2022年6月26日(日)聖霊降臨後第3主日 主日礼拝

主日礼拝説教 2022年6月26日(聖霊降臨後第三主日)

列王記上19章15~16、19~21節
ガラテア5章1、13~25節
ルカ9章51~62節

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説教題「将来の神の国の一員として、神の国について証ししよう」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 これまでガリラヤ地方を主な活動舞台にしてきたイエス様が、ついに運命的なエルサレム行きを決意し、そこを目指して歩み始める。本日の福音書の箇所の冒頭は、このことを記しています。イエス様は、既に弟子たちに前もって告げ知らせていたように(ルカ9章22節、44節)、エルサレムでどんな運命が待ち受けているか、自分でもよく知っていました。行けば、苦しみを受け殺される、しかも普通の人間が被る死とは異なる、もっと重い死を被ることになる。それを知って向かうのです。しかし、それは、神の人間救済計画の実現のためにしなければならないことでした。まさにそのために、イエス様は、天の父なるみ神のもとからこの世に贈られてきたのですから。

 さて、ガリラヤ地方からエルサレムに行こうとすると、その間にサマリア地方があります。そこに住むサマリア人たちとユダヤ人たちは、歴史的・宗教的な理由からお互いに反目し合っていました。サマリア地方は古くは、ダビデの王国が南北に分裂した後は北王国の中心でした。しかし、北王国は次第に、天地創造の神でありまたイスラエルの民を奴隷の国エジプトから導き出した神から離れ、カナンの地の土着の霊であるバアルの信仰に染まっていきます。この辺の事情は、預言者エリアの孤独な戦いについて列王記上の中に記されています。神から離れた北王国は紀元前700年代にアッシリア帝国に滅ぼされます。国の主だった人たちは占領国に連行され、代わりに異民族が送られてきます。そうして、サマリア地方は宗教的・民族的な純粋さを失っていきます。サマリア人たちは、旧約聖書のモーセ五書は持ち続けましたが、預言書は無視しました。また神に生け贄を捧げる場所としてゲリシムという山を選び、エルサレムの神殿も無視していました。そういうわけで、ユダヤ人たちはサマリア人を毛嫌いし接触を避けていました。ユダヤ人のそういう態度は福音書の随所に出てきます。本日の福音書の箇所で、イエス様一行がサマリアの村に宿と食事の提供を願い出て拒否されますが、その理由として、イエス様がエルサレムを目指して進んでいたからと記されています。サマリア人としては、誤った礼拝場所に巡礼に行く者たちをどうして世話しなければならないのか、ということだったのでしょう。この拒否に怒った弟子たちが、こんな村は神の力で焼き尽くされるべきだといきり立ちました。これに対してイエス様は、そんなことを言ってはいけないとたしなめ、その村はそのままにして、別の村を経由して行きました。

 このサマリア地方での出来事に加えて、本日の福音書の日課では、イエス様に付き従うことについての教えがあります。三人の男の人が登場します。そのうち二人は自ら志願します。一人はイエス様が付き従いなさいと声をかけます。しかし、いずれの場合もイエス様は、付き従うことに二の足を踏ませるような厳しいことを言います。特に、イエス様が自分で付き従いなさいと声をかけた人に対して、その人がまず死んだ父親を埋葬してから来ます、と言ったのに、イエス様は、埋葬は他人に任せて、あなたはただ神の国を言い広めなさい、と命じます。これは、日本のように死んだ人の霊を崇拝する伝統が強いところでは、キリスト教はなんとひどい宗教だという反感を生み出すことになります。このイエス様の教えについて、本説教の後の方で見てみます。

 サマリア地方の出来事は一見すると、イエス様は慈悲深い愛に満ち方であることを言っているように見えます。イエス様につき従うことの教えの方は逆に、彼の弟子になることにとても厳しい条件を課しているように見えます。しかし、そういうイエス様の優しさとか厳しさという理解はまだまだ浅い理解です。このサマリアの出来事と弟子の条件の教えは、一見すると関連性がないみたいですが、実はあります。それを理解するカギは今日の個所に2回出てくる言葉「神の国」です。人間と「神の国」の関係が今日の日課の中で問題になっているとわかると、イエス様は心優しいお方とか厳しいお方とかいうような頼りない理解を突き破って堂々とした理解に入ることができます。

2.「神の国」とはどんな国?

 そのためには、まず「神の国」がどんな国かわからないと話になりません。特に一般的また俗に言う「天国」と大きく違うことがわからないといけません。両者を混同してはいけないのです。俗に言う「天国」は人間が死んだら天使のように空に舞い上がって行くところで、亡くなった方が上からこちらを見下ろしているとか見守っているとかいう所です。ところが、キリスト信仰の「神の国」は全く異なります。聖書では、「神の国」は人間が「行く」ところではありません。そっちの方がこちらに「やって来る」ものです。

 例えば、イザヤ書の終わりの方で(65章17節、66章22節)、今ある天と地が新しい天と地に再創造される日についての預言があります。黙示録21章ではまさにその再創造の日に「神の国」が新しい天と地のもとに降りてくると預言されています。「ヘブライ人への手紙」12章では、今ある天と地と全ての被造物が共に激しく揺さぶられて崩壊していくなかで、ただ一つ揺さぶられずに現われるのが「神の国」であると言っています。黙示録21章はまた「神の国」がどういう国か次のように述べています。そこは「神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」(黙示録21章3‐4節)。神が全ての涙を拭うというのは、痛みの涙だけでなく無念の涙も全て含まれます。「神の国」が現われる天地の大変動の時はまた、最後の審判が行われます。それなので、前の世で被ってしまった不正義は全て最終的に清算されて完全な正義がやっと実現する国です。さらに「神の国」は黙示録19章で盛大な結婚式の披露宴にたとえられます。つまり、この世の労苦がすべて報われて労われる国ということです。

 「神の国」がそういう遠い将来に新しく再創造された天と地のもとにやって来る国となると、誰がそこに迎え入れられるかという問題があります。不正義は入り込む余地がないことから、誰もがということではないことが明らかです。誰が将来到来する「神の国」に迎え入れられるかという問題に取り組んでいるのが聖書です。その問題の解決策として、天地創造の神はひとり子をこの世に贈った、これが聖書の一番伝えたいことです。

 聖書の立場は、人間はそのままの状態では「神の国」に迎え入れられないというものです。ヨハネ3章でイエス様がはっきりそう言っています。どうしてかと言うと、人間には最初に造られた人間の時から神の意志に反しようとする性向、罪を持ってしまっているからです。そのため、人間は神との結びつきを失ってしまい、死ぬ存在になってしまったと創世記に記されています。人間はそのままの状態では神との結びつきを持たないでこの世を生きることになり、この世から去った後も神のもとに戻ることは出来ません。それで神は、人間が再び自分との結びつきをもって生きられるようにしてあげよう、この世から去った後も天地再創造の日に復活を遂げさせて永遠に自分のもとに戻れるようにしてあげよう、そう決めてひとり子を贈られたのでした。そのひとり子イエス様を贈って何をしたかと言うと、神と人間の結びつきを失わせている罪を全てイエス様に背負わせてゴルゴタの十字架の上に運び上げさせて、そこで人間に代わって罪の罰を受けさせたのです。つまり、人間に代わってイエス様を断罪して、この神のひとり子の身代わりの死に免じて人間を赦すという手法を取ったのです。

 そこで今度は人間の方が、十字架の出来事は自分のためになされたとわかって、それでイエス様は自分の救い主だと信じて洗礼を受けると、神から罪の赦しをお恵みのように頂けます。神はまた、一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させて、死を超える永遠の命があることをこの世に示し、そこに至る道を人間に切り開かれました。それで、イエス様を救い主と信じ洗礼を受けて罪の赦しを受け取った者は、その道に置かれて歩み出します。行き先は、天地再創造の復活の日に復活を遂げて父なるみ神のもとに永遠に迎え入れられる地点です。それが「神の国」です。

 それなので、キリスト信仰にあっては、「神の国」は死んでフワフワ上がって行ってそこから下を見下ろす所ではありません。遠い将来にそれが到来する日を目指して進んでいくところです。イエス様が祈りなさいと命じた「主の祈り」の中でも「御国を来たらせたまえ」と祈ります。ここにキリスト信仰とそれ以外の死生観の大きな違いがあります。

 ここで起こって来る疑問は、この世で「神の国」が到来する日を目指しながら歩んでも、その日の前に死んでしまったらどうなるのかということがあります。キリスト信仰にあっては、その日までは安らかに眠っているのです。イエス様もパウロも、キリスト信仰者にとって死は復活の日までの眠りに過ぎず、その日に復活の主であるイエス様が来て起こしてくれると言っています。眠っているから、下を見下ろしたり見守るということもありません。ここにもキリスト信仰の死生観のユニークさがあります。

3.サマリアの人たちは方向転換した

 それでは、福音書の日課に戻りましょう。イエス様は、エルサレムを目指し始めました。それは、受難と十字架の死と死からの復活を全てこなして神の人間救済計画を実現するためでした。それを実現すれば、人間はたとえ罪の汚れを持っていても、イエス様を救い主と信じる信仰のゆえに、神聖な神の国に迎え入れることができるようになります。

 このような全人類史的な意義を持つ任務を負ったイエス様をサマリア人の村が受け入れを拒否しました。憤慨した弟子のヤコブとヨハネは天から火を送って焼き払ってしまったらどうですか、イエス様に聞きます。彼らの言葉づかいは、列王記下の1章で預言者エリアがバアル崇拝に走る国王の使者を天からの火で焼き殺した時の言葉を思い出させます。実際、弟子たちは、この出来事が脳裏にあったのでしょう。しかし、イエス様は、拒否したサマリア人の村はそのままにしておきなさい、と言われる。なぜでしょうか?

 イエス様が心優しい慈愛に満ちた方だからと言うのは、まだ核心を捉えていません。イエス様は、父なるみ神同様、全ての人間が神との結びつきを回復して、その結びつきを持ってこの世を生きられるようにしてあげたい、そしてゴールとして「神の国」に迎え入れてあげたい、と考えていました。それで、もし反対者をいちいち焼き滅ぼしてしまったら、せっかく罪びとが神の国の一員になれるようお膳立てをしに来たのに、それでは受難を受ける意味がなくなってしまいます。マタイ福音書5章45節で、イエス様は、神が悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しいものにも正しくない者にも雨を降らせる、と言っていたことを思い出しましょう。なぜ、イエス様はそのように言ったのでしょうか?神は、悪人が悪行をさせるままにまかせる気前の良い方だということなのでしょうか?いいえ、そうではありません。悪人に対しても、善人同様に太陽を昇らせ、雨を降らせる、というのは、悪人がいつか神に背を向けた生き方から方向転換して神に立ち返る生き方に入って神の国に迎え入れられるようにしようと猶予期間を与えているのです。もし太陽の光も与えず水分も与えないで悪人を滅ぼしてしまったら、方向転換の可能性を与えないことになってしまいます。それだから、悪人の方も、いい気になって、いつまでも方向転換をしないで済ませていいはずがない、と気づかなければならないのす。もし、この世の人生の段階で方向転換がないと、それは神罰を受けないで済むための「罪の赦し」を拒否したことになります。

 それでは、このサマリア人の村はどうだったのでしょうか?猶予期間を与えられて方向転換したでしょうか?それがしたのです!使徒言行録の8章を見て下さい。ステファノが殉教の死を遂げた後、エルサレムにおいてキリスト信仰者に対する大規模な迫害が起きました。多くの信仰者がエルサレムから脱出して、近隣諸国に福音を宣べ伝え始めます。その時、まっさきにキリスト信仰を受け入れた地域がサマリア地方だったのです。あの、エルサレム途上のイエス様を拒否した人たちが、イエス様を救い主として信じる信仰に入ったのです。これで、なぜイエス様が、村を焼き滅ぼすことを認めなかったのかが理解できます。イエス様の考えには、人間が「神の国」に迎え入れられることが全てに優先されるということがあったのです。そのことが受け入れを拒否したサマリア人にも適用されたのです。イエス様は、まさにこれから、人間が神との結びつきを回復させて、「神の国」に迎え入れられるようにするお膳立てをしに行くところだったのです。

4.将来の神の国の一員として、神の国について証ししよう

 次に、イエス様に付き従うことも、神の国に迎え入れられることに関係することを見てみましょう。

 三人の男の人が登場します。最初の人は、イエス様に付き従うことを志願します。それに対するイエス様の答えは、付き従いの生活はそんなに甘くはない、というものです。エルサレムまで一緒に上っていく途上で、いつもマリアやマルタの二姉妹のような支持者から食事と床を提供される保証はない、場合によっては食べるものもなく、雨風にさらされて寝ることにもなる、そのようにしてエルサレムまで行って、イエス様の十字架と復活につきあって目撃者となったら、あとはどうなるのか?復活後のイエス様は天に上げられてしまう。そうなると、もう付き従うイエス様はいらっしゃいません。イエス様につき従うこともそれで終わってしまうのか?実はイエス様の発言は、昇天以後のことも視野に入っていたのです。一度、神の国に迎え入れられる道に置かれてそれを歩み出したら、今度は他の人もそこに迎え入れられるように働きかけをしなければならないのです。なぜなら、全ての人が神との結びつきを回復して生きられるようになることは神の御心だからです。そうするとこの働きも、イエス様と一緒にエルサレムに上っていくことと同じように、安逸の保証がないものになります。いつも支持者や賛同者に囲まれるとは限らず、いつも寝食が満足に得られる保証もないのです。

 このことが、二番目の男の人のところで明確に出てきます。父親の埋葬には行かず、神の国を言い広めよ。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」と言うのは、死体を死体のところにほおっておけというような、死体遺棄ではありません。「死んでいる者たち」とは、神との結びつきを回復していない人たちを指します。永遠の命に至る道を歩んでおらず、この世から死んだら、復活を果たせず永遠の滅びに陥ってしまう人、これを「死んでいる者たち」と言っているのです。父親の埋葬はそのような人たちに任せて、あなたのなすべきことは、「神の国」について教え伝えることだとイエス様は言うのです。つまり、人々が「神の国」に迎え入れられるように働きなさいということです。人々が神との結びつきを持って生きられるように助けなさい、永遠の命に至る道に入って歩めるようにしなさい、つまり、「死んでいる者たち」をそのように生きる者にしなさいということです。

 こうして見ると、ここのイエス様の教えは、キリスト信仰者は親の葬儀をするな、軽んじろ、ということではないことがわかります。葬儀をするにしても、人々を「神の国」に迎え入れられるように導きなさい、ということです。その意味でキリスト教会の葬儀はこの任務に取り組んでいます。故人にゆかりのある人たちが集まって、その方の死を悲しみ、遺族の悲しみと個人の懐かしい思い出を心を一つにして分かち合い、また遺族に慰めの言葉をかけて励まし合う、ここまではキリスト教に限らず他の宗教も同じでしょう。しかし、この先は大きく異なります。先ほども申しましたように、キリスト信仰では、死は復活の日までの安らかな眠りに過ぎず、復活の日に復活を遂げられたら、今度は懐かしい人との再会があるという希望があります。復活の体と永遠の命を持つ者同士が合いまみえるという希望です。キリスト教の葬儀では、悲しみの中でもこの再会の希望が確認されます。そのようにして、参列する人たちが「神の国」に迎え入れられることを再確認し合い、参列者がキリスト信仰者でない場合は、「神の国」がどのようなものであるかを伝える伝道的な意味を持つ、これがキリスト教の葬儀です。「あなたは行って、神の国を言い広めなさい」という主の命令は、そこでも守られているのです。

 ここで日本のキリスト信仰者にとって重い課題となるのは、参列する葬儀がキリスト教式でなかったらどうすべきか、ということです。これも、「あなたは行って、神の国を言い広めなさい」が原則になります。つまり、まだ「神の国」に向かう道を歩んでいない人たちに、自分がまさにその道を歩んでいることを証し、さらにその人たちをその道に導いていくことができれば、この原則に沿ったものとなります。その時、死んだ者の葬りを死んだ者に任せるくらいに「神の国」を言い広めることになっています。しかし、証しや導きは具体的にはどういう形をとるでしょうか?本説教では、こうしなさい、ああしなさい、ということは言わず、皆さんお一人お一人の心に問題提起をすることにとどめておくことにします。

 さて、三番目の男の人の場合です。「鋤に手をかけて後ろを振り返る者は、神の国にふさわしくない」と主は言われました。ここで早合点してはいけないのは、イエス様は家族を見捨てろと言っているのではないということです。イエス様の原則からすれば、家族ももちろん「神の国」に迎え入れられるように導く働きかけの対象です。その意味で、家族のもとには留まれるのです。この三番目の男の人のところで問題になっていることは、家族に対して「神の国」に向かう道に導く働きかけをしないで家族のもとに留まると、自分自身が道を踏み外してしまうリスクがあるということです。家族の絆というのはそれ位強力なものです。しかし、家族の人たちが「神の国」に迎え入れられるように働きかけをすれば、絆は保っていても「神の国」に相応しいのです。そうは言っても、家族の人たちがイエス様に関心があるとか、救い主として受け入れる準備があるとか、そういう理想的な場合はなかなかないでしょう。イエス・キリストの名を口にしただけで嫌な顔をされてしまうのが大半なのではないか?それなら、まず祈ることから始めます。私たちの愛する人たちが私たちと一緒に「神の国」に向かう道を歩めるように、一緒に復活を遂げて将来そこに迎え入れられるように父なるみ神に知恵と力と勇気をお願いします。

 兄弟姉妹の皆さん、以上からおわかりのように、イエス様の厳しい教え、葬式に出るなとか家族を捨てろと言っているように見える教えは、そうすることが目的なのではなく、「神の国」を証しし言い広めることが真の目的なのです。そのために「神の国」がどういう国かわからないと話になりません。今日の説教でもそれがわかるようにお話しした次第です。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

2022年6月19日(日)聖霊降臨後第ニ主日 主日礼拝

主日礼拝説教 2022年6月19日(聖霊降臨後第二主日)

イザヤ65章1~9節

ガラテア3章23~29節

ルカ8章26~39節

説教題「自分の意志は弱くても聖書と聖礼典を用いれば神の力が働く」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 本日の福音書の日課にある出来事は恐ろしい話です。悪霊にとりつかれた男が暴力的に振る舞い、どうにも押さえつけられない。自分自身を傷つけるようなことをし、居場所は墓場であった。墓場と言うと、十字架や墓石が立ち並び木は立ち枯れというようなスリラー映画の光景を思い浮かべるかもしれませんが、岩にくり抜かれた墓穴です。家に住まずに墓場に住んでいたというのは、墓穴で夜露を忍んでいたということです。イエス様が来て、その男の人から悪霊を追い出します。悪霊は自分の名をレギオンと言いますが、それはローマ帝国の軍隊の6,000人からなる部隊を意味します。つまり沢山の悪霊が男の人にとりついていたのです。イエス様がそれらを男の人から追い出すと、今度は豚の群れに入っていき、豚は気が狂ったようになって崖に向かって突進、群れ全部は崖からガリラヤ湖に飛び込んでみな溺れ死んでしまいました。

 この出来事はイエス様が悪霊を追い出す力があることを示す出来事の一つですが、だからと言って、イエス様はすごいですね、で終わる話ではありません。じゃ、何で終わる話かと言うと、今日の説教題です。人間の意思が弱くても、聖書と聖礼典(洗礼と聖餐)を正しく用いれば、神の大きな力が働くということです。ちょっとピンとこないかもしれませんが、これからの説き明かしでわかります。

2.イエス様と使徒たちに並ぶものとしての聖書と聖礼典

 出来事の説き明かしに入る前に、悪霊の追い出しということについて少し考えてみましょう。悪霊がとりついて人間が異常な行動を取るという話は聖書にもよく出てくるし、聖書の外の世界にも沢山あります。異常行動をやめさせるために悪霊の追い出しということがあるのですが、それは現代社会には相応しくないものと考えられます。現代では、異常な行動の解決には医学的、特に精神科的ないし心理学的な解決がはかられるからです。原因を悪霊に求めて解決を図ろうとするのは前近代的と考えられます。しかしながら、医学的に解決しようとしても思うように解決できない時は、原因を霊的なものと考えてそこから解決を求めようとする人たちがいるのも事実です。

 イエス様が悪霊追い出しをやったのは、まだ医学が発達していない古代だからそうしたのであり、それは時代遅れなのだということか、それとも、救世主が行ったことに時代遅れなどないということか、どっちでしょうか?

 ここで一つ注意すべきことは、悪霊追い出しを行ったのはイエス様とイエス様が権限を与えた弟子たちです。イエス様が天に上げられ、弟子たちもこの世を去った後、誰がその権限を持つのでしょうか?人によっては、自分はイエス様から権限を与えられたと言って、悪霊追い出しをする人がいるかもしれません。しかし、イエス様から権限を与えられたことがどうやってわかるでしょうか?最初の弟子たちの場合は、わかるも何も目の前にいるイエス様から直接与えられました。イエス様から直接与えられなくなったら、どうやってわかるのか?きっと結果でわかるということになるのでしょう。つまり、悪霊よ、出て行け、と言ったらその通りになってとりつかれた人は普通になった、だから自分はイエス様から権限を与えられているのだ、と。しかし、それで本当に大丈夫でしょうか?

 私はこの問題では慎重な立場を取る者なので次のように考えます。確かにイエス様と弟子たちは悪霊の追い出しをしましたが、彼らが活動した時代はまだ新約聖書が存在しない時代でした。新約聖書の代わりに何があったかと言うと、生身のイエス様がいて、イエス様が天に上げられた後は生身の弟子たちがいました。弟子たちは目撃者としてイエス様の教えや行いや出来事を証言しました。それが口伝えで伝えられて、やがて書き留められていきました。またパウロを含む弟子たちは証言だけでなくキリスト信仰について教えることもしし、各地の教会に教えの手紙を書きました。こうして、まだ新約聖書は出来ていませんが、弟子たちの証言と信仰の教えがあり、洗礼と聖餐の聖礼典もありました。

 弟子たちがこの世を去った後に証言や教えの手紙がまとめられて新約聖書ができました。最初の弟子たちは、ひょっとしたらイエス様の代理人として自分たちの弟子に奇跡の業を行う権限を与えたかもしれません。しかし、その詳細はわかりません。いずれにしても、イエス様と直接の弟子たちがこの世からいなくなった後は、彼らに代わるものとして新約聖書と聖礼典が残りました。それで私は、異常な行動も含めた人間のいろんな問題の解決にあたっては、イエス様と最初の弟子たちに並ぶものとして聖書と聖礼典があるのだから、それらを用いることが大事だと考えます。聖書と聖礼典を用いることの重要性についてはまた後でお話しします。

3.出来事の歴史的信ぴょう性について

 それでは出来事の説き明かしに入りましょう。まず書かれてあることをもとに状況を詳しく把握しましょう。そうすると、この出来事が作り話でなく本当の出来事であることがわかってきます。

 これと同じ出来事は、マタイ8章とマルコ5章にも記されています。ただし、起きた場所はルカとマルコではゲラサの町がある地域ですが、マタイではガダラの町がある地域です。聖書の後ろにある地図を見ると、ガダラはガリラヤ湖の南東、ゲラサはもっと南東の内陸部でとてもガリラヤ湖沿岸とは言えません。豚の群れが飛び込むような崖はガリラヤ湖の南側の距離的にはガダラの町に近い所にあります。ゲラサと書いたマルコとルカは間違えたのでしょうか?

 この問題は、福音書がいつ頃出来上がったかということを考えると解決します。4つの福音書は、どれも出来上がったのは早くて西暦70年というのが聖書学会の定説になっています。つまり、イエス様の活動時期から一世代二世代後のことです。イエス様が活動した時代は問題の崖のある湖岸は行政的にゲラサに属していました。マタイ福音書が出来上がった頃はガダラに属していました。それなのでルカとマルコがこの出来事が起きた場所をゲラサと言うのは、「あの時あの崖はゲラサに属していたが」という意味です。マタイがガダラと言うのは「あの崖は今はガダラに属しているが」という意味です。いずれにしても同じ崖を意味しているのです。

 新共同訳では「ゲラサ人」、「ガダラ人」とありますが、正確にはゲラサという町の住民、ガダラという町の住民です。ゲラサ人、ガダラ人という民族がいたのではありません。ヘレニズム時代からローマ帝国時代にかけて二つの町があるデカポリス地方はいろんな民族が混在していたと考えられます。放牧されていたのが羊ではなく、ユダヤ民族にとって汚れた動物である豚だったことから、ユダヤ民族以外の異民族が多数派だったと考えられます。それでは、悪霊にとりつかれた男の人も異邦人だったのでしょうか?それは本日の説教のテーマに関わる大事な問題です。これは後ほどわかります。

 さて三つの福音書の地名の相違の問題は解決しましたが、もう一つ大きな違いがあります。それはマルコとルカでは悪霊にとりつかれた男の人は一人なのに、マタイでは二人います。これはどういうことでしょうか?どっちかが間違っているのでしょうか?これは、先ほども申しましたように、福音書が書かれた時期がイエス様の昇天から一世代二世代後だったことが影響しています。マルコとルカは直接の目撃者ではないので、福音書を書く時はいろんな情報源から情報を得て書きました。そのことはルカ福音書1章ではっきり言われています。マタイ福音書は、言い伝えによると、12弟子の一人のマタイの記録が土台にありますが、それ以外にも他の情報源の情報も加えられています。もしゲラサの出来事がマタイ自身が目撃したことであれば、男の人は本当に二人だったことになります。もし別の情報源に由来するものであれば、その情報源が二人と言っていたことになります。マルコとルカの情報源は一人と言っていたことになります。どっちが正しいのでしょうか?

 一人か二人かの確定は難しいですが、それでも確実に言えることがあります。それは、出来事が言い伝えられていく過程で情報が分かれてしまい、男の人の数が情報経路Aでは一人、情報経路Bでは二人になってしまったということです。それでも大事なことは、大元には本当に起きた出来事があって、それが広範な地域に伝えられていく過程で違いが生じた、しかし、共通点があることが出来事の信ぴょう性を示しているということです。共通点とは、イエス様がガリラヤ湖の対岸に行って悪霊にとりつかれている人を助け、追い出された悪霊は豚の群れに入って豚は崖に向かって突進して湖に落ちておぼれ死んでしまったということです。これらはマルコ、マタイ、ルカに共通してあります。これは、本当に起こったことが出発点にあって、それが言い伝えられていくうちに付け足しがあったり省略があったりして異なってくるという、福音書の中でよく見られることです。イエス様の復活の出来事の記述はいい例です。

4.悪霊にとりつかれた男の人の背景

 今日は出来事の記述はルカのバージョンなので、私たちもルカの視点で出来事に迫ってみましょう。ここで、この男の人はユダヤ人か異邦人かという問題を見てみます。豚の放牧の他にも、町の人たちの多数派が異邦人と考えられることがあります。それは、この奇跡を見て町の人たちはイエス様に退去するように言ったことです。ガリラヤ地方かユダヤ地方だったら、これだけの奇跡を見せられたら、預言者の到来だとか、果てはメシアの到来とか大変な騒ぎになって、どうぞ滞在して下さいと言われたでしょう。ところが、町の人たちは、あんな凶暴な悪霊を追い出せるのはもっと恐ろしい霊が背後に控えているからだと恐れたのです。旧約聖書のメシア期待、エリアの再来の期待を持っていないことを示しています。

 そこで問題の男の人も異邦人かというと、そうではないのです。異邦人が多数派を占める地域の中で少数派として暮らすユダヤ人と考えられます。どうしてかと言うと、イエス様はマタイ10章6節から明らかなように活動の焦点をイスラエルの民に置いていたからでした。それで、旧約聖書を受け継ぐ民を相手に天地創造の神とその意思について正確に教え、特に宗教エリートの誤りを正し、来るべき復活の日に到来する神の国について教えたのです。この神の国への迎え入れをユダヤ民族だけでなく全ての民族に及ぼすためにイエス様は十字架の死と死からの復活を遂げられました。しかし、これはまだ後のことです。エルサレムに入られる前のイエス様の活動はユダヤ民族を相手にすることが中心でした。イエス様がローマ帝国軍の百人隊長の僕を癒したり、シリア・フェニキア人の女性の娘を癒してあげたことは例外的なこととして描かれています。悪霊にとりつかれた男の人はそういう異邦人がどうのこうのという問題はなく、ストレートにイエス様の活動の対象になっているのでユダヤ人と言えます。

 悪霊を追い出してもらった男の人は、イエス様の弟子たちの一行に加えてくれるようお願いします。しかし、イエス様は自分の家に帰って神がなしたことを伝えよと命じます。イエス様の命令は、ユダヤ民族に属する家の者たちに、旧約聖書に預言されたことが実現し始めていることを伝えよという命令でした。やがて十字架と復活の出来事が伝わることになれば、やっぱりあのお方だった、旧約の預言は本当だった、と確信することが出来たでしょう。ところで男の人は家の者どころか、イエス様を拒否したゲラサ/ガダラの人々にも伝えたのです。これは、後々の福音伝道の良い下準備になりました。

5.聖書と聖礼典を用いると神の力が働く

 ここから聖書と聖礼典の用い方の話に入ります。男の人が癒されるプロセスを見ることが大事です。注目すべきは、男の人は自分からイエス様のところに出向いて行ったということです。悪霊が引っ張って連れて行ったと思われるかもしれませんが、それはあり得ません。なぜなら悪霊はイエス様のことを自分を破滅させる力ある方とわかっていて恐れているので、自分から進んで彼のもとに行こうとはしないからです。それなのに男の人が行ったというのはどういうことでしょうか?ギリシャ語原文の書き方から、舟から岸に上がったイエス様のところに男の人が自ら出向いて行ったことが明らかです。悪霊にあんなにいいように振り回されていたのに、男の人はどのようにしてイエス様の前に行くことができたのでしょうか?

 それは、悪霊にとりつかれてどんなに振り回されても、イエス様に会うという意志があれば、悪霊はそれを妨げられない位の力がイエス様から働いてくるということです。男の人がイエス様の到着をどうやって知ったかはわかりません。たまたま岸辺近くにいたところを舟が着いて、誰かが、あれは今やガリラヤ全土で旧約聖書の預言者の再来との名声を博しているナザレのイエスだ、と言ったのを聞いたかもしれません。または、イエス様の舟が近づいてきて、悪霊の動揺を男の人は感じ取ったのかもしれません。悪霊に動揺をもたらす方向、つまりイエス様の方を目指していくほど悪霊の動揺は大きくなり、悪霊は男の人が行くことを阻止できない、それでますますイエス様の方に向かって行けたということかもしれません。いずれにしても明白なことは、どんなに悪霊に振り回されても、一旦イエス様のもとに行くという悪霊が嫌がることをする意志さえ持てれば、あとは邪魔されることはなく、あれよあれよとそのまま行けるということです。それ位、神の力が働くということです。

 さあ、男の人はイエス様の前に立ちました。原文から出来事の流れが次のようであることがわかります。イエス様は自分の前に立つ男の人を見るや、彼が長年、悪霊にずたずたにされ、鎖や足かせを付けられても、すぐ破って荒野に引っ張って行かれてしまうことがわかった、それで彼を助けてあげようと悪霊の追い出しにかかった。そこで悪霊はパニックに陥り、地獄送り(αβυσσον地獄行きの待合室のようなところか)だけは勘弁して下さいと懇願する始末。ただし行き先は地獄ではなくて放牧中の豚に入ることをお許し下さいとお願いする。どうして悪霊は豚に行きたいかと言うと、こういうことです。悪霊が人間にとりついても人間が助かろうとする意志を持てば、たとえそれがどんなに小さな意志でも、それがイエス様と結びついたら最後、悪霊はもう何もなしえない位の大きな意志になることが明らかになりました。悪霊としても、もう人間にとりついても無駄だ、イエス様が現れた以上は同じことの繰り返しになると観念したのでしょう。それで、豚ならばイエス様に結びつけるような意志は持たないだろう、とりついたらそのまま自己破壊にまっしぐらだろう、やりやすい相手だと思ったのでしょう。イエス様は悪霊に豚にとりつくことを許可しましたが、何が起こるかお見通しだったでしょう。案の定、豚は本当に自己破壊に突き進んでしまいました。悪霊はその道連れとなってしまいました。

 この出来事が私たちに教える大事なことは、この男の人のように自己破壊の状態にあっても、そこから助かろうとする意志がどんなに小さくても一応あって、それでイエス様のもとに行こうとしたら、あとは邪魔されることなく行けるようになる位に神の力が働くということです。自分の内なる意志は弱くて自分を助ける力がなくても、イエス様の方を向けば自分の外にある神の力が代わりに働いてくれて主のもとに行けます。私たちの場合は、たとえ悪霊追い出しの奇跡をするイエス様や弟子たちが目の前にいなくとも、聖書を繙けばイエス様が十字架と復活の業を成し遂げられたことが証言されています。そこに記されている通りにイエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ、イエス様が十字架で果たした私たち人間の罪の償いが私たちに効力を発して私たちは神から罪を赦された者と見なされ、天地創造の神と結びつきを持って生き始めます。しかも、私たちはイエス様の復活が切り開いた永遠の命に至る道に置かれて、それを神との結びつきを持って歩み始めます。それなので悪霊の方が、信仰と洗礼を持つ者に対してパニック状態になるのです。ちょうどイエス様の前で悪霊がパニック状態になっているのと同じです。

 悪霊がパニック状態に陥った後は何が起こるのか?場合によっては、ゲラサの男の人のように即、問題の解決が得られることもあります。即でない場合でも、神が良かれと考える仕方と時間で、良かれと考える人を送って解決を与えます。それは必ずしも、自分が望む仕方、時間、助け人でないこともあります。しかし、イエス様を救い主と信じる信仰に留まる限り、神は必ず解決を与えて下さいます。

 最後に、洗礼を受けて罪の償いが効力を持ったと言っても、私たちが肉の体を持って生きる以上はまだ罪は内側に残っています。それで罪の自覚と赦しの願いと赦しの宣言は繰り返されます。実はこの繰り返しこそが、内なる罪をイエス様と共に圧し潰していくことになるのですが、それでも時として、自分は本当に罪から解放されているのだろうか疑ったり心配になったりします。しかし、だからと言って、受けた洗礼には意味がなかったとか、もう一度受ける必要があるなどという考えは無用です。それは洗礼の意味を見失う危険な考えです。本日の使徒書の日課ガラテア3章27節でパウロが言うように洗礼を受けてキリストに結ばれた者はキリストを衣のように着せられたのです。一度着せられたら自分で手放さない限り、神が着続けさせて下さいます。聖餐式はまさに洗礼で着せられた衣がちゃんと着せられたままであることを確認する儀式です。神に対しても自分に対しても確認します。また、詩篇23篇5節で言われるように、敵に対しても確認します。敵は聖餐を受ける者に対して手出しできず歯ぎしりするしかないのです。

 兄弟姉妹の皆さん、イエス様や弟子たちが私たちの目の前で悪霊の追い出しをしてくれなくても、私たちには聖書と聖礼典があります。それらを用いれば同じ力を受けていることがわかるはずです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

 

 

2022年6月12日(日)三位一体主日 主日礼拝

 

主日礼拝説教 2022年6月12日(三位一体主日)

箴言8章1~4、22~31節
ローマ5章1~5節
ヨハネ16章12-15節

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説教題 「神が三位一体であることと私たち」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

聖霊降臨後の最初の主日である本日は三位一体主日です。私たちキリスト信仰者は、天地創造の神を三位一体の神として崇拝します。先週は聖霊降臨祭で聖霊を覚える主日でした。それで父、御子、聖霊が出揃ったということで今日の礼拝は三位一体を覚えるのにちょうど良い日です。

三位一体とは一人の神が三つの人格を一度に兼ね備えているということです。三つの人格とは、父としての人格、そのひとり子としての人格、そして神の霊、聖霊としての人格です。三つあるけれども、一つであるというのが私たちの神です。今日は、本日与えられた聖書の日課に基づいて三位一体に迫ってみましょう。

ところで宗教学では、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教という世界三大一神教には類似性があるとよく言われます。ユダヤ教は旧約聖書を用いるし、イスラム教は新約聖書と旧約聖書を全く独自の仕方で用います。しかしながら、三つの一神教が同じ種に属するという話は神学的に無理があります。なぜなら、キリスト教では神は三位一体で、ユダヤ教とイスラム教はそうではないからです。共通の聖典を持っているとは言え、三位一体があるために、キリスト教は他と分け隔てられるのです。それなので、共通の聖典などない他の宗教とキリスト教の間なら、類似性を論じる可能性はもっとなくなります。

キリスト教は、カトリック、正教、プロテスタントなどに分かれていますが、分かれていても共通して守っている信仰告白はどれも神を三位一体とします。共通の信仰告白には、使徒信条、二ケア信条、アタナシウス信条の三つがあります。分かれていてもキリスト教がキリスト教たるゆえんとして三位一体があります。また、分かれた教会が一致を目指す時の土台にもなります。もし三位一体を離れたら、それはもはやキリスト教ではないということになります。

2.三位一体は旧約からある

ところで、神が三位一体というのは、キリスト教が誕生した後で作られた考えだという見方があります。その見方は正しくありません。三つの人格を持ちながらも一人の神というのは、既に旧約聖書のなかに見ることが出来ます。

その例として本日の旧約の日課、箴言の8章は重要です。その22ー31節を見ると、神の「知恵」は人格を持つ方であることがわかります。まず「知恵」は自分のことを「わたし」と言って語ります。さらに、「知恵」は天地創造の前に父から生まれ、父が天地創造を行っていた時にその場に居合わせていた、と言います。30節を見ると、「わたしは巧みな者」と言っていますが、ヘブライ語のאמוןという言葉は「職人」を意味します。「知恵」が父と一緒に創造の作業を行っていたことを示唆する言葉です。それで、箴言のこの個所を読んだ方は、あれっ、イエス様のことを言っているみたいだ、と思うでしょう。コロサイ1章15節を見ると、御子は全ての被造物に先立ってあった、そして天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも造られた、と言っています。また、ヨハネ福音書1章ではイエス様のことを神の言葉、ギリシャ語でロゴスと言っており、それは天地創造の前から存在して、やはり天地創造に関与していたことが言われています。そうなると、神の「知恵」は後に「イエス」の名を付けられる神のひとり子と同一ではないかと思われます。

もちろん、神の「知恵」と神のひとり子を一緒にするのはどうかと思われる人もいるかもしれません。その理由として、二ケア信条では神のひとり子は「造られたのではない」と言っているのに、「知恵」の方はは「造られた」(22節)と言っているからです。これはヘブライ語をよく見ないといけません。「知恵」が造られたと言う時の「造られた」はקנהという言葉です。ところが、神が天地創造を行って被造物を造った時の言葉はבראと違います。日本語では両方葉を「造られた」と訳してしまって一緒くたになってしまいました。ヘブライ語ではそうならないように区別して違う言葉を用いているのです。それで、「知恵」は被造物のように造られたものではないのです。

これと同じことが「生まれる」という言葉についても言えます。二ケア信条では、神のひとり子は造られたのではなく「生まれた」と言っています。神の知恵も箴言8章24節と25節で「生み出された」と言います。この箴言の「生み出される」はヘブライ語でקדהです。ところが普通、母親が子供を産む時にはילדという言葉を使います。このように違う言葉を使うことで「知恵」が「生み出される」ことは被造物の生殖作用と異なる生じ方であることを意味しているのです。

このように天地創造の前から存在していた「知恵」とひとり子は重なってきます。イエス様自身、自分はソロモン王の知恵より優れた知恵であると言っていました(ルカ11章31節、マタイ12章42節)。イエス様は自分のことを神の知恵そのものであると意味したのです。

箴言の「知恵」がひとり子にもっと同一性を持つことがあります。30節と31節です。新共同訳では「楽を奏し」などと訳していて、まるで神の知恵が音楽の才能を持つかのように言われていますが、この訳は良くありません。良い訳は次の通りです。

「私は造り主のもとで職人であった。― つまり、創造に関与した。― 私はそこで世々限りなく喜びを体現する者、造り主のみ前で笑いや楽しみを振りまき、造られた大地を楽しみとした。私は地上の人々に親切にするだろう。」これなら、神の知恵は神のひとり子にぐっと近づくでしょう。

ここで、どうして新共同訳で神の知恵が楽器を演奏するなどと言っていることについてひと言述べておきます。問題となっているヘブライ語の言葉שחקは、「幸せである」とか「楽しませる」と言う意味を持ちます。それがもっと特定化されて「ダンスをする、楽器を演奏する」という意味も持ちます。新共同訳はそっちを取ったので神の知恵はなんだかダンス・バンドのようになってしまいました。他にも注釈すべきことがありますが、ここでは深入りしません。

いずれにしても、神の知恵は造り主の許で職人であった、そこで代々限りなく喜びを体現する者で、造り主のみ前で笑いや楽しみを振りまき、造られた大地を楽しみとしていた。そして、いつの日か、地上の人々に親切にする日が来ると言うのです。こうなると神の知恵は神のひとり子のイエス様に限りなく近づきます。

旧約聖書のヘブライ語原文の中には、単語の意味と文法からみて神のひとり子・イエス様のことを言っていると思われるものが沢山あります。しかし、翻訳や解釈をする人は必ずしもそう訳するとは限りません。その理由は、イエス・キリストは旧約聖書の書物が生まれる何百年前以上の人なので、旧約聖書を記した人たちはまだ知っているはずがない。彼らが書いたものは彼らの歴史的文脈の中で理解すべきで、後世の事柄を解釈や翻訳にむやみに持ち込まないという態度なのです。私は、もちろん単語の意味や文法的に無理なら当然しませんが、可能であればなるべくするようにします。宗教改革のルターも、イエス・キリストは旧約聖書に見出すことができるし、そうすべきだと言っています。

旧約聖書にイエス・キリストを見出さないようにする聖書の解釈・翻訳の例としてスウェーデンのルター派教会が2000年に公式採用した聖書があげられます。そのイザヤ7章のインマヌエル預言を見ると、「処女がみごもって男児を産む」はなくなり、「若い女性がみごもって男児を産む」になりました。処女受胎が消えたのです。また、三位一体の関係で言えば、創世記の最初で「神の霊が水の表を動いていた」がなくなって「神の風が水の表を吹いていた」になりました。聖霊が天地創造の前に存在していたことが消えたのです。このような聖書を読んで育ったら、どんなキリスト信仰が生まれるでしょうか?

話がわき道にそれましたが、神の知恵が神のひとり子・イエス様と同一であるとすると、今度は次のような疑問が起こります。ヨハネは福音書の冒頭でイエス様のことを「言(ことば)」ロゴスと呼んでいるぞ、「知恵」ではないぞ、なぜ「はじめに知恵ありき」ではなくて「はじめに言ありき」なのか?

もっともな質問です。そこで、もし私がヨハネだったら次のように考えたでしょう。イエス様は本当に神のひとり子で天地創造の前から存在し、父なるみ神と一緒に天地創造に携わった方だ、まさに箴言の「知恵」と同じ方だ。この方をギリシャ語文明の人たちにどう言ったらよいのだろう?ヘブライ語で知恵はホクマーだ。ギリシャ語では普通ソフィアと訳されている。イエス様をソフィアと呼んでギリシャ語圏の人たちは我々と同じようにイエス様のことを理解してくれるだろうか?ソフィアは女性名詞だし、仮にイエス様をそう呼んでみたら、なんだか哲学者みたいにならないだろうか?旧約聖書に出てくる「知恵」は人間の知恵や理性を超える神の知恵だ。困ったなぁ。そうだ!ギリシャ語には人間の知恵や理性を超えたもっと偉大なものを意味する言葉があった。ロゴスだ!しかも、ロゴスには「言葉」という意味もあるぞ。神は天地創造の時、「光あれ、大空あれ」と言葉を発しながら万物を造り上げていった。それで、イエス様を神の「言葉」ロゴスと呼べば、神の創造の業に関わったこともはっきりするぞ。よし、決めた。イエス様をロゴスと呼ぶことにしよう!

このように、神のひとり子をロゴスと呼ぶことは、神の壮大で深遠な「知恵」と神の力ある「言葉」の両方を意味するのにぴったりだったのです。

ところで、天地創造の場に居合わせたのは神の「知恵」や「言葉」であるひとり子だけではありませんでした。創世記1章2節をみると、神の霊つまり聖霊も居合わせたことがはっきり述べられています(スウェーデン語の聖書では神の風になってしまいましたが)。創世記1章26節には興味深いことが記されています。「我々にかたどり、我々に似せて、人間を造ろう」。父なるみ神が天地創造を行った時、その場には人格を持った同席者が複数いたことになります。これはまさしく御子と聖霊を指しています。

3.「どのようにして三位一体なのか」ではなく「なぜ三位一体なのか」

そうは言っても、三位一体はわかりにくい教えです。三つあるけれども一つしかない、というのはどういうことか?頭で理解しようとすると、三つの人格がどのようにして一人になるのかということに頭を使ってしまい、これは行き詰ります。それならば、なぜ神は三つの人格を備えた一人の神でなければならないのか?これを考えると、聖書はこの「なぜ」の問いには答えを出していることがわかります。神が三位一体であるというのは、私たちに愛と恵みを注ぐために神はそうでなければならない、三位一体でなければ愛と恵みを注げないと言っても言い過ぎでないくらいに神は三位一体でなければならないのです。以下、そのことを見てまいりましょう。

まず、思い起こさなければならないことは、神と私たち人間の間には途方もない溝が出来てしまったということです。この溝は、創世記に記されている堕罪の時にできてしまいました。神に造られた最初の人間が神の意思に反しようとする性向、罪を持つようになって死ぬ存在になってしまいました。使徒パウロがローマ5章で明らかにしているように、死ぬということは人間は誰でも罪を最初の人間から受け継いでいることのあらわれなのです。人間は神との結びつきを失って、結びつきのないままこの世を生きなければならなくなってしまいました。この世を去って神のみもとに戻ることが出来なくなってしまいました。

しかし神は、私たちが神との結びつきを回復してこの世の人生を歩めるようにすべく、そして、この世を去った後は復活の日に復活を遂げて永遠に自分のもとに迎え入れてあげようと、神は溝を超えて私たちに救いの手を差し延ばされました。その救いの手がイエス様でした。本日の福音書の箇所の中でイエス様は弟子たちにこう言いました。お前たちには言うべきことがまだ沢山あるのだが、おまえたちはそれらを「理解できない」と。ギリシャ語の言葉βασταζωは「背負いきれない」、「耐えられない」という意味です。イエス様が弟子たちに言おうとすることで弟子たちが耐えられないとはどういうことか?それは、人間を神から切り離している罪と死から救い出すために、イエス様がこれから十字架刑にかけられて死ぬということです。このことは、十字架と復活の出来事が起きる前の段階では、聞くに耐えられないことでした。

しかしながら、十字架と復活の出来事の後、弟子たちは起きた出来事の意味が次々とわかって、それを受け入れることができるようになりました。まず、神の力で復活させられたイエス様は本当に神のひとり子であったということ、そして、この神のひとり子が十字架の上で死ななければならなかったのは、人間の罪を神に対して償う神聖な犠牲だったということがわかりました。さらに、イエス様の復活によって私たち人間に永遠の命に至る道が切り開かれた、そこで、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けるとその道に置かれれ、神との結びつきを持てて神に見守られ導かれてその道を歩めるようになりました。弟子たちは、以上のことを真理として受け入れることができるようになったのです。それができるようになったのは聖霊が働いたためです。それらのことは人間の理解力、理性では理解できないことです。イエス様が13節で言われるように、聖霊が「あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」ということが起きたのです。

ところが、聖霊の働きは真理を理解させることだけに留まりません。13節のイエス様の言葉は理解した後のことも言っています。新共同訳の訳は少し狭すぎます。その文は次のように訳すべきです。「聖霊は真理全体をもってあなたたちを導いてくれる」とか「聖霊はあななたちを真理全体の中に留まれるように導いてくれる」とか「聖霊はあななたちを真理全体へ導いてくれる」です。聖霊は真理をわからせてくれるだけでなく、私たちが真理にしっかり留まって生きられるように助けてくれるのです。これは、すごいことですが、どうやってそんなことが出来るでしょうか?

私たちは洗礼を受けてイエス様を救い主と信じていても、私たちにはいつも罪の自覚があります。神の意思に反しようとするものが自分の内にあることにいつも気づかされます。それで、神と自分との関係は大丈夫なのだろうかと心配になったり悲しくなったりします。しかし、聖霊はすかさず私たちの心の目をゴルゴタの十字架に向けさせて、あそこに打ち立てられた罪の赦しは今も打ち立てられたままであることを示して下さいます。私たちは安心して、この永遠の命に向かう道を進むことができます。

また私たちは、罪と直接関係がないことでも、困難や試練に遭遇し不運に見舞われます。その時、神との関係を疑ってしまいます。神はこんなことが起きないようにしてくれなかった、神は私を見捨てたのだなどと思ってしまいます。そのような時にも聖霊は聖書の御言葉をてこにして私たちの心の目と耳を開いて本当のことを示してくれます。本当のこととは、神との関係、結びつきは試練や困難な時にも平時同様、何等変更はないということです。それがわかると、試練や困難は私たちを打ちのめすものでなくなります。それらは私たちが神と一緒に通過するプロセスに変わります。一人で通過するのではなく、神と一緒にです。その時、詩篇23篇のみ言葉「たとえ我、死の陰の谷を往くとも、禍を恐れじ。汝、我とともにいませばなり」、これが真理になります。

このように神は、私たち人間との間に出来てしまった果てしない溝を超えて、私たちに救いの手を差しのばされ、私たちがイエス様を救い主と信じて洗礼を受ける時にその手と手が結ばれます。その後は私たちが自分から手を離さない限り、神は私たちを天の御国に至る道を歩めるように守り導いて下さり、復活の日に私たちを御自分のもとに迎え入れて下さいます。これは全て神の愛から出てくることです。この神の愛は三つの人格のそれぞれの働きをみるとはっきりします。

まず、神は創造主として、私たち人間を造りこの世に誕生させました。ところが、人間が罪を持つようになってしまったために、ひとり子を贈って私たち人間を罪と死の支配から引っこ抜いて下さり、みもとに迎え入れられる地点へと続く道に置いて下さいました。こうして、私たちは神との結びつきを持ってこの道を進むこととなりました。人生の中で道を踏み外しそうになると聖霊から指導を受けられるようになりました。

ここからわかるように、三つの人格の機能は別々のものにみえても、どれもが一致して目指していることがあります。それは、人間が罪と死の支配下から解放されて、神の意思に沿うようにと心を常に神に向けたまま生きられるようにして、この世だけでなく次に到来する世にまたがって生きられるようにすることです。三位一体のすごさは、私たちにあるべき姿を示すだけでなく、そうなれるようにする力そのものであることです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

2022年6月5日(日)聖霊降臨祭 主日礼拝

主日礼拝説教 2022年6月5日 聖霊降臨祭

使徒言行録2章1-21節
ローマ8章14-17節
ヨハネ14章8-17、25-27節

本日聖霊降臨祭の礼拝のストリーミングはインターネットに不都合が生じたため中断してしまいました。お詫び申し上げます。以下に説教テキストを掲載しますのでご一読下さい。

説教題 「聖霊を受けた者がなすべきこと」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 本日は聖霊降臨祭です。復活祭を含めて数えるとちょうど50日目で、50番目の日のことをギリシャ語でペンテーコステー・ヘーメラーと呼ぶことから聖霊降臨祭はペンテコステとも呼ばれます。聖霊降臨祭は、キリスト教会にとってクリスマス、復活祭と並ぶ重要な祝祭です。クリスマスの時、私たちは、神のひとり子が人間の救いのために人となられて乙女マリアから生まれたことを喜び祝います。復活祭では、人間の救いのために十字架にかけられて死なれたイエス様が神の想像を絶する力で復活させられ、そのイエス様を救い主と信じる者も将来復活することが出来るようになったことを感謝します。そして、聖霊降臨祭の今日、イエス様が約束通り聖霊を送って下さったおかげで、私たちはこの信仰を携えて復活の日を目指してこの世を生きられるようになったことを喜び祝います。

 本日の説教は三つのテーマについてお話しようと思います。使徒言行録が伝える聖霊降臨の出来事をよくみると、私たちはイエス様の再臨を待つ者であるという自覚が生れます。最初にそれを見ていきます。二番目のテーマは聖霊とは何者かについて、イエス様が本日の福音書の日課の中で「弁護者」とか「真理の霊」と呼んでいます。それはどういう意味か明らかにします。毎年教えていることのおさらいですが、これがわかると私たちは神に対して感謝の気持ちに満たされます。三番目は、そのような聖霊を受けた者のなすべきことが同じ福音書の日課で言われているので、それを見ていきます。聖霊は自分の考えに基づいて信仰者一人ひとりに様々な賜物を与えます。それで、なすべきことは人それぞれ違ってくるかもしれませんが、みんなに共通してなすべきことが日課で言われています。それは、イエス様を愛して彼の掟を守ること、イエス様の名により頼んで願い事をすることです。それについて見ていきます。

2.聖霊降臨とイエス様の再臨を待つ者であるとの自覚

 まず、聖霊降臨の出来事からイエス様の再臨を待つ者であるという自覚が生まれることについて。聖霊降臨が起きた時、駆け付けた群衆は、イエス様の弟子たちが神の偉大な業についてなんと自分たちの言葉で語っているのを聞いてびっくり仰天します。当時のエルサレムは、地中海地域と現在の中近東の地域から大勢のユダヤ人が集まる国際的な都市でした。弟子たちはそれぞれの民族の言葉で話をし出したのです。聖霊が語らせるままにいろんな国の言葉を喋り出した(2章4節)とあるので、まさに聖霊が外国語能力を授けたのです。

 弟子たちがいろんな国の言葉で語った「神の偉大な業」とはどんな業だったでしょうか?ギリシャ語原文では複数形なので数々の業です。集まってきた人たちは皆ユダヤ人です。ユダヤ人が「神の偉大な業」と聞いて理解するものの筆頭は何と言っても出エジプトの出来事です。イスラエルの民がモーセを指導者として奴隷の国エジプトから脱出し、シナイ半島の荒野で40年を過ごし、そこで十戒をはじめとする律法の掟を神から授けられて約束の地カナンに民族大移動していく、そういう壮大な出来事です。もう一つ神の偉大な業として考えられるのはバビロン捕囚からの帰還です。国滅びて他国に強制連行させられた民が、人知を超える神の歴史のかじ取りのおかげで祖国帰還を果たしたという出来事です。さらに、神が私たち人間を含め万物を全くの無から造られた天地創造の出来事も神の偉大な業に付け加えてよいでしょう。

 ところが弟子たちが語った「神の偉大な業」には、以上のようなユダヤ教に伝統的なものの他にもう一つ新しいものがありました。それは、弟子たちが直に目撃して、その証言者となったイエス様のことでした。あの「ナザレ出身のイエス」は単なる預言者なんかではなく、まさしく神の子であった。その証拠に十字架刑で処刑されて埋葬されたにもかかわらず、神の想像を絶する力で復活させられて大勢の人々の前に現れて、つい10日程前に天に上げられたという出来事です。これも、まぎれもなく「神の偉大な業」です。こうしてユダヤ教に伝統的な「神の偉大な業」に並んで、このイエス様の出来事がいろんな国の言葉で語られたのです。太古の昔にバベルの塔が破壊されて人間の言語がバラバラになって以来、初めて人間が異なる言葉を通してでも一致して天地創造の神の偉大な業を称えることが起きたのです。

 そこでペトロは群衆に向かってこの不思議な現象を説明します。ペトロの説明は大きく分けて二つの部分からなっています。最初の部分(2章14ー21節)では、この不思議な現象は旧約聖書ヨエル書の預言の成就であると説き明かします。後半部分では、イエス様の出来事そのものについて説き明かします(22ー40節)。本日の日課は前半までです。実は後半部分が群衆の神への立ち返りをもたらす決定打になっています。しかし、今日はそこには立ち入らずに前半部分だけを見ます。

ペトロは、この不思議な現象はヨエル書3章1ー5節で預言されている神の霊の降臨であるとわかりました。このように、イエス様が送ると約束された聖霊は旧約の預言の成就だったのです。ところでペテロは、ヨエル書を引用する時に「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ」と言います。「終わりの時に」はギリシャ語原文では「終わりの日々に」です。ところが、ヨエル書のヘブライ語原文では「終わりの日々」とは言っておらず、「その後で」と言っています。これはペトロが改ざんしたのではなく、旧約聖書のギリシャ語訳が「終わりの日々に」と訳したことに倣ったのです。翻訳した人たちは原文の意味を終末論の観点で確定したのです。ペトロはそれに倣ったのでした。

それでは「終わりの日々」とはどんな日々か?イエス様が天に上げられて以後の人間の歴史は彼の再臨を待つ日々になりました。イエス様が再臨する日とは、今ある天と地が終わって新しく創造され直す天地大変動の時です。その時そこに唯一の国として神の国が現れて、誰がそこに迎え入れられるか最後の審判が行われます。そのため、イエス様の再臨を待つ日々は終わりに向かう日々で「終わりの日々」なのです。イエス様の昇天からもう2千年近くたちましたが3千年かかろうとも、彼の再臨を待つ以上は「終わりの日々」なのです。

19節からそういう天地の大変動について預言されています。20節で「主の日」が来ると言われています。これは旧約聖書の預言書によく出てくる言葉です。初めは、神の掟を破り続けたイスラエルの民が罰として外国の軍隊に攻められるという神の怒りの日と考えられていました。バビロン捕囚の後の時代には、この世が終わり天地の大変動が起きて神の罰が下される日という具合に終末論的に理解されるようになりました。イエス様の十字架と復活の出来事の後は、さらに彼の再臨が「主の日」に加わりました。

21節を見ると、そういう天地の大変動の時に無事に神の国に迎え入れられるのはイエス様の名により頼む者たちであると言われています。ペトロの説明の後半は、群衆に主の再臨に備えてそういう者になりなさいと導く内容です。

こうして聖霊降臨の日に全く異なる言語で神の偉大な業について証することが始まり、民族の枠を超えて福音を宣べ伝えることが始まりました。この宣べ伝えの初日に3000人もの人たちが洗礼を受けました。共に主の名により頼み、共に主の再臨を待つ群れが誕生したのです。聖霊降臨祭がキリスト教会の誕生日と言われる所以です。

3.弁護者、真理の霊

 次に、聖霊とは何者か?まず、キリスト信仰では神というのは、父、御子、聖霊という三つの人格が同時に一つの神であるという、いわゆる三位一体の神として信じられます。それじゃ聖霊も、父や御子と同じように人格があるのかと驚かれるかもしれません。日本語の聖書では聖霊を指す時、「それ」と呼ぶので何か物体みたいですが、英語、ドイツ語、スウェーデン語、フィンランド語の聖書では「彼」と呼ぶので(フィンランド語のhänは「彼」「彼女」両方含む)、まさしく人格を持つ者です。

 それでは、人格を持つ聖霊とは一体どんな方なのか?ヨハネ福音書14章から16章にかけてイエス様は最後の晩餐の席上でこれから起こることについて話します。自分はもうすぐ十字架にかけられて死ぬことになる。しかし、神の力で死から復活させられて、その後で天の神のもとに上げられる。お前たちとは別れることになってしまうが、神のもとから聖霊を送るので、再臨の日までお前たちがこの世で孤児になることはない。そうイエス様は聖霊を送る約束をしました。その時イエス様は、聖霊のことを「弁護者」とか「真理の霊」と呼びます。聖霊が弁護者ならば、何に対して私たちを弁護してくれるのか?真理の霊とは、何が真理でそれが私たちにどう関係するのか?これらのことは以前もお教えしましたが、何度繰り返して教えてもよい大事なことなので、ここでも述べておきます。

 聖霊は私たちを何に対して弁護してくれるのか?私たちを告発する者に対してです。何者が私たちを告発するのか?それはサタンと呼ばれる霊です。悪魔です。サタンとは、ヘブライ語で「非難する者」「告発する者」という意味があります。私たちが十戒の掟に照らされて、外側も内側も神の意思に沿えない者であることが明るみに出ると、良心が私たちを責めて罪の自覚が生まれます。悪魔はそれに乗じて、自覚を失意と絶望へ増幅させます。「どうあがいてもお前は神の目に相応しくないのさ。神聖な神の御前に立たされたら木っ端みじんさ」と。悪魔のそもそもの目的は人間と神の間を引き裂くことです。もし私たちが神の罪の赦しを信じられなくなるくらいに落胆してしまったり、または罪を認めるのを拒否して神に背を向けてしまったりすれば、それはもう悪魔にとって万々歳なことになります。

 人を落胆させたり神に背を向けさせてしまうものは、罪の他にもあります。私たちがこの世で遭遇する不幸や苦難です。神が私にこんな仕打ちをされるということは、私に何か至らないことがあるということなのか?自分に原因があると思って絶望してしまったり、あるいは、私の何が悪くてこんな仕打ちを!と神に原因を見て失望してしまったりします。これも悪魔の目指すところです。

私たちがどんな状況にあっても神の愛を疑わず信じ神のもとから離れず留まることが出来るように助けてくれるのが聖霊です。聖霊は罪の自覚を持った人を神の御前で次のように弁護してくれます。「この人は、イエス様が十字架で死なれたことで自分の罪を償って下さったとわかっています。それで、イエス様を救い主と信じています。罪を認めて悔いているのです。それなので、この人が信じているイエス様の犠牲に免じて赦しが与えられるべきです」と。聖霊はすかさず私たちの方を向いて次のように促してくれます。「あなたの心の目をゴルゴタの十字架に向けなさい。あなたの赦しはあそこにしっかりと打ち立てられています。」キリスト信仰者には洗礼を通してこのような素晴らしい弁護者がついているのです。神はすぐ「わかった。お前が救い主と信じている、わが子イエスの犠牲に免じてお前を赦そう。もう罪を犯さないようにしなさい」と言って下さいます。その時、私たちは本当にこれからは神の意思に沿うように生きていかねばという心を強くするでしょう。

 不幸や苦難に陥った時も同じです。心の目をゴルゴタの十字架に向けることで、あの方が私の救い主である以上は、この私と天地創造の神との結びつきは失われていないとわかります。神との結びつきがあるからには神の守りと導きもあるとわかります。あの方は十字架の上で犠牲になられたが、神の想像を絶する力で復活させられ、今は天の神のもとにいて、そこから、あらゆる力、罪、死、悪魔も全部、御自分の足下に踏み潰しておられる。そのような方と私は洗礼によって結び付けられている。そういうふうにわかると不幸や苦難が違ったものに見えてきます。それまでは神が自分を見捨てた証拠とか神の不在の証拠のように見えていた不幸や苦難が、今度は逆に、存在して見捨てることをしない神と一緒にくぐり抜けるためのプロセスに変わります。真に詩篇23篇4節の御言葉「たとえ我、死の陰の谷を歩むとも禍をおそれじ、なんじ我と共にいませばなり」が真理になります。波風たける時も一緒に歩んで下さる神に心が向くようになります。

次に聖霊が「真理の霊」とはどういうことか?キリスト信仰の観点では人間がイエス様を自分の救い主と信じる信仰に入れるのは聖霊の力が働かないと出来ないということです。人間の理解力、能力、理性では、イエス様は単なる歴史上の人物に留まります。約2000年前に現在イスラエル国がある地域のナザレ出身のイエスは旧約聖書と神の国について教えを宣べて多くの支持者を得たが、当時のユダヤ教社会の宗教エリートと衝突してしまい、その結果、ローマ帝国の官憲に引き渡されて十字架刑で処刑されてしまった。そういう歴史上の人物理解に留まります。

 ところが聖霊の力が働くと、これらの出来事は見かけ上のもので、その裏側には万物の創造主の計画が実現したという真理があることがわかるようになります。つまり、イエス様が神の想像を絶する力で復活した、これで彼が神のひとり子であることが旧約聖書の預言から通して明らかになります。では、神のひとり子ともあろう方がなぜ十字架で死ななければならなかったのか?それは、人間が内に持ってしまっている、神の意思に背こうとする罪を神に対して償う犠牲の死であったことがやはり旧約聖書の預言から明らかになります。イエス様の死は人間が神罰を受けないで済むようにと人間を守るための犠牲の死であり、罪の償いを受け取った人間は神から罪を赦された者と見てもらえるようになります。罪を赦されたから神との結びつきを持ててこの世とこの次に到来する新しい世の双方を生きられるようになりました。それなので、この世から別れた後も復活の日に目覚めさせられて復活の体を着せられて永遠の命を与えられて神の国に迎え入れて下さる。それが実現するためにイエス様の十字架の死と復活が行われたのでした。これらのことが、歴史上の見かけの出来事の裏側にある本当のこと、真理なのです。聖霊は私たちがこの真理をわかり、それを持ってこの世を生きられるように働くのです。

人間がイエス様のことを自分の救い主とわかるようになるのは、聖霊が働くからです。この聖霊の働きを一過性のものにしないで恒常的なものにするために人間を聖霊の働きの中に閉じるのが洗礼です。洗礼に至る前に聖霊から働きかけられてイエス様を救い主と信じられるようにはなってきても、聖霊の働きにすっぽり覆われないと、この世に跋扈するいろんな霊に引っ張りまわされます。イエスは救い主ではないぞ、とか、救い主は沢山いるぞ、イエスはそのうちの一人にすぎない、とか、霊たちはそのように言います。しかし、聖霊の下に服したら、もう他の霊の言うことは耳に届かなくなります。万物の創造主の神との結びつきを持っているので、霊的に安全地帯にいることになります。

4.聖霊を受けた者がなすべきこと

 さて、洗礼を通して聖霊を常駐させることになったキリスト信仰者に共通してある、なすべきことを見ていきましょう。まず、イエス様を愛して彼の掟を守ることです。ヨハネ14章15節でイエス様は言われます。「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟をまもる。」私たちがイエス様の掟を守ることは、彼を愛することの当然の帰結として出てくるということです。ここで言われていることは、掟を守れ、掟を与えた者を愛せ、ということではありません。イエス様を愛するならば掟を守るのが当たり前になるということです。宗教改革のルターはまさにこの箇所について、「いかにしたらそのようなイエス様を愛する愛が持てるようになるか?」と問い、次のように答えます。それは、「人間の心は惨めなので、何か外部から来る素晴らしいものを味わうことがないと、人間は愛することができない。」それでは、外部からくる素晴らしいものとは何でしょうか?

 それがわかるためには、キリスト信仰者はどうしてイエス様を自分の救い主として信じるようになったかを振り返ればよいでしょう。

 イエス様が私たちの救い主となったのは、言うまでもなく、彼のおかげで私たちが天地創造の神と結びつきを持ててこの世を生きられるようになったからです。神との結びつきをもってこの世の人生を歩めるようになると、順境の時にも逆境の時にも何ら変わらぬ神の導きと守りを得られるようになり、この世から別れても復活の日に復活を遂げて神のみもとに永遠に迎え入れられるようになりました。これが外部からくる素晴らしいものです。これがあるからイエス様を愛することができ、神を全身全霊で愛することができ、隣人を自分を愛するがごとく愛することができるのです。

 次のなすべきことは、イエス様の名により頼んで願い事をすることです。それについて見ていきます。

12節でイエス様は、「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである」と言います。これは、ちょっとわかりにくいです。イエス様を信じる者がイエス様が行った業よりももっと大きな業を行うとは、一体どんな業なのか、まさかイエス様が多くの不治の病の人を癒した以上のことをするのか?自然の猛威を静める以上のことをするのか?

弟子たちがイエス様の業を行うと言うのは、まず、イエス様がなしたことと弟子たちがなしたことを並べて見てみるとわかります。イエス様は、人間が神との結びつきを回復して永遠の命に向かう道を歩める可能性を開いて下さいました。これに対して弟子たちは、この福音を人々に宣べ伝えて洗礼を授けることで人々がこの可能性を自分のものにすることができるようにしました。イエス様は可能性を開き、弟子たちはそれを現実化していったのです。しかし、両者とも、人間が神との結びつきを回復して永遠の命に至る道を歩めるようにするという点では同じ業を行っているのです。

さらに弟子たちの場合は、活動範囲がイエス様よりも急速に広がりました。イエス様が活動したのはユダヤ、ガリラヤ地方が中心でしたが、弟子たちの場合は遠く離れたところにまで出向いて行ったおかげで救われた者の群れはどんどん大きくなっていきました。その意味で、弟子たちはイエス様の業よりも大きな業を行うようになったと言えるのです。弟子たちの活動はイエス様が天に上げられた後で本格化します。イエス様は自分が天の父のもとに戻ったら、今度は神の霊である聖霊を地上に送ると約束していました(ヨハネ14ー16章)。聖霊は福音が宣べ伝えられる場所ならどこででも働き、福音を聞く人を神のもとに導きます。このようにイエス様が天の父のもとに戻って、かわりに聖霊が送られて弟子たちが福音を伝道して群れがどんどん大きくなっていったのです。

イエス様は13節と14節で、私の名によって願うことは何でもかなえてあげよう、と言われます。これを読んで、自分は金持ちになりたい、有名になりたい、とイエス様の名によって願ったら、その通りになると信じる能天気な人はまずいないでしょう。イエス様の名によって願う以上は、願うことの内容は父なるみ神の意思に沿うものでなければなりません。利己的な願いは聞き入れられないばかりか神の怒りを招いてしまいます。神との結びつきを持てて永遠の命に至る道を進む者が願うことと言えば、いろいろあるかもしれませんが、結局のところは「この結びつきがしっかり保たれて道の歩みがしっかりできますように」ということに行きつきます。同時に、まだ結びつきを持てておらず永遠の命の道への歩みも始まっていない人たちについては、「その歩みが始まりますよう」にという願いになります。イエス様がその通りにしてあげると約束されたのですから、たとえ何年何十年かかってもそれを信じて願い続け祈り続けなければなりません。キリスト信仰者のなすべきことです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

2022年5月29日(日)主の昇天主日 主日礼拝

主日礼拝説教 2021年5月29日 昇天主日

使徒言行録1章1-11節
エフェソ1章15-23節
ルカ24章44-53節

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説教題 「イエス様の昇天とキリスト信仰者の大いなる人生観」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1. はじめに

 イエス様は天地創造の神の想像を絶する力によって死から復活され、40日間弟子たちをはじめ大勢の人たちの前に姿を現し、その後で弟子たちの目の前で天のみ神のもとに上げられました。復活から40日後というのはこの間の木曜日で、教会のカレンダーでは「昇天日」と呼ばれます。今日は昇天日の直近の主日で「昇天後主日」とも呼ばれます。イエス様の昇天の日から10日後になると、今度はイエス様が天のみ神のもとから送ると約束していた聖霊が弟子たちに降るという聖霊降臨の出来事が起こります。次主日がそれを記念する日です。その日はカタカナ語でペンテコステと言い、キリスト教会の誕生日という位置づけで、クリスマスとイースターに並ぶキリスト教会の三大祝祭の一つです。

 イエス様の昇天はとても奇想天外な出来事です。日本語で「天国に行った」と言うと、普通は「死んでしまった」と理解します。しかし、イエス様は生きたまま天に上げられたのです。もちろん、一度十字架の上で死なれました。しかし、神の想像を絶する力で復活させられたので通常の肉の体ではない復活の体を持っていました。それで、死んだのではなく生きた状態で上げられたのです。全く不可解な出来事です。

 イエス様の昇天は天国についていろいろ考えさる出来事です。天に上げられたイエス様は今、天の父なるみ神の右に座していて、かの日にはそこから来て生きている人と死んだ人とを裁かれます、と普通のキリスト教会の礼拝で毎週唱えられます。私たちもこの説教の後で唱えます。果たしてそんな天の国が存在するのか?近年ではキリスト教会の牧師の中にも、天国などないと言う人もいます。ジョン・レノンの歌みたいです。また、ある神学校では先生が学生に復活などないと教えるところもあると聞いたことがあります。そのような人たちは聖書に書いてある天国とか神の国、復活をどう考えているのでしょうか?おそらく、そういうものは人間の心の中、頭の中に存在するもので、人間の外側に形を持って存在するものではないと考えているのではないかと思います。彼らからすれば、天国や神の国や復活が存在すると言う人は時代遅れで暗黒の中世の思考レベルと言われてしまうかもしれません。しかし、聖書はそういうものはまさに人間の外側に実質的に存在し、いつの日か必ず目の前に現れるとはっきり言っています。本説教でもそれに則って話をします。まず、天国が実質的に存在することを言葉で言い表してみます。天国が実質的に存在すると納得できると今度は天地創造の神が私たち人間にわかってきます。以下、そうしたことを見ていきます。

2.天国、神の国は実質的に存在し死者の復活は実質的に起こる

 天国が人間の心や頭の存在ではなく実質的に存在するということについて。まず、私たちの上空にそのような国が本当にあるのか?地球を大気圏が取り巻いていることは誰でも知っています。大気圏は、地表から11キロメートルまでが対流圏と呼ばれ、雲が存在するのはこの範囲です。その上に行くとオゾン層がある成層圏、その上に中間圏等々いろんな圏があって、それから先は大気圏外、つまり宇宙空間となります。世界最初の人工衛星スプートニクが打ち上げられて以来、無数の人工衛星や人間衛星やスペースシャトルが打ち上げられましたが、これまで天空に聖書で言われるような国は見つかっていません。もっとロケット技術を発達させて、宇宙ステーションを随所に常駐させて、くまなく観測しても、天国とか神の国は恐らく見つからないのではと思います。

 どうしてかと言うと、ロケット技術とか、成層圏とか大気圏とか、そういうものは「信仰」というものと全く別世界のことだからです。成層圏とか大気圏というものは人間の目や耳や手足を使って確認できたり、長さを測ったり重さを量ったり計算したりして確認できるものです。科学技術とは、そのように明確明瞭に確認や計測できることを土台にして成り立っています。今、私たちが地球や宇宙について知っている事柄は、こうした確認・計測できるものの蓄積です。しかし、科学上の発見が絶えず生まれることからわかるように、蓄積はいつも発展途上で、その意味で人類はまだ森羅万象のことを全て確認し把握し終えていません。果たして確認・把握し終えることができるでしょうか?

 信仰とは、こうした確認できたり計測できたりする事柄を超えることに関係します。私たちが目や耳などで確認できる周りの世界は、私たちにとって現実の世界です。しかし、私たちが確認できることには限りがあります。その意味で、私たちの現実の世界も実は森羅万象の全てではなくて、この現実の世界の裏側には人間の目や耳などで確認も計測もできない、もう一つの世界が存在すると考えることができます。信仰は、そっちの世界に関係します。天の国もこの確認や計測ができる世界ではない、もう一つの世界のものです。現実世界の裏側にあると申しましたが、聖書の観点では天の父なるみ神がこの確認や計測ができる世界を造り上げたことになります。それなので、造り主のいる方が表側でこちらが裏側と言ってもいいのかもしれません。

 もちろん、目や耳で確認でき計測できるこの現実の世界こそが森羅万象の全てだ、それ以外に世界などないと考えることも可能です。その場合、天地と人間を造った創造主は存在しなくなります。そうなれば自然界・人間界の物事に創造主の意思が働くということも考えられなくなります。自然も人間も無数の計測可能な化学反応や物理現象の連鎖が積み重なって生じて出て来たもので、死ねば腐敗して分解し消散して跡かたもなくなってしまうだけです。確認や計測できないものは存在しないという立場なので魂とか霊もありません。死ねば本当に消滅だけです。もちろん、このような唯物的・無神論的な立場を取る人だって、亡くなった人が心や頭に残るということは認めるでしょう。しかし、それも亡くなった人が何らかの形で存在しているのではなく、単に思い出す側の心理作用という言い方になっていくでしょう。

 ところがキリスト信仰者は、自分自身も他の人間もその他のものもみな現実世界とそこにあるものは全て現実世界の外側におられる創造主に造られたと考えます。それなので、人間の命と人生はこの現実の世界の中だけにとどまらないと考えます。聖書には終末論と新創造論と死者の復活があります。それで、今のこの世はいつか終わりを告げて新しい天と地が再創造される、その時に神の国が唯一の国として現れて、そこに迎え入れられると命と人生が永遠に続くと考えます。このように、命と人生は今の世と次に到来する世にまたがっているというとてつもない人生観を持っています。

 日本では普通、この世の人生が終わると、その次は天国にしろ極楽浄土にしろ、別のところに移動すると考えられます。死んですぐそこに到達すると考える人もいれば、33年くらいかかると言う人もいます。どっちにしても、あの世とこの世は同時に存在しています。それなので、この世から去った人があの世からこっちを見ているというイメージがもたれます。

 ところがキリスト信仰では事情が全く異なります。先ほども申しましたように、キリスト信仰には終末論と新創造論と死者の復活があります。今の世が終わって新しい天地が再創造される、今はこの世の反対側にある神の国がその時に唯一の国として現れる。黙示録21章では「下って来る」と言われます。そのため、今の世と次に到来する世は同時並行ではありません。次の世が到来したら今の世はなくなっているのです。それじゃ、到来する前にこの世から死んでしまったらその時までどこで何をしているのかと聞かれます。キリスト信仰の死者の復活から答えが見つかります。前もって亡くなった人たちは復活の日の目覚めの時まで神のみぞ知るところで静かに眠っているのです。ただ、聖書をよく見ると、復活の日を待たずして天のみ神のもとに上げられた人たちもいます。しかし、それは例外的で基本は復活の日まで眠ることです。イエス様もパウロも死んだ人のことを「眠っている」と言っていました。

3.キリスト信仰者の大いなる人生観と神の意図

 このようにキリスト信仰では人生を、この世の人生と次に到来する世での人生を二つ合わせたものとして考えます。実にキリスト信仰者の人生観は二つの世にまたがる大いなる人生観です。この人生観を持てると、天地創造の神がどうてひとり子を私たちに贈って下さったのかがわかってきます。それは私たちの人生から次の到来の部が抜け落ちてしまわないようにするためだったのです。つまり、人間がこの世の人生と次に到来する世での人生を一緒にした大きな人生を持てるようにするというのが神の意図だったのです。

 それでは、ひとり子を贈ることで人間がどうやってそのような大いなる人生を持てるようになるのかと言うと、次のような次第です。人間は生まれたままの自然の状態では天の御国の人生は持てなくなってしまっている。というのは、創世記に記されているように、神に造られたばかりの最初の人間が神の意思に反しようとする罪を持つようになってしまい、人間はそれを代々受け継ぐようになってしまったからです。そうした神の意思に背くようにさせようとする罪が神と人間の間を切り裂いてしまいました。そこで神は、失われてしまった神と人間の結びつきを復興させるために人間の罪の問題を人間に代わって解決することにしたのです。

 どのようにして解決して下さったかと言うと、神は人間が持つ罪を全部イエス様に背負わせて十字架の上に運ばせ、そこで人間に代わって神罰を全部受けさせたのです。つまり罪の償いを人間に代わって果たさせたのです。さらに神は、一度死なれたイエス様を想像を絶する力で死から復活させました。これで死を超えた永遠の命があることをこの世に示し、そこに至る道を人間に切り開かれました。そこで人間が、ああ、イエス様はこの私のためにこんなことをして下さったのだ、とわかって彼を救い主と信じて洗礼を受けると、その人はイエス様が果たしてくれた罪の償いを受け取ります。罪を償ってもらったので神からは罪を赦された者として見てもらえるようになります。罪が赦されたので神との結びつきが回復します。その人は永遠の命と復活の体が待つ天の神の国に至る道に置かれて、神との結びつきを持ててその道を進んでいきます。この世を去った後は復活の日に眠りから目覚めさせられて復活の体を着せられて父なるみ神の御許に永遠に迎え入れられます。

 このようにして人間はイエス様の十字架と復活の業のおかげと、それをそのまま受け取る洗礼と信仰のおかげで、この世の人生と天の御国の人生を合わせた大いなる人生を生きられるようになったのです。

4.キリスト信仰者に対する神の責任

 このように、天国、神の国、復活というのは実質的にあると捉えることができると、なぜ天地創造の神はひとり子を私たち人間に贈られたかがわかるのです。それは、私たちがこの世の人生と天の御国の人生を合わせた大いなる人生を生きられるようにするためだったのです。しかも、神は私たちを大いなる人生の道に置いて下さっただけではありません。その道をしっかり歩めて最後には復活を遂げて天の御国に迎え入れられるように世話を焼いて下さることもするのです。そのことも見ておきたく思います。神は私たちをスタートラインに立たせて、はい、あとはがんばってね、だったのではありません。私たちがゴールに到達できるのがさも自分の責任であるかのように私たちをいろいろ支援して下さるのです。そのことが本日の使徒書の日課エフェソ1章からも明らかになります。それを少し見ていきましょう。

 19節から21節を見ると、一度死んだ人間を復活させるということと、その者を天のみ神の御許に引き上げるということ、このことがまずイエス様に起こったわけですが、その実現には想像を絶するエネルギーを要するということが言われています。そのようなエネルギーを表現するのにパウロはこの短い文章の中で神の「力」を意味するギリシャ語の言葉を3つ違う言葉で言います(δυναμις,、κρατος、ισχυς)。私たちの新共同訳聖書では「力」という言葉は2回しか出て来ません。もう一つはどこに消えてしまったのでしょうか?エネルギーという言葉も2回あり(ενεργεια、2回目は関係代名詞ですが)、エネルギーを働かせるという動詞(ενεργεω)もあります。このようにパウロはこの神の想像を絶する莫大なエネルギーを描写しようと頑張っているのです。日本語訳はそれが見えにくくなって残念です。とにかく死者に復活の体を纏わせて復活させることと、その者を神の御許に引き上げることには莫大な力とエネルギーが必要で、創造主である神はそのエネルギーを働かせる力がある方だということが言われています。だからイエス様の復活と昇天を起こせたというのです。

 ところがそれだけにとどまりません。ここからが大事なポイントです。神はこれと同じエネルギーをイエス様を救い主と信じる者にも働かせると言うのです(19節)。つまり、キリスト信仰者も将来、かつてのイエス様と同じように神の莫大な力を及ぼされて復活できて天の父なるみ神のもとに上げられるのです。それで、神がこのような力を持っていて、それを自分にも及ぼして下さる、それがわかれば、復活を目指す旅路は安心して進むことができます。

 22節と23節を見ると、パウロは教会のことを「キリストの体」と言います。ここで言われる「教会」とは、永遠の命と復活の体が待っている天の御国に向かう道に置かれて、今それを進んでいるキリスト信仰者の集合体です。それが「キリストの体」です。

 そこで、その体の頭であるキリストは今は天の父なるみ神の右に座して、この世のあらゆる、目に見えない霊的なものも含めた「支配、権威、勢力、主権」の上に聳え立っていてそれらを足蹴にしています。そうすると、キリストの体の部分部分である私たち信仰者もキリストの一部分としてこの世の権力や霊的な力を足蹴にしている者になっているはずなのだが、どうもそんな無敵な感じはしません。イエス様が勝っているのはわかるが、彼に繋がっている私たちにはいつも苦難や困難が押し寄せてきて右往左往してしまいます。イエス様が人間を罪と死の支配から解放して下さったと分かっているのだが、罪の誘惑はやまず神の意思に沿うことも力不足で出来ず、死は恐ろしいです。全てに勝っている状態からは程遠いです。全てに勝るイエス様に繋がっている信仰者なのにどうしてこうも弱く惨めなのでしょうか?

 それは、イエス様を頭とするこの体がまだこの世の中にあるからです。頭のイエス様は天の御国におられますが、首から下は全部、この世です。この世とは、人間がこの世の人生で終わるようにしてやろうという力が働いているところです。大いなる人生なんて無理だよ、と。それで、人間が父なるみ神に目と心を向けないようにしてやろうとか、そのようにして人間が神と結びつきを持てないようにしてやろうとか、そういう力が働いています。これらは既にイエス様の足台にされた霊的な力ですが、ただこの世では働き続けます。しかし、それらは将来イエス様が再臨される日に全て消滅します。まさにその日に、イエス様を復活させて天の御国に引き上げた神の莫大な力が今度は私たち信仰者にも働くのです。その結果、イエス・キリストの体は全部が天の御国の中に置かれることになります。聖書のあちこちに預言されているように、その時は新しい天と地が創造されるので、この世自体がなくなってしまうからです。

 そういうわけで、イエス様の昇天から将来の再臨までの間の時代を生きるキリスト信仰者は文字通り二つの相対立する現実の中で生きていくことになります。一方では全てに勝るイエス様に繋がっているので守られているという現実、他方ではこの世の力に攻めたてられるという現実です。イエス様はこうなることをご存じでした。だからヨハネ16章33節で次のように言われたのです。

「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」

 もちろん、いくら守られているとは言っても、攻めたてられたらそんな気はしません。しかし、私たちが部分として繋がっているこの体は神の想像を絶する力が働くことになる体で、今その時を待っているのです。憐れなのは攻めたてる方です。だって、もうすぐ消滅させられるのも知らずに得意になって攻めたてているのですから。そこで私たちとしては、聖餐式で霊的な栄養を受けながら、また説教を通して神の御言葉の力を及ぼされながら、神がイエス様を用いて打ち立てて下さった罪の赦しを自分にとって確かなものにしていきましょう。

5.罪の赦しと神の意思に沿う生き方

 最後に、神の意思に沿うように生きる力はどこから得られるかについてひと言述べておきます。私たちは罪を自覚し、それを神のみ前で告白して赦しの宣言を受ける、これを繰り返すことで罪の赦しを自分にとって確かなものにしていきます。しかしながら、そのようにしても神の意思に沿えない自分に気づくと、罪の赦しでは足りない、神の意思に沿えるようになれる何か特別の力が必要だと思う人が出てきます。もちろんお祈りすれば、神はその力を与えて下さいます。しかし、それは罪の赦しと切り離されたものではありません。罪の赦し抜きで神の意思を成し遂げようとすると、イエス様抜きでそうすることになり律法主義になっていきます。ファリサイ派と変わりありません。神は私がこの世の人生で終わらないで大いなる人生を持てるようにと、ひとり子を犠牲にすることをされた、それくらい私のことを大事に思って下さった、イエス様自身も、あなたのためなら私はそれでいいと言って十字架に向かわれた。こうなうともう、神の意思に沿わない生き方など考えられなくなります。ここにキリスト信仰者の力があります。その力は罪の赦しを確かなものにすればするほど備わるのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン

あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストのみ名を通して祈ります。アーメン

 

2022年5月15日(日)復活節第5主日 主日礼拝

主日礼拝説教 2022年5月15日復活後第五主日

使徒言行録11章1-18節

黙示録21章1-6b節

ヨハネ13章31-35節

説教題 「神の愛に挟まれて」

礼拝をYouTubeで見る

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 本日の福音書の日課の個所はイエス様が十字架にかけられる前日、弟子たちと一緒に過越祭の食事をしている場面です。よく「最後の晩餐」と呼ばれる場面です。イエス様を裏切ることになるイスカリオテのユダが食事の席から立ち去りました。その時イエス様は「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった」と言われます。裏切る者が目的を果たそうと立ち去ってイエスが栄光を受けた、神も栄光を受けた、とはどういうことでしょうか?それを言った後で今度は弟子たちに新しい掟を与えると言って「互いに愛し合いなさい」と命じます。

 裏切る者が出ていってイエス様が栄光を受けることになるというのは、わかりにくいことです。そしてその後すぐに、互いに愛し合いなさいと言われる。この二つは一見関係ないように見えますが、実は深く結びついています。イエス様が栄光を受けることがどういうことかわかると、キリスト信仰の愛がどういうものかもわかるのです。逆に、イエス様が栄光を受けることがわからないとキリスト信仰の愛もわからないのです。今日はこのことをわかるようにしていきましょう。

2.イエス様が栄光を受けるとは?

 裏切る者が目的を果たそうと出て行って、イエスが栄光を受けた、神も栄光を受けた、とは、どういうことか?それはまず、イエス様が受難を受けて死ぬことになるということが、もう後戻りできない位に確定したということがあります。それでは、死ぬことがどうして栄光を受けることになるのか?しかもそれで、神も栄光を受けることになるのか?

 イエス様が死ぬことには、普通の人間の死にはない非常に特別な意味がありました。それはどんな意味でしょうか?人間は創造主の神に造られた最初のアダムとエヴァの時から罪というものを代々受け継いできてしまいました。それでイエス様はこの罪から人間を解放するために自分を犠牲にしたということです。確かに、人間は良い人もいれば悪い人もいるので全ての人間が罪を持っているというのは言い過ぎではないかと言われてしまうかもしれません。特に生まればかりの赤ちゃんは無垢そのもので、それも罪を持っているなどと言うのは酷いと思われるかもしれません。しかし、アダムとエヴァの堕罪の時に人間は死ぬ存在になったので、死ぬということが人間誰もが罪を持っているということなのです。たとえ一時の間、悪い言葉や思いや行いが出なくとも人間だれもが神の意思に反しようとする性向を持っているというのが聖書の立場です。

 人間はこの罪をそのままにしておくと、いつまでたっても神との関係は切れたままです。この世から別れた後も神のみもとに戻ることはできません。それで神は、人間が自分と結びつきを持ててこの世の人生を生きられ、この世から死んだ後は復活の日に自分のもとに迎え入れてあげよう、それによって永遠の滅びに落ちないようにしてあげようと決めました。それで、ひとり子イエス様をこの世に贈り、人間全ての罪を全部彼に請け負わせて人間に代わって罰を受けてもらうというやり方を取ったのです。少し法律的な言葉で言うと、本当は有罪なのは人間の方なのに、その罰は人間が背負うにはあまりにも重すぎるので、神はそれを無実のひとり子に背負わせて有罪者が背負わないですむようにした。有罪者は気がついたら無罪になっていたのです。

 罪は、人間が神との結びつきを持てなくするようにする力を持っています。また、人間がこの世から別れた後で復活を遂げられず神のみもとにも迎え入れられないようにする力も持っています。人間をこの悪い力から解放するために神は、ひとり子を犠牲に供してその犠牲に免じて人間の罪を赦し神罰に定めないという手法を取ったのです。そこで今度は人間の方が、イエス様の十字架の死とは自分のためになされた犠牲の業なのだとわかって、それで彼を救い主と信じて洗礼を受ける、そうすると、神が打ち立てた罪の赦しが自分の中に入ってきます。そして神との結びつきを持ててこの世を生きられるようになり、この世から別れた後も復活の日に復活を遂げて永遠に神のみもとに迎え入れられるようになったのです。このように罪はキリスト信仰者に対してはかつての力を失ったのです。加えて、イエス様が死から復活させられたことで死を超える永遠の命が人間に打ち立てられました。罪と死はキリスト信仰者に対しては支配する力を引き抜かれたのです。

3.神の愛に挟まれて

 このようにイエス様が受難を受けて死ぬというのは、神による人間の救いが実現するということなので、それでイエス様は栄光を受けることになるというのです。このような救い方を考えて実行した神も栄光を受けることになるのです。つまり人間のためになることが起こることで神とひとり子が栄光を受けるというのです。聖書の神は一体なんという神でしょう!私たち人間は、この救いを神に従って成し遂げたイエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ、本当に罪を赦されて罪の支配から脱せられるのです。そして神との結びつきを持てて復活と永遠の命に向かう道を歩むようになるのです。もちろん、道中いろんなことが起こります。それでも神との変わらぬ結びつきがあるから何があっても大丈夫、いつも導きと力を頂けます。この世から別れることになっても復活の日に目覚めさせられて永遠にみもとに迎え入れられます。

 これだけの途方もないこと、今のこの世と次に到来する世の双方にまたがるスケールの大きなことを父なる神とひとり子イエス様はこの私のために成し遂げて下さったのだ、とわかった時の安心感と感謝の気持ちと言ったらないでしょう。この安心と感謝があると、この場合の神の意思はどうだったかといつも思い起こして、それに沿うように生きようという姿勢になります。これが神に対する愛です。神が与えた掟を守ることが自然で当たり前になっているのです。これとは逆に、神が自分に途方もないことをしたということがわからないと、神への本当の感謝もなく本当の安心もありません。そのような状態で掟を守ろうとしたら自然で当たり前に守ることになりません。イヤイヤで無理に守ることになります。

 このように、神がイエス様の十字架と復活という、歴史の過去にこれほどのことをして下さったとわかると安心と感謝が生まれ、そこから神の意思に沿うように生きようと向かいだします。それ加えて、神は将来何をしてくれるのかも知っておくと神の意思に沿おうとする心に勇気が加わります。本日の黙示録21章の日課では、今の天と地が終わって新しい天と地が再創造されて死者の復活が起こる日、神がみもとに集めた者たちをどうされるかが預言されています。「神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取って下さる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである(3ー4節)」。

 目から「全ての涙」(παν δακρυον)を拭われるというのは、この世の人生で被った害悪が最終的かつ完全に償われるということです。もちろん、この世の段階でも正義の実現のために努力がなされて原状回復や補償や謝罪などを勝ち取ることはできます。しかし、それでも心の傷は簡単に癒えないことが多く、正義も残念ながら実現に至らないことがあります。いろんなことがこの世の段階でやり残ってしまい、未解決のまま無念の思いでこの世を去らねばならないことが多くあります。ところがキリスト信仰にあっては、復活の日が来ると神の尺度から見て不完全、不公平に残ってしまったもの全てが完全かつ最終的に清算されるのです。そのことを全部一括して「目から全ての涙をぬぐう」と言うのです。キリスト信仰者はそういう時が来ると知っているので、この世でおよそ神の意思に沿うことであれば、たとえ志半ばで終わってしまっても、また信仰が原因で害悪を被ってしまっても、無駄だったとか無意味だったということは何もないとわかるのです。聖書の至るところに「命の書」という、最後の審判の時に開かれる書物が登場します。それは、全ての人間に関する神の記録書です。そのような書物があるというのは、神は自分が造られた人間全員一人一人に何が起きたか全てご存知で、何も見落としていないということです。誰も自分のことをわかってくれないと悲しむ人もいますが、神は誰よりもその人のことを知っているのです。髪の毛の数さえ知っておられる神ですから、その人自身以上よりもその人のことを知っているのです。

 復活の日は神の国で全てのことが清算され報われる日ですが、その日は結婚式の盛大な祝宴にもたとえられます(黙示録19章5ー9節、マタイ22章1ー14節、黙示録21章2節も参照)。つまり、この世での労苦が完璧に永久に労われるということです。

 キリスト信仰者というのは、過去に神がひとり子イエス様を用いて「罪の赦しの救い」を打ち立ててくれたことを知っているだけではありません。将来自分が死から復活させられる時、神がこの世の労苦や害悪に対する労いや償いを限りなくしてくれることも知っています。このように過去に神がしてくれたこと、将来してくれることの両方に挟まれるようにしていると、神に大きな感謝、深い安心と強い勇気を持つことができます。それで神を全身全霊で愛そう、神の御心に沿うように生きようとするのが当然になるのです。

4.隣人愛のための視点

 神の愛に挟まれるようにして生きるキリスト信仰者は神の意思に沿うように生きようとする。このように神の愛を受けて神に対する愛が生まれる。それでは、隣人に対する愛はどのように生まれるでしょうか?隣人を愛せよと言うのは神の意思です。それなので、神の意思に沿うようにしようとすれば隣人を愛することも当然のことになります。しかし、それでも難しいことがあります。相手が神の場合は神が大きなことをして下さったので神を愛する心が生まれます。相手が隣人の場合はいつもいいことをするとは限らないし、逆の場合もあります。それなのに愛せよというのは難しい感じがします。どうしたら隣人を愛せよと言う神の意思に沿うことができるでしょうか?ここでは2つの視点をあげてみましょう。

 まず一つは、神が自分にどれだけのことをして下さったかをもう一度確認することです。マタイ18章にイエス様の一つのたとえの教えがあります。50億円の借金を抱えた男が主人に泣き叫んで帳消しにしてもらったのに自分に50万円の借金ある者を赦さずに牢屋に送ってしまった、それを聞いた主人は激怒して、私はお前の多額の負債を帳消しにしてやったのだからお前も同じようにすべきではなかったかと言って牢獄に送ってしまうという話です。50億円を帳消しにしてもらったら50万円を帳消しにするなんて容易いことではないかという話です。キリスト信仰の有り様も大体これと同じですが、ただ桁数が違いすぎます。人間が永遠の滅びに落ちないで復活を遂げて永遠の命に入れるように神のひとり子が犠牲になって罪という負債を帳消しにしたということです。これだけ大いなる帳消しは50億と50万の比どころではありません。永遠の命がかかっているので1千兆円と1円の比以上です。それだけの赦しを受けたら自分も隣人を赦してあげるのが当然になるのではないでしょうか?

 ただ問題が深刻な場合もあります。相手が与えた害悪が重大すぎる場合とか、相手が自分には全然問題がないと思っている場合です。どうしたらよいでしょうか?このような場合は、キリスト信仰の基本的なスタンス、大いなる赦しを得たので自分も赦すというスタンスにとどまります。ただなかなか気持ちは収まりません。その場合でも、社会の秩序が保たれるために法律的に解決しなければならないことはします。自分自身だけでなく自分の周りでも十戒が破られることを放置してはいけないからです。ただしその場合でも、パウロがローマ12章で教えるように復讐心で行ってはいけません。それは、先ほども申したように最後の審判で神が正義の不足分を全て最終的に完全に清算されるからです。

 もう一つの視点は、キリスト信仰者というのは宗教改革のルターも言うように、完全な聖なる者なんかではなく、この世にいる限りは常に霊的に成長していかなければならない永遠の初心者であるという自覚です。つまり、皆が皆、何かしら支援を必要としているということです。そこをわきまえていないと完全だと思っている人とそう思っていない人が現れて両者の間に亀裂が生まれてしまいます。本日の箇所でイエス様は、私たちが愛を持っていれば周りの人たちは私たちが彼の弟子であるとわかる、と言っています。しかし、もし亀裂や分裂や仲たがいをしてしまったら、イエス様の弟子ではないことを周りの人に知らしめてしまい、目もあてられなくなります。そのためにパウロが第一コリント12章で教えるように、キリスト信仰者の集まりはキリストの体であり、一人一人はその部分である、という観点はとても大事です27節)。このことについて宗教改革のルターは次のように教えています。

「主にある兄弟姉妹が君に不愉快な思いをさせた時、次にように考えよう。彼は注意深さが欠けていたのだ。あるいはまた、それを回避する力が不足していたのだ。悪意をもってそれをしたのではなく、ただ弱さと理解力の不足が原因だったのだ。もちろん、君は傷ついて悲しんでいる。しかし、だからと言って体の一部分をはぎ取ってしまうわけにもいくまい。させられた不愉快な思いなど、ちっぽけな火花のようなものだ。唾を吐きかければ、そんなものはすぐ消えてしまう。さもないと、悪魔が来て、毒のある霊と邪悪な舌をもって言い争いと不和をたきつけて、小さな火花にすぎなかったものを消すことの出来ない大火事にしてしまうだろう。その時はもう手遅れだ。どんな仲裁努力も無駄に終わる。そして、教会全体が苦しまなければならなくなってしまう。」

5.キリスト信仰者の隣人の場合、信仰者でない隣人の場合

 以上の述べてきたことはキリスト信仰者同士の愛についてでしたが、相手が信仰者でない人の場合はどうなるでしょうか?それでも基本的なスタンスは同じだと思います。自分は父なるみ神から莫大な赦しを受けたので、今この世の人生を神との結びつきを持てて生きられる、この世から去った後も復活の日に復活を遂げて永遠に神のみもとに迎え入れられる道を歩んでいるというスタンスです。それと、歩んでいる自分はこの世にいる間は不完全なままで罪の自覚がありそれで神に赦しを祈る、イエス様の十字架と復活がある以上、赦しは確実にあることを確認しながら生きていくというスタンスです。

 このスタンスに立った場合、信仰者でない人たちに対する隣人愛も目指す方向が出てきます。それは彼らも罪の赦しを得られるようにして神との結びつきを持ててこの世を生きられるようにしてこの世を去った後も復活を遂げて神のみもとに永遠に迎え入れられる道を歩めるように信仰者は導いてあげるということです。どうしてそんな方向が出てくるのでしょうか?

 それはイエス様のそもそもの愛の実践とは何であったかを振り返ると火を見るよりも明らかです。イエス様の愛の実践は、人間と造り主である神との結びつきを回復させて、人間が神との結びつきのなかでこの世の人生を歩めるようにして、この世から死んだ後は永遠に神のもとに戻れるようにする、このことを実現するものでした。そして、それを妨げていた罪の力を無力にして罪から来る神罰を私たちに代わって全部引き受けるというものでした。そういうわけで、キリスト信仰の隣人愛とは、神のひとり子が自分の命を投げ捨ててまで人間に救いをもたらしたということがその出発点にあり、この救いを多くの人が持てるようにすることが目指すべきゴールとしてあります。それなので、隣人愛と聞いて普通頭に浮かぶ、苦難や困難に陥っている人を助ける場合でも、キリスト信仰の場合はこの出発点とゴールの間で動くことになります。これから外れたら、それはキリスト信仰の隣人愛ではなくなり、別にキリスト信仰でなくても出来る隣人愛になると言っても言い過ぎではありません。

 そうなると、キリスト信仰の隣人愛とは、相手が既にイエス様を救い主と信じて「罪の赦しの救い」を受け取った人が相手の場合は、その人が受け取った救いにしっかり留まれるように助けることが視野に入ります。まだ受け取っていない人の場合は、受け取るように導いてあげることが視野に入ります。受け取っていない人の場合はいろいろ難しいことがあります。もしその人がキリスト信仰に興味関心を持っていれば、信仰者は教えたり証ししたりすることができます。しかし、興味関心がない場合、または誤解や反感を持っている場合、それは難しいです。それでも信仰者はまず、お祈りで父なるみ神にお願いすることから始めます。「父なるみ神よ、あの人がイエス様を自分の救い主とわかり信じられるように導いて下さい」と一般的に祈るのもいいですが、もう少し身近な課題にして「あの人にイエス様のことを伝える機会を私に与えて下さい」と祈るのもよいでしょう。その場合は、次のように付け加えます。「そのような機会が来たら、しっかり伝え証しできる力を私に与えて下さい」と。神がきっと相応しい機会を与えてくれて、聖霊が必ずそこで働いて下さると信じてまいりましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

 

2022年5月8日(日)復活節第4主日 主日礼拝

主日礼拝説教 2022年5月8日 復活節第四主日

使徒言行録9章36節-43節

黙示録7章9節-17節

ヨハネ10章22-30節

説教題 「羊飼いが羊を守り導くようにメシアも守り導かれる」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1. はじめに

 復活祭の後の福音書の日課は死から復活したイエス様が弟子たちの前に姿を現した出来事が中心でした。今日の福音書の日課は舞台を再び十字架と復活の前に戻します。イエス様の教えと業は、十字架と復活の出来事の前は聞く人見る人にとってわかりにくいことが多くありました。それが、十字架と復活の後になって、それらがどんな意味なのかが正確にわかるようになりました。本日の日課についても私たちは、イエス様の十字架と復活の出来事を知る者として意味を確認してまいりましょう。

 イエス様は、数多くの奇跡の業と神の権威がある教えでローマ帝国シリア州(マタイ4章24ー25節)において名声を博していました。イエス様自身、自分は父なるみ神から送られた「神の子」であると、また旧約聖書ダニエル書に出てくる救世主的人物「人の子」であると公言していました。それに対してユダヤ教社会の宗教指導層は、あれは神の子でも救世主でもない、民衆を惑わす危険な男だと見なしていました。宗教指導者たちが神と人間の関係を取り仕切っていたところに、別の誰かが勝手に取り仕切るようになったら、それは彼らの権威に対する挑戦になります。しかし本当は、イエス様の取り仕切りが神の意思そのものだったのです。宗教指導者たちはそれが全くわからず、自分たちの教えや流儀が神の意思たと思い込んでいました。

 それで宗教指導者たちは、なんとかこのイエスを捕まえて殺してしまおうと考えるようになっていました。そこで、エルサレムの神殿の祭事の時に大勢の人でごった返す中にイエス様を見つけて取り囲み尋問を始めます。イエス様が何か間違ったことを言えば、大勢の人が目撃者となる状況です。指導者たちは聞きます。いつまで我々に気をもませるのか、お前がメシアなら、はっきりそう言え、と。イエス様は答えます。自分は既にそう言ったのに、君たちが信じようとしないのだ、と。

 ここで、ヨハネ福音書をさかのぼってみると、イエス様が自分のことをメシアだと指導者たちに公言したことは見当たりません。4章のサマリア人の女性とのやりとりの中で、自分がメシアであると明かしますが(26節)、ユダヤ人の前では信奉者に対しても反対者に対しても、自分は父なるみ神から送られた「神の子」とか、救世主的人物である「人の子」とか言うだけで、ずばりメシアであるとは言っていません。もっとも、ユダヤ人の中にはイエス様がメシアだと信じる人も出ていました(7章31節)。イエス様は自分からは言っていないのに、既にそう言ったというのはどういうことでしょうか?これは当時、メシアという言葉が人々に誤って理解されていたという問題があります。

 メシアとは、もともとは頭に油を注がれて聖別された者を意味しました。神から特別な使命を与えられた者です。実際には、ダビデ王朝の王様が代々即位する時に油を注がれたので、ダビデ家系の王様を意味するようになりました。ところが、ダビデ王朝の王国は紀元前6世紀初めのバビロン捕囚の時に滅びてしまいます。イスラエルの民は同世紀の終わりにユダの地に帰還を果たしますが、それ以後はある一時期を除いて諸外国の支配下におかれ、ダビデ王朝の王国は再興しませんでした。何世紀もの間ユダヤ民族の間では、将来ダビデ家系の王が現れ、外国支配を打ち破って王国を再興し諸国に大号令をかけるという期待がずっと抱かれていました。この王がメシアと考えられたのです。

 他方で、バビロン捕囚から帰還した民の中には、旧約聖書イザヤ書の終わり(65章や66章など)にある預言に注目して、今ある天と地はやがて終わりを告げて新しい天と地に再創造される時が来るとわかった人たちがいました。そのような預言を通してメシアとは創造の秩序が一新される時に現れて、創造主の神の目に適う者を御許に迎え入れてくれる方という、そういう終末的な救世主を意味するということがだんだん明らかになってきます。この意味のメシアはユダヤ民族を解放する王様とは違います。全人類にかかわる救世主です。

 そうすると、イエス様が尋問を受けた時、それまで自分がメシアであるとはっきり言っていなかったのに、どうして既に言ったなどと答えたのかがわかってきます。イエス様は、特定民族の解放のためにこの世に送られたのではなく、文字通り全人類の救い主として送られたということがポイントです。もし「私はメシアだ」と言ったら、聞いた人たちの多くは、イエスは自分がメシアだと言ったぞ、ダビデの末裔の王で、これからイスラエルをローマの支配から解放すると宣言したぞ、と捉えたでしょう。そうなれば、宗教指導者たちにとってはしめたものです。この男は反乱を企てています、とローマ帝国の官憲に引き渡せばいいだけです。イエス様自身は、もちろん自分は本当の意味でメシアであるとわかっていました。しかし、聞く側がそう受け取らないこともよく知っていました。それで、人々がメシアを正しく理解していない間は、自分でその言葉を使うのは控え、かわりに父なるみ神から送られた「神の子」であるとか、終末の救世主「人の子」であると言い換えていたのです。でも、それがメシアの本当の意味だったのです。もちろん、「神の子」、「人の子」と言うのも宗教指導者たち苛立たせました。なぜなら、神を冒涜していると思ったからです。

2.本当のメシア

 ユダヤ教社会の宗教指導層は旧約聖書に集積された天地創造の神の言葉を維持管理する立場にありました。それなのになぜ彼らはイエス様が「神の子」であること「人の子」であることを信じられなかったのでしょうか?イエス様が数多くの奇跡の業を行っていたことは広く知れ渡っていました。しかも、それを自分の父である神の名によって行っていました。業自体が既に神の子であることを証明しているのに、指導者たちは信じない。イエス様は呆れ返ります(10章25ー26節)。

 指導者たちの不信仰の理由の一つは、先ほども申しましたように、イエス様が指導者たちを飛び越えて神と人間の関係を取り仕切ろうとした、そのことが指導層の権威に対する挑戦と受け止められたことがあります。彼らは自分たちのしていることが神の意思だと信じて疑わなかったのです。4つの福音書を見ると、宗教指導層に対する批判が多くあるので彼らは即悪党集団という印象がもたれがちです。ところが歴史的事実として、彼らの中には、自分たちは神の意思を究めたい、究めた神の意思をしっかり守り実現していきたい、と自分なりに神に忠実であろうとした人たちも大勢いたのです。それなのにどうしてイエス様を神の子、救世主と信じることができなかったのでしょうか?それは、自分たちの教えや流儀こそが神の意思であると固く信じていたからです。このためイエス様がいくら奇跡の業を行っても、お前を神の子と信じるにはまだ足りない、という位に頑なになってしまったのです。この頑なさはさらに度を増します。イエス様は労働を禁じる安息日に病の人を癒す奇跡を行いました。すると、人が助かったことよりも安息日を破ったということに目が行ってしまい、この男は神の意思に逆らう者だ、などと奇跡の偉大さが見えなくなってしまうほどでした。

 宗教指導層が神の意思を誤って理解していた原因としてもう一つ、旧約聖書に書かれている神の約束をユダヤ民族のみに関わると理解していたこともあります。確かに、旧約聖書を繙くと、神とイスラエルの民の関係の歴史が延々と語り伝えられています。それで、ユダヤ民族以外の世界の諸民族はその他大勢に括られてしまうだけに感じられます。しかし、たとえユダヤ民族の歴史の記述が大半を占めていても、旧約聖書に述べられている神の約束は全人類に関わるものです。

 それは、創世記の出来事から明らかです。神に造られた最初の人間が神に対して不従順となり、神の意思に反しようとする罪を持つようになってしまったために人間は死ぬ存在となってしまいました。人間はユダヤ民族か否かに関わらず、誰でも死ぬ以上、誰もが造り主である神に背を向けようとする罪の性向を受け継いでいます。罪を言い表す時、フィンランドやスウェーデンのルター派教会では、具体的な行為に現れる罪(tekosynti、verksynd)と具体的には現れなくても遺伝して誰でも持っている罪(perisynti、arvsynd)という二つの言葉があるくらいです。このような受け継がれる罪があるので、たとえ具体的に行為や言葉や思いに現れなくても人間は皆罪びとであるというのが聖書の立場です。

 この罪のために、人間は神聖な神との結びつきを失ってしまいました。それに対して神は、人間が再び自分との結びつきを持ててこの世を生きられ、この世から別れた後は永遠に自分のもとに戻れるようにしようと決めました。神はそれを人間の歴史の中で実行したのです。どのように実行したでしょうか?

 アブラハムが歴史の舞台に登場しました。モーセ率いるイスラエルの民が奴隷の地エジプトを脱出して約束のカナンの地に移住しました。この過程でイスラエルの民、ユダヤ民族が出来てきました。神は、この自分が選んだ民とのやり取りを通して、自分はいかなる者で、いかなる意思を持ち、何を考えているかをたえず知らしめ、その都度その都度、将来実現する人間の救いについて預言者を通して明らかにしました。これらをまとめたものが旧約聖書です。

 そして、救いを実現する時が来ました。神はひとり子をこの世に送ったのです。ひとり子はダビデ家系のヨセフの婚約者、乙女マリアを通して人間として誕生しイエスの名をつけられました。神がイエス様に課した役割は、人間の罪を全部彼に背負わせて人間の代わりに神罰を受けさせて人間が受けないで済むようにすることでした。神はひとり子の身代わりの犠牲に免じて人間を赦すという手法をとったのです。そのことがゴルゴタの十字架の上で起こりました。人間はただイエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで、この神の赦しを自分のものにすることができます。それで人間は神との結びつきを回復出来、結びつきを持ってこの世を生きられ、この世から別れた後は復活の日に復活の体を着せられて造り主のもとに永遠に迎え入れられるようになったのです。

 神のひとり子がこの世に送られた場所は、まさに神の意思である十戒と御言葉と約束の維持管理を任されていたユダヤ民族の真っただ中でした。イエス様は神の意思を誤って理解していた指導者たちに本当の神の意思と神の業を示したのに反対されて処刑される、そういう形で人間を罪から贖う、いわゆる贖罪を自ら行ったのです。さらに神はイエス様を死から復活させ、この世に対して死を超えた永遠の命が本当にあることを示されました。そこに至る道を人間に切り開かれたのです。このように神の約束は、かつて人間が失ってしまったもの、造り主との関係を回復するという約束でした。それは特定の民族にとどまらない全人類に関わるものだったということが明らかになりました。願わくは、神の約束が特定の民族や文化文明に向けられたのでなく、全世界の人々に向けられていることが多くの人にわかってもらえますように。

3.本当のメシアは良き羊飼い

 本日の福音書の箇所でイエス様は自分の羊について語ります。「わたしの羊は私の声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。私は彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない」(10章27ー28節)。永遠の命を与えられ、この世から死んでも決して滅ぶことはない「彼ら」とは誰のことか?それは復活したイエス様を救い主と信じ洗礼を受けて神との結びつきを持てるようになった者、キリスト信仰者のことです。

 イエス様の「声を聞き分ける」とは、十字架の前に彼の教えを耳で直に聞いたということだけではありません。死から復活して天に上げられたイエス様の声を私たちは直に耳で聞くことはできません。しかし、イエス様が肉声で語った教えは、彼の弟子たちの目撃録・証言録となって福音書の中に収められています。イエス様が救い主と信じないで福音書を読むと、それはただの古代中近東の空想的歴史物語にしかすぎません。しかし、信じて読むとそれは自分を造って命と人生を与えてくれた神が語りかける言葉になり、その神と自分との結びつきを取り戻して下さった救い主メシアの言葉になります。彼が私たちに語りかける言葉です。福音書以外の書物も、使徒たちが記した書簡は復活したイエス様が、あなたたち、伝えなさい、と彼らに託した自分の言葉の集大成です。旧約聖書も、ひとり子の受難と復活を通して人間に救いをもたらすことになる神がどのような方であるかを明らかにする書物群です。総じて聖書はイエス・キリストを向き、イエス・キリストに結びついています。聖書を繙くことで、私たちはイエス様から直接言葉を聞くのと同じくらいに、イエス様のことを知ることができます。

 イエス様はまた、彼の羊、つまりキリスト信仰者をみな知っていると言われます。10章3節で、羊飼いであるイエス様は「自分の羊の名を呼んで連れ出す」と言っています。このようにイエス様は、私たち一人ひとりを名前で呼ぶくらいに私たちのことを個人的に知っているのです。個人的に知っているから、私たちが日々何を考え、何をし、何を必要としているのかご存知です。ご存知ではあるけれども、イエス様の方では、私たちがそれらのことをお祈りして打ち明けることを望んでいます。そうすることで、私たちはイエス様に信頼をおいていることをイエス様にも示し自分自身にも言い聞かせることができます。イエス様や父なるみ神はどうせ全部ご存知だから祈る必要もない、というのは信頼をおくことを怠けることになります。

 死から復活したイエス様を救い主と信じ洗礼を受けたキリスト信仰者は、造り主の神との結びつきを持ってこの世の人生を歩むことになると申しました。人生の歩みでは、いつも私たちの祈りを聞いてくれる、個人的な思いや願いを聞いてくれる主がいつもそばにいるとも申しました。しかし、人生の歩みの中で、本当に神との結びつきはしっかり保たれているだろうかと疑問や不信を抱くことが多くあることも事実です。特に罪に陥った時とか、苦難や逆境に陥った時がそうです。

 罪に陥った時、陥ったのはあくまで自分ですから、それで十字架と復活がもたらす救いと恵みの力が減ることはありません。救いと恵みに力がなくて罪に陥るのを阻止できなかったということではありません。救いと恵みの力と価値は私たちがどんな状況にあるかにかかわらず不変です。それゆえ、罪に陥った時、私たちに出来ること、またしなければならないことは、罪を罪として認めて神の御前で赦しを祈ることです。そうすると十字架と復活に現れた神の恵みと愛は私たちが洗礼を受けた時と全くかわらない力と輝きを持って私たちを包み込みます。このように洗礼を受けた者はいつも立ち返れる地点があります。

 それから、私たちは自分自身の罪が原因ではないのに苦難や逆境に陥ることもあります。この問題はとても難しいです。一つ言えることは、そのような時でも、救いと恵みに力がなくて、自分が苦難と困難に陥るのを阻止できなかったということではありません。「主はわたしの羊飼い、わたしには何も欠けることがない」で始まる詩篇23篇の4節に「たとえ死の陰の谷を行くときもわたしは災いを恐れない。あながた共にいてくださる」と謳われています。主がいつも共にいてくださるような者でも死の陰の谷のような暗い時期を通り抜けねばならないことがある、災いが降りかかる時がある、と言うのです。主が共にいれば苦難も困難もないとは言っていません。苦難や困難が襲って来ても主は見放さずに共にいて共に苦難の時期を一緒に最後まで通り抜けて下さる、だから私は恐れない、と言うのです。実に、洗礼の時に再興された神との結びつきは私たちの方で捨てない限り、いかなる状況にあっても保たれているのです。

 今日の説教の中で、キリスト信仰者は神との結びつきを持ってこの世を進むとか歩むとか申しました。一体どこに向かって進むのでしょうか?それについても申しました。復活の日に復活を遂げて神の御許に迎え入れられるところです。このことが今日の黙示録の中でも言われていますので、最後にそれを見ておきましょう。

7章14節「彼らは大きな苦難を通ってきた者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。」

 イエス様がゴルゴタの十字架で流した血で私たちは罪から清められる道に置かれてその道を進みます。復活の日、私たちは内も外も完全に白くされているのを自分の目で見ます。イザヤ書1章18節の神の言葉「お前たちの罪が赤くとも、お前たちは雪のように白くされる」がイエス様の十字架の血のおかげで本当になるのです。また詩篇51篇9節のダビデの祈り「私を雪よりも白くして下さい」も本当になるのです。

7章15~17節「玉座に座っておられる方がこの者たちの上に幕屋を張る。彼らはもはや飢えることも乾くこともなく、太陽もどのような暑さも彼らを襲うことはない。玉座の中におられる小羊が彼らの牧者となり、命の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとく拭われるからである。」

 ここに、イザヤ書49章10節、詩篇121篇6節、詩篇23篇1、2節、イザヤ書25章8節の御言葉がそのまま実現するのを見ることが出来ます。

 兄弟姉妹の皆さん、このように旧約聖書はイエス・キリストを向き、イエス・キリストに結びついていると言うのは誠にその通りです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように

アーメン

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

 

 

2022年5月1日(日)復活節第3主日 主日礼拝

主日礼拝説教 2022年5月1日 復活節第三主日

使徒言行録9章1節-20節

黙示録5章11節-14節

ヨハネ21章1-19節

説教題 「イエス様が教える愛とは?」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに ― ペトロとパウロ

 今日の聖書の日課にはパウロとペトロのことが出てきます。パウロはもともとはサウロという名前でした。古代ユダヤ民族の初代の王サウルのことです。王様の名前だったのが「小さき者」を意味するパウロになりました。ペトロの方はもともとシモンという名でしたが、イエス様からお前の名はこれからは岩を意味するケーファーだと言われました。これはアラム語ですが、それがギリシャ語のぺトゥロスになりました。「岩」というのは教会の基を意味します。私が中学の時だったか高校の時だったか、世界史のテストで( )に人物名を書けという問題で「キリスト教が誕生した時、ユダヤ人に伝道したのは( )、ユダヤ人以外の異邦人に伝道したのは( )」というのがあって見事に逆に書いてしまいました。似たような名前なのでどっちでもいいじゃないかなどと思ったものですが、その頃、新約聖書くらい読んでいたら、そんなことにはならなかったでしょう。

 ユダヤ人に伝道したのがペトロ、異邦人に伝道したのがパウロというのは少し乱暴な区分けです。キリスト教会の誕生史をみると最初はユダヤ人が中心でした。イエス様の弟子たちも皆ユダヤ人で、イエス様自身、ユダヤ人の乙女マリアから人間の肉体を受けてこの世に生まれたので、旧約聖書を受け継ぐ民族の一員として生まれました。そういう背景があるので初代のキリスト信仰者は、イエス様を救い主と信じて洗礼を受ける者はまずユダヤ人であるべきということにこだわりました。イエス様を旧約聖書に約束された救世主メシアと信じるならば、その人は旧約の伝統を受け継ぐ者でなければならない。もし異邦人がキリスト信仰者になろうとするなら、まず割礼を受けてユダヤ人にならなければならない。そう考えられても不思議はありません。ところが天地創造の神は、そうではないということをペトロに教えていたのです。それでペトロはローマ帝国の将校コルネリウスに洗礼を授けたのです(使徒言行録10章)。それにもかかわらず、エルサレムの使徒たちがユダヤ人にこだわり続けたことは、パウロの「ガラテアの信徒への手紙」からも伺えます。

 パウロは、人がイエス様を救い主と信じて洗礼を受ける際には割礼を受けてユダヤ人になる必要はないという立場でした。私どものような異邦人は異邦人として、つまり日本人は日本人として、欧米人は欧米人として、アフリカ人はアフリカ人として、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けられ、そのようにして天地創造の神から罪の赦しを等しく受けられて神と結びつきを持ってこの世を生きられ、この世を去った後も復活を遂げて神の御許に迎え入れられるようになりました。わざわざ割礼を受けてユダヤ教に改宗してからキリスト信仰者になる必要はなくなりました。実にありがたいことです。

 そのパウロの伝道の仕方をよく見ると、彼は伝道する先々でまずシナゴーグに行って教えました。ということはユダヤ人に伝道したのです。ただ、教えを聞いたユダヤ人たちは受け入れる人も出るが反対者の声が強くてパウロは追い出されてしまうことが度々でした。ところが、シナゴーグの外でなんと異邦人がパウロの教えを受け入れるということが起きたのです。パウロは両方を相手に伝道したのですが、結果的に異邦人が受け入れたということです。

 イエス様を救い主と信じて洗礼を受けるのに、ユダヤ教に改宗しないでいいというパウロの教えはどうして生まれたのか?本日の日課にある出来事、パウロがキリスト教徒迫害の旅をしていた時に復活の主の栄光を目のあたりにしたことが大きなきっかけになりました。そのことについて私は3年前の説教でお話したことがありますので、興味のある方そちらをご覧ください。本日はペトロの方をお話ししようと思います。

2.神の人間に対する愛

 本日の福音書の日課は、復活されたイエス様が弟子たちの前に3度目に現れた出来事についてです。ガリラヤ湖で夜通し漁をしていた弟子たちが何も取れないで夜明けになった頃、イエス様が岸辺に現れて大声で魚が取れるところを教えます。言われたとおりに網を下ろすと網が張り裂けんばかりの大量の魚がかかりました。イエス様だと気づいたペトロは他の者より一足早くイエス様のもとに行こうと湖に飛び込みます。その時、自分が裸であることに気づいて、失礼に当たると思ったのか慌てて服を着てそれで飛び込んでしまいました。ずぶ濡れになってしまうのに。ペトロの性格がよく表れていると思います。弟子たち全員が岸に上がると、魚を焼く炭火とパンが用意されていました。イエス様は、さあ、朝ご飯を食べていきなさい、と労います。

 食べ終わった後でイエス様がペトロに「他の誰よりも私を愛しているか?」と聞きます。ペトロは「愛しています」と答えますが、三度同じことを聞かれたので、信じてもらえないと思って悲しくなります。イエス様が三度聞いたのは、彼が裁判にかけられた時ペトロが群衆の前でイエス様のことなど知らないと三度言ってしまったことに対応すると言われます。「あなたを愛しています」と三回言わせることで、三度拒否したことを赦す意味があると言われます。もちろん、その意味もありますが、ここではもう少し深いところも見ておこうと思います。

 イエス様が「私を愛しているか?」と聞く時のギリシャ語の動詞と、ペトロが「愛しています」と答える時の動詞が違っています。イエス様が聞く時の動詞はアガパオーαγαπαωですが、ペトロが答える時の動詞はフィレオ―φιλεωです。新共同訳では両方とも「愛する」と訳しているのでこの区別が見えません。二回目のイエス様の質問とペトロの答えも同じです。ところが三回目になると、イエス様は突然動詞を変えてペトロと同じフィレオ―で聞きます。そしてペトロはフィレオ―で答えます。このことを少し見ていきましょう(後注)。

 「愛」とか「愛する」という言葉はいろんな意味が含まれるので厄介です。古代ギリシャ語は、異なる形の愛を異なる言葉で言い表していました。男女間の性愛はエロースερωςと言っていました。兄弟愛とか同志愛とでも言うべきものはフィラデルフィアφιλαδελφιαという言葉がありました。愛する対象が兄弟や同志より広がって人間愛を意味する時は、フィラントローピアφιλανθρωπιαという言葉がありました。ペトロの「愛しています」フィレオーという動詞は、このフィラデルフィア、フィラントローピア兄弟愛、同志愛、人間愛に関係する愛です。

 それでは、イエス様が「愛しているか」と聞いた時のアガパオーはどんな愛でしょうか?ヨハネ福音書13章34節と15章12節をみると、イエス様は弟子たちに新しい掟を与えると言って、「私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と命じます。ここには、イエス様の弟子たちに対する愛とそれを模範にした弟子同士の愛の二つが言われています。両方ともアガパオーです。

 イエス様の弟子たちに対する愛とはどんな愛でしょうか?ヨハネ15章13節でイエス様はこう言います。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」ここでは、愛は動詞ではなく名詞のアガペーαγαπηですが、動詞のアガパオーも名詞のアガペーも同じ愛の形です。ここで、アガパオー、アガペーの愛は、自分の命を犠牲にすることも厭わないものであることが明らかになります。

 そう言うと、兄弟愛、同志愛、人間愛にも大切な人のために自分を犠牲にすることがあるのではないか、と言われるかもしれません。ここは、日本語の言葉に囚われず、もう一度ギリシャ語の言葉を見てみます。兄弟愛、同志愛のフィラデルフィアと人間愛のフィラントローピアは、新約聖書の中での使われ方を見ると、親切とか思いやりとか友好的とか敬意を払うとか、そういう人間同士が平和な関係でいられる態度ないし行動様式の意味で使われています(ローマ12章10節、使徒言行録28章2節、形容詞として第一ペトロ3章8節、副詞として使徒言行録27章3節、ただしテトス3章4節は神のものとして)。それなので、それらには自己犠牲を厭わない強い愛はないと思います。

 それで、親が子供の命を守るために自分を犠牲にするということが起これば、それはアガペーの愛になります。聖書は、天地創造の神の人間に対する愛はまさにそういうものだと教えます。神の愛が自己犠牲をも厭わない愛ならば、それでは神は人間を何の危険から守るためにどんな犠牲を払ったと言うのでしょうか?「ヨハネの第一の手紙」4章10節で次のように言われています。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」ここで言われる「愛」、「愛する」はまさにアガペー、アガパオーです。その愛は、人間が神との結びつきを持てるのを妨げていたもの、人間がこの世を去った後で神の御許に迎え入れられるのを妨げていたもの、そうした妨げを神がひとり子を犠牲にして全て取っ払って下さったということです。そのことがゴルゴタの十字架で起こったのでした。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、私たちの内にある、神の意思に反しようとする罪が妨げの力を失くすのです。罪があることを認めて神に赦しを祈ると、神は私たちの心の目をゴルゴタの十字架に向けさせ、いつも赦しがあることを見せて下さいます。この時、罪に妨げの力はなく干からびています。罪よ、ざまあみろ、です。そのようにして、洗礼で新しく生まれ変わった自分にいつも戻れるのです。

 イエス様とペトロの対話に戻ります。イエス様はペトロに「愛しているか」と聞いた時、そういう神が人間に示したような深い愛で愛しているかと聞いたのです。それに対してペトロは兄弟愛、同志愛、人間愛のレベルの愛で愛していますと答えたのです。ペトロは、たとえ他の弟子が見捨てても自分はあなたを見捨てません!などと威勢の良いことを言っておきながらいざとなると見捨ててしまいました。自己犠牲からほど遠い自分を露呈してしまった手前、あまり偉そうなことは言えません。そんなジレンマが神的な愛を避けて人間的な愛で答えたことに窺われます。イエス様はペトロに「お前は神的な愛で私を愛するか?」と聞き、ペトロは「はい、ただし、人間的な愛ですが」と答えたのです。イエス様はもう一度同じ質問をし、ペトロは同じ答えをします。そして三度目の質問。今度はイエス様は神的な愛アガパオーで言わず、ペトロと同じ人間的な愛フィレオーで聞きます。「じゃ、お前は人間的な愛だったら私を愛するんだな」とたたみかけたわけです。ペトロの反応は、イエス様!私がフィレオーで愛することも疑うのですか?そりゃ、あんまりです!という様子が窺われます。

 ここでイエス様がなぜ三回聞いたのかを考えてみましょう。ペトロは三回知らないと言ったので、一回の答えでは信用できなかったというのは本当でしょうか?実はイエス様は既に一回目の答えでペトロがイエス様を信用していました。どうしてかというと、ペトロの答えの後でイエス様は「わたしの小羊を飼いなさい」と言ったからです。イエス様の小羊、つまりイエス様を救い主と信じる者たちが神との結びつきに留まって復活の日を目指してこの世を進んでいけるように彼らを守り導きなさい、ということです。つまり牧会をしなさいということです。「わたしの小羊」と言うように、牧会者は信徒をイエス様から預かって牧会するのですから、その責任はとても大きいです。ペトロにそのような責任を委ねたのです。もし、イエス様が信用していなかったら、こんな大きな責任は委ねなかったでしょう。それほどペトロを信用していたのであれば、なぜ三回も確認させたのか?そうすることで、牧会とはイエス様を愛することが土台になっていなければならないことをはっきりさせたのです。

3.私たちのイエス様に対する愛

 それでは、私たちがイエス様を愛する愛とはどんな愛でしょうか?イエス様は人間のために自己犠牲の重荷を背負われました。私たちがイエス様のために自己犠牲することがあるのでしょうか?ここでヨハネ14章21節と23節でイエス様が、彼を愛する人は彼の掟、彼の教えたことを守る人である、と言っていることに注目します。イエス様の掟、イエス様が守るようにと教えたことは何か?それも先ほども見ました、ヨハネ13章34節と15章12節のイエス様の言葉に凝縮されています。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これが私の掟である」。イエス様には自分を犠牲にしてまで神と人間の結びつきを回復してあげようと駆り立てた愛がありました。その愛で互いに愛し合いなさいと言うのです。お互いをそういうふうに愛することができれば、それはイエス様を愛することになると言うのです。

 それではイエス様を自己犠牲に駆り立てた愛で互いに愛するとはどういうことでしょうか?それは、イエス様のおかげで神との結びつきを持てて生きられるようになったのだから今度は、隣人も同じように神との結びつきを持ててこの世を生きられるように、そしてこの世を去る時は復活させられて神の御許に迎え入れられるように働くことです。

 そこで、もし隣人がキリスト信仰者ならば、その人が既に受け取った神との結びつきを失わないように支え助けてあげることです。それをお互いにすることです。キリスト信仰者が苦難や困難に陥ることはしょっちゅうあります。そんな時は、どうしてこんなことが起こるのかと、神に失望や不信が生まれる危険があります。それで信仰者を苦難や困難から助けるというのは、神との結びつきや信頼がしっかり保たれるようにするということが視野に入ります。

 イエス様が互いに愛し合いなさいと言ったのは弟子たちだったので、隣人がキリスト信仰者でない場合は関係ないような感じがしてしまいますが、よく考えるとそうではありません。天の父なるみ神は、イエス様の弟子たちだけではなくて、全ての人間が神との結びつきを回復できるようにとイエス様をこの世に贈られて十字架の死に引き渡したのです。それなので、信仰者でない隣人を苦難や困難から助ける場合でも、神との結びつきや信頼が持てるようにすることが視野に入っています。信仰者の場合は結びつきを「保てるようにする」ですが、信仰者でない場合は「持てるようにする」のです。いずれの場合も助ける時は自分の持てる力や時間や財産を使わなければならないことは肝に銘じておく必要があるでしょう。宗教改革のルターは、その時は財産や命を失う可能性すらあることを覚悟しなさいと言っているほどです。これが、イエス様のために自己犠牲することです。

4.おわりに ― 神の栄光を現わすということ

 ペトロの三回目の答えの後でイエス様は謎めいたことを言います。「はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」それについてこの福音書を書いたヨハネは少し不気味な解説を付け加えます。「ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。」終わりに、このイエス様の言葉を見ておこうと思います。

 キリスト教会の古い言い伝えによれば、ペトロは西暦63ないし64年頃にローマで殉教の死を遂げました。ちょうどキリスト教徒迫害で有名な皇帝ネロの時代です。ペトロは十字架にかけられる時、私は主と同じ死に方をする値打ちはないと兵隊たちに言ったところ、じゃ、これで満足だろう、と頭を下にして逆さまに十字架にかけられたということです。イエス様が「お前は年を取った時、両手を広げ、別の者がお前を縛って行きたくないところに連れて行く」と言ったのは、後世の人から見たらペトロが殉教の死を遂げたことを意味すると事後的にわかります。しかし、まだ出来事が起きる前の人たちにとっては、なんのことかわからなかったでしょう。ヨハネは福音書を書いていた時に既にペトロの処刑を目撃していたか、またはその知らせを耳にしていたのでしょう。それで、ああ、あの時ガリラヤ湖畔で復活の主がペトロに言ったことはその通りになったのだと事後的にわかって、それで解説をしたのです。

 ペトロの殉教は神の栄光を現すものであるとヨハネは解説しました。これは私たちを重苦しい気持ちにさせます。神の栄光を現すというのはこれくらいのことをすることなのか、と。日々平穏無事に過ごしていたら、それは神の栄光を現す生き方ではないのか、と。ここで注意しなければならないのは、天の父なるみ神の栄光や栄誉というものは、被造物である私たちの業績や達成に左右されないということです。私たちの業績が多かろうが少なかろうがそんなことに関係なく、神は超然として既に栄光と栄誉に満ちています。それならば、私たちが神の栄光を現すというのはどういうことでしょうか?

 それは、私たちが自分の言葉や行いや生き方をもって、神の動かすことのできない真理を人前で証しすることです。つまり、あなたは何者かと聞かれたら、私は次の三つの者であると答えることです。三つの者とは、まず第一に、私は天と地とそこに収まる全てのものを造られた神に造られた者であると答えることです。第二に、私はその神のみ前に立たされることになっても、神のひとり子イエス・キリストの犠牲のおかげで罪を赦されて大丈夫でいられるようになった者であると答えることです。そして第三には、私はこの世の人生の向こうで復活の日に神の御許に永遠に迎え入れられるところに向かう道を今歩んでいる者であると答えることです。以上の三つを胸をはって答えることです。何も聞かれなければ、そのような者として胸をはって生きるだけです。

このような神の真理を胸張って証しするように生きていこうとすると、いろんなことに遭遇します。そんなのは取り下げないと命はないぞという迫害の時代だったらそれこそ殉教しかないでしょう。しかし、自分は造り主に造られた者であるということをどうして取り下げられましょうか?自分は造り主が送られたひとり子の犠牲によって罪が償われて新しい命を頂いたことをどうして取り下げられましょうか?自分は神に見守られてこの世を生き御許に迎え入れられる道を今歩んでいることをどうして取り下げられましょうか?ペトロは、「取り下げない」という生き方をしたら一巻の終わりという時代状況にあって、それを貫いてこの世の人生を終えたのです。そうすることで神の真理を証しし、神の栄光を現したのです。

 私たちの生きている時代状況はどうでしょうか?神の真理に従って生きようとしたら、どんなことに遭遇するでしょうか?良心や信条の自由が保障されている現代社会ならば何も問題なく平穏無事でしょうか?人間はどこから来てどこに行くのかという根源的な問いについて、キリスト信仰と違う見解が社会の多数派を占めていれば、いろいろな軋轢が出て来るでしょう。多数派にいれば考えなくて済むようなことを信仰者は沢山考えなければならなくなるでしょう。でも、そういう余計なことを抱え込むことが現代社会では神の栄光を現わすことになると思います。信仰者が沈黙していたら多数派は何も気づかず、みんな同じ考えでいると勘違いしてしまいます。それなので口に出すことは良心・信条の自由が存続するためにも非常に大事です。

 最後に、イエス様がダマスコの途上でパウロに述べた言葉の中に信仰者にとって励みになるものがあるのでそれを述べておきます。パウロが声の主が誰であるかを尋ねた時、イエス様は「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」(9章5節)と答えました。イエス様を救い主と信じる者が苦難や困難に陥った時、イエス様はそれを自分のことのように受け止めるということです。聖書を神の視点で読んだり聞いたりする時や聖餐を受ける時、目には見えなくともイエス様は臨在します。しかも、臨在する方はただボーっとしておられるのではなく、私たちの境遇や状況を他人事としてではなく自分事として受け止めておられるということです。このことが分かれば、私たちの祈りは必ず聞き遂げられて、必ず脱出口や解決に導いて下さると確信できます。兄弟姉妹の皆さん、このことを忘れないようにしましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

(後注)イエス様とペトロのやりとりはアラム語でなされていたでしょう。もしそうなら、この箇所は、出来事を目撃した使徒ヨハネが後日ギリシャ語に訳して記したものです。イエス様とペトロがアラム語でどんな動詞を使い合っていたかはもう知りようがありませんが、ヨハネは二人のやりとりのニュアンスをしっかり捉えて福音書にあるように訳したのだと考えればよいでしょう。そもそも使徒とは、目撃者、証言者として働くべくイエス様ご自身が選んだ者たちです。それゆえ、そうした使徒たちを信頼し、彼らの証言やその伝承を信じ、彼らの教えを守ることはキリスト信仰の基本です。

2022年4月24日(日)復活節第2主日 主日礼拝

主日礼拝説教 2022年4月24日 復活節第一主日

本日の礼拝のストリーミングはこちらのミスで途中で切れてしまいました。お詫び申し上げます。説教の全文は下に掲載しましたので、そちらをご覧ください。

使徒言行録5章27~32節

黙示録1章4~8節

ヨハネ20章19~23節

説教題 「イエス様の与える平和を持てれば見ないでも信じられる」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 本日の福音書の個所は、弟子の一人のトマスが自分の目で見ない限りイエス様の復活など信じないと言い張っていたのが、目の前に現れて信じるようになったという出来事です。その時イエス様が言います。「私を見たから信じたのか?見なくても信じる者は幸いである。」この言葉にはキリスト信仰にとって大事なことが含まれています。今日は「見なくても信じる者は幸い」とはどういうことかを見ていきたいと思います。それと、イエス様は弟子たちに「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」とも言われます。罪すなわち人間が神の意思に反することを行ったり言ったり思ったりすることですが、それを赦すのは神の権限なのに、その権限を弟子たちに与えるというのです。これはとても大きな権限です。説教の終わりにこのことについても触れておこうと思います。

2.復活に付随する大事なこと

 「見なくても信じる者は幸い」ということについて。私たちは目で見たら、その時はもう、信じるもなにもその通りだと言うでしょう。ところが、「信じる」というのは、まさに見なくてもその通りだと言うことです。復活したイエス様を見なくてもイエス様は復活したのだ、それはその通りだ、と言う時、イエス様の復活を信じていることになります。復活したイエス様を目で見てしまったら、復活を信じますとは言わず、復活をこの目で見ましたと言います。

 イエス様の弟子たちは復活の目撃者です。信じるも何もそうとしか言いようがなく、後で迫害が始まった時にも見たものを見なかったことにする改ざんみたいなことは出来ませんでした。本日の使徒言行録の個所でも、弟子たちはユダヤ教社会の指導者たちからイエスの名を広めるなと脅しを受けます。しかし彼らは折れません。なぜ折れないかというと、目撃したことがとても大事なことだから譲れないのです。イエス様の復活に何かとても大事なことが付随しているのです。もしその大事なことがなくてただ死んだ人間が息を吹き返して出てきただけだったら、確かに情報を拡散したい気持ちにはなるでしょうが、拡散したら命はないと言われたら、そこまでしてやる人はいないでしょう。しかし、復活に何かとても大事なことが付随してあるから、命を危険に晒しても折れないということになったのです。それでは付随している大事なこととは何か?それがわかると、見なくても信じる者は幸いということもわかってきます。

 ところで、イエス様は復活から40日後に天の父なるみ神のもとに上げられます。その後は復活したイエス様を目撃できません。それで、目撃者の証言を信じるかどうかということになります。彼らの証言を聞いて信じることが出来た人たちは、どうしてできたのでしょうか?もちろん、目撃者たちが迫害に屈せず命を賭して伝えるのを見て、これはウソではないとわかったことがあるでしょう。ところが、信じるようになった人たちも後に目撃者と同じように迫害に屈しないで伝えるようになったのです。直接目で見たわけではないのに、どうしてそこまで確信できたのでしょうか?それは、やはり、復活に付随している大事なことを目撃者同様に持てるようになったからです。本当にその大事なこととは何でしょうか?

3.イエス様が与える平和とは?

 そこで本日の福音書に戻ります。イエス様が復活した日の夜のこと、弟子たちはある家に集まっていました。ペトロとヨハネは、その日の朝早くマグダラのマリアからイエス様の墓が空であったという知らせを聞きました。すぐ自分たちも確認に行ったところ、確かに墓は空でした。この出来事が先週の福音書の箇所の内容でした。今、家の中でペトロとヨハネは、空の墓のことを他の弟子たちに話したところでした。そこへマリアが来て復活したイエス様に会ったと言ったのです。さあ、どうしたものか。主は本当に復活したのだろうか?みんなで出かけて行って会うことができるだろうか?しかし、外はイエス様を死刑に追いやった者たちで溢れかえっている。うかつに人前に出たら危険だ。それで成す術もなく家の中で過ごすうちに夜になりました。その時、なんとイエス様本人がそこに現れたのです。迫害を恐れて扉という扉にしっかり鍵を掛けたにもかかわらず。

 ルカ24章を見ると弟子たちは、亡霊が出たと恐れおののきますが、イエス様は彼らに手と足を見せて、亡霊には肉も骨もないが自分にはある、と言います。本日のヨハネ20章にもあるように、イエス様は、弟子たちに自分の手とわき腹の傷跡を見せて本人確認をさせます。先週の説教でもお話ししましたように、復活されたイエス様は人間がこの世で有する体とは全く異なる復活の体を有していました。それは、亡霊と違って実体のある体でした。ところが、空間を自由に移動することができました。それはあたかも天使のような体でした。復活したイエス様は、この世の我々の肉の体とは異なる、神の栄光を現わす霊的な体を持っていたのです。そのような体を持つ者が本来いる場所は天の父なるみ神がおられる神聖な天の国です。罪の汚れに満ちたこの世ではありません。イエス様は本当は、復活した時点で神のもとに引き上げられるべきだったのです。しかし、自分が復活したことを人々に目撃させるためにしばしの間、この地上にいることになったのです。

 弟子たちの前に現れたイエス様は「あなたがたに平和があるように」と繰り返して言います。弟子たちは周りの人たちを恐れていました。イエス様がいなくなって将来どうなるか全くわからない不安がありました。そのような時に「平和があるように」というのは、恐れと不安を超えるものがあるのだ、恐れと不安ではなくそれを持ちなさい、とおっしゃっているのです。恐れと不安を超える平和とはどんな平和でしょうか?

 ヨハネ福音書が書かれた言語はギリシャ語で、「平和」はエイレーネーειρηνηという言葉です。イエス様は実際にはアラム語で話していたので、シェラームשלמという言葉だったでしょう。そのアラム語の言葉の元にある言葉は、言うまでもなく、ヘブライ語のシャーロームשלומです。このシャーロームという言葉は広い意味を持ちます。国と国が戦争しないで仲よくするという意味の平和もありますが、その他にも繁栄とか、成功とか、健康とか、国だけでなく人間個人にとって望ましい理想的な状態を意味します。ずばり、神の救いを意味することもあります(1列王記2章33節、イザヤ54章10節「平和の契約」と訳すことも可)。そうなると、日本語の「平和」と違ってきて、それなら「繁栄」とか「成功」とか「救い」と訳せばいいじゃないかと思われるかもしれませんが、もともとのヘブライ語の言葉シャーロームはこれら全部を含めてしまうのです。

 イエス様は「平和」という言葉をもっと深い意味で言っています。十字架に掛けられる前日、イエス様は弟子たちに次のように言われました。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな」(ヨハネ14章27節)。イエス様は「平和」を与えるが、それは「わたしの」平和、イエス特製の平和である。しかも、それを、この世が与えるように与えるのではない、と言われる。一体それは、どんな「平和」シャーロームなのでしょうか?まず、「この世が与える」平和シャーロームとは何かを考えてみます。先ほどシャーロームは広い意味があると申しました。国と国の平和、人間個人の繁栄、成功、健康、福利厚生が含まれると。もしこれらのものが「この世が与える」ものなら、それは人間が自分の力で獲得したものです。

 ところがイエス様が与える平和シャーロームは違います。それは彼特製の平和で、しかも、それを「この世が与えるように」与えるのでない。つまり、イエス様の平和シャーロームは人間の力で獲得するものではない。あくまでもイエス様が与えるものです。そうすると、イエス様が与えるシャロームは、国と国との平和とか、人間個人の望ましい理想的な状態とは違うのでしょうか?結論を先に申しますと、イエス様が与えるシャーロームは、こうした理想的な状態の土台にあるような根源的な平和です。それがあってはじめて、シャーロームが普通意味する理想的な状態が成り立つと言えるような根源的な平和です。それがなければ、どんなに理想的な状態を獲得しても危いというような、そんな根源的な平和です。一体それはどんな平和なのでしょうか?

 イエス様が与える平和を理解する鍵が聖書の中にあります。「ローマの信徒への手紙」5章1節。「このようにわたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており…」。つまり、「平和」とは人間と神との間の平和です。そうすると、イエス様のおかげで神との間に平和が得られているということは、イエス様が来られる以前は人間と神の間は平和がない、言わば敵対関係だったのか、という疑問が起きます。実はそうだったのです。そのことは「コロサイの信徒への手紙」1章21ー22節に明確に述べられています。「あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者として下さいました。」神と敵対していた私たち人間がイエス様の十字架の死によって神と和解することができ、神聖な神の前に立たされることになっても神に認めてもらえるようになった、と言うのです。神との敵対、そしてイエス様の死による和解と平和、これらは一体どういうことでしょうか?

 これらのことがわかるためには、まず、私たち人間には造り主がいるということ、その造り主が私たちに命と人生を与えられたということに立ち返ってみる必要があります。そして、立ち返ったら今度は、その造り主と私たち人間との関係はどうなっているのかということを考えてみなければなりません。

 創世記を繙くと、人間はもともとは創造主の神に似せて造られたくらいに神に近い存在でした。それが最初の人間アダムとエヴァが神に対して不従順になり神の意思に反しようとする罪を持つようになってしまったため神との結びつきが失われてしまいました。神との結びつきが失われたのに伴って人間は死ぬ存在となってしまいました。使徒パウロが、死とは罪の報酬であると教えている通りです(ローマ6章23節)。人間は代々死んできたように代々罪を受け継いできました。キリスト教ではいつも人間の罪性が言われるので、よく嫌がれます。人間には良い人もいれば悪い人もいる、悪い人もいつも悪いとは限らないではないか、と言われます。しかし、人間は死ぬということが、最初の人間から罪を受け継いできたことの現れなのです。

 罪が内部に入り込んでしまったため、人間は神聖な神の御前に立たされたら焼き尽くされかねない位に汚れた存在になってしまいました。こうして罪のゆえに神と人間の間に敵対関係が生じてしまったのです。しかし、神は、人間を神から切り離している罪の力を無にして、人間が再び神との結びつきを持って生きられるようにしようと決めました。そのために自分のひとり子をこの世に贈りました。人間の全ての罪をこのひとり子に背負わせてゴルゴタの十字架の上に運ばせて、そこで全ての罪の神罰を人間に代わって受けさせて死なせました。神のひとり子が人間に代わって人間の罪を全て神に対して償って下さったのです。神は、ひとり子の犠牲に免じて人間を赦すことにしたのです。

 さらに神は一度死んだイエス様を想像を絶する力で復活させて、復活と永遠の命があることをこの世に示し、そこに至る道を人間に開かれました。こうしたことが起こった後で人間の側ですることと言えば、あとは、これらのことが本当に自分のために起こったのだとわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受ける。そうすると、この神がしてくれた罪の償いが自分に起こったことになります。本日の黙示録1章5節で言われるように、イエス様は自分が流した血によって私たちを罪から解放されたのです。難しい言葉で言うと、罪から「贖って」下さったのです。このように罪を償われ罪から贖われた人は神から罪を赦された者として見なされるようになり、神との和解ができたことになります。神との平和な関係に入ったのです。こうしてその人は神との平和な関係を持ってこの世の荒波の中を進んでいくことになります。進む先は、復活の日に復活の体を着せられ永遠の命を与えられるところです。今年のスオミ教会の年間主題でも言われるように、キリスト信仰者はイエス様と一緒に最終港を目指してこの世という海の航海を続けていくのです。

 この航海を進む中で成功、繁栄、健康などこの世的な平和シャーロームを得られる時もあれば、それらを失う時もあります。しかし、いずれの時にあっても、イエス様を救い主と信じる信仰に留まっていれば、神との結びつきは失われておらず、神との平和な関係はしっかり保たれています。人間的な目から見れば、失敗、貧困、病気などの不運に見舞われれば、神に見捨てられたという思いがして、神と結びつきがあるとか平和な関係にあるなどとはなかなか思えません。しかし、キリスト信仰者というのは罪の告白を行って罪の赦しの宣言を受け、また聖餐式で主の血と肉に与っていれば神の目から見て結びつきも平和な関係も何ら変更なくしっかり保たれています。たとえ人間的な目にはどう見えようともです。そして、この世から別れることになっても、復活の日に目覚めさせられて主が御手をもって父なるみ神の御許に永遠に迎え入れて下さいます。このことを確信してこの世から別れるのがキリスト信仰者です。イエス様のおかげで神と平和な関係にある人は本当に見ないで信じられる幸いな人です。

4.罪を赦す権限について

 本日の福音書の箇所でイエス様は弟子たちに大事な任務を与えます。「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」(23節)。ここで次のような疑問が起きます。キリスト教は、イエス様の十字架で全ての罪が赦されたと言っているではないか。それなのになぜ、まだ赦されるとか赦されないとか言い続けるのか?この疑問について考えてみましょう。

 まず確認しておかなければならないことがあります。それは、父なるみ神はイエス様を用いて罪の赦しの救いを実現したわけですが、今度は人間の方がこの確立した救いを受け取らないと、この赦しはその人に効力を持たないということです。救いは確立された、しかし、それを受け取らないと、その外側にとどまることになってしまうのです。せっかく神が全ての人間に対して、どうぞ受け取って下さい、と言って差し出して下さっているのに。そこで、もし受け取れば、神がイエス様の犠牲に免じて赦すと言っていることが、その人にとってその通りになるのです。

 そう言うと今度は、じゃ、イエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ罪が償われて罪から贖われると言ったのに、それでもなお赦されるだの赦されないだの言うのはどうしてか、という疑問が起きると思います。確かにキリスト教では、十字架の出来事で全ての罪は赦されたと言いますが、全ての罪が赦されたというのは、これで信仰者から罪がなくなるということではありません。なくなるのは罪が人間を神から引き離そうとする力、復活に向かわせない力です。

 人間はイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けてキリスト信仰者になっても、肉の体を纏っている限り、神の意思に反しようとする罪を持っています。その点は信仰者でない人と何の変わりはありません。ただ、何が違うかというと、キリスト信仰者の場合、罪の赦しの救いを自分のものとして所有していて、神もそのような者としてその人を見てくれている。それでその人がたとえ思いや言葉や行いによって罪を犯しても、すぐ神のみ前でそれを認めて、イエス様を救い主と信じていますから赦して下さいと祈れば、神も、お前がわが子イエスを救い主と信じていることはわかっている、イエスの犠牲に免じてお前の罪を赦す、これからは犯さないようにと言って下さいます。変わらぬ結びつき、平和な関係の中で引き続き復活に至る道を歩ませ下さるのです。

 このように信仰者は罪を犯さなくなった者ではなく、犯してもイエス様を自分の救い主と信じる信仰のゆえに神との結びつき平和な関係は揺るがずに、復活に至る道を歩ませてもらっている者です。それなので、信仰に留まる限り、罪が本来持っている力、人間を神から引き離して復活に向かわせず永遠の滅びに向かわせようとする力は信仰者に対しては無力化しているのです。私たちの礼拝の最初に唱えられる罪の告白と赦しの祈り、それに続く赦しの宣言というのは、罪の無力化を確認するものです。そういうわけで、罪の告白を行い赦しの宣言を受けるということは、洗礼という原点に立ち返ることを意味します。

 ここで一つ細かいことを言うと、礼拝の「罪の告白」の後に「赦しの宣言」が続くと申しましたが、日本福音ルーテル教会の式文では「赦しの宣言」ではなく「赦しの祈願祝福」となっています。内容は先ほど一緒に唱えたように、「ひとりのみ子イエス・キリストを死に渡し、すべての罪を赦された憐れみ深い神が、罪を悔いみ子を信じる者に、赦しと慰めを与えて下さるように」という文言です。司式者は、赦しがありますようにと祈り願う言い方です。これに対してフィンランドのルター派教会で用いられる式文では、もっと違う言い方がされます。こう言います。「神からその権限を委ねられた者として、次のように宣言します。あなたの罪は父と子と聖霊の御名によって赦されたと宣言します。」文字通り、会衆に罪は赦されたと宣言するのです。日本のように、赦しがありますようにと祈り願うこととは違います。そして宣言する場合、司式者が赦すと言うのではなく、あくまで神から権限を委ねられた代理者として宣言するというのです。誰がそんな権限を委ねられているのでしょうか?最初の使徒たちがイエス様からこの権限を委ねられました。本日のヨハネ福音書にある通りです。その後は、使徒の伝統に立って教会の牧会者に任命された者です。私は、いつの日かこのスオミ教会でフィンランドと同じような宣言がなされることを希望します。

 最後に、イエス様が弟子たちに命じたことの中に「あなた方が赦さなければ、赦されないまま残る」というのがありますが、それについてひと言。使徒や使徒の伝統に立って任命された牧会者が赦さない罪とはどんな罪でしょうか?これは、自分は罪を犯したことがないとか罪を持っていないという人の場合です。そういう人は罪の告白をする必要を感じない人で、罪の告白がないから赦しを宣言しようにもできません。先ほども申し上げたように、キリスト信仰者と言えども罪は内にあるので、罪の告白は必要です。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

 

2022年4月17日(日)復活祭/イースター 聖日礼拝

 

主日礼拝説教 2022年4月17日 復活祭

イザヤ書65章17~25節

第一コリント15章19~26節

ヨハネ20章1~18節

礼拝をYouTubeで見る

説教題 「復活した者たちが相まみえるところ」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

今日は復活祭です。十字架にかけられて死んだイエス様が天地創造の父なるみ神の想像を絶する力で復活させられたことを記念してお祝いする日です。イエス様が死んで葬られた次の週の初めの日の朝、かつて付き従っていた女性たちが墓に行ってみると入り口の大石はどけられ、墓穴の中は空っぽでした。その後で大勢の人が復活された主を目撃します。まさにここから世界の歴史が大きく動き出すことになったと言っても過言ではない出来事が起きたのでした。

復活祭はキリスト教会にとってクリスマスに劣らず大事なお祝いです。クリスマスは誰でも知っています。イエス様が天のみ神のもとからこの世に降って、乙女マリアから生身の人間として生まれたことを記念してお祝いする日です。復活祭では何をお祝いするのでしょうか?十字架刑という惨い殺され方をしたイエス様が死から復活して本当に良かったという、イエス様のハッピーエンドのお祝いでしょうか?そうではありません。それでは復活祭は何をお祝いするのでしょうか?それがわかるために、まず「復活」とはそもそも何なんのかがわからないといけません。それと、なぜイエス様は復活を遂げる前に十字架の死を遂げなければならなかったかもわからないといけません。

そういうわけで今日の説教は、初めに復活とは何なのかについて考えます。その次にイエス様がなぜ復活に先立って十字架の死を遂げなければならなかったかをわかるようにします。そして最後に、イエス様が復活したことは私たちに何の関係があるのかをみていきます。

2.復活とは何か?

復活とは何か?復活とは、よく混同されますが、ただ単に死んだ人が少したって生き返るという、いわゆる蘇生ではありません。死んで時間が経てば遺体は腐敗してしまいます。そうなったらもう蘇生は起こりません。聖書で復活というのは、肉体が消滅しても復活の日に全く新しい「復活の体」を着せられて復活することです。これは、超自然的なことなので科学的に説明することは不可能です。聖書に言われていることを手掛かりにするしかありません。

復活の体について、使徒パウロが「コリントの信徒への第一の手紙」15章で詳しく教えています。「蒔かれる時は朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれる時は卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活する」(42ー43節)。「死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着る」(52ー54節)。イエス様も、「死者の中から復活するときは、めとることも嫁ぐこともせず、天使のようになるのだ」と言っていました(マルコ12章25節)。

このように復活の体は朽ちない体であり、神の栄光を輝かせる体です。それは、天の御国で神聖な神のもとにいられる清い体です。この世で私たちが纏っている肉の体とは全くの別物です。復活されたイエス様はすぐ天に上げられず40日間地上に留まり人々の前で復活した自分を目撃させました。彼の体はまだ地上に留まっていましたが、それでも私たちのとは異なる体だったことは福音書のいろんな箇所から明らかです。ルカ24章やヨハネ20章では、イエス様が鍵のかかったドアを通り抜けるようにして弟子たちのいる家に突然現れた出来事があります。弟子たちは、亡霊だ!とパニックに陥りますが、イエス様は手足を見せて、亡霊には肉も骨もないが自分にはあると言います。このように復活したイエス様は亡霊と違って実体のある存在でした。食事もしました。ところが、空間を自由に移動することができました。本当に天使のような存在です。

復活したイエス様の体についてもう一つ不思議な現象があります。目撃した人にはすぐイエス様本人と確認できなかったことです。ルカ24章に、二人の弟子がエルサレムからエマオという村まで歩いていた時に復活したイエス様が合流した出来事があります。二人がその人をイエス様だと分かったのは、ずいぶん時間が経ってからでした。本日の福音書の箇所でも、悲しみにくれるマリアに復活したイエス様が現れましたが、マリアは最初わかりませんでした。このようにイエス様は、何かの拍子にイエス様であると気づくことが出来るけれども、すぐにはわからない何か違うところがあったのです。

復活したイエス様は本当は天のみ神のもとにいるのが相応しい体をしていたことは、今日のマリアとの再会の場面でもわかります。以前の説教でもお教えしましたが、この再会は尋常ではありません。というのは、天にいるのが相応しい神聖な体を持つイエス様に地上の肉の体を持つマリアがしがみついているからです。かつて預言者イザヤは神殿で神聖な神を目撃して、罪に汚れた自分は焼き尽くされてしまう!と叫んでしまいました。神に選ばれた預言者にしてそうなのです。預言者でない私たちはなおさらでしょう。

神聖な神の御前に相応しい「復活の体」を持つイエス様とすがりつく地上の体を持つマリア。イエス様はマリアに「すがりつくのはよしなさい」と言われます。「すがりつく」とはどういうことでしょうか?マリアはイエス様だと気づく前ずっと泣いていました。イエス様が死んでしまった上に遺体までなくなってしまって喪失感と言ったらありません。そこでイエス様に気づいた時どんな反応だったでしょうか?私たちの経験でも例えば、最愛の人が何か事故に巻き込まれて、もう死んでしまったとあきらめたか、まだあきらめきれないという時、突然その人が無事に戻ってきて目の前に現れたらどうなるでしょうか?たいていの人は感極まって泣き出して抱きしめるでしょう。マリアもそうしたのでしょう。ただ相手が崇拝する人の場合は、「すがりつく」というのはひれ伏して両足を抱きしめることだったかもしれません。

イエス様が「すがりつくな」と言ったということについて少し注意します。以前にもお教えしたことですが、ギリシャ語の原文をみると「私に触れてはならない」(μη μου απτου)と言っています。実際、ドイツ語のルター訳の聖書も(Rühre mich nicht an!)、スウェーデン語訳の聖書も(Rör inte vid mig)、フィンランド語訳の聖書も(Älä koske minuun)、みな「私に触れてはならない」です。英語のNIV訳は私たちの新共同訳と同じで「私にすがりつくな」(Do not hold on to me)です。さて、イエス様はマリアに「触れるな」と言っているのか、「すがりつくな」と言っているのか、どっちでしょうか?

以前もお教えしましたが、イエス様が復活した体、天のみ神のもとにいるのが相応しい体ということを考えると、ここは原文通りに「触れてはならない」の方がよいと思います。イエス様自身、この言葉の後で触れてはならない理由を言っています。「私はまだ父のもとへ上っていないのだから」(17節)。イエス様は自分に触れてはいけない理由として、自分はまだ天のみ神のもとに上げられていないからだ、と言う。つまり、復活させられた自分は、この世の者たちが纏っている肉体の体とは異なる、神の栄光を現わす霊的な体を持つ者である。そのような体を持つ者が本来属する場所は天の父なるみ神がおられる神聖な所である、罪の汚れに満ちたこの世ではない。本当は、自分は復活した時点で神のもとに引き上げられるべきだったが、自分が復活したことを人々に目撃させるためにしばしの間この地上にいなければならない。そういうわけで、自分は天上のものなので、地上の者はむやみに触るべきではない。そういうことになります(後注)。

さて、復活の神聖な体を持って立っているイエス様、それを地上の体のまますがりつくマリア、本当は相いれない二つのものが抱きしめ抱きしめられている。そこにはかつてイザヤが神聖な神を目の前にして感じた殺気はありません。イエス様は、自分は地上人がむやみに触れてはいけない存在なのだと言いつつも、一時すがりつくのを許している。マリアに泣きたいだけ泣かせよう、としているかのようです。これは、この世離れした感動を覚えさせる光景です。

本当なら危険極まりないことなのになぜイエス様は許しているのでしょうか?イエス様は愛に満ちた方だから、という常套句を使えばそれまでですが、私はそれだけではないと思います。イエス様がマリアのことを、今は地上の体ではいるが、自分を救い主と信じている以上は彼女も復活の日に復活の体を持つ者になる、とわかっていたからだと思います。イエス様のその思いは次の言葉から窺えます。「わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と」(17節)。ここでイエス様は弟子たちに次のようなメッセージを送ったのです。「今、復活させられて復活の体を持つようになった私は、私の父であり私の神である方のところへ上る存在になった。そして、その方は他でもない、お前たちにとっても父であり神なのである。同じ父、同じ神を持つ以上、お前たちも同じように上るのである。それゆえ復活は私が最初で最後ではない。最初に私が復活させられたことで、私を救い主と信じる者が後に続いて復活させられるのだ。」これと同じことはパウロも本日の使徒書の日課でも述べていました。「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。」

3.私たちの復活のための十字架の死

次に、なぜイエス様は復活に先立って十字架の死を遂げなければならなかったのでしょうか?

イエス様の十字架の死というのは、人間の罪の償いを人間に代わって神に果たしてくれたということでした。「罪」と聞くと普通は何か犯罪行為とか、そこまでいかなくとも何かとても悪い行いを思い浮かべる人が多いです。聖書ではそれは、人間に備わってしまっているもので神の意思に反しようとする性向と言っていいくらい広く深いものです。旧約聖書の創世記に記されているように罪は、神に一番最初に造られた人間の時から備わるようになってしまいました。人間が死ぬようになったのも罪のためでした。神の意思に反しようとするものを持ってしまったために神との結びつきが切れてしまったのです。しかし神は、罪の引き離す力から人間を解放して結びつきを回復してあげよう、人間が自分と結びつきを持ててこの世を生きられるようにしてあげよう、そして、この世を去った後は造り主である自分のもとに永遠に戻れるようにしてあげよう、そういうことをしてあげようと決めたのです。

それでは、そのように人間を救おうという神の御心とイエス様の十字架と復活とはどう結びつくでしょうか?それは、イエス様が十字架にかけられたことで、私たちの罪の罰を全部引き受けてくれたことになり、そのようにしてイエス様が私たちの罪の償いを神に対して果たして下さったのでした。それからは罪は以前のように人間を神の前で有罪者・失格者に仕立てようとしても出来なくなりました。神のひとり子が果たした償いが完璧なものだったからです。その意味で罪は本当は破綻してしまったのです。

さらに神は、想像を絶する力でイエス様を死から復活させました。これで死を超える永遠の命があることがこの世に示されました。そこに至る道が人間の前に開かれました。そこで人間は、これらのことは全て自分のために起こったのだ、だからイエス様は救い主なのだと信じて洗礼を受けると、イエス様が果たした罪の償いがその人に入り込んで、その人の中にある罪を圧し潰していきます。自分で償ったのではなく他人が償ったというのは虫がよすぎる話ですが、償う相手が天地創造の神であればちっぽけな人間には償いなど無理な話です。しかも償いをした方が神のひとり子であれば、この償いはかけがえのないもので決して軽んじてはならないものとわかります。なにしろ罪が償われたというのは、神が、お前の罪を我が子イエスの犠牲に免じて赦してやると言って下さることなのですから。こうなったら、もう軽々しい生き方はできません。新しい人生が始まります。

罪の償いをしてもらったということは、神から罪を赦されたと見なしてもらえることになります。その時、神との結びつきは回復しています。そうなると人生は神の御心に従って進むことになります。どんな御心かと言うと、神との結びつきは人がどう感じようが順境の時でも逆境の時でも変わらずにあり、それで人生は神の守りと導きの中で復活の日を目指して進むものなるということです。そして、この世を去った後も復活の日に目覚めさせられて神のもとに永遠に迎え入れられるということです。まさに罪と死の支配から解放された人生を持つようになるということです。

このように罪と死の支配から人間を解放するという神の御心がイエス様の十字架と復活によって実現しました。罪の償いと赦しを受け取った者はイエス様と同じように将来復活させられることがはっきりしました。旧約聖書のダニエル書12章で、今のこの世が終わって新しい世が到来する時に死者の復活が起こることが預言されています。それがイエス様の十字架と復活の出来事で一挙に現実味を帯びたのです。そういうわけで復活祭は、イエス様が復活させられたことで実は私たち人間の将来の復活の可能性が開かれたことを覚える日でもあるのです。確かにあの日復活した主人公はイエス様でしたが、それは私たちのための復活だったことを忘れてはいけません。イエス様の復活は彼自身のためだけでなく、また悲しんでいた弟子たちを喜ばせるためでもなく、実はイエス様に続いて私たちが復活させられるための復活だったのです。私たちの復活のためにイエス様の復活が起きた - それで復活祭は私たちにとって大きな喜びの日になるのです。

4.復活した者たちが相まみえるところ

最後に、復活というのは自分自身が復活させられるというだけでなく、復活の日に同じように復活させられた人たちと懐かしい再会を遂げるという希望があることも見ておこうと思います。

キリスト信仰の復活というのは、聖書によれば、将来、天と地が新しく再創造されて今ある天と地に取って代わる日に起こることです。新しい世になる前に今ある世が終わるのでよく終末論と言われますが、新しい天と地、新しい世ということも言っているのでそれを忘れてはいけません。死者の復活というのも、その時に一斉に起こることです。それなので、一人ひとりがこの世を去って各々が何年したら復活するということではありません。ここのところがキリスト信仰の死生観が他の宗教と大きく違う点の一つではないかと思います。一人ひとりがこの世を去った後はパウロもイエス様も言うように、復活の日まではみんな静かに眠り、その日が来たらみんなに一斉に起こされるということです。ただし、その時に起こるべきこととしてイエス様の再臨とか最後の審判ということがあります。それらについては別の機会にお話しします。

本日の旧約聖書の日課イザヤ書65章は復活を遂げた者たちが迎え入れられるところはどんなところかについて述べています。初めに新しい天と地が創造されることが言われています。この箇所で使われている言葉はこの世に関係するものばかりなので、新しい世のことを言っているように聞こえないかもしれません。しかし、聖書をよく知っている人ならこれは黙示録の終わりの部分の先取りだとわかるでしょう。この個所を見てみましょう。

17「見よ、わたしは新しい天と地を創造する。初めからのことを思い起こす者はない。それはだれの心にも上ることはない。」

「初めからのこと」はヘブライ語(הרשנות)を見ると「以前のこと」と訳したほうがいいです。その意味は、以前の天と地の時にあったこと、そこで神の意思に反したことがあったこと、それらは新しい天と地の下ではもう神にも神のもとに迎え入れられた者にも関係なくなるということです。

1819節前半「代々とこしえに喜び楽しみ、喜び踊れ。わたしは創造する。見よ、わたしはエルサレムを喜び躍るものとして その民を喜び楽しむものとして、創造する。わたしはエルサレムを喜びとし わたしの民を楽しみとする。」

エルサレムとは今のイスラエル国のエルサレムではなく、新しい天と地の下で復活した者たちが迎え入れられるところを聖書ではそう呼んでいます。

19節後半~20「泣く声、叫ぶ声は、再びその中に響くことがない。そこには、もはや若死にする者も年老いて長寿を満たさない者もなくなる。百歳で死ぬ者は若者とされ 百歳に達しない者は呪われた者とされる。」

これは黙示録21章で言われていることと同じです。「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」「最初のもの」とは、旧い天と地の下にあったことです。それらはもう神にも復活を遂げた者にも関係なくなるということです。

2123節前半「彼らは家を建てて住み ぶどうを植えてその実を食べる。彼らが建てたものに他国人が住むことはなく 彼らが植えたものを他国人が食べることもない。わたしの民の一生は木の一生のようになり わたしに選ばれた者らは 彼らの手の業にまさって長らえる。彼らは無駄に労することなく 生まれた子を死の恐怖に渡すこともない。」

新しい天と地の下で何が変わるかについて、復活した者の有り様が永遠のものに変わるだけではありません。そこは完全な正義が実現されているところであることをこの個所は言い表しています。「他国人」は、ヘブライ語(אחר)を素直に訳すと「他人」です。外国から侵略されるという意味でなく、隣人関係において奪ったり奪われたりということがなくなるということです。「私に選ばれた者らは彼らの手の業にまさって長らえる」も、正確な訳は「私の選ばれた者らは自分たちの手の業を享受する」です。このように新しい世は正当な権利が侵されない正義が蔓延する世であることを言っているのです。

23節後半「彼らは、その子孫と共に主に祝福された者の一族となる。」ここの正確な訳は「彼らは、主に祝福された者の子孫である。彼らの子孫は彼らと共にある」です。ずばり、復活の日に復活した者たちみんなが相まみえることを言っているのです。

24「彼らが呼びかけるより先に、わたしは答え まだ語りかけている間に、聞き届ける。」神がそれくらい復活した者たちの近くにおられるということは黙示録21章3節でも言われています。「見よ、神が住まわるところは人々の間にある。神は彼らのもとに住まわれる。彼らは神の民となる」

25「狼と小羊は共に草をはみ 獅子は牛のようにわらを食べ、蛇は塵を食べ物とし、わたしの聖なる山のどこにおいても害することも滅ぼすこともない、と主は言われる。」イザヤ書11章にも同じような預言があります。狼やライオンのような獰猛な獣が草やわらを食べているというのは信じられない光景ですが、実はこれは天地が創造された時の状態でした。創世記1章30節に創造の業を終えた神がこう言われます。「地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草をたべさせよう。」いつから動物たちのあるものが他の動物たちを食べるようになったのでしょうか?やはり堕罪の出来事が天地創造の安全で安心な秩序を壊してしまったのでしょうか?そうだとすると、新しい天と地の再創造というのは堕罪の前の全てが良い状態に戻すということになります。そのようなところに私たちは招かれ、その招きを受けたキリスト信仰者たちはそこを目指して今この世を進んでいるのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。     アーメン

後注 

 このように言うと、一つ疑問が起きます。それは、ルカ24章をみると、復活したイエス様は疑う弟子たちに対して、「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい」(39節)と命じているではありませんか。また、ヨハネ20章27節では、目で見ない限り主の復活を信じないと言い張る弟子のトマスにイエス様は、それなら指と手をあてて私の手とわき腹を確認しろ、と命じます。なんだ、イエス様は触ってもいいと言っているじゃないか、ということになります。

 しかし、ここは原語のギリシャ語によく注意してみるとからくりがわかります。ルカ24章で「触りなさい」、ヨハネ20章で「手をわき腹に入れなさい」と命じているのは、まだ実際に触っていない弟子たちに対してこれから触って確認しろ、と言っているのです。その意味で触るのは確認のためだけの一瞬の出来事です。ここで、ルカ20章39節の「触りなさい」とヨハネ20章27節の「手を入れよ」は、両方ともアオリストの命令形(ψηλαφησατε、βαλε)であることに注意します。ヨハネ20章17節の「触れるな」は現在形の命令形(απτου)です。本日の箇所では、マリアはもう既にしがみついて離さない状態にいます。つまり、触れている状態がしばらく続いるのです。その時イエス様は「今の自分は本当は神聖な神のもとにいる存在なのだ。だから地上の者は本当は触れてはいけないのだ」と一般論で言っているのです。つまり、イエス様がマリアに「触れるな」と言ったのは、神聖と非神聖の隔絶に由来する接触禁止規定なのです。確認のためとかイエス様が特別に許可するのでなければ、むやみに触れてはならないということなのです。

 新しい聖書の日本語訳「聖書協会訳」では、イエス様は「触れてはいけない」と訳していると聞きました。まだ確認していませんが、本当ならば喜ばしいことです。