田口聖 牧師(日本ルーテル同胞教団)講演会

田口先生の発表された論文「ルターの『ハイデルベルク討論』の十字架の神学から見る『福音は宣教』についての考察」についての紹介と概略の説明がありました。ルター派神学について大変勉強になるお話でした。田口先生の御働きに感謝いたします。

田口先生の許可を得てこの論文のご紹介をいたします。

論文「ルターの「ハイデルベルク討論」の十字架の神学者から見る「宣教は福音」についての考察」の簡単な紹介

2023430日:スオミ教会礼拝後の交わりにて

田口 聖

はじめに

 この論文は、聖書から学んだり説教したりする時に、少なくともルター派ではとても大事なこととして「律法と福音とを適切に区別する」という教えがあるのですが、それに従う時に、「宣教は律法」ではなく「宣教は福音」であるということを紹介するものです。初めから難しい言葉が出てきますが、「律法と福音の適切な区別」というのは、ものすごく簡単に言えば、みことばや信仰をどう理解するかということであり、「律法」はもちろん十戒を指すのですが、それを含めて「私たちが神のためにしなければいけないこと、あるいはしてはいけないこと」で、「福音」はその逆で、もちろん十字架の罪の赦しや復活の新しいいのちのことですが、それを含めて「神が私たちのためにしてくださったこと」です。それを正しく区別して聖書を理解することは大事なことで、説教もその区別に基づいて正しくみ言葉を伝えなければなりません。その、みことばや信仰をどう理解するのかの区別は、私たちの信仰の実践、生活や生き方にも関わることです。本当は父子聖霊の恵み(つまり、福音)として教えられなければならないものが、律法に混同されたり、あるいは律法として(つまり逆に)教えられたり理解されたりすると、それはキリスト者の信仰生活に大きく深刻な影響を及ぼします。例えば、礼拝と説教は、キリストの十字架と復活が中心であり、そこで最初に律法で悔い改めに導かれ、悔いるものに罪の赦しと新しいいのちが与えられて、福音の言葉で平安のうちに遣わされていく大事なものです。スオミ教会の礼拝はもちろん、同じような順序と式文に従って行われているルーテル教会の礼拝は基本的はそのようになっているはずです。しかし、礼拝、聖書の言葉が出てきたとしても、律法の行いによって救われるとか、それによって、人間の価値が決まるとか、律法によって生きるように教えられたり、または、キリストが語られても、キリストの十字架や復活が、恵みや平安としてではなく、ただ道徳や立派な行いの従うべき模範や目標としてだけ教えられたり、そうしなければ救われないとかクリスチャンではないなどと教えられたりすると、それは正しく区別されていません。混同されています。そしてそのまま教えられて遣わされた人も、そのように生きるようになると、キリスト者にとってとても大事な、「福音によって救いの確信を与えられ、平安のうちに遣わされる」ではなく、「律法によって、救いの確信なく、重荷を負わされ遣わされる」ことになり、そのように生きることににもなります。もちろん、十戒は大事なことですし、私たちが、従うべきものですが、誤解してはいけないのは、キリスト者は、従わなければいけないから(つまり律法で)、律法に従うのではなく、キリストが十字架と復活で私たちの救いを果たされたから(つまり福音によって)喜んで律法にしたがっていくのがキリスト者の服従であり良い行いです。それは同じ従うでも、180度違う逆の行動です。それは、律法と福音の正しい区別が教えらているかどうか、あるいは、律法によって遣わされているか、それとも、福音によって遣わされているのか、どうかによって変わってくるのです。そのように律法と福音とを正しく区別して教えられ、福音によって歩むことはキリスト者の良い行い、隣人愛、そして、伝道や宣教に関わる大事な問題です。まずこの律法と福音の適切な区別がこの論文の土台にあります。

 また言葉についての前置きがもう二つあります。まず「宣教」とありますが、宣教学の言うような厳密な定義づけはしていませんし、伝道と宣教の区別もしていません。さらに言えば、そこには、キリストの実践全体、良い行いや隣人愛まで含まれての、信仰の歩み全体を含んでいます。それは言葉を曖昧にしていると言うことでそうしているのではありません。信仰者にはそれぞれにキリストからの召命(Vocation/教会、社会、家族それぞれの場で)が必ず与えられており、福音によって遣わされる私たちが、福音に生かされ、福音から生まれる信仰生活の、派手でも劇的でもないけれども、ごくありきたりな家族との日常や人間関係、そこにある良い行いや隣人愛の全ては、決して宣教に関係のないことではなく、むしろ関わっており神に用いられており、そこにもキリストの証人としての宣教がある、という前提で用いております。ですから、宣教とあっても、宣教師や牧師だけの働きということではなく、キリスト者の実践全体まで含む書き方となっています。

 もう一つ、前置きですが、途中でルターのハイデルベルク討論が取り上げられ、そこに十字架の「神学」とか「神学者」と言う言葉があります。「神学」という、その言葉だけ聞くと、多くの信徒の皆さんは、自分とは関係のない、その言葉は、牧師先生だけの言葉、神学校内だけの言葉だと思うかもしれません。けれども、ルターにとって、神学というのは、キリスト者が、日々、み言葉を通して、信じたり、時に葛藤したり、励まされたり、一喜一憂したり、考えたり、そのように信仰の活動そのものを、神学をしているのだ、と考えます。そのように、聖書の主の声を聞きながら、キリストを信じて、祈ったり、生き、生活し、行動するキリスト者は、皆、神学者であるという意味で述べています。

2、このテーマの経緯

 前置きが長くなってしまいましたが、前置きも意味のないことではありません。私は、「宣教は福音である」ということをこの論文で紹介しています。というのも、なぜそのことを紹介したいかと思ったかというと、正直にいうと、そうではない状況が教会にあったことへの長年の苦悩からでした。私は、いわゆる、福音派と呼ばれるグループの中で、その影響を強く受けているルーテル教団の牧師です。

(ちなみに、余談ですが、「福音派」という言葉は、本来は、ルーテル教会のことで、今でもそうかもしれませんが、ヨーロッパ、特に、ドイツなどでも「福音派」というのはルーテル教会のことを指していると、聞いたことがあります。ですから、私の言う「福音派」というのは、いわゆるアメリカ型の福音派のことで、信仰復興運動の流れにある保守的なバプテスト派やホーリネス派やきよめ派のグループのことで、日本の福音派もその流れだと思われます。)

 彼らは宣教に熱心です。それはとても良いことです。しかし、その熱心がどこから出ているのかと疑問を持ちました。つまり、福音から生まれているものなのかと。というのも、私たちはよく分かっている通り、キリストの福音は、十字架と復活であり、罪の赦しと新しいいのち、そしてそれはどこまでも恵みであり、キリストが「平安があるように」「安心して行きなさい」と言っているように、信仰は平安と喜びが溢れるものであり、平安と喜びのうちに遣わされていき、平安と喜びで神に仕え人に仕えていき、そこに福音の泉が溢れ出るように(ヨハネ414節)私たちの宣教も隣人愛もあるはずです。しかし「福音を伝えなければ伝えなければ」と熱心さはあるのですが、そこに、平安も喜びもない、むしろ、絶えず、「しなければ」「達成しなければ」という重荷と心配と強迫観念があり、目の前に、自分が描いた期待通り、計画通りにことが進まなくなったり、望まない試練や問題に直面すると、犯人探しが始まり、牧師同士、信徒同士、教会同士、牧師から信徒へ、信徒から牧師へ、等々、裁きあいが頻繁に、しかもそうすることが正義であるかのように罪悪感もなく起こります。(逆に彼らが期待する通りにうまくいっている時は、裁きあいは起こりませんが人や人の功績を誇ることが必ず生まれますし、そしてやはりそこにも、活動に参加しなかったり、消極的であった人に、怠け者だとか、敬虔でないとか、等々、裁きや軽蔑が起こります)。それが、彼らの熱心でした。誤解のないように何度も言いますが、熱心なのはとても良いことです。しかし、それが動機や出発点が、「律法から生まれるものなのか、福音から生まれるものなのか」によって180違います。そして、福音はどこまでも平安を生み与えるもの(ヨハネ1427節、2019−21節)であり、不安や重荷も決して与えませんし、その不安から生まれる裁きも福音からは生まれないはずです。しかし私は、彼らが「福音、福音、宣教、宣教」と叫びながら、その福音が与えるはずの平安がないこと(むしろ裁きと批判)、その平安がないのに、福音を宣教と叫ぶ矛盾(平安を知らないのにどんな平安を伝えるのか?)、つまり、平安がない熱心であること、つまり、彼らの熱心や宣教は、福音からではなく律法からであること、それはキリストが伝えている福音と宣教とは異なること、を悟りました。そのように苦悩と疑問の葛藤の苦しい期間があり、ルーテル教会に疑問を持ちましたが、しかし、アメリカのルーテル同胞教団の神学校や、神戸ルーテル神学校で、正しいルーテル教会の神学を学ぶことを通して、少なくともルターやルーテル教会にとっては、宣教は律法ではなく、宣教は福音であるということの理解へと導かれたのでした。そのルターの沢山の教えの中で、助けの一つとなったのが、ルターの「ハイデルベルク討論」でした。

3、ハイデルベルク討論の伝えること:簡単に

 ルターが命題を28の命題を掲げ、それを解説する形で書かれています。あくまでもごく簡単な概略ですが、

1)(1〜3命題)律法はどこまでも聖であり有益ですが、人間は堕落し圧倒的な罪人であるがゆえに、自ら律法を果たすことができず、義に進むどころかむしろ反対していくと教えています。ルターは、「神の前」と「人の前」という区別を用いており、「人の前」にどんなに美しく良いように見えるものであっても、罪人の行為は神の前に決して義とするものにはなり得ないと教えています。

2)(412命題)人間の行いと神の行いとの間の明確な違いをルターは述べています。やはり、人の前と神の前の区別に基づいて、人の前における目に見える行いは、 どんなに良く見える、どんなに高く評価されるものであっても、神の前には義とするものではないが、逆に神のわざは、どんなに人間にとって醜く不条理に見えたり思えたりしても、それは、神の矛盾のない永遠の功績であると教えています

3)(1316命題)ここでは自由意志が論じられています。ルター以前もそれ以降も、教会では程度の差こそあれ、自由意志は賛美され、教会では「自己のかぎりをなす者には神は恩恵を拒まない」というアリストテレス倫理学が前提となり教えられていました。今もそうかもしれませんが、「自分の持てる限り一生懸命に行うものに神の祝福や恵みはある」という教えは、ルター以前も以後も、「人の前」では分かりやすく、教えやすく、人を動かしやすい教えでした。しかし、ルターは、1)2)の命題に従って、むしろ「自由意志は罪の虜、奴隷とされている」と述べ、その自由は神に向き、神を信じる自由ではなく、その逆で、ただ神に背を向け反逆する自由であると教えました。

4)(1718命題)前半部分のまとめとして、これまでの命題(116)は、ある意味、人が耳を閉ざし聞きたくない認めたくない人間の完全な堕落や自由意志の無力さなど厳しい現実を伝えてきましたが、しかしルターは、それらの命題とその現実は、決して絶望を与えるためではなく、むしろ、律法によって人間はその罪を教えられ神を恐れるようになり、天を見上げることができず、ただ「憐れんでください」というしかできないほどに人を打ち砕き、「神の前」に謙らせる事によってキリストの恵みに出会い平安を受けるようにするためだとまとめます。この前提を踏まえて、本題の十字架の神学者のことをルターは述べて行きます。

5)(1922命題)真のキリスト者(真の神学者)の姿であるという十字架の神学者とはどのようなものなのか、それは、その反対である栄光の神学者との比較で述べられています。ここはこの提題の核心部分なので、命題をそのまま載せます。

19命題 「神の目に見えない本質が「被造物を通して理解されると見なす」者は、神学者と呼ばれるに値しない。(ローマ1:20)」

20命題 「だが、目に見える神の本質と神が見られる背面が、受難と十字架によって知られると解する者は、神学者と呼ばれるに値する。」

21命題 「栄光の神学者は悪を善と言い、善を悪という。十字架の神学者は事態をそれが現にある通りにいう。」

22命題 「神の目に見えない本質が諸処のわざによって理解されると考える知恵は、人間を全く思い上がらせ、全く盲目にし、そして頑なにする。」 

 そこでは「神の目に見えない本質」を「被造物を通して理解されると見なす」ことができると考える人は、神学者と呼ばれるに値しないとし、それを栄光の神学者と呼びます。逆に、「目に見える神の本質と神が見られる背面」が、「受難と十字架によって知られると解する」人は、神学者と呼ばれるに値するとし、それが十字架の神学者であるといいます。このことは、神学者つまりキリスト者が、神を、あるいは、神の栄光や祝福を、どこに見よう、信じようとするのかの大事な問題を私たちに提起しています。

 難しいので説明しますが、ルターは出エジプト記3318−23節を引用して説明しています。以下、新改訳聖書からの引用ですが、

18 すると、モーセは言った。「どうか、あなたの栄光を私に見せてください。」19 主は仰せられた。「わたし自身、わたしのあらゆる善をあなたの前に通らせ、主の名で、あなたの前に宣言しよう。わたしは、恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれむ。」20 また仰せられた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」21 また主は仰せられた。「見よ。わたしのかたわらに一つの場所がある。あなたは岩の上に立て。22 わたしの栄光が通り過ぎるときには、わたしはあなたを岩の裂け目に入れ、わたしが通り過ぎるまで、この手であなたをおおっておこう。23 わたしが手をのけたら、あなたはわたしのうしろを見るであろうが、わたしの顔は決して見られない。」(新改訳)

 モーセは、その目で神を見たいと願いました。ルターはモーセの求めを「あなたの栄光をお示しください」とも訳しています。神の栄光をその目で見たいと願ったのでした。けれども、神は顔を見ることができないといい、ただ「神の背中」「神のうしろ」だけを示したのでした。このモーセの求めは、人間の求めを表しています。人間は、肉の目でその願うまま、思いのままに神を、特にそのはっきりとした「顔を」見たいと思います。つまり、神のわざが肉の目に見える形で(つまりそこに人間の側の願望などの慈善概念を込めて)現されることを期待し、求め、見ようとします。しかし、それは人間中心、人間の願望や期待を中心にして神を目の前に見よう求めることと同じで、神にとってはそれは「死」でした。ルターが言ってきたように、肉の目や知識、その知恵や理性、自由意志では神は知ることはできないのです。

 むしろ、神はご自身が示された通りに、しかも神が「わたしが手を退けたら」とある通り、それはモーセが意図した時や方法でも意志でもなく、神が意図した時と方法と神の意志で、神はご自身を啓示され、それでしか人は神を見、知ることはできません。それは名指しで選び出されたモーセであっても、です。人が望まず思い描かず期待もせず、ある意味、愚かにも見え、理性では信じられない、その通り過ぎた後の、神の意志した瞬間のその隙間に見える神の背中にのみ、神はご自身を現したのでした。その「背中」に、はっきりと目で見て神だとわかる「顔」はないように、理性では神を見ることはできません。 そればかりか、人間の意志や決心の先に見ることができるものでもありません。神が手をよけた時でした。しかし、それが神がご自身を啓示するために取られた神の意志であり方法であったのでした。それは人の目には不十分な方法には見えますが、神にあっては、不十分な方法ではなく完全で御心にかなった方法でした。それはキリストを指し示しているのです。神が啓示されたキリストにこそ、そしてキリストを通してこそ、それのみを通して、私たちは神に会うことができるということなのです。事実、キリストは、「私たちに父を見せてほしい。そうすれば満足します」と願ったピリポに「わたしを見たものは父を見たのです」と答えている通りにです(ヨハネ148−9節)。

 そのことはキリストが世に与えられたことそのものを証ししています。実に、キリストは、人の思いや計画に従って来たのでも、人が期待した通り、願い通り、思い描いた通りに、救い主は世に与えられたのではありませんでした(イザヤ書53章)。実際、キリストは、人が王や救い主が来ると期待するような、王室や貴族の家に生まれたのでもなければ、国中の人に喜ばれて誕生したのでもありませんでした。人が誰も思いもしないような、貧しいナザレの大工の家の、普通の罪深い女性マリヤの胎を通してその聖霊によるいのちを育まれ、ベツレヘムの家畜小屋で生まれました。預言の通りではありましたが、人は誰も思いも期待もしませんでした。マリヤもヨセフも、御使いのメッセージを聞くまでは、不安と恐れしかありませんでした。世の人々も、目に見える繁栄やエルサレムの再興、あるいは、パンを食べて満腹することを期待した人々、つまり、目に見える被造物に神や神の栄光を見ようとした人々は、キリストを受け入れませんでした。期待通りではなかったことに躓き、蔑みました。むしろ信仰へ導かれたのは、神の前に、自分の罪深さを認めさせられただ謙るものや、顔を上げることもできず、憐れんでくださいとしか言うことのできないような、まさに目に見えない、肉の思いが認めたくない、自分の罪を認め、ただただ神の前の憐れみと罪の赦しにすがるものでした。そして、何より十字架と復活の出来事は、人々が拒み、躓き、拒否し、蔑み、絶望するものでした。世の価値観で期待する通りの贖いや救いではありませんでした。人はそんなイエスに、受難に、十字架に、神がいるとか、神の栄光や祝福や恵みがあるとは期待もしませんし思いもしません。人の目に見えることや価値観だけで判断するなら、十字架は敗北であり、絶望なのです。しかし、ここに神の逆説があり、神の変わることのない啓示があります。神はモーセにご自分の背中のみを示し、神が示してたところにしか神の本質を見ることができなかったように、人の前、人の目には、敗北にしか見えない、キリストにこそ、神の御心があり(イザヤ53章)、キリストこそ、神が示された、神の背中、神の栄光であり、そのキリストにこそ救いも、栄光も、救いの祝福も恵みもあるのであり、そこにキリストはおられ、神はおられるのです。

 キリスト教信仰の核心は、そのキリストの十字架と復活に神と出会い、キリストに神と神の栄光を見ることであり、その神が示されたキリストにおいてのみ、その救いの恵みは溢れていると言うことなのです。そのようにキリストの十字架と復活に神の栄光を見るものが、十字架の神学者であり、そうではなく、人間中心に、人間の肉の欲求、願望、事前概念や価値観に基づいて、その通りに実際に被造物に(つまり、目に見える形で)起こるところに神はいるとか、神の祝福があると理解する人は栄光の神学者であると言うのです。それは人中心で人基準ですから、自ずと、人が何をしたか何を成し遂げたのかで、神がそこにいる、いない、あるいは、祝福されている、祝福されていない、等々、神や神の祝福や恵みを推測するので、自ずと人間の欲や感情のままに、裁きや蔑みは起こりやすいのです。パリサイ派の人々のように。ですから、それは神(キリスト)中心の神学(Christ-centered)か、人中心の神学(Anthropocentered, humancentered)かの区別でもあります。その区別は、どこまでも聖書の正しい解釈と教えにしっかりと基づいて、理性や文化を考えるか、その逆で、今もよくある、人間の理性や文化に、聖書を従わせ、解釈や教えをどんどん変えていくのかの、問題にも関わってくることでもあります。また、これは幸いな教えでもあり、私たちの目には神がいないかのように思えるところにも、たとえば、目に見える、失敗や挫折、大きな試練や困難、罪の只中や絶望など、人の目にはあたかも神に見捨てられたかのような状況にあっても、キリストはそこにおられないのでも見捨てられたのもなく、そこにこそキリストは居られ、いつでもみことばを通して聖霊によって働いておられるということでもあるのです。

(論文では、新約聖書の箇所、マタイ4章(荒野の三つの誘惑)、ヨハネ32730節のバプテスマのヨハネの言葉、ルカ18914節(二人の人の祈り)、ルカ22章以下の弟子たちとキリストのやりとり、使徒言行録を取り上げて、聖書に証されている十字架の神学者を紹介しています。時間が足りないため、時間があるときにぜひ読んでいただけたらと思います。)

6)ルターは、ここで結びとして、十字架の神学者こそ、真の良い行いの実行者となることを述べていて、つまり十字架の福音から生まれる真の実践について論じています先ほども触れたように、良い行いにせよ、隣人愛にせよ、宣教にせよ、人間の側で、事前概念や願望を、被造物に目で見ようとすると、自ずと律法を動機にした行為に帰結します。神の前の真の良い行いは、そのような律法を動機に、自由意志や人間の側の努力などによって達成しようとするような律法のわざではあり得ません神の前の、真の良い行いや隣人愛は、律法からではなく、神の目に見える神の本質であり神の見える背中である、イエス・キリストの十字架を通して、キリストご自身から福音を通してくる約束と賜物によって、なされていく神のわざであり、それは律法としての信仰ではなく、 福音としての信仰によるわざであり、神ご自身、キリストご自身が福音を通して行う新しい創造だとルターは結びます。

 ですから、ルター以後の改革者たちは(もしかしたらルター派の牧師の中でも)、ルターは信仰義認を強調するが、良い行いを軽んじているとよく批判して、ルター以後のカルヴァンやその他の改革者達や、敬虔主義者達が、ルターの足りないところを完成させたんだと主張したり教えたりします。しかしそれは全くの誤解であり、ルターは、十字架と復活の福音によって生きる十字架の神学者こそ、真の良い行いや隣人愛、そして真の宣教の実行者であり、それこそ真に力強く躍動的であることを教え、むしろその真の良い行いを強調さえしています。そのように、宣教は律法ではなく、福音であるということを、ルターの正しい聖書理解から学ぶことができるのです。

(論文では、栄光の神学者の陥る、人間中心の神理解、それによる、律法と福音の混同によって生じる、様々な現代的な問題に触れています。栄光のすり替え。宣教において何を伝えるか(福音ではなく、人が期待するような、模範、道徳、自己愛の奨励、等々)。人が信条になる。栄光の神学者の隣人愛。数の束縛。などを取り上げておりますが、時間がないので、機会があればぜひ読んでください。)

4、十字架の福音から始まる実践と宣教:三つの転換

 最後に、ではどうするかという結論を述べなければなりませんが、私の論文は「こうすればこうなる」というハウツー(方法論)を提示する目的はありません。ただ、福音と十字架の神学者の理解は、見方の転換を与えてくれることを紹介しています。

1)日々の洗礼:

 日々の洗礼の理解を紹介しています。大教理問答書のルターの言葉から紹介しています。以下、一部引用です。

「洗礼は~生涯を通して私たちの内部に行われるべき事がらであり、したがって、キリスト者の生涯とは、一度、開始せられるや、絶えず続けられていくべき日毎の洗礼に他ならない。古いアダムにつけるものが常に除かれ、新しい人に属するものが現れてくるように、絶え間無くなされなけばならない。〜私がかく言うのは、私たちが長い間、思い違いしていた考えに陥らないためである。これまでは「洗礼はもう済んでしまったのだ。だから、再び墜ちた後ではもう二度と役立てることはできない」と言う風に、間違って考えられていた。これは洗礼を単にかつて起こったわざとしか見ないところからくる考えである。そしてそれは確かに聖ヒエロニムスが「懺悔は、私達がキリスト教界に入った時、乗り込んで航海して行く、船が難破した後の第二の板切れで、私達がこれにすがって泳ぎきり、岸辺につかなければならない」と記しているところに 誤解の原因がある。この言葉によって、洗礼の「正しい」用い方は止み、洗礼 はもはや私達を益することのできないものとなってしまった。だからこの言葉 は正当ではない。なぜなら、この船は(すでに述べたように)神の秩序であって、私達のものではないゆえに、決して難破をすることはないからである。けれども私達が滑って船から落ちるということはもちろんありうる。だから、船から落ちたその場合には船に泳ぎ着き、これに取り付いて、再び乗り込み、先 に開始した通りにこの船で航海を続けるように心がけるべきである。」

 このようにルターは、キリスト者の歩みは、日々、キリストの十字架と復活の罪の赦しと新しいいのちを受ける、日毎の洗礼であることを教えています。洗礼の日で、洗礼は終わったのではなく、私たちはむしろ、日毎に、律法を通して罪を示され、悔い改めによって、水に沈められ死に、水からあげられ新しく生かされる、その繰り返しであることを述べています。ですから、教会で、洗礼を受けるまではお客さんのように優しく親切にされるけれど、会員になるといきなり、教会の対応が180度変わり、あれこれと律法を強いられ、その矛盾のゆえに信仰生活が続いていかない人が多いという問題のように、主の恵みは、洗礼の日までで、洗礼を受けた後は、律法の日々が始まると言うような教会生活は、キリストの教えではないと言えます。そうではなく、日々の洗礼によって、日々平安があり、福音と平安のうちに遣わされていくことに、福音を動機とした、福音から生まれる「真のキリストの証人の日々」があるのであり、そのように、宣教は、日々、罪の赦しの福音に生かされることから生まれる、素晴らしいものだということなのです。

2)聖化の正しい理解

 聖化の理解の転換を紹介しています。きちんとしたルーテル教会の教えが教えられている教会では触れなくても良い部分かもしれませんが、ルーテル教会以外の、律法的に人間の協力や努力で実現する聖化や、目に見える人間の期待する律法的行いの成長を聖化と見るとか、特定の時と現象によって(特別な第二の回心を経験する等々)目に見える変化などを強調する聖化の教え、等々の影響が強い状況を踏まえて、この聖化の理解の転換を取り上げ触れています。ルター派の聖化は、小教理問答書にもある通り、義認にある聖化であり、日々の洗礼に重なるように、日々、悔い改め、日々、福音によって 新しくされることの、日々の繰り返しによって、すでに、聖化は日々進行していると言う理解ですつまりそれは栄光の神学者のように、目に見える形で、右肩あがりで年々、いい人間になっていくとか、何かを人に感動を与えたり目立って取り上げられるような劇的な変化や経験があったとか、聖人になったかのように罪を犯さなくなったとか、何か聖化がそのような人間の価値観中心の判断基準で測られるようなものではなく、どこまでもイエスが、福音と聖霊の働きにおいて日々、私たちの信仰のうちに進行しているのが聖化であり、キリスト者は、十字架と復活の福音にあって信仰に生きるなら、皆、聖化にあるのであり、それは重荷としてではなく、平安と希望の聖化なのです。

3)神が仕える礼拝(Gottesdienst/Divine Service

 礼拝の理解の転換を紹介していますこの部分も、スオミ教会では当たり前のことかもしれませんが、栄光の神学者の礼拝は、人中心の律法的な理解ゆえに、人が神のために、人が思い描くように何か目に見える成果を期待して、組織や自分のために礼拝をささげる傾向にあり、教会や宣教の考え方同様に、礼拝は、聖餐なども含めて、人が神のためにたてあげるものであり、その期待も、人間的な事前概念に基づいた期待であり、ゆえに説教も「神が何を語り何を伝えているか」(神中心)、ではなく、人のニーズや価値観に応えるようなもの(人中心)になります。しかし、十字架の神学者を土台とした真の礼拝はその逆です。人がまず神に仕えるではなく、神が私たちに仕えてくださるというのが真の礼拝です(ルカ2章、マタイ2章:最初の礼拝者、ヨハネ517節、マルコ227−28節、マルコ1045節、使徒1724−25節、創世記22章、詩篇5117節、ヨハネ423−24節、ルカ1042節、ヨハネ21章)。「宣教は福音」は、何より礼拝そのものにも貫かれ、礼拝から始まるのですが、それは「人が神に仕える」の礼拝 ではなく、「神が私達に仕える」礼拝(GottesdienstDivine Service)であり、神が私たちにまず仕えてくださりキリストがみ言葉で私たちに仕えてくださり与えてくださるものを受け、平安のうちに遣わされるからこそ、平安と喜びに満ちた真の宣教になり、宣教は福音になるのです。

5、終わりに

 「宣教は律法」では実は、「福音を宣教する」とどれだけ素晴らしいスローガンを掲げ、それをどんなに熱心におこなっても、結局は、矛盾を感じ、平安のない生活と律法的な組織活動になります。罪の赦しと新しいいのちを与え、神の前に義とされ平安のうちに遣わすのは福音だけであるので、律法を動機にし、律法を目的に、律法に駆り立てられても、それは結局、人間の力や意思にかかってしまうので、人の前では合理的であったり、うまくいくことがあったり、見た目や人間の基準で成功することがあっても、それは人の結ぶ実以上ではなく、神の前や救いや義に関わることでは、平安はなく、日々の生活はもちろん、宣教にも平安はありません。挙句の果てに、平安を伝えるどころか、宣教を声高に叫ぶその中に、裁きあいや人を誇ることが溢れるという矛盾と更なる重荷が生じるだけです。そうではありません。「宣教は福音」です。キリスト者は、キリストによる十字架の罪の赦しと日々新しくしてくださる復活の福音によって平安のうちに遣わされてこそ、真の歩み、実践があるのです。

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