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主日礼拝説教 2025年7月13日(聖霊降臨後第四主日)スオミ教会
申命記30章9~14節
コロサイ1章1~14節
ルカ10章25~37節
説教題「永遠の命と隣人愛」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1.はじめに
今日のイエス様のたとえの教え「善きサマリア人」は、聖書を読む人なら誰でも知っている教えの一つです。そこでイエス様は何を教えているでしょうか?まず、困っている人を助けてあげなければならないと教えているとわかります。盗賊に襲われて半殺しにあった人が道端に横たわっていました。そこをエルサレムの神殿の祭司と祭司に仕えるレビ人が通りかかりました。しかし、二人とも無視して行ってしまいました。神殿のエリートたちがそんなことをするのです。ところが、サマリア人という、当時ユダヤ民族が見下していた民族の人が走り寄って助けました。これを聞いた人はどう思ったでしょうか?見下していた人が正しいことをし、偉いと思っていた人がしなかった、あの民族はレベルが低い、立派な行動などとるはずはないと決めてかかるとしっぺ返しをくらうことになる。逆に自分の民族はレベルが高いのだと鼻を高くしていると遜らなければならなくなってしまうことになる。このようにイエス様の教えは、困っている人を助けることを教えると同時に異なる民族に対する偏見は愚かなことだと教えているように見えます。こういう教えは、ちょうど今、参院選挙の真っ最中の日本で各党の主張やSNSに溢れる声を聞く時に少し考えさせる材料になるかもしれません。
ところが、イエス様の教えはもっと深いことも教えているのです。もし、困っている人を助けることが大事とか、偏見は捨てよ、という教えだけだとしたら、そういうことは別にキリスト教徒でなくても、他の宗教の人でも、また宗教を持たない無神論的なヒューマニズムの人でもわかります。イエス様が教えるもっと深いこととは何でしょうか?イエス様の教えの発端は、律法の専門家が、何をすれば永遠の命を得られるか?と聞いたことがありました。イエス様のたとえはこの問いに対する答えなのです。なので、このたとえを本気で理解しようとしたら、どうしたら永遠の命を得られるかという問いを忘れては理解出来ないのです。(2世紀から3世紀にかけて活躍した有名な神学者にオリゲネスという人がいます。彼はこのたとえについて有名な解釈を残しています。教会の説教でも牧師がよく取り上げたりします。詳しいことはここでは割愛しますが、オリゲネスの解釈は私から見たらイエス様が本当に言おうとしたことを飛躍して拡大解釈しているにしか見えません。もし、永遠の命に関する答えを明らかにしていれば解釈は妥当であると申しましょう。)
2.永遠の命
このたとえを本気で理解しようとしたら、どうしたら永遠の命を得られるかという問いに対する答えとしてこのたとえがあることを忘れてはなりません。当時のユダヤ教社会では、どうしたら永遠の命を持てるかということが関心事になっていました。ルカ18章、マタイ19章、マルコ10章に金持ちの青年がイエス様のもとに走って来て、何をすれば永遠の命を持てるでしょうか?と尋ねたことからも明らかです。また、イエス様が活動を始める前に洗礼者ヨハネが現われて、悔い改めよ、神の国は近づいた、と宣べ伝えると、大勢の人たちが洗礼を受けるためにヨハネのもとに集まってきました。これも永遠の命を得るためでした。当時、聖書に基づいて次のような考えが持たれていました。この世は神が創造して始まったが、始まりがあったように終わりもある、今ある天と地は新しい天と地に造り変えられる、その日は神の怒りの日であり裁きの日である、神に義と認められた者は怒りと裁きをクリアーできて新しい天と地のもとで永遠の命を持つことができるという考えです。人々はヨハネの洗礼でクリアーできるようになると思ったのです。ところがヨハネは自分の後に偉大な方が来られると言って、人々の心をイエス様に向けさせたのです。
金持ちの青年の質問に対してイエス様はどう答えたでしょうか?まず、十戒の掟を守りなさいと言います。それに対して青年はそんなものは子供の時から守っている、まだ何が足りないのかと聞きます。イエス様は答えます。お前には足りないものがある、全財産を売り払って貧しい人に施せ、そして私について来なさい、と。金持ちの青年はそれが出来ず悲しみにくれて立ち去って行きました。
今日の教えも同じです。律法の専門家は、何をすれば永遠の命を得られるのかと聞きました。それに対してイエス様は律法に何が書いてあるか、それをお前はどう理解しているかと聞きます。男の人は律法の専門家だけあって、十戒の教えを旧約聖書に基づいて二つの項目にまとめました。一つは、神を心を尽くし魂を尽くし力を尽くし理解力を尽くして愛せよ。これは申命記6章5節にあります。もう一つは、隣人を自分を愛するが如く愛せよ。これはレビ記19章18節にあります。イエス様は専門家の答えを良しとし、その通りにすれば永遠の命を得られると言いました。ところが、専門家は自分が神の目に相応しい者であることを認めてもらおうとさらに聞きました(後注)。私の隣人とは誰のことか?と。なぜ、この質問が神の目に相応しい者であることを認めてもらうための質問だったのでしょうか?
それは、レビ記19章を少し広く見るとわかります。そこでは隣人とは、ユダヤ民族に属する者であることが言われているのです。大体9節くらいから、ユダヤ民族に属する貧しい人たちを助けてあげろとか、盗んではいけないとか、嘘をついてはいけないとか、裁判は公平に行えとか、同じ民族に属する者を中傷してはいけないとか、そして18節で同じ民族に属する者に復讐してはいけない、隣人を自分を愛するが如く愛せよ、が来ます。隣人とはユダヤ民族に属する者なのです。ただし33節を見ると、興味深いことにユダヤ民族の中に一緒に住む異民族の人たちにはユダヤ民族と同じように愛せよとあります。つまり、ユダヤ民族には属さない者にも隣人愛を行いなさいということです。これは、実際はどうだったでしょうか?イエス様の時代、ガリラヤ地方とユダヤ地方に挟まれたサマリア地方がありました。サマリア人は純粋なユダヤ民族ではないと見下されて隣人愛の相手とは見なされなかったのです。ユダヤ人にとって隣人とはやはり同胞が中心に考えられていたのです。
律法の専門家は隣人=ユダヤ民族という一般的な理解を念頭において、イエス様に隣人とは誰かと聞いたのです。もし、イエス様がそれはユダヤ民族に属する者であると答えたら、しめたもの、専門家はきっと、はい、ちゃんとその通りにしています、と答えたでしょう。これが自分は神に相応しいと認めてもらうことでした。ところが、イエス様はたとえの中でレビ記19章の異民族に対する隣人愛をどんでん返しするように出したのです。ユダヤ民族の神殿エリートが傷ついた同胞を助けませんでした。このエリコに向かう途中で襲われた男の人は神殿のあるエルサレムから出発したので間違いなくユダヤ人です。傷ついたユダヤ人を助けたのは、ユダヤ民族が見下していた異民族のサマリア人だったのです。本当はユダヤ民族の方が異民族に隣人愛を行わなければならなかったのに、それが出来ずにいたところ、異民族の方がユダヤ人に隣人愛を行ったのです。ユダヤ人に隣人愛を行ったサマリア人がユダヤ人の隣人である、お前はこのサマリア人のようにしなければいけない、というのです。そうしなければ永遠の命は得られないというのです。律法の専門家は立ち往生してしまったでしょう。金持ちの青年が悲しみながら立ち去って行ったのと同じことが起こったのです。
イエス様は一般的に愛に満ちた優しいお方、何でも言うこと願いごとを聞いてくれる神さまみたいな方(実際、神さまですが)という見方がされます。イエス様は本当は厳しい方なのです。思い出してみて下さい、十戒の第5の掟「汝、殺すなかれ」について、イエス様は人を殺していなくても心の中で罵ったり憎んだりしたら同罪であると教えました。第6の掟「汝、姦淫するなかれ」も、たとえ不倫をしていなくても淫らな目で異性を見たら同罪であると教えました。「貪るな」という第9と第10の掟も、実際に他人のものを盗んだり台無しにしなくても、心の中で自分のものにしたいとか台無しにしてやりたいと思ったら罪なのです。こういうふうに十戒の掟というのは、行いや言葉で悪をしなければ十分というものではなく、心の中もそうでなければならないというのが十戒を与えた神の意思なのです。イエス様は神のひとり子の立場にたって父の意思をそのように伝えたのです。
さて、大変なことになりました。心の中まで問われたら神のみ前で潔癖な者などいなくなります。神の怒りと審判の日が来たら何も申し開きができません。神は全てお見通しです。イエス様、あんまりです、厳しすぎます、と言いたくなります。しかし、まさにここでイエス様が本当に愛のある方であることが明らかになるのです。イエス様は、神の怒りと審判の日に人間が絶体絶命にならないために、人間が受けてしまう罪の罰を全て自分で引き受けて下さったのです。それがゴルゴタの十字架の出来事でした。イエス様は私たちの身代わりとなって神罰を受けて死なれたのでした。イエス様の厳しさと優しさは表裏一体なのです。厳しさがあるから優しさは自己犠牲の愛になるのです。ところで、事はイエス様の死で終わりませんでした。神の想像を絶する力で三日後に死から復活され、死を超えた永遠の命があることをこの世に示され、復活と永遠の命が待っている地点への道を私たち人間に切り開いて下さったのです。あとは、私たちがこれらのことは本当に起こった、だからイエス様は救い主だと信じて洗礼を受けると、彼が果たしてくれた罪の償いが自分のものになり、その人は罪を償ってもらったから罪を赦された者として神から見なされるようになります。神から罪を赦されたから神との結びつきが回復して復活と永遠の命に向かう道を進んで行くことになります。
しかしながら、永遠の命への道を歩むようになったとは言っても、自分の内には神の意思に反する罪があることにいつも気づかされてしまいます。そこで自分を偽らず、罪があることを認めて、イエス様を救い主と信じます、私の罪を赦して下さい、と神に祈り願えば、神は、わかった、わが子イエスの犠牲に免じてお前を赦すから、これからは気をつけなさい、と言って下さるのです。神が罪を赦すというのは、不問にするから新しくやり直しなさい、と言ってもらうことです。過ぎ去ったことを執念深く突っつきまわすことはしないということです。そういうわけで、キリスト信仰者の人生は罪の自覚と赦しの繰り返しの人生です。しかし、イエス様の厳しさと優しさが表裏一体で優しさが厳しさを上回っていたのと同じように、罪の自覚と赦しも表裏一体で赦しが自覚を上回っているのです。それで繰り返しの人生が可能なのです。そして、繰り返しの人生は罪から完全に解放される復活の日に終了します。
このように永遠の命というのは、人間の力ではどうにもならないものなのです。神のひとり子の十字架と復活の業に全てお任せしないとだめなのです。それなのに、金持ちの青年や律法の専門家のように、人間が頑張って何かをすれば得られると考えてしまったら、イエス様が十字架にかけられて復活する必要はなくなってしまうのです。イエス様がこの世に贈られる必要もなくなってしまうのです。イエス様自体が必要ではなくなってしまうのです。
金持ちの青年は失意のうちに立ち去り、律法の専門家はおそらくふてくされた立ち去ったでしょう。それは、その時点ではやむを得なかったと思います。なぜなら、イエス様の十字架と復活の出来事はまだ起こっていなかったからです。出来事の後、それを聞き知った二人は、永遠の命を得る決め手は自分たちにはない、神があのひとり子を用いて成し遂げて下さったことが全てだと信じるようになったことを願うばかりです。それは決して不可能ではありません。ファリサイ派のパウロだってイエス様を信じて受け入れたのですから。
3.隣人
少し隣人についてみてみます。隣人と訳されるヘブライ語のレーアはもともとは仲間という意味でした。それなので先ほどのレビ記19章の中で使われると、どうしてもユダヤ民族を中心に考えがちになります。イエス様は、たとえをもって「隣人」のユダヤ民族中心の見方「同胞の隣人」を壊して「誰でも隣人」にしたのです。傷ついたユダヤ人の隣人になったのはサマリア人でした。二人の神殿エリートは同胞の隣人にはなれなくなってしまったのです。
永遠の命は神の力によらなければ得られない、なのに人間の力で得られると勘違いする人たちがいたのでイエス様はそれが不可能であることを骨身に染みるように教えました。つまり、本当は出来ないのに出来るとする律法主義の矛盾を暴露したのです。イエス様のたとえでは律法主義の矛盾がもう一つ出てきます。律法主義が隣人をユダヤ民族に留めてしまっているという矛盾です。イエス様はたとえの中に、ファリサイ派ではなく、祭司とレビ人という神殿エリートを登場させました。レビ記21章を見ると、祭司はよほど近い親族でない限り遺体に触れてはならないという規定があります。二人の神殿エリートは道端に横たわっている同胞を見た時、この規定のゆえに、もし死んでいたら近寄ったら汚れてしまうと思ってそそくさと通り過ぎたのです。一方で、祭司は死体に触れてはいけないという掟がある。他方で、隣人を自分を愛するが如く愛せよという掟がある。さあ、どうしたらよいか?隣人愛は、神の意思を二つの大黒柱にまとめたものの一つです。もう一つの柱は神を全身全霊で愛せよでした。祭司は死体に触れるなという掟はこの大黒柱を前にしたら脇に退かなければならないのです。神殿エリートは何が主で何が従であるか本末転倒してしまったのです。まさに律法主義の矛盾です。
このことは、安息日に病人を癒すのは罪でもなんでもないということと同じでした。イエス様は安息日にユダヤ教の宗教エリートたちの目の前でこれ見よがしに病人を癒してあげました。それは神が与えた安息日の掟を否定したのではありません。病気を治すとか命を守るとか緊急のことがない場合は安息日は守らなければならないことに変更はないからです。
イエス様は今日のたとえの中に、祭司の汚れ規定が及ばない普通のユダヤ人を登場させませんでした。あえて異民族、しかもユダヤ人が軽蔑しているサマリア人を登場させました。そこに注目します。もし普通のユダヤ人に傷ついた同胞の世話をさせたら、隣人はユダヤ人のままです。しかし、サマリア人を登場させ、彼が傷ついたユダヤ人の隣人になりました。隣人の意味がまさにユダヤ民族中心から解放された瞬間です。隣人から民族の壁を取り払って「誰でも隣人」にしたのは、イエス・キリストの福音の趣旨と一致します。人間の力のおかげではなく、イエス様の十字架と復活の業のおかげとそれをその通りと信じる信仰のおかげで罪の償いと永遠の命が得られるというのがイエス・キリストの福音です。この福音は世界の全ての民族に向けられたものです。神はこの福音をどうぞ受け取って下さいと言って、全ての人間に提供して下さっているのです。
4.勧めと励まし
主にあって兄弟姉妹でおられる皆さん、人を助けるというのは、キリスト信仰の場合、永遠の命と隣人愛の二つが土台にあることを忘れてはいけません。それが他の宗教やヒューマニズムの人助けと違う点です。キリスト信仰者にとって隣人愛とは、信仰者同士の場合、約束された永遠の命への道を歩めるように支え合うことです。まだ道の歩みに入っていない人たちに対しては、道に入れるように導き働きかけることが隣人愛です。人を助けることにはいろいろな形態があるのに、なぜ、永遠の命に至る道をしっかり歩めるようにすること、また、その道に入れるようにすることが助けになるのか?永遠の命を約束されたというのは、今の天と地が新しい天と地に取って代わる大変動の時、神の怒りと裁きをクリアーできるという確信を得られることです。それはとても大きな安心感を与えてくれます。この大きな安心感があれば、この世で困難や苦難に遭遇しても不安や心配に押しつぶされることはありません。なぜなら、大変動の時にある苦難や困難は今のこの世の苦難や困難よりも遥かに大きなもので、その時に大丈夫ならば今の時はもっと大丈夫だからです。このような不安や心配に押しつぶされないですむ安心感を得られるようにしてあげるのも立派な助けです。助けの中の助けです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
(後注)日本語訳では「自分を正当化しようとして」ですが、ギリシャ語のディカイオオ―は「自分を義とする」、つまり、「自分を神の目に相応しい者にする」ということです。律法主義の考えの人なので「律法を守っていることで自分を神の目に相応しい者にする」ということです。