手芸クラブの報告 2026年5月

5月の手芸クラブは27日に開催しました。梅雨になる前の爽やかな天候の朝に開催することができました。

今回のテーマはビーズ刺繡です。最初に作品のモデルを見て自分の作りたいものを選びます。モデルを見る参加者の方々から、「素敵な色合い」、「可愛いわ」、「きれいな形ね」と感心の声をあがりました。モデルとビーズの種類は沢山あって、どんな色や模様の作品をするか決めるのは簡単ではありません。決まったら、次は作品に合う布かフェルトを選んで、それからビーズを縫い付けていきます。針は細くビーズも小さくて目が疲れやすい作業ですが、それでも皆さん楽しくおしゃべりしながら一生懸命ビーズを増やしていきます。次第に形が見えてくると、お互いにそれを見て、「わぁー可愛い!」「素敵!」「きれいな色合い!」とお互いにほめたたえます。

今回もあっという間に時間が過ぎてしまいました。皆さん、もう少し続けたい気持ちがありましたが、細かい作業なので目や手は思った以上に疲れています。未完成のものは自宅で続けることができます。完成したら、カバンやブラウスに取り付けて素敵な装飾になるでしょう。そこで、コーヒータイムで一息入れることにしました。今回は参加者の方が持参して下さった珍しい果物「山桜梅」と「桑の実」を味わいました。みんなで「甘くて美味しい!」と言いながら楽しみました。あわせて、フィンランドのコーヒーブレッド(Pulla)も味わって楽しい歓談の時を持ちました。その時にフィンランドの伝統的な「名前の日」についてと、聖書に出てくる、あらゆる名前にまさる名前についてお話を聞きました。

手芸クラブは夏の間6月から8月までお休みになります。秋の再開の日程は教会のホームページでお知らせしますので、是非ご覧ください。天の神さまがこの夏も皆様のご健康を守られますように。それでは、またお会いしましょう!

手芸クラブの話

今日はビーズ刺繡のテクニックを使って素敵なアクセサリーを作りました。ビーズ刺繡は古くからある手芸のテクニックの一つです。昔は布地に様々な形や色とりどりのビーズを縫い付けて服などの価値を高めました。今でもビーズ刺繡は人気があり、このテクニックを使ってアクセサリー、ブローチ、イヤリング、ボタンなど様々な模様の作品が作られます。フィンランドのラップランドに住む先住民族のサーミ人の民族衣装も鮮やかな色彩のビーズ刺繡で作られています。

真珠はアクセサリーとしては高価なものですが、安価なビーズでもこのように真珠に負けない素敵なアクセサリーができます。しかも、安心して着用できます。例えば、ビーズのネックレスが切れてしまっても大きな損失になりません。しかし、子どもにはそうではないかもしれません。私の娘は小さい頃ビーズのネックレスをもらって、それをとても気に入っていました。毎日首にかけていました。ただ、ビーズはゴムに通してあったので、ある日ネックレスを首に掛けようとしたら、ぷつっと切れてしまいました。娘は悲しくて泣いてしましました。その後ビーズを大事に取っておいて、それを使って人形のネックレスを作りました。その人形にHelmi(ヘルミ)という名前をつけました。

フィンランド語のHelmiは真珠を意味します。それは女性の名前でもあります。古い名前ですが、2000年代の初めに女の子の名前として人気がありました。Helmiは女性の名前の中で最も美しい名前の一つとも言われています。

フィンランドには名前を大切にする伝統があります。フィンランドのカレンダーには、全ての日付の下に何人かの名前が書かれています。それをその名前の人たちの「名前の日」と言います。自分の名前の日になると、みんなからお祝いされるのです。毎朝のラジオのニュースと天気予報の後にその日の名前が読み上げられます。Helmiの名前の日は5月7日です。私の名前パイヴィの日は6月16日です。その日は他にパイヴィッキとパイヴァの名前もお祝いされます。

「名前の日」には誕生日のようにカードを送ったり花を贈ったりします。職場でもコーヒーとお菓子を出してお祝いすることが多いです。「名前の日」があることで、友達や同僚や親戚の人たちを覚えてお祝いする機会が増えるのです。

聖書の中にも名前に関係する神さまのみ言葉があります。例えば、イザヤ書43章1節には次のように書いてあります。

「恐れるな、わたしはあなたを贖う。
あなたはわたしのもの。
わたしはあなたの名前を呼ぶ。」

フィンランド人も、友達や同僚や親戚の「名前の日」をうっかり忘れてしまうことがあります。しかし天と地と私たち人間を造られた神様は私たちのことを忘れたりしません。神様は私たちの造り主ですので、私たち一人ひとりのことを私たちの親よりも良くご存じです。それで私たちは子どもが自分の親を信頼して頼りにするのと同じように神様を信頼して頼りにすることができるのです。そうすれば親から得られる安心よりも大きな安心が得られます。

私たちは時々、他人のことを悪く考えたり、口で言ってしまったりすることがあります。それは神さまの目から見て悪いことですが、私たちは自分は神さまの目に届かないところにいると考えて何も問題ないと思うかもしれません。しかし、私たちは神様の目に届かないところにいることができるでしょうか?私たちはいろいろ隠れ場所を作るかもしれませんが、それは小さい子供のかくれんぼと同じです。子供は頭を隠して、体は見えているのに、自分はうまく隠れたと思っています。捜す人が、みーつけた!と言って名前を呼ぶと、見つかった子供はどうして見つかったのかと驚きます。私たちも同じで、神さまから隠れたい、目の届かないところにいたいと思っても、神さまは私たちがどこで何をしているかをご存じで、私たちに向かって名前で呼びかけます。神さまが名前で呼ばれたら、私たちは隠れている場所から出るでしょうか?

私たちは神さまから隠れたり逃げる必要はありません。神さまは私たち人間のために素晴らしい計画を立てて実現されました。その計画とは、一人の方の名前、神さまのひとり子イエス様の名前を最も偉大な名前にするというものです。フィリピの信徒への手紙2章9~10節で次のように言われています。

「神はキリストを高くあげ、あらゆるな名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものが全て、イエスの名にひざまずき、すべての舌が『イエス・キリストは主である』と公けに宣べて、父である神をたたえるのです。」

どうしてイエス様にあらゆる名にまさる名前が与えられたのでしょうか?それは、イエス様を通して神さまが私たち人間を救ってくださったからです。私たちの救いはイエス様の十字架の業によってのことです。イエス様が十字架の業を通して私たちと世界の全ての人々を救ってくださったので、イエス様の名前はあらゆる名前にまさる名前になったのです。

私たちは神さまから逃げたり隠れたりする必要はありません。イエス様を救い主と信じていれば、神さまは私たちを見捨てることはなくいつも一緒にいて下さいます。神さまは私たち一人一人のことを名前で呼ぶくらいによくご存じで、ひとり子イエス様を贈って下ったくらいに私たちを愛しておられるのです。それで神さまは私たちが信頼しても大丈夫な方なのです。

全ての名前にまさる唯一の名前がある。

歳時記

ホタルブクロ 

15 人は、そのよわいは草のごとく、その栄えは野の花にひとしい。16  風がその上を過ぎると、うせて跡なく、その場所にきいても、もはやそれを知らない。 詩編1031516

桜美林教会の生垣の土手に今年もホタルブクロが咲いていました,薄紫色のホタルブクロに交じって真っ白いホタルブクロを見つけました、初めて見る新顔のホタルブクロです。このまま、此処に根付いてくれるといいなと思っています、此処の土手は季節の草花を咲かせてくれるので楽しみな場所です。 (風吹くや釣鐘動く花の形/正岡子規

牧師の週報コラム

覚悟と胆力を養うキリスト信仰その13
ルターによる聖句の説き明かしと共に(フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ」
の2月7日の日課から)
『心配事は全て神に放り投げよ。神はあなたたちの面倒を見て下さる方なのだから
。』 (第一ペトロ5章7節、フィンランド語訳聖書にもとづく)
『事を自分の重荷にとどめるな。あなたはそれを運びきれず、遅かれ早かれ押しつぶされ
てしまうだろう。そんなことはやめて、それを捨てなさい。つまり、喜びながら信頼して
神にパスしてしまうのだ。パスする時、次のように祈りなさい。「天の父よ、あなたは私
の主、私の神です。あなたは、私など何も存在しなかった時に私をお造りになり、その上
、ひとり子を用いて私を罪の支配から贖って下さいました。そして、果たしなさいと言っ
てこの務めと課題を私にお委ねになりました。しかし、それは私が望んだようには上手く
いきませんでした。多くのことが私に重くのしかかり、心配事が次から次へと押し寄せて
きます。どうしていいのか途方にくれています。これらを全部お渡ししますので、あなた
の助けとアドバイスをお願いします。どうか、この務めと課題の全局面に一緒にいて、隅
々まであなたの目を注いで下さい。」
これこそ神の御心に適う対処法である。神が私たちにしなさいと言っているのは、委ねら
れた務めと課題に取り組みなさいということだけだ。取り組むことで何を成し遂げられる
かについての心配は神のすることであって、私たちのすることではない。
このようにキリスト信仰者は他の者にはない大きな可能性を持っている。ひとり子を救い
主と信じる信仰があるので心配事を放り出してよい父が天におられるからだ。そうでない
者たちは心配事を抱いて自分を痛めつけ、最後には絶望に陥ってしまう。翻って信仰は
、「神はあななたちの面倒を見る」という御言葉を手放さず、神は嘘をつかない方だから
御言葉はその通りだと信頼して前に進む。』(以上、ルターの説き明かし、2025年6月8日
の週報に掲載したものを修正)
牧師注 日本語(新共同訳)は「思い煩いを神にお任せしなさい」とお上品な訳ですが、
ギリシャ語の「エピリプトー」は辞書(Heikel&Fridrichsen)を見ると、「投げ出す、放
り出す」です。英語、ドイツ語(ルター版)、フィンランド語、スウェーデン語の聖書も
それで訳しています。また、日本語は「神はあなたがたを心にかけている」と控えめ。ギ
リシャ語の「与格・メレイ・ペり・属格」は、上記4カ国語は「神は面倒を見る、世話を
焼く、ケアをする」です。日本語訳では上記のルターのような力強い説き明かしはできな
いのではないでしょうか?もったいない話です。

DSC_3767

歳時記

庭の野草

15人は、そのよわいは草のごとく、その栄えは野の花にひとしい。16風がその上を過ぎると、うせて跡なく、その場所にきいても、もはやそれを知らない。 詩編1031516

白州の家の小さな庭にも年毎に色々な野草の花が咲きます。去年はアジサイ、一昨年はギボウシ、その前はカワラナデシコ、もっとその前は・・・・・忘れました。今年はなんとヤマオダマキが咲いていました。ヤマオダマキは確か以前にも咲いたことがありました。こうして見ると草花は互いに譲り合って咲く順番を決めているのかもしれませんね、競い合うよりもずうっと良いと思いました。

牧師の週報コラム 

覚悟と胆力を養うキリスト信仰その12

ルターによる聖句の説き明かしと共に(フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ
」5月7日の日課から)
『今日立てられているものは全てあなたの決定による。なぜなら、全てのものはあなたに
仕えるものだからだ。』(詩篇119篇91節フィンランド語訳の聖書による)
(注意 日本語訳「この日に至るまであなたの裁きにつき従ってきた人々はすべてあなた
の僕です」は問題です。私から何度も指摘しましたが、ヘブライ語のミシュパートは日本
語訳ではほぼ自動的に「裁き」と訳されますが、辞書(Holladay)にはその意味はなく
、「仲介による決定」とか「正義」が基本的な意味です。日本語訳は89節からの流れを踏
まえておらず、90節のエムーナーテカー(あなたの誠実さ)も誤訳しています。訳した人
たちは自分で何を言っているかわからなかったのでは。フィンラン語訳には「なぜなら」
がなく、ヘブライ語原文にはあるので付け加えました。)
『ふつう、「運」と「不運」はお互いかけ離れたことを意味すると言われる。しかし、理
性はこの聖句を前にして顔面蒼白になる。なぜなら、両者は実は背中合わせにあるくらい
近い存在であるということを理性はわからないからだ。我々はそれを信じられなければな
らない。例えば、ヨセフが牢獄に閉じ込められていた時、彼はもう一生そこから出られな
いと思われた。しかし神は、全ての膝が彼の前で跪かねばならなくなると既に決めていた
のだ。このように命と死は一方が他方の中に秘められていると言っていいくらい近い存在
なのだ。死の中に命が、幸運の頂点の最中に不運が、貧しさと惨めさの中に豊かさと喜び
祝いが、何も心配はないと思っていた人生の中に一瞬の死が秘められているのだ。
同じことは我々の死にも当てはまる。我々は、死に臨む時、あたかもそこに永遠に埋没し
てしまうかのように思われるかもしれない。しかし、まばたきした瞬間に今の天と地が終
わって新しい天と地が創造される日になっている。その時、我々は声をあわせて叫ぶ。「
ああ、私は永遠に生ける者になっている!」
以上のことを神は聖書の中で我々に数多くの事例をもって示しているではないか。神は低
い者を高くし、高い者を低くされる。全てのことはそうされる方の御言葉通りに進む。そ
れは、我々が神を度外視して自分の知恵と力だけで物事を成そうとしないように、全てを
最終的には神の御心に委ねるしかないと観念して全面的な信頼を寄せられるようにするた
めなのだ。キリスト信仰者であれば、全てのことは一字一句自分の考えや計画通りになら
ないことは、これまでの人生の中で既に経験済みではないか。』(以上ルターの説き明か
し、2026年5月11日の週報に所収したものを少し修正しました。)

DSC_3767

5月の予定

歳時記

偽アカシア(別名:針槐 ハリエンジュ)

〈神はまた言われた、「わたしは全地のおもてにある種をもつすべての草と、種のある実を結ぶすべての木とをあなたがたに与える。これはあなたがたの食物となるであろう。 創世記129

山梨県は四方を山に囲まれています、東に秩父山地、西に南アルプス、南に御坂山地、北に八ヶ岳です。ぐるりの山々から甲府盆地目がけて釜無川、笛吹川、大武川等の川と更に多くの支流を合わせて流れ込み富士川となって太平洋に向かっています。それらの川筋に沿って高さ約20メートル程の針槐の疎林が続きます。初夏になると、それらの木々に一斉に白い英をつけます。香りのよい花は天ぷらにすると上品な味のする一品になります。五月の連休明けに山梨に行ってきました、釜無川の河原に降りて心行くばかりに針槐の花を愛でて来ました。帰りには勿論、英の沢山ついた小枝を手に。

歳時記

〈1たしは山にむかって目をあげる。わが助けは、どこから来るであろうか。2 わが助けは、天と地を造られた主から来る。詩編121:1・2〉

半年ぶりに北斗市白州に行ってきました。山道に続く入口で「俺の木(誰の木か知りませんが、勝手に俺の木と呼んでいます)」が出迎えてくれました。「今年は来るのが遅かったじゃないか」と言って枝を少し揺すって見せました。上から見下ろしていた甲斐駒の団十郎が「ま、折角来たんだからいいじゃないか」と宥めてくれていました。