宣教師の週報コラム

 使徒的伝統に立って福音書を繙こう その1

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先主日(5月7日)の礼拝説教にて、4つの福音書を文学作品のように読むと信仰にとって問題がある、使徒的伝統に立って読むべきである、ということをお話ししました。どういうことか、コラムの場を借りて説明いたします。

この問題は、神学の中の「釈義学」分野の話です。釈義学とは、聖書中の書物がそれぞれ歴史的にどのように成立したか、また成立時の歴史状況を研究する分野で、旧約釈義学、新約釈義学に別れます。歴史学、批判的文献分析、考古学等とも結びつき「歴史的聖書学」とか単に「聖書学」とも呼ばれます。その研究成果は、聖書の解釈や聖書への向き合い方にさまざまな影響を与えてきました。

1800年代終わりのドイツ語圏の釈義学で、マルコ福音書が一番古い福音書であることが定説となり、同福音書を通して実際のイエスに近づけると考えられて、歴史上のイエスはこうだったという説が数多く現れました。それに対して、福音書を通しても実際のイエスは分からないという見解が強まり、代表的なものはW.ヴレーデ「Das Messiasgeheimnis in den Evangelien」(日本語翻訳見つからず)の、イエスが自分のメシア性を公けにしないように語る記述は福音書著者の創作という説です。この説は、1970年代H.ライサネンの反論(2つのドイツ語論文)が出るまでは、特にマルコ福音書の解釈において世界中大きな影響力を持ったと言われます。もう一つは、R.ブルトマンの「Die Geschichte der synoptischen Tradition」(「共観福音書伝承史」という翻訳あり)。福音書中のイエスの教えは、福音書が書かれた時代状況(例えばキリスト教とユダヤ教が反目し合っている状況)で機能するように書かれている。なので福音書の記述をみても実際のイエスはわからないというものです

1953年にブルトマンの弟子の一人E.ケーゼマンが学会講演で師の教えに挑戦するまで聖書学会は歴史的イエス研究が途絶えた時代と言われています。そのような時代に神学教育を受けた人たちは、福音書をどう読みどう教えたでしょうか?これはイエス様が言われた教えであると堂々と言うのは難しかったのではないか?代わりにマルコの考えは、マタイの考えは、というふうに著者の考え方の分析紹介に重きが行ってしまったことはないでしょうか?イエス様が何か小説の登場人物のように扱われてしまわなかったでしょうか?(続く)

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