説教「柔和ま人々は、幸いである。」木村長政 名誉牧師、マタイによる福音書5章5節

今回の聖書は5章5節です。「柔和な人々は、幸いである、その人たちは、地を受け継ぐ。」

今日で第3回目です。山上の説教で、心の貧しい人から次に悲しむ人になり、三番目に「柔和な人々」ということになりました。この三つは、いずれも関係の深いものでしょう。古い訳によりますと、4節と5節とが入れ替わっているものがある、とも言われています。この5節は2節の後に、その説明として欄外にあったものを、ある時3節の後に入れられたものであろう、とも言われ今は5節となっています。

この三つのうちでは「柔和」というのが最もわかり易い、と思うでしょう。一般の人から見て、キリスト者というと柔和な人として見られています。しかし、柔和というのはどういうことでしょうか。やさしい、ことでしょうか。おだやか、ということでしょうか。しかし、やさしい、とかおだやか、というものも、ただそういう気持ちだけでは、ここで言われていることとは違うのでは無いでしょうか。それは忍耐強いことである、と言った人もあります。つまり、柔和とう中には忍耐強いことがある、というのです。そうだろうと思います。信仰は望みでもありますから信仰のあるところには忍耐がある、と言えるのであります。

また、ある人は別の言い方で柔和と言うのは「権力が無いことである」と言いました、これなら少しわかります。権力が振り回され、おごり高ぶっているようなところに柔和といったものはありません。柔和と権力とはおおよそ違うものです。権力というと特別のもののように思われますが、それは権威を主張していることである、と言うことです。だれでも、自分の権威というものを持っています。自分の立場を守ろうとする意地でありましょう。柔和と言うのは、やさしい、と言う気持ちだけでなく自分の立場を主張せず謙虚であるとも言えます。そのことに続いて言えば柔和と言うのは自分は学ぶ必要がある、そして又赦される必要もある、と考えている人のことである。自分はもう何も学ぶ必要はない、と思っている、とすればそれは自分の権威を主張することである、そこから柔和になることは、とてもできるることではない。自分は赦される必要のある人間である、と言うことは大事なことであります。柔和であるためには、へりくだるる必要がある、と思います。へりくだる道は自分が赦されなければならない罪びとであることを知ることであります。そのことこそ主の赦しによって示され、又、与えられるものであるに違いありません。信仰者は自分が罪びとであることを知っています。信仰者にとって最も大切ことは赦されること、赦されている、ということであります。そうであれば柔和と言うことは、結局、自分の意思をどうするか、ということに関係してくる、ということです。自分を高く考えたり、忍耐ができなくて怒りっぽくなる、と言うことは柔和ではありません。

しかし、そういうものに打ち勝つにはどうした良いのでしょう。それは自分の権威を捨てること、自分の意地っ張りをなくし、自分の意思に勝つことであります。簡単に言えば自分に勝つことでありましょう。しかし、自分に勝つことは、どんなことより難しいことだろうと思います。自分に勝つのが難しいのは自分の意思に勝つことだからです。自分の意思をどうすりゃいいんだ、と考えるだけでは、それに勝つことはできません。そこで大事なことは、他の人の意思ががあることを知ることであります。ことに一番大事なのは、神の意思がある、と言うことを知ることです。神様が何を求められておられるか、を知ることであります。そうすると、そこに神様が何を求めておられるか、と言うだけでなく、神のお求めになっていることが、いかに大きく恵み深くあるか、と言うことを知るのであります。神の意思があることを知っただけでは自分の意思に勝つことにはなりません。神の意思が自分にとってどんなに恵み深くあるかを知ったときに、はじめて自分の意思に勝ち、柔和になることが出来るのであります。神の意思に従うにのですから、柔和はただ、やさしい、ことだけではありません。怒りをおさえ忍耐すると共に、怒るべき時は怒るのであります。主イエス様がそうでありました。〈たえず、天の父にたずね求め、怒り戦いの連続でした。〉信仰者にはこのような生活のもとが与えられているのであります。

さて、[柔和な人たちは、地を受け継ぐ、と言われました。]※詩篇37:11 
地を受け継ぐと言うのは、どういうことでしょう。ここですぐに思い出すのは、イスラエルの民が出エジプトをして、長い旅の末、約束の国カナンに入った話であります。地を継ぐ地とは、ただの地ではなくて、神の民に対して約束されていた地である、と言うことであります。地を継ぐというのは、何より新しい生活がはじまる、と言うことでありましょう。しかも、地を継ぐ、と言うのですから、それは全く新しい生活であります。大地から新しくなるのですから、今までとはあらゆる点において全く新しくなっている、と言うことであるに違いありません。柔和な者に対して約束されているのは、そういう新しい世界であります。信仰によって与えられる国は新しい国でありますが、それは何によって新しくなったのでありましょうか。約束によるのであります、約束によると言うのは神の約束によることであります。神は何のために新しい土地をご用意なさったのでありましょう。それはどの土地よりも神のみ旨を行いやすくするためでありましょう。柔和な者は自分の力によって柔和になったのではありません。自分の意思を捨てて神の意思に従ったからであります。この新しい土地においては、神のみ心が行われることが大事な目的でありました。

 イスラエルの民がエジプトから連れ出されたのは、神を礼拝するためでありました。考えてみれば、神を拝むためにあの40年にわたる大旅行が必要であってなされた、そのために約束の国が与えられたと言うことは大変なことなのであります。それが、この新しい土地において行われる筈であったのでした。イスラエルはその意味で神の民としての生活をすることを求められていたのであります。それなら今、信仰によって柔和にせられた者はそれと同じように神のご期待に応えるために新しい生活が与えられたのであります。それが柔和にせられた者の特別の権利であります。

また、そうして喜びなのであります。それが「幸いである」ことの内容であります。もう少し考えを深め、更に申しますと、地を受け継ぐと言う、継ぐ、は嗣業として受け継ぐことです。嗣業と言うのは、その土地の王となる、と言うこと。ある訳では「神は彼らに地の全てを持ち物として与えて下さるであろう。」としております。しかし、人間が全てのものを持つようになる、と言うことは考えられないことであります。何よりも、この地は神によって新しくつくられた地であり、神によって新しく生かされた世界であります。それは言うまでも無く、キリストによって新しくつくられた国のことであります。したがって、その中で、もし王となるとすれば、それはキリストと共に王となることになるのです。それならば、そこで王になることができるのは、何よりもキリストがその王でいらっしゃることを認めることにならねばなりません。それならば自分がつくったものである筈がありません。キリストがおつくりになった新しい生活を受け継いでそこで王のように自由に生きると言うことであります。だれでも王のように自由に生まれたらと思います。しかしそれは自分が我侭に振舞って生きることの出来る生活ではないこともすぐ分かることです。王のようになりたいと思いながら自分ほど王に相応しくないこともすぐに分かります。自分にはその力もありません、自分のようなものが王のように思うままの生活をしたらすぐに行き詰るのであります。そうかといって暴力によって、この地を自分のものにするのではありません。柔和によるのです。キリストの柔和によるのです。そうであれば自分が王となることが出来る道は主イエス・キリストを王としてあがめ、もし王となり得るなら主と共に王となるほかないのであります。つまり柔和と言うのは自分の願いを捨てて神の願いのままに生きることである。そのことはそのままここで生かされるのです。そのような生活を与えられた者がこの新しい世界ではそのまま生きることができると言うことであります。

テモテ第2の手紙2章11~12節にこう書いてあります。「もし、わたしたちが彼らと共に死んだなら、また彼らと共に生きるであろう。もし耐え忍ぶなら彼と共に支配者となるであろう」。我々がキリストと同じように耐え忍ぶことができるわけがありません。キリストによって耐え忍び柔和になることであります。それはキリストによって与えられた生活を生きると言うことであります。「柔和な人たちは幸いである、地を受け継ぐ」この言葉をまとめて別の言葉で次のように訳した人があります。「おお、祝福された人は正しいときに怒り、正しくない時には怒らない。全ての本能、衝動、欲情を制御し謙虚になるゆえに、自分の無知と、自分の弱さを良く知っている。このような人こそ人生の中にあって王になる者である。」と言うのであります。柔和と言うことが、いかに深く豊かなことであるかがわかります。〈アーメン・ハレルヤ〉

 次回は8月7日、5章6節「義に飢え渇く人」についてきいていきましょう。

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