説教「義のために迫害される人々は幸いである」木村長政 名誉牧師

聖霊降臨後 第20主日

「義のために迫害された人々は、幸いである」

マタイ福音書5章10節

 

今日の礼拝で山上の説教(6月12日から始まって)連続講解説教,第8回となります。

マタイ5章10節[義のために迫害された人々は幸いである。天の国は、その人たちのものである]

これをもう少しイエス様が語られた気持ちで、もとの文のまま言いますと、なんという幸いな人たちよ!義のために迫害された人たち。ここに義のために迫害された人たち、と言われるこの「義」は聖書の中によく出てきますが何でしょうか。普通には正しいということです、正義のことです正しいことのために迫害されることは、よくあったことです。「義」という字は聖書の中では非常に大切な字であります。正しいという意味でもありますが、」それだけでなく恵み、とか真実ということと殆ど同じと言っても良いほど関係の深い字です。ある辞典では義というのを「救いに満ちている」と訳しています。そこで正しいことをしてゆくと、迫害を受けるようになる。ここで大切な」要点となることがあります。ここでの義が信仰の意味でそうなんだということ。正しいことをして迫害を受ける、ただそれだけではない。この義は信仰によって与えられた義であって、信仰によって救われた者が神から与えられた義を貫いて信仰を証ししている中で迫害がある、というこです。テモテ第2の手紙3章12節を見ますと、そこには「いったいキリスト・イエスにあって信仰深く生きようとする者は、みな迫害を受ける」とあります。主のために信仰深く生きる、そういう中での義です。その正しさは罪人が神の憐れみによって与えられた正しさである、と言わねばなりません。信仰によらなければ理解することは難しいことになるでしょう。キリスト教の信仰ははじめから、いろいろな理由から迫害されました。例えば他の宗教では像を拝むことをしました。キリスト教では偶像がないので無神論だろう、と言われたこともありました。それからまたキリスト教徒は聖餐の時、信者以外の人を入れないとうことで誤解を生んだこともあります。聖餐式のパンとぶどう酒をこれはキリストの体である、これはキリストの御血であると言って、肉を食べ血を飲むという思想に誤解されました。或いは信仰を持ったことで家庭内がうまくゆかなくなることも沢山あります。伝道を始めたころ私は信者の方の家庭訪問をしました。自分だけがクリスチャンの婦人が日曜の朝2時間、時間を作って教会に来るということが、どんなに辛い戦いであったかをしみじみとわかりました。日本の社会で家庭で自分だけクリスチャンを貫いてゆくことは、まさに信仰の戦いであり、そこに言われない迫害があります。こうした信仰生活を理解されないで苦しんだり非難されたりしてきました。どれだけの涙が流されているか神様がすべてご存知であります。大事なことは「義のため」とはどういうことか、であります。正しいといったもそれが神のよる正しさか、であります。いまは自分にそういうことが出来ないことを承知した上で神のあわれみに答えてこれらの生活をすることであります。義の生活が全く神によるものであるとすれば、神以外のものを神としないことがどんなに重要なことであるかが分かります。こうしたこととはっきりさせようとする、と迫害につらなってゆくのであります。

 

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これまでマタイ5:3~9節まで言われた「幸いな人々」と言われた人々は現在のことを言い表していると言われたいます。つまり心の貧しい人でも、悲しんでいる人でもそういう生活をしている人々と、いま考えてきた迫害されている人々と言う場合は言い方が違っているのです。迫害された人々という言い方は前からあったことが今まで続いていて、いまも結果が残っているという意味なのであります。紀元325年にニカヤ会議という世界で最初の教会総会議がありました。そこでつくられた信仰告白はその後教会が東と西とに分かれてもどこでも告白されている、たった一つの信仰l告白になりました。その会議に318人の監督たちが集まりましたがローマ帝国は313年にキリスト教を公認したのでした。それまで永い間迫害された教会の代表も集まったのであります。そこに出席した監督たちの中には迫害のために傷を負っている人たちが少なかったと言われています。それはまさに、ここで表されているように、もう迫害は止んだかもしれないが、その結果を身に帯びている人々であったわけで、まさに迫害されてきた人なのであります。イエス様が山上の説教をされたのはそれより300年も前の話でありますが迫害というものは、そういうもので前から今まで続いているがその結果がいつまで残ることは同じことでありましょう。もう一つのことは「迫害されてきた」というのは迫害を受けてそれを忍んできた人と言うことであります。そのこともここの言葉使いで表されているのです。それは受身の形ですがそれは、ただ迫害されたと言うのでなく迫害することを許した、従って忍耐した更に言えば喜んで迫害を受けたという意味になるのであります。迫害は神から与えられた義のためであります。従ってそれは、いやいや受けるものではありません。心から喜んで受けるものでありました。さてこうして迫害のことを語った「この人々には神の国が与えられる」というのであります。神の国というのは何でしょうか、それは神様の支配ということですね。神の国が与えられるというのは神の支配が確かなものとされるということなんです。それがどうして「さいわい」と言えるのでしょう。信仰を知らなければそれがなぜ祝福なのかと考えるのは当然でしょう。しかし信仰者から言えば神の支配に服することが最高の祝福であります。それは人間が損をすることではなくてそれによって初めてそれは人間は神様の支配のうちにいるんだ、神様の恵みのうちに自分があるという、そういう神の祝福を信じることができるのであります。それならば神の国と迫害とに、どういう関係があるというのでしょう。迫害に耐えるというのは神に服従している苦難の姿です。そしてそれは殉教ということになる。殉教こそ神の支配に服することであって、そおのことは神の喜びにあずかることであります。だれでもわざわざ殉教を求める人は「ないでありましょう。ただひたすら神様に従い、神様の栄光をあらわすことに喜びを感じる、それこそ信仰でありましょう。神様はどこまでも人間が神に従うことを求められるのであります。人は神様に従う中で苦しめられ、迫害に会い、それを耐え忍んで神のよろこばれる栄光をあらわそうとしてゆく。そのプロセスを神は最もご覧になっているのであります。ある人が言いました、人は迫害に会ってもただ無邪気に苦しむのでなく、それによってその人の品性が磨かれ向上して行く、そういう戦いの信仰生活をすべて神が承認されるのであると。すこし言い換えて申しますと、迫害に耐えることによって、その人々の生活が神の側に立ち神のものとしてこの世に立ち向かうからことができるようになる、ということであります。その時は気づかないで必死になっている、そしていつの間にか神の手のうちにあって、この世での貧しさ、弱さ、乏しさ又侮辱を受け、罵られてこの世に立ち向かっているのであります。神様がすべてをその人を丸ごと品性において認め受けとめてくださっているのであります。「決してあなたたちを見捨てたりはしない」と神の祝福の中にあるのであります。そして神がお与えになっている”恵みの深さ”というものを知るようになるのであります。最後に詩篇34編18~20節を見てみましう、次のように書いてあります、”主は心の砕けた者に近くいまし、魂の悔いくずおれた者を救われる。正しい者には災いが多い、しかし主はすべてその中から彼を助け出される。主は彼の骨をことごとく守られる。その一つだに折られることはない。”    アーメン・ハレルヤ!

 

 

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