2025年6月8日(日)聖霊降臨祭 礼拝 説教 田口聖 牧師(日本ルーテル同胞教団)

202568

ヨハネ148−17節、25−27

「平安のうちに遣わす聖霊の恵み」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

1、「はじめに」

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

イエス様は捕えられる前の最後の晩餐の席で弟子たちに、聖霊が与えられると言う幸いな約束を与えてくださいました。その聖霊の恵みがいかに素晴らしいものであるのかをイエス様はこの14章で伝えています。14章は1節にある通り「心を騒がせるな」で始まり、終わりの2627節では「平和」、それは新改訳聖書では「平安」という言葉ですが、その「平安」を与えますと言う約束の言葉と、やはり「心を騒がしてはなりません」で結ばれています。それは6節にある「道であり、真理であり、命である」イエスを通るなら誰でも父のもとに行くことができるとある真理の道と真の命の歩みは、キリストから与えられる「平安ある歩み」であり「心騒がせる必要がない」恵みの歩みであることを約束するものであり、それを実現するのはまさしく聖霊であると、今日の箇所は伝えています。

2、「神を見せてください。そうすれば満足します」

まず弟子の一人フィリポはイエスに尋ねます。

「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」8

 これは新改訳聖書では「主よ。私たちに父を見せてください」とあります。フィリポのこの言葉は、7節でイエス様が、「あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」と言ったことに対してでした。フィリポはこのイエス様の言葉の意味がわかりませんでした。イエス様はご自身を見ているあなた方はまさに神ご自身を見ているのだ、神がここにいるのだと、ある意味、曖昧ではなくはっきりと、イエスご自身が父なる神と一つであり真の神であることを宣言しているのですが、その三位一体の真理を、人間はその理性でも知識でも自分の力では決して理解できないことを、フィリポの言葉は示しています。

 そしてイエスの「ここに父がいる」と言う明確な「言葉」があるにもかかわらず、その言葉の通りに、イエスに父なる神を見ようとせず、どこまでも「神を見せてください」と言うこの言葉は、「人間が神をどこに見ようとするのか、どこに神を求めるのか」を示すものでもあります。彼は明らかにイエスの「言葉」に満足していません。彼は弟子であっても、いくら先生でもナザレの大工の子イエスに父なる神を見るなんて現実的にありえない馬鹿げたことだと思ったことでしょう。「そうすれば満足できます」と言う言葉は、イエスの言葉にも現状にも満足していないと言う思いを示しています。彼は3年一緒に歩んできてイエスの言葉にもイエスそのものにも神がいる、真実であるとは信じることができなかったのでした。そして神を実際に見せてほしいといいます。それはまさに、人間の側の五感、知覚、理性でわかり判断できるように、物質的に目にみえる形で目の前に見せて欲しい、あるいは、それは彼自身が予め思い描き期待している通りの姿、形で見せて欲しい、という意味でした。その「神をどこに求めるのか、見ようとするのか」という問題とフィリポの問いかけですが、これはおそらく誰でもフィリポと同じように求めるのではないでしょうか。事実、教会へ来たり聖書に触れたりする未信者は沢山いますが、皆がそれを信じるわけではありません。多くの人々は信じないのですが、その時の彼らの「問いかけ」は大体これでしょう。「神がいるなら神に会わせてよ。見せてよ。科学的に証明してよ。」等々ではありませんか?そのように、人間は目にみえる形で、しかも彼らが自分の思いの中で仮定し予測し期待する考えに当てはまるように、しかも目に見える物質、被造物の中に神を見ようとするし求めるし探そうとするのです。

 そしてそれはイエス様と三年一緒に歩んできて多くを学んだはずの弟子でさえもそうであると言うことは注目したいです。既にイエスの弟子である皆さんも、神はどこにいると考えるでしょうか?神をどこに探したり求めたりするでしょうか?イエス様は常に変わらず、私たちにみ言葉を通して、何よりこの福音である「十字架の言葉」という人から見れば躓きであり愚かな言葉にこそ、神がおられ、神の救い、力、働きがあることを教え続けています(第一コリント118節)。あるいは、信仰とは目に見えないことの確信だとも聖書は教えています(ヘブライ111節)。そして救いや義認は、私たち人間があたかもそこにあるかのように期待し易い目に見える何らかのわざや功績や、何を持っているとか何を達成したとか、そのようなことにあるのではなく、どこまでもキリストの十字架に現された神の恵みと約束、このキリストの十字架と復活のみに救いの本質、神の真理があると聖書を通して指し示し続けてくれているでしょう。しかしそれなのに、弟子のフィリポでさえもそうであるように、教会やクリスチャンであっても、自分たちや誰か、人間の側で勝手に期待し思い描く何らかの目に見えるわざや行い、結果や成功に何か救いや救いや祝福があるかのように求めやすいでしょう?それらの期待する目に見えるわざや結果に、神をみたい、神を見せてほしい、そこに救いの確かさ、救いの原因や根拠があるかのような考えにすぐに陥ってしまったり、そのような教えや勧めを聞いたりすることがあるのではありませんか?「神はどこにいるのか、どこに探すか、求めるのか」それは、何か私たちや誰かが自分たちの思い描いた通りに教会のために一生懸命やったから、成果を出したから、計画通りに成功し実現させたから、だから神に祝福されるんだ、そこに神はいるんだと、考えてしまったり、それが宣教や伝道だとしてしまい、クリスチャン生活や伝道や教会運営を、まず私たちの側で何かを果たし、行い、頑張って、そうすれば祝福されます、そうしなければ祝福されません、と律法的に駆り立てるような教会は、実は少なくありません。しかしそれはまさに、先ほど読みました、創世記11章の神の恵みやみことばや神がなさるという約束をそっちのけで、人間の力で天に届く塔を建てようとすることと同じではありませんか?または、このフィリポのように、まさに彼の予想し「見たい」と期待し思い描いた先に目に見える形で「神を見せてください。証明してください。そうすれば満足します」という求めと同じことでしょう。イエス様は、あなた方が目で見たいと望んだ先に神がいるとか、あるいは、目にみえる形で自分たちの目に見えるわざで何かを果たした先に神を見ることができるとは言っていないですね。そのように「あなたの栄光を見せてください」と神を見たいと望んだモーセにさえも神の通りすぎる時の神の背中しか見せませんでした(出エジプト3318節、22-23節)。イエス様ははっきりと言います。「わたしを見たものは神を見たのだ、わたしに父がいるのだ」と。イエス様は人でもその行いでも、人が何らかの目に見え思い描く先を指し示してそこにいると言うのではなく、イエス様ご自身をさし示し、そこに神はいるのだと示しているでしょう。

3、「弟子であるキリスト者はどこに神を見るか?」

 イエス様はフィリポにいいます。9節以下、

9イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。 10わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。 11わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。

 見えない神の本質、真理は、イエス様ご自身にあり、見えない神がイエス様を通してその真実なわざを、つまり、真実な言葉を語っている、そこに父は確かにおられるとイエス様はご自身をさし示し、信じるように招いているです。特に、「わざそのもの」と言っていますね。その「わざ」とは何でしょう。この場面は最後の晩餐の席です。つまり、イエス様は明らかに十字架にかけられ復活されるご自身を指し示し救いのわざである「十字架と復活に神を見ることができる」「神の約束の救いと祝福はあるのだ」と伝えているのです。

 私たちはどこに神を見るでしょう?どこに神を探すでしょうか?何らか目に見える被造物、その中でも偶像礼拝のように並外れたものすごい物質にでしょうか?確かに特に日本では八百万の神信仰と言われ、そのような並外れた特別な被造物、石や岩、木や自然、あるいは並外れたすごい人に神を見ようとしたり神にしたりします。立派な人の行いや功績には何でも神がかったものを見ようとしたり称賛したりもします。野球の好きな方は聞いたことがあるかと思いますが、「神様、仏様、稲生様」なんて言葉もありますし、最近だと村神様なんて言葉もありましたね。しかしそこに本当の神はいるのでしょうか?教会やクリスチャンはどうでしょう。どこに神を探しますか?教会やクリスチャンの中にも確かに何かまず自ら思い描いて期待し、それを果たした先に、あるいはそのように良い行いや功績を残した先や、教会を成功さえた繁栄させた先に、神はおられ、そこで初めて祝福や救いや恵みが与えられるのだと考えたり教えたりする教会やクリスチャンは確かにいます。しかし果たしてそうなのでしょうか?皆さんは、そのように考えていませんか?それが正しいとするなら、逆に、そうならなかった時、つまり、試練や逆境、苦しみや悲しみ、失敗や挫折や罪深さを覚えさせられる時、クリスチャンでもそこに神はいないかのように考え易いのですが、しかし本当にそこに神はいないのでしょうか?それは実はクリスチャンが一番陥りやすいところです。私もそのように思わされる時もあります。今でもあります。しかし違うでしょう。11「もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。

。何より十字架がそのわざですが、その他にも、それまでイエス様が宣教の歩みでなさったわざもそのことの答えでしょう?イエス様はまさに誰も近寄らず敬遠するような罪人、罪に苦しむ人々のところにこそ、歩み寄り、近づき、友となり、一緒に食事をし、悔い改めを教え、神の国を伝えたでしょう。あの徴税人ザアカイに語りかけ、彼の家で食事をし、彼が悔い改めた時に何といいましたか?ルカ19章9−10

「イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。 人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」

 失われていた罪人ザアカイのところに神はいなかったでしょうか?いや、神は確かにおられました。そしてこの最後の晩餐の後、イエスを3度知らないというペテロ、そして逃げていく弟子たちのために、イエス様は何と言われましたか?ルカ2232

「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

3年間、ともに歩んできて教えてきてもなおも罪深い弟子たちに神はいませんか?とんでもない。彼らを見捨てず、ともにおられ、そのために祈られるイエス様がいるでしょう。そして、何より、私たちが見るべきイエスのわざであるこの十字架は私たちに証ししています。

 この重罪の刑罰である十字架には誰がかかりましたか?この十字架に誰がいますか?そこに神はいませんか?いや、まさに十字架におられるのは天地創造の神である御子イエス様ではありませんか。しかも神であるこの十字架のイエス様は、全人類の罪人のために、私たちの罪をその身におわれ死なれ、私たちに罪の赦しを与えるでしょう。まさに人の間に来られたイエス様は、罪人の間に来られ、罪人の間、隣に立ち、その罪汚れに触れ、そこから救い出してくださるお方でしょう。そう、イエス様は、罪に苦しむ私たちの間に来られ、おられるのです。試練や逆境、苦しみや悲しみ、失敗や挫折や罪深さを覚えさせられる中に、神はいないのではない、むしろそこにこそ来られ、そのために来られ、その只中に神であるイエス様は確かにおられるのです。その十字架のゆえに、十字架にかかられたイエス様のゆえにこそ私たちにも罪の赦しが宣言され、悔い改め信じ、その赦しをそのまま受ける人は誰でも、その罪の赦し、義認、救いが恵みとしてその人のものになると聖書は約束しているでしょう。そしてその人は、まさにただそこにいるイエス様のゆえに「既に」祝福されています。私たちが目に見える形で何かをするから達成するからそこに神はいて、だから祝福されるのではありません。私たちは神をこの十字架のイエスにこそ見ることができる、神はここにいる、十字架のイエス様に。これを信じ受け取るなら「既に」それは祝福なのです。

4、「「大きなわざを行うようになる」とは?」

 しかし、そうは言ってもこの後のイエス様の言葉を見て多くの人は反論するでしょう。12「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。

15あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る

、そう書いてあるではないか、だから結局は律法なんだ。福音だけではダメなんだ。福音の後にはやはり律法なんだ、私たちの行い、私の達成が来るんだ、と思うかもしれません。しかし、皆さん、その行いはどこからきますか?イエス様は何と言ってますか?その行いのために、イエス様は、13節「13わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。 14わたしの名によってわたしに何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」

 と言っており、16節以下では、

16わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。 17この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。

 と言ってます。イエス様はそのことを弟子たちが行うことができるように、「祈り」、「願い」とあり、それに応えくださるとあり、尚且つ、イエス様自身が願い取りなしてくださる。そして、そこで、まさにそのことをかなえるため、行わせるために一緒にいてくださる「弁護者」、この弁護者はピンと来ません。英語のESVバイブルでは「Helper」とあります。新改訳聖書ではその通り「助け主」とありますが、そちらがわかり易いです。まさにそれらのことを行わせる助け主、真理の御霊である聖霊を与えてくださると、イエス様は約束しているでしょう。しかもその聖霊は「あなた方と共にいるため」だと言っているでしょう。まさにそのように悔い改め信じ、福音によって新しく歩むものに、神であるイエス様がそのわざを行わせてくださる。そして、もっと大きなわざを行うようにさせ、何でも願うことをかなえ、そして掟、律法を守らせるのは、私たちの力ではない、三位一体の聖霊であることをイエス様ははっきりと伝えています。しかも、イエス様は、弁護者、助け主である聖霊、26節「父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」とも言っているでしょう。聖霊は何より私たちにみ言葉を思い起こさせ、み言葉に働き、みことばを通して働き、すべてのことを教えてくださると言うのです。何よりそれは十字架の言葉である福音の言葉を通してです。パウロはこう言っています。

「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。 」第一コリント118

 と。十字架の言葉である福音の約束こそ、救いの全てを行わせ実現させる神の力だとパウロは教えているでしょう。事実、使徒言行録1章で、復活のイエス様は弟子たちに、いきなり「あなたたちの力で教会を始め宣教を始めなさい、伝道し教会を大きくしなさい」とは言わなかったでしょう。何といっていますか?イエス様は聖霊を受けるまでは都に留まっていなさい、待っていなさいといいました。そしてまさに「今こそ栄光が現される時か」と勢いづく弟子たちにイエス様は「いつとかどんな時とかはあなた方は知らなくていい、神が権威を持って定めている」と自ら動き出そうとする行動主義を諌めています。イエス様の命令は約束の聖霊を「待ちなさい」なんです。そして聖霊を受けるときに、力を受けて、神の御心である地の果てまで証人になっていきますとイエス様は約束していますね。その通りに、使徒言行録2章、聖霊を受けた時に、聖霊の力で、まさに更なる大きなことが、キリストの教会が、神の宣教が、始まっていくでしょう。律法を行うことは大事な神の御心です。しかし新しく生まれたクリスチャンは、福音から始まる、しかも聖霊の力によって、まさにヨハネ4章でイエス様が言われたように、福音から湧き出て溢れ出て流れていく泉のように、宣教や良きわざを行なわされていくのです。神の宣教の道具としてです。

5、「安心して行きなさい」

 そして最後に結びますが、更なる幸いは、その福音と聖霊による歩みも宣教も良きわざも平和のうちに、平安のうちに行われていくと約束されているということです。27

27わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。

これは新改訳聖書の方がわかりやすいです。

27 わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしててはなりません。恐れてはなりません。

 聖霊が福音を通して与える平和、平安は、世が与えることができないものです。つまり私たちの力や理性で果たすような行為義認によっては得られない、イエス様ご自身が福音のうちに、聖霊を通して与えてくださる特別な平安なんだとイエス様は教えています。皆さん、聖霊の力も何もなく、自分たちの力で、救いを、神の国を達成しなさい、そうすれば罪赦されます、祝福されます、救われます、と言われ、そのように生きて、そのクリスチャン生活に平安はありますか?ないでしょう。自己義認は自分で天に届く塔を建てることと同じです。それは神の怒りを買うだけでなく何よりそこに平安はないでしょう。私たちの宣教は福音を宣教することでありイエスが与える平安を証しすることなのに、その平安がないなら平安を証できません。宣教が律法なら平安はありません。私たちに平安がないなら福音宣教は成り立たないのです。しかし逆に、あなたの罪は赦されています、わたしはあなたを助ける助け主を送ります。それはあなたと共にいます。だから安心して行きなさい、と言われるとどうですか?安心していけますね。平安を心から証しできるでしょう。これが福音から始まる新しい歩み、そこに完全と働く聖霊の恵みなのです。

 みなさん、イエス様が福音を語り与えてくださり、洗礼を授けられた時、私たちは確かに聖霊を受けました。私たちは今日も、福音と聖霊の豊かな助けのうちに遣わされています。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。ぜひ福音を受け、今日も平安のうちに遣わされて行きましょう

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。        アーメン

ペンテコステ祝会

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