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説教集 | 日本福音ルーテルスオミ・キリスト教会 / 中野区 – 東京

説教集

説教「切り株から萌え出る若枝のように」吉村博明 宣教師、エレミア33章14-16節、ルカ19章28ー40節

主日礼拝説教2018年12月2日 待降節第1主日

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.ルカ福音書には「ホサナ」がない

 本日は待降節第1主日です。教会の暦では今日この日、新しい一年が始ります。これからまた、クリスマス、顕現日、イースター、聖霊降臨などの大きな節目を一つ一つ迎えていくことになります。どうか、天の父なるみ神が新しい年もスオミ教会と教会に繋がる皆様を見守り、皆様も神の愛と恵みのうちにしっかりとどまることができますように、そして皆様お一人お一人の日々の歩みと生活の上に神が豊かに祝福を与えて下さるように。

本日の福音書の箇所は、イエス様が子ロバに乗ってエルサレムに「入城」する場面です。毎年お話ししていることですが、フィンランドやスウェーデンのルター派教会では待降節第1主日の礼拝の時、この出来事について書かれた福音書が読まれる際、群衆の歓呼のところまでくると朗読はいったん止まります。そこでパイプオルガンが威勢よくなり始め、会衆一同一斉に「ダビデの子、ホサナ」を歌い出します。つまり、教会の会衆が当時の群衆になり代わって歓呼の言葉を歌で歌うということです。同じ歌を私たちも先ほど歌いました。この歌は、実にフィンランドやスウェーデンでは教会讃美歌集の一番目の歌です。普段は人気の少ない教会もこの日は人が多く集まり、国中の教会が新しい年を元気よく始める雰囲気に満たされます。時差があるので、あと7時間位したら(スウェーデンは8時間あと)かの地でもこの歌が響き渡るでしょう。
右にある写真をクリックすると、フィンランドのエスポー教会の礼拝で歌われた「ダビデの子、ホサナ」を聴くことができます(ユーチューブ)。

ところで、先ほど皆さんと一緒に歌った「ダビデの子、ホサナ」ですが、今日は北欧の教会のように聖書朗読の途中で歌いませんでした。朗読の後でした。どうしてかと言うと、今年の日本のルター派教会の待降節第1主日に定められた福音書はこのルカ19章でして、そこではマルコ、マタイ、ヨハネとは異なり、群衆の歓呼の中に「ホサナ」の言葉がありません。それで、この歌で聖句の朗読にかえるのはちょっとよくないと思い、今回は聖句を一通り読んでいただいた後で歌うことにした次第です。それでは、マルコ、マタイ、ヨハネ福音書の群衆の歓呼に「ホサナ」があるのに、どうしてルカ福音書にはないのでしょうか?ルカは書き忘れたのでしょうか?

これも毎年お話ししていることですが、手短に振り返ります。まず、「ホサナ」というのはアラム語の言葉で(הישע-נא、ギリシャ語ωσαννα)、もともとはヘブライ語の「ホーシィーアーンナァ(הושיעה נא)」から来ています。意味は「主よ、どうか救って下さい。どうか、栄えさせてください」です。ヘブライ語は旧約聖書の言葉ですが、アラム語というのはイエス様の時代の現在のパレスチナの地域で話されていた言葉です。ヘブライ語の「ホーシィーアーンナァ」がアラム語に訳されて「ホサナ」になりました。そういうわけで、この言葉はもともとは天と地と人間の造り主である神に救いをお願いする意味でした。それが、古代イスラエルの伝統として群衆が王を迎える時の歓呼の言葉として使われるようになりました。

どうしてルカ福音書にはこの、王を迎える歓呼の言葉が抜け落ちたのでしょうか?これは4つの福音書がどのようにして出来たかというとても大きな問題に関わるので、ここでは立ち入らないで、「ホサナ」がルカにないことをどう考えたらよいかについて簡単に述べておきます。この福音書と使徒言行録の記者とされるルカは、イエス様のことをユダヤ民族という一民族の枠を超えた全人類の救い主であるという観点を他の福音書より強く出す傾向があります。それなので、イエス様を「王」と呼ぶ時も、全世界の「王」という意識が強くあったと思います。「ホサナ」というのは、今申しましたようにユダヤ民族が自分たちの王の凱旋の時に使う歓呼の言葉でした。それでルカにしてみれば、群衆の歓呼を記述する際、イエス様は神から祝福を受けて神の名において到来する王であるということが読者に伝われば、それで十分。あえてイスラエルの民族性を出さなくても良しとしたと考えられます。もちろんマルコとマタイとヨハネも、イエス様を一民族の王に留める意図はなかったでしょうが、彼らは直接耳で聞いたこと、あるいは手にした史料にできるだけ忠実たろうとして「ホサナ」を削除しなかったのでしょう。

 

2.王として迎え入れられたイエス様

 さて、エルサレムに入城したイエス様は群衆に王として迎えられました。しかし、これは奇妙な光景です。普通王たる者がお城のある自分の首都に凱旋する時は、大勢の家来や兵士を従えて、きっと白馬にでもまたがって堂々とした出で立ちだったでしょう。ところが、この王は群衆に取り囲まれてはいるが、子ロバに乗ってやってくるのです。読む人によっては、これは何かのパロディーではないかと思わせるかもしれません。この光景、出来事は一体何なのでしょうか?

実はこれはパロディーでもなんでもないのです。毎年お話ししていることですが、大事なことなので簡単に振り返ってみましょう。

イエス様は弟子たちに、まだ誰もまたがっていない子ロバを連れてくるように命じました。まだ誰にも乗られていないというのは、イエス様が乗るという目的のため用いられるという意味です。もし既に誰かに乗られていれば使用価値がないということです。これは、聖別と同じことです。神聖な目的のために捧げられるということです。イエス様は、子ロバに乗ってエルサレムに入城する行為を神聖なものと見なしたのです。つまり、この行為をもってこれから神の意志を実現するというのです。さあ、周りをとり囲む群衆から王様万歳という歓呼で迎えられつつも、これは神聖な行為、これから神の意思を実現するものであると、子ロバに乗ってエルサレムに入城するイエス様。これは一体何を意味する出来事なのでしょうか?

 このイエス様の行為は、旧約聖書のゼカリヤ書にある預言が成就したことを意味します。ゼカリヤ書9章9-10節には、来るべきメシア救世主の到来について次のような預言がありました。

「娘シオンよ、大いに踊れ。/娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。/見よ、あなたの王が来る。/彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ロバの子であるろばに乗って。/わたしはエフライムから戦車を/エルサレムから軍馬を絶つ。/戦いの弓は絶たれ/諸国の民に平和が告げられる。/彼の支配は海から海へ/大河から地の果てにまで及ぶ。」

 「彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく」とありますが、原語のヘブライ語の文を忠実に訳すと「彼は義なる者(צדיק)、神から力を得て勝利する者(נושע)、へりくだった、みすぼらしい者(עני)

です。「義なる者」というのは、神の神聖な意志を体現した者です。「神から力を得て勝利する者」というのは、今引用した個所にあるように、神から力を得て世界から軍事力を無力化するような、そういう世界を打ち立てる者です。「へりくだった、みすぼらしい者」というのは、世界の軍事力を相手にしてそういうとてつもないことをする者が、大軍の元帥のように威風堂々と凱旋するのではなく、子ロバに乗ってとことこやってくるというのです。イエス様が弟子たちに子ロバを連れてくるように命じたのは、この壮大な預言を実現する第一弾だったのです。

 「神の神聖な意志を体現した義なる者」が全世界を神の意志に従わせる、そのような世界をもたらすという預言は、旧約聖書の有名なイザヤ書11章1-10節にも記されています。

「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ち/その上に主の霊がとまる。/知恵と識別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れ敬う霊。/彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。/目に見えるところによって裁きを行わず/耳にするところによって弁護することはない。/弱い人のために正当な裁きを行い/この地の貧しい人を公平に弁護する。/その口の鞭をもって地を打ち/唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。/正義をその腰の帯とし/真実をその身に帯びる。/狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。/子牛は若獅子と共に育ち/小さい子供がそれらを導く。/牛も熊も共に草をはみ/その子らは共に伏し/獅子も牛もひとしく干し草を食らう。/乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ/幼子は蝮の巣に手を入れる。/わたしの聖なる山においては/何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。/水が海を覆っているように/大地は主を知る知識で満たされる。/その日が来ればエッサイの根はすべての民の旗印として立てられ/国々はそれを求めて集う。/そのとどまるところは栄光に輝く。」

このように危害とか害悪というものが存在せず、全てにおいて神の守りと正義が行き渡っている世界はもうこの世のものではありません。聖書の観点では、これは今の世が終わった後に到来する新しい世です。イザヤ書や黙示録に預言されている、神が今ある天と地にかえて新しい天と地を創造される時に到来する世です。その新しい世に相応しく完全な正義を実現する「エッサイの若枝」。それは何者なのか?エッサイはダビデの父親の名前ですので、ダビデ王の家系に属する者を指します。つまり、イエス様のことです。やがて、今の天と地にかわって神の意志が隅々まで行き渡る新しい世が新しい天と地と共に到来する。その時に完璧な安全と完全な正義を実現するのがイエス様ということです。

そうすると、一つ疑問が起きます。確かにイエス様はこの世に送られてエッサイ・ダビデ家系の末裔に加えられた。また神の霊を受けて、神の意志や神の国つまり将来到来する新しい世について人々に教えた。そして、子ロバに乗ってエルサレムに入城した。確かにこれらの預言は成就したとわかりますが、しかしながら、イエス様がこの世におられた時に軍事力が無力化する世界、危害も害悪もない世界、神の意志が隅々まで行き渡る新しい世はまだ来なかったのではないか?従って、預言は完結しなかったのではないか?

3.一民族のではなく全世界の王として

 実は、これらの預言はイエス様が再臨つまり次に来られる時に実現するもので、外れたということではないのです。イエス様が最初に来られた時、預言の一部は実現したが、それは預言全体の実現が開始されたということで、イエス様の再臨をもって全てが完結するというものなのです。イエス様は最初に来られた時、無数の奇跡の業を行いましたが、これも害悪や危害がない世界、新しい天と地の世界がどういうものであるかを人間に垣間見せる意味がありました。

 しかしながら、イエス様を歓呼で迎えた弟子たちや群衆は、神の大事業が全世界・全人類に及ぶものとは見通せていませんでした。彼らは、子ロバに乗って凱旋するイエス様をみてゼガリア書の預言の成就とはわかっても、彼らにとってイエス様とはあくまでもユダヤ民族をローマ帝国の支配から解放してくれる自分らの民族の王でしかありませんでした。そういうふうに、旧約聖書が真に意図していたことと当時実際に理解されたことのギャップはとても大きなものでした。しかし、それはいたしかたのないことでした。一方でバビロン捕囚からユダヤ民族が辿った苦難の歴史があり、他方で旧約聖書にメシアと呼ばれる神に聖別された王についての預言があり、そうなるとメシアに民族解放の期待を結びつけてしまうのは容易なことでした。メシアというのは本当は、所属する民族に関係なく人間を罪と死の支配から解放してくれる、まさに全ての人間にとっての王であるという正しい理解は、イエス様の十字架と復活の出来事を待たなければなりませんでした。

イエス様は全ての人間を罪と死の支配から解放してくれる王であるという時、それはどのようにして起こったでしょうか?イエス様は神の子でありながら、否、神の子であるがゆえに、これ以上のものはないというくらい神聖な生け贄になって十字架の上で自分の命を捧げて、人間の罪を神に対して償って下さいました。人間の罪の償いにこれ以上の犠牲は存在しないのです。人間は自分の身代わりになって死なれたイエス様を救い主とわかって洗礼を受けると、神はイエス様の犠牲に免じて人間の罪を赦して下さいます。神が罪を赦すというのはどういうことかと言うと、わが子イエスを救い主と信じる信仰のゆえにお前をイエスの犠牲に免じて罪に定めないことにする、罪はさもなかったことのようにして不問にする、だからお前はこれからは赦された者として相応しく生きなさい、ということです。神からこのように罪の赦しを受けることで人間は、それまで断ち切れていた神との結びつきを回復し、その結びつきの中でこの世を生きることになります。イエス様の十字架の業のおかげで、罪が人間に対して持っていた力、神との結びつきを引き裂く力は本当に無力になったのです。

それだけではありませんでした。神は一度死なれたイエス様を死から復活させることで、死を超えた永遠の命への扉を人間に開かれました。こうして神から罪の赦しを得て神との結びつきを回復した者は永遠の命に至る道に置かれて、その道を歩み始めるようになります。その間神から絶えず守りと良い導きを得られ、万が一この世から死んでもその時は自分の造り主である神の御許に永遠に帰ることができるようになりました。このようにイエス様は、罪と死が人間に揮っていた力を打ち砕きました。イエス様は真に罪と死の上に立つ方です。何ものにも支配されない方です。

4.旧約聖書の読み方

 このように、イエス様は一民族の王なんかではなく、全ての人間の王、全世界の王、文字通り救世主なのです。そのことがはっきりするのは、十字架と復活の出来事の後でした。先ほどのゼカリア書9章やイザヤ書11章の理解の仕方からも伺えますが、旧約聖書を読む時、十字架と復活を通して読むか、通さないで読むかによって大きく意味が変わってきます。通さないで読むと、預言は一民族の王を言っていることになります。イエス様も当時そのように理解されてしまったのです。

同じことが本日の旧約聖書の日課エレミア書33章についてもよく当てはまります。15節に「その日、その時、わたしはダビデのために正義の若枝を生え出でさせる。彼は公平と正義をもってこの国を治める」とあります。「彼は公平と正義をもってこの国を治める」と言うと、ユダヤ民族の国を正しく統治する王様です。神がダビデのために生え出でさせる正義の若枝というのは、かつて滅亡したダビデ王朝の王国を再興させる、若枝のような勢いのある王様です。これはどう見ても、ユダヤ民族の王国が理想的な王様の下で再興されるという預言です。しかし、そのようなダビデ王朝の王国はバビロン捕囚の後は実現しませんでした。そうすると預言は実現しなかったことになります。

ところが、15節の預言はヘブライ語の原文を見ると、このようなユダヤ民族の理想的な王の到来を意味する内容にはとどまらないのです。この節は辞書に出ている単語の意味を見ても、もっと大きな内容を含んでいます。新共同訳で「この国を」と訳されている言葉(בארץ)は「地上に、全地に」という意味も持っています。ユダヤ民族の国に限定されません。「公平」(משפט)と訳されている言葉も、辞書の筆頭の意味は「調停して確立された正義」です。人間の罪のゆえに神と人間の間に戦争状態があったのが、イエス様の犠牲の上に両者に平和がもたらされたことを思い出しましょう。「正義」(צדקה)と訳されている言葉ですが、これはまさに「義」、神に義とされること、神の前に出されても大丈夫と見てもらえることです。イエス様の十字架の業のおかげで罪ある人間がそのような義を持てるようになったことを思い出しましょう。以上を踏まえると15節の訳はこうなります。「彼は、この地上で神と人間の不和状態を調停し、義を実現する。」これはもう一民族の王ではありません。まさに全ての人間の王、全世界の王、救世主です。

それでは、どうしてこの聖句はそのように訳されなかったのでしょうか?それは、訳す人が歴史に沿った訳を選んだからです。歴史に沿った訳とは、エレミアの時代というのは国がバビロン帝国の攻撃を受けて滅亡する時代で、当時ダビデの家系から将来全世界の人間を罪と死から解放するメシアが出るなどとは誰も考えていないだろう、当時の人たちとしては国を再興してくれる王を待望しただろう、そういうふうに当時の人たちの観点に立って訳したのです。これは実に難しい選択です。歴史に沿った訳をしないと、預言が宣べられた歴史状況がわからなくなってしまいます。歴史状況を踏まえないで理解しようとすると、どんな身勝手な解釈も可能になります。それでも、十字架と復活の出来事がある以上は、天地創造の神の意図は全ての人間の罪と死からの救いであるということは動かせません。神は全ての人間に及ぶご自分の意図をご自分が選んだユダヤ民族の歴史を通して知らせていたのです。そういうわけで旧約聖書を繙く時は、歴史に沿う読み方をしても、十字架と復活に象徴される神の愛があることを心に留めて読むことが大切です。

5.切り株から萌え出る若枝のように

 終わりに、イエス様が若枝にたとえられることがいかに私たちに生きる希望を与えるかについてお話したいと思います。若枝の預言は先に見たようにイザヤ11章と本日の旧約聖書の日課エレミア33章にありました。同じ預言はエレミア23章にもあります。

イザヤ11章で若枝とか芽が出てくるのは、エッサイの切り株とか根とか呼ばれるものです。これはどういうことかと言うと、イザヤ書6章に、ユダヤ民族が王から国民までこぞって神の意志に反する生き方をしたことに対する罰が宣べられます。外国に攻められて国は廃墟となり、その様は大木が切り倒されて切り株しか残らないような無残な状態になると預言されます。歴史上それは最終的にバビロン捕囚の時に起きてしまいました。ところが、イザヤ6章の一番終わりを見ると、残された切り株は「神聖な種」になると言われています。イザヤ11章やエレミア書に言われる若枝とは、この廃墟の切り株から生え出てくるのです。歴史の只中に生きていた人たちは、将来の国の復興を預言していると受け取ったでしょう。ところが本当は、神は全ての人間を罪と死の力から救い出して、その上で完璧な安全と正義のもとに招き入れてくれるメシアをこの無残な廃墟の中から起こして下さったのでした。希望の潰えたところに真の希望を打ち据えたのです。

焼け落ちた森の中、切り倒された大木もその切り株も全て水気も生気も失ったままうち捨てられている。そこの一つの切り株の上に小さな茎が小さな緑色の葉をつけて足を据えるようにして立っている。水気と生気があり、これから大きく成長することが誰の目にも明らかである。彼が大いなる者になりますように、そうすれば私たちも蘇るのだから。果たして彼はそのような者になった。ただ、それは人々が思い描いていたのとは違う仕方ではあったが。彼は、私たち人間に神との結びつきを取り戻すために自らを十字架の死に引き渡し、そして神の力で死から復活させられたのだ。彼を救い主と信じる信仰に生きる者は、この切り株の上に萌え出た若枝を心に持つのである。

それだけではない。心にこの若枝を持つ者は、今度はこの若枝と同じように育ち始めるのだ。かつて神の意志に反する生き方をして罰を受けたイスラエルの民のようにもう切り倒されることはない。なぜなら我々は、このひとり子の業のおかげで罪と死の力から解放されて神の目に義とされているからだ。しかしながら、神から罰は受けなくとも、今度はその代わりにこの世から反発を受ける。例えば、なぜ先祖伝来の霊に拠り頼まないで、よそ者に拠り頼むのか、と。しかし、自分の造り主はよそ者ではないのだ。また、なぜ神の目に正しく生きようなどとするのか?なぜ長いものに巻かれないのか?なぜ空気を読まないのか?なぜ忖度しないのか?そうすれば、その日必要な分以上のパンをたっぷり保証されるのに。正しく生きるためにその日の分以上はいらないなどとは、欲なしのお人好しもここまでくると救いようがない、と。しかし、本当に救いようがないのはどちらだろうか?

神に守られているので決して倒れることのない木とは言えども、大きくなればなるほど、確実に雨風により多くより激しく晒されます。しかし、大きくなればなるほど、完璧な安全、完全な正義に届く日は確実に近くなります。エッサイの切り株と根の上に萌え出たものは必ずその日を迎えられる。そう天地創造の神は約束されているのです。

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         
アーメン

 

聖餐式:木村長政 名誉牧師

説教:マルッティ・ポウッカ牧師(SLEY)

説教2018.11.25.
 「わたしの言葉は決して滅びない」
 マルコ13:24−31
 初めに古い目覚まし時計について話させていただきたいと思います。
 私たちのフィンランドの家は81歳(築81年)ですが、その家の机の上においてある目覚まし時計はそれよりもっと古いのです。その大きな時計の後ろに面白いことが書いてあります。「これは一番よい目覚まし時計です。」そして、故障(こしょう)した時のために、電話番号も書いてあります。その電話番号は「75」だけです。そのころ、電話はきっと貴重品(きちょうひん)だったでしょう。今、もしこの時計が止まって、電話番号 「75」をまわしても、返事はないと思います。この約束は、もう信頼できません。

 また、その目覚まし時計はたいてい朝七時に大きいな音で
 「ピルル」と鳴りました。まるで人の声のようでした。私は子どもっぽいかもしれませんでしたが、その大きな声が怖くなって、いつもその音がする少し前に起きました。六時五十分ごろでした。

 時計屋さんの約束は限りなく信頼できませんが、聖書は信頼できるみ言葉ですので、それを読みましょう。今日の聖書の箇所には、三つの大切な教えがあると思います。
1.イエスが来てくださる
 24「それらの日には、このような苦難の後、/太陽は暗くなり、/月は光を放たず、

25 星は空から落ち、/天体は揺り動かされる。

26そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。
 
27そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」

 私たちはキリストの再臨を待っています。
 世の終わりにキリストは栄光の中に出現し、全ての死人を復活させるのです。その時、義人の体はキリストの栄光の体のように変えられるのです。
 「その日は、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである」(マルコ13:32)。
 )。「死者の復活もこれと同じです蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、いものでも、力強いものに復活するのです。つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです」(第一コリント15:42−44)。
イエスはまた来てくださいます。イエスを信じるものにとって、これは信頼できるよい約束ですが、イエスを信じないものにとって恐ろしいことです。イエスのほかに救い主がないからです。

2.人間は将来のことを少ししか考えられませんが
 28「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。
29それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。

 天気予報はできますが、皆さんのご存知のようにそれにも時々間違いがあるでしょう。そして、世界の経済の問題はまだまだ難しいでしょう。人間の知恵には限界(げんかい)があります。 けれども、周りの状況がどうであっても、現在も未来も、私はキリスト者として、まだ恵みの時、または宣教の時をすごしています。

 3.目を覚ましていなさい
 30.はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。
31.天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」

イエスの約束というのは、信頼に足る(たる)ものです。イエスはまだ来てくださいます。それは何日の何時ですが、とにかく あれ。。。
キリスト者には希望があります。
> 時代の混乱の最中にあって、キリスト教会は神の国が栄光の中に現れる栄光の日を、神の御約束を信じて待ち望んでいます。その時に神は全てにおいて全てとなられるのです。
> 「わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、私たちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え」(第一ペテロ1:3)。
> 「被造物だけでなく、『霊』の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちは、このような希望によって救われているのです」(ローマ8:23−24)。
> 「このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ」(ルカ21:28)。
>
>
最初に話した時計屋さんはもうその目覚まし時計を直せませんが、イエスはいつまでも、私たちのための救い主です。そのことを毎日毎日覚えましょう。イエスの言葉は決して滅びないからです。
> 祈りましょう。
>
>
あなたの御子主イエスはまた来てくださいます。私たちはそれを神の御約束として信じて待ち望んでいます。
>よいニュースは、イエスが復活されたということです。これは私たちの一番大きな喜びの元です。あなたはイエスを私たち人間の救いのために、罪の赦しのために送ってくださいました。そして、私たちの本国の天への道も教えてくださいました。それは私たちの人生の目的です。どうか私たちに天国への道を見せてください。ペテロのように私たち一人一人に任務(にんむ)を教えてください。あなたの教えを聞けるように導いてください。私たちは信仰によってあなたの子どもです。私たちは恵みによって救われます。どうか、私たちがあなたの父なる神様のみ守りに信頼できるように私たちを強めてください。イエスと共に人生の道を歩めますように。私たちがあなたの子どもとして出来る社会的な義務や御国のためにできる仕事を教えてください。福音や神の招き、復活の喜びをどうすれば世界へ伝えることができるのか、私たち一人一人に教えてください。また、子どもと隣人をあなたに与えられた力によって大切に出来るように、互いに支え合うことが出来るように私たちの愛を主イエスキリストによって強めてください。心の中にあなたの光を照らすことができますように。この祈りを主イエスキリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。

説教:マルッティ・ポウッカ牧師(SLEY)

説教 2018.11.18。

「良い手本」

マルコ12;41−44

 

今年の二月、私達はイスラエルに行ってきました。とてもいい旅行でした.一週間の間にイスラエルをあちらこちらへ回って、イエスが住んでいた町と歩いていた道を見ました。これから聖書の話ももっと理解出来ました。

 

ある所でとっても古いだまが見つかったということを聞きました.イエスの時代のだまだったので、今日の聖書の有名な話に関係があるだまでしたか。それはよく分かりませんが、

こまかい可能性があると思います。聖書に書いてある話は、本当に、本当に歴史的なはなしだったからです。

 

今日の聖書の話を読むと三つのことについて話したいと思います。

 

初めに神様は造り主でいらっしゃいます

 

また、神は霊です。

 

神は全能の聖なる主であって、天の栄光の中に住み、また同時に私たちに近くその愛の中に宿られています。

 

 

神はその御言によって、見える世界と見えない世界の、ありとあらゆる存在物を造られた御方です。天使はその見えない世界のものです。

「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。」(ヘブライ11:3)。

「わたしたちは粘土、あなたは陶工/わたしたちは皆、あなたの御手の業」(イザヤ64:8(7))。

「天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました」(コロサイ1:16)。私たちが神を父と呼ぶのは、神が万物を造り、万物を保たれるからですが、特に神がイエス・キリストにおいて、私たちをその子とされるからです。

「こういうわけで、わたしは御父の前にひざまずいて祈ります。御父から、天と地にある全ての家族がその名を与えられています」(エフェソ3:14-15)。

神様は、この世の造り主です。また、私たちが神を父と呼びます。私達が持っているものは体も財産なども、全部神様に頂いた賜物です.感謝します。

次に良い手本のおしえ

今日の聖書の箇所を読みましょう。

41.イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。

その時も金持ちがやっぱりいました。

42. ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。

皆は金持ちではありませんでした。

43。イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。

44。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」

イエス様は、貧しいやもめは良い手本ということを教えて下さいました。貧しいやもめは、感謝の気持ちを造り主に対して表しましたが、神様に信頼する気持ちがあったと思います.神様に頂いた者を、少し返しました。私達にとっても、良い教えです。

どうして感謝の気持ちをあらわすのか。

イエスの御業は感謝の一番の元です。

イエスの御業

イエスは苦しむ者を助け、病める者を癒し、死者を甦らせました。また、神から与えられた権威をもって、人の罪を赦されました。これらの業は彼の愛を示すと同時に、神の国の力がすでに影響を及ぼしつつあることを示しているのです。

イエスの生涯の一日については、マルコ1:21-34を読んで下さい。

またイエスがナインの寡婦の息子を甦らせた事については、ルカ7:2-17を読んで下さい。

「しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちところに来ているのだ」(ルカ11:20)。イエスは良い業ばかりして下さいました。特に、イエスは私達のために苦しました。

 

贖罪(贖い)と宥めの教えです。

父からの使命に忠実であったキリストは、その血を流し、その生命を、私たちの贖いのためにお与えになりました。すなわち、罪無きキリストは十字架の上で、苦難を受けられることによって、私たち自身が罪のために受けなければならない罪責と刑罰とを、代わってその身に受け、神の怒りを宥めたのです。このようにしてキリストは、罪と死と悪魔の力に打ち勝ったのであり、キリストの苦難と死こそが、私たちの罪の宥めの犠牲なのです。

「わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました」(ヨハネ17:4)。

イエスの御業によって、私達は喜びを持って、永遠の命の希望も持っています。それに従って、 奉仕への贖いが生まれます。

.奉仕への贖い

神がその恩恵によって、私たちの罪を赦してくださったために、私たちの内に感謝と愛と信仰による服従心が生まれ、神と隣人とに奉仕するようになります。キリスト者の全生涯は奉仕の生涯であり、このような奉仕の生涯を私たちはキリスト教倫理と呼びます。

「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです」(第一ヨハネ4:19)。

まとめて、貧しいやもめの手本に従って、奉仕への贖いを持って、神様に信頼して奉仕しましょう。     アーメン

フィンランド賛美歌:447 キリスト 世の光

 聖餐式

子供祝福式

 

 

 

説教「愛する力はどこから湧くか?」神学博士 吉村博明 宣教師、マルコによる福音書12章28ー34節

主日礼拝説教2018年11月11日 聖霊降臨後第25主日

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 

1.はじめに

本日の福音書の箇所の直前にですが、サドカイ派とよばれるユダヤ教の一派とイエス様の間の論争がありました。そこでは、死者の復活ということは起こるのかどうかが議論になりました。復活などないと主張するサドカイ派を、イエス様は旧約聖書にある神の御言葉に基づいて打ち負かしました。決め手になった御言葉は出エジプト記3章6節でした。神がモーセに自分はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であると名乗ったところです。モーセから見たらアブラハムもイサクもヤコブも何百年も前に死んでいます。これがどうして復活が起こることの根拠になるのでしょうか?

イエス様は神のことを「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」と言います。それは神というのは生きている者に属するもの、生きている者が持てるものであり、死んだ者は持てないという意味です(「死んだ者」、「生きている者」の属格形νεκρων、ζωντωνを所有、所属の意味に解すればよいわけです)。アブラハムは死んだはずなのに、神は自分のことをアブラハムの神、つまりアブラハムに属する神、アブラハムが持てる神であると言われた。これは、まさに死からの復活が起こるので、アブラハムは復活の後、永遠の命を持って生きることになり、それで神は生きるアブラハムの神となるわけです。そういうわけで出エジプト記3章6節は復活を前提にしている御言葉で、イエス様はサドカイ派に、お前たちは一体どこに目をつけて聖書を読んでいるのだ、とあきれているのです。

この復活はあるのかどうかという論争は他にも論点があって、それもイエス様はサドカイ派をギャフンとさせますが、詳しくはマルコ12章18ー27節をご覧ください。

さて、この論争の一部始終をみていたある律法学者が、このイエス様こそ神の御言葉を正確に理解する方だと確信して聞きました。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか?」「第一」(πρωτη)というのは、「一番重要な掟は何ですか?」と聞いているのです。

なぜこんな質問が出てくるのかというと、律法学者というのはユダヤ教社会の生活の中で起きてくる様々な問題を律法すなわち神の掟に基づいて解決する役割がありました。それで職業柄、全ての掟やその解釈を熟知していなければなりませんでした。その知識を活かして弟子を集めて掟や解釈を教えることもしていました。神の掟としては、まず私たちが手にする旧約聖書の中にあるモーセ五書という律法集があります。その中に皆さんよくご存知の十戒がありますが、それ以外にもいろんな規定があります。神殿での礼拝についての規定、宗教的な汚れからの清めについての規定、罪の赦しのためいつどんな犠牲の生け贄を捧げるかについての規定、人間関係についての規定等々数多くの規定があります。それだけでもずいぶんな量なのに、この他にもモーセ五書みたいに文書化されないで、口承で伝えられた掟も数多くありました。マルコ7章に「昔の人の言い伝え」と言われている掟がそれです。ファリサイ派という別のグループはこちらの遵守も文書化された掟同様に重要であると主張していました。

これだけ膨大な量の掟があると、何か解決しなければならない問題が起きた時、どれを適用させたらよいのか、どれを優先させたらよいのか、どう解釈したらよいのか、そういう問題は頻繁に起きたと思われます。それだけではありません。膨大な掟に埋もれていくうちに、次第に何が本当に神の意思なのかわからなくなっていき、神の掟と思ってやったことが実は神の意思から離れてしまうということも起きたのです。例として、両親の扶養に必要なものを神殿の供え物にすれば扶養の義務を免れるというような言い伝えの掟がありました。イエス様はこれを十戒の第4の掟「父母を敬え」を無効にするものだ、と強く批判しました(マルコ7章8ー13節)。そういう時勢でしたから、何が神の意思に沿う生き方かということを真剣に考える人にとって、「どれが一番重要な掟か?」という問いは切実なものだったわけです。それは、現代を生きる私たちにとっても同じだと思います。

 

2.最も重要な掟

  イエス様は、「第一の掟は、これである」と言って教えていきます。「イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」。これが第一の掟、一番重要な掟でした。ところが、律法学者は「第一の掟は?」と聞いたのに、イエス様は「第一」に続けて「第二」(δευτερα)の掟、すなわち二番目に重要な掟も付け加えます。それは、隣人を自分を愛するが如く愛せよ、でした。二番目に重要だから、少し重要度が低いかというと、そうではなく、「この二つにまさる掟は他にない」と言われます。それで、この二つの掟は神の掟中の掟であるということになる。山のような掟の集大成の頂点にこの二つがある。ただし、その頂点にも序列があって、まず、神を全身全霊で愛すること、これが一番重要な掟で、それに続いて隣人を自分を愛するが如く愛することが大事な掟としてくる、ということです。

 この二つの掟をよく見てみると、それぞれ十戒の二つの部分に相当することがわかります。十戒は皆様もご存知のように、初めの3つは、天地創造の神の他に神をもったり崇拝してはならない、神の名をみだりに唱えてはならない、安息日を守らなければならない、でした。この3つの掟は神と人間の関係を既定する掟です。残りの7つは、両親を敬え、殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、隣人の所有するものを妬んだり欲したり損なったりしてはならない、また隣人の妻など隣人の家族を構成する者を妬んだり欲したり損なってはならない、というように、人間と人間の関係を既定する掟です。最初の、神と人間の関係を既定する3つの掟を要約すれば、神を全身全霊で愛せよ、ということになります。人間と人間の関係を既定する7つの掟も要約すれば、隣人を自分を愛するが如く愛せよ、ということになります。

 このようにイエス様は、十戒の一つ一つを繰り返して述べることはせず、二つの部分にまとめあげました。それで、天地創造の神以外に神をもって崇拝してはならない云々の3つの掟は、つまるところ神を全身全霊で愛せよ、ということになる。同じように、両親を敬え云々の7つの掟も、つまるところ隣人を自分を愛するが如く愛せよ、ということになるというのです。

 さて、イエス様から二つの掟を聞かされた律法学者は、目から鱗が落ちた思いがしました。目の前にあった掟の山が崩れ落ちて、残った二つの掟が目の前に燦然と輝き始めたのです。律法学者はイエス様の言ったことを自分の口で繰り返して言いました。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす捧げ物やいけにえよりも優れています。」律法学者はわかったのです。どんなにうやうやしく神殿を参拝して規定通りに生け贄や貢物を捧げたところで、また何か宗教的な儀式を積んだところで、神を全身全霊で愛することがなければ、また隣人を自分を愛するが如く愛さなければ、そんなものは神からみて何の意味もなさない空しい行為にすぎない、ということが。律法学者が真理の光を目にしたことを見てとったイエス様は言われます。「あなたは、神の国から遠くない。」

これでこの件はめでたしめでたしの一件落着かと言うと、実は全然そうではないのです。イエス様が言われたことをよく注意してみてみましょう。「あなたは、神の国から遠くない」と言っています。「神の国に入れた」とは言っていません。「神の国に入れる」というのは、どういうことでしょうか?それは、人間がこの世から去っても、復活の日に目覚めさせられて輝かしい復活の体を着せられて自分の造り主の神のもとに迎え入れられて永遠に生きることを意味します。その結果、今のこの世の人生と次に来る新しい世の人生の二つを合わせた大きな総合的な人生を生きられることです。そのような人生を生きられるために守るべき掟として、一番重要なのは神への全身全霊の愛、二番目に重要なのは隣人愛である。それらをより具体的に言い表したのが十戒で、その他の掟はこれらをちゃんと土台にしているかどうかで意味があるかないかがわかる。こうしたことを知っていることは、神の国に入れるために大切なことではあるが、ただ知っているだけでは入れないのです。実践しなければ入れないのです。知っているだけでは、せいぜい「遠くない」がいいところです。

それでは、どのようにすればイエス様が教える神への全身全霊の愛と隣人愛を実践することができるのでしょうか?それらの実践は果たして可能でしょうか?

 

3.神を全身全霊で愛すること

  イエス様が教えた2つの重要な掟が実践可能かどうか、まず一番重要な掟、神を全身全霊で愛することからみていきましょう。全身全霊で愛する、などと言うと、男と女の熱烈恋愛みたいですが、ここでは相手は人間の異性ではありません。相手は、全知全能の神、天と地と人間を造られ、人間一人一人に命と人生を与えられた創造主にして、かつひとり子イエス様をこの世に送られた父なるみ神です。その神を全身全霊で愛する愛とはどんな愛なのでしょうか?

 その答えは、この一番重要な掟の最初の部分にあります。「わたしたちの神である主は、唯一の主である。」これは命令形でないので、掟には見えません。しかし、イエス様が一番重要な掟の中に含めている以上は掟です。そうなると、「神を全身全霊で愛せよ」というのは、神があなたにとっても私にとっても唯一の主として保たれるように心と精神と思いと力を尽くせ、ということになります。つまり、この神以外に願いをかけたり祈ったりしてはならないということ。この神以外に自分の運命を委ねてはならないし、またこの神以外に自分の命が委ねられているなどと微塵にも考えないこと。自分が人生の中で受ける喜びを感謝し、苦難の時には助けを求めてそれを待つ、そうする相手はこの神以外にないこと。さらに、もしこの神を軽んじたり、神の意思に反することを行ったり思ったりした時には、すぐこの神に赦しを乞うこと。以上のようにする時、神が唯一の主として保たれます。

 実は、このような全身全霊を持ってする神への愛は、私たち人間には生まれながら自然には備わっていません。私たちに備わっているのは、神への不従順と罪です。それでは、どのようにしたらそのような愛を持てるのでしょうか?それは、神は私たちに何をして下さったのかを知ることで生まれてきます。それを知れば知るほど、神への愛は強まってきます。それでは、神は私たちに何をして下さったのか?まず、今私たちが存在している場所である天と地を造られました。そして私たち人間を造られ、私たち一人一人に命と人生を与えて下さいました。ところが悲しむべきことに、人間が自ら引き起こした神への不従順と罪のために神と人間の結びつきは失われてしまいました。しかし、神はこれをなんとかして回復させようと決意されました。まさにそのためにひとり子のイエス様をこの世に送られました。そして本来なら私たちが受けるべき罪の罰を全部イエス様にかわりに受けさせて十字架の上で死なせ、その犠牲の死に免じて私たち人間の罪を赦すことにして下さいました。さらに一度死んだイエス様を死から復活させることで、死を超えた永遠の命に至る扉を人間のために開かれました。もし人間がこれらのことは全て自分のためになされたとわかって、それでイエス様こそ自分の救い主と信じて洗礼を受けると、神からの罪の赦しがその人に対してその通り本当のものになるのです。神から罪の赦しを受けた者として、その人は神との結びつきを回復して永遠の命に至る道に置かれてそれを歩み始めるようになります。こうして順境の時も逆境の時も絶えず神から助けと良い導きを得られながら歩むことができ、万が一この世から死んでもその時は神の御許に御手をもって引き上げられ、永遠に自分の造り主のもとに戻ることができるのです。

このように私たちは、神が私たちにして下さったことのなんたるやがわかった時、神を愛する心が生まれるのです。神がして下さったことがとてつもなく大きなことであることがわかればわかるほど、愛し方も全身全霊になっていくのです。

 

4.隣人を自分を愛するが如く愛すること

  次に二番目に重要な掟「隣人を自分を愛するが如く愛せよ」を見てみましょう。これはどういう愛でしょうか?

隣人愛と聞くと、大方は苦難や困難に陥った人を助けることを思い浮かべるでしょう。しかし、人道支援という隣人愛は、キリスト信仰者でなくても、他の宗教を信じていても、また無信仰者・無神論者でもできるということは、日本で災害が起きるたびに多くの人がボランティアに出かけることを見てもわかります。人道支援はキリスト信仰の専売特許ではありません。しかし、キリスト信仰の隣人愛にあって他の隣人愛にないものがあります。それは、先ほども申しましたが、神への全身全霊の愛に基づいているということです。神への全身全霊の愛とは、神を唯一の主として保って生きることです。そのように生きることが出来るのは、神がこの自分にどんなにとてつもないことをして下さったか、それをわかることにおいてです。このため、隣人愛を実践するキリスト信仰者は、自分の業が神を唯一の主とする愛に即しているかどうか吟味する必要があります。もし、別に神なんか他にもいろいろあったっていいんだ、とか、聖書の神はたくさんある神々のうちの一つだ、という考えで行ったとしても、それはそれで人道支援の質や内容が落ちるということではありません。しかし、それはイエス様が教える隣人愛とは別物です。

イエス様が教える隣人愛の中でもう一つ注意しなければならないことがあります。それは「自分を愛するが如く」と言っているように、自分を愛することが出来ないと隣人愛が出来ないようになっています。自分を愛するとはどういうことでしょうか?自分は自分を大事にする、だから同じ大事にする仕方で隣人も大事にする。そういうふうに理解すると、別にキリスト教でなくてもいい、一般的な当たり前の倫理になります。そこでイエス様の教えを少し掘り下げてみましょう。

イエス様は隣人愛を述べた時、レビ記19章18節から引用しました。そこでは、隣人から悪を被っても復讐しないことや、何を言われても買い言葉にならないことが隣人愛の例としてあげられています。別のところでイエス様は、敵を憎んではならない、敵は愛さなければならない、さらに迫害する者のために祈らなければならないと教えています(マタイ5章43ー48節)。そうなると、キリスト信仰者にとって、隣人も敵も区別つかなくなり、全ての人が隣人になって隣人愛の対象になります。しかし、そうは言っても、そういう包括的な「隣人」の中の誰かが危害を加えたり、迫害をすることも現実にはありうる。そのような「隣人」をもキリスト信仰者が愛するとはどういうことなのでしょうか?

イエス様は、敵を愛せよと教えられる時、その理由として、父なるみ神は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせて下さる方だからだ、と述べました。もし神が悪人に対して太陽を昇らせなかったり雨を降らせなかったりしたら、彼らは一気に滅び去ってしまいます。しかし、神は悪人が悪人のままで滅んでしまうのを望んでいないのです。神は悪人が悔い改めて、神のもとに立ち返ることを望んでいて、それが起きるのを待っているのです。彼らがイエス様を救い主と信じる信仰に入って、永遠の命に向かう道を歩む群れに加わる日を待っているのです。そういうわけで、神が悪人にも太陽を昇らせ雨を降らせるというのは、なにか無原則な気前の良さを言っているのでは全くなく、悪人に神のもとへ立ち返る可能性を与えているということなのです。

ここから、敵を愛することがどういうことかわかってきます。イエス様が人間を罪と死の支配下から救い出すために十字架にかけられる道を選ばれたのは、全ての人間に向けられてなされたことでした。神は、全ての人間がイエス様を救い主と信じて、「罪の赦しの救い」を受け取ることを願っているのです。キリスト信仰者は、この神の願いが自分の敵にも実現するように祈り行動するのです。迫害する者のために祈れ、とイエス様は命じられますが、何を祈るのかというと、まさに迫害する者がイエス様を自分の救い主と信じて神のもとに立ち返ることを祈るのです。「神様、迫害者を滅ぼして下さい」とお祈りするのは、神の御心に適うものではありません。もし迫害を早く終わらせたかったら、神様、迫害者がイエス様を信じられるようにして下さい、とお祈りするのが遠回りかもしれませんが効果的かつ神の御心に適う祈りでしょう。

このように、キリスト信仰の隣人愛は、苦難困難にある人たちを助けるにしても、敵や迫害者を愛するにしても、愛を向ける相手が「罪の赦しの救い」を受け取ることができるようにすることが視野に入っているのです。神がひとり子イエス様を用いて私たち人間にどれだけのことをしてくれたかを知れば知るほど、この神を全身全霊で愛するのが当然という心が生まれてきます。神がしてくれたことの大きさを知れば知るほど、敵や反対者というものは、打ち負かしたり屈服させるためにあるものではなくなります。敵や反対者は、神が受け取りなさいと言って差し出してくれている「罪の赦しの救い」を受け取ることが出来るように助けてあげるべき人たちになっていきます。

こうしたことがわかると、キリスト信仰で「自分を愛する」というのはどういうことかもわかってきます。つまり、神は御自分のひとり子を犠牲にするのも厭わないくらいに私のことを愛して下さった。私はそれくらい神の愛を受けている。私はこの受けた愛にしっかり留まり、これから離れてしまったり失ってしまったりしないようにしよう。これが「自分を愛する」ことになります。つまり、神の愛が注がれるのに任せる、神の愛に全身全霊を委ねる、これが「自分を愛する」ことです。そのような者として隣人を愛するというのは、まさに隣人も同じ神の愛を受け取ることが出来るように祈ったり働きかけたりすることになります。隣人がキリスト信仰者の場合は、その方が神の愛の中にしっかり留まれるようにすることです。

 

5.神の前に出されてもイエス様のおかげで大丈夫でいられる

  最後に、イエス様が教えた二つの重要な掟がちゃんと実践できない場合はどうしたらよいかについて一言述べておきましょう。信仰者といえども、やっぱり自分は神を全身全霊で愛していない、隣人を自分を愛するが如く愛していないことに気づかされることは日常茶飯事です。特にイエス様は、十戒の掟は外面的に守れてもダメ、心の有り様まで神の意思が実現していなければならないと教えました。そのため使徒パウロは、十戒というものはつまるところ、守れて自分は大丈夫と思うためにあるのではなく、守れない自分を映し出す鏡のようなものだと教えました。そうなると私たちは永久に神の掟を実現することはできず、知識で知っている状態に留まり、せいぜい神の国から遠くないというだけになります。

ここで次のことを思い起こさなければなりません。それは、イエス様は十字架と復活の業をもって私たちの出来ない部分を全部埋め合わせて下さったということです。それはかなり大きな部分です。この私たちの出来ない部分を埋め合わせるために、イエス様は十字架と復活の業を行ったのです。私たちはイエス様を救い主と信じて、神が提供する「罪の赦しの救い」を受け取った。それで神は、私たちがあたかも掟を完全に守れている者であるかのように扱って下さるのです。本当は掟を守り切れていないにもかかわらず、イエス様のおかげで、神の国に迎え入れても大丈夫な者とみて下さるのです。これは、真に信じられないことです!このように扱ってもらっているのに、どうして神の御心に背いていいなどと思うことができるでしょうか?このように扱ってもらっている以上は、掟に示された神の意思に沿って生きるのが当然という心になるのではないでしょうか?それでもまた守れない自分に気づかされたら、すぐ神にそのことを正直に話して赦しを願います。すると神はすぐ、あなたの心の目の前にゴルゴタの十字架を示され、あのイエスのおかげでお前は大丈夫になったのだから心配しなくてもよい、と言って赦して下さり、また永遠の命に向かう同じ道を歩み続けられるようにして下さいます。そのような神への賛美と感謝を忘れずに日々を歩んでまいりましょう。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

 

聖餐式:木村長政 名誉牧師

説教:木村長政 名誉牧師

 

 

第24回  コリント信徒への手紙  7章17節           2018114日(日)

 

 今回から7章に入ります。読んでお分かりのように、これまでのパウロの内容や語調とは、がら

りと変わっています。表題には「結婚について」とあります。

 聖書の中に、このような生活の指導のようなことまで、パウロは、なぜ書いているのでしょう。 

  聖書は、生活指導のための本ではありません。

  聖書は、救いの本である、ということです。

  ですから、重点は、救いを完うするために、というところに書かれているものです。そのことを目

ざすとなれば、人間の生活の仕方にもふれないわけにはいかないでしょう。

 大事なことは、あくまでも、「救いと信仰生活」が基本になっている、ということを知っていなければならないでしょう。

 パウロは、たぐいまれな伝道者でありますから、彼独特の考えで書きつらぬいています。

 さて、71節を見ますと、「そちらから書いてよこした事について言えば」とあります。

 どうも、この手紙を書く前に、パウロの手元に質問状のようなものが、きていたようであります。

 それがどんなものであったか、くわしくは分かりませんが、どうやら内容については、パウロの

この返事から分かります。しかも、その内容は、6章までにふれてきた、コリント教会内の不品行の問題であったことがわかります。

 パウロはこの問題について悩みました。

 ということは、これは決して、小さな問題では、なかったからでしょう。

 そこで、パウロは、まず始めに、その答えを表しています。男子は、婦人にふれないがよい、と言って、不品行に陥ることのないために、男子はそれぞれ妻を持ち、婦人もそれぞれ自分の夫を持つがよい、と言っているのです。

 パウロが言いたいことは、これで明らかなように、結婚生活とはどういうものか、という事を語っているのではありません。不品行な生活をしないためには、どうしたらいいか、ということであります。

 なぜなら、創世記にありますように、神は、男が一人いることはよくない、と言って、女をつくろう、そうして女をつくった。こうして、男と女との生活は神がお創りになった。そこには子供もできるでありましょう。男と女とが共同生活をするために与えられた喜び、又、悲しみがあるはずであります。

 パウロはここでは、不品行な生活をしないためにどうしたらいいか、ということを言っているのです。

不品行ということで様々な争い、にくしみ、悪行があったことでしょう。

 しかし、パウロがいつも考えていることは、人間の、神に対する責任、ということでありました。

 この生活が、神を喜ばせることであるのか、神の栄光を傷つけることになるのか、ということでありました。

 パウロ自身は、7節に見られるように独身であったらしいから、何のためらいもなく、男は女にふれないがよい、と言ったのでしょう。しかし、彼自身も、それが答えになっていないことを知っていましたので、それに続いて夫婦生活のことについて書くわけであります。

 しかし、ここに書いてある夫婦の生活は、普通に言われる事とは大分ちがうのであります。

 パウロは、不品行の問題から出発しました。従って、夫と妻とが互いにその分を果たすことについて、語らざるを得ませんでした。不品行の問題はそれだけではないかも知れませんが、このことが基本であることは誰にでも明らかなことであります。

 パウロはまず、それを言うのであります。

 夫婦であるということは、各々がその分を果たすことである、といったような分かり切った事を言わねばならなかったのでありましょう。

 しかし、それと同時にパウロは、それが必ずしも分かり切ったことではないと考えたのでしょう。そこに、こういう問題が起こると思ったのでありましょう。

 それはパウロに言わせれば、ただの常識の話ではありませんでした。

 問題は、男と女とが、自分の体をどう扱うかということにある、と言うのです。

 ここまで来ると、話は常識ではすまない。

 自分の体と言うが、それはほんとうに自分の体なのか、ということになります。第一に、夫婦の約束をしたものにとって、自分の体というものは何か、まことに自分ひとりのからだである、と言うことができるのか、ということになります。自分の体は自分のものであって、自分のものではないことの約束ではなかったか、とパウロは言うのです。

 それが明らかなら不品行は起こり得ない、とパウロは言いたかったのではないかと思います。

 不品行の問題には、当然、神がはいってくるはずであります。神がはいってきて、初めて不品行と言えるのではないでしょうか。神をぬきにした生活には、不品行ということさえないのかも知れません。

 パウロは、男と女とが、自分のからだを自由にすることはできないはずである、と言っています。

 それなら誰が自由にするのでしょう。相手でありましょうか。そうかも知れません。しかし、本当は神であるはずであるにちがいありません。従って、パウロはここに夫婦生活の一つの取り決めをいたしました。

 5節にそのことを書いています。「互いに相手を拒んではいけません。ただ納得し合ったうえで、専ら祈りに時をすごすためにしばらく別れまた一緒になるというなら、話は別です。」

 新約聖書は約二千年昔に書かれたものです。だから、昔の考えがはいってくることは止むをえません。例えばここで「祈りのためならしばらく別れても、」とあります。当時のユダヤ教の習慣ではなかったかと思われます。しかし、ここで大切なことは、祈りの生活を重んじなさい、ということであります。夫婦生活は、自由に行われて差支えないことでありましょう。しかし、夫婦生活の中で、祈りの生活が大切である、ということです。

 もっと正しく言うなら、夫婦生活の中に限らず人間生活の中において、祈りを重んじなさいということでありましょう。

 5節後半で、パウロはきびしいことを露骨に告げています。「あなた方が、自分を抑制する力がないのに乗じて、サタンが誘惑しないともかぎらないからです。」

 パウロは人間の弱さを知っておりました。男と女の関係、夫婦の生活においても、ねじれたり、わがままだったり、色々な欲に流されたりします。パウロはそれらの中で家庭が祈りを重んじていくように、どんなに願ったことでありましょう。

 7節で、今日のみことばをまとめているように思います。

 わたしとしては、皆がわたしのように独りでいて欲しい。しかし、人はそれぞれ神から賜物をいただいているのです、という。パウロは独身であったらしい。ペテロは妻があったらしい。同じ使徒として神様から伝道の使命を受けていても、パウロとペテロは神から異なった賜物を与えられたのであります。

 パウロは、皆がわたしのようになって欲しいと言うのが本音であったでしょうが、しかし、誰でもがパウロのような賜物を与えられてはいない。あくまで、その人、その人に、神御自身が、その人にとって最も良い賜物を与えて下さるのですから、感謝してそれをしっかりと受けとめ、活かして、神様のよろこばれる栄光を発揮していくべきでしょう。

 これが今日のメッセージであります。アーメン・ハレルヤ

説教「救いと大いなる安息の地を目指して」吉村博明 宣教師、マルコによる福音書10章46ー52節、エレミア31章7ー9節、ヘブライ4章1ー13節

主日礼拝説教2018年10月28日 聖霊降臨後第23主日

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 1.はじめに

 本日の福音書の箇所は、イエス様が弟子たちや群衆を従えてエルサレムに向かう途中、エリコという町に立ち寄り、そこで一人の盲人の物乞いの目を見えるようにしたという奇跡の出来事についてです。ここで注目すべきことは、イエス様がこの盲人の男バルティマイを癒す直前に「あなたの信仰があなたを救ったのだ」と言われたことです。この言葉は一体何を意味しているのでしょうか?癒す前にこの言葉が言われたことに注意します。もし癒された後で「あなたの信仰があなたを救ったのだ」と言ったのなら、筋が通ります。イエス様はバルティマイの信仰を立派と認めてその褒美に目を見えるようにしてあげた、ということになるからです。ところがイエス様は、目が見えるようになる前にそう言ったのです。一体どういうことでしょうか?そこで、イエス様は治っていない段階で「もう治った」と言って、確実に治ることを預言っぽく先回りして言ってみせた、と考えることができるかもしれません。つまり、本当は後に言うべき言葉を預言者っぽく先に述べたというわけです。そうすると結局は、病気が治るというのはイエス様に立派と認められる信仰があったおかげということになり、もし治らなければ立派な信仰がないということになってしまいます。イエス様は、病気が治る治らないで信仰の優劣が決まると言われているのでしょうか?本説教の最初の部分では、イエス様が言われる「救い」ということについて少し考えを深めていこうと思います。

その次の部分では、「救い」について、本日の旧約の日課エレミヤ書31章とヘブライ4章の聖句が二つの大事な視点を明らかにしていますので、それを見ていこうと思います。一つ目の視点は、今の世の次に来る世の人生というのは、とてつもなく大きな安息の地での人生であるという、ヘブライ4章の視点です。もう一つの視点は、今のこの世の人生はその大いなる安息の地を目指す歩むであるという、エレミヤ31章の視点です。

 

2.救いとは何か?

 「あなたの信仰があなたを救ったのだ」というイエス様の言葉の意味について。この言葉は、これと同じ出来事が記されているルカ18章にも言われています。また違う出来事の時にも同じ言葉が使われています。それはマルコ5章とマタイ9章で、12年間出血が止まらず治療に財産を使い果たした女性がイエス様の服に触れば治ると考えて、それをして出血が止まりました。この時イエス様は女性が癒された後で問題の言葉を述べました。事後的に言ったので、信仰のおかげで治ったと言っているように聞こえます。でも、どうして事後的になったかと言うと、この女性の場合は初めイエス様に内緒に服に触って、それから癒しが起きました。イエス様はそれに気づいてこの言葉を発したので事後的になったのです。バルティマイの時は、イエス様は初めにこの懇願する人を見てこの言葉を発して、その後で癒しが起きたので、事前的になりました。

ルカ7章にも同じ言葉が言われる出来事があります。それは、罪を犯した女性がイエス様から赦しを受けて、感謝の行為をイエス様に行ったところです。その時イエス様は女性に「あなたの信仰があなたを救った」と言います(50節)。この時は病気の癒しはありません。そういうわけで、「信仰が救った」というのは、必ずしも病気が治ることに結びつくわけではないことがわかります。

このイエス様の言葉の意味を考える時、ギリシャ語の原文を見てみるとよいと思います。以上の5か所で「救った」という動詞はみな現在完了形です(セソーケンσεσωκεν)。現在完了などと言うと英語の授業みたいで嫌になる人が出るかもしれませんが、ギリシャ語の現在完了は英語とは違うところがあるので英語のことは忘れて大丈夫です。ギリシャ語の現在完了の基本的な意味は、「過去のある時点で起きたことが現在まで続いている状態にある」ということです。それに即して問題となっているイエス様の言葉をみてみると、こうなります。「過去のある時点から現在まであなたは信仰によって救われた状態にある

ということです。過去のある時点と言うのは、イエス様を救い主と信じた時です。つまり、イエス様を救い主を信じた時から現在に至るまで、その人は救われた状態にあった、ということです。これは少し変です。というのは、まだ目が見えるようになる前に既に救われていたと言うからです。普通だったら、病気が治ったことをもって救われたと言うはずのに、イエス様ときたら、治ってもいない時にお前は既に信仰によって救われた状態にあるなどと言うのです。これは一体どういうことでしょうか?

それは、イエス様にしてみれば、病気が治ることと「救われる」ことは別問題だからです。病気の状態にあっても救われた状態にあることはある、と言っているのです。それでは救いとは一体何なのでしょうか?病気の状態にあっても救われた状態にあるなんて有り得るのでしょうか?病気が治ることと「救われる」ことは別問題と言うのなら、逆に健康であっても救われた状態にないというのもあることになります。イエス様が考える救いとは何なのでしょうか?救われていないとはどんなことなのでしょうか?

聖書の立場では、人間が救われていない状態というのは、神に造られた人間の内に神の意志に反する罪が入り込んで、それで造り主との結びつきが失われてしまった状態のことをいいます。それで、この罪の問題をどうにか解決できて神との結びつきを回復できることが救いになります。神との結びつきをうまく回復できるとどうなるかと言うと、この世の人生でいついかなる時でも、順境の時だろうが逆境の時だろうが、絶えず神から助けと良い導きを得られて歩むことが出来るようになるということです。万が一この世から去らねばならない時が来ても、その時は神が御手をもって御許に引き上げて下さり、神のもとに永遠に戻ることができるようになるということです。

そういうふうに神との結びつきが回復できるためには人間に内在する罪の問題を解決しなければならないのですが、それはどうやってできるのでしょうか?人間が自分で罪を除去することは出来るでしょうか?イエス様は、マルコ7章の律法学者との論争で、人間を汚しているのは人間の内に宿っている諸々の性向である、それで、どんな宗教的な清めの儀式をしても罪の汚れは除去できないと教えます。それならば、十戒をはじめとする律法の掟をしっかり守ることで人間は神の目に相応しいと見なされて結びつきを回復できるでしょうか?イエス様は十戒の第5の掟「汝殺すなかれ」について、兄弟を憎んだり罵ったりしても破ったのも同然と教えました。また第6の掟「汝姦淫するなかれ」についても、異性をみだらな目で見たら破ったのも同然と教えました。つまり、十戒の掟は外面的な行為だけでなく、内面の心の有り様まで問うのだと教えます。そこまで言われると神の目に相応しい人は誰もいなくなります。まさに使徒パウロがローマ7章で教えるように、十戒というのは外面的に守って自分は神の目に適う者だと得意がれるためにあるのではない、内面までも問うことで自分はどれだけ神の意志から離れてしまった存在か映し出す鏡のようなものなのです。

そうなると人間はもはや自分の力では罪の問題を解決することが出来ません。天の父なるみ神は、これは救いようがない、もう万事休すだ、と思ったでしょうか?そうは思いませんでした。神の意図は人間が自分との結びつきを回復してほしいということでした。それで神は問題の解決のためにひとり子のイエス様をこの世に送り、本来だったら人間が背負わなければならない罪の重荷を全部、彼に背負わせてゴルゴタの十字架の上まで運ばせて、そこで人間に下されるはずの神罰を全部彼に受けさせて死なせたのです。神が取った解決策はまさに、ひとり子の身代わりの犠牲に免じて人間を赦すということだったのです。さらに神は、一度死なれたイエス様を三日後に復活させて、今度は死を超えた永遠の命に至る扉を人間に開かれました。そこで人間の方が、これら全てのことは自分のためになされたとわかって、それでイエス様は自分の救い主とわかって洗礼を受けると、このイエス様の犠牲に免じた罪の赦しはその人にその通りになります。神から罪の赦しを受けられれば、神との結びつきが回復できることになり、今のこの世の人生と次に来る世の人生を合わせた大きな人生を神との結びつきの中で生きることができるようになります。これが救いです。  

この救いは、まさに神がひとり子イエス様を用いて人間にかわって人間のために整えてくれたものです。人間はイエス様を救い主とわかって洗礼を受けるとこの救いを受け取ることが出来、イエス様を救い主と信じる信仰に生きる限り、受け取った救いは失われることはありません。これは、受け取る人が健康であるか病気であるかは関係ありません。また、救いを受け取ったとき、それで病気がすぐ治るということでもありません。もちろん、医療の発達やそれこそ奇跡が起きて病気が治ることもあります。しかし、たとえ治らなくても、病気の信仰者が受け取った救いは健康な信仰者が受け取った救いと何ら変わりはありません。もし重い病気が奇跡的に治ったら、その人は、神の栄光を今度は病気の時と違った形で現わしていかなければならない、まさにそのために癒されたのだと気づかなければなりません。

ところで、バルティマイの癒しの奇跡の時はまだ十字架と復活という救いの出来事は起きていません。それなので、「あなたの信仰があなたを救った」と言われても、なかなか自分は本当に救われているとは思えないでしょう。「あなたは私を救い主と信じる信仰によって既に救われた状態にあった」と言われても、十字架と復活が起きる前ですと、それはただの口先の言葉にしか聞こえないでしょう。その意味で、癒しの奇跡が起きたことはイエス様の言葉は口先だけではないということが明らかになったのです。イエス様の言葉は口先だけのものではないということは、マルコ3章の全身麻痺の人の癒しのところでも起きました。イエス様は、その人とその人を必死になって連れてきた人たちの信仰を見て、「あなたの罪は赦される」と言いました。これに対して律法学者が、人間の罪を赦すことが出来るのは神しかいないのにこの男は口先でこんな出まかせを言っている、自分を神と同等扱いにして神を冒涜している、と批判する。これに対してイエス様は、自分の口から出る言葉は単なる音声だけでないことを示すために、男の人に立ちあがって行きなさいと命じると、その人の麻痺状態は消え去って本当に歩いて行ってしまいました。「罪は赦される」と言った言葉が口先だけでないことが示されたのです。

ルカ7章の罪を赦された女性の場合は、病気の癒しはありませんが、罪の赦しを与えてくれたイエス様に対して深い感謝の気持ちを持ちました。罪の赦しを与えられたことで、断ち切れていた神との結びつきが回復する。そして十戒の掟からすればまだ罪を内に持っているのに、イエス様の十字架の身代わりの犠牲のおかげで、神の目からは大丈夫とみてもらえる。本当に罪の赦しの恵みの中で生きられるようになる。だからその後は大丈夫と見られていることに恥じない生き方をしなければと注意するようになる。注意することは緊張感をもたらしますが、同時に罪の赦しの恵みの中にいられる安心感もあります。ここから先はもう神に対して感謝以外何もなくなります。この感謝の気持ちが、神を全身全霊で愛し、神がそうしなさいと言っている、隣人を自分を愛するが如く愛する心と力を生み出していきます。罪を赦された女性はその例です。

 

3.大いなる安息の地を目指して

 以上、救いというのは、聖書の立場では、神から罪の問題を解決してもらって神との結びつきを回復でき、その結びつきを持ってこの世の人生と次の世の人生を合わせた総合的な人生を生きられるようになることだと申し上げました。その救いについて、本日の旧約の日課エレミヤ書31章と使徒書の日課ヘブライ4章は大事な視点を教えてくれています。

ヘブライ4章では、次の世の人生のことを「神の休息の場」(η καταπαυσις αυτου)と言っています。ヘブライ4章4節で創世記の出来事が振り返られていますが、神は天地創造の業を行って7日目に全てのなすべき業から離れて休まれました。天と地の創造という壮大な事業の後に入れる休息ですので、これもまた壮大な休息です。ヘブライ4章は、私たち人間もこの壮大な神の休息の場に入ることができるのだと言っています。すごいことです。4章10節で言われるように、その休息の場に入れる者は神もそうだったように全てのなすべき業から離れて休むことになります。それはどんな休息かというと、黙示録19章で結婚式の祝宴に例えられています。これはこの世の労苦が全て労われることを象徴しています。さらに黙示録21章4節で神は全ての涙を拭われると言われますが、これはこの世で被った全ての不正義や不正が最終的に完全に償われることを象徴します。同じ節ではまた、「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」と言われます。最初のものは過ぎ去ったというのは、今ある天と地が新たに創造される天と地に取って代わられて、今の天と地のもとであった全ての神の意志に反することが消え去って、全てのことが新しくされて、全てが神の意志に沿うものになっていることを意味します。それは死も悲しみも嘆きも労苦もないところです。

そのような壮大な神の休息の場に向かって、そこに向かう道に置かれた者は神に守られながら歩んでいくことが、エレミヤ書31章で言われます。そこに向かう道は、9節で言われるように「泣きながら(בבכי)、神に助けを求めながら(בתחנונימ)」進まなければならないこともあるくらい、苦難困難の時もあるかもしれない。しかし、同じ9節で言われるように、神が父親としていてくれる位に神に守られるというのが大前提としてある、だからその道は本当は真っ直ぐに延びる平らな道で誰も歩くのが難しいことはない。目の見えない人、足の不自由な人、妊婦やまさに出産しようしている人といった、普通なら長旅は無理と見なされる人たちも全く大丈夫だ、と言うのです。壮大な休息の場に向かう道を進むというのは、それくらい神に守られて歩むことなのです。

これと同じことが、先月の説教で解き明かししましたイザヤ書35章でも言われていました。そこでお教えしたことは、イエス様を救い主と信じて神との結びつきを持ってこの世の人生を歩む者は、イエス様の敷かれた「聖なる道」を進む。その道は順境の時も逆境の時も絶えず神から守りと導きを得られる道である。万が一この世から去らねばならない時が来ても、復活の目覚めの時に御許に引き上げてもらえる道である。そこで天使たちの歓呼の声をもって迎えられる。

先月の説教でも申し上げたのですが、エレミヤ書31章やイザヤ書35章をこのように今の世から次の世への歩みについて言っているなどと言うと異論が出るかもしれません。というのは、これらの個所は一見すると、紀元前6世紀のバビロン捕囚の憂き目にあったイスラエルの民が祖国帰還できるようになることの預言に見えるからです。民の祖国帰還は歴史上の出来事として起こりました。しかし、祖国に帰還した後も民の状態は預言された理想の状態からは程遠いということが次第に明らかになってきます。イザヤ書の終わりの方56章から後を見ると神がまさにそのことを明らかにします。そうすると、民の間でも、祖国帰還を言っているように見えた預言は実は天の神の国への帰還を意味していたのだ、民の理想の状態についての預言も、異民族から解放されて幸せ一杯のユダヤ民族のことを言っているのではなく、罪の問題を解決された人間が神の国に迎え入れられることを意味するのだ、と理解されるようになります。

そうすると、じゃあのバビロン捕囚から解放されて祖国に帰還できたことは何だったのか?それは預言とは無関係なことだったのか?いいえ、そういうことではありません。歴史上起きたことは、将来起きる全人類的な祖国帰還の何かミニチュア模型のようなものなのです。神は将来、全人類的な祖国帰還を起こすが、その意志と力を持っていることを小手調べとして歴史の中で示してみせたのです。将来起こる預言の本当のこと、これが本当に起こるのだとわからせるために小手調べのようなことをした例は、イエス様にもあります。死んでしまったラザロとヤイロの娘を生き返らせた時がそうです。イエス様はその者たちは死んではいない、眠っているだけだ、と言って生き返らせました。その時イエス様は、死というのは復活の日までの眠りに過ぎず、その眠りから起こす力を自分は持っているのだ、ということを、復活の日も最後の審判もまだ来ていない段階で前もって奇跡を通して示されたのです。

この世の人生と次の世の人生を合わせた総合的な人生を生きるというのは、神との結びつきを持って生きることそのものですが、そこではイエス様を救い主と信じる信仰があってこそ神との結びつきが持てることを忘れてはいけません。イエス様を救い主と信じる信仰は特に、二つの人生の間を移行する時に決定的に重要です。ヘブライ4章12ー13節で、神の言葉がどれだけ鋭く見抜いて裁く力があるかが言われています。最後の審判の時に全ての人は神の前で何も隠せない、丸裸同然で、神に対して申し開きをしなければならない。お前はどうしてあの時あのようにしたのか、あのようなことを言ったのか、考えたのか、と聞かれて、記憶にありません、が通用しないのです。これは恐ろしいことです。しかし、ここでイエス様を救い主と信じる者は心配無用であるということを思い出しましょう。私たちが至らない者だから、神はひとり子イエス様を身代わりの犠牲にしたことを思い出しましょう。ヘブライ4章13節の後の個所はまさに、そのことを思い出しなさいと私たちの心の目をイエス様に向けさせる個所です。本日の日課は本当はそこまであるべきだったと思います。

ヘブライ4章14ー 16節はイエス様を救い主と信じる信仰がある限り神の御前に立たされても大丈夫であると教えます。イエス様のことをあまり聞きなれない「大祭司」という言葉で呼んでいますが、これは神殿で務めを果たしていた大祭司が人々の罪と自分の罪を神の前で償うためにいろんな儀式を行って、特に動物を犠牲の生贄に供えることをしていた。それに対してこの新種の大祭司は自分自身を犠牲の生贄に供することで人間の罪の償いを果たして下さった。しかも、供されたのは神聖な神のひとり子だったのでこれ以上神聖な犠牲はなく、それで神の目から見てこの犠牲で十分となり、罪の償いのためにこれ以上供するものは何もなくなってしまった。さらに私たちにとって大きな慰めになるのは、この自分を犠牲に供した大祭司は神のひとり子で神と同じ存在でありながら私たち人間と同じようにこの地上に生きて同じような試練を受けた。だから、私たちの辛さや苦しみもちゃんとわかってくださっている。だから、罪がもとで私たちの心に神への恐れが生じたとき、また困難や苦難の中で誰もわかってくれない助けてくれないという気分に陥った時、この大祭司のもとに跪きなさい、すがりつきなさい、そうすれば必ず神から助けと導きを得られる、そう教えています。最後にこの個所を引用して、本説教の締めにしたく思います。

「さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちは公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯さなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

説教「救われるために何をしなければならないか?」トゥマス・ルッカロイネン兄(ヘルシンキ大学神学部学生)、通訳:吉村博明 宣教師

下の開始ボタン(黒三角)を押すと説教を聴くことができます。説教の後は、フィンランドのヤンググループ”ミッション ポシブル”がゴスペルソングを日本語で歌います。

 

説教「神の創造の秩序と結婚」神学博士 吉村博明 宣教師、マルコによる福音書10章1ー16節

主日礼拝説教2018年10月14日 聖霊降臨後第二十一主日

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.イエス様はなぜ、離婚は神の創造の秩序に反すると教えるのか?

 本日の福音書と旧約聖書の日課は、男女の関係について人間の造り主である神はどうあるべきと考えておられるか、ということを教えています。福音書の個所で、ファリサイ派の人たちがイエス様を試そうとして質問してきました。夫が妻を離縁することは許されるか、という質問でした。ファリサイ派というのは当時のユダヤ教社会の宗教エリートで律法の規定をとても重んじて自分たちこそ天地創造の神の意志をしっかり守って生きていると思っていました。イエス様は彼らの律法の理解が神の意図するものと違っていることをいつも指摘するので、ファリサイ派はイエス様を排斥しようと企むようになっていました。

ファリサイ派がイエス様を試すために質問したというのは、旧約聖書の申命記の24章に夫が妻に離縁状を書いて家から追い出してもよいという規定があることによります。モーセの律法の規定の一つです。イエス様は活動を開始した最初の頃に、十戒の第6の掟「汝、姦淫するなかれ」について、みだらな思いで他人の妻を見る者は行為で犯していなくとも心の中で姦淫を犯したことになる、と教えていました。さらに離縁状も相手が裏切ったという位の重い理由がない限り書いてはいけない、と教えました(マタイ5章)。それでイエス様が結婚をとても重んじていたことは知られていました。それなら、なぜモーセの律法に離縁状の規定があるのか、離縁状を書いて別れてもいいというのが神の御心ならば、このイエスは十戒を勝手に厳しく解釈して人々に不安を与えているのではないか、今それを公衆の面前で明らかにしてやろう、そういう魂胆なのです。

夫が妻と別れるのは許されるのかという質問に対して、イエス様は質問者の魂胆はお見通しでしたが、モーセは何を命じているかと聞き返します。ファリサイ派は待ってましたとばかり、離縁状の規定のことを言います。そこでイエス様は神のもとから送られた神のひとり子として父である神の御心を明らかにします。モーセが離縁状の規定を定めて離婚を認めたのは、人間の心がかたくなになっていることを考慮してそうしたのだ、と。私たちの新共同訳では「心が頑固」と言いますが、それだと何か意地っ張りとか、妥協しないというような、そんなに悪い意味には捉えられないのではないでしょうか。ギリシャ語のσκληροκαρδιαは「心がかたくなな状態」という意味で、「頑固」に比べてもっと深刻な状態のことを言います。どんな状態かと言うと、イザヤ書6章10節で神が罪深いイスラエルの民に罰を下そうとして、民の心を一層「かたくなにせよ」、それで神の御心を見たり聞いたりできないようにせよ、と言うところがあります。それと同じことで、「心がかたくなな状態」というのは、神に対してかたくなになって、神に背を向けて、神の御心を知ろうともわかろうともしない状態です。

それでは、結婚について何が神の御心かと言うと、イエス様は「神が結び合わせたものを、人は離してはならない」、つまり結婚を壊してはいけない、離婚してはいけない、これが神の御心であると言います。どうしてそれが神の御心だとわかるのかというと、それは神の創造の秩序がそういうものだからだと言うのです。神の創造の秩序とはどのようなものか?イエス様は創世記2章を引き合いに出して言います。「天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々でなく、一体である。」イエス様の言葉が書かれたギリシャ語を見ても、彼が引用した創世記2章のヘブライ語を見ても、二人は「一つの肉」になると言われます。結婚というのは、神が人間を男と女に造り、男と女がある段階に達すると自分たちを生み出した男と女、つまり父と母から離れて父と母のように一緒になることで、その一緒というのは神の目からすれば融合と言っていいくらいの結びつきです。そういう流れになるのが神の御心ならば、一度結びついたものを引き離すのは神の創造の秩序に反することになるのです。

それなら、なぜモーセ律法の中に離縁状の規定があるのか?それは、神に背を向ける心のかたくなさが人間の心にあるからだ、とイエス様は明かします。心のかたくなさがあるため、創造の秩序に現われる神の御心を知ろうともわかろうともせず、伴侶を裏切って別の相手と一緒になるということが起きます。イエス様は、そのような重大なことが起きれば、離縁状はやむを得ないと言っているのであって、自分の好みや都合でもう一緒にいたくない程度で書くものではないと言うのです。離縁状は認可されてはいるが、その発動は神の創造の秩序を損なうようなことが起きてしまった時できるというものです。創造の秩序を損なうこととして、伴侶を裏切ることの他に伴侶に命の危険をもたらす事態も考えてよいと思います。そういう重大なこともないのに離縁状を書くのは、今度はそれが神の創造の秩序を損なうことになるので、離婚はしてはいけないということなのです。

そのようなイエス様の方針は、弟子たちから見ても厳しすぎるようでした。マタイ19章を見ると、イエス様とファリサイ派のやり取りを聞いていた弟子たちが、夫婦の結びつきはそこまでして維持しなければならないのなら、結婚しない方がましです、などと言います(マタイ19章10節)。イエス様の弟子のくせに何を情けないことを言うか、と思わせますが、やはり弟子とは言え、離婚の可能性は開かれていたほうがいいと思うくらい、当時も夫婦の関係はいろいろ大変だったことをうかがわせます。イエス様が離縁状の条件をとことん狭めたことからも伺えるように、実際には重大な理由なくしても離縁状を書いて離婚することは結構あったのかもしれません。それも、人間の心がかなくなであることの現れです。

ここで気づかなければならない大事なことがあります。それは、人間の心からかたくなさが取れること、つまり神に背を向けた生き方をやめよう、神の御心をわかって、それに沿うように生きよう、そういう心が得られれば、離縁状など不要になるということです。どうしたら、そんな心を持てるでしょうか?キリスト信仰が主眼とするところを思い出しましょう。それは、神のひとり子であるイエス様が人間の罪を人間に代わって神に対して償うために十字架にかけられて死なれた、彼の身代わりの犠牲のゆえに神から罪の赦しを得て生きられる道が人間に開かれたということです。

人間はこの良い知らせを聞いて、イエス様は救い主とわかって洗礼を受けると、罪の赦しを頂いた者としてそれに恥じない生き方としようという心になります。もう神に背を向けて生きるのはやめよう、神の御心を知って、それに沿うように生きようと志向します。夫婦も、自分は神から罪の赦しという大きな赦しを頂いていることがわかれば、ちょっとしたことで相手を怒ったり責めたりせず、言葉を選んだりするようになります。万が一火花が散ってしまっても、赦しを願うこと、赦しを与えることがどれだけ大切なことかはイエス様の十字架を思い出せばわかるはずです。自分の受けた大きな赦しは、いつも自分に言い聞かせなければなりません。そうしないと、すぐ血と肉の思いに振り回されてしまいます。自分への言い聞かせはどうやってするのかと言うと、それは、聖書にある神の御言葉が宣べ伝えられるのを聞いたり、また自分で聖書を繙いて自省することです。そして神に祈り、自分の非力さや未熟さを直してくれるようにお願いすることです。

 

2.イエス様はなぜ、離婚した後の再婚は姦淫になると教えるのか?

 本日の福音書の個所のイエス様の教えの中で、夫婦は別れてはいけないということに加えて、離婚した後の再婚は姦淫、姦通になるという驚くようなことが言われます。「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」ここで、日本語で「姦淫」とか「姦通」と言う言葉は何を意味するか見てみますと、十戒の第6の掟は「姦淫」、本日のマルコの個所では「姦通の罪」という言葉が使われますが、双方とも同じことを指しています。旧約聖書のヘブライ語の言葉נאף、新約聖書のギリシャ語μοιχευω, μοιχαομαιがもとにありますが、これらの言葉のドイツ語、スウェーデン語、フィンランド語の訳はとても単純明快で「結婚を破ること、壊すこと、結婚に対する罪」という言葉で訳されています(Ehebruch, äktenskapsbrott, aviorikos)。英語の訳はadulteryで、ドイツ語等に比べたら一目で意味がわかりませんが、英英辞書を見ると「結婚している者が、結婚相手ではない者と自発的に性的関係を持つこと」とあります。つまり、日本語で姦淫とか姦通と言っているものは、最近の日本で新聞・週刊誌の報道で聞かない日はないと言えるくらいよく耳にする「不倫」ということになります。

そこでイエス様が離婚後の再婚を姦淫と言うのはどうして驚きかと言うと、正式に離縁したのであれば、もう結婚関係はないから、新しい相手と一緒になっても結婚を壊したことにならないのではと思われるからです。しかし、イエス様はそう思わない。なぜでしょうか?それは、神の創造の秩序から見てそうなるからです。神の創造の秩序とは何か、もう少し詳しく見てみましょう。それは、本日の旧約聖書の日課である創世記2章18節から24節までの個所で述べられていることです。イエス様はファリサイ派とのやり取りの中でこの個所の最後の24節を引用していますが、この個所全体を念頭に置いて話されたのは間違いないでしょう。

創世記2章18節から24節は、人間の女性が造られた経緯が記されています。2章の初めに男性が土から造られたことが記されています。最初人間はこの男性が一人だけでした。神は、彼が独りでいるのは良くない、彼に「合致するような助け」(עזר כנגדו)を造ろう、と言って、まず土からいろんな動物を造って彼の前に出します。男性が動物たちにどんな名前をつけるか、それを神が見るというのは、男性が動物たちの中からそのような助けを見つけるかどうか見るということです。男性は動物たちに名前を付けましたが、「合致するような助け」は見出すことはできませんでした。それなら、と神は今度は、男性の骨や肉を材料にして、動物たちとは違うものを造ります。男性のあばら骨一本から女性を造ったような書き方ですが、初めはそうだったかもしれないが最終的にはいろんな骨や肉も材料になったようです。新共同訳で男性が女性のことを「わたしの骨の骨、わたしの肉の肉」と言っていますが、ヘブライ語はもっとはっきりしていて、女性の骨は「わたしの骨からである」(עצמ מעצמי)、女性の肉は「わたしの肉からである」(בשר מבשרי)、と言っています。女性を見た男性は、これこそ自分に「合致する助け」と見なしました。

あと新共同訳に男性の言葉の下にカッコがあって「イシュ」、女性には「イシャー」とカタカナで書かれていますが、これは何かと言うと、「イ(-)シュ」(איש)は男性を意味する単語で、「イ(ッ)シャー」(אשה)はそれの女性形の形です。ドイツ語の名詞には男性、女性、中性と性別がありますが、それと同じことです。男性「イ(-)シュ」が自分の一部を材料にして造られたものを自分に「合致する助け」と見なし、これに「イ(-)シュ」を女性形にした形「イ(ッ)シャー」という名前を付けたということです。

さて、女性が男性の「助け人」として造られたとか、男性の骨や肉を材料にして造られたなどと聞くと、聖書は女性を男性の付属物にしていると怒られてしまうかもしれません。しかし、女性が男性を助けられるためには、男性も女性を助けなければできません。例えば、仕事をする女性が家事育児全部任されて男性が仕事だけ専念してよいということになったら女性は潰れてしまい、助けるどころではなくなります。最初は男性の助けのために女性を造ると言いますが、いったん造られたらお互い助け合う関係になるのではないでしょうか?(ヘブライ語の言葉כנגדוにそんな相互性を含めてもいいような気さえするのですが、専門家はどう思うでしょうか?)それから、男性の骨と肉を材料にしているということも、もし男性が女性を低くみたら、それは材料がその程度だったと自分で認めることになってしまうので、男性は女性に対してあまり大きな顔をしない方がいいということになります。

そこで、男性と女性が自分たちがそれぞれ生まれ出てきた男性と女性、つまり父と母のもとを出て一緒になることを一体になる、一つの肉になると言います。同じ肉と骨がもとにあるので分離したものがまた一つになることが結婚ということになります。それで、離婚は一つに融合していたものを二つに分かれてしまうことと言ってよいでしょう。姦淫とは二つのものが融合してできたものを二つ以外のものが入り込んで融合が壊れてしまうことと言ってよいでしょう。そうすると、離婚したらもう融合もなくなっているのだから再婚は姦淫にならないのではと思われるのですが、イエス様はそうだと言われる。どうしてでしょうか?それは、一度一つになった肉は、人間の目では別々になって解消したとしても、神の目からすれば、一度一つになったことはとても大きなことで、その事実は消せないということのようです。だから、別れても新しい相手と一緒になると、神の記録にある一つになったものに対して外のものが入り込んでくる、つまり姦淫と同じことになるというのです。

しかしながら、現実には離婚の後の再婚は沢山あります。イエス様の教えに従っていたら、「新しい出会い」や「人生の再出発」ができなくなってしまうと言われるでしょう。それを神の意志に反するなどと言われては、もう神なんか相手にしたくないという気持ちになるかもしれません。あるいは、自分の信じたい神はそんな偏狭ではない、もっと気前がいい方だ、という考えになってしまうかもしれません。でも、それは創造主の神に対して心をかたくなにすることになってしまうのです。

どうしたらよいでしょうか?「新しい出会い」、「人生の再出発」と思っていたことは実は神の意志に反する、そう言った張本人のイエス様は何をしたでしょうか?そういう厳しいことを言って、さらには心の中で描いただけでも同罪だと言ったのです、そこまで厳しいことを沢山言って、その通りに出来ない人たちに後ろめたい気持ちを与えたり不愉快にさせて、自分は偉そうにして出来ない人たちに軽蔑の眼差しだったでしょうか?いいえ、そうではありませんでした。イエス様は、人間が持っている神の意志に反すること、行い、考え、言葉すべてにかかわる神の意志に反すること、これが神の怒りをもたらして人間があまりにも無防備になっている、この状態をなくして人間が神から優しく守られて生きられるようにしよう、それで、ゴルゴタの十字架の上で自分を犠牲にして神の怒りと罰を人間の代わりに受けられたのです。

イエス様を救い主と信じるところには、神の罪の赦しがあります。何も知らずに新しい出会いや再出発をした人は、一度起きてしまったことはもう元には戻せませんが、イエス様を救い主と信じて神から罪の赦しを頂く者として生きることはできます。神のひとり子が自分の身を投じてまで与えて下さった罪の赦しです。人間が神から守られて生きられるようになるためにひとり子も惜しまなかった神の愛です。自分がしてしまったこと、考えてしまったこと、口にしてしまったことは全て神のひとり子を死なせなければならないほどの重大なことだったのだと思い知れば、人間は十字架のもとにひれ伏すしかありません。これからはどう生きたらいいか、行ったらいいか、考えたらいいか、全てにおいて何が神の意志に沿うことか考えるようになります。そのようにして神の創造の秩序に沿わなかった出会い、再出発も罪の赦しの救いに沿うものに変えられていくと思います。

 

3.独身でいることは神の創造の秩序に反しない。一人でいようがいまいが肝要なことは終末・復活への備え

 最後に、神の創造の秩序に男と女の結婚という結びつきがあるとすると、結びつきを持たないで一人でいるというのは、創造の秩序に反することになるのでしょうか?そういうことではないようです。マタイ19章12節でイエス様は「結婚できないように生まれついた者、人から結婚できないようにされた者もいるが、天の国のために結婚しない者もいる」とおっしゃっています。それぞれが具体的にどんな人なのか、ここでは立ち入りませんが、一人でいても創造の秩序に反することにならないのです。

使徒パウロは第一コリントの7章で結婚について教えていますが、読むと未婚者とやもめに対して、結婚しないで一人でいる方がいいなどと言います。加えて、結婚しても罪を犯すことにはならないとも言っていて、我慢できなければ仕方ないですね、結婚してもいいですよ、という調子です。このような言い方をするのは、今の世の終わりが近づいているという終末観があるからです。イエス様の十字架と復活の出来事の後しばらくは、今ある天と地が新しい天と地にとってかわられて最後の審判や死者の復活が起きる日がもうすぐやってくる、そういう切迫した思いが当時のキリスト信仰者の間で強く持たれていました。それくらい、イエス様の十字架と復活の出来事は本当につい最近起きた出来事としてまだ大きなインパクトがあったのです。しかしながら、パウロの時代から2000年近くたちましたが、まだ今ある天と地はそのままです。これは、新しい天と地の創造がもう起こらないということではなく、イエス様も言われたように、福音が世界の隅々まで宣べ伝えられるまでは終わりは来ないということなのです(マタイ24章14節など)。

それでも、キリスト信仰者はいつその日が来ても慌てないようにいつも目を覚ましていなければなりません。これもイエス様が命じられていることです(マタイ24章44節など)。しかし、終末のことを考えながら、家庭を築くとか、子供を育てるというのは矛盾があるように感じられます。今愛情を注いでいるものが、無駄なことのように感じられてしまうからです。その場合は、ルターのように考えます。つまり、家族とか伴侶とか子供とかは、神が世話しなさい、守りなさい、育てなさい、と言って私たちに贈って下さったものである。神がそうしなさいと言って贈って下さった以上は、感謝して受け取って、それらを忠実に世話し守り愛し育てる。贈られる神はまた取り上げられる神でもある。だから、もし神の定めた時が来て神にお返ししなければならなくなったら、素晴らしい贈り物を持てて世話できたことを感謝してお返しする。もちろん、これは痛みを伴います。その時こそ、キリスト信仰には「復活の再会の希望」があることを思い起こす時です。神が世話しなさいと定めた期間はどのくらいかはわかりませんが、その期間は限られているのでとても大事なものとわかります。贈られたものと共にいる一時一時が貴重な時になり、贈られたものは一層愛おしくなります。そのように考えれば、終末を頭のどこかで覚えながら、今愛情を注ぐものがあることは矛盾しないのではないでしょうか?

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

 

聖餐式:木村長政 名誉牧師

「いずみの会」合同修養会早朝礼拝説教「永遠の命の約束」吉村博明 宣教師 2018年10月8日(国民宿舎「サンレイク草木」中庭にて)

 説教題「永遠の命の約束」

 聖書の箇所 第一ペトロ1章22-25節

「あなたがたは、真理を受け入れて、
 魂を清め、偽りのない兄弟愛を
 抱くようになったのですから、
 清い心で深く愛し合いなさい。

 あなたがたは、朽ちる種からではなく、
 朽ちない種から、すなわち、
 神の変わることのない生きた言葉によって
 新たに生まれたのです。

 こう言われているからです。
 「人はみな、草のようで、
 その華やかさはすべて、
 草の花のようだ。

 草は枯れ、花は散る。
 しかし、主の言葉は永遠に
 変わることがない。」

 これこそ、あなたがたに福音として
 告げ知らされた言葉なのです。」
(新共同訳)

私たちの父なる神と主イエス・キリストからの恵みと平安とがあなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 1.この聖句は、日本人をおやっと思わせてちょっと立ち止まらせる、そんな聖句ではないでしょうか?「人はみな、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ、草は枯れ、花は散る」などとは、中学の国語の授業で暗記させられた平家物語の冒頭部分「祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響きあり」を彷彿させ、皆さん共感を覚えるのではないでしょうか?特に日本の場合は桜の花がこの、美しいもの華やかなものはいつまでも続かないという思いを強めるのに一役買っていると思われます。加えて、散りゆく桜を見て美しさ華やかさは儚いものだと思っているうちに、いつしか逆に儚いもの散ること自体が美しいのだと言い換えられて強調されるようになる、そういうことが戦争中の日本にはあったのではないでしょうか?(最初の特攻隊の部隊の名前に本居宣長の「山桜」短歌の言葉が使われたり、ある特攻兵器は「桜花」と名付けられたり、軍歌の「同期の桜」などに表れていると思います。)

そういう日本人が共感を覚えるようなことを言った後で、この聖句は突然、共感者の夢を覚ますようなことを言います。「しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」ギリシャ語の原文を直訳すると、「主の言葉は永遠にとどまる、残る」(μενει εις τον αιωνα)です。つまり、草や花そして人間のように枯れたり散ったりせず、ずっとずっと永遠に残る、です。この聖句はイザヤ書40章8節の引用でもあります。ヘブライ語の原文を直訳すると、「永遠に続く」とか「永遠に効力を持つ」(יקומ לעולמ)です。人間が持てる華やかさも、またそれを持つ人間自身も永遠には続かない、草や花のように枯れたり散ったりして終わってしまう。もっともななことです。ところが、この聖句は、私たちの目と心をそこに止めっぱなしではいけない、と言わんばかりに、「しかし」(δε)と言って、神の言葉は永遠に続く、永遠に残る、永遠に効力を持つ、と言います。そこに目と心を向けよ、と言うのです。この聖句は限りある人間に、特に限りあることに思い入れが強い私たち日本人に何を呼び掛けているのでしょうか?

 

2.まず、「神の言葉は永遠に続く」とはどんなことか考えてみましょう。私がこの世から死んだ後も聖書は読み続けられるでしょう。その意味で、聖書が世代を超えてずっと読み継がれていくということでしょうか?そうではありません。聖書の立場では、この世というものは天地創造の神に造られて始まった、そしてそれには終わりがある、その時新しい天と地が創造されて今のものに取って代わるということがあります。森羅万象の有り様がかわるので、聖書を繙くという今の世の人間の営みはもうありません。なぜなら、聖書の立場では、今の世が新しい世に取って代わる時、死者の復活が起きて、神の御許に招かれる者は栄光の復活の体を着せられて永遠に神の御許に戻るということがあるからです。その時、神が聖書の御言葉を通して約束していたことは、もう繙いて読むことではなくなって、実現したものになって見たり味わったりすることになるのです。

そういうわけで、神の言葉が永遠に続くというのは、それが神の揺るがない約束としてあって、今の世を貫いて新しい世にて実現する日を待っている、まさに天地創造の神が約束したものなのでそれは神の側で忘れられずに実現する日までちゃんとある、ということです。

このように神の言葉はというのは全て、今の世に代わる新しい世の創造、死者の復活、永遠の命についての神の約束です。それだけではありません。第一ペトロの聖句に引用されているのはイザヤ書40章6節から8節までですが、7節をみると、「草は枯れ、花は散る」と言った後で、「なぜなら、神の息吹が吹き付けたからだ」と言っています(「神の息吹」は「神の霊」、「神の風」(רוח יהוה)とも訳すことが可能です)。この部分はペトロの引用では省かれていますが、イザヤ書では、枯れること散ることが神から罰を受けたためであると言われているのです。罪の汚れを内に持つ人間は誰もそのままでは神聖な神の前に立たされたら焼き尽くされてしまう存在でしかありません。

しかし神は、人間が罪から離れて最後は自分のもとに永遠に戻れるようにしてあげよう、自分のもとにいて完全に安全、安心でいられるようにしてあげよう、まさにそのためにひとり子イエス様をこの世に送られました。そしてイエス様を十字架の上で人間に代わって罪の償いをさせて死なせ、彼の犠牲に免じて人間を赦すことにしたのです。さらにイエス様を死から復活させることで永遠の命の扉を人間のために開いたのです。人間はこの「福音」を聞いて、イエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ、永遠の命に至る道に置かれてその道を歩むことになったのです。順境の時も逆境の時も変わらずに神に守られて励まされて慰められて時には叱咤されて、歩むことになったのです。

第一ペトロの聖句は、永遠に続く神の言葉のことを「福音として告げ知らされた言葉」であると言います。イザヤ書の時代ではイエス様の十字架と復活の出来事はまだ預言されただけでした。預言されたことが実際に起こったおかげで、神は私たちに永遠の命の約束も必ず果たして下さるのだとわかるようになりました。こうしてイエス様の十字架と復活の「福音」と永遠に続く神の言葉は切っても切れない関係になりました。イエス様の福音を宣べ伝えることは、神の永遠の命の約束は本当なのだと宣べ伝えることになるのです。

 

3.さて、この世には枯れない散らない、永遠に続く神の言葉というものがあることがはっきりしました。それは、イエス様の十字架と復活の「福音」に裏打ちされた、神の永遠の命の約束です。この約束が果たされると信じて生きることは、永遠に続くものがあると信じることになります。それだけではありません。第一ペトロの聖句では、「人間」は草のように枯れると言っていますが、ギリシャ語では草のように枯れるのは「肉」(σαρξ、בשר)です。そして、神の言葉を受け入れて聞き従う者は「新しく生まれた者」と言います。つまり、人間の有り様が肉だけではなくなって、霊が加わるのです。それで、永遠に続くものがあると信じるだけでなく、永遠そのものに与ることになるのです。枯れたり散ったりするものばかりのこの世にあって、朽ち果てないものに属して生きることになるのです。

 それでは、永遠に続くものを信じ、永遠そのものに与って生きることは、日本人らしくないでしょうか?また、咲いている時間が短いゆえに美しさが一層際立って見える桜の花を美しいとは感じなくなってしまうでしょうか?

そういうことにはならないと思います。というのは、キリスト信仰者は、桜の花が短く咲いて散ってしまうことにも、永遠を司る神の御心が表れているとわかるからです。花の後は葉桜になって、花ほど美しくないかもしれないが、その新緑はゴールデンウィークの頃までは陽光の中でキラキラ輝きます。その後は緑濃くなって夏を越し、秋には散って、木枯らしの冬を越して、また3月終わりに芽が出てきて見る見るうちに開花します。花が散るというのは、一つの素晴らしい段階が終わって次の素晴らしい段階の始まりです。ひっそりと佇む段階もあるが、その後にまた素晴らしい段階が来る。創造主の神は桜にそのような習性を与えたのです。このように季節に応じた桜の有り様に神の御心を知ることができます。もちろん、樹齢長い桜と言えども、神が与えた寿命を満たせば枯れてしまいます。それでも寿命と季節の有り様を与えた神の御心はそのままで変わりません。

永遠に続くものを信じ、それに与って生きることが日本人らしくないとすれば、何が日本人らしいでしょうか?その日本人らしさの中では、希望や喜びは何でしょうか?

キリスト信仰者の希望や喜びは、永遠に続く神の言葉を信じ、永遠の命に与ることにあります。神は、人間が御心に沿って罪から離れて生きるようにと、御言葉を与えました。さらに御言葉を正確にわかってそれに基づいてこの世を生きて、永遠の命への道を歩めるようにと、イエス様を送られました。そういうふうに言うと、キリスト信仰者は永遠の命ばかり考えてこの世で生きることはどうでもよくなってしまうのか、と思われてしまうかもしれません。いいえ、そんなことはありません。第一ペトロの聖句は永遠に続く神の言葉について述べていますが、同時に愛し合いなさいと勧めていることにも注目しましょう。イエス様の福音に裏打ちされた神の言葉を受け入れ聞き従う者は、神から頂いた恵みの大きさにただただ恐れ入りひれ伏してしまうので、もう些細な事、利己的な思いや下心、他者との比較などは馬鹿馬鹿しくなって、そういうものから心が洗われてしまいます。その清められた状態にふさわしい生き方は愛に生きることだと、ペトロはまだ気づいていない信仰者に思い起こさせているのです。

ところで神の御心は、神の創造の中にある自然の営みにも表れています。その中には、人間にとって冷酷な自然もあります。それに挑むと命を落としてしまうような自然です。瞬間風速60メートルの暴風の中を、神が守ってくれるから大丈夫だ、などと言って車で出かけるのは、神を試すことになります。他方で、人間に喜びと感動を与える美しいものもあります。昨晩、皆さんと一緒に星野富弘さんの半生記を扱ったビデオを見ましたが、その中で彼が、体が自由な若い頃はよく山に登り花なんかあまり目を留めなかったが、体が不自由になって花が身近な自然になって以来、花には「手の込んだ美しさがある」とわかるようになったと言っていました。まさにこのことです。この世で永遠の命への道を歩む私たちは、神の御心が働いている美しいものをもっと見つけようではありませんか。何が神の御心が働く美しいものかは、御言葉に基づいて生きていけばわかるはずです。御心が働いているとわかれば、美しいものから慰めと力づけを得られます。神はそのために美しいものを備えて下さったのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

説教「キリスト信仰にあって他者に仕えるとは?」神学博士 吉村博明 宣教師、マルコによる福音書9章30ー37節

主日礼拝説教2018年9月30日 聖霊降臨後第十九主日

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 先週の福音書の個所はマルコ8章27ー38節でしたが、それはマルコ福音書全体の中で大きな転換点をなしているということを先週の説教でお話ししました。それまでガリラヤ地方とその周辺地域で活動していたイエス様は、ガリラヤ湖から北へ40キロ程いったフィリポ・カイサリア地方に移動します。そこで先週の箇所の出来事があって、イエス様は初めて弟子たちに自分の受難と死からの復活について預言します。9章に入ると「高い山」に登って自分の姿が変わるところを弟子たちに目撃させる出来事があります。山から下った後はただただエルサレムに向かって南下していきます。

南下途中のイエス様と弟子たちは、まずガリラヤ地方に戻ってきます。少し奇妙なことに本日の個所でイエス様は自分が同地方に入ったことを人に知られたくなかった(30節)とあります。なぜでしょうか?これは、先週申し上げたことを思い出すとよいでしょう。先週の箇所で、イエス様は弟子たちに自分がメシアであることを言い広めてはいけないと命じたことがありました。その理由として、メシア、すなわち頭に油を注がれて神の目的のために聖別された者のことですが、そのメシア理解についてイエス様が自分自身について考えていたことと人々の理解の間に大きな相違がありました。イエス様にとってメシアというのは、人間と神との結びつきを回復して、人間がその結びつきの中でこの世を生きられるようにする、また人間がこの世から去ることになってもその時は自分の造り主である神のもとに永遠に戻れるようにする、そういうことを実現する者がメシアでした。まさに人間の救い主です。ところが当時の人々は、メシアと聞けば、ダビデ王朝の子孫がユダヤ民族を他民族支配から解放して王の位について諸国に号令をかけるという民族解放者をイメージしていました。このような理解が持たれたのは、旧約聖書のあちこちにそういう理解ができる預言があったからですが、天地創造の神の意図はそんな一民族の解放にはありませんでした。しかしながら、特定の歴史状況の中で生きてその中で抱かれてきた夢や願望を皆が共有していると、旧約聖書にある神の深い本当の意図を理解することはなかなか難しいことでした。これは、きわめて人間的なことです。メシアが神の意図に沿う正しい理解がされるためには、イエス様の十字架の死と死からの復活の出来事を待たなければなりませんでした。

そういう時勢でしたから、もしイエス様がメシアであると言い広められたらどうなるか?ユダヤ民族の人たちはついに自分たちの解放者がやって来た、と大喜びですが、当時ユダヤ民族を実効支配していたローマ帝国やそれに取り入る傀儡政権の指導層は絶対反対だったでしょう。ローマ帝国は反乱に神経をとがらせていたので、もし鎮圧部隊出動ということにでもなれば、イエス様のエルサレム入城予定に支障をきたしたでしょう。イエス様にしてみれば、全ての出来事が福音書に記されているように起きるためには、今のところは自分がメシアであると言い広められない方が目的に適ったのです。

 

2.弟子たちのメシア・イメージの混乱

 ところで、ガリラヤ地方に戻ってきたイエス様一行が、まだガリラヤ湖畔の町カペルナウムに到着する前のことでした。イエス様は再び自分の受難と死からの復活について預言します。先週の福音書の個所で初めてこの預言が語られました。その時は、驚いたペトロがそんなことはあってはならないと否定して、イエス様からはお前は人間の栄光だけを考えて神の計画を無にしようとしている、悪魔同然、と叱責されてしまいます。ペトロのメシア理解が民族解放の英雄だったことを露呈したのです。この二度目の預言の時も、弟子たちはその意味をまだ理解できず、反論すると厳しい叱責が待っているので怖くて何も聞くことができません。メシアの正しい意味を理解できるためには、本当に十字架と復活の出来事が起きないと無理だったのです。

この時、弟子たちの間でイエス様に従っていくことは一体何なのだろうかという疑問が起きたと考えられます。この方はエルサレムに入城したら神の偉大な業を行って、天から降ってくる天使の軍勢と一緒に占領者と傀儡政権を打ち倒し、民族を解放して真の王として君臨して諸国に号令をかける、まさにそういう方と信じて、我々はついてきたのではなかったか?それなのに、自分は殺されてしまうなどと言われる。しかも、3日後に死から復活するなどとも。それではユダヤ民族の解放はどうなってしまうのか?直近の弟子としてついて来ている我々の立場はどうなってしまうのか?殺されてしまうと言うのは、あまりにもあっけない結末ではないか?しかし、死から復活するというのは一体何なのだ?新たに指導を開始して民族解放運動が新局面に入るということなのか?こんなふうに、弟子たちの抱いてきた民族解放や英雄のイメージが壊されて、新しいイメージが描ききれないという状況があったと思われます。このイエス様の再度の預言の後で弟子たちは、「誰が最も偉大な者か」ということについて議論し合いますが、恐らくメシア・イメージが混乱したことが原因にあったと考えられます。

 

3.キリスト信仰にあって他者に「仕える」とは?

  さて、カペルナウムの滞在先となった家の中でイエス様は弟子たちに道中何を話し合っていたのかと聞きました。弟子たちは答えませんでしたが、イエス様は全てお見通しでした。そこでイエス様は、最も偉大な者について教えます。これは、人間の目から見たのではなく、神の目から見て最も偉大な者ということです。イエス様の教えは35節から37節までの3節に凝縮されています。まず35節で言葉で教えます。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」

人間の目から見たら、偉大な人、先頭に立つ人というのは、皆から尊敬されたり畏怖されたりして皆に仕えられる人です。ところが、イエス様に言わせれば、他人に仕えてもらう者ではなく、逆に他人に仕える者の方が神の目から見て偉大で先頭に立つ者である、ということなのです。人間の目から見たら逆ですが、神の目から見たらそうなのだ、というのです。

他人に仕えることで神の目から見て偉大な者、先頭に立つ者になったのは、まさにイエス様でした。イエス様は神のひとり子として本来ならば天の御国にて神の栄光に包まれていればよいお方でした。ところが、人間が神に対する不従順のために罪を持つようになってしまって神との結びつきを失ってしまった、そのために神は人間が再び自分との結びつきを持って生きられるようにしようと、それでひとり子のイエス様をこの世に送られました。人間の乙女マリアを通して生まれるという仕方で送られました。それで、人間の心と体と魂を持てて、私たち人間の悩みや苦しみをわかることができたのです。そして最後は、神からの罪の罰を全部人間の身代わりとなって引き受けて十字架の上で死なれました。人間は、この神のひとり子の身代わりの犠牲が自分のためになされたとわかって、それでイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けると、この犠牲に免じて神から罪の赦しが得られ、そのようにして神との結びつきが回復することとなりました。

それだけではありませんでした。神は一度死なれたイエス様を復活させて、永遠の命の扉を人間のために開かれました。それで、イエス様を救い主と信じる者は、永遠の命に至る道に置かれてそれを歩み始めるようになります。神との結びつきを持って生きる者として、順境の時も逆境の時も絶えず神から助けと良い導きを得られ、万が一この世から死ぬことになってもその時は自分の造り主である神のもとに永遠に戻ることができるようになったのです。私たち人間にこの救いをもたらすために、イエス様は神の栄光に包まれたひとり子でありながら、私たち人間と同じ姿かたちをとってこの世に送られて十字架の死と苦しみを受け入れたのです。まさに、全ての人の後になって全ての人に仕えたのです。まさにこのことが使徒パウロの「フィリピの信徒への手紙」2章の中で述べられています。

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が『イエス・キリストは主である』と公けに宣べて、父である神をたたえるのです」。(6ー11節)

このようにイエス様は、もともとは全ての人に先立つ方だったのに全ての人の後になって全ての人に仕えて、再び先頭に立つ者となられたのです。イエス様は弟子たちに、先頭に立つ者になりたかったら、全ての人の後になって全ての人に仕えなさい、後になろうともせず仕えようともしない者は先頭に立つ者にはなれない、と教えました。これはどういうことでしょうか?もちろんこれは、弟子たちも犠牲の生け贄となって十字架にかかって神から罪の赦しを得られるようにしなさい、ということではありません。罪の赦しと神との結びつきを回復してくれた犠牲は神のひとり子が全て行いました。私たち人間がひとり子と同じくらい神聖な生け贄になれるわけがありません。神が受け入れられるくらいに神聖な生け贄は神のひとり子しかいません。そういうわけで、人間を罪の支配状態から贖い出す犠牲はイエス様の十字架一回限りで、それ以上はいらないのです。そうすると、「すべての人の後となり、すべての人に仕える」というのはどういうことでしょうか?

キリスト信仰にあって他者に「仕える」というのはどんなことかを考える時、使徒言行録6章の出来事が参考になります。エルサレムで最初のキリスト信仰者たちが共同体を形成しつつあった頃でした。12弟子は祈りや神の御言葉を教えるだけでなく、礼拝・集会に来た人たちの食事のことも監督しなければならない状態でした。そこで礼拝や教えに専念することができるように、つまり信仰者の霊的な必要を満たすことに専念できるように、食事のような信仰者の体の必要を満たすことに専念する人たちを別に選出したのです。使徒言行録6章に出てくる「仕える」という言葉は、このように神の御言葉に仕えることと(τη διακονια του λογου4節)、体の必要を満たす仕え(διακονειν τραπεζαις 2節)の双方に関係してきます。

そういうわけで、キリスト信仰にあって「仕える」とは、既にイエス様を救い主と信じている人たちの間では、その信仰にしっかりとどまれるように、イエス様のおかげで回復した神との結びつきを失わないで生きられるように、霊的・肉的に支えることであると言うことができます。そう言うと、クリスチャンは相手が信仰者でなかったら「仕え」ないのかと言われてしまうかもしれません。そうではありません。天地創造の神の意志は、全ての人が神との結びつきを回復して生きられるようにすることです。それなので、相手が信仰者でない場合は、その結びつきを回復できるようにすることを念頭に置いて助ける、仕えるということになります。そう言うと今度は、それじゃ、宗教に勧誘するための人助けではないかと言われてしまうかもしれません。確かに、神との結びつきの回復など持ち出さないで、人助けや仕えをすることは可能です。しかし、キリスト信仰の場合は、どうしてもイエス様の十字架のおかげで神との結びつきに道が開いたということがあるので、どうしてもそれが関係せざるを得ないのです。それに、物質的な支援は万能ではなく、霊的な支援にこそ計り知れない力が秘められているということがあると思います。このことは、イエス様の言葉「人はパンのみに生きるにあらず、神の口から語られる全ての言葉によっても生きる」(マタイ4章4節)、これを思い巡らすと見えてくるのではと思います。自分の造り主との結びつきは決して失われない、という確信があれば、たとえ物質的な支援に限りがあったとしても絶望状態にはならないのではないでしょうか?キリスト信仰の支援というのは、そういう確信にかかわるものです。

 

4.「イエス様の名前に依拠して」

 全ての人に仕えること、これはキリスト信仰の場合、人間が神との結びつきを持ってこの世を生きられるようにする、霊的に肉的にそう出来るように支えてあげる、ということを述べてまりました。そのことが続く36節と37節のイエス様の行いと教えに結びついています。行いとは、子供を弟子たちの前に立たせて抱いたことです。教えとは、「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れるものは、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」です。このイエス様の行いと教えは、どうキリスト信仰者の「仕え」と結びつくのでしょうか?それを見ていきましょう。

イエス様は、「一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた」(36節)。私たちの新共同訳では「抱き上げて」とありますが、ギリシャ語の動詞(εναγκαλισαμενος)は、「曲げた腕(αγκαλη)の中に入れる(εναγκαλιζομαι)」という意味ですので、そのままでいけば「抱きしめる」の意味です。それにこだわると、子供は立ったままということで、イエス様が屈むようにして腕を回して抱いたということになります。もちろん、子供を真ん中に立たせた後すかさず、よっこらしょっと、と抱っこした可能性も否定できません。どちらでも良いではないかと思われるかもしれませんが、子供を抱っこするというのはよくあることなので、立たせたまま屈んで抱いた方がとても劇的な感じがします。

いずれにしてもイエス様は、全ての人の後になって仕えるということを教えるために、弟子たちの前に子供を連れてきて抱っこするなり抱きしめるなりしました。そして行為を言葉に言い換えて言われます。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れるものは、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」(37節)。イエス様を受け入れること、またイエス様をこの世に送られた神を受け入れること、これは言うまでもなく、イエス様を救い主と信じ、神をイエス様の父として信じることです。まさにキリスト信仰そのものです。イエス様は、子供を受け入れることがそういうキリスト信仰を証しするような、そんな子供の受け入れ方をしなさい、それが全ての人の後になって仕えることになる、それで神の目からみて先頭に立つ者になる、と言うのです。これは一体どういうことでしょうか?

子供を受け入れることがキリスト信仰を証するような、そんな子供の受け入れ方とは、どんな受け入れ方でしょうか?ここでカギになってくるのが、子供を受け入れる時、「私の名のために」と言っていることです。イエス様の名のために子供を受け入れる。それでは「イエス様の名のために」とはどんなことなのか?これもギリシャ語の厄介な表現がもとになります(επι τω ονοματι μου)。英語、ルター訳ドイツ語、フィンランド語、スウェーデン語の訳の聖書ではどれも、「私の名において」です(in my name, in meinen Namen, minun nimessäni, i mitte namn, ただし、Einheitsübersetzung訳では「私のためにum meinetwillen」)。イエス様の名において子供を受け入れる、これもわかりそうでわかりにくい表現です。イエス様の名前と子供の受け入れはどう関係するのでしょうか?

ギリシャ語の表現のもともとの意味は、「イエス様の名に基づいて」とか「依り頼んで」という意味です。そうは言っても、それが子供の受け入れをどう規定するかはまだまだわかりにくいです。ただ、一つはっきりしていることがあります。それは、子供を受け入れる際に依拠するのがイエス様の名前であって、他の何者の名前にも拠らないということです。子供を受け入れる時、引き合いに出すのは誰か過去の偉人が慈善を沢山行ったから自分もそれに倣ってそうする、ということではない。また他ならぬ自分が善意を持って慈善をするというような自分自身に依拠することでもない。ましてやいろんな宗教の神々や霊の名を引き合いに出すことなんかでもない。ただただイエス様の名前だけを引き合いに出してそれに依拠して、子供を受け入れるということです。

それでは、その唯一の名前の持ち主であるイエス様というのはどんな方でしたか?イエス様とは、十字架の犠牲の死を遂げることで人間を罪の支配状態から贖い出して下さった方です。そして死から復活されたことで人間に永遠の命の扉を開かれた方です。このように人間の救いを実現して下さった方なので、その名前は先ほどの「フィリピの信徒への手紙」にも謳われていたように、あらゆる名にまさる名であり、天上のもの、地上のもの、地下のものすべてがひざまずく名です。そのような名を引き合いに出して子供を受け入れるというのは、まさに受け入れられる子供も、受け入れをする大人と同じように、イエス様が実現した罪の赦しの救いを受けられるようにすることです。そして大人と同じように神との結びつきを回復してこの世を生きられ永遠の命に至る道を歩めるようにすることです。つまり大人と全く変わらぬ神の御国の一員に受け入れて一員として扱い、かつ一員でいられるように育てたり支えたりすることです。たとえ子供であっても大人と同じくらいに、イエス様が実現した罪の赦しの救いは提供されている、永遠の命に至る道は開かれている、ということをしっかり認めて、子供もそれを受け取ることができるようにしてあげる、その道を歩むことができるようにしてあげる。

このように考えれば、イエス様の名のために、とか、イエス様の名において、とか、その名に依拠して、とか言って、子供を受け入れるとはどういうことかおわかりになるのではと思います。こういう受け入れ方をした時、ああこの人はイエス様を受け入れている、イエス様を送られた父なるみ神を受け入れているということがわかるのです。そのようにして子供を受け入れ導いた時、その子供はイエス様に抱っこされたか、または抱きしめられたことになるのです。

ところで、神がイエス様を用いて実現した罪の赦しの救いと永遠の命に至る道というものは、子供だけに提供されたり開かれたものではありません。提供されているにもかかわらずまだ受け取っていない人、開かれているにもかかわらずまだ歩んでいない人は大人も子供も含め世界にまだまだ大勢います。また、一度は受け取って歩み始めたが、受け取ったことを忘れてしまったり道に迷ってしまった人もいます。その意味で、イエス様が弟子たちの前で立たせて抱きしめるのは別に子供でなくてもよかったのですが、やはり弟子たちが「偉大なものは誰か」ということに関心が向いてしまって「仕える」ということを忘れてしまっていた時なら、小さい子供を抱きしめるのを見せるのは効果的だったでしょう。このイエス様の抱きしめが、「仕える」ことを目に見える形で表したのです。

兄弟姉妹の皆さん、私たちは、イエス様に抱きしめられた者、抱っこしてもらった者ですので、お互いに信仰を支えあうようにしましょう。まだ救いを受け取っていない人や道に迷ってしまった人たちに対しては、受け取ることが出来るように、道に戻ることが出来るように祈りましょう。もしそうした人たちに教えたり諭したりする機会が来ることをよく注意し、もしその機会が与えられたら、神が聖霊を働かせて相応しい言葉を与えられるように祈りましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

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このサイトに引用されているのは聖書新共同訳です。
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  • 12月 13日 11:00 am
    English Bible Study
    詳しく見る
  • 12月 15日 4:00 pm
    Joululauluilta (Suomi-kai スオミ会)
    Tervetuloa laulamaan joululauluja! Nyyttikestit.
  • 12月 16日 10:30 am
    主日礼拝
    司式・説教吉村博明宣教師(ルカ1章26~38),礼拝後交わり。
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