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2024年6月23日(日)聖霊降臨後第五主日 主日礼拝  説教 木村長政 名誉牧師(日本福音ルーテル教会)

「夏に宣教師がフィンランドに一時帰国するため、その間のスオミの礼拝は協力牧師が担当します。」

説経題 「嵐を叱るイエス」             スオミ教会 2024年6月23日(日)

聖書 マルコ福音書4章35~41節

マルコ福音書4章では「種まく人」譬え話をイエス様はガリラヤ湖で舟の上から群集に語ってこられました。4章1節を見ますと、「イエスは再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群集が傍に集まってきた。そこでイエスは舟に乗って腰をおろし湖の上におられたが、群集はみな湖畔にいた。イエスは譬えでいろいろと教えられた。」とあります。

そうして4章35節以下では、その日の夕方になって話しは一転して湖の上での大自然を相手にした奇跡を弟子たちに見せられるのでありました。今日の聖書であります35節から見ますと「その日の夕方になってイエスは『向こう岸に渡ろう』と弟子たちに言われた。さぁここで、この一言で弟子たちは恐らく吃驚仰天したのではないでしょうか。弟子たちの中には、ペテロをはじめ何人もの、このガリラヤ湖で漁をしていた漁師たちです。何十年もこの湖で過ごしてきて、この湖がどうなるかも知り尽くしている漁師たちです。夕方になり、日も暮れようとしている時、暫くすれば周囲は闇につつまれます。どう考えても不安と恐怖の念がペテロたちの心をよぎります。

しかし、イエス様の一声です。「向こう岸へ渡ろう」え?これからですか、と言いたい。弟子たちは感心できない状況を知りつつも、あえてイエス様に抵抗できない・・・・。ここでルカ5章の始めの場所と非常によく似ていることに注目したい。5章4節にイエス様がガリラヤ湖の岸辺で群集に教えられて話し終わった時、シモン「沖へ漕ぎ出して網を降ろして漁をしなさい」と言われた。そのペテロが言ったんです。「先生、私たちは夜通し苦労しましたが何も獲れませんでした。しかしお言葉ですから網を降ろしてみましょう」。漁師たちがその通りにすると、おびただしい魚がかかり網が破れそうになった」。とあります。シモン・ペテロがイエス様に、はじめは出漁の勧めを断って言います。「私たちは夜通し苦労して漁をしても何も獲れませんでした。漁師たちのこれまでの経験から今更網を降ろしても何も獲れないくらいわかり切っている、とっさにそう思ったのでしょう。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう、と言って実際、行動を起こして漁をして行きます。長年の経験や理屈ではない自分たちの誇りも何も捨てて、しかしお言葉ですから、とここにイエス様への信頼から起こる行動へと、お言葉に従ってゆくのです。

結果は自分たちが一度も想像だにしない大漁を見るのです。あの時イエス様に従っていった喜びが湧き出て、今またここに信頼と信仰から彼らを主イエス様の言葉へ決意させていったのです。たとえ、どんなに恐ろしい困難な状況が起ころうとしても、我が主と仰ぐイエス様に従う喜びがここに秘められている、と言っても良いかもしれません。36節を見ますと「弟子たちはイエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した」。対岸のゲラサ地域までの中間地点まで凡そ11km離れた頃から急に突風にあおられ暴風と激しい雨に舟は浸水し危険な状態になってきました。もう戻ることも出来ません。進むしかない。暗闇の中で更に恐怖が襲ってきます。ところが、この恐怖の弟子たちに対してイエス様は舟の艫の方で眠っておられるのです。ガリラヤの漁師を長年やってきた弟子たちはこのような暴風になる事もわかっていました。それを敢えてイエス様の言葉に従ってきたのです。“イエス様大変です、舟が沈みそうです。”もはや絶体絶命の時になんと言うことでしょうか。嵐の中で恐怖のどん底にあえぐ弟子たちと、かたやイエス様は舟の後ろで平安の中で眠っておられる。この対比はいったいどういう事でしょう。この事を人生の歩みで考えてみますならば、風と波の渦巻くこの世の支配の只中で困難の極みに苦しむ弟子たちの姿はまさに当時、ローマ皇帝の激しい迫害の下で苦しむキリスト教会の姿、そのものであろうと言う見方もあります。<大切な事は>嵐の中で翻弄する弟子たちと主イエス様の対比だけの話ではありません。初めから主イエス様がずうっと、この舟の中に共におられる、と言う事です。弟子たちがこれまで自分たちの経験から暗闇の海に舟で渡ろうなんてとても無理な事、危険にあうであろう、とイエス様に抵抗はしたものの、そこにイエス様の言葉に一切をかけて信頼して舟を漕ぎ出したのです。

<言い換えますなら>嵐吹くであろうこの世の困難に向って神の支配の下に想像もつかない神の次元の力と権威を持ち給う、この御方、主と仰ぐ、この御方に従ったのです。この御方と共にいる事に対する信頼と喜びとが秘められていたはずです。ところが現実の嵐の中の舟ではこの世の荒れ狂う自然の力の前に弟子たちは一溜まりもない自分たちの無力の空しさでどうにもならないのです。何もかもお手上げ、死を前にしています。“イエス様起きてください。助けてください。私たちは死にそうです。”イエス様なら何とかしてくださる。イエス様というお方の存在、神の力をもって奇跡を起こされる、神の権威をお持ちのイエス様をどれほど信頼を持って見ていたでしょうか。私たちも信仰生活の中でこの世の襲い来る困難に主イエス様をどれほど信頼し、そのみ力を頼って信じているでしょうか。あれほどガリラヤの湖の何もかも知り尽くして嵐の恐ろしさも知り尽くしていたにもかかわらず今、嵐の只中で全く無力です。自然の力の恐ろしさ、私たちも知らされます。大地が裂け、揺り動かされ、津波の押し寄せる前に人間は全く無力です。私たちは直接この身に会ったいませんがテレビの映像で知らされます。さて、今日の聖書を見ますと38節には“弟子たちはイエスを起こして「先生、私たちが溺れてもかまわないのですか」と言った39節、イエスは起き上がって、嵐を叱り湖に「黙れ!静まれ!」と言われた。すると風は止みすっかり凪になった。

何と言う事でしょう。イエス様のこの大自然の力、狂ったように襲い来るものに向って一声で叱り飛ばされたら風はたちまち止み湖は凪となったのです。大変な奇跡です。「黙れ、静まれ」と言うイエス様のこの言葉は実は全く同じ言葉を悪魔につかれた者に向っても叱って言われました。マルコ1章25節に記されています。ガリラヤ湖の破壊的な力で荒れ狂う嵐にも、また汚れた霊に取り付かれて暴れまわる男に対してもイエス様はこれを叱り飛ばし完全な勝利を表したのです。もう一方で嵐の中にあっても同じ舟の中に平和のうちにイエス様が共におられる、この信頼に屈服してしまっている弟子たちを、この言葉で目覚めさせ叱っておられるのです。だから40節を見ますとイエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」。この言葉こそ弟子たちの心を揺さぶりイエス様に寄せていた信仰、絶対的信頼を新たに目覚めさせられたのであります。誰もが自分の内にある信仰の足らなさに目覚めさせられ「主が共にいます」と言うこの信頼への重さを新たにさせられるのです。主イエス様がご自分の命を与えてくださっている、それほど愛されている、この恵みを知るとき新たな信仰の歴史が起こり生かされて創りかえられてゆくのであります。   アーメン

歳時記

黄色い百合・イエローウィン

<1わたしはシャロンのばら、谷のゆりです。2おとめたちのうちにわが愛する者のあるのは、いばらの中にゆりの花があるようだ。雅歌2章>

散歩の途中、道路わきの生垣に咲いている黄色い百合を見つけました。黄色い百合を見るのは初めてなので思わずパチリ。聖書にも百合の花は度々出てきますね。百合をネットで調べてみたら旧約聖書には17回、その内の雅歌には8回も出てくるとありました。これからの季節、色々な百合が楽しめますね、我が家のベランダの鬼百合も大分背丈が延びて来ました。8月にはまた見事な鬼百合を見せてくれるでしょう。

牧師の週報コラム 

キリスト教の「信条」(「信仰告白」)を学ぼう!

519日付け週報の牧師コラムにて(「スオミ教会は本物の教会ではない?」)、立派な会堂を持たない教会でも、立派な教会たりえるとしてルター派のアウグスブルグ信仰告白の第7条を根拠に掲げました。 曰く、「教会とは、福音が純粋に宣べ伝えられ聖礼典が正しく執行される聖徒の共同体である。」

「ア」信仰告白は、見直してみると、自前の会堂を失って少し意気消沈したスオミの信徒たちを励まし新たな自信を与える内容だと思いました。特に、20条「信仰と善行について」と、21章「聖人崇拝について」は、スオミを越えて、広く日本の社会と霊性の中でキリスト教と教会が大きな変革の力を秘めていることを感じさせるものです。

そういうわけで、次週から礼拝後のコーヒータイムの時に、一回一条のペースで読み上げて(長いものは分割して)、各自の心に一条一条をともし火のように灯して、信仰生活、教会生活を自省する手がかりになればと思います。聖書を繙く時やお祈りする時にも方向性がはっきりするようになると思います。

キリスト教の「信条」(日本語では「信条」と言ったり、「信仰告白」と言ったりします)について。ルター派教会では「一致信条集」という書物に収められています。アウグスブルグ信仰告白と一緒に、「使徒信条」、「二ケア信条」、「アタナシウス信条」といった3つの古代信条も収められています。

 「使徒信条」 スオミ教会の礼拝の中で毎週唱えられる、皆さんよくご存じの信仰告白です。西暦200年頃に今の形になったと言われています。もともとは、洗礼を受ける時に唱えるものとして始まりました。キリスト教信仰のエッセンスです。

 「二ケア信条」 西暦381年のコンスタンティノポリス公会議にて採択。長年続いたアタナシウス派とアリウス派の教義論争に決着。キリストの神性を否定する後者を退ける。スオミ教会では聖餐式のある礼拝の時に唱えられます。

 「アタナシウス信条」 西暦400年代~500年代にスペインで確立。アウグスチヌスの神学を反映。西方教会のみ。

 「アウグスブルグ信仰告白」 1530年 ルターの改革の賛同者が神聖ローマ皇帝カール5世に対して自分たちの教義的立場を弁明する文書です。

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2024年6月16日(日)聖霊降臨後第四主日 主日礼拝  説教 吉村博明 牧師 

本日の礼拝の動画配信は機器の不具合のため出来ませんでした。ご了承ください。

主日礼拝説教
2024年6月16日 聖霊降臨後第四主日
エゼキエル17章22ー24節、第二コリント5章6ー17節、マルコ4章26ー34節

説教題 「キリスト信仰者は目に見えるものによらず信仰によってこの世を歩む」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

イエス様の教えに特徴的なことは、たとえを用いて教えたということです。たとえを用いて何を教えるかと言うと、「神の国」とはどのようなところか、神はどのような方か、そして「神の愛」とはどのようなものであるかが重要なテーマでした。本日の福音書の日課に2つのたとえの教えがありますが、イエス様はどちらも「神の国」に関係すると言っています。

 最初のたとえの出だしはこうでした。「神の国とは、人が種を播いて、夜は寝て昼は起きてを繰り返していくと、起こってくることに似ている」と。何が起こるかと言うと、「種は育っていくがそれがどう伸びていくのか、その人は知らない。種が播かれた地が自ずと種を成長させ、初めは茎、次に穂を成長させ、最後に穂の中に実を結ばせる。」つまり、神の国は、播かれた種がどう育っていくか詳細はわからないがとにかく育っていく、そういうことに似ていると言うのです。しかし、まだ続きがあります。実がなると鎌で穂を刈り取る時、すなわち収穫の時が来ると。つまり、「神の国」というのは、目には見えない成長を経て最後に目に見える実が実って完結するものであるというのです。皆さんは、これを聞いて「神の国」がどんな国かわかりましたか?

 もう一つのたとえは有名な「からし種」のたとえです。蒔かれる時は地上のどんな種よりも小さいが、成長すると驚く位に大きくなる。これが「神の国」を連想させるというのです。「からし種」とは、日本語でクロガラシ、ラテン語の学名でブラッシカ・ニグラという植物の種で、その大きさはほんの1ミリ位ですが、成長すると大きな葉っぱを伴って2~3メートル位になるそうです。たとえでは、大きな枝が出て葉の陰の下に鳥が巣を作れるくらいになると言われています。クロガラシは大きな葉は出てきますが、大きな枝というのは少し誇張がすぎないでしょうか?

 実は、イエス様がそう言った背景には先ほど朗読して頂いたエゼキエル書17章があります。イエス様はそれをたとえに使っているのです。「わたしは高いレバノン杉の梢を切り取って植え、その柔らかい若枝を折って、高くそびえる山の上に移し植える。イスラエルの高い山にそれを移し植えると、それは枝を伸ばし実をつけ、うっそうとしたレバノン杉となり、あらゆる鳥がそのもとに宿り、翼のあるものはすべてその枝の陰に住むようになる」(22ー23節)。

 確かにエゼキエル書には、あらゆる鳥が来て宿れるような枝が沢山あることが言われています。イエス様のからし種の教えと合致します。しかし、それなら最初から「からし種」なんか出さず「柔らかい若枝」を用いてたとえを言えばよかったのでは?イエス様が「からし種」を引き合いに出したのは、初めは目に見えない位に小さなものが最後には誰の目にも明らかな大きなものになるという変貌を強調したかったからです。これは、最初のたとえで、目に見えない成長を遂げた種が目に見える実を結んで完結することと同じです。イエス様は「神の国」がこのように目に見えないものが目に見えるものになって完結するものであることを教えているのです。

 さあ、これで「神の国」がどんなところかわかるでしょうか?おそらく、もうちょっと説明があればなあ、というのが大方の感想ではないでしょうか?そこで、今日の日課の中で一つあれっと思わせることがあります。終わりのところで、イエス様はたとえを用いて人々に教えるが、弟子たちにはひそかに全てを説明した、とあります。マルコ4章の初めに有名な「種まき人」のたとえがあります。種が4つの異なる地面に播かれて、それぞれ異なる運命を辿ったというたとえです。イエス様はそのたとえの説明を弟子たちにしました。ところが、今日の二つのたとえには説明がありません。「神の国」とは、目に見えないものが見えるものになって完結するというのはわかるが、それ以上の説明はありません。イエス様は弟子たちに説明をしたという事実はマルコに伝わりましたが、この二つのたとえの説明はなぜか彼の手元に届かなかったようです。

 しかし、私たちは本当は説明なしで理解できるのです。なぜかと言うと、私たちはイエス様の十字架の死と死からの復活の出来事を知っており、かつ信じているからです。イエス様の教えの多くは、一見すると理解するのが難しかったり、理解できても受け入れるのが難しいものが沢山あります。しかし、それらは皆、イエス様の十字架と復活を念頭におけばわかるのです。十字架と復活を信じれば、受け入れることができるのです。そういうわけで、今日はイエス様の十字架と復活を心に留めながらこの二つのたとえを見ていきましょう。

2.「神の国」とは

実と言うと、イエス様の十字架と復活の出来事の後の時代を生きる私たちは「神の国」がどんなところで、どうすればその一員になれるかがわかるのです。それをわかって本日のたとえを見ると、その内容もわかるのです。順序が逆な感じがしますが、本当にそうなのです。なので、まず「神の国」がどういうところで、どうすればその一員になれるかを聖書に基づいてわかるようにしましょう。その後で2つのたとえを見てみましょう。

 「神の国」とはまず、「ヘブライ人への手紙」12章にあるように、今のこの世が終わりを告げて全てのものが揺り動かされて取り除かれてしまう時、唯一揺り動かされず取り除かれないものとして現れてくる国です(26~29節)。この世が終わりを告げるというのは、あまり明るい話に聞こえません。しかし、聖書が言わんとしていることは、この世が終わりを告げるというのは同時に次の新しい世が始まるということです。イザヤ書の終わりの方で、神が今ある天と地にかわる新しい天と地を創造するという預言があります(65章17節、66章22節)。そのような新しい天と地の創造の時というのは同時に、最後の審判の時であり死者の復活が起きる時でもある、ということが黙示録の21章と22章の中で預言されています。それ以前に眠りについていた者たちは起こされて、その時まだ生きている者たちと一緒に審判を受け、万物の創造主である神に義とされた者は「神の国」に迎え入れられるというのです。

 そこで「神の国」の中身に目を向けると、そこは黙示録21章に言われるように「もはや死はなく、悲しみも嘆きも労苦もない」ところで、そこに迎え入れた人たちの目から神が全ての涙を拭い取って下さるところです(4節)。痛み苦しみの涙だけでなく無念の涙も全て含みます。さらに使徒パウロによれば、そこに迎え入れられる人たちは今の朽ち果てる肉の体に替わって朽ちない神の栄光を現わす復活の体を着せられます(第一コリント15章42ー55節)。復活の体を着せられて「神の国」に迎え入れられる者たちのことをイエス様は「天使のような者」と呼んでいます(マルコ12章25節)。

 神の国はまた黙示録19章にあるように、結婚式の盛大な祝宴にもたとえられます。イエス様も神の国を結婚式の祝宴にたとえました(マタイ22章1~14節)。この世での労苦が素晴らしい形で労われることを象徴します。

 以上を総合して見ると、「神の国」は今の世界が一変した後の新しい天と地の下に現れる国で、そこに迎えられる者は朽ちない神の栄光に輝く復活の体を着せられ、死も病気もなく皆健康であるところ。古い過ぎ去った世での労苦を全て労われ、古い世で被った不正義も最後の審判で全て神の手で最終的に清算されるところ。その意味で道徳や倫理も人間がこねくり回したものではなくなって万物の創造主の意思が貫かれている国という姿が浮かび上がってきます。

 それから「神の国」は、イエス様が語って教えただけのものではありませんでした。イエス様が地上にいた時、「神の国」はイエス様とくっつくようにして一緒にあったのです。そのことは、イエス様が起こした無数の奇跡の業に窺えます。イエス様が一声かければ病は治り、悪霊は出て行き、息を引き取った人が生き返り、大勢の人たちは飢えを免れ、自然の猛威は静まりました。一声かけなくても、イエス様の服に触っただけで病気が治りました。イエス様から奇跡の業をしてもらった人たちというのは、神の国の事物の有り様が身に降りかかったと言うことができます。病気などないという事物の有り様が身に降りかかって病気が消えてしまった、飢えなどないという事物の有り様が身に降りかかって空腹が解消された、自然の猛威の危険などないという事物の有り様が身に降りかかって舟が沈まないですんだという具合です。そのようなことが起きたのは、まさに「神の国」がイエス様と抱き合わせにあったからです。その意味で奇跡を受けた人たちというのは、遠い将来見える形で現れる「神の国」を垣間見たとか、味わったことになるのです。「神の国」では奇跡でもなんでもない当たり前のことがこの世で起きて奇跡になったのです。

 しかしながら、イエス様と「神の国」の関係についてもっと大事なことがあります。「神の国」について教えたり、奇跡の業で味あわせたというだけに留まりませんでした。何かと言うと、人間が「神の国」に迎え入れられるのを邪魔していたものをイエス様が取り除いて、迎え入れが実現するようにして下さったということです。それが、イエス様の十字架の死と死からの復活でした。人間と神の結びつきを断ち切っていた原因であった罪、神の意思に背こうとする人間の性向を、イエス様が全部自分で引き取ってゴルゴタの十字架の上に運び上げてそこで人間に代わって神罰を受けられたのでした。さらに死から三日後に神の想像を絶する力で復活させられて、死を超えた永遠の命があることをこの世に示して、そこに至る道を人間に切り開いて下さったのでした。

そこで今度は人間の方がこれらのことは本当に起こったとわかってイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、イエス様が果たしてくれた罪の償いがその人にその通りになります。その人は罪を償ってもらったことになるから、神から罪を赦された者として見なされます。罪を赦されたから、神との結びつきを持ててこの世を生きられるようになります。この結びつきは、罪の赦しという神のお恵みの中に留まる限りなくなりません。人生の順境の時も逆境の時も全然変わらない神との結びつきを持ててこの世を歩みます。この世から別れる時も神との結びつきを持ったまま別れられ、復活の日が来たら目覚めさせられて復活の体と永遠の命を与えられて「神の国」に迎え入れられます。イエス様はこれらのことが本当のことになるように必要なことを全て成し遂げられらのです。

3.キリスト信仰者は目に見えるものによらず、信仰によってこの世を歩む

これで、「神の国」とはどういうところか、どうすればそこに迎え入れられるかがわかりました。そうしたら、もう一度、二つのたとえを見てみましょう。

 まず、最初のたとえ。終わりのところで「収穫の時に鎌を送る」と言われます。これは終末の時、「神の国」が現れる時を暗示します。新共同訳では「鎌を入れる」ですが、ギリシャ語の動詞(αποστελλω)は「送る」です。この原文の意味にこだわると、イエス様はヨエル書4章13節を引用していることが見えてきます。そこでも、「鎌を送れ、刈り入れの時は熟した」という神の託宣があるからです(新共同訳では「鎌を入れよ」ですが、ヘブライ語の動詞(שלח)は「送る」です)。ヨエル書のこの箇所は終末の日の預言です。イエス様もマタイ13章で「刈り入れ」とは世の終わりの日を意味し、そこで良い麦は倉に収められると言って、神に義とされた者たちが神の国に迎え入れられることが言われています(24~30節、36~43節)。

 そこで地に撒かれる種とは何を指すのか?二つのことを指します。一つは、神の御言葉です。もう一つは、神の御言葉を心に播かれた人間です。神の御言葉を心に播かれた人が、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けて植物のように育って実を結び、「神の国」という倉に収められるのです。種が御言葉と人間の両方を指すということは実は、マルコ4章の「種まき人」のたとえの説明にも出てきます。説明の冒頭(14節)で種は御言葉であると言うのですが、続きをよく読んでいくと「~に播かれた人たちはこういう人たちである」と言っています。つまり、種は人間も意味するのです。ちょっと混乱しそうですが、要は、御言葉を種のように心という地に播かれた人が植物のように成長して実を結ぶということです。

 今日の最初のたとえは、イエス様を救い主と信じて実を結ぶまでに成長する人についてですが、その成長は目には見えないと言うのです。これは、キリスト信仰者の内なる信仰の戦いを意味します。キリスト信仰者といえども、この世を生きる間はまだ肉の体を纏っているので、神の意思に反しようとする性向、罪を内に持っています。神は、心の中の清さ、潔白さも求める方なので、信仰者と言えども、無罪(つみ)にはなりえません。しかし、信仰者は罪の自覚に背を向けずにそれに正面から向き合い、すぐイエス様の十字架を心の目で見て、神のひとり子の犠牲の上に罪の赦しがあることを思い起こします。そして、これからは罪を犯さないようにしようと決意を新たにします。このように、キリスト信仰者は罪の赦しという神の恵みを土台にして罪に反抗する生き方を貫くのです。父なるみ神はそれを義として下さるのです。それで、信仰者はかの日に神の御前に立たされても大丈夫だという確かな安心があるのです。

 キリスト信仰者が罪の赦しのお恵みに立って罪と戦う時、その戦いは恐らく外見上には見えるものではないと思います。逆に外見的に見えるものになるというのは、神から救いを得るために何か見える業を行っている可能性が大です。そもそもキリスト信仰とは、救いはイエス様が果たしてくれた、あとは彼を救い主と信じれた救いを受け取ることが出来るという信仰です。なので、救いを得るために何か業をする必要ありません。救いは先に信じて手に入れてしてしまった、だから、あとは見返りを求める必要もなく、「ただ神の意思だからそうするだけです」と言って良い業を行うだけです。それが真実の実を結ぶことになるのです。

 二つ目の「からし種」のたとえも同じです。最初に申し上げたように、このたとえの背景にはエゼキエル書17章があります。そこで言われる、大きく育ったレバノン杉というのは、まさに今あるこの世が終わって新しい天と地の下に現れる「神の国」を意味します。もともとこの預言は、イスラエルの民がバビロン捕囚から解放されて祖国帰還と復興を果たすことを預言していると考えられました。ところが、民が帰還してエルサレムの町や神殿を再建しても取り巻く状況は預言の実現には程遠いことが人々の目に明らかになってきます。そうすると、鳥たちが安心して宿れる大木というのは実はバビロン捕囚からの帰還ではなくて、もっと将来の「神の国」を指すのだと気づき出されるようになります。イエス様自身、「神の国」は今のこの世が終って新しい天と地の下に現れるものであるとお墨付きを与えます(マルコ13章27ー27節など、マタイ25章31ー46節も)。

 それにしても「神の国」をレバノン杉のような大木ではなく、高さ2,3メートルほどのクロガラシに結び付けて言うのはどうしてでしょうか?それは、イエス様の主眼は、からし種のように砂粒みたいな種が2,3メートル位の大きさの植物を生み出すという、そういう大きな変化を強調したかったからです。最初は目に見えない位の小さいものが誰の目にも明らかな大きなものに変化する。それでは、大きなものは神の国を指すとして、そうしたら、目に見えない位の小さなものとは何を指すでしょうか?からし種にたとえられているものは何でしょうか?

 からし種は、最初のたとえと同じように神の御言葉と御言葉が播かれた人の二つを意味します。ただし、最初のたとえでは、神の御言葉が播かれた一人ひとりの信仰者について言われます。二つ目のたとえでは、大きな形を取って現れるので、一人ひとりの信仰者と言うよりも神の国に迎え入れられる者たちの集合体です。まさに「神の国」そのものです。

 からし種を神の御言葉とすると、最初は小さいことが強調されます。人間ならともかく神の御言葉が小さい、しかも目に見えない位に小さいというのはどういうことでしょうか?

 ここで「神の国」と現実世界の国がどのように成り立つかを比べてみましょう。現実世界の国は国土とか国民とか経済とか政府とか軍隊を構成要素とします。これらの要素が大きくなればなるほど、国も大きくなります。ところが、「神の国」は将来新しい天と地の下に唯一現れる国なので、今のこの世ではまだ何もないように思われます。ところが、この世では「神の国」の構成員が一人また一人誕生します。構成員たちは、将来現れることになる「神の国」を目指してこの世の人生を歩んでいきます。「神の国」はまだ現れておらず目には見えませんが、既に始まっているのです。この始まっている国は、そこに向かって歩む構成員はいますが、国土も政府も軍隊もありません。「神の国」を成り立たせているのは今申し上げたように神の御言葉です。それが人の心に撒かれて、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けて「神の国」に向かって歩み出すようになります。その構成員がまた一人増え、そうやって大きなうねりになっていきます。そして、「神の国」が現れる時、神の御言葉こそが迎え入れらの決定的な要因であることが明らかになります。どんな国力をもってしても、また人間の名誉、知恵、財産をもってしても迎え入れには何の役にも立たないことが明らかになります。古い世ではそうした人間的なものこそが役に立つと思われ、神の御言葉など何の役に立つのか見向きもされなかったのが大逆転するのです。なのでキリスト信仰者は、目に見えるものによってこの世を歩みません。今は肉眼の目には見えないが将来見えることになるものを、信仰の目で見据えて歩むのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

2024年6月9日(日)聖霊降臨後第二主日 主日礼拝  説教 田口 聖(日本ルーテル同胞教団) 牧師

マルコ3章20−35節(スオミ教会礼拝説教2024年6月9日)

「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母です」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

1、「初めに」

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 この3章を1節から簡単に振り返りますと、まずイエス様は手のなえた人を癒されました(1−6節)。そしてその後、イエス様と弟子たちは湖の方に退かれるのですが、すでに、イエス様の噂は広まり、大勢の人々がイエスに会うために群衆となって押し寄せてきていました。7節以下でも、岸辺にあまりにも多くの群衆が押し寄せたために、押し潰されないようボートまで用意させたことが書かれていますが、そのように集まってきた人々のためにもイエス様は「多くの病人を癒したり」(10節)「悪霊を厳しく戒めたり」(12節)など不思議なわざを行ったことが書かれています。そして、13節からは12弟子を選ばれることが書かれて、今日のところになります。

2、「イエスのもとに人々は集まるが」

 今日の箇所でも、まず20節

「20イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。

20節

 と始まっています。「家」というのが、イエス様の家なのか、あるいは、よく滞在していた「シモン・ペテロ」の家なのかははっきり書かれてはいないのですが、そこにも群衆は絶えることなく集まってきました。それは、彼らが食事をする暇もないほどであったのでした。もちろんこの時、まだ十字架と復活の前であり、聖霊が与えられる前ですから、イエスのもとに集まってくる群衆は、全ての人が、バプテスマのヨハネが指し示した「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」の本当の意味を理解し、罪の赦しと真の救いを信じて集まってきていたのではなく、不思議な癒しやしるしを見て評判を聞きつけ、ただ見てみたい、あるいは純粋に直して欲しいという動機で集まっている人々がほとんであったことでしょう。しかし、たとえそのような人々であっても、イエス様は蔑んだり、突き放したりはせずに、「食事をする暇もないほどに」、彼らに対応されていたのでした。

 後に、マタイ16章16節にあるとおり、ペテロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白した時に(マタイ16:16)、イエス様はその告白について「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」(16:17)と教えている通りに、イエス様に対する正しい理解と告白は、弟子でさえもそうであるように、人のわざや力ではなく、どこまでも神からからの賜物であり、み言葉と聖霊によるものです。ですから、イエスに集まってきた群衆のイエス・キリストについての理解も十分ではなかったのと同時に、今日のところで出てくる、本来、私たち人間の一般的な考えでは、イエスの身近にいて最高の理解者であるはずと思うイエスの家族や、あるいは、聖書をよく知っている律法学者でさえも、集まってきていた群衆と同じように、イエスを神の救い主として正しく理解できていなかったことがここで書かれているのです。21節からこう続いています。

3、「身内の人々がイエスの活動をやめさせようとした」

「21身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。

 「身内の人たち」とありますが、、おそらく家族だと思われます。彼らは、「イエスのことを聞いて」とあります。何を聞いたのでしょう。それは、彼らの周りの人々が「あの男は気が変になっている」と言っていたのを聞いたのでした。このようにイエスの家族の周り、イエスを見るために集まってきていた人々、そして噂を聞いていた人々が、みな好意的にイエスの前に集まってきていたのではないこともわかります。イエス様は病人を治したり、悪霊を戒めたりしました。しかし、家族にとっても、近所の人々にとっても、彼は大工の家の長男にすぎません。彼らにとっては、そんな大工の息子が、病人を癒したり、悪霊を戒めたり、そして聖書から神の国や救いを説いたりするなんて、ありえないことであり、人々は懐疑的になり疑って当然のことでした。しかも、そんな大工の息子が、12人の弟子まで連れているというのですから、世の中の常識や目にみえる日常の秤や先入観とは違うイエスの姿は「気が変になっている」ように見えて当然であったのでした。おまけに、6節までの手のなえた人を癒した出来事の場面でも、イエスは社会で宗教文化を支配している宗教指導者たちからの評判もすこぶる悪いことも、家族は窺い知ることができたことでしょう。そのように、目の前の普通ではない現実から見て、身内の人々、家族の人々は心配して当然なのです。そこで「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た」のでした。イエスの活動を止めさせようとしたのでした。家族の人々も、この時は、全くイエスの神の国の活動を理解していません。彼らにとっては、もう父のヨセフは不在であり、イエスは家の長男であり、家族やその生活を保っていくためには、評判が悪くては困る一家の主的な存在にしか見えていなかったのかもしれません。

 そんな家族の対応に対して、31節以下でイエスの応答が書かれていますが、その前に、22節以下で、宗教指導者たちのイエスへの評価が続いていますのでそちらか見ていきます。

4、「律法学者たちの理屈とそれに対するイエスの答え」

「22エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。

 律法学者たちは、律法、つまり、旧約の律法、預言、詩篇など旧約聖書の専門家のことです。彼らは聖書のこと、特に律法のことをよく知っているはずの人で、事実、ファリサイ派同様に、自分たちは律法を十分知っているし守っている、行なっていると自負する人々であり、人々にもそのように求める人々でしたが、彼らはファリサイ派同様に、イエスのことを良く思っていませんでした。彼らと同調するファリサイ派にあってはすでに2章の終わり、彼らは「安息日にイエスの弟子たちが穂を摘んだこと」や同じ安息日にイエスが「手の萎えた人を癒したこと」を批判するのです。それに対してイエスが聖書から適切に反論したことに対してをファリサイ派は反発を強めており、「どのように殺そうか」までも話し合っていました。この律法学者たちは、イエスが悪霊を追い出したのは、それは「ベルゼブル」つまりサタンの力によって追い出したのだと理屈を述べ始めたのでした。しかしそのような理屈に対してイエスは明快に答えます。23−27節

「 23そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。 24国が内輪で争えば、その国は成り立たない。 25家が内輪で争えば、その家は成り立たない。 26同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。 27また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。

 イエス様は、サタンの力で、その仲間である悪霊を追い出すなんてことは滑稽だと、律法学者たちの言っていることの矛盾を指摘します。むしろ、24節以下のイエス様の言葉は悪魔のご自身への攻撃の現実を皮肉的に示しているようでもあります。巧妙で狡猾な悪魔はそんな矛盾した愚かなことはするはずもなく、イエスの家族を、人間の目に見え聞こえるような、心配と恐れで煽り、イエスへの悪い評判でイエスの家族を分裂させようとするだけでなく、その分裂で、イエスの働きを妨げさせようとしていることがわかるでしょう。そして、このイエスの「家の内輪揉め」の例えにある通り、サタンは、聖書の専門家という地位も名誉もある強い人々のそのプライドを誘惑し刺激し、彼らを用いて、サタンにとって最大の敵であるイエス・キリストご自身を攻撃して、まさに家を略奪しようとしていることを、暗に示していることがわかるのです。律法学者たちは、おそらく妬みに駆られて、イエスがサタンの力を用いていると批判するのですが、イエスは背後に働く全てを見通しているのです。むしろサタンが、家族や聖書の専門家たちを用いて、彼らの恐れや心配、プライドや名誉を突いて、ご自身の成そうとする神の御心を妨げようとしている、自分を攻撃しているのだと見通していたのでした。

5、「聖霊を冒涜することの罪の重大さ」

 そして、ここでイエス様はさらに続けて重要な言葉を伝ているでしょう。28節以下

「28はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される。 29しかし、聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」 30イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである。

A,「聖霊を侮ること」

 ここで、イエス様は律法学者たちが「ベルゼベルの力で」とか「汚れた霊に取り憑かれている」と言うことに対して、厳しい言葉を伝えます。「聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」と。それは正しく、イエス様のしるしも言葉も、そしてその言葉の通りにこれから成そうとする救いのわざも、それは全て聖霊なる主の働きであることをイエス様は示しています。その御霊の働き、つまり、それは当然、み言葉を通じての聖霊の働きのことを聖書は指しているのですが、そのみ言葉と御霊の働きを侮り、軽んじ、ましてそれがサタンの力だとか、神以外の力だとか、あるいは信じないものは、永遠に赦されず、永遠の罪の責めを負うのだと、戒めるのです。

B,「信仰と救いは、人ではなく、聖霊とみ言葉のわざ」

 みなさん、このイエスの言葉はとても意味があります。私たちが救われたのは、もちろんイエス・キリストを信じる信仰によってです。その信仰のゆえに義と認められました。しかし、それは私たちの義ではなく、イエス・キリストの義のゆえです。私たちには何も義なることを果たす力も意思も理性さえもありません。私たちは堕落以後、アダムとエバの腐敗を受け継ぐ堕落の子であり、永遠に呪われた死にゆくものでした。しかし、神は第一の聖書日課である創世記3章15節にあるように、あの堕落の時、既に「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間にわたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕きお前は彼のかかとを砕く。」(15節)と最初の福音を伝え約束を示していました。そしてその通りに、神はご自身の御子を人として、つまり女の子孫として生まれさせました。そのように神が世に与えてくださった救い主によって、まさにその約束の通り、私たち堕落の子に、その約束の御子キリストというサタンに打ち勝つ道を備えてくださったというのが、聖書が伝える神の一方的な救いの計画であったと私たちは信じるでしょう。そこには人のわざも知恵も努力も何もありません。人間には何も功績も貢献もなかったしできなかったのです。ただただ、神の御子イエス・キリストが私たちが果たせなかった律法の義を十字架の身代わりの死という神が備えた計り知れない方法で果たしてくださった。そして神は、罪の報酬である死からそのイエス様を復活させ、まさにサタンの頭を踏み砕いて罪に勝利してくださった、約束を果たしてくださったことこそ、この十字架のキリストは私たちに証し指し示しているのではありませんか?そのキリストの義こそを神はただそのまま受け入れるように差し出してくださり、私たちはただそのまま信じて受けとるからこそ、神はそれを私たちの救い、義としてくださると言うのが、私たちに与えられている単純な救いであり良い知らせであり福音ではありませんか。そしてさらに素晴らしい事実があるでしょう。そのキリストの救いの成就にも父子聖霊の主の働きがあると同時に、なんと、私たちがそのことを信じる信仰さえも、それは律法でもなければ私たちの力ではなく、聖書はそれは聖霊の賜物であると教えているでしょう(エペソ2章)。

C,「信仰を律法のわざ、人のわざにすることの罪の深刻さ」

 このように、私たちの救いは、その信じる信仰さえも、私たちの理性や行いや功績、貢献ではありませんしありえません。しかし兎角、私たちには救いのために一歩を踏み出すためのわずかな理性の力、意志の力が必要なんだと、ほんのわずかだが人間の力も必要なんだと教える教会もあれば、人間の貢献や条件をある程度、果たして初めて洗礼の救いの祝福に値するんだとか、教える教会もあります。しかし、それは決して福音でも宣教の言葉でもありません。救いも、そして信じる信仰さえも、それは、神の賜物、イエス・キリストが与えてくださる福音であり、聖霊がみ言葉を通して働き、福音を受け入れ信じる信仰さえも与えてくださるからこそ、私たちに今その信仰も救いも現実にあるということを忘れてはいけません。もしそれが聖霊とみ言葉、福音の働きや力ではなく、人間のわざ、貢献だ、自分の努力だ、意志の力、などなど、に変えてしまうことは、どうでしょうか?それは、聖霊の力や働きを無駄にし、み言葉もその力も信じておらず、ある意味、聖霊を冒涜することと同じではありませんか。私たちが100%神の恵みによる救いに、混ぜ物をして、人間にも数パーセント何かが必要だと言うことは、クリスチャンであっても時に受け入れやすい合理的な教えかもしれませんが、それはサタンの最大の落とし穴であり、救いをボケさせ、確信を失わされ、平安を失わせます。それは、まさしく「聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」につながる重大なことだと教えられているように気づかされます。大事なのは、どこまでもイエス・キリストの十字架による救い、福音、約束こそ真実であり、神からの賜物、恵みであると、み言葉と聖霊に立ち返ること、そこに救いの確信も平安も絶えることはないのです。

5、「神のみ心を行う人々こそ」

 最後に、イエスの家族のことが再び記されています。31節以下、

「31イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。 32大勢の人が、イエスの周りに座っていた。「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると、 33イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、 34周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。 35神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」

 これは家族を突き放しているような冷たい言葉に感じられるでしょうか?しかしここでイエス様が伝えたいことを理解しましょう。大事なのは34節と35節です。周りに座っているおそらくイエスのみ言葉を聞いている人々であり、弟子達もいたでしょう。彼らを指して、私の兄弟がいるとイエス様は言われます。そして35節

「 35神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」

 「神の御心を行う人々こそ」とイエス様は言うでしょう。もちろん、イエス様は自分の肉の家族を愛していなかったわけではありません。母マリヤのことを愛する弟子に託されることもヨハネの福音書には書かれているでしょう。そしてイエスの弟たちもやがてイエスを信じるようになり、イエスの弟はエルサレム教会の監督になり、ヤコブはヤコブ書を残しています。イエス様がここで言いたいのは、主の祈りにもあり、ゲッセマネの祈りにもあるように、神の御心が行われることの大切さです。この時の家族は、周りの目に見えるイエスの評判や評価や、イエスのしていることの非日常のみでイエスを判断し、そしてイエスを心配するだけでなく自分たちのことを心配するしかできませんでした。しかしそれによってイエス様の行おうとしている神の御心、まさにみ言葉が聞かれること、を21節「取り押さえようとした」つまり「止めさせよう」とした、結果として「妨げよう」としてしまっているのです。そのように神の御心を妨げるものは、地上では家族であっても、天の神の前にあっては、兄弟でも母でもない、イエス様ははっきりと「神の前」の真理を述べているのです。

 このことは現代の教会にも示唆があるのです。むしろ現代の教会は、肉の目に見え、耳に聞こえる人の評判や評価には、人が集まるかどうか、人に受け入れられるかどうかに関わる重要なことなので敏感かもしれません。それ自体はもちろん悪いことではありませんし時に大切なことです。しかし、それがただ「人集め」が目的となり極端になり優先順位を間違えて、それが最も大事なことであり、教会や宣教の黄金律や王道とされてしまうとそれは行き過ぎになるでしょう。目にみえる耳に聞こえる「人がどう思うか」にあまりにも流されることによって、本来、本当に救う力があり、そして私たちが指し示すべき、神の御心、律法と福音の神の言葉、罪の赦しの十字架と日々新しい復活の福音のみ言葉にこそ、そしてそのみ言葉に聞くことにこそ、日々悔い改めさせ、日々洗礼に与らせ聖化させる真のクリスチャン生活があると言うことが、弱められたり、忘れられたり、傍に置かれたり、全く語られなくなるなら、あるいは、あのマルタとマリヤの姉妹のところでもイエス様は「必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」と言われたその「必要な一つだけ」のことは、「み言葉を聞くこと」であったのに、「み言葉に聞くなんて、弱々くし消極的で力がない。活動的ではない」と、「聞くこと」を軽んじ、それよりも律法的な行動に駆り立てのなら、それは私たちが見てどこまでも立つべき、そして伝えるべき「神の前」のこと、真の神の御心を見失ってしまっています。指し示すべきキリストの十字架、真の唯一の救いの道が示されていないのです。まず聞くことこそ神の御心であり、力があることが侮られているのです。それは、たとえ「人の前」では、効果的で評判も良く人も集まり良い数的結果になったり、成功しているように見えることが起こったとしても、しかし、まさに「人の前」のことに過ぎず、イエスがなしてくださったこと、成そうとすることを「取り押さえようとしている」「止めようとしている」、御心を妨げていることと同じことをしていることになるでしょう。それはもはや宣教ではありません。それでは、イエスの兄弟姉妹でも母でもなくなるのです。

6、「神の前にあって、イエスの兄弟姉妹、母である幸い」

パウロは第二の聖書日課で伝えています。

「16、だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。17、わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。18、わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。1、わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。」コリント第二4:16ー5:1 

 目に見える評判や数や繁栄は過ぎ去ります。しかし目に見えない永遠なる神の御心、律法と福音のみ言葉、そして十字架と復活の救いは永遠に残るものです。そこに私たちが向かっている永遠の住まいがあります。そのみ言葉の約束が正しく伝えられ聞かれ、聖霊が御心のままに人に働くためにこそ私たちは礼拝に集い、なおもみ言葉に聞き、信仰を日々新たにされるのです。そのように平安のうちに遣わされていくことこそ、私たちは御心を行っており真の兄弟とイエス様は呼んでくだ去るのです。ですから、今私たちは、み言葉に聞くために集まっていますね。そうであるなら、私たちは何よりの神の御心を行っており、イエス様は今日この時私たち一人一人を指して「わたしの兄弟姉妹、母である」と言ってくださっているのです。今日もイエス様は私たちに罪の赦しを宣言してくださいます。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。ぜひ罪の赦しと救いを確信して、安心してここから世に遣わされていきましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

牧師の週報コラム 

どうしてキリスト信仰者はいつも喜んでいられるのか?

使徒パウロはキリスト信仰者に「いつも喜んでいなさい」と勧めます(第一テサロニケ516節、他にもフィリピや第二コリントなど多数)。 嫌なことがあっても、嫌なことの最中でこそ喜んでいなさいと言うのです。どうしてそんなことが出来るでしょうか?宗教改革のルターは喜んでいられるコツを次のように教えます。(フィンランドの聖書日課「神の子へのマンナ」1878年初版 528日の個所から)

「この御言葉から我々は、嫌なことに遭遇した時、イエス様を救い主と信じる信仰が本当に必要だということがわかる。信仰は嫌なこと忌まわしいことを全て軽いものにする。時には麗しいものにさえする。殉教者の生き方がまさにそうである。逆に信仰がないと、全てのことは煩わしい辛いものになってしまう。たとえ、全世界の歓楽と享楽を手にしていてもだ。そのことは、憐れな人生を送った金持ちたちの生き方が示している。

 次のようなことを言う者がいる。「それじゃ、嫌なことに遭遇した時、それは自分の愚かさや悪魔が引き起こしたのではなく神が引き起こしたと思えば、喜んでいられるのか?」と。何という言い草!信仰の欠如以外の何ものでもない。キリストは言われたではないか?鳩が地に落ちるのは神がそう決めた時であると。また、神は私たちの頭の髪の毛の数を一本残らず数えておられると。

 罪と愚かさが原因で嫌なことに遭遇することがあるが、あなたの罪と愚かさが関わっていなくても同じような嫌なことに遭遇することもあるのだ。その場合の嫌なことは神の御心に適っている。なぜなら、罪以外のものは全て神の御心に適うものだからだ。なので、もしあなたが、あなたの罪と無関係な嫌な課題を抱えてしまったのならば、それは、あなたが取り組むようにと神がお許しになったのだ。

 その時あなたの成すべきことはただ一つ、取り組みにおいて正しく立ち振る舞うことだ(※)。そして、課題の取り組みにおいて感じるであろう、なんで私がこんなことを、という反発ややるせなさは実は、あなたがまさに神の御心に適う課題に取り組んでいることの証しなのである。その取り組みの中には神が一緒におられることを忘れるな。神は悪魔があなたを試すことを許可したのだ。あなたが神に対して忠実でいて課題に取り組んでいくか、それとも放棄してしまうかを見定めるために。すなわち、神はあなたに信仰の戦いを戦う機会と信仰にあって成長する機会を与えて下さるのだ。

訳者注 「正しく立ち振る舞う」とは、十戒の掟に従って立ち振る舞うことです。

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歳時記

蛍袋・ホタルブクロ

裏の叢に夏草に交じってホタルブクロが咲き出しました、僅か一輪ですが真新しいホタルブクロは生き生きとしていました。ホタルブクロを見ていて「夏の賛歌」というフインランドの美しい讃美歌(571番)を思い出しました。6月はフインランドでは「Kesäkuu. 夏(の)月」と呼ばれています。さらに夏の月に相応しい讃美歌もありました。以前、教会でも歌ったこともあったかもしれません。フインランド讃美歌571番にJo joutui armas aika→suvivirsi (夏の賛歌)という美しい讃美歌です。

Suvivirsi(夏の賛歌)をdeeplでざっくり訳してみました。歌の凡その内容は掴めたと思います。

2024年6月2日(日)聖霊降臨後第二主日 主日礼拝  説教 吉村博明 牧師

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主日礼拝説教2024年6月2日 聖霊降臨後第二主日

申命記5章12ー15節
第二コリント4章5ー12節
マルコ2章23節ー3章6節

説教題 「日曜日に教会の礼拝に出席すると『安息日は人間のためにある』が本当のことになる」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

皆さんもご存じのことと思いますが、1週間に7日あって7日目が休みというのは、旧約聖書の創世記にある天地創造の出来事に由来します。創造主の神が天と地とその間にある全てのもの、人間も含めて万物を創造した時、6日間仕事をされ、7日目に仕事を離れて休まれて、その日を特別な日、神聖な日に定めたことに由来します(創世記2章1

3節)。その日は旧約聖書の言葉であるヘブライ語でヨーム ハッシャッヴァート(יומ השבת)、短くしてシャッヴァ―ト(שבת)とも言います。普通「安息日」と訳されます。大学の先生たちに与えられる長期休暇のことを英語でサバティカルと言いますが、このシャッヴァ―トから来ています。最近はビジネス界にも広まっているそうです。

天地創造の時、神は仕事を離れて安息された7日目を神聖な日としました。神は、私たち人間もそのようにしなさい、と私たちも7日目に仕事を離れて安息することを掟として与えられたのです。その掟は、太古の昔、モーセ率いるイスラエルの民が奴隷の国エジプトを脱出してシナイ半島の荒れ野にいた時、十戒の第三の掟として与えられました。
「安息日を心に留め、これを聖別せよ。6日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、7日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。6日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、7日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである」(出エジプト記20章8節)。

「休みなさい」と言ってくれるのはありがたいことですが、注意しなければならないことは、この「休め」というのは神がそうしたのでそれに倣えという命令です。休んだ神がお前も休めと言っているのに、そんなの認めない、俺は仕事する、などと言ったら神に反抗することになってしいます。安息日に「休む」というのは神の意思に従う行為であり、それをすることで自分は創造主の神に造られた者であると認め、だから造り主の意思に従うのであると自分にも他人にも示すことになるのです。ただし、仕事を休むと言う時、何でもかんでも休まなければならないのか、と言うと少し考えなければなりません。例えば、人の命を助ける仕事も休まなければならないのか、という問題については、イエス様ははっきり命を助けることが大事と言っています。なので、神の意思に沿う仕事の休み方とは何かを考えなければなりません。後でそのことを見ていきます。

神の意思に沿う仕事の休み方を考える材料の一つとして、本日の旧約の日課の申命記の個所は大事です。これは、イスラエルの民がエジプトを脱出した後40年間続いた荒れ野の移動がようやく終わりに近づいた時の出来事です。この時、神は民に十戒の復習をします。安息日の掟は、先ほどエジプトを脱出して間もない頃に与えた掟を見ましたが、それに興味深い補足をします。何かと言うと、かつてエジプトで奴隷だったイスラエルの民を神は解放して下さった。そのために/それゆえ(על–כן)、神は安息日を守るようにと命じたのだと言うのです(5章15節)。最初に掟を与えた時は、神が7日目に休んでその日を神聖な日に定めたから、人間もそれに倣えというものでした。ここではそれに加えて、神は民を奴隷状態から解放して下さった、だから安息日を守れ、と言うのです。神は天地創造の時に安息日を定めたのであるが、民を奴隷状態から解放したことで一層守らなければならないというのです。これはどういうことでしょうか?本日の説教では、奴隷状態からの解放と安息日を守ることがどうかかわっているのかを見て、神の意思に沿う安息日の守り方は何かを明らかにしようと思います。

2.アヒメレクかアビアタルか?

その前に少し脇道に逸れますが、本日の福音書の日課マルコ2章のことで一つ説明しておきたいことがあります。日課は、イエス様の弟子たちが空腹を満たすために麦畑で麦の穂を摘んでいるところを宗教エリートのファリサイ派の人たちが見つけて、安息日に仕事はしてはいけないのに何事か!とイエス様に怒ったという出来事です。その時、イエス様は次のように応じます。昔ダビデがサウル王から逃れる逃避行をしていた時にノブという町の祭司から供え物のパンをもらった。サムエル記上21章にある出来事です。祭司のもとには普通のパンはなかったので、聖別されたパンを与えた、しかも、その日はパンを供え替える日で、それはまさに安息日でした(レビ記24章5~9節)。つまり、安息日に祭司しか食べてはいけないパンをダビデとその家来たちは食したという出来事です。

イエス様はこの話をされた時、ダビデにパンを与えた祭司は大祭司のアビアタルと言いました。ところが、サムエル記上21章を見ると、違う名前でアヒメレクです。これはどういうことでしょうか?イエス様は名前を間違えたのでしょうか?以前、ある教会の礼拝説教で牧師がこの個所について、福音書を書いたマルコが間違えて書いた、と言ったのを覚えています。私は、そんなにあっさり間違えと言ってしまっていいのだろうかと思いました。こういう、聖書の中によく見られる食い違いの問題は、一牧師が分かり切った顔でひと言で一蹴してしまうにはあまりにも深いことがあるのです。牧師というのは聖書を教えて給料をもらう聖書のプロです。しかも、日本では牧師は限りなく神に近い存在と見なされます。普通の信徒さんは牧師の言うことを無批判に受け入れがちです。なので、マルコが間違ったと言ったら、信徒の皆さんは、ああ、そうかマルコは間違っているんだ、さすがは牧師先生、すごいなあ、と感心するのがおちです。

私は、この問題はマルコが福音書を書く時に資料として受け取った伝承の中にアヒメレクではなくアビアタルの名があった可能性を考えなければいけないと考えます。果たしてそんな可能性があるのか?まず最初に、いわゆるパピアスの伝承を見てみます。2世紀に司教として活躍したパピアスの伝えるところによると、マルコ福音書は、イエス様の直弟子であるペトロが話し伝えたことをマルコが記述して出来たと言われています。もしそれが本当なら、ペトロがアビアタルの名を言ったことになります。しかし、ペトロはイエス様がそう言ったからそう言ったと言うでしょう。さあ、アビアタルと言ったのはペトロかイエス様か?実を言うと、聖書の各書物の成立を研究する釈義学という学問分野ではこのパピアス伝承は歴史的信ぴょう性がないとしてほとんど顧みられません。

それならば、次に見るべきことは旧約聖書のギリシャ語訳です。旧約聖書はもともとはヘブライ語ですが、紀元前3~2世紀に大々的にギリシャ語に翻訳されていきます。もし、ギリシャ語のサムエル記上21章にアビアタルの名があれば、イエス様ないしペトロはその伝統に従ったということになります。ただし、旧約聖書のギリシャ語訳と言っても、オックスフォード版とかゲッティンゲン版とかいろんな版があり、全部調べるのは大変です。それでも、ギリシャ語訳の全部の版を調べてアビアタルの名がなかった場合は、次はヘブライ語の旧約聖書の写本の出番です。

写本というのは、15世紀にグーテンベルクが活版印刷術を発明する以前、本というのはオリジナルが出来たら、後は手書きでコピーして数を増やしていきました。それが写本です。実を言うと、聖書の各書物はオリジナルのものは現存しません。全ての書物は一番古いと目される写本を元にしています。釈義学の研究者が無数にある写本を突き合わせて、これがオリジナルに一番近いだろうと結論した写本です。旧約聖書の写本の中で重要な意味を持つのが、いわゆる死海文書です。今のイスラエル国の死海の近くから発掘された古文書の中に旧約聖書がたくさん含まれています。全部がイエス様の時代ないしはそれ以前のものです。死海文書のサムエル記上21章の復元可能な写本を全部調べて、それでアビアタルの名前がなければ、イエス様はアヒメレクと言ったのだがマルコが間違えてアビアタルにしたと言ってもいいかもしれません。ただし、言い方は次のように慎重にしなければなりません。「現存する写本から見る限りは、マルコが間違えた可能性がある。」現存しない写本も無数にあります。なので、あっさりマルコが間違えたと言うのは早急すぎます。

ここで、アヒメレクをアビアタルと言い換えるのは誤りではないということを述べてみたく思います。このことは、サムエル記上21章からサムエル記下15章までをよく読んでいくと見えてきます。アビアタルというのは、アヒメレクの息子です。親子ともども祭司です。父アヒメレクは、ダビデを世話したためにサウル王によって殺害されてしまいます。息子アビアタルは難を逃れ、後にダビデが正式に王になった時、祭司ツァドクと共に神の契約の箱を管理する任務に就きます。これはもう大祭司と言える位の地位です。それなので、イエス様がアビアタルのことを大祭司と言ったのは間違いではないのです。つまり、「後の大祭司アビアタル

という意味で言ったのです。問題は、サムエル記上21章の書き方がダビデにパンを渡したのはアヒメレクということです。これも、ダビデとアヒメレクが話をしていた時、他の祭司、つまり息子のアビアタルも居合わせたと考えたらどうでしょう?私たちの新共同訳では「アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、」と書いてあります。ギリシャ語の原文は次のように訳することも可能です。「ダビデは、大祭司アビアタル(つまり後の大祭司アビアタル)がいた神の家に入り、」(後注)。つまり、イエス様はサムエル記上の内容から外れたことは何も言っていないのです。そのイエス様の言葉を受け取ったマルコは、それをそのまま記述しただけなので、マルコも間違っていないのです。それなのに、マルコは間違って書いたなどと言うのは、どういうことでしょうか?今見てきたように調べたり考えたりしなかったのは明らかです。同業者として情けなく思います。何よりも信徒の方たちが気の毒です。

3.安息日は人間のためにある

アヒメレクとアビアタルの問題はここまでにして、神の意思に沿う安息日の守り方について見ていきましょう。本日の福音書の日課の個所で、イエス様は安息日の誤った守り方を指摘して、正しい守り方を教えます。弟子たちが麦の穂を摘んでファリサイ派の批判を受けた出来事では、安息日にそれを行ったことが問題になりました。ファリサイ派が問題としたのは、弟子たちが麦の穂を摘んだのは仕事だったということです。仕事は安息日にしてはいけないことなのにしたという論理でした。

少し馬鹿馬鹿しい論理ですが、当人たちは真面目そのものでした。ファリサイ派は、神に約束された神聖な土地に住む民は神聖さをしっかり保たなければならないということをとても強調していました。そのためには神の掟を完璧に守らなければならない。安息日に仕事をしてはならないという掟があれば、完璧にその通りにしなければならない。そうしないと神の目に適う者にはなれない。そのように一寸の隙もない位に細心の注意を払った結果がこうなったのです。

ファリサイ派の批判に対してイエス様は、先ほど見たように、サムエル記上21章にある出来事、安息日に祭司にしか食べることが許されていないパンをダビデと従者が食べたという出来事を引き合いに出して反論します。それに比べたら、安息日に自分の空腹を満たすためだけに麦の穂を摘むのは何の問題でもないのです。ダビデのパンの場合も、弟子たちの麦の穂の場合も、「安息日は人間のためにある」ということの実例としてあげるのです。これとは逆にファリサイ派の律法主義では「安息日のために人間がある」になってしまうのです。神の意思は、「安息日は人間のためにある」なのです。

本日の福音書の日課の後半も同じテーマが続きます。安息日にイエス様が手の萎えた人を癒したという出来事です(マルコ3章1ー6節、ルカ14章1ー6節も)。イエス様が癒しを行ったら訴える口実にしてやろうとファリサイ派の人たちが注視しています。それに気づいてイエス様が言います。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」ここまで言われたら誰も答えることができません。イエス様は人々のかたくなな心を悲しみながら(マルコ3章5節)、その人の手を元通りに治してあげました。ここでも、「安息日は人間のためにある」が実践されたのです。ファリサイ派の人たちは、自分たちこそが神の意思を一番知っていると自惚れがあり、掟をそれこそ人為的に作り変えて、それを守らなければ神の目に失格だと烙印を押すやり方でした。神の意思に従うなどと言いつつ、実は自分たちの意思に従わせるやり方だったのです。

4.安息日に行う礼拝も人間のためにある

イエス様は「人の子は安息日の主でもある」(28節)と言われます。これは、神のひとり子としての彼が安息日の意味や守り方を正確に知っているということです。イエス様は父なるみ神の意思を正確に知りうる立場にいるので、律法全体についても正確に知っています。安息日の主というのは律法の主でもあります。

ところが、安息日の主、律法の主というのは、イエス様がただ単にそれらについて正確に知っていて人々に教えることができるということだけではありません。イエス様は神のひとり子なので神の意思を体現しています。イエス様は、律法が全人格的に守られているというお方なのです。これが律法の主ということです。だからイエス様は真の意味での義人なのです。これは人間とは大きな違いです。なぜなら、人間は神の意思に背こうとする性向、罪を持ってしまっているので、律法を全人格的に守り通すことはできないからです。人間はそのままの状態では義人にはなれないです。

そこで神が人間にしてくれたことは、人間に義をプレゼントして、人間はそれを受け取ることで義人になれるようにするということでした。それを神は実行に移し、ひとり子のイエス様をこの世に贈りました。やがて時が来て彼に人間全ての罪を背負わせてその罰を受けさせて、ゴルゴタの十字架の上で死なせました。つまりイエス様を犠牲の生け贄にしたのです。それだけではありません。神は一度死んだイエス様を今度は死から復活させて、死を超える永遠の命があることをこの世に示し、永遠の命に至る道を人間に切り開いて下さいました。このように神はイエス様の犠牲に免じて罪を赦すことにしたのです。そこで人間がこれらのことは自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、イエス様が果たした罪の償いはその人にその通りになります。罪が償われたからその人は神から罪を赦された者と見なされます。神から義人と見なされるのです。

このように人間は洗礼と信仰を通して神から義をプレゼントされてそれを受けとって義人になるのです。ただし、キリスト信仰者になったとは言っても、肉の体を纏っているので罪は内に残っています。しかし、神はこう言われます。お前は高い犠牲を払ってもらって罪と死の支配状態から買い戻されたのだ。新しい命を与えられたのだから、これからは何が新しい命に相応しい生き方を考えて行きなさい。聖書の御言葉を武器にして心の中にある罪に反抗しなさい。死と罪の力に勝利したイエスがいつもそばについていることを忘れないようにしなさい。

かつてイスラエルの民にとってエジプトからの脱出は奴隷状態からの解放を意味しました。キリスト信仰者にはもっと重大な奴隷解放があります。それは、罪と死の力に支配されていたという奴隷状態です。神はこの奴隷状態から人間を解放するためにイエス様をこの世に贈られ、彼に十字架の死を受けさせて死から復活させたのです。まさにそれゆえに、安息日はキリスト信仰者にとって罪と死の奴隷状態からの解放を記念してお祝いする日なのです。

仕事を休んで安息日を神聖なものとせよ、と言うのは、仕事のことに心と時間が向けられていたのを中断して、心と時間を解放の神に向けよ、ということです。安息日に神以外のものに心と時間を向けないことこそ、安息日を神聖なものにするものです。また、仕事だけでなく生活一般のことでいろんな心配事があって頭が一杯になっていても、安息日にはそうした心の重荷を一旦肩から下ろして、心を解放の神に向ける日です。どうやってそんなことが出来るかと言うと、次のようにお祈りします。「天の父なるみ神よ。今日は安息日ですから、あなたに心を向けたいので、この重荷をあなたにお預けします。どうぞ、受け取って下さい。」そうお祈りして神の足元に投げ出してしまうのです。心配事を投げ出して出来た空白を今度は礼拝を通して得られる良いもので満たしていきます。御言葉や説教を聴くことで神が聖書の時代においても今の時代においても私たちにどんな大きなこと素晴らしいことをしてくれたかを思い起こします。讃美歌を歌うことで解放の神に感謝と賛美を言い表します。祈りの時に普段抱えている課題、自分自身と隣人の課題に解決を与えてくれるように助けをお願いします。また、今日のように聖餐式がある日であれば、、イエス様の血と肉を通して神との結びつきを一層強めてもらいます。こうして霊的な栄養と力と知見を沢山もらって、新しい1週間に臨むことができるのです。

主にある兄弟姉妹の皆さん、礼拝に出席するというのは時として「しなければならない」もののように律法的に感じてしまう人がいます。そのような人たちから見たら、礼拝は「安息日のために人間がある」ものに映ってしまうでしょう。礼拝をさぼる方が「人間のために安息日がある」ではないかと。しかし、そうではありません。礼拝をさぼることは「人間のために安息日がある」ことにはなりません。なぜなら、安息日は罪と死の奴隷状態からの解放をお祝いする日です。安息日に行う礼拝は、その解放を確かなものにします。だから礼拝は「人間のために安息日がある」ものなのです。

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 

後注 ギリシャ語の前置詞επιプラス属格は、新共同訳のように「~の時に」という意味もありますが、「~のところに」とか「~の前に」という意味もあります。

 

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

 

手芸クラブの報告

 

shugei

5月の手芸クラブは22日に開催しました。梅雨が近づいているのか雨の多い日々でしたが、その日は爽やかな天候の中で開催することができました。

前回に続いて今回もクロスステッチの刺繡です。参加された方々が前回途中までだった作品をお家で頑張って完成させて、それを持ってきて見せて下さいました。たちまち、「わぁー可愛い!」「こんなに沢山頑張ったんですね!」「素敵な模様だわ!」などの声があがりました。

shugei今回もチャレンジして作ってみたい模様を決めて、それに合う糸の色と布を選び、早速刺繡に取りかかります。細かいクロスステッチでしたが、参加者の皆さんは沢山練習したので模様の形がとても上手にあっという間にはっきり現れてきました。刺繡は細かい作業なので目が疲れやすく肩も簡単に痛みます。それで時々休憩を取ることも必要です。刺繡は完成まで時間がかかりますが、お家で完成させたものを皆で一緒に見てお互いに素敵なものが出来ると本当にわかりました。夏の間お家で完成させることは一つの楽しみになるでしょう。

shugei

コーヒータイムで肩をリラックスさせます。今回はフィンランドのドーナツMunkkiをコ―ヒーと一緒に味わいながら歓談の時を持ちました。今回のコーヒータイムのお話は「練習の大切さ」について。刺繍を一生懸命に練習した皆さんにはちょうど良いテーマでした。お話の中ではまた、世の中には練習ができないですぐ臨まなければならない不確かなこともあるけれども、天の神さまはいつも確かなものを与えて下さるという聖書のメッセージもありました。

夏の間手芸クラブはお休みになります。また9月25日に再開する予定です。10月が近づき秋も深まり始めると暖かい服の季節になります。それで9月は毛糸の編み物を考えています。開催日が近づきましたらホームページに案内を載せますので是非ご覧ください。天の神さまが皆様の夏の生活と健康を守られますように。

手芸クラブのお話2024年5月22日

手芸クラブでは先月も刺繡をしました。皆さんクロスステッチを一生懸命練習したので、今回は本当に上手に出来ました。

この間フィンランドの雑誌を読んでいた時に、ある俳優が本番前のリハーサルをとても大事にしているという記事を読みました。その人にとってリハーサルは本番のために勇気と自信を与える機会になるのでとても大事なことだと話していました。本番に強いという人もいますが、私は多分その俳優と同じタイプなので、リハーサルや練習はとても大事です。本番で失敗しないために前もっていろいろ練習するのは必要なことです。

フィンランドでは「練習がチャンピンを作る」という言い回しがあります。陸上選手は一生懸命走る練習をしてから自信と勇気をもって競技に参加します。練習をする方がしないよりも、本番の時にどうなるか予測しやすくなるでしょう。ところが、人生のことの全てはスポーツや音楽や劇のように練習することは難しいかもしれません。例えば新しい仕事や新しい人間関係は練習をして本番に入るというよりは、すぐ本番ではないでしょうか?私たちの将来のことも、前もって練習することはできません。練習なしで本番に入るようなものではないでしょうか?それで将来のことは予測が難しくて不確かな感じがすると思います。

このような時、私は聖書を開いて神さまのみ言葉を読みます。それは、不確かなところに確かなものを与えてくれるからです。例えば、旧約聖書の詩篇には次のように書いてあります。フィンランド語の聖書を日本語に訳します。「主を信頼しなさい。しっかり立ちなさい、勇気を持ちなさい。主を信頼しなさい。」詩編27編14節のみ言葉です。天の父なる神さまは私たちの造り主でもあります。それで、私たち一人一人の弱さや、私たちが不確かな世界の中を歩んでいることをよくご存じです。そのためにこのみ言葉を私たちに与えられたのです。神さまは私たちの将来のことも、ここを進んだらあなたにとって一番良いのだ、と私たちに一人一人に相応しい道を開いて下さるのです。それに気がつくと、神さまは本当に私たちのことを一人一人大切に考えて下さっているとわかります。それが神さまに対する信頼と道を進む勇気になるのです。

旧約聖書の箴言には次のみ言葉があります。tjuujika「心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず 常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば主はあなたの道筋をまっすぐにして下さる。」箴言3章5-6節です。私たちは自分の将来についていろんな計画を立てますが、実際にどうなるかはわかりません。私たちは自分の生き方を全部自分の思うようにすることはできないからです。しかし、天の神さまが私たちに歩むのにふさわしい道を開いて下さり、それを歩む力も与えて下さいます。それが、神さまが歩きなさいと言っている「あなたの道」です。神さまが道筋をまっすぐにすることが私たちの歩く力になるのです。これらのことは、私たちが自分の分別を頼ってそれに全てを委ねないで、神さまに信頼して全てを委ねると、本当のことになります。そして、神さまが開いて下さる道はこの世の人生が終わる時が終着点ではありません。この道の終着点は永遠の命だからです。

私たちは、練習があまりできない本番ばかりの不確かな世で生きなければなりません。しかし、神さまに信頼して全てを委ねることが出来れば、不確かな世の中で確かなものを得られて、心の中に平安と安心を得ることが出来るのです。

2024年5月26日(日)三位一体主日 主日礼拝 説教 吉村博明

礼拝

主日礼拝説教 2024年5月26日

イザヤ6章1-8節、ローマ8章12ー17節、ヨハネ3章1ー17節

Youtubeで説教を聞く

説教題 キリスト信仰にとって「汚れ」、「清め」、「霊的」、「新たに生まれる」とは?

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

本日は三位一体主日です。私たちキリスト信仰者は、天と地とその間にある全てのものを造り、私たち人間をも造って命と人生を与えてくれた神を三位一体の神として崇拝します。一人の神が三つの人格を一度に兼ね備えているというのが三位一体の意味です。三つの人格とは、父としての人格、そのひとり子としての人格、そして神の霊、聖霊としての人格です。三つあるけれども、一つであるというのが私たちの神なのです。

そうは言っても、三位一体はわかりにくいです。三つあるけれども一つだという。いち足す、いち足す、いちは三ではなくて一であると。どのようにしてそんなことが可能なのかと頭で考えると、もう無理です。しかし、キリスト信仰者はこういうものなんだと受け入れている。どうして受け入れられるかと言うと、三つがどういうからくりで一つになっているのかということはあまり気にかけないからです。それよりも、なぜ三つが一つでないといけないのかということの方が重要だからです。なぜ三つが一つなのか?それは、三つの人格が一つであることで神の愛というものがどのようなものであるかがよくわかるからです。

まず、神は創造主として私たち人間を造りこの世に誕生させました。これが造り主としての人格です。ところが、人間の内に造り主の意思に背こうとする性向、罪が入り込むようになってしまったために、神はひとり子を贈って、彼を犠牲の生贄にすることで私たち人間を罪と死の支配から解放して下さいました。これが贖い主としての人格です。こうして、私たちは罪の赦しの恵みの中で生きられるようになりましたが、人生の中でいろんなことがあって恵みから離れそうになります。そのたびに聖霊から指導や支援を受けられ、神の目に相応しい者として生きられます。これが、私たちを日々、汚れから清めて下さる人格です。

三つの人格の機能は別々のものに見えますが、それらは一丸となって一つのことを目指しています。それは、人間が罪と死の支配から解放されて永遠の命に至ることが出来るようにするということです。このように三位一体は私たちに進むべき道を示すだけでなく、それを進める力を与えてくれるものなのです。

以上のことは毎年、三位一体主日の礼拝説教で述べていることですが、今日は同じことを少し角度を変えて見ていこうと思います。どんな角度から見ていくかというと、キリスト信仰にとって「汚れ」、「清め」、「霊的」、「新たに生まれる」とはどういうことかを考えながら三位一体の神を見ていくということです。

2.キリスト信仰にとって「汚れ」、「清め」、「霊的」は倫理的な事柄である

まず最初に思い起こさなければならない大前提は、私たちは創造主の神に造られたということです。それを思い起こしたら、次に考えなければならないことは、造り主と私たち人間の関係はどうなっているのかということです。関係はいいのか?よくないのか?聖書の観点では、よくないというものです。どうしてよくないのか?それは、創世記に記されているように、神に最初に造られた人間が神の意思に背く性向、罪を持つようになってしまい、それがもとで死ぬ存在になってしまったからです。使徒パウロがローマ5章で述べるように、人間誰でも死ぬというのはみんな最初の人間から罪を受け継いでいることのあらわれです。もちろん、悪いことをしない真面目な人もいます。悪いこともするが良いこともするという人もいます。それでも、全ての人間の根底には神の意思に背く罪が脈々と続いているというのが聖書の観点です。このように人間が罪を持つ存在であるとわかると、神は全く正反対に神聖な存在であることがわかります。神と人間、それは神聖と罪という二つの全くかけ離れた存在です。

 罪を持つ人間にとって神の神聖さとはどんなものであるか、それについて本日の旧約の日課イザヤ6章の個所はよく表しています。預言者イザヤはエルサレムの神殿で肉眼で神を見てしまいました。その時の彼の反応は次のようなものでした。「私など呪われてしまえ。なぜなら私は滅びてしまうからだ。なぜなら私は汚れた唇を持つ者、汚れた唇を持つ民の中に住む者だからだ。そんな私の目が王なる万軍の主を見てしまったのだ」。これが罪ある人間が神聖な神を目にした時の反応です。罪の汚れを持つものが神聖な神を前にすると、焼き尽くされる危険があるのです。神から預言者として選ばれたイザヤにしてこうなのですから、預言者でもない私たちはなおさらです。

 イザヤは自分自身の罪と自分が属している民族の罪を告白しました。すると天使の一種であるセラフィムが来て、燃え盛る炭火をイザヤの唇に押し当てます。イザヤは大やけどを負いませんでした。それは、炭火が焼き尽くしたのは肉体のように目に見えるものではなく、目に見えない霊的なものだったということです。それは何か?セラフィムが、お前の不正は償われた、お前は罪から贖われたと言います。イザヤは自分も民族も汚れた唇を持つと告白しましたが、それは、神の意思に背く不正と罪があることを認めたのでした。このように聖書の観点では、清めというのは罪からの清めを意味します。罪というのは、先ほども申しましたように、神の意思に背こうとする人間誰しもが持ってしまっている性向です。背きには、造り主である神をないがしろにして、別の何かに願いをかけたりをしてしまうような神との関係での背きがあります。それと、他人を傷つけたり見下したり、嘘をついたり広めたり、他人のものを妬んだり、妬むだけでなく実際に横取りしてしまったり、不倫をしたり等々、人間関係で神の意思に背くこともあります。背くというのは、そうしたことを行いや言葉で出してしまうだけでなく、心の中で思ってしまうこと全てを含みます。聖書の観点ではそういうことが汚れなのです。そういうことが霊的なことなのです。このように聖書の観点では、「清め」とか「汚れ」とか「霊的」というのは極めて倫理的な事柄なのです。

 この点は他の宗教ではどうでしょうか?汚れと言ったら、倫理的な事柄ではなく、病気とか不運とか何か不都合なことを意味し、そういう不都合を取り除くことや予防することを汚れからの清めと言うのが多いのではないでしょうか?もちろん、イエス様も汚れた霊を追い出したり、重い皮膚病の人を癒してあげたりしました。しかし、よく見ると、汚れた霊の追い出しや皮膚病の癒しはサラッとしています。追い出して下さい、癒して下さいとお願いされると、イエス様は、出ていけ!治れ!と一声かけただけでみなその通りになりました。しかし、神の意思に背く罪については、イエス様が一声かけたらみんな義人になったという奇跡はありません。倫理的な汚れはその他の汚れよりも手ごわいのです。そう言うと、いや違う、汚れた霊の方が手ごわいと言う人もいるかもしれません。しかし、それは本当ではありません。どうしてかと言うと、汚れた霊とか悪霊というのは人間と神との結びつきを失くすることを本業としています。なので、イエス様を救い主と信じて神との結びつきを確立してさえいれば、汚れた霊や悪霊は手出しが出来なくなるのです。病気や不運の問題も、神との結びつきの上に立って治療や立ち直りを行っていくだけです。日本人もこういうスタンスに立てるようになれば、祟りなど汚れなどと言われて惑わされることはなくなるでしょう。

 それでは、罪の汚れを持つ人間が義人になることが出来るためにはどうしたらいいのか?イエス様は本日の福音書の日課の個所で、人間は新たに生まれなければならないと教えます。次にそれについて見ていきましょう。

3.「生まれ変わる」ではなく「新たに生まれる」

その前にイエス様に教えを乞うたニコデモが属していたファリサイ派について少し述べておきます。それは、ユダヤ民族は神に選ばれた民なので神聖さを保たねばならないということをとても重視したグループでした。彼らは旧約聖書にあるモーセ律法だけでなく、それから派生して出て来た清めに関する規則を厳格に実践していました。自分たちは神聖な土地に住んでいるのだから、汚れは許されません。ただし、清めというのは、異教徒がいる広場から帰ったら体を清めるだとか、外の汚れが体の中に入り込まないために食事の前に手を洗うとか、そういう外面的な清めでした。

 イエス様に言わせれば、神の前での清さというのはそのような外面的なことではない、心が神の意思に沿うものになっているという清さでなければならない。マルコ7章にあるファリサイ派との論争の中でイエス様ははっきり言いました。外から体の中に入るものは人を汚さない、だから手の清めをしないで食事をしても心を汚すことはない。食べたものはお腹に入って便となってトイレに流されるだけだと。人を汚すのは、人間の心から出てくる悪い思いである。すなわち、みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別であると具体例をあげます。ここからもわかるように、イエス様は汚れとは倫理的な汚れであるとはっきりさせます。神のひとり子が神の意思はこれだと教えたのです。

 神の意思が人間に倫理的な清さ、しかも、行為や言葉だけでなく思いも含めた全人的な清さを求めているとすると、人間はもはやどうあがいても神の前で清い存在にはなれません。それなのに、人間の方が自分で規則を作って、それを守ったり修行をすれば清くなれるなどと言って自分にも他人にも課すのは滑稽なことです。イエス様はファリサイ派が情熱を注いでいた清めの規則を次々と無視していきます。当然のことながら、彼らのイエス様に対する反感・憎悪はどんどん高まっていきます。

 ところで、ファリサイ派のニコデモはイエス様の教えと行動に何か真実を感じ取ったようです。彼は人目を避けるかのように「夜に」イエス様のところに出かけます。そしてイエス様から、人間が肉的な存在から霊的な存在に変わることについて、また神の愛や人間の救いとは何かについて教えられます。

 さて、イエス様とニコデモの対話で重要なテーマである「新たに生まれる」について見ていきましょう。「生まれ変わる」という言葉はよく聞きます。貧乏な人が生まれ変わったらお金持ちになりたいとか、人から注目されないことが悔しい人が生まれ変わったら有名になりたいとか。または、赤ちゃんが生まれた時、表情がおじいちゃん/おばあちゃんに似ている、この子は亡くなったおじいちゃん/おばあちゃんの生まれ変わりだ、などと言うこともあります。このように「生まれ変わる」という言葉は、現在の不幸な境遇から脱出を願う気持ちや、何かを喪失した空虚感を埋め合わそうとする気持ちを表現するものと言えます。時として、自分は前世では別の人物だったが、今の自分はその人物の生まれ変わりだとかいうような輪廻転生の考えを言う人もいます。ただ、輪廻転生の生まれ変わり先は人間とは限りません。動物や昆虫にもなります。

聖書の信仰には輪廻転生はありません。私、この吉村博明は、この世から死んだ後、何かに生まれ変わってまたこの世に出てくることはもうありません。宗教改革のルターも言うように、この世から死んだ後は「復活の日」が来るまではみな神のみぞ知る場所にいて安らかに眠っているだけです。「復活の日」とは、今のこの世が終わって天と地が新しく創造される日のことです。その日この吉村博明はイエス様に目覚めさせられて朽ちない復活の体を着せられて永遠の命を持って吉村博明として神の国に迎え入れられます。

そうすると、「生まれ変わり」ではない「新たに生まれる」というのはどういうことでしょうか?イエス様が教えます。「はっきり言っておく。人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(3節)。ニコデモが聞き返します。「年をとった者がどうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」(4節)。ここで明らかなのは、ニコデモも輪廻転生の考えを持っていないということです。もし持っていたら、「新たに生まれる」と聞いて、それを「生まれ変わる」と理解したでしょう。さすがイエス様が「イスラエルの教師」と呼んだニコデモです。ファリサイ派とは言え、聖書をちゃんと読んでいるので輪廻転生の考えは持っていません。「生まれる」というのは、文字通り母親の胎内を通って起きることなので、一度生まれて出てきてしまったら、もう同じことは起こりえません。ニコデモが「新たに生まれよ」と言われて、年とった自分がそのまま母親の胎内に入ってもう一度そこから出てこなければならない、と聞こえても無理はありません。

ところが、イエス様が「新たに生まれる」と言う時の「生まれる」はもはや母親の胎内を通って起こる誕生ではありませんでした。どんな誕生なのかと言うと、次のイエス様の教えをみてみましょう。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である」(5ー6節)。イエス様が教える新たな誕生とは「水と霊による誕生」です。これは、どういうことでしょうか?

人間は、最初母親の胎内を通してこの世に生まれてくるのですが、それは単なる肉の塊です。その肉の塊は、創世記2章やエゼキエル書37章で言われるように、神から霊を吹き込まれて生きものとして動き始めます。しかしながら、それはまだ肉的な存在で「肉から生まれたもの」に留まります。それが、その上に神からの霊、つまり聖霊を注がれると「霊から生まれたもの」に変わるのです。「水と霊による生まれ変わり」の「水」は洗礼を指します。つまり、洗礼を通して聖霊が注がれるということです。こうして、人間は最初母の胎内から生まれた時は肉的な存在であるが、洗礼を通して聖霊を注がれると霊的な存在になり、これが人間が新しく生まれるということになります。

4.イエス様の罪の償いを受け取って霊的な存在になる

それでは、霊的な存在になるというのは、どういう存在なのか?なんだかお化けか幽霊になってしまったように聞こえるかもしれませんが、そうではありません。どういうことか以下に見ていきましょう。洗礼を通して聖霊を注がれると、外見上は肉的な存在のまま変わりはないですが、内面的に大きな変化が起きる。そのことをイエス様は風のたとえで教えます。

「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者もみなそのとおりである。」(8節)

風は空気の移動です。空気も風も目には見えません。風が木にあたって葉や枝がざわざわして、ああ、風が吹いたなとわかります。聖霊を注がれた人も目には見えない動きがその人の内にあるのです。それはどんな動きなのでしょうか?ここでニコデモの理解力は限界に達してしまいました。水と霊から新しく生まれるだとか、その生まれが風の動きのように起こるだとか、そのようなことはどのようにして起こるのか?彼の問い方には途方に暮れた様子がうかがえます。

これに対してイエス様は厳しい口調で応じます。イスラエルの教師でありながら、その無知さ加減はなんだ!清めの規則とかそういう地上に属することについて私が正しく教えてもお前たちは聞こうとしない。ましてや、こういう天に属することを教えて、お前たちはどうやって理解できるというのだろうか?厳しい口調は相手の背筋をピンと立てて、次に来る教えを真剣に聞く態度を生む効果があったでしょう。イエス様は核心部分に入ります。

「天から地上に下った者つまり『人の子』以外には天に上る者はいない(13節)。

イエス様は自分が「水と霊による新たな生まれ」を起こす者であることをこのように言って証し始めます。「人の子」とは旧約聖書のダニエル書に登場する終末の時の救世主を意味します。イエス様は、それはまさに自分のことであると言い、さらに自分は天からこの地上に贈られた神の子であると言っているのです。それが、ある事を成し遂げた後で天にまた戻るということを言っているのです。そして、そのある事というのが次に来ます。14節です。

「モーセが荒野で蛇を高く掲げたのと同じように、『人の子』も掲げられなければならない。それは、彼を信じる者が永遠の命を持てるようになるためである。」

これは一体どういう意味でしょうか?モーセが掲げた蛇というのは民数記21章にある出来事のことです。イスラエルの民が毒蛇にかまれて死に瀕した時、モーセが青銅の蛇を旗竿に掲げて、それを見た者は皆、助かったという出来事です。それと同じことが自分にも起こると言うのです。これは何のことでしょうか?

イエス様が掲げられるというのは、彼がゴルゴタの丘で十字架にかけられることを意味しました。イエス様はなぜ十字架にかけられて死ななければならなかったのでしょうか?それは、人間の罪を神に対して償う犠牲の死でした。神の意思に背こうとする罪のゆえに人間と神との間に果てしない溝が出来てしまった。しかし、神は人間が自分との結びつきを回復してこの世を生きられるようにしてあげようと、そしてこの世から別れた後は造り主である自分のもとに永遠に戻れるようにしてあげようと、それで溝を超えて私たち人間に救いの手を伸ばされました。その救いの手がイエス様でした。神はこのひとり子をこの世に贈り、彼を犠牲の生贄にして本来人間が受けるべき神罰を彼に受けさせました。それによって、罪が償われて赦されるという状況を生み出しました。あとは人間の方が、神は本当にこれらのことを成し遂げて下さり、イエス様は本当に救い主だとわかって洗礼を受ける、つまり神が伸ばしてくれた救いの手を掴むと、この償いと赦しの状況に入れることになります。それからは自分から救いの手を振り払うことをしない限り、神との結びつきを持ってこの世を生きられるようになり、この世を去った後は永遠に造り主のもとに迎え入れられるようになります。このように神との結びつきを持って生きる者は、永遠の命と復活の体が待つ神の国を目指して進みます。まさにイエス様が言われたこと、水と霊を通して新たに生まれた者が「神の国を見る」、「神の国に入る」ということがその通りになるのです。このように新たに生まれて霊的な者になるというのは、神との結びつきを持って神の国を目指して歩む者になるということです。

5.キリスト信仰者の霊的な戦いと聖霊の支援と指導

しかしながら、新たに生まれて霊的な者になったとは言っても、最初に生まれた時の肉を持っていますので、まだ肉的な存在でもあります。そのため神の意思に背くことはしないように注意するようになりますが、それでも考えを持ってしまったり言葉に出してしまったりします。このように人間は霊的な存在になった瞬間、まさに同一の人間の中に、最初の人間アダムに由来する古い人と洗礼を通して植えつけられた霊的な新しい人の二つの凌ぎ合いが始まります。

これがキリスト信仰者の内なる霊的な戦いです。使徒パウロも認めているように、「他人のものを妬んで自分のものにしたいと欲してはいけない」と十戒の中で命じられていて、それが神の意思だとわかっているのに、すぐそう思ってしまう自分、神の意思に背く自分に気づかされてしまうのです。神の意思に心の奥底から完全に沿える人はいないのです。それではどうしたらよいのか?どうせ沿うのが不可能だと言うのなら、無駄なことはせず感情感覚のままに行けばいい、などと言ったら、神のひとり子の犠牲は意味のないことだったということになります。逆に、心の奥底から完全に沿えるようにしよう、しようと細心の注意を払えば払うほど、逆に沿えていないところが見えてきてしまう。

そのような時は心の目をゴルゴタの十字架に向けます。まさに、そのような時のためにあの十字架は打ち立てられたのです。その時、聖霊が心の耳に囁くように教えてくれます。あそこにいるのは誰だったか忘れたのか?あれこそ、神のひとり子が神の意思に沿うことができないお前の身代わりとなって神罰を受けられたのではなかったか?あの方の尊い犠牲と、あの方を真の救い主と信じる信仰のゆえに、神はお前に罰を下さないと言って下さっているのだ。お前が神の意思に完全に沿えることができたから赦してもらったのではない。そもそもそんなことは不可能なのだ。そうではなくて、神はひとり子を犠牲に供することで至らぬお前をさっさと赦して受け入れて下さることにしたのだ。救いに関してお前は先を越されたのだ、あとは何も考えずにその後を追いかけるのだ。あの夜、あの方がニコデモに言ったことを思い出しなさい。

モーセが青銅の蛇を高く掲げたように、人の子も高く掲げられなければならない。彼を信じる者が永遠の命を得るために。

神はそのような仕方でこの世を愛を示された。それで人の子を贈られたのだ。彼を信じる者が一人も滅びずに永遠の命を得るために(ヨハネ3章14~16節)。

こうしてキリスト信仰者は聖霊の働きで神の深い憐れみと愛の中で生かされていることを再び思い知り、神聖な神の意思にすっぽり包まれているとわかって、そこから外れないようにしようと襟を正します。そうして、また先を越されたことの後追いが始まります。

キリスト信仰者はこの世の人生でこういうことを何度も何度も繰り返していきます。そうすればそうするほど、神と人間の結びつきを失わせようとする罪は立場と面目を失い、圧し潰されて行きます。これが本日の使徒書の個所でパウロが「霊によって体の仕業を死なせる」と言っていることです(ローマ8章13節)。日本語訳では「体の仕業を絶つ」ですがギリシャ語では「死なせる」(θανατουτε)です。しかも、動詞は現在形なので「日々死なせる」です。日本語訳みたいに威勢よく一気に罪を絶つことが出来る人などいません。聖霊に何度も何度も助けられて毎日毎日死なせるのが真実な生き方です。

主にある兄弟姉妹の皆さん、このように私たちには造り主の主と贖い主の主、そして日々、汚れから清めてくれる主がいつも共にいてくれるのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。