お気軽にお問い合わせください。 TEL 03-6233-7109 東京都新宿区早稲田鶴巻町511-4-106
次回の手芸クラブはバンド織のキーホルダーを作ります。 フィンランドの民族衣装に使われるバンド織りで、北欧のウールを使った可愛いキーホルダーをご一緒に作りましょう。
織る道具はお貸しします。
手芸クラブでは自分の好きな編み物もすることができます。
おしゃべりしながら楽しく作りましょう!
参加費 1000円
お子さん連れの参加も大歓迎。
皆様のご参加をお待ちしています。
お問い合わせ、お申し込み moc.l1755396440iamg@1755396440arumi1755396440hsoy.1755396440iviap1755396440
03-6233-7109
日本福音ルーテルスオミ・キリスト教会 東京都新宿区鶴巻町511-4―106
ルターによる御言葉の説き明かし(フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ」3月31日の日課から
キリスト信仰の国家論の基礎!
「私の国はこの世に由来するものではない。」(ヨハネ18章36節)
「自分の十字架を喜んで背負う者は誰か?それは、この王と彼の国の性質を正しく知る者である。その者は、主も同じように十字架を背負われたのだと知っている。そればかりではない。その者は、この世で苦難を受けなければならなくとも、目的地に到達すれば喜びと幸いがあることが励ましと慰めになっている。
これとは逆に、こうしたことを知らない者たちは、思い通りにならないと、取り乱し、しまいには絶望の淵に落ちてしまう。彼らは、もし神が本当に憐れみ深い方ならば、こんなに多くの不運が起こるのを許すはずはない、または起こっても直ぐ助け出して下さる方のはずだ、と考えているのだ。このような考えは、キリストの国はこの世に由来するものではないと信じていないことの表れに他ならない。この世の王(現代なら権力者)は臣民(現代なら国民)の命と財産を守るだろう。しかし、栄光の王であるキリストは、身体、命、財産その他全てのものが危険に晒されることを否定しない。
ゆえに、君はこの世にいる限り、自分は満たされて何一つ不足のない者になるためにキリスト信仰を用いてはならない。君の真の王に何が起こったかを見よ。受難の道を歩み、嘲りの的となり、不名誉な死を遂げたではないか?だから、キリストの国に属している者も、彼が金銀その他のものを与え、この世の王(権力者)のように富をもたらしてくれるなどと期待してはならない。肝心なことは、彼は罪を赦し、永遠の死から救い出して下さる方であるということだ。さらに、彼の御声に聞き従う者に聖霊と永遠の命を与えて下さる方ということだ。」
キリスト信仰者は、この世にある国と天の御国の二つの国を持って生きています。この世にある国は現実の目に見える国ですが、天の御国は現実にはあるものの、まだ目に見えません。しかし、ヘブライ12章で言われるように、今の世が終わりを告げる時、世にある国は全て揺り動かされて取り除かれてしまいますが、天の御国が唯一揺り動かされず取り除かれないものとして現れます。その時、キリスト信仰者の国は一つになります。キリスト信仰者にとってこの世の国の中で生きることには大きな意味があります。そこは、信仰者が神の意思に沿う生き方と罪の赦しの恵みに生きることを実践する場だからです。また、いろんな課題や挑戦を得られて、神の助けと導きを受けられるコンテクストでもあるからです。
今年もイースターの季節がやってきました。今回はこの季節フィンランドで作られるレモン風味のメレンゲ・タルトを作ります。このタルトは三つの層から出来ていて、下からタルト、真ん中はレモンのキーセリ、そして上はメレンゲです。レモンのキーセリはタルトをジューシーなものにし、トッピングのメレンゲはレモン味と重なることで爽やな味わいになります。ふんわりしたメレンゲとジューシーなレモン・キーセリが一緒になることでタルトは口の中で美味しくとろけます。レモン風味のメレンゲ・タルトを是非ご一緒に作って味わってみませんか?
参加費は一人1,500円です。
どなたでもお気軽にご参加ください。
お子様連れでもどうぞ!
お問い合わせ、お申し込みは、 moc.l1755396440iamg@1755396440arumi1755396440hsoy.1755396440iviap1755396440 まで。
主日礼拝説教 2025年4月6日 四旬節第五主日
聖書日課 イザヤ43章16~21節、フィリピ3章4~14節、ヨハネ12章1~8節
説教をYouTubeで見る。
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
本日の福音書の日課は、イエス様の受難が近づく頃、マルタの姉妹のマリアが高価な香油をイエス様の足に塗ってそれを髪の毛で拭いたという出来事についてです。過越祭の6日前ということは、イエス様の受難と十字架の出来事の6日前のことです。そのため、マリアの行いは、死んで葬られるイエス様の遺体に香油を塗ることを前触れのように行ったものとして考えられてきました。イエス様の死を先取りした行いということです。
マリアが塗った「純粋で非常に高価なナルドの香油」というのは、ナルドというインドが原産地の植物で赤紫色の花が咲き、香りは葉っぱから出るそうです。旧約聖書の雅歌の中にも出てきます。その時代からインド産のものがパレスチナの地に出回るような交易があったのかと驚かされます。ただ、パウロの出身地のタルソスにはナルドの香油が作られていたということなので、地中海沿岸でも栽培されていた可能性があります。どの位高価なものか、1リトラが300デナリ相当と言われています。リトラはローマ帝国の重量の尺度で1リトラは大体300グラム、デナリの方は当時の労働者の一日の賃金が1デナリだったので、300デナリは300日分の賃金。ちなみに、今の東京の最低賃金は1,163円、一日8時間働いて9,304円、その300日分は279万円。これが300グラムの値段なので1グラム9,000円です。誰が見ても高価な香油です。
この香油の出来事はマタイ福音書26章とマルコ福音書14章にもあります。ただし、マタイとマルコはヨハネと記述が異なっています。場所はエルサレム郊外のべタニア、食事の時の出来事だったことは同じです。誰の家での食事だったか、ヨハネは記していませんが、マタイとマルコは「らい病の人シモンの家」と明記しています。他方でヨハネは、イエス様が死から生き返らせたラザロが食事に招かれていたこと、彼の姉妹のマリアとマルタもいて、マルタの方は給仕の手伝いをしていたことを記しています。マルタが給仕をしてマリアが別のことをするというのはルカ10章にもありました。マリアはイエス様の教えを聞くことに集中してマルタから文句を言われました。今日のところでもマルタが忙しそうにしているのが目に浮かびます。ここでもマリアは給仕とは無関係のことをします。それが香油注ぎでした。ただし、今日のところで文句を言うのはマルタではなく、イスカリオテのユダでした。
マルコ福音書とマタイ福音書は、香油はイエス様の頭から注がれたと記しています。ヨハネ福音書は足に塗ってそれを髪の毛で拭ったと。そこで高価な香油をそんな使い方したことを憤慨し、貧しい人々に施すべきだったとイスカリオテのユダが言います。マタイとマルコでは誰が言ったかはわかりません。
こういうふうに4つの福音書は、同じ出来事を扱っていても細かい点で違っていることがよくあります。どうしてそうなるのかと言うと、福音書を書いた人たちは記録や歴史の専門家ではなく、直接の目撃者だったり、目撃者から話を聞いて書き留めたものを後でまとめた人たちです。こうして最終的に4つの別々の記録が出来上がったということです。彼らにとって、自分の目で見たこと耳で聞いたことが大事な資料です。目で見たこと耳で聞いたことから受けた印象や影響が違ったりすると、同じ出来事を扱っても、人によってはある面を前面に出し別の面は背後にする、別の人は別の面を、ということが出てきます。スウェーデンの有名な釈義学者のB.イェールツが言っていますが、何かの事件の裁判で証人が4人いたとする、もし全員の証言が細部まで一致していたら、裁判官はこれは裏で辻褄を併せる相談をしたに違いないと疑うだろう、逆に細部は食い違っても出来事そのものが一致していれば証言の信ぴょう性は高いと考えるだろう、福音書もこれと同じなのだ、と。
それなので、福音書で同じ出来事を扱っている個所に出くわしたら、これはマタイの視点で見たもの、マルコの視点で見たもの、というふうに受け止めて、それぞれの視点でそれぞれは真実であると受け入れる、同時に、マタイが見落としていることをマルコが自分の視点で取り上げたと受け止めて、最終的には4つの視点が大きな全体を作り上げているのだと把握する、つまり、真実はそれぞれのところと全体的なところの両方にあるという観点で福音書を繙くことが大事です。なぜかと言うと、そうすることで信仰は深まり強まるからす。だから、福音書が4つあるのはまさに神の御心なのです。
そういうわけで、今日はべタニアの香油の出来事をヨハネの視点で見ていきましょう。マルコとマタイの記述では香油はイエス様の頭からかけられました。ヨハネでは足に塗られて、それを髪の毛で拭うことをしました。それを行ったマリアはイスカリオテのユダから非難されます。なぜ、香油を売って貧しい人に施さなかったのか、と。そこで福音書記者のヨハネはユダがそう言った本心について注釈します。本当は貧しい人のことを思ってそう言ったのではなく、イエス様一行のお金をちょろまかしていたので、それで香油が現金化されなかったのが悔しかったのだと。このユダの偽りの発言に対してイエス様が言い返します。
「この人のするままにさせておきなさい。私の葬りの日のために、それを取って置いたのだから。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」
この言葉はユダのマリア批判のすぐ後に言われます。それで、「するままにさせる」とは、この時マリアが髪の毛で香油を拭っていることを指します。
イエス様の言葉の次の部分、「私の葬りの日のために、それを取って置いたのだから」はギリシャ語の原文がとても厄介です。素直に直訳すると「彼女が私の葬りの日まで香油を保てるために」です(後注)。これは変です。イエス様は、マリアが彼の足に塗った香油を髪の毛で拭っているのをそのままさせなさい、と言いました。そして、それをさせるのは、マリアが葬りの日まで香油を保てるためだと言うのです。今している髪の毛による拭いをさせるのは、葬りの日まで香油を保てるようにするためなのだと。香油は使ってしまったではありませんか!なので、それを葬りの日まで保つことなど出来ません。
ここは訳をする人は皆悩んだと思います。訳者たちが考えた解決方法は次のことです。マルコ福音書とマタイ福音書では香油はもうすぐ起こる葬りのために前もって体に塗ったと言っています。本当は遺体に塗るべき香油であるが、まだ生きている段階で塗って葬りの準備をした、イエス様の死は不可避だという印をつけたという意味です。それと同じ意味を訳者たちは、このヨハネ福音書の不可解な個所、塗った後も香油は保たれるなどと言う箇所に当てはめたのです。日本語の訳も英語の訳もフィンランド語もスウェーデン語もドイツ語も皆同じです。本当は葬りの日に使うべき香油を前もって使用したという意味にしたのです。
この解決法は、マタイとマルコの視点とヨハネの視点を一致させるものですが、私としては違う言い方をしている以上は、やはりヨハネは別の視点があるのではないかと疑います。それで、この難解な個所をマタイとマルコを参考にしないでヨハネの視点は何かを追求していこうと思います。
マリアがイエス様の足に塗った香油を髪の毛で拭うのは、イエス様の葬りの日まで香油を保つためである。これがヨハネの書き方でした。マルコとマタイの場合は、香油は頭からかけられ、遺体に香油を塗ることを前もって行ったのだという書き方です。なので、塗られた香油を髪の毛はおろか何か拭うもので拭うこともしません。ヨハネの場合は、塗るのは足に限定していて遺体のように体全体に塗ることとは趣きが異なります。まず、足に香油を塗ることを足を清める意味に理解すます。というのは、ヨハネ13章でイエス様が最後の晩餐の時に弟子たちの足を洗って、君たちもお互いに同じようにしなさいと教えたことがあるからです。上に立つ者も下にいる者に対して仕えることをしなければならない。このように、足を清めることが仕えることを意味するならば、マリアがイエス様の足に高価な香油を塗ったのも仕えたことになります。ただし、イエス様の場合は罪のない神聖な神のひとり子なので足洗いのような罪の洗い清めの意味はありません。高価な香油を塗ってこれから十字架の死に向かう受難の道を歩む足を聖別する意味になります。このようにマリアは仕えることをしたのです。
もっと大事なのは、マリアが足に塗った香油を今度は髪の毛で拭ったことです。そうすることでマリアの髪の毛にも香油が塗られたことになり、部屋いっぱいに広がる位の強い芳香はイエス様の足だけでなくマリアの髪の毛にも漂うことになります。これがまさに、マリアが葬りの日まで香油を保つこと、自分の体の一部にして保つということなのです。マリアのこの香油の保ちはイエス様の受難を自分に身近なものにする、自分のものにするということです。イエス様は、自分の葬りの日まで香油をつけておいて自分の受難を身近なものにしていなさいということを意味したのでした。
それでは、イエス様が葬られたら受難は終わったので髪についた香油を取り除かなければならないのか?洗い落とさなければいけないのか?でもそれは、たとえ香油の香りが髪の毛に残っていたとしても、イエス様の受難は終わってしまったのだから、その香りにはもう受難を身近なものにする、自分のものにする意味はなくなります。
しかし、その代わりにイエス様の受難を自分のものにする新しい仕方が始まりました。洗礼です。使徒パウロはローマ6章で、洗礼を受けてイエス・キリストに結びつけられた者はキリストの死にも結びつけられたと教えます。キリストの死に結びつけられたからにはキリストと共に葬られたのだと。しかし、洗礼が人を本当にキリストに結びつけるものならば、死と葬りとの結びつきはまだ道半ばです。なぜなら、キリストは死んで終わったのではなく、三日目に創造主の神の想像を絶する力で復活させられたからです。だから、洗礼を受けてキリストに結びつけられた者はキリストの復活にも結びつけられたのです。キリストの復活に結びつけられると、永遠の命に結びつけられます。それまで神の意思に反しようとする性向、罪のために永遠の命から切り離されていた人間は洗礼によって永遠の命に結びつけられます。無理やりと言っていい位に力強く結びつけられます。その瞬間、罪はその人からはじき出されたみたいになって、その人を支配する力、コントロールする力、牛耳る力を失います。
もちろん、人間はキリスト信仰者になっても肉を纏っている以上は罪が残存しています。しかし、それは信仰者から永遠の命を切り離す力をもう持っていないのです。干からびた虫けらのようなものなのです。それで、信仰者が自分の内に神の意思に反するものがあることに気づいた時はいつも心の目をゴルゴタの十字架に向けます。そうすれば、あの時打ち立てられた罪の赦しは微動だにしていないこと、自分は罪の赦しの恵みの中で生きていることをいつも確認できます。その度に、あの抗しがたく感じられた罪の思いは潮が引くように退いていきます。その度に、罪は本当に支配力を失っていることと、それを可能にしているのはまさしく罪の赦しの恵みであることがわかり、その確信は日々強まっていくのです。これがパウロの言う、罪に対して死に神に対して生きるということです。
イエス様は再臨する日までこの世から離れていますが、貧しい人々をキリスト信仰者に委ねました。それにどのように応じたらよいのでしょうか?イエス様がこの世にいない今の時は300デナリを分け与えるのが良いやり方でしょうか?でも、それだと300人に一日分の賃金を与えた後はどうなるか?支給対象を100人に絞ってそれぞれに三日分の賃金を与えるのは?そのようなやり方では資金はすぐなくなってしまいます。もっと持続可能なやり方を考えないといけません。キリスト信仰者にとって持続可能な貧しい人々の支援策はなんでしょうか?
イエス様が貧しい人々について何を言っていたかを見てみましょう。ルカ6章で「貧しい人々は幸いである。神の国はあなたがたのものである」と言っています。マタイ5章を見るともっと限定して「霊的に貧しい人々は幸いである。神の国はあなたがたのものである」と言っています。「霊的に貧しい」は日本語訳では「心の貧しい」ですが、ギリシャ語原文も他国の訳も「霊的に貧しい」です。「霊的に貧しい」というのは、神の意思は正しい、十戒は正しい、だからそれに沿うように生きなければと思っているのに、それに反することを考えてしまったり、言葉や行いに出してしまう。それで、自分は神から離れてしまっていると気づいて悲しんだり沈んでいる人たちです。どうしてそのような人たちが復活の日に復活を遂げて神の国に迎え入れられるのでしょうか?
それは、そのような人たちは、自分の力では神に義と認められないとわかっているからです。自分の力でできないので、別の力が必要だと痛感している人たちです。イエス・キリストの十字架の業による罪の償い、罪からの贖いの業がまさにそうした別の力の働きです。イエス様の業のおかげで、彼を救い主と信じて洗礼を受けると、神に義と認められるのです。キリスト信仰者は、基本的に皆、も霊的に貧しい人たちです。自分の至らなさを自覚しています。だからイエス様を救い主と信じる信仰のおかげで神から義と認められて、将来、神の国に迎え入れられるのです。
それなので、キリスト信仰者は霊的に貧しい人も経済的に貧しい人も、まずは神の国に迎え入れられるように導くこと、イエス様の十字架と復活の業のおかげで神の国がその人のものになるように導くこと、これが持続可能な助け方ではないかと思います。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
(後注) ヨハネ12章7節
αφες αυτων, ινα εις την ημεραν του ενταφιασμου τηρηση αυτο.
これを英語にそのまま転換すると、
Let her (do this) /Allow her (to do this) so that she might keep it (=perfume or ointment?) until the day of my burial.
Jeesuksesta laulan
先週(3月30日)の礼拝でHavukainenご夫妻の音楽伝道の際、最後に歌っていただいた”Jeesuksesta laulan(私はイエスについて歌います)”が素晴らしかったです。
1. Jeesuksesta laulan, Jeesuksesta vaan, jolta syyni suuret anteeks sain ja saan, jolta syyni suuret anteeks sain ja saan.
2. Hän mun syyni suuret poisti verellään, otti synnin orjan armoon, elämään, otti synnin orjan armoon, elämään.
3. Katkoi verkot valheen, kahleet kuoleman, vangin vapautti, laps oon Jumalan, vangin vapautti, laps oon Jumalan.
4. Lapsi oma Herran, taivaan kuninkaan, kruunun perin kerran, valtakunnan saan, kruunun perin kerran, valtakunnan saan.
5. Pääsen asukkaaksi kultakaupunkiin, viedään vierahaksi häihin iäisiin, viedään vierahaksi häihin iäisiin.
ルターによる御言葉の説き明かし(フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ」3月22日の日課から
「私は神に対して罪を犯しました。」(サムエル記下12章13節)
「間違ったことをしていると知りながらそうする人たちがいる。しかも、それを何とも思わないばかりか、それを認めない神の真実というものに対して敵意を剝き出しにさえする。そのような人たちは意図的に罪を犯すのであり、悪の自覚を持って罪に留まろうとする。罪を捨てる考えなどなく、ましてや神に赦しを乞うことなど微塵にも思わない。
他方で、それとは違う仕方で罪を犯してしまう人たちがいる。ダビデの場合がそうだ。ウリヤの妻を奪おうとして彼を死なせるべく激戦地に送った時、ダビデはそれは神に対して罪を犯すことだとわかっていた。しかし、邪悪な欲望と悪魔が彼を焚きつけてしまい、罪に陥るまで引っ張って行ってしまったのだ。自分がしていることを考えてみる余裕も持てなくするような激しさで。しかし、ダビデは事後的ではあるが、罪を犯したことを神に告白したのだ。それは彼の心を突き刺したのであり、そのようなことはすべきではなかったと彼は悔い、神に赦しを乞うたのだ。
そのような罪は私たちキリスト信仰者一人一人の首回りに張り付いている。私たちは気がつかないうちにいとも簡単に罪の渦に巻き込まれ、ある時は悪魔と自分の肉が、またある時はペトロのように恐れが自分を席巻してしまって罪に陥らせてしまう。そればかりではない、警戒の怠り、愚かさ、理解の不足も私たちを席巻して罪に陥らせるものだ。もちろん、悪に対する鈍感さや驕りの心は言うまでもない。キリストが十字架に運び上げて取り除いて下さったのはこのような罪である。それは赦しのお恵みと矛盾しない罪だ。そのような罪を犯す者は、自分は間違ったことなどしていない、などとは言わない。その人は何も覆い隠すものがないと観念した裸同然であり、それゆえ、罪を犯したことを神に告白し赦しを乞うのだ。」
もちろん、最初のタイプの人も、心の突き刺さりが起こって神に罪を告白して赦しを乞えば、その罪は赦しの恵みに覆われ、最後の審判の時に追及されず、申し開きの必要もありません。ところで、自分は「真実」を掲げているのだと言って正当化する人は、真実は人を築き上げるものでなければならないということを十戒から知って、掲げている「真実」が真実に値するものか吟味しないといけません。
3月の手芸クラブは26日、桜が咲き始めた時に開催しました。今週の暖かさで桜はすぐにでも満開になるでしょう。 これから楽しみです。
今回の作品は手芸クラブの人気ものの一つ、バンド織りのキーホルダーです。フィンランド語でNauhaと言います。はじめに参加者がキーホルダーの毛糸の色を選びます。色とりどりの毛糸から好きな色のものを選ぶのは楽しいスタートです。選んだ毛糸でどんなキーホルダーが出来るか楽しみです。
それではバンド織りに入りましょう。まずワープになる毛糸をカードの穴に通します。穴は小さいので、皆さん集中して毛糸を一本一本通していきます。それから各自、自分の作業する場所を決めて織り始めます。カードでワープを開いてからよこ毛糸をワープの間に入れます。これを繰り返しながら織り進めます。以前参加された方だけでなく初めての方も手が早くて、間もなくして毛糸のきれいな色合いが見えるようになりました。可愛い!きれい!との声があちこちから聞こえてきました。今回はハートの模様をバンド織りで作るNauha の準備もしました。来月出来上がったものを互いに見せ合うのは楽しみです。出来あがったNauhaに輪を入れて結ぶと可愛い色とりどりのキーホルダーの完成です!
今回も時間はあっという間に過ぎてコーヒータイムになりました。フィンランドのチョコレート・マフィンを味わいながら楽しい歓談の時を持ちました。その後で、今年のフィンランドの手芸のテーマが「つぎあてと中古の服を直す」というものだったので、それについてとイエス様のたとえ話の教え「良いサマリア人」についてお話がありました。
次回の手芸クラブは4月23日の予定です。詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。
毎年フィンランドではその年の手芸のテーマが決められます。今年はつぎあてと中古の服を直すことが全国のテーマに選ばれました。このテーマは2021年にも選ばれていて今年は二回目です。どうしてそんなテーマが選ばれるのか、驚く人もいるかもしれません。つぎあてと中古の服を直すというのは、新しいものを作るテクニックと関係ないからです。しかし、少し考えてみたらこれは今の私たちにとても良いテーマだと思います。私の子供のころ服や靴下に穴が出来たら母はつぎあてをして直したものですが、いつの間にかにつぎあての靴下は見かけなくなりました。生活が豊かになったので人々はどんどん新しい服を買うようになりました。使い捨て文化の時代になったのです。もし服につぎあてをしたりすると恥ずかしいかもしれません。私も子供の頃はそうでした。つぎあてをした服は着たくありませんでした。
しかし今はエスディージーズ(SDGs)、日本語で「持続可能な開発目標」がよく言われるようになって考え方が少し変わってきたのです。服につぎあてをしたり他の方法で直したりすると、服の寿命が延びます。服の寿命が延びると使用回数が多くなるだけでなく服の価値も上がります。生活も少しシンプルになります。実はつぎあては手芸の観点では創造的で、色んな手芸のテクニックを使って直すことが出来るのです。特別な道具の必要もありません。毛糸や針があれば靴下を直すことができます。しかしそれには時間と忍耐が必要です。今の忙しい時代の私たちに時間と忍耐があるでしょうか?私たちは何のために時間と忍耐が必要になるか時々立ち止まって考えてみるべきではないでしょうか。例えば、隣人を助ける時間が私たちにあるでしょうか。
ここでイエス様が教えられた「よいサマリア人」についてお話をしたいと思います。ある偉い学者がイエス様に「私の隣人とはだれのことですか」と聞きました。イエス様は次のたとえ話を話されました。あるユダヤ人の旅人が、エルサレムからエリコという町に向かって旅をしていました。すると、突然強盗が飛び出してきて旅人の持っているものを服まで取って、その人に乱暴をして半殺しにしたまま逃げてしまいました。
しばらくするとエルサレムの神殿の祭司がそこを通りかかりました。祭司は道端に横たわる怪我人を見ましたが、道の反対側を通って行ってしまいました。次に神殿で仕える人も同じ場所を通って来ましたが、怪我人を見ると、祭司と同じように道の反対側を通って行ってしまいました。
しばらくすると、旅をしていたサマリア人がロバに乗ってやってきました。当時ユダヤ人はサマリア人を軽蔑していたので、彼らの関係は良くありませんでした。しかし、このサマリア人は、道端に倒れている人を見るとユダヤ人とわかっても、その人の傷に油とぶどう酒を注いで消毒し、包帯をして自分のロバに乗せて宿屋に連れて行ってそこで介抱しました。
翌日、サマリア人は宿屋の主人に銀貨を二枚渡して言いました。「この人を介抱してあげてください。もしお金が足りなかったら、私が旅から戻ってここを通った時に払います」と。
イエス様は、この話を終えた後で、質問した人に聞きました。「さあ、この祭司、仕え人、サマリア人のうち、誰が旅人の隣人になったと思うか?」学者は、「その旅人を助けてあげた人です」と答えました。イエス様は、「あなたも行って同じようにしなさい」と言われました。
イエス様が話されたこの「良いサマリ人」の例えは私たちにも向けられているのです。私たちはサマリア人のように敵味方を区別しないで人を隣人として、その人のために時間や力を使うことが出来るでしょうか。隣人を助けるためにどこまで忍耐があるでしょうか。そして私たちの隣人とはだれでしょうか。
聖書は無条件の愛について教えています。神さまの愛は無条件の愛でとても深い愛です。イエス様はそれを聖書のみ言葉を通して私たちに教えて下さいます。この「良いサマリア人」の例えはその一つです。イエス様が無条件の愛について教えたのは言葉だけでなく他の人たちに対する態度を通してでも教えました。イエス様はご自分の働きを通して、例えば多くの病気の人々を癒やすことで隣人愛を示されました。しかしイエス様はこれよりもっと深い無条件の愛を私たちに示してくださいました。それはイエス様の十字架の出来事です。イエス様は十字架にかかって死ぬことを通して私たちや世界の全ての人たち一人一人の救い主になりました。これより深い隣人愛、無条件の愛はこの世にはありません。このようなイエス様の全ての人々に対する愛は私たちに向けられているのです。私たちはそれを受け取ることが出来るでしょうか。それはイエス様が私たちの救い主でおられることを信じることで受け取ることが出来るのです。この愛をないなどと言って否定することは出来ません。イエス様の愛を受け取ると、イエス様はいつもどんな時でも共にいて下さいます。嬉しい時も悲しい時も共にいて下さるのです。イエス様は私たち一人一人がご自分の元に来るようにと待っておられるのです。
私たちが隣人を助けたりする時の力と忍耐は限られてしまうかもしれません。だから、私たちは十字架を背負ったイエス様の私たちに対する力と忍耐を思い出しましょう。人間が持てない力と忍耐をイエス様はお持ちで、そんなイエス様を私たちは信仰を通して持つことができるのです。
またお会いしましょう。
ハブカイネン夫妻の紹介
ティモはフィンランドのルター派国教会の青年活動主事、マリリーサは保育士、夫妻は3人の息子と共に1987年から2003年までSLEY(フィンランド・ルーテル福音協会)の宣教師として日本で伝道活動。帰国後ティモはナーンタリ市にあるナーンタリ教会の青年活動主事、マリリーサはノウシアイネン市で保育士を務めてきました。二人ともコーラスで歌うことと自然の中を歩くことが大好き。
礼拝はYouTubeで同時配信します。後でもそこで見ることが出来ます。
私たちの父なる神と、主イエス・キリストから、恵と平安とが、あなた方にあるように。
アーメン スオミ教会 2025年3月23日(日)
説教題「神の前に悔い改めよ」
聖書: 聖書ルカ福音書13章1~9節
今日のみ言葉には二つの事件を引き合いにしてイエス様が警告を発しておられる。そして最後には譬え話を語って折られます。この箇所の前12章でイエス様は「あなたを訴える者と仲直りをしなさい、さもないと捌かれるぞよ!」と審判の事のついて語っておられます。そして13章になりますと、そこで丁度其の時に何人かの人が来てピラトがガリラヤ人の血を彼らの生贄に混ぜた事を告げた。当時ピラトはパレスチナを管轄していた総督でありました。何故、ピラトはガリラヤ人を虐殺するような事をしたのか。この頃ガリラヤは熱心党と言われる人々ぼ故郷でありまして活動の中心地だった。恐らくこのガリラヤ人たちはローマ帝国の圧政に反抗して度々武力闘争によってメシア時代を来たらせようと計ったんですが失敗したのでしょう。ピラトはしばしばユダヤ人の宗教感情に故意に武力によって残酷な振る舞いで傷つけていた。こうした背景があってエレサレム神殿に礼拝に来て、祭壇に犠牲を捧げていたガリラヤ人をピラトは虐殺して其の血を流したという事件が起こった。この事件はたちまちユダヤの人々にも伝わって行ったでしょう、なんと酷い悲惨な事か…・と。そうしてイエス様とその一行のもの達にも告げたのでしょう。この殺害事件のニュースをもたらしたのはパリサイ主義の者であったにではないか、そういう説もある。彼らの律法主義の考えからこような酷い目にあったのは罪の結果ではないか、という避難の声が隠されてイエス様の元へともたらされたのではないか。当時パリサイ派の人たちは因果応報の考えを持っていた、つまり行った事には報いがある。善い行いには善い報いがあるし、悪い行いには悪い報いがある。ですから災難に会った人々ぶは神の審きがあったのだ、と思ったのでした。しかし此処でイエス様はそのような考えを根本的に否定なさいました。それはちがう!と言われたのです。ルカは2節のところでこう書いています。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に会ったのは他のどのガリラヤ人よりも積み深い者だったからだと思うのか、決してそうではない。言っておくがあなた方も悔い改めなければ皆同じように滅びる。」続いて、全て同じような事件を引き合いに出されて、イエス様は警告を語られる。4節です、「また、シロアムの塔が倒れて死んだ、あの18人はエレサレムに住んでいた他のどの人よりも罪深い者だったと思うのか、決してそうではない、言っておくがあなた方も悔い改めなければ皆同じように滅びる」。イエス様の教訓の大事な点は他人の上に起こった災難の話を聞くにつけ自分自信の悔い改めがどんなに大切である、ということを気づかせておられるもです。他人は災害を被ったが自分は審きを受ける事はない、とか災害を受けた者は罪に対する罰を被ったのである、が自分にはその心配はない、とかそのように思うべきではない。他人の被った災害のニュースは自分に対する警告である、これを聞いて自分の罪を恐れ悔い改めるのでなければ、それと同じような災いが自分に落ちてくるであろう。だから悔い改めよ、と警告されているのです。現実の私たちの日常生活の中で矢張り時々あの人は何か悪い行いをしたから、今その報いとしてあのような災難に会っているのだ、と考えてしまう。そのような時私たちは自分を棚に上げて自分の事は別にして自分の罪深いことは忘れてまるで傍観者のように他人の罪を眺めています。他人の災難や不幸を非難する事で自分と言う者を気づかない内にその事で自分を隠してしまって良く見せようともします。自分は違うあんな悪い人とは違うと言いたいのであります。
パウロはローマ人への手紙3章10節から23節のところで次のように言います。「正しい人は一人もいません、一人もいません、神を求める人は一人もいません。全ての人が迷い出てみんな堕落しています」。全ての罪を犯したため神の栄光を失っています。今、本当の捌きの前に立つ時あの人は誰よりも罪深いと簡単に言えるでしょうか。神の前に悔い改めは私たち全ての事なのです。それできょうのみ言葉イエス様は言われます。「あなた方も悔い改めなければ全て同じように滅びる」私たちは「悔い改め」と言うと何か道徳的な思いが先に立ちます。そして、泥棒が悔い改めて真人間になったり、不良少年が立ち直ってまじめに回心したりする事を考えたりします。しかし、そうでしょうか。パウロが神の前に「全ての人は罪がある」と言った時決して道徳的基準をあてはめているのではありません。パウロは言っています、「私は自ら省みて何の疚しいところはない」と(第一コリント4:4)またピリピ書3:6では「律法の義については非のうちどころのない者でした」と言っています。ダマスコ途上で回心する前にはパウロは少しもやましいところがなく立派な人でした。20世紀最大の神学者カールバルトが「悔い改め」と言う説教の中で」こう言っています。「イエスは私たちをお招きになります。真理を私たちに告げようとなさいます。神を私たちに告げようとなさるのです。これを聞いて受け入れる者は悔い改めます。」悔い改めとは私たちがいつも見落としている最も近くにあるものへの立ち返りにほかなりません。私たちが何時も見えない大事な生き方中心に立ち返ることです。神は私たちの最も近くにいます。神は私たちの中心であります。私たち一人々を創られた方です。その神に立ち返る事です。この事はほかの全ての方が私たちに最も良く理解されうる以上に自然で単純で自明な事であります。悔い改めとは、ほかでもない私たちの中心へ立ち返ることです、が人間は果たしてそう簡単になるでしょうか。旧約聖書エレミヤ書31章31節から31節を見ますと「見よ、私がイスラエルの家ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る。」と主は言われる。この契約はかつて私が彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出した時、結んだものではない。」預言者であるエレミヤが神様からの大切な言葉を告げるのですがそれは昔イスラエルの民をエジプトの地で奴隷の状態から救い出し、モーセによって40年の荒野の旅の途中シナイ山でモーセに十戒を授けられます。この律法によって神とイスラエルの民との間に契約を結ばれます。ところがイスラエルの民はこの契約を破ってしまった。そのため此処に新しい契約が立て直されなければならない。エレミヤ31章32節の続きを見ますと、「私が彼らの主人であったにも関わらず彼らはこの契約を破った、と主は言われる。」エレミヤは此処に一つの大きな問題を提出しているのです。この問題は何かと言いますと人間の罪の問題です。これはイスラエルの民だけの問題ではない。人間の奥底にある根本的な問題です。パウロが信仰を宣べます時必ず課題となった問題です。
その問いは古代教父アウグスチヌスも真剣に神の前に告白して来ました。そしてマルチン・ルターも、そして20世紀最大の神学者カール・バルトもこの問題に取り組みずうっと共通の問題です。神と人が常に契約の関係に役立つため律法が行わなければならない。律法は実に人間に対する神の命令をはっきり示しているものです。ところが人間は神の命令を素直に受け入れない。神の命令をそのまま実行する事ふぁなかなか容易ではない。旧約の、あのアダムとエヴァは神の命じられた禁断の知恵の木の実を食べてしまった。蛇にそそのかされて神の命令を破ったのです、神に背いてしまったのです。人間一人々の心に天使が存在する、と共に悪魔も存在する。…うまく言ったものです。此処に人間にどうにもならない罪の問題があるのです。それ故エレミヤにとっても、この新しい契約を結ぶと言われるのです。この神の命令はそのまま実行できるかどうか!問題となったのです。パウロはローマ人への手紙7章15節にこう叫んでいます。「私は自分のしている事がわからない。何故なら私は自分の欲する事を行わずかえって自分の憎む事をしているからである。」このパウロの叫びはエレミヤの嘆きでもあった。人間は真実でなければならない、これがエレミヤのもっとうでした。この事を充分承知していながら偽りを言ったり行ったりする。何故かそれは人間が悪に染まっているからだ。とエレミヤ書17章9節で言っています「人の心はなににもまして捕らえがたく病んでいる。」。この言葉によって彼は人間性の中に潜む根本的な矛盾をどう解決するか。この解決なくしてイスラエルの民が神の民であると言えない。また神の子であり得ない。そこにエレミヤが「罪に赦し」ということを特に言わざるを得なかった。34章の最後のところで主が言われる「私は彼らの悪を赦し再び彼らの罪に心を留めることはない。」ここに福音が予言されているのです。神様の罪の赦しがある。そのために「悔い改めなさい」とイエス様は言っておられる!「あなた方も悔い改めなければ皆同じように滅びる。」主なる神様私たちの罪を赦そうと「悔い改める」ことを忍耐して待っておられるのです。神がどんなに忍耐しておられるか、イエス様はこの事を譬え話で語っておられます。それが6節から9節にある「実のならない無花果の木」の譬えです。ぶどうの園に植えてある一本の無花果の樹は3年になっても実らない、主人はとうとう怒って言った。「これを切り倒せ!何故土地を塞がらせておくのか」園丁は答えた「ご主人様、今年までこのままにしておいて下さい。樹の周りを掘って肥やしをやってみます。」この3年待った意味について神様は旧約時代を通じて長い年月イスラエルの民が神に従うのを待たれたのだ、と言う意味に取るのか或いは神のみ子をこの世に遣わしてイエス様が宣教を始められてから約3年待たれた、つまり洗礼者ヨハネが「悔い改めよ、と叫んで斧ははや樹の根元に置かれている。善き果を結ばぬ樹は切られて火に投げ込まれる」このように叫んで既に3年、今なおユダヤ人は「悔い改め」ようとしたない、「これを切り倒せ」と命じておられる。それに対して園丁は1年の猶予を請うて悔い改めの実を結ぶように伝道に万心の力を尽くして仕えます!。
パウロはロマ書9章22節で言っています。「神はその怒りを示し、その力を知らせようとしておられたが、怒りの器として滅びることになっていた者たちを寛大な心で耐え忍ばれたとすれば、それも憐れみの器として栄光を与えようと準備しておられた者たちにご自分の豊かな栄光をお示しになるためであった。」これがイエス様のみ心でもあるのです。なんと言う寛容と憐れみであろうか、なんと言う愛と慈哀でありましょうか。神が待っていて下さる間に、今こそ悔い改めよ、今は恵みの時である。世の終わりに於いてキリストが裁き主として再び現れ給う時世界全体に渡り全ての国民、全ての民族、全ての人が審かれる。罪を悔い改めてキリストを信ずる者は永遠の生命に入り、高ぶってキリストを信じない者は永遠の滅びに定められる。その時の来る事を予め警告しておられるのであります。今は悔い改めの時恵みの時なのであります。
人知ではとうてい測り知ることのできない、神の平安があなた方の心と、思いとをキリスト・イエスにあって守るように。 アーメン