説教「終わりの時を知り、今を豊かに生きる者」神学博士 吉村博明 宣教師、ルカによる福音書21章5-19節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

 本日は、聖霊降臨後最終主日です。キリスト教会の暦の一年は今週で終わり、教会の新年は来週の待降節第一主日で始まります。待降節に入れば、私たちの心は、神のひとり子が人間となってこの世に来たクリスマスに向けられます。私たちは、2000年近い昔の遥か遠い国の家畜小屋の飼い葉桶に寝かせられた赤子のイエス様の誕生をお祝いし、救世主をこのようなみすぼらしい形で送られた神の計画に驚きつつも、その人知では計り知れない深い愛に感謝します。

ところで、この教会の暦の最後の主日ですが、北欧諸国のルター派教会では「裁きの主日」と呼ばれます。「裁き」というのは、この世が終わる時にイエス様が再び、ただ今度は栄光に包まれて天使の軍勢を従えてやって来て、使徒信条や二ケア信条にあるように、「生きている人と死んだ人を裁く」ことを指します。つまり、最後の審判のことです。その日はまた、死者の復活が起きる日でもあります。実に私たちは、イエス様の最初のみすぼらしい降臨と次に来る栄光に満ちた再臨の間の時代を生きていることになります。つまり私たちは、クリスマスを毎年お祝いするたびに、一番初めのクリスマスから遠ざかっていくと同時に、その分、主の再臨の日に一年一年近づいていることになります。主の再臨の日つまりこの世の終わりの日、最後の審判と死者の復活が起こる日、これがいつであるかは、マルコ13章32節でイエス様が言われるように、天の父なるみ神以外には誰にも知らされていないので、誰もわかりません。そのため、イエス様は、その日がいつ来ても大丈夫なように心の準備をしていなさい、目を覚まして祈りなさいと教えられるのです(34~38節)。

このように、教会の一年の最後の日を「裁きの主日」と定めることで、北欧のルター派教会では、この日、最後の審判の日に今一度、心を向けて、いま自分はその時、神の御国に迎え入れられる者だろうか、と各自、自分の信仰生活を振り返る趣旨の日です。本説教も、そうした趣旨で行っていこうと思います。

 

2.

 本日の福音書の箇所は、ルカ福音書21章5節から始まって章の終わりまで続くイエス様の預言の初めの部分です。この預言の内容は少々複雑です。というのも、イエス様の十字架と復活の後に今のパレスチナの地を中心にして起きる直近の出来事の預言と、もっと遠い将来に全世界の人類全体に起こる出来事の預言の二つの異なる預言が入り交ざっているからです。つまり、一方では、私たちから見たらもう既に過去のことになった出来事が起きる前に預言されている。他方で、私たちから見たらこれから起きる出来事の預言が入っています。

 この複雑なイエス様の預言を解きほぐしていきましょう。まず、イエス様と一緒にいた人たちが、エルサレムの神殿の壮大さに感嘆します。それに対してイエス様は、神殿が跡形もなく破壊される日が来ると預言されます(6節)。これは、実際にこの時から約40年後の西暦70年に、ローマ帝国の大軍によるエルサレム破壊が起きてその通りになります。イエス様の預言が気になった人たちは、いつ神殿の破壊が起きるのか、その時には何か前兆があるのか、と尋ねます。それに対する答えとして、イエス様の詳しい預言が語られていきます。

まず、偽キリスト、偽救世主が大勢現れ、人々を誤った道に導くことが起きるので、彼らに惑わされてはならない、つき従ってはならない、と注意を喚起します。どうしてそういう偽救世主が現れるかというと、9節にあるように、人々は戦争やさまざまな混乱や天変地異(ακαταστασιας)を耳にするようになり、この先どうなるだろうか、自分は大丈夫だろうか、と心配になる。そうなると、偽救世主たちにとってはまたとない機会で、自分についてくれば何も心配はないと言う。それで人々はそういう混乱や天変地異の時代になると偽救世主について行きやすくなる。そういうわけで偽救世主は、8節で言われるように、世の終わりの「時」(ο καιρος)が近づいたなどと不安を煽る。そこでイエス様は、こうした不安と混乱の時代にどう向き合ったらいいかということを9節で教えます。これらの出来事は世の終わりの序曲として必ず起こることではあるけれども、これらが起きたからと言って、すぐこの世の終わり(το τελος)になるのではない。だから、偽救世主に助けを求める位に不安に陥る必要はないのだ、と。それで、イエス様は、不安の時代になっても「おびえてはならない」と命じるのです。そう命じられているのは、その時イエス様と一緒にいた人たちだけではありません。イエス様を救い主と信じる者みんなです。私たちも「おびえるな」と命じられているのです。

その混乱と天変地異の時代に何が起こるかということについて、イエス様は10節と11節で具体的に述べていきます。民族と民族、王国と王国つまり国と国が互いに衝突し合う。つまり戦争が勃発する。それから、世界各地に大地震、飢饉、疫病が起こる。さらに、天体に恐ろしい現象や大きな徴候が現れる。これは彗星や隕石の落下を意味するのでしょうか?イエス様は、これらのことはこの世の終わりに先行するものではあるが、すぐ終わりが来るのではない。だから、これらのことが起きても、イエス様を救い主と信じる者はおびえる必要はない、そう言われるのです。

ここまで見ると、イエス様は、神殿破壊の前兆に何が起きますかと聞かれて、このように答えたので、こうした偽預言者、戦争、地震、飢饉、疫病、天体の徴候等々の混乱や天変地異が破壊の前兆のように聞こえます。ところが、12節を見ると、「これらのことが起きる前に(προ τουτων παντων)」迫害が起きるということを述べていきます。つまり、迫害が先に来て、次に混乱と天変地異が起きるという順番になります。キリスト信仰者に対して起こる迫害について言うと、権力者によって信仰者が連行されて、自分の信仰について申し開きをしなければならなくなる。その時、信仰者がなすべきことは、この事態を信仰の証しの絶好の機会だと捉えること、どう弁明しようかと前もってあれこれ考えず、イエス様が反論不可能な言葉と知恵を与えて下さるのに任せて、その通りに話せばいいということです。迫害の中で痛々しいのは、権力者からくるものならまだしも、親兄弟、親族、友人からも見捨てられて命を落とすことがあるということです。「イエス様は救い主です」と、その名前を口にするだけで、それほどまでに憎まれてしまう。しかし、そのような時でも、信仰者が忘れてはならないことがある。それは、お前たちの髪の毛一本たりとも神の手から失われることはないということ。信仰者は頭のてっぺんから足のつま先まで神の手中にしっかりおさまっている。神はお前たちから一寸たりとも目を離すことはなく、お前たちに起こることは全て記録し全てを把握している。たとえ全ての人から見捨てられても、お前たちは神には見捨てられていない。神はお前たちを復活の日、最後の審判の日に天の御国に迎え入れるおつもりなのだ。それがわかれば、試練があっても忍耐できるのだ。まさに試練の中での忍耐を通して、お前たちは神の御許で過ごせる永遠の命を勝ち取ることができるのだ(19節)。

順番から言うと、迫害が起こって、偽預言者、戦争、大地震とその他の混乱や天変地異の時代が来ます。20節からは、質問者にとっての関心事、エルサレムの神殿破壊についての預言になります。24節まで続きます。迫害が起きて、混乱や天変地異が起きて、エルサレムとその神殿の破壊が起こる。先ほども申しましたように、この破壊は西暦70年に実際に起こりました。イエス様は、約40年後に起こることを言い当てたのです。ところが、ここで注意しなければならないことがあります。迫害が起きて、混乱と天変地異があって、エルサレムと神殿破壊が起こって、これで全てが完結したわけではありません。イエス様は9節で、偽預言者、戦争、大地震等々の混乱と天変地異の出来事はこの世の終わりの前兆として起きると言っています。イエス様の主眼は、質問者の意図を超えて、この世の終わりに向けられているのです。つまり、これらの混乱と天変地異はエルサレムの破壊の前にも起きるが、その後にも起きるということです。

そこで、この世の終わりそのものについて、25節から28節で預言されます。太陽と月と星に徴候が現れる。つまり天体に異常が生じる。それから、地上でも海がどよめき荒れ狂う異常事態になり、人類はなすすべもなく悩み苦しみ恐れおののく。文字通り天体が揺り動かされるようなことが起こり、まさにその時、イエス様が再臨するのです。

太陽や月を含めた天体に大変動が起きるというイエス様の預言は、イザヤ書13章10節や34章4節(他にヨエル書2章10節)にある預言を念頭に置いています。天体の大変動が起きる時、今ある天と地が新しいものにとってかわります。同じイザヤ書の65章17節で神は、「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する」と言い、66章22節で「わたしの造る新しい天と新しい地がわたしの前に長く続くようにあなたたちの子孫とあなたたちの名も長く続く」と約束されます。今ある天と地が新しいものにとってかわる時、そこに永遠に残るのは神の御国だけになるということが、「ヘブライ人への手紙」12章26~28節に預言されています。「(神は)次のように約束しておられます。『わたしはもう一度、地だけではなく天をも揺り動かそう。』この『もう一度』は、揺り動かされないものが存続するために、揺り動かされるものが、造られたものとして取り除かれることを示しています。このように、わたしたちは揺り動かされることのない御国を受けているのですから、感謝しよう。」

 ルカ21章28節で、イエス様は、天体の大変動の時に再臨される時こそが、キリスト信仰者にとって「解放の時」であると言っています。それは、イエス様を救い主と信じる者からすれば、この世の終わりというのは、迫害や苦難・困難に満ちた今の世から、「死も嘆きも悲しみも労苦もない、全ての涙を拭われる」(黙示録21章4節)、そういう神の御国へ移行する段階にすぎないからです。

 

3.

 さて、エルサレムの神殿の破壊は実際に起こったし、その前兆である戦争や迫害も起きました。しかし、天地創造以来とも言える天体の大変動はまだ起きていません。エルサレムの神殿の破壊からもう1900年以上たちましたが、その間、戦争や大地震や偽救世主は歴史上枚挙にいとまがありません。大地震も飢饉も疫病も天体の徴候も沢山ありました。キリスト教迫害も、過去に大規模のものがいくつもありました。もちろん、現代の世界でも国や地域によっては続いています。歴史上、そういうことが多く起きたり、また重なって起きたりする時には、いよいよこの世の終わりか、イエス・キリストの再臨が近いのか、と期待されたり心配されるということがたびたびありました。しかし、その度に天体の大変動もなく、主の再臨もなく、世界はやり過ごしてきました。イエス様が預言したことが起きるのは、まだまだ先なのでしょうか?それとも、1900年の年月の経験からみて、もう起こりそうもないという結論してもいいのでしょうか?

よく考えてみると、少なくとも天体の大変動がいつかは起こるというのは否定できません。皆さんもご存知のように、太陽には寿命があります。つまり、太陽には初めと終わりがあるのです。水素を核融合させて光と熱を放っている太陽は、あと50億年くらいすると大膨張をして、燃え尽きると言われています。膨張などされたら、地球などすぐ焼けただれてしまうでしょう。50億年というのは気の遠くなる年月ですが、それでも旧約聖書やイエス様が預言するように「太陽が暗くなる」ということは起こるのです。もちろん、太陽が燃え尽きるまで地球が大丈夫ということはなく、膨張を少しでも始めたら、地球への影響は甚大です。それが何年後かはわかりませんが、ここで仮に10億年後とします。それ以外に地球に甚大な影響を及ぼす天体の異変がないと仮定すると、地球は10億年は大丈夫ということになります。これは本当に仮定の仮定の話ですが、何故こんなことを言うのかというと、天の父なるみ神がせっかく10億年大丈夫なようにしてくれているのに、人間の方で自分たちをもっと早く破滅させてしまう可能性があるからです。核兵器やいろんな環境破壊それに原子力や遺伝子操作やクローン技術とか、しっかりコントロールできるのでしょうか?せっかく神から可能性を与えられているのに、もったいないと言うか愚かと言うか、人間は天地創造の神の御心をもっと知るべきだと思います。

話しが横道に逸れてしまいましたが、今ある天と地が永遠に続かないということは科学的にも真理なわけで、聖書はそれを科学的でない言葉で言い表しているにすぎません。それでは、今ある天と地がなくなった後で果たして本当に新しい天と地ができるのかどうか、これは今の科学では何も言えないでしょう。ところが聖書の方は、今ある天と地は創造主が造ったものなので、この同じ創造主がいつかそれを新しいものに造りかえる、それで今あるものはなくなる、という立場をとっています。この立場を受け入れるかどうかは、科学で証明できない以上、信じるか信じないかの信仰の領域です。信じる人はどうして信じられるかというと、それは万物には造り主がいるということ、つまり聖書の神を信じているからです。

聖書の立場をもう少し詳しく言うと、今ある天と地はいつか新しいものにとってかわられる、その時、死者の復活や最後の審判が起こって、創造主の神に義(よし)と認められた者は新しい天と地に現れる神の御国に迎え入れられる、というものです。それがいつ起こるかについては、もし太陽の寿命が関係することだったら10億年とかそんな後になりますが、もし、その前にまだ解明されていない天体の大変動があれば、もっと早まることになります。そんな気の遠くなるような話をされたら、そうしたことは、まず自分の存命中には起こらないだろう、という気持ちになります。そうなると、自分はこうしたことが起こる前にこの世を去ることになる。その場合は、復活の日まではどこか神のみぞ知る場所で安らかに眠り、その日が来たら目覚めさせられて、神の御国に迎え入れられるかどうか判断を仰ぐことになります。

 そのように、聖書の立場に立ちますと、世の終わりというものがたとえ遠い将来のことで、この私がこの世を去ったずっと後に起きることであっても、それはどっちみち私に関係してくる、私はそれから逃げられないということになります。

 そこで、聖書の立場に立たず、天地創造の神を信じることがなければどうなるでしょうか?少し考えてみましょう。万物には創造主がいるということを知らなければ、今ある天と地はある時に造られたという発想がなく、永遠の昔からずっとあって、終わりもなくただずっと続いていくように思われるでしょう。でも、それは太陽や天体のことで明らかなように、永遠には続かないのです。終わりがあるのです。それなら、終わるのならそれで仕方がない、終わりは終わりなので全ては消えてなくなる、と思われるでしょう。しかしその場合、天地創造の神がないと、終わった後で新しい天と地に造り直されるということもないので全ては本当に終わりっぱなしになってしまいます。そうなると、死者の復活というのも、せっかく復活しても居場所がないわけですから、起こらないことになります。従って、それまで霊とか魂とかいう形で残っていたものも、全てそこで終わりになってしまいます。

ところが、天と地と人間を造り、人間一人一人に命と人生を与えた創造主の神を信じると、この自分は終わらないということがわかります。たとえ天と地の有り様がかわっても、自分もそれに合わせて神の栄光を映し出す復活の体を着せられるので(第一コリント15章35~49節)、消えてなくなることはない。「自分はある」とわかっている自分がずっと続いていくことがわかります。

 

4.

 ここで問題になってくるのは、この世の終わりの日、死者の復活と最後の審判が起こる日、自分は果たしてそのような復活の体を着せられて、新しい天と地のもとに現れる神の御国に迎え入れられるかどうか、そのような者としてこの自分は続いていけるのかどうか、ということです。結論から言えば、神は人間が誰でも御国に迎え入れられるようにしてあげようと、いろいろ手筈を整えてくれました。そこで神は、人間の方でそのことをわかってくれて、整えてあげたことを受け入れてほしい、そう望んでいるのです。この、神が望まれていることをすれば、人間は神の御国に迎え入れられる。それでは、神に手筈を整えてもらわないと人間は御国に迎え入れられないというのは、何か人間に不備があるということなのか?その、神が整えた手筈とは何か?それを人間が受け入れるとはどんなことか?聖書に従えば以下のようなことです。

人間はもともと造られた当初は神のもとで何も問題なく暮らしていました。ところが創世記3章の堕罪の出来事に示されるように、最初の人間が神ではなく悪魔の言うことを聞いてしまい、神に対して不従順になって罪に陥ったために神との関係が壊れてしまいました。人間は神のもとで暮らすことができなくなり、死ぬ存在となって、神のもとから離れなければならなくなってしまいました。人間は、代々死んできたことから明らかなように、代々罪を受け継いできてしまったのです。しかし、神の方では、人間との関係を回復させて、人間がまた自分のもとで暮らせるようにしてあげようとして、ひとり子のイエス様をこの世に送られたのです。神はイエス様にゴルゴタの丘の十字架で全ての人間の罪の罰を受けさせて、人間にかわって罪の償いをさせて、その犠牲に免じて人間を赦すことにしました。さらに一度死なれたイエス様を復活させることで、死を超えた永遠の命があることを示され、その扉を人間に開かれました。人間は、これらのことが自分のためになされたとわかって、それでイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けると、このイエス様の犠牲の上に成り立つ罪の赦しが名実と共にその人の赦しになるのです。

このようにして神から罪を赦された者は、神との結びつきが回復し、永遠の命に至る道の上に置かれて、その道を歩み始めることとなります。万が一、この世から死ぬことになっても、罪の赦しに基づく神との結びつきがあるので、御手を差し出して御許に引き上げて下さる神に信頼して全身全霊を委ねることができます。また万が一、罪に陥ることがあっても、心の目をゴルゴタの十字架に向けて、神さま、イエス様の犠牲に免じて赦して下さい、と赦しを乞えば、神は、わかった、わが子イエスの犠牲に免じて赦す、もう罪を犯してはならない、と言って赦して下さるのです。その時、自分の命が尊い犠牲の上にあることが改めてわかり、軽々しいことはできなくなります。本日の旧約の日課イザヤ書52章の3節で「ただ同然で売られたあなたたちは、銀によらずに買い戻される」という神の言葉がありました。「ただ同然で売られたあなたたち」というのは、原文のヘブライ語(נמכרתם)では「あなたたちは自分自身を売り渡した」という意味も持ちます。人間が最初の人間の堕罪以来、悪魔に売り渡されて罪の支配下にあることを意味します。「銀によらず買い戻される」は直訳すると「あなたたちは銀(すなわち金銭)によっては買い戻されない」です。それでは、何によって誰に買い戻されるのか、というと、それは、神のひとり子の尊い血によって神に買い戻される、ということです。人間は、それ位自分の命が尊い犠牲の上に成り立っていることに気づくべきなのです。

 この世の終りとか、死のことを考えるのは、気持ちを暗くしてしまうもので、あまりいいことではないと思われるかもしれません。キリスト教の説教だから、もっと希望を与えるような明るい話を盛りだくさんにすべきだと言われてしまうかもしれません。果たしてそうでしょうか?エンディングノートを書いた人が、毎日をそれこそ与えられた貴重な時間と捉えるようになって、自覚的に生きるようになった、ということを聞いたことがあります。また、延命治療や高額医療の是非をめぐる議論で、あるホスピスケア専門家が、「人生の終りを見定めてから逆算して考えることも大切です。死を考えることは、生きる感覚を高めることにつながる」とおっしゃっていました(朝日新聞9月10日「耕論-命の値段」での田村恵子京都大学大学院教授の発言から)。聖書というのは、読めば読むほど同じような視点に人を導いていくと私は思います。しかし、聖書の場合は、エンディングノートや延命治療の議論とは違って、死んだ後どうなるかということにも立ち入るので、「生きる感覚の高まり」方が別次元のものになっていくのではないかと思います。例として、ルターのリンゴの木の話をあげることができます。これはルター本人が言ったかどうか確定していないということなのですが、でもルターらしい発言だというのは誰しもが認めることです。ある人がルターに「先生、明日、世界の滅亡がやってくるとしたら今日何をしますか?」と聞きました。ルターの答えは「リンゴの木を植えて育て始める」というものでした。

天地創造の神が私たちのためにひとり子を送って下さった。そのイエス様がこの私のために十字架の死を遂げられ、神の力で死から復活させられた。- このことを知り、イエス様を救い主と信じる者は、自分の行うことはどんな小さなものでも神の栄光を周りに伝える役割を果たすものという自覚があります。だから、行うことが終わりによって中断されても、中断されるまで行っていることは神の栄光を伝える役割を果たしているので、神から見て意味のあることをしているとわかるのであります。本日の使徒書の日課第一コリント15章の58節で聖霊がパウロに働いて語らせる言葉は真理です。「わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン


聖霊降臨最終主日の聖書日課、ルカ21章5-19節、 イザヤ52章1-6節、Iコリント15章54-58節

説教「ののしられる者は幸いである」木村長政 名誉牧師、マタイ5章11~12節

山上の説教の中の「あなた方は、幸いである」という形で語られる最後です。ここで一区切りにしたいと思っています。

11~12節を見ますと

11節「わたしのために、ののしられ、迫害され、身に覚えのないことで、あらゆる悪口をあびせさせられる時、あなた方は幸いである」

12節「喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなた方より前の預言者たちも同じように迫害されたのである。」

今日の聖書の11~12節を読んで皆さんもお気づきの事と思いますが、12節では「義のために迫害される人々は幸いである。」短く簡潔な言葉です。そして迫害されて来た人と言っても第三者のことのように言っている表現です。それに対して11節ではあなた方と言っています。直接にこの人々に対して語っていることで言っています。ここで語られているのが主の弟子たちであったことはすぐ想像できます。10節までは一般の人について語っていたが、ここからは弟子たちに対して言っているということでしょう。これまでにも言ってきましたが祝福の説教は信仰のある人に与えられているのです。その中には弟子たちも入っているはずだと思います。

 従って、ここでは一般の信者に対して語った後に特に弟子たちのことを思って語ったということでなくて、義のため、ということから、それの本当の意味であるキリストのため、ということを言っていますから、言い方が変わったのであります。11節のところで「わたしのために」と言っています、この私のため、はキリストのためです。次にすでに10節のところで義のためにと言っています、それは単に正しいということではなくて、信仰による正しさであります。それなら、ここではそれを更に一歩進めた話、ということになるのであります。あなた方、と言っていることから考えられることは面と向かって話していることであります。人ごとのように聞いたのでは主が言われたことが生きていないことは、わかり切ったことです。

 ここで聞いていた人たちは、まさに自分に対して言われたこととして聞いたにちがいありません。義のため、と言われるところにはキリストとの直接の関係において受け取るのでなければ正しくないと言うことです。実はキリストのためと言うことに至るのでなければ本当には儀のためということさえならないということなのです。ただ義のためと言うことだけでなくキリストとの関係が正しくされて始めてそれができる、ということを忘れてはなりません。私たちは義のために生きることを願って来たのであります。それが人間のための生活であると言うことも知っています。しかしキリストに救われるまではなぜ義のために生きるのか、ということも分からなかった。また実際、義のために生きる力もなかったのであります。そういうことに自信がなかったでしょう、特にそう考えていなかったとしても、それは何となくそれが分からなかったのであります。ところが、キリストはそれを悟らせてくださいました。そして、それから救ってくださったのであります。従って、どのこともキリストのため、ということになるのであります。信仰生活というものはキリストとの関係で生きることです。

 パウロは「キリストにあって」と言う言葉を口癖のようにたびたび用いました。自分の信仰生活はどんな意味でもキリストと結びついたものである、と確信しておりました。信仰生活というのはキリストに愛されキリストを愛する生活であります。一つの例として申しますと、クリスチャンの家庭でよく知られた壁掛けがあります。そこには、こういう言葉がかかれています。

キリストはこの家の主人

食卓ごとの見えざる客

どの会話をも黙って聞いておられる。

あるクリスチャンは食卓ごとに一つの席をもうけ、キリストがそこにおいでになることを信じようとしました。私のことを申しますと老人ホームの礼拝で中心席にはイエス様の席を用意します。信仰とは一つのものの考えではなく、キリストのよって生きることであります。イエス様を身近に感ずることでしょう。ですから「わたしのため」というのであります。

 迫害されるものはキリストのためなのであります。キリストのために迫害されることを11節ではいろいろな具体的な様子が記されています。「ののしられ、迫害され、身に覚えのないことで、あらゆる悪口を浴びせられる」というのであります。このように多くのことが言われるのはイエス様の生涯の始めにすでに多くの悪口や迫害があったということ、或いはイエス様は予測しておられたことでしょう。その後古代の教会に対してなされた非難や迫害は非常なものでありましあt。教会の歴史には迫害はつきものでありました。信仰生活もまた戦いを忘れることの出来ない、この世との対決がありました。この世がそれほど神にそむいている、ということであります。しかし主イエス様は祝福の最後の説教に繰り返すように「信仰者は迫害を受ける」と言われそれが「さいわい」である、と言われます。そればかりではなく、そのことを喜びなさい、と言われるのであります。

 主は喜び喜べ!と言われます。12節です。喜ぶだろう、と言うのでなく「喜びなさい」と言う命令であります。主からの命令ですョ、しかもただ喜ぶのでなく、おどり上がって喜べ、と言うことであります。皆さんどうですか迫害の苦しみに会っているキリスト者に喜べと言うすすめであります。迫害に会って嬉しい人は誰もいません。それは自然なことであります。それならば、このように喜べというのは余程の理由があるはずであります。信仰は喜びの生活である、と言われますがそれは救われて信仰を得た者が自然に喜ぶことであります。しかし、また信仰生活の困難に耐えて主の励ましを受け喜ぶことなのであります。

ヨハネ黙示録19章5~7節には。また玉座から声がしてこう言った。「すべて神の僕たちよ、神を畏れる者たちよ、小さな者も大きな者もわたしたちの神を讃えよ。」わたしはまた、大群衆の声のようなもの、多くの水のとどろきや、激しい雷のようなものがこう言うのを聞いた。「ハレルヤ、全能者であり、わたしたちの神である主が王となられた。わたしたちは喜び大いに喜び神の栄光をたたえよう」。さて、それならその喜びはどういう根拠があるのでしょう。信仰には迫害はつきものである、信仰を持つがゆえにいろいろな不都合や苦しみがある。それならば主の弟子たちや、その後の教会だけでなく、弟子たちよりも前にいた預言者たちも同じであった、ということであります。その預言者たちも同じように迫害を受けたのであります。預言者たちと主の弟子たちは同じ道を歩んでいる者であります。12節の終わりのところでちゃんと記されています。「あなた方より前の預言者たちも同じように迫害されたのである」しかも預言者たちは主の弟子たちが見ていることも見ることが出来なかったのであります。マタイ福音書10章41節には「預言者を預言者として受け入れる人は預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は正しい者と同じ報いを受ける。」ここにはっきりと主イエス様が言っておられるのです。同じように主のために苦しみを受けた者は主から報いを受けるのであります。

 私たちはただ主の恵みによって救われたのであります。もしも迫害に耐えることが出来たとしたらその恵みに答えることが出来たにすぎないのではないでしょうか。そのことによって十分に喜ぶことができるはずではなかったでしょうか。それなのにマタイ10章41節で言われたように迫害のゆえに喜ぶことが出来たことに対して報酬が与えられる、というのはおかしなことではないでしょうか。ことに主が報酬があるから喜べ、と言われることは納得できないことだ、と言わねばならないに違いありません。しかし此処に使われている報いというのは私たちの努力によって与えられる報酬ということではなくて、何の努力もしないのに価なしに与えられるものということでります。しかも主が与えてくださるその報いというのは、ひたすらにそれを与える人の自由であり、その寛大さによることなのであります。それはただその仕事に見合う、ということではなく、ひたすら神の権威によるものであります。

 それをよく説明しているのは、皆さんもご存知のマタイ20章1~16節に記されている「ぶどう園の労働者のたとえ話」であります。朝9時から働いた者と、夕方5時頃から来て働いた者が同じ1デナリの報酬を受けるのです。それに対して不平を言う者があらわれ、ぶどう園の主人はその者たちに言うのであります。「自分のものを自分のしたいようにするのは当たりまえではないか」このことが

神の報いの本当の意味であります。神は報いを与えるとしても、それは全くご自分で正しいと思われるようになさるのであります。それが「神の恵み」を表すものであります。それゆえに、それは報酬でありながら「神の恵み」を表すものであります。そして、やがてこの報いが天において与えられる、ということです。この地上ではなく天において、あのヨハネ黙示録19章で見ましたように天の玉座の前で示されているのであります。私たちは天のみ国において約束されている喜びに希望を持って信仰生活を共にしてまいりましょう。
アーメン・ハレルヤ!

説教「死を踏み越える祈り」神学博士 吉村博明 宣教師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 1.全聖徒主日とは?

 本日はキリスト教会のカレンダーでは聖霊降臨後第21主日と定められていますが、同時に日本のルター派教会のカレンダーでは「全聖徒主日」という名称も付されています。

キリスト教会では古くから11月1日を、キリスト信仰の故に命を落とした殉教者を聖徒とか聖人と称して覚える日としてきました。加えて翌11月2日を、キリスト信仰を抱いて亡くなった人を覚える日としてきました。殉教者を覚える日はラテン語でFestum omnium sanctorum、亡くなったキリスト信仰者を覚える日はCommemoratio omnium fidelium defunctorumと呼ばれてきました。フィンランドのルター派教会では11月最初の主日の前日の土曜日が「全聖徒の日」と定められ、殉教者と信仰者両方を覚える日となっています。今年は昨日の11月5日でした。スウェーデンのルター派教会では、この同じ土曜日は「全聖徒の日」という同じ名称ですが、これは殉教者だけを覚える日です。翌日の日曜日、つまり今日ですが、これは「全ての魂の日」という名称で、亡くなった信仰者を覚える日とされています。フィンランドの方は、この日曜日には特別な名称はなく、通常の「聖霊降臨後第何々主日」です。このようにルター派と言っても、国によって扱い方が異なっています。他の国々はどうでしょうか?ひとつ付け加えると、スウェーデンとフィンランドでは「全聖徒の日」の土曜日は国の祝日になっています。この週末は両国では全国各地の教会の墓地の墓の前に一斉にロウソクの灯がともされます。白夜の季節の終わった暗い晩秋の闇の中に浮かび上がる無数のともし火は、あたかも黙示録7章に出て来る、天地創造の神の御許に迎え入れられる「白い衣を身に着けた大群衆」を思い起こさせます。

日本のルター派教会のカレンダーでは、11月1日が「全聖徒の日」、それに近い主日が「全聖徒主日」と定められています。今日のことです。11月1日が中心なのを見ると、先ほどのラテン語の伝統からすれば殉教者中心のようにみえます。それでも多くの教会では私たちのもとを旅立った教会関係者の兄弟姉妹の遺影を飾ることが行われていますので、フィンランドと同じように殉教者と信仰者両方を覚える日として定着しているのではないかと思います。

 

2.亡くなった人を覚えるとは?

 本説教ではまず、亡くなった人を「覚える」とはどういうことかを見ていきます。いろいろ注意しなければならないことがあります。こうして遺影を飾っていると、さも亡くなった方が今見えない形で私たちと共にいて一緒に礼拝を守っているかのような感覚を持たれる方が出るかもしれません。しかし、ルターが教えているように、人は死ぬと、この世が終わりを告げて死者の復活と最後の審判が起こる日までは、神のみぞ知る場所にいて眠るのであります。この世を去る時にあった痛み苦しみから解放されて、全く安らかに心地よい眠りを眠るのであります。そして、終末と復活の日に目覚めさせられて、最後の審判で神の目に適うとされた者は、輝く復活の体を着せられて、天の御国の祝宴に迎え入れられるのであります。本日の使徒書の日課である第一コリント15章で言われている通りです。安らかに眠り続けているのではなく、復活の日が来ると、朽ちるものが朽ちないものを着せられ、死ぬものが死なないものを着せられて有様が一変するのであります(51~53節)。

 復活の日まで安らかに眠っているのですから、亡くなった方が私たちを見守るとか、導くとか、助言するとかいうことはありません。私たちを見守り、導き、助言をするのは、私たちを造り、私たちに命と人生を与えて下さった造り主の神以外にはいません。今見えない形で、礼拝を守るために集まった私たちと一緒にいるのは、他でもないこの神なのです。

 このように言うと、いろんな疑問が出てきます。まず、死んだ人はどこで眠っているのかという疑問が出るでしょう。これは、もう神のみぞ知る場所としかいいようがありません。聖書では死んだ者が安置される場所を陰府(シェオールשאול、ハーデスαδες)と言っています。他に見当たりません。言葉の意味やニュアンスからして、なんだか暗い不気味な世界に思えます。しかし、本人は安らかに眠っているだけなので暗かろうが明るかろうが問題はないでしょう。ルターは、この眠りの期間は、あらゆる労苦や痛みや苦しみから解放された心地よい時間であると同時に、眠っている本人からしたらほんの一瞬にしか感じられない時間であると言っています。この世の時間の概念では何百年経っていても、本人にしてみれば、あたかも全身麻酔の手術を受けた人のように、目を閉じて眠ったかなと思った瞬間に目の前で復活の壮大なドラマが始まっているというわけです。

 次の疑問は、復活の日ないしは最後の審判の日に神の御国つまり天国に行けるかいけないかが決せられると言うのなら、今は天国には誰もいないのか?これも難しい問題です。実は聖書には、将来の復活の日を待たずして神の御許に迎え入れられた者がいることが述べられています。神のひとり子イエス様はもともとおられた所に戻ったので含めませんが、単なる人間のエノク(創世記5章24節)やエリア(列王記下2章11節)がそうです。モーセも神に葬られて誰もその場所を知らないという謎めいた最後を遂げています(申命記34章6節)。イエス様がヘルモン山の頂上で白く輝いた時、モーセとエリアが現れますが、本当に神の御許から遣わされたとしか言いようがありません(マルコ9章2~8節その他)。ヘブライ12章23節を見ると、天のみ神の御許には既に聖徒、聖人の群れがあることが窺われます。こういう将来の復活の日を待たないで天国に行けるのは誰なのか?カトリック教会では教会がそれを決めることができるようですが、私たちとしては神に任せるしかないと思います。ルターは天の聖人の群れの存在は認めましたが、カトリック教会のように崇拝の対象にはしませんでした。崇拝の対象はあくまで父、御子、御霊の三位一体の神だからです。

 次の疑問は、聖人以外の人たちは復活の日までどこか神の知る場所で安らかに眠るとすると、その人たちのことを「天に召された」とか「召天した」と言っていいのか?キリスト信仰では復活というのは中心的な事柄の一つなので、それがある限りは、もう天国に行きましたというのは早急でしょう。でも、キリスト教会の最も重要な仕事は何かと言えば、それは人間を天国に送り出すことです。陰府に送り出すことではありません。それで、復活の日まで時差があるということを関係者みんながしっかりわきまえていれば、「天に召された」と言っても大丈夫でしょう。わきまえてなければ誤解を生まないためにも何か別の言い方を考えた方が良いと思います。

 次の疑問は、亡くなった人は眠ってしまい、神だけが祈り、悩みを打ち明け、喜びや感謝を報告する相手だと言ったら、亡くなった方とは何も関係がなくなってしまうのか?それでは自分だけではなく、亡くなった方の霊も寂しくなってしまうのではないか?思いやりに欠けるのではないか?

聖書では神は、人間が死者の霊にお伺いをたてたり、霊媒のもとに行くことを固く禁止しています(レビ記19章31節、申命記18章11~12節)。死者の霊と関係を持ったり、コミュニケーションを持つことは神の意思に反するのです。イスラエル初代の王サウルはこれを行ったために(サムエル上28章)、神に見捨てられてしまいました。天地創造の神からすれば、人間が助けを求めたり、祈ったり、どんな選択肢を選んでいいのかお伺いを立てる相手は、あらゆるものの造り主である神だけです。二ケア信条で唱えられるように、父、御子、御霊の三位一体の神以外のものは全て、見えるものも見えないものも全て被造物です。被造物である人間が拝むべきものは被造物ではなく、造り主の神でなければならないというのが神の意思です。人間は自分の造り主である神を拝み、神に祈り求め感謝を捧げなければならないということです。

亡くなった人を自分の運命を左右するもののように祈ったり拝んだりしてはいけない、眠っているのを起こしてコミュニケーションを持ってはいけない、と言うと、亡くなった人と無関係になれと言うのか?キリスト教は亡くなった方に思いやりがないのではないか?それは違うと思います。まず、亡くなった人の霊を拝まないからと言って、亡くなった人の思い出を抹消するということではありません。その方と共に過ごした日々とその方そのものを与えて下さったのは神ですから、そのことを神に感謝しなければなりません。神に感謝する位にその方やその方との思い出は大事なのです。加えて、キリスト信仰には復活信仰があります。それで、復活の日に再会できるという希望を持つことになります。再会させてくれるのは他ならぬ神なのだから、その神への信仰をしっかり守ってこの世を生きよう、ということになります。このように天地創造の神を介して、亡くなった方との思い出を宝物のように大切にし、復活の日にその方と再会できるという希望を持って生きる、ということです。亡くなった人を思いやらないとかないがしろにしている、ということはないと思います。生きている時と同じくらいに愛していると思います。

ところで、もし万が一、眠っているはずの方が目の前に現れるようなことが起きたらどうしたらよいか?その場合は天のみ神の方を向いて、その方が安らかに眠れるようにして下さい、眠れない原因があれば、あなたが解決して下さい、と神にお願いするだけです。天地創造の神をしらないと、亡くなった方とコミュニケーションを始めてしまう危険があります。それは、その方を眠らせないことにもなってしまい、双方にとってよくないと思います。

 もっと難しい疑問も出て来ます。亡くなった人がイエス様を救い主と信じないで亡くなってしまったら?その方と復活の日に再会したいと思っても、イエス様を信じなかったので再会できないのか?ここで一つ思い出してよいことは、イエス様と一緒に十字架にかけられた強盗が最後の一瞬にイエス様に信仰を告白して天国に入れたということです(ルカ23章40~43節)。私たちは、亡くなった方が生前イエス様をどう思っていたか、何も聞いていなくても、神が聞いたことがあるかもしれないからです。だから、周りの人にイエス様のことを伝えることは大事です。いずれにしても、この問題はもう全知全能の神に全てを委ねて、全てをご存知である神が下される決定は正しいものとして受け入れるしかないと思います。再会できなかったら、それも受け入れなければならないのか、と不満になる向きもあるかもしれません。しかし、今の段階ではどうなるかわからないのですから、ぐずぐず言っても始まらないと思います。「御心に適いましたら再会できるようにして下さい」と父なるみ神に毎日お祈りします。

他にも難しい疑問がいろいろあるのですが、今回はここまでにします。ただ他の疑問と言っても、基本は同じです。キリスト信仰では亡くなった方を覚えるというのは、天地創造の神を介して行うということ。神を介して覚えると、一方では亡くなった方との思い出を宝物のように大切にし、他方では復活の日の再会の希望を神に祈り願いながらこの世を生きることになるということ。亡くなった方とコミュニケーションは取らないということ。つらい寂しい日々になるかもしれませんが、父なるみ神と向き合って、神とコミュニケーションを取りながらこの世を生きていくということです。本日の聖書の日課は、神と向き合うことと、神とのコミュニケーションについて教えています。それを見ていきましょう。

 

3.死に対する勝利

 本日の福音書の日課にあるイエス様の言葉は、彼が十字架にかけられる前日に弟子たちに対して述べた長い教えの一部です。これから十字架の受難を受けるが、三日後に死から復活させられるということを間接的に話します。直接的に言っても出来事の意味は理解されないだろうから、イエス様はそういう話し方をしました。イエス様が死に引き渡されて皆が悲しむ時が来るが、それは母親が赤ちゃんを産む時の最初の不安や痛みと同じである。しかし、赤ちゃんが生まれたら全てが喜びに変わる。それと同じことが起こると言って、受難の後に必ず復活の喜びが来るということを述べます。しかも、その日からは弟子たちはもう、イエス様の名前を引き合いに出して神に直接お願いしてもいいことになる(ヨハネ16章26節)。これらを聞いた弟子たちは、何か大きなことが起こることだけはわかり、イエス様が父なるみ神から送られた方であるのは間違いない、それを信じます、というところまで来る。しかし、なぜイエス様が父なるみ神のもとからこの世に送られてきたか、その目的まではまだわかりませんでした。

このことがわかるようになるのは、十字架と復活の出来事が起きた後でした。弟子たちは、イエス様が人間の罪を全部十字架に背負って運び上げ、そこで罪の罰を受けて身代わりの死を遂げたことを理解しました。それだけではありません。本日の旧約の日課にあるヨナの祈りで言われるように、イエス様は死んでから3日後に陰府の中から引き上げられて、死から復活させられます。ここで死を超える永遠の命があることが示され、その扉が人間のために開かれました。人間は、これらのことは全て自分が罪の呪いから救い出されるために神がひとり子を用いて行ったのだと分かって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ、イエス様の犠牲に免じて罪の罰を受けなくてすむようになったのです。万が一罪を犯すことがあっても、その時はイエス様の十字架のもとに立ち返って、父なるみ神よ、イエス様の犠牲に免じて罪を赦して下さい、と祈れば、神の方で、我が子イエスの犠牲に免じて赦す、もう罪を犯してはいけない、と言って赦して下さるのです。このように人間は、イエス様を介して天地創造の神に向き合うことができるようになったのです。

イエス様を救い主と信じる信仰にとどまり、罪の赦しの恵みにとどまる限り、人間を復活の命に入らせないようにしようとする罪の力は力を失っています。本日の使徒書の日課である第一コリント15章55節で、死はその勝利ととげを失ったことが言われています。死の勝利とは、人間を復活の命に入らせないことです。死のとげですが、とげというのは原語のギリシャ語(κεντρον)では剣先も意味します。死の剣先とは、死が勝利を収めるために必要な武器です。つまり、死は勝利を得させる剣先も失っているのですが、その剣先とは罪であると言われています(56節)。罪とは、死が人間に対して勝利して人間を復活の命に入らせないようにするための武器なのです。そして、その罪は律法の掟があるゆえに罪として明るみに出て力を発揮します。使徒パウロがローマ7章で述べるように、「律法が『むさぼるな』と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかった」のですが、「罪は掟によって機会を得、あらゆる種類のむさぼりをわたしの内に起こし」た、ということが起こります。これが、律法は罪の力と言われる所以です(56節)。

ところが、律法を通して明らかにされる罪は全部、イエス様の十字架と復活のゆえに神の赦しの対象となってしまいました。それで罪は、イエス様を救い主と信じる者に対してはもう人間を復活の命に入らせないようにする力を失っているのです。本当にイエス様の十字架と復活は、罪と死に対する大勝利を人間にもたらして下さったのです。イエス様を救い主と信じる信仰のおかげで、私たちはイエス様のもたらした勝利に与ることができ、また父なるみ神に向き合うことができ、イエス様の名前を通して祈り願うことを全て神に聞いてもらえるのです。

 4.死を踏み越える祈り

 旧約聖書の日課はヨナの祈りです。海に放り投げられたヨナは、三日三晩、大魚の腹の中に閉じ込められます。そこでのヨナの祈りは、死を目前にした者が最後まで神を信頼して助けを求める祈りです。まさに極限的な状況の中での神とのコミュニケーションです。どんなコミュニケーションかみていきましょう。

祈りの冒頭をみると、「苦難の中で、わたしが叫ぶと主は答えて下さった」と過去形になっています。まだ助かる前の段階なのに、もう「答えて下さった」と言うのは少し変な気がします。大魚の腹から吐き出された後に言えば、すっきりするのに。これは、原文のヘブライ語の動詞が完了形をとっているからですが、文法書によりますと、こういう散文体の文章では完了形は現在の意味や習慣的な意味に訳してもよく、ここは「主は答えて下さる」とか「答えて下さる方」というふうに、神は普段からそういう方なのだ、と神に対する不断の信頼を表明していると理解してよいです。フィンランド語の聖書もここは現在の意味で訳しています。

この後も現在の意味で訳していいのか過去の意味で訳していいのか、やっかいなのですが、ここでは訳し方の基準として、この祈りがどんな構成で出来ているか、それをもとにして決めていこうと思います。どんな構成かというと、出だしで、神は答えて下さる方、声を聞いて下さる方です、と信頼を表明する。その後は、刻々と死が迫ってくる絶望的な状況が描かれて行きますが、途中それを遮るように神への信頼が何度も表明され、絶体絶命の描写と神への信頼の表明が交互に繰り返されて、最後に「救いは、主にこそある」と信頼の表明で結ばれる、そういう構成です。 

ここで一つ注釈しなければならないことがあります。それは、5節「わたしは思った あなたの御前から追放されたのだと。生きて再び聖なる神殿を見ることがあろうかと」とありますが、最後の文「生きて再び聖なる神殿を見ることがあろうかと」というのは、絶望状態を表わしています。ところが、ヘブライ語の原文の権威ある読み方をみると、ここは全く逆の意味で「しかし、私は聖なる神殿を再び見ることになる」と未来の確信を表わしています。どうしてこんな正反対の訳が出て来るかと言うと、ヘブライ語のテキストの欄外に「このような読み方もできる」とあって、日本語訳はそちらを採用したからです。スウェーデン語の聖書もそうでした。私は欄外の文ではなく、本文のテキストに基づこうと思います。フィンランド語と英語の聖書も本文のテキストに基づいて未来の確信を表わす訳です。

そこで、この祈りを概観すると、次のようになります。

- (神への信頼の表明、3節)神は、私が苦難の中にある時、私の叫びに答え、私の声を聞いて下さる方である。

- (絶望的状況、4~5節前半)神は私を海に投げ込まれた。私は沈んでいく。私は神の御前から追放されたのだ。

- (希望の表明、5節後半)しかし、私は再び聖なる神殿を見ることになろう。

- (絶望的状況、6~7節前半)大水が喉に達しようとする。深淵に飲み込まれ、水草が頭に絡みついた。私は地の底まで沈んでしまった。

- (信頼の表明、7節後半)しかし、あなたは私を陰府から引き上げて下さる。- (絶体絶命の状況の中での信頼の表明、8節)息絶えようとする時、私は主の御名を唱えた(זכר主のことを考えた、思い出した)。私の祈りはあなたに届く。

- (信頼の表明、9~10節)偶像崇拝する者たちが神への忠誠を捨て去ろうとも、自分は神に誓ったことを果たし忠誠を貫くことに何の変更もない。この絶体絶命の状況にいてもそうである。なぜなら、救いは、主にこそあるからだ!

この後、神は大魚に命じてヨナを陸地に吐き出し、ヨナは助かります。私たちも、危機的な状況、絶体絶命の状況に陥ったら、このように祈りましょう。神に対して、自分がどんな苦しい状況に置かれているか報告すると同時に、神を信頼していることも表明します。ところで、ヨナの場合は奇跡的に助かりましたが、もし奇跡が起きず助からなかったら、祈りは無駄になるのでしょうか?そうではありません。実はこの祈りは、死からの復活の祈りでもあることに注意しましょう。7節で神は滅びの穴から引き上げて下さる、と言われますが、「滅びの穴」(שחת)は陰府と同義語です。ヨナは死ななかったので陰府には行きませんでしたが、イエス様は十字架の死の後、復活されるまで陰府に下りました。本当に死なれたのです。そして本当に死から復活されたのです。イエス様はこのことを「ヨナの印」と言っていました(マタイ16章4節)。

このように、ヨナの祈りは、生きて助かる場合もあれば、この世から死んでも復活して助かる場合もあります。だから、ヨナのように祈ること、つまり苦しい状況を神に報告しつつ信頼も表明する祈り、これをすれば、場合によってはヨナのように生還するかもしれないし、場合によっては死から復活して神の御許に引き上げてもらえるかもしれないが、どちらかが必ず起こるのです。

 最後に、ヨナのような祈りをする時、「救いは、主にこそある」と言ったら、「イエス様の御名を通して祈ります。アーメン」で結ぶべきと考えます。ヨナの時は、まだイエス様が来られる前の時代なので御名に依拠することはないですが、十字架と復活の出来事の後は、人間はイエス様を通して天地創造の神と向き合えるようになったのですから、御名を付け加えるべきでしょう。このような祈りは、祈る人が死を踏み越えて行ける祈りになるでしょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         
アーメン


主日礼拝説教 2016年11月6日(全聖徒主日)

 ヨナ2章1~10節、第一コリント15章50~58節、ヨハネ16章25~33節

説教「『信仰浄化』としての宗教改革」神学博士 吉村博明 宣教師

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.宗教改革をどのように考えたらよいか?

 本日はキリスト教会のカレンダーでは聖霊降臨後第24主日と定められている日ですが、ルター派教会のなかでは宗教改革主日とも定められています。今から499年前の1517年、ドイツ東部の地方都市ヴィッテンベルグの大学の神学教授であったM.ルターが当時のカトリック教会のあり方に疑問を呈して公開討論を求めて95箇条の論点を公表、これがきっかけとなって、その後「宗教改革」と呼ばれる世界史的な出来事に発展していきました。論点を公表した日がその年の10月31日だったため、その日に近い主日が宗教改革主日に定められているわけです。よく言われるようにルターが95箇条の論点の紙を本当にヴィッテンベルグの教会の扉にくぎ打ちしたのかどうかは、歴史的事実として確定されていないようです。ルターの肖像画を描いたことで有名なルーカス・クラナハという画家がおりますが、今ちょうど上野の国立美術館で展覧会をやっております。彼のルターの肖像画はどれをみても自信満々というか、ふてぶてしい顔つきをしていて、この男ならくぎ打ちくらいやったのではないかと思わせます。今手元にフィンランドの聖書日課がありますが、その表紙はクラナハが描いたルターの肖像画です。こんな顔です。いずれにしても、少なくとも10月31日の日付で95箇条を大司教宛てに送付していますので、この日が宗教改革の発端というのは間違いないでしょう。来年は500年を迎えることになります。

ルターが問題として提起したことは、世界史の教科書にも出て来るのでよく知られていますが、当時のカトリック教会が実施していた、いわゆる免罪符、難しい言葉で言えば贖宥状の制度でした。お金を出してこれを購入すれば犯した罪に対する神の罰を免れるというものです。しかし、問題は免罪符という一つの制度の是非にとどまりませんでした。論争は、そのようなものを生み出した教会の聖書の理解とか罪や救いについての考え方、教会や教皇の権威についての考え方、さらにはそうしたもの全ての土台にある神学や哲学という根本的なところにまで広がりました。さらに、ルターを支持するか反対するかということが単なる神学的な意見の相違に留まらず、当時のドイツやヨーロッパの社会や政治状況とも絡み合って、ヨーロッパ全体を揺るがす宗教、思想、政治、社会に及ぶ大変動が起こったのであります。

その結果、ヨーロッパのキリスト教世界がカトリック教会の一枚岩ではなくなり分裂していきました。ヨーロッパのキリスト教世界は既に11世紀までに、西方教会と呼ばれるカトリック教会と、東方教会と呼ばれ後のギリシャ正教、ロシア正教になっていく教会が東西二つに分裂していました。それが今度は西のカトリック教会内部で分裂が起こったのです。ルターが95箇条の論点を掲げてから100年以内には、地域的に大ざっぱにみて北部ヨーロッパはルター派、中南部はカトリック、イングランドは英国国教会、オランダや中部ヨーロッパの一部はカルヴァンの宗教改革に由来する改革派教会に色分けされ、その他に再洗礼派と呼ばれる教会が各地に点在するという状況になりました。

ヨーロッパ全体を揺るがす宗教、思想、政治、社会に及ぶ大変動が起きたと言う時、それぞれの領域でどんな変動が起こったかを話すことは西洋史の専門家に任せなければなりません。ここでは一つだけ、宗教改革の後世に対する影響の中で洋の東西を問わず重要な意味を持つものについて述べてみたいと思います。ルターは、当時の神聖ローマ帝国の帝国議会に召喚され、居並ぶ権力者たちの前で自説を撤回するように求められました。その時ルターは、自分の良心は神の御言葉に結びつけられている、神の御言葉に照らして明らかに間違っているのならば話はわかるが、そうでない以上は撤回などできない、と言って拒否しました。その結果、ルターは国内での法律上の一切の権利や保護を失います。このように、人間には権力者が曲げようとしても曲げられないものがある、それがたとえ命を失う危険を伴ってもやはり曲げられない、そういう崇高なものがある、ということをルターは身をもって示しました。この事件がもととなって後に「良心の自由」と呼ばれる人権の一つの要が出てくるのです。

 このように「宗教改革」と呼ばれる出来事は、宗教以外の領域にも大変動をもたらしたのですが、宗教の領域に限ってみて、どんな改革だったかを考えてみます。「宗教改革」は英語、ドイツ語、スカンジナヴィアの言語ではみな同じ言い方をします。Reformationです。フィンランド語では一風変わっていてuskonpuhdistus「信仰浄化」という言い方がされます。Reformationという言葉をみてみますと、formation「形作ること、形成すること」に「し直す」の意味を持つreがつきます。「形作り直すこと、形成し直すこと」です。

それではキリスト教の何をどう形作り直す、形成し直すのかというと、以下のようなことです。カトリック教会はもともとは使徒的な信仰を守り受け継ぐ教会として出発しました。ところが時代の変遷と共に聖書に基づくとは言えない制度や慣行も生み出されて伝統化していき、免罪符はその最たるものでした。ルターが行おうとした改革運動は、そういう聖書に基づかないで人間が編み出したものを捨てて、ただ神の御言葉である聖書のみに権威を認めて、その下に教会を成り立たせようとするものでした。これがキリスト教とその教会を形作り直す、形成し直す、ということです。フィンランド語で宗教改革を「信仰浄化」というのは、まさに神の御言葉にのみ権威を認めて、聖書に基づかないで人間が編み出したものを捨てていくという面を前面に出していると言えます。

一般には「改革」という言葉は、過去の古いものをやめて新しいものにとって替えて時代の要請に応えられるようにするという理解がされると思います。日本語で行政「改革」とか教育制度「改革」という時、それを英語に直すとreformを使います。そういう政治的社会的な「改革」は、reformationを使わずにreformを使うのです。ところが宗教「改革」はreformではなく、reformationです。注意が必要です。日本語で同じ「改革」という言葉を使うからと言って、政治的社会的な改革と同じように考えてはいけません。ルターの行った宗教改革とは、ただ単に過去の古いものをやめて新しくして時代の要請に応えたというような改革ではなかったのです。前にもみましたように、ルターの場合は、まず聖書という過去に成立した根源的な権威に立ち返り、聖書に基づかないで人間が編み出したものを捨てていく、そのようにして聖書の権威に立ち返ろうとする時にそれを邪魔するものを打ち破っていく、その結果として時代の行き詰まり状況を打ち破って新しい地平線が開けた、これがルターの改革の本質ではないかと思います。このように宗教改革は「改革」とは言いつつも、根源的な権威に立ち返るという方向性があります。ルターは聖書を研究する際には新約聖書はギリシャ語、旧約聖書はヘブライ語の旧約聖書を用いましたが、根源的な権威に立ち返ろうとすれば原語にあたろうとするのは当然のことでしょう。そういうわけで、もしキリスト教会が人間の編み出したものに縛られ出した時には、使徒的な信仰を守りギリシャ語とヘブライ語の聖書に依拠する者は宗教改革を起こせる可能性を持っていると言うことができます。

 

2.ヨシア王の「信仰浄化」

 以上、少し長くなりましたが、宗教改革というものをどのように考えたらよいかということを述べました。本日の聖句の解き明しに入ろうと思います。本日の旧約聖書と福音書の日課をみますと、双方ともそれぞれの仕方で「信仰浄化」が面がみられ、ある意味で宗教改革的な出来事と言えます。

まず、旧約聖書の日課はユダ王国のヨシア王の時代の出来事です。イエス様の時代より約650年前、私たちの時代から約2650年前のことです。ちなみに宗教改革は、イエス様の時代から約1500年くらい後に起きました。ダビデ王、ソロモン王のイスラエル王国が南北に分裂して出来た北王国がアッシリア帝国に滅ばされて100年位たっていました。南のユダ王国は信仰ある王ヒゼキヤのもとでアッシリア帝国の攻撃を防ぎましたが、その次のマナセ王が天地創造の神を離れて異教の神々を崇拝し出し、国は宗教的にも政治的社会的にも神の意思に反することばかりとなってしまいました。このマナセ王の大罪のゆえに神はユダ王国も見捨てると決定しました(列王記下23章26節、24章3節)。どのように見捨てるかと言うと、アッシリア帝国の後に興ったバビロン帝国を罰を下す手段にして、これにユダ王国を滅ぼさせるというものでした。この罰はマナセ王の100年程あとに実現します。ユダ王国は滅ぼされ、その主だった人たちは捕虜としてバビロンに連行されました。これは歴史上、実際に起きた事件です。

さてマナセ王の大罪ですが、その次のアモン王も偶像崇拝をやめませんでした。ところが、その次に王位を継いだヨシアは祖父と父親の偶像崇拝に倣おうとせず、天地創造の神に立ち返ろうとしました。ある日、エルサレムの神殿の改修工事に携わる者たちの給与問題を解決するために書記官シャファンが神殿に派遣されました。神殿の大祭司ヒルキヤが神の律法の書物を発見したと言って、それをシャファンに渡します。律法の書物とは、モーセ五書の原型のようなものだったと考えられます。シャファンはそれを持ち帰って、ヨシア王に読み聞かせました。王は大変な衝撃を受けました。そこに書いてあったのは、天地創造の時から最初の人間の堕罪、そこからアブラハムをはじめとする家父長たちの出来事、さらにイスラエルの民のエジプト脱出からカナンの地への移住の出来事ですが、それはただ単に歴史の流れの記録ではなく、いたるところに神の意思と掟が詳しく記されていました。ヨシア王は、神に選ばれた筈のイスラエルの民がどれだけ神の意思に反してきたか思い知らされました。しかも書物には、神の意思や掟に反すれば何が起きるかについてもちゃんと記されていました。神の罰としてイスラエルの民が他国に滅ぼされて強制連行されてしまうということです(申命記28章)。

 ヨシア王は家臣を女預言者フルダのもとに送って、神の罰を避けるために何をなすべきか、ということについて神の意思を尋ねさせます。残念ながらユダ王国に降りかかる災難は変更されないことが明らかになってしまいました。ただヨシア王が神に立ち返る心を持ったことは受け入れられて、災難はヨシア王の時代には起こらないことになった。これが、ヨシア王が神からかけてもらった憐れみでした。

ヨシア王は、ユダ王国の運命はもう変えられないとは知りつつも、それはそれとして、やらねばならないことは結末がどうであれやらねばならないこととして、偶像廃棄の大改革を始めます。それは本日の日課の後の23章に記されています。そこを読んで驚かされるのは、ユダ王国全土にはいかに異教の神を祀ったり生け贄を捧げる場所が沢山あったかということです。そればかりではありません。エルサレムの神殿にも異教の神々の偶像が設置されていたのです。アシェラ像というのが何回も出て来ますが、これはカナンの地の神バールの妻の女神で農作物に豊作をもたらす神として信仰されていました。イスラエルの民がカナンの地に入った時は牛や羊を引き連れる牧畜の民でしたが、定住が進んで農耕を始めると、このカナンの豊穣の神が身近に感じられるようになったと思われます。列王記下23章にもあるように、アシェラ女神崇拝には神殿男娼もつきものだったというから、おぞましい限りです。そのようなものが国中に蔓延していたのです。ヨシア王はこれらを次々と破壊し、ユダ王国を天地創造の神に立ち返らせようとしました。しかしながら、このヨシア王の宗教改革は一代限りでした。ヨシア王の後を継いだ王たちは皆また偶像崇拝に戻ってしまいます。

このようにヨシア王は、根源的な律法に立ち返って国や社会を天地創造の神の意思に沿うものに戻そうとして、偶像という人間が編み出した被造物の崇拝対象を廃棄しようとしました。この意味でヨシア王は信仰の浄化に努めたということができます。しかし、それでも神が既に定めた国や民族の運命を変えることはできませんでした。神が王に憐れみをかけたのは、せいぜい王が自分の国の滅亡を目にしないで、それが起きるのは王がこの世を立ち去った後になるということでした。それでは、なぜ神はかける憐れみをもう少し大きくして民全体に対する罰を撤回するところまで行かなかったのでしょうか?神は、マナセ王の大罪がイスラエルの民の運命を決した、ということに固執するかのようです。ヨシア王のように律法に徹底して立ち返るということをしても、せいぜい災難の時期を後ろにずらすだけでした。一度燃え上がった神の怒りは、律法の掟を一生懸命守っても静められないのです。これは、人間は律法の掟を守ることによって神に「よし(義)」と認められないし、救いも受けられないということを示しています。人間が神に「よし(義)」と認められて救いを受けられるためには、神のひとり子イエス様がこの世に送られるのを待たなければなりませんでした。

ところで、イスラエルの民は罰が確定されてしまい、バビロン捕囚に陥りますが、まさにその捕囚の時に人間の救いの道筋が示されるということが起こりました。ダニエルの出来事と預言がそれです。バビロン捕囚が起きたからこそ、ダニエルが登場して、彼が異教の王たちの前で行った力強い信仰告白を私たちは聞くことができます。また「人の子」と呼ばれる救世主の到来や死からの復活が起きるという預言もダニエルを通して聞くことができます。神の罰としてのバビロン捕囚が起きなかったならば、ダニエルの信仰告白も預言も生まれなかったのです。

そういうわけで、神はダニエルを通して救世主の到来や死からの復活について人間に伝えさせるために、バビロン捕囚を実行したとさえ言えます。このように神の歴史運営というのは、一見して人間の救いにとって無意味に見える出来事を用いて意味あるものに変えるということもされるのです。本当に人智を超えた全知全能の神ならではの業です。ダニエルの他にも、神は自分が罰したイスラエルの民を見捨ててはいないことを示すために、今度はペルシア帝国にバビロン帝国を滅ぼさせて民がユダの地に帰還できるようにする憐れみを示します。これは出来事が起きる前にイザヤ書などの預言書にて預言され、実際に実現したのです。

 

3.イエス様の「信仰浄化」

 次に福音書の日課は、エルサレムに乗り込んだイエス様が神殿で商売をしていた者たちを荒々しく追い出すという出来事です。これは一見すると、イエス様は神殿から商売とか金銭のようなものを排除して、神の崇拝を清らかなものにしようとしているように見えます。しかし、実はそうではありません。神殿での崇拝を清めようとしているのではなく、神殿での神の崇拝自体を止めさせようとしているのです。それがわかるために、神殿で行われていた商売は、実は神殿での崇拝をスムーズにするためのものだったことに注意しましょう。商売人たちは、ただ単に金儲けのために売っていたのではないのです。エルサレムの神殿にお参りに来る人たちは、地中海世界各地のユダヤ人であったり、多神教的なギリシャ人、ローマ人だったりしました。彼らのお参りの便宜を図るために、両替をしたり、神殿に捧げる犠牲の生け贄の動物を売っていたのです。まさに神殿での崇拝の運営をスムーズにさせるものでした。

神殿から商売人を追い出したイエス様の意図は、神殿で動物の生け贄を捧げて罪を赦されるという崇拝の形式はもう歴史的使命を果たしたということを表明する行為だったのです。神から罪を赦されるためには神殿で生け贄を捧げることを毎年繰り返さなければなりませんでした。もうすぐ罪の赦しのために一回限りですむ犠牲の生け贄が供される。神と人間の間に何か決定的なことが起きる。その一回限りの犠牲の生け贄がイエス様だったのです。これから罪の赦しのために捧げられる生け贄は、毎年繰り返して捧げるような効力が一時的なものではない。一回限りの犠牲で十分というくらい永久保証が効いています。それくらい神によしと認められる神聖な犠牲が捧げられる。捧げられた後は、今やっている神殿での崇拝はもう用を足さなくなるというくらい神聖な犠牲が。

そもそも神殿で罪の赦しを得る崇拝が行われてきたのは、将来の本番に備える予行練習のようなもので、本番とはイエス様がゴルゴタの丘の十字架にかけられて自分を犠牲に捧げた時のことでした。本番が成し遂げられて、もう予行練習は必要なくなりました。それでイエス様は、今ある神殿を壊してみよ、自分は三日後にそれを立て直す、と言われたのです。壊してみよ、というのは、もう動物の生け贄のような身代わりになるものを捧げて自分の罪の赦しを得ようとするやり方は終わったのだ、神殿は歴史的使命を果たしたのだ、ということです。三日後に立て直す、というのは、十字架の上で死んだイエス様が今度は神の力で三日後に復活させられることを指します。ユダヤ人たちは、このメタファーを理解せず、文字通りに受け取って少し滑稽ですが、復活させられたイエス様が私たちを罪の支配状態から解放して下さる、その意味でイエス様がまことにもって神殿の機能を果たすのです。

神から罪の赦しを得られて、罪の支配状態から解放されるには、神のひとり子の神聖な犠牲で十分でした。そのひとり子を自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、それで神から受ける罪の赦しは効力を持ち、その人は罪の支配状態から解放され、堕罪の時以来失われていた神との結びつきを回復させることができます。これらのことは、本当に神のひとり子の犠牲で十分なのです。あとのことは罪の赦しに関係のない余計なことです。神に認められようとして人間が自分で何かをしようとするのは余計なことです。何度でも申しますが、イエス様が全部して下さったので、人間が神との結びつきを持って生きられるためには、イエス様の犠牲を受け入れて、彼を救い主と信じれば、それで十分なのです。その他のことは余計なことですので、排除されるべきものです。ここに文字通り信仰浄化があります。

イエス様の十字架での死とは人間の罪をすべて償うために捧げられた犠牲なのだ、とわかり、それでイエス様は私が神の罰を受けないですむようにして下さったのだとわかって、それで彼を救い主と信じて洗礼を受けると、本当にその人にとって罪の償いがその通りになります。それでその人は神の罰を免れるようになり、永遠の滅びに陥らないようになって永遠の命を持てるようになり、罪と死の支配状態から解放されます。イエス様が十字架の上で流した血を代償にして、私たち信仰者は罪と死の支配状態から買い戻されて自由の身にされました。もう何も恐れるものはありません。確かに、周囲には怖いものがあるかもしれませんが、神にこれだけ目をかけられ愛されていることがわかれば、その怖いものは一体何であろう。そうしたものはあなたにとって神でもなんでもありません。あなたの神は、ひとり子イエス様をあなたに贈られた方以外にはいません。それをいつも自分に言い聞かせるべきです。

ところで、洗礼を受けて罪と死の支配状態から解放されたと言っても、罪の思いを持ってしまうことはあるし、場合によっては罪が行為にまで現れてしまうこともあるかもしれません。しかし、その時はすぐ心の目をゴルゴタの十字架に向けるべきです。あなたの罪はあのお方の肩の上に重々しく圧し掛かっている。あなたの肩には圧し掛かっていない。そのように神は罪を移動させて下さった。神に赦しを乞えば、神は、ひとり子の犠牲の死に免じて赦してあげよう、と言ってすぐ赦して下さり、もう罪を犯さないように、と優しく言って下さる。このようにイエス様を救い主と信じる信仰にとどまる限り、罪の力、永遠の命に入らせないようにする死の力は無力化しているのです。

 こうして神の愛がどのようなものかがわかって神への感謝の気持ちに満たされたあなたは、神がおっしゃられるように、神を全身全霊で愛そう、隣人を自分を愛するが如く愛そう、という心になっていきます。それが、本日の使徒書の日課にある「愛の実践を伴う信仰」(ガラテア5章6節)ということです。ギリシャ語の原文では「愛を通じて作用する信仰」、少し言い過ぎになるかもしれませんが、「愛を通して生きたものになる信仰」です。イエス様を救い主と信じる信仰から愛が始まって、その愛が信仰を生きたものにします。このように信仰と愛はしっかり結びついています。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン


2016年10月30日の聖書日課
列王記下22章8-20節、ガラテア5章1-6節、ヨハネ2章13-22節

説教「正義は祈る側にあり」神学博士 吉村博明 宣教師、ルカによる福音書18章1-8節、創世記32章23~31節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

  本日の説教は福音書の日課に基づいて行おうと思う者ですが、旧約の日課にも注意したいことがあるので、最初そちらを見ていきます。旧約の日課は、ヤコブのペヌエルでの格闘の出来事です。

 この出来事は私たちの理解を超えることがいろいろあります。一番のものは、ヤコブが格闘した相手が天地創造の神であったということです。神が人間と取っ組み合いをするような形をしているということです。神が人間の形をとったと言えば、私たちはイエス様のことを思い浮かべます。それで、ヤコブと格闘したのはイエス様が乙女マリアから生まれる以前に地上に現れたとみる人もいると聞いたことがあります。もちろん、父、御子、御霊の三位一体の神は天地創造の前から存在していたというのがキリスト信仰の立場ですので、御子イエス様もマリアから生まれる以前に存在していたことになります。しかし、やはり肉体を受けて人となってこの地上に来られたのはマリアの時ですので、ペヌエルの時はイエス様ではないでしょう。

Someone came and wrestled with him all night (1984 illustration by Jim Padgett, courtesy of Distant Shores Media/Sweet Publishing)

 それでは、神の御使い、天使か?天使も私たち人間と同様に被造物で、人間のような姿かたちをして現れることが聖書のなかによく出て来ます。出エジプト記3章で、モーセが燃える柴のところで神と出会う時、最初に御使いが登場します。それと重ねてみると、ペヌエルの時、神は天使にヤコブと格闘させて、自分は近くでご覧になっていたと考えることも可能です。しかし、神が「お前は神と人と闘って勝った」と言っているのを聞くと、天使に格闘させたというより、やはり直接相手になったのではないかと思われます。創世記1章で言われるように、神は御自分にかたどって人間を造られたことを考えれば、人間と取っ組み合いをする形をしていてもおかしくないことになります。しかしながら、イザヤ書6章で預言者イザヤがエルサレムの神殿で神を目撃した時、それは明らかに取っ組み合いをするには大きすぎる大きさです。神はこの地上に姿を現す時は、大きさを自由に変えられるということでしょうか?これ以上詮索すると、私たちの想像を超えた神を私たちの想像の中に押し込めてしまうことになるのでやめておきます。被造物の分際で神がどんな姿形をしているかわかったなどと言うと、今度は何か像を造って拝むことをはじめかねません。天地創造の神を、私たちの想像を超える方にとどめておきましょう。そのかわりに、本日の箇所が教えようとしている大事なことをみていきましょう。

この箇所の大事な教えは、神を信じ信頼する者は、神にとことんしがみつきなさい、ということです。たとえ神の方が「もう離せ」と言っても、ヤコブのように「離しません」と言ってしがみつかなければならないということです。神も実はそれを望んでおられ、信じる者がしがみつくかどうか試されるということです。神はしがみついて離さないヤコブに祝福を与え、この後ヤコブは自分が最も恐れていた兄エサウのもとに向かいます。この神にとことんしがみつくことの重要さは本日の福音書の日課にもつながっていきます。神に対して祈りを絶やしてはいけない、ということです。

もう一つ大事な教えは、ルターも述べていることですが、神は私たちの叫ぶような祈りを聞いても、すぐに楽にしてくれるとは限らない、場合によってはもっと厳しい状態に追い込むことがある、そのようにして私たちを試される、ということです。ヤコブは、兄の復讐を死ぬほど恐れていても立ってもいられないというくらいに追い詰められていました。その最中に、深夜に見知らぬ者といきなり格闘しなければならなくなってしまいました。神がこういうことをするのは、神を信じる者が自分の能力や理性に盲目的に頼るのをやめて、神が全てを取り仕切ることに委ねることが出来るようにするためです。人間の理性は、とかく問題の解決にあたって、いつ、どのようにして、誰の支援を通して、ということに心を集中させます。この時、神の働きは眼中になく、むしろ人間が考えたこと、いつ、どのようにして、誰の支援を通して、ということに神を従わせようとさえします。神はそういった人間的な予想や計画を超えた方であることを示そうとされます。それでそういったものを覆して、神以外に頼るものがない状況に人を追いやることさえします。ヤコブは格闘中に腿の関節がはずれてしまいますが、それでも神にしがみついて離れませんでした。その結果、神から祝福を受け、兄との運命的な再開に向かう準備が心身ともにできたのでした。

「神と人と闘って勝った」と言う時、「闘った」(サーラ―שרה)というのは、相手を滅ぼしたり叩きのめすような戦いではなく、競合関係にある戦いです。神に試されて、それを受けて立ち、最後はしがみついて祝福を受ける、これが「勝った」ということです。また、「人と闘った」と言うのは、「人」はヘブライ語で複数形なので兄エサウと伯父ラバンを指すと考えられます。ヤコブは神の言葉に従って、恩人の伯父のもとを夜逃げ同然で出発し復讐心に燃えている兄のいる故郷に戻ります。対立関係に陥った伯父とは後で和解します。兄エサウとは奇跡的な和解を果たします。これが「人と闘って勝った」ことです。

ヤコブの生涯の、この兄エサウのもとから逃亡して帰るまでの期間というのは、神の意思に従ったために余計な問題を抱えてしまうが、それでも神にしがみつくくらいに拠り頼み、最後は全ての問題が見事に解決するということがよく表れています。全知全能の父なるみ神が私たちにもこのようなしがみつく信頼と忍耐を与え、私たちを信仰において強めて育てて下さるように。

最後に、「神と人と闘って勝った」こととヤコブの名がイスラエルになったことの関係ですが、イスラエルというのは、「闘う」というヘブライ語の動詞(サーラ―שרה)のある形に神を意味する言葉(エールאל)が結びついて出来た言葉で、「神は闘う」という意味があります。ここからイスラエルという言葉が生まれます。ヤコブには12人の息子が生まれ、それが12支族のもとになります。

 2.

 それでは、本日の福音書の箇所の解き明しに入ります。イエス様の「やもめと裁判官」のたとえの教えです。初めに言われるように、この教えは弟子たちに語られますが、その目的は、弟子たちに「気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるため」でした。もちろん、これは弟子たちだけに向けられたのではなく、イエス様を救い主と信じる全てのキリスト信仰者に向けられています。つまり私たちにも向けられています。

なぜ、イエス様は、気を落とさずに絶えず祈ることの大切さを強調するのでしょうか?それは、弟子たちや私たちが、主に守られていると言ってもこの世の中でそう見えない厳しい現実に遭遇していくうちに、神に対して疑いを抱いてしまう。特に本日の箇所に即して言えば、不正や不正義がまかり通ってそれに対して何も成しえないことに次第に気を落として祈ることを止めてしまう、そういう危険があることをイエス様は知っていたからです。このことをイエス様が心配していることが、本日の箇所の最後の節で明らかになります。「しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」イエス様が天使の軍勢と共に地上に再臨される日、果たしてこの地上には、気を落とさず祈りを絶やさない信仰を持った人は残っているのだろうか、それともみんな既に祈りを絶やしてしまった後だろうか、というのです。それほどキリスト信仰者は、厳しい現実に絶えず遭遇しながら生きていかねばならない、ということです。ここでは、イエス様の教えをじっくり見て、祈りは無駄に終わらない、ということを体得していきましょう。

 まず、登場人物をみてみましょう。裁判官は、「不正な裁判官」(6節)と言われています。この日本語訳は正確とは言えません。ギリシャ語のアディキア(αδικια)という単語がもとにありますが、「不正な」と訳すと、何か不正を働いた、私腹を肥やすようなことをしたというようなイメージが起きます。この裁判官が本当はどんな人物だったかは、本日の箇所にしっかり言い表されています。イエス様が彼のことを「神をも畏れず、人を人とも思わない」人物であると描写します(2節)。裁判官自身も、自分のことを全く同じ言葉で言い表します(4節)。つまり、「不正な」と言うより、人を人とも思わないから無慈悲、無情な人物、神を畏れないから尊大な人物と言えます。その意味で「不正な」と言ってもいいのですが、正確には「無慈悲で尊大な」裁判官です。

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次に「やもめ」、つまり未亡人について。伝統的にユダヤ教社会の中では、未亡人は社会的弱者の一つと認識され、彼女たちを虐げてはならないことが神の掟として言われてきました(出エジプト22章21節、申命記27章19節、詩篇68篇6節、イザヤ1章17節、ゼカリア7章10節)。夫に先立たれた女性は、もし十分な遺産がなかったり、成年の息子がいなければ、生きていくのは困難だったでしょう。遺産があっても、不正の的となって簡単に失う危険があったことが聖書の中から伺えます(例えばマルコ12章40節を参照)。

さて、裁判官と同じ町に住む未亡人が、何かの不正にあって、この裁判官にひっきりなしに駆け寄り、「相手を裁いて、わたしを守って下さい」としつこく嘆願します。ギリシャ語の原文に忠実に言うと、「相手を裁いて、わたしのために正義を実現して下さい(εκδικησον με)」です。裁判官は、最初は取り合わない態度でしたが、何度もしつこく駆け寄って来るので、しまいには「あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判してやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わせるにちがいない」と考えるに至ります。「さんざんな目に遭わせる」は、ギリシャ語では「目に青あざを食らわす」(υπωπιαζω)という意味の単語です。相手が裁判官で、そんなパンチを浴びせるなどという暴力沙汰になったら、大変な事態になります。しかしそれは、未亡人はもう他に何も失うものはないという位に切羽詰った状況にいたということです。「彼女のために裁判してやろう」というのも、これもギリシャ語に忠実に訳すると「彼女ために正義を実現してやろう」(εκδικησω αυτην)ということです。

ここでイエス様は弟子たちに注意を喚起して言います。この裁判官の言いぐさを聞きなさい。無慈悲で尊大な裁判官ですら、やもめの執拗な嘆願に応じるに至ったのだ。「まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。」ここで言う「裁きを行う」というのは、先ほどと全く同じように「正義を実現する」(ποιεω την εκδικησιν)です。「速やかに裁いてくださる」も同じ「正義を実現する」です。実にこの箇所では、日本語訳では見えてきませんが、「正義の実現」を意味する言葉が4回使われ、正義の実現と祈りの関係が問題になっているのです。

ここでひとつ注意したい言葉があります。それは「選ばれた者」です。誰のことを指すのでしょうか?イエス様を救い主と信じる信仰に生きる者、キリスト信仰者を指します。どうしてキリスト信仰者が神に選ばれた者になるのかというと、次のような次第です。人は信仰者になる時まず、自分は造られた存在だとわかり、造られた以上は造り主を持つ存在だとわかる。つまり、自分は化学物質の結合や反応の連鎖から偶然に発生して出来た合成物ではなく、明確な意思と考えを持った創造主がいて自分を造ったということがわかる。ところが、一歩進めて考えて見ると、造られた自分と造った方との関係が決して良い状態にあるとは言えないこともわかる。その原因が創世記の最初にある堕罪の出来事にあるとわかる。つまり、最初の人間が創造主に対して不従順になって罪に陥って以来、人間は神との結びつきを失ってしまったことがわかる。この世の人生の歩みで造り主との結びつきは失われたままで、この世から死んだ後も造り主のもとに戻る術もない。まさにこの事態を打開するために、創造主である神はひとり子イエス様をこの世に送られた。それは、人間の罪の罰を人間にではなく全て彼に負わせて十字架の上で死なせて、この犠牲に免じて人間を赦すことにしたからである。さらに、イエス様を死から復活させることで永遠の命への扉を人間に開かれた。このあと人間がすることと言えば、これらのこと全ては自分のために起こされたのだとわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ、この神が整えて下さった救いを受け取ることが出来る。こうして人間は、神との結びつきが回復した者としてこの世の人生を歩む者となり、順境の時も逆境の時も絶えず神の守りと良い導きを得ることができるようになり、万が一この世から死んだ後も、永遠に造り主のもとに戻ることができるようになった。

このように、イエス様を唯一の救い主と信じることで神の整えられた救いを受け取った者、これが「選ばれた者」です。

イエス様を救い主と信じる信仰に生きる者を「選ばれた者」と言うと、この信仰を持たない人たちは「選ばれない者」になってしまうのか、という疑問が起きます。今の時点で、信仰を持っていない人たちを「選ばれない人」と結論するのは早急です。なぜなら、今は信仰を持っていなくても、将来のある日、その人がイエス様を救い主と信じて洗礼を受けることになれば、「ああ、この人も実は『選ばれた人』だったんだな。あの頃は想像もつかなかったなぁ」ということになるからです。このように、私たち人間の目からでは全ては事後的にわかるだけです。それゆえ、現時点の観点で、「あの人は『選ばれた人』ではない」と結論づけることはできません。大切なことは、事後的に「選ばれた人」が一人でも多くでるように、私たちが福音のために働くということです。神がイエス様を用いて実現された救いは、世界の全ての人々に提供されているのですから、それを受け取る人が一人でも増えるように働くということです。

逆に、一度「選ばれた人」になった者が自動的に「選ばれた人」のままでいられるという保証もありません。「昼も夜も叫ぶがごとく神に祈る」キリスト信仰者にとって、祈りを捧げたり、求めることを打ち明けたり、助けを叫び求める相手と言えば、それはイエス様をこの世に送られた神以外にはいません。もし、信仰者がそれをしなくなって、例えば、神以外に祈りを捧げたり助けを求めたりする相手を見つけてしまうとか、または神などに祈り求めなくても自分で全て解決できると言って自分を神と同一視するようになってしまったりしたら、「選ばれた人」はもはやそうではなくなってしまいます。そういうわけで、「選ばれた人」とか「選ばれなかった人」というのは、本当に現時点で言えることではなく、ずっと先まで見て行かなければならないのです。イエス様を救い主と信じる信仰を持って最後まで生き抜くか、あるいはどんなに遅くても死ぬ間際までにイエス様を自分の唯一の救い主として受け入れられるか、それが「選ばれた人」の決め手になります。

 3.

 それでは、キリスト信仰者がこの世の厳しい現実に遭遇して気を落として祈ることを絶やしてしまう危険について、そしてそれを乗り越える仕方について見ていきます。本日の箇所では、正義の問題が中心にあります。この世に不正や不正義がまかり通り、信仰者もそうしたものを被ってしまうことがある。事態の打開や問題の解決を神に祈っても、なかなか改善がみられない、望み通りの解決が得られない時、いろいろな疑念が頭に浮かんできます。神はなぜこのような状態をほっておかれるのか?私の信仰に何か落ち度があって、それで罰として何もしてくれないのか?それとも、神は万能と言われるが実はそうではなかったのか?こういう疑いを持てば、神は罰するだけの怖い方と恐れてしまうか、または愛想を尽かして見切りをつけてしまうか、ということが起きて、神に背を向けてしまうことになります。かつて神に背を向けて生きていた私たちが神との結びつきを持てるようにしようと、神はせっかくイエス様を送って下さった。それなのに私たちの方で、試練にあったからと言って、いただいた結びつきを信じられなくなって、再び神に背を向けてしまうというのは情けないことです。まさに、本日の福音書の箇所の未亡人のように、また昼も夜も叫ぶようにして祈る信仰者のように祈らなければならないのです。そのような者に対して神は速やかに正義を実現される、とイエス様は約束しているのです。

 祈りを絶やさないという本日の課題を学ぶ上で、詩篇のはじめの部分はとても参考になります。そこでは、正義の問題が多くでてきます。ダビデが、敵対者に包囲され、窮地に陥る。敵対者は神を畏れない輩なのに、全てがうまくいき繁栄している。しかし、神を信じる自分の状態は悲惨そのものである。これほど正義からかけ離れた状況はない。しかし、神は「正しい裁判者」(שופט צדיק、7篇12節、9篇5節)なので、必ずこの状況を逆転させて、正義が実現するようにして下さる、そういう確信がずっと貫かれています。(本日の福音書の箇所に登場する「不正な/無慈悲で尊大な裁判官」(ο κριτης της αδικιας)は、「正しい裁判者」(שופט צדיק)である神と対比されたものであることは明らかです。)特に詩篇の10篇、13篇、22篇をみると、正義の祈りのサイクルがみてとれます。まず初めに、正義が実現されない状況について、「神よ、なぜ傍観しているのですか」という苛立ちの嘆きが述べられます(10篇1~11節、13篇2~3節、22篇2~3節)。次に、「神よ、どうか事態を打開して下さい」という嘆願になります(10篇12~15節、13篇4~5節、22篇20~22節)。そして最後に、「神こそが事態を打開し、正義を実現される方である」という確たる信頼が告白されます(10篇16~18節、13篇6節、22篇25~27節)。私たちも、祈りがなかなか答えられない状況にいる時は、このように苛立ちが含まれる素直な嘆きの祈りがあってもよいのです。ただし、そこからどう嘆願に戻り、さらに信頼の告白に導いていけるか、そこが大きな課題になります。

そこで、三週間前のルカ17章の「ラザロと金持ち」のたとえについて説教をした時に教えたことを思い出してみましょう。もし正義の実現が結果的に来世に持ち越されてしまうような場合であっても、この世にいる間は神の意思に反する不正義や不正には対抗していかなければならない。それでもし解決に至れば神に感謝だが、力及ばず解決に至らない場合もある。しかし、その解決努力をした事実は神にとって無意味でもなんでもない。神はあとあとのために全部のことを全て記録して、事の一部始終を細部にわたるまで正確に覚えていて下さる。たとえ人間の側で事実を歪めたり真実を知ろうとしなくても、神は事実と真実を全て把握している。そして、神の意思に忠実であろうとしたために失ってしまったものについては、神は後で何百倍にして埋め合わせて下さる。それゆえ、およそ、人がこの世で行うことで、神の意思に沿わせようとするものならば、どんな小さなことでも、またどんなに目標達成に遠くても、無意味だったというものは何ひとつない、ということです。

神は全てのことを一部始終細部にわたるまで正確に記録しています。だから、事の当事者であるキリスト信仰者は、神から絶えず目を注がれています。問題が起きて、最初の祈りがなされた瞬間からそうです。私たちの知りえない理由から、ある場合には早く解決を与えられるかと思えば、他方では時間がかかる場合がある。場合によっては来世に持ち越されることもある。しかし、いずれにしても、最初の祈りがなされた瞬間に問題の解決は神の保証付きになったのです。

そういうわけですから、兄弟姉妹の皆さん、いつ見える形で解決が与えられるかは神がよいように決めて下さると信頼して、私たちとしては、祈り始めた瞬間から問題は神の関心事になっているのだということを忘れないようにしましょう。だから、気落ちする理由はありません。私たちに背を向けない神に背を向けないためにも、祈りを絶やさないようにしましょう。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン


主日礼拝説教 2016年10月16日(聖霊降臨後第22主日)

説教「天地創造の神への感謝に生きる」神学博士 吉村博明 宣教師、列王記下5章1-14節、ルカによる福音書17章11-19節

  私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 1.

  本日の旧約聖書と福音書の日課に記された出来事は、前者がイスラエルの民の王国が南北に分裂した後の時代で、後者はイエス様がこの地上で活動された時のことで、両者は歴史的に800年くらいの開きがあります。この二つの出来事には共通点があります。まず、治る見込みのない重い皮膚病を患わった人が癒しの奇跡を受けたということが第一の共通点。それから、旧約の日課の中心人物ナアマンはアラム王国というイスラエル北王国の隣国の軍司令官、新約の日課に出てくるイエス様に癒しを受けて戻って来た人はサマリア人ということで、二人とも神の民に属さない異教徒です。(サマリア人がどれだけ異教徒と言えるかどうか議論が生じるかもしれませんが、少なくともユダヤ人からみたらそうなります。)そのような異教徒に属する者が天地創造の神から癒しの奇跡を受けたということが第二の共通点です。さらに、旧約の日課を本日の箇所よりも先まで読んでいきますと、癒しを受けたナアマンが天地創造の神に感謝の気持ちに満たされたことが言われています。イエス様から癒しを受けたサマリア人も同様でした。感謝の気持ちを強く表したということが第三の共通点。

 以上、不治の病を抱えた異教徒に属する者が天地創造の神から癒しの奇跡を受けて神に感謝の気持ちで満たされる、という共通点があることがわかりました。ところが、両者の間には大きな相違点もあります。本日は、この相違点に注意しつつ、私たちの信仰はいかにあるべきかについて考えてみたく思います。

 

2.

 旧約の日課は列王記下5章の前半部分です。預言者エリシャが異教徒の民族の国の軍司令官ナアマンを重い皮膚病から癒す奇跡を行ったことについて述べています。興味深いことに1節をみると、「主がかつて彼を用いてアラムに勝利を与えられた」とあります。(ヘブライ語(תשועה)に忠実に訳すると「主がかつて彼を用いてアラムの窮地を救った」ですので、救国の英雄ということです。)この「主」とは、ヘブライ語でヤハヴェיהוהと記されているので、これは天地創造の神です。このように天地創造の神がイスラエルの民に属さない者を用いて、彼が所属する国を助けるということがあるのです。

 天地創造の神がイスラエルの民以外の者に影響力を及ぼして何かを起こさせるということは聖書の中に多くあります。有名な例として、神がエジプトの王ファラオの心をかたくなにして、イスラエルの民が国を出て行くのを拒み続けたことがあります。そうすればそうするほど、エジプトは神の罰を被ってしまい、神の力を目の当たりにしてしまう。耐え切れなくなったファラオは最後に出て行くことを認めました。また、バビロン帝国によるエルサレムの破壊は、イスラエルの民の長年の罪に対する神の罰を執行するものとして言われています。しかし、人間の目には強大な征服者に映るバビロン帝国も、実は神の道具にしかすぎなかったのです。神がイスラエルは十分罰を受けたと判断した時、歴史の大転換が起こります。神は今度は、ペルシャ帝国の王キュロスを道具に用いてバビロン帝国を滅ぼさせました。これでイスラエルの民はエルサレムに帰還を果たすことができました。

 そうなると、世界の歴史の出来事には天地創造の神の力が働いているということになります。聖書の中に記された例は今述べたものが代表的なものです。それでは、聖書に記された出来事の後の歴史はどうでしょうか?もちろん、神は天地創造の後も、今ある天と地の上側か外側かどう言っていいかわかりませんが、御自分のいらっしゃるところからこの天と地に影響力を及ぼしている。この天と地が終わりを告げる日まで、人間の歴史の歩みと共にいらっしゃる。しかしながら、聖書に記された出来事の後の歴史については、神がこう力を及ぼしたからこうなったとかは、聖書に記されていない以上は詳細はわからないのです。特に、ダニエル書や黙示録に書いてあることは、どこまでが書物が書かれた時代の人たちから見て未来のことなのか、それとも現代を生きる我々から見て未来のことなのか?書いてあることを、一つ一つ何かにあてはめようとするといろんな解釈がでて混乱が生じると思います。そういうわけで、はっきりしていることだけに注意を向けた方が良いと思います。それは、聖書の中に記された過去の出来事を見ると、神はイスラエルの民であるかないかにかかわらず影響力を及ぼして歴史を動かすこということ。また、聖書に記された出来事の後の歴史についても、当然神は影響力を及ぼしていると見るべきであるが、どのように及ぼしたか詳しい全容が明らかになるのは最後の審判の日を待つしかないということです。

 少し脇道にそれましたが、ナアマンの出来事でもう一つ興味深いことは、もっと先まで19節まで読むとでてきます。癒しの奇跡を受けたナアマンが一種の信仰告白をすることです。ナアマンは、「イスラエルのほか、この世界のどこにも神はおられないことが分かりました」と言います。そしてお礼に預言者エリシャに大量の金銀等を贈ろうとしたが、エリシャは絶対に受け取らない。それでナアマンは、受け取りをお願いしても聞いてくれないのなら、かわりに2つのお願いを聞いて下さいと言う。一つは、イスラエルの土をらば二頭分持って行くこと。もう一つは、自分は金輪際、天地創造の神以外の神々に捧げ物をしないつもりではあるが、それでも主君に同行して異教の神の神殿にお参りに行かなければならない時、自分もやむを得ず主君と一緒にひれ伏すことを許して下さい、ということでした。これに対してエリシャは、「安心して行きなさい」と答えました。

 これは、一体どういうことでしょうか?十戒の第一の掟に従えば、天地創造の神以外にはひれ伏してはならないはずです。「安心して行きなさい」とは、エリシャはひれ伏しても良いと言っているのでしょうか?ヘブライ語の原文(לשלומ)も、「平安のうちに行きなさい」とか「心を騒がせずに行きなさい」いう表現です(創世記44章17節から「無事な状態で」の意味も)。英語やフィンランド語の聖書もそう訳しています。ただしスウェーデン語の聖書は「エリシャは別れを告げた」と訳していて、ひれ伏すことを必ずしも認めたわけではないニュアンスがあります。

 ここで一つ考えられるのは、十戒の掟を自覚して背負って生きるのは天地創造の神を信じる者たちということです。もし癒しの奇跡を受けた者がナアマンでなく、イスラエルの民に属する者であったならば、偶像崇拝する主君と一緒にひれ伏すことを認めて下さい、と言っても、認められないでしょう。ダニエルが異教の主君ネブカドネツァルに対してどう振る舞ったかを思い出して下さい。ナアマンの場合は、天地創造の神の影響力が及ぼされているにもかかわらず、それに気がつかないで異教の神を信じる者でした。それが、突然癒しの奇跡を受けたことをきっかけに天地創造の神がまことの神とわかり始めたのです。

 ところが、「わかり始めた」のはまだ始まりにすぎませんでした。ナアマンはお礼に贈り物をあげようとしましたが、エリシャに拒否されました。エリシャはなぜ受け取らなかったのでしょうか?もし受け取ったならば、どうなったかを考えてみると良いでしょう。エリシャが受け取らなかったために、ナアマンはさらに、これからは異教の神々にではなく天地創造の神にしか捧げ物はしません、と告白しました。もしエリシャが贈り物を受け取っていたならば、この告白は出なかったでしょう。つまり、「はい、イスラエルの地以外には神はいないと分かりました。お礼に贈り物を受け取って下さい」と言って、贈り物を受け取ってもらって、めでたしめでたしと国に帰ったら、また結局は同じこと、異教の神々への捧げ物を続けていたでしょう。エリシャの拒否が捧げ物をしないという告白を導いたと言えます。こうしてみると、エリシャを通して起きた奇跡の業で神は他にいないという告白を生み、それに続くエリシャの拒否で偶像に捧げ物をしないという告白を生んでいく。ナアマンが一歩一歩導かれていることがわかります。しかし、最後に主君の信仰と家臣としての立場が大きな壁として立ちはだかりました。その時点でエリシャはナアマンを送り返すのですが、エリシャが一歩一歩導いたことを考えれば、ナアマンが異教の神をひれ伏してよいと認めたのではなく、その後は神の御手に委ねるというふうに考えるべきでしょう。「平安のうちに、心騒がせずに行きなさい

というのは、行く手に困難が待ちうけていることを覚悟した時、全知全能の神を信頼して全てを神に委ねて前に進みなさい、ということを意味します。

さて、国に帰ったナアマンがこの後どうなったか、偶像に捧げ物をしない論理的帰結として主君の前でも偶像にひれ伏さなくなったか、またはひれ伏すことを続けることで偶像への捧げ物を再開してしまったか、これはもう聖書に記述されていないのでわかりません。神のみがご存知です。

 

3.

 ルカ福音書17章の出来事は、大きく分けて二つの部分からなります。最初は、10人の男が癒しの奇跡を受けたという出来事。その次は、10人のうちの一人でイスラエルの民に属さない者だけが感謝するためにイエス様のもとに戻ってきたことです。

はじめに10人の男の人たちの信仰について見てみます。この10人にはイエス様を救い主と信じる信仰が癒しを受ける前に既にありました。10人はすぐ奇跡の業をしてもらって癒されることを期待した筈ですが、イエス様は治すとも治さないとも言わず、ただエルサレムの神殿の祭司に体を見せに行きなさい、とだけ言う。10人はすぐ希望が叶えられないことに不平不満は言わず、言われるままにエルサレムに向かいました。これが癒しを受けた後で信じ出したナアマンと異なる点です。ルターは、10人の信仰を評価して、次のように言っています。

「らい病の男たちがイエス様を救い主と信じ始め、彼から良いものを受けられ始めたまさにその時、主は彼らの信仰を鍛えようとして試されたのである。それで、目に見える形ですぐに癒しを与えず、祭司のところに行って体を見せなさい、とだけ言われたのである。

主は我々に対しても、我々の信仰を強め試すために同じようにされる。主が我々を試す仕方であるが、いったい我々に何をされようとするのか、我々が理解できない仕方で行われる。主がなぜそのような仕方でされるかと言うと、それは信仰者が主は全く良い方であるという一点に全てを賭けるようになるためである。また、主は我々が祈り求めたこと、あるいはそれ以上に良いものを必ず与えて下さることを疑わないようになるためである。主の指示に従った10人のらい病者はまさに次のように考えて行動したのである。『主よ、わかりました。あなたがそうおっしゃるのなら、私たちは祭司たちのところに行きましょう。たとえあなたが今この場で、治すか治さないかはっきり言って下さらなくても、あなたが治す力のある方だと信じる私たちの信仰はかわりません。だから、私たちとしては、主に治す気持ちがなくても、それは主が私たちにかわりにもっと良いものを与えて下さることなのだから、それを喜んで待ち望もうではないか!だから一層、主により頼もうではないか!それゆえ私たちにとって、主が良い方であると信じるのをやめることなどは考えられないのだ!』

これこそがまさしく信仰の中で成長するということである!このような試練は、人生が続く限り続くものである。主は我々を一つのことで試された後、いつも新しいことで試され始める。そのようにして、我々の信仰と主に対する信頼を一層強めて下さる。我々自身が終わりまで信仰にしっかり留まる限り、ただただ強め続けて下さるのである。

 

4.

 このような信仰をもって、10人の男たちは出かけて行きました。すると、出発後ほどなくして、10人はみな病気が治ってしまいました。みんなは歓喜の極みだったでしょう。9人は、そのままエルサレムの祭司たちの所へ向かい続けました。レビ記の14章をみると、祭司は「重い皮膚病」にかかったかどうかを診断するだけでなく、治ったかどうかも診断しなければなりませんでした。ところが、1人だけ、この律法に規定された治癒の診断に行かずにイエス様のところに戻ってきました。先ほども触れたサマリア人でした。彼は、このような奇跡を行った方とその方をこの世に送った神を賛美し感謝します。この時のイエス様の言葉「清くされたのは10人ではなかったか。ほかの9人はどこにいるのか。この外国人の他に神を賛美するために戻って来た者はいないのか」、これを聞くと、イエス様は、律法に規定された祭司の診断よりも、イエス様のところに戻ってきて神を賛美することの方が大事だと言っているのが明らかになります。さらにイエス様はサマリア人に「あなたの信仰があなたを救った」と言われます。これは、わかりそうでわかりにくい言葉です。額面どおりに受け取れば、イエス様を救い主と信じたので病気が癒されたのだ、と理解されます。しかし、そうなると、キリスト信仰者でも病気が治らない人たちも現実にいるのだから、その場合、その人たちの信仰が足りないものなってしまいます。そういうふうに、祈願嘆願したことが実現するか否かということが、信仰が優れているとか劣っているとかの判断材料となってしまいます。イエス様は、そのようなことを教えているのでしょうか?いいえ、そうではありません。そうではないということがわかるために、イエス様が別の箇所で同じ言葉を述べているところをみてみましょう。

本日の福音書の箇所では、イエス様はこの言葉を人の病気が治った後に述べますが、マタイ9章22節、マルコ10章52節、ルカ18章42節をみると、イエス様は同じ言葉を病気が治る前に、つまり人がまだ病気の状態にいる時に述べます。マタイ9章では、12年間出血状態が止まらない女性がイエス様の服に触れば治ると思って触る、それに気づいたイエス様が「娘よ、元気を出しなさい(θαρσειは「元気になりなさい」という訳よりも「元気を出しなさい/気をしっかり持ちなさい」がいいでしょう)。あなたの信仰があなたを救った」と言われます。この言葉をかけられて女性は健康になります。マルコ10章52節とルカ18章42節は同じ出来事です。目の見えない人がイエス様に見えるようにしてほしいと一生懸命に嘆願する。イエス様は彼に「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と言われる。その直後に男の人は目が見えるようになります。

病気が治った後で「あなたの信仰があなたを救った」と言えば、ああ、信仰のおかげで治ったのだな、と理解できます。しかし、病気が治る前、まだ病気の状態でいる時にそう言うのはどういうことなのでしょうか?そこで、この「あなたの信仰があなたを救った」の「救った」に注意すると、これはギリシャ語の現在完了の形です(σεσωκεν)。ギリシャ語の現在完了形は英語と少し違っていて、「ある過去の時点で始まった状態が今現在までずっとある」という意味が中心です。つまり、「あなたの信仰があなたを救った」というのは、「イエス様を救い主と信じる信仰に入って以来、今イエス様の真ん前に立っているこの時までずっと救われた状態にあった」という意味です。

これは驚くべきことです。12年間出血が治らなかった女性も目の見えなかった男の人も、この言葉をかけられる時までずっと救われた状態にあったと言うのです。まだ病気を背負っている時に、既に救われた状態にあったと言うのです。どうして、そんなことが可能なのでしょうか?それは、イエス様を救い主と信じる信仰に入って以来、この人たちは、確かに見た目では病気を背負っている状態にはあるけれども、神の目から見れば、罪と死の支配から解放されて、神との和解が回復して、神との結びつきの中で生きられるようになった人たちだったのです。このことは、キリスト信仰にとってとても大事なポイントです。つまり、キリスト信仰では「救い」というのは、目に見える境遇が良好な状態であるということと同義ではありません。境遇が良好かそうではないかにかかわらず、罪と死の支配から解放されて、神との和解が回復して、神との結びつきの中で生きられるようになる、この世においても次の世においてもそのように生きられる、それが「救い」なのです。誤解を恐れずに言えば、出血の女性や目の見えない男の人が癒されたのは、そのような真の救いに対する付け足しだったのです。

そういうわけで、キリスト信仰者が不治の病にかかったとしても、それはその人の「救い」が無効になったということでは全くありません。そうではなく、その人がイエス様を救い主と信じる信仰にしっかりとどまる限り、その人は病気になる前と同じくらいに救われた状態にいるのです。このような確固とした救いは、イエス様が十字架の上で自らを犠牲の生け贄にして、人間を罪と死の支配から贖い出す業を成し遂げて、それで全ての人に提供されました。それは、イエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けることで自分のものとして受け取ることができるのです。

 本日の福音書の箇所のらい病の人たちも同じです。彼らは、ルターが言うように、治してくれるのかくれないのか言ってくれなくとも、イエス様を強く信頼して言う通りにしました。イエス様は、彼らの信仰がわかりました。しかし、時はまだ十字架と復活の出来事が起きる前のことでした。そのため、9人が祭司に治ったことの診断を仰ぐという旧約の様式に則って行動したのは無理もないことでした。これに対して、賛美と感謝を捧げるために一人イエス様のところに戻って来たサマリア人は、実は十字架と復活の時に確立された神との新しい契約の行動様式を先取りして示したのです。それは、自分を犠牲にして人間に救いを実現して下さったイエス様と、彼をこの世に送って下さった父なるみ神をただ賛美し感謝を捧げるということです。

そういうわけですから、兄弟姉妹の皆さん、私たちは、どんな境遇に置かれても、この、いただいた救いのゆえに、賛美と感謝を絶やさず捧げる方がいらっしゃることを忘れないようにしましょう。周囲の人たちは、どうしてこの人はこんな状態にあるのに賛美や感謝の心を持てて輝いていられるのか、不思議に思うかもしれません。しかし、そこに神の奇跡の業が現れ始めているのです。さらなる奇跡の業が現れるにしても現れないにしても、ひとり子イエス様の贖いの業のゆえに天地創造の神に賛美と感謝を捧げることは全ての出発点であることを忘れないようにしましょう。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

 

説教「義のために迫害される人々は幸いである」木村長政 名誉牧師

聖霊降臨後 第20主日

「義のために迫害された人々は、幸いである」

マタイ福音書5章10節

 

今日の礼拝で山上の説教(6月12日から始まって)連続講解説教,第8回となります。

マタイ5章10節[義のために迫害された人々は幸いである。天の国は、その人たちのものである]

これをもう少しイエス様が語られた気持ちで、もとの文のまま言いますと、なんという幸いな人たちよ!義のために迫害された人たち。ここに義のために迫害された人たち、と言われるこの「義」は聖書の中によく出てきますが何でしょうか。普通には正しいということです、正義のことです正しいことのために迫害されることは、よくあったことです。「義」という字は聖書の中では非常に大切な字であります。正しいという意味でもありますが、」それだけでなく恵み、とか真実ということと殆ど同じと言っても良いほど関係の深い字です。ある辞典では義というのを「救いに満ちている」と訳しています。そこで正しいことをしてゆくと、迫害を受けるようになる。ここで大切な」要点となることがあります。ここでの義が信仰の意味でそうなんだということ。正しいことをして迫害を受ける、ただそれだけではない。この義は信仰によって与えられた義であって、信仰によって救われた者が神から与えられた義を貫いて信仰を証ししている中で迫害がある、というこです。テモテ第2の手紙3章12節を見ますと、そこには「いったいキリスト・イエスにあって信仰深く生きようとする者は、みな迫害を受ける」とあります。主のために信仰深く生きる、そういう中での義です。その正しさは罪人が神の憐れみによって与えられた正しさである、と言わねばなりません。信仰によらなければ理解することは難しいことになるでしょう。キリスト教の信仰ははじめから、いろいろな理由から迫害されました。例えば他の宗教では像を拝むことをしました。キリスト教では偶像がないので無神論だろう、と言われたこともありました。それからまたキリスト教徒は聖餐の時、信者以外の人を入れないとうことで誤解を生んだこともあります。聖餐式のパンとぶどう酒をこれはキリストの体である、これはキリストの御血であると言って、肉を食べ血を飲むという思想に誤解されました。或いは信仰を持ったことで家庭内がうまくゆかなくなることも沢山あります。伝道を始めたころ私は信者の方の家庭訪問をしました。自分だけがクリスチャンの婦人が日曜の朝2時間、時間を作って教会に来るということが、どんなに辛い戦いであったかをしみじみとわかりました。日本の社会で家庭で自分だけクリスチャンを貫いてゆくことは、まさに信仰の戦いであり、そこに言われない迫害があります。こうした信仰生活を理解されないで苦しんだり非難されたりしてきました。どれだけの涙が流されているか神様がすべてご存知であります。大事なことは「義のため」とはどういうことか、であります。正しいといったもそれが神のよる正しさか、であります。いまは自分にそういうことが出来ないことを承知した上で神のあわれみに答えてこれらの生活をすることであります。義の生活が全く神によるものであるとすれば、神以外のものを神としないことがどんなに重要なことであるかが分かります。こうしたこととはっきりさせようとする、と迫害につらなってゆくのであります。

 

 ―――― ―――― ◇ ―――― ―――― 

これまでマタイ5:3~9節まで言われた「幸いな人々」と言われた人々は現在のことを言い表していると言われたいます。つまり心の貧しい人でも、悲しんでいる人でもそういう生活をしている人々と、いま考えてきた迫害されている人々と言う場合は言い方が違っているのです。迫害された人々という言い方は前からあったことが今まで続いていて、いまも結果が残っているという意味なのであります。紀元325年にニカヤ会議という世界で最初の教会総会議がありました。そこでつくられた信仰告白はその後教会が東と西とに分かれてもどこでも告白されている、たった一つの信仰l告白になりました。その会議に318人の監督たちが集まりましたがローマ帝国は313年にキリスト教を公認したのでした。それまで永い間迫害された教会の代表も集まったのであります。そこに出席した監督たちの中には迫害のために傷を負っている人たちが少なかったと言われています。それはまさに、ここで表されているように、もう迫害は止んだかもしれないが、その結果を身に帯びている人々であったわけで、まさに迫害されてきた人なのであります。イエス様が山上の説教をされたのはそれより300年も前の話でありますが迫害というものは、そういうもので前から今まで続いているがその結果がいつまで残ることは同じことでありましょう。もう一つのことは「迫害されてきた」というのは迫害を受けてそれを忍んできた人と言うことであります。そのこともここの言葉使いで表されているのです。それは受身の形ですがそれは、ただ迫害されたと言うのでなく迫害することを許した、従って忍耐した更に言えば喜んで迫害を受けたという意味になるのであります。迫害は神から与えられた義のためであります。従ってそれは、いやいや受けるものではありません。心から喜んで受けるものでありました。さてこうして迫害のことを語った「この人々には神の国が与えられる」というのであります。神の国というのは何でしょうか、それは神様の支配ということですね。神の国が与えられるというのは神の支配が確かなものとされるということなんです。それがどうして「さいわい」と言えるのでしょう。信仰を知らなければそれがなぜ祝福なのかと考えるのは当然でしょう。しかし信仰者から言えば神の支配に服することが最高の祝福であります。それは人間が損をすることではなくてそれによって初めてそれは人間は神様の支配のうちにいるんだ、神様の恵みのうちに自分があるという、そういう神の祝福を信じることができるのであります。それならば神の国と迫害とに、どういう関係があるというのでしょう。迫害に耐えるというのは神に服従している苦難の姿です。そしてそれは殉教ということになる。殉教こそ神の支配に服することであって、そおのことは神の喜びにあずかることであります。だれでもわざわざ殉教を求める人は「ないでありましょう。ただひたすら神様に従い、神様の栄光をあらわすことに喜びを感じる、それこそ信仰でありましょう。神様はどこまでも人間が神に従うことを求められるのであります。人は神様に従う中で苦しめられ、迫害に会い、それを耐え忍んで神のよろこばれる栄光をあらわそうとしてゆく。そのプロセスを神は最もご覧になっているのであります。ある人が言いました、人は迫害に会ってもただ無邪気に苦しむのでなく、それによってその人の品性が磨かれ向上して行く、そういう戦いの信仰生活をすべて神が承認されるのであると。すこし言い換えて申しますと、迫害に耐えることによって、その人々の生活が神の側に立ち神のものとしてこの世に立ち向かうからことができるようになる、ということであります。その時は気づかないで必死になっている、そしていつの間にか神の手のうちにあって、この世での貧しさ、弱さ、乏しさ又侮辱を受け、罵られてこの世に立ち向かっているのであります。神様がすべてをその人を丸ごと品性において認め受けとめてくださっているのであります。「決してあなたたちを見捨てたりはしない」と神の祝福の中にあるのであります。そして神がお与えになっている”恵みの深さ”というものを知るようになるのであります。最後に詩篇34編18~20節を見てみましう、次のように書いてあります、”主は心の砕けた者に近くいまし、魂の悔いくずおれた者を救われる。正しい者には災いが多い、しかし主はすべてその中から彼を助け出される。主は彼の骨をことごとく守られる。その一つだに折られることはない。”    アーメン・ハレルヤ!

 

 

説教「天国と地獄と神の正義」神学博士吉村博明 宣教師、ルカによる福音書16章19-31節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

  本日の福音書の箇所でイエス様は、実際に起きた出来事ではなくて架空の話を持ち出して教えています。この箇所でイエス様は実にいろいろなことを私たちに教えています。今日はそれらについてじっくり見ていきましょう。

ラサロまず、イエス様の話の中に登場する金持ちは富を持ちながら神にではなく富に従属してしまった人です。毎日贅沢に着飾って、優雅に遊び暮らしていたというから億万長者です。その大邸宅の門の前に、全身傷だらけの貧しい男が横たわっていた。名前はラザロ。ヨハネ福音書に登場するイエス様に生き返らされたラザロとは関係はないでしょう。ヨハネ福音書の場合は実際に起きた出来事に登場する現実の人ですが、本日の箇所はつくり話の中に出てくる架空の人物です。

ラザロΛαζαροςという名前は、旧約聖書のあちこちに登場するヘブライ語のエルアザルאלעזךという名前に由来します。「神は助ける」という意味があります。門の前を通りかかった人々はきっと、この男は神の助けからほど遠いと思ったことでしょう。ラザロは、金持ちの食卓から落ちてゴミになるものでいいから食べたいと思っていたが、それにすら与れない。野良犬だけが彼のもとにやってきて傷を舐めてくれます。「横たわる」という動詞は過去完了形(εβεβλητο)ですので、ラザロが金持ちの家の門の前に横たわり出してから、ずいぶん時間が経過したことがわかります。しかし、こんな近くに助けをずっと求めている人がいたのに、金持ちはそれを全く無視して贅沢三昧な生活を続けていました。金や品物が人の心を麻痺させてしまった典型例と言えましょう。

さて、金持ちは死にました。「葬られた」とはっきり書いてあるので、葬式が挙行されました。さぞかし、盛大な葬儀だったでしょう。ラザロも死にましたが、埋葬については何も触れられていません。きっと、彼の遺体はどこかに打ち捨てられたのでしょう。

ところが、話はここで終わりませんでした。これまでの出来事は序章にしかすぎないと言えるくらい、本章がここから始まるのです。金持ちは、「陰府」の世界に行き、そこで永遠の火に毎日焼かれなければならなくなった。ラザロの方は、天使たちによって天の御国に連れて行かれ、そこでアブラハムと共に「宴席についた」。まさに名前の意味「神は助ける」がやっと実現したのです。

 金持ちは、罪の罰を受けたのです。何の罪かというと、まず「隣人を自分を愛するが如く愛せよ」という隣人愛にあからさまに反する生き方をしたことです。それだけではありません。なぜ隣人愛を踏みにじったかというと、それは、神に従属せず富に従属して仕えたからで、それは「神を全身全霊で愛せよ」という神への愛に反する生き方だからです。つまり、二重の罪というわけです。もし、金持ちが富にではなく神に従属して、富の主人となって、富を神の意思に沿うように用いていれば、罰は受けなくて済んだのです。

 以上が本日の福音書の箇所の要旨です。読めば誰でも、ああ、イエス様は神に仕えず財産に仕えてしまったら天国に行けない、財産を隣人愛に用いないといけない、と教えているんだな、とわかります。それはそれで間違いではありませんが、それではまだまだ不十分です。本日の箇所は、天国や地獄というものについて、また神の正義ということについてもいろいろなことを教えています。今日はそれらについて明らかにしていきたいと思います。

天国や地獄などと言うと、人によっては、人間がすべきことやしてはならないことをそういうものを引き合いに出して教えるなんて、時代遅れのやり方だと思う方もいるかもしれません。しかし、人間はこの世に生まれてきて、いつかこの世を去らねばならない存在である以上、死んだらどこにいくのかとか、そのどこに行くという時、この世での生き方が何か影響があるのかないのか、という問題は、いつの時代でも気になる問題ではないかと思います。人によっては、どこにも行かない、死んだらそれで終わりで消えてなくなる、だからこの世では他人に迷惑をかけないで自分の好きなことをするのが一番いい生き方なのだ、と考える人もいるでしょう。また人によっては、死んだら魂だけ残って、どこか安逸な場所に行って他の魂たちと会することになるとか、または新しく別の人間ないし動物に生まれ変わるとか、いろいろあると思います。では、天地創造の神とそのひとり子イエス様は、このことについてどう教えているか?これは聖書全体を見渡さないといけない大きな問題ですが、今回は本日の福音書の箇所をもとにみていきたいと思います。

2.

  本日の箇所は、よく見ると、あれ少しおかしいなと思わせることがあります。金持ちは地獄で永遠の火に焼かれ、ラザロは天国でアブラハムと共に宴席に着く。そう書いてあります。しかし、よく見ると、金持ちが陥ったところは地獄と言われておらず、「陰府」と言われています。ギリシャ語ではハーデースαδηςという言葉で、人間が死んだ後に安置される場所です。しかしながら、本来そこは永遠の火の海の世界ではありません。火の海はギリシャ語でゲエンナγεενναと言い、文字通り「地獄」です。

 黙示録20章を見ると、「イエスの証しと神の言葉のために」命を落とした人たちが最初に死から復活させられます。つまり、復活の体を着せられて神の御許に迎え入れられます。その次に、これ以外の人たちが復活させられますが、この者たちは前世での行いに基づいて裁かれます。彼らの行いが全て記された書物が神のもとにあり、ある者たちは地獄に落とされてしまう(4-6節)。これに続いて、新しい天と地が創造されて古い天と地に取って代わり(21章1節)、そこに神の国が見える形をとって現われます(2節)。地獄に落とされなかった人たちが、復活の体を着せられてそこに迎え入れられます。

こうしてみますと、神の国つまり天国とか地獄というものは、将来、復活や最後の審判が起きる日になって、迎え入れられたり、投げ込まれたりするところです。そういうわけで「陰府」とは、復活や最後の審判が起きる日まで死んだ者が安置される場所で、今の天と地がまだ存在している時にあるものです。それがどこにあるかは、神のみぞ知るとしか言いようがありません。ルターは、人が死んだ後は、復活の日までは安らかな眠りにはいる、たとえそれが何百年の眠りであっても本人にとってはほんの一瞬のことにしか感じられない、目を閉じたと思って次に開けた瞬間にもう壮大な復活の出来事が始まっている、と述べました。復活の出来事が起きる前には、このような安らかな眠りの場所があるのです。

そういうわけで、死んだ者が神の国に迎え入れられるか、火の地獄に投げ入れられるかは、これはまだ先のことで、今の天と地がまだ存在する段階では「陰府」で安らかな眠りについている。とすると、本日の箇所で金持ちが落ちた火の海は、地獄と言った方が正確ではないかと思われるのですが、イエス様はどうして「陰府」と言ったのか?この点については、各国の聖書の翻訳者たちも困ったようです。英語NIVではhell「地獄」 と訳されていますが、脚注で「ギリシャ語ではハディス」と記しています。つまり、ギリシャ語では地獄ではなく陰府を意味する言葉が使われているが、事の性質上、地獄と訳しました、と断っているのです。ドイツ語訳を見ると、ルター訳はHölle「地獄」ですが、Einheitsübersetzung訳では「地下の世界」Unterweltで、「地獄」と区別しています。スウェーデン語訳では「死者の世界」、フィンランド語訳でも同じことを意味する言葉が使われ、しっかり地獄と区別されています。

 どうしてイエス様は、復活と最後の審判が起きる日に投げ込まれる地獄をそう呼ばずに「陰府」とよんだのでしょうか?ひとつ考えられることは、イエス様は何か大事なことを教えるために、時間の正確な流れにこだわらなかったということです。金持ちが地獄にいて、ラザロが天国にいるということは、正確に言えば、今の天と地がなくなって復活と最後の審判が起きる将来のことです。ところが、金持ちはラザロを自分の家の兄弟のもとに送ってくれと頼みます。つまり、まだ今のこの世は終わっていないことになります。もし、地獄と言ってしまうと、復活と最後の審判が起こったことになってしまいます。つまり、今の天も地も自分の家もなくなって、兄弟たちも既に裁かれてしまったことになる。しかし、そうしたことはまだ起こっていない。これが、イエス様が火の海を地獄ではなく陰府と言った理由と考えられます。このようなことは、自由な創作をすれば起きることで、イエス様は理解不足だったなどと考える必要はないでしょう。イエス様はこの話を通して何か大事なことを教えようとした、それで時間の正確な流れにはこだわらなかった、ということです。それでは、その大事なこととは何かと言うと、一つは神の正義について、もう一つは死からの復活を信じることと旧約聖書との関係についてです。後ほどこれらについて見ていきますが、ここではもう少し天国と地獄について注意すべきことを見ていきたいと思います。

22節と23節でラザロがアブラハムと共に「宴席」についていると言われていますが、実はギリシャ語の原文では宴席のことは何も言われていません。ラザロはアブラハムの「胸元」にいると言われています。まるで子供が親に抱きかかえられてすやすや眠っているような印象を受けます。英語訳NIV、ドイツ語訳、スウェーデン語訳、フィンランド語訳の聖書どれを見ても「宴席」はありません。アブラハムの「胸元」ないしは「脇に」とか「傍らに」と訳されています。なぜ、日本語では宴席が出てきてしまったのでしょうか?これは、黙示録19章にあるように、天国が盛大な祝宴にたとえられていることからきていると思われます。さらに、ラザロと金持ちの間にはお互いの往来を不可能にする大きな淵があるということが、天国を連想させたと思われます。それで、ラザロは天国の祝宴で祝杯をあげていると考えられたのかもしれません。このように、ラザロと金持ちはそれぞれ天国や地獄を連想させる場所にいるのですが、イエス様は実はそこまではっきり言い切ってはいません。金持ちに関しては地獄と言わず「陰府」と言い、ラザロに関しては宴席とまでは言わず、アブラハムの「胸元」と言っています。実に微妙です。時間の正確な流れにこだわらないと言いつつも、ある意味では正確さも期しているのです。(注)

ところで、死んだら復活と最後の審判の日までは神のみぞ知る場所にて安らかに眠る、その場所が陰府ということにすると、聖書には例外もあるということに注意が必要です。復活や最後の審判の日を待たずにそのまま神の御許に引き上げられた人がいるのです。有名な例は預言者エリアです(列王記2章)。またユダヤ教の伝統の中で、創世記5章に出てくるエノクもそのような者と考えられました。モーセも死んだ時、神以外誰にも知られずに神によって葬られたとあります(申命記34章5節)。イエス様がヘルモン山の山頂で真っ白に輝いた時にエリアとモーセが現れましたが、あたかも天国から送られてきたようでした。このように、復活や最後の審判の日を待たずに天国に引き上げられた者がいるのです。それでは、他にも引き上げられて今天国にいる者があるのかどうかということですが、これはもうそこにおられる父なるみ神しか知ることができません。聖人の制度を持つカトリック教会は、教会が知っているという立場をとっていると言えます。ルターは聖人の存在は認めましたが、それは崇拝の対象ではない、崇拝の対象はあくまで三位一体の神であるということをはっきりさせていました。

3年前、SLEYの元日本宣教師で文字通り生涯を日本での福音伝道に捧げたパップ・カタヤさんという方がこの世の人生の歩みを終えて永眠に入られました。国教会の牧師をされている兄弟の方が追悼文をSLEYの新聞に寄稿しまして、その最後の文がとても印象的だったのを覚えています。「安らかな眠りについているバップの前で今祝宴の準備がなされています」というものでした。これは、キリスト信仰の死生観をとても正確に言い表していると思いました。姉は天国に近いところにいるという希望を表明しつつも、まだ天国の祝宴の席にはついていないことをはっきりさせているからです。それは復活の日を待たなければならないのです。日本では仏教や神道の方でも多くの方は、亡くなった方が今天国から見守ってくれているという言い方をするのをよく聞きます。天国というキリスト教的な言葉を使いますが、そこには復活や最後の審判の考えはありません。亡くなった方が安らかに眠ると、一体誰がこの世にいる私たちを見守ってくれるのか、と心配になってしまうでしょう。キリスト信仰では、天と地と人間の造り主である父なるみ神が見守ってくれるので何も心配はいりません。創造主である神が死からの復活を起こす日がいつかやってくるのです。

 3.

 以上、天国と地獄について注意すべきことを述べました。これから、イエス様が金持ちとラザロの話で教えようとしている二つの大事なことを見ていきます。一つ目は、神の正義についてです。神は正義をどう実現されるか?イエス様の教えから明らかになることは、この世で起きた不正義で解決されないものがあっても、遅くとも最終的には次の世で必ず解決されるということです。ルターなどは、この世で悪が罰せられずに我が物顔でのさばればのさばるほど、次の世で受ける報いもそれに比例して大きくなると言っています。本日の箇所の25節でイエス様はアブラハムの口を借りて次のように言います。「子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。」まさに、「高くするものは低められる。低くするものは高められる」というイエス様の教え通りです。このように、復活の日、最後の審判の日には、歴史上全ての人間のあらゆる行いと心の有り様全てについて、神の正義の尺度に基づいて総決算が行われるのです。

黙示録20章に人間の全ての行いが記されている書物が神のみもとに存在するということが言われていますが、これは、神はどんな小さな不正も罪も見過ごさない決意でいることを示します。仮にこの世で不正義がまかり通ってしまったとしても、いつか必ず償いはしてもらうということです。

この世で数多くの不正義が解決されず、多くの人たちが無念の涙を流さなければならなかったという現実があります。そういう時に、来世で全てが償われるなどと言うのは、この世での解決努力を軽視するものと思われるかもしれません。しかし、神は、人間が神の意思に従うように、つまり神を全身全霊で愛し、隣人を自分を愛するが如く愛するようにと命じておられます。このことを忘れてはなりません。つまり、たとえ解決が結果的に来世に持ち越されてしまうような場合でも、この世にいる限りは神の意思に反する不正義や不正には対抗していかなければならないのです。それで解決が得られれば神への感謝ですが、時として力及ばず解決をもたらすことが出来ない時もある。しかし、その解決努力をした事実は神から見て無意味でも無駄でもなんでもない。神はあとあとのために全部のことを全て記録して、事の一部始終を細部にわたるまで正確に覚えていて下さるからです。たとえ人間の側で事実を歪めたり真実を知ろうとしなくても、神は事実と真実を全て把握しているのです。神の意思に忠実であろうとしたがゆえに失ってしまったものがあっても、神は後で何百倍にして返して下さるのです。それゆえ、およそ、人がこの世で行うことで、神の意思に沿わせようとするものならば、どんな小さなことでも、また目標達成に程遠くても、無意味だったとか無駄だったとかいうものは何ひとつないのです。

 ところで、キリスト教に地獄のような裁きや罰の考えが強くあるのは、多くの人にとって意外に思われるかもしれません。「キリスト教って確か赦しの宗教じゃなかったの?」と思われるからです。その通り、キリスト信仰は罪の赦しを土台とする信仰です。しかし、取り違えをしてはいけません。キリスト信仰の罪の赦しとは、それまで神に背を向けて生きていたことを間違いと認めて、このような至らない私の罪をイエス様は十字架まで背負って行かれて、そこで私のかわりに神の罰を受けて死なれた、だからイエス様は私の救い主です、そのイエス様の犠牲に免じて私の罪を赦して下さい、このように祈れば、神からいただける赦しです。このような立ち返りをすれば、どんな極悪非道の悪人でも、たとえ世間は赦さないと言っていても、神は赦し受け入れて下さるのです。本日のイエス様の教えの趣旨からははみ出しますが、金持ちについても、もしラザロが死んだ後で神のもとへ立ち返る生き方を始めていたならば、火の海に投げ込まれずにすんだのです。

4.

 二つ目の大事な事は、死からの復活の信仰と旧約聖書の関係についてです。イエス様はアブラハムの口を借りて、「モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう」と言いました。モーセと預言者とは旧約聖書を指します。旧約聖書をしっかりわかっていないと、死から復活させられたイエス様を信じることはできないのでしょうか?私たちがイエス様を救い主と信じる信仰に入った時、一体どれだけ旧約聖書のことをわかっていたでしょうか?

旧約聖書を知らず、また天と地と人間を造られた神を知らいまま、死者から生き返った者を見たら、特に日本人だったら、自分の伝統的な宗教の枠内で出来事を把握しようとするか、または新しい宗教団体を結成してしまうでしょう。そのようにして、聖書の神からますます遠ざかってしまうでしょう。しかしながら、死から復活したのがイエス様である場合は、逆に人間を聖書の神に引き戻す力が働くのです。イエス様の十字架の死と死からの復活を目撃した者たち、そして彼らの証言を聞いて信じた人たちは皆、私たちも含めて、本当にモーセと預言者に立ち戻ることになったのです。天地を創造し人間を造られた神に立ち戻ることになったのです。どうしてそのようなことが起きたのでしょうか?

それは、イエス様の十字架の死と死からの復活を出発点として、遡るようにして旧約聖書の意味が明らかになっていったことがあります。死からの復活が現実に起きたことを知った人たちは、みんなが預言者と騒いでいたあのナザレのイエスは真に神の子だったのだ、と。そう言えば、彼は自分でも自分のことを神の子と言っていたし、またメシアとか、ダニエル書で預言されている「人の子」とも言っていたが、全て預言通りだったのだ、と。なぜ神の子が死ななければならなかったのか?それは、イザヤ53章に預言されているように、人間が受けるべき罪の罰を全て引き受けられたのだ、と。イエス様が罰を全部引き受けて下さったので、私たちは罰を免れる状態にあるのだ、と。まさにこれで、アダムとエヴァの堕罪の時に壊れてしまった造り主の神と造られた私たち人間との関係が回復したのだ、と。私たちの身代わりとなって私たちを罪と死の奴隷状態から贖って下さったイエス様を自分の救い主と信じる信仰、この信仰によって私たちは神との結びつきを取り戻すことができ、この結びつきの中でこの世の人生を歩むことができることになったのだ、と。イエス様を死から復活させたことで、神は永遠の命の扉を私たちのために開かれた。だから、私たちは、万が一この世から死ぬことになっても、信仰によって神と結びついた者を、神は御手をもって御許に引き上げて下さるのだ、と。

このように、イエス様を救い主と信じる信仰に生きる人は、既に旧約聖書に貫いている神の人間救済計画を体得しているのです。天と地と人間を造り、私に命と人生を与えて下さった神は、私がこの世に誕生するはるか以前に、このようなことをずっと計画していて、ひとり子イエス様をこの世に送られることで計画を実現されたのだ、と。このようにして、イエス様を救い主と信じる信仰に生きる者は、この神の意思に沿って生きようとすることが当然という心意気になり、神の意思をちゃんと知ろうとして、旧約も新約も同様に日々繙いて、そこから神の御言葉に聞こうとするのです。このようにして私たちに新しい人生を与えて下さった父なるみ神は永遠にほめたたえられますように。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

主日礼拝説教 2013年9月29日(聖霊降臨後第十九主日)

 

説教「創造者である神を畏れることは知恵のはじめ」吉村博明 宣教師、コヘレトの言葉8章10-17節、ルカによる福音書16章1-13節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

 本日の旧約聖書の日課コヘレト8章10-17節と福音書の日課ルカ16章1-13節はとても難しいところです。まずコヘレトを見ると、12-13節で、罪を犯し百度も悪事をはたらいている者が長生きしているという現実があるにもかかわらず、本当は神を畏れる人が幸福になり、悪人は神を畏れないから長生きできず幸福になれない、と確信をもって言う。ところが、続く14節で、善人でありながら悪人の業の報いを受ける者があり、悪人でありながら善人の業の報いを受ける者がある、これまた空しい、と言う。さっきの確信はどうしてしまったのか?さらに15節をみると、快楽をたたえる、などと言う。人間には飲み食いして楽しむ以外の幸福はない、快楽は神が人間に与えた人生の日々の労苦に添えられたものだ、などと。まるで、神を畏れて正しく生きようとしても結局いいことはなく、悪を行っても罰せられずに逆にいいことが起こるのだから、快楽に身をまかせてしまった方が意味がある、とさえ受け取られます。なぜこんな書物が聖書の中に収められることができたのでしょうか?

実を言うと「コヘレトの言葉」は、そういう、神を畏れて生きるのは意味がない、だから快楽主義でいいんだ、と言っている書物ではありません。本当は全く逆なのです。この書物のすぐ前にソロモン王の「箴言」という有名な書物があります。その1章7節に「主を畏れることは知恵の初め」と言われます。実は、「コレヘトの言葉」もこれと全く同じ土台に立っているのです。それでは、なぜそう見えないのか?「コレヘトの言葉」も「主を畏れることは知恵の初め」という土台に立っていることは、この書物が書かれた背景をしっかりみればわかってきます。そういうわけで本日は、この「コレヘトの言葉」の日課を正しく理解することに努め、それを通して、私たちが生きる人生の方向性を明らかにしたいと思います。

とは言いつつも、ルカ福音書の箇所もとてもやっかいなところです。イエス様が不正を働いた管理人をほめて、不正にまみれた富で友達を作れ、などとは一体どういうことなのか?この難しい教えについて、いろいろな解釈がなされてきました。そのひとつとして、イエス様は人生の危機の打開のために早急な決断を下すことが大事だと教えている、そう理解する人もいます。しかしながら、素早い決断が危機打開の決め手、優柔不断では危機は乗り越えられない、というのは、なにも神のひとり子がわざわざ天から降ってまでして教えなくても、人間の知恵で十分わかります。イエス様は、人間の知恵をなぞり書きしたりお墨付きを与えるために天の父なるみ神のもとからこの世に送られたのではありません。人間の知恵をはるかに上回る神の知恵を知らしめ、場合によっては、人間の知恵を粉砕して、私たちを神の知恵に服させるために来たのです。

実は、この福音書の箇所は、3年前、本スオミ教会の説教で解き明しをしておりまして、今回それを読み返してみたら、修正する必要がないとわかりました。それで、本説教にてそれをそのまま読み上げてもよいかなと思ったのですが、やはりコヘレトの箇所を今回も放っておくわけにはいかないと思いました。どうしたらよいかと思ったのですが、ルカ福音書の方は、3年前お聞きにならなかった方もいらっしゃるので、短く要点だけをお話ししようと思います。その後でコヘレトの箇所を解き明かしてみたく思います。

2.

ルカ16章1-13節を理解できるために、この箇所で一番大事なポイントを見つけてそこから全体を見渡してみることをしてみます。大事なポイントは最後の13節にあります。神と富の双方に仕えることはできない、ということです。イエス様の教えの主眼は、神こそ仕えるべき主人である、富を主人にしてはいけない、逆に富に対しては主人になりなさい、富を奴隷にしなさい、ということです。人が富に対して主人になるというのは、富を神の御心に沿うように自由に使うということです。神を全身全霊で愛し、隣人を自分を愛するが如く愛する、これに沿うように使いなさい、ということです。

イエス様がこのことを教えなければならなった背景には、人が富の主人になれずに、逆に富の奴隷になってそれに仕えてしまって神に仕えられないという状況が一方にありました。他方では、弟子たちの中に、イエス様に付き従うためには富を一切捨てなければならないという考えがありました。しかし、捨てることが出来れば、自分は大決断をしたので神から見返りを与えられて当然だ、という考え方になってしまいました。人間が自分の業で神に指図することになってしまいます。そこで、イエス様は、たとえ富を持っていても、それに対して主人のように振る舞えれば問題ない、その富を神の意思に沿うように用いれば、富を持っていながら神を主人とすることができる、という第三の道を示したのです。

「不正な」富という時の「不正な」という言葉は、元にあるギリシャ語の言葉アディキアαδικιαの使い方を見ると、「神を神とも思わない」とか「神からかけ離れた」という意味を持つことがわかります。富と言うのは本質上、人の心を神から引き離す力を持っている、その意味で富は「不正な」ものですが、それに対して主人として振る舞い、神に対しては仕える者として生きれば、永遠の命に与ることに何も問題はないのです。不正な管理人という、おそらく実際に起きた出来事を題材にして教えることで、そのことが強調されます。

そこで、神に仕えつつも富に対して主人として振る舞うことが本当にできるかどうかということについてですが、十字架と復活が起きる前の段階では不可能に思えたでしょう。しかし、十字架と復活の出来事の後、神はひとり子イエス様を犠牲にして人間を罪の奴隷状態から買い戻した、自由な身にして下さった、そのことがわかってイエス様を救い主と信じる信仰に入った者からすれば、富は色あせたものになり、主人になることができる道が開かれたのです。

3.

 それでは、コヘレト8章10-17節の解き明しに入ります。まず「コヘレト」、ヘブライ語でコーヘレトゥקהלתとは誰か?これは人の名前ではありません。1章1節に「エルサレムの王、ダビデの子、コヘレトの言葉」とあって、ダビデの子供にそんな名前の者がいたかと思われてしまいます。これはヘブライ語の「集める、召集する」を意味する動詞カーハールקהלを名詞化した形と考えられています。ただ、それが具体的に何を意味するかは研究者の間で一致がありません。そこで、旧約聖書のギリシャ語の翻訳をみると、コーヘレトゥは「伝道者」「説教者」を意味するエクレーシアステースεκκλησιαστηςという言葉に訳されています。それで、この書物のタイトルはラテン語でEcclesiastesとなって、英語訳NIVの聖書でも同じタイトルを用いています。スウェーデン語やフィンランド語の聖書でも、これがもとになって「伝道者」、「説教者」を意味する言葉をタイトルにしています。日本語の聖書はヘブライ語の言葉をカタカナにしただけなので、以上の事情が分からないと、ダビデにそんな名前の子がいたと勘違いしてしまいます。

 それでは、ダビデの子でエルサレムの王になった「コヘレト」とは誰かというと、これは紛れもなくソロモン王であります。それでなぜ、そうはっきり言わなかったのか?すぐ前の書物「箴言」ではソロモン王の名が冠せられているのに。この書物を読むとたいていの方は、とても悲観的なことが書いてあるという印象を持ちます。本日の箇所をみても、神を畏れる生き方をしても悪い報いが起き、悪を働いても罰も受けずに長生きしているのが現実だ、全ては空しく、だから快楽に身を任せていいのだ、と言っているように見えます。とても「箴言」を著した同じ人物の書物には思えません。人によっては、ギリシャ哲学のいろんな潮流の影響をみる向きもありますが、そうなるとこの書物はソロモン王のずっと後の時代に成立したことになります。

 このように、この書物の趣旨を悲観主義とみなすと、ソロモン王と関係ない書物になってしまうのですが、実は関係があるのです。フィンランドのA.ラートという旧約聖書学の教授は、「コヘレトの言葉」のような書物がなぜ旧約聖書の中に収められたかということについて次のように述べております。この書物はユダヤ教の伝統の中で古くからずっと権威ある地位を持っていた。その伝統の中で同書は、晩年のソロモン王が自分の犯した過ちを振り返ってそれを悔い、神への畏れに基づく真の知恵に再び戻った、そういう内容の書物である、そう理解されてきた。それでこの書物はユダヤ教の伝統の中で紛れもなく聖書の一つとなりうる、権威ある書物と見なされてきたのである。

ソロモン王が犯した過ちとは何か?ソロモン王と言えば、たいていの方は、ダビデ王の後を継ぎイスラエル国家の全盛期を築いた人物、エルサレムの大神殿を完成させ、彼が神の御前で祈った祈りは、聖書の神を信じる者にとって祈りの模範と見られています。王はまた、神から知恵を授けられ、それに基づいて国民を指導し、周辺諸国の王たちもソロモン王に聞き従い、貢物を携えて王のもとに出入りした。エルサレムは、諸国がもたらした財宝で溢れかえった。まことに神から大きな祝福を受けた王でした。

ところが、この後で何が起こったでしょうか?列王記上11章を見ると、状況が一変します。ソロモン王は、諸国から女性を招いて妻にしたり愛人にします。11章3節をみると、王妃が700人、側室が300人、合計1,000人いました。これは文字通りハーレムです。実は、この1,000人の女性のことは、コヘレト7章28節に言及されています。いったい、「汝、姦淫するなかれ」という十戒の第六の掟はどうなってしまったのか?女性が未婚者であれば不倫にあたらないと思ったのでしょうか?それとも、相手の女性たちはイスラエルの民に属さないので、十戒は関係ないと考えたのでしょうか?状況を一層悪くしたのは、まさに相手の女性たちが異教の神々を崇拝する他民族出身だったことでした。ソロモン王は、関係を持った女性たちの神々を崇拝し出します。このように、「ソロモンの心は迷い、イスラエルの神、主から離れたので、主は彼に対してお怒りになった」(11章9節)。

そのような経歴を辿ってしまったソロモン王が晩年に過去を振り返り、自分がいつの間にか神の知恵から離れ、自分の知恵、人間的な知恵に頼って生きるようになったことに気づく。真の知恵は神を畏れることから与えられるのに、人間的な知恵に頼ろうとしたのは神を畏れなくなってしまったからだと気づく。そこで、「コヘレトの言葉」の最後に結論として次のように言われます。

「すべてに耳を傾けて得た結論。『神を畏れ、その戒めを守れ。』これこそ、人間のすべて。神は、善をも悪をも一切の業を、隠れたこともすべて裁きの座に引き出されるであろう。」(12章13-14節)

これが、この書物の一番大事なポイントなのです。神を畏れることを止めて、人間的な知恵に頼るようになり、出口のないトンネルに入ったようになって、悩みに悩んで悲観的なことを言って、最後にたどりついたのがこれだったのです。以上のような背景を意識して読むと、本日の箇所も正しく理解できます。

まず、8章10節。これは、とてもやっかいな節です。原文のヘブライ語の文ですが、一番権威ある写本の文が難しく、意味の通る文にしようとして、翻訳によっては違う写本を用いるものもあります。日本語の新共同訳は権威ある写本を用いていますが、この訳でも不十分な気がします。詳しいことはここでは立ち入りません。英語やフィンランド語の訳は違う写本に基づいているので、文の内容自体が日本語と違うものになっています。これも果たして良い解決法かどうか、疑問ありです。スウェーデン語訳の聖書などは、この節は(….)となっていて、もうお手上げです、とさじを投げています。そんな中で、日本語訳は頑張っていると思うので、大体このような意味のことを言っているのだな、という受け止め方でいきましょう。

次に11節から13節までですが、日本語訳では大体こうでした。悪事に対して何も対策が取られなければ人は大胆に悪事を働き、罪を犯し百度も悪事を働いている者が長生きしている、そういう現実がある。それにもかかわらず、私は次の真理を知っている。つまり、神を畏れる人は畏れるからこそ幸福になり、悪人は神を畏れないから長生きできないし幸福にもなれない。ところが次の14節では、そういう真理を知っていても、やはり善人でありながら悪人の業の報いを受ける者がいたり、悪人でありながら善人の業の報いを受ける者がいる、と現実には真理が覆される状況がある、と言っている。これを「空しい」ことと言っています。まるで、神を畏れて神の意思に従って善を行っても、悪人が受けるような報いを受けてしまう、だから神を畏れたり善を行うことは空しいのだ、と言っているようにみえます。ところが、前に述べた背景を考えながら読むとそうでないことがわかります。

(11節から13節までをヘブライ語に即してみると、「にもかかわらず」の前後の文を訳と逆にするのが正確だと思います。つまり、私は、神を畏れる人は畏れるから幸福になり、悪人は畏れないから長生きできないし幸福になれないという真理を知っていたにもかかわらず、対策が取られないので人は悪事を大胆に働き、彼らは長生きしている、そういう現実がある。この不条理な現実の描写が14節でも続き、善人でありながら悪人の業の報いを受ける者がいたり、悪人でありながら善人の業の報いを受ける者がいる、ということになります。このほうが訳のように行きつ戻りつせずに、すっきりするのではないかと思います。)

「空しい」こととはどういうことか?神を畏れても、善を行っても、あるべき結果と正反対のことが起こるので「空しい」ということなのでしょうか?そうではありません。「空しい」とは「空虚」とか「無意味」ということですが、コヘレトの他の箇所で何度も「空しい」と「風を追うこと」が一緒に使われていることに注意しましょう(2章17節、26節)。「風を追うこと」とは、風をつかまえようとすること、手に入れようとすることです。それは不可能で、やっても意味のないこと、それで空しいことです。そこで、神を畏れる者や善を行う者に相応しい結果が現れないことが空しいというのは、どういうことかと言うと、それは、そういう不条理なことがどうして起きるのか、それを解明したり説明しようとすることが「風を追う」ようなことであり、空しいということなのです。神を畏れることや善を行うことが、空しいとか風を追うことと言っているのではなくて、この世で起きてしまう、不条理な出来事を理解できると思って捉えようとすることが空しいのです。「空しい」のもとにあるヘブライ語の言葉ハ-ベルהבלですが、英語NIVでは「無意味」、フィンランド語では「無駄なこと」と訳されています(スウェーデン語では「空っぽ」、「空虚」)。

そこで、もし、不条理なことを人知で解明できると思ってそれをしようとすると、神は全知全能で愛と恵みに満ちた方という考えと衝突することになります。神はやはり全知全能ではなく力に限界があったのだ、とか、神は首尾一貫性がなくて気まぐれなのだ、とか、そういう神の本質を疑う考えが出てきてしまう。人間の理性や知恵で答えを出そうとすると、神がそれらで捉えられる存在に貶められて、神を人間と同じレベルで考えてしまうのです。場合によっては、神など存在しないのだ、という無神論の考えも出て来るでしょう。または天地創造の神ではだめだ、別の神がいいんだという考えも出るかもしれません。ソロモン王がどうして異教の神々を崇拝するようになったかを考える時、好きになった女性たちが崇拝しているので、情欲と一緒に目が曇らされて流されてしまったということかもしれない。または、自分は知恵に満ちた者だ、解明できないことは何もない、と驕りだして、そこで神を畏れても不条理なことが起きるという問題を人間的な知恵で解明しようとして行き詰り、天地創造の神に疑いを持つようになった。その隙を、女性たちが崇拝する異教の神々にうまく突かれてしまったのか。いろんな推測ができます。

いずれにしてもソロモン王は、人間の知恵と能力で神のなさることの全て、特に人間の目では理に適わないと思えることを解明しようとすることは、空しい、風を追うようなことだということがわかったのです。16-17節で王は、神のすべての業を観察したが、太陽の下に起こるすべてのことを人間は解明できない、どんなに労苦し追及しても出来ない、賢者が自分はわかったと言っても本当は解明できていない、と断言しますが、これが空しいこと、風を追うことなのです。神を畏れ神の意思に従って善を行うことが空しいのではありません。

15節をみると、空しいから快楽をたたえる、などと言っていますが、そんな訳だと悲観主義の刹那主義になります。そうではありません。まず「快楽」と訳されているヘブライ語の言葉シムハーשמחהは、そんな強い意味はなく、ただの「喜び」です。人生の日々の労苦の中で食べたり飲んだりできるという喜びを讃える、ということです。神を畏れ神の意思に沿って善を行っても良いことがかえってくるとは限らず、正反対なことさえ起きる。それは人間の能力では解明できない。風を追うようなことだ。そんな中で良いことが確実にあるとすれば、それは飲んだり食べたり、また他の具体的な喜びがそれで、それらは人生の日々の労苦の中にあっても人について来るものである。神が人間に人生を与える以上、そうした喜びも神から与えられるものである。そういうわけで、こうした喜びを味わうというのは神に感謝して行う、そういう謙虚な慎ましい喜びです。神に背を向けて大胆に快楽に走ることではありません。9章9節に「太陽の下、与えられた空しい人生の日々、愛する妻と共に楽しく生きるがよい」というのも同じことです。ここで「妻」とは単数形で一人の妻です。ソロモン王が正気に返ったことがわかります。

4.

解明不可能な不条理なことばかりで労苦を強いられるこの世にあっては、神を畏れることが全てだ、というのが「コヘレトの言葉」の結論でした。それでは、神を畏れたら、こうした難しい問題の解決になるのか?そもそも、神を畏れるとはどういうことか?

人間の知恵で不条理なことを解明しようとすると神を人間のレベルに引き下げることになる、と先ほど申し上げました。そのようなことをすると、神を畏れることを止めることになります。神を畏れるとは、大体次のような心意気になることです。

神は全てを知っている。私そのものについても、私の身に起こることについても全て、私以上に知っている。なぜなら、神は私を造り私に命と人生を与えた永遠の創造者だからだ。しかし私は造られた者で限りある存在だから、そうした神が知っていることをまさに神が知るように知ることはできない。私が出来ることと言えば、自分に起こる全てのことは神が知っているのだから、知ることは神に任せて、自分は神の意思に沿うように生きるだけだということだ。神を全身全霊で愛し、隣人を自分を愛するが如く愛するだけだ。知ることを神に任せてもいいと言うくらいに神を信頼しきれるのは、神がひとり子のイエス様を私の救いのために送って下さったことによる。最後の審判の時、「裁きの座で善だけでなく悪をも一切の業を、隠れたことも全て引き出される」とき、私が永遠の死の滅びに陥らないように、私の至らない部分、罪をイエス様に全部負わせて十字架の上まで運ばせて、イエス様がそこで私の罪の罰を代わりに受けて下さるようにしたのが、私の造り主である神であった。それで、私はこの世にあっては絶えず、順境であろうが逆境であろうが、神の守りと導きを受けられるようになった。万が一この世から死んでもすぐに神の御許に引き上げられ、復活の日に永遠に造り主のもとに戻れるようになった。知ることを神に任せて、あとは神の意思に沿うように生きれば、不条理なことの結末と全容は後で必ず目の前に明らかにされる。神がよかれと思われる時に。もし、この世の段階で明らかにされない場合は、遅くとも最終的には復活の日、「全ての目から涙が拭われる」(黙示録21章4節)日に全て明らかにされる。死からの復活があることも、神がイエス様を復活させられたことではっきり示された。もし、知ることを神に任せず、神の意思に沿うように生きなければ、不条理なことは結末を迎えることなく、不条理なままで終わってしまう。

そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、この世というところは解明できないことだらけですが、このような心意気を持って歩んでまいりましょう。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

説教「平和を実現する人たちは、幸いである」木村長政 名誉牧師

第7回 マタイ福音書5章9節

説教題「平和を実現する人々は、幸いである」 2016年9月11日(日)

今日の礼拝はマタイ5章9節で、山上の説教の連続講解説教の第7回目になります。5章9節でありますが「平和をつくりだす人たちは幸いである。彼らは神の子と呼ばれるであろう」とあります。今回のテーマは「平和」と言うことでです。聖書にはいろいろな形で「平和」が語られています。「平和」という字は聖書では平安という字ですが、この二つはよく似ているようですが全く同じではない。「平安」というものが、もとになっているのですが平安と言えば平和も入っているのでしょうがそれだけではなさそうです。マタイ福音書10章12節を見ますと、そこにイエス様が弟子たちを伝道に遣わされました。その際イエス様は言われました「どこの家にも平安を祈ってあげなさい」。平和では言い切れないものがそこにあるような気がします。私たちは「平和」と言えばすぐに「戦争」に対する「平和」を考えます。戦争の悲惨さ、というものを知っているから平和を望むのです。誰でも平和な世の中であるように、と願っています。これは大きな課題です。聖書に言う「平和」というものは、もとを言えば戦いに対する言葉というよりは社会や国の混乱に対するものであります。

旧約聖書の主な言葉を集めた辞典を見ますと「平和」のもとになっている「シャローム」という字について細かい字で16頁に渡って解明されていてその見出しは「十分に持っている」となっています。しかしそれはものを十分に持っていることではなくて神によって富まされている、ということであります。神によって祝福され、守られ、恵み深く扱わられる、ということなのです。従ってそれはいつも神との関係からはじめて言えることなのであります。「平安」の最高の状態は何か、と言いますと旧約聖書、民数記6章24~26節に書いてあるアーロンの祝祷の言葉であると言われます。このアーロンの祝祷は実は私たちが礼拝の中で最後の祝祷に取り入れられているものです。口語訳で申しますと、「願わくば主があなたを祝福し、あなたを守られるように。願わくは主がみ顔をもってあなたを照らし、あなたを恵まれるように。願わくは主がみ顔をあなたに向け、あなたに平安を賜るように。」これを見ると平安というものがどういうものであるか、よくわかります。それはひと言で言えば信仰生活ということになります。平和と言うとき、こういう背景があることを知っていなければなりません。預言者エレミヤが6章14節で「彼らは手軽にわたしの民の傷を癒し、平安がないのに『平安、平安』と言っている。」エゼキエル書のほうでは13章10節で「平和がないのに『平和』と言い」というように訳されて」います。どちらの場合もその背景は戦争ではなくて神にそむく偽りの生活であります。もし敵対する、ということを考えれば人に対する平和がであることもありましょうが、むしろ神に対する平和が先になるはずである、と言っているのです。神の祝福を受けるようにする、ことこそ平和を尽くすことになるでありましょう。そのように考えると、もし平和としても、それは神と人との平和、人と人との平和を考えなければなりません。しかも神と人との平和のほうが中心にならねばならないことは明らかです。クリスマスにいつも読むルカ福音書2章14節の天使の賛美の歌は次のように歌われます。「いと高きところでは神に栄光があるように。地の上ではみ心にかなう人々に平和があるように。」地には平和と言うのですがそれは天において神に栄光が帰されますように、ということで,はじめて言えることです。しかもその平和は主なる神がお喜びになる人々に与えられるものであります。と言うことは主なる神との間に平和ができた者に対して平和が与えられる、と言うことです。同じことがエレサレム入城の時にも言われています。ルカ福音書18章38節のところを見ますと「主の御名によって来る王に祝福あれ、天には平和、いと高きところに栄光あれ。」と言うのです。ここでは平和は天にあるように言われています。天に平和と言うのは分かりにくいことであります。なぜ神に平和と言わねばならないのか、と言うことです。これは恐らく平和をつくり出すものとしての神と言うことでしょう。そしてその平和とは言うまでもなく、キリストによる救いのことでありましょう。それならば主の誕生の時も、受難の時も同じように神による平安が讃えられている、と言うことになるのであります。その意味で神は平和の神(ピリピ書4:9にあります)そしてコロサイ人への手紙3:15節で言われるキリストの平和と言われているのであります。これらのことから明らかにされることは、平和は神との平和をもとにしなければならない、ことであります。それは平和は正しい生活と切り離しては考えられないと言うことです。もし平和は和解をもとにするものである、とすればそれは先ず正しさによる平和でなければならないのであります。平和と義とは離すことができない、と言うことであります。平和のためには神との平和が必要である、と言うことです。神に対して平和を得たという確かな信頼のないところには人と人との平和もないのであります。ローマ人への手紙5章1節で「このように私たちは信仰によって義とされたのだから、私たちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ている」とあります。それならば、すでに罪によって汚されている世界において

平和をつくるにはキリストの救いによるほかありません。パウロはコロサイ人への手紙1章20節で言っています。「その十字架の血によって平和をつくり、万物すなわち地にあるもの、天にあるものを悉く彼によってご自分と和解させて下さったのである」。キリストが十字架の上で流された血によって神との和解ができ、神に対して平和が得られる。それだけでなく天地のあらゆるものが神に対して平和を持って神のものとせられるのであります。それでは「平和をつくり出す」とはどういうことになるのでしょうか。もし平和のもとが聖書が言うようなものであるとするなら、平和をつくると言うのは平和運動をすることよりも、伝道することのほうが大切になると思います、福音を語ることであります。なぜなら先に言いましたように、平和の君である主イエス・キリストの御業は罪を犯して神の敵となっている者を、神と和解させることであったからです。神との平和をつくり平安を与えることであったからです。それなら平和をつくるのは福音を述べ伝えて伝道することである、と言っても良いのでありましょう。しかもこの方法においては人間の罪を問題にするのであります。現実の人間の生活の中で平和はどう考えたら良いのでしょうか。信仰者の立場から言えば二つのことが重要と言えます。一つは主が栄光を持って再びおいでになる時のことを最後の望みとしていることであります。神が成就してくださることに望みをつなぐことであります。もう一つは祈りであります。祈りこそは平和の第一の要件であるということ。やはり聖書の言う平和のもとに立ち帰るほかはありません。信仰者だけがこの絶望的なことの中にまことの望みを持って人と人との和解をすることができるのであると信じています。平和をつくり出す人々は神の子と呼ばれる。とイエスは言われています。神の子と呼ばれると言う事はどういうことでしょうか。実際に神の子というならば大変なことです。従ってこれを文字通りにとるか、と言うことであります。ここには「神の子と呼ばれるであろう」とは言っていますが誰に呼ばれるのかは書いてないのです。私たちはふつう人間が神の子と言われるとは考えることができないので「神の子らしい、と呼ばれる」と言いたいのであります。しかし、もし神の子と呼ばれると言うのが人々に言われるのではなくて、神にそう呼ばれると言うのであったらどうでしょう。神が神の子と呼ぶということであれば、それは全く違ったことになるのではないでしょうか。聖書においては神の子と呼ばれるのは主イエス・キリストだけであります。その他の場合は神の子にせられた者ということになるのであろうと思われます。その場合でも平和をつくる人、すなわち人と人との平和のもとである、神と人との和解のために働く者はその業のゆえに神の子と言われるのでなくてその仕事をするようにさせられているから神の子と呼ばれると言うことであります。この人々は平和をつくるように、神との和解ができるように働くようにせられている人々であります。いまは不十分にしか出来ないが主のおいでになることを確信して待ち、日毎にそのために祈ることによってその成就する道におかれているのであります。それに向かって生きるようにされているのであります。そのことは神の子とせられた者でなければ出来ないことであります。従って彼らは神の子と呼ばれるようになるのであります。 〈ハレルヤ!アーメン!〉