説教「天国と地獄と神の正義」神学博士吉村博明 宣教師、ルカによる福音書16章19-31節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.

  本日の福音書の箇所でイエス様は、実際に起きた出来事ではなくて架空の話を持ち出して教えています。この箇所でイエス様は実にいろいろなことを私たちに教えています。今日はそれらについてじっくり見ていきましょう。

ラサロず、イエス様の話の中に登場する金持ちは富を持ちながら神にではなく富に従属してしまった人です。毎日贅沢に着飾って、優雅に遊び暮らしていたというから億万長者です。その大邸宅の門の前に、全身傷だらけの貧しい男が横たわっていた。名前はラザロ。ヨハネ福音書に登場するイエス様に生き返らされたラザロとは関係はないでしょう。ヨハネ福音書の場合は実際に起きた出来事に登場する現実の人ですが、本日の箇所はつくり話の中に出てくる架空の人物です。

ラザロΛαζαροςという名前は、旧約聖書のあちこちに登場するヘブライ語のエルアザルאלעזךという名前に由来します。「神は助ける」という意味があります。門の前を通りかかった人々はきっと、この男は神の助けからほど遠いと思ったことでしょう。ラザロは、金持ちの食卓から落ちてゴミになるものでいいから食べたいと思っていたが、それにすら与れない。野良犬だけが彼のもとにやってきて傷を舐めてくれます。「横たわる」という動詞は過去完了形(εβεβλητο)ですので、ラザロが金持ちの家の門の前に横たわり出してから、ずいぶん時間が経過したことがわかります。しかし、こんな近くに助けをずっと求めている人がいたのに、金持ちはそれを全く無視して贅沢三昧な生活を続けていました。金や品物が人の心を麻痺させてしまった典型例と言えましょう。

さて、金持ちは死にました。「葬られた」とはっきり書いてあるので、葬式が挙行されました。さぞかし、盛大な葬儀だったでしょう。ラザロも死にましたが、埋葬については何も触れられていません。きっと、彼の遺体はどこかに打ち捨てられたのでしょう。

ところが、話はここで終わりませんでした。これまでの出来事は序章にしかすぎないと言えるくらい、本章がここから始まるのです。金持ちは、「陰府」の世界に行き、そこで永遠の火に毎日焼かれなければならなくなった。ラザロの方は、天使たちによって天の御国に連れて行かれ、そこでアブラハムと共に「宴席についた」。まさに名前の意味「神は助ける」がやっと実現したのです。

 金持ちは、罪の罰を受けたのです。何の罪かというと、まず「隣人を自分を愛するが如く愛せよ」という隣人愛にあからさまに反する生き方をしたことです。それだけではありません。なぜ隣人愛を踏みにじったかというと、それは、神に従属せず富に従属して仕えたからで、それは「神を全身全霊で愛せよ」という神への愛に反する生き方だからです。つまり、二重の罪というわけです。もし、金持ちが富にではなく神に従属して、富の主人となって、富を神の意思に沿うように用いていれば、罰は受けなくて済んだのです。

 以上が本日の福音書の箇所の要旨です。読めば誰でも、ああ、イエス様は神に仕えず財産に仕えてしまったら天国に行けない、財産を隣人愛に用いないといけない、と教えているんだな、とわかります。それはそれで間違いではありませんが、それではまだまだ不十分です。本日の箇所は、天国や地獄というものについて、また神の正義ということについてもいろいろなことを教えています。今日はそれらについて明らかにしていきたいと思います。

天国や地獄などと言うと、人によっては、人間がすべきことやしてはならないことをそういうものを引き合いに出して教えるなんて、時代遅れのやり方だと思う方もいるかもしれません。しかし、人間はこの世に生まれてきて、いつかこの世を去らねばならない存在である以上、死んだらどこにいくのかとか、そのどこに行くという時、この世での生き方が何か影響があるのかないのか、という問題は、いつの時代でも気になる問題ではないかと思います。人によっては、どこにも行かない、死んだらそれで終わりで消えてなくなる、だからこの世では他人に迷惑をかけないで自分の好きなことをするのが一番いい生き方なのだ、と考える人もいるでしょう。また人によっては、死んだら魂だけ残って、どこか安逸な場所に行って他の魂たちと会することになるとか、または新しく別の人間ないし動物に生まれ変わるとか、いろいろあると思います。では、天地創造の神とそのひとり子イエス様は、このことについてどう教えているか?これは聖書全体を見渡さないといけない大きな問題ですが、今回は本日の福音書の箇所をもとにみていきたいと思います。

2.

  本日の箇所は、よく見ると、あれ少しおかしいなと思わせることがあります。金持ちは地獄で永遠の火に焼かれ、ラザロは天国でアブラハムと共に宴席に着く。そう書いてあります。しかし、よく見ると、金持ちが陥ったところは地獄と言われておらず、「陰府」と言われています。ギリシャ語ではハーデースαδηςという言葉で、人間が死んだ後に安置される場所です。しかしながら、本来そこは永遠の火の海の世界ではありません。火の海はギリシャ語でゲエンナγεενναと言い、文字通り「地獄」です。

 黙示録20章を見ると、「イエスの証しと神の言葉のために」命を落とした人たちが最初に死から復活させられます。つまり、復活の体を着せられて神の御許に迎え入れられます。その次に、これ以外の人たちが復活させられますが、この者たちは前世での行いに基づいて裁かれます。彼らの行いが全て記された書物が神のもとにあり、ある者たちは地獄に落とされてしまう(4-6節)。これに続いて、新しい天と地が創造されて古い天と地に取って代わり(21章1節)、そこに神の国が見える形をとって現われます(2節)。地獄に落とされなかった人たちが、復活の体を着せられてそこに迎え入れられます。

こうしてみますと、神の国つまり天国とか地獄というものは、将来、復活や最後の審判が起きる日になって、迎え入れられたり、投げ込まれたりするところです。そういうわけで「陰府」とは、復活や最後の審判が起きる日まで死んだ者が安置される場所で、今の天と地がまだ存在している時にあるものです。それがどこにあるかは、神のみぞ知るとしか言いようがありません。ルターは、人が死んだ後は、復活の日までは安らかな眠りにはいる、たとえそれが何百年の眠りであっても本人にとってはほんの一瞬のことにしか感じられない、目を閉じたと思って次に開けた瞬間にもう壮大な復活の出来事が始まっている、と述べました。復活の出来事が起きる前には、このような安らかな眠りの場所があるのです。

そういうわけで、死んだ者が神の国に迎え入れられるか、火の地獄に投げ入れられるかは、これはまだ先のことで、今の天と地がまだ存在する段階では「陰府」で安らかな眠りについている。とすると、本日の箇所で金持ちが落ちた火の海は、地獄と言った方が正確ではないかと思われるのですが、イエス様はどうして「陰府」と言ったのか?この点については、各国の聖書の翻訳者たちも困ったようです。英語NIVではhell「地獄」 と訳されていますが、脚注で「ギリシャ語ではハディス」と記しています。つまり、ギリシャ語では地獄ではなく陰府を意味する言葉が使われているが、事の性質上、地獄と訳しました、と断っているのです。ドイツ語訳を見ると、ルター訳はHölle「地獄」ですが、Einheitsübersetzung訳では「地下の世界」Unterweltで、「地獄」と区別しています。スウェーデン語訳では「死者の世界」、フィンランド語訳でも同じことを意味する言葉が使われ、しっかり地獄と区別されています。

 どうしてイエス様は、復活と最後の審判が起きる日に投げ込まれる地獄をそう呼ばずに「陰府」とよんだのでしょうか?ひとつ考えられることは、イエス様は何か大事なことを教えるために、時間の正確な流れにこだわらなかったということです。金持ちが地獄にいて、ラザロが天国にいるということは、正確に言えば、今の天と地がなくなって復活と最後の審判が起きる将来のことです。ところが、金持ちはラザロを自分の家の兄弟のもとに送ってくれと頼みます。つまり、まだ今のこの世は終わっていないことになります。もし、地獄と言ってしまうと、復活と最後の審判が起こったことになってしまいます。つまり、今の天も地も自分の家もなくなって、兄弟たちも既に裁かれてしまったことになる。しかし、そうしたことはまだ起こっていない。これが、イエス様が火の海を地獄ではなく陰府と言った理由と考えられます。このようなことは、自由な創作をすれば起きることで、イエス様は理解不足だったなどと考える必要はないでしょう。イエス様はこの話を通して何か大事なことを教えようとした、それで時間の正確な流れにはこだわらなかった、ということです。それでは、その大事なこととは何かと言うと、一つは神の正義について、もう一つは死からの復活を信じることと旧約聖書との関係についてです。後ほどこれらについて見ていきますが、ここではもう少し天国と地獄について注意すべきことを見ていきたいと思います。

22節と23節でラザロがアブラハムと共に「宴席」についていると言われていますが、実はギリシャ語の原文では宴席のことは何も言われていません。ラザロはアブラハムの「胸元」にいると言われています。まるで子供が親に抱きかかえられてすやすや眠っているような印象を受けます。英語訳NIV、ドイツ語訳、スウェーデン語訳、フィンランド語訳の聖書どれを見ても「宴席」はありません。アブラハムの「胸元」ないしは「脇に」とか「傍らに」と訳されています。なぜ、日本語では宴席が出てきてしまったのでしょうか?これは、黙示録19章にあるように、天国が盛大な祝宴にたとえられていることからきていると思われます。さらに、ラザロと金持ちの間にはお互いの往来を不可能にする大きな淵があるということが、天国を連想させたと思われます。それで、ラザロは天国の祝宴で祝杯をあげていると考えられたのかもしれません。このように、ラザロと金持ちはそれぞれ天国や地獄を連想させる場所にいるのですが、イエス様は実はそこまではっきり言い切ってはいません。金持ちに関しては地獄と言わず「陰府」と言い、ラザロに関しては宴席とまでは言わず、アブラハムの「胸元」と言っています。実に微妙です。時間の正確な流れにこだわらないと言いつつも、ある意味では正確さも期しているのです。(注)

ところで、死んだら復活と最後の審判の日までは神のみぞ知る場所にて安らかに眠る、その場所が陰府ということにすると、聖書には例外もあるということに注意が必要です。復活や最後の審判の日を待たずにそのまま神の御許に引き上げられた人がいるのです。有名な例は預言者エリアです(列王記2章)。またユダヤ教の伝統の中で、創世記5章に出てくるエノクもそのような者と考えられました。モーセも死んだ時、神以外誰にも知られずに神によって葬られたとあります(申命記34章5節)。イエス様がヘルモン山の山頂で真っ白に輝いた時にエリアとモーセが現れましたが、あたかも天国から送られてきたようでした。このように、復活や最後の審判の日を待たずに天国に引き上げられた者がいるのです。それでは、他にも引き上げられて今天国にいる者があるのかどうかということですが、これはもうそこにおられる父なるみ神しか知ることができません。聖人の制度を持つカトリック教会は、教会が知っているという立場をとっていると言えます。ルターは聖人の存在は認めましたが、それは崇拝の対象ではない、崇拝の対象はあくまで三位一体の神であるということをはっきりさせていました。

3年前、SLEYの元日本宣教師で文字通り生涯を日本での福音伝道に捧げたパップ・カタヤさんという方がこの世の人生の歩みを終えて永眠に入られました。国教会の牧師をされている兄弟の方が追悼文をSLEYの新聞に寄稿しまして、その最後の文がとても印象的だったのを覚えています。「安らかな眠りについているバップの前で今祝宴の準備がなされています」というものでした。これは、キリスト信仰の死生観をとても正確に言い表していると思いました。姉は天国に近いところにいるという希望を表明しつつも、まだ天国の祝宴の席にはついていないことをはっきりさせているからです。それは復活の日を待たなければならないのです。日本では仏教や神道の方でも多くの方は、亡くなった方が今天国から見守ってくれているという言い方をするのをよく聞きます。天国というキリスト教的な言葉を使いますが、そこには復活や最後の審判の考えはありません。亡くなった方が安らかに眠ると、一体誰がこの世にいる私たちを見守ってくれるのか、と心配になってしまうでしょう。キリスト信仰では、天と地と人間の造り主である父なるみ神が見守ってくれるので何も心配はいりません。創造主である神が死からの復活を起こす日がいつかやってくるのです。

 3.

 以上、天国と地獄について注意すべきことを述べました。これから、イエス様が金持ちとラザロの話で教えようとしている二つの大事なことを見ていきます。一つ目は、神の正義についてです。神は正義をどう実現されるか?イエス様の教えから明らかになることは、この世で起きた不正義で解決されないものがあっても、遅くとも最終的には次の世で必ず解決されるということです。ルターなどは、この世で悪が罰せられずに我が物顔でのさばればのさばるほど、次の世で受ける報いもそれに比例して大きくなると言っています。本日の箇所の25節でイエス様はアブラハムの口を借りて次のように言います。「子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。」まさに、「高くするものは低められる。低くするものは高められる」というイエス様の教え通りです。このように、復活の日、最後の審判の日には、歴史上全ての人間のあらゆる行いと心の有り様全てについて、神の正義の尺度に基づいて総決算が行われるのです。

黙示録20章に人間の全ての行いが記されている書物が神のみもとに存在するということが言われていますが、これは、神はどんな小さな不正も罪も見過ごさない決意でいることを示します。仮にこの世で不正義がまかり通ってしまったとしても、いつか必ず償いはしてもらうということです。

この世で数多くの不正義が解決されず、多くの人たちが無念の涙を流さなければならなかったという現実があります。そういう時に、来世で全てが償われるなどと言うのは、この世での解決努力を軽視するものと思われるかもしれません。しかし、神は、人間が神の意思に従うように、つまり神を全身全霊で愛し、隣人を自分を愛するが如く愛するようにと命じておられます。このことを忘れてはなりません。つまり、たとえ解決が結果的に来世に持ち越されてしまうような場合でも、この世にいる限りは神の意思に反する不正義や不正には対抗していかなければならないのです。それで解決が得られれば神への感謝ですが、時として力及ばず解決をもたらすことが出来ない時もある。しかし、その解決努力をした事実は神から見て無意味でも無駄でもなんでもない。神はあとあとのために全部のことを全て記録して、事の一部始終を細部にわたるまで正確に覚えていて下さるからです。たとえ人間の側で事実を歪めたり真実を知ろうとしなくても、神は事実と真実を全て把握しているのです。神の意思に忠実であろうとしたがゆえに失ってしまったものがあっても、神は後で何百倍にして返して下さるのです。それゆえ、およそ、人がこの世で行うことで、神の意思に沿わせようとするものならば、どんな小さなことでも、また目標達成に程遠くても、無意味だったとか無駄だったとかいうものは何ひとつないのです。

 ところで、キリスト教に地獄のような裁きや罰の考えが強くあるのは、多くの人にとって意外に思われるかもしれません。「キリスト教って確か赦しの宗教じゃなかったの?」と思われるからです。その通り、キリスト信仰は罪の赦しを土台とする信仰です。しかし、取り違えをしてはいけません。キリスト信仰の罪の赦しとは、それまで神に背を向けて生きていたことを間違いと認めて、このような至らない私の罪をイエス様は十字架まで背負って行かれて、そこで私のかわりに神の罰を受けて死なれた、だからイエス様は私の救い主です、そのイエス様の犠牲に免じて私の罪を赦して下さい、このように祈れば、神からいただける赦しです。このような立ち返りをすれば、どんな極悪非道の悪人でも、たとえ世間は赦さないと言っていても、神は赦し受け入れて下さるのです。本日のイエス様の教えの趣旨からははみ出しますが、金持ちについても、もしラザロが死んだ後で神のもとへ立ち返る生き方を始めていたならば、火の海に投げ込まれずにすんだのです。

4.

 二つ目の大事な事は、死からの復活の信仰と旧約聖書の関係についてです。イエス様はアブラハムの口を借りて、「モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう」と言いました。モーセと預言者とは旧約聖書を指します。旧約聖書をしっかりわかっていないと、死から復活させられたイエス様を信じることはできないのでしょうか?私たちがイエス様を救い主と信じる信仰に入った時、一体どれだけ旧約聖書のことをわかっていたでしょうか?

旧約聖書を知らず、また天と地と人間を造られた神を知らいまま、死者から生き返った者を見たら、特に日本人だったら、自分の伝統的な宗教の枠内で出来事を把握しようとするか、または新しい宗教団体を結成してしまうでしょう。そのようにして、聖書の神からますます遠ざかってしまうでしょう。しかしながら、死から復活したのがイエス様である場合は、逆に人間を聖書の神に引き戻す力が働くのです。イエス様の十字架の死と死からの復活を目撃した者たち、そして彼らの証言を聞いて信じた人たちは皆、私たちも含めて、本当にモーセと預言者に立ち戻ることになったのです。天地を創造し人間を造られた神に立ち戻ることになったのです。どうしてそのようなことが起きたのでしょうか?

それは、イエス様の十字架の死と死からの復活を出発点として、遡るようにして旧約聖書の意味が明らかになっていったことがあります。死からの復活が現実に起きたことを知った人たちは、みんなが預言者と騒いでいたあのナザレのイエスは真に神の子だったのだ、と。そう言えば、彼は自分でも自分のことを神の子と言っていたし、またメシアとか、ダニエル書で預言されている「人の子」とも言っていたが、全て預言通りだったのだ、と。なぜ神の子が死ななければならなかったのか?それは、イザヤ53章に預言されているように、人間が受けるべき罪の罰を全て引き受けられたのだ、と。イエス様が罰を全部引き受けて下さったので、私たちは罰を免れる状態にあるのだ、と。まさにこれで、アダムとエヴァの堕罪の時に壊れてしまった造り主の神と造られた私たち人間との関係が回復したのだ、と。私たちの身代わりとなって私たちを罪と死の奴隷状態から贖って下さったイエス様を自分の救い主と信じる信仰、この信仰によって私たちは神との結びつきを取り戻すことができ、この結びつきの中でこの世の人生を歩むことができることになったのだ、と。イエス様を死から復活させたことで、神は永遠の命の扉を私たちのために開かれた。だから、私たちは、万が一この世から死ぬことになっても、信仰によって神と結びついた者を、神は御手をもって御許に引き上げて下さるのだ、と。

このように、イエス様を救い主と信じる信仰に生きる人は、既に旧約聖書に貫いている神の人間救済計画を体得しているのです。天と地と人間を造り、私に命と人生を与えて下さった神は、私がこの世に誕生するはるか以前に、このようなことをずっと計画していて、ひとり子イエス様をこの世に送られることで計画を実現されたのだ、と。このようにして、イエス様を救い主と信じる信仰に生きる者は、この神の意思に沿って生きようとすることが当然という心意気になり、神の意思をちゃんと知ろうとして、旧約も新約も同様に日々繙いて、そこから神の御言葉に聞こうとするのです。このようにして私たちに新しい人生を与えて下さった父なるみ神は永遠にほめたたえられますように。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

主日礼拝説教 2013年9月29日(聖霊降臨後第十九主日)

 

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