説教「義に飢え乾く人たちは、幸いである」木村長政 名誉牧師、マタイによる福音書5章6節

 マタイ5章6節 (第4回)

説教題:「義に飢え乾く人たちは、幸いである」  

今日は、山上の説教の第4回目になります。マタイによる福音書5章6節の御言葉です、「義に飢え乾く人々は、幸いである。その人たちは満たされる」。あらためて、ここで「義に飢え乾く人たちは、幸いである」と言われていますが、ふつう「義に飢え乾く」などということをしているだろうか。普段はあまり考えていないでしょう。義というのは正義の義、正しい、ということでしょう。正しい人になりなさい、という気持ちは誰でも持っているでしょう。文語訳の聖書では、ここのところを「飢え乾くように義をしたう人々は、幸いである」となっています。義をしたう・・・・・これは簡単に言えないことです。なぜ、そんなに「正しい」ことが問題になるのでしょう。なかなか、答えが出てきません。私たちは、みんな正しくありたい、この世も正しくあったら、どんなに平和になるだろうと思います。生まれながらに、そなえ持っている」思いでしょう。特に私たち信仰者も同じであろうと思います。なぜなら、私たちには神様があるからです。正しい神がおられます。神が正しいお方だから神に従う私たちも、正しい生活をしなければ、と思っています。よくわかることです。神様がおられないとなれば、正しいも、なにもない、思いのままに争いと、分列と、そして滅びとなるでしょう。神様は何よりも人間の罪のことを問題にされています。人間の生活には多くのことがあるのに、神は何よりもその罪を問題にしておられるのです。それに、いわば全力を注ぎ御自分のひとり子を、そのためにお遣わしになったのであります。それが、私たち人間がどんなことがあっても正しく生きなければならないことの、ただ一つの理由であります。ここに神がまことに正しい方であることがあらわされている、と言っても良いのであります。正しさ、を求める者は自分だけが正しいのでは満足できません。正しいことが皆に認められなければ、安心して正しい生活をすることができないのではないかと思います。神が正しくあられるだけでなく、その正しい神が最後にはすべてに勝って、勝利をつかんで、そのゆえに正しいことが何時も認められなければ本当に正しい生活はできないのであります。そのために自分の罪から開放されたいし、この世も罪から開放されることを望まないではおられないのであります。神がキリストによってこの世を私たちを罪から救ってくださる事が大事なことになるのであります。それなら、その神を信じ、その神から正しさを求めることがどうしても必要であります。そうして見ると「義」を求めることは実は神を求めるということになるのです。

ルターは、ここに書いています。「義という字は敬虔」すなわち「信仰」と訳しました。義を切に求めることは信仰を求めることである。義に飢え乾く、と言いますがふつう一般の人々のことを言っているのではありません。ここでは神の祝福を受けた人々であります。当面のこととしてはキリストの弟子たちであります、今の言葉で言えば信仰者のことであります。信仰を持っている者がどんなに義をもとめているはずの者であるか、ということです。信仰者にとっては、神が義であることは分かりきったことであります。その神から義を求めるということなのであります。この事について私たちは自分の信仰生活がどういうものか、といことをよく考えてみる必要があると思います。義を求める、と言いますが実は私たちの信仰生活は義を求めることから始まったはずであります。人は誰でも自分が正しい、と思います。自分の義を主張するのです。しかしそれが間違っていたことに気づくことが信仰生活の糸口でありました。自分の正しさを主張しながら自分こそまことに正しくない者、罪人であることに気づいたのであります。それゆえに何よりも神によって正しい者にしていただきたかったのであります。神に救われると言うのは病気から救われる、ことでもなければ不安から救われることでもなく、罪から救われることでありました。それは罪から開放されて正しい者にあることであります。それが神との関係を正しく、神の恵みを知り、不安から抜け出す道であるに違いありません。こういうことですから信仰者は始めから義を求めていたのであります。罪人であるのに神によって義とされたということ、従って罪が赦されて喜んで信仰生活をしていることは義を求め続けていることになるのであります。 それなら、その生活をしながら何故なおも義を求めるのでしょう。それは一つには義を求めて義を与えられることによって確信させられた神の恵みをいっそう喜ぶことであります。しかし、もう一つはどこまでも正しくありたい、ということではないかと思います。それはどこまでも清くありたいということであると言っても良いかも知れません。救いを受けている私たちですが、はじめの願いである清くなることが、まだ完全にはできていないのであります。それならば日毎にそれを求めるのであります。ピリピ人への手紙3章12節には次のようにあります。「わたしが、すでに得たとか、すでに完全な者になっていると言うのでなく、ただ捕らえようとして追い求めているのである。そうするのはキリスト・イエスによって捕らえられているからである」。この言葉は信仰生活者が義を求めることをよくあらわしていると思います。

正しさを求めることから始まったのです、しかしもう完全な者になったのではなくて、ただそれを得たいと思って追い求めているのであります。しかも大切な事は、そのためにキリスト・イエスがわたしを捕らえてくださったのである、ということであります。それならばキリストによって捕らえられ恵みを与えられ更に義を追い求める者にされた、ということになるのであります。詩篇107篇9節は有名なすばらしい歌です。「主はかわいた魂を満ち足らせ、飢えた魂を良き物で満たされるからである」。アモス書8章11節というところに次のような言葉があります。「それは、パンの飢きんではない。主の言葉を聞くことの飢きんである」。主の言葉に飢え渇いているということでしょう。イザヤ書55章2~3節には「飽きることもできぬ者のために労するのか。わたしは、あなた方ととこしえの契約を立ててダビデに約束した、変わらない確かな恵みを与える」。ここでも神の契約に飢えている姿が書かれているのです。それに対してマタイは「義に飢え渇く」と言うのです。それは神の言葉に飢えていることであり、神の約束に渇くことでもあるのです。それらのことを「神の義」ということでまとめたのであろう、と言われるのであります。詩篇42篇2~3節の有名な詩があります。「神よ鹿が谷川を慕いあえぐように、わが魂もあなたを慕いあえぐ。わが魂は渇いているように神を慕い、いける神を慕う」。こうしてみると、預言者たちや詩篇の作者たちが、神の言葉や約束を求めたのは実は神の義を求めたのであります。それは結局、神の慕いあえぐことになるのではないでしょうか。神の義は神からしか得られません、神を知り、神を得てこそはじめて神の義が与えられるのであります。 アーメン・ハレルヤ!

 

 

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