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宮沢賢治「雨ニモ負ケズ」 vs. パウロ「ローマの信徒への手紙」12章
なぜ「雨ニモ負ケズ」とローマ12章を突き合わせるのか?私の個人的な経験が絡む話なので、以下は一つの信仰の証しとしてお読み下さい。
今は昔、中学の国語の授業で平家物語の冒頭文を暗記する宿題があった。それを母に聞かせたところ、昔は歴代天皇の名前や教育勅語を暗記しなければならなかったと言って、神武スイゼイアンネイ…と唱え始め、途中で、もう忘れた、と。教育勅語は?と聞くと、それはもういい、と言って唱えなかった(因みに母は東京の墨田区本所の出身、東京大空襲の時に九死に一生を得た経験を持った人)。
それから歳月は過ぎ大学時代、政治学徒として日本国憲法を見たら、前文がとてもいい。これぞ戦後日本人の精神的支柱として暗記するに相応しいと思い暗記。ただし、憲法前文は政治的、社会的な理念が中心。もっと個人レベルの理念は何か?前文で言われる「人間相互の関係を支配する崇高な理想」に中身を与える理念は?ちょうどその頃、作家の丸谷才一が国語教育に関するコラムで「子供に詩を作らせるな、優れた詩を暗記させよ」と主張したのをもっともなことと思い、詩と理念の一石二鳥ということで宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」に注目してこれも暗記(ただし、その時は詩の後に念仏が続くという、仏教的な祈りの性格がある詩とは知らず)。
さらに歳月は過ぎフィンランド留学中に聖書を学び、洗礼を受けてキリスト教徒になって帰国。日本で繋がることになった教会で年配の信徒の方たちが暗唱聖句をスラスラ唱えるのを見て、自分もそうあらねばと思うが、聖書はフィンランド語が身近になってしまい日本語の聖書になかなか馴染めず怠けることに。
もっと歳月は過ぎ、フィンランドで神学徒として牧師助手の仕事もするようになり、何度か堅信礼教育の教師を務めた(フィンランドの14歳の児童は堅信礼を受ける前にキリスト教の教義を合宿制で学ばなければならない。国教会に属する児童の90%以上が参加する)。そこで生徒たちは重要な聖句を暗記しなければならない。十戒から始まり、主の祈り、使徒信条、アロンの祝福、黄金の戒律(マタイ7章12節)、愛の二重戒律(マルコ12章29~31節)、小福音(ヨハネ3章16節)、イエスの大宣教令(マタイ28章18~20節)。ということは、日本の子供たちが19世紀後半から1945年まで歴代天皇の名前と教育勅語を暗記し、それ以後は平家物語の冒頭文を暗記してきた間、フィンランドの子供たちは宗教改革の時代から現在に至るまで聖書のこれらの御言葉を暗記してきたわけだ。ここ30年ほどフィンランドの教会を巡る状況は動揺があり、かつての安定性は失われてしまったが、信仰にとどまる人たちはこれからもそうし続けるであろう。堅信礼教育で私は生徒の達成度をテストする立場だったので私も覚えなければならない。これが私の暗唱聖句の始まりであった。
それからまもなくして、釈義学徒として博士論文に従事することとなり、作業を捗らせる必要から論文テーマに関係するイザヤ6章とマルコ4章3~20節をそれぞれヘブライ語とギリシャ語で暗記。それから暗唱聖句は少しずつ増えていった。
聖句を原語で暗唱するとどうしても音やリズムが中心になって意味が遠のいてしまう。つい先日、ローマ12章の意味を確認していたら、9節から後で急に宮沢賢治の詩がどこからともなく響いてきた。巨大彗星が地球に接近するような気がした。(続く)