説教「神は生ける方、力ある方、見捨てない方」吉村博明 宣教師、申命記29章1-8節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.  本日の礼拝説教は、旧約聖書の日課、申命記29章1-8節をもとに行おうと思います。本日の福音書の箇所ですが、これは難しいところでして、本当はこちらをもとに説教すべきとも思ったのですが、実はこの箇所をもとに三年前、当教会の礼拝にて説教をしておりました。それを読み返してみたら、ほとんど変える必要がないとわかりまして、復習の意味で同じ原稿を読んでもいいかなと思ったのですが、今回は三年前に比べて申命記の日課が語りかけてくるものに何か力を感じまして、それでそちらをもとに説教することにした次第です。

本題の申命記に入る前に、福音書の日課について三年前どんな解き明しをしたか手短に述べます。ルカ14章25-33節には、二つの大きな問題があります。一つは、父母、娘息子、兄弟姉妹を「憎む」ことをしないと弟子になれない、とイエス様が教えていることです。イエス様は十戒の第四の掟「父母を敬え」に反することを教えているのか?また彼自身、「隣人を自分を愛するが如く愛せよ」と教えているのに、肉親を憎まないと弟子にはなれない、とは、どういうことなのか?

これは、福音書が書かれたギリシャ語の文で「憎む」を意味する動詞(μισεω)が使われていることによります。イエス様はこの場面では間違いなくアラム語を話していたでしょう。アラム語とは旧約聖書の言語ヘブライ語に近い言語です。イエス様がアラム語で話した事柄は、福音書に書き記されるまでの過程の中でギリシャ語に訳されていきます。もちろん、イエス様が話したアラム語の言葉は記録がないのでわかりません。しかし、イエス様の教えや思想の土台にある旧約聖書のヘブライ語の「憎む」を意味する動詞שנאサーネーアをみてみると、これは「憎む」を超えていろんな意味を持つことがわかります。創世記29章や申命記21章では「二つのうち一方をより多く愛して他方を少なく愛する」とか「一方を愛して他方を疎んじる」という意味で使われています。「他に比べて疎んじられる、少なく愛される」ということで、「憎まれる」ということではありません。

これを土台にして考えると、イエス様が弟子の条件として肉親を「憎む」ことと言ったのは、神への愛を最優先するということ、肉親への愛は神への愛を下回らなければならないということになります。これはイエス様の隣人愛の教えと矛盾しません。なぜなら、イエス様は、二つの最も重要な掟について、一番目は「神を全身全霊で愛せよ」、その次に来るのが「隣人を自分を愛するが如く愛せよ」と、ちゃんと優先順位をつけて教えたからです。三年前の説教では、神への愛を第一にして行う隣人愛とはどんな愛かについて述べてみました。

ルカ14章25-33節のもう一つの問題は、塔を建てる人と戦争に臨む王のたとえです。二つのたとえは、向う見ずなことはするな、無謀なことはするな、と教えているようにみえます。ところが、33節でイエス様は、自分の持ち物を捨てる覚悟がないと自分の弟子にはなれない、と言われる。無謀なことはするな、と教えているようで、実はそうしないと弟子にはなれない、とは、イエス様は一体何を言いたいのか?

どういうことかと言うと、イエス様はつき従う群衆に対して、お前たちは塔の建設者がするように、後で笑い者になることを心配して前もって綿密に計算をするであろう、また、素早く計算して負けが明らかな戦をしないで講和を結ぶ王と同じようにするであろう、これが今のお前たちの姿だと指摘するのです。そこで33節で、このように自分の持っている物を捨て去る覚悟のない者は私の弟子にはなれない。つまり、塔建設者や王のように計算づくではだめだ、ということになるのです。

そうなると、キリスト信仰者とは単に無謀、向う見ずな生き方をする者になってしまわないか。そんな生き方では、どんな事業も経営も失敗・破綻するするだろう、計算は前もってしっかり立てて物ごとに臨むべきではないか、そういう疑問が起きてきます。三年前の説教で私は、イエス様の教えていることは、あくまでイエス様の弟子として生きるということ、つまり、イエス様を救い主と信じる信仰を携えて生きること、そして、神に対する全身全霊の愛に立って隣人を愛すること、言うなれば、信仰そのものに関係することなのだ、ということを強調しました。何か事業を起こしたり、建物を建てたりする時に見積もりや見通しを立てないでやれ、ということではないのであります。

 

2.それでは本日の本題である申命記29章1

8節の解き明しに入ろうと思います。申命記29章の舞台は、預言者モーセがイスラエルの民を引き連れて、奴隷の国エジプトを脱出して、シナイ半島の荒野の中を40年近くかけて移動した後、北上してヨルダン川東岸のモアブの地に到達、今や神が約束したカナンの地を目前にするところです。ここで、かつてシナイ山で結ばれた神とイスラエルの民の間の契約を新たなものにします。神はイスラエルの民の神となり、民はこの神の民となるという契約です。その時モーセは、イスラエルの民の前で神の意思を宣べ伝えます。そこで、本日の箇所の3節で不可解なことを言います。「主はしかし、今日まで、それを悟る心、見る目、聞く耳をあなたたちにお与えにならなかった。」

 モーセは、このすぐ前の1節と2節で、神がイスラエルの民を守るためにエジプトに対して行った罰の業を民は目で見た、と言っています。それなのに、今日の今日まで神は、それらの業を理解する心、見る目、聞く耳を民に与えなかった、と言う。これは、どういうことか?

 確かにイスラエルの民は、神がエジプトに様々な罰を下してイスラエルの民の脱出を可能にしてくれた、数々の奇跡的な業を自分たちの目で見ました。しかし、そうしたイスラエルの民を助ける神の業が何を意味するのかを理解できていなかった。それが理解できない以上は、本当に見たこと、聞いたことにならないのであります。それでは、神の業は何を意味していたのか?

それは、神が金属や木材で出来た偶像とは異なり、意志を持ち考えて計画して、それを実行に移すまさに生ける神であるということ、そして計画したことを必ず実現させる力を持った方であるということ、さらに自分を信じ信頼しきる者を決して見捨てない方である、ということを意味したのです。このように、天と地と人間を造られた創造の神とは、生ける方、力のある方、見捨てない方なのである。このことを理解できなければ、それは本当に「見た」こと「聞いた」ことにならず、神の奇跡の業がただ目の前に映って通り過ぎただけにすぎないのです。

本当に見ることのできる目、聞くことのできる耳、理解することのできる心をイスラエルの民が持っていなかったことは、彼らが神に抱いた畏敬や感謝の念がいつも一過性のものにすぎなかったことに明らかです。エジプト脱出の時から何度も神に助けてもらったにもかかわらず、荒野で食料や水に困ればすぐ不平を言いだして、エジプトで奴隷をした方がましだったとなどと言ったり、モーセがシナイ山頂からなかなか戻らなければ、金で雄牛の像を造って拝み始めるとか、そういうことを繰り返してきました。

そして今、紆余曲折を経ながらも、イスラエルの民はモアブの地に到達し、シナイ山で結んだ契約を新しくするところに来た。「今日まで、悟る心、見る目、聞く耳を与えなかった」というのは、今日与えるということです。つまり、イスラエルの民よ、お前たちは今日、神が生ける方であり、力ある方であり、見捨てない方であることがわかる心と目と耳を持つことになったのだ、ということです。4節と5節のモーセの言葉は、このことを確信させたでしょう。お前たちは40年荒れ野を移動していたにもかかわらず、着物は古びず、靴も磨り減らなかったではないか。パンも食べずぶどう酒も濃い酒も飲まずにすませ、今約束の地の手前まで到達したではないか。これを聞いた民は、自分たちの服や靴をみて、神がどのような方であるか本当にわかったでしょう。

こうしてイスラエルの民は、本当の心、本当の目、本当の耳を持った民としてカナンの地に入って行きます。その地には偶像を崇拝する民族が多数おりました。神が約束した土地ですので、神が忌み嫌う偶像崇拝は排除しなければなりません。そのような入り方をすれば、それらの民族との武力衝突は避けられません。最終的にイスラエルの民はカナンの地の隅々まで入植しますが、現実にはカナンの地は、イスラエルの民が独占的に居住する地にはなりませんでした。もとからいた民族はかなり残り、周囲も偶像崇拝する諸民族が取り囲むという状態でした。そういうわけで、イスラエルの民を偶像崇拝に陥らせる力はその後もずっと内外両面にわたって強く働いたのでした。

実際、イスラエルの民がモアブの地で与えられたはずの、神のことを知る本当の心、本当の目、本当の耳は長続きしませんでした。それは、サウル王が登場する前の時代、士師という政治権力と宗教権力を兼ねた指導者の時代に既に起きてきます。王国の時代になって、サウル王が死者の霊にお伺いを立てますが、これは神が最も忌み嫌うことの一つでした。神は「見えるものと見えないもの」の造り主ですから、被造物の人間が造り主の神をさしおいて別の被造物に自分の運命についてお伺いを立てることなど許せないのです。さらに、ソロモン王でさえ晩年は異国の神々を崇拝するようになってしまいます。

王国が南北に分裂した後、北のイスラエル王国はバール神崇拝に走り、最後はアッシリア帝国に滅ぼされます。南のユダ王国は偶像崇拝に陥ったり、天地創造の神への信仰に戻ったりが繰り返されます。ユダ王国で活動した預言者イザヤに対して神は次のように命じます。すでに心が頑なになってしまったこの民の心を一層頑なにせよ、目をもってしても見えなくなるようにせよ、耳をもってしても聞こえなくなるようにせよ、と。恐れおののくイザヤが、いつまで民をそうした状態に置かなければならないのですか、と聞くと、神は答えます。国が荒らされて、民が十分の一になってもさらに大木のように切り倒されて、最後に切り株を残すまでだ。その切り株を神は「神聖な種」と呼びます(6章13節)。それは、神を知る本当の心、本当の目、本当の耳を持つ新しい民の誕生を預言するものでした。

そのような新しい民は生まれたのでしょうか?ユダ王国も紀元前500年代初めにバビロン帝国に滅ぼされ、主だった人たちは異国の地に連行されてしまいました。イザヤ書の40章から55章をみると、イスラエルの民がこのバビロン捕囚から解放されてイスラエルの地に帰還することを示唆する預言があります。この祖国帰還は紀元前538年に歴史的事実として実現しますが、イザヤ書の当該箇所を見ると、民の目や耳が開かれるということが随所に言われます。これは、かつてモーセがこれからカナンの地に入ろうとするイスラエルの民に本当の心、目、耳が与えられる、と言ったことを思い起こさせます。神の民を滅ぼして連行した大帝国が滅び、捕囚の民が祖国に帰還できるというのは、普通ではありえない、まさに出エジプトの出来事に匹敵する神の業でした。本当に、神は生ける方、力ある方、見捨てない方であることを示す業でした。祖国に帰還する民に本当の心、目、耳が与えられた瞬間でした。

ところが、帰還したイスラエルの民は本当に「神聖な種」になったのでしょうか?バビロン帝国滅亡後もイスラエルの民はほとんどの年月を、ペルシャ帝国、アレクサンダー帝国、ローマ帝国という大帝国の支配のもとで過ごさなければなりませんでした。帰還後の時代のイスラエルの状態がどのようなものであったかについては、旧約聖書は明確に記していません。それでも、祖国帰還後のイスラエルの民の状態について述べているイザヤ書の終りの方をみると、預言者の次のような叫びがあります。「なにゆえ主よ、あなたはわたしたちをあなたの道から迷い出させ、私たちの心をかたくなにして、あなたを畏れないようにされるのですか」(63章17節)。神がイスラエルの民に本当の心、目、耳を与えないようにしている状態がまだ続いていることを示しています。まだ「神聖な種」は生まれていなかったのです。それでは、神を知る本当の心、目、耳が与えられる新しい民はいつ生まれるのでしょうか?

 

3. 神を知る本当の心、目、耳は、イエス様の出来事を通して与えられることとなりました。しかもそれらを与えられる人は、もはや血で繋がるイスラエルの民族ではなくなって、イエス様の出来事を心で受け入れて、彼を救い主と信じる人全てに与えられるようになりました。

イエス様が言葉と奇跡の業を通して、人々に神の意思や神の御国について正しく教えていた時、イスラエルの民の宗教指導者たちと衝突を繰り返しました。宗教指導者グループの一つであるファリサイ派との論争の中で、イエス様は、お前たちは自分では見えていると言っているが、本当は見えていない、と指摘するところがあります(ヨハネ9章)。指導者たちからすれば、自分たちは神のことをよく知っている、本当の心、目、耳を持っているということなのですが、神のもとから送られた、神のひとり子であるイエス様からみれば、そんなものは本当のものでもなんでもない。イエス様は、自分がこの世に送られた使命について次のように述べています。見えない者が見えるようになり、見える者は見えないようになる、そういう裁きを行う(ヨハネ9章39節)、と。つまり、神のことをわかっていないことに気づき、それではいけないとわかった人には理解できる心、見える目、聞こえる耳を与える。しかし、神のことをわかっていないことに気づかず自分はわかっているから何も問題はないと思っている者には与えない。これがイエス様の行う裁きなのです。前述した旧約の教えから明らかなように、理解できる心、見える目、聞こえる耳を与えたり、与えなかったりするのは神です。イエス様はまさに神と同じ働きをすると言っているのであります。

それではイエス様はどのようにして、神が生ける方、力ある方、見捨てない方であるということを知る心、目、耳を与えるのでしょうか?それは、イエス様がゴルゴタの丘の十字架で死んだことと、死から三日後に復活されたことで与えられるようになりました。これは、かつて神が示した業、例えば天から食物が与えられるとか、敵の軍勢が壊滅するとか、異国の土地を征服するとか、祖国に帰還できるとか、そういうものとは全く質が異なる業でした。それは、神のひとり子が人間の救いのために自らを犠牲にしたということ、そして一度死んだ者を今度は神が力を及ぼして復活させたという業でした。宗教指導者たちがイエス様に、お前が神の子ならしるしをみせろ、と要求したことがあります。イエス様の答えは、かつて預言者ヨナが大魚の腹に三日間閉じ込められた後に外に出られたがそれと同じことが起こる。それがしるしだ、と答えました(マタイ12章38- 41節)。ヨナの遭難と救出の出来事は、イエス様が死んで葬られ三日後に復活して墓から出るという出来事の預言的出来事だったのです。

さて、死からの復活が起きたことで、イエス様とは何者だったのかということが明らかになりました。それは、神が「死の陰府に捨てておかない、その体は朽ち果てることがない」と約束した(使徒2章27節、詩篇16編10節)方であることが明らかになりました。それにあわせて、かつてダビデ王自身が「主」と呼んだ、神のひとり子であることも明らかになりました。そして、神がこの世に送ったひとり子が十字架の上で死ぬというのは、これは、人間が神に対して負っている罪という負債を人間に代わって帳消しにしてくれる、そういう神聖な犠牲の生け贄であることも明らかになりました。この出来事を前にして、人間はどういう態度をとるのか?こういうことが起きた以上、自分が罪ある存在であることから目を背けることはできないと観念して、この私が神から罪の罰を受けないで済むようにと、ひとり子を犠牲にすることさえ厭わなかった神は本当に愛と恵みに満ちた方だとわかるようになるのか。その神の愛と恵みの実現のために自分自身を犠牲にすることを厭わなかったイエス様こそ真の救い主と信じられるようになるのか。そう信じる時、神は本当に生ける方、力ある方、見捨てない方だとわかっているのです。いつの間にか神のことを知る本当の心と目と耳が与えられているのです。

神は一度死なれたイエス様を復活させる力を及ぼしました。そこで、イエス様の十字架と復活の出来事は自分のために起きたのだ、それゆえイエス様こそ自分の救い主だ、と信じて洗礼を受ける者に、神はこの同じ力を及ぼして復活の日に死から復活させて下さいます。その日が来るまでは、洗礼を受けイエス様を救い主と信じる者は、神の御手の中で生きて行くことになり、絶えず神の守りと助けと導きを受けます。洗礼には莫大な力が秘められています。罪には、人間を復活のない死の滅びに陥れようとする力がありますが、洗礼にはそれを無力にする力があります。洗礼には、復活された主イエス・キリストと自分をしっかり結びつける力があります。神の愛と恵みが十分に含まれているのです。 

もちろん、無力化されたはずの罪はいろいろな隙を狙っては、信仰者が受けた神の愛と恵みを忘れさせようとします。本当の心と目と耳を失わせようとします。しかし、その都度、心の目をゴルゴタの十字架に向ければすぐ、あそこで罪は死滅したと言っていいくらいに無力化されたことがわかります。神に「イエス様は私の救い主です。私の罪の赦して下さい」と祈れば、神は「心配するな、お前の罪はあそこで赦されている」とおっしゃるのです。十字架のおかげで、罪の支配の下ではなく、神の愛と恵みのもとで生きられるのです。

本日これから執り行われる聖餐式にも莫大な力が秘められています。洗礼の時に受けた、罪を無力にする力を自分の内に強め、復活の主と自分との結びつきを一層強める力です。本教会では聖餐式は月一度ですが、兄弟姉妹の皆さん、聖餐式を自分自身の信仰と命そのものにとって大切なものであることを忘れないようにしましょう。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

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