説教:本日の説教は高木 賢宣教師(SLEY)から頂いた本日の聖書の箇所の説明を村越 姉が朗読しました。ローマの信徒への手紙8章26〜30節、マタイによる福音書13章24〜35節

8月10日(日曜日)の聖書(使徒書と福音書)の箇所についての説明

 (はじめに)

聖書の訳は原則として口語訳によっています。「ローマの信徒への手紙」および「マタイによる福音書」の説明は、フィンランドで入手可能なルター派の説明書を翻訳したものですが、わかりやすくするために翻訳者(私)の責任で文章に手を加えてあります。これは説教用の文章ではなく、聖日の聖書箇所の学びのための文章ですので、その点はご承知ください。それでは、御言葉によって祝福されたひと時をお過ごしくださいますように。

(高木賢、フィンランドルーテル福音協会)

 
まず、ローマの信徒への手紙8章26〜30節について説明します。

この世でのキリスト信仰者の生活が、ただその場でじっと座って信じ、キリストの愛をありがたがるばかりではないことを、パウロはちゃんと知っています。神様への感謝の気持ちを失くさせるような出来事もたくさんあるからです。世間から受ける厳しさや冷たさは、喜んで信仰を告白する気持ちを削いでしまいます。意地悪だったり、口汚くののしったりする様々な人々に対して、自分がどんな風に苦々しく口を歪めるか、私たちは自覚しているはずです。しかし、そのような時にも神様に感謝しなさい。さらに、私たち自身の中にもたくさん欠点や弱さがあります。罪は上から重くのしかかり、疾しい良心を生み出します。しかも、私たちは、本来あるべき祈りの姿勢を持って、祈ることができないのです。

パウロによれば、このような困難を抱えているのは、何も私たちだけではありません。被造物世界全体が、神様の子どもたちが栄光に包まれて現れ、新しい天と地が造られる日を待ち望んでいるのです。それと同様に、私たちもまた、ため息をつきながら、この希望が実現するのを待ち続けています。この話を聴いている多くの人は、ここで私が、「天の御国に帰りたい」という郷愁について語るのを、理解してくれることと思います。この思いは、時として私たちの心を強く揺さぶります。「私たちはこの世に属する者ではない」ということを実感することがあります。主を信じながらすでにこの世を去った愛しい親戚、友人、知人たちと天国で再び会えることを待ち望む時に、天の御国への郷愁で心がいっぱいになります。私たちには忍耐が必要です。私たちはまだ(見えないものを信じる)信仰の中に生きており、天の御国を実際には見ることができないからです。イエス様が教会と御自分の民にくださった最高の贈り物が、今も私たちを守ってくれています。この贈り物とは、聖霊様のことです。聖霊様は慰め主であり、私たちが自分を孤児だと感じないように守ってくださっているのです。私たちがどうにも祈ることができない時、聖霊様は、声にならないため息と共に、私たちのために祈っていてくださいます。

(特にルター派の)多くのキリスト信仰者は、聖霊様についての話を避ける傾向があります。そのような時には、「御霊は、神様としてふさわしいやり方で、聖徒たちのためにとりなしの祈りをなさっています 」(8章27節)、という御言葉を思い出しましょう。平安をくださるこの素晴らしいお方が、聖霊様なのです。私たちが神様とその御霊の守りの中にある時、あらゆる出来事が共に作用して、結局は私たちの最善となっていくように、神様は取り計らってくださいます。何事も、私たちを神様の御手から引き離すことはできません。私たちが神様を選んだのではなく、神様が私たちを選んでくださったからです。

次に、マタイによる福音書13章24〜35節について説明します。

イエス様の最初のたとえは、「悪の問題」についての解答を与えています。

この世には多くの悪がはびこっており、神様がそれを阻止なさらないように見えるのはどういうわけか、と訝しく思う人がいるかもしれません。新約聖書の答えは次の通りです。私たち人間は、すでに罪の堕落が起きてしまった世界の中で生きています。この世には、神様に由来していない物事がたくさんあります。25節にあるように、人々が眠っている間に敵がきて、麦の中に毒麦をまいて立ち去ったからです。この敵とはサタンのことです。そして、世の中には、サタンの手下になってしまっている人々がいます。28節によれば、毒麦に気がついた僕たちが家の主人のもとに来て、『では、毒麦を抜き集めましょうか』、と言ったとありますが、いかにも自然な反応だと思います。しかし、主人は、それを認めません。29〜30節にあるように、『いや、毒麦を集めようとして、麦も一緒に抜くかも知れない。収穫まで、両方とも育つままにしておけ。収穫の時になったら、刈る者に、まず毒麦を集めて束にして焼き、麦の方は集めて倉に入れてくれ、と言いつけよう』」、と主人は言います。まだ「収穫の時」が来ていないからです。神様は、まだしばらくの間は、麦を選別するのを待っていてくださるのです。その間に、幾人かは神様の方に向き直り、悔い改めるかもしれないからです。また、人間には麦と毒麦を正確に選別する力がありません。このことは教会においても当てはまります。しかし、いつかは「収穫の時」が来て、天の御使いたちが麦と毒麦との選別を徹底的に行うことになります。ようやくその時になって、キリストの御国、すなわち、真の教会から、「キリストの側に実は属していなかったものすべて」が、きれいさっぱりと取り除かれることになります。

それでは、第二のたとえに移ります。

32節によれば、からし種は(畑に蒔かれる)どんな種よりも小さいものなのに、成長すると、野菜の中でいちばん大きくなり、空の鳥がきて、その枝に宿るほどの木になります。この空の鳥が枝に宿る木というイメージは、旧約聖書ではなじみのあるものです。これは、神様が世のすべての民のために用意してくださる避難場所を表しています。そして、世界中から、この御国めがけて、人々が流れ込んできます。

第三のたとえも、同じ内容のものです。

33節によれば、天の御国は、パン種のようなものであり、女の人がそれを取って三斗の粉の中に混ぜると、全体がふくらんできます。当時はまだ酵母というものがなかったので、いつも一部のパン種を保存しておいて、次のパン作りの際に利用していました。ここのたとえでのパン作りは、ずいぶんと大がかりなものでした。その時にも、ごくわずかのパン種がすごい量のパン生地をふくらませることになりました。このイメージからわかるのは、いたって取るに足らないように見える事柄が、実は、予想もできないほどの莫大な力を秘めている場合がある、ということです。天の御国もそれと同じです。なぜなら、私たちは、 見かけ上は些細なものである御言葉を通して、御国に出会うことになるからです。しかも、誰であれ、簡単に御言葉を受け入れずに捨てることができてしまうのです。ところが、この御言葉にこそ、「最後の審判」の際に決定的な役割を果たす圧倒的な力が含まれているのです。

本日の福音書のすぐあと(44節)にも、同じテーマのたとえがでてきます。それによると、天の御国は畑に隠してある宝のようなものです。人はそれを見つけると隠しておき、喜びながら、行って持ち物すべてを売り払い、その畑を買う、ということです。この箇所をマルティン•ルターはこう説明します。

「キリストが私たちに挨拶してくださるだけでも、大きな栄光であり宝です。しかし、キリストが与えてくださる罪の赦しと、死や悪魔や地獄からの解放は、さらに貴い宝です。この宝を通して、キリストは私たちの心を照らし、私たちを新しく創造してくださいます。私たちは決してこの宝の中身を言葉によっては十分に表現できません。」(ルター)

キリストは、私たちの身代わりに、罪深い私たちが本来受けるはずの罰としての死を、ゴルゴタの十字架で成し遂げてくださいました。そのことを感謝して覚えつつ、本日の御言葉の学びの終わりとして、「教会の霊的な富

というメッセージを読みたいと思います。

(終わりのメッセージ)

私たちが、教会とその霊的な富について、本来なら大いに誇るべき理由があるのに、誇らしく思わないのは、一体どうしてでしょうか。私たちキリスト信仰者は、教会について、大胆に誇るかわりに、むしろ、ぶつぶつ不平を言うことが多くなってしまった、ということでしょうか。神様の子らとして私たちは、「教会の主」である方の持っておられる一切の物、教会とその霊的な富、を相続する立場にあります。にもかかわらず、そのことを忘れ、あたかも自分がたんなる「教会の居候」であるかのように振る舞っていることが多いのではないでしょうか。

「神様の子どもとして守られている喜び」や、「神様の御言葉を学べる喜び」を歌うのが、本来の私たちの生き方のはずです。こうした内容の歌は、フィンランドの教会ではペンテコステ(聖霊降臨主日)の賛美歌の中に多くあります。そこで歌われている喜びは、異教的な生活環境と迫害の只中にあった初期の教会のキリスト信仰者の生き方の中にも見いだされます。その時代に書かれた「使徒教父文書」に含まれる「ディオグネトスへの手紙」の一部を紹介します。

「主のうちには教会の富がある。主が開いてくださった恵みは、聖徒たちの中で、豊かに増し加わる。聖徒たちに理解力を与え、奥義を明らかにし、定められた時を示す。また、信仰者たちの存在を喜ぶ。この恵みは、主を求める人々、すなわち、主への誓願を破らずに教父たちが定めた境界線を超えない人々に対して賜物を与える。それから、律法を畏れ敬うことが歌の主題となる。(旧約の)預言書の素晴らしさが知られていくようになる。福音の信仰がしっかりと根をおろす。使徒たちが残した代々継承すべき教えが守られるようになる。そして、教会は恵みにおいて喜び踊る」。

私たち一人一人の抱いている心配事や悩みは、(お祈りとして)天のお父様の御前にちゃんと伝達されて行きます。教会とその集会(礼拝)には、代々継承されてきた教会の霊的な富があり、聖霊様のくださる喜びがあります。これは、教会のもつ特質です。ペンテコステ(聖霊降臨主日)が過ぎた後の時期にもこの喜びがなくならないように、お互いに目を覚ましていようではありませんか。(レイノ•ハッシネン)

新規の投稿
  • 2024年4月21日(日)復活節第四主日 主日礼拝 説教 木村長政 名誉牧師
    [私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵と、平安とが、あなた方にあるように。アーメン]                           2024年4月21日(日)スオミ教会  「私は、まことの羊飼い。」 […もっと見る]
  • 牧師の週報コラム
    遠藤周作「沈黙」から帚木蓬生「守教」へ (先週の週報コラムで和辻哲郎の「鎖国」と渡辺京二の「バテレンの世紀」について書いたら、礼拝後のコーヒータイムの席で遠藤周作の「沈黙」が話題になりました。それで今回はその時の話の続きとして) […もっと見る]
  • 手芸クラブの報告
    4月の手芸クラブは24日に開催しました。朝から雨がしとしと降り少し涼しい日になりましたが、季節はまだ新緑がきれいな春です。 […もっと見る]
  • スオミ教会・家庭料理クラブの報告
    4月の料理クラブは桜もそろそろ終わり始めの13日、爽やかな春の陽気の中で開催しました。今回はこの季節にピッタリのフィンランドのコーヒーブレッド、アウリンコ・プッラを作りました。 料理クラブはいつもお祈りをしてスタートします。 […もっと見る]
  • 歳時記
    杜若・カキツバタ 近くの谷戸池に今年も杜若が咲き出しました。まだ二輪だけですが間もなく満開になるでしょう。 […もっと見る]
  • 牧師の週報コラム
     和辻哲郎「鎖国」から渡辺京二「バテレンの世紀」へ 和辻哲郎の「鎖国」は驚くべき本である。中心テーマは室町時代末期から江戸時代初期にかけてのキリシタン盛衰記だが、序説がなんとローマ帝国の崩壊から始まる。 […もっと見る]