説教「使徒の伝統に立たずしてキリスト信仰は立たず」神学博士 吉村博明 宣教師、マタイによる福音書16章13~20節

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

 わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

 1.本日の福音書の箇所はとても難しいです。一回読んでなんとなくわかった感じになっても、それで油断してはいけません。次のような疑問点やどう理解してよいかわからない点は、皆さまはお気づきになられたでしょうか?

まず、イエス様が弟子たちに、人々は「人の子」を誰だと考えているかと尋ねるところです。「人の子」とは、旧約聖書ダニエル書7章でダニエルがみた預言の幻の中に登場します。今のこの世が終わる時、神の国が到来し、それを統治する主体です。イエス様は、この「人の子」が誰かということについて、当時の人々の見解を弟子たちに質問するのです。弟子たちの答えは、「人の子」を洗礼者ヨハネだと言う人もいれば、旧約の預言者エリヤだとかエレミアだとか言う人もいる、また他の預言者の名をあげる人もいる、というものでした。このように、「人の子」についての人々の見解を尋ねた後で、イエス様は今度は、では弟子たちはイエス様のことを誰だと考えるのか、と尋ねます。質問が、「人の子」についての人々の見解から、イエス様ご自身についての弟子たちの見解にかわるのです。これは、少し飛躍がすぎないでしょうか?「人の子」について、人々はああ思っている、こう思っていると答えた後だから、続く質問としては、では、弟子のお前たちは「人の子」をどう考えるか、という方が自然な流れではないでしょうか?イエス様の二つの質問 - 「人の子」についての人々の見解とイエス様についての弟子たちの見解 - 一体これらは、どうつながっているのでしょうか?

 もう一つ理解に苦しむ点は、イエス様が弟子たちに自分がメシアであることを人々に話してはならないと禁じたことです。メシアとは、ヘブライ語の「油を注がれて聖別された者משיח」という意味です。旧約聖書では神から特別な任務を与えられた者をさし、イスラエルの歴代の王が代表的な例です。そういうわけで、油注がれた者משיחは、イスラエル民族の現実の王様の印でした。これが、バビロン捕囚の後になると次第に、ダビデ王の子孫で将来イスラエル王国を再建する待望の王をさすようになります。さらに、紀元前3,2世紀頃からユダヤ教社会のなかで、この世の終わりとその後に来る新しい世ということに関心が高まりだしました。そうした時、メシアとは、終末の時に現れて、信仰を守って生き抜いた者たちを苦難から救い出して、死から復活した者とあわせて一緒に新しい世に迎え入れる救世主と考えられるようになります。(ペトロが「あなたはメシアです」と答えた時、それは、こうした終末の救世主を意味していたのか、それともイスラエル王国を再建するダビデ家系の王を意味していたのか、これは一つ興味深い質問となりますが、今は立ち入らないでおきます。)

どちらをとるにしても、なぜイエス様は、メシアであることを人々に話してはならないと命じられたのか?無数の奇跡の業を行ったことは既に多くの人たちに知れ渡っているし、その教えは神から授かったとしか言いようがないくらいの権威をもっていたことも誰の目にも明らかだった。それなのに、なぜズバリ、あの方こそメシアだ、と公に言ってはならないのか?

 三つの目の疑問として、ペトロがイエス様のことを「あなたはメシアです。生ける神の子です」と答えた時、イエス様は、そのことをお前にわかるようにしたのは神である、と言って、ペトロを教会の基にするとか、彼に天の御国の鍵を渡すとか言われます。イエス様がメシアであることを神にわからせてもらって、なお且つ将来形成されるキリスト教会の中心人物にしてやる、というようなことを言っている。ペトロにそれほどまでの権威を与えるというのはどういうことなのか、という疑問です。

 四つ目の疑問は、天の御国の鍵をもらったペトロが「地上でつなぐことは、天上でもつながれ」、「地上で解くことは、天上でも解かれる」とイエス様が言われたことです。この地上でつなぐこと、解くこととは一体何を意味するのか?

他にも細かい点でいろいろな疑問がでてくると思いますが、本日の説教ではとりあえず以上述べた4つの大きな疑問点に絞って、それらの解明に努めていきたいと思います。これらを解明することで、本日の福音書の箇所が今日を生きる私たちに何を教えているのかを明らかにしていきたいと思います。

 

2.まず、最初の疑問点。イエス様が「人の子」についての人々の見解を尋ねたと思いきや、今度はイエス様自身についての弟子たちの見解を質問したのはどういうことか?これを解明する重要な鍵は、「人の子」とは何かということを明らかにすることです。ところが実は、「人の子」とは何かということは、当時のユダヤ民族にとっても、また現代の旧約聖書学界にとってもやっかいな問題で、それを一礼拝の説教で説明することはほとんど不可能です。大ざっぱで荒っぽい説明になることを承知で話を進めていきます。

初めにも触れましたように、「人の子」はダニエル書の7章に登場します。この世の終末の時、ある強大な国家が「日の老いたる者」に滅ぼされて、そこで「人の子のような者」が登場します。「日の老いたる者」とは、原語(アラム語のעתיק יומין)の意味からすれば「年齢を無限に重ねた者」、すなわち天地創造の神を指します。さて、「人の子」は、この神から王権と権威を授けられて、終末後に現れる神の国の統治者になります。これがダニエル書の預言です。

紀元前2世紀半ば頃からイエス様が登場するまでの時代に、パレスチナのユダヤ教社会の中で、「人の子」のことを新しい世に登場する王とか、ずばりメシア救世主とみなす思想が現れます。他方で、本日の箇所が示すように、イエス様の時代の人々は、「人の子」を洗礼者ヨハネとかエリヤとかエレミアとか迫害を受けた預言者たちと見なしていました。つまり、迫害を受けた預言者の誰かがこの世の終わりの時に再び現れて、新しい世の神の国の指導者として君臨するというイメージを抱いていたのです。

このように当時の人々が「人の子」のことを、迫害を受けた者と考えていたとすれば、イエス様も十字架の受難を受けたのだから、名だたる預言者リストにイエス様を付け加えてもいいではないか、と思われます。しかし、時はまだ、イエス様の十字架の出来事が起きる前のことです。誰もそんなことが起きるなどとは予想もしていなかったので、それは無理です。イエス様は、人々が「人の子」の正体に自分を含めていないことがわかりました。それで弟子たちに、それではお前たちは私のことを誰だと思うかと尋ねました。イエス様は、自分に降りかかる受難を知っていいました、つまり自分が「人の子」であると知っていて、それで弟子たちに自分を誰だと思うかと聞かれたのです。しかし、イエス様の受難をまだ見ていない弟子たちにとって、彼を「人の子」とみなすのは無理でした。以上からわかるように、イエス様の一見結びつかない二つの質問は実は、「人の子」を主題にしているという点で、結びついているのです。

ペトロは、イエス様のことを「人の子」と答えるかわりに、メシア救世主、生ける神の子である、と答えました。イエス様はまさしく「人の子」であると同時に、メシアであり神の子でもあるので、ペトロの答えは間違っていません。興味深いことに、本日の箇所に続く21節から23節にかけて、イエス様はまさに自分の受難について預言されるのです。つまり、迫害を受けるという意味で、自分は「人の子」でもあると明らかにされるのです。「人の子」とは誰かという最初の質問の答えをここで示すのです。

さらに、これに続いて24節から28節にかけて、イエス様は永遠の命に入れるための条件について教えます。その条件とは、イエス様を救い主と信じる信仰です。その信仰を守り通した者は、たとえ信仰のゆえに命を落とすことがあっても、復活の命を与えられて永遠に生きられるようになる(25節)。人間は死に及んで誰も命を取り戻すための代価は支払えないが、イエス様を救い主と信じる信仰で新しい永遠の命に入ることができる(26節)。これに続いて、「人の子」が天使と共に到来する、と言われていますが(27節)、今の世が新しい世にとってかわる時、すなわち復活の時、「人の子」であるイエス様が再臨して、信仰を守った者たちと復活した者たちを集めて、新しい国、天の御国の王として君臨するということであります。

 以上から、マタイ16章の13節から28節までをひとまとまりにして読むと、イエス様は、十字架と復活の出来事をまだ目にしていない弟子たちに、「人の子」とメシアの意味を明確にし、加えて自分がそれであることを教えたということが明らかになります。実際、13節から28節までの記述は、イエス様一行がフィリポ・カイサリア地方に行った時の出来事で、もともとひとまとまりになっているところです。それで、本日の箇所のように細切れにしないでひとまとまりにして読んだ方が、意味がわかってくるのであります。

 

3.本日の箇所の二番目の疑問点は、なぜイエス様は自分がメシアであることを公にしてはならないと命じたかということです。先ほど、イエス様の時代のユダヤ教社会ではメシアについて、二つの思潮、現世的で民族的な英雄として考える思潮と現世から永遠の命の世界へ橋渡しをする救世主と考える思潮、があると申しました。イエス様は確実に後者の救世主だったのですが、十字架と復活の出来事が起きる前は、弟子たちもイエス様をどこまで救世主として理解していたか、むしろ現世的民族的英雄観が強かったのではないかと思わせるところがあります。弟子たちにしてそうでしたから、イエス様を歓呼で迎えた群衆はなおさらそうだったでしょう。

そのようなメシア理解がされていた当時のユダヤ教社会において、まだ十字架と復活の出来事が起きる前に、この方はメシアだと広めたらどうなるでしょうか?現世的な民族的英雄として理解されれば、ローマ帝国の支配から脱したい愛国的ユダヤ人は熱狂するでしょう。しかし、当局は彼を危険な反乱者として断固たる措置をとらなければならなくなるでしょう。他方で、救世主ということを前面に打ち出せばどうなるか?ユダヤ教の指導者たちはそれを神への冒涜と受け取り、やはり抹殺しなければならないということになるでしょう。イエス様に対する疑念は既に高まっていました。もし彼に対する迫害がもっと早期に起きてしまったら、エルサレムを舞台にした十字架と復活の出来事は、実際に起きたように起きることができなくなってしまいます。ヨハネ福音書の中に、イエス様が群衆の前で公然と教えを宣べていて、彼を逮捕するまたとない機会だったにもかかわらず、誰も彼に手を下さなかったという不思議な場面があります。それをヨハネは「時がまだ来ていなかったからだ」と説明します(7章30節、8章20節)。そして、あの運命的な過越祭の直前、エルサレムに入城したイエス様は、「人の子が栄光を受けるときが来た」と自ら述べたのです(ヨハネ12章23節)。時が来るまでは、イエス様は無傷でいなければならなかったのです。

イエス様はまさに、人間を罪の支配下から贖い出すための犠牲の生け贄としてエルサレムに入られました。最後の審判をつかさどる天地創造の神に捧げられる無傷かつ完璧な生贄として入られたのです。そういうわけで、十字架と復活の出来事が起きる前の段階では、イエス様について正確なことを言うと、エルサレムで実現すべき贖いの業を妨げてしまう危険があったのです。イエス様がメシアであることを公にしてはならないと命じたことは、このような背景を考えればよいと思います。もちろん、十字架と復活の出来事の後は逆に、イエス様をメシアであると公けにしてよくなったのです。否、公けにしなければならなくなったのです。

 

4.三つの目の疑問に進みましょう。ペトロは、イエス様がメシアであることを神にわからせてもらいました。それで、なお且つ将来誕生するキリスト教会の中心人物にしてやる、とまで言われました。どうしてペトロにそれほどまでして権威を与えるのでしょうか?

 この問いの答えの鍵は、17節のイエス様の言葉にあります。イエス様がメシア、生ける神の子であるとペトロに現したのは「人間ではなく、わたしの天の父なのだ」。ギリシャ語の原文を忠実にみると、「お前に明らかにしたのは血と肉ではない。私の天の父なのだ」です。「人間」ではなくて「血と肉」σαρξ και αιμαと言っています。この「血と肉」というのは人間を意味する熟語なので、日本語訳のように言っても間違いではないのですが、ただ、それだと、誰かがペトロに教えるかわりに神が教えてくれた、という意味にとられてしまいます。ここはそういう意味ではありません。神から霊的な影響力を及ぼされてそれに服さないと人間は単なる血と肉の塊にとどまり、それでは人間はイエス様の正体を理解できない、ということです。人間は神から注がれる霊的な影響力に服さない限り、イエス様の正体はわからない、ということであります。

ペトロがイエス様のことを、メシアです、生ける神の子です、と言った時、彼は神からの霊的な影響力に服していたことになります。ただし、この影響力に服することはまだ決定的ではなかったようです。皆さんもご存知のように、ペトロはイエス様が十字架に掛けられる前に主を見捨てて逃げてしまいました。しかし、十字架と復活の出来事の後、全てが一変しました。霊的な影響力に最終的に服することは聖霊降臨の時に実現しました。それ以後は、ペトロも他の使徒たちも、どんな迫害にも屈せずに、イエス様こそ神の子、救い主メシア、将来再臨する人の子であると公けに宣べ伝え始めたのです。そういうわけで、十字架と復活の出来事の前に、ペトロがイエス様のことをメシア、生ける神の子と言い表した時は、霊的な影響力に服することの走りだったと言うことができます。

十字架と復活の出来事の後、特に聖霊降臨の後、人間が神からの霊的な影響力に服するというのはどういうことかということを見ていきます。神は最初の人間アダムとエヴァの時の堕罪の出来事以来、人間と神との関係が壊れてしまったことを深く悲しみ、これを回復させようと考えた。つまり、人間がこの世の人生を神との結びつきの中で歩めるようにしよう、絶えず神から良い導きと守りを得られるようにしよう、万が一この世から死ぬことになっても、その時は御手を持って御許に引き上げて人間が永遠に自分のもとに戻れるようにしてあげよう、と決めた。それを実現するために、ひとり子イエス様をこの世に送った。そして、人間と神との関係を壊していた原因である罪と不従順をあたかもイエス様が全ての張本人であるかのようにして彼に全部背負わせて、罪からくる罰を全部イエス様に身代わりに受けさせて十字架の上で死なせた。しかしそこで全ては終わらず、今度は神はイエス様を死から復活させて、死を超えた永遠の命の扉を人間に開かれた。このように人間の救いは、神がイエス様を用いて全部実現してしまった。神はこの実現済みの救いをどうぞ受け取りなさいと言って人間に提供している。もし人間が、これらのことは自分自身のためになされたのだとわかって、それでイエス様は真に自分の救い主であると信じて洗礼を受けると、この実現済みの救いを受け取ったことになるのです。これが、神の霊的な影響力に服するということであります。

イエス様がペトロを基にして教会を建てると言ったのは、どういうことか?それは、教会とはまさに、霊的な影響力に服して最早単なる血と肉の塊だけではなくなった者たちから形成されるもの、ということです。これは洗礼を受けた人たちを指しますが、まだ洗礼を受けていないが礼拝に参加する人たちも教会の形成に関係があります。そうした人たちは、本日の箇所のペトロのように、まだ洗礼は受けていないが神からの霊的な影響力が及ぼし始まっていて、イエス様がただ者ではないとわかり始めて、教会に足を運ぶようになった人たちです。このように、ペトロを基にして教会を建てると言うのは、ペトロという特定の個人を基にするということではなくて、ペトロに起こったような、神からの霊的な影響力に服するということが土台になると言っているのであります。

このことがわかると、イエス様の次の言葉「陰府の力もこれ(教会)に対抗できない」の意味もわかってきます。この言葉もギリシャ語原文に忠実にみると「陰府の門も教会を圧倒することはできない」という意味です。日本語の訳で「力」と言っているのは「門」πυλαι(複数形)です。どういうことかと言うと、ルターも教えていますが、人間は死ぬと復活の日までは神のみぞ知る場所にいて安らかに眠る。そういう安置所が陰府ということになります。人間は死んで陰府の門を一度くぐってしまうと門は固く閉ざされ、もうこちら側には戻っては来れません。その意味でこの門は何ものをも圧倒する力を持っている。ところが、イエス様を自分の救い主と信じる者は、復活の日に復活の命と体を得られて神のもとに引き上げられる。つまり、固く閉ざされた門をぶち破るようにして出てくるのです。教会とはそういう信仰者から構成されるので、それで陰府の門は教会を圧倒することはできない、ということになるのです。

 

5.最後に四つ目の疑問をみてみましょう。天の御国の鍵をもらったペトロが「地上でつなぐことは、天上でもつながれ」、「地上で解くことは、天上でも解かれる」とイエス様が言われたことです。この地上でつなぐこと、解くこととは一体何を意味するのでしょうか?まず「地上で解くこと」からみていくと、これはギリシャ語の原文では「地上で許可すること」(λυω背景にアラム語のשרא)になります。何を許可するのかというと、天の御国に入れてもらうことです。ペトロが地上で天の御国への入国を認めるとした者は天の方でもそれに倣うということです。「地上でつなぐ」とはギリシャ語の原文を忠実にみると、「地上で縛りつける、禁止する」という意味で(δεω背景にアラム語のאסר)、これは「地上で許可する」ことの反対ですので、天の御国への入国を許可しないということになります。つまり、ペトロが地上で天の御国への入国は認めないとした者は天の側でもそれに倣うということです。これで、ペトロに天の御国の鍵が渡されたことの意味がはっきりするのであります。

しかしながら、ここで注意しなければならないのは、ペトロにそのような大事な鍵が渡されたのは、これもペトロという特定の個人に渡されたということではなくて、神からの霊的な影響力に服する者として与えられたということです。本日の出来事のところで、ペトロは、最終的ではありませんでしたが、神からの霊的な影響力に服しました。最終的に服することになったのは、十字架と復活の後の聖霊降臨の時ですが、それは他の使徒たちも皆一緒だったことを忘れてはなりません。彼らも皆、一緒に神からの霊的な影響力に服することになったのです。従って、イエス様がペトロを教会の基にするとか、天の御国の鍵を彼に渡すと言ったからと言って、他の使徒たちには意味がないということにはなりません。マルコ3章14節に記されているように、12使徒というのはイエス様とたえず共にいるようにと召された者たちです。なぜ、たえず共にいるのかというと、イエス様の教えと業と出来事をつぶさに間近に見聞きする目撃者となり、それを後に公に証言するためでした。裏切ったユダの後に、マティアが使徒として補充されましたが、その選出の条件は、イエス様が洗礼を受けた時から天に上げられた日まで、いつも共にいて主の復活の証人になれる人ということでした(使徒言行録1章12~26節)。実に使徒たちは皆、イエス様に関して対等な証人なのであります。

そういうわけで、ペトロに権限が与えられたと言っても、イエス様の名をかりてなんでも好き勝手に決めることはできません。他に11人の対等な目撃者が目を光らせているので、自分の決めることはちゃんと主の教えと意志に従ったものでなければなりません。他の11人はチェック機能を持っていたでしょう。そうなるとペトロの権限というものは教会の独裁者などでは全くなく、責任ある代表者というのが正確な任務だったと言えます。そういうわけで、目撃者、証言者として特別な地位にある使徒たちは、また目撃者、証言者としてお互いに対等な地位にあったのです。

ところで、使徒たちの命を賭した証言を聞いて、イエス様を救い主と信じて洗礼を受ける人が次々と出始めました。使徒たちの証言は、新しい信仰者によって受け継がれていきました。最初は口伝えが主で、次第に書き記されるようになりました。そうした目撃録・証言録の伝承の集大成として福音書が誕生しました。使徒たちはまた、キリスト信仰そのものについて、またキリスト信仰者の生き方についていろいろ教えました。それが使徒書簡になりました。旧約聖書はと言えば、それは使徒たちにとって、イエス様が神の子、メシア、「人の子」であることを理解したり確信できるために必要な書物でした。そういうわけで、福音書、使徒書簡、旧約聖書から構成される聖書という大書物は、文字通り使徒の伝統の結晶なのであります。そのような聖書を開いて自分で読む時、また誰か他の人が読んだり解き明かしをするのを聞く時、開いた聖書から神の霊的な影響力がその人に対して働き始めます。私たち信仰者は洗礼を通して神の霊的な影響力に服することになった者たちであります。しかし、この世にはこの影響力からも私たちを引き裂こうとする力に満ち満ちています。兄弟姉妹の皆さん、使徒の伝統の結晶である聖書を絶えず繙くことを怠らないようにしましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン


聖霊降臨後第14主日の聖書日課 出エジプト6章2~8節、ローマ12章1~8節、マタイによる福音書16章13~20節 

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