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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1. 本日の礼拝説教は、旧約聖書の日課、申命記29章1-8節をもとに行おうと思います。本日の福音書の箇所ですが、これは難しいところでして、本当はこちらをもとに説教すべきとも思ったのですが、実はこの箇所をもとに三年前、当教会の礼拝にて説教をしておりました。それを読み返してみたら、ほとんど変える必要がないとわかりまして、復習の意味で同じ原稿を読んでもいいかなと思ったのですが、今回は三年前に比べて申命記の日課が語りかけてくるものに何か力を感じまして、それでそちらをもとに説教することにした次第です。
本題の申命記に入る前に、福音書の日課について三年前どんな解き明しをしたか手短に述べます。ルカ14章25-33節には、二つの大きな問題があります。一つは、父母、娘息子、兄弟姉妹を「憎む」ことをしないと弟子になれない、とイエス様が教えていることです。イエス様は十戒の第四の掟「父母を敬え」に反することを教えているのか?また彼自身、「隣人を自分を愛するが如く愛せよ」と教えているのに、肉親を憎まないと弟子にはなれない、とは、どういうことなのか?
これは、福音書が書かれたギリシャ語の文で「憎む」を意味する動詞(μισεω)が使われていることによります。イエス様はこの場面では間違いなくアラム語を話していたでしょう。アラム語とは旧約聖書の言語ヘブライ語に近い言語です。イエス様がアラム語で話した事柄は、福音書に書き記されるまでの過程の中でギリシャ語に訳されていきます。もちろん、イエス様が話したアラム語の言葉は記録がないのでわかりません。しかし、イエス様の教えや思想の土台にある旧約聖書のヘブライ語の「憎む」を意味する動詞שנאサーネーアをみてみると、これは「憎む」を超えていろんな意味を持つことがわかります。創世記29章や申命記21章では「二つのうち一方をより多く愛して他方を少なく愛する」とか「一方を愛して他方を疎んじる」という意味で使われています。「他に比べて疎んじられる、少なく愛される」ということで、「憎まれる」ということではありません。
これを土台にして考えると、イエス様が弟子の条件として肉親を「憎む」ことと言ったのは、神への愛を最優先するということ、肉親への愛は神への愛を下回らなければならないということになります。これはイエス様の隣人愛の教えと矛盾しません。なぜなら、イエス様は、二つの最も重要な掟について、一番目は「神を全身全霊で愛せよ」、その次に来るのが「隣人を自分を愛するが如く愛せよ」と、ちゃんと優先順位をつけて教えたからです。三年前の説教では、神への愛を第一にして行う隣人愛とはどんな愛かについて述べてみました。
ルカ14章25-33節のもう一つの問題は、塔を建てる人と戦争に臨む王のたとえです。二つのたとえは、向う見ずなことはするな、無謀なことはするな、と教えているようにみえます。ところが、33節でイエス様は、自分の持ち物を捨てる覚悟がないと自分の弟子にはなれない、と言われる。無謀なことはするな、と教えているようで、実はそうしないと弟子にはなれない、とは、イエス様は一体何を言いたいのか?
どういうことかと言うと、イエス様はつき従う群衆に対して、お前たちは塔の建設者がするように、後で笑い者になることを心配して前もって綿密に計算をするであろう、また、素早く計算して負けが明らかな戦をしないで講和を結ぶ王と同じようにするであろう、これが今のお前たちの姿だと指摘するのです。そこで33節で、このように自分の持っている物を捨て去る覚悟のない者は私の弟子にはなれない。つまり、塔建設者や王のように計算づくではだめだ、ということになるのです。
そうなると、キリスト信仰者とは単に無謀、向う見ずな生き方をする者になってしまわないか。そんな生き方では、どんな事業も経営も失敗・破綻するするだろう、計算は前もってしっかり立てて物ごとに臨むべきではないか、そういう疑問が起きてきます。三年前の説教で私は、イエス様の教えていることは、あくまでイエス様の弟子として生きるということ、つまり、イエス様を救い主と信じる信仰を携えて生きること、そして、神に対する全身全霊の愛に立って隣人を愛すること、言うなれば、信仰そのものに関係することなのだ、ということを強調しました。何か事業を起こしたり、建物を建てたりする時に見積もりや見通しを立てないでやれ、ということではないのであります。
2.それでは本日の本題である申命記29章1
8節の解き明しに入ろうと思います。申命記29章の舞台は、預言者モーセがイスラエルの民を引き連れて、奴隷の国エジプトを脱出して、シナイ半島の荒野の中を40年近くかけて移動した後、北上してヨルダン川東岸のモアブの地に到達、今や神が約束したカナンの地を目前にするところです。ここで、かつてシナイ山で結ばれた神とイスラエルの民の間の契約を新たなものにします。神はイスラエルの民の神となり、民はこの神の民となるという契約です。その時モーセは、イスラエルの民の前で神の意思を宣べ伝えます。そこで、本日の箇所の3節で不可解なことを言います。「主はしかし、今日まで、それを悟る心、見る目、聞く耳をあなたたちにお与えにならなかった。」
モーセは、このすぐ前の1節と2節で、神がイスラエルの民を守るためにエジプトに対して行った罰の業を民は目で見た、と言っています。それなのに、今日の今日まで神は、それらの業を理解する心、見る目、聞く耳を民に与えなかった、と言う。これは、どういうことか?
確かにイスラエルの民は、神がエジプトに様々な罰を下してイスラエルの民の脱出を可能にしてくれた、数々の奇跡的な業を自分たちの目で見ました。しかし、そうしたイスラエルの民を助ける神の業が何を意味するのかを理解できていなかった。それが理解できない以上は、本当に見たこと、聞いたことにならないのであります。それでは、神の業は何を意味していたのか?
それは、神が金属や木材で出来た偶像とは異なり、意志を持ち考えて計画して、それを実行に移すまさに生ける神であるということ、そして計画したことを必ず実現させる力を持った方であるということ、さらに自分を信じ信頼しきる者を決して見捨てない方である、ということを意味したのです。このように、天と地と人間を造られた創造の神とは、生ける方、力のある方、見捨てない方なのである。このことを理解できなければ、それは本当に「見た」こと「聞いた」ことにならず、神の奇跡の業がただ目の前に映って通り過ぎただけにすぎないのです。
本当に見ることのできる目、聞くことのできる耳、理解することのできる心をイスラエルの民が持っていなかったことは、彼らが神に抱いた畏敬や感謝の念がいつも一過性のものにすぎなかったことに明らかです。エジプト脱出の時から何度も神に助けてもらったにもかかわらず、荒野で食料や水に困ればすぐ不平を言いだして、エジプトで奴隷をした方がましだったとなどと言ったり、モーセがシナイ山頂からなかなか戻らなければ、金で雄牛の像を造って拝み始めるとか、そういうことを繰り返してきました。
そして今、紆余曲折を経ながらも、イスラエルの民はモアブの地に到達し、シナイ山で結んだ契約を新しくするところに来た。「今日まで、悟る心、見る目、聞く耳を与えなかった」というのは、今日与えるということです。つまり、イスラエルの民よ、お前たちは今日、神が生ける方であり、力ある方であり、見捨てない方であることがわかる心と目と耳を持つことになったのだ、ということです。4節と5節のモーセの言葉は、このことを確信させたでしょう。お前たちは40年荒れ野を移動していたにもかかわらず、着物は古びず、靴も磨り減らなかったではないか。パンも食べずぶどう酒も濃い酒も飲まずにすませ、今約束の地の手前まで到達したではないか。これを聞いた民は、自分たちの服や靴をみて、神がどのような方であるか本当にわかったでしょう。
こうしてイスラエルの民は、本当の心、本当の目、本当の耳を持った民としてカナンの地に入って行きます。その地には偶像を崇拝する民族が多数おりました。神が約束した土地ですので、神が忌み嫌う偶像崇拝は排除しなければなりません。そのような入り方をすれば、それらの民族との武力衝突は避けられません。最終的にイスラエルの民はカナンの地の隅々まで入植しますが、現実にはカナンの地は、イスラエルの民が独占的に居住する地にはなりませんでした。もとからいた民族はかなり残り、周囲も偶像崇拝する諸民族が取り囲むという状態でした。そういうわけで、イスラエルの民を偶像崇拝に陥らせる力はその後もずっと内外両面にわたって強く働いたのでした。
実際、イスラエルの民がモアブの地で与えられたはずの、神のことを知る本当の心、本当の目、本当の耳は長続きしませんでした。それは、サウル王が登場する前の時代、士師という政治権力と宗教権力を兼ねた指導者の時代に既に起きてきます。王国の時代になって、サウル王が死者の霊にお伺いを立てますが、これは神が最も忌み嫌うことの一つでした。神は「見えるものと見えないもの」の造り主ですから、被造物の人間が造り主の神をさしおいて別の被造物に自分の運命についてお伺いを立てることなど許せないのです。さらに、ソロモン王でさえ晩年は異国の神々を崇拝するようになってしまいます。
王国が南北に分裂した後、北のイスラエル王国はバール神崇拝に走り、最後はアッシリア帝国に滅ぼされます。南のユダ王国は偶像崇拝に陥ったり、天地創造の神への信仰に戻ったりが繰り返されます。ユダ王国で活動した預言者イザヤに対して神は次のように命じます。すでに心が頑なになってしまったこの民の心を一層頑なにせよ、目をもってしても見えなくなるようにせよ、耳をもってしても聞こえなくなるようにせよ、と。恐れおののくイザヤが、いつまで民をそうした状態に置かなければならないのですか、と聞くと、神は答えます。国が荒らされて、民が十分の一になってもさらに大木のように切り倒されて、最後に切り株を残すまでだ。その切り株を神は「神聖な種」と呼びます(6章13節)。それは、神を知る本当の心、本当の目、本当の耳を持つ新しい民の誕生を預言するものでした。
そのような新しい民は生まれたのでしょうか?ユダ王国も紀元前500年代初めにバビロン帝国に滅ぼされ、主だった人たちは異国の地に連行されてしまいました。イザヤ書の40章から55章をみると、イスラエルの民がこのバビロン捕囚から解放されてイスラエルの地に帰還することを示唆する預言があります。この祖国帰還は紀元前538年に歴史的事実として実現しますが、イザヤ書の当該箇所を見ると、民の目や耳が開かれるということが随所に言われます。これは、かつてモーセがこれからカナンの地に入ろうとするイスラエルの民に本当の心、目、耳が与えられる、と言ったことを思い起こさせます。神の民を滅ぼして連行した大帝国が滅び、捕囚の民が祖国に帰還できるというのは、普通ではありえない、まさに出エジプトの出来事に匹敵する神の業でした。本当に、神は生ける方、力ある方、見捨てない方であることを示す業でした。祖国に帰還する民に本当の心、目、耳が与えられた瞬間でした。
ところが、帰還したイスラエルの民は本当に「神聖な種」になったのでしょうか?バビロン帝国滅亡後もイスラエルの民はほとんどの年月を、ペルシャ帝国、アレクサンダー帝国、ローマ帝国という大帝国の支配のもとで過ごさなければなりませんでした。帰還後の時代のイスラエルの状態がどのようなものであったかについては、旧約聖書は明確に記していません。それでも、祖国帰還後のイスラエルの民の状態について述べているイザヤ書の終りの方をみると、預言者の次のような叫びがあります。「なにゆえ主よ、あなたはわたしたちをあなたの道から迷い出させ、私たちの心をかたくなにして、あなたを畏れないようにされるのですか」(63章17節)。神がイスラエルの民に本当の心、目、耳を与えないようにしている状態がまだ続いていることを示しています。まだ「神聖な種」は生まれていなかったのです。それでは、神を知る本当の心、目、耳が与えられる新しい民はいつ生まれるのでしょうか?
3. 神を知る本当の心、目、耳は、イエス様の出来事を通して与えられることとなりました。しかもそれらを与えられる人は、もはや血で繋がるイスラエルの民族ではなくなって、イエス様の出来事を心で受け入れて、彼を救い主と信じる人全てに与えられるようになりました。
イエス様が言葉と奇跡の業を通して、人々に神の意思や神の御国について正しく教えていた時、イスラエルの民の宗教指導者たちと衝突を繰り返しました。宗教指導者グループの一つであるファリサイ派との論争の中で、イエス様は、お前たちは自分では見えていると言っているが、本当は見えていない、と指摘するところがあります(ヨハネ9章)。指導者たちからすれば、自分たちは神のことをよく知っている、本当の心、目、耳を持っているということなのですが、神のもとから送られた、神のひとり子であるイエス様からみれば、そんなものは本当のものでもなんでもない。イエス様は、自分がこの世に送られた使命について次のように述べています。見えない者が見えるようになり、見える者は見えないようになる、そういう裁きを行う(ヨハネ9章39節)、と。つまり、神のことをわかっていないことに気づき、それではいけないとわかった人には理解できる心、見える目、聞こえる耳を与える。しかし、神のことをわかっていないことに気づかず自分はわかっているから何も問題はないと思っている者には与えない。これがイエス様の行う裁きなのです。前述した旧約の教えから明らかなように、理解できる心、見える目、聞こえる耳を与えたり、与えなかったりするのは神です。イエス様はまさに神と同じ働きをすると言っているのであります。
それではイエス様はどのようにして、神が生ける方、力ある方、見捨てない方であるということを知る心、目、耳を与えるのでしょうか?それは、イエス様がゴルゴタの丘の十字架で死んだことと、死から三日後に復活されたことで与えられるようになりました。これは、かつて神が示した業、例えば天から食物が与えられるとか、敵の軍勢が壊滅するとか、異国の土地を征服するとか、祖国に帰還できるとか、そういうものとは全く質が異なる業でした。それは、神のひとり子が人間の救いのために自らを犠牲にしたということ、そして一度死んだ者を今度は神が力を及ぼして復活させたという業でした。宗教指導者たちがイエス様に、お前が神の子ならしるしをみせろ、と要求したことがあります。イエス様の答えは、かつて預言者ヨナが大魚の腹に三日間閉じ込められた後に外に出られたがそれと同じことが起こる。それがしるしだ、と答えました(マタイ12章38- 41節)。ヨナの遭難と救出の出来事は、イエス様が死んで葬られ三日後に復活して墓から出るという出来事の預言的出来事だったのです。
さて、死からの復活が起きたことで、イエス様とは何者だったのかということが明らかになりました。それは、神が「死の陰府に捨てておかない、その体は朽ち果てることがない」と約束した(使徒2章27節、詩篇16編10節)方であることが明らかになりました。それにあわせて、かつてダビデ王自身が「主」と呼んだ、神のひとり子であることも明らかになりました。そして、神がこの世に送ったひとり子が十字架の上で死ぬというのは、これは、人間が神に対して負っている罪という負債を人間に代わって帳消しにしてくれる、そういう神聖な犠牲の生け贄であることも明らかになりました。この出来事を前にして、人間はどういう態度をとるのか?こういうことが起きた以上、自分が罪ある存在であることから目を背けることはできないと観念して、この私が神から罪の罰を受けないで済むようにと、ひとり子を犠牲にすることさえ厭わなかった神は本当に愛と恵みに満ちた方だとわかるようになるのか。その神の愛と恵みの実現のために自分自身を犠牲にすることを厭わなかったイエス様こそ真の救い主と信じられるようになるのか。そう信じる時、神は本当に生ける方、力ある方、見捨てない方だとわかっているのです。いつの間にか神のことを知る本当の心と目と耳が与えられているのです。
神は一度死なれたイエス様を復活させる力を及ぼしました。そこで、イエス様の十字架と復活の出来事は自分のために起きたのだ、それゆえイエス様こそ自分の救い主だ、と信じて洗礼を受ける者に、神はこの同じ力を及ぼして復活の日に死から復活させて下さいます。その日が来るまでは、洗礼を受けイエス様を救い主と信じる者は、神の御手の中で生きて行くことになり、絶えず神の守りと助けと導きを受けます。洗礼には莫大な力が秘められています。罪には、人間を復活のない死の滅びに陥れようとする力がありますが、洗礼にはそれを無力にする力があります。洗礼には、復活された主イエス・キリストと自分をしっかり結びつける力があります。神の愛と恵みが十分に含まれているのです。
もちろん、無力化されたはずの罪はいろいろな隙を狙っては、信仰者が受けた神の愛と恵みを忘れさせようとします。本当の心と目と耳を失わせようとします。しかし、その都度、心の目をゴルゴタの十字架に向ければすぐ、あそこで罪は死滅したと言っていいくらいに無力化されたことがわかります。神に「イエス様は私の救い主です。私の罪の赦して下さい」と祈れば、神は「心配するな、お前の罪はあそこで赦されている」とおっしゃるのです。十字架のおかげで、罪の支配の下ではなく、神の愛と恵みのもとで生きられるのです。
本日これから執り行われる聖餐式にも莫大な力が秘められています。洗礼の時に受けた、罪を無力にする力を自分の内に強め、復活の主と自分との結びつきを一層強める力です。本教会では聖餐式は月一度ですが、兄弟姉妹の皆さん、聖餐式を自分自身の信仰と命そのものにとって大切なものであることを忘れないようにしましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
マタイ 5章7節 (第5回)
「あわれみ深い人たちは、さいわいである」
山上の説教連続で第5回目です。5番目の祝福は「あわれみ深い人たちは、幸いである。彼らは、あわれみを受けるであろう」ということです。これまでの4つの祝福は、神に関することでありました。心の貧しい人々、次は悲しんでいる人々、柔和な人々、義に飢え渇く人々、は幸いである。これらは神との関係でありました。これからのことは人の性格に関することにことになります。人の心構えと言っても良いでしょう。あわれみ深い人々と言っても普段にはあまりことさら考えないでしょう。それは信仰のことだからです。「あわれみ深い人々」と言うことが「義」に飢え渇く人々の後に出てくることは大事なことです。なぜなら、この「あわれみ深い」と言うことは義に関係があるからです。ふつうに考えれば義と、あわれみとに何の関係があるかと思います。それは「義」も「あわれみ」も信仰の言葉として受け取っていないからです。ある人が言いました、「あわれみというのは、このあわれみのない世の中にある義のことである」それは不義に苦しむ者を助け、励まし、義を求めさせる、というのであります。「あわれみ」と言うのはやさしい気持ちであって、義とか正しさ、と言うことと結びつかないように思われます。あわれみを求める人はどういう人でしょうか。それは何かのことでひどい目にあっているのでしょう。そのひどい目と言うのはしばしば正しいことが行われていない、不当に扱われている。きっと許せないものがあっても犠牲にさせられているのでしょう。或いは気の毒なことにあって悩んでいる人々でありましょう。どちらの人々もいろいろ苦しんだ末、神はなぜこんなに不公平をなさるのか、と悩むと思います。不正に苦しむ人は「神は、なぜこんな不公平を許しておられるのか」と思うでありましょう。困った立場にある人も、神はなぜかえりみて下さらないのかと思うでありましょう。その時に、「そうではなくて神の義が行われていることを告げることは、この人々に対する何よりのあわれみである」と言うことです。神の義が示されている、神の正しさ、神の愛を示す義であります。神の義と言うものが示されれば、その人々にとっては何よりのあわれみであります。あわれみは、ただ同情の言葉をかけることではすみません。神の恵み、と、あわれみ、とを悟るまではその人々は慰められることができないのです。正しい人、すなわち神が愛を持って支配しておられることを信じている人こそあわれみ深くあることができる人でありましょう。「あわれみ深い」と言う字は、このマタイ5章7節とヘブル書2章17節しかしか出ていません。ここ(2:17)では「イエスは神の御前において憐れみ深い忠実な大祭司となって民の罪をあがなうために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです」とあります。テモテへの手紙第2の手紙1章2節のあいさつの言葉として「・・・・・・主・イエスからの恵み、憐れみ、そして平和があるように」ここでは恵みとあわれみとが並べられています。そこで気づくことは恵みと憐れみとは、どうちがうか、ということです。恵みの方は罪に悩む者、あわれみは一般にいろいろ苦しみに悩む人となるようです。悲惨な状態になっている人に対するもの、ということです。悲惨なことが結局はその原因が何かの意味で罪にある、ということです。そうして見ると、どちらも罪に関係があるということになるのではないか。つまり原因になっている罪を問題にしなければならない、ということになるでしょうか。それならば恵みも、あわれみもどちらも罪を赦すということが大事になるのです。ルターは次のように言っています。「あわれみ深い人、というのはまずその人の罪を赦すことがなければ本当のあわれみにならない。」というのです。憐れみは、ただかわいそうに、と言うだけではありません。かわいそう、とは言えない何かがあるように思える。気の毒にはちがいないが憐れみに思うことができない。
そこに、赦すと言うことがなければ、あわれむことができない。それならば、誰が人を赦すことができるのか、ということになります。それは自分の罪を赦されている人である、ということになりましょう。そういう人でなければ人の罪を赦すこともできませんし、人に同情しそれを心からあわれむ、ということもできません。それなら、ここに信仰者、すなわちキリストに罪を赦された者が、あわれみ深い人になることができる。このことがわかるのであります。あわれみは信仰そのものを表す一つの言葉である、と言っても良いのではないか、と思われるのです。旧約聖書の中心的な信仰を表す言葉は義と真実と憐れみという言葉である、といわれます。憐れみは、恵みとも、義とも真実ともちがうにはちがいがありませんが、しかし一面ではこれらの事がみな深くつらなっている、一つの事のように見える、と言うのです。それは要するに信仰ということを、それぞれに表した言葉であって、いずれも神の赦しの各々の側面を表している、と言うのです。要するに憐れみということも、信仰の中心である神の赦しを知らなければならない、と言うことであります。また憐れみには神の裁きを予想している」と言われます。それは・・・・あわれみが気の毒な人をあわれむことだけでなく、神の裁きの前に赦しが与えられることからことから出てくることになるのであります。憐れみを行う前に神の憐れみを受けることが大切なのであります。それによって憐れみ深い人になる道がつけられるのであります。神の憐れみこそが私たちをあわれみ深くしてくれるのであります。すでに憐れみを受けて、いま全く憐れみ深い者にはなれないかもしれないが神の憐れみに励まされて、あわれみ深いことを少しはすることができるかもしれない。詩篇103篇8節には「主は憐れみ深く、恵みに富み、忍耐強く慈しみは大きい」とあります。ある人の言葉です。「あわれみの問題は神があわれみ深くある、ことから始まる。その憐れみを受けるからこそ私たちは他の人をあわれむことができるのです。私たちが憐れみ深くあるのは、神の私たちに対する憐れみを表すことになるのです。従って私たちがあわれめば、あわれむほど神の憐れみは深くなるのであります。 アーメン・ハレルヤ!
マタイ5章6節 (第4回)
説教題:「義に飢え乾く人たちは、幸いである」
今日は、山上の説教の第4回目になります。マタイによる福音書5章6節の御言葉です、「義に飢え乾く人々は、幸いである。その人たちは満たされる」。あらためて、ここで「義に飢え乾く人たちは、幸いである」と言われていますが、ふつう「義に飢え乾く」などということをしているだろうか。普段はあまり考えていないでしょう。義というのは正義の義、正しい、ということでしょう。正しい人になりなさい、という気持ちは誰でも持っているでしょう。文語訳の聖書では、ここのところを「飢え乾くように義をしたう人々は、幸いである」となっています。義をしたう・・・・・これは簡単に言えないことです。なぜ、そんなに「正しい」ことが問題になるのでしょう。なかなか、答えが出てきません。私たちは、みんな正しくありたい、この世も正しくあったら、どんなに平和になるだろうと思います。生まれながらに、そなえ持っている」思いでしょう。特に私たち信仰者も同じであろうと思います。なぜなら、私たちには神様があるからです。正しい神がおられます。神が正しいお方だから神に従う私たちも、正しい生活をしなければ、と思っています。よくわかることです。神様がおられないとなれば、正しいも、なにもない、思いのままに争いと、分列と、そして滅びとなるでしょう。神様は何よりも人間の罪のことを問題にされています。人間の生活には多くのことがあるのに、神は何よりもその罪を問題にしておられるのです。それに、いわば全力を注ぎ御自分のひとり子を、そのためにお遣わしになったのであります。それが、私たち人間がどんなことがあっても正しく生きなければならないことの、ただ一つの理由であります。ここに神がまことに正しい方であることがあらわされている、と言っても良いのであります。正しさ、を求める者は自分だけが正しいのでは満足できません。正しいことが皆に認められなければ、安心して正しい生活をすることができないのではないかと思います。神が正しくあられるだけでなく、その正しい神が最後にはすべてに勝って、勝利をつかんで、そのゆえに正しいことが何時も認められなければ本当に正しい生活はできないのであります。そのために自分の罪から開放されたいし、この世も罪から開放されることを望まないではおられないのであります。神がキリストによってこの世を私たちを罪から救ってくださる事が大事なことになるのであります。それなら、その神を信じ、その神から正しさを求めることがどうしても必要であります。そうして見ると「義」を求めることは実は神を求めるということになるのです。
ルターは、ここに書いています。「義という字は敬虔」すなわち「信仰」と訳しました。義を切に求めることは信仰を求めることである。義に飢え乾く、と言いますがふつう一般の人々のことを言っているのではありません。ここでは神の祝福を受けた人々であります。当面のこととしてはキリストの弟子たちであります、今の言葉で言えば信仰者のことであります。信仰を持っている者がどんなに義をもとめているはずの者であるか、ということです。信仰者にとっては、神が義であることは分かりきったことであります。その神から義を求めるということなのであります。この事について私たちは自分の信仰生活がどういうものか、といことをよく考えてみる必要があると思います。義を求める、と言いますが実は私たちの信仰生活は義を求めることから始まったはずであります。人は誰でも自分が正しい、と思います。自分の義を主張するのです。しかしそれが間違っていたことに気づくことが信仰生活の糸口でありました。自分の正しさを主張しながら自分こそまことに正しくない者、罪人であることに気づいたのであります。それゆえに何よりも神によって正しい者にしていただきたかったのであります。神に救われると言うのは病気から救われる、ことでもなければ不安から救われることでもなく、罪から救われることでありました。それは罪から開放されて正しい者にあることであります。それが神との関係を正しく、神の恵みを知り、不安から抜け出す道であるに違いありません。こういうことですから信仰者は始めから義を求めていたのであります。罪人であるのに神によって義とされたということ、従って罪が赦されて喜んで信仰生活をしていることは義を求め続けていることになるのであります。 それなら、その生活をしながら何故なおも義を求めるのでしょう。それは一つには義を求めて義を与えられることによって確信させられた神の恵みをいっそう喜ぶことであります。しかし、もう一つはどこまでも正しくありたい、ということではないかと思います。それはどこまでも清くありたいということであると言っても良いかも知れません。救いを受けている私たちですが、はじめの願いである清くなることが、まだ完全にはできていないのであります。それならば日毎にそれを求めるのであります。ピリピ人への手紙3章12節には次のようにあります。「わたしが、すでに得たとか、すでに完全な者になっていると言うのでなく、ただ捕らえようとして追い求めているのである。そうするのはキリスト・イエスによって捕らえられているからである」。この言葉は信仰生活者が義を求めることをよくあらわしていると思います。
正しさを求めることから始まったのです、しかしもう完全な者になったのではなくて、ただそれを得たいと思って追い求めているのであります。しかも大切な事は、そのためにキリスト・イエスがわたしを捕らえてくださったのである、ということであります。それならばキリストによって捕らえられ恵みを与えられ更に義を追い求める者にされた、ということになるのであります。詩篇107篇9節は有名なすばらしい歌です。「主はかわいた魂を満ち足らせ、飢えた魂を良き物で満たされるからである」。アモス書8章11節というところに次のような言葉があります。「それは、パンの飢きんではない。主の言葉を聞くことの飢きんである」。主の言葉に飢え渇いているということでしょう。イザヤ書55章2~3節には「飽きることもできぬ者のために労するのか。わたしは、あなた方ととこしえの契約を立ててダビデに約束した、変わらない確かな恵みを与える」。ここでも神の契約に飢えている姿が書かれているのです。それに対してマタイは「義に飢え渇く」と言うのです。それは神の言葉に飢えていることであり、神の約束に渇くことでもあるのです。それらのことを「神の義」ということでまとめたのであろう、と言われるのであります。詩篇42篇2~3節の有名な詩があります。「神よ鹿が谷川を慕いあえぐように、わが魂もあなたを慕いあえぐ。わが魂は渇いているように神を慕い、いける神を慕う」。こうしてみると、預言者たちや詩篇の作者たちが、神の言葉や約束を求めたのは実は神の義を求めたのであります。それは結局、神の慕いあえぐことになるのではないでしょうか。神の義は神からしか得られません、神を知り、神を得てこそはじめて神の義が与えられるのであります。 アーメン・ハレルヤ!
(Ⅳ) 7月31日(日)聖霊降臨後第11主日(詩138編)
日 課 創18:16~33、コロ2:6~15、ルカ11:1~13
説教「主の教えたまいし祈り」
1 詩編138編:ダビデの詩編の一つ、聖なる集いにおける讃歌。
詩編137編「嘲る民(バビロンの民)が“歌って聞かせよ。シオンの歌を”と神の民に対して挑戦的に嘲笑的にののしる言葉に対応している。
ダビデはいう「呼び求めるわたしに答え、あなたは魂に力を与え、解き
放ってくださいました。」と。
なお、ダビデの詩編はこの138編から144編まで、つまり詩編の終章、ハレルヤ詩編の直前まで続いている。素晴らしい祈りと讃美の詩編である。
<祈りは聴かれる!主は答えてくださる!>
2 今日の旧約聖書は、創世記18章「ソドムのための執成しの祈り」である。
自らを「塵あくたに過ぎないアブラハム」(27節)の祈りである。
アブラハムの信仰は明らかである。(25節)
「正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くありえないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか。」
“正しい者が50人いれば、45人、40人、30人、20人ついに10人いれば!”
主はお答えになった「その10人のために、わたしは滅ぼさない」と。
しかし、ソドム、ゴモㇻは滅ぼされた。ではアブラハムの執り成しの祈りは無駄であったのであろうか?決してそうではない。
◎注目したいのは、このアブラハムと神との“祈りの対話”において、アブラハムはきわめて人間的である、つまり理性的、理論的である。
正しい人の人数を、神の応答を確かめながら、50人、45人、40人、
30人、20人、10人と、神との取り引きで、次第に減少させている。
しかし、それに対して、神の答えは絶対的である。それは神には赦しがある!
という事実である。そのことをアブラハムは確信した。
1
3 今日の福音書の日課は『弟子たちに教えられた“主の祈り”』である。
今日は、主の祈りについて全体的なことについて学びたいと思う。
◎ 主の祈りは福音書のマタイとルカに記されている。
対比してみると明らかなように、マタイは祈りの全体を記録しているが、
ルカは、第3の願い「み心が地の上にも行われますように」と、第7の願
い「悪い者から救ってください」の二つの願いが欠けている。
相違についての様々な学問的な研究や推測がなされてきたが、現在は以下のように理解できるであろう。
第一は、本来、主の祈りは一つの形であった。
第二は、主の祈りは礼拝の中で用いられてきたが、二つの別々な地域(エルサレム=ルカ、ガリラヤ=マタイ)の信仰共同体で用いられるうちに、異なった発展をしたとの理解である。
Ⅰ 主の祈りは「礼拝の祈り
である。
教会の礼拝、また個人的な礼拝にも用いられる“信仰告白の祈り”である。
Ⅱ 主の祈りは「信仰の戦いの祈り」、慰め、恵みと力をいただく祈りである。
私たちの生活はいつも厳しい状態におかれている。
身体的にも絶えざる健康のこと、どの年代にも病の不安がある。障害の問題を抱えている人もある。
今の時代、心理的、精神的に、孤独や悩みはつきものであり、誰にもある。
社会的にも様々な戦いがある。生活や仕事の苦しみ、人間関係等々。
Ⅲ 主の祈りは「信仰共同体=教会」(我ら)の共同の祈りである。
主イエス・キリストは、「我ら」と祈るようにお教えになった。
私たちの祈りは、しばしばそれに反して、我、私の祈りである!
Ⅳ 主の祈りは「世界を包む祈り」である。
この分裂と亀裂の世界的状況のなかで、それを癒す祈り、希望の祈りである。
Ⅴ M.ルターは、大教理問答書、小教理問答書を通して懇切、丁寧に教えた。
今、ルーテル教会はルターの「宗教改革500年」を記念して、エンキリディオン(小教理問答書)である。このなかで心して「主の祈り」を学びたい。
2
4 祈り、主のいのりについての雑感
Ⅰ讃美歌について
① オルガンを練習し始めて、初めて覚えた曲が「讃美歌362(主
よ、今われらの罪を赦し)である。
② 今日の主題讃美歌は教会讃美歌364である。(1~4)と(5~8)に.
分けて歌うが、ご存知の通りこれは、Mルター自身の作詞、作曲による有名な讃美歌である。
J.Sバッハのオルガン小曲集にも「天にまします我らの父よ」がある。
Ⅱ 主の祈りを、敵&味方一緒に祈った兵士たち
第二次世界大戦中にフィリピンに従軍したある日本人の軍人がいた。
彼の所属する部隊は、アメリカ軍の攻撃を受けてバラバラになり、ついに、数名と共に捕虜になり、サマル島の町はずれにある捕虜収容所に入った。
すでに日本の敗戦が色濃い1945年6月半ばのことである。小雨の降る
捕虜収容所に隣接するテントでは、アメリカ軍兵士のための礼拝が行われていた。讃美歌が歌われ、聖書が読まれ、説教が語られていた。
その捕虜収容所にいた一人の軍人は、それがキリスト教の礼拝であることを知っていた。彼は旧制高等学校から大学生の時代に、教会の礼拝に出席していたからである。やがて主の祈りが祈られた。捕虜の身である、その日本の
軍人は、かつて教会の礼拝で祈っていた主の祈りを、日本語で唱えた。
彼はその時、言葉に表せない感動に覚えた。敵国のアメリカの兵士たちと
囚われの身である日本の軍人が、時を同じくして主の祈りを祈ったのである。
その経験が出発点となって、帰国してからこの軍人はクリスチャンになり、やがて献身して、牧師になった。私はこの方の説教を神戸で聞いた。
主の祈りには争いを、真に終結させ、敵味方となって戦った憎しみを癒す力がある。あらゆる憎しみや不安を癒し、克服する恵みの力がある!
(Ⅲ) 7月24日(日)聖霊降臨後第10主日(詩15編)
日課 創18:1~14、コロ1:21~29、ルカ10:38~42
説教「すべては御言葉を聴くことから始まる」
1 詩編:「どのような人が、聖なる山に住むことができるでしょうか?」
“聖なる山”それは“神の家”である。言い換えれば神と共なる生活である。
神の家での生活、神と共なる生活で大切なことは何か?
ダビデは、神をほめたたえながら告白する(2節):
「それは完全な道を歩き、あなたの幕屋に宿り、心には真実な言葉がある人」
つまりここでは「心には真実な言葉がある人」が、最も大切な聖句である。
“真実は言葉”とは何か?
原文では「心から真実を語る人」。口語訳聖書も同様に訳されている。
しかも、「神の恵みの言葉に基礎づけられた」言葉ということができる。
人間の言葉は極めて、自己中心的であり、時には自己欺瞞でさえある。
私たちは日常生活に言葉を使う以上、常に神のみ言葉に聴き、神の恵みの
言葉に塩漬けられた言葉を用いたいと思う。
2 旧約の日課は、「イサク誕生の予告」である。
神はアブラハムに約束された。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」
アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」(創世記15章)
再び、主は約束の子が与えられると言われたが、アブラハムは「この百歳の男に、そして90才の妻サラに子が産めるだろうか?」と言って、笑った。
創世記17章35節~17節参照。
こうした経過があって約束が実現する出来事が起こった。
アブラハムが、3人の天使を迎え、心からの“もてなし”(接待)をした。
3人の天使は、アブラハムの妻サラに「男の子が生まれる」と語った。
アブラハムと共に高齢になっていたサラも、「ひそかに笑った」。
<その数か月後、サラは身ごもり、やがて男の子を産んだ>21章参照。
「サラは言った『サラは言った。「神はわたしに笑いをお与えになった。聞く者は皆、わたしと笑い(イサク)を共にしてくれるでしょう。」と。
「そんなことがある筈はない」と3人の天使によって語られた神の祝福の
言葉を嘲笑したサラは、今や約束のイサクが与えられ神よって人生の真実の笑い(イサク)を得たのである。
神の救いの約束は、不可能を可能にするのである!(創世記18:14)。
結果的に信仰者の父、アブラハムは自らの思いを超えて、神との約束を信じざるを得なかったのである。つまり恵みの信仰である!
同様に、そのように信じる信仰こそ、私たちの生き方、恵みの生活である。
有名な画家マルク・シャガールはロシア生れ、東欧系ユダヤ人である。
アメリカに亡命し制作活動を続け、最後にはフランスに定住した。
絵画の制作にも、神との触れ合い、そこに喜びを見出すことを大切にした。
聖書に精通し、聖書をテーマにした様々な絵画やステンドグラスがある。
フランスのニースには有名な「聖書のメッセージ美術館」がある。
その一つに、シャガールの「アブラハムと3人の天使」という絵がある。
ある解説者は、「シャガールは、この3人の天使に羽を描いているが、それは主の復活を連想させるものである。」と言っている。
旧約聖書の“信仰の父と呼ばれたアブラハム”の物語が、単に旧約聖書、つまり律法の世界の物語で終わるのではなく、イエス・キリストの福音(復活)へと繋がる、神による救済史の物語としてシャガールは理解していた。
マルク・シャガール(人物、また絵画やステンドグラス等の作品)についてご存知のかたがあれば、どんなことでもご教示いただければ幸いである。
3 福音書の日課は、美しい物語である。
先ず、主イエスと弟子たちの一行はある村にお入りになった。それは
ベタニア村であり、マルタ、マリアそしてラザロの三兄弟の家庭がある。
四福音書は、主イエスと弟子達がベタニアをしばしば訪ねたと記している。
エルサレム近郊のオリーブ山添いにある美しい村である。
ラザロの蘇えらされた場所(ヨハネ⒒章)であり、主イエスのエルサレムへの最後の入城の日の夕べお泊りになった村(マタイ21章)であり、ライ病の
人シモンの家で、ある女が主イエスの足に高価な油を塗った村(マタイ26章)
であり、最後に主イエスの昇天の場所でもある。主イエスの愛された人々や家庭のある、主の愛された村である。
姉のマルタは接待のことで心せわしく働いていた。しかしマリアは主の足もとに座って、主イエスのみ言葉に心を傾けていた。
マルタは思い余って言った「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」と。
私がその場にいたら、どうしたであろうか?多分マルタの手伝いであろう!
皆様は、どうでしょうか?あなただったら、どうしたでしょうか?
主イエスとその弟子たちの一行をもてなすことは重要な務めである。しかし
主イエス・キリストの教えは、180度異なるのである!
人間的な行動ではなく、御言葉を聴く黙想である!動ではなく静である!
聖書の語る判断基準も、そのことを繰り返し語っている!
例 マタイ4章4節 「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる」と主は言われた。
またマタイ6章33節 「なによりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」
すべてに勝って神の言葉に聴くことが重要視されなければならない。
ヨハネ1章は、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」
今日の福音書を理解するために、このヨハネの言葉は重視されねばならない。
4 ホスピスで、クリスチャンのご婦人、Sさん(86才)とお会いした:
出会った時にSさんは私に「前の病院で後3か月の命だと、言われました。でも私は“普通に生活したい”と思っています」と静かに語りました。
私が「普通とはどういうことですか?」と聞きますと、Sさんは「普通です。
朝起きて、普段着に着替えます。寝間着やパジャマでなくて普段着です。
そして身支度をして、病室ではなく、食堂でご飯をいただきます。
食事が終わると、いつものように聖書を読んでお祈りします。そして身体の調子が良ければ、やりたいことをやります。読書でも、散歩でも、何でも!
Sさんは、ホスピスのアートプログラムには殆ど、毎日淡々と参加しました。
押し花、絵や書、生け花、指網、皆で歌おう、折り紙等。
3
私が宿直の時はSさんの希望で夕食後、聖書の学びと祈りの会を続けました。
これがSさんにとっての“普通の生活”でした。最初、3か月の余命と宣告されたSさんは2年以上もホスピスで過ごしました。
亡くなった後から聞いたところでは、彼女は「愚痴や悩みを数人のNsから聞いていた」のです。神の言葉に聴く者は、隣人の言葉にも耳を傾けることができるのだ、ということを、Sさんから学びました。
<教会讃美歌240(聖書Ⅰコリント1:18=「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」
主なる神さまのお恵みが皆様の上に豊かにありますように。アーメン!
4
(Ⅱ) 7月17日(日)聖霊降臨後第9主日(詩25編)
日課 申30:1~14、コロ1:1~14、ルカ10:25~37
1 今日の詩編の作者は表題に“ダビデ”とある。イスラエルの王である。
このダビデは、“苦悩のうちに”ある。
「身近に敵が迫っており(2節)」、「若い時の罪を思い起こしている(7節)」、
繰り返し、「自らの罪に言及している(⒒節)」。
そしてダビデは自らを「貧しく、孤独で、悩んでいる」と告白する(16~17)。
このような中で、ダビデは25編4節において、謙虚な祈りをささげる。
「主よ、あなたの道をわたしに示し、あなたに従う道を教えてください」
それに対して、25編12節では、その答えが記されている。
「主を畏れる人は誰か。主はその人に選ぶべき道を示されるであろう」
<悩み、不安、罪、弱さにも関わらず、主は求める者に生きる道を示される>
2 旧約聖書の日課、申命記は大きく分けて3部から成り立っている。
第一は、ホレブ(シナイの山)での神の契約の言葉(1章~29章)
シナイ山は、神の民イスラエルの荒れ野での生活の新たな出発の地である。
そこで神は神の民として生きる掟、十戒を基本として律法を与えられた。
第二は、今日の日課から始まる部分で、モアブの地での神の契約の言葉。
モアブは40年に亘る流浪の生活の終わりの地。新しい生活への序章、心構え。
第三は、新しい指導者ヨシュアの選任である。(31章~34章)
さて、今日の申命記30章は第二の部分であり、その中心的なみ言葉は:
① 申命記30:6「心を尽くし、魂を尽くして、あなたの神、主を愛して命を
得させるようにしてくださる。」=十戒、律法の中心的思想。
② さらに、(30:11~14)
「御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。」=信仰生活つまり神の民の生きる指針、倫理である。
◎私たちは神の言葉を、生活の中で、身近に、意識し、実践していくものとして、認識し、また自覚しなければならない!(今日の福音書に関連する)
3 今日の福音書は有名な「善きサマリア人」の物語である。
ここで律法の専門家(律法学者)が登場する。そして主を試そうとして
質問した。「先生何をしたら永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と。
「永遠の命」という言葉は旧約聖書にはただ2回だけ用いられている。
一つは、モーセの歌(申命記32:40)=ここでは信仰の父と呼ばれた、アブラハムが「永遠の神」(創世記21:33)と呼んだ神によって恵みと祝福、そして救いに与ることを意味している。
二つは、ダニエルの預言(12:2)である。ダニエルはここで永遠の命を復活と関連付けている、これは象徴的であり、重要な預言的言葉である。
これに対して主イエスは尋ねた、「律法には何と書いてあるか?」と。
律法学者は、答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」(これは律法の神髄である。(申命記6:5=神の民はこのシェマの祈りを、一日二回唱えることを習慣とした。レビ19;18)。
そしてイエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」と。
続いて、この律法学者はなおも自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とは誰ですか?」と、主イエスに問い返した。
それに対して主イエスは「善きサマリア人の物語」を語られたのである。
◎ある旅人が強盗に襲われ、身ぐるみはがされ、半死半生の状態になった。
ここに同じ旅をしている三人の旅人が登場する。最初にある祭司が来た。神と人との仲介者、祭儀を司る聖職者であるが、「道の向こう側を通って」行ってしまったのである。次に来たのが、レビ人である。祭司であり、神殿の奉仕者、教育者であった。彼も同じように「道の向こう側を通って」行った。
神への愛を説き、教える祭司やレビ人には、隣人への愛はなかったのである!
マザーテレサは「愛の反対語は、憎しみではない。無関心である。」という。
まさに、演出された、悲劇的な、隣人愛の無関心さである。
それと反対に、隣人愛を実践したのは、旅人にとってはサマリア人であった。
サマリア人は、ヨハネによれば「ユダヤ人とは交際しない」国の人であった。
主イエスがサマリアの町で、ヤコブの井戸のほとりに座り、「水を飲ませてください」と頼んだ時に、サマリアの女は「ユダヤ人のあなたが、どうしてサマリアの女のわたしに水を飲ませてくださいと頼むのですか」と言った。
さらに、ルカ9章51節以下によると、イエスを歓迎しなかったサマリアの村を、中心的な弟子のヤコブとヨハネが「主よ、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」とさえ、厳しい言葉を放っているのである!
ここに第三の旅人が登場する。
聖書の歴史では、宗教的にも、心情的にも関係性の悪いサマリア人であった。
この第三の旅人、サマリア人は、同じユダヤつまり神の民の指導者達とは、
全く違っていた!傷つき、半死半生の状態になっていた旅人の「そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。 そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』と言った。主イエス・キリストは、実に簡潔に物語を語られた。
主イエスは山上の説教において、「敵を愛しなさい」(マタイ5章)とお教えになった。実にこの主のご命令は、民族、文化、国境を超える命題である。
実に現代世界では宗教をさえ超える、重要な命題である。
「善きサマリア人の物語」もそれと同様、「無条件の愛」を教えている。
他にない!
今日詩編の示す、今日の主日の主題に戻ろう。
「主に従う者に、現代社会、各自の生活に生きる道を示される!」
福音書の示す道は、「神と隣人に対する無条件の愛に生きること」である!
(ルカ10:27、)(マタイ22:34以下、マルコ12:28以下も同じ・参照)
◎<PHでのAさんの場合>
Aさんは、入院して来た日からベッドで顔に覆いをかけたまま寝ていた。
Nsさえも、初めはその顔をなかなか見ることは出来なかった。
理由は、彼女の患っていた乳がんのためである。祖母も、母も乳がんで亡くなった。そのために、「あなたには悪霊(厄)がついている」との理由で家族と夫から離婚を迫られた。彼女には中学生の娘さんと小学生の男の子がいた。
そのために離婚届に印鑑をおすことが出来なかった。
そのような状態の中で入院してきた。私は聖書を読んだ。癌の末期の痛みと、離婚問題の苦しみを抱えながら・・・。Aさんは最後には、チャプレンで
ある私に、その夫と家族への赦しと子供たちへの祝福の祈りを求めた。
わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが皆さんの上に豊かにありますように、アーメン。
本日は使徒書の日課から御言葉を聞いていきたいと思います。ガラテヤ書5章2節以下の箇所であります。ガラテヤ書は使徒パウロがガラテヤの諸教会に宛てて書いた手紙ですが、執筆されたのは、第三回伝道旅行でガラテヤ地方を訪問した後、エフェソに滞在中か、マケドニア地方に赴いたときに書かれたと考えられています。ですから、紀元54年か55年頃ということになります。
文頭に書かれた短い挨拶の後に、パウロは、いきなり「キリストの恵みへ招いて下さった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています」と書き出しています。更に、3章の冒頭では「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか」と苛立ちを隠していません。ガラテヤの諸教会が真の福音から、偽りの福音へと逸脱しようとしていたので、パウロの危機感は大きかったのです。パウロはこの手紙の中で、使徒たちの柱、ペトロとも、異邦人と一緒の食事をめぐって論争になり、ペトロを公然と非難していたことも記していました。
本日の箇所は、そのガラテヤ書の締め括りともいうべき部分にあたります。
パウロの直前の箇所で、「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にして下さったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません」と語っていました。パウロがここで「自由」と言っているとき、それはほとんど「救い」と同義語になっています。言い換えれば、パウロはキリストの救いに与ることを「自由への解放」として言い表しているのです。新共同訳聖書もきょうの箇所に「キリスト者の自由」という小見出しを掲げています。
今日の箇所は、「ここで、わたしパウロはあなたがたに断言します。もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります」と始まっています。「割礼を受ける」というのは、「ユダヤ人になる」という意味を持っています。教会の中に、キリストの救いに与るためには、ユダヤ人になる必要があるといって、割礼を強要していた人びとがいたのです。ユダヤ主義者と呼ばれた人々です。パウロにとっては、キリストに会っては「ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つ」だったのです。
ガラテヤの諸教会は、ユダヤ主義者たちの影響を受けて、割礼を受けようとしていたのです。救いに与るためには、割礼を受ける必要があると思い始めていたのです。そのことを知ってパウロは、重大な危機感を感じたのです。パウロの使徒としての資格をあれこれ問題にする人も出たでしょう。パウロが教会を迫害していたという前歴があったからです。
パウロ自身、次のように書いています。「あなたがたは、わたしがかつてユダヤ教徒としてどのようにふるまっていたかを聞いています。わたしは、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました。また、先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました」。このようにパウロは、教会を迫害したという前歴を持っていたのです。そこをつかれると、スネに傷のあるパウロは苦しい立場に追い込まれることになります。実際、パウロは論敵からそのように非難されること、一度や二度ではなかったのです。
しかし、パウロには確信がありました。そのような前歴にもかかわらず、自分が神の召しを受けているという確信です。それどころか、母親の胎内にいるときから、使徒として召されていたという思いさえもありました。ですから、次のように続けたのです。「しかし、(神は)わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった。この事実と確信とが、使徒としてのパウロを支え続けていたのです。
「わたしを母の胎内にあるときから選び分け」という言葉遣いは、明らかにエレミヤの証明を意識しています。エレミヤ書の1章4節以下ですが、「主の言葉がわたしに臨んだ。『わたしはあなたを母の胎内に造る前から、あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に、わたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた』」。パウロはエレミヤに対する神の言葉をほぼそのまま引用して、自分をエレミヤと重ね合わせているのです。エレミヤは預言者として立てられたがゆえに、苦しい立場に追い込まれ、投獄もされ、命に危険にも晒されました。パウロも同じでした。パウロはそのたびに、エレミヤのことを思い起こし、自分の支えともしていたのだと思います。
さて、「キリスト者の自由」という言葉を聞くと、すぐに思い起こすのが、マルティン・ルターの『キリスト者の自由』という著作です。『キリスト者の自由』は、数多くあるルターの著作の中でも、日本で一番よく読まれた著作であることは間違いありません。早くから「岩波文庫」の一冊として出版され、何度も版を重ねてきたからです。それに、値段が安く、ポケットにも入るのがいいところです。実際、このルターの著作は、本日の箇所でパウロが語っていることの解説だと言うことができます。
冒頭には、次のように掲げられています。「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な主人であって、だれにも服さない。キリスト者はすべてのものに仕える僕であって、だれにでも服する」。つまり、キリスト者は「すべてのものの上に立つ自由な主人であって、同時にすべてのものに仕える僕である」ということになります。
このように、「だれにも服さない主人」と「だれにでも服す僕」という相互排他的な事態が同時に成立しているのがキリスト者である、というのがルターの主張です。相互排他的な事態を「同時に」という言葉で連結した命題は、「義人にして同時に罪人」とか、「神はイエス・キリストの十字架の苦難と死の中に、啓示されていると同時に隠されている」(ハイデルベルク討論)とか、「健康にして同時に病気」(ローマ書講義)といった命題にも共通しています。ルターのこうした主張を一般化すれば、「白にして同時に黒」ということになるでしょう。
13世紀に頂点を迎えたスコラ神学は、アリストテレスの論理学を基礎構造にして成り立っていました。そこでは、「白とは明度の充満」のことであり、「黒とは明度の欠如」と定義されるでしょうし、「義人とは罪人ではない人」のことであり、「罪人とは義人ではない人」のことになります。ここでは、「白」と「黒」とは、徹底的に、そして最後まで、相互排他的です。スコラ神学の思考回路では、「義人にして同時に罪人」とか「啓示されていると同時に隠されている」といった主張は、明確に矛盾した命題であると判断されます。しかし、相互排他的な事態を「同時に」という連結詞で結び付けるルターの思考回路はどうなっているのでしょうか。
例えば、水面のことを考えましょう。水面は水の中の世界とその外の世界との境界面です。しかし、境界面はあくまでも「面」ですから、厚みはありません。つまり、距離はないのです。ですから、水の中の世界とその外の世界との間の距離は、端的に「ゼロ」ということになります。他方、水の中に棲む魚は水の外の世界では生きることができないし、水の外に住む人間は水の中では生きることができないという意味では、二つの世界には無限の隔たりがあります。すると、次のような相互排他的な命題が得られることになります。「水の中の世界とその外の世界を隔てる距離は、ゼロであると同時に無限大である」。
ここでは二つの視点が交差しています。距離がゼロというのは、「物理的視点」からの判断です。他方、距離が無限大というのは、「生息環境」という視点からの判断です。「水の中の世界とその外の世界との距離は、ゼロであると同時に無限大である」という命題では、物理的視点と生息環境的視点とが交差しています。
ルターは、哲学の領域(理性的判断領域)と神学の領域(神学的判断領域)を峻別したオッカムの伝統を受け継いで、「神の前で」と「人々の前で」という二つの判断領域を峻別しました。一方は「神の判断では」ということであり、他方は「社会倫理的判断では」という意味になります。ルターの発言を理解する際には、この区別が決定的に重要です。ルターの神学的発言では、この二つの判断領域が常に交差しているからです。
キリスト者は「義人にして同時に罪人」であるという発言にも、二つの視点の交差があります。一方は「神の前で」という視点であり、他方が「人々の前で」という視点です。「人々も前では」(社会倫理的判断)ではどんな立派の人も、「律法の基準に照らせば」(神の判断によれば)罪人です。ここでは律法が機能しています。
「信仰によって義とされた人は、義人であると同時に罪人である」という命題は、逆方向にも機能します。信仰のある人は当然ながら律法を真剣に受け止めます。すると、その人は自分が罪人であることを強く自覚します。「律法が入り込んできたのは、罪(の認識)が増し加わるためでありました」(ローマ5.20)というパウロの言葉は、そうした事態を正確に捉えています。「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」というパウロの言葉が指し示している事態が起こります。ここでは、「キリスト・イエスの贖いの業を通して(つまり、十字架によって)、神に恵みにより」罪人が義とされるのです。ここでは、福音が機能しています。
このように、「キリスト・イエスの贖いの業を通して、神の恵みにより」義とされるという事態が、義認が成り立つ客観的根拠であり、「イエス・キリストを信じることにより」が、その義認が人間のものとされる主体的成立根拠になっています。
「罪人であること」は、カール・バルトの言葉を使えば、「最後から一歩手前の神の言葉」、つまり律法による判決であり、「義人であること」は、「神の最後の言葉」、つまり福音による判決ということになります。言い換えれば、「罪人であること」は地方裁判所の判決ですが、「義人であること」は、最高裁判所の判決ということになります。
だから、「罪人にして同時に義人」という命題では、「律法によって」という判断基準と「福音によって」という判断基準とが交差しているのです。
律法に照らせば、自分が罪人であることは目に見える事実です。実際に罪人だからです。他方、義人であるという事実は、神の言葉(福音)が告知している事実ですが、罪人である自分には目に見えない事実です。しかし、パウロは「わたしたちは目に見えるものではなく、目に見えないものに目を注ぐ」と語ります。それが、信仰だからです。信仰とは、「わたしは義人である」という目に見えない事実を、「わたしは罪人である」という目に見える事実以上に確かな事実として承認するということです。
さて、キリスト者は「自由な主人にして、同時にすべてのものに仕える僕である」という『キリスト者の自由』の相互排他的な命題では、どのような判定基準が機能しているのでしょう。『キリスト者の自由』では、前半が「自由」を、つまり「主人であること」の根拠を論じ、後半では「奉仕」あるいは「愛」が論じられています。
「自由」という言葉は、中世のヨーロッパでは「教会の自由」という文脈で理解されることが多かったのです。つまり、常に教会の内情に干渉しようとする俗権からの自由のことです。修道院改革を目指したクリュニー修道院が、自らの財産を「ペトロとパウロに」寄託したのは、教区の司教や俗権からの支配や干渉を回避するためでした。しかし、ルターの場合には、ガラテヤ書の「自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放してくださったのである。だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない」(口語訳、5.1)というパウロの言葉遣いにならっていることは間違いありません。ガラテヤ書では、「自由」はほとんど「救い」の同義語になっています。
ルターが「自由」というとき、それは「……からの自由」(悪魔と罪からの自由、律法からの自由)であると同時に、「……への自由」も意図されています。端的に言って『キリスト者の自由』の後半は、「奉仕への自由」が意図されているのです。
僕は、主人の意志に従うことによって、主人の意図を達成していきます。それは、僕の義務であり、責任です。主人によってその強制力の度合いは様々でしょうが、僕はその義務と責任に強いられて、奉仕の業に励みます。他方、律法から自由にされたキリスト者は、一切の強制なしに自ら進んで隣人に仕えるために奉仕の業へと立ち上がっていきます。外から見た場合、両者の違いはすぐには目に見えません。同じことをやっているからです。しかし、「動機」は決定的に違っています。
この場合、「奉仕への自由」は、「律法からの自由」があって初めて成立します。ですから、「律法からの自由」が、「奉仕への自由」の成立根拠ということになります。『キリスト者の自由』では、「自由」と「奉仕」とが並立していますが、「自由」と「奉仕」は等価ではなく、「自由」が「奉仕」の前提であり、必要条件なのです。ルターが本書を『キリスト者の自由と奉仕』としないで、『キリスト者の自由』としたのは、おそらくそれが理由だったと思われます。
「律法からの自由」とは、「強制からの自由」のことです。パウロはときには割礼を容認したのに、ある場合には、今日の箇所にあるように、それに断固反対しました。その場合とは、それが強制されたときでした。
パウロが、「自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放してくださったのである。だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない」と語っているように、ここでは「自由」は「救い」と事実上同義です。言い換えれば、「自由」は……そして具体的にいえば、「律法からの自由」は、キリスト者であることの根本規定である、ということになります。そして、その場合にのみ、「奉仕への自由」が可能になるのです。
ですから、「すべてのものの上に立つ自由な主人であって、同時にすべてのものに仕える僕である」という命題は、一見対立しているように見えるし、矛盾しているようにも見えますが、そこには対立も矛盾もなく、「奉仕への自由」こそが、「キリスト者の自由」が持つ根本的特質なのです。なぜなら、「奉仕への自由」へと解放されていなければ、その人は未だに自由ではないからです。
今回の聖書は5章5節です。「柔和な人々は、幸いである、その人たちは、地を受け継ぐ。」
今日で第3回目です。山上の説教で、心の貧しい人から次に悲しむ人になり、三番目に「柔和な人々」ということになりました。この三つは、いずれも関係の深いものでしょう。古い訳によりますと、4節と5節とが入れ替わっているものがある、とも言われています。この5節は2節の後に、その説明として欄外にあったものを、ある時3節の後に入れられたものであろう、とも言われ今は5節となっています。
この三つのうちでは「柔和」というのが最もわかり易い、と思うでしょう。一般の人から見て、キリスト者というと柔和な人として見られています。しかし、柔和というのはどういうことでしょうか。やさしい、ことでしょうか。おだやか、ということでしょうか。しかし、やさしい、とかおだやか、というものも、ただそういう気持ちだけでは、ここで言われていることとは違うのでは無いでしょうか。それは忍耐強いことである、と言った人もあります。つまり、柔和とう中には忍耐強いことがある、というのです。そうだろうと思います。信仰は望みでもありますから信仰のあるところには忍耐がある、と言えるのであります。
また、ある人は別の言い方で柔和と言うのは「権力が無いことである」と言いました、これなら少しわかります。権力が振り回され、おごり高ぶっているようなところに柔和といったものはありません。柔和と権力とはおおよそ違うものです。権力というと特別のもののように思われますが、それは権威を主張していることである、と言うことです。だれでも、自分の権威というものを持っています。自分の立場を守ろうとする意地でありましょう。柔和と言うのは、やさしい、と言う気持ちだけでなく自分の立場を主張せず謙虚であるとも言えます。そのことに続いて言えば柔和と言うのは自分は学ぶ必要がある、そして又赦される必要もある、と考えている人のことである。自分はもう何も学ぶ必要はない、と思っている、とすればそれは自分の権威を主張することである、そこから柔和になることは、とてもできるることではない。自分は赦される必要のある人間である、と言うことは大事なことであります。柔和であるためには、へりくだるる必要がある、と思います。へりくだる道は自分が赦されなければならない罪びとであることを知ることであります。そのことこそ主の赦しによって示され、又、与えられるものであるに違いありません。信仰者は自分が罪びとであることを知っています。信仰者にとって最も大切ことは赦されること、赦されている、ということであります。そうであれば柔和と言うことは、結局、自分の意思をどうするか、ということに関係してくる、ということです。自分を高く考えたり、忍耐ができなくて怒りっぽくなる、と言うことは柔和ではありません。
しかし、そういうものに打ち勝つにはどうした良いのでしょう。それは自分の権威を捨てること、自分の意地っ張りをなくし、自分の意思に勝つことであります。簡単に言えば自分に勝つことでありましょう。しかし、自分に勝つことは、どんなことより難しいことだろうと思います。自分に勝つのが難しいのは自分の意思に勝つことだからです。自分の意思をどうすりゃいいんだ、と考えるだけでは、それに勝つことはできません。そこで大事なことは、他の人の意思ががあることを知ることであります。ことに一番大事なのは、神の意思がある、と言うことを知ることです。神様が何を求められておられるか、を知ることであります。そうすると、そこに神様が何を求めておられるか、と言うだけでなく、神のお求めになっていることが、いかに大きく恵み深くあるか、と言うことを知るのであります。神の意思があることを知っただけでは自分の意思に勝つことにはなりません。神の意思が自分にとってどんなに恵み深くあるかを知ったときに、はじめて自分の意思に勝ち、柔和になることが出来るのであります。神の意思に従うにのですから、柔和はただ、やさしい、ことだけではありません。怒りをおさえ忍耐すると共に、怒るべき時は怒るのであります。主イエス様がそうでありました。〈たえず、天の父にたずね求め、怒り戦いの連続でした。〉信仰者にはこのような生活のもとが与えられているのであります。
さて、[柔和な人たちは、地を受け継ぐ、と言われました。]※詩篇37:11 地を受け継ぐと言うのは、どういうことでしょう。ここですぐに思い出すのは、イスラエルの民が出エジプトをして、長い旅の末、約束の国カナンに入った話であります。地を継ぐ地とは、ただの地ではなくて、神の民に対して約束されていた地である、と言うことであります。地を継ぐというのは、何より新しい生活がはじまる、と言うことでありましょう。しかも、地を継ぐ、と言うのですから、それは全く新しい生活であります。大地から新しくなるのですから、今までとはあらゆる点において全く新しくなっている、と言うことであるに違いありません。柔和な者に対して約束されているのは、そういう新しい世界であります。信仰によって与えられる国は新しい国でありますが、それは何によって新しくなったのでありましょうか。約束によるのであります、約束によると言うのは神の約束によることであります。神は何のために新しい土地をご用意なさったのでありましょう。それはどの土地よりも神のみ旨を行いやすくするためでありましょう。柔和な者は自分の力によって柔和になったのではありません。自分の意思を捨てて神の意思に従ったからであります。この新しい土地においては、神のみ心が行われることが大事な目的でありました。
イスラエルの民がエジプトから連れ出されたのは、神を礼拝するためでありました。考えてみれば、神を拝むためにあの40年にわたる大旅行が必要であってなされた、そのために約束の国が与えられたと言うことは大変なことなのであります。それが、この新しい土地において行われる筈であったのでした。イスラエルはその意味で神の民としての生活をすることを求められていたのであります。それなら今、信仰によって柔和にせられた者はそれと同じように神のご期待に応えるために新しい生活が与えられたのであります。それが柔和にせられた者の特別の権利であります。
また、そうして喜びなのであります。それが「幸いである」ことの内容であります。もう少し考えを深め、更に申しますと、地を受け継ぐと言う、継ぐ、は嗣業として受け継ぐことです。嗣業と言うのは、その土地の王となる、と言うこと。ある訳では「神は彼らに地の全てを持ち物として与えて下さるであろう。」としております。しかし、人間が全てのものを持つようになる、と言うことは考えられないことであります。何よりも、この地は神によって新しくつくられた地であり、神によって新しく生かされた世界であります。それは言うまでも無く、キリストによって新しくつくられた国のことであります。したがって、その中で、もし王となるとすれば、それはキリストと共に王となることになるのです。それならば、そこで王になることができるのは、何よりもキリストがその王でいらっしゃることを認めることにならねばなりません。それならば自分がつくったものである筈がありません。キリストがおつくりになった新しい生活を受け継いでそこで王のように自由に生きると言うことであります。だれでも王のように自由に生まれたらと思います。しかしそれは自分が我侭に振舞って生きることの出来る生活ではないこともすぐ分かることです。王のようになりたいと思いながら自分ほど王に相応しくないこともすぐに分かります。自分にはその力もありません、自分のようなものが王のように思うままの生活をしたらすぐに行き詰るのであります。そうかといって暴力によって、この地を自分のものにするのではありません。柔和によるのです。キリストの柔和によるのです。そうであれば自分が王となることが出来る道は主イエス・キリストを王としてあがめ、もし王となり得るなら主と共に王となるほかないのであります。つまり柔和と言うのは自分の願いを捨てて神の願いのままに生きることである。そのことはそのままここで生かされるのです。そのような生活を与えられた者がこの新しい世界ではそのまま生きることができると言うことであります。
テモテ第2の手紙2章11~12節にこう書いてあります。「もし、わたしたちが彼らと共に死んだなら、また彼らと共に生きるであろう。もし耐え忍ぶなら彼と共に支配者となるであろう」。我々がキリストと同じように耐え忍ぶことができるわけがありません。キリストによって耐え忍び柔和になることであります。それはキリストによって与えられた生活を生きると言うことであります。「柔和な人たちは幸いである、地を受け継ぐ」この言葉をまとめて別の言葉で次のように訳した人があります。「おお、祝福された人は正しいときに怒り、正しくない時には怒らない。全ての本能、衝動、欲情を制御し謙虚になるゆえに、自分の無知と、自分の弱さを良く知っている。このような人こそ人生の中にあって王になる者である。」と言うのであります。柔和と言うことが、いかに深く豊かなことであるかがわかります。〈アーメン・ハレルヤ〉
次回は8月7日、5章6節「義に飢え渇く人」についてきいていきましょう。
今日の聖書は山上の説教から、マタイ福音書5章4節です。まず「山上の説教」について話をしますと、5章の少し前の4章23節を見ますとイエス様はガリラヤ中を回って民衆のありとあらゆる病気や患いを癒された。こうして大勢の群集がイエス様のところへやって来たわけです。5章1~2節を見ますと「イエスはこの群集を見て山に登られた。腰をおろされると弟子たちが近くに寄って来た。そこでイエスは口を開き教えられた。」こうして3節以下の言葉を語っていかれた、と思っていつもですとこの順序で教えられた、すばらしい福音の真髄を明らかにされた言葉として読んでいました。ところが今回、私は新しい発見をしまして少し驚きました。山上の説教は5章から7章まであります。7章の最後には次のようにまとめ上げています。7章28節「イエスがこれらの言葉を語り終えられると群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威のある者としてお教えになったからである。」とマタイは山上の説教の言葉に権威ある力強いものがあることを強調しています。山上の説教にはいろいろなことが語られています。単純に「戒め」というようには言えないものです。内容に応じてたとえ話が多く語られていますし又主の祈りもあります。ですから山上の説教は恐らく主イエス様が一度にお話になったものではないでしょう。するといろいろ機会にお話になられたものを集めたものであると考えられています。私はそんなことなど考えもしませんでした。山の上で弟子たちに語られた大切な神の国へとつながる美しい教えである、というくらいに考えていました。いろいろな時に多くの深い内容を持って語っていかれた、しかもこれは信仰のある者たち、イエス様への全服の信頼を持っている者へのメッセージであるということです。今回の教会の者に告げられているイエス様からのみ言葉です。ある人はこれを「神の国の計画」という題をつけて本を書いたというほどのものです。
さて、今日の本題は「悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる。」私たちが生きています現実のこの世は悲しみに満ちている、といってもよいほどの苦しみや不安であります。※先日のニュースでイギリスがEUから離脱するという、さあ世界中の経済が混乱して行くでしょう。信仰を持って生活している人々にとってもいろんな深い悲しみの中にあるものも事実であります。特に自分だけでなくでなく、主にある兄弟姉妹たちには互いに涙を流し重荷を背負いあって行くものあります。5章4節で言われていることは、ただの人間の悲しみではありません。それはすでに主イエス・キリストの恵みのうちに救いを受け幸いである、と言われている人の悲しみであります。幸いなことよ悲しんでいる人々、彼らは慰められるであろう、と言われる!この言葉は悲しんでいる人が慰められる時に用いられるものではないでしょうか。従って信仰を持っている人は、その悲しみが必ず慰められると言うことを信じて知っている、その慰めの時に用いられる言葉ですから喜んでいる筈なのではないでしょうか。そのことは、今の深い悲しみの中にあっても、それを乗り越えた勝利の中にある喜びである筈であります。それなら信仰者の悲しみ、と言うのはどういうものでしょうか、信仰を持って生きるというのは正しい生活をすることであります。罪深いこの世にあっては信仰生活をすることは決して喜びだけではありません。信仰者はこの世の罪と闘い、罪を憂え悲しむ生活になるに違いありません。信仰者は自分が罪びとであることを知っていますから、世をいたずらに裁くことが出来ないのです。この世の罪はむしろ自分の重荷として担わなければならない筈です。そしてキリストに従う者の悲しみ、というべきものがあるにちがいがありません。九つの「幸い」といわれる説教はキリストの救いによって幸いにせられた者を考えているのであります。この九つの信仰生活は、みな別ではなくお互いに関係がある筈であります。信仰者にしかない悲しみというものがどんなものかを知らねばならないでしょう。信仰者は信仰を持っているゆえに何を悲しむのでありましょうか。ルターの95ヶ条の項目の第1条には「信仰者の生涯は、絶え間ない悔いと回心の連続であるべきである。」とあります。私たち信仰者の悲しみの中心は罪に対する悲しみであります。今はすでに罪許された者でありますが、それだけに罪の重さと怖ろしさを知っているのであります。罪は罪に苦しむ時それを悲しみますが、罪の赦しを得た時にはこの罪がどんなに高くついたものであったがわかります。すなわち御子の死を必要としたことがわかります。従ってそれから後にも罪を赦されていることを知りながら罪の力と、その無情さとを考えずにはおられないのであります。もっと突き詰めて行きますと死に対する悲しみであります。どうしようもない罪を持っている自分で、どう対処しようと言うのでしょうか。生きている時も死の時をも通して慰めと言えるもの、すなわちただ一つの慰めとなってくださる方、それは言うまでも無く神であります。神こそ悲しんでいる者を慰める方なのであります、主役はいつも神なのであります。神はどうしてくださるのでしょうか。「神は彼らの重荷を取り去ってくださるであろう」とも言われます。重荷がどう除かれるのでしょう、重荷と言っても罪の重荷です、それを取り除くというのはどうすることでしょう。私たちはいつもこの言葉を使っているので怪しみませんがその重荷を除かれたらどうなるのか、と言うことまであまり深く考えてはいないのではないでしょうか。重荷と言ってもそれは心に掛かるおもにでしょう、つまり罪の責任であります、神に対する罪の責任であります。だから、もしその重荷が除かれると言うのであればそれは神からその責任を取り除いていただく他にないでしょう。つまり神によって罪の責任を取り除いて赦していただく他にない筈であります。それはどのようにして出来るのでしょうか、それはこの「慰める」という字が手がかりになるのです。慰め、と言う字は自分の傍らに呼ぶと言う字であります。自分の傍らに弁護してくれるように、なると言うことです。神はそういう意味で私たちの味方になってくださるのであります。重荷が除かれる、と言うのは私たちが罪を犯して背いていたにもかかわらず、神が私たちの味方になってくださった、と言うことなのです。「慰められる」のはいつからそうなるのであろうと言うのでなく、今すでに慰められている、と言うことをあらわしているのであります。ハレルヤ・アーメン
(Ⅰ) 聖霊降臨後第5主日(詩30編)
聖書日課 王上17:17~24、ガラ1:11~24、ルカ7:11~17
1 今日の主題は「主はいのちを得させてくださる」である。
今日の詩編30編3節以降にこのように記されている。
「わたしの神、主よ、叫び求めるわたしを、あなたは癒してくださいました。
主よ、あなたはわたしの魂を陰府から引き上げ、墓穴に下ることを免れさせわたしに命を得させてくださいました。主の慈しみに生きる人々よ、主に賛美の歌をうたい、聖なる御名を唱え、感謝をささげよ。」
=ここに今日の主日のメッセージの主題が歌われる。
2 旧約聖書の日課は、預言者エリヤが、ガリラヤの北方、地中海沿岸の町、サレプタに滞在していた時、やもめの一人息子が死んだが、神はエリヤの
祈りに応えて、その息子に新たないのちをお与えになった物語である。
これはサレプタの貧しいやもめにとって希望をつなぐ出来事であり、さらに、今日の福音書の物語(出来事)の〝前触れ(予表)“となる出来事であった。
3 今日の福音書の物語
旧約のシドンのサレプタの町と、ナインの町に起こった出来事からいくつかのことを対比しながら学びたい。
① 両方の物語の主人公は、夫を失った『やもめ』(寡婦)である。
やもめはいつの時代にも弱者である。とくに聖書の時代ではなおさらであった。
やもめは、惨めな境遇にいる者で、寄留者、孤児と共に、社会的に保護の対象であった。(レビ記19:9~10、申命記24:19~22)
「ぶどうの取り入れをするときは、後で摘み尽くしてはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。」と律法で、繰り返し命じられている。
新約時代も、教会は同じ態度を継承している。(ヤコブ1:27)
「みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、・・・」と記される。
これらのやもめは、いずれも一人息子を失ったのである。さらなる悲劇である。
② 福音書の物語では、主イエスはナインの町に行かれたのである。
ナインとは、原語ではミドラッシュ(愛らしい、楽しい)との意味である。
そして人々をめぐる町の情景が、『二つの群れ』として生き生きと描かれる。
一つの群れは、イエスと弟子たち、そしてそれに従う大勢の群衆である。
これは言うまでもなく、喜びの福音を告げ知らせる神の国の群れである。
他の群れは、やもめと一人息子が死んだので、棺を担ぎさす群れである。
これは葬列の群れである。
神の国の群れは、町に入るところ、葬列の群れは町から出るところであった。
神の国は喜びと希望、永遠のいのちを告げ知らせる群れであり、他方
葬列は死と悲しみつつ死者を葬る群れである。この二つの群れが出会った!
③ そして主イエスはこの母親を見て、憐れに思い、
「もう、泣かなくてもよい!」と言われたのである。なんと力強い言葉!
これがまさに福音=喜びの告知である。
それは、「死という現実に嘆くき、悲しむ者への勝利の宣言である」
④ 主イエスの「若者よ、あなたに言う。起きなさい!」の言葉によって
やもめの一人息子は、再び、いのちを与えられたのである。
⑤ ここで今日の詩編30編の言葉は成就、実現したのである。
ここで、私たちは確認しておく必要がある。このやもめの一人息子は
死んでいたのに。主イエスによって再び命が与えられ、母親に返された。
しかし、その息子もやがて死をむかえることになるのである。
しかしながら、今日の喜びの奇跡は、一時のいのちのためではない!
それは永遠のいのちの約束であり、来るべき日の復活を意味している。
それゆえ「新たな命の約束が与えられる」出来事だったのである。
4 今日の主題は他人ごとではなく、自分の身の上にも起こった。
高校生の時、小学1年生の弟が死んだ。大きな悲しみであった。
しかし、主イエスの十字架の復活の出来事によって、希望を与えられた。
次のみ言葉がいつも私の心に響いている。
「わたしたちはいつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。
アーメン!