説教「神が子供の信仰を価値あるものとみなす理由」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイによる福音書18章1-14節

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.イエス様が子供をとても大切に考えていたことは、福音書からよく伺えます。本日の箇所の出来事は、マルコ福音書9章とルカ福音書9章にも記されています。また、ルカ18章、マタイ19章、マルコ10章では、親たちがイエス様から祝福をいただこうと子供たちを連れていく場面があります。それを弟子たちが遮ろうとしたところ、主は弟子たちを戒めて、「神の国は彼らのような者たちのものだ」と言って、祝福を授けます。旧約の伝統では、神が何か任務を与える時に選ぶのはたいてい大人でした(エリのもとに引き渡されたサムエルは例外でしょうか?)。イエス様が神と子供の関係を何か特別なことのように見ていたのは当時としてはとても革新的なことだったでしょう。本日の箇所でイエス様は、大人たる者は子供の信仰を見習いなさいというようなことを教えます。また、子供の信仰を損なう者を神は断じて許してはおけないということも教えます。子供の信仰とはどういうものか?どうしてそれが手本となるのか?そういったことを後ほどみてみたいと思います。その前に、本日の箇所を、書かれていることを正確に把握しながら、理解を深めてまいりましよう。その後で、子供の信仰と大人の信仰の問題について見てまいりたいと思います。

 

 2.まず弟子たちがイエス様に「天の国で一番偉い者は誰か?」と質問します。「天の国」は、神の国のことです。マタイは「神」という言葉を畏れ多くて使わないようにしようとするので、そのかわりに「天」という言葉をよく使います。マタイ20章(マルコ10章)に、ヤコブとヨハネの母親がイエス様に、神の国が到来したあかつきには息子たちをイエス様の右大臣と左大臣にして下さい、と嘆願する場面があります。他の弟子たちは、この抜け駆け行為を見て憤慨しました。どうやら当時の弟子たちは、将来到来する神の国の序列や位階に関心があったようです。神の国を統治・君臨することになる王イエス様の側近になれるのは、果たして誰か?自分か、それとも他の者か?

ところがイエス様は、神の国で一番偉い者は誰かということには答えずに、子供のように、イエス、子どもたち突然、子供を弟子たちの前に立たせて言いました。「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。」

つまり、誰が神の国に入れるかということを教えるのです。神の国で誰が一番偉いかを言う前に、そもそも誰がそこに入れるのかという問題に注意を喚起するのです。その後で、「自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国で一番偉いのだ」と述べて、最初の質問に答えます。これには弟子たちもギャフンとしたでしょう。心を入れ替えて自分を低くして子供のようにならなければ、神の国で一番偉い者になれるどころか、神の国自体に入ることもできない、と言われたのですから。ここで、イエス様が教える神の国と弟子たちが理解していた神の国には大きな違いがあることは明白です。そういうわけで、イエス様が教える神の国とはどんな国かということについてみる必要があります。神の国は、先週の「人の子」と同じように、一回程度の説教では語り尽くせない大変大きなテーマです。それでも、なんとか頑張って大事な点は押さえてみたく思います。それとあわせて、神の国に入れるための条件「心を入れ替えて子供のようになる」とはどういうことなのか、これもみていきたいと思います。

神の国とは、天と地と人間その他万物を造られた神がおられるところです。それは天の国とか天国とも呼ばれるので、何か空の上か宇宙空間に近いところにあるように思われることもありますが、本当はそれは、人間が五感や理性を用いて認識や把握ができるこの現実世界とは全く別の世界です。神はこの現実世界とその中にあるもの全てを造られた後で、自分の世界に引き籠ってしまうことはなく、この現実世界にいろいろ介入し働きかけてきました。神の現実世界に対する介入・働きかけの中で最も重要なものは、御子イエス・キリストを御許からこの世界に送って、彼を十字架の上で死なせて、そして三日後に死から復活させたことです。

神の国はまた、神の神聖な意思が貫徹されているところです。悪や罪や不正義など、神の意思に反するものが近づけば、たちまち焼き尽くされてしまうくらい神聖なところです。神に造られた人間は、もともとは神と一緒にいることができた存在でありました。ところが、神に対して不従順になり罪に陥ったために、神との関係が壊れ、神のもとから追放されてしまったのです。その時、人間は死ぬ存在になってしまいました。この辺の事情は創世記3章に記されている通りです。

そうした悲劇が起きた後で神は人間に対して、身から出た錆だ、勝手にするがよい、と見捨てるようなことはせず、なんとか人間を助けてあげよう、人間がまた神との結びつきを持ててこの世の人生を歩めるようにしてあげよう、この世から死ぬことになっても、その時は自分の許に戻れるようにしてあげよう、と決意し、それでひとり子イエス様をこの世に送ったのであります。神がイエス様を用いて行ったことは、まず、人間と神の結びつきを壊していた原因である罪の問題を最終的に解決することでした。すなわち、人間の罪を全部イエス様が張本人であるかのようにして彼に全部負わせて、その罰を十字架の上で受けさせたということです。その結果、イエス様はとてつもない苦しみの中で死を遂げました。しかし、話はそれで終わらず神は今度は、イエス様を死から蘇らせて、死を超えた永遠の命の扉を人間のために開かれたのです。

このように神は、御自分と人間との結びつきの回復という大事業を、イエス様を用いて実現してしまったのです。あと人間の側ですることと言えば、これらのことがまさに自分のためになされたとわかって、それでイエス様こそ自分の救い主であると信じて洗礼を受ければ、神が実現してくれた救いを自分のものにすることができるのです。救いの所有者となって、永遠の命に至る道に置かれて人生を歩むようになります。神との結びつきを持って生きられるので、順境の時も逆境の時も絶えず神の良い導きと助けを得られ、万が一この世から死ぬことになっても、その時神は御手をもって御許に引き上げて下さり、こうして人間は永遠に自分の造り主のもとに戻れるようになったのです。ただし、キリスト信仰者になったと言っても、もちろんまだ肉を纏って生きていますから、罪をまだ持っています。しかし、「イエス様を救い主と信じますので赦して下さい、罪を犯さない生き方が出来るよう助けて下さい」と神に祈り求めれば、神は「我が子イエスを救い主と信じる以上は、彼の犠牲の死に免じてお前を赦してあげよう」と言って赦し、私たちが新しいスタートを切れるようにして下さるのです。このような慈愛に満ちた父なるみ神は、永遠にほめたたえられますように。

キリスト信仰者は、このような神に絶えず心の目を向けて自己吟味をし、神との結びつきを大切にしながら日々の人生を歩む者です。向かうところは死を超えた永遠の命が待っている神の国ですが、このように歩む者はこの世の人生の段階にて既に神の国の一員として迎え入れられているのです。ところで、神の国は、今はまだ目に見える形にはありません。しかし、それが目に見えるようになる日が来ます。それが、復活の日と呼ばれる日です。その日はまた、今の現実世界が終わりを告げる日でもあり、最後の審判の日でもあります。イザヤ書65章や66章(また黙示録21章)に預言されているように、神が今ある天と地にかわって新しい天と地を造る天地大変動の日が来る。「ヘブライ人への手紙」12章に預言されているように、その日、今の現実世界にあるものは全て揺るがされて崩れ落ち、唯一揺るがされない神の国だけが現れる。その時、主イエス様が再臨され、信仰を守り抜いた者たち全て、その時点で生きていた者と死から復活させられた者とをあわせて、神の国に集めて王として君臨します。

その時の神の国はまず、黙示録19章に記されているように、大きな婚礼の祝宴にたとえられます。これが意味することは、この世での労苦が全て最終的に労われるということです。また、黙示録21章4節(7章17節)で預言されているように、神はそこに集められた人々の目から涙をことごとく拭われます。これが意味することは、この世で被った悪や不正義で償われなかったもの見過ごされたものが全て清算されて償われ、正義が最終的に実現するということです。同じ節で「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」と述べられますが、それは、神の国がどういう国かを要約しています。イエス様は、地上で活動していた時に数多くの奇跡の業を行いました。不治の病を癒したり、わずかな食糧で大勢の人たちの空腹を満たしたり、自然の猛威を静めたり等々。こうした奇跡は、この限界だらけの現実世界を超える力を持つ神の国を人々に味わさせるものだったと言えるでしょう。少し話が脇道にそれますが、ある教会の全国総会で、「我々はこの地上で神の国を建設しよう」などと目標を決めていました。神の国とは、この現実世界の中に人間が建設するものではなく、本来は神が整備するものです。ルターも、神の国は神のもとから来るもの、と言っています。従って、キリスト教会の役割は、できるだけ多くの人が神の国に入れるようにすることだと思います。

 

3.神の国が以上述べたようなものであることは、イエス様の十字架と復活の出来事が起きる前は、まだはっきり理解されていませんでした。そのことは、当時のユダヤ教社会において、メシアと言う言葉の意味がいろいろな仕方で理解されていたということにもあらわれています。先週の説教でも触れましたが、メシアとは、一方ではかつてのダビデ王の末裔でイスラエルを外国の支配下から解放し栄光ある王国を再興してくれる待望の王を意味していました。他方では、この世はやがて滅び、それにかわって森羅万象が新しくされた世が到来する、その時、信仰を守り抜いた者たちと復活させられた者たちを一緒に集めて君臨する、そういうこの世と新しい世の橋渡し的役割をする王がメシアであるという考え方もありました。マルコ8章やマタイ16章に、イエス様が自分の死と復活を預言すると、それを打ち消そうとしたペトロはイエス様に強く叱責されてしまいます。ペトロがメシアの意味を現世的な民族的英雄と考えていたことがうかがえます。それで、メシアが受難の末に死んでしまうなんて受け入れがたいことだったのでしょう。先にも触れたヤコブとヨハネの母親は、イエス様の死と復活の預言を聞いた後で、神の国が到来したら息子を側近にして下さいと懇願します。母親は、神の国が現世的なものでなくて、復活を伴う新しい世の王国と理解したようです。しかしながら、身分の序列があると考えていたので、これも現世的な王国をイメージしていたことがうかがえます。

 以上のように、イエス様の死と復活の出来事が起きる前、人々は、神の国とそこに君臨するメシアについて正確な考えを持っていませんでした。そういう時に、弟子たちは「神の国で誰が一番偉いか」などと質問しました。イエス様の答えは弟子たちの予想を超えたものでした。まず、神の国に入れるための条件が言われました。「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して神の国に入ることはできない。」「心を入れ替える」というのは、ギリシャ語の原文では、「立ち返る」という意味の動詞στρεφωで、それが意味するところは、今の自分は神のもとからも、また神の意志からも離れてしまっている、だから今神のもとに立ち返らねば、と気づくことです。「子供のようになる」というのは、先ほど申し上げたように、神がイエス様を用いて実現して下さった救いをそのままいただくということです。神があげるよと言って下さるのを、ケチも文句もつけずに(もちろんつけようがないものですが)、ただただ受け取るだけです。逆に、これだけのものをいただけるのだから、何かこちらからもしないといけないとか、そんなお返しの必要もなく、ただただ受け身になって受け取るだけです。まさに大人としての自負も誇りもない状態で、まさに無力な子供のようになって受け取るだけです。こうして、人間は神の国の一員に迎え入れられるのです。本日の箇所では、イエス様は特に洗礼には言及していませんが、それはこの発言がまだ十字架と復活の出来事が起きる前になされたためで、それらが起きた後に、洗礼を通して救いの所有者になることがはっきりしてきます。

神のもとに立ち返って、子供のように無力な者として、神の実現された救いを受け取る、こうして人は神の国に入ることができる。このように神の国に入れる条件を明らかにした後でイエス様は、その神の国の中で一番偉い者は誰かということについて答えます。「自分を低くして、この子供のようになる人」がそれです。これは、今述べました神の国に入れる条件と同じ内容です。「自分を低くする」とは、こと救いに関しては、人間は何もなしえない、能力と知識をいかに高めて業を鍛えても、人間は死を超えた永遠の命は持てない、神の方で整えてくれなければならない。そのように観念して、救いに関しては神に全く依存するということです。ちょうど子供が親に依存しなければ生きていけないように。ここでは、「この子供のようになる人」と言って、弟子たちの目の前に立たせてある子供を指して、低くした状態がどんなものであるかを視覚に訴えています。「低くする」ことがどんなことか一目瞭然であるように、この子はおそらく身なりのみすぼらしい子供だったのではないかと思われます。

5節でイエス様は「わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」と言われます。(この文のギリシャ語の原文は少し厄介です。新共同訳のようなδεξηται~επι τω ονοματι μουという結びつきで考えないで、τοιουτο επι τω ονοματι μουという結びつきでみると、訳としては、「このような私の名に拠り立つ子供を一人でも受け入れる者は、私を受け入れるのである」という意味になります。つまり、イエス様を救い主と信じる子供を受け入れて、その子の信仰をしっかり守り支える者は、イエス様をしっかり受け入れて信じているのである、という意味です。次に来る6節とのつながりで考えると、こちらの方がいいのではないかと思われます。)この「受け入れる」ということですが、よくある理解の仕方ですが、孤児とか困窮した子供を引き取るという弱者救援の福祉的な意味ではありません。どんな意味かと言うと、次の6節でイエス様は「わたしを信じるこれらの小さい者の一人」と言っています。つまり、ここで引き合いに出される子供は、イエス様を救い主と信じる信仰を持っている子供です。何歳くらいかは予測がつきませんが、信仰を持っている子供ということに注意すると、先ほどの5節の「このような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れる」の意味が明らかになります。それは、弱者救援ということではなく、信仰を持った子供を信仰の共同体、教会の一員として、しかも大人と対等な一員として受け入れて、その信仰をしっかり守り支える、という意味です。10節でイエス様は、「神の御前にいる守りの天使は、大人だけでなく、ちゃんと子供にもついている、だから子供を見下してはならない」と教えているのです。子供だからと言って、その信仰を軽く見てはならないのであります。

6節から9節にかけて、「つまずき」の問題が出てきます。「つまずき」とは原語のギリシャ語でスカンダロンσκανδαλονといい、正確には「つまずかせるもの」という意味です。日本語でも英語借用語スキャンダルのもとの言葉です。

「つまずかせるもの」は、私たちをどうつまずかせるのか?先ほど申し上げましたように、私たちはイエス様を救い主と信じて洗礼を受けて、神が実現された救いの所有者となって、この世にありながら既に神の国の一員に迎え入れられて、約束された永遠の命に向かって歩むようになりました。キリスト信仰者とは、自分の肉に宿る古い人間を日々死なせ、洗礼を通して植えつけられた新しい人間を日々育てていく存在です。「つまずかせるもの」とは、古い人間と結託して新しい人間の成長を妨げたり阻止しようとするものです。暴力をもって信仰を捨てさせようとする迫害もありますが、もっとソフトな誘惑というものもあります。例えば、「これをすれば君は素敵な人生を送れるぞ。もちろん君の言う信仰には相いれないかもしれないがね。今どきそんな古めかしいことに自分を縛りつけて何になるんだい?」という具合に、です。キリスト信仰者にすれば、神のひとり子が流した尊い血が身代金になって自分を罪と死の支配から解放してくれたということが最大の自由であって、この世が誘惑する「素敵さ」こそが束縛に他なりません。イエス様が言われるように、五体満足のまま地獄におちるよりも、五体不満足のまま永遠の命に入れる方がよいというのは、健康や富や名声に恵まれてこの世を生きても、それが自分を造ってくれた神に背いて得られたり享受したりするものならば、呪われたものでしかないのです。

しかしながら現実には、「つまずかせるもの」の誘惑に聞き従って、新しい人間を育てることを止めて、古い人間にとどまってしまう人も出てきます。特に若者は、新しく生まれ変わりたい、今とは違う自分になりたい、と希求する心が強いので、洗礼で植えつけられた新しい人間をしっかり見据えていないと、「つまずかせるもの」が次々と打ち出してくる新しい人間像、先端をゆく人間像に目移りしてしまう危険があります。その意味で、本日の箇所でイエス様が「つまずかせるもの」への警告を大人よりも子供に向けているのは理由のあることなのです。(イエス様は、「つまづかせるもの」について教える前と後では、「お前たちは」と言って弟子に向かって教えていますが、「つまづかせるもの」のところでは、「お前は」と言って一人の相手に言っています。)

12節から14節までは、迷い出てしまった1匹の羊と迷わなかった99匹の羊のたとえ話です。もし信仰を持つ子供ないし若者が信仰を外れる道に迷い出てしてしまった場合、父なる神は見つかるまで探し出す決意でいるということです。迷い出した者自身が見つけられることを拒否しない限り、神は必ず見つけて下さり、信仰の道に再び戻して下さいます。洗礼を受けて救いの所有者になったにもかかわらず、そのことをすっかり忘れて生きるようになった人たちが、どうか、神によって見つけられますように。

4.それでは、本日の福音書の箇所を理解したところで今度は、大人の信仰と子供の信仰の問題について考えてみましょう。大人の信仰に何か問題があるのでしょうか?子供の信仰には、本当に大人が見習わなければならないものがあるのでしょうか?こうしたことを考える時、幼児洗礼の意味を振り返ってみるとよいと思います。

生まれたばかりの赤ちゃんに洗礼を授けることに意味があるのかという疑問はキリスト教会の歴史においてしばしば議論されてきました。まだ信仰告白はおろか、言葉さえ発せられない赤子がイエス様を救い主と信じる信仰を持っているかどうかとても疑わしい。洗礼を施すなら、ある程度年齢が進んで、聖書を理解でき、イエス様を救い主と信じますと自分で決意できる段階で授けるのが正しいと考える教派もあります。

ここで、神がイエス様を用いて実現した人間の救いは、人間の貢献が全くない100%神の業であった、ということを思い返す必要があります。神が救いを完成品として、どうぞ受け取ってくださいと、全人類に差し出して下さっている。救いはまさに神の全人類に対する無償の贈り物です。救われるために人間がすることと言えば、それをただ受け取るだけです。人間が受け身に徹すれば徹するほど、贈り物の無償性がはっきりします。その意味で幼児洗礼ほど、救いが贈り物であることが鮮明になる機会はないのであります。逆に言うと、理解力がなければだめだとか、何々しなければ施さない、受けないと言う場合は、贈り物に条件が課せられることになります。さらに、信仰が人間の自由な意思決定の産物となって、哲学や思想やイデオロギーのように、人工物化する危険があります。

もちろん、幼児洗礼を受けて、それで全てが解決するということにもなりません。ルター派が国教会となっているフィンランドでも現在多くみられるのですが、幼児洗礼がすっかり形式的な通過儀礼になってしまい、親は教会にも行かず、子供を日曜学校にも行かせない、家庭で一緒にお祈りすることもなければ、神やイエス様について教えることもないということが起きる。そうなると、子供は自分が救いの所有者であることに気づかずに育ってしまう。そのままで堅信礼を迎えてしまうと、そこでよほどの導きに遭遇しないと、それも形式的な通過儀礼に終わってしまう。その後の人生において、「聖書に書いてある神の意志などというものは時代遅れのもので、そんなものいちいち聞き従っていたら、自由な生き方や自己実現の邪魔になる」と言わんばかりの、無信仰の人が多く出てきます。そのような場合、幼児洗礼で与えられた贈り物はその人にとって何の意味もありません。ただ、正確を期して言うと、贈り物の意味自体は消滅しません。贈られた人が意味に目を背けて生きているだけです。そこで、もし、そういう人が信仰に立ち返れば、それは既に与えられている贈り物の意味を再びかみしめて生きることになるので、再洗礼を受ける必要は全くありません。いずれにしても、人が幼児洗礼で受け取った贈り物の意味をわかり、それを携えて生きるようになるためには、家庭の信仰生活の大切さは強調しても強調しすぎることはありません。

ところで、日本ではキリスト教徒は全人口の圧倒的少数派で、洗礼を受ける人も家族代々受けるというよりも、その人の人生の歩みの途上で受けるということが多い。そうなると、信仰を自己の自由な意思決定の産物にする危険がでてきます。青年とか大人になって洗礼を受けるのだから、赤ちゃんのような完全な受け身状態で贈り物を受けるというのは不可能です。しかし、そうであればこそ、理解力を持つ大人は、「受け身に徹すれば徹するほど救いは贈り物になる」という真理の一点に理解力を集中すべきです。「私は自分の能力を持ってこの救いを勝ち得た」などと考えてはいけません。2000年前の彼の地でで起きた出来事は、今を生きる私のためになされた、とわかったとき、自分の持つ能力、業績、名声その他そういったものは贈り物を受け取る際に意味がないばかりか、邪魔にさえなることに気がつくでしょう。その点で、子供が有利な地位にあることは否めないでしょう。本日の箇所でイエス様が「自分を低くして子供のようになれ」と教えられたのは、まさに、救いを贈り物として携えて生きていけるために必要なことなのです。

最後に、幼児洗礼が孕む問題として、それが子供の信教の自由を制限するのではないと心配されることについて一言。日本ではキリスト教徒の親が子供は成長してから自分で決めるべきだとして洗礼を授けないことがよくあると聞いたことがあります。どうして親は、自分が受け取った救いの贈り物は何にも代えがたい素晴らしいものだと信じているなら、どうして自分の子供に同じ素晴らしいものを受け継がせたいと思わないのでしょうか?子供が大きくなって、世界の諸宗教や思想、哲学、イデオロギーを客観的に眺められる知識を築いた後、果たして、自分はこれを選ぼうと言って何かを選ぶでしょうか?私が思うに、そうなると逆に選択するのは難しくなるのではなり、全てを客観的に眺める立場でい続けようということになると思います。しかし、もし子供を、キリスト信仰を持つ者として育てれば、子供は世界の諸思潮に向き合う際の拠点を得ることになります。その拠点を持つが故に必然的に生まれてくる荒波に乗り出して行くことになります。そのような拠点を与えることは自由の制限にはならないと思います。信教の自由とは、自分の好きな宗教を自由に選べるという意味もありますが、他方では自分の信仰を妨げなく実践できる自由という意味もあります。子供にキリスト信仰を受け継がせることは、こちらの自由を実現することになるのです。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

聖霊降臨後第15主日の聖書日課 マタイによる福音書18章1-14節、エレミア15章15-21節、ローマ12章9-18節

新規の投稿
  • 2024年4月21日(日)復活節第四主日 主日礼拝 説教 木村長政 名誉牧師
    [私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と、平安とが、あなた方にあるように。アーメン]                           2024年4月21日(日)スオミ教会  「私は、まことの羊飼い。」 […もっと見る]
  • 牧師の週報コラム
    遠藤周作「沈黙」から帚木蓬生「守教」へ (先週の週報コラムで和辻哲郎の「鎖国」と渡辺京二の「バテレンの世紀」について書いたら、礼拝後のコーヒータイムの席で遠藤周作の「沈黙」が話題になりました。それで今回はその時の話の続きとして) […もっと見る]
  • 手芸クラブの報告
    4月の手芸クラブは24日に開催しました。朝から雨がしとしと降り少し涼しい日になりましたが、季節はまだ新緑がきれいな春です。 […もっと見る]
  • スオミ教会・家庭料理クラブの報告
    4月の料理クラブは桜もそろそろ終わり始めの13日、爽やかな春の陽気の中で開催しました。今回はこの季節にピッタリのフィンランドのコーヒーブレッド、アウリンコ・プッラを作りました。 料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。 […もっと見る]
  • 歳時記
    杜若・カキツバタ 近くの谷戸池に今年も杜若が咲き出しました。まだ二輪だけですが間もなく満開になるでしょう。 […もっと見る]
  • 牧師の週報コラム
     和辻哲郎「鎖国」から渡辺京二「バテレンの世紀」へ 和辻哲郎の「鎖国」は驚くべき本である。中心テーマは室町時代末期から江戸時代初期にかけてのキリシタン盛衰記だが、序説がなんとローマ帝国の崩壊から始まる。 […もっと見る]