説教「あわれみ深い人たちは、さいわいである」木村長政 名誉牧師、マタイによる福音書5章7節

マタイ 5章7節 (第5回)

「あわれみ深い人たちは、さいわいである」

 山上の説教連続で第5回目です。5番目の祝福は「あわれみ深い人たちは、幸いである。彼らは、あわれみを受けるであろう」ということです。これまでの4つの祝福は、神に関することでありました。心の貧しい人々、次は悲しんでいる人々、柔和な人々、義に飢え渇く人々、は幸いである。これらは神との関係でありました。これからのことは人の性格に関することにことになります。人の心構えと言っても良いでしょう。あわれみ深い人々と言っても普段にはあまりことさら考えないでしょう。それは信仰のことだからです。「あわれみ深い人々」と言うことが「義」に飢え渇く人々の後に出てくることは大事なことです。なぜなら、この「あわれみ深い」と言うことは義に関係があるからです。ふつうに考えれば義と、あわれみとに何の関係があるかと思います。それは「義」も「あわれみ」も信仰の言葉として受け取っていないからです。ある人が言いました、「あわれみというのは、このあわれみのない世の中にある義のことである」それは不義に苦しむ者を助け、励まし、義を求めさせる、というのであります。「あわれみ」と言うのはやさしい気持ちであって、義とか正しさ、と言うことと結びつかないように思われます。あわれみを求める人はどういう人でしょうか。それは何かのことでひどい目にあっているのでしょう。そのひどい目と言うのはしばしば正しいことが行われていない、不当に扱われている。きっと許せないものがあっても犠牲にさせられているのでしょう。或いは気の毒なことにあって悩んでいる人々でありましょう。どちらの人々もいろいろ苦しんだ末、神はなぜこんなに不公平をなさるのか、と悩むと思います。不正に苦しむ人は「神は、なぜこんな不公平を許しておられるのか」と思うでありましょう。困った立場にある人も、神はなぜかえりみて下さらないのかと思うでありましょう。その時に、「そうではなくて神の義が行われていることを告げることは、この人々に対する何よりのあわれみである」と言うことです。神の義が示されている、神の正しさ、神の愛を示す義であります。神の義と言うものが示されれば、その人々にとっては何よりのあわれみであります。あわれみは、ただ同情の言葉をかけることではすみません。神の恵み、と、あわれみ、とを悟るまではその人々は慰められることができないのです。正しい人、すなわち神が愛を持って支配しておられることを信じている人こそあわれみ深くあることができる人でありましょう。「あわれみ深い」と言う字は、このマタイ5章7節とヘブル書2章17節しかしか出ていません。ここ(2:17)では「イエスは神の御前において憐れみ深い忠実な大祭司となって民の罪をあがなうために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです」とあります。テモテへの手紙第2の手紙1章2節のあいさつの言葉として「・・・・・・主・イエスからの恵み、憐れみ、そして平和があるように」ここでは恵みとあわれみとが並べられています。そこで気づくことは恵みと憐れみとは、どうちがうか、ということです。恵みの方は罪に悩む者、あわれみは一般にいろいろ苦しみに悩む人となるようです。悲惨な状態になっている人に対するもの、ということです。悲惨なことが結局はその原因が何かの意味で罪にある、ということです。そうして見ると、どちらも罪に関係があるということになるのではないか。つまり原因になっている罪を問題にしなければならない、ということになるでしょうか。それならば恵みも、あわれみもどちらも罪を赦すということが大事になるのです。ルターは次のように言っています。「あわれみ深い人、というのはまずその人の罪を赦すことがなければ本当のあわれみにならない。」というのです。憐れみは、ただかわいそうに、と言うだけではありません。かわいそう、とは言えない何かがあるように思える。気の毒にはちがいないが憐れみに思うことができない。

そこに、赦すと言うことがなければ、あわれむことができない。それならば、誰が人を赦すことができるのか、ということになります。それは自分の罪を赦されている人である、ということになりましょう。そういう人でなければ人の罪を赦すこともできませんし、人に同情しそれを心からあわれむ、ということもできません。それなら、ここに信仰者、すなわちキリストに罪を赦された者が、あわれみ深い人になることができる。このことがわかるのであります。あわれみは信仰そのものを表す一つの言葉である、と言っても良いのではないか、と思われるのです。旧約聖書の中心的な信仰を表す言葉は義と真実と憐れみという言葉である、といわれます。憐れみは、恵みとも、義とも真実ともちがうにはちがいがありませんが、しかし一面ではこれらの事がみな深くつらなっている、一つの事のように見える、と言うのです。それは要するに信仰ということを、それぞれに表した言葉であって、いずれも神の赦しの各々の側面を表している、と言うのです。要するに憐れみということも、信仰の中心である神の赦しを知らなければならない、と言うことであります。また憐れみには神の裁きを予想している」と言われます。それは・・・・あわれみが気の毒な人をあわれむことだけでなく、神の裁きの前に赦しが与えられることからことから出てくることになるのであります。憐れみを行う前に神の憐れみを受けることが大切なのであります。それによって憐れみ深い人になる道がつけられるのであります。神の憐れみこそが私たちをあわれみ深くしてくれるのであります。すでに憐れみを受けて、いま全く憐れみ深い者にはなれないかもしれないが神の憐れみに励まされて、あわれみ深いことを少しはすることができるかもしれない。詩篇103篇8節には「主は憐れみ深く、恵みに富み、忍耐強く慈しみは大きい」とあります。ある人の言葉です。「あわれみの問題は神があわれみ深くある、ことから始まる。その憐れみを受けるからこそ私たちは他の人をあわれむことができるのです。私たちが憐れみ深くあるのは、神の私たちに対する憐れみを表すことになるのです。従って私たちがあわれめば、あわれむほど神の憐れみは深くなるのであります。       
アーメン・ハレルヤ!

 

 

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