牧師の週報コラム

牧師の週報コラム ― 古い歌を新しい歌に(その2)
ギター教室に通っている息子が次の課題曲に選んだのは、Eテレの「おかあさんといっし
ょ」で歌われている「ありがとうの花」。レッスン中、何度も聴かされているうちに、こ
んな歌詞で歌ったらどうだろうと退屈しのぎに言葉を紡いでいたら、以下のようなご機嫌
な子供讃美歌になりました。まだ微調整が必要ですが、取りあえず歌ってみて下さい(サ
ビの部分は、a、bと二つあります)。
1.イェスさまとでしたちが こぶねにのって
おおきなみずうみに のりだすと
あらしにおそわれて しずみそうになり
イェスさまがしかると あらしはおさまった
a. しゅは わたしのひつじかい   b. しのかげのたに ゆくときも
わたしに かけるものはない    わたしは なにもおそれない
まきばみぎわで やすませて    しゅがいっしょに あゆむから
たましいを いやされる        なにも こわくないよ

2.おおぜいのひとたちが おなかをすかせてる
いつつのパンだけじゃ たりないよ
イェスさまが しゅくふくし わけあたえてみると
びっくり みんなにたりたんだ
(a. または b. または両方)

3.ザアカイはわるいひと こころのよわいひと
けんりょくをかさにきて おかねをためこんだ
イェスさまにであったら こころはつよまって
こまってるひとたちに ぜんがくわたしたよ
(a. または b. または両方)

4.ひゃっぴきのこひつじが かこいにかえると
ひつじかいはおおあわて いっぴきたりないよ

2
のとやまをかけめぐり やっとみつかった
かたにかついで よかった、よかったと
(a. または b. または両方)

2026年6月7日(日)10時半 聖霊降臨後第二主日 礼拝 説教 吉村博明 牧師

主日礼拝説教 2026年6月7日(聖霊降臨後第二主日)スオミ教会

ホセア5章15節-6章6節

ローマ4章13

25節

マタイ9章9-13、18-26節

説教題 「イエス様の憐れみは人を神に立ち返らせる

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

  1. はじめに

 本日の福音書の日課は、イエス様が徴税人のマタイにつき従うように命じ、マタイはその通りにした、そして自分の家にイエス様と弟子たちを招いた、他の徴税人その他もろもろの罪びとたちも一緒の食事の席についた、そこをファリサイ派の人たちに目撃されて非難されたという出来事です。当時は招かれて一緒に食事をするというのは家族並みの近い関係になったことを意味しました。

 徴税人は当時のユダヤ教社会のなかで罪びとの最たるものとみなされていました。どうしてかと言うと、彼らの主たる任務は、イスラエルを支配しているローマ帝国のために住民から税金を取り立てたり、交通の要所で通行税を取ったりしたからでした。なぜ、占領された国民から、占領側に仕える仕事につく者が出たかというと、これが金持ちになる早道であったからです。各福音書を見ると、徴税人が認められている額以上の税を取り立てていたことが窺い知れます。例えば、ルカ福音書の3章では、洗礼者ヨハネが洗礼を受けに集まってきた徴税人を叱りつけて、「定められた以上を取り立てるな」と戒めています。同じルカ19章で改心した徴税人のザアカイは、イエス様に次のように言いました。「過剰に取り立ててしまった人には4倍にして返します。」このように、占領国の利益のためのみならず、自分の私腹も肥やしたわけですから、徴税人が自分の利益しか考えない国の裏切り者と見なされ憎まれたのは当然でした。

 イエス様は、神由来の権威をもって天地創造の神について人々に教え、無数の奇跡の業も行い、大勢の群衆が付き従うようになっていました。宗教エリートのファリサイ派は、この男は伝統的な権威に挑戦する危険人物なのかと気が気でなりません。このように大勢の人に支持されたイエス様が、突然、徴税人その他罪びとと同じ食事の席についたのです。これは、ファリサイ派にとってイエス様の教えが間違っていることを示す証拠になりました。なぜなら、罪びとは神の裁きを受ける者なのに、これを断罪するどころか、一緒に食事までするとは、この男にはもう神について教える資格はない、と。

 イエス様が罪びとを招き受け入れる仕方はよく見ると、私たちがイエス様を救い主と信じる信仰に入るプロセスを先取りしています。今日はそれを明らかにします。きっと、この出来事は私たちの身に覚えにあることがわかってくるでしょう。それと、本日の福音書の日課には12年間出血の病が治らなかった女性を癒したことと、ユダヤ教社会のある指導者の娘を生き返らせた奇跡もあります。これらもよく見ると、信仰に入った者が信仰者としてこの世を歩むとどういうことになるかということを先取りするように示しています。このことを説教の終わりで述べようと思います。

2.「誠実」と「憐れみ」

 ファリサイ派の批判に対して、イエス様は次の言葉を返しました。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐みであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪びとを招くためである」(12

13節)。ここには大事なことが沢山詰まっています。まず、イエス様は、自分と罪びととの関係を医者と患者の関係にたとえます。そうすると、イエス様は罪びとの抱える病気を治してあげるということになります。それはどんな病気で、イエス様はそれをどのように治されるのでしょうか?それから、「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」というのは、本日の旧約の日課、ホセア書6章6節にある神の御言葉の引用です。これはイエス様が罪びとを受け入れて招くこととどう関係するのでしょうか?さらに、イエス様がこの世に送られてきたのは「罪びとを招くため」と言われますが、罪びとを招くとはどういうことなのか?まさか一緒に飲み食いすることではないことは誰でもわかります。「招く」とは、どこに「招く」ことでしょうか?以下、これらのことを明らかにしていきましょう。

 当時、徴税人は罪びとの最たるものと見なされていましたが、興味深いことに、福音書に登場する徴税人は少し勝手が違います。例えば、ルカ3章では、洗礼者ヨハネが神の裁きの日が来ることを大々的に告げ知らせると、大勢の人たちに混ざって徴税人たちも洗礼を受けにやって来ました。彼らは、不安におののきながらヨハネに尋ねます。「先生、私たちは何をしたらよいのでしょうか?」これらの徴税人は、神のもとに立ち返る必要性を感じていたのです。同じルカの18章にイエス様のたとえの教えで、自分の罪を自覚して神に赦しを乞う徴税人が出てきます。たとえなので実際にあったことではないのですが、それでも、ヨハネのもとに集まって来た不安におののく徴税人のことを考えれば、全く非現実的な話ではありません。ルカ19章の徴税人ザアカイにしても、イエス様をなんとか一目見ようと木に登り、それに気づいたイエス様が彼を受け入れた途端、悪いことをして蓄えた富を捨てるという決心をしました。ルカ5章で、イエス様に従いなさいと声を掛けられた徴税人は「全てを捨てて」つき従いました。つまり、イエス様につき従うや否や、それまでの生き方を捨てたのです。ここが重要です。

 このように福音書に登場する徴税人は、それまでの生き方は良くないと感じつつも、自分の力では変えることが出来ないでいた、それが、イエス様の招きを受けた瞬間に生き方が変えられたのでした。ここが大事なポイントです。イエス様と一緒に食事の席についた徴税人その他の罪びとは生き方が変えられた人たちだったのです。その意味で彼らはその時はもう元罪びとだったのです。しかしながら、宗教エリートはこの変化を本当のものとして受け入れられません。彼らの目ではまだ現役の罪びとです。どうしてでしょうか?

 それは、罪の赦しが宗教エリートが重視する、戒律的な手順を踏まえておらず、イエスという一個人を通して赦しが与えられてしまったからでした。それでは、エリートたちが教えたこと守れと言っていたことが一気に意味を失ってしまいます。そのため、イエスがやっていることは神が認める罪の赦しなんかでない、罪びとたちの新しい生き方も本当ではないという見方になってしまうのです。イエス様の招きや受け入れには本当に罪の赦しがあり新しい生き方をもたらすものであるというのは、旧約聖書の神の言葉に基づいているのです。

 イエス様はホセア書6章6節の神の言葉を引用しました。「わたしが求めるのは憐みであって、いけにえではない。

罪びとたちが罪の赦しを得て新しい生き方を始めたのに、それを疑う宗教エリートに向かって、この言葉の意味を学びなさいと言いました。私たちもその意味をわからなければなりません。ここからが正念場です。

 ヘブライ語の原文を忠実に読むと、「私が求めるのは『誠実』であって、いけにえではない」です。福音書はギリシャ語で書かれているのでイエス様が引用した言葉はギリシャ語のエレオス「憐れみ」です。引用元のヘブライ語の言葉はヘセド「誠実」です。ヘセドは辞書によるとfaithfulnessで、日本語では「誠実」とも「忠実」とも訳せます。以前の説教では「忠実」にしましたが、やっぱり「誠実」がいいと思いました。私たちの新共同訳ではヘセドは「愛」と訳されていますが、これは後で述べるように正しくありません。

 元の言葉は「誠実」なのにイエス様が引用すると「憐れみ」に変わってしまいました。この変化の意味がわかると、イエス様の招きと受け入れが罪びとの生き方を変えたことがわかります。まず、ホセア書のホセアは、ダビデ・ソロモンの王国が南北に分裂した後に活動した預言者です。紀元前700年代の人です。南のユダ王国の国民はエルサレムの神殿で、神から罪の赦しを得るために律法に従って多くの羊や牛を犠牲の生け贄として捧げていました。しかし、それはいつしか心を伴わない表面的な行為になってしまった、儀式を重ねる一方で神の意思に反することを繰り返すようになってしまった、これではいくら生け贄を捧げても何の意味もありません。人間が自分の罪を心から悔いて神の意思に沿う生き方をしますという儀式なのに、心は改めず儀式さえしていればOKと自己満足に陥ってしまったのです。それで神は、そんな生け贄はもういらないと言われたのです。

 それでは、神は生け贄に換えて何を民に求めたかと言うと、それがヘセド「誠実」なのでした。民の神に対する誠実さとは、神に背を向けた生き方をやめて神のもとに立ち返って神の意思に沿うように生きるということです。これが神に対して誠実に生きるということです。新共同訳では「愛」と訳されているのが正しくないと言うのは、ホセア書の大切なポイントの一つとして、民が天地創造の神に背を向けて違う神々を拝むようになってしまったことを結婚相手の不倫にたとえることがあるからです。そういう背景を考えるならば、ヘセドは相手を裏切らないという意味、辞書にある「誠実」がピッタリなのです(ちなみにフィンランド語訳の聖書は「誠実」、英語訳とスウェーデン語訳は「愛」でした)。

 マタイ福音書はギリシャ語で書かれていて、イエス様はホセア書6章6節を引用した時にエレオス「憐れみ」と言ったことになっています。出来事の現場ではイエス様はアラム語という言葉で話しをしています。イエス様はアラム語で「憐れみ」を意味する言葉を発して、それが後にギリシャ語に訳されてエレオスになったわけですが、イエス様はなぜヘブライ語原文の「誠実」を「憐れみ」という別の言葉に置き換えたのでしょうか?

 実はこの変換には背景があります。イエス様の時代の200年前位に旧約聖書がギリシャ語に翻訳されました。そこでホセア書6章6節の「誠実」ヘセドは「憐れみ」エレオスと訳されたのでした。つまり、この個所の「誠実」という言葉を見てそれを「憐れみ」の意味を含ませる考え方が当時のユダヤ教社会の中に出てきたのです。ファリサイ派に反論する時にイエス様はそっちを取ったのです。どうしてか?こういうことです。ホセア書で神は、民には「誠実」が欠けていると指摘しました。生贄の捧げよりも神に対する誠実が必要なのだと。そしてイエス様は、宗教エリートには「憐れみ」が欠けていると指摘したのでした。罪びとが神のもとに立ち返って神に誠実な者になれるためには戒律に従って生贄の捧げを命じるのは意味がなく、罪びとに「憐れみ」を示すことが必要なのだ、それを自分は罪びとを受け入れて招くことで示しているのだということなのです。これが、イエス様がヘブライ語の「誠実」をギリシャ語の「憐れみ」に置き換えたからくりです。兄弟姉妹の皆さん、このことを通してでも聖書はまことに奥が深い、侮れない書物であることがおわかりになったでしょう。

3.十字架と復活こそ私たちに対するイエス様の憐れみの招き

 ところが話はここで終わりません。からくりがわかったからと言って満足してはいけません。なぜなら、イエス様が示した「憐れみ」は当時の罪びとを越えて全ての人間、現代を生きる私たちにも及んでいるからです。次にこのことを見てみましょう。イエス様が示した「憐れみ」は、罪びとを受け入れて招くことでした。受け入れられて招かれた罪びとたちは、今度は神に背を向けていた生き方を止めて神に対して誠実な者に変わりました。イエス様の罪びとを受け入れて招く「憐れみ

は、受け入れられて招かれた者の側に生き方の変化をもたらす力を持っていました。これは、まさにイエス様が行った病の癒しや悪霊の追い出しと同じ奇跡の業です。この同じ奇跡の業は時代を超えて今を生きる私たちにも及んでいるのです。徴税人のように何か具体的な悪行はなくとも、私たち人間はみな神聖な神の目から見たら、神の意思に反しようとする性向、罪を持つ「罪びと」です。そのような私たちをイエス様は憐れみで受け入れて招いて下さり、招きを受けた私たちは神に背を向けていた生き方をやめ、神のもとに立ち返り、神の意思に沿うように生きようという心になる、つまり神に対して誠実になる、そういう憐れみを私たちは受けたのです。いつ受けたのでしょうか?

 イエス様の憐れみの招きは、彼が十字架の死と死からの復活を遂げた時に本格的に始まりました。イエス様は私たちが持ってしまっている罪を全部引き取ってゴルゴタの十字架の上に運び上げてそこで神の罰を受けて死なれました。私たちが罰を受けないで済むように私たちに代わって受けられて、私たちの罪を償って下さいました。神は一度死なれたイエス様を途方もない力で復活させて、死を超える永遠の命があることをこの世に示され、そこに至る道を私たちに切り開いて下さいました。そこで、私たちがこれらのことは本当に起こったのだ、だからイエス様は救い主なのだと信じて洗礼を受けると、イエス様が果たしてくれた罪の償いがその通りになるのです。罪を償われたので神から罪を赦された者と見なされるようになって、神との結びつきを持ててこの世を生きられるようになるのです。そして、永遠の命が待つ神のみ国に至る道に置かれて、その道を神との結びつきを持って歩めるようになるのです。

 このように神は私たち人間を憐れんで、ひとり子を贈って私たちが歩むべき道と進むべき方角を照らし出して下さったのです。かつて道を誤ってそれぞれの方角に向かっていた羊の群れのようだった私たちは、罪のゆえに神との結びつきを失うという病に冒されていました。それをイエス様は担って下さり、彼が受難で受けた傷によって私たちは癒されたのでした。まさにイザヤ書53章の預言の通りです。そのイエス様を救い主と信じて洗礼を受けたことが、この神の憐れみの招きを受け入れたことなのです。それで私たちはもう、神に背を向けていた生き方をやめて神のもとに立ち返って神の意思に沿うように生きようと志向する者になったのです。神に対して誠実な者になったのです。イエス様と同じ食事の席につける元罪びとなのです。

4.勧めと励まし

 このように神の憐れみの招きを受けて神に誠実な者になると、この世の歩みはどんなものになるか、福音書の日課のもう二つの出来事が先取りするように示しているので、最後にそれを見ておきましょう。

 12年間出血の病に苦しんでいた女性は、イエス様の衣に触れたら治ると信じてそうしました。それに気づいたイエス様は、「あなたの信仰があなたを救った」と言います。それを言った直後に女性は健康になりました。ギリシャ語の原文の「救った」はギリシャ語の特有な現在完了形で、その意味は「過去のある時点から今のこの時まであなたは救われた状態にあった」です。過去のある時点とは、イエス様を救い主と信じ出した時点ですので、「あなたは、私を救い主と信じる信仰に入った時から今のこの時まで救われた状態にあった」という意味になります。女性が治る前にこの言葉が言われたことに注目します。治る前です。つまり、救われるというのは必ずしも病気が治ることではないのです。もっと広い意味があるのです。イエス様を救い主を信じる信仰に入ったら、病気だろうが健康だろうが神との結びつきは変わらずにあり、天の御国に向かう道を歩んでいることにも何ら変わりはないということです。もちろん、この出来事は、まだイエス様の十字架と復活に基づく憐れみの招きが出てくる前のことですが、将来の信仰の有り様を先取りしているのです。

 指導者の娘の生き返らせも同じです。「娘は死んではいない、眠っているだけだ」と言うのは、イエス様にとっては、彼を救い主と信じる信仰に生きる者は復活の日に眠りから目覚めさせられて天の御国に迎え入れられるのだから、この世からの死はその日までの眠りにすぎなくなります。この出来事もまだイエス様の復活が起きていない時のことですが、天の御国に至る道に置かれてその道を歩む私たちにはその通りのことなのです。それで、この出来事もキリスト信仰の有り様を先取りしているのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

6月の予定

六月の予定

手芸クラブの報告 2026年5月

5月の手芸クラブは27日に開催しました。梅雨になる前の爽やかな天候の朝に開催することができました。

今回のテーマはビーズ刺繡です。最初に作品のモデルを見て自分の作りたいものを選びます。モデルを見る参加者の方々から、「素敵な色合い」、「可愛いわ」、「きれいな形ね」と感心の声をあがりました。モデルとビーズの種類は沢山あって、どんな色や模様の作品をするか決めるのは簡単ではありません。決まったら、次は作品に合う布かフェルトを選んで、それからビーズを縫い付けていきます。針は細くビーズも小さくて目が疲れやすい作業ですが、それでも皆さん楽しくおしゃべりしながら一生懸命ビーズを増やしていきます。次第に形が見えてくると、お互いにそれを見て、「わぁー可愛い!」「素敵!」「きれいな色合い!」とお互いにほめたたえます。

今回もあっという間に時間が過ぎてしまいました。皆さん、もう少し続けたい気持ちがありましたが、細かい作業なので目や手は思った以上に疲れています。未完成のものは自宅で続けることができます。完成したら、カバンやブラウスに取り付けて素敵な装飾になるでしょう。そこで、コーヒータイムで一息入れることにしました。今回は参加者の方が持参して下さった珍しい果物「山桜梅」と「桑の実」を味わいました。みんなで「甘くて美味しい!」と言いながら楽しみました。あわせて、フィンランドのコーヒーブレッド(Pulla)も味わって楽しい歓談の時を持ちました。その時にフィンランドの伝統的な「名前の日」についてと、聖書に出てくる、あらゆる名前にまさる名前についてお話を聞きました。

手芸クラブは夏の間6月から8月までお休みになります。秋の再開の日程は教会のホームページでお知らせしますので、是非ご覧ください。天の神さまがこの夏も皆様のご健康を守られますように。それでは、またお会いしましょう!

手芸クラブの話

今日はビーズ刺繡のテクニックを使って素敵なアクセサリーを作りました。ビーズ刺繡は古くからある手芸のテクニックの一つです。昔は布地に様々な形や色とりどりのビーズを縫い付けて服などの価値を高めました。今でもビーズ刺繡は人気があり、このテクニックを使ってアクセサリー、ブローチ、イヤリング、ボタンなど様々な模様の作品が作られます。フィンランドのラップランドに住む先住民族のサーミ人の民族衣装も鮮やかな色彩のビーズ刺繡で作られています。

真珠はアクセサリーとしては高価なものですが、安価なビーズでもこのように真珠に負けない素敵なアクセサリーができます。しかも、安心して着用できます。例えば、ビーズのネックレスが切れてしまっても大きな損失になりません。しかし、子どもにはそうではないかもしれません。私の娘は小さい頃ビーズのネックレスをもらって、それをとても気に入っていました。毎日首にかけていました。ただ、ビーズはゴムに通してあったので、ある日ネックレスを首に掛けようとしたら、ぷつっと切れてしまいました。娘は悲しくて泣いてしましました。その後ビーズを大事に取っておいて、それを使って人形のネックレスを作りました。その人形にHelmi(ヘルミ)という名前をつけました。

フィンランド語のHelmiは真珠を意味します。それは女性の名前でもあります。古い名前ですが、2000年代の初めに女の子の名前として人気がありました。Helmiは女性の名前の中で最も美しい名前の一つとも言われています。

フィンランドには名前を大切にする伝統があります。フィンランドのカレンダーには、全ての日付の下に何人かの名前が書かれています。それをその名前の人たちの「名前の日」と言います。自分の名前の日になると、みんなからお祝いされるのです。毎朝のラジオのニュースと天気予報の後にその日の名前が読み上げられます。Helmiの名前の日は5月7日です。私の名前パイヴィの日は6月16日です。その日は他にパイヴィッキとパイヴァの名前もお祝いされます。

「名前の日」には誕生日のようにカードを送ったり花を贈ったりします。職場でもコーヒーとお菓子を出してお祝いすることが多いです。「名前の日」があることで、友達や同僚や親戚の人たちを覚えてお祝いする機会が増えるのです。

聖書の中にも名前に関係する神さまのみ言葉があります。例えば、イザヤ書43章1節には次のように書いてあります。

「恐れるな、わたしはあなたを贖う。
あなたはわたしのもの。
わたしはあなたの名前を呼ぶ。」

フィンランド人も、友達や同僚や親戚の「名前の日」をうっかり忘れてしまうことがあります。しかし天と地と私たち人間を造られた神様は私たちのことを忘れたりしません。神様は私たちの造り主ですので、私たち一人ひとりのことを私たちの親よりも良くご存じです。それで私たちは子どもが自分の親を信頼して頼りにするのと同じように神様を信頼して頼りにすることができるのです。そうすれば親から得られる安心よりも大きな安心が得られます。

私たちは時々、他人のことを悪く考えたり、口で言ってしまったりすることがあります。それは神さまの目から見て悪いことですが、私たちは自分は神さまの目に届かないところにいると考えて何も問題ないと思うかもしれません。しかし、私たちは神様の目に届かないところにいることができるでしょうか?私たちはいろいろ隠れ場所を作るかもしれませんが、それは小さい子供のかくれんぼと同じです。子供は頭を隠して、体は見えているのに、自分はうまく隠れたと思っています。捜す人が、みーつけた!と言って名前を呼ぶと、見つかった子供はどうして見つかったのかと驚きます。私たちも同じで、神さまから隠れたい、目の届かないところにいたいと思っても、神さまは私たちがどこで何をしているかをご存じで、私たちに向かって名前で呼びかけます。神さまが名前で呼ばれたら、私たちは隠れている場所から出るでしょうか?

私たちは神さまから隠れたり逃げる必要はありません。神さまは私たち人間のために素晴らしい計画を立てて実現されました。その計画とは、一人の方の名前、神さまのひとり子イエス様の名前を最も偉大な名前にするというものです。フィリピの信徒への手紙2章9~10節で次のように言われています。

「神はキリストを高くあげ、あらゆるな名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものが全て、イエスの名にひざまずき、すべての舌が『イエス・キリストは主である』と公けに宣べて、父である神をたたえるのです。」

どうしてイエス様にあらゆる名にまさる名前が与えられたのでしょうか?それは、イエス様を通して神さまが私たち人間を救ってくださったからです。私たちの救いはイエス様の十字架の業によってのことです。イエス様が十字架の業を通して私たちと世界の全ての人々を救ってくださったので、イエス様の名前はあらゆる名前にまさる名前になったのです。

私たちは神さまから逃げたり隠れたりする必要はありません。イエス様を救い主と信じていれば、神さまは私たちを見捨てることはなくいつも一緒にいて下さいます。神さまは私たち一人一人のことを名前で呼ぶくらいによくご存じで、ひとり子イエス様を贈って下ったくらいに私たちを愛しておられるのです。それで神さまは私たちが信頼しても大丈夫な方なのです。

全ての名前にまさる唯一の名前がある。

歳時記

ホタルブクロ 

15 人は、そのよわいは草のごとく、その栄えは野の花にひとしい。16  風がその上を過ぎると、うせて跡なく、その場所にきいても、もはやそれを知らない。 詩編1031516

桜美林教会の生垣の土手に今年もホタルブクロが咲いていました,薄紫色のホタルブクロに交じって真っ白いホタルブクロを見つけました、初めて見る新顔のホタルブクロです。このまま、此処に根付いてくれるといいなと思っています、此処の土手は季節の草花を咲かせてくれるので楽しみな場所です。 (風吹くや釣鐘動く花の形/正岡子規

牧師の週報コラム

覚悟と胆力を養うキリスト信仰その13
ルターによる聖句の説き明かしと共に(フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ」
の2月7日の日課から)
『心配事は全て神に放り投げよ。神はあなたたちの面倒を見て下さる方なのだから
。』 (第一ペトロ5章7節、フィンランド語訳聖書にもとづく)
『事を自分の重荷にとどめるな。あなたはそれを運びきれず、遅かれ早かれ押しつぶされ
てしまうだろう。そんなことはやめて、それを捨てなさい。つまり、喜びながら信頼して
神にパスしてしまうのだ。パスする時、次のように祈りなさい。「天の父よ、あなたは私
の主、私の神です。あなたは、私など何も存在しなかった時に私をお造りになり、その上
、ひとり子を用いて私を罪の支配から贖って下さいました。そして、果たしなさいと言っ
てこの務めと課題を私にお委ねになりました。しかし、それは私が望んだようには上手く
いきませんでした。多くのことが私に重くのしかかり、心配事が次から次へと押し寄せて
きます。どうしていいのか途方にくれています。これらを全部お渡ししますので、あなた
の助けとアドバイスをお願いします。どうか、この務めと課題の全局面に一緒にいて、隅
々まであなたの目を注いで下さい。」
これこそ神の御心に適う対処法である。神が私たちにしなさいと言っているのは、委ねら
れた務めと課題に取り組みなさいということだけだ。取り組むことで何を成し遂げられる
かについての心配は神のすることであって、私たちのすることではない。
このようにキリスト信仰者は他の者にはない大きな可能性を持っている。ひとり子を救い
主と信じる信仰があるので心配事を放り出してよい父が天におられるからだ。そうでない
者たちは心配事を抱いて自分を痛めつけ、最後には絶望に陥ってしまう。翻って信仰は
、「神はあななたちの面倒を見る」という御言葉を手放さず、神は嘘をつかない方だから
御言葉はその通りだと信頼して前に進む。』(以上、ルターの説き明かし、2025年6月8日
の週報に掲載したものを修正)
牧師注 日本語(新共同訳)は「思い煩いを神にお任せしなさい」とお上品な訳ですが、
ギリシャ語の「エピリプトー」は辞書(Heikel&Fridrichsen)を見ると、「投げ出す、放
り出す」です。英語、ドイツ語(ルター版)、フィンランド語、スウェーデン語の聖書も
それで訳しています。また、日本語は「神はあなたがたを心にかけている」と控えめ。ギ
リシャ語の「与格・メレイ・ペり・属格」は、上記4カ国語は「神は面倒を見る、世話を
焼く、ケアをする」です。日本語訳では上記のルターのような力強い説き明かしはできな
いのではないでしょうか?もったいない話です。

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歳時記

庭の野草

15人は、そのよわいは草のごとく、その栄えは野の花にひとしい。16風がその上を過ぎると、うせて跡なく、その場所にきいても、もはやそれを知らない。 詩編1031516

白州の家の小さな庭にも年毎に色々な野草の花が咲きます。去年はアジサイ、一昨年はギボウシ、その前はカワラナデシコ、もっとその前は・・・・・忘れました。今年はなんとヤマオダマキが咲いていました。ヤマオダマキは確か以前にも咲いたことがありました。こうして見ると草花は互いに譲り合って咲く順番を決めているのかもしれませんね、競い合うよりもずうっと良いと思いました。

牧師の週報コラム 

覚悟と胆力を養うキリスト信仰その12

ルターによる聖句の説き明かしと共に(フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ
」5月7日の日課から)
『今日立てられているものは全てあなたの決定による。なぜなら、全てのものはあなたに
仕えるものだからだ。』(詩篇119篇91節フィンランド語訳の聖書による)
(注意 日本語訳「この日に至るまであなたの裁きにつき従ってきた人々はすべてあなた
の僕です」は問題です。私から何度も指摘しましたが、ヘブライ語のミシュパートは日本
語訳ではほぼ自動的に「裁き」と訳されますが、辞書(Holladay)にはその意味はなく
、「仲介による決定」とか「正義」が基本的な意味です。日本語訳は89節からの流れを踏
まえておらず、90節のエムーナーテカー(あなたの誠実さ)も誤訳しています。訳した人
たちは自分で何を言っているかわからなかったのでは。フィンラン語訳には「なぜなら」
がなく、ヘブライ語原文にはあるので付け加えました。)
『ふつう、「運」と「不運」はお互いかけ離れたことを意味すると言われる。しかし、理
性はこの聖句を前にして顔面蒼白になる。なぜなら、両者は実は背中合わせにあるくらい
近い存在であるということを理性はわからないからだ。我々はそれを信じられなければな
らない。例えば、ヨセフが牢獄に閉じ込められていた時、彼はもう一生そこから出られな
いと思われた。しかし神は、全ての膝が彼の前で跪かねばならなくなると既に決めていた
のだ。このように命と死は一方が他方の中に秘められていると言っていいくらい近い存在
なのだ。死の中に命が、幸運の頂点の最中に不運が、貧しさと惨めさの中に豊かさと喜び
祝いが、何も心配はないと思っていた人生の中に一瞬の死が秘められているのだ。
同じことは我々の死にも当てはまる。我々は、死に臨む時、あたかもそこに永遠に埋没し
てしまうかのように思われるかもしれない。しかし、まばたきした瞬間に今の天と地が終
わって新しい天と地が創造される日になっている。その時、我々は声をあわせて叫ぶ。「
ああ、私は永遠に生ける者になっている!」
以上のことを神は聖書の中で我々に数多くの事例をもって示しているではないか。神は低
い者を高くし、高い者を低くされる。全てのことはそうされる方の御言葉通りに進む。そ
れは、我々が神を度外視して自分の知恵と力だけで物事を成そうとしないように、全てを
最終的には神の御心に委ねるしかないと観念して全面的な信頼を寄せられるようにするた
めなのだ。キリスト信仰者であれば、全てのことは一字一句自分の考えや計画通りになら
ないことは、これまでの人生の中で既に経験済みではないか。』(以上ルターの説き明か
し、2026年5月11日の週報に所収したものを少し修正しました。)

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