スオミ教会 手芸クラブのご案内

次回の手芸クラブは12月3日(水)10時~13時に開催します。

次回はフィンランドのクリスマス・オーナメントの一つ、「オルキ・タハティ(藁の星)」を作ります。フィンランドでは藁で作るクリスマス・オーナメントは伝統的なもので、現代でも手作りの「星」や「天使」や「ヒンメリ」は昔ながらのクリスマスの雰囲気を高めてくれます。これらの天然の藁で作るオーナメントは、僅かな光が当たっても白い控えめな輝きを放ち、暗い冬の季節のお部屋で不思議と心を和ませてくれます。今回は星に挑戦します。どんな形の星にするかは各自ご自由にお決め下さい。

オルキ・タハティ(藁の星)を是非ご一緒に作ってみましょう!

手芸クラブでは自分の好きな編み物をすることもできますので、作りたいものがあれば、ご自由にお持ちください。おしゃべりしながら楽しく作りましょう!

持参するもの:パールピン20本

参加費: 1000円

お子さん連れの参加も大歓迎です!

皆様のご参加をお待ちしています。

お問い合わせ、お申し込み moc.l1763696296iamg@1763696296arumi1763696296hsoy.1763696296iviap1763696296

℡ 03-6233-7109

スオミ・キリスト教会 東京都新宿区鶴巻町511-4―106 www.suomikyoukai.org

スオミ教会・家庭料理クラブの報告

パン

11月のスオミ教会・家庭料理クラブは15日、爽やかな秋晴れの中で開催しました。今回はこの季節にピッタリのメニュー、フィンランド的なパン「オートミール・セサミ・サンピュラ」とキノコのスープです。

料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。まずパンの生地を作ります。材料を計って順番にボールに入れていきます。オートミールと小麦粉を加え生地をよく捏ねてしっとりした生地が出来上がります。それを暖かい所において一回目の発酵をさせます。その間にキノコのスープの準備を始めます。玉ねぎとマッシュルームのみじん切りを終えると、生地はあっという間に大きく膨らんでいました。早速パン作りに入ります。大きな生地をテーブルの上で丸めてから、それを16個に分けて一個一個をきれいな丸形のサンピュラにしていきます。それを全部鉄板の上に並べて第二の発酵をさせます。

キノコ

発酵させている間にキノコのスープの続きをします。みじん切りにしたキノコと玉ねぎを鍋に入れてしばらく炒めてから他の材料を順番に加えて煮込みます。最後にクリームチーズを加えると柔らかい味のスープが出来上がります。

パン

サンピュラの二回目の発酵も早くすみ、一つ一つの上に卵を塗って白セサミと黒セサミをその上にたっぷりかけてオーブンに入れます。しばらくするとパンの焼き香りが台所から教会中にどんどん拡がって参加者の皆さんは何回もオーブンを覗きに行きました。「美味しいそう!」「良い香りね」とみんなワクワクでした。

パンテーブルのセッテングをしてみんな着席します。焼きたてのオートミール・セサミ・サンピュラにマーガリンを塗って、キノコのスープと一緒に味わいます。「やっぱりパンは焼きたてが最高ね!」「スープも美味しいわ」との声があちこちから聞こえてきます。皆さんと一緒に美味しくて本当に満ち足りた歓談の時を過ごしました。その時にフィンランドのキノコやパンの話と聖書のイエス様が語られた「からし種」と「パン種」のたとえ話の教えについて話を聞きました。

今回の料理クラブも無事に終えることができて天の神さまに感謝します。次回はもう待降節(アドベント)の期間の開催になります!12月13日に予定しています。詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。

料理クラブのお話2025年11月15日

フィンランドでは十月末に冬時間に入ります。それから日がだんだん短くなり気温は氷点下に下がる日が多くなります。この時期になると、フィンランド人は家で過ごす時間が増え、温かい料理、オーブン料理、スープ、などを作るようになります。もちろんパンやケーキなども焼きます。今日皆さんと一緒に作ったキノコのスープとオートミール・セサミサン・ピュラはこの季節にピッタリです。

フィンランドではキノコはベリーと同じように森で自由に採ることが出来ます。キノコ狩りの期間は年によって変わりますが、普通は7月の終わり頃から11月までです。この間フィンランド人の友達からキノコ、フィンランド「漏斗の形のキノコがまだ採れる」と聞きました。漏斗の形のキノコとはどんなキノコでしょうか。それはアンズタケと似ていてマイルドな味わいですが、色は茶色です。キノコは普通は寒さに弱いですが、このキノコは氷点下に下がってもまだ採ることが出来ます。フィンランドではキノコ狩りの期間は長いので、秋はキノコ狩りの「黄金期」とも呼ばれています。

森で採ったばかりのキノコは秋の食卓に相応しい食材です。新鮮なキノコをフライパンで炒めたりスープやソースに入れたりして美味しくいただけます。沢山採る場合は冷凍したり、乾燥させたり、塩付けにしたりして保存します。

スオミ教会の料理クラブではフィンランド的なサンピュラを何度も作ったことがあります。フィンランドではサンピュラの種類は多くあり、生地の材料を少し変えるだけで、新しい名前のサンピュラが出来ます。今日のサンピュラの特徴は生地に使ったオートミールと表面にかけたセサミです。オートミールとセサミを加えることでパンの栄養価が高まります。パンはミネラル、ビタミン、繊維が含まれる健康的なパンです。フィンランドではこのようなパンを食べることが奨励されています。

今日はセサミをパンの上にかけたり、イーストでパン生地を発酵させたりしたので、今日の聖書のお話はイエス様が「からし種」と「パン種」についてのたとえ話が相応しいと思いました。このお話は新約聖書の「マタイによる福音書」に書かれています。

ある時、「イエス様は神の国は何に例えられるか」について教えました。そこで二つの例え話をされました。先ず、イエス様は「神の国はからし種のようなものです」とおっしゃいました。

からし種とはどんな種でしょうか。それは非常に小さくてどんな植物の種よりも小さいものです。しかし、それを蒔くと茎はどんどん伸びて畑の中で最も大きな植物に成長します。それは木のように枝を拡げて空の鳥たちが巣を枝に作るくらいになります。

イエス様のもう一つのたとえ話は次のようなものです。このお話も「神の国は何に例えられるか」について語られたものです。イエス様は「神の国はパン種のようなものです。」とおっしゃいました。ある女の人がパンを作る時に3サトンの小麦粉にパン種を混ぜると、生地全体は大変良く膨らみました。1サトンは12リットルなので36リットルです。当時パンを作る時にはイーストはまだなかったので、いつも少しだけの生地を残しておいてそれを次に作るパンのパン種に使って発酵させたのです。たとえ話の女の人が作ったパン生地は36リットルもあるとても大きなものでした。しかしわずかなパン種をそんな量の小麦粉に混ぜただけでパン生地全体が大きく膨らんだのです。

この二つのたとえ話の意味はどのようなことでしょうか。たとえに出てくるからし種とパン種はとるに足らないものに小さなものに見えますが、それぞれに強い力が秘められています。イエス様はからし種とパン種を何に例えられたのでしょうか。それは天と地と人間を造られた天の神さまのみ言葉を意味します。つまり聖書のみ言葉のことです。聖書のみ言葉は見た目ではただ普通の言葉にすぎませんが、その中には大きな力が含まれています。それはどんな力でしょうか。それは天の神さまが私たちの造り主であるという信仰を生み出す力です。そして、天と地と人間を造られた神さまが私たちを救うために独り子イエス様をこの世に送られたことを知らせ、この出来事は自分の為に起こったということを信じて受け取れるようにする力です。聖書のみ言葉を通して神様に対する信仰が生まれるのです。

CC0神さまのみ言葉を全世界の人たちに述べ伝えたら多くの人たちは信仰を持つようになります。イエス様はこのことをからし種が成長して大きな木になること、そしてパン種が小麦全体に広がって大きなパン生地に膨らむことで表されました。神様のみ言葉は全世界の多くの人々に向けられて信仰を生み出てきました。そうした生まれた信仰はこの世を生きる力になり、またこの世を超えて次の世まで導く力ともなります。

私たちも聖書のみ言葉を読んだり聞いたりしてしましょう。そこから神様への感謝の心が生まれます。

牧師の週報コラム

「聖書は神の言葉」について

昨年から礼拝の式文をフィンランドのルター派国教会のものに合わせる改訂を進めてきました。最後の変更箇所として、聖書朗読のところで旧約聖書と使徒書の朗読の後に「これは神の御言葉です」と言って、会衆が「神に感謝します」と応じる、福音書では「これは聖なる福音です」と言って、「キリストに感謝します」と応じるようにすることを先週の全体会でお知らせしました。

その後で信徒の間から、「聖書は神の言葉」と言うと、聞く人によっては米国の所謂キリスト教原理主義を思い起こさせるのでは、彼らも同じように言うからだという心配の声があがりました。世界のキリスト教界を二分するような諸問題でSLEYは伝統的な立場を取ることが多いため、それを好ましく思わない人たちから原理主義的などと批判されます。しかし、宗教改革で言う「聖書中心主義」と米国の福音派のそれには大きな違いがあります。いつか、ルター派にとっての「聖書は神の言葉」について勉強会を開こうと思います。(ちなみに、「これは神の言葉です」はフィンランドのルター派国教会の礼拝でも唱えられます。近年伝統からどんどん離れて行く傾向にある同教会を原理主義と言う人はいないでしょう。)

それで、肝心の式文の改訂はどうするか。取りあえず勉強会までは朗読者の判断に委ねます。「聖書は神の言葉」で問題ない人は唱え、心配な方は以前通りの「これで日課を終わります」。そうなると今度は、「神の言葉」と唱えられて聞く側が不安を感じたらどうするのかという反対が出るでしょう。その場合は次のようにお考え下さい。今あなたが聞いたのは神の言葉である、これからそれを説き明かして、神が今の状況にあるあなたに何を伝え何を与えようとしているかを知らせる説教が始まるのだ、それは高尚な世間話でも知的好奇心をくすぐる話でも道徳訓話でも感動ものでもない、あなたの魂を精錬する話だ、心して聴きなさい、というシグナルを与えるものとお考え下さい。会衆がそういう態度で臨めば臨むほど、説教者も一層真剣に説教を準備するようになること請け合いです。その意味でも「終わります」と言って終わってしまうよりお互いの信仰の成長に資します。

ここで説教者にとって一つ大きなチャレンジになるのが、旧約聖書の日課も使徒書の日課も「神の御言葉」と言ったら、本当は説教ではそれらも取り上げなければなりません。福音書の日課の説き明かしをそれらの御言葉に助けられて行うということです。言い訳がましくなりますが、聖書日課の編纂者はもっと気が利く組み合わせをしてほしいと言いたくなることが多いです。でも、それが取り上げない理由になってはいけなません。まだまだ研鑽が必要だと自覚しています。

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歳時記

桂の木 Katsura no ki

<19 わたしは荒野に香柏、アカシヤ、ミルトスおよびオリブの木を植え、さばくに、いとすぎ 、すずかけ、からまつをともに置く。
20 人々はこれを見て、主のみ手がこれをなし、イスラエルの聖者がこれを創造されたことを知り、かつ、よく考えて共に悟る。 イザヤ書41:19・20>

最近、街路樹などでよく見かける桂の木です、時々行く公園にも桂の大木があります。秋になるとモミジ葉楓と並んでいち早く黄葉を楽しませてくれます。桂の木を見る度に「徒然草」の好きな104段を思い出します「・・・桂の木の大きなるが隠るゝまで、今も見送り給ふとぞ:「近くを牛車で通過するときなどには、あの女の屋敷にあった桂の大きい木が見えなくなるまで、今でも見送ることだ ・・・」ここに書かれている物語は藤原定家と式子内親王と思しき二人の仲を兼好は巧みに一場の物語にしました。

牧師の週報コラム

ルターによる御言葉の説き明かし ― フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ」114日の日課から

これぞ、ルターの神学の神髄、「イエス様と人間の幸いなる交換取引」なり!

「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。」(ガラテア3章13節)

「キリストは私たちのために呪いとなった」 ― この言葉以上に甘美な教えがあろうか?我々は感謝の心を持ってこの言葉を自分のものにしよう。「キリストが私たちのために呪いとなった」とは、別の言い方をすれば、キリストは神の怒りの主犯となった、それ位の罪びとになったということであり、世界中の罪をご自分の肩に負わせ、「これら全て人間が犯した罪は実は私が犯したのです」と言わしめたということである。

 キリストは、律法の規定に即してみて本当に呪いとなったのである。しかし、それは彼自身が原因なのではなく、私たちのためにそうなったのだ。もし彼が私の罪、君の罪そして世界中の罪を自分のものとして引き受けることなどしなかったならば、律法は彼を裁く権限を全く持ち合わせなかったのだ。なぜなら、律法は罪びとを裁くものだからだ。しかし、キリストは我々の幸いとなるように交換取引を行ったのだ。彼は我々の罪にまみれた人格を自分のものとして引き受け、ご自分の罪のない勝利に満ちた人格を我々に贈り物として与えて下さったのだ。この贈り物を纏ってもらったので、我々は律法の呪いから解放されたのである。

 キリストは望めばそうする必要はなかったにもかかわらず、あえて自分から進んで我々のために呪いとなられた。「私は、神としての人格、人間としての人格の双方の点で、神の祝福以外の何ものでもなく、救いのために何かが欠けているという者でもない。しかし、私はこのような自分を空にして(フィリピ27節)、君たちが纏っている、自然な人間の状態をこの身に纏おう、君たちを永遠の死の滅びから救い出すために。」これが彼の本心だったのだ。

 このようにして全世界の罪を背負った時、キリストは捕らわれ、苦しみを受け、十字架につけられて死なれ、我々のために呪いとなったのである。しかし、見よ、彼は三日後に復活され、今永遠に生きて治められている。彼には罪も死もなく、我々と同じ自然な人間の状態もない。あるのは完全な義、真の命、永遠の祝福である。(以上ルターの説き明かし)

この完全な義、真の命、永遠の祝福は、キリストを救い主と信じ洗礼を受けて彼と結びつく者みんなに与えられているのです!アーメン!

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手芸クラブの報告

クロステージ

10月の手芸クラブは29日に開催しました。少し肌寒い午前でしたが、午後からは太陽が輝く秋晴れの天候に変わりました。

今回は前回に続いてクロステージのテクニックを使って刺繡をしました。参加者の中には前回の続きをお家で刺繡されて完成品を持って来られた方もいらっしゃいました。きれいな模様の素敵に出来上がった作品をみんなで見て、きれいな色合いですね、模様もよく引き立ちますね、と感心。今回は刺繡する方の他に編み物を編まれる方のご参加もありました。きれいで暖かそうなストールを背丈近くまで編まれ、もう少しで完成です。別の方は、以前手芸クラブで使ったテクニックでストールを編みました。編み物は初めてということでしたが、早くストール編みに慣れました。毛糸の色の組み合わせで模様がはっきり見えてきて、可愛いストールのスタートでした。きっと柔らかくて暖かいストールになるでしょう。

クロステージ今回は作品はいろいろでしたが、皆さん、楽しくおしゃべりしながら刺繡をしたり、編み物を編んだりして時はあっという間に過ぎてしまいました。目と手を休めてコーヒータイムに入ります。

みんなでテーブルのセッティングをして、フィンランド風ドーナツをコ―ヒーと一緒に味わいながら楽しく歓談を続けました。いつものように聖書のお話も聞きました。今回のお話は、フィンランドの新聞記事にも載ったエリナという女性の刺繡と、イエス様が十字架の上で言われた「成し遂げられた」という言葉についてのお話でした。

次回の手芸クラブは12月3日の予定です。(注 11月の手芸クラブは12月に変更されました)。詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています!

手芸クラブのお話2025年10月

今年の夏私はトゥルク地方の新聞を読んで刺繡に関係する面白い記事を見つけました。今日はその記事を紹介したいと思います。記事に登場するのは、トゥルクの近くに住んでいるエリナという女性です。エリナさんは十年前に刺繡に興味を持ち、それから熱中するようになって様々な作品を作るようになりました。そして、今年の夏の終わり頃に刺繡展を開きました。刺繡展のタイトルは「カササギのつま先やその他のステッチ」でした。カササギというのはカラス科に属する鳥で、羽は黒く胸と腹は白い色でフィンランド語でハラッカと言います。フィンランドでは「カササギのつま先」という表現はいろんなスタイルの手書きを表す時に使われます。刺繡展のタイトルはエリナさんの刺繡の手さばきを披露するという意味でした。

エリナさんはカラフルな刺繡の作品が好きで色の組み合わせに興味を持って刺繡をします。様々な素材の布に刺繡をして、この十年間でバック、写真、ぬいぐるみなどに刺繡をしてきました。コロナの時には熊のぬいぐるみに当時の出来事や思いを刺繡して「コロナの熊」という作品を作りました。また別の時には様々な言葉を日記の代わりに刺繡して残しました。60歳になった時に「人生をもって進んで行こう」という言葉をクロスステッチの壁飾りに刺繡しました。その意味は、これから体はだんだん衰えていくけれど、そのような体で進んで行こうという意味です。刺繡は完成まで時々時間がかかるので、まだ仕上がってない作品が沢山あります。しかし、それはまた続きをして、いつか完成させたいとエリナさんは考えています。

私はこの記事を読んで少しホッとした気もちになりました。エリナさんも作品を完成させるまで時間がかかり、途中まで作ったままのものが沢山あるそうです。私にも途中まで作った刺繡や編み物などが家に沢山あります。皆さんはいかがでしょうか。いつも全部を最後まで完成させていますか。刺繡や他の手芸を趣味にしている人にとって未完成のまま残っている作品は結構あるのではないでしょうか。これは私たちの日常生活にもよくあることではないでしょうか。仕事を一生懸命をしてもいつも完璧に終わることが出来るとは限りません。全ての仕事は最後まで完璧に仕上げられる人はいるでしょうか。

聖書はそのような方について教えています。その方は神さまの独り子であるイエス様です。イエス様はこの世におられた時、多くの人々に天と地を作られた神さまのことを正しく教えて神さまから与えられた役目を最後まで果たされました。その役目とは、イエス様が十字架にかけられて

そこで命を捧げられたことです。十字架の上でイエス様は最後に「成し遂げられた」と言って息をひきとりました。イエス様は天と地と人間を造られた神さまから与えられた働きを完成されたので、「成し遂げられた」と言われたのです。それは私たち一人一人そして全世界の人々のための働きでした。イエス様の十字架の業によって私たちは神さまの御前に立つのに相応しい者とされるのです。神様の御前で相応しくなれるために私たちはいろいろする必要はありません。ただ、このイエス様の十字架の出来事は自分の為に起こったということを信じてイエス様を救い主として受け取ることで十分です。イエス様が十字架の上で言われた言葉「成し遂げられた」とは私たちにも向けられています。

クロスステッチの刺繡はいつも私にイエス様の十字架を思い出させてくれます。十字架は教会を意味し、人々をイエス様のもとに導く印です。何年か前の夏私たち家族はある町の教会を訪問しました。その頃はまだナビゲーターがなく、町中教会を探しましたが、なかなか見つかりません。別の方向に向かおうとした時娘のヨハンナが突然「十字架が見える!」と大きな声で言いました。その方向に車で走って無事に教会に着き礼拝に間に合いました。その教会の礼拝で聖書を通して天の神さまやイエス様について教えを聞くことが出来ました。スオミ教会にも礼拝堂とこの集会室に十字架が掛けられています。スオミ教会の十字架も訪れる人々を聖書のみ言葉を通してイエス様のもとへ導いているのです。

みなさん、クロスステッチの刺繡をするときも、イエス様の十字架やイエス様が十字架の上で言われた言葉「成し遂げられた」を覚えていきましょう。

歳時記

蜘蛛、雲、Kumo

<14 その頼むところは断たれ、/その寄るところは、くもの巣のようだ。
15 その家によりかかろうとすれば、家は立たず、/それにすがろうとしても、それは耐えない。 ヨブ記8:14・15>

家のアプローチの上に先月から大きな蜘蛛が巣を掛けています。ヤマモモの木とヤマボウシの木の間にです。その下を通る時は何時も上を眺めながらどんな虫が掛かっているか確かめながら通り抜けています。しかし、虫の姿は見えません。どうやら蜘蛛は巣に掛かった虫を素早く平らげていたようです。先日、何時ものように蜘蛛を見ていたらその向こうに秋の雲が浮かんでいました。蜘蛛と雲同じkumoの音ですが言い分けるのも聞き分けるのも難しい言葉です。英語の花と小麦粉、fower・flourの区別がつきかねています。

(春雲は綿の如く、夏雲は岩の如く、秋雲は砂の如く、冬雲は鉛の如く、晨雲は流るるが如く、午雲は湧くが如く、暮雲は焼くが如し(正岡子規))

牧師の週報コラム 

フィンランドの祝日「全聖徒の日」に想う

キリスト教会では古くから111日をキリスト信仰のゆえに命を落とした殉教者を「聖徒」とか「聖人」と称して覚える日としてきました。加えて112日をキリスト信仰を抱いて亡くなった人を覚える日としてきました。フィンランドでは11月最初の土曜日が「全聖徒の日」と定められ、殉教者と信仰者双方を覚える日となっています。国の祝日です。今年は昨日の111日でした。大方のフィンランド人はその日、教会の墓地にロウソクを持って行って墓に火を灯します。風で消えないようにガラスや耐熱プラスチックの瓶に入っているロウソクです。

日本ではお墓に花や何か贈り物を持っていくことを「供える」とか「供え物」と言います。フィンランド人も墓に花を飾りますが、「供える」という意識はありません。ただ飾るだけです。墓の前で手を合わせることもしないし、拝んだり、または見えない誰かに語りかけることもしません。墓はあくまで家族の記念碑です。日本では遺骨や位牌に魂が入っていると信じられるせいか、亡くなった方が今もまだ身近にいるような雰囲気があり、墓や仏壇がその雰囲気を作り出す役割を果たします。

キリスト信仰では、亡くなった方は思い出として残るので、故人の思い出/メモリーを尊重するということになります。フィンランドで墓にロウソクの火を灯すのは思い出をともし火のように輝かせることを象徴する行為と言えます。日本人の場合は尊重するのは故人の今ある魂とか霊になるので、現在も故人と繋がりがあることが意識されます。それなので、尊重するのが過去の思い出だけになってしまったら、故人との繋がりがなくなってしまうと心配してしまうかもしれません。しかし、キリスト信仰には復活の信仰があり、復活の日に懐かしい人と再会できるという希望があります。それで、あの方と共に過ごせた日々を何物にも代えがたい大切なものとして胸に留め、そのような方を与えて下さった神に感謝しつつ、復活の日の再会の希望が叶いますようにと神に願いながら、自分自身は復活の日に向かって今を生きるというスタンスになると言えます。それなので、キリスト信仰では墓は良き思い出の象徴であり、復活の再会の希望を確認する場になります。

全聖徒の日、白夜の季節が終わった北欧の暗い晩秋の闇の中に浮かび上がる無数のともし火は、あたかも黙示録7章に登場する「小羊の血で衣を白くされた大群衆」を彷彿とさせます。(2023115日のコラムに加筆修正)

 

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スオミ教会・フィンランド家庭料理クラブのご案内

次回の料理クラブは11月15日(土)13時の開催です。

フィンランド的なパン「サンピュラ」を作ります。今回はオートミールをたっぷり含み、白ゴマ黒ゴマでトッピングしたオートミール・セサミ・サンピュラです。オートミールもセサミも栄養素が豊富なのでフィンランドでは健康的な食卓パンに数えられます。パンはふっくらとしていて、バターやマーガリンだけでも香ばしく美味しく頂けます。もちろん、ハムやチーズを挟んでサンドイッチにも最適です!

そして、パンのおともにフィンランドの秋の季節によく作られるキノコのスープも作ります。色んな種類のキノコを加えてクリームチーズで煮立てると、奥の深いまろやかな味のスープが出来上がります。

フィンランドのオートミール・セサミ・サンピュラとクリームチーズ風味のキノコスープをご一緒に作って味わいましょう!

参加費は一人1,800円です。

どなたでもお気軽にご参加ください。
お子様連れでもどうぞ!

お問い合わせ、お申し込みは、
moc.l1763696296iamg@1763696296arumi1763696296hsoy.1763696296iviap1763696296 まで。

歳時記

虫の声

<主よ、あなたのみわざはいかに多いことであろう。あなたはこれらをみな知恵をもって造られた。地はあなたの造られたもので満ちている。詩編 104:24>

「涼風 秋草を動かし蟋蟀鳴きて相随・・」。難聴になって以来、自然界の音。雨、風、鳥、蝉・・などの音と縁が切れて久しいのですが不思議に秋の虫の声だけは普通に聞こえています。数少ない自然界の音を慈しみながら大事にしています。子供の頃に歌った「虫の声」と言う唱歌には色々な虫が出てきますね。耳を澄ませてその声を聞き分けようとしましたが虫の種類が少なくなったのか聞き分ける事が出来ませんでした。何時頃からでしょうか虫たちの世界にも自然淘汰が起こっているようです。秋も深まりその虫たちの声も少なくなってきました。フランスの詩人は秋の事を「小さな死」と表現していました。虫たちの声が次第に鳴き細りゆき小さな死が増える毎に秋の深まりが濃くなって行きます。

一番
「あれ、松虫が鳴いている。 ちんちろちんちろ、ちんちろりん。 あれ、鈴虫も鳴き出した。 りんりんりんりん、りいんりん。」
「秋の夜長を鳴き通す。 ああ、おもしろい虫の声。」 

二番
「きりきりきりきり、こおろぎや。 がちゃがちゃ、くつわ虫。」
「あとから馬追い追いついて。 ちょんちょんちょんちょん、すいっちょん。」
「秋の夜長を鳴き通す。 ああ、おもしろい虫の声。」