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田口聖 牧師は今週からアメリカ合衆国のコンコーディア神学校フォートウエインの集中講義(5回/年間)の受講のために渡米されます。 吉村牧師留守中のスオミ教会をよく牧会され又我々を導いて下さいました。そのお働きに感謝するとともにささやかな送別会を設けました。
マルコによる福音書7章24−37節(2024年9月8日スオミ教会礼拝説教)
「謙った砕かれた心を見て喜ばれるキリスト」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
1、「はじめに」
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
前回は、エルサレムからイエスのもとにやってきたファリサイ派の人々と律法学者達が、イエスの弟子達が手を洗わず食事をしていることを見て、「なぜ昔の人々の言い伝えの通りに手を洗うことを守らないのか」と質問し、それに対してイエス様が答えられた出来事を見てきました。イエス様は彼らに、旧約聖書の預言の言葉から答え、その預言の言葉が示すように、彼らは「口では神を敬うが、心は神に向いていない」と、その見た目は敬虔そうに装っても、その心は偽善に満ちていることを指摘しました。そして「人に入るものが人を汚すのではなく、人から出るものが人を汚すのである」と、神の前では人の心にある罪が汚れの原因であり、人は手を洗おうが、口で綺麗事を言おうが、どんなに立派な行いをしようが、それらで神の前に自らを清めることはできないことを教えたのでした。そこから私たちを唯一きよめ救うことができる天から来られた救い主イエス・キリストを改めて指し示されたのでした。
2、「知られたくないと思うイエス」
さて、イエス様はその出来事ののち、再び別の地へと移動します。24節からこう始まっています。
「24イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた。
ティルスは、ガリラヤの北、フェニキア地方の地中海沿岸の、異教徒の街です。そして、こう続いています。
「ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった。
この時すでに、イエス様の評判は広まっており、ガリラヤ地方でも行く所、行く所で大勢の人々が群衆となって押し寄せていました。5つのパンと二匹の魚の場面でも男性だけで五千人いたことが書かれていました。しかしこのように人から見れば、それほどまでの人気があって支持されている状況であるのに、そのガリラヤから北のフェニキアの異教徒の街にまで退かれ、さらには隠れるように家に入り「誰にも知られたくないと思っておられた」とあるのは、何か疑問に思われるかもしれません。人気があるんだから、もっと支持者を増やして自分の勢力を増せばいいじゃないか、人間の党派心、あるいは多数派が勝るという価値観ではそう思うかもしれません。ですから、ある学者達は、この身を隠した行動について、イエス様は本当は救い主としての道を望んでいなかったんだという人もいるようです。しかし、4つの福音書全体、そしてパウロの書簡に照らしても、間違いなくイエス様は、十字架の道をまっすぐと見て歩んでいましたし、そしてイザヤの預言53章を見ても、その十字架の道は神の御心でありそして罪のための犠牲は神の喜びであったとも書かれていますから、そのような学者達の考えは明らかに間違いだと言えるでしょう。むしろ、そのようにイエス様が世の罪を取り除く神の子羊としてこられ、十字架と復活による救いの完成をまっすぐと見て歩んでいたのであるなら、この地に退き、「誰にも知られたくないと思っておられた」理由が見えてくるのです。それは、すでにこの時、人気が出てきて、人々の人間的な動機や目的や、その勢いだけで彼を地上の王にしようとまでする流れがあった中です。まさにそのような人間的な人気の力などで神のみ心に反して王に祭り上げられることはイエス様の望むことではないでしょう。そのためにこそ、そのような人間の間違った勢いによって導かれることから離れ、神の時を待つためにも、このように異教の地に退き、密かに隠れるような行動も必要だったと言えるのです。
3、「異邦人の女性の求め」
しかし、それでも、どうやらこの異教の地ティルスにもイエス様の噂はすでに広まっていました。人々に気づかれ、25節
「25汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。 26女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであったが、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。
A,「ひれ伏す女性」
一人の女性がイエスのことを聞きつけてやってきます。彼女は「足元にひれ伏した」とあります。最大限の心からのイエスへの敬意と謙りです。そして求めるのです。「娘から悪霊を追い出してください」と。彼女の娘は絶望的な状況であったでしょう。彼女は「娘のために」「イエス様ならおできになる」と藁にもすがるようにやってきてひれ伏したのでしょう。しかし福音記者マルコはここで、この女性は「ギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであった」と説明を記しています。それは彼女が異邦人の背景があることを強調するものです。それは、先週の、言わば異邦人とは正反対にあるイスラエルの民のファリサイ派や律法学者達との出来事と対照的に描いているようでもあります。そして、この後のイエスと女性とのやりとりともその対照は関わってくるでしょう。女性がそこまでも縋り求めてくるのに対して、27節、イエス様は最初、次のように返しますが、その言葉は私たちから見れば驚くべき違和感のある応答です。
B,「子犬に」
「27イエスは言われた。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」
イエス様は、異邦人である彼女に対して、まずは子供達、つまりイスラエルの民に対して与えるのが先であるといういうことを言いたいのかもしれませんが、彼女を指して「子犬」という非常に侮辱的な言葉を用いているのです。イエス様はなんと失礼で冷たく、突き放しているんだと、私たちは思わされるのです。しかし、この言葉がイエス様の成そうとすることのゴールではもちろんありません。この後に成そうとすることのためのイエス様の意図が必ずあるのです。そのような非常に大きな侮辱にも思えるような、そして突き放されているとも感じる言葉に対して彼女はいうのです。
C,「彼女の応答」
「28ところが、女は答えて言った。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」
イエス様が「子犬」と言っている言葉は、ギリシャ語「クナリオン」という言葉ですが、それは野生の犬や、通りにいる野犬のことではなく、家庭のペットを指すような言い方を示すものです。彼女も、そのイエス様のそのことばを捉えて「しかし、食卓の下の小犬も」と答えています。この言葉に、彼女の「足元にひれ伏す」という行為は見せかけの格好だけのパフォーマンスではなく、本当に心からのものであることがここにわかるのです。「最初は子供達に」と言われ、「子犬」と言われても、彼女は、それに怒るのではないし、自分を「侮辱した」と求めるのを止めるのでもありません。むしろ「その通りです」と、イエス様に返しているでしょう。そして、子犬でも、その子供にあげたもののパン屑でもいただければ、それでいいという、彼女の実に謙った心の内がこの彼女の言葉にはわかります。それはまさに彼女の「イエスをどこまでも求める」信仰から出る言葉です。
D,「イエス様の言葉の意図」
イエス様の意図ははじめから、彼女の娘を突き放すつもりはなかったことでしょう。その求める思いが本物であることも心を見られるイエス様は分かっていたでしょう。だからこそ、その彼女の信仰の告白を彼女の口から引き出すためにこそ、そのような冷たい言葉で返したのではないでしょうか?そして、そのやりとりは、まさにその前の出来事である、先週のファリサイ派や律法学者達と対照的な出来事であり、また対照的な言葉であり、心であることを、イエス様は見事に描き出しています。
4、「神は人の心を見られる」
イエス様は、前回の出来事からも分かるように、表面的な地位や立場、その表向きの立派な言葉や言い回しや、行いが見た目に立派に映るとかそのような表面的なことだけを見るのでは決してありません。神は人の心を見られるというのは、旧約聖書の時から実に一貫した神様の性質です。イエス様は、ファリサイ派と律法学者達がやってきた時に、その偽善性をすぐに見抜いて、聖書から答えました。彼らは確かに律法に誰よりも詳しく、教える立場であり、律法を完全に守っていると自負する人々でした。しかし、彼らは律法だけでなく、そのように律法を捻じ曲げて解釈した伝統までも含めて、それらを守っている自分の行いを誇り、それゆえにそれを基準に人々を監視したり裁く立場にもなっていました。そのようにしてイエスのもとにやってきて、彼らは確かに口では神の律法や、それを守ってきた先祖の昔から言い伝えられてきた伝統を口にして神を敬うのですが、しかしその心には神はおらず、人間の作り上げたもので神の律法を捻じ曲げ人間の心を支配する偽善性があったのでした。見た目や表向きは立派でしたが、その心が、神を求めない、いやむしろ神であるイエスを試し裁こうとする罪深い動機で支配されているのをイエス様は見抜いていました。そしてそのような心から出るものは何も生まず、清めず、たてあげず、それは人を汚すだけのものであるとイエス様は示しました。
A,「ファリサイ派のようか?異邦人の女性のようか?」
しかし、このイスラエルの民から見れば卑しい存在である異邦人の女性の心は、彼らの心とは全く逆でしょう。イエス様はまさにこの女性とのやりとりで、周りの弟子達に、そして、現代の私たちにも、神の国のために何が大事であるのかを、はっきりと示してくれているのです。それは、ファリサイ派や律法学者達のように、選ばれた民であり、聖書もよく学び、律法もよく知り、表向きは律法もよく守る良い行いをし、地位も社会的立場もしっかりしている、尊敬もされていて、人の目には申し分ないように見えるが、神は二の次、自分が中心、心には神を求める思いがない、「自分が自分が」になっている、そんな信仰が大事で求められているのか?それとも、卑しい存在、異邦人、本当に子犬と呼ばれてもその通りですとしか言えないし認めざるを得ない現実、しかしそれでも、あくまでも「イエス様、このような卑しいものを憐れんでください。こんな罪深いものにテーブルの上からのパン屑でもいいから与らせてください」と、どこまでもイエスの前に膝まずき、ひれ伏し、イエスの力と憐れみに縋り求める信仰が大事なのか?どちらなのか?イエス様の答えははっきりしているでしょう。29節
「29そこで、イエスは言われた。「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」 30女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。
イエス様のこの福音のメッセージは、選びの民だとか異邦人だとか、そのような線引きはもはや関係ありません。それさえ外側のことです。イエス様はこの前のところでも、「人の心」のことを教えていたでしょう。神様は人の表向きの立派さとか、何をしたとか、何を果たしたとか、そのようなことを第一に、あるいはそれだけを見るのではないのです。いやむしろ、大事なのは、その心を見られるのです。
B,「それは純粋で清い完全な心か?」
しかも、その心が純粋で清いかでもありませんね。むしろ、人は皆その心までも見られるなら誰でも汚れてた罪深い心です。どこまでも自己中心で、自分を神のようにしようとする心です。神の言葉を退け、自分の言葉こそ正しい、義である、清い、清めることができる、そう思い神を無視する心です。しかし、ここでイエス様が見られているのは、どこまでも、神の前に謙り、むしろその自分の卑しさ、罪深さを、その通りですと認め、子犬にすぎない現実を認め、それでも「イエス様、そんな私を憐んでください。癒してください。助けてください」とどこまでも縋り求める心をイエス様は見られ、賞賛されていることが分かるのではないでしょうか。ルカの福音書の18章にも、ファリサイ派と人と徴税人の祈りの例えをイエス様は語っています。そこでは「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。」(ルカによる福音書 18:9)とその例えは始まっています。ファリサイ派は、神殿で『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。 12わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』 (11−12節)と祈りました。彼は、自分の完全さを誇るのですが、隣の徴税人と比べての誇りであり、しかし、神の前での自分はまるで見えていません。神の前には皆が罪人であるのに、あたかもそうでないかのように自分を誇る罪深い心があるのですが、それが見えていません。しかし、その隣の徴税人はこうでした。「ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』 」(ルカによる福音書 18:13)。彼は自分の罪深さを悔い、神の前に認め、謙り、「神よ、罪人のわたしを憐んでください」の心です。イエス様はどちらの心を、祈りを受け入れているでしょうか。こう続いています。14節「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
神様は聖書に一貫しているでしょう。イザヤ書57章15節にこうあります。
「高く、あがめられて、永遠にいましその名を聖と唱えられる方がこう言われる。わたしは、高く、聖なる所に住み打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にありへりくだる霊の人に命を得させ打ち砕かれた心の人に命を得させる。
詩篇でもダビデはこう証ししています。51篇19節
「しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を神よ、あなたは侮られません。
5、「結び」
私たちは、この1週間、聖書を通して、その中の律法をとおして、日々、自分の罪深さを気付かされる毎日です。律法は実に私たちの心を刺し通し、神の前にあって私たちの本来の事実は、神に受け入れられない滅びゆく存在であることを教えられます。しかし、そのような罪深い私たちに神様は、「自ら自分の力で、自分の罪をきよめ、精算し、克服して、自ら自分の力で、完全に聖なるものとなりなさい。そうすればあなたを救おう、天国に受け入れよう」とは言いませんでした。神はそのような罪深い私たちの現実、滅びゆく現実、自分たちではどこまでも神に背くだけであり、自分で清めるどころか自分でますます汚していくようなそんな救いようのない存在であることを、ご存知だからこそ、あるいは、そんな存在をどうしても救って神の国に与らせたいからこそ、御子キリストを世に人として与えてくださった、送ってくださった。そして、その御子に人類の、つまり私たちの、全ての罪の責任を負わせ、罪の報いである死を、罪の罰である十字架の処罰を、その御子に負わせた。そしてその御子キリストがこの十字架で私たちが負うべき罪の代価を全て代わりに払ってくださったからこそ、神はそのキリストのゆえに、「あなたたちの罪を問わない。あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と言ってくださり、平安のうちに遣わしてくださるし、神は私たちに永遠の命の道を備えてくださっているのです。その一人子を私たちのために死なせるほどに神は私たちを愛してくださっているのです。それが神が天から私たちに与えてくださっている良い知らせ、福音ではありませんか。イエス・キリストの十字架は、その福音によって平安のうちに生きるようにと私たちに与えられている素晴らしい宝ですね。そうであるのなら、私たちが日々導かれるのは、ファリサイ派のように、表向きの自分でなす行いの立派さで自分を誇り、自分自身に確信の根拠を探すことでは決してありません。このイエス・キリストの十字架と復活が私たちの宝、福音、命であるからこそ、私たちはどこまでもこのイエスの前に日々、謙り、日々悔い改め、「神よ、罪深い私を憐んでください」と祈り求めすがるのです。その砕かれた心こそ、真の神への礼拝、生贄なのです。それこそ神は私たちに求めており、喜んで受け入れてくださる。そして事実、私たちを憐んでくださり、このイエス・キリストの十字架のゆえに、私たちの義のゆえではなく「キリストの義のゆえに」日々、赦してくださいます。そして日々、復活の命で、私たちを日々新しくし、新しい命で生かしてくださり、世にあって私たちを用いてくださるのです。だからこそ、イエス様は今日も私たちに宣言してくださるのです。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。ぜひこの福音を今日も受け、新しくされて、平安のうちにここから遣わされて行きましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
マルコによる福音書7章1−8節、14−15節、21−23節
「人は自らをきよめられない。神が私たちを聖としてくださる」
この週から再びマルコの福音書に戻り、7章に入ります。7月の各週では6章を見てきていますが、そこでは、ヘロデ・アンティパスが洗礼者ヨハネを処刑したところまでを見てきました。その後は、マルコの福音書でも「5つのパンと2匹の魚の奇跡」のことが書かれているのですが、8月はマルコの福音書からではなく、ヨハネの福音書6章からその奇跡と共に、イエス様ご自身がご自分こそ天からのいのちのパンであると告げられたことまで詳しく見てきました。そして再びその後の出来事を、マルコの福音書に戻りまして7章から見ていきます。この直前の6章の終わりのところで、イエス様と弟子達の一行は湖の向こう側のゲネサレの地を訪問されたことが書かれています。ゲネサレの人々はイエスが来たのを聞きつけて、病気の人々を次々とイエスのもとに連れてきました。イエス様のせめて服にでもさわれば治るとまで人々は信じてイエス様に求めてきました。イエス様は、そんな彼らの病を癒やされたのでした。しかしこの7章、同じようにイエス様の元に集まってくる人々がいますが、純粋にイエスの力を信じて集まってきたゲネサレの人々とは実に対照的です。1節から見ていきましょう。
「1ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。
集まってきたのは、ファリサイ派の人々と数人の律法学者達でした。しかもエルサレムからわざわざやってきた人々でした。彼らはなぜ、どのような目的でイエスのもとに集まってきたのでしょうか?彼らもゲネサレの人々のように、純粋に「直してほしい」「イエス様には力がある」とイエスを求めてやってきたのでしょうか?2節からこう続いています。
「2そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。 3――ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、 4また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある。―― 5そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」
彼らが見たのは、イエスの弟子達の汚れた手、手を洗わないで食事をする弟子達でした。3節以下には、彼らが昔の人々からの言い伝えを固く守っていて、そのようなものが沢山ある事が説明されています。もちろん、私たちも食事をする前に手を洗ったりするのですが、それは衛生上、清潔のための習慣であり、何か昔の人々から受け継いでいる厳格な言い伝えというものではありません。彼らの、手だけでなく、杯などの器や、食べるときに寝そべる寝台までも洗うというこの言い伝えは、衛生上のことではなく、罪汚れに対するきよめが理由であり、神殿に入るときに手を清めるのと似たような理由です。それと同じように、彼らには、汚れた食物などの定めもあり、そのようなものに触れたり食べたりすることは厳格に禁じられていて、決して食べたりせず、食べたら汚れるとして、厳しく戒めてもいました。それは確かに旧約の儀式律法で手を清めるということが命じられてはいるのですが、昔の人々からの言い伝えとあるように、彼らはその律法を厳格に解釈して、神殿礼拝の時だけでなく、人々に食事の前に、自分も食器も食べる時のクッションまでも全てを清めるよう、求めてきたのでした。ですから、彼らはイエスを求めていたのではなく、律法、とは言いましても、彼らが拡大解釈し生活に当てはめた慣習、あるいは昔からの言い伝え、伝統を、イエスや弟子達が守っているか、破っていないかどうかを見るためにイエスのもとにやってきたのでした。そして、尋ねるのです。
「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。
彼らは自分たちはモーセの律法に、つまり彼らが信じるところの聖書の神の命令にしっかりと厳格に従ってきたし守ってきた、それに誰よりもその律法をわかっていると自負する人々でした。この食事の前の手や食器や寝台を念入りに洗うことも先祖代々受け継がれ守られてきた律法の伝統に沿ったことだと自信を持っていたことでしょう。だからこそ、彼らはこのように質問できたのでしょう。しかしイエス様はその彼らの自信にある矛盾を聖書から照らして指摘するのです。6節からですが、
「6イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。
『この民は口先ではわたしを敬うが、
その心はわたしから遠く離れている。
7人間の戒めを教えとしておしえ、
むなしくわたしをあがめている。』
8あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」
イエス様は、旧約の預言書のイザヤ書29章13節の言葉を引用します。そしてその預言はファリサイ派や律法学者達あなた方のような偽善者のことを指しているというのです。彼らは確かに社会の周りの人々から見た限りでは、律法をよく知り、教えていました。自分達でもよく守り、守るように教え、時には人々を戒めてもいたでしょう。社会では立派な行いで模範となるような人々であり尊敬もされていたでしょう。もちろん聖書の律法を正しく理解し、正しく行うことは神の御心であり大事なことなのです。しかし、彼らは確かに口では神や律法を口にはし敬っていたとしても、ここで彼らが弟子達を見て問いただし要求してる内容は、律法の正しい理解でも正しい解釈でも正しい行いでもありませんでした。福音記者のマルコ自身も3、4節でわざわざ説明を記しているように、神殿礼拝で行われる儀式律法を人間的に拡大解釈して当てはめたものであり、マルコも神の律法とは呼ばないように、「昔から受け継いで固く守っている言い伝え」に過ぎないと書いたのでした。いわゆる伝統の類のものでした。
もちろん伝統が全て悪いわけでなく、このキリスト教会に当てはめれば、きちんと聖書に教えられていることに従っており、聖書を歪めたり、聖書の教えを軽んじたりするものではなく、そのように伝統が聖書に従うものであり、教会の徳のために良いものである限りは、伝統は大事にしていくのは全然良いことです。しかし、それが逆になってしまい、まさに昔から受け継いで固く守っている伝統が、聖書よりも優位に立って、聖書を伝統に従わせてしまうなら、それは、イザヤの預言のごとくです。口ではいくら神の名を崇め、賛美をし、神を敬ったり礼拝したとしても、人間の伝統がいつでも優先されたり、判断基準になったり、教会のなかで大きな比重を占めるようになってしまえば、神も神の言葉も実はただの飾りです。その口から出るものとは裏腹に、その心は神から遠く離れてしまっています。神よりも人間の戒めが大事な教えになっており、神よりも人間に従ってしまっています。それは見た目はどれだけ敬虔に見えても、偽りの敬虔です。イエス様がいう偽善というのはそのことです。
今日の箇所ではない9節以下13節までのイエス様の言葉も彼らの教えていることの矛盾を示しています。十戒では「父と母を敬え」とはっきりと教えられているのに、彼らは、両親にさし上げるものを神殿や神への捧げ物とするなら、両親へするはずだったことはしなくても良いというような教えをしていたようです。何か、家族を犠牲にしてまで教団にいっぱい献金させるような、現代に問題になっているカルト宗教のようですが、しかしそれはカルトだけでなく、キリスト教でもカリスマ的な教会では時々聞く危険で間違った教えです。しかし多くの人がそんなカルト的な人間の教えに騙され引き込まれ、そのようなカリスマ的なキリスト教会でも、家族を犠牲にしてまで教会に献身させたり、高額を献金させたりすることがさせる方だけでなく、する方もそれが「敬虔だ」とか「祝福をもらえる」とか本当に思わされているのを聞くことは実は少なくないです。それぐらいに、人は、聖書を口にしていながらも、そのような本当は聖書は教えていない人間の作り出す最もそうでご利益的な教えに、巧妙に流されて行きやすいということは今もあるのです。そしてカルトやカリスマではなくても、キリスト教会や教団の中でも、何か聖書の一箇所だけを文脈や真の意味や解釈も考慮せずに取り上げて、それにいろいろ教会指導者や教会組織に都合のいいように拡大して作り出された人間的で律法的な教えや伝統の方が、教会やその成長や宣教のために大事にされたり強いられたり、教会内や教団内での評価判断基準とされたりするということは実はよくあることのように思います。しかもそれが聖書的に矛盾するのではと思ったり疑ったりすることも悪であるかのように思えるぐらいに教会や教団で大切にされている伝統とかも時々聞いたりもします。それぐらい巧妙に聖書を超えた人間的なものは聖書を支配し脅かしたりするのです。
当時も、まさにそのような人間の作り出した教えが社会の敬虔になっていたからこそ、彼らは自信を持ってその伝統の管理人としてわざわざエルサレムから来てイエスとその弟子達を指摘できたのでしょう。
しかし、それらはイエス様の目からはっきりしています。それらは「人から出たもの、教え、言葉」に過ぎませんでした。それは13節にある通り「受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている」ことなのです。イエス様は冷静に、彼らの間違いを、しかも聖書から正しく解釈した正しい教えをもって、彼らの質問に答えているのです。
そして、14節15節の言葉、そしてその言葉を弟子達に解説した20〜22節の言葉は、彼らが投げかけた「手を洗う」「清め」ということについてのイエス様の教えです。
「14それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。 15外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。」
〜18イエスは言われた。「あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか。すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。 19それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる。」 20更に、次のように言われた。「人から出て来るものこそ、人を汚す。 21中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、 22姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、 23これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」
人から出るもの、それは人間の作り出す、伝統、教え、そして行いや振る舞いや習慣もそれは神の前にあって人間を清めることは決してできません。たとえその手をどれだけ綺麗に洗い、食器までも全て洗い清めたとしても、それは神の前にきよいものとして立つことができる方法では決してあり得ません。あるいは、聖書の言葉だけだと、弱い、分かりにくい、現代の文化や流行に合わない、信じられない、だから人間の側に合うように、分かりやすいように、受け入れやすいように、聖書を人間らしく変えよう、聖書の言葉を都合よく解釈しよう、衣をつけよう、人間らしく装うとしても、それは人間的な成果や成功は実現できるかもしれませんが、神の前になんら良いものとなることはできません。どれだけ周りに賞賛され尊敬され敬虔そうに見えたとしてもです。神の前に清くなることも、功績を積むことも、神のわざに協力し貢献することも、救いや神の国を得ることも、決してできません。いやそれどころか、それは「受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている」ことと同じです。それは、人から出ているもので、人を汚しているだけでなく、神を冒涜しているだけなのです。イエス様はここで清くない食べ物の問題にまで踏み込んでいます。当時はそのようなものがありました。使徒の働きでも、イエス様はペテロに幻を見せて、清くない動物を食べるように言われたペテロは躊躇しています。その時、イエス様はペテロに、神が清めたものは清いと言いました。しかし、イエス様はすでにここで、外から人に入る食べ物は消化され外に出るだけで、決して人を汚さないと教えています。
イエス様がここで「人から出るものが人を汚す」といいます。それは何でしょうか?人の心に巣くう最も深刻で重大な病巣である罪のことを示しているのです。まさに人から出て聖書を曲解し、伝統の衣や文化的解釈の衣で、イエス様の教えを全く異なったものにしてしまうのは、人間の罪です。そのような間違った伝統や律法で、イエス様が与えてくださった信仰の自由や平安を、強制や束縛や不安に変えるのもそれは人間の罪であり人間が罪のゆえに神の言葉を捻じ曲げて作り上げる偽りの教えです。イエス様がその約束の故に私たちに与えてくださっている救いの確信を「本当に救われているのだろうか?と疑わせ不安にさせるのも、人間がそのキリストの福音を捻じ曲げて、福音と律法を混同させて教える間違った福音や間違った律法の教えです。全て「神の言葉、神の恵み、神の福音を疑う」という人間の罪から出るものであり、人から出るものは、どんなに敬虔そうで合理的であっても、数の上では成功で繁栄しているように見えても、聖書に正しく基づき従うものではないなら、それはまさしく人間を汚し、人間を滅びに導くものです。そのように決して人間のわざ、人間の言葉、人間の作り上げる伝統や新しい律法が、人を神の前にあって聖なるものとし義とし、人を救うのではないのです。
神の目にあって、人を、どんな人でも、真に清め、義と認め、聖徒としてくださり、私たちを救い、平安と救いの確信を与えることができるものは、私たちが手を洗うことでも伝統を守ることでもありません。人から出る何らかの良い行いや功績でもありません。それは、神が与えてくださる言葉、何より、イエス様が私たちの罪のために死んでくださった、そのイエス様の十字架の義のゆえに罪赦され、復活のゆえに日々新しい命を生かされるという福音の言葉であり、そしてその福音のゆえにイエス様が与える水である洗礼、それによる賜物として信仰と聖霊なのです。それだけです。今日もイエス様はその唯一の救いであるイエス・キリストの十字架と復活を私たちに指し示して、今日も宣言してくださっています。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。ぜひ今日も、イエス様の福音によっていのちを新たにされて、ここから救いの喜びと平安のうちに世に遣わされて行きましょう。
ヨハネよる福音書6章56−71節(2024年8月25日スオミ教会礼拝説教)
「信仰は律法ではなく、天から私たちへのプレゼント、福音である」
1、「初めに」
このヨハネの福音書6章を通して、イエス様が「自分こそ命のパンである」と神の国の福音を伝える箇所を続けて見ています。イエス様はご自分について来る人々に「あなた方がわたしを探すのはただパンを食べて満腹したからだ」と彼のその動機を見抜いて伝えました。しかしそのように言うのは彼らを責めるためではありませんでした。イエス様は、そのような無くなるパンを追い求めても、事実ただなくなるだけであるけれども、イエス様ご自身こそ、それに遥かに勝る、いつまでもなくならない、天からのいのちのパンを与えることができるという福音を彼らに伝えるためであったたのでした。それを聞いて人々は、では「何をしたら」それを得ることができるのかと尋ねるのですが、イエス様はそれは神ご自身が引き寄せ与える人々に、救い主が与える賜物、恵みであり、それは「いつまでもなくならない」「天から」とあるように、地上の物質的な出来事を遥かに超えた霊的な出来事であることを徐々に明らかにしていきます。しかし、あくまでも目に見えるしるしだけに求める人々はそのことを理解できません。それでもイエス様は彼らに神の国の福音を伝え続け、ついには、イエス様はご自身こそ、そのいつまでもなくならない、天から降ってきたいのちのパンそのものであり、わたしの肉を食べ、血を飲むものが永遠の命を得るのだと伝えたのでした。それが先週までのところでした。今日は先週の最後の節から始まります。56節以下こう始まっています。
2、「「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む物」とは?」
「56わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。 57生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。 58これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」 59これらは、イエスがカファルナウムの会堂で教えていたときに話されたことである。
イエス様は「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲むものは」と言います。これは驚くべき言葉を言っており、この後の記録を見ても分かる通りに、このイエス様の言葉に多くの人は躓くのです。私たちもこれは何を言っているだと疑問を持つでしょう。これには二つの「食する」ことの意味があります。それは「わたしの肉」を食べ、「わたしの血」を飲むとイエス様がご自身が言っているのですから、一つは、事実、イエス様の肉と血のことを指し、実際に口で食するという意味です。ただもう一つの意味もあります。それは「霊的に」食することをも指しています。54節で
「54わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、〜」
とイエス様が「永遠のいのち」を指して言っている通り、この「食べる」は聖霊と信仰において起こることであり、それは福音の説教とそのみ言葉を聞き、思い巡らし、そして、聖餐を食するときに起こることを意味しています。ヨハネ1章のはじめを思い出すと分かる通りに、イエス様は「ことば」である方が受肉されて人となられたお方です。まさにイエス様は、神の言葉そのものでもあり、神の言葉の語られるところ、説教されるところには、イエス・キリストがおられるのであり、私たちはまさに説教を聞いている時に、聖霊と信仰において、その受肉したキリストの言葉を受けており、キリストそのものを受けているのです。それて何より、聖餐では実際に口で食する行為があり、その御言葉が「わたしのからだ」と宣言する、パンでありながら同時にイエスのからだに預かるのですから、聖餐に与る時、私たちは決して象徴としての体と血を受け取っているのでもなければ、私たちの何らかの行いが聖餐を成り立たせるとか、私たちの行いの捧げものをするとか、信仰の決意表明をする時、とも異なります。私たちは、イエス様の福音書の設定の言葉から、「これはあなたのために与えられるわたしのからだです」と宣言される時には、イエス様が「である」と言っているのですから、イエス様のその真実なみ言葉のゆえにそれはパンを食していながら同時に紛れもなくイエス様のからだを食しているのです。そして同じようにイエス様の言葉から「これはあなた方の罪の赦しのために流されるわたしの血です」とイエス様が「である」と言われているのですから、その通り、それは葡萄酒飲んでいながら同時に、イエス様の「血」を確かに飲んでいるのです。そのようにここで「イエスの肉を食べ、わたしの血を飲むものは永遠の命を得る」と教えられる時に、私たちはイエス様がその肉を引き裂かれ血を流されたその十字架の死と復活、そしてそのイエス様の体と血に口で食し与るがゆえに、罪の赦しと永遠の命を与えられていると告白できるのです。
3、「なぜイエスは、分かり難い言い方をしたのか?信仰によって明らかになる福音」
しかし、ここでイエス様はなぜはっきりとそう言わず、「わたしのからだを食べ、わたしの血を飲む」と明らかに誤解を与え、何か、実際に人の肉を食べるような言い方をするのだろうか、もっと分かりやすくいうことはできないのだろうか、と思うかもしれません。しかし、これは意地悪でも、知識のひけらかしでもなければ、神の知恵で謎解きをふっかけているのでもないのです。イエス様にあっては、今見てきたように、やがて最後の晩餐で事実になり、聖霊による教会の時代が始まるときに、日々繰り返される恵みの事実を明らかに伝えています。つまり、イエス様が語っていることは、今その時に理解されることではなく、やがて聖霊と信仰によって明らかになる神の福音でした。そして、ここではもう一つの事実をイエス様は、ずっと伝えてきたでしょう。彼らは、「どうすれば、何を行えば」と尋ね続けています。つまり、「自分が何かをする」ことによって、あるいは自分の行為によって得る「いつまでもなくならないパン」を求め続ける、あるいは得ようとする、そんな彼らに対して、37節以下でイエス様はこのようにも言っていたでしょう。
「37父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。 38わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。 39わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。
つまり、それは人の行いや努力で得ることができるものではなく、神が与えた人々に、御子が与えてくださる賜物、恵みであるとイエス様は伝えていたでしょう。そして、44節以下でも、こうありました。
「44わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。 45預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。
その素晴らしい真理を知り、それを受けることができるのは、父が引き寄せたものにイエス様が働かれ与える恵みであることをイエス様は伝えていました。そのように「イエス様のからだを食し、血を飲むということ」は、イエス様がその言葉と聖霊によって与える信仰において明らかにされる福音で、イエス様にあってはその時だけではない、いつまでも残る事実を伝えているのです。しかしこの時はまだ十字架の時ではなく、その前であり、教会と使徒たちによる福音の宣言が始まる前ですから、彼らにたとえ分かりやすく伝えたとしても、仮にそれは自分がかかる十字架と復活のことであると言ったとしても、彼らは理解できず、信じることもできず、やはり躓くのです。なぜなら、それは後に福音の言葉によって目が開かれ知り信じることができることななのですから。事実、私たちも、最初は、十字架と復活の言葉を自分たちで、自分の力で理解できた人はいたでしょうか?そこに至るには当然、自分の罪に刺し通され、悔い改めに導かれるからこそ、十字架の素晴らしさがわかったのですが、その罪さえも私たちは、自分が罪人であるということさえ自分では認められなかったし、悔い改めなんて馬鹿らしい、聞きたくないと最初は誰もが思ったことでしょう。誰でもそうなのです。そう人は、自分の力で、信じようとしても決して信じられません。パウロが言うように、十字架の言葉は、しるしに求めるものには躓きとなり、知恵に求めるものには愚かに聞こえるのです。しかし、今まさに私たちに、このイエス様の言葉の意味、イエス様を食し、その血を飲むことの素晴らしさを知り、信仰があるのは、まさに「与えられている」からでしょう。父子聖霊なる神が、その律法と福音の言葉によって、引き寄せ、導き、与えてくださったからではありませんか。それが福音の真理、福音の力です。ですから、私たちは、ここでその恵みを感謝するとともに、今、目の前の数字や現実を見れば、宣教が不可能で困難だと思えるような現代の状況あったとしても、それを見て嘆くのでも、何か強迫観念にかられ律法的になり互いに裁き合うのでもなく、希望を失うのでもなく、どこまでもイエス・キリストとその言葉、福音を見上げ、イエス様の言葉には不可能なことは何もない、イエス様がその言葉で私たちに信仰という私たちの思いを遥かに超えたことを行なってくださったように、同じように、世のまだイエス様のこの素晴らしさを知らない人々にも同じように行うことができる、行なってくださいと、私たちはそのことを信じ祈り求めて行きたいと教えられるのです。
4、「ゆえに、弟子達も躓く」
さて、それゆえに、当然のことが起こるのです。60節以下です。
「60ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」
「弟子たち」というのは、12使徒たちと区別しなければなりません。12使徒たち以外にも、多くの弟子たちが着いてきたのでした。しかしその弟子たちの多くのものは、この「イエスのからだを食べ、イエスの血を飲む」という言葉と教えに「聞いていられない」と躓くのです。弟子としてこれまでイエス様の言葉を聞いてきた人々でさえもこの真理を理解できません。人の肉を食事するものとしか理解できませんでした。イエス様はそこで
「62それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……。
と続けます。まさにイエス様の教えていることも与えようとしていることも天からの出来事でした。そしてイエス様の十字架と復活の出来事、そこから始まる教会の宣教も、イエス様が天に上られるところをともに見ることから始まります。イエス様はそのことを指して言っているのかどうかははっきりは書かれていませんが、人の肉を食することで躓く弟子たちにイエス様はさらに解き明かすのです。63節以下
「63命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。
イエス様は、単なる目にみえる肉の出来事を伝えているのではなく、まさにこれは「天からのパン」「天から来られた救い主」と語り、そして、信仰こそ神が求めておられ、それこそ神が与えるものですから、この言葉によってイエス様は、命のパンは、み言葉とそこに働く聖霊、そして信仰による賜物であることを伝え、それが真のいつまでも消えることのない永遠のいのちをもたらすものであることを伝えるのです。しかし、イエス様はそれでもわかっていました。64節
「64しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。
どんなに伝えても信じない人がいることをイエス様は知っていました。それが誰であるのか、そして、71節にある通り、この後起こる、使徒たちの中の一人が裏切ることさえも知っていました。しかし、ここにも、やはり繰り返し、私たちの信仰の真理、この福音の真理がはっきりと繰り返されています。65節
「65そして、言われた。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」
5、「信仰は私たちのわざの結果、律法ではないー信仰は福音」
「父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない」ーイエス様の下に来ること、まさにそれは永遠のいのちの歩みであり、信仰の歩みのことです。しかし、それは「父が引き寄せるのでなければ」、ここでは「父からお許しがなければ」とあるでしょう。そこには、救いも信仰も永遠の命も、まさに命のパンに与ることは、人間の知性や理性や行いの度合いや努力による産物では決してあり得ない、それはどこまでも神の働きであり、神が引き寄せイエス様に与えてくださった羊を牧者であるイエス様が決して見捨てず、みことばを語り続け、働き、導いて下り、羊はその声に聞いてただ着いてゆくがゆえの恵みであることをイエス様も教えているのです。このように、信仰は人の行いではなく、賜物であるとエフェソ書でパウロが言うのも、あれはパウロの作り話や誇張した表現ではなく、まさにイエス様の教えに根拠がある、聖書的な真理であることがわかるでしょう。信仰は決して、私たちの行いや意志の力や理性的な理解によるものではない。私たちの信じる信仰は、神が引き寄せてくださったから、神がイエス様にあって語ってくださったから、律法と福音の言葉を通して聖霊が私たちに働いてくださったから、今私たちにあるのです。どこまでも賜物、贈り物、プレゼントなのです。感謝なことではありませんか。
6、「去っていく弟子達。使徒達の信仰告白は天から」
ところが66節
「66このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。
やはり多くの弟子たちは、イエスの福音に躓き、離れて行きました。 12人の使徒たちに尋ねます。67節
「67そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。 68シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。 69あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」
この後、イスカリオテのユダの裏切りの預言で結ばれますが、このシモンペテロの告白は、マタイ16章の有名な告白を連想させます。マタイ16章15-17節
「15イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」 16シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。 17すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。
ペテロの「あなたはメシア、生ける神の子です」と言う信仰の告白。その告白についてイエス様は、人間によるものではなく、それを明らかにしたのは「わたしの天の父だ」と教えています。それなのに、このヨハネ6章のペテロの告白「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。 69あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」 と言う告白はそれとは違う、人間による、ペテロ自身から出たものだ、とは誰も言えないでしょう。もしそうであれば聖書にもイエス様の教えにも一貫性がなく矛盾があります。しかし聖書にもイエス様にも矛盾は全くありません。聖書は初めから終わりまで一貫して真理を伝えています。信仰の告白は、決して人間によるものではなく、どこまでもイエス様の父なる神からのものであると言うことです。その神から与えられた信仰の上に、イエス様は「わたしの教会を建てる」ともペテロに伝えたでしょう。
7、「朽ちない種から生まれた私たち」
そのペテロがこう教会に教えています。
「23あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。 24こう言われているからです「人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。25しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」これこそ、あなたがたに福音として告げ知らされた言葉なのです。」ペテロ第一1章23−25節
私たちのクリスチャンとしての土台、それはイエス・キリストであり、そのイエス・キリストという土台こそ、朽ちて消えゆく野の花のようではなく、食べては消化されなくなる地上のパンでもマナでもなく、永遠にいつまでも残る、土台であり、拠り所です。決して消えることも裏切ることも見捨てることもなく、いつまでも残る平安と救いの拠り所です。それは御子イエス様が十字架と復活で成就してくださった罪の赦しと永遠のいのちのパンを、絶えず、毎週、悔い改める私たちに与えてくださり、私たちが、イエス様を御霊と信仰により、事実、そのイエス様のからだと血を、受肉されたイエス様のいのちの言葉を、食することができるからこそです。その信仰を与えてくださったのも、神様であり、イエス様であり、聖霊様に他なりません。信仰は賜物、贈り物、プレゼントです。今日もイエス様は私たちにそのみ言葉で変わることなく宣言し与えてくださいます。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。ぜひそのいつまでも残るみ言葉による罪の赦しと安心をここで今日も受け取り、安心してここから世に喜びと愛を持って仕えるために遣わされて行きましょう。
スオミ教会説教 2024.8月18日
聖書 ヨハネ福音書6章51~58節
説教題 「わたしは生きたパンである」
2000年以上の昔、イエス様の時代、ユダヤの人々の食べもの,飲みものと言えばパンとぶどう酒でありました。今日も同じでしょう。パンとぶどう酒こそ人々の命にとってかけがえのない食物であったでしょう。
今日の聖書の冒頭にイエス様はご自分のことを「わたしは天から降って来た生きたパンである」と言われました。神の子であるイエス様がこの世に人の姿を持って生まれてこられた。ご自身のこの世での働き,使命とその存在のすべてをいろいろな深い真理の言葉であらわされたのであります。その1つに6章1節では「私は生きたパンであって、このパンを食べるならばその人は永遠に生きる」と言われていますが、その前の28節以下かからずうっと弟子たちに重要な言葉として語ってこられています。6章のはじめでの「5000人の人々に2匹の魚と5つのパンで満腹にさせる」と言う驚くべき奇跡の業をなさった。この出来事から始まって、奇跡だけでなく「私は生ける命のパンである」と言う真理の言葉を弟子にしかと語っておられるわけです。「このパンは世の命のために与える。」と言われました。ですから、ただ神のみ子イエスが人となって受肉し、いま生きていると言う、イエスの存在そのもの、と言うよりももう少し正確に、このパンを限定して説明するならば、イエスがやがて将来において与えられるであろう、ある時に与えられるパンであります。それは何時の事であるかと言いますなら、例えば53節以下に出て来ます「肉を食べ」「血を飲む」と言うように「肉」と「血」がわざわざ別々に並んで語られていることからわかりますように明らかにそれはイエスが十字架に死んで血を流す事を意味します。「血を飲み」又特に「肉を食べる」と言うような残忍的な表現であって旧約聖書では決してあり得ない事であります。非常に残酷なむごたらしい死を表すのに使う諺であります。(民数記23:24 申命32:42 エレミヤ46:10 エゼキエル39:17~19等参照)
ですから、イエスが「私の肉を食べ」「私の血を」飲まなければならない、とおっしゃっていますのは、それはイエスの非常に惨ったらしい死、すなわち十字架の死の事を意味しています。私たちが、それによって[永遠的に生きる、ところのパン]とは限定して言うならば[イエス・キリストが十字架にかかり給い、贖いの死を意味しているわけであります。]このイエスの十字架の贖いを私たちが「食べ」或いは「飲む」とはどういう事であるか、と言う時これは文字通り理解すべきではなくて1つの文学的表現であります。57節中ほどまで進みますと、「私を食べる者も私によっていきるであろう」と言う、私があなた方の内におると56節で言っておられます。一番分かり易い大切なことを54節で見ます。54節「私の肉を食べ、私の血を飲む者は永遠の命を得、私はその人を終わりの日に復活させる。」なんと言う素晴らしい約束でしょうか、キリスト者のすべての希望がここにあります。そこで、どうしてもひっかかるのは私の肉を食べ、とか私の血を飲む者は、と言う、これを聞いたユダヤ人たちが、騒ぎ立てたのも自然です。これを文字通り理解しようとするから物理的にイエスの肉や血をどうして胃袋に入れる事ができようか、なんと馬鹿にした話だろう。とすぐ考えてしまうのです。どう考えてもこれは比喩的な表現であってこれは要するに私がキリストに連なること。私とキリストが一体になることであります。<言い換えますと>イエスを信じる、ということでであります。さて、主キリストを飲み食いする、という事を[信仰によって結びつくことである]という事をはっきさせた上でその上に、ここに教会が余代々に渡って行ってきました聖餐の礼典が暗示されております。中世の教父であり英国の初代カンタベリー大主教となったアウグスティヌスのヨハネ福音書講義によりますと聖餐式を前提として、個々のイエスの教えを記している、と考えています。例えば51節最後の「私が与えるパンは世の命のために与える、私の肉である」とあります、この宣言は有名な聖餐式における設定辞で宣言されるみ言葉「これは、あなた方のために与える私のからだである」この言葉とそっくりのことばです。私たちは聖餐式においてパンをキリストの体として食べ、ぶどう酒をキリストの血として飲むわけです。が、これらは全て信仰によってキリストと一体となる、神からのめぐみであります。この福音書を書いているヨハネは最後の晩餐の物語を13章18節で記していますが、それが教会で繰り返し行われている聖餐式と同じ言葉ですが聖餐式の言葉を書いてはいません。それは他の福音書が十分書いていますから、ヨハネは聖餐式に関する説教を5つのパンと2匹の魚で5000人の人を満腹させた奇跡の後に組み込んで移している、と言ってよいのではないかと思います。それで6章54節以下、教会で行われるようになる聖餐式の内容をここに別の表現で書いているわけです。54節を見ますと「私の肉を食べ、私の血を飲む者は。永遠の命を得、私はその人を終わりの日に復活させる。私の肉はまことの食べ物、私の血はまことの、まことの飲み物だからである。私の肉を食べ、私の血を飲む者は何時も私の内におり、私も又何時もその人の内にいる。生きておられる父が私をお遣わしになり、又私が父によって生きるように、私を私を食べる者も私によって生きる。」私たちは教会において聖餐式に預かる毎にキリストが私たちの内に生きていてくださる、キリストの命に預かる事が出来るわけであります。では、信仰と聖餐の礼典によって私たちの、もの、と約束される「永遠の命とは」どういう命なのでしょうか。イギリスの有名な神学者ウイリアム・バークレーという先生のここの部分の聖書註解には非常に思い切った事を言っておられます。聖餐の礼典の時の主イエス・キリストのご臨在と祝福というものは必ずしも月1度や或いは年に何回かの主の日の教会で行う聖餐式の時だけに限らない、私たちがパンを食べて養われる三度,三度の食事の度毎に同じキリストの祝福と、キリストのご臨在があることをヨハネはここで教えているのである。つまり毎日の三度,三度の食事の、私たちの日常茶飯事の中でキリストが共におられる。キリストは礼典の時と同じように我々に臨在し給う、又祝福を私たちに与え給うという,そういう命であります。この「永遠の命」はその意味から言うと私たちの肉体的な命が三度,三度食べないと駄目なように、本当に何時も、何時もイエス・キリストと結びついていなければ駄目な命なのだ、と言えるでしょう。永遠の命とは、どういうものですか。それは命の根源であるキリストと、何時も結びついて初めて生きることが出来る命であります。もう一つの「永遠の命」の特色は裏を返して言えば何時も何時も私たちはこの命の源であるキリストから世に遣わされているのだ,と言う派遣の意識、召命感、使命感を持って生きる生命ことだ、と言うのであります。ですから57節にはっきり言われています。「生きておられる父が私をお遣わしになり、また私が父によって生きるように、私を食べる者も私によって生きる。」ちょうどイエス・キリストが父なる神から遣わされ、父なる神のためにご生涯を生き給うたように私たちも、また今度はキリストによってキリストのために生きるのであります。ですから御子イエス・キリストが御父から遣わされている、という使命感と召命感を持って生きる生活が「永遠の命」である、ということであります。
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56節を見ますと「私の肉を食べ、私の血を飲む者は何時も私の内におり、私も又その人のうちにいる」。ここで言われれている「私の内におるなら」、と言うのは「留まる」と言うことであります。同じ言葉を使ってキリストは15章のところで「私はぶどうの木、あなた方はその枝である。もし、人が私に繋がっており、留まっているなら、また私がその人と繋がっておればその人は実を豊かに結ぶようになる」とおっしゃいました。永遠の命とは、そのようにキリストから派遣されて充実した使命感に満ちて豊かな実を結ぶ、生活であります。ヨハネは第1の手紙の中で、この派遣された生活がどのような実を結ぶのか、いくつも私たちに教えています。2章6節に「神の内に何時もいる、と言う人はイエスが歩まれたように自らも歩まなければなりません」。言い換えれば3章24節には「神の掟を守る人は神の内に何時も留まり、神もその人の内に留まってくださいます。」又、3章6節には「み子の内に何時もいる人は皆、罪を犯しません。」とあります。このように永遠の命とは永遠の命の源であり給う方に結び付けられ、その方から派遣されて、彼のように歩み、彼のように清く神の戒めを守る生活であります。 アーメン
お詫び
体調不良で木村先生の説教の公開が遅れて大変申し訳ございませんでした。
お詫び申し上げます。
ヨハネ6章35節、41〜51節(2024年8月11日スオミ教会礼拝)
「父なる神が引き寄せてくださらなければ」
先週は、パンの奇跡を目撃し、パンを食べて満腹し、さらなるしるしを求めて自分のところにやってくる人々に、イエス様は、「なくなる食物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物を求めよ、それこそ救い主が与えることができるものなのだから」と、ご自身が与えようとしている神の国の恵みと救いを伝え始めます。しかし人々は、そのことを悟ることができません。「何を努力し達成すれば、そのようなものを獲得できるのか」あるいは「信じることができるように、イエス様はさらにどんなしるしを、証拠を見せてくれるのか」と、的外れな質問をするのです。さらには、そのイエスが言う、いつまでも残る食べ物は、モーセの時代に天から下ったマンナのような物質的な食べ物であると言う期待に過ぎませんでした。彼らの考え方は、人間的で肉的な考え方を超えるものではなかったのでした。いや、むしろそのように神の知識は人間には、越えられないばかりか、人間は自らの力や知性、理性や論理では、イエス様の語る神の国の知識に至ることなど決してできないのです。そのように人の力ではなく、神のみ言葉こそ救いに導く力でありいのちの糧に他ならないのです。
2、「イエスの言葉を理解できない」
前回は35節のこの言葉で終わりました。
35「イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。
イエス様は「なくなる食物」を例に「なくならない食物」を取り上げ、少しずつ紐解いてきましたが、この35節「わたしが命のパンである」と、ご自身こそが永遠に続き残る真のいのちの源であることをはっきりと伝えるのです。しかし、36節で、
「36しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに、信じない。
と続けているように、イエス様は彼らにご自身をはっきりと示し教えても、彼らが信じないこともよく知っているのです。事実、イエス様が「わたしが命のパンである」と教えたことに対して、彼らは信じるどころか疑い始めます。41ー43節
「41ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から降って来たパンである」と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、 42こう言った。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」
彼らは「パンを食べて満腹したから」イエス様を探しついてきます。つまり、あの人里離れた山の上で、何も食べるものがないようなところで、5つのパンと二匹の魚から5千人以上の人々を満腹にさせた奇跡、紛れもない神のわざを経験した者たちでした。その奇跡に「満腹」であるにせよ、感動したから彼らはついてきたでしょう。そのしるしは紛れもないイエス様が神の御子であることの証しでもありました。しかも、彼らは、30節で
「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。
と、彼ら自身が「信じることができるようにしるしを見せてほしい、証拠を示してほしい、」と求めているのです。まさにその求め以前に示された証拠、しるしが、5千人の給食であったでしょう。しかし、それに基づいて、イエス様が「わたしが命のパンです」と、ご自身こそそのしるしが指し示す、約束の救い主であることを示したとしても、彼らは信じられず、むしろ、そのイエス様が自分のことを「わたしが天から下ってきたパンである」とはっきりと示したことに彼らは呟き躓くのです。マルコの福音書で見てきた、ガリラヤのイエスの出身の村の人々が躓いたのと同じ理由です。人は、自分中心の常識や正義の論理、あるいは価値観で真偽を判断するものです。彼らから見れば、イエスは、エルサレムの律法の教師やパリサイ派出身でもなければ、祭司の家の生まれでもありませんでした。大工であるヨセフの家の長男です。彼らにとっては父も母も知っていて、家族も知っていて、そんなごく普通の貧しい家族と「天から降ってきた」と言う言葉がつながらないのです。神でなければできないような、あれだけの奇跡としるしを見て満腹してもです。そのように、人間の知識や理性、どんな論理的な説明も、あるいは人間の万人が認めるような常識や価値観も、それがどんなに高等なもので、人の前で理路整然としたものであっても、人間の力や理性では、決して神の国の言葉と証しを理解できない、むしろ躓きになる事実が、ここにも示されています。
3、「罪人の現実:十字架の言葉が、躓きであり愚かとなる」
パウロが教えている通りです。コリント第一1章22節以下、こうあります。
「22、ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、 23わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、 24ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。 25神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。
ですから、よくキリスト教信仰に対して「信じるから、科学的証拠を見せてみろ」と言う人はいるわけです。そもそもキリスト教は人間の合理性に当てはまる宗教でも、論理的な証拠を示す宗教でもありません。むしろここにある通り、神の力であるみ言葉を通して、しるしを求めるユダヤ人には躓きで、知恵を求める異邦人には愚かに聞こえる福音を伝える宗教なのです。ですから彼らが求め期待するような証拠など示すことはないのですが、しかし仮に、十分確かな証拠を示したとしても、そのように言う人々はどこまでも「信じない」ことでしょう。なぜなら、神の国の福音は、人間の力、努力、理性、あるいは論理性に裏付けられた理解によってわかる、信じることができるものではないからです。そして同時に、人間は、どこまでもあの堕落のアダムとエバの腐敗した性質を受け継ぐ罪人であり、その自らの力では、どこまでも、神とその言葉を信じられない、受け入れられない、否定しようとし、反逆しようとするものだからです。ですからイエスの言葉に躓く人々、まさにパンを食べて満腹したから探し求め、そして、このようにはっきり「わたしだ」と示されても信じられずに躓く人々の姿は、特殊な人間を示しているのでも、私たちとは無関係な、不信仰で反抗する人々を示しているのではないのです。この姿こそ、罪人である人間、人間の罪深い性質、私たち自身の姿、私たち自身の性質を代表し示しているとも言えるのです。
4、「真の教会と宣教①:イエスは躓く人のために福音を捻じ曲げ妥協したか?」
ですから、何か人間が躓くような聖書の記録は神話だとか作り話だとか間違いだとか、聖書を捻じ曲げ、人間が躓かないような理性的な説明や新しい解釈で、新しいキリスト教、文化的な新しく解釈された神や福音を伝えようとすることが、現代的な教会だとか宣教だという主張をよく聞きます。そのような考えは、個人主義的で消費社会の申し子である現代人の必要に合致していて最もそうで理解しやすいかもしれません。しかし、それはイエス・キリストの福音を宣教しているのではなく、イエス・キリストを私たちの罪深い好みの服装で装飾し着飾らせた別のキリスト、偽りの福音を伝えているに過ぎないとも言えるでしょう。しかしイエス様は、ここで彼らが躓くからと、そこで真理を捻じ曲げたり、神の約束や計画を否定したり、再解釈したりしません。躓き呟く彼らに神の真理をそれでも、どこまでもまっすぐ語り続けます。43節
「43イエスは答えて言われた。「つぶやき合うのはやめなさい。 44わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。
人々は、どこまでも自分中心でしか物事も信仰も、神の国や救いも考えられません。満腹したから来ました。さらに自分を満足させる印を求めます。そのためには自分が何をしたら良いのかと求めます。あたかも自分がそれを達成し果たすことができるかのように。そして信じられないことをイエス様に言われると、信じることができるようにさらなるしるしや証拠を求めます。「自分が信じることができるように」と。そして、イエス様が「それがわたしだ」とはっきりと自分を示されると、今度は、自分たちの常識や価値観で「そんなことありえない」と疑い否定し始める。どこまでも自分中心に神を解釈し、神を見ようとする。その自分中心の価値観や枠組みに合わないと、神はいない。そんな神はありえない。本当の神ではないと言い始める。それが人間であり、私たちなのです。しかしそんな彼らを全てご存知で、全てを見通して、そしてそんな躓きに妥協せずに、イエス様はまず「呟くのはやめなさい」と言います。なぜでしょうか?イエス様は、神の国の真理、信仰の真理をはっきりとこういうでしょう。
5、「父が引き寄せてくださらなければ:人が得るのではなく神が天から与える真の命」
「44わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。
と。「呟くのはやめなさい」ーなぜか?なぜなら、どんなにつぶやいても、理屈を並べ立てても、「 44わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない
からです。ここにも信仰と救いの本質をイエス様ははっきりと教えています。「父なる神が引き寄せてくださらなければ、誰もわたしの元へ来ることはできない」と。神の国も、そこに至る信仰も、神が働くのでなければ私たちには不可能なのです。これは今日の箇所では飛ばされている37節でもイエス様は言っています。
「37父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。
と。ここでも「父がわたしに与えてくださるから」その人はわたしのところへ来るのだと。39節でも繰り返しています。「わたしに与えてくださった人を」と。このように神の国は、神がイエスに引き寄せ、神がイエスに与えてくださるからこそ、その人はイエスを通って、神の国へ導かれる。これが何よりの真理であり、ゆえに、なくなることのない命の食物も、それは、人が努力して勝ち取るものでは決してない、神がイエスに与えてくださるから、引き寄せてくださるからこそなのです。そのような人を36節以下ではこう続いています。
「わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。 38わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。 39わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。 40わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」
と。神がイエスに引き寄せる人々、与えてくださる人々を、イエス様は決して追い出さない見捨てないとあることはものすごく感謝なことです。神が引き寄せ与えた人々を、イエス様は責任を持って、その人に神の御心を行ってくださる。その御心とは、その与えられた、引き寄せられた人々が一人も失われることがないようにすること、信じるようになること、永遠の命を持つこと、死んでもやがて復活するその時まで、全責任を持って導くことだと、イエス様は言ってくださっているのがわかるでしょう。
6、「真の教会と宣教②:御言葉による確証と約束:「こう書いてある」
しかもイエス様はそれを単なる思いつきでは言いません。あえてしるしや証拠を示すとするなら、イエス様はここでみ言葉を引用するのです。45節です。
「45預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。 46父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。 47はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。 48わたしは命のパンである。 49あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。 50しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。 51わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」
イエス様はもちろん目に見えるしるしや癒しも沢山行いました。それもイエスが神の御子救い主であることを示す証しであり、しるしはしるしそのものではなく、何よりイエス・キリストは真の救い主であることを指し示していました。しかしそれ以上に、イエス様が絶えず示す証しは、どこまでもみ言葉です。「預言者の書」というのは当時の聖書であり、私たちが旧約聖書と呼ぶものです。そこに「こう書いてある」というのがイエス様の証しであり証明でした。このスタンスは何よりあの荒野でのサタンの誘惑の場面からも一貫していることです。あの巧妙で狡猾で知恵深いサタンの、み言葉を悪用してまでの三つの誘惑に対して、イエス様は、当時の社会の価値観や哲学や科学の最先端の論理的説明や、あるいは人間が好むような文化的な解釈でサタンに反論しませんでした。イエス様はサタンの聖書の悪用による誘惑に対しても、どこでも聖書のみ言葉を引用し「聖書にこう書いてある」と言って、誘惑を退けたでしょう。みなさん。ここに教会の立つべき最高の模範と宣教があるのです。昨今、いやすでに初代教会の時代から変わらない教会内の問題ではあったわけですが、今も、世の中の問題に、まさに教会までもが、神の言葉の力を信じないかのように、人間中心で、社会の価値観や、理性や科学の常識、あるいは文化的な解釈と呼ばれるもので、聖書を再解釈して教えるようなことが、自由主義教会だけでなく、福音派の中でもいつの時代も当たり前とされてきています。しかし、それはサタンの誘惑に見事に乗ってしまっていますし、聞き手がつまずくからと、聖書の真理を妥協し、神の御心を損なっているのです。しかしイエス様はそうしないでしょう。イエス様は聖書を、聖書から解釈し、教え、説教するのです。神の言葉は、人間の知恵で解釈するのではなく、神の言葉によって解釈し、だからこそみ言葉と聖霊の力と助けによって人は神の御心を正しく知ることができるのです。そして、イエス様がそのようにして伝えることは100%誤りのない完全な言葉であり解釈でもあります。なぜなら46節、「父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。」とあるからです。そう、イエス様は、イエス様こそが、イエス様だけが、神の下から来られたお方です。だからこそイエス様だけが父を見たお方です。他は誰もいません。どんなに知恵のある律法学者でもパリサイ派でも、偉大な預言者でも、父を見たものはいないのです。モーセでさえもその顔を見ることができませんでした。そう、イエスは真に父なる神から、人となられた神の御子、父なる神を知る方、父なるを神を証しできるただ一人のお方です。その方の証しこそ、神からの言葉こそ、神から与えられた権威と力こそ、真実であり、真の永遠に残る、朽ちることのないいのちを与えることができるのだと、それが、死んでも生きる、マナを食べた人が皆死んでいったようなことは起こらない、永遠にいつまでも残るいのちのためのパンの意味であることをイエス様は伝え続けるのです。
7、「結び:救われる私たちにとってそれは愚かではない」
今日はここまでですが、この後、さらにイエスの説教が続いていきます。ここに至っても、人々は、世の知恵や理性に合致しないからと議論し続けます。正しく、しるしを求めるユダヤ人には躓きで、知恵を求める異邦人にはどこまでも愚かにしか聞こえないのです。私たちにとってもかつてはそうであったでしょう。十字架の言葉は愚かでした。イエス様が真の命のパン?そんなことよりも世に満ち溢れ自分の欲求を満足し理性を満たす知恵を見せろ、というのが、私たち皆にある罪深い性質であり、私たちの堕落したままの姿です。しかし、いつも立ち返るところは同じなのですが、イエス様は今日もこのことを指し示しているでしょう。皆さん、この御子イエスキリストの十字架の言葉は、今ここにいる私たちにとっては、愚かに聞こえますか?躓きですか?違うでしょう。私たちにとっても(コリント第一1章24節)「召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。 25神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」と私たちは今日も告白するでしょう。(1章18節)「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」と、私たちは今日も確信を持って告白し、ゆえに今日も救いを確信し安心するでしょう。そして、その信仰と確信は、今日学んだ通りです。私たちの力や知恵、呟きや屁理屈の結果では決してなく「父なる神がイエス様に引き寄せてくださったから、イエス様に私たちを与えてくださったから」こそ、イエス様がその大事な宝である私たちを責任を持って、み言葉と聖霊の働きによって、信仰を与えてくださった。永遠のいのちを与えてくださった、そして復活の日まで責任を持って導いてくださると、その恵みを喜び安心し、今日も出ていくことができるでしょう。今日もイエス様は変わることなく悔い改める私たちに宣言してくださいます。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。ぜひ今日も安心してこここから世に、御心を行うために遣わされていきましょう。
ヨハネによる福音書6章1〜15節(2024年7月28日:スオミ教会説教)
「イエスは僅かなものを感謝し神のわざを行われる」
このヨハネの福音書6章では、イエス様は、パンと魚を通して、肉体の必要を心配し満たしてくださる感謝な恵みとともに、そのことを通し、イエス様に開かれる神の国は、何よりも、私たちの霊的な必要を満たしてくださることを教えてくれています。
イエス様はガリラヤ地方を巡っています。ここで1節「ガリラヤ湖の向こう岸」とあるのは、ガリラヤ湖の北東の岸を意味しています。そこで2節、大勢の群衆がイエスのもとに集まります。そこには「イエスが病人達になさったしるしを見たからである」とあります。これまでのマルコの福音書でも見てきたように、イエス様は、大勢の病人を癒やされ、その中の医者にも見捨てられたような病人さえも癒やされたり、さらには病気で死んでしまった人を生き返らせたりと、人間の力や思いを超えたような出来事もありました。その目撃者、それを聞いた人が群衆となって押し寄せていたのでした。その奇跡はもちろん、身元にやってくる病気に苦しんでいる人々への憐れみと愛の実現であるのですが、同時に、イエス様が真に神の御子救い主であることを示すための証しでもありました。しかし、イエス様が世にこられた目的は、そのしるしを見せるだけでもなければ、病気を治すことだけでもないこともこれまで見てきた通りです。この6章では、後の箇所になりますが、しるしを見て、あるいは今日の出来事のパンを食べて満腹し、満足して、さらにしるしを求める人々へ、イエス様は真の目的である霊的ないのちの糧であるご自身を示していくことになります。
今日の箇所を見ていきますが、3節、
2、「イエスの求め:それに対する弟子たちの現実を見ての戸惑い」
「3イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。
A,「弟子たちへの教えの時」
先週まで見てきたマルコの福音書の6章30節以下を見ると、今日のいわゆる「5千人の給食」の前に、イエス様は弟子達に権威を与え遣わしており、ちょうど帰ってきて弟子達がイエスへ報告した後になっています。そこでマルコ6章31節を見ると、イエス様は「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と弟子達に言っており、それは「出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。 」(マルコによる福音書 6:31)とあるのです。ですから、当初は弟子達は休むために「人里離れた」山に向かったようです。その後でイエス様が合流されその静かなところで弟子達に教えるために座られたと思われるのです。しかし、5節です。大勢の群衆はそのイエスについてきたのでした。
そこでイエス様は弟子の一人フィリポに尋ねるのです。5節からお読みしますが、
B,「すべてを知った上でのイエスの弟子たちへの質問」
「5イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、 6こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。
最初、イエス様は群衆にではなく、弟子達に神の国を伝えていました。そこにしるしを見た群衆が集まってきたのでした。ですからイエス様の目的は群衆に教えることではありませんでした。しかし、イエス様はその集まってくる群衆を見られて、彼らのことも心配され「食べさせるためには、どこでパンを買えば良いだろうか」とその空腹という身体的な必要のことを心に留めてくださっています。他の福音書を見るとその時は、もう時は「日も暮れ始め」とあり、そして「人里離れた」ところでもありました。そんな所にわざわざ見にきた人々を、「空腹にさせないように」心配されるイエス様がわかるのです。
しかし同時に、それは弟子達に教えている時でもあったのですから、このイエス様の問いかけは彼らの教えの一環、あるいは継続としてちょうど良い訓練の始まりでもあったと言えるでしょう。その質問は、弟子の一人フィリポを試すためでした。むしろご自身がこれからしようとすることをイエス様ご自身はすでにわかっていたとあるのです。これはルカの福音書9章の方では、まず弟子達が、この夕暮れ、そして人里離れたところであるからと、イエス様に群衆を解散させて、彼らが各々、近くの村や部落に行き、自分たちで食べるものを得させるようにと提案しています。それに対してイエス様は「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」と弟子達に言っています。それに対して、フィリポはイエス様は答えるのです。7節。
C,「人の目には、理に合わない①:二百デナリオンでは足りない」
「7フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。
マルコ6章37節では弟子達の「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」との声が記されています。この200デナリオンというのは、一年の半年分の給料以上であり、相当な額になりますが、男性で5000人で、家族で来ている場合には、それ以上の人数になりますので、フィリポはすぐに金額でどれくらいか想定できたのでしょう。200デナリオンでもそれだけの人数が少しずつ食べたとしても足りないと計算できたのでした。しかももし買ってくるとしてもそれはあまりにも現実的なこととはならないのも明らかでした。「イエス様、なんて非現実的で無謀なことをおっしゃるのですか?」とでもフィリポは思ったでしょうか。フィロポの計算では、いや誰の計算であっても、全く理に合わない、合理的ではない、イエス様の提案であったのでした。そのようなイエス様の指示が理にかなっていないと思ったのは、フィリポだけではありません。8−9節。
D,「人の目には、理に合わない②:これだけで何になろうか?役に立たない」
「8弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。 9「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」
少年、ギリシャ語では「子供」ですが、その子供が「大麦のパン五つと魚二匹とを持ってい」たのでした。「ここに」とありますから、その子供が弟子達のところに持ってきたのでしょう。しかしアンデレはいうのです。
「けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」
新改訳聖書では「それが何になりましょう」ともあります。本当にその通りです。たった五つのパンと二匹の魚だけで、5000人以上の人が食べられるわけがありません。物理的に小さく均等に分けられたとしても、もうものすごく小さなものになります。そう、人間の頭、計算、常識では、それだけで5000人以上の人々が食べるなんていうのは不可能なのです。何の役にも立たないのです。私たちも同じ状況であったなら、「それだけで何になろうか」ーそう言うのではないでしょうか?
E,「不可能なことを自分たちの力で果たさせる命令ではない:律法ではない」
私たちは自分たちの計算できる常識の範囲内で、その目にみえる数字や物で、何ができるかできないかを当然のように判断します。そのようにして家計を維持したり、個々人や家族の経済活動、生活などもするものです。それは弟子達も当然、会計係を担っていた弟子などは、きちんと管理をしていたことでしょう。それはそれで正しいことです。しかし、この時、イエス様は弟子達を囲んで教えをしていました。神の国の教えです。そして、フィリポ、おそらく計算がきちんとでき管理できる弟子であったことでしょう。イエスはそんな彼を試すために、そのような提案をしています。ですから、それは何か計算をど返ししたような無謀なことをするように弟子達が促され、それを自分たちで考え、計画提案し、自分たちで実行し、そして、彼らで群衆を食べさせるなければならないという、ことをイエス様は教えたり命令したいのではないのです。つまり、弟子達に何か律法的なことを求め、彼らにそれを果たさせることとか、彼らの頭や能力を振り絞って、何か知恵や方策を答えさせようとしているのでもなければそれを求めているのでもないのです。では、イエス様は彼らに何を示し教えられるのでしょうか。10節以下です。
3、「人の目ではわずかで足りなくてもイエスは感謝し祝福した。」
「 10イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。 11さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。
A,「すべては十分な神の恵み」
「五つのパンと二匹の魚」ーそれは弟子達にとっては、僅かなもの、なにもできないもの、明らか不足、マイナスです。確かに人の目からみるなら、それはマイナスであり、大問題であり、不平を言うには十分すぎる現実的理由であったでしょう。けれどもここで大事なことをイエスは私たちに教えています。それは主であるイエス様にあっては、神の前では、それは決してわずかではない。むしろ人の目から見れば、5千人に対しては明らかに不足しマイナスであるその5つパンと2匹の魚さえも、イエス様にあっては、それは神から与えられた物であり、十分な神の恵みであると、イエスははっきりと見ているということです。イエスは、その僅かな物を「祝福した」とあるのです。その僅かな物であっても「イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから」とあります。ルカの福音書9章の方では「天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え」とあります。そしてその箇所は新改訳聖書では、「天を見上げて、それらを祝福して裂き」とあります。それはユダヤ教の家族では家族の長である父が習慣的に食事を祝福することに倣っています。そのようにイエス様は、そのわずかなものを、感謝し、感謝の祈りを神に祈り、そしてそれを祝福の食卓であると感謝したのでした。人の目にはわずかで、足りない、これだけで何になろうかというものであったとしても、神が与えてくださったものは、いつでも十分であり、「乏しいことはなく」(詩篇23篇)、祝福であり感謝であり、神が与えてくださった恵みであったのでした。そしてここには人の目の不足も神は必ず満たしてくださるという約束もああるのです。
B, 「不十分で無力な弟子たちを感謝し祝福し用いようとされる」
確かにイエスにあっては全てのことがそうであったでしょう。何よりも、弟子達一人一人から見れば、人の前では小さな小さな一人一人です。彼らは十分な力と知恵があったでしょうか?彼らはパリサイ人や律法学者達のように、育ちも家柄もよく、財産ももっているうえに、聖書の英才教育を受け、聖書・律法を全て知っていて、守っていて、尊敬されているような、まさに人間の価値観に沿えば「十分に持っている」ような人々であったでしょうか?まさに人間の評価から見て、救い主の弟子にかなうような立派で成熟して出来た立派な人々であったでしょうか?そんなことは全くありません。むしろどの福音書も、どこまでも不完全で罪深い、不足の多い弟子達の姿を最後まで伝えているでしょう。しかしマルコ5−6章で見てきました。イエスはまさにそのような人の目にあっては不十分な弟子達に声をかけ、招き弟子とするでしょう。そんな彼らをまさに祝福し、そして祈ったことでしょう。そしてそのような彼らに、ご自身の名、その名によって悪霊を追い出し、病気を直すための力と権威とを与えて、神の国の福音を伝えるために遣わしているではありませんか。その罪深さや不完全さは、十字架の時だけでなく、復活の日の朝まで、いや教会の時代でさえも、彼らはそう、罪人の一人一人です。しかし、まさにそのような不十分な彼らをイエス様は知って、彼らが十字架でみな裏切って逃げ、ペテロが三度知らないと言うこともみんな知り、復活の日の朝もご自身が現れるまで、約束を忘れて沈んでいることも、教会の時代でさえも聖人ではなく罪人である彼らであることを、みんな知った上で、そんな弟子達を招き、友となり、教え、導いてきたでしょう。権威を与え遣わしたでしょう。それは、イエスがそんな彼らだと知った上で、彼らはまさにこれから神の大きなわざを行うにはほんの僅かな「5つのパン、二匹の魚」以下のようであるにも関わらずに、彼らを神に感謝し、祝福し、そして、そんな彼らに神が与え、神が働いて下さったからこそ、彼らは各地で、悪霊を追い出すことが出来、病気の人を癒すことが出来、神の国の福音を伝えることが出来たのではなかったでしょうか?いやそうだからこそ、彼らは使徒の時代にも死を恐れず教会で宣教していったのです。彼ら自身の力では出来ない一つ一つです。「これだけで何になろうか」の彼らなのです。モーセ風に言えば「他の人を遣わしてください」なのです。しかし、その不十分なモーセにしたのと同じように、不十分な彼らをイエスが祝福し力を与え遣わされたからこそ、彼らを通して主の御業がなされてきたし、なされていくでしょう。いや、まさにそれと同じようにして、私たちにも、今日の今まで教会を通して、私たちを通して、イエス様は同じことをされるという恵みの事実、福音こそを、イエス様は私たちに伝えているのではありませんか?
C,「私たちへの恵みと約束でもある」
まさに、そのことと何ら変わらないのです。彼らは、5つのパンと2匹の魚です。私たちも5つのパンとの2匹の魚です。あるいは、弟子達が、本当に不足ばかり、欠点ばかり、そして不十分さを覚えるようなもの、5つのパンと2匹の魚しかもっていないように、人の目、私たちの目から見るなら、私たちも自分自身にそのように不足しか見えないものかもしれません。けれども、それは、イエスにあっては、神の前、神の目にあっては、すべては十分、全ては恵みであるということです。なぜなら、その僅かなものさえも、神が与えてくださった恵みであるし、その僅かなように見えるすべて、私たち自身、私たちに今あるもの、置かれている状況、それが試練や困難や不足であっても、神がそれら全てを祝福し用いて、すべてのこと、まさに人間の計画、推測、決めつけ、考えを遥かに超えた神のわざを実現してくださるからです。イエス様はまさにそのことを弟子達に、そして私たちに教えようとしておられるのではないでしょうか?どんなに小さくとも少なくとも「これだけで何になろうか」と思えることも、すべてのことは、神の前にあっては、神が与えてくださっている恵みなのです。人の目にあっては、5つのパンであり、2匹の魚、不十分であったとしても、イエス様はそれらを喜び、感謝し、祝福し、イエス様のわざ、不足に見えるものでも満たし、人の思いを遥かに超えたことを実現してくださるのです。
4、「御言葉は人知を超えてすべてを満たし神の御心を実現する力」
事実、感謝と祝福の先に、それだけで終わらずその通りになります。12節から
「人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。 13集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。
人々は満腹します。それだけでない。残りを集めたときに、12の籠にパン屑がいっぱいになりました。それは理性では説明できないことです。だからと、この奇跡は弟子達の作り話だとか、奇跡を否定する、のではないのです。そのように「奇跡は理性に合わないから」と奇跡を否定し教えることは人間の理性に神のみ言葉を従わせてている、まさに偶像礼拝です。神の言葉には、不可能なことはありません。まさにほんの僅かなことを用いて、大きなことをなされます。事実、天地創造は、無から天地万物を創造したと聖書にはあります。人間の理性に合わせて奇跡を否定する教えは、天地創造も神話にしてしまうでしょう。しかし、それではそのように言う人は一体何を信じるのですか?人間の理性ですか?聖書は道徳と倫理の教えに過ぎないのですか?それだと、もはや神は不在、神の言葉も不在。神の言葉に私たちを救う力があると言う素晴らしい教えも神話になり、キリスト教はただの道徳と倫理の教え、律法になってしまうでしょう。イエス様は神の御子であり、その言葉に力があるからこそ、僅かなパンで、このことは事実起きたのです。神の言葉が真理で力があるからこそ、神の約束は一貫して変わることなく、まさに、約束の通り、神の御子が、女の子孫として生まれ、私たちの罪の身代わりとしてのその命の犠牲と復活のゆえに、神からの永遠のいのち、新しいいのちが、そしてそれによる平安が私たちに事実として溢れ出て、世に流れていくのです。神の言葉が真実だからこそです。
5、「結びと派遣」
私たちは神の前には、本当に小さな存在です。いや小さい存在だけではない、どこまでも反逆し背を向けていった罪人です。しかしそんな小さな罪深いものを見捨てなかったからこそ神は御子イエス様を人として送ってくださいました。それだけではない、その御子の命をそんな罪人の罪の贖いのために、世に与えるほどに愛してくださいました。だからこそ、滅びに至るはずであった私たち、信じることも悔い改めることもできない私たちに、悔い改めが起こされ、信仰が与えられました。そしてこの御子イエス様の十字架のゆえに、私たちは罪赦されている、救われていると確信できます。安心できます。平安があり、安心して出ていくことができます。私たちは、だからこそ今ある全て、自分自身も含め全て恵みであると感謝し子供のようにイエス様に全てを託しましょう。委ねましょう。子供のように、イエス様に今あるものを恵みであると感謝し全てをイエス様に委ねる時に、イエス様はそれを用いて、私たちを用いて、思いをこえた神のわざと計画を必ず実現してくださるのです。今日も、イエス様は宣言してくださいます。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。ぜひ安心してここから遣わされて行きましょう。
ヨハネ6章24−34節(2024年8月4日スオミ教会礼拝説教)
「朽ちることのない、いつまでも残るいのちの糧を受けて」
先週は、イエス様が五つのパンと二匹の魚から五千人以上の人に食べさせた箇所を見てきました。先週の後半部分を触れることができませんでしたので、簡単に触れてから今朝の箇所に入って行きます。6章14節を見ると、人々はイエス様のその「しるし」を見て「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言い、イエス様を「王にするために連れて行こう
としているのをイエス様は知り、一人でまた山に退かれたとあります。人の評価では、大勢の人がイエス様を支持し、約束の預言者だと信じて「王としよう」としている、だから「状況は良くなってきているのだからその人々の求めに従い受け入れて王になったらいいじゃないか」と人々は思うかもしれません。しかし前回の初めに述べたように、イエスは目にみえるしるしを示すことだけを目的としているのでもなければ、人々が自分を地上の王とすることを求めているのでもありません。まして、イエス様は人から王とされる必要もなければ、何よりイエス様の王国は、人によって担ぎ上げられ建てられるものでも決してありませんでした。真の神の国は、父子聖霊の三位一体の神が、御子の十字架と復活によって建てるものでした。だからこそ、人々によって王とされることは明らかに神の御心ではなかったのでした。16節以下では、弟子たちだけで再び湖を渡りカフェルナウムへと向かいます。しかし強風と大波で船は困難な状況です。しかしそこでイエス様が湖の上を歩いて来られるのです。弟子たちはそれを見て恐るのですが、イエス様は「わたしだ。恐ることはない」と言われたことが書かれています。そのように到着したカフェルナウムでの出来事が今日の箇所になります。22節以下にあるように、イエスのしるしを見て追いかけるように着いてくる人々や、そしてパンの奇跡を経験した人々が、揃ってイエスを追い求めカフェルナウムへと小舟に乗りやってきたところから始まるのです。24節からですが、
2、「パンを食べて満腹したからだ」
「24群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないと知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り、イエスを捜し求めてカファルナウムに来た。 25そして、湖の向こう岸でイエスを見つけると、「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」と言った。
イエス様を追い求めてついてきた人々はイエス様を見つけて、自分たちがこんなにもイエス様を探し回ってついてきている熱心さを主張するかのように、言うのです。それは人の目から見れば表向きは熱心で敬虔な追い求める姿に見えてくるのではないでしょうか?しかしそんな人々へイエス様はこう言うのです。26節からですが、、
「26イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。
イエス様は彼らのその表向きの追い求めてついてくるという行為の目にみえる部分だけを見ているのではありませんでした。むしろその心のうちまでもしっかりと見ています。彼らがついてくる、彼らが求める、その真の動機をイエス様は見過ごしません。行いよりもまず信仰を求める神であるイエス様なのですから、表面的な外面的なことや目にみえる行いよりも、むしろその行動の真の動機、心のうちの方が重要なのです。彼らが探し、求め、ついてくる、その動機はただ「パンを食べて満腹したからだ」と言います。ここには「しるしを見たからではなく」とありますが、これはただ「しるしを見る」ということだけの意味ではありません。ヨハネ20章30節以下にはこうあります。
「30このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。 31これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。
イエス様が「しるしを見た」と言う時には、それはしるしそのものだけを見るのではなく、しるしを行った神と、しるしを通して神が指し示す、イエス・キリストを見、イエスこそ神の子メシアであると信じることを示しています。しかし、この6章でついてきた人々は、ただパンを食べて満腹した、それだけの人々でした。つまり、しるしをなさった、あるいはしるしが指し示す御子イエス様とその言葉を見てもいないし、その与えようとしている救いも、求めてもいないし、そのためについてきたのではありませんでした。この先30節以下で彼らは、
「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。31わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。
と言っていることからも分かる通り、彼らは、再び、あるいは「さらに」「もっと」と自分の欲求を満足させるような、目にはっきり分かり満足できるモーセの時代のマナのような、さらなる目に見えるしるし、自分の満足、腹や肉体や感情の欲求の満たしこそ「天からのしるし」として、求めているに過ぎないこと、イエス様は見抜いていた、そんな言葉であったのでした。
3、「福音を伝えるために」
しかし、求めることは決して悪いことではありません。むしろ、これまでイエス様は求めてついてくる人々、特に、病に苦しんで、癒してほしい、イエス様なら癒すことができると信じて求めてくる人々の求めには、目をとめられ、それに答えてくださっていました。彼らの必要に答えてくださいました。それでも信仰が衰え絶望しそうになった会堂長ヤイロには「恐れてはいけない。信じなさい」と信仰を励ましたのを見てきました。それに比べて、この26節のイエス様の言葉は何か冷た過ぎはしないか?厳しくはないか?突き放しているのでは?と思う人もいるかも知れません。皆さんもそう思いますか?
しかし、実はそんなことはないのです。そのようにイエス様が言われたのは、まさにこれから彼らに神の福音の真理を伝えるために、彼らの現実を示しているに過ぎません。イエス様はそんな彼らの現実を伝えた後に、まさに最も伝えたいいのちの福音を伝えるでしょう。27節
「27朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」
イエス様ははっきりと伝えます。まず第一に「朽ちる食べ物のためではなく」と。「あなた方は、腹に入って排出され消えてゆく朽ちてゆくパンを求めています」と。あの天からのマナでさえもそのような食物に過ぎませんでした。事実、マナは天から与えられましたが、腐敗していく食物でした。パンもマナももちろん肉体を養い空腹を満たす神からの贈り物で大事なものです。しかしそれらは朽ちて行きいつかは無くなるものであると言うのもまさに私たちの現実です。朽ちるものは私たちを永遠の神の国に与らせ、天につながる道では決してあり得ません。もしイエス様がパンだけを与えるためだけに来たのなら、こんなことを言わなかったことでしょう。「満腹して良かったね。じゃあもっとパンをあげよう」で終わったはずです。しかし、聖書が初めから終わりまで一貫してはっきりと示しているように、聖書の約束の救い主は、そのために来られたのではありません。まさに肉体的な必要だけでなく、み言葉を持って祝福を与え、そのみ言葉によってご自身との信頼と愛の関係で平安に交わるために人類を創造しました。しかしその人類は神に背き堕落しますが、それでも神は、人類が堕落してなおも、その女の子孫がサタンの頭を砕くと罪からの救いを約束されました。その救いはパンを与えることではなく、まさにご自身の御子を人として生まれさせ、その命を十字架で贖い、罪の赦しを与えることであり、それによって、悔い改め信じる者に神との本来の関係が永遠に回復され、地上の王国ではない永遠の神の国へ与らせることこそ、何よりの一貫した目的でした。それこそをイエス様は与えるために来たでしょう。朽ちる食べ物だけを与えるためでは決してありません。それ以上のものです。まさに「いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために」こそ、そしてそれを全ての人々に与えるためにこそイエス様は来られたと言うのが聖書が伝えることでしょう。「これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。」とイエス様が言われる通りです。そして「父である神が、人の子を認証されたからである。」ともある通り、その永遠の命に至る霊の食物こそご自身であり、ご自身の御言葉であり、神が認められたものであるとまでここで示すのです。
ですから、この所は、ついてきた人々、しかも全く求める動機が的外れである人々を、冷たく突き放しているのでは決してありません。イエス様は彼らに本当に必要な永遠のいのちの食物の説教、福音の説教をまさに語り始めているのです。そのためには、まず彼らが自分では気づいていない、その求めていることの現実、心の中の現実をはっきりと示し彼らがそれを知る必要があるでしょう。その求めているものは的外れであり、その求めているものは朽ち行くものであるという現実を気づかせることがまず必要です。なぜなら、その現実に気づくからこそ、本当の必要がわかってくるからです。まさにさらなる必要、人間にとって朽ちることのない、ご自身と御言葉による本当に必要な救いを教え与えるための言葉が27節だったのです。それはそれだけとれば厳しい冷たい言葉に思えますが、きちんと全体から見ると決してそんなことはないのです。
4、「教会は、真の人の必要のために何を伝えるのか?」
このイエス様の説教から何が教えられるでしょう。私たちも、教会の説教で、律法を通して刺し通され、痛みを感じるものです。悔い改めを迫られる時もあります。人々はそれは辛く嫌なものであり、聞きたくないものかも知れません。だからと、「律法や罪の指摘や悔い改めなど、教会で取り上げるな、語るな、ただ神の愛だけ語っていればいい、隣人愛や道徳だけ語っていればいい、人の好むような聞きたいことだけ、耳に優しいことだけを語っていればいい」、そのように言ったり求めてたりする教会も、自由主義の教会でも福音派の教会でも少なくありません。しかしそれは人の前では好評で好まれても、神の前にあっては聞く人々に対して、ものすごく不親切で、愛のない行為です。なぜなら、御言葉を通して、神の前にあっては、私たちはどうしようもなく罪深い罪人であるという圧倒的現実であるからです。そして、イエス様の十字架の罪の赦しと悔い改めることがなければ決して救われない、という私たち人間の神の前の現実と聖書の真理から、人々の目を背けさせているからです。そのようにして聖書が与えよう伝えようとしている本当の朽ちることのない永遠のいのちへの道を閉ざしてしまっているからです。なぜなら、罪の現実と悔い改めることなくして、この天からの神が与えてくださる真の救いである、イエス・キリストの十字架と復活の救いは決してわからないからです。ですから、教会で律法を通して、罪を示されること、私たちの神の前の現実を知らされ、悔い改めに促されることは、痛いこと、辛いことですが、しかし、幸いなことでもあるのです。なぜならそんな私たちのためにこそ、イエス様はそこで、律法だけでなく、福音であるこのイエス・キリストを、この十字架を、罪の赦しを見なさい。受けなさいと言ってくださる、そのことがわかり、救いを確信し、世が与えることのできない真の平安に与ることができるからです。感謝な恵みです。
5、「何をしなければいけないかの視点ではなく、神のわざ」
そのようにイエス様の教えが続きます。28節以下ですが
「28そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、 29イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」 30そこで、彼らは言った。「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。 31わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」
イエス様は、「いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」と言っています。だから人々は「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と尋ねたのでしょう。彼らは、どうすれば、自分がどんなことをすれば、自分が「神のわざ」を行うことができるのか、自分がその永遠の命に至る食べ物を得るために働けるのかと尋ねるのです。世の人々の「救われるために」の視点はいつでもそうです。「自分が何をすれば、どんなことをすれば、どんな条件を課題をクリアすれば」とまず考えます。どの宗教でもそのような教えになるでしょう。まず人の側が何かをして、何かを果たして、何かをクリアして、それからその後に、そこにご利益、救いがあるのだという教えです。人々の当たり前の常識的な宗教観ではそのような質問になって当然のことかも知れません。しかし、イエス様が教える真の救い、つまり聖書が約束する真の救いの教えはそれと全く逆、正反対です。27節の言葉でもイエス様はこう続けているでしょう。「これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。」と。まさに人の子、つまり「イエス様が」「与える」ものだと。つまり、それは人がなんとか頑張って得るものではなく、「与えられる」ものだとイエス様は示唆しています。ここ29節でもイエス様はこう続けているでしょう。
「イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」
イエス様は、神が遣わされた者、つまりご自身を「信じること」が、神のわざであると言います。このやりとりは不思議なやりとりです。人々は自分が何をすれば、神のわざを行うことができるかと聞いていますが、イエスは「自らの力で信じれば、それをすることができるようになる」とは答えません。「信じること、それが神のわざ」だと言うのです。つまり、信じることそのものに神のわざが行われているという意味になるでしょう。信仰はまさに神のわざ、賜物であることがイエス様ご自身から示されているのです。その賜物としての信仰を通してこそ、32節以下、イエス様はこう言うのです。
6、「神が与える」
「32すると、イエスは言われた。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。 33神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」
救いは、モーセが何かをしたからではない。モーセの律法の通りにしたからでもない。私たちが何かをしたから「天からのパン」を得られるのではないとイエス様は言います。この人々のように、人々は人の功績や人が何をしたかに救いの根拠を見たり、自分の行いや功績に救いの確信を探そうとします。しかしそうではない。イエス様が与えようとしている、朽ちることない「いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物」、真の命を与える救いは、天の父から「与えられる」ものである、どこまでも恵みであり、その信仰さえも神のわざ、賜物であるとイエス様は一貫して、救いは人が成し遂げなければならない律法ではなく、神がなす福音であると彼らに示す続けているのです。
人々は答えます。34節「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」。それに対してイエス様ははっきりと示します。35節
「 35イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。
イエス様は、「わたしが」と言っているように、ご自身こそ、いのちのパンだ。ご自身こそ、朽ちることのない、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物だと、「なくなっていくパン」との比較を用いて、まさにご自身こそ、人に立てられるのではない神が約束し神が建てられた真の王、約束の救い主であることを宣言するのです。それは、しるしを見てパンを食べて満腹するだけでは得ることのできない、そのしるしが指し示す、イエス様のもとにきて、信じること、それによって、決して飢えることも渇くこともない、いつまでもなくならない永遠の命に至るのだ、イエス様こそそれを与えることができるのだと、はっきりと福音を指し示し宣言なされるのです。
7、「終わりに」
このやり取りはさらに続きますが、人々は理解できず信じることができません。彼らにはまだ隠されていることなのです。しかし、その事実さえも、まさに信仰は理性や知性のわざでもなければ、知識の量の問題でもなく、み言葉と聖霊の働きによる神の賜物であると言うことが証しされています。人の力ではその時、信じることができないことでも、十字架と復活の後、彼らのあるものは、使徒たちを通しての聖霊による福音の宣教によって信仰へと導かれることでしょう。イエス様はこのところで、その未来のための種蒔きもしているし、当然、それは私たちのためでもあり私たちへと向けられているイエス様のメッセージなのです。私たちはまさに今、イエスこそ朽ちることのない、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物だという信仰を与えられています。そして、だからこそ、今日も自分の罪を認め、悔い改めをもって、この神の前に集められています。そしてこの時、イエス様によって、イエス様の言葉によって、そして聖餐によって、イエス様から、この十字架の罪の赦しの宣言を受け、平安を受けます。それはまさに天から、神からの、朽ちることのない、いつまでも残るいのちの糧を受けているその時、今はその時なのです。この確信と平安のうちに今日も遣わされていくことは、賛美すべき恵みではありませんか。今日もイエス様は宣言してくださいます。「あなたの罪は赦されています。安心していきなさい」と。ぜひ安心してここから遣わされていきましょう。
聖書 エフェソの信徒への手紙 2章11~22節 2024年7月21日(日)
説教題:「神との和解」
きょうの説教では、使徒書のエフェソの信徒への手紙、2章11節から聞いて行きたいとおもいます。はじめにエフェソと言う町について、そしてエフェソの教会について少し見てみます。エフェソは現在のトルコにあるエーゲ海に面した港町でギリシャやローマ或いはエジプト、東は小アジアから舟がやって来て貿易で大変繁栄していました。パウロは第2回伝道旅行でエフェソに伝道し教会が出来ました。この手紙は紀元60年頃ローマの獄中から書いています。そしてこの手紙はエペソ教会だけでなく、エフェソの周辺のパウロが伝道した教会へ回し読みされたでしょう。さて、今日はそのエペソ書2章11節からです。11節を見ますと「だから、心に留めておきなさい」と言う言葉で新しい話が始まっています。一番初めに「だから」と書いていますから、その前の10節で言って来た事を受けて書いているのです。それで、2章10節をみますと「なぜなら、私たちは神に造られたものであり、しかも神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスに於いて造られたからです。私達はその善い業を行って歩むのです。」こうあります。それは新しく造られて神の作品とされいる、ことであります。そのように、せられたのだからエフェソの教会の方々よ、このことを、しかと心に留めて記憶していなければなりませんよ、と言っています。この手紙は異邦人であったエフェソの信者たちに対して言っている、ことであります。ユダヤのイスラエルから見れば異邦人と言われた人々です。異邦人と言われた人たちは律法も割礼もないのに救いに入れられる、という事は考える事も出来なかった事なのです。だから、です、だから異邦人たちは何時もこのことを思い出して決して忘れてはならない大事な事であります。そのようにあなた方は恵みによって救われた日の事を思い出す事が信仰生活であると言えるのであります。信仰生活と言うのは、神を信じている生活ですから、日毎に神の恵みを受けているにちがいありません。その事は始めの日にキリストの恵みによって救われた、という事実に基づいて」いるはずであります。それなら決して忘れてはならない、心に留めてただ記憶するだけでなく、心に留めて思い出して生きなさい。と言っているのです。その事は主イエス様ご自身が既に仰せになっている事であります。最後の晩餐の時、主は私の記念としてこれを行いなさい、言われました。これは私の体、これは私の流す血である、と主の恵みにあずかって新しくしていただくように、はじめの日の救いの恵みを思い出して、いま、確かに救われている事を知る事であります。それなら何を知れ、と言うのでしょうか。彼らは異邦人でありました、異邦人という事は肉によって言う事でありました。しかし、それが神との関係にかかわって来るのです。異邦人であるのは割礼がない、という事です。しかし、割礼がないのは決して肉体だけの事ではありません。割礼と言うのは神との関係を表そうとしています。神との関係に特別な約束がある、という印です。神との約束と言うのは何の事でしょう。それは旧約聖書、創世記17章7節に書いてあります。「私はあなた及び後の代々の子供と契約を立てて永遠の契約とし、あなたと後の子供との神となるであろう」。とあります。では誰が神との約束を持っているでしょう。イスラエルは割礼のゆえに神との約束を持っていると思っていました。それで神がまことに自分の神になっておられる、と信じる事ができました。人生の最も大きな問題に、神との約束を持っているか、どうかと言うことです。世の中の生活には何の約束もない、保証もない、だから神を信じたい、という人は沢山いるでしょう。しかし自分で神がある、と信じても何の保証にもならない。神様があなたの神になってくださる事です。(人間は勝手な者です、自分が中心である、自分の都合よくなる事のみを求めますね)大事な事は神が我々の神となってくださる事です。神の方から神になってくだされば、そこに始めて確かな保証があるのです。神が私の神となってくださる時、神は救いと守りの約束を与えておられる、事を信じることができるのであります。そうであれば大切なのは肉に夜割礼ではなく、その割礼を印として神の約束を信じる事であります。そのことが本当の割礼であります。そこで異邦人である我々には何が割礼でしょうか、真の割礼はイエス・キリストによって与えられます。その印は洗礼であります。私たちには割礼はありませんが洗礼によって神は私たちの神となってくださった、このことをイエス・キリストによって信じているのです。それなら、割礼のなかった人たち、つまり神の約束を持っていなかった人々はどんな生活をしているのか、そのことをパウロは12節に書いています。「その当時はキリストを知らず、イスラエルの国籍がなく、約束された、という契約に縁がなく、この世の中で希望もなく神もない者であった」と書いています。これがエペソの人々の実際の生活であった、と当時のことを思い起こさせて、そうしてパウロは続いて13節に書いています。「しかし、あなた方は以前は遠く離れていたが、今やキリスト・イエスにおいてキリストの血によって近い者となったのです」と言うのです。この句の中で大事なのは「今や」と言うことです。いろいろな事があった、しかし、今やであります。人間がどんなに神に背いているか、という事を書いて、今や神の義が現れた、と言ってキリストによって全く違う事が起こったのです。ここではキリストの血によって、キリストご自身の御業であります。何故ならばキリストの血によってあなた方の罪の責任は赦されたのだからです。このように罪が赦されるのは異邦人だけでなくイスラエル人も同じであります。こうしてイスラエル人も異邦人も同じように神に近づきお互い同士でも近くなることが出来るのであります。イスラエル人は異邦人をあざ笑っていたのです。律法もない割礼も受けていない。ところが今や自分たちも同じ立場にあることを気づかされてゆきます。パウロは言っています、実は異邦人はイスラエル人との関係から遠かった、だけではなく神からも遠くあったのです。それなら、この奇跡にも似たような考えられない事がどうしてできたのでしょうか。それはキリストが平和であったからである、と言うのです。これは恐らく誰も予想しなかったことでありましょう。キリストが平和そのものである、という事はちょっと理解し難い。実はそう簡単な事ではありません。何故ならこれは政治や社会の問題ではなく神との関係の違いであったからです。イスラエル人も異邦人も同じように神に対して平和を得るのでなけtれば、イスラエル人と異邦人との平和は出来ないのであります。
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パウロはローマ人への手紙5章1節でこう書いています。「信仰によって義とせられたのだから、神に対して平和を得ている。」だから14節に「キリストこそは私たちの平和である」。と言われるのであります。そうして「二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、」と書いています。軽蔑しているイスラエル人にも軽蔑されている異邦人にも敵意があったのです。それなら、その敵意というのは具体的に何の事を言うのでありましょうか。例えばイスラエル人が持っていた律法が敵意の中垣となって、妨げているのでしょうか。イスラエル人は律法を自分たちだけが持っている、と言って誇りとしていたでしょう。従って異邦人との関係に於いて妨げるものであった、ということもできます。それより重大なことは律法がイスラエル人の誇りであったにもかかわらず本当のところイスラエル人が律法を行う事が出来なく苦しんだのです。この律法と言うものがイスラエル人及び全ての人間と神との間を隔てた、という事です。ローマ人への手紙でパウロが言っていますように律法は悪いものではありませんが、人間に罪があるため、それを行う事が出来ず、人と神との間を生かす筈の律法が神に近づく事を決定的に妨げたのであります。そこで、この戒めの律法をキリストの血によって廃棄したのである。と13節にあります。16節にはキリストの血とご自身の肉という十字架によって神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。とあります。ここで大切な事は人と人とのいがみ合いをどうしたら良いか、と言う事が先ではなくて、まず神と人との和解を如何にして成立させるか、そのことが先であります。それが出来た時、はじめて人と人との和解ができ、イスラエル人も神と和解し、また異邦人も神と和解することであります。それ故に十字架につかれたキリストは真に救い主であり我々の平和であるのであります。更に15節で「二人の者を一人の新しい人に造り替えて平和を来たらせる」と言っています。それは二人の敵対していた者が一つになる、と言うのではなくて全く新しいものが造られるのであります。そこに全く新しい人が創造される。聖書の言葉で言えば罪によって生きていたものが神の恵みによって生きる、という事であります。人間はどんなに自分で工夫して新しくなろうとしても罪からの解放というものがなければ新しくならない。新しくなる、という事は罪ではなく恵みによって生きる、という事です。罪故に神に敵対していた者が恵みによって神と和らぎ、神の愛を確かなものにするに至ることです。ここに新しい人間が生まれるのであります。そのことはユダヤ人でありながら、異邦人でありながら、全く新しい人になった人々です。それが神の教会であります。最後に18節に「このキリストによって私たち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことが出来る」。とあります。それは礼拝であります。22節には「キリストにおいてあなた方も共に建てられ霊の働きによって神の住まいとなるのです」。 アーメン
7月14日 マルコ6章14−29節
「洗礼者ヨハネの死が私たちに示す福音」
さて、今日の箇所は、ヘロデ王の話が書かれています。14節に「ヘロデ王」と書かれていますが、彼は、イエス様が母マリヤから生まれた時に、東の賢者からの救い主の誕生の知らせに恐れて「幼児虐殺」の命令を出した、俗に「ヘロデ大王」と呼ばれる人物の息子ヘロデ・アンティパスです。「王」と書かれていますが、ルカやマタイの福音書では「領主」と書かれています。というのは、ローマ帝国は、ヘロデ・アンティパスを王とは認めておらず、ガリラヤとペライヤのテトラルキアという領主として認められていたからでした。ですから厳密には王ではなく領主でした。14節こう始まっています。
「14イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王の耳にも入った。人々は言っていた。「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている。」
イエスの噂は、群衆が押し寄せエルサレムから律法の専門家さえ観にくるほど広く広まっていました。当然、ヘロデ・アンティパスの耳みにも入るのですが、やはりその「起こった奇跡」や教えていることへの様々な勝手な評価や解釈も噂となって入ってきていたようなのです。15節の「エリヤだ」とか「昔の預言者のような預言者だ」という噂以上に、彼の心に刺さってきた噂は「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている。」 という評判でした。彼はこの噂を聞いて言うのです。
2、「ヘロデ・アンティパスに対する洗礼者ヨハネ」
「16ところが、ヘロデはこれを聞いて、「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」と言った。
16節
この時、その人々の言葉にあるように、すでに洗礼者ヨハネは死んでいました。それは、ヘロデ自身がこの16節で言っているように、彼による処刑によるものであったのでした。17節以下にその経緯が書かれています。
ヘロデ・アンティパスの妻ヘロディアは、ヘロデ大王の孫娘です。彼女は最初、やはりヘロデ大王の息子でありアンティパスの異母兄弟であるフィリポと結婚していました。つまり、叔父と姪の結婚ということでした。しかし、ヘロディアはその後、今度はアンティパスと婚姻関係を結んだのでした。そして17節にある通りに、この出来事が発端となり、洗礼者ヨハネを逮捕して牢獄に繋いでいたのでした。なぜでしょうか?18節です。
「18ヨハネが、「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」とヘロデに言ったからである。
洗礼者ヨハネは、人々に悔い改めのバプテスマを教え、洗礼を授けていました。彼は、救い主イエスが来る前に、救い主の道を整え真っ直ぐにするものと預言された預言者でしたが、そのようにまさに福音であるイエス様が来る前に、律法で神の御心、神の前で何がしてはいけないことであるのか、はっきりと示していました。それは当時の領主であるこのヘロデ・アンティパスに対しても例外ではなかったのでした。洗礼者ヨハネは、アンティパスが自分の兄弟の妻ヘロディアと結婚したことを、それは神の律法に違反する罪であると指摘したのでした。この後の20節からもわかる通り、洗礼者ヨハネはアンティパスに時々、聖書の教えを教えていたようなのです。こうあります。
「ヘロデが、ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていたからである。
20節
3、「神に言葉を託されたものの宣教」
A,「神が何を私たちに伝えたいのか:律法と福音の説教」
ここに、洗礼者ヨハネの、神から召された預言者としてのその宣教の一端を見ることができます。まず、彼はそれが王であろうと領主であろうと、まず聖書から律法を語り、まっすぐと伝えていたということです。私たちも律法を語られる時に、心を突き刺され、痛みを覚えます。恐れ、当惑します。時に、抵抗しようともします。それがヘロデにもありました。しかし、ヘロデにはものすごい葛藤があります。19節では「恨み」「殺そうと思っていた」ともあるのですが、20節では、その教えから「ヨハネは聖なる人であるとも知っていた」そして律法を聞きながら怖れ戸惑いながらも、なお喜んで耳を傾けていたともあります。ヨハネは、律法を語り悔い改めのバプテスマを説いていましたが、しかし同時に、「イエスの道を整え真っ直ぐにする」預言者ですから、ヨハネ1章にもあるように、到来した救い主であるイエスを「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」と指し示していたのでした。つまり、洗礼者ヨハネの宣教も紛れもなく、律法と福音の説教の宣教であり、それは王であろうと領主であろうと、全く関係なく全ての人々へであったことがわかります。
B,「「人が何を聞きたいか」に流される教会」
まずこのところから、洗礼者ヨハネの宣教、つまり神の言葉を預かって伝える預言者の宣教、つまり、現代の牧師、そして教会の宣教が教えられていることがわかります。それは、どこまでも律法と福音の説教であり、その宣教は今も変わらないということです。つまりそれは、どこまでも「人が何を聞きたいか」の説教ではなく、「神が何を伝えているのか」の説教であり宣教であったということに私たちは教えられるのです。近現代の個人主義と消費主義社会の発展によって、教会もその世の流れ・流行に流されて、リベラルも福音派もこれと逆の教会や宣教になってきています。つまり「神が何を伝えているのか」ではなく「人が何を聞きたいか」が中心になって、教会や宣教は進められることが多いですし、それがあたかも正しい、宣教や教会の王道であるかのようにもされています。それは名目は隣人愛の名目が大々的に掲げられますが、聖書の教えとはいえ、「人が聞きたいこと、聞きたくないこと」、その必要を何よりも中心に合わせて、聞きたくないことは語らない、罪や悔い改めなんかは人は聞きたくないから、語らなくて良い、語らない方が良いと、なることは珍しくありません。さらには、本当は罪であるのに、もはや世の中や社会では受け入れられて誰も罪だとか思っていないとか、社会的に制度的に認められていることだ、だから、それはもう罪ではない、としてしまうことも教会や説教台で当たり前になされ教えられてもいるでしょう。むしろそれに対して、聖書が罪は罪だと言っていることだからと、あくまでも罪ですということの方が、頭が硬いとか、隣人を愛していないとか、なんて酷い思いやりのない教会だ牧師だなんて言われることも多いです。
C,「洗礼者ヨハネやイエスはそのようにしたのか?」
しかし、洗礼者ヨハネも、そしてイエス様も、使徒の時代の使徒達もそのようにしたのか?、そのように聖書の教え、律法を歪めてまで、人間の都合の良い教えを教えることで隣人愛を表したのかと問うならば、全くそんなことはないでしょう。洗礼者ヨハネは、ガリラヤの領主であっても、「それは罪です」とはっきりと神は何を伝えているのかを教えているではありませんか?洗礼者ヨハネは、確かにヘロデに福音も語り、彼は喜んで聞いています。だからと、もしかしたらもう少ししたら信仰に導けるかもしれない。だから、ここで罪を指摘することはやめておこう、罪だけどもヘロデが気分を害し、せっかく仲間になるのを妨げるといけないから「罪ではないとしよう、罪ではないと教えよう」、とはしなかったでしょう。自分が「それが罪です」ということで、相手は領主であり王のような存在であるのですから、恨まれて牢獄に投げ込まれることも推測できたでしょう。しかしだからと「それが罪です」ということをやめたりはしなかったでしょう。彼は、どこまでも「人が何を聞きたいか」ではなく、「神が私たちに伝えたいのか」を語った。そこに彼の宣教の王道があったし、それが聖書の伝える宣教だったのです。
D,「隣人愛を理由に聖書を捻じ曲げることの自己満足さ」
事実、みなさん、聖書が罪であると言っていることを、隣人愛の名目や思いやりと称して、罪であることを、それが罪ではないと伝えることが、隣人愛ですか?優しさですか?人の前ではそうかもしれません。しかし、神の前では、その相手は確実に罪を犯すことになり、悔い改めなければ神の前に救いに与れないのです。神の怒りと裁きの座に立ち、滅んでいくのです。それなのに、人の前の一時の満足のために「それは罪でありません」と教えることは、何の愛でも思いやりでもないでしょう。その人がキリストの十字架の罪の赦し、そこにある平安に出会えない、経験できない、与れないのですから。むしろ妨げていることになります。ただ私たちや教会の地上の欲求や願望や自己満足のためにです。ぜひ私たちは、人々を十字架の救いに真に導くために、彼らが真の福音に出会うためにも、その前に、きちんと律法で「これは罪です」と人間の現実を示し悔い改めに導く、それから福音を示していく、律法と福音の宣教者の教会であり続けれるようぜひ祈って行きたいのです。
4、「ヘロデの心の矛盾」
さて、先ほども言いましたように、ヘロデ・アンティパスは、洗礼者ヨハネとその教えとの出会いにものすごい心の揺れ動きと葛藤があったことが見て取れます。ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、恐れ、保護までし、喜んで耳を傾けていながらも、なんと、恨み、殺そうとまでしていた、という、大いなる矛盾が彼の心にはあります。罪を責められて、やはり素直に聞けず、怒りは込み上げていたのでしょう。しかし、完全に怒り切ることもできない、確かにヨハネの語る福音に喜んだ自分もいた。ものすごい葛藤です。しかし、そこに21節、「良い機会が訪れた」という言葉で展開を迎えるのです。
「21ところが、良い機会が訪れた。
良い機会とありますが、あくまでもヘロデから見ての良い機会であり、まさにあの堕落の時のようにサタンの巧妙な誘惑がそこに忍び込んでくるのです。このようなことがあったのでした。21節続きますが、
「ヘロデが、自分の誕生日の祝いに高官や将校、ガリラヤの有力者などを招いて宴会を催すと、 22ヘロディアの娘が入って来て踊りをおどり、ヘロデとその客を喜ばせた。そこで、王は少女に、「欲しいものがあれば何でも言いなさい。お前にやろう」と言い、 23更に、「お前が願うなら、この国の半分でもやろう」と固く誓ったのである。 24少女が座を外して、母親に、「何を願いましょうか」と言うと、母親は、「洗礼者ヨハネの首を」と言った。 25早速、少女は大急ぎで王のところに行き、「今すぐに洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、いただきとうございます」と願った。 26王は非常に心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、少女の願いを退けたくなかった。 27そこで、王は衛兵を遣わし、ヨハネの首を持って来るようにと命じた。衛兵は出て行き、牢の中でヨハネの首をはね、 28盆に載せて持って来て少女に渡し、少女はそれを母親に渡した。
自分の誕生日の出来事です。高官も将校も有力者も、自分の支持者でした。彼はご機嫌でしたしょうし、彼のメンツやプライドがまさに高められているそんな時でした。そこで有名な戯曲やオペラの元にもなっているヘロディアの娘の出来事が起こります。まさにアンティパスは自分のために踊った娘へ、上機嫌で「願うものは何でもやろう」というのです。国半分などあげられるはずもないのに、まさに大口を叩き「固く誓って」までいうのでした。しかし、そこにヘロディアは娘をそそのかして、自分の結婚を罪だと批判したヨハネの首を、盆に乗せて、それを自分に欲しいと言わせるのです。アンティパスは26節「非常に心を痛めた」とあるように葛藤しますが、「誓ったこと」であり、そして「客の手前」ともあります。彼は引き下がれなかった、自分を優先させたのでした。そして彼は権力のままその娘の通りにさせ、ヨハネを処刑したのでした。
5、「洗礼者ヨハネは死を通してキリストを指し示す」
みなさん、ここで疑問に思うでしょう。「神は彼を守れなかったのか?そんな大事な預言者なら、彼の処刑を止めさせることができただろう」と。またある人は理屈をこねていうことでしょう。彼はそんな風に「それは罪です」とストレート過ぎたから、だから失敗したんだ、だから報いを受けたんだ、志なかばで挫折したんだ、それ見たことか、だから、「それは罪なんだ」なんてストレートに言っちゃダメなんだと。みなさん、本当にそう思いますか?でも、みなさん、これと同じ出来事が、まさにこの後、同じように起こるでしょう?そうイエス・キリストです。あのイエス様の場面も、神は止めることができたはずです。いやイエス様自身がマタイ26章、逮捕の場面で弟子の一人が剣で衛兵の耳を切り落とした場面で、言っているでしょう
「そこで、イエスは言われた。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。 53わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。 54しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。」マタイ26章52〜54節
と。イエス様には、つまり神には、イエス様の十字架も、そして当然、ヨハネの処刑も止めることができるのです。神の12軍団以上の天使を今すぐ送ることができるのです。しかし、それをしませんでした。なぜなら、そうしてしまうと、神が必ずこうなると書いていることが聖書の御言葉が実現しないからです。イエス様は、ゲッセマネでも、御心ならこの杯を取り除けてくださいと祈りました。しかし、イエス様は父の御心の通りになるようにと祈ったでしょう。そしてイザヤ53章10節からわかる通り、その神の御心の通り起こったことこそが逮捕であり、十字架の死であったではありませんか。洗礼者ヨハネも、キリストの道を整え真っ直ぐにするためにきました。しかし、かつて旧約の時代の正しい預言者たちが沢山殺されたのと同じように、彼も殺されることに、キリストの予兆、雛形があるのですから、この洗礼者ヨハネもまた、十字架のイエス・キリストの雛形です。まさに、このイエス・キリストの十字架の雛形として、この人の目から見れば悲惨な処刑という道を歩むことによって、まさにイエス・キリストの道を示し真っ直ぐにイエス・キリストを指し示す、その召命を全うしているのです。このようにヨハネは用いられていますし、このようにヨハネの処刑を通して、もちろんヘロデの罪深さから、神の義を決して実現できない人間の罪深さ、正義よりも自分のメンツやプライドを優先させ、正義を犠牲にしてしまう、人間の、つまり私たち一人ひとりの自己中心さも示されるのですが、何よりも、そんな罪深い私たちのためにこそ、ここでもヨハネという預言者と彼に起こった出来事を通して、神は、イエス・キリストの十字架を見るよう私たちに差し示している。洗礼者ヨハネは、生涯を通して「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」と、この死を通してもイエス・キリストを私たちに指し示している、それを全うしていることを教えられるのです。
6、「私たちは誰を見るか?」
私たちは、今日この聖日、イエス様から与えられた御言葉に、説教を通して、誰を見るでしょうか?ただ悲惨な出来事だけを見て驚き悲しみ、怪しみ神の成そうされた全てを疑いますか?そうであってはなりません。今日も神はみ言葉を通してこの世の罪を取り除く神の子羊、イエス・キリストを、その十字架と復活を私たち一人一人に指し示しているのです。ここに神の前にあって、真の救い、永遠のいのちがある。ここにイエス様が与える罪の赦しと平安と新しいいのちがある。神の国への道があるのだと。悔い改めて、神の国を、イエス・キリストを信じ受け入れなさいと。
そのように神の前にあって悔い改める私たちに今日も十字架と復活のイエス様は宣言してくださっています。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。ぜひこの福音を受け取って、喜び、安心して、ここから世に遣わされて行きましょう。