歳時記

十五夜の月

<昼、太陽はあなたを撃つことがなく/夜、月もあなたを撃つことがない。詩編121:6 >

最近、深夜に目が覚める事があります。先日もふと目が覚めると部屋の様子が何時もと違い妙に明るいのです。外も明るく、朝が来たのかなと思って時計を見たら2時45分でハッと気が付いて今宵は満月でした。これ幸いとベットに横たわりながら月見と洒落ていました。虚空に浮かぶ月を見ていると何か妖艶な感じもしてきます、狼は満月に向かって吠えるそうですね。少し気になって月の和名を調べてみましたら次のように沢山ありました、多少省いていますが昔の日本人の豊かな感性を伺わせています。月詠人と言われた藤原定家は生涯の日記に「明月記」と名付けていました。

新月・朔→既朔・繊月→三日月・眉月→半月・弓張月→十日夜→十日余りの月→十三夜月→小望月・待宵の月→十五夜・満月・名月→十六夜→立待月→居待月・座待月→寝待月・臥待月→更待月・二十日月→半月・弦月→暁月・有明→晦・三十日月

2024年7月28日(日)聖霊降臨後第十主日 主日礼拝

司式・説教 田口 聖 牧師(日本ルーテル同胞教団)

聖書日課 列王記 4:42~44(旧583)エフェソ 3:14~21(新355) ヨハネ 6:1~21(新174)

説教 「イエスはわずかなものを感謝し神のわざを行われる」

讃美歌 301、374、388、391

特別の祈り

全知全能の父なるみ神よ。

 この世の嵐が荒れ狂い、あなたの民とされた私たちをも脅(おど)かすとき、どうか私たちが不安と恐怖に支配されないように、イエス様が与えると約束された平和を私たちの心の中に打ち立てて下さい。

あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストのみ名を通して祈ります。アーメン

2024年7月21日(日)聖霊降臨後第九主日 主日礼拝 説教 木村 長政 名誉牧師(日本福音ルーテル教会)

聖書 エフェソの信徒への手紙  2章11~22節       2024年7月21日(日)スオミ教会

説教題:「神との和解」

きょうの説教では、使徒書のエフェソの信徒への手紙、2章11節から聞いて行きたいとおもいます。はじめにエフェソと言う町について、そしてエフェソの教会について少し見てみます。エフェソは現在のトルコにあるエーゲ海に面した港町でギリシャやローマ或いはエジプト、東は小アジアから舟がやって来て貿易で大変繁栄していました。パウロは第2回伝道旅行でエフェソに伝道し教会が出来ました。この手紙は紀元60年頃ローマの獄中から書いています。そしてこの手紙はエペソ教会だけでなく、エフェソの周辺のパウロが伝道した教会へ回し読みされたでしょう。さて、今日はそのエペソ書2章11節からです。11節を見ますと「だから、心に留めておきなさい」と言う言葉で新しい話が始まっています。一番初めに「だから」と書いていますから、その前の10節で言って来た事を受けて書いているのです。それで、2章10節をみますと「なぜなら、私たちは神に造られたものであり、しかも神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスに於いて造られたからです。私達はその善い業を行って歩むのです。」こうあります。それは新しく造られて神の作品とされいる、ことであります。そのように、せられたのだからエフェソの教会の方々よ、このことを、しかと心に留めて記憶していなければなりませんよ、と言っています。この手紙は異邦人であったエフェソの信者たちに対して言っている、ことであります。ユダヤのイスラエルから見れば異邦人と言われた人々です。異邦人と言われた人たちは律法も割礼もないのに救いに入れられる、という事は考える事も出来なかった事なのです。だから、です、だから異邦人たちは何時もこのことを思い出して決して忘れてはならない大事な事であります。そのようにあなた方は恵みによって救われた日の事を思い出す事が信仰生活であると言えるのであります。信仰生活と言うのは、神を信じている生活ですから、日毎に神の恵みを受けているにちがいありません。その事は始めの日にキリストの恵みによって救われた、という事実に基づいて」いるはずであります。それなら決して忘れてはならない、心に留めてただ記憶するだけでなく、心に留めて思い出して生きなさい。と言っているのです。その事は主イエス様ご自身が既に仰せになっている事であります。最後の晩餐の時、主は私の記念としてこれを行いなさい、言われました。これは私の体、これは私の流す血である、と主の恵みにあずかって新しくしていただくように、はじめの日の救いの恵みを思い出して、いま、確かに救われている事を知る事であります。それなら何を知れ、と言うのでしょうか。彼らは異邦人でありました、異邦人という事は肉によって言う事でありました。しかし、それが神との関係にかかわって来るのです。異邦人であるのは割礼がない、という事です。しかし、割礼がないのは決して肉体だけの事ではありません。割礼と言うのは神との関係を表そうとしています。神との関係に特別な約束がある、という印です。神との約束と言うのは何の事でしょう。それは旧約聖書、創世記17章7節に書いてあります。「私はあなた及び後の代々の子供と契約を立てて永遠の契約とし、あなたと後の子供との神となるであろう」。とあります。では誰が神との約束を持っているでしょう。イスラエルは割礼のゆえに神との約束を持っていると思っていました。それで神がまことに自分の神になっておられる、と信じる事ができました。人生の最も大きな問題に、神との約束を持っているか、どうかと言うことです。世の中の生活には何の約束もない、保証もない、だから神を信じたい、という人は沢山いるでしょう。しかし自分で神がある、と信じても何の保証にもならない。神様があなたの神になってくださる事です。(人間は勝手な者です、自分が中心である、自分の都合よくなる事のみを求めますね)大事な事は神が我々の神となってくださる事です。神の方から神になってくだされば、そこに始めて確かな保証があるのです。神が私の神となってくださる時、神は救いと守りの約束を与えておられる、事を信じることができるのであります。そうであれば大切なのは肉に夜割礼ではなく、その割礼を印として神の約束を信じる事であります。そのことが本当の割礼であります。そこで異邦人である我々には何が割礼でしょうか、真の割礼はイエス・キリストによって与えられます。その印は洗礼であります。私たちには割礼はありませんが洗礼によって神は私たちの神となってくださった、このことをイエス・キリストによって信じているのです。それなら、割礼のなかった人たち、つまり神の約束を持っていなかった人々はどんな生活をしているのか、そのことをパウロは12節に書いています。「その当時はキリストを知らず、イスラエルの国籍がなく、約束された、という契約に縁がなく、この世の中で希望もなく神もない者であった」と書いています。これがエペソの人々の実際の生活であった、と当時のことを思い起こさせて、そうしてパウロは続いて13節に書いています。「しかし、あなた方は以前は遠く離れていたが、今やキリスト・イエスにおいてキリストの血によって近い者となったのです」と言うのです。この句の中で大事なのは「今や」と言うことです。いろいろな事があった、しかし、今やであります。人間がどんなに神に背いているか、という事を書いて、今や神の義が現れた、と言ってキリストによって全く違う事が起こったのです。ここではキリストの血によって、キリストご自身の御業であります。何故ならばキリストの血によってあなた方の罪の責任は赦されたのだからです。このように罪が赦されるのは異邦人だけでなくイスラエル人も同じであります。こうしてイスラエル人も異邦人も同じように神に近づきお互い同士でも近くなることが出来るのであります。イスラエル人は異邦人をあざ笑っていたのです。律法もない割礼も受けていない。ところが今や自分たちも同じ立場にあることを気づかされてゆきます。パウロは言っています、実は異邦人はイスラエル人との関係から遠かった、だけではなく神からも遠くあったのです。それなら、この奇跡にも似たような考えられない事がどうしてできたのでしょうか。それはキリストが平和であったからである、と言うのです。これは恐らく誰も予想しなかったことでありましょう。キリストが平和そのものである、という事はちょっと理解し難い。実はそう簡単な事ではありません。何故ならこれは政治や社会の問題ではなく神との関係の違いであったからです。イスラエル人も異邦人も同じように神に対して平和を得るのでなけtれば、イスラエル人と異邦人との平和は出来ないのであります。

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パウロはローマ人への手紙5章1節でこう書いています。「信仰によって義とせられたのだから、神に対して平和を得ている。」だから14節に「キリストこそは私たちの平和である」。と言われるのであります。そうして「二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、」と書いています。軽蔑しているイスラエル人にも軽蔑されている異邦人にも敵意があったのです。それなら、その敵意というのは具体的に何の事を言うのでありましょうか。例えばイスラエル人が持っていた律法が敵意の中垣となって、妨げているのでしょうか。イスラエル人は律法を自分たちだけが持っている、と言って誇りとしていたでしょう。従って異邦人との関係に於いて妨げるものであった、ということもできます。それより重大なことは律法がイスラエル人の誇りであったにもかかわらず本当のところイスラエル人が律法を行う事が出来なく苦しんだのです。この律法と言うものがイスラエル人及び全ての人間と神との間を隔てた、という事です。ローマ人への手紙でパウロが言っていますように律法は悪いものではありませんが、人間に罪があるため、それを行う事が出来ず、人と神との間を生かす筈の律法が神に近づく事を決定的に妨げたのであります。そこで、この戒めの律法をキリストの血によって廃棄したのである。と13節にあります。16節にはキリストの血とご自身の肉という十字架によって神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。とあります。ここで大切な事は人と人とのいがみ合いをどうしたら良いか、と言う事が先ではなくて、まず神と人との和解を如何にして成立させるか、そのことが先であります。それが出来た時、はじめて人と人との和解ができ、イスラエル人も神と和解し、また異邦人も神と和解することであります。それ故に十字架につかれたキリストは真に救い主であり我々の平和であるのであります。更に15節で「二人の者を一人の新しい人に造り替えて平和を来たらせる」と言っています。それは二人の敵対していた者が一つになる、と言うのではなくて全く新しいものが造られるのであります。そこに全く新しい人が創造される。聖書の言葉で言えば罪によって生きていたものが神の恵みによって生きる、という事であります。人間はどんなに自分で工夫して新しくなろうとしても罪からの解放というものがなければ新しくならない。新しくなる、という事は罪ではなく恵みによって生きる、という事です。罪故に神に敵対していた者が恵みによって神と和らぎ、神の愛を確かなものにするに至ることです。ここに新しい人間が生まれるのであります。そのことはユダヤ人でありながら、異邦人でありながら、全く新しい人になった人々です。それが神の教会であります。最後に18節に「このキリストによって私たち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことが出来る」。とあります。それは礼拝であります。22節には「キリストにおいてあなた方も共に建てられ霊の働きによって神の住まいとなるのです」。 アーメン

歳時記

紫陽花の先祖帰り

<人はみな草のよう。その栄えはみな野の花のようだ。主の息吹がその上に吹くと、草はしおれ、花は散る。まことに民は草だ。草はしおれ、花は散る。しかし、私たちの神のことばは永遠に立つ」(イザヤ40:6〜8) >

27年前に山梨の日向山という山の中腹に僅かな土地を手に入れ記念に一株の紫陽花を植えました。植木屋で購入しただけあって見事な紫陽花に成長し訪れる度に目を楽しませてくれていました。ところが数年前より手毬型の花房がばらけて来て何となく赤っぽいガクアジサイの花びらを見せるようになりました。先日久しぶりに訪れましたら紫陽花は本物のガクアジサイに変わっていました。紫陽花は日本固有種で本来はガクアジサイだったそうです。江戸時代にシーボルトが本国に持ち帰り以後ヨーロッパでいろいろと改良され現在の紫陽花が出来ました。その後日本に逆輸入され今の紫陽花が一般的になったようです。昔植えた紫陽花は27年かけて先祖帰りを行ったかと感慨に耽って見ていました。

2024年7月14日(日)聖霊降臨後第八主日 主日礼拝  説教 田口 聖 牧師(日本ルーテル同胞教団)

7月14日 マルコ6章14−29節

「洗礼者ヨハネの死が私たちに示す福音」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

1、「初めに」

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 さて、今日の箇所は、ヘロデ王の話が書かれています。14節に「ヘロデ王」と書かれていますが、彼は、イエス様が母マリヤから生まれた時に、東の賢者からの救い主の誕生の知らせに恐れて「幼児虐殺」の命令を出した、俗に「ヘロデ大王」と呼ばれる人物の息子ヘロデ・アンティパスです。「王」と書かれていますが、ルカやマタイの福音書では「領主」と書かれています。というのは、ローマ帝国は、ヘロデ・アンティパスを王とは認めておらず、ガリラヤとペライヤのテトラルキアという領主として認められていたからでした。ですから厳密には王ではなく領主でした。14節こう始まっています。

「14イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王の耳にも入った。人々は言っていた。「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている。」

 イエスの噂は、群衆が押し寄せエルサレムから律法の専門家さえ観にくるほど広く広まっていました。当然、ヘロデ・アンティパスの耳みにも入るのですが、やはりその「起こった奇跡」や教えていることへの様々な勝手な評価や解釈も噂となって入ってきていたようなのです。15節の「エリヤだ」とか「昔の預言者のような預言者だ」という噂以上に、彼の心に刺さってきた噂は「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている。」 という評判でした。彼はこの噂を聞いて言うのです。

2、「ヘロデ・アンティパスに対する洗礼者ヨハネ」

「16ところが、ヘロデはこれを聞いて、「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」と言った。

16節

 この時、その人々の言葉にあるように、すでに洗礼者ヨハネは死んでいました。それは、ヘロデ自身がこの16節で言っているように、彼による処刑によるものであったのでした。17節以下にその経緯が書かれています。

 ヘロデ・アンティパスの妻ヘロディアは、ヘロデ大王の孫娘です。彼女は最初、やはりヘロデ大王の息子でありアンティパスの異母兄弟であるフィリポと結婚していました。つまり、叔父と姪の結婚ということでした。しかし、ヘロディアはその後、今度はアンティパスと婚姻関係を結んだのでした。そして17節にある通りに、この出来事が発端となり、洗礼者ヨハネを逮捕して牢獄に繋いでいたのでした。なぜでしょうか?18節です。

「18ヨハネが、「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」とヘロデに言ったからである。

 洗礼者ヨハネは、人々に悔い改めのバプテスマを教え、洗礼を授けていました。彼は、救い主イエスが来る前に、救い主の道を整え真っ直ぐにするものと預言された預言者でしたが、そのようにまさに福音であるイエス様が来る前に、律法で神の御心、神の前で何がしてはいけないことであるのか、はっきりと示していました。それは当時の領主であるこのヘロデ・アンティパスに対しても例外ではなかったのでした。洗礼者ヨハネは、アンティパスが自分の兄弟の妻ヘロディアと結婚したことを、それは神の律法に違反する罪であると指摘したのでした。この後の20節からもわかる通り、洗礼者ヨハネはアンティパスに時々、聖書の教えを教えていたようなのです。こうあります。

「ヘロデが、ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていたからである。

20節

3、「神に言葉を託されたものの宣教」

A,「神が何を私たちに伝えたいのか:律法と福音の説教」

 ここに、洗礼者ヨハネの、神から召された預言者としてのその宣教の一端を見ることができます。まず、彼はそれが王であろうと領主であろうと、まず聖書から律法を語り、まっすぐと伝えていたということです。私たちも律法を語られる時に、心を突き刺され、痛みを覚えます。恐れ、当惑します。時に、抵抗しようともします。それがヘロデにもありました。しかし、ヘロデにはものすごい葛藤があります。19節では「恨み」「殺そうと思っていた」ともあるのですが、20節では、その教えから「ヨハネは聖なる人であるとも知っていた」そして律法を聞きながら怖れ戸惑いながらも、なお喜んで耳を傾けていたともあります。ヨハネは、律法を語り悔い改めのバプテスマを説いていましたが、しかし同時に、「イエスの道を整え真っ直ぐにする」預言者ですから、ヨハネ1章にもあるように、到来した救い主であるイエスを「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」と指し示していたのでした。つまり、洗礼者ヨハネの宣教も紛れもなく、律法と福音の説教の宣教であり、それは王であろうと領主であろうと、全く関係なく全ての人々へであったことがわかります。

B,「「人が何を聞きたいか」に流される教会」

 まずこのところから、洗礼者ヨハネの宣教、つまり神の言葉を預かって伝える預言者の宣教、つまり、現代の牧師、そして教会の宣教が教えられていることがわかります。それは、どこまでも律法と福音の説教であり、その宣教は今も変わらないということです。つまりそれは、どこまでも「人が何を聞きたいか」の説教ではなく、「神が何を伝えているのか」の説教であり宣教であったということに私たちは教えられるのです。近現代の個人主義と消費主義社会の発展によって、教会もその世の流れ・流行に流されて、リベラルも福音派もこれと逆の教会や宣教になってきています。つまり「神が何を伝えているのか」ではなく「人が何を聞きたいか」が中心になって、教会や宣教は進められることが多いですし、それがあたかも正しい、宣教や教会の王道であるかのようにもされています。それは名目は隣人愛の名目が大々的に掲げられますが、聖書の教えとはいえ、「人が聞きたいこと、聞きたくないこと」、その必要を何よりも中心に合わせて、聞きたくないことは語らない、罪や悔い改めなんかは人は聞きたくないから、語らなくて良い、語らない方が良いと、なることは珍しくありません。さらには、本当は罪であるのに、もはや世の中や社会では受け入れられて誰も罪だとか思っていないとか、社会的に制度的に認められていることだ、だから、それはもう罪ではない、としてしまうことも教会や説教台で当たり前になされ教えられてもいるでしょう。むしろそれに対して、聖書が罪は罪だと言っていることだからと、あくまでも罪ですということの方が、頭が硬いとか、隣人を愛していないとか、なんて酷い思いやりのない教会だ牧師だなんて言われることも多いです。

C,「洗礼者ヨハネやイエスはそのようにしたのか?」

 しかし、洗礼者ヨハネも、そしてイエス様も、使徒の時代の使徒達もそのようにしたのか?、そのように聖書の教え、律法を歪めてまで、人間の都合の良い教えを教えることで隣人愛を表したのかと問うならば、全くそんなことはないでしょう。洗礼者ヨハネは、ガリラヤの領主であっても、「それは罪です」とはっきりと神は何を伝えているのかを教えているではありませんか?洗礼者ヨハネは、確かにヘロデに福音も語り、彼は喜んで聞いています。だからと、もしかしたらもう少ししたら信仰に導けるかもしれない。だから、ここで罪を指摘することはやめておこう、罪だけどもヘロデが気分を害し、せっかく仲間になるのを妨げるといけないから「罪ではないとしよう、罪ではないと教えよう」、とはしなかったでしょう。自分が「それが罪です」ということで、相手は領主であり王のような存在であるのですから、恨まれて牢獄に投げ込まれることも推測できたでしょう。しかしだからと「それが罪です」ということをやめたりはしなかったでしょう。彼は、どこまでも「人が何を聞きたいか」ではなく、「神が私たちに伝えたいのか」を語った。そこに彼の宣教の王道があったし、それが聖書の伝える宣教だったのです。

D,「隣人愛を理由に聖書を捻じ曲げることの自己満足さ」

 事実、みなさん、聖書が罪であると言っていることを、隣人愛の名目や思いやりと称して、罪であることを、それが罪ではないと伝えることが、隣人愛ですか?優しさですか?人の前ではそうかもしれません。しかし、神の前では、その相手は確実に罪を犯すことになり、悔い改めなければ神の前に救いに与れないのです。神の怒りと裁きの座に立ち、滅んでいくのです。それなのに、人の前の一時の満足のために「それは罪でありません」と教えることは、何の愛でも思いやりでもないでしょう。その人がキリストの十字架の罪の赦し、そこにある平安に出会えない、経験できない、与れないのですから。むしろ妨げていることになります。ただ私たちや教会の地上の欲求や願望や自己満足のためにです。ぜひ私たちは、人々を十字架の救いに真に導くために、彼らが真の福音に出会うためにも、その前に、きちんと律法で「これは罪です」と人間の現実を示し悔い改めに導く、それから福音を示していく、律法と福音の宣教者の教会であり続けれるようぜひ祈って行きたいのです。

4、「ヘロデの心の矛盾」

 さて、先ほども言いましたように、ヘロデ・アンティパスは、洗礼者ヨハネとその教えとの出会いにものすごい心の揺れ動きと葛藤があったことが見て取れます。ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、恐れ、保護までし、喜んで耳を傾けていながらも、なんと、恨み、殺そうとまでしていた、という、大いなる矛盾が彼の心にはあります。罪を責められて、やはり素直に聞けず、怒りは込み上げていたのでしょう。しかし、完全に怒り切ることもできない、確かにヨハネの語る福音に喜んだ自分もいた。ものすごい葛藤です。しかし、そこに21節、「良い機会が訪れた」という言葉で展開を迎えるのです。

「21ところが、良い機会が訪れた。

 良い機会とありますが、あくまでもヘロデから見ての良い機会であり、まさにあの堕落の時のようにサタンの巧妙な誘惑がそこに忍び込んでくるのです。このようなことがあったのでした。21節続きますが、

「ヘロデが、自分の誕生日の祝いに高官や将校、ガリラヤの有力者などを招いて宴会を催すと、 22ヘロディアの娘が入って来て踊りをおどり、ヘロデとその客を喜ばせた。そこで、王は少女に、「欲しいものがあれば何でも言いなさい。お前にやろう」と言い、 23更に、「お前が願うなら、この国の半分でもやろう」と固く誓ったのである。 24少女が座を外して、母親に、「何を願いましょうか」と言うと、母親は、「洗礼者ヨハネの首を」と言った。 25早速、少女は大急ぎで王のところに行き、「今すぐに洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、いただきとうございます」と願った。 26王は非常に心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、少女の願いを退けたくなかった。 27そこで、王は衛兵を遣わし、ヨハネの首を持って来るようにと命じた。衛兵は出て行き、牢の中でヨハネの首をはね、 28盆に載せて持って来て少女に渡し、少女はそれを母親に渡した。

 自分の誕生日の出来事です。高官も将校も有力者も、自分の支持者でした。彼はご機嫌でしたしょうし、彼のメンツやプライドがまさに高められているそんな時でした。そこで有名な戯曲やオペラの元にもなっているヘロディアの娘の出来事が起こります。まさにアンティパスは自分のために踊った娘へ、上機嫌で「願うものは何でもやろう」というのです。国半分などあげられるはずもないのに、まさに大口を叩き「固く誓って」までいうのでした。しかし、そこにヘロディアは娘をそそのかして、自分の結婚を罪だと批判したヨハネの首を、盆に乗せて、それを自分に欲しいと言わせるのです。アンティパスは26節「非常に心を痛めた」とあるように葛藤しますが、「誓ったこと」であり、そして「客の手前」ともあります。彼は引き下がれなかった、自分を優先させたのでした。そして彼は権力のままその娘の通りにさせ、ヨハネを処刑したのでした。

5、「洗礼者ヨハネは死を通してキリストを指し示す」

 みなさん、ここで疑問に思うでしょう。「神は彼を守れなかったのか?そんな大事な預言者なら、彼の処刑を止めさせることができただろう」と。またある人は理屈をこねていうことでしょう。彼はそんな風に「それは罪です」とストレート過ぎたから、だから失敗したんだ、だから報いを受けたんだ、志なかばで挫折したんだ、それ見たことか、だから、「それは罪なんだ」なんてストレートに言っちゃダメなんだと。みなさん、本当にそう思いますか?でも、みなさん、これと同じ出来事が、まさにこの後、同じように起こるでしょう?そうイエス・キリストです。あのイエス様の場面も、神は止めることができたはずです。いやイエス様自身がマタイ26章、逮捕の場面で弟子の一人が剣で衛兵の耳を切り落とした場面で、言っているでしょう

「そこで、イエスは言われた。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。 53わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。 54しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。」マタイ26章52〜54節

 と。イエス様には、つまり神には、イエス様の十字架も、そして当然、ヨハネの処刑も止めることができるのです。神の12軍団以上の天使を今すぐ送ることができるのです。しかし、それをしませんでした。なぜなら、そうしてしまうと、神が必ずこうなると書いていることが聖書の御言葉が実現しないからです。イエス様は、ゲッセマネでも、御心ならこの杯を取り除けてくださいと祈りました。しかし、イエス様は父の御心の通りになるようにと祈ったでしょう。そしてイザヤ53章10節からわかる通り、その神の御心の通り起こったことこそが逮捕であり、十字架の死であったではありませんか。洗礼者ヨハネも、キリストの道を整え真っ直ぐにするためにきました。しかし、かつて旧約の時代の正しい預言者たちが沢山殺されたのと同じように、彼も殺されることに、キリストの予兆、雛形があるのですから、この洗礼者ヨハネもまた、十字架のイエス・キリストの雛形です。まさに、このイエス・キリストの十字架の雛形として、この人の目から見れば悲惨な処刑という道を歩むことによって、まさにイエス・キリストの道を示し真っ直ぐにイエス・キリストを指し示す、その召命を全うしているのです。このようにヨハネは用いられていますし、このようにヨハネの処刑を通して、もちろんヘロデの罪深さから、神の義を決して実現できない人間の罪深さ、正義よりも自分のメンツやプライドを優先させ、正義を犠牲にしてしまう、人間の、つまり私たち一人ひとりの自己中心さも示されるのですが、何よりも、そんな罪深い私たちのためにこそ、ここでもヨハネという預言者と彼に起こった出来事を通して、神は、イエス・キリストの十字架を見るよう私たちに差し示している。洗礼者ヨハネは、生涯を通して「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」と、この死を通してもイエス・キリストを私たちに指し示している、それを全うしていることを教えられるのです。

6、「私たちは誰を見るか?」

 私たちは、今日この聖日、イエス様から与えられた御言葉に、説教を通して、誰を見るでしょうか?ただ悲惨な出来事だけを見て驚き悲しみ、怪しみ神の成そうされた全てを疑いますか?そうであってはなりません。今日も神はみ言葉を通してこの世の罪を取り除く神の子羊、イエス・キリストを、その十字架と復活を私たち一人一人に指し示しているのです。ここに神の前にあって、真の救い、永遠のいのちがある。ここにイエス様が与える罪の赦しと平安と新しいいのちがある。神の国への道があるのだと。悔い改めて、神の国を、イエス・キリストを信じ受け入れなさいと。

 そのように神の前にあって悔い改める私たちに今日も十字架と復活のイエス様は宣言してくださっています。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。ぜひこの福音を受け取って、喜び、安心して、ここから世に遣わされて行きましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

歳時記

ノリウツギ(さびた)

山梨の家の道路側に見慣れない木が数本並んで生えています。夏になると白い房状の小さな花を付けます。予てから木の名前を調べていましたがどうやら「ノリウツギ」のようでした、北海道や東北では「さびた」とも呼ばれています、「さびた」とはアイヌ語に由来があるようです。この木の樹皮から糊を採ったので「糊の木」とも呼ばれていました。秋になると「さびた」の周りには沢山の野鳥が集まって来て窓辺の餌台のひまわりの種を狙っています。「さびた」は釧路湿原を舞台にした原康子の小説「さびたの記憶」や「挽歌」にも登場していました。

2024年7月7日(日)聖霊降臨後第七主日 主日礼拝  説教 田口 聖 牧師(日本ルーテル同胞教団)

7月7日(マルコ6章1−13節)

「つまずきが起こる現実の中でのイエスの宣教」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

1、「初めに」

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 今日の聖書箇所は、先週のイエス様による12年病気の女性の癒しと、ヤイロの12歳の娘を生き返らせた出来事の続きになります。イエス様は故郷、つまり、自身が育った「ナザレ」へと帰ります。弟子たちも一緒でした。そのナザレで安息日を迎えます。2節から読んでいきますが、2節の初めだけ読みます。

2、「イエスの真の働きと目的」

「2安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。

 これまでの、目に見える、しるし、奇跡、癒しは、確かに華やかで人の目を惹きつけるので、人々の目はそちらに注目されがちです。しかしイエス様が毎週欠かさず行っていたのはこのことです。それは、「安息日を覚えて聖としなさい」というその戒めに従い、そして、安息日にも主であり働かれ仕えてくださる真の救い主として、「会堂で教える」ということでした。しかも、「会堂で教える」という時、イエス様は、ただ自分の勝手な思いや当時の流行りの教えや哲学、あるいは、社会情勢や社会問題を教えたのではありません。おそらく並行している箇所かもしれませんが、ルカ4章を見るとこうあります

「16イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。 17預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。

 まず「いつもの通り」とあります。そして「聖書を朗読して」とあり「預言者イザヤの巻き物を渡され、開いて」とあります。そう、イエス様は預言書、つまり当時の「聖書から」、それは私たちから見た「旧約聖書」から説教し教えたのです。しかも、イザヤ書の引用の後、ルカ4章は20節以下でこうあります。

「20、イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。 21そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。 22皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。

 イエス様は、時の社会情勢から社会問題に宗教の色をつけて会堂で語ったのではありません。聖書の言葉を読み、そして、神の国の実現がみ言葉の通りに実現したことを語り、そして、それは「恵み深い言葉」だったとあるでしょう。そう、イエス様は、旧約聖書から、律法と福音を語り、救いの到来の良い知らせ、神の恵みの現れを語った、説教したのでした。イエス様の宣教の言葉は、マルコ1章をみると「神の福音を宣べて」とあり「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という言葉で始まりました。その言葉からイエス様の福音宣教が始まっており、それが何よりの目的でした。もちろん、しるし、奇跡、癒し、もイエス様の憐れみと神の力の表れであり、イエス様が神の御子であることの証しとして大事なことでしたが、それだけがイエス様の教会のわざでもなければ、それが主たる目的、働きではないのです。

「神の福音を宣べて」

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」

 それが、イエス様の十字架と復活の達成にまで至る最大の目的であり、また神の国と救いの到来の証しであったのでした。そのイエス様の活動は、弟子たちと精力的に活動していたカペナウムだけではなく、このナザレでも、全く変わることがなかったのでした。

3、「驚きと疑い」

 しかしです。2節こう続いています。

「多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。

 人々はイエス様の聖書からの説教、教えを聞きました。そして驚きました。ルカの4章の方でも「皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った」とあります。驚くべき言葉であったのです。しかし、その驚きは、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」というメッセージの真の意味や素晴らしさを理解した驚きや感嘆、褒め讃える言葉ではありませんでした。むしろ、それは、日常の価値観や常識では得ない人から、予想できないような言葉や教えが出てきたことの「驚き」であったのです。なぜなら、このような教えを「どこから得たのか?」その知恵や奇跡は「一体何が起こっているのか?」という驚きに続いて彼らはこういうからです。3節以下

「 3この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。 4イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。 5そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。 6そして、人々の不信仰に驚かれた。

 とあるのです。ルカ4章の方でもその驚きの言葉はこうあります。4章22節

「この人はヨセフの子ではないか。」

 何週か前、マルコの3章のところでも、イエスの悪い評判を聞いて、表面的なことでしかイエスの働きを判断できず連れ戻しにきた家族達と同じ視点です。イエスの口から悔い改めと信仰による素晴らしい神の国の福音が伝えらているのに、しかも聖書から真っ直ぐに正しく、そして恵みと憐れみに溢れて説き明かされているのに、彼らは、やはり、当時の、人間中心の視点で、社会的な自分たちの常識や先入観や価値観だけに流されて、そのイエス様の教えに驚きは示しますが、疑いの目で見るのです。あれは「ヨセフの子ではないか」「大工ではないか」「あの家族はみんな自分の知り合いだぞ。そんな大工の息子が、こんな教えをどこから仕入れてきたのか?こんなことなんで起こるんだ?不思議だ、驚きだ」、と受け入れられないのです。疑い、怪しむのです。

4、「しるしを求めるものには躓き、知恵を求めるものには愚かに見える」

 それは、まさにパウロがコリントの信徒へ述べた教えは、紛れもなく真理をついています。

「22ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、 23わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、 24ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。 25神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。

コリント第一1章22−25節

 パウロは教えます。イエス様の福音、十字架の言葉は、しるしを求めるユダヤ人には躓きであり、知恵を求める異邦人、ギリシヤ人には愚かに見えるのだと。目にみえるしるし、人間の知恵や理性に求めても、福音、十字架の言葉は、決して理解できない。むしろ十字架の前に、福音の前につまづきとなるのだと、パウロも、そしてイエス様ご自身も教えてくれています。しかしキリスト教会の歴史は、このことの葛藤と誘惑の歴史であり、また、実際にそれらに負けてきた歴史でもあり、今も現在進行形であるとも言えるでしょう。何とか人間が理性で理解できるように、説得できるように、伝えなければならない、理性的に矛盾があってはならない、あるいは、社会文化的に、人間の欲求や願望や必要に受け入れられなければならないと、教会自体や、福音を伝えるはずの牧師説教、神学者自身が、しるし、経験、理性で、聖書を何とか理屈づけようとする、説明しようとする、そして、聖書の文字通りに教えや都合の悪い教えを、捻じ曲げようとする、否定しようとする、奇跡なんかは、それは神話だ、弟子達の作り話だ、等々、理性的、科学的に説明しようとしてきました。しかし、それは、まさに福音につまづき、キリストにつまずき、そして、人々をつまづかせていると言えるでしょう。律法と福音の言葉を真っ直ぐに伝えれば、世の中は罪人の世であり、罪を認めない世であり、同時に、理性と自己中心な欲求で判断するのですから、受け入れないで躓く人が出て当然のことです。しかし、それでも神はそのように忠実にみ言葉を伝える教会の苦悩を受け止めて報いてくださるのが宣教であり教会であるでしょう。しかし、福音を歪めて、聖書を歪め、一部、書かれていることを否定して、しるしと知恵で躓かせないように教え、それは、道徳的、倫理的な導き方はできるし、人には賞賛されるかもしれませんが、しかしそれは神の前には大いに人々を躓かせているし、神には受け入れらない重大な過ちと罪に陥っていると言えるでしょう。むしろ私たちは、イエス様ご自身が、人々はしるしを見ては福音につまづき、知恵を見ては十字架の言葉に躓くことをよくご存知であり、それは近しい知人や家族ほどそうであることを知っていながら、なおも、それでも、このように、会堂でいつも変わることなく聖書からまっすぐと悔い改めと福音を伝えたことに、ただ純粋に毎週、倣っていきたいと教えられるのです。

5、「救いの確信:信じるものには神の力」

パウロは、先ほど引用したコリント第一1章でこう続けています。

「 24ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。 25神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです

1章24節

 と言いました。またこの1章ではこうも言っています。

「18十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。

18節

「30神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。」 31「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。

30−31節

 「召された者には」「私たち救われる者には」それは「神の力」「神の知恵」です。それはなぜですか?何人であっても、どんな人種の人であっても、自分の力や行いではない、「神が私たちを召してくださった」から私たちは召された者。神が救ってくださった者です。「神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ」たという者です。「神が」「神によって」私たちは、キリストのもの、神のものとされ、与えられた信仰のゆえに、私たちにとって、その十字架の言葉は「滅びの言葉」ではない。正しく「神の知恵」「神の義」「神の聖」「神の贖い」である。それが今、確かに私たちにある。私たちの信じ拠り所とする核心である。と私たちは、告白できるでしょう。このことは、小教理問答書の使徒信条の教えの第3条「聖化について」ではっきりとこう答えています。

「自分の理性や力では、私の主イエス・キリストを信じることができないし、また主のみもとに来ることができないことを信じます」

 と。しかし

「聖霊が福音により、私を召してくださった。その賜物で私を照らして、正しい信仰の内に清めてくださった」

 そのように教えられているでしょう。私たちルーテル教会はこのように告白しているのです。

 私たちにとって福音はつまずきとなっていません。むしろ、イエス様の十字架の言葉を通して、神が御子イエス様によって私たちを救ってくださった。そのことこそ、私たちの毎週の信仰の告白ではありませんか。そしてその告白も、私たちが毎週、日々の平安があるのも、紛れもなく、父子聖霊によって捕えられ、み言葉を語りかけられ、聖霊によって信仰を与えられた、その恵みのゆえ、恵みのみであるとここに告白できるでしょう。もしそのように、今、私たちが、福音は正しく神の力、そのように告白できるなら、今日もあるその神の恵みを覚え讃え感謝しましょう。そして、もしそうであるなら、なぜ、十字架の言葉を、福音を、なおも、しるし、経験、人間の知恵や理性で歪めてまでして、伝えたり教える必要があるでしょうか?そのようになおも人々を一層躓かせる必要がありますか?それは大きな矛盾ですね。だからこそ、私たちは、周りの人に、なかなか歓迎されず、受け入れられず、拒まれたり、否定されたり、馬鹿にされたり、愚かな教えだと言われたとしても、世に調子を合わせ、理性やしるしで聖書を上塗りして歪めるのではなく、イエス様のように、真っ直ぐに、力あるイエス様の福音を、十字架の言葉を聞いていきたいし、そして伝えていこうではありませんか。世の中は誘惑があり、理性や知恵やしるしで人間に心地よい教えに歪める誘惑は今現代も、教会内で絶えず渦巻いているキリスト教事情がありますが、私たちのこの教会では、その誘惑に流されることなく、十字架の言葉、福音をまっすぐと伝え説教していく教会であるよう、イエス様の助けを日々、毎週、ぜひ祈っていきたいのです。

6、「一人では遣わさない」

 その大事な務めのために、7節以下ですが、イエス様は、12人の使徒達を選びお使になります。そこに7節、このような大事な慰めとなる言葉があります。

「二人つづつ組にして遣わされた」

 これはとても感謝な言葉です。イエス様は一人では遣わされないのです。組で、複数で、イエス様は宣教に遣わします。パウロの時も、必ず複数です。それがイエス様の御心でした。そのように教会は、決してカリスマ牧師のワンマンのマンパワーで運営されて大きくされていくのでは決してないということです。世の人々はカリスマと強いリーダーシップを求めます。それは教会でも例外ではなく、カリスマに満ちたワンマンリーダシップの牧師はもてはやされ、ひどければそのようなカリスマ牧師はイエス様以上に教会では崇拝され神のようにさえ扱われます。しかしそれはイエス様の御心ではありません。パウロも目や手など体の器官の例を取り上げ、クリスチャンそれぞれに賜物と召命が与えられそのそれぞれが組み合わされそれぞれが用いられ一つの教会が建てられると教えています。そう、教会の働きも、当然、宣教も、それはチームで用いられるのです。ワンマンではないのです。まして孤独の働きにもされません。二人の組で、あるいは複数で、あるいはみなそれぞれ賜物と召命を与えられ用いられる一つの体として教会はみ言葉の働きを進めるのです。これは恵みであり、神の御心なのです。そして、7節後半以下、必要なものは、悪霊を追い出す権威から、パンも何もかも、イエス様が指定されているのは、それは必要なものは神が備えてくださるからこその命令です。そのように神が満たして用いられたからこそ、12節以下、宣教があったことがわかるでしょう。このように、宣教は、律法と福音の区別で言うなら、律法ではなく、どこまでも福音であり、福音を受けて、イエス様によって召命も賜物も全てを与えられ、そしてイエス様が与えてくださったものによって全てが果たされていくものなのです。そのことがすでにここに始まっていますし、宣教とは何か、教会とは何かがここにしっかりと証されているのです。

7、「結び」

 今日もイエス様はここに私たちを集めてくださり、み言葉と聖餐で私たちに仕えてくださいます。そして悔い改めてイエス様の前にある私たちに、イエス様は今日も宣言をしてくださいます。「あなたの罪は赦されています。安心していきなさい」と。ぜひ安心してください。そして、その安心のうちに遣わされていきましょう。その救いの素晴らしさ、み言葉の真実さ、平安の確かさとそれがイエス様からの恵みであると、信じて生きるため、そしてその生き方を通して、それらの恵みを、イエス・キリストを伝え、証していくために私たちは召されているのです。イエス様は私たちを用いて御心を行なってくださいます。安心し信じてここから出ていきましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

歳時記

ガクアジサイ

<紫陽花の 八重咲く如く 弥(や)つ代にを いませわが背子 見つつ偲(しの)はむ 万葉集 橘諸兄 巻20-4448 >

皐月のカキツバタ、梅雨のアジサイと何れも大好きな花です。これらの色を何色かと問われれば答えるのに苦労します。調べればマンセル表の何番と答えられるかも知れません。また日本には古来より色の和名があります。面白いことには古人も言い表すことが出来ない色はその対象物の名前を付けていました。私も好きなカキツバタにはカキツバタ色、ガクアジサイにはガクアジサイ色と勝手に名付けています。両方の色に惹かれるのは南、北アルプスの3000mの稜線で垣間見た紺碧の空の色を思い出させているのかもしれません。

(口語訳 紫陽花の花が八重に咲くように、いついつまでも栄えてください。あなた様を見仰ぎつつお慕いいたします。 )

2024年6月30日(日)聖霊降臨後第六主日 主日礼拝  説教 田口 聖 牧師(日本ルーテル同胞教団)

「夏に牧師がフィンランドに一時帰国するため、その間のスオミの礼拝は協力牧師が担当します。」

マルコ5章21−43節(2024年6月30日)

「新しく生かす、力ある神のみ言葉」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

1、「初めに」

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 今日の箇所の前に5章のこれまでのところを振り返ってみますが、イエス様と弟子達がガリラヤの向こう側に渡った時、レギオンという名の悪霊につかれた、墓場を住まいとする男がやってきます。その悪霊はイエスが神の御子だとわかり恐ろしくなり「かまわないでくれ、苦しめないでほしい」と求めます。しかしイエスはその通りにせず、その惨めな男性を哀れんでくださり、悪霊レギオンを近くに飼われている豚に乗り移らせ、その男性を悪霊から救いだしました。そして、レギオンは豚と共に湖になだれこみ滅ぼされたのでした。助け出された男性はイエスと一緒に行きたいと申し出るのですが、イエスは「身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」と彼への召命を与えて、主がしてくださったことを身内へと伝えるようにと遣わしたのでした。それが20節までの出来事でした。 そこで今日の箇所になります。

2、「会堂長ヤイロ」

「イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。

21−24節

 イエス様は弟子達と再び、湖を渡って対岸へ戻ってきます。その前からイエスに会うために群衆が絶え間なく押し寄せていた状況でしたから、イエス様と一行が戻ってくるのを待っていたかのように群衆は集まってきたのでした。そこに「会堂長」というユダヤ教の会堂であるシナゴーグを管理するヤイロという男性がイエスのもとにやってきてひれ伏すのです。ヤイロは「娘が死にそうな状況であるので、娘のところに来て手を置いてほしい。そうすれば娘は助かります。生きることができます」と願うのです。娘を思う父親であれば当然の叫びです。そしてヤイロは「手を置いて」と言っているように、これまでイエスが具体的に手を置いて(1章31節、41節)病気の人を癒したり、悪霊を追い出した情報を聞いていたのでしょう。彼はそれを聞いてイエスは癒すことができると信じて、イエスに求め叫んだのでした。先程の向こう岸の墓場を棲家とする男性にも目を止めて助け出したように、イエス様はこの会堂長ヤイロの声も、決して無視せず、心に留めます。そこには、イエス様を信じて求める声を、それが誰であってもイエス様は蔑ろにされない、深い憐れみが表されています。イエスはそのヤイロの求めに答えて、一緒にヤイロの家に向かうのです。

 そのイエスのご自身を求めるものへの憐れみは、この後、ヤイロとは関係なく起こる一人の女性にも不思議な形で表されます。群衆もそのイエスに従って歩いていたところ、25節以下にこんな出来事が起こるのです。

3、「この方の服にでも触れれば」

「さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。 多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。 イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。

25−28節

 病いに苦しむ一人の女性が、群衆の中からイエスに縋るのです。彼女は、12年の間病気でした。挙げ句の果てに「多くの医者にかかってひどく苦しめられた」とあります。彼女はあらゆる種類の治療を試したようです。タルムードというユダヤ律法の解説書には当時は11の治療法が挙げられていたようですが、ほぼ迷信に近いような治療法まで記されていたようなのでした。彼女はそのように、ほとんど医者でもないような施術を行う治療師の迷信的な治療を様々試したようなのです。しかし根拠のない治療法なので、治ることなくただ費用だけ消費され全財産を失い、おまけに治ってもいないのですから、病状も悪化するという悲惨な状況でした。しかし彼女も、ヤイロと同じ、イエスのことを聞いて、イエスなら癒してくれると信じるのです。しかし大勢の群衆です。しかも当時は女性がラビである教師に話しかけるなどできないほど女性は地位が低かった社会でした。それゆえ彼女は話しかけることさえもできないのです。そこで彼女はイエスの「服にでも触れれば癒していただける」。そう思って、服に触れたのでした。その時、人間の常識や理解からはかけ離れた不思議なことが起こるのです。

「すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。

29−32節

 女性は、イエスの衣に触れただけです。しかしその瞬間に、病気が治ったことを実感したのでした。そしてイエスも「自分の内から力が出た」ことに気づきます。つまり、イエスの衣服だからとその衣に特別な力があるというのではなく、「イエスご自身から」力が現されたのでした。イエスは全てを知られるお方です。ですから、もちろん自分に起こったことをすでにわかっていたでしょう。しかしイエス様はあえて「わたしの服に触れたのは誰か」と尋ねるのです。なぜでしょうか?

4、「イエスはなぜその女を探したのか?イエスの真の目的」

「女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」

33−34節

 みなさん、イエス様が、ただ病気の癒しのためだけに来られた、あるいは、病気を治すことが第一の目的であり、ゆえに、病気を治すことが救いであるというのなら、イエス様は女に話しかけずに、そのままにしたでしょう。多くの病人に衣類でもなんでも触らせ、癒してその働きは終わりでいいでしょう。しかし、イエス様の来られた目的はそれ以上です。もちろん大勢の人々が、癒されました。しかし、病気は癒やされても、誰でもまた他の病気になったり、寿命がくれば死を迎えます。そして、癒された人も、悔い改めて神に立ち返ることがなければ、つまり、これからイエス様がなさる十字架と復活の福音を知り、受け取り、信じることがなければ、死の先の永遠の命、つまり、イエス様が真に与えようし、そのために世にこられた、その真の救いを経験することはできないのです。ですから、この女性も、ただ癒やされ、それで解決、終わりではないのです。イエス様は相手が女性であることもその病気も知ったことでしょう。しかし女性が通常、自分に話しかけることはなかなか難しいこともよく知っています。だからこそです。「誰か」と尋ねるのです。女性は、恐ろしさに包まれますが、自分だと名乗り出るしかありません。そこで彼女は名乗りでで自分の経緯を話さざるを得なかったのでした。しかし、そのようにイエス様が彼女と交わり、言葉を交わし、言葉を伝えること、教えることこそがイエス様が「誰か」と尋ねた目的でした。そこでイエス様は何を伝えますか?イエス様は優しく教えます。「娘よ。あなたの信仰があなたを救ったのだ」と。もちろん、彼女にある何かに直したり救ったりする力があるのではありません。治したのは、イエス様の力です。さらに、救いに関して言えば尚更ですが、それは毎回強調しているように、救いはイエス様の力、イエス様の救いであり、「あなたの信仰」とあるその信仰さえも律法ではなく、福音であり、賜物であり、そのように、救いは神の救いであり、人のわざではありません。イエス様ご自身もその癒しと救いの力は、自分から出たものであり、神のわざであることを知っています。ですから、その彼女に与えられた求める想い、イエス様なら治すことができるという信仰、それもヨハネ3章27節に「人は天から神から与えられるのでなければ何物をも持つことができない」とあるように、神からの賜物としての信仰ではあったでしょう。まさにそのような意味でこそ、彼女に「与えられた」その信仰ですから、イエス様は確かに、それを彼女のものとしてくださり「あなたの信仰が」と教えるのです。確かにその通りです。それは、彼女にとっても、何か彼女自らの力で搾り出したような律法の信仰ではなかったでしょう。もはや自分も医者も何もできないという状況です。そんな中で、「自分が何をしなければならないか」の思いではなく、ただただ「イエスが何を人々にしてくださったのか」の良い知らせを聞き、それをそのまま受け入れ、そのまま促されて、そのイエスにすがれば、その衣でも触れば、癒されるという信仰です。彼女に何か律法的な思いがあったとすれば、社会が定めた聖書的ではない慣習、女性がラビに話しかけてはいけない、そのような恐れや心配は見られます。しかし、そのような彼女の律法的な動機や行為は何もここで働きません。むしろそのように律法でイエスへ話しかけるという消極的な思いを、開いてくださった、自分の全てを語るように導いてくださったのも、「イエス様の方から」です。まさにイエス様からの憐れみの言葉、福音によるものでしょう。全ては「イエスが何をしてくださったのか」「イエスがしてくださったこと」によって、促され、導かれ、この救いは起こったのでした。イエス様のわざです。しかし、イエスがそのように彼女に与えてくださり導いてくださった信仰が彼女を通して働いたからこそ、その救いは「あなたの信仰」であり、その信仰が彼女を救った、その通りなのです。

 私たちも同じです。私たちの信仰も、律法や私たちの意思の力によるものでもなければ、私たちの努力や成し遂げたものでも決してなく、どこまでも神の賜物であり、み言葉と聖霊によって私たちに与えられたものです。しかし「与えられた」のですから、それゆえに私たちの信仰でもあるのです。私たちの信仰であり、私たちが確かに「信じる」のですが、それは「私たちの力」ではなく、どこまでもみ言葉と聖霊が豊かに働いて、神が力を現すものであるがゆえに、聖書にある通り「信仰は力がある」のです。そのような意味でイエス様はいつでも信じなさいと、言ってくださるし、私たちにも「あなたの信仰があなたを救ったのです」と言ってくださっているのです。感謝ではありませんか。

5、「「恐れることはない。ただ信じなさい」信仰は福音」

 そして、35節からヤイロの話に戻ります。ヤイロの家のものが来て言うのです。

「イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」 35節

 なんと、イエスが到着する前に、ヤイロの娘は亡くなってしまいました。その家の使いのものは、絶望のうちに言います。「もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」そう、もう死んでしまった人を生き返らせることはできないというのは、いつの時代も変わることのない事実であり現実でした。そしてそれはイエスでさえもできないというのが、その使いの言葉には表れています。しかし、36節

「イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。

36節

 イエス様のヤイロへの言葉「恐れることはない。ただ信じなさい」。ヤイロも使いの者の絶望的な言葉を聞いて、深く悲しみ、失望し、もう遅かったと思ったことでしょう。しかし、ヤイロのそのような疑いや絶望に対して、イエス様はこの言葉で強め励ましているでしょう。

「恐れることはない。ただ信じなさい」と。

 みなさん。このイエス様の言葉。これは「〜しなさい」と命令形だからと、この失望に沈むヤイロを責め立てる律法の言葉だと思いますか?違います。「恐れることはない。」とあるでしょう。そして「ただ信じなさい」です。イエスはヤイロが恐れていること、もう絶望していることをを十分に知っています。そんなヤイロに「恐れる必要はありません」と言ってくださっているイエス様の声は、ご自身になおも目と希望を向けさせる声ではありませんか。その「信じなさい」なのです。その「信じなさい」に、ヤイロの挫折した心、疑いの心は信仰へと再び鼓舞されるでしょう。そう、娘の死という現実の前に絶望するヤイロは自分で自分の信仰を鼓舞するなんてことは決してできません。みなさん、ここでも、イエス様の言葉こそがヤイロの信仰を再びよみがえらせた、復活させた、立たせているでしょう。みなさん、これが恵みの信仰の素晴らしさ、信仰が福音であることの素晴らしさなのです。

6、「神の言葉、新しく生かす力」

 そこでイエスはヤイロと3人の弟子だけを連れて家の中に入ります。家の中の人々は、大声で泣き喚き騒いでいます。しかしイエス様は彼らに「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」と言います。人々はそんなイエスをあざ笑いました。当然です。死んだのですから。しかしイエスはこれからご自身が行おうとしていることのゆえにそう言ったのでした。そして、娘のところへ行き、

「そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。 少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ、また、食べ物を少女に与えるようにと言われた。

41−43節

 イエス様は娘の手を取り、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」と言います。その時、少女はすぐに起き上がって歩き出し、準備された食事をとるのです。人々にとってはまさに驚き、信じられない、信じることができないことです。しかし、ここに単純な福音があるでしょう。そう、イエス様は天から来られ人となられた神の御子、その言葉は神のみ言葉です。それは無から天地万物を創造され、塵から取られ型取られた人間に命の息を吹きかけて生きるものとしてくださったその言葉、「全ては非常に良かった」と祝福された言葉、そして堕落した人類にも「女の子孫が」とサタンの頭を砕き勝利することを約束されたその通りに、御子イエス・キリストを人として生まれさせ実現させた、その言葉です。その言葉には、力がある。死者を復活させる力がある。そして信じることのできないことを、信じるようにご自身のみ言葉のわざを現され、信仰を与えてくださる力、そして、その信仰が何度、倒れても、何度絶望しても、何度疑っても、何より信仰を復活させる力がある、神の言葉が、ここに示されていることがわかるでしょう。今日のところはただの癒しの出来事ではない、何よりもキリストとその言葉に血よる力が指し示されている。そのキリストが私たちのために来られ、素晴らしい信仰をもたらしてくださるそのことを今日も教えてくれていると言えるでしょう。

7、「結び」

 私たちは、堕落の子であり、どこまでも神を、その言葉を信じられないものであり、疑い、背を向け、自分勝手に生きようとするものです。アダムとエバのように、自分たちこそが中心であり、神のようになれることを選ぶ、そのような存在でした。「イエスの十字架?、私たちの罪のため?そんなこと信じられない。自分に罪なんてあるものか、自分はそんなに悪くない。世にも家族にも貢献している。刑法に触れるような罪なんてしたこともない」と、そのように神の前の自分の罪も見えない、知らない、教えられても見ようとしないものでした。しかし、そのような私たちに信仰があるのはなぜですか?十字架の血は私たちの罪のためであると、そのイエス様の十字架と復活によって救われたと、毎週告白でき、毎週、その十字架と復活に平安のうちに新しくされ遣わされる事実は、何ゆえですか?自分の力ですか、努力ですか?あり得ません。イエス・キリストのゆえではありませんか?イエス・キリストの方から、私たちに出会ってくださり、招き導いてくださり、語りかけてくださった。み言葉を通して。そのみ言葉を通して、信じられないものが信じるように変えられたのは私の何かではない。ただイエス・キリストのゆえに。そのみ言葉に働く神の力のゆえであると誰もが告白するでしょう。そう、同じように、イエス様は、今日も罪ゆえに弱りはて、疑いに沈む信仰を、悔い改めに導きながら、その悔いる私たちに、イエス様は、責めるのでも裁きで終わるのでもない、どこまでも「憐んでくださり」この「イエス様が私たちのために何をしてくださったのか」の福音によって、信仰を新たにして下っているのです。イエス様は今日も私たちに変わることなく宣言してくださっています。「あなたの信仰があなたを救った」「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。ぜひ福音を受け取り、安心してここから世に、その福音の証し人として用いられるために遣わされて行きましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

歳時記

<土地は、度々その上に降る雨を吸い込んで、耕す人々に役立つ農作物をもたらすなら、神の祝福を受けます。ヘブライ人への手紙6:7>

蛇の目傘

今年も例年より遅めの梅雨がやって来ました。梅雨といえば中学、高校の学生時代の思い出に番傘があります。番傘とは竹と和紙と荏油(えの油)で拵えた非常にシンプルな傘で、ある時代までは日本人の雨の日の大切なアイテムでした。下ろし立ての番傘を開くとパリパリと音を立て荏油独特の臭いをさせていました。開いた時の音と臭いの記憶、更に開いた傘をさし雨の中に飛び込むと油紙を激しく叩く雨音にも忘れられない思い出がありました。その無骨な番傘の骨を細くして油紙に色を施し蛇の目というシンプルな柄に仕立てた蛇の目傘に日本人の繊細なデザイン感覚にも誇りを感じます。梅雨空に行き交う蛇の目傘は「逝きし世の面影」で現在ではすっかり見られなくなりました、代わりにコンビニの使い捨てのビニール傘が行き交っております。