説教「種をまく人」木村 長政 名誉牧師、マタイによる福音書13章1節~9節

マタイ福音書13章からは、イエス様が語られたたとえ話しが記されています。 今週は1~9節までで、「種を蒔いた種がどうなった」かの、たとえ話です。

なぜイエス様は、たとえを用いて話をなさるのでしょうか。その理由について、ちゃんと10節~16節で弟子たちに話されているんですね。 簡単に申しますと、「あなた方には、天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちに、許されていない」からである。

イエス様は、誰でも生活の身近なところで経験して、よく知っていることを用いて、そこに隠されている、天の御国の秘密の心理を語られているんです。

ところが人によっては、聞いても聞かず、理解できない者もいる。 そして、イザヤの予言の言葉を持って来て言われました。14節です。 「聞くには聞くが、理解できない。見るには見るが、決して認めない」。

大事なことは、民の心は鈍っているからだということ。 見ても聞いても、心で理解しない。悔い改めない。 そういう者を、神はいやされないのだ、ということ。 しかし、あなた方の目は見ている、あなた方の耳は聞いているから幸いだ。

弟子たちの目の前に語っておられる方が、どういう方であるかを、本当に、真にわかったら、あなた方の目は見ている。耳は聞いているのだ、なんと幸いなことであろうか。と福音書記者、マタイが記しているんです。 今、イエス様は、この世に遣わされた救い主として、立っておられる。そして神様が、ご自身を王として啓示されている。 そのことを明らかに示そうとして、されているわけです。

さて、いよいよ3節から、たとえの話をされています。 種を蒔く人が、種蒔きに出ます。そこに4種類の土地に種が蒔かれ、その結果種は育ってどうなったか、わかりやすい話です。 4~8節に記されているとおりです。 まず、第一の種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。種蒔く人が種をまいても、長いこと道にあった種つぶは、鳥が来て食べてしまった、というものです。鳥はえらいですね。何百種類の小鳥たちが、それぞれ自分の好きな種をちゃんと知っています。 道ばたに長いこと転がっていたら、みんな食べられてなくなります。 種は、はじめから失われた。 この世界に、福音の種が伝えられても、すべて失われてしまう状況です。

次に第二の種は、5節にありますように「ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないため枯れてしまった」。

次の第三の種は、7節にありますように、「茂みにおおわれた土地に種が蒔かれても、芽や根が雑草でおおわれて、成長してもいばらに追われ、ふさがれてしまった」。

さて、第四の種ですが、畑に蒔かれた種は駄目にならず、それぞれに応じて豊かな実りをもたらした。 ここに、「種を蒔く人」は神の国の奥義を語る人です。しかも、天の父から使命を受けて、この世にこられ、天の奥義の言葉が語られていくのであります。

この蒔かれた種が、どのようになっていくのか、どのような場所に蒔かれ、その結果、その種がどのように育っていくのか。それが大きな問題であります。

まず、道端に種が落ちる、というのは、普通私たちの常識では、考えにくいことであります。 しかし、当時のユダヤでは、まず種を袋につめ、一箇所穴をあけ、無造作にそこいら一面ばらまいて歩きまわる、といった状態でしょう。 それから土をかぶせる、という方法で農耕が営まれた、ということです。 だから、種はばらまかれて、道端のようなゴロゴロした上に落ちたままであった。そこへ鳥が来て食べてしまうこともありえることでしょう。 これは、どんな意味があるのでしょうか。

19節にイエス様の解説です。 「だれでも、御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である」。 この世界で、御言葉に逆らう者のことを説明しています。

イエス様が教えられた言葉を、理解しないままでいる人、或いは、自分のことや、この世の人々の考えがいっぱいになっているため、御霊に向かって心の扉が開かれていない。 では、そこで何が起こるかというと、悪い者が来て、彼らから御言葉を奪うのである。 そうすると、御言葉に反対するために、サタンの国からやってきた力強い勢力に、もう防ぎようもなく身をまかせてしまう。 そして、欲望が呼び起こされて、イエス様の言葉に反発するようになる。

福音に対する疑いが押し寄せ、世俗的な考えをする仲間が、ピタッとくっついて取り巻いてしまう。 彼らから、イエス様の言葉は跡形もなく消えていく。 人間がそれをつかむことがないように、悪い者が盗むのである。

次に、石地に落ちた種も、茨の中に落ちた種も、誰もがよくわかることです。

神の御国の福音が、受け入れられるところであっても、その福音が役に立たないままでいることがある。 そこには、福音の力に疑いを持つことも起きる。そこに何か、不思議な謎が秘められているように思います。 それは教会の中でさえ、心の中に疑問や失望を経験して去っていく者がある、ということでしょう。

イエス様はこのようなことのために、弟子たちに用意をさせておられるのです。 神の国の福音は、ただ単に急いで受け入れられることを求めていない。 しっかりとした忍耐によって、守られることを求めているのです。 信仰がためされる、試練がおそってくる。外からの苦難や病気、思いがけない出来事、迫害もやってくるでしょう。 そこで彼らは、根を深くほっていないので倒れてしまう。

自分にとっての都合のいい、御利益を求めている信仰にすぎないこともあるのであります。 茨の中に落ちた種のイエス様解説には、御言葉を聞いて、この世の思いわずらいにいっぱいになってしまう。又、富のゆうわくというもので御言葉を窒息させてしまい、実らなくなることです。 人は、ここで、この世の時のことだけを考える。この世時に必要なものだけを求めるのです。茨の状態です。

この「たとえ」で言われるように、種にとって、鳥や、太陽や、いばらは、三つの敵でありました。 イエス様は御言葉の三つの反対者をえがかれた。 すなわち、人間の無理解につけこんで、御言葉からそらせてしまう悪魔、そして弱い心を窒息させてしまう人間の敵意、思いわずらいや欲望にひかれて、捕らわれる心である。 神の御支配は、悪魔との戦いにあります。 この世の、地上の欲望との戦いにあります。 この戦いにあっては、イエス様の御言葉以外、武器はないのです。

このような戦いにもかかわらず、御言葉は、神の恵み深い、御旨をなしていかれる。 それは、良い地に落ちた種です。御言葉を聞いて、理解する人のことです。 この人は実を結び、100倍、或いは60倍、30倍にもなるのです。

神は、イエス様の言葉を理解する聴衆を、用意されるのです。そして今、弟子たちにその確認をされたのです。

御言葉は聴衆の中に奇跡を生み出す。 ここにおいて、御言葉の、人々を明るくしていく力があまねく浸透し、多くの者をとらえるのです。そして、聴衆の中にはいっていくのです。ほかの人々にはそれは、依然として隠されたままであります。

確かに御言葉は、至る所で増えてゆき、それが正しい仕方で受け入れられる所では、とどまることはない。しかし必ずしも、どこでも、同じような爆発的な力で、人々を捕えるわけではないのです。 御言葉が、ある者の中につくった信仰によって、他の者の中に信仰が起こされる。ある人の中に植えつけられた愛によって、他の人の中に愛が目覚めさせられる。 しかし、その働きの範囲は、イエスの言葉を持ち、守る人々の中でも、いろいろ段階があるということです。 ちょうど一粒の種が、ある場合には30倍、ほかの場合は60倍又100倍と、 種の中に、又、種粒を生んでいくようなものである。

このようにイエス様は、弟子たちの中に、彼の働きが無駄に終わらないように。 又、弟子の業も無駄にならないという、喜びに満ちた確信を、呼び起こしたのです。 たとえ、多くの種粒が滅びても、それだからと言って、種蒔く人は無駄に働いたのではない。 幾百倍もの収穫が、すべてを豊かにもたらし、ついに、神の偉大な教会が生まれていくのであります。 アーメン。

聖霊降臨後第八主日  2014年8月3(日)                                 

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