お気軽にお問い合わせください。 TEL 03-6233-7109 東京都新宿区早稲田鶴巻町511-4-106
本年最後の家庭料理クラブは12月9日に開催しました。季節は冬なのに、この日は暖かくまだ紅葉もきれいで秋のような天候でした。今回はフィンランドの伝統的なクリスマスのパンJoululimppuとクリスマスのデザートLuumurahka を作りました。
料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。まず、クリスマスのパンの生地を作ります。材料を測って、生地に入れるスパイスのフェンネル・シードを細かくして順番にボールに入れていきます。ライ麦と小麦粉を加え生地をよく捏ねて出来上がりです。暖かい場所において一回目の発酵をさせます。今回は発酵が早くて生地はあっという間に大きく膨らみました。それから早速パン作りに入ります。生地を3つに分けて丸め、きれいなパンの形にします。参加者一人ひとりが作ったパンはあっという間に鉄板の上に並べられました。そこで二回目の発酵をさせます。
パン生地を発酵させている間にデザートの準備をします。その途中でパンが十分に膨らんだのでオーブンに入れて焼くことにしました。デザートは、水を切ったヨーグルトにプルーン・ジャムを混ぜ、それにホイップした生クリームを加えると、スポンジ状のデザートが出来上がります。
パンの方は焼き色がつきました。焼いている途中で水とシロップを塗ったので表面がピカピカし出しました。それを見た皆さんは、どんな味がするんだろう、早く食べてみたいなどと興味津々。今回はフィンランドのクリスマス・ホットドリンク「Glögi」も用意して温めたので、クリスマスの香りが台所から一気に教会中に広がりました。
テーブルのセッティングをして皆さん席に着き、いよいよ焼き立てのJoululimppuを味わいます。今回はスライスしたパンの上にマーガリンとディルと塩付けのサーモンGraavilohiをのせて頂きました。Luumurahka とGlögiも一緒に味わうと、フィンランドのクリスマスの味がする!という声も。歓談の一時の後で、フィンランドのクリスマスについてや、聖書に書かれている世界最初のクリスマスの出来事についてのお話を聞きました。
今回の料理クラブでは参加者の皆さんと一緒にクリスマスの喜びを分かち合うことが出来たと思います。とても感謝しています。次回の料理クラブは、年明けの1月はお休みですが、2月から再開する予定です。詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。
今日は皆さんと一緒にフィンランドのクリスマス・パン「Joululimppu」とクリスマスのデザート「Luumurahka」を作りました。Joululimppuはフィンランドの伝統的なクリスマスのパンで、私の祖母も母も毎年クリスマスの季節に作っていました。フィンランドのクリスマスの食卓にはいろんな種類の料理を作りますが、それでも、もしJoululimppuがなかったら何か足りない感じがします。フィンランド人はクリスマスのお祝いのためにいろいろなお菓子や料理を作ります。一番初めにクッキーやケーキを作って、Joululimppuは最後にクリスマスの少し前に作ります。パンは出来たてが一番美味しいからです。Luumurahkaは伝統的なクリスマスのデザートではありませんが、プラーンで作った別のデザートは昔から作られました。今はLuumurahkaのように簡単に作れるものが多くなりました。
クリスマスはフィンランド人にとって一年の中で最も大事なお祝いです。クリスマスの前の四週間はアドベント、日本語で待降節と言います。明日は待降節の第二の日曜日です。フィンランドではアドベントに入ると、多くの人たちはクリスマスの準備で忙しくなります。フィンランド人はアドベントとクリスマスをどのように過ごすか、これから写真を見ながらフィンランド人の過ごし方についてお話をしたいと思います。
フィンランドではクリスマスは家族が中心のお祝いです。毎年準備もお祝いも同じように家族一緒に行います。料理やお菓子の準備も、大掃除も飾り付けも、クリスマスカードやプレゼントの準備も、教会の礼拝に行くのも家族一緒です。教会から帰って家族みんなでクリスマスの食事を頂き、プレゼントを渡します。しかし、家族中心のお祝いのクリスマスに時々何か予想外のことも起こります。私はフィンランドでそのようなクリスマスを何回も経験したことがあります。
子供の時、次のような不思議な体験をしました。私の実家は田舎の奥深い森を切り開いたところにある酪農家でした。あるクリスマスイブの前の日のこと、全然知らない旅人が突然訪れて泊めてほしいとお願いしたのです。私の父と母は少し困ってしまいました。これから家族のクリスマスのお祝いをしようと準備をしてきたのに、全然知らない人を家に入れるのは難しく感じられました。泊めても大丈夫かという心配もありました。でも外は暗く雪が積もってとても寒く、泊めてあげないのは可哀そうでした。結局泊めてあげることにし、準備していたクリスマスの料理も出してあげて、少し早くクリスマスの雰囲気を分かち合いました。翌日その人は出発しました。両親も子供たちも、最初は抵抗感があったのですが、泊めてあげてよかったと思いました。あとでこのことを思い出すと、最初のクリスマスの夜のベツレヘムの羊飼いのことを考えるようになりました。
世界で一番最初のクリスマスにどんなことが起きたでしょうか?その夜ベツレヘムの馬小屋で神さまの独り子イエス様がお生まれになりました。その同じ夜ベツレヘムの町の郊外の野原で羊飼いたちが羊の番をしていました。その時突然天使が現れて言いました。「恐がらなくてもよい。今夜ベツレヘムで救い主がお生まれになりました。」当時羊飼いは社会の中でとても低く見られた職業でした。このような社会の低い層の人たち、恵まれない人たちに天使が現れて救い主の誕生を知らせたのです。ここにはとても深い意味があります。それは、イエス様は本当に位の高い人、低い人を区別することなく、全ての人々のためにお生まれになったということです。このことをはっきり示すために、神様は羊飼いを選んで一番最初に知らせたのでした。このように神様の優先順位は人間の考え方とは違い、低く見なされる人たちの方を選ばれるのです。そして神様は、そのような人たちこそ天使のメッセージを素直に受け入れると知っていたのでした。
羊飼いたちは天使から告げられたことを大勢の人々に伝えて分かち合いました。それで私は、クリスマスの時に実家に見知らぬ旅人を泊めてあげたことはクリスマスの豊かな喜びを分かち合う体験だったと思います。神様はこのことを忘れないようにとその旅人を送ったのだと思うようになりました。
クリスマスを毎年同じようにお祝いできることは感謝すべきことです。しかし、一番大事なことは、初めてのクリスマスの夜に何が起こったかを忘れないことです。救い主が私たちのために人としてお生まれになったということが本当の喜びです。その喜びを羊飼いたちのように他の人たちと分かち合うことができれば、喜びは小さくとどまらず、もっと大きなものになります。今年のクリスマスの季節、私たちもクリスマスの本当の喜びを忘れないように過ごしましょう。
今日12月3日は待降節第一主日です。キリスト教会のカレンダーでは今日、新しい一年がスタートします。 フィンランドのルター派教会の礼拝ではこの日、新年の幕開けに相応しく全国の教会で一斉に讃美歌1番「ダビデの子、ホサナ」(日本の教団讃美歌307番)を元気よく歌います。スオミ教会でも毎年歌っています。
今日からまた、降誕祭(クリスマス)、顕現日、受難節、聖金曜日、復活祭(イースター)、聖霊降臨祭(ペンテコステ)などの大きな節目を一つ一つ迎えていくことになります。聖霊降臨祭の後は、聖霊降臨後第何主日という形で続き、待降節第一主日の前の最後の主日は、北欧のルター派教会では「裁きの主日」と呼ばれ、最後の審判がテーマになります。
このように教会のカレンダーは、イエス様の誕生から十字架と復活の出来事までをフォローでき、私たち自身の復活にも思いを馳せられるようになっています。
それなので教会の暦に従って礼拝出席を続けていくと、主の再臨を心に留めつつ、この世での自分の歩みを造り主である神の御心に照らし合わせて反省したり、また神から罪の赦しの恵みと愛が豊かに注がれていることを絶えず確認できます。しかも、一人ではなく信仰の兄弟姉妹たちと共にです。それなので、日々の歩みを教会の暦に合わせて日曜礼拝を守りながら生きることは、キリスト信仰者としてのアイデンティティーを確立し、この世を生きる上で大きな力を与えてくれます。
それから、スオミ教会はこの12月1日から宗教法人・日本福音ルーテル教会を離れ、独立した立場の教会になりました。SLEYが新たなルター派の教団と協力関係を結べる日はいつになるかは分かりません。取り合えずは一艘、太平洋ひとりぼっちよろしく大海原に乗り出しました。天候穏やかな時もあれば、嵐の時もあるでしょう。しかし、主イエス様も一緒の船旅です。腕を枕に寝ていらっしゃる時でも、必死にお願いすれば起きてきて嵐を沈めて下さいます(マルコ4章35~41節)。御言葉と聖餐に繋がって、復活の日という「望みの岸」(教会讃美歌337番)を目指して進んで行きましょう。
どうか、天の父なるみ神がこの新しい一年もスオミ教会と教会に繋がる皆様を顧みて、皆様お一人お一人の日々の歩みの上に祝福を豊かに与えて下さいますように。また皆様が神の愛と恵みのうちにしっかりとどまることができますように。
* * * * *
「ダビデの子、ホサナ」が斉唱される場面のビデオです(エスポー教会、2015年11月29日収録)
料理クラブは定員に達しましたので、受付は終了しました。ご了承ください。
今年もクリスマスが近づく季節となりました。今回の料理クラブは、フィンランドのクリスマス・ブレッド、Joululimppuを作ります。特別のスパイスの風味と甘味がミックスしたJoululimppuは、フィンランドのクリスマスの食卓には欠かせない伝統的なクリスマスのパンです。その上に塩とディルで味付けしたサーモン、Graavilohiをのせて頂くのが定番の召し上がり方。今回はさらに、クリスマスのデザート、プラム味のヨーグルト・クリーム、Luumurahakaも作ります。
今年も、豊かなフィンランドのクリスマス料理の一端が楽しめます。是非ご一緒に作って味わいましょう!
参加費は一人1,500円です。
どなたでもお気軽にご参加ください。
お子様連れでもどうぞ!
お問い合わせ、お申し込みは、 moc.l1762405942iamg@1762405942arumi1762405942hsoy.1762405942iviap1762405942 まで。 電話03-6233-7109 福音ルーテルスオミ・キリスト教会
キリスト信仰者の生と死は天と地の有り様と連動する
先日、新聞の土曜版に「自分が死んだ後、お墓にはいりたいかどうか」という調査に対して2,662人から回答があり、以下はその結果(朝日11月18日)
♰ お墓に入りたいですか? 「はい」39%、「いいえ」61%
♰「はい」と答えた人、その理由は(複数回答、上位6位)
①入れる墓がある(559人)、②家族、親族と一緒にいたい(344人)③残された人の慰めになる(233人)、④日本の習慣、当たり前(231人)、⑤思い出してもらえる(209人)、⑥家族のシンボル、心の拠りどころ(192人)
♰「いいえ」と答えた人、その理由は(複数回答、上位6位)
①子孫に負担を残したくない(872人)、②シンボル、よりどころと思わない(486人)、③他の方法を希望する(361人)、④証しを残したいと思わない(348人)、⑤お墓がない(339人)、⑥墓参りをする人がいない(241人)
♰ 死後、どうすごしますか?全員が回答(複数回答)
①死んだら終わり(984人)、②家族を見守る(795人)、③あの世でのんびり(716人)、④あの世の家族や友人らと(544人)、⑤思い出の地を訪ねる(211人)、⑥リゾート、景勝地でのんびり(234人)
この調査結果で一つ驚いたことは、「お墓に入りたい」がこんなに少数派で、しかもその中でも「日本の習慣、当たり前」というのが4番目だったことです。解説記事には「墓は家で継承するという考え方は、明治民法下の『家制度』のもとで確立したとされる」とありました。それが本当ならば、その考え方は長い長い日本民族の歴史の中で130年程度のことになります。実はそんなに根付いていなかったということなのでしょうか?
死後の過ごしかたの回答は私たちの周りでよく聞かれるものではないかと思います。なかでも②、⑤、⑥は、死んだ後もこの世と関係を保てるという見方でしょう。キリスト信仰は、復活の日にイエス様に眠りから目覚めさせてもらって神の御国に迎え入れられるという見方です。なのでその日までどうするのかと言うと、宗教改革のルターも言うように、神のみぞ知る所で安らかな眠りにつくということになります。それから復活の日というのも、今ある天と地が終わって新しく天地が創造される時のことです。なので、目覚めたら、もう今の世はなくなっているので、誰かを見守ってあげることもリゾート観光もできません。③と④も、キリスト信仰では天と地が新しく創造された後のことです。①はキリスト信仰と全く相容れません。
このように見ていくと、キリスト信仰者の生と死は天と地の有り様と連動していると言えます。それ位、一人の人間の生と死は大いなることなのです。
マクラメでクリスマスの飾り物を作ってみませんか。
今回はマクラメのテクニックを使ってクリスマス・リースとクリスマス・スターを作ります。リースの方は3つのマクラメの結び方で作ります。リースに付ける飾りとして、毛糸で可愛いヨウルトントゥを作ったり、マクラメで鐘を作ったりして付けることができます。どんな飾り付けにするかはご自由にお決め下さい。
手芸クラブでは自分の好きな編み物をすることもできます。おしゃべりしながら楽しく作りましょう!
参加費は材料費の500円-1000円です。作るものによって変わります。
今回は、スオミ教会の前の宣教師ポウッカ先生ご夫妻も参加されます!
お子さん連れの参加も大歓迎です!
皆様のご参加をお待ちしています。
お問い合わせ、お申し込みは、 moc.l1762405942iamg@1762405942arumi1762405942hsoy.1762405942iviap1762405942
福音ルーテル・スオミ教会 新宿区鶴巻町511ー4-106 03-6233-7109
無神論者とキリスト教徒が一致するところ
以下の文章は、トム・ホランド Tom Hollandという英国の無神論者の歴史家がキリスト教について論評したものを、ステフェン・ジェフコ―ト Stephen Jeffcoatという米国の牧師が引用したものです(同牧師の2021年6月18日付のFacebook投稿から)。因みに、欧米で「無神論者」と言ったら、たいていはキリスト教を標的にする人たちのことです。
『あなたがキリスト教に賛同しようがしまいが、無神論者の歴史家ホランドが次のような興味深い論評をしているのです。彼は古代世界を研究して、あることに気づいたと記しています。それは、古代人はただ単に残酷なだけで、彼らの価値観は自分にとって全く異質なものだということでした。スパルタ人にとって”不完全な”子供の始末は日常のことだったし、奴隷の身体は権力を持つ者たちの肉体的な快楽のアウトレットのように扱われていた、嬰児殺しは広く行われていた慣行で、貧しい者、弱い者には何の権利もなかったと。
我々はどのようにしてそのような世界から脱することができたのか?キリスト教があったからだ、とホランドは書いています。キリスト教は男たちに自身をコントロールすることを要求し、あらゆる形態の強制性交を禁止して、性と結婚に革命を起こしたのだと。キリスト教が人間の性的営みを一夫一婦制の中に封じ込めたのだと。そして、ホランドも指摘しているように、皮肉なことは、今日キリスト教が嘲笑を浴びる原因になっているのが、他でもないこれらのスタンダードであるということ。しかし、いずれにしても、キリスト教が女性の価値を高めたことは否定できない事実である。簡単に言えば、キリスト教は世界をすっかり変えてしまったのだと。(了)』
同じような結論は、フィンランドの聖書学者エルッキ・コスケンニエミ Erkki Koskenniemiの研究書「古典時代ギリシャ・ローマ世界の嬰児遺棄の慣習に対するユダヤ・キリスト教の戦い」にも見られます。コスケンニエミはキリスト教徒。無神論者とキリスト教徒が同じ結論に達する位、キリスト教は古代世界の性モラルを根底から変えたのでした。
スオミ教会のシンボル - 白樺の十字架
11月の家庭料理クラブは11日に開催しました。これまで暖かい秋の天候が続いていましたが、この朝は少し寒くて冬の季節に変わる感じでした。今回は「クリスタル・コーヒー・ブレッド」Kristallipullaを作りました。
料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。最初にコーヒー・ブレッドの生地を作ります。材料を測って順番にボールに入れて小麦粉を加えます。生地をよく捏ねてから柔らかくしたマーガリンを入れて、またよく捏ねて生地は出来上がりです。暖かい場所において一回目の発酵をさせます。発酵してる間に中身のバニラ・バターを作ります。生地は大きく膨らみ、コーヒー・ブレッドの形作りをします。綿棒で生地を長方形に伸ばしてその上にバニラ・バターを塗ります。
細く切った生地を花の形にしていくと、「わぁー、こんな形にするんだ!」と驚きの声があがりました。参加者の皆さんは一生懸命花形を作って、きれいな形のコーヒー・ブレッドがどんどん鉄板の上に並べられていきます。それから二回目の発酵をさせます。
コーヒー・ブレッドの生地はあっという間に大きく膨らみ、オーブンに入れるタイミングです。少し経ってから教会の中に美味しそうな香りが広がり、皆さん、早く味わってみたいと待ち遠しそう。きれいな焼き色がついたコーヒー・ブレッドを少し冷まして、その上に溶かしたマーガリンを塗ります。バニラシュガーでトッピングすると、水晶のようにキラキラ輝く「クリスタル・コーヒー・ブレッド」の出来上がり!
テーブルのセッティングをして、皆さん席に着いて焼きたての「クリスタル・コーヒー・ブレッド」をコーヒーや紅茶と一緒に味わいました。甘いコーヒーブレッドの他に、カット野菜をのせたクラッカーも頂きました。歓談のあとで、フィンランドの「父の日」や、聖書の神が「天におられる私たちの父なる神さま」と呼ばれることについてお話がありました。
今回の料理クラブも無事に終えることができ、天の神さまに感謝します。
次回は待降節(アドベント)の期間の12月9日に予定しています。詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。
皆さんのご参加をお待ちしています。
フィンランドではいろんな種類のコーヒー・ブレッドを作ります。今日皆さんと一緒に作ったクリスタル・コーヒー・ブレッドはフィンランドで最も人気があるものの一つです。このコーヒー・ブレッドの特徴は中身のバニラ・バターとトッピングのバニラ・シュガーです。バニラ・シュガーが水晶のように輝くことからクリスタル・コーヒー・ブレッドと名付けられました。フィンランド語でKristallipullaといいます。
Kristallipullaは特に季節に関係なく作られますが、今の季節によく合うのではないかと思います。これからフィンランドはだんだん寒くなって気温が氷点下に下がるようになります。その時、木の枝の水滴が凍るので太陽の光が当たると枝が水晶のように輝いて見えます。Kristallipullaもキラキラして見えます。フィンランドは秋になると日が短くなって暗い時間が長くなるので、人々は色んな方法を考えて周りの雰囲気を明るくしようとします。コーヒータイムのkristallipullaはその一つです。
フィンランドでは11月の第2日曜日は特別なお祝いの日です。今年は明日ですが、それは「父の日」です。日本と違ってフィンランドでは「父の日」は秋の寒い季節のお祝いです。暗い季節を明るくするお祝いの一つです。この日はどのよう過ごすでしょうか。お父さんにプレゼントやカードを渡したり、飾りつけたケーキを作ったり、家族皆でレストランに行って食事をしたりします。お父さんに朝のコーヒーをベッドまで持って行くこともあります。
「父の日」は大事なお祝いの日でもありますが、これはお父さんにとって子供を育てる役割の大切さを考えさせる日にもなっています。フィンランドの普通の家庭ではお母さんもお父さんも仕事に行っています。このため子育ては母親だけでなく父親の役割も重要です。現在フィンランドでは父親は赤ちゃんの世話をしたり、子供と一緒に遊んだり、習い事に連れて行ったり、保護者会等に参加します。父親も子育てに責任を持つと、子どもとの関係は強くなります。
私の父はもう85歳になりました。父の年代の父親たちはみな仕事で忙しかったので、子育てにあまり参加出来ませんでした。それは母親の仕事でした。しかし私の父にとって父親になったことは大きな賜物でした。今年の夏父が次のように言っていたことを思い出します。「子どもが7人もいるが、一人でも多すぎたと考えたことはなかった。」
ところで、父の日や母の日になると多くの親たちは果たして自分は相応しい親なのかどうか少し考えてしまうことがあります。聖書の中に父親についてイエス様のたとえの教えがあります。イエス様はこのたとえを通して、天の私たちの父なる神さまはどんな方か教えられました。これは聖書の中でも最も有名なたとえの一つです。
ある家に息子が2人いました。弟の方は好きな勝手なことばかりやって暮らしていました。ある日弟が外国に行きたくなって、父親に言いました。「お父さん、あなたが死んだら僕のものになる財産を今すぐ分けてよ。外国に行ってしたいことがあるんだ。」父親が何を言っても息子は聞きません。父親は自分勝手な息子のことを悲しく思いましたが、財産を分けることにしました。弟はそれを全部お金に換えると遠い国に旅立ちました。
息子はそこでとても華やかな生活を送りました。高価な服を着て、そこで出来た友人たちと毎日遊び暮らしていました。しかし、いつしかお金はなくなってしまいました。ちょうどその時、その国にひどい飢饉が起こって息子は食べ物に困り始めました。だれも助けてくれる人はなく、息子は一人ぼっちになってしまいました。
それで息子は仕事を探しました。やっと豚の世話する仕事をもらえましたが、お腹はいつもペコペコでした。冷たく汚い豚の餌を食べたいと思うくらいでしたが、持ち主はダメだと言いました。その時、息子は父親の家には温かい食べ物も暖かい部屋もあることを思い出し、もう帰ろうと思いました。でも、父親の財産を無駄に使ってしまった自分はもう息子と呼ばれる資格はないとわかっていました。それで、家の雇い人の一人にしてもらえるように頼んでみようと思いました。父親の前でこう言おうと考えました。「お父さん、僕は天に対しても、お父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。」そうして出発しました。
やっと懐かしい家が見えました。すると、最初に父親の方が遠くからやってくる息子に気がつきました。着ている服はボロボロで、全身汚く、顔も痩せていましたが、すぐ息子だと分かりました。父親は息子に向かって走って行きました。息子は父親が走り寄ってきたのに驚きました。すると父親は息子を抱きしめたのです。驚いた息子は、抱きしめられたまま言いました。「お父さん、僕は天に対しても、お父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はないんです。」息子が「雇い人の一人にして下さい」と言う前に、父親は家来たちに言いました。「さあ、急いで一番良い服を持って来て、息子に着せなさい。手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから最高の食材をそろえて、盛大なお祝いの準備をしなさい。息子は死んでいたのに、生き返ったのだ。見失われていたのに、見出されたのだ。祝うのは当然のことではないか!」父親が罰ではなくこのように愛をもって受け入れたので、息子は生まれ変わることができたのです。
イエス様がこのたとえを話したのは、天の神さまがどのような方であるかを教えるためでした。たとえの父親は神さまのことです。息子は私たち人間のことを指します。私たちも神さまのもとに戻って行けば、神さまは息子の時と同じように必ず私たちを喜んで抱きしめて迎えて下さいます。このように神さまの私たちに対する愛は、私たちを赦して受け入れて下さることです。天の神さまはご自分のもとに戻る一人一人を自分の子どもとして迎え入れるのです。一人でも多すぎるということはありません。
「クリスタル・コーヒー・ブレッド」や父の日のお祝いは普段の生活を明るくするものですが、天の神さまが私たちを愛して迎え入れて下さるのはもっと大きな喜びになります。そのことを覚えて日々を歩んで行きましょう。
自分は「聖霊の結ぶ実」(※)をなかなか結べない、キリスト信仰者として失格だと意気消沈している方は、以下のルターの教えをどうぞ。 この教えはまた、自分はいい加減な信仰者と自称し、どうせ神は気前よく寛大だから別にいいのさと、神の愛と恵みを悪用している方も是非どうぞ。(※ガラテア5章22節にてパウロは「聖霊の結ぶ実」として、愛、喜び、平安、忍耐、親切、善意、誠実、柔和、自制をあげている。)
『キリスト信仰者に十戒の掟を守って柔和で清い者になれと命じて、信仰者に聖霊の結ぶ実を要求する人がいる。しかし、それでは、そういう実を完全に結べる者がキリスト信仰者であると主張することになり、それは誤った裁きを下すことになる。そのような主張をする者は、キリストが本当におられる所にいないと錯覚しているのである。そのような主張者に何が欠けているのか考えてみよう。その者は、キリストの国がどのような国であるか全くわかっていない。その者は次のように言うのが常だ。柔和なキリスト信仰者は決して怒ったりはしないし、忍耐強くなければならない、なぜなら、そのような実が実っていなければ決してキリスト信仰者とは言えないからだ、と。
聖書のどこにそんなことが言われているのか指し示してみよ。キリストの国がどのような国か正しく知っている者は、キリスト信仰者が時として忍耐に欠けるのを目にしても目くじらを立てない。なぜなら、聖霊の結ぶ実は律法として与えられているのではないと知っているからだ。もし聖霊の結ぶ実が律法ならば、キリスト信仰者に実が完全なものとして現われてこなければキリストが否定されてしまうことになる。そういうことではない。聖霊の結ぶ実は次のように理解すべきだ。キリスト信仰者が柔和で忍耐強いというのは、それを目指していくということなのだ。肝心なのは、実を結ぶことが始まったということであり、成長していくということだ。成長していく際にキリスト信仰者が時として悪い思いに囚われることもあろう。結ぶ実が聖霊の望むものとは反対のこともあろう。キリスト信仰者は柔和でなければならないとよく言われるが、だからと言って、我々は既にそのような者であると言うことは出来ない。そうではなくて、我々はそのような者になる過程にあるのだ。(了)』
その「過程」とは、礼拝を中心にする信仰生活であることをお忘れなく。
フィンランドの祝日「全聖徒の日」に想う
キリスト教会では古くから11月1日をキリスト信仰のゆえに命を落とした殉教者を「聖徒」とか「聖人」と称して覚える日としてきました。 加えて11月2日をキリスト信仰を抱いて亡くなった人を覚える日としてきました。フィンランドでは11月最初の土曜日が「全聖徒の日」と定められ、殉教者と信仰者双方を覚える日となっています。国の祝日です。今年は昨日の11月4日でした。大方のフィンランド人はその日、教会の墓地にロウソクを持って行って墓に火を灯します。風で消えないようにガラスや耐熱プラスチックの瓶に入っているロウソクです。
日本ではお墓に花や何か贈り物を持っていくことを「供える」とか「供え物」と言います。フィンランド人も墓に花を飾りますが、「供える」という意識はありません。ただ飾るだけです。墓の前で手を合わせることもしないし、拝んだり、または見えない誰かに語りかけることもしません。墓はあくまで家族の記念碑です。それに、キリスト信仰では、見えない誰かに語りかける時、相手は父なるみ神と御子イエス様以外にはありません。日本人の場合は、亡くなった方が今もまだ身近にいるような雰囲気があり、お墓や仏壇がその雰囲気を作り出す役割を果たします。
キリスト信仰では、亡くなった方は思い出の中に残るので、故人の思い出/メモリーを尊重するというふうになります。フィンランドで墓にロウソクの火を灯すのは思い出をともし火のように輝かせることを象徴する行為と言えます。かの地では「故人の思い出に蝋燭の火を灯す」という言い方をします。日本人の場合は尊重するのは故人の今身近にいる霊とか魂になるので、現在も故人と繋がりがあることが意識されます。それなので、尊重するのが過去の思い出になってしまったら、今は故人との繋がりがなくなってしまうと心配する人もいるかもしれません。しかし、キリスト信仰には復活の信仰があり、復活の日に懐かしい人と再会できるという希望があります。それで、あの方と共に過ごせた日々を何物にも代えがたい大切なものとして胸に留め、そのような方を与えて下さった神に感謝しつつ、復活の日の再会の希望が叶いますようにと神に願いながら、自分自身、復活の日に向かって今を生きるというスタンスになると言えます。
全聖徒の日、白夜の季節が終わった北欧の暗い晩秋の闇の中に浮かび上がる無数のともし火は、あたかも黙示録7章に登場する「小羊の血で衣を白くされた大群衆」を彷彿とさせます。
追記 全聖徒の日の前日のフィンランドのテレビニュースを見た時、墓石会社の人のインタビューがありました。今フィンランドは教会離れ聖書離れが進んでいるが、まだ故人の思い出を尊重する伝統は続いている、ただし、将来この伝統が続くかどうかはわからない、などと話していました。聞くところによると、最近国教会に属するクリスチャンの中にも、亡くなった人は今空高くどこか雲の上にいて下にいる私たちを上から見守ってくれているなどと言う人も出てきているそうです。それはキリスト教的ではありません。この世の人生を終えた方は今、神のみぞ知るところにいて復活の日まで安らかに眠っていて、その日に目覚めさせられるというのがキリスト教の復活だからです。
スオミ教会におけるSLEY(フィンランド・ルーテル福音協会)の牧会と伝道について
今から10年近く前のこと、日本の教会関係者がフィンランドを訪問して牧師同士の交流の機会を持ちました。 まだ東日本大震災から間もない頃でした。日本の牧師がフィンランドの牧師に尋ねました。フィンランドの牧師たちは原発反対運動をしないのですか?していない、との答えに、日本側は、どうしてしないのですか?その聞き方が少し強い調子だったせいか、フィンランドの牧師は少しぶっきらぼうに「私の仕事は人間を天国に送ることだ。」日本側は、こりゃだめだ、という雰囲気になりました。
もちろんフィンランドの牧師も、牧師が原発反対運動をしてはいけないという意味ではなかったと思います。ただ、日本の牧師先生の言い方が、反対運動しないと牧師に値しないという雰囲気があったので、自分の本来の仕事はこれなのだという答えになったと思います。
「天国に送るのが仕事」などと聞くと、大抵の日本人は不気味な感じがすると思います。それは、日本人の死生観に復活の信仰がないからです。この世の人生は復活の日を目指して歩む旅路だと考えるキリスト信仰者にとっては別に変でも何でもなく当たり前のことです。
スオミ教会の牧師として、またSLEYの宣教師として、スオミ教会は聖書の御言葉を正しく教え聖礼典を正しく執行する教会であることを信徒の皆さんが信頼して繋がって下さることを願っています。確かにスオミは、ハレルヤ!ハレルヤ!と叫び合うような熱気はないし、また多くの教団のように社会改革の先頭に立とうとする教会でもありません(ここで、かつて政治学者の丸山真男が発表論文を本にまとめて「後衛の位置から」というタイトルを付けたことを思い出しました。自分は「前衛」とは違う立場であるということを表明したのでしょう。)
この激動の時代の中にあって、一人ひとり置かれた境遇は異なり向き合う課題は異なるが、将来の復活の日を目指してこの世を歩み、いろんなことに遭遇し悩み考えながらも、聖書の御言葉と聖餐から歩む力と勇気と愛を受け取る、信仰の兄弟姉妹と一緒に受け取る、そうやって一緒に復活の日を目指して歩む、それがスオミ教会なのだと考えています。この一緒の歩みを支えるのが牧会、この歩みに一人でも多くの方が加われるようにするのが伝道と考え、任にあたってまいりたいと思います。
スオミ教会の新しいシンボル - 白樺の十字架