説教「正義は祈る側にあり」神学博士 吉村博明 宣教師、ルカによる福音書18章1-8節、創世記32章23~31節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

  本日の説教は福音書の日課に基づいて行おうと思う者ですが、旧約の日課にも注意したいことがあるので、最初そちらを見ていきます。旧約の日課は、ヤコブのペヌエルでの格闘の出来事です。

 この出来事は私たちの理解を超えることがいろいろあります。一番のものは、ヤコブが格闘した相手が天地創造の神であったということです。神が人間と取っ組み合いをするような形をしているということです。神が人間の形をとったと言えば、私たちはイエス様のことを思い浮かべます。それで、ヤコブと格闘したのはイエス様が乙女マリアから生まれる以前に地上に現れたとみる人もいると聞いたことがあります。もちろん、父、御子、御霊の三位一体の神は天地創造の前から存在していたというのがキリスト信仰の立場ですので、御子イエス様もマリアから生まれる以前に存在していたことになります。しかし、やはり肉体を受けて人となってこの地上に来られたのはマリアの時ですので、ペヌエルの時はイエス様ではないでしょう。

Someone came and wrestled with him all night (1984 illustration by Jim Padgett, courtesy of Distant Shores Media/Sweet Publishing)

 それでは、神の御使い、天使か?天使も私たち人間と同様に被造物で、人間のような姿かたちをして現れることが聖書のなかによく出て来ます。出エジプト記3章で、モーセが燃える柴のところで神と出会う時、最初に御使いが登場します。それと重ねてみると、ペヌエルの時、神は天使にヤコブと格闘させて、自分は近くでご覧になっていたと考えることも可能です。しかし、神が「お前は神と人と闘って勝った」と言っているのを聞くと、天使に格闘させたというより、やはり直接相手になったのではないかと思われます。創世記1章で言われるように、神は御自分にかたどって人間を造られたことを考えれば、人間と取っ組み合いをする形をしていてもおかしくないことになります。しかしながら、イザヤ書6章で預言者イザヤがエルサレムの神殿で神を目撃した時、それは明らかに取っ組み合いをするには大きすぎる大きさです。神はこの地上に姿を現す時は、大きさを自由に変えられるということでしょうか?これ以上詮索すると、私たちの想像を超えた神を私たちの想像の中に押し込めてしまうことになるのでやめておきます。被造物の分際で神がどんな姿形をしているかわかったなどと言うと、今度は何か像を造って拝むことをはじめかねません。天地創造の神を、私たちの想像を超える方にとどめておきましょう。そのかわりに、本日の箇所が教えようとしている大事なことをみていきましょう。

この箇所の大事な教えは、神を信じ信頼する者は、神にとことんしがみつきなさい、ということです。たとえ神の方が「もう離せ」と言っても、ヤコブのように「離しません」と言ってしがみつかなければならないということです。神も実はそれを望んでおられ、信じる者がしがみつくかどうか試されるということです。神はしがみついて離さないヤコブに祝福を与え、この後ヤコブは自分が最も恐れていた兄エサウのもとに向かいます。この神にとことんしがみつくことの重要さは本日の福音書の日課にもつながっていきます。神に対して祈りを絶やしてはいけない、ということです。

もう一つ大事な教えは、ルターも述べていることですが、神は私たちの叫ぶような祈りを聞いても、すぐに楽にしてくれるとは限らない、場合によってはもっと厳しい状態に追い込むことがある、そのようにして私たちを試される、ということです。ヤコブは、兄の復讐を死ぬほど恐れていても立ってもいられないというくらいに追い詰められていました。その最中に、深夜に見知らぬ者といきなり格闘しなければならなくなってしまいました。神がこういうことをするのは、神を信じる者が自分の能力や理性に盲目的に頼るのをやめて、神が全てを取り仕切ることに委ねることが出来るようにするためです。人間の理性は、とかく問題の解決にあたって、いつ、どのようにして、誰の支援を通して、ということに心を集中させます。この時、神の働きは眼中になく、むしろ人間が考えたこと、いつ、どのようにして、誰の支援を通して、ということに神を従わせようとさえします。神はそういった人間的な予想や計画を超えた方であることを示そうとされます。それでそういったものを覆して、神以外に頼るものがない状況に人を追いやることさえします。ヤコブは格闘中に腿の関節がはずれてしまいますが、それでも神にしがみついて離れませんでした。その結果、神から祝福を受け、兄との運命的な再開に向かう準備が心身ともにできたのでした。

「神と人と闘って勝った」と言う時、「闘った」(サーラ―שרה)というのは、相手を滅ぼしたり叩きのめすような戦いではなく、競合関係にある戦いです。神に試されて、それを受けて立ち、最後はしがみついて祝福を受ける、これが「勝った」ということです。また、「人と闘った」と言うのは、「人」はヘブライ語で複数形なので兄エサウと伯父ラバンを指すと考えられます。ヤコブは神の言葉に従って、恩人の伯父のもとを夜逃げ同然で出発し復讐心に燃えている兄のいる故郷に戻ります。対立関係に陥った伯父とは後で和解します。兄エサウとは奇跡的な和解を果たします。これが「人と闘って勝った」ことです。

ヤコブの生涯の、この兄エサウのもとから逃亡して帰るまでの期間というのは、神の意思に従ったために余計な問題を抱えてしまうが、それでも神にしがみつくくらいに拠り頼み、最後は全ての問題が見事に解決するということがよく表れています。全知全能の父なるみ神が私たちにもこのようなしがみつく信頼と忍耐を与え、私たちを信仰において強めて育てて下さるように。

最後に、「神と人と闘って勝った」こととヤコブの名がイスラエルになったことの関係ですが、イスラエルというのは、「闘う」というヘブライ語の動詞(サーラ―שרה)のある形に神を意味する言葉(エールאל)が結びついて出来た言葉で、「神は闘う」という意味があります。ここからイスラエルという言葉が生まれます。ヤコブには12人の息子が生まれ、それが12支族のもとになります。

 2.

 それでは、本日の福音書の箇所の解き明しに入ります。イエス様の「やもめと裁判官」のたとえの教えです。初めに言われるように、この教えは弟子たちに語られますが、その目的は、弟子たちに「気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるため」でした。もちろん、これは弟子たちだけに向けられたのではなく、イエス様を救い主と信じる全てのキリスト信仰者に向けられています。つまり私たちにも向けられています。

なぜ、イエス様は、気を落とさずに絶えず祈ることの大切さを強調するのでしょうか?それは、弟子たちや私たちが、主に守られていると言ってもこの世の中でそう見えない厳しい現実に遭遇していくうちに、神に対して疑いを抱いてしまう。特に本日の箇所に即して言えば、不正や不正義がまかり通ってそれに対して何も成しえないことに次第に気を落として祈ることを止めてしまう、そういう危険があることをイエス様は知っていたからです。このことをイエス様が心配していることが、本日の箇所の最後の節で明らかになります。「しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」イエス様が天使の軍勢と共に地上に再臨される日、果たしてこの地上には、気を落とさず祈りを絶やさない信仰を持った人は残っているのだろうか、それともみんな既に祈りを絶やしてしまった後だろうか、というのです。それほどキリスト信仰者は、厳しい現実に絶えず遭遇しながら生きていかねばならない、ということです。ここでは、イエス様の教えをじっくり見て、祈りは無駄に終わらない、ということを体得していきましょう。

 まず、登場人物をみてみましょう。裁判官は、「不正な裁判官」(6節)と言われています。この日本語訳は正確とは言えません。ギリシャ語のアディキア(αδικια)という単語がもとにありますが、「不正な」と訳すと、何か不正を働いた、私腹を肥やすようなことをしたというようなイメージが起きます。この裁判官が本当はどんな人物だったかは、本日の箇所にしっかり言い表されています。イエス様が彼のことを「神をも畏れず、人を人とも思わない」人物であると描写します(2節)。裁判官自身も、自分のことを全く同じ言葉で言い表します(4節)。つまり、「不正な」と言うより、人を人とも思わないから無慈悲、無情な人物、神を畏れないから尊大な人物と言えます。その意味で「不正な」と言ってもいいのですが、正確には「無慈悲で尊大な」裁判官です。

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次に「やもめ」、つまり未亡人について。伝統的にユダヤ教社会の中では、未亡人は社会的弱者の一つと認識され、彼女たちを虐げてはならないことが神の掟として言われてきました(出エジプト22章21節、申命記27章19節、詩篇68篇6節、イザヤ1章17節、ゼカリア7章10節)。夫に先立たれた女性は、もし十分な遺産がなかったり、成年の息子がいなければ、生きていくのは困難だったでしょう。遺産があっても、不正の的となって簡単に失う危険があったことが聖書の中から伺えます(例えばマルコ12章40節を参照)。

さて、裁判官と同じ町に住む未亡人が、何かの不正にあって、この裁判官にひっきりなしに駆け寄り、「相手を裁いて、わたしを守って下さい」としつこく嘆願します。ギリシャ語の原文に忠実に言うと、「相手を裁いて、わたしのために正義を実現して下さい(εκδικησον με)」です。裁判官は、最初は取り合わない態度でしたが、何度もしつこく駆け寄って来るので、しまいには「あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判してやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わせるにちがいない」と考えるに至ります。「さんざんな目に遭わせる」は、ギリシャ語では「目に青あざを食らわす」(υπωπιαζω)という意味の単語です。相手が裁判官で、そんなパンチを浴びせるなどという暴力沙汰になったら、大変な事態になります。しかしそれは、未亡人はもう他に何も失うものはないという位に切羽詰った状況にいたということです。「彼女のために裁判してやろう」というのも、これもギリシャ語に忠実に訳すると「彼女ために正義を実現してやろう」(εκδικησω αυτην)ということです。

ここでイエス様は弟子たちに注意を喚起して言います。この裁判官の言いぐさを聞きなさい。無慈悲で尊大な裁判官ですら、やもめの執拗な嘆願に応じるに至ったのだ。「まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。」ここで言う「裁きを行う」というのは、先ほどと全く同じように「正義を実現する」(ποιεω την εκδικησιν)です。「速やかに裁いてくださる」も同じ「正義を実現する」です。実にこの箇所では、日本語訳では見えてきませんが、「正義の実現」を意味する言葉が4回使われ、正義の実現と祈りの関係が問題になっているのです。

ここでひとつ注意したい言葉があります。それは「選ばれた者」です。誰のことを指すのでしょうか?イエス様を救い主と信じる信仰に生きる者、キリスト信仰者を指します。どうしてキリスト信仰者が神に選ばれた者になるのかというと、次のような次第です。人は信仰者になる時まず、自分は造られた存在だとわかり、造られた以上は造り主を持つ存在だとわかる。つまり、自分は化学物質の結合や反応の連鎖から偶然に発生して出来た合成物ではなく、明確な意思と考えを持った創造主がいて自分を造ったということがわかる。ところが、一歩進めて考えて見ると、造られた自分と造った方との関係が決して良い状態にあるとは言えないこともわかる。その原因が創世記の最初にある堕罪の出来事にあるとわかる。つまり、最初の人間が創造主に対して不従順になって罪に陥って以来、人間は神との結びつきを失ってしまったことがわかる。この世の人生の歩みで造り主との結びつきは失われたままで、この世から死んだ後も造り主のもとに戻る術もない。まさにこの事態を打開するために、創造主である神はひとり子イエス様をこの世に送られた。それは、人間の罪の罰を人間にではなく全て彼に負わせて十字架の上で死なせて、この犠牲に免じて人間を赦すことにしたからである。さらに、イエス様を死から復活させることで永遠の命への扉を人間に開かれた。このあと人間がすることと言えば、これらのこと全ては自分のために起こされたのだとわかって、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ、この神が整えて下さった救いを受け取ることが出来る。こうして人間は、神との結びつきが回復した者としてこの世の人生を歩む者となり、順境の時も逆境の時も絶えず神の守りと良い導きを得ることができるようになり、万が一この世から死んだ後も、永遠に造り主のもとに戻ることができるようになった。

このように、イエス様を唯一の救い主と信じることで神の整えられた救いを受け取った者、これが「選ばれた者」です。

イエス様を救い主と信じる信仰に生きる者を「選ばれた者」と言うと、この信仰を持たない人たちは「選ばれない者」になってしまうのか、という疑問が起きます。今の時点で、信仰を持っていない人たちを「選ばれない人」と結論するのは早急です。なぜなら、今は信仰を持っていなくても、将来のある日、その人がイエス様を救い主と信じて洗礼を受けることになれば、「ああ、この人も実は『選ばれた人』だったんだな。あの頃は想像もつかなかったなぁ」ということになるからです。このように、私たち人間の目からでは全ては事後的にわかるだけです。それゆえ、現時点の観点で、「あの人は『選ばれた人』ではない」と結論づけることはできません。大切なことは、事後的に「選ばれた人」が一人でも多くでるように、私たちが福音のために働くということです。神がイエス様を用いて実現された救いは、世界の全ての人々に提供されているのですから、それを受け取る人が一人でも増えるように働くということです。

逆に、一度「選ばれた人」になった者が自動的に「選ばれた人」のままでいられるという保証もありません。「昼も夜も叫ぶがごとく神に祈る」キリスト信仰者にとって、祈りを捧げたり、求めることを打ち明けたり、助けを叫び求める相手と言えば、それはイエス様をこの世に送られた神以外にはいません。もし、信仰者がそれをしなくなって、例えば、神以外に祈りを捧げたり助けを求めたりする相手を見つけてしまうとか、または神などに祈り求めなくても自分で全て解決できると言って自分を神と同一視するようになってしまったりしたら、「選ばれた人」はもはやそうではなくなってしまいます。そういうわけで、「選ばれた人」とか「選ばれなかった人」というのは、本当に現時点で言えることではなく、ずっと先まで見て行かなければならないのです。イエス様を救い主と信じる信仰を持って最後まで生き抜くか、あるいはどんなに遅くても死ぬ間際までにイエス様を自分の唯一の救い主として受け入れられるか、それが「選ばれた人」の決め手になります。

 3.

 それでは、キリスト信仰者がこの世の厳しい現実に遭遇して気を落として祈ることを絶やしてしまう危険について、そしてそれを乗り越える仕方について見ていきます。本日の箇所では、正義の問題が中心にあります。この世に不正や不正義がまかり通り、信仰者もそうしたものを被ってしまうことがある。事態の打開や問題の解決を神に祈っても、なかなか改善がみられない、望み通りの解決が得られない時、いろいろな疑念が頭に浮かんできます。神はなぜこのような状態をほっておかれるのか?私の信仰に何か落ち度があって、それで罰として何もしてくれないのか?それとも、神は万能と言われるが実はそうではなかったのか?こういう疑いを持てば、神は罰するだけの怖い方と恐れてしまうか、または愛想を尽かして見切りをつけてしまうか、ということが起きて、神に背を向けてしまうことになります。かつて神に背を向けて生きていた私たちが神との結びつきを持てるようにしようと、神はせっかくイエス様を送って下さった。それなのに私たちの方で、試練にあったからと言って、いただいた結びつきを信じられなくなって、再び神に背を向けてしまうというのは情けないことです。まさに、本日の福音書の箇所の未亡人のように、また昼も夜も叫ぶようにして祈る信仰者のように祈らなければならないのです。そのような者に対して神は速やかに正義を実現される、とイエス様は約束しているのです。

 祈りを絶やさないという本日の課題を学ぶ上で、詩篇のはじめの部分はとても参考になります。そこでは、正義の問題が多くでてきます。ダビデが、敵対者に包囲され、窮地に陥る。敵対者は神を畏れない輩なのに、全てがうまくいき繁栄している。しかし、神を信じる自分の状態は悲惨そのものである。これほど正義からかけ離れた状況はない。しかし、神は「正しい裁判者」(שופט צדיק、7篇12節、9篇5節)なので、必ずこの状況を逆転させて、正義が実現するようにして下さる、そういう確信がずっと貫かれています。(本日の福音書の箇所に登場する「不正な/無慈悲で尊大な裁判官」(ο κριτης της αδικιας)は、「正しい裁判者」(שופט צדיק)である神と対比されたものであることは明らかです。)特に詩篇の10篇、13篇、22篇をみると、正義の祈りのサイクルがみてとれます。まず初めに、正義が実現されない状況について、「神よ、なぜ傍観しているのですか」という苛立ちの嘆きが述べられます(10篇1~11節、13篇2~3節、22篇2~3節)。次に、「神よ、どうか事態を打開して下さい」という嘆願になります(10篇12~15節、13篇4~5節、22篇20~22節)。そして最後に、「神こそが事態を打開し、正義を実現される方である」という確たる信頼が告白されます(10篇16~18節、13篇6節、22篇25~27節)。私たちも、祈りがなかなか答えられない状況にいる時は、このように苛立ちが含まれる素直な嘆きの祈りがあってもよいのです。ただし、そこからどう嘆願に戻り、さらに信頼の告白に導いていけるか、そこが大きな課題になります。

そこで、三週間前のルカ17章の「ラザロと金持ち」のたとえについて説教をした時に教えたことを思い出してみましょう。もし正義の実現が結果的に来世に持ち越されてしまうような場合であっても、この世にいる間は神の意思に反する不正義や不正には対抗していかなければならない。それでもし解決に至れば神に感謝だが、力及ばず解決に至らない場合もある。しかし、その解決努力をした事実は神にとって無意味でもなんでもない。神はあとあとのために全部のことを全て記録して、事の一部始終を細部にわたるまで正確に覚えていて下さる。たとえ人間の側で事実を歪めたり真実を知ろうとしなくても、神は事実と真実を全て把握している。そして、神の意思に忠実であろうとしたために失ってしまったものについては、神は後で何百倍にして埋め合わせて下さる。それゆえ、およそ、人がこの世で行うことで、神の意思に沿わせようとするものならば、どんな小さなことでも、またどんなに目標達成に遠くても、無意味だったというものは何ひとつない、ということです。

神は全てのことを一部始終細部にわたるまで正確に記録しています。だから、事の当事者であるキリスト信仰者は、神から絶えず目を注がれています。問題が起きて、最初の祈りがなされた瞬間からそうです。私たちの知りえない理由から、ある場合には早く解決を与えられるかと思えば、他方では時間がかかる場合がある。場合によっては来世に持ち越されることもある。しかし、いずれにしても、最初の祈りがなされた瞬間に問題の解決は神の保証付きになったのです。

そういうわけですから、兄弟姉妹の皆さん、いつ見える形で解決が与えられるかは神がよいように決めて下さると信頼して、私たちとしては、祈り始めた瞬間から問題は神の関心事になっているのだということを忘れないようにしましょう。だから、気落ちする理由はありません。私たちに背を向けない神に背を向けないためにも、祈りを絶やさないようにしましょう。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン


主日礼拝説教 2016年10月16日(聖霊降臨後第22主日)

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