2021年11月28日(日)待降節第一主日 主日礼拝

主日礼拝説教2021年11月28日 待降節第一主日

エレミヤ33章14節-16節

第一テサロニケ3章9-13節

ルカ21章25-36節

礼拝をYoutubeで見る。

説教題 「主の降誕と再臨の間で」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 今年もまたクリスマスの準備期間である待降節/アドヴェントの季節になりました。教会のカレンダーでは今日が新年になります。これからまた、クリスマス、顕現日、イースター、聖霊降臨などの大きな節目を一つ一つ迎えていくことになります。どうか、天の父なるみ神が新しい年もスオミ教会と信徒の皆様、礼拝に参加される皆様を豊かに祝福して見守り導き、皆様自身も神の愛と恵みの内に留まられますように。

 今日もまた讃美歌307番「ダビデの子、ホサナ」を歌いました。毎年お話ししていることですが、今日初めて聞く方もいらっしゃるのでお話ししますと、これはフィンランドやスウェーデンのルター派教会の教会讃美歌の一番目の歌です。両国でも待降節第一主日の礼拝の時に必ず歌われます。歌い方に伝統があります。朗読される福音書の日課が決まっていて、イエス様がロバに乗って群衆の歓呼の中をエルサレムに入城する場面です。ホサナは歓呼の言葉で、ヘブライ語のホーシィーアーンナー、あるいはアラム語のホーシャーナーから来ています。もともとは神に「救って下さい」と助けを求める意味でしたが、ユダヤ民族の伝統として王様を迎える時の歓呼の言葉として使われました。さしずめ「王様、万歳!」というところでしょう。

 その個所が朗読される時、歓呼の直前で一旦止まってパイプオルガンが威勢よくなり出し、会衆は一斉に「ダビデの子、ホサナ」を歌いだします。つまり、当時の群衆になり代わって歓呼を歌で歌うということです。北欧諸国も近年は国民の教会離れが進み普段の日曜の礼拝は人が少ないですが、待降節第一主日は人が多く集ってこの歌を歌い、国中が新しい一年を元気よく始めようという雰囲気になります。夜のテレビのニュースでも「今年も待降節に入りました。画面は何々教会の礼拝での『ダビデの子、ホサナ』斉唱の場面です」などと言って、歌が響き渡る様子が映し出されます。毎年の風物詩になっています。今年は、一旦おさまっていたコロナがまた拡大してしまったので、今日の教会の人の入りはどうなるでしょうか?スオミ教会のホームページにエスポ―大聖堂の6年前のホサナ斉唱のビデオを紹介していますので、ご覧になれる方は雰囲気を味わってみて下さい。

 さて、スオミ教会のホサナですが、昨年から日本のルター派教会の聖書日課が改訂されて、待降節第一主日の福音書の個所はイエス様のエルサレム入城ではなくなってしまいました。昨年はマルコ13章のイエス様のこの世の終わりの預言でした。今日のルカ21章も同じ内容です。説教者としてちょっと戸惑います。以前ですと、聖霊降臨後の終わりの頃はイエス様の終末の預言や最後の審判に関するものが中心で、待降節に入ってガラッと雰囲気が変わってイエス様の降誕に目が向くという流れになったものです。それが今は、待降節になってもまだ終末テーマで続けなければならないというのは気が重くなります。パイヴィも、ホサナの日だからフィンランドと同じ聖書日課にしたら?などと言って、私も迷いました。しかし、やはり「郷に入っては郷に従え」だろうと思い、定められた日課に従うことにしました。

2.主の再臨は待ち望むことができる

 でも、よく考えてみると、待降節に終末テーマがあるのはあながち場違いではありません。待降節というのはクリスマスのお祝いを準備する期間です。では、クリスマスは何をお祝いする日なのか?人によってはサンタクロースが来る日をお祝いすると思う人もいるのですが、サンタクロースはクリスマスのお祝いの付属品です。付属品なので、別に来なくてもクリスマスのお祝い自体に影響はありません。クリスマスとは、天の父なるみ神のひとり子がこの世に贈られて人間として生まれてきたという、信じられないことが2000年少し前に今のイスラエルの地で起こったことをお祝いする日です。その当時、メシアと呼ばれる救世主の到来を待ち望んでいた人たちがいました。マリアに抱かれた幼子のイエス様を見て喜びと感謝に満たされたシメオンやハンナはそうした人たちでした。それで待降節とは、そうしたメシアの到来を待ち望んだ人たちの思いを自分の思いにする期間です。私たちもメシア・救世主が必要だろうか、なぜ必要だろうかと考えてみる期間です。

 ところが、この「待ち望む」思いはクリスマスが終わったら終わるものではありません。本当はイエス様を待ち望むことはまだ続くのです。待降節ではそのことも覚えなければなりません。どういうことかと言うと、イエス様は十字架の死から復活された後、天に上げられましたが、それ以前に自分は再び降臨する、つまり再臨すると言っていたのです。最初の降臨は家畜小屋で起こるというみすぼらしい姿でした。天使が羊飼いに知らせなかったら誰にも気づかれなかっただろうというものでした。次の再臨は、本日の福音書の個所やマタイとルカの個所でも言われるように、眩い程の神の栄光の輝きを伴って天使の軍勢を従えて全世界が目にするものです。その時、聖書の至る所で預言されているように、今ある天と地が崩れ落ち、神が新しい天と地を創造してそこに神の国が現れ、死者の復活が起こり、誰が神の国に迎え入れられ誰が入れられないか最後の審判が行われる、そういう想像を絶する大変動が起きます。しかも、その審判を行うのが再臨の主イエス様だというのです。

 そういうわけで今私たちが生きている時代と空間というのは、実にイエス様の最初の降臨と再臨の間の期間であり空間です。さあ、大変なことになりました。今私たちがいる時代と空間はイエス様の再臨を待つ時代と空間だという。しかも、再臨は最初の降臨みたいに遠い昔の遠い国の家畜小屋で赤ちゃんが生まれたというおとぎ話のような話ではない。そういう可愛らしい降臨だったら待ち望んでもいいという気持ちになりますが、再臨となると、待ち望む気持ちなどわかないというのが大方の気持ちではないでしょうか?イエス様は今度は赤ちゃんではなく、その時点で生きている人と既に死んでいる人全部を相手に神の国へ入れるかどうか判定する裁き主として来られるのです。

 天地創造の神の手元には「命の書」なる書物があってそれが最後の審判の時に判定の根拠になることが旧約新約の両聖書を通して言われています。全知全能の神は私たちの髪の毛の数も数え上げているくらいの方です。命の書には、地上に存在した全ての人間一人一人について全てのことが記されていると言ってよいでしょう。詩篇139篇を繙けばわかるように、神は人間の造り主なので人間のことを徹底的に知り尽くしています。つまり、神は私たちのことを私たち自身よりも良く知っているのです。だから、私たちが自分のことをよりよく知ろうとするなら、遠回りに聞こえるかもしれませんが、私たちの造り主である神について教えてくれる聖書を繙くのが手っ取り早いのです。

 このように考えていくと最後の審判は恐ろしいです。神聖な神の目から見て自分には至らないところが沢山あったことを神は全て把握している。神とイエス様の御前で私は潔白ですなんてとても言えないのではないか。しかしながら、最後の審判は視点を変えると違って見えてくることも知らなければなりません。例えば、社会の中でいわれのない誤解や中傷を受けたとします。今のようなSNSが悪用される時代では名誉回復の可能性はどんどん難しくなっているような印象を受けます。それだけ悪い思いと力がITを駆使して巧妙、狡猾になっているからです。加害者なのに被害者を装ったり、被害者を加害者に仕立てるような倒錯がまかり通っています。残念なことに誤解を正すことや中傷からの名誉回復はますます至難の業になっているように思えます。しかし、たとえどんなに至難の業でも、聖書の神を信じる者にはまさに全知全能の神、真実や真相を全て把握している神がついていてくれます。その神が誤解や中傷を受けた人たちの名誉回復をどんなに遅くとも最終的に最後の審判で果たして下さいます。黙示録21章で神は全ての目から涙を拭い取られると言われる通りです。このように最後の審判の裁きというのは、人を有罪に定めるだけでなく、神が「お前は潔白であると私は認める」と言って無罪にすることも出来るのです。ところが、人間は神の意思に反しようとする性向、罪を持っています。そんな人間が神から潔白だと言われることがあり得るでしょうか?

3.最後の審判はクリアーできる

 それを「あり得る」にするために神はひとり子のイエス様をこの世に贈られたのでした。イエス様は人間の罪を全て引き受けてゴルゴタの十字架の上に運び上げて下さいました。そこで本当は人間が受けるべき神罰を代わりに受けられて死なれました。イエス様は人間の罪の償いを神に対して果たして下さったのです。さらにイエス様は神の想像を絶する力で死から復活させられて、死を超えた永遠の命があることをこの世に示し、その命への道を人間に切り開いて下さいました。

 このあとは人間の方が、イエス様の十字架と復活は本当に私の罪を償って私を永遠の命に向かわせるためになされたのだとわかって、それでその大役を果たしたイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受けるという段取りになります。そうすると、その人はイエス様が果たしてくれた罪の償いを自分のものにすることができます。罪を償ってもらったのだから、その人は神から罪を赦された者として見てもらえます。神から罪を赦されたのだから、これからは神との結びつきを持ててこの世を生きていくことになります。先ほども申しましたように、どんな誤解や中傷を受けても、それは真実ではないと全てを知っている神がそばについていて下さいます。神はまた真実の側に立つ人間や天使も助っ人に送って下さいます。このように神と結びついている限り天涯孤独にはなりません。

 この世を去る時もキリスト信仰者は天涯孤独ではありません。その時も神との結びつきは途切れることなく保たれています。まず、復活の日まで神のみぞ知る場所にて安らかに眠ることになります。そして、復活の日が来たら目覚めさせられて、神の栄光を映し出す朽ちない復活の体を着せられて永遠に神の国に迎え入れられます。そこは懐かしい人たちとの再会が待っている場所です。このように信仰と洗礼によって築かれた神との結びつきは、実にこの世と次に到来する世の双方にまたがる結びつきです。

 ここで、復活の体について一言申し上げておきます。ルカ21章28章でイエス様は言われます。天地の大変動と自分の再臨が起きる時、怖気づかず勇気をもって顔をあげよ、と。なぜなら、お前たちの解放の時が近づいたからだ、と。「解放」とは何からの解放でしょうか?苦難からの解放、罪からの解放、いろいろ考えられます。それらは間違いではないですが、もっと焦点を絞ることが出来ます。アポリュトローシスというギリシャ語の言葉ですが、同じ言葉がローマ8章23節で使われています。新共同訳では「体の贖われること」と訳されていますが、誤解を与える訳です。正しくは「肉の体からの解放」ということで、肉の体に替わって復活の体を着せられることを意味します。ルカ21章28節の解放も同じことを意味します。お前たちの解放の時が近づいたというのは、復活の体を着せられて神の国に迎え入れられる日が近づいたということです。

 そうすると、キリスト信仰者にとって神の国への迎え入れは確実と言っていることになります。最後の審判をクリアーできるというのです。本当に大丈夫なのでしょうか?罪を赦してもらったけれども、それは罪が消滅したのではないことは経験から明らかです。確かに、神から罪を赦された者と見なされて神との結びつきを持てて生きられるようにはなりました。そのように神の目に適う者とされていながら、またそのされた「適う者」に相応しい生き方をしようと希求しながら、現実には神の目に相応しくないことがどうしても自分に出てきてしまう。そういうジレンマがキリスト信仰者について回ります。神の意思に反する罪がまだ内に残っている以上は、たとえ行為に出さないで済んでも心の中に現れてきます。神との結びつきを持って生きるようになれば、神の意思に反することに敏感になるのでなおさらです。それなのにどうして最後の審判をクリアーできるのでしょうか?

 それは、キリスト信仰者というのは罪を圧し潰す生き方をするからです。信仰者は自分の内にある罪に気づいたとき、それをどうでもいいと思ったり気づかないふりをしたりせず、すぐそれを神に認めて赦しを祈り求めます。神への立ち返りをするのです。赦しを祈り求めないのは神に背を向けることです。神はイエス様を救い主と信じる者の祈りを必ず聞き遂げ、私たちの心の目をゴルゴタの十字架に向けさせて言われます。「お前が我が子イエスを救い主と信じていることはわかった。わが子イエスの十字架の犠牲に免じてお前の罪を赦す。だから、これからは罪を犯さないように」と。こうしてキリスト信仰者はまた復活の体と永遠の命が待っている神の国に向かう道を進んでいくことができます。

 このように罪を自覚して神から赦しを受けることを繰り返していく時、私たちの内に残る罪は圧し潰されていきます。なぜなら、罪が目指すのは私たちと神との結びつきを弱め失わせて私たちが神の国に迎え入れられないようにすることだからです。それで私たちが罪の自覚と赦しを繰り返せば繰り返すほど、神と私たちの結びつきは強められて罪は目的を果たせず破綻してしまうのです。このように生きてきた者が裁き主の前でする申し開きは次のようになるでしょう。「主よ、あなたは私の罪を全部償って下さったので真に私の救い主です。それで私は罪の赦しのお恵みを頂いた者としてそれに相応しく生きようと心がけて生きてきました。ぶれたときもありましたが、その度にいつもこの心がけに戻りました。」これは誰も否定できない真実なので、裁き主は「間違いなくお前は罪を破綻させる側について生きた」と認めるでしょう。実に私たちがイエス様を自分の救い主にしている限りは、私たちの良心は神の前で何もやましいところがなく潔白でいられるのです。それで神の前で何も恐れる必要はないのです。

 本日のルカ21章33節でイエス様は「天地は滅びるが私の言葉は滅びない」と言われます。「私の言葉」と聞くと、大抵の人はイエス様が語った言葉を考えるでしょう。そうすると聖書の中でイエス様が語っていない言葉はどうなってしまうのか?イエス様が語った言葉より弱くて滅びてしまうのでしょうか?いいえ、そういうことではありません。「イエス様の言葉」というのは、イエス様が持つ言葉、イエス様に帰属する言葉という意味もあります。イエス様が管轄している言葉です。パウロやペトロの教えもイエス様の管轄下にあるので「イエス様の言葉」で天地が滅びても滅ばない言葉です。イエス様が人間の罪を償って人間を罪と死の支配から贖いだして永遠の命に至る道を歩めるようにして下さった、そのことを証しする聖書の言葉を持つ者は天地が滅びても滅びず新しい天地の下の神の国に迎え入れられます。聖書の言葉が滅ばないから、そうなるのです。

4.この世で倫理的に意味のある生き方ができる

 最後に、罪を圧し潰す生き方をすると、人間関係において自分を不利にするようなことがいろいろ出てくることについて述べておきます。どうしてかと言うと、罪を圧し潰す生き方をする人は、パウロがローマ12章で命じることが当然のことになるからです。悪を嫌悪せよ、善に留まれ、お互いに対して心から兄弟愛を示せ、互いに敬意を表し合え、迫害する者を祝福せよ、呪ってはならない、喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣け、意見の一致を目指せ、尊大な考えは持つな、地位の低い人たちと共にいるように努めよ、自分で自分を知恵あるものとするな、悪に対して悪をもって報いるな、全ての人にとって良いことのために骨を折れ、全ての人と平和な関係をもてるかどうかがキリスト信仰者次第という時は迷わずそうせよ、自分で復讐をしてはいけない、正義が損なわれた時は神の怒りに委ねよ、神が報復されるのだ、敵が飢えていたら食べさせよ、渇いていたら飲ませよ、そうすることで敵の頭に燃える炭火を置くことになる。悪があなたに勝つことがあってはならない、善をもって悪に勝たなければならない。

 このような生き方は普通の人から見たらお人好しすぎて損をする生き方です。キリスト信仰者自身、罪の自覚と赦しの繰り返しをしていけばこんなふうになるとわかってはいるが、時としてなんでここまでお人好しでなければいけないの?という気持ちになることがあります。しかし、主の再臨の日、信仰者はあの時迷いもあったけれどあれでよかったんだ、世の声は違うことを言っていたがそれに倣わなくて本当に良かった、とわかってうれし泣きしてしまうかもしれません。それなので主の再臨の日はキリスト信仰者にとってはやはり待ち遠しい日です。

 イエス様は再臨の日がいつ来ても大丈夫なようにいつも目を覚ましていなさいと命じます。目を覚ますというのはどういうことでしょうか?主の再臨はいつかだろうか、この世の終わりはいつかだろうか、最後の審判はいつかだろうか、といつも気にかけることでしょうか?そんなことしていたらこの世で生活が出来なくなると言われてしまうでしょう。先ほど申しましたように、最後の審判をクリアーするというのは、この世で罪の自覚と赦しの繰り返し人生を送り、人間関係の中でお人好し路線を取るということです。最後の審判のクリアーが視野に入っているので、罪の自覚と赦しの繰り返しとお人好し路線を取ること自体が主の再臨に向けて目を覚ますことになっています。つまるところ、主の再臨を待ち望む生き方というのは、この世で倫理的に意味のある生き方をするということです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

 

主日礼拝説教 2021年11月21日 聖霊降臨後最終主日 市ヶ谷教会(いずみ教会共同体講壇交換日礼拝)吉村博明 宣教師(SLEY)

主日礼拝説教 2021年11月21日 聖霊降臨後最終主日
市ヶ谷教会(いずみ教会共同体講壇交換日礼拝)

ダニエル7章9-10、13-14節
黙示録1章1b-8節
ヨハネ18章33-37節

説教題 「真理とは何か?」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

真理とは何か?これは、本日の福音書の日課にあるイエス様とピラトの対話の終わりでピラトが口にした言葉です。38節です。本日の日課はその前の37節までなので、説教題にするのはどうかと思われる方もいるかもしれません。11月初めに浅野先生から今日の説教題何にしますかと聞かれて、電話口で慌てて聖書日課を見て、ああイエス様とピラトの対話か、じゃ「真理とは何か?」でいいやと思い、それでお願いしますと言ってしまいました。先週説教を準備し始めて、38節が入っていないことに気づき後の祭りでした。それでもイエス様自身37節で真理という言葉を口にします。これはきっとピラトだけでなく、この御言葉を聴く全ての人にとっても関心事になるだろうと、それでこの説教題で問題ないと思った次第です。

真理とは何か?ごく一般的に言えば、それは時や場所を超えて普遍的に当てはまること普遍的に有効なこと、人間がどうあがいても変えられない、好むと好まざるにかかわらずその下で生きるしかない、そういう何か絶対的な法則というか有り様が真理です。光が1秒間に30万キロで進むというのは物理学上の真理です。三角形の内角の総和は180°というのは数学上の真理です。
イエス様とピラトの対話の中で出てくる真理とは、そういう自然科学上の真理とは異なります。でも真理である以上は時や場所を超えて普遍的に有効な有り様について言われています。何のことでしょうか?イエス様は自分は王であると、しかもその国はこの世に属さない国だと言っています。そういう国があることとその国の王であることが真理に関係します。この世に属さない国とは、いうまでもなくイエス様が地上で一番よく教えた「神の国」のことです。ユダヤ民族に属さないピラトに神の国と言っても何のことかわからないので、それでその言葉は使わず「この世に属さない国」と言ったのです。

神の国とイエス様がその王であることが真理に関係するのであれば、神の国とイエス様がその王であることがどういうことかわかると、イエス様の言われる真理もわかってきます。今日はこうしたことについてお話しします。今日の説教は二部構成になります。第一部では、イエス様とピラトの対話を歴史に忠実に見ていきます。何をするのかと言うと、二人の対話が記されているテキストを確実性の高い歴史的事実とかけ合わせて見るということです。第二部では、イエス様の言われる真理を聖書全体の観点から明らかにします。

2.歴史の中へ - イエス様とピラトの対話

CC0皆さんは、二人の対話を読んで、おやっと思ったことはありませんか?イエス様とピラトは何語で話をしていたのだろうと疑問に思ったことはありませんか?ピラトはローマ帝国から派遣された総督です。ローマの高官ということはラテン語か?じゃ、イエス様はラテン語を話したのか?イエス様は神の子だから、語学も奇跡の業であっという間にできたのだ、と言う人にはこの説教は意味がありません。聖書の神は具体的な歴史を通して自分の意思や計画を人間に示される方です。それなので、神の意思や計画を知ろうとするならば、歴史を飛躍せずにそれを足場にして知ろうとしなければなりません。

福音書をよく見ると、イエス様はアラム語とギリシャ語のバイリンガルであることがわかります。アラム語というのは、文字はヘブライ語と同じですが文法や語彙はかなり違います。ユダヤ民族はもともとヘブライ語を話していましたが、バビロン捕囚で3世代くらい異国の地にいた時にその地のアラム語に同化してしまいます。エズラ-ネヘミア書をひも解くと祖国に帰還した民に指導者が律法を読んで聞かせそれを解説したとあります。ヘブライ語で読んでアラム語で解説したのです。イエス様の時代のシナゴーグの礼拝でも同じでした。専門家がヘブライ語で旧約聖書を朗読してそれをアラム語で解説したのです。ルカ4章でイエス様がナザレの会堂でイザヤ書の巻物を渡されて朗読し、会衆が彼の説き明かしを待ったことが記されています。その意味で彼はヘブライ語も出来たことになります。ただ、それは会話言葉ではありませんでした。

イエス様がアラム語で話した肉声が福音書の中にあります。マルコ7章で耳が聞こえず舌が回らない人を癒す奇跡を行った時の言葉エッファタ、正確にはאפתהイップターです。おまじないの言葉と思う人もいるのですが、単にアラム語で、お前の閉じている部分は開かれよ、と言っているだけです。マルコ5章の会堂長の娘を生き返らせる奇跡を行った時の言葉タリタ、クム、少女よ、起きなさい、ですが、正確にはטליתא קומיテュリーター、クーミーです。そして有名な、イエス様が十字架の上で叫んだ言葉、エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ、わが神、わが神、なぜ私を見捨てたのですか?正確にはאלהי אלהי למא שבקתניエラヒー、エラヒー、レマー、シャバクタニーと言います。ご存じのように新約聖書はギリシャ語で書かれています。つまり、もともとアラム語だったイエス様の言葉はことごとくギリシャ語に翻訳されます。ただし、目撃者に強烈な印象を与えた言葉はギリシャ語に訳されずに音声のまま記されたのです。それが日本語訳の聖書ではカタカナになっているのです。私たちはイエス様の肉声と共に当時の人たちの驚きにも触れられるのです。

イエス様がギリシャ語も出来たというのは、マルコ7章のシリア・フェニキア人の女性との会話から伺えます。ユダヤ人でない異邦人の女性です。ギリシャ語は当時地中海世界の東側では公用語でしたから、アラム語が出来ない異邦人と話す場合はギリシャ語しかないでしょう。総督ピラトも任地が地中海東海岸であれば公用語のギリシャ語は必須だったでしょう。ギリシャ語が出来たからユダヤに送られたのかもしれません。そういうわけで今日の日課の二人の対話はギリシャ語でなされたと考えるのが妥当です。先に申したように、新約聖書はギリシャ語で書かれ、イエス様の言葉もギリシャ語に翻訳されていきました。そうすると今日の福音書のイエス様とピラトの対話はギリシャ語で書かれていても、これは翻訳されたのではない二人の生の会話のそのままの記録ということになります。ここでもイエス様の肉声に触れることができるのです。

アラム語についてもう一言。本日の旧約の日課ダニエル7章もアラム語で書かれています。あれ、旧約聖書ってヘブライ語じゃないの、と思われるかもしれませんが、一部はアラム語で書かれています。ダニエル2章でバビロン王ネブカドネツァルが自分が見た夢の意味を賢者たちに説明させようとします。4節で「賢者たちは王にアラム語で答えた」とあり、そこまでヘブライ語だった文章はここでアラム語に転換します。ヘブライ語の知識しかない読者は文字は同じなのに全然理解できず面食らってしまいます。アラム語は7章の終わりまで続きます。本日の日課7章13節に出てくるあの有名な「人の子」もアラム語でבר אנשバル エナーシュと言います。これはもともとは単に人間を意味する言葉でした。それがダニエル書の預言で使われて以来、この世の終末の時に雲と共に現れて神から王権を与えられて神と共に裁きを行うという、終末の王という意味を持つようになります。イエス様がアラム語圏の世界で自分のことをバル エナ―シュであると呼び、将来自分は雲と共に再臨すると言った時、当時の人たちの驚きよう、特にユダヤ教社会の支配層の驚きはいかようだったか想像に難くありません。

3.歴史を超えて - 十字架と復活が真理をその通りであると公けにした

ここでイエス様の言われる真理を見てみましょう。対話の終わりの方でイエス様は「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た」と言います。「真理について証しする」という訳は少し頼りない訳です。「真理について証しする」と言うと、「真理がどういうものか公けにする」という意味になります。つまり、真理の内容を開示することです。イエス様の言いたいことはそれではありません。ギリシャ語の用法(dativus commodi)に忠実に訳すと「真理にとって利益となるように真理を公けにする」という意味です。つまり「真理がその通りであることを公けにする」ことです。イエス様の言いたいことは「私は真理がその通りであることを公けにするために生まれ、そのためにこの世に来た」です。真理の内容を開示するためでなく、真理がその通りであることを公けにするためです。イエス様が真理の内容は何も言わないで、真理がその通りであることを公けにするために来た、と言ったので、ピラトはじゃ真理とは何なのだ?と内容を聞き返したのです。それではイエス様の言われる真理とは何か?イエス様はどうやってそれがその通りだと公けにしたのでしょうか?これからそれを見ていきます。

対話の中でイエス様はとても革命的なことを言われます。「私の国はこの世に属していない」という言葉です。原文を正確に訳すと「私の国はこの世に起源を持たない、この世に由来しない」です。革命という言葉は、1990年代に冷戦が終わってからあまり耳にしなくなりましたが、ある国の体制、統治の仕方が急激に別の体制に取って代わる変わられることを言います。そこでの国は皆、この世に起源を持ちこの世に属する国です。ところがイエス様の言われる国はこの世に起源を持たない、この世に属さない神の国です。そんな国が関わってくると通常の革命と全く異なる次元の大変動が起こるのです。通常の革命を超えた超革命と言ってもいいでしょう。

どういうことかと言うと、「ヘブライ人への手紙」12章で言われていることです。全ての被造物が激しく揺り動かされて取り除かれてしまう時が来る。その時、唯一揺り動かされないものとして神の国が現れるということです。まさに超革命の勝利者です。全ての被造物が揺り動かされて取り除かれるというのは、イザヤ書65章と66章で新しい天と地の創造について預言されています。その新しく創造される天と地の下に唯一の神の国が現れるのですが、その国に迎え入れられる者と迎え入れられない者の選別があることが先週の旧約の日課ダニエル書12章で言われていました。その選別は新約聖書では最後の審判としてイエス様や使徒たちがより明確に述べています。そう言うと、じゃ最後の審判というのは、その時点で生きている人たちが裁かれることでその前に死んでいれば関係ないのかと言われるかもしれません。しかし、先週のダニエル書12章では死者の復活の預言もありました。死者も審判にかけられるのです。そのことはキリスト教会の礼拝の信仰告白のところで私たちが唱える使徒信条やニケア信条の中で言われる通りです。再臨の主は生きている者と死んだ者とを裁かれるのです。

本日のダニエル7章で先ほど見た「人の子」が神から王権を与えられ、神と共に審判を行うことが言われています。王であり裁きの主でもあるこの方は言うまでもなく再臨の主イエス・キリストです。そこで審判にあたって巻物が開かれると言います。「巻物」ספר’ןシフリーンというのは、辞書を見るとbook本、書物です。当時は本は基本的に巻物ですから、そう言っても間違った訳ではありません。ただ、素直に「書物」と訳すると旧約聖書と新約聖書の繋がりがより良く見えてきます。新旧聖書を通して神の手元に書物があることが言われます。命の書とも言われます。それが最後の審判の時に開かれることが黙示録で言われます。ダニエル書7章10節の「巻物」も同じです。この書物に記されているのは名前だけではありません。この世に存在した全ての人間、国籍・文化・宗教を問わず全ての人間について全てのことが記されています。他人のことばかりでなく自分自身のことでも気がつかないこと見えないこと全てが記され、それが神の国へ迎え入れていい者かよくない者かの根拠になっているのです。私たちが間違っていないと思っていたことでも全てを見ていた神の目から見て間違っていたということもあるのです。相手は私たちの髪の毛の数すらわかっている私たち人間の造り主です。何も隠し立てはできません。

そうすると、自分は神の国に迎え入れられるのだろうかとすごく不安になります。そのような神の前に立たされた時、私は潔白ですと言えるだろうか?自信がなくなります。しかし、私たち人間を御国の御許に迎え入れてあげたいというのが、私たちの造り主である神の意思なのです。それだからひとり子のイエス様をこの世に贈ったのです。もし神が、神の意思に反する罪を持ってしまっている人間を片っ端から裁きたいだけだったら、ひとり子なんかわざわざ贈らなかったでしょう。逆に、もし罪を持っていてもそんなのどうでもいいよ、誰でも天国に入れてあげますよ、といういい加減な方だったら、そもそもひとり子を贈る理由なんかありません。神がイエス様を贈ったというのは、神が罪を罰せずにはおけない正義を体現する方であるということと、人間が神罰を受けないで御国に迎え入れられるようにしてあげようという愛をも体現する方であることを物語っているのです。神は愛と正義を両方兼ね備えた方なのです。
イエス様は自分のことをこの世に起源を持たない神の国の王であると言われました。それは彼が神と共に審判を行い、神の国に迎え入れらえる者に復活の体を着せて迎え入れてあげる方ということです。復活の体についてはパウロが第一コリントの15章で詳しく述べています。イエス様が復活の日に死者を復活させて懐かしい人と再会させてくれることは、ヨハネ11章のマルタとの対話の中で述べています。

新しい天地の下での神の国も、最後の審判も、復活も全て旧約聖書の中であちこちに断片的に知らされていました。しかし、旧約聖書自体を持たない異邦人のピラトには何のことか全くわからなかったでしょう。ところが旧約聖書を持っていた肝心のユダヤ民族もよくわかっていなかったのです。将来ダビデの家系から王が登場して神の力を受けて王国を建てるという預言が旧約聖書に見られますが、彼らにとってそれは、ローマ帝国の支配を打ち破ってかつての王国を復興させてくれるというような、この世に起源を持つこの世に属する国のことでした。それだから、ユダヤ教社会の指導層はイエス様のことでとても心配したのです。何が心配だったかというと、ローマ帝国に反乱の意図を疑われたら一巻の終わりだ、せっかく大きな神殿を持ててうまくやっているのに軍事介入など元も子もないと恐れたのです。それでイエス様を逮捕して総督のもとに引き出したのです。旧約聖書理解では民衆も指導者たちと同じ土俵に立っていました。彼らはイエス様に救国の英雄を期待しました。ところが彼が逮捕されて裁判にかけられると失望して背を向けてしまったのです。

このように当時の人たちは旧約聖書を持ってはいても、視点は自民族中心でとても全世界的・全人類的とは言えませんでした。彼らは、今あるこの世を超えて次に到来する世というところにまで目が届いていなかったのです。旧約聖書の預言はそこまで踏み込んでいたにもかかわらず。それに気がつかなかったのは、ユダヤ民族が辿った歴史を考えればやむを得なかったのかもしれません。

しかし、それだからこそ神はひとり子を贈って旧約聖書の正しい理解の仕方を教えさせたのでした。しかも、このひとり子は教え.ることだけに留まりませんでした。人間の歴史がこの神の計画の通りに進むようなことをしでかしたのです。もし、それをしなかったなら神の計画は実現しなかっただろうと言えるようなことをしでかしたのです。彼の十字架の死と死からの復活がそれです。

イエス様の十字架と復活の出来事の後、人々の目が見開かれて旧約聖書を事後的に正確に理解できるようになったことが福音書の中に記されています。エマオの道で二人の弟子と復活の主との出会いは一つの例です。イエス様が神の想像を絶する力で復活させられたことで、彼が神の贈られしひとり子であることがわかるようになりました。そのひとり子ともあろう方が十字架にかけられて苦しみながら死ななければならなかったのは、これは、人間の罪を全て自ら背負い人間に代わって神罰を受け、人間が受けないで済むようにする犠牲の業であることが明らかになりました。そのことも全て旧約聖書に預言されていたのです。神はひとり子を文字通り犠牲の生贄にして人間の罪の償いをさせたのです。神のひとり子の犠牲ですから、これ以上の犠牲はありません。まさに神聖な犠牲です。

こうしたことが起きた以上は、今度は人間の方が、このようなことが歴史上起こったと知らされて、それは今の世を生きる自分のためになされたんだとわかって、それでこの大役を果たしたイエス様こそ真に自分の救い主だと信じて洗礼を受けます。そうするとイエス様が果たしてくれた罪の償いがその人に覆いかぶさりその人は罪を償ってもらった人になります。罪を償ってもらったのだから、その人は神の目から見て罪を赦された者となります。罪を赦されたから神との強固な結びつきを持ててこの世を生きられるようになります。神はさらにイエス様を死から復活させて死を超えた永遠の命があることをこの世に示されて、そこに至る道を人間に切り開かれました。神との結びつきを持ってこの世を生きる者はその道を歩みます。その結びつきは順境の時も逆境の時も全く変わらずにある結びつきです。それなので常に神の守りと導きの中で歩むことが出来ます。たとえこの世から去ることになっても、復活の日に目覚めさせられて復活の体を着せられて神の国に永遠に迎え入れられます。そこは懐かしい人たちの再会が待っているところです。

イエス様は十字架の死と死からの復活を遂げることで、人間が神の国へ迎え入れられるようになるための道を用意して下さったのです。まさに十字架と復活の業が起こったことで、今の天と地に取って代わって新しい天と地が再創造されることや、そこに神の国が現れることや、最後の審判や死からの復活、神の国への迎え入れが起きるのです。これらのことがその通り起こるということが公けになったのです。イエス様を救い主と信じる者は、この真理の下に服してこの世を生き復活への道を進んでいます。しかし、世界にはこの真理に服さない人たちも沢山います。創造主の神の願いは、全ての人が今のこの世と次に到来する世の二つの世を生きる命を持てるようになることです。これ以上の救いはありません。だからイエス様の十字架と復活を宣べ伝え続けることは時代や国境を越えて普遍的に大事なのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

21年11月14日(日)聖霊降臨後第25主日 主日礼拝

主日礼拝説教2021年11月14日 聖霊降臨後第25主日

ダニエル12章1-3節
ヘブライ10章11-25節
マルコ13章1-8節

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説教題 「最後の審判の恐れを上回る勇気を持てたらこの世もへっちゃらなのだ」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン

私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに - 最後の審判に心を向けよう!

キリスト教会のカレンダーは聖霊降臨祭の後は聖霊降臨後第何主日と言って数え、次主日21日が今年の聖霊降臨後の最後の主日になります。28日からは待降節に変わりイエス様の降誕を祝うクリスマスの準備期間となります。

毎年同じことの繰り返しですが、聖霊降臨後の季節も終わりに近づくと聖書の日課は最後の審判とか復活に関係するテーマが多くなります(考えてみたら本スオミ教会の説教は年がら年中そのテーマで話しているかもしれません)。北欧諸国のルター派教会では聖霊降臨後の最終主日は「裁きの主日」と呼ばれます。「裁き」とは、今のこの世が終わる時にイエス様が再び今度は栄光に包まれて天使の軍勢を従えて再臨する時に起こることです。私たちが礼拝の中で唱える使徒信条や二ケア信条にあるように、この再臨する主が「生きている人と死んだ人を裁く」という最後の審判のことです。その時はまた、創造主の神が今ある天と地に代わって全く新しい天と地を創造するという天地の大変動も起きます。さらに死者の復活ということも起きて、審判の結果、神に義と認められた者は復活の体、神の栄光を映し出す朽ちない体を着せられて新しい天地のもとにある神の国に迎え入れらえるということが起こります。じゃ、それまでに死んでいれば最後の審判は関係ないかというとそうではなく、その時既に死んでいた人も眠りから起こされて、その時点で生きている人と一緒に審判を受けるのです。まさに「生きた人と死んだ人とを裁かれる」のです。

最後の審判がいつなのかは、マルコ13章の終わりの方でイエス様が言います。天の父なるみ神以外には誰にも知らされていないと(32節)。それで、主の再臨の日、この世の終わりの日、最後の審判の日、死者の復活の日、新しい天と地が創造される日、それらがいつなのかは誰にもわかりません。イエス様は、その日がいつ来ても大丈夫なように準備をしていなさい、目を覚ましていなさい、と教えられるだけです(33ー37節)。

教会の一年の最後の日を「裁きの主日」と定めることは、最後の審判に今一度心を向けて、今自分は復活と永遠の命に至る道を歩んでいるのだろうかと自省する意味があります。これが心の準備をすることであり目を覚ますことです。しかしながら、最後の審判とか裁きとかいうのは、あまり景気のいい話ではありません。はっきり言って恐ろしいです。それででしょうか、「裁きの主日」を定めている肝心の北欧諸国をみても、自省なんかしないでさっさとクリスマスの準備に入ってしまう人が大半ではないかと思います。しかし、忘れてはならない大事なことは、イエス・キリストの福音は、裁きの恐れを上回る勇気を与えてくれるということです。最後の審判は怖くないという勇気を与えられたら、今度は返す刀でこの世で怖いものもなくなります。理不尽な上司も権力者も脅しも祟りも誘惑もみんな空振り三振のバッターのようになります。イエス・キリストの福音とはそういう勇気を与えるものだということがわかるためにこそ、最後の審判に目を向けることは必要なのです。

2.マルコ13章のイエス様の預言について

イエス・キリストの福音は最後の審判の恐れを上回る勇気を与えてくれることを、今日の旧約の日課ダニエル12章と使徒書の日課ヘブライ10章をもとに見ていこうと思います。福音書の日課はどうしましょうか?マルコ13章の初めの部分ですが、福音の勇気を得るためにその部分だけでは少し足りないと思います。私としては13章全部を日課にしてほしかったです。そもそもマルコ13章は「キリストの黙示録」とも呼ばれる、イエス様の預言の言葉です。預言の内容はとても複雑です。一方でイエス様の十字架と復活の後イスラエルの地で起こる直近の出来事の預言、他方ではもっと遠い将来全人類にかかわる出来事の預言、これら二つの異なる預言が入り交ざっています。それらを解きほぐすように読まなければなりません。それは容易ではありません。破茶滅茶な解釈が起きないように、かつ全てを昔の人のファンタジーと片付けてしまわないように熟達したバランス感覚が必要です(同じことは黙示録でも言えます)。

マルコ13章を少しだけ見てみます。冒頭でイエス様は、エルサレムの神殿が跡形もなく破壊される日が来ると預言されます。これは実際にこの時から約40年後の西暦70年にローマ帝国の大軍によるエルサレム攻撃が起きてその通りになりました。預言が気になった4人の弟子が、それはいつ起こるのか、その時どんな前兆があるのかと聞きます。それに対する答えとしてイエス様の詳しい預言が語られていきます。預言は語られるうちに、エルサレム神殿の破壊の前兆から、イエス様の再臨の日の前兆すなわちこの世の終わりの前兆に移っていきます。

神殿破壊の前兆として、偽キリスト、戦争やその噂、地震、飢饉が起こると預言されます。西暦70年の前にこれらのことが実際に起こったことは歴史を細かく調べれば出てくると思います。一例として、14節の「憎むべき破壊者が立ってはいけない所にたつ」というのを見てみます。これはダニエル書11章や12章の預言に出てくるものです。こういう歴史的事件がありました。イエス様の十字架と復活の出来事から10年程後にローマ皇帝カリギュラがエルサレム神殿に自分の像を建てようとして、ユダヤ人たちが必死の外交努力で撤回させたという事件がありました。しかし、これがきっかけとなってローマ帝国とユダヤ民族の相互不信が一気に高まってしまい、ついには西暦70年のエルサレム攻撃に至ってしまったのです。このように預言されたことは歴史的に突き止めることが可能です。

3章19節で、天地創造以来一度もなかった災いが起こるというあたりから、預言の内容はイエス様の再臨の前兆すなわちこの世の終わりの前兆に移っていきます。どんな災いかは具体的には述べられていませんが、主がその期間を短くしなければ、誰一人として助からないくらいの災いである、と言うから凄まじいものです。しかし、主は選ばれた者たちのために既にその期間を短く設定したと言われます(20節)。「選ばれた者たち」というのは、聖書の観点ではもちろんキリスト教徒ということになります。こう言うと、またキリスト教の独りよがりが始まったと思われてしまうかもしれません。「選ばれた者」などと優越感に浸りやがって、と。ここで、キリスト教徒とはいかなる種族の者か考えてみましょう。まず、キリスト教徒とは洗礼を受けた者です。しかし、せっかく洗礼を受けても最後の審判の恐れを上回る勇気を得ていなかったら、この世で神以外のものを沢山恐れて生きていたことになります。それは、洗礼をただのアクセサリーにしてしまったことになります。アクセサリーでは最後の審判や天地の大変動の前に立ち往生してしまいます。洗礼から吹き付けてくる力をかわしたり逃げたりせず、それを全身全霊で受け止めて力を身につけないといけません。そうするキリスト教徒が「選ばれた者」なのです。詰まるところ、キリスト教徒とは最後の審判が怖くてビビっているから勇気をもらわないとダメな種族なのです。別に優越感になんか浸っていません。

マルコ13章全体の詳しい説き明かしは別の機会に譲り、今日はダニエル12章とヘブライ10章をもとにイエス・キリストの福音が最後の審判の恐れを上回る勇気を与えることを見ていきましょう。

3.ダニエル書12章 - 最後の審判をクリアーする人たち

先週の礼拝の説教で、キリスト信仰では死というのは復活までの眠りにしか過ぎず、復活の日に目覚めさせられて神の栄光に輝く復活の体を着せられて永遠に神の御許に迎え入れられるということを申しました。まさにキリスト信仰の死生観です。本日のダニエル書の日課はまさにその死生観をはっきり言い表しています。2節で「多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める」と、復活とはまさに死からの目覚めであることがはっきり言われています。

2節ではまた、ある人たちは永遠の命に与り、別の人たちは永遠の恥と憎悪の的となると言われます。選別が行われるので最後の審判があることを示唆しています。永遠の恥と憎悪とは、創造主の神から見て恥ずべき者、神の憎悪を永遠に受けてしまう人たちのことです。恐ろしいことです。ひるがえって、永遠の命に与る人たちのことを3節で「目覚めた人々は大空の光のように輝き、多くの者の救いとなった人々はとこしえに星と輝く」と言っています。これらの人々が輝くというのは、使徒パウロが第一コリント15章で述べているように、神の栄光を映し出す朽ちない復活の体を着せられることを意味します。

ここで、「目覚めた人たち」というのは正しい訳ではありません。「理解できる人たち」とか「見ることが出来る人たち」です(動詞שכלの動名詞形)。そう訳すとは、じゃ、理解できる人たちとは誰?ということを考えなければならなくなり話が難しくなります。それで、どうせ復活して目覚めさせられる人たちのことだから、目覚めた人でいいや、とやってしまったのではないかと思います。本当かどうかわかりませんが、もし本当なら情けない訳です。

それでは「理解できる人たち」、「見ることが出来る人たち」は誰のことかわかるのかというと、これはダニエル書がどういう書物か考えればそんなに難しくはありません。ダニエル書というのは、神の秘められた計画を神の使者が人間に明らかにしてくれる事例集です。神の秘められた計画は人間の力では理解できず見えもしません。それで、神が遣わした者が人間に明らかにして理解できるようにしてくれる、見えるようにしてくれるのです。キリスト信仰の観点に立ってみると、理解できる人、見ることが出来る人というのは、イエス様のおかげで神の秘められた計画を理解できるようになった人、見ることが出来るようになった人のことです。その人たちが復活の体を着せられて永遠の命を持って生きることになるのです。最後の審判をクリアーしたのです。

3節にはまた、最後の審判をクリアーする人たちとして「多くの者の救いとなった人々」というのもあります。これも原文を直訳すれば、「多くの人を神のみ前で無罪になるように導いてくれる人々」です。キリスト信仰の観点に立ってみれば、そういう導きをする人はイエス・キリストの福音を周囲に伝える人のことです。そして、福音を伝えられて受け入れた人は最後の審判で無罪扱いになる。これはまさに福音が福音である所以を言い表しているとても大事なことです。だから福音を伝えられて自分のものにすることが出来ると最後の審判の恐れを上回る勇気を得られるのです。このことを見ていきましょう。

4.福音と洗礼で最後の審判の恐れを上回る勇気を得よう!

最後の審判の日、裁き主は一人一人を十戒に照らし合わせてみて、神の目に適う者かどうか判断します。もし殺人姦淫その他行為によって人を傷つけた者は法律上の刑罰を受けたかどうか以上に問われることがあります。それは、神が与える罪の赦しを受け入れたかどうか、受け入れたらそれで神に背を向ける生き方をやめたかどうかが問われます。さらにイエス様は、行為に出さず法律上の問題にならなくても、心の中で兄弟を罵ったり異性をみだらな目で見たりしただけで神の目に適う者になれないと教えられました。そういうふうに心の有り様まで問われたら、誰も神の前で、私は潔癖です、などと言えません。だから最後の審判は恐ろしいのです。

しかしながら、神は人間が完全に神の目に適う者にはなれないことをご存じでした。堕罪の時から全て人間は神の意思に反しようとする罪を持つようになってしまったので自分の力ではなれないのです。そこで神は、それならば私の力で適う者にしてあげよう、目に適う者になれて私と結びつきを持ててこの世を生きられるようにしてあげよう、この世から別れた後は復活の日に目覚めさせて復活の体を着せて私の許に永遠に迎えてあげよう、そう決めてひとり子をこの世に送られたのです。そして、ひとり子イエス様に人間の全ての罪を負わせて、あたかも彼が全責任者であるかのようにして、十字架の上で神罰を受けさせて死なせました。自分のひとり子に人間の罪の償いを果たせたのです。しかも神はその後、想像を絶する力でイエス様を死から復活させ、死を超えた永遠の命があることをこの世に示され、そこに至る道を人間に切り開かれました。この出来事の全容を知らせるのが福音です。

あとは人間がこの福音の知らせを聞いて、イエス様の十字架と復活はまさに自分が神と結びつきを持ててこの世と次に到来する世の双方を生きられるようにするためだったんだとわかって、それでその大役を引き受けたイエス様こそ自分の救い主と信じて洗礼を受ければ、イエス様が果たしてくれた罪の償いを自分のものにできるのです。洗礼を受けるというのは、イエス様が果たされた罪の償いを全身全霊に吹き付けられて償いに染められてしまうことです。罪を償ってもらったということは、神の目から見て罪を赦された者になったということです。

神から罪を赦された者と見られるとどうなるのか?それは本日のヘブライ11章17節で言われています。それはエレミヤ31章34節の引用です。神はお前の罪を思い出さないと言われます。これが神の罪の赦しの本質です。罪を赦すと言うのは罪を許可することではありません。許可など断じて出来ないが、それで裁いてしまったらお前は永遠の恥と憎悪に投げ込まれてしまう。そうならないために、お前はこの世だけでなく次に到来する世も生きられる新しい命を得なければならない、そのために私はイエスを贈ったのだ。そのイエスをお前は救い主と信じ洗礼を受けて罪の償いを自分のものにしたのだ。だから、お前が犯した罪は、私はもうとやかく言わない。犯した事実は書き換えられないが、さもなかったかのようにする、だからお前は与えられた新しい命に相応しく生きよ。そう神はおっしゃられるのです。これが罪の赦しです。

ところが、このように神の力によって神の目に適う者とされていながら、またそのされた「適う者」に相応しい生き方をしようと希求しながらも、実際にはこの世で生きる限り神の目に相応しくないことがどうしても起きてきてしまいます。行為に出さなくても心の中に現れてきてしまいます。どうしたらよいでしょうか?その時は、すぐその罪を神に認めてイエス様の名に依り頼んで赦しを願います。心に痛みを伴うかもしれませんが、神に背を向けずこのように神の方を向くことを怠らなければ神は約束通りイエス様の犠牲に免じて罪を赦されます。こうして復活と永遠の命に向かう道に留まりそれを歩み続けることが出来ます。このように罪の赦しを心の中に貫かせている人は十戒をもう体の外側に持っていません。心の中に持っています。まさにヘブライ10章16節で引用されているエレミヤ31章33節の御言葉、神は十戒を心に与え刻み付け給う、が実現しているのです。十戒を心の中にではなく外側に持っていたら外面的に守っていることで満足して心の有り様は問わなくなります。最後の審判では心の有り様まで問われるのです。

やがてかの日が訪れ、神のみ前に立つことになる時、キリスト信仰者の申し開きはこうなります。確かに私には至らないことが沢山ありました。しかし、イエス様が果たしてくれた罪の償いにいつもしがみついて生きて参りました、いつもそこに戻るように生きてきました。それ以上のことはできませんでした。そう裁き主に言えばいいのです。神がそれで不十分と言うわけはありません。そんなことを言ったら、ひとり子の犠牲では不十分だったということになるからです。そんなことは絶対にあり得ません。ヘブライ10章14節で言われるように、この方の唯一の犠牲によって罪を不問にしてもって罪から清められた者たちが完全な者、最後の審判をクリアーできる者にされたのです。この方の前にも後にもそのような犠牲はありません。この方のだけです。
兄弟姉妹の皆さん、イエス・キリストの福音とはこのように最後の審判の恐れを上回る勇気を与えてくれる知らせです。洗礼は私たちの人生をその勇気の中で生きる人生にするものです。最後の審判を恐れない心があるならば、この世で何か怖いものがあるでしょうか?理不尽な上司や権力者が怖い、脅しや祟りや誘惑が怖い、それで間違ったことを間違っていると言えなくなることがあります。しかし、よく考えてみて下さい。その怖いと言っているのは神ではないのです。日本語では神でないものを神と呼ぶことが多いので紛らわしいのですが、その恐れる人やものの正体は考えればわかります。その人やものがあなたを造って命と人生を与えたのですか?違うでしょう。その人やものはあなたがこの世から別れた後、あなたを復活させる力があるりますか?ないでしょう。その人やものはあなたが言う通りにしないとあなたを地獄に落とすことが出来きますか?できません。その人たちこそ創造主の神の前で崩れ落ちる運命にあるのです。神を差し置いてそんな人たちを恐れるというのは話にならないとわかるでしょう。

最後にもう一言。このように私たちがこの世で怖いものがなくなって間違っていることを間違っていると言えるようになった時、言い方にも注意しなければなりません。ローマ12章でパウロが教えるように、相手を自分より優れた者のように振る舞い、自分はヘリ下って、少なくとも自分の側からは平和を保つように話さなければなりません。パウロもルターも十戒の第4の掟に基づいて父母やこの世の権威には敬意を払わなければいけないと教えています。敬意を払いながら間違いは間違いと言うのです。この点は、熱くなりやすい性格の人は意識して振る舞わないといけないので訓練が必要でしょう。聖書にはそのための手引きが沢山あります。イエス様や使徒たちの教えがそれです。また実例集も豊富にあります。例えばヨセフやダニエルが理不尽な人たちに対してどう振る舞ったかを見るのは大いに参考になります。
そういうわけで皆さん、これからも聖書をたくさん読んでいきましょう。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように
アーメン

 

2021年11月7日(日)午前10時30分~ 全聖徒主日 主日礼拝

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主日礼拝説教 2021年11月7日(全聖徒主日)

イザヤ25章6-9節
黙示録21章1-6a節
ヨハネ11章32-44節

説教題 「聖書は復活信仰で満ちている」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.復活とは眠りからの目覚めである

本日の福音書の日課はイエス様がラザロを生き返らせる奇跡を行った出来事です。イエス様が死んだ人を生き返らせる奇跡は他にもあります。その中でもシナゴーグの会堂長ヤイロの娘(マルコ5章、マタイ9章、ルカ8章)とある未亡人の息子(ルカ7章11~17節)の例は詳しく記されています。ヤイロの娘とラザロを生き返らせた時、イエス様は死んだ者を「眠っている」と言います。使徒パウロも第一コリント15章で同じ言い方をしています(6節、20節)。日本でも亡くなった方を想う時に「安らかに眠って下さい」と言うことがあります。しかし、大方は「亡くなった方が今私たちを見守ってくれている」などと言うので、本当は眠っているとは考えていないのではないかと思います。キリスト信仰では本気で眠っていると考えます。それじゃ、誰がこの世の私たちを見守ってくれるのか?と心細くなる人が出てくるかもしれません。しかし、キリスト信仰では心配無用です。天と地と人間を造られて私たち一人ひとりに命と人生を与えてくれた創造主の神が見守ってくれるからです。

キリスト信仰で死を「眠り」と捉えるのには理由があります。それは、死からの「復活」があると信じるからです。復活とは、本日の日課の前でマリアの姉妹マルタが言うように、この世の終わりの時に死者の復活が起きるということです(21節)。この世の終わりとは何か?聖書の観点では、今ある森羅万象は創造主の神が造ったものである、造って出来た時に始まった、それが先ほどの黙示録21章の中で言われるように、神に全て新しく造り直される時が来る。それが今のこの世の終わりということになります。ただし天と地は新しく造り直されるので、この世が終わっても新しい世が始まります。なんだか途方もない話でついていけないと思われるかもしれませんが、聖書の観点とはそういう途方もないものなのです。死者の復活は、まさに今の世が終わって新しい世が始まる境目の時に起きます。イエス様やパウロが死んだ者を「眠っている」と言ったのは、復活とは眠りから目覚めることと同じという見方があるからです。それで死んだ者は復活の日までは眠っているということになるのです。

ここで一つ注意しなければならないことがあります。それは、イエス様が生き返らせた人たちは実は「復活」ではないということです。「復活」は、死んで肉体が腐敗して消滅してしまった後に起きることです。使徒パウロが第一コリント15章で詳しく教えているように、神の栄光を現わす朽ちない「復活の体」を着せられて永遠の命を与えられることです。ところが、イエス様が生き返らせた人たちはみんなまだ肉体がそのままなので「復活」ではありません。時々、イエス様はラザロを復活させたと言う人もいるのですが正確ではありません。「蘇生」が正解でしょう。ラザロの場合は4日経ってしまったので死体が臭い出したのではないかと言われました。ただ葬られた場所が洞窟の奥深い所だったので冷却効果があったようです。蘇生の最後のチャンスだったのでしょう。加えて4日経ったとは言っても、実は3日だった可能性があります。というのは、当時の日数の数え方は出来事の最初の日も入れて数えるからです。イエス様は金曜日に十字架にかけられ日曜日に復活されたので私たちから見たら2日目ですが、聖書では3日目と言います。

いずれにしても、イエス様に生き返らせてもらった人たちはみんな後で寿命が来て亡くなったわけです。そして今は神のみぞ知る場所にて「眠って」いて復活の日を待っているのです。

本日の説教では、このキリスト信仰に特異な復活信仰について、本日の他の日課イザヤ25章と黙示録21章をもとに深めてみようと思います。深めた後で、なぜイエス様は死んだ人を蘇生させる奇跡の業を行ったのか、それが復活信仰とどう関連するのかということを考えてみようと思います。

2.聖書は復活信仰で満ちている

復活の日に目覚めさせられて復活の体を着せられた者たちは神の御許に迎え入れられます。その迎え入れられるところが「神の国」ないしは「天の国」、天国です。黙示録21章で言われるように、それは天すなわち神の御許から神と共に下ってきます。しかも下ってくる先は今私たちを取り巻いている天地ではなく、それらを廃棄して新たに創造された天と地です。その迎え入れられるところはどんなところか?聖書にはいろいろなことが言われています。黙示録21章では、神が全ての涙を拭われるところ、死も苦しみも嘆きも悲しみもないところと言われています。「全ての涙」とは痛みや苦しみの涙、無念の涙を含む全ての涙です。

特に無念の涙が拭われるというのはこの世で被ってしまった不正や不正義が完全に清算されるということです。キリスト教徒を冗談ではなく真面目にやっていたら、この世の不正や不正義を被るリスクが一気に高まります。創造主の神を唯一の神として祈り赦しを願い、神を大切なものとして礼拝など守っていたら、そうさせないようにする力が襲い掛かります。またイエス様やパウロが命じるように、害をもたらす者に復讐してはならない、祝福を祈れ、悪に悪をもって報いてはならない、善をもって報いよ、これらのことを行ったら、たちまち逆手に取られてどんどんつけ入れられます。

しかし、創造主の神の御許に迎え入れられる日、この世で被った不正や不正義が大きければ大きいほど、清算される値も大きくなります。それで、この世で神の意思に沿うように生きようとして苦しんだことは無駄でも無意味でもなかったということがはっきりします。

このため復活の日は神が主催する盛大なお祝いの日でもあります。黙示録19章やマタイ22章で神の国が結婚式の祝宴に例えられています。神の御許に迎え入れられた者たちはこのように神からお祝いされるのです。天地創造の神ががこの世での労苦を全て労って下さるのです。これ以上の労いはありません。そこで本日の旧約の日課イザヤ書25章6節でも祝宴のことが言われています。この節はヘブライ語の原文で読むと韻を踏んでいる詩的な文章です(新共同訳では「酒」が提供されると言っていますが、ヘブライ語原文を見ると「ぶどう酒」です。取り違えてはいけません。こういう訳をするから大酒飲みの牧師が出てくるのです)。

これは一見すると何の祝宴かわかりません。歴史的背景を考えて理解しようとすると、ユダヤ民族を虐げた国々が滅ぼされて、その後で催される勝利の祝宴を意味すると考えられるかもしれません。しかし、8節で「主は死を永遠に滅ぼされた、全ての顔から涙を拭われた」と言うので、これは復活の日の神の国での祝宴を意味するのは間違いないでしょう。

そのように理解すると難しい7節もわかります。「主はこの山ですべての民の顔を包んでいた布とすべての国を覆っていた布を滅ぼした。」布を滅ぼすとは一体何のことか?と誰もが思うでしょう。頑張って理解しようとする人は想像力を駆使して自分なりの結論を見つけるでしょう。しかし、聖書は神の言葉です。自分の想像力にぴったりな意味が神の言わんとしていることだなどという思い込みは捨てなければなりません。そういうわけで、自分の思いは脇に置いて神が言わんとしていることに迫ってみましょう。

7節のヘブライ語原文を直訳すると、「主はこの山で諸国民を覆っている表面のものと諸民族を覆っている織られたものを消滅させる」です。「覆っているもの」というのは人間が纏っている肉の体を意味します。どうしてそう言えるのかというと、詩篇139篇13節に「私は母の胎内の中で織られるようにして造られた」とあるからです。ヘブライ語原文ではちゃんと「織物を織る」という動詞(נסך)が使われているのに、新共同訳では「組み立てられる」に変えられています。イザヤ書25章7節でも同じ動詞(נסך)が使われていて人間が纏っているものを「織られたもの」と表現しています。それが消滅するというのは、復活の日に肉の体が復活の体に取って代わられることを意味します。

人間が纏っている肉の体は神が織物を織るように造ったという考え方は、パウロも受け継いでいます。第二コリント5章でパウロはこの世で人間が纏っている肉の体を幕屋と言います。幕屋はテントのことですが、当時は化学繊維などないので織った織物で作りました。まさにテント作りをしていたパウロならではの比喩でしょう。幕屋/テントが打ち破られるように肉の体が朽ち果てても、人の手によらない天の幕屋が神から与えられるので裸にはならないと言います。まさに神からの幕屋が復活の日に現れることが今日の黙示録の日課の中ではっきり言われるのです。21章3節です。ギリシャ語原文をパウロの意図を汲んで訳すとこうなります。「見よ、神の幕屋が人々と共にある、神は人々の上に幕屋を張り共に住まわる。」つまり、復活の体を纏わらせてもらった人たちが神の御許に迎え入れられたということです。

ここで余談ですが、なぜヘブライ語の原文ではこのように復活について言われているのに、翻訳ではそれが見えにくくなるように訳されてしまうかということについて。これは、旧約聖書を翻訳する人が、たとえ復活信仰を持つキリスト信仰者であっても、同時に聖書の学会の学説に縛られる研究者でもあるということによります。学会の定説では、復活信仰というのは紀元前2世紀頃に現れた思想ということになります。そうなると、それ以前からある旧約聖書の書物の中で復活を言っているように見える個所は実は復活信仰を言い表しているのではない、例えばユダヤ民族の復興を比喩的に言っているということになります。今ある天と地に代わって新しい天と地が創造される時に起きる、そういう全人類な出来事を言っているのではないのだと。それで、旧約聖書の中で復活を言っているように見える個所に出くわしても、復活を出さないように訳してしまうのです。

ところが、パウロもペトロもヨハネも各々の手紙や使徒言行録の中で言っていることを見ると、みんな旧約聖書のそういう個所をことごとく復活を意味していると言うのです。現代の聖書の学者たちが見たら歴史認識が欠如していると呆れかえるでしょう。ところがイエス様も同罪なのです。イエス様は復活なんかないと主張するサドカイ派の人たちに対して、いや復活はある、その証拠に神はモーセに「私はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と言ったではないか、と出エジプト記3章6節を根拠に掲げたのです。これは紀元前2世紀どころではない、かなり太古の時代の話です。

こういうふうに旧約聖書から復活信仰をくみ取るというのは、イエス様と使徒たちがとったアプローチ法です。私たちが手にする翻訳からでは見えてこないことを、ヘブライ語やアラム語やギリシャ語の原文を前にしてイエス様と使徒たちと同じ観点に立って見るといろんなことが見えてきます。人間の想像力など用いなくても神が言わんとすることに迫ることができるのです。学会の学説は一つの見識として片耳に挟む程度にして、私としては、これからもキリストと使徒の観点と原文を手掛かりにしてみ言葉の説き明かしに努めていきたく思います。そうやって説教を準備するといつも何か新しい発見があります。それで説教の業においては私もまだまだ発展途上なのです。

3.復活信仰の確認

話が横道にそれました。イエス様が死んだ人たちを生き返らせる奇跡を行ったことが復活信仰とどう関連するか見ていきましょう。

そのため少し本日の日課の前の部分に立ち戻らなければなりません。イエス様とマルタの対話の部分です。兄弟ラザロを失って悲しみに暮れているマルタにイエス様は聞きました。お前は私が復活の日に信じる者を復活させ永遠の命に与らせることが出来ると信じるか?マルタの答えは、「はい、主よ、私はあなたが世に来られることになっているメシア、神の子であることを信じております(27節)」。実に興味深い答えです。というのは、マルタはメシアについて当時一般的だった考え方、ユダヤ民族を他民族の支配から解放する英雄の王がメシアという考え方ではなかったからです。マルタがメシアを復活や永遠の命を人間に与える全人類的な救世主と捉えていたことを伺わせる答えでした。

マルタの答えで興味深いことがもう一つあります。それは、イエス様が救世主であることを「信じております」と言ったことです。ギリシャ語の原文ではこの動詞の意味は「過去の時点から今日の今までずっと信じてきました」という意味です。つまり、今イエス様と対話しているうちにわかって初めて信じるようになったということではありません。ずっと前から信じていたということなのです。このことに気づくとイエス様の話の導き方が見えてきます。私たちにとっても大事なことです。つまり、マルタは愛する兄を失って悲しみに暮れている。将来復活というものが起きて、そこで兄と再会するということはわかってはいた。しかし、愛する肉親を失うというのは、たとえ復活の信仰を持つ者でも悲しくつらいものです。これは何かの間違えだ、出来ることなら今すぐ生き返ってほしいと願うでしょう。復活の日に再会できるなどと言われても遠い世界の話か気休めにしか聞こえいでしょう。

しかし、復活信仰には死の引き裂く力を上回る力があります。復活そのものが死を上回るものだからです。それでは、どうしたら復活があると信じることが出来るのでしょうか?それは、神がひとり子のイエス様を用いて私たち人間に何をして下さったかを知れば持つことができます。聖書の観点に立ってみると、人間の内には神の意思に反しようとする罪があって、それが神と人間の間を引き裂く原因になっているということが見えてきます。そうした罪は人間なら誰でも生まれながらにして持ってしまっているというのが聖書の立場です。人間が神との結びつきを持ってこの世を生きられ、この世から別れた後は造り主のもとに永遠に戻れるようにする、そのためには結びつきを持てなくさせようとする罪の問題を解決しなければならない。まさにその解決のために神はひとり子イエス様をこの世に贈り、彼が人間の罪を全て引き受けてゴルゴタの十字架の上にまで運び上げ、そこで人間に代わって神罰を受けることで罪の償いを果たしてくれたのでした。さらに神は一度死なれたイエス様を死から復活させて死を超えた永遠の命があることをこの世に示され、その命に至る道を人間に切り開かれました。まさにイエス様は「復活であり、永遠の命」なのです。

神がひとり子を用いてこのようなことを成し遂げたら、今度は人間の方がイエス様を自分の救い主と信じて洗礼を受ける番となります。そうすれば、イエス様が果たしてくれた罪の償いを受け取ることができます。罪を償ってもらったということは、これからは神からの罪の赦しのお恵みの中で生きるこということです。頂いたお恵みに心と人生を方向づけられて歩んでいくことになります。目指す目的地は、死を超えた永遠の命と神の栄光を現わす体が与えられる復活です。そこでは死はもはや紙屑か塵同様です。神から頂いた罪の赦しのお恵みから外れずその中に留まっていれば神との結びつきはそのままです。この結びつきを持って歩むならば死は私たちの復活到達を妨害できません。

マルタは復活の信仰を持ち、イエス様のことを復活に与らせて下さる救い主メシアと信じていました。ところが愛する兄に先立たれ、深い悲しみに包まれ、兄との復活の日の再会の希望も遠のいてしまいました。今すぐの生き返りを期待するようになっていました。これはキリスト信仰者でもそうなります。しかし、イエス様との対話を通して、復活と永遠の命の希望が戻りました。対話の終わりにイエス様に「信じているか?」と聞かれて、はい、ずっと信じてきました、今も信じています、と確認できて見失っていたものを取り戻しました。兄を失った悲しみは消滅しないでしょうが、一度こういうプロセスを経ると、希望も一回り大きくなって悲しみのとげも鋭さを失い鈍くなっていくことでしょう。あとは、復活の日の再会を本当に果たせるように、キリスト信仰者としてイエス様を救い主と信じる信仰に留まるだけです。

ここまで来れば、マルタはもうラザロの生き返りを見なくても大丈夫だったかもしれません。それでも、イエス様はラザロを生き返らせました。それは、マルタが信じたからそのご褒美としてそうしたのではないことは、今まで見て来たことから明らかです。これが大事な点です。マルタはイエス様との対話を通して信じるようになったのではなく、それまで信じていたものが兄の死で揺らいでしまったので、それを確認して強めてもらったのでした。

それにもかかわらずイエス様が生き返りを行ったのは、彼からすれば死なんて復活の日までの眠りにすぎないこと、そして彼には復活の目覚めさせをする力があること、これを前もって人々にわからせるためでした。ヤイロの娘は眠っている、ラザロは眠っている、そう言って生き返らせました。それを目撃した人たちは本当に、ああ、イエス様からすれば死なんて眠りにすぎないんだ、復活の日が来たら、タビタ、クーム!娘よ、起きなさい!ラザロ、出てきなさい!と彼の一声がして自分も起こされるんだ、と誰でも予見したでしょう。

このようにラザロの生き返らせの奇跡は、イエス様が死んだ者を蘇生する力があることを示すこと自体が目的ではありませんでした。マルタとの対話と奇跡の両方をもって、自分が復活であり永遠の命であることを示したのでした。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように         アーメン

 

2021年10月31日(日)午前10時30分~ 聖霊降臨後第23主日 主日礼拝 説教題 「神への愛、隣人への愛、自分自身への愛」

司式・説教 吉村博明SLEY (フィンランド・ルーテル福音協会)宣教師
聖書日課 申命記6章1~9節、ヘブライ9章11~14節、マルコ12章28~34節
説教題「神に対する愛、隣人に対する愛、自分自身に対する愛」
讃美歌 121、324、413、450

礼拝はYouTubeで見る

「神への愛、隣人への愛、自分自身への愛」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

律法学者がイエス様に聞きました。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか?」「第一」(πρωτη)というのは「一番重要な掟は何ですか?」と聞いているのです。

律法学者というのはユダヤ教社会の中で起きてくる様々な問題を律法すなわち神の掟に基づいて解決する役割がありました。それで職業柄、全ての掟やその解釈を熟知していなければなりませんでした。神の掟とは、まず私たちが手にする旧約聖書の中にモーセ五書という律法集があります。その中に皆さんよくご存知の十戒があります。その他にもいろんな規定があります。神殿での礼拝についての規定、宗教的な汚れからの清めについての規定、罪の赦しのためいつどんな生け贄を捧げるかについての規定、人間関係についての規定等々数多くの規定があります。これだけでもずいぶんな量なのに、この他にも文書化されずに口承で伝えられた掟も数多くありました。マルコ7章に「昔の人の言い伝え」と言われている掟がそれです。ファリサイ派というグループはこれらも文書化された掟同様に守るべきと主張していました。

これだけ膨大な量の掟があると、信仰生活や社会生活の中で解決しなければならない問題が起きた時、どれを適用したらよいのか、どれを優先させたらよいのか、どう解釈したらよいのか、そういう問題が頻繁に起きたでしょう。そればかりか、膨大な掟に埋もれていくうちに、神の掟と思ってやったことが実は神の意思から離れてしまうということも起きました。例として、両親の扶養に必要なものを神殿の供え物にすれば扶養の義務を免れるというような言い伝えの掟がありました。イエス様はこれを十戒の第4の掟「父母を敬え」を無効にするものだ、と強く批判しました(マルコ7章8-13節)。そういう時勢でしたから、何が神の意思に沿う生き方かということを真剣に考える人にとって、「どれが一番重要な掟か?」という問いは切実でした。現代というのは創造主の神など持ち出さなくていいという時代ですが、こういう問いかけは自分の生き方の方向を考え直す時に大事な視点になるのではないかと思います。

2.最も重要な掟

イエス様は、「第一の掟は、これである」と言って教えていきます。「イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」。本日の旧約の日課、申命記6章からの引用でした。これが第一の掟、一番重要な掟でした。ところが、律法学者は「第一の掟は?」と聞いたのに、イエス様はそれに続けて「第二」(δευτερα)の掟、すなわち二番目に重要な掟も付け加えます。それは、隣人を自分を愛するが如く愛せよ、でした。これはレビ記19章18節からの引用でした。イエス様は実に旧約聖書の上に立っているのです。

さて、二番目だから少し重要度が低いかというと、そういうわけでもなく、「この二つにまさる掟は他にない」と言われます。それで、この二つの掟は神の掟中の掟ということになる。山のような掟の集大成の頂点にこの二つがある。

ただし、その頂点にも序列があって、まず、神を全身全霊で愛すること、これが一番重要な掟で、それに続いて隣人を自分を愛するが如く愛することが大事な掟としてくる、ということです。

この二つの掟をよく見てみると、それぞれ十戒の二つの部分に相当することがわかります。皆様もご存知のように十戒の初めの3つは、天地創造の神の他に神をもったり崇拝してはならない、神の名をみだりに唱えてはならない、安息日を守らなければならない、でした。この3つの掟は神と人間の関係を既定する掟です。残りの7つは、両親を敬え、殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、隣人の所有するものを妬んだり欲したり損なったりしてはならない、また隣人の妻など隣人の家族を構成する者を妬んだり欲したり損なってはならない、というように、人間と人間の関係を既定する掟です。最初の、神と人間の関係を既定する3つの掟を要約すれば、神を全身全霊で愛せよ、ということになります。人間と人間の関係を既定する7つの掟も要約すれば、隣人を自分を愛するが如く愛せよ、ということになります。

このようにイエス様は、十戒の一つ一つを繰り返して述べることはせず、二つの部分にまとめあげました。それで、天地創造の神以外に神をもって崇拝してはならない云々の3つの掟は、つまるところ神を全身全霊で愛せよ、ということに行きつく。同じように、両親を敬え云々の7つの掟も、つまるところ隣人を自分を愛するが如く愛せよ、ということに行きつくというのです。

さて、イエス様から二つの掟を聞かされた律法学者は、目から鱗が落ちた思いがしました。目の前にあった掟の山が崩れ落ちて、残った二つの掟が目の前に燦然と輝き始めたのです。律法学者はイエス様の言ったことを自分の口で繰り返して言いました。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす捧げ物やいけにえよりも優れています。」律法学者はわかったのです。どんなにうやうやしく神殿に参拝して規定通りに生け贄や貢物を捧げたところで、また何か宗教的な儀式を積んだところで、神を全身全霊で愛することがなければ、また隣人を自分を愛するが如く愛さなければ、そんなものは神からみて何の意味もなさない空しい行為にすぎない、ということが。律法学者がこの真理の光を目にしたことを見てとったイエス様は言われます。「あなたは、神の国から遠くない。」

これでこの件はめでたしめでたしの一件落着かと言うと、そうではありませんでした。イエス様が言われたことをよく注意してみてみましょう。「あなたは、神の国から遠くない」。「神の国に入れた」とは言っていないのがミソです。「神の国に入れる」というのはどういうことでしょうか?それは、人間がこの世から別れた後、復活の日に目覚めさせられて復活の体という朽ちない神の栄光に輝く体を着せられて自分の造り主である神のもとに迎え入れられて永遠に生きることを意味します。そのようにして、今のこの世の人生と次に到来する新しい世の人生の二つを合わせたとてつもなく大きな人生を生きられることです。そのような人生を生きられるために守るべき掟として、一番重要なのは神への全身全霊の愛、二番目に重要なのは隣人愛である。それらをより具体的に言い表したのが十戒で、その他の掟はこれらを土台にしているかどうかで意味があるかないかがわかる。こうしたことを知っていることは、神の国に入れるために大切なことではあるが、ただ知っているだけでは入れないのです。実践しなければ入れないのです。知っているだけでは、せいぜい「遠くない」がいいところです。

それでは人間はどうすればイエス様が教える神への全身全霊の愛と隣人愛を実践することができるのでしょうか?それを次に見てみましょう。

3.神を全身全霊で愛する愛

まず一番重要な掟、神を全身全霊で愛することからみていきます。全知全能の神、天と地と人間を造られ、人間一人一人に命と人生を与えられた創造主にして、ひとり子イエス様をこの世に送られた父なる神。その神を全身全霊で愛する愛とはどんな愛なのでしょうか?

その答えは、この一番重要な掟の最初の部分にあります。「わたしたちの神である主は、唯一の主である。」これは命令形でないので、掟には見えません。しかし、イエス様が一番重要な掟の中に含めている以上は掟です。そうなると、「神を全身全霊で愛せよ」というのは、神があなたにとっても私にとっても「唯一の主」として保たれるように心や力を尽くせ、ということになります。つまり、この神以外に願いをかけたり祈ったりしてはならないということです。この神以外に自分の運命を委ねてはならないし、またこの神以外に自分の命が委ねられているなどと微塵にも考えないことです。嬉しい時にはこの神に感謝し、苦しい時にはこの神に助けを求めてそれを待つ、そうする相手はこの神以外にないということです。さらに、もしこの神を軽んじたり、神の意思に反することを行ったり思ったり言葉にした時は、すぐこの神に赦しを願うことです。こうしたことが神を唯一の主として保つことです。

実は、このような全身全霊を持ってする神への愛は、私たち人間には生まれながら自然に備わっていません。私たちに備わっているのは、神の意思に反しようとする罪です。それでは、どうしたら神への愛を持てるのでしょうか?それは、神は私たちに何をして下さったのかを知ることで持てます。それを知れば知るほど神への愛は強まってきます。それでは、神は私たちに何をして下さったのか?まず、今私たちが存在している場所である天と地を造られました。そして私たち人間を造られ、私たち一人一人に命と人生を与えて下さいました。ところが残念なことに、人間が悪魔に隙を見せてしまったために神の意思に反しようとする罪が備わってしまいました。それで最初にあった神との結びつきはが失われてしまったのです。しかし、神は失われた結びつきを人間に取り戻して人間が自分との結びつきを持って生きられるようにしようと決意されました。まさにそのためにひとり子イエス様をこの世に送られました。そして本当なら私たちが受けるべき罪の罰を全部イエス様にかわりに受けさせて十字架の上で死なせ、その犠牲の死に免じて私たち人間の罪を赦すことにして下さいました。さらに一度死んだイエス様を死から復活させることで死を超えた永遠の命があることをこの世に示し、そこに至る道を切り開かれました。そこで人間がこれらのことは全て自分のためになされたとわかって、それでイエス様こそ自分の救い主と信じて洗礼を受けると、イエス様の犠牲に免じた罪の赦しを受け取ることになります。神から罪の赦しを受けたことになるので、その人は神との結びつきを回復して永遠の命に至る道に置かれてそれを歩み始めるようになります。こうして順境の時も逆境の時も絶えず神から助けと良い導きを得られながら歩むことができ、この世から別れることになっても復活の日に目覚めさせられて復活の体を着せられて永遠に自分の造り主のもとに迎え入れられるのです。

このように私たちは、神が私たちにして下さったことのなんたるやがわかると、この神にのみ願いをかけ祈るようになり、この神にのみ自分の運命を委ねるようになり、この神にのみ感謝し助けを求めるようになり、この神にのみ赦しを願うようになるのです。まさに神を全身全霊で愛するようになるのです。

4.隣人を自分を愛するが如く愛する愛、自分自身を愛する愛

次に二番目に重要な掟「隣人を自分を愛するが如く愛せよ」を見てみましょう。これはどういう愛でしょうか?

隣人愛と聞くと、大方は苦難や困難に陥った人を助けることを思い浮かべます。しかし、人道支援という隣人愛は、キリスト信仰者でなくても、他の宗教を信じていても、また無信仰者・無神論者でもできます。そのことは、日本で災害が起きるたびに多くの人がボランティアに出かけることを見てもわかります。人道支援はキリスト信仰の専売特許ではありません。しかし、キリスト信仰の隣人愛にあって他の隣人愛にないものがあります。それは、先ほども申しましたように、神への全身全霊の愛の上に立っているということです。神への全身全霊の愛とは、神を唯一の主として保って生きることです。そのように生きることが出来るのは、神がこの自分にどんなにとてつもないことをして下さったか、それをわかることにおいてです。このため、隣人愛を実践するキリスト信仰者は、自分の業が神を唯一の主とする愛に即しているかどうか吟味する必要があります。仮に創造主の神は唯一なんかではない、という考えで行ったとしても、それはそれで人道支援の質や内容が落ちるということではありません。しかし、それはイエス様が教える隣人愛とは別物です。

イエス様が教える隣人愛の中でもう一つ注意しなければならないことがあります。それは「自分を愛するが如く」と言っていることです。自分を愛することが出来ないと隣人愛が出来ないのです。自分を愛するとはどういうことでしょうか?自分は自分を大事にする、だから同じ大事にする仕方で隣人も大事にする。そういうふうに理解すると、別にキリスト教でなくてもいい、一般的な当たり前の倫理になります。そこでイエス様の教えを少し掘り下げてみましょう。

イエス様は隣人愛を述べた時、レビ記19章18節から引用しました。そこでは隣人から悪を被っても復讐しないことや、何を言われても買い言葉にならないことが隣人愛の例としてあげられています。別のところでイエス様は、敵を憎んではならない、敵は愛さなければならない、さらに迫害する者のために祈らなければならないと教えています(マタイ5章43-48節)。そうなると、キリスト信仰者にとって、隣人も敵も区別がつかなくなり、全ての人が隣人になって隣人愛の対象になります。しかし、そうは言っても、そういう包括的な「隣人」の誰かが良からぬことをしたり迫害することも現実にはありうる。そのような「隣人」をもキリスト信仰者は愛さなければならないとはどういうことなのでしょうか?

イエス様は、敵を愛せよと教えられる時、その理由として、父なるみ神は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせて下さる方だからだ、と教えました。もし神が悪人に対して太陽を昇らせなかったり雨を降らせなかったら、彼らは一気に滅びてしまいます。しかし、神は悪人が悪人のままで滅んでしまうのを望んでいないのです。神は悪人が神に背を向けた生き方を方向転換して神のもとに立ち返ることを望んでいて、それを待っているのです。彼らがイエス様を救い主と信じる信仰に入って、永遠の命に向かう道を歩む群れに加わるのを待っているのです。そういうわけで、神が悪人にも太陽を昇らせ雨を降らせるというのは、なにか無原則な気前の良さを言っているのでは全くなく、悪人に神のもとへ立ち返る可能性を与えているということなのです。

ここから、敵を愛することがどういうことかわかってきます。イエス様が人間を罪と死の支配状態から救い出すために十字架にかけられる道を選ばれたのは、全ての人間に向けてなされたことでした。神は、全ての人間がイエス様を救い主と信じて罪の赦しというお恵みを受け取ることを願っているのです。キリスト信仰者は、この神の願いが自分の敵にも実現するように祈り行動するのです。迫害する者のために祈れ、とイエス様は命じられます。一体全体、何を祈るのかというと、まさに迫害する者がイエス様を自分の救い主と信じて神のもとに立ち返ることを祈るのです。「神様、迫害者を滅ぼして下さい」とお祈りするのは神の御心に適うものではありません。もし迫害を早く終わらせたかったら、神様、迫害者がイエス様を信じられるようにして下さい、とお祈りするのが遠回りかもしれませんが効果的かつ神の御心に適う祈りでしょう。

このように、キリスト信仰の隣人愛は、苦難困難にある人たちを助けるにしても、敵や迫害者を愛するにしても、愛を向ける相手が「罪の赦しの救い」の中に入れるようにすることが視野に入っているのです。神がひとり子を用いて私たち人間にどれだけのことをしてくれたかをわかればわかるほど、この神を全身全霊で愛するのが当然という心になります。その神が実は敵や反対者に対しても罪の赦しというお恵みをどうぞ受け取りなさいと差し出しているのです。それがわかると敵や反対者というものは神のお恵みを受け取ることが出来るように助けてあげるべき人たちになり、打ち負かしたり屈服させるためにあるものではなくなります。

こうしたことがわかると、キリスト信仰で「自分を愛する」というのはどういうことかもわかります。神は御自分のひとり子をらいに私のことを愛して下さった、神はそれくらい私のことを愛するに値する者として扱って下さっている、それなので私はこの神の愛に留まり、これから離れたり外れたりしないようにしよう。これが「自分を愛する」ことです。神の愛が自分に注がれるのに任せる、神の愛に全身全霊を委ねる、これが「自分を愛する」ことです。そのような者として隣人を愛するというのは、まさに隣人も同じ神の愛を受け取ることが出来るように祈ったり働きかけたりすることになります。隣人が既にキリスト信仰者の場合は、その方が神の愛の中に留まれるように助けてあげることです。

このように、神を全身全霊で愛する愛、隣人を自分を愛するがごとく愛する愛、自分自身を愛する愛、これらの愛は、神がひとり子を用いて私たち人間に大いなる救いをもたらして下さったという愛があってこそ起こってくる愛です。そして、その神の愛の中に留まり続けることで強まっていく愛です。このことに立ってヨハネの次の言葉を心に刻んでおきましょう。

「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、
わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。
ここに愛があります。
愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、
わたしたちも互いに愛し合うべきです。」
(第一ヨハネ4章10~11節)

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

 

特別の祈り

全知全能の父なるみ神よ。

あなたは私たちに日々、罪の赦しのお恵みを新しくして下さり、祝福を豊かに与えて下さいます。あなたが私たちをどれだけ愛して下さっているか、もっと気づけるようにして下さい。感謝のうちにあなたと隣人を愛し、喜び仕えることができるように導いて下さい。

あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストのみ名を通して祈ります。アーメン

2021年10月24日(日)聖霊降臨後第22主日 主日礼拝

主日礼拝説教2021年10月24日 聖霊降臨後第22主日

エレミア31章7-9節、ヘブライ7章23-28節、マルコ10章46-52節
司式・説教 吉村博明SLEY (フィンランド・ルーテル福音協会)宣教師

説教題 「なぜキリスト信仰者は祈るのか ― 祈りの原理とテクニック」

 

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

 本日の福音書の箇所は、イエス様が弟子たちや群衆を従えてエルサレムに向かう途中エリコという町に立ち寄り、そこで盲人の男バルティマイの目を見えるようにしたという奇跡の出来事です。本日の説教では次の2つの事柄について考えてみたく思います。

 一つめは、イエス様がバルティマイを癒す直前に「あなたの信仰があなたを救ったのだ」と言ったことです。よく考えるとこれは変です。というのは、癒す前にこの言葉が言われたからです。もし癒しが起きた後で「あなたの信仰があなたを救ったのだ」と言ったのなら筋が通ります。イエス様はバルティマイの信仰を立派と認めてご褒美に目を見えるようにしてあげたことになるからです。ところがイエス様は目が見えるようになる前にそう言ったのです。どういうことでしょうか?一つの考え方として、イエス様は癒す前に「君はもう治ってるよ」と、治ることを先回りして言ってみせた、というのがあるかもしれません。つまり、治ることを預言者っぽく先に述べたというわけです。そうすると結局は、病気が治るというのはイエス様に立派と認められる信仰があったおかげということになります。もし治らなければ立派な信仰がないということになります。イエス様は病気が治る治らないは信仰の優劣で決まると言っているのでしょうか?実はそうではないのです。このことは、救われるとは何を意味するかわかれば明らかになります。これは以前の説教でもお教えしたことですが、大事なことなので今回もお話しします。

 本日の説教でもう一つ考えることは、祈ったことが起こる起こらないというのは信仰に優劣があるからではない、とすると、じゃ、起こる起こらないの決め手は何なのか?これはもう誰もが知りたいことでしょう。キリスト信仰者は経験上、祈ったことが起こらないことがあるということを知っています。祈ったことと全然違うことが起こるとか、また起こってもすごく時間がかかったとか、よくあります。バルティマイは望んだことがすぐ起こりました。羨ましいです。天地創造の神は何か気まぐれな方なのでしょうか?

 キリスト信仰では、祈りは結果はどうあれしなければならないことです。そう言うと、じゃ何のために祈るの?と言われてしまうでしょう。それは十戒の第一の掟、神以外を崇拝してはならない、というのがあるからです。それが意味することは、何か嬉しいこと悲しいことがあれば必ずこの神に報告する、願い事があればこの神に打ち明ける、他にはしないという位に創造主の神に信頼を置くということです。その信頼する神が祈ったことをしてくれなかったら普通だったらもう信頼なんかしない、ということになるでしょう。それでも祈るのがキリスト信仰者なのです。このことも後ほど見ていきましょう。

2.「救われる」とは?

 「あなたの信仰があなたを救ったのだ」というイエス様の言葉について。以前の説教でもお教えしましたが、「救ったのだ」と言っているギリシャ語原文の動詞の用法が日本語の訳では伝えきれていません。正確に訳すと「過去のある時点から現在まであなたの信仰があなたを救っていたのだ」ということです。過去のある時点と言うのはイエス様を救い主と信じた時です。それでここの意味は、イエス様を救い主を信じた時から現在に至るまでその人は救われた状態にあった、ということです。しかし、これは変です。だって、まだ目が見えるようになる前に既に救われていたと言うのです。普通なら、病気が治ったことをもって救われたと言うはずのに、イエス様ときたら治ってもいない時にお前は既に信仰によって救われた状態にあるというのです。なぜでしょうか?

 それは、イエス様にしてみれば、病気が治ることと救われることとは別問題だからです。病気の状態にあっても救われた状態にあると言っているのです。それでは救われるとは一体何なのでしょう?病気の状態にあっても救われた状態にあるなんてあり得るでしょうか?病気が治ることと「救われる」ことは別問題と言うのなら、逆に健康であっても救われた状態にないというのもあり得ます。イエス様が考える救いとは何なのでしょうか?救われていないとはどんなことなのでしょうか?

 聖書の観点では、人間が救われていない状態というのは、神に造られた筈の人間の内に神の意思に反しようとする罪が入り込んで、造り主との結びつきが失われてしまった状態のことを言います。それで、この罪の問題を解決して神との結びつきを回復できることが救いになります。神との結びつきを回復できるとどうなるかと言うと、この世の人生でいついかなる時、それこそ順境の時だけでなく逆境の時にも、神との結びつきは何ら変わらないので常に神から助けと導きを受けながら歩めるようになります。たとえ、この世から別れることになっても、復活の日に目覚めさせられて、復活の体という朽ちない、神の栄光に輝く体を着せられて永遠に神の御許に迎え入れられます。

 そういうふうに神との結びつきが回復できるためには人間の内にある罪をどうにかしなければなりません。人間は自分の力で罪を除去することが出来るでしょうか?マルコ7章でイエス様は、人間を汚しているのは人間の内に宿っている諸々の悪い性向である、それらはどんな宗教的な清めの儀式をしても除去できない位に染みついてしまっている、と教えます。それならば、十戒の掟をしっかり守れば人間は神に義とされて結びつきを回復できるでしょうか?これもイエス様は十戒の第五の掟「汝、殺すなかれ」について、兄弟を憎んだり罵ったりしたら神の目から見て破ったも同然と教えました。第六の掟「汝、姦淫するなかれ」についても、異性をみだらな目で見たら神の目から見て破ったも同然と教えました。十戒の掟というのはそれくらい外面的な行いだけでなく、内面の心の有り様まで問うているのだと教えるのです。そこまで言われると神の目に適う人は誰もいなくなります。まさに使徒パウロが教えるように、十戒というのは外面的に守って自分は神の目に適う者だと得意がるためにあるのではない、内面までも問われることで自分はどれだけ神の意思から遠い存在であることを映し出す鏡なのです。

 そうなると人間はもはや自分の力では罪の問題を解決することは出来ません。しかしながら、天の父なるみ神はこれを放置することはしませんでした。神の切実な願いは、人間が自分との結びつきを早く回復して今の世と次に到来する世の双方を生きられるようになってほしいということだったからです。それで神はひとり子のイエス様をこの世に贈り、本当だったら人間が背負わなければならない罪の重荷を全部、彼に背負わせてゴルゴタの十字架の上にまで運び上げさせ、そこで人間に下されるはずの神罰を全部彼に受けさせて死なせたのです。このように神が取った解決策は、人間が神罰を受けないで済むようにとひとり子を身代わりの犠牲にして、それに免じて人間を赦すということだったのです。

 さらに神は一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させて、今度は死を超える復活の命、永遠の命があることをこの世に示され、そこに至る道を人間に切り開かれました。それで今度は人間の方が、これら全てのことは自分のためになされたのだとわかって、それでイエス様こそ自分の救い主だと信じて洗礼を受けると、この神のひとり子の犠牲に免じた罪の赦しはその人にその通りになるのです。このようにして神から罪の赦しを受けられると神との結びつきが回復し、今のこの世と次に到来する世の双方を合わせた大きな人生を生きることが始まります。これが救いです。

 この救いは、まさに神がひとり子イエス様を用いて人間にかわって人間のために成し遂げたものです。人間はイエス様を救い主と信じる信仰と洗礼によってこの救いを受け取ることが出来ます。この信仰と罪の赦しというお恵みの中に留まれば受け取った救いはなくなりません。これは、受け取る人が健康であっても病気であってもそうです。それなので救いを受け取ったとき、それで病気がすぐ治るということでもありません。もちろん、医療の発達やそれこそ奇跡が起きて病気が治ることもあります。しかし、たとえ治らなくても、病気の信仰者が受け取った救いは健康な信仰者が受け取った救いと何ら変わりはありません。もし重い病気が奇跡的に治ったら、その人は、神の栄誉を病気の時とは違った形で現すことになります。まさにそのために癒されたのだと気づかなければなりません。

 ところで、バルティマイが癒された時はまだ十字架と復活の出来事の前でした。それなので「あなたは私を救い主と信じる信仰によって既に救われた状態にある」などと言われても、直ぐにはピンとこないでしょう。なんだかただの口先言葉にしか聞こえないでしょう。その意味で、癒しの奇跡が起きたことはイエス様の言葉は口先だけではないということが明らかになったのです。同じことがマルコ3章の全身麻痺の人の癒しのところでも起きていました。イエス様はその人とその人を必死の思いで担いできた人たちの信仰を見て、「あなたの罪は赦される」と言いました。これに対して律法学者が、人間の罪を赦すことが出来るのは神しかいないのにこの男はなんと大それたことを言うのか、自分を神と同等扱いにして神を冒涜している、と批判します。これに対してイエス様は自分の口から出る言葉は単なる音声ではないことを示すために男の人に立ちあがって行きなさいと命じます。するとその人の麻痺状態はふっと消えて本当に歩いて行ってしまったのです。「罪は赦される」と言った言葉が口先だけでないことが示されたのです。

3.祈りの原理とテクニック

 バルティマイに起きた奇跡は、人間が健康であろうがなかろうがイエス様を救い主と信じる信仰で救われる、つまり神との結びつきを持って生きられる、このことを十字架と復活の出来事の前の段階で奇跡の業をもって実証した出来事でした。十字架と復活の出来事の後は、信仰で救われるというのは別に奇跡の業をしてもらわなくても十字架と復活の出来事があるのでその通りになりました。

 それでは奇跡はもう必要ないのでしょうか?神との結びつきを持って生きられることに関しては信仰と洗礼があるので奇跡が必要になることはありません。しかしながら、病気を治したい、痛みから解放されたい、苦しみや困難から脱したい、という願いに関してはどうでしょうか?神がキリスト信仰者に祈ることを命じているというのは、癒しや解決を祈り求めなければならないということです。

 それでは祈り求めよと言っている神は、言う通りにしたらちゃんと癒しや解決をしてくれるでしょうか?冒頭で申したように、祈ったことが起こらないということが往々にしてあります。起こったとしてもあまりにも時間がかかりすぎるとか、祈ったことと全然違うことが起こるとか、そういうことがよくあります。祈り求めよと言っているのに話が違うじゃないか、と文句の一つでも言いたくなります。これについて宗教改革のルターは、神に助けを祈り求める人は、いつ、どんな仕方で、誰を通して等々、神を縛りつけるような祈りはしてはいけないと教えます。そんな祈りをしたところで、いつ、どんな仕方で、誰を通して等々については神が自分の判断で決められる。そういうわけで祈り求めたことには必ず答えが返って来る。ただし、それが祈り求めた内容と一致しなくても、時間がかかったとしても、それは神が良かれと判断してそうしたことなのである。人間の救いのためにひとり子をこの世に贈り犠牲にすることも厭わなかった神の判断である。だから、自分が祈り求めた内容よりも、神が与えた答えの方がよいものとして受け取らなければならないということです。

 それじゃ、神が上に立って自分の切実な願いは下ということなのか、という不満が出てきますが、残念ながらそういうことなのです。このことに納得できる人はいいですが、出来ない人のために次のことを申し上げようと思います。納得できている人もどうして自分は納得しているか確認する意味で聞いてよいかと思います。神が人間に望んでいることは、人間が神との結びつきを持てて今のこの世と次に到来する世の双方を生きられるということでした。それで神がキリスト信仰者の祈りを聞いて願いを叶えるというのは、この神の願いに結びついているのです。神との結びつきを回復してもらったキリスト信仰者がせっかく復活の日を目指して人生の道を歩んでいるのに、痛みや苦しみや困難が起きてまた自分の悪い心があって歩みを難しくしてしまった時、信仰者が祈れば神は癒しや解決、正しい心を与えて下さるということです。なぜなら神の願いは人間が復活の日に自分の御許に永遠に迎え入れられるようになることだからです。祈り求めるというのは、私たちが本気で道を歩もうとしていることを神に知らせることになります。そうなれば神としても障害物を取り除かないわけにはいかなくなるのです。

このように神がどう祈りに応えるかということには、キリスト信仰者が復活の日に向かって歩めるかどうかということが神の判断基準にあるのです。そのため場合によっては、神はこれは障害物にあたらないと判断するかもしれないということです。これは聞きようによっては残酷に聞こえるかもしれません。しかし、これは心に大きな平安を与えることでもあります。これがキリスト信仰の祈りの原理です。キリスト信仰者は復活の日に向かって歩む以上、祈るのは必然的なことなのです。キリスト信仰者が他者のために祈る時もこの原理に基づくのです。

 こういう祈りの原理に基づいて祈る時の祈りのテクニックにはいろいろあります。その一つを最後に紹介したく思います。それは、神に障害物を取り除いてもらいたいのなら、本気でそれをあたかも粗大ゴミのように神に投げ捨てるように祈るということです。そのことが「ペトロの第一の手紙」5章7節にあります。新共同訳では「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです」ですが、この訳は少し弱いです。原文のギリシャ語はもっと強くて「思い煩いは、何もかも神に投げ捨ててしまいなさい。なぜなら神はあなたがたの面倒をみて下さる方だからです」となります。新共同訳の「神は心にかけてくれる」では弱すぎます。「神は面倒をみてくれる」のです。英語やドイツ語やスウェーデン語やフィンランド語の聖書の訳をみても、強い意味をとっています。フィンランドでは、キリスト信仰者は試練にある兄弟姉妹を励ます時によくこの聖句を贈り言葉に用います。日本の信仰者はどの聖句を贈り言葉にするでしょうか?この聖句をもとにルターが祈りのテクニックを教えているので最後にそれを引用して本説教の締めにしたいと思います。

「君たちは抱えている課題を自分の重荷に留めてしまってはいけない。なぜなら、君たちはそれを負い続けることは出来ないからだ。そんなことをしていたら、やがてそれに押し潰されてしまうであろう。そうではなくて、重荷をかなぐり捨てて、それを喜んで安心して神に投げ捨てて、神が処理してくれるのに任せるのだ。そして次のように祈るべきである。『父なるみ神よ、あなたは私が仕えるべき主であり、私の神です。あなたは、私がまだ存在しない時に私を造って下さり、それだけでなく、あなたのひとり子イエス様を通して私を罪と死の奴隷状態から自由の身にして下さいました。そのあなたが、成し遂げよ、と言ってこの課題を私に与えて下さいました。しかし、それは私が望む通りにはうまくいきませんでした。多くの事柄が私の心身を重苦しくして、心配事が次々に押し寄せてきます。もう自分自身で助けも助言も見つけられません。どうか、あなたが助けと助言をお与えください。どうか、これら全ての課題や困難や心配事の中であなたが全てを掌る全てになって下さい。』

 この祈りは真に神の御心に沿う祈りである。神が私たちにせよと言っておられるのは、与えられた課題に取り組むことだけである。それ以上のこと、例えば取り組みがどんな結果をもたらすかの心配は君たちのところではなく神のところにあればよいのだ。

 このように祈ることが出来るキリスト信仰者の課題や心配事への向き合い方は他の者たちよりも勝っている。キリスト信仰者は心配事の鎖から自由になる術を心得ている。他の者は自分で自分をいじめるような不幸を背負い、しまいには希望のない状態に陥ってしまう。それに対して、キリスト信仰者は次の聖句を手に握りしめている。『思い煩いは何もかも神に投げ捨てよ。なぜなら、神はあなたがたの面倒をみて下さる方だからだ。』そして、この御言葉は真にその通りであると信じて疑わないのである。」

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

2021年10月17日(日)聖霊降臨後第21主日 主日礼拝

主日礼拝説教 2021年10月17日 聖霊降臨後第21主日

イザヤ53章4-12節

ヘブライ5章1-10節

マルコ10章35-45節

礼拝をYoutubeで見る

説教題 「神の国の一員として ― 君はなぜイエス・キリストの言うことをを聞くのか?」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

本日の福音書の箇所は読み通すと一見わかったような気がします。ああ、イエス様の弟子のヤコブとヨハネがイエス様に、あなたが王座についたら私たちを右大臣、左大臣にして下さいとお願いした、この抜け駆けに他の弟子たちが憤慨し、それをイエス様が諫めて言う、大いなる者になりたい者は仕える使えるものになれ、上に立ちたい者は全ての人の召使い(ギリシャ語のδουλοςは「奴隷」の意味もあります)になれ、と。これを読んで大抵の人は、ああ、イエスは人のために尽くす人こそ偉い人なんだと教えているんだな、地位の高い人はそれを振りかざしてはいけない、謙虚になれと教えているんだな、と思うでしょう。日本は今衆院選の真っ最中です。候補者は当選したら選挙運動中に見せた謙虚さを忘れないでほしいと思います。

ところで、謙虚になれとか、人に仕えよということは別にキリスト信仰者でなくても美徳だとわかります。イエス・キリストが言ったから謙虚になる、人に仕える者になるという人はイエス様を尊敬し権威を感じるから従ってそうします。もし尊敬する人、権威を感じる人が別にある人はそれに従ってそうします。ひょっとしたら、自分は権威を感じる者などない、自分は自由意志でそうするのだという究極の美徳追及者もいるかもしれません。いずれにしても、誰かを尊敬して権威を感じるからその人の教えに従うというのは、キリスト教にも見られることです。しかし、大事なことは、なぜイエス様を尊敬し権威を感じるか、その答えをはっきり持っているかということです。それがはっきりしないまま尊敬したり権威を感じるというのはわけがわからないでそうすることになります。これは他の尊敬者、権威者の場合も同じです。

イエス様がなぜ尊敬に値し権威を感じる方なのか、その答えは本日の三つの聖書の個所でも教えられています。要約して述べると、イエス様は私たち人間が今のこの世と次に到来する世の双方にまたがって生きられるようにして下さった方、それを自分の身を投げうってして下さった、だから尊敬に値し権威を感じる方なのです。今日はこのことを確認していきましょう。

2.現世的なメシアと王国、終末論的なメシアと王国

まず、ヤコブとヨハネがイエス様に大臣にして下さいとお願いする直前に何があったか見てみます。イエス様はエルサレムで起こる自分の受難と死そして死からの復活について預言しました。これは本日の日課には含まれていませんが、この預言の直後に二人がお願いしたというタイミングが重要です。このタイミングが何を意味するかわかればイエス様がなぜ尊敬に値し権威を感じる方かわかる出発点に立てます。二人の弟子は、イエス様が死と復活を預言した時、いよいよイエス様を王に抱く神の国が実現すると直感したのでした。それで閣僚ポストを要求したのです。イエス様の死と復活が神の国の到来とどう関係するのか?ことは聖書の歴史に立ち入ることなので現代日本にいる私たちには縁遠く感じられるかもしれません。しかし、これを見ることでかえってイエス様の権威が身近に感じられるようになります。

イエス様が地上におられた時代のユダヤ教社会では、民族の将来について次のような期待が抱かれていました。かつてのダビデ王のような王が登場して、ダビデ家系の王がみなそうだったように油を注がれて聖別された者になる、つまりこれがメシアと呼ばれる者ですが、その新しい王が民族を支配しているローマ帝国を打ち破って、かつてのような王国を再興してくれる、さらに彼は諸国に大号令をかけて従わせる、こうして世界に神の国イスラエルを中心とする平和を実現させる、そういう壮大な期待です。そのような期待が抱かれていたのは、旧約聖書にそのことを預言しているとみられる箇所がいろいろあるからです。例えばミカ書5章には、ベツレヘムからユダ族出身の支配者が現れて外国勢力を打ち破るという預言があります。イザヤ書11章には、ダビデ家系の子孫が現れて天地創造の神の意思に基づく秩序を世界に打ち立てるという預言があります。同じイザヤ書2章には、世界の諸国民が神を崇拝しにこぞってエルサレムにやってくるという預言があります。

こうした預言をみれば、将来ダビデ家系から卓越した王が出て外国勢力を追い払って王国を復興し、世界に大号令をかけるという期待が生まれたとしても不思議ではありません。福音書の中に「熱心党」と呼ばれるグループが登場します。これは占領者ローマ帝国に対して反乱を起こして武力で独立を回復しようと目論んでいた人たちでした。イエス様の弟子たちの中に「熱心党のシモン」という人が出てきますが、きっとイエス様が武力で王国を再興させる指導者と思ったのでしょう。しかし、イエス様が十字架にかけられて処刑されてしまっては、期待外れ以外の何ものでもなかったでしょう。

このような、ダビデ家系の王が現れて民族自決国家を実現するという考えは、この現世に実現するものです。現世的な王です。ところが、当時のユダヤ教社会には、メシアや王国についてもっと違った考えもあったのです。今存在するこの世はいつか終わりを告げる、その時、今ある天と地は創造主の神により新しい天と地に再創造される、その時、今存在するものは崩れ去り、ただ一つ崩れ去らないものとして神の国が現れる。まさにこの天地大変動の時に死者の復活が起こり、創造主の神に義とされた者は神の国に迎え入れられる、というこれまた壮大な考えです。この一連の大変動の時に神の手足となって指導的な役割を果たすのがメシアでした。終末論的なメシアと神の国の考えです。現世的なメシアと王国復興の考えと随分違います。このような考えを示す書物が、紀元前2,3世紀からイエス様の時代にかけてのユダヤ教社会に多数現れました(例として、エノク書、モーセの遺言、ソロモンの詩編があげられます。さらに死海文書の中にも同じような考え方が見られます)。

どうしてこのような終末論的な考えがあったかというと、実はこれも旧約聖書にそういうことを預言している箇所があるからです。今ある天と地が新しい天と地にとってかわられるというのは、イザヤ書60章、65章にあります。死者の復活と神の国への迎え入れについてはダニエル書12章、今の世の終わりの時に指導的な役割を果たす者が現れるということはダニエル書7章にあります。この考えに立つと、これまで現世的な王の下で現世的な王国復興を実現すると言っているように見えた旧約聖書の預言は、実は次に到来する世の出来事を意味するものと理解が組み替えられていきます。終末論的なメシアや神の国の考えからすれば、現世的なメシアや王国復興の考えはまだ旧約聖書の預言をしっかり取り込めていないことになります。

こうしてみるとヤコブとヨハネはイエス様の死と復活の預言を聞いて神の国の到来を直感したので、終末論的な神の国の考えを持っていたと言えます。しかしながら、彼らのメシアと神の国の理解はまだ正確ではありませんでした。神の国は死者の復活に関係があるとわかってはいても、その国は現世の国のように支配層と非支配層があると考えて、それで自分たちを大臣にして下さいとお願いしたのでした。イエス様は、神の国はそういうものではないと教えるのです。お前たちの間で大いなる者になりたい者は互いに仕える者になりなさい、お前たちの間で第一の者になりたい者は全ての者の僕になりなさい、人の子は仕えられるために来たのではない、仕えるために、そして自分の命を多くの人たちのための身代金として捧げるためにきたのである、と。つまり、神の国の一員になる者は誰かが他の人の上に立って支配するのでなく、お互いが仕え合っているというものである。王であるイエス様が自分の命を犠牲にしてまで仕える立場に徹した以上、その王に従う者はみなそれに倣うのが当然というのです。

ヤコブとヨハネが示したような終末論的な神の国の考えは、確かに旧約聖書の預言に基づくものでした。現世的なメシアと王国復興の考えよりも旧約の預言を深く理解しているように見えます。しかし、それでもまだまだ大事なものが沢山抜け落ちていたのです。本日の旧約聖書の日課イザヤ書53章には、神の僕が人間の救いのために自分を犠牲にするという有名な預言があります。この預言はイエス様の十字架と復活の出来事が起きる前はあまり有名ではなかったと思われます。というのは、神の国を興し栄光に輝く者が苦しみを受けて打ち捨てられるなど理解不能だからです。使徒言行録8章に出てくるエチオピアの高官はイザヤ書53章は一体誰のことを言っているのか途方に暮れていました。しかし、十字架と復活の後は不可解でもなんでもなくなりました。もちろん、イエス様は最初から全てをご存知でした。言うまでもなく、彼は創造主の神のひとり子なので神の意思をよく知り得る立場にあったからです。それで旧約聖書を正確に理解し人々に教えたのでした。さらに彼の場合は、神の意思について正しい理解を持っていただけではなく、神の意思、神が望んでいたことを実現することもやってのけたのです。

3.キリスト信仰者はイエス様の言われることが当然になる

イエス様は神が望んでいたことをやってのけた、その神の望んでいたこととは何だったのでしょうか?人間は神の意思に反しようとする罪を持ってしまったために神との結びつきを失ってしまった状態にある、その状態を変えて人間が神との結びつきを持ててこの世を生きられるようにしよう、ということでした。この結びつきは、逆境の中にいようが順境だろうが何ら変わらない結びつきなので、いつも神から守られ導いてもらえることになります。どこに導いてくれるのかというと、この世から別れた後、復活の日に目覚めさせられて復活の体、朽ちない神の栄光に輝く体を着せられて神の国に迎え入れられるところにです。そのような結びつきを持てるように、それを持てなくしてしまっている罪の問題を解決するために神はイエス様はこの世に贈られたのでした。人間の罪を全てこのひとり子に背負わせてゴルゴタの十字架の上に運び上げさせ、そこで人間に代わって神罰を受けさせたのでした。

そこで人間がこのイエス様の犠牲の死は自分のためになされたのだとわかってそれでイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、イエス様が果たして下さった罪の償いを受け取ることができます。罪を償ってもらったのだから神から罪を赦された者として見てもらえるようになります。神からそう見てもらえるようになると神との結びつきを持てて生きられるようになります。まさに本日の旧約の日課イザヤ書53章で預言されていたこと、「彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」、これがその通り起こったのです。与えられた平和とは、新約聖書では「神との平和」と言われます。まさに神との変わることのない結びつきです。新共同訳では「彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」とありますが、ヘブライ語の原文を直訳すると「彼と一緒になることで私たちは癒された」です。彼と一緒になるというのは、洗礼を受けてイエス様の死と復活に結びつけられるということです。癒されたというのは、罪という霊的な病から癒され、神罰を受けないで済むようになったということです。

イエス様は十字架で死なれてそれで終わったのではありませんでした。三日後に神の想像を絶する力で復活させられて、死を超える永遠の命があることをこの世に示され、そこに至る道を人間に切り開かれたのです。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者は、その道に置かれてそれを歩むようになったのです。その道は変わることのない神との結びつきを持てて歩む道です。

イザヤ書53章10節「病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ、彼は自らを償いの捧げ物とした。」原文を直訳すると「主は彼を打ち砕くことを良しとし、彼を病める者にした。」つまり罪のない神のひとり子に人間の罪を背負わせて、あたかも彼が罪の病に冒された者にしたということです。それで神罰を受けるに相応しい状態にしたのです。

「彼は子孫が末永く続くのを見る。」原文を直訳すると「彼は後に続く者が長く生きるのを見る。」つまり、イエス様を救い主と信じ洗礼を受けた者が神の国に迎え入れられて永遠の命を生きるということです。

「主の望まれることは彼の手によって成し遂げられる。」原文を直訳すると「主の望まれることは彼を通して成功する」または「主の喜びは彼を通して強められる」とも訳せます。まさにイエス様の十字架と復活の業を通して神が望んでいたことが成功裏に実現したということです。その神が望んでいたこととは人間が神との結びつきを持てて今のこの世と次に到来する世の双方を生きられるようにすることです。それが実現したので神は大いに喜んだということです。

キリスト信仰者がイエス様の言われることを聞いて従うのは、このように神に喜ばれる状態にして下さった方なので聞き従うのが当然という心になっているからです。もちろん、自分は神の目から見て至らないことだらけでとても喜ばれる状態になどない、と思ってしまうのですが、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼がある以上は、神との結びつきを持てて二つの世にまたがって生きるということはその通りです。神に喜ばれる状態にいることに変わりはありません。至らないことがあれば、罪の赦しに戻ってそこに留まればいいのです。

4.互いに仕え合い、重荷を背負い合うということ

そこで仕える者になれというイエス様の命令について見てみます。神の国への迎え入れというのは復活の日まで待たなければなりません。しかし、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた段階で人はそこに至る道に置かれて今それを歩んでいます。その意味で神の国の一員としての人生が始まっています。今のこの世にあって見えない形での一員ですが、復活の日にそれが見える形になるのです。

今この世にあって見えない形ではあるが既に神の国の一員であるならば、お互いが仕え合うようにしなければならない、とイエス様は教えられるのです。ルターは、神の国への迎え入れに至る道を歩むことを旅路に例えて、信仰者はみな旅路の途上にあると言っています。ある者は先にいて別の者は後ろにいる。歩みが早かろうが遅かろうが問題はない、ただ私たちが歩む意思を捨てずに進んでいれば神は満足される、そして復活の日に主が私たちの信仰と愛の欠けていたところを一気に満たして瞬く間に私たちを永遠の命を持って生きるものに変えて下さる、と教えています。

この旅路において、ルターは、いつもお互いの重荷を背負いあわなければならないと教えます。それは、イエス様が私たちの罪の重荷を背負って下さったことから明らかなように、信仰者は誰一人として完全な者はいないのであり、それだからこそ背負い合わなければならないのだと。

信仰者がお互いの重荷を背負い合うというのは、神の国への迎え入れに向かう道をしっかり歩めるように助け合い支えあうということです。物心両面でそうすることです。物質的な問題のために歩みが難しくなるのなら、それを支援する、心の面で難しくなるのなら、祈りをもって支援します。それともう一つ、お互いの弱点や欠点という重荷を背負い合うこともあります。あの人はなぜあんなことを言ったのか、人の気も知らないで!とならない、きっと不注意とか言葉足らずだったのだろう、人間的な弱さだろう、それはこの自分にもある、だから本気で私の全てをそう決めつけたのではないのだ、そのように考えてそれ以上には進まないことです。ルターは、不和や仲たがいの火花にペッと唾を吐きかけて消しなさいと教えます。さもないと大量の水をもってしても消せない大火になってしまうと。水ではなく唾を吐いて消せというのがいいです。それ位、イエス様に背負ってもらった者が他人の欠点や弱点に目を奪われることは軽蔑すべきことだということです。

以上申し上げたことは、キリスト信仰者が神の国への迎え入れの道を歩めるようにお互いに仕え合い、重荷を背負い合うということでした。そのように言うと、じゃ、相手が信仰者でなかったら仕え合い背負い合いは関係ないのか、同じ道を歩いていないのだから、という疑問が起こるかもしれません。それについては、神の望まれることはなんであったかを思い起こせば答えは明らかになります。神は全ての人が神との結びつきを持てて神の国への迎え入れの道を歩めるように、とひとり子を贈られたのです。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

2021年10月10日(日)聖霊降臨後第20主日 主日礼拝

主日礼拝説教2021年10月10日 聖霊降臨後第20主日

アモス5章6-7,10-15節

ヘブライ4章12―16節

マルコ10章17-31節

説教題 「人間には不可能でも神には不可能ではないこと」

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私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

本日の福音書の個所のイエス様の教えには難しいことが少なくとも二つあります。一つは、金持ちが神の国に入れるのは駱駝が針の穴を通り抜けるよりも難しいと言っていることです。ああ、イエス様は、金持ちは神の国に入ることはできない、と言っているんだな、と。じゃ、貧乏人ならそうできるのかと言うと、そうでもないことが弟子たちの反応からうかがえます。金持ちがダメだから貧乏人は大丈夫なんだ!よかった!という反応はありません。金持ちが神の国に入るのは駱駝が針の穴を通り抜けるより難しいのだったら、いったい誰が救われるのだろうか?と言っています。つまり、金持ちでさえダメなんだからみんな無理だという反応です。ここには金持ちこそ神の国に入りやすいという考え方が見え隠れしています。その辺のところを注意すると、イエス様の教えがよく分かるようになります。後ほど見てまいりましょう。

もう一つの難しい教えは、親兄弟家財を捨てないと永遠の命を持てないと言っていることです。そこまでしないと永遠の命が得られないと言うのなら、十戒の第四の掟で「汝、父母を敬え」と言っているのはどうなるのか?イエス様だって「隣人を自分を愛するがごとく愛せよ」と教えていたではないか?家財ならともかく親兄弟を捨てよ、とは矛盾も甚だしいのではないか?そういう疑問が起きます。ここは、新約聖書が書かれたギリシャ語の原文とルターが説き明かししていることを視野に入れて見直すと矛盾がないことがわかります。このことも後ほど見ていきましょう。

2.「神の国」、「永遠の命」について

まず、「神の国」とか「永遠の命」とは何か、確認する必要があります。聖書、特に新約聖書によく出てくる言葉です。意味をあいまいにしたまま話をすると議論はいろんな方向に飛び散って収拾がつかなくなります。男の人は、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるのか?と聞きました。「永遠の命」と聞くと、普通は死なないこと、不死を思い浮かべます。この世で何百歳、何千歳になっても死なないで生き続けることです。どこかで読んだのですが、グーグルには研究所があって不死の研究をしているとのことです。果たしてそれは良い研究でしょうか?

聖書で言われる「永遠の命」は不死とは違います。それは、一度この世で死ぬことを前提としています。それじゃ、不死ではないではないかと言われてしまいますが、不死ではないのです。キリスト信仰では、将来いつか今あるこの世が終わって新しい天と地が再創造される日が来る、その時すでに死んでいて眠りについていた人たちが起こされて、神から義(よし)とされた者は復活の体という朽ちない体、神の栄光を映し出す体を着せられて、創造主の神の御許に永遠に迎え入れられる、そういう復活の信仰があります。このように復活を遂げて造り主である神の御許に迎え入れられて永遠に生きる命が「永遠の命」です。それなので、この世を離れてから復活の日までの間は神のみぞ知る場所にいて眠っていることになります。イエス様は死んだ人を蘇らせる奇跡を起こされましたが、それは将来死者を復活させる力があることを人々にわからせるためでした。奇跡を起こす時イエス様は、この人は死んではいない、眠っているだけだ、と言っていたことを思い出しましょう。

復活した者たちが迎え入れられる神の御許が「神の国」です。そこはどんなところかは聖書に言われています。まず、盛大な結婚式の祝宴に例えられます(黙示録19章、マタイ22章、ルカ14章)。これは、この世の労苦が完全に労われるところということです。また、「全ての涙が拭われる」ところとも言われています(黙示録21章4節、7章17節、イザヤ25章8節)。「全て」ですから、痛みの涙も無念の涙も全部含まれます。この世で被った不正義や悪が神の手で完全かつ最終的に清算されるところです(ローマ12章19節、イザヤ35章4節、箴言25章21節)。もう復讐心に引き回される苦しみも泣き寝入りの辛さも味わなくてすむところです。もう一つ、聖書には直接そう言われてはいませんが、「神の国」は懐かしい人たちとの再会の場所でもあります。フィンランドの教会の葬式ではいつも「復活の日の再会の希望」ということが言われます。

そういう復活した者たちが迎え入れられるところをキリスト教では「神の国」とか「天の御国」とか「天国」とか言います。そういうわけで、永遠の命を得るというのは復活させられて永遠の「神の国」に迎え入れられるということです。

3.「永遠の命」は人間の力や努力で獲得できるものではない

さて、男の人は、永遠の命を受け継ぐには何をすべきか、と聞きました。「受け継ぐ」というのはギリシャ語の単語(κληρονομεω)の直訳ですが、まさに財産相続の意味を持つ言葉です。男の人はお金持ちだったので、永遠の命というものも、何か正当な権利があって所有できる財産か遺産のように考えていたのでしょう。自分は何をしたらその権利を取得できるのか?十戒の掟も若い時からしっかり守ってきました、もし他にすべきことがあれば、おっしゃって下さい、それも守ってみせます、全ては永遠の命を得るためですから、と迫ったのです。これに対してイエス様はとんでもない冷や水を浴びせかけました。「お前には欠けているものがひとつある。所有する全ての物を売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすればお前は天国に宝を持つことになる/持つことができる(εξεις未来形)。それから私に従って来なさい」と答えました。「天国に宝を持つ」とは、まさに永遠の命をもって神の国に迎え入れられることを意味します。地上における富と対比させるために、永遠の命を天国の宝と言ったのでした。

男の人は悲しみに打ちひしがれて退場します。永遠の命という天国の宝を取るか、それとも地上の富を取るかの選択に追い込まれてしまいました。一見するとこれは、人間というのは天国の宝という目に見えないものよりも目に見え手にすることができる地上の富に心が傾いてしまうものだ、というどこにでもある教訓話に見えます。しかし、ここにはキリスト信仰ならではのもっと深い意味があります。それを見てみましょう。

この男の人は、単なる私利私欲で富を蓄えた人ではありませんでした。まず、イエス様のもとに走り寄ってきます。そして跪きます。息をハァハァさせている様子が目に浮かびます。永遠の命を受け継げるために何をしなければならないのですか、本当に知りたいのです、真剣そのものです。イエス様に十戒のことを言われると、若い時から守ってきています、と。これは、自分が非の打ちどころのない人間であると誇示しているというよりは、自分は若い時から神の意思を何よりも重んじて、それに従って生きてきましたという信仰の証しです。イエス様もそれを理解しました。新共同訳には「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた」と書いてありますが、「慈しんで」というのはギリシャ語の原文では「愛した(ηγαπησεν)」です。イエス様がその男の人を「愛した」とは、その人の十戒を大事に思う心、神の意思を重んじる心が偽りのないものとわかって、それで、その人が永遠の命を得られるようにしてあげたいと思ったということです。ところが同時に、その人が永遠の命を得られない大きな妨げがあることも知っていました。その妨げを取り除くことは、その人にとって大きな試練になる。その人はきっと苦悩するであろう。イエス様は、そうしたことを全てお見通しだったのです。愛の鞭がもたらす痛みをわかっていました。そして愛の鞭を与えたのです。

それでは、この男の人の問題は一体なんだったのでしょうか?それは、神の掟をしっかり守りながら財産を築き上げたという背景があったため、なんでも自分の力で達成・獲得できると思うようになり、永遠の命も財産と同じように自分の力で獲得できるものになってしまったということです。神の意思に従って生きて成功した人は往々にして、自分の成功はそうした生き方に対する神からのご褒美とか祝福と考えるようになることがあります。

ここで参考に詩篇1篇を見てみます。「主の教えを愛して、それを昼も夜も口ずさむ人」はどんなに神から祝福を受けるかということが述べられています。「主の教え」というのは、ヘブライ語でトーラー(תורה)で、まさに律法ないし十戒を指します。そのような人は「流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない。その人がすることはすべて、繁栄をもたらす」と言われています。男の人の生き方は、一見すると詩篇1篇で言われていることを絵に書いたような具体例に見えます。

ところが、この詩篇の理解の仕方について、聖書の研究者たちからは、これは律法を守れば褒美として神から繁栄をいただけると理解してはいけないとの指摘がなされてきました。ある研究者は、この箇所は、人間が自分の造り主の定めた掟を守って生きればちゃんと育って実を結ぶ木のようになると言っているだけで、必ずしも金持ちになるという意味ではない、金持ちでなくてもいろんな育ち方や実の結び方がある、と言っています。また別の研究者は、十戒を守る人の成すことは金持ちであろうがなかろうが、すべて神の目から見てよいものである、ということを意味しているにすぎないと言います。いずれにしても、詩篇1篇は数で量られる繁栄をもって神の祝福のあらわれであると理解しないように注意しなければなりません。

しかしながら、そういう理解を教わっていないところでは、どうしても、十戒をしっかり守って財産を築き上げたというのは、やはり神からの祝福の現われ、神の祝福は努力に対するご褒美と考えてしまうのは人情でしょう。それで弟子たちが驚きの声をあげたこともよく理解できます。神から祝福を受けて繁栄した人が神の国に入れるのは駱駝の針の穴の通り抜けよりも難しいと言うのならば、それでは、それほど祝福を受けていない人はどうなってしまうのか?駱駝どころかディノザウルスが針の穴を通るよりも難しくなってしまうのではないか?財産を売り払ってしまいなさい、というイエス様の命令は、今まで神の祝福の現れと考えられていた財産が永遠の命に直結しないことを思い知らせるショック療法でした。永遠の命は、人間の力や努力で獲得できるものではないということを金持ちにも弟子たちにも思い知らせたのでした。

4.人間が永遠の命を持てるようにしてくれたのは神、人間はただ信じて受け取るのみ

それならば、永遠の命を得て神の国に迎え入れられるのはどうやって可能でしょうか?イエス様は言われます。人間には不可能なことでも神には不可能ではない、と。人間の力で永遠の命を得ることが出来ないのなら、神が出来るようにしてやろうということなのです。どのようにして出来るようにするのでしょうか?

神はそれをイエス様の十字架と復活の業をもって出来るようにしたのでした。イエス様は人間の力の限界をわらかせた上で、自らその限界を人間にかわって超えてあげる、そうすることで人間が永遠の命を持てるようにする、そういうことをされたのです。イエス様は、人間が持つ神の意志に反すること全て、行い、考え、言葉すべてにおいて神の意志に反すること、そういう人間が永遠の命を持てなくなって神の国に迎え入れられなくなるようにしている壁を打ち破ろうと身を投じたのです!それで、ゴルゴタの十字架の上で自分を犠牲にして神の怒りと神罰を人間の代わりに受けられて、人間が受けないで済むようにして下さったのです。人間は、この身代わりの犠牲の死は自分のためになされたとわかって、だからイエス様は救い主だと信じて洗礼を受けると神から罪を赦された者としてみてもらえるようになります。神からそう見てもらえるようになると今度は神との結びつきを持ってこの世を生きられるようになります。この神との結びつきは、人間が罪の赦しの中にとどまっている限りなくなることはありません。この結びつきのおかげで逆境の時も順境の時もいつも変わらない神の守りと導きのもとで生きることができます。そして、この世から別れることになっても復活の日に目覚めさせられて、神の栄光に輝く朽ちない復活の体を着せられて神の国に迎え入れられます。そういう結びつきを持てるようになったのです。この大いなる救いは人間が成し遂げるものなんかではなく、神がひとり子を用いて成し遂げた業になったのです。人間はそれを信じて受け取るだけになったのです。

5.親兄弟家財を心で捨てるということ

そうすると一つ疑問が起きます。永遠の命を持てて神の国に迎え入れられることは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで果たされる、つまり、信仰と洗礼があれば天に宝を持つことになるというのなら、親兄弟家財を捨てることはどうなるの?という疑問です。イエス様は捨てないと持てないと言っているのではないのか?ここは、ギリシャ語の原文の難しさがあるところですが、そこには立ち入らないでルターが恐らくそれを踏まえて教えているので、それに沿って見ていきます(後注)。

ルターは、親兄弟家財を持っていてもイエス様を救い主と信じる信仰と衝突しない限り持っていいのだ、律法の掟に従って父母を敬い、財産を人々のために役立てよ、と教えます。ただし、持つことと信仰が衝突して、どっちかを選ばなければならないという局面に立たされたら、親兄弟家財を捨てよ、と教えます。そういうな心構えでいることは、衝突がない時でも既に「心で捨てている」のだと言います。「捨てる」とは「心で捨てている」ということです。「心で捨てる」なんて言うとなんだか真心がこもっていない冷たい感じがしてしまいます。しかし、そうではないのです。先週の説教でも申し上げたように、親兄弟家財は全て神から世話しなさい守りなさい正しく用いなさいと託された贈り物です。贈り主がそう言って贈った以上は感謝して受け取って一生懸命に世話し守る。大事なことは贈り主が贈り物よりも上にあるということです。もし、贈り物が贈り主を捨てろ、と言ってきたら、信仰者は贈り主ではなく贈り物の方を捨てなければならないということです。

信仰と洗礼によって神との結びつきを持てるようになった、この世と次に来る世の双方を生きられるようになった、永遠の命、神の国、復活の日の再会が待っているんだと希望に燃えていれば、贈り物は贈り物にとどまります。贈り主を超えることはありません。イエス様が十戒の10の掟を2つの大原則にまとめた時、一番目に来るのが「神を全身全霊で愛せよ」でした。「隣人を自分を愛するがごとく愛せよ」は二番目に来ると教えました。これはまさに、贈り物を贈った方が上に立つことを言っているのです。

ここで一つ難しい問題は親がキリスト信仰に反対して捨てよと言ってきた場合です。この場合、「心で捨てる」はどうなるでしょうか?贈り物と贈り主が衝突したから贈り物を捨てて家を出るということになるのでしょうか?イスラム教国のようにキリスト教徒になれば家族といえども身の危険が生じる場合は家を出るのはやむを得ないと思います。現代の日本ではそういう危険はないでしょう。家に留まっても、イエス様と福音を選んで永遠の命と神の国への道を歩んでいれば、それに反対する親を心で捨てているということは起きています。同じ屋根の下にいて「心で捨てている」などと言うと、何か冷え切った人間関係の感じがしますが、少なくとも信仰者の側ではそうではありません。そのことを最後に述べて、本説教の締めにしたいと思います。

これは以前にもお話したことですが、私が昔フィンランドで聖書の勉強を始めた時、教師に次のような質問したことがあります。「もしキリスト信仰者でない親が子供のキリスト信仰を悪く言ったり、果ては信仰を捨てさせようとしたら、第4の掟『父母を敬え』はどうしたらよいのか?」彼は次のように答えて言いました。「何を言われても取り乱さずに落ち着いて自分の立場を相手にも自分にもはっきりさせておきなさい。意見が正反対な相手でも尊敬の念を持って尊敬の言葉づかいで話をすることは可能です。ひょっとしたら、親を捨てる、親から捨てられる、という事態になるかもしれない。しかし、ひょっとしたら親から宗教的寛容を勝ち得られるかもしれないし、場合によっては親に信仰の道が開ける可能性もある。だから、すべてを神のみ旨に委ねてたゆまず神に自分の思いと願いを打ち明け祈りなさい」ということでした。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

(後注)マルコ10章29~30節は二つの解釈が可能です。

まず、ギリシャ語原文

ουδεις εστιν ος αφηκεν οικιαν η αδελφους η αδελφας η μητερα η πατερα η τεκνα η αγρους ενεκεν εμου και ενεκεν ευαγγελιου,

εαν με λαβε εκατονταπλασιονα νυν εν τω καιρω τουτω οικιας και αδελφους και αδελφας και μητερας και τεκνα και αγρους μετα διωγμων, και εν τω αιωνι τω ερχομενω κ ι ζωην αιωνιον.

1)εαν 以下を関係節ος αφηκεν (…) の中に含めてος(αφηκεν …)εαω μη λαβη (…) と見なす解釈

「親兄弟家財を私と福音のために捨てて、それらをこの世で迫害は伴うが100倍にして得ない者、次の世で永遠の命を得ない者は誰もいない。」

つまり、親兄弟家財を捨てたらこうしたものを得られるのだということで、 これはスタンダードな解釈です。これだと、捨てないと得られないということになり捨てろというプレッシャーがかかります。

2)主節文をουδεις εστιν (…)του ευαγγελιουまでとして、εαν 以下は英語のifの文と同じように考える解釈

「親兄弟家族を私と福音のために捨てた者はいない、もし(捨てたものを)この世で100倍にして得ず、次の世で永遠の命を得ないのならば。」

この解釈だと、イエス様を救い主と信じる信仰と洗礼で永遠の命を先に得たのなら、あとはそれを失わないように生きようとするので親兄弟家財という贈り物はいつでも捨てられる、心で捨てている、ということになります。ルターはここをこのように解釈したのではないかと思います。

特別の祈り

全知全能の父なるみ神よ。
イエス様が十字架にかけられたことで、私たちに対するあなたの愛が示されました。どうか私たちが、あなたから愛と恵みをいつも注がれていることを忘れず、あなたを信頼して日々を生きられるようにして下さい。そして至らない私たちも復活の日に御国の栄光に与ることができるように、今ここで私たちを支え導いで下さい。
あなたと聖霊と共にただ一人の神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストのみ名を通して祈ります。アーメン

2021年10月3日(日)午前10時30分から 聖霊降臨後第19主日 主日礼拝

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主日礼拝説教2021年10月3日 聖霊降臨後第19主日

創世記 2章18-24節

ヘブライ 1章1-4節、2章5-12節

マルコ 10章1-16節

説教題 「神の創造の秩序と結婚」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.イエス様はなぜ、離婚は神の創造の秩序に反すると教えるのか?

またファリサイ派の人たちがイエス様を窮地に追い込んでやろうと質問してきました。今回は旧約聖書の申命記の24章に夫が妻に離縁状を書いて追い出してもよいという規定についてです。これもモーセの律法集の中にある規定の一つです。イエス様は活動を開始した最初の頃、十戒の第6の掟「汝、姦淫するなかれ」について、みだらな思いで他人の妻を見る者は心の中で姦淫を犯したことになる、と教えていました。また、離縁状についても伴侶が裏切ったという位の重い理由がない限り書いてはいけない、と教えました(マタイ5章)。それでイエス様が結婚をとても重んじていたことは知られていました。それなら、なぜモーセの律法に離縁状の規定があるのか?離縁状を書いて別れてもいいというのが神の御心ならば、このイエスは十戒をとても厳しく解釈して人々を驚かせているだけではないか。あいつを公衆の面前で立ち往生させてやるのにちょうどいい規定だ、そういう魂胆でした。

夫が妻と別れるのは許されるのかという質問に対してイエス様は、モーセは何を命じているかと聞き返します。ファリサイ派は待ってましたとばかり、離縁状の規定のことを言います。そこでイエス様は神のひとり子として父の意思を明らかにします。律法に離縁状の規定があって離婚を認めているのは、人間の心がかたくなになっていることを考慮した上でそうしたのだ、と。新共同訳では「心が頑固」と言いますが、それだと何か頑固おやじみたいな感じがしてしまいます。ギリシャ語のσκληροκαρδιαは「心がかたくなな状態」という意味です。「頑固」に比べてもっと深刻な状態のことを言います。どう深刻かと言うと、イザヤ書6章10節で神が罪深いイスラエルの民に罰を下すと宣言した時に、民の心を一層「かたくなに」するということがありました。それは、神の意思や業を見たり聞いたりできなくなるようにするということでした。それで、「心がかたくなな状態」というのは、神に対してかたくなになることで、神に背を向けて神の御心を知ろうともわかろうともしない状態のことを言います。

それでは、結婚について何が神の御心かと言うと、イエス様は「神が結び合わせたものを、人は離してはならない」、つまり結婚を壊してはいけない、離婚してはいけない、これが神の御心であると言います。どうしてそれが神の御心かというと、神の創造の秩序がそういうものだからだと言うのです。それでは、神の創造の秩序とはどのようなものか?イエス様は創世記2章を引き合いに出して言います。「天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々でなく、一体である。」イエス様の言葉が書かれているギリシャ語を見ても、彼が引用した創世記2章のヘブライ語を見ても、二人は「一つの肉」になると言います。つまり結婚というのは、神が人間を男と女に造り、男と女がある段階に達すると自分たちを生み出した父と母から離れて父と母がそうであったように一緒になることです。その一緒というのは神の目からすれば合体と言ってもいいくらいの結びつきです。そういう流れになるのが神の意思ならば、そういう神の意思に基づいて一度結びついたものを引き離すのは神の創造の秩序に反することになるのです。

それなら、なぜモーセ律法の中に離縁状の規定があるのか?そこが問題の核心でした。それは、神に背を向ける心のかたくなさが人間にあるからだ、とイエス様は明らかにします。神に対して心がかたくななため、神の御心を知ろうともわかろうともせず、伴侶を裏切って別の相手と一緒になるということが起きます。イエス様は、そのような重大なことが起きれば、離縁状はやむを得ないと言っているのであって、この相手にはもう飽き飽きした、とか、あっちの方がよさそうだ、という自分の都合で書いていいものではないと言うのです。離縁状はやむを得ないものとして認可されてはいるが、その発動は創造の秩序を損なうようなことが起きてしまった時であるというものです。創造の秩序を損なうことには、伴侶を裏切ることの他に伴侶に命の危険をもたらす事態も入れてよいと思います。そういう重大なこともないのに離縁状を書くのは、神の創造の秩序を損なうことになるので離婚はしてはいけないということなのです。

ここで気づかなければならない大事なことがあります。それは、人間の心からかたくなさが取れたら、つまり神に背を向けた生き方をやめよう、神の意思をわかって、それに沿うように生きよう、そういう心が得られれば、離縁状など不要になるということです。どうしたら、そんな心を持てるでしょうか?

ここで創造主の神がひとり子をこの世に送って私たち人間に何をして下さったかを思い返しましょう。ひとり子は十字架の死を遂げることで、神に意思に反する人間の罪を神に対して償って下さいました。人間は、この身代わりの犠牲の死は自分にためになされたとわかって、だからイエス様は救い主であると信じて洗礼を受けると神から罪を赦された者としてみてもらえるようになります。神からそう見てもらえるということは、神との間に平和な関係が築かれたことになります。この平和な関係は、人間が罪の赦しの中にとどまっていれば揺らぐことがなく、人間は逆境の時も順境の時も変わらぬ神の導きと守りの内に生きていきます。そして、この世から別れることになっても復活の日に目覚めさせられて、神の栄光に輝く朽ちない復活の体を与えられて、永遠の神の御許に帰ります。そこは懐かしい人たちとの再会の場所でもあります。

自分はこんな大いなる人生を歩んでいるのだとわかった人は、ちょっとしたことで相手を怒ったり責めたりせず、言葉を選んだりするようになります。万が一火花が散ってしまっても、イエス様の十字架を覚えているので赦しを与えることが自分にとっても相手にとっても大事なのだとわかります。自分が受けた大いなる赦しは、いつも自分に言い聞かせなければなりません。そうしないと、すぐ血と肉の思いに振り回されてしまいます。では、自分への言い聞かせはどうやってするのか?それは、聖書にある神の御言葉が宣べ伝えられるのを聞くこと(ちょうど今みなさんされているように)、また自分で聖書を繙くことです。

ここで少し脱線しますが、フィンランドでは夫婦関係のセミナーが合宿形式でよく開催されます。女性も各界で男性と対等ないしそれ以上の立場で渡り合う社会で、女性が男性のために我慢するとか一歩も二歩も譲るということがないので夫婦関係は摩擦が顕在化しやすいと思います。それで夫婦関係セミナーということなのですが、週末とか夏休みの期間、自然の中の研修所にて、専門家の講義があったり参加者みんなでゲーム形式でコミュニケーション能力高めたり、お互いが経験や悩みを分かち合ったりします。私は参加したことはないのですが、ただ知的障がい者の親のためのセミナー合宿には2回ほど参加したことがあります。子供は子供のプログラムがあり、親のプログラムには夫婦関係のこともありました。これらの合宿セミナーは教会が主催するものもあれば、それ以外の団体が主催するものもあります。教会が主催するものであれば、もちろん赦しの実践ということが大事なテーマになります。夫婦関係というものは無意識にしきたり任せで保たれるという考え方ではなく、両者が意識して自覚して保っていくという考え方なのではと思います。

2.イエス様はなぜ、離婚した後の再婚は姦淫になると教えるのか?

イエス様は、夫婦は別れてはいけないということに加えて、離婚した後の再婚は姦淫、姦通になるという驚くようなことも言われます。日本語の「姦淫」とか「姦通」と言う言葉ですが、ドイツ語、スウェーデン語、フィンランド語の言葉はとても単純明快でずばり「結婚を破ること、壊すこと、結婚に対する罪」という言葉です(Ehebruch, äktenskapsbrott, aviorikos)。英語の言葉はadulteryで、その意味は英英辞書を見ると「結婚している者が、結婚相手ではない者と自発的に性的関係を持つこと」とあります。つまり、日本語の姦淫とか姦通は、最近の日本でもよく耳にする「不倫」ということになります。

そこでイエス様が離婚後の再婚を姦淫と言うのは少し言い過ぎではないかと思わされます。正式に離縁したのであれば、もう結婚関係はないから、新しい相手と一緒になっても結婚を壊したことにならないのでは?しかし、イエス様はそう思わない。なぜでしょうか?それは、先ほど見た神の創造の秩序から見てそうなるからです。

男性と女性がそれぞれ生まれ出てきた父と母のもとを出て神が結びつけて一つの肉になる、これが結婚ということになります。姦淫とは、外部のものが入ってきて一つの肉を引き裂いてしまうこと、せっかく神が結びつけたものを壊してしまうことです。そうすると、離婚の場合は違うのではないか、離婚したらもう結びつきを解消したのだから再婚は姦淫にならないのでは、そういう疑問が起きるかもしれません。しかし、イエス様はそうなるのだと言われる。どうしてでしょうか?それは、一度一つになった肉は人間の目では別々になって解消したとしても、神の目から見たら、一度一つになったことはとても大きなことで、その事実は原則上消せないということのようです。つまり、神が結びつけたものは神の記録にそうと記されます。人間が解消できたぞと思ったら、それは自分は神の結びつけの力よりも強いのだということになります。これは神は認めないでしょう。離婚の後の再婚をイエス様が姦淫と言うのは、神の記録に記されたことを人間は無効には出来ないということの裏返しです。

しかしながら、現実には離婚の後の再婚は沢山あります。イエス様の厳しい教えに従っていたら、「新しい出会い」や「人生の再出発」ができなくなってしまうと文句を言われるでしょう。それを神の意志に反するなどと言われては、もう神なんか相手にするものかという気持ちを起こすかもしれません。あるいは、自分の信じたい神様はそんな偏狭な方ではない、もっと物わかりのいいお方だ、という考えになってしまうかもしれません。どっちにしても創造主の神に対して心をかたくなにすることです。

どうしたらよいでしょうか?「新しい出会い」、「人生の再出発」と思っていたことは神の意志に反する、そう言った張本人のイエス様はどうしたでしょうか?他にも心の中で描いただけでも同罪だと言いました。そこまで厳しいことを沢山言って、人々に後ろめたい気持ちを持たせたり不愉快にさせて、自分は偉そうにふんぞり返っていたでしょうか?いいえ、そうではありませんでした。イエス様は、人間が持つ神の意志に反すること、行い、考え、言葉すべてにかかわる神の意志に反すること、これが神の怒りをもたらして人間が神との平和な関係を持てなくなっている状態を変えようとして身を投じたのです!それで、ゴルゴタの十字架の上で自分を犠牲にして神の怒りと神罰を人間の代わりに受けられて、人間が受けないで済むようにして下さったのです。

イエス様を救い主と信じる心には神から罪の赦しが注がれます。何も知らないで新しい出会いや再出発をした人は、一度起きてしまったことはもう元には戻せませんが、イエス様を救い主と信じて神の罪の赦しの中に留まって生きることはできます。神のひとり子が自分の身を投じてまで与えて下さった罪の赦しです。人間が神の守りと導きの中で生きられるようになるためにひとり子も惜しまなかった神の愛です。自分がしてしまったこと、考えてしまったこと、口にしてしまったことは全て神のひとり子を死なせなければならないほどの重大なことだったのだと思い知れば、人間は十字架のもとにひれ伏すしかありません。これからはどう生きたらいいか、行ったらいいか、考えたらいいか、全てにおいて神の方を向いて、背を向けないで考えるようになります。そうすれば神の創造の秩序に沿わなかった出会い、再出発も罪の赦しに相応しいものに変わっていくでしょう。

3.独身でいることは神の創造の秩序に反しない。一人でいようがいまいが肝要なことは終末・復活への備え

最後に、神の創造の秩序に男と女の結婚という結びつきがあるとすると、結びつきを持たないで一人でいるというのは、創造の秩序に反することになるのでしょうか?そういうことではないようです。マタイ19章12節でイエス様は「結婚できないように生まれついた者、人から結婚できないようにされた者もいるが、天の国のために結婚しない者もいる」とおっしゃっています。それぞれが具体的にどんな人なのか、ここでは立ち入りませんが、一人でいても創造の秩序に反することにならないのです。

使徒パウロは第一コリントの7章で未婚者とやもめに対して、結婚しないで一人でいる方がいいなどと言います。そうかと思えば、結婚しても罪を犯すことにはならないなどとも言っていて、我慢できなければ仕方ないですね、結婚してもいいですよ、という調子です。このような言い方をするのは、今の世の終わりが近づいているという終末観があるからです。イエス様の十字架と復活の出来事の後しばらくは、もうすぐ最後の審判や死者の復活が起きる日がやってくる、そういう切迫した思いが当時のキリスト信仰者の間で強く持たれていました。それくらい、イエス様の十字架と復活の出来事は本当につい最近起きた出来事としてまだ大きなインパクトがあったのです。しかしながら、パウロの時代から2000年近くたちましたが、まだ今ある天と地はそのままです。これは、新しい天と地の創造がもう起こらないということではなく、イエス様も言われたように、福音が世界の隅々まで宣べ伝えられるまでは終わりは来ないということなのです(マタイ24章14節など)。

それでも、キリスト信仰者はいつその日が来ても慌てないようにいつも目を覚ましていなければなりません。これもイエス様が命じられていることです(マタイ24章44節など)。しかし、終末のことを考えながら、家庭を築くとか、子供を育てるというのは矛盾があるように感じられます。今愛情を注いでいるものが、無駄なことのように感じられてしまうからです。その場合は、ルターのように考えます。つまり、家族とか伴侶とか子供とかは、神が世話しなさい、守りなさい、育てなさい、と言って私たちに贈って下さったものである。神がそうしなさいと言って贈って下さった以上は、感謝して受け取って、それらを忠実に世話し守り愛し育てる。与えられる神はまた取り上げられる神でもある。だから、もし神の定めた時が来て神にお返ししなければならなくなったら、素晴らしい贈り物を持てて世話できたことを感謝してお返しする。もちろん、これは口で言うほど簡単なことではなく失うときは相当な痛みを伴います。しかし、その時こそ、キリスト信仰者は、私たちの信仰は「復活の再会の希望」がある信仰であることを思い起こします。神が世話しなさいと定めた期間はどのくらいかはわかりませんが、その期間は限られているのでとても大事なものとわかります。贈られたものと共にいる一時一時が貴重な時になり、贈られたものは一層愛おしくなります。そのように考えれば、終末を頭のどこかで覚えながら、今愛情を注ぐものがあることは矛盾しないのではないでしょうか?

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

 

 

 

2021年9月26日(日)午前10時30分から 聖霊降臨後第18主日 ビデオ主日礼拝(フィンランド・トゥルク市ルター教会から)

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主日礼拝説教2021年9月26日 聖霊降臨後第十八主日

イザヤ1章-17節、ガラテア5章22-26節、マルコ7章5-13節

説教題 「キリスト信仰者の自由」

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン

わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様

1.はじめに

本日の聖書日課はフィンランドのルター派国教会の日課に従うことにしました。日本のルター派の教会の日課の個所と異なっています。異なるのは聖書の個所だけではありません。フィンランドでは日課に共通のテーマが示されます。聖霊降臨後第18主日の今日のテーマは「キリスト信仰者の自由」です。それなので、フィンランドでは今日の礼拝の説教のテーマは全国的に「キリスト信仰者の自由」です。日本ですと、牧師や説教者が各々説教題を決めますが、フィンランドではみんな同じ説教題を掲げます。これですと、今日はどんな説教題にしようか悩まなくすみ楽です。その反面、自分には統一的なテーマとは違う考えがある、それを出したいという時には悩ましくなります。もちろん統一テーマは強制ではないので、牧師によっては異なるテーマを掲げる人もいますが、ほとんどは共通テーマです。

「キリスト信仰者の自由」という言葉を聞くと、同名のルターの著作を思い出します。その本の主題は、キリスト信仰者とはあらゆるものから自由で束縛されないという主人のような存在である、それと同時に神や隣人に仕えるという服従する者でもあるという、一見相反することを言っています。それがその通りなのだと教える本です。

本日の説教のテーマを「キリスト信仰者の自由」に定めたのはフィンランド国教会の誰かなのですが、その方がそう定めたのは本日の福音書の個所でイエス様が人間の作った有害で意味のない掟や規則から人間を解放するということがあるからでしょう。イエス様は人間をそうした掟や規則から解放してどこに連れて行こうとされるのか?本日の個所をもとに見ていきましょう。

2.聖書に書かれた掟、書かれていない掟

本日の福音書の個所はファリサイ派の人たちと律法学者たちとイエス様のやりとりです。ファリサイ派とは当時のユダヤ教社会で影響力のあった信徒団体で、旧約聖書に記されたモーセ律法だけでなく、記されていない、口頭で伝承された教えをも遵守すべきだと主張していました。本日の箇所で、「昔の人の言い伝え」(3、5節)、「人間の言い伝え」(8節)、「受け継いだ言い伝え」(13節)と「言い伝え」(ギリシャ語παραδοσις)という言葉が何度も出て来ますが、これがまさに口頭で伝承された教えです。その内容は、清めに関する規定が多くありました。どうして清めにこだわるかと言うと、自分たちが住んでいる場所は神が約束した神聖な土地なので、自分たちも神聖さを保たなければならないと考えたからでした。

そのファリサイ派の人たちと律法学者たちが、弟子たちのことでイエス様を批判しました。それは、手を洗わないで食事をしたことでした。それが、「言い伝えの教え」に反すると言うのです。手はきれいに洗って食べた方が衛生的なので、ファリサイ派の言っていることは理に適っています。特にコロナ感染がある現在では大事なことです。ところが、ここで問題になっているのは衛生管理でもコロナ対策でもないのです。「汚れた手」(2,5節)の「汚れた」とは、ギリシャ語ではコイノス(κοινος)と言います。それは「一般的な」とか「全てに共通する」という意味です。「一般的な手」、「全てに共通する手」というのは、神聖な神の民と不浄の異教徒・異邦人を分け隔てしなくなってしまうという意味です。それで「汚れた」という意味になるのです。衛生上の汚れではなく、宗教的、霊的な穢れを言っているのです。

ファリサイ派はこのような清めの規定、旧約聖書のモーセ律法に書かれていない言い伝えの教えを沢山持っていて、その遵守を主張していました。これらも律法同様に、人間が神聖な神の目に相応しい者になれるために必要だと考えたからです。ところが、イエス様がそのような規則を無視していることが明らかになりました。

3.普遍的に効力を持つ神の意思、状況に左右される人間の考え

なぜイエス様は、当時の宗教エリート・ファリサイ派が重要視した「父祖伝来の言い伝えの教え」を無視したのか?それは、8節のイエス様の答えから明らかです。そうした教えは「人間の言い伝え」(8節)、つまり人間の編み出した教えであって、神に由来する掟とは何の関係もなかったからです。神に由来する掟は、書き記されて聖書として存在します。それ故、それ以外は人間の考え、その時その時の状況や利害はては気分に左右される考えに由来するものになります。時代や場所を超えて普遍的に効力を持つ神の意思に由来するものではないのです。ファリサイ派としては、神の意思を実現しなければならないと考えつつも、書かれた掟では不十分とばかり、書かれていない言い伝えも引っ張り出してきて、できるだけ多くの規定を持って守った方が、神の意思に沿った生き方になる、そういう考え方でした。しかし、イエス様は神のひとり子なので父である神の意思を一番よくご存じでした。そのイエス様から見たら、彼らのしていることは大変な誤りだったのです。しかも、言い伝えの教えは間の考えに基づいているだけではありませんでした。そうした人間由来の教えが神の意思に反するものになっていくこともイエス様はわかっていました。その具体例が本日の個所に出てくるコルバンについての規定でした。

コルバンというのは、エルサレムの神殿に捧げる供え物を意味します。「私はこれこれのものを捧げます」と誓いを立てて捧げるものです。一度誓いを立てたらもうキャンセルはできません。イエス様が問題視したのは、人が自分の両親に役立つものを神殿に捧げますと両親に言ったら、もう両親に何もする必要はないとファリサイ派が教えていたことです。「お父さん、お母さん、あなたがたは私から何か受けられるのですが、私はそれをコルバンにします。」そう言ったら、もう両親に何もしなくてもいい。なんだか信じられない話です。まるで神とか教祖とかから愛顧を引き出せるためなら両親など構わないというのと同じです。当然のごとくイエス様は、そのような規定はモーセ律法の十戒の第4の掟「汝の父母を敬え」を無効にしている、と批判します。そのような神の意思に反する規定が他にも多くある、とイエス様は指摘します(13節)。

4.神のみ前にとことんヘリ下ること ー 神の意思に沿う心や行いが現れる出発点

ここまで見ると、なるほどイエス様は人間を人間が作った意味のない掟や規則から自由にする方であるとわかります。しかし、ここで注意しなければならないことがあります。イエス様は人間をあらゆる規則から解放しようとはしていないということです。意味のない掟や規則からです。意味のある掟は別です。それでは意味のある掟とはどんな掟でしょうか?

イエス様はファリサイ派を批判する時、君たちは自分で作った掟をもって神の掟を無効にしている、と言います(9,13節)。無効にすべきは人間の掟であって、神の掟が人間に対して有効である、それを妨げてはならないということです。そうすれば、人間が作った規則でも神の掟の有効性に反しなければ問題ないことになります。ところが、有効性に反しているか反していないかの判断において人間は誤ってしまう。そのことが本日のイザヤ書の個所でも言われています。ユダヤ人たちは自分たちが神の意思に従っていることの証として神殿におびただしい数の動物の犠牲の生贄を捧げている。自分たちはこれだけ神の意思に従っているんだと、それが捧げる牛や羊の数で量れるかのごとくおびただしい数の生贄を捧げる。しかし、神はそんなものは全く意味がないと一蹴してしまいます。なぜなら、ユダヤ人たちがこのように外見上の敬虔さを一生懸命している最中に、社会の中で不当な扱いを受けている者、孤児や未亡人の生存権が脅かされている、正義が損なわれている、それはまさに、十戒の第五の掟「なんじ殺すなかれ」、第七の掟「なんじ盗むなかれ」、第八の掟「なんじ偽証するなかれ」、第九、十の掟「なんじ妬むなかれ」に背くことである、そんな状況を放置したまま神殿に捧げものを持って来らえてもそれは神の意思を踏みにじっていることをカモフラージュするもので、見ただけでも気分が悪くなるというのです。

イエス様は神の掟の大事なポイントを教えたことがあります。マルコ12章などにあります。ある律法学者がユダヤ教の膨大な掟集の中で何が一番大事な掟ですかと聞いた時です。「神を全身全霊で愛すること、隣人を自分を愛するがごとく愛すること」。神の掟のココロはこの二つに尽きるのだと教えました。

「神を全身全霊で愛すること」とは十戒の最初の3つの掟に関わります。3つの掟とは何でしたか?まず最初に、天地創造の神こそ信頼できる方である、なぜなら神はあなたを造られて方だからだ、だからあなたの造り主にのみ悩み苦しみを打ち明けて助けを求めるべきである、ということでした。二つ目は、神の名前を引き合いに出して悪い考え行いをしてはならない、でした。三つめは、1週間に一日位は心と体を休める静かな日にして神のみ言葉に聞き、生き方の軌道修正をして神に感謝し賛美をする日にすべきである、そういう自分自身のために神中心の日にすべきである、ということでした。「神を全身全霊で愛する」というのは、こうした心と行いが現れるということです。「隣人を自分を愛するがごとく愛する」は、十戒の残りの七つの掟に関わります。父母を敬う、他人を傷つけない、不倫をしない、盗まない、偽りを語らない、妬まないという心と行いが現れるということです。

どうしたらそういう心と行いが自分に現れてくるのか?日々を生きていると自分はそういう心や行いから遠いではないかと思い知らされることばかりでしょう。しかし、イエス様が十字架の死の業を成し遂げて、さらに死から復活されたことが、この壁を乗り越える力を与えて下さいます。イエス様が十字架の死を遂げたのは、私たちが神の意思に沿えないために神から受けることになってしまう罰を代わりに引き受けて下さったのでした。神のひとり子が私たちの至らなさや罪を代わりに償って下さったのでした。そのイエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、神から罪を償ってもらった者として見ていただけることになります。この自分は神聖な神のひとり子から罪を償ってもらったということは大きな解放感をもたらします。まさにキリスト信仰者の自由です。お前は何もできない、正しい考えや行いを持てない、だから神の目から見て失格だという責め立てる声はか細くなります。もし正しい考えや行いを持てなくなってしまう時があったら、その時は直ぐイエス様の十字架に心の目を向けます。あそこに罪の赦しが打ち立てられたので、洗礼を受けた以上は罪の赦しは揺るがずにあります。

イエス様は十字架の死の後、神の想像を超える力で復活させられました。これで死を超えた永遠の命があることがこの世に示されました。イエス様を救い主と信じ洗礼を受けた者は永遠の命に至る道に置かれてその道を歩み始めます。この世の人生を終えた後は、あとは復活の日に目覚めさせられて神の栄光を映し出す、朽ち果てない復活の体を着せられます。そして創造主の神の御許に永遠に戻ることになります。そこでは、同じように目覚めさせられた人たちとの懐かしい再会が待っています。それなので、その日が来るまでは、イエス様に罪を償ってもらった者としてこの世でこの置かれた道を歩みます。自分の至らなさのせいで、または襲い掛かる苦難や困難のせいで、神が遠くになってしまったような感じがする時もあります。しかし、罪の赦しの十字架は打ち立てられ、あの墓は空っぽでした。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者はこの歴史上の出来事を人生の新しい出発点にして生きるのです。それを思い起こせば神はいつも共にいて下さることに気づきます。

罪の自覚と赦しは必ずあるということ、苦難・困難な時に神は共にいて下さること、これらがあれば、神を愛することと隣人を愛することは規則ではなくなります。規則としてあると、力がある人、余裕がある人が守れることになってしまいます。罪の自覚と赦しが必ずある、苦難・困難な時に神は共にいて下さるというのは、自分には力も余裕もありません、神よあなたが私の全てです、という、自分をとことんへりくださせた状態のことです。私には力も余裕もないので、ただあなたの力が働いてくださいという状態です。そのようにして神の力が十全に働くとき、神を全身全霊で愛する心と行い、隣人を自分を愛するがごとく愛する心と行いは必ず現れます。

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように。アーメン

聖書朗読  Päivi Yoshimura SLEY 宣教師 奏楽  Kaija-Leena Vilja,  Iiro Vilja ビデオ撮影・編集   Teemu Auvinen, Daniel Ashfolth

お知らせ

ルター教会の主日礼拝にご関心ある方は、Turun Lutherin kirkkoのYoutubeチャンネルを是非ご視聴下さい!9月5日の礼拝では吉村宣教師が説教を担当しています(カメラの位置を間違えて横を向いてしまいました)。

特別の祈り

   全知全能の父なるみ神よ。 私たちが霊においていつも目覚めていることが出来るように、み言葉を通して聖霊を私たちの内に働かせて下さい。聖霊が私たちにイエス様の教えたことを思い起こさせ、私たちが正しく考え行い振る舞うことが出来るようにして下さい。     あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストのみ名を通して祈ります。アーメン