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聖書日課 イザヤ書65章17~25節、第一コリント15章19~26節、ルカ24章1~12節
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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
今日は復活祭です。十字架にかけられて死んだイエス様が天地創造の父なるみ神の想像を絶する力で復活させられたことを記念してお祝いする日です。日本ではイースターという英語の呼び名が一般的です。フィンランド語ではパーシアイネンと言って、その意味は「過越し」です。あのモーセ率いるイスラエルの民がエジプトを脱出した時の出来事であり、それを記念する祝祭です。つまり、フィンランド語では旧約聖書の「過越祭」とキリスト教の「復活祭」を同じ言葉で言い表すのです。英語や日本語では別々の言い方をしているのに、どうして一緒なのかと言うと、イエス様の十字架と復活の出来事が過越祭の期間に起こったからでした。なので、フィンランド人はキリスト教会がパーシアイネンをお祝いしているのを見たら、これは「復活祭」、ユダヤ教の人たちがパーシアイネンをお祝いしているのを見たら、それは「過越祭」という具合に頭の中で切り替えしているのです。(因みに、スウェーデンでも「過越祭」と「復活祭」は同じ言葉で言い表します。ポスクと言います。)
さて、イエス様が十字架に架けられて死んで葬られた次の週の最初の日の朝、付き従っていた女性たちが墓に行ってみると入り口の大石はどけられ、墓穴の中は空っぽでした。その後で大勢の人が復活された主を目撃しました。まさにここから世界の歴史が大きく動き出すことになる出来事が起きたのでした。遺体がなくて途方にくれていた女性たちに天使が言いました。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方はここにおられない。復活されたのだ。」「死者の中に」と言うのは、ギリシャ語原文では複数形なので、正確には「なぜ、死んだ者たちの中から生きておられる方を捜すのか」になります。古今東西この世から亡くなった人は無数にいたわけですが、十字架刑に処せられて死んでしまったイエス様もその中に加えられてしまった、ところが、突然そこから飛び出すように出て行ってしまったということです。つまり、復活というのは、イエス様が死と縁を切った、無関係になったということです。
それと、大勢の死んだ者たちの中から真っ先に飛び出したということは、今日の使徒書の日課、第一コリント15章20節で言われていること、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられたことです。つまり、イエス様が死を踏み越える復活を遂げたのは初穂で、私たちも後に続く、言わば、先陣を切ったということです。そういうわけで、今日の説教では、復活とは死と無関係になるということと、私たちもイエス様に続いて復活を遂げられるようになったことについて見ていこうと思います。
その前に、そもそも復活とは何かということについて述べておきます。これは毎年復活祭の礼拝説教で述べていることですが、大事なことなのでおさらいしておきます。
よく混同されますが、復活はただ単に死んだ人が少しして生き返るという、いわゆる蘇生ではありません。死んで時間が経てば遺体は腐敗してしまいます。そうなったらもう蘇生は起こりません。聖書で復活というのは、肉体が消滅しても将来の「復活の日
に全く新しい「復活の体」を着せられて復活することです。これは、超自然的なことなので科学的に説明することは不可能です。聖書に言われていることを手掛かりにするしかありません。
「復活の体」については、使徒パウロが第一コリント15章の今日の日課の後で詳しく教えています。「蒔かれる時は朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれる時は卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活する」(42ー43節)。「死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着る」(52ー54節)。イエス様も、「死者の中から復活するときは、めとることも嫁ぐこともせず、天使のようになるのだ」と言っていました(マルコ12章25節)。
このように復活の体は朽ちない体であり、神の栄光を輝かせる体です。この世で私たちが纏っている肉の体とは全くの別物です。復活されたイエス様はすぐ天に上げられず40日間地上に留まり人々の前で復活した自分を目撃させました。彼の体は地上に留まっていましたが、それでも私たちのとは異なる体だったことは福音書のいろんな箇所からうかがい知ることができます。ルカ24章やヨハネ20章で、イエス様が鍵のかかったドアを通り抜けるようにして弟子たちのいる家に突然現れた出来事があります。弟子たちは、亡霊だ!とパニックに陥りますが、イエス様は手足を見せて、亡霊には肉も骨もないが自分にはあると言います。このように復活したイエス様は亡霊と違って実体のある存在でした。食事もしました。ところが、空間を自由に移動することができました。本当に天使のような存在です。他にもいろいろあります。エマオに向かう道で二人の弟子に起きた出来事、墓の前でのマグダラのマリアとのやり取りなど。それらについては、当該箇所が日課になった時に改めてお話しします。
復活によりイエス様が死と無関係になったことは、ローマ6章の中でパウロが教えています。「キリストが死から復活したということは、もう死なないということであり、死は彼を支配下に置けなくなったということである。それなので、キリストが死んだというのは、一度にして罪に打撃を与える死だったのである。そして、キリストが生きるというのは、神に結びついて生きるということである。」新共同訳では「ただ一度罪に対して死なれた」となっていますが、これはギリシャ語の用法で「罪が不利益を被るように死んだ」という意味なので、キリストの「罪に対する死」は「罪に打撃を与える死」と理解します(後注)。イエス様が十字架で死なれたことで罪は打撃を被り、復活することで死を足蹴にしたということです。ここで、罪と死が結びつけられて言われています。キリスト信仰の人間観がここに凝縮されています。
キリスト信仰で罪というのは、単なる犯罪行為ではなく、もちろん、それも含みますが、もっと広く、神聖な神の意思に反しようとする性向のようなものです。人間誰しもが持ってしまっているというのが聖書の観点です。神の意思は十戒の中に凝縮されています。他人を傷つけるな、夫婦間の貞潔を守れ、真実を曲げるな、他人に対して妬みや憎しみを抱くな等々、私たちの行動様式や思考様式の現実を映し出す鏡のようなものです。たとえ行いや言葉に出さなくても、私たちの造り主の神は心の中はどうかと見ておられます。今でこそ言葉や行いに出さなくても、境遇や環境が変われば出してしまうかもしれないので、人間は誰でも潜在的に持ってしまっているというのです。今の世界で起きていること、世の中の周りで起きていることを見れば誰もが持っていると認めざるを得ないでしょう。このような罪は、神が最初の人間アダムを造った後で人間の中に入り込んでしまったことが創世記の中に記されています。それがもとで人間は死ぬ存在になってしまったことも。パウロがローマ6章23節で罪の報酬は死であると言っているのはこのためです。人間は代々死んできたことから明らかなように、罪も代々受け継いでしまったのです。それで、今日の使徒書の日課、第一コリント15章22節で、アダムを通して全ての人間が死ぬと言うのです。
ところが、同じ個所には続きがあります。「アダムを通して全ての人間が死ぬように、キリストを通して全ての人間が生きられるようになる。」つまり、最初の人間アダムが罪を人間の中に内在化してしまったためにその後の人間の運命を死に定めてしまった。しかし、キリストがそれを逆転して人間の運命を死から死を超えた命に移し替える可能性を開いたということです。イエス様はどのようにして人間の運命を逆転させたのでしょうか?
それは彼の十字架の死をもってなされたのでした。イエス様は人間皆が持っている罪を全部引き受けてゴルゴタの十字架の上に運び上げて、そこで罪が必ず受けなければならない神の罰、神罰を人間に代わって受けられたのでした。人間が受けて神のみ前から滅び去ってしまうことがないようにと神のひとり子が身代わりになって受けられたのでした。さて、神罰は下されたので罪が償われた状況が生まれました。あとは人間がこの状況に入りさえすれば、人間は罪を償ってもらった者として生きることができます。その時、罪はもう神罰を人間に誘導する力を失っています。干からびた虫けらのようになったのです。このことがイエス様が神罰を受けて死なれたことで起こったのです。罪はイエス様と抱き合わせの形で断罪されたのです。
このことからも、なぜ神のひとり子が人間として生まれて来なければならなかったかがわかります。もし神のひとり子が天の父なるみ神のもとで永遠に悠々自適の生活をしていたら、身代わりの断罪など永遠に起きません。乙女マリアから生まれ人間の肉体を持つことで、神のひとり子は死ぬことができるようになったのです。。神罰を受けるのにピッタリな存在になったのです。それだけではありません。ヘブライ4章で言われるように、神のひとり子として罪を持たない側面はそのままだったが、人間として生まれてきたことで、人間の苦しみや悲しみもその心と体でわかるようになったのです。天でふんぞり返っていたらわかりません。このようにひとり子をご自分のもとから私たち人間のもとに贈って下さった神の御名は永遠に讃えられますように。そして、私たちのもとに贈られて神の御心通りに務めを果たされた御子は永遠にほめたたえられますように。
さて、イエス様の十字架の業のおかげで、罪が償われた状況が生まれました。あとは人間がこの中に入ることができさえすれば、罪を償われた者として神との結びつきを持てて生きることができるようになります。どうすれば入ることができるでしょうか?それは、神の計らいによって罪の償いは本当に起こった、それを実行したイエス様は本当に救い主です、と信じて洗礼を受けることで入れます。その時、罪はもう神罰を人間に誘導する力を失っています。しかし、それでも人間はこの世から死にます。しかも、イエス様を救い主と信じる信仰に生きるようになっても自分の内にはまだ神の意思に反するものがあることに気づきます。イエス様がもらした逆転はどこに行ってしまったのか?まだ自分はアダムの末裔のままなのか?
いいえ、そういうことではありません。イエス様を救い主と信じ洗礼を受けたものはイエス様のもたらした逆転の中にちゃんといます。そのことは、パウロがローマ6章で明らかにしています。洗礼を通して人間はイエス様の十字架の死に結びつけられる、そうするとイエス様が罪に大打撃をくらわしたことがその人にもその通りになります。信仰者が罪に対して、お前は打撃を受けているのだ、わからないのか、と言えば、罪はおずおずと引き下がります。洗礼を通して人間が結びつけられているのはイエス様の死だけではありません。イエス様の復活にも結びつけられます。ここが微妙なところです。復活されたイエス様は確かに肉の体ではない復活の体を持っていて、いつでも天の父なるみ神のもとに戻れる状態にありました。しかし、私たちは洗礼を受けても肉の体はそのままです。復活の体ではありません。
それは、洗礼を通してイエス様の復活に結びつけられたというのは、将来の復活の日に向かう道に置かれて今そこを歩んでいるということなのです。将来の復活の日とは、今日の日課の第一コリント15章23節にあるように、イエス様が再臨する日のことです。その日に向かって延びる道を私たちは神との結びつきを持って進んで行きます。なので、神がイエス様を通して与えて下さった罪の赦しの恵みの中に留まっている限り、私たちは道を踏み外すことはないのです。それで私たちにとって復活は、ルターが言うように、もう半分は起こったことなのです。残り半分は約束されたものとして今はまだ秘められているのです。
説教の初めに、フィンランドやスウェーデンでは過越祭と復活祭は同じ言葉で言い表すと申しました。二つの全く異なる祝祭には驚くほど共通点があります。モーゼの過越しの時は小羊の血を家の入口に塗ることで、神はそれを見てその家に罰を下すことはしませんでした。イエス様が十字架に架けられて犠牲になって下さったおかげで、私たちは神から罰を受けないで済むようになりました。イエス様が贖罪の小羊にたとえられるゆえんです。マルコ10章でイエス様は、多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来たと言われます。キリスト教会ではイエス様が十字架で流された血が人間を罪と死の支配下から救い出す代価になったと言います。
モーゼ率いるイスラエルの民は奴隷の国エジプトを脱出して約束の地カナンを目指して40年間シナイの荒野を進みました。キリスト信仰者は、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼をもって罪と死が支配する状況から脱出しました。そして復活の体を纏ってもらえる神のみ国を目指して今はこの世という荒野の中を進みます。ところで、イスラエルの民は移動中、神に何度も窮地を救ってもらいながら反抗して罰を受けました。私たちもこの世の荒野の中で試練を受け、神を疑うこともあります。しかし、私たちがどう思おうが、罪の赦しの恵みはそんなのおかまいなしに微動だにしません。なので、私たちがあらゆる疑いをかなぐり捨ててその恵みに留まりさえすれば、私たちと神との結びつきは同じように微動だにしないのです。イスラエルの民はなんとかカナンの地に到達しますが、それはまだハッピーエンドの最終目的地ではありませんでした。復活の日に現れる神のみ国こそが最終目的地です。このように復活祭は、過越祭を花のつぼみにたとえると見事に咲き開いた花と言えます。それはまた旧約聖書に対する新約聖書の姿形でもあります。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。 アーメン
(後注)「罪に対して」の与格はdativus incommodiに解しました。そうすると「神に対して」の与格はdativus commodiになり、「神にとって益となるように」の意味になります。それをもっと具体的に言い表せないか、ということでローマ14章に「主のために」の与格が何度も出てくるところに注目しました。「主のために」とはどういうことか、それは8節で「主のもの」(属格)となると言っていることと同じです。なので、6章の「神に対して」/「神にとって益となるように」も同じように「神のものとなる、神と結びつく」というふうに理解しました。
礼拝の中でAさんの受洗式が執り行われました。
礼拝後、恒例のイースター祝会が催されました。
4月の料理クラブは桜もそろそろ終わり始めた頃の12日、爽やかな春の陽気の中での開催でした。今回はこのイースターの季節にピッタリのレモン風味のメレンゲ・タルトを作りました。
料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。初めにレモンのキーセリを作ります。レモン以外の材料を計って鍋に入れ、かき混ぜながら沸騰するまで加熱します。レモン汁と擦った皮を加えると黄色がきれいなキーセリの出来上がり。「きれいな色ね!」「美味しそう!」との声が聞こえてきます。出来たキーセリは冷まします。
その次はタルトのケーキを作る番です。材料を測ってからマーガリンと砂糖をハンドミキサーでよく泡立てて、他の材料を順番に加えていきます。生地はあっという間に出来上がり!。生地をケーキ型に伸ばしてオーブンに入れます。ここまでいろんな準備があったので、ここで一休みはよいタイミングでした。
オーブンから美味しそうな香りが広がってきました。、中を見るとケーキもきれいな焼き色がついています。ケーキを取り出して、その上に冷めたキーセリを伸ばします。そして、ケーキを再びオーブンに入れてしばらく焼きます。その間にメレンゲを作ります。卵白と粉砂糖をハンドミキサーで良く泡立てると、きれいな白い泡になります。ケーキをオーブンから出してキーセリの上に柔らかいメレンゲを軽く伸ばして3回目のオーブン焼きです。今度はオーブンの温度は高いので表面が焦げないように注意しながら焼きます。メレンゲはあっという間にきれいな薄茶色になりました。焼き上がったケーキはどれもきれいな焼き色がついて美味しそうでした。
今回は段階がいろいろあって作業の交替もあったので、少し忙しい雰囲気になりましたが、美味しそうなタルトが出来あがりました。どんな味か楽しみです。しかし味わう前にタルトを少し冷まさなければなりません。冷ましている間のテーブルのセッティングをします。冷ましたタルトをカットしてコーヒー・紅茶と一緒に味わいます。「美味しい!」の声があちこちから聞こえてきました。皆さんと一緒にレモン風味のメレンゲ・タルトを頂きながら楽しい歓談のひと時を過ごしました。その時に春の美しい自然や天地創造の神さまの働きについてお話がありました。
今回の料理クラブも無事に終えることができて天の神さまに感謝です。次回の料理クラブは5月 10日に予定しています。詳しい案内は教会のホームページをご覧ください。皆さんのご参加をお待ちしています。
レモン・タルトやレモン・ケーキはフィンランドではイースターの季節にコーヒーと一緒に味わう人気があるお菓子です。今日皆さんと一緒に作ったレモン風味のメレンゲ・タルトはその一つです。このタルトの特徴はレモンのキーセリとトッピングのメレンゲです。メレンゲはレモンの酸味を和らげタルトを爽やかな味にします。キーセリの色はきれいなイースターの黄色なので、この季節にピッタリのお菓子です。
ところで、酸味があるレモンの使い方は非常にに多様です。面白くてレモンは料理にもお菓子にもよく合います。例えば魚や鶏肉料理、サラダのドレッシング、デザートやお菓子によく使われます。レモンは食材本来の風味を引き立てたり、脂肪がある料理の味を和らげたりするので、料理にもよく使われます。レモンは酸っぱいので、そのまま食べる人はあまりいないと思いますが、果肉や汁や皮を使います。皮の下にある白い部分は苦いので料理やお菓子に入らないようにします。
レモンの木は熱帯と亜熱帯の国々例えばイタリア、スペイン、ギリシャで育てられます。フィンランドで売られるレモンは主にスペインから輸入した物です。日本で生産されるレモンの種類と異なりますが、味はあまり変わりません。レモンの木はきれいな白い花が咲きます。花は桜と違って長く一、二カ月くらい咲いています。とても良い香りがします。
白い花が咲くレモンの木は美しくて長く楽しめます。しかし今東京で咲き終わっている桜は違います。毎年美しい花びらがあっという間に散ってしまいます。皆さんは今年の桜を見ることが出来ましたか?私は今週の月曜日に公園に行って桜を見ることが出来ました。その公園の桜はまだきれいに咲いていたので、楽しい一時を過ごせました。公園では桜がまだ咲いているのにもみじなどの木の新緑もとても美しかったです。桜や新緑の美しさは、心を動かされます。人間はこのような美しい自然の植物を作ることは出来ません。現在人間は何でもできると思う人が多いと思います。科学と技術はどんどん発展し、新しい発見がどんどん行われていますが、出来ないことも無数になると思います。春の美しい景色を見るとそのことを考えさせられます。このような美しい自然のものはどのようにしてこのようにきれいに出来るようになったかと考えると、本当に人間よりもっと能力やデザイン力を持っている創造主がおられるとしか考えられません。
聖書は美しい自然の全ての物は天と地と人間を創造された天の神さまの御手の業を通して造られたと明らかにしています。人間は植物を植えたり手入れをしたりしますが、光や気象条件は天の神さまが与えてくださるし、植物の葉っぱや花などの形も天の神さまの御手の業です。旧約聖書の創世記には天の神さまの創造について詳しく書いてあります。神さまには創造の計画があり、この世界の一つ一つを順番に創造されました。一番初めに天と地を創造されてその後で光、闇、太陽、植物、動物、人間を創造されました。神さまは創造された全てのものをご覧になり「それはとても良い」とおっしゃったのです。神さまが創造した全てのものは良いものでした。現在の私たちも自然やこの世界で神さまの創造の働きがあるとわかると神さまに、感謝の気持ちが生まれます。
天の神さまの働きは天地創造で終わりませんでした。神さまの働きはその後もずっと続いていることを旧約聖書と新約聖書が教えています。それを読むと、私たちは神さまのことをもっと知ることが出来ます。聖書には神さまの意思もはっきり書かれています。それは私たち人間が神さまと共に生きられることです。しかし私たちはどうでしょうか。神さまのことをどのように思っているでしょうか。神さまのことを忘れたり、離れたり、意思に背くことがよくあると思います。神さまが教えて下さる通りにすることも出来ません。それなのに神さまは私たちが神さまの元に来るようにと望んでおられます。その為に神さまはある計画をたてられました。それは、私たち人間が神さまと共にずっといられるようにするというご計画でした。
私たち人間は神さまの教えた通りに生きられないので、私たちを許すことで共にいられる道を開いてくださいました。その為に、神さまは自分の一人子イエス様をこの世に送られてイエス様は私たちが神さまから許されるように十字架にかけられて死なれました。しかし神さまの計画はそれで終わりませんでした。神さまはイエス様を3日後に蘇らせたのです。これが、神さまが実現して下さった救いの計画です。来週の日曜日に教会ではイースターのお祝いを行います。その時、イエス様の死からの復活を覚えてお祝いします。
私たちは天の神さまの御手の業を自然の美しさを通して見ることが出来、感謝します。神さまの働きはイエス様の十字架や復活を通して私たちにも向けられています。それは自然の美しさと同じように不思議なことです。しかし聖書を読んだり聞いたりすることで理解できます。神さまの働きを心で受け取ることが出来ると信仰が生まれて神さまに感謝の気持ちをもって生活することができます。
スオミ教会の式文の改正 「罪の告白」のところ
洗礼準備勉強会を行うといつも参加者の方々からいろいろな質問やコメントを受けます。中にはこちらが今まで気に留めていなかったことを前面に出すようなものもあり、すぐに答えが出てこないこともあります。 今行っている勉強会でもそうでして、伝道の観点から考えなければならないと思わされたことがありました。それは、礼拝式文の「罪の告白」のところで、「私たちは生まれながら罪深く汚れに満ち」という下りです。これは、ノンクリスチャンの方が見た時、かなり強すぎる表現ではないか、これを唱えなければならないというのは礼拝に対して違和感を覚えさせるものにならないだろうかというコメントを頂きました。
この文言は、日本福音ルーテル教会が用いてきたものをそのまま踏襲したものです(日福ルは現在、改訂式文に移行中でこの文言も変わりました)。聖書では、例えば詩篇51篇でダビデが神に「深い御憐れみをもって背きの罪をぬぐってください。わたしの咎をことごとく洗い、罪から清めて下さい。(…)わたしは咎のうちに産み落とされ母がわたしを身ごもったときもわたしは罪のうちにあったのです」と告白しているところがあります。また、イザヤ1章で神は「たとえ、お前たちの罪が緋のようでも雪のように白くなることができる。たとえ、紅のようであっても羊の毛のようになることができる」と言われます。なので、人間にはシミのように洗い落とさなければならない罪がある、それは母親の胎内にいる時から受け継いでしまったもので、だから神から是正してもらわないとそのままになってしまうという抜き差しならない状況におかれている、それを素直に認めて、神からの是正が間違いなくあることを宣言してもらうのが式文の「罪の告白」です。人間というものは今の世界と世の中を見回してもわかるように、創造主の神を前にしたら至らないことだらけで自分はその一人であることを認めるという、透徹した謙虚さを持てるひと時でもあります。確かに表現は厳しいですが、私も信徒の方々も長年唱えてきたので「原罪」とはそういうものなんだという感じがあって違和感はなかったと思います(因みに、フィンランドやスウェーデンでは「原罪」は英語のように「元々ある罪」という意味の言葉original sinではなく、「受け継がれた罪」を意味する言葉perisynti/arvsyndです)。
ところが、そういうものなんだという感じがないノンクリスチャンの方がこれを見て、唱えなさいと言われたら、どう思うか?自分が汚れに満ちているなんてどういうことかと反発したり、または今その方が抱えている課題との関係で謙虚さとは違う方向に考えが向かってしまわないか、いろいろ問題が出てくるかもしれません。
キリスト信仰の真理を背後に追いやらず、かつ正しい謙虚さに立てるような文言を考える必要があるのではないかと思います。スオミ教会は日本福音ルーテル教会から離れて以後、独立した立場で式文の改定を進めてきました。「罪の告白」の文言もその一つになります。フィンランドのルター派国教会の式文の「罪の告白」の文言は選択肢がいくつもあり、礼拝の時に牧師が選びます。それを参考にしながら考えてみようと思っています。
2025年4月13日スオミ教会礼拝説教
ルカによる福音書23章1〜25節
「その声はますます強くなった」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなた方にあるように。アーメン。
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様。
1、「ピラトの前に立たされる」
この23章では、祭司長や律法学者たちに捕えられたイエス様が大祭司、そして議会である最高法院での尋問の後に、今度は、ローマの総督であるピラトのところに連れて行かれるところから始まっています。ピラトからの裁判を受けるためです。ピラトはローマの皇帝から任命され派遣された総督で、この地域の実質的な支配者です。イエス様は大祭司、議会と前に立たされ、23章ではローマという当時の世界の覇権であった帝国の統治者の代理人の前に立たされるのです。そのユダヤの宗教指導者達の訴えですが、2節にこうあります。
2、「偽りの証言」
「そして、イエスをこう訴え始めた。「この男はわが民族を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、また、自分が王たるメシアだと言っていることが分かりました。」
2節
22章では、祭司長たちは「お前がメシアなら、そうだと言うがよい」あるいは「ではおまえは神の子か」と尋ね、イエス様は確かに「そうだ」とは答えているのですが(ルカ22:67〜70)、しかしそれ以上に、ここでのピラトへの彼らの訴えにはかなり事実でないことが含まれていることが分かります。
確かにイエス様の教えた「神の国」の教えは、当時のユダヤ教徒にとって新しい教えであったでしょう。ですから全く誰も「惑わされる」人がいなかったということではないかもしれません。しかし多くの人はその教えを喜びました。イエス様は惑わすどころか、むしろ誰も交わず避けるような罪人のところに行きました。そして、彼らを裁くのではなく、むしろ受け入れて共に食事をし、友になり、罪の赦しを伝えました。人々はそれを見て、聞いて、そして実際、受け取り、喜び、安心を得た場面がいくつもあります。確かにある人々は勝手に、イエスに「政治的な」解放や革命としてのメシアを望んではいたことでしょう。けれども、イエス様自身は、決してそのような政治的に扇動をしたり、社会を混乱させたり不安にさせたりするということは全くなかったわけです。なぜなら、イエス様の与える神の国は、地上の政治的な王国ではなく、十字架の死と罪の赦しを与えることによって開かれる神の国であったからです。決して国民を惑わしてはいませんでした。
そして「皇帝の税」については思い出すエピソードがあります。ファリサイ人たちは以前、20章22節ですが彼らは「わたしたちが皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」 (20:22)と質問したのでした。それは20章20節に「イエスの言葉じりをとらえ、総督の支配と権力にイエスを渡そうとした」とあるように彼らの悪巧みでした。良いことだと言えば、ユダヤ人たちの支持を失うし、悪いことだと言えば、ローマに訴える口実ができる、そのような罠としての質問でした。けれども、イエス様はその質問に対して、デナリオン銀貨に皇帝の肖像があるのだから、皇帝のものは皇帝に返しなさいと、答えたのでした。イエス様は皇帝に税金を収めることを禁じてはいないことがわかります。ですから、今日のところの彼らの訴えは、イエスが「自分はキリストだ」と言ったこと以外は、全て虚偽の証言、偽り、うそであることがわかるのです。そのような彼らの言動はむしろ皮肉なことに、彼らが大事にするモーセの十戒に「隣人について偽りの証言をしてはいけない」とあるのですが、そのイエスを告発している議員や祭司たちが錦の御旗の如く掲げ、自分は完全に守っていると自負してきたはずの神の律法に、彼ら自らが反し背く罪を犯してしまっているという皮肉というか矛盾が現れています。けれどもそんなことはお構いなしなのか、気づかないでいるのか、彼らは告発するのです。そのような偽りの証言をするほどに、彼らのイエスへの妬み、憎しみ、なんとしてでも有罪にして殺したいという思いが強いのがわかります。
3、「世界の覇権ローマからの総督による裁判」
A, 「わたしはこの男に何の罪も見いだせない」
しかしその訴えに対するピラトです。3節以下です。
「そこで、ピラトがイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」とお答えになった。 4ピラトは祭司長たちと群衆に、「わたしはこの男に何の罪も見いだせない」と言った。」(3〜4節)
ピラトはユダヤ人たちの「国民を惑わした」という訴え、「皇帝に税金を納めることを禁じた」という訴えについては触れません。なぜなら、マタイの福音書27章18節にあるように、そもそもピラトはユダヤ人たちの訴えは妬みから出ていることを知っていたからです。さらにはマタイの福音書27章19節には、ピラトが奥さんからも「「あの正しい人に関係しないでください。その人のことで、わたしは昨夜、夢で随分苦しめられました。」 (27章19節)と訴えを受けていたことまで書かれています。他の福音書でも、ピラトはイエスに彼らの訴えに当たるようなことは認められなかったとも記録しています。ですから、ピラトはここでもはっきりと言うのです。「わたしはこの男に何の罪も見いだせない」と。しかし訴える人々はそれに反論します。5節、イエスの宣教は「民衆を扇動しているのだ」と。
ピラトはその後、8節以下になりますが、今度はヘロデのところにイエスを送り返します。しかしヘロデは自分の感情のままに対応するだけで、イエスを侮辱し、ピラトに送り返します。そこでピラトは再度言います。14節以下ですが、13節からお読みしますと、
「ピラトは、祭司長たちと議員たちと民衆とを呼び集めて、 14言った。「あなたたちは、この男を民衆を惑わす者としてわたしのところに連れて来た。わたしはあなたたちの前で取り調べたが、訴えているような犯罪はこの男には何も見つからなかった。 15ヘロデとても同じであった。それで、我々のもとに送り返してきたのだが、この男は死刑に当たるようなことは何もしていない。 16だから、鞭で懲らしめて釈放しよう。」
ピラトは再度言います。取り調べた上で、この人にその訴えに当たるような罪は何の罪も見つからないと。より具体的です。そしてはっきりと言っています。「死刑に当たることは何もしていない」と。「死刑」と言ってますが、ユダヤ人たちの訴えが、イエスの死刑であることも知っています。しかしそのような罪は全くないとピラトは断言するのです。
B, 「バラバか?罪のない正しい人か?」
しかしです、18節以下ですが、
「しかし、人々は一斉に、「その男を殺せ。バラバを釈放しろ」と叫んだ。 19このバラバは、都に起こった暴動と殺人のかどで投獄されていたのである。 20ピラトはイエスを釈放しようと思って、改めて呼びかけた。
他の福音書を見るとわかりますが、バラバは、ピラトがイエスを釈放するために身代わりとして連れてきた人物です。バラバこそ「死罪に値する人物」だったわけで、もはや誰が見ても判断しても罪が明らかな人物を連れてきてイエスと比べさせるわけです。バラバこそ死罪になるべきだと誰もが言うだろうと。しかし、なんということでしょう。それさえも祭司長たち律法学者たちは覆していうわけです。「その男を殺せ。バラバを釈放しろ」と。もはやユダヤ人たちに理性とか法とかはありません。彼らの妬み、そして「除け」という感情がまさっていて、もはや歯止めが効いていません。それでもイエスを無罪にするよう訴えるピラトに対して、彼らはさらに叫びます。
「十字架につけろ。十字架につけろ」
と。それでもピラトは3度目、言います。22節
「ピラトは三度目に言った。「いったい、どんな悪事を働いたと言うのか。この男には死刑に当たる犯罪は何も見つからなかった。だから、鞭で懲らしめて釈放しよう。」
ピラトは一度だけではなく、「三度」、イエスに罪は認められない、何の悪いこともしていない。死罪には当たらないと、断言するのです。
C,「世界の最高権力の代理人が「罪がない」と宣言した」
このことは何を伝えているでしょう。イエス様は「神の御子」である方が、聖霊によって人となられた方です。そして、イエス様の洗礼の時の「天からの声」にあるように、まさしく「神の前」にあって神が宣言した「正しい聖なる方、神の喜び」です。罪のないお方です。しかしそれだけでなくて、当時の地上の最高権力のローマの総督が、正しく裁判をして「この人には何の罪も認められない」と宣言しています。このようにイエス様は、天においてはもちろん、地においても、正しいお方であったということが宣言されているということを意味しているのです。しかもそれとともにイエスには「死罪に当たる罪が何も見つからない」と繰り返されています。つまり、イエス様は「十字架の刑に値する方ではない」という宣言も地上の最高権力によってされているということでもあるのです。
4、「それでもイエスは十字架の死へ」
しかしそれにもかかわらず、イエス様は十字架にかけられるのです。23節
「ところが人々は、イエスを十字架につけるようにあくまでも大声で要求し続けた。その声はますます強くなった。 24そこで、ピラトは彼らの要求をいれる決定を下した。 25そして、暴動と殺人のかどで投獄されていたバラバを要求どおりに釈放し、イエスの方は彼らに引き渡して、好きなようにさせた。
A,「罪の世、人の罪がイエスを十字架につける」
この「その声はますます強くなった」という言葉ーこれは新改訳聖書ですと「ついにその声が勝った」と訳されていますが、この言葉は実に意味深いです。「その声」というのは「ピラトの声」ではありません。「地上の最高権力の正義の声」ではありません。「妬みと憎しみにかられ、理性を失い感情的になったその罪深い声」が、ますます強くなった。あるいは、勝ったということです。ピラトは何とか釈放しようとしました。しかし、マタイの福音書では、彼はその群衆の勢いに押されて、コントロールができなくなり、暴動になりそうになるのを恐れたとも書いていますし、マルコでは、彼は群衆の機嫌を取ろうとしたとも書いています。その通り彼も結局は、公の正義よりも、自分だったわけです。しかしそんな彼の姿を見て「ああなんてみっともない」「なんて身勝手な、なんて愚かな」と他人事のように私たちは言えるのでしょうか?いやむしろ、彼の姿は誰にでも起こりうる人間の弱さであり罪深さではありませんか。それはもちろん地上の正義を否定するということではありません。そうではなく総督、いや皇帝でさえも、どんな最高権力であっても人はどこまでも不完全であるということであり、「人の正義」は、決して完全ではないということです。この記事はそのことをまず私たちに気づかせてくれています。事実「悪が正義のようになり、正義が悪のようになる」ということは、どこの社会でも、私たちの社会でも当然、起こることでしょう。そして「扇動」に関して言えば、一部の人、あるいは多数派の思いや感情によって世の中が動かされていくことは今まさに起こっていることでしょう。現代は、そのような扇動や風潮がまさに吹き荒れ、本当かどうかわからない情報によって人々が扇動されています。しかし、それは決して新しい現象ではなく、いつの時代も人間は繰り返してきていることです。まさにこの場面でも、イエスが民を扇動したと彼らは訴えるのですが、民を扇動しているのは、イエスではなく、祭司長た律法学者たちであるのも皮肉なことです。しかも偽りの都合の良い情報によってでです。彼らはそれに気づいていません。そしてピラトも時の権力者でありながら、そのことに流され、まさに扇動されていっているのです。そのようにして死罪に当たる罪は全く見当たらないイエス様が、十字架の刑の宣告を受けるのです。
この出来事は何を伝えているでしょうか?それはこの世は「罪の世」であることをまさに明らかにしています。人は皆、どんな人であっても、これほどまでに罪深い。つまりイエス様を十字架につけたのは、他でもない人間であり人の罪です。人の妬み、人の憎しみ、人の偽りの証言、人の扇動、人の自己保身やプライド、正義よりも自分の立場、などなどが、イエス様を十字架につけるのです。人間の理性や良心、正義などもここでは打ち勝てませんでした。人間の罪の前に、理性や良心はある程度は抵抗しても、しかしどこまでも不完全でしょう。そして「負けた時」には、理性も良心も罪の力に対してはもはや何もできません。まさにピラトの姿を通して、この十字架の前に、その現実が実に鮮明に浮かび上がってきます。罪に対する人間の無力さです。そして、そのことは同時に、まさに人間が、そしてその罪深さこそが、イエス様を十字架につけるのだということです。
B,「私がイエスを十字架につけた」
みなさん、そのピラトの姿、人々の姿は、私たち人間を現しています。いや私自身です。祭司長、律法学者たちの姿、周りで十字架につけろと叫ぶ群衆の姿、そして何が正しいかをわかっていながらも自分を守り、自分のプライドのために判断してしまうピラトの姿を、皆様も自分自身に当てはめてみるなら、あるいはその立場に自分を置いてみるなら「自分は彼らのように、群衆のように、ピラトのようには決してしない」「正しい人を命を賭しても守り切る」「扇動されている群衆に刃向かってでも正義を守る」とは誰も言えないでしょう。弟子たちでさえも皆「他の誰かが裏切っても自分は決して裏切らない。イエスを知らないなどとは決して言わない」と誓って自信に溢れて断言しました。しかしその結果は逆でした。みな、イエスを見捨て逃げました。ペテロは3度「知らない」と言いました。実に、イエスを歓迎し支持していながら、イエスを信じていながら、イエスに従えない自分、背いてしまう自分、知らないという自分、裏切ってしまう自分、除いてしまう自分、そのようにして感情のまま思いのままに行動してしまう自分、それは弟子だけではない、周りのユダヤ人だけではない、誰でも日々の生活を振り返る時に痛感させられる自分自身の姿、いや、私自身の姿であることを気付かされます。実に、イエス様を十字架につけたのは、私であり、私たち人間の罪なのです。私たち自身、私自身なのです。まさに今日のピラトの記録、弟子たちの記録を通して私たちは自らの罪を示され心を刺し通されるのです。
5,「罪を示され刺し通される私たちのための福音」
しかし、聖書のメッセージはそれで終わりではありません。私たちがそのように罪を示され心が刺し通される時に、聖書はそのように私たちを断罪して裁いて終わりの書なのでしょうか?それだけが聖書が伝えたいメッセージなのでしょうか?それなら一切、聖書には救いはありません。むしろそのような現実が私たちに示されるからこそ、その時に聖書が何よりも伝えたい聖書の中心のメッセージが私たちに明らかにされるでしょう?そう、まさにそれら、正しい人を十字架につけるような私たちの圧倒的な罪の全てをご存知の上で、裁くためではなく、その罪から救うため、罪の赦しを与えるため、その罪の全てを黙って、その身に負われこの十字架に従われるお方がいるではありませんか?それはイエス・キリストご自身であり、その十字架こそ私たちに指し示されているのです。
そこで改めて「ついにその声がますます強くなった、勝った」という言葉。実に意味深い言葉です。皆さん、イエス様はゲッセマネの祈りで何と祈りましたか?「みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころの通りにしてください」と祈ったでしょう。みなさん「ついにその声が強くなった、勝った」その時に何が起こっているでしょうか?ーその時、その罪の力、罪の声が勝った、その時、神様は沈黙されているでしょう。しかしその沈黙にこそ、イエス様のゲッセマネの祈りの求めに対する神様の御心、答えがあるでしょう。聖書には「神にとって不可能なことは何一つありません」とあります。つまり、神様はその群衆の罪深いの声を覆し、ピラトの正義の声を勝たせることもできますし、イエス様ご自身の言葉にもあるように、イエス様が天の軍勢を遣わして罪深い声の人々全てをそこで裁いて滅ぼすこともできるのです。しかし神はそうなされないでしょう?神は沈黙されているではありませんか?そう、だからその声が、罪の声が勝ったのです。それは神が沈黙されるからです。そして、そこに「主よ、御心の通りになりますように」と祈ったことへのその答え、神様の御心があるからです。それは、その声が勝ち、ピラトの声が負け、その人々の罪によってイエスが十字架にかけられること、その十字架で死ぬことこそ、神様の御心だということです。しかしそこに私たちへの救いの福音があるでしょう。そうそのようにイエス様が十字架にかけられるからこそ、つまり、イエス様がその全ての罪を背負って十字架にかけられるからこそ、イエス様が代わりにその罪をおって十字架で刑を受けるからこそ、私たちは神様からその本来私たちが受けるべき罪の刑罰を課せられない。罪を課せられない。神の前に罪ある者とされない。このイエス様の私たちの身代わりの十字架のゆえにこそ、イエス様が私たちが受けなばければいけない罪の罰を代わりに受けてくださったからこそ、私たちは神の前に罪赦され、罪のない者とされる。そう事実、尚も私たちは罪人のままですが、それにもかかわらず、私たちの義ではなく、イエス様の正しさ、その十字架の義のゆえに、神はそれを信じそのまま受け取る私たちに「あなたは正しい、あなたには罪を認めない」と宣言してくださる。それは全て私たちの苦しみ、私たちの十字架のゆえではなく、全てこのイエス様の苦しみ、十字架、死のゆえに、ではありませんか。イザヤ53章の約束にもある通り、イエス様の打傷のゆえに、私たちは皆、癒され、救われるのです。その遥か昔の約束が、まさにこのイエス様の十字架のゆえに私たちに実現しているでしょう。ですから「ついにその声が強まった、勝った」その時。その神の沈黙の中で、神は誰を見ているでしょう。それは私たち一人一人を見ているのです。私たちの罪を赦すため。滅びから死から、裁きから救うため。「ぜひあなたを救いたい」というその眼差し、その想いです。その眼差しがこのみ言葉に見えてきませんか?私は見えるのです。そう、そして聖書にある通り、それほどまでに、愛する一人子の十字架の死の決定に沈黙され、イエスを十字架の死に引き渡すほどに、神は私たちを愛してくださっているという福音が響いてくるでしょう。そのことがこのところからの変わることのない、私たちへの救いの答えに他なりません。
6、「終わりに」
イースターを前にし受難週を迎えた今日の聖日もイエス様はその真実な約束のゆえに、私たちに「受け取りなさい」と福音を差し出してくださっています。今日もイエス様がここにおられイエス様がみ言葉とパンと葡萄を持ってこのイエス様のからだと血を与えてくださり、この十字架と復活のゆえに私たちに今日も宣言し遣わしてくださいます。「あなたの罪は赦されていまます。今日もあなたのいのちは日ごとに新しい。だから安心して行きなさい」と。ぜひその信仰を持ってそのまま福音を受け取り、平安のうちにここから世へと遣わされ行きましょう。
人知ではとうてい計り知ることのできない神の平安があなた方の心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。アーメン。
次回の手芸クラブはバンド織のキーホルダーを作ります。 フィンランドの民族衣装に使われるバンド織りで、北欧のウールを使った可愛いキーホルダーをご一緒に作りましょう。
織る道具はお貸しします。
手芸クラブでは自分の好きな編み物もすることができます。
おしゃべりしながら楽しく作りましょう!
参加費 1000円
お子さん連れの参加も大歓迎。
皆様のご参加をお待ちしています。
お問い合わせ、お申し込み 03-6233-7109
日本福音ルーテルスオミ・キリスト教会 東京都新宿区鶴巻町511-4―106
ルターによる御言葉の説き明かし(フィンランドの聖書日課「神の子らへのマンナ」3月31日の日課から
キリスト信仰の国家論の基礎!
「私の国はこの世に由来するものではない。」(ヨハネ18章36節)
「自分の十字架を喜んで背負う者は誰か?それは、この王と彼の国の性質を正しく知る者である。その者は、主も同じように十字架を背負われたのだと知っている。そればかりではない。その者は、この世で苦難を受けなければならなくとも、目的地に到達すれば喜びと幸いがあることが励ましと慰めになっている。
これとは逆に、こうしたことを知らない者たちは、思い通りにならないと、取り乱し、しまいには絶望の淵に落ちてしまう。彼らは、もし神が本当に憐れみ深い方ならば、こんなに多くの不運が起こるのを許すはずはない、または起こっても直ぐ助け出して下さる方のはずだ、と考えているのだ。このような考えは、キリストの国はこの世に由来するものではないと信じていないことの表れに他ならない。この世の王(現代なら権力者)は臣民(現代なら国民)の命と財産を守るだろう。しかし、栄光の王であるキリストは、身体、命、財産その他全てのものが危険に晒されることを否定しない。
ゆえに、君はこの世にいる限り、自分は満たされて何一つ不足のない者になるためにキリスト信仰を用いてはならない。君の真の王に何が起こったかを見よ。受難の道を歩み、嘲りの的となり、不名誉な死を遂げたではないか?だから、キリストの国に属している者も、彼が金銀その他のものを与え、この世の王(権力者)のように富をもたらしてくれるなどと期待してはならない。肝心なことは、彼は罪を赦し、永遠の死から救い出して下さる方であるということだ。さらに、彼の御声に聞き従う者に聖霊と永遠の命を与えて下さる方ということだ。」
キリスト信仰者は、この世にある国と天の御国の二つの国を持って生きています。この世にある国は現実の目に見える国ですが、天の御国は現実にはあるものの、まだ目に見えません。しかし、ヘブライ12章で言われるように、今の世が終わりを告げる時、世にある国は全て揺り動かされて取り除かれてしまいますが、天の御国が唯一揺り動かされず取り除かれないものとして現れます。その時、キリスト信仰者の国は一つになります。キリスト信仰者にとってこの世の国の中で生きることには大きな意味があります。そこは、信仰者が神の意思に沿う生き方と罪の赦しの恵みに生きることを実践する場だからです。また、いろんな課題や挑戦を得られて、神の助けと導きを受けられるコンテクストでもあるからです。
今年もイースターの季節がやってきました。今回はこの季節フィンランドで作られるレモン風味のメレンゲ・タルトを作ります。このタルトは三つの層から出来ていて、下からタルト、真ん中はレモンのキーセリ、そして上はメレンゲです。レモンのキーセリはタルトをジューシーなものにし、トッピングのメレンゲはレモン味と重なることで爽やな味わいになります。ふんわりしたメレンゲとジューシーなレモン・キーセリが一緒になることでタルトは口の中で美味しくとろけます。レモン風味のメレンゲ・タルトを是非ご一緒に作って味わってみませんか?
参加費は一人1,500円です。
どなたでもお気軽にご参加ください。
お子様連れでもどうぞ!
主日礼拝説教 2025年4月6日 四旬節第五主日
聖書日課 イザヤ43章16~21節、フィリピ3章4~14節、ヨハネ12章1~8節
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
本日の福音書の日課は、イエス様の受難が近づく頃、マルタの姉妹のマリアが高価な香油をイエス様の足に塗ってそれを髪の毛で拭いたという出来事についてです。過越祭の6日前ということは、イエス様の受難と十字架の出来事の6日前のことです。そのため、マリアの行いは、死んで葬られるイエス様の遺体に香油を塗ることを前触れのように行ったものとして考えられてきました。イエス様の死を先取りした行いということです。
マリアが塗った「純粋で非常に高価なナルドの香油」というのは、ナルドというインドが原産地の植物で赤紫色の花が咲き、香りは葉っぱから出るそうです。旧約聖書の雅歌の中にも出てきます。その時代からインド産のものがパレスチナの地に出回るような交易があったのかと驚かされます。ただ、パウロの出身地のタルソスにはナルドの香油が作られていたということなので、地中海沿岸でも栽培されていた可能性があります。どの位高価なものか、1リトラが300デナリ相当と言われています。リトラはローマ帝国の重量の尺度で1リトラは大体300グラム、デナリの方は当時の労働者の一日の賃金が1デナリだったので、300デナリは300日分の賃金。ちなみに、今の東京の最低賃金は1,163円、一日8時間働いて9,304円、その300日分は279万円。これが300グラムの値段なので1グラム9,000円です。誰が見ても高価な香油です。
この香油の出来事はマタイ福音書26章とマルコ福音書14章にもあります。ただし、マタイとマルコはヨハネと記述が異なっています。場所はエルサレム郊外のべタニア、食事の時の出来事だったことは同じです。誰の家での食事だったか、ヨハネは記していませんが、マタイとマルコは「らい病の人シモンの家」と明記しています。他方でヨハネは、イエス様が死から生き返らせたラザロが食事に招かれていたこと、彼の姉妹のマリアとマルタもいて、マルタの方は給仕の手伝いをしていたことを記しています。マルタが給仕をしてマリアが別のことをするというのはルカ10章にもありました。マリアはイエス様の教えを聞くことに集中してマルタから文句を言われました。今日のところでもマルタが忙しそうにしているのが目に浮かびます。ここでもマリアは給仕とは無関係のことをします。それが香油注ぎでした。ただし、今日のところで文句を言うのはマルタではなく、イスカリオテのユダでした。
マルコ福音書とマタイ福音書は、香油はイエス様の頭から注がれたと記しています。ヨハネ福音書は足に塗ってそれを髪の毛で拭ったと。そこで高価な香油をそんな使い方したことを憤慨し、貧しい人々に施すべきだったとイスカリオテのユダが言います。マタイとマルコでは誰が言ったかはわかりません。
こういうふうに4つの福音書は、同じ出来事を扱っていても細かい点で違っていることがよくあります。どうしてそうなるのかと言うと、福音書を書いた人たちは記録や歴史の専門家ではなく、直接の目撃者だったり、目撃者から話を聞いて書き留めたものを後でまとめた人たちです。こうして最終的に4つの別々の記録が出来上がったということです。彼らにとって、自分の目で見たこと耳で聞いたことが大事な資料です。目で見たこと耳で聞いたことから受けた印象や影響が違ったりすると、同じ出来事を扱っても、人によってはある面を前面に出し別の面は背後にする、別の人は別の面を、ということが出てきます。スウェーデンの有名な釈義学者のB.イェールツが言っていますが、何かの事件の裁判で証人が4人いたとする、もし全員の証言が細部まで一致していたら、裁判官はこれは裏で辻褄を併せる相談をしたに違いないと疑うだろう、逆に細部は食い違っても出来事そのものが一致していれば証言の信ぴょう性は高いと考えるだろう、福音書もこれと同じなのだ、と。
それなので、福音書で同じ出来事を扱っている個所に出くわしたら、これはマタイの視点で見たもの、マルコの視点で見たもの、というふうに受け止めて、それぞれの視点でそれぞれは真実であると受け入れる、同時に、マタイが見落としていることをマルコが自分の視点で取り上げたと受け止めて、最終的には4つの視点が大きな全体を作り上げているのだと把握する、つまり、真実はそれぞれのところと全体的なところの両方にあるという観点で福音書を繙くことが大事です。なぜかと言うと、そうすることで信仰は深まり強まるからす。だから、福音書が4つあるのはまさに神の御心なのです。
そういうわけで、今日はべタニアの香油の出来事をヨハネの視点で見ていきましょう。マルコとマタイの記述では香油はイエス様の頭からかけられました。ヨハネでは足に塗られて、それを髪の毛で拭うことをしました。それを行ったマリアはイスカリオテのユダから非難されます。なぜ、香油を売って貧しい人に施さなかったのか、と。そこで福音書記者のヨハネはユダがそう言った本心について注釈します。本当は貧しい人のことを思ってそう言ったのではなく、イエス様一行のお金をちょろまかしていたので、それで香油が現金化されなかったのが悔しかったのだと。このユダの偽りの発言に対してイエス様が言い返します。
「この人のするままにさせておきなさい。私の葬りの日のために、それを取って置いたのだから。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」
この言葉はユダのマリア批判のすぐ後に言われます。それで、「するままにさせる」とは、この時マリアが髪の毛で香油を拭っていることを指します。
イエス様の言葉の次の部分、「私の葬りの日のために、それを取って置いたのだから」はギリシャ語の原文がとても厄介です。素直に直訳すると「彼女が私の葬りの日まで香油を保てるために」です(後注)。これは変です。イエス様は、マリアが彼の足に塗った香油を髪の毛で拭っているのをそのままさせなさい、と言いました。そして、それをさせるのは、マリアが葬りの日まで香油を保てるためだと言うのです。今している髪の毛による拭いをさせるのは、葬りの日まで香油を保てるようにするためなのだと。香油は使ってしまったではありませんか!なので、それを葬りの日まで保つことなど出来ません。
ここは訳をする人は皆悩んだと思います。訳者たちが考えた解決方法は次のことです。マルコ福音書とマタイ福音書では香油はもうすぐ起こる葬りのために前もって体に塗ったと言っています。本当は遺体に塗るべき香油であるが、まだ生きている段階で塗って葬りの準備をした、イエス様の死は不可避だという印をつけたという意味です。それと同じ意味を訳者たちは、このヨハネ福音書の不可解な個所、塗った後も香油は保たれるなどと言う箇所に当てはめたのです。日本語の訳も英語の訳もフィンランド語もスウェーデン語もドイツ語も皆同じです。本当は葬りの日に使うべき香油を前もって使用したという意味にしたのです。
この解決法は、マタイとマルコの視点とヨハネの視点を一致させるものですが、私としては違う言い方をしている以上は、やはりヨハネは別の視点があるのではないかと疑います。それで、この難解な個所をマタイとマルコを参考にしないでヨハネの視点は何かを追求していこうと思います。
マリアがイエス様の足に塗った香油を髪の毛で拭うのは、イエス様の葬りの日まで香油を保つためである。これがヨハネの書き方でした。マルコとマタイの場合は、香油は頭からかけられ、遺体に香油を塗ることを前もって行ったのだという書き方です。なので、塗られた香油を髪の毛はおろか何か拭うもので拭うこともしません。ヨハネの場合は、塗るのは足に限定していて遺体のように体全体に塗ることとは趣きが異なります。まず、足に香油を塗ることを足を清める意味に理解すます。というのは、ヨハネ13章でイエス様が最後の晩餐の時に弟子たちの足を洗って、君たちもお互いに同じようにしなさいと教えたことがあるからです。上に立つ者も下にいる者に対して仕えることをしなければならない。このように、足を清めることが仕えることを意味するならば、マリアがイエス様の足に高価な香油を塗ったのも仕えたことになります。ただし、イエス様の場合は罪のない神聖な神のひとり子なので足洗いのような罪の洗い清めの意味はありません。高価な香油を塗ってこれから十字架の死に向かう受難の道を歩む足を聖別する意味になります。このようにマリアは仕えることをしたのです。
もっと大事なのは、マリアが足に塗った香油を今度は髪の毛で拭ったことです。そうすることでマリアの髪の毛にも香油が塗られたことになり、部屋いっぱいに広がる位の強い芳香はイエス様の足だけでなくマリアの髪の毛にも漂うことになります。これがまさに、マリアが葬りの日まで香油を保つこと、自分の体の一部にして保つということなのです。マリアのこの香油の保ちはイエス様の受難を自分に身近なものにする、自分のものにするということです。イエス様は、自分の葬りの日まで香油をつけておいて自分の受難を身近なものにしていなさいということを意味したのでした。
それでは、イエス様が葬られたら受難は終わったので髪についた香油を取り除かなければならないのか?洗い落とさなければいけないのか?でもそれは、たとえ香油の香りが髪の毛に残っていたとしても、イエス様の受難は終わってしまったのだから、その香りにはもう受難を身近なものにする、自分のものにする意味はなくなります。
しかし、その代わりにイエス様の受難を自分のものにする新しい仕方が始まりました。洗礼です。使徒パウロはローマ6章で、洗礼を受けてイエス・キリストに結びつけられた者はキリストの死にも結びつけられたと教えます。キリストの死に結びつけられたからにはキリストと共に葬られたのだと。しかし、洗礼が人を本当にキリストに結びつけるものならば、死と葬りとの結びつきはまだ道半ばです。なぜなら、キリストは死んで終わったのではなく、三日目に創造主の神の想像を絶する力で復活させられたからです。だから、洗礼を受けてキリストに結びつけられた者はキリストの復活にも結びつけられたのです。キリストの復活に結びつけられると、永遠の命に結びつけられます。それまで神の意思に反しようとする性向、罪のために永遠の命から切り離されていた人間は洗礼によって永遠の命に結びつけられます。無理やりと言っていい位に力強く結びつけられます。その瞬間、罪はその人からはじき出されたみたいになって、その人を支配する力、コントロールする力、牛耳る力を失います。
もちろん、人間はキリスト信仰者になっても肉を纏っている以上は罪が残存しています。しかし、それは信仰者から永遠の命を切り離す力をもう持っていないのです。干からびた虫けらのようなものなのです。それで、信仰者が自分の内に神の意思に反するものがあることに気づいた時はいつも心の目をゴルゴタの十字架に向けます。そうすれば、あの時打ち立てられた罪の赦しは微動だにしていないこと、自分は罪の赦しの恵みの中で生きていることをいつも確認できます。その度に、あの抗しがたく感じられた罪の思いは潮が引くように退いていきます。その度に、罪は本当に支配力を失っていることと、それを可能にしているのはまさしく罪の赦しの恵みであることがわかり、その確信は日々強まっていくのです。これがパウロの言う、罪に対して死に神に対して生きるということです。
イエス様は再臨する日までこの世から離れていますが、貧しい人々をキリスト信仰者に委ねました。それにどのように応じたらよいのでしょうか?イエス様がこの世にいない今の時は300デナリを分け与えるのが良いやり方でしょうか?でも、それだと300人に一日分の賃金を与えた後はどうなるか?支給対象を100人に絞ってそれぞれに三日分の賃金を与えるのは?そのようなやり方では資金はすぐなくなってしまいます。もっと持続可能なやり方を考えないといけません。キリスト信仰者にとって持続可能な貧しい人々の支援策はなんでしょうか?
イエス様が貧しい人々について何を言っていたかを見てみましょう。ルカ6章で「貧しい人々は幸いである。神の国はあなたがたのものである」と言っています。マタイ5章を見るともっと限定して「霊的に貧しい人々は幸いである。神の国はあなたがたのものである」と言っています。「霊的に貧しい」は日本語訳では「心の貧しい」ですが、ギリシャ語原文も他国の訳も「霊的に貧しい」です。「霊的に貧しい」というのは、神の意思は正しい、十戒は正しい、だからそれに沿うように生きなければと思っているのに、それに反することを考えてしまったり、言葉や行いに出してしまう。それで、自分は神から離れてしまっていると気づいて悲しんだり沈んでいる人たちです。どうしてそのような人たちが復活の日に復活を遂げて神の国に迎え入れられるのでしょうか?
それは、そのような人たちは、自分の力では神に義と認められないとわかっているからです。自分の力でできないので、別の力が必要だと痛感している人たちです。イエス・キリストの十字架の業による罪の償い、罪からの贖いの業がまさにそうした別の力の働きです。イエス様の業のおかげで、彼を救い主と信じて洗礼を受けると、神に義と認められるのです。キリスト信仰者は、基本的に皆、も霊的に貧しい人たちです。自分の至らなさを自覚しています。だからイエス様を救い主と信じる信仰のおかげで神から義と認められて、将来、神の国に迎え入れられるのです。
それなので、キリスト信仰者は霊的に貧しい人も経済的に貧しい人も、まずは神の国に迎え入れられるように導くこと、イエス様の十字架と復活の業のおかげで神の国がその人のものになるように導くこと、これが持続可能な助け方ではないかと思います。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
(後注) ヨハネ12章7節
αφες αυτων, ινα εις την ημεραν του ενταφιασμου τηρηση αυτο.
これを英語にそのまま転換すると、
Let her (do this) /Allow her (to do this) so that she might keep it (=perfume or ointment?) until the day of my burial.
Jeesuksesta laulan
先週(3月30日)の礼拝でHavukainenご夫妻の音楽伝道の際、最後に歌っていただいた”Jeesuksesta laulan(私はイエスについて歌います)”が素晴らしかったです。
1. Jeesuksesta laulan, Jeesuksesta vaan, jolta syyni suuret anteeks sain ja saan, jolta syyni suuret anteeks sain ja saan.
2. Hän mun syyni suuret poisti verellään, otti synnin orjan armoon, elämään, otti synnin orjan armoon, elämään.
3. Katkoi verkot valheen, kahleet kuoleman, vangin vapautti, laps oon Jumalan, vangin vapautti, laps oon Jumalan.
4. Lapsi oma Herran, taivaan kuninkaan, kruunun perin kerran, valtakunnan saan, kruunun perin kerran, valtakunnan saan.
5. Pääsen asukkaaksi kultakaupunkiin, viedään vierahaksi häihin iäisiin, viedään vierahaksi häihin iäisiin.