいけません。決して私たちの意志の力とか私たちが搾り出す努力とかでこれをしなさいと言っているのではないのです。どこまでも真の生贄、砕かれた悔いた心で、神の憐れみを、十字架の罪の赦し、福音をそのまま受け取ることから始まります。その信仰、信頼からこそ、この真の礼拝、神が喜ばれること、良いことがわかり、各々が与えれれた賜物に従って、強いられてではない、喜んで、平安のうちに隣人に仕えていくことができ証ししていくことができるのです。それは律法ではなく福音から溢れ出る泉です。それがイエス様が私たちに与えてくださった信仰告白の上にイエス様が建ててくださっている、真の教会の姿であり現実なのです。

 今日もイエス様は私たちに変わることなく福音を差し出し、そのまま福音を受けるように、宣言してくれています。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。主が用いてくださいます。ぜひ平安のうちに今日もここから遣わされて行きましょう。

人知ではとうてい計り知ることのできない神の平安があなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

歳時記

臭木(kusagi)

〈43悪い実のなる良い木はないし、また良い実のなる悪い木もない。
44 木はそれぞれ、その実でわかる。いばらからいちじくを取ることはないし、野ばらからぶどうを摘むこともない。ルカ6:43,44

散歩道の途中の藪の手前に白い小さな花をいっぱいつけた木があります。時々立ち止まって観察しています、近寄って花の香りを嗅いだら香水の香りによく似た香りでジャスミンの香りでした。調べてみたら「臭木(くさぎ)」と言う木でした。藪の所に最初に侵入する先駆植物です、この木も藪の先端に生えていました。花が終わると丸い小さな黒い実をつけます、根元の赤いガクと黒い実のコントラストは鳥たちの格好の餌のシグナルとなって多くの鳥たちがやって来ます。秋の林を歩くとこの実によく似たゴンズイと言う木を見かけます。樹木も子孫を残すために色々な工夫を凝らしていますね。ところで、木の名前の「臭木」は枝や葉を傷つけると強い不快な臭気を発することからつけられたようです。

 

歳時記

ホルトの木

〈わたしの兄弟たちよ。いちじくの木がオリブの実を結び、ぶどうの木がいちじくの実を結ぶことができようか。塩水も、甘い水を出すことはできない。ヤコブの手紙3:12〉

近くの商店街の入り口に何の木か分からずに見過ごしていた木があります、近くに多くのクスノキがあるのでそれの仲間と思っていたのかも知れません。過日、朝の散歩でその木に不思議な花が咲いているのを見つけました。長年見ていましたが花を見たのはこれが初めてでした、家内も余程珍しかったのか一輪採ってきました。調べてみたら”ホルトの木”でした。ホルトとは江戸時代にポルトガルの事をホルトと呼んでいました。平賀源内がこの木をポルトガルのオリーブの木と間違えて名付けたようです。確かに実はオリーブの実に似ていますが全く別種で日本の在来種の木です。何時も何気なく見過ごしていた木が源内先生のミスリードの木だったとは、つゆ知らずでこれも灯台下暗しでした。

歳時記

鉈の思い出

〈わたしはいにしえの日を思い出し、あなたが行われたすべての事を考え、あなたのみ手わざを思います。 詩編143:5

先週の話の中に鉈が出てきましたがあの鉈にも苦い思い出があります。鶏の首を切り落として変な勇気が出たのか一年坊主の私はやたらに鉈を使うことを覚え振り回していました。或る日、何を切ろうとしていたのか覚えていませんが何かを押えて鉈を振り下ろした先に左手の親指がありました。小学一坊主の親指はあっけなく切られましたが幸い鉈の刃はなまくらだったので切断には至らずに皮一枚でつながっていました。母は血の滴る指を手拭いで縛り学校に駆けつけました。幸い校医がいて見てくれましたが指が小さすぎて縫うこともかなわずに広い部屋(講堂?)に腹ばいにさせられて母と医者に押さえつけられて親指に注射(麻酔?)を打たれて何やらやっていましたが痛くて思い切り泣きわめきました。漸く治療が終わり消毒して包帯でぐるぐる巻きにしておしまいでした。八十五歳になった今でも両手の親指を並べて見ると左の親指の先端に小さな突起が見えます。この小さな突起は小学一年坊主の時の私の親指の名残です、小さな指をしていたなと今でも時々眺めています。

 

歳時記

続・小綬鶏

〈わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください。 マタイ6:11

先週、小綬鶏について述べましたが太田愛人先生は二羽の小綬鶏をいとも簡単に絞めたようです。流石に長野の辺境の地で長い間自給自足の生活をされていただけあって鶏の絞め方も熟知されていたのですね。実は私も鶏を絞めた事があります。疎開先で小学一年生の時でした。卵を産まなくなった鶏を母は病み上がりの妹のために栄養をつけたかったのでしょうか。東京育ちの母にはどうしたらいいのか分かりかねていたので僕がやると勇んで件の鶏を膝に押さえ込んで首を思い切りねじってみました、そのうちに鶏がぐったりしてきたので脇の鉈を振り上げて首を目掛けて降り下ろしましたが鶏は首を元通りにするとけたたましい叫び声をあげながら逃げて行きました。母と妹たちも一緒になって追いかけてやっと捕まえて私の手に返しました。今度は初めから鉈で首を叩き切りましたが妹たちは「トトコ可哀そう/\」と言っていましたが料理が出来て食べ始めると盛んに「美味しいね/\」とにこにこしながら食べていました。後で大人から教えられたのは鶏を絞める時は捻った後に少し首を引っ張ると良いと教わりましたが生憎その後がありませんでした。

 

歳時記

 

小綬鶏(コジュケイ)

 もろもろの花は地にあらわれ、鳥のさえずる時がきた。山ばとの声がわれわれの地に聞える。

                                                   ソロモンの雅歌2:12

朝の散歩で桜美林教会の生垣まで来ると時々、鳩より少し大きい二羽の鳥を見かけます。コジュケイではないかとカメラを用意すると、すうーっと生垣の中に消えてしまいます。撮るのが難しい鳥ですが鳴き声はけたたましく「チョットコイ /\」と叫ぶように啼いています。過日、教会の門の所で捜していたコジュケイと思しき二羽がいました。彼らも驚いたのか慌てふためいてうろ/\していました、これ幸いと撮った写真がこれです。敬愛する太田愛人牧師のエッセイに清泉女子大に講演に行った折に鴨料理を伝授しようと思ったが生憎鴨が手に入らず困っていたら外の方からチョットコイ /\と呼ばれたので行って二羽のコジュケイを捕まえて来てコジュケイを捌き鴨料理を始めましたら回りにいた女子大生が可哀そうと言っていましたが料理が出来て食べ始めると美味しい/\と嬉しそうに食べたそうです。コジュケイを見るとこの話を思い出しています。

 

歳時記

アヴぇリア

〈8 小麦、大麦、ぶどう、いちじく及びざくろのある地、油のオリブの木、および蜜のある地、
9 あなたが食べる食物に欠けることなく、なんの乏しいこともない地である 。 申命記8:8,9

道路脇に綺麗に刈り込まれているアヴぇリアの植え込みをよく見かけます。何時頃からか流行り出したのか今では通りを飾るアヴぇリアですが散歩の途中で清掃工場の目隠しにでもしていたのかアヴぇリアの植え込みを見上げながら通り抜けます。此処のアヴぇリアは路傍の植え込みと違って一度も刈り込まれた事がないようで枝を伸ばしほうだいになっていました。花の季節になると沢山の蜂が集まってきます、芳香の強い花なので辺り一帯に甘い香りを漂わせていました。白州で農園を営んでいる井手さんが最近蜂蜜も手がけていますがアヴぇリアの蜂蜜だけは出来ないようです。アヴぇリアは矢張り都会の花で野生の花ではなかったようです。

 

歳時記

 

 

アカンサス(葉アザミ)

あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。(マタイ7:16

藕絲館の庭にアカンサスの花が咲きました。アカンサスは古代からヨーロッパデザインの元になっています。その源流はギリシャ、ローマ建築の柱頭の飾りに用いられました、建築科に入学した当時教室の隅に先輩たちが描き残していったコリント式柱頭のスケッチがありました。幸い私たちにはこのような不毛の修練はありませんでした、でも改めてアカンサスの葉を見ているとW・モリスの壁紙を思い出したりして何故か少し残念な気持ちになりました。