2025年4月27日(日)復活節第二主日 礼拝 説教 木村 長政 名誉牧師 (日本福音ルーテル教会)

私たちの父なる神と、主イエス・キリストから恵みと平安があなた方にあるように。 アーメン

2025427日(日)

聖書:ヨハネ福音書201923

説教題:「聖霊を受けよ」

先週の礼拝はイースターでした。イエス様が十字架の死を遂げ三日目に蘇えられた。今日の聖書ではイエス様が蘇られて弟子たちはどうなったでしょうか!と言う弟子たちが聖霊を受けて変身して行く出来事です。あの漁師であった弟子たちは三年の間いつもイエス様と寝食を共にして、ローマ帝国の支配やユダヤ教祭司連との戦いの連続でした。イエス様は神の力を持って数々の奇跡の業を起こして多くの群衆を助けて行かれた。そうして群集も弟子たちもこのイエス様をメシアとして仰いでいった。そのイエス様は十字架の処刑によって死んでしまわれた。これからどうしていったらいいんだ、途方にくれ絶望し、どん底に落とされ、今度は自分も殺されるかも知れない、という恐怖の中で、あのイエス様と最後の晩餐を過ごした二階家の秘密の場所に集まって全部の戸を閉め密かに隠れて過ごしたのです。そんな彼らの真ん中に復活されたイエス様が突然現れたのです。弟子たちはもう吃驚仰天でしょう。あの十字架で死んでしまったイエス様が生きたままの姿で蘇って現れたのです。幽霊ではないのです、生きた姿です。それをはっきりさせるため、わざわざ弟子たちの前で掌と脇腹をお見せになって「安かれ」と言われた、彼らは主を見て喜んだ。イエス様の十字架処刑でおわれた傷跡である掌と脇腹を彼らは見た。十字架によって死んでしまわれた主イエス様が蘇って現れる。人間が死んで三日経って生き返って目の前に見ている。どうしてそんな事があり得ようかなどの理屈ではないのです。いま見ているイエス様、「あー、確かに生きておられるイエス様だ!」と喜んだだけではない。彼らが主を見て喜んだ、とヨハネが表現している中にはこの私の罪を十字架の死によって全てを購って下さって復活して生きておられるイエス様を「私たちの救い主である主として」喜んだのです。イエス様は1621節以下のところで既にこの「喜び」を予告しておられたのです。こういう表現です。「女が子を産む場合にはその時が来た、というので不安を感じる。しかし、子を産んでしまえばもはやその苦しみを覚えてはいない。一人の人がこの世に生まれたという喜びがあるためである。このようにあなた方も今は不安がある、しかし、私は再びあなた方と会うであろう。その喜びをあなた方から取り去る者はいない。」ここで大事な事は、今弟子たちの目の前におられるイエス様はあの三年間イエス様と一緒に過ごした肉体の身体の、この世にあった時のイエス様とは全く違う、死を超えたところの復活の主としておられる。外から見たお姿は同じように見えたでしょう。弟子たちは今や復活された主にお会いして、もう喜びいっぱいに満ちているのです。そこでイエス様はこの弟子たちに、21節~23節に記されている、非常に大事な使命を授けていかれます。「安かれ」「父が私をお遣わしになったように私もあなた方を遣わす」ここに「安かれ」と言われたヘブル語で「シャローム」と言う言葉はイスラエルの人々が挨拶の言葉として使いますが、ここでのイエス様が言われる「シャーロム」は全く違う意味があります。それは「大事な事を啓示なさる」と言う深い意味を持っています。メシアであるイエス様だけが与える平安と言う事です。イエス様はヨハネ1427節で、この「平安」を約束しておられました。「私は平安をあなた方に残して行く。私の平安をあなた方に与える。私が与えるのは世が与えるようなものとは異なる。あなた方は心を騒がせるな。また怖じけるな。」

このメシア的平安と喜びは決してこの世の喜びや平安のように休憩して安らぐ、という安らぎではない。むしろ「父が私をお遣わしになったように、私もあなた方を遣わす。」と言う一つの使命を与える平安であります。ユダヤ人を恐れていた弟子たちに、死に打ち勝ち給うた「メシアの平安と喜び」とを授けるから、さあ!出て行きなさい!と、メシアは呼びかけておられるのです。私たちは、死に打ち勝ち給うた復活の主が共におられる、そして安らぎと喜びに満ちた使命に生きているだろうか。ここで私たちはヨハネ1633節で言っておられるイエス様の言葉を覚えたいのです。「あなた方は、この世では悩みがある。しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている。」私たちが教会の礼拝で復活されたイエス様と出会っているなら、それは弟子たちと同じように私たちにもこの世にあって遣わされている、ということです。イエス様は言われた。「父が私をお遣わしになったように、私もあなた方を遣わす」と弟子たちに言われました。この弟子たちにはイエス様と共に暮らした一人の弟子だけでなく、エマオで復活のイエス様に会ってエレサレムに戻ってきた二人を含め、他にも多くの弟子たちがいた。そして更に現代において教会で復活の主に出会っているあなた方全ての者にイエス様は使命を授けておられるのです。

神から遣わされた神のみ子、イエス・キリストはあなた方の罪を十字架の死を持って購って下さった。この主イエス様は復活してあなたの救い主となって下さったのです。この福音を宣べ伝えて行く使命を負って行くのに神様からのお力を与えられねばならない。だから、「聖霊を受けなさい。」そう言って彼らに息を吹きかけられたのです。「聖霊を受けよ!」この時、復活のイエス様が弟子たちに息を吹きかけて授けられた聖霊はどういうものであったでしょうか。復活されたイエス様が弟子たちの真ん中に、スーッと姿を現された、この時の弟子たちはユダヤ人やローマ帝国の軍隊を恐れ暗闇の中で息を潜め、精神的にも絶望の内に最早死んでいた状態です。恐怖の暗闇の中に霊的には最早死んでいたのであります。その彼らの上に蘇り給うた主イエス様から命の息を吹き込まれて聖霊を授けられ新しく造られた者とされ生きる者とされたのです。死んでいたも同然の弟子たちは、ここに新たに命を与えられ生きた者とされたのです。

ルカが使徒言行録で記していますように、その後五十日の間彼らはひたすら祈り 合い、助け合い、愛し合って一団となって生活した、後、当時の世界からエレサレム神殿に多くの人々が礼拝のため集まってきた、その大勢の中であのペンテコステの聖霊が本格的に爆発して弟子たちの上に下ったのであります。こうして弟子たちはペンテコステに下った更に大きな聖霊の力を受けて新たに福音伝道の働きへと押出されて行ったのあります。これら全ての前準備としてあの復活された日にイエス様は前もって聖霊を与え生きる者とされ、23節には更に弟子たちに新たな権限を授ける言葉を言われたのです。「あなた方が許す罪は誰の罪でも許され、あなた方が許さずにおく罪はそのまま残るであろう」。これは大変な特権を約束された言葉であります。彼らがやがて全世界へと教会形成をなして行く中で教会の規定を設ける時に厳粛な、また大変光栄ある約束を与えられているのであります。

マルコ福音書1616節には、こうあります。「信じてバプテスマを受ける者は救われる。しかし不信仰の者には罪に定められる」。23節で弟子たちに言われた言葉は神様からの重大な神の権限です。人間のどうにもならない罪を許すか、許さないかの権限であります。罪の許しの特権を神に代わって宣言する力であります。ですから神の特権は教会の手に委ねられていくわけです。教会は至るところでイエス・キリストのなさった業と教えを宣べ伝えて行かねばならない。また教会はイエス・キリストを必要としてるのです。遣わされた人にはその遣わした人が必要なのです。教会はイエス・キリスト様こそが救い主である、と言う使信、つまり福音の裏打ちをしてくれる神の力、権限が仏要で必要であります。

疑いや困難に出会う時に助けが必要であるように、教会は主イエス様の助けを必要としているのであります。大事な事は教会は自分自身の福音を伝えようとしてはならない。教会は自分勝手な人間の作り上げた方策に従おうとしてはならない。教会に委ねられている権限を誤った方向に利用とした時、その責任は重いということです。

英国の聖書学者ウイリアム・バークレイはヨハネ20章の23節のイエス様が言われた言葉は極めて重い、深い意味を持っていると言われています。この言葉の意味を理解するには十分な注意を要する、と言っています。そして更に言っています。一つの事だけは確かである、それは誰も他人の罪を許す権限は無い、と言う事である。だが同様に確かな事がもう一つある。それは、人間に対する神の許しの事実とその宣言及び使信を伝えると言う事は教会の大いなる特権だ、と言う事であります。ある学者はこうも言っています。聖霊によってキリストに連なる教会はこの世の人々との間にあってその教会の媒介者、また仲介者としての役割を果たす、ということである。しかし、それは教会が神から独立して罪の許しの権限を行使すると言う事ではない。この権限はあくまで神のみ属する。しかし、この神のもとに世の人々を導いてゆく媒介者としての役割を果たす限りにおいて教会の存在は実に決定的な重要性を持つものとなる。マタイ福音書1040節にはこうイエス様の言葉があります。「あなた方を受け入れる者は私を受け入れるのである。私を受け入れる者は、私をお遣わしになった方を受け入れるのである。」

ヨハネが書いている、この2023節のイエス様の言葉はヨハネ独特の表現で記されているのです。弟子たちは今後、イエス様のみ業と教えを全世界へと宣べ伝えて行かねばならない。この重大な使命を受け継いで行く弟子たちに与えられた権威と課題が「罪の許し」という一点に集中して語られているのであります。この事は極めて意味が深い。何故なら神から賜る「永遠の生命(いのち)」の恵みとはまさに「罪の許し」に他ならないからであります。

人知では、とうてい測り知ることの出来ない、神の平安があなた方の心と思いを

キリスト・イエスにあって守るように。  アーメン

新規の投稿
  • 2025年5月4日(日) 復活節第三主日 礼拝
    司式・説教 吉村博明 牧師 聖書日課 使徒言行緑9章1~6節、黙示録5章11~14節、ヨハネ21章1~19節 説教題 「現代日本における神の愛と栄光を表す生き方に関する一考察」 讃美歌 92、322、338、255、384 特別の祈り 全知全能の父なるみ神よ。 […もっと見る]
  • 歳時記
    杜若・カキツバタ・Kakitsubata <15 人は、そのよわいは草のごとく、その栄えは野の花にひとしい。 16 風がその上を過ぎると、うせて跡なく、その場所にきいても、もはやそれを知らない。 詩編103:15・16> […もっと見る]
  • 牧師の週報コラム
     ルターの聖句の説き明かし(フィンランドの聖書日課 「神の子らへのマンナ」4月17日の日課 「その一人の方は全ての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。」(第二コリント5章15節) […もっと見る]
  • スオミ教会・フィンランド家庭料理クラブのご案内
    5月の料理クラブは10日(土)13時から開催します。 今フィンランドでも春の季節が深まってきています!5月の料理クラブではフィンランドの伝統的なドーナツ「ムンキ」を作ります。表面はサクサク、中身はソフトな甘いムンキの秘密はプッラの生地で作ること。 […もっと見る]
  • 手芸クラブの報告
    4月の手芸クラブは23日に開催しました。暖かい雨の日で梅雨を思わせる陽気でしたが、今は色んな花が咲いているので、とても美しい季節です。 今回の作品は前回に続いてバンド織りのキーホルダーです。はじめに前回と同じように参加者がキーホルダーの毛糸の色を選びます。選んだ毛糸でどんなキーホルダーが出来るか楽しみです。 […もっと見る]
  • 子ども料理教室の報告
    子ども料理教室は4月19日に開催しました。この日はちょうどイースター/復活祭の前日だったので、みんなでイースター・パイナップル・マフィンを作ってイースター・エッグの飾りつけをしました。 […もっと見る]
  • 歳時記
    <・・・・あなたがたの名が天にしるされていることを喜びなさい。 ルカ 10:20 ここで、あなたがたに奥義を告げよう。わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。 Ⅰコリント 15:51> […もっと見る]