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2025年9月14日(日)聖霊降臨後第14主日 礼拝 説教 吉村博明 牧師

主日礼拝説教 2025年9月14日(聖霊降臨後第14主日)スオミ教会

出エジプト32章7-14節

第一テモテ1章12-17節

ルカ15章1-10節

説教題 「信仰も悔い改めも神の業なり、人間の業にあらず」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

本日の福音書の日課には、イエス様のたとえの教えが二つありました。最初のたとえでは、ある100匹の羊を所有する人が、1匹はぐれてしまったので、探しに探して、やっとのことで見つけて大喜びで帰り、友達や近所の人を呼んで喜びを分かち合うという話です。肩に担いだとありますから、羊は怪我でもして衰弱していたのでしょう。見つかって本当に良かったと思わせる情景です。もう一つのたとえは、ある女性が銀貨10枚のうち1枚を無くして、探しに探して、やっとのことで見つけて大喜びし、これも友達や近所の人を呼んで喜びを分かち合うという話です。二つの話は状況は異なりますが、主題は同じです。見失ったもの無くなったものを、一方は広い野原を果てしなく、他方は狭い家の中を隅々まで必死に探して見つけ、その喜びは自分一人には留めておけない、多くの人と分かち合いたい、それくらい大きな喜びであったということです。

それでは、この二つのたとえは何についてのたとえなのでしょうか?二つのたとえの終わりが同じ結論であることに注目します。一人でも罪びとが悔い改めたら、天の御国では大きな喜びが沸き起こると言われています。「罪びと」というのは、天地創造の神の意思に反する性向、すなわち罪を持つ者のことです。聖書の立場は、全ての人がそういうものを持っている、なので全ての人が「罪びと」であるという立場です。「悔い改める」と聞くと、過ちを深く反省して真人間になるんだと決意する感じがします。ギリシャ語のメタノエオーという動詞のことですが、そのもともとの意味は「考え直す」です。その土台にはヘブライ語のシューブという動詞があり、その意味は「戻る」とか「帰る」です。旧約聖書では、神のもとに立ち返ると言う時に使われます。なので、聖書の「悔い改める」の正確な意味は、それまで神に対して背を向けていた生き方を方向転換して神の方を向いて生きるようになるという意味です。「悔い改め」という言葉を目にしたら、この「神に向う方向転換」という意味を忘れないようにしましょう。

そうすると、一つおかしなことが出てきます。羊の所有者や女性が見失ったものを見つけ出して、それが嬉しくて周囲の人たちと一緒に喜びを分かち合いたいというのはわかります。また、罪びとが神に向かって方向転換の悔い改めをすると、天の御国で父なる神が天使たちと一緒に喜ぶというのもわかります。でも、この二つの喜びはかみ合っているでしょうか?というのは、失われた羊と銀貨と罪びとは結びつかないのではないかと思われるからです。罪びとが方向転換の悔い改めするのはわかるが、羊と銀貨は悔い改めなどしないのでは?それらは、ただ持ち主に捜されて見つけ出されただけで、自分からは何もしていない極めて受動的な立場です。悔い改めるという能動的なことが出来るのは人間です。それなのにイエス様は羊と銀貨も悔い改めをしたかのように教えるのです。そんなことは可能なのでしょうか?これは、方向転換の悔い改めを人間の能動的な行為とみることをやめて、神の側からの働きかけを中心にして考えるとわかってきます。今日はそのことを見ていきましょう。

2.罪びとは神に受け入れられて方向転換が起こる

ファリサイ派と律法学者という、当時のユダヤ教社会の宗教エリートがイエス様の行動を見てびっくり仰天します。あの、預言者の再来のように言われ、群衆から支持されている男が何をしているか見ろ、神の意思に反する生き方をする罪びとどもを受け入れて一緒に食事までしているではないか!当時は、一緒の食事というのは親密な関係にあることを示すものでした。エリートたちの批判を聞いたイエス様は、それに対する反論として失われた羊と銀貨のたとえを話したのです。反論はさらに続き、有名な「放蕩息子」のたとえも話します。本当はこの3つを一つの日課にすると良かったのですが、日本のルター派教会の今日の日課になっているのは2つだけなので、それに基づいて説教せざるを得ません。しかし、必要に応じて「放蕩息子」のたとえにも言及します。

イエス様が罪びとたちを受け入れたことについて、E.P.サンダースという著名な歴史聖書学者は次のように言っていました。ナザレのイエスは悔い改めも何もしない罪びとをそのまんま受け入れて一緒にパーティーまがいのことをしていた。それは、エルサレムの神殿を中心とする宗教システムへの挑戦であった。悔い改めも何もしない罪びとと一緒に食事をしたのは、新しい神殿が到来する新しい世での祝宴を先取りする行動であったと。

新しい世の祝宴を先取りしたというのは当たっていると思いますが、ただ、悔い改めも方向転換もしない、罪びとのままの者をそのまま受け入れたというのは本当でしょうか?イエス様が神の意思に反する罪を認めないということは福音書の各箇所で明らかです。一例として、ヨハネ8章でイエス様は姦淫の罪で石打ちの刑に晒された女性を助け出しました。その時、イエス様は何と言いましたか?これからは罪を犯してはならない、と言いました。罪は犯してはいけないのです。神の意思に反することはいけないのです。これが、神のひとり子であるイエス様の大前提です。イエス様が女性に対して行ったことは、犯した罪は不問にするから、ここで方向転換して生きなさいと新しい可能性を与えたのです。そう言うと、本当にその後は神の方を向いて生きるようになったとどうしてわかるのかと厳しい質問が出るかもしれません。確かにその女性がその後どういう生き方をしたかは聖書に記述がないのでわかりません。ルカ福音書7章に登場する、罪を赦された感謝からイエス様の足に香油を塗った女性との関連性を指摘する人もいますが、確かなことは言えません。ただ、問題の女性は、コンクリ―トの破片のような大きな石を大勢の人から力いっぱい投げつけられるという残酷な刑罰から九死に一生を得たのです。イエス様に対する感謝の気持ちが強ければ強い程、もう神の意思に反する生き方はやめようという気持ちで一杯になると思います。

イエス様が罪びとを受け入れると、罪びとに方向転換が見える形で起こった例もあります。ルカ19章のザアカイの場合です。イエス様が受け入れるや否や、彼は不正で蓄えた富を捨てる決心をしたのです。イエス様が罪びとを受け入れて一緒に食事をしたというのは、神の意思に反する生き方を認めたのではありません。それは、罪びとに方向転換をもたらす行動であり、一緒の食事は方向転換が生まれたことを喜び合うお祝いだったのです。宗教エリートたちにとって、イエス様に受け入れられた罪びとたち、彼に罪を赦された人たちの内に方向転換が起こったなど思いもよらないことでした。彼らにとって、神に受け入れられるとか罪を赦さるというのは、律法の掟を守ること、エルサレムの神殿で様々な生贄を捧げることによって可能でした。簡単に言うと、人間の側で何かをして、それで神に受け入れられ認められるという考えです。

ところが、イエス様の場合は逆で先に神の方が罪びとを受け入れて、受け入れられた罪びとの中に方向転換の悔い改めが生まれるという流れなのです。どうしてそんな違いが生まれたかと言うと、宗教エリートの場合は、律法の掟を外面的に守ればOK、殺人を犯さなければ十戒の第五の掟を守れている、不倫を犯さなければ第六の掟を守れている、ということでした。ところがイエス様は、掟は外面的な行為行動で守っても意味なし、心の中でも守れていなければならないと教えたのです。他人を心の中で罵ったら第五の掟を破ったことになる、女性をみだらな目で見たら心の中で第六の掟を破ったことになるというのです。全ての掟を心の有り様にまで適用したら、神の意思に沿える人など誰もいなくなります。宗教エリートも罪びとです。だから、聖書は真に全ての人間は罪びとであるという立場なのです。そして、心の中も含めて十戒の掟を完全に守れる人は誰もいないのです。

そのため、人間が神に背を向けた生き方を方向転換させて神を向いて生きられるようになるために、神やイエス様が先に私たちを受け入れなければならなかったのです。見失われた羊や銀貨はまさに神に背を向けて生きる罪びとを意味します。それらが必死に探されて見つけられることは、罪びとが神やイエス様に受け入れられたことを意味します。それで、見つけ出された羊や銀貨は悔い改めた罪びととイコールなのです。イエス様は一緒に食事をする者たちはこうなのだと言うのです。もし、神やイエス様の先回りの受け入れを考えないで人間の努力や達成で悔い改めを考えたら、このたとえは成り立ちません。

そう言うと、じゃ、次に来る放蕩息子のたとえはどうなんだ?放蕩息子は自分の行いを反省して父親の元に戻って受け入れられたではないか、羊や銀貨の場合と違って父親は捜しに行かなかった、息子が自分で帰って来たではないか、彼は方向転換の悔い改めをしたから父親に受け入れられたのではないか等々の批判が起きるかもしれません。しかし、放蕩息子のたとえも実は、父親に受け入れたから方向転換の悔い改めが起こったことを暗示しているのです。確かに父親は捜しに出かけませんでしたが、はっきり言います、息子は見失われていたのに見つかったのだ、と二回も繰り返して言います(15章24節、32節)。だから、お祝いをするのは当然なのだと。まさに、羊と銀貨のたとえと同じ主題です。もう少し詳しく見てみましょう。

放蕩息子は異国の地で飢え死にしそうになり故国の父親のもとに帰る決心をします。それは、父親のもとには食べ物が豊富にあるというのが動機になっています。しかし、帰っても父親は呆れかえって怒るだろう、お前など息子ではないと言われてしまうのがオチだろう。だから、ちゃんと自分の愚行は神に対する罪でしたと告白して、もう息子と呼ばれる資格はないです、雇い人でいいですからおいて下さい、そうお願いしよう。そんなふうに父親の前で言うべき言葉を考えて帰国の途につきます。ところが帰ってみると、父親は怒りもせず呆れ返りもせず、ただただ息子の帰郷を心から喜び彼を両手で抱きしめて受け入れたのです。息子は考えていた言葉を罪の告白まで言いますが、その後は遮られました。父親は、その後はもう言わなくてもいいと言わんばかりに召使いたちに祝宴の準備を命じたのです。その言葉とは、雇い人にしておいて下さいというお願いでした。それを言わないで済んだということは、父親は息子として受け入れることを示したのです。

息子が最初に帰国を決心したのは、もちろん自分の行いは愚かだったと後悔したことがあります。ただ、後悔するようになったのは、飢え死にしそうになって父親のもとなら食べ物に困らないとわかったからでした。それで父親に受け入れてもらえるために雇い人という条件を考えたのでした。そういうふうに最初の後悔と帰国の決心にはいろんな動機や打算が混じっていたのです。ところが、父親は無条件で受け入れたのです。その瞬間、最初の後悔と方向転換から余計な混ざり物が削ぎ落されて純粋な後悔と方向転換が生まれたのです。息子に「父親に無条件で受け入れられた息子」というアイデンティティーが確立したのです。神やイエス様の受け入れには同じ力が働くという教えです。

それなので、放蕩息子の帰郷を祝う祝宴は、まさに受け入れられたことで純粋な方向転換の悔い改めが起こったことをお祝いするものでした。このお祝いに対して異議を唱えたのが兄でした。つまり、彼は無条件の受け入れには純粋な方向転換など生み出す力はないという立場です。これはまさに、宗教エリートたちがイエス様の無条件の受け入れを意味なしと見なしたことに対応します。彼らは、イエス様と一緒に食事していた者たちの内面にそのような方向転換が生まれたことを信じられなかったのです。実に、このたとえを聞いたエリートたちは自分たちを映しだす鏡を示されたのでした。

3.神による受け入れはすぐそこまで来ている

イエス様に受け入れられた当時の罪びとたちは神を向いて生きるように方向転換の悔い改めが起こった人たちでした。それでは今の時代を生きる私たちはどうしたら自分の内にも同じような方向転換が生まれて新しいアイデンティティー、「神に無条件で受け入れられた神の子」のアイデンティティーが確立するでしょうか?当時のように受け入れをしてくれる肝心のイエス様は身近にいません。

実は、全ての人間はあと少しでイエス様に受け入れられるところに来ているのです。ただ、受け入れが完結していないので方向転換が起きていないのです。どういうことかと言うと、イエス様は神の意思に従いゴルゴタの丘で十字架にかけられて死なれました。これによって人間の罪が神に対して償われました。本当は人間が受けなければいけなかった神罰を、イエス様が全部引き受けて下さったのです。罪を償うために私たち人間は何もしていないのに、まるで先を越されたように償いが歴史の中で起こったのです。神とイエス様に先手を打たれたのです。

あとは私たち人間が、ゴルゴタの十字架の出来事は聖書に記されている通り起こった、そこでは私の神の意思に反する罪の償いが果たされたとわかって、それでイエス様は本当に救い主と信じて洗礼を受ければ、イエス様が果たしてくれた罪の償いがその人に効力を発します。実に信仰とは、神がイエス様を用いて編み出した罪の赦しという恵みを受け取って自分のものにすることです。あとは、受け取った恵みを手放さないようにしっかり携えて生きていくことができるように、聖書の神の御言葉に聞きイエス様が設定された聖餐式に与かります。信仰が人間の業でなく、神の業であるというのはこのためです。

このように罪の赦しの恵みを受け取って自分のものにして生きる者は、所有者に見出だされて担いで連れ帰ってもらう羊と同じです。また、女性に見出だされた銀貨と同じです。そして、石打の刑を免れた女性のように、また父親に抱きしめられた放蕩息子のように純粋な方向転換の悔い改めが起こった者です。それは、「神に無条件で受け入れられた神の子」のアイデンティティーを持って人生を歩む者です。このように悔い改めも人間の業ではなく、神の業なのです。

4.勧めと励まし

主にあって兄弟姉妹でおられる皆さん、この世にはまだ神に先手を打たれて神が両手をひろげて待っていてくれていることに気づかないでいる人たちが大勢います。神がイエス様を用いて準備してくれた罪の赦しの恵みも、せっかく神がどうぞと言って提供してくれているのに、受け取らないでいると、恵みは人の外側によそよそしくあるだけです。多くの人たちには、信仰とか悔い改めというものは人間の方で何かしなければいけないものという思いがあると思います。しかし、キリスト信仰では、それらは人間の業ではなく神の業で、人間は神が成し遂げたものを畏れ多く受け取るだけなのです。受け取ることで神の意思に沿う生き方を志向する心が生まれ強まっていくのです。神に認めてもらうために何かをするんだ、ではなく、一足先に認めてもらったから、あとはそれに相応しい者に変えてもらおう、相応しくないものを取り除いてもらおうということなのです。なので、既に受け取った私たちは、まだ受け取っていない人たちがすぐそばにある恵みに気づいて受け取ることができるように働きかけることが求められています。神は一人でも多くの人を、所有者に見つけてもらった羊のように、女性に見つけてもらった銀貨のように、本来いるべき場所に連れ帰ってそこで天使と一緒に盛大にお祝いしたいからです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

2025年9月7日(日)聖霊降臨後第十三主日 主日礼拝 説教 吉村博明 牧師

主日礼拝説教 2025年9月7日(聖霊降臨後第13主日)

聖書日課 申命記35章15~20節、フィレモン1~21節、ルカ14章25~33節

説教題 「イエス様の弟子であるということ」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

本日の福音書の箇所は難しいです。私たちの理解を難しくしているものとして二つの問題があります。一つは、父親、母親、娘、息子、兄弟姉妹を「憎む」ことをしないと、私の弟子でいることはできない、とイエス様が教えていることです。十戒の第四の掟は「父母を敬え」でした。イエス様は、自分をこの世に送った父なる神の命じたことをに反することを教えようとしているのでしょうか?イエス様自身、「隣人を自分を愛するが如く愛せよ

と教えているのに、親兄弟娘息子を憎まないと弟子に相応しくないとはどういうことか?愛せよと言ったかと思いきや、憎めなどとはイエス様は矛盾が過ぎるのでは?

もう一つの問題は、塔を建てる者と戦争に臨む王のたえです。塔というのは、マルコ12章やイザヤ5章に出てきますが、ブドウ園を造る者が見張りの塔を建てるという位にブドウ園にはつきものでした。せっかくブドウ園を造っても、見張りの塔が建てられなかったら、実ったブドウは容易く盗まれてしまいます。マルコ12章とイザヤ5章をみると、ブドウ園を造る時、見張りの塔の建設は順番として最後にくるものだったようです。さて、ブドウ園経営者は塔を造る段になって、お金が足りるかどうか計算する、足りないまま造り始めてしまったら途中で断念することになって笑いものになってしまう。では、足りないことが明らかになったら、どうするのか?造らないで済ませてしまうのか?中途半端な無様な建物をさらけ出さずに済み、笑いものにはならないかもしれませんが、ブドウ園は無防備になってしまいます。

もう一つのたとえは、戦争に臨む王です。隣の国の王が2万の兵を率いて進軍してくる。それを迎え撃つために王は兵を率いて出陣する。しかし、彼の兵力は半分の1万。それで王は勝算を計算し始め、勝ち目はないと判断して、まだお互いの軍勢が遠く離れている段階で相手方に使いを送って講和を求める。不利な戦いは回避できるかもしれませんが、講和の条件は先に和平を乞うた王にとって不利なものになるでしょう。

このように二つのたとえは、向う見ずなことはするな、無謀なことはするな、と教えているようにみえます。何か事をする場合には、まず、達成しようとしたり獲得しようとするものと、それにかかる費用や犠牲を冷静によく比較して、自分の持っているもので達成可能かどうかよく検討すべきだ、もし自分の持っているものでは達成不可能だとわかれば、即やめなさい、と。たとえブドウ園が見張り塔がないものになってしまっても、また、不利な条件で講和を結ぶことになっても、そっちの方がいいのだ、と。これは、理に適った教えであります。

ところが、33節を見ると、イエス様は、「自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない」と言われる。イエス様は、突然、捨てる覚悟がないと自分の弟子に相応しくないと言うのです。それこそ、一度、基を築いたら、資金のことはかまわず建設を続行せよ、と。一度、出陣したら、兵力の差は気にせず、そのまま進軍を続けよ、それが弟子としての本道である、と教えているのです。そうなると、前の二つのたとえは何だったのかと言いたくなります。

以上、親兄弟娘息子を憎まないと弟子に相応しくない、とか、一見、向う見ずなこと無謀なことはするな、と教えているようで、実はそうしないと弟子に相応しくない、とか、イエス様は一体何を言いたいのでしょうか?本日の箇所は、こうした難しさがありますが、キリスト信仰者が自分の受けた洗礼にはどんな意味があるのかを思い返してみると次第にわかってくるところです。マタイ福音書28章でイエス様は、洗礼を受けることで彼の弟子になると言われました。本日の個所は、イエス様の弟子であるとはどういうことか、洗礼を受けた後の人間の生き方はいかなるものかについて教えているのです。だから本日の個所の理解には、自分が受けた洗礼の意味を思い返す必要があるのです。

2.「憎む」ということについて

まず、親兄弟娘息子を憎まないと弟子に相応しくないという教えについて。「憎む」という言葉はギリシャ語のμισεωミセオーという動詞が元にあり、その意味は「憎む」なので、それをそのまま当てはめて訳したものです。旧約聖書のヘブライ語にはשנאサーネーアという動詞があり、これも辞書に出ている意味は「憎む」です。ただ、創世記29章をみると、私たちが普通思い浮かべる「憎む」とは異なるニュアンスがあります。ラバンがヤコブに初め長女のレアを妻として与え、後で次女のラケルを妻に与えた出来事です。ヤコブはレアを「疎んじた」(31節)とあります。この「疎んじた」は、ヘブライ語のサーネーア「憎む」です。しかし、ヤコブは実際にはレアを憎んだのではなく、レアよりもラケルを愛した、それで、レアにそっぽを向いた、ということです。

このことを念頭において、本日の箇所でイエス様が口にする「憎む」を考えてみると良いと思います。つまり、親兄弟娘息子を「憎む」、憎悪の対象にするのではなく、親兄弟娘息子よりも神を愛するということです。親兄弟娘息子を愛するのは当然だが、それよりも神に対する愛が大きくなければ、弟子に相応しくないということです。「憎む」というのは、神への愛が優位に立つことをはっきりさせるためにイエス様がよく用いる度肝を抜く誇張法をここでも用いているのではないかと思います。

ああ、これで肉親を憎まなくてよかった、と安心するやいなや、すぐ次の壁にぶつかります。親兄弟娘息子よりも神を愛するとはどういうことか?憎まなくても、肉親を軽んじることになるのではないだろうか?イエス様自身は、「隣人を自分を愛するが如く愛する」ことは神の最重要な掟である(マルコ12章31節等)、と教えているではないか?

イエス様は十戒を二つの掟の形に集約して、この二つが最重要な掟であると教えました(マルコ12章28

34節)。この二つの最重要な掟の筆頭にくるのは、こうでした。「私たちの神である主は、唯一の主である。あなたは、あなたの神を全身全霊全力をもって愛せよ。」そして、その次に来るのが、「あなたは、隣人を自分を愛するが如く愛せよ」です。つまり、隣人愛は最も重要な掟ではありますが、実はそれに先立つものとして、唯一の神を全身全霊全力をもって愛せよという掟が来るのです。つまり、隣人愛は、神への愛から分離独立してあるのではなく、実は、神への愛を土台にしてあるのです。

宗教改革のルターは、神への愛と肉親に対する愛の関係について大体次のように教えています。曰く、肉親を愛し仕えるのは神の意思として当然である、しかし、肉親が、私たちに対して神の意思に反することを要求して、私たちの説得や懇願にもかかわらず、態度を変えない場合、さらには神を唯一の主と信じる信仰や御子イエス様を唯一の救い主と信じる信仰を止めさせようとする場合には、肉親に何を言われようが、何をされようが、信仰に踏みとどまって、第一の掟を守らなければならない、と。

肉親が、そんな邪教を捨てないともう私の子供ではないと強硬な態度に出ることもあるかもしれません。あるいは、親を愛しているんだったら、そんな信仰は捨てておくれ、などと、キリスト信仰に生きることが親を愛していない証拠のように持っていくケースもあるかもしれません。しかし、それは筋違いです。なぜなら、たとえ肉親が私たちの信仰を認めなかったり、信仰のゆえに私たちを悪く言ったとしても、私たちとしては、もしその人たちが困難に陥れば、すぐ助けの手を差し出す用意があるからです。私たちの側では、隣人愛の掟は神への愛の掟としっかり結びついているのです。こうしてみると、イエス様の弟子とは、とやかく言われて悪く言われて、なおかつ、まさにそのような人たちのために祈ったり、必要とあれば助けてあげなければならない、なんだかずいぶんお人好しで馬鹿をみるような人生です。しかし、それが本日の箇所でも言われている、各自が背負う十字架(27節)なのであり、イエス様の弟子であることの証しなのです。

3.神に対する愛

親兄弟娘息子よりも神を愛すると言う時、キリスト信仰者の神に対する愛とはどんな愛なのでしょうか?

聖書が大前提にしていることは、人間は創造主である神の意思に反しようとする性向、罪を持つようになってしまったために神聖な神との結びつきが失われてしまったということです。それで人間はこの世の人生を生きる時は全知全能の神との結びつきがない状態で生き、この世から去る時も結びつきがない状態で去らねばならなくなってしまいました。それを、神は人間が結びつきを回復してこの世を生きられるようにしよう、この世を去る時も結びつきを持ったまま去って復活の日に目覚めさせてあげようということで、それでひとり子のイエス様を人間のために贈られました。

この神のひとり子は人間の全ての罪を背負ってゴルゴタの十字架の上で人間に代わって神罰を受け、人間が受けないで済むようにして下さいました。そこで今度は人間の方が十字架の出来事というのは聖書に書いてあるように本当に起こったことだと信じて洗礼を受けると人間はこの罪の赦しの救いを自分のものにすることができるのです。

さらに神は一度死なれたイエス様を復活させて、死を超える永遠の命が本当にあることをこの世に示されました。それで、洗礼を受けてイエス様を救い主と信じる信仰に生きる者は、順境の時も逆境の時も何ら変わらない神との結びつきを持って生きられ、復活の日を目指してこの世を進んで行くのです。

キリスト信仰者の神への愛は、神がひとり子と一緒に罪の赦しの救いを与えて下さったから起こって来るのです。親兄弟娘息子はいかに愛すべき存在であっても、罪の赦しの救いを与えることはできません。それが出来るのは造り主の神だけです。親兄弟娘息子は気づいていないですが、この罪の赦しの救いは神が、どうぞ受け取って下さい、と彼らにも向けられているのです。彼らも創造主の神に造られたのです。イエス様は彼らのためにも死なれ、彼らのためにも復活されたのです。ここに、神を愛するキリスト信仰者が信仰者でない親兄弟娘息子たちにどう振る舞うか、明らかなヒントがあります。

4.塔と王のたとえの意味

次に、塔を建てる前に予算を計算する人と、負けが明らかな戦をする前に講和を求める王のたとえについて見てみましょう。たとえの次に来る、自分の持ちものを捨てなければ弟子に相応しくない、という教えと矛盾しているように見えます。ところが、矛盾はないのです。イエス様は、まさに、弟子になるということは、見積もりを立てないで塔を建てるようなものだ、また圧倒的多勢の軍勢に立ち向かっていくようなものだ、と教えているのです。どうしてそんなことが言えるのか?二つのたとえの意味はこうです。塔の建設者は普通、後で笑い者にならないようにと前もって綿密に計算だろう。また、王は普通、負け戦が明らかな場合は不利な条件でも講和を結ぶだろう。しかし、こういうのは、自分の持っているものを捨てる覚悟がない者と同じだ、私の弟子に相応しくないと言うのです。

少し細かい所を見ますと、28節と31節で、塔建設者や王が計算する時に、日本語訳で「まず腰をすえて」と書いてあります。「腰をすえて」なんて言うと、なんだか落ち着いた立派な行為のような印象を受けます。しかし、ギリシャ語の原文は、両方ともただ単に「まず座って」πρωτον καθισαςです。つまり、何か実行しようと思ったが、ちょっと待てよ、うまくいくかな、と心配して、要は立ち止まって計算を始めた、ということです。一度決めたら後ろを振り返らずに前に進まないと弟子には相応しくないのです。ルカ9章62節で、イエス様は、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と教えています。

そうすると、キリスト信仰者とは、なんと無謀で向う見ずな者なのか、こんなやり方ではどんな事業も経営も失敗・破綻するするだろう、という疑問を抱かれるでしょう。ここで注意しなければならないのは、イエス様の教えていることは、あくまで、イエス様の弟子として生きるということについてです。イエス様の弟子として生きるとは、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼を通して築かれた神との結びつきをしっかり携えて生きることです。私たちのためにとても大きなことをしてくれた神をひれ伏すように愛して、その愛に立って隣人を自分を愛するが如く愛することです。何か事業を起こす時は見通しを立てないでやれ、ということを言っているのではありません。イエス様が教えているのは、そういう世俗的な事柄ではなく、私たちの魂に関わる霊的な事柄です。

キリスト信仰者は、ヨハネ福音書15章で言われるように、イエス様というぶどうの木に繋がる枝です。このぶどうの園を見張りの塔がない無防備にしてはいけないのです。この世には、イエス様を救い主と信じる信仰を失わせ、神との結びつきを引き裂こうとする力が沢山働いています。外からの圧力や誘惑、自分の内側には神の意思に反しようとする罪があります。そのような力に遭遇したら、すかさず心の目をゴルゴタの丘の十字架に向けます。また復活を証しする空の墓にも向けます。その時、洗礼の時に打ち立てられた新しい命は今もしっかり打ち立てられたままであることがわかります。このように神の力で見張りの塔が出来ているのです。

信仰を失わせる力、神との結びつきを引き裂く力は、自分の力の2倍以上に感じられるかもしれません。しかしそのような力に対してはいかなる妥協もしてはならないのです。そのような時も、心の目を十字架と空の墓に向けます。洗礼の時に打ち立てられた新しい命は今もしっかり打ち立てられたままです。このように神の力で2倍の相手を撃退しているのです。

5.勧めと励まし

主にあって兄弟姉妹でおられる皆さん、私たちには、洗礼という原点があります。ゴルゴタの十字架で打ち立てられたこと、神のひとり子を犠牲にした罪の償いと罪の呪いからの解放が私たち自身のものになった原点です。キリスト信仰者にはこのような立ち返ることが出来る原点があるのです。罪の償いと罪の呪いからの解放が自分のものになっているというは、私たちにとって現実なことですが、聖餐式のパンとぶどう酒が霊的な栄養となってその現実を強めてくれます。洗礼と聖餐を持つキリスト信仰者は本当に幸いな者です。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

歳時記

宿場町のマリア地蔵

以前、中山道、奈良井宿の街角の聖書の言葉について述べましたが今回は「マリア地蔵」と呼ばれているお地蔵さんについてです。江戸時代に作られ隠れキリシタンたちが拝んでいた地蔵です、明治時代の廃仏毀釈で膝も頭部も破壊されて僅かに胸に十字架を手にした幼子イエスを抱いた姿だけが残されています。人は祈ったり、拝んだりする時に何か対象となる物、例えば像、絵画などの依り代を必要としているようです。私たちのキリスト教ではそのような偶像や依り代などを神は固く禁じました,確か釈迦も像を嫌いましたね、偶像崇拝は本来の信仰の妨げになります。日本にキリスト教を宣べ伝えた宣教師たちは十戒の第二戒についてどのように伝えたのか興味がありました。 

2025年8月31日(日)聖霊降臨後第十二主日 主日礼拝 説教 田口 聖 牧師(日本ルーテル同胞教団)

ルカによる福音書14章1、7〜14節

「神の前で自分を低くするもの」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1、「上席を選んで座る人を見て」

 今日の箇所は、14章は1節を見てわかる通り、イエス様がパリサイ派のリーダーの家に招かれたとことから始まっています。7節以降が今日の箇所になりますが、イエス様は、その食事につく招かれた客達のある姿を見て例えを語るのです。7節からですが

「イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。」

 その食事には、イエスだけでなく、多くの他の人々が招かれていました。その招かれた人々は「上席を選んで」座ったのでした。そこにはそのようにユダヤ人社会で、ある程度、地位が高い人々が招かれていたのでしょう。そのような食事の席でした。ユダヤ人社会は非常に厳格な階級社会ですから、そのような食事の席についての決まり事には厳しいものがありました。偉い人、階級の高い人が上席に座るのです。しかしここで招かれていた人々は、その上席を「自ら

「選んで」座っているとありますから、彼らは周りの人からだけでなく、自分自身でもそうだと認めていて、自分は当然、その上座に座るものだと思って座っていることを、このことは意味しています。そのような情景を見て、イエス様はある例えを話すのです。それは婚礼の披露宴に招かれた話です。

2、「婚礼の披露宴のたとえ」

「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。」8-10

 イエス様は婚礼の披露宴に招かれた場合を想定し述べます。その時にもしそのように最初から上席に座ってしまったら、後で、自分より身分の高い人が来た場合には、その席を動いて譲るように言われ、動かなければいけない。その時は、恥をかいてしまうというのです。これはこのパリサイ派の食事の席で上席を選んで、自分たちは当然そこに座ると思っている人に対して話しているので、そのような例えにあるような場面が起こった場合には、まさにその高いプライドが損なわれるのです。イエス様は、そのような上席を選んで座る人のプライドの高さと、そのプライドは壊れやすく脆く恥をかきやすいものであることも暗に示唆しているのです。ですから、最初から上席に座ってはいけないというのです。むしろ10節ですが、招かれた席では、末席に座りなさいと言います。そうすれば、今度は逆のことが起こるというわけです。招いたホストは、「もっと上席にどうぞと言うでしょう」と。そして面子をつぶすことはないのだと。

 この例えには、イエス様独特の皮肉が込められています。ここにある「恥」とか「面目」とかという言葉は、まず、そのような上席を好んで座る人々の心を大部分、占めているものがプライドであることをイエス様は分かっていることを意味しています。それが上席を好んで、選んで座ることに現れているのですが、それは、絶えず恥や面目を気にし、プライドを大事にし生きて行動している彼らの姿であることをイエス様は例えているのです。

3、「単なる道徳の教え?」

  けれども、イエス様がこの例えを話すのは、ただ「末席に座りなさい」「謙遜でありなさい」「プライドにこだわるな」等々、ただの教訓、ただのあるべき態度や行動、あるいは望ましい道徳や倫理を伝えたいのでしょうか?あるいはただ、彼らを皮肉って批判することがその言葉にある本当の目的なのでしょうか?そうではないでしょう。実はここには、それ以上のことが伝えられていることを、教えられるのです。この例えの最後に、イエス様は、実に意味深い言葉で結んでいます。

A, 「高い、低い」

「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」11

 この言葉だけだと確かに人生の教訓めいたもののにも聞こえます。しかし果たしてそうなのでしょうか?ここには「低くされる。高められる」、「高い、低い」とあります。しかしそれは単に人間社会の上下関係のことを言っているのでしょうか?イエス様の神の国にあって、階級があるのかどうか、身分によって上座や末席などがあるかどうか、それはわかりません。そのようなことは一切、書かれてはいません。有名な記録として、弟子のヨハネとヤコブの兄弟は、お母さんに頼んで、神の国が来たら、自分たちをイエス様の右と左において欲しいとお願いした場面があります。しかし、その時も、イエス様は彼らに、それは父なる神がお決めになる、つまり全ては神の御手にあることだと、イエス様は答えただけでした。それは人の側では、全く心配する必要がないという意味でした。

 では、このところでイエス様は何を伝えたいのでしょうか?イエス様はここでどのような神の国を示唆しているのでしょうか?まずイエス様は、この11節の言葉で、そのような世の人々や、特にパリサイ人や上席を好んで座る人々が気にすこととは、むしろ「逆」のところにこそ神の国はあることを伝えようとしていると思われます。それは、神の国にあっては、階級とか身分とかではない、上座かどうかでもない。そして、プライドや恥や面目、面子によって一喜一憂するようなものでも、もちろんない。そのようなことはあろうがなかろうが、神の国にあって重要なことではない、他に最も大事なことがある、として、イエス様は神の国の真理をこう言うのです。

「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

 みなさん、どうでしょう。この「高くするとき、低くされ、低くするとき、高くされる。」ということです。確かに、巷でも、高ぶって自分で上座に座るとき、低くされることがあるわけです。しかしこれが神の国のことであるときどうでしょうか?しかも何より「イエス様が真っ直ぐとエルサレムに目を向けて進んでいる」時です。そのことを踏まえるならば、このイエス様の言葉は、実はただ「人と人との間の階級や位」「人と比べての高いか低いか」あるいは、ただの道徳や「あるべき論」以上のことをイエス様はここで示唆しているでしょう。

B, 「神の前」

 どういうことでしょうか?まずイエス様はこの言葉で、神の国は、そのようなこと「人の前」以上に、「神の前」つまり「神と私たち一人一人との関係」を何より指し示しているのです。先ほども触れました。このところで「上座を選んで座る人」のその席は、自他共に認めて当然のように座る席だった、のかもしれません。そのようにいつも上座に座っていて、日常的に決まっていた席だったからこそ考えもせずにそこに座ったのでしょう。おそらく、それまで例にあるような、自分より地位の高い人がやってきたので席を譲ってあげてくださいというようなこともあまりなかったからこそ、そこを当然のように選んで座ったとも言えます。しかし、実は、そのように彼らの日常ではあまりあり得ないこと、つまり、自分では気づかないことを、イエス様があえて「もし〜」と言うのは、その彼らのプライド、高ぶりが、「人の前」以上に「神の前で」はどうであるのかということこそ、彼らはこの例えで問われているということなのです。

 皆さん、イエス様はここであえて「婚礼」と言っています。「婚礼」はイエス様の場合、約束の救い主の到来と神の国の実現を示しています。ですから、この例えは実は、最高の上座は花婿であるご自身を示唆していると言えるでしょう。そう、これは単なる食事の例えではない、それを超えた、救いの到来の例えとして、まずイエス様は語っているのです。しかし彼らはこの救い主がこられた救いの時でありながら、そもそもイエスを救い主であるとは信ぜず常に監視の目で見ています。そしてイエスを招いておきながら、まさに神の御子が、救い主が、花婿が来られたのに、そもそもそうだと信じていないのですから、神も見えていなければ、人の間の、人の前の自分のことしか見えていないのです。だからいつものように上座に座りました。まさに真の上席に座るお方が来ているのにです。彼らは救い主としてのイエスが全く見えていないのです。もちろん、イエス様自身は自分が上座に座りたい、上座を譲れと言いたいのではありません。しかし、彼らの神の前も神の約束や言葉も忘れ、どこまでも「人の前」と自分しか気にしていない、人と比べての、自分の地位を誇る高ぶりやプライド、自分を高くしようというその在り方によって、目の前の救い主は愚か、神の前にある自分自身の現実さえ気づかないで、自らを盲目にしてしまっている現実が浮かび上がってきます。結果として、「人の前」では自分を高くしようとしていながら、まさに神の前で小さなものとなっているという哀れな事実が、明らかになってくるのです。しかし、それは、決してただパリサイ派だけを示しているのではありません。実はこれは「人の前」ばかりに囚われる時に、「神の前」の自分を見失う、誰でも陥る現実を、イエス様は私たちにも示しているのです。

 しかし、繰り返しますが、すでにエルサレムへと真っ直ぐと目を向けて進み、語っているイエス様です。そのイエス様は、この言葉で、単なる「こうあるべき」という道徳や律法のメッセージだけを伝えようとしているのではないのです。

4、「誰でも高ぶる者は低くされる」

A, 「神の前の現実:罪人」

 みなさん、実に、このようにイエス様のみことばから「人の前」と「神の前」を示される時、今日も変わらず、何より、聖書が伝え私たちに気づかせようとしている大事な事実にやはりイエスは立ち返らせ導いていると言えるでしょう。そのまず一つは、「神の前」では、パリサイ人も、世界の王や偉人や聖人も、私たち、そして私自身も、皆等しく、一人一人、どこまでも罪人であるという現実です。そして何より神の前に高ぶる罪人であるという事実です。神の前に「義人はいない一人もいない。」とある通りの現実です。私たちの神の前の現実は、救われても、それでも尚も、どこまでもその神の前を忘れてしまい、神の前に高ぶってしまうものではないでしょうか。そしてただ「人の前」ばかりを気にして、人と比べて、いつでも自分を王座に座らせたい、あるいは王座に置いて考えてしまう自己中心な存在であることを私自身気付かされます。その自己中心さが、私たちの罪深い歩みの糧となっています。だからと律法として「低くなれ」と言われても、自分自身の力で、本当に、完全に、誰よりも、低くなるなんてことも、私たちは誰もできない現実もあるでしょう。むしろ自分は神の前でも人の前でも、低くなれる、低くできている、自分へ謙虚で謙遜であると思っているなら、実はそこに既に高ぶりと愚かさがあるでしょう。神の前の高ぶりは、何より私自身にもあることであり、ここで示される上席を好む人々の姿は私自身であることを教えられるのです。

 しかしそのように、今まさにそうであるように、聖書から、神の言葉を通して、自分の神の前の高ぶりを気付かされる、その時にこそ、私たちは初めて、神の前の罪の現実を気づかされ、神の前に膝まずかされるのではないでしょうか。そのような神の前の現実を示され、罪を刺し通され、神の前に立つことができない自分であることを知らされ、ただ「憐れんでください

と言うことしかできなくなるのではないでしょうか。そうなのです。その時、まさにこの言葉がそこ実現しているでしょう。「高ぶる時こそ、低くされる」。

B,「低くされる」

 繰り返しますが、これは単なる道徳のメッセージではありません。単なる道徳であれば、説教壇から「自分を低くしなさい。高ぶってはダメですよ、自分で低くすれば、神に受けいられますよ。祝福されますよ」で説教は終わり、律法による派遣で終わりです。つまりそのような自分で果たさなければいけない律法の重荷を背負わされ遣わされて礼拝は終わりです。しかし真のキリスト教会の説教はそうではありません。確かにそこには私たちの高ぶり、罪を示す律法ははっきりとあります。しかし「低くされる」とあるように、それは「自ら低くなる」という意味ではありません。神が、私たちにまず最初に聖書の律法の言葉を持って、神が、教え、神が高ぶりの現実を示し、罪を示すという意味に他なりません。つまり、そのようにこの言葉は、「私たちが低くならなければいけない」と言う道徳や律法ではなく、「神が」まず律法の言葉で、いつでも高ぶる私たちを「低くする」ということを教えているのです。

C,「真に低くなられたお方」

 しかし、イエス様のメッセージは決して律法で終わりではありません。律法が最後の言葉、派遣の言葉でもありません。まさにここでも「へりくだる者は高められる。」と続くでしょう。そのように、神によって低くされ、「神の前」の圧倒的な罪人の現実を私たちが示され知らされ、謙らされるからこそ、そこに、それで終わりではない、もう一つの素晴らしい神の前の事実に私たちは導かれるでしょう。それがイエス様の何よりの目的でありメッセージの核心です。それは、まさにその罪人のため、私たち一人一人のために、まさにそんな私たちを、この十字架によって、その罪から救い出すため、私たちの代わりに死んで、罪の赦しを与えるためにこそ、イエス様は来られた。私たちのために十字架にかかって死んでよみがえられた。その十字架のイエス様の義のゆえに私たちは今日もその罪を赦される。その福音の事実、現実です。

 実に、その福音に、イエス様の真の目的とメッセージは常にはっきりしています。先ほど紹介した、マルコの福音書の10章では、子供のようになるのでなければと、低くされることを教えていますが、そこで、イエス様は、ご自身こそ仕える者となるために来たと言って、それは十字架によってであると示しているのです。そう、まさに「低くされる」、あるいは、最も小さい者となりなさい、と言う言葉は、単なる道徳のメッセージではない、さらには、私たちを低くするだけでもない、何よりその言葉の実現者が、イエス様ご自身であることこそイエス様が伝えているということが示されています。つまり「低くなる」「仕える」は、「私たちが」ではない、何より、イエス様が、私たちのためのこの十字架において全て成就しているということが何よりも気付かされるのです。

「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」マルコ1045

5、「低くされ、高くされる」 

 イエス様こそがまさにこの十字架において、私たちのためにどこまでも低くなられて死にまで従われました。けれども神は、その死にまで従われ、究極まで低くなれたイエス様を、復活させ、そこに神の栄光があらわされました。そこにこそ神の国、真の勝利と救いがあることをイエス様は証しているのです。実にその十字架と復活の福音の力こそ、イエス様が私たちに与えてくださった最高の天の宝ではありませんか。そして、その福音こそが、高ぶっていた私たちが低くされたときに「へりくだる者は高められる。」と言うそのことを信じる私たちに実現する力なのだと気付かされるでしょう。十字架の横に一緒に処刑された重罪人が、自分は罪深いと認めさせられ、神の前にへりくだらされ、ただ憐れんでほしいと願った時、そこに罪の赦しがイエス様から与えられて、天国の約束があったでしょう。低くされたもの、謙らされたものを神はいつでも高めてくださいました。それは私たちにおいても同じ約束なのです。私たちは皆神の前にあります。しかし神の前に高ぶってしまう罪深い存在です。そのことを日々教えられ、刺し通され、苦しむものです。それは痛みの伴なうことなのですが、しかし、それは神が私たち一人一人を低くするために働いているのです。それはクリスチャンであれば、誰でも経験することであり、日々経験することです。聖霊が与えられている私たちはますますそのことに敏感になります。ですから悔い改めは日々当然あるのです。ないわけがない。しかし、それは聖霊とみ言葉が私たちに日々生きて働いている証拠なのです。なぜなら、そのように低くされ、謙るようにされるからこそ、イエス様によって罪赦され救われる。罪を刺し通されるからこそ、十字架が私たちの罪の赦しであり、それは闇ではなく輝きでありいのちであるとわかる。そのように、その十字架のゆえに、日々罪赦されるからこそ、日々、イエス様が与えると言われた平安が私たちを支配するのです。そのように、私たちを、最終的には、何より高めるためにこそ、イエス様は私たちを日々、まず最初に低くされるのです。キリスト者の生活は、日々、その連続であり、そのことを通して、イエス様は私たちの信仰を日々、新しく、強めることによって、高くしてくださるです。

 そのイエス様はその約束の通り、今日も悔い改めイエス様の前にある私たちに宣言してくださいます。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい。」と。ぜひ、罪の赦しを受け、安心して今週も遣わされて行きましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

歳時記

ラインの滝

スオミ教会にも度々お見えになるK・HさんがFBに「ラインの滝」と言う碑を投稿されました。その碑に興味があったので少し調べてみました。ライン川にラインの滝と言う名所があり、そこにこの碑があるそうです。

冒頭に詩編の最終章、150:6を詠っています、碑の内容を翻訳アプリでざっくり訳すと次のようになりました。

すべて、主を賛美せよ ハレルヤ!  詩篇150/6

私たちの国とその栄光、

その山々、その平野は

あなたの力の証しです、

あなたの父なる慈しみの現れです、

私たちの中にあるすべてが礼拝します;

あなたは私たちに大いなることを成し遂げられました。

ハンス・カール・ヴァルター・フォン・グレイエルツ(フランスではシャルル・ド・グリュイエール)

この作詞者のグリュイエ―ルと言う人をWik.で調べてみましたらスイスの改革派牧師、讃美歌作詞家とありました。代表的な讃美歌にGroßer Gott, wir loben dich (大いなる神よ、われらはあなたを讃えます )があります。この讃美歌は後にドイツからの移民でアメリカに渡ったプロテスタンによって英語版の「聖なる神よ、われらは汝の御名を讃えます」として歌い継がれています。何時、何処かは覚えていませんが聞いたことのある讃美歌なので日本では如何かと捜してみましたら、カトリックの聖歌12番にありました。ドイツ語、日本語のバージョンでご紹介します。(英語版は容量大き過ぎて載せられませんでした)

(ここにあった動画は著作権に問題があり削除しました。)

2025年8月24日(日)聖霊降臨後第十一主日 主日礼拝 説教 田口聖 牧師(日本ルーテル同胞教団)

スオミ教会礼拝説教

ルカによる福音書13章10〜17節

「アブラハムの子と呼んでくださる主」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1、「会堂にいた彼女」

 今日の箇所の直前では、イエス様は、いちじくの木の例えから「実を結ぶ」ということを教えました。それに続く、今日の癒しの出来事もまた、神の御子イエスが信仰者に結んでくださる一つの実を表すものとしてルカは記録しています。

 まず10節、イエス様はユダヤ人の会堂にいます。イエス様は毎週、安息日にはこの会堂に来て、巻き物である旧約のモーセの書や預言書を開いて、神のみ言葉を解き明かしていました。この安息日にも同じように教えておられたのでした。しかしその礼拝の席には、11節です。

「そこに、十八年間も病の霊に取りつかれている女がいた。腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった。 」11

 とあります。彼女は腰を伸ばすことができない病気にありました。しかしそれは18年間病の霊につかれていたとあります。病の霊というのは、私たちにとっては理解し難いことが書かれてあるのですが、しかし、その病気は聖書が言う通り霊によるものだったのでした。しかもその病気にかかっていた時間はあまりにも長いものでした。18年もの間、その霊による苦しみ、痛みが彼女を襲っていたのでした。

 しかしそんな彼女は、この安息日に会堂の礼拝の席にいたのでした。そしてイエスが語る神の国のみことばを聞いていたのでした。つまり、彼女は、神にみことばを求めていました。つまり一人の信仰者であったのでした。ここでは、イエス様はそのことをきちんとわかっていることも書かれています。16節ですが、

2、「この女はアブラハムの娘なのです」16

「この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。」

 と言っています。「アブラハムの娘」つまり「アブラハムの子孫」であることを意味するとき、新約聖書のイエス様の場合、それはただ、血のつながりの子孫のことを意味しているのではありません。イエス様がアブラハムの娘、子孫というときは、パウロの書簡からもわかる通り、アブラハムから連なる「信仰による義」を受け継ぐ者を指しています。創世記15章6節ではアブラハムについて「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」とあります。つまり、アブラハムの時からすでに、神の前の義は主と主の言葉を信じ信頼しより頼む信仰にあったのであり、主は、アブラハムにある何らかの行いや性質にではなく、その賜物としての信仰こそを見て、神の前に義と認めてくださったのでした。それは昔も今も変わりません。パウロがローマ4章3節、ガラテヤ3章6節でこの創世記の記録を指して言っている通りです。ガラテヤの方ではパウロははっきりとこう言っています。ガラテヤ3章7節

「だから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。」

 と。このように、この病の霊に苦しむ彼女は、紛れもなく信仰の人であり、神の言葉を求めてこのところに座っていることを、イエス様はしっかりと見て知って受け止めておられることがわかるのです。「この女はアブラハムの娘である」と。

3、「病の霊、サタンが縛っている彼女」

 しかし彼女の肉体は病気でした。しかも病の霊に憑かれていました。16節ではそれは「サタンに縛られていた」とも書いています。

 ここで皆さんは、不思議に思わないでしょうか。それは、この人は信仰者なのに、サタンやそんな霊に憑かれているのかと。当時のユダヤ教の考えでは、「そのような病気の人、あるいはサタンに縛られているのは、何か罪を犯したから、律法に背いているからそうなんだ、それは神の怒りと裁きの結果なんだ」、そのように決めつけられ、偏見と差別が起こるのが普通でした。それは現代でもよく聞くことでもあります。キリスト教会の中でもある教会などは、「そのような霊や病気は、信仰が足りないからだ。だからサタンに負けているんだ。だから自分で、自分の意思で、力を振り絞って、全てを捧げて、信仰をもっと強くしなさい。自分で信仰を奮い立たせて勝利しなさい。そうでなければクリスチャンではありません」と教会や牧師から教えられたりすること、そのような教えを聞くこと、そしてそのような教えに苦しんでいるクリスチャンの相談を聞くことは実は少なくありません。そのように昔も今も、いつの時代でも、災いや苦しみ、試練、うまく行かなこと、成功しないこと、失敗などなどは、神に祝福されていない証拠として、「何かが足りないから、信仰が不完全だから、信仰が足りないから、こうなんだ。祝福されていないのだと。災いがあるのだ。」そういう間違った考えは、教会やクリスチャンへの大きな誘惑であり続けているのです。

 しかし、この彼女、この状態は、そうなのでしょうか?みなさん、イエス様はこの彼女をそう見ていません。その病を彼女の何かが足りないからだとは見ません。むしろそのような試練と悲しみにある彼女の、そのような中でも必死に神とその言葉にすがり求めるその信仰のみをイエス様は見て、この非常に幸いな称賛の言葉を言うでしょう。

「この女はアブラハムの娘なのです。」と。

4、「神の御子による天の御国の最高の賛辞」

 みなさん、この言葉は、神の御子による天の御国から人類への最高の賛辞であり賞賛の言葉なのです。もちろん私たち人間の目から見るなら、彼女も不完全で足りないところのある信仰でもあり生き方でもあるでしょう。しかし彼女は、周りの様々な冷たい目線や差別にも関わらず、安息日にこの会堂に、神の言葉にすがり求めて、神の言葉を受けるために、礼拝にやってきました。まさにそれだけ、そのままの信仰のみを、イエス様は見て、何も足りないとは決して言いません。むしろ逆に、最高の賞賛を持って、イエス様は、彼女の信仰を言うでしょう。「この女はアブラハムの娘なのです」と。そして、彼女がどうだから、何をしたらから、何が足りないから、こうなった、とは決して言わず、その原因は、ただ「サタンに縛られていたのです。」と、サタンの一方的な働きの中でそうなり、むしろ彼女はその病い苦しみと戦ってきたことを、イエス様はただ哀れんでくださっているのがわかります。みなさん、この方こそ、私たちの救い主であるイエス様なのです。そして、このことから、イエス様が私たちをいつもどう見てくださっているのかが教えられるのです。そう、そのように、私たちのキリスト者として信じる日々、信仰の歩みというのは決して、私たちが何かをしなければいけないということで駆り立て縛るような律法の歩みではない。信仰は、どこまでも、イエス様の憐れみ、イエスからの賜物、イエス様の恵みであり、どこまでも福音によるのだと、わかるのです。

5、「祝福のはかりは律法ではない」

 つまり「災いがあり、病気があり、うまくいかないのは、それは自分の罪のせい、信仰が足りないせい、行いが足りないせいなのだ、だから祝福されないのだ」では決してないということです。そのような「祝福や救いを秤る見方」は、まさに福音書に見られる通り、ユダヤ人の律法による生き方、考え方その物です。しかし、現実はどうでしょう?キリスト者の信仰の歩みでも、当然、日々、サタンとの戦い、罪との戦いがあります。イエス様も、使徒達弟子達に、あなた方は患難があります、あるいは、あなた方を狼の群れの中に送り出すようなものだ、と言いました。その中で、私たちは自分自身の力では、負けるとき、勝てないとき、どうすることもできない時が必ずあります。まさに彼女のようにです。しかもそれらの試練や重荷がすぐに解決がされず、18年、いやそれ以上、その苦しみをかかえなければいけない時もあるでしょう。災いや試練の連続、うまくいかないことばかり、失敗ばかり、それらはクリスチャン誰でも経験する現実です。そして、それが神の国や信仰に関することであれば、なおさらです。私たちが自分の力で、信じたり、敬虔になるとか、自分の力や意思で誘惑に勝利をしたり、神の国のことを何か勝ち取ったり達成することなどは実は全く不可能で無力なのです。信仰生活はそのようなものです。弱さと無力さがある。当然なのです。私たちは皆、堕落してから、肉にあってはなおも罪の世を生きているし、自分自身がなおも罪人であるのですから当然なのです。それは私たちは救われて義と認められても尚も、ルターが言うように私たちは「義人・聖徒にして同時になおも罪人」なのです。聖書にある通り、私たちには古い人と新しい人の両方があるのですから。

 しかし、それは信仰がないからそうなっているのではありません。信仰が足りないからそのようなことが起こっているのでもありません。信仰の道はそのようなことが当然ある日々であり連続なのです。ですから、「問題がないから、罪がないから、いい信仰、いい教会、いいクリスチャン」ということでもないのです。むしろ自分は、あるいはあの人は、問題もなく失敗もせず完全だからいい信仰、いいクリスチャンだ、いい教会だということが良い教会、敬虔な教会の基準だと言うなら、ヨハネの手紙第一の1章8〜10節に照らして言うと、私たちは神を偽っており、私たちにはみことばがないことになります。信仰とはそのようなものではありません。むしろその逆で、そのような足りなさ、不完全さ、罪深さ、その他、多くの苦しみや戦いがある中、サタンの誘惑や攻撃がある中で、日々、戦って生きる歩みであり、それでも日々、無力さ、罪深さを感じるのが誰もが通る信仰の現実であるのです。

6、「福音の実」

 しかし、そのような現実の中で、それでも主を信じて、神の言葉こそを求めて、赦してくださる主の罪の赦しと憐れみを求めて、どこまでも主なる神とその言葉にすがる歩みの幸いこそ、まさに今日のところに証されているでしょう。神の御子イエス様が、このような名もなき、しかもサタンに苦しめられている彼女、それでも礼拝に来て、神の言葉にすがる彼女の、その不完全さ、罪深さ、しかしそこに同時にある信仰を見て、「この女はアブラハムの娘なのです」と言ってくださる。そのように救い主イエス様が、認めてくださり、受け入れてくださる。そして、彼女自身が何かをしたではなく、イエス様が憐れんでくださり、イエス様がまさにその言葉と力で働いて、人の想いをはるかに超えた癒しと救いを与えてくださり、その口に賛美と証しを与えてくださっているでしょう。それが私たちに与えられている信仰であり、神の生きた働きであり、新しいいのち、真の信仰生活であり、それは律法ではなくどこまでも恵み、福音であるのです。そして、そのように全くの恵みによって、イエス様の方からまず彼女に、その信仰を賞賛するという一つの実を与え、さらには、癒しという実を与え、イエス様が彼女にそのように実を実らせることによって、イエスが彼女になさった「彼女のそのまま」が、今も、時代を超えて、福音書を通して証しされ、多くの人の福音の実のために、彼女のそのままが用いられていることがわかるのではないでしょうか。

 皆さん、その証しは派手でも劇的でもありません。しかし、まさにこれがイエス様が、福音が、私たちに実を結ぶということです。実を結ぶとは、律法的に私たちの力と行いで華やかな結果を、私達が神のために一生懸命、実現すると言うことが実を結ぶということではありません。彼女は本当に不完全さと苦しみの中、神とその言葉にすがっている、ただそれだけです。しかしその信仰が「そのまま」用いられて実は結んでいくのです。これが聖書が私たちに伝える。福音による実に他なりません。

7、「律法を基準とする会堂管理者」

 けれども、これと対照的な反応が、この後、描かれています。なんと会堂を管理する、会堂長はイエスに憤ります。しかもイエスに直接言わないで、群衆を巻き込んで扇動して、群衆みんながそう言っているとでも言わせたいかのように言うのです。14節

「ところが会堂長は、イエスが安息日に病人をいやされたことに腹を立て、群衆に言った。「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない。」」

 この会堂長も、福音書に見られるパリサイ人、律法の専門家たちの反応と同じです。律法、あるいは、律法に従う人の行いしか見えていません。彼らにとってはそれが基準です。いかに従っているか、どれだけ忠実に行っているか。その自ら、あるいは他人の行いが、全ての秤の標準であり、拠り所になっているでしょう。イエス様と見ているところが全く逆であり正反対なのがわかります。自分たちが、あるいは人が、どれだけ行うかに祝福と救いと義はかかっているのです。自分たちは行っている。行っていない人はダメなんだ。そのような論理で一貫しています。

8、「イエスの目は福音の目」

 しかし、イエス様の目と思いは全く彼らと逆なのです。それは、全ては天の神からくる。天から恵みが与えられるためにこそ、ご自身はそれを与えるものとして世に来られた。父子聖霊なる神の私たちへの思いは、その天の恵みを与えること、そして、人々はそのイエスご自身からそのまま受けること、そして受けることによって主の働きは全て始まり実を結ぶ、それがすべてである。そのような一貫した福音の目線であり思いなのです。ですから、イエス様は言います。15-16節

「しかし、主は彼に答えて言われた。「偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか。この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか。」」

 安息日の本当の意味について述べるイエス様の言葉を思い出します。マルコの福音書では

「そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。 だから、人の子は安息日の主でもある。」」マルコ22728

 と。ヨハネの福音書でも、イエス様は

「イエスはお答えになった。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」 」ヨハネ517

 と言いました。会堂長も、パリサイ人たちも、「律法に自ら生きること、何をするか、してきたか、何をしていないか、してはいけないことをしているか、していないか。」が義や祝福の基準です。しかしイエス様は、その逆で、神が何をしてくださるのか。まさにどこまでも福音が基準なのです。神が与えてくださる。み言葉のうちに神は働いてくださる。その時が神の国であり、安息日の恵みであり、みことばの恵み、福音のすべてであると、イエス様はどこまでも一貫しているのです。

9、「福音にこそ招かれ、福音にこそ生きるために」

 私たちは、今日もこのみことばから、イエス様によってどちらに招かれているかは、すでに明らかです。もちろん、日々律法によって罪示されて悔い改めつつここに集められていることでしょう。しかしクリスチャン生活は律法で終わりではないのです。律法が最後の言葉ではありません。そのように罪を示され悔い改める私たちは、どこまでもその罪を赦され、福音を受けるために招かれているのです。罪に打ち拉がれ、刺し通され、悔い改める私たちに対しても、イエス様は今日も、「アブラハムの子よ、子孫よ」と、言ってくださり、罪を赦し、そのように私たちを見て喜んくださっているのです。それは私たちが何かをしたからではない。苦しみと試練の中、サタンとの戦いの中で弱さを覚える現実の中で、彼女のようにそれでも神のみにすがってここに集まってきたその、そのままの信仰こそを主イエス様は何よりも喜んで、賛美して、「アブラハムの子よ、子孫よ。よく来たね。今日もあなたに与えよう。救いを。罪の赦しを。新しいいのちを。平安を。」と、そう言ってくださっているのです。

 事実、会堂長の目線や律法の言葉と、イエス様の福音と、どちらが本当に平安と光と喜びを与えるのか、どちらが本当の福音の実を結んでいくのか。皆さんにはもうお分かりだと思います。律法は人の前や理性では合理的で即効性があり理解しやすい手段にはなるかもしれませんが、律法は、人を、ただ恐れさせ強制で従わせ行わせることしかできません。何よりそこにはイエスが与えると言われた特別な平安はありません。しかし、まさに今日も「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と福音を宣言してくださっているイエス様から、福音こそを受け、福音によってこそ新しくされ、福音によって安心し遣わされていくときにこそ、どんな困難があってもそこに平安が私たちにあるでしょう。私たちは福音によってこそ、平安と喜びをもって、真に神を愛し、隣人を愛していくことができるのです。それは律法は決して与えることはできないものです。福音が与えるのです。その福音による歩みこそ、私たちに与えられたキリストによる新しい生き方なのです。

 今日もイエス様は宣言しています。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。そのイエス様の恵みを受けて、イエス様が日々、「アブラハムの子よ、アブラハムの娘よ」と認めてくださっていることを賛美して、そしてそこにイエス様の福音が確かに働いてくださることを信じて、ぜひ今週も歩んでいこうではありませんか。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

歳時記

夏の雲

<もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空はみ手のわざをしめす。 詩編19:1>

過日の夕方、東の空に大きな入道雲が立ち上がっていました、雲の下は恐らく千葉か茨木のあたりでしょうか。あまりの巨大さに暫く見とれていました、あの雲の中ではいったいどんな音がしているのだろうと難聴の耳を傍立ててみましたが全く何も聞こえませんでした。その日の夜のニュースで矢張り、茨木、千葉方面で激しい雷雨があったと告げていました。

(夕立の雲もとまらぬ夏の日の かたぶく山にひぐらしの声  式子内親王)

2025年8月17日(日)聖霊降臨後第十主日 主日礼拝 説教 木村 長政 名誉牧師(日本福音ルーテル教会)

私たちの父なる神と、主イエス・キリストから、恵と平安とが、あなた方にあるように。

アーメン              2025年8月17日(日)スオミ教会 

聖書:ルカ福音書12章13~21節

説教題:「愚かな金持ちの譬え」

今日のみ言葉はルカ福音書12章13~21節までです。13節から見ますと、群衆の一人が言った。「先生、私にも遺産を分けてくれるように言ってください」イエスはその人に言われた。「誰が私をあなた方の裁判官や調停人に任命したのか」。ここでイエス様は群衆の一人の訴えに対して少々怒っておられます。イエス様に向かって言ったこの人は、何故こんな事を言い出したのでしょうか。恐らくイエス様の話を聞いて感銘を受け、この立派な先生の話を自分の兄弟も聞いたなら権威ある崇高な教えに触れ欲張りな兄弟も謙虚になり分別も良くなって私の遺産の分け前を分けてくれるのではないかと、考えたのです。この人はイエス様の尊い教えを兄弟に聞かせて、いま自分が財産の分け前の事で不利になっている惨めな問題に利用しようとしています。それに反してイエス様は「問題はあなたではないのか」と言っておられるのです。そこでイエス様ははこの人に譬えの話を語られるのです。譬えの話は何の説明もいらない分かり易い話であります。「或る金持ちの畑が豊作で作物を入れる倉を作って貯えておこう。もっと大きい倉を建て、そこに穀物や財産をみなしまい、さあ自分に言うのだ。「これから先、何年も生きて行くだけの蓄えが出来たぞ、食べたり飲んだりして楽しめ」。さて、この譬えで彼は豊かであった上に更に豊かになりました。ますます豊かになって行くけれどもその豊かさが何にもならないと言うことです。この譬えでは人間が何者であるか、と言う事ではなくて、人間にとって持ち物がどういう意味を持つのか、と言う事を言おうとしているのです。さて、畑が豊作であった時、この金持ちは作物を余らせて腐らせてしまう様な事はしませんでした。長年に渡って作物を貯蔵する事が出来るような大きいしっかりした倉を建て替えるのです。賢い人は作物が取れ過ぎて余った時、それが無駄にならないようにするのであります。この譬えの主人公である金持ちはただ物を沢山持っているというだけでなくて、その沢山の物を上手く管理するだけの賢さをも持っている人でした。人間には将来に備える知恵というものがあります。これまでの経験が蓄積されて、そこから考えて今後、困る事があるだろうから貯えておくと言う知恵であります。ところが、人間は物を持っていますとその物を自分がどうにでも出来る、支配しているつもりでいます。しかし物を本当に支配しているのではありません。イエス様は教えられました。「地上の宝と言う物は虫が喰うし又錆びてしまう、或いは盗人が来て盗んで行く。」そいう不確かな物があるという事です。人間は将来の事を考え、将来への備えが出来ると思っています。果たしてそうでしょうか。ところが彼は決して自分の将来を確保しているわけではないのです。更にこの人間が自分の魂を自由にすることが出来ると思うに至るのであります。魂、即ち命を保つのに必要な食料は長年分が確保された、これで長年に渡る命を保証する事が出来る、と言うのです。人は一生涯、喰うために働き追われています。それが働かないで食べて行けるなら人は苦労から解放されると思うわけです。大きい問題は解決されたかのようでありますが実は何も解決していない。   ――――――――――――――――◇―――――――――――――――――

20節を見ますと「すると神が言われた『愚かな者よ!あなたの魂は今夜のうちにも取り去られるであろう。そうしたらあなたの用意したものは誰のものになるのか』」。今晩、命がとられる!。すると一切が空しくなってしまうのです。それまで働いて生み出した実りも自分自身も空しくなってしまうのです。この譬えの話に出てくる金持ちは私たちの姿を写した鏡であります。いや、自分はこのような金持ちと違うと言うでしょうか。今夜、お前の命は取られてしまう。このひと声で彼がこれまで持っていると思っていたもの、保証されていると思っていたものが一挙に消えてしまうのです。まるで!朝日がさして霜が見る々うちにサーッと消えて行くように。神のひと声は一瞬にして一切を消してしまう、日の光のようです。この光を当てても消えないものを私たちは持っているでしょうか。私たちは私たち自身の人生のあらゆる面にこの光を当ててみる必要があります。この光に当てて消えゆくものが沢山あります。私たちは本当に空しくない人生を生きているかどうか。「今宵、命が取られるとしても、なお意味を持っているもの」それこそが私たちの人生の目標として大事に生きて行くことです。もし、明日死ぬことが分かると、もう励む目標も失って人生諦めて、せめて生きている、今日だけでも楽しもうとなるでしょうか、それもまた空しいことです。イエス様は言われました。「あなた方は世の光である」と。私たちキリスト者は光であってあのひと声を聞いても終わりに備える生き方とはどういうものか。私たちは何時あのひと声を聞いても良いように黙々と本当の生き方を求め続けて行く、その終わりの時が来ても崩れない。いよいよ生き々として生きるようにしなければならない。それはどういう生き方でしょうか。最後の一節で言われた。「自分のために宝を積んで神に対して富まない者はこれと同じである。」金持ちのした事です。イエス様ご自身の解説の言葉であります。この譬えの金持ちは自分のために宝を積んで神に対して富まない典型でありました。この人が金持ちであったことが悪いのではない。しかし、彼はこの取り入れたものを全部、自分の物にしようとしたのです。自分の畑で取れたものだからそれは自分のものではないか。そう考えても悪い事ではない。他の人たちの事はどうだったでしょうか。彼は他の人たちの事を全く考えない。イエス様の譬えの言葉の中には「彼は他の人の事を考えなかった」とは一言もない、けれども「自分のために」という一言は他の人たちの貧しさは考えにない、と言う事を含んでいるのです。この人は自分のために宝を積むばかりでした。人の事まで考えが及ばないのです。こうして神のひと声が彼に響くのです。即ち、神の前に立つ時、自分の富であると思っていたものが無になってしまう。富を持っていると思っている自分自身が実は惨めなものでしかない、この事が明らかになります。しかし、神の前に立っても自分が惨めにならないで祝福に満ちた状態になれる道があります。それが「終わりの日の備え」なのであります。私たちは実はある方の後ろに続いているのです。その方の歩みに依っているのです。その方と言うのはイエス・キリストであります。イエス様はこの世にあっても神の国を示し御国の自由な生き方をされてきました。イエス様ほど人のために生きた方はおれれません。自らを犠牲にして人のために生きられた。ですから、私たちも「人のために生きる」このことを目標に据えて生き々とあの光のひと声を聞いても喜んで御国への希望を持って生きる事であります。これが新しい生き方です。この新しい生き方はこの世のあらゆる価値の尺度が違うのです。イエス・キリストが示して下さった尺度の中で生かされて行く事であります。この新しい生き方は終わりの日にこそ本当の意味があり正しい事が明らかにされるのであります。

人知では、とうてい測り知ることができない、神の平安があなた方の心と思いをキリスト・イエスにあって守るように。  アーメン

 

 

2025年8月10日(日)聖霊降臨後第九主日 主日礼拝 説教 田口聖 牧師(日本ルーテル同胞教団)

ルカによる福音書12章35〜40節

説教題:「賜物である信仰に生かされる歩み」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1、「はじめに」

 このルカ12章は、1節にあるように、沢山の群集がイエスのもとに集まってくる中で弟子たちへの「ファリサイ派の人々のパン種に注意しなさい。それは偽善である」と言う厳しい言葉と教えから始まっています。ファリサイ派は、人に見えるように祈ったり断食したりなど、目に見える行いで人に評価される敬虔さや立派さで、神の前に義を立てようとしていました。それは、ただ律法だけではなく、むしろ律法が教えていることさえも超えた人間の作った社会の慣習を立派に行うことによって、より神に近いとされると教えるような、どこまでも目にみえる行いを誇るようなものでした。それは確かに社会では、周りの人々から高く評価され彼らは敬虔な人々とされていたのです。しかし、イエス様は、それに対して注意するようにいい、偽善とまで言うのです。しかしその意味するところは、2節でイエス様が「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない。」と続けているように、そのような目に見える「人の前」だけを意識し、ただ人に見せ、人と比較し、人に賞賛されるような生き方ではなく、むしろ「神の前」に罪人である自分を認め告白しながら、全てを行なってくださる神に謙りどこまでも信頼する生き方、信仰の生き方にこそ真の敬虔があることを示すことにありました。それがこの12章では貫かれています。だからこそ、イエス様は絶えず弟子たちを慰め、信仰を励ますように語りかけています。7節では「恐れてはならない。誰を恐れるべきか教えよう

と言います。なぜなら一羽の雀さえ神はお忘れにならないからだと。だから恐れるなと教えます。11節でも「心配してはならない

。なぜなら全て語るべきことは準備されているからと言います。22節では「思い悩むな」。なぜなら神は鳥さえも養ってくださる。あなたがたは鶏よりも価値があるからだと。そして28節ではこうあります。

「今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことである。信仰の薄い者たちよ。あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな。それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。

 と。そして言います。「神の国を求めなさい」と。このように、イエス様は「神の前」にあっては、人のどんな優れた行いや知恵に義を求めたりより頼んだりしても、そこには決して義などない。むしろあなた方にはどんな罪深く不完全でもキリストにあるならそんなあなた方にこそ神の恵みと憐れみはいつでも深く満ち満ちている。だから、どこまでも神の国を求めなさい、つまり、神を信じ、信頼しなさい。と励まし続けているのがこの12章なのです。

2、「帰ってくる:腰に帯を絞め、灯火を」

 同じように今日のこの箇所も、32節でも「小さな群れよ。恐れるな」で始まります。なぜなら、その小さいものに神は喜んでその国を与えてくださるからと。そしてその後に施しの勧めがありますが、それは、神が与えてくださるのだから心配する必要がないという神への信頼があってこその教えであり、単なる律法の教えではなく、福音から生まれる信仰の実としてイエス様は施しを勧めているでしょう。そして、35節からこうあります。

「「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。」

 「腰に帯を締める」。これはすぐに行動できるということを意味しています。そのように備えているように、準備しているように。イエス様は教えるのです。ここでイエス様は、弟子たちは、主人のもと、つまりイエス様のもとにある僕という位置付けです。当時の婚礼というのは一日ではなく、数日行われます。そして終わる時間が定められてはいません。婚礼の祝宴はいつまで続くのか、どれぐらいで終わるのかということはわからないのです。ですから、僕はいつに主人が帰ってくるかわからないのです。婚礼に出かけた主人は、突然、家に帰ってくるということです。

 そのためにイエス様は、いつでも目を覚まし主人が帰ってくるのを見られるよう備えているようにと教えます。ここでイエス様は、まず帰ってくることを「ご自分の時」のことを指しているでしょう。ヨハネの福音書などを見るとやがて来る「わたしの時」「ご自分の時」という言葉で、イエスはやがてご自身が受ける十字架と復活の時を絶えず指し示しています。イエス様ご自身は十字架の時が迫っていることを知っていました。そして見てきましたように、ルカによる福音書ではこの時はもうすでに、エルサレムにまっすぐと目を向けて進んでいた時です。イエス様ご自身もそのご自分の時である十字架と復活のことを神の国の到来の教えとして伝えてきました。しかし、弟子たちはその意味も時も知りません。いやすでにイエスが前もって伝えてもいましたが、それでも彼らは理解できませんでしたし、わからなかったのです。そのようにわからないからこそ目を覚まし準備しなさいなのです。まさにそのことをイエス様は示唆しているでしょう。

 では、ここからの弟子たち、そして私たちへのメッセージは何でしょうか。まず第一にイエス様は、「帰ってくる

ことを示唆しています。

 イエス様はやがて逮捕され、裁判を受け有罪とされます。罵られ、鞭うたれ、唾をかけられ、処刑である重い十字架を背負わされるでしょう。そしてついにはゴルゴダの丘で、手と足に釘を打たれ晒されます。そして息をひきとります。その身体はローマ兵によって死を確認され、そして墓に葬られるのです。

 それは弟子たちにとっては大きな悲しみだけでなく、苦しみであり絶望となります。それが起こる前、弟子達は誰もそんなことが起こるはずがないと思っていました。さらには彼らはみんな言いました。もし他の誰かが裏切るとしても「自分は決して裏切らない」と誓い断言しました。けれども彼らのその決心はその通りになりませんでした。イエスが伝えたとおり、イスカリオテのユダが僅かの銀貨との引き換えでイエスを売り裏切ります。そればかりか、自分たちの建てた「他は裏切っても自分は裏切らない」と言う決心を果たせませんでした。それどころかみなイエスが逮捕された時、逃げていくのです。そしてそれでも隠れて見にいったペテロは、「イエスの仲間では?」と問われ、イエスのことを三度知らないと誓って呪いを込めて言ってしまうのです。ペテロはその時、外に出て泣いたとありました。さらには十字架の出来事は、まさに目を覆うばかりの残酷さと悲しみとなります。そしてその後の弟子たちは、恐れと悲しみと絶望で、部屋の戸を閉ざしてしまうのです。イエスご自身は復活すると約束しているのに、です。しかしイエス様は、まさにその真ん中に「帰ってくる」でしょう。

 そしてもちろんこの例えにはもう一つの意味があるでしょう。それは、人の子が思いがけない時に来るのは、復活の後、天に昇られるその時に約束される通りに、キリストが再び来られることをも当然意味していることでしょう。その時に備えていなければ、41節以下で記されているような受ける報いがあることや、やがて起こることなどに直面することになります。しかし、イエス様がここで伝えたいことは、そんなイエスが再び帰って来ることを、いつとかどんな時とか、私たちがわからないことを人間が不完全な知恵で特定することでないのです。そうではなく、そのやがて来ることの意味がどちらであっても、イエス様にあっては「備えるべき」その「備え」こそしっかりとあなた方は持っていなさいと言うことが、変わることのないイエス様から私たちへの大事なメッセージなのです。それは何か?それは一貫しています。それはファリサイ派のように行いによる義や人に見せるためだけ、自尊心、自己愛を満たすための、偽善に満ちた偽りの信仰ではない。神ではなく自分への信頼でもありません。黙示録3章21節に「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」とあるように、どこまでも神を神とし、神を見、神を待ち望み、神に信頼する、いつでも神の招く食事の席に喜んで着く、まさにそのための備え、そのための信仰こそが、その信仰だけが、あなた方が常に持つべき備えであると言うことに他なりません。

3、「十字架の苦しみと死は喜びの婚礼:その信仰は律法ではない」

A,「イエスが受ける十字架は神のみ心、喜びのために」

 しかし、繰り返しますが、その信仰は決して律法ではありません。そのことを示すように、そのイエス様の時、つまり、イエス様は自分の受ける十字架であるにせよ、再び来られることであるにせよ、イエス様はここでその時をなんと「婚礼」という「喜びの席」に例えているでしょう。イエス様がまさに受けようとしている十字架は、まさに苦しみと死です。イエス様は「我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのですか」と叫ぶほどの大きな苦しみと死をその身に負います。しかし、そのご自身の受けるその時をイエス様は「婚礼」だと言うのです。私たち人間の目では、ご自身の苦しみと死と婚礼の喜びとでは全く逆のことのように見えます。しかしイエス様にとって、それは決して矛盾しない福音なのです。なぜなならその十字架でこそ神の喜びだけでなく、人類の喜びが実現することを、神様は御心として見ているからです。イエス様はそのことを伝えているのです。

 イエス様は事実「ご自身の時」をよく婚礼に例えています。マタイの福音書9章でも、イエス様ご自身がご自分を花婿と呼んでご自分が来たことを婚礼の時に例えています。そしてマタイ25章でも、天の御国は、灯火をもって花婿を出迎える十人の娘のようだとも話しているでしょう。イエス様が世に人として生まれたのは、確かに十字架で死ぬためでした。しかしそうであっても、それは花婿の到来。婚礼の時、喜びの時であることを伝えているのです。さらにヨハネ3章では預言者であるバプテスマのヨハネもイエス様の到来を花婿の到来、婚礼に例えています。そして「喜びに変わる」ということもはっきりと言っている場面がありました。ヨハネ16章22節、捕らえられる直前の晩餐での教えです。こうあります。

「今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。 」

 今は悲しみの時。しかしわたしは帰って来る。もう一度会うのだ。その時、喜びに変わる。誰も奪うことができない喜びに満たされる。それはまさに十字架の死の先にある復活と新しいいのちの約束のことをイエス様は伝えているのです。さらに旧約聖書でもイザヤ書53章では、苦難の僕は「彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する」(11節)ともあります。まさにこの時すでに、イエス様は、十字架にまっすぐと目を向けて、その十字架の苦しみも死も待っていることを知っていながら、同時に、ご自身の時が、婚礼の喜びに例えられる、喜びの時となることを、イエス様はまさに見ているのだと示されます。

 そこで主人は帰ってくる。その通りですね。イエス様は約束の通りよみがえり、弟子たちのところに帰ってくるのです。その時に、腰に帯を締め、あかりをともして、すぐに戸を開けれるように、その帰りを待っている人のようでありなさい。つまりみ言葉を、約束を信じて待っていなさい、なのです。もちろんここには、やがて来る、つまり再びくるイエス様の再臨の時という二重の意味でもありますが、やはりどちらの意味でも、いつ来ても良いように信じて待ちなさい、なのです。

B,「賜物である信仰がいかに大切であるか」

 イエス様は、ここで私たちに神を信じ、信頼し、待ち望むということがいかに神の国にとって、重要なのかを12章全体を通して示しています。12章8節以下でも、イエス様はイエス様を人の前で認めるもの、つまりイエスへの信仰を告白するものを、イエス様も神の前で知っていると証言するとあります。神の国はみ言葉を聞き信仰を告白するものにこそあるとイエス様は教えています。そして10節以下では、たとえ人間の罪の行いや言葉によってイエスをそしることがあっても赦されるけれども、聖霊を冒涜するもの、つまり聖霊の賜物である信仰を侮り否定し汚すものは赦されないと、やはりそれもみ言葉と聖霊の賜物である信仰こそ大切であると伝えていました。人のいのちは神の手にあり、一羽の雀さえも忘れられていないように、カラスや野の草さえも養うように、神は私たちを憐れみ満たしてくださる、神は喜んで神の国を与えてくださる、その神の子イエスとその約束、み言葉を信じるように、それこそ神の国を求めることなんだと、イエス様は神を信頼することこそ道であると繰り返してきました。福音と賜物である信仰こそが神が与える救いの力だからです。人は行いではなく神を信じることによって救われるということこそ、まさに堕落した時から、アブラハムの時から変わることのない神の道であったからです。いや創造の初めから、神は人を神に信頼するものとして創造しています。神への信頼こそ人の本来の姿。信仰は本当の人間の回復であり、神と人の関係の回復はただこの信頼、信仰にのみにかかっている。それが神が聖書の初めから、預言者たち、そしてイエスを通して、使徒たちを通して語ってきた福音であったのでした。

 その信仰こそ、信頼こそ、何にも勝る神の国の備えであるとイエス様はここで教えています。信仰は何が起こっても動じない力です。地上で艱難があっても、神が突然来たとしても、喜んで安心してそれを迎えることができるのは信仰だけです。そのように艱難の時代にあるからこそ、神にいつでもどんな時でも信頼して、すべてを任せ、神を待ち望むことが神の国の姿なのだと、イエス様は教えてくれているでしょう。そのように備えている人は、突然、主人が帰ってきても幸いだとあるのです。ですからそれはただ、起きていないと主人が裁くとか怒るとか、そういう意味ではないのです。むしろ待っている側の喜びの心のことを言っているでしょう。その喜びの心、救いの確信は、律法や行いとしての間違った信仰にはあり得ません。それはその神の約束である福音を恵みとして受け取る信仰のみにあります。神の福音の約束を恵みとして受け取り信じていることこそ、神の前にいつ立ったとしても、突然、立つことがあったとしても、確信と平安のうちに立つことができる備えです。むしろその真の信仰がなければ、神の前に立つことができないでしょう。そこには平安も確信も失われます。まさにこのように、これは律法から解放されただ神の約束を待ち望む信仰に生ずる私たちの心の喜び幸いを伝えてくれているのです。恵みの約束をそのまま信じて待つ時、突然何があっても、心は喜びと平安と確信で揺るぐことがないということなのです。

C,「信仰は重荷、律法ではない。信仰は平安、福音である」

 みなさん。イエス様が教えるように、信じることは重荷ではない、どこまでも幸いなのです。それは平安があるからです。イエスを喜ぶことができるからです。そしてそれは誰も奪い去ることができない、世が与えるのとは違う、特別なイエスの与える平安だともヨハネの福音書14章にはあるでしょう。不安や疑いではなく、平安のうちに待ち望むことは幸いではありませんか。イエス様はその備えを、つまり信仰の幸いと素晴らしさを私たちに伝えているのです。

 しかし、やはり忘れてはいけない大事な点ですが、その信じるということは律法ではないと言うことです。それは福音であり恵みです。その素晴らしい恵みの上の恵みがここには証しされているでしょう。

 イエス様は、弟子たちの弱さと不完全さ、罪深さをすべて知った上でこの教えをしています。事実、弟子たちは、信じて待っていることはできません。復活の日の朝、悲しみと絶望で戸を閉ざしていました。しかしそこに「イエス様の方から

戸をノックもせずに、開けもせずに、通り抜けて、彼らの前に現れて、死からよみがえったその生ける身体を触らせたでしょう。さらにはその場にいないで疑ったトマスにも、もう一度現れ、同じように触らせたのです。そのような疑うトマスの不完全さをご存知の上でイエス様は、「見ずに信じる者は幸いです」と言っているのです。このように使徒達弟子達の信仰は、不完全で罪深く不信仰な彼らでありながらも、そのようにイエス様の言葉に支えられ助けられながら、そのイエス様の教える「見ずに信ずる信仰」へと導かれている事実がわかるでしょう。それが弟子たちの歩みであり、私たちクリスチャンの恵みの歩みでもあるということです。

D,「礼拝も律法ではない、礼拝は主が仕えてくださる福音である」

そして37節の後半部分の言葉は実に意味深いです。

「主人のほうが帯を締め、そのしもべたちを食卓に着かせ、そばにいて給仕をしてくれます。」

 これは思い出すでしょう。エマオの途上の二人にもイエス様がパンを裂いたとありました。そしてヨハネ21章でも、漁から帰ってきた弟子たちに、イエス様が食事を準備していたとあったでしょう。イエス様の目的であった十字架と復活を境に、関係が逆転しているでしょう。もはや弟子達が、あるいは私たちがイエス様にではない、イエス様が弟子達、私たちに仕えてくださる、そのことをイエス様は示してくれています。それはまさにイエス様が私たちに仕えてくださるのが、新しい命の道、信仰の道、クリスチャンの歩みであるとうことを示唆しています。ですから、信仰の歩みは、私たちが先ず神のために自分たちの知恵や力や理性を振り絞って私たちが実現しなければいけない律法ではもはやないと言うことです。イエス様がみ言葉で仕えてくださり、絶えず支え励まし導き成長させる恵みだということです。この礼拝さえもそうです。礼拝は律法ではありません。礼拝は、人が神に仕えるからサービスではありません。ドイツ語では、礼拝は「ガッデス ディーンスト」「神が仕える」と言う意味です。み言葉を通してイエス様が教えてくださり、聖餐を通してイエス様がイエス様のからだと血を与えてくださる。まさにイエス様が仕えてくださり、それを受ける、ともにみ言葉と聖餐の食事をするのが礼拝であるということです。礼拝も福音なのです。決して律法ではないのです。

4、「結び:教会は花嫁」

 イエス様がそのように信仰を与え絶えずみことばで仕えてくださる、充してくださる、支えてくださり、助けてくださる、力を与え用いてくださる、良い行いも備えてくださり、愛のわざを私たちのうちに行わせてくださる、それが神の国の幸いであることをイエス様は伝えてくれているのです。だからこそ、イエス様が花婿であり、教会はまさにその花嫁であるとも言われているでしょう。イエス様はだからこそ婚礼の譬えや花婿の到来を私たちに伝えているのです。私たちは今日も罪を示されこの十字架の元にありますが、まさにこの十字架の故にこそ今日もイエス様は罪の赦しを宣言してくださり、絶望は喜びに、不安は平安に変えられ新しく歩んでいくことができます。今日もイエス様は変わることなく宣言してくださいます。「あなたの罪は赦されています。安心していきなさい」と。その約束を今日もそのまま受け取り、どこまでも仕えてくださるイエス様を信頼する歩みを続けていきましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

歳時記

ヘ長調は緑色

シベリウスの家はアイノラの家として有名ですが、この家を建てる時、彼は建築家に二つだけ注文をしました、「書斎からトゥースラ湖が見渡せること、そして暖炉が緑色であること。・・・作曲家にとって緑色はヘ長調なのだ。」ヘ長調を色で表すと、黄緑色や薄い緑色といった自然を連想させる色がイメージされることが多いい、と言われています。牧歌的な長閑な田園のイメージなのでしょうか。モーツァルトの「ピアノ協奏曲21番」や、ベートーヴェンの「田園」などが有名です。教会讃美歌の「やすかれ わがこころよ・・・」もシベリウスの交響詩「フインランディア」からのメロディーを用いていますね。フインランディアの冒頭も矢張り、ヘ長調で始まり途中で変イ長調の変わり最後にまたヘ長調に戻るそうです。確かに聴いているとフインランドの森と湖のどことなく牧歌的な風景をイメージを感じさせられます。昔、LP盤のフインランディアを持っていて何度も繰り返して聞いていました。生憎、当時のLP盤はプレイヤーを処分した時に一緒に処分してしました。男性コーラスの重厚なコーラスが忘れられません。