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歳時記

合歓の花  

雨に似合う合歓の花ですが今年は雨が少なく何となく埃っぽい感じの花をつけています。子供の頃よく合歓の木の葉とお辞儀草の区別がつかず迷っていました。万葉集にも合歓に因んだ歌が幾つかあります。その中から大伴家持と紀郎女(きのいらつめ)との相聞歌をご紹介します。紀郎女の方が年上でしたが仲の良い2人でよく歌の遣り取りをしていました。

紀郎女が合歓の花に添えて贈った歌。「昼は咲き夜(よる)は恋ひ寝(ぬ)る合歓木(ねぶ)の花君のみ見めや戯奴(わけ)さへに見よ 」(昼は咲いて夜は恋いつつ眠る合歓木の花をあるじだけが見てよいものだろうか。お前も見なさいな。) 万葉集 第8巻1461番歌

家持の返歌 「吾妹子(わぎもこ)が形見の合歓木(ねぶ)は花のみに咲きてけだしく実(み)にならじかも」(あなたの形見の合歓木は花ばかり咲いてきっと実にはならないのでしょう ) 形見は相手を偲ぶ品で、万葉の時代には相手の生死は関係なく形見と呼んだようです。   万葉集 第8巻1463番歌

2022年7月3日(日)聖霊降臨後第4主日 主日礼拝

礼拝説教

ルカによる福音書10章1〜16節

「主の恵みのうちに与えられ遣わされる幸い」

2022年7月3日:スオミ教会主日

説教者:田口  聖

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1、「すべてのひとのために」

 今日の福音書の言葉は、イエス様が宣教に「遣わす」ということについて語られています。実は9章の初めでも、イエス様は12人の弟子達を集めて、イエス様の御名による権威を授けて遣わしたということが書かれていました。その所と同じように、この10章の始めでも、イエス様が人々を遣わすところから始まっています。しかし今度は12人の弟子達ではありません。1節にありますように、別に72人。弟子達とは別に72人を選んで遣わすのです。これはルカのみに書かれています。このようにこの時、既に、12人の他にもイエス様は名も知られていない多くの人々を遣わしていたことがわかります。この72人という数は、このイスラエルの周辺を取り囲むようにある異邦人の国や民族の数を象徴しているともよく言われます。

 注目したいのは、1節「ご自分が行くつもり」だったという言葉です。先週の9章51節にあるように、イエス様はこのとき、エルサレムにまっすぐ向かって進んでいたとありました。ですから、人となられたイエス様は、すでに真っ直ぐと目を向けてエルサレムへ事実、向かってはいるのですが、この十字架までの3年間のその短い期間で、周りの取り囲むような全ての国々や民族のところ全てへ行きたかったが、行くことができなかったことがわかってきます。けれども、この72人の派遣と「ご自分が行くつもり」だったという言葉には、イエス様がこのエルサレムへ向かう本当の目的と思い、つまり、イエス様の最大の目的である、「すべての人の罪の赦しのために十字架で死んでよみがえる」とうことそのものが、この派遣と言葉に表れていることがわかります。つまりこのところは、だからこそイエス様は、誰一人例外なく、全世界のためにこられ、全世界の人々のためにエルサレムに向かっている。そして、全世界の人々のために十字架にかかって死なれるという福音に結びつくでしょう。つまり、先週の箇所で、イエス様は、ご自身を拒んだサマリヤ人が滅びることを望まなかったように、周りの72の国や民をもなおも見ているし、もちろん、そこにはサマリヤ人も含まれている。そのように、イエス様は、決してイスラエル人、ユダヤの民だけではない、全世界の人々、つまり、確かに私たち一人一人のためにもイエス様は来られ、私たち一人一人にも目と思いが向けられていた。私たち一人一人のためにエルサレムに向かい、十字架にかかられる。その幸いをまず第一に覚えることが出来るのです。

2、「恵みのうちにある派遣」

A,「キリストが遣わす」

 そのイエス様が目と思いを向けている異邦人の国々の人々、そのために72人は選ばれ遣わされるのですが、今日はさらに、その「遣わす」ということの恵みを見ることができるでしょう。もちろん目に見える地上の事柄では、託された教会が召し出し遣わすのですが、しかしそのキリスト者を用い流のは誰か、そしてその派遣がどこから生まれのかどこから来るのかということがここからわかります。それは何より、イエス様から生まれ、始まり、イエス様が選んで、イエス様が遣わすのです。先週の箇所でもありました。まず自分から、自分達の意志や決心や他の何らかの力によって、まず私たちの方から「従う」というのではありませんでした。イエス様は、まずイエス様の方から「ついてきなさい」「従いなさい」と召した弟子達に、「神の国を言い広めなさい」と遣わしていました。同じようにここでも、どこまでも神の国の働き、イエス様の働きは、人が、私たちが、ではなく、イエス様が選び、招き、召し出し、そしてイエス様が遣わすということが、この1節にわかるのです。つまり、派遣やそして宣教・伝道も、決して人や自分の思いや計画、自信や意志や決心から出たものではない、人は用いられるだけであり、つまり全ては恵みであるということを教えられるのです。

B,「キリストの名によって:キリストが行う」

 そしてその召される働きや使命も、1節では「ご自分の行くつもりの」とありますし、2節では、あえて「収穫の主」ともあるように、収穫でさえも主の働きであるということもわかるでしょう。つまり、主の働き、主のなそうとすること、主がなさることのために、72人は選ばれ、遣わされるということがわかるのです。それは、9章の始めも同じでした。弟子達はイエス様から「権威を授けられて

遣わされます。そして、その遣わされた所でも、弟子たちの力ではなく、「イエス様の名によって」とある通り、イエス様の力によって、悪霊が追い出されたり、病が癒されたりしたのでした。それは弟子達に力があるのではなく、イエス様の力が現れていることであったというメッセージです。事実、すぐ前9章の37節以下にある出来事ですが、イエス様が山に行っている間、子供が悪霊に憑かれているからと助けを求めてきた親に対して、弟子だけではできなかったのでした。逆に、49節以下では、弟子のヨハネは、弟子でない者がイエスの名を使って悪霊を追い出していたのを見て、仲間ではないのでやめさせたという場面があります。それに対してイエス様は止めさせてはいけないといいました。そして10章17節をご覧頂くと、遣わされ帰って来た72人が「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します」とも言うのです。このように、イエス様の名が与えられ、遣わされ、イエス様の名が広められ、イエス様の名によって悪霊が追い出され、病が癒されています。つまり、すべては弟子たち自身の力や功績ではなくて、イエスの名、つまりイエス様がなさる業、計画、働きであることがわかるのです。そのイエス様のなそうとしている働きのため、召され用いられる彼らであるということなのです。

C,「平安があるように言いなさい。」

 今日のところから、イエス様によって「遣わされる」ということは、恵みであるというイエス様からのメッセージが私たちに語られています。このように何をするにもどこまでも、それがこのように宣教や教会の働きであっても、イエス様はどこまでも与える方です。つまり、イエス様は私たちに何かをしてもらう必要もなければ、聖書にあるように、仕えられる必要もありませんし、まして私たちが何か重いものを「背負わせる方

ではありません。事実、5節のイエス様の言葉を見ても分ります。イエス様は、家に入ったら「平安があるようにと言いなさい」と言っています。何か重荷を負わせるような言葉ではありません。つまり、イエス様がなそうとする働き、イエス様が伝えようとすることは、「重荷」ではなく、「平安があるように」「シャローム」であることが分ると思います。イエス様は私たちに平安を与えるために来ました。それは遣わすということでも同じだとわかるのです。イエス様が召した人を、イエス様が選び、イエス様が遣わす。しかもイエス様のなそうとすることをさせるため、イエス様の名によって。すべてはイエス様の主導権なんだということです。ですからそうであるなら、「遣わされる」ということは、「イエス様にあって」という、イエス様への信仰、信頼があれば、どこまでも安心だけれども、逆に、イエス様を見失ったり、イエス様から受けるのでもない、イエス様の名によるのでもない、イエス様への信頼でもなくなる時に、イエス様以外のものへの信頼になるときにこそ、遣わされるということ、クリスチャンとして歩むということが、平安ではなくなる、重荷となるということだと言えるでしょう。

D, 「宣教は福音」

 イエス様は私たちをも遣わしています。この世へ。身近な隣人へ。社会や家庭へ、あるいは世界へ。しかしそれは、平安のうちにです。なぜなら、私たちもイエス様の名によって洗礼を授けられ罪赦され救われ、イエス様によって、イエス様の名によって遣わされているからです。イエス様から今日も受け、イエス様から受けるからこそ、私たちの新しいいのちの歩みがあり、キリスト者としての日々があり、そして平安があることを知っているからです。ですから、宣教というのは、ルーテル教会の、律法と福音の区別で言うなら、「しなければいけない」「律法」ではないのです。どこまでも宣教は福音です。第一の聖書箇所イザヤ書66章でもそこに「彼女」と繰り返されているのは、それは教会を意味しています。その彼女は、喜びに溢れているでしょう。「彼女と共に喜び楽しめ」とあるでしょう。重荷があっては、あるいは、律法が動機では、楽しみや喜びはありません。教会は、重荷と裁きではなく、平安と喜びが満ち、その喜びと平安で遣わされるところ。教会も宣教も律法ではなくて福音なのです。ぜひ、今日も、イエス様が救ってくださり、イエス様がイエス様の名において遣わしてくださっている恵みを感謝して、ここから遣わされて行きたいのです。

3、「一人ではなく」

 そして、更に幸いが書かれています。1節の後半には「ふたりずつ」という言葉があるのです。このようにイエス様は決して一人では遣わしませんでした。イエス様のなそうとする働きは確かにイエス様の働きと業があるのですが、同時に、私たち兄弟姉妹は、その神様の御心が行なわれて行くために用いられる、皆、互いが互いのための、イエス様から与えられ一緒に遣わされている助け手、パートナーでもあるということがこの言葉には示唆されているのではないでしょうか。もちろん人には皆、それぞれ、足りなさ不完全さがあるでしょうし、私自身にもあります。人と人の間のことも、クリスチャンといえども、いつでも完全ではない事実もあります。しかしだからといってそれを全く無意味とはイエス様はしません。創造の始めでも、神は、人は一人でいるのは良くないといって、助け手として、つまり、人は互いに助けあうためにパートナーを与えています。確かに堕落によって人も、人と人の関係も堕落しました。しかしその神様がパートナーを与えた御心は、尚も大事なこととして私たちにはあるでしょう。それは、主によって選ばれ主のなそうとすることのために「遣わされる」ことにおいてもイエス様は貫かれます。一人ではなく、ここでは二人で、あるいは、使徒言行録ではさらに三人以上の場面もあります。あるいは、家族や、友人、教会という大きな数でもそれは同じことが言えるでしょう。そのように私たちは一人で遣わされているのではない、ともに唯一の救い主であるイエス様への信頼を受け、互いに助け合い励まし合いながら遣わされているのです。それは今日の第二の聖書箇所ガラテヤ6章でパウロが伝えていることです。しかもです。これは決して二人だけの力でもない、そこにはイエス様の名のゆえにイエス様が働いてくださるのですから、つまり常に目に見える数「プラス1」です。二人のときは、ともにいてくださるイエス様もいて3人です。しかも見えないイエス様こそ、何よりの力、言葉を持って導き、働く、真のリーダーです。私たちの歩み、遣わされる、従うということ、宣教ということさえも、そのような幸いな派遣、全ては恵みであることが見えて来るのです。

4、「収穫の主に祈りなさい」

 そのようにイエス様が、遣わす彼らに言った、遣わす言葉が、有名な2節以下の言葉になるでしょう。これはよく2節だけを取り上げられますが16節まで続いている長い言葉になります。2節だけをお読みします。

「そして、彼らに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。

 実りは多いのに、収穫のための働き手は少ないのだとイエス様は言っています。まずイエス様には多くの実りが既に見えているのです。それは尚も働き手が沢山必要なほどに実りがあることがわかるのです。その「実り」は、イエス様が与える救い、罪の赦しと永遠のいのちです。そして人々にその実り、救いを得させるのは、ルカの福音書でも見てきて分る通り、イエス様の名であり、イエス様のことば、福音です。使徒言行録でもこうあります。ペテロとヨハネは、金銀は私にはないが私にあるものをあげようと言って「イエスの名によって歩きなさい」といいました。そして、4章12節では、「イエスの名以外には、いかなる名前も与えられていない」とも言っています。そして使徒達と教会が伝えて行ったのは、まさにイエス・キリストの福音であったのでした。ですから「働き手

というときに、それはそのようにイエス・キリストのみことば、福音を伝える人のことを指していることは分ると思います。それが少ない。今はどこの教団や神学校でも同じような声をききます。しかしその時に、イエス様はそのことに対する答えと導きを与えてくれています。まず第一に、収穫の主が、収穫のために働き手を送ってくださるのだということです。これは大事なことです。今日も見てきました。召しや従うということ、それは人の自信や決心、人のわざではないと見てきました。主がみことばを持って召してくださるのだと。そして今日の所でも、主が、選んでくださり、遣わしてくださると。貫かれています。そしてこの2節でも、主が送ってくださると一貫しています。これは主が召し、主が送ってくださるのです。出エジプトの時のモーセもそうでした。モーセを選び、召したのは誰でもありません。モーセは同胞から殺しのことを問われ逃げてきました。召されたときも、彼は何度も拒みました。しかし主が召し、主のことばによってモーセは導かれ、主がエジプトに送ってくださったのでした。このように主の収穫の働き手も同じです。人のわざではない、人の自信や決心でもない。人が選び、人が募り、人が働き、人が説得し決心させるのではありません。主がなさるのです。何より、みことばをもってです。みことばにこそ力があり、みことばの力で、人は召され、選ばれ、主は人を送ってくださいます。ですから、イエス様の言うことは最もです。「祈りなさい」と。収穫の主に、働き手を送ってくださるように「祈りなさい」なのです。そして人の説得や促しではなく、みことばを伝えることこそ、人が主によって召されるための最善で最高のことであるともいえるでしょう。ぜひ、私たちは「祈りなさい」との進めにある通り、祈っていこうではありませんか。祈りに力がないように思わないで、「祈りなさい」と勧められているのですから、祈りに力があると信じ信頼してぜひ祈って行きましょう。

5、「イエスは裁くためではなく代わりに負い与えるために」

 尚もイエス様のことばは続きます。その遣わされるのは全くのイエス様の恵みであるのですが、しかしその前途は決して易しいものではないこともイエス様は伝えて行きます。3節では「狼の中に子羊を送り出すようなものだ」と。すべての人が受け入れるわけではなく、拒む人、受け入れない人もいるのだと、言うのです。そして16節では、こうもイエス様は言って結んでいます。

「あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾け、あなたがたを拒む者は、わたしを拒むのである。わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒むのである。

16節 

 イエス様が与える平安を受け入れない人、拒む人は必ずいると。そしてその受け入れない、拒むことによる報いの大きさも、イエス様は述べていることを見ることが出来ます。ここから神の裁きはイエスを受け入れるかどうかにあるということと、その神の裁きは確かにあり厳しいものであることを教えられるのです。けれども、皆さん、大事なことですが、イエス様はなぜ来られたとあったでしょうか。ヨハネ3章17節。「裁くためではない」とはっきりと書いています。先週のところ、弟子ヨハネはまさにそのように受け入れない人々に「天から火を降らせて、焼き滅ぼしましょうか」といいました。しかしイエス様は戒められたとあったでしょう。神の裁きは確かに必ずあるでしょう。しかし神がその一人子イエス様を世に与えたのは、その裁き、断罪をイエス様に負わせるためでしょう。私たちの代わりにです。そして事実、イエス様は、イエス様を受け入れない、罵り、十字架につける全ての人々の罪の身代わりとなり、十字架にかかって死ぬでしょう。全ての人に、つまり私たち一人一人に、その罪の赦しを与え、神の前にその十字架のゆえに、罪がないものとするためにです。そしてその後も今も、そのイエス様のゆえに、尚も、福音を教会で語らせ、伝えさせ、そのやがて来るその裁きの時も、尚も神はイエス様のゆえに、忍ばれているではありませんか。神は裁く以上に、この御子イエス様のゆえに、御子イエス様を与える程に、私たちをやはり愛してくださっているのです。

6、「イエス・キリストの恵みと平安にあって遣わされる幸い」

 クリスチャンである私たち自身でさえも、受け入れる受け入れないでいうなら、決して完全ではないことも教えられます。私たちは決して完全ではありません。受け入れられないこと、拒むこともあるのです。そのような時に本当に私たちに救いがないなら、ただこの裁きだけしかないなら、何と絶望的でしょうか。しかし、私たちはそのような時でも、このイエス様こそを知り、イエス様の十字架に立ち返り、イエス様にあって何度でも罪の赦しを受け、イエス様にあって新しくされ歩むことが出来ることはなんと幸いでしょうか。ここでもイエス様は、裁きのことを遣わす72人には説明しても、受け入れない人々にそのような罰や裁きのことを言いなさいとは言っていません。むしろイエス様が伝えさせるのは「平安があるように」と「神の国が近づいた」だけであることが見て分ると思います。私たちは裁きを証しするのではありません。裁き合うお互いでもありません。そうではない。私たちがイエス様から受けているもの、それは本当に不完全で神の裁きの座にあった私たちをイエス様が救ってくださった。イエス様のゆえに何度でも罪の赦しが与えられ、いつでもどんな時でもイエス様にあって平安が与えられる。そのことではないでしょうか。私たちもそのようなイエス様にこそ平安があるという証人として、恵みのうちに遣わされている一人一人なのです。それはイエス様の平安を知らなければ証しはできません。イエス様はも今日も宣言してくださいます。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と(ルカ7章48、50節)。まず私たちがイエス様から平安を受け、平安のうちに遣わされていきましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

歳時記

柘榴・石榴ざくろ

柘榴の花が咲きました。鮮やかな橙色の花です柘榴の花は何色か調べてみましたら「柘榴色」とありました固有色なのですね。万葉時代では  翼酢色 (はねずいろ)と呼ばれていました。かき氷の赤いシロップは本来はグレナデンシロップと言って柘榴の果汁だったそうですね。

万葉集 第4巻657番歌 大伴坂上郎女の歌 「思はじと 言いてしものを はねずいろの うつろいやすき 我が心かも.」(あなたのことは もう思わないようにしようと言いましたが わが心は はねず色のように 移ろいやすくまたあなたのことを思ってしまいます。)

手芸クラブの報告2022年6月22日

6月の手芸クラブは25日に開催しました。梅雨の季節ですが、ちょうどその日は雨が降らず傘を使わないで教会に来ることが出来ました。

今回もコースターの編み物を続けました。前回のように初めにコースターのいろいろなモデルを見て自分の作りたい編み型や色を選びます。前回いらして既に編んだ方たちは今回は違うモデルを選びました。出来上がりの楽しみが増えます。もちろん今回初めて参加された方たちにも出来上がりは楽しみです。皆さん、モデルをよく見ながら一生懸命編み続けていきます。皆さんが選んだモデルや色はみんな異なっていたので、お互いのものを見るのも楽しかったです。おしゃべりしながら楽しく編み続けていくと時間が経つのも忘れてしまいます。手芸クラブと同じ時間帯にチャーチカフェも開きました。

手芸クラブもコーヒータイムに入ることにしました。その週はフィンランドでは夏至祭のお祝いが近づいていたので、フィンランドで夏至祭の時によく歌われる「夏の日、カンガスアッラにて」という曲のピアノ演奏をモニターを通して聴きました。モニターから映し出されるフィンランドの景色を眺めながら演奏を聴き、コーヒーとお菓子パン・プッラを味わいました。チャーチカフェに来られた方もいて、教会の集会スペースは賑やかな雰囲気になりました。コーヒータイムの時に「毎日、神様の御手に守られて」というフィンランドの聖書日課からみ言葉を聞きました。この日の日課の箇所は「フィリピの信徒への手紙」4章6節でした。

手芸クラブはしばらくお休みになります。夏が終わってからまた再開する予定です。案内をホームページにのせますので、どうぞご覧ください。

日本は暑い夏になると思います。皆さま、どうぞ気をつけてお過ごしください。

 

フィンランドの聖書日課

ユハ・ヴァハサルヤ(Juha Vähäsarjaフィンランド聖書学院講師)
「毎日、神の御手に守られて」(Joka päivä Jumalan kämmenellä)2010年

9月13日の日課

フィリピの信徒への手紙4章6節(フィンランド語の聖書からの和訳)
「何事についても心配に身を任せるのではなく、必要なものはいつも神に打ち明けなさい。祈りながら、願い求めながら、そして感謝しながら、そうしなさい。」

私たちは誰も、心配したり案じたりすることがあまりにも多く、心配する能力に長けていると言ってもいいくらいです。もちろん、心配するのは、現実にちゃんとそのための理由があるからなのですが。しかし、心配の重荷に絶えず身を委ねていたら、それが生きる喜びを押し潰し、奪ってしまうことになります。

聖書の神の御言葉は、「何事についても心配に身を任せてはいけない」と言っています。それは、「心配しない人間になれ」という命令と受け取るよりは、「心配するのはわかるが、その必要はないのだ」という励ましに受け取るべきです。どんなことがあっても、神は状況を打開して私たちが前に進めるように助けて下さる、心配するのはわかるが、それに身を任せるのは無駄なことなのだ、と約束してくれているのです。聖書の他の箇所にも記されているように、神は私たちの世話を焼いて下さると約束しておられます。天と地と人間を造り、人間に命と人生を与え、また独り子イエス様をこの世に送られた神がこうだと約束されている以上、この地球上で、これより確実なことは存在しないのです。

だから、私たちは、遠慮しないで心配事の重荷を神に引き渡したり、投げつけたりして構わないのです。願い求め、感謝すること以外にするべき必要なことはありません。私の心配事を神は今回、どのような仕方で解決に導いて下さるのだろうか、しかと見届けてやろうという信頼の気持ちで待っていればよいのです。

2022年6月26日(日)聖霊降臨後第3主日 主日礼拝

主日礼拝説教 2022年6月26日(聖霊降臨後第三主日)

列王記上19章15~16、19~21節
ガラテア5章1、13~25節
ルカ9章51~62節

礼拝をYouTubeで見る

説教題「将来の神の国の一員として、神の国について証ししよう」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 これまでガリラヤ地方を主な活動舞台にしてきたイエス様が、ついに運命的なエルサレム行きを決意し、そこを目指して歩み始める。本日の福音書の箇所の冒頭は、このことを記しています。イエス様は、既に弟子たちに前もって告げ知らせていたように(ルカ9章22節、44節)、エルサレムでどんな運命が待ち受けているか、自分でもよく知っていました。行けば、苦しみを受け殺される、しかも普通の人間が被る死とは異なる、もっと重い死を被ることになる。それを知って向かうのです。しかし、それは、神の人間救済計画の実現のためにしなければならないことでした。まさにそのために、イエス様は、天の父なるみ神のもとからこの世に贈られてきたのですから。

 さて、ガリラヤ地方からエルサレムに行こうとすると、その間にサマリア地方があります。そこに住むサマリア人たちとユダヤ人たちは、歴史的・宗教的な理由からお互いに反目し合っていました。サマリア地方は古くは、ダビデの王国が南北に分裂した後は北王国の中心でした。しかし、北王国は次第に、天地創造の神でありまたイスラエルの民を奴隷の国エジプトから導き出した神から離れ、カナンの地の土着の霊であるバアルの信仰に染まっていきます。この辺の事情は、預言者エリアの孤独な戦いについて列王記上の中に記されています。神から離れた北王国は紀元前700年代にアッシリア帝国に滅ぼされます。国の主だった人たちは占領国に連行され、代わりに異民族が送られてきます。そうして、サマリア地方は宗教的・民族的な純粋さを失っていきます。サマリア人たちは、旧約聖書のモーセ五書は持ち続けましたが、預言書は無視しました。また神に生け贄を捧げる場所としてゲリシムという山を選び、エルサレムの神殿も無視していました。そういうわけで、ユダヤ人たちはサマリア人を毛嫌いし接触を避けていました。ユダヤ人のそういう態度は福音書の随所に出てきます。本日の福音書の箇所で、イエス様一行がサマリアの村に宿と食事の提供を願い出て拒否されますが、その理由として、イエス様がエルサレムを目指して進んでいたからと記されています。サマリア人としては、誤った礼拝場所に巡礼に行く者たちをどうして世話しなければならないのか、ということだったのでしょう。この拒否に怒った弟子たちが、こんな村は神の力で焼き尽くされるべきだといきり立ちました。これに対してイエス様は、そんなことを言ってはいけないとたしなめ、その村はそのままにして、別の村を経由して行きました。

 このサマリア地方での出来事に加えて、本日の福音書の日課では、イエス様に付き従うことについての教えがあります。三人の男の人が登場します。そのうち二人は自ら志願します。一人はイエス様が付き従いなさいと声をかけます。しかし、いずれの場合もイエス様は、付き従うことに二の足を踏ませるような厳しいことを言います。特に、イエス様が自分で付き従いなさいと声をかけた人に対して、その人がまず死んだ父親を埋葬してから来ます、と言ったのに、イエス様は、埋葬は他人に任せて、あなたはただ神の国を言い広めなさい、と命じます。これは、日本のように死んだ人の霊を崇拝する伝統が強いところでは、キリスト教はなんとひどい宗教だという反感を生み出すことになります。このイエス様の教えについて、本説教の後の方で見てみます。

 サマリア地方の出来事は一見すると、イエス様は慈悲深い愛に満ち方であることを言っているように見えます。イエス様につき従うことの教えの方は逆に、彼の弟子になることにとても厳しい条件を課しているように見えます。しかし、そういうイエス様の優しさとか厳しさという理解はまだまだ浅い理解です。このサマリアの出来事と弟子の条件の教えは、一見すると関連性がないみたいですが、実はあります。それを理解するカギは今日の個所に2回出てくる言葉「神の国」です。人間と「神の国」の関係が今日の日課の中で問題になっているとわかると、イエス様は心優しいお方とか厳しいお方とかいうような頼りない理解を突き破って堂々とした理解に入ることができます。

2.「神の国」とはどんな国?

 そのためには、まず「神の国」がどんな国かわからないと話になりません。特に一般的また俗に言う「天国」と大きく違うことがわからないといけません。両者を混同してはいけないのです。俗に言う「天国」は人間が死んだら天使のように空に舞い上がって行くところで、亡くなった方が上からこちらを見下ろしているとか見守っているとかいう所です。ところが、キリスト信仰の「神の国」は全く異なります。聖書では、「神の国」は人間が「行く」ところではありません。そっちの方がこちらに「やって来る」ものです。

 例えば、イザヤ書の終わりの方で(65章17節、66章22節)、今ある天と地が新しい天と地に再創造される日についての預言があります。黙示録21章ではまさにその再創造の日に「神の国」が新しい天と地のもとに降りてくると預言されています。「ヘブライ人への手紙」12章では、今ある天と地と全ての被造物が共に激しく揺さぶられて崩壊していくなかで、ただ一つ揺さぶられずに現われるのが「神の国」であると言っています。黙示録21章はまた「神の国」がどういう国か次のように述べています。そこは「神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」(黙示録21章3‐4節)。神が全ての涙を拭うというのは、痛みの涙だけでなく無念の涙も全て含まれます。「神の国」が現われる天地の大変動の時はまた、最後の審判が行われます。それなので、前の世で被ってしまった不正義は全て最終的に清算されて完全な正義がやっと実現する国です。さらに「神の国」は黙示録19章で盛大な結婚式の披露宴にたとえられます。つまり、この世の労苦がすべて報われて労われる国ということです。

 「神の国」がそういう遠い将来に新しく再創造された天と地のもとにやって来る国となると、誰がそこに迎え入れられるかという問題があります。不正義は入り込む余地がないことから、誰もがということではないことが明らかです。誰が将来到来する「神の国」に迎え入れられるかという問題に取り組んでいるのが聖書です。その問題の解決策として、天地創造の神はひとり子をこの世に贈った、これが聖書の一番伝えたいことです。

 聖書の立場は、人間はそのままの状態では「神の国」に迎え入れられないというものです。ヨハネ3章でイエス様がはっきりそう言っています。どうしてかと言うと、人間には最初に造られた人間の時から神の意志に反しようとする性向、罪を持ってしまっているからです。そのため、人間は神との結びつきを失ってしまい、死ぬ存在になってしまったと創世記に記されています。人間はそのままの状態では神との結びつきを持たないでこの世を生きることになり、この世から去った後も神のもとに戻ることは出来ません。それで神は、人間が再び自分との結びつきをもって生きられるようにしてあげよう、この世から去った後も天地再創造の日に復活を遂げさせて永遠に自分のもとに戻れるようにしてあげよう、そう決めてひとり子を贈られたのでした。そのひとり子イエス様を贈って何をしたかと言うと、神と人間の結びつきを失わせている罪を全てイエス様に背負わせてゴルゴタの十字架の上に運び上げさせて、そこで人間に代わって罪の罰を受けさせたのです。つまり、人間に代わってイエス様を断罪して、この神のひとり子の身代わりの死に免じて人間を赦すという手法を取ったのです。

 そこで今度は人間の方が、十字架の出来事は自分のためになされたとわかって、それでイエス様は自分の救い主だと信じて洗礼を受けると、神から罪の赦しをお恵みのように頂けます。神はまた、一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させて、死を超える永遠の命があることをこの世に示し、そこに至る道を人間に切り開かれました。それで、イエス様を救い主と信じ洗礼を受けて罪の赦しを受け取った者は、その道に置かれて歩み出します。行き先は、天地再創造の復活の日に復活を遂げて父なるみ神のもとに永遠に迎え入れられる地点です。それが「神の国」です。

 それなので、キリスト信仰にあっては、「神の国」は死んでフワフワ上がって行ってそこから下を見下ろす所ではありません。遠い将来にそれが到来する日を目指して進んでいくところです。イエス様が祈りなさいと命じた「主の祈り」の中でも「御国を来たらせたまえ」と祈ります。ここにキリスト信仰とそれ以外の死生観の大きな違いがあります。

 ここで起こって来る疑問は、この世で「神の国」が到来する日を目指しながら歩んでも、その日の前に死んでしまったらどうなるのかということがあります。キリスト信仰にあっては、その日までは安らかに眠っているのです。イエス様もパウロも、キリスト信仰者にとって死は復活の日までの眠りに過ぎず、その日に復活の主であるイエス様が来て起こしてくれると言っています。眠っているから、下を見下ろしたり見守るということもありません。ここにもキリスト信仰の死生観のユニークさがあります。

3.サマリアの人たちは方向転換した

 それでは、福音書の日課に戻りましょう。イエス様は、エルサレムを目指し始めました。それは、受難と十字架の死と死からの復活を全てこなして神の人間救済計画を実現するためでした。それを実現すれば、人間はたとえ罪の汚れを持っていても、イエス様を救い主と信じる信仰のゆえに、神聖な神の国に迎え入れることができるようになります。

 このような全人類史的な意義を持つ任務を負ったイエス様をサマリア人の村が受け入れを拒否しました。憤慨した弟子のヤコブとヨハネは天から火を送って焼き払ってしまったらどうですか、イエス様に聞きます。彼らの言葉づかいは、列王記下の1章で預言者エリアがバアル崇拝に走る国王の使者を天からの火で焼き殺した時の言葉を思い出させます。実際、弟子たちは、この出来事が脳裏にあったのでしょう。しかし、イエス様は、拒否したサマリア人の村はそのままにしておきなさい、と言われる。なぜでしょうか?

 イエス様が心優しい慈愛に満ちた方だからと言うのは、まだ核心を捉えていません。イエス様は、父なるみ神同様、全ての人間が神との結びつきを回復して、その結びつきを持ってこの世を生きられるようにしてあげたい、そしてゴールとして「神の国」に迎え入れてあげたい、と考えていました。それで、もし反対者をいちいち焼き滅ぼしてしまったら、せっかく罪びとが神の国の一員になれるようお膳立てをしに来たのに、それでは受難を受ける意味がなくなってしまいます。マタイ福音書5章45節で、イエス様は、神が悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しいものにも正しくない者にも雨を降らせる、と言っていたことを思い出しましょう。なぜ、イエス様はそのように言ったのでしょうか?神は、悪人が悪行をさせるままにまかせる気前の良い方だということなのでしょうか?いいえ、そうではありません。悪人に対しても、善人同様に太陽を昇らせ、雨を降らせる、というのは、悪人がいつか神に背を向けた生き方から方向転換して神に立ち返る生き方に入って神の国に迎え入れられるようにしようと猶予期間を与えているのです。もし太陽の光も与えず水分も与えないで悪人を滅ぼしてしまったら、方向転換の可能性を与えないことになってしまいます。それだから、悪人の方も、いい気になって、いつまでも方向転換をしないで済ませていいはずがない、と気づかなければならないのす。もし、この世の人生の段階で方向転換がないと、それは神罰を受けないで済むための「罪の赦し」を拒否したことになります。

 それでは、このサマリア人の村はどうだったのでしょうか?猶予期間を与えられて方向転換したでしょうか?それがしたのです!使徒言行録の8章を見て下さい。ステファノが殉教の死を遂げた後、エルサレムにおいてキリスト信仰者に対する大規模な迫害が起きました。多くの信仰者がエルサレムから脱出して、近隣諸国に福音を宣べ伝え始めます。その時、まっさきにキリスト信仰を受け入れた地域がサマリア地方だったのです。あの、エルサレム途上のイエス様を拒否した人たちが、イエス様を救い主として信じる信仰に入ったのです。これで、なぜイエス様が、村を焼き滅ぼすことを認めなかったのかが理解できます。イエス様の考えには、人間が「神の国」に迎え入れられることが全てに優先されるということがあったのです。そのことが受け入れを拒否したサマリア人にも適用されたのです。イエス様は、まさにこれから、人間が神との結びつきを回復させて、「神の国」に迎え入れられるようにするお膳立てをしに行くところだったのです。

4.将来の神の国の一員として、神の国について証ししよう

 次に、イエス様に付き従うことも、神の国に迎え入れられることに関係することを見てみましょう。

 三人の男の人が登場します。最初の人は、イエス様に付き従うことを志願します。それに対するイエス様の答えは、付き従いの生活はそんなに甘くはない、というものです。エルサレムまで一緒に上っていく途上で、いつもマリアやマルタの二姉妹のような支持者から食事と床を提供される保証はない、場合によっては食べるものもなく、雨風にさらされて寝ることにもなる、そのようにしてエルサレムまで行って、イエス様の十字架と復活につきあって目撃者となったら、あとはどうなるのか?復活後のイエス様は天に上げられてしまう。そうなると、もう付き従うイエス様はいらっしゃいません。イエス様につき従うこともそれで終わってしまうのか?実はイエス様の発言は、昇天以後のことも視野に入っていたのです。一度、神の国に迎え入れられる道に置かれてそれを歩み出したら、今度は他の人もそこに迎え入れられるように働きかけをしなければならないのです。なぜなら、全ての人が神との結びつきを回復して生きられるようになることは神の御心だからです。そうするとこの働きも、イエス様と一緒にエルサレムに上っていくことと同じように、安逸の保証がないものになります。いつも支持者や賛同者に囲まれるとは限らず、いつも寝食が満足に得られる保証もないのです。

 このことが、二番目の男の人のところで明確に出てきます。父親の埋葬には行かず、神の国を言い広めよ。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」と言うのは、死体を死体のところにほおっておけというような、死体遺棄ではありません。「死んでいる者たち」とは、神との結びつきを回復していない人たちを指します。永遠の命に至る道を歩んでおらず、この世から死んだら、復活を果たせず永遠の滅びに陥ってしまう人、これを「死んでいる者たち」と言っているのです。父親の埋葬はそのような人たちに任せて、あなたのなすべきことは、「神の国」について教え伝えることだとイエス様は言うのです。つまり、人々が「神の国」に迎え入れられるように働きなさいということです。人々が神との結びつきを持って生きられるように助けなさい、永遠の命に至る道に入って歩めるようにしなさい、つまり、「死んでいる者たち」をそのように生きる者にしなさいということです。

 こうして見ると、ここのイエス様の教えは、キリスト信仰者は親の葬儀をするな、軽んじろ、ということではないことがわかります。葬儀をするにしても、人々を「神の国」に迎え入れられるように導きなさい、ということです。その意味でキリスト教会の葬儀はこの任務に取り組んでいます。故人にゆかりのある人たちが集まって、その方の死を悲しみ、遺族の悲しみと個人の懐かしい思い出を心を一つにして分かち合い、また遺族に慰めの言葉をかけて励まし合う、ここまではキリスト教に限らず他の宗教も同じでしょう。しかし、この先は大きく異なります。先ほども申しましたように、キリスト信仰では、死は復活の日までの安らかな眠りに過ぎず、復活の日に復活を遂げられたら、今度は懐かしい人との再会があるという希望があります。復活の体と永遠の命を持つ者同士が合いまみえるという希望です。キリスト教の葬儀では、悲しみの中でもこの再会の希望が確認されます。そのようにして、参列する人たちが「神の国」に迎え入れられることを再確認し合い、参列者がキリスト信仰者でない場合は、「神の国」がどのようなものであるかを伝える伝道的な意味を持つ、これがキリスト教の葬儀です。「あなたは行って、神の国を言い広めなさい」という主の命令は、そこでも守られているのです。

 ここで日本のキリスト信仰者にとって重い課題となるのは、参列する葬儀がキリスト教式でなかったらどうすべきか、ということです。これも、「あなたは行って、神の国を言い広めなさい」が原則になります。つまり、まだ「神の国」に向かう道を歩んでいない人たちに、自分がまさにその道を歩んでいることを証し、さらにその人たちをその道に導いていくことができれば、この原則に沿ったものとなります。その時、死んだ者の葬りを死んだ者に任せるくらいに「神の国」を言い広めることになっています。しかし、証しや導きは具体的にはどういう形をとるでしょうか?本説教では、こうしなさい、ああしなさい、ということは言わず、皆さんお一人お一人の心に問題提起をすることにとどめておくことにします。

 さて、三番目の男の人の場合です。「鋤に手をかけて後ろを振り返る者は、神の国にふさわしくない」と主は言われました。ここで早合点してはいけないのは、イエス様は家族を見捨てろと言っているのではないということです。イエス様の原則からすれば、家族ももちろん「神の国」に迎え入れられるように導く働きかけの対象です。その意味で、家族のもとには留まれるのです。この三番目の男の人のところで問題になっていることは、家族に対して「神の国」に向かう道に導く働きかけをしないで家族のもとに留まると、自分自身が道を踏み外してしまうリスクがあるということです。家族の絆というのはそれ位強力なものです。しかし、家族の人たちが「神の国」に迎え入れられるように働きかけをすれば、絆は保っていても「神の国」に相応しいのです。そうは言っても、家族の人たちがイエス様に関心があるとか、救い主として受け入れる準備があるとか、そういう理想的な場合はなかなかないでしょう。イエス・キリストの名を口にしただけで嫌な顔をされてしまうのが大半なのではないか?それなら、まず祈ることから始めます。私たちの愛する人たちが私たちと一緒に「神の国」に向かう道を歩めるように、一緒に復活を遂げて将来そこに迎え入れられるように父なるみ神に知恵と力と勇気をお願いします。

 兄弟姉妹の皆さん、以上からおわかりのように、イエス様の厳しい教え、葬式に出るなとか家族を捨てろと言っているように見える教えは、そうすることが目的なのではなく、「神の国」を証しし言い広めることが真の目的なのです。そのために「神の国」がどういう国かわからないと話になりません。今日の説教でもそれがわかるようにお話しした次第です。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

歳時記

6月の山

5月は春山でまだ残雪が豊富で雪山の支度をしなければなりません。 7月は夏山、登山者が大勢押しかけてきます。従って6月の山こそ静かな山旅が楽しめます、登山口にも「6月からマムシに注意」の注意書きが現われ蛇たちも6月から一斉に巣穴から出てくるようです。時間的にフリーな状態の頃天気予報を睨みながらどの山に登ろうかと地図を眺めていました。辿り着いた稜線には雪解け直後の草地が広がっています。残雪が溶けながら斜面を下って行きその後から雪の重みで押さえつけられていた草の芽が一斉に立ち上がり草へと変わって行きます。仰向けに寝転ぶと雪で覆われていた大地の冷気が背中をヒンヤリとさせ登山で火照った身体を心地良くさせてくれます。雪解けの細流が至る所から流れ出し乾いた喉を潤してくれます。6月は山小屋も幕営地にも訪れる登山者もいなく貸し切り状態を楽しめました。久しぶりに南アルプスの山々を眺めながら去りし日々を回想していました。

 

6月22日19時45分 水曜聖句と祈りのひと時「白樺の十字架の下で」吉村博明 宣教師、ガラテヤの信徒への手紙3章 23ー27節

水曜聖句と祈りのひと時
「白樺の十字架の下で」

Youtubeで見る 6月22日19時45分~

聖句 ガラテヤの信徒への手紙3章 23ー27節
「信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。しかし、信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません。あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。」

スオミ教会 手芸クラブ&チャーチ・カフェのご案内

6月の手芸クラブは22日(水)10時~13時の開催です。

「かぎ針のコースター」を編みます。

かぎ針のコースターは早く簡単に作れる手芸の一つです。色は何色でもよいので、残り毛糸の良い使い方にもなります。可愛い、きれいな色のコースターはテーブルの飾り物にもなります。

おしゃべりしながら楽しく作りましょう!

材料費 500円

人数制限がありますので、ご注意ください。

お子さん連れの参加も歓迎です!

お問い合わせ、お申込み
Tel 03⁻6233‐7109

 

注目!Huomio! Attention!
手芸クラブの開催中、教会の集会スペースにてチャーチ・カフェも開いています。

コーヒーやプッラ(フィンランド風菓子パン)を味わいながら、モニターでフィンランドの讃美歌や風景に触れて、心休まるひと時をお過ごしください。

手芸クラブに参加されない方でもご自由にお好きな時間帯にお立ち寄り下さい。

ご希望あれば礼拝スペースにて一人静かにお祈りすることもできます。
(コーヒー・プッラ準備費として300円ご協力お願いします。)

 

 

日本福音ルーテルスオミ・キリスト教会
東京都新宿区早稲田鶴巻町511-4―106

2022年6月19日(日)聖霊降臨後第ニ主日 主日礼拝

主日礼拝説教 2022年6月19日(聖霊降臨後第二主日)

イザヤ65章1~9節

ガラテア3章23~29節

ルカ8章26~39節

説教題「自分の意志は弱くても聖書と聖礼典を用いれば神の力が働く」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 本日の福音書の日課にある出来事は恐ろしい話です。悪霊にとりつかれた男が暴力的に振る舞い、どうにも押さえつけられない。自分自身を傷つけるようなことをし、居場所は墓場であった。墓場と言うと、十字架や墓石が立ち並び木は立ち枯れというようなスリラー映画の光景を思い浮かべるかもしれませんが、岩にくり抜かれた墓穴です。家に住まずに墓場に住んでいたというのは、墓穴で夜露を忍んでいたということです。イエス様が来て、その男の人から悪霊を追い出します。悪霊は自分の名をレギオンと言いますが、それはローマ帝国の軍隊の6,000人からなる部隊を意味します。つまり沢山の悪霊が男の人にとりついていたのです。イエス様がそれらを男の人から追い出すと、今度は豚の群れに入っていき、豚は気が狂ったようになって崖に向かって突進、群れ全部は崖からガリラヤ湖に飛び込んでみな溺れ死んでしまいました。

 この出来事はイエス様が悪霊を追い出す力があることを示す出来事の一つですが、だからと言って、イエス様はすごいですね、で終わる話ではありません。じゃ、何で終わる話かと言うと、今日の説教題です。人間の意思が弱くても、聖書と聖礼典(洗礼と聖餐)を正しく用いれば、神の大きな力が働くということです。ちょっとピンとこないかもしれませんが、これからの説き明かしでわかります。

2.イエス様と使徒たちに並ぶものとしての聖書と聖礼典

 出来事の説き明かしに入る前に、悪霊の追い出しということについて少し考えてみましょう。悪霊がとりついて人間が異常な行動を取るという話は聖書にもよく出てくるし、聖書の外の世界にも沢山あります。異常行動をやめさせるために悪霊の追い出しということがあるのですが、それは現代社会には相応しくないものと考えられます。現代では、異常な行動の解決には医学的、特に精神科的ないし心理学的な解決がはかられるからです。原因を悪霊に求めて解決を図ろうとするのは前近代的と考えられます。しかしながら、医学的に解決しようとしても思うように解決できない時は、原因を霊的なものと考えてそこから解決を求めようとする人たちがいるのも事実です。

 イエス様が悪霊追い出しをやったのは、まだ医学が発達していない古代だからそうしたのであり、それは時代遅れなのだということか、それとも、救世主が行ったことに時代遅れなどないということか、どっちでしょうか?

 ここで一つ注意すべきことは、悪霊追い出しを行ったのはイエス様とイエス様が権限を与えた弟子たちです。イエス様が天に上げられ、弟子たちもこの世を去った後、誰がその権限を持つのでしょうか?人によっては、自分はイエス様から権限を与えられたと言って、悪霊追い出しをする人がいるかもしれません。しかし、イエス様から権限を与えられたことがどうやってわかるでしょうか?最初の弟子たちの場合は、わかるも何も目の前にいるイエス様から直接与えられました。イエス様から直接与えられなくなったら、どうやってわかるのか?きっと結果でわかるということになるのでしょう。つまり、悪霊よ、出て行け、と言ったらその通りになってとりつかれた人は普通になった、だから自分はイエス様から権限を与えられているのだ、と。しかし、それで本当に大丈夫でしょうか?

 私はこの問題では慎重な立場を取る者なので次のように考えます。確かにイエス様と弟子たちは悪霊の追い出しをしましたが、彼らが活動した時代はまだ新約聖書が存在しない時代でした。新約聖書の代わりに何があったかと言うと、生身のイエス様がいて、イエス様が天に上げられた後は生身の弟子たちがいました。弟子たちは目撃者としてイエス様の教えや行いや出来事を証言しました。それが口伝えで伝えられて、やがて書き留められていきました。またパウロを含む弟子たちは証言だけでなくキリスト信仰について教えることもしし、各地の教会に教えの手紙を書きました。こうして、まだ新約聖書は出来ていませんが、弟子たちの証言と信仰の教えがあり、洗礼と聖餐の聖礼典もありました。

 弟子たちがこの世を去った後に証言や教えの手紙がまとめられて新約聖書ができました。最初の弟子たちは、ひょっとしたらイエス様の代理人として自分たちの弟子に奇跡の業を行う権限を与えたかもしれません。しかし、その詳細はわかりません。いずれにしても、イエス様と直接の弟子たちがこの世からいなくなった後は、彼らに代わるものとして新約聖書と聖礼典が残りました。それで私は、異常な行動も含めた人間のいろんな問題の解決にあたっては、イエス様と最初の弟子たちに並ぶものとして聖書と聖礼典があるのだから、それらを用いることが大事だと考えます。聖書と聖礼典を用いることの重要性についてはまた後でお話しします。

3.出来事の歴史的信ぴょう性について

 それでは出来事の説き明かしに入りましょう。まず書かれてあることをもとに状況を詳しく把握しましょう。そうすると、この出来事が作り話でなく本当の出来事であることがわかってきます。

 これと同じ出来事は、マタイ8章とマルコ5章にも記されています。ただし、起きた場所はルカとマルコではゲラサの町がある地域ですが、マタイではガダラの町がある地域です。聖書の後ろにある地図を見ると、ガダラはガリラヤ湖の南東、ゲラサはもっと南東の内陸部でとてもガリラヤ湖沿岸とは言えません。豚の群れが飛び込むような崖はガリラヤ湖の南側の距離的にはガダラの町に近い所にあります。ゲラサと書いたマルコとルカは間違えたのでしょうか?

 この問題は、福音書がいつ頃出来上がったかということを考えると解決します。4つの福音書は、どれも出来上がったのは早くて西暦70年というのが聖書学会の定説になっています。つまり、イエス様の活動時期から一世代二世代後のことです。イエス様が活動した時代は問題の崖のある湖岸は行政的にゲラサに属していました。マタイ福音書が出来上がった頃はガダラに属していました。それなのでルカとマルコがこの出来事が起きた場所をゲラサと言うのは、「あの時あの崖はゲラサに属していたが」という意味です。マタイがガダラと言うのは「あの崖は今はガダラに属しているが」という意味です。いずれにしても同じ崖を意味しているのです。

 新共同訳では「ゲラサ人」、「ガダラ人」とありますが、正確にはゲラサという町の住民、ガダラという町の住民です。ゲラサ人、ガダラ人という民族がいたのではありません。ヘレニズム時代からローマ帝国時代にかけて二つの町があるデカポリス地方はいろんな民族が混在していたと考えられます。放牧されていたのが羊ではなく、ユダヤ民族にとって汚れた動物である豚だったことから、ユダヤ民族以外の異民族が多数派だったと考えられます。それでは、悪霊にとりつかれた男の人も異邦人だったのでしょうか?それは本日の説教のテーマに関わる大事な問題です。これは後ほどわかります。

 さて三つの福音書の地名の相違の問題は解決しましたが、もう一つ大きな違いがあります。それはマルコとルカでは悪霊にとりつかれた男の人は一人なのに、マタイでは二人います。これはどういうことでしょうか?どっちかが間違っているのでしょうか?これは、先ほども申しましたように、福音書が書かれた時期がイエス様の昇天から一世代二世代後だったことが影響しています。マルコとルカは直接の目撃者ではないので、福音書を書く時はいろんな情報源から情報を得て書きました。そのことはルカ福音書1章ではっきり言われています。マタイ福音書は、言い伝えによると、12弟子の一人のマタイの記録が土台にありますが、それ以外にも他の情報源の情報も加えられています。もしゲラサの出来事がマタイ自身が目撃したことであれば、男の人は本当に二人だったことになります。もし別の情報源に由来するものであれば、その情報源が二人と言っていたことになります。マルコとルカの情報源は一人と言っていたことになります。どっちが正しいのでしょうか?

 一人か二人かの確定は難しいですが、それでも確実に言えることがあります。それは、出来事が言い伝えられていく過程で情報が分かれてしまい、男の人の数が情報経路Aでは一人、情報経路Bでは二人になってしまったということです。それでも大事なことは、大元には本当に起きた出来事があって、それが広範な地域に伝えられていく過程で違いが生じた、しかし、共通点があることが出来事の信ぴょう性を示しているということです。共通点とは、イエス様がガリラヤ湖の対岸に行って悪霊にとりつかれている人を助け、追い出された悪霊は豚の群れに入って豚は崖に向かって突進して湖に落ちておぼれ死んでしまったということです。これらはマルコ、マタイ、ルカに共通してあります。これは、本当に起こったことが出発点にあって、それが言い伝えられていくうちに付け足しがあったり省略があったりして異なってくるという、福音書の中でよく見られることです。イエス様の復活の出来事の記述はいい例です。

4.悪霊にとりつかれた男の人の背景

 今日は出来事の記述はルカのバージョンなので、私たちもルカの視点で出来事に迫ってみましょう。ここで、この男の人はユダヤ人か異邦人かという問題を見てみます。豚の放牧の他にも、町の人たちの多数派が異邦人と考えられることがあります。それは、この奇跡を見て町の人たちはイエス様に退去するように言ったことです。ガリラヤ地方かユダヤ地方だったら、これだけの奇跡を見せられたら、預言者の到来だとか、果てはメシアの到来とか大変な騒ぎになって、どうぞ滞在して下さいと言われたでしょう。ところが、町の人たちは、あんな凶暴な悪霊を追い出せるのはもっと恐ろしい霊が背後に控えているからだと恐れたのです。旧約聖書のメシア期待、エリアの再来の期待を持っていないことを示しています。

 そこで問題の男の人も異邦人かというと、そうではないのです。異邦人が多数派を占める地域の中で少数派として暮らすユダヤ人と考えられます。どうしてかと言うと、イエス様はマタイ10章6節から明らかなように活動の焦点をイスラエルの民に置いていたからでした。それで、旧約聖書を受け継ぐ民を相手に天地創造の神とその意思について正確に教え、特に宗教エリートの誤りを正し、来るべき復活の日に到来する神の国について教えたのです。この神の国への迎え入れをユダヤ民族だけでなく全ての民族に及ぼすためにイエス様は十字架の死と死からの復活を遂げられました。しかし、これはまだ後のことです。エルサレムに入られる前のイエス様の活動はユダヤ民族を相手にすることが中心でした。イエス様がローマ帝国軍の百人隊長の僕を癒したり、シリア・フェニキア人の女性の娘を癒してあげたことは例外的なこととして描かれています。悪霊にとりつかれた男の人はそういう異邦人がどうのこうのという問題はなく、ストレートにイエス様の活動の対象になっているのでユダヤ人と言えます。

 悪霊を追い出してもらった男の人は、イエス様の弟子たちの一行に加えてくれるようお願いします。しかし、イエス様は自分の家に帰って神がなしたことを伝えよと命じます。イエス様の命令は、ユダヤ民族に属する家の者たちに、旧約聖書に預言されたことが実現し始めていることを伝えよという命令でした。やがて十字架と復活の出来事が伝わることになれば、やっぱりあのお方だった、旧約の預言は本当だった、と確信することが出来たでしょう。ところで男の人は家の者どころか、イエス様を拒否したゲラサ/ガダラの人々にも伝えたのです。これは、後々の福音伝道の良い下準備になりました。

5.聖書と聖礼典を用いると神の力が働く

 ここから聖書と聖礼典の用い方の話に入ります。男の人が癒されるプロセスを見ることが大事です。注目すべきは、男の人は自分からイエス様のところに出向いて行ったということです。悪霊が引っ張って連れて行ったと思われるかもしれませんが、それはあり得ません。なぜなら悪霊はイエス様のことを自分を破滅させる力ある方とわかっていて恐れているので、自分から進んで彼のもとに行こうとはしないからです。それなのに男の人が行ったというのはどういうことでしょうか?ギリシャ語原文の書き方から、舟から岸に上がったイエス様のところに男の人が自ら出向いて行ったことが明らかです。悪霊にあんなにいいように振り回されていたのに、男の人はどのようにしてイエス様の前に行くことができたのでしょうか?

 それは、悪霊にとりつかれてどんなに振り回されても、イエス様に会うという意志があれば、悪霊はそれを妨げられない位の力がイエス様から働いてくるということです。男の人がイエス様の到着をどうやって知ったかはわかりません。たまたま岸辺近くにいたところを舟が着いて、誰かが、あれは今やガリラヤ全土で旧約聖書の預言者の再来との名声を博しているナザレのイエスだ、と言ったのを聞いたかもしれません。または、イエス様の舟が近づいてきて、悪霊の動揺を男の人は感じ取ったのかもしれません。悪霊に動揺をもたらす方向、つまりイエス様の方を目指していくほど悪霊の動揺は大きくなり、悪霊は男の人が行くことを阻止できない、それでますますイエス様の方に向かって行けたということかもしれません。いずれにしても明白なことは、どんなに悪霊に振り回されても、一旦イエス様のもとに行くという悪霊が嫌がることをする意志さえ持てれば、あとは邪魔されることはなく、あれよあれよとそのまま行けるということです。それ位、神の力が働くということです。

 さあ、男の人はイエス様の前に立ちました。原文から出来事の流れが次のようであることがわかります。イエス様は自分の前に立つ男の人を見るや、彼が長年、悪霊にずたずたにされ、鎖や足かせを付けられても、すぐ破って荒野に引っ張って行かれてしまうことがわかった、それで彼を助けてあげようと悪霊の追い出しにかかった。そこで悪霊はパニックに陥り、地獄送り(αβυσσον地獄行きの待合室のようなところか)だけは勘弁して下さいと懇願する始末。ただし行き先は地獄ではなくて放牧中の豚に入ることをお許し下さいとお願いする。どうして悪霊は豚に行きたいかと言うと、こういうことです。悪霊が人間にとりついても人間が助かろうとする意志を持てば、たとえそれがどんなに小さな意志でも、それがイエス様と結びついたら最後、悪霊はもう何もなしえない位の大きな意志になることが明らかになりました。悪霊としても、もう人間にとりついても無駄だ、イエス様が現れた以上は同じことの繰り返しになると観念したのでしょう。それで、豚ならばイエス様に結びつけるような意志は持たないだろう、とりついたらそのまま自己破壊にまっしぐらだろう、やりやすい相手だと思ったのでしょう。イエス様は悪霊に豚にとりつくことを許可しましたが、何が起こるかお見通しだったでしょう。案の定、豚は本当に自己破壊に突き進んでしまいました。悪霊はその道連れとなってしまいました。

 この出来事が私たちに教える大事なことは、この男の人のように自己破壊の状態にあっても、そこから助かろうとする意志がどんなに小さくても一応あって、それでイエス様のもとに行こうとしたら、あとは邪魔されることなく行けるようになる位に神の力が働くということです。自分の内なる意志は弱くて自分を助ける力がなくても、イエス様の方を向けば自分の外にある神の力が代わりに働いてくれて主のもとに行けます。私たちの場合は、たとえ悪霊追い出しの奇跡をするイエス様や弟子たちが目の前にいなくとも、聖書を繙けばイエス様が十字架と復活の業を成し遂げられたことが証言されています。そこに記されている通りにイエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ、イエス様が十字架で果たした私たち人間の罪の償いが私たちに効力を発して私たちは神から罪を赦された者と見なされ、天地創造の神と結びつきを持って生き始めます。しかも、私たちはイエス様の復活が切り開いた永遠の命に至る道に置かれて、それを神との結びつきを持って歩み始めます。それなので悪霊の方が、信仰と洗礼を持つ者に対してパニック状態になるのです。ちょうどイエス様の前で悪霊がパニック状態になっているのと同じです。

 悪霊がパニック状態に陥った後は何が起こるのか?場合によっては、ゲラサの男の人のように即、問題の解決が得られることもあります。即でない場合でも、神が良かれと考える仕方と時間で、良かれと考える人を送って解決を与えます。それは必ずしも、自分が望む仕方、時間、助け人でないこともあります。しかし、イエス様を救い主と信じる信仰に留まる限り、神は必ず解決を与えて下さいます。

 最後に、洗礼を受けて罪の償いが効力を持ったと言っても、私たちが肉の体を持って生きる以上はまだ罪は内側に残っています。それで罪の自覚と赦しの願いと赦しの宣言は繰り返されます。実はこの繰り返しこそが、内なる罪をイエス様と共に圧し潰していくことになるのですが、それでも時として、自分は本当に罪から解放されているのだろうか疑ったり心配になったりします。しかし、だからと言って、受けた洗礼には意味がなかったとか、もう一度受ける必要があるなどという考えは無用です。それは洗礼の意味を見失う危険な考えです。本日の使徒書の日課ガラテア3章27節でパウロが言うように洗礼を受けてキリストに結ばれた者はキリストを衣のように着せられたのです。一度着せられたら自分で手放さない限り、神が着続けさせて下さいます。聖餐式はまさに洗礼で着せられた衣がちゃんと着せられたままであることを確認する儀式です。神に対しても自分に対しても確認します。また、詩篇23篇5節で言われるように、敵に対しても確認します。敵は聖餐を受ける者に対して手出しできず歯ぎしりするしかないのです。

 兄弟姉妹の皆さん、イエス様や弟子たちが私たちの目の前で悪霊の追い出しをしてくれなくても、私たちには聖書と聖礼典があります。それらを用いれば同じ力を受けていることがわかるはずです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

 

 

6月15日19時45分 水曜聖句と祈りのひと時「白樺の十字架の下で」吉村博明 宣教師、ローマの信徒への手紙5章 1ー5節

水曜聖句と祈りのひと時
「白樺の十字架の下で」

Youtubeで見る 6月15日19時45分~

聖句 ローマの信徒への手紙5章 1ー5節
「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」