2024年2月18日(日)四旬節第一主日 説教 吉村博明 牧師

主日礼拝説教 2024年2月18日 四旬節第一主日

創世記9章8節-17節
第一ペテロ3章18-22節
マルコ1章9-15節

説教題 神の御言葉と洗礼があれば怖いものはない」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1. はじめに<

本日の聖書日課は旧約と使徒書がノアの箱舟に関係する箇所でした。福音書はイエス様がヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けたこと、荒れ野で40日間、悪魔から誘惑の試練を受けたこと、その後で本格的に活動を開始したことについてです。使徒書と福音書の個所を見ると、おやっ、と思わせることがあります。使徒書、第1ペトロの3章、では、十字架にかけられて死んだイエス様が陰府に下って死者の霊に福音を宣べ伝えたことが言われます。これは理解が難しいところです。これについては6年前の四旬節第一主日の説教で説き明かししました。その時も申し上げましたが、この個所は4章6節まで見ないと理解は不可能です。ただし今回は、そこまで見なくても大事なことはお話しできることがわかりました。大事なこととは、洗礼には私たちを悪いものから守る力があるということです。このことについて後で見ていきます。

福音書の方の「おやっ」は、イエス様の荒れ野の試練です。マタイ福音書とルカ福音書では詳細に書かれているのに、本日のマルコ福音書ではたったの二節です。どうしてこんな違いが出たのかと言うと、荒れ野の試練の時、イエス様にはまだ弟子がおらず一人でしたので目撃者がありません。それで、この出来事はイエス様が後に弟子たちに語ったものと考えられます。マタイとルカには詳細に語られたものが伝承されて記載されて、マルコには要約された形のものが記載されたと言えます。要約とは言っても、マルコの記述にはマタイとルカにないことがあります。それは、「イエスは40日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが使えていた」の「野獣と一緒にいたが天使が使えていた」というところです。これは一体何を意味するのか?これをよく見ていくと、神の御言葉には本当に私たちを悪いものから守る力があるということがわかります。

そういうわけで、本日の説教では、この2つの「おやっ」と思わせるところをもとにして、洗礼と神の御言葉には私たちを悪いものから守る力があるということを見ていこうと思います。

2.神の御言葉があれば怖いものはない

まず、最初にイエス様の荒れ野の試練を見てみましょう。「イエスは40日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。」皆さん、この文章の意味わかりますか?この新共同訳の訳ですと、イエス様は40日間サタンから誘惑を受けたと同時に、野獣とも一緒にいた、さらに同時に天使たちに仕えられた、という具合にいろんな出来事が同時に混在してチンプンカンプンです。原文のギリシャ語の文がわかりそうでわかりにくい形なので、そんな訳になってしまったのでしょう。

そこでマタイ福音書の記述を見ると、天使が来てイエス様に仕えるのは、イエス様がサタンの誘惑を撃退した後に起きるという順番です(マタイ4章11節)。なので、このマタイの順番を守ってマルコの記述をわかりやすくすると次のようになります。「イエスは荒野にいてまず40日間、悪魔から誘惑を受けられた。その後で野獣の真っ只中にいたが、天使たちに仕えられていた。

新共同訳の「野獣と一緒におられた」というのは、イエス様が野獣と仲よく暮らしたみたいですが、そうではありません。日本語で「~と一緒に」と訳されているギリシャ語の言葉(μετα)は「~の間に、~の中に」という意味もあります。それでいくと、荒野で野獣の真っ只中にいたという危険な状態にあったということです。(ちなみに、フィンランド語とスウェーデン語の聖書では「野獣の真っ只中に」です。英語のNIVは日本語と同じ「野獣と一緒に」でした。)悪魔の誘惑の試練の後、イエス様は荒れ野で野獣の真っ只中という危険な状態に置かれたが、天使たちに仕えられ守られたので何も危害はなかったということです。

そうすると、悪魔から試練を受けていた時のイエス様は天使の仕えがなかったことになります。それは、誘惑を受けていた時、天使の助けはいらないと自分で言っていたことからわかります。ここで、イエス様はどのようにして悪魔の試練を乗り越えたのか振り返ってみます。

皆さんも既にご存じのように、イエス様は聖書にある神の御言葉を武器にして悪魔の誘惑を撃退しました。悪魔が空腹状態のイエス様に、お前が神の子なら地面の石にパンになれと命じてみろ、と言いました。それに対してイエス様は「人はパンのみにて生きるにあらず、神の口から語られる言葉によって生きる」と申命記8章3節の御言葉を盾にしました。次にイエス様を神殿の高い屋根の上に立たせて、お前が神の子なら、ここから飛び降りて天使たちに助けさせてみろと言いました。それに対してイエス様は、神を試してはならないと申命記6章16節の御言葉を盾にしました。神を試してはならないというのは、神よ、俺のためにこれをせよ、あれをせよ、しないと信じてやらないぞ、という態度のことです。もう一つの誘惑は、イエス様に全世界の豪華絢爛を見せて、悪魔にひれ伏したらこれを全部くれてやろうというものでした。それに対してイエス様は、神のみを敬え、神のみに仕えよ、という申命記6章13節の御言葉を盾にしました。それで悪魔は太刀打ちできないと観念して退散したのでした。

このように悪魔から誘惑を受けている時のイエス様は天使を呼び寄せて自分を助けさせることはしませんでした。あたかも天使たちに次のように命じた如くです。「天使たちよ、お前たちは今は来なくて良い。私は神の御言葉で悪魔に打ち勝つから心配はいらない。」そして、イエス様は、見事に悪魔に打ち勝ちました。その後で野獣の危険の中に入りましたが、今度は天使たちが来るのを許して仕えさせたのです。

荒れ野の野獣というのは目に見える具体的な危険です。天使というのは人間同様、神に造られたものですが、普通は人間の目には見えない霊的な存在です。つまり、イエス様は悪魔の誘惑の後も、見に目える危険な状態に置かれたが、目には見えない霊的な守りのなかにあり、危害は及ばなかったということです。このように理解すると、この13節の野獣の危険と天使の仕えというのは、ただ単に荒れ野の出来事だけでなく、その後イエス様が置かれていった状況全般を指していると言えます。つまり、野獣のような危険な敵対者に何度も遭遇するが、目には見えない天使という霊的な守りの中にあったということです。ユダヤの荒野でも、またその後でガリラヤ地方にいた時も、いろいろな危険が身に迫りましたが、イエス様は天使に仕えられ守られていました。

ところが、十字架の受難が始まると、イエス様はまた守りがない状態になってしまいました。イエス様が逮捕された時、弟子のある者が剣を抜いて官憲に抵抗しようとしました。これに対してイエス様は、剣をさやに納めろと命じて言いました。「わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は12軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう」(マタイ26章53ー54節)。つまり、イエス様は天使の軍勢の助けを得られる可能性を持ちながら、あえてそれを用いず、逮捕されるにまかせたのです。なぜでしょうか?

それは彼自身が言った通り、聖書の神の預言の言葉が実現するためでした。預言とは、天地創造の神が計画した人間救済の計画を実現することでした。人間には神の意思に反する悪いもの、罪がある。罪はほおっておくと人間を永遠の滅びに陥れてしまう。そこから人間を救い出すという計画でした。この救いを実現するために、神はひとり子をこの世に贈られ、そのひとり子を私たち人間の身代わりとして罪の罰を受けさせて十字架の上で死なせたのでした。神のひとり子がまさに私たちのために罪の償いを神に対して果たして下さったのです。もしそのイエス様が天使の軍勢を呼び寄せて十字架の死を回避してしまったら、人間の救いは起こらなかったのです。それでイエス様は、あえて十字架の道を選ばれたのでした。

このようにイエス様は悪魔の誘惑の試練の時と十字架の受難の時に天使の守りを遠ざけたのでした。悪魔の誘惑の試練の時、神の御言葉には悪魔の攻撃を撃退する力があることが明白になりました。私たちキリスト信仰者はそのような力のある言葉を自分のものにしているのです。さらにイエス様が天使の守りを求めないで十字架の受難の道に入られたことで神の人間救済の計画が実現しました。神の預言の御言葉が実現したのです。それで、御言葉は単に将来起こることを待ち望むものでなくなって、本当にその通りの御言葉になりました。来るべき救い主について預言した旧約聖書と救い主が来られて預言が実現したことを伝える新約聖書の両方を持てば、もう怖いものなしです。預言が実現する前の御言葉にも悪魔を撃退する力がありました。預言が実現した後の御言葉の力はいかほどのものか、推して知るべし言わずもがなです。

3.洗礼があれば怖いものはない

私たちを悪いものから守るものとして神の御言葉の他に洗礼があります。それについて使徒書の日課、第一ペトロ3章をじっくり見てみましょう。まず、18節と19節です。

「キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。」

 初めにイエス様が受けた苦しみが何のための苦しみであったかが述べられます。神の目から見て罪びとにしかすぎない人間、罪のゆえに神の義を持てない人間、そんな人間が罪を赦されて神の義を得ることが出来るようにイエス様は途轍もないことをして下さった。神聖な神のひとり子でありながら、人間の罪を全部自分で引き受けて、それを十字架の上にまで運んで、そこで神罰を人間の代わりに受けて死なれた。このイエス様の身代わりの犠牲のおかげで、人間は神から罪の赦しを得られる可能性が開かれた。イエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ罪の赦しを受けられるようになった。この「イエス様の犠牲のおかげで」ということがある限り、人間は、これからは神に背を向ける生き方ややめてよう、神を向いて生きる生き方をしよう、罪を憎み、それに与しないようにしよう、神の意思に沿うように生きよう、という心を持ちます。実際にどこまで出来るか足りない部分は多々あるが、その心には偽りはありません。「イエス様のおかげで」がある限り、神は心に偽りがないことを認めて下さる。だから、神のみ前に立たされても大丈夫でいられるのです。「あなたがたを神のもとへ導く」というのは、まさに神聖な神のみ前に立たされても大丈夫なものにして下さるということです。

18節の「キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされた」というのは、イエス様は肉体の面では死んだが、霊の面では生きる者にされたということです。具体的に言うと、十字架にかけられて死なれたが、三日後に天地創造の神の想像を絶する力で復活させられて、もう普通の肉体の体ではない、神の栄光を現す復活の体を持つ、霊的な存在として生きる者になったということです。

 さらに「霊において、キリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました」とあります。これは、イエス様が十字架の死の後、三日後に復活するまでの間、陰府に下った、ということです。このことは、伝統的なキリスト教会の礼拝で唱えられる使徒信条の中でも言われています(後注)。

 陰府というのは死者が眠りにつく場所です。よく誤解されますが、炎の地獄とは異なります。聖書によればキリスト信仰には死者の復活と最後の審判というものがあります。それなので、亡くなった方は復活の日までは神のみぞ知る場所にいて眠りにつきます。「陰府」と言うと、暗い陰気な感じがしますが、これは人間が墓に葬られるのでどうしても地下のイメージで描かれるからでしょう。しかし、地面をいくら掘っても、死者が眠っている世界など出て来ませんから、これは天の御国と同じように、私たちの五感や科学的な数値では解明できない次元・空間です。ルターは復活の日までの眠りのことを痛みや苦しみから解放された心地よい眠りの時と言っています。とにかく、神のみぞ知る場所としか言いようがないのです。復活の日が来ると復活させられて神の審判を受けます。天の御国に迎え入れられるか、炎の地獄に投げ込まれるか、決定が下されるのです。他方で聖書には、復活の日を待たずして神の御国に迎え入れられたと考えられる人物もいます。しかし、基本はあくまで復活の日までは眠りにつくということです。

 イエス様は十字架の死の後、復活までの間、陰府に下り、そこで宣教した、と言われます。イエス様は陰府で何を宣べ伝えたのでしょうか?それは、神のひとり子の犠牲の死と死からの復活が起こったということです。そして、そのおかげで人間を永遠の滅び陥れようとする罪は力を失い、人間に対して永遠の命の扉が開かれたということです。眠っている者たちに言っても聞こえないのではないかと思われるかもしれませんが、大事なポイントは次のことです。つまり、亡くなった者たちが眠りについているところでも、死と罪に対する勝利が響き渡った、死と罪に対する勝利が真理として打ち立てられたということです。生きている者がいるこの世に響き渡って打ち立てられたのと全く同様に、死んだ者の世界でも響き渡って打ち立てられたということです。生きている者がこの真理と無関係でいられなくなったように、死んだ者も無関係でいられなくなったのです。

 ペトロは続けて陰府の中にいる、「捕らわれていた霊たち」が誰であるかを明らかにします。それは、「ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者」です。どうして急にノアの箱舟のことが出て来るのでしょうか?それは、イエス様の時代のユダヤ教社会の人たちの関心事の一つとして、ノアの時代に洪水に流されて滅んでしまった者たちは今どうしているか、ということがあったのです。どうしてそんな関心事があったとわかるのかと言うと、当時ユダヤ教社会に出回っていた書物の中にそのことが書かれていたからです(そのような書物にエノク書という書物があります)。

 創世記6章にあるように、ノアの時代、この世の状態は非常に悪く、悪が蔓延していた。それで神は全てのものを一掃してしまおうと大洪水を起こすことを決めた。その大洪水で滅ぼされた者たちの霊が「捕らわれた霊」です。そのような霊のいるところにまで行って、死と罪に対する勝利を告げ知らせたのです。こうして、死んだ者が眠っている陰府にも勝利が響き渡り打ち立てられました。罪と死は陰府でさえも力を持てなくなったのです。22節に「天使、また権威や勢力は、キリストの支配に服している」と言われている通りです。「権威」「勢力」というのは、霊的なものを意味します。

 そこで、大洪水に巻き込まれずに箱舟に乗り込んだ8人だけが水の中を通って救われたと言われます。21節「この水で前もって表わされた洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたを救うのです。」ここで注意が必要です。「水で前もって表された洗礼」とは意味がよくわかりません。ギリシャ語原文ではアンティ・テュポスと言う言葉です。テュポスとは、類型とか型、日本語でもタイプと言います。アンティとは「逆」とか「反対」を意味します。つまり、大洪水の水は人間を滅ぼす神の裁きの水であったが、洗礼の水は逆に人間を神の裁きから救う水であるということです。

 神はノアの時代、大洪水を起こしてこの世の悪を一掃しようとしました。まさに最後の審判に匹敵する裁きでした。しかし、洪水の後で神はもう二度と同じような滅びの洪水を起こさないと約束します。それは、今の天と地がある間はそのような全世界的な裁きはしないということです。しかし、聖書には、今の天と地が終わって新しい天と地が再創造されるということがあります。その終わりと始まりの間に最後の審判が来るのです。この天地の大変動と最後の審判を乗り越えられるために洗礼があるというのです。それで水は、かつては裁きの水だったのが、今度は逆に裁きから救い出す水になったのです。かつての水は全ての陸地を無慈悲に覆いつくす恐ろしい威力を持つ水でした。私たちが受ける洗礼は、水滴を頭にかけるか、または教派によっては全身を水に浸すかのどちらかですが、果たしてその程度の水で天地の大変動と最後の審判を乗り越える力があるのか?しかもペトロは、洗礼は肉の汚れを完全に取り除くことは出来ない、洗礼とは正しい良心を神に願い求めるものでしかないなどと言います。そんな頼りないもので乗り越えられるのでしょうか?

 それが乗り越えられるのです。先ほども申しましたように、イエス様を救い主と信じ洗礼を受けた者は、イエス様の犠牲のおかげで心が新しくなり、それで最後の審判の日に神の御前に立たされても、やましいところがない者として前に進み出ても大丈夫な者なのです。それだから、洗礼とは神の前に立つことができる良心を神に願い求めるものなのです。さらにペトロは洗礼にはイエス・キリストが伴っていると教えます。死から復活し死を超えた永遠の命を持ち、彼に続く者たちにも同じ命を与えられる方、今は再臨の日まで天の父なるみ神の右に座していて、既に霊的なものを全て、天使も権威も勢力も足元に服従させている方が、洗礼を受けることで一緒にいて下さるようになるのです。

 兄弟姉妹の皆さん、私たちはこのように史上最強の神の御言葉と洗礼を自分のものにしているのです。一体、何を怖れる必要があるでしょうか?

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

後注 「霊において」は訳が違うと思います。英語訳NIVとドイツ語ルター訳はこの訳でいっていますが、ドイツ語共同訳とスウェーデン語訳とフィンランド語訳はそう訳していません。ギリシャ語原文のこの箇所εν ωは接続詞句と見るべきです。「霊において」という訳ならば、ここはωでよかったと思います。

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

2024年2月11日(日)主の変容主日 主日礼拝  説教 田口聖 牧師(日本ルーテル同胞教団)

マルコによる福音書9章2−9節

「変容の栄光のうちに指し示されるのは何か?」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

1、「初めに」

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 今朝与えられている聖書の御言葉は、イエス様の姿が白く光り輝く姿に変わられた「主の変容」と呼ばれる出来事です。この出来事は並行箇所であるルカの福音書9章では「栄光に包まれ」とか「栄光に輝く」とか書かれている通りに、イエス様がその姿をモーセとエリヤと共にその「神の栄光の内」に、3人の弟子へ、そしてその3人を通して私たちへと表されている出来事でもあります。そしてこの出来事はこの前の箇所と深く関係しております。この前の8章の後半部分では何が書かれているかと言いますと、イエス様は弟子たちに「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と尋ねています。イエスからの大事な質問でした。そこでペテロは「あなたはメシアです」と答えました。マタイの福音書の方では「あなたはメシア、生ける神の子です」とペテロは答えており、イエス様はその「信仰の告白」を明らかにしたのは人ではなく天の父なる神ご自身であるといい、さらにはその神の与えた岩の如き信仰告白の上にイエス様はご自身の教会を建てるという約束と、その教会に地上で繋ぐことも解くこともできる鍵を与えるという約束を与えています。その直後に、マタイもマルコも共通していますが、イエス様はご自身が苦しみを受け、殺されることと三日目に復活することを伝え始めるのです。「救い主が苦しんで死ぬ」なんて理解できないペテロはイエスを諌めますが、イエス様はペテロを「下がれサタン」と厳しい言葉で叱責し、そして、自分に従う者は自分を捨て自分の十字架を背負って従いなさいと伝えているのです。その後の出来事が今日の箇所になり、今日のこの「変容」の出来事はそれまでの一連の出来事から続いているのです。いわば、イエスの「あなた方はわたしを何というか」「わたしは誰であるのか」という問いの、弟子たち、そして私たちへの、天の父なる神からのさらなる確証とも言える回答が、この「変容」に表されているとも思われるのです。2節から見ていきますが、その日から六日目、こう始まっています。

2、「姿が彼らの目の前で変わる」

「2六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。

 イエス様がペテロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れていくと言う場面は福音書にはいくつか記録されていますが、それはイエス様にとっては「ゲッセマネの祈り」の場面など鍵となる場面が多いです。今日のところもそうでした。そこでは2節の終わりからこう続いています。

「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、 3服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。

 マタイの福音書では「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。」(マタイ17章2節)とあります。 そのような、イエスの姿が変わる、しかも顔が太陽のように輝き、衣も白く光った、というのはこれまで見たことのない光景であったのでした。

 4つの福音書全てが証しし、そしてフィリピ書のパウロの言葉からも分かるように、イエス様は「神の身分でありながら〜自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられ〜人間の姿で現れ」た、私たちと同じ肉体、同じ姿となられ共に生きられた「真の人」でした。ですから、真の人となられ生活しているイエス様がそのようなあり得ない姿に変わるなどなかったことであり、弟子たちも当然、見たことがなかったのです。しかもそこには、

3、「エリヤがモーセともに栄光に包まれ」

A,「栄光の中で」

「4エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。

4節

 とあるのです。エリアもモーセも、ペテロ、ヤコブ、ヨハネにとっては偉大な預言者ですが、過去に存在していたけれども今や地上には生きていない偉大な預言者でした。ですから、そのイエス様の光輝く光景のみならず、天に登った偉大な預言者が現れイエスと話しているという、3人にとっては普通ではない、信じがたい出来事が目の前に広がっていたのでした。ペテロの目には、5節以下の言葉に分かる通り、これは「素晴らしい」出来事でしたが、6節、どう言えば良いか分からなかったとある通りに、彼には何のことか理解できない素晴らしい出来事でありながらも同時に、「非常に恐れていた」とある通りに「恐ろしい光景」でもあったのでした。そのように人間には計り知れず理解できない光景ではあったのですが、神の前にはこの出来事には意味がありました。ルカ9章では、先ほども引用したように、これは天からの「神の栄光の中で」現され証しされた一つの出来事でした。しかし注目したいのは、ルカ9章31節の言葉です。

B,「イエスがエルサレムで遂げる最期について」

「31二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。

 天の神からの栄光の現れ、しかしそこで3人が会って話していたのは、

「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について」

 であったのです。つまり十字架の死でです。みなさん「神の栄光」と「十字架の死」。一体それはどう繋がるでしょう。人の目には一見、相容れない言葉のように見えます。もちろんイエス様にあっては一貫していました。先ほども見ました。イエス様は、この直前から、ご自分が受けられる苦しみと死、そして、復活のことをはっきりを伝え、自分が歩む道、目的を伝えていました。「十字架を負って」と十字架をも示してもいます。他方、弟子たちはその時は何のことかわからず、ペテロはイエスに「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」といさめ、それに対し、イエス様から「下がれサタン」と厳しく叱責されました。叱責されてもそれでもペテロは理解できなかったことでしょう。そして、この素晴らしい変容の光景も理解できませんでした。しかし目には輝かしい光景に「素晴らしい」と感動し、幕屋をそれぞれのために建てようと彼は言うのでした。彼はその目に見える神の栄光の現れを見たまま素晴らしいと「肯定的に理解」しているのです。

 しかし、その「人の目」の前に広がる神の輝かしい光景、天からの栄光が現れる素晴らしい出来事ですが、しかし「人の目の栄光の素晴らしさ」とは裏腹に、その栄光の本質、核心、中心は、イエス様がエルサレムで遂げようとしておられる最後、捕えられ苦しみを受けられ死ぬと言うことでした。まさに十字架の出来事を、モーセとエリヤに話し、語っているのです。そしてこの後、事実、神がイエス・キリストにおいて実現する神の栄光、神の救いと勝利は、まさしく、イエス様が苦しみを受け死なれる十字架と復活にこそ現されていくでしょう。そのことこそ4つの福音書が共通して証し、パウロをはじめ使徒たちが聖書に書き記した証しに他なりません。

C,「人が素晴らしいと思い、見ようとする栄光」

 世の中の、いや、クリスチャンでもそうかもしれませんが、「栄光」という言葉に錯覚させられるのです。「人の目」にあっては「栄光」というのは、何か、自分たちの目に見ることができ、人間の価値観や理想や願望に照らして、その通りになった華やかで輝かしい繁栄や成功に「栄光」があるように思い描いたり、予想したり期待するものです。そして、人間がその心に描き出す栄光に基づいて、その栄光がなることを待ち望んだり、期待したり、実現しようと頑張ったり、そして、その通りになったり自分の力で実現するところに、神の栄光があるとか、神がそこにいるのだとか、神の祝福があるのだと、勝手に決めつけてしまっていることは実は少なくありません。そのような人間中心の栄光のための教会運営や、宣教や伝道、そして教会成長などがむしろ賞賛され、緻密で合理的なハウツー理論まで備えて、当たり前のように、それが聖書的で敬虔であるかのように教会が立法的に導かれるのは、よく耳にすることです。しかし、それはヒューマニズムや理性や感情中心を超えることのない、人間の自己実現、律法主義に過ぎないものです。神が指し示した、福音に、つまり、イエス・キリストとその十字架と復活に根ざしていないのです。罪深い人間は残念ながらその性質ゆえに、目には見えない御言葉の真理や力よりも「しるしを求める」とあるその通りに、そのような目にみえる華やかさ、しかし的外れなところに栄光を見ようとするのです。

D,「神の栄光の中にある、イエスが遂げようとするものは何か?」

 しかし、天の父なる神がイエスに、そして、イエス様のもとに遣わしたモーセとエリヤとの会見の場に現した栄光の真の意味、そしてその通りに実現した栄光はどこに実現し現わされるでしょうか?それは、このイエス様の苦難と死、十字架と、そして復活に現されたでしょう?今日の箇所も、その前の出来事も、そしてこの後に続いていく頂点も、四つの福音書が示し、使徒たちがその手紙で伝え指し示しているのは、まさにそのこと、栄光は、人間が誰も予想も期待もできなかった「十字架と復活においてであった」と言うことではありませんか。ここに聖書の伝える逆説があるのです。

4、「聖書が伝える逆説的な神の恵みのわざ」

 実に、ここに登場するモーセとエリヤも偉大な預言者ではありますが、彼らを通して現された神の栄光もまた人の目には逆説的であり、それは「苦難のうちに、苦難を通して」現された神の栄光であり、神の臨在と神のわざであることに共通しているでしょう。イスラエルのエジプトにおける奴隷からの解放、その後の荒野の40年、そこでのモーセは神でもなければ、完全な超人でも聖人でもなく、弱気な自信のない一人の罪人でした。「他の人を遣わして欲しい」と彼は神の召しを何度も拒みました。苦難の人生であり、苦難のリーダーシップでした。しかし神はそんな彼の罪深さと苦難のうちにこそおられ、そんな彼を通して、彼を用いて、罪深い反抗する民を導かせました。苦難の荒野を進ませ、そのようにして神は、人の期待や予想や思いを遥かにこえて、苦難の中に栄光を現されました。そのモーセがまさにイスラエルの民に「あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない。」申命記18章15節)と指し示したのが、まさにここで会見するイエス・キリストに他ならないでしょう。そして、エリヤもまた、神は彼にバアルの預言者に勝る真実をあらわしてくださったのにも関わらず、王アハブを恐れ荒野に逃げ叫びました。「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません。」(列王記上19章4節)と。最後は天に上げられた彼ではありますが、彼も神でも聖人でもなく、彼も一人の人間、罪人であり、弱さを覚えていた苦難の人でした。しかし、神は、その苦難の中にあって、一人の罪人であっても、神ご自身が恵みによって選んだ、信仰者であり預言者であるエリヤを通して、そしてその苦難を通してこそ神の栄光を現してこられたのでした。さらに言えば、今日の箇所の出来事の後、イエス様が9節で言われた「人の子が死者の中から復活する」という救い主には起こり得ない死ということに戸惑った弟子たちは11節で「救い主の前にエリヤが来る」と約束されているのはどういう意味かとイエスに尋ねています。弟子たちはなおも「栄光の出来事」と「メシアの死」が繋がらないし理解できないのです。しかしイエス様は、その「来たるエリヤ」は、この変容の場面のエリヤではなく、バプテスマのヨハネのことを意味していることを教え「人々はそのエリヤであるヨハネを好きなようにあしらった」、つまり、殺したことに預言がすでに成就していることを教えています。まさにそのバプテスマのヨハネも「人の目」には見窄らしい荒野の預言者でその最後も悲惨で壮絶でしたが、そこに預言の約束の通り神の栄光は実現しているのです。そしてそこでは、12節にあるように、同じ聖書が「人の子は苦しみを重ね、辱めを受ける」と伝えているのはなぜなのかと、聖書は、神はそのように救い主の苦難にこそ栄光を現されることを伝えているではないかと、人間の予想や思いとは逆の、やはり「神の逆説の真理と救い」を示していることがわかるのです。

5、「神の栄光、救い、勝利、真実さはどこへ現されるか?神はどこへにいるのか?」

 皆さん。「神の栄光、神の救い、神の勝利と真実さ、そして神はどこにおられるのか?」聖書ははっきりと伝えているのです。人は目に見える人間の思いにある繁栄や栄光にそれらのことを探し求めようとします。しかし、神はそれらのことを、そこにではなく、まさに人間は誰も思いもしなかった、予想もしなかった、探さなかった、むしろ皆が目を閉ざし、見たくない、避けたい、私たちの罪のための、私たちの負うべきであった、その罪の報酬である、しかし私たちが決して負うことのできない、苦難と死である、この十字架と復活にこそ現されたのです。それが神の御心、計画であった、天からの福音、良い知らせではありませんか。そして、そのように「私たちが」ではなく「神が」、「私たちに」ではなく、その「御子に」私たちが負うべきものを負わせたからこそ、しかもそのことをただ信じ受け取るだけで、私たちは罪の赦しと新しいいのちがただ恵みのみによって与えられ、恵みだからこそ喜び安心することができるでしょう。イザヤ53章が私たちに示している通りです。

「1わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。

(イザヤ書53章1節)で始まり、こう続きます彼には「見るべき面影はなく輝かしい風格も、好ましい容姿もない。3彼は軽蔑され、人々に見捨てられ多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠しわたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。4彼が担ったのはわたしたちの病。彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのにわたしたちは思っていた。神の手にかかり、打たれたから彼は苦しんでいるのだ、と。5彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった。」(同2−5節)しかしこう続きます。「彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。6わたしたちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて主は彼に負わせられた。〜8捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか。わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり、命ある者の地から断たれたことを。」(同5−8節)しかし最後にこうあります。「10病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ、彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは、彼の手によって成し遂げられる。」(同10節)

 神が私たちに現された栄光、救い、勝利、真実さ、そして愛も憐れみも、みなここに、イエス様の十字架と復活にこそあります。そして私たちはどこに神を探し、求め、見出すでしょう。私たち人間が自分の力で頑張って成功し完全になった所に、あるいは、思い描いた理想や繁栄を実現した所にではありません。罪深い私たちのために、その間に来られ、その私たちの罪のための、この地上の苦難の十字架にこそキリストはおられ神の栄光を実現し愛と救いを現されたように、今も私たちの苦難の中にあって、罪深さの中にあって、日々悔い改めつつ、神にただ「憐れんでください」と十字架と復活の約束と事実を信じ、十字架と復活のイエス様を信じすがるその時に、イエス様はそんな私たちの間にこそ今もいてくださり、「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と宣言してくださるのです。

6、「「これに聞け」:神は人に幕屋を建ててもらう必要がない。」

 最後に短くもう一つの幸いのうちに遣わされていきましょう。ペテロは栄光の3人に口を挟んでいいます。5節

5「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」

 しかし神はそれをそのようにさせず言います。

「7すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」

 皆さん。感謝ではありませんか。神であるイエス様は人によって仮小屋、つまり幕屋を備えられる必要はありません。人が備え建てる幕屋に住まわれるのでもありません。つまり神は人によって仕えられ、何かを準備されたり作り上げられなければ何もできない方ではありません。むしろ、イエス様は言っているでしょう。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(10章45節)と。イエス様は私たちに仕えるために来ました。「私たちがまず」仕えるのではなく、「イエス様がまず」仕えてくださり、その究極が自分の命を捧げるため、十字架で死ぬためでした。イエス様がその十字架のゆえに、今日もここで最大限に私たちに仕えてくださっている、その恵みが先にあってこそ、私たちはここで礼拝しているでしょう。だからこそここでも天の神の声はペテロや弟子たちに「まずあなた方が語れ、礼拝しろ、仕えろ。何かしろ。何か条件をクリアしろ」とは決して言いません。神は言われます。それより何より

「これはわたしの愛する子。これに聞け。」

と。あのイエス様ご自身の洗礼の時の天からの言葉であり、そしてあのマルタとマリヤの姉妹の場面(ルカ10章38−42節)でも、マリヤはただ唯一の必要なことをしているとイエス様が言われたこと、それは「イエスの言葉に聞くこと」。それこそ神が何より私たちに求めており、それこそが必要な唯一のことなのです。それはまず神が、イエス様が御言葉を通して仕えてくださるからこそでしょう。それが礼拝の意味です。「私たちが」まず神に仕える、「私から神へ」のサービスが礼拝ではありません。「神が」まず私たちに仕えてくださる。「神から私たちへ」の御言葉によるサービス、それが礼拝なのです。そのようにイエス様が御言葉を語り仕え、私たちがその言葉を聞くからこそ、私たちは感謝を持って応答する、祈る、賛美する。遣わされていく、それも礼拝ですが、全てはイエス様がまず仕えてくださるからこそです。今日もイエス様は御言葉を持って私たちに仕えて下さり、宣言してくださっています。「あなたの罪は赦されています。安心していきなさい」と。ぜひイエスに聞き、福音を受け取り、平安のうちにここから遣わされていきましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

 

 

 

 

 

2024年2月4日(日)顕現後第五主日 主日礼拝 説教 吉村博明 牧師

主日礼拝説教 2024年2月4日 顕現節第四主日

イザヤ40章21ー31節
第一コリント9章16ー23節
マルコ福音書1章29ー39節

説教題「創造主の神に見守られていれば大丈夫」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.イエス様にとって教えを宣べ伝えることが先決

今日の福音書の個所を呼んで、皆さんは、あれ、イエス様は困っている人に少し冷たいくはないかと思わなかったでしょうか?今日の個所を注意して見てみましょう。

まずイエス様は、ガリラヤ湖畔の町カファルナウムにやって来て、安息日に会堂に行って教えを宣べます。会堂にいた人々はイエス様の教えに律法学者にはない権威を感じ取りました。丁度その時、悪霊に取りつかれた人が叫びだし、イエス様はその人から悪霊を追い出します。会堂にいた人々は、イエス様は権威ある教えだけでなく、霊的な力もお持ちであることがわかりました。イエス様のうわさはその日のうちにガリラヤ地方に伝わっていきました。ここまでは先週の個所でした。

そして今日の個所が続きます。会堂から出たイエス様とペトロ、アンドレ、ヨハネ、ヤコブの4人はペトロとアンドレの家に向かいました。家にはペトロの奥さんの母親が熱を出して苦しんでいました。イエス様は彼女に癒しの奇跡を行います。そして日が暮れて夜になると、なんと、カファルナウムの町中から病気の人や悪霊に取りつかれた人が大勢連れて来られて家の門の前に群れを成したのです。日が暮れた時に連れて来られたというのは、安息日が日暮れと共に終わったからでした。安息日は仕事をしてはいけない日で、病人を運ぶことも仕事とみなされたのです。町の人たちは癒しの奇跡を行う者が現れた、漁師のペトロとアンドレと一緒だと聞いて、日が暮れるや否や一気に押し寄せたのです。

イエス様はそこで大勢の人の病気を治し悪霊を追い出します。会堂で教えを宣べて悪霊を追い出してから、本当に長い一日になりました。本当にお疲れ様でした、と言いたくなります。さて、癒しや悪霊追い出しが夜通し続いたその途中か、あるいは一息ついたところかははっきりわかりませんが、イエス様は夜明け前の一番暗い時にその場を抜け出して人気のないところに行ってそこで祈っていました。すると、ペトロたちがやって来て、人々があなたを探していますと伝えます。早く戻って来て癒してあげて下さいということでしょう。それに対してイエス様は、もっと近隣の町や村に行って教えを宣べ伝えなければならないと言います。そのために自分は家を抜け出してきたのだと言うのです。それでペトロの家には戻らず、ガリラヤ地方の会堂を回って教えを宣べ伝えます。

ここが、あれっ、イエス様は少し冷たいな、と思わせるところです。もう少しペトロの家に留まって癒しと悪霊追い出しをしてあげればよかったのになどと思ってしまいます。でも、イエス様にとっては教えを宣べ伝える方が先決だったのです。もちろんイエス様には苦しんでいる人たちを助けたい気持ちはありますが、ただ、病気を治して信じるようにもっていくというご利益路線ではありませんでした。マタイ6章33節でイエス様は、何よりもまず神の国と神の義を求めよ、そうすれば必要なものはみな加えられて与えられる、と教えています。健康になりたいとか切実な願いがあるのはわかるが、それでもまず神の国と神の義を求めるべし、それに続いて神は必要なものを整えて下さる。キリスト信仰ではご利益を求める前にまず心が神の国と神の義に向けられていることが大事なのです。神の国は、イエス様の宣べ伝えた教えの中で一番大事なものでした。神の義に関しては、イエス様は後の使徒たちに比べるとそんなに語っていませんが、言葉に言い表さなくてもイエス様の教えは人間の心を神の義に向けさせるものでした。それでは、神の国、神の義とは何かを次に見ていきましょう。

2.イエス様が宣べ伝えた教え ― 神の国と神の義

神の国はイエス様の教えの中心です。人間が神の国に入れるようになるためにはどうしたらよいか?そのためには、人間が神の目に相応しい者、神聖な神の前に立たされても大丈夫な者でなければならない、それが神の義を持つということです。どうしたら神の義を持つことができるか?この質問の答えは、天地創造の神がひとり子をこの世に贈った理由がわかればわかります。

まず神の国について確認します。本教会の説教でも何度もお話ししましたが、今日もまた振り返ってみます。「神の国」は「天の国」とか「天国」とも言い換えられるので、何か空高いどこか宇宙空間に近いところにあるようなイメージがもたれます。しかしそうではなくて、「神の国」は今私たちが目で見たり手で触れたりして、また測定したり確定できる世界とは全く別の世界です。今の私たちには見たり触れたりできない、測定も確定もできない世界です。その世界におられる神が、今私たちが目にしている森羅万象を造られた創造主であるというのが聖書の立場です。万物の創造主の神は天地創造の後で自分の世界に引き籠ってしまうことはせず、そこから絶えずこちら側の世界に関わりをもってきました。神の関わりの中で最大なものは何と言っても、ひとり子イエス様をこちら側に送って、彼を用いて人間の救いを実現したことです。

そこで、イザヤ書の終わりの方(65章17節、66章22節)や新約聖書のいくつかの箇所(第二ペトロ3章13節、黙示録21章1節、ヘブライ12章26ー29節など)を見ると、今あるこの世は終わりを告げるという預言があります。その時、神は今の天と地にかわって新しい天と地を再創造して、そこに唯一残るものとして神の国が現れてくるという預言です。なので、キリスト信仰では神の国すなわち天国はこの世の終わりに現れてくるということになります。死んだらすぐ天国に行かないのです。神の国に入れるというのは、この世の終わりの時に死者の復活が起きて、入れる者と入れない者とに分けられる、これが聖書の言っていることです。それなので、亡くなった人たちは復活の日までは神のみぞ知る場所にて安らかに静かに眠っているということになります。復活の日に目覚めさせられて神の栄光に輝く復活の体を着せられて神の国に迎え入れられるということになります。

 ところで、イエス様は「神の国は近づいた」と言いましたが、それはまだこの世の終わりを意味したのではありませんでした。イエス様の時代から2000年たった今でもまだ天と地はそのままです。イエス様は神の国の近づきを終末論とは違う意味で言ったのでした。どういうことかと言うと、イエス様が行った奇跡の業が神の国の近づきを示していたのです。イエス様は大勢の人たちの難病や不治の病を癒したり悪霊を追い出したり、自然の猛威を静めたり、何千人の人たちの空腹を僅かな食糧で満腹にしたり、とにかく沢山の奇跡の業を行いました。イエス様はどうして奇跡の業を行ったのでしょうか?もちろん困っていた人たちを助けてあげるという人道支援の意味があったでしょう。また、自分は神の子であるといくら口で言っても人間はそう簡単に信じない。それで信じさせるためにやったという面もあります(ヨハネ14章11節)。しかし、人道支援や信じさせるためなら、どうして、もっと長く地上に留まって困っている人たちをより多く助けてあげなかったのか、もっと多くの不信心者をギャフンと言わせてもよかったではないか、なぜ、さっさと十字架の道に入って行ってしまったのか、そういう疑問が起きます。

 実はイエス様は奇跡の業を通して、来るべき神の国がどんな国であるかを人々に垣間見せて味あわせたのです。神の国は、黙示録19章で結婚式の壮大な祝宴にたとえられます。つまり、この世の人生の全ての労苦が最終的に神から労われるところです。また、黙示録21章では、そこに迎え入れられた人たちの目から神が全ての涙を拭い取って下さるところです。この涙は痛みだけでなく無念の涙も含まれます。つまり、この世の人生で被った不正義や害悪が最終的に神によって償われ、不正義や害悪をもたらした悪が最終的に報いを受けるところです。このように最終的に労われたり償われたりするところがあるとわかることは大事です。というのは、私たちが何事かを成し遂げようとする時、神の意思に沿うようにやってさえいれば、たとえうまく行かなくとも無駄だったとか無意味だったということは何もないとわかるからです。

 このように神の国とは、神の正義が貫徹されていて害悪や危険や死もない、永遠の平和と安心があるところです。そこで、イエス様が奇跡の業を行った時、病気というものがなく、悪霊も近寄れず、空腹もなく、自然の猛威に晒されることもない状態が生まれました。つまり、イエス様の一つ一つの奇跡の業を通して神の国そのものが人々に接触したのです。まさにイエス様の背後には神の国が控えていたのであり、彼は言わば神の国と共に歩き回っていたのです。この世の自然や社会の法則をはるかに超えた力に満ちた神の国、それがイエス様とセットになっていたのです。

 しかしながら、ここで一つ忘れてはならないことがあります。それは、神の国がイエス様と共に到来したと言っても、人間はまだ神の国と何の関係もなかったということです。最初の人間アダムとエヴァの堕罪の出来事以来、人間は神の意思に反しようとする罪を持つようになってしまいました。殺すな、盗むな、姦淫するな、偽証するな等々、十戒の掟があります。たとえ外面的にはそのような悪を行わなくても、心の中で人を見下したり憎んだり異性をふしだらな目で見たりしたら神の意思に反する罪を持っているのです。それで人間はそのままの状態では神聖な神の国に入ることはできないのです。いくら難病や不治の病を治してもらっても、悪霊を追い出してもらっても、空腹を満たしてもらっても、自然の猛威から助けられても、人間はまだ神の国の外側に留っているのです。また、いくら十戒の掟を外見上守っても、何か宗教的な修行を積んでも、人間は体と心に沁みついている罪を除去することはできないのです。

この罪の問題を解決して人間が神の国に迎え入れられるようにしてくれたのが、イエス様だったのです。イエス様は私たち人間が受けるべき罪の罰を私たちに代わって十字架の上で受けてられて死なれました。まさに私たちが罰を受けないで済むようにして下さったのです。それで私たち人間が、彼の十字架の死は自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様こそ自分の救い主と信じて洗礼を受ける、そうすると、イエス様が十字架で果たしてくれた罪の償いがそのまま自分にその通りになる、罪を償ってもらったのだから神から罪を赦された者と見なされるようになる、神から罪を赦されたから神と結びつきをもってこの世を生きられるようになる、これが神の義を持つということです。人間はイエス様を救い主と信じる信仰で神から義なる者と認められるのです。

さらにイエス様が神の想像を絶する力で死から復活されたおかげで永遠の命に至る道が人間に切り開かれました。イエス様を救い主と信じる信仰で神から義と認められた者は、永遠の命が待っている神の国に至る道に置かれてその道を進むことになります。順境の時だろうが逆境の時だろうが神との結びつきは何ら変わりません。たとえ、この世を去ることになっても神との結びつきを持って去り、復活の日に目覚めさせられて神の国に永遠に迎え入れられます。

このようにイエス様にとって最も大事なことは、人間が神の義を持てるようになって神の国に迎え入れられるようにすることでした。それで神の国と神の義が彼の教えの中心にあったのです。しかも、教えることだけではありませんでした。自ら命を賭してまでして十字架と復活の業を遂げて、人間が実際に神の義を持てて神の国に迎え入れられる条件を整えて下さったのです。神がイエス様を通して私たちに与えて下さった信仰が御利益信仰にならないことがよくわかります。病気が治ってそれがもとで信じることになったら、また病気になったら信仰の土台は揺らぎます。創造主の神が与える信仰は、病気だろうが健康だろうが全く関係ないものなのです。

3.悪霊の言うことには耳を貸すな

本日の個所のイエス様の癒しと悪霊追い出しの業の中でひとつ難しいことがあります。それは34節で、イエス様が多くの悪霊を追い出した時、ものを言うことを許さなかった、なぜなら、悪霊はイエス様のことを知っていたからだ、というところです。これを読むと、悪霊がイエス様のことを知っていたので、イエス様は悪霊に話をすることを許さなかったということになります。これはどういうことでしょうか?同じようなことが先週の個所にもありました。24節で悪霊が取りついている男の人の口を通して叫びます。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」これに対してイエス様は𠮟りつけて言います。25節です。「黙れ。この人から出ていけ!」悪霊はイエス様が神の神聖な方で、悪霊を滅ぼす力があるとわかっていました。それに対してイエス様は「黙れ!」と言って、それを口にするなと言うのです。マルコ3章でも、悪霊がイエス様のことを「神の子だ」と言って恐れおののき、イエス様はそれを人々に知らしてはいけないと戒めます。悪霊がイエス様のことを知っていたからイエス様は悪霊に話をすることを許さなかったというのは一体どういうことでしょうか?

悪霊がイエス様のことを「神の神聖な方」とか「神の子」と呼ぶのは、本当にその通りで間違ってはいません。しかし、それは信仰告白ではありません。私たちがイエス様のことを「神の子」と呼ぶのは信仰告白です。なぜなら私たちは、イエス様が私たちに罪の赦しと神の国への迎え入れをもたらして下さった、だから彼は真に「神の子」です、と告白するからです。これが信仰告白です。ところが、悪霊の場合は、イエス様が自分たちを滅ぼす力を持っているから「神の子」なのです。これはその通りですが、信仰告白ではありません。なぜなら、神の国への迎え入れということが全然ないからです。キリスト信仰者の場合、神の国への迎え入れがあるから信仰告白するのです。それなので、イエス様が神の神聖な者、神の子であることを悪霊に語らせないのは、信仰告白と逆方向に向かうような暴露はするなということです。ところで、イエス様と悪霊のやり取りは周りの人たちにも聞こえます。悪霊を黙らせるというのは、その言うことに私たちは耳を貸してはならないということも意味します。ここでもイエス様が私たちを悪霊から遠ざけて関係を持たないようにして下さっていることがわかります。

4.創造主の神に見守られていれば大丈夫

イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者は、永遠の命が待っている神の国に向かう道に置かれてその道を進むようになります。しかしながら、その道を進むのはいつも楽ではないということが、本日の旧約の日課イザヤ書40章の終わりでも言われます。まず、27節に「わたしの道は主に隠されている、わたしの裁きは神に忘れられた」と嘆きの言葉があります。「裁きは神に忘れられた」はちょっと変です。裁きはないのがいいに決まっていますから、これでは嘆きになりません。ヘブライ語のミシュパートは「正しい決定」が元の意味で、そこから派生して「正義」の意味があります。なのでここは、「私の歩む道は主の目に届いていない、私の正義は神のみ前を素通りしてしまう」です。神に見放されたと思って嘆いているのです。いわゆる、神が隠されてしまった状態です。しかし、外見上は神は隠されてしまったように思えても、実はまさにその時、神はすぐそばにいて一緒にいて下さるというのが聖書の立場です。それはあたかも、曇りの日に太陽が雲に遮られて見えないのと同じです。太陽が見えないからと言って、太陽が消滅したとは誰も考えません。雲に遮られて見えないだけとわかっています。それでは、それと同じように、神が隠されてしまった時に神がすぐそばにいて一緒にいて下さることをわかるでしょうか?イザヤ書40章の終わりの部分はそのことを教えています。

まず神は創造主であることを思い出しなさいと強い調子で言います。「お前たちは知ろうともせず聞こうともしないのか、初めから告げられてはいなかったのか、理解していなかったのか、地の基の置かれた様を?

(強い調子はヘブライ語原文ではっきり表れています)。また、神は「天をベールのように広げ、天幕のように張られ」、「地の果てに及ぶすべてのものの造り主である」と。そして、「目を高く上げ、誰が天の万象を創造したかを見よ」と言われます。これなどは、神がつむじ風の中からヨブに語りかけた口調を思い起こさせます。そうなると私たちとしては、おっしゃる通りです、としか言えません。その創造主の神が何をなさるか、預言者が証しします。「疲れた者に力を与え、勢いを失っている者に大きな力を与えられる。若者も倦み、疲れ、勇士もつまづき倒れようが、主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いていても疲れない。

主にある兄弟姉妹の皆さん、私たちは、イエス様のおかげで神との結びつきを持てて、それでいつも神に守られ導かれながら神の国への迎え入れを目指してこの世を進んで行きます。この結びつきは、病気だろうが健康だろうが全く変わらない結びつきです。なので神が隠されたような時でも実はそばにいて共にいて下さっていることは当然のことになっています。つまり、私たちはいつも神に望みを置いているのです。だからこの道を歩む力をいつも与えられるのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

 

 

 

 

2024年1月28日(日)顕現後第四主日 主日礼拝 説教 田口 聖 牧師(日本ルーテル同胞教団)

マルコ1章21−28節

「人間中心の聖書解釈?それとも神の真実な言葉?どちらが拠り所?」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

1、「初めに」

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 イエスは洗礼者ヨハネから洗礼を受けられた後、荒野での悪魔の試みを受けられ、そして洗礼者ヨハネが逮捕された後「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と告げられ宣教を開始されます。その宣教の歩みにおいてイエス様は、今日のところだけでなく、そしてその後にもあるように、苦しむ人々を見離さず、悪霊に憑かれている者から悪霊を追い出したり、病めるものを癒されたり、数々の力あるわざをしていくことが記されていきます。そのようなイエス様の行うしるしは確かに神の約束と憐れみの素晴らしい証しです。しかし人はその罪の性質のゆえに、目に見える「しるし」のその本質を見誤り、むしろ自分に都合よく解釈し、人間はその「しるし」に魅了されます。そしてこの時代も、そしていつの時代も、そしてキリストの教会でさえも、御言葉を何か力のないものにしてしまい、そんな言葉の力よりも、人間中心に、しるしを求め、しるしに驚嘆し、そして目に見るしるしで全てを判断します。もちろん、イエス様は奇跡やしるしを表すことで、神の憐れみを具体的に現すだけでなく、ご自身が神であり、救い主であることを示されます。しかし、私たちが聖書を通して忘れてはならない大事な点は、イエス様はそれを、ご自身の力ある権威あるみ言葉を通してそのことをなされているということ、そしてそれは御言葉の力の証し、証明であるということです。それはこの前に書かれている、四人の漁師たちを弟子にするところでもそうでした。彼らの誰もがまず最初に彼らの方から自らの意思と力でイエスについて行こうと弟子になったのではありませんでしたし、それはできないことでした。イエス様の「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」「わたしについてきなさい」という言葉が先にあったからこそ、その言葉の導きと力によって、それで彼らは、イエスについて行っているのです。その事実は、現代のキリストの弟子である私たちの救いと何らな変わることのない真理ではありませんか。私たちはみな、人の力ではなく、キリストの力、何よりみ言葉によって救われ、み言葉によって召されているでしょう。そして、さらにその弟子たちの招きの前のところでも、イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けた時にも「天から」の神の言葉がありましたし、荒野の誘惑でもみ言葉に働く聖霊に導かれ、そしてマタイの福音書を見ても分かる通りに、悪魔の誘惑を退けたのも、まさに「御言葉」そのものによってであったでしょう(マタイ4章1−11節)。そのようにイエス様の宣教の働きは御言葉の豊かな働きであったように、教会も私たちの信仰生活も、このイエスの御言葉が何よりの力に他ならないのです。

2、「宣教の働き:御言葉の説教」

 今日の箇所は21節からこう始まっています。

「21一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。」

 カフェルナウムは、イエス様の宣教の初期に活動されたガリラヤ地方の町です。しかしその活動は、ただ悪霊を追い出し癒しをされるそれだけのために回っておられたのではありませんでした。イエス様は、安息日には、ユダヤ教の会堂に入って「教え始められた」とあるのです。つまり、そこでは巻物の旧約の言葉を開いて、その聖書の言葉から説教をされたということを意味しています。そして、これは、ルカの福音書を見てもわかるのですが、イエス様の宣教は主にその「安息日に会堂に入り聖書から教える、説教する」ということの繰り返しであったことがわかるのです。とかく人間は、目に見える華やかなしるしを求めますから、その華やかで劇的なしるしばかり注目が行きます。しかし、イエス様はそれだけのために行動しているのではない、いやむしろ、その行動、しるしの土台にある、神の御心を実現し、そして何より信仰を生み出し、支え、強めるみ言葉を説教すること、しかもイエス様ご自身も十戒に従い、神を神とし、そして安息日を覚えて聖としなさいとある通りに、聖書のみ言葉から「神が何を私たちに伝えているのか、教えているのか」を説教することを、イエス様は決して蔑ろにされなかった。軽んじなかった。いやむしろ大事にしておられたのでした。

3、「ご自身が権威ある者として」

 しかも、その説教を聞いた人々ですが、22節です。

「22、人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。」

 人々はとても驚きます。それはいつも会堂で教えている律法学者が説教をするようではなかったからでした。律法学者たちは、今の牧師もそうですが、「主はこうわれる」という言い方で説教をします。それは当然です。人に権威があるのではなく、み言葉に権威があるからです。しかしイエス様はご自身を権威あるものとして語られたことに人々は驚いたのでした。イエス様ご自身は命の言葉そのものであり神の御子であり権威そのものなのですから、そのように語るのです。人々にとってはそのような権威あるもののように語ることそのものが新しく驚きであったのでした。そのようにイエス様のしるしだけがイエスが神であることを示すのではなく、まさに今までにない人々を脅かさせるようなイエス様の権威ある者としてのその説教そのものもまた、イエスは真の神であること、つまり創造のはじめからおられ、全てを創造された言葉である方であり、そして約束された神の御子、救い主であることを示しているとも言えるのです。もちろんその言葉はただ権威あるもののように感じる見えるだけではありませんでした。事実、御言葉は、何者にも勝る権威であり力であることが現されていくためにこそ「しるし」が続いていくのが分かるのです。

4、「力ある御言葉によって悪霊を退ける」

23節以下、こう続きます。

「23そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。 24「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」 25イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、 26汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。」

A,「洗礼後の悪魔、悪霊のイエスへの攻撃」

 会堂に汚れた霊に取り憑かれた男性がいて叫びます。しかしその汚れた霊は、その言葉から、イエスがどのような存在であるのかわかっています。イエスが神の聖者であるとわかっているし、滅ぼす力があることをわかっているのです。マタイ4章の荒野の悪魔の誘惑の箇所を見ていただくと分かるのですが、荒野の誘惑の悪魔はそこで「神の子なら」とイエスが神の御子であることを知っているし、イエスが石をパンに変えることができる力があることも知って試みています。さらに言えば、悪魔はみ言葉にこう書いてあるからと言って、御言葉を用いてまで試みていたでしょう。悪霊もそれを支配する悪魔も、そのようにイエスのことや神の言葉さえもよく知った上で、人々に攻撃もするし、誘惑したり苦しめたりして、信仰を捨てさせようとしたり、惑わしたりして、そのようにして滅ぼすことに躍起になっている存在であることを思い起こされます。そしてマタイでもこのマルコの福音書でもそうですが、まさにイエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受け、聖霊が降った直後に、荒野のサタンの誘惑に導かれ、そして、このような悪霊の攻撃が続くという事実があるでしょう。この洗礼の後に苦難や試みが続くこともまた、私たち自身にも当てはまる信仰の現実ではないかと教えられるのです。

B,「私たちも同じように攻撃にさらされている」

 どういうことでしょう。それは私たちも、洗礼を受け、そこに信仰生活が始まりますが、その信仰生活は、何の問題もない、なんでも上手く行く、誘惑も罪ない、薔薇色の成功の日々があるということではありません。むしろイエス様のように、その逆ではないでしょうか。そのように洗礼によって罪の赦しを受け、聖霊を与えられ、イエスの福音による新しい命の道を導かれるからこそ、この罪の世にあっては、サタンの、信仰を弱め、捨てさせ、み言葉に信頼させないようにする巧妙な誘惑は常にあるということです。もちろん、キリストを救い主と信じて洗礼を授けられることによって私たちは救われ、キリストの十字架のゆえに、罪の赦しが与えられ、義と認められ新しく生かされて行きます。しかしそれは私たちが「義となった、完全になった」ということではありません。完全で聖であり義であるのはどこまでもキリストであり、私たちは、私たちにはない、私たちの外にあるキリストの義のゆえに信仰によって義と認められただけであり、私たちはどこまでも義人であり同時に罪人でもあります。信仰と霊にあっては、キリストの義のゆえに100%義と認められた聖徒ですが、しかし、パウロがローマ書でも言っているように、肉にあっては100%どこまでも罪人です。キリストにあっては日々新しいですが、古い人も同時にいるのです。だからこそ私たちの信仰生活は常にサタン、悪魔の誘惑との戦いであり、彼らはいつでも私たちを試み誘惑してきて、信仰を捨てさえようとしてくるのです。そして私たち自身の力、意思や理性の力、決心や努力では決してそれに打ち勝つことはできないのです。

C,「イエスはどのように退けるのか:真実な御言葉によって」

 しかしそのような現実にあって、何がこのような汚れた霊、悪霊、サタン、悪魔、それによる誘惑や攻撃を退けているでしょうか。それはここでも一貫しているでしょう。25節

「 25イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、 26汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。」

 それは、イエス様のその言葉でした。イエス様はその言葉によって汚れた霊に強い影響を及ぼし、退けて打ち負かし、その言葉の通り出て行かせたことがわかるのです。このように、イエス様の言葉には圧倒的な権威と力があり、その通りになる言葉であることを聖書は私たちに示しているのです。

 事実、先ほども触れた「イエス様の荒野の誘惑」の場面、マルコでは荒野の誘惑についてあっさりと簡単に書かれていますが、詳しく書かれているマタイ4章を見ると、イエス様は、悪魔の誘惑、あるいは悪魔のみ言葉を都合よく引用した誘惑さえも、理性や人間の理屈とか感情ではなく、正しく解釈されたみ言葉で悪魔の誘惑を退けています。

 何より聖書はその「神の言葉」の真実さと力こそを初めから証ししてきています。創世記では、三位一体の神は「み言葉」を持って創造し、その御言葉はまさに創造のはじめから働かれていた力であることを私たちは見ることができます。神が「〜よあれ」と言われると、その言葉の通りになって天地創造はなされているでしょう(創世記1章)。その通りになった言葉によって天地万物は存在し私たちも存在しています。神の言葉があってこそ私たちはいるし、神の言葉がなければ私たちも何も存在していません。天地創造は理性や常識では信じられないからと、あれは作り話だとか神話だとかいって、人間中心の理性や常識に合うように説明する、教会やそのような牧師などの説教もあるかもしれません。しかし、それだと、私たちに与えられている神の言葉は、何の力もない言葉、人間の理性や常識に服従する、権威のない言葉にすぎなくなります。しかしそうではありません。聖書はその言葉の通り、そして、それは、旧約のモーセや預言者たち、イエス様も、使徒たちも、パウロもその通りになる、「不可能なことなどない」「何でもできる」真実な生けるいのちの言葉であると教えている通りに、神様がその言葉によって天地を創造し、命を与え、神が「〜よあれ」と言われたその通りになった現実が、この世界であり私たちなのです。 

 そしてその言葉が、まさに人の間に来られたとヨハネの福音書の初めにはありますね。その方が、弟子たちに「ついてきなさい」と言葉で召し出しました。それは人々がこれまで経験したことのない権威に満ちた言葉でした。事実、悪霊を「黙れ。この人から出て行け」と追い出し、病むものを癒し、立たせる力ある言葉であることが今日のところに一貫して証しされているのです。

5、「その真実な御言葉は私たちに与えられている」

 そしてそれは私たちにとっても決して無関係ではありません。いや無関係どころか、今も変わることなく、私たちへ、私たちのために語られている変わることのない言葉でもあるということこそイエス様は私たちに伝えています。例えば、礼拝で「あなたの罪は赦されています。安心して生きなさい」と宣言するときに、それが単に私の言葉であり牧師などの人間の言葉であるなら、何の力もありません。しかしそれがまさに聖書を通しての天からのイエス様の真実な生ける言葉であるからこそ、本当にその通りに十字架の罪の赦しとイエス様が「世が与えることのできないわたしが与える」(ヨハネ14章27節)と言われた特別な平安を与えるのです。それが真実でその通りになる言葉だからこそ、私たちを神の命と力によって、喜びと平安を与え、希望と救いの確信で満たして遣わすことができるのであり、私たちはその恵みによって世に出ていくことができるのです。そして、それはペテロの言うように「朽ちることのない」「永遠に変わることのない」言葉なのですから(ペテロ第一1章23−35節)、「これからも」変わることなく、その真実な約束でその通りに私たちにしてくださる真実な言葉なのです。だからこそ、私たちに与えられている、聖書の言葉、イエスの言葉は、確かで完全で何にも勝る権威があり、そして力があるのです。

6、「私たちの信仰生活に生きて働く御言葉」

 今日のところから何が教えられるでしょう。至極当たり前のことですが、クリスチャンは、決して人の言葉、人の成功話、人の経験論ではなく、このイエス・キリストの言葉、特に福音の言葉を信じ、信頼し、これによって生かされていく存在です。しかしイエスや使徒の時代にもそうであり、いつの時代もそうかもしれませんが、特に、目に見える美しさや魅力や繁栄や成功に流されやすく、あるいは自分の理性や常識に当てはまらないと疑うことしかできない現代の人々、それは教会や御言葉を伝える牧師でさえも、そんなみ言葉、福音より、説教より、礼拝や聖餐より、人間の行いやわざの方が力があるんだ、理性こそ力なんだと教えたり、み言葉の力よりマンパワーやヒューマニズム的な成功話や経験論の方が教会や宣教に益であるかのように信じたり、教えたり、導いたりしたりされたりすることは少なくないようです。それゆえに、み言葉や約束の力への信頼や御言葉の約束にある救いの確信よりも、自分の力や行いで救いの安心や確信を得ようともします。しかし、それは必ず行き詰まります。聖書にあるように(ペテロ第一1章)、それ野の草のように朽ちゆく不完全で真実ではない人のわざであり言葉だからです。もちろん、それでも一時的に上手くいっている時は、本当に一時は良いでしょう。しかし、そのひと時の繁栄や成功が少しでも揺らいだり終わるとそのひと時の安心も自信も誇りもあまりにも簡単に揺らぎ、脆くも崩れ去ってしまいます。まさにマタイ7章にある「砂の上に建てた家」(7章24−27節)のようにです。何より、それでは決して、信仰生活に平安はあり得ないのです。いつでも不確かな人間の理性や力や行いに依存しているので、不確かさの中で生きていくしかないのです。み言葉の力、福音の力に真により頼まない、人間の理性や経験に聖書を従わせるような偽りの信仰とはそのようなもの、そのような結末なのです。

 繰り返します。今日のところでイエス様は私たちにはっきりと示してくれています。イエス様の言葉には権威がある。力がある。そしてその通りになる、真実な言葉であると。私たちにはその真実な言葉が与えられており、その言葉が常に語られています。その言葉による洗礼によって私たちは救われ、その言葉による聖餐、イエス様の言葉が結びついたイエス様の体と血に、与っているのです。そしてだからこそ、私たちは救われているという確信と赦されているという平安を保つことができるだけでなく、その約束の通りに、イエス様が働いてくださるからこそ、私たちは、福音が私たちから溢れ出るように、喜びと平安に満たされて、自分のためではない真の良い行いや隣人に仕えていくことができるのです。

7、「結び:真の拠り所:人間中心の聖書解釈か、それとも神の真実な言葉か?」

 事実、イエス様の力のわざは、人間にとっては驚きです。理解できないことです。27節

「27人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」

 みなさん、私たちの信頼や拠り所を、人間の力や可能性、あるいは人間の経験におくよりも、神の言葉、イエス様の言葉、約束、福音に置く人は幸いです。そのことは実は世に遣わされる時にこそ顕著にわかることです。例えば、神とその御心を前にする時に、私たちは、私たち自身ではできない、難しいと思えることばかりに直面するのではないでしょうか。特に神がしなさいと命じている隣人を愛すること、それは何より十字架に照らせば、隣人愛の本質は敵を愛するこということ、それは「赦す」ということですが、それは人間にとって何よりも難しいことですね。しかしそのような神の御心を前にしても、人間の限界や可能性に希望や拠り所を持つのなら、希望は限定的であり、それはもはや希望ではありません。人間の力を信じるなら、限界があり不可能なのです。重荷にもなります。そうなると、神の言葉を人間の都合のいいように解釈して、自分のできる範囲の行いで敬虔なふりをすることはできますが、神の前には不信仰に過ぎません。しかし、神の言葉の前に、いつでも律法によって謙り悔い改め、そして、そこに照らされるキリストの十字架と復活の福音に希望を置き、神の言葉と約束がその通りになることを信じ、福音の力を受けながら、神の御心に従う人生を歩むなら、イエス様が行い働いてくださるのですから、希望は耐えることがありません。できないことさえもイエス様は真実な御言葉の力で人の思いを遥かに超えて導いてくださるのです。ぜひ、変わることなく、み言葉に聞き、ますます御言葉を信じ拠り所とできるように祈り求めましょう。今日も変わることなくイエス様が御言葉を持って言ってくださっています。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。ぜひこの約束を受け取り、安心して、ここから遣わされていこうではありませんか。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

 

 

 

説教「福音、神の国、悔い改めについて」吉村博明 牧師 、マルコによる福音書 1章14-20節

主日礼拝説教 2024年1月21日 顕現後第三主日

聖書日課 ヨナ3章1‐5、10節、第一コリント7章29-31節、マルコ福音書1章14-20節

説教をYouTubeで見る。

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けた時、聖霊が彼に降りました。その後でイエス様は40日間荒野で悪魔から試練を受け、これに打ち克ちました。そして、いよいよ本格的に活動に乗り出そうとしたまさにその時、ヨハネがガリラヤ地方の領主ヘロデ・アンティパスに捕えられたとの報が伝わりました。イエス様は大胆にもガリラヤに乗り込んで人々に教え始めました。本日の福音書の日課はその時のことについて述べています。「ヨハネが捕えられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた」とあります。本日の説教では、「福音」、「神の国」、「悔い改め」という三つの大事な事柄についてお話しします。

2.福音

ここで「神の福音」と「福音を信じなさい」と、「福音」という言葉が2回出て来ます。「福音」という言葉は新約聖書の原語のギリシャ語でエヴァンゲリオンευαγγελιονと言います。もともとは「良い知らせ」という意味です。それでは、「福音」とはどんな良い知らせなのでしょうか?

それは次のような内容です。イエス様がゴルゴタの十字架の上で人間の罪の神罰を人間に代わって受けて死なれた。彼の犠牲のおかげで人間が神から罰を受けないで済む道が開かれた。さらに神は、一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させて、死を超えた永遠の命に至る道を私たち人間のために開いて下さった。以上が「福音」の内容です。つまり、イエス様の十字架の死と死からの復活の出来事がもたらしたことについての知らせが「福音」と呼ばれるようになったのです。この良い知らせ、福音を聞いて、イエス様を救い主と信じることと洗礼を受けることによって神から罪の赦しを頂くこと、これがキリスト信仰の奥義です。こうして、イエス様のおかげで罪を赦された者として永遠の命に至る道を神の助けと導きを得ながら歩むこと、これがキリスト信仰者の人生です。

ところが、本日の日課ではイエス様はまだ活動を開始したばかりです。十字架も復活もまだ先のことです。それなのにエヴァンゲリオン「福音」と言うのは少し気が早いのではないか?そこで、他の国の言葉ではどういう言い方をしているか見てみました。英語訳の聖書NIVはエヴァンゲリオンを「神の良い知らせ」、「良い知らせを信じなさい」good newsと訳して「福音」gospelではありません。スウェーデン語の訳も「神の知らせ」、「知らせを信じなさい」(budskap)です。福音(evangelium)ではありません。フィンランド語の訳は一方では「神の福音」(evankeliumi)と言い、他方で「良い知らせを信じなさい」(hyvä sanoma)と使い分けています。ドイツ語の訳は意外にも日本語訳と同じで両方とも「福音」と訳していました。

十字架と復活の出来事が起きる前だから、エヴァンゲリオンを「福音」ではなくて「良い知らせ」と訳した方がいいのではないかと思われるかもしれません。そうすると今度は、じゃ、イエス様が信じなさいと言った「良い知らせ」とはどんな知らせなのか、さっき言ったキリスト教の「福音」とどう違うのかという疑問が起きます。(※)それについて見ていきましょう。

イエス様が信じなさいと言った「良い知らせ」の内容は、旧約聖書イザヤ書52章7節から53章12節を見ればわかります。それを見ていくことにします。まず最初の52章7節に次のように言われています。

「いかに美しいことか 山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足(רגלי מבשר)は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え(טוב מבשר ) 救いを告げ あなたの神は王となられた、とシオンに向かって呼ばわる。」

伝えるべき「良い知らせ」の内容は、「平和」、「救い」、「神が王になる」ことの3つです。そこで、イザヤ書の続きを見ていくと、この「平和」と「救い」の意味がわかってきます。それがわかると「神を王に戴く国」もわかります。

イザヤ書の続き52章8ー12節を見ると、神がイスラエルの民に向かって、捕囚の地バビロンから祖国に帰還せよ、と呼びかけます。神は民の祖国帰還を実現させ、周辺諸国民に自分の力を示します。それで、良い知らせに言う「救い」とは、イスラエルの民が神の力で祖国帰還を果たし、そこで神を王として戴く神の国が実現するというふうに理解できます。

ところが、これに続く52章13節から53章12節までを見ると、「救い」の内容が少し違ってきます。そこには有名な「主の僕」が登場します。その者は目を背けたくなるほど惨めな姿をしている。しかし、それは人間の痛みと病をかわりに背負ったためにそうなったのであり、私たちの罪の神罰を代わりに受けたためにそうなったのであった。そのおかげで私たちは神と平和な関係を持てるようになり、まさに彼が罰を受けた傷によって人間は癒しを受けるのであると。53章11節で神は次のように言われます。「私の義なる僕は、多くの者が義なる者になれるようにした。彼らの罪を自ら背負うことによってそうした。」「義なる者」とは、神の目に相応しい者、神聖な神の前に立たされても大丈夫でいられる者という意味です。主の僕が人間の罪を自ら引き受けることで、人間は神の目に相応しい者になれて神との平和な関係を築けるようになるというのです。そうすると、「救い」は先ほどみたような、イスラエルの民がバビロン捕囚から祖国復帰して神を王として戴く神の国が実現するという意味ではなくなります。むしろ、神の僕の犠牲によって罪が赦され神との平和な関係を築けて神罰が免れるということが「救い」の内容になります。神の国もそういう罪の赦しが打ち立てられたところになります。

しかしながら、バビロン捕囚がもうすぐ終わりそうという紀元前500年代の人々からすれば、イザヤ書の箇所で言われる「救い」とは、捕囚からの解放と祖国帰還を意味しました。解放と帰還が実現すれば、それはただちに神が王として君臨する神の国の実現だったのです。

ところが、祖国に帰還しても神の国は実現しませんでした。確かに歴史的にはエルサレムの神殿と町は再建されました。しかし、ユダヤ民族はペルシャ帝国、アレキサンダー帝国という大国の支配下に置かれ続け、一時独立を取り戻した時はあったものの、ほどなくしてローマ帝国の支配下に入ってしまいました。このように実態は、諸国民がひれ伏すような神の国からは程遠いものでした。加えて、神殿で行う礼拝も果たして救いの実現なのかと疑問視する声も民の間から出るようになりました。このことは、マラキ書やイザヤ書の終わり56ー65章に垣間見ることが出来ます。そうしているうちに神の国とは実は今ある天と地が新しい天と地に創造し直される日に現れるという預言もでてきました。イザヤ書の終わりやダニエル書にそれらが窺えます。

そういうわけで、イザヤ書52章7節から53章12節までの預言は未完だったと理解されるようになったのです。それでは、いつ預言が実現することになるのか?神の国を待ち望む人たちがそう問うていた時でした。まさにその時、イエス様が歴史の舞台に登場したのです。イエス様が「信じなさい」と言う「良い知らせ」とは、神が旧約聖書の中で約束した救いと神の国の到来についての知らせでした。神の約束を信じなさいとイエス様は言われたのです。なぜなら、これからイエス様本人が「主の僕」としてその約束を果たすことになるからです。このように、イエス様が信じなさいと言った「良い知らせ」とは、神の約束が今実現することになるという知らせだったのです。その「良い知らせ」はまさにイエス様の十字架と復活の業の後で「福音」として結晶したのです。

3.神の国はイエス様とセットで来た!

イエス様は「時は満ち、神の国は近づいた」と言われました。それについてみてみましょう。「時は満ちた」の「時」とは、ギリシャ語でカイロスκαιροςという言葉です。これは何か特別な事が起きる時、定められた時を意味します。「時は満ちた」というのは、起きるべきことが起きる時がついに来た、機は熟した、ということです。洗礼者ヨハネが投獄された時がその「時」になりました。ヨハネがもはや人々に「罪の赦しに導く悔い改めの洗礼」をすることができなくなった、それでイエス様にバトンタッチして「罪の赦し」そのものを確立してもらう段階に入ったということです。ヨハネは悲劇的な運命を辿りますが、主の道を整える役割は果たしたのです。

「神の国は近づいた」というのは、どういうことでしょうか?「神の国」とは「天の国」とか「天国」とも言い換えられます。それで、空高いどこか宇宙空間に近いところにあるようなイメージがもたれます。しかしそうではなくて、「神の国」とは、今私たちが目で見たり手で触れたりして、また測定したり確定できる世界とは全く別の世界です。今の私たちには見たり触れたりできない、測定も確定もできない世界です。そうすると「神の国」は、私たちの世界からすれば見えない裏側の世界みたいです。その世界におられる神が、今私たちが目にしている森羅万象を造られました。それなので神から見たらこちらの方が裏側でしょう。万物の造り主の神は天地創造の後で自分の世界に引き籠ってしまうことはしませんでした。そこから絶えずこちら側の世界に関わりをもってきました。神の関わりの中で最大のものは何と言っても、ひとり子イエス様をこちら側に送って、彼を通して人間の救いを実現したことでしょう。

イザヤ書の終わりの方(65章17節、66章22節)や新約聖書のいくつかの箇所(第二ペトロ3章13節、黙示録21章1節、ヘブライ12章26ー29節など)を見ると、今あるこの世は終わりを告げるという預言があります。その時、神は今の天と地にかわって新しい天と地を再創造する、そしてそこに唯一残るものとして神の国が現れてくるという預言です。「神の国」は天国ですから、天国はこの世の終わりに現れてくるということになります。そうすると、あれっ、キリスト教って、死んだらすぐ天国に行くんじゃなかったの?と言う人も出てくると思います。ところがキリスト教には「復活」の信仰があるので、そうはならないのです。「神の国」に入れるというのは、この世の終わりの時に死者の復活が起きて、入れる者と入れない者とに分けられる、これが聖書の言っていることです。このことは、普通のキリスト教会で毎週日曜日の礼拝で唱えられる使徒信条や二ケア信条でもちゃんと言われています。

そうなると、亡くなった人たちは復活の日までどこで何をしているの?という疑問が起きます。これも宗教改革のルターによれば、亡くなった人は復活の日まで神のみぞ知る場所にて安らかに静かに眠り、復活の日に目覚めさせられて神の栄光を映し出す復活の体を着せられて神の国に迎え入れられるということです。そうすると今度は、亡くなった人が眠っているんだったら、一体誰がこの世にいる私たちを見守ってくれるの?という疑問が日本人なら出てくると思います。でも、それもキリスト信仰では私たちの造り主である父なるみ神が私たちを見守ってくれるので心配無用です。

それでは、イエス様が「神の国は近づいた」と言った時、それは今の天と地が新しい天と地に取って代わるという、この世の終わりを意味したのでしょうか?しかし、イエス様の時代はおろか、あれから2000年たった今でもまだ天と地はそのままです。イエス様の言ったことは当たっていなかったのでしょうか?ところがそうではないのです。

どうしてかと言うと、イエス様が行った奇跡の業が神の国の近づきを意味していたのです。皆さんもご存じのように、イエス様は大勢の人たちの難病や不治の病を癒したり、悪霊を追い出したり、自然の猛威を静めたり、何千人の人たちの空腹を僅かな食糧で満たしてあげたり、沢山の奇跡の業を行いました。イエス様はどうして奇跡の業を行ったのでしょうか?もちろん困っている人たちを助けてあげるという人道支援の意味があったでしょう。また、自分は神の子であるといくら口で言っても人間はそう簡単に信じない。それで信じさせるためにやったという面もあります(ヨハネ14章11節)。しかし、人道支援や信じさせるためなら、どうして、もっと長く地上に留まってもっと多くの困っている人たちを助けてあげなかったのか、もっと多くの不信心者をギャフンと言わせてもよかったではないか、なぜ、さっさと十字架の道に入って行ってしまったのか、そういう疑問が起きます。

実はイエス様は奇跡の業を通して、来るべき神の国がどんな国であるかを人々に垣間見せ味わせてあげたのです。神の国は、黙示録19章で結婚式の壮大な祝宴にたとえられます。つまり、この世の人生の全ての労苦が最終的に神に労われるところです。また、黙示録21章で言われるように、そこに迎え入れられた人の目から神が全ての涙を拭い取るところです。つまり、この世の人生で被った不正義や損失が最終的に神によって償われ、不正義や損失をもたらした悪が最終的に報いを受けるところです。このように最終的に労われたり償われたりするところがあるとわかることは大事です。というのは、私たちが何事かを成し遂げようとする時、不正に手を染めることなく、神の意思に沿うようにやってさえいれば、たとえ期待通りにならなかったとしても無駄だったとか無意味だったということは何もないとわかるからです。

このように神の国は、神の正義が貫徹されていて害悪や危険や死さえもない、永遠の平和と安心があるところです。イエス様が奇跡の業を行った時、病気というものがなく、悪霊も近寄れず、空腹もなく、自然の猛威に晒されることもない状態が生まれました。つまり、イエス様の一つ一つの奇跡の業を通して神の国そのものが人々に接触したのです。まさにイエス様の背後には神の国が控えていたのであり、彼は言わば神の国と共に歩き回っていたのです。この世の自然の法則や社会の法則をはるかに超えた力が働く神の国、それがイエス様とセットになっていたのです。

ここで一つ注意しなければならないことがあります。神の国がイエス様と共に到来したと言っても、人間はまだ神の国と何の関係もありませんでした。最初の人間アダムとエヴァの堕罪の出来事以来、人間は神の意思に反する罪を持つようになってしまいました。それで人間はそのままの状態では神聖な神の国に入ることはできないのです。いくら、難病や不治の病を治してもらっても、悪霊を追い出してもらっても、空腹を満たしてもらっても、自然の猛威から助けられても、人間はまだ神の国の外側に留まります。また、いくら神の掟や律法を守ろうとしたり宗教的な修行を積んでも、人間は体と心に沁みついている罪を除去することはできず、自分の力で神聖なものに変身して神と対等になることなどできません。

この罪の問題を解決して人間が神の国に迎え入れられるようにしてくれたのが、イエス様の十字架と復活の業でした。それは、最初に述べたように、旧約聖書に約束された良い知らせが実現して「福音」に結晶した出来事でした。私たち人間はイエス様の十字架と復活の業が自分のためになされたのだとわかって、それで洗礼と一緒にイエス様を自分の救い主と信じれば、イエス様が果たしてくれた罪の償いが自分のものになります。罪を償ってもらったから神から罪を赦された者として見てもらえるようになります。罪を赦してもらったから神との結びつきを持ててこの世を生きられるようになります。神との結びつきがあるので、たとえこの世を去っても復活の日に目覚めさせられて復活の体を着せられて神の国に迎え入れられるようになります。これらのこと全ては、神が自分のひとり子も惜しまないくらいに私たちのことを思って下さったがゆえになされたことです。多くの人がこのことに気づきますように。

4.方向転換の悔い改め

イエス様は、「良い知らせ」を信じなさいと勧める時、「悔い改めなさい」とも勧めました。「悔い改める」はギリシャ語でメタノエオ―「考えを改める」とか「方向転換する」という意味です。神に背を向けていた生き方を方向転換して神の方を向いて生きるようになることを意味します。なので「悔い改め」は、何か一人で閉じ籠って反省しまくっている根暗なことではなく、実は神に向き合うという勇気ある振る舞いです。

「悔い改め」についてルターが的確に教えていますので、それを引用します。

「イエス様は彼を信じる者全てに、方向転換の悔い改めをしなさいと言われる。その意味は、信仰者の生涯は休むことのない方向転換の悔い改めであるということである。そうなのは、我々が生きる限り神の意思に反しようとする罪が我々の肉の内に留まるからであり、また洗礼の時に注がれた聖霊に攻撃を仕掛けてくるからである。聖霊も罪に対して反撃する。イエス様を救い主と信じることで神から義と認められた人は、その行いの全てが方向転換の悔い改めと密接に結びつく。なぜなら、罪に反抗する善い意志が備わったからだ。

方向転換の悔い改めが休止することはありえない。なぜなら、律法がこれは罪だと示すものを我々は絶えず遠ざけなければならないからだ。もちろん、罪はイエス様の十字架の業のおかげで赦されているので、我々を永遠の死に追いやる力を失っている。

かつてイスラエルの民はカナンの地に入った後もその地の敵対者たちを追い払わなければならなかった。それらを追い払うことの方が、その地に入ることよりも難しかったのである。それと同じように、キリスト信仰者になって罪に対して宣戦布告することよりも、絶え間ない方向転換の悔い改めによって内に残る罪を追い払うことの方が難しいのである。それは、聖なる者たちでさえ、罪が内に残っていることを自覚して悲しんだことからもわかる。神が律法を通して彼らの良心を苦しめた時、彼らは罪を嘆いたのである。

兄弟姉妹の皆さん、罪の赦しのお恵みを受けると、良心はこのように罪に対して敏感になります。しかし、不安になった良心はゴルゴタの十字架を覚えるたびに落ち着きを取り戻して平安に満たされます。これが方向転換の悔い改めです。敏感な良心を持ってこの世で生きる限り、罪の自覚は繰り返し起こります。だから方向転換の悔い改めも絶えず続くのです。しかし、これは堂々巡りではありません。ずっと一つの方向に向かって進んでいます。この繰り返しを通して私たちの神への信頼が一層強いものになっていきます。神への強い信頼があることは、私たちがこの世から別れる時、自分の全てを神の御手に委ねることができるために必要です。神への信頼が築けている人は、復活の日に目覚めさせてくれる方を知っているので自分の全てを神の御手に委ねられます。信頼が築けていない人は何に委ねていいのかわかりません。そういうわけでキリスト信仰者の人生とは、その日に備えて神への信頼を日々育て強めていく人生と言ってもよいでしょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

  • もちろんイエス様はギリシャ語ではなくアラム語で話したので、発声した言葉はエヴァンゲリオンではなかったのですが、書かれた記録はギリシャ語のものしか残っていないので、それに基づくしかありません。

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

 

 

 

2024年1月14日(日)顕現後第ニ主日 主日礼拝 説教:木村長政 名誉牧師

 

[私たちの父なる神と、主イエス・キリストから、恵と平安とが、あなた方にあるように。アーメン]

                                2024年1月14日スオミ教会

説教題:「世界の罪を取り除く、神の子羊」

聖書:ヨハネ福音書1章43~51節

みなさん、新しい年を迎え、今年はどんな計画や目標を目指して行こうかと、心も新たに出発された事でしょう。人生に於いて人との出合い、というものが自分の生涯を決定するほど重要な出来事となる事があると思います。聖書はそのような不思議な導き、と出合いでイエス達の弟子となった2人の人の出来事です。

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ヨハネ福音書1章35節から見ますと、バプテスマのヨハネが歩いておられるイエス達を見つめて「見よ神の子羊だ」と言った。それを聞いて2人の弟子はイエスに従った。とあります。その前の日にもイエスが来られるのを見て、「見よ!世の罪を取り除く、神の子羊だ。そして、私の後から聖霊によって、洗礼を授ける方はこの方である」。と言っています。バプテスマのヨハネは神の霊に導かれて「あの方を見よ!世の罪を取り除く、神の子羊だ」とはっきりと力強く言って指で示したのです。ヨハネの神からの使命は、世の罪を取り除く救い主を示すことなのです。この神の子羊は私たちの罪を負って下さる方なのです。重荷を負っている人に、軽くする方法を教えてあげましょう、と言っても重荷は少しも軽くなりません。その荷をそっくり代わって担うなら軽くなるでしょう。それを担う以外ないのです。神の子羊は十字架の上ですべての罪を自分の命を犠牲にして、ご自分の肩に担って下さるのです。このお方を信じるあなたは、もはやあなたの肩にはその重荷はないのですイエス・キリストの上にあるはずです。その重荷は、みなさん、人それぞれに違うでしょう。しかし、どんな重荷も全てこの神の子羊が罪を取り去ったのですから、すでにあなたには罪がないのです。これがヨハネが指し示した「神の子羊」という証の本当の意味なのです。

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十字架上のイエス様を見上げて異教徒の百卒長が言いました。「まことに、この方は神の子であった。」と心からの告白の言葉をあげたのです。信仰と言うのは、この「罪が取り除かれた」事実に生きることです。あなたの罪は、もうすっかり、イエス・キリストの肩にあるのです。代わりに担って下さっているのです。それなのに、まだ肩の荷があるのではないか、と疑ったり、嘆いたり、心配しているのですか。先の事は何も心配しなくても大丈夫。いつ死んでも大丈夫、もうあなたの罪は取り除かれて復活された、生きたイエス・キリストが全てを保証して下さっています。もう,ここまで人生を、腹を括って全ての全てをイエス様に任せきったら明るく感謝と、嬉しさが溢れてきます。バプテスマのヨハネの元から離れて、イエス様に従って行った、2人の弟子も生涯をイエス様共に預けて従って行ったのです。その内の1人、アンデレが兄弟のペテロに言った。「私たちはメシアに出会った」。そして、シモンペテロをイエス様のところへ連れて行ったのです。ここに、キリスト教、伝道の姿があるように思います。自分がメシアだと私の救い主と信じる方のところへ、連れて行くことです。そうして、その方を知ることによって真に心からイエス様と出合うことであります。イエス様と出合ったら人は変わります。こうして、イエス様はアンデレとシモンペテロを弟子として召されました。43節からは、「その翌日、イエスはガリラヤへ行こうとした時、フィリポに出合って言われた。「わたしに従いなさい」フィリポは次にナタナエルに出合って言った。「私たちはモーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出合った。その方はナザレの人でヨセフの子だ」。するとナタナエルが言った、「ナザレから何か良い者が出るだろうか」。フィリポは「来て、見なさい」。と言った。この福音書を書いているヨハネは淡々と簡潔に書いていますが、私たちは福音書を読むのに表面の書かれていることだけ読むのでなく、その書かれていること、秘められている一言一言の短い言葉の奥にどんな心情や深い真理が込められているか、ということを心を開いて読むべきだと思います。福音書は福音が書かれているのですから福音を読み解くことです。聖書は神の言葉であって聖霊に導かれて書かれているものです。ヨハネが淡々と短く書いている言葉の中にイエス様がどのような気持ちで若者と出合ってご自身の弟子として将来も見据えて、彼らにどんな期待を込めて弟子に召されていったのでしょうか。ここでイエス様と出合ったフイリポは友人のナタナエルに言っています。自分たちの民族の歴史の中に神が関わって来て下さった、旧約聖書の全部を一貫して代表と見てきたモーセ、預言者たちが指し示しているメシアに今、出会った」と。このことはフイリポにとって、とてつもない出合いであったことでしょう。するとナタナエルはいとも簡単に「ナザレから何か良い者が出るだろうか」とナザレの村のことを侮辱したような言い方で返しています。なぜ、こんな事を言っているのだろうか、と思います。ナタナエルは軽蔑して「神が選ばれた人などナザレから出るなどと旧約聖書のどこにも預言されていないよ。」と言いたげです。

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イギリスの有名な聖書学者ウィリアム・バークレーと言う先生の解釈では次のように言っています。ナザレは極めて平凡な所であって、ナタナエル自身はガリラヤのもう一つの町カナの出身であった。田舎の地方では町と町との間に嫉妬心があって村戸村との間にライバル意識があるのは周知のことであった。ですからカナ出身のナタナエルがナザレの村から何か良い者が起こるようなはずはない、と断言したのです。そこでフィリポは賢明でした。彼は議論をしなかった。彼は単純に「来て、見なさい」と言ったのです。47節を見ますと[イエスはナタナエルがご自分の方へ来るのを見て、彼の事をこう言われた。「見なさい!真のイスラエルびとだ。この人には偽りがない。」つまり、ここでは本当に純粋なユダヤ人その心に偽りのない人がいる。]と言われたのです。この事は敬虔なユダヤ人なら誰もがよく知っていた賛辞の言葉でありました。イエスは誉め言葉を言われたのです。面白いですね、ナタナエルはナザレ人をけなして言いましたがイエス様はナタナエルを誉め言葉で迎えられてナタナエルもイエス様の言葉をわかっていて、「どうして私の事を知っておられるのですか」と。お会いして間もないのに純粋なユダヤ人だと判断されるのに驚いたのです。そこでイエスはナタナエルに言われた。「フイリポと会う前にイチジクの木の下にいるのを,既に見たのだ」。ナタナエルは又びっくりです。どうしてイチジクの木の下にいたのを知っておられるのだろう。その奥にある意味は何であろうか。バークレー先生の解釈によれば、ユダヤの思想ではイチジクは常に平和を表すものであった。彼らが平和を思う時、自分のブドウの木の下とイチジクの木の下で穏やかに過ごす事が出来る時であった。更にイチジクの木は葉が茂って日陰が多くその枝で出来た屋根の下に座して黙想する習慣があった。そこでナタナエルもイチジクの木の下で黙想していたのだろう。彼は「神の選び人」が来る日に想いを馳せ、そのために祈っていたにちがいない。今や、彼の想いの奥底まで全てを見抜いておられる主イエス様に驚嘆したのでした。そうして彼は恐れおののきつつ叫びをあげたのです。「ラビ!あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」こうして、ナタナエルは自分の心を読み取り理解し、心を満たしてくれたイエス様に生涯仕えてゆく弟子となったのです。恐らくイエスは微笑まれたでありましょう。そして彼は旧約聖書、創世記18:12~13節にあるヤコブがベテルで夢の中に天まで達する梯子を見た、この物語を引用して、イエスが次のように言われたかのようで、「ナタナエルよ、あなたの心を読み取るよりも、もっと大きな事が私には出来るのだ。私はあなたのためにも、又全ての人々のためにも天に至る道、天に至る梯子となる事が出来るのだ。それはイエスによってだけ天に至る梯子となるのであります。ヨハネ福音書はイエス様の弟子となった4人について書いています。そのフイリポと一緒に弟子になったナタナエルは誰であったのか。

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バークレー先生は言っています。ナタエルはヨハネ福音書では、弟子たちの最初のグループの1人であった。ところが他の三つの福音書には彼は全然現れていないし名前すら出ていない。これはどうしてなのか、聖書学者の間でいくつかの説が言われました。一つにはナタエルは実在のじんぶつではなかった。という考えです。彼はイスラエル人全てを表している理想像であった。次に二つ目は彼はパウロだったかも知れない。或いはこの福音書の著者ヨハネか、どちらかであろう。三つめには、彼はマタイと同一人物ではないか、マタイとナタエルという名には神の贈物を意味していた。当時、大部分の人が二つの名を持っていた。一つはギリシャ語の名で、もう一つはユダヤ風の名であった。マタイもナタエルもユダヤ風の名である。四つ目が最有力な説ですが、ナタエルは友人のフイリポによってイエス様のもとに連れてこられた。ところでナタエルの名は他の三つの福音書には全然追及されていない。例えばマタイ福音書10章3節とマルコ福音書3章18節には12使徒の名は次の通りである。とあります。[まず、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、フイリポとバルトロマイ、トマスと徴税人マタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダである。]こう見てくるとマタイとマルコにも共通にフイリポの次に並んでバルトロマイの名を記しています。ところがヨハネではフイリポとナタナエルの名であってバルトロマイの名ではありません。バルトロマイというのはセカンドネームであって、もう一つの名を持っていたにちがいがない。そうするとバルトロマイとナタナエルは異なった名を持った同一人物である、ということは可能である。つまりナタナエルは他の三つの福音書ではバルトロマイと書かれている、という説です。イエス様の目にナタナエルは高慢な心を持たない、偏見に染まらない、まことのイスラエル人として、彼を弟子として召して下さったのであります。最後に、イエス様が召された、初めの弟子たちはこの世で、どんな終わりを遂げたのかと言いますと、アンデレはギリシャで磔の刑で殉教の死を遂げています。ペテロの人生の最後はローマに於いて逆さ磔にされて殉教の死を遂げています。フイリポは何処であったかわかりませんが、矢張り磔の刑にされて殉教の死を遂げています。ナタエルというバルトロマイの最後はアルメニアで鞭打ちの刑により殉教の死を遂げています。イエス様の弟子となって彼らはこの世に生きる限り、精いっぱい主に従ったのです。そしてその最後はイエス様と同じように磔の殉教の死を遂げています。イエス様に従って、全てを捧げ、命を投げ出した、その全てはやがて主イエス様の御国において輝かしい永遠の命に生かされる、希望の中にある、と信じます。「来て、見なさい。見よ!神の子羊」この一言の召きが熱い信仰と生涯を主に従って行く人生へと変えていったのであります。    アーメン

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

 

 

 

2024年1月7日(日)顕現後第一主日 主日礼拝  説教 田口 聖 牧師(日本ルーテル同胞教団)

マルコによる福音書1章4−11節

「洗礼者ヨハネが準備をし指し示す真の救い」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

1、「初めに」

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 今日の福音書は、洗礼者ヨハネについての記録と、そしてイエス様がそのヨハネの洗礼を受けられたことを伝えています。使徒ペテロと共に教会と宣教の働きをしてきたマルコは、ペテロの語るイエス・キリストの証しを1節、「神の子イエス・キリストの福音の初め」と言う言葉で始めています。しかしその「イエス・キリストの福音の初め」として彼は洗礼者ヨハネから始めます。そしてそれがイエス・キリストが彼の洗礼を受けることと共に伝え始めてい ることにはとても大事な意味があります。なぜならそこで伝えられていることはまさしく私たちへと与えられたイエス・キリストの福音の初めであるだけでなく、私たちの救いの核心をも指し示すことでもあるからです。今日はそのことを見ていきましょう。

2、「光ではない。しかし神が約束された預言者」

 繰り返しますが、マルコはイエス・キリストの福音の初めを洗礼者ヨハネの登場から始めます。しかしご存じのとおり、使徒ヨハネの福音書1章にある通り、洗礼者ヨハネは「光ではない」と聖書ははっきりと伝えています。つまり、彼は救い主ではなく人、罪人でした。しかし、彼は私たちと同じ罪人ですが、彼は旧約聖書で約束された預言者でした。4節の前2−3節にこのように始まっています。

「2預言者イザヤの書にこう書いてある。」

「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、

あなたの道を準備させよう。

3荒れ野で叫ぶ者の声がする。

『主の道を整え、

その道筋をまっすぐにせよ。』」

 2節は、旧約聖書マラキ3章1節からの引用であり、3節が同じ旧約聖書のイザヤ40章3節からの引用になりますが、これは、イエス様の時代からマラキの場合は約500年前、イザヤの場合は約700年以上前の預言者を通じて神様が約束されたことでした。その聖書の言葉が挙げられ、「その通り」とあって4節になります。

「そのとおり、 4洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。」

 洗礼者ヨハネは、光ではありません。つまり「メシア、救い主」ではありませんが、しかし、主が「使者を遣わす」と約束されたその約束の通りに、主が遣わされた者であり、つまり、主の約束が「その通りになった」という預言の成就であるということです。それは「荒れ野に現れ」たという場所的な一致もあるのですが、それ以上に、主がこの遣わすと言われ定め約束されたその使者に与えられている「働きと使命の実現」であることもここからわかるのです。

3、「何をするために」

A、「悔い改めの洗礼を伝えた」

 まず4節には「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を伝えた」とあります。彼は悔い改めて洗礼を受けることを人々に教えました。この「悔い改め」というのは間違った道を歩んでいたのを正しい方向に向きを変えることです。聖書がその初めからはっきりと伝える通りに、堕落の時以来、人間は誰でも、誰一人例外なく皆、生まれながら神の前にはどこまでも罪人であり、皆、神に背を向け、神を信ぜず、信頼せず、神の御心に背いて行こうとする存在です。それが聖書の伝える罪です。十戒という神の御心が与えられても、誰もその神の御心を完全に行うことができず、私たちは皆、神も隣人も、心を尽くし精神を尽くし思いを尽くして愛することができない存在です。そのような人類に対して堕落以来、神が望んでいるのはその罪の道、罪の行いを改め、そこから正しい道である神と神の言葉に向きを変えて神に立ち返ること、つまり「悔い改め」ることに他なりません。ですから、この「悔い改め」は、神の前にあっては堕落した昔から常に変わることなくとても重要なことなのです。イエス様も「時が満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1章15節)と宣教の言葉を伝えています。そして、マタイ3章を見ると、洗礼を受けに来たファリサイ派とサドカイ派の洗礼を洗礼者ヨハネは拒んでいます。それは彼らの心に悔い改めがないことを洗礼者ヨハネは見抜いていたからでした。洗礼者ヨハネは、そのように罪を告白し神に立ち返るよう、悔い改めの洗礼を授けるために荒野で人々を招いていたのでした。

 このように悔い改めは、イエス・キリストも望み招かれている大事で必要なことなのです。とかく現代の幾つかの教会は、罪人だと言われたくない現代人が「罪」や「悔い改め」と聞くと嫌がって教会や礼拝を避けるようになるからと、宣教や伝道と言う言葉を使いながらも、実際は「人集め」の目的のために、「罪」や「悔い改め」を伝えることを軽んじたり、むしろ「語らなくて良い」というような風潮や教会運営がよくあるのですが、そのようなことがあっては決してならないのです。教会は昔も今も変わらず、洗礼者ヨハネのように、そしてイエス様のように、聖書の律法を通して罪を示し、悔い改めを伝えていくのです。それも教会の大事な使命なのです。しかし大事な点ですが、悔い改めは必要なことではありながらも、「洗礼者ヨハネが光ではない」ように、そして律法が義認も救いも与えるのでは決してないように、悔い改めが罪から救うのでは決してないのです。

B,「救い主の道を準備する」

 預言の言葉を再び見ていただきたいのですが、

2節「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。

 というこの預言。これは神が洗礼者ヨハネに語っているのではなく、神が救い主御子キリストに語って、神である「わたし」が「あなた」御子より先に使者を遣わし、あなた「御子」の道を準備させようと言っていることがわかります。そして3節のイザヤの預言でも、荒野の叫ぶ者の声は、

『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」

 です。その通りに、洗礼者ヨハネの役割は、悔い改めで救いを与えることはではありませんでした。それは約束の救い主キリストが来られるための役割であり、そのキリストの前にキリストの道を整えるため、準備するため、そしてキリストを指し示し、キリストの道に向きを変えさせるための役割であり、そのために悔い改めに招くのです。ですから、悔い改めは救いを与えませんが、悔い改めは、救いを受けるための準備であり備えとして必要かつ大事であり、洗礼者ヨハネは旧約聖書の言葉を用いてそのように説教し、その役割を担っていることがわかるのです。事実、5節以下にあるようにユダヤの全地方から大勢の元に来て、罪を告白し、洗礼を受けます。しかし、彼は光ではなく、救い主でもなく、一人の預言者、一人の主から遣わされたみ言葉を伝える証人として、そのなすべき大事な使命を果たしているものとして自らを証ししています。7節

「7彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。 8わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」

 洗礼者ヨハネ自身、自分は光でもなければメシアでもないことを告白するでしょう。いやそれ以上に「履き物の紐を解く」というのは最も身分の低い僕のすることですが、自分はそれにも値しない。自分も一人の罪人であることを認めています。そして、自分は来ると約束された救い主ではない。自分の洗礼は救いを与えないが、真のメシアは聖霊で洗礼を授けるのだと、まさに自分ではなく、キリストを指し示しており、キリストのために道を備えるため、そして、キリストを指し示しているのですから、自分の務めは人々がまさにキリストの道に向きを変えていくための備えであることをはっきりとさせているのです。

C,「使徒ヨハネの洗礼者ヨハネについての証言から:キリストを指し示す役割」

これは、ヨハネの福音書を見ると具体的です。1章29〜31節

「〜ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。『見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。 30わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。 31わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」

 イエスを指し示し、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」「この方がイスラエルに現れるためにわたしは」と洗礼者ヨハネは言います。洗礼者ヨハネは悔い改めに招いています。しかし、それだけでなく、まさに、彼が主の道を整え、まっすぐにする、その目的は、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」とまさに聖書が約束された救い主の成就、イエス・キリストを指し示し、このイエスにこそ人々が向き、人々がキリストの名による聖霊のバプテスマを受け、真の罪の赦しと救いを受けさせることにあるのです。

 この洗礼者ヨハネの示唆は「教会とは何か、そして宣教とは何か」を教えてくれています。昨今の教会の教会観、あるいは、教会の宣教伝道観は、この洗礼者ヨハネのようにではなく、つまり、キリストの十字架を指し示すことではなく、何か、教会や組織そのものの力や能力とか魅力とか、あるいは十字架の福音よりも隣人愛のわざとか社会事業とか、あるいは、牧師のカリスマや、人間の功績や伝統などを「示したり」「アピールしたり」「指し示す」ことによって、つまり、いわば自分たちの何かを指し示し顕示することによって、教会を大きく魅力的に見せること、そのように人を集めることが何か宣教や伝道であるとか神に従っているとか敬虔であるかのように、それが教会運営のスタンダード、王道であるかのように、何の疑いもなく思われている節があります。しかし、神のみ言葉を預かる預言者であり宣教者である洗礼者ヨハネの宣教の王道は、自分の力や魅力を顕示し、人間にとって魅力的ではない悔い改めを排除することでもありませんでした。そう、彼は旧約のみ言葉から、悔い改めを説き、主と主のことばに立ち返らせ、そして何より、彼はキリストを「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と指し示しているではありませんか。キリストを指し示すこと、そして、それが「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と神の子羊であるキリストの十字架を指し示すこと。みなさん、ここに真の教会と宣教があるということは、何よりの基本であり、今も変わらないのです。

D,「それは自分が衰えても、キリストが栄えるなら」

 ヨハネの福音書の3章を見ると、洗礼者ヨハネは、自分のところに来る人々が減り、他方イエスのところにますます人々が行く状況でさえも、弟子たちはその数の減少に嘆きますが、しかし洗礼者ヨハネははっきりと言います。ヨハネ3章27−30節

「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。 28わたしは、『自分はメシアではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる。 29花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。 30あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」

 とかく目に見える繁栄や成功や数の増える減ったに右往左往する現代の教会であり私自身でもあるのですが、この洗礼者ヨハネの宣教のように、どこまでもキリストを指し示し、キリストが現されるために、自分は衰え、数が減り、死んでも、それこそが自分の使命、自分の喜び。これが主のしもべの喜びであり使命であるのだ、と言うことを私自身も一人の卑しい僕として気付かされ、常に立ち返るべく教えられているように教えられます。

4、「イエスはなぜ洗礼者ヨハネの洗礼を受けるのか」

 そして、事実、イエスこそ救い主であり、イエスはまさしく洗礼者ヨハネが叫んだように、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」であり、洗礼者ヨハネがそのための備えであることがわかるのが、イエス様の受けられる洗礼なのです。9節以下ですが

「9そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。 10水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。 11すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた。」

 マルコはあっさりと書いていますが、マタイの福音書では、洗礼者ヨハネは洗礼を受けにきたイエスを「思いとどまらせようとして『わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。』」と躊躇っていることが書かれています。確かにそうです。洗礼者ヨハネが自分より優れた方、そして自分の洗礼よりも遥かに優れた聖霊のバプテスマを授けるお方と自分が指し示したお方が、自分から洗礼を受けようというのですから、躊躇って当然です。人間の常識で言えばそうなるでしょう。ですから、彼の理性や常識で言えば、救い主であるイエス、そして罪がないイエス・キリスト、つまり悔い改めの洗礼を受ける必要のないイエス・キリストが、洗礼者ヨハネの洗礼を受けることは、理解できないことです。しかし、聖書全体から示されている約束と福音、つまりイエス様の十字架と復活の救いから見るならはっきりと教えられるのです。

 聖書ははっきりと私たちに教えています。ヘブライ4章15節にはこうあります。

「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。」

 さらには、パウロもフィリピ2章でこう記しています。6〜8節

「そして、イエス・キリストは人となられキリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、 7かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、 8へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」

 イエス様は罪のない方です。その人となられた生涯において罪を犯しませんでした。ですから悔い改めの必要のない方です。しかしそれ以外は私たちと同じようになられ、同じように苦しまれ、試練にあわれ、私たちの罪のために、私たちの罪を背負われて、罪の苦しみとその報いである死にまで従われ、まさにこの十字架に至るまでイエス様は従われるお方であることを福音書は私たちに指し示しています。そのためにイエス様はお生まれになり、そのために宣教を始められ、そしてそのためにこそ、まさに、私たちと同じように、私たちと等しくなるため、悔い改める必要がないのに、悔い改めの洗礼を受けられるのです。そして、同時にそうすることが、まさに悔い改めを持って、キリストの十字架の罪の赦しを見上げ、待ち望み、聖霊による洗礼を受けることに正しい道があることをご自身が示されているとも言えるでしょう。だからこそここに「天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来て」、 父なる神は、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と全ては神の御心にかなっていること、つまり、このイエス様が受けられる洗礼もまた、神が遥か昔から約束された救いの約束の通りに、成就しているのだと、宣言されたのでした。

5、「すべては世の救いである十字架と復活を指し示すために」

 ですから、今日もこのように、洗礼者ヨハネを通して、そしてこのイエス様が彼の洗礼を受けられること、そして、それがこの三位一体の神の御心に全てかなって成就していることを通して、神様は私たちに、このイエス・キリストの十字架と復活を指し示しているのです。

 私たちは、つまり、牧師である私も含めて、神の前に正しい人はいません。悔い改めの必要ない人はいません。私たちは皆、神の前には罪人です。悔い改めが必要な存在です。神は常にみ言葉を私たちに語り、罪を示し、罪を悔い改めるように招いています。その悔い改めは私たちの力や努力でできることではなく、これもまた神がみ言葉を通して私たちを導いてくださった神の働きです。しかし、その悔い改めは、神が与えてくださる唯一の正しい道へ導くための備えです。悔い改めが私たちを救うのではありません。悔い改めた時に、その唯一の救いの道である、そこに指し示されているイエス・キリストが私たちを救ってくださるのです。聖書ははっきりと伝えています。そのキリストが、私たちの神の前の罪を全て背負って、その罪のための罰を、私たちの代わりに全て完全に負ってくださって、私たちの代わりに死んでくださったと。そしてそれこそが遥か昔から神が約束し伝える福音であり唯一の救いの良い知らせなんだと聖書は伝えているし、それが聖書の中心であり教会の中心です。しかもその福音は、ある選ばれた人々のためだけではなく、全ての人々のために与えられています。例外は一才ありません。ですから、その聖書の言葉は真実でその通りになる力ある神の言葉なのですから、誰でも、み言葉から罪を示され悔い改める時に、そこに指し示されているキリストとその十字架の罪の赦しを信じ、そのまま神が与えてくださっているものを受けるときに誰でも罪の赦しを受けることができるし誰でも救われるのです。そして、そこには復活の新しい命もあるのですから、私たちはその福音によって常にいのちを新しくされ喜びと平安と救いの確信のうちに出ていくことができるのです。この平安、安心、救いの確信はとても幸いな救いの賜物であり極めて大事です。「人が、私たちが、まずこうでなければならない、こうしなければならない」という律法は決して信仰生活や良い行いに平安と希望を与えません。ただ重荷と救われているのだろうかという不安が増し加わるだけです。しかし、まさに今日教えられている、洗礼者ヨハネが「指し示す」この神の御子イ_エス様が完全に成し遂げてくださった十字架の福音こそ平安と救いの確信を与えることができつると聖書は約束しています。ですから、その福音を受けるときに溢れ出る喜びと平安、その福音による救いが何よりの命であり力であるからこそ、真に神の前に偽りのない、自分のためではなく独りよがりでもない、真に100%相手のために愛を表し、良い行いを行っていくことができるのです。それは素晴らしい恵みではありませんか。ですから、今日もイエス様は、私たち一人一人にこの十字架のゆえに「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と宣言してくださっています。そのまま救いの恵み、イエス・キリストの罪の赦しと新しいいのちを受けましょう。そして平安のうちにここから遣わされていき、神様の御心のための用いられ隣人へ神の御心を行っていきましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

 

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

 

 

 

 

 

「私たちの真実を明らかにし道しるべとなるイエス様の光」吉村博明 牧師 、ルカによる福音書2章22-40節

主日礼拝説教 2023年12月31日降誕後主日

聖書日課 イザヤ61章10節ー62章3節
ガラテア4章4節ー7節
ルカ2章22-40節

説教をYoutubeで見る

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.イエス様誕生後の謎に迫る - 保守主義者の立場から

 本日の福音書の箇所にシメオンのキリスト賛美がありました。私たちはこの賛美をいつも礼拝の中のヌンク・ディミティスのところで唱えています。「今私は主の救いを見ました。主よ、あなたは御言葉の通り僕を安らかに去らせて下さいます。この救いは諸々の民のためにお供えになられたもの。異邦人の心を照らす光、御民イスラエルの栄光です」といつも唱えます。「ヌンク・ディミティス」というのは、「今あなたは去らせて下さいます」のラテン語です。

このキリスト賛美は、老人シメオンがエルサレムの神殿でマリアとヨセフに連れられた赤ちゃんイエスを見て唱えました。ここで、イエス様がベツレヘムの馬小屋で誕生した後の出来事の流れを少し振り返ってみましょう。

本日の福音書の個所の前のルカ2章21節をみると、イエス様が誕生8日後にユダヤ教の律法に従って割礼を受けたことが記されています。(レビ記12章3節、創世記17章10~14節)。その次に本日の個所が来て、場面が一変します。律法によれば子供の割礼後、母親は99日間清めの期間というのがあります。その間は神殿に入れず、それが過ぎた後で神殿に行って子羊ないし山鳩の生け贄を捧げて清めが完了したことになります(レビ記12章4~8節)。ヨセフとマリアとイエス様が神殿に行ったのはこの規定のためでした。そうすると、割礼の後三人はどこにいたのでしょうか?ここでマタイ福音書2章を見ると、生まれたばかりのイエス様と両親はヘロデ王の迫害から逃れるためにエジプトに避難したことになっています。親子三人は王が死ぬまでエジプトに滞在したことになっています。先ほどの清めの期間の約3か月間は神殿には行けないので、それがエジプト避難の期間にうまく当てはまります。

ところが、時間的につじつまがあわないことが出てきます。三人がエジプトからイスラエルに帰還するのはヘロデ王が死んだ後です。王の死は紀元前4年とされています。そうするとイエス様の誕生は紀元前4年か5年になる。ところが、ローマ帝国が行った租税のための住民登録の実施年は紀元前7年が有望とされていて、紀元前4年ないし5年に住民登録があったという記録は見つかっていない。さらに、星の異常な輝きが見られたということに関して、紀元前6年に木星と土星の異常接近があったことが天文学的に計算されています。そうなると、イエス様の誕生年は紀元前6、7年となり、親子三人のエジプト滞在は2~3年の長期になってしまいます。シメオンが抱きあげたイエス様も赤ちゃんと言うよりは2、3歳くらいの幼児になってしまいます。以前の説教でその可能性を言ったことがありますが、今回は、マタイ2章でヘロデ王が殺せと命じたのは2歳までの男の子だったことに思い当たりました。生後一か月とかではなく2歳まで対象を拡大したというのは、王が東方の博士たちの戻って来るのを暫く待っていたことを伺わせます。どれ位待ったかわかりませんが、もし3ヶ月以上だったら、親子三人はベツレヘムからエルサレムの神殿に行くことができます。

ここから次のように考えることができます。住民登録は紀元前7年のものが有望とは言っても有望と言うだけで、他に記録が失われたものがあるかもしれない。ないしは、皇帝の命令が全領土に一斉に同時執行されなくて、地域差があったかもしれない。星の輝きも、天文学的に突き止められるのが紀元前6年にあったと言うだけで、土星と木星の異常接近以外にも、彗星か何か、まだ突き止められていない星の動きがあったことも否定できません。それで、イエス様の誕生がヘロデ王死去の年に近づけば近づくほど、シメオンが抱き上げた子供は幼児ではなく赤ちゃんになっていきます。

なぜ、こんなふうに、一見かみ合わないマタイとルカの記述をあわせようとするかと言うと、説教者や神学者によっては、マタイとルカの記述は全く別の出所から来ているのであわせようとしても無駄だと考える人がいるからです。全く別の出所から来ていると考えると、どっちか一方は歴史的に本当かもしれないが、他方は本当でない作り話になってしまいます。または、両方とも作り話と見てしまう人もいます。そういう人たちが説教をすると、一種の小説評論のようになります。

私が、マタイとルカの両方をあわせようとするのは、両方とも歴史的に本当であることを前提にしてその可能性を追求しようということです。マタイとルカが一見かみ合わない記述になってしまったのは致し方のないことです。と言うのは、イエス様の大人の時と違って子供の時は目撃者に限りがあります。ヨセフが生前に周囲に語ったことと、長く生きたマリアが弟子たちに語ったことが中心にならざるを得なかったでしょう。それぞれの観点でそれぞれの印象と記憶に基づいて語られたので、いろいろ一致しないことが出てくるのは止むを得ないのです。そういうものだと観念して、歴史的に本当だという立場に立つ者を私は保守主義と呼びます。聖書に書かれたことを大事に保全する(conserve、conservative、conservatism)からです。逆に、聖書のここは本当、ここは本当じゃない、と自由自在に切り刻んでいく立場を自由主義リベラリズムと呼びます。

2.シメオンのキリスト賛美 - 自己民族の観点?普遍的な観点?

イエス様とマリアとヨセフの三人がエルサレムの神殿に来て清めの儀式をした時、老人シメオンが近寄ってきて、イエス様を腕にとって神を賛美しました。この子が神の約束されたメシア救世主である、と。シメオンは、イエス様のことを「異邦人を照らす啓示の光」と呼びます。どんな光かと言うと、ギリシャ語原文をよく見ると、今まで現れていなかった光が現れてそれを異邦人が目にするという光です。簡単に言えば、「異邦人に現れる光」です。「異邦人」というのは、ユダヤ民族以外の全ての民族です。アメリカ人もヨーロッパ人も日本人もアフリカ人も、ユダヤ教に改宗していなければ、みんな異邦人です。その異邦人に現れる光とはどんな光なのでしょうか?それは、神の意志を人間に明らかにする光です。天地創造の神の意志は、それまでは旧約聖書を通して主にユダヤ民族に知らされていました。それが、神のひとり子イエス様がこの世に贈られて以後は異邦人にも知らされることになるというのです。そのような方が旧約聖書の預言通りにユダヤ民族の中から輩出した、それでシメオンはイエス様のことを「神の民イスラエルの栄光」と賛美したのです。

 シメオンは「イスラエルの慰め」を待っていて、メシア救世主を見るまでは死ぬことはないと聖霊に告げられていました。そして、メシアはこの子だと聖霊によって示されて賛美を始めました。

ところが、待望のメシア救世主の将来はいいことづくめではありません。シメオンはイエス様について預言を始めます。この子は将来、イスラエルの多くの人たちにとって「倒したり立ち上がらせる

者になる。つまり、イエス様は多くの人たちを躓かせることになるが、また多くの人たちを立ち上がらせることにもなる、と。果たして、本当にその通りになりました。律法学者やファリサイ派のような宗教エリートたちが、自分たちこそは旧約聖書を正しく理解して天地創造の神の意思を正確に理解していると思っていたのに、本当はそうではないとイエス様から突き付けられてしまいます。それで彼に躓いてしまいました。イエス様は文字通り「反対を受けるしるし」になってしまい、それがもとで十字架刑に処せられてしまいます。十字架の上で苦しみながら死んでいくイエス様をマリアは自分の目で見なければならなくなります。文字通り「剣で心を刺し貫かれた」のでした。

しかしながら、イエス様はただ単に反対され躓きになっただけではありませんでした。多くの人たちを立ち上がらせることにもなったのです。イエス様の十字架の死は、ただ単に彼に躓いた者たちから迫害を受けて殺されてしまったということではありませんでした。神の大いなる計画がそのような形をとって実現したということだったのです。それでは、神の大いなる計画とは何か?それは、人間の罪に対する神罰を人間に受けさせるのではなく、代わりに自分のひとり子に全部受けさせるということです。つまり、イエス様の十字架の死というのは、人間に罪の赦しのチャンスを与えるために神がひとり子を犠牲にして罪の償いを人間に代わってさせたというのが真相だったのです。

神がイエス様を用いて行ったことは罪の償いだけではありませんでした。神は一度死んだイエス様を復活させて、死を超えた永遠の命があることをこの世に知らしめ、そこに至る道を人間に切り開いて下さいました。人間は、これらのこと全ては神が自分のためにしてくれたのだとわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ、イエス様が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになります。罪を償われたからその人は神から罪を赦された者と見なされ、神との結びつきを持ててこの世を生きるようになります。永遠の命に至る道に置かれて、その道を進んでいきます。たとえこの世から離れることになっても、復活の日に目覚めさせられて永遠の命が待つ神の国に迎え入れられます。このようにして、イエス様のおかげで「立ち上がる」者も出たのです。

そこで、使徒たちがこの「罪の赦しの救い」という福音を宣べ伝え始めると、それを受け入れて「立ち上がる」者が次々と出ました。他方では、受け入れないで反対する者も出ました。まさにシメオンが預言した通りになったのです。さすがに聖霊を受けただけあって完璧な預言でした。

 ところで、シメオンがイエス様を抱き上げて賛美と預言をしていた時に、ハンナというやもめの老婆がやってきました。自分の人生を神に捧げることに徹し、神殿にとどまって断食したり祈りを捧げて昼夜を問わず神に仕えてきました。聖書に「預言者」と言われるからには聖霊の力を受けていたわけですが、やはりイエス様のことがわかりました。それで、周りにいた「エルサレムの救い(贖いλυτρωσις Ιεροθσαλημ)を待ち望んでいる人たち」に、この幼子がその救いの実現であると語り始めたのです。

ここで、シメオンとハンナの賛美や預言をみて一つ気になることがあります。それは、二人ともイエス様が全人類の救世主であるとわかっていたのに、彼らの言葉づかいや、この出来事を記したルカの書き方を見ると、「イスラエルの慰め」とか「エルサレムの救い(贖い)」とか、どうもユダヤ民族という特定民族の救い主であるような言い方、書き方をしています。「イスラエルの慰め」というのは、イザヤ書40章1節や49章13節にある預言、「エルサレムの救い」というのは52章9節にある預言がもとにあります。イエス様の誕生はこれらの預言の実現と理解されたのです。

イザヤ書の40章から55章までのいわゆる「第二イザヤ」の部分は一見すると、ユダヤ民族がバビロン捕囚から解放されて祖国に帰還できることを預言しているように見える個所です。実際にこの帰還は歴史的に起こりまして、エルサレムの町と神殿は再建されました。ところが、帰還と再建の後もユダヤ民族の状況はかつてのダビデ・ソロモン王の時のような勢いはなく、ほとんどの期間は異民族に支配され続けました。神殿を中心とする礼拝も本当に神の御心に適うものになっているかどうか疑う向きも多くありました。それで、イザヤ書40章から55章までの預言は実は祖国帰還後もまだ実現していない、未完の預言だと理解されるようになりました。そうした理解はユダヤ民族の祖国帰還から500年以上たったイエス様の時代でも持たれていたことが、シメオンが「イスラエルの慰め」を、また人々が「エルサレムの救い」を待ち望んでいたことからうかがえます。

 このようにユダヤ民族中心のように見える預言の言葉ですが、シメオンの賛美をよく見ると、メシア救世主がユダヤ民族の解放者ではなく、全人類にかかわる救世主であることをちゃんと言っているのがわかります(2章31節と32節)。特に32節の言葉「異邦人を照らす啓示の光」ないし「異邦人に現れる光」は、イザヤ書49章6節の預言が実現したことを意味します。「わたしはあなたを僕としてヤコブの諸部族を立ち上がらせ、イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。だがそれにもまして、わたしはあなたを国々の光とし、わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする。

ユダヤ民族の祖国帰還と復興だけでは不十分だ、足りない、スケールが小さすぎるという内容です。救世主のなすべきことはユダヤ民族のことだけにとどまらず、全世界の諸国民の光となって神の救いを全世界にもたらすことだ、と言うのです。

 そういうわけで、ルカや他の福音書の中にユダヤ民族の救いや解放を言うような言葉遣いや表現があっても、それは旧約聖書の預言の言葉遣いや表現法に基づくものであり、それらの預言の内容自体は全人類に及ぶ救いを意味していることを忘れてはなりません。ユダヤ人であるかその他の異邦人であるかに関係なく、救いを受け取る者が真のイスラエルなのであり、永遠の命に与る者が迎え入れられる神の御国が「天上のエルサレム」と呼ばれるのです。

3.私たちの真実を明らかにし道しるべとなるイエス様の光

イエス様が私たちに現れる光であるというのは、どんな光なのでしょうか?イエス様は光であると聞くと、大方は暗闇のような世の中で私たちが道を誤らないように導いてくれる道しるべのようなイメージがわくでしょう。それはその通りなのですが、イエス様が道しるべの光であるというのはどういうことか正確に理解しないといけません。それは、私たちがイエス様の光に照らされると、私たちの罪が明るみに出されたかのように自分で気づくことになってしまうということです。シメオンが預言したように、光になるイエス様が反対を受けるしるしになるというのは、「多くの人の心にある思いがあらわにされるため」ということがあったからでした。ヨハネ3章でイエス様自身、こう述べています。「悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ない」と(19節)。

自分の心の中に神の意志に反する事柄が無数にある、例えば妬み、憎しみ、不倫、他人を見下すこと、誰かを悪者に仕立てること、嘘や誇張、偽証や改ざん、そして分け隔てない思いやりが不足していること、さらにはそうした悪いものに縛られていてもそこから脱せられるように神に助けを求めないこと等々、こうしたことが聖書の御言葉を聞く人、読む人は思い知らされます。それは御言葉を通して神の霊、聖霊が働くからです。また御言葉を読んだり聞いたりしていない時に思い知らされることもあります。それは、神が直接働きかて私たちを聖書の御言葉に結び付けようとしているからです。

しかしながら、自分には神の意思に反するものがあると示されたら、どんなな思いになるでしょうか?キリスト信仰者でない人には目障りなことに感じられるでしょう。自分は自分の考えで決める、自分が感じること欲することが自分の進む方向を決める、神の意思などにいちいち照らし合わせるなんてしたら自分の好きなことができなくなってしまう、と言うでしょう。

キリスト信仰者の場合は、神の意思に反するものを示されたら、ああ、自分は神の御前に立たされたら失格者だと心配になるでしょう。人によっては、何としてでも十戒の掟を守り抜かねばと必死になり神経質になり、結局、心の中までは守り切れていないとわかってとってもがっかりしてしまうでしょう。しかし、ここがまさにイエス様はどんな光かがわかる地点なのです。

洗礼を受けてイエス様を救い主と信じる信仰に生きる者は、使徒パウロが何度も教えるように、イエス様を神聖な衣のように頭から被せられているのです。それで、神の目から見たら合格者なのです。もちろん、衣の下の肉体の中にはまだ神の意思に反する罪があります。しかし、それにもかかわらず神はイエス様の犠牲の死で罪の償いは完了した、それを受け取った者は償いを完了した者と見なして下さるのです。信仰者の側では償いのために何もしていないのに(そもそもそんなことは不可能です)、イエス様が果たしたことと、それを受け取ったことで神は義として下さるのです。つまり、私たちは神に先を越されてしまったのです。それなので、あと私たちがすることと言えば、神にしてもらった自分に自分を従わせていくだけなのです。

そうすると、必ずギャップに気づく時が来ます。というのは、外側は神の義を着せてもらっているけど、その下にはまだ罪が残っているからです。ギャップが明らかになる度に、罪の告白をして赦しの宣言をしてもらいます。その時、ゴルゴタの十字架で打ち立てられた罪の赦しは微動だにせずあることを確信して安心します。この安心と確信をもって、また神にしてもらって自分に自分を従わせる道に戻ります。キリスト信仰者はこれを繰り返していきます。繰り返せば繰り返すほど、内にある罪は圧し潰されて行きます。この繰り返しの先にあるのが、復活の日の目覚めと神の国への迎え入れです。イエス様が道しるべの光というのは、まさにそこに向かって進めるようにする光ということです。このことをイエス様自身がヨハネ8章12節で言っています。「私は世の光である。私に従う者は暗闇を歩くことはない。その者は永遠の命に導く光を持つことになる。」(少し解説的に訳しました。)

このようにイエス様という光は私たちの真実を明らかにするという機能と明らかにされた私たちがどこに進むべきかを示す道しるべになるという機能の二つの機能を同時に兼ね備えた光です。主にあって兄弟姉妹でおられる皆さん、私たちは洗礼を受けることでこの光を得ました。そして、イエス様を救い主と信じる信仰に生きることでこの光を携えて進んで行くのです。今年は今日で終わりますが、新しい年もイエス様の光を携えて進んで行きましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

説教「クリスマスの祝い方」吉村博明 牧師 、ルカによる福音書 2章1-20節

降誕祭前夜礼拝説教 2023年12月24日

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

1.

今年もクリスマス・イブの日となりました。クリスマスはお祝いのシーズンということで、毎年あちこちにクリスマスツリーが飾られ、イルミネーションが輝き、デパートやお店ではクリスマスプレゼント用の品物が山のように並び、レストランではクリスマスディナーが振る舞われ、あちこちにクリスマスソングが響きます。

 そうしたお祭り、お祝いの雰囲気に今年は違和感を覚える人もいます。というのは、ウクライナの戦争が続いている上に、今年は10月からのイスラエルとガザの戦争が連日ニュースで伝えられ毎日のように悲劇的な映像を目にします。さらに、こうした大きなニュースになる国々の陰で世界のあちこちで紛争や内乱があります。世界中で戦火に巻き込まれて苦しんでいる人が大勢いるのに、お祝いする気になんかなれないというのは、もっともなことと思います。

 そもそもクリスマスは何をお祝いする日なのか?イエス・キリストというキリスト教の大元になる人の誕生日ということは多くの人が知っています。ただ、自分はキリスト教徒じゃないから、イエス・キリストの誕生日は関係ないというのが大半かと思います。しかし、だからと言ってお祝いをしないかと言うと、意外とそうではありません。きっと多くの人たちは新年の前に過ぎ去る一年を労うようなお祝いみたいのがあってもいいじゃないかということではないかと思います。それでか、クリスマスというキリストに関係する言葉を避けて、この季節をホリデ―シーズンと言ったり、挨拶も季節の挨拶シーズンズ・グリーティングスなどと言い換えたりします。それで、華やかに豪華に年末のお祝いをするのですが、今のように世界の悲惨な状況がすぐ目の前に飛び込んでくるようになると、お祭り気分になれないという気持ちになると思います。

 キリスト信仰者は、もちろんイエス・キリストを前面に出してクリスマスをお祝いするのですが、信仰者でない人たちから見たら、今のような世界情勢の中でどうしてお祝いする気分になれるのかと驚かれるかもしれません。特に、先ほど読んだ聖書の個所の次の2つのことがこの疑問を強くします。それは、天使が羊飼いたちに言った言葉、「救い主がお生まれになった」と、もう一つ、大勢の天使たちが賛美して言った「地には平和、御心に適う人にあれ」という言葉です。「地には平和、御心に適う人にあれ」というのは、ギリシャ語の原文が詩的な文章なので正確な意味がつかめにくいです。一つには、「地上では神の御心に適う人に平和がありますように」という希望を表明していると捉えられます。もう一つは、、「地上では神の御心に適う人に平和があるんだ」と、そういう人たちに平和があるという常態を述べているとも捉えられます。

 しかしながら、希望にしても常態にしても、今の世界情勢の現実を見ると、そんなのは常態からほど遠いし、そんな希望も打ち砕かれてしまう状況があるではないかと反論されると思います。それに、「神の御心に適う人たちに平和がある」などと言ったら、戦争のさなかにいる人たちは神の御心に適わないのか、逆に戦争のないところにいる人たちは神の御心に適うのか、となってしまいます。また、「救い主」が生まれたと言っても、悲惨な状況から救われない人たちが沢山いるではないか、救いなど全然ないではないかと反発を受けたりします。

 そのような反発は、「救い主」や「平和」をただ言葉のイメージだけで考えると出てきやすいと思います。そこで、今少し立ち止まって、聖書が伝える「救い主」とは何か、「平和」とは何かを見てみようと思います。それがわかると、今のこの混乱と悲惨に満ちた時代の中にいても、イエス・キリストの誕生を素直にお祝いできるようになります。これからそのことを見ていきます。

2.

「神の御心に適う人に平和がある」の「平和」とは何か?戦争がない平和でしょうか?もちろん、それも含まれますが、キリスト信仰で一番大事な「平和」は神と人間の間に平和な関係があるということです。神と人間が対立関係にないということです。神と平和な関係があれば、たとえ自分の周りは平和が失われた状況でも、自分と神との平和な関係は失われていない、周りが平和か混乱かに関係なく自分には失われない平和がある、そういう内なる平和です。使徒パウロは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けたキリスト信仰者にはこの平和があると教えます(ローマ5章)。そして、神と平和な関係にある信仰者は周囲の人たちと平和な関係を築くのが当然になると教えました(12章)。周囲の人たちと平和な関係を築けるかどうかがキリスト信仰者のあなたの肩にかかっているのであれば、迷わずにそうしなさいと。相手が応じればそれでよし。相手が応じない場合でも、相手みたいに非友好的な態度はとらないということです。神との平和な関係が築けたら、そうするのが当然だと言うのです。

 次に「救い主」についてみてみましょう。普通、「救い」とか「救われる」と言う時、それは何からの「救い」、「救われ」でしょうか?普通、病気が治った時とか、何か危険な状態から脱することが出来た時、救われたと言います。もちろん、そういうことも含みますが、キリスト信仰の「救い」、「救われる」で一番大事なことは次のことです。つまり、神との平和な関係を壊していた原因が除去されて、神との平和な関係を築けることが「救い」です。それでは、神との平和な関係を壊していたものは何か?それは、人間誰しもが神の意思に反することが備わっているということです。その神の意思に反することを聖書は罪と言います。罪という言葉を聞くと、普通は法律で罰せられるような犯罪行為を考えます。もちろん、それも含みますが、キリスト信仰で「罪」と言ったら、もっと広く、行為には出なくても心の中で持ってしまっても罪になります。それで法律で罰せられないものも神の目から見たら罪になります。まさにこのために神と人間の平和な関係が失われていたのでした。これを放置しておくと、人間はこの世を生きる時、神に背を向けたまま、神との結び付きを持たないで生きることになってしまいます。そして、この世を去る時も、神と結び付きがないまま、全くの一人で未知の世界に飛び立たなければならなくなってしまいます。

 創造主の神は、この罪の問題を解決して人間が自分と平和な関係を築けるようにしようと、それでひとり子のイエス様をこの世に贈ったのでした。この神のひとり子は、人間のすべての罪を全部自分で引き受けて、ゴルゴタの十字架の上に運び上げ、そこで人間に代わって神罰を受けて死なれました。神聖な神のひとり子が人間の罪を人間に代わって神に対して償って下さったのです。さらに神はイエス様を想像を絶する力で死から復活させて、死を超える命があることをこの世に知らしめ、人間も将来の復活の日に復活に与れる可能性を開いて下さいました。あとは人間の方が、これらのことは本当に起こった、それでイエス様は救い主であると信じて洗礼を受けると、ひとり子が果たしてくれた罪の償いはその人にその通りになり、その人は罪を償われたので神から罪を赦された者と見なされ、神との間に平和な関係が打ち立てられます。神と平和な関係があれば、この世の人生で逆境だろうが、順境だろうが、何も変わらない神との結び付きを持てて生きることになります。そして、この世を去る時、神との結び付きを持って去り、復活の日に眠りから目覚めさせられて、朽ち果てた体に換わる朽ちない復活の体を着せられて神の御許に永遠に迎え入れられます。このような、今のこの世と次に来る世にまたがって神との結び付きを持って生きられることが、キリスト信仰の救いです。

3.

このようにキリスト信仰で「平和」と言ったら、一番大事なものは「神との平和」であり、「救い」と言ったら、一番大事なものは「罪の赦しの救い」です。これらは全部、父なるみ神が御子イエス様を通して私たち人間に準備して下さいました。神は、それを受け取りなさいと言って、私たちに差し出して下さっているのです。これを受け取らないという手はありません。ただ単に受け取るだけで、神との平和と罪の赦しのお恵みを自分のものにすることが出来るのです。どうやって受け取るかと言うと、洗礼を受けることで受け取れます。そして、イエス様を救い主と信じる信仰に留まることで、受け取ったものを携えて歩むことができます。

 なので、クリスマスでイエス・キリストの誕生を神に感謝してお祝いするというのは、単に一人の赤ちゃんが不運な境遇の中で無事に生まれて、ああ、良かった、おめでとう、というお祝いではないのです。このひとり子のおかげで、私たちがこの混乱と悲惨が渦巻く世の中にあっても、神との結び付きを持って歩めるようになった、それで、そのひとり子を贈って下さった神に感謝してお祝いをするのです。だからキリスト信仰者は、ベツレヘムの馬小屋の飼い葉おけの中で眠っている赤ちゃんを心の目で見る時、同時にその先にあるイエス様の十字架の死と死からの復活をも心の目で見るのです。

 それは、あたかも、長くて暗いトンネルの向こうに光があるのを見るのと同じです。真っ暗闇の中にいる人は、自分がどこにいるのか、どこに向かっていいのかわかりません。キリスト信仰者には、自分はどこにいて、どこに向かっていいのかがわかる光があるのです。罪の赦しの救いと神との平和の関係をもたらしてくれたイエス様がその光です。イザヤ書9章1節のみ言葉の通りです。「闇の中を歩む民は大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」 ベツレヘムの馬小屋の飼い葉おけの中で安らかに眠る赤ちゃんにこの光を見ることが、キリスト信仰者にとってクリスマスのお祝いの一番なくてはならないものです。それがなかったら何もお祝い出来ないというくらい大事なものです。そのお祝いでは、この光を与えて下さった神に感謝します。

 キリスト信仰者が光を見、神に感謝するのは、周囲が平和な時か平和でない時かは関係ありません。平和で品物に不自由しない時、お祝いの雰囲気を高めようと品物や食べ物を用いますが、それは光に置き換えることは出来ないと信仰者はわかっています。逆に平和がなくて品物や食べ物がない時でも、光はそれと無関係に輝いていることをキリスト信仰者は心の目で見ています。それはさながら、暗闇の方が光がよく見えることと同じです。逆に周りが明るいと光は見えなくなってしまいます。それは、平和の時に品物や食べ物に囲まれてしまってイエス様の光が見えなくなってしまうことと同じです。それだからこそ、この日、あのベツレヘムの夜、電気も街頭もイルミネーションもない、ただ夜空の星と月だけの天然の照明の夜、馬小屋の中は油か蝋燭の光が頼りだったあの夜、ヨセフとマリアと羊飼いと集まってきた人たちに囲まれて安らかに眠る赤ちゃんを心の目で見ることは本当の光をみることになるのです。

ヨハネ福音書1章14節のみ言葉は、神の言葉ロゴスであるひとり子が人間として生まれて神の栄光を現していたことを述べています。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

ピエニ・タウコのカンテラ演奏

2023年12月24日(日)待降節第四主日 主日礼拝 説教 田口聖 牧師(日本ルーテル同胞教団)

説教をYouTubeで見る。

聖書日課 ルカによる福音書1章26〜38節

「昔からの約束を神は私たちのために実現してくださった」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

1、「初めに」

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 今日の福音書の箇所は、私たちの救いが、人から出たものでは決してなく、どこまでも神が遥か昔から計画をたて約束をしたことを、神ご自身が実現されるという、神のみ言葉と約束の真実さと完全さ、そしてイエス・キリストの恵みと救いの完全さを教えてくれています。その「遥か昔の約束」というのは御使いがマリヤに語ったように、サムエルの時代、先ほど読んでいただいた主が預言者ナタンを通してダビデに語られた約束の成就でももちろんあります。しかし神はそれよりも遥か前、それは創世記3章、人類が堕落したまさにその時に神が語られた「女の子孫が悪魔の頭を砕く」という約束の成就でもあります。そのように私たちが罪に堕落したその時から神様は私たちを罪と悪魔の支配から救われるという約束こそを、旧約聖書は伝えてきたのでした。アブラハムへの彼の子孫を大いなる国民とし祝福するという約束や、そのための子イサクの誕生の約束、等々、旧約聖書の約束全てが、神様は堕落した人類を決して見捨てるのではなく、その罪からの救いと祝福を決して忘れず、むしろアブラハムやダビデなど信仰者にその約束を繰り返し語り、思い出させ、民に伝えさせ、そして、その通りに約束を果たして下さった事実こそ、このイエス・キリストの誕生に他なりません。しかし、その世界を罪から救う約束の成就と真実さは、どこにどのように実現するでしょう?救い主は、ローマの皇帝やユダヤの王や優れた貴族の家に生まれ他のでしょうか?そうではなく、天地創造の神は、その約束の救い主を、そのような皇帝や王や貴族の家にではなく、このイスラエルの田舎町ナザレのごく普通の女性であり罪人であるマリヤへと実現されるのです。しかしその神のなさったわざと事実に、私たちへの救いの恵み、福音のメッセージがあるというのが今日のところです。

2、「天使はいいなずけであるおとめのところへ遣わされた」

 神はその実現を伝えるため、御使いガブリエルをマリヤのところへ遣わしました。26節からこう始まっています。

「26六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。 27ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。」

A, 「すべては初めから詳しく調べた事実:処女懐胎の事実」

 まず、このナザレのマリヤについてルカは「乙女」とあります。これは新改訳聖書ですと「一人の処女のところへ」と書いています。この福音書を記録した医者であるルカは、この福音書の書き出し1章の始めに、「全てのことを初めから詳しく調べた」(1章3節)と言っています。ですから当然今日のこの箇所も、彼が「詳しく綿密に調べた確信として

(1章1節)記しているものです。そこでですがこの時代も今の時代も当然そうですが、乙女、処女がみごもるなどあり得ない事です。ですからまず人はここで躓くのです。科学、常識ではあり得ないことだからです。創世記18章にもありますが、信仰の父と言われるアブラハムとその妻のサラでさえも、常識ではあり得ないことを疑いました。神ははっきりと彼らに「来年の今頃、男の子が生まれる」と約束しました。しかし、100歳にも近い年老いた自分たちにはそんなことはあり得ない。起こりえない。人間の理屈、常識にあわないことだ。だからと二人は笑って信じませんでした。多くの人もいつの時代でも同じです。聖書の奇跡は「科学的にも常識的にもあり得ない」と。神学者や牧師でさえも、人間理性中心で聖書を判断するような人々は、それは理性や常識に反するから、だから「マリヤは処女ではななかったのだ。それは作り話なんだ。それはマリヤは誰かヨセフ以外の人と関係を持っていたのだ。それを隠すための口実として弟子たちが記したんだ」と教会で当たり前のように説教をします。そのようにこのマリヤに起こった奇跡を否定する教えは教会の外だけではない教会の中でさえも沢山言われてきたのでした。けれども、医者であったルカは始めに「詳しく調べて」「綿密に調べて」「乙女、一人の処女のところへ」と宣言しています。つまり、これは、初代教会が、そして使徒達が初めから紛れもない神の事実であると確信して、そしてルカ自身もはじめから綿密に調べた事実として、この「天使ガブリエルは確かに「乙女」「処女

マリヤのところに来た」のだと記しているということなのです。そして27節でも、この処女はヨセフのいいなずけであったとはっきり記します。まだ婚礼の前の女性であるマリヤであったのでした。

B,「人の側には驚きと恐れしかなかった」

 さらに29節ではその御使いの言葉を聞いたマリヤの様子が詳しく書かれています。マリヤ自身は天の御使いに対して驚きと恐れを抱いているでしょう。「考え込んだ」とありますが、新改訳聖書では「とまどい」とあり、御使いガブリエルも彼女に「こわがることはない」とも言っているのです。つまり、マリヤには「恐れ」があるのです。そしてその「恐れ」を抱いて、34節で、彼女は「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」とも言っているのです。皆さん、恐れと驚きで、見たこともない神の御使いの前、つまり全てを見通し偽ることも嘘をつくこともできないそんな神の使いの前に立っていながら、嘘をついたり、秘密を隠し通すことができるでしょうか。誰もできないのです。あのアブラハムの妻サラは、神に心まで見通されていることも知らず「自分は笑っていない」と偽りましたが、偽り通せなかったでしょう。マリヤもこの状況で、神の遣わした恐ろしい御使いの前に、決して、偽れなかったことでしょう。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」はマリヤの偽りのない言葉なのです。何よりルカは、事実を詳しく調べた上で真実を記しています。御使いは事実一人の乙女、処女のところにこられた。そしてその「乙女マリヤが」御使いの言う通り、「みごもって男の子を産む」のです。この救い主がそのように真の人ととしてお生まれになるということも大事な真理あります、信ずべき教えですが、それはルカの2章で詳しく書かれています。

3、「そのおとめは一人の罪人、はしためー聖人ではない」

 さてこのマリヤへの言葉と出来事からさらに教えられることは、このマリヤは決して、聖女でも聖母でもありません。彼女は、私たちと変わらない、罪人の一人にすぎません。彼女自身が自分は「はしため」と言っているように自分の卑しさ罪深さを感じていた女性であり、事実、紛れもない罪人であったのでした。しかしこの事実にも素晴らしい恵みが見えて来ると言うことです。この出来事と重なるので繰り返し引用し照らし合わせますが、まさにあのアブラハムの妻サラが、神の前にあってさえ「自分は笑っていない」と嘘を言ってしまう罪深さがあっても、神はあなたは「笑った、疑ったから、祝福しない」とは決して言わずに、それでも神の「祝福の子」「男の子を与える」と言うその約束が変わらなかったように、このところでも、神は、マリヤが何か素晴らしい女性で、完全で清く汚れのない生活を送り、立派で高貴な女性だからという理由では決してない、むしろ、事実、マリヤの告白の通り「はしため」であり卑しいそのマリヤの事実、その罪深さも全て知った上で、そして、そのマリヤにある何かに関係なく、主は「主の方から」一方的な恵みとして、このマリヤを選び、御使いを遣わしているのです。事実、御使いは「恵まれた方」と言います。そしてその神の方からの一方的な恵みによって、35節、その子は聖霊によってみごもると伝えています。いやそれだけでない、まさにサムエルの時代に主がナタンを通してダビデに約束されたことが、この聖霊によって人として生まれる子によって、サムエル記下7章の「その王国を揺るぎないものとする。 13この者がわたしの名のために家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえに堅く据える。」とか、「16あなたの家、あなたの王国は、あなたの行く手にとこしえに続き、あなたの王座はとこしえに堅く据えられる。」と言うことがその通りに実現すると御使いは宣言しているのです。

4、「約束された救いは人のわざでは決してない。神の方から」

 みなさん、このマリヤに起こった出来事、そこで語られた主のみ言葉は何を伝えているでしょう。それは、創世記3章の最初の福音、そしてアブラハムの時からも、ダビデへの約束からも全く変わらず、私たちにはっきりと伝えているのです。それは、救い主、キリストの誕生、そしてその約束も、全く人の側の何か、人の業、思い、情熱や熱心、計画に一切よらない。人間の側の何らかの功績や正しさがあったからでもない。いやむしろ神の前にあっては、私たちはどこまでも神に背いた最初の男と女の子孫であり、神の前にはそのままでは義と認められることのないどこまでも罪深い民であり、救いのない滅びゆく民でした。しかし、だからこそ、その罪深い人類のためにこそ、そう、堕落の時の最初の福音がそうであったように、全て救いの計画も約束もその実現も、「天から地へ」、「神から私達へ」の全く恵みであるということがこの今日の出来事からもわかるのです。旧約聖書の最初の福音だけでなく、アブラハムの召しも、彼に現れた3人の人と子供が与えられる約束も「主の方から」でした。あの自分は相応しくないと嫌がるモーセを召したのも、そしてイスラエルの救いの計画も、十戒も、すべて「主の方から」であることが書かれています。むしろ旧約聖書ではその揺るがない真理である「主の方から」の神の恵みを忘れ「自分が自分が」と罪人にすぎない自分が神のように行動する行為こそ、大きな裁きを受けています。旧約聖書もそれは神の恵みによる救いの福音が溢れているのです。そしてその通りに、今日のマリヤの場面でも、主の方からです。マタイの福音書にあるマリヤの後に起こる父「ヨセフ」の場面でもそれは「主の方から」でした。むしろ、父ヨセフは御使いの「聖霊による」と言う言葉があるまでは、結婚前に妊ったと思ったマリヤを「何か不道徳を行なったのだ」と決めつけて密かに去らせようとしていたでしょう。そのように人間の側では、マリヤも喜びの知らせを受けても、先ほど言いました。ただ恐れ、戸惑うだけの状況です。ヨセフは理性的に去らせようとしました。しかし御使いははっきりとこの約束の成就の出来事を非常に分かりやすく言っています。「恵まれた方

と。つまり、これは神から人類への恵みなんだと。30節「あなたは神から恵みをいただいた」ともあります。さらには35節「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。」とも。そう、これは人の思いや願い、情熱でも優れた行いでもありませんでした。救い主の約束もその通りに実現する救い主の誕生もどこまでも「人から神のために」ではなく「天から、神から、私たちのため」のどこまでも「恵みのみ」なのです。

5、「神にできないことは何一つない」

 そして、御使いガブリエルは、そんな戸惑い信じられないマリヤに、「信じられないなんて、あなたはダメだ、失格だ」と裁いて断罪するのでも、約束を取り消したりもされないでしょう。まさにあの信じないで笑った、アブラハムとサラにも語られたのと変わらない言葉を語って、約束は真実なんだ、そして神が行うのだと、励ましている、変わらない主の恵みを教えているのが分かりますね。37節で御使いは言います。

「37神にできないことは何一つない。」 新改訳聖書では「神にとって不可能なことは一つもありません。」とあります。

 みなさん、何という力強い真実な励ましのことばでしょう。御使いは曖昧さなどなく断言しているでしょう。「不可能なことは一つもない」と。「理性や常識や科学に反することだからマリヤの処女懐胎は作り話で事実ではない」と言う牧師や教師たちは何を信じているのでしょうか?聖書が、神が、神の御使いが、「神にとって不可能なことは一つもない」と断言しているのです。それは御使いも人間の理性や常識に縛られ「50%は可能性がある」とか、「80%かもしれない」などとそんな言い方は微塵もないのです。みなさん、私たちに与えられている、みことば、約束とは何ですか?仮に「人間の理性や常識に従えば奇跡の全ては作り話だ」と言うような言葉が含まれている聖書であるなら、その聖書の言葉に真実さと救いの力、神の力があると思いますか?ないでしょう。しかし、そうしてしまっているのは、そのように人間中心に人間の理性に聖書を従わせ聖書を力のない言葉にしてしまっている人間の側であり偽りの教師たちです。みなさん、私たちに与えられている聖書、神の言葉は、そんな一部だけ真理があると言うような曖昧な言葉では決してありません。「神にとって不可能なことは一つもない」と確信を与える、どこまでも真実な言葉なのです。できないことは「一つもない」という断言がそこにはあります。神様は何でもおできになる。全知全能である。不可能と言うことばは神にはないという宣言なのです。これは旧約聖書でも変わりません。アブラハムにイサクの誕生の事を伝えたときも、信じないサラに御使いは同じように言うでしょう。「主にとってできないことがあろうか」と。同じ御使いが、それから数千年後のこのマリヤにも、その神の約束を示して「できないことはない」「不可能なことは一つもない」と変わることなく断言し続けているのです。そしてこれは「今も」、これからも永久に変わることのない私たちへの神の言葉、なのであり、アブラハムの時代も、マリヤの時も、今も、神のみことば、約束は真実であり、その通りになるのであり、不可能なことは一つもないと、主は私たちを励ましてくださっているのです。そして、マリヤは、その御使いのことばを受けて、つまり、彼女の力でも努力でも性質でもない、その神の真実なみ言葉によって信仰が強められたからこそ、38節にあるように

「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」

 と、主と主のことばに信頼した信仰の告白があったのでした。ですから、このマリヤの応答の言葉も信仰も何か彼女の性質から出た敬虔な言葉であるかのように捉えられ、こうでなければならないと信仰が律法化されやすいですが、そうではない。この告白も信仰も、私たちにとっては、決して律法ではない、このマリヤの言葉は、どこまでも主の御言葉、福音によって励まされ強められ信仰によって与えられた平安と喜びの応答なのです。

6、「十字架の神学:続く苦難の現実に神はいないのではない、そこにこそ神はいる」

 終わりに一つだけ触れて終わります。そのように恵みと祝福に溢れてマリヤは遣わされますが、しかしこのマリヤはその後も尚も試練、困難が続きます。男を知らないのに身ごもったという事実は、ユダヤ社会では大問題でマリヤは様々な困難の中に置かれます。だからヨセフは婚約を解消して去らせようとまでしました。そのように、この約束の後も苦難が続くこと、は神は矛盾していると思うでしょうか?しかしこれが神の恵みによって始まる信仰の歩みの現実です。マリヤにとってもヨセフにとっても壮絶な試練の現実の始まりでした。御使いのことばは恵みであっても、しかし人間の側からみれば「人の前」では困難と言う状況のままなのです。ここで人々は、何か目に見えて何も困難のない何でも上手くいくご利益信仰ような神を期待するなら「神はなおも困難に合わせるなんて」と躓くかもしれません。しかしそんな困難が続いてもそれでも、二人は、そのような揺るがない主と主のことばの真実さにあってこそ、つまり「神の前」にあって確かな言葉に導かれ支えられているからこそ、その信仰によって、神は真実であり恵みであり祝福であるという揺るがない平安があるです。このように、聖書の神は、どんな困難な現実があっても揺るがない希望と平安と喜びを与える神なのです。ですから38節のマリヤの信頼のことばは、「苦難の中」でも平安であることができると教えている言葉に他なりません。そしてそれが私達にも与えられている信仰でもあるのです。

 私たちの罪の性質は、「神の前」よりも「人の前」を気にしたり、基準や土台は神の言葉ではなく、私達の主観や自分中心にたって、目に見える業や成功や繁栄だけで神や祝福を評価判断したり、人の側の思い描いた願いや期待の通りになったところにこそ、あるいいはそこだけに、神がいる、神様の働きや祝福があると判断してしまう傾向があります。ですから、そのように期待通りになったところ、問題がないところに、うまく言っているところに、神がいるとか、神が働いたのだとか、祝福されているのだとか、正しい悪いと決めつけてしまうし、逆に自分の思い通りにならなかったところには神はいない、祝福はないとしてしまいます。けれども、自分が中心になって求める先に神がいるのではありません。聖書が伝える、神の業、神の御心、神の祝福というのは、むしろその逆でしょう。神の前の私たちの圧倒的な現実は、私たちはどこまでも罪人であるという現実です。だからこそこの罪の世にあっては苦しみや、人の目にあっては「なぜ?」「どうして?」と思うような事は絶えることがありません。しかし、皆さん、クリスマスの飼い葉桶のイエスも、この十字架のイエスも、まさに罪深い世に一方的に恵みとして世に来れられたイエス様ではありませんか。そしてそれは私たちを裁くのでも重い重荷を負わせるためでもなく、私たちの間に来られ、罪人である私たちの友となり、神の真理を教え、そして遂にはその私たちの罪と私たちが負うべき裁きである十字架の死も全て身代わりとして背負って死なれた方でしょう?そのように十字架で救い主イエス様が罪に定められる代わりに、私たちは、神様から、このイエス様の十字架と復活のゆえに「あなたの罪は赦されています。安心して生きなさい」と罪の赦しと平安と新しいいのちを与えられるのが、この福音書、聖書が私たちに何よりも伝える中心であり揺るがない約束、福音「良い知らせ」ではありませんか。マリヤに宿り生まれるイエス様は十字架と復活のイエス様であると聖書ははっきりと伝えています。その十字架は人の目にとっては、成功でも繁栄でもない、人々が思い描いた期待したような救い主はそこにありません。しかしその救い主は、罪人である私たちのところに来られ、私たちと同じ人間となられ、罪のない方が、私たちの罪とその罪による困難と苦難の重荷を全て負ってくださる救い主なのです。その救い主が罪人マリヤ、飼い葉桶の上、そこしてこの十字架の上に来られ神の御心のままに実現された。だからこそ、今も救い主は、同じように罪の世にあって困難の絶えることのない私たち一人一人の信仰の歩みにこそ伴われ、頼り求めるもののその重荷を絶えず背負ってくださる、そして、罪に苦しみ悔い改める私たちに「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と言ってくださるのです。だからこそ困難にあっても、マリヤのように、イエス様のこの約束を信じ頼り求める信仰には、平安と希望は絶えることがないのです。それが46節以下のマリヤの讃歌にも証しされていることなのです。

 今日も十字架のイエス様は、悔い改めイエス様に「憐れみ」を求める私たち一人一人に言ってくださっています。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい。」と。ぜひ今日も平安のうちにここから世へ隣人を愛するために遣わされて行きましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン