お気軽にお問い合わせください。 TEL 03-6233-7109 東京都新宿区早稲田鶴巻町511-4-106
主日礼拝説教 2025年5月11日 復活後第四主日
使徒言行録9章36節ー43節、黙示録7章9節ー17節、ヨハネ10章22ー30節
説教をYouTubeで見る。
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
本日の福音書の箇所でイエス様は自分の羊について述べます。「わたしの羊は私の声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。私は彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。」(10章27ー28節、後注1)。イエス様の羊は、彼の声を聞き分けて従い、永遠の命を与えられて、この世においても次に到来する世においても滅ぼそうとする者から完全に守られている。そのような羊とは誰のことか?それは言うまでもなく、イエス様を救い主と信じ洗礼を受けて神との結びつきを持って生きるキリスト信仰者のことです。
イエス様の「声を聞き分ける」とはどういうことか?死から復活して天に上げられたイエス様の肉声を私たちは直に聞くことはできません。しかし、イエス様が肉声で語った言葉は、弟子たちの目撃録・証言録となって福音書の中に収められています。もしイエス様を自分の救い主と信じないで、ただ単に歴史上の人物に留めて福音書を読むと、それはただの古代中近東の空想的歴史的な物語、または一種の道徳説話集にしかすぎなくなります。しかし、イエス様を自分の救い主と信じて読むと、それはこの自分を形作って命と人生を与えてくれた創造主の神が語りかける言葉になり、その神と自分との結びつきを取り戻してくれた救い主メシアの言葉になります。まさに彼が私たちに語りかける言葉になるのです。聖書の福音書以外の書物についても、使徒たちの手紙は復活の主が彼らに託したご自分の意思の集大成です。旧約聖書も、神のひとり子の受難と復活を通して人間に救いをもたらした神がどのような方であるかを前もって明らかにした書物群です。総じて聖書はイエス・キリストが至るところにいる書物です。聖書を繙くと、私たちはイエス様から直接言葉を聞くのと同じくらいに彼のことを知ることができるのです。
イエス様はまた、彼の羊つまりキリスト信仰者をみな知っていると言われます。10章3節で、羊飼いのイエス様は「自分の羊の名を呼んで連れ出す」と言っています。このようにイエス様は、私たち一人ひとりを名前で呼ぶくらいに私たちのことを個人的に知っているのです。ということは、私たちが日々何を考え、何をし、どんな状況に置かれて何を必要としているか全てご存知です。そして、何ものも彼の手から羊を奪い取ることはできないと言われる通り、信仰者を守る決意でいます。人生歩んでいろんな苦難や困難に遭遇するとキリスト信仰者と言えども、自分は本当に守られているのだろうかと疑いを持つことがあります。しかし、永遠の命を与えてくれた以上、その命が本当のことになるまで守り導くと言うのです。羊の方は彼の声を聞き分ける、つまり聖書の御言葉を心に留めてイエス様に従っていけば、永遠の命が本当のことになる地点までちゃんと送り届けてあげると約束しているのです。
本日のもう一つの聖書の日課、黙示録の7章では小羊の血で衣を白くされた大勢の群衆が登場します。天使はヨハネにこの光景を見せることで、イエス様がキリスト信仰者を日々守り導き目的地まで送り届けてくれることは間違いないと示しているのです。今日は、黙示録のこの個所を通してヨハネ福音書にあるイエス様の約束が本当であることを見ていこうと思います。
黙示録は、今ある天と地が消え去って新しい天と地が創造される時、その前後を通して何が起きるかについて記した預言書です。本日の箇所は、「あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に」立つという場面です。玉座というのは、天地創造の神が座しているところ、小羊というのは神のひとり子、復活の主イエス・キリストのことです。場所は明らかに天の御国です。時は、今ある天と地がまだある時でしょうか?それとも新しい天と地が創造された時でしょうか?黙示録という書物は時間の流れが複雑です。出来事の順序が前後しているようなことが沢山あります。異なる時間に起こることが同時に起こっているようなこともあります。なので、この群衆が出てくる場面は新しい天と地が創造される前のことか後のことかについてはここでは考えないことにします。
神の座する玉座と小羊の前に白い衣を身に着けた大群衆が集います。いろんな国民や民族の中から集まった、今風に言えばグローバルな集団です。彼らは何者か?天の長老がヨハネに教えます。「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである」(14節)。
「小羊の血」とは、言うまでもなくイエス様がゴルゴタの丘の十字架の上で流された血のことです。イエス様が流された血で衣が洗われて白くされた、というのはどういうことか?衣服を血なんかで洗ったら白くなるどころか赤くなってしまうではないか?
イエス様が流された血で衣が白くされるとは次のことです。イエス様は、人間が神から罪の罰を受けないで済むようにと身代わりの犠牲の生け贄になって血を流して死なれました。つまり、イエス様は私たちの罪をご自分の血を代償にして償って下さったのです。だから私たちは、彼こそ自分の救い主と信じて洗礼を受けると、彼の果たしてくれた罪の償いを自分のものにすることができます。そうすると罪を償ってもらったことになるので、神からは罪を赦された者とみなされてそれで神との結びつきを持ててこの世を生きられるようになります。イエス様が復活を遂げて切り開いてくれた永遠の命への道を私たちは神との結びつきを持って歩むことができるようになったのです。
私たちに償ってもらわないといけない罪があるなんて、身に覚えはないと言う人もいるかもしれません。しかし、私たちは神に造られた最初の人間の堕罪の出来事以来、神の意思に反しようとする性向を受け継ぐようになってしまったというのが聖書の観点です。神の意思を凝縮したものに十戒があります。人を傷つけるな、妬むな憎むな、真実を曲げるな、夫婦関係を守れ等々いろいろあります。私たちは、行為で反することはしなくても、心の中で反したり言葉やその他の表現の仕方でこれらに反することをしてしまいます。それで私たちは皆、神のみ前に立たされたら罪を持つ者なのです。
聖書はそのような罪は洗い落とさねばならない汚れであると言います。例えばゼカリヤ3章に汚れた衣が人間の罪を表わすという比喩があります。天使が大祭司ヨシュアから汚れた衣を脱がせ、天使はそれでヨシュアから罪を取り去ったと言います(イザヤ1章18節も参照のこと)。生け贄の血が清めの役割を果たすことについては、モーセがイスラエルの民を率いてエジプトを脱出してシナイ半島の荒れ野にて神と契約を結ぶ時、神聖な神の面前に出ても大丈夫なように雄牛の血を民に振りかけたという出来事があります(出エジプト24章8節)。エルサレムに神殿が建設されてから後は、民が個人的な罪や国民的な罪の償いのために動物の生け贄の血を捧げるということが普通に行われるようになりました(レビ記17章11節)。
しかしながら、動物の生け贄の血で本当に罪が償われるのか、本当に神の御前に立たされてやましいところがない、潔癖だと言える者になれるのかどうかについて意外な事実が隠されていました。生け贄の血にせよ、その他の罪の償いや清めの定めにせよ、それらは実は真の罪の償い、清めの予行演習のようなものにすぎなかったのです。まだ本番ではなかったのです。「ヘブライ人への手紙」9章で、エルサレムの神殿やそこでの礼拝儀式は「まことのものの写しにすぎない」(23節)と言われています。「まことのもの」が来たら無用になると言うのです。神殿では罪の償いのために生け贄の捧げを繰り返し繰り返し行っていました。ところが、一回限りの犠牲で全ての人間の罪を未来永劫にわたって償うという、とてつもない生け贄が捧げられたのです。それが、神の神聖なひとり子、イエス様の十字架の死だったのです。
こうしてイエス様の犠牲のおかげで神から罪を赦されたと見てもらえるようになった人は、かの日に神のみ前に立つことになっても、私はイエス様を救い主と信じて生きてきました、神聖なあなたの前で私がすがれるのはイエス様しかいません、と言えば、神は、わかっている、心配はいらない、とおっしゃって下さるのです。このように人間が神聖な神のみ前に立たされても大丈夫でいられるのは、神の目に相応しい者になれているからです。ただし、それは私たちが自分の力で相応しい者になれたということではありません。イエス様が果たしてくれた償いと、それをその通りですと受け入れる信仰のおかげでなれたのです。ヘブライ9章で、動物の生け贄の血では人間の良心までは清められない、せいぜいみかけの清めにすぎない、イエス様の血こそ人間の良心を死んだ業から清めると言われます(9~10、14節)。ガラテア3章27節では、洗礼を受けてキリストに結ばれた者は皆、キリストを着ていると言われます。ローマ13章14節では、洗礼の後でも残存する罪と戦うためにキリストをしっかり身に纏うことが大事だと言われます。
このようにキリスト信仰者とは、イエス様の血によって罪の汚れを洗い落とされて、イエス様という神聖な衣を頭から被せられて、それで神の目に相応しいとされている者です。
白い衣を着た群衆というのは、イエス様の血で衣を白くされることを自分の事にしたキリスト信仰者のことです。彼らは「大きな苦難を通って来た者」です(14節)。「大きな苦難」とは、黙示録が書かれた背景を考えると迫害を指すと考えられます。しかし、迫害以外にも「大きな苦難」はあります。ここで注意しなければならないことは、迫害による殉教にしろ、何か別の苦難のために命を落としたにしろ、神の御許に迎え入れられるのは、信仰者自身が流した血のご褒美・見返りではないということです。彼らの衣が白いのはイエス様の流した血のおかげです。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者は誰でも同じように白い衣を纏えるので、自分からそれを手放さない限りみな同じように神の御許に迎え入れられるのです。
この衣を白く保ち、手放さずにしっかり纏い続けるにはどうしたらよいかということについて考えてみたく思います。
何が白い衣を汚し、それを手放させようとするのか、二つのことが考えられます。一つは、罪が頭をもたげてしまうということがあります。もう一つは、自分の罪が原因ではないのに苦難や困難に陥ってしまうということがあります。
まず、白い衣を汚そうとしたり手放させようと力はまさに罪の力です。私たちは、イエス様の果たされた私たちの罪の償いと彼を救い主と信じる信仰によって、罪を洗い落され罪の支配から解放されました。にもかかわらず、神の意思に反するような思いや考えを持ってしまうことがあります。言葉に出してしまうこともあります。最悪の場合は行いに出してしまうこともあります。これは、イエス様の白い衣を頭から被せられても、内側にはまだ罪が残っていることによります。罪は十字架の上でイエス様と一緒に断罪されたのだから、本当は人間と神との結びつきを失わせる力がなくなっています。それでもまだ力があるかのように思わせようと信仰者を惑わします。どうしたら惑わされないですむか、それはもう、罪が頭をもたげたら、それを罪として認め、本気で跳ねのけるしかありません。心の目をゴルゴタの十字架に向けて、罪はあそこで断罪されたことを思い出します。それを思い出されてしまった罪は地面にたたきつけられます。その瞬間、衣を手放させようとした強風はやみます。神は私たちがこのように衣をしっかり纏っていることを見て、よしとされるのです。その時、私たちは汚れがついてしまったのではと心配した衣は以前と変わらぬ白さを持って輝いていることに気づきます。
そもそも、イエス様の白い衣は汚れなど付着することは不可能で、罪が私たちの目を惑わして汚れが付着しているように見せかけて、纏っていても意味がないと私たちをあきらめムードにして手放させようとしているのです。イエス様が果たした償いの業と彼が纏わさせてくれた白い衣は、私たちに罪が頭をもたげようがもたげまいが全く無関係に同じ力強さ同じ輝きを誇っているのです。
もう一つ、白い衣を手放させようとするものに、私たちが自分自身の罪が原因ではないのに苦難や逆境に陥ることがあります。難しいことですが、一つ忘れてならないことは、イエス様が果たした償いの業と彼が私たちに纏ってくれた衣に力がなくて、私たちが苦難と困難に陥るのを阻止できないということではありません。
「主はわたしの羊飼い、わたしには何も欠けることがない」ではじまる詩篇23篇の4節に「死の陰の谷を行くときもわたしは災いを恐れない。あながた共にいてくださる」と謳われます。主がいつも共にいてくださるような人でも、死の陰の谷のような暗い時期を通り抜けねばならないことがある、災いが降りかかる時があると言うのです。主がともにいれば苦難も困難もないとは言っていません。そうではなくて、苦難や困難が来ても、主は見放さずに、しっかり共にいて共に苦難の時期を一緒に最後まで通り抜けて下さる、だから私は恐れない、と言うのです。実に、洗礼の時に築かれた神との結びつきは、私たちが罪の赦しの恵みに留まり、聖書の御言葉から絶えずイエス様の声を聞き、聖餐に与ることをしていれば、何があっても失われず保たれているのです。
天の長老は「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである」と言いました。新共同訳では「彼らは大きな苦難を通って来た者」、「通って来た」と過去の形になっています。ギリシャ語の原文をみるとなぜか「苦難の中から来る者」、「来る」と現在形になっています(後注2)。はて、群衆は一通り苦難を通って来た後で天の神のみ前にいるのだから「通って来た者」と言った方が正確ではないか?(後注2)なぜ「苦難を通って来た者」ではなくて、「現在、苦難の中から来る者」なのか?
これは、天の長老とヨハネの視点が将来のところから今のこの世に戻って、今この世で苦難を通っている人たちを念頭に置いているからです。ヨハネが目の前で見せられている終末の出来事は遠い将来のことで、そこから過去を振り返って見れば「苦難を通って来た者」になります。ところが現在形で「今、苦難の中から来ている者」と言うと、ヨハネの同時代のこの世で苦難を通っている人を指すことになります。加えて、ヨハネの後の時代に黙示録を手にする人みんなにとって自分の同時代の苦難を通っている人を指すことになります。このように、この箇所を読んだり聞いたりする人は、自分が今通過している苦難の現実のすぐ反対側には神のみ前に群衆が集まっている現実があって、二つの現実が紙一重のようになっていることに気づくのです。衣を白くしてくれた小羊は私たちを命の水の源に連れて行ってくれる、そこは太陽の灼熱のような苦難や困難はなく、神が全ての涙を拭って下さるところである、そのような場所が今の現実のすぐ反対側にもうあるのです。復活の主が必ずそこへ連れて行って下さるのです。まさに、ヨハネ福音書の日課の個所のイエス様の言葉、私たちに永遠の命を与え、私たちは彼の手のうちに守られ何ものも私たちを彼の手から奪い取ることはできないというのは真にその通りなのです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。 アーメン
(後注1)ヨハネ10章29章はとても厄介な個所なので今回は扱いませんでした。
新共同訳では「わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり」となっていて、偉大なものは父なる神がイエス様に与えたものです。
フィンランド語訳では「羊たちを私に与えてくれた父は他の何よりも偉大であり」となっていて、偉大なものは父なる神です。
さあ、偉大なものは神なのか?神が与えたものなのか?英語訳(NIV)とドイツ語訳(ルター訳)はフィンランド語訳と同じです。スウェーデン語訳は新共同訳と同じです。この違いの原因は、ギリシャ語の原文がどっちにも取られるものだからです。私としては、「全てのものより偉大なもの」と言ったらやはり神が来るのが自然ではないかと思います。少し時代が下ったギリシャ語の写本もそのように修正(?)を施しています。
(後注2)13節の長老の質問では、これらの者は「どこから来たのか?」と過去の形になっていることに注意。ギリシャ語原文もそうです。それなので、答え方も分詞の現在形ερχομενοιでなく、アオリストのελθοντες(現在完了形ελελυθοτες?)の方が普通だったら筋が通るのではないかと思いました。だからここは普通ではないことがあるのです。