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Jeesuksesta laulan
先週(3月30日)の礼拝でHavukainenご夫妻の音楽伝道の際、最後に歌っていただいた”Jeesuksesta laulan(私はイエスについて歌います)”が素晴らしかったです。
1. Jeesuksesta laulan, Jeesuksesta vaan, jolta syyni suuret anteeks sain ja saan, jolta syyni suuret anteeks sain ja saan.
2. Hän mun syyni suuret poisti verellään, otti synnin orjan armoon, elämään, otti synnin orjan armoon, elämään.
3. Katkoi verkot valheen, kahleet kuoleman, vangin vapautti, laps oon Jumalan, vangin vapautti, laps oon Jumalan.
4. Lapsi oma Herran, taivaan kuninkaan, kruunun perin kerran, valtakunnan saan, kruunun perin kerran, valtakunnan saan.
5. Pääsen asukkaaksi kultakaupunkiin, viedään vierahaksi häihin iäisiin, viedään vierahaksi häihin iäisiin.
ルターによる御言葉の説き明かし(フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ」3月22日の日課から
「私は神に対して罪を犯しました。」(サムエル記下12章13節)
「間違ったことをしていると知りながらそうする人たちがいる。しかも、それを何とも思わないばかりか、それを認めない神の真実というものに対して敵意を剝き出しにさえする。そのような人たちは意図的に罪を犯すのであり、悪の自覚を持って罪に留まろうとする。罪を捨てる考えなどなく、ましてや神に赦しを乞うことなど微塵にも思わない。
他方で、それとは違う仕方で罪を犯してしまう人たちがいる。ダビデの場合がそうだ。ウリヤの妻を奪おうとして彼を死なせるべく激戦地に送った時、ダビデはそれは神に対して罪を犯すことだとわかっていた。しかし、邪悪な欲望と悪魔が彼を焚きつけてしまい、罪に陥るまで引っ張って行ってしまったのだ。自分がしていることを考えてみる余裕も持てなくするような激しさで。しかし、ダビデは事後的ではあるが、罪を犯したことを神に告白したのだ。それは彼の心を突き刺したのであり、そのようなことはすべきではなかったと彼は悔い、神に赦しを乞うたのだ。
そのような罪は私たちキリスト信仰者一人一人の首回りに張り付いている。私たちは気がつかないうちにいとも簡単に罪の渦に巻き込まれ、ある時は悪魔と自分の肉が、またある時はペトロのように恐れが自分を席巻してしまって罪に陥らせてしまう。そればかりではない、警戒の怠り、愚かさ、理解の不足も私たちを席巻して罪に陥らせるものだ。もちろん、悪に対する鈍感さや驕りの心は言うまでもない。キリストが十字架に運び上げて取り除いて下さったのはこのような罪である。それは赦しのお恵みと矛盾しない罪だ。そのような罪を犯す者は、自分は間違ったことなどしていない、などとは言わない。その人は何も覆い隠すものがないと観念した裸同然であり、それゆえ、罪を犯したことを神に告白し赦しを乞うのだ。」
もちろん、最初のタイプの人も、心の突き刺さりが起こって神に罪を告白して赦しを乞えば、その罪は赦しの恵みに覆われ、最後の審判の時に追及されず、申し開きの必要もありません。ところで、自分は「真実」を掲げているのだと言って正当化する人は、真実は人を築き上げるものでなければならないということを十戒から知って、掲げている「真実」が真実に値するものか吟味しないといけません。
3月の手芸クラブは26日、桜が咲き始めた時に開催しました。今週の暖かさで桜はすぐにでも満開になるでしょう。 これから楽しみです。
今回の作品は手芸クラブの人気ものの一つ、バンド織りのキーホルダーです。フィンランド語でNauhaと言います。はじめに参加者がキーホルダーの毛糸の色を選びます。色とりどりの毛糸から好きな色のものを選ぶのは楽しいスタートです。選んだ毛糸でどんなキーホルダーが出来るか楽しみです。
それではバンド織りに入りましょう。まずワープになる毛糸をカードの穴に通します。穴は小さいので、皆さん集中して毛糸を一本一本通していきます。それから各自、自分の作業する場所を決めて織り始めます。カードでワープを開いてからよこ毛糸をワープの間に入れます。これを繰り返しながら織り進めます。以前参加された方だけでなく初めての方も手が早くて、間もなくして毛糸のきれいな色合いが見えるようになりました。可愛い!きれい!との声があちこちから聞こえてきました。今回はハートの模様をバンド織りで作るNauha の準備もしました。来月出来上がったものを互いに見せ合うのは楽しみです。出来あがったNauhaに輪を入れて結ぶと可愛い色とりどりのキーホルダーの完成です!
今回も時間はあっという間に過ぎてコーヒータイムになりました。フィンランドのチョコレート・マフィンを味わいながら楽しい歓談の時を持ちました。その後で、今年のフィンランドの手芸のテーマが「つぎあてと中古の服を直す」というものだったので、それについてとイエス様のたとえ話の教え「良いサマリア人」についてお話がありました。
次回の手芸クラブは4月23日の予定です。詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。
毎年フィンランドではその年の手芸のテーマが決められます。今年はつぎあてと中古の服を直すことが全国のテーマに選ばれました。このテーマは2021年にも選ばれていて今年は二回目です。どうしてそんなテーマが選ばれるのか、驚く人もいるかもしれません。つぎあてと中古の服を直すというのは、新しいものを作るテクニックと関係ないからです。しかし、少し考えてみたらこれは今の私たちにとても良いテーマだと思います。私の子供のころ服や靴下に穴が出来たら母はつぎあてをして直したものですが、いつの間にかにつぎあての靴下は見かけなくなりました。生活が豊かになったので人々はどんどん新しい服を買うようになりました。使い捨て文化の時代になったのです。もし服につぎあてをしたりすると恥ずかしいかもしれません。私も子供の頃はそうでした。つぎあてをした服は着たくありませんでした。
しかし今はエスディージーズ(SDGs)、日本語で「持続可能な開発目標」がよく言われるようになって考え方が少し変わってきたのです。服につぎあてをしたり他の方法で直したりすると、服の寿命が延びます。服の寿命が延びると使用回数が多くなるだけでなく服の価値も上がります。生活も少しシンプルになります。実はつぎあては手芸の観点では創造的で、色んな手芸のテクニックを使って直すことが出来るのです。特別な道具の必要もありません。毛糸や針があれば靴下を直すことができます。しかしそれには時間と忍耐が必要です。今の忙しい時代の私たちに時間と忍耐があるでしょうか?私たちは何のために時間と忍耐が必要になるか時々立ち止まって考えてみるべきではないでしょうか。例えば、隣人を助ける時間が私たちにあるでしょうか。
ここでイエス様が教えられた「よいサマリア人」についてお話をしたいと思います。ある偉い学者がイエス様に「私の隣人とはだれのことですか」と聞きました。イエス様は次のたとえ話を話されました。あるユダヤ人の旅人が、エルサレムからエリコという町に向かって旅をしていました。すると、突然強盗が飛び出してきて旅人の持っているものを服まで取って、その人に乱暴をして半殺しにしたまま逃げてしまいました。
しばらくするとエルサレムの神殿の祭司がそこを通りかかりました。祭司は道端に横たわる怪我人を見ましたが、道の反対側を通って行ってしまいました。次に神殿で仕える人も同じ場所を通って来ましたが、怪我人を見ると、祭司と同じように道の反対側を通って行ってしまいました。
しばらくすると、旅をしていたサマリア人がロバに乗ってやってきました。当時ユダヤ人はサマリア人を軽蔑していたので、彼らの関係は良くありませんでした。しかし、このサマリア人は、道端に倒れている人を見るとユダヤ人とわかっても、その人の傷に油とぶどう酒を注いで消毒し、包帯をして自分のロバに乗せて宿屋に連れて行ってそこで介抱しました。
翌日、サマリア人は宿屋の主人に銀貨を二枚渡して言いました。「この人を介抱してあげてください。もしお金が足りなかったら、私が旅から戻ってここを通った時に払います」と。
イエス様は、この話を終えた後で、質問した人に聞きました。「さあ、この祭司、仕え人、サマリア人のうち、誰が旅人の隣人になったと思うか?」学者は、「その旅人を助けてあげた人です」と答えました。イエス様は、「あなたも行って同じようにしなさい」と言われました。
イエス様が話されたこの「良いサマリ人」の例えは私たちにも向けられているのです。私たちはサマリア人のように敵味方を区別しないで人を隣人として、その人のために時間や力を使うことが出来るでしょうか。隣人を助けるためにどこまで忍耐があるでしょうか。そして私たちの隣人とはだれでしょうか。
聖書は無条件の愛について教えています。神さまの愛は無条件の愛でとても深い愛です。イエス様はそれを聖書のみ言葉を通して私たちに教えて下さいます。この「良いサマリア人」の例えはその一つです。イエス様が無条件の愛について教えたのは言葉だけでなく他の人たちに対する態度を通してでも教えました。イエス様はご自分の働きを通して、例えば多くの病気の人々を癒やすことで隣人愛を示されました。しかしイエス様はこれよりもっと深い無条件の愛を私たちに示してくださいました。それはイエス様の十字架の出来事です。イエス様は十字架にかかって死ぬことを通して私たちや世界の全ての人たち一人一人の救い主になりました。これより深い隣人愛、無条件の愛はこの世にはありません。このようなイエス様の全ての人々に対する愛は私たちに向けられているのです。私たちはそれを受け取ることが出来るでしょうか。それはイエス様が私たちの救い主でおられることを信じることで受け取ることが出来るのです。この愛をないなどと言って否定することは出来ません。イエス様の愛を受け取ると、イエス様はいつもどんな時でも共にいて下さいます。嬉しい時も悲しい時も共にいて下さるのです。イエス様は私たち一人一人がご自分の元に来るようにと待っておられるのです。
私たちが隣人を助けたりする時の力と忍耐は限られてしまうかもしれません。だから、私たちは十字架を背負ったイエス様の私たちに対する力と忍耐を思い出しましょう。人間が持てない力と忍耐をイエス様はお持ちで、そんなイエス様を私たちは信仰を通して持つことができるのです。
またお会いしましょう。
ハブカイネン夫妻の紹介
ティモはフィンランドのルター派国教会の青年活動主事、マリリーサは保育士、夫妻は3人の息子と共に1987年から2003年までSLEY(フィンランド・ルーテル福音協会)の宣教師として日本で伝道活動。帰国後ティモはナーンタリ市にあるナーンタリ教会の青年活動主事、マリリーサはノウシアイネン市で保育士を務めてきました。二人ともコーラスで歌うことと自然の中を歩くことが大好き。
礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。
私たちの父なる神と、主イエス・キリストから、恵と平安とが、あなた方にあるように。
アーメン スオミ教会 2025年3月23日(日)
説教題「神の前に悔い改めよ」
聖書: 聖書ルカ福音書13章1~9節
今日のみ言葉には二つの事件を引き合いにしてイエス様が警告を発しておられる。そして最後には譬え話を語って折られます。この箇所の前12章でイエス様は「あなたを訴える者と仲直りをしなさい、さもないと捌かれるぞよ!」と審判の事のついて語っておられます。そして13章になりますと、そこで丁度其の時に何人かの人が来てピラトがガリラヤ人の血を彼らの生贄に混ぜた事を告げた。当時ピラトはパレスチナを管轄していた総督でありました。何故、ピラトはガリラヤ人を虐殺するような事をしたのか。この頃ガリラヤは熱心党と言われる人々ぼ故郷でありまして活動の中心地だった。恐らくこのガリラヤ人たちはローマ帝国の圧政に反抗して度々武力闘争によってメシア時代を来たらせようと計ったんですが失敗したのでしょう。ピラトはしばしばユダヤ人の宗教感情に故意に武力によって残酷な振る舞いで傷つけていた。こうした背景があってエレサレム神殿に礼拝に来て、祭壇に犠牲を捧げていたガリラヤ人をピラトは虐殺して其の血を流したという事件が起こった。この事件はたちまちユダヤの人々にも伝わって行ったでしょう、なんと酷い悲惨な事か…・と。そうしてイエス様とその一行のもの達にも告げたのでしょう。この殺害事件のニュースをもたらしたのはパリサイ主義の者であったにではないか、そういう説もある。彼らの律法主義の考えからこような酷い目にあったのは罪の結果ではないか、という避難の声が隠されてイエス様の元へともたらされたのではないか。当時パリサイ派の人たちは因果応報の考えを持っていた、つまり行った事には報いがある。善い行いには善い報いがあるし、悪い行いには悪い報いがある。ですから災難に会った人々ぶは神の審きがあったのだ、と思ったのでした。しかし此処でイエス様はそのような考えを根本的に否定なさいました。それはちがう!と言われたのです。ルカは2節のところでこう書いています。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に会ったのは他のどのガリラヤ人よりも積み深い者だったからだと思うのか、決してそうではない。言っておくがあなた方も悔い改めなければ皆同じように滅びる。」続いて、全て同じような事件を引き合いに出されて、イエス様は警告を語られる。4節です、「また、シロアムの塔が倒れて死んだ、あの18人はエレサレムに住んでいた他のどの人よりも罪深い者だったと思うのか、決してそうではない、言っておくがあなた方も悔い改めなければ皆同じように滅びる」。イエス様の教訓の大事な点は他人の上に起こった災難の話を聞くにつけ自分自信の悔い改めがどんなに大切である、ということを気づかせておられるもです。他人は災害を被ったが自分は審きを受ける事はない、とか災害を受けた者は罪に対する罰を被ったのである、が自分にはその心配はない、とかそのように思うべきではない。他人の被った災害のニュースは自分に対する警告である、これを聞いて自分の罪を恐れ悔い改めるのでなければ、それと同じような災いが自分に落ちてくるであろう。だから悔い改めよ、と警告されているのです。現実の私たちの日常生活の中で矢張り時々あの人は何か悪い行いをしたから、今その報いとしてあのような災難に会っているのだ、と考えてしまう。そのような時私たちは自分を棚に上げて自分の事は別にして自分の罪深いことは忘れてまるで傍観者のように他人の罪を眺めています。他人の災難や不幸を非難する事で自分と言う者を気づかない内にその事で自分を隠してしまって良く見せようともします。自分は違うあんな悪い人とは違うと言いたいのであります。
パウロはローマ人への手紙3章10節から23節のところで次のように言います。「正しい人は一人もいません、一人もいません、神を求める人は一人もいません。全ての人が迷い出てみんな堕落しています」。全ての罪を犯したため神の栄光を失っています。今、本当の捌きの前に立つ時あの人は誰よりも罪深いと簡単に言えるでしょうか。神の前に悔い改めは私たち全ての事なのです。それできょうのみ言葉イエス様は言われます。「あなた方も悔い改めなければ全て同じように滅びる」私たちは「悔い改め」と言うと何か道徳的な思いが先に立ちます。そして、泥棒が悔い改めて真人間になったり、不良少年が立ち直ってまじめに回心したりする事を考えたりします。しかし、そうでしょうか。パウロが神の前に「全ての人は罪がある」と言った時決して道徳的基準をあてはめているのではありません。パウロは言っています、「私は自ら省みて何の疚しいところはない」と(第一コリント4:4)またピリピ書3:6では「律法の義については非のうちどころのない者でした」と言っています。ダマスコ途上で回心する前にはパウロは少しもやましいところがなく立派な人でした。20世紀最大の神学者カールバルトが「悔い改め」と言う説教の中で」こう言っています。「イエスは私たちをお招きになります。真理を私たちに告げようとなさいます。神を私たちに告げようとなさるのです。これを聞いて受け入れる者は悔い改めます。」悔い改めとは私たちがいつも見落としている最も近くにあるものへの立ち返りにほかなりません。私たちが何時も見えない大事な生き方中心に立ち返ることです。神は私たちの最も近くにいます。神は私たちの中心であります。私たち一人々を創られた方です。その神に立ち返る事です。この事はほかの全ての方が私たちに最も良く理解されうる以上に自然で単純で自明な事であります。悔い改めとは、ほかでもない私たちの中心へ立ち返ることです、が人間は果たしてそう簡単になるでしょうか。旧約聖書エレミヤ書31章31節から31節を見ますと「見よ、私がイスラエルの家ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る。」と主は言われる。この契約はかつて私が彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出した時、結んだものではない。」預言者であるエレミヤが神様からの大切な言葉を告げるのですがそれは昔イスラエルの民をエジプトの地で奴隷の状態から救い出し、モーセによって40年の荒野の旅の途中シナイ山でモーセに十戒を授けられます。この律法によって神とイスラエルの民との間に契約を結ばれます。ところがイスラエルの民はこの契約を破ってしまった。そのため此処に新しい契約が立て直されなければならない。エレミヤ31章32節の続きを見ますと、「私が彼らの主人であったにも関わらず彼らはこの契約を破った、と主は言われる。」エレミヤは此処に一つの大きな問題を提出しているのです。この問題は何かと言いますと人間の罪の問題です。これはイスラエルの民だけの問題ではない。人間の奥底にある根本的な問題です。パウロが信仰を宣べます時必ず課題となった問題です。
その問いは古代教父アウグスチヌスも真剣に神の前に告白して来ました。そしてマルチン・ルターも、そして20世紀最大の神学者カール・バルトもこの問題に取り組みずうっと共通の問題です。神と人が常に契約の関係に役立つため律法が行わなければならない。律法は実に人間に対する神の命令をはっきり示しているものです。ところが人間は神の命令を素直に受け入れない。神の命令をそのまま実行する事ふぁなかなか容易ではない。旧約の、あのアダムとエヴァは神の命じられた禁断の知恵の木の実を食べてしまった。蛇にそそのかされて神の命令を破ったのです、神に背いてしまったのです。人間一人々の心に天使が存在する、と共に悪魔も存在する。…うまく言ったものです。此処に人間にどうにもならない罪の問題があるのです。それ故エレミヤにとっても、この新しい契約を結ぶと言われるのです。この神の命令はそのまま実行できるかどうか!問題となったのです。パウロはローマ人への手紙7章15節にこう叫んでいます。「私は自分のしている事がわからない。何故なら私は自分の欲する事を行わずかえって自分の憎む事をしているからである。」このパウロの叫びはエレミヤの嘆きでもあった。人間は真実でなければならない、これがエレミヤのもっとうでした。この事を充分承知していながら偽りを言ったり行ったりする。何故かそれは人間が悪に染まっているからだ。とエレミヤ書17章9節で言っています「人の心はなににもまして捕らえがたく病んでいる。」。この言葉によって彼は人間性の中に潜む根本的な矛盾をどう解決するか。この解決なくしてイスラエルの民が神の民であると言えない。また神の子であり得ない。そこにエレミヤが「罪に赦し」ということを特に言わざるを得なかった。34章の最後のところで主が言われる「私は彼らの悪を赦し再び彼らの罪に心を留めることはない。」ここに福音が予言されているのです。神様の罪の赦しがある。そのために「悔い改めなさい」とイエス様は言っておられる!「あなた方も悔い改めなければ皆同じように滅びる。」主なる神様私たちの罪を赦そうと「悔い改める」ことを忍耐して待っておられるのです。神がどんなに忍耐しておられるか、イエス様はこの事を譬え話で語っておられます。それが6節から9節にある「実のならない無花果の木」の譬えです。ぶどうの園に植えてある一本の無花果の樹は3年になっても実らない、主人はとうとう怒って言った。「これを切り倒せ!何故土地を塞がらせておくのか」園丁は答えた「ご主人様、今年までこのままにしておいて下さい。樹の周りを掘って肥やしをやってみます。」この3年待った意味について神様は旧約時代を通じて長い年月イスラエルの民が神に従うのを待たれたのだ、と言う意味に取るのか或いは神のみ子をこの世に遣わしてイエス様が宣教を始められてから約3年待たれた、つまり洗礼者ヨハネが「悔い改めよ、と叫んで斧ははや樹の根元に置かれている。善き果を結ばぬ樹は切られて火に投げ込まれる」このように叫んで既に3年、今なおユダヤ人は「悔い改め」ようとしたない、「これを切り倒せ」と命じておられる。それに対して園丁は1年の猶予を請うて悔い改めの実を結ぶように伝道に万心の力を尽くして仕えます!。
パウロはロマ書9章22節で言っています。「神はその怒りを示し、その力を知らせようとしておられたが、怒りの器として滅びることになっていた者たちを寛大な心で耐え忍ばれたとすれば、それも憐れみの器として栄光を与えようと準備しておられた者たちにご自分の豊かな栄光をお示しになるためであった。」これがイエス様のみ心でもあるのです。なんと言う寛容と憐れみであろうか、なんと言う愛と慈哀でありましょうか。神が待っていて下さる間に、今こそ悔い改めよ、今は恵みの時である。世の終わりに於いてキリストが裁き主として再び現れ給う時世界全体に渡り全ての国民、全ての民族、全ての人が審かれる。罪を悔い改めてキリストを信ずる者は永遠の生命に入り、高ぶってキリストを信じない者は永遠の滅びに定められる。その時の来る事を予め警告しておられるのであります。今は悔い改めの時恵みの時なのであります。
人知ではとうてい測り知ることのできない、神の平安があなた方の心と、思いとをキリスト・イエスにあって守るように。 アーメン
3月の料理クラブは15日の今にも雨が降りそうな土曜日の開催となりました。 今回はツナ&ベジタブル・ピーラッカを作りました。
料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。最初にピーラッカ生地を作って冷蔵庫に入れて冷やします。次に中身の準備。みんなで玉ねぎ、パプリカを一生懸命刻みます。色とりどりの野菜をフライパンに入れて炒めると野菜の美味しそうな香りが広がります。皆さん、どんなピーラッカになるか楽しみ。炒めた野菜を冷ましている間にトッピングの準備をします。材料を測ってボールに入れて混ぜると出来上がります。そして、パイ皿に生地を伸ばしてその上に油を切ったツナと炒め野菜を載せます。
その上にトッピングを流し込んで最後にチーズをかけてオーブンに入れます。
ピーラッカが焼けている間、皆で楽しそうにおしゃべりしながらグリーン・サラダの準備とテーブルのセッティングをします。オーブンから美味しそうな香りが広がり、皆さん興味深そうに順番にオーブンの中を覗いていました。
ツナ&ベジタブル・ピーラッカが焼き上がりました!皆さん席に着いて出来たてアツアツのピーラッカを切ってお皿にのせてサラダと一緒に味わいました。たちまち、テーブルのあちこちから「美味しい!」と言う声があがりました。「こんな材料でこんなに美味しいピーラッカができるなんて」という驚きの声も聞こえました。ピーラッカを頂いた後で、フィンランドてよく食べられる魚と聖書のイエス様の弟子になった漁師についてのお話を聴きました。
今回の料理クラブも無事に終えることができて天の神様に感謝します。次回は4月の12日に予定しています。詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。
今日皆さんと一緒に作ったツナ&ベジタブル・ピーラッカは簡単に作れるピーラッカの一つです。このようなものはフィンランドではパーティーやお祝いの時、夜の軽食としても出されます。ツナはマイルドな味わいでフィンランドではパイ、ピザ、サラダなどに使われます。保存食なので、使い方は簡単です。フィンランドでは魚の種類はそんなに多くないので、ツナをよく料理に使います。
フィンランドではどんな魚がよく食べられるでしょうか。日本ではお店で売っている魚の種類は多いですが、フィンランドの普通のお店で売っている魚の種類は少なく、いわしとサーモンとあと何か白身の魚が1種類くらいあるだけです。
昔はいわしをよく食べました。いわしは沢山捕れたので安く買えました。まだ冷蔵庫がない時代には、秋に家庭でいわしを多めに買って、塩づけにして保存して、冬中ずっと食べました。私の子供の頃も家でいわしを塩づけにして保存して何か月も食べました。近年トゥルクやヘルシンキでは秋になると、いわしの市が開かれるようになって、そこではいわしだけでなく他の魚で作った料理や保存食も売っています。このいわし市は、冬に向かうフィンランドの秋の大きなイベントになって沢山の人が訪れます。
近年は湖や川で捕れる白身の魚もよく食べられるようになりました。海の魚ではいわしの他にはニシンとサーモンがよく食べられますが、一番よく食べられるのはサーモンです。サーモンはフィンランドで養殖したものか、ノルウェーの海で捕ったものかのどちらかです。高価なサーモンの料理は昔は、クリスマスのようなお祝いの時にしか食べられませんでしたが、今では普段の日にもよく食べられるようになりました。
さて、聖書の時代にも魚はよく食べられていて、漁師は普通の職業でした。今日はこれから聖書に出てくる漁師についてお話ししたいと思います。
ある日イエス様がゲネサレト湖という湖にやってくると、2人の漁師が舟からおりて、網を洗っていました。そこでイエス様は漁師の一人のペテロに「舟を少し冲に漕いで、そこで網を下ろしてみなさい」と言われました。ペテロは、「先生、私たちは夜中苦労しましたが、何も捕れませんでした。しかしお言葉ですから、網を下ろしてみましょう」と答えました。ペテロは漁師なので魚のことはよく知っていました。もし夜魚が捕れなかったら、昼はもっと捕れないと思ったでしょう。それでもペテロは、イエス様の教えをいつも尊敬していたので、言われた通りにしました。するとどうでしょう。信じられないことが起こりました。網が破れそうになるくらいに大量の魚がかかって、その重さでペテロの乗っている舟ともう一そうの舟は沈みそうになりました。
ペテロはこれを見て、どう思ったでしょうか?彼はイエス様の足元にひれ伏して、こう言ったのです。「主よ、私から離れてください。私は罪深いものです。」ペテロはお礼を言うどころか、こう言ったのです。どうしてでしょうか?この時ペテロは、今起こったことは神様の力で起きたと信じたのです。それで自分の前にいるこの方は神聖な神のみ子で、この方の前では自分など罪深い者にすぎない、とわかったのです。それで「私は罪深いものなので、どうか私から離れてください」と言ったのです。しかし、イエス様はペテロから離れないで、次のように言われました。「恐れることはない。これからは、あなたは人間をとる漁師になる。」そこでペテロは舟を陸に上げて、イエス様は神様の子だから信頼して大丈夫な方だと信じて、全てを捨てて従って行きました。ペテロはイエス様の弟子の一人になったのです。
このようにペテロはイエス様と出会って、イエス様に従って行きました。私たちもイエス様と出会うことができます。それは、聖書のみ言葉を読んだり聞いたりする時にできます。み言葉からはイエス様の呼ぶ声が聞こえてきます。それは全世界の全ての人々に向けられます。それを聞いたらどうしたらよいでしょうか。私たちは神さまの前では正しい人間ではなく心の中に悪い考えもあります。それでイエス様を従う前にもっと良い人間になってから従おうと考える人が多いと思います。しかし、このお話の漁師たちはどうだったでしょうか。彼らは仕事している途中でイエス様の呼ぶ声を聞いてすぐイエス様に従うようになりました。ペテロはイエス様と出会う時に自分の弱さ罪深さを分かりましたが、同時にイエス様は神のみ子でいらっしゃるから大丈夫と信頼しました。それでペテロはイエス様と共に歩むようになりました。
イエス様はペトロだけでなく私たちにとっても信頼して大丈夫な方です。ペテロが見たような奇跡を私たちも見ることが出来るかどうかは分かりません。しかし、イエス様は神さまの子でいらっしゃって私たちの救い主と信じると、イエス様はいつも共に歩んでくださるのは確かなことです。
ティモとマリリーサの歌と演奏を是非お聴きください。
チャーチカフェでお会いしましょう!あと、お二人は、スオミ教会の3月30日の礼拝にも出席され、ティモさんが説教奉仕をされます。あわせて是非いらして下さい。
3月2日(日)主日礼拝後に2024年度の年次総会が開かれ、活動報告の総括、会計報告を行い、新年度の予算と活動計画や年間主題と聖句などの議案を採択しました。 以下、牧師報告の主要部分(実名は伏せました)と年間主題と聖句に関する議案を紹介します。どうぞご覧ください。
「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は30倍、ある者は60倍、ある者は100倍の実を結ぶのである。」 マルコ4章20節
あるキリスト教団の神学校の校長先生が述べたこと、「以前は何もしなくても教会には人が集まって来たが、今は何をやっても集まって来ない」。これは、伝統的なキリスト教会ではどこも同じ思いではないかと思います。スオミ教会だけの問題ではありません。
昔は、倫理とか正義とか生きる意味について悩み考える人にとって聖書は真っ先に手にする書物の一つだったのではないかと思います。今の時代は、キリスト教以外にも宗教的なもの哲学的なもの心理学的なものが沢山出回り、キリスト教は数あるものの一つに過ぎなくなって以前より目立たなくなったのではないかと思います。かつて問題意識を持った人たちが教会の門を叩いたのとは違い、今は悩みの解決、苦痛からの解放が関心事になったのではないかと思います。そうなれば「罪」について話すことは悩みや苦痛を軽減するどころか増やすことになると警戒されタブーになります。心理セラピーが跋扈し、キリスト教会も心理学やセラピーの手法を取り入れるようになるのは当然です。
かつて日本人にとって憧れと尊敬の的だった欧米世界もキリスト教離れが進み、逆にその反動でかけ離れた主張をするキリスト教派も出てきたりして、それもキリスト教に魅力を感じさせなくなっている一因になっているのではないかと思います。
伝統的なキリスト教会の多くで高齢化が進み、後が続かない状況にあるのは、かつて真っ先に聖書を手にした人たちが高齢者となり、その後の世代の人たちはキリスト教がかつての輝きを持たない時代に育ったということではないかと思います。(以下 省略)
新年度の聖句と主題を決める際に以下のルターの聖句の説き明かしを元にしました。聖句はローマ15章4節「忍耐と聖書の慰め励ましを通して私たちには希望があります。」
「この聖句でパウロは二つのこと、すなわち忍耐と聖書の慰め励ましを結びつけている。聖書は私たちを苦痛、逆境、死から解放してくれない。逆に聖書は神聖な十字架を私たち
に負わせる。だから、忍耐が必要になるのだ。まさにその時、聖書は苦しみのただ中にある者を慰めて力づけてくれるものになる。忍耐が萎えることがないように、苦難を突き破って打ち克つことができるように聖書は力づけてくれる。私たちが喜んで勇気を持ってへりくだって苦難に臨むことができるのは、神が繰り返し語るあの御言葉を耳にするからである。『私はあなたと共にいて、あなたを守る。』
キリスト信仰者にとって忍耐強くあるというのは不可欠なことだ。なぜなら、この世の人生とは永遠の死に定められている内なる古い人間アダムを日々死なせていく過程に他ならないからだ。次に到来する世を私たちはまだ手にすることも感じることもできない。それ故、私たちには忍耐強くしがみつく何かが不可欠なのだ。それは神の御言葉に他ならない。神の御言葉に忠実でいれば、私たちは次に到来する世の人生を手に掴んでいることになり、それに繋がっていることになるのだ。私たちは神の御言葉を信頼し、御言葉に踏みとどまる。その時、私たちは安全な船で航海するが如く、この世の人生から次に到来する世の人生に向かって旅をする者となる。御言葉に留まる限り、希望が裏切られることはない。
もし聖書が、私たちが苦難にある時、悲しんでいる時、死に直面している時に私たちを慰めるものになっていれば、それは正しく用いられていることになる。それゆえ、苦しみについて何も知らない者、死を自分に関係ないもののように考えている者は、聖書の慰め励ましについて何も知らないのである。それは言葉を通してだけでは学ぶことはできない。経験を通してでないとできないのだ。」
以上のルターの説き明かしに基づいて本年度の主題は「罪の赦しの恵みに生きる者にとって逆境は聖書から慰めと励ましを得るチャンス」としました。
聖句のローマ15章4節ですが、新共同訳だと「忍耐」も「慰め」も聖書が与えるものとしています。ルターの説き明かしは、忍耐は忍耐、慰めの方は聖書由来という理解に基づいています。これは、ギリシャ語原文がそうだからです(ルター訳ドイツ語聖書の1920年版を参照)。「忍耐」も「慰め」も両方とも聖書由来という書き方は新共同訳だけでなくフィンランド語訳も英語訳(NIV)もそうでした。スウェーデン語訳はギリシャ語原文とルター訳を踏襲して補足もしてありわかりやすいので選びました。
主題聖句 ローマ15章4節
「私たちの忍耐と聖書が与える慰め励ましを通して私たちは希望を持ち続けることができるのです。」(スウェーデン語訳の聖書”Bibel2000”から)
以上
説教:内容はyou tubeをご覧ください。
SLEYとスオミ教会との間の諸問題について話し合いをしました。
3月16日のスオミ教会の礼拝にて説教を担当されます(通訳付き)。
SLEYは、日本とフィンランドが外交関係を結ぶ前の1900年から日本に宣教師を派遣してきた北欧のルター派ミッションのパイオニアです。是非この機会に礼拝に御参加下さい。
V.アウヴィネン先生の略歴
ルカによる福音書4章1〜13節「誘惑の歩みにある主の助け」
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
1、「はじめに」
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
3章では、福音書記者であるルカが、歴史的事実や系図、そして当時の優れた預言者であった洗礼者ヨハネの証言を通して「イエスは本当の救い主である」と伝えているということを見てきました。今日の箇所はその後、イエス様が荒野へ導かれ受けられた「悪魔の誘惑」の箇所です。
3章ではイエス様が、洗礼者ヨハネから洗礼を受けた時、御霊が鳩のようにくだり、天から「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ」という声があったとありましたが、4章1節は、その下った「御霊に満ちて」という言葉から始まります。
「1さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、」
聖霊に満ちたイエス様は、「霊」に引き回され「荒れ野」にいました。「霊に引き回され」とある言葉は新改訳聖書では「御霊に導かれ」とも訳されています。そして、2節ですが、
「2四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。 」
と続いています。聖霊に満たされたイエス様は霊、あるいは御霊によって「荒れ野」を引き回され、あるいは「導かれて」そして「悪魔の誘惑」に会われたのでした。
2、「荒れ野」
皆さんはこのことをどう思うでしょうか?私たちも同じように、洗礼を受け、聖霊が与えられ、みことばとそこに働く聖霊によって導かれて歩んでいる私たちです。しかしある人にとってはここはこう思うかもしれません。それは、聖霊に満たされているのに、それなのに、聖霊なる神、助け主に満たされ導かれるのが荒れ野なのか?そしてそこに悪魔の誘惑があるのはどういうことか?と。つまり「聖霊に満たされ導かれるのだから、良いことでなければ、神、聖書は、おかしいじゃないか?何で悪いことへ導くのだ」と。
A,「聖徒であり同時に罪人」
しかしこの聖書の箇所は私たちに一つの大事な事実を教えてくれています。それは、私たちはみ言葉の通り、信じて洗礼によって救われました。聖霊が与えられました。新しいいのちを与えられました。しかし、私たちに与えられた信仰の新しい歩みは、苦しみも罪もない天国に来た訳ではなく、「この地上に」尚も生きる信仰の歩みでもあるのです。そして、その地上にある「この世」は、聖書にある通り「罪の世」です。つまり悪魔の誘惑の力がまだ働いている世でもあり、罪の奴隷にある世です。私たちは確かに「神の前」にあっては、イエス様の十字架と復活のゆえ、私たちの義ではなくイエス様の義のゆえに、それを信じ受け入れる私たちの罪は見られません。それは私たちたちの義ではなく、イエス様の義のゆえに信仰によって私たちも義と認められていて、そして聖霊によって新しく生かされている者ではあるのです。しかし「同時に」、まだ尚も、この罪の世に生きる者でもあり、私達自身、一人一人誰も例外なく、つまり私自身も、肉にあっては、尚も同時に罪人でもあるのも事実です。今日、悔い改めても、私たちは罪を全く犯さない完全な人間になったのではなく、直ぐに行いにおいても心においても、罪を犯してしまう者です。キリストにあって信仰が与えられて霊にあって新しくても、同時に肉にあっては尚も、私たちは、もちろん私自身も自分勝手で、むしろ、肉の性質は、神と神のみことばを信じないで退けよう、背を向けようとする、まさに同時に罪人のままの私たちでもあります。それはルターも教える通りです。彼は教えました。私達は、キリストのゆえに霊にあって「神の前にあっては聖徒であっても、同時に罪人である」と。ですから、クリスチャンである私たちのこの罪の世、地上での歩みは、尚もその悪魔、誘惑との戦いに日々、生きる歩みなのです。だからこそ、主イエス様は主の祈りを私たちに与えて下さっているでしょう。「私たちの罪をお赦し下さい〜私たちを試みに会わせず悪より救いたまえ」と祈るのです。
B,「荒れ野のキリスト者は、誘惑との戦い」
もちろん、救いの道は、必ず勝利の道でもあります。聖霊とみことばは私たちを最後には天国、そして新しい天と新しい地へと導く最強の力です。しかしこの罪の世は、まだ過ぎ去っておりません。尚も絶えず強く私たち一人一人を誘惑してくる事実はあるでしょう。私たちはそこで証しと愛に召され生かされている者ではあるのですが、この世にあって肉にあっては本当に罪に対して悪に対して、そして悪魔に対して弱い存在で、尚も罪深い日々です。ですから、聖霊による新しい道、私たちクリスチャンの道は、やはり、今日の箇所のイエス様のように日々、荒野なのです。日々、誘惑との戦いの道なのです。むしろそれは、救われる前より厳しい闘いになるでしょう。なぜなら私たちに与えられている聖霊は聖なる方ですから私たちを増々、罪に敏感にするからです。だからこそ、聖霊の導く道は、ここにあるような荒野、悪魔との戦い、罪との戦いの道なのです。イエス様も「あなたがたは世にあっては艱難があります」(ヨハネ16:33)とも言っているでしょう。日々、誘惑です。その誘惑は、ただ行いの罪を犯させようとするだけでなく、心の中の罪の思いも誘惑です。そして、何よりの誘惑は、イエス様こそが完全な私たちの救い主であるということを、私たちが信じないように、あるいは、洗礼や聖餐の福音の力を疑わせて、信仰の確信、救いの確信を奪い、イエス・キリストの恵みよりも、他の目にみえる目先のことや、他の人の行いや力、あるいは自分や自分の行い、名誉、プライドのほうが、救いのための力、光であるかのように思わせて、イエス様とそのみことばを捨てさせようとすることこそ、最大の誘惑です。そして捨てさせて、悔い改めのない歩みをさせ、ついには私たちを滅ぼすこと、永遠の死に堕とすことが、悪魔の最大の目的です。そのために働いてきます。私たちはイエス様と同じように、その荒野に導かれているのです。イエス様のように、日々、誘惑との戦いなのです。
けれども恐れることはありません。今日のこのイエス様の受ける荒野の誘惑とそれに対するイエス様の姿はそんな私たちに、何のためにキリストは世に来られ、聖霊が私たちにも与えられ、その聖霊が私たちを導いているのかを証しし、そして、いかにしてイエス様は誘惑を退けるのかを私たちに示し教えてくれているのです。その事実が、この誘惑とイエス様にはよく現れているでしょう。まず悪魔はどのように誘惑するでしょうか。三つの誘惑が書かれています。
3、「悪魔の三つの誘惑」
一つ目は、3節
「3そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」」
第二の誘惑は、6〜7節。
「6そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。 7だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」 」
第三の誘惑は、9〜11節です。
「9そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。 10というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる。』11また、『あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える。』」
これが悪魔のイエス様への三つの誘惑でした。この三つの誘惑を見る時に、悪魔の誘惑の一つの特徴が分ると思います。
A,「悪魔の巧妙さ」
それは、私たちが悪の苦しみというとイメージする迫害とか肉体の痛みとか以上に、つまり目に見えて明らかな悪いものではなくて、むしろ、誘惑なのですから、人間の欲求・欲望をかき立て魅了する、魅力的な良いものを餌にしているということがわかると思います。私たちは悪魔の攻撃と言うと、迫害とかを連想するです。もちろん、迫害も妨げなのですが、しかし、ここにあるように、むしろ人が騙されやすい、誘惑に負けやすいのは、あのアダムとエバの罪の初めで、人にとって甘く美味しそうな実にこそ彼らは心奪われたように、まさに、人間のそのような罪の性質の根っこ、罪深く自己中心な願望こそを悪魔はみごとについてきているといえるでしょう。創世記三章のアダムとエバの堕落の所です。創世記の3章5節。そこでエバはサタンの「あなたがそれを食べる時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪の知識をしるようになることを神は知っているのです」(5節)というその誘惑のことばにこそ魅了されます。そしてエバはその誘惑の言葉を聞き「その木はまことに食べるの良く、目に慕わしく、賢くすると言うその木はいかにも好ましかった」(6節)と彼女の誘われる心を描いているでしょう。そのように彼らはその誘惑に負け神のみことばを退け、食べてはいけないと言われた木の実を食べるのです。今の世の中でも、実に沢山の詐欺事件が伝えられていますが、その手口のどれを見てみても、はじめは「美味い話」あるいは「利益・財産の話」から始まって、騙される人は引き込まれていきます。また多くのカルト信仰も溢れていますね。そのカルトにも多くの人が集まってきますが、そのカルト入信のきっかけも、やはり「美味い話」であったり、その人々の一時の不安解消やご利益をみごと刺激するようにして入信する人を魅了するのです。さらには広告メールや迷惑メールも、そのタイトルは、人々が開きたい、読んでみたいような、まず人の気をひく「美味い話」「利益の話」のタイトルが踊っています。誘惑とはそのようなものです。
1)「石をパンに」
悪魔の誘惑もそうです。一つ目の誘惑を見てください。それは石をパンにするということです。パンは物質的な豊かさを示しています。そしてイエス様は確かに神の子ですから石をパンに変えることは出来るのです。もしその辺りの無数の石をパンに、つまり溢れるばかりの豊かさに変えることが出来るなら、なんと幸いでしょうか。毎日、食べるに困りません。そればかりでなく、有り余るほどのパン、食べ物を、人に配ることができます。そうすると、人からありがたいと賞賛され、尊敬される存在、人気者にもなれます。支配者にもなれるでしょう。これまでの世の統治者は、この力が得られるなら、直ぐにでも飛びついて得たい力と誘惑となるものでしょう。この直ぐにでも見たい手にしたい眼にみえる物質的な豊かさや数の多さ、大きさは、教会にとっても誘惑になります。石を豊かさ、富に変える。それは教会でも、その力があるなら、ぜひ、人を沢山、お金、富を沢山、集めるために、数を伸ばすために、人を惹きつけるためには、魅力的な材料であり、欲しい力であると見る人もいるかもしれません。
2)繁栄を全てあなたに
第二の誘惑はどうでしょうか?悪魔は、世界の国々を全部見せました。ローマ皇帝のもの凄い繁栄と富を見せられただけでなく、悪魔は過去のこれまでの文明の繁栄、そして未来の、現代のこの繁栄や豊かさも見せたのかもしれません。その全て、その権力、栄光、繁栄が全て自分のものとなる。力と誉れが自分のものになる。それはどの国の支配者も、いかなる軍事力を駆使してでも奪い取りたい特権に映るものでしょう。エバを誘惑した「神のようになれる」というサタンの誘惑のまさに最たるものともいえます。教会も例外ではありませんね。世界の福音派のある人々は、まさに繁栄の神学の虜になり、地上の人間的な繁栄を約束し希望とするような都合の良い間違った福音、間違った偽りの光や愛で、人々を律法的に、マンパワーや理性や人間の直感や感情や欲求により頼むように、導いています。その中でもある熱狂的な教会やカリスマ牧師の教会は、教会が人の数やお金の数字の上で大きくならない、成長しないのは、信徒であるあなた方が熱心でないから、一生懸命でないからダメなんだと、教会や宣教や伝道を律法にして脅すように駆り立てますし、逆に信徒がそのような価値観であると、み言葉に誠実に仕え伝えている牧師に対してさえ、牧師が熱心ではないからだ、”営業努力”が足りないからだ(彼らはよくそんな牧師に「もっと「成功したビジネスマンの本」を読め」といいます)、能力、魅力がないからだと責め立てます。そのようなマンパワーで導くことは確かに数的には多くの人を集め、メガチャーチにまでもなります。それは、人の目には成功しているように見え、多くのクリスチャンはこれが成功した宣教・伝道だと決めつけてしまう、そのように更に間違った宣教、教会へと逸れていっているという深刻な現実がありますね。悪魔の誘惑はまさにキリストの姿をしてやってくる偽キリストであり、実に巧妙です。
3、「神を試みる:自分の思いの通りに神はするだろう」
そして三つの誘惑。神を試みること、試すこと。つまり、神を人間の都合の良い解釈や想いのままに試す。これは「神が人を」ではなく、「人が神を」支配する誘惑です。それは先の繁栄の神学やリベラルや現代の流行の神学の共通の傾向ですが、人の思いのままに神を動かしたい、神に働いてほしい、神はそうするに違いないと決めつける、そのような誘惑です。これもまた誰にでも起こりうる誘惑ですね。私達は神の恵み、神のみ言葉や約束をその通りですと信じる信仰なのに、しかし私達の罪の性質は、神中心ではなく、自分中心に、自分の願うまま、思いのまま、期待するように、神がしてくれるだろうと思ってしまいます。そして自分の願う通り、思っていた通りにならないと、今度は、神がおかしい、神が矛盾している、間違っていると、神や神のことばを否定したり、呪ったり、批判したりします。これも、誰でも陥りやすいことで、クリスチャンであっても、もちろん私自身もしてしまいやすいことです。このように、サタンは人にとって「美味そうな人参」をぶら下げて誘惑して来るのです。いや、ひょっとしたら、誘惑されている、あるいは逸れてしまっていることさえも分らないということもあるくらいに、悪魔の誘惑は巧妙である恐ろしいものであるのです。
イエス様ご自身が言っています。「偽預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼である」と(マタイ7:15)。パウロも、第二テモテ4章2節以下で、教会が、自分たちに都合のいい空想話に逸れていき、そのような偽りの説教者を集めるような時代が来ると、預言的に警告しましたが、今まさにそのパウロの警告のようなことが教会では起きています。自分が語ってほしい甘い言葉を語らないと牧師を批判したり、律法を語ると罪や悔い改めを語るなと言い出したりして牧師を退けたり、そして自分に都合のいいことを言ってくれる説教者や牧師やメッセンジャーばかり求めたり集めたりするようなことは、実際に教会で起こっていることです。私たちの歩みは今も荒野です。いつでもサタンの誘惑があります。それは明らかな罪への誘惑もあり、迫害のような誘惑もありますが、まさにこの荒野の誘惑のように、人には気付かないようにして羊のなりをして信仰と言う大事な宝を奪い取っていく内は凶暴は狼の誘惑があり、むしろそのほうは怖いともいえるのです。私たち自身はそれに対して、実に弱く、脆い存在です。私たち自身ではそれを判断することも、勝つこともできないほど、弱く無力だともいえるのです。
B,「聖霊とみ言葉の正しい教えによる誘惑への勝利」
しかし、十字架と復活への道を歩み始め、まず荒野へと導かれているイエス様であり、聖霊によって満たされ導かれたイエス様はどのようにして、この悪魔の誘惑を退けているでしょうか?
イエス様は全て「みことば」をもって退けているでしょう。第一のみことばに対しては、4節
「4イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。 」
申命記8章3節の引用です。そして二つ目の誘惑に対しても、8節ですが、
「8イエスはお答えになった。「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」」
申命記6章13節の引用です。そして最後の三つ目の誘惑は非常に面白い所で、サタンもみことばを用いて誘惑しているでしょう。まさに羊のなりをしてやってくる偽預言者の姿で、これは教会に絶えず起こり続けけいることであり、聖書を都合のいいように解釈した間違ったみことばで誘惑して来る姿そのものです。しかしそれに対して対抗しうるのも、聖書のみことばであり、そして大事な点ですが、その聖書のみことばの正しい解釈、正しい教え、つまり、正しい教理、正しい信仰告白こそ、悪魔のこの誘惑さえも退ける力であることが示されています。12節ですが
「12イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。 」
やはり聖書、申命記6章12節の引用になります。
聖霊に満たされて導かれるイエス様は、このように聖書のみことば、しかもその正しい教え、つまり正しい教理、正しい信仰告白、信条、そのように正しい教えで誘惑を退けました。そしてそこにこそ聖霊は、みことばにおいて、豊かに働いて力を現しているのです。みことばとその正しい教理、教えこそ、誘惑に対して何より強いということを、このところは私たちに伝えているのです。
4、「罪人は誘惑と罪に対して無力」
私たち人間は堕落前の姿にあるように、本来の創造されたままの人間は、神のみことばによって、神の言葉に信頼して、それによって安心して平安に生きるものでした。本来は、そのように作られているのです。神の創造において良いもの、祝福の存在として創造され、いのちを与えられ、神の愛のもと、みことばによって導かれ、みことばを霊の糧として生き存在するものでした。しかし堕落は、サタンの誘惑、肉の欲に見るに麗しい慕わしい「神のようになれる」という美味しそうな実に負けることによって始まりました。罪の世は、そのようにサタンが私たちをキリストとそのことばから背を向けさせよう、自分を神に、中心にさせよう、そして救いから落とそうと、絶え間なく激しく誘惑して来るこの世なのです。私たちはこの世に尚も生きている者です。私たちも荒野を生きるものです。そしてそこでの私たち自身は、自らの力では実に弱く、無力で、罪深く、誘惑に勝つ力のないものです。直ぐに神と神のことば、キリストの十字架、罪の赦しを忘れ、疑い、自分が正しい、罪のない、神のように、生きようとしやすいものです。
5、「結び:だからこそキリストは信仰者に聖霊を与え働き勝利する」
しかし、今日の箇所は教えます。イエス様を信じる信仰のゆえにイエス様の与える洗礼の恵みに与り、イエス様から聖霊が与えられているということ、その聖霊が常に力強く、みことばとその正しい教え、信仰告白、そして、洗礼と聖餐を通して働いてくださるのだということです。そしてその聖霊がみことばと正しい教えをもっていつでもサタンと誘惑を退けてくださり、勝利してくださる、まさに真の「助け主」だということをです。そのように今日もイエス様はこのみ言葉の説教と聖餐を通して私たちを励ましているのです。「あなた方の歩みは荒野の誘惑との戦いの歩みだからこそ、わたしは決してあなた方を一人にはしない、一人にし重荷を負わせ、一人で戦わせたりはしない、むしろ、そんな闘いに弱いあなた方にこそわたしは絶えず伴い、みことばを持って、十字架と復活の福音で、あなたを助けよう」と。だからそのまま福音を受けなさいと。イエス様はその思いで、今日もここにおり、イエス様がこの卑しい者による説教を通してですが、みことばを私たちに語ってくださっています。そして、今日もこのように救いの恵みである聖餐を、つまりみことばの結びついた、真のイエス様ご自身のからだと血、イエス様の救いのいのちをイエス様は私たちに与えてくださるのです。そして今日もイエス様は私たちに宣言してくださいます。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。ぜひ罪の赦しを受け平安のうちに今週もここから遣わされて行きましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン