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主日礼拝説教 2025年5月4日 復活節第三主日
使徒言行録9章1節-20節
黙示録5章11節-14節
ヨハネ21章1-19節
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
(なんだか説教題は文系の学生の卒論のテーマみたいになってしまいましたが、内容的にはまさしくそれなのでこの説教題でいきます。)
本日の福音書の日課は復活されたイエス様がガリラヤ湖にて弟子たちの前に現れた出来事です。ペトロと他の6人の弟子たちがガリラヤ湖で夜通し漁をしましたが、何も獲れませんでした。体も疲れ、お腹も空いて、がっかりぐったりの状態だったでしょう。 そうしているうちに夜が明け始めました。その時、イエス様が湖岸に現れました。弟子たちのいる舟と湖岸の間は200ペキス、今の距離にして86メートル程です。弟子たちは現れた男に気づきますが、初めはイエス様だとはわかりません。それが、イエス様とのやり取りを通してわかるようになります。
まず、イエス様は弟子たちに「子たちよ、何か食べ物があるか」と聞きます。「子たちよ」というのはギリシャ語原文で大人の男たちに呼びかける言い方です。それで、新共同訳のように直訳せずに「君たち!」とか「お前たち!」というのが正確でしょう。「何か食べ物があるか」というのも、実はギリシャ語原文では、「ありません」という否定の答えを期待する疑問文です(μηで始まる)。なので、「君たちには何も食べる物がないんだろ?」と訳さなければなりません。「ないんだろ?」と聞かれて弟子たちは「そうだよ。ないんだよ」と答えたのでした。答えを受けてイエス様は「それじゃ、舟の右側に網を打ってみなさい。そうすれば見つかるから」とアドバイスします。
このやりとりから推測するに、弟子たちは、かつて主が群衆を従えていた時と違って、今は処刑された男の仲間だと知られたくない状況になってしまった。以前のように気前よく食事の提供も受けられなくなってしまい、自分たちで食べ物を探すしかない状況になってしまった。彼らは空腹だったでしょう。イエス様は、舟の右側に網を打てば食べる物が見つかると助言しました。そして、見つかるどころか、溢れかえるくらいでてきたのです。
まさにこの時、弟子たちは、かつてガリラヤ湖岸の町ゲネサレトで起きた出来事が脳裏に蘇ったでしょう。ルカ5章1ー11節に記述されている出来事です。夜通し漁をしたにもかかわらず何も獲れなかったと言うペトロにイエス様は沖に漕いで網を下ろしてみなさいと命じました。そうしたら舟が沈まんばかりの魚がかかったという出来事です。福音書の記者ヨハネが、あれは主だと叫びました。それを聞くや否やペトロは一足先に復活の主に会おうと湖に飛び込もうとします。が、自分が裸同然であることに気づきます。これでは失礼にあたると思ったのか、慌てて服を着てそれで飛び込んでしまいました。ずぶ濡れになってしまうのに。ペトロらしい行動様式ではないでしょうか?
こうして弟子たち全員が岸にあがると、イエス様は炭火をおこしてすでに魚を焼き始めていました。パンもありました。イエス様は、「さあ、来て、朝食をとりなさい」とねぎらいます。復活の主に再び会えただけでなく、その主から今まさに必要としているものを準備してもらって、弟子たちの喜びはいかほどのものであったでしょう。このように、肉体的、精神的または霊的に疲労困窮した者をねぎらい励まし力づけることはイエス様の御心です。マタイ11章28節で、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と言われる通りです。
食べ終わった後でイエス様がペトロに「他の誰よりも私を愛しているか?」と聞きます。ペトロは「愛しています」と答えますが、三度同じことを聞かれたので、信じてもらえないと思って悲しくなります。イエス様が三度聞いたのは、彼が裁判にかけられた時ペトロが群衆の前でイエス様のことなど知らないと三度言ってしまったことに対応すると言われます。「あなたを愛しています」と三回言わせることで、三度拒否したことを赦す意味があると言われます。それは表面的な意味です。本当はもっと深い意味があります。
イエス様が「私を愛しているか?」と聞く時のギリシャ語の動詞と、ペトロが「愛しています」と答える時の動詞が違っています。イエス様が聞く時の動詞はアガパオーαγαπαωですが、ペトロが答える時の動詞はフィレオ―φιλεωです。新共同訳では両方とも「愛する」と訳しているのでこの区別が見えません。二回目のイエス様の質問とペトロの答えも同じです。ところが三回目になると、イエス様は突然動詞を変えてペトロと同じフィレオ―で聞きます。そしてペトロはフィレオ―で答えます。このことを少し見ていきましょう(後注)。
「愛」とか「愛する」という言葉はいろんな意味が含まれるので厄介です。古代ギリシャ語は、異なる愛の形を異なる言葉で言い表していました。男女間の性愛はエロースερωςと言っていました。兄弟愛とか同志愛とでも言うべきものはフィラデルフィアφιλαδελφια、愛する対象が兄弟や同志より広がって人間愛を意味する時はフィラントローピアφιλανθρωπιαという言葉がありました。ペトロの「愛しています」フィレオーという動詞は、このフィラデルフィア、フィラントローピア兄弟愛、同志愛、人間愛に関係する愛です。
それでは、イエス様が「愛しているか」と聞いた時のアガパオーはどんな愛でしょうか?ヨハネ15章13節でイエス様はこう言います。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」ここでは、愛は名詞のアガペーαγαπηですが、動詞のアガパオーと同じ愛の形です。アガパオー、アガペーの愛は、自分の命を犠牲にすることも厭わない愛ということになります。
そう言うと、兄弟愛、同志愛、人間愛にも大切な人のために自分を犠牲にすることがあるのではないか、と言われるかもしれません。ここは、日本語の言葉に囚われず、もう一度ギリシャ語の言葉を見てみます。兄弟愛、同志愛のフィラデルフィアと人間愛のフィラントローピアは、新約聖書の中での使われ方を見ると、親切とか思いやりとか友好的とか敬意を払うとか、そういう人間同士が平和な関係でいられる態度ないし行動様式の意味で使われています(ローマ12章10節、使徒言行録28章2節、形容詞として第一ペトロ3章8節、副詞として使徒言行録27章3節、ただしテトス3章4節は神のものとして)。それなので、それらには自己犠牲を厭わない位の強い愛はないと思います。
それで、親が子供の命を守るために自分を犠牲にするということが起これば、それはアガペーの愛になります。聖書は、天地創造の神の人間に対する愛はまさにそういう愛だと教えます。神の愛が自己犠牲をも厭わない愛ならば、神は人間を何の危険から守るためにどんな自己犠牲を払ったのでしょうか?「ヨハネの第一の手紙」4章10節で次のように言われています。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」ここで言われる「愛」、「愛する」はまさにアガペー、アガパオーです。その愛は、人間が神との結びつきを持てないようにしていたもの、人間がこの世を去った後で神の御許に迎え入れられないようにしていたもの、そうした妨げを神がひとり子を犠牲にして全て取っ払って下さったということです。その犠牲がゴルゴタの十字架で起こったのでした。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、イエス様が果たしてくれた罪の償いが私たちの償いになり、私たちは神から罪を赦された者と見なされ、こうして神との結びつきを持ってこの世を生きられるようになります。この世を去る時も神との結びつきを持ったまま去り、復活の日に目覚めさせられて神の御許に永遠に迎え入れられるようになるのです。
イエス様とペトロの対話に戻ります。イエス様はペトロに「愛しているか」と聞いた時、神が人間に示したような深い愛で愛しているかと聞いたのです。それに対してペトロは兄弟愛、同志愛、人間愛のレベルの愛で愛していますと答えたのです。ペトロは、他の弟子が見捨てても私はあなたを見捨てません!などと威勢の良いことを言っておきながらいざとなると見捨ててしまいました。自己犠牲からほど遠い自分を露呈してしまった手前、あまり偉そうなことは言えません。そんなジレンマが神的な愛を避けて人間的な愛で答えたことに窺われます。イエス様はペトロに「お前は神的な愛で私を愛するか?」と聞き、ペトロは「人間的な愛で愛しています」と答えたのです。イエス様はもう一度同じ質問をし、ペトロは同じ答えをします。そして三度目の質問。今度はイエス様は神的な愛アガパオーで聞かず、ペトロと同じ人間的な愛フィレオーで聞きます。「じゃ、お前は人間的な愛だったら私を愛するんだな」とたたみかけたわけです。ペトロの反応は、イエス様!私がフィレオーで愛することも疑うのですか?あんまりです!という様子が窺われます。
ここでイエス様がなぜ三回聞いたのかを考えてみましょう。ペトロは三回知らないと言ったので、一回の答えでは信用できなかったというのは本当でしょうか?実はイエス様は既に一回目の答えでペトロを信用していたのです。どうしてかというと、ペトロの答えの後で「わたしの小羊を飼いなさい」と言ったからです。イエス様の小羊、つまりイエス様を救い主と信じる者たちが神との結びつきに留まって復活の日を目指してこの世を進んでいけるように彼らを守り導きなさい、ということです。つまり牧会をしなさいということです。「わたしの小羊」と言うように、牧会者は信徒をイエス様から預かって牧会するのですから、その責任はとても大きいです。ペトロにそのような責任を委ねたのです。もし、信用していなかったら、こんな大きな責任は委ねなかったでしょう。三回繰り返すことで、イエス様を愛することは牧会の基礎であるということを心に刻みつけたのです。
それでは、私たちがイエス様を愛する愛とはどんな愛でしょうか?イエス様は人間のために自己犠牲の重荷を背負われました。私たちがイエス様のために自己犠牲することがあるのでしょうか?ここでヨハネ14章21節と23節でイエス様が、彼を愛する人は彼の掟、彼の教えたことを守る人であると言っていることに注目します。イエス様の掟、イエス様が守るようにと教えたことは何か?ヨハネ13章34節と15章12節のイエス様の言葉に凝縮されています。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これが私の掟である」。イエス様には自分を犠牲にしてまで神と人間の結びつきを回復してあげようと駆り立てた愛がありました。その愛で互いに愛し合いなさいと言うのです。お互いをそういうふうに愛することができれば、イエス様を愛することになると言うのです。
それではイエス様を自己犠牲に駆り立てた愛で互いに愛するとはどういうことでしょうか?それは、イエス様のおかげで神との結びつきを持てて生きられるようになったのだから今度は、隣人も同じように神との結びつきを持ててこの世を生きられるように、そしてこの世を去ったら今度は復活させられて神の御許に迎え入れられるようにすることです。
そこで、もし隣人がキリスト信仰者ならば、その人が既に持つ神との結びつきを失わないように支え助けてあげることです。キリスト信仰者が苦難や困難に陥ることはしょっちゅうです。それで信仰者を苦難や困難から助ける時は、神との結びつきがしっかり保たれるようにするということが視野に入ります。
イエス様が互いに愛し合いなさいと言ったのは弟子たちだったので、隣人がキリスト信仰者でない場合は関係ないような感じがしてしまいますが、よく考えるとそうではありません。天の父なるみ神は、イエス様の弟子たちだけではなくて、全ての人間が神との結びつきを回復できるようにとイエス様をこの世に贈られて十字架の死に引き渡したのです。それなので、隣人が信仰者でない場合でも苦難や困難から助ける時は、神との結びつきを持てるようにすることが視野に入ります。信仰者の場合は結びつきを「保てるようにする」ですが、信仰者でない場合は「持てるようにする」のです。いずれの場合も助ける時は自分の持てる力や時間や財産を使わなければならないことは覚悟に入れる必要があるでしょう。宗教改革のルターは、財産や命を失う可能性すらあると言っているほどです。これが、イエス様に対する自己犠牲の愛ということです。
ペトロの三回目の答えの後でイエス様は謎めいたことを言います。「はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」それについてこの福音書を書いたヨハネは少し不気味な解説を付け加えます。「ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。」このイエス様の言葉を見てみましょう。
キリスト教会の古い言い伝えによれば、ペトロは西暦63ないし64年頃にローマで殉教の死を遂げました。ちょうどキリスト教徒迫害で有名な皇帝ネロの時代です。ペトロは十字架にかけられる時、私は主と同じ死に方をする値打ちはないと兵隊たちに言ったところ、じゃ、これで満足だろう、と頭を下にして逆さまに十字架にかけられたということです。イエス様が「お前は年を取った時、両手を広げ、別の者がお前を縛って行きたくないところに連れて行く」と言ったのは、後世の人から見たらペトロが殉教の死を遂げたことを意味すると事後的にわかります。まだ出来事が起きる前の人たちにとっては、なんのことかわからなかったでしょう。ヨハネは福音書を書いていた時に既にペトロの処刑を目撃していたか、またはその知らせを耳にしたのでしょう。それで、ああ、あの時ガリラヤ湖畔で復活の主がペトロに言ったことはその通りになったのだと事後的にわかって、それで解説をしたのです。
ペトロの殉教は神の栄光を現すものであるとヨハネは解説しました。これは私たちを重苦しい気持ちにさせます。神の栄光を現すというのはこれくらいのことをすることなのかと。日々平穏無事に過ごしていたら、それは神の栄光を現す生き方ではないのかと。ここで注意しなければならないのは、天の父なるみ神の栄光や栄誉というものは、被造物である私たちの業績や達成に左右されないということです。私たちの業績が多かろうが少なかろうがそんなことに関係なく、神は超然として既に栄光と栄誉に満ちています。それならば、私たちが神の栄光を現すというのはどういうことでしょうか?
それは、私たちが自分の言葉や行いや生き方をもって、神の動かすことのできない真理を人前で証しすることです。つまり、あなたは何者かと聞かれたら、私は次の三つの者であると答えることです。まず第一に、私は天と地とそこに収まる全てのものを造られた神に造られた者であると答えることです。第二に、私はその神のみ前に立たされることになっても、神のひとり子イエス・キリストの犠牲のおかげで罪を赦されて大丈夫でいられるようになった者であると答えることです。そして第三には、私はこの世の人生の向こうで復活の日に神の御許に永遠に迎え入れられるところに向かう道を今歩んでいる者であると答えることです。以上の三つを胸をはって答えることです。何も聞かれなければ、そのような者として胸をはって生きるだけです。
このような神の真理を胸張って証しするように生きようとすると、いろんな反対に遭遇します。というのは、この世というのは本質的に造り主を忘れさせる自分中心主義と、この世を超えた永遠を忘れさせるこの世中心主義に染まっているからです。翻って、福音というものは、まさにこの世を超える永遠と万物の造り主に目を向けさせるものです。従って、この世が福音と福音に生きる者に敵対するのは避けられません。それで、もし神の真理など取り下げないと命はないぞという迫害の時代だったらそれこそ殉教しかないでしょう。しかし、自分は造り主に造られた者であるということをどうして取り下げられましょうか?自分は造り主が送られたひとり子の犠牲によって罪が償われて新しくされたということをどうして取り下げられましょうか?自分は神に見守られてこの世を生き御許に迎え入れられる道を今歩んでいるということをどうして取り下げられましょうか?ペトロは、「取り下げない」という生き方をしたら一巻の終わりという時代状況にあって、それを貫いてこの世の人生を終えたのです。そうすることで神の真理を証しし、神の栄光を現したのです。
私たちの生きている時代状況はどうでしょうか?神の真理に従って生きようとしたら、どんなことに遭遇するでしょうか?良心や信条の自由が保障されている現代社会ならば何も問題なく平穏無事でしょうか?人間はどこから来てどこに行くのかという根源的な問いについて、キリスト信仰と違う見解が社会の多数派を占めていれば、いろいろな軋轢が出て来るでしょう。多数派にいれば考えなくて済むようなことを信仰者は沢山考えなければならなくなるでしょう。でも、そういう余計なことを抱え込むことが現代社会では神の栄光を現わすことになると思います。信仰者が沈黙していたら多数派は何も気づかず、みんな同じ考えだと勘違いしてしまいます。それなので言葉や行いや生き方を持って証しをすることは良心・信条の自由が存続するためにも大事です。
最後に、本日の使徒言行録の日課の個所で復活の主がパウロに述べた言葉の中に信仰者にとって励みになるものがあるのでそれを述べておきます。パウロが声の主が誰であるかを尋ねた時、イエス様は「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」(9章5節)と答えました。イエス様を救い主と信じる者が苦難や困難に陥った時、イエス様はそれを自分のことのように受け止めるということです。聖書を信仰をもって読んだり聞いたりする時、また聖餐を受ける時、目には見えなくともイエス様は臨在します。臨在するというのは、ただボーっと突っ立っていることではありません。私たちの境遇や状況を自分事として受け止めて事を動かそうと影響力を及ぼすことです。このことが分かれば、私たちの祈りは必ず聞き遂げられて、必ず脱出口や解決に導いて下さると確信できます。
今日の福音書の個所でも、イエス様は弟子たちに食べる物がないことを知っていました(「君たちには何も食べる物がないんだろ?」)。まさにその時に現れました。そしてアドバイスし、労って力づけて下さいました。このように主は、必ず助けに来て下さり、私たちが力を取り戻して新しいスタートを切れるよう力づけて下さるのです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。 アーメン
(後注)イエス様とペトロのやりとりはアラム語でなされていたでしょう。もしそうなら、この箇所は、出来事を目撃した使徒ヨハネが後日ギリシャ語に訳して記したものです。イエス様とペトロがアラム語でどんな動詞を使い合っていたかはもう知りようがありませんが、ヨハネは二人のやりとりのニュアンスをしっかり捉えて福音書にあるように訳したのだと考えればよいでしょう。そもそも使徒とは、目撃者、証言者として働くべくイエス様ご自身が選んだ者たちです。それゆえ、そうした使徒たちを信頼し、彼らの証言やその伝承を信じ、彼らの教えを守ることはキリスト信仰の基本です。
聖餐式