説教:高木 賢宣教師(SLEY)から頂いた「本日の聖書の箇所の説明」を星野哲郎兄が代読いたしました。イザヤ書55章1〜5節、ローマの信徒への手紙9章1〜5節、マタイによる福音書14章13〜21節

8月24日(日曜日)の聖書(使徒書と福音書)の箇所についての説明

「イザヤ書55章1〜5節」、「ローマの信徒への手紙9章1〜5節」、「マタイによる福音書14章13〜21節」

(はじめに)

聖書の訳は原則として口語訳によっています。「ローマの信徒への手紙」および「マタイによる福音書」の説明は、フィンランドで入手可能なルター派の説明書を翻訳したものですが、わかりやすくするために翻訳者(私)の責任で文章に手を加えてあります。これは説教用の文章ではなく、聖日の聖書箇所の学びのための文章ですので、その点はご承知ください。それでは、御言葉によって祝福されたひと時をお過ごしくださいますように。

(高木賢、フィンランドルーテル福音協会宣教師、神学修士)

 それでははじめに、本日の使徒書である「ローマの信徒への手紙9章1〜5節について説明します。

本日の使徒書の日課の箇所は、キリスト教会とユダヤ民族との関係を扱っている「ローマの信徒への手紙」9〜11章の冒頭部分に当たります。

9〜11章は、私たちに大問題を突きつけます。パウロはユダヤ人として、彼自身もその一員であるユダヤ民族の行く末について述べます。彼は、イスラエルの民が福音を拒絶する有様を実際に自分の目で体験し、深く心を痛めました。考えてみると、これは奇妙な状況でした。罪深い人間を救おうとする神様の歴史への関わりは、神様がこの世を造られた時以来、目に見える形で続いてきました。神様は、御言葉を通して、ユダヤの民に、御自分について知らせる啓示を与え、救いの約束を授けてくださいました。にもかかわらず、ユダヤの民は、その大多数が、キリスト教会の一員になろうとはせず、教会の外側に留まり続けました。これが「異邦人の使徒」パウロにとってどれほど辛いことであったか、すでにこの9章の始めの言葉から感じ取ることができます。パウロは次のように言っています。

「わたしはキリストにあって真実を語る。偽りは言わない。わたしの良心も聖霊によって、わたしにこうあかしをしている。すなわち、わたしに大きな悲しみがあり、わたしの心に絶えざる痛みがある。実際、わたしの兄弟、肉による同族のためなら、わたしのこの身がのろわれて、キリストから離されてもいとわない。

(ローマの信徒への手紙9章1〜3節)

パウロの親戚や友人たちは、彼の伝える福音に注意を向けようとはしませんでした。現在でも、多くのキリスト信仰者は、自分の親戚や友人に関して、 それと同じこと、すなわち、なぜ彼らは福音を受け入れないのか、を問わずにはいられません。神様が罪深い存在である人間を救ってくださる出来事は、歴史の中で、今この瞬間も起きているし、また、これからも起こり続けます。人間の歴史においてイスラエル民族がどのような役割や意味をもっているかについては、私たちが生きている現代においても、様々な相反する意見が述べられています。そして、「ローマの信徒への手紙の9〜11章で、パウロは、これらの疑問を、感嘆するほかない鮮やかなやり方で、じっくりと掘り下げていきます。この難問に対して真正面から取り組んだ彼は、最も深く暗い場所から、神様の最も偉大な善き御心を見いだします。

9章1〜5節において、パウロは、ユダヤ人をめぐる問題を提示します。福音伝道は、異邦人(つまり、ユダヤ人以外の民族)の間では成果を挙げましたが 、ユダヤ人の間では順調に広がって行きませんでした。パウロにとって、これは辛いことでした。モーセは、不平ばかり言っているイスラエルの民の代わりに自分が見捨てられるように、神様に願い出たことがあります。それは、神様から派遣された預言者として、反抗的な神の民から不平不満の集中砲火を浴びる辛い立場にあったモーセの心情が吐露された瞬間でした。それでは、旧約聖書の「民数記」に記されているその出来事を読みましょう。

「さて、民は災難に会っている人のように、主の耳につぶやいた。主はこれを聞いて怒りを発せられ、主の火が彼らのうちに燃えあがって、宿営の端を焼いた。そこで民はモーセにむかって叫んだ。モーセが主に祈ったので、その火はしずまった。主の火が彼らのうちに燃えあがったことによって、その所の名はタベラと呼ばれた。

また彼らのうちにいた多くの寄り集まりびとは欲心を起し、イスラエルの人々もまた再び泣いて言った、「ああ、肉が食べたい。われわれは思い起すが、エジプトでは、ただで、魚を食べた。きゅうりも、すいかも、にらも、たまねぎも、そして、にんにくも。しかし、いま、われわれの精根は尽きた。われわれの目の前には、このマナのほか何もない」。

マナは、こえんどろの実のようで、色はブドラクの色のようであった。民は歩きまわって、これを集め、ひきうすでひき、または、うすでつき、かまで煮て、これをもちとした。その味は油菓子の味のようであった。夜、宿営の露がおりるとき、マナはそれと共に降った。

モーセは、民が家ごとに、おのおのその天幕の入口で泣くのを聞いた。そこで主は激しく怒られ、またモーセは不快に思った。そして、モーセは主に言った、「あなたはなぜ、しもべに悪い仕打ちをされるのですか。どうしてわたしはあなたの前に恵みを得ないで、このすべての民の重荷を負わされるのですか。わたしがこのすべての民を、はらんだのですか。わたしがこれを生んだのですか。そうではないのに、あなたはなぜわたしに『養い親が乳児を抱くように、彼らをふところに抱いて、あなたが彼らの先祖たちに誓われた地に行け』と言われるのですか。わたしはどこから肉を獲て、このすべての民に与えることができましょうか。彼らは泣いて、『肉を食べさせよ』とわたしに言っているのです。わたしひとりでは、このすべての民を負うことができません。それはわたしには重過ぎます。もしわたしがあなたの前に恵みを得ますならば、わたしにこのような仕打ちをされるよりは、むしろ、ひと思いに殺し、このうえ苦しみに会わせないでください」。」

(民数記11章1〜15節)

パウロもモーセと同じようなことをここで願いますが、それは実現しませんでした。本来神様の御国に属する民であるはずのユダヤ人にとって、神の御子イエス•キリストが十字架で流された血によって、全世界のすべての人間、(つまり、そこにはユダヤ人も全員含まれます)、のすべての罪を身代わりに引き受けて、義なる神様の御前でその罰をすべて受けてくださった、という福音は、とうてい受け入れられないものでした。そして、この状況は、今日に至るまで変わっていません。ユダヤ人伝道は、現在も許可されている範囲内で行われてはいますが、それでも一年の間にごくわずかのユダヤ人がキリストを信じるようになるのがやっとという状態です。そして、これほどまでに徹底して福音を拒絶する態度は、他の民族では見られない現象です。

 それでは次に、本日の福音書の日課である「マタイによる福音書14章13〜21節について説明します。

14章13節で、「イエスはこのことを聞くと、舟に乗ってそこを去り、自分ひとりで寂しい所へ行かれた。」、とあります。イエス様が耳にした「このこと」とは、洗礼者ヨハネの斬首の出来事を指しています。それについて、今日の聖書日課のすぐ前の箇所を読みましょう。

「そのころ、領主ヘロデはイエスのうわさを聞いて、家来に言った、「あれはバプテスマのヨハネだ。死人の中からよみがえったのだ。それで、あのような力が彼のうちに働いているのだ」。というのは、ヘロデは先に、自分の兄弟ピリポの妻ヘロデヤのことで、ヨハネを捕えて縛り、獄に入れていた。すなわち、ヨハネはヘロデに、「その女をめとるのは、よろしくない」と言ったからである。そこでヘロデはヨハネを殺そうと思ったが、群衆を恐れた。彼らがヨハネを預言者と認めていたからである。さてヘロデの誕生日の祝に、ヘロデヤの娘がその席上で舞をまい、ヘロデを喜ばせたので、彼女の願うものは、なんでも与えようと、彼は誓って約束までした。すると彼女は母にそそのかされて、「バプテスマのヨハネの首を盆に載せて、ここに持ってきていただきとうございます」と言った。王は困ったが、いったん誓ったのと、また列座の人たちの手前、それを与えるように命じ、人をつかわして、獄中でヨハネの首を切らせた。その首は盆に載せて運ばれ、少女にわたされ、少女はそれを母のところに持って行った。それから、ヨハネの弟子たちがきて、死体を引き取って葬った。そして、イエスのところに行って報告した。」(14章1〜12節)

イエス様は、ガリラヤとペレア地方の領主だったヘロデ•アンティパスが洗礼者ヨハネを殺害したのを聞いて、その魔の手から逃れるために退いたのではありません。そうではなく、天のお父様との祈りの時をもつために、自分ひとりで寂しい所へ行かれたのです。祈りには静かで平和な場所が必要だからです。しかし、群衆はそれと聞いて、町々から徒歩でイエス様のあとを追ってきました。この有様は、旧約聖書の「出エジプト」の出来事を思い起こさせます。イスラエルの民はモーセのあとを追って、エジプトを出立し、荒野へと旅立ちました。そして、神様は、預言者モーセを通して、イスラエルの民を養い教えてくださいました。このモーセは、旧約聖書の「申命記33章1節」で「神の人」と呼ばれています。それと対応するように、今日の箇所では、神の御子イエス様が自分に従って来た大勢の群衆を荒野で癒し、養ってくださいました。旧約聖書で、荒野を彷徨するイスラエルの民を、神様が天からの食べ物であるマナによって養ってくださったように、「マタイによる福音書」では、イエス様が大勢の群衆に食べ物を与える奇跡を行われました。20節の「みんなの者は食べて満腹した。」という表現もマナの奇跡を思い起こさせます。

もう一つの旧約聖書の箇所も、この出来事の意味を考える上で大切です。それは、「列王記下4章38〜44節」です。それを読みましょう。

「エリシャはギルガルに帰ったが、その地にききんがあった。預言者のともがらが彼の前に座していたので、エリシャはそのしもべに言った、「大きなかまをすえて、預言者のともがらのために野菜の煮物をつくりなさい」。彼らのうちのひとりが畑に出ていって青物をつんだが、つる草のあるのを見て、その野うりを一包つんできて、煮物のかまの中に切り込んだ。彼らはそれが何であるかを知らなかったからである。やがてこれを盛って人々に食べさせようとしたが、彼らがその煮物を食べようとした時、叫んで、「ああ神の人よ、かまの中に、たべると死ぬものがはいっています」と言って、食べることができなかったので、エリシャは「それでは粉を持って来なさい」と言って、それをかまに投げ入れ、「盛って人々に食べさせなさい」と言った。かまの中には、なんの毒物もなくなった。

その時、バアル・シャリシャから人がきて、初穂のパンと、大麦のパン二十個と、新穀一袋とを神の人のもとに持ってきたので、エリシャは「人々に与えて食べさせなさい」と言ったが、その召使は言った、「どうしてこれを百人の前に供えるのですか」。しかし彼は言った、「人々に与えて食べさせなさい。主はこう言われる、『彼らは食べてなお余すであろう』」。そこで彼はそれを彼らの前に供えたので、彼らは食べてなお余した。主の言葉のとおりであった。

 (「列王記下4章38〜44節」)

 これらの出来事で、「神の人」と呼ばれる預言者エリシャは、食中毒になった人々を癒し、また、大勢の人々に食べ物を与える奇跡を行いました。イエス様がなさった奇跡との類似は明らかです。

 本日の箇所、「マタイによる福音書14章20節では、「パンくずの残りを集めると、十二のかごにいっぱいになった。」、とあります。この12という数字は、イエス様が選ばれた12人の使徒を思い起こさせます。この出来事では、使徒一人一人にそれぞれ一つのかごが与えられていたわけです。 モーセの指導の下に荒野を歩んだ旧約のイスラエルの12部族に対して、新しいイスラエルの民は、イエス様を信じて人生の荒野を渡って行く大勢の人々の群れを指しています。ですから、使徒たちは、この新しいイスラエルの12部族を指導して面倒を見る訓練を受けているとも言えましょう。

キリスト教会において、牧者は、使徒の職を受け継ぐ存在です。彼らは、聖礼典(つまり、御言葉とその解き明かしである説教、洗礼および聖餐)を通じて、この世という荒野を歩むキリスト信仰者を霊的に養い強める責任を負っています。

本日の箇所、「マタイによる福音書14章19節で、イエス様は、「群衆に命じて、草の上にすわらせ、五つのパンと二ひきの魚とを手に取り、天を仰いでそれを祝福し、パンをさいて弟子たちに渡された。弟子たちはそれを群衆に与えた。」、とあります。たしかにこれは、礼拝での聖餐式の御言葉を思い起こさせます。

ついてきた大勢の群衆を憐れんで、イエス様は弟子たちに、「あなたがたの手で食物をやりなさい」、と命じられました。しかし、弟子たちにはわずかの食べ物しかありませんでした。それでも、主はすべての人を満腹にさせてくださったのです。それと同様に、教会の牧者が教会に集う人々に差し出せるもの(たとえば、聖書の御言葉、パン一切れと葡萄酒一滴など)は、取るに足りないものに見えるかもしれません。しかし、主なる神様は全能であり、これらのものを通して大いなる罪の赦しの奇跡を行い、信仰を持ってそれに与る者を霊的に満たしてくださいます。ですから、このような主が教会に集う人々と共にいてくださることを感謝して覚えましょう。

それでは、「祈りの静かなひととき」をもつ大切さを学んで本日のお話を終えたいと思います。

「マタイによる福音書」14章22〜23節にはこう書いてありました。

「それからすぐ、イエスは群衆を解散させておられる間に、しいて弟子たちを舟に乗り込ませ、向こう岸へ先におやりになった。そして群衆を解散させてから、祈るためひそかに山へ登られた。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。

山の上で、群衆から離れて、イエス様は天の御父様と共におられました。私たちにとっても、これは大切な模範となります。このような祈り方は、神様の子ども誰もがもっている特権です。この特権は、イエス様のゆえに私たちに与えられています。それを、私たちはちゃんと利用しているでしょうか。神様と二人きりになるために、他のすべてから自分を引き離しているでしょうか。

日々の終わりのない忙しさの中で、私たちはこの静かなひとときを必要としています。このひとときは、山頂で過ごす時に似ています。そこでは、何が小さくて何が大きいか、はっきり見ることができます。眼下には靄や幻影がたちこめています。モーセがネボ山の頂上から神様がイスラエルに与えると約束されたカナンの地を見渡したように(「申命記」32章49節)、「祈りの山」の頂からさらに上を眺めると、「天の御国」という約束の地が遥か彼方に見えます。祈りの山頂にて、私たちは自分自身をありのままに見つめることができます。そして、自分が罪の赦しの恵みを必要としている存在であることがわかります。また、自分や他の人たちの人生を通して神様の御心が実現していく様子が、普段よりもはっきり見えるようになります。祈りとは、神様と共に過ごすことであり、神様のうちで憩うことです。

「祈りの山」から日々の生活の中に下りていくと、この世的なもののむなしさに気がつきます。このように祈りを通して、私たちは神様の子どもとして生きていく上で必要な新たな力を得ます。

私たちは、神様との静かなひとときを探し求めることを通して、他のすべてを一旦脇へ置いて、神様の御前に一人たたずむ心の準備をします。そのような時に、祈る人が神様に優しく抱かれながらすやすや眠ってしまうこともあるかもしれません。それは、いたって自然なことなのです。

人は祈りを怠ると、多くのものを失うことになります。神様の子どもは、今日もこれからも、祈りの中に日々を過ごすことが大切です。ですから、主よ、どうか私たちが祈ることができるように助けてください。アーメン。

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