パイヴィ・ヨシムラ著 「北欧のテーブル Pohjoismainen ruokapöytä

 フィンランド人宣教師の恵みのレシピ」

パイヴィ宣教師がスオミ教会のフィンランド家庭料理クラブで教えてきた料理のレシピと料理にちなんだ聖書のメッセージから24つを選んで本にまとめ上げました。「幸福度世界一」の国からの心とおなかを満たすレシピ集です。

全国のキリスト教書店にて好評発売中。定価1,430円

スオミ教会にて著者割引の1,100円で購入できます!

手芸クラブからのお知らせ。

9月は30日(水)10時からの開催です。

歳時記

 

一号遺跡

〈 また彼らはおのおのその割当にしたがって馬および早馬に食わせる大麦とわらを、その馬のいる所に持ってきた。 列王記上4:28〉

”赤駒を山野にはがし捕りかにて多摩の横山徒歩ゆか遣らむ” 宇遅部黒女 万葉集には多摩の名が出て来る歌は二首しか載っていません。この歌は多摩での馬牧(うままき)を現わしている貴重な歌です、この歌には当時の多摩丘陵での馬牧の様子がよく表されています。古来から多摩では馬牧が盛んでした。丘陵での馬牧は丘に囲まれた谷戸が最適でしたが谷戸は耕作地が少ない多摩では食料生産の場として使われていました。黒女さんのように馬は山野(丘陵)ではがし(放牧)されていたようです。また多摩には大きな集落が少なく小さな集落が点在していました。従って馬の飼育も個人単位で行われていたようです。黒女さんも一頭しか飼っていなかったのでその赤毛の馬を捕まえそこなって防人となって出征する夫を多摩の横山道を歩いて行かせてしまった、と嘆いています。今回の一号遺跡の概要は歴史的には平安末期から室町期にかけての遺跡とされています。遺跡は谷戸を見下ろす南面した丘の中腹を開削して東西約50m南北約10~20m、面積約800㎡の平坦地を造成し尚且つその中央に12m×6m、深さ約1.3~1.5mの大型の竪穴を設けてあります。またその東西には複数の建物群の遺構もあります。資料によると。12世紀に小山田別当有重と言う人がこの地に広大な馬牧を営み配下にも谷戸の開墾を進めた。とありますので確かではありませんが有重の配下の人が起こした馬牧の場であったのかも知れません。私は散歩の折に何度も此処に佇み往時の姿を思い起こしていました。(次回へ続く)

馬牧(うままき): 飛鳥時代の頃に兵部省によって管理された牧場で、主に軍馬や貴族への貢馬、駅伝馬などの供給源とされました。馬牧の立地は、山や丘陵に囲まれた窪地が利用され、袋状の谷戸に馬を追い込み、出入口を馬柵棒(ませぼう)をかって馬の逸出を防いだり、外部からの危害を防ぐ繋飼場(けいしば)にもしたと言う。この小山田の地はその適地だったと言えます。

2026年9月20日(日)10時半 聖霊降臨後第17主日説教 田口聖 牧師(日本ルーテル同胞教団) 礼拝

2026年9月20日福音ルーテル・スオミ・キリスト教会

礼拝説教

マタイによる福音書20章1−16節

「全ての人々へ等しいキリストの福音の約束」

田口 聖

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなた方にあるように。アーメン。

1、「背景」

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様。

 今日の聖書の言葉は、私たちの救いも、そして、そこにある日々新しいいのちの歩みも、それは私たちが何かをして得たものではなく、どこまでも主なる神が約束してくださった通りに与えてくださったものであり、全て神の恵みであることを教えてくれています。

 これはイエス様が語った譬え話です。どのような背景でこれを語っているでしょうか。19章の後半を見ると、金持ちの青年の話が記録されています。彼はイエス様のところにやってきて「永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」と尋ねます。そこには彼は自分はいつも律法に従って良いことを行なっているという自負がありました。なぜなら、イエス様が十戒を示したときに、20節、「そういうことはみな守ってきました。」と言い、「まだ何か欠けているでしょうか。」と答えているからです。彼は「良い行いについて」尋ねていながら、「自分には欠けているところがない」と答えるのです。彼には永遠の命を得る自信がありました。しかしその根拠は、ただの自分は律法を行い欠けたところがないという自信だけでした。それに対してイエス様は彼が決して神の前に完全ではないことを言うのです。21節「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」 と。イエス様は彼が律法において欠けているところがないと言うなら、律法が求めることはどのようなものかを示し、そしてそれを行なって自分に従うように招いたのでした。しかし、青年はそのイエス様の言葉を聞いた時、悲しみ立ち去ったのでした。なぜなら、青年は財産を沢山持っていたからでした。そこでイエス様は言います。23節

「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。 重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」

 それに対して弟子たちは「それでは、だれが救われるのだろうか」と驚きます。しかしそれに対してイエス様は言うのです。26節

「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と言われた。」

2, 「神の律法の前に義人はいない」

 神の前、神の律法の前には、普段から良いことをたくさん行なっているという自負のある青年であっても、不完全です。イエス様は青年をいじめているのでも責めているのもでなく、人間がどれだけ善を行なっても、神の前ではどこまでも不完全である、そのことを青年に教えたかったのでしょう。そして、弟子たちの「それでは誰が救われるだろうか」という問いはある意味、的を射ています。誰でも神の前、律法の前では、ただただ罪人です。不完全です。主なる神が求める律法の完全さに誰も叶うものはありません。つまり、人は、自らの行い、あるいは、自分がどれだけ持っているか、どれだけのことをしたかに救いはかかっているのでは決してありません。そう、私たちの前にある真理は、イエス様が言われる通り、救いは、

「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」

 それが紛れもない私たち人間の救いの真理なのです。しかし、27節、ペテロは、それでもおそらくイエス様の言葉の真意を悟るのに鈍かったのでしょう。

「すると、ペトロがイエスに言った。「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか。」 

 これはペテロの敬虔な言葉のように聞こえます。しかし、反面、彼は自分たちはこれだけのことをあなたにしたのだから、あるいは、そうすることで従ってきたのだから、いっぱい長く従い、いっぱいあなたのためにしてきたのだから、その行いに見合う多くのものをいただけるでしょう。と言う思いがあるでしょう。イエス様は確かに全てを捨てて従ってきたものには多くの報いがあり、永遠の命を受け継ぐのだと言います。しかし、それは弟子たちの行いのゆえなのでしょうか?弟子たちが沢山行なってきたからなのでしょうか?つまり、救いや新しいいのちの生き方や働きや受けるものは、「人がどれだけのことをしてきたか」にかかっているのでしょうか?そこでイエス様は、この20章1節から天の国は次のように例えられると教えたのでした。

3、「葡萄園での働き人を雇う譬え」

A,「主人からの約束」

 そこでは葡萄園の主人が葡萄園での働き人を雇います。主人は、夜明け、9時、12時、3時、そして5時と、合計五回、人々を雇います。2節を見ると「一日につき一デナリオンの約束」でと書かれています。そして4節では、9時に出会った人々に主人は「ふさわしい賃金を払ってやろう」と言っています。さらには、それ以後の時間に出会った人々にも5節「同じようにした」とあるのです。ですから、この労働は、当然ですが、葡萄園の主人が、しかも主人の方から雇い入れるものでした。さらには主人が主人の方から「一日につき一デナリオンの約束」と言う約束を示し、その約束に基づいて雇い入れています。そしてその後も「同じように」とあるように、それがどの時間に雇った人々にも「相応しい賃金として」主人が定め、主人が与えると約束したものでした。つまり、労働者がそれぞれ長く働いたらその長く働いた分だけ与えるという約束はしなかったのでした。夜明けに最初に出会った人にも「一日につき一デナリオン」と約束していたのでした。そして、労働の終わりに、先のものにも後のものにも差はなく、同じ報酬を約束の通りに与えたのでした。それはまさに「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」ように思うでしょう。19節の最後30節でもイエス様は「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」と言っています。

 天のみ国はそのようなものなのです。つまり、先に召されようが後に召されようが、神の約束、神が与える救いや新しいいのちの恵みの全ては、全ての人々に等しく及ぶのです。それが神の約束であるからです。それは人の行いやその量にかかっているものではありません。つまり、先に救われたとか、だから長い時間、沢山、従ってきた、沢山のことを行なってきた、自分はどれだけのことをしてきたとかは、関係ない、約束に従うものは、長かろうが短かろうが、全ての人々に等しい約束のものを受けることができる、それが天のみ国に他なりません。ですから、普段、立派だから、良いことを沢山しているから、より神の国に相応しい、していないから相応しくない、天のみ国はそのようなものではありません。誰であろうと、主人が約束したものをそのまま受ける時、その約束したものをそのまま受けられる、なぜならそれが主人の約束だから。それが天のみ国なのです。

B,「沢山働いたものたちによる不平」

 しかしです。10節以下、こうあるのです。

「最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。 それで、受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』 」

 最初に来た人達は、主人のやることに不条理を感じたようです。自分は後から来た人々よりも最初から働いてきた、長く働いてきた、沢山の成果を出し、沢山の労働力を費やしてきた、だからもっとくれてもいいではないか、最後に来て少しし行なっていない働いていない連中と同じ報酬なのか?不平を言うのです。気持ちはよくわかります。確かにこの地上の社会では、そのような原理原則こそが平等であり、いっぱいすれば、いっぱい行えば、いっぱい成果を出せば、そうではない人々よりもより多くのものを受けるはずだ。世の中はそのように動いています。しかし神の国のこと、神の考えていることはそうではないのです。神の救いの神の国の約束は、人がどれだけのことをしたか、どれだけ長いことしてきたか、どれだけ貢献し、どれだけ成果を出し、どれだけ成功してきたのか、にかかっているのではない。約束は全ての人々に語られ向けられ、その約束の通りに受けるものは、その通りに約束のものを必ず受ける、なぜなら、それは人が決めた人から神への約束ではない、どこまでも神が定めた神から人への一方的な約束であり、神が人に与えるものだからです。ですから主人は言うのです。13節。

「主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。 自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。 自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』 16このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」

 そう、全ては神のものが神が定め神の約束した通りに与えられる。それが天のみ国、神の国であり、救いの恵みです。私たちが沢山頑張ったからと私たちの行い云々で左右できるような小さな範囲の神の国ではないのです。しかし、世の宗教をはじめ、世の人々は救いを逆に考えてしまいます。まさに世の価値の基準に従って神が与えてくださるものまでも計ります。そしてその通りに受け取れないと、神に不平を言うのです。神はずるい、神は間違っているのではないか、神は不公平ではないか、だから神はいない、インチキだ。しかしそれは神中心ではなく、どこまでも人間中心の、自分がどれだけ行なってきたのか、しかも隣の人がどれだけ行なったかと比べての、狭い視点から見ている神への評価に過ぎないでしょう。それは絶対的なものにはなり得ません。むしろ神を自分たちの評価の枠にはめて神を限界のあるもの小さなものにしてしまっています。

C,「ヨナの不平と重なる」

 最初の聖書箇所であった、ヨナ書のヨナの不平も似たようなものがあります。彼はニネベに遣わされますが、行くのを拒みました。そして魚のお腹にあって彼は悔い改め、ヨナ書2章10節にある通り、「救いは、主にこそある。」と告白し、ニネベに向かいます。そしてニネベの人々に神の言葉を伝え宣教をするのです。そして、素晴らしいことに、その宣教は成功するでしょう。ニネベの人々はヨナの伝える神の言葉を聞いて悔い改めるのです。素晴らしい出来事です。しかしです。ヨナは、その結果に大きな不満を表し怒ります。ヨナ書4章2節以下の彼の言葉を見ると興味深いです。

「わたしには、こうなることが分かっていました。あなたは、恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です。 」

 なんと、ヨナは神が恵みと憐れみの神であり、忍耐と慈しみに満ちていることを知っているのですが、それに対しての不平です。つまり、その恵みと憐れみでニネベの人々を悔い改めさせたことに怒っているのです。なぜでしょう。それは、ヨナにとっては、ニネベの人々は異教徒であり、悪い裁かれるべき民であり救われるべき民ではなかったからでした。だから、彼は最初、怖いからという理由でニネベに行くのを拒んだのではないのです。ニネベの人々に伝えるのを拒んだのです。確かにニネベの民は異教の民で、悪の溢れる民は裁かれるべき、滅ぶべき、人間の感情としては叫びたいのかもしれません。しかしそれはヨナの思い、人間の思いであり、神の思いではないでしょう。神の思いはニネベの人々が悔い改め滅びを免れることです。人の評価から見るなら、悪いことをしている、真の神を信じない、偶像礼拝をしている人々は、神を信じる私たちと同じものは受けるべきではない、そうなるでしょう。しかし、神の思いは違います。全ての人々が悔い改め、真の神に立ち返り、誰でも悔い改めるなら全ての人々に等しく与えると約束している恵みの罪の赦しと救いをそのまま受け取り、滅びないようになることが神の思いです。そう、ヨナも自分中心の行いの評価で神のなさる救いを計っています。そして自分の思い通りではない神がなさることに、それが恵みであっても納得できなかったのでした。そう、葡萄園で最初から働いていて、最後に数時間しか働かない人々と同じ報酬を受け取った時に、約束の通りを受け取ったのに不平を言っている人々と重なるでしょう。ヨナはトウゴマの木のことでもそうです。神がヨナを憐んで与えたトウゴマの木です。その恩恵、その神の恵み、自分が受ける益には感謝し喜ぶのです。しかし自分の願う利益が得られなくなるとその木を惜しみ、その神の恵みに不平を言い、怒るのです。全て自分が基準、自分中心で見てしまっています。神は言うのです。ヨナ4章10節11節。

「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。 11それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。」

D, 「天のみ国とは」

 神はヨナに問いかけているのです。「あなたは自分に利益を与える植物には憐れみを感じるのに、わたしが造った何万人もの人間には憐れみを感じないのか」と。

 天のみ国はこのようなものなのです。人間がどれだけのことをしたか、しなければいけないか、に左右されない、それを人間がどう評価し、どう思うかも関係ない。神は全ての人々が悔い改めてイエスキリストの十字架による罪の赦しを受け取り、復活の新しいいのちに生かされていくことを何よりも願っている。そのために私たちは召され、そのために私たちの教会はある。その福音を今日も説教で語り、その福音をそのまま私たちが受け取るように今日も差し出されています。パウロも「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。」とまさに自分中心、自分基準を放棄しています。生きるにも死ぬにもキリスト、キリストにあっては死もまた益である。私たちの行い、私たちの勲によって私たちの新しいいのちの生活はあるのではない。すべてはキリスト、全てはキリストの恵み、キリスト・イエスに結ばれているから。だから律法ではなく、キリストの福音に相応しい生活があるのだと。その福音にあって生きなさいと。

4、「結び:空っぽの手で福音を受け取る」

 今日も主は約束してくださった通り、この恵みの手段である聖餐を通して、救いの恵み、罪の赦しと新しいいのちを与えてくださいます。私たちは手に自分の何かを握ってまず何かを神のためにするから神は報いてくださるのではない、神が約束のものを約束の通りに与えてくださる。だから私たちは今日も空っぽの手を開いて、主が受けよと与えてくださるイエス様のからだと血をそのまま受け取ろうではありませんか。イエス様は今日も宣言してくださいます。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。ぜひ平安のうちに今日も遣わされて行きましょう。

人知ではとうてい計り知ることのできない神の平安があなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン。

 

9月の予定

歳時記

葛の花

〈15人は、そのよわいは草のごとく、その栄えは野の花にひとしい。16風がその上を過ぎると、うせて跡なく、その場所にきいても、もはやそれを知らない。 詩編103:15,16〉

葛の花踏みしだかれて、色あたらし。この山道を行きし人あり。 釈迢空 「海とやまのあひだ」

朝の散歩の終点の小さな丘に登ると道に葛が我が物顔に蔦を伸ばしています。迢空さんは踏みつけて歩いたようですが臆病な私は蔦が足首に絡みつくような不気味さを感じて除けながら通り抜けています。葛の花は綺麗なのですが蔦が蛇のようにのたくっている姿はいただけません。憶良さんの秋の七草です、読めましたか?  ”萩の花 尾花 葛花 瞿麦の花 女郎花 また 藤袴 朝貌の花” 山上憶良。

注:朝貌は朝顔にあらず、桔梗でした。万葉時代には桔梗を朝貌と呼んでいたのですね。

2026年9月13日(日)10時半 聖霊降臨後第16主日 礼拝 説教 吉村博明 牧師

主日礼拝説教 2026年9月13日(聖霊降臨後第十六主日)スオミ教会

 

創世記50章15-21節

ローマ14章1-12節

マタイ18章21-35節

 

説教題 「罪の赦しという神の恵みに満たされてこの世を生きる」

 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

 

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1. はじめに

 

 今日のイエス様のたとえの教えはこうでした。王様に多額の負債があった家来が泣きついて借金を帳消しにしてもらった。ところが、その家来は自分に少額の借金がある仲間の家来に対しては泣きつかれても耳を貸さず牢屋に入れてしまった。それを知った王様はこの家来に怒り、自分がしたように情けをかけるべきではないかと言って牢屋に入れてしまったという話でした。これを読んだ人は、ああイエス様は、情けをかけてもらったら他の人にもそうしなければいけないと教えているんだと思うでしょう。

 ここに出てくる金額を少し具体的に見てみます。そうすると情けをかけることが当然ということがよくわかります。情けのない家来が仲間の家来に貸していた額は大体100万円です。その彼が王様に負っていた負債額は6,000憶円。(これらの金額の算出方法はホームページに説教文を載せる時にそこで説明します)。情けのない家来は6,000億円の負債を帳消しにしてもらったのに、他人の100万円の借金は免除してあげなかった。これだけ莫大な借金を免除されたら、普通だったら、解放感とこれからは新しい人生を歩めると希望や感謝に満たされて、誰かが少しの借金の返済を待って下さいとお願いしたら、そんなものはもういいですよ、という気持ちになるのではないだろうか?それなのにこの家来はそうしなかった。イエス様はなぜこの情けのない家来の話をしたのでしょうか?

 このたとえは、イエス様がペトロの質問に答えてその続きに来ます。ペトロの質問は、兄弟が自分に罪を犯したら何回まで赦してあげるべきか、7回までかというものでした。つまり、赦しには限度があってそれを越えたらもう赦さなくていいのか、ということです。それに対するイエス様の答えは、7回までではない、7を70回繰り返すまでだ、つまり490回でした。イエス様の意図は赦すことに制限を設けるなということです。

 キリスト信仰者は罪を犯した兄弟を無制限に赦さなければならない。なぜなら、信仰者が神から罪の赦しを受けたというのは1万タラントンの負債を帳消しにされたことと同じことで、兄弟の犯した罪など6,000憶円に対する100万円くらいのちっぽけなものにすぎない、だらか兄弟の罪を無制限に赦すのは当然のことになるからです。それではどうして当然のことにならなかった家来の話をしたのでしょうか?今日はそのことを考えてみましょう。

 

2.「兄弟」とは?「罪」とは?「赦す」とは?

 

 まず初めに3つの基本的な事柄を整理しておきます。一つ目は、「私の兄弟が罪を犯したら」と言いますが、兄弟とは誰のことか?二つ目は、罪を犯すとはどんな悪さをすることか?そして三つ目は、罪を赦すとはどうすることか?についてです。

 まず、「私の兄弟」とは、先週の説教でもお教えしたように、イエス様を救い主と信じるキリスト信仰者のことです。信仰者が別の信仰者から罪を犯されるという問題について論じているのです。

 次に、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けたキリスト信仰者が同じ信仰を持つ者に「罪を犯す」とはどんな悪さをすることでしょうか?「罪を犯す」などと言うと、何か法律上の犯罪を犯すことを連想します。しかし、これはもっと広い意味があります。要は、十戒の掟に示されている神の意思に反することをしてしまうことです。殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな等々を行為だけでなく、言葉に出してしまったり、心の中で持ってしまうことです。このように神の意思に反することを行為のみならず、心の中で持ってしまったり、言葉で言い表してしまうことが罪を犯すことです。

 三つ目は、罪を赦すとはどうすることか?キリスト信仰で罪を赦すというのは、相手が神の意思に反することをした時、された側は、先週の説教でお教えしたように、それは神の意思に反することだということを気づかせて、相手がそれを認めて謝ったら、それを受け入れて、受け入れたら今後は取りざたしない、不問にするというのが赦しです。イザヤ書43章25節で、神は言われます。「わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたの背きの罪をぬぐい、あなたの罪を思い出さないことにする。」思い出さないことにするというのが赦すことです。エレミヤ書31章34節でも神は同じように言われます。「わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。」もう心に留めないというのが赦すことです。ミカ書7章19節で預言者は言います。「主は再び我らを憐れみ、我らの咎を抑え、すべての罪を海の深みに投げ込まれる。」神は民の罪を表ざたにしないで奥深く沈めてしまう、これが罪の赦しです。神の意思に反する罪が起きてしまった、それはもう打ち消すことができない事実である、しかし、それをさもなかったかのようにするから、新しく出直しなさい、と。そういうふうに、神の罪の赦しには罪を犯した者が新しく出発できるようにするということが一緒になっています。

 ここで一つ注意しなければならないことがあります。私も時々聞かれるのですが、キリスト教は罪を赦すので処罰はなにもないのか、犯罪を犯しても、さもなかったかのようにしてしまったら、犯罪は野放しになってしまうではないか、というものです。罪を赦すとは、してもいいよと罪を許可することではありません。日本語の「ゆるす」は二つの異なる漢字があるので混同されやすいと思います。罪は神の意思に反することなのでしてはいけないのです。心の中で思っても口に出してもいけないのです。もし犯したら、「命の書」に書き留められて最後の審判の時にお前はこうだったと突きつけられるのです。まさに、本日の使徒書の日課ローマ14章で言われるように、かの日には各自一人一人が神の前に立たされて自分自身について申し開きをしなければならなくなるのです。果たして神に対して申し開きなど出来るでしょうか?

 ヨハネ8章でイエス様は罪を犯したために石打の刑にかけられそうになった女性を助け出して次のように言いました。「わたしもあなたを裁かない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」新共同訳では「罪に定めない」ですが、ギリシャ語原文では「裁かない」です。イエス様が裁かないと言うのは、お前の罪は「命の書」に書き留められてしまったが、最後の審判の時にとやかく言われることはなく、申し開きの必要もないということです。なぜそうなったかと言うと罪が赦されたからです。イエス様からそのような赦しを受けて、「もう犯したらだめだよ」と言われたら、本当にその通りにしなければ、と思うでしょう。このように罪を赦すというのは罪を許可することと全く正反対な方向に向かうのです。

 犯罪は処罰しないのかという疑問が残ると思います。それについて私は次のように考えます。社会には法律があり、犯罪について規定があり、刑罰や賠償について規定があります。それらに従って犯罪を確定して刑罰や賠償が課せられるのは当然です。なぜなら神は、殺すな、傷つけるなと命じているので、そのようなことが社会で好き勝手に行われるのを放置してはいけないからです。そう言うと、なんだ、赦していないじゃないか、と言われるかもしれません。しかし、犯罪の場合、赦しと刑罰は別々に考えるべきものと思います。赦しは被害を受けた人の心に関わることです。処罰や賠償は、社会が正義に基づいて成り立つために定められたものです。なので処罰や賠償は社会の安定に関わることです。

 ここで罪の赦しは心に関わるということを少し見てみます。キリスト信仰では、完全な正義は最後の審判の時に最終的に実現するという立場です。パウロはローマ12章で、キリスト信仰者は自分で復讐をしてはならない、神の怒りに任せよと言います。神の怒りに任せよというのは、最終的な判決、処罰、賠償は最後の審判の時に神が行うのでそれに任せよということです。最終的な判決、処罰、賠償をこの世で目指すと自分を神に置き換えて自分で復讐することになってしまうと思います。自分で復讐しないで最後の審判の神の怒りに委ねつつ、この世で正義を実現しようとすると次のようになると思います。まず、社会の法律や規定は万能薬ではないと観念する。なぜなら、こんな処罰、賠償では甘すぎる!とか逆に、行き過ぎではないか?ということが出てくるからです。そうした法律や規定を神の意思に沿うように運用して、最善の正義を目指すということになると思います。そういうふうにキリスト信仰者は正義を目指しつつも、パウロが教えるように敵が飢えていたら食べさせ乾いていたら飲ませます。実際に行動に移せるようになるために心の有り様はそうなっていなければならないのです。処罰や賠償が社会の安定に関わるものなら、赦しは心の安定に関わるものです。

 それでは、イエス様を救い主と信じるキリスト信仰でこのような心は生まれるでしょうか?本日のイエス様のたとえは、それが生まれることを教えます。

 

3.罪の赦し = 神に対する莫大な負債の帳消し

 

 まずイエス様は本日のたとえの教えで、キリスト信仰者にとって罪の赦しは莫大な負債を帳消しにされたのと同じだと言っていることを見てみましょう。このたとえを最初に聞いた弟子たちは、莫大な負債を帳消しにしてもらったら他人の小さな借金など取るに足らないものに感じるというのはわかったでしょう。しかし、それが罪の無制限の赦しとどう結びつくのか?お前たちは莫大な負債を帳消しにしてもらったのだ、だから兄弟の罪など小さな借金と同じだ、兄弟の罪を無制限に赦してやるのは当然だ、そう言われても、自分たちにとって莫大な負債の帳消しとは一体何なんだ?ということになってしまいます。兄弟の罪に対する無制限の赦しと自分たちの莫大な負債の帳消しの結びつきが見えてきません。

 ところが、それがはっきりわかる日が来るのです。イエス様の十字架の死と死からの復活の日がそれです。イエス様が神の想像を超える力で死から復活されて天の神のもとにあげられたのを目撃した弟子たちは、あの方こそ、かつてダビデ王が私の主と呼んだ方で、父なる神の右に座すことになった方なのだ、つまり神のひとり子だったのだということが明らかになりました。それではなぜ、神のひとり子ともあろう方が十字架にかかって痛々しく死ななければならなかったのか?これも旧約聖書に預言されていたように、人間の罪に対する神罰を人間の代わりに受けて、神に対して人間の罪を償う犠牲の死だったことがはっきりしました。このように全てのことが事後的に旧約聖書を介して次々とわかるようになったのです。十字架と復活の出来事の後に全てがわかるようになった使徒たちは次のように記しました。

パウロ「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。」(エフェソ1章7節)まさに罪の赦しは神の恵みなのです。

 ペトロ「知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。」(第一ペトロ1章18~19節)彼らはイエス様が十字架の出来事の前に言われた次の言葉の意味がわかりました。

「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来たのである。」(マルコ10章45節)

 神聖な神のひとり子が十字架の上で流した血を代償として人間が罪と死の支配から神の御許に買い戻される道が開けたのでした。神の子の命が身代金になったのです。その価値は6,000億円など取るに足らない、まさに地上から見上げる天のような高さの価値なのです。私たちがこの世で神との結びつきを持って生きることを妨げていたもの、そして、この世の人生の後で神の国に迎え入れられることを妨げていたもの、すなわち罪という負債を神は御子を用いて帳消しにしたのです。

 このようにして人間は自分では何の償いもしていないのに、神のひとり子の十字架と復活の業のおかげで罪を償ってもらい、償ってもらったから罪を赦された者として見てもらえる、そういう状況が生み出されました。

 そこで今度は人間の方が、イエス様の命じた洗礼を受けると彼の死と復活に結びつけられて、この罪の赦しの状況に入れることとなりました。この中に入った人は、イエス様の十字架と復活の出来事は本当に自分のために起きたのだとわかり、それでイエス様は真に自分の救い主だと知っています。その人は死を超える永遠の命に向かう道に置かれてその道を歩み始めます。そして、この世を去る時が来ても、安心して信頼して神の御手に自分を委ねることができます。本日の使徒書の日課ローマ14章でパウロが、キリスト信仰者は生きる時も死ぬ時も主のものとしてあると言っている通りです。復活の日までの眠りの時もずっと主のものであり続け、復活の日に目覚めさせられて永遠に造り主の神の御許に迎え入れられるのです。このようにキリスト信仰者はイエス様の十字架と復活の業のおかげと彼を救い主と信じる信仰によって、罪の赦しという神の恵みに満たされて、この世と次に到来する世の双方にまたがって生きていきます。

 

4.勧めと励まし

 

 これでキリスト信仰者は莫大な負債の帳消しが自分に起こったことがわかります。罪という神に対する負債で、そのままにしておくと、この世で神との結びつきを持てず、次に到来する世で神の国に迎え入れられなくなってしまうという負債です。それを神はひとり子を犠牲にして帳消しにして下さったのです。このような帳消しは、兄弟が犯した罪などを小さなものにし、赦しを「心から」するものに変えていきます。たとえの家来は、少額の借金の家来が猶予を求めても聞き入れず牢屋に送ってしまいました。これは、罪を犯した兄弟が赦しを求めても赦さないで裁いてしまうことを表します。情けのない家来が牢屋に入れられてしまったように、赦さない信仰者は裁かれてしまうのです。

 それにしても、どうして赦すことができないということが起こるのでしょうか?それは、永遠の生死にかかわる莫大な負債の帳消しが神のひとり子の犠牲の上に成されたこと、それがどれほど尊い犠牲であるかが心に刻まれていないからそうなるのです。イエス様がこの家来の話をしたのは、キリスト信仰者が果たして罪の赦しという神の恵みに満たされているかどうかを自問するためなのです。

 最後に、もし罪を犯した兄弟がそれを認めず謝罪もない場合はどうすべきでしょうか?その場合は赦さなくてもよいのでしょうか?いいえ、そうではありません。これは、先週お教えしたことを思い出せばよいでしょう。そのような心の頑なな兄弟は、害を被った信仰者にとって異邦人か取税人のようになればいい、ということでした。ただし、その趣旨は断罪的ではないと申しました。その兄弟の問題は神との結びつきが揺らいで天の国への歩みに支障が生じたということです。だから、それを元に戻せるようにすることが目指されなければなりません。それで害を被った兄弟は証人や教会の代表者と一緒に祈ることから始めなければならないと申しました。これは裁くことと正反対のことです。まさに心から赦す準備ができていることです。なので異邦人か取税人のようになればいいと言うのは、目下のところはそのようなものでいるのは仕方ないが、時が来れば兄弟に戻ると信じているということです。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

2026年9月6日(日)10時半 聖霊降臨後第十五主日 礼拝 説教 吉村博明 牧師

本日は礼拝の動画配信はありません。説教はテキストをご覧下さい。

主日礼拝説教 2020年9月6日(聖霊降臨後第十五主日)スオミ教会

エゼキエル33章7-11節

ローマ13章8-14節

マタイ18章15-20節

説教題 「教会の中でも隣人愛が増し加わるために」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

  1. はじめに

 本日の福音書の箇所でイエス様は、あなたの兄弟があなたに罪を犯したら、どうすべきか教えます。「あなた」と「あなたの兄弟」は両方ともイエス様を救い主と信じる者です。問題が当事者同士で解決できなければ教会に持ち込めと言っているので二人とも教会に属する者です。つまり、洗礼を受けてイエス様を救い主と信じる者です。それでは、キリスト信仰者が別の信仰者に罪を犯したら、どう対処すればよいのでしょうか? そもそもキリスト信仰者が別の信仰者に罪を犯すとはどういうことでしょうか?

「罪を犯す」と言うと、何か犯罪を犯すみたいに聞こえますが、要は十戒の掟に示された神の意思に反することをしてしまうことです。本日の使徒書の日課ローマ13章でパウロは、殺すな、姦淫するな、盗むな等々の掟は一括りにすると「隣人を自分を愛するが如く愛せよ」に尽きると言います(9節)。これと同じ教えは既にイエス様が教えていました(マルコ12章31節等)。パウロがイエス様の教えを忠実に受け継いでいるのは明らかです。隣人を自分を愛するが如く愛さない、つまり、殺すな、姦淫するな、盗むな等々の掟を行為のみならず考えや言葉でも破ってしまうことが「罪を犯す」ということです。要約すると、「罪を犯す」とは神の意思に反することを行為、考え、言葉で表してしまうことです。本日の個所では、神の意思の中でも人間関係に関するもの、隣人愛が言われているのです。

ところで、「隣人」とは、イエス様が「善きサマリア人」のたとえで教えているように、本当は自分が属している民族その他共同体の境界を超えた全ての人が相手になります。それで隣人愛はキリスト信仰者にとって信仰者であるなしにかかわらず全ての人に向けられるべきものです。ただし、本日の福音書の個所の教えでは対象が絞られていて、信仰者が別の信仰者に隣人愛の掟を破ったら、どうするかということです。

 

2.赦された者として相手に赦しを願う心を呼び覚ます

 まず冒頭の「兄弟があなたに対して罪を犯したら」について、聖書の訳によっては「あなたに対して」がないものがあります。つまり、「罪の犯し」が「あなた」を越えて第三者に及ぶのです。どうしてそういう違いがあるのかと言うと、古代の写本にあるものとないものがあり、どっちを元にするかで違いが出るのです。どっちを選んだらよいか困るところですが、本日の個所の後でペトロがイエス様に「私の兄弟が私に対して罪を犯したら何回まで赦してあげるべきですか?」と聞いているので、ここも「あなたに対して」で行きます。

さて、信仰者は隣人愛を破った相手に対してどう出るべきか?イエス様は、まず当事者同士で「君のしたことは我々が信じる神の意思に反することである」とはっきり伝えるべきと教えます。具体的な言葉遣いはこの通りでなくても、趣旨がきちんと伝わる言い方を考えます。まさに私たちの日本語の能力が問われるところです(私も含めて)。もし相手が「おっしゃる通りです、申し訳ありませんでした」と認めて赦しを願えば赦してあげる。相手は、これからは神の意思に沿うようにしなければと襟を正したことになるので、信仰の兄弟を取り戻したことになると言うのです。

この「二人だけのところで教え戒めよ」というイエス様の教えは、レビ記19章17節の神の命令「心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない」を土台としています。罪を犯された信仰者は、それに対して何もせずにただ心の中で、こんちくしょう、あの野郎、と憎しみを燃やしてはいけない。そうではなくて、その人の前に行って「君のしたことは我々が信じる神の意思に反することである」とはっきり教え戒めなければならない。それをしないでいるのは罪の放置・黙認になり、放置した人もその罪に関与したと神に見なされてしまうというのです。相手が聞き従えば、それは神から大きな祝福が与えられたことになります。しかし、聞き従わない場合は罪の責任は犯した人が全部神に対して負うことになり、教え戒めた人に責任はないのです。これと同じことが、本日の旧約聖書の箇所エゼキエル書33章7-9節でも言われていました。「あなたが悪人に警告し、彼がその道から離れるように語らないなら、悪人は自分の罪のゆえに死んでも、血の責任をわたしはお前の手に求める。しかし、もしあなたが悪人に対してその道から立ち返るよう警告したのに、彼がその道から立ち返らなかったのなら、彼は自分の罪のゆえに死に、あなたは自分の命を救う。」

以上から「二人だけのところで教え戒める」というのは、単に仲直りの手順ではないことがわかります。それは、隣人愛を破った者にそれは神の意思に反することだと気づかせて赦しを願う心を呼び覚ますように導くということです。信仰者はそういう導きをする大事な役割を持つということです。

さらに大事なことは、相手が気づいて自分のしたことを悔いて赦しを願う時は、信仰者は赦さなければならないということです。それも神の意思です。どうしてか?それは、神がイエス様を私たちに贈られたのは私たちが罪の赦しという恵みの中で生きられるようにするためだったからです。創世記の堕罪の出来事以来、人間には神の意思に反しようとするものが備わってしまいました。それを聖書は「罪」と呼ぶのですが、そのために初めにあった神と人間との結びつきが失われてしまいました。神は失われた結びつきを人間に取り戻してあげようと決めました。そうすれば人間は神との結びつきを持ってこの世を生きられ、この世を去る時も結びつきを持ったまま去ることができ、復活の日には永遠に神の御許に迎え入れらます。それで、本当なら人間が受けなければならない罪の罰を御自分のひとり子に代わりに受けさせて、人間が受けないで済むようにして下さいました。それが、ゴルゴタの十字架でイエス様が死なれたことでした。こうしてイエス様は私たちの身代わりとして死なれましたが、神は彼を三日後に死から復活させて、死を超える永遠の命があることをこの世に示し、その命に至る扉を私たち人間に開いて下さったのです。

そこで今度は人間がイエス様の命じた洗礼を受けると彼の死と復活に結びつけられて古い自分は死に新しい自分が生き始めます。この新しい自分は、罪は全てイエス様に償ってもらった、だから彼こそは真に私の救い主だという信仰に満たされています。こうして信仰者は神との結びつきを持ってこの世を生きられるようになり、この世を去った後も結びつきのゆえに復活の日に目覚めさせられて神の御許に永遠に迎え入れられるのです。

罪の赦しという神の恵みを受け取ってその中で生きるようになった者は、赦しを願う者に対して自分も神からしてもらった以上は赦してあげないといけないのです。あと、罪が何だかわからず赦しを願う心がない者に対しては神の恵みを受け取ることが出来るように祈り導いていかなければならないのです。

赦しを願う者を赦すというのは、その者に対して何か優位に立つということではありません。この自分こそが神から赦しを与えられた取るに足らない者であることに思い至らなければなりません。そして、赦すというのは、赦した後は罪は以後不問にするということです。ミカ7章19節に「主は再び我らを憐れみ、我らの咎を抑え、すべての罪を海の深みに投げ込まれる」とあります。神が人間から罪を取り除くというのは、まさにこのことです。罪を神の意思に反することであるとはっきり言い、そこから赦しを願う心を呼び覚まして赦しを与えることで罪を消滅させていくということです。どうか、全てのキリスト教会がこのようにして罪の汚れから清められていきますように。

3.断罪はしない

イエス様の教えの次を見てみましょう。残念なことに当事者だけでは教え戒めることが功を奏せず、相手が耳を貸さなかった場合はどうするか?私は神の意思に反していない、君の方こそ過剰反応ではないか、話を捻じ曲げている、などと言った時です。その場合は、証人として信仰者の中から一人か二人呼んで、それはやっぱり神の意思に反することだったということを確認してもらうことになるとイエス様は教えます。この証人を立てるという教えは申命記19章15節の神の命令に基づいています。「いかなる犯罪であれ、およそ人の犯す罪について、一人の証人によって立証されることはない。二人ないし三人の証人の証言によって、その事は立証されねばならない。」イエス様が旧約の伝統の上に立っていることの一例です。

さて、証人から見てもやはり隣人愛を破ったと認めざるを得ないということになりました。これで相手が非を認めて赦しを願えば、赦してあげて信仰の兄弟を取り戻したことになります。でも、それでも耳を貸さない場合はどうなるのか?その時は問題の解決は教会に委ねられるとイエス様は教えます。なんだか教会員全員の前で吊し上げするような感じがしますが、そうではありません。最初は当事者だけ、それがだめなら二人か三人の証言でと言っているように、イエス様の教えは罪を大っぴらにしないという方向性がはっきりあります。神の意思に反した者の神との結びつきを修復することが目的です。糾弾したり、ましては裁くことではありません。教会を代表する者が当事者と証人と話をすることになります。

そこで相手が非を認めて赦しを願えば、赦してあげて問題は解決します。しかし、それでも耳を貸さない場合はどうなるのか?その時は「その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」と言われます。異邦人とは、天地創造の神を信じず、イエス様をこの世に送られた神を信じない人のことです。徴税人とは、当時ユダヤ民族を支配していたローマ帝国の租税官吏となったユダヤ人のことです。彼らは権力を笠に着て同胞から不当に取り立てて私腹を肥やしたので民族の裏切り者と見なされていました。神の意思に反したことを最後まで認めない、心が頑なな信仰者はこうした神の民に属さない者、裏切り者と同様である、とイエス様が教えていることになります。果たしてそうでしょうか?

ここで、「異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」を注意して見てみます。ギリシャ語原文は次のような意味で書かれています。「その人は、あなたにとって異邦人か徴税人のようになってしまえ。」日本語訳の「見なしなさい」は害を受けた人にそうしろと言う命令ですが、そうではありません。三人称単数形の命令なので「なってしまえ」が正確です。「あなたにとってそうなってしまえ」と、「あなたにとって」と限定的に考えているのです。全ての人にとってそうだとは言っていません。しかも、「異邦人のように」なので「異邦人」そのものだとも言っていません。ここは断罪的ではないのです。それなので、問題兄弟と神との結びつきの回復可能性を考えることができます。実はこのことについて神自身が本日の旧約の日課エゼキエル33章11節で言っているのです。「わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ」と。その一つ前の10節でイスラエルの民は罪の重荷の苦しみを述べています。民が自分たちの罪を認めた後で神はこのように裁きではなく憐みの言葉をかけて下さるのです!

それなので、隣人愛を破られた人は教会の訓戒が功を奏しなかった場合でも、あいつなんか最後の審判の時に地獄に堕ちてしまえばいい、などと呪ってはいけないのです。相手が気づいて悔い改めるように、証人になった人も教会の代表者も一緒に祈らなければならないのです。

4.使徒の権限

18節「あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」「あなたがた」とは、18章の冒頭から明らかなようにイエス様の弟子のことです。「つなぐ」「解く」という言葉のペアは、イエス様が話をしたアラム語の言葉のペア、シェラー、アーサルが土台にあります。意味は「禁止する」、「許可する」です。イエス様は以前16章で同じ「地上でつなぐこと、解くこと」を言い、それを彼をメシアと告白したペトロに委ねると言いました。今日の18章ではやがてイエス様をメシアと宣べ伝えることになる弟子たちに委ねると言っているのです。ペトロを中心とした弟子たち、すなわち使徒たちが教会を形成して、彼らがこの地上でダメと言ったり、OKと言ったりすることは天の国でもお墨付きを得るということです。なぜ使徒たちにこんな権限が与えられるのかと言うと、それは彼らがイエス様の教えと業をつぶさに目撃して彼の十字架の死と復活の証人になったからです。その後は迫害にも屈せず命を賭してまで見聞きしたことを証ししイエス様が救い主メシアであると宣べ伝える役割を担ったからです。イエス様の昇天の後、神の意思は何かを地上で明らかにする権限は彼らに委ねられたのです。

19節と20節をみると、どんな願い事でも、信徒が二人集まって心ひとつにして願い求めたら、天の父なるみ神は叶えて下さるというような一見、願い事は何でも叶うと言っているように見えます。これも注意が必要です。これは今言った使徒の権限の続きです。19節の意味は原文を解説的に訳すと次のようになります。「お前たちのうち二人がこの地上で祈り求めようとする事柄全部について合意して祈り求めれば、それは天の父なるみ神のお墨付きを得て実現する」ということです。18節では使徒たちが決めたことが天の国のお墨付きを得ると言っていました。19節ではそのためには使徒一人ひとりが決めるのではなく二人以上が合意することが必要だ、そして20節でイエス様の名前のもとに集まって合意することが必要だと言います。願い事が何でも叶うということもあるかもしれませんが、全体の流れから見ると、信仰者同士のいろいろな問題について、何が神の意思に沿っているか、沿っていないかを明らかにしなければならない、その時、二人以上の使徒がイエス様の名前のもとに集まって合意して祈り求めたら、それは天のお墨付きを得たことになり、その通りになるという意味です。

5.勧めと励まし

 そうすると、ここで言う「あなたたち」は使徒のことで、私たち信仰者への呼びかけではないのかという疑問が起きると思います。もちろん、私たちへの呼びかけでもあります。ただし、私たちには使徒のような権限はありません。ただ、それとは別に二人以上の信仰者が集まって祈り求めることはできます。例えば、本日の個所のように隣人愛を破って心を頑なにしている兄弟のような、当事者一人では解決できない課題です。そのような場合は別の信仰者に来てもらったり牧師のところに行って事情を話して理解してもらって一緒に解決を祈り求めます。第三者と話し合えば、祈るのに相応しい言葉も見つかるでしょう。この祈りは、掟を破った兄弟のためにもしなければなりません。

 ここで見落としてはならないことは、二人以上が集まる時、「イエス様の名前のもとに」そうするということです。先の申命記19章15節では二人以上の証言をもって事の立証がなされるということでした。イエス様は、この二人以上の証人ということに「自分の名前のもとに」を付け加えました。罪を犯した信仰者を二人以上の証人をもって教え戒める時も、イエス様の名前のもとに集まることになります。このように旧約聖書の掟に「イエス様の名前」という新しい要素が付け加わりました。信仰者が集まる時、祈る時、イエス様の名前が付け加えられることで、集まる人たち祈る人たちはみんなイエス様のおかげで天地創造の神との結びつきを持てていることを確認、告白します。

こうしてみると、まだイエス様の名前がない旧約の時には神との結びつきを確認、告白しようとしても何か決め手がなかったことになります。まだ十字架と復活の前だから仕方ありません。イエス様の名前が付くと、彼の十字架と復活の業のおかげで神との結びつきが持てるようになったことがはっきりします。神が罪を海の深みに沈めると言うミカの預言も、それだけ聞くと神は憐れみ深い方だとわかりますが、どのようにしてそんなことが起きるのかはわかりません。ありがたくは聞こえますが、よく考えると漠然としています。それが、イエス様の十字架と復活の出来事があったので、もう考えるまでもなく神は本当に罪を海の深みに沈められたのだとわかります。それがわかれば隣人愛を破った兄弟に対する私たちの心も一気にそれに倣うようになっていきます。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン