2021年2月21日(日)四旬節第1主日 主日礼拝 司式・説教 吉村博明(フィンランド・ルーテル福音協会)宣教師

主日礼拝説教 2021年2月21日 四旬節第一主日

創世記9章8節-17節

第一ペテロ3章18-22節

マルコ1章9-15節

説教題「キリスト信仰者の鉄壁の防御」

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1. はじめに

今年も四旬節/受難節の季節になりました。今年の復活祭/イースターは4月4日に定められています。その日まで主日を除いて数えた40日間が四旬節です。この間の水曜日2月17日がその始まりの日でした。そういうわけで本日は四旬節最初の主日となります。四旬節の背景ですが、古いキリスト教会の伝統として西暦300年頃から復活祭の前に主日を除く40日間に断食することが行われるようになったことがあります。どうして40日間の断食かというと、イエス様が荒野で悪魔から誘惑の試練を受けた時40日間何も食べなかったということに由来します。そもそもイエス様の生涯は人間の救いのためにゴルゴタの十字架にかけられる犠牲の死に備えるものでした。それゆえ、キリスト教徒たちは40日間の断食を通して主の備えの生涯を身近なものにしようとしたのです。

四旬節は英語ではレントLentと呼ばれ、それは古代英語の春を意味する言葉に由来するそうです。フィンランドやスウェーデンではカトリックの時代の伝統を受け継いで「断食の時期」paastonaika、fastetidと呼ばれます。もちろん、両国ともルター派の国なので外面的な規則の順守が救いを左右するという考え「断食」と言っても名前だけです。それでも、人によっては、この期間は何か好物のものを食べなかったり、好きなTV番組とか愛着のあるものを遠ざけようとする人もいて、牧師にもそのようなことを勧める人もいます。ただし皆さん、そういうことをして神に認められるとか、救いを確実にするとか、そんなことは全く関係ないとわかっています。好物を食べなくても食事はちゃんととるので断食には程遠いです。それでは、どうしてそんなことをするのかと言うと、日常生活の中に普段よりもイエス様の受難に注意が向くようにするための一種のトレーニングのようなものです。別に好物や愛着のあるものを遠ざけなくても注意が向くのならしなくてもいいのです。ただ、普通しないことをあえてすることで、いつもよりもイエス様のことに心が向くようになるということです。

本日の説教の聖書日課ですが福音書を中心に説き明かしをします。使徒書の第一ペトロの個所は死んで陰府に下ったイエス様が死者の霊に福音を宣べ伝えたという難しいところです。これについては3年前の四旬節第一主日の説教で「死者のための祈り」という題で説き明かししました。その時も申し上げましたが、この個所は少なくとも4章6節まで見ないと説教は不可能です。今回3年前の説教を読み返してみて考え方は基本的に変更はなく、もう少し洗礼の重要性を出した方が良かったかなと思ったくらいでした。それで今回は第一ペトロを取り上げず、福音書の日課の説き明かしに専念することにしました。(3年前の説教にご関心ある方は、ここをクリック! 

本日の福音書の箇所の中にイエス様の荒野の試練があります。この出来事はマタイ福音書とルカ福音書では詳細に記述されていますが、マルコ福音書ではたったの二節しかありません。荒野の試練の時、イエス様にはまだ弟子がおらず一人でしたので、目撃者がなく、この出来事はイエス様が後に弟子たちに語られたものと考えられます。マタイ福音書とルカ福音書には詳細に語られたものが伝承されて記載されましたが、マルコ福音書には要約された形のものが記載されたと言えます。たった2節をもとに説教をするというのは簡単なことではありません。しかし、ルターだったら1節だけでも1時間位は説教できたでしょう。しかも彼の場合は、聖書外のことには言及せず聖書だけで話が出来ました。私も彼を見習って説き明かしをしていこうと思います。

2.野獣の危険と天使の守り

本日のマルコ福音書の記述は要約された形ですが、それでもマタイ福音書やルカ福音書にはないことが含まれていますので、それを見てみましょう。

「イエスは40日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。」皆さん、この文章の意味わかりますか?この新共同訳の訳ですと、イエス様は40日間サタンから誘惑を受けたと同時に、野獣とも一緒にいて、さらに同時に天使たちに仕えられた、という具合にいろんな出来事が同時に混在しています。原文のギリシャ語の文がわかりそうでわかりにくい形なので、そんな訳になってしまったのでしょう。マタイ福音書の記述を見ると、天使が来てイエス様に仕えるのは、イエス様がサタンの誘惑を撃退した後に起きるという順番です(マタイ4章11節)。

この順番を踏まえてマルコの記述をわかりやすくすると次のようになります。「イエスは荒野にいてまず40日間、悪魔から誘惑を受けられた。その後、野獣のただ中にいたが、天使たちに仕えられていた。」

新共同訳の「野獣と一緒におられた」というのは、イエス様が野獣と仲よく暮らしたみたいですが、そうではありません。日本語で「~と一緒に」と訳されているギリシャ語の言葉(μετα)は「~の間に、~の中に」とも訳すことができます。それで、荒野で野獣のただ中にいたという危険な状態にあったということです。(ちなみに、フィンランド語訳とスウェーデン語訳の聖書では「野獣のただ中に」です。英語のNIVは日本語と同じ「野獣と一緒に」でした。)

さてイエス様は、荒野で野獣のただ中という危険な状態に置かれたが、天使たちに仕えられ守られたので何も危害はなかったということです。荒野の野獣というのは目に見える具体的な危険です。天使というのは人間同様、神に造られたものですが、普通は人間の目には見えない霊的な存在です。つまり、イエス様は悪魔の誘惑の後も、見に目える危険な状態に置かれたが、目には見えない霊的な守りのなかにあり、危害は及ばなかったということです。このように理解すると、この13節の野獣の危険と天使の守りというのは、ただ単に荒野の出来事だけでなく、その後イエス様が置かれていった状況全般を指しているとも言えます。つまり、野獣のような危険な敵対者に何度も遭遇するが、目には見えない天使という霊的な守りの中にあったということです。

マタイ福音書とルカ福音書の記述では、イエス様が悪魔からどんな試練を受け、それにどう打ち勝ったかということが詳しく記されていますが、その後の野獣の危険と天使の守りについては触れられていません。ここでイエス様の天使の守りということについてよく考えてみると、悪魔の誘惑の時にはそれはなく、それに打ち勝った後にありました。そして最後にイエス様が逮捕されて十字架にかけられる時はありませんでした。十字架の時に天使の守りがなかったということは後で見ます。このようにイエス様に天使の守りがあったりなかったりしたというのは、どういうことか見ていこうと思います。というのは、そのことが私たちキリスト信仰者にとって大きな意味を持っているからです。どんな意味かと言うと、キリスト信仰者には鉄壁の防御があるということです。

3.人間の救いにとって際どい瞬間だった

マタイとルカの記述によると、イエス様は40日間飲まず食わずの状態で悪魔から誘惑を受け続け(特にルカ4章2節)、最後に三つの誘惑を受けます。最初の二つは「お前が神の子なら、石をパンにかえて、空腹を満たしてみろ」

というのと、「お前が神の子なら、エルサレム神殿の屋根の上から神殿の背後にまっさかさまに切り落ちている谷に向かって身を投げて、天使に助けさせてみろ」というものでした。イエス様は多くの人の不治の病を治したり、自然の猛威を静めたりする奇跡を行える神のみ子です。だから、パンを石に変えたり、谷に身を投げて天使に飛んできてもらうことなど容易に出来たはずです。それなのになぜ、これらのことをせず、あえて凄まじい空腹を選ばれ、また目のくらむような高い所にとどまることを選んだのでしょうか?

それは、もしそうしていれば確かに神のみ子の力を見せつけることができたでしょうが、しかしその瞬間、イエス様は悪魔が命令したからこれらのことをした、ということになってしまい、これらの奇跡を行った瞬間に悪魔の意思に従うことになってしまうからです。悪魔がやれと言ったからやったことになってしまうのです。凄まじい空腹や危険の恐怖という弱みにつけこんで、どうだ、そこから逃れたいだろ?お前が神の子ならわけないだろ、それとも逃れられないのか?だったらお前は神の子でもなんでもないんだ、と巧みに追い詰めていったのです。しかし、イエス様は悪魔の言う通りにはしないということを貫きました。たとえそれが空腹と恐怖の中に留まることを意味しようとも。

三つ目の誘惑は、イエス様に世界の国々とそれらの豪華絢爛を全て見せた上で、もし俺にひれ伏せば、これらを全部お前にやろう、というものでした。しかし、イエス様はこれにも応じませんでした。この誘惑をはねつけたことは、先の二つに増して、私たち人間の救いにとって決定的な意味を持ちました。というのは、イエス様は荒野の試練の直前にヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を授かったばかりでした。その時、神の聖霊が降り、また神のみ子であるとの認証を神から受けていました(マルコ1章10ー11節)。それで、もし、その神の子が悪魔にひれ伏してしまったならば、神の子が受けた神の霊もひれ伏したことになります。こうして神と同質である神の子と神の霊が悪魔よりも下であれば、もはや神そのものも悪魔の下になったのも同然で、そうなれば天上でも地上でも地下でも悪魔より強い者は存在しなくなります。しかし、そうはなりませんでした。イエス様は、豪華絢爛などいらない、だからお前にひれ伏すこともしない、ときっぱり拒否したのです。こうして天上でも地上でも地下でも神の権威は揺らぐことなく保たれました。実に際どい瞬間でした。

4.聖書の御言葉は悪魔の攻撃を撃退する力に満ちている

それでは次にイエス様はどのようにして悪魔の誘惑に打ち勝ったかをマタイとルカの記述に即してみていくことにします。結論から言うと、誘惑をはねつけて悪魔を退散させるのにイエス様は聖書(旧約)の神の御言葉を武器に用います。

まず、「神の子なら、石をパンに変えて空腹を満たしてみろ」という誘惑に対しては、イエス様は申命記8章3節の御言葉ではねつけます。その箇所の全文はこうです。「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」出エジプト記のイスラエルの民はシナイ半島の荒野の40年間、まさに飢えない程度の食べ物マナを天から与えられて、神のみ言葉こそが生きるための本当の糧であることを身に染みて体験します。従って、この申命記の言葉は空虚な言葉ではなく経験に裏付けられた真実の言葉です。それなので、もし悪魔が空腹の満たしのような人間の最も基本的な必要に訴えて私たちを自分の言いなりにしようとしたら、私たちもこの申命記の言葉を突き出して悪魔に対して次のように言い返すことができます。「悪魔よ、私の命はパンがある時もない時も常に神の御言葉を拠りどころとして立つのだ。パンがあっても御言葉がなくなってしまったら、それはもう私の命ではない。このことをお前はこの御言葉から思い知るがよい。」

次に、悪魔がイエス様に神殿の上から飛び降りて天使に助けさせてみろと誘惑した時、今度は巧妙にも聖書の御言葉を使います。それは詩篇91篇11ー12節です。「主はあなたのために、御使いに命じてあなたの道のどこにおいても守らせてくださる。彼らはあなたをその手にのせて運び、足が石に当たらないように守る」。神の御言葉にそうあるのだからその通りになるだろ、だから飛び降りてみろ、と言うのです。

それに対してイエス様は、申命記6章16節をもって誘惑をはねつけます。それはこういう箇所です。「あなたたちがマサにいたときにしたように、あなたたちの神、主を試してはならない。」この「マサにいたときにしたように」というのは出エジプト17章にある出来事で、イスラエルの民が荒野で飲み水がなくなって指導者モーセに不平不満を言い始め、神に水を出すよう要求した事件です。実に荒野の40年間、イスラエルの民は困難に遭遇するたびに、すぐ神に不平不満をぶつけました。彼らは神の奇跡の業を何度も目にしてきているのに、新たな困難が生じる度に右往左往し、すぐ要求が叶えられないと神を疑い、「言うことを聞いてくれないなら、もうエジプトに帰ってやるから」と、それこそ神の堪忍袋と言うか忍耐力を試すようなことばかりを繰り返してきました。申命記6章というのは、イスラエルの民がやっとシナイ半島からカナンの地に移動するという時、神が40年の出来事を振り返って、あの時のように「神を試してはならない」と命じるところです。

それでは、私たちは困難に直面したらどうすればよいのでしょうか?希望した解決がすぐ得られない時、どうすればよいのでしょうか?その時は、ただただ神に信頼して、神は必ず解決を与えて下さると信じること。たとえ祈って与えられたものが自分の意にそぐわないものでも、それを神の導きとして受け取る、それくらいに神を信頼するということです。この申命記6章16節の御言葉を用いたイエス様の生き方こそ、こうした神への深い信頼を示しています。

実を言うと、イエス様の神への深い信頼は、悪魔が誘惑用に使った詩篇91篇全体の趣旨だったのです。この篇の最初をみると次のように言われています。「主に申し上げよ、『わたしの避けどころ、砦。わたしの神、依り頼む方』と。神はあなたを救い出してくださる。仕掛けられた罠から、陥れる言葉から」(2ー3節)。このような神に対する深い信頼がある限り、神の守りや導きを疑って神を試す必要はなくなります。悪魔は、詩篇91篇全体に神への深い信頼が貫かれていることを無視して、真ん中辺にある天使の守りの部分だけをちょこっと文脈から取り外してイエス様に投げつけたわけです。まさしくコピー・アンド・ペーストです。しかし、そんなやり方で真理と張り合えるなどと思うのは愚の骨頂です。それにしてもコピペというのは真実のかけらを大いなるウソの塗り固めに用いてしまうものです。悪魔的な業と言ってもいいかもしれません。そういうわけで兄弟姉妹の皆さん、私たちがウソを見破ることができて真理にどまることができるように日々の聖書の繙きを怠らないようにしましょう。

さて、三つ目の誘惑「世界の支配権と豪華絢爛と引き換えに悪魔の手下になれ」に対して、イエス様は申命記6章13節の御言葉を突きつけて誘惑をはねつけます。その御言葉は「あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい」というものです。「神を畏れる」というのは、聖書の中で最も大切な教えの一つです。それは、神をまさに天と地と人間を造り人間に命と人生を与えた造り主として仰ぎ、天においても地においても神より力ある者は存在しないと畏れ敬うことです。たとえ神の力が働いていないように見える時でも、目に見えて働いている時と同じくらいに神は全てに優る力を持つ方であると畏れることです。神より力ある者は存在しないというのは、神に敵対する者からすれば恐怖以外の何ものでもなく、そのような者は神から逃避しなければなりません。しかし、神と平和な関係にある者からみれば、神よりも力あるものはいないのだから、神以外に何も恐れるものはなく、神のもとにいて大きな安心を得ることが出来ます。

悪魔の下に服して神に敵対するようになってしまったら、たとえこの世の支配権と豪華絢爛を手にしていても、それが何の安心になるでしょうか?たとえ、この世で権力と富を維持拡大できても、神に敵対していれば、この世から死んだ後は最後の審判の日に、永遠に止まない滅びの中に投げ込まれます。そこには権力も富も持ち運ぶことはできません。しかし神と平和な関係にある者はこの世にいる時は順境の時も逆境の時もいつも大きな安心が伴っています。この世を去った後はそれこそ手ぶらで大きな安心の源である神のもとに永遠に迎え入れられます。それがわかれば、悪魔がやると言った権力や富はなんと頼りない儚いものであるかがわかります。そんなもののために神との平和な関係を捨ててみろなどとは、悪魔はなんと情けないことを聞くのでしょうか?

5.イエス様が天使の守りを遠ざける時

以上のように、イエス様は聖書にある神の御言葉を用いて悪魔の誘惑をはねつけました。これからもわかるように、神の御言葉は悪魔の攻撃を撃退する力を持っています。私たちも聖書の御言葉をよく学び、その力に服するようにしましょう。

さて、悪魔はイエス様のもとから退散しましたが、イエス様は今度は野獣のただ中にいて、天使に仕えられて守られた状態に入りました。これは、ユダヤの荒野にいた時の状況だけでなく、その時から始まって十字架の受難の道に入るまでの全ての状況を含むと考えてよいでしょう。どうしてかと言うと、この「野獣の危険と天使の守り」というのはよく見ると、先ほど見た詩篇91篇で言われていることの実現だからです。つまり、神は天使を通して守ってくれるということの実現です。このことを少し詳しくみてみます。悪魔が愚かなコピペをした11ー12節の中で天使の守りについて言われていました。それに続く13節には野獣の危険から守られることが言われているのです。11節から13節まで全部見てみましょう。

「主はあなたのために、御使いに命じてあなたの道をどこにおいても守らせてくださる。彼らはあなたをその手にのせて運び、足が石に当たらないように守る。あなたは獅子と毒蛇を踏みにじり、獅子の子と大蛇を踏んでいく。」

悪魔から誘惑を受けている時のイエス様は、悪魔の魂胆を見抜いたので、天使を呼び寄せて自分を助けさせることはしませんでした。あたかも天使たちに次のように命じた如くです。「天使たちよ、お前たちは今は来なくて良い。私は神の御言葉で悪魔に打ち勝つから心配はいらない。もしお前たちが来たら、私が助かった瞬間に私は悪魔に従ったことになってしまう。」そして、イエス様は、見事に一人で悪魔に打ち勝ちました。悪魔が退散した後で、野獣の危険の中に入りましたが、今度は天使たちに来るのを許して仕えさせたのです。ユダヤの荒野でも、またその後でガリラヤ地方にいた時も、いろいろな危険が身に迫りましたが、イエス様は天使に仕えられ守られていました。

ところが、十字架の受難が始まると、イエス様は守りが全くない状態に陥ってしまいました。イエス様が逮捕された時、弟子のある者が剣を抜いて官憲に抵抗しようとしました。これに対してイエス様は、剣をさやに納めろと命じて言いました。「わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は12軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう」(マタイ26章53ー54節)。つまり、イエス様は天使の軍勢の助けを得られる可能性を持ちながら、あえてそれを用いず、逮捕されるにまかせたのです。なぜでしょうか?

それは彼自身が言った通り、聖書の預言が実現するためでした。それは、創造主である神が計画した人間救済計画を実現することでした。罪がもたらす永遠の滅びから人間を救い出すことでした。この救いを実現するために、神のひとり子が私たちの身代わりとなって神罰を受けられて十字架の上で死なれました。まさに私たちのために罪の償いを神に対して果たして下さったのです。もしイエス様が天使の軍勢を呼び寄せて十字架の死を回避してしまったら、人間の救いは起こらなかったのです。それでイエス様は、あえて十字架の道を選ばれたのです。ちょうど本日の福音書の出来事のように、本当は回避出来るけれども、悪魔の言いなりにならないために、あえて空腹と恐怖を選んだのと同じです。

6.キリスト信仰者の鉄壁の防御

以上から、イエス様は悪魔の誘惑の試練の時と十字架の受難の時に天使の守りを遠ざけたことが明らかになりました。このことが私たちキリスト信仰者にとってどんなに大きな意味を持つことかを見てみましょう。

荒野で悪魔の誘惑をはねつけた時、イエス様は天使の守りを求めず、聖書の御言葉をもってはねつけました。このように聖書の御言葉は悪魔の攻撃を撃退する力を持っているのです。ただし、御言葉がコピペのような使われ方、つまみ食いのような使われ方をしないで、御言葉をそれがある文脈に沿って正しく理解した時に撃退力は発揮されます。それなので、聖書を日々繙いて主日は説教を聞き、他の日は自分で少しずつでも聖書に習熟するようにすることが肝要です。キリスト信仰者は聖書の御言葉という強力な守り手を持っているのです。

次に、イエス様は天使の守りを求めないで、十字架の受難の道に入られました。そのおかげで神に対する私たちの罪の償いが果たされて、神罰が私たち人間に下されないですむ道が開けました。これで、神と人間の間を引き裂いて敵対関係に追い込もうとする悪魔の目論見は破綻してしまったのです。人間はイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると彼が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになります。それと同時に悪魔の目論見の破綻もその人にその通りになります。

このようにキリスト信仰者は悪魔の攻撃を撃退する力に満ちた御言葉を持っています。また洗礼を通して罪の償いと悪魔の破綻が身に備わっているのです。主にあって兄弟姉妹の皆さん、このことを忘れないようにしましょう。キリスト信仰者というのは洗礼を通して、復活の体と永遠の命が待っている神の国に向かう道に置かれてそこを進む者です。そこで何者かがその歩みを妨げようとしても、私たちには御言葉と罪の赦しと悪魔の破綻があるのでそれらを撃退できるのです。しかも、キリスト信仰者には守りの天使も付いています。ヘブライ1章14節で言われるように、天使というのは、神の国への迎え入れに向かって進む者たちに仕える霊だからです。

しかし、次のように言う人もいるかも知れません。何者かが神の国への歩みを妨げようとしたら、それを撃退するものが自分に備わっていることはわかった。しかし、信仰者の内に神の意思に反しようとする罪がある。自分の内にあるものが歩みを妨げる時はどうすればよいのか?それへの答えはいつも説教でお教えしていますが、いつも神のもとに立ち返って罪の告白をして赦しを頂くことを繰り返すことです。それを繰り返せば繰り返すほど、内に留まる罪は日々圧し潰されていきます。次のルターの教えを聞けば、キリスト信仰者は外側も内側も鉄壁の防御で守られていることがわかるでしょう。

「罪、高慢、利己心、憎むことその他これらに類することが我々の内にぶら下がっている。しかし、そうしたものは我々を信仰の中で成長させるためにあるのだ。我々の信仰が日に日に前に進み、最後に完全なキリスト信仰者になれるためにあるのだ。その時我々はキリストの懐に飛び込んで御国の祝宴の席につくことができる。

海の荒波を思い浮かべるがよい。大きな波が次から次へと岩に打ちつける。それはさながら、力づくで岩を打ち砕こうとするかのようだ。しかし、打ち砕かれるのは波の方で、岩に当たった後は退いて消えてなくなってしまう。罪もこれと同じだ。罪が我々の頭上から襲い掛かり、我々を絶望へと追いやろうとする。しかし、退散しなければならないのは罪の方であって、それは最後には消散してしまうのである。」

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

 

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特別の祈り

全知全能の父なるみ神よ。

どうか、私たちが聖書を繙(ひもと)く時、御言葉を通してあなたの私たちに対する御心をお示しください。聖書の中であなたが約束されていることを私たちが信じて、アブラハムのようにあなたから義と認められ、あなたと平和な関係のうちに生きられるようにして下さい。

あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストのみ名を通して祈ります。アーメン

2021年2月14日(日)主の変容主日 主日礼拝 司式・説教 吉村博明SLEY(フィンランド・ルーテル福音協会)宣教師

主日礼拝説教 2021年2月14日 変容主日

列王記下2章1節-11節

第二コリント4章3-6節

マルコ9章2-10節

説教題 「復活とは変容なのだ」

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1. 本日は教会の暦では1月に始まった顕現節が終わって、来週からイースター/復活祭へと向かう四旬節の前の節目の日です。毎年この日に定められた福音書の日課はイエス様が高い山の上で「姿が変わった」(9章2節)という出来事についての個所なので、「姿が変わった」、「変容した」ということで変容主日とも呼ばれます。イエス様の「変容」は、ギリシャ語の原文では正確には受動態ですので「変容させられた」です。誰によってさせられたかというと万物の造り主である神によってです。新約聖書のギリシャ語では受動態の形で「誰によって」がない時は大抵の場合は神を指します。神を名指しすることは畏れ多いのであえて言わないのです。そういうわけで、イエス様は父なるみ神の力で変容させられたのです。これと同じことはイエス様の死からの復活にも当てはまります。普通は「復活した」と言いますが、原文では受動態なので「復活させられた」、つまり神の想像を絶する力で復活させられたのです(後注)。しかも、復活した後の体はそれまでの肉の体と異なっていました。どんなふうに異なっていたかはイースターの時にお話しすることになるでしょう。

キリストの変容“The Glory of Christ” by Lawrence OP is licensed under CC BY-NC-ND 2.0

イエス様の変容はどのようなものであったかと言うと、衣服が非常に白く輝いたことが言われています。マタイ福音書の同じ出来事を扱った個所を見ると(17章2節)、衣服だけでなくイエス様の顔が太陽のように輝き始めたとあります。ルカ福音書では(9章29節)、やはり衣服だけでなく顔のみかけが別物だったと記されています。マルコ福音書で言われているのは衣服だけですが、最初に「変容させられた」(2節)と言って、その後で衣服が白く輝きだした(3節)と言っているので衣服以外の部分も変わっているのは明らかです。ただ、衣服の白さの輝きがあまりにも尋常ではなかったので、マルコはそれを特筆したのでしょう。

この高い山の上での出来事はマルコ、ルカ、マタイの3つの福音書に取り上げられていて大筋は同じです。細部は異なっていますが、それは、福音書記者それぞれの視点があって、これを強調したい、これはしなくてもいい、ということがあるからです。そういうわけでこの出来事の本日の説き明かしは、マルコの視点に立ったものになります。

ここで言われる「高い山」について。毎年お話ししていますが、ヘルモン山という現在のシリアとレバノンの国境にある2,814メートルの山であるのは間違いないでしょう。どうして特定できるかと言うと、マルコ8章27節にイエス様と弟子たちの一行がフィリポ・カイサリア近郊まで来たとあります。そこから本日の個所まで地理的な移動は述べられていません。もし一行がまだ同地方に滞在していたとすれば、この高い山はフィリポ・カイサリアの町から30キロメートル北に聳えるヘルモン山の可能性が大です。

ここのギリシャ語原文を見るといろいろ面白いことに気づきます。例えば、新共同訳では「ペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた」と訳していますが、「登る」という動詞は使われていません。正確には「イエス様は3人を運び上げた」です。イエス様が3人をおんぶしたみたいですが、実際は疲れた3人を励まし続けたか、なんで俺たちにこんなきついことをさせるのか不平不満があって叱咤し続けたのか、とにかく足取り重い弟子たちをなんとか頂上まで引き連れたのが「運び上げた」ということだったのでしょう。

ここでヘルモン山の登山がどれだけ大変なものか思い巡らしてみましょう。フィリポ・カイサリアは海抜300メートル位のところなので、頂上まで標高差は2,500メートル位あります。登山する人ならどれ位の時間とエネルギーを使うかすぐわかるでしょう。私の家族はしょっちゅうと言っていいほど高尾山に登ります。麓の高尾山口から標高599メートルの頂上まで標高差は400メートル位で、それを1時間のペースで登るとかなり汗だくになります。ヘルモン山はそれを6回繰り返さなければならないので本当に大変です。ちなみに私は高校時代によく山登りしたのですが、北アルプスの剣岳を早月尾根という尾根から登ったことがあります。標高差2,200メートルです。若かった当時は休憩含めて10時間かからなかったと思います。しかも連続する岩場のスリルと目を奪う壮大な眺めのおかげで文字通り登山の醍醐味を堪能でき、それで疲れたという記憶もありません。

ところが3人の弟子たちの場合は別に登山が趣味でもなく、しかも目的も告げられていないので、何でこんな疲れることをしなければならないのかという雰囲気になったことは容易に想像できます。イエス様はこれから山の上で起こることを後々のために見届けさせようとしたのでした。何を見届けさせようとしたのか?それは一言でいうと、復活とは変容であるということです。高い山でのイエス様の変容の出来事はこのことを私たちに教えているのです。今日はそのことをマルコの視点で明らかにしていきましょう。
 

2.山の上でイエス様が変容した時、マルコの注意を最も引いたのは、イエス様の着ている服が非常に真っ白に輝いたということでした。どうして服が白く輝いたことが「変容」の出来事の中で最も注意を引いたのでしょうか?それは続きの文を見ればわかります。「この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった」とあります(9章3節)。「さらし職人」というのは、衣服や布の汚れや余計な色を洗い落として純白にする職業の人です。今で言えば、漂白ということでしょう。当時はどのように漂泊したのか特に調べませんでしたが、いずれにしても古代世界においても衣服や布を純白にする専門家がいたということです。ここで重要なのは「この世のどんなさらし職人」もできないくらいに白く輝いたということです。イエス様が放った白い輝きはこの世的でない白さ、天上の白さだったということです。イエス様は乙女マリアから肉体を伴って人間として生まれたけれども、この時は神の力で神聖な神のひとり子としての神聖な姿形に変えられていたのです。神の御許にいるのに相応しい姿形です。

イエス様がこの世的でない天上の白さで輝いた時、それは私たち人間がどれだけそのような白さから遠ざかった存在であるかを如実に示した瞬間でもありました。私たち人間は神の御許にいるのに相応しくない存在であるということです。どうしてそうなのかと言うと、創世記の最初に記されているように最初の人間が神の意思に反しようとする性向、それを聖書では罪と呼びますが、それを持ってしまったために神聖な神の御許にいられなくなって神との結びつきを失ってしまったのです。もちろん、この世には悪い人だけでなく良い人も沢山います。しかし、創世記2章17節と「ローマの信徒への手紙」5章に記されているように、最初の人間が罪を持つようになったことが原因で人間は死ぬ存在になってしまいました。それで、人間は代々死んできたように、代々みんな罪を汚れのように受け継いできたのです。

人間が罪の汚れから洗い清められ、神の目に相応しいものとなって最終的に復活の日に復活を遂げて神聖な神の国に迎え入れられるようになるためには、神の神聖な意思に完全に沿うようになっていなければなりません。しかし、それは不可能なことです。どうしてかと言うと、神の神聖な意思を表しているものとして十戒の掟があります。しかし、それは、使徒パウロがローマ7章で明らかにしているように、人間が神の目に相応しいと認めてもらうために実行していくものではありません。そもそも完全に守り切ることなど人間には出来ません。そうではなくて、人間が神の神聖な意思からどれだけ遠ざかった存在であるかを思い知らせる鏡なのです。詩篇のなかでダビデは神に「わたしの咎をことごとく洗い、罪から清めて下さい」(51章4節)、「わたしを洗ってください 雪よりも白くなるように」(9節)と嘆願の祈りを捧げています。これからも明らかなように人間の罪の汚れからの洗い清めは、もはや神の力に拠り頼まないと不可能なのです。

それでは神は人間を洗い清めて下さるのでしょうか?もちろん、洗い清めて下さいます。どのようにしてでしょうか?それは次のような次第で行われました。神はひとり子のイエス様をこの世に送り、本来人間が受けるべき罪の神罰を全てイエス様に負わせてゴルゴタの十字架の上で受けさせて死なせました。イエス様が罪の償いを私たち人間に代わって神に対して果たして下さったのです。そこで人間はこのことが本当に起こったのだとわかってイエス様を自分の救い主であると信じて洗礼を受けると罪の償いがその人にその通りになります。罪を償ってもらったので神から罪を赦された者として見なされるようになります。パウロがガラテア3章27節とローマ13章14節で言うように、洗礼を受けた者はイエス様を衣のように頭から被せられるのです。父なるみ神は私たちを見る時、私たちの内に残っている神の意思に反しようとする罪よりも、私たちに纏われたイエス様という純白な衣の方に目を向けようとされるのです。

イエス様は十字架の上で私たちの罪を償う身代わりの死を遂げただけではありませんでした。3日後に神の想像を絶する力によって死から復活させられて、死を超えた永遠の命があることをこの世に知らしめ、そこに至る門を私たちに開いて下さいました。それで、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者は永遠の命が待っている神の国に至る道に置かれて、イエス様の純白な衣を着せられて歩み出すこととなったのです。

 

3.イエス様という純白な衣を頭から被せられたと言っても、私たちの内にはまだ神の意思に反しようとする罪が残っています。イエス様の犠牲のおかげで罪を赦された者と見てもらえ、神の目に相応しい者にしてもらったとは言っても、それに相応しくないことが自分に沢山あることに気づかされます。人を傷つける行いや言葉は出さないようには出来ても、心の中で思ったりしてしまいます。神の意思についてイエス様は心の中まで問われると指摘しました。また、どんなに注意しても、人間的な弱さがあったり隙をつかれたりして罪が言葉や行いになって出てしまうこともあります。そのような時はイエス様の衣を汚したとして取り去られてしまうのでしょうか?もう神の目から見て一生失格者なのでしょうか?

そうではないのがキリスト信仰なのです。罪の思いを持ってしまった時、罪の言葉や行いを出してしまった時、その事実から目を背けずにそれを神の意思に反する罪と認めて次のように神に祈ります。「父なる神さま、せっかくイエス様が罪を償って下さったのにそれを台無しにするようなことをしてしまいました。イエス様を救い主と信じますので、どうか赦して下さい。」さあ、神はどう出るでしょうか?神は次のように言われます。「お前がわが子イエスを救い主と信じていることはわかった。お前の心の目をゴルゴタの丘の上に立つ十字架に向けよ。お前の罪の赦しはあそこで打ち立てられてそれは今も微動だにしない。イエスの犠牲に免じてお前の罪を赦す。だから、これからはもう罪を犯さないようにしなさい。」そう言って私たちを新しく送り出して下さるのです。その時私たちは復活された主が墓を後にして出て行ったように私たちも新しい歩みを始めるのです。

キリスト信仰者の人生はこのような罪の告白と赦しの繰り返しです。それを断ち切らないで続けることがイエス様の純白の衣を纏い続けることになります。たとえ罪が内に残っていても、神の方を向いて罪の告白と赦しを繰り返すことでイエス様の衣を手放さなずにしっかり纏い続けていくと、罪は衣の神聖な重みで日々圧し潰されていきます。そして、いつの日か神の御前に立たされる時、自分の人生は罪が内に残っていた人生だったかもしれないが、イエス様の衣を最後まで手放さなかったことで罪を圧し潰す側に立って生きていたことが明らかになります。神はこれをよしと認めて下さるのです。これがキリスト信仰者に下される審判です。この世で罪を圧し潰す側に立って生きると、馬鹿にされたり爪はじきされたりすることが多くなります。でも、それは間違いではなかったと復活の日にはっきりします。その時、信仰者にはもう圧し潰す罪がなくなっています。外側だけでなく内側も純白になって変容を遂げているのです。

 

4.ここでイエス様が3人の弟子たちに山の上で見たことを自分が復活する時まで人に話してはいけないと命じたことについて考えてみます。これは実は本日のテーマである、復活と変容の関係に関わります。なぜイエス様はそのようなことを命じたのでしょうか?

先週の説教でも触れたことですが、イエス様が自分は何者であるかとか、自分が奇跡の業を行った時とか、そういうことを他の人に知らしてはいけないと命じたことが沢山あります。これについて、W.ヴレーデというドイツの歴史聖書学者が120年前に発表した学説が今でも影響力を持っているということをお話ししました。ヴレーデの説は、マルコは福音書を書いた時、イエス様は自分の正体を復活の日まで秘密にするように命じ、その日に全てが明らかになるような仕掛けで福音書を書き上げたというものでした。彼の学説には沢山の反論もあり、私も与しない立場ですが、それならばイエス様のかん口令はどのように説明できるのか、これを説明できなければなりません。先週は悪霊に対するかん口令を説明しました。今日は3人の弟子たちに対するかん口令です。今日のは特にイエス様が自分の復活の時まで話してはいけないと言うので、ヴレーデの説明が一番響くところです。この個所をマルコの創作ではなく、イエス様が実際に話された言葉としてみたら、どのように説明できるでしょうか?

イエス様が自分の復活の時まで話してはいけないと命じた時、弟子たちは復活とは一体何なのかわからなかったとあります(10節)。弟子たちがわからなければ他の人たちもわからなかったでしょう。復活というものがわからない段階で山の上の出来事を知らせるのは時期尚早、イエス様が復活を遂げて復活というものが起こるのだとわかった段階で知らせたら復活がわかるようになるということです。つまり、イエス様の復活の後ならこの出来事は復活の理解に資するが、復活の前では資さないということです。さあ、どういうことでしょうか?

この問いに答えられるためにモーセとエリアの出現について考えることが役立ちます。遥か昔の時代の預言者が突然現れたというのは、これは幽霊でしょうか?そうではありません。二人は神の御許から送られてきたのです。ここは少し複雑なところなので、よく注意して聞いて下さい。聖書の観点では人間がこの世を去った後に神の国に迎え入れられるというのは、今の世が終わって神が新しい天と地を創造される時になってからのことです。その時までは亡くなった人たちは神のみぞ知る場所にて安らかに眠っています。その眠りから目覚めさせられるのが復活です。

ところが聖書には、そういう将来の復活の日を待たずに神の御許に迎え入れられた人たちがいることが言われているのです。本日の旧約の日課に出てくるエリアがその一人です。モーセの場合は少し微妙で、申命記34章では「死んだ」と言われていますが、彼を葬ったのは神自身で、その葬られた場所は誰にもわからないという謎めいた最後の遂げ方です。それでモーセの場合も、この世を去る時に神の力が働いて通常の去り方をしないで、復活の日を待たずして神の御許に迎え入れられたと考えられます。その証拠に彼はエリアと一緒に神の御許からヘルモン山頂に送られてきました。これは、もう幽霊などという代物ではありません。このように、聖書の観点ではこの世を去った人は原則として復活の日までは神のみぞ知る場所で安らかに眠るのが筋です。ただ、例外的に復活の日を待たずに神の御許に迎え入れられた者もいるということです。

さて3人の弟子たちは目の前に現れたエリアとモーセを見てどう思ったでしょうか?イエス様が復活された時、突然弟子たちの前に現れて弟子たちは幽霊だと思って大騒ぎになりました。イエス様は自分は幽霊ではないと言って、新しい復活の命を持つ自分を示して弟子たちを納得させました。しかし、イエス様の復活が起きる前のヘルモン山の上で弟子たちはまだ復活について何も知りません。彼らにとってエリアとモーセはやはり幽霊だったのではないかと思います。しかし、この二人は本当は既に神の御許に迎え入れられた者として現れたのです。その証拠に、ルカ9章31節を見ると、二人は「神の栄光に包まれて現れた」と言われています。幽霊にはそんな神の栄光などありません。それなので、幽霊として出てくるというのは、神の御許からではないので、私たちは一切関りを持たないように注意しなければなりません。それは万物の造り主である神の意思でもあります。なぜかと言うと、旧約聖書の多くの個所で神は死者の霊とのコミュニケーションを禁じているからです(レビ19章31節、申命記18章11節、サムエル上28章、列王記上21章6節、イザヤ8章19節)。日本人には痛いところかもしれませんが、これが聖書の立場なのです。

さあ、3人の弟子たちの驚きと恐れはいかほどのものだったでしょうか?神は死者の霊とのコミュニケーションを禁じているのに、なんとイエス様はエリアとモーセと話をしているではないか!しかし、イエス様は天上の純白さで輝き、エリアとモーセも神の栄光に包まれている。これは幽霊ではない。じゃ、一体何なんだ!という具合にです。でもこれは、私たちも復活を遂げたらエリアとモーセのように神の栄光に包まれた者に変容させられて、天上の純白さに輝くイエス様とお話ができるという、自分たちの未来像が示されていたのです。これは本当に、死からの復活、死を超えた永遠の命があることがわからないと未来像として受け取ることは不可能です。だからイエス様の復活の後でなければわからないことであり、人々に正しく伝えられるためには主の復活を待たねばならなかったのです。

 

5.最後に山上に現れた雲についてひと言述べておきます。登山する人は高い山では天候があっと言う間に急変すること、例えば、ちょっと前まで晴れていたのが冷たい空気が流れ始めるといつの間にか周囲は霧で真っ白になることを知っています。登山用語でガスと言いますが、それは麓から見たら山にかかる雲ということになります。それなので、ヘルモン山上で急に雲が覆ったというのは普通の自然現象としてもあり得ます。普通の自然現象を超えるような雲については出エジプト記の中で述べられています。モーセがシナイ山に登って神から十戒を初めとする掟を受け取った時、山は厚い雲に覆われました。出エジプト記33章を見ると、モーセが神の栄光を見ることを望んだ時、神は人間は誰も神の顔を見ることは出来ない、見たら死んでしまうと言われました(18~23節)。これが神聖な神を目の前にした時の人間の立ち位置です。被造物にすぎない私たちはこのことをわきまえていなければなりません。

そういうわけでシナイ山の雲は、生身の人間が神の神聖さに焼き尽くされないための防護壁のようなものでした。ヘルモン山上でのイエス様の変容の時も、神がすぐ近くまで来ていたとすれば、雲は同じようにペトロたちを守るものだったと言えます。そして、私たちが復活を遂げて肉の体にかわる、神の栄光を映し出す復活の体を着せられる時、私たちも変容させられたのであり、その時はもう防護壁はいりません。パウロが第一コリント13章12節で言うように、「そのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる」からです。まさに復活とは変容のことなのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

(後注)復活を意味する動詞はεγειρωとανιστημιがあり、受動態で使われるのは前者です。

特別の祈り

全知全能の父なるみ神よ。

あなたはあの高い山でイエス様が変容(へんよう)した時、彼に聞き従え、とお命じになりました。どうか私たちが、イエス様のおかげで天のみ国を受け継ぐことが出来るようになったことを常に覚えて感謝し、彼の教えられたことを喜んで行えるようにして下さい。

あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストのみ名を通して祈ります。アーメン

 

 

 

2021年2月7日(日)顕現後第5主日 主日礼拝 司式・説教 吉村博明SLEY(フィンランド・ルーテル福音協会)宣教師

主日礼拝説教 2021年1月31日 顕現節第四主日

イザヤ40章21-31節

第一コリント9章16-23節

マルコ福音書1章29-39節

説教題「神の国に向かって進む者は疲労しても必ず回復する」

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.カファルナウムの長い一日

今日の福音書の個所を読んだ皆さんは、ここにある出来事は先週の出来事の続きで全部が一日の内に起こったことと分かったでしょうか?実にたくさんのことが一日の内に起こりました。少し遡ってみてみますと、イエス様はヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けて、その後で荒野で悪魔から試練を受けてこれに打ち勝ちます。その時、ヨハネがガリラヤ地方の領主ヘロデ・アンティパスに捕らえられたという知らせを聞き、イエス様はガリラヤに乗り込んで行きます。そこでまずペトロとアンドレの二兄弟とヤコブとヨハネの二兄弟を弟子にして付き従わせます。そして、ガリラヤ湖畔の町カファルナウムにやって来て、安息日に会堂に行って教えを宣べます。この安息日に沢山のことが起こったのです。会堂にいた人々はイエス様の教えに律法学者にはない権威を感じ恐れ入ります。丁度その時、会堂にいた悪霊に取りつかれた人が叫びだし、イエス様はその人から悪霊を追い出します。会堂にいた人々はイエス様の教えにはそのような力が伴っていることも思い知ります。この会堂の出来事が先週の福音書の個所でした。この出来事はその日のうちにガリラヤ地方に伝わっていきます。

今日の個所はその続きです。会堂から出たイエス様とペトロ、アンドレ、ヨハネ、ヤコブの4人はペトロとアンドレの家に向かいます。家にはペトロの奥さんの母親が熱を出して苦しんでいました。イエス様は彼女に癒しの奇跡を行います。そして日が暮れて夜になると、なんと、カファルナウムの町中から病気の人や悪霊に取りつかれた人が大勢連れて来られて家の門の前に群れを成したのです。日が暮れた時に連れて来られたというのは、安息日が日暮れと共に終わったからでした。安息日は仕事をしてはいけない日で、病人を運ぶことも仕事とみなされたのです。町の人たちは癒しの奇跡を行う者が現れた、漁師のペトロとアンドレと一緒だと聞いて、日が暮れるや否や一気に押し寄せたのです。

イエス様はそこで大勢の人の病気を治し悪霊を追い出します。会堂に行って教えを宣べて悪霊を追い出してから、本当に長い安息日になりました。本当にお疲れ様でした。さて、癒しや悪霊追い出しが夜通し続いた途中だったのか、あるいは一息ついたところかははっきりわかりませんが、イエス様は夜明け前の一番暗い時にその場を抜け出して人気のないところに行ってそこで祈っていました。すると、ペトロたちがやって来て、人々があなたを探していますと伝えます。早く戻って来て癒してあげて下さいということでしょう。それに対してイエス様は、もっと近隣の町や村に行って教えを宣べ伝えなければならないと言います。そのために自分は家を抜け出してきたのだと言うのです。それでペトロの家には戻らず、ガリラヤ地方の会堂を回って教えを宣べ伝えます。

これを読むと、あれっ、イエス様は少し冷たいな、もう少しペトロの家の所で癒しと悪霊追い出しをしてあげればよかったのになどと思ってしまいます。でも、イエス様にとっては教えを宣べ伝える方が先決だったようです。ところで、新共同訳では「教えを宣べ伝える」と言わないで「宣教する」と訳しています。もとにはκηρυσσωというギリシャ語の単語がありますが、それは「教えを宣べ伝える」という意味です。「宣教する」も同じではないかと思われるかもしれませんが、実はそうとも言えないのです。こんなことがありまして、日本福音ルーテル教会の東教区の中央線沿線の7教会が毎年「一日教会祭」という、各教会がそれぞれのタレントをお互いに披露しあうというイベント行事を市ヶ谷教会を会場にして行っています。昨年はコロナで中止でしたが、2年前の一日教会祭である教会が教会外部のベリーダンス・グループを招いて自分の教会の出し物としてダンスを披露させました。その後で牧師と役員の会合があったのですが、私が、あの出し物は一日教会祭の趣旨に合わないのではと疑問を呈したところ、あれは立派な「宣教」なのだ、そんなこともわからないのか、と呆れかえられてしまいました。私が神学を学んだフィンランドでそういう「宣教」に類する言葉はあるかどうか考えてみたのですが思い当たらず言葉に詰まってしまいました。それ以来、私は「宣教」という言葉を使うのをやめることにしました。「福音の伝道」と言うことにしています。

話が横道に逸れましたが、イエス様が重視した「教えの宣べ伝え」を今日の説教で見ていこうと思います。イエス様が癒しや悪霊の追い出しを軽視したということではないのですが、ただそれらが「教えの宣べ伝え」とどういう関係にあるのかを明らかにする必要があります。

2.イエス様は教えることを優先するが、その教えには力が伴っていた

イエス様が宣べ伝えた「教え」とはどんな教えだったでしょうか?イエス様はガリラヤ地方で伝道活動を開始した時に、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」と宣べました。2週間前の説教でお教えしたことですが、「時は満ちた」というのは「神の人間救済の計画が実行に移される時が来た」という意味です。「神の国は近づいた」というのは、「神の国がイエス様と一緒にすぐそばに来ている」という意味です。「悔い改めよ」とは、「神に背を向けた生き方をやめて神の方を向いて生きよ」と言う意味、「福音を信じなさい」は「旧約聖書にある神の約束がいよいよ実現するという良い知らせを信じなさい」ということです。イエス様の教えの中心にあるものは「神の国」です。人間が「神の国」に迎え入れられるようにするためにはどうしたらよいか?これがイエス様の教えと業の双方を理解する鍵であると言っても過言ではありません。

 「神の国」については本教会の説教でも何度もお話ししましたが、ここでも振り返ってみます。「神の国」は「天の国」とか「天国」とも言い換えられるので、何か空高いどこか宇宙空間に近いところにあるようなイメージがもたれます。しかしそうではなくて、「神の国」は今私たちが目で見たり手で触れたりして、また測定したり確定できる世界とは全く別の世界です。今の私たちには見たり触れたりできない、測定も確定もできない世界です。その世界におられる神が、今私たちが目にしている森羅万象を造られたというのが聖書の立場です。万物の造り主の神は天地創造の後で自分の世界に引き籠ってしまうことはしませんでした。そこから絶えずこちら側の世界に関わりをもってきました。神の関わりの中で最大なものは何と言っても、ひとり子イエス様をこちら側に送って、彼を用いて人間の救いを実現したことでしょう。

そこで、イザヤ書の終わりの方(65章17節、66章22節)や新約聖書のいくつかの箇所(第二ペトロ3章13節、黙示録21章1節、ヘブライ12章26ー29節など)を見ると、今あるこの世は終わりを告げるという預言があります。その時、神は今の天と地にかわって新しい天と地を創造して、そこに唯一残るものとして神の国が現れてくるという預言です。そう言うと、「神の国」すなわち天国はこの世の終わりに現れてくるということになり、あれっ、キリスト教は死んだらすぐ天国に行けないの?という疑問が起きます。実はキリスト教には「復活」の信仰があるので、そうはならないのです。「神の国」に入れるというのは、この世の終わりの時に死者の復活が起きて、入れる者と入れない者とに分けられる、これが聖書の言っていることです。

そうなると、亡くなった人たちは復活の日までどこで何をしているの?という疑問が起きます。これもルターによれば、亡くなった人は復活の日まで神のみぞ知る場所にて安らかに静かに眠り、復活の日に目覚めさせられて神の栄光に輝く復活の体を着せられて神の国に迎え入れられるということになります。

 さて、イエス様は「神の国は近づいた」と言いましたが、それはこの世の終わりが近づいたことを意味したのではありませんでした。イエス様の時代から2000年たった今でもまだ天と地はそのままです。イエス様は神の国の近づきを終末論と違った意味で言っていたのです。どういうことかと言うと、イエス様が行った奇跡の業が神の国の近づきを示していたのです。イエス様は大勢の人たちの難病や不治の病を癒したり悪霊を追い出したり、自然の猛威を静めたり、何千人の人たちの空腹を僅かな食糧で満腹にしたり、とにかく沢山の奇跡の業を行いました。イエス様はどうして奇跡の業を行ったのでしょうか?もちろん困っていた人たちを助けてあげるという人道支援の意味があったでしょう。また、自分は神の子であるといくら口で言っても人間はそう簡単に信じない。それで信じさせるためにやったという面もあります(ヨハネ14章11節)。しかし、人道支援や信じさせるためなら、どうして、もっと長く地上に留まって困っている人たちをより多く助けてあげなかったのか、もっと多くの不信心者をギャフンと言わせてもよかったではないか、なぜ、さっさと十字架の道に入って行ってしまったのか、そういう疑問が起きます。

 実はイエス様は奇跡の業を通して、来るべき神の国がどんな国であるかを人々に垣間見せて味あわせたのです。神の国は、黙示録19章で結婚式の壮大な祝宴にたとえられます。つまり、この世の人生の全ての労苦が最終的に神から労われるところです。また、黙示録21章で言われるように、そこに迎え入れられた人の目から神が全ての涙を拭い取って下さるところです。この涙は痛みだけでなく無念の涙も含まれます。つまり、この世の人生で被った不正義や害悪が最終的に神によって償われ、不正義や害悪をもたらした悪が最終的に報いを受けるところです。このように最終的に労われたり償われたりするところがあるとわかることは大事です。というのは、私たちが何事かを成し遂げようとする時、神の意思に沿うようにやってさえいれば、たとえうまく行かなくとも無駄だったとか無意味だったということは何もないとわかるからです。

 このように神の国とは、神の正義が貫徹されていて害悪や危険や死もない、永遠の平和と安心があるところです。そこで、イエス様が奇跡の業を行った時、病気というものがなく、悪霊も近寄れず、空腹もなく、自然の猛威に晒されることもない状態が生まれました。つまり、イエス様の一つ一つの奇跡の業を通して神の国そのものが人々に接触したのです。まさにイエス様の背後には神の国が控えていたのであり、彼は言わば神の国と共に歩き回っていたのです。この世の自然や社会の法則をはるかに超えた力に満ちた神の国、それがイエス様とセットになっていたのです。

 しかしながら、ここで一つ注意しなければならないことがあります。それは、神の国がイエス様と共に到来したと言っても、人間はまだ神の国と何の関係もなかったということです。最初の人間アダムとエヴァの堕罪の出来事以来、人間は神の意思に反しようとする罪を持つようになってしまいました。それで人間はそのままの状態では神聖な神の国に入ることはできません。いくら、難病や不治の病を治してもらっても、悪霊を追い出してもらっても、空腹を満たしてもらっても、自然の猛威から助けられても、人間はまだ神の国の外側に留まります。また、いくら神の掟や律法を守ろうとしたり宗教的な修行を積んでも、人間は体と心に沁みついている罪を除去することはできません。自ら神聖なものに変身して神と対等になることなどできません。

この罪の問題を解決して人間が神の国に迎え入れられるようにしてくれたのが、イエス様の十字架の死と死からの復活だったのです。私たち人間は、イエス様の十字架と復活が自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、イエス様が十字架の上で果たしてくれた人間の罪の償いがそのまま自分にその通りになります。罪を償ってもらった者になったら今度は神から罪を赦された者と見なされて、永遠の命が待つ神の国に向かう道に置かれてその道を進むことになります。イエス様の死からの復活のおかげで永遠の命への扉が人間に開かれました。キリスト信仰者はそこに至る道を順境の時も逆境の時もいつも変わらず神に守られ導かれて進みます。たとえこの世を去ることになっても復活の日に目覚めさせられて神の国に永遠に迎え入れられるようになったのです。

以上、イエス様は教えを宣べ伝えることをとても大事にしたということと、彼の教えの主眼は人間を神の国に迎え入れられる者にすることであったことを見てきました。イエス様の教えには癒しや悪霊追い出しの力が伴っていましたが、それは神の国が彼と共にあったからということも見ました。

3.悪霊の言うことには耳を貸すな

本日の個所のイエス様の癒しと悪霊追い出しの業の中でひとつ難しいことがあります。それは34節にあります。「イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである。」

これを読むと、悪霊がイエス様のことを知っていたので、イエス様は悪霊に話をすることを許さなかったということになります。これはどういうことでしょうか?悪霊がイエス様のことを知っていて、イエス様が話をすることを許さないというのは既に先週の個所にありました。24節で悪霊が取りついている男の人の口を通して叫びます。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」これに対してイエス様は𠮟りつけて言います。25節です。「黙れ。この人から出ていけ!」ここで「神の聖者」という訳についてひと言申し上げます。「聖者」と言うと「聖者の行進」という有名なゴスペル・ジャズの歌があるので何だか死んだ人みたいに聞こえてきます。それではイエス様が可哀そうです。ギリシャ語原文を見ると「神の神聖な方」です。定冠詞がついているので「神の神聖な方の決定版」です。英語で言えばThe holy one of Godです。「聖者」ではありません。悪霊はイエス様が神の神聖なお方で、悪霊を滅ぼす力があるとわかっていました。それに対してイエス様は「黙れ!」と言って、それを口にしてはいけないと言うのです。マルコ3章でも、悪霊がイエス様のことを「神の子だ」と言って恐れおののき、イエス様はそれを人々に知らしてはいけないと戒めます。これは一体どういうことでしょうか?

福音書を見ると悪霊の追い出し以外にも、イエス様が癒しの業を行った時に誰にも言ってはならないとか、自分が行ったこと自分が神のもとから来た者であることを口外してはならないという場面が多くあります。イエス様のこうしたかん口令について、ドイツの歴史聖書学者のW.ヴレーデという人が1901年という昔に「メシアの秘密」という有名な研究書を出しました。彼によると、マルコ福音書を書いた人は、イエス様が自分の正体を人々に隠し続け、復活の時になって全てが明らかになるという仕掛けで福音書を書き上げたと言うのです。これからわかるように、福音書というのは歴史的事実を伝えるものではなく福音書作者の文学作品という立場です。ヴレーデの学説は長く影響力を持って、学会だけでなく礼拝の説教でもイエス様のかん口令を説明する際によく使われたのではないかと思います。ただし、ヴレーデの説に対する反論も沢山あります。私も賛成しません。それでは、悪霊がイエス様のことを知っていたからイエス様は悪霊が話をすることを認めなかったということは、どうやって説明できるでしょうか?

先週の説教で、悪霊と悪魔の区別についてお話ししました。悪魔・サタンは悪霊の頭、悪霊は悪魔・サタンの手下です(マルコ3章等にあるベルゼブル論争を参照)。悪魔は人間を神から引き離して神罰を受けるように陥れようとします。悪霊は人間に苦しみを与えて救いなどない、神などいないという気持ちに持って行こうとします。ところが、イエス様の十字架と復活の業のおかげで神から罪の赦しを受けられる可能性が打ち立てられました。さらに、永遠の命に至る扉も人間に開かれ神の国に迎え入れられる可能性が打ち立てられました。まさにそのために悪魔と悪霊の企ては破たんしてしまいました。それにもかかわらず両者は機会を捉えては、人間が罪の赦しがあることも神の国への迎え入れの可能性も知らないようにしようとします。仮に知ることになっても忘れるようにしようします。

さて、悪霊がイエス様のことを「神の神聖な方の決定版」とか「神の子」と呼ぶのは、本当にその通りで間違ってはいません。ただそれは信仰告白ではありません。私たちがイエス様のことを「神の子」と呼ぶのは信仰告白です。なぜなら私たちは、イエス様が私たちに罪の赦しと神の国への迎え入れをもたらして下さった、だから彼は真に「神の子」です、と告白するからです。これが信仰告白です。ところが、悪霊の場合は、イエス様が自分たちを滅ぼす力を持っているから「神の子」なのです。これはその通りですが、信仰告白ではありません。なぜなら、人間の神の国への迎え入れということが全然出てこないからです。イエス様が自分は神の神聖な者、神の子であるということを悪霊に話させないようにしたのは、信仰告白と無関係に正体の暴露はするなということです。イエス様と悪霊のやり取りは周りの人たちにも聞こえます。悪霊を黙らせるというのは、それらの言うことに耳を貸してはならないということも意味しています。ここでもイエス様が人間の神の国への迎え入れを大事に考えておられることが見えてきます。

4.神の国に至る道を進む者は疲労しても必ず回復させられる

先ほども申しましたように、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者は、永遠の命が待っている神の国に向かう道に置かれてその道を進むようになります。しかしながら、その道を進むことはいつも楽ではないということが、本日の旧約の日課イザヤ書40章の終わりでも言われます。まず、27節に「わたしの道は主に隠されている、わたしの裁きは神に忘れられた」と嘆きの言葉があります。ヘブライ語原文をもう少ししっかり見ると、「私の歩む道は主の目に届いていない、私の正義は神のみ前を素通りしてしまう」です。父なるみ神に見放されたと思って嘆いているのです。ところが神は、そうではないと、28~31節で言います。「疲れた者に力を与え、勢いを失っている者に大きな力を与えられる。若者も倦み、疲れ、勇士もつまづき倒れようが、主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いていても疲れない。」

「主に望みをおく人」というのは、これも原文に忠実に見ると「主を待ち望む人」です。「主」というのはヤハヴェと書いてあるので、聖書の神のことです。それで「主を待ち望む」と言うのは、「神が救ってくれるの待ち望む」ことです。「神の救いを待ち望む」とは言うまでもなく、復活の日に目覚めさせられて復活の体を着せられて神の国に迎え入れられる、その時を待ち望むことです。その時を待ち望む者は、神の国に向かう道を進んでいる時に疲労しても必ず回復が与えられるということを、このイザヤ書40章の終わりで約束しているのです。主にある兄弟姉妹の皆さん、疲労回復のカギは何と言っても神の国への迎え入れを常に待ち望んでいるかどうかにかかっていることを忘れないようにしましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

 

 

特別の祈り

全知全能の父なるみ神よ。

あなたは、ひとり子イエス様の十字架の死と死からの復活によって、私たちの心の目と耳を開いてくださいました。 どうか私たちが、開かれた目と耳をもって聖書の御言葉が伝える真の希望を見出し聞こえるようにして下さい。 

あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストのみ名を通して祈ります。アーメン

2021年1月31日(日)顕現後第4主日 主日礼拝 司式・説教 吉村博明SLEY(フィンランド・ルーテル福音協会)宣教師

主日礼拝説教 2021年1月31日 顕現節第四主日

申命記18章15-20節
第一コリント8章1-13節
マルコ福音書1章21-28節

説教題 「神は人間が自分の視点を捨てて神の視点を持つように教育する」

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

本日の聖書日課の使徒書第一コリント8章と福音書マルコ1章の箇所は3年前の礼拝説教で説き明かしをしました。その時、これは頭の痛い厄介な個所だと申しました。というのは、マルコの方はイエス様が悪霊を追い出す奇跡を行うところで、悪霊追い出しなどというものは今どき真面目に取り上げるべきものではないと言われてしまうからです。しかし、聖書に書かれていることを単に大昔の人間の作り話なんかではないという立場で見ていきますと、やはりイエス様の悪霊追い出しは避けて通れないテーマです。

もう一つ厄介なのは、コリント8章の偶像に備えられた肉をキリスト信仰者は食べていいのかという問題です。キリスト信仰者が社会の少数派であるところでは似たような問題が起きてきます。この日本でもそうです。コリントの偶像に備えられた肉というのはどういうものか少し振り返ってみます。

コリントは現在のギリシャにある町で、そこにある教会に使徒パウロが手紙を送ったのでした。当時キリスト教は始まったばかりで、どこでも少数派でした。キリスト教が広まる地域は大体、ギリシャ神話の伝統が根強い地域で神話の神々の神殿があちこちにあり、人々はそこにお参りに行きます。当時の肉の食べ方ですが、まず家畜を神殿で生け贄に供えるものとしてそこで屠ります。それを祭事の時にみんなで食べるか、またはマーケットに出して売ります。そういうわけで肉料理と言ったら、宗教儀式を経た肉が使われたということなのです。さあ、キリスト教徒は違う宗教の儀式を経て供えられた食べ物を食してもよいのでしょうか?

第一コリント8章でパウロは、「偶像など存在しない、神々などというものはあっても、神は本当はただ一人のみ、その方が万物を造られたのだ」と言って、万物の造り主としての唯一の神を打ち出します。そういうことを言うと、多神教と言うのか多霊教と言うのか、そういう立場の人は、またキリスト教の独りよがりが始まったと嫌な顔をするかもしれません。

本日の説教は、3年前にお教えしたことを一歩先に進めるような説き明かしになると思います。3年前ははっきり出なかった視点がはっきりします。どんな視点かと言うと、神という方は私たち人間が自分の視点を捨てて神の視点を持つように教育する方だということです。

2.偶像と異教の神々

初めに、偶像に供えられた肉をキリスト信仰者が食べることについてのパウロの教えを見ます。ここでまず、そもそも偶像とは何かということを考えてみましょう。パウロは4節で「世の中に偶像の神などはない」と言っています。しかし、そうは言っても世界には、これは何々神の像である、というような像は無数にあります。その意味で偶像の神はあります。パウロだってギリシャ神話の神々の像があちこちにあることは知っているはずです。なのにどうして、そんなものはない、などと言うのでしょうか?

これは、聖書の神が「生きる」神であることをわかるとパウロの真意が理解できます。旧約聖書のヘブライ語の言い方で、「~をした神は確実に生きておられる」とか「神が確実に生きておられるのと同じ確実さで~が起きる」というものがあります(חי יהוה אשר~)。神が確実に生きておられることの証明として「神は~をしたのだ」と言うのです。その神がした「~」には、例えば「イスラエルの民をエジプトの地から導いた」とか「民をバビロン捕囚から解放して祖国に帰還させた」とか、そういう歴史的に大きな事件が言われます(例としてエレミア16章14、15節)。こうした出来事は神が力を行使して起こったのだ、まさに神が生きていることの証しだというのです。

そこで聖書の中で偶像崇拝を批判する箇所を見ると、偶像は単なる像にしかすぎない、歴史的大事件を起こせるどころか、口があっても話せない、目があっても見えない、耳があっても聞こえない、足があっても歩けない、などと手厳しいです(例として詩篇115篇4ー8節)。つまり、生きている神から見たら偶像は死んでいるのです。それで、偶像は沢山存在するのにパウロが存在しないと言っているのは、「生きている」偶像は存在しないという意味なのです。

ただ、人によっては、何々神の像は見えないということはない、聞こえないということもない、ちゃんと見ておられる聞いておられる、聖書は失礼なことを言うな、と怒るかもしれません。つまり、そうした像が魂を持っていると思って畏敬の念を覚えるのです。像が魂を持っていると思えたら、像は見えている、聞こえている、ということになります。ところが像自体は何を見ているのか聞いているのか、像を作った人間のことをどう考えているのか教えてはくれません。人はどうやって像が見ていること考えていることを知ることが出来るでしょうか?多分、像はこういうことを見ている考えていると自分で思い描いてそれを潜在意識にインプットすれば、夢にでも出て来て教えてくれるかもしれません。

聖書の神が人のことをどう見て考えておられるかということはわかります。まず聖書に記されている神の意思というものを知って、それに自分を照らし合わせて見ると、神の目から見た自分の姿を知ることができます。また神は、私たちの祈りをいつも聞いていて下さり、祈り求めたことの答えや解決を御自分が良かれと思う仕方で良かれと思う時に必ず与えて下さいます。このように人間が自分の姿を知るにしても、祈り求めたことの答えを得るにしても、それはいつも神の視点で起こります。もちろん人間も自分の視点を持ちますが、それはいつも神の視点によって軌道修正させられます。聖書の神は、人間が自分の視点を捨てて神の視点を持つようにと絶えず教育する方なのです。

第一コリント8章に戻りますと、パウロは5節で「天や地に神々と呼ばれるものがいる」と言います。生きた偶像は存在しないが、天や地に霊的なものが沢山あって、それらはみな「神」と呼ばれている、そういう霊的なものは存在することは認めています。これは旧約、新約聖書に共通する見方です。ところが6節をみると、これらの霊的なものは全て天地創造の神に造られた被造物にしかすぎないということが言われます。これも聖書の立場です。他の宗教が聞いたら、自分たちの神が低くランク付けされているようで、あまりいい気持ちはしないでしょう。しかし、聖書は出だしから万物の造り主の神が登場するので、立場上はそうならざるを得ないのです。

3.偶像に供えられた肉を食べないことが愛を示すことになる

偶像や神々というものと聖書の神の違いについて見ました。ここで、キリスト信仰者は違う宗教の儀式を経由してきた肉を食べてもいいのかという問題に入ります。このコリント8章はロジックが分かりにくいと思います。というのは、パウロは一見すると、強い信仰者は食べるが、弱い信仰者は食べない、と言っているようにみえるからです。

人によってはこれは逆なのではないかと思うでしょう。つまり、異教の神々に捧げられた肉なんか死んでも食わないぞ!と頑張るのが強い信仰者で、逆に食べないと周囲からつまはじきされてしまう、だから仕方なくおどおどして食べてしまうのは弱い信仰者ではないかと思われるからです。私が初めてこれを読んだ30年以上も前の時、その頃私に聖書を教えてくれたフィンランドの神学部の学生は言ったものでした。そうじゃないよ、逆だよ、偶像なんか存在しない!異教の神々なんか天地創造の神の前では何者でもない!そういうふうに信じる者は偶像に供えられた肉を物ともせずに食べられる、ところが、食べたら偶像や異教の神々の影響が入り込んでしまうと恐れて食べられないのは、まだそういうものがあると信じているので弱い信仰者なんだよ、と教えてくれたものでした。それを聞いた私は、そういうことならキリスト信仰者は皆、強い信仰者を目指して別の宗教の儀式に関わるものを受け入れて、さらには8章10節に言われているように、その儀式に結びつく宴にも参加できるくらいになれないといけないのか、などと驚いたものでした。

ところが、この説明に私自身しっくりいかないものがあって、なかなか食べられる強い信仰者になろうという気持ちは起こりませんでした。やはり自分は弱い信仰者止まりか、でも弱い信仰者で何が悪い、という気持ちになりました。その後もずっとこの箇所を読むたびに同じ気持ちでした。だって、パウロは弱い信仰者に強くなれとは言っておらず、弱いままでいい、自分も同じように食べないから心配するな、と言っているではありませんか!パウロは、偶像や異教の神々をものともせずに供えの肉を食べられる信仰をいいとか目指すべきとは言っていません。正確を期して言えば、パウロは他宗教の儀式を経た肉を食べる人のことを「強い」とは言っておらず、ただ「知識」を持つ者と言っているだけです。パウロが食べることを推奨する意図がないことは、テキストをよく見ればわかります。

「知識」ということについて、パウロは8章1節で「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」と述べます。ここで言う「知識」は、先ほども述べた生きた偶像など存在しない、神々などあってもそれは全て被造物であるということを知ることです。その知識を持つことが肉を食べる前提になっています。「愛が造り上げる」というのは、キリスト信仰者というのは各自が一つの体の中の一つ一つの部分であって、それぞれがお互いを支え合いかばい合いながら一つの体として成長することを意味します(第一コリント12章12~31節、エフェソ4章16節参照)。パウロは、知識を持つだけでは肉は食べられるが高ぶってしまうと言うのです。それだけでは、お互いを支え合いかばい合う成長は起こらないと言うのです。

続く2節を見ると、「自分は何かを知っていると思う人がいたら、その人は知らねばならないことをまだ知らない」、ギリシャ語原文を直訳すると、その人は知らなければならないようには知っていない(知らなければならない仕方では知っていない)、つまり、自分は知識があると言っている人の知識は神から見たらズレていると言うのです。この1節と2節から、知識を持つ者への厳しい見方が明らかです。知識を持つ者が異教の神に捧げられた肉を食べます。彼らは、生きた偶像など存在しない、神々などはあってもそれは単なる被造物で恐れるに値しない、だから食べても痛くもかゆくもない、と言って食べるのです。

ところが、食べられない信仰者もいる。なぜかと言うと、イエス様を救い主と信じて受け入れる前は、ギリシャの神々の神殿で礼拝していたので、その礼拝がどんなものかわかっています。それなので神殿の儀式を経由した肉を食べたら、その儀式の内容を一緒に摂取した感じになってあまりいい感じはしません。しかし、あの知識を持つ信仰者たちは平気で食べている、ましてや儀式が行われた神殿の宴で神殿礼拝者と一緒に食事までしている、自分も食べないと馬鹿にされてしまう、それじゃ自分も、とそれくらいの、明確な知識に基づかず風に吹かれるように食べてしまうと、はやり後で落ち着かなくなります。そのことについてパウロは10節で、「その人は弱いのに、その良心は強められて、偶像に供えられたものを食べるようになってしまわないだろうか?」と言っています。「良心は強められて」というのは、ギリシャ語原文では「良心は造り上げられて」です。さっきの1節の「愛は造り上げる」と同じ動詞(οικοδομεω)です。つまりここでは「良心は変なふうに造り上げられて」という意味で、同じ動詞を使うことでパウロは痛烈に皮肉っているのです。

パウロの結論は、自分はそうした肉は絶対食べないということでした。理由は、「弱い信仰者」が信仰にとどまれるようにするためでした。実を言うと、食べないのが正しいということはエルサレムの教会の方針でした。使徒言行録15章を見ると、パウロとバルナバがアンティオキアに派遣される時、先方の教会に対する指示が託されました。その一つがまさに偶像に捧げられた肉を食べてはいけないというものでした(29節)。

それなら、パウロはなぜコリントの知識を持つ信仰者にはっきりとダメと言わなかったのでしょうか?これはまたいろいろ調べなければ確実なことは言えませんが、今の段階で言えることは、コリントの教会は知識を持つ人や霊的に自信満々の人が多くいて、かなり好き勝手にやっていた教会であったことがパウロの手紙から窺われます。そういうところで指示通りのことを正面から言ったらどうなったでしょう?パウロは情けない奴だ、神は万物の創造者と本気で信じているのか?そう信じれば、異教の儀式で一緒にやったって痛くもかゆくもないのに。そんなふうに凝り固まっている人たちに、正攻法でいってもうまく行かないでしょう。パウロがとった論法は、コリントの知識ある信仰者たちよ、君たちは知識はあるが、それは造り上げてはいない、高ぶるのと造り上げるのとどっちが大事なのか?造り上げるのが大事だと思うのなら、私に倣いなさい。そういう論法だと思います。私に倣いなさい、というのは、食べるのをやめなさい、ということです。

4.悪霊の追い出しと神の視点教育について

次にイエス様の悪霊追い出しを見ていきます。イエス様が追い出しの奇跡をする悪霊は、本日の箇所にあるように「汚れた霊」(ακαθαρτον πνευμα)と言われるものと、ずばり「悪霊」と訳される(δαιμονιον)の二つがあります。両者は同じものです。悪霊追い出しのことが多く出てくるマタイ、マルコ、ルカの三福音書の関連箇所を見渡すと、悪霊は何か具体的な病気または病的な状態をもたらすことをしでかします。イエス様の悪霊追い出しは、それ自体が目的で行う時もあれば、何か病気を癒す奇跡を行う時に行うこともあります。いずれにしても追い出しをすると、悪霊がもたらしていた病的な状態もなくなってみんな健康な状態になります。追い出しの時に悪霊が口を聞いてくる時もあります。本日の箇所もそうです。悪霊はイエス様が神聖な神の神聖なひとり子であるとわかっていて、その力もわかっているので恐れをなしてしまいます。出て行けと言われれば、そのまま出て行くしかありません。

3年前の説教の時、私は、イエス様が行った奇跡には病気の癒しと悪霊追い出しがあることから次のように述べました。人間の病気には病気自体によるものと悪霊のような病気を超えた要因で起きるものがある、病気自体による病気を悪霊によるものと考えて医学以外のものに頼ろうとするのはよくないということです。加えて、キリスト信仰者に関して言えば、悪霊や悪魔の企ては破綻しているので、病気や苦難の時はそれらにやられていると考えないで対処すべきとも申しました。ただ、このように言うと、病気の時はただ単に医学だけを頼りにすればいいと誤解されるのではと思い当たりました。医学を用いて癒しを目指す時にも、もちろん、ベストな治療を受けられますようにとか受けた治療が良い結果をもたらしますようにと父なるみ神に祈ることは必要です。どんなに医学が発達しても神の導きや祝福がなかったら望ましい結果に至らないからです。

今私は、キリスト信仰者においては悪霊と悪魔の企ては破綻していると申しました。これはどういうことか振り返っておきます。「悪魔」というのは新約聖書ではサタナー(σατανα)とかディアボロス(διαβολος)と言われます。サタナーとはサタンのことです。ディアボロスというのは引き裂く者、バラバラにする者という意味があります。旧約聖書ではサーターン(שטן)で、非難する者、告発する者という意味があります。「神様、この者は罪深い者で神罰に値しますよ」

などと神に告発する者です。神と人間の間を引き裂き、人間が救われないようにと、将来神の裁きを受けて永遠の滅びに道連れにしようとする者、それが悪魔です。悪魔は、イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けた後で荒れ野で40日間誘惑の試練を与え、イエス様がこれから神の人間救済計画を実行するのを妨げようとしました。しかし、イエス様は悪魔の誘惑を全て跳ね除けたので神の計画をそのまま実行に移すことが出来、十字架の死と死からの復活を遂げたのでした。

悪魔と悪霊の区別については3年前にもお教えしました。サタン・悪魔は悪霊の頭、悪霊はサタン・悪魔の手下です(マルコ3章等にあるベルゼブル論争を参照)。悪魔は人間を神から引き離して神の罰を受けるように陥れようとします。悪霊は人間に苦しみを与えて救いなどない、神などいないという気持ちに持って行こうとします。両者とも人間がイエス様の成し遂げたことを知らないように、知っても忘れるようにしようとするのです。

イエス様が成し遂げたこととは何だったでしょうか?それは、彼が神のひとり子でありながら、人間が持っている神の意思に反しようとする罪を全部引き受けてその神罰を代わりに受けてゴルゴタの丘の十字架で死なれたことでした。私たちの罪の償いを私たちに代わって神に対して果たして下さったのです。さらに、父なるみ神の計り知れない力で死から復活され、死を超えた永遠の命に至る扉を人間のために開いて下さったことでした。人間は、これらのことがまさに自分のために起こったとわかってそれでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、罪の償いがその人にその通りになります。罪を償われたからには神から罪を赦された者と見なされ、永遠の命が待つ神の国に向かう道に置かれてその道を進むことになります。順境の時も逆境の時もいつも神の守りと導きを得てその道を進み、この世を去ることになっても復活の日に目覚めさせられて神の国に永遠に迎え入れられるようになりました。

以上のことが、イエス様の十字架と復活の業のおかげで悪魔と悪霊の企ては破たんしたということです。イエス様を救い主と信じる者に関してはそれらの企ての破綻はその通りになっているのです。

そこで一つ大きな問題になってくるのは、やはり、病気の癒しや苦難の打開を祈っても期待した結果にならない場合はどうなのかということでしょう。先ほど、どんなに医学が発達しても父なるみ神の導きや祝福がなかったら望ましい結果に至らないと申しました。それならば、祈っても望ましい結果にならなかったら神の導きや祝福がなかったということになってしまうのでしょうか?これはとても難しい問題です。例えば、何千人に一人の割合で健康上困難がある子供が生まれるという時、他のキリスト信仰者の子供はそうではないのになぜウチの子供はそうだったのか?とても不公平な感じがします。自分たちの信仰に何か問題があったのかと責めることも起きるかもしれません。さらには、イエス様を信じていなくても健康な子供が授かっているのに、信じている自分たちにはそうならなかったとなれば、信じることに何の意味があったのかという思いになるでしょう。

とても難しい問題です。ただ一つはっきりしていることは、このような不運がきっかけでイエス様を救い主と信じなくなって神に背を向けてしまったら、それは神の国に向かう道から降りてしまうことになり、悪魔や悪霊の思うつぼです。不運があっても、イエス様を信じて神の方を向いて進んでいれば、復活の日の再会があります。その時の私たちの有様はパウロが教えるように、この世の朽ち果てる体ではなく神の栄光で輝く体であり、イエス様が言われたように、みな天使のようになるのです。不運がもとで神に怒ることはあっても、神の国に至る道に留まって進むことは出来ると思います。それはきっと自分の視点を捨てて神の視点を持つようになるためのとても重いプロセスになるでしょう。それを思うと、不運を持たなかった人たちはどれだけ自分の視点を捨てて神の視点を持てるようになるか心配になってくるくらいです。

今の私にはこれ以上のことは言えません。神がこの問題を見極められる知恵を私にも皆様にも与えて下さいますように。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

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特別の祈り 全知全能の父なるみ神よ。  あなたは私たちがいつも様々な困難や罪の誘惑に晒されていることをご存じです。どうかあなたがイエス様の十字架と復活の業を通して示された愛と恵みを今ここで私たちの心に思い起こさせて下さい。あなたの愛と恵みに強められて襲い掛かる困難と罪の誘惑に打ち克つことができるようにして下さい。  あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められる御子イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

2021年1月24日(日)顕現後第3主日 主日礼拝 司式・説教 吉村博明 宣教師

主日礼拝説教 2021年1月24日 顕現後第三主日

ヨナ3章1‐5、10節

第一コリント7章29-31節

マルコ福音書1章14-20節

説教題 「福音、神の国、悔い改めについて」

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けた時、聖霊が彼に降りました。その後でイエス様は40日間荒野で悪魔から試練を受け、これに打ち克ちました。そして、いよいよ本格的に活動に乗り出そうとしたまさにその時、ヨハネがガリラヤ地方の領主ヘロデ・アンティパスに捕えられたとの報が伝わりました。イエス様は大胆にもガリラヤに乗り込んで人々に教え始めました。本日の福音書の日課はその時のことについて述べています。「ヨハネが捕えられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改め福音を信じなさい』と言われた」とあります。本日の説教では、「福音」、「神の国」、「悔い改め」という三つの大事な事柄についてお教えしようと思います。

2.福音 ― 特段の良い知らせ

ここで「神の福音」と「福音を信じなさい」と、「福音」という言葉が2回出て来ます。「福音」という言葉は原語のギリシャ語でエヴァンゲリオンευαγγελιονと言います。もともとは「良い知らせ」という意味です。「良い知らせ」の中でも特段に良い知らせが「福音」です。それでは、「福音」とはどんな特段の良い知らせなのでしょうか?

「福音」がどんな内容の知らせかと言うと、大体以下のことです。イエス様がゴルゴタの十字架の上で人間の罪の神罰を人間に代わって受けて死なれた。この彼の犠牲のおかげで人間が神から罰を受けないで済む道が開かれた。さらに神は、十字架で一度死なれたイエス様を計り知れない力で復活させて、死を超えた永遠の命に至る扉を私たち人間のために開いて下さった。以上が「福音」の内容です。つまり、イエス様の十字架の死と死からの復活の出来事にかかわる良い知らせが「福音」と呼ばれるようになったのです。

ところが、本日の日課ではイエス様はまだ活動を開始したばかりです。十字架も復活もまだ先のことです。それなのにエヴァンゲリオンを「神の福音」や「福音を信じなさい」と訳すのは、少し気が早いのではと思われます。エヴァンゲリオンは「福音」だけでなく「良い知らせ」の意味もあるのだから、ここは「良い知らせ」と訳した方がいいのではないか?(参考までに各国の聖書の訳を見てみると、英語訳の聖書NIVは「神の良い知らせ」、「良い知らせを信じなさい」good newsと訳して「福音」gospelではありません。スウェーデン語の訳も「神の知らせ」、「知らせを信じなさい」(budskap)です。福音(evangelium)ではありません。フィンランド語の訳は「神の福音(evankeliumi)、「良い知らせを信じなさい」(hyvä sanoma)と使い分けています。ドイツ語の訳は意外にも日本語訳と同じで両方とも「福音」と訳していました。)

十字架と復活の出来事が起きる前だから、エヴァンゲリオンを「福音」ではなくて「良い知らせ」と訳した方がいいのではないかと言うと、じゃ、イエス様が信じなさいと言った「良い知らせ」とはどんな知らせなのかという疑問が起きます。(もちろんイエス様はギリシャ語ではなくアラム語で話したので、発音した言葉はエヴァンゲリオンではなかったのですが、書かれた記録はギリシャ語のものしか残っていないので、それに基づくしかありません。)

イエス様が信じなさいと言った「良い知らせ」の内容は、旧約聖書イザヤ書52章7節から53章12節を見ればわかります。それを見ていくことにします。まず最初の52章7節に次のように言われています。

「いかに美しいことか 山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足(רגלי מבשר)は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え(טוב מבשר ) 救いを告げ あなたの神は王となられた、とシオンに向かって呼ばわる。」

伝えるべき「良い知らせ」の内容は、「平和」、「救い」、「神が王になる」ことの3つです。「平和」ヘブライ語のシャロームשלוםは意味がとても広く、「救い」も含みます。それで、ここの「良い知らせ」の内容は、「救い」と「神を王に戴く国」の二点に絞ってよいと思います。イザヤ書の続きを見ていくと、この「救い」の内容と、そして、それが「神を王に戴く国」と関係することがわかります。

続きのイザヤ52章8ー12節を見ると、神がイスラエルの民に向かって、捕囚の地バビロンから祖国に帰還せよ、と呼びかけます。神は民の祖国帰還を実現させ、自分の力を諸国民に示します。つまり、良い知らせに言う「救い」とは、イスラエルの民が神の力でバビロン捕囚から解放されて祖国帰還を果たし、そこで神を王として戴く神の国が実現するということです。

ところが、これに続く52章13節から53章12節までを見ると、「救い」の内容が少し違ってきます。そこには有名な「主の僕」が登場します。その者は目を背けたくなるほど惨めな姿をしている。しかし、それは私たちの痛みと病をかわりに背負ったためにそうなったのであり、私たちの罪の神罰を代わりに受けたためにそうなったのであった。そのおかげで私たちは神と平和な関係を持てるのでだり、まさに彼が受けた傷によって私たちは癒しを受けたのであると。53章11節で神は次のように述べられます。「私の義なる僕は、多くの者が義なる者になれるようにした。彼らの罪を自ら背負うことによってそうした。」「義なる者」とは、神の目に相応しい者、神の前に立たされても大丈夫な者という意味です。主の僕が人間の罪を自ら背負うことで、人間は神の目に相応しい者になれたというのです。そうすると、ここでの「救い」は先ほどみたような、イスラエルの民がバビロン捕囚から祖国復帰して神を王として戴く神の国が到来するという意味ではなくなっています。むしろ、神の僕の犠牲によって罪が赦され神罰が免れるということが「救い」の内容になって、神の国というのもそういう罪の赦しが支配しているところになります。

このイザヤ書52章7節から53章12節までの箇所で言われる「救い」ですが、バビロン捕囚がもうすぐ終わりそうという紀元前500年代の終わりの人々にとっては、イスラエルの民の捕囚からの解放と祖国帰還がそれを意味すると考えられました。解放と帰還が実現すれば、それはただちに神が王として君臨する神の国の実現だったのです。その場合、身代わりの犠牲で人々を神罰から救う「主の僕」とは誰のことかというと、異国の地に連行された捕囚の民を指すと考えられました。イスラエルの民が長い歴史の間に重ねた罪の結果、罰としてバビロン捕囚が起きたのであり、民が異国の地で辛酸を舐めるという罰を受けることで罪の償いが果たされてまた元に戻れるようになったと考えられたのです。

ところが、祖国に帰還しても神の国は実現しませんでした。ということは「救い」も実現しませんでした。確かにエルサレムの神殿と町は再建されました。しかし、ユダヤ民族はペルシャ帝国、アレキサンダー帝国という大国の支配下に置かれ続け、一時独立を取り戻した時はあったものの、ほどなくしてローマ帝国の支配下に入ってしまいました。このように実態は諸国民も恐れおののく神の国からは程遠いものでした。加えて、神殿で行う礼拝も果たして救いの実現なのかと疑問視する声も民の間から出るようになりました。このことは、マラキ書やイザヤ書の終わり56ー65章に垣間見ることが出来ます。そうしているうちに神の国とは実は今の世の天と地が新しい天と地に創造し直される日に現れるという預言もでてきました。イザヤ書の終わりやダニエル書にそれらが窺えます。

そういうわけで、イザヤ書52章7節から53章12節までの預言は未完だったと理解されるようになったのです。それでは、いつこれらの預言が実現することになるのか?神の国を待ち望む人たちがそう問うていた、まさにその時にイエス様が歴史の舞台に登場したのです。イエス様が「信じなさい」と言う「良い知らせ」とは、神が旧約聖書の中で約束した救いと神の国の到来についての知らせでした。神の約束を信じなさいとイエス様は言われたのです。なぜなら、これからイエス様本人が「主の僕」としてその約束を果たすことになるからです。神の約束についての「良い知らせ」はまさにイエス様の十字架と復活の業の後で「福音」として結晶したのです。

3.神の国はイエス様とセットで来た!

イエス様は「時は満ち、神の国は近づいた」と言われました。それについてみてみましょう。「時は満ちた」の「時」とは、ギリシャ語でカイロスκαιροςという言葉です。これは何か特別な事が起きる時、定められた時を意味し、時間の流れを意味するクロノスχρονοςと区別されます。「時は満ちた」というのは、起きるべきことが起きる時がついに来た、機は熟した、ということです。洗礼者ヨハネが投獄された時がその「時」になりました。ヨハネがもはや人々に「罪の赦しに導く悔い改めの洗礼」をすることができなくなった、それでイエス様にバトンタッチして「罪の赦し」そのものを確立してもらう段階に入ったということです。ヨハネは悲劇的な運命を辿りますが、主の道を整える役割は果たしました。

「神の国は近づいた」というのは、どういうことでしょうか?「神の国」とは「天の国」とか「天国」とも言い換えられます。言葉だけでみると、空高いどこか宇宙空間に近いところにあるようなイメージがもたれます。しかしそうではなくて、「神の国」とは、今私たちが目で見たり手で触れたりして、また測定したり確定できる世界とは全く別の世界です。今の私たちには見たり触れたりできない、測定も確定もできない世界です。そうすると「神の国」は、私たちの世界からすれば見えない裏側の世界みたいです。その世界におられる神が、今私たちが目にしている森羅万象を造られたというのが聖書の立場です。それなので神から見たらこちらの方が裏側でしょう。万物の造り主の神は天地創造の後で自分の世界に引き籠ってしまうことはしませんでした。そこから絶えずこちら側の世界に関わりをもってきました。神の関わりの中で最大なものは何と言っても、ひとり子イエス様をこちら側に送って、彼を用いて人間の救いを実現したことでしょう。

そこで、イザヤ書の終わりの方(65章17節、66章22節)や新約聖書のいくつかの箇所(第二ペトロ3章13節、黙示録21章1節、ヘブライ12章26ー29節など)を見ると、今あるこの世は終わりを告げるという預言があります。その時、神は今の天と地にかわって新しい天と地を創造して、そこに唯一残るものとして神の国が現れてくるという預言です。そう言いますと、「神の国」は天国ですから、天国はこの世の終わりに現れてくるということになり、あれっ、キリスト教って、死んだらすぐ天国に行けるんじゃなかったの?という疑問が起きます。ところがキリスト教には「復活」の信仰があるので、そうはならないのです。「神の国」に入れるというのは、この世の終わりの時に死者の復活が起きて、入れる者と入れない者とに分けられる、これが聖書の言っていることです。このことは、普通のキリスト教会で毎週日曜日の礼拝で唱えられる使徒信条や二ケア信条でもちゃんと言われています(教会讃美歌366番「愛の泉」でも明確に歌われています)。

そうなると、亡くなった人たちは復活の日までどこで何をしているの?という疑問が起きます。これも宗教改革のルターによれば、亡くなった人は復活の日まで神のみぞ知る場所にて安らかに静かに眠り、復活の日に目覚めさせられて神の栄光に輝く復活の体を着せられて神の国に迎え入れられるということです。そうすると今度は、亡くなった人が安らかに眠っているんだったら、一体誰がこの世にいる私たちを見守ってくれるの?という疑問が日本人だったら起こってくると思います。でも、それもキリスト信仰では私たちの造り主である父なるみ神が私たちを見守ってくれるので心配無用です。

話が脇道に逸れましたが、イエス様が「神の国は近づいた」と言った時、それはこの世の終わりが近づいたことを意味したのでしょうか?しかし、イエス様の時代はおろか、あれから2000年たった今でもまだ天と地はそのままです。イエス様の言ったことは当たっていなかったということでしょうか?ところがそういうことではないのです。

どういうことかと言うと、イエス様が行った奇跡の業が神の国の近づきを意味していたのです。皆さんもご存じのように、イエス様は大勢の人たちの難病や不治の病を癒したり、悪霊を追い出したり、自然の猛威を静めたり、何千人の人たちの空腹を僅かな食糧で満腹にしたり、沢山の奇跡の業を行いました。イエス様はどうして奇跡の業を行ったのでしょうか?もちろん困っていた人たちを助けてあげるという人道支援の意味があったでしょう。また、自分は神の子であるといくら口で言っても人間はそう簡単に信じない。それで信じさせるためにやったという面もあります(ヨハネ14章11節)。しかし、人道支援や信じさせるためなら、どうして、もっと長く地上に留まって困っている人たちをより多く助けてあげなかったのか、もっと多くの不信心者をギャフンと言わせてもよかったではないか、なぜ、さっさと十字架の道に入って行ってしまったのか、そういう疑問が起きます。

実はイエス様は奇跡の業を通して、来るべき神の国がどんな国であるかを人々に垣間見せ味あわせたのです。神の国は、黙示録19章で結婚式の壮大な祝宴にたとえられます。つまり、この世の人生の全ての労苦が最終的に神に労われるところです。また、黙示録21章で言われるように、そこに迎え入れられた人の目から神が全ての涙を拭い取るところです。つまり、この世の人生で被った不正義や損失が最終的に神によって償われ、不正義や損失をもたらした悪が最終的に報いを受けるところです。このように最終的に労われたり償われたりするところがあるとわかることは大事です。というのは、私たちが何事かを成し遂げようとする時、神の意思に沿うようにやってさえいれば、たとえうまく行かなくとも無駄だったとか無意味だったということは何もないとわかるからです。

このように神の国とは、神の正義が貫徹されていて害悪や危険や死さえもなく、永遠の平和と安心があるところです。さて、イエス様が奇跡の業を行った時、病気というものがなく、悪霊も近寄れず、空腹もなく、自然の猛威に晒されることもない状態が生まれました。つまり、イエス様の一つ一つの奇跡の業を通して神の国そのものが人々に接触したのです。まさにイエス様の背後には神の国が控えていたのであり、彼は言わば神の国と共に歩き回っていたのです。この世の自然や社会の法則をはるかに超えた力に満ちた神の国、それがイエス様とセットになっていたのです。

ここで一つ注意しなければならないことがあります。それは、神の国がイエス様と共に到来したと言っても、人間はまだ神の国と何の関係もなかったということです。最初の人間アダムとエヴァの堕罪の出来事以来、人間は神の意思に反する罪を持つようになってしまいました。それで人間はそのままの状態では神聖な神の国に入ることはできません。いくら、難病や不治の病を治してもらっても、悪霊を追い出してもらっても、空腹を満たしてもらっても、自然の猛威から助けられても、人間はまだ神の国の外側に留まります。また、いくら神の掟や律法を守ろうとしたり宗教的な修行を積んでも、人間は体と心に沁みついている罪を除去することはできず、自ら神聖なものに変身して神と対等になることなどできません。

この罪の問題を解決して人間が神の国に迎え入れられるようにしてくれたのが、イエス様の十字架の死と死からの復活でした。それは、最初に述べたように、旧約聖書に約束された良い知らせが実現して福音として結晶した出来事でした。私たち人間は、イエス様の十字架と復活が自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、イエス様が果たしてくれた罪の償いが自分のものとなるのです。罪を償ってもらったから神から罪を赦された者として見てもらえるようになります。罪を赦してもらったから神との結びつきを持ってこの世を生きられるようになります。神との結びつきが確立されているので、たとえこの世を去っても復活の日に目覚めさせられて復活の体を着せられて神の国に迎え入れられるようになります。こうしたこと全ては、神が自分のひとり子も惜しまないくらいに私たちのことを思って下さってたがゆえになされたことです。多くの人がこのことに気づきますように。

4.方向転換の悔い改め

イエス様は、「良い知らせ」を信じなさいと勧める時、「悔い改めなさい」とも勧めました。「悔い改める」はギリシャ語でメタノエオ―ですが、基本的な意味は「考えを改める」とか「方向転換する」という意味です。信仰の言葉で言えば、神に背を向けていた生き方を方向転換して神の方を向いて生きるようになることを意味します。それなので「悔い改め」は、何か一人で閉じ籠って反省しまくっていることではなく、あくまで神に向き合うという勇気ある振る舞いです。

「悔い改め」についてルターが的確に教えていますので、それを引用します。

「イエス様は自分を信じる全ての者に、方向転換の悔い改めをしなさい、と言われる。その意味は、信仰者の生涯は休むことのない方向転換の悔い改めであるということである。そうなるのは、我々が生きる限り神の意思に反しようとする罪が我々の肉の内に留まるからであり、また洗礼の時に注がれた聖霊に攻撃を仕掛けてくるからである。聖霊もまた罪に対して攻撃をする。イエス様を救い主と信じることで神から義なる者と認められた人は、その行いの全てが方向転換の悔い改めに関係したものになる。なぜなら、罪に反抗する善い意志が備わったからだ。

方向転換の悔い改めが止まるということはありえない。それは、律法がこれは罪だと明らかにするものを我々は絶えず取り除こうとするからだ。罪はイエス様の十字架の業のおかげで赦されたものになっていて、本当は我々を支配する力を失っている。イスラエルの民はカナンの地に入った後でもその地の敵対者たちを追い払わなければならなかった。それらを追い払うことの方が、その地に入ることよりも難しかったのである。

それと同じように、絶え間ない方向転換の悔い改めによって内に残る罪を取り除くことの方が、キリスト信仰者になって罪に宣戦布告することよりも難しいのである。このために、聖なる者たちでさえ、罪が内に残っていることを自覚して悲しんだのであり、神が律法を通して彼らの良心を苦しめた時、彼らは罪を嘆いたのである。」

兄弟姉妹の皆さん、罪の赦しの恵みを受けると、良心はこのように罪に対して敏感になります。しかし、敏感な良心はゴルゴタの十字架を目にするたびにヘリ下った心になり深い安堵を覚えます。これが方向転換の悔い改めです。敏感な良心を持ってこの世で生きる限り、罪の自覚は繰り返し起こります。だから方向転換の悔い改めも絶えず続くのです。しかし、これは堂々巡りではありません。ずっと一つの方向に向かって進んでいます。向かう先は復活の日の永遠の命です。良心がゴルゴタの十字架に続いてあの空っぽの墓を目にすると私たちの進む道は真っ直ぐに伸びていることがわかります。その最終目的地に着くともはや方向転換の悔い改めはなっています。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

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2021年1月17日(日)顕現後第二主日 主日礼拝 司式・説教 吉村博明(フィンランド・ルーテル福音協会)宣教師

主日礼拝説教 2021年1月17日 顕現節第二主日

サムエル上3章1節-10節

第一コリント6章12-20節

ヨハネ1章43-51節

説教題 「イチジクの木の下に」

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

今日の福音書の個所はフィリポとナタナエルがイエス様に出会った出来事についてです。イエス様はまずフィリポに付き従うようにと声をかけます。フィリポとイエス様の間に何かやり取りがあったのでしょう。その後でフィリポは自分と同じガリラヤ地方出身のナタナエルにイエス様について次のように話します。自分はモーセ律法と預言書に書かれている方を見た、ナザレ出身のヨセフの息子イエスがその方だ、と。それに対してナタナエルは、一体ナザレから何か良いものが現れるだろうか、などと疑いをはさみます。フィリポは、一緒に来て自分の目で見てみろ、とナタナエルを連れていきます。ナタナエルのこのナザレに対する疑いは何なのだろうと考えさせられます。後にイエス様が自分の故郷の町であるナザレに行って宣べ伝えを行った時、人々は受け入れなかったばかりか、ある教えに躓いて怒り狂った群衆が雪崩を打ってイエス様を崖から突き落とそうとさえしました。なんだかある国の国会議事堂に暴徒がなだれ込んだことを思い起こさせますが、そんないきり立つ気質が支配する町だったのかもしれません。

さて、ナタナエルはフィリポに言われたとおりにイエス様のところに行きました。彼が近づいてきた時にイエス様は言われました。ギリシャ語原文のニュアンスを出すとこうです。見よ、彼こそ本当にイスラエル人と呼ぶのに相応しい(後注1)。それは偽りがないからだ。イスラエル人つまり神の民の一員に相応しい。その理由として偽りがない、欺きがない、つまり神に対して自分を包み隠すことなく正直であろうとしているということです。ナタナエルは、どうしてイエス様は自分をそのような者であるとわかったのかと聞き返します。イエス様は答えは次のようなものでした。フィリポがお前に呼びかける前に私はお前がイチジクの木の下にいるのを見た、と。これがナタナエルの問いの答えになっているのかわかりにくいですが、ナタナエルは、あなたは神の子です、イスラエルの王です、と告白してしまいます。これは一体どういうことでしょうか?会う前に自分がどこにいたかを言い当てられて驚いたということでしょうか?それに対してイエス様は、お前がイチジクの木の下にいたのを見たと言ったからそう信じるのか?お前はもっと大きなことを目にすることになる。天が開き神の天使たちが人の子の上に降ったり天に上ったりするのをだ、などと言います。

このやり取りは一見すると、ナタナエルはイエス様の千里眼に驚いたので、彼のことを神の子、イスラエルの王と信じたというふうに理解できます。でも、これではイエス様はよくありがちな宗教団体の教祖とあまりかわりありません。イエス様は病気を癒す奇跡も行ったので、教祖になるのにはうってつけです。しかし、こういうイエス理解は正しい理解でしょうか?実は、イエス様とナタナエルのやり取りには、単に千里眼を見せつけられて信じるようになったということをはるかに超えた大きくかつ深いことがあります。本日の説教ではそのことを明らかにしていきたいと思います。

2.ガリラヤの男たちは既にユダヤでイエス様と出会っていた!

イエス様とナタナエルのやり取りが大きくて深いことであるがわかるためには、イエス様が弟子たちをどう呼び集めたかについて少し詳しく見る必要があります。本日の個所のすぐ前ではイエス様がアンデレとペトロの兄弟と出会った出来事が記されています。聖書をよく読んでおられる方はちょっと首をかしげるところではないでしょうか?あれ、アンデレとペトロがイエス様と出会うのはガリラヤ湖の岸辺ではなかったっけ?漁を終えた二人にイエス様が付き従うようにと声をかけ、二人は網を置いて従って行ったのではなかったか?そうマルコ福音書とマタイ福音書には記されていたではないか?(ルカ福音書はもう少し違っていて、アンデレとペトロは漁を終えていたが、イエス様の勧めでもう一度舟を出します。それでも出来事はガリラヤ湖の岸辺です。)

ところがヨハネ福音書では出会いの場所はガリラヤ湖ではありません。どこだったでしょうか?アンデレは洗礼者ヨハネの弟子になっています。洗礼者ヨハネはユダヤ地方のヨルダン川のほとりにいます。ガリラヤ地方から少なくとも50キロくらいは離れています。洗礼者ヨハネの弟子になったということは、ヨハネから洗礼を受けたということです。アンデレとペトロそれにフィリピの3人は本日の個所で言われるように皆ガリラヤ地方のベトサイダの出身です。ナタナエルもガリラヤ地方出身で町はカナです。ヨハネ21章2節にそう言われています。カナは、あのイエス様が結婚式の祝宴で水をぶどう酒に変えた奇跡を行った町です。

そうすると4人の男たちは皆ガリラヤ地方の出身者ということになります。なぜガリラヤの男たちがこの時そろってユダヤ地方にいたのでしょうか?特にアンデレとペトロは漁師です。漁をほったらかしにして何をしていたのでしょうか?アンデレが洗礼者ヨハネの弟子になったことから考えたら、4人はヨハネから洗礼を受けるためにユダヤ地方に出向いたことが見えてきます。そうすると彼らは既にそこでイエス様と出会っていたことになります。アンデレとペトロがガリラヤ湖の岸辺でイエス様に付き従うように言われて従って行ったというのは初めて会ったことではなく、既にユダヤ地方で会っていて、その時はまだ付き従いは起こらなかったが、ガリラヤ地方に戻ってきた後でイエス様の口から直接召命の声を聞いて、それでいよいよこの方と行動を共にする時が来たと覚悟を決めて付き従ったという構図が見えてきます。

弟子たちがイエス様と既にユダヤ地方で会っていたというのは、信じられない感じがするかもしれません。しかし、使徒言行録1章を見るとこんな出来事があります。12弟子の一人イスカリオテのユダが欠けたので誰かを選んで補充しようということになった。その時、選ばれる条件になったのは、イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けた時から一緒だったということでした。「一緒だった」というのは、アンデレやペトロのように後日改めて付き従うことになった例もあるので、イエス様の洗礼の時からコンタクトがあった人ということでしょう。そういうわけで12弟子というのは皆、イエス様がガリラヤ地方に乗り込む以前にユダヤ地方でイエス様とコンタクトがあった人ということになります。それで、彼らはなぜその時ユダヤ地方にいたのかと言えば、それはもうヨハネから洗礼を受けるためだったとしか考えられません。

洗礼者ヨハネの洗礼については先週の説教でもお教えしました。それは、「罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼」です。その意味は、将来本当に罪の赦しが得られるために、神に背を向けて生きてきた生き方を方向転換して神の方を向いて生きる、その方向転換の印としての洗礼でした。罪の赦しそのものが得られる洗礼はまだです。それはイエス様が死から復活した後で命じた洗礼です。ところで洗礼者ヨハネの宣べ伝えを聞いた人たちは、いよいよ天地創造の神の怒りが爆発する日が来たと恐れおののきました。自分たちが持ってしまっている、神の意思に反しようとする罪を告白してそれから清められようと洗礼を受けたのです。ヨハネはこうした神の怒りを恐れて罪を自覚した人たちの悔恨を受け止めました。彼らが絶望に陥らないように、すぐ後に救い主が来るということに心を向けさせました。そのようにヨハネの洗礼はまさに来たるべき救い主をお迎えする準備をさせるものでした。そういうわけで12弟子というのは、洗礼者ヨハネの洗礼を受けて救い主を迎える準備をした者たちの中でもイエス様がさらに特別な任務を与えるべく呼び出した者たちだったのです。

3.希望している状態で救われたことになる

さあ、これで本日の個所のフィリポとナタナエルというのは、罪を告白して洗礼者ヨハネから洗礼を受けて、罪の赦しを与えて下さる救い主を迎える準備ができた者たちだったということがわかりました。この背景を念頭に置いて、本日のナタナエルとイエス様のやり取りを見ていくと深いことが見えてきます。やり取りの中で、イチジクの木の下にいたということがありました。ナタナエルがまだイエス様に会っていない段階で彼がそこにいたことを見抜いたということですが、ここはそういう千里眼の能力の他に何か意味が見出せるでしょうか?それが見出せるのです。

まず、「イチジクの木の下に」ということに何か特別な意味があるのではないかと推測して、それを見つけてみることにします。聖書辞典で「イチジク」の項目を見てます。聖書辞典はいろんなものがありますが、私はフィンランドのアーペリ・サーリサロという古代オリエントの歴史言語学者のものがあるのでそれを見てみました。「イチジク」に関連する聖書の個所が沢山でてきます。その中で旧約聖書の中に「イチジクの木の下に」という表現はあるのかどうか、ひとつひとつ見ていきます。ここで旧約聖書のヘブライ語の原文の出番となります。どうして原文でないとダメなのかは後で述べます。

「イチジクの木の下に」は旧約聖書に5つありました。その中で本日のイエス様とナタナエルのやり取りに直接関係すると思われるものは3つあります(後注2)。列王記上5章5節、ミカ書4章4節、ザカリア書3章10節で、3つともヘブライ語は「ブドウの木とイチジクの木の下に」と言っています。ただし、新共同訳ではザカリア書3章10節のところを「木の下に」と言わずに「木陰に」と訳しています。しかし、ヘブライ語の句は直訳すると「木の下に」です。「木の下に」でも「木陰に」でも意味は同じじゃないかと言われるかもしれませんが、イエス様の言い方は「木の下に」です。そういうわけで、ヘブライ語の原文を見ると、イエス様と同じ言い回しをしている個所が旧約聖書に2ヵ所ではなく3ヵ所あるとわかります。一致する個所が多ければ多いほど蓋然性が高まります。

それでは、「イチジクの木の下に」にいることには何か特別な意味があるのでしょうか?列王記上5章5節では、ソロモン王の時代にユダヤ民族の王国が平和と繁栄を謳歌したことを象徴する言い方として用いられています。イチジクは葉が大きく太陽の光を遮ってくれる安らぎを与える木です。さらに栄養価の高い果物を実らせるので「イチジクの木の下に」いるというのは祝福された状態を意味するのです。ところがミカ書とザカリア書では、祝福が現状を意味するものではなくなって、未来の状態を意味するものになります。それは、ダビデ王・ソロモン王の祝福に満ちた王国が滅亡した後、王国が将来復興してイスラエルの民が再び「イチジクの木の下に」いられる状態になることを預言するものです。このように「イチジクの木の下に」は、実際にあった祝福された状態から、現在は荒廃してしまったが将来祝福された状態になるという希望を表わします。

そこで、洗礼者ヨハネから洗礼を受けた人たちというのはどういう人たちかと言うと、自分自身も世界も神の意思に反する罪のために荒廃した状態にあると認め、将来罪が赦されるという恩寵が神から与えられて荒廃した状態から脱して祝福された状態に入れる、そういう希望を抱いていた人ちです。ナタナエルは神に対して自分を包み隠さず正直であろうとした人なので、その希望は人一倍強かったでしょう。まさにそのような時、そのような希望を抱いていた時に目の前に現れた方が突然、お前がイチジクの木の下にいるのを見た、などと言ったのです。イエス様がこの言葉を他でもないナタナエルに言ったというのは、ナタナエルが「イチジクの木の下に」ということを身近なものにしていたからでしょう。イエス様はそれを見抜いてナタナエルの心に訴える言葉をかけたのです。

つまり、ナタナエルは本当はイチジクの木の下にはいなかったが、ああ、いつ預言書に言われるような祝福された状態に入れるのだろうか、とため息をついていたことをイエス様に見抜かれたということです。もちろん、実際にイチジクの木の下にいて、木を見上げてそういう思いを抱いていた可能性も否定できません。いずれにしても大事なことは、人間が罪を赦されて神から祝福された状態に入るという純粋な願いをナタナエルが持っていたことをイエス様が見抜いたということです。もし場所を言い当てたという千里眼だけなら、別に何の木でもよかったでしょう。イチジクの木でなければならないという旧約聖書の事情があったのです。

さて、ナタナエルは洗礼者ヨハネに罪を告白して方向転換の印としての洗礼を受けました。あとは罪の赦しを受けて祝福された状態になるのを待つだけです。その待っている状態にある、つまりイチジクの木の下に入れる日を待っている時にイエス様は、お前がイチジクの木の下にいるのを見た、などと言うのです。本当はまだな筈なのに。これは一体どういうことでしょうか?

これは、使徒パウロがローマ8章24節で言っていること、キリスト信仰者は希望している状態でもう救われたのだと言っていることと同じです。どういうことかと言うと、まず、キリスト信仰者が希望することと言ったら、復活の日に目覚めさせられて天地創造の神からは何のお咎めもなく復活の体を着せられて神の御国に永遠に迎え入れられることです。これがキリスト信仰で言う救いです。このことを希望している状態でもう救われたと言うのはなんと気の早いことかと呆れかえられるかもしれません。希望しているんだったら救いはまだ先のことではないか、それなのに希望している状態で救われたなどと言うのはおかしいではないかと。

しかしながら、キリスト信仰では希望している状態で救われたというのは真理なのです。というのは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けたら最後、その人は復活に至る道に置かれて、自分から振り払ってしまわない限り、その道を神に守られ導かれながら進むことになるからです。無敵の神に守られ導かれるのですから、目的地への到達は確実です。だから、希望している状態でもう救われたということになるのです。ここで、希望している状態が救われた状態に転化できたのは、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼のおかげということを忘れないようにしましょう。

ナタナエルに話を戻します。彼は罪を告白して罪の赦しを与えて下さる方を待ち望んでいます。その意味でまだ祝福された状態にいません。イチジクの木の下にいません。それを希望している状態にいます。まさにその時、お前はもうイチジクの木の下にいる、祝福された状態にあると言われる方が現れたのです。希望している状態でもう救われたのだと言うのです。ナタナエルとしては、それが本当のことであることを体得しなければならなくなりました。でもどうやって出来るでしょうか?それはもう、そのように言ってくれた方がカギを握っていると信じてその方に付き従って何をなさるかを見届けなければならないということになったのです。そして彼が見届けたのは、神のひとり子が人間の罪を全部引き取って神罰をゴルゴタの十字架の上で人間に代わって受けたということ、そしてその三日後に神の力で死から復活させられて復活に至る道を人間に開いて下さったということでした。

このようにナタナエルがイエス様を信じたのは千里眼的な能力に恐れ入ったからではありませんでした。旧約聖書にある神の人間に対する約束が実現するカギをイエス様が握っていると信じたからでした。

4.神は決して見捨てない

希望している状態で救われたということが言えるのは、天地創造の神の守りと導きがあるので復活という目的地への到達が確実になっているからでした。でも、到達を確実にする神の守りと導きは本当にあるのでしょうか?それが本当にあるということをイエス様はナタナエルとのやり取りの終わりで述べるのです。やり取りの終わりを見ると、天が開けて天使が降ってきたり昇って行ったりするということが言われていて、神の守りや導きことは何も言われていないと言われてしまうでしょう。しかし、イエス様はここで神の守りと導きは絶対にあると言われているのです。どうしてそんなことが言えるのか?それは、この天使の昇り降りというのは、創世記28章にあるヤコブが荒野で夢を見た時の出来事であることを思い出すとわかります。ここまで言えば、聖書を読んでいる人たちは閃くのではないでしょうか?

夢を見たヤコブに神は次のように言いました。「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」神がこれを言った時のヤコブはどんな状況だったでしょうか?父イサクを通して受けられる祝福を兄エサウから取ってしまったことでエサウの怒りを買い命を狙われるまでになってしまい、ヤコブは命からがらの逃避行の最中でした。とても神に守られているなどと思えない状況でした。しかし、神はそうではないのだと励ましたのです。長い年月の後でヤコブは逃避先の異国の地で築いた財産と家族を引き連れて故郷に戻ります。そしてエサウと劇的な和解を果たします。神は本当に約束を果たしたのです。

そういうわけで、天使が降り昇りをするというのは神は決して見捨てないということを象徴しているのです。ヤコブの時はイエス様の十字架も復活もまだありませんでした。それでも神は見捨てず守り導きました。私たちの場合はそれらがあります。イエス様は天使の降り昇りは自分に向かって起きると言っていました。それは、神が私たちを見捨てずに守り導いて下さることにおいて、イエス様はなくてはならないということです。

兄弟姉妹の皆さん、私たちはイエス様を救い主と信じる信仰と洗礼のおかげで神の子とされました。私たちは子なのですから、父なる神は子を見捨てず守り導いて下さるということはもっと自信をもってよいのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

 

(後注1)αληθωςは形容詞(まことの)ではなく副詞(まことに)であることに注意。

(後注2)すみません、「イチジクの木の下に」は5カ所ではなく、ここにあげている3ヵ所だけでした。直接関係ないと言った2ヵ所は私が勘違いしてメモしてしまったものでした。お詫びして訂正いたします。

3ヵ所については間違いありません。

・列王記上5章5節 ותחת תאנתו →「イチジクの木の下に」

・ミカ4章4節   同上

・ザカリア3章10節 ואל-תחת תאנה  →「イチジクの木の下に」(前置詞が二重になっていますが同じ意味です。)

 

2021年1月3日(日)主の顕現 主日礼拝 司式・説教 吉村博明SLEY(フィンランド・ルーテル福音協会)宣教師

聖書日課 イザヤ60章1〜6節、エフェソ3章1〜12節、マタイ2章1〜12節 讃美歌 51、45、57、18

説教をYouTubeで見る。後でもそこで見ることが出来ます。

 

主日礼拝説教 2020年1月3日(主の顕現)

イザヤ60章1-6節
エフェソ3章1-12節
マタイ2章1-12節

説教題「造り主である神との関係に照らし合わせて自分を見つめることは、イエス様を救い主と信じる信仰のはじめ」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.本日の福音書の日課の箇所は有名な「東方の三賢」の話ですが、本当にこんなことがあったのか疑わせるような話です。はるばる外国から学者のグループがやってきて誕生したばかりの異国の王子様をおがみに来たとか、王子様の星を見たことが彼らが旅立つきっかけになったとか、そして、その星が学者たちを先導して王子様のいる所まで道案内するとか、こんなことは現実に起こるわけがない、これは大昔のおとぎ話だと決めつける人もでてきます。以前この個所について説教をした時にいつも申し上げたことですが、ここに書かれた出来事はおとぎ話で片付けられない歴史的信ぴょう性があります。今回もそのことについておさらいをします。

ところで、出来事がおとぎ話ではない、信ぴょう性があるとわかっても、それでイエス様を救い主と信じる信仰に至るかというと、人間とは身勝手なもので、そんな程度ではまだまだだというのが大半ではないでしょうか?実は、イエス様を救い主として信じて受け入れるというのは、聖書に記された出来事の歴史的信ぴょう性とは別のところに鍵があります。その鍵とは何かと言うと、それは自分を見つめる時に造り主の神との関係に照らし合わせてそうするということです。自分と自分の造り主である神との関係はどんなものか考えてみることです。そのことも以前申し上げてきました。本説教でもそのことについて述べますが、時間も経ったのでまた新しい視点で見ていきます。

ここで信仰と歴史的信ぴょう性の関係というのは恐らく次のようなものではないかということを述べておきます。自分を神との関係に照らし合わせて見つめ直して、その結果イエス様を救い主と信じるようになる。その時、おとぎ話みたいな出来事はきっと歴史的に何かがあると考え始めて、いろんな可能性を検証するようになっていく。それとは逆に、自分を神との関係に照らし合わせて見つめ直しこともせず、イエス様を救い主と信じる信仰に至らなかったら、こんな出来事はありえないというバイアスがかかって可能性の検証には向かわなくなる。つまり、信仰が信ぴょう性に道を開くのであり、逆ではないということです。そして、イエス様を救い主と信じる信仰は、自分を造り主の神との関係に照らし合わせて見つめることから始まるのです。

 

2.まず最初に本日の福音書の箇所の出来事の歴史的信ぴょう性について振り返ってみます。不思議な星についてはいろいろな説明があるようですが、私はスウェーデンの著名な歴史聖書学者イェールツ(B. Gierts)の説明に多くを負っています。

1600年代に活躍した近代天文学の大立者ケプラーは太陽系の惑星の動きをことごとく解明したことで有名です。彼は、紀元前7年に地球から見て木星と土星が魚座のなかで異常接近したことを突き止めていました。他方で、現在のイラクのチグリス・ユーフラテス川沿いにシッパリという古代の天文学の中心地があります。そこから古代の天体図やカレンダーが発掘され、その中に紀元前7年の星の動きを予想したカレンダーもありました。それによると、その年は木星と土星が重なるような異常接近する日が何回もあると記されていました。二つの惑星が異常接近するということは、普通よりも輝きを増す星が夜空に一つ増えて見えるということです。実は昨年12月22日に木星と土星が400年振りに大接近をしたというニュースがありました。私は後で知ったので確認はできなかったのですが、世界各地で二つの星がほぼ一つに重なるのが肉眼でも確認できたとのことです。

そこでイエス様の誕生年についてみると、マタイ2章13-23節によればイエス親子はヘロデ王が死んだ後に避難先のエジプトからイスラエルの地に戻ったとあります。ヘロデ王が死んだ年は歴史学では紀元前4年と確定されていて、イエス親子が一定期間エジプトにいたことを考慮に入れると、木星・土星の異常接近のあった紀元前7年はイエス誕生年として有力候補になります。ここで決め手になりそうなのが、ルカ2章にあるローマ皇帝アウグストゥスによる租税のための住民登録がいつ行われたかということです。残念ながら、これは記録が残っていません。ただし、シリア州総督のキリニウスが西暦6年に住民登録を実施した記録が残っており、ローマ帝国は大体14年おきに住民登録を行っていたので、西暦6年から逆算すると紀元前7年位がマリアとヨセフがベツレヘムに旅した住民登録の年として浮上します。このように、天体の自然現象と歴史上の出来事の双方から本日の福音書の記述の信ぴょう性が高まってきます。

次に、東方から来た正体不明の学者グループについて。彼らがどこの国から来たかは記されていませんが、チグリス・ユーフラテス川の地域は古代に天文学がとても発達したところで星の動きが緻密に観測されて、その動きもかなり解明されていました。ところで、古代の天文学は現代のそれと違って占星術も一緒でした。星の動きは国や社会の運命をあらわしていると信じられ、それを正確に知ることは重要でした。もし星が通常と異なる動きを示したら、それは国や社会の大変動の前触れでと考えられました。それでは、木星と土星が魚座のなかで重なるような接近をしたら、どんな大変動の前触れと考えられたでしょうか?木星は世界に君臨する王を意味すると考えられていました。土星について、もし東方の学者たちがユダヤ民族のことを知っていれば、ああ、あれは土曜日を安息日にして神に仕える民族だったな、とわかって、土星はユダヤ民族に関係する星と理解されたでしょう。魚座は世界の終末に関係すると考えられていました。それで、木星と土星が魚座のなかで異常接近したのを目にして、ユダヤ民族から世界に君臨する王が世界の終末に結びつくように誕生した、という解釈が生まれてもおかしくないわけです。

そこで、東方の学者たちはユダヤ民族のことをどれだけ知っていたかということについてみてみると、イエス様の時代の約600年前のバビロン捕囚の時、相当数のユダヤ人がチグリス・ユーフラテス川の地域に連れ去られていきました。彼らは異教の地で異教の神崇拝の圧力にさらされながらも、天地創造の神への信仰を失いませんでした。この辺の事情は旧約聖書のダニエル書からうかがえます。バビロン捕囚が終わって祖国帰還が認められても全てのユダヤ人が帰還したわけではなく、東方の地に残った者も多くいたことは旧約聖書のエステル記からうかがえます。そういうわけで、東方の地ではユダヤ人やユダヤ人の信仰についてはかなり知られていたと言うことができます。「あの、土曜日を安息日として守っている家族は、かつてのダビデ王を超える王メシアが現れて自分の民族を栄光のうちに立て直すと信じて待望しているぞ」などと隣近所はささやいていたでしょう。そのような時、世界の運命を星の動きで予見できると信じた学者たちが二つの惑星の異常接近を目撃した時の驚きはいかようであったでしょう。

学者のグループは宗教画などにはよく3人描かれています。しかし、福音書には人数は記されていません。複数形で書かれているので何人かいたのは確かですが、3人と考えられるようになったのは、イエス様に捧げられた贈り物が黄金、乳香、没薬と3種類あったからでしょう。

学者のグループがはじめベツレヘムでなく、エルサレムに行ったということも興味深い点です。ユダヤ人の信仰をある程度知ってはいても、旧約聖書自体を研究することはなかったでしょう。それで本日の箇所にも引用されている、旧約聖書ミカ書にあるベツレヘムのメシア預言など知らなかったでしょう。星の動きをみてユダヤ民族に王が誕生したと考えたから、単純にユダヤ民族の首都エルサレムに行ったのです。それから、ヘロデ王の反応ぶり。彼は血筋的にはユダヤ民族の出身ではなく、策略の限りを尽くしてユダヤ民族の王についた人です。それで、「ユダヤ民族の生まれたばかりの王はどこですか」と聞かれて慌てふためいたことは容易に想像できます。メシア誕生が天体の動きをもって異民族の知識人にまで告知された、と聞かされてはなおさらです。それで、権力の座を脅かす者は赤子と言えども許してはおけぬ、ということになり、マタイ2章の後半にあるベツレヘムでの幼児大量虐殺の暴挙に出たのです。

以上みてきたように、本日の福音書の箇所の記述は、自然現象から始まって当時の歴史的背景に見事に裏付けされるものです。しかし、問題点もいくつかあります。それも認めなければなりません。

一つ大きなものは、東方の学者グループがエルサレムを出発してベツレヘムに向かったとき、星が彼らを先導してイエス様がいる家まで道案内したということです。ハレー彗星のような彗星の出現があったと考える人もいます。それは全く否定できないことです。先に述べましたが、木星と土星の異常接近は紀元前7年は一回限りでなく何回も繰り返されました。それで、エルサレムからベツレヘムまで10キロそこそこの行程で学者たちが目にしたのは同じ現象だった可能性があります。星が道案内したということも、例えば私たちが暗い山道で迷って遠くに明かりを見つけた時、ひたすらそれを目指して進みますが、その時の気持ちは、私たちの方が明かりに導かれたというものでしょう。もちろん、こう言ったからといって、彗星とか流星とかまた何か別の異例な現象があったことを否定するものではありません。とにかく聖書の神は太陽や月や果ては星々さえも創造された(創世記1章16節)方なのですから、東方の星やベツレヘムの星が、現在確認可能な木星と土星の異常接近以外の現象である可能性もあるのです。

もう一つの問題点は、イエス親子のエジプトに避難していた期間とエルサレムの神殿を訪問してシメオンやハンナの預言を聞かされた時期との関係です。これについてはまた別の機会に考えたく思います。

 

3.次に、イエス様を救い主と信じる信仰に至る鍵は、自分を神との関係に照らし合わせて見つめることにあるということについて見ていきます。キリスト信仰者はイエス様を目で見たことがなく、彼の行った奇跡も十字架の死も復活も見たことはないのに、彼を神の子、救い主と信じ、彼について聖書に書かれてあることは、その通りであると受け入れています。どうしてそんなことが可能なのでしょうか?

まず、イエス様を救い主と信じる信仰が歴史上どのように生まれたかをみてみます。はじめにイエス様と行動を共にした弟子たちがいました。彼らはイエス様の教えを直に聞き、しっかり記憶にとどめました。さらにイエス様に起こった全ての出来事の目撃者、生き証人となり、特に彼の十字架の死と死からの復活を目撃してからはイエス様こそ旧約聖書の預言の成就、神の子、救世主メシアであると信じるに至りました。自分の目で見た以上は信じないわけにはいきません。こうして、弟子たちが自分で見聞きしたことを宣べ伝え始めることで福音伝道が始まります。支配者たちが、イエスの名を広めてはならない、と脅したり迫害したりしても、見聞きしたことは否定できませんから伝道は続けるしかありません。

そうした彼らの命を顧みない証言を聞いて、今度はイエス様を見たことのない人たちが彼を神の子、救い主と信じるようになりました。そのうち信頼できる記録や証言や教えが集められて聖書としてまとめられ、今度はそれをもとにより多くのイエス様を見たことのない人たちが信じるようになりました。それが時代ごとに繰り返されて、2000年近くを経た今日に至っているのです。

では、どうして聖書に触れることで、会ったことも見たこともない方を神の子、救い主として信じるようになったのでしょうか?それは、遥か昔のかの地で起きたあの十字架と復活の出来事は、実は後世を生きる自分のためにも神がひとり子を用いて成し遂げられたのだ、そう気づいて信じたからです。それでは、どのようにしてそう気づき信じることができたのでしょうか?
イエス様を救い主と信じ受け入れた人たちみんなに共通することがあります。それは、自分を見つめる時に造り主の神との関係に照らし合わせてそうするということです。ご存知のように聖書の立場では、神というのは天と地と人間を造り、人間一人一人に命と人生を与える創造主です。それで、神との関係において自分を見つめるというのは、自分には造り主がいると認め、その造り主と自分はどんな関係にあるかを考えることになります。

造り主の神との関係において自分を見つめると、神の前に立たされた時、自分は耐えきれないのではと気づきます。というのは、神は神聖な方であり、自分は神の意思に反する罪を持っているからです。神の意思というのは、十戒に凝縮されています。父母をないがしろにしたり、他人を肉体的精神的に傷つけたり、困っている人を見捨てたり、不倫をしたり、嘘をついたり偽証したり改ざんしたり、妬みや嫉妬に駆られて何かを得ようしたならば、それらが行いに現れようが心で描こうが神の意思に反するので全てが罪です。十戒には「~してはならない」という否定の命令が多くありますが、宗教改革のルターは、そこには「~しなければならない」という意味も含まれていると教えます。例えば、「汝殺すなかれ」は殺さないだけでなく、隣人の命を守り人格や名誉を尊重しなければならないこと、「汝盗むなかれ」は盗まないだけでなく、隣人の所有物や財産を守り尊重しなければならないこと、「姦淫するなかれ」は不倫しないだけでなく、夫婦が愛と赦し合いに立って結びつきを守らなければならないことを含むのです。これらも神の意思なのです。

加えて、十戒の最初の部分は天地創造の神以外を崇拝してはならないという掟です。これを聞いて大抵の人は、ああ唯一絶対神の考え方だな、そんな掟があるから自分の正義を振りかざして宗教戦争が起きるのだと考えがちです。しかし事はそう単純ではありません。使徒パウロは「ローマの信徒への手紙」12章で「悪に対して悪で報いるな、善で報いよ」と教えています。その理由は「復讐は神のすることだから」と言います。神がする復讐とは、最後の審判の日に全ての悪が最終的に神から報いを受けることを意味します。つまり唯一絶対神を信じるというのは実に人間の仕返しの権利を全部神に譲り渡すということです。そんな、やられたのにやり返さなかったらこっちが損するだけではないか、と言われるでしょう。しかしパウロは、「全ての人と平和な関係を持ちなさい、相手がどんな出方をしようが自分からは平和な関係をつくるようにしなさい」と言うだけです。このように唯一絶対神を持つと、人間は相手をなぎ倒してまで自分の正義を振りかざすことがなくなるというのが本当なのです。

このような十戒に照らし合わせて見ると自分はいかに神の意思に反することだらけということに気づかされます。自分は完璧で、神の前に立たされても大丈夫だ、何もやましいことはない、などと言う人間はいません。神の前に立たされたら自分はダメだ、持ちこたえられないと気づくと、人間は後ろめたさや恐れから神から遠ざかろうとします。そうなると、自分を見つめることを神との関係に照らし合わせてしなくなり、別のものに照らし合わせてするようになっていきます。

まさにそのような時、イエス様が何をして下さったか、神はどうしてイエス様を贈られたのかを思い出します。神聖な神のひとり子が人間の罪を全部引き取って人間のかわりに神罰を受けてゴルゴタの十字架の上で死なれました。そのようにして私たちの罪の償いを果たして下さいました。それで彼こそ救い主であると信じて洗礼を受けると罪の償いがその通りになって、神から罪を赦された者として見なされ、神との結びつきを持ってこの世を生きられるようになります。罪の赦しの十字架は歴史上確固として打ち立てられたものです。自分を神との関係に照らし合わせて見つめて、その結果、神から遠ざかろうとする自分を感じたら、すぐ十字架のもとに立ち返ります。そうすれば、神と自分との結びつきは神の愛によってしっかり維持されているとわかって、恐れや後ろめたさは消えてなくなります。

本日の使徒書の日課エフェソ3章の12節で使徒パウロは「わたしたちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって、大胆に神に近づくことができます」と述べていました。少し注釈しながら言い換えると、「私たちは、イエス様を救い主と信じる信仰により彼としっかり結びついていて、その信仰のおかげで神の前に立たされても大丈夫という確信がある。それで、神のみ前に勇気をもって歩み出ることができる」ということです。これは真理です。

 

4.最後に、東方の学者のグループのベツレヘム訪問はキリスト信仰者の信仰生活に通じるものがあるということを述べておきます。彼らは星に導かれて救い主のもとに到達しました。私たちにはそのような星はありませんが、救い主のもとに到達できるために聖書の御言葉があります。私たちには御言葉が星の役割を果たしています。

救い主のもとに到達した学者たちは捧げものをしました。私たちも救い主のもとにいる限り捧げものをします。何を捧げるのか?ローマ12章1節でパウロは「自分の体を神の御心に適う神聖な生贄として捧げなさい」と勧めます。それはどんな捧げものか?2節を見ればわかります。少し注釈しながら訳しますと、「あなたがたはこの世に倣ってはいけない。あなたがたはイエス様を救い主と信じる信仰によって物事の捉え方が一新されたのだ。だから、あとは何が神の意思であるか、善いことであるか、神の御心に適うことであるか、完全なことであるか、それらを吟味する自分へと神に変えてもらいなさい。」これが自分の体を神聖な生贄として捧げることです。どのように自分を変えて頂くか、その内容については12章でずっと述べられていきます。先ほど述べた、仕返しの権利を放棄することもその一つです。

学者たちは捧げものをした後、ヘロデ王のもとには戻りませんでした。救い主としてのイエス様のもとに到着して自分を神聖な生贄として捧げる者は、この世に倣わない者であるということが暗示されています。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

説教「今細かいことはわからないが神の基本方針をわかっていれば 後で全てがわかる」 神学博士 吉村博明 宣教師、コヘレト3章1-11節

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礼拝説教 2021年1月1日新年の礼拝

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなた がたにあるように。アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.2021年が始まりました。私たちはまだコロナ禍の只中にありますが、新しい年を迎えるというのは、今までと違う新しいことが始めるという感じが強くするものです。そういう感じ方を持つことも大事と思います。今世界中が大きな試練の中にあるので、それをこれからも同じだ何も変わらないと思って向かって行くのと、これからは今までと違うものになるのだと思って向かって行くのでは試練に対する向き合い方、ひいては試練の只中にあっての進み方も違ってくるでしょう。どうか今日の御言葉の解き明かしがそのような向き合い方、進み方に内容を与えるものになるようにと願っています。

新しい年のことを言っているのに、昨年のことを言うのは少し気が引けるのですが、こういうことがありました。一つの原稿を依頼されていて9月が締切りだったのですが、秋はずっと家族の者や自分自身の体調の問題があって教会の礼拝を守ることで精一杯になってしまい、原稿に取りかかることができなくなってしまいました。締め切りを何度も延ばしてもらったのですが、結局は手つかずになってしまい、担当の方にお詫びのメールを送りました。原稿というのはキリスト教関係の施設の記念誌で、担当者もキリスト信仰者なのですが、彼の返事はこういうものでした。「先生とご家族の皆様の試練の間中、神はその裏で新しいことを始められていたのでしょう。」神が私たちの知らない見えない裏で何か新しいことを始めて、それが何かは事後的にわかる、しかもわかった時点から過去を振り返ってみるとあの試練はもう試練ではなくなっていて、むしろそれがあったから、それに取り組んでいたから、今この新しい時点に立っている、そして神が本当に見捨てずにずっと導いて下さったということもよくわかる、こういう捉え方はとてもキリスト信仰的です。

なぜこの捉え方がキリスト信仰的かと言うと、これは聖書の神、万物の創造主の神が本当に信頼に値する方であると信頼している者にとっては真理だからです。神を本当に信頼するとは、困っている時苦しい時に助けを祈る相手はこの方以外にはない、自分が成し遂げようとしていることに祝福をお願いする相手はこの方以外にはいない、さらに神の意思に反する罪を持ってしまった時に赦しを乞う相手はこの方以外にはない、という位に全身全霊で神一筋になることが神を本当に信頼することです。まさに十戒の第一の戒め、「私以外に神はあってはならない」の通りになることです。

それでは全身全霊がそのような神一筋になるくらいに神を信頼しきるという心はどうしたら生まれるのでしょうか?それはもう、その神が私たちにかけがえのないひとり子を贈って下って、その方に十字架の死と死からの復活という業を果たさせたということ、それで彼を救い主と受け入れて洗礼を授かった者たちをご自分の子にして下さったこと、ここに私たちの神に対する信頼は拠って立ちます。私たちは神の子とされたのです。私たちにひとり子を贈って下さった父を私たちは子として信頼するのです。だから、試練があってもそこに踏み留まらない、埋没してしまわない、堂々巡りしないで、一直線に(多少ジグザグするかもしれませんが)次の段階に向かって進んでるという見方になれるのです。

そのことを使徒パウロは第一コリント10章13節で次のように述べています。「神は真実な方です(ギリシャ語のピストスは「裏切らない、誠実な、貞節を守る」という意味があります。つまり神は私たちを見捨てないという意味です)。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていて下さいます。」

イエス様を救い主として受け入れていない人たちから見たら、このような見方は根拠のない楽観論にしか聞こえないでしょう。しかし、キリスト信仰者はそれを真理として抱いているのです。キリスト信仰の楽観的真理はパウロの次の言葉にもよく出ています。ローマ8章28節です。

「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」

私たちの用いる新共同訳では「万事が益になるように共に働く」と、万事が勝手に働いて益になっていくという訳ですが、ギリシャ語原文は、主語は「万事」ではなく「神」で、神が万事を益となるようにすると訳することもできます。フィンランド語の聖書もそう訳しています。私もその方がいいと思います。今は試練の中にあり、神の助けと導きを祈りながら自分の出来る最善を尽くして取り組むのみ。それと同時に、神は私たちの知らない気がつかないところで、まさに裏で私たちのいろんな難しい形のパズルを合わせて下さっている。そして後で全てが見事に埋め合わさった全体像を見せて下さる。それを心に留めながら試練に取り組むのがキリスト信仰者というものです。

2.このようにキリスト信仰者というのは、神は試練を脱する道を備えて、試練のいろんな要素を組み合わせて最後は大きな益にして下さるということをわかっている者です。しかしながら、何がどう組み合わさっていくのか、細かい具体的なことは試練の最中にあっては全然わかりません、全然見えません。全ては事後的にわかるだけです。だから、試練の最中にあっては、神の子たちに対する父の愛情と先見の明に信頼して進むしかないのです。このような、全体的には神の基本方針はわかるが、具体的な詳細は現時点ではわからないということは本日の旧約の日課「コヘレトの言葉」の個所でも言われています。3章11節で、天と地と人間を創造された神は人間に永遠を思う心を与えたと言われています。「永遠を思う心を与えた」はヘブライ語原文を直訳すると「永遠を人間の心に与えた」です。「永遠」、「永遠なるもの」を人間の心に与えたのです。

永遠とは何か?簡単に言えば時間を超えた世界です。それでは時間を超えた世界とは何かというと、それの説明は簡単なことではありません。聖書の一番初めの御言葉、創世記1章1節に「初めに、神は天地を創造された」とあります。つまり、森羅万象が存在し始める前には、創造の神しか存在しなかったのです。神だけが存在していて、その神が万物を創造しました。神が創造を行って時間の流れも始まりました。その神がいつの日か今ある天と地を終わらせて新しい天と地にとってかえると言われます(イザヤ書65章17節、66章22節、黙示録21章1節、他に第二ペトロ3章7節、3章13節、ヘブライ12章26-29節、詩篇102篇26-28節、イザヤ51章6節、ルカ21章33節、マタイ24章35節等も参照のこと)。そこは神の国という永遠が支配する世界です。そういうわけで、今の天と地が造られて、それが終わりを告げる日までは、今の天と地は時間が進む世界です。神はこの天と地が出来る前からおられ、天と地がある今の時もおられ、この天と地が終わった後もおられます。まさに永遠の方です。

神のひとり子がこの世に贈られて人間として生まれたというのは、まさに永遠の世界におられる方が、限られたこの世界に生きる人間たちを、永遠の世界にいる神との結びつきを持って生きられるようにしてあげよう、そしてこの世の人生を終えたら復活の日に目覚めさせて神のもとに戻れるようにしてあげよう、そのために贈られたのです。人間が神との結びつきを持って生きられるように、またこの世の人生を終えたら神のもとに戻れるようにするためには、どうしたらよいか?そのためには、人間から神との結びつきを失わせてしまった、神の意思に反する罪をどうにかしなければならない。それでイエス様は、人間の罪を全部引き受けて十字架の上まで運び上げてそこで人間にかわって神罰を受けて、神に対して罪の償いを果たして下さいました。イエス様を救い主と受け入れて洗礼を受ける者はこの罪の償いを自分のもとにすることができ、罪が償われたから神から罪を赦された者として見なされるようになって、それで神との結びつきを持ってこの世を生きることになるのです。

神はそのような永遠に属する方を私たちの心に与えて住まわせて下さいました。まさに、神はコヘレト3章11節で言うように、永遠を私たちの心に与えて下さったのです。それならば、なぜ「それでもなお、神のなさる業を始めから終わりまで見極めることは許されていない」と言うのか?この下りですが、ここは英語(NIV)、スウェーデン語、フィンランド語の聖書の訳も大体同じで、「神のなさる業を見極められない」と言っています。「永遠」を心に与えられたのに見極められないというのは、かなり悲観的です。コヘレトは旧約聖書の知恵文学に数えられますが、全体的にペシミスティックな作品と言われています。ところが私は、何年か前の説教で指摘したのですが、ここのヘブライ語原文を見れば見るほど、どうも逆なような気がしてなりません。つまり、「神は、永遠を人の心に与えられた。それがないと(מבלי אשר、מבליを前置詞に解し、אשרは関係詞なので、英語で言えばwithout which)神のなさる業を始めから終わりまで発見することはできないというものを」という訳になるのではないだろうか。そうすると、「神は永遠というものを人の心に与えられたので、人は神のなさる業を発見することが可能なのだ」という意味です。イエス様という永遠の御子を救い主として心で受け入れることで、神の救いの業を発見することができるのだから、この訳でいいのではないかと考える者です。もちろん、日々の試練の中で、神の業を初めから終わりまで具体的に見極めることは不可能です。そのことは先ほども申しました。その意味では心に永遠を与えられても発見できないということになります。その意味でペシミズムがあると言ってもいいです。しかし、先ほど述べましたように、キリスト信仰者は、事後的に全てが繋がっていたとわかる、神はそのように取り仕切って導いて下さる、そう信頼して進んでいくので、ことの最中の時は具体的なことは何もわからないけれども、神の基本方針はわかっている。先ほどのパウロの聖句のように神の基本方針をわかっているということでは神のなさる業を発見できているのです。ここにコヘレトがペシミズムに留まらない、それを超えるものがあると考えます。

3.「コレヘトの言葉」3章の初めの部分で、「天の下の出来事にはすべて定められた時がある」として、生まれる時も死ぬ時も定められたものだと言われています。定められた時の例がいっぱい挙げられていて、中には「殺す時」、「泣く時」、「憎む時」というものもあり、少し考えさせられます。不幸な出来事というのは、自分の愚かさが原因で招いてしまうものもありますが、全く自分が与り知らず、ある日青天の霹靂のように起こるものもあります。そんなものも、「定められたもの」と言われるとあきらめムードになります。

また、「神はすべてを時宜に適うように造り」という下りですが、ヘブライ語原文に即してみると、「神は起きた出来事の全てについて、それが起きた時にふさわしいものになるようにする」という意味です。これは、もし別の時に起こったのならばふさわしいものにはならなかったと言えるくらい、実際起きた時にふさわしいものだった、と理解できます。そうすると、起きたことは起きたこととして受け入れるしかない。そこから出発しなければならない。それでは、そこから出発してどこへ向かって行くのか?

ここで「永遠」を思い出します。もし「永遠」がなく、全てのことは今ある天と地の中だけのことと考えたら、そこで起きる出来事は全て天と地の中だけにとどまります。しかし「永遠」があると、この世の出来事には全て続きが確実にあり、神のみ心、神の正義、神の義が目指し向かうべきものとして見えてきます。イエス様はマタイ5章の有名な「山の上の説教」の初めで、「悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる」というように、今この世の目で見て不幸な状態にいるような人たちの立場が逆転する可能性が満ちているということを繰り返して述べています。「慰められる」とか「満たされる」とか、ギリシャ語では全て未来形ですので、将来必ず逆転するということです。運よくこの世の段階で逆転することもあるだろう。しかし、たとえあってもそんなのは序の口と言うようなもっと完璧な逆転が待っている。また不運にもこの世で逆転しなくとも「復活の日」、「最後の審判の日」に逆転が起こるのです。
この世は神の意思に反する罪が入り込んだ世界です。自分では神の意思に沿うように生きようと思っても、自分の罪に足をすくわれたり、また他人の罪の犠牲になってしまうことがどうしても起きてしまいます。そういう時、今ある天と地を超えたところで、その天と地を造られていつかそれを新しいものに変えられる方がいらっしゃることを思い起こしましょう。そして、その方が贈られたひとり子を私たちが信じ受け入れた以上は、その方は私たちに起こることを全て見届けていて、試練の時にはどう立ち振る舞わなければならないかを聖書の御言葉を通して教えて下さっているということを思い起こしましょう。日々聖書を繙き、神の御言葉に耳を傾けましょう。そして、思い煩いや願い事を父なるみ神に打ち明けることを怠らないようにしましょう。とにかく私たちは心に「永遠」を頂いたのですから、神が万事を益にして下さることを今一度思い起こして、今日始まった新しい年を進んでまいりましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るようにアーメン

説教「全世界の人々に現れた真実と道しるべの光」 神学博士 吉村博明 宣教師、ルカによる福音2章22-40節

主日礼拝説教 2020年12月27日降誕後主日

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.イエス様誕生後の謎に保守主義的に迫る

本日の福音書の箇所は、皆さんもよくご存知のシメオンのキリスト賛美があるところです。皆さんがよくご存知というのは、この賛美は礼拝の中のヌンク・ディミティスと呼ばれるところで一緒に唱えられるからです。「今私は主の救いを見ました。主よ、あなたは御言葉の通り僕を安らかに去らせて下さいます。この救いは諸々の民のためにお供えになられたもの。異邦人の心を照らす光、御民イスラエルの栄光です」といつも賛美しているところです。「ヌンク・ディミティス」というのは、この賛美の中にある言葉「今あなたは去らせて下さいます」のラテン語です。このキリスト賛美は、老人シメオンがエルサレムの神殿でマリアとヨセフに連れられた赤ちゃんイエスを見て唱えたものです。ここで、イエス様がベツレヘムの馬小屋で誕生した後の出来事の流れを少し振り返ってみましょう。

本日の福音書の個所の前にあるルカ2章21節をみると、イエス様が誕生8日後にユダヤ教の律法に従って割礼を受けたことが記されています。(レビ記12章3節、創世記17章10~14節)。その次に本日の個所が来て、場面が一変します。律法によれば子供の割礼後、母親は99日間清めの期間というのがあります。その間は神殿に入れず、それが過ぎた後で神殿に行って子羊ないし山鳩の生け贄を捧げて清めが完了したことになります(レビ記12章4-8節)。ヨセフとマリアとイエス様が神殿に行ったのはこの規定のためでした。そうすると、割礼の後三人はどこにいたのでしょうか?ここでマタイ福音書2章を見ると、生まれたばかりのイエス様は両親と共にヘロデ王の迫害から逃れるためにエジプトに避難したことになっています。親子三人は王が死ぬまでエジプトに滞在したことになっています。先ほどの清めの期間の約3か月間は神殿には行けないるので、それがエジプト避難の期間にうまく当てはまります。

ところが、それでも時間的にうまくつじつまがあわないことが出てきます。三人がエジプトからイスラエルに帰還するのはヘロデ王が死んだ後です。王の死は紀元前4年とされています。そうするとイエス様の誕生は紀元前4年ないし5年になる。ところが、ローマ帝国が行った租税のための住民登録の実施年としては紀元前7年が有望とされていて、紀元前4年ないし5年に住民登録があったという記録は見つかっていない。さらに、異常な星の輝きが見られたということに関して、紀元前6年に木星と土星の異常接近があったことが天文学的に計算されています。そこで、紀元前6、7年をイエス様の誕生年とすると、三人のエジプト滞在は2-3年に及んでしまいます。シメオンが腕に抱きあげたイエス様は赤ちゃんと言うよりは2、3歳くらいの幼児になってしまいます。マタイ2章によると、親子三人はヘロデ王の死後、エジプトから戻るけれどもユダヤ地方の領主アルケラオを恐れてナザレのあるガリラヤ地方に向かったとあります(21-23節)。そういうわけで、イエス様の誕生は紀元前7年から4年の間のいつか、エジプトから帰る途中でエルサレムの神殿で清めの儀式を済ませてナザレに戻ったとみるのが妥当なのではないかと思われます。

こういうふうに、イエス様誕生後の出来事の時間の流れにはジグソーパズルがもう少しで全部埋まりそうで埋まらないもどかしさがあります。しかし、これはやむを得ないことです。というのは、大人の時のイエス様の言行録は、使徒たちが目撃者になって証言し、それが記録されていきました。それに比べると、大人になる前の出来事は目撃者に限りがあります。ヨセフが生前に周囲の者たちに語ったことと、もっと長く生きたマリアが弟子たちに語ったことが中心にならざるを得なかったでしょう。それで、細部に不明な点が出てくるのは止むを得ないのです。しかし、大きく全体的に見れば、書かれた出来事が互いに矛盾してどれかが無効になるような、そんなひどい矛盾はないと思います。それなので、聖書に書かれたことは大事に保全する(conserve、conservative、conservatism)態度が肝要です。

2.シメオンのキリスト賛美 - 自己民族の観点?普遍的な観点?

イエス様とマリアとヨセフの三人がエルサレムの神殿に来て清めの儀式をした時、老人シメオンが近寄ってきて、イエス様を腕にとって神を賛美しました。この子が神の約束されたメシア救世主である、と。シメオンは、イエス様のことを「異邦人を照らす啓示の光」と呼びます。分かりそうで分かりにくい表現です。どんな光かと言うと、ギリシャ語原文をよく見ると、今まで現れていなかった光が現れてそれを異邦人が目にするという光です。簡単に言えば、「異邦人に現れる光」です。「異邦人」というのは、ユダヤ民族以外の全ての民族です。アメリカ人もヨーロッパ人も日本人もアフリカ人もユダヤ教に改宗していなければ、みんな異邦人です。その異邦人に現れる光とはどんな光なのでしょうか?それは、人間に対する神の意志を明らかにする光ということです。天地創造の神の意志は、それまでは旧約聖書を通して主にユダヤ民族に知らされていました。それが、神のひとり子イエス様がこの世に送られて以後はユダヤ民族以外にも知らされることになるというのです。そのような方が旧約聖書の預言通りにユダヤ民族の中から輩出した、それでシメオンはイエス様のことを「神の民イスラエルの栄光です」と賛美したのです。
そういうわけで、本日の説教ではこのシメオンのキリスト賛美の解き明かしをしていきます。

シメオンは「イスラエルの慰め」を待っていて、メシア救世主を見るまでは死ぬことはないと聖霊に告げられていました。そして、メシアはこの子だと聖霊によって示されて賛美を始めました。ところが、待望のメシア救世主の将来はいいことづくめではありません。シメオンはイエス様について預言を始めます。この子は将来、イスラエルの多くの人たちにとって「倒したり立ち上がらせる」ような者になる。つまり、イエス様は多くの人たちを躓かせることになるが、また多くの人たちを立ち上がらせることにもなる、と。果たして、本当にその通りになりました。律法学者やファリサイ派のような宗教エリートたちが、自分たちこそは旧約聖書を正しく理解して天地創造の神の意思を正確に理解していると思っていたのに、本当はそうではないとイエス様から突き付けられてしまいます。それで彼に躓いてしまったのです。イエス様は文字通り「反対を受けるしるし」になってしまい、それがもとで十字架刑に処せられてしまいます。十字架の上で苦しみながら死んでいくイエス様をマリアは自分の目で見なければならなくなります。文字通り「剣で心を刺し貫かれた」ようになります。

しかしながら、イエス様はただ単に反対され躓きになっただけではありませんでした。多くの人たちを立ち上がらせることにもなったのです。イエス様の十字架の死は、ただ単に反対者から迫害を受けてそうなってしまったということではありませんでした。神の計画がそういう形をとって実現したということだったのです。それでは、神の計画とは何かというと、それは、人間の罪に対する神罰を人間に受けさせるのではなく、代わりに自分のひとり子に全部受けさせるということです。つまり、イエス様の十字架の死というのは迫害されて殺されて終わってしまったということでは全くありませんでした。人間に罪の赦しのチャンスを与えるために神がひとり子を犠牲の生け贄にして罪の償いを人間に代わってさせたというのが真相だったのです。

神がイエス様を用いて行ったことは罪の償いだけではありませんでした。神は一度死んだイエス様を復活させて、死を超えた永遠の命があることをこの世に示し、そこに至る扉を人間に開いて下さいました。人間は、これらのこと全ては神が自分のためにしてくれたのだとわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ、イエス様が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになります。罪を償われたからその人は神から罪を赦された者と見なされ、神との結びつきを持ててこの世を生きるようになります。そこでは永遠の命に至る道に置かれて、その道を進んでいきます。たとえこの世から離れることになっても、復活の日に目覚めさせられて永遠の命が待つ神の国に迎え入れられます。このようにして、イエス様のおかげで「立ち上がる」者も多く出たのです。そこで、使徒たちがこの「罪の赦しの救い」という福音を宣べ伝え始めると、それを受け入れて「立ち上がる」者が次々と出ました。他方では、受け入れずに反対する者も出ました。まさにシメオンが預言した通りになったのです。さすがに聖霊を受けただけあって完璧な預言でした。

ところで、シメオンがイエス様を抱き上げて賛美と預言をしていた時に、ハンナというやもめの老婆がやってきました。自分の人生を神に捧げることに徹し、神殿にとどまって断食したり祈りを捧げて昼夜を問わず神に仕えてきました。聖書に「預言者」と言われるからには聖霊の力を受けていたわけですが、やはりイエス様のことがわかりました。それで、周りにいた「エルサレムの救い(贖いλυτρωσις Ιεροθσαλημ)を待ち望んでいる人たち」に、この幼子がその救いの実現であると語り始めたのです。

ここで、シメオンとハンナの賛美や預言をみて一つ気になることがあります。それは、二人ともイエス様が全人類の救世主であるとわかっていたのに、彼らの言葉づかいや、この出来事を記したルカの書き方を見ると、「イスラエルの慰め」とか「エルサレムの救い(贖い)」とか、どうもユダヤ民族という特定民族の救い主であるような言い方、書き方をしています。「イスラエルの慰め」というのは、イザヤ書40章1節や49章13節にある預言、「エルサレムの救い」というのは52章9節にある預言がもとにあります。イエス様の誕生はこれらの預言の実現と理解されたのです。

イザヤ書の40章から55章までのいわゆる「第二イザヤ」の部分は一見すると、ユダヤ民族が半世紀に渡るバビロン捕囚から解放されて祖国に帰還できることを預言しているように見える個所です。実際にこの帰還は歴史的にも起こりまして、エルサレムの町と神殿は再建されました。ところが、帰還と再建の後もユダヤ民族の状況はかつてのダビデ・ソロモン王の時のような勢いはなく、ほとんどの期間は異民族に支配され続けました。神殿を中心とする礼拝も本当に神の御心に適うものになっているかどうか疑う向きも多くありました。それで、イザヤ書40章から55章までの預言は実は祖国帰還後もまだ実現していない、未完の預言だと理解されるようになりました。そうした理解は、バビロンからの帰還が実現して500年以上たったイエス様の時代でも、シメオンのようにイザヤ書で預言された「イスラエルの慰め」を待ち望んでいたこと、また「エルサレムの救い」を待っている人たちがいたからもうかがえます。

このようにユダヤ民族中心のように見える預言の言葉ですが、シメオンの賛美をよく見ると、メシア救世主がユダヤ民族の解放者ではなく、全人類にかかわる救世主であることをちゃんと言っているのがわかります(2章31節と32節)。特に32節の言葉「異邦人を照らす啓示の光」ないし「異邦人に現れる光」は、イザヤ書49章6節の預言が実現したことを意味します。「わたしはあなたを僕としてヤコブの諸部族を立ち上がらせ、イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。だがそれにもまして、わたしはあなたを国々の光とし、わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする。」日本語訳の「それにもまして」ですが、原語のヘブライ語を見ると(נקל)、ユダヤ民族の祖国帰還と復興だけでは不十分だ、足りない、スケールが小さすぎるという意味です。救世主のなすべきことはユダヤ民族のことだけにとどまらず、全世界の諸国民の光となって神の救いを全世界にもたらすことだ、と言うのです。

そういうわけで、ルカや他の福音書の中にユダヤ民族の救いや解放を言うような言葉遣いや表現があっても、それは旧約聖書の預言の言葉遣いや表現法に基づくものであり、それらの預言の内容自体は全人類に及ぶ救いを意味していることに注意しなければなりません。ユダヤ人であるかその他の異邦人であるかに関係なく、救いを受け取る者が真のイスラエルなのであり、永遠の命に与る者が迎え入れられる神の御国が「天上のエルサレム」と呼ばれるのです。

3.イエス様は全世界の人々にとっての真実と道しるべの光

イエス様が私たちに現れる光であるというのは、かつて現れていなかったが十字架と復活の出来事を通して全世界の人々に現れた光になったということです。それはどんな光なのか見てみましょう。イエス様は光であると聞くと、大方は暗闇のような世の中で私たちが道を誤らないように導いてくれる道しるべのようなイメージがわくでしょう。それはその通りなのですが、イエス様が道しるべの光であるということを正しく理解できなければなりません。それは、私たちがイエス様の光に照らされると、私たちの罪が明るみに出されたかのように自分で気づくことになってしまうということです。シメオンが預言したように、光になるイエス様が反対を受けるしるしになるのは、「多くの人の心にある思いがあらわにされるため」でした。ヨハネ3章でイエス様自身、こう述べています。「悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ない」と(19節)。

自分の心の中に神の意志に反する事柄が無数にある、例えば不倫、妬み、憎しみ、他人の見下しや嘲り、誰かを悪者に仕立てること、嘘や誇張、偽証や改ざん、そして分け隔てない思いやりが不足していること、さらにはそうした悪いものに束縛されていてもそこから脱せられるように神に助けを求めないこと等々、こうしたものが聖書の御言葉を読む時、聞く時に思い知らされます。それは御言葉を通して神の霊、聖霊が働くからです。また御言葉を読んだり聞いたりしていない時に思い知らされることもあります。それは神が直接働きかけたからです。それは、本当は名誉なことです。

しかしながら、誰も、そのような自分で見たくも気づきたくもないことを明るみに出されるのは嫌でしょう。余計な光だ、と思って、反感を抱くでしょう。また人によっては反感ではなくて、自分が嫌になってしまい深い悲しみに陥ってしまうでしょう。しかし、イエス様の光は本当は人間を絶望や無力感に追い込むためにあるのではありません。光は一旦真実を明らかにしたら、今度はすかさず暗闇から脱する道を示す道しるべになるのです。神への反感をかなぐり捨て、絶望や無力感の底から神の方を向いて神の意思に反することがあることを素直に認めて赦しを願うと、神は私たちの心の目をゴルゴタの十字架に向けさせて言われます。「お前の罪の赦しはあそこにある。それは一度打ち立てられたら決してなくならない。お前は罪を赦された者としてもう一度歩み出しなさい」と。歩み出す時、遠い向こうには永遠の命が待っている神の国があります。ただ、それは肉眼の目には映るものではありません。しかし、心の目をあの空っぽの墓に向ければ、大きな希望が湧いてくるはずです!まさにヨハネ8章12節でイエス様自身言われているとおりです。「私は世の光である。私に従う者は暗闇を歩くことはない。その者は永遠の命に導く光を持つことになる。」(少し解説的に訳しました。)

このようにイエス様という光は真実を明らかにするという機能と道しるべになるという機能の二つの機能を同時に兼ね備えた光です。私たちはその光を持っているのです。主にあって兄弟姉妹でおられる皆さん、そのことを忘れないようにしましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン

説教「クリスマスの平和を持とう!」 神学博士 吉村博明 宣教師、ルカによる福音2章1-20節

降誕祭前夜礼拝説教 2020年12月24日降誕祭前夜礼拝説教 2020年12月24日

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

1. 本日は「降誕祭前夜」、日本では英語の言葉をカタカナにした「クリスマス・イブ」と呼ばれる日です。この日、北欧の国フィンランドのトゥルクという町で1300年代からずっと続いている「クリスマスの平和宣言」という行事があります。目抜き通りを挟んで大聖堂の反対側にある建物のバルコニーから、トゥルク市の儀典長が巻物を広げて群衆の前でその「宣言」を声高らかに読み上げます。「平和宣言」などと言うと、世界の平和を祈願する内容かと思いきや、そうではなく、これから救世主イエス・キリストの誕生をお祝いする期間に入るので市民は相応しい仕方でお祝いしなさい、もし、このクリスマスの平和を破る者がいれば関連法令に基づいて厳しく罰せられるから注意するように、という内容です。つまり、救世主の誕生日を敬虔な気持ちでお祝いし、お祝いの秩序を乱してはならない、という当局からの通達です。(トゥルク市の「クリスマス平和宣言」はテレビで全国中継されるほか、インターネットで世界中に同時配信されています。今年はコロナのために群衆なしで行うそうです。)

「平和」という言葉は、普通は戦争のない状態を意味すると理解されます。国と国、民族と民族の利害が衝突した時、武力を用いないで解決することを平和的解決と言います。そういう衝突や対立がない状態という意味での平和があります。他方で「クリスマスの平和宣言」に言われるような、イエス様の誕生を感謝の気持ちと喜びをもってお祝いできる状態という意味での平和もあります。もちろん、そういうお祝いが出来るためには国や社会が平和であることが大事です。フィンランドの「クリスマスの平和宣言」も、第二次大戦中の1939年は空襲警報が鳴ったため中止になりました。しかしながら、国や社会が平和ならばいつも感謝の気持ちと喜びをもってイエス様の誕生をお祝い出来るかと言うと、そうとも限りません。というのは、心がイエス様以外のものに向いていたら、それは本当のクリスマスのお祝いではなく、そこにはクリスマスの平和はないからです。裏返して言うと、国や社会が平和でない時も、心がしっかりイエス様に向いているならば、クリスマスの平和はあるということです。今コロナ禍の状況の中で世界中が混乱しています。そのような時こそ、このような平和を持てれば素晴らしいと思うのですが、そんな平和は果たしてあるのでしょうか?

先ほど朗読したルカ伝福音書2章の中で、イエス様が誕生した夜、天使の大軍が夜空に現れて「地には平和、御心に適う人にあれ」と賛美の言葉を述べました。この、イエス様の誕生に結びつく平和、クリスマスの平和とはどんな平和なのか?これから、このことを見ていきたいと思います。

 

2. 初めに、イエス様誕生の歴史的背景について述べておきます。これは、出来事がおとぎ話とか空想物語と片づけられてしまわないために大事なことです。実を言うと、イエス様がこの世に誕生した年月日は歴史資料に限りがあるため100パーセント正確には確定できません。それでも、手掛かりはいろいろあります。例えば、先ほどのルカ伝福音書2章の初めに、ローマ皇帝アウグストゥスの勅令による住民登録があります。当時ユダヤ人にはヘロデという王様はいましたが、独立国としての地位は失っていてローマ帝国の支配下に置かれる属国でした。ローマ帝国は大体14年毎に徴税のための住民登録を行っていました。それで、ユダヤ人も帝国の住民登録の対象になったのです。

さて、ヘロデ王の国はローマ帝国シリア州の管轄下にあり、その総督であったキリニウスは西暦6年に住民登録を実施したという記録が残っています。しかし、それ以前のものは記録がありません。それでも、ヘロデ王が紀元前4年まで王位にあったことや、ローマ帝国は定期的に住民登録を行っていたことから逆算すると、イエス様のこの世の誕生は紀元前6ー7年という数字が有望になります。

イエス様が誕生した日にちはどうでしょうか?西暦100年代に1月6日が顕現日という聖日に定められました。当初は顕現日はイエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けたことを記念することと、イエス様の誕生を記念することの両方が祝われていました。西暦100年代と言えば、まだイエス様の目撃者の次の世代が生きていた時代です。目撃者の生々しい証言はまだ昨日の出来事のように語られていたでしょう。誕生記念の方は1月6日から12月25日に移っていきますが、その詳しい経緯はわかりません。いずれにしても、イエス様の誕生が真冬の季節だったことは、初期のキリスト教会の中では当たり前のことだったと言えます。

 

3. クリスマスというのはイエス様の誕生をお祝いする日です。それで、イエス様が歴史上、実際に生まれた日が世界最初のクリスマスになります。聖書に従えば、イエス様は神のひとり子です。そして父なる神は、天と地と人間を造られ、人間一人一人に命と人生を与えて下さった創造主です。この創造主としての神、ひとり子としての神、それに神の霊、聖霊の三つが一つの神を成すというのがキリスト信仰の立場です。この三つを除く全ての万物は、神に造られたもの、被造物ということになります。私たちの目に見えるもの、また目に見えない霊的なものも全て被造物ということになります。天使たちもそうです。

これから考えると、世界最初のクリスマスの驚くべきことは、造り主に属する神のひとり子が人間として、つまり被造物の形を取って生まれたということです。加えて、天上の神の栄光に包まれていた方が家畜小屋で生まれたということです。皆さんは、家畜小屋がどういうところか想像つくでしょうか?パイヴィの実家が酪農業を営んでいるので、休暇の時はいつも子供たちと一緒に牛を見に行ったものでした。牛舎は、栄養や水分補給がコンピューター化された近代的なものですが、糞尿の臭いだけは現代技術をもってしてもどうにもならない。数分いるだけで臭いが服にしみつくほどです。

神のひとり子であり人間の救い主となる方が、なぜこのような仕方で地上に送られなければならなかったのか?人間に命と人生を与える造り主の立場にある方が、なぜ自ら被造物の形をとって、しかも家畜小屋で生まれなければならなかったのか?まず、神が人間として生まれたということについて見てみます。ここで大事なポイントは、もし、このことが起きなかったならば、神はずっと天上にふんぞり返っていただけだったろうということです。それでは神と人間の間にある問題を解決することは出来ません。神と人間の間にある問題とは何かと言うと、それは、旧約聖書の創世記にあるように、神に造られた最初の人間アダムとエヴァが神の意思に反するようになって、罪を持つようになってしまったということです。そのために神と人間の結びつきが失われ、両者はいわば敵対関係に陥ってしまいました。

そこで神は、人間が再び神と平和な関係を持てて、神との結びつきを持ってこの世を生きられるようにしようと、そしてこの世から去った後は復活の日に目覚めさせてご自分のもとに永遠に戻れるようにしてあげようと、それでひとり子をこの世に送ったのでした。送って何をさせたかと言うと、敵対関係を終わらせるために人間の罪を償う犠牲の生け贄になってもらったのです。これがゴルゴタの丘の十字架の出来事でした。さらに神は、一度死んだイエス様を復活させて、死を超えた永遠の命があるということも示されました。これらのことをやり遂げるには被造物はあまりにも無力でした。それを可能にする本物の犠牲が必要でした。それが出来たのは神のひとり子だったのです。神のひとり子の犠牲なのでこれ以上のものはないという犠牲でした。イエス様が犠牲の生け贄になったというのは、神と人間の間に和解をもたらすために神自らが人間に歩み寄って自分を犠牲に供したということだったのです。それ位、神は人間のことを大事に思って下さったということなのです。

 

4. それでは、神のひとり子が人間として生まれるのなら、なぜベツレヘムの家畜小屋での出産というような形をとらなければならなかったのでしょうか?聖書を読むと気づかされることですが、永遠の存在者である神は、有限な私たち人間を導く時、大抵は自然界と人間界にある諸条件を用いてその枠内でそうします。しかし時として、諸条件の枠を超えるような力を行使して、自然界の中で起こりえないことを起こすこともあります。それが奇跡と呼ばれるものです。例えばイエス様が医療の技術もなく不治の病を治したとか、湖の水の上を歩いたとか、5切れ程度のパンで5千人以上の人たちの空腹を満たしたとかいうものです。

人間界の諸条件の枠の内で導きをするとどういうことが起きるか?イエス様の誕生がその良い例になっています。紀元前6年頃、現在のイスラエルの国がある地域で、かつてのダビデ王の家系の末裔だったヨセフはナザレ町出身のマリアと婚約していた。そのマリアは神の奇跡の業のために処女のまま妊娠した。ちょうどその時、彼らを支配していた異国の皇帝が支配強化のために住民登録を命じた。そこで近々世帯主になるヨセフはマリアを連れて自分の本籍地であるベツレヘムに旅立った。そこでマリアは出産日を迎えた。さて、旧約聖書にはメシア救世主がダビデ王の家系から生まれ、その場所はベツレヘムである、という預言があります。ローマ皇帝はそんな他の民族の聖典の預言など全く知らずに勅令を出したわけですが、そのおかげで預言が実現することになりました。

出産場所が家畜小屋になったことについても、直接の原因は、その夜ベツレヘムの宿屋はどこも満員でヨセフたちが泊まれる場所がなかったためでした。ところが、町の郊外にいた羊飼いたちに天使が現れて、今ベツレヘムでメシア救世主が生まれた、飼い葉桶に寝かせられている赤子がそれである、と知らせました。これが重要なヒントになりました。なぜなら、家畜小屋を探せばよいからです。単に救世主が生まれたとだけ告げられたら、どこを探せばよいのか途方に暮れたでしょう。仮に誰かの赤ちゃんは見つけられたとしても、その子が天使の言った救世主であるとどうやって確かめられるのか、雲を掴むような話になったでしょう。

イエス様の家畜小屋での出産の出来事から次のことがわかってきます。神はヨセフとマリアを歴史的状況、社会的状況の荒波に揉まれさせてはいるが、決して彼らの運命の手綱を手離すことなく、ずっとしっかり握っていたということです。マリアの妊娠は、戒律厳しいユダヤ教社会の中では不倫か結婚前の関係かと疑われたでしょう。事は十戒の第六の掟「汝、姦淫するなかれ」に関わります。しかしヨセフは、神の計画ならば周囲の目など気にせず、この私が育てますと決意します。そう決心するや否や、今度は支配者の命令が下され、身重のマリアを連れて160キロ離れた町に旅をしなければならなくなります。やっと着いても泊まる所がなく、家畜小屋で子供を産むことになってしまいます。

ところが、まさにちょうどその時、神は天使を送ってイエス様の誕生を羊飼いたちに知らせ、彼らにイエス様を探し当てさせました。本日の福音書の箇所によると、家畜小屋には親子3人と羊飼いたちの他にも人々が集まっています。恐らく羊飼いたちは黙って探したのではなく、今夜この町でメシア救世主がお生まれになりました!今飼い葉桶に寝ておられます!家畜小屋はどこですか?と声に出しながら探し回ったのでしょう。羊飼いたちはヨセフとマリアと集まった人々に天使が告げたことを話しますが、人々は天使など見ていませんから、半信半疑です。しかし、天使が現れなければ羊飼いが飼い葉桶の赤ちゃんを探すこともないわけだから、嘘とも決めつけられない。聖書に書いてあるように、ただただ驚くしかありません。他方マリアは、天使ガブリエルから何が起きるかを前もって知らされていたので、羊飼いたちの言うことは心に留めたのです。これも書いてある通りです。

以上、ヨセフとマリアは、ベツレヘムまでの旅を余儀なくされて挙句の果ては家畜小屋においやられてしまいましたが、羊飼いたちがやってきたことで、これは不運でもなんでもない、神は何時いかなる時でも絶えず目を注いで下さっている、ということがはっきりしました。このように神は、神を信頼しより頼む者を状況の荒波に揉まれさせて、何もしてくれない、助けてくれないように見えても、実はその人の運命の手綱をしっかり握っていて離すことはないのです。必ず、その人に対する神の計画が明らかになり、それまでのことは無意味ではなかったとわかるのです。

 

5. このように外面的には嵐と荒波があっても、心は落ち着いていられる平和がある。そのような平和について宗教改革のルターは次のように教えています。この教えは、イエス様がヨハネ14章27節で弟子たちに平和を与えると約束したことについての説き明かしです。

「これこそが正しい平和である。それは心を静めてくれる。しかも、不幸がない時に静めるのではなく、不幸の真っ只中にいて、周囲のもの全てが動揺しているときに静めてくれるのである。

 この世が与える平和とイエス様が与える平和の間には大きな違いがある。この世が与える平和とは、不穏さがもたらす害悪が取り除かれることがそれである。それとは反対にイエス様が与える平和とは、外面上は不幸が続いてもあるものである。例えば、敵、疫病、貧困、罪、死それに悪魔、こうしたものはいつも我々を包囲している。しかしながら、内面的には心の中に励ましと平和をしっかり持っている。これがイエス様の与える平和である。心は不幸を気にかけないばかりでなく、不幸がない時よりも大胆になり、喜びも大きくなる。それ故、この平和は、人間の理解を超える平和と呼ばれる。

 人間の理性で理解できるのは、この世が与える平和だけである。平和は害悪があるところにもあるとのは、理性には理解不可能である。理性は、どのようにして心を静めることが出来るかを知らない。なぜならば理性は、害悪が残っているところには平和はあり得ないと考えるからだ。確かにイエス様は外面上の惨めさをそのままにすることがあるが、まさにそのような時に彼は人間を強くし、臆病な心を恐れ知らずにし、恐怖に慄く良心を安心感に満ちたものに替える。そのような人は、たとえ全世界が恐怖を抱く時にも喜びを失わず、安全な場所でしっかり守られているのである。」

一体誰がこのような平和を持てるでしょうか?先ほどのルカ伝福音書2章14節の天使たちの賛美を思い出しましょう。

「いと高きところには栄光、神にあれ、
地には平和、御心に適う人にあれ。」

これは、不思議な文句です。この文句は2つの部分からなります。最初は、神の栄光について言い、次は平和についてです。「いと高きところには栄光、神にあれ」の「いと高きところ」とは、神がおられる天上そのものを指します。「神にあれ」ですが、そもそも天上の栄光というものは、天使たちが「あれ」と願わなくても、もともと神にあるものなので、「あれ」と訳すより、「ある」とすべきです。従って、ここは「栄光はいと高き天上の神にある」というのが正確でしょう。

「地には平和、御心に適う人にあれ。」地上の平和は、天使たちが「あれ」と願ってもいいのかもしれません。「御心に適う人」と言うのは、「神の御心に適う人」です。「平和」は、先ほども申しましたように、神と人間の関係が和解した、神と人間の間の平和を指します。この平和は、イエス様が十字架で御自身を犠牲の生け贄として捧げた時に実現しました。そして、イエス様を救い主として受け入れた者たちがこの神との平和を持つことができます。この者たちが「神の御心に適う人たち」です。まさにこの平和は、外的な平和が失われた時であろうが、また人生の中で困難や苦難に遭遇しようが、イエス様を救い主と信じる限り、失われることのない平和です。そういうわけで、天使たちは、栄光が天上の神にあるのと同じくらい、平和もイエス様を受け入れる者にある、だから、出来るだけ多くの人がこの平和を持てますように、と願っているのです。皆さんも、この平和を持つことができますように。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン