説教「平和を実現する人たちは、幸いである」木村長政 名誉牧師

第7回 マタイ福音書5章9節

説教題「平和を実現する人々は、幸いである」 2016年9月11日(日)

今日の礼拝はマタイ5章9節で、山上の説教の連続講解説教の第7回目になります。5章9節でありますが「平和をつくりだす人たちは幸いである。彼らは神の子と呼ばれるであろう」とあります。今回のテーマは「平和」と言うことでです。聖書にはいろいろな形で「平和」が語られています。「平和」という字は聖書では平安という字ですが、この二つはよく似ているようですが全く同じではない。「平安」というものが、もとになっているのですが平安と言えば平和も入っているのでしょうがそれだけではなさそうです。マタイ福音書10章12節を見ますと、そこにイエス様が弟子たちを伝道に遣わされました。その際イエス様は言われました「どこの家にも平安を祈ってあげなさい」。平和では言い切れないものがそこにあるような気がします。私たちは「平和」と言えばすぐに「戦争」に対する「平和」を考えます。戦争の悲惨さ、というものを知っているから平和を望むのです。誰でも平和な世の中であるように、と願っています。これは大きな課題です。聖書に言う「平和」というものは、もとを言えば戦いに対する言葉というよりは社会や国の混乱に対するものであります。

旧約聖書の主な言葉を集めた辞典を見ますと「平和」のもとになっている「シャローム」という字について細かい字で16頁に渡って解明されていてその見出しは「十分に持っている」となっています。しかしそれはものを十分に持っていることではなくて神によって富まされている、ということであります。神によって祝福され、守られ、恵み深く扱わられる、ということなのです。従ってそれはいつも神との関係からはじめて言えることなのであります。「平安」の最高の状態は何か、と言いますと旧約聖書、民数記6章24~26節に書いてあるアーロンの祝祷の言葉であると言われます。このアーロンの祝祷は実は私たちが礼拝の中で最後の祝祷に取り入れられているものです。口語訳で申しますと、「願わくば主があなたを祝福し、あなたを守られるように。願わくは主がみ顔をもってあなたを照らし、あなたを恵まれるように。願わくは主がみ顔をあなたに向け、あなたに平安を賜るように。」これを見ると平安というものがどういうものであるか、よくわかります。それはひと言で言えば信仰生活ということになります。平和と言うとき、こういう背景があることを知っていなければなりません。預言者エレミヤが6章14節で「彼らは手軽にわたしの民の傷を癒し、平安がないのに『平安、平安』と言っている。」エゼキエル書のほうでは13章10節で「平和がないのに『平和』と言い」というように訳されて」います。どちらの場合もその背景は戦争ではなくて神にそむく偽りの生活であります。もし敵対する、ということを考えれば人に対する平和がであることもありましょうが、むしろ神に対する平和が先になるはずである、と言っているのです。神の祝福を受けるようにする、ことこそ平和を尽くすことになるでありましょう。そのように考えると、もし平和としても、それは神と人との平和、人と人との平和を考えなければなりません。しかも神と人との平和のほうが中心にならねばならないことは明らかです。クリスマスにいつも読むルカ福音書2章14節の天使の賛美の歌は次のように歌われます。「いと高きところでは神に栄光があるように。地の上ではみ心にかなう人々に平和があるように。」地には平和と言うのですがそれは天において神に栄光が帰されますように、ということで,はじめて言えることです。しかもその平和は主なる神がお喜びになる人々に与えられるものであります。と言うことは主なる神との間に平和ができた者に対して平和が与えられる、と言うことです。同じことがエレサレム入城の時にも言われています。ルカ福音書18章38節のところを見ますと「主の御名によって来る王に祝福あれ、天には平和、いと高きところに栄光あれ。」と言うのです。ここでは平和は天にあるように言われています。天に平和と言うのは分かりにくいことであります。なぜ神に平和と言わねばならないのか、と言うことです。これは恐らく平和をつくり出すものとしての神と言うことでしょう。そしてその平和とは言うまでもなく、キリストによる救いのことでありましょう。それならば主の誕生の時も、受難の時も同じように神による平安が讃えられている、と言うことになるのであります。その意味で神は平和の神(ピリピ書4:9にあります)そしてコロサイ人への手紙3:15節で言われるキリストの平和と言われているのであります。これらのことから明らかにされることは、平和は神との平和をもとにしなければならない、ことであります。それは平和は正しい生活と切り離しては考えられないと言うことです。もし平和は和解をもとにするものである、とすればそれは先ず正しさによる平和でなければならないのであります。平和と義とは離すことができない、と言うことであります。平和のためには神との平和が必要である、と言うことです。神に対して平和を得たという確かな信頼のないところには人と人との平和もないのであります。ローマ人への手紙5章1節で「このように私たちは信仰によって義とされたのだから、私たちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ている」とあります。それならば、すでに罪によって汚されている世界において

平和をつくるにはキリストの救いによるほかありません。パウロはコロサイ人への手紙1章20節で言っています。「その十字架の血によって平和をつくり、万物すなわち地にあるもの、天にあるものを悉く彼によってご自分と和解させて下さったのである」。キリストが十字架の上で流された血によって神との和解ができ、神に対して平和が得られる。それだけでなく天地のあらゆるものが神に対して平和を持って神のものとせられるのであります。それでは「平和をつくり出す」とはどういうことになるのでしょうか。もし平和のもとが聖書が言うようなものであるとするなら、平和をつくると言うのは平和運動をすることよりも、伝道することのほうが大切になると思います、福音を語ることであります。なぜなら先に言いましたように、平和の君である主イエス・キリストの御業は罪を犯して神の敵となっている者を、神と和解させることであったからです。神との平和をつくり平安を与えることであったからです。それなら平和をつくるのは福音を述べ伝えて伝道することである、と言っても良いのでありましょう。しかもこの方法においては人間の罪を問題にするのであります。現実の人間の生活の中で平和はどう考えたら良いのでしょうか。信仰者の立場から言えば二つのことが重要と言えます。一つは主が栄光を持って再びおいでになる時のことを最後の望みとしていることであります。神が成就してくださることに望みをつなぐことであります。もう一つは祈りであります。祈りこそは平和の第一の要件であるということ。やはり聖書の言う平和のもとに立ち帰るほかはありません。信仰者だけがこの絶望的なことの中にまことの望みを持って人と人との和解をすることができるのであると信じています。平和をつくり出す人々は神の子と呼ばれる。とイエスは言われています。神の子と呼ばれると言う事はどういうことでしょうか。実際に神の子というならば大変なことです。従ってこれを文字通りにとるか、と言うことであります。ここには「神の子と呼ばれるであろう」とは言っていますが誰に呼ばれるのかは書いてないのです。私たちはふつう人間が神の子と言われるとは考えることができないので「神の子らしい、と呼ばれる」と言いたいのであります。しかし、もし神の子と呼ばれると言うのが人々に言われるのではなくて、神にそう呼ばれると言うのであったらどうでしょう。神が神の子と呼ぶということであれば、それは全く違ったことになるのではないでしょうか。聖書においては神の子と呼ばれるのは主イエス・キリストだけであります。その他の場合は神の子にせられた者ということになるのであろうと思われます。その場合でも平和をつくる人、すなわち人と人との平和のもとである、神と人との和解のために働く者はその業のゆえに神の子と言われるのでなくてその仕事をするようにさせられているから神の子と呼ばれると言うことであります。この人々は平和をつくるように、神との和解ができるように働くようにせられている人々であります。いまは不十分にしか出来ないが主のおいでになることを確信して待ち、日毎にそのために祈ることによってその成就する道におかれているのであります。それに向かって生きるようにされているのであります。そのことは神の子とせられた者でなければ出来ないことであります。従って彼らは神の子と呼ばれるようになるのであります。 〈ハレルヤ!アーメン!〉

 

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