2021年6月20日(日)聖霊降臨後第四主日 主日礼拝 司式・説教 吉村博明SLEY(フィンランド・ルーテル福音協会)宣教師

聖書日課 ヨブ記38章1~11節、第二コリント6章1~13節、マルコ4章35~41節

説教題「「我らの不幸と悩みの時に神は共に歩み給う
- 日本に住むキリスト信仰者が考えておくべきこと」」

讃美歌 301(1)、178(5)、342(4)、376(4)
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.本日の旧約の日課はヨブ記からです。皆さんご存知のように、ヨブ記にはとても重い、深いテーマがあります。それは、神の意思に沿う生き方、非の打ちどころがない正しい生き方をしても、もし不幸や苦難に見舞われたら、そんな生き方に意味はないのではないか?という問いです。ヨブは神からも正しい良い人間だとお墨付きだったのに悲惨な運命に陥ります。財産や肉親や健康さえも失い、最後に残った妻からも、この期に及んでまだ神を信じるなんて馬鹿げている、神を呪って死んでしまいなさい、と言われてしまいます。しかし、それでもヨブは神に対して反抗的になりませんでした。その後で3人の友人がヨブを見舞いに来ます。ヨブの変わり果てた姿を見てみな嘆き悲しみます。そこから4人の長い対話が始まります。

Job and his friends, Ilya Repin, Public domain via Wikimedia Commons

このようなとても大きなテーマの書物をあらすじだけ述べるというのは、大事なことを沢山落とす危険があります。しかし、それを承知で話を進めます。ヨブと3人の友人の関心事は大体同じです。友人たちは、善いこと正しいことをしたら神から良い報いがある、悪いことをしたら悪い報いがある、神は絶対に正しくその判断に間違いがない方だからヨブがこんな酷い目に遭うのはやはり何か落ち度があったからではないか、というふうになります。それに対してヨブは、そんなこと言われても自分には身に覚えがない、神よ、なぜなのですか?と問うしかない。このような疑問が起きるということは、ヨブも友人たちと同じ考え方に立っていることを示しています。善人には良い報いがあり悪人には悪い報いがあるというのが神の絶対的正しさだという考え方です。だから、一体私が何をしたというのですか?という疑問が起きるのです。

ヨブと友人たちの対話は延々と37章まで続きます。それが本日の38章で急展開を遂げます。ずっと対話を聞いておられた神が突風の中からヨブの疑問に答えます。それは人間の理解力を超える答えでした。まず神はヨブのことを、無知蒙昧な言葉をもって「神の経綸」を曇らせる者と言います。「経綸」とは分かりそうで分かりにくい言葉です。ヘブライ語のエーツァーという言葉ですが、辞書を引くと「計画」とか「スキーム」とあります。つまり、神が考案したり計画したり構想したものと言ってよいでしょう。それを曇らせる無知蒙昧な言葉とは何か?それは、ヨブをはじめ3人の友人たちの考え方です。神の意思に沿う生き方は、それで繁栄や安逸を得られれば意味がある、しかし、そのように生きても不幸や苦難に見舞われたら意味がないという考えです。そのような考えは恐らく全ての人間にあるでしょう。そのような考えを持ったら神の考案・計画・構想を曇らせるというのです。ここまで来れば神の狙いは明らかです。神はそのような考え方を打ち壊して人間を新しい地点に導こうとしているのです。どんな地点か?それは、神の意思に沿う生き方に意味があるかどうかの判断材料として、繁栄や安逸をもたらすかどうか、不幸や困難を回避できるかどうかは全く無用であるという地点です。

それではヨブはどのようにしてそのような地点に導かれたでしょうか?神は畳みかけるようにヨブに質問します。私が大地の基を据えた時、お前はどこにいたのか?お前に見極める力があるというのなら、述べてみよ。もちろん天地創造の時にヨブはまだ存在していません。その時、存在していたのは父、御子、み霊の三位一体の神だけです。創造主の神が森羅万象を造り上げていきます。5節で、大地の基を据えた神は測量もしたと言います。つまり、地球を直径12,742キロメートルの星に造り上げ、直径1,392,700キロメートルの太陽から1億4,960万キロメートルの距離になるようにしたということです。全ての星も神の創造によるものですが、ここでは地球を中心に語っていきます(31~32節で天体のことも触れています)。8節からは海について、海と陸の境界、海から水蒸気が蒸発して出来る雲についても言われています。つまり、水は標準大気圧の時100℃で沸騰し、0℃で凍るという法則が関係してきます。自然の中にはそういう法則が無数にあります。光は1秒間に約30万キロの速さで進むとか、地球上のものは地球の引力で引っ張られ、さらに地球の回転によって生じる力もかかっているというふうに造られている。本日の日課に続く12節からあとを見ても、自然の中にある法則性は神の考案・計画・構想ぬきにはありえないということを思い知らせる内容です。

森羅万象は神の創造の業によるものであり、それだから神の意思が作用していて、それは自然の法則の中に見出すことが出来る、これは聖書的な見方です。人間は自然の法則を変えることは出来ません。創造主でないからそれは無理です。自然の法則に逆らって生きることはできません。自分は精神力があるからなどと言ってマイナス30℃の中に防寒着なしで出かけたら間違いなく凍死します。無神論の人でもわかることです。聖書の観点に立つ人ならば、自然の法則に創造主の意思が映し出されていると考えます。

そう言うと、ひとつ大きな問題が出てきます。それは、大地震とか自然災害も神の意思なのか、ということです。東日本大震災の時、評論家か作家か忘れましたが、ある著名な方が、こんな残酷なことを起こす神など自分はもう信じない、というようなことをおっしゃっていました。自然法則に神の意思が映し出されていると言うなら、地震も自然法則に従って起きる以上は創造主の神が引き起こしたということになります。

しかし、ここで考えを少し掘り下げてみます。地球の表面には厚さ何十キロのプレートと呼ばれる岩盤層があります。その下のマントルという層が動いているのでプレートも移動します。私たち日本人になじみ深いことですが、二つのプレートがぶつかり合うところで、一つプレートが別のプレートの下に沈み込むような移動をすると、引きずり込まれた上部の方が反発して地震が起きます。日本列島の太平洋側はそういう二つのプレートがせめぎあうところなので一定期間が経つと必ず大型の地震が起きます。聖書の観点に立てば、創造主の神が日本列島とその周辺をそういうふうに造られたということになります。その意味では神が地震を引き起こすように造ったと言うことが出来、神を災害の責任者にする人が出てきます。

しかしながら、私たちがそういう、必ず大地震に襲われるところと知っていてここに住んでいることも忘れてはなりません。大地震はどうしてもいやだというのであれば、どこか別の国に移住するしかない位に必ず襲われるところに何を好き好んでか住んでいるのです。神は、ユーラシア大陸の東端と太平洋の西端の間にあるこの列島をせめぎ合うプレートの上に置かれたのです。神にプレートや断層をを動かさないでくれなどと要求したり祈る人がいないということは、神のこの創造を動かしがたいものとして受け入れていることになります。仮にそう祈っても、自然の法則を変えるようなことはよほどのことがない限り起こらないでしょう。もし、地震を起こすエネルギーが十分過ぎるほど貯まって自然の法則からすればいつ起きてもおかしくないという段階に入ったのになかなか起きなければ、それは神が法則に手を加えて起こさないようにしていることになります。しかし、それは奇跡と同じことなのでそういうことは普通起きないということを前提にして考えたり行動しなければなりません。

それなので、この神の創造を受け入れてここに住んでいる以上は、それに備えて暮らすしかありません。被害を最小限にするために何をしなければならないかを考えてそれをする。どんな発電所を建設するのが被害を甚大にしないですむかを考えてそれをする。そして、大地震が起きた場合はどのように行動するかを考えてそれをする。生じた被害損害に対してどう復旧復興するかを考えてそれをする。さらに、被災して悲しみにくれる人たちをどう支えるかを考えてそれをする。こうしたことは当たり前のことなので誰でもわかることです。しかし、現実には目先の利益にとらわれてこうした備えを怠ったり後回しにすることも起こります。そうすると後で目先の利益を吹き飛ばすような高いツケを払わなければならなくなります。

話が少し逸れましたが、神は創造の業をヨブに突き付けることで彼の考え方を変えようとします。果たしてこの神の論法はヨブの疑問に答えているでしょうか?神の意思に沿うような生き方をしても不幸や災難に見舞われたらその生き方には意味はないのではないかという疑問です。その答えになっているでしょうか?

昔、私が勉強したフィンランドの大学の神学部で聖書の知恵文学を扱う授業がありました。そこでヨブ記も取り上げられました。もう20年以上も前の話で講義録も手元にないので記憶は定かではないのですが、神が創造の業を出すことがヨブの疑問の答えになっているかどうか研究者の間で論争があるとのことでした。答えになっていると言う論者の中に、記憶が間違っていたらすみません、ラズという名前だったかドイツの旧約神学者がいて、彼の論点は以下のようなものだったと思います。ヨブにすれば、正しく生きてもこういう結果になるのであれば、神というのは支離滅裂で世界はカオスになってしまう。しかし、神は創造の業を見せつけることで、全ては神の計画、考案、構想に基づいて造られ、それで動いて生きているものは皆それに従ってそうしている。だからカオスでも支離滅裂でもないということを示す。それに対してヨブは、おっしゃる通りです、あなたのことを何もわからず勝手なことを言ってすみませんでした、とひれ伏す。つまり彼にすれば答えになったのです。

当時これを聞いた私は、神の創造はとてもスケールの大きなことで人間はなんとちっぽけな存在だろう、神の壮大な創造を思えば不幸や苦難に陥ってもそれはちっぽけなことでしかすぎないと気づかせて、不幸や苦難に埋没してしまわない視点が得られるということか。それはそれで意味のあることだと思いました。ところがちょうどその講座の後で、特別支援の子供を授かることになっていろいろ考えさせられました。神の壮大な創造を思えば不幸や苦難はちっぽけなことにすぎなくなる、それは確かにそうなのでありがたい視点ではある。しかし、それだけでは神は夜空の満点の星と同じではないか?創造の業をもって人間を感動させたり驚嘆させて、人間とそれについて回ることをちっぽけなものに思い知らせてくれるが、それだけでは神はあまりにも遠すぎます。ところが聖書は、神がそういう壮大な創造を行う、人間からかけ離れた方であると同時に身近な方でもあることも伝えているのではなかったのか?

2.本日の福音書の日課は神が身近におられる方であることを明らかにする個所のひとつです。出来事は、イエス様と弟子たちが乗った舟が嵐にあって沈みそうになったところをイエス様が嵐を静める奇跡を行い、皆無事に目的地に着いたという話です。舟が沈みそうになってパニックに陥っていた弟子たちにイエス様は言います。「なぜ恐れたのか?お前たちには信仰がないのか?」イエス様が言われる「信仰」とは、イエス様が一緒にいれば、たとえ彼が居眠りしていても何も恐れる必要はないとわかることです。弟子たちはわからなかったので恐れました。どうしたら、そんなことがわかるでしょうか?

この出来事には旧約聖書の土台があります。そこから見ていく必要があります。土台とは詩篇107篇です。その出だしはこうです。
「主を賛美せよ、主は善い方、私たちを永遠まで忠実に守って下さる、と。そう賛美しなさい、贖われた者たちよ、敵の手から救い出された者たちよ、主は贖われた者たちを東西南北から集められる。」

「贖う」というのは難しい言葉なので、「神が買い戻す、買い取る」にしましょうと先々週の説教で申し上げました。神が東西南北から、神に買い戻された者たちを集めるというのは、最後の審判の日、復活の日に起きることです。その日は今ある天と地に替わって新しく天と地が創造され、そこに唯一「神の国」が現われ、神に買い戻された者たちはそこに迎え入れられます。その日、迎え入れられる者たちは前にあった世(私たちから見たら今ある世)で神にどう助けられ守られ導かれたか振り返ってみなさいということで、三つの例があります。一つは、人生という旅路で目的地に到達できなくなりそうになり飢えて死にそうになったが、「苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと主は彼らを苦しみから救って下さった」(6節)。二つ目の例は、神に背を向けていた時があって、それが苦難や不幸を招いてしまったが、「苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと主は彼らの苦しみに救いを与えられた」(13節、19節)。

最後の例は、船で大海に乗り出した者たちが嵐に遭い波と風のために沈没しかけたが、「苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと主は彼らを苦しみから導き出された」(28節)。このことがイエス様と弟子たちの舟の出来事で起こったのです。もちろん、大海とガリラヤ湖とでは舞台設定が違いますが、イエス様は奇跡を起こすことで詩篇の言葉は単なる書き記された文字に留まらず、本当に起こることであることを示したのです。しかしもっと大事なことは、詩篇のこの御言葉はガリラヤ湖の出来事で終了したのではないということです。先ほども申しましたように、詩篇の中で言われる人たちは神に買い戻された人たちです。その人たちが、この世の人生を船で航海するように進んで行く。そうすると必ず嵐に見舞われる。しかし、主に助けを求める者たちを主は必ず助け導いて下さる。「望みの港」というのは嵐を乗り越えたことを意味します。人生の中で多くの嵐を乗り越えてその度に港に到着してまた出発することが繰り返されます。しかし、詩篇のこの御言葉の奥義はこうです。人生そのものを終えて、復活の日に神の国に迎え入れられるという最終的な港が真の「望みの港」であるということです。

イエス様は嵐を静める奇跡を行うことで詩篇の御言葉が文字に留まらず本当に起こることを示しました。しかしそれはそれは詩篇の言葉がガリラヤ湖の出来事で完結したことを意味しませんでした。詩篇のこの御言葉は「神に買い戻された者たち」がこの世の人生を神に守られて永遠の命の待つ神の国に到着することで完結することをイエス様は奇跡の業で示したのです。なぜなら、イエス様の奇跡の業の背景にある、この詩篇の御言葉はまさに「神に買い戻された者たち」について言っているからです。

それでは「神に買い戻された者」とは誰のことでしょうか?それは、イエス様がゴルゴタの十字架で死なれたのは神のひとり子が人間の罪を人間に代わって償うための犠牲であったとわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者のことです。信じて洗礼を受けるとどうして神に買い戻された者、買い取られた者になるのかと言うと、そうすることでイエス様の果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになって、その人は罪を償われた者になったから基本的には神から罪を赦された者として扱われるようになります。それでその人は神と結びつきを持てるようになったので、罪の持つ、人間と神との結びつきを失わせようとする力から解放されたのです。その人は罪の人質状態からイエス様の流された血を代価として神に買い戻されたのです。本当に高い値をつけてもらいました。それで神の子とされたのです。

ガリラヤ湖の出来事は、まだ十字架の出来事が起きる前でした。本当の意味で「神に買い戻された者」になる前のことでした。それなので、「望みの港」に着けるかどうかということは、神に買い戻されたかどうかはっきりしない段階ではどうなるかわかりません。しかし、十字架と復活の出来事の後は事情が一変します。イエス様を救い主と信じて洗礼を受ければもう「神に買い戻された者」なのです。嵐が来ても、「望みの港」に着ける者なのです。

今自分の人生を海を進む航海にたとえてみて、ガリラヤ湖の時みたいにイエス様が近くにいないから嵐が来たら心配だ、目の前で奇跡を起こしてくれる方がいた方が安心なのにと思われる方がいらっしゃるかもしれません。そういう方は自分が何を恵まれているかを今一度思い起こす必要があります。人間はイエス様を救い主と信じる信仰も洗礼もない状態だと、罪の償いもなく神への買い戻しもないのでこの世の人生を神との結びつきなしで生きなければなりません。そのままこの世を去ることになったら結びつきを得るチャンスはこの先どうなるでしょうか?神は、私たちの内に神の意思に背こうとする罪があるにもかかわらず、ひとり子を犠牲にしてまで私たちと結びつきを回復しようとされたのです。先ほど、プレートにひずみとエネルギーがたまって自然の法則に従えば大地震が起きるはずなのに起きなければ、それは神が法則を曲げて押しとどめていることになると申しました。しかし、それは実際には起こらないことで、もし起きたら奇跡になると申しました。罪の償いや神のもとへの買い戻しというのは、そのような奇跡が起きたことです。自分は罪を持っているにもかかわらず、神のひとり子の犠牲のおかげで神との結びつきが持ててこの世とこの次に到来する世の両方を生きられるようになるというのは、これこそ神が自然の法則を曲げるようなことをしたことで文字通り奇跡です。「神に買い戻された者」というのはまさに奇跡の人です。
そのように奇跡的に神に買い戻された人にも不幸や苦難が起こるということを聖書は当たり前のように言っています。その一つに詩篇23篇4節があります。以前の説教でもお教えしましたが、今一度見てみます。

「たとえ我、死の陰の谷を往くとも、災いを恐れじ、汝 我とともにませばなり、汝の鞭、汝の杖、我を慰む。」
イエス様を救い主と信じて、彼を羊飼いとして従って行く者も「死の陰の谷」を進む時があるとはっきり言っています。しかし、イエス様が一緒に進んで下さるとも言っています。聖書の御言葉を繙く時、また聖餐のパンとぶどう酒を頂く時、イエス様は私たちには見えないながらも共におられるます。杖と鞭が慰めるというのはどういうことか驚かれるかもしれません。羊が暗い道を行く時、道を外したら羊飼いが杖か鞭でそっちじゃないと正します。叩かれたら痛いですが、羊飼いが傍にいてちゃんと導いてくれることがわかってホッとする瞬間です。

この御言葉から明らかなように「神に買い戻された者」にとって不幸や苦難とは神の意思に沿う生き方を無意味にするものではありません。そうではなくて神と一緒に通り抜けるためのプロセスになるのです。それなので、神に買い戻された者にとっては、不幸や苦難が起きたら神の意思に沿う生き方は意味がなくなるのではないか、という疑問は無用な疑問なのです。

最後に、ヨブが神の創造の業を見せつけられてヘリ下った時、こういう神に買い戻された者の見方はあったのかどうかということについて一言述べておこうと思います。

まだイエス様の十字架と復活が起きる前のことなので、それは難しいのではないかと思われる反面、こういうことがあります。それは、ヨブ記19章25節でヨブが次のように言っていることです。

「私は、私を買い戻される方が生きておられると知っている。」
新共同訳では「買い戻される」は「贖う」ですが、ヘブライ語の動詞ガーアルは「買い戻す」、「買い取る」という意味です。ヨブは三位一体の御子の存在を信じたのでしょうか?少なくとも、神の働きには罪びとを買い戻す働きがあることを信じていたのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

 

特別の祈り

全知全能の父なるみ神よ。

あなたが贈られ、十字架の死と死からの復活によって私たちを罪と死の支配から解放して下さったひとり子イエス様を救い主と信じます。そのような私たちをどうか、あなたの子として受け入れ、私たちが試練や苦難に立ち向かう時、それらを乗り越えられるよう、いつも私たちと一緒にいて下さい。

  あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストのみ名を通して祈ります。アーメン

2021年6月13日(日)聖霊降臨後第三主日 主日礼拝 司式・説教 吉村博明SLEY(フィンランド・ルーテル福音協会)宣教師

主日礼拝説教

2021年6月13日 聖霊降臨後第三主日

エゼキエル17章22-24節
第二コリント5章6-17節
マルコ4章26-34節

説教題 「神の御言葉という驚異の種」

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

本日の福音書の日課の箇所でイエス様は、「神の国」とはどういう国か教える際に種の成長に結びつけて教えています。二つの教えがあります。最初の教えでは次のように言います。「神の国とは、人が種を地に撒いて、それから夜は寝て昼は起きてを繰り返していくと何が起きてくるかということに似ている。種は育っていくがそれがどう伸びていくか、その人は知らない。しかし、種が撒かれた地が自ずから種を成長させ、初めは茎、次に穂を成長させ、最後に穂の中に実を結ばせる。実がなると、その人は鎌を送る。収穫の時が来たからである。」

どうです、皆さん、わかりますか?神の国とは、撒かれた種がどう伸びていくか詳細はわからないがとにかく育っていく、そういうことに似ていると。なんだか、わかったようで、でも、わからないというのが正直な感想ではないでしょうか?種が自然に育っていくというのは、私など、小学校の夏休みの課題で朝顔の観察をしたことを思い出します。絵日記をつけて、今日は芽が出ました。今日は茎、茎が伸びて葉っぱも出るようになってを何日か繰り返し、今日は花のつぼみ、そして今日は開花と言う具合に。それこそ夜は寝て日中は起きていましたから、常時つきっきりで見ていたわけではありません。それで詳細はわかりません。イエス様の教えと同じことですが、今それを思い出しても朝顔の観察から「神の国」などなかなか想像できません。しかし、教えの終わりで言われていること、鎌を送る、収穫の時が来たということを考えると、この教えは見事に「神の国」の教えになります。朝顔の成長を思い出しただけではわかりません。後でこのことを見ていきましょう。

もう一つ「神の国」についての教えは、「神の国」を「からし種」にたとえる教えです。イエス様のたとえの教えの中でも有名なものの一つです。蒔かれる時は地上のどんな種よりも小さいが、成長するとどんな野菜植物よりも大きくなる、これが神の国を連想させるというのです。ここで言われている「からし種」とは、日本語でクロガラシ、ラテン語の学名でブラッシカ・ニグラということで、その種はほんの1ミリ位で、成長すると大きな葉っぱを伴って2~3メートル位になるそうです。

イエス様のたとえの中では、大きな枝を出してその葉の陰の下に空の鳥が巣を作れるくらいになると言われています。クロガラシは、大きな葉っぱは出てきますが、大きな枝というのはどうでしょうか?少し誇張がすぎて的が外れているのではないでしょうか?

実は、イエス様がそう言われた背景には先ほど朗読して頂いたエゼキエル書17章があります。イエス様はそれをたとえに結びつけているのです。

「わたしは高いレバノン杉の梢を切り取って植え、その柔らかい若枝を折って、高くそびえる山の上に移し植える。イスラエルの高い山にそれを移し植えると、それは枝を伸ばし実をつけ、うっそうとしたレバノン杉となり、あらゆる鳥がそのもとに宿り、翼のあるものはすべてその枝の陰に住むようになる」(22ー23節)。

確かにエゼキエル書には、あらゆる鳥が来て宿れるような枝が沢山あることが言われていて、イエス様のからし種の教えと合致します。しかし、それなら最初から「からし種」なんか出さず「柔らかい若枝」を用いてたとえを言えばスムーズに行ったのでは?「からし種」に起こりそうもないことを言わないで済んだのではないでしょうか?イエス様は一体何を考えていたのでしょうか?

以下、この二つの教えについて本日は見ていこうと思います。

2.「神の国」とはどんな国?

本日のイエス様の教えを理解するために「神の国」について復習する必要があります。そもそも今日の個所でイエス様はまさに「神の国」について教えようとして「成長する種」や「からし種」を引き合いに出したからです。

 神の国とはまず、「ヘブライ人への手紙」12章にあるように、今のこの世が終わりを告げて今ある全てのものが揺り動かされて取り除かれる時、唯一揺り動かされず、取り除かれないものとして現れてくる国です(26ー29節)。この世が終わりを告げるというのは、あまり明るい話に聞こえません。しかし、聖書が言わんとしていることは、この世が終わりを告げるというのは同時に次の新しい世が始まるということです。イザヤ書の終わりの方で、神が今ある天と地にとってかわる新しい天と地を創造するという預言があります(65章17節、66章22節)。そのような新しい天と地の創造の時というのは同時に、最後の審判の時であり死者の復活が起きる時でもある、ということが黙示録の21章と22章の中で預言されています。その時既に死んでいて眠っていた者たちは起こされて、その時生きている者たちと一緒に神の審判を受け、万物の創造主である神の目に相応しい者は「神の国」に迎え入れられるというのです。

そこで目を「神の国」の内部に転じると、それは黙示録21章に言われるように「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」ところで、そこに迎え入れた人たちの目から神が全ての涙を拭い取って下さるところです(4節)。痛み苦しみの涙だけでなく無念の涙も全て含みます。さらに使徒パウロによれば、そこに迎え入れられる人たちは今の朽ち果てる肉の体に替わって朽ちない神の栄光を現わす復活の体を着せられます(第一コリント15章42ー55節)。本日の使徒書の日課・第二コリントの個所でもパウロは、キリスト信仰者というのは今はこの世で肉の体を纏っていて復活の体は将来のことでまだ目にしていないが、それを着せられることに希望をおいているので今の段階から神の意思に沿うように生きていくのだ、ということを言っています(5章6~9節)。復活の体を着せられて「神の国」に迎え入れられる者たちのことをイエス様は「天使のような者」と呼んでいます(マルコ12章25節)。

神の国はまた、黙示録19章にあるように、結婚式の盛大な祝宴にもたとえられます。イエス様も神の国を結婚式の祝宴にたとえています(マタイ22章1ー14節)。

 以上を総合して見ると、「神の国」とは今の世界が一変した後の新しい天と地の下に現れる国で、そこに迎えられる者は朽ち果てない神の栄光に輝く復活の体を着せられ、死も病気もなく皆健康であるところ。前の世での労苦を全て労われるところ。また前の世で被った不正や不正義も最後の審判で全て神自らの手で最終的に清算されてすっきりするところ。その意味で道徳や倫理も人間がこねくり回したものではなくなって万物の創造主の神の意思が貫かれている国と言うことができます。

不正や不正義の清算に関して言えば、本日の旧約の日課の中で神が「高い木を低くし、低い木を高くし、また生き生きとした木を枯らし、枯れた木を茂らせる」(エゼキエル17章24節)と言われています。イエス様も多くの箇所で、高いものは低くされ、低いものは高くされる、先のものは後にされ、後のものは先にされる、と教えています(マタイ19章30節、23章12節など多数)。今この世で神の意思に沿わない仕方で高いところにいる者や一番前にいる者は、最終的には全く逆の立場に置かれる。今そうした者のために低くされ一番後にされている者は、これも最終的には全く逆の立場に置かれる、ということです。イエス様の有名な「山上の説教」のはじめに「悲しむ人々は幸いである、その人たちは慰められる」(マタイ5章4節)という教えがあります。これも、ギリシャ語の原文に即して訳せば、彼らは将来間違いなく慰められることになるという約束の言葉です。この世で起きた不正や不正義は、うまく行けばこの世の段階で補償や救済がなされるかもしれません。もちろん、それは目指さなければならないことですが、いつも実現するとは限りません。また、なされた補償や救済も正義の尺度にぴったり当てはまるものかどうかということも難しい問題です。それで、神の意思が隅から隅まで貫徹されている神の国は、そうした無数の不均衡が最終的にぴったり清算されるところと考えてよいでしょう。

それから「神の国」は、イエス様が語り教えたということに留まりません。イエス様が地上にいた時、「神の国」はイエス様とくっつくようにして一緒にあったのです。そのことは、イエス様が起こした無数の奇跡の業に窺えます。イエス様が一声かければ病は治り、悪霊は出て行き、息を引き取った人が生き返り、大勢の人たちは飢えを免れ、自然の猛威は静まりました。果ては、一声かけなくても、イエス様の服に触っただけで病気が治りました。イエス様から奇跡の業をしてもらった人たちというのは、神の国の事物の有り様が身に降りかかったと言うことができます。病気などないという事物の有り様が身に降りかかって病気が消えてしまった、飢えなどないという事物の有り様が身に降りかかって空腹が解消された、自然の猛威の危険などないという事物の有り様が身に降りかかって舟が沈まないですんだという具合です。そのようなことが起きたのは、まさに「神の国」がイエス様と抱き合わせにあったからです。その意味で奇跡を受けた人たちというのは、遠い将来見える形で現れる「神の国」を垣間見たとか、味わったことになるのです。「神の国」では奇跡でもなんでもない当たり前のことがこの世で起きて奇跡になったのです。

しかしながら、イエス様が「神の国」に関して人間に行ったことで一番大切なことは、それについて教えたり、奇跡の業を通して味あわせたということではありません。もちろんそれらも大事なことですが、一番肝心なことは、人間が「神の国」に迎え入れられないように邪魔していたものを取り除いて、迎え入れらえれるように道を切り開いて下さったということです。それが、イエス様の十字架の死と死からの復活でした。人間と神の結びつきを断ち切っていた原因であった人間の罪、神の意思に背こうとする性向を、イエス様が全部自分で引き受けてゴルゴタの十字架の上に運び上げてそこで人間に代わって神罰を受けられたのでした。さらに死から三日後に神の想像を絶する力で復活させられて、死を超えた永遠の命があることをこの世に示されて、そこに至る道を人間に切り開いて下さったのでした。

そこで人間がこれらのことは本当に起こったとわかってイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、このイエス様が果たしてくれた罪の償いを受け取ることができます。その人は罪を償ってもらったことになります。罪を償ってもらったということは罪の支配から解放されたことになります。人間と神との結びつきを断ち切って人間が神の国に迎え入れられないようにしようとする力から解放されたことになります。なぜなら、イエス様の果たした罪の償いを受け取った人は神に買い取られた、買い戻された人で神のものとなったからです。買取価格は神聖な神のひとり子が十字架で流した血です。金銀銅とは比べられない高価な値をつけられたのです。どうして、これから神の意思に背くような生き方が出来るでしょうか?どうして、これから十字架のイエス様を見て自分の罪の赦しがあそこにあるということを忘れたり曇らせたりすることが出来るでしょうか?どうして、あの日、主の墓が空であったことが全ての希望に勝る希望にならないということがあるでしょうか?

3.神の御言葉は驚異の種

以上、「神の国」について復習し、イエス様の十字架と復活の業こそ人間がそこに迎え入れられるようにするための業であった、万物の創造主である神の人間に対する愛と恵みの現われであったことを申し上げました。

ここで、本日のイエス様の二つの教えの説き明かしに入りましょう。また前置きが長くなってしまったので、駆け足になってしまうことをご了承下さい。

初めに「からし種」のたとえから見ていきます。最初に申し上げたように、このたとえの背景にはエゼキエル書17章があります。からし種、パブリックドメインそこで言われる、大きく育ったレバノン杉というのは、まさに今あるこの世が終わりを告げて新しい天と地の下に現れる神の国を意味します。(注 エゼキエル書31章やダニエル書4章のように、大きな木がイスラエルの民に敵対する大国を指すこともありますが、それらは切り倒されるとも預言されています。)もともとこの預言は、イスラエルの民がバビロン捕囚から解放されて祖国帰還と復興を遂げることを預言するものと考えられていました。ところが、民が帰還してエルサレムの町や神殿を再建しても取り巻く状況は預言の実現には程遠いことが多くの人々の目に明らかになってきます。そうすると、鳥たちが安心して宿れる木というのは実はバビロン捕囚からの帰還ではなくて、もっと将来のこの世が終わりを告げて新しく創造された天と地の下に現れる「神の国」を指すのだと気づき出されるようになります。イエス様自身も、「神の国」は今のこの世が終って新しい天と地の下に現れるものであるとの立場をとっています(マルコ13章27ー27節など、マタイ25章31ー46節も)。

それにしても「神の国」を最初からレバノン杉の大木にたとえないで、高さ2,3メートルほどのクロガラシを引き合いに出すのはどうしてでしょうか?それは、ここでのイエス様の主眼は、からし種のように砂粒みたいな種が2,3メートル位の大きさの植物を生み出すという、そういう変化の大きさを強調したかったからです。もし最終的な大きさだけを強調したければ、レバノン杉だけで十分だったのですが、イエス様としては、最初取るに足らない小さなものからまさかこんなに大きな葉や茎が出るとは驚きだ、という位のものが出てくることを強調したかったのです。それを誰もが知っているからし種を題材に選んで、イメージがわきやすくなるように話をしたのです。

それでは、最初は取るに足らない小さいものがとても大きなものに変化する場合、大きなものとは神の国を指すとして、そうしたら、取るに足らない小さなものとは何を指すでしょうか?からし種にたとえられているものは何なのでしょうか?

その答えは、マルコ4章を初めからみていくと見つかります。マルコ4章の最初にイエス様のたとえの教えの中でこれも有名な「種まき人」があります(3ー8節)。少し後でイエス様は、そのたとえの解き明しをします(14ー20節)。そこで、「種まき人は言葉を蒔く」と言います(14節)。つまり、種とは神の御言葉を指すのです。

これで、からし種のたとえの意味が少し見えてきます。最初に取るに足らないように見える神の御言葉があり、それがもとにあって最初の小ささからすれば比較にならない大きなものが現れてくる。それが神の国であると。

神の御言葉が取る足らない小さなものとはどういうことでしょうか?そもそも神の御言葉とは何でしょうか?イエス様が地上にいた時、神の御言葉とは旧約聖書とイエス様自身の言葉を指しました。イエス様自身の言葉は旧約聖書に基づいていました。基づいてはいましたが、当時のユダヤ教社会のエリートたちと異なる仕方で、神のひとり子として旧約聖書を正しく教えました。イエス様の十字架と復活の出来事の後は、神の御言葉は十字架と復活の意味を明らかにするものになりました。旧約聖書の御言葉もイエス様の御言葉も全て十字架と復活に向かうものとなりました。特に出来事の目撃者であった使徒たちの説き明かしが大きな役割を果たしました。それで彼らの教えも神の御言葉に加えられました。

ここで一つの国家が成立する時、国土とか構成員とか経済とか政府とか軍隊を構成要素とします。国家が大きくなればなるほど、これらの要素も大きくなります。ところで「神の国」は将来新しい天と地にの下に唯一現れる国なので、今のこの世の中ではまだ何もないように思われます。ところが、この世ではその構成員が一人また一人生まれ、将来そこに迎え入れられるようにそこに向かってこの世の人生を歩んでいきます。「神の国」はまだ現れていませんが、既に始まっているのです。この始まっている国は、そこに向かう構成員はいますが、国土も政府も軍隊もありません。それを成り立たせているのは今申し上げた神の御言葉です。それが人の心に撒かれて、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けて「神の国」に向かって歩み出すようになると、そこに迎え入れられる人がまた一人増え、そうやって大きなうねりになっていきます。そして、将来「神の国」が現れる時、神の御言葉こそがそこに迎え入れられる決定的な要因であることが明らかになります。どんな国力をもってしても、また人間の名誉、知恵、財産をもってしても迎え入れには何の役にも立たないことが明らかになります。かつては、そうした人間的なものこそが役に立つと思われ、神の御言葉など何の役に立つのかとあざ笑われて取るに足らないと見なされていたことが大逆転するのです。

 もう一つの教え「成長する種」は「神の国」とどう結びついているでしょうか?最初に申し上げたように、終わりのところで「収穫の時に鎌を送る」という言い方があり、これは「神の国」が現れる時を意味します。新共同訳では「鎌を入れる」ですが、ギリシャ語の動詞(αποστελλω)は「送る」です。この原文の意味にこだわると、イエス様はヨエル書4章13節を引用していることがわかります。そこでは、「鎌を送れ、刈り入れの時は熟した」という神の託宣があります(新共同訳では「鎌を入れよ」ですが、ヘブライ語の動詞(שלח)は「送る」です)。ヨエル書のこの箇所は終末の日の預言です。イエス様もマタイ13章で「刈り入れ」とは世の終わりの日を意味し、そこで良い麦は倉に収められると言って、神の目に相応しい者が神の国に迎え入れられることについて教えています(24ー30節、36ー43節)。

そこで地に撒かれる種とは、これも神の御言葉であると考えるとこのたとえの意味がわかってきます。ここでのポイントは「からし種」のたとえと違って、小さな取るに足らないものが大きなものに変わるという変化ではありません。それでは何がポイントかと言うと、「種が撒かれた地が自ずから種を成長させ、初めは茎、次に穂を成長させ、最後に穂の中に実を結ばせる」と言っていることに注目します。御言葉が人の心に撒かれて、人がイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、その人は復活の日に神の国に迎え入れられるようにと、そこに向かってこの世を進んで行きます。この向かって進んで行くことが成長です。到達して迎え入れられると、実を結んで刈り入れされたことになります。

「種が撒かれた地が自ずから種を成長させる」というのは少し注意して聞く必要があります。それは、御言葉を撒かれた人が自分の力で成長するということではありません。撒かれたらあとは御言葉が含んでいる力が自分の内に発揮されるように任せていくということです。御言葉に含まれている力とは、先ほども申しましたように、イエス様の十字架と復活が人間に対して持っている力、人間を罪と死の支配から解放して神のもとに買い戻し神の子にする力です。

本日の第二コリント5章でパウロも次のように教えています。キリスト信仰者というのは、一人のお方が全ての人たちのために死なれたということを厳粛に受け止めているのでキリストの愛に捕らえられているのです。全ての人たちのために死なれたのは、今生きている者が自分の方を向いて生きるのではなく、全ての人たちのために死なれて復活させられたお方を向いて生きるようになるためだったのです。洗礼を受けてキリストと結ばれる者は新しく創造された者だというのは、まさにそのことです(5章14、15、17節)。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

 

特別の祈り

全知全能の父なるみ神よ。

主イエス様のおかげで私たちが日々、罪の赦しの恵みの中で生きられ、いつもあなたに見守られていることを感謝します。どうか、私たちの内にまかれた御言葉の種があなたから成長を与えられて私たち自身が実を結ぶように育ち、復活の初穂(はつほ)であるイエス様に続いて私たちも、み前にて永遠に生きられる者にして下さい。

あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストのみ名を通して祈ります。アーメン

2021年6月6日(日)聖霊降臨後第二主日 主日礼拝 司式・説教 吉村博明SLEY(フィンランド・ルーテル福音協会)宣教師

主日礼拝説教2021年6月6日 聖霊降臨後第二主日
創世記3章8-15節
第二コリント4章13節-5章1節
マルコ3章20-35節

説教題 「償い 買い戻し 赦されない罪」

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1. はじめに

本日の福音書の箇所にはとても重苦しいことがあります。28節でイエス様は、「全ての罪は赦される」と言ったと思いきや、すぐ後の29節で、永遠に赦されない罪があると言うのです。聖霊を冒涜することがそれです。罪が「赦される」と言う時、新約聖書のギリシャ語で「~される」の受け身の形は普通、天の父なるみ神が隠れた主語になっています。それで、神は全ての罪を赦すが、聖霊を冒涜する罪は赦さない、ということになります。本日の説教では、神に赦されない罪、聖霊を冒涜する罪とはどんな罪なのかということについて見ていきます。その場合、罪が赦される/赦されないというのはどういうことかということも考えなければなりません。さらには、赦される/赦されないと言っている当の罪とはそもそも何なのかということも確認しなければなりません。そういうわけで本説教では最初に、こうしたキリスト信仰の基本的な事柄である罪について見ていきます。その後でイエス様が言われる赦されない罪、聖霊を冒涜する罪について見ていこうと思います。

2.根本的な罪 受け継がれる罪

聖書の観点では人間はみな罪びとです。そう言うと、自分は何も犯罪を犯していないのにどうしてそんなことを言うのかと嫌がられます。しかし、聖書の観点では罪というのは個々の悪い行為だけでなく、もっと根本的なものも含めて言います。根本的なものとは、万物の創造主の神の意思に背こうとする性向を人間誰しも持っているということです。これが根本的な罪で、これがあるから何かのきっかけで具体的な悪い行為、悪い言葉、悪い思いになって現れるのです。

人間にそういう根本的な罪、全ての罪の源としてある罪が備わるようになってしまったことは、本日の旧約の日課の前にある有名な堕罪の出来事の中に記されています。最初の人間アダムとエヴァは神から、エデンの園の真ん中にある木の実は食べたら死んでしまうから食べないようにと言われていました。そこへ悪魔がヘビの姿形を取って現れてエヴァをそそのかして言います。その実を食べても死なないよ、神がそんなことを言ったのは、人間が食べたら神のようになって善と悪がわかるようになると知っているからなのさ、神は人間が自分のようになれるのを嫌がっているのさ、だからそんなこと言ったんだよ、という具合にです。そう言われたエヴァは木を今一度見てみます。なんともうっとりさせられる麗しさで、実の方もこれを食べたらいろんなことがわかるようになりますよ、だから早く食べてねと言っているみたいで、抗しがたくなってしまいました。エヴァは、神がいけないと言った言葉など耳の奥から消えてしまい、ついに実を取って食べてしまいました。その実をアダムにも渡して、彼も食べてしまいました。

すると、二人の目は今までと異なる見方が出来るようになり、善と悪が分かるようになりました。しかし、神のようにはなれませんでした。なぜなら、神が善と悪をわかるというのは裁きを行う資格があるということで、人間は神のような裁き主にはそもそもなれないからです。裁き主になれないで善と悪をわかるとどうなるかと言うと、それは善だけでなく悪も行えるようになって神から裁かれる立場になってしまったということです。本当にあの実さえ食べなかったら、神と人間の関係は裁く側と裁かれる側の関係にはならなかったのに余計なことをしてくれたものだと思います。もちろん全てはヘビの巧みな誘導作戦のせいですが、食べたら神のようになれるぞという言葉で弱みにつけ込まれたのです。人間は別に神のようになろうとしなくてもよかったのです。最初のままで生きる上で何も問題はなかったのです。人間が神のようになろうとしたことがいけなかったのです。

ところで、アダムとエヴァがしたことは、ただ何か特殊な木の実を食べただけで、別に殺人とか盗みとかいうような罪を犯したわけではありませんでした。それなのに何でそんなに大騒ぎをするのかと思われてしまうかもしれません。でも、やはり重大なことが起こったのです。それはこの出来事をきっかけに人間が神の意思に背くということが起きたのです。その動機として、自分を神の下にとどめておくことに満足せず神と張り合おうとする大それた願望が芽生えたのです。そして善悪がわかるようになって悪も行えるようになり神の審判を受ける立場になってしまったのです。これらが根本的な罪となったのです。これがあるから、人間は何かのきっかけで個々の様々な罪を犯すようになったのです。

そう言うと今度は、それはアダムとエヴァ個人の問題で、それ以外の人は関係ないのではないかと言われるかもしれません。ところが神が警告した通り、その実を食べたために二人は死ぬ存在になりました。そして人間はみな代々死んできました。つまり、この世から死ぬということが人間はみなこの根本的な罪を持っているということの現れなのです。

ここで、この根本的な罪の呼び方ですが、日本語では「原罪」と言います。大元にある罪という意味です。英語はオリジナル・シンと言い、同じ意味です。ところが、ドイツ語、スウェーデン語、フィンランド語では「受け継がれる罪」、「相続される罪」という言い方をします(Erbsünde、arvsynd、perisynti)。この罪に対して「行われる罪」というのが別にあります(スウェーデン語とフィンランド語でgärningssynd、tekosynti、ドイツ語にもありますか?)。殺人や盗み、偽証や改ざん、不倫、悪口、妬みなどは「行われる罪」です。これらは「受け継がれる罪」ではありません。「受け継がれる罪」は根底的なところにある、神の意思に背こうとする性向です。それがあるから何かのきっかけで「行われる罪」が犯されます。私としては、「原罪」というとアダムとエヴァ止まりの感じがしてしまうので、「受け継がれる罪」と呼ぶのがいいと思います。

3.罪の赦し、償い、買い戻し

こうして人間は「受け継がれる罪」を持つようになり、何かのきっかけがあれば「行われる罪」も犯すようになって神との結びつきが失われてしまいました。これに対して神は、身から出た錆だ、勝手にするがよい、などと自己責任論を展開することはしませんでした。そうではなくて、結びつきを失わせた原因である罪の問題をなんとか解決して、人間がこの世の人生で神との結びつきを持てて生きられるようにしてあげよう、そしてこの世を去った後は永遠に自分のもとに戻れるようにしてあげようと決めたのです。それでは神はどのようにして罪の問題を人間のために解決して下さったのでしょうか?

juujikaそれは次のような次第でした。ご自分のひとり子をこの世に贈り、本当なら人間が罪のゆえに裁かれて受けることになる神罰を彼に代わりに受けさせる。そうすることで彼が人間に代わって神に対して罪の償いをする。これこそがゴルゴタの丘のイエス様の十字架の死でした。そこで今度は人間の方が、神がひとり子を用いて行ったことは本当のことでそれは自分のためにもなされたのだとわかって、それでイエス様は自分の救い主なのだと信じて洗礼を受けると罪の償いがその人にその通りになります。その人は罪を償ってもらったわけだから、神から罪を赦された者として見てもらえるようになります。

実は、この罪を償ってもらったということには、もう一つ大事なことが付随しています。それについてこれまでの説教でもお教えしたつもりだったのですが、言葉を言い換えて話してきたので、どうも伝わっていなかったようです。スオミ教会では礼拝の後いつもズームを使って会堂とオンラインの礼拝出席者の交わりの時を持っています。そこでその日の説教も話題になるのですが、ここ何回か皆さんのお話を聞いていて、この罪の償いに付随する大事なことが伝わっていなかったということがわかり反省した次第です。それで、今日はそのことをはっきりお教えしなければならないと思いました。

イエス様は私たちの身代わりの犠牲となって神に対して私たちの罪を償って下さいました。それを信じて洗礼を受けると、罪の償いを受け取れて罪を償われた者になれということは先ほど申し上げた通りです。そこで、罪を償われたということは罪を帳消しにしてもらったということで、これはそのまま罪の支配から解放されたことを意味します。それでは、罪の支配とはどういうことかと言うと、罪が人間を支配すると、人間はこの世の人生で神との結びつきなしで生きなければならなくなり、この世を去った後も神のもとに戻ることができなくなります。このように神との結びつきがこの世でもその後も永遠に失われてしまうということなので、罪の支配とはまさに罪の呪いです。それで罪を償われたというのは、こうした罪の呪いから解放されたということなのです。どうやって解放されたかと言うと、イエス様がマルコ10章45節で自分のことを「身代金」と言っていたことに注目します。つまり、神がイエス様を元手にして罪の人質状態になっていた私たちをご自分のもとに買い戻してくれたということです。そういうわけで、イエス様が果たしてくれた罪の償いを受け取るというのは、イエス様を元手にして神に買い取られる、買い戻されるということなのです。

神に「買い取られる」、「買い戻される」という言い方は旧約聖書のヘブライ語の動詞でして(ガーアル、ファーダー)、イザヤ書35章、51章、52章によく出てきます。新約聖書を見ても、例えば、第一ペトロ1章18~19節で、キリスト信仰者というのは金銀なんかでなく清い神の小羊キリストの高価な血によって買い取られた者だと言っています(リュトゥロオー)。エフェソ1章7節も同じで、キリストの血によってキリスト信仰者には神への買い取り、買い戻しがあるのだと言っています(リュトゥロオーの名詞形のリュトゥローシス)。第一コリント6章20節では、ずばり神はキリスト信仰者を高価なもので買い取ったと言います。ここで使われている動詞はまさに売り買いの「買う」です(アゴラゾー)。高価なものとは、イエス様が十字架で流された血であることは明らかでしょう。

ところが、この神に「買い取られた」、「買い戻された」というのは、日本語では「贖われた」と言います。とても分かりにくい言葉です。ヘブライ語の単語もギリシャ語の単語もみな「買い取る」「買い戻す」の意味があり、英語、スウェーデン語、フィンランド語もその言い方に倣っていて、それとは別に特殊な宗教用語をあてることはしていません。例えば、高速道路を造るために国は土地を収用したと言う時、フィンランド語はこの「収用する」(lunastaa)という同じ言葉が人間の罪からの解放を言い表します。とても具体的でわかりやすいです。土地を収用する際の代価は税金や国債に基づく国庫、人間の買取りは神のひとり子が流した血です。どうして日本語では「買い取る」、「買い戻す」ではダメなのか?宗教的なことだから出来るだけわかりにくくした方が神秘的で権威が感じられるということでしょうか?しかし時々、「罪を贖われた」などと言う人もいて仰天してしまいます。罪は「償われる」です。「贖われる」のは人間です。罪を贖うなんて言ったら、罪を買い取ることになってしまい、神はそんなもの買い取りたくないと言うでしょう。

こういうふうに、日本語には漢字があるため、それが簡潔な言い方で多くの事柄を含めるという奥の深さがある反面、ズバリ何を意味しているか掴みどころがなくなって各自で意味を探さなければならなくなることがあると思います。自分の知識や経験に依拠して自分にピッタリな意味を探し当てることになると思います。そこで探し当てた意味がイエス様やパウロが言わんとしたことに合致すれば万々歳なのですが、どうやって合致しているとわかるでしょうか?まさにそのために神学校や神学部でギリシャ語やヘブライ語を勉強して、信徒たちの探し当てがイエス様やパウロの言わんとしたことから離れないように導いてあげるのです。もちろん神学教育を受けて完璧にイエス様の言わんとしたことがわかるということでもないので、私としては、信徒たちと対話しながら説教者自身も深めていかなければならないと思います。日本では牧師というのは神に近い存在とみなされるので、時としてその日の聖句と関連性が疑われることを言っても、信徒さんの方が「そういう解釈もあるんだ」などと受け取り、疑問を持つ自分が間違っているとしてしまうところがあります。このスオミ教会はそういうことがないので説教者にすればとても緊張感を抱かせる教会です。

ところで、「贖い」という言葉のほかに先ほど「原罪」という言葉についてもひと言申し上げました。他にも、日本語が醸し出すイメージが本来の意味を遠ざけてしまわないか注意すべきものとして「恵み」と「悔い改め」があると思います。それらについても今まで説教の中で言い換えてお話してきました。お気づきになられたでしょうか?これらはこれからも繰り返し出てきますので、ここではこれ以上触れないで先に進みます。

3.神に買い戻された者として

さて、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けたら罪を償ってもらったことになって神から罪を赦された者と見てもらえる。その場合、「受け継がれた罪」はどうなるのか?消えてなくなるのか?それで「行われる罪」も行ったり、口に出したり、心で思い描いたりしないようになるのか?どうでしょうか?

聖書の観点では、洗礼を受けても「受け継がれた罪」は消えずに残ります。「行われる罪」も心で思い描くことはしょっちゅうあり、場合によっては口に出たり、最悪の場合には行いで出てしまう時もあります。それじゃ、何も変わっていないじゃないか!と呆れかえられるかもしれません。ところが、やっぱり変わっているのです。パウロがローマ8章1節で言うように、洗礼によってイエス様と結びつけられている者には神の有罪判決はないと言うのです。そう言うとキリスト信仰者でない人たちは、そんなのありか!信仰者だって罪があると言っているのに洗礼を受けたからもう大丈夫だなんて虫がよすぎるぞ!とクレームがかかるかもしれません。でも、そう言う人たちは、キリスト信仰者が洗礼を受けた時から通り抜けなければならない霊的な戦いのことを何もわかっていません。

パウロはローマ7章の終わりで、全てのキリスト信仰者にあてはまることとして次のように言います。キリスト信仰者は意識の面では神の命じることに従っているが、肉の面では罪の命じることに従っていると。このようにキリスト信仰者は何が神の意思に沿うことかわかっているが、肉を持っている限りそれに背こうとする力も働いているというのが現実なのです。この二律背反した状態が解消されるのは、この世を去ってまずは肉の体を捨てて復活の日までひと眠りして、復活させられた時に復活の体という神の栄光を映し出す体を着せられた時です。その時、魂も体も全て罪がない者となって神の御許に迎え入れられて自分がさらに続いていくのです。

それでは復活の日まではどうすればいいのかというと、それはただこの世の人生の歩みとはその日を目指して進むことに尽きると観念することです。それはどういうふうに進んで行くのかと言うと、パウロがローマ8章13節で言うように、洗礼の時に注がれた聖霊の支援を受けながら肉の体の業を日々死なせていくという進み方です。物騒な言い方ですが、要は神の意思に沿わない行い、言葉、思いを踏みにじって生きることです。どうやって踏みにじるのか、それは罪や罪を操る悪魔が一番聞きたくないことを日々、自分に言い聞かせることです。私の罪はあのゴルゴタの十字架であの方の犠牲によって帳消しにされた。だから私はもう神のものである、と。確かに「受け継がれる罪」は残っているが、それでも神は自分を買い取って、復活を目指す者にして下さったのだ、と。自分には罪があっても、神によって打ち立てられた罪の赦しは否定のしようがありません。だから罪があることを認めると同時に、それが高価な犠牲によって赦されているという状況の中に踏みとどまるだけです。それが復活を目指して進むことです。その進むところ、私たちの内に駐留する聖霊がいつも惜しまず支援してくれるということは先週と先々週の説教でもお教えした通りです。

しかし、これでもまだ自分に罪が残っていることが気になる、復活があるとは言え死が立ちはだかって怖いと言う人がいらっしゃれば、そういう人にはルターがこう言ってやればいいと言っている言葉があるのでそれを紹介します。キリストはそんなあなたにこう言って下さっているんですよ!という言葉です。「私はお前を助けてやる。お前の弱さを私の強さに沈めてやる。お前の罪を私の義に撃ち落としてやる。お前の死を私の命に飲み込んでやる。」

4.赦されない罪はキリスト信仰者には関係ない

聖霊の支援を受けながらこの世の人生を霊的な戦いを戦いながら復活を目指して進んで行くということは、これからもいろんな聖句や日課を通して繰り返し出てきますので、本日はここまでにして、ここで本当は本日のメインイベントになるはずだった聖霊を冒涜する罪について見てみます。もう時間も時間なので駆け足になってしまうことをご了承下さい。本日は前置きが異様に長くなってしまいましたが、大事なことだったと思います。

聖霊を冒涜する罪が神から赦されない罪であるということを考える時、何が聖霊を冒涜することかをはっきりさせなければなりません。そこでまず、聖霊とはどういう方なのかを今一度確認しなければなりません。聖霊とは、まず第一に人間をイエス様を救い主と信じる信仰に導く方です。ある人が、それまではイエス・キリストのことを、あの2000年前の現在のイスラエル国がある地域でとても斬新な宗教活動を行って最後は占領国のローマ帝国の官憲に捕まって十字架刑を受けてしまった者という、世界史の教科書的な理解だったのが、実はそれは表面的な理解だったとわかるようになる。イエス様の出来事は全て万物の創造主である神が人間を罪の呪いから解放するために行ったことで、それは旧約聖書に約束されていたことの実現だったのだ、と。そのようにわかって、イエス様を自分の救い主と信じるようになってくる、この時すでに聖霊が影響力を及ぼしていることになります。

そして、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けるとその人はすっぽり聖霊の影響下に置かれます。そうなると、今度はその人にとってイエス様が救い主であることがブレないで保たれるように助けることが聖霊の働きとなります。そういう聖霊の働きについてはパウロがローマ8章でよく教えています。本教会の説教でも度々取り上げました。これからも繰り返し出てくるでしょう。

このように聖霊とは、人間をイエス様を救い主と信じる信仰に導き、救い主と信じる人が今度はその信仰に踏みとどまれるように助けてくれる方です。その聖霊を冒涜するというのは、その働きを否定するようなことを言うことになります。人間を信仰に導き信仰に踏みとどまれるようにする働きを否定するのは、イエス様の十字架を無意味にすることになり、人間を罪の呪いから解放しようとした父なるみ神の愛を踏みにじるものです。こんなのを赦したら赦しの自己否定になります。まさに罪の赦しがある限りはあってはならない赦しです。

ここで一つ興味深い質問は、イエス様が聖霊の力で悪霊を追い出しているのに、あいつは悪霊のドン・ベルゼブルの力を借りて追い出していると言った人たち、彼らはもう赦しを祈っても無駄で永遠に赦されない罪に定められてしまったのかということです。人によっては、すんなりそうだと言うかもしれないし、人によっては、まだイエス様の十字架と復活が起きる前のこと、聖霊が人間をイエス様を救い主と信じる信仰に導く働きをする前のことなので、まだ事情が違うのでは言う人もいるかもしれません。私としては、後者に肩入れする見方かもしれませんが、マタイ12章とルカ12章を見ると、イエス様は自分に向けられる冒涜は赦されるが、聖霊に向けられる冒涜は赦されないと言います。このベルゼブルの件は、直接的にはイエス様を中傷しようとして言ったことと見なすことが出来ます。しかし、中傷した者たち自身は気づいていなかったかもしれないが、事は聖霊に及ぶものであった。それでイエス様は、お前たち口を慎めよ、さもないととんでもないことになるぞ、と警告を発したのではないかと考える者ですが、ただそれが、手遅れの警告だったのか、事前の警告だったのか、私には決めることは不可能で父なるみ神に任せるしかありません。

そこで私たちにとって一番肝心なことを申し上げます。赦されない罪があるなどと聞くと果たして自分は大丈夫かなどと思ってしまいます。しかし、心配無用です。私の罪はあのゴルゴタの十字架で神のひとり子の犠牲によって帳消しにされた。だから私はもう神のものなのだ、と自分に言い聞かせている限り、聖霊を冒涜することはありえないからです。だから、この点については何も心配せず安心して進んで行きましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

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特別の祈り

全知全能の父なるみ神よ。

あなたは、み子イエス様の十字架と復活の業を通して、私たちがあなたとの結びつきを持ててこの世とこの次に到来する世において生きられるようにして下さいました。どうか私たちがこのあなたの計り知れない愛を日々、十分受け取ることが出来るように、私たちの狭い信仰の器を日々広げて下さい。

あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストのみ名を通して祈ります。アーメン

洗礼式説教 2021年5月23日、説教題 「イエス様は子供たちを祝福された」、マルコ10章13-16節

5月23日聖霊降臨祭(ペンテコステ)の日、礼拝の後に幼児洗礼と聖餐式が執行されました。式は主任牧師の浅野直樹先生が行い、吉村宣教師が説教を行いました。 以下は説教文のテキストです(実名は伏せてあります)。

 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1. これからIくんの洗礼式を執行するにあたって御言葉の説き明かしをいたします。Iくんはまだ生後5か月の赤ちゃんです。皆さんもご存じのように赤ちゃんや子供に洗礼を授けることはルター派教会では当たり前のことですが、教派によっては認めないところもあります。その理由として、洗礼は教義を理解して信仰告白をしてから授けるべきとの考え方があるからです。そうすると、教義を理解もしていない信仰告白もしていない子供やましてや赤ちゃんに洗礼を授けるのは意味のないことでしょうか?

この疑問に対して、実は今読みました福音書の個所でイエス様が答えを用意しています。イエス様が述べたことは、洗礼を受けるのに子供でも赤ちゃんでも問題はない、むしろ大人よりも赤ちゃんの方が相応しいということさえ示唆しているのです。このことがわかるために、この出来事中の次の3つの点に注目しましょう。まず、子供たちはイエス様のもとに連れて来られたということ。きっと親たちが連れて行ったのでしょう。イエス様が抱きかかえたということは本当に赤ちゃんもいたのでしょう。第二の注目点は、親たちが連れて行った目的はイエス様が子供たちに触れるためであったということです。イエス様は結果的に子供たちに手をかざして祝福を与えますが、親たちは祝福を考えておらず、ただイエス様が触れてくれればいいという考えで子供たちを連れて行ったのです。第三の注目点は、もうおわかりの通り、イエス様は触れるどころか祝福を与えたのでした。以上の三点に注意すると、洗礼は子供でも赤ちゃんでも授けるのは問題ないということが分かります。

2. 親たちが子供をイエス様のもとに連れて行ったのは触れてもらうためだったということですが、なぜ触れてもらうのがそんなに大事だったのでしょうか?福音書の他の個所にもあるように、イエス様や彼が纏っている衣に触れて病気が治ったという奇跡の出来事がありました。それで、イエス様に触れてもらったら病気の子供が癒されるとか何か御利益を期待したのでしょう。

どうして親たちは祝福ではなくて触れてもらうことをお願いしたのでしょうか?祝福は何か飾りみたいで、触れてもらうことで得られる御利益の方が意味があるということでしょうか?その逆です。祝福は飾りどころかとても大きな意味のあることでした。それで子供なんかに簡単にお願い出来るものではなかったのです。祝福は畏れ多いので、せめて触れて下されば十分ですということだったのです。

祝福がそんなに大きな意味のあることというのは、人によっては奇異な感じを受けるかもしれません。それは、恐らく日本語の「祝福」という漢字言葉のせいだと思います。日本語で例えば、結婚式でみんなで新郎新婦を祝福した、などと言います。つまり、祝福はお祝いの気持ちを表すことと同じなのです。ところが聖書の「祝福」は全く違います。それは、天地創造の神の良い意思が働くことを意味します。例えば、キリスト信仰者は食前の祈りでこれから頂く食べ物を祝福して下さいと神に祈ります。それは食べ物をお祝いすることではなく、食べ物を通して神の良い意思が働くことをお願いすることです。エサウは父ヤコブから受け継ぐことになっていた神の祝福を弟ヤコブに奪われ、復讐心に燃え上がりました。エサウが失ったのはお祝いではなく、後継ぎに与えられる神の良い意思でした。

このように聖書では祝福とは神が人間に与えるものです。お祝いの気持ちで理解したら人間が与えるものになってしまいま、神が与えるという重大性が見えなくなります。キリスト教会の礼拝の終わりで牧師ないしは教会が特別に認めた信徒が会衆に向かって祝福をします。これは人間が祝福を与えているのではなく、神の祝福を取り次いでいるのです。

このように祝福とはとても重大なことでした。それで親たちは万物の創造主の神の良い意思が子供に働けばいいと、実質は祝福を願いつつも、それは畏れ多いことなので触って下さるだけで結構ですと言って連れて行ったのです。ところが、イエス様は触れるだけでなく、文字通り祝福を与えたのです。

3. この時イエス様は、子供にも大人同様に祝福を与えてもよいのだということを行動をもって示しました。自分はもうすぐ十字架の受難と死からの復活を遂げることでこの世に大いなる祝福をもたらすが、それは子供にも大人にも等しく与えられるものであるということを暗示したのです。

イエス様が十字架の受難と死からの復活でもたらした祝福とは何だったでしょうか?それは、人間が内に持ってしまっている罪を人間に代わって神に対して償って下さり、それで人間が神から罰を受けないで済むようにして下さったということです。さらに、神の力で復活させられたことで死を超えた永遠の命に至る道を人間に開いて下さったということです。この罪の赦しと永遠の命の可能性がこの世の全ての人間に開かれたのです。宗教改革のルターが言うように、この世の全ての人間に対してこの真の救いが提供されているという意味でこの世は祝福されています。しかし、ルターが同時に指摘するように、全ての人間がこの神が提供するものを受け取ってはいないのです。せっかく神が準備できたのでどうぞ受け取って下さいと提供して下さっている、それでもう十分な祝福なのに、多くの人たちはそれに背を向けて受け取っていないのです。このようにルターは、救いが準備されたということとそれを受け取って自分のものにすることは別物であるとはっきり言います。

4. 天地創造の神がひとり子を用いて人間の救いを総仕上げしてくれて、それを今度は人間にどうぞと提供して下さっている。それを受け取るのが洗礼ということになります。大人の場合、洗礼とはそういう救いを受け取ることであるとわかって受けなければなりません。受け取る救いは何であるかをわかるために、例えば、万物の創造主の神は人間に対してどうあれと言っているかとか、その神から見て人間はどう見えているかとか、神と自分自身の関係はどうなっているかということを意識しなければわかりません。そうすると、意識などしていない小さな子供は救いを受け取れるのかという疑問に戻ります。

それに対してイエス様は受け取れることを態度と言葉で示したのです。子供たちは親に連れて来られました。大人のように自分の足で行ったではありません。赤ちゃんは運ばれて。ちょうど今、Iくんが聖卓の前に連れて来られたようにです。連れて来られた子供たちを弟子たちは追い返そうとしましたが、イエス様はそれを諫めて受け入れました。そして言いました。「子供のように神の国を受け取らない者はそこに入れない」と。子供が神の国を受け取る仕方は、イエス様が子供たちに祝福を与えたのと同じことです。つまり、ただただ自分を受け入れてくれる方のところに連れて行ってもらって、そこで与えられるものを素直に受け取るという仕方です。大人の場合は、これだけ理解した、これだけ良いことをした、だから受け取れる、あるいはまだ不足で受け取れない、ということが入り込み、救いの受け取りがなんだか取り引きのようになる危険があります。神はそれを望んでいません。大人も学ぶ時は、神がイエス様を用いて総仕上げした救いがどれほど大きなものか圧倒されて理解も能力も何もなしえないことがわかるくらいになれば、子供のように受け取ることができるでしょう。でも、普通はそこまでいくでしょうか?

仮にそこまで行かなくとも、洗礼を受けて救いを受け取ったら、あとは子供のように受け取ることを目指すことになるでしょう。つまり救いは自分の理解力や能力では何もなしえない、ただただイエス様が成し遂げたことが全てで、そこに現れた神の愛と恵みと憐みに自分を委ねるしかないというふうに自分を変えていく、あるいは神に変えられていくということでしょう。

子供の時に洗礼を受けて救いを既に受け取っている人の場合は、その人の親が、あなたはこういうものを神さまから頂いたのですよ、と気づかせてくれることが必要です。一緒にお祈りしたり、会話の中にイエス様や神さまのことを出したりして、生活の中に救いの香りが漂うようにします。そうすることで子供も自分には神さまからの頂きものがあるとわかるようになります。ある程度の年齢になったら、頂き物を言葉で言い表して整理して確認し、この確認したものをもってこれからの人生も生きますと誓うことが必要です。それが堅信礼です。多くの欧米語ではコンファメーションといい、まさに確認です。フィンランドでは中学2年がその年と定められています。もちろん、違う年でも構いません。そういうわけで、Iくんのご両親と教保におかれては、教会にはそういう確認のための学びの機会があることを覚えて頂き、その時までは生活の中にイエス様の福音が響くように、また香るようにお努め下さるよう、お願い申し上げます。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

2021年5月16日(日)主の昇天主日 主日礼拝 司式・説教 吉村博明SLEY(フィンランド・ルーテル福音協会)宣教師

主日礼拝説教 2021年5月16日 昇天主日

使徒言行録1章1-11節
エフェソ1章15-23節
ルカ24章44-53節

説教題 「キリストの体の部分でいれば大丈夫」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

今日はイエス様の昇天を記念する主日です。イエス様は天地創造の神の力によって死から復活され、40日間弟子たちをはじめ大勢の人たちの前に姿を現し、その後で天のみ神のもとに上げられました。復活から40日後というのは実はこの間の木曜日で、教会のカレンダーでは「昇天日」と呼ばれます。フィンランドでは祝日です。近年、国民の教会離れ聖書離れが急速に進んでいるフィンランドですが、それでもカレンダーを教会の伝統に合わせることがまだ残っているのは驚きです。今日は昇天日の直近の主日で、「昇天後主日」とも呼ばれています。イエス様の昇天の日から10日後になると、今度はイエス様が天の父なるみ神の許から送ると約束していた聖霊が弟子たちに降る聖霊降臨の出来事が起こります。次主日にそれを記念します。その日はカタカナ語でペンテコステと言い、キリスト教会の誕生日という位置づけで、クリスマスとイースターに並ぶキリスト教会の三大祝祭の一つです。

さて、イエス様の昇天ですが、それは一体いかなる出来事で、今を生きる私たちに何の関係があるのかということを毎年礼拝の説教でお教えしているところです。昨年と一昨年はエフェソ1章の聖句と結びつけて説き明かしをしました。一昨年はエフェソ1章の特に19節から21節に注目しました。そこでは、一度死んだ人間を復活させて復活の体を纏わせるということと、その者を創造主の神の御許に引き上げるということ、このことがまずイエス様に起こったわけですが、その実現には想像を絶するエネルギーが必要であるということが言われています。そのようなエネルギーを表現するのにパウロはこの短い文章の中で神の「力」を意味するギリシャ語の言葉を3つ違うものを用いています(δυναμις,、κρατος、ισχυς)。私たちの新共同訳聖書では「力」という言葉は2回しか出て来ません。もう一つはどこに消えてしまったのでしょう。エネルギーという言葉も2回あり(ενεργεια、2回目は関係代名詞ですが)、エネルギーを働かせるという動詞(ενεργεω)も用いています。このようにパウロはこの神の想像を絶する莫大なエネルギーを描写しようと頑張っているのに、日本語訳はそれが見えにくくなって残念です。とにかく死者を復活の体を纏わせて復活させることと、その者を神の御許に引き上げることには莫大な力とエネルギーが必要で、創造主である神はそのエネルギーを働かせる力がある方だということが言われています。だからイエス様の復活と昇天を起こせたというわけです。

ところがそれだけにとどまりません。ここからが大事なポイントです。神はこれと同じエネルギーをイエス様を救い主と信じる者にも働かせると言うのです(19節)。つまり、キリスト信仰者も将来イエス様と同じように神の力を及ぼされて復活できて天の父なるみ神のもとに上げられるのです。それで、神がこのような力を持っていて、それをこの自分にも及ぼして下さる、そう信じられるかどうかが信仰の大きな鍵になるということを一昨年に申し上げた次第です。

昨年はさらにエフェソ1章の終わりの22節と23節に注目しました。教会は「キリストの体」であるとパウロは言います。ここで言われる「教会」は、スオミ教会のような個別の教会ではありません。また複数の教会から構成される教団でも、ルター派とかカトリックというような教派のことでもありません。それは、永遠の命と復活の体が待っている天の御国に至る道に置かれて、今それを進んでいるキリスト信仰者の集合体です。個々の教会、教団、教派という人的組織を超えた見えない教会です。それが「キリストの体」です。

そしてそのキリストはと言えば、今は天の父なるみ神の右に座して、この世のあらゆる「支配、権威、勢力、主権」の上に聳え立って、それらを足蹴にしていると。ここで言う「支配、権威、勢力、主権」とは現実世界にある国の権力だけでなく、見えない霊的な力も全部含みます。そうすると、キリストの体の部分部分である信仰者もキリストにあってこの世の権力や霊的な力の上に立つ者になっているはずなのだが、どうもそんな無敵な感じはしません。イエス様はそうかもしれないが、信仰者は正直なところいろんな力の足蹴にされている方ではないか?「キリストの体」だなんて、パウロはちょっとはったりを効かせすぎではないか?でもこれはやっぱり本当のことなのです。昨年はこのことを確認しました。今年は、このことを19節から23節全体を見ながら、もっとはっきり出してみたいと思っています。つまり、キリスト信仰者はキリストの体の部分でいるので何があっても本当は大丈夫ということです。

2.イエス様の昇天

その前にイエス様の昇天の出来事をどう理解したらよいかということを毎年お教えしていますが、それをおさらいしておきます。

新共同訳では、イエス様は弟子たちが見ている目の前でみるみる空高く上げられて、しまいには上空の雲に覆われて見えなくなってしまったというふうに書いてあります(1章9節)。この訳は問題です。これでは、スーパーマンがものすごいスピードで垂直に飛び上がっていく、ないしはドラえもんがタケコプターを付けて上がって行くようなイメージがわいてしまいます。誰もスーパーマンやドラえもんを現実にあるものと思いません。それで、イエス様の昇天を同じようなイメージで捉えてしまったら、あまり真面目に受け取られなくなってしまうのではないかと心配します。

しかしながら、ギリシャ語の原文をよくみると様子が違います。これは、スーパーマンやドラえもんとは全く異なる、極めて聖書的な現象であることがわかります。どういうことかと言うと、雲はイエス様を上空で覆ったのではなく、彼を下から支えるようにして運び去ったというのが原文の書き方です。つまり、イエス様が上げられ始めた時、雲かそれとも雲と表現される現象がイエス様を運び去ってしまったということです。地面にいる者は下から見上げるだけですから、見えるのは雲だけで、その中か上にいる筈のイエス様は見えません。「彼らの目から見えなくなった」とはこのことを意味します。因みに、フィンランド語訳、スウェーデン語訳、ルター版のドイツ語訳聖書もそのように原文に忠実に訳しています(後注)。

そうすると、新共同訳の「雲」は空に浮かぶ普通の雲にしかすぎなくなります。しかし、聖書には旧約、新約を通して「雲」と呼ばれる不思議な現象がいろいろありました。それを忘れてはなりません。モーセが神から掟を授かったシナイ山を覆った雲しかり、イスラエルの民が民族大移動しながら運んだ臨在の幕屋を覆った雲しかりです。イエス様がヘルモン山の上でモーセとエリアと話をした時も雲が現れてその中から神の声が響き渡りました。さらに、イエス様が裁判にかけられた時、自分は「天の雲と共に」(マルコ14章62節)再臨すると預言されました。本日の使徒言行録の箇所でも天使が弟子たちに言っています。イエスは今天に上げられたのと同じ仕方で再臨する、と。つまり、天に上げられた時と同じように雲と共に来られるということです。そういうわけで、イエス様の昇天の時に現れた「雲」は普通の雲ではなく、聖書に出てくる特殊な「神の雲」です。それでイエス様の昇天はとても聖書的な出来事なのです。

これで、イエス様の昇天はスーパーマンやドラえもんのタケコプター飛行の類のものではない、聖書に出てくる神の雲の出来事の一つであることが明らかになりました。シナイ山やヘルモン山の雲の出来事が信じられるのであれば、同じように信じられるものです。しかし、それでも生身の体の者が雲に乗って上げられるというのは、やはり空想的すぎると言われるかもしれません。ムーミンにも似たような話があります。「ムーミン谷の春」という物語の中で大きなシルクハットの中から不思議な雲がもくもく出てきて、みんながそれに乗って空を飛び回るという話です。誰もムーミンなんて実在しないとわかるので、同じイメージを持って見たらイエス様の昇天も空想の産物に見えてしまいます。

ここで、忘れてはならない大事なことがあります。それは、天に上げられたイエス様の体というのは普通の肉体ではなく、聖書で言うところの「復活の体」だったということです。復活後のイエス様には不思議なことが多くありました。例えば弟子たちに現れても、すぐにはイエス様と気がつかないことがありました(このことについては今年の復活祭の礼拝説教でお話ししましたのでご関心ある方はホームページで過去の説教をご覧下さい)。また、鍵がかかっている部屋にいつの間にか入って来て、弟子たちを驚愕させました。亡霊だ!と怯える弟子たちにイエス様は、亡霊には肉も骨もないが自分にはあるぞ、と言って、十字架で受けた傷を見せたり、何か食べ物はないかなどと聞いて、弟子たちの見ている前で焼き魚を食べたりしました。空間移動が自由に出来、食事もするという、天使のような存在でした。もちろん、イエス様は創造主である神と同質な方なので、被造物である天使と同じではありません。いずれにしても、イエス様は体を持つが、それは普通の肉体ではなく復活の体だったのです。そのような体で天に上げられたということで、スーパーマンやのび太のような普通の肉体が空を飛んだということではないのです。

3.天の御国

イエス様の昇天は聖書的な出来事で、上げられた時の体は復活の体であったということで、私たちの見方も空想の産物から解放されてきました。ここでダメ押しとして、天の御国というものをどう考えたらよいのかということについて見てみましょう。天に上げられたイエス様は今、天の御国の父なる神の右に座している、と普通のキリスト教会の礼拝で毎週、信仰告白の部で唱えられます。私たちも説教の後で唱えます。果たしてそんな天空の国が存在するのか?毎年お教えしていることですが振り返ってみましょう。

地球を取り巻く大気圏は、地表から11キロメートルまでが対流圏と呼ばれ、雲が存在するのはこの範囲です。その上に行くと、成層圏、中間圏等々、いろんな圏があって、それから先は大気圏外、すなわち宇宙空間となります。世界最初の人工衛星スプートニクが打ち上げられて以来、無数の人工衛星や人間衛星やスペースシャトルが打ち上げられましたが、今までのところ、天空に聖書で言われるような国は見つかっていません。もっとロケット技術を発達させて、先日も野口宇宙飛行士の帰還がニュースになりましたが、そういう宇宙ステーションを随所に常駐させて、くまなく観測しても、天の御国とか天国は恐らく見つからないのではと思います。

どうしてかと言うと、ロケット技術とか、成層圏とか大気圏とか、そういうものは信仰というものと全く別世界のことだからです。成層圏とか大気圏というようなものは人間の目や耳や手足などを使って確認できたり、また長さを測ったり重さを量ったり計算したりして確認できるものです。科学技術とは、そのように明確明瞭に確認や計測できることを土台にして成り立っています。今、私たちが地球や宇宙について知っている事柄は、こうした確認・計測できるものの蓄積です。しかし、科学上の発見が絶えず生まれることからわかるように、蓄積はいつも発展途上で、その意味で人類はまだ森羅万象のことを全て確認し終えていません。果たして確認し終えることなどできるでしょうか?

信仰とは、こうした確認できたり計測できたりする事柄を超えることに関係します。私たちが目や耳などで確認できる周りの世界は、私たちにとって現実の世界です。しかし、私たちが確認できることには限りがあります。その意味で、私たちの現実の世界も実は森羅万象の全てではなくて、この現実の世界の裏側には、目や耳などで確認も計測もできない、もう一つの世界が存在すると考えることができます。信仰は、そっちの世界に関係します。天の御国もこの確認や計測ができる現実の世界ではない、もう一つの世界のものです。今、天の御国はこの現実世界の裏側にあると申しましたが、聖書の観点は天の父なるみ神がこの確認や計測ができる世界を造り上げたというものです。それなので、造り主のいる方が表側でこちらが裏側と言ってもいいのかもしれません。

もちろん、目や耳で確認でき計測できるこの現実の世界こそが森羅万象の全てだ、それ以外に世界などないと考えることも可能です。そうすると当然ながら、天と地と人間を造られた創造主など存在しなくなります。そうなれば、自然界・人間界の物事に創造主の意思が働くということも考えられなくなります。自然も人間も無数の化学反応や物理現象の連鎖が積み重なって生じて出て来たもので、死ねば腐敗して分解し消散して跡かたもなくなってしまうだけです。確認や計測できないものは存在しないという立場なので魂とか霊もなく、死ねば本当に消滅だけです。もちろん、このような唯物的・無神論的な立場を取る人だって、亡くなった方が思い出として心や頭に残るということは認めるでしょう。しかし、それも亡くなった人が何らかの形で存在しているのではなく、単に思い出す人の脳神経の作用という言い方になっていくでしょう。

ところがキリスト信仰者にとって、自分自身も他の人間もその他のものも含めて現実の世界は全て創造主に造られものです。さらに、人間の命と人生は実は、この現実の世界だけでなく創造主の神がおられる天の御国にもまたがっていて、この二つを一緒にしたものが自分の命と人生の全体なのだ、という人生観を持っています。そういう人生観があると、神がどうしてひとり子を私たちに贈って下さったのかということがわかってきます。それは私たちの人生から天の御国の部が抜け落ちてしまわないためだったということです。つまり、人間がこの現実の世界の人生と天の御国の人生を一緒にした大きな人生を持てるようにするというのが神の意図だったのです。

それでは、イエス様を贈ることでどうやって人間がそのような大きな人生を持てるようになるのかと言うと、次のような次第です。人間は生まれたままの自然の状態では天の御国の人生は持てない。というのは、創世記に記されているように、神に造られたばかりの最初の人間が神に対して不従順になって罪というものを持つようになってしまって、人間は神との結びつきを失ってしまったからです。人間の内に宿る、神の意思に背こうとする性向、罪、それは行為や言葉に現れるものも現れないものも全部含まれます。そうした神の意思に背くようにさせようとする罪が神と人間の間を切り裂いてしまった。そこで神は、この失われてしまった結びつきを回復するために人間の罪の問題を人間に代わって解決することにしたのです。

どのようにして解決して下さったかと言うと、神は人間に宿る罪を全部ひとり子のイエス様に背負わせて十字架の上に運ばせ、そこで人間に代わって神罰を全部受けさせました。つまり罪の償いを人間に代わってひとり子に果たさせたのです。さらに神は、一度死なれたイエス様を死から復活させて死を超えた永遠の命があることをこの世に示し、それまで閉ざされていた天の御国への扉を人間に開きました。そこで人間が、ああ、イエス様はこの私のためにこんなことをして下さったのだ、とわかって、それで彼を救い主と信じて洗礼を受けるとその人はイエス様が果たしてくれた罪の償いを受け取ったことになります。罪を償われた状態に入ることになるので神からは罪を赦された者として見てもらえるようになります。罪が赦されたので神との結びつきが回復します。その人は永遠の命と復活の体が待つ神の御国に至る道に置かれて、神との結びつきを持ててその道を進んでいきます。この世を去ることになっても、復活の日に眠りから目覚めさせられて復活の体を着せられて父なるみ神の御許に永遠に迎え入れられます。このようにしてこの世の人生と天の御国の人生を一緒にした大きな人生を生きる命を持てるようになったのです。

4.キリストの体の部分でいるから大丈夫

キリスト信仰者は永遠の命と復活の体が待っている神の御国に向かう道を進んでいます。この道を歩む信仰者たちが集まって見えない教会、つまり個別の教会、教団、教派を超えた教会を形作っています。パウロはエフェソ1章で、この見えない教会の頭としてイエス・キリストがあり、教会はその体であると言います。人間は聖書の御言葉の力を及ぼされて洗礼を受けることでその体の部分になれます。そして、体の部分である信仰者は聖餐式のパンとぶどう酒で霊的な栄養を受けながら、また説教を通して御言葉の力を及ぼされて体の部分として成長を遂げていきます。

そこで、体の頭であるキリストは今は天の父なるみ神の右に座して、この世のあらゆる、目に見えない霊的なものも含めた「支配、権威、勢力、主権」の上に聳え立っていてそれらを足蹴にしています。そうすると、キリストの体の部分部分である信仰者もキリストにあってこの世の権力や霊的な力の上に立つ者になっているはずなのだが、どうもそんな無敵な感じはしません。イエス様が勝っているのはわかるが、彼に繋がっている自分たちはいつも苦難や困難が押し寄せてきて右往左往してしまう現実がある。イエス様が人間を罪と死の支配から解放して下さったと分かっているのだが、罪の誘惑はやまないし死は恐ろしいです。全てに勝っている状態からは程遠いです。全てに勝るイエス様に繋がっている信仰者なのにどうしてこうも弱く惨めなのでしょうか?

それは、イエス様を頭とするこの体がまだこの世にあるからです。頭のイエス様は天の御国におられますが、首から下は全部、この世です。この世とは、人間がこの世の人生しか持てないようにしてやろうという力が働いているところです。大きな人生なんて無理だよ、と。それで、人間が自分の造り主に心と目を向けられないようにしてやろうとか、そのようにして人間が造り主の神と結びつきを持てないようにしてやろうとか、そういう力が働いています。これらが既にイエス様の足台にされた霊的な力ですが、ただこの世では働き続けます。しかし、それらはイエス様が再臨される日に消滅します。まさにその日に、イエス様を復活させて天の御国に引き上げた神の巨大な力が今度は信仰者たちに働くのです。その結果、イエス・キリストの体は全部が天の御国の中に置かれることになります。聖書のあちこちに預言されているように、その時は新しい天と地が創造されるので、この世自体がなくなってしまうのです。

そういうわけで、イエス様の昇天から将来の再臨までの間の時代を生きるキリスト信仰者は文字通り二つの相対立する現実の中で生きていくことになります。一方では全てに勝るイエス様に繋がっているので守られているという現実、他方ではこの世の力に攻めたてられるという現実です。イエス様はこうなることをご存じでした。だからヨハネ16章33節で次のように言われたのです。

「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」

もちろん、いくら守られているとは言っても、攻めたてられたらそんな気はしません。しかし、私たちが部分として留まっているこの体は神の想像を絶する力が働くことになる体で、今その時を待っているのです。憐れなのは攻めたてる方です。だって、もうすぐ消滅させられるのも知らずに得意になって攻めたてているのですから。そこで私たちとしては、聖餐式で霊的な栄養を受けながら、説教を通して神の御言葉の力を及ぼされながら、この体に留まって成長していくだけで十分なのです。ただ今は、コロナ禍のために聖餐式は受けられません。辛いところです。それだけに説教者は今の時ほど御言葉の力を一層引き出すために説き明かしに努めなければならない時はないでしょう。スオミ教会はキリストの体の末端に連なる取るに足らない教会かもしれませんが、それでも説教者は御言葉の説き明かしにおいては他の立派な教会の説教者と同じように最善を尽くしているということをどうかお忘れにならないように。

最後に宗教改革のルターが、キリスト信仰者はイエス様の強い守りの中にいるということと、体の部分である者同士が祈り合ってお互いを支え合うことを忘れてはならないと教えていますので、それを引用して本説教の締めとしたく思います。その教えとは、マタイ11章27節のイエス様の言葉「私の父は全てのものを私の手に委ねた」の説き明かしです。

「『全てのもの』とは文字通り全てのものである。全てのものが我らの主イエス様の手に委ねられているのである。すなわち、天使も悪魔も罪も義も死も命も侮辱も栄誉も全部、主の手に引き渡されているのである。これの例外は何もない。本当に全てのものが主の下に従属させられているのである。

このことからも、イエス様の御国に繋がっていることがどんなに安全なことかがわかるであろう。彼を通してのみ、我らに真の知識と真の光が与えられる。もしイエス様が全てのものを手中に収め、父なるみ神と同じ全知全能な方であるならば、彼自らが述べているように(ヨハネ10章28ー29節)、いかなる者が来ても、彼の手から何一つ取り上げることは出来ない。確かに悪魔は機会を捉えてはキリスト信仰者をあらゆる悪に手を染めさせようとするだろう。不倫を犯させようとしたり、盗みを働かせようとしたり、人を傷つけようとしたり、妬みや憎しみで心を燃やさせようとしたり、その他考えうるあらゆる罪を犯させようと仕掛けてくるだろう。しかし、悪魔の攻撃を受けてもキリスト信仰者は怯む理由も必要もない。なぜなら、我らには悪魔をも足下に屈服させている最強の王がついていて下さるからだ。その方こそ我らを真にお守り下さる方である。

もちろん、悪魔の攻撃は君をとことん苦しめ追い詰めるかもしれず、それは考えただけでも恐ろしいことだ。それだからこそ君は祈らなければならない。君が堂々と勇敢に悪魔に対抗できるようになれるためには、信仰の兄弟姉妹たちも君のために祈らなければならない。どんなことがあっても神が君を見捨てることはない。これは揺るがないことである。イエス様は必ず君を苦境から救ってくれよう。そうである以上、君の方から簡単に神の御国から離脱するようなことはあってはならないのだ。」

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

 

(後注)英語訳NIVは、イエス様は弟子たちの目の前で上げられて雲が隠してしまった、という訳ですが、雲が隠したのは天に舞い上がった後とは言っていません。新共同訳は「イエスは彼らが見ているうちに天に上げられた」と言うので、イエス様はまず空高く舞い上がって、それから雲に覆い隠された、という訳です。しかし、原文には「天に」という言葉はありません。それを付け加えてしまったので、天に到達した後に雲が出てくるような印象を与えてしまうと思います。

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

 

 

特別の祈り

全知全能の父なるみ神よ。

天のあなたのみ許(もと)に上げられたイエス様のおかげで私たちが日々、罪の赦しの恵みの中で生きられ、いつもあなたに見守られていることを感謝します。どうか、復活の初穂(はつほ)であるイエス様に続いて私たちも、み前にて永遠に生きられる者にして下さい。

あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストの御名を通して祈ります。アーメン

2021年5月9日(日)復活節第六主日 主日礼拝 司式・説教 吉村博明SLEY(フィンランド・ルーテル福音協会)宣教師

  • 本日の礼拝の動画配信は機器の不具合のため出来ませんでした。説教文を以下に掲載しますのでご覧ください。

主日礼拝説教 2021年5月9日 復活後第六主日

使徒言行録10章44-48節

第一ヨハネ5章1-6節

ヨハネ15章9-17節

説教題 「聖霊が神の掟を守りやすくしてくれる」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

復活祭から聖霊降臨祭までは日本のルター派教会の聖書日課の最初の日課は旧約聖書ではなく使徒言行録です。先週は、エチオピアの高官がエルサレムの神殿にお参りをして帰る途中、使徒フィリポから福音を宣べ伝えられて洗礼を受けたという出来事でした。本日の個所は、ユダヤ民族の地域を占領していたローマ帝国軍の将校コルネリウスがイエス様を救い主と信じて洗礼を受けたという出来事です。コルネリウスの洗礼の時は聖霊が降ったということが周りの目に見える形で現れました。エチオピアの高官の場合は目に見えない形で降ったことになります。いずれにしても、洗礼と聖霊の降りは密接な関係にあります。それで洗礼について考える時、聖霊についても考えなければなりません。本日の説教では最初にそのことについてお話しします。

次に使徒書の日課である第一ヨハネ5章と福音書の日課であるヨハネ15章は双方とも愛することについての教えがあります。両方とも先週の日課の続きで、ずっとキリスト信仰にとって愛するとはどういうことか教えてきました。父なるみ神は先週だけでは足りない、もっと教えよと言っているようです。それでキリスト信仰にとって愛とは何かについて、今日も聖書の日課に基づいてお話ししようと思います。今日注目する点は、愛することと神の掟を守ることがどう結びつくかということです。ヨハネ15章を見ると、イエス様は「私が父の掟を守ってその愛の内に留まるように、あなたたちも私の掟を守るなら、私の愛の内に留まることになる(10節)」と言います。さらに、「あなたたちは互いに愛し合いなさい、それが私の掟である」と言います(12節、17節)。

第一ヨハネ5章を見ると、ヨハネはまず1節で、イエス様をメシアと信じる者はみな神から生まれた者である、それを生み出す神を愛する者はみな神から生まれた者を愛する、と言います。つまりキリスト信仰者を生み出す神を愛する者は生み出された信仰者も愛すると言うのです。続いて2節で、我々がこうした神の子たち、すなわち他のキリスト信仰者を愛しているかどうかわかるのは、我々が神を愛し、その掟を行う時にわかる、と言います。そして3節で、我々の神に対する愛とは神の掟を守ることに他ならない、と言います。皆さん、話の筋が見えるでしょうか?要は、キリスト信仰者が神を愛すると言うならば、神から生み出された他のキリスト信仰者を愛するのは当然であり、その愛は信仰者が神の掟を守っているかどうかでわかる、というのです。もっと簡単に言えば、キリスト信仰者が神を愛するというのは神の掟を守ることであり、掟の中には他のキリスト信仰者を愛することが含まれるということです。

 以上から、イエス様の掟を守ることが彼の愛の中に留まる条件になっています。また、神の掟を守ることが神を愛していることの証しになっています。特にキリスト信仰者が他の信仰者を愛することが掟に含まれているので、そういう信仰者が互いに愛することがイエス様の愛の中に留まること神を愛することになっています。そういうふうに見ていくと、掟を守らないと神を愛していないと見なされてしまう、神を愛すると言うのなら掟をしっかり守れということになり、これは律法主義的に聞こえるかもしれません。しかし、そうではないのです。そのことを後で見ていきます。加えて、信仰者同士の愛についてばかり言っていて、キリスト信仰者でない人に対する愛は何も言っていません。信仰者でない人たちは別に愛さなくても、イエス様の愛の中に留まることや神に対する愛は問題ないということなのか?これも、実はそういうことではないので、それも併せて見ていこうと思います。

2.洗礼と聖霊の働き

まずコルネリウスの洗礼について見ていきます。先週のエチオピアの高官の洗礼と様子が違っています。コルネリウスの場合は聖霊が降ったことが目に見える形で現れました。習ったことのない言語で神を賛美し出すという「異言を語る」ということが起こったのです。最初の聖霊降臨の時に起こったことと同じことが起こったのです。コルネリウスの洗礼で注目すべきもう一つの点は、ユダヤ人でない異邦人が洗礼を受けてキリスト信仰者になったということでした。

なぜそれが注目すべきことになるのかと言うと、当時はイエス様を救い主メシアと信じる信仰はメシアを待望するユダヤ人が持てるという考え方でした。それで、キリスト教徒になるためにはまず割礼を受けてユダヤ人にならなければならなかったのです。ところが、コルネリウスの洗礼が起きる前、ペトロが幻を見ました。本日の日課の前の部分です。天から何か入れ物のようなものが下って来て、その中にはあらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っていました。それらは旧約聖書レビ記11章の中で汚れたものとされていました。突然、天から神の声が聞こえて、それらを食せよと言うのです。レビ記の規定があるのでペトロは出来ないと答えます。そこで神は、自分が清めたものを汚れていると言ってはいけない、と言います(使徒言行録10章13~15節)。このタイミングでコルネリウスの使者がペトロを訪問しました。ユダヤ人でない、しかも占領軍の将校がペトロの教えを乞うているというのです。

ユダヤ人は神聖な神に近いということで異邦人は汚れた存在、それで親しい関係を持ってはいけないことになっていました。しかし、ペトロは幻の中で神に言われたことの意味がわかり出かけていきます。なぜコルネリウスはペトロに教えを乞うたかというと、彼は旧約聖書が証しする天地創造の神を信じるようになっていたからでした。彼のことを2節で「敬虔で神を畏れる者」と言っていますが、この「神を畏れる者」というのは使徒言行録の中によく出てきます。どういう人たちかというと、旧約聖書の神を信じるようになってはいたが、いろいろな事情から割礼を受けて正式にユダヤ教徒にはなっていなかった人たちです。

先週の説教でもお教えしましたが、2000年前のギリシャ・ローマの多神教の世界にあって、万物の創造主である神を崇拝するユダヤ教は人々の目を引きつけました。特に道徳面で新しい視点を提供しました。例えば、当時この世界の奔放というかルーズな性のモラルに対して、ユダヤ教は人間を男と女に造った創造主の神は男女の結びつきにおいて姦淫、不倫を許さない、という生き方を示しました。さらに、当時の地中海世界には余分な赤子を父親の権限で処分するという間引きが当たり前のことのように行われていました。これに対してもユダヤ教は、人間は神に造られたもので母親の胎内の中にいる時から神に目をかけられているという生命観を示して間引きに反対したのです。

このように、人間を神に造られたものと見なし、そこに人間の価値を見いだすユダヤ教は多くの人を惹きつけました。特に女性の中に多くの賛同者を得ました。ただし、女性は割礼を受けられないので男性と同じ立場で正式なユダヤ教徒にはなれません。こうして各地のシナゴーグの周りには旧約聖書の神を信じるが割礼を受けないでいる、ないしは受けられないでいる、そういうユダヤ教徒予備軍とも呼ぶべき人が大勢いたのです。これが「神を畏れる者」です。そこにある日突然パウロがやって来て、旧約聖書の預言はイエス・キリストの受難と復活によって実現した!彼を救い主と信じて洗礼を受ければ割礼など受けなくとも神の民、神の子となれるのだ!と教え出したのです。割礼なくして憧れのユダヤ教徒になれるので予備軍は一気になだれ込みます。このようにしてキリスト教は一気に広がったのです。もちろん、割礼やモーセ律法の儀式的な戒律を大事にするユダヤ人も大勢いました。彼らはパウロの教えを認めることができません。そこで、ローマ帝国の官憲も巻き込んでパウロを迫害します。このようにして、キリスト教はユダヤ教の中から生まれて急速に広まりますが、同時に強い反対も引き起こしていったのです。

先週のエチオピアの高官の場合は宦官ですので、割礼を受けたくても受けられません。コルネリウスの場合は受けようと思えば受けられるのですが、受けないで異邦人の立場に留まりました。恐らくローマ帝国軍の将校が被占領国の民族の宗教に改宗するというのは立場上、難しかったでしょう。しかし、彼は神を信じて祈り、ユダヤ人に厚意を示していました。またペトロの発言から明らかなように(37節「あなたがたも知っている通り」)、彼はガリラヤ地方やユダヤ地方で何が起きたかを知っていました。洗礼者ヨハネの活動、イエスの活動とその奇跡の業そして彼の十字架刑と死からの復活。それらの出来事は天地創造の神の意思の現れなのか知りたいと思っていた時に神から目撃者を送ってもらったのでした。

ペトロの説教を聞いた結果、コルネリウスはじめ一緒にいた者たちが異言を語り出し聖霊が彼らに降ったことがことが明らかになりました。ペトロに同行したユダヤ人キリスト教徒たちは聖霊が異邦人にも降ったことに驚きます。ペトロはすかさず聖霊が降ることにユダヤ人も異邦人も関係ないとわかり、洗礼を施します。

エチオピアの高官の時はこのような現象は起こりませんでした。フィリポの説教を聞いてイエス様を救い主と信じて洗礼を受けました。エチオピアの高官には聖霊は降らなかったのでしょうか?いいえ、そういうことではないのです。キリスト信仰の観点では、人間がイエス様を自分の救い主と信じる信仰に入れるのは聖霊の力が働かないと出来ません。人間の理解力、能力、理性では、イエス様は単なる歴史上の人物に留まります。約2,000年前の現在イスラエルの国がある地域で旧約聖書とその神と神の国について教えを宣べて多くの支持者を得るも、当時のユダヤ教社会の宗教エリートと衝突した。その結果、ローマ帝国の官憲に引き渡されて十字架刑で処刑されてしまった。そういう歴史的な理解に留まります。

ところが聖霊の力が働くと、これらの出来事は見かけ上のもので、その裏側には万物の創造主の計画が実現したという真理があることがわかるようになります。つまり、イエス様が神の想像を絶する力で復活したことで彼が神から贈られたひとり子であることが旧約聖書の預言を通して明らかになります。では、その神のひとり子がなぜ十字架で死ななければならなかったのか?それは、人間が内に持ってしまっている、神の意思に背こうとする性向すなわち罪を神に対して償う犠牲の死であったことがやはり旧約聖書の預言から明らかになります。イエス様の死は人間が神罰を受けないで済むようにと人間を守るための犠牲の死であり、罪を償いを受け取った人間は神から罪を赦された者と見てもらえるようになります。罪を赦されたから神との結びつきを持ててこの世とこの世の次に到来する世の双方を生きられるようになりました。それなので、この世から別れた後も復活の日に神がイエス様の時と同じ力を及ぼして復活させてくれて神の国に迎え入れて下さる。そうした旧約聖書に約束されたことを実現するためにイエス様の十字架の死と復活が行われたのでした。これらのことが、歴史上の見かけの出来事の裏側にある本当のこと、真理なのです。聖霊はこの真理を私たちの心に示す働きをするのです。

人間がイエス様のことを自分の救い主とわかるようになるのは、この真理を示されたことに気づいたからです。人生のいろんな経験を通して神はこの気づきへと導かれます。気づかせた聖霊の働きを一過性のものにしないで恒常的なものにするために人間をその働きの下に服させるようにするのが洗礼です。洗礼に至る前に聖霊から働きかけられてイエス様を救い主と信じられるようにはなってきても、洗礼を受けて聖霊の働きの下にすっぽり覆われないと、この世に跋扈するいろんな霊に引っ張りまわされます。イエスは救い主ではないとか、また、救い主は沢山あってイエスは単なるそのうちの一人にすぎないとか、霊たちはそのように言います。しかし、聖霊の下に服したら、もう他の霊の言うことは何の意味もなさなくなります。万物の創造主の神との結びつきを持って生きることができるので、霊的に安全地帯にいることになります。

エチオピアの高官の場合は異言を語るということはありませんでしたが、聖霊の働きでイエス様を救い主と信じられるようになって洗礼を受けました。静かに聖霊の下に服したのです。コルネリウスの場合は、異言を語り出して騒々しく洗礼に至りました。どうしてそのような違いが生じたのか?聖霊は、自分の考えるままに賜物を授けるので私たち人間にはわかりません。ただ一つ言えることは、異言を語るという目に見える影響があったことで、ペトロに同行したユダヤ人キリスト教徒たちはぐうの音も言えませんでした。もしエチオピアの高官のように静かに聖霊の下に服したら、異邦人に聖霊が降るわけがないとペトロと言い争いになっていたかもしれません。そういうことを考えるにつけ、神の導きというのは本当によく考え抜かれたものと感心します。

3.聖霊が神の掟を守りやすくしてくれる

コルネリウスの洗礼の話が長くなってしまいました。次の問題に入りましょう。ヨハネ福音書の日課と第一ヨハネの日課を見ると、キリスト信仰者がお互いを愛することがイエス様の愛に中に留まって神を愛することになります。そうすると、掟を守らないとイエス様の愛に留まっていない、神を愛していないということになります。もし神を愛すると言うのなら掟を守れ、というのは律法主義的に聞こえるかもしれません。また、信仰者同士の愛についてばかり言っていて、信仰者でない人たちは愛さなくてもいいのか?愛さなくても、イエス様の愛の中に留まることや神に対する愛は問題ないということなのか?急ぎ足になるかもしれませんが、これらの問題を考えてみます。

これらの問題は先週お教えしたことを振り返ればいろいろわかってきます。愛についてのヨハネの立場ははっきりしていました。人間が普通、愛と言っているものは実は愛ではない。愛とは、人間を罪と死の支配から解放して神との結びつきを持てるようにしてこの世とこの次に到来する世の双方を生きられるようにしてあげよう、そのために他に手立てがなければ自分のひとり子を犠牲にしても構わない、これが神の愛で本当の愛だと言うのです。人間はこの愛で愛されて本当に愛することができると言うのです。この愛がなければ本当に愛することができないと言うのです。イエス様に繋がって実を結ぶというのは、まさにこの神の愛に立って愛するということでした。

 そうすると、キリスト信仰者が掟を守ったり愛するのは、イエス様の愛に留まるため、神を愛していることを示すためとは言っても、律法主義にならないものが見えてきます。というのは、キリスト信仰者という者は既にイエス様の愛の中に留まっている者であり、神に愛されている者である。だから、イエス様の愛の中に留まれるために、とか、神に愛されるために愛するというような~のためにという目的があって愛するということはありません。既にイエス様の愛の中に組み込まれていて神に愛されているのです。そうすると目的がなくなってしまうので愛したり掟を守る動機が起きなくなってしまうでしょうか?

いいえ、そういうことにはならないのです。もし私も皆さんも自分が万物の創造主の後ろ盾を得てこの世とこの次の後に到来する世の双方を生きられるようになった、しかも、それをさせないようにしていた邪魔者を神がご自分のひとり子を犠牲にしてまで撤去して下さった、それで私たちは壮大な方の後ろ盾を得て壮大な人生を生きられるようなった、このことに気づいたら、神は本当に全身全霊で愛すべき方だとわかるでしょう。この愛すべき方が、父母を敬え、殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、他人のものを妬んだり欲しようとするな、しかもこれらを外面的な行為だけでなく、心の中までもそういう状態にしなさいと言っているのです。人間の先生が偉そうに言っているのではなく、ひとり子を犠牲にしてまで私たちを滅びの崖っぷちから救い出して下さった方、そして私たちの本当の造り主である方がそう言っているのです。

さて救い出された私たちが生きることになった新しい命は、心の中まで父母を敬い、殺さない、姦淫しない、盗まない、偽証しない、他人のものを妬んだり欲したりしないという命です。そんな命を生かされることになったら、それと調和して生きることが自然になります。これはまさに、神に愛されているので神の意思に沿うように生きる、考える、言葉する、行うことが自然になって、そのように生きることが神への愛を現わしているのです。

ところが現実はもっと複雑であることをパウロがローマ7章の終わりで見事に言い当ています。キリスト信仰者はこうした意識の面では確かに神の命じることに従っているのだが、肉の面では罪が命じることに従っていると言うのです(25節)。それで新しい命を生きる自分は、神の意思に沿うのがふさわしい生き方だとはわかっていても、いつも肉や肉につけ入るこの世が神の意思に沿わないようにと引っ張ります。それでパウロはローマ8章で、キリスト信仰者は自分の内に駐留する聖霊が助けてくれるので意識が肉を圧倒することができるのだと教えるのです。

パウロがローマ12章で列挙するようなキリスト信仰者の生き方、悪を憎み善から離れない、兄弟愛をもって互いを愛し、尊敬を持って互いに相手を自分より優れた者と思う、迫害する者を呪わず祝福を祈る、喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く、思いをひとつにし高ぶらず身分の低い人々と交わる、自分を賢い者とうぬぼれない、誰に対しても悪に悪を返さず、全ての人の前で善を行うように心がける、隣人と平和な関係を築けるかどうかが自分次第である時は迷うことなくそうする、少なくとも自分から平和な関係を壊さない、自分で復讐しない、最後の審判の時の神の怒りに任せる、だから、その時までは敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませる、善をもって悪に勝つ。これらのことは全て、新しい命を自分一人だけでなく聖霊に助けられながら生きるとこうなっていくというものです。聖霊が肉を押さえつけるので神の掟が守りやすくなるということです。人間に何か力があったからそのように出来るようになったというのではありません。人間にそんな力はないでしょう。聖霊に助けられる人にとって、第一ヨハネ5章3節の御言葉「神の掟は難しいものではありません」というのは真理です。

最後に、愛せよというイエス様や父なるみ神の掟はキリスト信仰者同士だけのものかということについて、そもそも神の愛とは、ひとり子イエス様を用いて罪の償いと復活の命への道開きを行って、これを全ての人間が受け取るようにと提供して下さっていることです。そうすると、既に受け取ったキリスト信仰者を愛するということは、その方が信仰に留まるように、新しい命を聖霊に助けられて生きるように支えるということが土台にあることがわかります。そして、まだ罪の償いと復活の命への道開きを受け取っていない人にはそれを受け取れるようにと導いてあげることがその人を愛することの土台にあります。

この導きは伝道に繋がります。先週も申し上げましたが、いろんな宗教や死生観があるところではこうした伝道は簡単なことではありません。キリスト信仰者の側としては愛だと思ってやったことが、相手側からすると余計なお世話だとか脅威に受け取られたりするからです。人がどの宗教を信じるか、あるいは信じないかということは、詰まるところ、どんな死生観を持つかという問題に収れんします。自分はどの死生観を持ってこの世を生き別れて次の段階に行くか、自分が納得いくものを持つことになります。私がキリスト信仰の死生観で納得するのは、復活ということが正義と愛の完全な調和になるからです。この世では正義と愛の完全な調和はありません。愛なしで正義を追求しようとすると無慈悲になります。正義なしで愛を追求しようとすると甘やかしになります。愛に裏打ちされた正義、正義に裏打ちされた愛を目指さなければなりません。人間は完全な回答を見つけられないと思います。神のみが完全な正義と完全な愛を持ち合わせています。復活の日に完全な回答を得られるとわかれば、この世で自分の無知無力さを思い知らされても、それほど辛くはなりません。復活の日に思いを馳せられるのも聖霊の働きです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

特別の祈り

全知全能の父なるみ神よ。

あなたは、み子の十字架上の死と死からの復活をもって、死そのものを滅ぼし、私たちのために永遠の命に至る扉を開いて下さいました。どうか、私たちの内にその命に与(あずか)る希望を起こし、あなたのみ許(もと)に迎え入れられる日まで、その希望を失うことがないように、いつも私たちを助け導いて下さい。

あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストのみ名を通して祈ります。アーメン

5月2日(日)復活節第5主日 主日礼拝 司式・説教 吉村博明SLEY(フィンランド・ルーテル福音協会)宣教師

主日礼拝説教 2021年5月2日 復活後第五主日

使徒言行録8章26-40節
第一ヨハネ4章7-21節
ヨハネ15章1-8節

説教をユーチューブで見る

説教題 「時代の波風猛る時も神の愛に踏み留まり豊かに実を結ぶのみ」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.時代の状況と無縁ではないキリスト信仰

本日の使徒言行録の日課の個所は、エチオピアの高官がエルサレムの神殿にお参りをして帰る途中、使徒フィリポから福音を宣べ伝えられて洗礼を受けたという出来事です。この出来事は、人がイエス様を救い主と信じる信仰に至る時、万物の創造主の神はその人の生きた時代の中にあるいろんなことを用いて信仰に至らせるという、そんな神の大いなる導きを示しています。一般に信仰は個々人の内面のことと言われますが、神はこのように時代の状況を用いて人間に働きかけて信仰に至らせるというのが本当ではないかと思います。本日の説教ではこのことをエチオピアの高官の受洗を通して見ていこうと思います。

それから本日の福音書の日課の個所は、イエス様がキリスト信仰者に対してブドウの木の枝が木に繋がって実を結ぶように信仰者もイエス様に繋がって実を結べと教えるところです。これも、イエス様を救い主と信じる信仰に至った者は今度は神と共に時代の状況に働きかける側になるということを意味しています。このことについても見ていきます。

そういうわけで本日の説教は、キリスト信仰というのは信仰に至るまでも、また至った後も時代の状況とは無縁ではないということがテーゼになります。

2.神は時代の中にあるいろいろなものを用いて人を信仰に導く

エチオピアの高官の受洗について、まずこの出来事が記載されている使徒言行録という書物について述べておきます。この書物は、死から復活されたイエス様が天に上げられ、その後で聖霊降臨の出来事が起こって、聖霊の力で弟子たちがイエス様を救い主であると宣べ伝え始めるところから始まります。弟子たちの伝道がエルサレムから始まって、現在のトルコ、ギリシャを経てイタリアへと地中海世界に広がって行く過程が描かれています。最後はパウロがローマに護送されたところで終わり、大体30年間位の出来事が記録されています。まさにキリスト教の誕生史で、読む人に世界史の新しい時代の幕開けを印象付ける書物です。

本日の箇所にはガザとかエチオピアとか、私たちが耳にする地名や国名が出て来ます。ガザは、今でこそパレスチナとイスラエルの不幸な紛争のために中東情勢の熱い焦点の一つですが、本当は紀元前1500年位からある歴史的な町で、ローマ帝国の時代は平穏な町でした。エチオピアの方は、本日の箇所に出て来るのは現在のエチオピア国家と関係はなく、当時エジプト南部の地域はそう呼ばれていました。当時そこにはユダヤ人の居住地がありました。どうしてかと言うと、イエス様の時代から約300年位前のアレクサンダー大王の時代、ギリシャからパレスチナを経てエジプトに至るまでの地中海東部の地域はヘレニズム文化と呼ばれるギリシャ系の文化が栄えていました。この地域ではギリシャ語が公用語になっていました。まさにその頃、ユダヤ人の居住地が広がり、各地に会堂・シナゴーグが建てられました。使徒言行録のパウロの伝道旅行をみますと、彼はたいてい訪問先で初めにシナゴーグを訪れます。そこで、エルサレムで起きた事件、イエス様の十字架と復活の出来事を知らせ、旧約聖書の預言が実現したことを伝えます。それを聞いたユダヤ人たちはいつも信じる者と信じない者に分裂しました。

 これらの地中海世界のユダヤ人は旧約聖書の言葉であるヘブライ語が出来ませんでした。それで彼らのために旧約聖書がギリシャ語に翻訳されました。本日の箇所でエチオピアの高官が読んだイザヤ書53章7ー8節ですが、よく見ると、私たちが手にする旧約聖書のそれと少し違っています。これは、私たちの旧約聖書はヘブライ語から翻訳されたものなのに対し、エチオピアの高官が読んでいたのはギリシャ語の旧約聖書だったことによります。翻訳文がもとの文と違っているということがよくあるのです。エチオピアの高官は、ギリシャ語系のユダヤ人と接触があって、それでギリシャ語の旧約聖書を読んで天地創造の神を信じるようになり、エルサレムの神殿にお参りに行くようになったのでしょう。ただし宦官でしたので割礼は受けられません。天地創造の神を信じ、メシアの到来を待ち望む信仰を持つには至っても、正式にユダヤ教徒とは認められなかったのです。

地中海世界にユダヤ教が広がったのは、ユダヤ人が移住したことの他に、移住先の現地人たちが改宗したこともありました。ユダヤ教に改宗するというのは、現代の目で見ると少し奇異な感じを持たれる方がいらっしゃるかもしれません。それは歴史を通してユダヤ教やユダヤ人に対する迫害と偏見が長く持たれ、特にキリスト教側から否定的なイメージが作られたことが影響していると思います。ここではそういう後世に出来てしまった見方を脇に置いて、2000年前はどうだったかという、当時の視点で見てみますとかなりイメージが異なってきます。例えば、2000年前のギリシャ・ローマ世界の性のモラルは奔放というかルーズなところがありました(ひょっとしたら現代も似ているかもしれませんが)。そういうところでユダヤ教は、人間を男と女に造った創造主の神は男女の結びつきにおいて姦淫、不倫を許さない、という生き方を示しました。また、当時の地中海世界には間引きの風習がありました。つまり余分な赤子は父親の権限で処分するという嬰児殺しが当たり前のことのように行われていました。これに対してもユダヤ教は、人間は神に造られたもので母親の胎内の中にいる時から神に目をかけられているという生命観を示して間引きに反対したのです。

このように、人間を神に造られたものと見なし、そこに人間の価値を見いだすユダヤ教は多くの人を惹きつけました。特に女性の中に多くの賛同者を得ました。ただし、女性は割礼を受けられないので男性と同じ立場で正式なユダヤ教徒にはなれません。こうして各地のシナゴーグの周りには旧約聖書の神を信じるが割礼を受けられないでいる、そういうユダヤ教徒予備軍が大勢いたのです。使徒言行録の中に何度も「神を畏れる者」という言葉が出て来ますが、まさに彼らのことです。そこにある日突然パウロなる男がやって来て、旧約聖書の預言はイエス・キリストの受難と復活によって実現した!彼を救い主と信じて洗礼を受ければ割礼など受けなくとも神の民、神の子となれるのだ!と教え出したのです。さあ、割礼なくして憧れのユダヤ教徒になれるとなれば予備軍は一気になだれ込みます。このようにしてキリスト教は一気に広がったのです。もちろん、割礼やモーセ律法の儀式的な戒律を大事にするユダヤ人も大勢いました。彼らはパウロの教えを認めることはできません。ローマ帝国の官憲も巻き込んでパウロを迫害します。このようにして、キリスト教はユダヤ教の中から生まれて急速に広まりますが、同時に強い反対も引き起こしていったのです。

以上のような時代状況を使徒言行録は明らかにしています。ここでエチオピアの高官の受洗を見てみましょう。彼はイザヤ書53章7ー8節の、屠り場に引かれる羊や毛を刈られる小羊のように口を開かなかった主の僕とは誰のことか?と悩んでいました。実は、彼が読んだギリシャ語のイザヤ書の箇所はヘブライ語の原文よりやっかいです。ヘブライ語では「羊のようにおとなしい主の僕は捕まって裁きを受けて命を落としてしまい、彼の同時代の者は誰もそのことを気に留めない」という書き方です。ところがギリシャ語の方は「主の僕はへりくだったことによって彼の裁きが取り除かれる」などと言います。それに続いて「彼が死ななければならなかったことを誰が説明することができるだろうか?」などと問います。ヘブライ語とかなり違っています。

(ここで一つ注釈しますと、新共同訳では「卑しめられて、その裁きも行われなかった」と訳されていますが、ギリシャ語原文ではエチオピアの高官が読んだ部分は「彼がへりくだったことによって彼の裁きが取り除かれる」です。ギリシャ語のイザヤ書の個所もその通りになっています。参考までに各国語ではどう訳されているかを見ると、フィンランド語訳とスウェーデン語訳はこれと同じです。ルター版のドイツ語訳は「彼の裁判は廃止される」で、新共同訳の「裁きが行われなかった」に近いです。英語のNIVは「彼の正義が奪われる」で、裁判が行われなかったことを意味するのであれば日独に近いです。フィンランド語訳とスウェーデン語訳は裁き=有罪判決が取り除かれるということで、私はギリシャ語原文の意味はこれだと思います。)

もしエチオピアの高官がヘブライ語で読んだのなら、主の僕が具体的に誰かはわからなくても何か迫害を受けたことはわかります。ところがギリシャ語を読むと、へりくだったことによって裁きが取り除かれるとあり、何のことかわかりません。しかも、主の僕の死の意味を誰かが説明しなければならないとも言っていて、裁きが取り除かれるのに死んだことにもなっています。ますますわからなくなります。

実を言うと、このわかりにくいギリシャ語の文はイエス様の出来事を知っている人ならばわかる内容なのです。へりくだったことにより裁きを取り除かれるというのは、フィリピ2章のキリスト賛歌を思い出すとわかります。そこで言われていることは、イエス様は十字架の死に至るまでへりくだって神に従順だったこと、その後で神に高く上げられたということです(8~9節)。神に高く上げられたというのは、神の力で死から復活させられ、さらに天に上げられて神の右に座すに至ったということです。まさに、へりくだったことによって裁きを取り除かれたのです。

それから、イエス様の十字架の死の意味を誰かが説明しなければならないということについて、誰がそれをするのか?イエス様が天に上げられた後、イエス様の十字架の死と死からの復活について宣べ伝えるのは使徒たちの役目になりました。ギリシャ語版のイザヤ書を読んで悩めるエチオピアの高官のもとに使徒の一人であるフィリポが送られたのです。ヘブライ語で読んでいたらこのような展開にはならなかったでしょう。それでは、なぜ彼は旧約聖書をギリシャ語で読んだのか?それにしてもなぜ彼は旧約聖書を読むようになったのか?なぜエルサレムに巡礼に行くようになったのか?そうしたことは先ほど述べた時代状況を思い起こせばわかります。

フィリポはイザヤ書53章の主の僕についての預言から始めて、イエス様の福音を宣べ伝えました。教えた内容について記述がないので正確なことはわかりませんが、主旨はこういうことです。天地創造の神が贈られたひとり子のイエス様が十字架の上で人間の罪の神罰を受けて死なれ、人間に代わって罪の償いを神に対して果たされた。それで彼を救い主と信じて洗礼を受ければイエス様の果たしてくれた罪の償いが効力を持つ。それで罪を償ってもらった者とされる。罪を償ってもらったから神からは罪を赦された者と見なされ、罪を赦されたのであれば神との結びつきを回復したことになる。さらに神はイエス様を死から復活させて死を超えた永遠の命があることをこの世に示され、そこに至る道を人間に開いて下さった。それで、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者はその道に置かれてそれを歩むことになる。神との結びつきがあるから、順境の時も逆境の時も常に神から守りと良い導きを得てその道を進み、万が一この世から別れることになっても、復活の日に目覚めさせられて、永遠の命が待つ神の国に迎え入れられるようになった。以上のような福音が伝えられました。時代を超えて私たちにも伝えられる福音です。

イエス様を救い主と信じたエチオピアの高官は洗礼を志願し、フィリポはそれを施します。これでエチオピアの高官は、割礼なくして天地創造の神と結びつきをもってこの世とこの世の次に到来する世の双方にまたがる命を持って生きることとなりました。エチオピアの高官の受洗は、神が時代の中にあるいろんなことを用いて導いたことの結果なのです。

3.キリスト信仰者が結ぶ実 - 神の愛に立つ愛

福音書の日課の方を見てみましょう。有名なイエス様のぶどうの木のたとえです。イエス様を救い主と信じ洗礼を受けた者は、ぶどうの木と枝のように繋がっているというたとえです。

budounoki

2節をみると、イエス様という木に繋がっている枝の信仰者は、実を結べば父なるみ神に手入れしてもらってさらに実を結ぶ、と言われます。3節では、弟子たちはイエス様の話した言葉によって既に清くなっている、と言われます。興味深いのは、「手入れをする」という動詞(カタイレイκαθαιρει)と「清い」(カタロイκαθαροι)という形容詞がギリシャ語では同類語で言葉の引っかけになっています。それで、弟子たちはイエス様の言葉によって手入れをしてもらって清い枝になっているという意味になります。手入れをしてもらって清い枝になるというのは、栄養を一層受け取る枝になっているということです。

ぶどうの枝が実を結べるのは木と繋がっているからです。枝が木と繋がっていなければ木から栄養を受けられないので結べません。当たり前のことです。それでは信仰者がイエス様という木から受ける栄養とは何でしょうか?それは言うまでもなく神の愛です。神の愛とは、本日の使徒書の日課、第一ヨハネ4章で言われているように、ひとり子を犠牲にしてまでも人間を罪と死の支配から解放して、復活と永遠の命に至る新しい命を生きられるようにしてあげようという愛です。人間が罪と死の支配から解放されるためには先ほど述べたように神のひとり子の犠牲による罪の償いと赦しが行わなければなりませんでした。このような神の愛と罪の赦しの恵みがキリスト信仰者が受ける栄養です。

神の愛と罪の赦しの恵みという霊的な栄養を受けて実を結び、さらに手入れをしてもらってもっと栄養を受けられるようになってもっと多くの実を結べるようになる。ところが、イエス様に繋がっていながら実を結ばない枝は、父なるみ神が農夫のように切り取ってしまう、と言います。イエス様に繋がっていながら実を結ばないとはどういうことでしょうか?

キリスト信仰者が実を結ばなくなるとは、霊的な栄養を受けなくなってしまったことを意味します。それはどういう状態でしょうか?それは、イエス様を救い主と信じることがなくってしまうことです。罪を人間と神の関係にかかわる問題と見ないで、人間と人間の間のことだけと考えてしまうことです。6節でイエス様は、取り除かれた枝は集められて燃やされてしまうと言っていますが、これは最後の審判を意味します。私はここでは、イエス様を拒否することや裁きの問題はこれ以上深入りしないことにします。というのは、本質的なことは、どうしたらイエス様が私たちの間で救い主として保たれるかということです。そのためには、神との結びつきを持って生きることが何ものにも代えがたい価値あることとわからなければなりません。それをわかるようにしないで地獄に落ちるのが恐かったら信じろ、というやり方は本末転倒です。本日の使徒書の日課、第一ヨハネ4章の中でも、恐れと罰は表裏一体である、恐れには神の愛がないと言われています(4章18節)。

それでは、キリスト信仰者が神の愛と罪の赦しの恵みという霊的な栄養を摂取して実を結ぶと言う時、その実とは一体何なのかということを考えてみましょう。第一ヨハネ4章を見ると、愛の実践ということがよく言われます。そこで言われる愛とは神の愛に立つ愛です。

9節 神の愛は、ひとり子イエス様をこの世に贈って彼を通して人間が新しい命を生きられるようにしたことで目に見える形で現れた、と言います。

10節 愛は、人間が神を愛したということにあるのではない。神が人間を愛してひとり子イエス様を人間の罪を償う生贄として贈って下さったことにあるのだ、と言います。

11節 そこでヨハネは「兄弟たち、神はこのように私たちを愛して下さったのだから、私たちもお互いに愛さなければなりません」と言います。19節でも言います。「私たちは愛そうではありませんか。なぜなら、神が最初に私たちを愛して下さったのですから。」

以上、愛についてのヨハネの立場ははっきりしています。人間が普通、愛と言っているものは実は愛ではない。愛とは、人間を罪と死の支配から解放して神との結びつきを持てるようにしてこの世とこの次に到来する世の双方を生きられるようにした、しかもそのためにひとり子を犠牲にしても構わないと思うほどであった、この神の愛が本当の愛だと言うのです。人間はこの愛で愛されて愛することができると言うのです。この愛がなければ愛することができないと言うのです。イエス様に繋がって実を結ぶというのは、まさにこの神の愛に立って愛するということです。

そうすると、キリスト信仰者は愛する時、具体的に何をするのでしょうか?一つには、まだイエス様というブドウの木に繋がっていない人たちを繋がるように導いてあげることがあります。せっかくイエス様というブドウの木がこの世に植えられて立っているのに繋がっていない人たちが大勢います。イエス様に繋がるというのは、イエス様が果たされた罪の償いを自分のものにするということです。そこに導いてあげるのは伝道の働きです。この働きは、いろいろな宗教や死生観があるところでは難しいものです。キリスト信仰者の側としては愛だと思ってやったことが、相手側から余計なお世話だとか脅威に受け取られたりします。人がどの宗教を信じるか、あるいは信じないかということは、詰まるところ、どんな死生観を持つかという問題に収れんすると思います。これは極めて現代的な問題です。

神の愛に立って愛するというのは伝道の働きに尽きません。もっと広いこともあります。それは、隣人に対してどのように振る舞うかという問題です。神の愛に立って隣人を愛するということについて聖書には沢山の教えがあります。有名なのは使徒パウロが第一コリント13章で愛について教えているところでしょう。私自身はいつもパウロがローマ12章で教えていることが大事と考えています。まず9節で「愛には偽りがあってはならない」と言います。その意味するところは、もし何か自分の利益とか名声のためとか下心があれば、もう偽りの愛になってしまうのです。その続きをざっと列挙すると、悪を憎み、善から離れるな/兄弟愛をもって互いを愛し、尊敬を持って互いに相手を自分より優れた者と思え/迫害する者を呪うな、祝福を祈れ/喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣け/思いをひとつにし、高ぶらず身分の低い人々と交われ/自分を賢い者とうぬぼれるな/誰に対しても悪に悪を返さず、全ての人の前で善を行うように心がけよ/隣人と平和な関係を築けるかどうかが自分次第である時は迷うことなくそうせよ、少なくとも自分から平和な関係を壊すな/自分で復讐するな、最後の審判の時の神の怒りに任せよ、だから、その時までは敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ/善をもって悪に勝て。

これらの中には不利益を承知のお人好しすぎることがありますが、そういうことが出来るのは、正義の問題を神が最後の審判で決着をつけて下さることに任せているからです。正義というのはやっかいなものです。誰かから害悪を被った時、こんな程度の補償や謝罪では収まらない、ということがよくあります。逆に、誰かに損害を与えてしまった時、確かに自分に落ち度はあったがまさかこんなに法外な補償を求めてくるとは、ということもよくあります。不完全な人間が判断を下して決めることは不完全にならざるを得ず、後々尾を引いてしまうのです。全知全能の神が最終的に決着をつけることでいいんだ、という姿勢でいると、この世ではエスカレートさせない、エスカレートと逆方向のことに心を向けられるのです。皆さんもご存じのように、今の世はSNSに書かれたことが原因で人の命が失われるような時代です。もし投稿する人が皆、このような心を持っていれば、SNSは素晴らしい文明の利器になるでしょう。

4.おわりに - 神の愛に立つ限り最後の審判では堂々としていられる

最後に、神の愛に立って隣人を愛するとは言っても、キリスト信仰者は十戒に示された神の意思に敏感になるので自己採点はどうしても厳しくなります。しかし、それで苦しくならないためにイエス様の十字架と復活の出来事が起きたことをいつも思い起こしましょう。私たちはイエス様を救い主と信じる信仰と洗礼を通して神の愛を受け取りました。それは人間的でない完璧な神の愛です。それなので私たちは第一ヨハネ4章17節の聖句から大きな励ましを得ます。新共同訳ではこう言っています。「こうして、愛がわたしたちの内に全うされているので、裁きの日に確信を持つことができます。この世でわたしたちもイエス様のようであるからです。」

これを原文に忠実に解説的に訳すと以下のようになります。「パウロが随所で言うようにキリスト信仰者は洗礼を通してイエス様を衣のように頭から被せられています。その衣の神聖さの重みで私たちの内に残る罪を圧し潰していきます。これが、私たちがこの世でイエス様のようになっているということです。それで愛は私たちのもとで完璧なものとしてあるのです。そういうふうになっているのは、私たちが最後の審判の日に堂々としていられるようになれるためなのです(後注)。」新共同訳では「確信を持つことができます」ですが、何の確信かはっきりしません。ギリシャ語原文では「勇気を持てる、物怖じしない」という意味です。つまり、神の愛に立つ限り、最後の審判で何も恐れる必要はない、堂々としていられるのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

(後注)第一ヨハネ4章17節 ”Εν τουτω τετελειωται η αγαπη μεθ’ ημων, ινα παρρησιαν εχωμεν εν τη ημερα της κρισεως, οτι καθως εκεινος εστιν και ημεις εσμεν εν τω κοσμω τουτω” をこのように訳したのは、οτι以下をτουτωの内容と考えたからです。οτι以下を理由の文に考えると全体的に上手くいかないように思えます。

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特別の祈り 「全知全能の父なるみ神よ。  主イエス様は、私たちがぶどうの木につながる枝のように主につながっていれば豊かに実を結ぶ、と教えられました。どうか、私たちがイエス様にしっかりつながっていられるようにして、あなたから頂く愛と恵みを世の人々にも分け与えられる者にして下さい。  あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストのみ名を通して祈ります。アーメン」

4月25日(日)復活節第四主日 主日礼拝 司式・説教 吉村博明SLEY(フィンランド・ルーテル福音協会)宣教師

主日礼拝説教 2021年4月7日 復活節第四主日

使徒言行録4章5-12節
第一ヨハネ3章16-24節
ヨハネ10章11-18節

説教題 「主は我が羊飼い、我に不足なし」

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

本日の福音書の日課の個所は、イエス様が自分のことを命がけで羊を守る良い羊飼いにたとえる教えです。羊とはイエス様を救い主と信じるキリスト信仰者のことです。そうすると、キリスト信仰者はいつもこのようにイエス様に命がけで守られて何にも害を被らないで済むのかと驚かれるかもしれません。しかし、キリスト信仰者だって、大きな病気をしたり事故に遭ったりします。それじゃ、なんだ守られていないじゃないか、イエスは調子のいいことを言ってと思われてしまうかもしれません。しかし、病気になったり事故に遭ったりしても目の前が真っ暗になりっぱなしにならない、必ず前方に光を灯してくれてそこを目指して歩めるようにして下さる、光が見えるまでは暗闇の中で傍にいて支えるように一緒に歩いて下さる、そのようにイエス様は導いて下さる、それで守られていると言うのです。

"The Hirelings run away..." by Lawrence OP is licensed under CC BY-NC 2.0 “The Hirelings run away…” by Lawrence OP is licensed under CC BY-NC 2.0

そういう暗闇の中にもあるイエス様の導きや守りというのは、本日の日課の個所だけからではなかなか見えてきません。実は本日の個所は、10章1節から始まる大きな一まとまりの中の一部です。イエス様はまず、羊の囲いについて話しをします。その後で自分のことを「囲いの門」であると言い、その次に今日の「自分は良い羊飼い」と言うのです。この全部を見ないとイエス様が自分のことを良い羊飼いと言っている意味の全容はわかりません。それに加えて16節で「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かねばならない」と言っています。、いきなり「この囲い」と言われても困るのですが、「囲い」については10章の最初で言われているので、本当にそこから見ないと今日の個所はわかりません。日本のルター派教会の区分の仕方がこうなっているためですが、文脈を無視して今日の区分だけに特化して説き明かしするのは無理があります。そういうわけで、本日の福音書の日課はヨハネ10章の11節からですが、1節から見ていこうと思います。11節から18節までは先ほど読んだので、補足として1節から10節までを拝読します。

(ヨハネ10章1~10節の朗読)

イエス様はまず1節から5節まで羊の囲いについて話します。羊の飼育が重要な産業になっているところでは塀の囲いを作って、羊を牧草地に連れて行かない時はそこに入れていました。塀は木材や石で造られました。泥棒が「乗り越える」と言うのをみると、それなりの高さがあったと言えます。さらにイエス様の話しから判断すると、囲いの中には複数の所有者の羊が一緒に入れられていたようです。羊飼いが、さあ、これから自分が所有する羊を牧草地に連れて行こう、とやってきて、囲いの門番に所有者である本人確認をしてもらって門を開けてもらう。そして、自分の羊を呼び集める。羊は生まれた時から同じ羊飼いに飼われていれば自分の羊飼いを声で聞き分けられたでしょう。別の羊飼いが近づいて来て連れ出そうとすれば、すぐわかって引き下がったでしょう。こうして、羊飼いはどれが自分の羊かわかり、羊も誰が自分の羊飼いかわかって、一緒になって牧草地を目指して囲いの外に出て行きます。

以上の話は、当時の人が聞いたら、身近であたりまえなことの描写でした。イエス様は何のためにこんな話をし始めたのでしょうか?イエス様がこの話をしたのは、ある安息日の日に盲目の人の目を開く奇跡を行った後でした。人々の間でイエス様のことを、こうした奇跡が行えるのは神から送られた者だからだと言う人もいれば、逆に、安息日には仕事をしてはならないという律法の掟を破ったのだから神由来などではないとか賛否両論が沸き起こりました。ファリサイ派という当時のユダヤ教社会の宗教エリートたちは、イエス様が神から送られた方ということをどうしても信じようとしない。それでイエス様は彼らの心の目は盲目であると指摘したのでした(9章39ー41節)。このやり取りの続きとしてイエス様は羊の囲いと羊飼いの話をされたのです。

羊の囲いの話は、当時の人なら誰にでも思い浮かぶ身近な光景でした。ただ、イエス様は何か大事なことをわかりやすく教えるために人々にとって身近なことを取り上げたのです。その大事なこととは、自分が何者で何のためにこの世に送られてきたかを明らかにすることでした。宗教エリートたちは6節で言われるように、この話が何を意味するのか理解できません。そこでイエス様は話しを説き明かします。まず自分は羊の囲いの門であると言い、次に自分は良い羊飼いであると言います。門も羊飼いも話の中にありました。キーワードです。イエス様が羊の囲いの門である、良い羊飼いであるというのはどういうことかわかれば、イエス様が何者で何のためにこの世に贈られてきたかがわかります。

2.イエス様は羊の囲いの門

イエス様はヨハネ10章9節で次のように言われます。「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。」日常身近なこととして考えれば、確かに、門を通って囲いの中に入る羊は危険から免れて安全な状態にいます。そして囲いを基地として今度は羊飼いに導かれて出て行けば牧草地にたどり着けます。ここの霊的な意味は絶大です。新共同訳では「門を出入りして」と言って、行ったり来たりの感じがしますが、ギリシャ語原文を見ると「門の中に入って、そして外に出る」と言っていて、行ったり来たりの感じはありません。「中に入って、そして外に出る」だけです。

イエス様という門を通って中に入るというのは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けてキリスト信仰者の群れの中に入ることを意味します。どんな群れかというと、万物の創造主である神、人間に命と人生を与えた造り主の神と結びつきを持ってこの世の人生を歩む者の群れです。そして、この世から別れることになっても復活の日に目覚めさせられて神の国に迎え入れられる者の群れです。このようにこの世においても、この次に到来する世においても天地創造の神との結びつきを持って生きる者の群れです。

このようにイエス様という門を通って群れの中に入って神との結びつきを持つようになったら、今度は「外へ出て、牧草地を見いだすことになる」と言います。これは、群れに加わった者がイエス様という良い羊飼いを先頭にしてこの世の荒波の中に乗り出して行くことを意味します。そして、この群れは最後には緑豊かな牧草地にたとえられる神の国に到達します。渇いた荒地を長く歩いた羊にとって牧草地は別天地であり安息の場です。それと同じように、この世の荒波を生きぬいた者たちにも神の国という労いと安息の地が約束されているのです。

このように、この世においても、この次に到来する世においても天地創造の神との変わらない結びつきを持てて生きられること、これが「救われる」ということです。イエス様を救い主と信じて洗礼を受ける者は、まさにイエス様という門を通って救われた者の群れに加わるということです。

それでは、なぜ、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けることが、そのような神との結びつきを持てて救われることになるのか?それは、人間には神聖な神の意思に反しようとする性向、罪があるためで、この罪の呪縛から人間を解放するためにイエス様が働かれたのでした。父なるみ神はひとり子のイエス様をこの世に送って、彼があたかも全ての人間の罪の責任者であるかのようにして彼に他人の罪を全て負わせて、その神罰をゴルゴタの十字架の上で受けさせたのです。つまり、人間の罪の償いをご自分のひとり子に果たさせたということです。それで今度は人間の方が、このことは自分のためになされたのだとわかってイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、彼が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになります。その人は罪を償ってもらったことになるので神から罪を赦された者として見なされます。罪を赦されたから、その人は神との結びつきを持てるようになっています。神との結びつきが持てるようになれば、復活の体と永遠の命が待っている神の国に向かう道に置かれて、その道を歩むようになります。イエス様が死から復活させられたことでそこに至る道が開かれたのです。

イエス様のことを通らねばならない門であるということは、イエス様自身、別の個所でも述べていました。ヨハネ14章6節です。

「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」

ギリシャ語の原文では、「道」、「真理」、「命」それぞれの単語に定冠詞ηがついています。英語で言えばtheです。イエス様は天の父なるみ神のもとに到達できる道、真理、命の決定版ということです。そういうわけで、救いに与る者たちの群れに加われるためには、イエス様は真に通らなければならない門なのです。

「わたしよりも前に来た者は皆、盗人であり、強盗である」(8節)と言う時の盗人とか強盗とは何か、考えてみましょう。これは、人間を救いの群れから連れ去って、神の国に向かう道から外してどこか別のところに引っ張って行こうとする者たちです。そして引っ張って行った先で屠ってしまい滅ぼしてしまう。「滅ぼしてしまう」というのは、せっかく神との結びつきを持てて生きられるようになったのに、それが全て失われてしまうことを意味します。何が救いの群れの中にいる者をこのような滅びに陥れるのでしょうか?この世には、神との結びつきを壊そうとするもので満ち満ちています。私たちはイエス様の十字架のおかげで神から罪の赦しを日々与えられているのに、それを与えられないようにするものがいろいろあるのです。

もしキリスト信仰者が神の意思に沿うように語ったり行ったり思ったりすることが出来ない自分にガッカリしてしまう時があれば、それは霊的に健康である証拠です。なぜなら、その時その人は心の目をゴルゴタの十字架に向けて罪の赦しが今も打ち立てられたままであることを見て、神への感謝と畏れを新たにして歩み始めることが出来るからです。ところがこの世は、神の意思に沿えなくても、そんなことはいちいち悲しんだりしなくてもいいんだよ、とか、神はそんな厳しいことは言っていないよ、神は愛だから何でも認めてくれるよ、とかいうような声で満ちています。まさしく創世記3章に出てくる蛇の手口と同じです。そういう惑わしに乗ってしまえば、もう罪は気づかないものになってしまいます。罪に気づかなければ、赦しの必要性も感じられなくなります。そうなれば、イエス様の十字架と復活は自分とは関係のない出来事になってしまい、それでイエス様は自分の救い主ではなくなります。まさにこの時、神との結びつきは失われてしまいます。

盗人、盗賊とは、このような惑わす声をもって近づいてくるもの全てを意味します。私たちは、そのような声に耳を傾けず、イエス様の声に耳を傾けるべきです。イエス様の声とは、まず聖書の中に記されているイエス様の言葉があります。それから直接イエス様から世に遣わされた使徒たちの教えもイエス様の声の延長です。これらに加えて、イエス様の言葉や行いの裏付けになるものが旧約聖書の至るところにあります。それらにも耳を傾ければイエス様の声がよりよく聞こえてきます。

ここでイエス様が16節で言われたこと、「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない」、これについて見てみましょう。「この囲いに入っている」羊と「入っていないほかの羊」がいて、イエス様は両方の羊のグループを荒地の向こうにある緑豊かな牧草地に導いていく、つまり、この世の荒波の海路の向こうにある永遠の安息地、神の御国に導いていく、ということです。囲いに入っている羊と入っていない他の羊とは何を指すのでしょうか?

囲いに入っている羊と言うのは、ユダヤ人の中でイエス様を約束の救世主メシアと信じた者たち、つまり「ユダヤ人キリスト教徒」です。ペトロもヨハネも他の12弟子もイエス様の母マリアも、それからパウロも皆、ユダヤ人キリスト教徒です。囲いに入っていない他の羊と言うのは、ユダヤ人以外の諸民族で後になってイエス様を救い主と信じた人たち、「異邦人キリスト教徒」です。彼らは初めの頃はまだ囲いに入っていませんでしたが、やがてイエス様という門を通って囲いに入って神との結びつきを持つ群れに加わり、そしてイエス様という「良き羊飼い」に導かれて、最初のグループと一緒に牧草地を目指すようになりました。この異邦人キリスト教徒のグループは具体的には、初めはローマ帝国内の諸民族、やがてヨーロッパやアフリカやアジアの諸民族に広がっていきます。イエス様は、この「ユダヤ人キリスト教徒」と「異邦人キリスト教徒」の二つのグループを一つの群れとして、神の御国に導くと言われるのです。

意外に思えるかもしれませんが、聖書のなかで人間界を二分している主要な境界線は、キリスト教徒か非キリスト教徒かではありません。そうではなくて、ユダヤ人かまたは「その他大勢」かです。この「その他大勢」が俗にいう異邦人と呼ばれるものです。そのなかには、日本人だけでなく、ヨーロッパ人も、アメリカ人も、アフリカ人も、中国人も韓国人もみんな全部一緒くたに含まれます。「エフェソの信徒への手紙」2章で使徒パウロが教えるように、キリストは十字架で人間を罪の支配から贖う業を行って、この二つのグループ、つまりユダヤ人と「その他大勢」を一つの体として神と和解させたのです。

3.イエス様はいつも共にいて下さる良い羊飼い

 さて、イエス様という門を通って救われた者の群れに加わったら今度はイエス様を羊飼いとして囲いを出て牧草地を目指して進んで行きます。ここでは、良い羊飼いと雇い人とが対比されます。雇い人は、羊の所有者に代わって羊の番をする者ですが、狼が現れるなど危険が生じると羊をおいてさっさと逃げてしまう。ところが、良い羊飼いはそのような場合でも逃げはせず、羊を守るためだったら、自分の命さえも惜しまないと言うのです。実際、イエス様は人間が罪の支配から解放されるために人間の全ての罪を引き取って、それから生じる全ての神罰を受けて自分を犠牲にされました。イエス様は十字架に掛けられる前の晩、この犠牲を引き受けることができるかどうか自問自答して苦しみますが、それが自分をこの世に遣わした父なるみ神の御心である以上、それに従って引き受けますと言ったのです。

ここで狼が何を象徴しているか見てみましょう。盗人、強盗の場合は、人間を救いの群れから連れ去って、神との結びつきを失わせて滅びに導くものでした。狼の場合は、羊を盗んだり連れ去ることが直接の目的ではなく、羊やその群れを即破壊することを目的とします。その意味で狼は、罪の支配力、罪の呪いそのものを象徴しています。しかし、イエス様は十字架の死を遂げることで抱き合わせの形で罪の力を無にし、人間をそれらから救い出して下さったのです。

次に雇い人ですが、これは本当の羊飼いではない偽りの羊飼いです。本当の羊飼い、良い羊飼いのイエス様は自分の命と引き換えに人間が神との結びつきを回復できるようにしました。御自分の流した血を代価・身代金として、人間を罪の支配下から解放した/買い戻した/贖い出したのです。偽りの羊飼いである雇い人には同じことはできません。偽りの羊飼いについて、ユダヤ民族の歴史には具体例がありました。エゼキエル書34章をみると、神は、自分の民を羊の群れ、その民の指導者を牧者にたとえて、牧者が羊の群れを養わずに自分自身を養っているだけの無責任を非難します。そして、無能な牧者に代わって真の牧者を起こすと約束します(エゼキエル34章10、23節)。イエス様がこの世に送られたというのは、この預言の実現だったのです。

さて、キリスト信仰者は自分の命を投げ出してまで守ってくれるイエス様を救い主と信じて復活の日を目指して進んで行くのですが、それでも大きな病気になったり事故にも遭遇する。そうなると守ってもらえなかったということなのか?そうではないということが、これまでの説き明かしで明らかになったのではと思います。

少し振り返りますと、牧草地を目指して進むというのは、復活の日の神の国を目指して進むことでした。人間が神の国に迎え入れられるようになるために、イエス様はそれを妨げる罪の力を自分を犠牲にして無力にしました。そうして罪の償いと罪の赦しを自分のものにしてその中に留まる人たちが誕生しました。彼らを復活の主が神の国へと導き、道中を守って下さるようになりました。

その道中が害悪の一切ない常時平穏無事な世界でないことは、例えば詩篇23篇4節でも言われています。「たとえ我、死の陰の谷を行くとも禍を恐れじ。」イエス様に守られて導かれる者でも、「死の陰の谷」を進まなければならないことがあるのです。しかし、「禍を恐れじ」。なぜなら、暗闇の時にも「汝、我と共にあり」だからです。暗闇なのにどうやってイエス様が共にいて下さるとわかるのかと言うと、もし道を外しそうになったら、羊飼いが杖で叩いてそっちじゃないと気づかせてくれるように、気づかせてくれると言うのです。「汝の鞭、汝の杖、我を慰む。」一瞬痛みを感じたかもしれないが、主はちゃんと傍におられるとわかる安心が痛みなどなかったようにします。

そういうわけで目の前が真っ暗になりっぱなしにならない、イエス様は必ず前方に光を灯してくれて、そこを目指して進めるようにして下さる、光が見えるまでは暗闇の中でもちゃんと傍にいて支えるように一緒に歩いて下さるのです。イエス様がそんなに身近におられるのがわかる人というのは、聖書の御言葉を身近なものにし聖餐に与る人です。今コロナで聖餐式を持てませんが、その分み言葉を身近なものにすることが大事になっています。主にあって兄弟姉妹である皆さん、このことを忘れないようにしましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

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特別の祈り

全知全能の父なるみ神よ。

どうか、あなたに罪を赦して頂いたので十戒を喜んで受け入れる心と、それをしっかり守れない私たちのためにひとり子イエス様を送って下さったあなたの愛に感謝する心を与えて下さい。そして、感謝のうちに、あなたを全身全霊で愛し、隣人を自分を愛するが如く愛する心もお与えください。

あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストのみ名を通して祈ります。アーメン

4月11日(日)復活節第二主日 主日礼拝 司式・説教 吉村博明SLEY(フィンランド・ルーテル福音協会)宣教師

主日礼拝説教 2021
2012年4月11日 復活節第二主日
使徒言行録4章32-35節
第一ヨハネ1章1節-2章2節
ヨハネ20章19-31節

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説教題 「たとえ目には見えなくとも神との平和があるというのが信仰」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

本日の福音書の個所には、二つの大きなテーマがあります。一つは、復活したイエス様が弟子たちの前に現れて「あなたがたに平和があるように」と繰り返し言ったことです。イエス様の言われる平和とは何かということが一つ。もう一つのテーマは、弟子の一人のトマスが自分の目で見ない限りイエス様の復活など信じないと言い張った挙句、目の前に現れたので信じるようになったという出来事です。その時イエス様は言いました、「私を見たから信じたのか?見なくても信じる者は幸いである」と。イエス様は、見て信じるのではなく見ないでも信じられることが大切だと言います。イエス様の言われる平和、それと見ないでも信じられる幸い。この二つは実は関連しあっています。というのは、イエス様の言われる平和も目には見えないもので信じるものだからです。

見ないでも信じられるということはキリスト信仰にとって大事なポイントです。使徒パウロは第二コリント4章18節で「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」と言い、5章7節では「目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいる」と言います。またローマ8章24節では、キリスト信仰者は将来復活に与れるという希望を持っていることで救われているのだ、見えるものに対する希望は希望ではない、現に見ているものを誰がなお望むだろうか、と言います。さらに「ヘブライ人への手紙」11章1節では、信仰とはズバリ言って希望していることがその通りだということであり目には見えない事柄がその通りになるということなのだと言われています。

このようにキリスト信仰では目で見ないで信じられるということがポイントになっています。そのことを本日の聖書の御言葉をもとに見ていきましょう。

2.神と御子と一体になることで復活を心で信じられる

まず、この目で見ない限り信じないと言ったトマスのことについて。彼の言ったことはもっともなことです。この目で見ない限り信じない。これは普通の宗教ならどこでも考えられることでしょう。何か不思議な業を行う、医療手段を講じなくて不治の病が治るという奇跡、そういうことを行った者に対して私たちはこの人には不思議な力がある、普通の人間ではない、ひょっとしたら神さまだと信じ、自分たちも奇跡にあやかれると期待して、そこから宗教団体が生まれるかもしれません。

ところが、イエス様がここで教えていることは、「信じる」とは、目で見て信じることではなく、目で見なくても信じることが本当の信じることだということです。ちょっと変な感がしますが、よく考えたらわかります。私たちは誰でも目で見たら、本当はその時はもう、信じるもなにもその通りだということになります。その意味で、「信じる」というのは、まさに見なくてもその通りだと言うことです。これがイエス様の主眼とすることです。復活したイエス様を見なくてもイエス様は復活したのだ、それはその通りだ、と言う時、イエス様の復活を信じていることになります。復活したイエス様を目で見てしまったら、復活を「信じます」とは言わず、復活をこの目で見ましたと言います。

イエス様の弟子たちは主の復活の目撃者です。彼らの場合は信じるも何も目で見てしまったのでそうとしか言いようがありません。本日の使徒書の日課の第一ヨハネの個所も、私たちはこの目で見た、この耳で聞いた、この手で触れた、だから宣べ伝えているのだと言います。使徒たちの場合は、目で見たことを証言します。これが目で見なくても証言を聞いて、その通りだ、イエス様は本当に神の子で死から復活されたのだと信じられる人たちが出てきたのです。どうして信じられたのでしょうか?一つには、目撃者たちが迫害に屈せず命を賭してまで宣べ伝えるのを見て、これはウソではないとわかったことがあります。ところが、見ないで信じるようになった人たちも次第に最初の目撃者と同じように迫害に屈しないで伝えるようになっていきます。彼らも使徒たちと同じように、神のひとり子が十字架にかけられ、3日後に死から復活された、それは旧約聖書に預言されていたことの実現であったのだ、と宣べ伝え出したのです。直接目で見たわけではないのに、どうしてそこまで確信できたのでしょうか?

ところで昨年も申し上げたことですが、もしタイムマシンに乗って2000年前のエルサレムに行くことが出来たら、ビデオ撮影をして、それをSNSで拡散することが出来ます。世界中の人が目撃できます。あっ、イエスは生き返っているぞ!壁をすり抜けたぞ、すごい、すごい、という具合に瞬く間に5,000万回、5億回と再生されて、いいね!や驚き顔の絵文字で溢れかえるでしょう。世界中の人がイエス様の復活はあったと言うでしょう。しかしながら、それは「信じる」ことではありません。使徒パウロはローマ10章9節で「口でイエスは主であると公けに言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われる」と言います。「心で信じる」というのは、復活は頭では理解できないことだが心でその通りだと受け取るということです。SNSだと頭で理解する必要もないし心で受け取る必要もありません。瞬間的な反応だけです。イエス様の復活の動画を見てすごいと感じても、「心で信じる」がなければ、すぐ次に投稿されるもっと凄いものを待ち始めています。イエス様の復活はギガバイトの堆積物の中に埋もれていくだけです。こういうことを考えると、SNSというのは人間の頭と心のために本当に役立っているのか立ち止まって考えてみることも必要なのではないかと思う者ですが、どうでしょうか?

話が少し横道にそれましたが、パウロの言葉は、イエス様の復活というのは頭で一生懸命理解しようとしても受け取り不可だが、心は受け取り可ということを意味します。心で受け取ることが出来るから目撃しなくても信じることができるのです。それでは、イエス様の復活を心で受け取るとはどういうことでしょうか?

本日の使徒書の日課「第一ヨハネの手紙」の個所にその鍵があるので、それを見てみます。ヨハネは、目撃者である使徒たちがイエス様の復活を宣べ伝えるのは伝えられた者が伝える者と一体性を持つためであると言います(1章3節)。日本語訳では「交わりを持つため」と言っています。交流関係を持つみたいですが、ギリシャ語のコイノニアという言葉はもっと広くて深い意味です。フィンランド語訳やスウェーデン語訳では「一体性」を意味する言葉です(yhteys、gemenskap)。ドイツ語訳ではあのゲマインシャフトでまさに共同体です。ひるがえって英語ではフェローシップ、仲間です。どの訳語も重なる部分はありますが、微妙に違っていると思います。どちらかと言うと日本語の「交わり」と英語のフェローシップは少し浅い狭い感じがします。そう言うとまた先週に続いて聖書の翻訳の日米同盟と欧州連合の対決を持ち出してしまうのですが、私としては「一体性」とか「共同体」の方があっているのかなと思います。その理由として、本日の使徒言行録の日課で信仰者たちが財産を共有する出来事がありました。ここでコイノニアの形容詞形コイノスが使われています。信徒たちが財産を共有する位に一体性を持っている、共同体を形成しているということです。

私たちが礼拝の中で唱える「使徒信条」は2000年近い伝統を持つキリスト教信仰告白の基本中の基本ですが、その終わり部分で信じる事柄の一つに「聖徒の交わり」というのがあります。これもギリシャ語原文を見るとコイノニアで、信仰者が一体であること、共同体を形成していることを意味します。「交わり」と言うと、スオミ教会では礼拝後にコーヒータイムを持ちますが(今はコロナで控えています)、そういう交流や歓談のひと時を連想してしまうかもしれません。しかし、コイノニアは交流や歓談を超えた、それこそ場合によっては財産の共有に至るくらいの一体性、共同性を意味するのです。

さて、ヨハネは、自分たち使徒が見聞きしたことを宣べ伝えるのは、宣べ伝えられた人たちが伝えた人たちと一体性を持つためと言います。しかし話はそこにとどまりません。そのすぐ後でとても本質的なことを言います。それは、宣べ伝える自分たちは父なるみ神とそのひとり子イエス様と「一体性・コイノニア」を持っていると言うのです(1章3節、日本語では「交わり」、英語ではフェローシップ、ドイツ語ではゲマインシャフト、スウェーデン語・フィンランド語も「一体性」を意味する言葉)。つまり、自分たちが見聞きしたことを宣べ伝えるのは、伝えられた人たちが伝えた自分たちと一体性を持てて、今度はその一体性を通して伝えられた人たちも自分たちが持っている神・御子との一体性に与れるようになるためだと言うのです。つまり伝える人たちと伝えられた人たちが共に神・御子と一体性を持つことが目指されているのです。両者が共に神・御子と一体性を持つので、両者は互いに一体ということになります。

このようにヨハネをはじめ使徒たちが目で見たことを証言するのは、それを聞いたりまたは読んだりした人たちが神・御子と一体性を持てるようになって、それを通してお互いに一体となるためでした。これが意味することは、神と御子と一体性を持てれば、別にイエス様の復活を目で見たか見なかったかはそんなに大した問題ではなくなるということです。逆に復活の主を目で見たとしても、神と御子との一体性を持てなければ、その見たことは先ほど見たようなSNSのニュース拡散と同じことになります。

ここで、神と御子と一体の関係を持つことが、復活を自分の目で目撃していなくても心で信じられるようになる条件であることが見えてきました。それでは神と御子との一体の関係はどうやって持てるようになるのでしょうか?

イエス様の復活について聞いた人たちが、どのようにして神と御子との一体の関係を持てるようになって、復活を心で信じられるようになったか?答えは、聞いた人たちがユダヤ人が非ユダヤ人かによって多少異なってきます。

まずユダヤ人の場合。彼らには旧約聖書があったので、イエス様の十字架の死と死からの復活を知らされた時、預言が実現したことがわかりました。十字架の出来事は神が遣わした神聖な方が人間の罪を償うために犠牲の死を引き受けるというイザヤ書53章の預言が実現したのだと。3日後に死から復活されることはヨナ書2章に暗示されていたと。そして、復活された主はこの世の肉の体とは異なる体を纏っていたことはダニエル書12章の預言の実現だと。イエス様の十字架と復活の出来事の前はメシアとはユダヤ民族を異民族の支配から解放する地上の王様と考えられていました。しかし、そのような理解だと旧約聖書の中に解明できないことが多く残りました。イエス様の十字架と復活の後、メシアとはユダヤ民族か非ユダヤ民族かに関係なく人間を罪と死の支配から救い出して、天地創造の神との結びつきを回復させてくれる方。人間がこの世を去った後も復活の日に目覚めさせて神の御許に迎え入れられるようにしてくれる、そういう永遠の命の救い主、それがメシアだという理解になりました。それで旧約聖書の不可解だったことが次々とわかるようになったのでした。それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けて神との結びつきを持てるようになったのです。その時はもう、イエス様の復活を心で信じています。

ただし、ユダヤ人はイエス様に対する姿勢で二分してしまいます。イエス様を救い主メシアと信じるようになった人たちと、信じない人たちとにです。

非ユダヤ人の場合は少し勝手が違いました。彼らは、旧約聖書を持っていないので預言を知りません。また地中海世界の東部はギリシャ文明が浸透している地域なので、人々は多神教の考え方に慣れています。彼らは使徒たちの宣べ伝えを聞いて、どうやって神・御子との一体性を持てるようになって復活を心で信じられるようになったのでしょうか?

ユダヤ教とキリスト教では言うまでもなく、万物の創造主の神、天と地と人間を造られ人間に命と人生を与えた神が全ての中心にあります。使徒パウロがアテネのアレオパゴスにて居並ぶギリシャの哲学者・知識人を前にキリスト信仰を弁明したことがあります。使徒言行録の17章です。そこでパウロは、万物の創造主、人間一人一人の造り主である神は将来この世を正当に裁くことになると述べました。そういう裁きの日が将来起こることがイエス様の復活によってはっきりしたと言うのです。どういうことかと言うと、人間が天地を創造し自分をも造られた神を知らずに好き勝手にやる時代はもういい加減終わりにしなければならないということをはっきり示したのがイエス様の復活であった。死んだ者を新しく復活させる神は、心を改める者に同じように復活に与らせて下さるが、改めない者はこの世から死んだ後、復活に与れず滅びに落ちてしまう。そういう審判の日が来るのであると。

これを聞いたギリシャの知識人たちは、死者の復活など馬鹿々々しいと取り合いませんでした。ところが、この後で何人かの人たちがパウロを訪ねてきたのです。彼らに何が起こったのでしょうか?彼らの心が多くの神々や霊々にではなく唯一の万物の創造主に向けられるようになったのです。創造主の神に心が向くと、神が人間に対して造り主である自分に立ち返りなさいと呼びかけていることがわかります。そこでその神と自分の関係を考えると、自分には神の神聖さにそぐわない汚れがあることに気づきます。その時、神のひとり子イエス様が十字架で死なれたのは自分の汚れを引き取って下さったことで、そのおかげで自分は神の目に相応しいものになれるということがわかったのです。イエス様が私の救い主である限り、私は創造主の神と結びつきを持って生きられる、この世においても、次に到来する世においても。そういうことが彼らの心の中に起こったのでした。

このように非ユダヤ人に対しては、天地創造の神、自分自身の造り主がおられることがわかり、次にその神と自分自身の関係がどうなっているかを考えることが出発点になりました。神との関係が問題ないものになるように、そのひとり子のイエス様が十字架で自分を犠牲にされた、だから彼を救い主と信じて洗礼を受ければ神との結びつきの中で生きられることになります。今のこの世でも、次に到来する世でも、です。このようにイエス様を救い主と信じている時は既に彼の復活を心で信じています。この非ユダヤ人の事例は私たち日本人にも当てはまるのではないかと思います。

3.たとえ目には目なくとも神との平和があるというのが信仰

イエス様が弟子たちにあるようにと言った「平和」についてみてみます。ヨハネ福音書が書かれた言語はギリシャ語で、この「平和」はエイレーネーειρηνηという言葉です。イエス様は間違いなくアラム語で話しておられたので、シェラームשלמという言葉を使われたでしょう。そのアラム語の言葉が土台にしている言葉はヘブライ語のシャーロームשלומという言葉です。シャーロームという言葉はとても幅広い意味を持っていて、国と国が戦争をしないという意味の平和もありますが、その他に、繁栄とか、成功とか、健康とかいうように人間個人にとって望ましい、何か理想な状態を意味しています。イエス様は「平和」という言葉に特別な意味を持たせていました。

どういう意味かわかるために、イエス様が十字架に掛けられる前日に弟子たちに言われた次の言葉を見てみます。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな」(ヨハネ14章27節)。イエス様は「平和」を与えるが、それは「わたしの」平和、イエス特製の平和であると。しかも、この世が与えるような仕方では与えない、と言われる。一体それは、どんな「平和」シャロームなのでしょうか?もし「この世が与えるような仕方」で平和シャロームが与えられるとすると、それは先ほど申しました国と国の平和、人間個人の繁栄、成功、健康、福利厚生ということになります。みな目に見える平和シャロームです。それに対するイエス様の平和は、この世が与えるようには与えないというものです。目に見える平和シャロームとどう違っているくるでしょうか?

イエス様が与える平和シャロームを理解する鍵となる聖書の箇所を見てみましょう。「ローマの信徒への手紙」5章1節。「このようにわたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており.....」。つまり、「平和」とは、人間と神との間の平和なのです。つまり、イエス様の十字架と復活の業のおかげで人間の罪の償いが果たされ、人間が神との結びつきを回復できたという平和、罪のゆえに神と人間の間にあった敵対関係がイエス様のおかげでなくなったという平和、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで神と一体になれるという平和です。イエス様の十字架と復活の出来事の前は、人間と神の間は平和がない敵対関係だったということは「コロサイの信徒への手紙」1章21ー22節にも明確に述べられています。「あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者として下さいました。」神と敵対関係にあった私たち人間が、イエス様の犠牲によって和解できる道が開かれ、イエス様を救い主と持つことで神のみ前に立たされても問題ない者とされたということです。

こうしてイエス様を救い主と信じる信仰と洗礼によって神との結びつきが回復した者は神と神と一体になっていて神と平和な関係にあります。その人は永遠の命が待っている神の御国に向かう道に置かれその道を進んでいます。進んで行く時、成功、繁栄、健康などこの世的な目に見える平和シャロームを得られる時もあれば、それらを失う時もあります。しかし、いずれの時にあっても、イエス様を救い主と信じる信仰に留まる限り、万物の造り主である神との結びつきは失われておらず、神との平和な関係は変更なく保たれています。人間の目で見れば、失敗、貧困、病気などの不遇に見舞われれば、神に見捨てられたという思いがして、神と結びつきがあるとか平和な関係にあるなどとはなかなか思えないでしょう。しかし、キリスト信仰者は礼拝のはじめで罪の告白を行うたびに罪の赦しの宣言を受けていれば、また聖餐式で主の血と肉に与って罪からの贖いを強めていけば、そして御言葉の説き明かしを通して信仰を研ぎ澄ませていけば、神の目から見て神と一体であることは何ら変わらず、結びつきも平和な関係もしっかり保たれています。たとえ人間的な目にはどう見えようともです。そして、この世から別れる時、この世の人生の時に神との結びつきと平和な関係をこのように鍛え上げていれば行く先を安心して神に任せることが出来ます。復活の日に目覚めさせられて主が御手をもって父なるみ神の御許に引き上げて下さいます。

それなので、主にあって兄弟姉妹でおられる皆さん、私たちはイエス様を救い主と信じる信仰に留まる限り、この復活の希望はいつも心の中で研ぎ澄まされた状態にあり、それで私たちの魂は復活の日に障害物なく直結しています。パウロが目で見なくても希望している状態でもう救われているというのは真理です!

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

特別の祈り

全知全能の父なるみ神よ。

イエス様は、私たちが永遠の滅びに陥らないようにと、大いなる愛をもって十字架の上で私たちにかわって死の苦しみを受けられ、最後は復活によって死に勝利しました。洗礼を通してその勝利に与れる私たちが何も恐れることなくイエス様の愛を持って生きられるように、御言葉と聖餐を通して私たちを強めて下さい。

あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストのみ名を通して祈ります。アーメン

4月4日(日)復活祭 聖日礼拝 司式・説教 吉村博明SLEY(フィンランド・ルーテル福音協会)宣教師

主日礼拝説教 2021年4月4日 復活祭

イザヤ25章6節-9節

第一コリント15章1節-11節

ヨハネ20章1-18節

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。
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説教題 「復活の面影」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.ハッピー・イースター

今日は復活祭です。十字架にかけられて死んだイエス様が天地創造の父なるみ神の想像を絶する力で復活させられたことを記念してお祝いする日です。イエス様が死んで葬られた次の週の初めの日の朝、復活かつて付き従っていた女性たちが墓に行ってみると入り口の大石はどけられ、墓穴の中は空っぽでした。その後で大勢の人が復活された主を目にします。まさにここから世界の歴史が大きく動き出すことになったと言っても過言ではない出来事でした。

復活祭は、キリスト教会にとってクリスマスに劣らず大事なお祝いです。日本ではイースターという英語の呼び名が一般的です。イースターをお祝いする時、英語では「ハッピー・イースター」と言います。クリスマスは「メリー・クリスマス」ですが、イースターは「メリー」ではなく「ハッピー」です。復活祭の何が私たちをハッピーにさせるのでしょうか?昔々イエス・キリストという偉い人が十字架刑という惨い殺され方をしてしまったが、三日後に見事に蘇ってみんながハッピーになったということでしょうか?マジックショーじゃあるまいし、そんな理解で済むのなら聖書なんか要らなくなります。

 イエス様の十字架と復活の出来事はなぜ起きたのか、それらは一体何だったのかということは聖書全体を通してみないとわからないようになっています。聖書全体を踏まえて、それらがなぜ起きたかがわかると、たちまちそれは私たち人間のため、時代と国を超えて全ての人のために起きたということがわかり、イースターは本当にハッピー・イースターだとわかります。そういうわけでイエス様の復活は今を生きる私たちに大いに関係があるハッピーな出来事なのだ、ということを今年の説教でもお話ししていこうと思います。

2.復活祭は私たちにとってハッピーなのだ

 まず、イエス様の十字架と復活の出来事を純粋に歴史上の事件としてみるとこうなります。現在のイスラエル国の北部ガリラヤ地方のナザレ出身のイエスが当時のユダヤ教社会の宗教エリートに批判的な教えを説き多くの支持者を獲得した、そのため指導層の反感を買って当時ユダヤ民族を支配していたローマ帝国の官憲に引き渡されて処刑された、ということになります。しかし、それは見かけ上の出来事です。聖書という書物は万物の創造主であり人間の造り主でもある神が人間にどのような思いを持ちどんな計画を持っているかを知る唯一の手がかりです。聖書をそのような書物であるとの立場に立ってみると、歴史の見かけ上の出来事の奥にある真実が見えてきます。その真実とは何か?それは、旧約聖書に記された神の計画がイエス様の十字架と復活という形で実現したということです。

 それでは、旧約聖書に記された神の計画とは何か?本教会の説教でいつもお教えしていることですが、ここでも振り返ってみます。

まず、イエス様の十字架の死について。それは、人間の罪の償いを人間に代わって神に果たしたということでした。罪と聞くと一般には何か犯罪行為とかそこまでいかなくても何か悪い行いとかを考える人が多いと思います。聖書ではそれは、人間に備わってしまっている、神の意思に反しようとする性向と言っていいくらい広く深いものです。この罪は創世記に記されているように、一番最初に造られた人間の時から備わるようになってしまいました。人間が死ぬようになったのも罪のためでした。神の意思に反しようとするものを持ってしまったために神との結びつきが切れてしまったのです。そこで神は、人間をこの罪の引き離しの力から解放して自分との結びつきを回復してあげよう、人間がその結びつきを持ってこの世を生きられるようにしてあげよう、そして、この世を去った後は造り主である自分のもとに永遠に戻れるようにしてあげよう、そういうことを実現する計画を立てたのです。

それでは、この人間を救うという神の壮大な計画とイエス様の十字架と復活とはどう関係するのでしょうか?イエス様が十字架にかけられたことで、私たちの罪の罰を彼が全部代わりに受けてくれたことになり、そのようにして彼が私たちの罪の償いを神に対して果たして下さいました。それからは罪は以前のように人間を神の前で有罪者・失格者にしようとしても、神のひとり子が果たした償いがあまりにも完璧すぎて思うようにできません。はっきり言って罪は破綻してしまったのです。

加えて、神がその偉大な力でイエス様を死から復活させたことで、死を超えた永遠の命があることがこの世に示され、そこに至る道が人間に開かれました。そこで人間が、これらのことは全部自分のために起こったのだとわかって、それでイエス様は救い主なのだと信じて洗礼を受けると、イエス様が果たした罪の償いが自分の中に入ってきて自分のものなります。自分ではなく他人が償ってくれたというのは虫がよすぎる話ですが、償う相手が天地創造の神であれば人間には償いなど無理な話です。しかも償いをした方がそのひとり子ということであれば、この償いはかけがえのないもの決して軽んじてはならないものだとわかります。なにしろ罪が償われたということは、神がお前の罪を我が子イエスの犠牲に免じて赦してやると言って下さっているのですから。こうなったら、もう軽々しい生き方はできません。新しい人生が始まります。

神から罪を赦されたのあれば神との結びつきは回復しています。そうなると神が立てた計画に従って人生を生きることが始まります。神の計画とは先ほど申しましたように、神との結びつきを持ってこの世を生きられ、この世を去った後は造り主のもとに永遠に戻れるという人生です。キリスト信仰者は人生にこのような大きな方向性が与えられ、順境の時だろうが逆境の時だろうが全く変わらない神との結びつきの中でこの世を生きていきます。進んで行く先は永遠の命が待っている神の御許です。これが、罪と死の支配から解放されて生きるということです。

罪と死の支配から人間を解放するという神の計画がイエス様の十字架と復活をもって実現しました。罪の償いと赦しを受け取った私たちは、自分たちもイエス様と同じように将来復活させられることがはっきりしたのです。旧約聖書のダニエル書12章で、今のこの世が終わり新しい世が始まる時に死者の復活が起こることが預言されています。それがイエス様の十字架と復活の出来事で一挙に現実味を帯びたのです。そういうわけで復活祭とは、イエス様が復活させられたことで実は私たちの将来の復活の可能性が生まれたことを喜び祝う日です。さらに自分自身の復活に加えて、復活の日にやはり復活させられた懐かしい人たちと再会できるという希望も持てるようになりました。復活祭は、この二つの希望を与えて下さった神に感謝し喜び祝う日です。確かにあの日復活した主人公はイエス様でしたが、それは私たちのための復活だったことを忘れてはいけません。イエス様の復活は彼自身だけのためでもなく、また悲しんでいた弟子たちを喜ばせるためでもなく、実はイエス様に続いて私たちが復活させられるための復活だったのです。私たちの復活のためにイエス様の復活が起きた - それで復活祭は私たちをハッピーにさせるのです。

3.復活の体と地上の体

次に、復活というのはどういう状態のことなのかをみてみます。これも毎年お話ししていることですが振り返ってみます。復活は超自然的なことなので科学的に説明することは不可能です。聖書に言われていることだけを手掛かりにするしかありません。本日の福音書の箇所で復活したイエス様とマグダラのマリアの再会の出来事がありました。毎年お話ししていますが、これは想像を絶する出来事です。というのは、この地上の体を持つマリアが「復活の体」

を持つイエス様にすがりついているからです。復活したイエス様が有する「復活の体」とはどんな体か?それについては使徒パウロが第一コリント15章の中で詳しく記しています。「蒔かれる時は朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれる時は卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活する」(42ー43節)。「死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着る」(52ー54節)。イエス様も、ずばり「死者の中から復活するときは、めとることも嫁ぐこともせず、天使のようになるのだ」と言われました(マルコ12章25節)。

 復活とは、ただ単に死んだ人が少しして生き返るという、いわゆる蘇生ではないことに注意します。死んで時間が経てば遺体は腐敗してしまいます。そうなったらもう蘇生は起こりません。復活というのは肉体が消滅しても復活の日に新しい「復活の体」を着せられて復活することです。その体はもう朽ちない体であり、神の栄光を輝かせている体です。天の御国で神聖な神のもとにいられる完全に清い体です。この地上は、そのような体を持つ者のいる場所ではありません。その意味でイエス様は本当なら復活の後、吸い取られるよう天に昇らなければならなかったのですが、40日間も地上にとどまりました。なぜか?その期間があったおかげで弟子たちをはじめ大勢の人たちに自分が復活したことを目撃させることが出来ました。きっと、それが目的だったのでしょう。

復活したイエス様が、私たちの今の体と異なる体を持っていたことは福音書のいろんな箇所から明らかです。ルカ24章やヨハネ20章では、イエス様が鍵のかかったドアを通り抜けるようにして弟子たちのいる家に突然現れた出来事があります。弟子たちは亡霊が出たと恐れおののきますが、イエス様は彼らに手と足を見せて、亡霊には肉も骨もないが自分にはあると言います。このように復活したイエス様は亡霊と違って実体のある存在でした。ところが、空間を自由に移動することができました。本当に天使のような存在です。

復活したイエス様の体についてもう一つ不思議な現象は、目撃した人にはすぐイエス様本人と確認できなかったことです。ルカ24章に、二人の弟子がエルサレムからエマオという村まで歩いていた時に復活したイエス様が合流するという出来事があります。二人がイエス様だと分かったのは、ずいぶん時間が経ってからでした。本日の福音書の箇所でも、悲しみにくれるマリアに復活したイエス様が現れましたが、マリアは最初わかりませんでした。このようにイエス様は、何かの拍子にイエス様であると気づくことが出来るけれども、すぐにはわからない何か違うところがあったのです。このことについては、説教の終わりでもう一度お話しします。

さて、天の御国の神聖な神に相応しい「復活の体」を持つイエス様と、それにすがりつく地上の体のマリア。イエス様はマリアに「すがりつくのはよしなさい」と言われます。マリアがイエス様にすがりついたのは、突然本人が生きて目の前に現れたので感極まって抱きしめたのでしょう。相手が崇拝の対象である場合は「すがりつく」というのはひれ伏して相手の両足を抱きしめることだったかもしれません。

イエス様が「すがりつくな」と言ったことについて。これもこの福音書の個所が当たる年に毎回お話ししていますが、ギリシャ語原文では「私に触れてはならない」(μη μου απτου)です。実際、ドイツ語のルター訳の聖書も(Rühre mich nicht an!)、スウェーデン語訳の聖書も(Rör inte vid mig)、フィンランド語訳の聖書も(Älä koske minuun)みな「私に触れてはならない」と訳しています。英語のNIV訳は私たちの新共同訳と同じで「私にすがりつくな」(Do not hold on to me)です。どっちが正しい訳でしょうか?話が少し脇道にそれますが、ヘブライ語やギリシャ語で書かれた聖書(一部アラム語もあります)が現代語でどう訳されているか比べると、ドイツ語・スウェーデン語・フィンランド語が同じ訳をして日本語・英語が別の訳をしているということがしばしばあります。何だか聖書の翻訳に欧州連合と日米同盟の対決があるみたいですが、今日の個所について言えば欧州連合に軍配が上がると思います。というのは、イエス様が復活の体という、まさに天のみ神のもとにいることができる体でいることを考えると、ここは原文通りに「触れてはならない」の方がよいと思われます。

さらにイエス様は「私はまだ父のもとに上がっていないのだから」(17節)と言って、触れてはならない理由も述べていることに注目します。自分に触れるなと言って、その理由として、自分はまだ父なるみ神のもとに上げられていないからだ、と言う。つまり、復活させられた自分は、この世の者たちが有している肉の体とは異なる、神の栄光を現わす霊的な体を持つ者である。そのような者が本来属する場所は天の父なるみ神がおられる神聖な所であり、罪の汚れに満ちたこの世ではない。本来なら自分は復活した時点で神のもとに引き上げられるべきだったが、自分が復活したことを人々に目撃させるためにしばしの間この地上にいなければならない。そういうわけで、自分は天上の存在なので、地上に属する者はむやみに触るべきではない。これで全てつじつまが合います。

しかし、ここで疑問も生じます。それは、ルカ24章で復活したイエス様が疑う弟子たちに「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい」(39節)と命じているからです。また、ヨハネ20章27節では、目で見ない限り主の復活を信じないと言い張る弟子のトマスにイエス様は、それなら指と手をあてて私の手とわき腹を確認しろと命じます。なんだ、イエス様は触ってもいいと言っているじゃないか、ということになります。しかし、ここはギリシャ語原文の動詞の使い方によく注意してみるとからくりがわかります。ルカ24章で「触りなさい」、ヨハネ20章で「手をわき腹に入れなさい」と命じているのは、まだ実際に触っていない弟子たちに対してこれから触って確認しろ、と言っているのです。その意味で触るのは確認のためだけの一瞬の出来事です(後注)。本日の箇所では、マリアはもう既にしがみついて離さない状態にいます。つまり、触れている状態がしばらく続いるのです。その時イエス様は「今の自分は本当は神聖な神のもとにいる存在なのだ。だから地上の者は本当は触れてはいけないのだ」と一般論で言っているのです(後注)。つまり、イエス様がマリアに「触れるな」と言ったのは、神聖と非神聖の隔絶に由来する接触禁止規定なのです。確認のためとかイエス様が特別に許可するのでなければ、むやみに触れてはならないということなのです。

神聖な復活の体を持って立っているイエス様。それを地上の体のまますがりつくマリア。本当は相いれない二つのものが抱きしめ抱きしめられている。そこには、かつてモーセやイザヤが神聖な神を目前にして感じた殺気はありません。イエス様は、自分は地上人がむやみに触れてはいけない存在なのだ、と言いつつも、一時すがりつくのを許している。マリアに泣きたいだけ泣かせよう、としているかのようです。何だか思い浮かべただけでこちらまで泣けてしまいそうな感動的な場面です。イエス様も、今マリアは地上の体ではいるが、自分を救い主として信じている以上は復活の日に復活の体を持つ者になる、とわかっていたのでしょう。そのことは、イエス様の次の言葉から窺えます。「わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と」(17節)。

ここでイエス様は弟子たちに次のようなメッセージを送ったのです。「今、復活させられて復活の体を持つようになった私は、私の父であり私の神である方のところへ上る存在になった。そして、その方は他でもない、お前たちにとっても父であり神なのである。同じ父、同じ神を持つ以上、お前たちも同じように上るのである。それゆえ復活は私が最初で最後ではない。最初に私が復活させられたことで、私を救い主と信じる者が後に続いて復活させられる道が開かれたのである。」

4.復活の面影

先ほど、旧約聖書の復活の預言がイエス様の復活が起きたことで現実味を帯びたと申しました。旧約中の復活の預言としてダニエル書12章をあげました。本日の旧約の日課イザヤ書25章の個所も復活の預言です。神が死を滅ぼしたり、全ての涙を拭ったり、神に属する民が受けた恥辱を地上から抹消するということは大体、黙示録20章と21章に出てきます。黙示録を記したヨハネはイザヤ書25章が最後の審判と死者の復活についての預言だとわかったのでした。

イザヤ書25章の今日の個所の中で分かりにくいことは、神が全ての民の顔を包んでいた布と国々を覆っていた布を滅ぼすと言っていることです。これはヘブライ語原文を直訳すると、神が滅ぼすものは「全ての民に被さっている目に見える覆い」、「全ての民に被さっている織りなされた覆い」です。少し難しいですが何か外面的なものです。「織りなされた覆い」ですが、詩篇139篇15節を見ると人間が神に造られる時「織りなされる」と言って同じ動詞נסךが使われています。またパウロは、第二コリント5章で肉の体を天幕つまり布切れにたとえています。そういうわけでイザヤ25章で滅ぼされる布というのは私たち人間のこの地上の肉の体のことです。イザヤ書の個所はまさにパウロが第一コリント15章で言っていること、すなわち肉の体は朽ち果てて復活の日に復活の体を着せられることを意味しているのです。

さらに、イザヤ書25章で神が盛大な祝宴を開くことが言われていますが、これも黙示録19章にあります。復活に与った者たちが席につくことになる天の御国の祝宴です。イザヤ書を見ると、脂肪に富む良い肉とえり抜きの酒と言いますが、本当にその通りのメニューになるかどうかは不明です。実はこれは、祝宴で最上のものが振る舞われることを表現するために、当時の人たちの感覚で最上のものが引き合いに出されたということです。それなので、脂っこい料理が苦手な人も自分は天国に入れないどと心配するには及びません。それから「えり抜きの酒」ですが、この訳はいただけません。ヘブライ語の単語シェメルשמרは辞書を見るとぶどう酒に関係する意味です。「酒」は訳しすぎです。焼酎やウイスキーやビール等も入ってしまいます。フィンランド語訳の聖書も「ぶどう酒」です。日本語の翻訳者はお酒が好きでそう訳してしまったのでしょうか?

最後に、先ほども触れましたが、復活の体を持つ者は一目見ただけではすぐ本人と気がつかないことがあるということについて私の思うところを申し上げて今年の復活祭の礼拝説教を締めようと思います。

復活の再会の時、再会の相手はどんな容姿をしているのでしょうか?例えば、高齢でこの世を去ったら、天の御国で再会する時もこの世を去った最後の瞬間の容姿、高齢の容姿なのでしょうか?そうだとすると亡くなる人は高齢の方が多いから天の御国は圧倒的に高齢者が多い超高齢者化社会ということになります。逆に、もし小さな子供や赤ちゃんの時にこの世を去ったのであれば、復活の再会の時も子供のまま赤ちゃんのままなのでしょうか?さらに、もし大きな怪我や病気のために容姿が大きく変容してしまったら、再会の時その人はその痛々しい姿で現れるのでしょうか?しかし、イエス様の事例を見ると、復活の再会の時の容姿は必ずしもこの世を去る瞬間の容姿と同じではないことが見えてきます。

復活したイエス様は確かに傷は残っていたが、それは何の痛みも持たない、ただ単に過去にこんなことがあったと示すだけの干からびた痕跡にしかすぎませんでした。そうすると、復活の再会の時に目にするのは、この世を去る瞬間の容姿ではなく、その方の何かベストな状態の容姿ということになるのでしょうか?もし、それがこの世を去る時の直近のベストな状態だとしたら、それは一目でその人だと分かってしまいます。一目見てもわからないというのは、その人が辿ってきたいろんな年齢・段階の面影が一つに重なり合っている、ないしは混ざり合っているからではないかと考えるようになりました。そのような重層的な面影を一目見た時どうなるか?見た人はまだその方がこの世を去る時の容姿が頭にあるから、すぐにはわからない。ところが、何かがかみ合うとその人だと納得できる。そういうことなのではないかと考えるようになりました。

過去のいろんな面影と言ったら、苦しい時、辛い時の面影もあるでしょう。しかし、黙示録21章を見ると、復活後は涙もなく死もなく悲しみも嘆きもないと言っています。それで、復活の体が映し出す面影は全てベストなものではないかと思います。イエス様が「天使のようになる」と言うのは、こうことではないかと思います。

ベストな面影とは言っても、受けた傷、心の傷、体の傷は消えずに残っているかもしれません。復活のイエス様にも十字架の時に受けた傷が残っていました。しかし、それはもう痛くも痒くもない干からびた痕跡のようなものでした。私たちの心の傷や体の傷も復活の日にそういうものになっているのでしょう。

赤ちゃんや小さな子供の場合ですが、遡れる年数が少ない分、面影も少なくなり一目見たらすぐ分かってしまうかもしれません。しかし、復活の体を持つ者は一目見ただけではすぐには誰かわからないということにこだわったら、こういうことになるのではないかと考えます。すなわち、その子は、もし死なずにそのまま順調に育っていたらこういう面影を持つようになっただろう、つまり復活の再会は面影の先取りのようなこともあるのではないか。もちろん、そうなると親としては子供が死んだ後の成長を見ていないのでベストの面影を映し出す子供を見てもなかなか誰かわからないかもしれません。しかし、心配には及びません。親のことを短い生涯でも精一杯見続けた子供の方から、お母さん!お父さん!と声をかけてくれるでしょう。

主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆さん、どうです、復活の日の再会が待ち遠しくなってきたでしょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。
アーメン

(後注)

ルカ20章39節の「触りなさい」とヨハネ20章27節の「手を入れよ」は、両方ともアオリストの命令形(ψηλαφησατε、βαλε)であることに注意。

ヨハネ20章17節の「触れるな」は現在形の命令形(απτου)であることに注意。

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

 

特別の祈り

全知全能の父なるみ神よ。  主イエス様の復活を喜び祝う私たちの心をどうかあなたの愛と恵みで満たし、空(むな)しい思いやこの世の煩(わずら)いから遠ざかるようにして下さい。私たちが復活の希望に生きることで世の光となれるように、そして隣人に復活の主を伝えることが出来るように知恵と力と勇気をお与え下さい。  あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン