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聖書:ヨハネ福音書13章31~35節
題:「互いに愛せよ」
今日のみ言葉はヨハネ福音書13章31~35節です。まず、今日の聖書はイエス様と弟子たちのどういう状況で語られているか、その事を理解した方が良いかと思います。ヨハネはイエス様が十字架になる前に弟子たちと最後の晩餐をなさいます。最後の晩餐の席上で弟子たちと別れの説教をされています。ヨハネは14章から16章までに長いページを使って、その説教を書いているのです。この説教は弟子たちに語られている,謂わば遺言と言える大切な説教です。そこで今日の13章31~38節まではその長い説教の序章のような場面であります。弟子たちと最後の食事をされている時、イエス様が「私が一切れの食物をスープに浸して与える者が私の裏切り者である」と言われて、イスカリオテのユダにお渡しになると、ユダはすぐに出て行った。そばにいた弟子たちは何の事かさっぱりわからなかった。受け取ったユダはこれまで秘かに心の中で計画しつつある裏切りのプランをイエス様に見透かされたことがわかったのでしょう。そこで一刻の猶予も出来ない、すぐにユダヤ教の司祭長たちと打合せるために出て行ったのです。これでユダの裏切りがはっきりした、この瞬間、イエス様の十字架刑の死がはっきり確信されて言われた。「今や人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになったのであれば神もご自身によって人の子に栄光をお与えになる」。イエス様はご自分の十字架による死がイエス様の栄光の時であると言われたのです。
これはヨハネ独特の表現であります。イエス様が十字架につく時から勝利の栄光の時は始まったと言うのです。普通の人々、特にまたユダヤ人にしてみれば、十字架の死は癒しめの極みでしょう。十字架刑こそ最も苦しい痛みの死です。しかし神様の目から見れば、イエス様が十字架に死ぬ事はご自分のひとり子を罪人の世に送り罪人の代わりに罪の処理を十字架にかけると言う、イエス様の十字架はそこに神の愛を実現する栄光の時と言う事です。しかし、イエス様は既に続けて32節でこう言われています。「神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神もご自身によって人の子に栄光をお与えになる。」ここに,もう一つの「栄光」の事をお語りになります。これは十字架の「今」とは違って「すぐに」間もなく神から授けられる新しい栄光であります。神様のそばで神ご自身の世界でイエスに栄光をお授けになると言う栄光です。それは後になってわかる、イエス様が復活された後、神の世界に戻られる昇天なさる事に於いてお受けになる栄光であります。続いてイエス様は言っておられます。32節を見ますと、「子たちよ、いま、暫くは私はあなた方と共にいる。あなた方は私を探すだろう。『私が行く所にあなた方は来る事が出来ない』と、ユダヤ人たちに言ったように、いまあなた方にも言っておく。此処には7章33節のところで既に言っておられた事を弟子たちに言っておられる。
イエス様の敵であるユダヤ人に対しても言われたのですね。いま何だかんだと言っているが、もうすぐ世の光である私はいなくなる。その時はあなた方は、もう真っ暗闇になってしまって後悔しても遅い、あなた方は罪の内に死ぬであろう、とこういう警告としてお語りになったわけです。今度はその警告を弟子たちには36節以下のところで、ペテロの問いに対して言っておられるのは「私の行く所にあなたは今ついて来ることは出来ないが、後でついて来ることになる。それまでの僅かな辛抱なのだ。」というところがユダヤ人への警告と違う点です。ユダヤ人たちには「あなた方はついて来られない」また、「自分の罪のうちに死ぬだろう」と言い切っておられる。弟子たちには、私の所に確かに今は来る事は出来ないが、後になってついて来る事が出来る。この約束が弟子たちに与えられてゆくわけであります。そうして、イエス様が今暫くいなくなるときのための遺言を残されるのであります。それは「あなた方に新しい掟を与える、互いに愛し合いなさい。」33節の冒頭に「子たちよ」と言われていますが、この福音書では此処にしか出てこない言葉ですがヨハネの第一の手紙では七回も出てくる。「小さい子供よ」「かわいい子供よ」と言う愛情を込めた小さい子供に使う言葉です。過ぎ越しの食事の時には必ず家長が「どうして種無しパンを食べるのですか」、「どうして苦い菜っ葉を食べるのですか」と言う子どもの問いに答えて過ぎ越しの物語を話してやる掟になっております。いま、イエス様は十一人の大人の弟子たちを前にして丁度お父さんが子どもたちに出エジプトのお話を聞かせるように「小さい子どもたちよ」と呼びかけておられます。それは愛する子どもたちを残して、子どもたちがついて行く時の父さんの遺言のようであります。イスラエルの12の族長がそれぞれ死ぬ時には遺言のようにして語った話があると言われています。「わが子どもたちよ、見よ、私は死んでゆく、わが祖父たちの道に行こうとしている」「わが子どもたちよ、お前たちに勧める。互いに兄弟を愛しなさい。自分中心の中から憎しみを取り除きなさい。み業と言葉と心の思いとに於いて互いに愛し合いなさい」こう言って子どものついて来ることが出来ない道に旅たって行く情景が描かれています。(12族長の遺言)
34節でイエス様が言われた、まさに遺言です。「私は新しい戒めをあなた方に与える。互いに愛し合いなさい。」イエス様が此処で言われた遺言はどういう意味で「新しい」のだろうか。旧約聖書レビ記19章18節にありますとおり、「あなた自身のように、あなたの隣人を愛さなければならない」という古いモーセの昔からイスラエルで伝えられてきた戒めであります。イエス様が言われる弟子たちへの遺言の「互いに愛し合いなさい」という事がなぜ「新しい」のか。イエス様が言われる「互いに愛し合いなさい」は34節で言われたように「私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい」です。つまりイエス様が弟子を愛したように、イエス様が示された愛を手本にして「互いに愛し合いなさい」という意味です。この事は単なる手本と言うのではなく、もっと深い意味で「互いに愛し合う」愛が生まれてくる源であるのです。レビ記の古い戒めでは「あなた自身のように隣人を愛せよ」つまり私が私自身を愛すると同じ愛で「隣人を愛せよ」と言うのです。イエス様が弟子たちを愛した愛はそういう愛ではありません。イエス様はご自身を愛さなかった。ご自身を喜ばせなかった。ご自身を痛み、苦しみ、命を捨てる愛でした。イエス様は言われた「人が、その友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない」。ご自分を捨てるように愛されたのです。そのようにあなた方も互いに愛し合いなさい。これが新しい戒めです。このような愛はイエス様だけが私たちをも愛して下さっている愛です。私たちを作り変えて下さるのでなければ、とても持つ事の出来ない愛であります。
次に、ルカの福音書によりますと22章20節に、最後の晩餐の席でイエス様は盃を取り「この盃はあなた方のために流す私の血で立てられる新しい契約である」と宣言されました。今イエス様はご自身の血によって全く新しい自己犠牲的な愛を示す、契約の集団、言い換えると此処に教会が産み出されて来たわけです。こうして新しい契約で新しい戒めを与えられて生まれた教会は「互い愛し合う」それも自分を捨てるほどに互いを愛する、愛の絆によって一般の世の人々とは違うキリスト者となること。その事をイエス様は35節で言われた。「互いに会いしあうならば、それによってあなた方が私の弟子である事を皆が知るようになる。」
私たちの主イエス・キリストに従うことによって神の子とされ私たちは限りなくイエス様の歩まれた己の命を捨ててまで愛し合う愛を目指して行かねばならないのです。パウロはローマ人への手紙5章5節で言っています。「私たちに与えられた聖霊によって神の愛が私たちの心に注がれているからです。」
人知ではとうてい測り知ることの出来ない神の平安があなた方の心と思いを
キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン