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ルカによる福音書3章15−17節、21−22節
「ヨハネが「私より優れた方が来られる」と指し示すお方」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
1、「はじめに」
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
今日の箇所は、3章の部分部分だけピックアップされており、バプテスマのヨハネのこと、そしてイエスの洗礼のことが書かれていますが、私は3章全体を通して今日の箇所にあるイエス・キリストの恵みを見ていきたいと思います。まず文脈を見てみますと2章では、ルカは、イエスの誕生と成長を通して、イエスは真の人であり、同時に真の神であるということを証ししてきました。そして、この3章でルカは、もちろんバプテスマのヨハネのことを書いていますが、そのヨハネはイエスを指し示すために約束された預言者であるのですから、中心はどこまでもイエス・キリストです。そしてその世にお生まれ手になった救い主イエスが、架空の人物だとか、イエスの話しが弟子たちの作り話だということでは決してなくて、イエスは確かに、人類の歴史の中に来られ、生まれ、生きられた真の神、真の救い主であるということを伝えることから始めるのです。
2、「歴史に確かに存在されたイエス:歴史の事実に基づいて」
このルカの福音書は、「1章の喜びに始まり、終わりの24章も喜びで結ばれる」とよく言われるように、イエスの憐れみと恵みを伝えていて、慰めと喜びを与えてくれる福音の記録です。しかしそれは決してただ感情的に訴えるような伝え方ではありません。医者でもあった彼は証拠だててイエスの出来事が真実である事を説明しようと気をつけていることがわかります。このところでは、まず、彼は1〜2節で「皇帝ティベリウスの治世の第15年」と、その時代にイエスを指し示す預言者ヨハネが荒野に下ったと、きちんと歴史の事実をあげて伝えていることを見ることができます。ここでは、皇帝の名前だけでなく、パレスチナ地方の各地域の国主の名前も出て来るのですが、これは当時の、政治状況の歴史的な背景であり事実です。ローマ皇帝ティベリウス、そしてローマから任命されるユダヤの総督は、ポンティオ・ピラト。等々。正確に伝えようとしています。そして政治の面だけではありません。宗教面については、当時は、アンナスとカイアファが大祭司であったことも歴史的に説明するのです。ルカはこのように、この福音書に書かれているこの出来事、更に、ここでは旧約の預言の通り、神のことばが、荒野でザカリヤの子、バプテスマのヨハネに下ったという出来事ですが、それは、決して、作り話や物語、空想ではなくて、歴史のこの時に確かに起こったという事を、ルカは伝えているのです。一般的にも、このような歴史の事実から説明するということは、正しく情報を伝える時には大事なことで、それがどんな時に、どんな状況で、誰の時代、そこで何が起こったのかを示すことで、出来事が真実であることを私たちも確かに認めやすくなるでしょう。ルカはまさにそのことをしています。ある意味、1〜2節は預言者ヨハネの出来事と関係ないような支配者の羅列のように見えるのですが、ルカがそれを非常に詳しく書くのは、キリストの福音の記録が確かに歴史的な事実である事を証しするためなのです。
3、「それは救いの歴史の初めから連なる」
それは3章の後半部分でも同じです。そこには、イエス様の系図が書かれています。皆さんがよく知っているのはマタイの1章が系図に始まっているのを知っているかもしれません。違う点は、マタイはアダムからイエスへと始まって説明していきますが、ルカはその逆で、イエスからアダムへと遡っているのが特徴です。一見、この系図はつまらなくて、意味がないかのように思うのですが、系図は大変、意味のあることです。それは先ず第一に、先程とおなじです。イエスは架空の人物ではなくて、イエスが確かにヨセフの家に、ヨセフの子として存在していたという事実です。歴史の事実であったということです。そしてもちろん、このイエスの系図はそれだけでなく、イエスが、確かに、神が約束されたダビデの子であり、アブラハムの子孫であるということまでを証明するものとして書かれているのです。旧約聖書の創世記では皆さん、神様からアブラハムに与えられた、「アブラハムの子孫によって世は祝福される」という契約を知っていると思います。まさにそのアブラハムの子孫として御子イエス・キリストは存在されているということ、そしてさらにはダビデの家にメシヤ、救い主、キリストが生まれるとも預言されていましたが、いずれの系図もその約束の通りであることを証明するための記録として書かれているのです。つまり、このイエスに成就した歴史の線を遡ると、神様が「女の子孫がサタンを砕く」と告げた、あの人類への罪からの救いの約束が確かにあり、イエスはその成就であり、イエスにおいて救いの歴史の線が確かに一本につながっていることの明確な証しなのです。
このように、イエス・キリスト、そして聖書の福音書の記録。そこに書かれている一つ一つ、奇跡の一つ一つも、そして何より、十字架も復活も、それら全ては、決して、有名な神学者がいうような迷信、作り話、神話ではない、確かに人類の歴史、約2000年前のある所に確かに存在し、起こったことなのだと、今日のところは私たちに語りかけています。私たちの救い主、この聖書から聞くイエスのことばも奇跡も、そして罪からの救い、罪の赦しも、それらは決して空想話、作り話ではありません。イエスが、歴史に、人と人との間に、確かに存在している救い主であるということは、私達にとっては、とても意味があることでしょう。もしイエスが存在しないお方なら、あるいは、もしイエスが単なる良い話、良い物語の世界の架空のヒーローに過ぎず、私たちがそのような架空の物語の、良い話を聞いているだけなら、図書館の朗読会と何ら代わりがありません。もちろん、そこから学ぶことは多いでしょう。しかしそれは「神の前」にあっての「私たちの救い」ということ、あるいは、「神との関係」ということについて、あるいは、「神の前」でのことにおいては、全く何の意味ももちません。神がこの私たちの間に、歴史に、確かにイエス様を送ってくださった。イエス様は確かに人として救い主として事実、存在された。しかもそれは、遥か昔の神様の「救い」の約束からつながる事実としてこの人類の歴史に成就したということ。イエスのこの十字架は確かにこの歴史に立っていた。そこでイエスは死なれた。そしてイエス様はその三日目に確かによみがえって存在していた。さらには確かに、歴史のある時に、幻でも空想でも嘘でもなく、確かに弟子達のまえで天にあげられた。その時、イエスは確かに、いつまでもあなたがたとともにいると言われた。そして確かにこの私たちに歴史の事実として聖霊を与えて下さった。そのように全てが事実として示されるからこそ、その神が確かに、世に、私たちに働いてくださった、いや今も働いておられる、ここに書かれている救いの歴史の事実の線の上にこそ、私たちは、今確かに存在している。そのことに希望と平安を得て、今私たちは確かに、神様の前にある。救いが確かに今私たちにあると、確信を持って言うことができるはずです。その救い主は今も生きて歴史に、私たちの間に確かに存在しているからこそ、私たちは今日もこのように、これはその神のことばであると、生ける神のことばを信仰をもって聞いているし、そう信じるからこそ、この礼拝もみことばも喜びであり力であるとわかるはずです。逆に、これがまことの存在する救いの記録であり、これは今も生きる神のことばであると、思わないならば、このことばには意味等見いだせないのは当然ですし、礼拝も説教にも意味がない、力がないとなるのも当然なのです。みことば以外の他の物事に、重きがおかれていくでしょう。聖書は私たちに伝えています。書かれているすべてが事実であり、その約束は今も事実であると。このイエスも、その救いも、みことばも、聖霊も、そして神の恵みもすべて、真実であると。それこそを信じ、祈り、求めなさいと。これがこの3章から示される第一の福音であると教えられます。
4、「バプテスマのヨハネが指し示すお方」
A,「バプテスマのヨハネ:救い主、神、光ではない」
3章の第二の恵みですが、ルカは今度は、イエス様がまことの神であり救い主であることを伝えるために、この時、非常にすぐれた預言者であり、人々から尊敬され、「キリストでは?」とまで言われた、バプテスマのヨハネの出来事を事実としてとりあげるのです。バプテスマのヨハネは、神が旧約聖書の預言で約束した、イエスの前に来ると約束された預言者でした。4節以下を見ますと、旧約聖書のイザヤ書の言葉が引用されて、この神様の約束の言葉の通りに、それが成就したと伝えています。この預言にある通りに、ヨハネは荒野で人々に、悔い改めを叫び、救い主の到来を教え示すのです。まさに主の道が救い主によって開かれる。その預言者はその道であるイエス様をまっすぐと指差し、指し示すというのが約束の預言でした。6節を見ますと、「人は皆、神の救いを仰ぎ見る。
とあるように、ヨハネが示す先に人々はイエス・キリストを見るのです。確かにこのバプテスマのヨハネはすぐれた神の預言者であり、ここでは10節では「群衆」、12節では「徴税人たち」、そして14節では「兵士も」、彼らは皆、ヨハネを「先生」と呼んでいて「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」と皆この先生に救いを聞いているのです。そして15節では皆、「もしかすると、この方がキリストではないか」と思った程なのです。 そのように彼は尊敬されたすぐれた先生であったのです。
しかし聖書が私たちに伝える大事なことは、彼は神、救い主ではなかったということです。すぐれた立派な人ではあったでしょう。しかし、地上に生まれ、朽ちるものから生まれたものは、どんなにすぐれた人、どんなに優れた先生であっても、決して神、救い主とはなり得ないのです。人は、その肉の性質として確かに「見えない神に
ではなく、優れた並外れた人間を神のように、あるいは王のように求めたり崇め立てようとするものです。サムエルの時代、イスラエルには彼らのために常に神がおり神の言葉があり、裁き司であるサムエルを通して神のことばがあって正しく導いていました。しかし、イスラエルの人々は、他の周りの国々と比べて、周りの人々と同じように、人間の王様をもとめて、自分たちもその人間の王様によって戦争に勝ち、パンが満たされ、国の繁栄を見たいと求めたのでした。それに対して神が警告しても、それでも彼らは王様を求めました。そのように目の前の人間中心の欲求のままに彼らは背が高くハンサムな好青年、立派でたくましいサウルを選んで、彼が王様として立てられましたが、しかしその王は、やがて民のパンを満たすどころか、パンを奪うものになりました。彼は神の言葉を軽んじ退けました。そのイスラエルの王様の子孫たちは、ダビデ以外は、皆、神を捨て、偶像礼拝に走り、結局は、民が自由に偶像礼拝するような国を造りました。そのダビデでさえも、神でも聖人でもなく、罪深い王であり不完全であったことが沢山書かれています。その結果、黄金のイスラエルは滅んでいったのです。地の塵から生まれ、そして堕落し罪人となった人間は、それが、いかに、どんなに優れて立派でカリスマのある先生であったとしても、たとえ約束の預言者であったとしても、どこまでも人であり一人の罪人です。神ではありません。決して救い主にはなれません。
B,「ヨハネは証しする:真の光、救い主は天から」
聖書は何といっているでしょうか?救いは神から、救い主は天から来る。天から与えられる。聖書ははっきりと伝えているでしょう。使徒ヨハネはその福音書で、どのように私たちに伝えているでしょう。ヨハネによる福音書1章6節からですが、
「6神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。 7彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。 8彼は光ではなく、光について証しをするために来た。 9その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」(ヨハネ1:6〜9節)
「彼は光ではなかった」とあります。そしてその光は、そのお方、救い主は、天から来られることを示しています。さらにヨハネの福音書3章27〜30節ではバプテスマのヨハネ自身がこうイエスを指し示しているでしょう。
「27ヨハネは答えて言った。「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。 28わたしは、『自分はメシアではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる。 29花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。 30あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」」(ヨハネ3:27〜30)
「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。」、「私はメシアではない。」、「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」ヨハネ自身がそう伝えるのです。ルカの福音書でも一致しています。3章16節
「そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。
ヨハネは自分でも言うように、救い主ではありませんでした。彼自身授けている洗礼さえも、人を救う洗礼ではありませんでした。彼は立派な先生でした。彼の語る言葉は立派な「律法の」ことばでした。模範的な聖い生活もしていたでしょう。しかしそのバプテスマのヨハネ自身も、彼の言葉も、彼の洗礼も決して人を救いません。たとえ彼のアドバイスするその通りに完全に行いができたとしても、それが人を救うのでは決してありません。いや、救うことは出来ないのです。律法は人の不完全さ、神の前にあってどこまでも罪人であることを示すだけであり、決して人を救わないのと同じです。私たちの救いは、バプテスマのヨハネが、そのように道を備え、指し示す、福音、天から来られた神の御子「イエス・キリスト」のみである。その天の御子があたえる、聖霊と火のみことばによる洗礼によってこそ、あなたがたは救われるんだ。バプテスマのヨハネ自身がそのようにイエスを教え、イエスを指し示し、ルカはそのことを私たちに書き記しているのです。
5、「この方を見よ:神からの約束の成就:ヨハネはその方を指し示す」
さらには、22節では、イエスが洗礼を受けたとき、天からイエスに呼ぶ声がしたことが書かれているでしょう。「あなたは私の愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」と。まさに、天からです。そしてヨハネはこのことを証してイエスを指し示しました。ヨハネ1章29節以下ですが、
「29その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。 30『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。〜「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。 33わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。 34わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」」(ヨハネ1:29〜34)
バプテスマのヨハネが指し示す先、そして使徒ヨハネも、そしてルカもこの3章で、ヨハネのその指し示す指を用いて、私たちに指し示しているでしょう。すぐれた先生であるヨハネがキリストではない。私たちが捜し求め、信じるのは、地から生まれ出た王や優れた先生ではない。王も優れた先生も人であり神の前にどこまでも罪人であり、人は誰も自分自身でさえも誰も救うことは出来ない。彼らは救い主ではない。このバプテスマのヨハネであっても。彼は「自分はますます衰えなければならない」とまで断言しています。では、救いはどこにいるのか。救い主はだれか。それは、このイエス・キリストこそ、まことの救い主であると、彼は指し示し、ルカもそのことを示すのです。その方は確かに歴史に存在し、その十字架は確かに立っていた。その方は確かに復活されて、今もこの歴史に、私たちの間に生きておられる。だから、このイエス・キリストの救いも、みことばも、聖霊も、まさに真実であり、力があり、それが私たちに事実として与えられている。存在している事実なのだと。だからこの預言者が、聖書が指し示すお方を見よ。と。これが今日も、神が私たちにみ言葉を通して伝えるの福音のことばに他なりません。使徒たちは世界の人々にはっきりと言いました。
「12ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」(使徒言行録4章12節)
6、「あなたはどこに救いとその確信を見るか?」
私たちは何に救いを見るでしょうか?求めるでしょうか?何に救いの確信をおくでしょうか?自分の行いですか?自分の立派さですか?すぐれた先生ですか?王様ですか?バプテスマのヨハネですか?すぐれた先生のわざ、人間のことばや理性に救いの力があるのですか?確信があるのですか?道があるのですか?そうではないでしょう。バプテスマのヨハネはイエス・キリストを指し示しました。使徒たちも、そして歩き出したばかりの教会も、この「イエス・キリスト以外には、誰によっても救いはありません。私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間には与えられていない」と、イエス・キリストを指し示しました。私たちは神ではない。イエス・キリストにこそ、あなたがたの救いがあると。ですから答えは簡単です。この方、イエス・キリストを見ましょう。その救いの約束、その成就でありキリスト自身が成し遂げたこの十字架と復活を見ましょう。人の何か、自分の何かではなく、イエス・キリストにあって確信をもちましょう。イエス・キリストのみことばと聖餐を受け続けましょう。その約束のうちに今日もイエス様は私たちに宣言し遣わしてくださいます。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい。」と。ぜひイエス・キリストに祈り、イエス・キリストにどこまでも期待し、信頼して歩んでいこうではありませんか。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
聖餐式
礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。
主日礼拝説教 2025年1月5日 主の顕現の主日 スオミ教会
イザヤ60章1-6節
エフェソ3章1-12節
マタイ2章1-12節
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
本日の福音書の日課は有名な「東方の三賢」の話ですが、本当にこんなことがあったのか疑わせるような話です。はるばる外国から学者のグループがやってきて誕生したばかりの異国の王子様をおがみに来たとか、王子様の星を見たことが旅立つきっかけになったとか、そして、その星が王子様のいる所まで道案内するとか、こんなことは現実に起こるわけがない、これは大昔のおとぎ話だと決めつける人もでてきます。
いつもこの個所について説教する時に申し上げることですが、ここに書かれた出来事はおとぎ話で片付けられない歴史的信ぴょう性があります。今回もそのことについておさらいをします。
ところで、出来事がおとぎ話ではない、信ぴょう性があるとわかっても、それでイエス様を救い主と信じる信仰に至るかというと、そんな程度ではまだまだという人が大半ではないでしょうか?イエス様を救い主として信じて受け入れるというのは、聖書に記された出来事の歴史的信ぴょう性とは別のところに鍵があります。それは、自分自身を見つめる時に造り主の神との関係に照らし合わせて見るということです。自分と自分の造り主である神との関係はどんなものか考えてみることです。そのことも以前申し上げてきました。何度繰り返してもいいことなので本説教でも述べます。新しい視点を入れて述べます。
ここで信仰と歴史的信ぴょう性の関係というのは次のようなものではないかということを述べておきます。自分自身を神との関係に照らし合わせて見つめ直して、その結果イエス様を救い主と信じるようになる。その時、おとぎ話みたいな出来事はきっと歴史的に何かがあると考え始めて、いろんな可能性を検証するようになっていく。それとは逆に、自分を神との関係に照らし合わせて見つめ直しことをせず、イエス様を救い主と信じる信仰に至らなかったら、こんな出来事はありえないというバイアスがかかって可能性の検証に向かわなくなる。つまり、信仰が信ぴょう性に道を開くのであり、逆ではないということです。そういうわけで、イエス様を救い主と信じる信仰は、自分自身を造り主の神との関係に照らし合わせて見つめることから始まるのです。
まず最初に本日の福音書の箇所の出来事の歴史的信ぴょう性について振り返ってみます。
思議な星についてはいろいろな説明があるようですが、私はスウェーデンの著名な歴史聖書学者イェールツ(B. Gierts)の説明に多くを負っています。
1600年代に活躍した近代天文学の大立者ケプラーは太陽系の惑星の動きをことごとく解明したことで有名です。彼は、紀元前7年に地球から見て木星と土星が魚座の中で異常接近したことを突き止めました。他方では、現在のイラクのチグリス・ユーフラテス川沿いにシッパリという古代の天文学の中心地があり、そこから古代の天体図やカレンダーが発掘されています。その中には紀元前7年の星の動きを予測したカレンダーもありました。それによると、その年は木星と土星が重なるような異常接近する日が何回もあると記されていました。二つの惑星が異常接近するというのは普通よりも輝きを増す星が夜空に一つ増えて見えるということです。
そこでイエス様の誕生年についてみると、マタイ2章13ー23節によればイエス親子はヘロデ王が死んだ後に避難先のエジプトからイスラエルの地に戻ったとあります。ヘロデ王が死んだ年は歴史学では紀元前4年と確定されていて、イエス親子が一定期間エジプトにいたことを考慮に入れると、木星・土星の異常接近のあった紀元前7年はイエス誕生年として有力候補になります。ここで決め手になりそうなのが、ルカ2章にあるローマ皇帝アウグストゥスによる租税のための住民登録がいつ行われたかということです。残念ながら、これは記録が残っていません。ただし、シリア州総督のキリニウスが西暦6年に住民登録を実施した記録が残っており、ローマ帝国は大体14年おきに住民登録を行っていたので、西暦6年から逆算すると紀元前7年位がマリアとヨセフがベツレヘムに旅した住民登録の年として浮上します。このように、天体の自然現象と歴史上の出来事の双方から本日の福音書の記述の信ぴょう性が高まってきます。
次に、東方から来た正体不明の学者グループについて。彼らがどこの国から来たかは記されていませんが、チグリス・ユーフラテス川の地域は古代に天文学がとても発達したところで星の動きが緻密に観測されて、その動きもかなり解明されていました。ところで、古代の天文学は現代のそれと違って占星術も一緒でした。星の動きは国や社会の運命をあらわしていると信じられ、それを正確に知ることは重要でした。もし星が通常と異なる動きを示したら、それは国や社会の大変動の前触れと考えられました。それでは、木星と土星が魚座のなかで重なるような接近をしたら、どんな大変動の前触れと考えられたでしょうか?木星は世界に君臨する王を意味すると考えられていました。土星についてですが、もし学者たちがユダヤ民族のことを知っていれば、ああ、あれは土曜日を安息日にして神に仕える民族だったな、とわかって、土星はユダヤ民族に関係する星と理解されたでしょう。魚座は世界の終末に関係すると考えられていました。それで、木星と土星が魚座のなかで異常接近したのを目にして、ユダヤ民族から世界に君臨する王が世界の終末に結びつくように誕生した、という解釈が生まれてもおかしくないわけです。
そこで、東方の学者たちはユダヤ民族のことをどれだけ知っていたかということについてみてみます。紀元前6世紀に起きたバビロン捕囚の時、相当数のユダヤ人がチグリス・ユーフラテス川の地域に連れ去られていきました。彼らは異教の地で異教の神崇拝の圧力にさらされながらも、天地創造の神への信仰を失いませんでした。この辺の事情は旧約聖書のダニエル書からうかがえます。バビロン捕囚が終わって祖国帰還が認められても全てのユダヤ人が帰還したわけではなく、東方の地に残った者も多くいたことは旧約聖書のエステル記からうかがえます。そういうわけで、東方の地ではユダヤ民族やその信仰についてはかなり知られていたと言うことができます。「あの、土曜日を安息日として守っている家族は、かつてのダビデ王を超える王メシアが現れて自分の民族を栄光のうちに立て直すと信じて待望しているぞ
などと隣近所はささやいていたでしょう。そのような時、世界の運命を星の動きで予見できると信じた学者たちが二つの惑星の異常接近を目撃した時の驚きはいかようであったでしょう。
学者のグループがはじめベツレヘムでなく、エルサレムに行ったということも興味深い点です。ユダヤ民族の信仰をある程度知ってはいても、旧約聖書自体を研究することはなかったでしょう。それで本日の日課にも引用されている、旧約聖書ミカ書にあるベツレヘムのメシア預言など知らなかったでしょう。星の動きをみてユダヤ民族に王が誕生したと考えたから、単純にユダヤ民族の首都エルサレムに行ったのです。それから、ヘロデ王の反応ぶり。彼は血筋的にはユダヤ民族の出身ではなく、策略の限りを尽くして王についた人です。それで、「ユダヤ民族の生まれたばかりの王はどこですか」と聞かれて慌てふためいたことは容易に想像できます。メシア誕生が天体の動きをもって異民族の知識人にまで告知された、と聞かされてはなおさらです。それで、権力の座を脅かす者は赤子と言えども許してはおけぬ、ということになり、マタイ2章の後半にあるベツレヘムの幼児大量虐殺の暴挙に出たのです。
以上みてきたように、本日の福音書の箇所の記述は、自然現象から始まって当時の歴史的背景に見事に裏付けされるものです。ただ、一つ難しいことは、東方の学者たちがエルサレムを出発してベツレヘムに向かったとき、星が彼らを先導してイエス様がいる家まで道案内したということです。これについては、ハレー彗星のような彗星の出現があったと考える人もいます。それは全く否定できないことです。先に述べましたが、木星と土星の異常接近は紀元前7年は一回限りでなく何回も繰り返されました。それで、エルサレムからベツレヘムまで10キロそこそこの行程で学者たちが目にしたのは同じ現象だった可能性があります。星が道案内したということも、例えば私たちが暗い山道で迷って遠くに明かりを見つけた時、ひたすらそれを目指して進みますが、その時の気持ちは、私たちの方が明かりに導かれたというものでしょう。もちろん、こう言ったからといって、彗星とか流星とかまた何か別の異例な現象があったことを否定するものではありません。とにかく聖書の神は太陽や月や星々さえも創造された(創世記1章16節)方ですから、東方の星やベツレヘムの星が、現在確認可能な木星と土星の異常接近以外の現象である可能性もあるのです。
東方の三賢の出来事の歴史的信ぴょう性を見た後は、いよいよイエス様を救い主と信じる信仰に至る本当の鍵について見ていきます。キリスト信仰者はイエス様を目で見たことがなく彼の行った奇跡も十字架の死も復活も見たことはないのに彼を神の子、救い主と信じ、彼について聖書に書かれてあることは、その通りであると受け入れています。どうしてそんなことが可能なのでしょうか?
まず、イエス様を救い主と信じる信仰が歴史上どのように生まれたかをみてみます。はじめにイエス様と行動を共にした弟子たちがいました。彼らはイエス様の教えを直に聞き、しっかり記憶にとどめました。さらにイエス様に起こった全ての出来事の目撃者、生き証人となり、特に彼の十字架の死と死からの復活を目撃してからは彼こそ旧約聖書の預言の成就、神の子、救世主メシアであると信じるに至りました。自分の目で見た以上は信じないわけにはいきません。こうして、弟子たちが自分で見聞きしたことを宣べ伝え始めることで福音伝道が始まります。支配者たちが、イエスの名を広めてはならないと脅したり迫害したりしても、見聞きしたことは否定できませんから伝道は続けるしかありません。
そうした彼らの命を顧みない証言を聞いて、今度はイエス様を見たことのない人たちが彼を神の子、救い主と信じるようになりました。そのうち信頼できる記録や証言や教えが集められて聖書としてまとめられ、今度はそれをもとにより多くのイエス様を見たことのない人たちが信じるようになりました。それが時代ごとに繰り返されて、2000年近くを経た今日に至っているのです。
では、どうして聖書に触れることで、会ったことも見たこともない方を神の子、救い主として信じるようになったのでしょうか?それは、遥か昔のかの地で起きたあの十字架と復活の出来事は、実は今の時代を生きる自分のためにも神が成し遂げて下さったのだ、そう気づいて信じたからです。それでは、どのようにしてそう気づき信じることができたのでしょうか?
イエス様を救い主と信じ受け入れた人たちみんなに共通することがあります。それは、自分自身を見つめる時に造り主の神との関係に照らし合わせてそうするということです。ご存知のように聖書の立場では、神というのは天と地と人間を造り、人間一人一人に命と人生を与える創造主です。それで、神との関係において自分を見つめるというのは、自分には造り主がいると認め、その造り主と自分はどんな関係にあるかを考えることになります。
造り主の神との関係において自分を見つめると、神の前に立たされた時、自分は耐えきれないのではと気づきます。というのは、神は神聖な方であり、自分は神の意思に反する罪を持っているからです。神の意思というのは、十戒に凝縮されています。父母をないがしろにしたり、他人を肉体的精神的に傷つけたり、困っている人を見捨てたり、不倫をしたり、嘘をついたり偽証したり改ざんしたり、妬みや嫉妬に駆られて何かを得ようしたならば、それらが行いに現れようが心で描こうがみんな神の意思に反するので全て罪です。十戒には「~してはならない」という否定の命令が多くありますが、宗教改革のルターは、そこには「~しなければならない」という意味も含まれていると教えます。例えば、「汝殺すなかれ」は殺さないだけでなく、隣人の命を守り人格や名誉を尊重しなければならないこと、「汝盗むなかれ」は盗まないだけでなく、隣人の所有物や財産を守り尊重しなければならないこと、「姦淫するなかれ」は不倫しないだけでなく、夫婦が愛と赦し合いに立って結びつきを守らなければならないことを含むのです。これらも神の意思なのです。
加えて、十戒の最初の部分は天地創造の神以外を崇拝してはならないという掟があります。これを聞いて大抵の人は、ああ唯一絶対神の考えだな、そんな掟があるから自分の正義を振りかざして宗教戦争が起きるのだと考えがちです。しかし事はそう単純ではありません。使徒パウロは「ローマの信徒への手紙」12章で「悪に対して悪で報いるな、善で報いよ」と教えています。その理由は「復讐は神のすることだから」と言います。神がする復讐とは、最後の審判の日に全ての悪が最終的に神から報いを受けることを意味します。つまり唯一絶対神を信じるというのは、少なくともキリスト信仰では、実に人間の仕返しの権利を全部神に譲り渡すということです。そんな、やられたのにやり返さなかったらこっちが損するだけではないか、と言われるでしょう。しかしパウロは、「全ての人と平和な関係を持ちなさい、相手がどんな出方をしようが自分からは平和な関係をつくるようにしなさい」と言うだけです。このように唯一絶対神を持つと、少なくともキリスト信仰では、人間は相手をなぎ倒してまで自分の正義を振りかざすことがなくなるというのが本当のことなのです。
このような十戒に照らし合わせて見ると自分はいかに神の意思に反することだらけということに気づかされます。自分は完璧で、神の前に立たされても大丈夫だ、何もやましいことはない、などと言える人はいません。神の前に立たされたら自分はダメだ、持ちこたえられないと気づくと、人間は後ろめたさや恐れから神から遠ざかろうとします。そうなると、自分を見つめることを神との関係に照らし合わせてしなくなり、別のものに照らし合わせてするようになります。
まさにその時、イエス様が何をして下さったか、神はどうしてイエス様を贈られたのかを思い出します。神聖な神のひとり子が人間の罪を全部引き受けて私たちのかわりに神罰を受けてゴルゴタの十字架の上で死なれました。そのようにして私たちの罪の償いを果たして下さいました。それで彼こそ救い主です、と信じて洗礼を受けると罪の償いがその通りになって、神から罪を赦された者として見なされ、神との結びつきを持ってこの世を生きられるようになります。罪の赦しの十字架は歴史上確固として打ち立てられたものです。自分を神との関係に照らし合わせて見つめて、その結果、神から遠ざかろうとする自分を感じたら、すぐ十字架のもとに立ち返ります。そうすれば、神と自分との結びつきは神の愛によってしっかり保たれているとわかって、恐れや後ろめたさは消えてなくなります。
本日の使徒書の日課エフェソ3章の12節でパウロは「わたしたちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって、大胆に神に近づくことができます」と述べていました。少し注釈しながら言い換えると、「私たちは、イエス様を救い主と信じる信仰により彼としっかり結びついていて、その信仰のおかげで神の前に立たされても大丈夫という確信がある。それで、神のみ前に勇気をもって歩み出ることができる」ということです。これは真理です。
最後に、東方の学者のグループのベツレヘム訪問はキリスト信仰者の信仰生活に通じるものがあるということを述べておきます。彼らは星に導かれて救い主のもとに到達しました。私たちにはそのような星はありませんが、救い主のもとに到達できるために聖書の御言葉があります。私たちには聖書の御言葉が星の役割を果たしています。救い主のもとに到達した学者たちは捧げものをしました。私たちも捧げものをします。何を捧げるのか?ローマ12章1節でパウロは「自分の体を神の御心に適う神聖な生贄として捧げなさい」と勧めます。それはどんな捧げものか?2節を見ればわかります。少し注釈しながら訳しますと、「あなたがたはこの世に倣ってはいけない。あなたがたはイエス様を救い主と信じる信仰によって心の状態が一新されたのだ。だから、あとは何が神の意思であるか、善いことであるか、神の御心に適うことであるか、完全なことであるか、それらを吟味する自分へと変わりなさい(後注)。」これが自分の体を神聖な生贄として捧げることです。信仰によって心の状態が一新させられたら、後はどのように変わっていくか、その具体的内容については12章でずっと述べられていきます。先ほど述べた、仕返しの権利を放棄することもその一つです。
学者たちは捧げものをした後、ヘロデ王のもとには戻りませんでした。救い主のイエス様のもとに到着して自分を神聖な生贄として捧げる者は、この世の声に倣わないということが暗示されているのです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン
後注(ギリシャ語がわかる人に)ローマ12章2節は新共同訳では「自分を変えていただき」と訳されています。これはμεταμορφουσθεを受動態に考えて「(神によって)あなた方は変えられなさい」と訳したものです。4年前の説教で私も受動態で訳しました。フィンランドの神学部の授業ではここはmedium(日本語で何と言う?中動態?)で考えるべきと言われていましたが、私は律法的になるような気がして少し抵抗がありました。ところが、その後考えがかわり、今回はmediumで訳しました。パウロは読み手に対して強い調子で「あなたたちは自分自身で変わりなさい」と言っているということです。律法的にならないかという心配ですが、τη ανακαινωσει του νοοςがあるので律法的にならないことがわかりました。「心の状態を新しくしてもらったことをもって(dativus modi)/新しくしてもらったので(dativus causae)」あなたがたは変わりなさい、ということです。νουςは新共同訳では「心」と訳されています。英語ではmindと訳されています。「心」だとκαρδιαと一緒くたになってしまうので「心の状態」としました。キリスト信仰者はνουςが新しくされているので、肉には罪があっても救われているということがローマ7章の終わりで言われています。それで12章2節は、キリスト信仰者であるあなたたちはνουςが新しくされているので変わるのは当然なんですよ、というような、命令よりも注意喚起になるのではないかと思いました。それを基点にして12章の中にある行動リスト(大半は分詞形、一部は命令形)を見ると、νουςが新しくされたキリスト信仰者にとってはどれも当然のものなのだという注意喚起の続きになるのではないかと思いました。イエス様を救い主と信じる信仰によって救われた結果として、リストの諸行為は当然のものとして現れてくるのだ、忘れるな、ということです。救われるためにこれらをしなければならないという救いの条件ではないということです。救いの条件にしてしまうのが律法的ということです。
礼拝説教 2025年1月1日新年礼拝 スオミ教会
コヘレト3章1-11節
黙示録21章1~6a節
マタイ25章31~46節
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
西暦2025年の幕が開けました。キリスト教会のカレンダーの新年は昨年の12月1日の待降節に入った時から始まりましたが、世俗のカレンダーでは今日が新しい年の始まりです。新しい年を迎えるというのは、今までと違う新しいことが始めるという感じが強くするものです。そういう感じ方を持つことは大事です。今世界中が大きな試練の中にあるので、それをこれからも同じだ何も変わらないと諦めて向かって行くのと、いや、これからは今までと違うものになるのだと前向きに向かって行くのでは試練に対する向き合い方、試練の中にあっての進み方も違ってきます。どうか今日の御言葉の解き明かしがそのような向き合い方、進み方に中身を与えるものになりますように。
以前の説教でもお話ししたことがありますが、何年か前、私の家族で長期間病気などがあったりして、もう日本でのミッションの仕事は続けられなくなるのではないかという試練がありました。本当にもがくような思いで、多くの人の祈りに支えられながら、やっと暗いトンネルの中に光が見えてきてそれに向かって歩みだした時、あるキリスト信仰者から次のような言葉を頂きました。「先生とご家族の皆様の試練の間中、神はその裏で新しいことを始められていたのでしょう。」神が私たちの知らない見えない裏で何か新しいことを始めて、それが何かは事後的にわかる、そして、わかった時点に立って後ろを振り返ってみるとあの試練はもう試練ではなくなっていて、むしろそれがあったから、それに取り組んでいたから、今この新しい地点に立っている、そして神が本当に見捨てずにずっと導いて下さったということもよくわかる、こういう捉え方はとてもキリスト信仰的です。
なぜこの捉え方がキリスト信仰的かと言うと、聖書の神、万物の創造主の神が本当に信頼に値する方だと信頼している者にとっては真理だからです。神を本当に信頼するというのは、困っている時苦しい時に助けを祈る相手はこの方以外にはない、自分が成し遂げようとしていることに祝福と導きをお願いする相手はこの方以外にはいない、さらに神の意思に反する罪を持ってしまった時に赦しを願う相手はこの方以外にはない、という具合に全身全霊で神一筋になることが神を本当に信頼することです。まさに十戒の第一の戒め、「私以外に神はあってはならない」の通りになることです。
それでは全身全霊で神を信頼しきるという心はどうしたら生まれるのでしょうか?それはもう言うまでもなく、その神がかけがえのないひとり子を私たちに贈って下って、その方に十字架の死と死からの復活という業を果たさせたということ、それで彼を救い主と受け入れて洗礼を授かった者たちをご自分の子にして下さったこと、ここに私たちの神に対する信頼は拠って立ちます。私たちは神の子とされたのです。私たちにひとり子を贈って下さった父なるみ神を私たちはその子として信頼するのです。だから、試練があってもそこで立ちすくんだり埋没したり堂々巡りしないで、一直線に(多少ジグザグするかもしれませんが)神が準備して下さっている次の段階に向かって進んでるという見方になれるのです。
そのことを使徒パウロは第一コリント10章13節で次のように述べています。「神は真実な方です(注 ギリシャ語のピストスは「裏切らない、誠実な、貞節を守る」という意味があります。つまり神は私たちを見捨てないという意味です)。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていて下さいます。」
イエス様を救い主にしていない人たちから見たら、こういうのは根拠のない楽観論にしかすぎないでしょう。しかし、キリスト信仰者はそれを真理として抱いているのです。キリスト信仰の楽観的な真理はパウロの次の言葉にもよく出ています。ローマ8章28節です。
「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」
私たちの用いる新共同訳では「万事が益になるように共に働く」と、万事が勝手に働いて益になっていくという訳ですが、ギリシャ語原文は、神が万事を益にしてくれると訳することもできます。フィンランド語の聖書もそう訳しています。私もその方がいいと思います。今は試練の中にあり、神の助けと導きを祈りながら自分の出来る最善を尽くして取り組むのみ。それと同時に、神は私たちの知らない気がつかないところで、まさに裏で私たちのいろんな難しい形のパズルを合わせて下さっている。全てが見事に埋め合わさった全体像を後で見せて下さる。それを心に留めながら試練に取り組むのがキリスト信仰者というものです。
このようにキリスト信仰者というのは、神は試練を脱する道を備えて、試練のいろんな要素を組み合わせて最後は大きな益にして下さるということをわかっている者です。しかしながら、何がどう組み合わさっていくのか、細かい具体的なことは試練の最中にあっては全然わかりません、全然見えません。全ては事後的にわかるだけです。だから、試練の最中の時は父の愛情と先見の明に信頼して進むしかないのです。このような、全体的には神の基本方針はわかるが、具体的な詳細は現時点ではわからないということは本日の旧約の日課「コヘレトの言葉」の個所でも言われています。3章11節で、天と地と人間を造られた神は人間に永遠を思う心を与えたと言われています。「永遠を思う心を与えた」はヘブライ語原文を直訳すると「永遠を人間の心に与えた」です。「永遠」、「永遠なるもの」を人間の心に与えたのです。
永遠とは何か?簡単に言えば時間を超えた世界です。それでは時間を超えた世界とは何かというと、説明は簡単ではありません。聖書の一番初めの御言葉、創世記1章1節に「初めに、神は天地を創造された」とあります。つまり、森羅万象が存在し始める前には創造主の神と神の霊、そして箴言で言われる、天地創造の場に居合わせた神の「知恵」なる者しか存在しませんでした。神が天地を創造して時間の流れが始まりました。その神がいつの日か今ある天と地を終わらせて新しい天と地にとってかえると言われます(イザヤ書65章17節、66章22節、黙示録21章1節、他に第二ペトロ3章7節、3章13節、ヘブライ12章26ー29節、詩篇102篇26ー28節、イザヤ51章6節、ルカ21章33節、マタイ24章35節等も参照のこと)。新しい天と地のもとで唯一の国として「神の国」が永遠に存続すると言うのです。そういうわけで、今の天と地は造られてから終わりを告げる日までは時間が進む世界です。神はこの天と地が出来る前からおられ、天と地がある今の時もおられ、この天と地が終わった後もおられます。まさに永遠の方です。
神のひとり子がこの世に贈られて人間として生まれたというのは、まさに永遠の中におられる方が、限りあるこの世界に生きる私たち人間を、永遠の神と結びつきを持って生きられるようにしてあげよう、そしてこの世の人生を終えた後も復活の日に目覚めさせて神のもとに戻れるようにしてあげよう、そのために贈られたのです。そのような今のこの世と次に到来する世の二つにまたがる神との結びつきを持てるようにするためには、どうしたらよいか?そのためには、人間から神との結びつきを失わせてしまった原因、つまり神の意思に反しようとする罪をどうにかしなければならない。それで神のひとり子のイエス様は人間の罪を全部引き受けて十字架の上で人間にかわって神罰を受けて、私たち人間のために罪の償いを神に対して果たして下さいました。イエス様を救い主と受け入れて洗礼を受ける者はこの罪の償いを自分のもとにすることができ、罪が償われたから神から罪を赦された者として見なされるようになって、それで神との結びつきを持って生きられるようになったのです。
神はそのような永遠に属するひとり子を信仰を通して私たちの心に与えて下さいました。まさにコヘレト3章11節で言うように、神は永遠を私たちの心に与えて下さったのです。それならば、なぜ「それでもなお、神のなさる業を始めから終わりまで見極めることは許されていない」と言うのか?「永遠」を心に与えられたのに見極められないというのは悲観的です。コヘレトは旧約聖書の知恵文学に数えられますが、全体的にペシミスティックな作品と言われています。ところが私は、何年か前の説教で指摘したのですが、ここのヘブライ語原文を見れば見るほど、どうも逆なような気がしてなりません。つまり、「神は永遠を人の心に与えられた。それがないと(מבלי אשר、מבליを前置詞に解し、אשרは関係詞なので、英語で言えばwithout which)神のなさる業を始めから終わりまで見極められないという心を」という訳になるのではないだろうか?そうすると、「神は永遠というものを人の心に与えられたので、人は神のなさる業を発見することが可能なのだ」となるのではないだろうか。ただ、英語(NIV)やフィンランド語やスウェーデン語の聖書も新共同訳と同じように訳しているので、あまり大きな声で主張するのはばかれます。それでも、イエス様という永遠に属する御子を救い主として心で受け入れることで、神の救いの業を発見することができるのだから、この訳でいいのではないかと密かに思っています。
もちろん日々の試練の中では神の業を初めから終わりまで具体的に見極めることは不可能です。そのことは先ほども申しました。その意味で、心に永遠を与えられても発見できないというのはやはりその通りです。そうなるとペシミズムになってしまうのか?しかし、先ほど述べたように、キリスト信仰者は、事後的に全てが繋がっていたとわかる、神はそのように取り仕切って導いて下さる、そう信頼して進んでいくので、ことの最中にある時は具体的なことは何もわからないけれども、神の基本方針はわかっている。先ほどのパウロの聖句のように神の基本方針をわかっていることでは神のなさる業を発見できているのです。この視点に立ってコヘレトを見ればペシミズムに留まらないで、それを超えるものが見えてくるのではないでしょうか。
コレヘト3章の初め「天の下の出来事にはすべて定められた時がある」のところで、生まれる時も死ぬ時も定められたものだと言われています。定められた時の例がいっぱい挙げられていて、中には「殺す時」、「泣く時」、「憎む時」というものもあり、少し考えさせられます。不幸な出来事というのは、もちろん自分の愚かさが原因で招いてしまうものもありますが、全く自分が与り知らず、ある日青天の霹靂のように起こるものもあります。そんなものも、「定められたもの」と言われるとあきらめムードになります。これをどう考えたらよいでしょうか?
そこで、「神はすべてを時宜に適うように造り」という下りを見てみます。ヘブライ語原文に即してみると、「神は起きた出来事の全てについて、それが起きた時にふさわしいものになるようにする」という意味です。つまり、もし別の時に起こったのならばふさわしいものにはならなかったと言えるくらい、実際起きた時にふさわしいものだった、と理解できます。そうすると、起きたことは起きたこととして受け入れるしかなくなります。そこから出発しなければならなくなります。それでは、そこから出発してどこへ向かって行くのか?これが一番大切なことです。
ここで「永遠」の出番となります。もし「永遠」がなく、全てのことは今ある天と地の中だけのこととしたら、そこで起きる出来事は全て天と地の中だけにとどまります。しかし「永遠」があると、この世の出来事には全て続きが確実にあり、目指す先には神の意思、神の正義、神の義があることが見えてきます。イエス様はマタイ5章の有名な「山の上の説教」の初めで「悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる」と、今この世の目で見て不幸な状態にある人たちの立場が逆転する可能性について繰り返して述べています。「慰められる」とか「満たされる」とか、ギリシャ語では全て未来形ですので、将来必ず逆転するということです。運よくこの世の段階で逆転することもあるでしょう。しかし、たとえあってもそんなのは序の口にしか過ぎない完璧な逆転が待っているのです。また不運にもこの世で逆転しなくとも「復活の日」、「最後の審判の日」に逆転が起こるのです。
イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼を通して神と結びつきを持って生きられるようになったとは言っても、それでも内側にはまだ神の意思に反しようとする罪が残っています。自分では神の意思に沿うように生きようと志しても、それが叶わない、至らないことにいつも気づかされます。本日の福音書の個所はイエス様が最後の審判について教えているところです。困窮した人たち苦難や困難にある人たちを助けてあげなかった者は炎の地獄に落とされてしまうことが言われます。そんなこと言ったら、自分はもう一貫の終わりだと思う人が大半でしょう。一人や二人くらいは助けてあげたと言っても、世界中に困っている人たちが無数にいることを考えたら、何の役に立つのだろうか?と。
この個所をよく見てみましょう。「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである(マタイ25章40節)」。これはギリシャ語原文が厄介な個所です。直訳するとこうなります。「私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にした分をεφ’ οσονあなたたちは私にしたのである。」全然なっていない日本語ですが、わかりやすく言うと、イエス様の兄弟の一人に多くのことをしてあげたら、イエス様に対しても多くをしたことになり、少なくしたら少なくしたことになる。それでもイエス様にしたことには変わりないので、神の御国に迎え入れられるということです。多くをしたということは、しなかったことが少しあるということです。少なくしたら、しなかったことが多くあるということです。でも、イエス様は多くても小さくてもいい、みんな自分にしてくれたことであると認めてくれるとおっしゃっているのです。しなかったことはあるにしても、それは問わないと言うのです。
キリスト信仰というのは、イエス様が打ち立てた罪の赦しに留まって生きる限り、至らなかったところ足りないところは神は追及しないから心配しなくてもいい、出来たところを見て下さるから安心していいという信仰です。それなので、遠い国に赴いて困窮した人たちを大勢助けることも、身近なところで少人数助けることも、同じように認めて下さるのです。助ける人を支える人も認めてもらえるでしょう。自分の力が足りなくて助けてあげられなくても神に祈ることはできます。祈るだなんて、そんなのは助けないことをカモフラージュして自己満足することだ、と言う人もいるかもしれません。しかし、キリスト信仰では最後の審判は切実な問題なので、祈りがカモフラージュや自己満足に陥ることはありません。
兄弟姉妹の皆さん、今世界を見渡すと、皆が皆自分に都合のいいこと自分の感情にぴったりなことが真実だとして、それをSNSを通して拡散するので何が真実かわからなくなっていく状況があります。うまく言いくるめる能力のある人たち、感情に訴える力のある人たちが我が物顔です。こういう時だからこそ、神が永遠を思う心を与えて下さったことを思い起こしましょう。そうすれば、いろんなものがごった煮になった今の世界はやがて火で精錬されて不純物は蹴散らされ、混じりけのない完璧な純度を誇る正義が全てを覆う日が待っていることが見えてきます。それが見えれば、真実は自分に都合のいいこと感情にぴったりなこととは別のところにあることもわかります。それなので、今ある天と地を超えたところで、その天と地を造られそれをいつか新しいものに変えられる方と結びついていることを今一度思い起こしましょう。その方は私たちの試練の時にはどう立ち振る舞わなければならないかを聖書の御言葉を通して教えて下さっています。なので、日々聖書を繙き御言葉に耳を傾けましょう。そして、思い煩いや願い事を父なるみ神に打ち明けることを怠らないようにしましょう。とにかく私たちは心に「永遠」を頂いたのですから、神が万事を益にして下さることを今一度思い起こして、今日始まった新しい年を進んでまいりましょう。
主日礼拝説教 2024年12月29日 降誕節第一主日 スオミ教会
サムエル上2章18-20、26節
コロサイ3章12-17節
ルカ2章41-52節
説教題 「イエス・キリストは聖書と礼拝を通して私たちのそばにおられる」
1.はじめに
本日の福音書の日課はイエス様が12歳の時の出来事についてです。両親と一緒にエルサレムの過越祭に参加した後で行方不明になってしまった、両親が慌てて探しに行き、神殿の中で律法学者たちと議論をしていたところを見つけたという出来事です。神殿でイエス様は神童ぶりを発揮したということでしょうか。イエス様は神のひとり子なので文字通り神童ですが、ここは、子供のイエス様が既に人々を驚かせる才能を持っていたことを示すエピソードに留まりません。よく見ると、この出来事は私たちキリスト信仰者の信仰にとっても大事なことを教えています。母マリアとイエス様のやり取りの中にその大事なことがわかるカギがあります。今日はそれについて見てみましょう。
2.神のひとり子が人間として生まれ出た後の成長
今日の個所はよく目を見開いて読むと、成人するまでのイエス様の生涯のことがいろいろわかってきます。マルコ福音書とヨハネ福音書のイエス様の記録は大人になってからです。まず洗礼者ヨハネが登場して、それに続いてイエス様が登場します。翻って、マタイ福音書とルカ福音書はイエス様の誕生から始まりまり、双方ともイエス様の誕生後の幼少期の出来事も記されています。例えば、ヘロデ王の迫害のためにエジプトに逃れたことや割礼を受けたこと、神殿でシメオンやハンナの預言を聞かされたことなどがあります。その後のことは今日のルカ2章の箇所で12歳の時の出来事が記されているだけです。あとは洗礼者ヨハネの登場まで何もありません。イエス様がゴルゴタの十字架にかけられるのは大体西暦30年頃のことなので、この12歳の時の出来事は幼少期と大人期の間の長い空白期の中の唯一の記述です。それでも、この短い記述からでもイエス様のことがいろいろわかってきます。
まず、マリアとヨセフが毎年過越祭に参加していたことに注目します。ガリラヤ地方のナザレからエルサレムまで直線距離で100キロ、道はくねくねしている筈ですから百数十キロはあるでしょう。子供婦人も一緒ならば数日はかかる旅程になります。イエス様は小さい時から両親に連れられて毎年エルサレム神殿で盛大に行われる過越祭に参加していたのです。皆さんは、今日の個所を読んで、帰路についた両親がイエス様がいないことに1日たった後で気づいたということを変に思いませんでしたか?あれ、どうしてエルサレムを出発する時に一緒にいないことに気がつかなかったのだろうか?それは、旅行が一家族で行うものではなく、それこそナザレの町からこぞって参加するものだったことを考えればわかります。マリアとヨセフはイエス様が「道連れの中にいる」と思ったとあります。また「親類や知人の間を捜しまわった」とあります。「道連れ」というのは、ギリシャ語のシュノディアという単語ですが、これはキャラバンの意味があります。つまり親類や知人も一緒の旅行団だったのです。そうすると中にはイエス様と同い年の子供たちもいたでしょう。子供は子供と一緒にいた方が楽しいでしょう。あるいは何々おじさん、おばさんと一緒にいたいということもあったかもしれません。いずれにしても、マリアとヨセフは出発時にイエス様がいなくても、きっとまた誰それの何ちゃんのところだろうと心配しなかったと思われます。もう何年も同じ旅行を繰り返しているので同行者も顔なじみです。二人が気にしなかったことからイエス様がどれだけこの旅行に慣れていたかがわかります。このようにテキストを一字一句緻密に見ていくとイエス様の幼少期から12歳までの様子の一端が窺えるのです。
そして12歳の時に今までになかったことが起こりました。イエス様は両親と一緒に帰途につかず神殿に残りました。両親は行方不明になった子供を必死に探し回り、やっと見つかったと思ったら、なんと神殿で律法学者と議論しているではありませんか!マリアとヨセフの驚きようと言ったらなかったでしょう。この出来事について後ほど詳しく見てみます。
この出来事の後のイエス様の様子はどうなったでしょうか?51節を見ると、「それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮しになった」とあります。「仕えてお暮しになった」というと何か、もう両親に心配かけない、いい子で生きたという感じがします。ここはギリシャ語のヒュポタッソーという動詞がありますが、両親に服するという意味です。もちろん両親に「仕える」こともしたでしょうが、要は十戒の第4の掟「父母を敬え」を守ったということです。当時のユダヤ教社会では13歳から律法に責任を持つとされていました。12歳までは子供扱いなのでした。エルサレム旅行から帰って程なくして13歳になったでしょうから、律法を守る責任が生じました。それで、エルサレム旅行の時に両親と緊張する場面があったが、その後は第4の掟に関しても他の掟同様、何も問題なかったということです。
洗礼者ヨハネ登場するまでの十数年の間の期間は平穏で祝福されたものであったことが52節から伺えます。「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。」「背丈も伸び」というのは、私の使うギリシャ語の辞書では「年齢を重ね」という意味もあり、フィンランド語の聖書ではそう訳されています。「神と人とに愛された」も、「神や人々が彼に抱く愛顧も増していった」です。そういうわけで、本当に誰からも好かれ頼られる非の打ちどころのない好青年に育ったのでしょう。その彼がやがて、人間と神の関係の障害となっている問題、罪と死の問題を解決するために自らを犠牲に供する道を進むことになるのです。
3.イエス様は神に関する事柄の中にいなければならない
以上、少年期、青年期のイエス様の様子が少しわかってきたところで、エルサレムでの出来事に戻りましょう。12歳のイエス様とマリアの対話の中に私たちの信仰にとっても大事なことがあります。
マリアが問い詰めるように聞きました。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」「心配して」とありますが、ギリシャ語のオドュナオーという動詞はもっと強い意味です。気が動転した、とか苦しくて苦しくて、という意味です。マリアとヨセフは1日分の帰り路をエルサレムに戻らなければなりませんでした。加えてエルサレムでも少なくとも丸2日間捜さなければなりまんでした。当時人口5万人位だったそうです。しかも、過越祭の直後でまだ大勢の巡礼者たちが残っていたでしょう。そんな中を行方不明の一人の子供を捜し出すというのは絶望的な感じがしてしまいます。その時の二人の必死の思いはいかほどだったか想像に難くありません。運よくイエス様は無事でした。しかし、二人は無事を喜ぶどころではありませんでした。見つかった息子は、両親の顔を見るなり、お父さん、お母さん、会えてよかった!と泣きながら懐に飛び込んでくるような子供ではなかったのです。親の心配をよそに神殿で律法学者と平然と議論していたのです。なんだこれは、と両親が唖然として様子が目に浮かびます。
そこでマリアの問いに対するイエス様の答えが重大です。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」残念ながら、この訳ではイエス様の真意は見えてきません。ギリシャ語原文では「どうして捜したのか」と言ってはいないのです。「どうして捜したのか」と言うと、あなたたちは捜す必要はなかったのにどうして捜したのですか?と聞いていることになります。イエス様はそんなことは聞いていません。じゃ、何を聞いたのか?原文を直訳すると「あなたたちが私を捜したというのは、一体何なのですか?」少しわかりにくいですが、意味はこうです。あなたちが私を捜したというのは、私が迷子になったということなのか?私は迷子なんかになっていない、私は自分がどこにいるかちゃんとわかっている、という意味です。じゃ、どこにいるかというと、「父の家」がそれです。「父の家」とは父なるみ神の家、つまりエルサレムの神殿のことです。ところが、ここも説明が必要です。ギリシャ語原文では「父の家」とはっきり言っていません。「父に属する事柄、父に関わる事柄」です。もちろん、神殿はそうした事柄の一つですが、神殿の他にも「父に属する事柄、父に関する事柄」はあります。それでは、他にどんなことがあるのかということをこれから見て行きます。「私は、父に属する事柄/父に関わる事柄の中にいなければならない、そのことをあなたたちはわからなかったのか?」。イエス様がいなければならない「父に関わる事柄、父に属する事柄」とは何か?
エルサレムの神殿では律法学者たちが人を集めてモーセ律法について教えることをしていました。公開授業のようなものです。モーセ律法について教えるというのは、天地創造の神の意思について教えることです。創造主の神が人間に何を求め何を期待しているかについて教えることです。過越祭に参加していたイエス様は神殿で彼らの教えを耳にしたのでしょう。神のひとり子ではありますが、人間としてはまだ12歳です。ということは、言語能力、語彙力も12歳です。しかし、両親が敬虔な信仰者で家庭でもお祈りし旧約聖書の話をしてシナゴーグの礼拝に通っていれば信仰の言語や語彙を習得していきます。12歳のこの日、律法学者の話を耳にした時、以前だったら抽象的過ぎて馬の耳に念仏みたいだったのが、この時は何が問題になっているかがわかるようになっていたのです。
それでは、12歳のイエス様は律法学者の教えに対してどんなわかりかたをしたのでしょうか? 12歳のイエス様の言語能力と語彙力は、確かに30歳や40歳の学者よりも限られているかもしれません。しかし、神の意思についてはイエス様は心と体で100%わかっています。逆に律法学者の方は、言語能力と語彙力は12歳より大きいかもしれませんが、神の意思についてはほんの少しかわかっていなかったでしょう。抽象的な話に入っていける年頃になったイエス様は、学者たちがこれが神の意思だと言って教えていることに大いに違和感を覚えたに違いありません。なぜなら、神は彼の父だからです。イエス様はこの世に生まれ出る前はずっとずっと父のもとにいたので神の意思については被造物である人間なんかよりもよくわかっていました。それで律法学者の公開授業に飛び込んで、ああでもないこうでもないという話になったのです。12歳のイエス様の言葉は学者が使う言葉とは違うけれど、神のことを全てわかっているので質問も答えも本質をつくものだったでしょう。人々が驚いたのも当然です。
ここからわかるように、イエス様が神に関わる事柄の中にいなければならない、と言ったのは神殿にいなけらばならないという意味ではなかったのです。そうではなくて、神の意思が正確に伝えられていないところに行ってそれを正さなければならないという意味なのです。このことは後に大人になったイエス様が活動を開始した時に全面的に開花します。その時のイエス様はシナゴーグの礼拝でヘブライ語の旧約聖書の朗読を任される位になっていました。律法学者並みの言語能力と語彙力がありました。しかも、神の意思を100%心と体でわかっています。そのような方が神の意思について教え始めたらどうなるでしょうか?マタイ7章28節で言われます。「群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。」神のひとり子と人間の知識人の差は既に歴然としていたのです。
4.勧めと励まし
ここでイエス様を捜す、見出すということについて、私たちの場合はイエス様を捜す、見出すというのはどういうことか考えてみましょう。私たちは罪が身近に来て私たちと神との結びつきを弱めようとする時とか、私たちに苦難や困難が降りかかる時に、父なる神や御子なるイエス様に助けを祈り求めます。キリスト信仰者は神に祈る時、必ず終わりに「私の主イエス様の名によって祈ります」と言います。「イエス様の名によって」というのは「イエス様の名前に依拠して」祈ります、ということです。他の何者の名前を引き合いに出しません、それ位イエス様は私の主です、ということを父に知らせます。なぜイエス様が主であるかと言うと、彼が十字架にかかって私の罪の神罰を代わりに受けて下さったからです。そのようにして私と神との間を取り持って下さったからです。そして死から復活されたことで私のために死を滅ぼして復活の体と永遠の命に至る道を切り開いて下さったからです。今その道を共に歩んで下さっているからです。イエス様は、世の終わりまで一緒にいると約束されました。
ところが、このように祈っても苦難や困難が終わらないと、イエス様は一緒にいてくれないような気がしてきます。イエス様は一体どこに行ってしまったのか?行方不明になってしまったのか?いいえ、そういうことではありません。キリスト信仰は、イエス様がそばにいたら苦難や困難は皆無という見方をしません。逆に苦難や困難があるのはそばにいない証拠だという見方もしません。イエス様を救い主と信じ洗礼によって結ばれたらイエス様は苦難や困難があろうがなかろうが関係なくそばにおられるという見方です。祈り願い求めているのにその通りにならないのはなぜかという質問をたてて答えを求めようとすると、日本の場合はすぐ祟りとか呪いとかいう話になっていくと思います。キリスト信仰は、もちろん苦難困難は早く終わるにこしたことはないが、仮に早く終わらなくてもトンネルの出口を目指してイエス様が一緒に歩いて下さるという信仰です。
それでは、苦難や困難の中でも、暗いトンネルの中でも、イエス様が一緒に歩いて下さることがどうしてわかるのか?それについては、彼が母マリアに言った言葉を思い出しましょう。「私は神に関わる事柄の中にいなければならない。」神に関わる事柄の中にイエス様はいらっしゃいます。まず、聖書のみ言葉が神に関わる事柄です。そこにイエス様はいらっしゃいます。教会の礼拝も神に関わる事柄です。特にその中でも御言葉と説教と聖餐式は集中的に神に関わる事柄ですので、イエス様が共におられる密接度が高まります。苦難困難の最中でも御言葉と礼拝と聖餐式を通してイエス様はすぐそばにおられます。行方不明なんかではありません。日々、聖書のみ言葉を繙きそれに聞き、礼拝に繋がっていればいいのです。祈りは父なるみ神に届いています。解決に向かってイエス様が一緒に歩んで下さるというのが祈りの答えです。それなので私たちはこの暗闇のような世の中でひとりぼっちで立ちすくんでしまうこともないし、正しい方角もわからずにやみくもに進むということもないのです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。 アーメン
聖餐式 礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安があなた方にあるように。 アーメン
2024年12月15日(日)
聖書:ルカ福音書3章7~18節
説教題:「悔い改めに相応しい実を結べ」
今日の聖書はルカ福音書3章であります。神から遣わされたヨハネという人が荒野に現れて「悔い改めよ」と叫びました。その声はユダヤの全土に鳴り響きました。このヨハネの叫びは人々の心を鋭く刺激する権威を持ったものでしたからヨハネの叫びを聞いた民はみな自分の生活を顧みて道徳的にも良心に訴えられる反省すべき点を見つめたのでしょう。また神の審判の近いことを感じ恐れおののいたかも知れません。彼らはユダヤの全土からヨルダン川へやって来てヨハネから「罪の許しを得る悔い改めのバプテスマ」を受けたのでした。バプテスマのヨハネはこれらの群衆向かって言ったのです。それが今日の聖書に書いてあります。3章7節からの言葉でありました。「蝮の子らよ!差し迫った神の怒りを免れると誰が教えたのか。悔い改めに相応しい実を結べ『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。言っておくが神はこんな石ころからでもアブラハムの子たちを造り出すことがお出来になる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな切り倒されて火に投げ込まれる」・・・・。
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これはもう刺激的な言葉であります。ユダヤ人の群衆に向かって「お前たちは蝮の子らだ」と言うのです。神の怒りの下にあると言うのです。蝮と言うのは荒野の岩穴に潜んでいる毒蛇であります。人々もよく知っている恐ろしい蛇であります。神様から特別に選ばれている民族である誇りに思っているユダヤの民に向かって「蝮の裔(すえ)だ」と呼んでいるのです。来らんとする神の怒りを逃れられる、とでも思っているのか。各人は自己の生活を悔い改めて良い実を結べと迫って叫ぶのであります。罪を悔い改めなければ民族の伝統をいくら誇ってもユダヤ人であれば誰であれ切り倒されて滅亡の火に投げ込まれるのだ!と叫んでいるのです。悔い改めるならユダヤ人たちが軽蔑する異邦人であっても信仰的には「アブラハムの裔(すえ)」として神の救いを受けられるであろう。このようにしてヨハネの言葉を聞いた群衆は自己の良心に心打たれ感動の言葉に心開かれ人々は言いました。「では私たちはどうすればよいのですか」・・・・。そこでヨハネは答えて言います。11節以下を見ますと「下着を二枚持っている者は一枚も持たない者に分けてやれ」。私たちはヨハネのこの言葉をどのように思うでしょうか。現代の日本に生活している私たちからすると下着一枚も持っていない人にやりなさいと言われるのはピンとこないでしょう。ところがイエス様の時代です。2000年以上も昔です、しかもバプテスマのヨハネは荒野で生きて来たのです。一口で言いますととにかく暑いです。日本人の感覚からは想像を絶する程の暑い中にいるのです。私は実際イスラエルに旅して荒野をバスで通りました。ごつごつした岩、石ころだらけ、気温35度以上どころではありません。バスの中はクーラーをがんがんかけていますがバスから出た途端に物凄い暑さです。もう大変な暑さでカラカラで、とにかく水が無いのです。聖書の中でイエス様が言われる一滴一滴の水の有難さ、まさに命の水です。実際に行ってみないと分からない、実感が湧かない。ここでヨハネが言っている言葉も私たちの日本での感覚からかけ離れた風土の中で語られている言葉です。一枚の下着がどんなに貴重なものであり下着を持っていない人々が沢山いると言う事でしょう。更に食べ物を持っている者も同じようにせよ。充分に食べ物もない、いつも腹ペコペコでやっと水や野菜や草で食いつないでいる人々の状況の中で言われているのです。他のところでイエス様も言われています。そこには人と人との心からの信頼し合って生きねば生きられない。その土台があって[互いに助け合いなさい。][愛し合いなさい。]という事であります。今日生きられるか明日死ぬかもわからない、何も持っていない過酷な状況の中で響く重い生きた言葉です、イエス様の命令です!ヨハネの荒野での禁欲生活の体験から出している実践的真理を訴えて言っているのです。そして更に徴税人に対しては規定以上のものは取り立てるな。兵隊に対しては誰からも金を強請り取ったり騙し取ったりするな、と言っています。自分の給料で満足せよ。きわめて具体的な不正や権力を持っている者が弱い者をないがしろにした社会に対する鋭い警告と悔い改めであります。人間誰もが持っている欲を鋭く突いていると言えるでしょう。時代を超えて昔からユダヤ人の間で横行していたであろう騙し取りや強請り取りの悪がはびこっていたと思われます。これらの一貫して言えることは「あなた方は貪るなかれ」とヨハネは訴えたのです、欲を捨てよ!です。
ヨハネのこれらの鋭い指摘を受けた群衆はヨルダン川において一度全身を水中に沈めて再び浮かび上がるという水による洗礼をうけました。この洗礼によって全身を川の水に一たび全てを沈めることでこれまでの諸々の悪い思いや罪の一切を一瞬にして捨ててしまって再び新たな信仰生活の出発を全身で水を浴びて体験する、これは悔い改めの象徴であります。そこには罪の許しを受け新生の感覚を持って主と共にある信仰の希望を生きるのであります。この体験は一生忘れない印象深い恵みでありましょう。今日でもバプティスト教会は特別の意味を持って聖壇の下にあるプールの中で全身水に浸って新たな信仰の覚醒をする洗礼式が行われています。なぜヨルダン川でのバプテスマのヨハネ悔い改めの叫びにユダヤ全土、彼方此方から人づてに群衆がやって来て洗礼を受けたのでしょうか。このヨハネが現れる前の時代BC16年?~BC37年頃マカベヤ時代といわれた時代、ユダヤ国が倒れた後、歴史的にメシア待望の時代のうねりが高まり民族の間に救い主メシアの出現を期待する思いが強くありました。そこへヨハネが荒野から現れ悔い改めを迫ってヨルダン川で洗礼を授けましたのでこれこそ待望のキリストではあるまいかと群衆が考え始めたのです。16節から見ますと、そこでヨハネは彼らの心を知って皆々に向かって言ったのです。
「私はあなた達に水で洗礼を授けるが私よりも優れた方が来られる。私はその方の履物の紐を解く値打ちもない。その方は聖霊と火であなた達に洗礼をお授けになる。・・・」ヨハネははっきりと自分はキリストではない。即ちあなた方の期待しているメシアはナザレのイエスであることを明らかにしたのであります。そして二人の違いは次の二つの点にあると言います。
第1に ヨハネは水でバプテスマ施すがイエスは聖霊と火でバプテスマを施す。聖霊のバプテスマはその人に全く新しく、魂に至るまでの生まれ変わり、生き方が変えられるのである。そうした神からの力を持つ。一方水のバプテスマは象徴的意味をもつにすぎない。
第2に ヨハネは斧が木の根元に置かれていると言ったけれどもヨハネ自身が斧を振るうのではない。彼はただのの事実を指摘したに過ぎないのです。しかしイエス様はその手に箕を持って自らこれをふるい給うのであります。従って斧を振るう者も又当然イエス様であります。こうしてイエス様とヨハネの間には審判を行う者とそれを指し示す者との差があったのです。これはもう天と地ほどの次元の違う差があったのです。ルカ福音書3章ではヨハネの出現した事について旧約聖書イザヤ書40章を引用しています。ヨハネは救い主イエス様の登場前に道を整え準備する者である事を書いています。その事はヨハネが生まれた時既にその父ザカリヤが聖霊に満たされて預言したところであった。バプテスマのヨハネは罪の許しに至る「悔い改め」の道を宣べ伝えたのでした。[罪の赦しを得させる者は]ヨハネではなくイエス様の救いでありました。ヨハネは水による洗礼で形式的象徴であってイエス様の救いは聖霊によってする永遠的効果のある実力であったのです。こうした違いがある事をヨハネ自ら「私はあなたのために水で洗礼を授けるが私よりも優れた方が来られる。私はその方の履物の紐を解く値打ちもない」という表現で言ったのです。
今日のメッセージで私たちはバプテスマの叫びを心に受けて自分の人生をこれから何をしたら良いのでしょうか。イエス様は33年の生涯で最後の僅か3年間を激しく神の国の心理を語り神の力を爆発させて数々の奇跡の業を起こし数知れない病人を救い、そして遂には十字架の死をもって信ずる全ての人の罪を贖ってこの世を終えられました。バプテスマのヨハネは神の子イエスの前を歩き僅か30年の生涯を殆ど荒野で過ごした後ユダヤの民に「悔い改め」を叫びヨルダン川で水による洗礼を授けを最後は牢獄で死を遂げたのであります。我らはこのヨハネの叫びを聞き何をなすべきか?彼は今日も叫んでいるのであります。
来週の礼拝はクリスマスです。私たちはバプテスマのヨハネの叫びを受けとめ罪赦された神の愛を受けて神を褒めたたえたい!詩編103篇の作者のように「我が魂よ主を褒めたたえよ」と喜びの賛美を挙げてクリスマスを迎えましょう。
人知では測り知ることの出来ない神の平安があなた方の心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。 アーメン
説教題「神はあなたに良い業を始め、それを主の再臨の日に完成させる」
先週キリスト教会の暦の新しい一年が始まりました。クリスマスまで4つの日曜日を含む期間を待降節と呼びますが、読んで字のごとく救い主の降臨を待つ期間です。クリスマスの日になると私たちは救い主を贈られた天地創造の神に感謝と賛美を捧げ、人間の姿かたちを取って降臨した救い主の誕生をお祝いします。この救い主の降誕を待つ期間、私たちの心は2千年以上の昔に今のイスラエルの地で実際に起こった救世主の誕生に向けられるのです。
このように待降節は一見すると過去の出来事に結びついた行事に見えます。しかし、先週も申しましたように、私たちキリスト信仰者はそこに未来に結びつく意味があることも忘れてはなりません。というのは、イエス様は御自分で約束されたように、再び降臨する、再臨するからです。実に私たちは、2千年以上前に救い主の到来を待ち望んだ人たちと同じように、その再到来を待ち望む立場にあるのです。そのため待降節の期間は主の第一回目の降臨に心を向けつつも、第二回目の再臨にも思いを馳せる期間です。クリスマスをお祝いして、ああ今年も終わった、また来年、と言って飾りつけと一緒に片づけてしまうのではなく、毎年過ごすたびに主の再臨を待ち望む心を思い起こしてそれを保っていかなければなりません。そういうわけで今日も、本日定められた聖書の個所を通して再臨を待ち望む心を思い起こしましょう。
本日の福音書の日課は洗礼者ヨハネが活動を開始する場面です。神の言葉がユダヤの荒野にいたヨハネに降り、ヨハネはそこから出てヨルダン川流域の地方に出て行って、罪の悔い改めの洗礼を受けなさいと宣べ伝え始めました。そして、大勢の人々がヨハネの洗礼を受けようと集まってきました。この福音書を書いたルカは、これこそ旧約聖書イザヤ書40章に預言されていたことの実現だとわかって、それを引用して書き出します。
「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」
荒れ野で叫ぶ声とは洗礼者ヨハネの宣べ伝えの声です。ヨハネが整えよ、まっすぐにせよ、と命じた「主の道」の「主」とはイエス様のことです。イエス様の道を整えよ、その道筋を真っ直ぐにせよとは具体的に何を意味するのでしょうか?ヨハネは続けて、「山と丘はみな低くされる、曲がった道は真っ直ぐに、でこぼこの道は平らになる」と言います。聞いていると、なんだかイエス様が歩きやすい道を整備しなさいと言っているように聞こえます。イエス様はでこぼこ道や曲がった道を歩くのが苦手だったということでしょうか?
いいえ、そういうことではありません。ここのイザヤ書の引用はイエス様の足について言っているのではなく、イエス様を迎える立場にある私たちの心のことを言っているのです。それがわかるために、まず、「道を整えよ、道筋を真っ直ぐにせよ」と命じた後に来ることを見てみましょう。「谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る」と言います。全部未来形で将来起こることを言っています。
「山と丘は低くされる」と言う時、「低くされる」のギリシャ語原文の動詞(ταπεινοω)は「ヘリ下させる」という意味があります。つまり、山や丘というのは高ぶった人やその心を意味し、それをヘリ下させるということです。暗に人の心を言っているのです。「谷は全て埋められる」というのは、人の心のことを言っていないようにみえます。ところが、引用元のイザヤ書40章4節のヘブライ語の原文を見ると、「埋める」という動詞は使われていません。「高くする」という動詞(נשא)です。「谷底を高くする」という言い方です。ちょっと変ですが、要は、低くされた人を高く上げてあげること、谷底に落ちたような状態にある人を引き上げてあげること、ヘリ下った心の持ち主を高く上げることを意味します。まさに人の心について言っているのです。イエス様が、自分を高くする者は低くされ、低くする者は高くされると言っている旧約聖書の背景がここにあります。
「曲がった道はまっすぐに」ですが、ルカ福音書のギリシャ語の原文、引用元のイザヤ書のヘブライ語原文を見ても「道」という言葉はありません。一般的に「曲がった」ことを言っています。それで「道」と理解する必要はないのです。「曲がった」というのはギリシャ語の単語をみてもヘブライ語の単語を見ても(σκολιος、עקב)、ずるい、悪賢い、陰険という意味があり、まさに心が曲がった状態を意味するのです。それが「まっすぐになる」と言うのは、これも単語の意味を調べると(מישור)、公正な、正しい、義に満ちたという意味があります。なので、ここは正しい心、真っ直ぐな心のことを言っているのです。このように、主の道を整えよ、その道筋をまっすぐにせよ、と命じて、そうすれば高ぶった心は低くされ、低められた心は引き上げてもらえ、曲がった心は真っ直ぐになって、神の救いを見ることになるのだ、という流れです。一見、平らで歩きやすい道のことを言っているようですが、実は心のことを言っていて、神の救いを見るのに相応しくなかった心が相応しいものに変わることを言っているのです。このように聖書は原文に遡ってみるといろんな発見があり、日本語の理解をさらに進めてくれます。
「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」とは、神と神が贈る救い主が私たちのところにやってくる、だから、私たちのところに来やすいように道が曲がりくねっていればそれを真っ直ぐにして、道の上の障害物を取り除きなさいということです。私たちの側でバリアフリーにしなさいということです。
私たちの内にある、神と救い主の近づきを妨げる障害物とは何でしょうか?それを私たちはどうやって取り除くことができるでしょうか?「神が近づく」とは、神が遠く離れたところにいる、だから、私たちに近づくということです。実は神は、もともとは人間から離れた存在ではありませんでした。創世記の最初に明らかにされているように、人間は神に造られた当初は神のもとにいる存在でした。それが、最初の人間が悪魔の言うことに耳を貸したことがきっかけで、神の言葉を疑い、神がしてはならないと命じたことをしてしまいました。それが原因で人間の内に神の意思に背こうとする罪が入り込み、神聖な神との結びつきが失われてしまいました。その結果、人間は死する存在になってしまいました。使徒パウロがローマ6章23節で、罪の報酬は死であると言っている通りです。人間は代々死んできたことから明らかなように、代々罪を受け継いできたのです。
これに対して神はどうしたでしょうか?身から出た錆だ、と冷たく引き離したでしょうか?いいえ、そうではありませんでした。神は、人間が再び自分との結びつきを持って生きられるようにしてあげよう、この世から離れた後は自分のもとに戻れるようにしてあげよう、そう決めて人間を救う計画を立てました。そして、それを実行に移すためにひとり子をこの世に贈られたのでした。
神は人間の救いのためにイエス様を用いて次のことを行いました。人間は自分の内に居座るようになってしまった罪を自分の力で追い出すことができません。それで人間は罪にまみれ罪の力に服したまま、神との結びつきがない状態でこの世を生きることになります。この世から離れる時も神との結びつきがないまま離れることになってしまいます。そこで神は、人間の罪を全部イエス様に負わせて、彼があたかも全ての罪の責任者であるかのようにして、十字架の上で神罰を人間に代わって受けさせました。イエス様に人間の罪の償いをさせたのです。さらに神は一度死なれたイエス様を死から復活させて死を超えた永遠の命があることをこの世に示して、そこに至る道を人間に切り開かれました。
このようにして、遠いところにおられる神はひとり子のイエス様をこの世に贈り、その彼を通してご自身の愛と恵みをもって私たちに近づかれたのです。それは、私たち人間が神との結びつきを持てて今のこの世だけではなく次に到来する世も合わせた大いなる人生を生きられるようにするためでした。
それでは、神がこのように私たちに近づかれたのならば、私たちはどうやって自分のうちにある障害物を取り除いて、道を整えて、神の近づきを受け入れることができるでしょうか?
それは私たちが、この神の近づきは人種、民族に関係なく全ての人間に向けられたもので、この自分に対しても向けられていると気づいて、それでこの大役を果たしたイエス様を自分の真の救い主と信じて洗礼を受ける、そうすることでバリアフリーになって神の近づきを受け入れることができます。まさに洗礼の時、心の中にある主の道が真っ直ぐにされて聖霊が入ったのです。聖霊が入ったことは、次のような聖霊の働きから明らかです。洗礼を受けたことでイエス様が果たしてくれた罪の償いが自分の償いになったのだ、自分は罪を償ってもらったのだ、罪を償ってもらったから神から罪を赦された者と見てもらえるようになったのだ、神から罪を赦された者と見てもらえる以上、自分はもう罪の側にいて生きるのではなく、神の側にいて生きるようになったのだ。こういうふうに新しい命が自分にあるのだとわかるのは聖霊が働いている証拠です。聖霊なしではわかりません。
聖霊の働きは、新しい命の自覚をもたらすことで終わりません。キリスト信仰者はイエス様のおかげで罪を赦してもらったけれども、それは罪が消滅したことではありません。神の意思に反しようとする罪はまだ内に残っています。たとえ行為に出さないで済んでも、心の中に現れてきます。そのような自分を神聖な神は本当に罪を赦された者として見てくれるのか、心配になります。その時、キリスト信仰者は自分の内にある罪を見て見ぬふりをせず、すぐそれを神に認めて赦しを祈ります。神への立ち返りをするのです。罪を見て見ぬふりをして赦しを祈り求めないのは神に背を向けることです。このようにキリスト信仰者が自分の内に罪があることに気づいて神への立ち返りをするというのも聖霊が働いている証拠です。
神はイエス様を救い主と信じる者の祈りを必ず聞き、私たちの心の目をゴルゴタの十字架に向けさせて言われます。「お前が我が子イエスを救い主と信じていることはわかった。イエスの十字架の犠牲に免じてお前の罪を赦す。だから、これからは罪を犯さないように」と。この時キリスト信仰者は自分にはイエス様の償いがある、神との結びつきは失われていないとわかり、神の側にいて生きる者の自覚、洗礼の時に始まった新しい命の自覚が戻ります。このように自覚に戻れるのも聖霊が働いている証拠です。
実にキリスト信仰者は聖霊の働きにより、罪の自覚と神から赦しを受けることを何度も何度も繰り返しながら復活と永遠の命が待っている神の国に向って進んでいくのです。先週の説教でも申しましたように、これを繰り返していくと、私たちの内に残る罪は圧し潰されていきます。なぜなら、罪が目指すのは私たちと神との結びつきを弱め失わせて私たちが神の国に迎え入れられないようにすることだからです。そこで、私たちが罪の自覚と赦しを繰り返せば繰り返すほど、逆に神と私たちの結びつきは一層強められるので罪は目的を果たせず破綻してしまうのです。また罪の自覚と赦しを繰り返していくと、高ぶった心は低くされ、谷底に落とされた状態からは引き上げられて、曲がった心は真っ直ぐにしてもらえます。福音書の日課の最後のところで言われるように、最終的に神の救いを見ることになります。つまり、主の再臨の日、「お前は真に神の側にいて生きてきた」と裁きの主から認められるのです。本日の使徒書の日課フィリピ1章6節で、キリスト信仰者に良い業を始めた神はイエス様の再臨の日にその業を完成させる、と言われていますが、真にその通りです。
主の再臨の日に神が完成させる善き業について、以上は神と人間の関係に関わる善き業でした。説教の終わりに、人間と人間の関係に関わる善き業について見てみます。つまり、私たちのこの世での営みや活動の善き業についても神は完成させられることを述べたく思います。宗教改革のルターが言ったのではないかと考えられている言葉に次のようなものがあります。ある人がルターに聞きました、先生、明日世界が滅亡するとわかったら、今日何をしますか?と。ルターはこう答えたそうです。「そうであっても、私は今日リンゴの木を植えて育て始める。」
明日世界が滅亡するのに今日リンゴの木を植えて育て始めるなんてどうかしていると思われるでしょう。今日植えたリンゴが明日までに実を結べる筈はなく、普通に考えたら全くナンセンスです。ルターはどうしてそんなことを言ったのでしょうか?
それはキリスト信仰の終末論のためです。ただし、終末論と言っても、この世が終わって本当に何もなくなってしまう消滅論ではありません。この世が終わっても次に新しい天と地が創造されて、死から復活させられた者が新しい世の構成員になるという新創造論なのです。終末もありますが、その後も続きがあるのです。まさに再創造あっての終末論、永遠の続きがあることを見据えた終末論です。それなので、およそ神の意思に沿うことであれば、たとえこの世で果たせず未完で終わってしまっても、次に到来する世で創造主の神が完成したものを見せてくれるので、この世で途中で終わっても無意味とか無駄だったということは何もないのです。それで、この世で悪や不正に与せず、それに反対するのが大事なのは、新しい世で正義が完成された状態を満喫できるからです。また、この世で障がい者が出来るだけ普通の社会生活を送れるように支援することが大事なのは、新しい世で天使のようになったその人と出会えるからです。イエス様は復活した者はみな天使のようになるのだと言っていました。明日この世が終わるという時に今日リンゴの木を植えるのが大事なのは、新しい世で実を豊かに実らせているその木に出会えるからです。今日リンゴの木を植えるというのは、今日悪と不正に与せず反対すること、今日障がい者を支援することと同じです。新しい世で実を豊かに実らせる木に出会えるというのは、新しい世で正義が完成された状態を満喫すること、新しい世で天使のようなその人と出会うことと同じです。この世で始められた善い業を神は必ず完成させられるのです。
このように、イエス様の再臨を待ち望むキリスト信仰者は、この世に終わりがあることを意識しているにもかかわらず、この世で果たすべきことをちゃんと果たすことが出来るのです。意識しているにもかかわらず、と言うよりは、まさに意識しているから果たすことが出来るのです。
ヨハネ18:33―37
「真理は何か」
私の趣味はアマチュア無線で、真空管アンプや古いラジオを作ることです。私は約 50 年間収集しており、少なくとも 300 個はコレクションにあります。大きいものと小さいもの、黒と白、真空管とトランジスタがあります…私は一度、安価でささやかなスクラップを購入したことがあります。ほぼ無料だったので、実際には機能しませんでした。少し修正してみましたが、すぐに飽きてしまいました。安価で小さなメーカーの製品でした。しかし、後になって、そのラジオは確かに価値があり、尊敬されているデンマークの B&O という良いブランドであることに気づきました。このブランドは日本でも販売されています。
– また修理を始めました。外側はきれいでしたが、激しい揺れで内側はかなり傷んでいました。数時間かけて修正しました。約50本のワイヤーが切れており、再接続する必要がありました。ついにラジオが動き始めました。嬉しかったです。努力した分だけ報酬が得られ、価値が上がりました。ということで、このラジオは壊れてしまいました。私たちも、傷ついたり、落ち込んだり、絶望したり、失敗したりすることがあります。私はラジオを直した、誰が直してくれるだろうか?あなたは正しい場所にいます。神はあなたを直すことができます。神は私たちに目的、未来、希望を与えてくれます。
1.今日の聖書の個所を読みましょう。
18章 33節
そこで、ピラトはもう一度官邸に入り、イエスを呼び出して、「お前はユダヤ人の王なのか」と言った。これは難しいです質問です。ピラトはふつうのタイプの王様を考えたでしょう。戦いする、金持ち、良い服を着ている王様だ思います。ピラトはユダいや人の習慣と考え方は理解できませんでした。ピラトは「「私はユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前を私に引き渡したのだ。一体、何をしたのか。」 イエスの考え方はピラトとちがいます。イエスは答えました。
18章 36節
イエスはお答えになった。「私の国は、この世のものではない。もし、この世のものであれば、私をユダヤ人に引き渡さないように、部下が戦ったことだろう。しかし実際、私の国はこの世のものではない。」 王様として、イエスは普通の王様と違います。イエスはこう説明された。
18章 37節
ピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「私が王だとは、あなたが言っていることだ。私は、真理について証しをするために生まれ、そのために世に来た。真理から出た者は皆、私の声を聞く。」 王の王、イエス様は特に人間を救うためにこの世にお生まれになりました。最初の話に戻りましょう。私たちは内面的に傷つき、落ち込んで絶望するだけでなく、神との関係も壊れてしまいます。私たちは神に対して罪を犯しました。誰が私たちと神との関係を修復してくれるでしょうか?答えはイエスです。王の王です。聖書は次のように教えています。
2.イエス様だけ出来ることです。
1:ヨハネによる福音書/ 03章 16節
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
贖罪(贖い)と宥め
父からの使命に忠実であったキリストは、その血を流し、その生命を、私たちの贖いのためにお与えになりました。すなわち、罪無きキリストは十字架の上で、苦難を受けられることによって、私たち自身が罪のために受けなければならない罪責と刑罰とを、代わってその身に受け、神の怒りを宥めたのです。このようにしてキリストは、罪と死と悪魔の力に打ち勝ったのであり、キリストの苦難と死こそが、私たちの罪の宥めの犠牲なのです。私たちのために、苦しみを受けました.
神の御恵みについては話しましょう。
イエスは特に失われた者や罪人と交際しました。このことは彼らにとっては大きな慰めでしたが、他の人々には躓きとなりました。しかしイエスはこれによって罪人を求めてこれを救う神の言い尽くし難い愛を示したのです。このように私たちに何らかの価値が無いのに与えられる神の愛が恵みと呼ばれるのです。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マタイ9:13)。「見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ」(マタイ11:19)。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(マルコ10:45)。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」(ヨハネ1:29)。イエスは救い主でいらっしゃいます。わたくしたちはなにをしたらいいでしょうか。答えは。
3.奉仕への贖い
神がその恩恵によって、私たちの罪を赦してくださったために、私たちの内に感謝と愛と信仰による服従心が生まれ、神と隣人とに奉仕するようになります。キリスト者の全生涯は奉仕の生涯であり、このような奉仕の生涯を私たちはキリスト教倫理と呼びます。「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです」(第一ヨハネ4:19)。神様の愛は不思議なことなことですよ。
終わりに。
ピラトは「真理は何か」と言いました。38節です。イエスは答えです。イエスは道であり、真理であり、命であり。イエスに従って、真理がわかる。
祈りましょう
天の父なる神様。あなたの約束のとおりに、私たちもイエスにお会いする希望を持っています。感謝します。イエスが復活されたからです。これは私たちの一番重大切な喜びの元です。あなたはイエスを私たち人間の救いのために、罪の赦しのために送ってくださいました。私たちのよい行いは救いのために必要ではありません。イエスのみ業は完全だからです。私たちの本国の天への道も教えてくださいました。それは私たちの人生の目的です。私たちの天国への道を見せてください。私たちを、主をお迎えする心の準備が出来るように、あなたの声を聞けるように導いてください。私たちは信仰によってあなたの子どもです。私たちは恵みによって救われます。どうか、私たちがあなたの父なる神様のみ守りに信頼できるように私たちを強めてください。イエスと共に人生の道を歩めますように。私たちがあなたの子どもとして出来る社会的な義務や御国のためにできる仕事を教えてください。福音や神様の招き、復活の喜びをどうすれば世界へ伝えることができるのか、私たち一人一人に教えてください。また、隣人を愛せるように、互いに仕え合うことが出来るように私たちの愛を主イエスキリストによって強めてください。心の中にあなたの光を照らすことができますように。御言葉によって、私達の希望を強めて下さい。この祈りを主イエスキリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。
説教題「終末の徴」 2024年11月17日(日)
マルコ福音者13章1~8節
今日、世界の彼方此方で悲惨な戦争が続いています。イスラエルという国はもう長年中東戦争に明け暮れています。神様が旧約聖書の時代からイスラエルの民を神は選ばれて人間の救いの舞台とされて来られた、その民族が戦争をしているのです。世界中の政治と経済に大きな影響を与えるアメリカ大統領にトランプ氏が選ばれました。世界はどうなるでしょうか。
さて今日の聖書でマルコは章のはじめにイエス様がエルサレムの神殿で弟子たちにあまりにも壮大な素晴らしい神殿を見て驚きため息をついて見ているのをご覧になって「これらの大きな建物もやがて全て崩れて壊れてしまう」と予告されたのです。弟子たちは吃驚したでしょう。どうしてそんな事が起こり得ようかと思ったでしょう。この神殿は紀元前20年から建築が始まってイエス様の時代にはまだ完全には出来上がっていなかった、と言われています。この神殿は巨大な石によって基礎作りがなされ、大理石の柱も遠くから運ばれ人々の目を驚かせるほどの素晴らしいものでした。建物全体が相当の量の金の板で覆われていて、日の出の時は眩しくて目を覆うほどであったと言われています。ガリラヤ地方から都エルサレムに出て来た弟子たちは強烈な印象を受けたことでしょう。弟子たちだけでなくごく自然に多くの人々も又まばゆく輝くばかりの壮大な神殿に見とれたことでしょう。過ぎ越しの祭りには彼方此方の外国にいたユダヤの民もこの神殿に来て礼拝したことでしょう。イエス様は弟子たちの神殿を見て驚いている、その様子を見て言われたのです。「これらの大きな建物を見て驚いているのか、しかし一つの石もここで崩されず他の石の上に残ることはない」と言われました。イエス様はエルサレム神殿が悉く崩壊されてしまう、と予告されたのであります。イエス様の予告通り紀元70年にローマ軍によってエレサムは滅ぼされ神殿も崩壊しました。そこでこの歴史的な事実をイエス様は40年も前に予告されたことになるのです。弟子たちの目は神殿建築の大きさ、そこに見る材料に目を奪われていました。しかし、イエス様はあなた方はこの大きな建物だけを見ているのかと問うておられるのです。この神殿にも勝るお方がここにおられる。という事実になぜ目が開かないのかと問うておられるのです。神が私たちの救いのために御子を遣わしになりその十字架の死によって、私たちのすべての罪を完全に贖って下さり、終りの日に私たちをも御子イエス・キリストの復活に与からせてくださる、という永遠に変わることのない神のご計画に目を開かなければならないのです。そうでないとイエス様の言われる言葉がわからない。
3節から場所が変わりまして今度はイエス様と弟子たちはオリブ山から神殿を見ております。そこで4人の弟子が密かにイエス様に尋ねました。「そのことは何時起こるのですか、又その事が実現する時にはどんな徴があるのですか」。はじめの「その事は」いつ起こるのですか、と言う時のその事という意味は勿論神殿崩壊の事です。後の質問の「その事がすべて実現する時、どんな徴があるのか」その事がすべてと言うのは結論的に言えば世の終わりのこと、或いは主の日が近づく時の事でありましょう。ユダヤ人は「主の日」を待望していました。そういう思想が民族に浸透していたと言って良いでしょう。その事は旧約聖書の中でもイザヤ書13章6~13節に表されていると言われています。イザヤ書に「泣き叫べ、主の日が近づく。全能者が破壊する者を送られる。・・・見よ主の日が来る、残忍な怒りと憤りの日が。大地を荒廃させそこから罪人を絶つために。天の諸々の星とその星座は光を放たず太陽は登っても闇に閉ざされ月も光を輝かさない。・・・イザヤ書13:6~13」ユダヤ人は自分たちが神に選ばれた民であると確信していました。終わりの日に神が直接ユダヤ人に栄光を与えて下さる。しかし、その前に恐怖と苦難の時がある、という事をユダヤ人は考えていました。大国の支配を受け苦しい時代に「主の日」の待望はますます強烈なものとなりました。ですからユダヤの人々には大変身近なものであったのでこの思想を多くの比喩的表現を用いて述べてきました。イエス様もお用いになったのであります。
そうしてイエス様は話始められた。5節から8節にマルコは書いています。終わりの日が来る時の徴は何かという弟子たちの質問に対して、イエス様はまず第一に多くの苦難があることを予期せよ、と言われました。その苦難は何かというと偽のキリストの出現である。6節「私の名を名乗る者が大勢現れる、そして多くの人を惑わすだろう。」だから偽りの救い主に惑わされないように警戒せよ。次には戦争や地震、飢餓が起こる。と言うのであります。これらに対して決して慌てるなと言われております。こう言う事は起こるに決まっている。必ず起こると言う。これらの苦しみはどうしても避けられないのだ。と主は言われるのです。しかもこれらの事が起こっても「まだ世の終わり」ではない。と言うのです。弟子たちは何か徴を見ることが出来ればと安易に考えたのでありましょうがイエス様はそういう願いは捨てなさい!信仰を持って耐えなさい、と言われるのであります。まだ終わりは来ないのです。苦しみは悪い方に増すかもしれないがそれはほんの始まりにすぎない。8節で「これらの産みの苦しみの始まりである」という。ユダヤの女性にとって子供を産むということは神の大きな祝福でありました。これまで子供は与えられないと諦めていたのに子供が与えられたという事は大きな喜びであります。その大きな喜びのための苦しみが産みの苦しみであります。この表現は苦しみに耐えるという真に暗示的な表現であります。主の日を迎える前にこれらの苦しみはどうしても耐えなければならないものなのです。
ではその「主の日」を迎える前に起こる様々な出来事、困難な苦しみに耐えるのに具体的にどうしたら良いかをマルコは9節以下23節に渡ってイエス様が警告された言葉を書いています。「あなた方は自分の事に気を付けなさい。あなた方があうであろう様々な迫害に耐えて福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない。必ず聖霊が助けてくださる。どんなに苦しい迫害が迫っても福音が宣べ伝えられることを止める事は出来ない。神のご計画は進められるのであります。神がこれをなさる! 終わりの日まで神はこれをなさるのです。キリスト者が迫害にあって捕らえられ証を迫られる時も取り越し苦労をする必要はない、との約束を与えておられます。語るべきことを聖霊が共にいて主イエス・キリストが教えてくださるのであります。それ故最後まで耐え忍ぶであります。14節から具体的場面に遭遇したらどのように行動したら良いのかが力強く語られています。まず偽預言者、偽救い主が立ってはならない、聖所で立って語り始めたら「ユダヤにいる人々は山に逃げなさい」と主は言われます。一刻を競って危険から逃げなさい。という具体的な勧告です。物を取りに家の中へ入るなとか、屋上にいたら下へ降りるな、兎も角自分の命を粗末にしてはならない。許される限り生き延びよ、と主は言われます。主はご自分の者とするためキリスト者を一人残らず救うため苦難と危機の時を縮めてくださる。ルカ福音書21章28節には「このような事が起こり始めたら身を起こして頭をあげなさい。あなた方の解放の時が近いからだ」。とあります。私たちはこの世で過ごす一週間,一週間を主イエス様が厳しく警告された、言葉の一つ一つを受けとめ信仰によって聖霊の導き助けを持ってあらゆる備えをしてゆかねばならない、という事であります。 アーメン
主日礼拝説教2024年11月10日 聖霊降臨後第25主日
聖書日課 列王記上17章8-16節、ヘブライ9章24-28節、マルコ12章38-44節
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エルサレムの神殿で大勢の人が「賽銭箱」にせわしくお金を入れていました。賽銭箱というと、日本の正月の神社やお寺で大きな箱に向かって人々が硬貨や丸めた紙幣を投げ込むイメージがわきます。エルサレムの神殿の場合は、大きな箱が一つあったのではなく、いろいろな目的のために設けられた箱がいくつかあって、それぞれに動物の角のような形をした硬貨の投げ入れ口があったということです。大勢の人が一度に投げ入れることは出来ないので、一人ひとり次から次へとやって来ては投げ入れて行ったことになります。それで、本日のイエス様のように、箱の近くに座って見ていれば、誰がどれくらい入れたかは容易に識別できたでしょう。
金持ちはもちろん大目にお金を入れますが、一人の貧しいやもめが投げ入れたのは銅貨二枚だけでした。それは1クァドランスというローマ帝国の貨幣に相当すると注釈がされています。これは、この福音書の記者マルコがローマ帝国の市民である読者のために金額がわかるように配慮してつけたのです。それは64分の1デナリ、1デナリは当時の労働者の1日の賃金でした。今、日本で一日8時間働いた最低賃金が9千円位とすれば、その64分の1は140円。それがやめもの投げた金額となります。イエス様は、それは彼女の全財産だと見抜きました。絶対数でみれば、取るに足らない額ですが、相対的にみれば、やもめの生活費全部なので取るに足らないなどととても言えません。そういうわけで、本日の箇所は、供え物の価値を絶対数でみるよりも相対数でみることの大切さを教えているようにみえます。それで、やもめの方が多く捧げた、多くの犠牲を払ったとことになり、一種の美談のように理解されて、あなたも同じように多くの犠牲を払えなどと教えるところも出てくるかもしれません。
しかし、事実はそう単純ではありません。少し考えてみて下さい。この女性はなけなしの金を捧げてしまったのです。その後でどうなるのだろうか、皆さんは気になりませんか?そういうふうに考えると、この箇所は美談というより、本当は悲劇なのではないか。この出来事の悲劇性は、箇所の前後を一緒にあわせて見ると明らかになります。まず、出来事のすぐ前でイエス様は、律法学者たちが偽善者であると批判します。律法学者たちが「やもめの家を食い物にしている」と指摘します(12章40節)。イザヤ書10章をみると、権力の座につく者が社会的弱者を顧みるどころか、一層困窮するような政策を取っていると神が非難しています。そこで「やもめを餌食にしている」として、やもめが略奪の対象になっていることがあげられています。
イエス様の時代に律法学者たちがやもめの家を食い物にしていた、というのはどういうことか?夫を失った女性の地位は不安定で、夫から受け継いだ財産を簡単に失う危険があった、それに対して法律の専門家である律法学者は彼女たちを守るどころか財産を失うようなことに手を貸していたことがあったのか、少なくともそういう事態を放置していたと考えられます。イエス様はそれを批判し、その後で本日の出来事がくるのです。まさに、困窮したやもめがなけなしの金を捧げるのです。そして、本日の個所の続きを見ると、イエス様は舞台となっているエルサレムの神殿が跡形もなく破壊される日が来ると預言します(マルコ13章1
2節)。貧しい人が大きな痛みを伴う献金をしているのに、余裕のある人たちは痛みを伴わない程度の献金で良かれと思っている。そんな不公平を放置している神殿はもう存在に値しないというのです。そして実際に、イエス様の預言通りに、エルサレムの神殿は40年後の西暦70年にエルサレムの町共々、ローマ帝国の大軍の攻撃を受けて破壊されてしまいました。
このようにイエス様はこれを美談としてではなく悲劇と捉えていると思われるのですが、それでも、やもめの捧げ物は金持ちの捧げ物よりも価値があると認めているとも言えます。やもめは金持ちよりも多く払ったと言います。裏を返せば、金持ちは少ししか払わなかった、不十分だということです。やもめは多く払った、十分払ったということです。その場合、何に対して十分なのか、不十分なのか?神に目をかけてもらって恩恵を得られるために十分、不十分ということなのでしょうか?
いいえ、そういうことではありません。よく見て下さい。イエス様は全額捧げたやもめが天国に近いとか言っていません。イエス様にしてみれば、神に捧げることは大事なことであるが、ただし、捧げものをして神から恩恵を受けようとするような、そんな見返りを求める捧げ方に反対なのです。そんな仕方で捧げたら神殿の礼拝の論理とかわらなくなります。神に捧げることは大事なことであるが、見返りを得るために捧げるのではない、しかも、捧げるからには持てるもの全てを捧げることが当然になるような捧げ方、それでも見返りは求めないという、そんな前代未聞の神への捧げ、それをイエス様は考えていたのであり、それが実際に行われるようになるためにイエス様はこの世に送られてきたのです。やもめの100%の捧げは、そのような新しい捧げ方を先取りするものでした。イエス様はやもめの捧げにそれを見て取ったのです。そして、イエス様は人間の神への捧げを全く新しい方向に導くことをこの後でやったのです。一体、何をされたのでしょうか?
その答えは、本日の使徒書「ヘブライ人への手紙」9章24ー28節の中にあります。そこには、神殿の礼拝にかわる新しい礼拝のかたちが記されています。まず、エルサレムの神殿の大祭司たちは、生け贄となる動物の血を携えて神殿中の最も神聖な場所、至聖所に入って神のみ前で自分自身の罪と民全体の罪の双方を償う儀式を毎年行っていました。それに対して、神のひとり子イエス・キリストは、自分自身は償う罪など何もない神聖な神のひとり子でありながら、全ての人間の全ての罪を一度に全部償うために自分自身を犠牲の生け贄にして捧げ、十字架の上で血を流されました。神のひとり子の神聖な犠牲ですので、1回限りで十分です。数えきれない動物の生贄の血などとは比べることができない尊い血を流されたのです。それなので、もし神と執り成しをするために何かまた犠牲を捧げなければいけないと考える人は、神のひとり子の犠牲では物足りないと言うことになってしまい、神を冒涜することになるのです。それくらいイエス様の犠牲は神聖なものなのです。
そういうわけで、神はイエス様の犠牲に免じて人間の罪を赦すという策に打って出たのです。さらに、一度死んだイエス様を死から復活させることで、死を超えた永遠の命に至る道を人間のために切り開かれました。人間は、こうしたことが全て自分のためになされたとわかって、それでイエス様こそ救い主と信じて洗礼を受けると、イエス様の果たした罪の償いがその人のその通りになります。罪を償ってもらったから、神から罪を赦された者として見なされるようになります。神から罪を赦されたので、かつて堕罪の時に崩れてしまった神との結びつきを回復します。神との結びつきを回復したら、ただちに永遠の命に至る道に置かれてその道を歩み始めます。そうして人生、順境の時も逆境の時もいつも変わらない守りと導きを神から頂きながら道を進みます。この世から別れる時も神との結びつきを持ったまま別れ、復活の日が来たら目覚めさせられて神の御許に永遠に迎え入れられます。これがキリスト信仰の「罪の赦しの救い」の全容です。
このような計り知れない救いを受けることになった私たちはどうなるのでしょうか?もう神から見返りを受けるために何かを捧げる必要はなくなりました。なぜなら、私たちの方で何も捧げていないのに、神の方でさっさと捧げることをしてしまって、こうして出来き上がった恩恵を受け取りなさいと差し出してくれて、私たちはただあっけにとられてそれを受け取ったにすぎないからです。本当に私たちはこの恩恵を受け取れるために何も捧げていないのです。神が捧げ物を準備して捧げを実行してしまったのです!こんなことがあっていいのでしょうか?天地創造の神が恵み深いというのはまさにこのためです!
恩恵をあっさりと受け取ってしまった私たちは、どうなるのでしょうか?私たちが神との結びつきを持ててこの世を生きられるようになるために神はイエス様の償いと贖いを私たちに与えて下さいました。そのもとで、私たちが御国への道を歩めるように日々の糧や様々な賜物を備えて下さいます。なので、財産や賜物など自分に備わっているものは全て恵み深い神からの贈り物に他なりません。贈り物ではありますが、自分の好き勝手に使ったり浪費してよいのではなく、自分が御国への道を歩むのに必要なものに用いる、隣人がその道を歩めるために何か足りなければその人のために用いる。全ては道を歩む自分と隣人の必要のために正しく用いなさいと神から委ねられているのです。
このように財産や賜物が全て神から委ねられたものであるということは十字架と復活の後、理論的に明らかになりますが、それが実践的に行われるようになったことが使徒言行録の3章に記されています。聖霊降臨の後で最初のキリスト信仰者たちが各自、全財産を持ち寄って、人々の必要に応じて分け与えることを始めました。十字架と復活の前にイエス様がエルサレムの神殿で目に留めたやもめが行ったことを、今度は罪を償われ罪から贖われた者たちが実践し始めたのです。彼らは神から見返りの恩恵を得るためにそうしたのではありませんでした。ちょうどやもめがそうしなかったように。彼らにとって財産や賜物は全て神からの贈り物になったのです。やもめにとってもそうであったように。聖霊降臨後に誕生した最初の教会は何も財産を持たない使徒たちを中心に洗礼を受けた人の集まりから始まりました。組織も整っておらず財政的基盤もありません。群れに加わった人たちには余裕のある人だけでなく、貧しい人も大勢いたのでした。それで御国への道の歩みをお互いに支え合うことができるように急きょ私有財産の共有を始めたのでした。何か政治的、唯物論的なイデオロギーの実践ではありません。復活の体や永遠の命という、老若男女、貧しい人金持ちの人みんなが共通して持った目的地に一人も落ちこぼれずにみんなが到達できるためにそうしたのでした。
ここで、持ち金全部を捧げたやもめはどうなったか、思いを馳せてみましょう。彼女の存在はイエス様の目に留まりました。なので、彼女は神の守りと導きの手に委ねられ、きっと神が送った助け人の支えを受けたに違いない、と私は信じます。イエス様がやもめを目撃したのは十字架と復活の出来事の少し前でした。そして、最初のキリスト信仰者たちが私有財産を共有したのは聖霊降臨後間もない頃です。イエス様の復活から聖霊降臨まで50日あります。なので、イエス様がやもめを目撃してからキリスト信仰者の財産共有まで2ヶ月位あります。その間、やもめは神が送った人の助けを受けたに違いないと私は信じます。本日の旧約聖書の日課では、飢饉の最中にやもめがなけなしの小麦粉を使って預言者エリアにパンを焼いた出来事がありました。やもめの小麦粉はその後も壺からなくならず、家族は食べ物に困らなかったという奇跡が起きました。エルサレムの神殿のやもめも神殿に参拝に来ていた人たちも皆この出来事を知っていたはずです。エリアの出来事が起こって聖書に記録されたのは、まさに神には不可能なことはないという信仰の証しでした。この証しを心で受け止めて、神の手足となってやもめの世話をした人はいたと信じます。
終わりに、勧めと励ましの言葉として3つのことを申し上げます。一つは、私たちには私たちのことを全てご存じな神がついていらっしゃるので大丈夫ということです。金持ちは誰一人、やもめが捧げたものは彼女の持ち金全部だったとは知りません。人間というのは、いかに多くか、どう見えるかということで物事を判断し評価してしまいます。物事がその人にどんな意味があったか、とか、その人はどんなプロセスを経なければならなかったかは見過ごしてしまいがちです。注意して見ても見極めることは出来ません。しかし、私たちの神は人間が見過ごすことも見極められないことも全て一つ残らず見届けています。まさに神のひとり子イエス様がやもめの捧げ物が彼女にとってどんな意味があったかをご存じだったように。私たちに関する全てのことは「命の書」に良く正しく完全に記録されます。人の目に見過ごされてしまったこと見極められなかったことに神は目を注がれ、過小評価されてしまったものを賞賛し、歪曲されてしまったものを訂正されます。このように私たちの恵み深い神は憐れみと正義の神でもあります。そのような神がついていて下さるのです。
二つ目は、私たちキリスト信仰者は御国の道の歩みを続けられるようにお互いに支え合わなければならないということです。今、私有財産を手にしてはいても、心の中ではこれは神から委ねられた贈り物である、もし神が時を示したら、隣人が御国への歩みを続けるのを、または道に入れるのを支えるために持てるものを捧げなければならない、と心の中で準備しておかねばなりません。
そう言うと、財産を自分の好きなことに使ってはいけないのかと言われてしまうかもしれません。そこはこう考えたらどうでしょう?例えば、時々、旅行に出かけて素晴らしい景色を見たり、美味しい料理を味わったりするのは、それが御国の道の歩みの励ましになったり慰めになって歩む力になると。そのような機会が与えられたことを神に感謝して使うのだと。とにかく自分の歩む力を強めることは、隣人の歩みを支えてあげられるために大事なことです。
三つ目は、御国の道の歩みでお互いに支え合うということは、毎週日曜日の礼拝でも実践しています。神の御言葉と説教を聞いて罪の赦しの恵みに留まる力をみんなで得ます。恵みに留まる限り、財産や賜物は全て神からの贈り物であることもその通りであり続けます。聖餐式ではパンとぶどう酒の形を通してみんなでイエス様を頂きます。神の恵みと愛を口で味わいます。神からの霊的な糧です。そして、そのような礼拝を行う教会を支えるためにみんなで献金をします。それもお互いに道の歩みを支え合うということです。
主日礼拝説教 2024年11月3日 全聖徒主日 主日礼拝
聖書日課 イザヤ25章6-9節、黙示録21章1-6節、ヨハネ11章32-44節
本日の福音書の日課はイエス様がラザロを生き返らせる奇跡を行った出来事です。イエス様が死んだ人を生き返らせる奇跡は他にもあります。その中で会堂長ヤイロの娘(マルコ5章、マタイ9章、ルカ8章)とある未亡人の息子(ルカ7章11~17節)の出来事は詳しく記されています。ヤイロの娘とラザロを生き返らせた時、イエス様は死んだ者を「眠っている」と言います。使徒パウロも第一コリント15章で同じ言い方をしています(6節、20節)。日本でも亡くなった方を想う時に「安らかに眠って下さい」と言うことがあります。しかし、大方は「亡くなった方が今私たちを見守ってくれている」と言うので、本当は眠っているとは考えていないと思います。キリスト信仰では本気で眠っていると考えます。じゃ、誰がこの世の私たちを見守ってくれるのか?と心配する人が出てくるかもしれません。しかし、キリスト信仰では心配無用です。天と地と人間を造られて私たち一人ひとりに命と人生を与えてくれた創造主の神が見守ってくれるからです。
キリスト信仰で死を「眠り」と捉えるのには理由があります。それは、死からの「復活」があると信じるからです。復活とは、本日の日課の前でマリアの姉妹マルタが言うように、この世の終わりの時に死者の復活が起きるということです(21節)。この世の終わりとは何か?聖書の観点では、今ある森羅万象は創造主の神が造ったものである、造って出来た時に始まった、それが今日の黙示録21章の1節で言われるように、神が全てを新しく造り直す時が来る、それが今のこの世の終わりということになります。ただし天と地は新しく造り直されるので、この世が終わっても新しい世が始まります。なんだか途方もない話でついていけないと思われるかもしれませんが、聖書の観点とはそういう途方もないものなのです。死者の復活は、まさに今の世が終わって新しい世が始まる境目に起きます。イエス様やパウロが死んだ者を「眠っている」と言ったのは、復活とは眠りから目覚めることと同じだという見方があるからです。それで死んだ者は復活の日までは眠っているということになるのです。
ここで一つ注意しなければならないことがあります。それは、イエス様が生き返らせた人たちは「復活」ではないということです。「復活」は、死んで肉体が腐敗して消滅してしまった後に起きることです。パウロが第一コリント15章で詳しく教えているように、神の栄光を現わす朽ちない「復活の体」を着せられて永遠の命を与えられることが復活です。ところが、イエス様に生き返らせてもらった人たちはみんなまだ肉体がそのままなので「復活」ではありません。時々、イエス様はラザロを復活させたと言う人もいるのですが正確ではありません。「蘇生」が正解でしょう。ラザロの場合は4日経ってしまったので死体が臭い出したのではないかと言われました。ただ葬られた場所が洞窟の奥深い所だったので冷却効果があったようです。蘇生の最後のチャンスだったのでしょう。いずれにしても、イエス様に生き返らせてもらった人たちはみんな後で寿命が来て亡くなったわけです。そして今は神のみぞ知る場所にて「眠って」いて復活の日を待っているのです。
本日の説教では、このキリスト信仰に特異な復活信仰について、本日の他の日課イザヤ25章と黙示録21章をもとに深めてみようと思います。深めた後で、なぜイエス様は死んだ人を生き返らせる奇跡の業を行ったのか、それが復活とどう関係するのかということを考えてみようと思います。
復活の日に目覚めさせられて復活の体を着せられた者は神の御許に迎え入れられる、その迎え入れられるところが「神の国」ないしは「天の国」、天国です。黙示録21章で言われるように、それは天から下ってきます。しかも下ってくる先は今私たちを取り巻いている天地ではなく、それらを廃棄して新たに創造された天と地です。その迎え入れられるところはどんなところか?聖書にはいろいろなことが言われています。黙示録21章では、神が全ての涙を拭われるところ、死も苦しみも嘆きも悲しみもないところと言われています。「全ての涙」とは痛みや苦しみの涙、無念の涙を含む全ての涙です。
特に無念の涙が拭われるというのはこの世で被ってしまった不正や不正義が完全に清算されるということです。この世でキリスト教徒を真面目にやっていたら、世の反発や不正義を被るリスクが一気に高まります。どうしてかと言うと、創造主の神を唯一の神として拝んだり、神を大切に考えて礼拝を守っていたら、そうさせないようにする力が働くからです。また、イエス様やパウロが命じるように、危害をもたらす者に復讐してはならない、祝福を祈れ、悪に悪をもって報いてはならない、善をもって報いよ、そんなことをしていたら、たちまち逆手に取られたり、つけ入れられたりして不利益を被ります。しかし、この世で被った反発や不正義が大きければ大きいほど、復活の日に清算される値も大きくなります。それで、この世で神の意思に沿うように生きようとして苦しんだことは無駄でも無意味でもなかったということがはっきりします。
まさにそのために復活の日は神が主催する盛大なお祝いの日でもあります。黙示録19章やマタイ22章で神の国が結婚式の祝宴に例えられています。神の御許に迎え入れられた者はこのように神からお祝いされるのです。天地創造の神がこの世での労苦を全て労って下さるのです。真に究極の労いです。
本日の旧約の日課イザヤ書25章でも復活の日の祝宴のことが言われています。一見すると何の祝宴かわかりにくいです。しかし、8節で「主は死を永遠に滅ぼされた、全ての顔から涙を拭われた」と言うので、復活の日の神の国での祝宴を意味するのは間違いありません。そうわかれば難しい7節もわかります。「主はこの山ですべての民の顔を包んでいた布とすべての国を覆っていた布を滅ぼした。」布を滅ぼすとは一体何のことか?この節のヘブライ語原文を直訳すると、「主はこの山で諸国民を覆っている表面のものと諸民族を覆っている織られたものを消滅させる」です。「覆っているもの」というのは人間が纏っている肉の体を意味します。どうしてそんなことが言えるかというと、詩篇139篇13節に「私は母の胎内の中で織られるようにして造られた」とあるからです。ヘブライ語原文ではちゃんと「織物を織る」という動詞(נסך)が使われています。なのに、新共同訳では「組み立てられる」と訳されておもちゃのレゴみたいになって織物のイメージが失われてしまいました。今見ているイザヤ書25章7節でも同じ「織物を織る」動詞(נסך)が使われていて人間が纏っているものを「織られたもの」と表現しています。それが消滅するというのは、復活の日に肉の体が復活の体に取って代わられることを意味します。
人間が纏っている肉の体は神が織物を織るように造ったという考え方は、パウロも受け継いでいます。第二コリント5章でパウロはこの世で人間が纏っている肉の体を幕屋と言います。幕屋はテントのことですが、当時は化学繊維などないので織った織物で作りました。まさにテント作りをしていたパウロならではの比喩です。幕屋/テントが打ち破られるように肉の体が朽ち果てても、人の手によらない天の衣服が神から与えられるので裸にはならないと言います。まさに復活の体のことです。
次になぜイエス様は死んだ人を生き返らせる奇跡の業を行ったのか、それが復活とどう関係するのか見ていきましょう。
そのため少し本日の日課の前の部分に立ち戻らなければなりません。イエス様とマルタの対話の部分です。兄弟ラザロを失って悲しみに暮れているマルタにイエス様は聞きました。お前は私が復活の日に私を信じる者を復活させて永遠の命に与らせることが出来ると信じるか?マルタの答えは、「はい、主よ、私はあなたが世に来られることになっているメシア、神の子であることを信じております」。(27節)
マルタの答えで一つ注意すべきことがあります。それは、イエス様のことを神の子、メシア救世主であることを「信じております」と言ったことです。ギリシャ語原文の正確な意味は(ギリシャ語の現在完了です)「過去の時点から今のこの時までずっと信じてきました」です。つまり、今イエス様と対話しているうちにわかって信じるようになったということではありません。ずっと前から信じていたということです。このことに気づくとイエス様の話の導き方が見えてきます。つまり、マルタは愛する兄を失って悲しみに暮れている。将来復活というものが起きて、そこで兄と再会できることはわかってはいた。しかし、愛する肉親を失うというのは、たとえ復活信仰を持っていても悲しくつらいものです。こんなこと認めたくない、出来ることなら今すぐ生き返ってほしいと願うでしょう。復活の日に再会できるなどと言われても遠い世界の話か気休めにしか聞こえないでしょう。
しかし、復活信仰には死の引き裂く力を上回る力があります。復活そのものが死を上回るものだからです。どうしたら復活信仰を持つことが出来るでしょうか?それは、神がひとり子を用いて私たち人間に何をして下さったかを知れば持つことができます。私たちは聖書を読むと、自分の内には神の意思に反しようとする罪があって、それが神と人間の間を引き裂く原因になっていることが見えてきます。そうした罪は人間なら誰しもが生まれながらに持ってしまっているというのが聖書の立場です。人間が創造主の神と結びつきを持ててこの世を生きられるようにしたい、この世から別れた後も神のもとに永遠に戻れるようにしたい、そのためには結びつきを持てなくさせている罪をどうにかしなければならない、まさにその解決のために神はひとり子をこの世に贈り、彼に人間の罪を全て負わせてゴルゴタの十字架の上に運び上げさせ、そこで人間に代わって神罰を受けさせて罪の償いを果たしてくれたのでした。さらに神は一度死なれたイエス様を死から復活させて死を超えた永遠の命があることをこの世に示し、その命に至る道を人間に切り開かれました。まさにイエス様は「復活であり、永遠の命」なのです。
神がひとり子を用いてこのようなことを成し遂げたら、今度は人間の方がイエス様を救い主と信じて洗礼を受ける番になります。そうすれば、イエス様が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになります。罪を償ってもらったということは、これからは神の罪の赦しのお恵みの中で生きるということです。たとえ罪の自覚が生じても、自分には罪を圧し潰す偉大な力がついていてくれているとわかるので安心して人生を歩むことができます。目指す目的地は、死を超えた永遠の命と神の栄光を現わす体が与えられる復活です。そこでは死はもはや紙屑か塵同様です。神から頂いた罪の赦しのお恵みから外れずそこに留まっていれば神との結びつきはそのままです。この結びつきを持って歩むならば死は私たちの復活到達を妨害できません。
マルタは復活の信仰を持ち、イエス様のことを復活に与らせて下さる救い主メシアと信じていました。ところが愛する兄に先立たれ、深い悲しみに包まれ、兄との復活の日の再会の希望も遠のいてしまう程でした。今すぐ生き返ることを望むくらいでした。これはキリスト信仰者でもそうなります。しかし、マルタはイエス様との対話を通して、一時弱まった復活と永遠の命の希望が戻ったのです。対話の終わりにイエス様に「信じているか?」と聞かれて、はい、ずっと信じてきました、今も信じています、と確認できて見失っていたものを取り戻したのです。兄を失った悲しみは消えないでしょうが、一度こういうプロセスを経ると、希望も一回り大きくなって悲しみのとげも鋭さを失って鈍くなっていくことでしょう。あとは、復活の日の再会を本当に果たせるように、キリスト信仰者としてイエス様を救い主と信じる信仰に留まるだけです。
ここまで来れば、マルタはもうラザロの生き返りを見なくても大丈夫だったかもしれません。それでも、イエス様はラザロを生き返らせました。それは、マルタが信じたからそのご褒美としてそうしたのではないことは、今まで見て来たことから明らかです。ここが大事な点です。マルタはイエス様との対話を通して信じるようになったのではなく、それまで信じていたものが兄の死で揺らいでしまったので、それを確認して強めてもらったのでした。
それにもかかわらずイエス様が生き返りを行ったのは、彼からすれば死なんて復活の日までの眠りにすぎないこと、そして彼には復活の目覚めさせをする力があること、これを前もって人々にわからせるためでした。ヤイロの娘は眠っている、ラザロは眠っている、そう言って生き返らせました。それを目撃した人たちは本当に、ああ、イエス様からすれば死なんて眠りにすぎないんだ、復活の日が来たら、タビタ、クーム!娘よ、起きなさい!ラザロ、出てきなさい!と彼の一声がして自分も起こされるんだ、と誰でも予見したでしょう。
このようにラザロの生き返らせの奇跡は、イエス様が死んだ者を蘇生する力があることを示すこと自体が目的ではありませんでした。マルタとの対話と奇跡の両方をもって、自分が復活であり永遠の命であることを示したのでした。イエス様はラザロを生き返らせる前に神に祈りました。その時、周りにいる人たちがイエス様のことを神が遣わした方だと信じるようになるため、と言われました。これを聞くと大抵の人は、イエス様がラザロを生き返らせる奇跡を行えば、みんなは、イエス様はすごい!本当に神さまから遣わされた方だ、と信じるようになる、そのことを言っていると思うでしょう。ところが、それは浅い理解です。今まで見てきたことを振り返れば、そうではないことがわかります。イエス様がラザロをはじめ多くの死んだ人たちを生き返らせたのは、イエス様にとって死とは復活の日までの眠りにすぎず、彼には復活の日に目覚めさせる力があることを知らせるために行ったのでした。それを知ることでイエス様は本当に神から遣わされた方だと信じるようになる、そのことを言っているのです。キリスト信仰とは、つまるところ復活信仰であることを知らせるために神はひとり子をこの世に遣わし、死者を生き返らせたのです。
最後にイエス様が涙を流したことについてしてひと言述べておきます。イエス様はマリアや一緒にいた人々が泣いているのを見て、「心に憤りを覚え、興奮した」とあります。イエス様は何を怒って興奮したのか?ギリシャ語の原文はそうも訳せますが、感情を抑えきれない状態になって動揺したとか、深く心が揺り動かされて動揺したとか、感極まって動揺したとも訳せます。フィンランド語の聖書はそう訳しています。私もその方がいいかなと思います。イエス様はラザロと二姉妹がいるべタニアに行く前、自分はラザロを生き返らせると自信たっぷりでした(11節)。それなら、泣いているマリアや人々に対しても同じ調子で落ち着き払って「泣かなくてもよい、今ラザロを生き返らせてあげよう」と言えばよかったのです。しかし、そうならなかった。イエス様はみんなが悲しんで泣いているのを見て、悲しみを共感してしまったのです。まさにヘブライ4章15節で言われるように、イエス様は「私たちの弱さに同情できない方ではない」ことが本当のこととして示されたのです。
イエス様は、一方で神のひとり子として死者を生き返らせる力がある、自分が父に願えば父は叶えて下さるとわかっていながら、他方ではそのわかっていることをもってさえしても、共感した悲しみを抑えることはできなかったのです。それなので、ラザロを生き返らせる前に神に祈った時は、一方で自分を覆いつくした大きな悲しみ、他方で神は大きな悲しみよりも大きなことを行ってくれるという信頼、この相反する二つのものが競り合う中での祈りだったと思います。しかし、信頼が勝ちました。それを表すかのような大声で「ラザロ、出てきなさい!」と叫んだのです。私たちも困難の時、神に助けを祈る時は心配と信頼が競り合います。しかし、祈ることで信頼が勝っていることを神に対しても自分に対しても示すことが出来ます。ヘブライ4章16節はまさに信頼が勝つように励ましてくれる聖句です。「だから、憐れみを受け、恵みに与って、時宜になかった助けを頂くために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」