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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
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本日12月24日は「降誕祭前夜」、日本では英語の言葉をカタカナにした「クリスマス・イブ」と一般に言われる日です。「降誕祭」すなわち「クリスマス」は明日の12月25日なので、イエス様は12月24日から25日の夜にかけて誕生したということが、キリスト教会の伝統として受け継がれてきました。
実は、イエス様がこの世に誕生した年月日というのは、歴史資料に限りがあるため、100パーセント正確に歴史学的に確定はできません。しかし、それでも、手掛かりはいろいろあります。例えば、先ほど朗読されたルカ伝福音書2章の初めに、ローマ皇帝アウグストゥスの勅令による住民登録があります。当時ユダヤ人にはヘロデ王という王様はいましたが、独立国としての地位は失っていて、それはローマ帝国の統治下に置かれる属国でありました。ローマ帝国は、大体14年毎に徴税のための住民登録を行っていました。それで、ユダヤ人も帝国の住民登録の対象になったのであります。ヘロデ王の国はローマ帝国シリア州の管轄下にあり、その総督であったキリニウスは西暦6年に住民登録を実施したという記録が残っています。しかし、それ以前のものについてはありません。それでも、ヘロデ王が紀元前4年まで王位にあったことや、ローマ帝国は定期的に住民登録を行っていたことから逆算すると、イエス様のこの世の誕生は紀元前6-7年という数字が有望になるのであります。
イエス様が誕生した日にちについては、西暦400年代にキリスト教会が12月25日に降誕祭をお祝いし始めたことに由来します。他方で、もっと以前の西暦100年代には1月6日が顕現日に定められて、今日に至っています。顕現日というのは、当初は、イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けたことを記念する日、それにイエス様の誕生も祝う日でありました。西暦100年代と言えば、まだイエス様の出来事の目撃者の次の世代が生きていた時代です。目撃者の証言は、まだ昨日の出来事のように語られていたでしょう。降誕祭に採用されたのが、なぜ1月6日でなくて12月25日になったのかは明らかではありませんが、いずれにしても、イエス様の誕生が真冬の季節だったことは、初期のキリスト教会の中では当たり前のことだったと言えます。
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ところで、降誕祭、クリスマスというのは、一見すると過去の出来事を記念する日のように見えます。しかし、キリスト信仰にあっては、そこには未来に結びつく意味もあります。というのは、イエス様は、御自分で約束されたように、再び降臨する、再臨するからであります。つまり、私たちは、2千年以上前に救い主の到来を待ち望んだ人たちと同じように、その再到来を待つ立場にあるのです。その意味で、降誕祭という日は、主の第一回目の降臨を思い起こして、イエス様という神の人間に対する大いなる贈り物に感謝しながら、実は未来の再臨にも心を向ける日なのであります。救い主の誕生記念にあやかって、今年もおいしいものをたくさん食べた、贈り物もたくさんもらった、めでたし、めでたし、と満足で終わってしまうのではなく、毎年、再臨の日は一歩一歩近づいていくのだから、私たちは身も心もそれに備えるようにしようと心を正す日でもあるのです。
イエス様の再臨の日とは、聖書に従えば、この世の終わりの日、今ある天と地が新しい天と地にとってかわられる日です。また、最後の審判の日、死者の復活が起きる日でもあります。イエス様は、そのような再臨の日がいつであるかは、父なる神以外には誰にも知らされていない、と言われました。それゆえ、大切なのは「目を覚ましている」ことであると教えられました。「目を覚ましている」とは、私たちが日々の人生をしっかり生き、各自が持つ課題とか、世話をしなければならない人とか、そういったものは神が私たちに与えたものだから、しっかり取り組んだり、世話したりする。そのように日々の人生をしっかり生き、同時に心のある部分は将来の主の再臨にも向けられていて、身も心もしっかり再臨に備えるようにする。これが、「目を覚ましている」ということです。イエス様の再臨が起きるのは、私たちが死んだ後になるかもしれません。経験から見て、その可能性が大きいように思われます。しかし、その場合でも、再臨の日が来れば、すでに死んだ者も復活させられるのですから、それで、この世の人生でしっかり生きること、しっかり「目を覚ましていること」は無意味でも無駄でもなんでもないのであります。
イエス様は、御自分が再臨する日について、神の栄光に包まれて、天使の軍勢を従えて、この世に到来すると約束されました。天使の軍勢とは、先ほど朗読されたルカ伝2章に登場した天使の軍勢を指します。この天使たちは声に出して「天には栄光、神に」と謳いました。まさにこの栄光に包まれて、イエス様は天使の軍勢を従えて再臨されるのであります。イエス様の第一回目の降臨には、再臨の基本的な準備は既に出来ているのであります。
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ところが、イエス様の第一回目の降臨は、再臨の時のような壮大かつ威厳と畏怖に満ちたものではありませんでした。全く正反対に、惨めで貧しく憐れなものでした。神の栄光と天使の軍勢を伴ってしかるべき方が、家畜小屋で出産され、家畜の餌を入れる桶に寝かせられるのであります。家畜小屋がどういうところか、皆さんは想像がつくでしょうか?私は、妻の実家が酪農業を営んでいるので、休暇でそこに行くと子供と一緒に牛を見に行きます。牛舎は、栄養や水分補給がコンピューター化された近代的なものですが、糞尿の臭いだけは現代技術をもってしてもどうにもならない。10分位いるだけで、臭いは服にしみつき、後で周りの人にも、牛舎に行ってきたなとすぐ気づかれるほどです。
神のひとり子であり人間の救い主である方が、なぜこのような形で地上に誕生しなければならなかったのでしょうか?ここで、神が人間として誕生したということに目を向けてみましょう。聖書に従えば、神とは、天と地と人間を造り、人間に命と人生を与える造り主です。この造り主とそのひとり子、そして神の霊である聖霊の三つを除いた全ての万物は、神に造られたもの、被造物であります。この造られたものには、私たちの目に見えるものも、また目に見えない霊的なものも全て含まれます。天使たちも被造物なのであります。
人間に命と人生を与える造り主が、なぜ、自ら被造物の姿となって誕生しなければならなかったのか?もし、このことが起きなかったならば、神はずっと天上にふんぞり返っているだけの存在です。しかし、それでは神と人間の間を支配していた敵対関係を終わらせることはできません。神は、人間が再び神と平和な関係を持てて、神との結びつきのなかで生きられるようにしようとしました。そのためにひとり子をこの世に送り、敵対関係を終わらせるための犠牲の生け贄になってもらった。これがゴルガタの十字架の出来事です。さらに、神は、一度死んだイエス様を蘇らせることで、復活が実在することも示されました。これらのことを全て実現するためには、被造物の力はあまりにも無力でした。本物の犠牲が必要でした。それがイエス様だったのです。イエス様が本物の犠牲になれたのは、彼が通常の男女の性関係から生まれてくる全くの被造物でなかったからでした。聖霊の力が処女マリアに作用して受胎・妊娠が起きて生まれた。そのようにして、イエス様は、神としての性質は保ちながら、人間の肉体と魂を得たのでした。イエス様が犠牲の生け贄になったというのは、まさに神自身が、人間との間に和解をもたらすために、自ら人間に歩み寄って自らを犠牲にしたということなのであります。
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それでは、神の御子イエス様が人間として生まれる時、なぜ家畜小屋での出産というような惨めな形をとらなければならなかったのか?聖書を読んでいくと気づかされることですが、永遠の存在者である神は、限りある私たち人間に影響力を及ぼす時、人間界にある諸条件の中でそうしようとする傾向が強いと言えます。人間界の諸条件の枠をつき破るように影響力を及ぼそうとすると、奇跡が起きるのであります。人間界の諸条件の中で影響力を及ぼすというのはどういうことかと言いますと、イエス様の誕生に即していうと次のようになります。紀元前6年頃、現在パレスチナと呼ばれる地域にて、かつてのダビデ王の家系の末裔だったヨセフはナザレ町出身のマリアと婚約していた。そのマリアは神の奇跡のために妊娠していた。その時、彼らユダヤ人を支配していた異国の皇帝が支配強化のために住民登録を命じた。近々世帯主になるヨセフはマリアを連れて自分の本籍地であるベツレヘムに旅立った。そこでマリアは出産日を迎えた。以上をもって、救い主がダビデ王の家系から生まれ、その場所はベツレヘムである、という旧約聖書の預言が成就されたのであります。
出産場所が家畜小屋だったということも、直接の原因は、その夜ベツレヘムの宿屋はどこも満員でヨセフたちが泊まれる場所がなかったためでした。ところが、天使は羊飼いたちに、生まれたばかりの救い主は飼い葉桶にいる、それが赤子が救い主であることの印であると知らせました。このヒントのおかげで、羊飼いたちは、家畜小屋を探せばよい、とわかったのであります。もし、救い主が生まれたとだけ告げられたら、どこを探せばよいのか途方に暮れたでしょう。仮に誰かの赤子は見つけられたとしても、その子が天使の言った救世主であるとどうやって確かめられるのか、雲を掴むような話になったでしょう。
こうなると、家畜小屋での出産というのは、神が最初から仕組んだことのようにさえ見えます。最初から仕組んだとは言えなくとも、まず、ヨセフとマリアの動向をしばらく状況の荒波に委ねて、その結果、家畜小屋になってしまった。そこで神は、このことを天使を通して羊飼いたちに告げさせて、羊飼いたちにイエス様を探し当てさせた。そして、町の人たちやヨセフとマリアに、天使が言ったことを伝えさせた。人々は天使など見ていませんから、反応はただ驚くだけで、半信半疑だったでしょう。ところがマリアは、天使ガブリエルから何が起きるかを既に知らされていたので、羊飼いたちの言うことは心に留めたのであります。羊飼いたちがやってきたことで、ヨセフとマリアは、家畜小屋においやられてしまったという不運は実は不運でもなんでもなかった、惨めな出産と夜明かしだったけれども、神は絶えず目を注いでいて下さっている、ということがはっきりしたのであります。
このように、神は、仮に私たちの人生の歩みをすっかり状況の荒波の中に委ねてしまって、何も助けてくれない、状況の改善のために何もしてくれないように見えても、実は私たちの手綱をしっかり握っていて離すことはないのであります。必ず、神の意思に沿うようなことが後で起きるのであります。
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最後に、羊飼いたちの心の有り様の変化を見ていきたいと思います。天使が目の前に現れた時、羊飼いたちは大きな恐怖に襲われました。この天使の後に、今度は大勢の天使たちからなる天の軍勢が現れました。一人の天使の出現でさえ恐怖だったのに、天使の大軍勢はそうならなかったのであります。どうしてでしょうか?ひとつには、天使が生まれたばかりの救世主について教え、かつそれを見つけに行くように促したことがあります。羊飼いたちの目は、目前の光輝く天使から、生まれたばかりでまだ見たことのない赤子へと方向転換したのであります。
それから、天使の大軍勢が神への賛美として口にした文句も一役買っています。これは、不思議な文句です。原語のギリシャ語のテキストを見ると、名詞と前置詞と接続詞から成る文句です。動詞が全くないので、正確な文ではなく、何か詩のような形です。もともとは羊飼いたちが理解できる言葉だったので、天使の大軍勢はアラム語で賛美したのでしょう。あるいは、天上の言葉を使い、それを羊飼いが心で理解して、アラム語で周りに伝えたのかもしれません。いずれにしても、イエス様に関する記録は全て、最初アラム語で口伝えにされたり書き記されたりしましたが、キリスト教が地中海世界に広がっていった時にことごとくギリシャ語に翻訳されてしまい、私たちの手元に残っているのはギリシャ語のテキストだけです。これを手掛かりにしてみていくしかありません。
この天使の大軍勢の文句は、2つの部分からなります。最初の部分は、神の栄光について。次の部分は平和についてです。私たちの日本語訳の聖書「いと高きところには栄光、神にあれ」の「いと高きところ」とは、神がおられる天上そのものを指します。「神にあれ」ですが、そもそも天上の栄光というものは、天使たちが「あれ」と願わなくても、もともと神に属するものなので、「あれ」と訳すより、「ある」とすべきです。従って、ここは、「天上の栄光は、神のものである」というのが正確でしょう。
「地には平和、御心に適う人にあれ。」地上の平和は、天使たちが「あれ」と願ってもいいのかもしれません。「御心に適う人」と言うのは、まさに「神の御心に適う人」であります。「平和」は、普通、戦争がないとか、社会が平穏であるとか、そういう外的な平和を思い浮かべます。しかし、ここでは、先ほども述べましたように、神と人間の関係が和解した、神と人間の間の平和を指します。この平和は、イエス様が十字架で御自身を犠牲の生け贄として捧げた時に実現します。そして、イエス様を救い主として受け入れた者たちが、この平和を持つことができます。この者たちが「神の御心に適う人たち」なのであります。この平和は、たとえ外的な平和が失われた時でも、また人生の歩みの中で困難や苦難に遭遇しても、イエス様を救い主と信じる限り、失われることのない平和であります。そういうわけで、天使の軍勢の賛美の詩は、次のようになります。「天上の栄光は神のもの。地上では平和は神の御心に適う人たちに。」
天使の大軍勢は、この賛美の詩をどのように唱えたのでしょうか?詩を朗読するように訥々と唱えたのでしょうか?それとも大規模なコーラスのように歌い上げたのでしょうか?確認の術はありません。少なくとも、人間ではない者たちの大軍勢であったにもかかわらず、羊飼いたちの恐れを吹き飛ばすものであったことは否定できません。ところで、日本では年末になるとベートーベンの第九が各地で響き渡ります。第九は、どんなに気持ちが沈んでいても、それを吹き飛ばして気持ちを喜びに満たす力がある曲だということは、誰しもが認めるでしょう。地上の一天才が生み出した音楽がそのような力があるならば、天上の創造主が天使の大軍勢に唱えさせた賛美の詩は、それを幾重にも上回る力があると言ってよいでしょう。皆様も、第九を聴いて深い感動と喜びに満たされたら、それは神が与えて下さる喜びのさわりの部分のようなものなのだと言い聞かせてみて、神の喜びのとてつもなさを予感してみて下さい。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
本日の福音書の日課は、ヘブライ語に由来する二つの言葉が重要な主題になっています。一つの言葉は、「イエス」。これは、ギリシャ語の「ィエースース」Ἰησοῦϛが日本語に訳された形です。この「ィエースース」Ἰησοῦϛですが、これのもとになっている言葉はヘブライ語の「ユホーシュアッ」יהושעです。この「ユホーシュアッ」יהושעというのは、日本語でいう「ヨシュア」、つまり旧約聖書ヨシュア記のヨシュアです。この「ユホーシュアッ」יהושעという言葉ですが、これは「主が救って下さる」という意味があります。「ヤーハ」יה主が、「ユーシャアッ」יושע救って下さる。つまり、イエス様の名前は、ヘブライ語のもとをたどると「主が救って下さる」という意味があるのです。それで天使はヨセフに、将来「自分の民を罪から救うことになる」(詩篇130篇8節)この子に、「ユホーシュアッ(ヨシュア)」יהושעでיהושעユと付けなさいと言ったわけで、この「ユホーシュアッ(ヨシュア)」יהושעは、やがてキリスト教が地中海世界に広がっていった時にギリシャ語の「ィエースース」Ἰησοῦϛに置き換えられて、それが、後世「イエス」とか「ジーザス」とか「ィエーズス」とか「ィエースス」とかいろんな国の言い方に訳されて現在に至っているというのであります。
もう一つのヘブライ語に由来する言葉は、「インマヌエル」。これはもともとヘブライ語の言葉「インマーヌーエール」אל עמנוが発音をほとんどかえずにギリシャ文字に置き換えられて、「エンマヌエール」Εμμανουηλと記されています。この言葉は、本日の福音書の箇所にも説明されているように、「インマーヌー」私たちと共におられるのはעמנו、「エール」神であるאל、という意味です。つまり、「神が私たちと共におられる」ということです。この「おとめから生まれる子供の名がインマヌエル(神が私たちと共におられる)と呼ばれる」というのは、本日の旧約聖書の日課イザヤ書7章14節にあるように、預言者イザヤを通して言われた神の言葉です。
さて、ここで一つの疑問にぶつかります。将来「民を罪から救う」この子に「イエス」、「ユーホーシュアッ」יהושעという名前をつけることは、ぴったりであるとわかります。本日の福音書の箇所は、その名前をつけることが、「おとめから生まれる子供の名前がインマヌエルになる」という預言の成就になると言っています(マタイ1章22節)。どうして、「イエス」、「ユーホーシュアッ」יהושעという名前をつけることが、その預言の成就になるのでしょうか?イエス様の名前はずっと「イエス・キリスト」であって、「インマヌエル」という名前はつかなかったのではないでしょうか?この疑問は、「主が民を罪から救って下さる」ということと、「神がわたしたちと共におられる」ということの二つの事柄が深く結びついている、二つのことは同じことを意味しているとわかれば問題ではなくなります。そういうわけで、本説教では、この二つの事柄、「主が民を罪から救って下さる」ということと「神がわたしたちと共におられる」ということがどのように結びついているかをみながら、私たちに対する神の愛、神の恵みについて学んでいきたいと思います。
まず、「おとめから生まれる子供の名がインマヌエルと呼ばれる」という預言について。これは、歴史的にみると、イエス様が誕生する700年以上も昔に、神が預言者イザヤを通して当時のユダ王国の王アハズに述べた言葉です。どんな歴史的状況の中で言われた言葉かというと、ダビデ・ソロモンの王国が南北に分裂し、お互い反目しあいながら200年近くがたちました。こともあろうに北のイスラエル王国が隣国のアラム王国と同盟して、兄弟国であるはずのユダ王国を攻撃しようと計画した。この同盟締結の知らせに、アハズ王も国民もパニック状態に陥ったことが、本日の旧約聖書の日課のすぐ前に述べられています。そこで神は預言者イザヤに命じて、イスラエルとアラムの共謀は実現しないから落ち着きなさいとアハズ王に伝えよ、と命じます。それから神はまだおびえているアハズ王に、信じられないならしるしをみせてやるからそれを求めてみよ、とさえ言います。王は、畏れ多くもそんな神を試すようなことはできないと躊躇します。そこで神は、お前たちの信頼不足には疲れ果てた、仕方がないから私の言うことが本当であるというしるしをこちらからみせてやる、ということで、「みよ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」という言葉がでたのであります。その言葉に続けて神は、イスラエルとアラムの両王国は、東方の大帝国アッシリアに滅ぼされ、二王国の計画は実現しないと述べます。それらのことは、古代オリエントの歴史にも記されている通り、その通りになりました。
さて、このおとめから生まれるインヌマエルという子供は誰をさすのでしょうか?ユダヤ教の長い伝統のなかでは、それはアハズ王の子供ヒゼキヤ王をさすというのが有力な見解でした。その理由は、ヒゼキヤ王というのは、歴代の王たちが神に背を向けて生きていた生き方を改め、神のもとに立ち返る生き方を始め、それで神の預言者イザヤの言葉を神の託宣としてしっかり受け入れた王として知られていたことによります。さらに、アッシリア帝国が大軍を引き連れて、今度はユダ王国も攻め始め、最後に残った首都エルサレムも完全に包囲されて絶体絶命になったとき、ヒゼキヤ王は神にのみ依り頼む姿勢を貫きました。そしてアッシリアの大軍は突如神の御使いに撃たれ一夜にして18万5千の兵を失って総退却となる(列王記下19章35-36節、イザヤ書37章36-37節)というようにヒゼキヤ王はエルサレムを救った理想的な王様として描かれたことがあります。それで、このインヌマエルはヒズキヤ王をさすのだと。
ところが、それではヒズキヤ王はおとめから生まれたのかという疑問が起こります。もしそうだとすると、聖霊の力によって身ごもったのはイエス・キリストが最初ではなく、その700年前にすでに前例があるではないか、ということになってしまいます。そこで、イザヤ書7章14節のイザヤの預言の中にある「おとめ」という言葉、へブライ語の言葉「アルマーハ」עלמהをみてみましょう。この言葉は実は、「おとめ」の意味も「若い女性」の意味も両方ある言葉なのです。それで、ヒズキヤ王は、父のアハズ王と誰が若い妃の間に普通の人間の子供として生まれてきても何も問題はないのであります。
そうなると今度は、「聖霊によってやどりおとめマリアから生まれた」と、キリスト教の信仰告白で唱えられるイエス様の超自然的な誕生は、預言書の根拠を失ってしまうのでしょうか?
実は、ユダヤ教の伝統のなかで、この「インヌマエル預言」はヒズキヤ王で完結することはなかったのであります。神の民を苦境から救い出すインヌマエルはこれから出てくるのだ、ヒズキヤ王は実はまだ預言の成就ではなかったのだという見解が出てくるのであります。というのは、ヒズキヤ王はエルサレムを守った理想王ではあったけれども、その後で大きな失点を残してしまう。列王記下20章とイザヤ書39章に記されているように、アッシュリアの退却後、平穏を回復したユダ王国にバビロン王国からの使者が来ます。バビロンとは、約100年後にユダ王国を滅亡させ、その民を捕囚として連行して行った国です。ヒゼキヤ王は、使者たちに、ユダ王国の宝物、武器一切のものを見せてしまいますが、それはしてはならないことだったとイザヤに告げられます。さらに、ヒズキヤ王の次に即位したマナセ王は、完全に神に背を向ける生き方を始め、神の意志に背く宗教政策をとってしまいますが、それは、列王記下24章3-4節に記されているように、やがて起こるバビロン捕囚の運命を決定づけてしまったのであります。こうした歴史の変遷が起きたために、インマヌエル預言は本当は後の世に成就されるものだと理解されるようになったのであります。イザヤ書も終わりのほうになると、神がご自分の民を最終的かつ完全に救う日は、新しい天と地が創造される日である(66章17節、22節)と記されていますが、このように救いの日と歴史や自然の大変動が一緒に起こると理解されるようになりっていきます。そういう流れの中で、救いの担い手が普通の人間ではないと理解されるようになっていきます。こういう時に、先ほど二つの意味があると申しましたヘブライ語の言葉「アルマーハ」עלמהの意味も、「若い女性」から「おとめ」に理解されるようになったのであります。こうした理解の変化が起きたことを端的に示すのが、紀元前3世紀頃からヘブライ語の旧約聖書がギリシャ語に翻訳された時に、問題となっている言葉「アルマーハ」עלמהが、はっきり「おとめ」だけを意味する言葉「パルテノス」παρθένοϛに翻訳されたのであります。本日の福音書の日課にあるイザヤ書の引用ですが、それは、ギリシャ語訳の旧約聖書をそのまま用いており、それは当然のことなのであります。
以上に加えて、おとめから子供が生まれる時、聖霊の力によって宿るということについてみてみますと、神の霊というものは、預言者に託宣を伝えるだけが仕事ではありません。創世記1章2節やエゼキエル書39章9節等からも明らかなように、無から命を創り出すという働きもあるのであります。それで、おとめから子供が生まれるという通常起こりえないことが、天地創造の神の業としてありえることなのだと理解されたのであります。
以上、インヌマエル預言の歴史的変遷を大ざっぱにみてまいりました。旧約聖書を理解するには、単に歴史的事実に即した理解では不十分で、神の人間救済計画という広大な観点を併せもって理解する必要があることが明らかになったと思います。(聖書の現代語の訳の中には、イザヤ書のこの箇所で「おとめ」と訳するのをやめて「若い女性」に置き換えたものもあります。そういう訳者は、おとめから生まれるなどとは歴史的事実になりえない、と主張します。)
さて、本日の説教の中心課題であります二つの事柄、「神が私たちと共におられる」ということと、「主が御自分の民を罪から救って下さる」ということが、どのように結びついているか、ということをみてまいりましょう。
まず、「主が御自分の民を罪から救って下さる」ということについて。これは、詩篇130篇8節にある預言の言葉であります。ユダヤ教の伝統的な考え方では、「神が民を救う」というのは、神がイスラエルを外敵から守るとか、侵略者から解放するという理解がよくされます。ここでは、何から救われるということについて、相手が外敵や侵略者ではなく、罪であるということに注意する必要があります。「罪から救って下さる」というのは、「罪がもたらす神の怒りや神の裁きから救って下さる」ということです。神の怒り、神の裁きというものは、それを受けるならば、人間はこの世の人生の段階では自分の造り主であるはずの神との関係が断ちきれたままの状態になってしまい、この世から死んだ後も造り主のもとに永遠に戻れなくなってしまう、ということです。創世記3章に記されているように、最初の人間アダムとエヴァが神に対して不従順になったことがきっかけで、罪が世界に入り込み、人間は死する存在になってしまいました。何も犯罪をおかしたわけではないのに、キリスト教はどうして「人間は全て罪びとだ」と強調するのか、と疑問をもたれるかもしれません。しかし、キリスト教でいう罪とは、個々の犯罪・悪事を超えた(もちろんそれらも含みますが)、すべての人間に当てはまる根本的なものをさします。全てを創造された神に背を向けて生きようとする性向がそれであります。もちろん、世界には悪い人だけでなくいい人もたくさんいます。しかし、いい人悪い人、犯罪歴の有無にかかわらず、全ての人間が死ぬということが、私たちは皆等しく神への不従順に染まっており、そこから抜け出られないということの証なのであります。
それでは、神は、預言の言葉のように、どのようにして人間を罪から救い出すのでしょうか?それを知るために、神が私たちのために御自分のひとり子イエスを通して行ったことをみる必要があります。人間は一人ひとり罪と不従順のために神との結びつき断ちきれていて、この世から死んだ後も永遠に神のもとに戻れないようになってしまった。イエス様は、こうした人間に張り付いている罪の呪いを全て自ら請け負って、私たちの身代わりとして十字架の上で、私たちが死ぬべき死を受けられた。そこで神は、イエス様が私たちのかわりに全てを償ったと見なして、イエス様の身代わりの死に免じて、私たち人間の罪を赦すという道を採られたのであります。
別の言い方をすると、私たちが身にまとっている罪という汚れた衣をとって御自分にまとい、御自分の汚れなき白い衣はそれを取って私たちに被せてくれたということであります。神はその汚れた衣を着たイエス様を死に引き渡し、白い衣を着せられた私たちの罪は問わないと宣されたのです。普通、聖書や教会で「神の恵み」と言っているのは、このように法律で言う恩赦の意味合いが強くあります。実際、北欧のルター派教会では、「恵み」を言い表す言葉は「恩赦」を言い表す言葉の類義語であります(スウェーデン語のnåd-benåda、フィンランド語のarmo-armahtaa)。さらに、御自分の一人子の尊い血、命を代価として、私たちを罪の人質状態から解放したとか、買い戻したと言ってもいいと思います。私たちの新しい命はそれ位に高価なものなのです!それだけではありません。神は、今度はイエス様を三日後に死から復活させることで、死を超えた永遠の命に至る扉を私たち人間のために開かれたのです。このようにして神は、イエス様を用いて人間の救済を全部整えてしまったのであります。救済は神の方で完成させてしまったのであります。
このように神がイエス様を通して行われたことは、最初の人間のときに損なわれてしまった神と人間との結びつきをもとにもどすことそのものでありました。しかしながら、イエス様が十字架にかかり、死から復活したことで全てが解決したかというと、それはまだ解決の一歩 - 決定的な一歩ではありますが - なのであります。今度は人間のほうが、そうした神が全部整えられた救済を自分のものにしないと、この完成済み救済は人間の外側によそよそしくとどまるだけです。ではどうしたら救済を自分のものにできるのか?そのためには、各自まず、「あの、2000年前に神がイエス様を通して行われたことは、実は今を生きる自分にかかわっていたのだ、あれはこの私のためにもなされたのだ」と気づき、それを信じて洗礼を受けることです。洗礼を受けることで、イエス様の白い衣を頭から着せられ(ガラテア3章27節、ローマ13章14節、さらにエフェソ4章23-24節とコロサイ3章9-10節では着せられるのは霊に結びつく新しい人)、天地創造の神の霊を受けられることになります。使徒パウロの言葉を借りれば、聖霊を受けるというのは、完成済み救済の所有者になったことの証明印を押してもらうようなことだということになります(エフェソ1章13-14節)。
それでは、信じて洗礼を受け、神の完成された救済を所有するようになったら、それで終わりかというと、必ずしもそうならない。ルターがよく強調することですが、キリスト信仰者の人生とは、洗礼を通して私たちに植えつけられた内なる新しい人を日々育て、前々から存在する内なる古い人を日々死に引き渡す長いプロセスだということがあります。イエス様の白い衣を上からかぶせられたといっても、この世に生きている間、私たちはまだ肉をまとっています。私たちの内なる新しい人は、神に従順です。神を全身全霊で愛し、また隣人を自分を愛するが如く愛するのが当然であり、喜びであると考えます。しかし、内なる古い人はそんなことは当然でもないし、喜びは別のところにあると教えます。このような神への不従順は、実に私たちキリスト信仰者も共有している、ということは誰しも認めざるを得ないでしょう。そういうわけで、洗礼で始まる新しい人生のプロセスは、実に、聖霊に結びつく新しい人と肉に結びつく古い人との間の内的な戦いのプロセスということになります。ルターによれば、私たちが死ぬときに、古い人間も肉とともに滅び、私たちは完全に復活の命をもつことになります。その意味で、イエス様を救い主と信じる信仰に生きるようになった者にとっては、死は完全な終わりではなく、現世の命と永遠の命をあわせた長い命の中にある一つの通過点のようなものになります。
最後に、キリスト信仰者のこの世の人生のプロセスでは、今神の右に座すイエス様は、私たちの目に見えない形で絶えずともにおられるということに注意を喚起したく思います。2000年前のユダの地でイエス様の教えを聞き、癒しを受け、十字架と復活の出来事を目撃した人たちと違って、私たちにはイエス様が身近にはおられません。しかし、聖書を通してイエス様や神の考えや意思を2000年前の人たちと同じように知ることができます。イエス様の声は聞こえませんが、聖書を読めば読むほど、聖書に聞けば聞くほど、イエス様の弟子たちと同じくらいに私たちはイエス様のそばにいることになります。
それから、聖書の言葉は力に満ちた神の言葉ですから、ルター派の教理問答書が教えるように、この言葉を語りかけることで洗礼式の水はただの水でなくなり、聖餐式のぶどう酒とパンはただのぶどう酒とパンでなくなって、それらはイエス様がその場に臨在することを保証するものにかわります。そうした水をかけられることでイエス様の義という白い衣をきせられ、そうしたパンとぶどう酒を口にすることで、イエス様の義を栄養として体内に摂取します。私たちが内なる古い人の傲慢さに疲れ、悲しむとき、聖餐式で摂取したものは、目に見えない形で栄養を発揮します。私たちの内に宿る罪と不従順は私たちを神から引き離す力を既に失っており、罪と不従順が力を揮ったように見えても、それは見かけ倒しで実際は何の実力も効力もないということを確かなものにする、それが聖餐のパンとぶどう酒です。内なる戦いを戦っていない人、自分はもう完全に新しい人になったと思いこんでいる人には、聖餐は意味がありません。そのような人は、自分はキリストはいらないと言っているのと同じです。内なる戦いを真摯に戦っている人にこそ主はともにおられるのです。このように、私たちを罪から救って下さる主「ユホーシュアッ」יהושעは、私たちと共におられる「インマーヌーエル」אל עמנו のです。 「ユホーシュアッ」יהושע、「インマーヌーエル」אל עמנו!
聖書日課 マタイによる福音書3章1-12節、イザヤ書11章1-10節、ローマの信徒への手紙15章4-13節
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン。
先週の主日に、キリスト教会の暦の新しい一年が始まりました。本日は教会新年の二回目の主日です。教会の新年開始からクリスマスまで、4つの主日を含む4週間程の期間を待降節と呼びますが、読んで字のごとく救い主のこの世への降臨を待つ期間であります。この期間、私たちの心は、2千年以上の昔に現在のパレスチナの地で実際に起きた救世主の誕生の出来事に向けられます。そして、私たちに救い主を送られた神に感謝し賛美しながら、降臨した主の誕生を祝う降誕祭、一般に言うクリスマスをお祝いします。
待降節は、一見すると過去の出来事に結びついた記念行事のように見えます。しかし、私たちキリスト信仰者は、そこに未来に結びつく意味があることも忘れてはなりません。というのは、イエス様は、御自分で約束されたように、再び降臨する、再臨するからであります。つまり、私たちは、2千年以上前に救い主の到来を待ち望んだ人たちと同じように、その再到来を待つ立場にあるのです。その意味で、待降節という期間は、主の第一回目の降臨に心を向けることを通して、未来の再臨を待つ心を活性化させるよい期間でもあります。待降節やクリスマスを過ごして、ああ終わった、めでたし、めでたし、のお祝いですますのではなく、毎年過ごすたびに主の再臨を待ち望む心を強めて、身も心もそれに備えるようにしていかなければなりません。イエス様は、御自分の再臨の日がいつであるかは誰にもわからない、と言われました。イエス様の再臨の日とは、この世の終わりにあたる日で、今ある天と地が新しい天と地にとってかわられる日です。また、最後の審判の日、死者の復活が起きる日でもあります。その日がいつであるかは、父なる神以外には知らされていないのであります。それゆえ、大切なのは「目を覚ましている」ことである、とイエス様は教えられました。主の再臨を待ち望む心を強め、身も心もそれに備えるようにする、というのが、この「目を覚ましている」ということであります。
それでは、主の再臨を待ち望む心とは、どんな心なのでしょうか?「待ち望む」と言うと、何か座して待っているような受け身のイメージがわきます。しかし、そうではありません。キリスト信仰者は、今ある命は造り主の神から与えられたものであるとの自覚に立っています。それで、各自、自分が置かれた立場、境遇、直面する課題というものは取り組むために神が与えられたものという認識があります。それらは実に神由来であるがゆえに、キリスト信仰者は、世話したり守るべきものがあれば、忠実に誠実にそうする。改善が必要なものがあれば、やはりそうする。また、解決が必要な問題があれば、解決に向けて努力していく。そうした世話や改善や解決をする際の判断の基準として、キリスト信仰者は、自分は神を唯一の主として全身全霊で愛しながらそうしているかどうか、また隣人を自分を愛するが如く愛しながらそうしているかどうか、ということを絶えず考えます。このようにキリスト信仰者は、現実世界としっかり向き合いながら、心の中では主の再臨を待ち望むのであります。ただ座して待っている受け身な存在ではありません。
さて、主を待ち望む者が心得ておくべきことあります。本日の福音書の箇所は、そのことについて大切なことを教えています。今日は、そのことを見てまいりましょう。
本日の箇所は、洗礼者ヨハネが歴史の舞台に登場する場面です。ヨハネは、エルサレムの神殿の祭司ザカリアの息子で、ルカ1章80節によれば、神の霊によって強められて成長し、ある年齢に達してからユダヤの荒野に身を移し、神が定めた日までそこにとどまりました。らくだの毛の衣を着、腰に皮の帯を締めるといういでたちで、いなごと野蜜を食べ物としていました。そして、神の定めた日がついにやってきました。神の言葉がヨハネに降り、ヨハネは荒野からヨルダン川沿いの地方一帯に出て行って、「悔い改めなさい。天の御国は近づいたのだから」(マタイ3章2節)と大々的に宣べ伝え始めます。大勢の人々が、ユダヤ全土やヨルダン川流域地方からやってきて、ヨハネから洗礼を受けようと集まってきました。ルカ3章には、この洗礼者ヨハネの登場がいつだか詳しく記されています。それは、ローマ皇帝ティベリウスの治世の第15年、ポンティオ・ピラトがユダヤ地域の総督、ヘロデ・アンティパスがガリラヤ地方の領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、そしてアンナスとカイアファとがエルサレムの神殿の大祭司であった時でありました。ティベリウスは、あのイエス様が誕生した時の皇帝アウグストゥスの次の皇帝で、西暦14年に即位します。その治世の第15年ということですが、ティベリウスは西暦14年の9月に即位したので、その年を数え入れて15年目なのかどうかは不明です。いずれにしても、西暦28年か29年の出来事だったということになります。
洗礼者ヨハネのスローガンは、「悔い改めなさい。天の御国は近づいたのだから」というものでした。「天の御国」とは、他の福音書で「神の国」と言われているものと同義です。マタイは「神」と言う言葉を畏れ多くて避ける傾向があり、「天」と言い換えています。それでは、「天の国」、「神の国」とは、どんな国かと言うと、「ヘブライ人への手紙」12章に記されていますが、この世の全てのものが揺り動かされて除去されてしまう終わりの日に、唯一揺り動かされずに残る国であります。この世の全てのものが揺り動かされて除去されてしまうというのは、イザヤ書65章や66章にあるように、天地創造の神が今ある天と地を取り除いて新しい天と地にとって替えるということです。黙示録21章にはもっと端的に、新しい天と地が創造される時に神の国が見える形で出現することが記されています。
そんな国が2000年前に「近づいた」と言われたのは、一体どういうことか?神の国というものが、今ある天と地がなくなってこの世の終わる時に出現するのであれば、今ある天と地は当時も今も変わっていないではないか?新しい天と地はまだ創造されていないではないか?2000年前に「神の国」が近づいたというのは、イエス様が不治の病の人々を完治したとか、わずかな食物で大勢の群衆の空腹を満たしたとか、大嵐を静めて舟が沈まないようにしたとか、悪霊に憑りつかれた人を救ったとか、そういう無数の奇跡の業に関係があります。黙示録21章4節に言われていますが、将来出現することになる神の国とは、「涙が全て拭われ、死も心配も嘆きも苦しみもない」ところであります。2000年前のイエス様の存在と活動は、そのような将来の神の国を、まだ今の天と地がある段階で、人々に味あわせる、人々にその存在を体験させる、そういう意味がありました。そういうわけで、神の国が本格的に出現するのは、あくまでイエス様が再臨する日、今の天と地が新しい天と地にとって変わられる日なのであります。
それでは、今私たちは「神の国」と無関係なのかというと、そうではありません。イエス様を救い主と信じて洗礼を受け、イエス様を救い主と信じる信仰に生きる者は、この神の国と既に結び付けられているのであります。もし、イエス様の再臨が私たちが生きている時代に起きれば、私たちはそのままそこに迎え入れられるのであり、また、再臨の前に死んでいたのであれば、私たちは主の再臨の日に復活させられてそこに迎え入れられるということであります。
洗礼者ヨハネが「神の国が近づいた」と宣べ伝えたのは、この世の終わりが来て神の国が本格的に出現すると言ったのではなく、この神の国を人々に体験させられる方、イエス様が来られる、ということを意味していたのであります。
洗礼者ヨハネのスローガンのもう一つは、「悔い改めなさい」でした。「悔い改め」と言うと、何か悪いことをして後で悔いる、もうしないようにしようと反省する、そういうニュアンスがあると思います。ところが、この普通「悔い改め」と訳されるギリシャ語の言葉メタノイアμετανοια(動詞メタノエオーμετανοεω)には、もっと深い意味があります。この語はもともと「考え直す」とか「考えを改める」という意味でした。それが、旧約聖書に数多く出てくる言葉で「神のもとに立ち返る」という意味のヘブライ語の動詞שובと結びつけて考えられるようになるのです。つまり、「考え直す、考えを改める」というのは、それまで自分の造り主である神に背を向けて生きていた生き方を改めて生きる、神のもとに立ち返る生き方をする、そういう意味を持つようになったのです。
そういうわけで、洗礼者ヨハネのスローガン「悔い改めなさい。天の御国は近づいたのだから」というのは、「あなたがたは自分の造り主でおられる神に対して背を向けていた生き方をやめて、神のもとに立ち返りなさい。なぜなら、神の国を体現なさる方が来られるからだ。その方を通して、あなたたちは神の国に迎え入れられることになるのだ」という意味になります。
さて、洗礼者ヨハネのもとに集まってきた大勢の人たちは、まだイエス様のことを知らないので、彼のスローガンを聞いた時、ああ、この世の終わりがすぐ来る、今ある天と地が預言の言った通りに新しい天と地に取って替われる日がすぐ来る、と理解したようです。そのような終わりの日はまた、預言書に基づき、神が人類全てに裁きを行う日であるとも理解されていました(イザヤ書24章21-22節、26章20-21節)。実際、ヨハネは、特にファリサイ派やサドカイ派というユダヤ教社会の宗教エリートの人たちには手厳しく、蝮の子らよ、お前たちは神の怒りから免れると思っているのか、お前たちは、斧が根元に置かれた木と同じで、良い実を結ばない木だから、切り倒されて火に投げ込まれてしまうんだぞ、などと非難します。人々は神の怒りと裁きから免れるために、神に対する罪と不従順を赦してもらわなければならないと考えたのは無理もありません。皆こぞって洗礼者ヨハネに洗礼を授けてもらおうと彼のもとに集まってきました。そして、洗礼に際しては罪を告白したのです(6節)。
どうしてヨハネの洗礼と罪の赦しが結びついたのでしょうか?当時のユダヤ教社会には、水を用いた清めの儀式がありました。ヨハネの洗礼は、一見清めの儀式に似ているところがありますが、実は大きく異なるものでした。皆様もご記憶にあるかと思いますが、マルコ7章の初めに、イエス様と律法学者・ファリサイ派との論争があります。そこでの大問題は、何が人間を不浄のものにして神聖な神から切り離された状態にしてしまうか、という論争でした。ファリサイ派が特に重視した宗教的行為に食前の手の清め、人が多く集まる所から帰った後の身の清め、食器等の清め等がありました。それらの目的は、外的な汚れが人の内部に入り込んで人を汚してしまわないようにすることでした。興味深いことに、これらの水を用いる清めの儀式も、ギリシャ語では洗礼を意味するのと同じ言葉βαπτιζω、βαπτισμοςが使われています(マルコ7章4節)。つまり、これらの清めの儀式も洗礼の一種なのであります。しかし、イエス様は、いくらこうした宗教的な清めの儀式を行って人間内部に汚れが入り込まないようにしようとしても無駄である、人間を内部から汚しているのは人間内部に宿っている諸々の悪い性向なのだから、と教えるのです。つまり、人間の存在そのものが神の神聖さに相反する汚れに満ちている、というのであります。当時、人間が「神のもとへの立ち返り」をしようとして手がかりになるものは、十戒をはじめとする律法と呼ばれる様々な掟や様々な宗教的な儀式でした。しかし、律法を外面的に守っても、宗教的な儀式を積んでも、内面的には何も変わらないのだ、神の意思の実現・体現には程遠く、神の国への迎え入れを保証するものではないのだ、とイエス様は教えるのであります。
人間が自分の力で不従順と罪の汚れを除去できないとすれば、どうすればいいのか?除去できないと、この世から死んだ後、自分を造られた方のもとに永遠に戻ることはできません。何をもって「神のもとへの立ち返り」の手がかりにしたらよいのか?この大問題に対する神の解決策はこうでした。御自分のひとり子をこの世に送り、本来は人間が背負うべき不従順と罪の呪いをそのひとり子に負わせて、十字架の上で死なせ、その身代わりに免じて人間を赦す、というものです。人間は誰でも、ひとり子を犠牲に用いた神の解決策がまさに自分のためになされたのだとわかって、そのひとり子イエスを自分の救い主と信じ、洗礼を受けることで、この罪の赦しの救いを受け取ることができます。使徒パウロが教えるように、人間は、洗礼を受けることで、不従順と罪に満ちたままイエス様の神聖さを頭から被せられる、イエス様を衣のように着せられるのであります(ガラテア3章27節、ローマ13章14節、さらにエフェソ4章23-24節とコロサイ3章9-10節では、着せられるのは霊に結びつく新しい人となっています)。
ところで、ヨハネの洗礼は、まだイエス様の十字架と復活の出来事が起きる前のものです。神が人間に与えるものとしての、罪の赦しはまだ実現していません。そうですから、ヨハネから洗礼を受けても、それは、人間を神のもとへの立ち返りに向かわせるきっかけか出発点のようなものです。これに対して、人間が神の国に迎え入れられることを確実にするような完璧な罪の赦しが必要です。それが、前述したイエス様の身代わりの死がもたらした罪の赦しです。ヨハネは、イエス様が設定する洗礼は聖霊と火を伴うと預言します。キリスト信仰では、洗礼を通して神からの霊、聖霊が与えられると信じます。火を伴う、というのは、金銀が火で精錬されるように(ゼカリヤ13章9節、イザヤ1章25節、マラキ3章2-3節)、罪からの浄化を意味します。洗礼を受けても、人間は肉を纏う以上は、罪を内在させていますが、洗礼を受けることで、人間は罪の赦しの救いを受け取る者となり、罪を内在させてはいても、信仰にとどまる限り、罪自体には人間を神の国から引き離す力は消滅している。その意味で人間は罪から浄化されているのであります。
こうして人間は、神の国に迎え入れられる道に置かれて、その道を歩むこととなりました。そして、順境の時にも逆境の時にも常に造り主の神から守りと良い導きを得られてこの世の人生を歩むようになり、万が一この世から死ぬことがあっても、永遠に造り主のもとに戻ることができるようになったのであります。このようなはかりしれない恵みと愛の業を私たちに成し遂げて下さった神は、とこしえにほめたたえられますように。
完全な罪の赦しの救いをもたらす洗礼ではなかったけれども、ヨハネが人々に自分の洗礼を呼びかけたというのは、ファリサイ派が唱道する清めの儀式では神のもとに立ち返ることなどできない、それほど人間は汚れきっている存在である、むしろその汚れきっていることを認めることから出発せよ、そうすることで、人間は、もうすぐ実現することになる罪の奴隷状態からの解放を全身全霊で受け入れられる器になれる、ということであります。まさに、預言者イザヤが述べたように、道を平らにする、まっすぐにする、ということなのであります。人間の掟で汚れが無くなると言うなら、もう神が実現する救いはいらなくなってしまう。それでは、道は整えられず、でこぼこはそのままなのであります。
以上のようなわけで、人間は、イエス様の十字架と復活の出来事をもって、「神のもとへ立ち返る」生き方ができる手がかりを得ることができました。それは、律法を外面的に守ることに専念したり、宗教的儀式を積むことではなくなりました。そうではなくて、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けること、そうして、まだ肉に内在し罪に結びつく古い人を日々死に引き渡し、洗礼によって植えつけられた聖霊に結びつく新しい人を日々育てること。これが、「神のもとに立ち返る」道を歩むことであります。これが、ヨハネが結びなさいと言った「悔い改めにふさわしい実」、「良い実」であります。「悔い改め」とは本説教では「神のもとに立ち返ること」でありますから、「神のもとへの立ち返りにふさわしい実」であります。
もう少し具体的に言うと、あるキリスト信仰者が、一生懸命の努力とお祈りをもって何か事業に成功して、お金持ちになったり名声を博したりしたとします。「良い実」というのは、この成果のことではありません。この人が、この成果を自分のためにではなく、神の意思に沿うように用いようとすること、つまり神を全身全霊で愛することと、隣人を自分を愛するが如く愛することとに沿うように用いようとすること、これが「良い実」であります。ある信仰者は、別に事業も起こさず、お金持ちにも有名にもならない、とします。もしその人に伴侶がいれば、こんな至らぬ自分にも神は顧みて伴侶を与えて下さったのだと感謝して、神の愛と恵みが満ち溢れるような家庭を築いて行こうとすること。また子供がいれば、こんな至らぬ自分にも神は顧みて子供を授けて下さったのだと感謝して、子供にも神の愛と恵みが伝わるように育てていこうとすること。これが「良い実」であります。また、不運にも病の床について、事業も起こせず、家庭も通常通りに築いていけない場合、このような境遇にあっても、大勢の方の気遣いと祈りに支えられて生きることができるくらい神は顧みて下さると感謝すること。そして、自分も、自分自身のことに加えて、出来るだけ多くの人たちのためにお祈りをすること。これが「良い実」であります。
本日は、聖霊降臨後最終主日です。キリスト教会の暦の一年は今週で終わり、教会の新年は来週の待降節第一主日で始まります。待降節に入れば、私たちの心は、神の御子が人間となってこの世に来たクリスマスに向けられます。私たちは、2000年近い昔の遥か遠い国の家畜小屋の飼い葉桶に寝かせられた赤子のイエス様の誕生をお祝いし、救世主をこのようなみすぼらしい形で送られた神の計画に驚きつつも、その人知では計り知れない深い愛に感謝します。
ところで、この教会の暦の最後の主日ですが、北欧諸国のルター派教会では、「裁きの主日」と呼ばれます。「裁き」というのは、この世が終わる時にイエス・キリストが再び、今度は栄光に包まれて天使の軍勢を従えてやって来ること、そして、私たちも使徒信条や二ケア信条に基づいて信仰告白するように、この再臨の主が「生きている人と死んだ人を裁く」ことを指します。つまり、最後の審判のことです。その日はまた、死者の復活が起きる日でもあります。実に、私たちは、主の最初のみすぼらしい降臨と次に来る栄光に満ちた再臨の間の時代を生きていることになります。私たちは、クリスマスを毎年お祝いするたびに、一番初めのクリスマスの時から遠ざかっていきますが、その分、主の再臨の日に一年一年近づいていることになります。その日がいつであるかは、マルコ13章32節でイエス様が言われるように、天の父なる神以外には誰にも知らされていないので、主の再臨の日、この世の終わりの日、最後の審判の日、死者の復活の日がいつなのかは誰もわかりません。そのため、イエス様は、その日がいつ来ても大丈夫なように心の準備をしていなさい、目を覚まして祈りなさいと教えられるのです(34-38節)。
このように、教会の一年の最後の日を「裁きの主日」と定めることで、北欧のルター派教会では、この日、最後の審判の日に今一度、心を向けて、いま自分は復活の命、永遠の命に至る道を歩んでいるかどうか、各自、自分の信仰生活を振り返る日であり、もし霊的に寝ぼけていたとわかれば目を覚ます日であります。そういうわけで、本説教でも、そのような自省の心を持って、本日の福音書の箇所の解き明かしを行っていきたいと思います。
本日の福音書の箇所は、ルカ福音書21章5節から始まって章の終わりまで続くイエス様の預言の一部です。預言の内容は少し複雑です。というのは、イエス様の十字架と復活の後にユダヤの地を中心として起きる出来事と、もっと遠い将来に人類全体に起こる出来事の二つの預言が入り交ざっているからです。
預言をはじめからみていきますと、まず、イエス様と一緒にいた人たちが、エルサレムの神殿の壮大さに感嘆します。それに対してイエス様は、神殿が跡形もなく破壊される日が来ると預言されます(6節)。これは、実際にこの時から約40年後の西暦70年に、ローマ帝国の大軍によるエルサレム破壊が起きてその通りになります。イエス様の預言がとても気になった人たちは、いつ神殿の破壊が起きるのか、その時には何か前兆があるのか、と尋ねます。それに対する答えとして、イエス様の詳しい預言が語られていきます。
まず、偽キリスト、偽救世主が大勢現れ、人々を誤った道に導くことが起きるので、彼らに惑わされてはならない、つき従ってはならない、と注意を喚起します。どうしてそういう偽救世主が現れるかというと、人々は戦争をはじめ何か心を不安に陥れるような出来事を多く耳にするようになり、この先どうなるだろうか、自分は大丈夫だろうか、と心配になる。そうなると、偽救世主たちにとってはまたとない機会で、自分についてくれば何も心配はないと言う。それで人々はそういう不安の時代になると偽救世主に従いやすいということです。そういうわけで、偽救世主は、不安の時代になると、8節にあるように、この世の終わりの時が近づいたなどと不安を煽るのですが、イエス様は、こうした不安の時代にどう向き合ったらいいかということを9節で述べます。こうした出来事は終わりの序曲として必ず起こることではあるけれども、これらが起きたからと言って、すぐ終わりの時になるのではない。この世の終わりでない以上は、偽救世主に助けを求める位に不安に陥る必要はないのだ、と。それで、イエス様は、不安の時代になっても「おびえてはならない」と私たちに命じるのであります。
その不安の時代に起こることについて、イエス様は具体的に述べます。民族と民族、王国と王国つまり国家と国家がお互いに衝突し合う。つまり戦争です。それから、世界各地に起きる大地震、飢饉、疫病。さらに、天体に現れる恐ろしい現象や大きな徴候、これは彗星や隕石の落下を意味するのでしょうか。こうしたことが起きてくると、人々は不安に陥り、それらの災難や心の不安から逃れられようとして偽救世主に頼ろうとする。しかし、イエス様は、これらのことはこの世の終わりに先行するものではあるが、これらに続いてすぐ終わりが来るのではない。だから、これらのことが起きても、おびえる必要はない。イエス・キリストに結びついた者であれば、この世の終わりが来ても、それは今の世から次の世の神の国へ移行する時にすぎず、その時まで、そしてその時にも、主が手をしっかり取って守って下さるから心配する必要はない、ということであります。
以上は、この世の終わりが来る前に必ず起こる不安と災難の時代でした。ところが、12節で、順番が逆戻りして、今度は不安と災難の時代の前に起こることについて話されます。キリスト信仰者に対する迫害がそれです。キリスト信仰に反対する権力者によって信仰者が連行されて、権力者に対して申し開きをしなければならなくなる。その時、信仰者がなすべきことは、これは実は信仰を証する絶好の機会だと捉えること、自分はこう弁明しようと前もってあれこれ考えずに、主が誰も反論できないような言葉と知恵を与えて下さるから、その通りに話せばよいということです。迫害の中で最も痛々しいのは、権力者からくるものならともかく、親兄弟、親族、友人からも裏切られて、それがもとで命を落とすこともあるということです。イエス様の名前のせいで、それほどまでに憎まれてしまうということです。しかし、そのような時でも、信仰者が忘れてはならないことがある。それは、お前たちの髪の毛の一本たりとも失われることはない。つまり、全ての人から見捨てられ見放されても、信仰者は頭のてっぺんから足のつま先まで神の目の中にしっかりおさまっている、神はお前たちから一寸たりとも目を離すことはない。お前たちに起こることは全て漏れることなく詳細に記録されている、ということであります。それがわかれば試練の中でも忍耐できるのだ。そのように忍耐できれば、お前たちは試練を生き抜く力を持てるのだ(19節εν τη υπομονη υμων κτησασθε τας ψυχας υμων)。
迫害の次にエルサレムの滅亡が預言されます。これは20節から24節までで、本日の福音書の箇所から外れますが、本日の箇所の初めで人々は、エルサレムの神殿の破壊はいつあるのか、その前兆は何かと聞きました。イエス様の答えは、不安と災難の時代が来るが、その前に迫害の時代があり、その後でエルサレムの破壊が来ると言いました。エルサレムの町が破壊されるということは、その中にある神殿も破壊されるということなので、町の破壊の預言をもって人々の質問に一応答えたことになります。先ほど申しましたように、エルサレムの町と神殿の破壊は西暦70年に起こりました。
しかしながら、イエス様の預言は、エルサレムの破壊のところで終わりませんでした。先ほどの不安と災難の時代の預言のところで、これらのことが最初に起こらなければならないが、それをもってすぐこの世の終わりが来るのではない、と言われました。イエス様の主眼は、この世の終わりにあるのです。イエス様は、不安と災難と迫害の時代がエルサレムの破壊の前にも起こるけれども、その後にも起こって、そこから世の終わりが始まっていくのだと教えているのです。そこで、この世の終わりそのものについて、25節から28節で預言されます。太陽と月と星に徴候が現れる。つまり天体に異常が生じる。それから、地上でも海が「どよめき荒れ狂う」異常事態になり、諸国民はなすすべもなく悩み苦しみ、世界に何が起きるのか死ぬほど不安になる。文字通り天体が揺り動かされる。まさにそのような時、主が再臨するのであります。
太陽や月を含めた天体に大変動が起きるというイエス様の預言は、イザヤ書13章10節や34章4節(他にヨエル書2章10節)にある預言を念頭に置いています。天体の大変動というのは、実は、今あるものが新しいものにとってかわるということであります。同じイザヤ書の65章17節で神は、「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する」と言い、66章22節で「わたしの造る新しい天と新しい地がわたしの前に長く続くようにあなたたちの子孫とあなたたちの名も長く続く」と約束されます。今ある天と地が新しいものにとってかわる時、そこに永遠に残るのは神の国だけになるということが、「ヘブライ人への手紙」12章26-28節に述べられています。「(神は)次のように約束しておられます。『わたしはもう一度、地だけではなく天をも揺り動かそう。』この『もう一度』は、揺り動かされないものが存続するために、揺り動かされるものが、造られたものとして取り除かれることを示しています。このように、わたしたちは揺り動かされることのない御国を受けているのですから、感謝しよう。」
ルカ21章28節で、イエス様は、天変地異、天体の大変動の時に再臨される時こそ、キリスト信仰者にとって「解放の時」であると言っています。それは、先ほども述べましたが、イエス・キリストに結びついた者にとって、この世の終わり時とは、今の世から次の世の神の国へ移行する時にすぎないからです。
さて、エルサレムの神殿の破壊は実際に起こったし、その前兆である戦争や迫害も起きました。しかし、天地創造以来とも言える天変地異、天体の大変動はまだ起きていません。エルサレムの神殿の破壊からもう1900年以上たちましたが、その間、戦争や大地震や偽救世主は歴史上枚挙にいとまがありません。キリスト教迫害も、過去の歴史に大規模のものがいくつもありましたが、現代においても世界の地域によっては迫害が続いているところはちゃんとあります。歴史上、そういうことが多く起きたり、また重なって起きたりする時には、いよいよこの世の終わりか、イエス・キリストの再臨が近いのか、と期待されたり心配されるということがたびたびありました。しかし、その度に天体の大変動もなく、主の再臨もなく、世界はやり過ごしてきました。イエス様が預言したことが起きるのは、まだまだ先なのでしょうか?それとも、1900年の年月の経験からみて、もう起こりそうもないという結論してもいいのでしょうか?
よく考えてみると、少なくとも天体の大変動がいつかは起こるというのは否定できません。まず、皆さんもご存知のように、太陽には寿命があります。つまり、太陽には初めと終わりがあるのです。水素を核融合させて光と熱を放っている太陽は、あと50億年くらいすると大膨張をして、燃え尽きると言われています。膨張などされたら、地球などすぐ焼けただれてしまうでしょう。50億年というのは気の遠くなる年月ですが、それでも旧約聖書やイエス様が預言するように「太陽が暗くなる」ということは起こるのです。また、50億年待たなくても、もっと以前に、例えば大きな隕石とか彗星などが現れて地球に衝突すれば、それこそ地球誕生以来の大災難となりましょう。こういう天体や自然のような人間の力では及ばない現象による大災難に加えて、人間が自ら招く大災難も起こりえます。近年よく言われる温暖化やオゾン層破壊など、もし人類が環境破壊を止めることができなければ、いずれは地球の生命の存続に取り返しのつかないことになってしまうでしょう。また、1990年代に東西冷戦が終わって後は以前ほど大きく取り上げられなくなりましたが、核戦争の脅威は依然としてあります。世界の核兵器保有国の破壊力を合計すると、地球全部を焼野原にして死の灰で満たしてしまう量の何倍もの核兵器がいまだに存在しているのであります。そして、一度事故を起こすと収拾がつかなくなって人体や環境を深刻に損なう原子力発電所が果たしていつも無事故でいられるかどうか。多くの人たちは福島の悲劇でもう十分だと思い、別の人たちはまだまだやれる大丈夫だと思っている現実があります。
この世の終わりということに関して、私が中学生の頃、「ノストラダムスの大予言」という本がベストセラーになりました。それによると、人類は1999年、つまり14年前に滅亡するということでした。ノストラダムスというのは16世紀のフランスの医者で、予言したことが的中するということで注目を集め、宮廷にも出入りしていたという人で、彼の書いた詩の形の予言が、その後の世界史の大事件を見事に言い当てていると言われてきました。もちろん、1999年人類滅亡説は当たらなかったのですが、当時私は本を買って読みました。読んで戦慄を覚えた後、何ともいいようのない無力感に襲われました。ちょうど読んだ時期が高校受験を控えた中学三年だったので折が悪く、どうせ滅亡してしまうのなら、何を一生懸命やっても意味がないのではないか、などと思ったのでした。それでも、結局は一生懸命に戻っていったのですが、それは、やはり世の中のシステムというか歯車は頑丈にできていて、いくらベストセラーが個々人の心に動揺をもたらしても、それはびくともせず、自分も含めて大人も学生も皆、そのシステムや歯車に乗ることで日常の生活を続けることができたのではないかと思います。しかし、そのようなシステムや歯車があらゆる衝撃に耐えうる完璧なものであるという保証はありません。イエス様の預言は、そこを突くものであると言うことができます。
そうなると、キリスト信仰というものは、あらゆるシステムや歯車を粉砕してしまうような、人類や地球の存亡にかかわる危機を視野においているので、信仰者を無力感に陥れるものなのでしょうか?キリスト信仰とは、全くそうならないものである、と私が感じたのは、まだキリスト教徒になる前の大学生の頃、宗教改革のルターが言ったという言葉を聞いた時でした。これはルター本人が言ったかどうか議論があるようですが、仮にルター本人の言葉でなくても、ルターの信仰を見事に言い表していると言われています。ルターはある人に「明日、世界が滅亡するとわかったら、どうしますか?」と聞かれ、次のように答えたということです。「それでも、私は今日リンゴの木を植えて育て始める」と。これを聞いた私は、ひょっとしたら自分の生きている時代にこの世の終わりが来るという可能性から目をそらさずに生きているにもかかわらず、無力感に陥らないで自分の置かれた境遇にしっかりとどまり、そこでの課題に取り組むことができるというのは、なんと素晴らしいことかと感動したのを今でも覚えています。キリスト信仰の何が人をしてそのような心意気にしていくのだろうか、と興味も持ちました。今、一人のキリスト教徒として、そのことについて述べてみたいと思います。
近年、日本では、エンディングノートという言葉がよく聞かれます。高齢者の方が、自分が死亡した場合とか判断能力を失う病気にかかった場合に備えて、家族の人たちにどうしてほしいかと希望を書き留めるものです。実際に書いた方の感想などを新聞で見ますと、書いた後は一日一日を自覚的に生きるようになったというようなものを見受けました。ノートを書き留めること自体、近々自分には人生の終わりが来ると自分で認めることになりますから、自分で認めることができれば、残された時間も同じように自分でかじ取りする時間となり、それが残り少ないとわかれば、もうそれは貴重なものと自覚され、無駄にはできない、大切に使おうということになるのではないかと思います。
キリスト信仰にも、少し似たようなところがあると思います。この世には、はじまりがあったように終わりがある、その終わりは自分の生きている時代かその後かいつかはわからないがいつかは来る、その意味で今生きている時間は貴重な、無駄にはできない大切な時間になるということになります。しかし、キリスト信仰の心意気が、エンディングノートの効果と違う点は、ノートの場合は、残された時間を自覚的に生きるという時に、死んだ後のことは特に視野に入れないのではないかと思います。キリスト信仰では、それが生きている時にもう視野に入っているのであります。なぜそうなるかと言うと、キリスト信仰では、まず自分には造り主がいるということが大前提にあるからです。その造り主との関係は最初の人間の罪と不従順で壊れてしまい、人間は神のもとで永遠に暮らすことができなくなってしまいました。しかし、神はそれを再興しようとして、独り子イエス様をこの世に送られ、彼に十字架の上で人間の罪と不従順の罰を全て受けさせて、その犠牲に免じて人間を赦すことにしました。さらにイエス様を死から復活させることで、死を超える永遠の命の扉を人間のために開かれました。人間は、このイエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで、神との結びつきが回復し、この世の人生において復活の命、永遠の命に至る道を歩み始め、この世から死んだ後は、永遠に造り主のもとに戻れるようになりました。このように、キリスト信仰では、自分が死んだ後で自分はどこに行くかがはっきりしていて、信仰者になることでそれがその人に確定されるのです。そうなると、この世の人生というものは、この世を生きなさいと命と人生を与えて下さった造り主である神の御心を知ろう、そしてそれに沿うように生きていこうというものになっていきます。この世の人生の終わりの時を定められたからと言って、無力感に陥ったり投げやりになったりするなどというのは思いもよらないことです。自分に与えられたこの世の人生の期間がどれくらいの長さかはわからないが、長短は問題ではない。与えられた期間を、神に対して自覚的に生きる、永遠の命に心を向けて自覚的に生きる、ということであります。このことは、先に来るのがこの世の終わりであろうが、自分の人生の終わりであろうが、同じなのであります。
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
本日の福音書の箇所は、復活という、キリスト信仰の中で最も大切な事の一つについてしっかり理解しなさい、と私たちに注意を促すところです。この箇所の解き明しに入る前に、これに関連したお話をひとついたしたく思います。
去る11月2日土曜日にスオミ教会は10年振りくらいに修養会を行いまして、立川にある昭和記念公園に行ってきました。大空の下での聖書の学びのテーマは、「人間は死んだらどこに行くのか?聖書はどう教えているのか?」でした。そこで、私は、人間が死んだらどこに行くのかという問題を考える時、キリスト信仰にあっては、復活ということを離れてはありえない、と強調しました。復活と言えば、まず、主イエス様の復活の出来事が私たちの頭に浮かびます。それから、イエス様を救い主と信じる信仰に生きる者たちが与る復活があります。その復活について、使徒パウロは「コリント第一の手紙」の15章の中で詳細に教えています。「蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活する(43節)」という彼の言葉は、キリスト信仰者にとって希望とは死を超えるものを意味することを示しています。
ところで、復活を理解する際に忘れてはならないことの一つとして、復活は将来のある特定の時期に一括して起きるということがあります。つまり、復活とは、キリスト信仰者が一人死ぬたびに起きるのではなく、将来のある時にまとめて一緒に起きるということです。その将来の時とは、今ある天と地が消え去って新しい天と地にとってかわれる日(イザヤ65章17節、66章22節、黙示録20章11節、22章1節)であり、また、今ある全ての被造物が揺るがされて除去され、かわりに唯一揺るがされずに残る神の国が現れる日(「ヘブライ人への手紙」12章27-28節)でもあります。そういう天地大変動の日に、死んでいた者が復活させられて、神の王座を裁判官席とする裁判が行われます。黙示録20章11-15節に従えば、そこで下される判決によって、ある者は神の国に迎え入れられますが、別の者は永遠に燃えさかる火の海に投げ込まれます(注意 黙示録20章全体をみれば、これは第二の復活ということになり、第一の復活が起きてから千年後に起きることになっています)。
以上から、復活の日、天地大変動の日、最後の審判の日はみな同じ日を指すことが明らかになりました。そういうわけで、私たちが礼拝の信仰告白の時に、「信じます」と口で公にしている死者の復活とは、将来に一括して起きることであり、人間一人一人死ぬたびに起きることではないのであります。
それでは、既に死んだ人たちは、将来起きる復活の日まではどこで何をしているのか?例えば、復活の日が2073年に来ると仮定した場合、1873年に亡くなった人は、今年までの140年間をどこで過ごしていたのか?これからの60年間をどう過ごすのか?この疑問に対する申し分ない答えが、ルターの教えの中にあります。マタイ9章24節でイエス様が会堂長の娘を生き返らせる時に述べた言葉「娘は死んでいない。眠っているだけだ」について、ルターが次のように解き明しています。
「我々は、我々の死というものを正しく理解しなければならない。不信心者が恐れるように、それを恐れてはならない。キリストとしっかり結びついている者にとっては、死とは、全てを滅ぼしつくすような死ではなく、素晴らしくて優しい、そして短い睡眠なのである。その時、我々は休憩用の寝台に横たわって一時休むだけで、別れを告げた世にあったあらゆる苦しみや罪からも、また全てを滅ぼしつくす死からも完全に解放されているのである。そして、神が我々を目覚めさせる時が来る。その時、神は、我々を愛する子として永遠の栄光と喜びの中に招き入れて下さるのである。
死が一時の睡眠である以上、我々は、そのまま眠りっぱなしでは終わらないと知っている。我々は、もう一度眠りから目覚めて生き始めるのである。眠っていた時間というものも、我々からみて、あれ、ちょっと前に眠りこけてしまったな、としか思えない位に短くしか感じられないであろう。この世から死ぬという時に、なぜこんなに素晴らしいひと眠りを怯えて怖がっていたのかと、きっと恥じ入るであろう。我々は、瞬きした一瞬に、完全に健康な者として、元気に溢れた者として、そして清められて栄光に輝く体をもって、墓から飛び出し、天上の雲にいます我々の主、救い主に迎えられるのである。
我々は、喜んで、そして安心して、我々の救い主、贖い主に我々の魂、体、命の全てを委ねよう。主は御自分の言葉に忠実な方なのだ。我々は、この世で夜、床に入って眠りにつく時、命を主に委ねるではないか。我々は、主に委ねた命は失われることがなく、眠っていた間、主のもとで安全なところでよく守られ、朝に再び主の手から返していただいていたことを知っている。この世から死ぬ時も全く同じである。」
以上から明らかなことは、キリスト信仰者にあっては、死んだ時から復活の日までは神のみが知る場所にいて眠っているということであります。1873年に亡くなった人は、今年に至るまで140年間、神のみが知る場所で眠っていたのであり、2073年に復活の日が起きると仮定した場合、あと60年間そこで眠っているのであります。そうすると200年も眠っていて大丈夫か、途中で起きたらどうするんだ、というような余計な心配が起きるかもしれません。ルターによれば、地上に残った人たちにとっては長い年月でも、眠っている本人にとっては、目をつぶって次に開けるまではほんの一瞬の出来事にしかすぎないのであります。理解を超える話のようでありますが、このようなことは実は、皆様の中で全身麻酔の手術をお受けになったことのある人がいらっしゃいましたら、ありうることだと思われるのではないでしょうか?
以上のようなことを、スオミ教会の修養会でお話しした次第です。参加者の人たちとの間で興味深い話が始まりました。日本では一般的に、人間は死んだらすぐ、天国か何かわからないがどこか高いところに舞い上がって、今、そこから私たちを見守ってくれている、という考え方をする人が多いのではないかと思います。キリスト信仰者の中にもそういう言い方をする人がみられます。しかし、キリスト信仰においては、そんなことはありえないのであります。死んだ人は今、神のみぞ知る場所で眠っているのであります。高いところに行くのは、将来のことで、その日、その高いところから地上を見下ろしても、その時はもう天地大変動の後で、今ある地上はもう存在しないのであります。
死んだ人がただ眠ってしまうだけなら、誰があの世から見守ってくれるのかと心配する向きもあるかもしれません。おそらく仏教の方はそれが心配事になるのではないでしょうか。死んだ人が眠ってしまい、食べもせず飲みも歩きもしないのなら、お供えものをする必要がなくなってしまうからです。キリスト信仰では、見守って下さる方は、亡くなった者ではなく、それはもう、天と地と人間を造られた創造の神しかいないのであります。この私たちを見守って下さるのは私たちの造り主である神であり、この方が、私たちの仕えるべき相手なのです。
修養会では他にもいろいろなことを話しあったのですが、終わりに一つ興味深い質問が出されました。死んだ人たちは今、神のみぞ知るところで眠っているとすると、天国はまだ空っぽなのか?もちろん、神自身はおられるだろう。そして、イエス様も神の右に座しておられるだろう。では、本日の福音書の箇所で、神がアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼ばれ、神は生きている者の神である、と言われているのは、この三人に関しては、将来の復活の日を待たずして一足先に復活させられて既に天国にいる、ということなのか?その時、私は、そう考えるのが妥当なのではないかとお答えしたのですが、自分でも100%確かな気持ちではありませんでした。その質問の再考も視野にいれて、本日の福音書の箇所の解き明しに入っていこうと思います。
まず、サドカイ派というユダヤ教社会のグループの人たちがイエス様を陥れようと議論を吹っかけてきます。サドカイ派というのは、エルサレムの神殿の祭司を中心とする貴族階級のエリート・グループです。彼らは、旧約聖書のうちモーセ五書を重要視していました。イザヤ書とかダニエル書のような預言書をないがしろにしていれば、当然、そこに言われている復活ということにも目がいかなくなります。サドカイ派にとっては、神殿で犠牲の生け贄を捧げる礼拝を守っていれば、神と人間の関係はちゃんと保たれている、ということになります。彼らにとって、神と人間の関係はこの世限りのものですので、死を超えて関係が永遠に続くために復活があるということは考える必要も可能性もなかったのです。
そのサドカイ派の人たちが、イエス様の教えが間違っていることを人前で示そうとして復活をテーマに持ち出しました。同じ女性と結婚した7人兄弟の話です。申命記25章5節に、夫が子供を残さずに死んだ場合は、その兄弟がその妻を娶って子供を残さなければならないという掟があります。7人兄弟はこの掟に従って順々に同じ女性を娶ったが、7人に続いてこの女性も死んでしまった。さて、復活の日にみんながよみがえった時、女性は一体誰の妻なのだろうか?7人の男が同時に一人の女性と関係を結ぶとすれば、これは娼婦も同然であり、十戒の第六の掟に反することになります。このように、サドカイ派の人たちは自分たちが得意とするモーセ律法を用いて、復活は律法違反をもたらす思想だ、これでも復活はあると言うのか、とイエス様に迫ったのであります。実に巧妙な論法です。
これに対するイエス様の答えは、サドカイ派の論点も論法も見事に粉砕するものでした。イエス様の答えは、二つの部分からなっています。最初の部分をみてみます。人間は復活すると、この世での有り様と全く異なる有り様になる、それで、嫁を迎えるとか夫に嫁ぐとかいうことをしない存在になる。つまり、サドカイ派は、人間は復活した後も今の世の有り様と同じだと考えているが、そこが根本的に間違っているということを指摘します。それでは、復活した者はどんな有り様になるのかと言うと、まず、いることになる場所が、今ある天と地が過ぎ去った後に来る新しい天と地の下にある次の世であるということ。そして、復活した者はもう死ぬことがなく、天使のような霊的な存在になるということ。一言で言い表せば、復活に与る者は「神の子」(36節)そのものなのである。そういうわけで、復活した者は、誰を嫁に迎えようか、誰に嫁ごうか、誰に子供を残そうか、そういう人間同士の事柄に心と身体と神経を費やす存在ではなくなって、神に対して、神のために生きる「神の子」なのであります。この、復活した者が「神に対して、神のために生きる」ということは、あとでとても大事なことになってきます。
以上が、イエス様の答えの第一のポイントでした。サドカイ派は復活と言うものを正しく理解していない。だから、女性は7人兄弟の誰の妻になるのか、などというとんちんかんな質問をするのだ。復活を正しく理解していれば、そんな質問は考えつかないものなのに、的を外しているのもはなはだしい、ということであります。
イエス様の答えの第二のポイントは、死者の復活があることは、サドカイ派の皆さんが大変よく知っているモーセ五書にも書いてありますよ、知らなかったんですか、と相手の盲点を突くものです。イエス様は、出エジプト記3章6節で、神がモーセに対して、自分はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であると名乗り出るところを指摘します。モーセから見れば、アブラハムもイサクもヤコブもとっくの昔に死んで既にいなくなった人たちなのに、神は、彼らがさも存在しているかのように自分は彼らの神である、と言うのです。イエス様はここでたたみ掛けます。「神は死んだ者の神ではなく生きている者の神なのだ」(38節)。つまり、アブラハムたちは生きているのであり、それはこの世の有り様とは異なる存在をしているのだということであります。そういうわけで、「神は生きている者の神である」というのは、「神は死んだ後で永遠に生きる者の神」なのであります。
ここで、アブラハム、イサク、ヤコブがもう一足先に復活して天の御国にいるのかどうかという問題について。これは大変難しいです。そうともとれるし、また、彼らも今、神のみぞ知る場所で眠っているが、復活した後は神の御国に迎え入れられて永遠に生きることが保証されている。つまり、今はまだ永遠に生きてはいないが、永遠に生きることが確実視されている、そう考えることも可能でしょう。私は、個人的には、もう復活しているのではないかとの印象が拭えないのですが、ここでは無理に結論は出さず、いつか私たちが復活して神の御国に迎え入れられたら、直接アブラハムに聞いてみましょう。
イエス様の答えの最後の言葉「すべての人は、神によって生きているからである」、これはまずい訳です。「神によって」と訳されている元の言葉は、ギリシャ語の文法で人称代名詞・三人称・男性・単数・与格のαυτωがありますが、これは「~によって」と訳さずに、素直に「~に対して」とか「~のために」と訳すべきです。そうすると、先ほど、イエス様の答えの第一のポイントのところで申し上げた、「復活した者は神に対して、神のために生きる」というイエス様の論点がここでも繰り返されて結論になるのです。「すべての人」というのは、もちろん復活した人、復活に与る人を指します。
これが、私の勝手な個人訳でないことは、例えば、英語訳のNIVを見てみますと、to him「彼に対して」と言っており、「神によって」とは言っていません。ドイツ語のルター訳ではihmと与格をとっており、Einheitsübersetzungではfür ihn「彼のために」です。皆様にはなじみが薄いかもしれませんが、スウェーデンのルター派教会で使っている聖書では「彼のために」(för honom)、フィンランドの国教会で使っている聖書は「彼のために」でも「彼に対して」でもとれる訳(hänelle)です。このように少なくとも4つの言語で「神によって」と訳しているものはありませんでした。
「すべての人は、神によって生きている」というのは、全ての人間は神によって造られ、神から食べ物や着る物や住む場所を与えられているという真理から見れば、それ自体は正しいことを言っています。しかし、それは、復活について教えている本日の箇所とかみ合いません。そういうわけで、このイエス様の結論は、「復活に与る者は全て、神に対して、神のために生きるのだ。だから、嫁を迎えたり、嫁いだりということが大事な今の世の有り様とは全く異なる有り様をもって、永遠に生きる者となるのだ」ということになります。
サドカイ派の人たちは、自分が得意とするモーセ律法を用いて、イエス様を論破しようとしましたが、逆に論破されてしまい、自分たちこそモーセ律法をちゃんと理解していなかったことを露呈してしまいました。イエス様とサドカイ派の論争を聞いていた律法学者が、「先生、立派なお応えです」と言ったのも無理はありません。
神に対して、神のために生きるということは、復活した人つまり永遠の命を生きる段階に入った人だけがすることなのでしょうか?まだ復活に至っていない私たちは、神に対して、神のために生きるということはないのでしょうか?いいえ、そういうことではありません。私たちは、いかに神の愛と恵みを受けているかがわかれば、私たちも神に対して、神のために生きる者であることがわかります。
キリスト信仰では、人間は誰もが神に造られ、神から命と人生を与えられたということを大前提にしています。この前提に立った時、造られた人間と造り主の神の関係が壊れてしまっている、という大問題が立ちはだかります。創世記3章に記されているように、最初の人間が神に対して不従順に陥り、罪を犯したため、人間は死する存在になります。死ぬというのはまさに罪の報酬である、と使徒パウロが述べている通りです(ローマ6章23節)。このように人間が死ぬということが、人間の造り主である神との関係が壊れている、ということの現れなのであります。
このため神は、人間との結びつきを回復させようと、また、人間がこの世から死んでも再び、今度は永遠に造り主である自分のところに戻れるようにしようとしました。これが救いです。この救いはいかにして可能か?神への不従順と罪が人間の内部に入り込んで、人間と神との関係が壊れてしまったのだから、人間から罪と不従順の汚れを除去しなければならない。しかし、それは不可能なことであります。マルコ7章の初めにイエス様とファリサイ派の有名な論争がありますが、それは、何が人間を不浄のものにして神聖な神から切り離された状態にしてしまうか、という論争でした。イエス様の教えは、いくら宗教的な清めの儀式を行って人間内部に汚れが入り込まないようにしようとしても無駄である、人間を内部から汚しているのは人間内部に宿っている諸々の性向なのだから、というものでした。つまり、人間の存在そのものが神の神聖さに相反する汚れに満ちている、というのであります。
人間が自分の力で不従順と罪の汚れを除去できないとすれば、どうすればいいのか?除去できないと、人間は自分の造り主との結びつきを失ったままで、この世から死んだ後も自分の造り主のもとに永遠に戻ることはできません。この問題に対して神がとった解決策はこうでした。御自分のひとり子をこの世に送り、本来は人間が背負うべき不従順と罪の呪いを全てこのイエス様に負わせて十字架の上で死なせ、その身代わりに免じて人間を赦す、というものです。人間は誰でも、イエス様を犠牲に用いた神の解決がまさに自分のために行われたのだとわかって、そのイエス様を自分の救い主と信じ、洗礼を受けることで、この救いを受け取ることができます。洗礼を受けることで、人間は、不従順と罪が残ったままイエス様の神聖さを頭から被せられます。人間はこのようにして、造り主である神との結びつきを回復し、順境の時にも逆境の時にも常に神から守りと良い導きを得てこの世の人生を歩めるようになり、万が一この世から死ぬことになっても、永遠に自分の造り主のもとに戻ることができるようになったのであります。
これほどのことを、私たち人間のために成し遂げて下さった神に対して、私たちは賛美と感謝以外、捧げようがありません。兄弟姉妹の皆さん、このような計り知れない神の恵みと愛を忘れずに、この世の人生の道を歩んでまいりましょう。神への感謝と賛美を絶やさずに歩む時、私たちは既に、神に対して、神のために生きることを始めているのですから。
本日は、子供祝福式を伴う礼拝ということで、先ほど、子供向けに聖書のお話をしてもらいました。内容は、4つの土地のたとえでした。イエス・キリストの福音を聞いて信じた人たちが、種を蒔かれた4つの異なる土地にたとえられて、福音が種のようにそれぞれに蒔かれました。良い土地のように種がしっかり育って実を結ばせるような土地は、どんな人たちを指すのだろうか、ということを考えました。
今お読みいただいた福音書の箇所は、王様になる人から1ムナという単位のお金を与えられて、王様の留守中に商売をして、どれだけ儲けを得るか試された家来たちの話です。たくさん儲けを得た家来と少ししか得なかった家来、全然儲けを得なかった家来と結果が三つに別れました。王様がそれぞれにどんな態度をとったかは、先ほど読んでいただいた通りの結果でした。最初は同じことが始まるが、終わりに異なる結果が出る、ということで、4つの土地のたとえに似ています。4つの土地の結果はどうして違ってしまったのかは、先ほど見ました。この説教では、どうして儲けを得た家来と得なかった家来の違いがでてしまったのかを見てみましょう。
本日の箇所のイエス様のたとえは、少しわかりにくい教えです。登場する王様は、儲けを得なかった家来のお金を取り上げて、一番儲けた家来にあげてしまいます。儲けを得なかった家来は、王様が不在中、お金をずっと布に包んでしまっていたのですが、それはお金を大切に保管していたことになります。お金は減りもせず、なくなりもしませんでした。でも、王様は大不満足でした。さらに、王様は、自分が王になることを反対する者たちを連れ出して「打ち殺せ」とも命じます。とても残酷な王様にみえます。イエス様は、このたとえで一体何を教えたいのでしょうか?
イエス様がこのたとえを話された理由が、11節に記されています。イエス様が「エルサレムに近づいておられ、人々はすぐにでも神の国が現れると思っていたからである。」どういうことでしょうか?イエス様は、大勢の人たちを伴って、ユダヤ民族にとって首都であるエルサレムに向かっています。人々はイエス様に大きな期待を賭けていました。この方は、無数の奇跡の業を行い、ユダヤ民族の宗教指導者なんかよりも真の神の意思を権威をもって教える方である。昔の偉大な預言者級の方で、この方がエルサレムに入城すれば、神の天使の軍勢が加勢し、イスラエルを占領しているローマ帝国軍を追い払い、占領者と結託している支配層も叩き出して、真の神の国が実現する。そういう期待です。しかし、天と地と人間を造られた神が全人類のために実現しようとしていた計画は、そんな一民族の解放を超えたもっとスケールの大きなものだったのです。
実際に起こったことをみてみましょう。エルサレム入城後、イエス様は宗教指導者と激しく対立し、最後は一弟子に裏切られ、他の弟子にも見捨てられて逮捕され、裁判にかけられて十字架刑に処せされました。それまで付き従っていた人たちも、期待外れだったとイエス様に背を向けました。ところが、死んで墓に葬られたイエス様が、神の力によって三日目に死から復活させられて大勢の人の目の前で神の栄光を現されました。このようにして、神の人間救済計画が実現されたのです。神は、御自分と人間の結びつきを崩していた罪の汚れを全部イエス様に貼り付けて、罪の罰を全部イエス様に負わせて十字架の上で死なせたのです。それで、神はイエス様の身代わりの死に免じて人間を赦すことにしたのです。人間は、イエス様こそ救い主と信じて洗礼を受ければ、この罪の赦しが効力を持つ者となって、神との関係が回復するのです。そして、洗礼によって復活したイエス様にも結び付けられて、永遠の命、復活の命に至る道に置かれて、その道を歩むようになりました。そして、順境の時にも逆境の時にも絶えず神から守りと良い導きを得て、この世の人生を歩むこととなり、万が一この世から死ぬことになっても、父なる神、自分の造り主である神のもとに永遠に戻ることができるようになったのであります。これが、一民族の解放を超えた全人類に及ぶ神の人間救済計画であり、神はそれをイエス様を用いて実現されたのでした。
イエス様は復活されてから40日後に天に上げられ、いつの日か天使の軍勢を従えて地上に再臨するその日まで、天の父なる御神の右に座すこととなりました。そういうわけで、神の国が見える形をとって現われるのは、実はこの主の再臨の日なのであります。イエス様のエルサレム入城の時ではなかったのです。こうしたことは、当時、民族解放の希望に燃えていた人たちにとっては想像もつかないものでした。イエス様が本日のたとえを話されたのは、まさに、神の国の到来は彼らの期待した形をとらない、ということと、神の国の到来まで私たちは何をしなければならないか、ということを教えるために述べたのであります。
少し脇道にそれますが、イエス様のこのたとえは、現実に起きた事件が下地にあります。赤ちゃんのイエス様を殺害しようとしたヘロデという王がいたことは、皆様もご存知の通りです。ヘロデ王が死んだ後、息子の一人アルケラオが父親の領土の一部を受け継いで王となるために、ローマに出かけました。なぜかと言うと、当時ユダヤ民族はローマ帝国に占領されていたので、特定の民族の王になるためにはもっと上の支配者であるローマ皇帝の承認を得なければならなかったからです。アルケラオは「王」ではなく一ランク下の「領主」になって、ユダヤの地に戻ってきました。しかし、話はそこで終わりませんでした。マタイ2章22節にも登場するアルケラオは、残忍な性格だったため人々の反感を買います。そこで、ユダヤ人たちは実際、本日のたとえに出てくる反対者のように、ローマに使い送って皇帝に訴え出て、それが功を奏して、アルケラオは領主の位を失うに至ったのです。
イエス様が、本日のたとえを話されている場所は、エリコというエルサレム近郊の町です(19章1節)。そこにはアルケラオの建てた宮殿も残っていました。それで、出来事から20年以上たったとは言え、イエス様のたとえを聞いた人たちは、アルケラオのことをすぐに思い出したでしょう。しかし、たとえに出てくる王様な失脚しません。帰国すると、反対者を全滅させます。これは何を意味するのか?それは、イエス様が再臨する日までに、イエス様に敵対することをやめなかった者たち、イエス様を救い主と信じる人たちを迫害した者たちが裁かれて、永遠の滅びに落とされることを意味します。つまり、最後の審判のことです。このように、このたとえは、人々がよく知っている出来事に結びつけることで、イエス様の再臨と最後の審判に現実味を帯びさせる効果があるのです。それがイエス様の狙いでありました。
最後の審判の日に、イエス様に敵対することをやめなかった者たちやイエス様を救い主と信じる人々を迫害する者たちが裁かれる、と申しました。私たち信仰者は、そのような敵対に遭遇しても恐れてはいけないし、また、そのような者たちの心が変わるように祈りの力をもって働きかけなければいけません。さらに、まだイエス様のことを何も知らない人たちに対しては福音を宣べ伝えて、神がイエス様を用いて実現した救いを一人でも多くの人が受け取ることができるようにしていかなければなりません。
次に、多く儲けた家来、少なく儲けた家来、全然儲けなかった家来と王様のやりとりが何を意味しているのかを見てまいりましょう。
最初の家来は、王様にもらった1ムナ、それは当時の肉体労働者の100日分の賃金に相当する金額ですが、それが商売をした結果、10ムナの儲けを得ましたと報告する。初めの1ムナは資本ですから、それは商売を起こすために消費されたでしょうから、その人は今現在10ムナを持っていることになります。次に同じ1ムナのお金で5ムナの儲けを得た人が出てきます。二人に対する王様の処遇ですが、日本語訳の聖書では「10の町の支配権を授けよう」と褒美が与えられたように書かれています。しかし、ギリシャ語の原文を見ると、「十の町の支配権を持て/支配権を持つ者となれ」と命令文になっていて、これは褒美をあげることではなく、責任を与えたことになるのです。5ムナの儲けを得た人も同様です。ギリシャ語原文では「5つの町の上に立つ者になれ」で、これは日本語でも「5つの町を治めよ」と命令文に訳されているので大丈夫です。こういうわけで、10の町、5つの町の支配権とは、得た儲けの大きさに比例して褒美を与えたというのではなく、10倍の儲けを得た者にはその実力相応の責任を与える、5倍の儲けを得た者にはそれ相応の責任を与える、ということであります。5倍の儲けの人には10の町の支配権を任せるというような無理は押し付けない。そのかわりに、10倍の儲けの人には5つの町の支配権で済ませるということもしない。このようにイエス様は、私たち一人一人がどれだけの力を持っているかをよく吟味して、それに相応しい課題や任務をお与えになるのです。王様が1ムナを与えた家来は全部で10人いました。他の人たちの成果は触れられていませんが、いずれの人も同じ処遇を受けたでしょう。7ムナを儲けた人には7つの町、3ムナを儲けた人には3つの町という具合に。
ここで大変なことが起こりました。家来の中に儲けが全然なかった人がいたのです。その人は、1ムナをずっと布に包んでしまっておいていました。なぜか?商売に失敗して1ムナを失ってしまった時の王様の対応を恐れたのです。家来は王様に言います。「あなたは預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい方なので、恐ろしかったのです。」あなたは、自分では預けなくとも、それがあるかのごとく取り立てをする、自分では種を蒔かなくとも、蒔かれたかのごとく刈り入れすることを要求する、そういうお方だ、と。つまり、何も取り立てするものがなくても、また刈り入れするものがなくても、取り立てたり刈り入れたりしようとする方だ、と。こうなると、商売に失敗して持ち金ゼロになった場合、それでも取り立てを要求されてしまってはかなわない。それなら、リスクは避けて、1ムナは保管して、後でそのまま返してしまえば無難なのだ、という結論になったのであります。
これに対する王様の処遇はとても厳しいものでした。たとえ勇気ないし知識がなくて商売はできなくとも、銀行に預ければ利子がつくではないか、と。利子ですから、5倍、10倍の儲けは出ることはないでしょう。恐らく、5%とか10%の儲けとかという程度だったでしょう。しかし、王様にはそれでよかったのです。その小さな儲けに相当する責任を負わせることは出来たのです。しかし、儲けゼロではなんの責任も負わせられません。家来が王様のことを、取り立てたり刈り入れたりするものが何もなくてもそうする方だと言ったことに対して、王様は、そう思っているのなら、そうしてやろう、と言わんばかりに、家来の保管していた1ムナを取り上げて、10ムナ持っている家来にあげてしまいます。どうして、既に十分持っている者にさらにあげるのかというと、一番成功した者に対する偏愛ではなく、その者が一番大きな責任を担える能力を持っていると信頼しているからであります。
ここで注意しなければならないことが二つあります。一つは、王様が取り上げた1ムナを一番儲けた人に渡そうとする時、側近たちが「あの人は既に10ムナ持っています」と言います。つまり、王様は、儲けた人からは何も取り立てておらず、所有を許しているのであります。その上で能力相応の責任を与えているのであります。二つ目は、なんらかの理由で商売をしなくとも、預金利子のように必ずや儲けを得る方法はあるということ。すなわち、王様からすれば、家来に与えたお金は、保管さえしないで、何がしかのことをすれば、必ず、責任を担ってもらうような成果は生まれる。たとえどんな小さなものでも成果は生まれるのであり、失われることはない、そのように王様は確信していると言うことができます。
ここで、たとえに出てくる王様、家来そして1ムナというお金は何を意味しているのかを見てみましょう。王様は、紛れもなく、復活後天に上げられて、今、父なる御神の右に座し、最後の審判の日に再臨する主イエス・キリストであります。家来と言うのは、イエス様を救い主と信じるキリスト信仰者であります。ムナという単位のお金についてですが、これは神がキリスト信仰者一人一人に与えられる賜物です。賜物とは、「ローマの信徒への手紙」12章で使徒パウロが、預言をする賜物、奉仕をする賜物、教える賜物、勧めを行う賜物、施しをする賜物、指導をする賜物、慈善を行う賜物などをあげています。どれも教会を作り上げ成長させるためのものですが、この他にも教会の成長に役立つ賜物はいろいろあるでしょう。よく言われるのは、音楽の才能がありますが、例えば、笑顔を絶やさない人がいて、それが教会の雰囲気を明るくするのに資すれば、それも音楽の才能と並ぶ賜物と言えます。とにかく、全ての人には教会の成長に資する賜物が神から与えられているのであります。たとえの中でも、三人の家来はみな、初めの1ムナのことを、商売に自由に使えるものの、「あなたの1ムナ」とはっきり出所を述べています。
たとえの中で王様は、10ムナの儲けを得た家来に対して、「お前はごく小さな事に忠実だった」と言います。小さな事とは最初に与えた1ムナのことですが、神が私たちに与える賜物も小さな事とはどういうことでしょうか?この同じ言葉は、ルカ16章の「不正な管理人」のたとえのところでも出てきました(10節)。そこで教えましたことをおさらいします。「小さな事」ギリシャ語のエラキストスελαχιστοςとは、別に大きさの大小のことだけでなく、価値のあるなしにも使われます。つまり、1ムナというお金が金額が少ないということではなく、お金自体が「ささいなこと、取るに足らない事」であると言っているのです。お金というものは、人の心を神から引き離す力を持っているので、それでささいなもの、取るに足らないものということになるのであります。ところが、そのようなお金に対して、心を奪われ仕えてしまうのではなく、逆にお金に対して主人になれる者は、それを神の意思に沿って使うことができる。これが、「取るに足らないものの扱いに際して忠実でいる」ということの意味です。神の意思に沿ってお金を使うというのは、神を全身全霊で愛するということ、そして隣人を自分を愛するが如く愛するということ、これらの愛のために使うということでした。
同じことが賜物にもあてはまります。人は、神から賜物を与えられると、それを自分の繁栄や名声のために使ってしまう場合があります。その時は、お金に心を奪われてそれに仕えてしまう人と同じです。それが、神の意思に沿って用いようとすると、賜物に対しても主人として立ち振る舞うことになります。そのように賜物を用いると教会は成長するのです。1ムナを流動させることで得られた儲けは、まさに教会の成長を意味するのです。
そういうわけですから兄弟姉妹の皆様、私たち一人一人は何がしかの賜物を神から与えられているのですから、それを眠らせてしまわないで、教会の成長のために役立ててまいりましょう。
福音書には、徴税人と呼ばれる人たちがよく登場します。どんな人たちかと言うと、名前が示すごとく、税金を取り立てる人たちです。福音書に出てくる徴税人とは、ユダヤ民族を占領下に置いているローマ帝国のために税金を取り立てる人です。なぜ占領されている国民の中に、占領国に仕えようとする人が出てくるかというと、徴税の仕事は金持ちになれる道だったからです。福音書をよく読んでみると、徴税人たちが決められた徴収額以上に取り立てていたことがわかります。ルカ福音書3章では、洗礼者ヨハネが洗礼を受けようと集まってきた徴税人を叱責する場面があります。そこでヨハネは彼らに次のように警告します。「規定以上のものは取り立てるな」(13節)。ルカ19章では、ザアカイという名の徴税人がイエス様に次のような改心の言葉を述べます。「だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」(8節)。そういうわけで、占領国の権力に取り入って不正を働いていた徴税人が自分の利益しか考えない裏切り者とみなされて、同胞から憎まれていたことは驚きに値しません。
ところが、こうした背景知識をもって福音書を読んでみると、一つ驚くべきことに気づかされます。それは、福音書に登場する徴税人たちは、以上述べたような実際に存在していた徴税人とは様子が違うのです。福音書に登場する徴税人には、邪悪なところがみられないのです。もう一度ルカ福音書の3章をみると、そこでは洗礼者ヨハネが、神の裁きが来ることを人々に告げ知らせています。ヨハネの告知を信じた大勢の人たちが、神への悔い改めを確かなものにしようと洗礼を受けに集まってきました。その中に徴税人のグループもいたのです。彼らは不安におののいてヨハネに尋ねました。「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」(12節)。つまり、彼らは、これまで神に背を向けていた生き方をやめて神のもとに立ち返る必要性を感じていたのでした。本日の福音書の箇所の徴税人も同じです。彼も神のもとに立ち返る必要性を感じていた人です。もちろん、本日の箇所の徴税人はイエス様のたとえに登場する架空の人物です。しかし、それでもこのような徴税人が実際にいたことは、先ほども見たように、洗礼者ヨハネのもとに徴税人のグループも行ったという歴史的事実から明らかです。ルカ19章の徴税人ザアカイですが、イエス様が彼の家を訪問すると決めるや否や、これまで不正を働いて貯めた富を捨てるという大きな決心をしました。マルコ福音書2章にレビという名の徴税人が登場します。イエス様が、ついて来なさいと言うと、すぐ従って行きました。ルカ5章では、この出来事がもう少し詳しく記されていて、レビは「何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った」(28節)とあります。つまり、徴税人としての生き方を捨てた、ということであります。
以上から、福音書に登場する徴税人は、神に背を向けていた人生を改めなければならない、そのためには神のもとに立ち返らなければならないと感じていた人たちなのであります。そして、実際には、感じるだけでなく、イエス様の力で本当に神のもとに立ち返ることになった人たちもいたのです。
聖書を読む人の中には、このような神のもとに立ち返った徴税人というものを信じない人もいます。福音書が伝える徴税人と全く正反対な像を主張する人の一人に、E. P. サンダースSandersという著名な新約学者がいます。1986年に出版されて世界的に注目された彼の研究書Jesus and Judaism(「イエスと第二神殿期ユダヤ教世界」とでも名付けてよいと思います)の中に、イエス様が十字架刑に処せられるに至った要因について考察する部分があります。一つの要因としてサンダースがあげるのは、イエス様が徴税人その他の罪びとたちと食事を共にしていたことです。つまり、イエス様は罪びとたちを神への立ち返りがない状態で受け入れた、罪びとの罪を公に承認した、とサンダースは考えるのです。これが、当時のユダヤ教社会の宗教指導者たちの反感を買い、イエス様に対して敵意を抱かせることになったと言うのです。もし、イエス様と食事を共にした罪びとたちが神への立ち返りを行って「元罪びと」になっていたら、それは宗教指導者たちにとってはおめでたいことになるのだから、その場合には反感も敵意も生まれなかっただろう。しかし、実際はその反対だったのだ、とサンダースは考えるわけです。
しかしながら、それではイエス様という方は、支配者たちの目にショッキングなことをやってみせて体制を引っ掻き回す、なにか注目集めの騒がし屋のようになってしまいます。私は、サンダースはもっと福音書に記述されている出来事、つまり、徴税人のグループが洗礼者ヨハネのもとに行って洗礼を求めたこと、レビが全てを捨ててイエス様に付き従ったこと、イエス様に受け入れられたザアカイが不正で築いた富になんの価値も見出さなくなったこと、こうした出来事をもっと重要視すべきではなかったかと思う者です。私としては、イエス様と食事を共にした罪びとたちはイエス様の招きがきっかけとなって神のもとに立ち返った人たちであったと考えるべきだと思います。
それならば、なぜユダヤ教社会の宗教指導者たちは、イエス様と元罪びとたちの食事の宴をみて満足しなかったのでしょうか?もちろん、指導者たちは満足できるはずがありません。なぜなら、神への立ち返りということが、彼らの権威を素通りして、完全にイエス様の招きの力で実現したからです。人間はどうしたら神の意思に従う生き方をすることができるかという問題について、イエス様と宗教指導層の間には深い見解の溝がありました。マルコ福音書2章に、イエス様が全身麻痺の男の人を癒す奇跡を行った出来事が記されていますが、その時イエス様は自分が罪を赦すことが出来る者であると人々に示されました。罪を赦す立場にあるということは、神と同等の地位にあるということです。このような、人々に罪の赦しを与え、神のもとへ立ち返らせることができる人物は、宗教指導層にとっては自分たちの権威に対する重大な挑戦と受け取られたのであります。
以上から、次のことが明らかになります。もし人が自分の造り主である神に背を向けていた生き方を変えなければならない、神のもとに立ち返らなければならない、と感じて、イエス様の招きを受け入れると、その人の人生は神の意思に従うものに変わり始める、ということです。キリスト信仰者の間でよく聞かれる言葉に「イエス様はあなたをあるがままの状態で愛される」というものがあります。しかし、これが意味するところは、イエス様は、あなたの神の意思に反する生き方を続けてもよいと認めているということではありません。そうではなくて、その言葉が意味しているのは、「イエス様は、神のもとへ立ち返る必要性を感じているあなたをあるがままの状態で愛される」ということです。どんな罪にまみれた人でも、神に背を向けていた生き方をやめよう、神のもとに立ち返らなければならないと感じている時に、イエス様の招きを受け入れると、その人の人生は神の意思に従うものに変わり始めます。神のもとへの立ち返りの必要性を感じていない人は誰もイエス様の招きを受け入れません。仮に、立ち返りの必要性を感じないでイエス様の招きを受け入れたとしても、その人の人生には神の意思に沿った変化は何も生まれません。
本日の福音書の箇所で、イエス様は祈りについて何かを教えています。そのことをみてみましょう。先週の主日の福音書の箇所も祈ることについての教えでした。それは、執拗に願い求める未亡人と神をも畏れない裁判官のたとえでした。そこで、イエス様は、神を信頼して気を落とさずに絶えず祈ることの大切さを教えました。それに続く本日の福音書の箇所で、イエス様は、自分を低くするような仕方で祈らなければならないと教えます。自分を低くするような仕方で祈るとは、まさに、神のもとへ立ち返る必要性を感じながら祈るということであります。
イエス様の祈りについての二つの教えがどう結びついているかを見てみましょう。結びつきを理解するカギは、イエス様は誰にこれらの教えを述べているかということです。「やもめと裁判官」のたとえは、先週申しましたように、弟子たちに述べられています。本日の「ファリサイ派と徴税人」のたとえは、「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対して」(18章9節)述べられます。ギリシャ語に忠実に訳すと「自分は神の目の前で義なる者であると自信を持つような自信過剰にあり、かつ他人を見下している何人かの者たち」です。誰がその「何人かの者たち」でしょうか?
「やもめと裁判官」のたとえの最後のところで、イエス様は尋ねます。自分が地上に再臨する日、果たして、やもめが示したような執拗さをもって祈りを絶やさない信仰はこの世に残っているだろうか?イエス様は、この質問を、たとえを聞いていた弟子たちにしました。この質問の後でイエス様は、自信過剰に陥っていた何人かの者たちに本日の「ファリサイ派と徴税人」のたとえを話しました。つまり、このたとえが向けられた相手とは、弟子たちの中で、自分は大丈夫だ、死ぬまで神を信頼して祈りを絶やさずに生き抜くことが出来ると信じていた者たちだったのです。自分が再臨する日に祈りを絶やさない信仰を見いだすことができるであろうか、というイエス様の問いに対して、「はい、わたしはそのような信仰を持っています」と自信を持って答えられる者を相手に述べられたのです。
そういうわけで、本日の福音書の箇所は、神を信頼して祈りを絶やしてはならないという先週の箇所の教えを、さらに一歩踏み込んだ教えなのであります。たとえ、信仰ある人が最後まで気を落とさずに絶えず祈り続けたとしても、もしその人が本日の箇所のファリサイ派の人のように祈ったら、せっかくの絶えざる祈りといえども何の意味もなくなってしまいます。ファリサイ派というのは、当時のユダヤ教社会の中にあった熱心な信徒を中心とする信仰浄化運動です。神の意思に従った生き方を実践しようと、モーセ律法を重んじ、さらに口伝えの宗教的規定を厳密に守ることも主張してしました。様々な規定を守ることを通して、神の目に相応しい者になろうとしていたのです。
本日の説教の最初の部分で、どんな罪にまみれた人でも、神に背を向けていた生き方をやめよう、神のもとに立ち返らなければならない、と感じている時に、イエス様の招きを受け入れると、その人の人生は神の意思に従うものに変わり始める、と申しました。本日の福音書の箇所の徴税人は、まさにそうした必要性を感じて神に祈りを捧げました。彼が祈ったこと「神様、罪びとのわたしを憐れんでください」というのは、「神様、罪びとのわたしを罰しないで下さい」と憐れみを乞うているのであります。神から罰せられるというのは、この世の人生を終えた後で自分の造り主である神のもとに永遠に戻れなくなるということであります。その彼が、神の目に義なる者とされたのであります。他方で、ファリサイ派の人の場合は、神に背を向けた生き方をやめよう、神のもとに立ち返らなければならない、とは感じていませんでした。宗教的な規定をしっかり守っているので、自分では神に背を向けた生き方をしているとは思いもよらないし、神のもとに十分立ち返っていると思っていたでしょう。しかし、その彼が、祈った後で、神の目に義なる者とはされなかったのです。なぜでしょうか?
マルコ福音書7章にイエス様とファリサイ派の人たちの間の有名な論争があります。それは、何が人間を汚れたものにして神聖な神から切り離された状態にしてしまうかという問題でした。イエス様の論点は、人間を汚して神から切り離された状態にするのは、人間の内部に宿る無数の悪い思いである、従って、宗教的な儀式や規定を守っても内部の汚れを除去できないので意味がない、というものでした。それでは、どうしたら人間は自分を造られた神から切り離された状態に終止符を打てて、神との結びつきの中で生きることが出来るのでしょうか?
これを人間の力ではできないと知っていた神は、それを実現するためにひとり子イエス様をこの世に送られました。そして、本来は人間が背負うべき罪と不従順からくる罰を全てイエス様に負わせて十字架の上で死なせ、このイエス様の身代わりの死に免じて人間を赦すことにしたのです。さらに神はイエス様を死から復活させて、復活の命、永遠の命の扉を人間のために開きました。人間は、これらのことが全て自分のためになされたとわかって、イエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ、この神が実現した救いを受け取ることができます。救いを受け取った人というのは、イエス様の身代わりの死に免じて罪を赦された人なのであります。こうして人間はイエス様のおかげで神の目に相応しい者と映り、神との結びつきの中で生きることができるようになったのであります。
そして、順境の時も逆境の時も絶えず神から助けと良い導きを得られ、万が一この世から死ぬことになっても、今度は永遠に自分の造り主である神のもとに戻れるようになったのであります。
イエス様を救い主と信じて、神との結びつきの中で生きることになったとは言っても、肉をまとって生きる私たちには、まだ同じ内在する罪や汚れた悪い思いを抱えています。つまり、神に背を向ける生き方をやめよう、神のもとに立ち返らなければならないと感じるのは、キリスト信仰者になる時だけに限られません。信仰者となった後も、「神様、罪びとの私を憐れんでください」という祈りは終わることはありません。ただ、イエス様を救い主と信じてこの祈りを祈る人は、イエス様の身代わりの死に免じて神から罪を赦されます。イエス様を信じない人は、誰かの何かに免じて罪が赦されるということがなく、全て自分の力で神からの赦しを得なければならなくなります。しかし、それは不可能です。
以上、キリスト信仰者が祈る場合、気を落とさずに絶えず祈らなければならないということと、自分はまた神に背を向けてしまった、今こそ方向転換して神のもとに立ち返らなければならない、と日々悔い改めの心をもって祈らなければなりません。
最後に、神のもとへの立ち返りの必要性を感じた時に、神の御言葉と聖餐式には大きな意味があるということについて申し上げたく思います。神の御言葉は聖書に収められていますが、そこから私たちは、自分たちがいかに神の意思に反する生き方をする存在で、この神への不従順と罪を最初の人間から受け継いでいるかが明らかになります。しかし、この同じ神の御言葉からさらに、神はどんなにか私たち人間が神との結びつきの中で生きられるようにと望んでおられたか、まさにそれを実現するためにひとり子イエス様をこの世に送られたのだということが明らかになります。
人は、イエス様を救い主として受け入れた時に新しい命と人生を得られます。この時、神の意思は、私たちにとってもはや忌み嫌うべきものではなくなって、喜ばしいことになります。なぜなら、私たちは、私たちをここまで愛して下さる神を愛するのが当然だという気持ちになり、そのような神の教えることには聞き従うのも当然となるからです。しかしながら、力弱い私たちは、いつも神の意思に背くようなこともしてしまいます。神の御言葉がそのことを示します。そして、同じ御言葉が、神の意思は私たちが神に背を向けてしまうのではなく、いつも神のもとに立ち返ることを望んでいらっしゃることを明らかにしています。そうでなければ、イエス様がこの世に送られることはなく、十字架で犠牲の死を遂げることもなく、そして死から復活させられたこともなかったでしょう。このように神の御言葉は、私たちの神との結びつきを強めてくれる大事な恵みの手段です。
それから、聖餐式でイエス様の血と肉を受け取る時、私たちは、私たちに確立された神との結びつきを口で味わって確認することができるのです。 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
1.
本日の福音書の箇所は、イエス様のたとえの教えです。初めの節で言われているように、この「やもめと裁判官」のたとえは、弟子たちに語られています。イエス様がこのたとえを話された目的は、弟子たちに「気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるため」でした。この教えは、弟子たちだけに向けられたのではありません。イエス様の弟子たちは主の十字架と復活の出来事の後に福音の使徒となって自分たちが見聞きしたことを公に証言し、同時に信仰について教えていきますが、それらを信じてキリスト信仰者となった人全て、すなわち私たちにもこのたとえの教えは向けられています。
なぜ、イエス様は、気を落とさずに絶えず祈ることの大切さを強調するのでしょうか?それは、弟子たちや私たちが、この世の人生の歩みの中で厳しい現実に遭遇していくうちに、次第に気を落として祈ることを絶やしてしまう危険があると知っていたからです。このことをイエス様が心配していることが、本日の箇所の最後の節で明らかになります。「しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」イエス様が天使の軍勢と共に地上に再臨される日、果たしてこの地上には、気を落とさずに絶えず祈り続ける信仰を持った人は残っているのだろうか、それともみんな既に気を落として祈りを絶やしてしまった後だろうか、ということです。それほどキリスト信仰者は、厳しい現実に絶えず遭遇しながら生きていかねばならない、ということであります。一体どんな厳しい現実があるのか、それを後で見ていきましょう。その前に、イエス様のたとえをじっくりと見て、祈りは無駄に終わることはない、という教えを体得していきましょう。
イエス様のたとえの教えには、自然現象を題材にしたものや人間ドラマを題材にしたものなどいろいろな種類があります。人間ドラマのたとえについて、それらが本当に起きたことに基づいているのか、それともイエス様の全くの創作なのかを考えるのは興味深いテーマであります。しかし、それは学者によっていろいろ見解が別れる問題でもあります。ここではこれ以上、立ち入りませんが、この「やもめと裁判官」のたとえに関しては、私は個人的に、実際に起きた出来事に基づいて、イエス様が教えの目的に沿うように多少アレンジしたものではないか、と思っています。
まず、登場人物をみてみましょう。裁判官は、「不正な裁判官」(6節)と言われています。しかし、この日本語訳は正確とは言えません。ギリシャ語のアディキアαδικιαという単語がもとにありますが、「不正な」と訳すと、何か不正を働いた、例えば私腹を肥やすようなことをして今なら懲戒免職されてしかるべきというイメージが起きるでしょう。この裁判官が実はどんな人物だったかは、本日の箇所にしっかり言い表されています。イエス様が彼のことを「神をも畏れず、人を人とも思わない」人物であると描写します(2節)。裁判官自身も、自分のことを全く同じ言葉で言い表しています(4節)。つまり、「不正な」と言うより、人を人とも思わないから、無慈悲、無情な人物と言えるし、神を畏れないから、神の意思や御心に従わない傲慢な人物とも言えます。その意味で「不正な」と言ってもいいのですが、正確には「無慈悲で、神の意思に従わない」裁判官ということです。
この裁判官についてもう一歩踏み込んでみます。2節に裁判官のいる場所を「ある町」と言っていますが、町というのは、ギリシャ語でポリスπολιςなので、正確には都市です。もし「ある都市」と言わず、ギリシャ語で定冠詞を付して「その都市」と言ったならば(さしずめ英語ならthe city、ドイツ語ならdie Stadtのようになれば)、これは決まった都市、つまりエルサレムを指します。もし裁判官のいる場所がエルサレムなら、ユダヤ人の自治の機関である最高法院を思い浮かべることができます。あの、イエス様を裁判にかけてローマ帝国の総督ピラトに引き渡すことを決めた機関です。ところが、たとえで言われている都市は定冠詞がついていないのでエルサレムではない。そうなると、どこか別の都市になります。そういう所での裁判所と言ったら、おそらくローマ帝国の裁判所にならざるを得ないのではないか。そうなると、たとえに登場する裁判官はユダヤ人ではなく、異教徒になる。異教徒の裁判官であれば、イスラエルの神など畏れなくて当たり前だろうし、ローマ帝国は占領国ですので、被占領国民のユダヤ人に対しては人を人とも思わない態度だったこともうなずけます。以上は、わずかな手掛かりに基づいた裁判官の出自についての推測です。これが事実そのものだと主張するつもりはありませんが、案外あたっているのではないかという気もしております(そうなると今度は、やもめはローマ帝国の裁判所で訴訟できるのなら、ローマの市民権を持っているのか、それとも持っていなくて直訴しているのか、という問題に発展していきます。)
次に「やもめ」、つまり未亡人について。伝統的にユダヤ教社会の中では、未亡人は社会的弱者の一つと認識され、彼女たちを虐げてはならないということが神の意思であると言われてきました(出エジプト22章21節、申命記27章19節、詩篇68篇6節、イザヤ1章17節、ゼカリア7章10節)。当時は遺族年金とか男女雇用機会均等などという制度も考えもない時代の社会でしたから、夫に先立たれた女性は、もし十分な遺産がなかったり、成年の息子がいなければ、生きていくのは困難だったでしょう。遺産があっても、不正の的となって簡単に失う危険があったでしょう(例えばマルコ12章40節を参照)。
裁判官と同じ都市に住む未亡人が、何かの不正にあって、この裁判官にひっきりなしに駆け寄り、「相手を裁いて、わたしを守って下さい」としつこく嘆願します。ギリシャ語の文に忠実に言うと、「相手を裁いて、わたしのために正義を実現して下さい(εκδικησον με)」。そこで、「神をも畏れず、人を人とも思わない」裁判官は、最初は取り合わない態度でしたが、何度もしつこく駆け寄って来るので、しまいには「あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判してやろう。さもないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わせるにちがいない」と考えるに至ります。「さんざんな目に遭わせる」は、ギリシャ語では「目に青あざを食らわす」υπωπιαζωという意味の単語です。相手が裁判官、もしそれが占領国の官憲だとしたら、そんなパンチを浴びせるなどという暴力沙汰になったら、大変な事態になります。しかしそれは、未亡人はもう他に何も失うものはないという位に切羽詰った状況にいたということであります。裁判官が「彼女のために裁判してやろう」というのは、これもギリシャ語に忠実に訳すると「彼女ために正義を実現してやろう」(εκδικησω αυτην)ということです。これから裁判を始めるということではなく、もう彼女に有利な判決を下すことに決めたということです。
ここでイエス様は弟子たちに注意を喚起して言います。この裁判官の言いぐさを聞きなさい。神の意思に従わないような裁判官ですら、やもめの執拗な嘆願に応じるに至ったのだ。「まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。」ここで言う「裁きを行う」というのは、先ほどと全く同じように「正義を実現する」(ποιεω την εκδικησιν)ということです。
この「~ですら~するならば、神はなおさらそうするではないか」という論法は、神の愛と見守りのあることを忘れるなとイエス様が教える時に使います。例えば、ルカ11章で、魚が欲しいと言う子供に蛇を与える父親がいるだろうか?卵が欲しいと言う子供に蝮を与える父親がいるだろうか?人間は悪い存在でありながら、子供には良いものを与えることを知っていれば、神はなおさら、求める者に対して天から聖霊を与えて下さるのは当然ではないか、と(11-13節)。マタイ6章では、神は明日にも枯れる野の草花を美しく飾って下さるのであれば、お前たちのことはなおさら面倒を見て下さるのは当然ではないか、と(28-30節)。本日の箇所も同じで、神の意思に従わない裁判官ですら、正義の実現に動いたのだ。まして神そのものであれば、昼も夜も助けを求めて叫び祈り続けている選ばれた者たちに対して、正義を実現しないなどとはありえないではないか。神の意思に従わない裁判官は、「しばらくの間」(4節)取り合おうとしなかったが、神は「速やかに」(8節)不正を廃して正義を実現するのだ。もし、神をそのような方だと信じられないならば、それは神をあの裁判官以下にみなすことになってしまうのだ。それくらい、神が絶えず祈り求める者に正義を速やかに実現するのは当然のことなのだ、と言うのであります。
ここでひとつ注意したい言葉があります。それは、「選ばれた者」です。誰のことを指すのでしょうか?イエス様を救い主と信じる信仰に生きる者、キリスト信仰者を指します。どうしてキリスト信仰者が神に選ばれた者になるのかというと、まず信仰者になる者は、自分は造られた存在だとわかり、造られた以上は、造り主を持つ存在だとわかる。つまり、自分は化学物質の結合や反応の連鎖から偶然に発生して出来た化学的合成物ではなく、明確な意思と考えを持った創造主がいて自分を造ったということがわかる。ところが、造られた自分と造った方との関係があるべき状態ではなかったこともわかる。最初の人間が創造主に対して不従順と罪に陥って以来、人間は死ぬ存在となり、神聖な神から遠ざかった存在になってしまった。この世の人生の歩みで創造主との関係は断ち切れたままで、この世から死んだ後も自分の造り主のもとに戻ることもない。ところが、創造主である神は人間のためにこの事態を打開しようとして、ひとり子イエス様をこの世に送られ、人間の罪と不従順の罰を全て彼に負わせて十字架の上で死なせ、このひとり子の犠牲の死に免じて人間を赦すことにした。さらに、イエス様を死から復活させることで人間に永遠の命、復活の命への扉を開かれた。このあと人間がすることと言えば、これらのことが全て自分のために起こったとわかってイエス様を救い主と信じて洗礼を受ければ、この神が整えて下さった救いを受け取ることが出来る。こうして人間は、神との関係が回復した者としてこの世の人生を歩む者となり、順境の時も逆境の時も絶えず神の守りと良い導きを得ることができるようになり、万が一この世から死んだ後も、永遠に造り主のもとに戻ることができるようになったのであります。このように、イエス様を唯一の救い主と信じることで神の完成された救いを受け取った者、同時に自分の造り主のもとに永遠に戻れる道を歩むようになった者、これが、「選ばれた者」なのであります。
イエス様を救い主と信じる信仰に生きる者を「選ばれた者」と言うと、この信仰を持たない人たちは「選ばれない者」になってしまうのか、という疑問が起きます。今の時点で、信仰を持っていない人たちを「選ばれない人」と呼ぶのは早急です。なぜなら、今は信仰を持っていなくても、将来のある日、その人がイエス様を救い主と信じて洗礼を受けることになれば、その時、「ああ、この人も実は『選ばれた人』だったんだな。あの頃は想像もつかなかった」ということになるからです。このように、私たち人間の目からでは全ては事後的にわかるだけです。それゆえ、現時点の観点で、「あの人は『選ばれた人』ではない」と結論づけることはできないのです。大切なことは、事後的に「選ばれた人」が一人でも多くでるように、私たちが福音のために働くということです。神がイエス様を用いて実現された救いは、世界の全ての人々に提供されているのですから、それを受け取る人が一人でも増えるように働くということです。
ところで、このイエス様を救い主と信じる信仰に生きる「選ばれた人」がまさにそうである所以が、本日の福音書の箇所で述べられています。それは、「昼も夜も叫ぶがごとく神に祈る」ということであります。キリスト信仰者にとって、祈りを捧げたり、求めることを打ち明けたり、助けを叫び求める相手と言えば、それはイエス様をこの世に送られた神以外にはいない、イエス様を用いて救いを実現した神以外にはいないということです。もし、信仰に生きる人がそれをしなくなってしまったら、それは、その人が神以外に祈りを捧げたり助けを求めたりする相手を見つけたか、または神などに祈り求めなくても自分で全て解決できると言って自分を神と同一視するようになったかのいずれかです。その時は、「選ばれた人」はもはやそうではなくなります。そういうわけで、「選ばれた人」とか「選ばれなかった人」というのは、本当に現時点で言えることではないのです。イエス様を救い主と信じる信仰を持って最後まで生き抜くか、あるいはどんなに遅くても死ぬ間際までに、イエス様を自分の唯一の救い主として受け入れられるか、それが「選ばれた人」の決め手になると言うことが出来ます。
それでは、キリスト信仰者が厳しい現実に遭遇して気を落として祈ることを絶やしてしまう危険があると言う場合、どんな厳しい現実に遭遇するのかということをみてまいりましょう。
それはとりもなおさず、信仰者が苦難や困難に陥り、事態の打開や問題の解決を神に祈っても、なかなか改善がみられない、そういう祈りに望み通りの答えが与えられない時がそうでしょう。そんな時、いろいろな疑念が頭に浮かんできます。神はなぜこのような状態をほっておかれるのか。私の信仰に何か落ち度があって、それで罰として何もしてくれないのか。それとも、神は万能と言われるが、実はそうではなかったのか。こうした疑いを持てば、神をいたずらにおそれてしまうか、または神に見切りをつけてしまうかのいずれかで、どっちにしても神に背を向けて生きることになってしまいます。かつて、神に背を向けて生きていた私たちが神との結びつきの中で生きられるようにしようと、神はせっかくイエス様を送って救いを完成させて下さったのに、私たちの方で、試練にあったからと言って、いただいた神との結びつきを信じられなくなって、再び神に背を向けてしまうというのは情けないことです。ルターは、そういう時こそ、私たちは一層神にしがみつかなければならないと教えています。まさに、本日の福音書の箇所の未亡人のように、また昼も夜も叫ぶようにして祈る信仰者のように。そのような者に対して神は速やかに正義を実現される、そうイエス様は約束しているのです。
祈りを絶やさないという本日の課題を学ぶ上で、詩篇のはじめの部分はとても参考になります。そこでは、正義の問題が多くでてきます。ダビデが、敵対者に包囲され、窮地に陥る。敵対者は神を畏れない者たちなのに、全てがうまくいき繁栄している。しかし、神を信じる自分の状態は悲惨そのものである。これほど正義からかけ離れた状況はない。しかし、神は「正しい裁判者」(שופט צדיק、7篇12節、9篇5節)なので、必ずこの状況を逆転させて、正義が実現するようにして下さる、そういう確信がずっと貫かれています。(本日の福音書の箇所に登場する「不正な/神の御心に従わない裁判官」(ο κριτης της αδικιας)ですが、「正しい裁判者」(שופט צדיק)である神と対比されたものであることは明らかです。)
今の私たちの問題にとって一番参考になるのは、詩篇の10篇、13篇、22篇と思われます。この三つは、詩の流れが共通していて、初めは、正義が実現されない状況について、「神よ、なぜ傍観しているのですか」という苛立ちさえ感じられる嘆きが述べられます(10篇1-11節、13篇2-3節、22篇2-3節)。その後で、「神よ、どうか事態を打開して下さい」と、おそらくこれまでにも何度もしてきたであろう嘆願に戻ります(10篇12-15節、13篇4-5節、22篇20-22節)。そして最後は、「神こそが事態を打開し、正義を実現される方である」という確たる信頼が告白されます(10篇16-18節、13篇6節、22篇25-27節)。私たちも、祈りがなかなか答えられない状況にいる時は、このように苛立ちさえ含まれるような素直な嘆きの祈りがあってもよいのです。ただし、そこからどう嘆願に戻り、さらに信頼の告白に導いていけるか、そこが大きな課題になると思います。
そこで、三週間前のルカ17章の「ラザロと金持ち」のたとえについて説教をした時に教えたことを思い出してみましょう。もし正義の実現が結果的に来世に持ち越されてしまうような場合であっても、この世にいる限りは神の意思に反する不正義や不正には対抗していかなければならない。それでもし解決に至れば神に感謝だが、力及ばず解決に至らない場合もある。しかし、その解決努力をした事実は神にとって無意味でもなんでもない。神はあとあとのために全部のことを全て記録して、事の一部始終を細部にわたるまで正確に覚えていて下さる。たとえ人間の側で事実を歪めたり真実を知ろうとしなくても、神は事実と真実を全て把握している。そして、神の意思に忠実であろうとしたために失ってしまったものについては、神は後で何百倍にして埋め合わせて下さる。それゆえ、およそ、人がこの世で行うことで、神の意思に沿わせようとするものならば、どんな小さなことでも、またどんなに目標達成に遠くても、無意味だったというものは何ひとつない。
神は全てのことを一部始終細部にわたるまで正確に記録しています。だから、事の当事者であるキリスト信仰者は、神から絶えず目を注がれているのであります。問題が起きて、最初の祈りがなされた瞬間からそうなのであります。私たちの知りえない理由から、ある場合には早く解決を与えられる場合があるかと思えば、他方では、時間がかかる場合がある。場合によっては来世に持ち越されることもある。しかし、いずれにしても、最初の祈りがなされた瞬間に問題の解決は神の保証付きとなったのであります。
そういうわけですから、兄弟姉妹の皆さん、いつ目に見える形で解決が与えられるのかは神がよいように決めて下さると信頼して、私たちとしては、問題がこれだけ神の関心事になっているのだということを忘れないようにしましょう。だから、気落ちする必要はありません。私たちに背を向けない神に背を向けないためにも、祈りを絶やさないようにしましょう。
イエス様と弟子たちの一行がエルサレムを目指して進んでいきます。本日の箇所は、エルサレムのあるユダヤ地方の北に位置するガレリア地方とサマリア地方の間を通過している時の出来事です。サマリア地方というのは、もともとはイスラエルの民に属する人たちが住んでいたところですが、紀元前8世紀以後の歴史の変転の中で異民族と混じりあうようになって、ユダヤ民族の伝統的な信仰とは異なる信仰を持つようになっていました。旧約聖書の一部は用いていましたが、エルサレムの神殿の礼拝には参加せず、独自に神殿をもってそこで礼拝を守っていました。
さて、そのような地方の近くを通過していると、前方の村の前で10人のらい病患者が待ち構えるようにしてイエス様一行を待っています。まだお互いの距離が離れている段階で、彼らは大声で、「イエス様、先生、どうか私たちを憐れんでください!」と叫びます。つまり、病気を治して下さい、と祈願したということです。イエス様が不治の病を治したり、自然の猛威を静めたりする奇跡を行っているという噂は、ローマ帝国シリア州中に広まっていましたから、イエス様は各地でこのような祈願や嘆願を聞き、癒しの奇跡を行っていました。
ところで、「らい病」というのは、皆様もご存知のとても重い皮膚病です。ギリシャ語のレプロスλεπροςという言葉ですが、先ほど聖書朗読奉仕者に読んでいただいた日本語訳聖書では「らい病を患っている人」と訳されています。ただ、本日の箇所ととても深い関係がある旧約聖書レビ記の13章14章とみると、「重い皮膚病」という言葉が使われています。英語の聖書(NIV)も「皮膚病」(skin desease)という言葉です。これは、ヘブライ語のネガア ツァーラアトנגע צרעתという言葉がもとにあるのですが、フィンランド語、スウェーデン語、ドイツ語の聖書では、「皮膚病」と一般化しないで、日本語の「らい病」に相当する言葉で訳されています(spitaali, spetälsk, Aussätzige)。さて、これはどうしたものか。私、20年以上、北欧に住んでいたので、日本でどういう言葉を使っていいのかという問題にかなり疎くなっております。日本や英語圏では「らい病」という言葉は避けるのか。でも、レビ記では「皮膚病」と言っていても、本日の箇所では日米とも「らい病」leprosyと言っているではないか。(話はきっと、どんな辞書を使って訳しているかということもかかわっているのでしょう。)いずれにしても、早く本題に入れるために、日本語の聖書に使われている言葉だったら使ってもよいということにして、話を進めていくことにします。
10人のらい病患者がイエス様に癒しの奇跡をお願いする。イエス様は、その場で癒すことはせず、ただ、エルサレムの神殿の祭司たちのところに行って体を見せてきなさい、とだけ言う。これは、レビ記13章にある「重い皮膚病」にかかった時にどうするかという規定の通りです。その時は、祭司が診て診断を下さなければならない。イエス様は、モーセの律法にある既定に従っただけでした。10人の男たちは、すぐ希望が叶えられなかったことに不平不満は言わず、ただちにエルサレムに向かいました。
ルターは、この男たちの信仰を評価して、次のように言っています。「イエス様の指示に従ったこの10人の心の内は次のようなものである。『主よ、わかりました。あなたがそうおっしゃるのなら、私たちは祭司たちのところに行きます。たとえあなたが今この場で、癒すか癒さないかを明らかにして下さらなくても、あなたが癒す力のある方だと信じる私たちの信仰はかわりません。あなたに寄り頼む私たちの心に変更はありません。仮にあなたが私たちを癒すお気持ちがなくても、それはあなたが私たちにもっと良いものを与えて下さるからなのだと信じます。私たちはただ喜んでそれを待ち望むことができます。それゆえ、私たちが、あなたを良いお方であると信じる信仰を捨てるなどということはありえません。』」こう述べた後、ルターは次のように結びます。「これこそが、真に信仰の中で成長するということである」と。
このような信仰をもって、10人の男たちは出かけて行きました。すると、出発後ほどなくして、10人はみな病気が治ってしまったのです。みんなは歓喜の極みだったでしょう。9人は、そのままエルサレムの祭司たちの所へ向かい続けました。レビ記の14章をみると、祭司は「重い皮膚病」にかかったかどうかを診断するだけでなく、治ったかどうかも診断しなければなりませんでした。10人の男たちのエルサレム訪問の目的は、こうした奇跡が起きたために、発病診断から治癒診断にかわってしまいました。それでも、祭司のところに行くのは律法の規定です。ところが、1人だけ、この律法に規定された治癒診断に行かずにイエス様のところに戻ってきました。先ほども触れたサマリア地方に住むサマリア人でした。彼は、このような奇跡を行った方とその方をこの世に送った神を賛美し感謝します。この時のイエス様の言葉「清くされたのは10人ではなかったか。ほかの9人はどこにいるのか。この外国人の他に神を賛美するために戻って来た者はいないのか」、これを聞くと、イエス様は、律法に規定された祭司の治癒診断よりも、イエス様のところに戻ってきて神を賛美することの方が大事だと言っているのが明らかになります。ここで、イエス様とモーセ律法の関係を考えなければならなくなります。モーセ律法は、天と地と人間を造り、人間一人一人に命と人生を与えた神から授かったものです。イエス様は、まさにこの神のひとり子で、神と同質の方です。イエス様が律法を超えるようなことを言えば、もう律法には意味はないのか?この関係をきちんと整理することは、私たちのキリスト信仰を正しく方向づけるために大切です。後で、このことをみてまいりましょう。
それから、イエス様は最後に、「あなたの信仰があなたを救った」と言われます。これもわかりそうでわかりにくい言葉です。額面どおりに受け取れば、イエス様を救い主と信じたので病気が癒されたのだ、と理解されます。しかし、そうなると、キリスト信仰者でも病気が治らない人たちも現実にいる、その場合、その人たちの信仰が足りないものだったからだと言えるのか。そういうふうに、祈願嘆願したことが実現するか否かということが、信仰が優れているとか劣っているとかの判断材料となってしまいます。イエス様は、そのようなことを教えているのでしょうか?いいえ、そうではありません。このことも後でみてまいりましょう。
まず、イエス様とモーセ律法の関係についてみていきます。話はとても大きなものなので、本説教では本日の箇所との関係でみていきます。先ほども触れましたレビ記14章には、重い皮膚病が治ったかどうかの診断は祭司が行う旨の規定があります。14章3節をみると、祭司が治ったと診断をした場合、祭司は次に「清め」の儀式を行わなければなりません。儀式の詳細な内容には立ち入りませんが、いろいろな動物や鳥を生け贄として捧げることが、神との和解を回復する手立てとしてあります。これを行った後で治った人は、「清い状態になる」(14章20節)。つまり、「清い」とは皮膚が健康になったことではなく、神との和解が成ったということなのです。
ここで注意すべきことは、生け贄を捧げるこの「清め」の儀式は、病気を治すために行う祈願嘆願の儀式ではなく、病気が治った後でする儀式ということです。治ったのだったら、もう何も儀式はいらないじゃないか、と思われるかもしれません。実は、「重い皮膚病」というのは、単なる肉体的な病気にとどまっていません。それは、人間が罪と神への不従順のために神との関係が断ちきれた状態にあることが、目に見える形で現われたものだと考えられていたのです。それゆえ、肉体的な病気は治っても、神との和解を回復するための儀式が必要となりました。
ここでひとつ付け加えますと、全ての人間は、たとえ「重い皮膚病」にはかからなくても、罪と神への不従順をみんなが背負っています。つまり、目に見える形はなくても、罪の状態は誰もが持っているものなのです。それが、「重い皮膚病」という目に見える形で出てくるのは、それはかかった人が何か罪を犯して、かからなかった人は罪を犯さなかったからというのではありません。全ての人間は罪の状態にあるので、病気が目に見える形で現れる可能性は、本当は誰にでもあるのです。ただ、私たちが知りえない理由で、ある特定の人たちがそれを背負うことになってしまった、ということです。全ての人間が罪の状態にあるというのは、最初の人間が罪と不従順に陥って以来、人間はずっと死ぬ存在であり続けたということから明らかです。使徒パウロが、罪の報酬として死がある(ローマ6章23節)、と教えているように、人間が死ぬということが、人間が罪と神への不従順を持っていることの表れなのです。
さて、イエス様は、癒されたサマリア人がエルサレムの神殿で「清め」の儀式をしないで戻ってきてイエス様と神を賛美したことを評価しました。そうすると、神との和解の儀式はもう必要ない、その人はもう神と和解ができている、ということになります。どうしてそのようなことが可能なのでしょうか?
それは、イエス様の十字架の死と死からの復活の出来事の後は、もう人間は神との和解のためには何も犠牲も生け贄も要らなくなる、という歴史的大転換を先取りしているからです。人間はただ、イエス様を自分の救い主と信じる信仰によって神との和解を得ることができるようになるということです。どういうことかと言うと、モーセ律法には、今見たように、「重い皮膚病」が治った後で神との和解のためのする「清めの儀式」がありますが、もちろん、それだけではなく、人間を罪の支配力から贖って神との和解をもたらすために、様々な儀式とそこで用いられる生け贄の規定が数多くあります。特に「贖罪日」と呼ばれる日は年に一度、大量の生け贄を捧げて、罪の贖いの儀式を大々的に行う日でした(レビ記16章、23章27-32節)。
しかしながら、こうした儀式や生け贄はたえず繰り返して行わなければならないものでした。そこから明らかなことは、それらは人間を罪から完全に解放できず、神との和解も一過性のものでしかすぎなかったということでした。このことを「ヘブライ人への手紙」10章は次のように述べています。「律法は年ごとに絶えず捧げられる同じいけにえによって、神に近づく人たちを完全な者にすることはできません。もしできたとするなら、礼拝する者たちは一度清められた者として、もはや罪の自覚がなくなるはずですから、いけにえを捧げることは中止されたはずではありませんか。ところが実際は、これらのいけにえによって年ごとに罪の記憶がよみがえって来るのです。雄牛や雄山羊の血は、罪を取り除くことができないからです」(10章1-4節)。同じ10章の11節では次のように述べられています。「すべての祭司は、毎日礼拝を捧げるために立ち、決して罪を除くことのできない同じいけにえを、繰り返して捧げます。」
ところが、神は、人間がこのような中途半端な状態から抜け出せて、罪と死の支配から解放されて、ただ神との結びつきの中で生きていけるようにしようと考え、それでひとり子イエス様をこの世に送られました。神は、イエス様に全人類の全ての罪と不従順の罰を全部負わせて十字架の上で死なせ、この身代わりの死に免じて、至らぬ人間を赦すことにしたのです。それだけではなく、神は一度死んだイエス様を死から復活させることで、永遠の命、復活の命への扉を人間のために開かれたのです。こうして人間の救いが完成しました。救われるために人間のすることは、あとは、こうしたことがまさに自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、この完成した救いを受け取って自分のものとすることができるのです。こうしてイエス様を救い主と信じる信仰に生きる者は、神との結びつきが回復してその結びつきのなかで生きることができるようになり、順境の時にも逆境の時にも絶えず神から良い導きと助けを得ることができるようになったのであります。万が一、この世から死ななければならなくなっても、その時、神は御手をもって御許に引き上げて下さり、永遠に人間の造り主である神のもとに戻ることができるのであります。以上のことを「ヘブライ人への手紙」10章14節は次のように言い表しています。「キリストは唯一の捧げものによって、聖なる者とされた人たちを永遠に完全な者となさったからです。」
イエス様が御自身を唯一の捧げものとして捧げて、人間を罪と死の支配から解放し、神との真の和解をもたらしたのならば、もうモーセ律法はいらないのでしょうか?イエス様は実は、律法は廃止されるとは言っておりません。全く逆のことを言っています。マタイ5章のイエス様の教えを見てみましょう。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない」(17-18節)。イエス様が律法を完成した。これは、まことにその通りです。律法の規定が目的としつつも、もたらすことができなかったこと、つまり罪と死の支配からの解放それに神との永続可能な和解をイエス様はもたらしたからです。それでは、イエス様の十字架と復活の後、律法はなんのために存続しなければならないのか?それは、次のことを明らかにする役割を持っているからです。どんなことかと言うと、イエス様の贖いの業の外側にいる人間は、罪と死の支配に服する存在であり、自分自身の造り主である神との結びつきが失われたままである、という堕罪以来の状態に留まっているということです。そこで、イエス様なしで救いを得ようとすれば、これは、諸々の儀式や供え物や修行に頼るしかなくなってしまうのであります。しかし、それらは、先ほど見たように、天と地と人間を造られた神と永続的な和解はもたらさないのであります。この意味で、律法は、人間に自分の置かれた状態を気づかせて、イエス様のもとに行く以外には本当に救いの道はないと気づかせる役目も持っているのです。
最後になりましたが、イエス様の謎めいた言葉「あなたの信仰があなたを救ったのだ」を見てまいりましょう。この言葉は、イエス様を信じたから病気が治ったという意味に聞こえます。しかしそれでは、病気が治る人は信仰がある人で、治らないのは信仰がないからだ、ということになってしまいます。イエス様はそんなことを意味しているのでしょうか?そうではないということがわかるために、イエス様が別の箇所で同じ言葉を述べているところをみてみましょう。
本日の箇所では、イエス様はこの言葉を人の病気が治った後に述べますが、マタイ9章22節、マルコ10章52節、ルカ18章42節をみると、イエス様は同じ言葉を人の病気が治る前に、つまり人がまだ病気の状態にいる時に述べます。マタイ9章では、12年間出血状態が止まらない女性がイエス様の服に触れば治ると思って触る、それに気づいたイエス様が「娘よ、元気を出しなさい(θαρσειは「元気になりなさい」という訳よりも「元気を出しなさい/気をしっかり持ちなさい」がいいでしょう)。あなたの信仰があなたを救った」と言われます。この言葉をかけられて女性は健康になります。マルコ10章52節とルカ18章42節は同じ出来事です。目の見えない人がイエス様に見えるようにしてほしいと一生懸命に嘆願する。イエス様は彼に「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と言われる。その直後に男の人は目が見えるようになります。
病気が治った後で「あなたの信仰があなたを救った」と言えば、ああ、信仰のおかげで治ったのだな、と理解できます。しかし、病気が治る前、まだ病気の状態でいる時にそう言うのはどういうことなのでしょうか?そこで、この「あなたの信仰があなたを救った」の「救った」に注意すると、これはギリシャ語の現在完了の形です(σεσωκεν)。ギリシャ語の現在完了形は英語と少し違っていて、「ある過去の時点で始まった状態が今現在までずっとある」という意味です。つまり、「あなたの信仰があなたを救った」というのは、「イエス様を救い主と信じる信仰に入って以来、今イエス様の真ん前に立っているこの時までずっと救われた状態にあった」という意味です。
これは驚くべきことです。12年間出血が治らなかった女性も目の見えなかった男の人も、この言葉をかけられる時までずっと救われた状態にあったと言うのです。まだ病気を背負っている時に、既に救われた状態にあったと言うのです。どうして、そんなことが可能なのでしょうか?それは、イエス様を救い主と信じる信仰に入って以来、この人たちは、確かに見た目では病気を背負っている状態にはあるけれども、神の目から見れば、罪と死の支配から解放されて、神との和解が回復して、神との結びつきの中で生きられるようになった人たちだったのです。このことは、キリスト信仰にとってとても大事なポイントです。つまり、キリスト信仰では「救い」というのは、人間の目に見える境遇が良好な状態であるということと同義ではありません。境遇が良好かそうではないかにかかわらず、罪と死の支配から解放されて、神との和解が回復して、神との結びつきの中で生きられるようになる、それが「救い」なのです。誤解を恐れずに言えば、出血の女性や目の見えない男の人が癒されたのは、そのような救いに対する付け足しのようなものだったのです。
そういうわけで、キリスト信仰者が不治の病にかかったとしても、それはその人の「救い」が無効になったということでは全くありません。そうではなく、その人がイエス様を救い主と信じる信仰にしっかりとどまる限り、その人は病気になる前と同じくらいに救われた状態にいるのです。このような確固とした救いは、イエス様が贖いの業を成し遂げて全ての人に提供されました。そしてそれは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで自分のものとして受け取ることができるのです。
本日の箇所のらい病の男の人も同じです。10人の男の人たちは、先ほど見たルターが言うように、癒してくれるのかくれないのかはっきり言ってくれなくとも、イエス様を強く信頼して言う通りにしました。イエス様は、彼らの信仰がわかりました。しかし、時はまだイエス様の十字架と復活が起きる前のことでした。そのため、9人が旧約、つまり神との旧い契約の様式に則って行動したのは無理もないことでした。これに対して、賛美と感謝を捧げるために一人イエス様のところに戻って来たサマリア人は、十字架と復活の時に確立される新しい契約の行動様式を示しました。それは、自分を身代わりの犠牲にして救いを実現して下さったイエス様と、彼をこの世に送って下さった父なる御神をただ賛美し感謝を捧げるということです。そういうわけですから、兄弟姉妹の皆さん、私たちは、どんな境遇に置かれても、このいただいた確固たる救いのゆえに、賛美と感謝を絶やさずに捧げる方がいらっしゃるということを忘れないようにしましょう。
本日は、「神の正義には天国と地獄はつきもの」という題で説教をします。私が見聞きしうる範囲ですが、最近のキリスト教会の説教では地獄について語ることはほとんどなく、天国ばかりについて語られているように思います。しかし、私は、天国について語るのであれば、地獄についても語らねばならないと考える者です。それは、赦しについて語るならば、罪についても語らねばならないのと同じように。また、福音について語るならば、律法についても語らねばならないのと同じように。
先週の主日の福音書の箇所は、イエス様の「不正な管理人」のたとえでした。そこで明らかになったことは、人は神と富の両方に仕えることはできないが、もし神にしっかり従い仕えるならば、富に対しては主人となることができ、それを神の意思に沿うように用いることができる、その意味で富を持ちながら神に仕えることはできる、ということでした。「不正な管理人」のたとえが話された背景として考えられるのは、当時の人々の考え方として、一方では富を持てば神にではなく富に従属してしまう人がおり、他方では神に仕えるために富を捨てなければならないと、信仰のために富を否定したり距離を置く人たちがいました。そこで、イエス様は、富に対して主人となってそれを神の意思に沿うように用いるのであれば、それでも永遠の命に与ることができる、と教えたのであります。神の意思に沿うように、というのは、神を全身全霊で愛することと隣人を自分を愛するが如く愛すること、それらを実現するために富を用いるということです。
本日の福音書の箇所もイエス様のたとえですが、ここに登場する金持ちは、まさに富を持ちながら神にではなく富に従属してしまった人の典型例であります。「紫の衣」πορφυραというのは、アクキガイという熱帯の巻貝の分泌液が紫色でそれを染料として染め上げた布で作った衣です。上着一着を染めるのに何千もの貝が必要とされたので、服は相当な値段になります。それに高価な亜麻でできた服も着ている。このように着飾って、毎日ぜいたくに遊び暮らしていたというから、億万長者です。その大邸宅の門の前に、全身傷だらけの乞食が横たわっていた。名前はラザロ。ヨハネ福音書に登場するイエス様に生き返らされたラザロとは関係はないでしょう。ヨハネ福音書の場合は現実に起きた出来事に登場する現実の人であり、本日の箇所はたとえ話の中に出てくる架空の人物です。ラザロΛαζαροςという名前は、旧約聖書のあちこちに登場するヘブライ語のエルアザルאלעזךという名前に由来します。「神は助ける」という意味があります。門の前を通りかかった人は、きっと、この男は神の助けからほど遠いと思ったことでしょう。ラザロは、金持ちの食卓から落ちてゴミになるものでいいから食べたいと思っていたが、それにすら与れない。彼のもとにやってくるのは傷を舐めてくれる野良犬だけです。「横たわる」という動詞は過去完了形(εβεβλητο)ですので、ラザロはかなり以前から金持ちの家の門の前に横たわっていたことになります。ということは、金持ちはラザロの存在をずっと知っていたことになります。しかし、こんなに近くに助けを求めている人がいるのに、それを全く無視して、贅沢三昧な生活を続けていたのであります。金や品物が人の心を麻痺させてしまった典型例と言えましょう。
さて、金持ちは死にました。「葬られた」とはっきり書いてあるので、葬式が挙行されました。さぞかし、盛大な葬儀だったでしょう。ラザロも死にましたが、埋葬については何も触れられていません。きっと、彼の遺体はどこかに打ち捨てられたのでしょう。
しかし、話はここで終わりませんでした。実はこれまでの出来事は序章にしかすぎないと言えるくらいの本章がここから始まるのです。金持ちは、陰府の世界に堕ち、そこで永遠の火に毎日焼かれ続けなければならない。ラザロの方は、天使たちによって天の神の御国に上げられ、そこでアブラハムと共に宴席についている。ギリシャ語では「宴席につく」という言葉はなく、「アブラハムの胸元にいる、アブラハムに抱きかかえられるようにしている(κολπος Αβρααμ)」というような意味です。しかし、天の御国は、黙示録19章や21章に記されているように、結婚式の祝宴にたとえられます。つまりそれは、今の世の労苦が最終的に全て報われ労われる場所です。流さなければならなかった涙も完全に拭われ(黙示録21章4節)、喜びが全身全霊に満ち溢れる場所です。そういうわけで、日本語訳の付け足し「宴席につく」は結構な訳だと思います。
金持ちは、罪の罰を受けたのであります。何の罪かというと、まず「隣人を自分を愛するが如く愛せよ」という隣人愛にあからさまに反する生き方をしたのです。それだけではありません。なぜ隣人愛を踏みにじったかというと、それは、神に従属せず富に従属して仕えたからで、それは「神を全身全霊で愛せよ」という神への愛に反する生き方だからです。つまり、二重の大罪というわけです。もし、金持ちが富にではなく神に従属して、富の主人となって、富を神の意思に沿うように用いていれば、罰は避けられたのであります。
以上が本日の福音書の箇所の要旨ですが、本説教では、このたとえからさらに三つのことを学びたいと思います。その三つとは、まず、神は最終的に次の世で正義を実現されるが、今の世の不正義に対してはどのような態度をとっているのか?次に、ラザロは天の御国に迎え入れられたが、彼の信仰にはついて何も言われていないので、救済と信仰の関係をどう考えたらよいのか?三つ目は、イエス様が本日の箇所の最後で「モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう」と言います。モーセと預言者とは旧約聖書を指しますが、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けてキリスト信仰者になるとき、最初、旧約聖書がわからないとだめなのか?これらの質問に答えてみようと思います。
この三つの質問に取り掛かる前に、少し横道にそれますが、重要な言葉の意味について少し見ていきます。「陰府」という言葉です。ギリシャ語ではハーデースαδηςという言葉で、人間が死んで肉体も魂も滅びた状態になって安置される場所です。本来そこは、本日の箇所のように永遠の火の海の世界ではありません。火の海は、ギリシャ語でゲエンナγεενναと言い、文字通り「地獄」です。黙示録20章を見ると、「イエスの証しと神の言葉のために」命を落とした人たちが最初に死から復活させられます(4節)。その次に、これ以外の人たちが復活させられますが、彼らは前世での行いに基づいて裁きにかけられます。神のもとにあるいろんな書物に彼らの行いが全て記されており、それらに名前が載っていない人は、地獄に落とされてしまう。その時、神の御国が具体的な見える形をとって現われ、「新しいエルサレム」と呼ばれ(21章2節)、そこに地獄に落とされなかった人たちが迎え入れられる。こうしてみると、神の御国と地獄は、将来、今の世の天と地が終わって新しい天と地にとって変わられる時に出現するものと言えます。そうならば、陰府とは、まだ今の世が存在している段階にあるものと考えることができます。それは、どこか神のみが知る場所にあって、死んだ者が安置されている場所と考えることができます。ルターは、人が死んだ後は、復活の日までは安らかな眠りにはいるも、たとえそれが何百年の眠りであっても本人にとってはほんの束の間のことにしか感じられない、目を閉じたと思って次に開けた瞬間にもう壮大な復活の出来事が目の前で始まっている、と述べました。この復活の出来事が起きる前の安らかな眠りの場所が、陰府になると言ってよいでしょう。
つまり、安らかな眠りの場所である陰府とは、今の天と地が存在する段階にどこかにあるものでが、天の神の御国と地獄は新しい天と地が生まれる将来のものとなります。そうすると、金持ちが落ちた火の海をイエス様が陰府と言っているのは、将来の地獄の間違えではないかと思われます。しかしながら、ここはそんなに厳密に考えなくてもよいと思います。なぜなら、イエス様のたとえは、何か大事なことを教えるために話され、歴史の正確な流れは二の次になっているからです。金持ちが地獄にいて、ラザロが天国にいるということは、正確に言えば、今の天と地がなくなって、復活の出来事が起きる将来のことです。ところが、たとえの中で、金持ちはラザロを自分の家の兄弟のもとに送ってくれと頼みます。つまり、まだ今の世は終わってはおらず、火の海の地獄は将来のものであるということと矛盾が生じるのであります。それが、イエス様が火の海を陰府と言った理由と考えられます。しかし、このようなことは、たとえの自由な創作から起きることで、そんなに厳密に考える必要はないと思います。繰り返しますが、イエス様はたとえで何か大事なことを教えようとした、それで歴史の正確な流れにはこだわらなかった、ということです。それでは、イエス様が教えようとした大事なことを、先に掲げた三つの質問を通して順々に見ていきましょう。
最初の質問は、神は最終的に次の世で正義を実現されるが、今の世の不正義に対してはどのような態度をとっているのか、というものです。本日のたとえから、この世で起きた不正義で解決されないものがあっても、最終的に次の世で必ず解決されるということが明らかになります。先ほども見ましたように、黙示録20章4節に「イエスの証しと神の言葉のために」命を落とした者たちが最初に復活することが述べられています。12節に、その次に復活させられる者たちについて述べられており、彼らは前世の行いの基づいて裁きを受けることになっています。キリスト信仰を守る人たちを殺害した者たちは間違いなく罰の対象になると言ってよいでしょう。そうなると罰を受けるのはキリスト信仰に反対する人だけかと思われますが、そうではなく、本日のたとえが示唆するように、キリスト教のメンバーでも神の意思に反する生き方をし続けた人はやはり罰の対象になります。(本日のたとえの金持ちとラザロは、まだキリスト教が誕生する前の世界の登場人物ですが、金持ちはアブラハムを「父」と呼ぶくらいに、またラザロはヘブライ語の名前から明らかなように、れっきとした神の民の末裔です。)
人間の全ての行いが記されている書物が存在するということは、神はどんな小さな不正も見過ごさない決意でいることを示します。仮にこの世で不正義がまかり通ってしまったとしても、いつか必ず償いはしてもらうということです。この世で数多くの不正義が解決されず、多くの人たちが無念の涙を流さなければならなかったという現実があります。そういう時に、来世で全てが償われるというのは、この世での解決努力を軽視していると思われるかもしれません。しかし、神は、人間が神の意思に従うように、つまり神を全身全霊で愛し、隣人を自分を愛するが如く愛するようにと命じておられます。このことを忘れてはなりません。つまり、たとえ解決が結果的に来世に持ち越されてしまうような場合でも、この世にいる限り神の意思に反する不正義や不正には対抗していかなければならないのであります。それで解決がもたらされれば神への感謝ですが、力及ばず解決をもたらすことが出来ない時もある。しかし、その解決努力をした事実は神にとって無意味でもなんでもない。神はあとあとのために全部のことを全て記録して、事の一部始終を細部にわたるまで正確に覚えていて下さるからです。たとえ人間の側で事実を歪めたり真実を知ろうとしなくても、神は事実と真実を全て把握しているのであります。そして、神の意思に忠実であろうとして失ってしまったものについて、神は後で何百倍にして埋め合わせて下さるのです。それゆえ、およそ、人がこの世で行うことで、神の意思に沿わせようとするものならば、どんな小さなことでも、また目標達成に程遠くても、無意味だったというものは何ひとつないのです。
ところで、キリスト教信仰に地獄のような裁きや罰の考えが強くあるのは、多くの人にとって意外に思われるかもしれません。「キリスト教って確か赦しの宗教じゃなかったの?」と思われるからです。その通り、キリスト信仰は罪の赦しを土台とする信仰です。しかし、取り違えをしてはなりません。キリスト信仰の罪の赦しとは、それまで神に背を向けて生きていたことを間違いと認め、これからは神のもとへ立ち返る生き方をしようと悔い改めれば罪の赦しが得られるということであります。つまり、どんな極悪非道の悪人でも、このような神への立ち返りをすれば、たとえ世間は赦さないと言っていても、神は赦し、受け入れて下さるのです。反対に、本日の箇所のような金持ちの場合は、たとえ世間は貧乏人の死因は金持ちのせいではないと言っても、神は赦さず、受け入れないのであります。
二つ目の質問は、ラザロは天の御国に迎え入れられたが、彼の信仰にはついて何も言われていないので、救済と信仰の関係をどう考えたらよいのか?
ここは、説教者にとって、一つの誘惑になるところです。ラザロの信仰について何も言われていない、ということは、神は信仰のあるなしに関係なく、全ての人を天の御国に迎えられるのだ、と考える人が結構多いからです。キリスト教信仰の基本中の基本は、人はイエス様を救い主と信じる信仰によって天の御国に迎えられる、ということですが、ラザロにはそのような信仰があったのか?しかしながら、ラザロが信仰にあったとか、なかったとか、また、信仰があってもなくても天国に行くのには関係がないとか、そういう問題提起は、イエス様がこのたとえで教えようとしていることと何の関係もありません。
このたとえで問題となっていることは、イスラエルの民、つまり神の民に属する二人の人がいて、一人は神の意思に反する生き方を徹底的に追求し、もう一人は完璧にその犠牲になってしまった、そのようにして、この大きな不正義が未解決のまま来るべき世に持ち越されてしまった、ということ。そして、事の一部始終全てをご存知である神はこの未解決の問題を来るべき世において最終的に解決した、ということです。神にとって、自分の民に属するラザロが神の意思に反する行動の犠牲者になってしまった、ということが、彼を天の御国に迎え入れる十分な理由になったのです。ラザロの信仰には何も言われていないから、このたとえは信仰がなくても天国に行けることを意味している、というのは単なる問題のすげ替えです。ここで中心になっていることは、神の正義に関わる問題です。神は正義の問題、つまり御自分の意思が人間の間で実現しているかいないかという問題に必ず決着をつけられる方である、ということです。そういうわけで、このたとえは、むしろ神の意思に反する行動をとっている人たちに向けられて語られたと言ってよいでしょう。
三つ目の質問は、イエス様が「モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう」と言っていることに関連します。モーセと預言者とは旧約聖書を指します。そこで、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けてキリスト信仰者になるとき、最初旧約聖書がわからないといけないのか?
確かに、旧約聖書を知らず、天と地と人間を造られた神、人間一人一人に命と人生を与えた神を知らずして、死者から生き返った者を見たら、特に日本人だったら、自分の伝統的な宗教の考えの枠内で出来事を解釈するか、または新しい宗教団体を結成することに終わる可能性があります。そのようにして、聖書の神からますます遠ざかってしまうでしょう。しかし、死から復活したのがイエス様である場合は、人間を聖書の神に引き戻す力が働くのです。イエス様の十字架の死と死からの復活を目撃した者たち、そして彼らの証言を聞いて信じた人たちは皆、本当にモーセと預言者に立ち戻ることになったのです。天地を創造し人間を造られた神に立ち戻ることになったのです。どうしてそのようなことが起きたのでしょうか?
それは、イエス様の十字架の死と死からの復活を出発点として、遡るように旧約聖書の意味が明らかになっていったことがあります。死からの復活が現実に起きたことを知った人たちは、みんなが預言者と騒いでいたあのナザレのイエスは真に神の子だったのだ、と。そう言えば、彼は自分でも自分のことを神の子と言っていたし、またメシアとか、ダニエル書で預言されている「人の子」とも言っていたが、全て本当だったのだ、と。なぜ神の子が死ななければならなかったのか?それは、イザヤ53章に預言されているように、人間が受けるべき罪と不従順の罰を全て引き受けられたのだ、と。イエス様が罰を全部引き受けて下さったので、私たちは罰を免れる状態にあるのだ、と。まさにこれで、アダムとエヴァの堕罪の時に私たち人間の造り主である神と造られた私たちの間にできてしまった断絶は埋められたのだ、と。私たちの身代わりとなって私たちを罪と死の奴隷状態から贖い出して下さったイエス様を自分自身の救い主と信じる信仰、この信仰によって私たちは神との結びつきを取り戻すことができ、この結びつきの中でこの世の人生を歩むことができることになったのだ、と。イエス様を死から復活させたことで、神は永遠の命、復活の命の扉を私たちのために開かれた。だから、私たちは、万が一この世から死ぬことになっても、信仰によって神と結びついた者として、神は御手をもって御許に引き上げて下さるのだ、と。
このように、イエス様を救い主と信じる信仰に生きる人は、既に旧約聖書に貫いている神の人間救済計画を体得しているのであります。天と地と人間を造り、私に命と人生を与えて下さった神は、私がこの世に誕生するはるか以前に、このようなことをずっと計画していて、それをイエス様をこの世に送られることで実現されたのだ、と。このようにして、イエス様を救い主と信じる信仰に生きる者は、この神の意思に沿って生きようとすることが当然という心意気になり、神の意思をちゃんと知ろうとして、旧約も新約も同様に日々繙いて、そこから神の御言葉に聞こうとするのです。このようにして私たちに新しい人生を与えて下さった父なる御神は永遠にほめたたえられますように。