説教「天地創造の神への感謝に生きる」神学博士 吉村博明 宣教師、列王記下5章1-14節、ルカによる福音書17章11-19節

  私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 1.

  本日の旧約聖書と福音書の日課に記された出来事は、前者がイスラエルの民の王国が南北に分裂した後の時代で、後者はイエス様がこの地上で活動された時のことで、両者は歴史的に800年くらいの開きがあります。この二つの出来事には共通点があります。まず、治る見込みのない重い皮膚病を患わった人が癒しの奇跡を受けたということが第一の共通点。それから、旧約の日課の中心人物ナアマンはアラム王国というイスラエル北王国の隣国の軍司令官、新約の日課に出てくるイエス様に癒しを受けて戻って来た人はサマリア人ということで、二人とも神の民に属さない異教徒です。(サマリア人がどれだけ異教徒と言えるかどうか議論が生じるかもしれませんが、少なくともユダヤ人からみたらそうなります。)そのような異教徒に属する者が天地創造の神から癒しの奇跡を受けたということが第二の共通点です。さらに、旧約の日課を本日の箇所よりも先まで読んでいきますと、癒しを受けたナアマンが天地創造の神に感謝の気持ちに満たされたことが言われています。イエス様から癒しを受けたサマリア人も同様でした。感謝の気持ちを強く表したということが第三の共通点。

 以上、不治の病を抱えた異教徒に属する者が天地創造の神から癒しの奇跡を受けて神に感謝の気持ちで満たされる、という共通点があることがわかりました。ところが、両者の間には大きな相違点もあります。本日は、この相違点に注意しつつ、私たちの信仰はいかにあるべきかについて考えてみたく思います。

 

2.

 旧約の日課は列王記下5章の前半部分です。預言者エリシャが異教徒の民族の国の軍司令官ナアマンを重い皮膚病から癒す奇跡を行ったことについて述べています。興味深いことに1節をみると、「主がかつて彼を用いてアラムに勝利を与えられた」とあります。(ヘブライ語(תשועה)に忠実に訳すると「主がかつて彼を用いてアラムの窮地を救った」ですので、救国の英雄ということです。)この「主」とは、ヘブライ語でヤハヴェיהוהと記されているので、これは天地創造の神です。このように天地創造の神がイスラエルの民に属さない者を用いて、彼が所属する国を助けるということがあるのです。

 天地創造の神がイスラエルの民以外の者に影響力を及ぼして何かを起こさせるということは聖書の中に多くあります。有名な例として、神がエジプトの王ファラオの心をかたくなにして、イスラエルの民が国を出て行くのを拒み続けたことがあります。そうすればそうするほど、エジプトは神の罰を被ってしまい、神の力を目の当たりにしてしまう。耐え切れなくなったファラオは最後に出て行くことを認めました。また、バビロン帝国によるエルサレムの破壊は、イスラエルの民の長年の罪に対する神の罰を執行するものとして言われています。しかし、人間の目には強大な征服者に映るバビロン帝国も、実は神の道具にしかすぎなかったのです。神がイスラエルは十分罰を受けたと判断した時、歴史の大転換が起こります。神は今度は、ペルシャ帝国の王キュロスを道具に用いてバビロン帝国を滅ぼさせました。これでイスラエルの民はエルサレムに帰還を果たすことができました。

 そうなると、世界の歴史の出来事には天地創造の神の力が働いているということになります。聖書の中に記された例は今述べたものが代表的なものです。それでは、聖書に記された出来事の後の歴史はどうでしょうか?もちろん、神は天地創造の後も、今ある天と地の上側か外側かどう言っていいかわかりませんが、御自分のいらっしゃるところからこの天と地に影響力を及ぼしている。この天と地が終わりを告げる日まで、人間の歴史の歩みと共にいらっしゃる。しかしながら、聖書に記された出来事の後の歴史については、神がこう力を及ぼしたからこうなったとかは、聖書に記されていない以上は詳細はわからないのです。特に、ダニエル書や黙示録に書いてあることは、どこまでが書物が書かれた時代の人たちから見て未来のことなのか、それとも現代を生きる我々から見て未来のことなのか?書いてあることを、一つ一つ何かにあてはめようとするといろんな解釈がでて混乱が生じると思います。そういうわけで、はっきりしていることだけに注意を向けた方が良いと思います。それは、聖書の中に記された過去の出来事を見ると、神はイスラエルの民であるかないかにかかわらず影響力を及ぼして歴史を動かすこということ。また、聖書に記された出来事の後の歴史についても、当然神は影響力を及ぼしていると見るべきであるが、どのように及ぼしたか詳しい全容が明らかになるのは最後の審判の日を待つしかないということです。

 少し脇道にそれましたが、ナアマンの出来事でもう一つ興味深いことは、もっと先まで19節まで読むとでてきます。癒しの奇跡を受けたナアマンが一種の信仰告白をすることです。ナアマンは、「イスラエルのほか、この世界のどこにも神はおられないことが分かりました」と言います。そしてお礼に預言者エリシャに大量の金銀等を贈ろうとしたが、エリシャは絶対に受け取らない。それでナアマンは、受け取りをお願いしても聞いてくれないのなら、かわりに2つのお願いを聞いて下さいと言う。一つは、イスラエルの土をらば二頭分持って行くこと。もう一つは、自分は金輪際、天地創造の神以外の神々に捧げ物をしないつもりではあるが、それでも主君に同行して異教の神の神殿にお参りに行かなければならない時、自分もやむを得ず主君と一緒にひれ伏すことを許して下さい、ということでした。これに対してエリシャは、「安心して行きなさい」と答えました。

 これは、一体どういうことでしょうか?十戒の第一の掟に従えば、天地創造の神以外にはひれ伏してはならないはずです。「安心して行きなさい」とは、エリシャはひれ伏しても良いと言っているのでしょうか?ヘブライ語の原文(לשלומ)も、「平安のうちに行きなさい」とか「心を騒がせずに行きなさい」いう表現です(創世記44章17節から「無事な状態で」の意味も)。英語やフィンランド語の聖書もそう訳しています。ただしスウェーデン語の聖書は「エリシャは別れを告げた」と訳していて、ひれ伏すことを必ずしも認めたわけではないニュアンスがあります。

 ここで一つ考えられるのは、十戒の掟を自覚して背負って生きるのは天地創造の神を信じる者たちということです。もし癒しの奇跡を受けた者がナアマンでなく、イスラエルの民に属する者であったならば、偶像崇拝する主君と一緒にひれ伏すことを認めて下さい、と言っても、認められないでしょう。ダニエルが異教の主君ネブカドネツァルに対してどう振る舞ったかを思い出して下さい。ナアマンの場合は、天地創造の神の影響力が及ぼされているにもかかわらず、それに気がつかないで異教の神を信じる者でした。それが、突然癒しの奇跡を受けたことをきっかけに天地創造の神がまことの神とわかり始めたのです。

 ところが、「わかり始めた」のはまだ始まりにすぎませんでした。ナアマンはお礼に贈り物をあげようとしましたが、エリシャに拒否されました。エリシャはなぜ受け取らなかったのでしょうか?もし受け取ったならば、どうなったかを考えてみると良いでしょう。エリシャが受け取らなかったために、ナアマンはさらに、これからは異教の神々にではなく天地創造の神にしか捧げ物はしません、と告白しました。もしエリシャが贈り物を受け取っていたならば、この告白は出なかったでしょう。つまり、「はい、イスラエルの地以外には神はいないと分かりました。お礼に贈り物を受け取って下さい」と言って、贈り物を受け取ってもらって、めでたしめでたしと国に帰ったら、また結局は同じこと、異教の神々への捧げ物を続けていたでしょう。エリシャの拒否が捧げ物をしないという告白を導いたと言えます。こうしてみると、エリシャを通して起きた奇跡の業で神は他にいないという告白を生み、それに続くエリシャの拒否で偶像に捧げ物をしないという告白を生んでいく。ナアマンが一歩一歩導かれていることがわかります。しかし、最後に主君の信仰と家臣としての立場が大きな壁として立ちはだかりました。その時点でエリシャはナアマンを送り返すのですが、エリシャが一歩一歩導いたことを考えれば、ナアマンが異教の神をひれ伏してよいと認めたのではなく、その後は神の御手に委ねるというふうに考えるべきでしょう。「平安のうちに、心騒がせずに行きなさい

というのは、行く手に困難が待ちうけていることを覚悟した時、全知全能の神を信頼して全てを神に委ねて前に進みなさい、ということを意味します。

さて、国に帰ったナアマンがこの後どうなったか、偶像に捧げ物をしない論理的帰結として主君の前でも偶像にひれ伏さなくなったか、またはひれ伏すことを続けることで偶像への捧げ物を再開してしまったか、これはもう聖書に記述されていないのでわかりません。神のみがご存知です。

 

3.

 ルカ福音書17章の出来事は、大きく分けて二つの部分からなります。最初は、10人の男が癒しの奇跡を受けたという出来事。その次は、10人のうちの一人でイスラエルの民に属さない者だけが感謝するためにイエス様のもとに戻ってきたことです。

はじめに10人の男の人たちの信仰について見てみます。この10人にはイエス様を救い主と信じる信仰が癒しを受ける前に既にありました。10人はすぐ奇跡の業をしてもらって癒されることを期待した筈ですが、イエス様は治すとも治さないとも言わず、ただエルサレムの神殿の祭司に体を見せに行きなさい、とだけ言う。10人はすぐ希望が叶えられないことに不平不満は言わず、言われるままにエルサレムに向かいました。これが癒しを受けた後で信じ出したナアマンと異なる点です。ルターは、10人の信仰を評価して、次のように言っています。

「らい病の男たちがイエス様を救い主と信じ始め、彼から良いものを受けられ始めたまさにその時、主は彼らの信仰を鍛えようとして試されたのである。それで、目に見える形ですぐに癒しを与えず、祭司のところに行って体を見せなさい、とだけ言われたのである。

主は我々に対しても、我々の信仰を強め試すために同じようにされる。主が我々を試す仕方であるが、いったい我々に何をされようとするのか、我々が理解できない仕方で行われる。主がなぜそのような仕方でされるかと言うと、それは信仰者が主は全く良い方であるという一点に全てを賭けるようになるためである。また、主は我々が祈り求めたこと、あるいはそれ以上に良いものを必ず与えて下さることを疑わないようになるためである。主の指示に従った10人のらい病者はまさに次のように考えて行動したのである。『主よ、わかりました。あなたがそうおっしゃるのなら、私たちは祭司たちのところに行きましょう。たとえあなたが今この場で、治すか治さないかはっきり言って下さらなくても、あなたが治す力のある方だと信じる私たちの信仰はかわりません。だから、私たちとしては、主に治す気持ちがなくても、それは主が私たちにかわりにもっと良いものを与えて下さることなのだから、それを喜んで待ち望もうではないか!だから一層、主により頼もうではないか!それゆえ私たちにとって、主が良い方であると信じるのをやめることなどは考えられないのだ!』

これこそがまさしく信仰の中で成長するということである!このような試練は、人生が続く限り続くものである。主は我々を一つのことで試された後、いつも新しいことで試され始める。そのようにして、我々の信仰と主に対する信頼を一層強めて下さる。我々自身が終わりまで信仰にしっかり留まる限り、ただただ強め続けて下さるのである。

 

4.

 このような信仰をもって、10人の男たちは出かけて行きました。すると、出発後ほどなくして、10人はみな病気が治ってしまいました。みんなは歓喜の極みだったでしょう。9人は、そのままエルサレムの祭司たちの所へ向かい続けました。レビ記の14章をみると、祭司は「重い皮膚病」にかかったかどうかを診断するだけでなく、治ったかどうかも診断しなければなりませんでした。ところが、1人だけ、この律法に規定された治癒の診断に行かずにイエス様のところに戻ってきました。先ほども触れたサマリア人でした。彼は、このような奇跡を行った方とその方をこの世に送った神を賛美し感謝します。この時のイエス様の言葉「清くされたのは10人ではなかったか。ほかの9人はどこにいるのか。この外国人の他に神を賛美するために戻って来た者はいないのか」、これを聞くと、イエス様は、律法に規定された祭司の診断よりも、イエス様のところに戻ってきて神を賛美することの方が大事だと言っているのが明らかになります。さらにイエス様はサマリア人に「あなたの信仰があなたを救った」と言われます。これは、わかりそうでわかりにくい言葉です。額面どおりに受け取れば、イエス様を救い主と信じたので病気が癒されたのだ、と理解されます。しかし、そうなると、キリスト信仰者でも病気が治らない人たちも現実にいるのだから、その場合、その人たちの信仰が足りないものなってしまいます。そういうふうに、祈願嘆願したことが実現するか否かということが、信仰が優れているとか劣っているとかの判断材料となってしまいます。イエス様は、そのようなことを教えているのでしょうか?いいえ、そうではありません。そうではないということがわかるために、イエス様が別の箇所で同じ言葉を述べているところをみてみましょう。

本日の福音書の箇所では、イエス様はこの言葉を人の病気が治った後に述べますが、マタイ9章22節、マルコ10章52節、ルカ18章42節をみると、イエス様は同じ言葉を病気が治る前に、つまり人がまだ病気の状態にいる時に述べます。マタイ9章では、12年間出血状態が止まらない女性がイエス様の服に触れば治ると思って触る、それに気づいたイエス様が「娘よ、元気を出しなさい(θαρσειは「元気になりなさい」という訳よりも「元気を出しなさい/気をしっかり持ちなさい」がいいでしょう)。あなたの信仰があなたを救った」と言われます。この言葉をかけられて女性は健康になります。マルコ10章52節とルカ18章42節は同じ出来事です。目の見えない人がイエス様に見えるようにしてほしいと一生懸命に嘆願する。イエス様は彼に「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と言われる。その直後に男の人は目が見えるようになります。

病気が治った後で「あなたの信仰があなたを救った」と言えば、ああ、信仰のおかげで治ったのだな、と理解できます。しかし、病気が治る前、まだ病気の状態でいる時にそう言うのはどういうことなのでしょうか?そこで、この「あなたの信仰があなたを救った」の「救った」に注意すると、これはギリシャ語の現在完了の形です(σεσωκεν)。ギリシャ語の現在完了形は英語と少し違っていて、「ある過去の時点で始まった状態が今現在までずっとある」という意味が中心です。つまり、「あなたの信仰があなたを救った」というのは、「イエス様を救い主と信じる信仰に入って以来、今イエス様の真ん前に立っているこの時までずっと救われた状態にあった」という意味です。

これは驚くべきことです。12年間出血が治らなかった女性も目の見えなかった男の人も、この言葉をかけられる時までずっと救われた状態にあったと言うのです。まだ病気を背負っている時に、既に救われた状態にあったと言うのです。どうして、そんなことが可能なのでしょうか?それは、イエス様を救い主と信じる信仰に入って以来、この人たちは、確かに見た目では病気を背負っている状態にはあるけれども、神の目から見れば、罪と死の支配から解放されて、神との和解が回復して、神との結びつきの中で生きられるようになった人たちだったのです。このことは、キリスト信仰にとってとても大事なポイントです。つまり、キリスト信仰では「救い」というのは、目に見える境遇が良好な状態であるということと同義ではありません。境遇が良好かそうではないかにかかわらず、罪と死の支配から解放されて、神との和解が回復して、神との結びつきの中で生きられるようになる、この世においても次の世においてもそのように生きられる、それが「救い」なのです。誤解を恐れずに言えば、出血の女性や目の見えない男の人が癒されたのは、そのような真の救いに対する付け足しだったのです。

そういうわけで、キリスト信仰者が不治の病にかかったとしても、それはその人の「救い」が無効になったということでは全くありません。そうではなく、その人がイエス様を救い主と信じる信仰にしっかりとどまる限り、その人は病気になる前と同じくらいに救われた状態にいるのです。このような確固とした救いは、イエス様が十字架の上で自らを犠牲の生け贄にして、人間を罪と死の支配から贖い出す業を成し遂げて、それで全ての人に提供されました。それは、イエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けることで自分のものとして受け取ることができるのです。

 本日の福音書の箇所のらい病の人たちも同じです。彼らは、ルターが言うように、治してくれるのかくれないのか言ってくれなくとも、イエス様を強く信頼して言う通りにしました。イエス様は、彼らの信仰がわかりました。しかし、時はまだ十字架と復活の出来事が起きる前のことでした。そのため、9人が祭司に治ったことの診断を仰ぐという旧約の様式に則って行動したのは無理もないことでした。これに対して、賛美と感謝を捧げるために一人イエス様のところに戻って来たサマリア人は、実は十字架と復活の時に確立された神との新しい契約の行動様式を先取りして示したのです。それは、自分を犠牲にして人間に救いを実現して下さったイエス様と、彼をこの世に送って下さった父なるみ神をただ賛美し感謝を捧げるということです。

そういうわけですから、兄弟姉妹の皆さん、私たちは、どんな境遇に置かれても、この、いただいた救いのゆえに、賛美と感謝を絶やさず捧げる方がいらっしゃることを忘れないようにしましょう。周囲の人たちは、どうしてこの人はこんな状態にあるのに賛美や感謝の心を持てて輝いていられるのか、不思議に思うかもしれません。しかし、そこに神の奇跡の業が現れ始めているのです。さらなる奇跡の業が現れるにしても現れないにしても、ひとり子イエス様の贖いの業のゆえに天地創造の神に賛美と感謝を捧げることは全ての出発点であることを忘れないようにしましょう。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

 

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