2025年6月15日(日)三位一体主日 礼拝 説教 木村長政 名誉牧師(日本福音ルーテル教会)

 

私たちの父なる神と、主イエス・キリストから恵みと平安があなた方とあるように。 アーメン                  2025、6月15日(日)

聖書:ヨハネ福音書161215

題:「御霊の導き」

ヨハネ福音書16章ではイエス様は弟子たちに5節以下のところでこう告げておられます。「今、私は私をお遣わしになった方のもとへ行こうとしている。」この事を告げるとあなた方の心は悲しみで満たされているだろう。しかし、私が去って行くのはあなた方のためになる。私が去って行かなければ弁護者はあなた方のところに来ないからである。弁護者と訳してありますが、真理の御霊とも言えます。わかり易く言えば助け主です。もし、私が行けばそれをあなた方に遣わそう。とこう話されて、イエス様はやがて父なる神の身許に去って行かれる時にイエス様の代わりに助け主として御霊が来てくださる。その御霊の働きについて8節から語られてゆきます。そうして、いよいよ今日の聖書1612節になります。

12節「言っておきたい事はまだ沢山あるが、いまあなた方には理解できない。しかし、その方、即ち真理の御霊が来るとあなた方を導いて真理を悉く悟らせる。」

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此処からはイエス様が弟子たちに心に沿って丁寧に言っておられます。私はいつまでも復活の姿でお前達といるわけにはいかない。間もなく天の父のもとへと帰って行かなければならない。そうすると弟子たちだけでこれから全世界へとこれまでイエス様が教えられた事を広めて行かねばならない。そこで私の代わりに真理の御霊をあなた方のところへ来させよう。まだまだお前たちに言っておきたい事は沢山あるが、今はあなた方には理解できない。私の代わりに来る真理の御霊が助け手となって真理にの事如くを悟らせてくれる。口語訳の方では此処のところを「あらゆる真理に導いてくれるであろう」となっています。「あらゆる真理に導く」とはどう意味であろう、という問題で議論されたのであります。ある人々の考えでは文字通りどんな文化や学問、あらゆる科学やあらゆる人間の領域の分野に渡って真理に導いてくれるのだ。そうすると御霊によって導かれたたクリスチャンはあらゆる分野に渡ってその真理へと導かれ世の中で偉い者になれるはずだ・・となる。いや、そうではない。此処で「あらゆる」と言うのは前後の文脈から見て、ここで御霊が遣わされて来るのは、あくまでイエス・キリストの罪の購いをなして下さった業に基づいて来るところの救いの助けの事を語っているのだから「あらゆる真理」とは言うまでもなく救いに関わる真理へと導いてくれる、キリスト的なあらゆる真理の事である。こちらの方が大方の考えの用であります。

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次に1613節の終わりの言葉で、イエス様は「来るべき事をあなた方に知らせるであろう」と言われました。御霊が知らせてくれる「来るべき事」「これから起こる」というのはどういう事でしょう。いろいろ意見の違いもありますが、ある人々の考えは教会に聖霊が降ってこの御霊が預言者たちを霊感して未来の出来事を預言させる。例えば使徒言行録1128節にはアンティオキア教会の預言者アガボという者が世界中に大飢饉が起こるだろう、と御霊によって預言したところ果たしてそれがクラウディウス帝の時に起こった、とあります。そのように旧約聖書の預言者のように新約時代の教会にも預言者が御霊によって立てられ、いろいろ預言した、この事を言っているのではないかと考える人々もあった。或いはまた、此処で言われた「来るべき事」と言うのはユダヤの言葉で「来るべき者」と言えばメシヤのことを言っていた。そのように「来るべき事」とは起こり来る全ての事を言うのではなくメシヤの現れる終末の事を指すのである、と考える人々もあった。いや、そうではないと第三は「来るべき事」とは今イエス様が語っていらっしゃる最後の晩餐という時点から考えてこれから起ころうとしている事、即ちご自分の十字架の死と蘇えりと父のもとに昇天される…そういうごく目の前に迫った事を言うのであると考える。この考えが一番良いのではないかと言われています。共同訳で書かれている「これから起こる事を聖霊があなた方に告げるからである。」という言葉と合います。だから、此処で約束されています御霊の導きは結局あのイエス様の十字架の死と蘇えり、という歴史的な出来事の啓示の意味を深く理解させて行く導きのことであります。14節に「御霊は私に栄光を与える。私のものを受けてあなた方に告げるからである。」このようにイエス様が仰るように、あくまでも此処の聖霊の導きはイエス・キリストに栄光あらしめる働きに他なりません。イエス様の身にこれから起こる事、十字架の死と蘇えり、そして父のもとに昇天されるという、この一連の起こり来る全ての事を弟子たちは想像だに出来ないし、とても理解出来ない事であったでしょう。その全てを聖霊だけが目に見えない形で弟子たちの中に導いて行ける、啓示の働きであります。この聖霊によって働く啓示の事をある聖書学者は次のように表現しています。聖霊である御霊の偉大な働きは神の真理を人々にもたらすことである。「神の真理をもたらす」ことを現すのに一つの特別な名前がつけられている、それは「啓示」と呼ばれている。新約聖書の中でこの箇所ほど啓示の原則と呼ばれるものを良く示している箇所は無いのである。それで啓示の特徴としては。

第一に啓示は漸進的な過程であらねばならない。つまり、一つ一つの順序を追って進まねばらない、ということです。イエス様は何時も父なる神と相談し、祈って行かれた、だから父なる神のものはイエス様のもの、多くのことを知っておられたが、それを弟子たちに一度に教えるわけには行かなかった。彼らはそれを一度に把握する事が出来なかったのです。ですから相手が理解できるだけしか教える事は出来ない。どんな啓示もそれを受け入れる人間の能力に合ったものでなければ教えられない。子どもに数学を教えるのにいきなり多項式とか因数分解など教えない、その子どもの能力に合わせ一つ一つ順序を踏んで進むことです。

  • 人間に対する神の啓示も同様であります。神が人間に教える事が出来るものは人間が学び得るもの、学ぶにふさわしいものです。
  • 聖霊が神に代わって順序を踏んで導いてくれる、と言うものであります。

第二に神の啓示には終わりが無い、と言うことです。神の真理を人々にもたらす啓示には何時の時代でも何処の場所であっても聖霊として働いてゆく終わりの無い働きであります。神の啓示は歴史のある時点で止められたのではない。神の御霊は常に活動している。神は常にご自分を啓示しておられる。明らかに示しておられる神の最高の啓示はイエス・キリストにおいてもたらされたものです。イエス・キリストは聖書の中の一人物ではない、今も生きて働いて下さるお方です。今ひとつの啓示の原則についてです。啓示されるものは神から来る、と言うことです。神は真理の所有者であると共に真理を与える方、真理は人間の発見物ではない。それは神の賜物であります。啓示は書物や信条や印刷された文字を通して私たちに顕されるものではない。

  • 啓示は生ける人間を通して私たちに顕されるものです。そして私たちは主なるイエス様を信じ、全てを主に委ねてイエス様をより深く知れば知るほど益々イエス様は私たちにより近く語ってくださるようになるのです。

イエス様によって顕された啓示を受けるためには、私たちはイエス様が主であることを受け入れなければならない。私たちはどうしても自分が主であるのではないでしょうか。主キリストへの明け渡しとキリストを知ることが同心歩調で進むこと、そこに神がその啓示を顕すことが出来るのです。

人知ではとうてい測り知ることが出来ない神の平安が、あなた方の心と思いを

キリスト・イエスにあって守るように。  アーメン

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