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ルターの聖句の説き明かし(フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ」2月7日の日課から)
キリスト教徒はじたばたしない、往生際が良いのだ(その5)。
『心配事は全て神に放り投げよ。神はあなたたちの面倒を見て下さる方なのだから。』 (第一ペトロ5章7節、フィンランド語訳聖書にもとづく)
(牧師注 日本語(新共同訳)は「思い煩いを神にお任せしなさい」とお上品な訳ですが、ギリシャ語の「エピリプトー」は辞書(Heikel&Fridrichsen)を見ると、「投げ出す、放り出す」です。英語(NIV)、ドイツ語(ルター版)、フィンランド語、スウェーデン語の聖書もそれで訳しています。また、日本語は「神はあなたがたを心にかけている」と控えめな訳ですが、上記4カ国語はギリシャ語の「与格・メレイ・ぺリ・属格」を「神は面倒を見る、世話を焼く、ケアをする」と訳しています。日本語訳では見えてこない、この聖句の力強さがわかると、以下のルターの説き明かしがぐっと心に迫ってきます。)
『事を自分の重荷にとどめてはいけない。あなたはそれを運びきれず、遅かれ早かれ押しつぶされてしまうだろう。そんなことはやめて、それを捨てなさい。つまり、喜びながら信頼して神にパスしてしまうのだ。パスする時、次のように祈りなさい。「天の父よ、あなたは私の主、私の神です。あなたは、私など何も存在しなかった時に私をお造りになり、その上、ひとり子を用いて私を罪の支配から贖って下さいました。そして、果たしなさいと言ってこの務めと課題を私にお委ねになりました。しかし、それは私が望んだようには上手くいきませんでした。多くのことが私に重くのしかかり、心配事が次から次へと押し寄せてきます。どうしていいのか途方にくれています。これらを全部お渡ししますので、あなたの助けとアドバイスをお願いします。どうか、この務めと課題の全局面に一緒にいて、隅々まであなたの目を注いで下さい。」
これこそ神の御心に適う対処法である。神が私たちにしなさいと言っているのは、委ねられた務めと課題に取り組みなさいということだけだ。取り組むことで何を成し遂げられるかについての心配は神のすることであって、私たちのすることではないのだ。
このようにキリスト信仰者は他の者にはない大きな可能性を持っている。ひとり子を救い主と信じる信仰があるので心配事を放り出してよい父が天におられるからだ。そうでない人たちは心配事を抱いて自分を痛めつけ、最後には絶望に陥ってしまう。翻って信仰は、「神はあななたちの面倒を見る」という御言葉を握りしめ、神は嘘をつかない方だから御言葉はその通りだと信頼して前に進む。(以上ルターの説き明かし)』
次回の手芸クラブは、前回に続いてかぎ針編みのスマホケースを作ります。かぎ針編みの基本の編み方を使って編みます。表情豊かな可愛いらしい模様のケースが出来ます。是非、素敵なスマホケースをご一緒に作りましょう!
夏の軽い首飾りラリエットもかぎ針編みで作れます。それを選ばれてもよろしいです。
以前作ったバンド織りキーホルダーをご希望の方はそれを作ってもよろしいです。
手芸クラブではその他にも自分の好きな編み物もすることができます。 おしゃべりしながら楽しく作りましょう!
持物持物: 綿糸 100g 糸に合わせてかぎ針 参加費 1000円
お子さん連れの参加も大歓迎。 皆様のご参加をお待ちしていま。
お問い合わせ、お申し込み moc.l1774623337iamg@1774623337arumi1774623337hsoy.1774623337iviap1774623337 03-6233-7109
福音ルーテル スオミ・キリスト教会 東京都新宿区鶴巻町511-4―106
6月の料理クラブは14日(土)13時から開催します。
フィンランドは新じゃかの美味しい季節になりました!6月の料理クラブではジャガイモをふんだんに使った料理を二品を作ります。
一つは、フィンランドの伝統的なポテト・フラットブレッド「Perunarieska」。マッシュドポテトを使ってイーストを使わず焼き上げる薄型パンです。焼きたてのPerunarieskaはエッグバターをのせたり、ただバター塗るだけでも美味しく頂けます。
もう一つはサーモン・ポテトサラダ。蒸かしたポテトをビネガー、スパイス、刻みレッドオニオンで味付けし、オーブン焼きのサーモンをまぶします。フィンランドでは田舎風サラダ「Maalaissalaatti」と呼ばれますが、田舎の素朴さを超えた味のシンフォニーが楽しめます!
参加費は一人1,500円です。
どなたでもお気軽にご参加ください。
お子様連れでもどうぞ!
皆さんのご参加をお待ちしています!
お問い合わせ、お申し込みは、 moc.l1774623337iamg@1774623337arumi1774623337hsoy.1774623337iviap1774623337 まで。
ルターの聖句の説き明かし(フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ」5月28日の日課から)
キリスト教徒はじたばたしない、往生際が良いのだ(その4)。
『いつも喜びなさい。』 (第一テサロニケ5章16節)
『この御言葉は、信仰が我々にとっていかに不可欠なものであるかを教えてくれる。信仰は重々しいもの苦々しいものを全て軽くし甘くする。そのことは、殉教者たちが証ししている。しかし、信仰がなければ、たとえ全世界の絢爛や享楽を手に入れたとしても、全てのことは重々しく苦々しいものになってしまうのだ。そのことは、悲惨な生涯を送った金持ちたちが証ししている。
次のように言う人がいる。「私が望んでいなかった状況に陥ってしまったのは自分の愚かさや悪魔のせいではなく、神がそのようにされたからと確信できたら、喜ぶことなど出来るだろうか?」 なんという信仰の欠如!キリストは、神がお決めにならなければ鳩は地面に落ちることはないと言われたではないか。また、私たちは髪の毛の数も一本残らず神に数えられているのだとも。
ここで、あなたが望んでいなかった状況に、あなたの罪はそこにはないのにそういう状況に陥ったとしよう。もちろん、罪と愚かさによっても同じ状況には陥るのだが、それらがなくてもそういう状況に陥ってしまったとする。それは実は、神の御心に適う状況なのだ。罪以外のものは全て神の御心に適うものだからだ。
あなたが、あなたの罪はそこにはないのに厄介な課題に取り組まなければならなくなったとする。その課題は間違いなく神があなたにお与えになったものだ。だからあなたは課題に取り組む時はただ正しく取り組めばよいのだ。課題の取り組みの中で感じてしまう不本意さや無念さというものも実は、あなたがまさに神の御心に適う課題に取り組んでいることの証しなのである。その時、神は課題のあるところにおられる。神は悪魔に対してあなたの信仰を試すように許可したのだ。あきらめて神に背を向けてしまうか、それとも、神が共におられることを信じて解決を目指して取り組んでいくか。神はあなたが信仰の戦いを戦い、信仰の中で成長する機会を与えて下さっているのだ。(以上、ルターの説き明かし)』
「課題に正しく取り組む」というのは、人を傷つけない、奪わない、妬まない、真実を曲げない、不倫をしない等々、十戒にある神の意思、要約すれば、「神を全身全霊で愛し、隣人を自分を愛するが如く愛する」に沿って取り組むということです。
5月の手芸クラブは28日に開催しました。週の初めは曇りの日が多かったでしたが、この日は太陽が輝いて爽やかな一日でした。
今回の作品はかぎ針編みのスマホケースですが、前回のバンド織りのキーホルダーを続けたい方はそちらも出来ることにしました。
スマホケースの方は、初めにモデルを見て自分の作りたい編み型を選びます。それから綿の糸にかぎ針棒を合わせて編み始めます。まず自分のスマホの幅に合わせて鎖編みをします。その後はモデルに従って細編みで円を描くように編みます。そして、いよいよ楽しい模様編みの番です。
長綱でモデルに従って模様を編んでいくと、「可愛い!模様ができてくる!」との声が聞こえてきました。スマホケースはおしゃべりをしながら楽しく編み続けていくうちにどんどん出来てきます。
前回バンド織が途中までだった方たちは続きを一生懸命織りました。可愛いピンク色のキーホールダーや春っぽいの織物のNauhaが出来上がりました。
今回のスマホケースは途中まで編んだので次回はその続きをします。出来上がりはどんなものになるでしょうか?楽しみです!
今回も時間はあっという間に過ぎてコーヒータイムになりました。ルバーブケーキを味わいながら楽しい歓談の時を持ちました。その後で、かぎ針編みのことや詩篇の「主はあなたの守り手」のお話がありました。
次回の手芸クラブは6月25日の予定です。詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。
フィンランドでは、かぎ針編みは人気がある手芸のテクニックの一つです。かぎ針で作られる作品は幅広くてインテリア用のカーぺットから細密なオーナメントまで様々です。他に必要な道具もなくかぎ針と毛糸があれば編むことが出来ます。
かぎ針編みは古くからある手芸のテクニックですが、いつ頃始まったかははっきり分かりません。1500年頃には修道院で修道女たちが編んでいたと言われています。1800年代後半、かぎ針編みはフィンランドに拡がって女性たちはシーツやタオルなどの端のレースの部分を編むようになりました。綿で編まれたレースは細かくてとても美しいものでした。当時編み方を紹介する雑誌などなかったので、女性たちは互いに編み方を教え合い新しい模様やテクニックが出来るようになりました。かぎ針編みの基本が出来るようになってベッドのカバー、テーブルクロス、服など多様なものが編まれるようになりました。糸の太さを変えることで、細かく複雑なレースや厚みがあるカーぺットも編むことが出来ます。
今日は皆さんと一緒にスマホケースをかぎ針編みで作り始めました。皆さんが編まれたものは編み方や糸の太さによって仕上がりが異なるので、それぞれが素敵な作品です。かぎ針編みのスマホケースは携帯電話の出し入れがやさしく、衝撃からも守ってくれます。
ところで、日本の電車には「携帯電話はお守り」という広告をよく見かけます。携帯電話は非常に便利でどこにいても人と連絡を取れたり、さまざまな情報を調べたりできるので、今では私たちにとって「お守り」のようなものになっているかもしれません。携帯電話を持っていることで安心感が得られるからです。しかしどうでしょう、携帯電話は本当に私たちを守ってくれるでしょうか?何が私たちを本当に守ってくれるのでしょうか?
聖書はこのことについてはっきり教えています。旧約聖書の詩編には「主はあなたの守り手」という箇所があります。
「どうか、主があなたを助けて 足がよろめかないようにし まどろむことなく見守ってくださるように。見よ、イスラエルを見守る方は まどろむことなく、眠ることもない。主はあなたを見守る方 あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。昼、太陽はあなたを撃つことがなく夜、月もあなたを撃つことがない。主がすべての災いを遠ざけてあなたを見守りあなたの魂を見守ってくださるように。あなたの出で立つのも帰るのも主が見守ってくださるように。今も、そしてとこしえに。」 詩篇121篇3~8節
私たち人間にとって命を守ることは何よりも大事なことです。怪我などがしないように自分自身を守るのは当たり前のことです。親は子どもを守ります。しかし、私たち人間にの知恵と力には限りがあります。私たちは全てのことを自分の力で行うことが出来ません。聖書は私たちを守ってくださる、私たちよりもっと力や知恵がある方について教えています。その方は私たちの全てを知っておられ、出発の時から帰る時まで私たちを守ってくださるのです。その方は天と地と人間を造られた天の神様です。先ほど読んだ詩篇には神様はどのように私たちを守って下さるかが次のように語られていました。「主があなたを助けて足がよろめかないようにしまどろむことなく見守ってくださるように。主があなたを守る方あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。」詩篇121篇3,5節です。
天の神さまは私たちの前に様々な道を開いてくださいます。全てのことがうまく行くと、私たちは神様のことを簡単に忘れてしまいます。「神様なんかいなくても生活はうまく出来る」という態度にします。しかし、時には私たちが進みたくないような坂道や曲がり道も歩まなければなりません。その道は試練の道であり、そんな道は歩きたくないと思いますが、もし神さまが示した道なら進まなければなりません。
試練の時、神さまは眠っておられるのか、そばにおられないと思ってしまいます。しかし、神さまは私たちがどこを進んでいるかよくご存じです。人生の試練の時も、神様は決して私たちのそばから離れず、眠ることもなくいろいろ働いておられるのです。天の神様は一時も目を離さないで私たちを守ってくださるので、私たちはどんな道でも安心して歩み続けることが出来ます。
詩篇には「主はあなたを覆う陰」と書いてあります。私たちは神さまが共にいることを目で見たり、感じたりすることは出来ませんが、聖書に書かれてあるから、私たちは信じることが出来ます。それで神様の守りは信頼して大丈夫なのです。どんな道でも神さまはいつも私たちを守って共に歩んで下さいます。このことを心で受け入れると、神さまへの感謝の気持ちが生まれます。
ルターの聖句の説き明かし(フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ」6月29日の日課から)
キリスト教徒はじたばたしない、往生際が良いのだ(その3)。
『私の魂は主を待ち望みます。見張りが朝を待つにもまして/見張りが朝を待つにもまして。』 (詩篇130篇6節)
『キリスト信仰者の魂の状態はいかなるものかと問われれば、それは主を待ち望むことに尽きるということになる。それはまたキリスト信仰者の人生そのものである。この聖句でダビデが言い表しているのは、意識の全てを満たすような真剣かつ不断の待ち望みである。彼は我々に次のように教えたいのだ。「もし君が主を待ち望むことを始めたのなら、諦めてはならない。日が沈み夜が更けていこうとも、朝は再び来るのだから待ち望むことを諦めてはならない。洗礼を受けて霊的に新しくされた人は、主を待ち望むことが人生そのものになる。その人の外面的な部分に何が起ころうとも、内なる新しい人は待ち望みながらずっと続いていく。
待ち望むことができずに、神に対して助けの時と手段と数値を設定したがる人たちがいる。そういう人たちは、いかなる仕方で自分たちを助けなければならないかを神に提案するのだ。そして、その通りにならないと、彼らは絶望して道から外れ、助けを別のところに探し求める。そのような人たちは主を待ち望むことをしない。主の方こそ彼らを待ち望まなければならないと思っているのだ。主は彼らが定めたやり方ですぐ助けられなければならないという考えなのだ。
これとは逆に、主を待ち望む者は神の恵みの業を祈り求め、いつ、どのようにして、どこで、何を介して助てくれるかということを全て神の御心に自由な気持ちで委ねるのだ。彼らは神から助けが来ることを疑わない。助けに時間がかかっても、助けの形態を神に代わって決めることをせずに待ち望むのだ。これに対して、どのような仕方で助けてあげなければならないかを定める者には助けは来ない。神の御心に合致する時を待つことができないからだ。』
ルターの聖句の説き明かし(フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ」5月5日の日課から)
キリスト信仰者はじたばたしない、往生際が良いのだ(その2)。
『イエスはらい病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。』 (ルカ17章14節)
『彼らがキリストを信じ始め彼から善いものを受けられるようになるや否や、キリストは彼らの信仰を鍛え試すことにした。主が目に見える仕方で彼らを癒すことをしないで、ただ単に祭司たちのところに行きなさいと言葉を発して命じたことが、その鍛え試しである。
主は私たちの信仰を鍛え試す時にも同じ方法を取られる。一体、主は私たちをどうされたいのだろうかと、私たちが理解に苦しむような仕方で私たちを試されるのだ。そのようになさるのは、私たちが彼の透徹した善性に身と心を投じるためであり、また、私たちが願い求めるものを主は与えて下さると信じて疑わないためである。場合によっては、願い求めたものよりももっと良いものを与えて下さるのだと。主の言葉を聞いた男たちは次のように考えたに違いない。「わかった、それなら私たちは主が行けと命じたところに行くことにしよう。たとえ主は、清めてあげるかあげないか、はっきり言ってくれなくても、彼のことを頼りにならない者だなどと考えたりはすまい。主はこれまでと何ら変わりのない救い主なのだ。だから私たちは、主の守りと導きに対してこれまで以上に密接に自分自身を結びつけよう。たとえ我々を清めて下さらなくても、代わりにもっと良いものを与えて下さるはずだ。それなので喜びながら主がどんな解決を与えて下さるかを待つことにしよう。」
よく見なさい、まさにこれこそが信仰にあって成長するということだ!このような試練は私たちキリスト信仰者の一生を通して絶えず繰り返される。主は、あることをもって私たちを試された後で、いつもすかさず全く別のことを始めておられる。そうするのは私たちの信仰と主に対する信頼を一層強めるためなのだが、それはあくまで私たちが最後まで信仰に立つ限りにおいてである。』
5月の料理クラブは10日に開催しました。午前中は梅雨を思わせる雨模様でしたが、午後から晴れてきて春の天候に戻りました。今回はフィンランド的なドーナツ「ムンキ」を作りました。
料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。まず、ムンキの生地を作ります。材料を測って順番にボールに入れてから小麦粉を加えます。生地をよく捏ねてから柔らかくしたマーガリンを加えて、またよく捏ねて生地を仕上げます。暖かい場所において一回目の発酵をさせます。その時一休みします。参加者の皆さんが楽しそうに会話しているうちに生地は大きく膨らみました。
次に丸いプッラの形を作ります。生地を細い棒の形に丸めて切り分け、それを一個一個丸めていきます。初めは少し難しかったですが、何個か丸めていくうちに皆さん上手になってきて、きれいな丸いプッラが次々と鉄板の上に並べられていきました。そこで二回目の発酵をさせます。今回はお母さんと一緒に参加した小学生のお子さんが大人たちと一緒に上手に生地を丸めていました。
二回目の発酵の時におしゃべりしながら次の準備をします。丸めたプッラは大きく膨らんでから油で揚げますが、一つひとつのプッラの真ん中にドーナツの穴を作ります。それを熱した油に入れると、きれいな焼き色のムンキが次々と並んでいきます。油の温度を調整しながら揚げていくと美味しいそうなムンキが出来ます。ムンキを温かいうちに砂糖で丸めるようにまぶして出来上がりです。
さあ、出来たてのムンキをコーヒー・紅茶と一緒に味わいましょう!今回は特別な味わいのある「Marjapuuro」も合わせて作ったのでそれも頂きました。皆さんと一緒にムンキを頂きながら楽しい歓談のひと時を過ごしました。その時にフィンランドの春の祭り「ヴァップ」についてと、空を飛ぶ鳥の自由やそれに関係する聖書のお話がありました。
今回の料理クラブも無事に終えることができて天の神さまに感謝です。次回の料理クラブは6月14日に予定しています。詳しい案内は教会のホームページをご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。
今日作った「ムンキ」はフィンランドの伝統的なお菓子の一つです。プッラの生地で作るものですが、油で揚げると、表面はサクサクして、中身は柔らかい味わいになります。ムンキはフィンランドの全国の喫茶店やお店で一年中売られていますが、一番売れる時期は4月の終わり5月の初めにかけてです。5月1日の「ヴァップ」という祭りの時にムンキは多くの家庭でも作られます。揚げたてのムンキの美味しさは子どもたちの記憶にずっと残ります。この他にレモンを発酵させて作る甘酸っぱいレモナードも作ります。フィンランド語でシマと言います。これをムンキと一緒に味わうと、ヴァップの気分になります。
5月1日はフィンランドでは休みの日で、多くの人たちは様々なイベントに参加したり別荘に行ったりして楽しい一日を過ごします。長い寒い冬を乗り越えたフィンランド人が自由を強く感じる気持ちです。これから暖かい季節に変わり楽しいことが増えるので、皆が空を飛ぶ鳥のような自由を感じます。
ここで空を飛ぶ鳥の自由についてお話したく思います。息子はムーミンのシリーズが好きで今でもそのDVDを一緒によく見ます。最近見たエピソードでスノークが飛べるための翼を作りました。翼が完成すると、スノークはそれで本当に飛べるのか試してみたくなりました。彼は高い山に登って翼を背中に付けて飛び立ちました。ムーミンたちはそれを心配そうに見ていました。スノークは本当に飛べたでしょうか?驚くことに、スノークは鳥のように美しい青空をあちらこちらに飛びました。皆はそれをワクワクしながら見て自分も飛びたいと思いました。しかし突然強い風が吹いてスノークはコントロールを失って森の中にコロコロと落ちてしまいました。頭を怪我してスノークはとてもがっかりしました。
その夜スティンキーはこっそり翼を盗んでしまいました。スティンキーは体が小さくて軽いので、上手く飛べるかもしれないと思いました。スノークと同じ高い山の上に行って翼を背中に付けて飛び始めました。どうなったでしょうか。スティンキーも上手に飛ぶことが出来てもっと遠く行きたいと思って海の上まで飛んでいきました。しかしその時、また強い風が吹いてスティンキーは海に落ちてしました。スノークもスティンキーも空を飛んでいる時は自由の喜びを感じたでしょう。しかしそれは長く続かず、しばらく飛んだ後で二人とも落ちてしまったのです。
この時私は旧約聖書の詩編のみ言葉を思い出しました。
「どこに行けばあなたの霊から離れることが出来よう。天に登ろうとも、あなたはそこにいまし よみに身を横たえようとも 見よ、あなたはそこにいます。曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうともあなたはそこにもいまし 御手をもって私をとらえて下さる。」 詩編139篇7~10節
私たちもスノークとスティンキーと同じように鳥が空を飛ぶような自由を感じたいと思うことがあるでしょう。自由とは一体どういうことでしょうか。辞書を調べてみたら、自由とは、目的に向かって制限なく行動できるということでした。自分の意志を実現するために行動することです。それは特に若者にとって大切です。フィンランドには「子どもに自分の翼を試させよ」という言い方があります。それは子どもが親から離れて独立して自分の考えで生きていくという意味です。子どもは親の元を離れて自分で考えて生きることが出来るようになると、自由を感じます。
独立と自由について聖書は大切なことを教えています。先ほどの詩編の中に「どこに行けばあなたの霊から離れることが出来よう。」という言葉があります。それは、人間が自由を求める時、天と地と人間を造られた神さまから離れて自由に行きたいと願うことです。このような気持ちはどんな時に起こるでしょうか。それは私たちが天の神さまが教えるように生きることが出来ない時です。つまり、神さまの教えに反したり何か悪いことをしてしまった時に神さま、私の好きにさせて下さいと、神さまから離れたい気持ちになります。しかし、私たちは本当に神さまから離れることが出来るでしょうか?いいえ、ダビデが言ったように「天に登っても、曙の翼を駆って海のかなたに行っても」天の神さまはそこにもおられるのです。おられるだけでなく、神さまはずっと御手を差し出して導いて下さいます。
私たちが自由を求めて失敗する時、それはスノークとスティンキーが空を飛んで落ちてしまったのと似ています。その時、天の神さまは自分に関係ないことと遠くから見ているだけでしょうか?いいえ、その時にも天の神さまは私たちと一緒にいて私たちを導いて下さるのです。私たちが落ちてしまう時も神さまは御手をもって私たちをしっかりと掴んで引き上げてくだるのです。私たちはこのことが分かって信じられるようになると天の神さまの御手の力に自分のことを全て委ねることが出来るようになります。その時、私たちはもう下に落ちないので本当に自由になるのです。
ルターの聖句の説き明かし(フィンランドの聖書日課 「神の子らへのマンナ」5月7日の日課
キリスト信仰者はじたばたしない、往生際が良いのだ(その1)。
「今日立てるものは全てあなたの決定による。なぜなら全てのものはあなたに仕えるものだからだ。」(詩篇119篇91節 フィンランド語訳の聖書による)
(注意 日本語訳は「この日に至るまであなたの裁きにつき従ってきた人々はすべてあなたの僕です」。私から何度も指摘しましたが、ヘブライ語のミシュパートは、日本語訳ではほぼ自動的に「裁き」と訳されますが、辞書にはその意味はなく、「仲介による決定」とか「正義」が基本的な意味です(辞書はHolladayのConcise Hebrew and Aramaic lexicon)。日本語訳は意味不明なのでフィンランド語訳に従いました。ただし、フィンラン語訳には「なぜなら」がありません。ヘブライ語原文にはあるので付け加えました。)
『一般に、「運」と「不運」はお互いかけ離れたことを意味すると言われる。しかし、この御言葉を前にして理性は顔面蒼白になる。なぜなら、両者は実は背中合わせにあるくらい近い存在であるということをわからないからだ。そのことを我々は信じられなければならない。例えば、ヨセフが牢獄に閉じ込められていた時、彼はもう一生そこから出られないと思われた。しかし神は、全ての膝が彼の前に跪かねばならないことになると既に決定を下していたのだ。このように命と死は一方が他方の中に秘められていると言っていいくらい近い存在なのだ。死の中に命が、幸運の頂点の最中に不運が、貧しさと惨めさの中に豊かさ喜び祝いが、何も心配はないと思っていた人生の中に一瞬の死が秘められているのだ。
同じことは我々の死にも当てはまる。我々が死に臨む時、それはあたかもそこに永遠に埋没してしまうかのように思える。しかし、まばたいた瞬間に今の天と地が終わって新しい天と地が創造される日になっている。その時、我々は声をあわせて叫ぶ。「ああ、私は永遠に生ける者になっている!」
以上のことを神は我々に聖書の中で数多くの事例をもって示しているではないか。神は低い者を高くし、高い者を低くされる方だ。全てのことはそうされる方の御言葉の通りに進む。それは、我々が神を除外して自分の知恵と力だけで物事を成そうとしないように、全てを最終的には神の御心に委ねるしかないと観念し全面的な信頼を寄せられるようになれるためなのだ。キリスト信仰者であれば、全てのことは一字一句自分の考えや計画通りにならないことは、これまでの人生の中で既に経験済みではないか。』
ルターの聖句の説き明かし(フィンランドの聖書日課 「神の子らへのマンナ」4月29日の日課
日本語で死期が近い状態を言い表す時、少し無作法な言い方ですが、「片足を棺桶に突っ込んでいる」などと言います。 宗教改革のルターは、キリスト信仰者とは左手をこの世に引っかけて右手は次に来る世に引っかけて生きる者だと言います。それは、片足を棺桶に突っ込んでいるようなレームダック(死に体)の状態なのでしょうか?いいえ、キリスト信仰では事情は全く逆であることを、ルターが次のように説き明かしています。
「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。」(ルカ21章34節)
『これは、まことになくてはならない警告だ。我々は決して忘れてはならない。もちろん、主は飲み食いすることを禁じたりはしない。主は言われるだろう、「飲むがよい、食べるがよい。神はそれをお前たちにお許しになる。生活の糧を得るためにあくせくせよ。しかし、だからと言って、それらのことがお前たちの心を支配してしまって私の再臨に思いを馳せなくなってしまうようなことがあってはならない。」
我々キリスト信仰者は人生の目的を永遠的でないこの世的なことに定めてしまうのは相応しいことではない。我々は自分自身の半分、つまり左手をもってこの世の人生を生きるべきだ。もう半分、つまり右手をもって主の再臨を心から待ち望むべきだ。その日、主はあらゆる王を超えた陛下の威厳と栄光を伴ってて再臨される。
今ある天と地が終わりを告げる日まで、人は家を建て結婚式の祝宴を催し屈託のない日々を送っている。他には心に留めることは何もないかのように。しかし、主は言われる、「汝ら、キリスト信仰者として生きる者よ、今の世に終わりがあることを忘れるな。神を畏れかしこむ心を持って生き、神の前に立たされる日には大丈夫、私を救い主と信じているからやましいことはないと言い聞かせられる良心を保て。そうすれば、その日は何も心配はない。」
我々はその日をいつどこで迎えることになろうとも、その日は我々にしてみればまことに幸いな日なのである。なぜなら、神を畏れかしこむ心を持ってその日を迎える我々は、まさにイエス様を救い主と信じる信仰がもたらしてくれた神の守りに包まれてその日を迎えられるからである。』