説教「天の国のたとえ」木村長政 名誉牧師、マタイによる福音書13章44節~52節

今日の御言葉には、「天の国のたとえ」の話が三つ記されています。 一つは、「宝が畑に隠されている」たとえです。宝を見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。そして、宝を手に入れることができた。

二つ目のたとえは、「良い真珠を求める商人」のたとえです。 この商人は、高価な真珠を一つ見つけると、行って、持ち物を売り払って、これを買う。

イエス様は13章のはじめに、「良い種と毒麦のたとえ」を語られて、これと対をなす形で、この二つの譬えを語られています。

この二つを包むようにして、三つ目の「47節からのたとえ」で、まとめられています。 もう一度、ゆっくり二つのたとえを見てみますと ある人が、畑に隠された宝を見つけると、持ち物をみな売り払って、その宝の畑を買う。又、高価な真珠を一つ見つけると、持ち物をみな売り払って、その貴重な真珠を買う。

この二つの譬えで言おうとされていることは、この両方とも、天国というものは、何ものにも替えがたい、宝のようなものである。と、言われているのです。これとよく似た言葉が、旧約聖書「箴言」3章15~19節にあるのです。 その箴言からの言葉を見ますと 「知恵は宝石よりも尊く、あなたの望む何物もこれと比べるに足りない。その右の手には長寿があり、左の手には富と誉がある。その道は楽しい道であり、その道筋はみな平安である。 知恵は、これを捕える者には命の木である。それをしっかり捕らえる人は、幸いである。 主は、知恵をもって地の基をすえ、悟りをもって天を定められた。」とあります。

この箴言では、「知恵」というものが何物にもまさる宝とされている点で、マタイで語られる「二つのたとえ」と同じであります。

さて、44節のたとえの奥義を少し考えましょう。 イエス様は、しっかりと宣言されているのです。どんなものより計りがたいほどの、高い価値のあるものが、あなたのすぐそばにあるのだ。それは静かに隠されているが、あなたといっしょにある。 それを見出したら、突然、宝を見出した人と同じような幸せを経験するだろう。 他の者たちがそれを見出さなくても、又多くの人たちがその畑に行きながら、何の特別なものを認めなくても、宝はある。

神様が招いておられる価値は、少しも変わらない。 たとえ、多くの人々に軽視されたとしても、あくまでそれは宝であり続ける。 だから、今、イエス様によって、天の父からもたらされる宝を知って、理解して、自分のものにするように、と示されるのです。 同時に、イエス様は、私たちがこの宝を手に入れることができるに至る道を、示されています。 彼は、宝が隠されている畑を、どんな価を払ってでも手に入れるため、自分のすべてのものを売り払ってでも、とにかくその畑を買うことなのだ。 他の、すべてのことを後回しにする時のみ、神様から賜物を見出すのだと、イエス様は言われる。

それは、私たちにとって、ほかのすべての幸福より以上に、価値があるので、真っ先にそれを求める。そのためには、どんな犠牲も喜んでする、そのことをイエス様は要求なさっているのです。 もし、そこに神の国のことと並んで、更にこの世の楽しみや、栄えを求めたいという二心あるなら、かえってそれを失ってしまうであろう。 そのような人は、御国を見出すものを与えられない。なぜですか?と言っても、それは神様のうちに秘められた秘技であります。

神様は、自分を捨てる自己放棄することを通して、私たちを豊かにして下さる。同様に又、神様は、死ぬことを通して生き生きと、命を得させて下さる。 又神様は、すべてを犠牲にできるような、献身を要求されるのであります。 ですからイエス様は、自分の古い持ち物に愛着しないで、宝の畑を得るために、それを犠牲にすることの賢さを、考えるようにと、命じられるのです。 愛着していた古いものいっさいを、すてることはまことに辛いことです。 しかし、畑に隠されている宝は、それまで富に向けていた一切を越えて、豊かに豊かに満たしてくれるものであります。 主イエス・キリストに対する信仰と、神の御国への望みを、しっかりと見据えていかねばならない。

バークレーという神学者は、こう言っています。天国に入るためには、どんな犠牲を払ってもよい、ということである。天国に入る、というのは、神のみこころを受け入れて行こう、ということです。 人が宝を発見するように、ある時、突然自分に対する神のみこころは、これだ、 という確信が閃くことがある。 これを受け入れるためには、今まで大切に思っていた目的や、野心をすてて、イエスに従うということです。

さて、次に45~46節にあります「高価な真珠を探す商人」のたとえ話です。

よく、ことわざに「豚に真珠」といいます。豚にどんなに美しい真珠を見せても、その価値はわかりません。 真珠を扱ったことのない私など、豚と同じかもしれません。 その真珠が高価なものか、安っぽいものか区別がつきません。

イエス様の時代、真珠を特別に尊いものと、考えていました。更にだれでも、美しい真珠を持ちたいと願っていました。 それは、金としての価値があったばかりでなく、「美しさ」という価値が高かったからであります。

ここに、良い真珠を手に入れたいと願っていた真珠商人がいて、二度とお目にかかることのないような、素晴らしい真珠に出会ったら、その真珠を得るためなら、それがどんなに高価であってもひるむことなく、持ち物を全部売り払って、その高価な真珠を買うことでしょう。 そこには、どんな犠牲を払ってでも、手に入れたいのであります。

このように、イエス様の弟子になる人は、天の御国こそは、所有しなくてはならない高価な真珠であって、そのためには喜んで、すべてのものを捧げるべきものでありましょう。

次に、三つ目のたとえが、47~50節に記されています。 いろんな種類の魚を、網ですくい上げ、「良いものは器に、悪いものは外に投げ捨てる」という、世の終わりの神の審きが語られています。 ガリラヤの漁師たちも、よく見ている光景でありました。漁をするのに、二つの方法があったといいます。 一つは、網をパーっと広げて、おもりを先端につけた網が沈んで、それを引き上げると網に魚がとれるという。 もう一つは、このたとえで言われているようですが、地引網の方法で広げて、長い網を舟で引き上げていくと、その網には種々雑多なものや、大小様々な種類の魚が網にかかって、すべて引き上げられる。 引き上げる最中に、いろんな種類のものがあっても、無用なものを捨てるという選別はできない。その選別は岸辺で行われる、ということです。

ここで、イエス様は弟子たちに、これから使徒として働き、その業を行っていく上で、大切なことを示しておられるのです。 弟子たちはやがて、各地に神の御国の福音を担って出て行く。そして彼らは、すべての人をキリストに招く。すべての人に御国を示すことをゆるされている。 そうした中で、人々は真剣に悔い改めるだろうか。神の福音に、いつまでも留まり続けるだろうか。或いは、人々に対する自分たちの働きは、無駄に終わらないだろうか。 このような疑いで苦しむ必要はない、ということです。

漁師がその湖で捕えた魚を引き上げている最中に、すぐに選り分けることができないように、福音の仕事をしている間、そのことを決定するのは、彼らではない。神が決定されることです。 そこで、ふさわしくない者は、どんな策略をめぐらしても、神の国を手に入れることはない、ということです。 なぜなら収穫の仕事が終わったあと、神のさばきが効力を発し、選別が行われるからであります。

弟子たちは、これからのすべての働きにおいて、収穫にふさわしいものを、今すぐに計ることができない。 世界の行き着く、完成した時、はじめて教会を形づくっている者のうち、誰が天使によって、神の食卓の招きにあずかるかを、彼らは見ているでしょう。 弟子たちは未来になって、彼らの業の確証をみるでありましょう。 私たちの教会での働き、信仰の生きた姿も、この世の完成した時、天の御国へと招かれるでありましょう。

ハレルヤ・アーメン。

 

聖霊降臨後第10主日  2014年8月17(日) 

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