説教「悲しむ人々は、幸いである。」木村長政 名誉牧師、マタイによる福音書5章4節

今日の聖書は山上の説教から、マタイ福音書5章4節です。まず「山上の説教」について話をしますと、5章の少し前の4章23節を見ますとイエス様はガリラヤ中を回って民衆のありとあらゆる病気や患いを癒された。こうして大勢の群集がイエス様のところへやって来たわけです。5章1~2節を見ますと「イエスはこの群集を見て山に登られた。腰をおろされると弟子たちが近くに寄って来た。そこでイエスは口を開き教えられた。」こうして3節以下の言葉を語っていかれた、と思っていつもですとこの順序で教えられた、すばらしい福音の真髄を明らかにされた言葉として読んでいました。ところが今回、私は新しい発見をしまして少し驚きました。山上の説教は5章から7章まであります。7章の最後には次のようにまとめ上げています。7章28節「イエスがこれらの言葉を語り終えられると群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威のある者としてお教えになったからである。」とマタイは山上の説教の言葉に権威ある力強いものがあることを強調しています。山上の説教にはいろいろなことが語られています。単純に「戒め」というようには言えないものです。内容に応じてたとえ話が多く語られていますし又主の祈りもあります。ですから山上の説教は恐らく主イエス様が一度にお話になったものではないでしょう。するといろいろ機会にお話になられたものを集めたものであると考えられています。私はそんなことなど考えもしませんでした。山の上で弟子たちに語られた大切な神の国へとつながる美しい教えである、というくらいに考えていました。いろいろな時に多くの深い内容を持って語っていかれた、しかもこれは信仰のある者たち、イエス様への全服の信頼を持っている者へのメッセージであるということです。今回の教会の者に告げられているイエス様からのみ言葉です。ある人はこれを「神の国の計画」という題をつけて本を書いたというほどのものです。

さて、今日の本題は「悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる。」私たちが生きています現実のこの世は悲しみに満ちている、といってもよいほどの苦しみや不安であります。※先日のニュースでイギリスがEUから離脱するという、さあ世界中の経済が混乱して行くでしょう。信仰を持って生活している人々にとってもいろんな深い悲しみの中にあるものも事実であります。特に自分だけでなくでなく、主にある兄弟姉妹たちには互いに涙を流し重荷を背負いあって行くものあります。5章4節で言われていることは、ただの人間の悲しみではありません。それはすでに主イエス・キリストの恵みのうちに救いを受け幸いである、と言われている人の悲しみであります。幸いなことよ悲しんでいる人々、彼らは慰められるであろう、と言われる!この言葉は悲しんでいる人が慰められる時に用いられるものではないでしょうか。従って信仰を持っている人は、その悲しみが必ず慰められると言うことを信じて知っている、その慰めの時に用いられる言葉ですから喜んでいる筈なのではないでしょうか。そのことは、今の深い悲しみの中にあっても、それを乗り越えた勝利の中にある喜びである筈であります。それなら信仰者の悲しみ、と言うのはどういうものでしょうか、信仰を持って生きるというのは正しい生活をすることであります。罪深いこの世にあっては信仰生活をすることは決して喜びだけではありません。信仰者はこの世の罪と闘い、罪を憂え悲しむ生活になるに違いありません。信仰者は自分が罪びとであることを知っていますから、世をいたずらに裁くことが出来ないのです。この世の罪はむしろ自分の重荷として担わなければならない筈です。そしてキリストに従う者の悲しみ、というべきものがあるにちがいがありません。九つの「幸い」といわれる説教はキリストの救いによって幸いにせられた者を考えているのであります。この九つの信仰生活は、みな別ではなくお互いに関係がある筈であります。信仰者にしかない悲しみというものがどんなものかを知らねばならないでしょう。信仰者は信仰を持っているゆえに何を悲しむのでありましょうか。ルターの95ヶ条の項目の第1条には「信仰者の生涯は、絶え間ない悔いと回心の連続であるべきである。」とあります。私たち信仰者の悲しみの中心は罪に対する悲しみであります。今はすでに罪許された者でありますが、それだけに罪の重さと怖ろしさを知っているのであります。罪は罪に苦しむ時それを悲しみますが、罪の赦しを得た時にはこの罪がどんなに高くついたものであったがわかります。すなわち御子の死を必要としたことがわかります。従ってそれから後にも罪を赦されていることを知りながら罪の力と、その無情さとを考えずにはおられないのであります。もっと突き詰めて行きますと死に対する悲しみであります。どうしようもない罪を持っている自分で、どう対処しようと言うのでしょうか。生きている時も死の時をも通して慰めと言えるもの、すなわちただ一つの慰めとなってくださる方、それは言うまでも無く神であります。神こそ悲しんでいる者を慰める方なのであります、主役はいつも神なのであります。神はどうしてくださるのでしょうか。「神は彼らの重荷を取り去ってくださるであろう」とも言われます。重荷がどう除かれるのでしょう、重荷と言っても罪の重荷です、それを取り除くというのはどうすることでしょう。私たちはいつもこの言葉を使っているので怪しみませんがその重荷を除かれたらどうなるのか、と言うことまであまり深く考えてはいないのではないでしょうか。重荷と言ってもそれは心に掛かるおもにでしょう、つまり罪の責任であります、神に対する罪の責任であります。だから、もしその重荷が除かれると言うのであればそれは神からその責任を取り除いていただく他にないでしょう。つまり神によって罪の責任を取り除いて赦していただく他にない筈であります。それはどのようにして出来るのでしょうか、それはこの「慰める」という字が手がかりになるのです。慰め、と言う字は自分の傍らに呼ぶと言う字であります。自分の傍らに弁護してくれるように、なると言うことです。神はそういう意味で私たちの味方になってくださるのであります。重荷が除かれる、と言うのは私たちが罪を犯して背いていたにもかかわらず、神が私たちの味方になってくださった、と言うことなのです。「慰められる」のはいつからそうなるのであろうと言うのでなく、今すでに慰められている、と言うことをあらわしているのであります。ハレルヤ・アーメン

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