2023年5月14日(日) 復活節第6主日 主日礼拝

[私たちの父なる神とシュイエス・キリストから恵みと平安があなた方にあるように]

 ヨハネ141521節                 スオミ教会2023.5,14(日)

「聖霊を与える約束」

今日の聖書はヨハネ福音書141521節であります。まず、1323節から見ますとここにイエス様は弟子たちに別れの予告をされています。

1333「子たちよ、今しばらく私はあなた方と共にいる。あなた方は私を捜すだろう。私が行く所にあなた方は来ることができない。」そうすると36節ではシモン・ペトロはイエスに言った「主よ!どこへ行かれるのですか」。イエス様の答えは、こう言われた。1423に「あなた方のために場所を用意しに行く。」行ってあなた方のために場所を用意したら戻って来て、あなた方を私のもとに迎える」。と約束しておられます。6節では、とても大事なことを語られています。イエスは言われた「私はであり真理でありである。私を通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」と宣言されています。イエス・キリストこそ、神の国の命そのもの、それは神の真理である。神の国へ行くにはイエス・キリストを通らなければ行けない。イエスこそ道そのものである。と言われました。

こうした展開から、今日のみ言葉である141521までになります。イエス様が去って行かれた後、弟子たちは世界中に出て行ってイエス様が示された福音伝道の大きな業が出来るようになるために、必要な三つを挙げて説明しておられます。第一は13節から14節で「イエスの名によって願う」祈りの力であります。次に第二は15節から17節まで、でイエス様が去る事によって送られてくる「別の助け主」、つまり真理のみ霊が送られる、と言うこと。それから、第三は18節から21節にかけて、約束されている通りイエス様ご自身が「帰って来る」ので弟子たちを決して孤児にしない、という約束のことです。

さて、第一の13節~14節のところの要点は13節の言葉です。「私の名によって願うことは、なんでもかなえてあげよう。父が子によって栄光を受けるためである。」イエス様と短い期間、約3年を共に過ごした弟子たちがイエス様が去って行かれた後、全世界に出て行って伝道してゆかねばならない状況がこれから先やって来る、その時弱くて力のない彼らが、どうやって行けるか。そのことを全部見こしてイエス様は「何事でも私の名によって願うなら、私はそれをかなえてあげよう」と約束されているのですから弟子たちはどんなに心強く励まされた事でしょうか。ここでは詳しく申しません。さて、本日の聖書は第二番目14節からであります。「あなた方は私を愛しているならば、私の掟を守る、そういうあなた方に私は父にお願いしよう。そうすると父は別の弁護者を遣わして永遠にあなた方と一緒にいるようにして下さる。この方は真理の霊である。そういう約束をしてくださっているのです。ここで注意したいことはイエス様は「父にお願いしよう」と言っておられる。その言ってくださるのは何処で言っておられるのか。イエス様が捧げるお願いは地上にいる弟子たちの前🄬のイエス様が天の神様に向かって「助け主を送ってください」と願う、という意味ではありません。

そうではなくして、イエス様が復活して、この地上から昇天して父の右に座して、そして天に於いて神様である父を説得して、その天からみ霊を送るように取り計らってやろう・・・・・という意味であります。その事は167節以下を見ますと、はっきりと分かります。「私は本当の事をあなた方に言うが、私が去って行くことはあなた方の益になるのだ。私が去って行かなければ、あなた方の所に助け主は来ないだろう。もし、行けばそれをあなた方に遣わそう」。ここで、はっきり説明されているように、「父に願う」というのは、イエスご自身が父のそばまで行って天から助け主を送るようにしていただく。と約束してくださっているのです。ここは非常に神秘的なことが展開しています。天の世界で行われる、霊の中での業が語られている。ですから、地上での事柄ではない。天と地の次元がちがう中の事柄でありますから、もう、ちっぽけなこの世の我々の聞く展開ではないのです。霊のっ世界の秘義に私たちの心が開かれて行く!「父は別に助け主を送ってくださる」とこういわれます。新共同訳の聖書には、父は別の弁護者を遣わして・・・・」というふうに訳してあります。助け主と言った方が分かりやすいと思います。ここで「別に」というのは何に対して「別に」なのかふつうには「あなた方」とは「別」に「助け主」も送ってくれる、という意味に理解します。やがてイエスが弟子のもとを去って行かれます。そうすると、弟子たちは、これから孤軍奮闘して、この世と戦い悪魔と戦って行かなければなりません。”でも心配するな!君たちは一人ぽっちで戦うのじゃない、君たちとは「別に」助け主が送られてくるんだから・・・”というように理解するわけです。ところが、もう一つの考えがありまして、それは、イエスとは「別に」代わりの助け主が送られてくる。というように理解するわけです。間もなくイエスは弟子たちのもとから去って行かれます。助け主はいなくなってしまいます。”しかし、心配することはない、私とは「別に」助け主がっちゃんとついてくれる”というふうに理解する方が良い。そのように送られてくる「助け主」は17節で「心理のみ霊」つまり真理を伝えるみ霊であると言われます。イエス様は」既に6節のところで、実は私がその真理である、とおっしゃっていたのです。ですから、ここで約束されている別の助け主、すなわち真理を伝えるみ霊とは、真理そのものであられるイエス様を弟子に伝えるみ霊なのです。そういう意味からみてもイエス去ってゆくがイエスとは別にイエスを伝えるみ霊がちゃんと、あなた方の所へ来る、ということです。

 これには一つの事が必要であります。すなわち、今までの、生前のイエス様も「助け主」であった。ということです。

ヨハネの第一の手紙21節に、同じ言葉を使って昇天なさったイエスが助け主である。と言っています。「私の子たちよ、これらの事を書きおくるのは、あなた方が罪を犯さないようになるためである。もし、罪を犯す者があれば、父のみもとには私たちの助け主、すなわち義なるイエス・キリストがおられる」ここでは「天に昇られた栄光のキリストが、いま助け主であり給う・」とあります。ところで、ここで「助け主」と訳されている言葉は、どういう意味なのだろうか。非常に難しい言葉といわれます。

ギリシャ語で「パラクレートス」と呼ばれていますが、その本来の意味は「傍らに呼びよせる者」と昔のキリスト教の教父たちは、そのように理解していた、というのです。「パラ」というのは「傍らに」、「クレートス」とは「呼びよせる者」つまり、しょげ返って悲しんでいる人を、傍らに呼びよせて元気をつけてやる、という意味です。そういうことで慰め主というように説明しています。

今日のギリシャ語の言語学の研究では「呼びよせる」という意味ではなくて、受け身の形をとると「傍らに呼びよせられる者」と考えられてきたようです。よく分かるように言うと罪を犯した罪人が裁かれる裁判、法廷の場面で「お前はこういう罪を犯したじゃないか」と言われると、確かにもう浮かぶ瀬もありません。が、その時イエスが傍らに呼びよせられて、つまり今の言葉で「弁護士」となってくださる。被告のために力となって下さる。そういう者をパラクレートスと言うのです。ですから、新共同訳聖書には弁護者となっています。(ヨハネ第12章には弁護者キリストの事が詳しく記されています。)今日の新しい訳では「ヘルパー」とか「フレンド」というように呼ばれているようです。

イエス様の弟子たちは助け主としての友を困った時に呼んだのでしょう。しかし、今日2000年の時を超えて日本という国の中で私たちは目に見えませんが、いつでも「主よ」と助け主イエス様を呼び寄せる事ができる。最後に18節~21節までにイエスご自身が又帰って来ると約束されています。「私はあなた方を捨てて、孤児とはしない、あなた方のところに帰って来る」という約束です。

イエス様がここで「あなた方を孤児とはしない」と、まるでご自分が弟子たちの父であるかのように語っておられるのは珍しい事です。イエス様は既に1333節でも、この晩餐に連なっている11人の弟子たちに「子たちよ」と呼びかけなさっていました、からここでは珍しくご自分がお父さんの立場から弟子たちを、その可愛い坊やたちに言っていらっしゃるのです。そういう意味から言って

”私がいなくなるために、あなた方が父親を失った孤児のような可哀そうな目に会うようにはさせない、と言っておられるわけです。では、イエス様が「帰って来る」と言って下さっているのは、いつ、どのようにして帰って来られるのでしょうか。20節を見ますと「その日には私は私の父におり、あなた方は私におり、又私があなた方におることが分かるであろう」と言われています。その日という表現は旧約聖書では、メシアが現れる終わりの時を表す用語でありますので文句なくイエス様が帰って来られるのは終末的な再臨のことだ、と沢山の教父たちが考えました。アウグスティヌスのように主にラテン語で勉強する教父たちは、こう唱えてきたわけです。しかし、そうじゃなくて21節の最後に「その人に、私自身を表すであろう」と言っておられるのですから終末の再臨の時なら、その人に表し、あの人に表さない、なんてのじゃなく全ての人の一瞬に見えるようになるのじゃないか。「その人に表す」とおっしゃるからには、終末の再臨の時とは考えられない。また、別の教父たち(クリストモスといった人々)に考えではイエスが復活された後、弟子たちにあちこちで顕現された、そのことを言われたのではないか、しかし、これも弟子たちに現れ、、又、いつ消えられるかわからない。イエスがここで約束しておられるのは、もう二度と再び孤児にはしない、帰って来てからもずうっと、あなた方とおり続ける、ということだから違うのではないか、とおもわれます。

結局では何かと言えば、これは16節~17節で約束されておりました、み霊という別の助け主が送られて来る、という形での「イエスが帰って来る」と言われる意味なのだ、ということです。15節から17節までに、み霊が送られて来ることを描く部分とは何かもそっくりそのまま同じ言い方で並行して記されています。

どちらの場合も、これが成就する必要条件があります。イエスを愛し、イエスの戒めを守ることです15節と21節のどちらにも書いてあります。それから、み霊の場合もイエスの場合も「み霊が送られて来る」、「帰って来る」ということが16節と18に約束されています。17節と19節を見ますと、その時にどちらの場合もこの世は見ないが弟子たちには見るという区別があります。

その時には、もうずうっと共にいて下さる、という永遠の保証17節にも21節のどちらにも約束されています。このように結局、同じ条件、同じ結果、同じ出来事を描いています。イエス様はみ霊が送られて来ることに於いて私たちの中に住まわれるのであります。

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ヨハネは此処に於いて、イエスの復活顕現はひと時の過度的なものであって、本当にイエスが帰って来られるのはペンテコステの日、教会に降った聖霊に於いて教会に主は来てくださるのだ。と約束しているのであります。19節の言葉を、そういう意味で見てみますと「しばらくすると、世はもう私を見なくなるが、あなた方は私を見る。私が生きるので、あなた方も生きることになる。」聖霊が働いてくださることによって、イエス・キリストは生きているのである。それが分かるのは21節にあります言葉「私の掟を受け入れ、それを守る人は私を愛する者である。私を愛する人は私の父に愛される。私もその人を愛してその人に私自身を表す。」とあります。このことは私が帰って来て、ずううっとあなた方と一緒にいる、ということなんだ。天の父に愛される者は天のみ国へと召されて後もずうっと永遠の命に生かされるのです。天のみ国では、もう肉体の欲するものは、そこには何もない、霊の世界は魂の世界です。そこで決定的なものは愛であります。私を愛する者は、私の父に愛されるのであります。この世の次元とは全く違う、すでに天のみ国の約束であります。私たちの霊がみ霊を愛する心でないと受け入れることができないでしょう。古代、教父アウグスティヌスも言っています。み霊に於いてイエス様が私たちと共におられ、私たちの内に住み、信仰者としての大いなるみ業を起こして下さるのであります。

                          アーメン・ハレルヤ

どうか、望みの神が信仰から来る、あらゆる喜びと平安とを、あなた方に満たし、聖霊の力によって、あなた方を望みにあふれさせて下さるように。  アーメン

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

 

 

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