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歳時記

〈1たしは山にむかって目をあげる。わが助けは、どこから来るであろうか。2 わが助けは、天と地を造られた主から来る。詩編121:1・2〉

半年ぶりに北斗市白州に行ってきました。山道に続く入口で「俺の木(誰の木か知りませんが、勝手に俺の木と呼んでいます)」が出迎えてくれました。「今年は来るのが遅かったじゃないか」と言って枝を少し揺すって見せました。上から見下ろしていた甲斐駒の団十郎が「ま、折角来たんだからいいじゃないか」と宥めてくれていました。

2026年5月17日(日)10時半 主の昇天主日 礼拝 説教 田口聖 牧師(日本ルーテル同胞教団)

今日の聖書のお話
ルカによる福音書24章44〜53節
説教題「み言葉を通して私たちに働かれる主」

2026年5月17日
説教者:田 口  聖
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように
。アーメン
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1、「イエスから弟子たちへ」
イエスは十字架にかけられる前から、弟子たちにご自身の復活をはっきりと約束して
いました。しかし弟子たちは皆そのことを忘れていました。最初に復活のイエスと出会
った女性たちがイエスが復活したという知らせを伝えても弟子たちは信じません。ある
弟子たちは失望のうちにエルサレムを離れてエマオという村に帰ろうとさえします。し
かしそんな彼らのところにイエスの方から現れてくださり彼らの目を開いてくださいま
す。彼らはイエスが復活したと信じてエルサレムに帰り他の弟子たちに伝えます。しか
しその時も弟子たちは信じませんでした。そんな弟子たちに再びイエスの方から現れる
のです。それでも弟子たちは「霊を見ているのだ」と信じません。しかし、そんな信じ
ない弟子たちをイエス様は怒るのでも見捨てるのでもなく、ただ自分の身体を触らせる
のです。それは弟子たちが「信じて、喜び、安心するため」でした。そのようにして弟
子たちは自分からは信じることができないのです。しかしイエスはそんな弟子たちを、
たとえ彼らがどれだけ悟るのに遅いものであっても、そこで裁いたり責めるのではなく
、むしろそんな彼らのためにこそ信じるように「イエスの方から」働いてくださり、イ
エスが信仰を与え、信仰を強め、安心させてくださる、「絶えることのない恵み」を現
されたのでした。
2、「どのようにイエスは働かれるか」
イエスは同じように私たちにもいつでも「イエスの方から」働いてくださるのですが
、今日の福音書からは、ではどのようにしてイエス様は働かれるのかをイエス様は伝え
るのですが、とりわけこれから天に昇られその姿は見えなくなる時、それでもイエス様
はクリスチャンに働かれる、それがどのように働かれるのかを、イエス様は教えようと
するのです。イエスは信じない弟子たちに「イエスの方から」現れ、語りかけ、触れさ
せ、魚まで食べて見せてご自分が生きていることを信じさせるのですが、最後にイエス
はこのような言葉で結ぶのです。44節
「44イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いて
ある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っ
ておいたことである。」
イエスは、ここで弟子たちを最も大事なことに立ち帰らせます。それはイエスが十字
架で死んで三日目に復活するということは、それは突然、湧いて出てきたような新しい

2 /

教えではなく「これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである
」とある通りに、十字架の前、一緒に旅をしてきてきた時に、「その頃にすでに話して
いたことではないか、そして、それは旧約聖書全体において約束されてきたことである
と教えてきたことではないか、そのことが全て成就すると既に解き明かしてきたことで
はないか」とイエスはご自身の約束したみ言葉に立ち返らせるのです。
A, 「聖書はイエス・キリストを指し示す」
このところは何を伝えているでしょうか。一つは、聖書は全てイエス・キリストを指
し示している、イエスを伝え証しているということです。ここでイエスご自身が「わた
しについてモーセの律法と預言書と詩篇に書いてある」と言っています。この時代、聖
書は「モーセの律法、預言書、詩篇」です。つまりそれは私たちがいう「旧約聖書」を
指しているのですが、それについてイエスは「わたしについて書いてある」とはっきり
と言っているのがわかります。この言葉の通り、旧約聖書の言葉もまた、全てキリスト
を中心としていて、やがてくるキリストを証していたのだということは、それは後の弟
子たちや初代教会の教父たちが考え編み出した教えでは決してないことがわかります。
それはイエスご自身がそうだと証ししていることなのです。ですから私たちは旧約聖書
を読んでいくときに、このことは大事な助けになります。旧約聖書にはただ律法的な言
葉が並んでいるのでは決してない。あるいは私たちと全く関係のないユダヤ人、イスラ
エル人に関わることだということでも決してないということです。旧約聖書もイエス・
キリストを指し示しているのです。ですから、旧約聖書もキリストを中心として、しか
も十字架と復活を中心に読んでいくとき、そこに私たちは福音と神の本当のメッセージ
を聞くことができるのです。事実、私たちのマルティン・ルターは新約聖書学者ではな
く、旧約聖書学者でした。彼の旧約聖書の註解や講解を読むと、そこでは明確にキリス
トの説教がされていることに気付かされます。そのように旧約聖書にもキリストの福音
は溢れているのです。
B, 「聖書の神のみことばを通して」
第二に、イエスご自身が絶えず聖書を通してみ言葉を語ってきたという事に立ち返っ
ているという事です。それがイエス様の働きの原点でした。つまり主なる神はそのよう
にみ言葉を通し、み言葉を解き明か、み言葉の約束を人々に与え続けることによって、
弟子たちに働き続けてきたということをイエス様はストレートに証しします。イエスは
そこから決してずれません。それが彼らの前に現れ、直接、触れさせるという具体的な
介入をされたとしても、その「み言葉を通して」の一点は決して変わらずとても大事な
んだということがここから伝わってくるのです。
C, 「なぜか?それはみ言葉は真実であり力があるから」
それはなぜでしょうか。それはここでイエスがいう通りです。
「わたしについてモーセの律法と預言書と詩篇に書いてあることは、必ず全部成就する
ということでした」44節
と。なぜ、み言葉を通してなのか?それはまさに「み言葉にこそ神の力はある」から
です。そして、み言葉こそその通りになる真実な力であるからに他なりません。旧約聖
書はその記録です。天地創造は「神の言葉による」創造です。ヨハネの福音書の最初に
「はじめにことばがあった」とある通りです。そして神は言葉で世界とアダムとエバを

3 /

祝福し、言葉で二人を導きます。そしてアダムとエバの堕落は、神の言葉への疑いと否
定から生まれます。その後はどうでしょうか。アブラハムには神はその姿を具体的に現
わされるところから始まっていません。まず見えない神が言葉と約束を語り、アブラハ
ムを「まだ見ぬ地へ」遣わすでしょう。そして人間の常識ではあり得ないような言葉も
あります。100歳のアブラハムとサラに子供が与えられると。二人は全く信ぜず笑い
ます。それに対して「主にとって不可能なことはあろうか」というその通りに、主の言
葉こそ成就していくでしょう。アブラハムとサラが疑ったその思いの通りになっていっ
たのではありませんでした。あの不肖の息子ヤコブに対する神の愛と約束も言葉による
ものでしょう。そしてヤコブはまさに神の約束の言葉を信じて歩んでいき、神の言葉の
通りのことがヤコブの道にはことごとく起きました。モーセは、神を見ることができま
せんでした。しかし神は言葉を持ってモーセを遣わし、言葉を持って助け、言葉はその
通りに成就していきます。彼は最初は自分にはできない他の人を遣わしてくださいとさ
え言っています。しかし、まさに神はモーセを約束の言葉を与え導くでしょう。それは
、ヨシュアしかり、サムエルしかり、ダビデしかり、イザヤなどの預言者しかりです。
ダビデをはじめとする詩篇の沢山の記者もまさにそのことを沢山、証ししています。そ
れは新約聖書でも全く同じで、まさに福音書で見てきたこともパウロの手紙も、み言葉
はその通りになる、真実な言葉であるということであったのです。そのことで一貫して
いるのです。それと変わることなく、イエスはここでもその大事なことへと弟子たちを
向けさせようとしている。そして、同じように、2026年5月を生きる私たちをもそのみ
言葉こそ真実で力があるということへと向けさせようとしているのです。
3、「「イエスが心を開いて」とある」
事実、神であるイエスは私たちに対しても、「イエスの方から」「神の方から」の恵
みの大原則を決してやめません。今でもイエスは、私たちへ、イエスの方から、絶えず
、働いています。しかしその素晴らしい恵みは、何よりみ言葉を通して、み言葉の真実
な約束と、その通りになるその力を与え続けてくれており、それによって私たちを力づ
け、慰め、平安を与え、そして遣わしてくれているのです。
そしてみ言葉だけではありません。私たちがクリスチャンとして歩むために、み言葉
とともに私たちに力強く働く、私たちに与えられている聖霊による神の恵みがあります
。こう続いています。
「そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて言われた。「次のよう
に書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の
赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。
エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。」45−48節
「み言葉が大事だ」ーそう教えれる時に、ある人はこう言うかもしれません。「ああ
そうか。み言葉が大事だから、自分の力と意志の力で頑張って努力してみ言葉をもっと
悟らなければならない。み言葉を信じなければならない。」「〜しなければ行けない」
と。しかしそうではないことがここにわかるでしょう。弟子たちはイエスからそう言わ
れて、では「自分から自分の力でもっと悟らなければ」と言って自ら悟りに至ってはい
ません。ここに「イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて」と書いてあるで

4 /

しょう。何度も見てきた通りです。弟子たちは自らでは悟ることはできませんでした。
誰一人です。ここでもそうです。彼らもみ言葉が大事なのはわかったかもしれません。
しかしそのイエスの十字架と復活にある恵みの真理と意味を知り、それを信じ確信し喜
ぶ「信仰」は彼ら自身からではないのです。最初は同じように、彼らも律法的に「自分
が」となったかもしれません。しかしそれだと実は福音を全く悟っていないこと同じで
す。しかし事実は、み言葉を福音として、喜びとして、救いとして、悟らせ、心を開い
たのは、彼ら自身ではなくイエスであったことがここにはっきりと書いてあるでしょう
。「イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて」と。
み言葉を通してイエスは働きます。み言葉こそ力です。しかし私たちはそこで律法的
に捉える必要はありません。み言葉を通して、福音を悟らせ、私たちを喜びと平安を与
えその歩みを導いてくださるのもイエスなのです。「あなたがたが自らで、信じて、確
信を持って、頑張って努力して、喜びなさい、平安になりなさい」となると何か変でし
ょう。矛盾するでしょう。「頑張って、喜ぶ、安心する」というのはできない、成り立
たないことです。イエスはそのようには教えていないのです。み言葉を持って絶えず私
たちに働き、そしてイエスが心を開いて福音を悟らせてくださり、その福音によって私
たちに喜びと平安が与えられるのです。だからこそ信仰はやはり私たちの行いでも律法
でもなく神の恵み、賜物であり、神が与え、悟らせ、神が喜びと平安で溢れさせる、そ
れが賜物として信仰の素晴らしさであり、それはこのところ「イエス様が心を開いて」
ということにも一致するのです。
4、「何を宣教するのか。福音とは何か」
そしてそのことは47〜48節の言葉にも関わってくる恵みです。これは有名な宣教を示
唆する言葉です。ここでは「罪の赦しを得させる悔い改めが」とあるでしょう。つまり
これは「宣教の内容」「福音の内容」です。はっきりと「罪の赦しを得させる悔い改め
」こそ宣教すべきことであり福音であるとイエスは言っているのです。けれども現代は
「罪や悔い改めは現代の人々が聞きたくない暗い言葉、聞きたくない言葉だから語って
くれるな」と、教会から敬遠され語られなくなることはよくあります。その方が人が集
まるからとも言います。しかしそこで一体どんな福音を語っているのでしょうか。確か
に愛は強調されますが、どんな愛なのでしょうか。十字架と罪の赦しのない「神の愛」
などあるのでしょうか。しかしイエスははっきりと福音とは何か、証すべき宣教すべき
は何かを伝えています。罪の赦しを得させる悔い改めだと。十字架の事だと。そしてそ
の罪の赦し、十字架の証人こそ、教会であり、宣教なんだとイエスは言っているのです
。そうです。人間の理性や常識では、罪の赦しなんてどうでもいいことかもしれません
。人間の理性や感情では「罪などない」になっていきます。罪など聞きたくない暗いこ
とです。人間の好みにそのまま従えば、罪の赦しや悔い改めなどは排除したいこと、そ
れが普通かもしれません。ですから人間は罪人だからこそ、罪の赦しの奥義、十字架は
、私たちの常識や好みでは目を背けたい好ましくない脇に寄せたいこと、私たちが悟り
得ないことです。しかしだからこそ、ここで罪の赦しを得させる福音が証しされるべき
福音なのだと言っていること自体に、私たちの思いをはるかに超えた、私たち自身では
できない「イエスがなさる、イエスが悟らせ心開く」という大原則が貫かれていること

5 /

がわかるのです。イエスが心開いて悟らせてくださることだから、十字架の罪の赦しは
、本当に喜びと真の平安になります。そして「律法によって」ではなく本当に神から与
えられ湧き出てくる喜びと平安であるからこそ、それは義務的でも律法でもない、本当
の証し、本当の宣教、本当の隣人愛や良き行い、真の奉仕になっていくのではないでし
ょうか。イエスはそのことを伝えてくれています。そのことを保証するように49節の
言葉が続いています。
5、「み言葉と聖霊」
「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまで
は、都にとどまっていなさい。」
と。そう、聖霊を与える約束がここにきちんと伴ってるのです。イエスはこの後、天
に昇ります。しかし目に見える復活のイエスがいなくなったからと「イエスの方から」
は止まってしまうでしょうか。そうではありません。イエスの霊が与えられ主は共にお
られ「イエスの方から」はずっと続くでしょう。まさに聖霊は、み言葉に、そして信仰
に豊かに働くイエス様の霊であり、主なる神です。主イエスは天に昇られ目に確かに見
えなくなります。しかし「世の終わりまであなた方とともにいる」(マタイ28:20)と
約束されたように、昇天されてもイエス様は弟子たちに対して働いてくださり、それと
全く変わらず、聖霊は「聖霊の方から」み言葉を通して私たちの信仰にも働いてくださ
り、「イエスの方から」の恵みを続けてくださっているのです。それは「み言葉を通し
て、賜物である信仰に」なのです。ですから説教でみ言葉が語られている時、それは牧
師という罪深い人間を用いて、イエス様ご自身が私たちに語っている素晴らしい時です
。私たちを信じさせ、喜ばせ、安心させるためです。罪の赦しの福音を喜びと感謝を持
って証するように遣わすためにです。牧師はそのための罪深い道具にすぎません。ルタ
ーは錆びた斧だと言っています。錆びた斧を用いて神は宣教をされるのです。まさに人
に、つまり使徒達自身に力があったのではなく、父子聖霊なる神が働き宣教をなさる。
だから約束のものが与えられるまで「都にとどまっていなさい」なのです。そのように
イエスが私たちに働いて、イエスのみ言葉に力があるからこそ、み言葉によって罪の赦
しの福音の奥義が私たちに開かれ、私たちに真の喜び、真の平安が満ち溢れるのです。
それはイエスしか与えることができません。その約束があるからこそ52〜53節にあ
る通り、約束の聖霊を受けるまでエルサレムに止まりながらも宮で非常な喜びに満たさ
れ、賛美に溢れて主のなさることを待っていたのです。その信仰、その喜びはどこから
来るのか?賛美はどこから来るのか?パウロはこう言っています。
「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことば
によるのです。」(ローマ10:17)
と。今日もイエス様は宣言してくださいます。「あなたの罪は赦されています。安心
して行きなさい」と。この週も福音をそのまま受け取り、平安に満たされて、ここから
遣わされていこうではありませんか。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリス
ト・イエスにあって守るように         アーメン

牧師の週報コラム

覚悟と胆力を養うキリスト信仰その11

3月1日のスオミ教会定例総会にて採択された2026年度の主題聖句と主題およびその趣旨です。

主題聖句 「あなたの御言葉は、わたしの道の光 わたしの歩みを照らす光」

     詩篇119篇105節

主題 「どんなに深い闇に覆われようともキリスト信仰者には失われない光がある」

主題の趣旨

「あなたの御言葉」とは「神の御言葉」のことです。聖書の御言葉が「神の御言葉」であると言われるのは、記述した人がみな神からこのように記しなさいと聖霊に教えられて書き記したものだからです。それで聖書は真に神からの贈り物です。そのようなものを手にして繙くことができるというのは何と言う幸いでしょうか。

神の御言葉が肉体を伴って人間の姿かたちを取ったのが御子イエス様です(ヨハネ1章)。なので、イエス様が教えたこと行ったこと、そして彼の十字架と復活の業を通して神の御言葉である聖書を正しく理解することができるのです。イエス様は「私は世の光である。私に従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」と言われました(ヨハネ8章12節)。「命の光を持つ」とは、死を超える永遠の命という光を持つことです。その光を目指してこの世を歩むので暗闇の中で躓いて倒れたり立ち往生することがないのです。イエス様という光はまた、人間には罪があることを明らかにする光であり、その真実に背を向けず悔い改める者を罪の赦しへと導く光でもあります(ヨハネ3章19~21節を参照)。

このようにしてキリスト信仰者は聖書を与えられた神と結びつきを持ってこの世の人生を進んで行きます。人間的に見てどんなに深い闇に覆われようとも、霊的なキリスト信仰者には失われない光があるのです。何も光が感じられないような時は、目を閉じてみて下さい。目の前には瞼の裏側の黒赤のようなものしか感じられません。その時、イエス様の教えられたこと行ったこと、他の聖書の励ましの言葉を思い浮かべて下さい。好きな讃美歌を頭に響かせても宜しいです。そうすれば、すぐそこに光があることを感じられるはずです。そして目を開ければ大丈夫です。

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牧師の週報コラム

覚悟と胆力を養うキリスト信仰その10

ルターによる聖句の説き明かしと共に(フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ」2月5の日課から)

『私たちの忍耐と聖書が与える慰め励ましを通して私たちは希望を持ち続けることができるのです。』(ローマ15章4節、昨年度のスオミ教会の年間聖句、スウェーデン語訳の聖書”Bibel2000”から)

『この聖句でパウロは二つのこと、すなわち私たちの忍耐と聖書の慰め励ましを結びつけている。聖書は私たちを苦痛、逆境、死から解放してくれない。逆に聖書は神聖な十字架を私たちに負わせる。だから、忍耐が必要になるのだ。まさにその時、聖書は苦しみのただ中にある者を慰めて力づけてくれるものになる。忍耐が萎えることがないように、苦難を突き破って打ち克つことができるように聖書は力づけてくれる。私たちが喜んで勇気を持ってへりくだって苦難に臨むことができるのは、神が繰り返し語るあの御言葉を耳にするからである。「私はあなたと共にいて、あなたを守る。」

キリスト信仰者にとって忍耐強くあるというのは不可欠なことだ。なぜなら、この世の人生とは永遠の死に定められている内なる古い人間アダムを日々死なせていく過程に他ならないからだ。次に到来する世を私たちはまだ手にすることも感じることもできない。それ故、私たちには忍耐強くしがみつく何かが不可欠なのだ。それは神の御言葉に他ならない。神の御言葉に忠実でいれば、私たちは次に到来する世の人生を手に掴んでいることになり、それに繋がっていることになるのだ。私たちは神の御言葉を信頼し、御言葉に踏みとどまる。その時、私たちは安全な船で航海するが如く、この世の人生から次に到来する世の人生に向かって旅をする者となる。御言葉に留まる限り、希望が裏切られることはない。

私たちが苦難にある時、悲しんでいる時、死に直面している時に聖書が私たちを慰めるものになっていれば、それは正しく用いられていることになる。それゆえ、苦しみについて何も知らない者、死を自分に関係ないもののように考えている者は、聖書の慰め励ましについて何も知らないのである。それは言葉を通してだけでは学ぶことはできない。経験を通してでもないとできないのだ。』

スウェーデン語訳聖書を用いた理由 新共同訳は「忍耐」も「慰め」も聖書が与えるものとしています。フィンランド語訳も英語訳(NIV)も同じです。ギリシャ語原文は、忍耐は忍耐、慰めは聖書が与えるという書き方です。ドイツ語のルター聖書(1912年版)はギリシャ語の書き方のまま。スウェーデン語はそれに少し補足した形で分かりやすいので選んだ次第です。

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説教「二つの文明、二つの信仰 - どっちになるかは聖霊次第」 吉村博明 牧師 、使徒言行録17章22-31節

2026年5月10日 復活後第六主日 礼拝説教

使徒言行録17章22-31節、第一ペトロ3章13-22節、ヨハネ14章15-21節

説教をYoutubeで見る

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1. はじめに

本日の使徒言行録17章の出来事は、使徒パウロが古代ギリシャのアテネにてイエス・キリストの福音を居並ぶ哲学者たちの前で弁明したという出来事です。これはとても世界史的な出来事です。というのは、この時、二つの異なる文明が衝突して火花を散らしたからです。二つの文明とは、一つはギリシャ・ヘレニズム文明。これは、人間の理性の力を信じて万物を理性で推し量ったり説明しようとする哲学的な文明です。それに対するはヘブライズム文明。これは天地創造の神という万物を司る方が自分の意思や計画を人間に啓示するという信仰的な文明です。つまり、ギリシャ・ヘレニズム文明は理性のような人間の内部に備わる能力に重きを置く文明、ヘブライズム文明は人間の外部に厳然としてある神とその啓示に重きを置く文明と言っていいでしょう。この本質的に異なる二つの文明が正面からぶつかったわけなのですが、興味深いことに、このお互い水と油みたいなものがいつしか西洋文明の二大底流となって、それを複雑に形作っていくことになります。

アテネの出来事は2000年前のことですが、話の内容は現代の、しかもこの日本で生きる私たちにとっても信仰について考えさせることがあります。それで、本日の説教はこの個所の説き明かしを中心にしていきます。他方で、福音書の日課ヨハネ14章の個所ではイエス様が聖霊を弟子たちに送ると約束します。イエス様は聖霊のことを弁護者と言ったり真理の霊と言ったりします。以前の説教で聖霊が弁護者であるとはどんな意味が教えたことがあります。本日の説教ではアテネの出来事は聖霊が真理の霊であるということに関係するので、そちらの方を見ていきます。

2.神を創り出す人間の文明と信仰

パウロは二回目の地中海伝道旅行の時にアテネに到達します。そこに着くまでは行く先々で、イエス様をメシア救世主と受け入れないユダヤ人の妨害や迫害に遭い、アテネへは避難するように着いたのでした。そこはそれまでの町々と違ってユダヤ人の妨害がありませんでした。そのかわりにパウロを困惑させたのは、町中いたるところで金や銀や石でできた神々の像すなわち偶像が溢れかえっていたことでした。いくら他の宗教のこととは言え、パウロは偶像崇拝を禁じる旧約聖書の伝統に立つ人ですから心穏やかではありませんでした(16節)。

さて、パウロはユダヤ人の会堂だけでなく、町の広場でもイエス・キリストの福音を宣べ伝えました。そこで、エピキュロス派、ストア派という哲学の学派を信奉する人たちと議論になりました。二つの派は古代ギリシャ世界を代表する哲学の学派です。5年前の説教でそれらはどんな主張をする学派であるか触れたことがあります。今回は割愛します。関心のある方はHPの説教集をご覧下さい。ごく簡単に言うと、両者とも森羅万象の成り立ちを理性的に明らかにしようとするもので、魂を含めて全ての事象は原子にまで分解できるというミクロ的な見方をしたり、魂を含む森羅万象は大きな法則の下に周期的に大きな火で焼かれるというマクロ的な見方をします。いずれにしても聖書にはない見方です。

こうした哲学者たちと議論をしたパウロはアレオパゴスという広場に連れて行かれ、そこで宣べ伝えていることを弁明することになりました。アレオパゴスとは、もともとは裁判所の機能を果たす市民の代表者の集会場でした。その頃は、いろいろな教えを調査する機能も果たしていました。

アレオパゴスの真ん中に立ったパウロは居並ぶ議員、哲学者の前で話し始めます。二つの異なる文明が火花を散らす瞬間です。ところで先ほど、ギリシャ文明は理性の力を重んじる哲学的な文明で、パウロが持ち込んできたのは神の啓示を重んじる信仰の文明と申し上げました。そう言うと、あれ、ギリシャ文明には沢山の神々がいたではないか、ゼウスを頂点に、美と愛の女神アフロディテだの、豊穣の神ディオニュソスだの、海の神ポセイドンだの、死者を陰府に導くヘルメス等々、沢山いたではないか?だから、ギリシャ文明も実は信仰の文明ではないか?それがどうやって理性の力を重んじる文明と一緒なのか、というもっともな疑問が出てくるでしょう。大体次のようなことだと思います。これらの神々は人間内部の思いや願いや恐れが結晶して出来たシンボルのようなものです。その意味で人間内部から生み出されたものです。それがあたかも人間の外部にあるように置かれて具体像をもって描写されて神として崇拝されるのです。そういうわけで、パウロがアテネで遭遇した人間知性の先端を行く哲学と多神教の神々という二つの異なるものは、実は双方とも人間内部から生み出されたものということになります。

ところで私たちの聖書の神ですが、これは人間内部の思いや願いや感情の結晶とかシンボルではありません。神は、完全に人間の外部にあって人間を含む万物を造った創造主で、人間から独立した意思と考えを持ち、人間の理性などで把握できる方ではない、というのが聖書の立場です。聖書の神が人間の内部から生み出されたものではなく、人間を越えてその外部に厳然としてあるということは、像を作って崇拝してはいけないと神が命じていることによく表れています。肉眼の目で見ることができない神、理性や知識をもってしても把握しきれない神は、まことに人間が造れる存在ではありません。人間の方が神に造られた存在なのです。

3.神に造られた人間の文明と信仰

さて、パウロは人間の理性と知識に重きを置く人たちに神の啓示を伝え始めます。まず、アテネの皆さん、あなた方が信仰あつい方であることをわたしは認めます、と言って敬意を表します。お前たちは偶像崇拝ばかりしてどうしようもない奴らだ!というような高飛車な態度ではありません。彼は、ある祭壇に「知られざる神に」という文句が書かれていたことに触れて、それを取っ掛かりにして、私はその神を知っているのでお教えしましょう、と言って話を始めます。「知られざる神」というのは、ギリシャ人の神々崇拝では前述したようないろいろな役割と名前を持った神々がいるのですが、ひょっとしたらまだ見つかっていない神が他にもいるのではないか(正確に言えば、まだ作りだしていない神がいるのではないか)、そういう不確かさがあるために、崇拝し忘れた神がないようにと念のためにそう書いたのです。そういう測り知れない神がいるという認識がギリシャ人にあったことが、パウロにとってよい取っ掛かりになりました。

その測り知れない神とは、世界とその中の万物、私たち人間も含めた万物を造られた方である、まさに万物の創造主であり天地の主であるから、人間の手で造った建物なんかに住まないし、また何か足りないものがあるかのように人間にいろいろ供え物をしてもらったり世話してもらう必要もない。逆に神こそが人間に必要なもの、命、息吹その他全てのものを与えて世話をして下さるのである。そのように神は人間に大事にされるお人形さんみたいではなくなって、私たち人間の方が神に大事にされる、というふうに視点を逆転させていきます。

次にパウロは、神が一人の人間から始めて諸民族を作りだした目的について述べます。神はそれぞれの民族に歴史と居住地域を定めたと言います。新共同訳では神は「季節を決め」たとありますが、少し怪しい訳です。ギリシャ語原文は少し複雑ですが、要は神はそれぞれの民族が「どのような歴史をたどるか前もって定めた」という意味です(後注)。それでは、神は何のために諸民族に歴史と場所を与えたのか?それは、彼らに神を探させるためであった、とパウロは言います。果たしてそれはうまく行ったのか?ギリシャ人たちは神を探しているようで、実は偶像ばっかり作ってしまって全然見つけられていないではないか。「彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです」と言っていますが、かなり苦労するんじゃないだろうかというニュアンスです。そして、実際は見いだすことはできていないのです。

ところが、神は私たちから遠く離れた方ではない、本当は近くにおられるのだ。神が私たちの近くにおられるというのは、あなたたちの昔の詩人(紀元前300年代の詩人アラトス)も書いているではないか?そのように言うことでパウロは、ギリシャの同胞にも同じことを考えた人がいましたと指摘して、人々の目を天地創造の神に向けさせようとします。問題の詩で言われていることは、「我々は神の中に生き、動き、存在する。我らもその子孫である」ということです。これがギリシャ人も神が近くにいると考えている根拠として言われます。ところが、パウロが神は近くにあると言う意味とギリシャの詩人がそう言うのでは意味内容は全く異なっています。そこに注意しましょう。ギリシャの詩人が言っていることは、神は人間界にも自然界にもどこにでも浸透しているように存在するという汎神論の考えを表わしています。

パウロが神は近くにおられるというのは、神は人間一人一人に向かって、断ち切れてしまった結びつきを回復してあげようという意思を持って働きかけて下さっている。そういうふうに神は近くにおられると言っているのです。神と人間の断ち切れてしまった結びつきを回復させるための神の働きかけとは何か?それは、神のひとり子イエス様がこの結びつきを壊す原因となった人間の罪を全部背負って十字架の上に運び上げ、そこで人間にかわって神の罰を受けられたということ、これが神の働きかけです。神のひとり子が身代わりになって罰を受けたので、人間はそれに免じて罪を赦してもらえ、罪の赦しの中で生きられる可能性が開かれました。そこで、こうしたことをされたイエス様は真に救い主であると信じて洗礼を受ければ、その人は罪の赦しの中で生きられるようになり、罪の赦しを受けたので神との結びつきが回復して、その結びつきの中でこの世を生きられるようになります。罪の赦しという神のお恵みに留まって生きていけば、神との結びつきは消えることはなく、人生いついかなる時にも神から守りと良い導きが得られます。この世から別れることになっても復活の日に目覚めさせられて復活の体を着せられて、神の御許に永遠に迎え入れられるようになります。このように、神はひとり子イエス様を用いて罪の赦しの救いを実現し、今度はそれを人間に向けてどうぞ受け取って下さいと提供している。それで近くにおられるのです。そしてそれを受け取った人は、近くにいるどころが、まさに「その中に生き、動き、存在する」ようになるのです。

このようにパウロは見かけ上の共通点を突破口にして切り込んでいきます。「神の子孫」ということについても、人間の頭で考えて金や銀や石を使って作った像を神にしてしまったら、じゃ人間はそうした像の子孫なのか、こんなものを先祖に持つのか、おかしいと思わないんですか?ところで私たちの日本でも、いろんなものに魂を注入して、そうしたものを敬い拝み、それらがあたかも生きているようにして、それらと穏やかな関係を保とうとすることがよくあります。なので、パウロの弁明を聞いていると、遠い世界の話と思えなくなります。

さて、パウロはたたみかけます。「神はこのような無知な時代を、大目に見て下さいましたが。つまり、大目に見ることは終わってしまったということです。そのことを明らかにした出来事が起きたのです。死者の復活という、天地創造の神の力が働かなければ起きないようなことが起きたのです。神は今、全ての人が悔い改めるようにと命じておられるのです。「悔い改める」という言葉はギリシャ語のメタノエオーですが、正確な意味は「これまで神に背を向けていた生き方を改めて方向転換して神に立ち返る生き方をする」ということです。ではなぜ、神に立ち返る生き方をしなければならないか?ここから先は旧約聖書の預言の世界に入っていきます。今あるこの世は初めがあったように終わりもある。今ある天と地はかつて神に創造されたものであるが、今の世が終わりを告げる時に神は新しい天と地に創造し直される。その時に死者の復活が起こり、新しい天と地の国に迎え入れられるか、入れられないかの審判が行われる。まさにそのために今は方向転換をして神に立ち返る生き方をしなければならないのだ。神がこの世を裁く日を決めたと言っているのは旧約聖書の数々の預言に基づいています。預言されたことが本当に起こるということが、ひとり子の死からの復活が起きたことで明白になったのだ。そして、その方は最後の審判の時に裁きを司る方なのだ、と。パウロの弁明はまさにキリスト信仰の宣べ伝えになったのでした。

ここまで耳を傾けてきたアレオパゴスの議員や哲学者たちは、どう受け取ったでしょうか?ここから先は今日の日課の個所の後になりますが、聖霊が真理の霊であることと関係するので見ていくことにします。議員や哲学者たちは、旧約聖書の伝統のない人たちです。天と地と人間その他全てを創造した神がいて、それは全ての民族の歴史と居住場所を定め、全人類の歴史の流れと共にある神である、全人類の歴史とその舞台であるこの世はいつかは終わりを告げ、新しい天と地に取って替わられる、などといったことは考えも想像もつかないことでしょう。これらは全て天地創造の神からの啓示として示されたものでした。人間の理性で推し測って組み立てた宇宙像とはあまりにもかけ離れていました。もちろんパウロも違いを知っていたでしょう。それで、旧約聖書の伝統のない彼らにいきなり、ナザレのイエスは預言されたメシア救世主だったと言って始めなかったのでした。誰がメシアかと言う問題はむしろ旧約聖書を持つユダヤ人向けのメッセージだったでしょう。それにしても、死者の復活ということがギリシャの哲学者たちにとって一番の躓きの石になったようです。人間は死ねば魂は原子に分解してしまうとか、森羅万象は周期的に大きな火で焼かれるとい理性で推し測って組み立てた宇宙像です。死を超える永遠の命、しかも肉体の体に代わる復活の体を着せられて生きる命など理性の力で組み立てられるものではありません。パウロの教えはあまりにもかけ離れすぎていてまともに受け入れられないものでした。ある人たちが嘲笑ったのも無理はありません。パウロも恐らく、今日のところはこれ以上何を言っても無駄と思ったでしょう。

4.勧めと励まし

ところが、何人かの人がパウロの後について行きました。アレオパゴスの議場からイエス様を救い主と信じる信仰に入る者が出たのです。彼らはパウロについて行ってメシア救世主についてもっと詳しく聞いたのです。彼らが何を聞いて信仰に入るに至ったか、それについては何も記されていないのでわかりません。ただ、次のようなことだったのではないかと推測できます。

アレオパゴスでのパウロの教えから「知られざる神」が天と地と人間を造られた神であることがわかった。まさに人間が生み出したのではない、逆に人間を造り出した神を知ることになった。しかも、その神は、人間に向かって私を見出しなさいと働きかける神であることもわかった。その働きかけがあることは、神がひとり子をこの世に贈って十字架の死を遂げさせたことで明らかになった、なぜなら、神と人間の結びつきを遮っていたものをひとり子が自分を犠牲にして取り除いて下さったからだ。それがユダヤ人が神聖な書物としている聖書の中で預言されているメシア救世主なのだ。そして、この世を去ることになっても消滅しない命があり、その命を生きられる世が到来することもわかった。なぜなら、パウロがアレオパゴスで述べたように、それが本当に起こることの確証として一度死なれたひとり子が死から復活させられたからだ。

パウロについていったギリシャ人たちはこれらのことがわかったのですが、それは理性や知識によるものではありませんでした。聖霊が働いたから福音の真理が心の中で点火して輝いて、人間の内部から生み出されたものの輝きを上回ったのです。聖霊は真に真理の霊です。パウロが教えた時に聖霊が働いたのは、彼の宣べ伝えた言葉が神からの言葉だったからです。私たちには聖書という神の言葉があります。その中にパウロの教えも収められています。私たちが聖書を繙く時、聖霊は必ず働き、福音の真理の光を輝かせてくれます。

そうすると一つ疑問が置きます。パウロの教えが神の言葉だったのなら、なぜアレオパゴスの多くの議員や哲学者たちには福音の光は点火しなかったのか?彼らには聖霊は働かなかったのか?もし聖書が神の御言葉ならば、なぜそれを宣べ伝えても聞いた人すべてがすぐイエス様を救い主と信じる信仰に入らないのか?彼らには聖霊は働かないのか?それは、こういうことではないかと思います。多くの人にとって、人間内部で生み出されたものの輝きは見慣れた輝きです。それで、福音の真理の輝きが来て、今のあなたの輝きはいつかは消える一過性のものだ、これこそが消えない輝きだと言われたら、大抵は脅威に感じ、そんな輝きはいらないと背を向けるのではないかと思います。ところが、ある人たちは、福音の輝きは消えない真理の輝きだとわかって、以前からの輝きに背を向けたのです。それが起こるのは早いか遅いかの違いがあると思います。しかし、いずれの場合でも神の御言葉が繙かれ宣べ伝えられていれば聖霊は必ず働いていつかは心の中を完全に福音の消えない光で満たしてくれます。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

(後注)英語、ドイツ語、フィンランド語、スウェーデン語の聖書も大体そのような訳です。ルター訳はずばり諸民族の存続期間が定められると言っています。

説教「心を騒がせるな、ただイエスの名によって祈り求めよ」 吉村博明 牧師 、ヨハネによる福音書14章1-14節

2026年5月3日 復活節第五主日 主日礼拝説教

使徒言行録7章55-60節、第一ペトロ2章2-10節、ヨハネ14章1-14節

説教をYoutubeで見る

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

本日の福音書の日課の箇所は、イエス様が十字架にかけられる前夜、弟子たちと最後の晩餐を共にした時の教えです。初めに「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしを信じなさい」と命じます。「心を騒がせるな」とは、この時、弟子たちが不安を抱き始めたためイエス様が述べたのです。弟子たちはどうして不安を抱いたのでしょうか?

弟子たちにとってイエス様はユダヤ民族の期待のヒーローでした。無数の不治の病の人を癒し、多くの人から悪霊を追い出し、嵐のような自然の猛威も静め、わずかな食糧で大勢の人の空腹を満たしたりするなど沢山の奇跡の業を行いました。誰が見ても天地創造の神が彼の味方にいるとわかりました。さらに、創造主の神について人々に正確に教え、ユダヤ教社会の宗教エリートたちの誤りをことごとく論破しました。弟子たちも群衆も、この方こそユダヤ民族を他民族の支配から解放してかつてのダビデの王国を再興する真の王と信じていました。そうして民族の首都エルサレムに乗り込んできたのです。人々は、いよいよ民族解放と神の栄光の顕現が近づいたと期待に胸を膨らませました。

ところが、イエス様は突然、私はお前たちのもとを去っていく、私が行くところにお前たちは来ることができない、などと言い始めたのです(ヨハネ13章33、36節)。これには弟子たちも面喰いました。イエス様が王座につけば直近の弟子である自分たちは何がしかの高い位につけると思っていたのに突然、自分は誰もついて来ることができない所に行くなどと言われる。それでは王国の復興はどうなってしまうのか?イエス様がいなくなってしまったら、取り残された自分たちはどうなってしまうのか?ただでさえイエス様は宗教エリートの反感を買っているのに、肝心のリーダーがいなくなってしまったら自分たちは弾圧されてしまうのではないか?こうして弟子たちは不安に襲われて心が騒ぎ出したのでした。そこで、イエス様は「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」と命じたのです。この世で敵に囲まれて取り残されてしまう弟子たちが心を騒がせないで済むようにイエス様は教えていきます。その教えは当時の弟子たちだけでなく現代を生きるキリスト信仰者にとっても大事なものです。以下そのことを見ていきましょう。

2.イエス様は道の決定版、真理の決定版、命の決定版

イエス様は、天の父なるみ神のもとに行って、そこで弟子たちのために場所を用意し、その後また戻ってきて弟子たちをそこに迎えると言われます。「神のもとに行く」というのは、言うまでもなく天の父なるみ神のもとです。イエス様が死から復活して復活の体を持ってそこに帰ることを意味します。「また戻ってくる」というのはイエス様が再臨する日のことです。その日イエス様は弟子たちを自分が用意した場所に連れて行ってくれると言うのです。それは、今のこの世が終わって天と地が新しく再創造される日、死者の復活が一斉に起こり、神の目に義と見なされる者たちが見出されて神の御許に迎え入れられる日です。この迎え入れられる場所のことを聖書は「神の国」とか「天の国」などと言います。

そこは黙示録で言われているように全ての涙が拭われて痛みも嘆きも死もない国です。全ての涙というからには痛み悲みの涙だけでなく無念の涙も含まれます。それで、その国は旧い世の不正義の報いが完璧に果たされた国なのです。また、それは盛大な結婚式の祝宴にも例えられます。イエス様は祝宴に迎え入れられる一人ひとりのために席を用意しに行き、時が来たら迎えに来ると約束しているのです。また来るから心配するな、来たら直ぐお前たちを新しい世の神の国に連れて行ってやると約束しているのです。神を信じイエス様を信じるということは、神とイエス様は約束を必ず果たすと信じることです。信じたら、この世で神の意思に沿うように生きようとして困難や苦難にあっても、この約束があるので何も心配いらないという気持ちでいられるのです。

ところが、イエス様の十字架の死と死からの復活が起こる前に将来の復活の話をされても何のことか理解できません。自分はまた戻って来るから大丈夫だと言った後でイエス様は恐らく反論を予想して言います。「お前たちはわたしが行こうとしている場所に通じる道を知っているのだ」(4節)。予想通りトマスが当惑して言い返します。あなたがどこへ行くのかわかりません。それなので、そこに至る道というのもわかりません。行先が分からなければ道なんかもわからない。もっともなことです。これに対してイエス様は待ってましたとばかりだったでしょう、とても有名な言葉を述べます。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(6節)。

イエス様自身が天の父なるみ神のもとに至る道であると言うのです。しかも、彼を介さなければ、だれも神のもとに行くことはできないという位、イエス様は創造主のもとに至る唯一の道だと言うのです。唯一の道ということは、ギリシャ語の原文でもはっきりしていて、道、真理、命という言葉全部に定冠詞へーがついています。定冠詞とは皆さんご存じの英語のtheと同じもので、the way, the truth, the lifeです。定冠詞がつくと、イエス様は道の決定版、真理の決定版、命の決定版という意味になります。いくつかある道の中のどれか一つではないのです。その場合は定冠詞はつかず、英語ならa way, a truth, a lifeになります。イエス様はそうは言っていません。日本語は定冠詞がないので、注意しないと、沢山ある中の一つを言っていると誤解する人が出てきます。

イエス・キリストが道の決定版などと言うと、宗教の業界では煙たがれます。ああ、キリスト教は独り勝ちでいたい宗教なんだ、と。それでか、最近はキリスト教関係者の間でも、この世から死んだあと天国でも極楽でもなんでもいい、そういう至福の状態に至る道はいろいろあっていいのだ、それぞれの宗教がそれぞれの道を持っているが到達点はみな同じなのだ、そうことを言う人が増えてきました。そういうふうに言えば、キリスト教はなんと懐の深い宗教だろうと評価されます。

しかしながら、至福に至る道についてキリスト教を他の宗教と同列にできないことがあることを忘れてはいけません。多くの宗教では人間はこの世を去ってあの世に行ったら、そこからこの世にいる私たちを見守っているというような、この世とあの世が同時に存在してあるという見方をしているのではないかと思われます。キリスト教の場合は復活と天地の再創造があるので同時の存在はありえません。今ある天と地が終わって新しい天と地が再創造される、そこに旧い世の時には異次元にあって見えなかった神の国が唯一の国として現れてくる、死者が一斉に眠りから覚まされる復活が起きて創造主の神の前で義とされる者は復活の体を着せられてそこに迎え入れられるという流れになります(後注)。それなので、キリスト教がゴールと考えているところは他の宗教がゴールと考えているところと次元が全く異なります。他の宗教ではこの世から別れると至福の地点に到達するまで修行の旅をするというような見方をするところもあります。キリスト信仰では復活の日まで特に何もせず、ただ静かに安らかに眠っているだけです。

道以外にもイエス様は、自分は真理の決定版、命の決定版であると言われます。真理の決定版というのはどういうことでしょうか?真理とは普通、時や場所に関係なくいつどこででも妥当する普遍的な法則のようなものです。例えば、イエス様の十字架と復活の業によって人間は罪の支配下から解放されて将来復活を遂げることができるようになる可能性が生まれたこと。これは、時や場所や人種民族に関係なく全ての人間にその可能性が生まれたので、これは真理です。さらに、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、それは可能性に留まらず本当のことになるということ。これも、時や場所や人種民族に関係なく全ての人間に本当のことになるので、真理です。ところが、最後の審判はキリスト教徒だけの問題だ、キリスト教以外の人は最後の審判は関係ないと言ったら、キリスト教から真理を取り下げることになります。なぜなら、最後の審判はキリスト教徒か教徒でないかに関係なく全ての人間に関わるというのが聖書の立場だからです。それで最後の審判も真理です。

命の決定版ということについて。イエス様が「命」とか「生きる」という言葉を使う時は、いつもそれは今のこの世の人生だけでなく、今の世が終わった後に到来する新しい世の人生も一緒にした、とてつもなく広大な人生を「生きる」「命」を意味します。死から復活させられたイエス様はまさにその広大な人生を生きる命を持つ方です。そればかりではありません。彼を救い主と信じて洗礼を受けた者たちにも同じ広大な人生を生きる命を与えて下さる方なのです。それで、イエス様は命の決定版なのです。

3.父なるみ神と御子は一体

7節でイエス様は、「あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる」と言われます。イエス様を知ることは、父なるみ神も知ることになる。イエス様を見ることは、父なるみ神を見ることである。それくらい御子と父は一体であるということが7節から11節までずっと言われます。そう言われてもフィリポにはピンときませんでした。イエス様を目で見ても、やはり父なるみ神をこの目で見ない限り、神を見たことにはならない、と思いました。イエス様と父なるみ神は一体であるということがまだわからないのです。これは、十字架と復活の出来事が起きる前は無理もなかったでしょう。しかし、十字架と復活の出来事の後に全てが一変します。弟子たちはイエス様が真に天の父なるみ神から贈られた神のひとり子だったとわかったのです。さらにこのひとり子は、人間を罪の支配下から解放して将来復活を遂げられるようにしてあげようとする神の人間への愛を自ら実践した、それで十字架の死は人間の解放のための犠牲の死であったこともわかりました。そのようなことを成し遂げる位にひとり子は父に従順だったこと、彼が人間に教えたり行ったことは全て父が教えたり行ったことで、自分で好き勝手に教えたり行ったのではないこと、それくらい父と御子は一体だったことが明らかになったのです。

12節でイエス様は、「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである」と言われます。これは、ちょっとわかりにくいです。イエス様を信じる者がイエス様が行った業よりももっと大きな業を行うとは、一体どんな業なのか?まさかイエス様が多くの不治の病の人を完治した以上のことをするのか?自然の猛威を静める以上のことをするのか?しかも、信じる者が大きな業を行うことが、イエス様が天のみ神のもとへ行くこととどう関係があるのでしょうか?

弟子たちがイエス様の行う業を行うと言う時、まず、イエス様がなしたことと弟子たちがなしたことを並べて見てみるとわかります。イエス様は、人間が神との結びつきを回復して広大な人生を生きられるようにする可能性を打ち立てました。これに対して弟子たちは、この福音を宣べ伝えて洗礼を授けることで人々がこの可能性を自分のものとすることができるようにしました。つまりイエス様は可能性を打ち立て、弟子たちはそれを現実化していったのです。しかし、両者とも、人間が神との結びつきを回復して、この世とこの次に到来する世を合わせた広大な人生を生きられる道に乗せてあげられるようにするという点では同じ業を行っているのです。

それから、弟子たちの場合は活動範囲がイエス様の時よりも急速に広がったことが重要です。イエス様が活動したのはユダヤ、ガリラヤ地方が中心でしたが、それが弟子たちが遠く離れたところにまで出向いて行ったおかげで救われた者の群れはどんどん大きくなっていきました。使徒たちの伝道は地中海世界の東側全域に及びました。パウロはスペインを目指しましたが果たせませんでした。パウロの後に続く者たちに委ねられました。伝説によるとトマスはインドにまで伝道しに行ったとのことです。地理的な意味で、弟子たちはイエス様の業よりも大きな業を行うことになったのです。ヨハネ16章7節でイエス様は、自分が天の父のもとに戻ったら、今度は聖霊を送ると約束しました。お前たちをみなしごのようにしないと言うのです。聖霊は福音が宣べ伝えられるところならどこででも働き、人間が罪のなすがままの状態にあるという真理と、そこから解放するのが神の愛であるという真理を人々が見れるようにと導きます。このようにイエス様が天の父のもとに戻って、かわりに聖霊が送られてきて、弟子たちが伝道すると聖霊が働き、キリスト信仰者の群れはどんどん大きくなっていったのです。

4.勧めと励まし

イエス様は13節と14節で、わたしの名によって願うことは何でもかなえてあげよう、と言われます。これはとても難しいところです。昔、私の知り合いのキリスト信仰者の方が、自分の抱えている問題がとても大きくて人間的に見て解決はどう見ても不可能、祈っても解決を得られなかったら、自分はイエス様に失望してしまうかもしれない、それが怖くて祈れないと言われた方がいらっしゃいました。気持ちはよくわかったのですが、私としてはやはり、神に全てを打ち明けることは十戒の第一の掟に入るので、義務としてでも祈らなければならなかったと思います。「何でもかなえよう」がその方にとって躓きの石になったと思います。

自分は金持ちになりたい、有名になりたい、というようなことをイエス様の名によって願ったら、その通りになると信じる能天気な人はまずいないでしょう。イエス様の名によって願う以上は、願うことの内容は父なるみ神の意思に沿うものでなければなりません。利己的な願いは聞き入れられないばかりか神の怒りを招いてしまいます。キリスト信仰者は神との結びつきを持って復活の日を目指して歩む者です。キリスト信仰者が願うことはもちろん、いろんなことがありますが、つまるところは「イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼によって得ることができた神との結びつきがしっかり保たれて、道の歩みがしっかりできますように」という祈りに行きつくのではないかと思います。「これしきの困難で歩みが出来なくなるようなことがないように」と祈ると、神はその人の歩みが出来るように、困難を解消してくれるか、または困難を耐えられる忍耐力のどちらかをお与えになります。さらに、まだ神との結びつきを持てておらず復活の日を目指す歩みも始まっていない隣人のための祈り、その方に歩みが始まりますように、そのために何か相応しい言葉や働きかけを教えて下さいと願う祈りも切実なものになると思います。復活の日の再会がかかっていればなおさらです。イエス様がその通りにしてあげると約束された以上は、どんなに時間がかかっても、それを信じて願い続け祈り続けなければなりません。

 冒頭で述べた問題に戻りましょう。イエス様が天のみ神のもとに戻ってしまったら、弟子たちはこの世で敵に囲まれるように取り残されてしまうことになる。それでも心を騒がせないで済むのだということをイエス様は教えられました。何を根拠にそうなれるか?まず、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼によって自分は父なるみ神との結びつきを持てた、そして永遠の命に至る道に置かれて今その道を進んでいるのだ、という救いの確信がまず一つ。もう一つは、自分がこの道を歩めるために、また隣人も歩めるようになるために願い祈ることはなんでも主は聞き入れてかなえて下さると約束されたこと。救いの確信と神の約束、これらはキリスト信仰者にとって大きな励ましと慰めです。これらがあるのだから、心を騒がせる必要はないのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

(後注)もちろん、この説明は大雑把なもので、細かいことを言えば、復活の日を待たずに神の御許に迎え入れられた聖人はいるし、復活も黙示録を見ると2段階あるように書かれています。詳細は人間の理解力では把握できませんが、大きく見れば、この世とあの世の同時併行ではなく、この世がなくなってあの世に取って代わられるということです。

手芸クラブの報告

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4月の手芸クラブは22日に開催しました。この日は太陽が明るく輝き様々な花も咲くようになって美しい季節の朝でした。

今回の手芸クラブのテーマは前回に続いてモチーフ編みです。初めにモデルを見て自分の作りたい正方形の編み物を選びます。参加者の皆さんは前回にもモチーフ編みをされたので、今回はスムーズに編み始めることができました。お家で編まれた方は可愛い彩りの正方形の編み物を何枚も持ってこられました。皆でそれを見て、「わぁー可愛い!」「素敵」「きれいな色合い」と感心の声をあげました。モチーフ編みは鎖編みと中網の繰り返しだけなので、皆さんはマイペースで編み進めます。次第に作品の形が見えてきました。皆さんの手は早く、何枚も正方形を編まれました。正方形の数が増えると、最後はどんな作品になるか、完成品が楽しみです!

編み物に集中すると目や手が疲れます。コーヒータイムで一息入れることにしました。今フィンランドの季節は5月のお祭Vappu(メーデー)に近づいているので、季節のドーナツ菓子Munkkiを味わいながら楽しい歓談の時を持ちました。そこでパイヴィのお祖母さんたちの思い出話や、新約聖書のフィリピの信徒への手紙の「思い悩むな」についてお話を聞きました。

次回の手芸クラブは5月27日の予定です。詳しくは教会のホームページの案内をご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。

 

手芸クラブのお話2026年4月

今日の手芸クラブはモチーフ編みの続きをしました。皆さんは素敵な彩の正方形の編み物を何枚も編みました。それらをつなぎ合わせると、どんなものになるのかこれからの楽しみです。この編み方は英語でグラニースクエア(おばあちゃんの正方形)と言い、フィンランド語でも同じ意味「Isoäidin neliö」と呼ばれます。とても可愛い呼び名の手芸です。昔お祖母さんたちが始めた編み方かもしれません。昔、お母さんたちは家族の皆の靴下や手袋などを編んでいたので、毛糸が沢山余ったでしょう。お祖母さんになってから余った毛糸を使ってモチーフの編み方が生まれたかもしれません。

私はこのIsoäidin neliöという言葉を聞くと、自分のお祖母さんたちのことをよく思い出します。母の母である私のお祖母さんはかぎ針編みがとても上手でレース編みのカーテンやベッドのカバーなどを編んでいました。彩のモチーフ編みの美しいベッドカバーも作りました。11人の子どもを育てたお祖母さんは手袋や靴下を沢山編みました。余った毛糸を使ってモチーフ編みのベッドカバーを編みながらいろいろ思い出を巡らせていたのだろうと思います。

私のもう一人のお祖母さん、父の母はかぎ針編みはしませんでしたが、棒編みで靴下を冬でも夏でも編んでいました。家族の皆は毎年クリスマスプレゼントに暖かい靴下をもらいました。いつもサンタの奥さんが編んでくれたかのように思いました。父の母は私たちが住んでいた家と同じ家に住んでいました。母は農家の仕事で忙しかったので、お祖母さんは私たち兄弟姉妹の世話をしてくました。

一緒に過ごす時間が多くて私たちはお祖母さんととても親しくなりました。お祖母さんは聖書を毎日読んでお祈りを大切にしていました。私たち兄弟姉妹は学校でテストの日や勉強で忙しい時に少しプレッシャを感じることがありました。そんな時お祖母さんはいつも聖書の御言葉で励ましてくれました。お祖母さんがよく言われた言葉は今でも印象に残っています。それは新約聖書のフィリピの信徒への手紙の言葉です。

「どんな時でも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めた祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなた方の心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」
フィリピの信徒への手紙4章6-7節

子どものころこの言葉を聞いてもその意味を深く理解することはできませんでした。しかしお祖母さんはこの言葉でいつもで励ましてくれて、そしていつもお祈りしてくれたので心は軽く感じられました。大人になってからこのことを思い出すと感謝の気持ちで一杯になります。

この使徒パウロが語った言葉はどのような意味があるのでしょうか。

私たちは生活の中で心配事や悩む事が多くあると思います。そのようななかで生きていると、人生に対する喜びや希望を失ってしまうこともあります。しかし、いくら悩んでも何かを得ることは出来ず、ただ疲れてしまうだけです。では私たちはどうしたらよいのでしょうか。

神さまは私たちにとても大切なことを与えて下さいました。それは祈りです。祈りを通して天の神さまに全てのことを打ちあけることができます。私たちは全ての悩みを神さまの力強い御手に委ねることがでるのです。神様が私たちの祈りにどのように答えて下さるのかは分かりません。神さまは私たちの造り主であり、私たちに最も相応しい答えを与えて下さいます。また、神さまは私たちの父でもあるので、相応しくないものを与えることはなさいません。私たちは、神様が与えてくださったことにすぐ気がつかないこともあるかもしれませんが、神様は心の中に平安を与えて下さいます。どのような状態にあっても、お祈りすることで全てのことを神さまの御手に委ねることができるので、心の中に平安を得ることができるのです。

お祖母さんが教えてくれた聖書の箇所は今でも私を励ましてくれる言葉の一つです。聖書には励ましてくれる言葉は数多くあり心を癒してくれます。

最後に旧約聖書のイザヤ書のみ言葉です。

「恐れることはない、私はあなたたと共にいる神。たじろくな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助けわたしの救いの右の手であなたを支える。」
イザヤ41章10節

私たちは、神さまのみ言葉を信じることができれば、心は軽くなり、平安に満たされます。

 

 

 

4月の料理クラブの報告

4月の料理クラブは18日、つつじが咲き始めた初夏のような陽気の中で開催しました。今回はこの季節にピッタリのシュガーフレーク・フルーツケーキを作りました。

料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。最初にケーキの生地を作ります。今回はハンドミキサーは使いません。ケーキの粉類を計ってそれに溶かしたマーガリンを加えると、シュガーフレークのもとが出来ます。トッピング用にその一部を取っておきます。残りのものに生地用の他の材料を順番に混ぜ加え、それを型に伸ばします。

その次は中身の番です。水切りしたヨーグルトに砂糖、レモン汁を加えてクリーミーにし、それを生地の上に注ぎます。細かく切った缶詰のピーチとパイナップルをクリームの上に並べトッピングのシュガーフレークをかけて、ケーキをオーブンに入れて焼きます。ケーキが焼けている間にパプリカとキューリを切ってクラッカーの上にのせるなどして、塩気のものも少し準備しました。

keeki

ケーキが焼けると美味しそうな香りが教会中に広がり、きれいな黄色のケーキが焼き上がりました。みなさん、「春らしいケーキね!」と声を合わせます。
keeki
ケーキを少し冷ましてから切って、ケーキとクラッカーをコーヒー紅茶と一緒に美味しく頂きながら、楽しい歓談のひと時を過ごしました。キリスト教会では2週間前にイースター・復活祭のお祝いをしました。それで、今回の話は今日作ったケーキのことやイースターの後に起こった出来事についてでした。

次回の料理クラブは5月16日に予定しています(ご注意 5月は月の第三土曜日になります)。 詳しい案内は教会のホームページをご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。

料理クラブのお話2026年4月

今日は「シュガーフレーク・フルーツケーキ」を作りました。フィンランドでは黄色のフルーツケーキはイースター・復活祭のお祝いの時によく作られます。以前、料理クラブでは似たようなピーチケーキを作りましたが、今回はピーチに加えてパイナップルもケーキの中に入れました。水切りヨーグルトを使ったしっとりしたケーキにトッピングのシュガーフレークを‘かけると、ケーキの風味が高まり美味しくなります。

この季節になるとフィンランドの家庭では、前の年に冷凍したベリーを殆ど使い切ってしまうため、ケーキ作りには缶詰のフルーツが使われます。パイナップルもその一つです。パイナップルは甘いお菓子だけではなくて肉料理やピザ、サラダなどにも使われます。

パイナップルは熱帯地域で育つ果物です。実が出来るまで2年もかかります。昔はとても希少で高価な果物で、身分の高い客をもてなすために使われたりしましたが、現在では生や缶詰のものがどこでも販売されているので、かつての特別な意味を知る人は少ないと思います。

今日のケーキは黄色いフルーツに加えて水切りヨーグルトも使ったので、イースターのケーキのイメージが高まりました。ちょど2週間前には教会ではイースターのお祝いをしました。これから聖書にあるイースターの後で起こった出来事についてお話したく思います。

イースターとは何の日でしょうか。それは、十字架にかけられて亡くなられたイエス様が神様の力で復活されたことを覚えてお祝いする日です。十字架の死から三日後の朝、復活されたイエス様が弟子たちや彼の教えをよく聞いていた女性たちの前に現れました。そして同じ日の夜、弟子たちがある家に集まっていると、突然イエス様が部屋の真ん中に立って「あなた方に平和があるように」と言われました。弟子たちは幽霊だと思って恐れました。しかし、イエス様は弟子たちに自分の手と足と十字架の時に受けた傷を見せて、幽霊には骨も肉もないが自分にはあると言われました。弟子たちは最初驚くばかりで信じられない気持ちでしたが、次第にイエス様の復活を本当のことと分かって、心が平和に満たされていたのです。

イエス様は弟子たちの前に現れた時、一番初めに「あなたがたに平和があるように。」という挨拶の言葉を語りました。つい三日前の金曜日、イエス様は十字架に付けられて死なれました。その時の弟子たちは皆、イエス様を見捨てて逃げてしまいました。悲しんで後悔している弟子たちに、復活されたイエス様は責めるようなことは何も言わず、ただ「あなたがたに平和があるように」と挨拶されたのです。

神様が平和を与えて下さるという約束は、聖書の中で最も重要な約束の一つです。この神さまの約束は私たちにも向けられています。しかし私たちは今生きているこの世界の中で本当に平和に生きることができるでしょうか。今この世界は落ちしく揺れ動き国と国の間の紛争や戦争が数多く起こり、それらがどれくらい広がっていくか不安に感じさせます。さらに私たち一人一人の生活の中にも様々な不安があります。自分や家族の健康のこと、自分や子どもたちの将来のこと、人間関係のことなど多くの心配ことがあると思います。このような状態の中でどのようにして平和な心で生きられるでしょうか。イエス様が与えて下さる「平和」とはどんな平和でしょうか。

イエス様が言われた「平和」とは神さまが私たちの心に与えて下さる平和です。イエス様のお掛けで神さまと私たちは平和な関係があるという平和です。全ての造り主の神さまと平和な関係があるとわかれば、神様が共におられることが分かり、神さまを信頼して生きることができます。この時私たちの心の中には神さまからの平和があります。神さまは不安や悩みにとらわれている私たちを解放して全てを御手に委ねることができるようにしてくださいます。その時私たちは心の平安を得ることができるのです。

イエス様は弟子たちと出会われた時に彼らはイエス様に起こった出来事のために恐れに満たされ不安で一杯でした。しかしイエス様は彼らに「あなた方に平和がありますように」と語りかけました。私たちも弟子たちと同じです。生活の中に心配事があるかもしれませんが、イエス様は私たちにも「あなた方に平和があるように」と励まして下さいます。

何かを恐れている人、心配なことや後悔がある人も皆、イエス様のおかげで神様と平和な関係が持つことができるとわかれば、心に平安を得ることができるのです。イエス様は私たちにもこの励ましの言葉「あなた方に平和がありますように」と語りかけておられます。

説教「罪の赦しという神のお恵みに留まって生きる」 吉村博明 牧師 、ヨハネによる福音書10章1-10節

主日礼拝説教 2026年4月26日 復活後第四主日

聖書日課 使徒言行録2章42-47節、第一ペトロ2章19-25節、ヨハネ10章1-10節

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

本日の福音書の日課はイエス様のたとえの教えです。最初の1節から5節までをもう一度見てみます。

「羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊を連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」

これは、当時の社会のごく日常的なことを言っています。羊の飼育が盛んなところでは、羊を牧草地に連れて行かない時は木材や石材で作った塀の囲いの中に入れていました。泥棒が「乗り越える」と言うから、それなりの高さがあったのでしょう。イエス様の話し方からすると、囲いの中には複数の所有者の羊が一緒に入れられていたことがわかります。ある羊飼いが、さあ、これから僕の羊を牧草地に連れて行こう、とやってくる、門番に本人確認をしてもらって門を開けてもらう、そして、自分の羊を呼び集める。羊は羊飼いを声で聞き分けられるので、別の羊飼いが近づいてくれば、すぐわかって引き下がる。こうして、羊飼いと羊の群れは一緒になって囲いの外に出て牧草地を目指して進んでいきます。

これは、当時の人には日常的な当たり前な話でした。ところが、これを聞いたファリサイ派の人たちは「その話が何のことか分からなかった」のでした(6節)。どうしてかと言うと、当たり前のことなので話としてはわかるが、だから一体何なのだという感じになったのです。その反応を見たイエス様は今度は、自分は囲いの門であると言い、さらに自分は良い羊飼いであると言います。本日の日課は囲いの門のところまでです。

これらのたとえが何を意味しているかは、イエス様の十字架の死と死からの復活の後でわかるようになります。そもそもイエス様の教えというのは、十字架と復活の出来事と結びつけて、その出来事の意味を知った上でないとわからないのです。それは本日の箇所に限ったことではありません。イエス様の十字架や復活を度外視してイエス様の教えを理解しようとすると、イエス様が教えようとしたことからどんどん離れていきます。注意しないといけません。

私たちは十字架と復活の出来事が起きたことも、その意味も知っているので、今日のたとえの意味をわかる立場にあります。以下それを見ていきましょう。

2.イエス様は羊の囲いの門

9節「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。」ここで注意すべきことは、日本語訳では「門を出入りして」と言って、出たり入ったする日常的な放牧のイメージを出しています。ところが、原文では、「囲いの中に入って、外に出ていく」と言っています。それも未来形で言っています。牧草地を見つけることも未来形で言っています。つまり、囲いの中に入ることと外に出ていくこと、そして牧草地を見つけることは全て日常的な放牧を超えた事柄を意味しているのです。それはどんな事柄でしょうか?さあ、十字架と復活の意味を知る者の出番です。

イエス様という門を通って中に入るというのは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けてキリスト信仰者の群れに入ることを意味します。それは、人間に命と人生を与えた創造主の神と結びつきを持ってこの世の人生を歩む者たちの群れです。そして、この世から別れても将来の復活の日に眠りから目覚めさせられて復活の体を着せられて神のみもとに永遠に迎え入れられる者たちの群れです。永遠に迎え入れられる神のみもととは、「神の国」とか「天の国」とか呼ばれるところです。8節で言われるように、彼らはいろんな霊的な声がするのを聞いたけれども聞き従わず、イエス様の声だけに聞き従った者たちです。

このようにイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、イエス様という門を通って中に入って救われた群れに加わる。そうすると、今度は「外に出て牧草地を見出す」ことになります。これは、イエス様を羊飼いのように先頭にしてこの世の荒波の中に乗り出して行き、最後は緑豊かな牧草地にたとえられる神の国に到達することを意味します。荒涼として渇いた荒地を長く歩いた羊にとって牧草地は安息の場です。それと同じように、この世の荒波を生きぬいた者たちにも神の国という安息の地が約束されているのです。

このように、この世の人生を天地創造の神と結びつきを持って生き、神の国に迎え入れられる日を目指して進み、最後には迎え入れが実現する、この世とこの次に到来する世の二つの世の人生を生きられること、これが「救われる」ことです。10節で「命を持つことが出来るように、それももっともっと持つことが出来るように」と言っているのは、まさに二つの世にまたがる壮大な人生を生きることを意味します。

二つの世にまたがる人生を生きられるために、なぜイエス様を救い主と信じて洗礼を受けないとダメなのか?それは、神と結びつが必要不可欠で、その結びつきはイエス様を抜きにしては持てないからです。もともと人間は天地創造の時に造られた時は良いものとして神との結びつきを持っていました。ところが、神の意思に反しようとする性向、罪を持つようになってしまったために失われてしまったのです。神聖な神との結びつきを回復するためには、人間は内に持っている罪をどうにかしなければならない。人間は自分の力で罪を除去できないというのが聖書の立場です。この問題を解決するために神はひとり子をこの世に贈ったのです。あたかも彼が全ての人間の罪の責任者であるかのようにして彼に人間の罪を全て背負わせてゴルゴタの十字架の上に運び上げさせて、そこで神罰を受けさせたのです。人間の罪の償いを神のひとり子に果たさせたことは、本日の使徒書の日課、第一ペトロ2章でも言われていました。そこでペトロは十字架の出来事が旧約聖書イザヤ書53章の預言の成就だったことを証ししているのです。

そこで今度は人間の方が、これは本当に起こったんだとわかって、それでイエス様は救い主だと信じて洗礼を受けると、罪の償いはその人にその通りになり、罪が償われたからその人は神から罪を赦された者として見なされるようになり、罪を赦されたから神との結びつきを持てて生きられるようになるのです。

このように、私たちが神との結びつきを持てて、今のこの世と次に到来する世の二つにまたがって生きられるようになるためには、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けるかどうかにかかっているのです。まさにこれがイエス様という門を通って救われた群れに加わるということなのです。イエス様はさらに、救いの門は自分一つだけであるということをヨハネ14章6節で宣言します。

「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」

3.勧めと励まし 罪の赦しというお恵みに留まって生きる生き方 その1

こうして、イエス様という門を通って救われた群れに加わった者は今度は、良い羊飼いのイエス様を先頭にして囲いを出て荒波猛るこの世に乗り出していきます。牧草地に例えられる永遠の安住の地、神のみもとに向かって進んでいきます。その進みはどのような進みでしょうか?詩篇23篇はこの進みの現実を的確に言い表わしています。4節「たとえ我、死の陰の谷を往くとも、禍を怖れじ。汝、我と共にませばなり」。つまり、死の陰の谷を通らなければならない時もある、だから、いつも安全とは限らない、しかし、主が共にいるから安心なのだ、と言っています。キリスト信仰者にとって死の陰の谷に例えられる危険とはどんな危険でしょうか?

それは、キリスト信仰者がゴールに到達できなくなるようにする危険です。そのために神との結びつきを失わせようとする危険です。キリスト信仰者はそうした危険に囲まれて生きています。イエス様を救い主と信じ洗礼を受けたと言っても、神の意思に反しようとする性向、罪はまだ私たちの内に残っています。もちろん、罪の赦しがある以上、罪は残っていても信仰者を神罰下しに陥れる力はなくなっています。それでキリスト信仰者は、この罪の赦しは神のひとり子の尊い犠牲と引き換えに頂いたものだからそれを台無しにするような生き方はやめよう、神の意思に沿うように生きようと志向します。ところが、実生活を生きていると自分には神の意思に反することが沢山あることと気づかされます。神に失格者と見なされてしまうのではと心配したり、そういう至らない自分にがっかりします。しかし、その時は直ぐ心の目をゴルゴタの十字架に向けます。あの時あそこに打ち立てられた罪の赦しは今も微動だにせず打ち立てられていることがわかります。これがキリスト信仰者の希望です。信仰者は神の意思に沿うようにしなければと再び心を新たにし、そのような再出発を可能にして下さる神に感謝します。

キリスト信仰者は実にこのような罪の自覚、赦しの願い、赦しの確認を繰り返しながらこの世を歩んでいきます。これこそが罪の赦しのお恵みに留まる生き方です。この世には、キリスト信仰者をこの繰り返しの人生から引き抜こうとする力が沢山働いています。それが、本日の福音書の個所でイエス様が盗人とか強盗と言っているものです。お前は何をしても赦されないと言って絶望に陥れたり、または、そんなのは罪でも何でもないから平気だよ、などと言って神を畏れる心を失くさせようとする力です。さらには、十字架や復活なんて本当のことじゃないよ、などと言って聖書を嘘つき扱いします。しかし、私たちはそれらには耳を貸さず、ただひたすらに罪は罪として認めて心の目をゴルゴタの十字架に向けて罪の赦しの恵みに留まります。そうすることが罪に反抗して生きている、罪を憎んでいることの証しになります。人間は神がお恵みのように与えて下さった罪の赦しにひたすら留まることで神から義とされるのです。

4.勧めと励まし 罪の赦しというお恵みに留まる生きる生き方 その2

このように罪の赦しのお恵みに留まって生きるというのは、イエス様という門を通って救われた者が復活の日の神の国を目指して進んで行く時の生き方です。この時、罪の自覚と赦しの確認を繰り返すことがこの恵みに留まって生きることになります。

罪の赦しの恵みに留まって生きることには、もう一つ大事なことがあります。それは、罪の赦しが神からの一方的なお恵みであるということが真理であるという生き方をすることです。人間が何か神の目にかけられるようなことをして、その見返りとして赦しが与えられるということではない。あるいは、イエス様は十字架と復活をやった、自分はそれに何かを付け加えて赦しを確実なものにするということでもない。罪の赦しは徹頭徹尾、神が人間にして下さった純粋に神的な業で、人間はそれに対して何も付け加えたり加工したりできない、完全に純粋に神のお恵みである。そう観念して、罪の赦しがお恵みとして保たれるようにする。これこそ罪の赦しのお恵みに留まって生きることです。

この生き方を本日の使徒書の日課、第一ペトロの個所が明確に教えています。

20節「しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです。」「神の御心に適うことです」と言っているのはギリシャ語原文を直訳すると「神にすれば恵みです」です。善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶのは、神から見れば恵みだと言うのです。日本語に訳した人がギリシャ語のカリスを「神の御心に適うこと」と訳したのは、「恵み」という日本語は何かいいものを豊かに受けるという意味なので、善を行って苦しみを受けるのを「恵み」と言うのに違和感を覚えたのではないかと思います。フィンランド語の聖書ははっきり「恵み」と訳しています。19節も同じです。「不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心にかなうことなのです。」とありますが、ここも「御心にかなうこと」は、ギリシャ語原文ではカリス「恵み」です。フィンランド語の聖書ではちゃんと「恵み」と訳しています。不当な苦しみを受けることになるのが「恵み」だと言うのです。19節でもう一つあります。「神がそうお望みだとわきまえて」とありますが、ギリシャ語原文を直訳すると「神の良心のゆえに」です。「神の良心のゆえに不当な苦しみを受ける」とは一体どんな意味でしょうか?これはまさしく、かつてルターがドイツの帝国議会で自説を撤回せよと迫られた時、「私の良心が神のみ言葉に縛られているゆえに」と言って拒否した、「良心が神に縛られている」ことです。フィンランド語の聖書もずばり、「良心が神に縛られているゆえに苦痛を耐えるのは恵みなのである」と訳しています(後注)。

さあ、大変なことになりました。善を行うことが裏目に出て不当な苦しみを受けることになっても、良心が神に縛られているために、それを回避しないで耐える、これは神からすれば恵みであるというのです。そんな恵みがあるのでしょうか?実は、ここに「恵み」の本質があるのです。

そういうことが恵みであるというのは、まさにぺトロが言うように、善を行えという神の命令に従う時、褒められもせず褒美ももらえず、逆に不当な扱いを受けて苦しんだり耐えなければならない方が、恵みが恵みとして保たれるのに好都合なのです。もし褒められたり褒美をもらってしまったら、善い業をすると見返りがあることが当然になってしまいます。罪の赦しは見返りでも褒美でもない、神の一方的なお恵みです。善い業は神の命令だからしなければならない、しかし、それは神に目をかけてもらって罪の赦しを得られることとか、救われることとかには何の関係もない、何の役にも立たない、だけど、神の命令だからしなければならない、それだけです。善い業をすることは神から赦しや救いを受けることと何の関係もない、何の役にも立たないということは、善い業をすることで不当な扱いを受けて苦しむ時に一番はっきりします。この時、神の命令はもう普通考えらる律法とは異っています。善い業を行って裏目に出たら嫌だ、褒められたり褒美をもらえるほうがいいと思って行うと、命令は律法になります。ペトロの教えは、神の命令が律法でなくなる教えなのです。神の恵みが恵みとして保たれるようにする教えです。極端な教えですが、それだけに真理をついているのです。

もちろん、現実には善い業を行ったらいつも必ず不当な扱いを受けるというわけではありません。しかし、そういう理にかなわないことはありうるのだ、その時が来たら神の命令を律法にしないで行える最上のチャンスなのだと心の中で準備する。そうすれば神の恵みを恵みとして保つ姿勢が出来ていることになります。

これとは逆に褒められたり褒美を与えられたりしたらどうしたら良いでしょうか?その時は、ルカ17章でイエス様が教えたことを思い出します。「自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足らない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」ただし、これを人前で口にすると恐らく、何を気取ってやがるんだ、などと言われるのがおちでしょう。なので、それは心の中で言って、人前ではニコニコ顔で感謝の言葉を述べるのがいいでしょう。しかし、心の中では、褒め言葉や褒美が自分の中に蓄積しないように、父なるみ神よ、これはあなたのものです、と言って、天に向かって一生懸命に押し上げます。こうすることも、自分の業は救いに関係ない、役に立たないという姿勢の表われになります。

以上、罪の赦しというお恵みに留まって生きるとはどういう生き方かお話ししました。一つは、日々罪の自覚と赦しの確認を繰り返して生きること。もう一つは、恵みが恵みとして保たれるように生きることでした。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

(後注)この19節と20節は、日本語、英語、ドイツ語、スウェーデン語、フィンランド語の聖書の訳を比べると皆さんとても苦労していることがわかります。興味深いことに、ドイツ語とフィンランド語は堂々と「恵み」と訳しています。

牧師の週報コラム 

覚悟と胆力を養うキリスト信仰その9

ルターによる聖句の説き明かしと共に(フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ」2月6日の日課から)

『我らに日ごとの糧を今日も与えたまえ』(マタイ6章11節)

『あなたは、「父なるみ神よ、我らに日ごとの糧を今日も与えたまえ」と祈る時、それは次の内容を含んでいると理解せよ。「父なるみ神よ、この哀れで苦しむわが身を神であるあなたが発する言葉をもって強め励まして下さい。私は、あなたの御手が重くのしかかるのを耐えられません。しかし、耐えられないと、私は破滅してしまいます。だから、父よ、あなたが私を強めて勇気を失うことがないようにして下さい。」

神が我々に苦しみや困難が降りかかるのをお許しになる際に、我々に求めていることは、我々が右往左往したりあちこちに目を移すことではない。そのような時こそ一層神のもとに留まり神だけに目を注ぐことである。やみくもに苦しみや困難からの脱出を計ってはならない。そんなことをしたら、神の意志が我々を通して実現されるのを妨げてしまう。それは我々の利益ではない。我々は、そのような神の意志に最後まで付き合うことができる強さを身に着けることを求めなければならない。なぜなら、人間は誰一人として神から強めてもらわない限り、怖れを抱かずに苦しみや困難に立ち向かうことはできないのだし、また神が定めた時を示される時に怖れを抱かずに死に立ち向かうこともできないからだ。一切の被造物は、この「強める」ことができない。全ての被造物とりわけ人間というものは、そこから力づけを得ようとすれば、逆に我々をますます無力にし不安定で軟弱なものにするだけである。それ故、罪の赦しを保証する神の御言葉が我々を強める他はないのである。これこそが、我々が祈り求める「日ごとの糧」である。

マタイ福音書11章で主は、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と言われる。このような、神の御言葉を糧にして、神の意思の中に踏みとどまり、神に強めてもらうという教えは、聖書に満ちている、満ちている、満ちている。』(以上、ルターの説き明かし、吉村の“激訳“でした。)

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