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スオミ教会・家庭料理クラブの報告

3月の料理クラブは15日の今にも雨が降りそうな土曜日の開催となりました。 今回はツナ&ベジタブル・ピーラッカを作りました。

料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。最初にピーラッカ生地を作って冷蔵庫に入れて冷やします。次に中身の準備。みんなで玉ねぎ、パプリカを一生懸命刻みます。色とりどりの野菜をフライパンに入れて炒めると野菜の美味しそうな香りが広がります。皆さん、どんなピーラッカになるか楽しみ。炒めた野菜を冷ましている間にトッピングの準備をします。材料を測ってボールに入れて混ぜると出来上がります。そして、パイ皿に生地を伸ばしてその上に油を切ったツナと炒め野菜を載せます。

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その上にトッピングを流し込んで最後にチーズをかけてオーブンに入れます。

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ピーラッカが焼けている間、皆で楽しそうにおしゃべりしながらグリーン・サラダの準備とテーブルのセッティングをします。オーブンから美味しそうな香りが広がり、皆さん興味深そうに順番にオーブンの中を覗いていました。

ツナ&ベジタブル・ピーラッカが焼き上がりました!皆さん席に着いて出来たてアツアツのピーラッカを切ってお皿にのせてサラダと一緒に味わいました。たちまち、テーブルのあちこちから「美味しい!」と言う声があがりました。「こんな材料でこんなに美味しいピーラッカができるなんて」という驚きの声も聞こえました。ピーラッカを頂いた後で、フィンランドてよく食べられる魚と聖書のイエス様の弟子になった漁師についてのお話を聴きました。

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今回の料理クラブも無事に終えることができて天の神様に感謝します。次回は4月の12日に予定しています。詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。

 

料理クラブのお話2025年3月15日

pai今日皆さんと一緒に作ったツナ&ベジタブル・ピーラッカは簡単に作れるピーラッカの一つです。このようなものはフィンランドではパーティーやお祝いの時、夜の軽食としても出されます。ツナはマイルドな味わいでフィンランドではパイ、ピザ、サラダなどに使われます。保存食なので、使い方は簡単です。フィンランドでは魚の種類はそんなに多くないので、ツナをよく料理に使います。

フィンランドではどんな魚がよく食べられるでしょうか。日本ではお店で売っている魚の種類は多いですが、フィンランドの普通のお店で売っている魚の種類は少なく、いわしとサーモンとあと何か白身の魚が1種類くらいあるだけです。

昔はいわしをよく食べました。いわしは沢山捕れたので安く買えました。まだ冷蔵庫がない時代には、秋に家庭でいわしを多めに買って、塩づけにして保存して、冬中ずっと食べました。私の子供の頃も家でいわしを塩づけにして保存して何か月も食べました。silakkamarkkinat近年トゥルクやヘルシンキでは秋になると、いわしの市が開かれるようになって、そこではいわしだけでなく他の魚で作った料理や保存食も売っています。このいわし市は、冬に向かうフィンランドの秋の大きなイベントになって沢山の人が訪れます。

近年は湖や川で捕れる白身の魚もよく食べられるようになりました。海の魚ではいわしの他にはニシンとサーモンがよく食べられますが、一番よく食べられるのはサーモンです。サーモンはフィンランドで養殖したものか、ノルウェーの海で捕ったものかのどちらかです。高価なサーモンの料理は昔は、クリスマスのようなお祝いの時にしか食べられませんでしたが、今では普段の日にもよく食べられるようになりました。

さて、聖書の時代にも魚はよく食べられていて、漁師は普通の職業でした。今日はこれから聖書に出てくる漁師についてお話ししたいと思います。

ある日イエス様がゲネサレト湖という湖にやってくると、2人の漁師が舟からおりて、網を洗っていました。そこでイエス様は漁師の一人のペテロに「舟を少し冲に漕いで、そこで網を下ろしてみなさい」と言われました。ペテロは、「先生、私たちは夜中苦労しましたが、何も捕れませんでした。しかしお言葉ですから、網を下ろしてみましょう」と答えました。ペテロは漁師なので魚のことはよく知っていました。もし夜魚が捕れなかったら、昼はもっと捕れないと思ったでしょう。それでもペテロは、イエス様の教えをいつも尊敬していたので、言われた通りにしました。するとどうでしょう。信じられないことが起こりました。網が破れそうになるくらいに大量の魚がかかって、その重さでペテロの乗っている舟ともう一そうの舟は沈みそうになりました。

petorowww.christiancliparts.net 2006-07-28 by MMBOX PRODUCTION

ペテロはこれを見て、どう思ったでしょうか?彼はイエス様の足元にひれ伏して、こう言ったのです。「主よ、私から離れてください。私は罪深いものです。」ペテロはお礼を言うどころか、こう言ったのです。どうしてでしょうか?この時ペテロは、今起こったことは神様の力で起きたと信じたのです。それで自分の前にいるこの方は神聖な神のみ子で、この方の前では自分など罪深い者にすぎない、とわかったのです。それで「私は罪深いものなので、どうか私から離れてください」と言ったのです。しかし、イエス様はペテロから離れないで、次のように言われました。「恐れることはない。これからは、あなたは人間をとる漁師になる。」そこでペテロは舟を陸に上げて、イエス様は神様の子だから信頼して大丈夫な方だと信じて、全てを捨てて従って行きました。ペテロはイエス様の弟子の一人になったのです。

このようにペテロはイエス様と出会って、イエス様に従って行きました。私たちもイエス様と出会うことができます。それは、聖書のみ言葉を読んだり聞いたりする時にできます。み言葉からはイエス様の呼ぶ声が聞こえてきます。それは全世界の全ての人々に向けられます。それを聞いたらどうしたらよいでしょうか。私たちは神さまの前では正しい人間ではなく心の中に悪い考えもあります。それでイエス様を従う前にもっと良い人間になってから従おうと考える人が多いと思います。しかし、このお話の漁師たちはどうだったでしょうか。彼らは仕事している途中でイエス様の呼ぶ声を聞いてすぐイエス様に従うようになりました。ペテロはイエス様と出会う時に自分の弱さ罪深さを分かりましたが、同時にイエス様は神のみ子でいらっしゃるから大丈夫と信頼しました。それでペテロはイエス様と共に歩むようになりました。

イエス様はペトロだけでなく私たちにとっても信頼して大丈夫な方です。ペテロが見たような奇跡を私たちも見ることが出来るかどうかは分かりません。しかし、イエス様は神さまの子でいらっしゃって私たちの救い主と信じると、イエス様はいつも共に歩んでくださるのは確かなことです。

スオミ教会チャーチカフェ 2025/4/5(土)11:00~16:00

チャーチカフェ

 

ティモとマリリーサの歌と演奏を是非お聴きください。

チャーチカフェでお会いしましょう!あと、お二人は、スオミ教会の3月30日の礼拝にも出席され、ティモさんが説教奉仕をされます。あわせて是非いらして下さい。

2025年度の年間主題と年間聖句について

3月2日(日)主日礼拝後に2024年度の年次総会が開かれ、活動報告の総括、会計報告を行い、新年度の予算と活動計画や年間主題と聖句などの議案を採択しました。 以下、牧師報告の主要部分(実名は伏せました)と年間主題と聖句に関する議案を紹介します。どうぞご覧ください。

牧師報告(抜粋)

「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は30倍、ある者は60倍、ある者は100倍の実を結ぶのである。」 
マルコ4章20節

あるキリスト教団の神学校の校長先生が述べたこと、「以前は何もしなくても教会には人が集まって来たが、今は何をやっても集まって来ない」。これは、伝統的なキリスト教会ではどこも同じ思いではないかと思います。スオミ教会だけの問題ではありません。

昔は、倫理とか正義とか生きる意味について悩み考える人にとって聖書は真っ先に手にする書物の一つだったのではないかと思います。今の時代は、キリスト教以外にも宗教的なもの哲学的なもの心理学的なものが沢山出回り、キリスト教は数あるものの一つに過ぎなくなって以前より目立たなくなったのではないかと思います。かつて問題意識を持った人たちが教会の門を叩いたのとは違い、今は悩みの解決、苦痛からの解放が関心事になったのではないかと思います。そうなれば「罪」について話すことは悩みや苦痛を軽減するどころか増やすことになると警戒されタブーになります。心理セラピーが跋扈し、キリスト教会も心理学やセラピーの手法を取り入れるようになるのは当然です。

かつて日本人にとって憧れと尊敬の的だった欧米世界もキリスト教離れが進み、逆にその反動でかけ離れた主張をするキリスト教派も出てきたりして、それもキリスト教に魅力を感じさせなくなっている一因になっているのではないかと思います。

伝統的なキリスト教会の多くで高齢化が進み、後が続かない状況にあるのは、かつて真っ先に聖書を手にした人たちが高齢者となり、その後の世代の人たちはキリスト教がかつての輝きを持たない時代に育ったということではないかと思います。(以下 省略)

2025年度の主題と主題聖句について

新年度の聖句と主題を決める際に以下のルターの聖句の説き明かしを元にしました。聖句はローマ15章4節「忍耐と聖書の慰め励ましを通して私たちには希望があります。」

「この聖句でパウロは二つのこと、すなわち忍耐と聖書の慰め励ましを結びつけている。聖書は私たちを苦痛、逆境、死から解放してくれない。逆に聖書は神聖な十字架を私たち

に負わせる。だから、忍耐が必要になるのだ。まさにその時、聖書は苦しみのただ中にある者を慰めて力づけてくれるものになる。忍耐が萎えることがないように、苦難を突き破って打ち克つことができるように聖書は力づけてくれる。私たちが喜んで勇気を持ってへりくだって苦難に臨むことができるのは、神が繰り返し語るあの御言葉を耳にするからである。『私はあなたと共にいて、あなたを守る。』

キリスト信仰者にとって忍耐強くあるというのは不可欠なことだ。なぜなら、この世の人生とは永遠の死に定められている内なる古い人間アダムを日々死なせていく過程に他ならないからだ。次に到来する世を私たちはまだ手にすることも感じることもできない。それ故、私たちには忍耐強くしがみつく何かが不可欠なのだ。それは神の御言葉に他ならない。神の御言葉に忠実でいれば、私たちは次に到来する世の人生を手に掴んでいることになり、それに繋がっていることになるのだ。私たちは神の御言葉を信頼し、御言葉に踏みとどまる。その時、私たちは安全な船で航海するが如く、この世の人生から次に到来する世の人生に向かって旅をする者となる。御言葉に留まる限り、希望が裏切られることはない。

もし聖書が、私たちが苦難にある時、悲しんでいる時、死に直面している時に私たちを慰めるものになっていれば、それは正しく用いられていることになる。それゆえ、苦しみについて何も知らない者、死を自分に関係ないもののように考えている者は、聖書の慰め励ましについて何も知らないのである。それは言葉を通してだけでは学ぶことはできない。経験を通してでないとできないのだ。」

以上のルターの説き明かしに基づいて本年度の主題は「罪の赦しの恵みに生きる者にとって逆境は聖書から慰めと励ましを得るチャンス」としました。

聖句のローマ15章4節ですが、新共同訳だと「忍耐」も「慰め」も聖書が与えるものとしています。ルターの説き明かしは、忍耐は忍耐、慰めの方は聖書由来という理解に基づいています。これは、ギリシャ語原文がそうだからです(ルター訳ドイツ語聖書の1920年版を参照)。「忍耐」も「慰め」も両方とも聖書由来という書き方は新共同訳だけでなくフィンランド語訳も英語訳(NIV)もそうでした。スウェーデン語訳はギリシャ語原文とルター訳を踏襲して補足もしてありわかりやすいので選びました。

主題聖句 ローマ15章4節

「私たちの忍耐と聖書が与える慰め励ましを通して私たちは希望を持ち続けることができるのです。」(スウェーデン語訳の聖書”Bibel2000”から)

以上

2025年3月16日(日)四旬節第二主日 主日礼拝 説教 アウヴィネン ヴィッレ 牧師(SLEY海外伝道局長)

説教:内容はyou tubeをご覧ください

 

SLEYとスオミ教会との間の諸問題について話し合いをしました。

 

礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。

 

フィンランドのミッション団体SLEYの海外伝道局長V.アウヴィネン先生が来日されます

3月16日のスオミ教会の礼拝にて説教を担当されます(通訳付き)。

SLEYは、日本とフィンランドが外交関係を結ぶ前の1900年から日本に宣教師を派遣してきた北欧のルター派ミッションのパイオニアです。是非この機会に礼拝に御参加下さい。

V.アウヴィネン先生の略歴

  • 1966年生まれ(トゥルク市出身)
  • 1988年オーボ・アカデミー大学神学部卒(神学修士)及びフィンランド・ルター派国教会牧師就任
  • 2003年神学博士(オーボ・アカデミー大学神学部)博士論文”Jesus’ Teaching on Prayer” (Åbo Akademis förlag)
  • ルター派国教会牧師、SLEY専属牧師、SLEY海外派遣宣教師(ザンビア)、フィンランド神学研究所事務局長、SLEY海外伝道局付けを経て、2017年から現職およびトゥルク市議会議員(キリスト教民主党)
  • キリスト教、聖書関係の著作多数。国教会保守派の論客としてテレビの時事討論番組にも多数出演

 

2025年3月9日(日)四旬節第一主日 主日礼拝 説教 田口聖 牧師(日本ルーテル同胞教団)

ルカによる福音書4章1〜13節「誘惑の歩みにある主の助け」

礼拝をYouTubeで見る

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

1、「はじめに」

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 3章では、福音書記者であるルカが、歴史的事実や系図、そして当時の優れた預言者であった洗礼者ヨハネの証言を通して「イエスは本当の救い主である」と伝えているということを見てきました。今日の箇所はその後、イエス様が荒野へ導かれ受けられた「悪魔の誘惑」の箇所です。

 3章ではイエス様が、洗礼者ヨハネから洗礼を受けた時、御霊が鳩のようにくだり、天から「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ」という声があったとありましたが、4章1節は、その下った「御霊に満ちて」という言葉から始まります。

「1さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を“霊”によって引き回され、」

 聖霊に満ちたイエス様は、「霊」に引き回され「荒れ野」にいました。「霊に引き回され」とある言葉は新改訳聖書では「御霊に導かれ」とも訳されています。そして、2節ですが、

「2四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。 」

 と続いています。聖霊に満たされたイエス様は霊、あるいは御霊によって「荒れ野」を引き回され、あるいは「導かれて」そして「悪魔の誘惑」に会われたのでした。

2、「荒れ野」

 皆さんはこのことをどう思うでしょうか?私たちも同じように、洗礼を受け、聖霊が与えられ、みことばとそこに働く聖霊によって導かれて歩んでいる私たちです。しかしある人にとってはここはこう思うかもしれません。それは、聖霊に満たされているのに、それなのに、聖霊なる神、助け主に満たされ導かれるのが荒れ野なのか?そしてそこに悪魔の誘惑があるのはどういうことか?と。つまり「聖霊に満たされ導かれるのだから、良いことでなければ、神、聖書は、おかしいじゃないか?何で悪いことへ導くのだ」と。

A,「聖徒であり同時に罪人」

 しかしこの聖書の箇所は私たちに一つの大事な事実を教えてくれています。それは、私たちはみ言葉の通り、信じて洗礼によって救われました。聖霊が与えられました。新しいいのちを与えられました。しかし、私たちに与えられた信仰の新しい歩みは、苦しみも罪もない天国に来た訳ではなく、「この地上に」尚も生きる信仰の歩みでもあるのです。そして、その地上にある「この世」は、聖書にある通り「罪の世」です。つまり悪魔の誘惑の力がまだ働いている世でもあり、罪の奴隷にある世です。私たちは確かに「神の前」にあっては、イエス様の十字架と復活のゆえ、私たちの義ではなくイエス様の義のゆえに、それを信じ受け入れる私たちの罪は見られません。それは私たちたちの義ではなく、イエス様の義のゆえに信仰によって私たちも義と認められていて、そして聖霊によって新しく生かされている者ではあるのです。しかし「同時に」、まだ尚も、この罪の世に生きる者でもあり、私達自身、一人一人誰も例外なく、つまり私自身も、肉にあっては、尚も同時に罪人でもあるのも事実です。今日、悔い改めても、私たちは罪を全く犯さない完全な人間になったのではなく、直ぐに行いにおいても心においても、罪を犯してしまう者です。キリストにあって信仰が与えられて霊にあって新しくても、同時に肉にあっては尚も、私たちは、もちろん私自身も自分勝手で、むしろ、肉の性質は、神と神のみことばを信じないで退けよう、背を向けようとする、まさに同時に罪人のままの私たちでもあります。それはルターも教える通りです。彼は教えました。私達は、キリストのゆえに霊にあって「神の前にあっては聖徒であっても、同時に罪人である」と。ですから、クリスチャンである私たちのこの罪の世、地上での歩みは、尚もその悪魔、誘惑との戦いに日々、生きる歩みなのです。だからこそ、主イエス様は主の祈りを私たちに与えて下さっているでしょう。「私たちの罪をお赦し下さい〜私たちを試みに会わせず悪より救いたまえ」と祈るのです。

B,「荒れ野のキリスト者は、誘惑との戦い」

 もちろん、救いの道は、必ず勝利の道でもあります。聖霊とみことばは私たちを最後には天国、そして新しい天と新しい地へと導く最強の力です。しかしこの罪の世は、まだ過ぎ去っておりません。尚も絶えず強く私たち一人一人を誘惑してくる事実はあるでしょう。私たちはそこで証しと愛に召され生かされている者ではあるのですが、この世にあって肉にあっては本当に罪に対して悪に対して、そして悪魔に対して弱い存在で、尚も罪深い日々です。ですから、聖霊による新しい道、私たちクリスチャンの道は、やはり、今日の箇所のイエス様のように日々、荒野なのです。日々、誘惑との戦いの道なのです。むしろそれは、救われる前より厳しい闘いになるでしょう。なぜなら私たちに与えられている聖霊は聖なる方ですから私たちを増々、罪に敏感にするからです。だからこそ、聖霊の導く道は、ここにあるような荒野、悪魔との戦い、罪との戦いの道なのです。イエス様も「あなたがたは世にあっては艱難があります」(ヨハネ16:33)とも言っているでしょう。日々、誘惑です。その誘惑は、ただ行いの罪を犯させようとするだけでなく、心の中の罪の思いも誘惑です。そして、何よりの誘惑は、イエス様こそが完全な私たちの救い主であるということを、私たちが信じないように、あるいは、洗礼や聖餐の福音の力を疑わせて、信仰の確信、救いの確信を奪い、イエス・キリストの恵みよりも、他の目にみえる目先のことや、他の人の行いや力、あるいは自分や自分の行い、名誉、プライドのほうが、救いのための力、光であるかのように思わせて、イエス様とそのみことばを捨てさせようとすることこそ、最大の誘惑です。そして捨てさせて、悔い改めのない歩みをさせ、ついには私たちを滅ぼすこと、永遠の死に堕とすことが、悪魔の最大の目的です。そのために働いてきます。私たちはイエス様と同じように、その荒野に導かれているのです。イエス様のように、日々、誘惑との戦いなのです。

 けれども恐れることはありません。今日のこのイエス様の受ける荒野の誘惑とそれに対するイエス様の姿はそんな私たちに、何のためにキリストは世に来られ、聖霊が私たちにも与えられ、その聖霊が私たちを導いているのかを証しし、そして、いかにしてイエス様は誘惑を退けるのかを私たちに示し教えてくれているのです。その事実が、この誘惑とイエス様にはよく現れているでしょう。まず悪魔はどのように誘惑するでしょうか。三つの誘惑が書かれています。

3、「悪魔の三つの誘惑」

 一つ目は、3節

「3そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」」

 第二の誘惑は、6〜7節。

「6そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。 7だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」 」

 第三の誘惑は、9〜11節です。

「9そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。 10というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる。』11また、『あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える。』」

 これが悪魔のイエス様への三つの誘惑でした。この三つの誘惑を見る時に、悪魔の誘惑の一つの特徴が分ると思います。

A,「悪魔の巧妙さ」

 それは、私たちが悪の苦しみというとイメージする迫害とか肉体の痛みとか以上に、つまり目に見えて明らかな悪いものではなくて、むしろ、誘惑なのですから、人間の欲求・欲望をかき立て魅了する、魅力的な良いものを餌にしているということがわかると思います。私たちは悪魔の攻撃と言うと、迫害とかを連想するです。もちろん、迫害も妨げなのですが、しかし、ここにあるように、むしろ人が騙されやすい、誘惑に負けやすいのは、あのアダムとエバの罪の初めで、人にとって甘く美味しそうな実にこそ彼らは心奪われたように、まさに、人間のそのような罪の性質の根っこ、罪深く自己中心な願望こそを悪魔はみごとについてきているといえるでしょう。創世記三章のアダムとエバの堕落の所です。創世記の3章5節。そこでエバはサタンの「あなたがそれを食べる時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪の知識をしるようになることを神は知っているのです」(5節)というその誘惑のことばにこそ魅了されます。そしてエバはその誘惑の言葉を聞き「その木はまことに食べるの良く、目に慕わしく、賢くすると言うその木はいかにも好ましかった」(6節)と彼女の誘われる心を描いているでしょう。そのように彼らはその誘惑に負け神のみことばを退け、食べてはいけないと言われた木の実を食べるのです。今の世の中でも、実に沢山の詐欺事件が伝えられていますが、その手口のどれを見てみても、はじめは「美味い話」あるいは「利益・財産の話」から始まって、騙される人は引き込まれていきます。また多くのカルト信仰も溢れていますね。そのカルトにも多くの人が集まってきますが、そのカルト入信のきっかけも、やはり「美味い話」であったり、その人々の一時の不安解消やご利益をみごと刺激するようにして入信する人を魅了するのです。さらには広告メールや迷惑メールも、そのタイトルは、人々が開きたい、読んでみたいような、まず人の気をひく「美味い話」「利益の話」のタイトルが踊っています。誘惑とはそのようなものです。

1)「石をパンに」

 悪魔の誘惑もそうです。一つ目の誘惑を見てください。それは石をパンにするということです。パンは物質的な豊かさを示しています。そしてイエス様は確かに神の子ですから石をパンに変えることは出来るのです。もしその辺りの無数の石をパンに、つまり溢れるばかりの豊かさに変えることが出来るなら、なんと幸いでしょうか。毎日、食べるに困りません。そればかりでなく、有り余るほどのパン、食べ物を、人に配ることができます。そうすると、人からありがたいと賞賛され、尊敬される存在、人気者にもなれます。支配者にもなれるでしょう。これまでの世の統治者は、この力が得られるなら、直ぐにでも飛びついて得たい力と誘惑となるものでしょう。この直ぐにでも見たい手にしたい眼にみえる物質的な豊かさや数の多さ、大きさは、教会にとっても誘惑になります。石を豊かさ、富に変える。それは教会でも、その力があるなら、ぜひ、人を沢山、お金、富を沢山、集めるために、数を伸ばすために、人を惹きつけるためには、魅力的な材料であり、欲しい力であると見る人もいるかもしれません。

2)繁栄を全てあなたに

 第二の誘惑はどうでしょうか?悪魔は、世界の国々を全部見せました。ローマ皇帝のもの凄い繁栄と富を見せられただけでなく、悪魔は過去のこれまでの文明の繁栄、そして未来の、現代のこの繁栄や豊かさも見せたのかもしれません。その全て、その権力、栄光、繁栄が全て自分のものとなる。力と誉れが自分のものになる。それはどの国の支配者も、いかなる軍事力を駆使してでも奪い取りたい特権に映るものでしょう。エバを誘惑した「神のようになれる」というサタンの誘惑のまさに最たるものともいえます。教会も例外ではありませんね。世界の福音派のある人々は、まさに繁栄の神学の虜になり、地上の人間的な繁栄を約束し希望とするような都合の良い間違った福音、間違った偽りの光や愛で、人々を律法的に、マンパワーや理性や人間の直感や感情や欲求により頼むように、導いています。その中でもある熱狂的な教会やカリスマ牧師の教会は、教会が人の数やお金の数字の上で大きくならない、成長しないのは、信徒であるあなた方が熱心でないから、一生懸命でないからダメなんだと、教会や宣教や伝道を律法にして脅すように駆り立てますし、逆に信徒がそのような価値観であると、み言葉に誠実に仕え伝えている牧師に対してさえ、牧師が熱心ではないからだ、”営業努力”が足りないからだ(彼らはよくそんな牧師に「もっと「成功したビジネスマンの本」を読め」といいます)、能力、魅力がないからだと責め立てます。そのようなマンパワーで導くことは確かに数的には多くの人を集め、メガチャーチにまでもなります。それは、人の目には成功しているように見え、多くのクリスチャンはこれが成功した宣教・伝道だと決めつけてしまう、そのように更に間違った宣教、教会へと逸れていっているという深刻な現実がありますね。悪魔の誘惑はまさにキリストの姿をしてやってくる偽キリストであり、実に巧妙です。

3、「神を試みる:自分の思いの通りに神はするだろう」

 そして三つの誘惑。神を試みること、試すこと。つまり、神を人間の都合の良い解釈や想いのままに試す。これは「神が人を」ではなく、「人が神を」支配する誘惑です。それは先の繁栄の神学やリベラルや現代の流行の神学の共通の傾向ですが、人の思いのままに神を動かしたい、神に働いてほしい、神はそうするに違いないと決めつける、そのような誘惑です。これもまた誰にでも起こりうる誘惑ですね。私達は神の恵み、神のみ言葉や約束をその通りですと信じる信仰なのに、しかし私達の罪の性質は、神中心ではなく、自分中心に、自分の願うまま、思いのまま、期待するように、神がしてくれるだろうと思ってしまいます。そして自分の願う通り、思っていた通りにならないと、今度は、神がおかしい、神が矛盾している、間違っていると、神や神のことばを否定したり、呪ったり、批判したりします。これも、誰でも陥りやすいことで、クリスチャンであっても、もちろん私自身もしてしまいやすいことです。このように、サタンは人にとって「美味そうな人参」をぶら下げて誘惑して来るのです。いや、ひょっとしたら、誘惑されている、あるいは逸れてしまっていることさえも分らないということもあるくらいに、悪魔の誘惑は巧妙である恐ろしいものであるのです。

 イエス様ご自身が言っています。「偽預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼である」と(マタイ7:15)。パウロも、第二テモテ4章2節以下で、教会が、自分たちに都合のいい空想話に逸れていき、そのような偽りの説教者を集めるような時代が来ると、預言的に警告しましたが、今まさにそのパウロの警告のようなことが教会では起きています。自分が語ってほしい甘い言葉を語らないと牧師を批判したり、律法を語ると罪や悔い改めを語るなと言い出したりして牧師を退けたり、そして自分に都合のいいことを言ってくれる説教者や牧師やメッセンジャーばかり求めたり集めたりするようなことは、実際に教会で起こっていることです。私たちの歩みは今も荒野です。いつでもサタンの誘惑があります。それは明らかな罪への誘惑もあり、迫害のような誘惑もありますが、まさにこの荒野の誘惑のように、人には気付かないようにして羊のなりをして信仰と言う大事な宝を奪い取っていく内は凶暴は狼の誘惑があり、むしろそのほうは怖いともいえるのです。私たち自身はそれに対して、実に弱く、脆い存在です。私たち自身ではそれを判断することも、勝つこともできないほど、弱く無力だともいえるのです。

B,「聖霊とみ言葉の正しい教えによる誘惑への勝利」

 しかし、十字架と復活への道を歩み始め、まず荒野へと導かれているイエス様であり、聖霊によって満たされ導かれたイエス様はどのようにして、この悪魔の誘惑を退けているでしょうか?

 イエス様は全て「みことば」をもって退けているでしょう。第一のみことばに対しては、4節

「4イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。 」

 申命記8章3節の引用です。そして二つ目の誘惑に対しても、8節ですが、

「8イエスはお答えになった。「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」」

 申命記6章13節の引用です。そして最後の三つ目の誘惑は非常に面白い所で、サタンもみことばを用いて誘惑しているでしょう。まさに羊のなりをしてやってくる偽預言者の姿で、これは教会に絶えず起こり続けけいることであり、聖書を都合のいいように解釈した間違ったみことばで誘惑して来る姿そのものです。しかしそれに対して対抗しうるのも、聖書のみことばであり、そして大事な点ですが、その聖書のみことばの正しい解釈、正しい教え、つまり、正しい教理、正しい信仰告白こそ、悪魔のこの誘惑さえも退ける力であることが示されています。12節ですが

「12イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」とお答えになった。 」

 やはり聖書、申命記6章12節の引用になります。

 聖霊に満たされて導かれるイエス様は、このように聖書のみことば、しかもその正しい教え、つまり正しい教理、正しい信仰告白、信条、そのように正しい教えで誘惑を退けました。そしてそこにこそ聖霊は、みことばにおいて、豊かに働いて力を現しているのです。みことばとその正しい教理、教えこそ、誘惑に対して何より強いということを、このところは私たちに伝えているのです。

4、「罪人は誘惑と罪に対して無力」

 私たち人間は堕落前の姿にあるように、本来の創造されたままの人間は、神のみことばによって、神の言葉に信頼して、それによって安心して平安に生きるものでした。本来は、そのように作られているのです。神の創造において良いもの、祝福の存在として創造され、いのちを与えられ、神の愛のもと、みことばによって導かれ、みことばを霊の糧として生き存在するものでした。しかし堕落は、サタンの誘惑、肉の欲に見るに麗しい慕わしい「神のようになれる」という美味しそうな実に負けることによって始まりました。罪の世は、そのようにサタンが私たちをキリストとそのことばから背を向けさせよう、自分を神に、中心にさせよう、そして救いから落とそうと、絶え間なく激しく誘惑して来るこの世なのです。私たちはこの世に尚も生きている者です。私たちも荒野を生きるものです。そしてそこでの私たち自身は、自らの力では実に弱く、無力で、罪深く、誘惑に勝つ力のないものです。直ぐに神と神のことば、キリストの十字架、罪の赦しを忘れ、疑い、自分が正しい、罪のない、神のように、生きようとしやすいものです。

5、「結び:だからこそキリストは信仰者に聖霊を与え働き勝利する」

 しかし、今日の箇所は教えます。イエス様を信じる信仰のゆえにイエス様の与える洗礼の恵みに与り、イエス様から聖霊が与えられているということ、その聖霊が常に力強く、みことばとその正しい教え、信仰告白、そして、洗礼と聖餐を通して働いてくださるのだということです。そしてその聖霊がみことばと正しい教えをもっていつでもサタンと誘惑を退けてくださり、勝利してくださる、まさに真の「助け主」だということをです。そのように今日もイエス様はこのみ言葉の説教と聖餐を通して私たちを励ましているのです。「あなた方の歩みは荒野の誘惑との戦いの歩みだからこそ、わたしは決してあなた方を一人にはしない、一人にし重荷を負わせ、一人で戦わせたりはしない、むしろ、そんな闘いに弱いあなた方にこそわたしは絶えず伴い、みことばを持って、十字架と復活の福音で、あなたを助けよう」と。だからそのまま福音を受けなさいと。イエス様はその思いで、今日もここにおり、イエス様がこの卑しい者による説教を通してですが、みことばを私たちに語ってくださっています。そして、今日もこのように救いの恵みである聖餐を、つまりみことばの結びついた、真のイエス様ご自身のからだと血、イエス様の救いのいのちをイエス様は私たちに与えてくださるのです。そして今日もイエス様は私たちに宣言してくださいます。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。ぜひ罪の赦しを受け平安のうちに今週もここから遣わされて行きましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

 

スオミ教会・フィンランド家庭料理クラブのご案内

パイ

3月の料理クラブは15日(土)13時から開催します。

今回の料理クラブではパーティーの人気メニューの一つツナ&ベジタブル・ピーラッカを作ります。パイ生地の上に缶詰めのツナ、炒め野菜、チーズをのせてオーブンで焼くと美味しいピーラッカができ上がります。チーズの組み合わせでツナも滑らかな味わいになります。このパイとサラダのコンビで立派な食事になります。

是非ご一緒に作って味わってみませんか!

参加費は一人1,500円です。パイ

どなたでもお気軽にご参加ください。

お子様連れでもどうぞ!

お問い合わせ、お申し込みは、 moc.l1755367231iamg@1755367231arumi1755367231hsoy.1755367231iviap1755367231 まで。

牧師の週報コラム 

ルターによる御言葉の説き明かし(フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ」2月8日の日課から

これぞ、キリスト信仰者が苦難困難に遭遇した時の心意気!

「主に感謝せよ。主は良い方なのだから。主の慈しみは永遠にあるのだから。」(詩篇118篇1節)

『我々はいかなる不運に遭遇しても、それ自体に目を奪われてはいけない。そんなものは神が我々に灯してくれた光なんだと思わなければならない。それは、神の恵みと善き業が本当は数えきれない位の出来事の中にあったことが照らし出されて見えるようになるための光なんだと。そうすれば、不運などというあの虫けらのような害悪は、我々からすれば燃え盛る炎の海に落ちていく一滴の雫にしかすぎなる。そうでなければ、せいぜい大海の中に落ちていく微小な火花にしかすぎない。不運がこの光にかき消された時、日課の聖句は我々に最も身近で麗しいものになる。「主に感謝せよ。主は良い方なのだから。主の慈しみは永遠にあるのだから。」

この言葉で言い表される心意気は次のようなものになろう。「ああ、あなたは私になんと誠実で慈しみ深く神聖な神でおられることか。私に対してもこの世に対しても大いなること善いことをこんなに沢山して下さっていたとは。私の感謝は全てあなたに向けられますように。」

これと同じ聖句は聖書の中で、特に詩篇の中でしばしば登場する。この聖句は我々に正しくて最も御心に適う捧げものについて教えてくれる。我々は、神に感謝する以上に大きくて優れた業を行うことはできないし、心がこもった礼拝を守ることもできないのである。』

このように不運を神が灯してくれた光と受け止めると、本当に神の恵みと善き業が数えきれない出来事にあったことが見えるようになるのでしょうか?私は思います、数えきれない出来事を積み重ねた山の頂上にイエス様の十字架と復活があるとわかれば見えるようになると。

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説教「イエス様の変容 ― 私たちの希望と勇気の源」 吉村博明 牧師 、ルカによる福音書9章28-36節

礼拝

主日礼拝説教 2025年3月2日 変容主日

聖書日課 出エジプト記34章29-35節、第二コリント3章12節-4章2節、ルカ9章28-36節

説教をYouTubeで見る

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 本日はキリスト教会のカレンダーでは1月に始まった顕現節の最後の日曜日です。水曜日からイースター・復活祭に向かう四旬節が始まります。福音書の箇所はイエス様が山の上で姿が変わるという有名な出来事です。同じ出来事は本日のルカ9章の他にマルコ9章とマタイ17章にも記されています。マタイ17章2節とマルコ9章2節では、イエス様の姿が変わったことがギリシャ語で「変容させられた(μετεμορφωθη)」という言葉で言い表されていることから、この出来事を覚える本日は「変容主日」とも呼ばれます。

 イエス様の変容の出来事は、実はキリスト信仰者にとってこの世を生きる希望と勇気の源になることを教えています。今日はこのことを見ていきます。ところで、この出来事の場所となった山ですが、マタイやマルコの記述では「高い」山と言われ、マルコ8章27節によるとイエス様一行はフィリポ・カイサリア近郊に来たとあります。それで、この山はフィリポ・カイサリアの町から30キロメートルほど北にそびえるヘルモン山と特定できます。標高は2814メートルで、ちょうど北アルプスの五竜岳と同じ高さです。ただし、写真で見たヘルモン山ははなだらかで五竜岳のように急峻な感じはしませんでした。

2.山の上での出来事

 さて、ヘルモン山の上で何が起こったか?イエス様がペトロとヤコブとヨハネの三人の弟子を連れてそこに登り、そこで祈っていると白く輝きだす。旧約聖書の偉大な預言者モーセとエリアが現れて、もうすぐイエス様に起こる受難について彼と話している。ペトロがイエス様とモーセとエリアのために「仮小屋」を三つ建てましょうと言った時、不思議な雲が現れて、その中から天地創造の神の声が轟きわたる。その後すぐ雲は消えて、モーセとエリアの姿もなくなりイエス様だけが立っていた。そういう出来事でした。少し詳しく見てみましょう。

 最初に、モーセとエリアが出現したことについてみてみます。二人とも旧約聖書の偉大な預言者です。遥か昔の時代の人物が突然現れたというのは、どういうことでしょうか?幽霊でしょうか?聖書には夢の中で神や天使がお告げをすることがあるのでここも夢の話と考える人もいるかもしれません。しかし、32節で弟子たちは「ひどく眠たかったが、じっとこらえて」いたと言っています。ギリシャ語原文でもディア‐グレゴレオーと言っていて、頑張って起きていたという言い方です。それで、モーセとエリアの出現は夢ではなくて現実に起きたことなら、彼らはやはり幽霊なのか?彼らの出現をよりよく理解できるために、まず、人間は死んだらどうなるかいうことについて聖書が教えることを復習します。聖書の観点では、人間はこの世を去ると直ぐではなくて遠い将来にみんな一括して神の国に迎え入れられるかどうかの判定を受けます。遠い将来というのは今のこの世が終わりを告げ、判定者のイエス様が再臨する時です。この世が終わりを告げるというのは、今ある天と地がなくなって新しい天と地に創造され直すということです。

 それなのでキリスト信仰の天国は他の宗教の天国とかそれに類するものと大きく異なっています。他の宗教や日本人の一般的な考え方では、天国とかそれに類するものは、この世から死んだ後すぐ、ないしは30何年後とかの後で到達できるというものです。つまり、今のこの世がまだ存在している時に到達できるのです。ところがキリスト信仰では、到達は今のこの世がなくなって新しい天と地が再創造される時のことです。そうすると、その時が来る前に死んでしまったらどうなるのか、どこかで待っているのかという疑問が起きます。キリスト信仰では「死者の復活」がその答えになります。宗教改革のルターも教えるように、判定の日に先立って死んだ人はその日が来るまでは神のみぞ知る場所にいて安らかに眠っているということです。イエス様も使徒パウロも、死んだ人のことを眠りについていると言っていました(マルコ5章39節、ヨハネ11章11節、第一コリント15章18、20節)。このようにキリスト信仰では死は復活の日までの眠りで、その時に永遠の安寧に入れるか永遠の滅びに入るかの振り分けが起こります。

 他方で聖書には、将来の復活の日を待たずして一足早く神の国に迎え入れられて、もう神の御許にいる者がいるという考えも見られます。ルターもそのような者がいることを否定しませんでした。エリアとモーセはその例と考えることができます。というのは、エリアは列王記下2章にあるように、生きたまま神のもとに引き上げられたからです(11節)。モーセについては少し微妙です。申命記34章に死んだと記されてはいますが、彼を葬ったのは神自身で、葬られた場所は誰もわからないという、これまた謎めいた最後の遂げ方です(6節)。それでモーセの場合もこの世を去る時に神の力が働いて通常の去り方をしていないのではないか、ひょっとしたら復活の日を待たずして神の国に迎え入れられたのではないかと考えられます。まさに彼もエリアと一緒に神の御許からヘルモン山頂に送られてきたからです。そうなるとこれはもう、幽霊などという代物ではありません。そもそも聖書の観点では、亡くなった人というのは原則として復活の日まで神のみぞ知る場所で安らかに眠るというのが筋です。それなので、幽霊として出てくるというのは、神の御許からのものではないので、私たちは一切関わりを持たないように注意しないといけません。神自身、死者の霊や霊媒と関りを持つことを禁じています。レビ記19章31節、申命記18章11節、サムエル記上21章6節、イザヤ書8章19節です。

 次に、不思議な雲の出現についてみてみます。本日の箇所を注意して読むと雲の出現はとても速いスピードだったことが窺えます。ペトロが「仮小屋」を建てましょうと言っている最中にもう出てきてしまうのですから。山登りする人はよくご存知ですが、高い山の頂上が突然霧に覆われて視界が無くなるというのは、何も特別なことではありません。その霧は麓から見ると雲なのです。そういうわけで、本日の箇所に現れる雲は、自然界の通常の雲で、それを天地創造の神がこの出来事のために利用したと考えられます。

 あるいは、神がこの出来事のために編み出した雲に類する特別な現象だったとも考えられます。その例は既に出エジプト記にあります。モーセがシナイ山に登って神から十戒を初めとする掟を与えられた時、山は厚い雲に覆われました。出エジプト記33章を見ると、モーセが神の栄光を見ることを望んだ時、神は、人間は誰も神の顔を見ることは出来ない、見たら死ぬと言われます(18ー23節)。これが神聖な神を目の前にした時の人間の立ち位置です。被造物にすぎない私たちはこのことをよくわきまえていなければなりません。そういうわけで山の上の雲は、人間が神の神聖さに焼き尽くされないための防護壁のようなものでした。ヘルモン山でのイエス様の変容の時も、神がすぐ近くまで来ていたとすれば、同じようにペトロたちを守るものだったと言えます。

3.イエス様の変容と受難の道の選択

 そこで本日の出来事の中心であるイエス様の変容について見てみます。29節で「イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた」とあります。「顔の様子が変わる」というのは、顔つきが変わったとか、顔色が変わったということではありません。「顔」と言っているのは、ギリシャ語のプロソーポンという言葉が下地にありますが、この言葉は「顔」だけでなく、「その人自身」も意味します。つまり、山の上でのイエス様の変容はイエス様全体の外観が変わったのであり、一番顕著な変容は「服が真っ白に輝いた」です。マルコ9章では、この白さがこの世的でない白さであると、つまり神の神聖さを表す白さであることが強調されます。ルカ9章32節でイエス様が「栄光に輝く」と言われていますが、これは神の栄光です。この変容の場面で、イエス様は神聖な神の子としての本質を顕わにしたのです。

 フィリピ2章に、最初のキリスト信仰者たちが唱えていた決まり文句が引用されています。それによると「キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になりました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(6ー7節)。イエス様がもともとは神の身分を持つ方、神と同質の方であることが言われています。さらに、ヘブライ4章には次のように言われています。イエス様は「わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われた」(15節)。神のひとり子はこの世に送られて人間と同じ血と肉を持つ者となったが、罪をもたないという神の性質を持ち続けたことが言われています。そういうわけで、ヘルモン山頂でのイエス様の変容は、まさに罪をもたない神の神聖さを持つという彼の本質を目に見える形で顕すした出来事だったのです。

 そこで34節を見ると、「彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた」と言っています。ギリシャ語原文をよく見ると、イエス様とモーセとエリアの三人は雲の中に包まれていくではなく、自分たちで雲の中に入って行った、つまり雲の中に乗り込んで行ったと言っています。それなのにイエス様は、私は行かなくてもいいと言わんばかりに、乗りかけた「雲」から降りてしまって、この地上に留まることを良しとしたのです。なぜでしょうか?

 それは、私たち人間が復活の日に目覚めさせられて、神の栄光を映し出す輝く体を着せられて、神の御国に迎え入れられるようにするためでした。そうするためにイエス様は受難の道を進んでゴルゴタの十字架にかけられる道を選んだのです。どうしてそのようにしなければならなかったのでしょうか?

 それは、人間は最初の人間の堕罪の出来事以来、神の意思に反しようとする性向、罪を内に持つようになってしまったからです。人間はこの罪を除去しない限り、自分の造り主である神と結びつきがない状態で生きることとなり、この世を去った後も神のもとに戻ることができません。人間が罪を除去できるためには神の意志を100%体現する神聖さを持たなければなりません。しかし、それは不可能です。そのことを使徒パウロはローマ7章で明らかにしています。神の意志を表す十戒があるが、それは人間が神聖な神からどれだけ離れた存在であるかを思い知らせるものだと言っています。イエス様自身、「汝殺すなかれ」はただ殺人を犯さなければ十分というものではない、心の中で兄弟を罵ったら同罪と教えました(マタイ5章21ー22節)。「姦淫するなかれ」も行為に及ばなくても異性を淫らな目で見たら同罪と教えました(同27ー28節)。詩篇51篇でダビデは神に「わたしの咎をことごとく洗い、罪から清めて下さい」(4節)、「わたしを洗ってください 雪よりも白くなるように」(9節)と嘆願の祈りを捧げています。このように罪は洗い清めなければならない汚れなのです。その洗い清めはもはや神の力に拠り頼まないと不可能なのです。

 そこで神は、できない人間にかわって自分で人間を罪から洗い清めてあげることにしました。どのようにしてでしょうか?神はそれを罪を「赦す」ことで行いました。「赦す」というのは、罪をしてもいいとか許可する意味ではありません。神は自分の神聖さと相いれない罪を忌み嫌い、それを焼き尽くしてしまう方です。しかし人間を焼き尽くすことは望まれなかった。では、「赦す」ことがどうして人間の洗い清めになったのでしょうか?以下のことです。

 神は、ひとり子のイエス様をこの世に送り、本当なら人間が受けるべき罪の神罰を全部彼に受けさせて十字架の上で死なせました。罪の償いを全部イエス様にさせたのです。イエス様はこれ以上のものはないと言えるくらいの神聖な犠牲の生け贄になったのです。このおかげで人間が神罰や罪の呪縛から解放される道が開かれました。神は、イエス様の身代わりの犠牲に免じて私たち人間の罪を赦す、つまり不問にするからこれからは神に背を向けず神を向いて新しく生き始めなさいとおっしゃるのです。それだけではありません。神は想像を絶する力でイエス様を復活させて死を超えた永遠の命があることをこの世に示し、そこに至る道を私たち人間に切り開いて下さったのです。あとは人間の方が、これらのことは全て本当のことだとわかり、それでイエス様を救い主だと信じて洗礼を受けると、この神が作り上げた「罪の赦しの救い」の中で生き始めることになり、復活に至る道に置かれてそれを神の守りと導きのうちに進むことになるのです。

4.勧めと励まし

 イエス様が「雲」に乗って天の御国に帰らないで地上に残られたのは、「罪の赦しの救い」という神の贈り物を準備するためでした。私たちはこの贈り物を素直に受け取ってそれを携えて生きることで神の栄光を受けて輝くことができるようになるのです。もちろん、全身が目に見えて輝くのは復活して御国に迎え入れられる時ですが、この将来のことがこの世の人生で希望と勇気の源になることをパウロが本日の使徒書の日課で教えています。最後にそこを見ておきましょう。日課の個所はわかりにくいですが、3章7節辺りから見ていくとわかるようになります。

 神の栄光はイエス様だけでなく十戒にも現れます。というのは、十戒は神の意思なので神聖なものです。だから神の栄光を現すのです。しかし、人間は掟を守ることでは神の栄光を映し出す者にはなれません。というのは、神の栄光を映し出せる位に心の奥底まで掟を完璧に守ることは出来ないからです。それで、十戒は人間が誰でも罪を持っていることを明らかにする鏡です。なので、神の栄光を現す神聖な掟は人間を罰に定めてしまうのです。十戒だけでは人間は神聖な神のみ前に立たされた時、裁かれてしまうのです。

 しかし、神の御心はあくまで人間が神の栄光を映し出す者になれるようにすることでした。それでイエス様に十字架と復活の業を行わせ、イエス様を救い主と信じ洗礼を受けた者が罪の赦しを持てて、神の前に立たされても大丈夫な者にして下さったのです。パウロが3章の9節で言っていること、人を罪に定める務め、つまり十戒の務めが栄光をまとっていたとすれば、人を義とする務め、つまりキリストの務めは、なおさら、栄光に満ちて溢れているというのはこのことです。

 そこでパウロはモーセの顔の覆いについて述べます。パウロにとってそれは律法の焼き尽くす危険な栄光を覆い隠すシンボルでした。ところがイエス様の十字架と復活の出来事が起こって、この世は神から罪の赦しを頂ける時代に入りました。なのに、旧約聖書を繙く人の中にはまだ覆いをつけたままで真の栄光を見ようとしない人たちがいることをパウロは嘆きます。

 しかし、18節でパウロは言います。キリスト信仰者は顔から覆いが取り除かれたので、この世で神の栄光を映し出すプロセスに入っていると。以前の掟の栄光から新しい罪の赦しの栄光に目を向けているので主と同じ姿へ変容させられていくと。新共同訳では「造りかえられていきます」ですが、ギリシャ語では、山の上のイエス様の変容と同じ動詞メタモルフォオーで言われています。私たちもイエス様と同じように変容するのです。この世ではその過程にあり、復活の日に完結するのです。

 12節「この希望を抱いているので、わたしたちは確信に満ちあふれてふるまっており」と言う時の希望とは、まさに復活の日に目に見えて神の栄光を映し出すものになれるという希望です。パウロが希望という言葉を使う時は、大抵は復活と神の栄光の映し出しを指しています。キリスト信仰者は、この希望から勇気を得ると言うのです。その勇気ある生き方の具体例が4章2節にあります。心から恥ずべき事を追い出す、人を欺く生き方はしない、神の御言葉を歪曲せず、神について人々に真理を語る。そして他の人たちに向かって次のように言えることも。「私たちは罪の赦しの恵みに留まって生きる者です、なので神のみ前でやましいところは何もありません、どうぞそれをあなたたちの良心で判断してみて下さい

と。このように復活と神の栄光の希望があれば、人から何を言われどう思われようと全然平気です。人間は神ではないので恐くはないのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

 

手芸クラブの報告2025年2月26日

ストール

2月の手芸クラブは26日に開催しました。前日までは寒い日が続きましたが、この日は朝から太陽が輝いて穏やかな天候の日となりました。

今回は1月の手芸クラブに続いてストールを編みました。初めに前回参加された方々がお家で頑張って編み続けたものを見せて下さいました。「きれいな色ね」、「可愛らしい」「暖かそう」「柔らかい」とお互いにほめたたえる声が。皆さん「Silmukannostotekniikka」が上手になってストールをきれいに編まれました。それぞれ色がきれいで、完成されたかたもいらっしゃいました。

前回参加された方はストールを編み続けます。始めて参加された方はストールを前回と同じやり方で編み始めます。始めての方もあっという間に「Silmukannostotekniikka」が編めるようになって網の模様が見えてきました。それを他の参加者に見せると「色合いが可愛い」との声が聞こえてきました。

ストール皆さんはおしゃべりをしながら編み続け、ストールはどんどん長くなって完成させた方もいらっしゃいました。

今回、お家で編み始めた方はマフラーを持参してそれを編まれていました。長いものになっていましたが、これからどのようなものになるか楽しみです。

春に向かって暖かくなりますが、まだストールが必要な寒さが戻ってくるかもしれません。編まれたストールを首に巻いたら暖かくなるでしょう。自分で編んだものだから特に暖かさも身近に感じるのではないでしょうか。

編み物に集中した後はコーヒータイムで一息入れます。今フィンランドではラスキアイスプッラの時期なので、ジャムとクリームを挟んだラスキアイスプッラをコーヒーと一緒に味わいながら歓談の時を持ちました。その後で、フィンランドのラスキアイネンの日の過ごし方やラスキアイネンから始まる受難節、イエス様が盲人を癒やす奇跡の業の出来事についてのお話がありました。今回も楽しい歓談のひと時を一緒に持ちました。

次回の手芸クラブは3月26日の予定です。詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。

手芸クラブのお話2025年2月

フィンランドのカレンダーでは来週の火曜日はラスキアイネンと呼ばれる日です。この時期になると多くの家庭ではラスキアイスプッラを作って美味しく味わいます。ラスキアイスプッラはちょうど今の期間にお店でも喫茶店でも一番多く販売されています。

ラスキアイネンの日とはどんな日でしょうか?ラスキアイネンは「下る」という意味で、季節がイースターに向かって下って行く最初の日のことです。その日からイースターの準備期間になります。イースターの準備期間のことを「受難節」と言います。イエス様の十字架の受難の前の40日間の期間です。イースターの日はクリスマスと違って毎年変わります。今年は4月20日でいつもより遅くなります。それで今年のラスキアイネンの日は遅くて来週の火曜日となります。

パンラスキアイスプッラは普通は1月頃から「受難節」の前までの期間に食べられます。フィンランドではラスキアイネンをどのように過ごすでしょうか。この日の習慣としてフィンランド人は雪の中をそりですべったり、美味しいラスキアイスプッラを味わったりします。大人も子供も寒い中そりで滑った後で暖かい部屋に入ってラスキアイスプッラを暖かい飲み物と一緒に楽しみます。それがラスキアイネンの雰囲気を作ります。私は子どもの時、兄弟たちとラスキアイネンの朝に誰が一番早くそりで滑るか競争したので、その日は学校に行く前に朝5時や6時に滑ったこともあります。

ラスキアイネンの日が過ぎたら受難節に入ります。フィンランド語では、この期間は「断食の期間」と呼ばれます。これは、昔カトリック教会の時代の言い方が今でも続いているからです。もちろんフィンランド人はこの期間に断食をしませんが、人によって好きなお菓子を食べないとかSNSを使うのを減らすとか生活に変化を与えることをする人もいます。受難節を少しでも意味のあるものにしようとするのです。

受難節は自分の生活を新しい視点で見るのに良い期間だと思います。生活の中には慣れることが多くていろんなことが当たり前のことになります。当たり前のことの中に何か問題や新しい事が起きても気がつかなくなってしまうかもしれません。その時、私たちは目があっても見えない人のようになってしまうかもしれません。しかし見えるようになるために時々助けが必要です。

ここで新約聖書の「ヨハネによる福音者7章」にある、イエス様が盲人をいやす奇跡の業の出来事を紹介したいと思います。イエス様は通りすがりに生まれつき目の見えない男の人を見かけられました。弟子たちはその男の人を見て、「この人が生まれつき目の見えないようになったのは、彼が罪を犯したからですか?彼の両親ですか?」と聞きました。そこでイエス様はお答えになりました。「本人が罪を犯したからでも、両親が犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」イエス様は唾で土をこねて目の見えない人の目にお塗りになりました。イエス様はその人に「シロアムという池に行って洗いなさい」と言いました。その人はイエス様が言われたことを疑わずにその通りにしました。すると目が見えるようになったのです。この人は目で見えるようになりましたが、それだけではなく心の目も開けかれました。それではイエス様が天の神様の子でこの世に送られた方であるとわかって信じるようになったのです。

CC0受難節は聖書を読むのに良い期間だと思います。聖書を読みイエス様を信じることには、私たちの心の目をあける力があります。生活の慣れて当たりまえになってしまったいろんなことの中で、天の神様の愛やみ心は何だろうかと考えるようになります。中には難しいこともあって、神様の愛やみ心をはっきり分からないかもしれません。でも、それは神様が私たちに祈りなさい、と勧めていることなのです。神さまの愛や御心がはっきり分かって大きな喜びに包まれたら、神様に感謝しなさい、ということなのです。

神さまが私たちの心の目を開くと、全ては新しい目で見ることが出来るようになります。