説教集

説教「自己犠牲を厭わない愛」神学博士 吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書21章15-19節

主日礼拝説教 2018年4月22日 復活後第三主日

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.神の栄光を現わすということ

今日は福音書の日課をもとに二つのテーマについてお話ししたく思います。一つ目は、福音書の箇所の終りでイエス様が、ペトロがどのような死に方をするのかを預言しているところです。この福音書の記者であるヨハネはその死に方を神の栄光を現すものと解説しています。それで、この「神の栄光を現す」ということについて考えてみたく思います。二つ目のテーマは、イエス様を愛するとはどういうことか、という本日の説教題に直接かかわることです。

まず「神の栄光を現すこと」についてみていきましょう。キリスト教会の古い言い伝えによれば、使徒ペトロは西暦63ないし64年頃にローマで殉教の死を遂げました。ちょうどキリスト教徒迫害で有名な皇帝ネロの時代です。ペトロは十字架にかけられる時、自分は主と同じ死に方をする値打ちはない、と兵隊たちに言ったところ、それじゃ、これで満足だろう、と頭を下にして逆さまに十字架につけられたということです。本日の箇所にあるイエス様の預言「お前は若かった時には腰に帯びを縛って行きたいところを歩き回ったが、年を取った時、お前は両手を広げ、別の者がお前を縛って、行きたくないところに連れて行く」(ヨハネ21章18節)、これは、起きた出来事を知っている後世の人からすれば、十字架刑に処せられることだなとわかります。しかし、まだ出来事が起きる前の人たちにとっては、なんのことかわからなかったでしょう。福音書記者のヨハネはペトロの処刑を目撃したか、またはその知らせを耳にしたのでしょう。その時、ああ、あの時ガリラヤ湖畔で復活の主がペトロに言ったことは、このことを意味していたのだ、と事後的にわかったのです。

さて、ペトロの殉教は、ヨハネが19節で解説しているように、神の栄光を現すものでした。これは私たちをしばし考えさせます。神の栄光を現すというのは、これくらいのことをすることなのか、と。日々平穏無事に過ごしていたら、それは神の栄光を現す生き方ではないのか、と。ここで注意しなければならないことは、天の父なるみ神の栄光や栄誉というものは、被造物である私たちの業績や達成に左右されない、ということです。私たちの業績や達成が多かろうが少なかろうがそんなことに関係なく、神は超然として既に栄光と栄誉に満ちた方です。それならば、私たちが神の栄光を現すというのはどういうことでしょうか?

それは、神の動かすことのできない真理を、私たちが自分の言葉や行いや生き方を通して人前で証しすることです。つまり、あなたは何者かと問われたら、私は次の三つの者である、と答えることです。三つの者とは、まず、私は、天地とそこに収まる全てのものを造られた神に造られた者である、と答えること。次に、神聖な神の前に立たされても、神のひとり子イエス・キリストの身代わりの犠牲のおかげで大丈夫でいられる者である、と答えること。三つ目は、この世の人生の向こうで造り主である神のもとに永遠に戻ることができる道を今歩んでいる者である、と答えること。以上の三つを胸をはって答えることです。何も問われなければ、そのような者として胸をはって生きるだけです。

このような神の真理に従って胸をはって生きていこうとすると、いろんなことに遭遇します。そんな真理は取り下げないと命はないぞ、という迫害の時代だったら殉教しかないでしょう。しかし、自分は造り主に造られた者であるということをどうして取り下げられましょうか?また、自分は造り主が送られたひとり子の身代わりの犠牲によって罪が償われて新しい命を頂いたことをどうして取り下げられましょうか?そして、自分は造り主の神に見守られてこの世を生き、神の御許に戻る道を今歩んでいることをどうして取り下げられましょうか?ペトロは、「取り下げない」生き方をしたら一巻の終わりになるという時代状況にあって、それを貫いてこの世の人生を終えたのです。そうすることで神の真理を証しし、神の栄光を現したのです。

私たちの生きている時代状況はどうでしょうか?神の真理に従って生きようとしたら、どんなことに遭遇するでしょうか?良心・信条の自由が保障されている現代社会ならば何も問題なく平穏無事でしょうか?人間がどこから来てどこに向かって行くのかということについてキリスト信仰と異なる立場を取る人たちが社会の多数派を占めていれば、いろいろ軋轢が出て来るでしょう。多数派にいれば考えなくて済むようなことをいろいろ考えなければならなくなるでしょう。でも、そういう余計なことを抱え込むことも、現代社会では神の栄光を現わすことになると思います。少数派が黙っていたら、多数派は何も気づかず、みんな同じ考えでいると勘違いしてしまうので、口に出すことは良心・信条の自由が存在するためにも非常に大事なことです。

 

2.神の自己犠牲を厭わない愛

 次に二つ目のテーマ「イエス様を愛するとはどういうことか?」についてみていきましょう。まず初めに、イエス様とペトロの対話をみてみましょう。イエス様が「私を愛しているか?」と三度ペトロに同じ質問をしたことは、十字架の出来事の時にペトロがイエス様のことを人前で三度「知らない」と言ったことに対応すると言われています。「私はあなたを愛しています」とペテロに三回言わせることで、拒否したことを赦す意味合いがあるとみなされています。ここでは、もう少し詳しくこの対話をみてみます。

 イエス様が「私を愛しているか?」と聞く時のギリシャ語の動詞「愛する」と、ペトロが「私はあなたを愛しています」と答える時の動詞「愛する」が違っています。イエス様が聞く時の動詞はアガパオーαγαπαωという動詞を使いますが、ペトロが答える時の動詞はフィレオ―φιλεωという動詞を使います。新共同訳では両方とも「愛する」と訳しているので、この区別が見えません。二回目のイエス様の質問とペトロの答えも同じです。三回目になると今度は、イエス様は突然動詞を変えてペトロと同じ動詞フィレオ―で聞きます。そしてペトロはフィレオ―で答えます。この二つの動詞の違いを見てみましょう。

 「愛」とか「愛する」という言葉は厄介なものです。というのは、この言葉は、一般には男女の情愛とか性愛の意味が強くこめられることが多いので、それ以外の愛の形が背後に退きがちになるからです。当スオミ教会で以前牧師をされていたヘイッキネン先生が言っていたのですが、日本で中学生位の女の子たちに聖書の勉強会を行っていた時、「イエス様は私たちを愛されました。私たちもイエス様を愛して、互いに愛し合いましょう!」と言ったら、女の子たちは互いに顔を見合わせてくすくす笑っていたということです。

古代ギリシャ語は、異なる形の愛を異なる言葉で言い表していました。男女間の情愛とか性愛に関係する愛はエロースερωςと言っていました。兄弟愛とか同志愛とでも言うべきものとしてフィラデルフィアφιλαδελφιαという語がありました。対象が兄弟や同志より広がって人間愛を意味する時は、フィラントローピアφιλανθρωπιαという語が使われました。本日の箇所のペトロの答え「愛しています」に出てくるフィレオーという動詞は、このフィラデルフィア、フィラントローピア兄弟愛、同志愛、人間愛に結びついた愛です。

それでは、イエス様がペトロに聞く時に使った「愛する」アガパオーはどんな愛でしょうか?ヨハネ福音書13章34節と15章12節をみると、イエス様は弟子たちに新しい掟を与える、と言って、「私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と命じます。その時、イエス様の弟子たちに対する愛も、またそれを模範にして弟子たちが互いにしなければならない愛もアガパオーです。それでは、イエス様が弟子たちを愛する愛とはどんな愛でしょうか?ヨハネ15章13節でイエス様はこう言います。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」ここでは、愛は動詞ではなく名詞のアガペーαγαπηですが、動詞のアガパオーも名詞のアガペーも同じ愛の形を意味します。ここで、アガパオー、アガペーの愛の形は、自分の命を犠牲にすることも厭わないことが関係してくることが明らかになります。

そうすると、兄弟愛、同志愛、人間愛は自己犠牲をしないのか、それらの愛にも大切な人のために自分を犠牲にするということがあるのではないか、と思われるかもしれません。ここは、日本語の言葉に囚われず、もう一度ギリシャ語の言葉を見てみますと、兄弟愛、同志愛のフィラデルフィアと人間愛のフィラントローピアですが、新約聖書の中でのそれらの使われ方を見ると、親切とか思いやりとか友好的とか敬意を払うとか、そういう人間同士が平和な関係でいられる態度ないし行動様式のように使われています(ローマ12章10節、使徒言行録28章2節、形容詞として第一ペトロ3章8節、副詞として使徒言行録27章3節、ただしテトス3章4節は神のものとして)。その意味でそれらには自己犠牲を厭わないくらいの強い愛はないと言えます。

そうすると、例えば親が子供の命を守るために自分を犠牲にするということが起きれば、それはアガペーの愛になります。聖書は、天地創造の神の人間に対する愛はまさにそういうものであると教えます。人間に対する神の愛が自己犠牲をも厭わない愛ならば、それでは神は人間を何の危険から守るためにどんな犠牲を払ったのかということをはっきりさせなければなりません。「ヨハネの第一の手紙」4章10節で次のように言われています。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」ここで言われる「愛」、「愛する」は、アガペー、アガパオーです。その愛の内容は、人間が造り主である神のもとに戻れるのを妨げていたものを、神が御自分のひとり子を犠牲にして全て取っ払って下さったということです。

人間は堕罪の時に、神に対して不従順に陥り罪を持つようになったために死ぬ存在となってしまいました。造り主である神と造られた人間との結びつきが失われてしまいました。人間は代々死んできたように代々罪を受け継いできました。神は、人間が再び自分との結びつきを持ててその見守りと導きのうちに生きられるようにしようと、また万が一この世から死んでもその時は永遠に自分のもとに戻ることが出来るようにしようと、それでひとり子イエス様をこの世に送りました。もし人間が自分で罪を背負い続けてしまったら、この世を去る時にその重みで大いなる滅びの世界に落ちてしまいます。しかし神はイエス様に人間の罪を全部背負わせて、十字架の上で罪の罰を全ての人間に代わって受けさせました。さらに、死んだイエス様を今度は復活させることで、死を超えた永遠の命があることを示し、その扉を人間のために開かれました。人間がすることと言えば、この神がひとり子を用いて完成した救いをただ受け取ることだけです。イエス様が成し遂げたことはこの自分のためであったとわかり、それでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで受け取りは完了します。どうして洗礼が出て来るかというと、イエス様を救い主と信じた人がその後の人生の歩みの中でその信仰に留まれるために必要だからです。洗礼は、神と人間の結びつきを守る大事な鍵です。

イエス様とペトロの対話に戻りましょう。イエス様はペトロに「愛しているか」と聞いた時、そういう神の人間に対する深い大きな愛と同じような愛で愛しているかと聞いたのです。人間が神との結びつきを持てるようになるためにひとり子を犠牲にした愛と同じような愛です。さてペトロはどうしたかというと、先ほど見た兄弟愛、同志愛、人間愛のレベルの愛で「愛しています」と答えました。たとえ他の弟子が見捨てても自分は主を見捨てない、などと威勢の良いことを言っておきながら見捨ててしまい、自己犠牲からほど遠い自分を露呈してしまった手前、あまり偉そうなことは言えません。そんなジレンマのゆえに、ペトロが神的な愛を避けて人間的な愛をもって答えたことが窺われます。イエス様はペトロに、「お前は神的な愛で私を愛するか?」と聞き、ペトロは「はい愛します。ただし、人間的な愛ですが」と答えるのです。イエス様は二度同じ質問を繰り返し、ペトロは同じ答え方をします。そして三度目の質問で、イエス様は今度は神的な愛の形のアガパオーを使わず、ペトロと同じ人間的な愛の形フィレオーを使います。つまり、「それじゃ、お前は人間的な愛だったら私を愛するんだな」とたたみかけたわけです。ペトロの反応を見ると、イエス様!私がフィレオーで愛することも疑うのですか?いくらなんでもあんまりです!という様子が窺われます。

(ひとつ余計な注ですが、イエス様とペトロのやりとりはほぼ確実にアラム語でなされていたでしょう。もしそうなら、この箇所は、出来事を目撃した使徒ヨハネが後日ギリシャ語に訳して記したものです。イエス様とペトロがアラム語でどんな動詞を使い合っていたかはもう知りようがありませんが、ヨハネは二人のやりとりのニュアンスをしっかり捉えて福音書にあるように訳したのだと考えればよいでしょう。そもそも使徒とは、目撃者、証言者として働くべくイエス様ご自身が選んだ者たちです。それゆえ、そうした使徒たちを信頼し、彼らの証言やその伝承を信じ、彼らの教えを守ることはキリスト信仰の基本です。)

 ところで、イエス様が同じ質問を三回したのはなぜか?ペトロに三回拒否されたので、一回の答えでは信用できなかったからか?実は、イエス様は既に一回目の答えで、ペトロがイエス様を愛していることを信用していたのです。どうしてそんなことが言えるのかというと、ペトロの答えの後に、イエス様は「わたしの小羊を飼いなさい」と言います。イエス様の小羊、つまりイエス様を救い主と信じる者たちが信仰をしっかり携えてこの世の道を歩めるために彼らを守り指導しなさい、つまり牧会をしなさいという意味です。「わたしの小羊」と言われているように、牧会者は信徒をイエス様から預かって牧会するのですから、その責任ははかりしれないものがあります。ペトロにこのような責任を委ねたのです。もし、イエス様がペトロを信頼していなかったら、こんな重要な命令は下さなかったでしょう。それほどペトロを信頼していたのであれば、なぜイエス様は三度も確認させたのか?そうすることで、牧会とはイエス様を愛することが土台になっていなければならない、ということが明確になります。

 

3.私たちの自己犠牲を厭わない愛

私たちがイエス様を愛する時の愛はどんな愛でしょうか?人間のために自己犠牲の重荷を背負って下さったのはイエス様です。私たちがイエス様のために自己犠牲するということは、もちろんありえません。イエス様は神のひとり子ですから、神との結びつきを回復する必要などないからです。そこで注目すべきは、ヨハネ14章21節と23節でイエス様が、彼を愛する人は彼の掟、彼の教えたことを守る人である、と言っていることです。それでは、イエス様の掟、イエス様が守るようにと教えたことは何か?それは先ほども見ましたようにヨハネ13章34節と15章12節のイエス様の言葉に凝縮されています。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これが私の掟である」。イエス様が自分を犠牲にしてまで人間と神の結びつきを回復しようと駆り立てられた愛、その愛で互いに愛し合いなさい、と言うのです。互いをそういうふうに愛することができれば、それはイエス様を愛することになる、と。

それではイエス様を自己犠牲に駆り立てた愛で互いに愛し合うとはどういうことでしょうか?それは、イエス様のおかげで神との結びつきを持って生きられるようになったら今度は、隣人も同じように神から見守りと良い導きを受けながらこの世を生きられるように、またこの世を去る時は神のもとに永遠に戻れるように働くことです。その働きはどんな働きでしょうか?

もし隣人がキリスト信仰者ならば、その人が既に受け取った神との結びつきを失わないように見守り、必要が生じたら助けてあげることです。それをお互いにすることです。キリスト信仰者も苦難や困難に陥ることはしょっちゅうあります。そのような時、もし何らかの理由で解決が長引けば、どうして神は黙っているのかと疑念が生じ、それが神に対する失望や不信にかわる危険があります。苦難や困難から助けるというのは、神との結びつきや信頼がしっかり保たれるように助けることが視野に入っています。

イエス様は弟子たちに向かって互いに愛し合いなさいと言われたので、隣人がキリスト信仰者でない場合は関係ない感じがしますが、よく考えるとそうではありません。全知全能の父なるみ神は、イエス様の弟子たちだけのためではなくて、全ての人間が神との結びつきを回復できるようにとイエス様をこの世に送られ、十字架の死に引き渡したのです。それなので、信仰者でない隣人を苦難や困難から助けるというのは、神との結びつきや信頼が持てるようにすることが視野に入っています。信仰者の場合は「保てるようにする」ですが、信仰者でない場合は「持てるようにする」のです。いずれの場合も助けることにおいて、自分の持てる力や時間や財産を使わなければならない時があることはいつも肝に銘じておかなければなりません。ルターは、そのような時、財産や命を失う可能性もあることを覚悟しなさい、と言っています。

自己犠牲を厭わない愛と言う場合、もちろん、神との結びつきの回復ということと無関係に行われるものもあるでしょう。例えば、親が自分の命を顧みず子供の命を守ろうとすることが考えられます。そのようにして助かった子供は、その後の人生をどう生きるでしょうか?自分の命が親の犠牲の上に成り立っているとわかったら、その犠牲は尊いものに感じられ、軽々しい生き方はできなくなるのではないでしょうか?そのような強烈な体験は、普通そんなにあることではありません。しかしながら、イエス様の十字架と復活のことを聞いて、それがこの自分にも関係している、自分のために起こされたとわかれば、普通の人でも同じような強烈な体験をすることになります。親の犠牲に比べたら身近な感じがしないと言われるかもしれません。しかし、イエス様のおかげで、この罪ある自分が神聖な神の前に立たされても大丈夫と見なされる、その神の見守りと導きを受けてこの世の人生を生きられる、この世を去る時に神の御許に手を取って迎え入れられる、これら全てはイエス様の犠牲のおかげだとわかれば、やはりそれは自分にとって尊いものになり、軽々しい生き方はしてはならないという心を強く持つことになると思います。

最後に、キリスト信仰の愛には、隣人が神との結びつきを保てるように/持てるようにすることが当然、視野に入っているということがルターの次の教えにもよく表れているので、それを引用して本説教の締めとしたく思います。ルターが解き明しに用いている聖句は、ローマ15章3節「キリストも御自分の満足はお求めになりませんでした」です。

 「イエス様は神の恵みに満たされた神聖な方であったにもかかわらず、ファリサイ派の人たちのように私たちを見下したり、私たちが持たないものを持っていることに満足するような方ではなかった。主は、私たちが何も有さず、彼が全てを有していることに不満だったのである。満足しても良かったのだが、主は逆に私たちが何も有さないがゆえに苦しまれる道を選ばれた。私たちが主のようになれるために、また主が有するものを私たちも有することが出来るために、さらには私たちが罪に支配された状態から解放されるために、私たちにどのように舞ったらよいか?このことに主は心を砕いたのである。それらを実現するのはちょっとやそっとのことではないとわかると、主は、自分自身が何者であるか、自分が何を有しているか、そういったことを顧みず一切を投げ捨てて、私たちの罪が御自身に降り注ぐに任せ、そうやって私たちから罪を取り除こうとされた。あたかも主は、私たちがこれだったら受け入れてもいいというような、私たちが満足できるようなことをして下さったのだ。

ファリサイ派の人たちが取税人たちに対して振る舞ったように、また高ぶった者たちが弱い罪びとたちに振る舞ったように、もし主が同じように私たちに振る舞ったならば、一体私たちの誰が罪の支配下から贖われることが出来たであろうか?それだからこそ、私たちも隣人の罪に対しては、主が私たちに振る舞ったのと同じように振る舞わなければならない。私たちは、裁いたり、陰口をたたいたり、見下したりしてはいけないのであって、かわりにその人が罪から解放されるように助けてあげなければならないのである。そうすることで私たちが命、生活、所有物、名誉その他私たちが有しているもの全てを失うことになろうとも、そうしなければならないのである。そうしない者は、キリストを失い、その信心はキリスト信仰の信心とは別の信心になってしまったことを知るがよい。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

 

 

説教「目撃者の勇気 真実に生きる勇気」神学博士 吉村博明 宣教師、ヨハネによる福音書21章1-14節、使徒言行録4章5-12節

主日礼拝説教 2018年4月15日 復活後第二主日

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 
1.ペトロの弁明

皆様お気づきのように、日本のルター派のキリスト教会のカレンダーでは、復活祭から聖霊降臨祭までの2ヶ月弱の期間、主日礼拝で朗読される聖書の日課に旧約聖書がありません。通常ですと、第一の朗読に旧約聖書、第二の朗読に新約聖書の使徒書簡、第三の朗読に新約聖書の福音書の三つが読まれます。ところが復活祭から聖霊降臨祭までは第一の朗読は旧約聖書ではなく、かわりに新約聖書の使徒言行録です。ちなみにフィンランドのルター派教会では第一の朗読は旧約聖書のままです。どうしてそういう違いがあるのかはわかりませんが、スオミ教会の聖書日課は日本のカレンダーに従っていますので、使徒言行録の日課も解き明しの対象にしていきます。

使徒言行録は、復活されたイエス様が天に上げられ、その後で弟子たちに聖霊が降り、その力で彼らがイエス様を救い主であると宣べ伝え始める、というところから始まります。弟子たちの宣べ伝えがエルサレムから始まって、現在のトルコ、ギリシャを経てイタリアへと地中海世界に広がって行く過程が躍動感一杯に描かれています。最後はパウロがローマに護送されたところで終わりますが、大体30年間位の出来事が記録されています。本日の日課の箇所は、聖霊が降った出来事からまだ間もない頃、ペトロとヨハネがエルサレムでユダヤ教社会の指導者たちに捕えられて尋問を受けた出来事です。なぜ、捕えられたかと言うと、3章に出来事の発端があります。ペトロが、エルサレムの神殿で奇跡の業を行います。足の不自由な物乞いに向かってイエス様の名前を口にした途端にその人の足が治ってしまったのです。驚いている群衆を前にペトロは、イエス・キリストという名前自体にこのような奇跡を起こす力がある、その名前を持つ方を素直に受け入れれば名前に備わっている力がこのように発揮される、ということを述べます。加えて、国の指導者たちはイエス様を十字架刑で殺してしまったが、父なるみ神は彼を死から復活させられた、自分たちはその復活されたイエス様の目撃者であると証言します。

このように言われると、イエス様の十字架刑というのは、執行した時こそ指導者たちは自分たちの権威を脅かす危険人物を抹殺できたと思っていたのが、イエス様の復活によって覆されてしまったことがわかります。しかも、神は初めからイエス様の受難を見越していて彼を死から復活させるおつもりだった、ということであれば、指導者たちが自分たちの意志と力でやったと思っていたことは全て、神の計画を実現するために駒のように動かされていたに過ぎなかったということもわかります。そうなると、群衆としても、神に逆らうことなど不可能だ、何をやっても全部お見通しで神の良いように持って行かれてしまう、逆らえれば逆らうほど袋のネズミになってしまうと観念せざるを得ません。ペトロの説教の後で、男性だけでも5,000人がイエス様を信じるようになったと記されています(4章4節)。

しかしながら、群衆がイエス様を信じるようになったのは、神に逆らうことは愚かなことと観念したからだけではありません。ペトロは、群衆に対する説教を次のような勧告で締めくくります。3章の25ー26節です。「お前たちは神が先祖と契約を結ぶ時、かつてアブラハムに言われたことが出発点にあることを覚えているか?神はアブラハムに『お前の子孫を通して、地上の全ての民族は神から祝福を受けることになる』と言われたのだ。それゆえ、神がイエス様を死から復活させられたのは、まずイスラエルの民に属するお前たちのためであった。今のままではお前たちは、イエス様を十字架刑に処してしまった側についてしまうことになる。それでは、イエス様がこの世に送られたことはお前たちにとって呪いになってしまう。しかし、お前たちが悪を断ち切るならば、イエス様が送られたことは祝福になる。この祝福はお前たちから始まって全世界の民族に及ぶことになる。

大体このようなことをペトロは述べました。群衆は、神のひとり子を十字架にかけるという、まさに神に対する反逆行為が祝福に転換して、かつそれがアブラハムに約束された全世界の祝福になるとわかったのです。全知全能の神に逆らうことは出来ないという観念と過ちを祝福に転換できるというチャンス。こうなったら、常に神がついていて復活させられたイエス様を神のひとり子であると信じないわけにはいかないでしょう。

イエス様の十字架は、一見すると、自分の権威を守りたい指導者たちの神に対する反逆行為と見ることができますが、実はそれよりももっと大きい、本質的な意味があります。それは、神と人間の関係が崩れてしまった原因である罪の問題、それを解決したことです。それが、イエス様の十字架の本質的な意味です。神は、崩れてしまっていた人間との結びつきを回復するために、人間の罪の問題を次のように解決しました。まず、人間に宿る罪を全部イエス様に負わせて、十字架の上に運ばせて、そこで神罰を人間に代わって全部イエス様に受けさせたのです。こうして罪の償いがイエス様によってなされました。そこで人間が、ああ、イエス様はこの私のためにそうして下さったのだ、とわかって、それで彼を救い主と信じれば、その瞬間に罪の償いがその人に起こって、神の目から見て償いが済んだと見てもらえるようになったのです。その人には、自分の命はイエス様の尊い犠牲の上にあるという自覚が生まれます、これからは神の意思に沿うような生き方をしようと志向します。その時、その人は神との結びつきを持ててこの世を生きるのであり、順境の時も逆境の時も神から絶えず見守られ良い導きを受けていると信じることができ、また、万が一この世から死ぬことになっても、その時こそ神は御手をもって御許に引き上げて下さると安心することができます。今の世にあっても次の世にあっても神との結びつきは変わりません。これがアブラハムの子孫であるイエス様を通して全世界の民に与えられる祝福だったのです。

以上のようにイエス様の十字架とは、人間が神の祝福を受けるための神の側での犠牲行為であり、それが起こることは既に旧約聖書の中で預言されていました。ただ、具体的にいつ何年に、どんな形で起こるかは記されていませんでした。それが約2,000年前の具体的な歴史状況の中で起こりました。ユダヤ民族がローマ帝国の占領下に置かれていた時、民族の指導者たちが占領者に気づかいながら伝統と権威を保持できているという状況の中で起こったのです。そういう状況だったから、神のひとり子の犠牲は、ローマ帝国の厳罰である十字架刑という形をとって実現したのです。

本日の使徒言行録の箇所で、指導者たちはペトロとヨハネを尋問します。自分らが処刑に委ねてしまったイエスが実は神のひとり子、旧約聖書に預言された救世主であったなどと広められてはたまりません。自分たちこそが旧約聖書の伝統の権威ある守り手だと思っているのに、そんなことを言われたら権威はガタ落ちです。ここからもわかるように、指導者たちは旧約聖書がユダヤ民族を超えて全人類に意味を持つことを把握できていませんでした。尋問されたペトロは全く怯みません。彼は真理を述べます。それは大体次のような内容でした。「足の不自由な人が癒されたのは、その人がイエス・キリストの名前を聞いて、その名前が冠せられた人物をそのまま受け入れたことによる。ただし、癒しそのものは名前自体にそうする力があるためで、受け入れたことでその力が現れたにすぎない。このようにイエス・キリストの名前にははかりしれない力が秘められているが、力の中で最大のものは何と言っても、罪の償いと赦しを確立した力である。そしてそれを受け入れる者に対していつも神と共にいられる永遠の命を与える力である。」

それでペトロは弁明の締めくくりで、イエス様をおいて他に救いはない、人間を救うことが出来る名前はイエス様の名前以外にこの世には与えられていない、と結んだのです(4章12節)。

ここの大事なポイントは、イエス様の名前は神の前で人間の罪を赦し永遠の命を与える力、つまり人間を救う力を持つということです。ただ、そう言っただけでは、救いは目で見たり手で触ったり出来ないので口先だけのものにしか聞こえないでしょう。それで、イエス様の名前には本当に力があるということを具体的に示すために、足の不自由な人を群衆の前で癒したのです。

弁明の中でペトロはまた、イエス様の十字架と復活の意味を明らかにするために、旧約聖書詩篇118篇22節の預言「家を建てる者が捨てた石が隅の親石になった」を引用します。その意味は次のことです。「ユダヤ教社会の指導者たちは、『これをすれば、あれを守れば、神の目に相応しいものとされる』と言って、人間の業に基づく救いのシステムを構築してきた。そこに、そのシステムは間違っていると主張するイエス様が登場したが、指導者たちは石を捨てるように彼を排除してしまった。しかし、イエス様は死から復活させられて、神の目に相応しくなれるのはこの自分を救い主と信じることによってである、そういう救いのシステムを作り上げてしまった。

つまり、イエス様があたかも新しい建物の土台になったわけです。

 

2.目撃者の勇気 真実に生きる勇気

本日の日課のペトロとヨハネの尋問は、キリスト信仰者が権力側から受ける尋問の最初のものでした。使徒言行録のこの後は、尋問のみならずイエスの名を宣べ伝えてはならないという警告・脅しそれに迫害ということもどんどん増えていきます。それもキリスト教が地中海世界に広がるにつれて、ユダヤ教社会の権力者だけではなく、ユダヤ教と関係のないローマ帝国の権力者にまで拡大します。他方でイエス様を救い主と信じる人たちも、ユダヤ民族から他の民族へと広がって行きます。そうした進展と拡大が使徒言行録によく記されています。

ペトロを初めとする使徒たちが、度重なる尋問や迫害にもかかわらず、怯まずにイエス様のことを宣べ伝え続けた理由として、本日の箇所でも言われますが、「聖霊に満たされた」(4章8節)ことが挙げられます。もちろん、イエス様の出来事を自分の目で目撃したということも、彼らに勇気を与えたでしょう。目で見た以上は、そんなことはなかったと言うことはできないからです。しかしながら、聖霊は、イエス様の十字架と復活の出来事の真の意味を信仰者に明らかにします。一見、権威に楯突いた者の処刑にしか見えなかった出来事が、実は神の人間救済計画の実現だったとわかるのは、聖霊が働いたからです。まず出来事を目撃することで、それが弟子たちにとって動かせない事実になる。それに加えて出来事の真の意味を聖霊から知らされる。こうなると、イエスの名を宣べ伝えるなと言われても、それは無理な話です。自分たちが目で見た出来事には、天地創造の神が全ての人間に与えたがっている大事なものがあるとわかっているからです。

自分がこの目で目撃したことには大きな意味がある、とわかる。そうなると、それを見ていないとは言えなくなります。そんなことは見なかったことにしろ、起こらなかったことにしろ、言う通りにしないとどうなっても知らないぞと圧力をかけられて、その通りにしたら嘘をつくことになります。なんだかある国の国会論戦での関係者の発言内容が頭に浮かびますが、たとえ名誉と地位を失うことになっても、身を危険に晒すことになっても、目撃したことが持っている大事な意味のゆえに見たことは見たと言う、これは真実に生きることです。そしてそれは勇気のいることです。その勇気が使徒たちにはありました。ただし、イエス様の復活の前はありませんでした。イエス様が十字架にかけられた時、皆逃げてしまったのですから。しかし、復活された主に再び会えたことと聖霊の力を受けたことで十字架の意味がわかりました。わかった以上は、真実を曲げることは出来ません。

さて、私たちはどうでしょうか?私たちは十字架の意味はわかりますが、出来事を目撃していません。弟子たちと立場が異なります。しかし、出来事の大事な意味がわかった目撃者たちの目撃録が聖書に収められているのです。彼らは記録の専門家ではありませんから、記述は荒っぽいかもしれません。しかし、私たちは聖書を読み聞くことで目撃者たちと同じ視点、観点を持つことが出来るのです。ということは、目撃者と同じ真実に生きる勇気を持てるのです。これが本当かどうか、試しに本日の福音書の箇所ヨハネ21章をよく目を見開いてみてみましょう。

 

3.復活したイエス様とガリラヤ湖で出会う

 本日の福音書の日課はヨハネ21章の出来事、復活されたイエス様がガリラヤ湖にて弟子たちの前に現れた出来事です。ペトロが他の6人の弟子たちと一緒にガリラヤ湖で漁をしようということになりました。そこで弟子たちは夜通し漁をしましたが、何も獲れませんでした。体も疲れ、お腹も空いてきて、がっかりぐったりの状態だったでしょう。

 そうしているうちに夜が明け始めました。その時、イエス様が湖岸に現れました。弟子たちのいる舟と湖岸の間は200ペキス、今の距離にして86メートル程です。弟子たちは現れた男に気づきますが、初めはイエス様だとはまだわかりません。それが、イエス様とのやり取りを通してわかるようになります。どんなやり取りがあったのかを見てみましょう。

イエス様は弟子たちに「子たちよ、何か食べ物があるか」と聞きますが、ギリシャ語原文で「子たちよ」というのは、実は複数の大人の男たちを相手に呼びかける言い方です。それで、新共同訳のように直訳せずに、「君たち!」とか「お前たち!」というのが正確でしょう。「何か食べ物があるか」というのも、実はギリシャ語原文では、「ありません」という否定の答えを期待する疑問文です(μηで始まる)。それなので、本当は、「君たちには何も食べる物がないんだろ?」と訳さなければなりません。そういうわけで、ここは、「君たち!君たちには何も食べる物がないんだろ?」となります。「ないんだろ?」と聞かれた弟子たちの答えは、「そうだよ。ないんだよ」となります。答えを受けてイエス様は、「それじゃ、舟の右側に網を打ってみなさい。そうすれば見つかるから」とアドヴァイスします。

このやりとりから推測するに、弟子たちは、かつて主が群衆を従えていた時と違って、今は自分たちが処刑された男の仲間であると知られたくない状況になってしまった。以前のように気前よく食事の提供も受けられなくなってしまった。自分たちで食べ物を探すしかないという状況になってしまった。弟子たちは、空腹だったでしょう。イエス様は、舟の右側に網を打てば食べる物が見つかる、と助言しました。そして、食べる物は見つかるどころか、溢れかえるくらいでてきたのです。

まさにこの時、かつてガリラヤ湖岸の町ゲネサレトで起きた出来事がペトロの脳裏に蘇ったでしょう。それは、ルカ5章1ー11節に記述されている出来事です。「あの時、主は舟に乗って岸辺の群衆に教えを宣べられていた。教え終わった時、主は私に網を下ろすように命じられた。私は、夜通しやってみたが何も捕れなかったと言ったのだが、主がおっしゃるのでその通りにした。すると、網には舟が沈まんばかりの魚がかかっていた。それと同じことが今また起きたのだ。あの湖岸に立つ男は、実は主なのだ。」この結論を先に口にしたのは、この福音書の記者であるヨハネでした。ペトロは、ヨハネが「主だ!」と言うのを聞くや否や、復活の主に相まみえるべく湖に飛び込もうとしますが、その瞬間、ほとんど裸同然であることに気づきます。これでは光栄ある謁見に相応しくない。すかさず上着をつけます。そして、せっかくの身なりが台無しになるのも意に介さず、上着のまま湖に飛び込みます。これなど、誠にペトロの性格がよく現れている出来事です。記述のリアリズムが溢れています。

ペトロは先に岸に泳ぎ着きました。少しして舟が魚で一杯の網を引きずって到着しました。その間、イエス様とペトロの間にどんなやりとりがあったかは記されていません。本福音書の記者ヨハネはまだ舟に乗っているので、やりとりを聞いていないわけです。このことがまた、この箇所が目撃者の視点で書かれていることを示しています。

こうして弟子たち全員が岸にあがると、イエス様は炭火をおこしてすでに魚を焼き始めていました。パンもありました。弟子たちは疲労と空腹がかなりあったでしょう。イエス様は、弟子たちに「さあ、来て、朝食をとりなさい」とねぎらいます。復活の主に再び会えただけでなく、その主から今まさに必要としているものを整えてもらって、弟子たちの得た安堵はいかほどのものであったでしょう。このように、肉体的、精神的または霊的に疲労困窮した者をねぎらい、励まし、力づけることはイエス様の御心です。マタイ11章28節で自分自身、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11章28節)と言われる通りです。

 このように、ヨハネ21章の出来事の記述は、福音書記者ヨハネ自身の目撃したことに基づく生き生きした記述であることがわかります。この記述はイエス様の復活が実際にあったという証言にとどまらず、キリスト信仰者にとって多くのことを示唆するものです。弟子たちは、夜通し網を打っても何も捕れませんでした。疲労と空腹の只中で、イエス様が助言して、それに従うと、予想を超えることが起きました。そしてイエス様に疲労を癒してもらい、空腹を満たしてもらいました。イエス様が用意されたのは朝食でしたので、それを食べて元気をつけたらまたその日の務めに向かいなさい、そういうひと時を整えて下さいました。

この出来事からもキリスト信仰者は、イエス様は自分を信じる者を決して見捨てないということを知ることが出来ます。残念ながらこの世では信仰者といえども、苦難や困難から逃れることはできません。というのは、この世は本質的に、造り主を忘れさせる自分中心主義と、この世を超えた永遠を忘れさせるこの世中心主義に染まっているからです。翻って、福音というものは、まさにこの世を超える永遠と万物の造り主に目を向けさせるものです。従って、この世が福音と福音に生きる者に敵対するのは避けられません。しかし、私たちが苦難や困難に遭遇しても、イエス様はそのことを知らないということはありません。本日の箇所でもイエス様は弟子たちに食べる物がないことを知っておられ(「君たちには何も食べる物がないんだろ?」)、まさにその時に現れました。そしてアドヴァイスし、労って力づけて下さいました。このように主は、必ず助けに来て下さり、私たちが力を回復して新しいスタートを切れるよう力づけて下さるのです。これらのことがわかれば、目撃者でない私たちも目撃者たちと同じように真実に生きる勇気を持つことができます。兄弟姉妹の皆さん、このことを忘れないようにしましょう。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

説教:木村長政 名誉牧師、コリントの信徒への手紙 4章8~13節

第16回

コリントの信徒への手紙 4章8~13節

2018年4月8日(日)

コリントの信徒への手紙の講解説教をずうっとやってきました。今回は4章8~13節の箇所であります。

まず4章からパウロが言っている事の要点を見てみますと、福音を宣べ伝える者は神の言を人間が語るのですから、どうして、もそこで自分がどういう立場にあるか、という事を言わないわけにはいかない。そこでパウロは4章1節でまず私たちをキリストに仕える者、神の秘められた計画を委ねられた管理者と考えてもらいたいと言いました。伝道者である自分を話す時、その聞く相手と、ここではコリントの教会の人々とをついつい比べて見ることになります。そうして結局「人間とは何か」という事を語ることになる、というのです。伝道者である自分の立場を語るうちに伝道者に対する批判に答えようとする。そうすると相手のことを言わないわけにいかない。コリントの教会の内情の混乱を聞いてパウロの語調もだんだん激しくなってきました。そうして皮肉交じりの、厳しい言葉にまでなって行くことになります。前回そのことを見てきました、7節であらわに記しています。「あなたを他の者たちより優れた者としたのは誰ですか。いったい、あなたの持っているもので、頂かなかったものがあるでしょうか、もし頂かなかったのならなぜ頂かなかったような顔をして高ぶるのですか」ここに「高ぶっている者」を断罪して次に8節から「あなた方は既に満足し既に大金持ちになっており、私たちを抜きにして王様になっています」。このように皮肉たっぷりに厳しく語っています。君たちは貰っているのに、貰っていない者のように誇っている。いやそれどころではない、満腹切っているではないか、と言うのであります。もう、そこには神の恵みが入る余地は全くないではないか、と言うのであります。自分の生活に充分満足している者など、まずいないでしょう。と私たちは思っている。しかしそう思いながら実際には、あのこと、このこと、どのことも自分が自分で得たもののように思っている、そこでは満足しきっているのであります。自分に貰ったものでないものなど一つもない、つまりみんな貰ったものばかりじゃないか。この事実に比べて気持ちとしては富み栄えた気持ちになっている、としか言いようがない。そうじゃないのか、とパウロは皮肉って言っているのです。福音によって救われている、と言うことを,はき違えて自分の持っている全てが自分のものであって信仰による謙虚などもうとっくにどこかへ行ってしまっている。そこには正しい信仰のかけらすらない。そのような奢り高ぶった思いになっているではないか。信仰生活は神により頼む、信仰によって生きる生活であります。それなのに私たちはしばしば、もう信仰などなくとも、これで満腹していると思っている、神に祈ったり、神を求めたりする気持ちは薄れてしまっている。神のことは、むしろ煩わしいとさえ思うようになってしまっている。自分で満足した生活をしているのではないでしょうか。パウロはそれを言うのであります。従ってお前たちは神の国の王様にでもなってしまっている、そういう気持ちになっているではないか、と言うのです。8節でパウロは言っています。「私たちを抜きにして勝手に王様になっている」と言っています。何より雄弁に皮肉ってぴしゃりと言っています。自分たちが語る福音を抜きにしているのではないか、と言うのです。続いてこう言います「いや実際王様になっていてくれたら、そうしたら私たちもあなた方と一緒に王様になれたはずですから」と言っています。信仰によって王となるなら信仰を持つほかありません。それならその信仰を福音として伝える伝道者を無視するなど出来ませんよね。それなのにぬけぬけと勝手に私たちを差し置いてよくも無視しているのか・・・・・パウロたち伝道者の立場の怒りでありますね。さて、そうした皮肉から伝道者の生活はどうでなければならないか、パウロは自分たち伝道者の生活は神によって見世物にせられたと言っています。9節の最後で言っています、見世物には自分の生活はありません。ただ見せる人の考えに従って動くだけです。別の言い方で言うと、自分の立場というものを持ってはならないと言うことになりましょう。見世物は見せる人の考えの通りにする、つまり伝道者はその主人である神がなさる通りに動くのです。それがたとえ、どんなに自分にとって不利であっても、惨めであっても見せる人の考えが先に立つのであります。コリントの教会の人々は自分たちが望むようにそれを満腹している。しかし伝道者は神がお望みになるようにするのであります。パウロはそれを、ここでは自分たち伝道者は「見世物」となったと言います。見世物になる者はやり切れきれないでしょう。しかし見せようとする人の望むままに動くのでなければ見世物になりません。見世物にされる者も人間であります、それなら自分の考えがあるはずでしょう。しかし見世物になる時はそれを捨てなければならない、すなわち自分の思いを捨てて見せようとされる神の思いのままに動く他ありません。そこに伝道者の辛さというものがあります。パウロは全世界に対してだけでなく、御使いに対してさえも見世物にならなければならない、と言っています(4章9節)。それでは立つ瀬がありません、人は見世物にするかもしれないが天の使いくらいは知っていてくれるなら救いがあります。パウロの書き方はまことに惨酷ですね。まず自分を死刑囚のようだ、と言っています(9節です)、最も惨めな立場の者のことをいっています。神が伝道者を死刑囚の最後に引き出される者のようになさると言うのです。「最後に引き出される者」と言うのはローマの屋外劇場で一番最後に引き出される者です。劇場の人々は興奮して少しくらいの刺激では湧かない、そういうところに最後の見世物として引きずり出される者だ、と言うのです。なんという対照的な姿でありましょう。ここには得意になれるものは何もない、ただただ自分を失うこと、見世物の主人の思いに従うことしかない。そこには自分はない、自分を通して神があらわされるだけ。伝道者が見世物にせられるのは伝道者を見せるためではなく神を見せるためであります。神はどのようにして御自分をあらわしておられるか、神がまことに神にいますことは人間の知恵でわかることではありません。ただ神の恵みをあらわされることによる他ありません。ただ神の恵みです、そのために神の御子主イエス・キリストが十字架にかけられて、さらし者にされました。それならばそのために伝道者がさらし者になることくらいは特別なことではありません。そういうことから言えばキリストの救いが行われるために伝道者と伝道される者とは全く反対な立場に立たされるわけです。神の救いの御業のための犠牲を恐れてぬくぬくと暮らしパウロやアポロたちの労苦が少しも分からないコリントの教会の人々に対する厳しい批判があるのです。自分たちはキリストのゆえに愚か者となっている、コリントの教会人々は反対に賢い者になっている、と言いたいのであります。人の目から見てコリント教会の人が賢く見えパウロたちが愚かに見える、神のために働く者が愚かである。いや!神御自身すら人間の賢さに比べ愚かである、とさえ言いたいのであります。そのことはこの手紙ですでに、はじめから言っていることであります。キリストのゆえに自分たちは弱いがあなた方は強い、そして又神は私たちが弱い時こそその強さを一層発揮されます。そのようにして救われる者を強くするためであります。同じ事が「尊さと卑しめられること」について言えるのではないでしょうか、卑しめられることに耐えることができないものであります。従ってパウロがこのように言うことは決してあたり前のことではなくて身を切られるような思いを持って言えることでありましょう。

 

彼は自分が神のために働いていることの栄光を片時も忘れたことはなかったでありましょう。ただ彼は自分が神のために、また救われる人のためになるのであればどんな立場にでも立つ用意があるのです。同時に彼は自分のような立場の者に加えれている神の恵みを忘れることはなかったに違いないのであります。パウロの時代の伝道者は伝道者の典型のようなものでした。それゆえ伝道者の姿が生のまま現れている、と言って良いのではないでしょうか。つまり典型的な伝道者の姿というものは、神の御業のためであるゆえに、ただ神にのみより頼むということであります。そうすればここにパウロが描き出していることは決して誇張でもなく、まして偽りではなかったのであります。11節を見ますと、まことに差し迫った厳しい状況を言っています。「今の今まで私たちは飢え、渇き、裸にされ、打たれ、宿無しであり、苦労して自分の手で働いている」と言うのであります。パウロはそれこそ今の今までこういう生活をしていたと言うのであります。人間が社会的に何の地位もなく社会的に少しの保護もされないとしたらどうでしょう。パウロがここで言っていることは誰にでもわかることであります。今日のような教会の組織がなく全くただ一人で伝道するとしたら、このようになることは少しも不思議ではありません。どこからも食べるものは来ないでありましょう、しかも人々から見れば異教とされるような福音を宣べ伝えるのです。信仰と信仰の戦いは激しいものがあります。パウロは異なる神を冒涜する者だとユダヤ人たちから迫害されたでありましょう。ユダヤ教以外の者にとってはパウロのような伝道者は全く関係がないか邪魔者でしかありません。それゆえに、ある時は裸にされ鞭打たれ、ある時は宿無しである、これが毎日のことでありました。パウロが幼い頃から習い覚えた天幕造りをしていた事はコリントの教会の人々も良く知っていました、使徒言行録18章に詳しく出ています。孤立無援!どこからの援助もなく孤独で立っていかねばならない。ただ頼みとするのは神だけの伝道生活でありました、苦労して自分の手で働くしか他ないのであります。彼の仕事は福音を宣べ伝えること、人々を祝福することでありました。それを、どういう状況のもとで行っていくか、これが最大の課題でありました。祝福は豊かな境遇にある者の出来ることであるかもしれません、或いは人から尊敬されている者だけがなし得ることであるかもしれません。パウロの現実はそうではなく伝道者としての生活そのものが辱められていたのであります。迫害は日常のことであったでしょう、その迫害も耐え忍ぶことも又日常のことであったでしょう。パウロは12節~13節でこう言っています「侮辱されては祝福し、迫害されては耐え忍び、罵られては優しい言葉を返しています」。パウロもアポロも他の伝道者と同じように自分をあらわさないで、ただただ神の栄光のために苦労して言ったのでありました。私たちは洗礼を受けてもはやキリスト者になった、そうであるならキリストの十字架の苦しみを受けて復活されたキリストによって罪を買い取られた。すべてが神のものとせられたのであります。私たちは信仰生活の全てを持って神の栄光をあらわすものであります。           アーメン・ハレルヤ

説教「希望の墓」マルッティ ポウッカ牧師、ヨハネによる福音書20章1−18節

説教2018年4月1日


この写真を見て下さい.これはエルサレムでとった写真です.墓です.

聖書を読むとイエスは葬られたということが分かります。その時、とくにイエスの母、弟子達と他の親しい人々はとても悲しかったと思います.愛されたイエス様は死んで、葬られ増した.希望が消えて、大悲しみでした.とくにその時の母マリアの気持ちを考える、と言葉が足りないと思います。

私たち人間の生活にはいろいろな悲しみがあります。たとえば仕事を失うこと、病気になること、また思い描いていた計画がすっかり変わることもあるかもしれません。未来を予言するのは難しいです。その中で、一番深い悲しみは、親しい人を失うことではないでしょうか。人生の望みがなくなる場合もあると思います。 希望と人生の喜びが消えてしまいます。

マリアは最愛の人を失った、そう考えていたでしょう。『最も愛するイエスがなくなった』のです。喜びと望みを失ったことでしょう。

聖書を開きましょう。

今日の聖書の箇所には、マリアの悲しみ、そして、奇跡と希望について書かれています。

初めに、悲しみについて少しお話したいと思います。今日の箇所を読みましょう。

1.週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。
2.そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」

イエスは葬られました。信仰告白には「死んで葬られ」と表現されています。イエスと親しかった一人の女性の将来についての計画は「大きな質問」に変わったことでしょう。いったい何をするべきなのでしょうか。

次に聖書には奇跡について書いてあります。

弟子たちは走りました。

3.そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。
4.二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。

弟子たちは驚きました。墓が空っぽだったからです。

7. イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。
8. それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。

弟子たちは奇跡を見て、信じました。神様は何でも出来るということを表す奇跡でした。  

 
最後は、希望です。

私たち人間はイエスの教えを少しずつしか理解できません。マリアもその一人でした。  

 9.イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。
10.それから、この弟子たちは家に帰って行った。  

 マリアは泣いていました。慰めの神様はこのこともご存知でした。

 11.マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、
12.イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。
13.天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」
14.こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった
15.イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」

マリアには、何が起こったのか、まだ完全に理解できませんでしたので、更にもう一つの言葉が必要だったのです。

16.イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。

イエスが現れて、マリアは何が起こったのかがやっと理解できて、喜びました。悲しみが消え去りました。主を見たからです。希望と喜びが与えられました。失った希望が戻ったと思います。

私たちも主にお会いする希望を持っています。

それが、キリスト者の希望です。

時代の混乱の最中にあって、キリストの教会は神の国が栄光の中に現れる栄光の日を、神の御約束を信じて待ち望んでいます。その時に神は全てにおいて全てとなられるのです。

「わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、私たちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え」(第一ペテロ1:3)。

「このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ」(ルカ21:28)。

 解放というのは、何でしょうか。

罪無きキリストは十字架の上で、苦難を受けられることによって、私たち自身が罪のために受けなければならない罪責と刑罰とを、代わってその身に受け、神の怒りを宥めたのです。このようにしてキリストは、罪と死と悪魔の力に打ち勝ったのであり、キリストの苦難と死こそが、私たちの罪の宥めの犠牲なのです。

このイエスの御業によって、私達は死と悪魔の力から解放されました。ですから、この生活のなかに色々な苦しみや悲しみがあっても、永遠の命の希望があります。空っぽな墓は希望のしるしです。  

***** 

祈りましょう

天の父なる神様。マリアは悲しみましたが、イエスに出会って、喜びました。あなたの約束のとおりに、私たちもイエスにお会いする希望を持っています。感謝します。イエスが復活されたからです。これは私たちの一番大切な喜びの元です。あなたはイエスを私たち人間の救いのために、罪の赦しのために送ってください ました。私たちのよい行いは救いのために必要ではありません。イエスのみ業は完全だからです。

私たちの本国の天への道も教えてくださいました。それは私たちの人生の目的です。私たちの天国への道を見せてください。私たちを、主をお迎えする心の準備が出来るように、あなたの声を聞けるように導いてください。私たちは信仰によってあなたの子どもです。私たちは恵みによって救われます。どうか、私たちがあ なたの父なる神様のみ守りに信頼できるように私たちを強めてください。イエスと共に人生の道を歩めますように。私たちがあなたの子どもとして出来る社会的な義務や御国のためにできる仕事を教えてください。福音や神様の招き、復活の喜びをどうすれば世界へ伝えることができるのか、私たち一人一人に教えてください。また、隣人を愛せるように、互いに仕え合うことが出来るように私たちの愛を主イエスキリストによって強めてください。心の中にあなたの光を照らすことができますように。御言葉によって、私達の希望を強めて下さい。この祈りを主イエスキリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。  

 

聖餐式

説教「イエスと共に」Martti Poukka牧師、マルコによる福音書11章1−11 節

礼拝の締め括りにフインランド賛美歌15番を演奏してくださいました。

今年の2月16日から24日まで、イスラエルに旅行しました。とても面白かったです。色々な聖書の場所を見ましたし、良い歴史についての話を聞きましたし、美しい景 色を見ながらバスにも乗りました。そして、ナザレに行った時、生きているろばを見ました。もちろんたくさん写真をとりました、そして、このろばの親のの親 の親の事を考え始めました。今でもある地域では、ろばは色々な農家の仕事をやっています。体が強い動物だからです。昔もそうでした。でも、ある昔の 子ろばは、とても大切な仕事をするために選ばれました。それは、イエスのための仕事でした。

今日の聖書の箇所を読みましょう。

初めに

1.一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、

2. 言われた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。

3。もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」

このみことばは神様のご計画を表しています。神は長い時間をかけて、人類が救い主を迎えるように、準備されました。そして、ついに時が満ち、神はその独り子を世の救い主としてお送りになりました。四福音書はその救い主の生涯と御業とのよい音信を伝えています。

「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました」(ガラテヤ4:4)。

聖書の箇所に戻りましょう。

4.二人は、出かけて行くと、表通りの戸口に子ろばのつないであるのを見つけたので、それをほどいた。

5。すると、そこに居合わせたある人々が、「その子ろばをほどいてどうするのか」と言った。

6。二人が、イエスの言われたとおり話すと、許してくれた。二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。

子ろばはイエスに大切な仕事をもらいました。それは、ろばの力で、イエスを運ぶ仕事です。

次に

8.多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。

9.そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。

多分人々は.預言者の言葉を思い出しました。ゼカリヤ書/ 09章09節
娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ろばの子であるろばに乗って。

イエスと子ろばの事は、昔から預言されていたことです。

イエスとろばは、やっとエルサレムに到着しました。

11。こうして、イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、もはや夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた。

イエスは、神様のご計画に従って、神殿の境内を見た後、また旅をつづけました。神様の計画による仕事がまだまだ残っていたからです。

子ろばは、イエスに大切な仕事を頂きました。私達人間もそうです。

マタイによる福音書/ 28章18節

イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。

19。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、

20。あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

こ れは、弟子達が聞いた言葉でしたが、私達にとっても大切な御言葉です。イエスは、私達の仕事も必要として下さいます。その仕事は、子ろばにとっては足と力 でした。私達にも、色々な賜物(タレント)があります。それは、神様に頂いた賜物(タレント)です。そして、それは福音のために使うべきものです。

このような教えが書いてあります。

「奉仕への贖い」

神がその恩恵によって、私たちの罪を赦してくださったために、私たちの内に感謝と愛と信仰による服従心が生まれ、神と隣人とに奉仕するようになります。キリスト者の全生涯は奉仕の生涯であり、このような奉仕の生涯を私たちはキリスト教倫理と呼びます。

「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです」(第一ヨハネ4:19)。

「なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、 すべての人も死んだことになります。その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きる のではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです」(第二コリント5:14-15)。

「互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです」(ガラテヤ6:2)。

「信仰は、活発で、勤勉な、力強いものですので、絶えず善い業をしないでいることは不可能です」(マルティン・ルター)。

キリスト者の人生には、目的がありますし、希望もあります。それは、イエスの十字架による永遠の命の希望です。

この希望について、このような教えが書いてあります。

キリスト者の希望

時代の混乱の最中にあって、キリスト教会は神の国が栄光の中に現れる栄光の日を、神の御約束を信じて待ち望んでいます。その時に神は全てにおいて全てとなられるのです。

「わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、私たちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え」(第一ペテロ1:3)。

「このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ」(ルカ21:28)。

私達も、子ろばのように、希望を持って、イエスと共に教会のために働きましょう。

祈りましょう

天の父なる神様。子ろばは、あなたの御子イエスと共に働きました。これは、あなたの計画の通りだったのです。あなたは、人間を救う計画を作ってくださいまし た。私たち弱い人間は、あなたの知恵と力は理解できませんが、私たちを助けてください。あなたは人間ではなく、私たちの考えを超える神様でいらっしゃいま す。ですから、全部の約束も守ってくださいます。

聖書を読んで、イエスが復活されたということが分かります。これは私たちの一番大きな喜 びの元です。あなたはイエスを私たち人間の救いのために、罪の赦しのために送ってくださいました。そして、私たちの本国の天への道も教えてくださいまし た。それは私たちの人生の目的です。どうか私たちに天国への道を見せてください。

今日もあなたの教えを聞けるように導いてください。私た ちは信仰によってあなたの子どもです。私たちは恵みによって救われます。どうか、私たちがあなたの父なる神様のみ守りに信頼できるように私たちを強めてく ださい。イエスと共に人生の道を歩めますように。私たち一人一人にあなたからの使命を教えてください。子ろばは、足と力をもって働きました。私たちがあな たの子どもとして出来る社会的な義務や御国のためにできる仕事を教えてください。福音や神の招き、復活の喜びをどうすれば世界へ伝えることができるのか、 私たち一人一人に教えてください。また、あなたに与えられた力によって子どもと隣人を大切に出来るように、互いに支え合うことが出

来るように私たちの愛を主イエスキリストによって強めてください。心の中にあなたの光を照らすことができますように。この祈りを主イエスキリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン

 

聖餐式

説教、木村長政 名誉牧師、コリントの信徒への手紙第1 4章6〜7節

第15回
コリントの信徒への手紙第1  4章6〜7節

 前回4章5節までを見てきましたので今回は6節からです。6〜7節で1区切りであります。8〜9節からは又、奇妙な展開になっているようです。

まず、6〜7節を読んで一言でまとめて言いますとここで、パウロが言おうとしていることは、他の人を見下げて、高ぶることがないように、ということであります。

教会の中であっても、信仰生活の中であっても、人は. 案外. 他愛ないもので、小さい自分であるにもかかわらず、人からさげすまされたら、耐えられないものです。そして、何か1人前の人間のように、思わずにはいられないのであります。ふだんは、特に威張るわけではないけれど、何かいったん事があれば、そのことが出てくるのです。

毎日の生活で、いちいち他の人と比べているわけではありませんが、無意識にも自分を大きく見せようとしてしまう心があるものです。自分を他の人と比べて生きているのです。一寸の虫にも5分の魂という言葉があります。小さな、小さな存在と見えても、その中に秘めた魂がある。

私たちは、自分の値打ちを主張しながら生きていきたいと、しているのです。

抽象的な言い方になりましたが、パウロにとっては、具体的な事として、コリントの教会の中で、派閥争いで、混乱しているのです。

わたしはパウロにつく、とか、わたしはアポロにつく、と、自己主張のうず巻いている事情が、その背景にあったのであります。それで6節を見ますと「兄弟たち、あなた方のためを思い私自身と、アポロとに当てはめて、このように述べてきました。誰でも1人の人を持ち上げ、他の人をないがしろにし、高ぶる事がないように。と言っているのであります。

私たちも、考えてみると自分で気がつかないところで、他の人をないがしろにしたり、いつしか高ぶったりしてしまっているのではないでしょうか。

信仰者の生活においても、最も重要なことは自分を誇らないことです。

パウロはきびしく問いかけてきました。「いったい、あなたを偉くしているのは、誰なのか」と。

ここで「偉くしている」という字はふくれ上がっているという意味だそうです。

得意になって、自分が偉いもののように思ってふくれ上がっている、と、いうのでしょう。自分を誇らない、ということは、自分でふくれ上がらない。ということになります。

人々は一様に謙遜ということを言います。ふくれ上がらないことです。

パウロはこのことを自分とアポロに当てはめて、言うのです。教会の中での生活はどうであろうか。

自分では威張ってはいないかも知れない。しかし、パウロだけが偉い人なんだ、とか、いや、アポロの方が優れている。とか言い合って、党派的な争いになっている。それは結局、自分を偉く見せようと、することになるのではないか。あの人と自分だけが特別に親しい、と言いたいのであります。

教会の中の生活で、信仰者は、何を基準にして自分を生かし、人を、はかろうとするのでしょう。それはいうまでもなく、神でありましょう、神の国に、どう映るか、という事であります。 それなら誰も自分を優れている者だとすることはできません。
神の前にはどんな」ごまかしも、できません。神はある人を高くし。ある人を低くされる、ことは、あり得ないことだからです。

よく神の前にすべての者が平等である、と言いますが、それはお互いの間にちがいがない、ということではなくて、すべての人には、各々に差があるものです。それを、神様だけは、同じように、とり扱われることが、おできになる。それを知って、私たち信仰者もその事を知らねばなりません。それを知る時、まことに謙遜になることができるのではないでしょうか。

もう1つ大切な事は、人が自慢するものは何か、ということです。

自分には、こういうものがある、こうゆうものを持っている、それをどこから得たか、ということです。

持っているものを誇る、としたら、それは、どこから得たか、という問題になります。そのことをパウロは7節で、するどく述べています。「あなたを他の者たちよりも、優れたものにしたのは、誰ですか。いったい、あなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。もし、いただいたのなら、なぜ、いただかなかったような顔をして、高ぶるのですか」。ここのところは何げないことのようですが、大切なところです。別の口語訳で言いますと、「あなたの持っているもので、もらっていないものがあるか。みんなもらったものでしょう。ということです。もし、もらっているなら、なぜ、もらっていない、かのように誇るのか」となります。これは、もう、パウロの怒りですね。

人間は自分を知ること、ほど下手なことはありません。自分が本当は何であるのか。

自分は愚かな者でしかない、と知ろうとはしないのです。  この問題を徹頭徹尾、見つめたのが、旧約聖書の有名なヨブ記であります。誰でもよく知っている物語です。

神に愛され、大きな家族と多くの財産を持っていたヨブです。ところがー朝にしてヨブは、次々と一切を失うことになってしまいました。自分、自身、1人になってしまいます。それでも、自分自身の身の上に病がおそいかかり、苦しみに会います。

そうして、ついに、ヨブは、自分の信仰からの叫びで言いました。「わたしは、裸で母の胎を出た、また、裸でかしこに帰ろう。主が与え、主がとられたのだ。主の御名は、ほむべきかな」。と言うのです。(ヨブ記1章20節)この最後の「主が与え、主が取られたのだ。主の御名は、ほむべきかな」。 

人々は、このヨブの言葉に感動します。私もいつも感動します。なかなか言えるものではありません。しかし、ここに1つ見落としていることがあるんです。それは、ヨブがそのような境地に達したのは、いつのことかということです。話は実に簡単に書かれています。ヨブが一切のものを失った時、すぐにも、この言葉が、口をついて、出てきたかのような気がして読みます。しかし、もし、そうなら、ヨブ記の大半を占めるヨブとその友人たちとの論争はなかったはずです。

実はヨブがその信仰に立ち返るために、どれだけの手順が必要であった、か、です。

ヨブは確かに優れた人物であったことでしょう。しかし、自分の家族、自分の財産を一挙に失って、呆然とする、ことはなかったでしょうか。ふつうなら、もう、気が狂うような、いかり、悲しみ、失望感におち入ります。神様は何故このようなことをなさるのか。ヨブは苦しんだでありましょう。そして、ヨブは祈ったことでしょう。ヨブはもう絶望したでしょう。そうして遂に、「自分は裸で、生まれてきた。そして、又、裸で帰るのだ。ということを心底から言いあらわすことができた。のであります。

私たちは、今、いろんなものを持っています。自分の持っているものは、どこからきたか、と問うて、そう、あっさりと、自分のものは何1つない、自分は裸できたのだから裸で帰ろうと言えるでしょうか。

本当は私たちの生命も体も心も、まことに、くすしき業で創られたもの、であって、自分のものである、等と、とても言えない。

しかし頭で考えて、どうも、そうしか、言いようがないと思う。このことを、腹の底から、そう感じてそのように生活しているか、と言うと全く違う。頭では自分は何もないのだ、裸同然でしかない、とうは思っても、やはり、自分のものだし。自分がつけ加えてきたものであるはずだ。と思うのです。

教会の中の兄弟姉妹 であるといっても、自分のものをあげられるか、神様は互いに愛し合いなさい。と言われているのに、神のみ前に立って全身全霊をもって、それを言い表す等、とてもできるものではありません。

自分という、この体と心の主人は、やはり、自分のものだと、思っているのではないでしょうか。

そうであれば、ここに、パウロが7節で書いているように、「もし、もらっているなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのか」という言葉は、まことに痛烈な言葉です。

すべての人間に悔い改めを迫るものがあります。決して単純な話ではありません。それなら、どうすればいいのか、ということです。

私たちのもっているものが、みな、受けたものであって、ほんとうに自分のものと言えるものは、何もないのです。少し考えれば誰も分かることです。

しかし、ほんとうに、そうだ、とは、なかなか思えないものです。何故でしょう。そこには、私たちの罪の問題があるからです。私たちの罪は自分のことしか考えることができない。神のことに向いていないのであります。それを罪と言っています。自分中心にしか、ものを見ることが、できなくなってしまった。この自分が問題なのです。

それを解決しなければ、分かり切ったことであっても実際には嘘の生活をすることになるのです。

そこで、パウロが書きました、この手紙の6章20節でこの問題に対して。解答を与えているのです。

それを見てみましょう。「あなた方は、代価を払って買いとられたのだ。だから自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい」。ということであります。Lこれは、キリストによって救われた者のことを言っています。あなた方は罪人であったが、キリストという代価を払って買いとられたようなものである、
丁度、この当時、多かった奴隷のように、1人の主人から他の主人に買いとられたようなものである。

罪という主人から、キリストという主人に買い取られたのである。従って、今は、神のものになっているのである。あなたの持っているものも、誇りも、あなた自身も、神のものである。自分のものではない。

神の創造の事実を信じることができない者が、今や、キリストの救いによって、キリストのものとせられた。この事実が信じられるようになるのです。そうするともはや、自分勝手に自分の生活、自分の持ち物を用いることは許されないのであります。

あなたは、キリストのものとせられたのだ。だから自分で威張ってみたり、それによって争いをすることはできない、はずであります。

この現実を正しく見ることができるようになって、あなたの生活は大回転をすることになるのであります。

最後に、洗礼を受けてクリスチャンになった者は。もはやキリストの十字架と復活によって買い取られ、すべてが、神のものと、せられたものでありますから、あなたはもはや何もない、持ちものも、体も心もあなたの時間も、いっさいは神のものであります。ですからこの神に礼拝すべきであります。

6章20節をもう1度見て終わります。

「あなた方は、代価を払って、買い取られたのだ。だから、自分のからだをもって神の栄光をあらわしなさい。」

               アーメン、ハレルヤ!

 

説教「罪よ、お前は私にふさわしくないのだ」神学博士 吉村博明 宣教師、出エジプト20章1-17節

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.十戒は誰に与えられたのか?

CC John Taylor www.flickr/photos/jbtaylor本日の旧約の日課は有名な十戒についてです。天地創造の神が預言者モーセを通してイスラエルの民に与えた掟です。十戒は大きく分けてふたつの部分に分けられます。第1から第3までの掟は、神と人間の関係について守らなければならない掟です。第1の掟は、天地創造の神以外の神を拝んではいけない、第2の掟は、不正や偽りを結びつけて神の名を唱えたり、神の名を引き合いに出して誓ったりしてはいけない、第3の掟は、一週間の最後の日は仕事を休み、神のことに心を傾ける時とすべし、という具合に、神と人間の関係について守らねばならない掟です。

第4から第10までの掟は、人間同士の関係について守らねばならない掟です。第4の掟は、父母を敬え、第5の掟は、殺すな、第6の掟は、姦淫するな、つまり不倫はいけない、第7の掟は、盗むな、第8の掟は、隣人について偽証してはいけない、つまり、他人を貶めてやろうとか困らせてやろうとか、また自分を有利にするためとか、そういう意図で嘘やでたらめや誇張を言ってはいけない、ということです。そして、第9と10の掟は重複しますが、要は他人の家とか持ち物、またその妻子を初めとする家の構成員を欲してはならない、つまり、他人のものなのに自分のものにしたいと思ってはならない、ということです。そういう気持ちや感情が行動に出れば、盗んでしまったり、不倫を犯してしまったり、偽証してしまったり、場合によっては殺人を犯してしまったりします。

 十戒の人間同士の関係を律する掟が大事だということは、ユダヤ教徒やキリスト教徒でなくてもわかります。それらを守るのは社会が秩序を保て、人間がお互いに安心して平和に暮らせるために大事だと誰でもわかります。そうすると、十戒はモーセを通してイスラエルの民に与えられたとは言っても、本当は人間全体に与えられたと言ってよいのではないか?しかし、そう言えるのはあくまで第4から第10までの掟だけで、神と人間の関係を律する最初の3つの掟は、やはりユダヤ教や十戒を継承したキリスト教に関係するものではないか?そうすると、やはり特定の集団に与えられた規範ということにならないか?ここで、もう少し詳しくそれぞれの掟を見ていくことで、このことを考えてみたく思います。

 まず、人間同士の関係を律する7つの掟を見てみます。第4の掟は「父母を敬え」です。「敬え」とは具体的には、自分を生み育ててくれた親に感謝の気持ちを忘れず、自分が大人になって親が高齢者になったら、よい晩年を過ごせるように支えてあげることが考えられます。親が体調不良になった場合は、誰もが医者や看護師や介護士になれないので、専門家の力を借りながら、肉親として出来ることで支えてあげる、ということになるでしょう。

ところで、親が子供の利害や尊厳を侵害する場合はどうすべきでしょうか?そういう時でも敬わなければならないでしょうか?大事なことは、十戒というのは、ある掟を犠牲にして別の掟を実現するということはなく、全ての掟が実現されるように守られねばならないということです。それで、DVのような深刻な場合は、第5の掟「殺すな」がそういう「親を敬え」を偽りの「敬い」であると明らかにしてくれます。別の例では、子供がキリスト信仰者になって、親からやめろと言われた時はどうしたらよいか、ということがあります。「はい、やめます」というのが親を敬うことになるのか?そうではないと思います。意見を異にする親に対しては敬意をもってまさに敬う態度で自分の立場を説明するということに尽きると思います。親に対して、何も知らない愚か者め、と高ぶってはいけないし、逆に親に何か悪いことをしているというような罪悪感に囚われる必要もありません。ここは、ダニエルがバビロン帝国の王ネブカドネツァルから異教の神の像を拝め、さもないと火の中に投げ込むぞ、と脅された時にどういう対応をしたかを思い出すと良いでしょう。新共同訳の訳によく表れているように、ダニエルは王に対して敬意を払う口調で自分の立場を述べて、終わりに「拝むことはしません」と言ってのけます(ダニエル書3章16-18節)。日本語には敬語があるので、王に対して敬意を払う感じがよく出ています。

ところで、第4の掟をよく見ると、父母を敬うことが何をもたらすかについても書いてあることに気づきます。「そうすれば、あなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。」(注 ヘブライ語の接続句למעןは結果の意味も目的の意味も両方持ちます。新共同訳では結果の意味に訳しているので「敬えば、長生きできる」です。スウェーデン語訳の聖書も同じ訳です。ところが、英語訳NIVとフィンランド語訳の聖書は「長生きできるために父母を敬え」と目的で訳しています。)「主が与えられる土地に長く生きることができる」と言うのは、一見すると、神がイスラエルの民にカナンの地を与えるという約束を思い起こさせ、その地での長生きを言っているのだと思わせます。ところが、ここで「土地」と言っているヘブライ語の単語אדמהですが、これは、ふつう神がカナンの地を与えると言う時の単語ארצと違います。それは、畑地というような何か生業を営む土地一般です。加えて、「長く生きる」という動詞ארכוןも詳しく見ると「人生を長くすることができる」、つまり、不幸や災難に見舞われて人生を短く終わらせることがない、という意味です。ただ単に時間的に長く生きるということではなく、今はやりの言葉で言えば、クオリティー・オブ・ライフを持って生きられるということです。そういうわけで、「主が与えられる土地で長く生きることができる」というのは、神が人間を誕生させて生活させてくれる場所で、平和で幸せな日々を送れるようになるという意味です。

 そうすると、第5の掟以下も同じことが言えます。殺すな、不倫するな、盗むな、他人を貶めるようなことは言うな、他人のものに欲望を抱くな、ということは皆、守ることで平和で幸せな日々を末永く送れるようになると言うのです。「神があなたに与える土地」も、生活の場所を神が人間に与えてくれると考えれば、これはもうイスラエルの民を越えて、全ての人間に当てはまります。

そういうわけで、十戒の人間同士の関係を既定する7つの掟は、全ての人間に向けられ、全ての人間が平和で幸せな人生を送れるために、天地創造の神が与えた掟であるとわかります。ところが、初めにも申しましたように、十戒の最初の部分、第1から第3の掟は神と人間の関係を既定する掟です。まず、十戒の出だしの部分で神は自分のことを、民を奴隷の国エジプトから導き出した神である、と言います。これの意味することは、神というのは意志を持ち、計画を立てて、それを歴史の中で実行に移すという、まさに生きている神であるということです。金銀銅や木材石材で作られた像にはそのような力も命もない、という意味です。まさにそこから第1の掟、天地創造の神以外の神を拝んではいけないというのが出て来るのです。これなどは、他の宗教や無神論の人から見たら、これはユダヤ教やキリスト教に関係するもので、自分たちには関係ない、と言うでしょう。

 せっかく第4から第10までの掟は本当に全ての人間にとって大事な規範なのに、第1から第3までをくっつけてしまったら、結局はユダヤ教やキリスト教という特定の集団のための道徳的規範になってしまうのではないか?十戒が普遍的な規範になるためには、むしろ第1から3までを切り離して、残りの7つでやっていくのがいいということになるでしょうか?

イエス様はそのようには教えませんでした(マルコ12章28-31節等)。イエス様は、神と人間の関係を律する3つの掟について、その趣旨は全身全霊をもって神を愛することに尽きると教えました。それで3つの掟はその趣旨に照らして理解しなければならなくなりました。同様に、人間同士の関係を律する7つの掟についても、その趣旨は、隣人を自分を愛するが如く愛することに尽きると教えました。それで7つの掟も、その趣旨に照らして理解しなければならなくなりました。そのことがあるのでルターは、第5の掟について教える時、それは殺さなければ十分というものではなく、助けを必要とするものを助けなければならないことも含まれると教えたのです。また、第6の掟についても、隣人の夫婦関係がしっかり保たれるように支援してあげることも含まれると教えました。イエス様はさらに、神に対する愛の掟と隣人愛の掟がどう結びつくかも教えています。彼によれば、神に対する愛の掟が先に来て、次に隣人愛の掟が来る、つまり神への愛が土台にあって隣人愛があると教えました。

さて、十戒はユダヤ教とそこから生まれたキリスト教にだけ関係する規範でしょうか?それとも全ての人間に与えられた規範でしょうか?これからそのことを見ていきますが、結論を先に言うと、イエス様の十字架と復活の出来事の前と後で十戒の性質が異なるということです。十字架と復活の前は、十戒とそれに付随するその他の掟はユダヤ教社会の存続という目的のためにある、と言ってもよいものでした。ところが、十字架と復活の後は、十戒ははっきりと全ての人間に与えられる規範になったのです。以下にこのことを見ていきます。

 

2.イエス様という神殿

 十戒が、イエス様の十字架と復活の出来事の後に、全ての人間に与えられる規範になったということについて、それを理解する手掛かりとして、本日の福音書の箇所のイエス様の言葉が役立つと思います。それは、イエス様が自分のことを神殿である、と言っているところです。

 本日の福音書の箇所の出来事の背景に過越祭があります。それは、モーセを指導者とするイスラエルの民が神の力で奴隷の国エジプトから脱出出来たことを記念する祝祭です。この祝祭の主な行事として、酵母の入っていないパンを食べるとか、羊や牛を神に捧げる生け贄として屠ってその肉を食することがありました。それで、神殿には羊や牛が売買用に用意されていました。鳩も売られていたと言うのは、出産した母親が清めの儀式の捧げ物に鳩が必要だったからです(レビ12章)。イエス様を出産したマリアもこの儀式を行ったことがルカ福音書に記されています(2章24節)。両替商がいたと言うのは、世界各地から巡礼者が集まりますので、献げ物を購入したり神殿税を納めるために通貨を両替する必要がありました。

 このようにイエス様の時代のエルサレムの神殿は、礼拝者や巡礼者が礼拝や儀式をスムーズに行えるよういろいろ便宜がはかられてマニュアル化が進んでいたと言えます。しかしながら、このような金銭と引き換えの便宜化、マニュアル化した礼拝・儀式は、表面的なものに堕していく危険があります。型どおりに儀式をこなしていれば自分は罪の汚れから清められたとか、神様に目をかけられたとか、そういう気分になって自己満足になっていきます。自分の生き方が神の御心に適っているかどうかという自己吟味がないがしろにされていきます。あわせて、罪のゆえに壊れた神と人間の関係の修復、また罪の赦しを与えることができるのはまさに創造主の神しかいないのに、形式的に儀式をこなせば神は修復してくれたり赦してくれたりして当然というような、傲慢な態度も生まれてきます。実際、旧約聖書の預言者たちは、イエス様の時代の遥か以前から、生け贄を捧げ続ける礼拝・儀式の問題性を見抜いて警鐘を鳴らしていたのです(イザヤ書1章11-17節、エレミア書6章20節、7章21-23節、アモス書4章4節、5章21-27節など及びイザヤ29章13節も)。

 イエス様自身も、神殿での礼拝・儀式が表面的なものであること、偽善に満ちていたことを見抜いていました。本日の箇所に記されているようにイエス様は神殿の境内で大騒ぎを引き起こしました。彼がどうして激怒したかと言うと、本来ならばユダヤ民族をはじめ全世界の人々が礼拝に来るべき神聖な神殿(イザヤ56章7節、マルコ11章17節)が、金もうけを追求する場所になり下がってしまったためでした。イエス様は神殿を「わたしの父の家」と呼び、自分が神の子であることを人々の前で公言しました。すると当然のことながら、現行の礼拝・儀式で満足していた人たちから、「このようなことをしでかす以上は、神の子である証拠を見せろ」と迫られます。その時のイエス様の答えは、「神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」(ヨハネ2章19節)でした。「建て直す」という言葉は、原文のギリシャ語では「死から復活させる」という意味の動詞εγειρωが使われています。神殿というのは本当ならば、人間が罪を赦していただき罪の汚れから清めてもらう場所、そうして神との関係を修復する場所でなければならない。なのに、それが見かけだおしになってしまった。それゆえ、それにとってかわる新しい神殿が建てられなければならない。そこで、十字架の死から復活するイエス様が、まさにその新しい神殿になる、というのです。それはどういうことでしょうか?

 復活したイエス様が神殿になるというのは次のことです。創世記3章に記されているように、最初の人間が神に対して不従順に陥って罪を犯したために、人間は死ぬ存在となって神との結びつきを失ってしまいました。しかし、神は、せっかく自分が造って命と人生を与えてあげた人間なのだから、なんとかして助けてあげよう、自分との結びつきを回復してこの世を生きられるようにしてあげよう、また、この世から死んでも、その時は永遠の命を持つ者にして永遠に自分のもとに戻って来られるようにしてあげよう、と決めました。ところが、人間は罪の汚れを代々受け継いでしまっており、それが神聖な神と人間の結びつきの回復を妨げています。そこで神は、不従順と罪から生じる罰を全て一括して自分のひとり子イエス様に負わせて、ゴルゴタの十字架の上で死なせたのです。つまり、罪と何の関係もない神のひとり子に全人類分の罰を身代わりに受けさせて、全人類分の罪を償わせたのです。イエス様は文字通り、犠牲の生け贄になりました(第一コリント5章7節、ヘブライ9-10章)。

 イエス様の犠牲は、それまでの牛や羊などの動物を用いた生け贄のように毎年捧げてはその都度その都度、神に対して罪の償いをするものではありませんでした。彼の犠牲は、一回限りの生け贄で全人類が神に対して負っている全ての罪の償いを果たすものでした。洗礼者ヨハネがイエス様を見て、世の罪を取り除く神の小羊と言いますが(ヨハネ1章29節)、まさにその通りでした。イエス様は犠牲の生け贄の小羊、しかも一度の犠牲でそれまで捧げられた犠牲をすべてご破算にして、それ以後の犠牲も一切不要にする(ヘブライ9章24-28節)、本当に完璧な生け贄だったのです。

 イエス様の十字架の死は、犠牲の生け贄ということだけにとどまりませんでした。イエス様が全人類の罪を十字架の上まで背負って運ばれ、罪とともに断罪された時、罪が持っていた力も抱き合わせに無にされたのです。罪の力とは、人間が神と結びつきを持てないようにしようとする力です。人間が自分の造り主のもとに戻れないようにしようとする力、人間を自分の支配下に置こうとする力です。その力が無力にされたのです。あとは、人間の方がイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、罪の支配下から脱して神との結びつきをもって生きることが出来るようになります。その時、人間は罪の支配下から神のもとへ買い戻された、贖われたと言うことが出来ます。人間を買い戻すために支払われた代償が、神のひとり子イエス様が流した血でした。

 そういうわけで、イエス様を救い主と信じ受け入れたキリスト信仰者というのは、罪の償いを全部してもらったことと罪の支配から贖われたことを自分のものにした者ということになります。ただ、そうは言っても、罪や神への不従順に陥る危険にはいつも遭遇します。それでは、キリスト信仰者が罪に陥ってしまったらどうなるのか?イエス様の身代わりの償いは台無しになってしまうのか?その人は罪の支配下に戻ってしまったことになるのか?いいえ、そうではありません。もしその人がすぐ我に返って父なるみ神に、「私の身代わりとなって死んだイエス様に免じて赦して下さい」と願い祈れば、神は、本当にイエス様の身代わりの犠牲に免じて赦して下さるのです。それくらいイエス様の犠牲は完全なものなのです。こうして、その人はまた永遠の命に向かう道に戻ることができ、歩み続けることができます。このように罪に陥ることがあっても、イエス様がしてくれた償いと贖いにしっかりとどまれば、神のもとに買い戻された状態はそのままです。神との結びつきは決して失われません。そういうわけで、十字架の死を遂げて復活したイエス様というのは真に、人間の罪の赦しを完全に実現し、神との結びつきを永遠に回復してくれる神殿中の神殿、まさに究極の神殿なのです。

 

3.罪よ、お前は私に相応しくないのだ

 ここで十戒に戻ります。イエス様は十戒について、とても本質的なことを教えました。彼の有名な山上の説教の中で、たとえ人殺しをしていなくても心の中で相手を罵ったり憎んだりしたら同罪である(マタイ5章21-22節)と教えたのです。また、淫らな目で女性を見ただけで姦淫を犯したのも同然である(マタイ5章27-30節)とも教えました。つまり、外面的な行為に出なくとも、心の中で思ったたけで、掟を破った、罪を犯したということになるのです。造り主の神は、人間に内面の潔白性を要求しているのです。もし、全ての掟がそのようなものならば、一体人間の誰が十戒を完全に守ることが出来るでしょうか?誰もいません。このように十戒は、人間に守るようにと仕向けながら、実は人間は守れない自分に気づかされるという、人間の真実を神の御前で照らし出す鏡のようなものなのです。

 神聖な神がこのような完全さを要求するものであれば、それに対して人間はどうするでしょうか?掟をちゃんと守れないので神罰を下されてしまうと恐れて神から逃げるか、または人間の本性を理解できない神の方がどうかしていると反発するか、のいずれかでしょう。しかし、いずれをとっても、神に背を向けて生きることになってしまいます。

 ところが、イエス様という神殿を持ち、その中で生きるキリスト信仰者は、神から逃げることもなく、神に反感を抱くこともなく、神に向き合って生きています。それは、信仰者が十戒を内面的にもしっかり100パーセント守り切る汚れなき存在だからではありません。そうではなくて、神の神聖なひとり子が自分を犠牲にしてまで私たちの罪の償いをしてくれたこと、そして自分を身代金のようにして私たちを罪の支配下から買い戻して下さったこと、これらのおかげです。信仰者自身はまだ罪あり汚れありの状態ですが、罪なき汚れなきイエス様を白い衣のように頭から被せられて、それを肌身離さずしっかり掴まっているので、神の御前に立たされても大丈夫なのです。

 ただ、そのように見てもらっている信仰者からすれば、自分の内に残っている罪はなんともバツが悪いものです。神聖な神は罪の汚れを憎み、それを目にしたら焼き尽くさずにはおられない方なのに、イエス様のおかげで自分は大丈夫でいられるというのですから。しかし、まさにここが大事な点なのです。以前だったら自分は罪があるから神に相応しくないという自覚だったのが、今は、イエス様のおかげで神に相応しいものにかえてもらった、それで、罪の方こそ自分に相応しくないのだ、という自覚に変わりました。その時、十戒が完全に守られている状態が自分にあることに気づきます。これは実に奇妙なことです。自分は守り切れていないのに、神のひとり子イエス様と結びついていれば守り切れる者として見なされる。そうなると、あとはもう自分をその見なされている状態に合わせて行くしかありません。それはどのようにして起こるでしょうか?

まず、十戒に照らして自分には罪があることに気づかされます。その時は、先ほども申しましたように、罪の告白をして罪の赦しを受けます。それで再び神の方に向き直って永遠の命に至る道を歩み始めます。自分には罪が残存しているのにイエス様のおかげで神に受け入れられている、それで罪の方こそ自分に相応しくない、という自覚が戻ります。しかし、また守れないで自分の内に宿る罪に気づかされます。そこで、罪の告白をし、赦しを受ける。そして、神に受け入れられていることを確認する。こうしたことが、この世を去る時までずっと繰り返されます。ルターが教えているように、キリスト信仰者が完全になるのは、まさにこの世を去って、罪を宿す肉が朽ち果てる時ということになります。この繰り返しが、十戒を守り切れている状態に自分を合わせて行くということです。毎日毎日一生かけて合わせて行きます。イエス様にしっかり繋がっていれば、難しいことはなにもありません。

 そういうわけで十戒は、イエス様の十字架と復活の後は、まさにイエス様と抱き合わせになって、ワンセットになって全ての人間にどうぞと提供されているのです。これを受け取らない手はありません!

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

 

説教「キリストに仕える」木村長政 名誉牧師、コリントの信徒への手紙 4章1~5節

第14回 コリントの信徒への手紙、礼拝説教2月25日

  今日の御言葉は4章からであります。パウロはここで
自分が使徒として伝道しているその使命をまず語っています。1~5章を見ますと、
「人は私たちを、キリストに仕える者、神の秘められた計画をゆだねられた管理者と考えるべきです。」と書いています。
パウロは伝道していく上で、伝道者自身の身分を明らかにすることが大切であることをよく知っていました。ですから自分の信仰を証するたびおりにふれこのことをはっきり示していきました。  
 伝道者は普通の信仰者と全く同じ立場にありながら神の言を取り次ぎ、神についての業を示し、神の奥義を管理している者であると言っているのです。  
神に仕える者です、と言うのです。厳密に言えば、これは神より低い者です。という字です。パウロは神に仕えて、神の仕事をする人間であるにちがいありませんが、何より、神よりは低い者と言う事が言いたかったのであります。
 詩篇8篇5節に有名な言葉があります。   
「人の子は何者なので、これを顧みられるのですか。ただ少しく人を神より低く造り、なお栄光と威光を冠としていただかせました。」とあります。  
人が神より低く造られているということは信仰生活において重要なことです。    
パウロは、まずそれを言って、つづいて、自分たちが神の奥義の管理者であると言います。    
管理者というのは、家の中のことを取り仕切る者ということであります。    
パウロはよく、奥義という字を用います。奥義といっても信仰に何か秘伝のようなものがあるわけではありません。奥義は福音以外にはありません。神が人間を救うために御子をおつかわしになったということ程の奥義はないのであります。
 伝道者の仕事は一つしかありません。それは福音を伝えることであります。パウロは言います。自分には誇るべきものは何一つありません。ただ、誇るべきことは福音だけであると。それも自分のものではありません。神のものです。自分のもののように扱うことはできないことであります。
 福音を伝えることはそう簡単なことではありません。福音を信じさせねばならないからです。信じる人間の方にはいろいろその人によって事情が違います。
それに応じて、伝えなければならないのであります。有能な管理人が家の中を取り仕切るように福音による生活をするように導き、福音を生かすように取り仕切る。これは困難な問題であります。
彼は、何も特殊な人間ではない、ただこの任務を与えられているのであります。しかも今自分が伝道してきたコリントの教会の中には争い合っているのです。1章12~13節にみてきましたように、「わたしはパウロにつく、いやわたしはケファにつく。わたしはキリストにつく」といって派閥争いで混乱しているのです。
そういう背景を背負ってパウロは管理者として取り仕切らねばならない。
管理者にとって最も必要なものは何でしょうか。それは忠実なことであります。
イエス様は」主に仕えて忠実であった僕をほめられました。信仰生活は単純な生活ではありません。神に仕える生活であります。神の御喜びになるようにするのが信仰者の生活であります。従って善でありながらかつ忠実な生活をすべての信仰者に求められているはずであります。
信仰者にとって」大切なことは神に対してどうであるかということでしょう。それなら、神に対して忠実であるかどうか、誰が定めるのでしょう。自分が正しいかどうか外から見たのでは分かりません。
誰が、定める権威を持っているのでしょうか。パウロはここで、まことにきびしいことを言っています。3節です。
「わたしにとっては、あなた方から裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません。しかし、ここでパウロが言っていることはそんな生易しいことではなかったのであります。
パウロはここで「ただ神がさばく」とは言っておりません。自分が自分を省みて何らやましい事がないとしてもそれで義とされるわけではない、と言っているのです。これが大切なことです。大事なのは「義とされる」ということであります。
義とされるといっても、信仰に入ることについて事情を知らない人はただ神を信じることである、とか 神に従う生活である・・・といった程度にしか考えないでしょう。しかし、信仰生活を知っている人はそうではない。信仰を持つということは神によって救われることであることを知っております。しかも救われるというのは、
「神によって義とされる」或いは、「信仰によって義とされる」ことであると分かっているはずです。
パウロがここで言っているのは「義とされる」というのは信仰生活に入る始めのことだけでなく、いつでも、毎日の生活の中で義とされている。私たちの力となってくれている。望みなのです。
人の目も世間の目も何も恐れることはない。そんなものが、わたしを義として救ってはくれないからです。自分を罪から救い、まことの平安を与えてくれることはできない。裁く力もない。世間の人は自分たちと同じ罪人です。世間の人が、いろんな事を言ったり、批評しても、どうせ同じ罪人で50歩100歩大したことはないのです。自ら、清くない者が他の人を裁いても意味のないことです。それより、自ら全く清くかつ人を清くする力を持っている方こそまことに裁くことのできる方であります。
そこでパウロは最後の所で言います。「私を裁く方は主である」と。
主イエス・キリストのみ自ら、清くあるだけでなくその十字架によって他の人を清くすることができる義とすることができるお方であるのです。
そうすると自分を裁くということについて全く態度が変わってくるのではないでしょうか。裁く主はただ主イエス・キリストだけである。そこでパウロは又言うのです。
「だから主が来られるまでは何事についても先走りをしてさばいてはいけない」と言うのです。
ここで言う「先走りをするな」というのは、あわてるな というのではなくて、主の来られるのを待つということです。
裁きは主に委ね、主が来られるまで待つということなのです。
その本当の意味は自分が定めてしまわないで主がお定めになるのを待つということではないでしょうか。やさしく言えば、まことのさばきというのは自分で自分を決めつけることではなくて全く神にお任せすることであります。
このことは実はどんな良心的なことよりももっときびしいことであると言えましょう。
真実のすべてを御存じの神にゆだねることです。同時にこの神は自分を救って下さる神様でもありますから、心安らぐことであるとも言えます。
パウロは続いて5節後半の部分で言っています。
「主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し人の心の企てを明らかにされます。その時、各々は神からおほめにあずかります。」
これは驚くべきことであります。神の裁きにおいては隠されていることも皆明るみに出されるということです。良心の目に見えないことでも神の目にはあきらかであるのです。
しかしここではそれだけでなく、ほまれもあたえられるであろうと言っています。
神のさばきがある。私たちは恐ろしい事しか考えません。しかし、ほんとうに調べるのであればそこにほまれが与えられても不思議ではないでしょう、というのです。
神にすべてをゆだねるのであります。救って下さる神に一切をゆだねるようにすることであります。それなら裁きはこわいことではなくて平安であると言ってもいいのではないでしょうか。
私たちの一生は考えようによってはまことに短くひとときのようです。大切な自分に与えられた生活を主に委ねきって信仰生活を全うすることはすばらしいことであります。
アーメン、ハレルヤ!

 

説教「死者のための祈り」神学博士 吉村博明 宣教師、第一ペテロ3章18-22節から4章6節まで

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1. はじめに

今日の福音書の日課はマルコ1章12~13節、イエス様が荒野で悪魔から試練を受けてそれに打ち勝った出来事についてです。マルコ福音書ではたったの2節の記述ですが、マタイ福音書とルカ福音書では詳細に記されています。この出来事については、3年前の四旬節第一主日の礼拝説教で詳しく解き明しました。今回読み返してみて、特に変更することもないので、今日は使徒書の日課をもとに説教をしていこうと思います。(イエス様の荒野の試練について興味ある方は説教「悪魔の攻撃、イエス様の勝利、天使の見守り」(2015年2月22日)をご覧ください。)

 本日の使徒書の日課に定められているのは第一ペトロの3章18節から22節までですが、実は4章6節までひとまとまりになっています。それで先ほど併せて読んで頂きました。どのようにひとまとまりかと言うと、3章18節と19節はキリスト信仰者の間で唱えられていた決まり文句を引用したものと考えられています。20節以下でペトロは、引用した文句をもとに教えを述べています。それでは、18節と19節が決まり文句だとどうしてわかるのか、と言うと、聖書の研究者たちがギリシャ語の原文を再構成した時にそう見なしたからです。ギリシャ語のテキストでは、この2節は段落を下げて書かれています。

 第一ペトロ3章18節から4章6節には、聖書を読む者を驚かせることが書いてあります。イエス様が十字架で死なれてから復活するまでの二晩三日の間、死者のいるところに行って、そこで福音を宣べ伝えたということです。3章19節「霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました」。4章6節ではもっとはっきりと、「死んだ者にも福音が告げ知らされたのは、彼らが、人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためなのです。」

 死んだ者たちが「神との関係で霊において生きるようになるため」に彼らにも福音が告げ知らされた、と言う。それは、生前イエス様の十字架と復活のことを聞かなかった人でも死んだ後で告げ知らされるので神と関係を持って生きられるようになる、ということなのか?それでは、この世でクリスチャンでなくてもみんなあの世でクリスチャンになれて天国に行けるということなのか?ペトロはもちろん、そんなことは言っていないのですが、それではどうしてそう聞こえるような書き方をするのか?一体ここはどんな意味なのか?これから、それを見ていこうと思います。

 第一ペトロは語学的にも内容的にも難しい文書です。大学の神学部で勉強していた時、使徒書簡の原文講読を受講したのですが、パウロ以外の書簡の担当は歴史言語学の専門家でした。そのような方でも、ペトロとヤコブは大変だぞ、覚悟して受けなさい、と言っていたのを思い出します。(個人的には第二コリントが使徒書簡で一番大変だったと記憶しています。もちろん、ペトロとヤコブも難しかったですが。)そういうわけで、今回の説教で十分な解き明しが出来ないかもしれません。疑問や課題が残るかもしれませんが、とにかく最善を尽くしてまいりたいと思います。

2.死と罪に対する勝利が陰府にも響き渡り、真理として打ち立てられた

まず、ペトロが引用した、キリスト信仰者の間で流布していた決まり文句です。3章18節と19節です。
「キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者イエスキリストたちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。」

 ペトロはどうしてこの文句を引用したのかと言うと、直前の3章17節まで、キリスト信仰者の倫理的な課題について述べていました。その課題が現実の壁にぶつかった時の励ましの言葉として引用したのです。倫理的な課題とは何か、と言うと、キリスト信仰者たる者は常に善を追い求めよ、悪が襲ってきても、それと同じ手口を使うな、あくまで善に留まるべし、とペトロは勧めます。キリスト信仰者は損することを覚悟で善に留まる、変な奴らだと思われるかもしれない。それで、お前たちは一体何に希望を置いているのだ、と聞かれるかもしれない。その時は、穏やかに敬意を持って、やましさのない良心を持って説明しなさい。そうすれば、キリスト信仰者の生き方を罵った者たちは恥じ入ることになるだろう。いずれにしても、善を行って苦しむことが神の御心なら、その方が悪を行って苦しむより良いことなのだ。苦しみが伴うからといって、善をすることを恐れてはならない。ここでペトロは「なぜなら、イエス様がまさにそうだったのだから」とたたみかけて、決まり文句を引用するのです。新共同訳では「なぜなら」はありませんが、ギリシャ語原文にはあります。

 決まり文句の最初の18節では、イエス様が受けた苦しみが何のための苦しみであったかが述べられます。神から見て罪びとにしかすぎない人間、罪のゆえに神の義を持てない人間、こんな人間が罪を赦されて神の義を得ることが出来るために、イエス様は途轍もないことをして下さった。神聖な神のひとり子でありながら、人間の罪を全て自分に覆い被せて、それを十字架の上にまで運んで、そこで神の罰を人間の代わりに受けて死なれた。このイエス様の身代わりの犠牲のおかげで、神から罪の赦しを受けられる道が人間に開かれた。イエス様を救い主と信じて受け入れれば、罪の赦しを受けられるようになった。罪の赦しを受けた人間は神聖な神の前に出されても、イエス様のおかげで、私にはやましいところはありません、と言えるようになった。この「イエス様のおかげで」ということがある限り、人間は、これからは生き方を改めよう、罪を忌み嫌い、神の意思に沿うように生きよう、という心が芽生える。それは、たとえ善を行うことに苦しみが伴おうとも、神の御心ならば、そうしよう、という心である。このように、イエス様を救い主と信じて受け入れると、結果として心の入れ替わりが伴う。イエス様の十字架の死の重みを知れば知るほど、心の入れ替わりも一層揺るがないものとなり、古い生き方はもうあきらめて追いかけて来なくなります。

 18節の「キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされた」というのは、イエス様は肉体の面では死なれたが、霊の面では生きる者にされた、ということです。具体的に言うと、十字架にかけられて死なれたが、三日後に天地創造の神の力で復活させられて、もう普通の肉体の体ではなく復活の体を持つ、霊的な存在として生きる者になった、ということです。イエス様の死と復活が何をもたらしたかと言うと、イエス様が人間の罪を全部引き受けて罰を受けたので、罪にはもう人間を罰に定める力はなくなりました。罪は、人間を永遠の死に陥れる力を失ったのです。もちろん、罪は人間に残るのですが、イエス様を救い主と信じて受け入れていれば、干からびた虫けらのようになっていて、人間を永遠の死に追いやる力はない。しかも、イエス様が死から復活されたおかげで、永遠の命への扉が人間に開かれました。イエス様を救い主と信じて受け入れた人間は、永遠の命に至る道に置かれて、その道を歩むようになります。死から復活されたイエス様と繋がっていれば、神聖な神の前に出されても大丈夫でいられます。18節の「神のもとへ導く」と言うのは、「神の前に出されても大丈夫な者に変えて神のもとへ連れて行く」ということです。

 決まり文句の後半である19節を見てみます。「霊において、キリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。」これは、イエス様が十字架の死の後、三日後に復活するまでの間、陰府に下った、ということです。このことは、伝統的なキリスト教会の礼拝で唱えられる使徒信条の中でも言われています。(「霊において」は訳が違うと思います。英語訳NIVとドイツ語ルター訳はこの訳でいっていますが、ドイツ語共同訳とスウェーデン語訳とフィンランド語訳はそう訳していません。ギリシャ語原文のこの箇所εν ωは接続詞句と見るべきです。「霊において」という訳ならば、ここはωでよかったと思います。)

陰府というのは、死者が眠りにつく場所です。よく誤解されますが、炎の地獄とは異なります。キリスト信仰は聖書に基づけば、死者の復活と最後の審判というものがあります。それで、亡くなった方は復活の日までは神のみぞ知る場所にいて眠りにつきます。「陰府」と言うと、暗い陰気な感じがしますが、これは人間が墓に葬られるのでどうしても地下のイメージで描かれるからでしょう。しかし、地面をいくら掘っても、死者が眠っている世界など出て来ませんから、これは天の御国と同じように、私たちの五感や科学的な数値では解明できない次元・空間です。ルターは、痛みや苦しみから解放された、復活の日までの心地よい眠りの時と言っています。いずれにしても、神のみぞ知る場所としてしか言いようがありません。復活の日が来ると復活させられて、神の審判を受けて、天の御国に迎え入れられるか、炎の地獄に投げ込まれるか、決定が下されます。他方で聖書には、復活の日を待たずして神の御国に迎え入れられたと理解できる人物もいます(エノク、エリア、モーセも?)。しかし、基本はあくまで復活の日までは眠りにつくということです。

イエス様は、十字架の死の後、復活までの間、陰府に下り、そこで「宣教しました」。「宣教した」と言いますが、イエス様は陰府で何を教えたのでしょうか?それは、神のひとり子の犠牲の死と死からの復活が起こった、ということ。そして、そのおかげで人間を永遠の死に陥れようとする罪は力を失い、人間に対して永遠の命の扉が開かれた、ということです。つまり、亡くなった者たちが眠りについているところでも、死と罪に対する勝利が響き渡った、死と罪に対する勝利が真理として打ち立てられた、ということです。生きている者がいるこの世に響き渡って打ち立てられたのと全く同様に、死んだ者の世界でも響き渡って打ち立てられたということです。

 ペトロは、決まり文句の引用を終えると、陰府の中にいる、「捕らわれていた霊たち」が何者かを解き明かします。それは、「ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者」です。どうして急にノアの箱舟のことが出て来るのでしょうか?それは、イエス様の時代のユダヤ教社会の人たちの関心事の一つとして、ノアの箱舟の時代に洪水に流されて滅んでしまった者たちは今どうしているか、ということがあったのです。どうしてそんなことが関心事としてあったとわかるのか、と言うと、当時ユダヤ教社会に出回っていた書物の中にそのことが書かれていたのです。(エノク書という書物にあったと思います。大学の神学部時代に「黙示主義思想」の講座があって、そこでエノク書をはじめ、死海文書などを読みました。ただ10年以上も前の話なので、もうはっきり覚えていません。本も手元にないので、記憶に頼るだけですが、ここでは詳しく立ち入る必要はないと思います。)

創世記6章にあるように、ノアの時代、この世の状態は非常に悪く、悪が蔓延していた。「神の子」らが人間の娘たちと交わって子供を産み、そのような人間がどんどん増えていくことが言われています。この「神の子」というのは実は、天使の中でも悪い方の天使、つまり悪魔の側につく天使と理解されていきます。とにかく、この世は一気に悪が蔓延してしまった。それで神は全てのものを一掃してしまおうと大洪水を起こすことを決めた。どんな悪が蔓延したかは創世記6章には具体的には述べられていません。ただ、後のアブラハムの時代にソドムとゴモラの二つの町が悪のゆえに天から火を浴びせられて滅んだのを思えば、少なくとも同じような悪がもっと広範囲に行われていたのでしょう。その大洪水で滅ぼされた者たちの霊が「捕らわれた霊」です。そのような、既にこの世にいない悪のところにまでイエス様は行って、死と罪に対する勝利を告げ知らせたのです。こうして、死んだ者が復活の日を待っている陰府にも、勝利が響き渡り打ち立てられました。悪はもう、陰府でさえも力を持てなくなりました。22節に「天使、また権威や勢力は、キリストの支配に服している」と言われている通りです。「権威」「勢力」というのは、霊的なものを意味します。

 陰府にもイエス様の勝利が響き渡って打ち立てられ、悪が力を発揮できなくなったとすれば、それでは、大洪水で滅んだ者たち以外の霊、つまり普通の死者たちはどうなるのか、そのことが4章の6節で出て来ます。それについては後で見て行きます。

 「この箱舟に乗り込んだ数人、すなわち8人だけが水の中を通って救われました。この水で前もって表わされた洗礼は、洗礼今やイエス・キリストの復活によってあなたがたを救うのです。洗礼は、肉に汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることです。」この世に悪が蔓延した時にあっても、それに追従せずに神の意思に沿うように生きたノアとその身内の者が生き残りました。「水の中を通って救われた」と言うのは、悪に巻き込まれることから救われた、しっかり神の意思に留まった、ということです。ノアたちを巻き込もうとした悪は大洪水で滅ぼされた。それで水がノアたちを救った、ということになります。

これと同じようなことが、洗礼でも起きます。洗礼を受けることで、人間は死と罪の力を無力にした復活の主イエス様に結びつけられます。このように洗礼の水は、人間を永遠の滅びに陥れる悪から救い出します。21節「洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めること」と言われますが、その通り、洗礼を受けても人間には罪は残ります。もちろん、それは力のない、干からびたものですが、それでも汚れは残ります。そこで大事になってくるのは、毎日、罪の赦しの中に留まって、心の入れ替わりが揺るがないようにすることです。そうしないと干からびたものが命を吹き返してしまうからです。罪の赦しの中に留まって心の入れ替わりをしっかり保つことが出来たら、いつの日か神の前に出されても、イエス様のおかげでやましいことはありません、と言うことが出来ます。「神に正しい良心を願い求めること」というのは、正確に言うと、洗礼というものは、そういう潔白な良心を全身全霊で希求するように人間を変えるものということです。

3.全ての空間、次元に福音が告げ知らされた以上、死者にも知らされている

以上、洗礼を受けることで人間はイエス様に結びつけられて、悪から守られ、神の前で潔白な良心を持った者になれる、ということがわかった段階で、ペトロは4章1節で悪に怯んではならない、苦しみをもたらしても善をすべき、という倫理的課題に戻ります。イエス様も苦しみを受けたのだから、我々も同じ心構えでなければならない、と言います。ただし、イエス様と同じようにしなければならないと言っても、それは、憧れの人とか尊敬する人が辿った道を自分も辿ることでその人に近づける、自分もその人のようになれる、ということとは違います。既にみたように、イエス様はこの地上にも、また陰府にも死と罪に対する勝利を響き渡らせ打ち立てられた。しかも、悪い力は全てイエス様に服従するだけで、彼に対しては何の力も及ぼせない。キリスト信仰者はこれだけ完璧に守られている環境の中にいる。そうなると、善をすることが苦しみをもたらすとしても、その苦しみはどこかでイエス様の力で牛耳られていて本当に自分を支配する力はないとわかります。それがわかれば、その苦しみを受けて立つことはさほど大変なことでなくなります。そういうことだと思います。逆に、もし苦しみを受けて立たないのなら、せっかくイエス様が犠牲を払ってもたらしてくれた完璧な環境を放棄してしまうことになります。とにかく、中傷や迫害に対しては、そういう心構えで臨みなさいということが4章4節まで言われます。

5節に入って今度は、それでは中傷や迫害をする者たちはどうなるのか、ということが言われます。「彼らは、生きている者と死んだ者とを裁こうとしておられる方に、申し開きをしなければなりません。」その者たちは最後の審判の日に、神に対して、自分たちの行ったことや生き方について会計報告をしなければならない。ここはプラスでした、ここはマイナスでした、と。しかし、人間の髪の毛一本まで数えておられる神は全てをご存知です。虚偽の報告はすぐばれてしまいます。神の前で何も隠し事はできません。

 次の6節が要注意箇所です。「死んだ者にも福音が告げ知らされたのは、彼らが、人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためなのです。」なんだかわかりそうでわからない文章です。こうなるともう、ギリシャ語の原文を見た方が分かりやすいです。

出だしにあるギリシャ語のある語句(εις το)をどう訳すかによって違いが出て来ます。英語訳NIVとスウェーデン語訳とフィンランド語訳は、「そのために/それゆえに、死んだ者にも福音が告げ知らされた」となっています。それでは、なんのために/なにゆえに、死んだ者にも福音が告げ知らされたのか?それは、前の5節に言われていた、神は生きている者だけでなく死んだ者をも審判にかける、それゆえ死んだ者にも福音が告げ知らされたのです。イエス様のことや福音を告げ知らされなかった人がこの世を去って最後の審判の日を向迎える時、神から「お前はわが子イエスが命と引き換えにもたらした罪の赦しを受け取らなかった。だから天の御国には入れない」などと判決を受けるのは理不尽です。聞いてもいないのに、そんなこと言われても困ります、としか言いようがありません。それで、審判にかける以上は、みんな同じ立場、福音が告げ知らされたという立場に置かれなければならないのです。

 6節を続けて見ていきます。新共同訳は、「彼らが、人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためなのです」と言っています。この訳はどうでしょうか?死んだ者に福音が告げ知らされたのは、永遠の命に与って生きられるためであったと、告げ知らせたら、それでもう救われると受け取られかねない書き方です。しかし、原文は、死んだ者に福音が告げ知らされたのは、二つの目的のためだとはっきり言っています。一つは、この世で肉体を持つ人間と同じように審判を受けるためという目的、もう一つは、神と同じように霊的な者として生きるためという目的の二つです。このように、審判を受けるという目的と永遠に生きるという目的の二つがはっきりあります。新共同訳は、永遠に生きるという目的だけです。審判を受けるという目的はメルトダウンしてしまっています。そんな訳では、死んだ者は皆救われるような理解がされてしまうでしょう。それを狙ったのでしょうか?

このように、死んだ者への福音の告げ知らせには、審判を受けることと永遠に生きることの二つの目的があった。実はこれは、生きている者に福音を告げ知らせる場合と全く同じことです。告げ知らせる仕方は異なっていても、生きている者にも死んだ者にも同じ福音が告げ知らされ、それぞれの世界で勝利が響き渡り打ち立てられました。それは、生きている者も死んだ者も同じように審判を受けるためであり、審判の結果次第で永遠の命に与れるためだったのです。永遠の命に与るということに関して、死んだ者が生きている者に比べて優遇を受けるということではありません。福音の告げ知らせについても、審判についても、判決についても全て、死んだ者は生きている者と同じ立場にあるということです。

 ここで問題になるのは、眠っている人がどうやって、イエス様を救い主として受け入れる、受け入れない、の態度決定ができるかということです。福音を告げ知らせたということは、告げ知らせる側が相手に態度決定を期待するからそうするわけです。態度決定は生じないとわかっていれば、告げ知らせなどしないでしょう。しかし、眠っている者は、どうやって態度決定が出来るのでしょうか?ここはもう、神の判断に任せるしかありません。生きている者がする態度決定に相当する何かを神は見抜かれるのでしょう。しかし、それは人間の理解を超えることなので私たちは何も言えません。神に任せるしかありません。神は最後の審判の日に全ての人の全てについて記された書物を開き、福音と一人一人の関係がどのようなものであったかを判断します。私たちはその書物を見ることは出来ません。

4.キリスト信仰者の死者のためにする祈り

 以上、ペトロが教えていることは、死者にも福音が告げ知らされたのは、死者も生きている者と同じ立場に置かれて審判を受け、判決次第で永遠の命に与れるようにするためである、ということが明らかになりました。死者に福音を告げ知らせたので、もう全ての人が永遠の命に与れるのだ、と教えているのではありません。ここで最後に、ペトロの教えから、キリスト信仰者が死者のためにどんな祈りをするかを見てみたいと思います。

あるキリスト信仰者が最愛の人に先立たれたとします。その愛する人はキリスト信仰者ではありませんでした。もし、ペトロの教えが、死者にも福音が告げ知らされてキリスト信仰者でなかった人も皆救われる、というものであれば、この人は慰められるでしょう。しかし、ペトロの教えはそうではありませんでした。死者にも福音は告げ知らされるが、その先は判決次第ということです。それでは落ち着きません。しかし、たとえ愛する人がキリスト信仰者でなくとも、その人と復活の日の再会を神に願い祈ることは許されると思います。先に申し上げたように、信仰者でなかった死者は、福音が響き渡って打ち立てられたところに行くのであり、神はそこで何かを見抜かれるからです。それがなければ福音の告げ知らせなどしなかった筈です。信仰者は、復活の日の再会の希望に生きたいと思うのなら、それこそイエス様としっかり繋がり、罪の赦しの中に留まって生きていかなければなりません。イエス様から離れれば、再会の希望は廃れていくでしょう。

愛する人が別の宗教に属していて、葬儀もその宗教のもので執り行われたのに、果たして、その人との復活の日の再会をキリスト教式に天地創造の神に願い祈ることなど許されるだろうか、などと思われるかもしれません。それぞれの宗教は、この世の人生を終えたらどういう経路を辿って永遠の至福に到達し、愛する人たちとどのように再会できるか、ということについてそれぞれのシステムがあります。キリスト教では、復活があり、最後の審判があり、天の御国の永遠の命があります。復活の前には眠りの時があります。キリスト信仰者だったら、このシステムでいくしかありません。他の宗教はきっと、こら、こっちで見送った者を勝手に横取りするな、と怒るかもしれません。しかし、キリスト教では、福音を告げ知らされずにこの世を去っても、取りあえずは告げ知らせがあるところに行って眠る、と言っているので、他宗教の人もそこに行くのです。勝手に横取りしたのではありません。亡くなった方がそこにやって来るのです。キリスト教はこういうシステムですので、キリスト信仰者が死者のためにする祈りは、復活の日の再会の希望が中心になると言えます。亡くなった方が身近な方、愛してやまない方であればあるほど、その希望は強く具体的なものになります。

 そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、私たちも復活の日の再会の希望に生きるために、イエス様にしっかり繋がり、罪の赦しの恵みの中に留まってまいりましょう。既に先立たれてしまった方は、もう神にお任せするしかありませんが、この人と復活の日に再会したいと思う方がいらっしゃれば、その人のために祈り、可能な限り福音を伝えてまいりましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

説教「主の栄光の御姿」木村長政 名誉牧師 、マルコによる福音書9章2〜13節

 

今日の礼拝は教会の暦で「主の変容主日」となっています。

イエス様の姿が、3人の弟子たちの前で、真白い衣をまとった姿に変貌された奇跡の出来事であります。

 この出来事があってイエス様はご生涯のうち最も厳しい十字架の苦難へと進んでいかれます。その重要な決意を弟子たちに現された大切な出来事であります。イエス様の公生涯の大きな転換点であります。

 1年に一度だけ必ず語られる御言葉ですから、今日の礼拝ではどうしても聞いていかなければならない大切な聖書だと思います。ですからマルコの他にマタイもルカもしっかりと聖書に書いているわけです。

福音書記者マルコはわりと短く簡単に書くのですが、この出来事についてはかなり詳しく記しています。

ルカ福音書の方では9章28〜36節で同じくらい詳しく記しています。

マルコ9章をみますと「6日の後イエスはただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて高い山に登られた。」とあります。この高い山はおそらくヘルモン山でしょう。イエス様は弟子たちの中から3人だけを選んで高い山に登られた。そして、この3人だけにはしっかりと見せておかねばならない重要な事柄であったからでしょう。

 ところで8章31節以下にイエス様は弟子たちにご自分の十字架の死と復活することも予告されています。31節「それからイエスは人の子は必ず多くの苦しみを受け長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され3日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。」

これは聞いた弟子たちはどうだったでしょうか。あのイエス様の心に触れる話に感動し多くの病人をたちどころに治されました。

 そんなイエス様が多くの苦しみを受け殺されるのだと言う。とんでもない。そんなことがあってなるものかと弟子たちは思ったでしょう。

しかも、殺されて死んだのち、3日後に復活すると言われた。これもまたとんでもないありえない事でしょう。驚きと同時に彼らには理解できないことであったでしょう。34節以下でとても大事なお話を群衆と弟子たちに語られています。「私の後に従いたい者は自分を捨て自分の十字架を背負って私に従いなさい。自分の命を救いたいと思うものはそれを失うが、私のため、また福音のために命を失う者はそれを救うのである。人はたとえ全世界を手に入れても自分の命を失ったら何の得があろうか。」ここで福音のため命を捨てて、永遠の命を得る深い真理を語られている。理解できない重要な話であります。そこでイエス様は彼らが話を聞いただけでなく、6日の後に新たなすごい光景を見せるということをされるのであります。信頼する3人の弟子だけを連れて高い山に登られたのであります。

 ルカ福音書の方では、祈るために、イエス様は人里離れたところに退かれた。そうしてまた山に登って父なる神との時を持たれた。祈りの中で天の父と語られた。ご自分の十字架の死の苦難と復活という神様のご計画に従って行こうと重大な決意を改めてなさっていった。

その決意をご自分の姿が変わるという驚くべき栄光の姿を3人の弟子に見せておられるのです。2節から4節を見ますと「イエス様の姿が彼らの目の前で変わり、服は真白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばないほど白くなった。エリアがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。」とあります。「イエス様の御姿が変わる」という「変わる」の言葉はマタイ 17章2節の方でも用いられています。「イエスの姿が彼らの目の前で変わり顔は太陽のように輝き服は光のように白くなった」と記しています。

 これ以外にはローマの信徒への手紙12章と第2コリントの手紙等用いられていますが、この2箇所では、パウロは聖霊の働きとの関係で用いていて、ここでの「変わる」は例えば第2コリント11章13節には「装う」と訳されています。外面で見た姿を装うことです。ところで、イエス様の御姿が変わったこの場合は単に「服が真っ白に輝いた」という表面的なことだけでなくイエス様の内面も含んで、全人格的な変貌であります。本質の変化なのです。まさに神の子である主の御姿に変わったのであります。それで7節に雲が現れて彼らを覆い雲の中から声がしたのです。「これはわたしの愛する子、これに聞け」と。天の父なる神の声です。これはわたしの愛する子である。神の子である主の御姿を目に見える形で弟子たちに示されたのであります。

 するとそこにエリアとモーセが現れて、主イエス様と語り合っていたのであります。エリアもモーセも歴史の中で特別な存在でありました。預言者といわれたエリアは死を経験することなく天に上げられた人であります。旧約聖書列王記下2章11節に書いてあります。モーセはイスラエルの民をエジプトから導き出した偉大な人と言えるでしょう。シナイ山で十戒を授かったその時は、人が恐れて近づけない程の神の栄光を受けて顔が輝いたと言われた。

旧約聖書出エジプト記34章30節に書いてあります。エリアとモーセが現れたことは大変な驚きでした。それでペテロはこの光景を見て思わず何がなんだかわからず言ったのです。「先生、私達がここにいるのは素晴らしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。1つはあなたのために、1つはモーセのために、もう一つはエリアのためです。弟子たちは非常に恐れていたのである。」とあります。

ペテロは神に対する恐れと聖なる喜びにひたって思わず「小屋を造りましょう」と言っています。主の栄光がそこにとどまってほしいと願ったのではないでしょうか。

天の空中で旧約聖書を代表するエリアとモーセが現れて主イエス様と3人で語り合っている、この栄光の瞬間と光景を3人の弟子たちがどんなに驚きつつ恐れて見ていることでしょうか。これはもうこれまでに見たこともない考えられないシーンの中に彼らが、今、特別な空間にいるということです。3人の弟子達から見ればこの世の常識からは考えられない光景であり、奇跡の出来事が展開されているのです。この世の持っている時間と、人間のこの世での目と耳と肌で感じている常識ではとてつもない次元の違う世界が展開し示されているのです。真白の衣をまとい太陽の光のように輝く顔へと変身されている、空中での主イエス様の姿はこれは終末の時、よみがえられた神の子の栄光の姿であります。終末の次元の中ですべてが新しくされた神の国での栄光の座におられるよみがえりの神の御子主イエス様の栄光の御姿が、今、前もってあらかじめ時間空間を超えて先取りして今、モーセとエリアを伴ってあらわれておられる。終末の神の時間の支配の次元の中で復活された主がそのまま空中で現れておられるのです。ですから弟子たちの目にはとても考えられない夢のような光景、驚きの奇跡が空中で展開されているのです。その時雲が現れ彼らを覆い雲の中から声があった。「これはわたしの愛する子、これに聞け」。天からの声は「主が誰であるか」ということを示していました。これから神の子であるイエス様が最後の生涯をどんな方として進んでいかれるかということです。これに聞けそして従え、です。テモテの第一の手紙1章15節には「キリストイエスは罪人を救うためにこの世に来られた」という言葉は真実でありそのまま受け入れるに値します。」とあります。イエス様は神の子であり、このように、罪人を救うために来られた。神の子は人間の罪を身代りに受けて十字架の死をとげる。そしてそういう覚悟をエリアとモーセと確認された。こうして山上での主の変貌の出来事はこれからの十字架の苦難の道へのスタートとなったのであります。来週の礼拝から受難節になっていきます。私たちは今日の御言葉のイエス様が変貌された奇跡を覚えて、たとえ苦難の中にあってもその先に栄光の主イエスキリストとともにあるという信仰を持って希望に生きたいと思います。
アーメン、ハレルヤ!

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