スオミ教会・フィンランド家庭料理クラブのご報告

新緑も眩しい、爽やかな季節に、スオミ教会家庭料理クラブは、カルダモン入りの生地で作るドーナツ[ムンキ]を作りました。

最初にお祈りをしてスタートです。

計量して生地を捏ね、一次発酵した生地を分割、可愛く丸めて二次発酵に。

柔らかく優しい生地は、リング状にして、揚げられました。熱した油に入れた生地は、みるみる大きくなり、ムンキはお砂糖をまぶして完成です。

人数を制限しての開催になりましたが、出来上がりのムンキに、笑顔が浮かびました。

コーヒーと一緒の試食タイムは、揚げたての一番美味しいムンキを頂きました。

パイヴィ先生からは、ヴァップの季節や、聖書のお話を聞かせて頂きました。

 

料理クラブの話 「ムンキ」

今日作ったドーナツはフィンランド語でムンキと言います。パンの生地で作るムンキはフィンランドでは伝統的なお菓子で、5月1日に多くの家庭で作られます。この他にレモンを発酵させて作る甘酸っぱいレモナードも作ります。フィンランド語でシマと言います。これをムンキと一緒に味わいます。5月1日はフィンランドでは休みの日で、春の大きなお祝いの日です。フィンランド語で「ヴァップ」と言います。メーデーとして労働者たちの日でもあるし、また高校を卒業した人たちのお祝いの日でもあります。フィンランドでは高校を卒業すると白い帽子を贈られるので、ヴァップの日には町には白い帽子をかぶって歩く人が沢山見られます。

“Vappu – view near cathedral” by Mad John CC BY-NC-ND 2.0

ヴァップの日にはいろいろな過ごし方があります。若者たちや町に住んでいる人たちは、遊園地などに出かけます。町は賑やかな雰囲気で、音楽や政治家のスピーチがあちこちから聞こえ、子供たちは風船や笛などを持って歩いています。

私は田舎で育ったので、町の騒がしいヴァップの過ごし方は好きではありませでした。私の好きなヴァップの過ごし方は森にハイキングに行くことです。これは私の家族の過ごし方でした。ヴァップに森に行くハイキングは普通のハイキングと違って特別です。ハイキングに行くと普通は長い距離を歩きますが、ヴァップのハイキングの目的は一日自然の中で過ごすことです。森に行って焚火をしてそこでソーセージを焼いたり、コーヒーをわかしたりして過ごすことです。森の中で食べるごはんやおやつは家の中で食べるよりもっと美味しく感じます。もちろん森の中ですることは食べることだけではなく春の景色を楽しむこともします。5月1日フィンランドではまだ緑もあまりないし、咲いている花もまだ少ないです。しかしこの日冬の後で自然の変化が見れるのは楽しみです。フィンランドにいる私の兄弟姉妹たちは今も5月1日に自分たちの家族と一緒に実家に行って皆で森にハイキングに行きます。仕事を引退した父も一緒に行けるので、彼は孫たちに焚火の付け方を教えます。

春に自然の中を散歩しながら新しい緑やきれいな花を見ると、私はいつも旧約聖書の有名な詩篇23篇を思い出します。この箇所を読むと、神様の人間に対する愛が現れてくるので、いつも安心と感謝の気持ちで一杯になります。

この詩篇は、「主は羊飼い、私には何も欠けることがない」という文で始まります。「羊飼い」とは天と地と人間を造られた神様のこと、「羊」は私たち人間を意味します。今の時代に羊飼いの仕事をしている人はあまりいませんが、かつて羊飼いは普通の仕事でした。羊は弱くて、野生動物に簡単に捕まえられて食べられてしまいます。そのために羊飼いは羊を守って導いていきます。

羊飼いが羊を守りながら導くように、神様が私たちを守って導いてくださいます。もし人間を造られた神様が私たちの羊飼いならば、神様は信頼して大丈夫な方です。神様の導きのうちに生活する時には大きな安心があります。神様はどのように私たちを導いてくださるのでしょうか?

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この詩篇には「主はみ名にふさわしく、正しい道に導かれる」と書いてあります。神様は私たちの全てのことをご存じで、いつも歩むべき道を示してくださいます。神様は私たちを愛して下さるので、いつも良い道を示してくださいます。ただ、神様が導いてくださる道は様々です。「きれいな青草の原、憩いの水ほとり、死の陰の谷」などがあります。私たちの人生の中には喜ばしいことや悲しいことがいろいろあります。もちろん私たちは喜ばしいことを望んでいます。それで、悲しいことが起こると、受け入れるのは簡単ではありません。しかし神様はいろんな時、喜ばしい時も悲しい時もいつも共にいてくださいます。

この詩篇には「死の陰の谷を行くときも私は災いを恐れない。あなたが私と共にいてくださる」と書いてあります。神様は私たちが欲しいものを全部は与えませんが、私たちは神様の導きに従って歩む時、私たちは何も欠けることがなく、恐れることもありません。私たちは羊と同じように時々神様の道から離れてしまいます。羊が羊飼いの声を聞かないで違う方向に行こうとすると羊飼いは杖で羊を軽く叩いて導きます。私たちの場合はどうでしょうか?神様は、私たちが神様の声を聞かない時、羊飼いと同じように杖を使って導いてくださいます。杖で軽く叩かれると、少し痛いですが、それも人間を造られた神様の私たちに対する愛の業です。

この詩篇にはまたこう書いてあります。「命のある限り恵みと慈しみはいつも私を追う。」神様は、私たちのために神様のもとに行ける道を用意して下さり、いつもその道で私たちを導いてくださるのです。神様のもとに行ける道とは、神様の子イエス様のことです。イエス様は罪を持たない神様の子でしたが、人間が罪の罰を受けないようにと、身がわりになって十字架にかけられて死なれました。このおかげで、私たちの罪が全部許されて、この世の中でも、またこの世が終わってもいつも永遠に神様と一緒にいることができるようになりました。神様がイエス様を私たちのために送ってくださったことに、神様の人間に対する愛が現れているのです。

私たちもこの良い羊飼いに従って行きましょう。「私は良い羊飼いである。私は自分の羊を知っており、羊も私を知っている。」ヨハネによる福音書10章14節

手芸クラブのご案内 2021年4月21日(水)10時~12時  毛糸のルームシューズを編んでみませんか。

4月の手芸クラブはルームシューズ編みの続きです。正方形の形を16枚編んで、それを合わせるとルームシューズになります。かぎ針で花も編んで飾り付けます。ご一緒に暖かいルームシューズを作ってみませんか?

材料費: 毛糸800円
持ち物: 編棒7号

毛糸はこちらでも用意しますが、もし好みの色がありましたら持って来られて大丈夫です。申し込みの際にご連絡くだされば幸いです。

人数に限りがあるのでご注意ください。

久しぶりの手芸クラブに是非どうぞ!

聖書のお話もあります。

お問い合わせ お申し込み

電話03-6233-7109
日本福音ルーテルスオミ・キリスト教会

 

復活祭の説教「復活の面影」吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書20章1-18節

聖書日課 ヨハネによる福音書20章1-18節、イザヤ25章6節-9節、第一コリント15章1節-11節

説教をYouTubeで見る

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.ハッピー・イースター

今日は復活祭です。十字架にかけられて死んだイエス様が天地創造の父なるみ神の想像を絶する力で復活させられたことを記念してお祝いする日です。イエス様が死んで葬られた次の週の初めの日の朝、復活かつて付き従っていた女性たちが墓に行ってみると入り口の大石はどけられ、墓穴の中は空っぽでした。その後で大勢の人が復活された主を目にします。まさにここから世界の歴史が大きく動き出すことになったと言っても過言ではない出来事でした。

復活祭は、キリスト教会にとってクリスマスに劣らず大事なお祝いです。日本ではイースターという英語の呼び名が一般的です。イースターをお祝いする時、英語では「ハッピー・イースター」と言います。クリスマスは「メリー・クリスマス」ですが、イースターは「メリー」ではなく「ハッピー」です。復活祭の何が私たちをハッピーにさせるのでしょうか?昔々イエス・キリストという偉い人が十字架刑という惨い殺され方をしてしまったが、三日後に見事に蘇ってみんながハッピーになったということでしょうか?マジックショーじゃあるまいし、そんな理解で済むのなら聖書なんか要らなくなります。

 イエス様の十字架と復活の出来事はなぜ起きたのか、それらは一体何だったのかということは聖書全体を通してみないとわからないようになっています。聖書全体を踏まえて、それらがなぜ起きたかがわかると、たちまちそれは私たち人間のため、時代と国を超えて全ての人のために起きたということがわかり、イースターは本当にハッピー・イースターだとわかります。そういうわけでイエス様の復活は今を生きる私たちに大いに関係があるハッピーな出来事なのだ、ということを今年の説教でもお話ししていこうと思います。

2.復活祭は私たちにとってハッピーなのだ

 まず、イエス様の十字架と復活の出来事を純粋に歴史上の事件としてみるとこうなります。現在のイスラエル国の北部ガリラヤ地方のナザレ出身のイエスが当時のユダヤ教社会の宗教エリートに批判的な教えを説き多くの支持者を獲得した、そのため指導層の反感を買って当時ユダヤ民族を支配していたローマ帝国の官憲に引き渡されて処刑された、ということになります。しかし、それは見かけ上の出来事です。聖書という書物は万物の創造主であり人間の造り主でもある神が人間にどのような思いを持ちどんな計画を持っているかを知る唯一の手がかりです。聖書をそのような書物であるとの立場に立ってみると、歴史の見かけ上の出来事の奥にある真実が見えてきます。その真実とは何か?それは、旧約聖書に記された神の計画がイエス様の十字架と復活という形で実現したということです。

 それでは、旧約聖書に記された神の計画とは何か?本教会の説教でいつもお教えしていることですが、ここでも振り返ってみます。

まず、イエス様の十字架の死について。それは、人間の罪の償いを人間に代わって神に果たしたということでした。罪と聞くと一般には何か犯罪行為とかそこまでいかなくても何か悪い行いとかを考える人が多いと思います。聖書ではそれは、人間に備わってしまっている、神の意思に反しようとする性向と言っていいくらい広く深いものです。この罪は創世記に記されているように、一番最初に造られた人間の時から備わるようになってしまいました。人間が死ぬようになったのも罪のためでした。神の意思に反しようとするものを持ってしまったために神との結びつきが切れてしまったのです。そこで神は、人間をこの罪の引き離しの力から解放して自分との結びつきを回復してあげよう、人間がその結びつきを持ってこの世を生きられるようにしてあげよう、そして、この世を去った後は造り主である自分のもとに永遠に戻れるようにしてあげよう、そういうことを実現する計画を立てたのです。

それでは、この人間を救うという神の壮大な計画とイエス様の十字架と復活とはどう関係するのでしょうか?イエス様が十字架にかけられたことで、私たちの罪の罰を彼が全部代わりに受けてくれたことになり、そのようにして彼が私たちの罪の償いを神に対して果たして下さいました。それからは罪は以前のように人間を神の前で有罪者・失格者にしようとしても、神のひとり子が果たした償いがあまりにも完璧すぎて思うようにできません。はっきり言って罪は破綻してしまったのです。

加えて、神がその偉大な力でイエス様を死から復活させたことで、死を超えた永遠の命があることがこの世に示され、そこに至る道が人間に開かれました。そこで人間が、これらのことは全部自分のために起こったのだとわかって、それでイエス様は救い主なのだと信じて洗礼を受けると、イエス様が果たした罪の償いが自分の中に入ってきて自分のものなります。自分ではなく他人が償ってくれたというのは虫がよすぎる話ですが、償う相手が天地創造の神であれば人間には償いなど無理な話です。しかも償いをした方がそのひとり子ということであれば、この償いはかけがえのないもの決して軽んじてはならないものだとわかります。なにしろ罪が償われたということは、神がお前の罪を我が子イエスの犠牲に免じて赦してやると言って下さっているのですから。こうなったら、もう軽々しい生き方はできません。新しい人生が始まります。

神から罪を赦されたのあれば神との結びつきは回復しています。そうなると神が立てた計画に従って人生を生きることが始まります。神の計画とは先ほど申しましたように、神との結びつきを持ってこの世を生きられ、この世を去った後は造り主のもとに永遠に戻れるという人生です。キリスト信仰者は人生にこのような大きな方向性が与えられ、順境の時だろうが逆境の時だろうが全く変わらない神との結びつきの中でこの世を生きていきます。進んで行く先は永遠の命が待っている神の御許です。これが、罪と死の支配から解放されて生きるということです。

罪と死の支配から人間を解放するという神の計画がイエス様の十字架と復活をもって実現しました。罪の償いと赦しを受け取った私たちは、自分たちもイエス様と同じように将来復活させられることがはっきりしたのです。旧約聖書のダニエル書12章で、今のこの世が終わり新しい世が始まる時に死者の復活が起こることが預言されています。それがイエス様の十字架と復活の出来事で一挙に現実味を帯びたのです。そういうわけで復活祭とは、イエス様が復活させられたことで実は私たちの将来の復活の可能性が生まれたことを喜び祝う日です。さらに自分自身の復活に加えて、復活の日にやはり復活させられた懐かしい人たちと再会できるという希望も持てるようになりました。復活祭は、この二つの希望を与えて下さった神に感謝し喜び祝う日です。確かにあの日復活した主人公はイエス様でしたが、それは私たちのための復活だったことを忘れてはいけません。イエス様の復活は彼自身だけのためでもなく、また悲しんでいた弟子たちを喜ばせるためでもなく、実はイエス様に続いて私たちが復活させられるための復活だったのです。私たちの復活のためにイエス様の復活が起きた - それで復活祭は私たちをハッピーにさせるのです。

3.復活の体と地上の体

次に、復活というのはどういう状態のことなのかをみてみます。これも毎年お話ししていることですが振り返ってみます。復活は超自然的なことなので科学的に説明することは不可能です。聖書に言われていることだけを手掛かりにするしかありません。本日の福音書の箇所で復活したイエス様とマグダラのマリアの再会の出来事がありました。毎年お話ししていますが、これは想像を絶する出来事です。というのは、この地上の体を持つマリアが「復活の体」を持つイエス様にすがりついているからです。復活したイエス様が有する「復活の体」とはどんな体か?それについては使徒パウロが第一コリント15章の中で詳しく記しています。「蒔かれる時は朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれる時は卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活する」(42ー43節)。「死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着る」(52ー54節)。イエス様も、ずばり「死者の中から復活するときは、めとることも嫁ぐこともせず、天使のようになるのだ」と言われました(マルコ12章25節)。

 復活とは、ただ単に死んだ人が少しして生き返るという、いわゆる蘇生ではないことに注意します。死んで時間が経てば遺体は腐敗してしまいます。そうなったらもう蘇生は起こりません。復活というのは肉体が消滅しても復活の日に新しい「復活の体」を着せられて復活することです。その体はもう朽ちない体であり、神の栄光を輝かせている体です。天の御国で神聖な神のもとにいられる完全に清い体です。この地上は、そのような体を持つ者のいる場所ではありません。その意味でイエス様は本当なら復活の後、吸い取られるよう天に昇らなければならなかったのですが、40日間も地上にとどまりました。なぜか?その期間があったおかげで弟子たちをはじめ大勢の人たちに自分が復活したことを目撃させることが出来ました。きっと、それが目的だったのでしょう。

復活したイエス様が、私たちの今の体と異なる体を持っていたことは福音書のいろんな箇所から明らかです。ルカ24章やヨハネ20章では、イエス様が鍵のかかったドアを通り抜けるようにして弟子たちのいる家に突然現れた出来事があります。弟子たちは亡霊が出たと恐れおののきますが、イエス様は彼らに手と足を見せて、亡霊には肉も骨もないが自分にはあると言います。このように復活したイエス様は亡霊と違って実体のある存在でした。ところが、空間を自由に移動することができました。本当に天使のような存在です。

復活したイエス様の体についてもう一つ不思議な現象は、目撃した人にはすぐイエス様本人と確認できなかったことです。ルカ24章に、二人の弟子がエルサレムからエマオという村まで歩いていた時に復活したイエス様が合流するという出来事があります。二人がイエス様だと分かったのは、ずいぶん時間が経ってからでした。本日の福音書の箇所でも、悲しみにくれるマリアに復活したイエス様が現れましたが、マリアは最初わかりませんでした。このようにイエス様は、何かの拍子にイエス様であると気づくことが出来るけれども、すぐにはわからない何か違うところがあったのです。このことについては、説教の終わりでもう一度お話しします。

さて、天の御国の神聖な神に相応しい「復活の体」を持つイエス様と、それにすがりつく地上の体のマリア。イエス様はマリアに「すがりつくのはよしなさい」と言われます。マリアがイエス様にすがりついたのは、突然本人が生きて目の前に現れたので感極まって抱きしめたのでしょう。相手が崇拝の対象である場合は「すがりつく」というのはひれ伏して相手の両足を抱きしめることだったかもしれません。

イエス様が「すがりつくな」と言ったことについて。これもこの福音書の個所が当たる年に毎回お話ししていますが、ギリシャ語原文では「私に触れてはならない」(μη μου απτου)です。実際、ドイツ語のルター訳の聖書も(Rühre mich nicht an!)、スウェーデン語訳の聖書も(Rör inte vid mig)、フィンランド語訳の聖書も(Älä koske minuun)みな「私に触れてはならない」と訳しています。英語のNIV訳は私たちの新共同訳と同じで「私にすがりつくな」(Do not hold on to me)です。どっちが正しい訳でしょうか?話が少し脇道にそれますが、ヘブライ語やギリシャ語で書かれた聖書(一部アラム語もあります)が現代語でどう訳されているか比べると、ドイツ語・スウェーデン語・フィンランド語が同じ訳をして日本語・英語が別の訳をしているということがしばしばあります。何だか聖書の翻訳に欧州連合と日米同盟の対決があるみたいですが、今日の個所について言えば欧州連合に軍配が上がると思います。というのは、イエス様が復活の体という、まさに天のみ神のもとにいることができる体でいることを考えると、ここは原文通りに「触れてはならない」の方がよいと思われます。

さらにイエス様は「私はまだ父のもとに上がっていないのだから」(17節)と言って、触れてはならない理由も述べていることに注目します。自分に触れるなと言って、その理由として、自分はまだ父なるみ神のもとに上げられていないからだ、と言う。つまり、復活させられた自分は、この世の者たちが有している肉の体とは異なる、神の栄光を現わす霊的な体を持つ者である。そのような者が本来属する場所は天の父なるみ神がおられる神聖な所であり、罪の汚れに満ちたこの世ではない。本来なら自分は復活した時点で神のもとに引き上げられるべきだったが、自分が復活したことを人々に目撃させるためにしばしの間この地上にいなければならない。そういうわけで、自分は天上の存在なので、地上に属する者はむやみに触るべきではない。これで全てつじつまが合います。

しかし、ここで疑問も生じます。それは、ルカ24章で復活したイエス様が疑う弟子たちに「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい」(39節)と命じているからです。また、ヨハネ20章27節では、目で見ない限り主の復活を信じないと言い張る弟子のトマスにイエス様は、それなら指と手をあてて私の手とわき腹を確認しろと命じます。なんだ、イエス様は触ってもいいと言っているじゃないか、ということになります。しかし、ここはギリシャ語原文の動詞の使い方によく注意してみるとからくりがわかります。ルカ24章で「触りなさい」、ヨハネ20章で「手をわき腹に入れなさい」と命じているのは、まだ実際に触っていない弟子たちに対してこれから触って確認しろ、と言っているのです。その意味で触るのは確認のためだけの一瞬の出来事です(後注)。本日の箇所では、マリアはもう既にしがみついて離さない状態にいます。つまり、触れている状態がしばらく続いるのです。その時イエス様は「今の自分は本当は神聖な神のもとにいる存在なのだ。だから地上の者は本当は触れてはいけないのだ」と一般論で言っているのです(後注)。つまり、イエス様がマリアに「触れるな」と言ったのは、神聖と非神聖の隔絶に由来する接触禁止規定なのです。確認のためとかイエス様が特別に許可するのでなければ、むやみに触れてはならないということなのです。

神聖な復活の体を持って立っているイエス様。それを地上の体のまますがりつくマリア。本当は相いれない二つのものが抱きしめ抱きしめられている。そこには、かつてモーセやイザヤが神聖な神を目前にして感じた殺気はありません。イエス様は、自分は地上人がむやみに触れてはいけない存在なのだ、と言いつつも、一時すがりつくのを許している。マリアに泣きたいだけ泣かせよう、としているかのようです。何だか思い浮かべただけでこちらまで泣けてしまいそうな感動的な場面です。イエス様も、今マリアは地上の体ではいるが、自分を救い主として信じている以上は復活の日に復活の体を持つ者になる、とわかっていたのでしょう。そのことは、イエス様の次の言葉から窺えます。「わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と」(17節)。

ここでイエス様は弟子たちに次のようなメッセージを送ったのです。「今、復活させられて復活の体を持つようになった私は、私の父であり私の神である方のところへ上る存在になった。そして、その方は他でもない、お前たちにとっても父であり神なのである。同じ父、同じ神を持つ以上、お前たちも同じように上るのである。それゆえ復活は私が最初で最後ではない。最初に私が復活させられたことで、私を救い主と信じる者が後に続いて復活させられる道が開かれたのである。」

4.復活の面影

先ほど、旧約聖書の復活の預言がイエス様の復活が起きたことで現実味を帯びたと申しました。旧約中の復活の預言としてダニエル書12章をあげました。本日の旧約の日課イザヤ書25章の個所も復活の預言です。神が死を滅ぼしたり、全ての涙を拭ったり、神に属する民が受けた恥辱を地上から抹消するということは大体、黙示録20章と21章に出てきます。黙示録を記したヨハネはイザヤ書25章が最後の審判と死者の復活についての預言だとわかったのでした。

イザヤ書25章の今日の個所の中で分かりにくいことは、神が全ての民の顔を包んでいた布と国々を覆っていた布を滅ぼすと言っていることです。これはヘブライ語原文を直訳すると、神が滅ぼすものは「全ての民に被さっている目に見える覆い」、「全ての民に被さっている織りなされた覆い」です。少し難しいですが何か外面的なものです。「織りなされた覆い」ですが、詩篇139篇15節を見ると人間が神に造られる時「織りなされる」と言って同じ動詞נסךが使われています。またパウロは、第二コリント5章で肉の体を天幕つまり布切れにたとえています。そういうわけでイザヤ25章で滅ぼされる布というのは私たち人間のこの地上の肉の体のことです。イザヤ書の個所はまさにパウロが第一コリント15章で言っていること、すなわち肉の体は朽ち果てて復活の日に復活の体を着せられることを意味しているのです。

さらに、イザヤ書25章で神が盛大な祝宴を開くことが言われていますが、これも黙示録19章にあります。復活に与った者たちが席につくことになる天の御国の祝宴です。イザヤ書を見ると、脂肪に富む良い肉とえり抜きの酒と言いますが、本当にその通りのメニューになるかどうかは不明です。実はこれは、祝宴で最上のものが振る舞われることを表現するために、当時の人たちの感覚で最上のものが引き合いに出されたということです。それなので、脂っこい料理が苦手な人も自分は天国に入れないどと心配するには及びません。それから「えり抜きの酒」ですが、この訳はいただけません。ヘブライ語の単語シェメルשמרは辞書を見るとぶどう酒に関係する意味です。「酒」は訳しすぎです。焼酎やウイスキーやビール等も入ってしまいます。フィンランド語訳の聖書も「ぶどう酒」です。日本語の翻訳者はお酒が好きでそう訳してしまったのでしょうか?

最後に、先ほども触れましたが、復活の体を持つ者は一目見ただけではすぐ本人と気がつかないことがあるということについて私の思うところを申し上げて今年の復活祭の礼拝説教を締めようと思います。

復活の再会の時、再会の相手はどんな容姿をしているのでしょうか?例えば、高齢でこの世を去ったら、天の御国で再会する時もこの世を去った最後の瞬間の容姿、高齢の容姿なのでしょうか?そうだとすると亡くなる人は高齢の方が多いから天の御国は圧倒的に高齢者が多い超高齢者化社会ということになります。逆に、もし小さな子供や赤ちゃんの時にこの世を去ったのであれば、復活の再会の時も子供のまま赤ちゃんのままなのでしょうか?さらに、もし大きな怪我や病気のために容姿が大きく変容してしまったら、再会の時その人はその痛々しい姿で現れるのでしょうか?しかし、イエス様の事例を見ると、復活の再会の時の容姿は必ずしもこの世を去る瞬間の容姿と同じではないことが見えてきます。

復活したイエス様は確かに傷は残っていたが、それは何の痛みも持たない、ただ単に過去にこんなことがあったと示すだけの干からびた痕跡にしかすぎませんでした。そうすると、復活の再会の時に目にするのは、この世を去る瞬間の容姿ではなく、その方の何かベストな状態の容姿ということになるのでしょうか?もし、それがこの世を去る時の直近のベストな状態だとしたら、それは一目でその人だと分かってしまいます。一目見てもわからないというのは、その人が辿ってきたいろんな年齢・段階の面影が一つに重なり合っている、ないしは混ざり合っているからではないかと考えるようになりました。そのような重層的な面影を一目見た時どうなるか?見た人はまだその方がこの世を去る時の容姿が頭にあるから、すぐにはわからない。ところが、何かがかみ合うとその人だと納得できる。そういうことなのではないかと考えるようになりました。

過去のいろんな面影と言ったら、苦しい時、辛い時の面影もあるでしょう。しかし、黙示録21章を見ると、復活後は涙もなく死もなく悲しみも嘆きもないと言っています。それで、復活の体が映し出す面影は全てベストなものではないかと思います。イエス様が「天使のようになる」と言うのは、こうことではないかと思います。

ベストな面影とは言っても、受けた傷、心の傷、体の傷は消えずに残っているかもしれません。復活のイエス様にも十字架の時に受けた傷が残っていました。しかし、それはもう痛くも痒くもない干からびた痕跡のようなものでした。私たちの心の傷や体の傷も復活の日にそういうものになっているのでしょう。

赤ちゃんや小さな子供の場合ですが、遡れる年数が少ない分、面影も少なくなり一目見たらすぐ分かってしまうかもしれません。しかし、復活の体を持つ者は一目見ただけではすぐには誰かわからないということにこだわったら、こういうことになるのではないかと考えます。すなわち、その子は、もし死なずにそのまま順調に育っていたらこういう面影を持つようになっただろう、つまり復活の再会は面影の先取りのようなこともあるのではないか。もちろん、そうなると親としては子供が死んだ後の成長を見ていないのでベストの面影を映し出す子供を見てもなかなか誰かわからないかもしれません。しかし、心配には及びません。親のことを短い生涯でも精一杯見続けた子供の方から、お母さん!お父さん!と声をかけてくれるでしょう。

主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆さん、どうです、復活の日の再会が待ち遠しくなってきたでしょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。
アーメン

 

(後注)
ルカ20章39節の「触りなさい」とヨハネ20章27節の「手を入れよ」は、両方ともアオリストの命令形(ψηλαφησατε、βαλε)であることに注意。

ヨハネ20章17節の「触れるな」は現在形の命令形(απτου)であることに注意。

 


特別の祈り

全知全能の父なるみ神よ。  主イエス様の復活を喜び祝う私たちの心をどうかあなたの愛と恵みで満たし、空(むな)しい思いやこの世の煩(わずら)いから遠ざかるようにして下さい。私たちが復活の希望に生きることで世の光となれるように、そして隣人に復活の主を伝えることが出来るように知恵と力と勇気をお与え下さい。  あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

復活祭礼拝と礼拝後の交わり

復活祭礼拝は、二人のお子さん連れの家族もみられ、会堂に用意した14席は埋まってしまいました。
礼拝後の交わりは、それぞれパーティションを挟んでコーヒーとロールケーキを味わい、ズームで参加された6人の方たちと讃美歌を静かに歌ったり、信徒の「信仰の証し」に耳を傾けました。
終わりにイースターエッグにシールの飾りつけをして皆さんのお土産になりました。
こじんまりしたものでしたが皆と一緒に心温まる復活祭のお祝いが出来たと思います。

3月27日と31日 スオミ教会家庭料理クラブの報告

ピーチケーキ

ピーチケーキ

桜の花も満開となり、スオミ教会前の可愛い花たちも咲き誇る春の日、家庭料理クラブは、イースターや春を迎える喜びを込めて、イースターカラーの黄色い[ヨーグルト風味のピーチケーキ]を作りました。

最初にお祈りをしてスタートです。

計量して生地を作り、冷蔵庫で休ませてる間に、ヨーグルトクリーム作りや、ピーチをスライスしたりと作業は進みます。

休ませた生地にヨーグルトクリームを流し、滑りやすいピーチを、苦心して並べてオーブンへ。

黄色も鮮やかなケーキが焼き上がりました。

やさしく華やかな黄色いピーチケーキは、手作りならではの優しい味わいに仕上がりました。

試食タイムは、パイヴィ先生が用意して下さった、一晩おいて味の馴染んだケーキと、焼きたてケーキの豪華版です。

パイヴィ先生からは、イースターのお話と、春を心待ちにするエピソード等を、聞かせて頂きました。

参加の皆様、コロナのため、制約も多いなか、ご協力や最後までの後片付け、ありがとうございました。

 

桃とイースターのお話

フィンランドでは、ピーチケーキは春が近づくとよく作られるケーキの一つです。前の年の夏に採って冷凍庫に保存していたイチゴやブルーベリーなどのベリーは、春が近づくと残り少なくなります。それで、ベリーの代わりに缶詰めの果物を使ってお菓子やケーキを作ります。黄色の桃は春の明るい雰囲気を良く表すので、春を迎える時に作るお菓子にピッタリ合います。フィンランドでは黄色はイースターの色とも言われているので、このケーキは特にイースターに向けてよく作られます。

イースター・復活祭はもう今度の日曜日で、少しイースターについてお話したく思います。フィンランドでは一年の中でイースター・復活祭はクリスマスの次に大きなお祝いで、休みも聖金曜日から次の月曜日まで4日間あります。

この大きなお祝いのために家庭では様々な準備をします。家の掃除を普段より丁寧に行って、イースターの料理やお菓子を作ることです。子供たちも楽しみがあります。何かというと、フィンランドではイースターの季節が近づくとこの季節に店ではチョコレートのイースターエッグを販売するからです。子供たちはそれを買ってもらうのを楽しみにしています。

イースターの期間は年によって変わって、3月の中ごろから4月の終わりの間になります。この期間、フィンランドはまだ寒く、自然の中は緑もまだありません。そのために人々はイースターの前に白樺の枝を取ってきて家の暖かい場所に置いておきます。そうすると枝に芽が出てきます。白樺の他にネコヤナギもよく家の中に置かれます。それから、イースターの前に準備することとして芝生を育てることがあります。家の中で土を例えばお皿の上に入れて、それに種を蒔いて暖かい場所に置いておくと、もう2週間の内に芝生が育ちます。それもきれいなイースターの飾り物になりますが、新鮮な緑色の芝生はイースターの意味である「新しい命」をよく表します。チョコレートエッグやイースターの飾り物を準備することを通してイースターは喜びのお祝いだということが子供たちにも伝わっていくのです。

イースター・復活祭の季節は日本では暖かくてあちらこちらで花が咲き新緑も見かけます。日本では桜が大体イースター・復活祭の期間に咲きます。今年のイースターの時もまだきれいに咲いているでしょう。満開の桜を見るといつも先ほど言ったイースターの意味を思い出します。冬の間枯れて死んだような桜の木の枝から突然沢山の美しい花が咲くのを見ると、「死からの復活」と「新しい命」というキリスト教のメッセージがとても身近になって大きな喜びを覚えます。

それでは、イースター・復活祭はどうして喜びの日になったのでしょうか?聖書は、このことについて詳しく書いてあります。まずイースターの前にイエス様が受けられた苦しみについて書いてあります。イースターの前の週の木曜日イエス様は、イエス様に反対する者たちに捕らえられて、沢山の苦しみを受けなければなりませんでした。イースターそして、翌日の金曜日、イエス様は何も悪いことはしていなかったのに、十字架にかけられて死なれました。イエス様の体は十字架から下されて、布に巻かれて、岩に掘った墓に入れられました。でもこの日から3日目の日曜日の朝イエス様は復活されたのです。その朝、イエス様の教えをよく聞いて従っていた女性たちがイエス様のお墓に行きました。ところが、イエス様の体はもうお墓の中にはありませんでした。そこへ天使が現れて、イエス様は復活されたのだと女性たちに告げ知らせました。女性たちはこれを聞いて大喜びしました。イエス様が死から復活されたことは、あの女性たちだけではなく、私たちや全世界の人々にとっても大きな喜びになりました。何がそんなに喜ばしいのでしょうか?

イエス様は私たちや世界の全ての人々の罪を全部背負って十字架の上まで運んで、そこで私たちの代わりに神様の罰を受けて死なれました。私たちは、イエス様のおかげで神様から罪の赦しをいただけるようになりました。しかし、それだけではありませんでした。神様はイエス様を死から蘇らせました。そうして、死を超えた永遠の命への扉が開かれたのです。これが世界で一番最初のイースター復活祭の日に起こったことでした。死から復活されたイエス様は、今日も明日もこれからもいつも永遠に私たちと共にいてくださるのです。これよりも大きな喜ばしいことはあるでしょうか?

イースターの時に飾りつけをする卵も、イースターの意味をよく表しています。卵の殻は復活したイエス様が出て行かれた空っぽのお墓を象徴します。そして卵の黄身は、イエス様が復活されたことで私たちに与えられる永遠の命を象徴します。そして卵の中から出てくるひよこは、喜びそのものです。

3月28日(日)枝の主日 主日礼拝 司式・説教 マルッティ・ポウッカ牧師(フィンランド・ルター派国教会) 祈り・聖書朗読 パイヴィ・ポウッカ・本ビデオ礼拝は、ご自宅からでもスオミ教会の会堂からでも視聴参加できます。

聖書日課 イザヤ50章4〜9a節、フィリピ2章5〜11節、マルコ11章1〜11節
讃美歌 189(1)、77(1)、77(5)、200
ビデオ編集 パイヴィ・ポウッカ

礼拝をユーチューブで見る


特別の祈り

全知全能の父なるみ神よ。

あなたは、私たち人間の救いのためにみ子イエス様をこの世に送られ、彼を十字架の死に渡されました。どうか、イエス様を救い主と信じる私たちが、彼のあなたへの従順さに倣い、彼がもたらした罪と死に対する勝利に留まることができるようにして下さい。

あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、
主イエス・キリストのみ名を通して祈ります。アーメン

フィンランドのラスキアイネン

ラスキアイネン

2月16日はフィンランドのカレンダーではラスキアイネンです。この時期になると多くの家庭ではラスキアイスプッラというプッラお菓子パンを作ります。 フィンランドではプッラはいろんな形や味のものが作られます。いろいろ季節に合うものが作られます。冬から春にかわる今の季節はラスキアイスプッラがお店で一番売られています。このプッラは1月頃から四旬節の前までの期間に食べられます。四旬節というのはイースター・復活祭の前の40日間の期間です。フィンランドでは四旬節に入る「灰の水曜日」の前日の火曜日がラスキアイネンと呼ばれます。この日の習慣としてフィンランド人は雪の中をそりですべったり、美味しいラスキアイスプッラを味わったりします。大人も子供も寒い中そりで滑った後で暖かい部屋に入ってラスキアイスプッラを暖かい飲み物と一緒に楽しみます。それがラスキアイネンの雰囲気を作ります。私は子どもの時、兄弟たちとラスキアイネンの朝に誰が一番早くそりで滑るか競争したので、その日は学校に行く前に朝5時や6時に滑ったこともあります。

ラスキアイスプッラ

ラスキアイネンのあとに来る四旬節とはどんな期間でしょうか?四旬節は40日の期間です。それはイエス様が荒野で40日間何も食べないで悪魔から誘惑を受けて打ち勝ったことに由来します。それでこの40日間はイエス様が活動を始める前の準備の期間にもなりました。四旬節の時、私たちはイースター・復活祭の前にイエス様が苦しみを受けたことを覚えて心の中で思い巡らします。イエス様は天の神様のひとり子で罪を持たなかったのに苦しみを受けて十字架で死なれました。イエス様は私たち人間の罪を十字架の上にまで背負って下さったのです。それで四旬節はイエス様の十字架の意味を心の中で思い巡らすのにとても良い期間なのです。

イエス様は荒野で40日間食を断った後で悪魔から誘惑を受けて次のように言われました。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」。それに対してイエス様は「人はパンだけで生きるのではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と答えられました。四旬節の時、私たちは聖書を読んで神様が私たちにどんなことを語って下さるかを知ることは生きる力になります。そして神様のみ言葉は、私たちの心の中で神様に対する信頼を強めてくれます。

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「成長の支え 〜 自分と子どもへ」というFacebookグループにご参加いただければ幸いです。そこで、2月14日から、フィンランド風のイースターカレンダーを読むことが出来ます。文と写真を通して、イースターのメッセージを味わうことができます。

天気が良ければ、今度の日曜日に大勢のフィンランド人はそり滑りに出かけます。そして家に帰ってから、ラスキアイスプッラを食べます。それはいったい何のことでしょうか。イースターというお祝いの準備をする時間の始まりです。今年のイースターは4月4日に当たります。イースターは大きいお祝いなので、その準備をする時間も長いです。

「イースターに向かって」というイースターカレンダーを通して、このお祝いについて楽しく学ぶことができます。物語のヴィッレくん(Ville)とアンニちゃん(Anni)とともに、家族の小さい子どもも、イースターを喜んで待ち望める助けになるでしょう。

読者の皆さんが、イースターの深いメッセージを味わうことができるようにお祈りいたします。

文・写真:パイヴィ・ポウッカ宣教師

2021年度の主題と主題聖句

スオミ教会の2021年度の主題と主題聖句について以下の宣教師提案が2月7日の教会定例総会にて採択されました。

主題「試練と不運の真っ只中でも神に感謝することはある。それを忘れないでいこう。」

主題聖句 詩篇118篇1節「主に感謝せよ。主は良い方なのだから。主の慈しみは永遠にあるのだから。」(フィンランドのルター派国教会の1938年版聖書に倣った訳)

提案理由

コロナ禍のこの1年、多くの人たちが苦難や困難に陥りました。感染を免れても別の苦難や困難がありました。この状況はまだ続きそうです。このような時、キリスト信仰者はどのように苦難や困難に立ち向かっていけるのか?詩篇118篇1節の御言葉についてルターが説き明かしたことは、立ち向かう心構え、基本姿勢を教えています。それを以下に引用します。

我々はいかなる不運に直面しても、それは本当は神が我々に灯した光なのだと理解しなければならない。それは、神の恵みと善き業が実は数えきれないくらいの出来事の中にあったことが照らし出されて見えるようになるための光なのである。まさにその時、不運などというあの取るに足らない害悪は、我々からすれば燃え盛る炎に落ちていく一滴の雫にしかすぎなくなる。あるいは、大海の中に落ちていくちっぽけな火花にしかすぎなくなる。そのようになっていくのは、まさにこの聖句が我々にとって身近で麗しいものになるためなのである。「主に感謝せよ。主は良い方なのだから。主の慈しみは永遠にあるのだから。」この御言葉で言い表される気持ちは次のようなものになろう。「ああ、あなたは私になんと誠実で慈しみ深い神聖な神でおられることか。私に対してもこの世全てに対してもこんなに大きくて沢山の善いことをいつも行って下さるのだから。私の感謝は全てあなたに帰せられますように。」

これと同じ聖句は聖書の中、特に詩篇の中でしばしば用いられる。この聖句は我々に正しくて神の御心に最も適う捧げものについて教えてくれる。我々は、神に感謝する以上に大きくて優れた業を行うことはできないし、心がこもった礼拝を守ることもできないのである。

この説き明かしでルターは私たちが見落としがちなことを強く教えています。苦難や困難に陥った時、私たちは神に助けを祈りますが、その時、神に感謝することがあるなどとは思いもよらないでしょう。逆に苦難や困難がない時は、感謝するどころかさして祈る必要もないという態度でしょう。しかし、いつも神に感謝できていると、不運は一滴の雫、ちっぽけな火花に変わってしまうのです。自分の人生は不運だらけだった、だから神に感謝することなどない、などという考えはキリスト信仰者には無縁です。なぜなら神がひとり子を私たちに贈られたことが全ての感謝の基礎にあって中心にあるからです。このひとり子が十字架の死を遂げて私たちの罪を神に対して償って下さったおかげで私たちは神との結びつきを持ててこの世を生きられるようになりました。そのような御子を贈って下さった神は良い方です。さらに彼を死から復活させることで私たち自身が将来の新しい世の復活に到達できる道を切り開いて下さいました。それで神の慈しみは永遠にあるのです。

詩篇118篇1節は、新共同訳では2~4節の形にあわせて「恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに」と詩的に訳しています。ヘブライ語原文を直訳すると冒頭に掲げたような「主に感謝せよ。主は良い方なのだから。主の慈しみは永遠にあるのだから。」となります。なぜ主に感謝するのか、それは、主が良い方だから、その慈しみが永遠にあるからだ、と理由を言っているのです。その方がルターの説き明かしとよく合うのではと考えて直訳を掲げた次第です。余談ですが、フィンランドのルター派国教会の1938年版聖書もこのように訳しています。

 

 

説教「神の我らに対する連帯について ― 主の洗礼再考」神学博士 吉村博明 宣教師、マルコによる福音書1章4節-11節

主日礼拝説教 2021年1月10日 主の洗礼日

説教動画をみる

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

Kirisutonosenrei
イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けるとは、一体どういうことか?ヨハネは「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼」を人々に宣べ伝えました(マルコ1章4節)。「罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼」とは、将来罪の赦しが得られるために、神に背を向けて生きてきた生き方を方向転換して神の方を向いて生きる、その方向転換の印としての洗礼ということです。罪の赦しそのものが得られる洗礼は、イエス様が死から復活した後で命じた洗礼です。それなので、洗礼者ヨハネの洗礼はその前段階の方向転換の印です。そうすると、イエス様のように神と同質の方でそもそも方向転換などする必要のない方がどうして洗礼など必要なのでしょうか?イエス様は罪の赦しそのものを与える方です。どうしてそのような方が罪の赦しが得られるための印を受ける必要があるのでしょうか?マタイ3章をみると、洗礼を受けにやってきたイエス様を前にしてヨハネはとまどって言います。「私の方が、あなたから洗礼を授けられる必要があるのに」(14節)と。まことに当然な驚きです。

なぜイエス様は洗礼を受ける必要があったのか?これを考えることは、私たち人間の救いのためにイエス様が本当になくてはならない方であることが明らかになります。本日はこのことを見ていきます。

2.ヨハネの洗礼について

まず、洗礼者ヨハネの洗礼がどんなものであったか、もう少し見ていきます。ヨハネのもとに大勢の人がやって来て罪を告白して洗礼を受けました。マタイ福音書やルカ福音書を見ると洗礼を受けに来た人は皆、神の怒りを恐れていたことがわかります。旧約聖書の至る所に「主の日」と呼ばれる日の預言があります。それは神が人間に怒りを示す日で、神の意思に反する者を滅ぼし尽くし、大きな災いや天変地異が起こる時として言われています。イザヤ書の終わりではそれこそ創造主の神が今ある天と地を終わらせて新しい天と地を創造する日のことが預言されています。人々はヨハネの宣べ伝えを聞いて、いよいよその日が来たと思ったのです。それで神の怒りが及ばないようにと、そのような天変地異の大変動から助かろうと、それでヨハネのもとに来て、神の意思に反する罪を告白して罪から清められようと洗礼を受けたのです。水を浴びることは清めを象徴しました。

ところが、ヨハネは自分の後に来る方つまりイエス様の洗礼こそが本当に神の怒りが及ばないようにする力がある洗礼と言います。そのためには洗礼に聖霊が伴わないとだめなのだが、自分の洗礼にはそれがなくイエス様の洗礼にはあると認めるのです。そうするとヨハネの洗礼は罪の赦しそのものが起こる洗礼ではなかったことになります。ヨハネは人々に罪の自覚を呼び覚ましてそれを告白させ、すぐ後に来るメシア救い主による罪の赦しの洗礼に備えさせたのです。その意味でヨハネの洗礼は、人々を罪の自覚の状態にとどめて後に来る罪の赦しに委ねるためのものでした。罪を告白して水をかけられてこれで清められたぞ!というのではありません。罪を告白したお前は罪の自覚がある、それを聖霊の洗礼を受ける時までしっかり持ちなさい。その時本当に罪を赦されたお前は神の子となり、「主の日」に何も心配することはなくなるのだ。このようにヨハネの洗礼は人々を罪の自覚に留めて聖霊を伴うメシアの洗礼を今か今かと待つ心にするものでした。

ヨハネの洗礼に罪の赦しも来たるべき神の怒りから救う力も聖霊もなかったのならば、なぜ彼は洗礼を授けたのでしょうか?それは、神の怒りの日を覚えて自分の罪を自覚した人たちの悔恨を受け止めて、彼らが絶望に陥らないように、すぐ後に救い主が来るとことに心を向けさせるためでした。その意味で、ヨハネの洗礼はまさしく来たるべき救い主を迎える準備をさせるものでした。各自がイエス様を大手を拡げてお迎えできるように、心の中に道を整えて道筋を真っ直ぐにすることでした。それでヨハネは、聖霊を伴う洗礼を授けるメシア救い主の前では自分は靴紐を解く値打ちもないとへりくだったのでした。

3.イエス様の受肉と割礼 ― 自分を低める連帯

そのようなヨハネの洗礼をどうして神のひとり子のイエス様が受ける必要があったのでしょうか?これからこのことを見ていきます。

私は以前イエス様の受洗の日課について説教をした時、神のひとり子が洗礼を受けることで人間と同列に加わったという、神の人間に対する連帯を表わすものだということをお教えしました。神と同質の方が洗礼を受けることで洗礼を必要とする人間と同じ立場に立ったということ、これこそ神の人間に対する連帯の表れだと考えたのです。ところが今回、この日課を見直してみて、イエス様の受洗は神の人間に対する連帯もあるが、それでいい尽くすことの出来ないもっと大きなこともあるとわかったので、今日はそのことをお話ししていきたいと思います。

まず、神と同質の方が人間に対して連帯を示したということを言うならば、それは、その方が乙女マリアから肉体を持って誕生したという受肉の出来事と誕生後8日目に割礼を受けたことの方が洗礼よりも相応しいと思いました。

神と同質の方の受肉の出来事について、「フィリピの信徒の手紙」2章に次のように記されています。「キリストは神の身分でありがなら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」。

天の父なるみ神のもとでは神の知恵ないし言葉として存在していた方が乙女マリアを通して人間の体を持つ者としてこの世に贈られてきました。それは、人間が被る死の苦しみを自分自身被ることができるようになるためでした。それで人間が罪のゆえに受ける神罰をまさに神罰として引き受けることができるようになるためでした。

イエス様が誕生8日後に割礼を受けたことは(ルカ2章21ー24節)、その外的な印をもってアブラハムの子孫の一人に加えられ、モーセの律法の効力の下に置かれました。神聖で罪の汚れひとつない神のひとり子が、神聖さがなく罪の汚れを持つ人間の立場に置かれたのです。ユダヤ民族という、罪の汚れから洗われるために数多くの宗教的儀式をこなさなければならない民族の立場に置かれたのです。本来ならばそうしたことは一切不要な立場にある方なのに、全く違う立場に置かれることになり、それによって神からの罰を罰としてちゃんと受けられて、死の苦しみを本気で受けて死ぬ者になったのです。

もしイエス様がこういう人間の立場に置かれず、ずっと天の御国の神聖な立場のままだったら、死や苦しみはイエス様に近寄ることはなかったでしょう。パウロが述べたように、神のひとり子は「律法の支配下にある者たちを救い出すために律法の支配下にある者たちと同じになった」(ガラテア4章4節)のです。ただ忘れてはならないのは、イエス様は人間と同じ立場に置かれたとは言っても、罪を持たない神聖な神のひとり子だったということです(ヘブライ4章15節)。そのような方が、受肉と割礼を通して人間と同列に加わることとなり、人間の悩み苦しみと直につきあい、また自身も人間と同じように苦しみや試練や誘惑に直面しなければならなかったのです。それゆえ、「ヘブライ人への手紙」2章18節に言われるように、イエス様は試練に遭う者たちのことを本当にわかって助けることができるのです。

神のひとり子が律法の支配下にある者たちを救い出すために律法の支配下にある者たちと同じになったのならば、同じになってどのように救い出したのでしょうか?人間は神の意思に反する罪を持っている。神は罪を焼き尽くす神聖な方である。人間は神の前に立たされたら焼き尽くされてしまう。神は人間が神罰を受けて滅んでしまうのを望みませんでした。罪は断固として認めないが、しかし人間は滅びから救われなければならない。このジレンマを解決するために、神は神罰の滅びを自ら引き受けることにしました。神の人間に対する愛が自己犠牲の愛であると言われる所以です。

しかしながら、神が犠牲を引き受けるというとき、天の御国にいたままでは、それは行えません。人間の罪の罰を全て受ける以上は罰を純粋に罰として受けられなければなりません。そのためには、律法の効力の下にいる存在とならなければなりません。律法とは神の神聖な意思を示す掟です。それは、人間がいかに神聖さと正反対な存在であるかを暴露します。律法を人間に与えた神は律法の上にたつ存在です。しかし、それでは罰を罰として受けられません。犠牲を引き受けることは出来ません。罰を罰として受けられるために律法の効力の下にいる人間と同じ立場に置かれなければならなかったのです。まさに、このために神のひとり子は人間の子として人間の母親を通して生まれなければならなかったのです。そして割礼を受けて律法の効力の下に置かれなければならなかったのです。実に、そうすることで使徒パウロが述べたように、「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出して」下さったのです(ガラテア3章13節)。

イエス様が人間と同列に加わった連帯というのは、私たちを神の意思に反した者にしてしまう呪いから救い出すために自ら呪いを引き受けてその帰結を被って下さったのです。私たち人間が被らないように自分で被って下さったのです。私たち人間も困窮した人たちに寄り添ったり連帯したりします。しかし、神がイエス様を通して示した寄り添いや連帯は次元が違うものです。困窮した人たちもその人たちを助ける人たちも、神からこのような寄り添いや連帯を頂いていることがわかれば力や励みになるのではないでしょうか?

4.イエス様の洗礼 ― 私たちを高める連帯

神の人間に対する連帯が受肉と割礼でよく現れていると言うならば、イエス様の洗礼は一体なんだったのでしょうか?なぜ、罪の赦しを与える立場にある神のひとり子が罪の赦しを得られるための方向転換の印を受けなければならなかったのでしょうか?

ここでイエス様の洗礼の時に何が起こったかを見てみます。洗礼を受けた時、イエス様に聖霊が降ったことが目撃されました。また、天から「お前は私の愛する子である。私の心に適う者である」という神の声が轟きました。この出来事はイザヤ書42章1ー7で言われている預言の成就でした。すると、イエス様の洗礼は預言が成就するために必要な手続きだったことがわかります。そこで、この預言の内容を、本日の旧約の日課ではありませんが、見る必要があります。

このイザヤ書の箇所で神は、将来この地上で活動する僕(つまりイエス様のこと)が聖霊を受けて、神から特別な力を与えられて何かを実現していくことが預言されています。その何かとはなんでしょうか?

私たちの用いる新共同訳を見ると、「彼は裁きを導き出す」(1節)、「裁きを導き出して、確かなものする」(3節)、「この地に裁きを置く」(4節)と、「裁き」という言葉が三度も繰り返されて、神の僕が何か裁きに携わることが言われます。しかし、これは困った訳です。「裁きを導き出す」とか「裁きを置く」とは一体どんな意味なのでしょうか?そもそも「裁き」とは「置く」ものなのでしょうか?頭のいい人ならこういう奇抜で難解な表現を見ても意味を推測することが出来るかもしれません。しかし、その推測した意味が聖書のもともとの意味と同じであるという保証はどこにもありません。このことは以前の説教でもお教えしたことがあります。ここでもう一度振り返ってみることにします。

参考までに各国の聖書の訳はこのイザヤ書42章の言葉をどう言っているか覗いてみると、英語の聖書はjustice、「正しいこと」、「正義」です。「裁き」judgementとは言っていません。ルター訳のドイツ語聖書ではdas Recht、「権利」とも「正しいこと」とも訳せます。スウェーデン語の聖書では「権利」(rätten)、フィンランド語の聖書では「権利」も「正しいこと」も「正義」も意味する単語(oikeus)です。

神の僕が携わることが、どうして日本語で「裁き」になって他の訳はそうならないかと言うと、ヘブライ語の元の単語ミシュパートמשפטをどう考えるかによります。その語の大元の意味は、「何が正しいかについて決めること」とか「何が正しいかということについての決定」です。その意味から出発して「裁き」とか「判決」というような限定した意味がでてきます。しかし、限定した意味はそれだけではありません。「何が正しいかについて決めること」「何が正しいかということについての決定」をもとにすれば、「正当な要求」「正当な主張」という意味にもなるし、そこからさらに「正当な権利」とか「正義」という意味にもなります。辞書を見れば他にもあります。

以上のようなわけで、イザヤ42章の神の僕が携わることは「裁き」ではなく、「正しいこと」とか「正義」とか「正当な権利」と理解できます。さらに、「導き出す」とか「置く」とか訳されている動詞(יצא、שים)も、「もたらす」とか「据える、打ち立てる」と訳せるものです。そういうわけで、神の僕が「国々の裁きを導き出す」というのは、実は「諸国民(גוי、特にユダヤ民族の異邦人をさしますが)に正義(正しいこと、正当な権利)をもたらす」ということ。「この地に裁きを置く」というのは「この世に正義(正しいこと、正当な権利)を打ち立てる」ということです。

それでは、神の僕がもたらしたり打ち立てたりする正義(正しいこと、正当な権利)とは何でしょうか?神の御言葉である聖書の中で正義とか正しいこととか正当な権利とか言ったら、それは神の目から見ての「正しいこと」、「正義」、「正当な権利」です。それでは何が神の目から見て「正しいこと」、「正義」、「正当な権利」でしょうか?それは、先ほども申し上げましたように、人間が神の意思に反そうとする罪の力から解放されることであり、解放されて神との結びつきを持ててこの世を生きることであり、そして、この世を去った後は復活の日に目覚めさせられて永遠に造り主の神の御許に迎え入れられるということです。これが神の目から見た「正しいこと」、「正義」、「正当な権利」です。。これらは全て、神のひとり子イエス様が十字架の死と死からの復活の業をもってこの世にもたらして打ち立てたものです。

イエス様が洗礼を受けた時、イザヤ書42章の初めに預言されたことが成就しました。天から預言どおり神の声が轟き、聖霊がイエス様に降り、神による人間救済を実行する力が与えられました。もちろん洗礼者ヨハネから洗礼を受ける前の赤ちゃんイエスや子供時代のイエス様も神聖な神のひとり子でした。しかし、洗礼は預言の成就をもたらすための必要な手続きになりました。ヨハネの洗礼を通して聖霊と特別な力を得て、主体的に神の人間救済を実現させることとなったのです。そういうわけで、イエス様の受肉と割礼は神の私たちに対する連帯の中で、ひとり子を低い私たちに低める連帯であったと言えます。そして、イエス様の洗礼は低い私たちを高める連帯であると言えます。

5.イエス様の受洗は受肉と割礼と同じように感謝すべきこと

そう言うと、次のような異論が出てくるかもしれません。イエス様がヨハネから洗礼を受けたことでイザヤ書の預言が成就できたことはわかるが、手続きとしてはどうか?そもそもヨハネの洗礼は罪の赦しに導く方向転換の印なのだ、それを受けることでイエス様が人間と同列に置かれることに目が行ってしまい、異なる次元の連帯という深いところはわかりにくくなってしまうではないか?イザヤ書の預言を見ても神の僕に聖霊が降ることがどのようにして起こるか、どのような場面で神の声を聞くことになるのか何も言っていない。ましてや洗礼を通してとか手続き的なことは何も言っていない、と。

これに対しては、次のように言えばいいでしょう。イザヤ書の預言の成就のためにはやはりヨハネの洗礼が相応しい手続きだったのだ、と。というのは、イエス様に聖霊が降ることで、これから人間を罪と死の力から救い出す十字架の業を行うことになり、また死から復活を遂げることで死を超えた永遠の命に至る道を開くミッションを始められることになったからです。そして、イエス様が私たちに設定した洗礼は、受ける者に聖霊が降って彼のミッションの果実をその人に分け与えるものになりました。だから、イエス様が受けた洗礼は私たちが受ける洗礼の先駆けとしてあるのです。イエス様の洗礼は私たちが受ける洗礼の意味をその時点で暗示しているのです。

そういうわけで、主にあって兄弟姉妹の皆さん、イエス様の受洗は、彼の受肉や割礼と同じくらいに私たちが感謝し賛美すべきものなのです!

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

子どものクリスマス料理教室、動画

パイヴィ・ヨシムラ宣教師と一緒にクリスマス・スパイスクッキー「ピパルカック」を作って、クッキーに飾りつけをしましょう。 出来上がった後でフランネル劇「世界の最初のクリスマス」という聖書のお話も聴きましょう。

 

 

「ピパルカック」フィンランドのクリスマスクッキー

マーガリン 125g
砂糖 100g
シロップ ¾ dl
シナモン 小さじ1
ジンジャー 小さじ1/2
クローブ 小さじ1/2
オレンジの皮から作ったパウダー 小さじ1 (ポメランシ)
卵 1個
塩 小さじ1/2
小麦粉 250 g
重曹 小さじ1

アイシング
粉砂糖 ½ dl
水で薄めたレモン汁 小さじ 3―4

作り方

1. 上記材料のうち、マーガリンから「オレンジの皮で作ったパウダー」までを鍋に入れて温める。煮立ったら火を消す。
2. 1.のものを冷ます。それに卵を加えて、ミキサーで混ぜる。
3. 小麦粉に重曹を混ぜて、混ぜた粉を皿にふり、2.に少しずつを加えて混ぜる。
4. 生地を一晩冷蔵庫に置いておき、次の日、生地を厚さ2-3mm位に伸ばして、型でクッキーを抜く。
5. クッキーを180―200℃のオーブンで6-7分位焼く。
6. アイシングを作る。ボールに粉砂糖を入れて、それに少しづつ水で薄めたレモン汁を入れて、良く混ぜる。アイシングをビニール袋に入れて、袋の一つの角に小さく切って、アイシングを絞りだす。