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私たちの父なる神と、主イエス・キリストから、恵と平安とが、あなた方にあるように。
アーメン 2025年11月16日(日)スオミ教会礼拝
聖書:ルカ福音書21章5~19節
説教題:「終末にはどんな事が起こるか」
今日の聖書はルカ福音書21章5~19節です。21章と言うとルカの福音書ではもう終わりに近い方です。イエス様はご自分のこの世での活動も終わりに近づいて来ていること、つまり十字架の死が近づいて来た事を深刻に感じられています。これまで共に生活して来た弟子とも別れなければならない。この弟子たちが神様からの使命を全うして行くのに幾多の苦難があるだろう、それらに耐えて行けるように弟子たちへの訓練と警告を告げられてゆきます。ルカ福音書19章47節を見ますとイエス様の地上での活動の総仕上げの計画を含めて「毎日イエスは境内で教えておられた」とあります。ユダヤ教の最大のシンボルである神殿で弟子たちを教えておられます。ユダヤ教の司祭長や律法学者たちが総力を上げて守っているエルサレムの神殿です。弟子たちは神殿の壮大な建物と装飾品に思わずうっとりして感嘆の声をあげて見ていたのでした。ユダヤの人々なら誰もが同じように見たでしょう。そこへイエス様が来られて言われました。6節の言葉です。「あなた方はこれらの物に見とれているが一つの石も崩されずに他の石の上に残る事のない日が来る。」イエス様はこの頑丈で壮大な神殿が粉々に崩壊してしまう日が来る、と預言されたのです。これを聞いた弟子たちは吃驚したでしょう。とても考えられない事です。そこで更に7節には「彼らはイエスに尋ねた。先生、ではその事は何時起こるのですか。また、その事が起こる時にはどんな印があるのですか」と問うています。イエス様に訪ねた彼らと言うのは、実はマルコ福音書13章1節によれば「ペテロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレ」の四人が密かに尋ねたと記しています。イエス様は最も信頼している四人の弟子にだけ預言されています。この事はそれだけ慎重に秘密裡に考えての事でしょう。何故かとと言いますとエルサレムの神殿を管理していたのはユダヤ教の祭司たち、律法学者たちでした。ルカは19章の終わりのところで「祭司長たち律法学者の指導者たちはイエスを殺そうと謀っていた。」とあります。そういう危険の中で公に、いまイエス様がやがてこの神殿は悉く破壊されてしまうなどと預言されるともう大変な事になります。ですから、今は密かに信頼のおける四人の弟子だけに明かされたわけです。特にルカ19章の終わりの45節を見ますと、「イエスは神殿の境内に入り、そこで商売をしていた人々を激しく追い出してしまわれた」とあります。この事件以来、彼らは益々イエスを殺そうと息まいています。そうとう頭に来ていますから危険の最中にあるわけです。このような危険状況の中で弟子たちはこれから大切な福音の担い手となって世界に向けて使命を果たして行かねばならない。こうした時代を悟らせ彼らの信仰を堅くしておくために訓練と警告を告げておられるのであります。更に弟子たちが想像もしていなかった終末が来ると、その直前には大変な苦難と迫害が来る事も預言されているのです。
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<考えてみますと>イエス様の十字架の死と弟子たちを取り巻く危機状況は現在の私たちの世界の危機状況でもあると言えるでしょう。世界の彼方此方で戦争が絶えない、イエス様の時代と違って今日では科学文明が進み核兵器の危機です。イエス様の神殿崩壊の預言はとても考えられない事が事実歴史の中で起きてしまいました。紀元70年ローマ帝国に因ってエルサレム神殿は悉く破壊されました。ユダヤの歴史家ヨセフスとローマの歴史家タキトゥスによる記録にもあります。弟子たちはイエス様の預言と実際に滅亡してゆく過程の全てを見て苦しみを味わった事でしょう。弟子たちがエルサレム滅亡の前に問うた時、イエス様は10節以下にあるように具体的に起こる事柄を答えておられます。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。そして大きな地震が起こり飢饉や疫病が起こり恐ろしい天体現象があらわれる。」12節では「しかし、これらの事が起こる前には人々はあなた方に手をかけ迫害し会堂や牢に引き渡す。そして私の名のために王や総督の前に引っ張って行く。」更に16節以下を見ますと、「あなた方は親兄弟、親族友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。また私の名のためにあなた方は全ての人に憎まれる。」とあります。ここに言われる事の全てはイエスの名を信じる神の子とされた者が受ける苦難であり迫害です。イエス様は弟子たちに恐ろしい預言を告げるだけでなく、これらの苦難に対してどう生きてゆくかを示されています。「イエスの名を名乗る偽預言者が現れるから惑わされないように気をつけなさい。戦争や暴動の事を聞いても怯えてはならない。王の前に出されたらそれは証をする機会と思って大胆に語れ、語るべき言葉と知恵は与えられるから大胆に語れ、臆することなく勇気を持って語れ」と言われる。26節には「人々はこの世界に何が起こるのかと怯え、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。大地震が起こって生活も町も根底から揺り動かされ恐怖に落ちてしまう。その時人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを見る。」とあります。驚きと恐怖の連続です。そこでは、人間の如何なる力も科学の力も機械の力もなすすべがありません。大自然の襲ってくる力にはどうする事も出来ない、毎年やって来る台風の嵐、夥しい山火事、地球温暖化による海水の増加、地球全体の規模で大異変が現実に起きている。そういう中で人間の力は無力です。これらは全能の神の怒り罰が下されているのでしょうか。紀元70年エルサレム滅亡は地上に住む国々の民に対し終わりの日の警告でありましょう。人類の大いなる艱難の日でもあります。「しかし、エルサレム滅亡をもって直ちに世の終わりが来るのではない」と主は言われる。エルサレム滅亡によってユダヤ民族が神の真理の担い手である時代は終わった。神の救いの福音は弟子たちによって広く世界へと、異邦人へと向かって行くのであります。エルサレム滅亡はこの意味に於いて大きな時代の一大転換期となった。人類の歴史の重要な一段落であります。マタイ福音書24章13~14節でイエスは警告しておられます。「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。そして御国のこの福音はあらゆる民への証として全世界へ宣べ伝えられる。それから終わりが来る。」更にマタイ福音書25章31~46節にみられるように右と左に分けられ「世の終わりが来てキリストの再臨による大いなる審判が行われる、そうして全く新たな神の国が地上に現れるのであります。全能の神のみこころのままに全てはなって行くのであります。
人知では、とうてい測り知ることができない、神の平安があなた方の心と思いをキリスト・イエスにあって守るように。 アーメン
主日礼拝説教 2025年11月9日(聖霊降臨後第22主日)スオミ教会
ヨブ19章23-27a節
第二テサロニケ2章1-5、13-17節
ルカ20章27-38節
説教題 「神は死んだ者の神ではなく、生きる者の神である。」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。 アーメン
わたしたちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
1.はじめに
本日の福音書の箇所は復活という、キリスト信仰の中で最も大切な事の一つについて教えるところです。復活は、人間はこの世の人生を終えたら何が待っているかという問いの核心となる答えです。キリスト信仰の死生観そのものと言ってもよいでしょう。
サドカイ派というグループがイエス様を陥れようと議論を吹っかけました。サドカイ派というのは、エルサレムの神殿の祭司を中心とするエリート・グループです。彼らは、旧約聖書のモーセ五書という律法集を最重要視していました。また彼らは復活などないと主張していました。これは面白いことです。ファリサイ派というグループは復活はあると主張していました。復活という信仰にとって大事な事柄について意見の一致がないくらいに当時のユダヤ教は様々だったのです。
サドカイ派の人たちが吹っかけた議論とは、7人の兄弟が順番に同じ女性と結婚したという話です。申命記25章5節に、夫が子供を残さずに死んだ場合は、その兄弟がその妻を娶って子供を残さなければならないという規定があります。7人兄弟はこの規定に従って順々に女性を娶ったが、7人とも子供を残さずに死に、最後に女性も死んでしまった。さて、復活の日にみんなが復活した時、女性は一体誰の妻なのだろうか?ローマ7章でパウロが言うように、夫が死んだ後に別の男性と一緒になっても律法上問題ないが、夫が生きているのに別の男性と関係を持ったら十戒の第6の掟「汝、姦淫犯すべからず」を破ることになる。復活の日、7人の男と1人の女性が一堂に会した。さあ大変なことになった。復活してみんな生きている。この女性は全員と関係を持つことになるのか?ここからわかるようにサドカイ派の意図は、イエス様、復活があるなんて言うと、こういうことが起きるんですよ、律法を与えた神はこんなことをお認めになるんですかね。真に巧妙な吹っかけ方です。
これに対するイエス様の答えは反対者に有無を言わせないものでした。イエス様の答えには二つの論点がありました。まず、人間のこの世での在りようと復活した時の在りようは全く異なるということ。第二の論点は、神が自分のことをアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と名乗ったことです。
2.復活の在りよう
まず、第一の論点の復活の在りようを見てみましょう。人間は復活すると、この世での在りようと全く異なる在りようになる、嫁を迎えるとか夫に嫁ぐとかいうことをしない在りようになる。つまりサドカイ派は、人間は復活した後も今の世の在りようと同じだと考えて質問したことになります。それは全く誤った前提に基づく質問でした。それでは、復活した者はどんな在りようになるのか?まず、復活した者がいることになる場所は、今の天と地が終わった後の新しい天と地の世になります。そこで、復活した者はもう死ぬことがなく、天使のような存在になり、第一コリント15章でパウロが言うように、復活の体、朽ちることのない体、神の栄光で輝いている体を着せられた者になります。そういう復活に与る者をイエス様は「神の子」であると言います(36節)。それなので復活した者は、誰を嫁に迎えようか、誰に嫁ごうか、誰に子供を残そうか、そういうこの世の肉体を持って生きていた時の人間的な事柄に神経をすり減らすことはなくなります。つまるところ、サドカイ派は復活を正しく理解していなかったのです。だから、女性は7人兄弟の誰の妻になるのか、などという的外れな質問が出来たのでした。
ところで、キリスト信仰の復活を考える時、次の3つのことを忘れないようにしましょう。第一の忘れてはならないことは、今見たように、復活の在りようはこの世での在りようと異なるということです。
二番目に忘れてはならないことは、復活の時、神の御許に迎え入れられる者たちと入れられない者たちの二つに分かれるということです。それを決める最後の審判があるということです。
三番目に忘れてはならないことは、復活と最後の審判は将来、一括して一斉に起こるということです。人間一人一人死ぬたびに起こることではありません。そうすると、じゃ、死んだ人たちはみんな復活の日までどこで何をしているの?という疑問が起きます。これも、本教会の説教でルターの教えに基づいて何回もお教えしました。亡くなった人は復活の日まで神のみぞ知る場所にて安らかに眠っているのです。ところが我が国では、人は死んだら高いところかどこかに舞い上がって、今そこから私たちを見守ってくれているという考え方をする人が多いです。しかし、復活を信じるキリスト信仰から見ると、そんなことはありえません。死んだ人は今、神のみぞ知る場所で眠っている。高いところに行くのは将来のことで、その日その高いところから下を見下ろしても、その時はもう今ある天と地はなくなっています。あるのは新しく創造された天と地と唯一残る神の国だけです。
そうなると、死んだ人が本当に眠ってしまったら、誰が見守ってくれるのかと心配する人が出てくるでしょう。これもキリスト信仰では見守ってくれるのは亡くなった人ではなく、天と地と人間を造られた神、人間に命と人生を与えた創造主の神だけです。この方が私たちの仕えるべき相手です。日本人もこういう心になれば、先祖の祟りだの、何とか霊の呪いだのと言われても慌てなくなり、霊的な恐れや不安を抱かずに生活できるようになるでしょう。
そこで、神の国への迎え入れは復活の日まで待たないといけないとすると、じゃ、天国は今空っぽなのか、という疑問が起きるかもしれません。もちろん、父なるみ神自身はおられます。天に上げられたイエス様も神の右に座しておられます。あと天使たちもいます。他にはいないのでしょうか?そこで気になるのが本日の福音書の個所です。イエス様が言います。かつて神はモーセに向かって、自分はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であると言った、と。そして神は生きている者の神である、死んだ者の神ではないとも。そうなると、この三人は今生きているということになります。それはもう復活の日を待たずに一足先に神の御許に迎え入れられてしまったことになります。実は聖書はそういう可能性があることも言っています。例えば、創世記5章に登場するエノクと列王記下2章のエリアはその例です。
3.神は復活に与かって生きる者の神である
次にイエス様の答えの第二の論点、復活があることの根拠に神が自分のことをアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と言ったことについて見てみましょう。出エジプト記3章6節で神はモーセに対して、自分はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であると名乗り出ます。モーセから見れば、アブラハムもイサクもヤコブもとっくの昔に死んでいなくなった人たちなのに、神は彼らがさも存在しているかのように自分は彼らの神であると言う。イエス様はこれを引用した後でたたみ掛けるようにして言います。「神は死んだ者の神ではなく生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである」(38節)。
このイエス様の言葉はわかりそうでわかりにくいです。実は、これを正しく理解できないと、イエス様の答えの第二の論点が理解できません。まず、「神は生きている者の神」と言う時の、「生きている」の意味ですが、これはただ単にこの世で生存している者のことではありません。イエス様が、特にヨハネ福音書で、「生きる」と言う時はきまって永遠の命、復活の命に与かって生きることを意味していたことを思い出しましょう。それなので「生きている者」とは、永遠の命、復活の命に与っている者のことです。永遠の命に与かっている者には、復活の日を待たずして神の御許に迎えられた者と、復活に至る道に置かれて今それを歩んでいる者の両方が含まれます。それで、「生きている者の神」とは、既に神の御許に迎え入れられた者と今そこに向かって歩んでいる者の双方にとっての神です。
次の言葉「すべての人は、神によって生きているからである」は要注意です。実は、この日本語訳はよくありません。「神によって」と言うと、「神に依拠して」とか「神のおかげで」生きているという意味になります。実はここはそういう意味ではないのです。もちろん、「すべての人は神によって生きている」という言うこと自体は間違っていません。全ての人間は神によって造られて神から食べ物や着る物や住む家を与えられているわけですから、「全ての人は神によって生きている」と言うのはその通りです。しかし、この理解はこの復活の個所とかみ合いません。文脈から浮いてしまいます。文というものは、それ自体は正しくて意味を成すことを言っていても、置かれた文脈とかみあっていなかったら意味を成しません。
それでは、この言葉はどう理解できるでしょうか?まず、「全ての人」というのはここでは全人類のことではありません。これは、35節と36節に言われている、「復活に与るのに相応しいとされた人たち」のことであり、復活に与かる神の子のことです。従って、「全ての人」とは「復活に与かる全ての人」という意味です。
次に、「神によって」と訳されているギリシャ語のもとの言葉は素直に訳して「神のために」とします(後注1)。参考までにドイツ語のEinheitsübersetzung訳ではfür ihn「彼のために」、スウェーデン語訳でも「彼のために」(för honom)です。英語訳聖書NIVはto him「彼に対して」でした。フィンランド語訳は「彼のために」でも「彼に対して」でもとれる訳(hänelle)でした。少なくとも4つの言語で「神によって」と訳しているものはありませんでした。
そこで、「神のために生きる」というのはどういう生き方かがわからないといけません。イメージとして神さまにお仕えする生き方が思い浮かぶでしょう。それでは、神に仕える生き方とはどんな生き方でしょうか?それがわかる鍵がローマ6章10~11節にあります。パウロが、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者は罪に対して死んでおり、神のために生きている、と言っているところです(日本語訳では「神に対して生きている」ですが、ギリシャ語では今日のイエス様の言葉同様、「神のために生きている」です)。
パウロはローマ6章で、罪に対して死んで神のために生きるということをどう教えていたでしょうか?人間は洗礼を受けるとイエス様の死に結びつけられる。それと同時に彼の復活にも結びつけられる。イエス様の死に結びつけられると、私たちの内にある、罪に結びつく古い人間も十字架につけられるので、私たちは罪の言いなりになる状態から離脱します。そして、イエス様は死から復活されたので、もう死が彼を支配することはありません。確かにイエス様は十字架で死なれたが、それは彼が罪と死に負けたのではなく、事実は全く逆で、イエス様の死は罪と死が彼に対して力を及ぼせなくなっただけでなく、洗礼を通して彼と結びつけられた私たちに対しても及ぼせなくする出来事だったのです。イエス様が罪に対して死なれたというのは、このように罪に対して壊滅的な打撃を与える死だったということです。そのことが十字架の出来事をもって未来永劫にわたって確立されたのです。
さてイエス様は罪に対して壊滅的な打撃を与えて死なれた後、復活されました。その後は生きることは神のために生きることになると言います(ローマ6章10節)。この、罪に壊滅的な打撃を与えて神のために生きるとは、パウロがローマ6章11節で言うように、イエス様だけでなく洗礼を受けたキリスト信仰者にもそのまま当てはまるのです(後注3)。それでは、キリスト信仰者が罪に壊滅的な打撃を与えて神のために生きるというのはどういう生き方か?パウロは、それは全身を罪の道具に替えて神の義を現わす武器にするのだと教えます。全身を神の義を現わす武器にするとは、具体的にはどういうことか?それは、本教会の説教でも繰り返し教えています。イエス様がもたらしてくれた罪の赦しのお恵みの中にしっかり留まって生きることです。罪の自覚が起こる度に心の目をゴルゴタの十字架に向けて罪の赦しが確かなものであることを毎回確認して、畏れ多い厳粛な気持ちと感謝の気持ちを持って絶えず新しく歩み出すことです。このように罪の赦しのお恵みの中に留まって生きることは罪を踏みつぶしていく生き方であり、神の義を現わす生き方になるのです。復活に与かるのに相応しいとされた全ての人たちは、このようにしてこの世を神のために生きるのです。そして復活の日には、もう踏みつぶす罪はなくなり、完全に神の栄光を現わす器になっているのです。.
4.勧めと励まし
最後に、なぜ神はアブラハム、イサク、ヤコブの3人だけの神であると名乗ったのか、ヨセフやベンヤミンは入れなかったのか、ということについて見てみます。神がモーセにこのように名乗ったのはどんな時だったでしょうか?それは、これからモーセがイスラエルの民を率いて奴隷の国を脱して約束の地カナンに民族大移動する任務を与えられる場面でした。神はかつてアブラハムとイサクとヤコブの3人に対して、お前の子孫にカナンの地を与えると約束していました。その約束をこれから果たすという時が来たのです。神はその約束を与えた3人の名を引き合いに出したのです。もちろん、ヨセフもベンヤミンも皆、アブラハム、イサク、ヤコブ同様に復活に与ることには変わりありません。ただ、モーセの前で神は約束した相手に限定して名乗って、自分はした約束を忘れない、必ず果たす者である、と明らかにしたのです。
そういうわけで、兄弟姉妹の皆さん、聖書の神は約束したことを忘れず、必ず果たす方というのは、私たちの復活の場合もそうです。アブラハムの神が私たちの神であるならば、私たちも復活の日に復活させられるのです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安があなたがたの心と思いとをキリスト・イエスにあって守るように アーメン
(後注1)αυτω代名詞、男性、単数、与格
(後注2)ルカ20章38節αυτω ζωσιν、ローマ6章10節ζη τω θεω、11節ζωντας (…) τω θεω (…)。
(後注3)「罪に対して死ぬ」の「~に対して」の与格はdativus incommodiです。なので、罪に対して壊滅的な打撃を与えるように死ぬことを意味します。「神のために生きる」の「のために」の与格は対照的にdativus commodiです。神に栄光を帰する、神の栄光を現す器として生きることを意味します。
フインランドからのプレゼントの讃美歌掲示板です。重いボードでしたが牧師が手荷物で運んで来て下さいました、礼拝時の讃美歌が一目でわかります。
主日礼拝説教 2025年11月2日 全聖徒主日 スオミ教会
ダニエル書7章1~3、15~18節
エフェソ1章11~23節
ルカ6章20~31節
説教題 「復活の視点で見渡すことができれば、あなたも聖徒」
私たちの主イエス・キリストにあって兄弟姉妹でおられる皆様
本日の福音書ルカ6章の日課はマタイ5章と同じ「幸いな人」についての教えです。教えの主題は同じですが、見比べるといろいろ違いがあることに気づきます。一般に4つの福音書を見比べると同じ教えや出来事の書き方が違っていることがよくあります。これはどういうことでしょうか?以前にもお教えしたですが、以下のようなことです。ルカ福音書の記者はその冒頭で、自分は信頼できる目撃者の証言や書き留められたものを集めて書き上げたと言います。つまり、自分は目撃者ではないと明らかにしているのです。マタイ福音書の方は、言い伝えによると12弟子の一人のマタイ、つまり目撃者が書いたことになっています。しかし、彼が今の形で全部書き上げたというよりは、彼が残したことを土台にして彼の取り巻きか後継者が追加資料を加えて完成させたと見るのが妥当ではないかと思います。このように、ルカもマタイも今の形になる前にいろいろな資料が土台にあるのです。それでは、それぞれの違いはどのようにして生まれたのでしょうか?
福音書を完成させた人が手にした資料は、その手に渡るまでに何があったかと言うと、まず最初に直に見聞きした目撃者たちがいます。それから、彼らから口頭で伝えられた人たちがいます。さらに口頭で聞いたことを書き留めた人たちがいます。そして最後にそれらをまとめて完成させた人がいます。そうした流れの中で、各自の観点で短く要約したりとか逆に解説を加えて長くしたということが起こります。もしそうだとすると、完成品は史実を正確に反映していないのではという疑いが起こるでしょう。
ここで忘れてはならない大事なことがあります。伝えた人、書き留めた人、完成させた人は自分の観点で短くしたり長くしたりしたとは言っても、彼らはみな共通の観点を持っていました。共通の観点とは次の4つから成ります。まず、イエス・キリストというのは創造主の神がこの世に贈られた神のひとり子であるということ。第二に、その神のひとり子が十字架にかけられて人間の罪を神に対して償ってくれたということ。第三に、そのイエス様が死から復活されて永遠の命に至る道を人間に切り開かれたということ。そして第四に、それら全てのことは旧約聖書の預言の実現として起こったということです。これら4つのことを共通の観点としてみな持っていたのです。これは言うまでもなくキリスト信仰の観点です。この観点はイエス様の教えと出来事がなければ生まれませんでした。みんなこの観点を持って見聞きしたことを記憶して伝えて書き留めて福音書を完成させたのです。それならば手短にしようが解説を施そうが、みんな同じ観点に立ってやったわけだからキリスト信仰の真実性を損なうものではありません。違いの根底には同じ出来事、同じ教えがあるのです。それに、いろんな記述があることで同じ出来事と教えをいろんな角度から見ることが出来、信仰に広さと深みを与えます。それなので、いろんなバージョンがあってもみな同じ信仰の観点で書かれていることを忘れないようにしましょう。それらを皆等しく神の御言葉として扱い、いろんな角度を総合した全体像を予感することが大事です。教会の礼拝で福音書をもとにしてする説教とは実は、今日はルカの角度から全体像に迫ります、ということに他なりません。
2.復活の視点と「幸い」
ルカ福音書とマタイ福音書にある「幸いな人」の教えは共に人間的に見て好ましくない状態が将来逆転することを述べています。好ましくない状態についてルカは経済的な格差に焦点を当てています。将来とは復活の日のことです。今日は全聖徒主日、イエス様を救い主と信じる信仰を抱いてこの世の旅路を終えた人たちを覚える日であり、彼らと相まみえる日に思いを馳せる日です。復活の視点はこの日に相応しいテーマです。
「幸いな人」の教えの中に復活の視点があることがわかるために、まず「幸い」とは何かを考えてみます。どうして「幸せ」と言わず、「幸い」なのでしょうか?「幸せ」はこの世的な良いものに関係します。「幸い」はこの世を超えたことに関係します。皆さんもご存じのように聖書には終末の観点があります。この世はいつか終わりを告げて新しい天と地が再創造される、その時「神の国」が唯一揺るがないものとして現れるという観点です。よく終末論と言われますが、終末の後にも続きがあるので新創造論と言うのが正解でしょう。新創造の時に現れる神の国は、死から復活させられてそこに迎え入れられる人たちをメンバーとします。黙示録で言われるように、そこは神があらゆる涙を拭って下さり、死も苦しみも労苦もなく永遠の命を持てて生きられるところです。そのような国に迎え入れられる人、そしてこの世ではそこに至る道を進む人が「幸い」な人になります。23節で「その日には、喜び踊りなさい」という「その日」とは復活の日、神の国に迎え入れられる日のことです。
この世で貧しかったり飢えていたり泣いている人というのは確かに「幸せ」ではありません。しかし、イエス様を救い主と信じ洗礼を受けたキリスト信仰者は、復活に至る道に置かれてそれを進むので最終的には全てが逆転する復活の日を迎えることになるのです。この世での立場と境遇が逆転して欠乏は満たされ涙は拭われて快活な笑いを持てるようになるのです。これは創造主の神の約束です。だから今の境遇は陽炎のようなもので、それを透かして見ると、神の栄光に輝く復活の体を纏って涙を拭われて快活に笑う自分が見えるのです。
もちろん、復活の日を待たずともこの世の段階で貧しさや空腹や涙から脱することは出来ます。しかし、それも復活の日の「幸い」から見れば、貧しさ、空腹、涙と同じ陽炎です。このように、この世の不運だけでなく幸せもみな復活の日に消えて復活の有り様に取って代わられるのです。
「幸い」と正反対の「不幸な」人たちについても言われます。一つ注釈しますと、ギリシャ語の原文は「あなたがたは不幸である」という言い方ではなく、「お前たちに災いあれ」という言い方です。英語のwoe to youで、ドイツ語もフィンランド語もスウェーデン語も同じ言い方です。どんな災いが降りかかることになるのかと言うと、将来飢えるようになり泣くようになるなどと今の境遇が逆転することが未来形で言われます。将来のいつそうなってしまうかのと言うと、復活の日に神の国へ迎え入れられない時です。
こんなことを言うと、この世で裕福になったりお腹一杯食べたり笑ったりしてはいけないみたいで、もう誰もイエス様の言うことなど聞きたくなくなるかもしれません。ここで次のことに気づきましょう。イエス様は不運な境遇それ自体が「幸い」と言っているのではありませんでした。イエス様を救い主と信じる信仰に生きて復活を自分のものにすることできる、これが幸いなのです。同じように裕福、満腹、笑いそれ自体が災いではないのです。そのような人も信仰に生きて復活を自分のものにすれば、この世の有り様は消えて復活の有り様に替えられるのです。しかし、裕福、満腹、笑いの中にそうさせない力が特に働くので、そういう人たちはとても注意しないといけないのです。
それはどんな力でしょうか?26節を見ると、「全ての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も偽預言者たちに同じことをしたのである」と言います。かつてエレミヤのような真の預言者の言うことを聞かず、偽預言者を賞賛してその言うことを信じた時代がありました。偽預言者のように人間にちやほやされてまるで神のお墨付きを得たような気分に浸ることが災いになるのです。そのような人は神よりも人間を頼りにする人です。神の御前に立たされる日が来たら、神から言われてしまいます。お前は私よりも人間を頼りにしてきたのだから、私抜きで神の国に入ってみよ、と。同じように裕福、満腹、笑いにも神以外のものに頼るものを求めさせる力が働きます。だから、そういう人は注意しないといけないのです。
イエス様はこれらの教えをつき従って来た人々に宣べました。彼らに対して「貧しい人々は幸いである、神の国はあなたがたのものである」と言い、「富んでいるあなたがたには災いあれ」と言うのです。つまり、彼の周りで聞いている人たちの中に貧しい人も裕福な人もいて、両者に復活の視点を提供しているのです。神の正義はこの世での不正義を逆転させるものなので、今大変な境遇にある人には最終的には大丈夫になるという希望を与えてこの世を雄々しく生きる勇気を与えます。逆に今満足な境遇にある人には注意しないと将来大変なことになるぞと警告を鳴らしてへり下って生きる賢明さを与えます。
3.復活の視点と正義
次にくる教えはとても難しいです。どれも実行不可能なことばかりです。まず、汝の敵を愛せよ、汝を憎む者に良くしてあげよ、これは実行は難しくとも理想としてなら受け入れてもいいと多くの人は考えるでしょう。ところが、その後がもっと大変です。汝を呪う者を祝福せよとか、汝を侮辱する者のために祈れとなどと。極めつきは29節、汝の頬を打つ者にもう一方の頬も向けよ。つまり、頬を打たれても仕返ししないどころか、こっちの頬もどうぞとは、イエス様は一体何を考えているのか?そうすることで相手が自分の愚かさに気づいて恥じ入ることを狙っているのか?もちろん、そうなればいいですが、果たしてそんなにうまくいくものだろうか?むしろ相手はつけあがって、お望みならそっちも殴ってやろう、となってしまわないか?
これに続く教えも無茶苦茶です。汝の上着を取る者に下着もくれてやれ、欲しがる者には与えよ、汝のものを奪う者から取り返そうとするな、などと。十戒には盗むなかれという掟があるのに、それを破る者をのさばらせてしまうではないか?汝殺すなかれという掟もあるのに暴力を振るう者に対してもっと殴ってもいいなどとは。キリスト信仰者はこういうふうにしなければならないと言ったら、誰も信仰者になりたいとは思わないでしょう。さあ、どうしたらよいでしょうか?実は、イエス様はこれらの教えを通しても、キリスト信仰者は物事を復活の視点で見ることを教えているのです。自分には出来ないと言ってここをスルーするのではなく、これらの教えを目の前においてイエス様はどんな視点に立ってこれらを教えているのかを見抜けなければなりません。それをしないで、出来る出来ないと議論するのは意味がありません。
敵を愛せよ、頬を差し出せという教えについて。これは、この箇所だけで考えず、広く聖書の観点で考えます。マタイ5章にも同じ教えがあります。そこでは、神は善人にも悪人にも雨を降らせ太陽を輝かせるとも言っています。これを聞いた人は、神の心の広さに驚くでしょう。しかし、こんなに気前よくしたら悪人は、しめしめ神は罰など下さないぞ、とつけあがらせてしまわないだろうか?これではあまりにも正義がなさすぎるのではないか?
しかし、そうではありません。神は見境のない気前の良さを言っているのではありません。もし悪人に雨を降らさず太陽を輝かせなかったら悪人は干からびて滅んでしまいます。神がそうならないようにしているのは悪人が神に背を向けている生き方を方向転換して神の許に立ち返る生き方に入れるチャンスを与えているのです。神がそのような考えを持っていることは、旧約聖書のエゼキエル書18章と33章からも明らかです。もし悪人がそういう神の思いに気づかずにいい気になっていたら、神のお恵みを台無しにすることになります。最後の審判の時に神の御前に立たされた時に何も申し開きできなくなります。
敵を愛せよ、迫害する者のために祈れというのはこうした神の視点で考えます。自分を傷つける者に向かって、あなたを愛していますなどと言って傷つけられるのを甘受するということではありません。先ほども申しましたように、神が主眼とするのは悪人が方向転換して神のもとに立ち返ることです。だから、危害を及ぼす者のために祈るというのは、まさに、神さま、あの人があなたに背を向ける生き方をやめてあなたのもとに立ち返ることが出来るようにしてあげて下さい、という祈りです。これが敵を愛することです。この祈りは、神さま、あの人を滅ぼして下さい、という祈りよりも神の意思に沿うものです。もしそれでその人が神のもとに立ち返れば迫害はなくなります。その祈りこそが迫害がなくなるようにするのに相応しい祈りです。
汝のものを取られるに任せよというのも、私たちが神から頂いた賜物に固執してしまって賜物を与えてくれた本人を忘れてしまうから、そんな賜物は取られてしまった方がいいのだと極端な言い方で教えているのです。
そうすると一つ大きな問題が出てきます。こうした神の視点を持って危害を及ぼす者に向き合うのはいいが、及ぼされた危害そのものには何もしなくてもいいのかということです。神から頂いた賜物を固執などせず神の御心に沿うように用いていたのに不当な仕方で取られたらそのままでいいのか?そうではありません。法律で罰することやその他の救済機関の助けがなければなりません。十戒で他人を傷つけてはいけない、盗んではいけないというのが神の意思である以上は、それらを放置してはいけません。ただ、法律で下される罰や定められる補償が十分か不十分か妥当かどうかという議論は起きます。そんな程度では納得できないということが出てきたかと思うと、それは行き過ぎだということも出てきます。こうした正義の問題についてのキリスト信仰の考え方の土台にあるのは、自分で復讐しないということです。ローマ12章でパウロが教えるように、復讐は神が行うことだからです。神が行う復讐とは最後の審判のことです。神の目から見て不十分な補償は完全なものにされて永遠に続きます。逆に不十分な罰も完全なものにされて永遠に続きます。これで完全な正義が永遠に実現します。黙示録21章で復活の日に神の御国に迎え入れられた者たちの目から全ての涙が拭われると言われていることがそれです。
キリスト信仰者は、社会に十戒を破るようなことを放置しないが、法律や救済機関を用いる時は復讐心で行わない。それが出来るのは、復活と最後の審判の時に神が完全な正義を実現されると信じるからです。復讐心で行わないことは、パウロが教えるように、危害を及ぼした者が飢えていたら食べさせる、乾いていたら飲ませる用意があることに示されます。危害を及ぼす者にそういうことをするのは、悪人とは言え可哀そうだからそうしてあげようという優しい気持ちがあるからかもしれません。しかし、受けた危害が大きければそんな気持ちは消えてしまうでしょう。ここでパウロの言わんとしていることは、危害が大きかろうが小さかろうが、どんな感情を持とうが関係ない、食べさせ飲ませるのは神の意思だからそうしなさいということです。法的手段に訴えたり救済機関を用いたりすると同時に心は神の意思に直結しているのです。
十字架と復活の出来事が起きる前にイエス様の教えを聞いた人たちは何のことか全然意味が分からなかったでしょう。しかし、十字架と復活の後で、この地上に罪の赦しが打ち立てられ、復活に至る道が切り開かれました。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けた者は復活と完全な正義に至る道に置かれてそれを歩み始めたのです。神から罪の赦しを頂いたことがどれほど大きなことかがわかると復讐心が肥大化するのを抑える力になるはずです。それなのに、私はあいつを裁く、絶対に赦さない、などと言ったら、神は何のためにひとり子を犠牲にしたのかとがっかりするでしょう。私がお前にしたようにお前も周りにすべきではないか、お前に対して恨みを持つ人にそれをなくしてほしいと願うなら、お前がそうしなければならない、そう神は言われるでしょう。イエス様の教えと行動は神の視点、復活の視点をもって見れば見るほど、私はできない、絶対できないと言い張る頑な心を柔和な心に変えてくれるはずです。
2025年10月26日
福音ルーテル・スオミ・キリスト教会礼拝説教
ルカによる福音書18章9〜14節
「神様、罪人のわたしを憐れんでください
1、「はじめに」
今日の箇所の前のところでイエス様は、父なる神様は私たちの祈りを必ず聞いて下さるお方であるのだから、私達はいつでも祈るべきであり、失望してはらないと教えています。そこでイエス様は不正な裁判官の例えを用いて、そのような不正な裁判官であっても、その裁判官にどこまでもしつこく頼むならば、裁判官はその重い腰を上げて裁判をするだろう。不正な裁判官であってもそうであるなら、まして、私達を愛して下さり、子として扱って下さる神様は私達の声を、願いを、祈りを聞いて下さらないわけがあろうかと教えたのでした。その神様への「祈り
についてのメッセージが今日のところでも続いていきます。イエス様は二人の人のことを例に取り上げて、祈りについて、そしてそこにある信仰について教え始めるのです。
2、「自分を正しいと自惚れる人々」
まず、このお話は、9節にある通り、「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。」とあります。「自分は正しい、自分は間違いがない、悪い所は何もない」と言う人がイエス様のまわりにいた。そしてその人々は、他の人、つまり、彼らから見て、周りの正しくない人、間違っている人を見下しているのを、イエス様は見たり、その人の声を聞いたりしていたのでした。確かに15章の有名な放蕩息子の譬えを話した時にも、イエス様は罪人と呼ばれる人達と食事をしている時でした。その時、周りのユダヤ人たちは、それを見てそのようなイエス様を蔑んだたとありました。さらに16章でも、イエス様がそのような罪深い小さな人々こそを愛するように教える中で、周りの金持ちなどは、それを嘲笑ったともありました。そのように自分たちこそ正しいと自認して、そうでない人を見下す人々が、絶えずイエスのまわりにいた、あるいは社会の中には当たり前のようにいたのでしょう。そんな彼らにイエス様はある二人の人の話をするのです。10節からですが、
2、「祈るために神殿に上る二人」
「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。
二人の人は祈るために神殿に上って来ました。二人とも祈るためにやって来たのです。一人はファリサイ派の人。つまりそれは旧約聖書を幼い時から非常に良く勉強していて、聖書の律法を厳しく守っている人でした。そしてユダヤ社会では地位が高く、世間からは立派な人達と見られている人達でもありました。他方、もう一人は、徴税人です。徴税人たちは、不正を働いて富を得るものとして、罪人として嫌われていました。彼らはユダヤ人でしたが、外国からの支配者であるローマの皇帝のために税金を集めている人達でした。ユダヤ人たちはローマに支配されていることを良く思っていませんでしたから、「嫌なローマのために税金を集めている人
とまず見られるのです。しかし、それだけで罪人と呼ばれていた訳ではありません。それだけでなく、さらに彼らは、本来集める額よりも多く集めて、その多く集めた分を自分の懐にいれていることをみんな知っていたのでした。ですから、罪人と呼ばれて、蔑まれ、嫌われていたのです。 ユダヤ人たちはそのような罪人である徴税人と交わることを忌み嫌いました。
このファリサイ派の人と徴税人の二人が祈りにやってきました。
A、「ファリサイ派の人の祈り」
ファリサイ派の人はこう祈ります。11節ですが
「ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。」
彼は、まさに「自分は正しい」と思っています。そして「自分はこんなに、これだけのことをしている」「神の律法をこんなに守っている」と、自らと自分の行いを誇っているでしょう。しかし彼は他の人々や、なによりその隣の徴税人と「比べて」祈ってます。そして「この彼のような罪を自分は犯していない」「だから正しい」というアピールです。そのように彼の正しさの基準はその徴税人、人との比較にあることがわかります。もちろん神様の律法もよく知っていたでしょう。しかし律法云々よりも、彼は「この徴税人のような者でもないことを感謝します」と祈るのです。これは新改訳聖書ですと、「ことのほか、この取税人のようではないことを感謝します」と強調の言葉で述べられています。
彼は神に祈っていながら、大事なことを見落としているのです。それは何でしょうか?それは彼は「人の前」のことは見ていても、「神の前」にあっての自分は見えていないということです。彼はどこまでも「人との比較」のことを言っています。「人と比べてどうであるか。人とくらべて正しい、悪くない」と。ですから、断食しているとか、献金しているとかも、それは人とくらべてこれだけしているということを言っているのです。それは神の前ではなく、どこまでも人の前でのことに過ぎないでしょう。ですから、彼は、神に祈っているようで、実は神様に祈っていません。神様に向いているようで、神様に向いていません。人と比べて自分を誇ることだけしか向いていないといえます。むしろ自分を誇るために、徴税人を利用し、神さえも利用しているとも言えます。そして「神の前」ということはまったく、彼の心にはありません。むしろ、もし私たちが「神の前
にあるなら、あるいは神の前の自分を知るなら、私達は誰一人何も誇れるものはないのです。だれと何を比べようとも、どんなに人の前で立派な振る舞いし社会の貢献ができ一人当たりも良く世間に評価されていたとしてもです、全ての人は、誰一人漏れることなく、皆神の前には罪深い一人一人だからです。本来、祈りのための神殿は、その罪のための全焼のいけにえをささげに来る礼拝の場所であり、「神の前にあって
、罪を告白する場所でもあったはずでした。ですから、彼はそのような神殿とか礼拝とか、祈りさえも、まさに自分を誇るために利用しているに過ぎないのでした。なにより「神の前」ということがすっぽり抜けてしまっているのです。
この「神の前」ということが抜けてしまう時に、信仰も、祈りも、どこまでも「人の前」になってしまいます。神に聞いてらうのではなく、人に見せるため、聞いてもらうため、人に評価されるためになってしまいます。そしてやはり「人と比べて」の信仰や祈りにもなってしまうでしょう。人はこの「人と比べる」ということで安心を求めます。そしてそれは一瞬は安心するのかもしれません。けれども、神の前」を忘れて、人と比べることによって得られる安心は、不安定な安心であり、長続きしません。そしてやっぱり不安にしかなりません。それ不安定さと不安の結果として、このパリサイ人のように、隣人を、裁いたり、批判したり、蔑んだりになってしまっているのがわかるのではないでしょうか。
B、「徴税人の祈り」
しかし他方、徴税人はどうでしょうか?13節
「ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』」
目を天にも向けない。そして自分の胸をたたきます。胸の痛みです。それは肉体や内臓の痛みではありません。それは「神様。こんな罪人の私をあわれんで下さい」と。罪ゆえの心の痛みでした。聖書には、罪ゆえの痛みを「心を刺し通される」とか、「心が砕かれる」というような表現がありますが、罪は、心に、何かが刺さるような強い痛みを起こすものです。徴税人は悪いことをしてしまいました。しかし彼は神の前にあって神の前に立つ事ができないのです。見上げることができません。しかし彼は「神の前」にあることを何よりも意識して、知っています。そしてその時、何より、彼はその神の前にあって、自分の罪深さしか見えて来なかったのでした。その痛みと恐れと告白なのです。憐れまれるに値しないような自分しか見えません。絶望的な自分です。しかし彼は、その罪の告白に、この罪人をどうか憐れんで下さいとだけ祈るのでした。いやそう祈ることしかできなかったのでした。
こんな二人、こんな二人の祈りでした。
3、「義とされて家に帰ったのは」
そんな二人について話しイエス様はこう続けます。14節ですが。
「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」」
イエス様はいいます。この徴税人こそ義とされた。ファリサイ派ではないと。ファリサイ派の祈りではなく、この徴税人の祈り、告白こそ、神に受け入れられた。いや、義と認められた。そういいます。正しいとされたというのです。私達人間や、社会の目から見るなら、ファリサイ派の人の方が、社会的にも評価されるのではないでしょうか。人は誰でも、これだけのことをしましたとアピールして、自分を良く見えるように装います。そして世もそれを求めます。それを評価します。人は心の中が見えません。だから人は心を隠し、外面的に自分は正しいとアピールするのです。時にはこのファリサイ派の人のように自画自賛さえします。残念ながら多くの場合、現代でもどの国でも偉い人や地位のある人の方がそのようなことが見られます。政治家は特にそうです。それは宗教家でさえも、牧師にさえも見られることです。当時にユダヤ社会中でもそのようないい人、立派な人、正しい人、信頼できる人は、このファリサイ派の人の方だと、見ていたのです。大体の社会の人の評価はそうかもしれません。しかし、イエス様は、神の視点は全く逆です。義と認められて家に帰ったのは、「ファリサイ派の人ではありません」と、わざわざ言っています。徴税人が義と認められて家に帰ったとイエス様はいいます。なぜでしょう。 「なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くするものは高くされるからです」といいます。しかしそれは何より、「神の前にあって」ということです。人の前に何をしたか、何ができるかは、神の前にあって、あるいは何より、ここでは「義と認められるために」、つまり「救いのために」は、全く重要なことではないというのです。行いを見るなら、パリサイ人のほうが言うまでもなく立派であり、取税人のしてきたことは、罪です。しかしどんなに人の前で立派に振る舞うことができ、社会に貢献でき周りに評価され尊敬されても、神の前にあっては、その自分の行いを誇って、自分の罪が見えないことは、救いのために何の役にも立たないのです。それどころか高ぶりの罪とさえ聖書は見ます。神の前では、ファリサイ派の人のようであってはならない、むしろ神の前に、自分の罪を認めることこそが、神様はなによりも求めておられる。そして外側を飾り、装うのではない、人と比べるのでもない。むしろその罪を認め、苦しむ心、神にのみ憐んでくださいと、ただすがる心を神様は決して責めるのでも、裁くのでも、更に苦しめ、大きな罰を加えられると言うのでも決してない。むしろ、神様は、それこそを義と認めて下さる。むしろその罪を赦し、正しい者として、再び立たせ、家へ、社会へと送り出してくださる。遣わしてくださる。そのような神様の心を、イエス様は私達に伝えているのです。
4、「砕かれた悔いた心を神は侮らない」
聖書は一貫してその神様の心を私達に伝えています。詩篇51篇18〜19節にはこうあります。
「もしいけにえがあなたに喜ばれ焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのならわたしはそれをささげます。しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を神よ、あなたは侮られません。
これは新改訳聖書ではこうあります。
「たとい私がささげても、まことにあなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを、望まれません。神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた悔いた心。神よ。あなたはそれをさげすまれません。」
と。神の前に、砕かれた悔いた心こそ、神へのささげものとして喜ばれるとダビデは歌っています。イエス様は、マタイ6章のところで、祈りにおいても、人に見られるような祈りではなく、やはり「隠れたところにおられるあなたの父に」と、人の前ではなく、「神の前」ということをイエス様は教えて下さっています。さらにマタイ7章では、隣人に対しても、兄弟の目の中のちりに目を付けるが、自分の目の中の梁に気がつかないものを、イエス様は偽善者と言っています。そして、なにより「自分の目の梁を取り除くように」と教えました。やはりパリサイ人のような「人の前」で人と比べ自分を誇り隣人を裁くのではなく、この取税人のように「神の前」に自分の罪を認める悔いた心をイエス様は教えているのです。そのような自分の目の梁は自分では取り除くことはできません。しかしその梁はこのキリストの十字架のゆえにこそ完全に取り除かれます。罪はキリストの十字架のゆえにこそ赦され、罪人が義と認められるのです。事実イエス様自身は、そのような人の前だけの立派な人を招くためではなくて、神の前に罪に痛み苦しみ、悔いる者を招くためと言っています。ルカ5章31−32節
「「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」」(ルカ5:31〜32)
5、「神の前にあって真に平安に立てるように」
私達はみな「神の前
にあるものです。アダムとエバは堕落した時に、神の前から隠れ、神の声を避けようとしましたが、彼らがそうであったように私たちは誰も神の前を避けることも隠れることもできません。その「神の前
にあって、私達はみな、この取税人のような罪人です。このファリサイ派の人も同じ罪人です。しかし神様はその罪人を裁くためにイエス様を送ったのではありません。救い主として送りました。罪人を招いて、一緒に食事をし、愛を表し、悔い改めさせるためにです。その神の前にあって、私達は自分を誇ることは空しいことです。人と比べて安心することも、結局は意味のないことです。私達は、神の前にあって、何より、そのままの罪深い自分を告白して、「神様、この私を、憐れんで下さい」と、神様に頼り、求める声を、神様はなにより喜んで下さり、受け入れて下さいます。そのような私たちをも罪を赦し義と認めて下さいます。ですから、今日もイエス様は宣言してください。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。今日も神様は私たちをこの福音の約束と十字架と復活における実現で再び新しく立たせて、平安のうちに私達を家族へ、社会へと、新たにつかわしてくださるのです。ぜひ平安のうちにここから遣わされて行きましょう。
アーメン 2025年10月19日(日)スオミ教会
聖書:ルカ福音書18章1~8節
説教題:「気を落とさず、絶えず祈れ」
今日の聖書は「寡婦と裁判官」の譬えです。読んだだけで分かり易い譬え話です。イエス様はこの譬え話で何を弟子たちに語っておられるのでしょうか。ルカは18章1節に、この譬え話の教えを次のようにはっきり書いています。「『イエスは気を落とさずに、絶えず祈らなければならない』この事を教えるために弟子たちに譬えの話をされた。」イエス様は弟子たちに、気を落とさず絶えず祈りなさい、と言っておられるのです。弟子たちはこれから先イエス様がおられなくても福音を宣べ伝えて行かねばならない。この大切な使命を生涯をかけて果たして行くのに多くの困難がある。その苦難と迫害と戦い耐えて行かねばならない。そうした中で「神様に向かって、絶えず祈れ」と教えておられるのです。「絶えず祈る」というこの繰り返し、繰り返し、へこたれず忍耐して続けて訴えて行け、祈れという意味が込められているわけです。そこでイエス様は具体的にもっと詳しくわかるために、此処に「寡婦と裁判官」の話を譬えて語られたのであります。
2節から見ますと「ある町に神を畏れず、人を人とも思わない裁判官げいた。ところが、その街に一人の寡婦がいて裁判官のところに来ては『相手を裁いて私を守ってください。』と言っていた。」裁判官というのは裁判をする権利を持っています。政治をする為政者もまた権力を持っていて、権力を持つとその力をひけびらかして自分の力でどうにでもなる、という誇りや高慢になります。そして差別や偏見の目を持って不正な事も平気でやってしまいます。この譬えの裁判官もそうとう悪(わる)のようです。神を畏れず人を人とも思わない裁判官だったとありますから想像できます。この裁判官は神を畏れないのです。そこでは信仰の話は通じません。また、この裁判官は「人を人とも思わない」のです。そこには人間らしい情けや優しい気持ちなど全くない。それどころか人権とか人間尊重といった感覚は全くゼロに等しいのです。しかも、そういう人が権力を持ちこの街を治めているのです。本来、裁判官というのは正義と不正義とを律法に照らして判定を下す役なのです。旧約聖書、申命記16章18~20節には次のようにあります。「あなたは裁きを曲げてはなりません、人を偏り見てはなりません。賄賂を取ってはなりません。賄賂は賢い者の目をくらまし正しい者の事件を曲げるからです。ただ、広義のみを求めなけなればなりません。」以上ですがこれが正しい裁判官、また政治をする人の在り方です。更にパウロはローマ人への手紙13章でこう書いています。「彼は善を行うために立てられた神の僕です。・・・彼は神の僕であって悪を行う者に神の怒りを表すために罰を持って報いるのです。」これが理想的な裁判官、また政治家のあり方です。しかし、理想であって現実のこの世では権力をわが物にして自分の力を過信して行く、遂に恐ろしい程の人を人とも思わない権力者となってしまうのです。神を神とも思わない高慢な我儘で正義感のない者となってしまう。民衆のためにあるのではない、自分のために固着するしかない。権力は民衆を忘れ、神を忘れ自己達成を目指す、そしてやがて腐敗を始めます。権力の上には神がおられ、神の支配の下でないと崩壊します。何時の時代でも戦争で多くの命が踏みにじられて悲惨な世の中はあるのです。現在でも世界で独裁者が権力を奮っています。これが現実の私たちの生きてゆる世界です。毎日、建物が破壊され人が傷つき死んでいます。
さて、譬え話ではその町に寡婦がいて裁判官のもとへ行って「私の訴訟相手を裁いて私を守ってください。」と言っています。この寡婦の姿は無力な私たちの姿のようです。この寡婦は賄賂を使う金もない、全くの無力です。誰かを頼む伝手もない、誰も助けてくれそうもない全くの無力です。それに、いま彼女は訴えられています、被告になっています。寡婦の彼女は繰り返し、繰り返し訴えて裁判をしてくれるように頼んでいますが裁判官は取り合ってくれない。彼女は無力です。ただひとつ正義の神様がいます。このお方が必ず正しい事をして下さる。彼女にこの信念があります。パウロはコリントの第二の手紙12章9節でこう書いています。「私は力の弱いところに完全に現れる」。神様は全てをご存じです。神様は決して見捨てられない。しかし、いま彼女の状態は決してあるべき姿ではない。主の祈りで私たちは祈ります。「御心の天になる如く、地にもなさせ給え」と。彼女は、ただこの祈りをもって悪い裁判官に立ち向かいます。彼女をそうさせたのは正義感ではありません。彼女は取られようとしている彼女の財産が無くては生きてはゆけないのです。正義の意志というものだけでは弱いものです。如何なる権力にもひるまず訴えてゆく根底には実にその事が自分の生命の問題だからです。抽象的な正義感だけででは生命の問題とならないのです。裁判官は長い事彼女の叫びを聴き入れようとしませんでした。この純真な要求は聴き入れられない。いく度も、いく度も熱心に訴えても要求は聴き入れられませんでした。もしこの要求が生命の問題にまでなっていなかったら途中で諦めるか自分で又新たな理屈をつけて叫び直すしかない。この悪い裁判官は何故聴き入れられようとしないのか。それは「神を畏れず。また人を人とも思わない」からです。正義の感覚など微塵も持ち合わせていないからです。この裁判官がついに聴き入れるのは単なる理論や正義の感覚ではない。理論だけで悪魔に対抗する事は出来ません。悪魔は何時ももっと巧みな理論を用意しています。そこに暫く聴き入れない期間があります。大切な期間というものがあるのです。そこで諦めたら終わりです。裁判官が勝手に思って作っている期間ではありません。私たちの祈りも神様に直ぐに聴き入れられない期間というものがあります、そういう時があるのです。この裁判官は依然として神を畏れないし人を人とも思わない。その事態は変わらない。しかし今その裁判官がその後、自分自身で言いました。「私は神を畏れないし人を人とも思わないがこの寡婦は私を煩らわすので彼女の裁判をしてやろう。そうすればとことんまでやって来て私を苦しめる事が無くなるだろう。」イエス様の譬え話は5節までです。そして、6節で即、言われました。「この不正な裁判官の言い草を聞きなさい」。イエス様は問われます。「彼の言う事を聞きましたか。他でもない。この不正な裁判官がついに神の正しい裁きをすると言うのです。不正な裁判官のへ理屈などどうでも言いのです。その不思議な事実を聞くのです。此処では極悪の地上の裁判官が正義の神に名添えられているのです。では何に耳を傾けなくてはならないのでしょうか。それは不正な裁判官がついに正義の裁判を行うという不思議な事実です。裁判官は依然として彼の本質は変わらないのです。「この悪い裁判官が急に寡婦の祈りを聞いてその熱心さに涙を流して悔い改めた」とは書いてありません。しかし、彼は「この寡婦は私を煩わすので彼女の裁判をしてやろう」と言い始めるのです。煩くて、煩くて俺を煩すから、と言っているのです。不正な裁判官を正義の裁判官に変える事は出来ません。人間の仕事ではありません。しかし驚く事にこの権力の利己主義を通しても神の正義が実現してゆくのです。権力は正義の理論では動きません。しかし、絶えずぶつかって行く信仰の愚かな行為の繰り返し・・ただそれのみによって動かされるのです。小さな奇跡が起きているのです。
旧約聖書、出エジプト記2章23節以下にこうあります。「多くの日を経てエジプトの王は死にました。イスラエルの人々はその苦役の故に彼らの叫びは神に届きました。神は彼らの呻を聞き、アダム、イサク、ヤコブとの契約を覚え神はイスラエルの民を顧みてくださいました。」神が働いて下さったのです。悪い裁判官が世界を動かしているかに見えます。しかし、そうではありません。人間にはその時、その時で事がおこるのです。即ち人間の徳、権力の不正、私たちの弱さ、不安、動揺・・・信仰、不信仰、等々あらゆる物を貫いてただ一つの神の御旨のみが勝利するのです。旧約聖書、箴言19章21節にはこうあります。「人の心には多くの計画がある。しかし、神の御旨のみが立つ」。神は夜、昼神に呼ばわる選びの民に裁きをしないで忍耐ばかりさせ給うだろうか。いや!神は速やかに審きをして下さる。しかし、人の子の来る時、果たして地上に信仰を見い出すであろうか。8節で問うておられる。これは信仰の課題です。終末の時、どうなっているか私たちにはわからない。神の遅き、と言うものは遅いのではない。神は速やかに審きをして下さる、と約束しておられるのです。それは又人の速さは速いのではない。神の時というものがあります。我々の持っている時と神の時は違います。20世紀最大の神学者、カール・バルトが言っている事です。神の時は全く次元の違う霊の世界の時です。神の時を持ち給う方が我々の持つ時の只中に来て下さった。救い主イエス・キリストとして神の御子が神の時そのものを持って人の世の時に宿って下さった。神の御子は人の世にあって、ついに十字架の死を遂げ、三日目に蘇って今も私たちと共に生きて下さる。これを信じることが信仰です。信仰はただこの神に基づくのです。たとえ天地が崩れ去るとも崩れる事のない土台の上に立っているのです。ある時は神は私たちから全てを奪われるかに見えます。神は私を見捨てられたのだろうか、と思えます。ヨブもそう思ったでしょう。しかし、全てを与えられます。気づかないうちに、ある時、突如としてです。神は必ず働いて下さる。神はいないかに見えます。正義は聞かれないかに見えます。神は時として沈黙し給うのです。そうです、沈黙しておられる。そういう時というものが必要だからでしょう。しかし、信仰はこの不正な裁判官の背後に生ける神を見ます。神は選びの民の義を守り給うです。それは、その民が神に選らばれた民に相応しく神の真理にしっかりと結び合っている時であります。私たちの祈りも、願いも全てを貫いて神が御旨をなさるのです。神様の側でなさる事であります。私たちに出来る事は絶え間ない祈りであります。
主日礼拝説教 2025年10月12日(聖霊降臨後第18主日)スオミ教会
列王記下5章1~3、7~15b節
第二テモテ2章1~15節
ルカ17章11~19節
説教題 「いつどこででも主なる神に感謝するのは当然であり相応しい」
1. はじめに
イエス様と弟子たちの一行がエルサレムを目指して進んでいきます。本日の箇所はガリラヤ地方とサマリア地方の間を通過している時の出来事です。サマリア地方というのは、もともとはユダヤ民族が住んでいたところですが、紀元前8世紀以後の歴史の変転の中で異民族と混じりあうようになって、ユダヤ民族の伝統的な信仰とは異なる信仰を持つようになっていました。旧約聖書の一部は用いていましたが、エルサレムの神殿の礼拝には参加せず、独自に神殿をもってそこで礼拝を守っていました。
さて、一行がある村に近づいた時、10人のらい病患者がイエス様を待っていました。まだお互いの距離が離れている時に彼らは「イエス様、先生、どうか私たちを憐れんでください!」と大声で癒しをお願いしました。これに対してイエス様はその場で癒すことはせず、エルサレムの神殿の祭司たちのところに行って体を見せなさいとだけ言います。これは、レビ記13章にある「重い皮膚病」にかかった時にどうするかという規定の通りです。つまり、かかった時は祭司が診て診断しなければならない。イエス様はモーセの律法にある既定に沿って指示を下したのでした。10人の男たちは、イエス様が命じられたのだからと言う通りにただちにエルサレムに向かいました。
ところがどうでしょう、出発後ほどなくして10人はみな治ってしまいました。みんな歓喜の極みだったでしょう。10人のうち9人はそのままエルサレムの祭司たちの所へ向かいました。レビ記14章をみると、祭司は「重い皮膚病」にかかったかどうかを診断するだけでなく、治ったかどうかも診断しなければなりませんでした。このように男たちのエルサレム行きの目的は、発病の診断から治癒の診断に変わってしまいました。それでも、祭司のところに行くのは律法の規定です。ところが1人だけ治癒の診断に行かずにイエス様のところに戻ってきた人がいました。先ほども触れたサマリア地方の出身者でした。彼は癒しを与えてくれた神を大声で褒め称えながら戻ってきました。そして、イエス様の足元にひれ伏し神の癒しを及ぼして下さったイエス様に感謝しました。この時のイエス様の言葉「清くされたのは10人ではなかったか。ほかの9人はどこにいるのか。この外国人の他に神を賛美するために戻って来た者はいないのか」、これを聞くと、律法に規定された祭司の診断よりも、彼のところに戻ってきて神を賛美することの方が大事だと言っているのが明らかです。
本日の個所はキリスト信仰にとって本質的なことを2つ明らかにしています。一つは、神から義なる者と認められて救われるのは律法の規定を守ることによってではない、イエス様を救い主と信じる信仰によってであるということ。もう一つは、キリスト信仰者は神から義とされ救われたことで感謝に満たされて神の意志に沿うように生きようとすること。この2つの萌芽がサマリア人の行動から見て取れます。この時はまだイエス様の十字架と復活の出来事は起きていません。なので、キリスト信仰にとって本質的なことがあるというのは少し気が早いかもしれません。しかし、先取りしているのです。イエス様はこの出来事を通して、将来の信仰はこういうものになると前もって教えているのです。
2.「あなたの信仰があなたを救ったのだ」の本当の意味
この先取りがわかるために、まず、イエス様の謎めいた言葉「あなたの信仰があなたを救った」を見てみます。この言葉は一見すると、信仰があるから病気が治ったというふうに聞こえます。しかしそれでは、病気が治る人は信仰がある人で、治らないのは信仰がないからということになってしまいます。本当にそうでしょうか?それだったら、戻ってこなかった9人も治ったのだから、イエス様は、お前たちの信仰がお前たち全員を救ったのだと言うべきでした。しかし、そう言わないで、このサマリア人だけに当てはまることとして言ったのです。このことに気づくと、この言葉は信じたら治るというような短絡的なものではないとわかってきます。この言葉の本当の意味がわかるために、イエス様が別の箇所でも同じ言葉を述べていますので、それを見てみましょう。
マタイ9章22節、マルコ10章52節、ルカ18章42節に同じ言葉「お前の信仰がお前を救ったのだ」があります。そこでイエス様はこの言葉を人の病気が治る前に、つまり人がまだ病気の状態にいる時に述べています。本日の個所は治った後で言うので逆です。そこに注意します。マタイ9章では、12年間出血が止まらない女性がイエス様の服に触れば治ると思って触る、それに気づいたイエス様が「娘よ、気をしっかりもちなさい(後注)。あなたの信仰があなたを救った」と言います。この言葉をかけられた後で女性は健康になります。マルコ10章とルカ18章では、盲人がイエス様に見えるようにしてほしいと懸命に嘆願しました。イエス様は彼に「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と言われました。その直後に男の人は目が見えるようになりました。
本日の個所のように病気が治った後で「あなたの信仰があなたを救った」と言えば、ああ、信仰のおかげで治ったのだな、と普通は理解します。しかし、病気が治る前、まだ病気の状態でいる時にそう言うのはどういうことでしょうか?そこで、この「あなたの信仰があなたを救った」の「救った」はギリシャ語原文では現在完了形(σεσωκεν)です。「過去の時点で始まった状態が現在までずっとある」という継続の意味です。それなので「あなたの信仰があなたを救った」というのは、本当は「イエス様を救い主と信じる信仰に入ってから、今この時までずっと救われた状態にあった」という意味です。
これは驚くべきことです。12年間出血が治らなかった女性も目の見えなかった男の人も、この言葉をかけられる時まで救われた状態にあったと言うのです。まだ病気を背負っている時に既に救われた状態にあったと言うのです。どうして、そんなことがありうるのでしょうか?普通は、治った時に救われたと言います。ところが、そうではないのです。イエス様を救い主と信じる信仰に入って以来、この人たちは確かに見た目では病気を背負っている状態にはあったが、神の目から見れば、罪と死の支配から解放されて神との和解が回復して、神と結びつきを持って生きられるようになったということです。これが救いの本当の意味です。キリスト信仰では救いというのは、人間の目から見て良い境遇にあるということと同義ではないのです。境遇が良いか悪いかにかかわらず、罪と死の支配から解放されて神との和解が回復して、神と結びつきを持って生きられるようになる、それが「救い」なのです。誤解を恐れずに言えば、出血の女性や目の見えない男の人が癒されたのは、そのような本当の救いに対する付け足しのようなものだったのです。
そういうわけで、キリスト信仰者が不治の病にかかったとしても、それはその人の救いが無効になったということでは全くありません。そうではなく、その人がイエス様を救い主と信じる信仰にとどまる限り、その人は病気になる前と同じくらいに救われた状態にいるのです。この不動の救いは、イエス様が十字架と復活の業を成し遂げることで全ての人に提供されました。この本当の救いは、イエス様を救い主と信じて洗礼を受けることで受け取ることができ、自分のものにすることができるのです。
さて、今日のサマリア人の場合はどうなるでしょうか?同じ癒しを受けたにもかかわらず、この言葉は9人には向けられませんでした。感謝に満たされて神を賛美しながら戻ってきたサマリア人に言われました。ここでも、癒しと救いが別々になっていることは明らかです。サマリア人が「救われた」というのは、癒されたことではなくて戻ってきたことに関係するのです。「救われる」と言うのは、先ほども申しましたように、癒しではなく、罪と死の支配から解放されて神との和解が回復して、神と結びつきを持って生きられるようになることです。それでは、サマリア人が戻ってきたことが、どうして彼の救いになるのか?それを次に見ていきます。
3.キリスト信仰を先取りするサマリア人の行動
先ほども申しましたように、レビ記14章には重い皮膚病が治ったかどうかの診断は祭司が行うという規定があります。その3節をみると、祭司が治ったと診断した場合は次に「清め」の儀式を行わなければなりませんでした。いろいろな動物や鳥を生け贄として捧げることが、神との和解を回復する手立てとして定められています。これを行った後で治った人は「清い状態になる」(14章20節)、つまり「清い状態」とは皮膚が健康になったことではなく、神との和解が成ったということなのです。
ここで注意しなければならないことは、生け贄を捧げる「清め」の儀式は、病気を治すために行う祈願の儀式ではなく、病気が治った後でする儀式ということです。治ったんだったら、もう何も儀式はいらないんじゃないかと思われるでしょう。しかし、「重い皮膚病」というのは、単なる肉体的な病気にとどまらないと考えられたのです。それは、人間が神の意志に反する性向、罪を持っているために神との結びつきが失われてしまった状態にあること、それが病気という目に見える形で現われたものと考えられたのです。それで、肉体的な病気は治っても、神との和解を回復するための儀式が必要だったのです。
もう一つ注意しなければならないことがあります。それは、全ての人間はたとえ「重い皮膚病」にはかからなくても、神の意志に反しようとする罪をみんなが持っているということです。病気のような目に見える状態はなくても、みんなが罪の状態にあるのです。それが「重い皮膚病」という目に見える形で出てくるのは、かかった人が何か罪を犯したから、かからなかった人は犯さなかったからというのではありません。全ての人間は罪の状態にあるので、病気が目に見える形で現れる可能性は本当は誰にでもあるのです。ただ、私たちが知りえない理由で、ある人たちがそれを背負うことになってしまったということです。全ての人間が罪の状態にあるということは、最初の人間が罪を持つようになって以来、人間は死ぬ存在であり続けたことに示されているのです。使徒パウロが罪の報酬として死がある(ローマ6章23節)と言ったのはこのことです。死ぬということが人間が罪を持っていることの表れなのです。
さて、イエス様は、癒されたサマリア人がエルサレムの神殿で「清め」の儀式をしないでに戻ってきてイエス様と神を賛美したことを良しとします。つまり、神との和解の儀式はもう必要ない、その人はもう神と和解ができている、ということになります。イエス様は自分がこの世に贈られたのはそのような儀式不要な神との和解を打ち立てるためだということを前もって教えているのです。どういうことかと言うと、イエス様の十字架と復活の出来事の後は、もう人間は神との和解のためには何の犠牲も生け贄も捧げる必要はなくなったということです。人間はただ、イエス様を自分の救い主と信じる信仰と洗礼によって神との和解を得ることができるようになったのです。モーセの律法には「重い皮膚病」が治った後の「清めの儀式」の他にも罪を償い神との和解を得るための儀式が数多くありました。特に「贖罪日」と呼ばれる日は年に一度、大量の生け贄を捧げて、罪の償いの儀式を大々的に行っていました(レビ記16章、23章27
32節)。
しかしながら、こうした儀式や生け贄は何度も何度も繰り返して行わなければならないものでした。そこで明らかになったことは、それらは人間を罪の支配から完全に解放できない、それでもたらされる神との和解は一過性のものにしかすぎないということでした。このことを「ヘブライ人への手紙」10章は次のように述べています。「律法は年ごとに絶えず捧げられる同じいけにえによって、神に近づく人たちを完全な者にすることはできません。もしできたとするなら、礼拝する者たちは一度清められた者として、もはや罪の自覚がなくなるはずですから、いけにえを捧げることは中止されたはずではありませんか。」(10章1
2節)。
そこで天地創造の神は、人間がこのような中途半端な状態から抜け出せて、罪と死の支配から解放されて、神との結びつきを持ってこの世を生きていけるようにしてあげようと、それでひとり子イエス様をこの世に贈られたのです。神は、イエス様に人間の全ての罪を背負わせてゴルゴタの十字架の上に運ばせてそこで人間に代わって神罰を受けさせました。このようにイエス様に人間の罪の償いをさせて、人間を罪と死の支配から贖い出して下さったのです。それだけではありませんでした。神は一度死んだイエス様を想像を絶する力で復活させて、永遠の命があることをこの世に示され、そこに至る道を人間に開いて下さいました。そこで人間が、これらのことは本当に起こった事だと、それでイエス様は本当に救い主だと信じて洗礼を受けると、神がイエス様を用いて実現した償いと贖いを受け取ることができ、自分のものにすることができるのです。その人は罪を償ってもらったので神との結びつきが回復しています。永遠の命に至る道に置かれてその道を歩み始めます。神との結びつきがあるので、順境の時も逆境の時も絶えず神から良い導きと守りを受けられて歩むことが出来ます。この世を去らねばならない時が来ても、神との結びつきを持ったまま去り、復活の日が来たら目覚めさせられて神の栄光を映し出す復活の体を着せられて創造主である神のもとに永遠に迎え入れられるのです。
主にある兄弟姉妹の皆さん、神のひとり子が自分自身を唯一神聖な捧げものとして捧げて、未来永劫にわたって人間の罪を償い、人間を罪と死の支配から贖い出して、神との和解をもたらして下さいました。私たちキリスト信仰者はそのイエス様を救い主と信じ洗礼を通して、この償い、贖い、和解が自分にはあるという者になりました。私たちが律法の規定を守ることでこれらがあるというのではなく、イエス様を救い主と信じることでこれらがあるという者です。自分では何もしていないのに、なんで?と一瞬あっけに取られます。しかし、自分にあるものをわかるや否や、心と体は強烈な感謝に包まれ、そこから神とイエス様を賛美する心が起こります。ちょうど律法のもとにではなくイエス様のもとに戻ったサマリア人のようにです。神を賛美する心も、神の意思に沿うように生きようと志向する自由な心もこの感謝から出てくるのです。その意味でサマリア人の行動には来るべきキリスト信仰の本質が見事に先取りされているのです。イエス様は十字架と復活の後の信仰者はどう立ち振る舞うかをこのサマリア人を例にして前もって教えているのです。
先日、ある教会員の方とお話しする機会があって、いろいろ大変なことがあった人生だったが、今は大分落ち着いて毎晩一日を振り返って一つ一つのことに神さまの良い御心が働いていたことがわかり、感謝に満たされて床につくことができるようになったとおっしゃっていました。素晴らしいことだと思いました。多くの人にとって平穏無事は当たり前になってしまって、特に神に感謝することではなくなっていることが多いからです。後で本説教を準備して、あの時、言っておけば良かったということが出てきました。それは、たとえ平穏無事が離れてしまう時があっても、償い、贖い、和解がある限り、離れない平穏無事を私たちは持っているということです。人間の目では平穏無事はなくても、神の目で見える平穏無事を持っているのです。だから、いつどこででも神に感謝するのは当然であり相応しいことなのです。
後注 θαρσειは「元気を出しなさい/気をしっかり持ちなさい」がいいでしょう。新共同訳のように「元気になりなさい」だと、健康になりなさい、というふうになって、これから癒してあげるという意味になってしまいます。それは正しくありません。
主日礼拝説教 2025年10月5日(聖霊降臨後第十七主日)スオミ教会
ハバクク1章1~4節、2章1~4節
第二テモテ1章1-14節
ルカ17章5-10節
説教題 「キリスト信仰者にとって信仰の成長とは?」
本日の福音書の日課の最初は、イエス様の有名な「からし種」のたとえの教えです。弟子たちがイエス様に「信仰を増して下さい」とお願いしました。「信仰を増す」というのは、ギリシャ語(προσθες πιστιν)の直訳でわかりそうでわかりにくいです。各国の聖書訳を見ると、英語NIVは「信仰を増やして下さい」と日本語訳と同じです。他は「信仰を強めて下さい(ドイツ語)」、「もっと大きな信仰を下さい(スウェーデン語)」、「もっと強い信仰を下さい(フィンランド語)」です。次に来るイエス様の答えから推測すると、弟子たちの質問の意図は何か奇跡の業が出来るようになるのが大きな信仰だと考えていたことが伺えます。奇跡の業を行えるような信仰を与えて下さいということだったでしょう。それに対するイエス様の答えはどうだったでしょうか?お前たちにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に命じると木は自分から根こそぎ出て行って海に移動するなどと言う。これと似たような話はマタイ17章とマルコ11章にもあります。ただ、それらでは移動するのは桑の木ではなく山です。マルコ11章ではからし種は出てきません。本日の説教は日課に定められているルカ福音書に集中して話を進めます。
からし種というのは、1ミリ程の極小の種でそれが3~4メートル位の木に育つと言われています。それなのでイエス様の答えを聞くと、お前たちにはからし種一粒ほどの信仰もないから桑の木に命じてもそんなことは起きない、お前たちの信仰は極小のからし種にも至らない超極小だ、と言っているように聞こえます。せっかく弟子たちが自分たちの信仰は大きくないと認めて、だから大きくして下さいとお願いしたのに、お前たちの信仰はからし種よりも小さくて救いようがないと言ってることになってしまいます。しかも、どうしたらからし種位の信仰が得られるかということについては何も言いません。イエス様は教育的配慮が欠けているのでしょうか?
もう一つの教えは、召使いを労わない主人のたとえです。職務を果たして当たり前、労いも誉め言葉もありません。召使いもそれが当たり前と思わなければならない。一般に子育てや教育の場では、ほめることは子供に達成感を味わさせて自己肯定感を育てることになると言われます。ほめられたり労らわれるというのは、自分のしたことが認められたということで、そこから自分が存在することには意味があるんだ、自分はいて良かったんだという思いを抱かせます。イエス様の言っていることは自己肯定感の育成にとってマイナスではないか、教育者として失格ではないか?からし種の教えを見ても、イエス様は思いやりに欠けるのではと思わせます。実は、そういうことではないのです。では、どういうことか?以下に見ていきましょう。
2.からし種のたとえ
最初にからし種のたとえを見てみましょう。イエス様は本当に、お前たちにせめてからし種程度の信仰があれば奇跡を起こせるのに、しかし、お前たちにはそれがない、などと言っているのでしょうか?もしそうだとすると、どうして、こうすればからし種程度の信仰が得られると教えてくれないのでしょうか?
イエス様の言葉に肉迫してみましょう。日本語訳は「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば」と言っています。実際にはないが、もしあれば、という意味になります。これは、高校の英文法で習った事実に反することを言う仮定法過去です。ところがギリシャ語原文は仮定法過去ではなく素直な仮定法現在です(後注1)。なので、ここは事実に反することではなく、ただ単に「もし信仰をからし種のように持っていれば、次のようなことになるだろうし、もし持っていなければならないだろう」と中立的に言っているだけです。お前たちは今持っているともいないとも言っていないのです。
ところが不思議なことに、続く文が仮定法過去に変わっていて事実に反することを言っているのです。つまり、「お前たちが桑の木に命じたら言うことを聞くだろう。しかし、実際にはそんなことを命じないだろうから、桑の木が海に引越すことはないだろう」という意味です。少し複雑になってきたので整理します。
からし種というのは先にも申しましたように、1ミリにも満たない極小の種から数メートルの立派な木が出てくるという位の驚異的な成長を遂げる種です。弟子たちは「信仰を増やして下さい」とイエス様に願いました。それに対してイエス様は、からし種を思い浮かべなさい、極小なものから大きな木が育つではないか、お前たちも同じだ、極小のものが大きなものに育つのだ、信仰を大きくして下さいと言って、一挙に、ハイ大きくしてもらいました、というものではない。プロセスを経て大きくなるものだ。しかし、必ず大きくなる、からし種が木に育つように(後注2)。
このようにイエス様は、お前たちの信仰は極小のからし種にも及ばないと言っているのではなく、信仰とは極小から大きな木に育つからし種のように成長するということなのです。弟子たちをがっかりさせているのではなく、からし種が成長するのと同じように成長を遂げると勇気づけているのです。それで、ここのイエス様の趣旨は次のようになります。「信仰を小さなものから大きなものに成長するからし種のように持てば、例えばの話であるが、ここにある桑の木に海に引越せと命じたら、その通りになるだろう。ただし、これは例えばの話で実際には誰も桑の木にそんなことを命じたりはしないだろう。しかし、他のことで予想を超えたこと普通では考えられないことを起こせるのだ。」
そこで問題になるのが、じゃ、成長したら奇跡の業を行えるようになるのか?行えなければ成長したことにならないのか?ということです。ここで、奇跡の業というのは神の「恵みの賜物」(χαρισμαカリスマ)の領域であることを思い出しましょう。みんながみんな行えるものではないのです。誰が奇跡の業を行えて、誰が行えないか、これは神と聖霊が一緒に自由に決めることです。人間は立ち入ることは出来ません。奇跡の業を行う人にはない「恵みの賜物」もあるのです。だから、人目を引く業ができるからと言って、あの人の信仰は成長しているなどと言ってはいけないのです。人目を引かない業もあるのです。しかしながら、人は往々にして人目を引くものに基づいて判断しがちです。
奇跡の業や「恵みの賜物」は神が決められることで、キリスト信仰者の「信仰の成長」の度合いを測る物差しではありません。そうなると、「信仰の成長」とは何か考えてみないといけません。私は、それは「信仰の中で私たちが成長する」というふうに考えます。信仰とはイエス様を救い主と信じる信仰です。それが成長するのではなく、その信仰の中で私たちが成長するということです。信仰の中で成長するとはどういうことか?それは次に来る、召使いは労われないで当たり前という教えが明らかにしています。次にそれを見てみましょう。
3.労われない召使い
このたとえの教えで注意しなければならないことは、ここでイエス様が言われる「命じられたこと」とは、神が人間に命じることです。人間が人間に命じることではありません。というのは、イエス様のたとえの教えで「主人」とか「王様」が出てきたら、たいていは天の父なるみ神を指すからです。それで「命じられたことをする」というのは、神が人間に命じたことをするということ、つまり、人間が神の意思に従って生きることです。人間が神の意思に従って生きるというのは、イエス様が教えたように、神を全身全霊で愛することと、その愛に立って隣人を自分を愛するが如く愛するということに集約されます。キリスト信仰者は神から何も労いも誉め言葉もないと観念して、神から何も見返りを期待しないでそれらのことを当たり前のこととして行わなければならない。たとえ自分としては、神さま、こんなに頑張ったんですよ、と言いたくなるくらいに頑張っても、神の方からはそんなの当たり前だ、と言われてしまう。そうなると、何か成し遂げても顧みられず、次第にやっていることに意味があるのかどうかわからなくなってしまうではないかと言われるかもしれません。
ところが、神は、労いや誉め言葉などなくても私たちは全然平気、と思わせるような、そんな大きなことを実は私たちにして下さったのです。何をして下さったのかと言うと、御自分のひとり子イエス様をこの世に贈られたことです。それは、私たちが持ってしまっている神の意志に反しようとする性向、罪のために神と私たちの結びつきが断ち切れていた、それを神はひとり子を犠牲にしてまで回復して下さったのです。どのようにして回復して下さったかというと、イエス様が私たちの罪をゴルゴタの十字架の上にまで背負って運び上げて、そこで私たちの身代わりに神罰を受けて、私たちに代わって罪の償いを神に対して果たして下さったのです。
さらに神は一度死なれたイエス様を想像を絶する力で復活させることで、死を超える永遠の命があることをこの世に示し、そこに至る道を私たち人間に開かれました。私たちは、このイエス様こそ救い主と信じて洗礼を受けると、彼が果たした罪の償いを自分のものにすることができて、神から罪を赦された者と見なされるようになり、神との結びつきを回復して永遠の命に至る道に置かれて、その道を歩き始めます。私たちは、この神から与えられた罪の赦しという恵みに留まり、それを手放さないようにしっかり携えて道を歩み続けていくと、かの日、全知全能の神のみ前に立たされる時、大丈夫だ、お前にはやましいところはないと宣せられるのです。本当は、神の御心に沿うことに関しては、失敗だらけ至らないことだらけだったのですが、いつも心の目をゴルゴタの十字架に向けて、かつて打ち立てられた罪の赦しは揺るがずにあることを確認してきました。その度に心は畏れ多い気持ちと感謝の気持ちに覆われて道の歩みを続けることができました。イエス様を救い主と信じて洗礼を受けると、このように道を歩む人生になるのです。このように歩む者を神は義なる者と見て下さり、それでかの日には何も心配せずに神のみ前に立つことが出来るのです。
冒頭で自己肯定感について述べましたが、キリスト信仰者の自己肯定感はここにあります。本当は自分には神の目から見て至らないことが沢山ある、神の意思に反する罪がある、しかし、イエス様のおかげで、そしてそのイエス様を救い主と信じる信仰のおかげで、神のみ前に立たされても大丈夫でいられる、何もやましいことはないと宣せられる。まさにそういう者になれるように神は私にイエス様を贈って下さったのだ。まだ私が神の目にかけてもらえるようなことをするずっと以前に贈って下さった。それどころか、私は神に背を向けて生きていたにもかかわらず、神はその私にイエス様を贈って下さったのだ。
こうしたことがわかると、やるべきことをした後で労われたり誉められるというのはどうでもよくなります。というのは、やるべきことをする前に先回りされて労われて誉められたような感じになるからです。だからキリスト信仰者は、後はただ神に命じられたことをするだけ。別に労われたり誉められたりしなくても全然平気なのです。ご褒美は一足先に十分すぎるほど頂いてしまったからです。この私が神の前に立たされても大丈夫でいられる、やましいところはないと宣せられるようになることを神自らがして下さった。全知全能の神がこれだけ私に目をかけて下さったのだ!これがキリスト信仰者の自己肯定感です。何かしたことに対して神から見返りを得られてできる自己肯定感ではありません。別に見返りなんかなくても平気という自己肯定感です。
もちろん、人間同士の間でほめたり労ったりすることは、やる気や自己肯定感を生み出すために大切です。ただキリスト信仰者の場合は、人間同士の関係から生まれてくる自己肯定感よりももっと深いところで全知全能の神との関係から生まれてくる自己肯定感があります。そういうわけで、これをすればあの人にほめられる、目をかけてもらえる、便宜を図ってもらえるというようなことが出てきて、もしそれが神の意思に沿わないことならば、別に人間なんかにほめられなくてもいいや、と言って神の御心に踏みとどまります。それは、神にほめられるためにそうするのではなく、何度も言うように、既に神に十分すぎるほど目をかけてもらったからです。神が自分のひとり子を犠牲にしてもいいと言う位に目をかけてもらったのです。それで人間同士の関係の自己肯定感に振り回されずにせいせいした気持ちでいられます。
そうすると、自己肯定感が神との関係からでなくて、人間同士の関係から生まれるものだけに頼ると、少し心もとない感じがしてきます。何をすれば何を言えば周囲から評価されるか注目されるか便宜を図ってもらえるか、ということに心を砕いてしまって、それに自分を一生懸命あわせていかなければならなくなります。いつの間にか肝心の自己が周囲の者に造られていってしまうのです。
主にあって兄弟姉妹でおられる皆さん、私たちが信仰の中で成長するというのは、毎日自分が神の目から見て至らないことがある、罪を持っているということに気づかされ、その度に心の目をゴルゴタの十字架に向け、罪の赦しは揺るがずにあることを確認してまた歩み出すという繰り返しです。それはまた、神の意思に沿うように生きようという思いを新たにすることの繰り返しでもあります。繰り返せば繰り返すほど思いは強くなっていきます。これこそ罪に敵対する生き方です。こうすることで、私たちの内に残る罪は圧し潰されていきます。最初は極小の種みたいだったのが最後は大きな木になるというのは、復活の日の私たちの有り様を意味しています。
イエス様は、このように信仰の中で成長する私たちには何か予想を超えること普通では考えられないことを起こせる可能性があることを述べました。桑の木の海への引越しはあまり現実性のない一例として述べられました。きっとイエス様は教えていた時に、たまたまその辺に生えていた桑の木が目に入って、勢いであんなことを言ったのではないかと思われす。イエス様の教えには聞く人の度肝を抜くような誇張がしばしば見られるからです。桑の木の件は現実性のない一つの例でしたが、イエス様の教えではっきりしていることは、信仰の中で成長していく人には何か予想を超えること普通では考えられないことを起こせる可能性があるということです。それが何であるかは人それぞれです。大勢の人の目を引くようなものもあるでしょう。他方では、他の人から見たらあまり大したことじゃないと思われることでも、本人にしてみれば普通だったらありえないことが起こったということもあります。それなので、兄弟姉妹の皆さん、共に礼拝を守り、共に聖餐式に与かって一緒に信仰の中で成長を遂げて行くスオミ教会の皆さんにおかれては、もし、そういうことがあれば、「私の場合は桑の木の海への引越しとは違いますが、こんなことがありました」とお教え下さい。みんなで分かち合って、そのような可能性を与えて下さった神を一緒に賛美しましょう。
(後注1)ギリシャ語原文は、ει εχετεです。仮定法過去にしようとしたら、ει ειχετεかει εσχετεにすべきでしょう。
(後注2)εχετε
ως ~は、「~のように-を持つ」ですが、私の辞書(I. Heikel & A. Fridrichsenの”Grekisk–Svensk Ordbok till Nya Testamentet och de apostoliska fäderna”)には、「~として-を考える、~として-を見なす」というのもあります。
主日礼拝説教 2025年9月28日(聖霊降臨後第16主日)
アモス6章1、4-7節、第一テモテ6章6-19節、ルカ16章19-31節
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがにあるように。 アーメン
本日の福音書の箇所でイエス様は実際に起きた出来事ではなくて架空の話を用いて教えています。何を教えているのでしょうか?
金持ちが贅沢に着飾って毎日優雅に遊び暮らしていました。その大邸宅の門の前に全身傷だらけの貧しい男が横たわっていました。名前はラザロ。ヨハネ福音書に登場するイエス様に生き返らされたラザロとは関係はないでしょう。ヨハネ福音書のラザロは実際に起きた出来事に登場する現実の人物ですが、本日の箇所はつくり話の中に出てくる架空の人物です。
ラザロという名前は、旧約聖書によく登場するヘブライ語のエルアザルという名前に由来します。「神は助ける」という意味があります。この話を聞いた人たちはきっと、この男は神の助けからほど遠いと思ったでしょう。金持ちの食卓から落ちてゴミになるものでいいから食べたいと願っていたが、それすら与れない。野良犬だけが彼のもとにやってきて傷を舐めてくれます。「横たわる」という動詞は過去完了形(εβεβλητο)ですので、ラザロが金持ちの家の門の前に横たわり出してから、ずいぶん時間が経過したことがわかります。従って金持ちはこんな近くに助けを待っている人がいたことを知っていたことになります。しかし、それを全く無視して贅沢三昧な生活を続けていました。
さて、金持ちは死にました。「葬られた」とはっきり書いてあるので、葬式が挙行されました。さぞかし、盛大な葬儀だったでしょう。ラザロも死にましたが、埋葬については何も触れられていません。きっと、遺体はどこかに打ち捨てられたのでしょう。
ところが、話はここで終わりませんでした。これまでのことはほんの序章にしかすぎないと言えるくらい、本章がここから始まるのです。金持ちは盛大な葬儀をしてもらった後は永遠の火に毎日焼かれなければならなくなりました。ラザロの方は、天使たちによって天の御国のアブラハムのもとに連れて行かれました。まさに名前の意味「神は助ける」が実現したのです。
以上が本日の福音書の箇所の要旨です。これを読む人は誰でも、ああ、イエス・キリストは利己的な生き方はいけない、困っている人を助けてあげなければいけないんだと教えていると思うでしょう。なんだか当たり前の道徳に聞こえます。そんな教えは別にキリスト教でなくたって他の宗教にもあるぞと言う人もいるかもしれません。
しかしながら、ここのイエス様の教えは「利己的な生き方はするな、困っている人を助けよ」が中心的なことではありません。中心的なことは「神に背を向けた生き方を方向転換して神を向いて生きよ」です。利己的な生き方をしない、困っている人を助けるという道徳は方向転換をした後で派生して出てくるものです。そして、方向転換のカギになっているのが旧約聖書とイエス様の復活であると教えているのです。ここのところが、道徳の問題でキリスト教が他の宗教・信条と違ってくる点です。似たような道徳を説いているようでも、組み立てられ方が全然違うのです。
少し余談になりますが、私が大学の神学部で勉強していた時、何かのセミナーである学生が今日の個所をテーマに発表をしました。彼によると、この金持ちとラザロの話にはネタがあって、それはエジプト由来の話であった、その内容は同じように金持ちが貧しい人を助けてあげず死後に立場が逆転するという話で、金持ち一般に対する戒めであった。この話はユダヤ教社会にも伝わってよく知られていて、イエス様はそれを自分の意図に沿うように改作したというのが発表の主旨だったと思います。ただ、どんな意図で改作したかはペーパーが手元にないのでもうわかりません。しかし、今回説教の準備にあたって、セミナーのことを思い出しながら日課の個所を何度も読み返してみたら、なるほどと私なりにイエス様の意図が見えてきました。それは、説教題にあるように、旧約聖書の精神と復活の信仰の両方があると神の方を向いて生きる方向転換が起こるということです。今日はそのことを見ていきましょう。
まず、今日の教えの中で天国や地獄が出てくることについてひと言。人間がすべきこと、してはならないことをそういうものを引き合いに出して教えるなんて時代遅れのやり方だ、と言う人がいるかもしれません。しかし、人間はこの世に生まれてきて、いつかこの世を去らねばならない存在である以上、死んだらどこに行くのか、そのどこに行くという時、この世での生き方が何か影響があるのかという問題は、いつの時代でも気になる問題ではないかと思います。もちろん人によっては、どこにも行かないよ、死んだらそれで終わり、消えてなくなると考える人もいるでしょう。その場合は、この世での生き方が次の世での有り様に関係するというのはナンセンスです。なぜなら、次の世がないのですから。人によっては、死んだら魂か何かが残ってみんなどこか安逸な場所に行くと考える人もいます。その場合、この世での生き方と次の世での有り様にはあまり関連性はありません。なぜなら、みんな安逸の場所に行けるのですから。人によっては、新しく別の人間ないし動物に生まれ変わると言う人もいます。この場合は関連性があります。もし、今の生き方に何か問題があれば次はなりたくない動物や虫になってしまうからです。
キリスト信仰の場合はどうでしょうか?十戒という神の意思を凝縮した掟集があります。それを守らないと地獄に堕ちると言うことでしょうか?そうとも言えるし、そうとは言えないという両面がキリスト信仰にあります。キリスト信仰はこの世での生き方と次の世の有り様の関連をどう見るかについては終わりで明らかにしようと思います。
本日の個所で一つ、おやっと思わせることがあります。普通に読むと、金持ちは地獄で永遠の火に焼かれ、ラザロは天国でアブラハムと一緒にいると理解できます。しかし、よーく見ると、金持ちが陥ったところは地獄ではなく「陰府」と言われています。ギリシャ語ではハーデースという言葉で、人間が死んだ後に安置される場所です。しかし、永遠の火の海ではありません。火の海はギリシャ語でゲエンナと言い、文字通り「地獄」です。
新約聖書の観点では、天国とか地獄というものは将来イエス様が再臨する時、死者の復活とか最後の審判とか天地の再創造が起こる時、その時点で生きている人と前に死んで眠りについていた人が起こされて到達する地点ということになります。なので、「陰府」というのは、それらが起きる時まで死んだ者が安置される場所です。それがどこにあるかは、神のみぞ知るとしか言いようがありません。ルターは、人が死んだ後は、復活の日までは安らかな眠りにつく、たとえそれが何百年の眠りであっても本人にとってはほんの一瞬のことにしか感じられない、目を閉じたと思って次に開けた瞬間にもう壮大な出来事が始まっていると教えています。壮大な出来事が起きる前には、このような安らかな眠りの場所があるのです。
そういうわけで、本日の箇所で金持ちが落ちた火の海は地獄と言った方が正しいのではないか。しかし、金持ちの兄弟たちはまだ生きていていい加減な生活を続けているわけですから、まだ最後の審判も天地の再創造も起きていません。そうするとやはり「地獄
でなく「陰府」かなと思うのですが、金持ちは眠ってはおらず地獄の火で焼かれています。これは一体どういうことか?この点については、各国の聖書の翻訳者たちも困ったようです。一例として、英語NIVはハーデースをhell「地獄」と訳しています。ただ、脚注を見ると、原文では「陰府」を意味する言葉ハーデースが使われているが、事の性質上、地獄と訳しました、などと断っているくらいです。
どうしてイエス様は、地獄と考えられる場所なのに「陰府」と言ったのでしょうか?一つ考えられることは、イエス様は何か大事なことを教えるために、時間の正確な流れにこだわらなかったということです。もう一つ考えられることは、もしこの話の元にエジプト由来の教えがあったのであれば、イエス様はその骨格をそのまま用いて、元の話にはない新しいことを教えたことになります。聞き慣れた話だと思って聞いていた人たちは突然、別世界に連れて行かれた感じになったでしょう。ここがイエス様の凄いところだと思います。それでは、その大事な新しいこととは何か?そのことを次に見ていきましょう。
金持ちはアブラハムにラザロを送って指先の水で焼き付く舌を冷やさせてくれるよう頼みます。
アブラハムは、お前は前の世で良いものを十分味わった、ラザロは悪いものを十分味わった、だから今ラザロは大いなる慰めを受け、お前は大いなる苦しみを受けるのだと言います。ここからも、聖書の神にとって正義は重大な関心事であることがわかります。今の天と地の下で正義が損なわれて放置されることがあっても、神はそれをそのままで終わらせない、必ず決着をつけられる。最終的に決着がつけられるのは最後の審判です。そこでは「命の書」と呼ばれる、全ての人間の全ての事柄が正確に記録されている書物が開かれて判決が下されます。どんな有能な裁判官も太刀打ちできない完璧な判決です。
さて金持ちは、自分のことはもう決着済みと観念して、今度はラザロを兄弟たちのところへ送って下さいとお願いします。そうすることで兄弟たちが自分と同じ運命に陥らないようにするための警告になると思ったからでした。
ところがアブラハムは、彼らには律法と預言書、すなわち旧約聖書があるではないかと返します。そこにある神のみ言葉に聞けば、わざわざ死者など送らなくとも警告は伝わると。
しかし、金持ちはそれは上手くいかないと認めて言います。「父アブラハムよ、もし死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。」つまり、兄弟たちは旧約聖書に聞いていないのです。「悔い改める」とはギリシャ語のメタノエオーという動詞で、神に背を向けた生き方をやめて神の方を向いて生きるようになる方向転換を意味します。方向転換のために神のみ言葉に聞くことが必要なのだが、実際は聞いていないから、死んだ者を送ってやれば兄弟たちは恐れて考え直すと考えたのです。
ところが、アブラハムはそんなことは起きないと言います。なぜなら、「もし、モーセと預言者(つまり旧約聖書)に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。」
この言葉は重大です。よく耳を開いて聞きましょう。これはアブラハムの言葉ですが、イエス様が作った話の中のアブラハムなので、イエス様がアブラハムの口を通して言わせたイエス様の教えです。「死者の中から生き返る者があっても」とありますが、正確な訳は「たとえ死者の中から誰かが復活しても」です。以前の説教でもお教えしましたが、「生き返り」と「復活」は違います。「生き返り」は蘇生ですが、「復活」は神の栄光に輝く復活の体を着せられることです。ここでイエス様はご自分の復活のことを意味しているのです。ここのイエス様の真意はこうです。「もし、旧約聖書に耳を傾けならないのなら、たとえ死者の復活が起こっても、方向転換の悔い改めは起こらないだろう。」この教えが重大なのは、この教えが向けられているのは金持ちとその兄弟だけではなく、これを聞き読む全ての人に、私たちに向けられているからです。もし、私たちも旧約聖書に耳を傾けないならば、イエス様の復活が起こったところで、私たちに方向転換の悔い改めは起こらないのです。逆に言えば、もし旧約聖書に耳を傾けるならば、イエス様の復活が起こったことで方向転換が起こるのです。旧約聖書に耳を傾けるとどうしてそのような効果が生まれるのでしょうか?
旧約聖書に耳を傾けるというのは、イエス様が教えるように、十戒の掟を心の奥底まで守れているかどうか問うことになることです。神の意思に反することを行為に出さなければ十分というのではなく、心の状態まで問うのです。そうすると、自分には神の意思に反する罪があることがはっきりし、神の御前に立たされて「命の書」を開かれる日は恐ろしい日になります。ところが、旧約聖書は返す刀で全く正反対のことを私たちに約束するのです。どんな約束か?人間が神の御前に立たされても大丈夫でいられるように、人間の罪を人間に代わって償って下さる方が来られるという約束です(イザヤ53章)。このように旧約聖書に耳を傾けるというのは、まず、自分には神の意思に反する罪があることを十戒によって暴露されて絶体絶命の状態に置かれることです。しかし同時に、神の計らいで人間は罪から贖われるという約束を与えられて希望の状態に置かれることです。つまり、旧約聖書に耳を傾けるというのは、罪の自覚に基づいて希望を持つことです。
この神の約束はイエス様の十字架の死と死からの復活によって果たされました。イエス様が死から復活された時、あの方は旧約聖書に預言されていた、死が最終的な力を持ちえなかった神のひとり子であることがわかりました。それではなぜ神のひとり子とあろう方が残酷にも十字架にかけられて死ななければならなかったのか?それも旧約聖書に預言されていたこと、神の送られた方が人間の罪を償うために人間に代わって神罰を受けられたことが十字架の形で実現したとわかったのです。
これらのことが明らかになると、今度は人間の方が、これらは神が私のためになされたと受け止め、イエス様こそ真の救い主であると信じて洗礼を受けると、果たしてもらった罪の償いは自分にとっての償いになります。罪を償ってもらったから、神から罪を赦された者とみなされ、それからは神との結びつきを持ってこの世を歩むことになります。神の方を向いて生きる方向転換が起きたのです。旧約聖書の精神と復活の信仰が結びついて起きたのです。それからは、この神がイエス様を通して与えて下さった罪の赦しの恵みに留まる限り、神との結びつきはずっとあり、順境の時も逆境の時も変わらずあります。この世を去る時も神との結びつきを持ったまま去り、復活の日に目覚めさせられて約束通りに復活の体を着せられて創造主の御許に永遠に迎え入れられます。
主にあって兄弟姉妹でおられる皆様、私たちキリスト信仰者はこんな途轍もないことをして下さった神に対して、ただひれ伏して感謝する他ありません。その時、神の意思に沿うように生きるのが当たり前になります。神を全身全霊で愛する、隣人を自分を愛するが如く愛するのが当たり前になるのです。そこでは、神の掟は永遠の命を獲得するために守るものではなくなっています。先に永遠の命を保証されてしまったので、それに相応しい生き方をすることが後からついてくるのです。これが方向転換の正体です。
このようにキリスト信仰者は、神への感謝から神の意思に沿う生き方を志向する者ですが、現実に生きていくとどうしても自分の内に神の意思に反する罪があることに気づかざるを得ません。気づいた時はがっかりします。しかし、まさにその時、心の目をゴルゴタの十字架に向けられれば、神のひとり子の犠牲による償いは揺るがずにあることがわかります。その時、自分が復活に至る道に踏みとどまっていることがわかり、永遠の命の保証も大丈夫であることがわかります。再び神の意思に沿うように生きようと志向します。このように方向転換したキリスト信仰者は何度も何度も軌道修正をしながら復活の日に向かって歩んで行くのです。これが、本日の使徒書の日課、第一テモテ6章でパウロが言う「信仰の立派な戦い」です。同じ個所でパウロはまた、キリスト信仰者は永遠の命に到達するように神に召されたと言っています。説教の冒頭でキリスト信仰は今の世の生き方が次の世の有り様に影響すると考えるのかどうか問いました。実にキリスト信仰では、次の世の有り様が既に定められているので、それに合わせるように今の世を生きるのです。影響の向きが逆なのです。これが、パウロがガラテア6章で言う、キリスト信仰者は「新しく創造されたもの」カイネ―・クティシシスの意味です。
アーメン 2025年9月21日(日)スオミ教会
聖書:ルカ福音書16章1~13節
説教題:「不正な管理人の譬え」
本日の福音書はルカによる福音書の16章1~13節まであります。ルカは15章でイエス様が三つの譬え話をされた事をかいています。失われた子羊を見つけ出すまで探す羊飼いの譬え話と無くした銀貨を探し出す女の譬え話、そして有名な放蕩息子の譬え話です。どれも分かり易い譬えであります。ところが、今日の16章では一転して「不正な管理人」の譬え話は理解するのに容易ではない話です。ある学者はイエス様が語られた譬え話の中で一番難解な譬え話ではないかと表現しています。
何故かと言いますと不正を働いた管理人を信仰の模範とするようにとイエス様が褒めておられるからであります。どうして褒めておられるのか理解に苦しむから難しい。イエス様が16章のこの譬え話を話されている相手は弟子たちです。弟子たちがこれからこの世に出て行って神様の働きをして行く使命を持って伝道して行く場合にこの世の激しく困難に満ちた中でどのような心構えが必要かを教訓として話されているのです。現代の私たちの教会がこの世にあってどのような心構えで伝道して行くのか、またキリストの証人として、どう生きていったら良いのかを、これらの課題への教訓でもある、と思います。さて、この譬え話の主人公は「不正な管理人」と言われています。別の言葉で簡単に言いますと、彼はなかなかずる賢い管理人であった。ある神学者の研究では彼は奴隷であったという。しかし、大変に賢い奴隷であった。主人は奴隷であった彼に全財産を管理する大切な責任を委ねたわけです。それだけ彼を信用したのでしょう。随分、思い切った事をしたと言って良いでしょう、彼はこの主人の信頼に一生懸命応えて働いたことでしょう。イエス様の時代、パレスチナでは大地主と言われる人が多くいたのです。この譬えで語られる主人もそういう大地主の一人でありました。主人としてやるべき仕事もすべて管理人の手に任せていたのでしょう。ところが、この管理人は長年やって行く中に、まぁ上手くご、まかしていたわけです。横領の罪を重ねて行ったということであります。しかし、それが長く続くわけがありません。他の誰かの色々な告げ口でこの事が主人の耳に入りました、上手くごまかしていたつもりでも横領していた事がばれてしまったわけです。そして、彼はついに解雇されるはめになったのです。さあ・・そこで困った!彼はこのばれた悪事に対して反省はしたでしょう、がすぐさま自分の身に起こったこの事に対して素晴らしい一つの考えを巡らして行くのです。彼が主人のもとから追い出されるまでの短い期間にどうにかしなければならない。彼は帳簿を偽造する、という事を考えついたわけです。そして負債を背負っている者一人々を呼びまして実際に負っている負債の額よりもはるかに少ない額に書き直すという事をさせたのです。パレスチナでは地代を地主に払う場合はお金で支払うのではなく、その借地から採れた穀物とか油とか、そうした借地から収穫される物の一部をもって地代として支払うということをしていたのです。本来なら主人はあれだけ信頼して任せていたのに不正をして横領していたのが知れたのですから、この裏切者に対してそれ相当の罰を加えるのが当然でしょう。ところが主人はこの不正な管理人の抜け目のないやり方を褒めたのです。此処がこの譬えを理解するのが難解なところです。主人は何故このような不正を褒めたのでしょうか。ここでの管理人のやった事には二つの彼にとって有利な面があったのです。一つ目は、負債をしていた者は油100バトスを借りていたわけですが、それを半分の50バトスで良いとなったわけです。そうするとこの管理人に対して大変有り難いと思うでしょう、助かったのです。二つ目は負債者をそういう風にうまい具合に書き換える事によっていわば管理人も横領の罪を犯すわけですがそれに応じて書き換えてもらった負債者もまた言わば共犯者になってしまう、共犯者として巻き込んでしまうわけであります。そして、最悪の事態には体の良い強請りができる。こういう二つのまことにずる賢い事を考えたのです。しかし。その結果はどうなったか、と言いますとこれがみんなばれてしまったのです。
ところで、この主人はいくらか悪戯好きの太っ腹の人だったようでありまして余り厳しく裁くという事よりも主人は管理人に対してその『賢さ』、また『抜け目のなさ』に彼を誉めたのです。この譬え話を語られたイエス様は弟子たちに何を教えておられるのでしょうか。8節の後半を見ますとイエス様は「この子らは自分の仲間に対して光の子らよりも賢く振る舞っている。」と言われています。この譬え話をもってイエス様はどんな意味を含めて譬え話の中に語り示して行おうとされているのか、と言う事であります。主人というのはこの譬え話で神様のことです、或いはイエス・キリストの救い主の事をであります。この世の子らは此処にあります正しく賢く振る舞ったあの管理人の姿でしょう。そして光の子らというのは神様を信じているキリスト者であり、また私たち一人一人信仰を持った信徒であります。不正な管理人が象徴的している現代のこの世はどうですか、科学はこの凄く発達しても戦争の飽くなき殺し合い、詐欺が横行し、インターネットの発達は考えられない程、世の中便利にはなっても政治に悪用されて国や経済までも狂ったり歪んだりしてしまっている。
私たちの生きているこの世の泥沼のような中で光の子であるキリスト信徒は清く正しく貧しくとも耐えて神の御国への希望をもって生きよ。その場合に神様は賢く振る舞い一生懸命に生きよ。正直に生きようとすれば、騙されたり損をしたり思い通りにならない、報われない現実があります。キリスト者としてこの世の現実に生きてやがて最後に人生の総決算を神の前で迫られる。現実の自分の思い、教会で教えられる神様の言われる通りに生きようとする時、帳尻が合わない、ここに心の葛藤が起こります。そういう私たちの姿はまさに信仰と言うものとこの世の現実の中でずる賢しく生きねばならない。そこで不正な管理人のように抜け目のないずる賢しさに精一杯生きようとする。光の子らもそれを模範としなさい。そこで私たちの主人である神様が褒めておられるその意味は何であろうか。誤解しないで注意深く聞く必要があります。ここで信仰者はこの世の曲がりくねった不正に満ちた中で少しでも良いことをして帳尻を合わせようととするならそれは道徳の問題になり修養して行く律法主義者になってしまうでしょう。イエス様はこの譬えの中ではそういう事を決して言っておられない。イエス様は9節で「不正の富を用いてでも友達を作りなさい。」と言っておられるのです。友達を作りなさい。そうしたら富が無くなった時、その友人があなた方を永遠の住まいに迎え入れてくれるでしょう。キリスト者である私たちが生きてゆく場面々で出会った人々、その行い、それは神様があなたに与えられている材料であるわけです。その材料を用いて友人を作ることによって、それは神様の愛の結晶として現れてくる。信仰の作品として実を結ぶことになるのです。あなたは気づいていないかも知れないが、神様の愛の結晶は実を結んで思いもよらない所で花を咲かせて発展していますよ。そうして、あなたの人生の総決算で天の父なる神様の前で「よくやったね」と言ってくださる。自分でも気づかなかった信仰の証しの全ての全てを神様はちゃんと知っておられて総決算をされます。神の御国の終末での救いを、私たちはその一点に限りない希望をもって、心の葛藤をしつつ精いっぱい生きれば良いのであります。 アーメン
主日礼拝説教 2025年9月14日(聖霊降臨後第14主日)スオミ教会
出エジプト32章7-14節
第一テモテ1章12-17節
ルカ15章1-10節
本日の福音書の日課には、イエス様のたとえの教えが二つありました。最初のたとえでは、ある100匹の羊を所有する人が、1匹はぐれてしまったので、探しに探して、やっとのことで見つけて大喜びで帰り、友達や近所の人を呼んで喜びを分かち合うという話です。肩に担いだとありますから、羊は怪我でもして衰弱していたのでしょう。見つかって本当に良かったと思わせる情景です。もう一つのたとえは、ある女性が銀貨10枚のうち1枚を無くして、探しに探して、やっとのことで見つけて大喜びし、これも友達や近所の人を呼んで喜びを分かち合うという話です。二つの話は状況は異なりますが、主題は同じです。見失ったもの無くなったものを、一方は広い野原を果てしなく、他方は狭い家の中を隅々まで必死に探して見つけ、その喜びは自分一人には留めておけない、多くの人と分かち合いたい、それくらい大きな喜びであったということです。
それでは、この二つのたとえは何についてのたとえなのでしょうか?二つのたとえの終わりが同じ結論であることに注目します。一人でも罪びとが悔い改めたら、天の御国では大きな喜びが沸き起こると言われています。「罪びと」というのは、天地創造の神の意思に反する性向、すなわち罪を持つ者のことです。聖書の立場は、全ての人がそういうものを持っている、なので全ての人が「罪びと」であるという立場です。「悔い改める」と聞くと、過ちを深く反省して真人間になるんだと決意する感じがします。ギリシャ語のメタノエオーという動詞のことですが、そのもともとの意味は「考え直す」です。その土台にはヘブライ語のシューブという動詞があり、その意味は「戻る」とか「帰る」です。旧約聖書では、神のもとに立ち返ると言う時に使われます。なので、聖書の「悔い改める」の正確な意味は、それまで神に対して背を向けていた生き方を方向転換して神の方を向いて生きるようになるという意味です。「悔い改め」という言葉を目にしたら、この「神に向う方向転換」という意味を忘れないようにしましょう。
そうすると、一つおかしなことが出てきます。羊の所有者や女性が見失ったものを見つけ出して、それが嬉しくて周囲の人たちと一緒に喜びを分かち合いたいというのはわかります。また、罪びとが神に向かって方向転換の悔い改めをすると、天の御国で父なる神が天使たちと一緒に喜ぶというのもわかります。でも、この二つの喜びはかみ合っているでしょうか?というのは、失われた羊と銀貨と罪びとは結びつかないのではないかと思われるからです。罪びとが方向転換の悔い改めするのはわかるが、羊と銀貨は悔い改めなどしないのでは?それらは、ただ持ち主に捜されて見つけ出されただけで、自分からは何もしていない極めて受動的な立場です。悔い改めるという能動的なことが出来るのは人間です。それなのにイエス様は羊と銀貨も悔い改めをしたかのように教えるのです。そんなことは可能なのでしょうか?これは、方向転換の悔い改めを人間の能動的な行為とみることをやめて、神の側からの働きかけを中心にして考えるとわかってきます。今日はそのことを見ていきましょう。
ファリサイ派と律法学者という、当時のユダヤ教社会の宗教エリートがイエス様の行動を見てびっくり仰天します。あの、預言者の再来のように言われ、群衆から支持されている男が何をしているか見ろ、神の意思に反する生き方をする罪びとどもを受け入れて一緒に食事までしているではないか!当時は、一緒の食事というのは親密な関係にあることを示すものでした。エリートたちの批判を聞いたイエス様は、それに対する反論として失われた羊と銀貨のたとえを話したのです。反論はさらに続き、有名な「放蕩息子」のたとえも話します。本当はこの3つを一つの日課にすると良かったのですが、日本のルター派教会の今日の日課になっているのは2つだけなので、それに基づいて説教せざるを得ません。しかし、必要に応じて「放蕩息子」のたとえにも言及します。
イエス様が罪びとたちを受け入れたことについて、E.P.サンダースという著名な歴史聖書学者は次のように言っていました。ナザレのイエスは悔い改めも何もしない罪びとをそのまんま受け入れて一緒にパーティーまがいのことをしていた。それは、エルサレムの神殿を中心とする宗教システムへの挑戦であった。悔い改めも何もしない罪びとと一緒に食事をしたのは、新しい神殿が到来する新しい世での祝宴を先取りする行動であったと。
新しい世の祝宴を先取りしたというのは当たっていると思いますが、ただ、悔い改めも方向転換もしない、罪びとのままの者をそのまま受け入れたというのは本当でしょうか?イエス様が神の意思に反する罪を認めないということは福音書の各箇所で明らかです。一例として、ヨハネ8章でイエス様は姦淫の罪で石打ちの刑に晒された女性を助け出しました。その時、イエス様は何と言いましたか?これからは罪を犯してはならない、と言いました。罪は犯してはいけないのです。神の意思に反することはいけないのです。これが、神のひとり子であるイエス様の大前提です。イエス様が女性に対して行ったことは、犯した罪は不問にするから、ここで方向転換して生きなさいと新しい可能性を与えたのです。そう言うと、本当にその後は神の方を向いて生きるようになったとどうしてわかるのかと厳しい質問が出るかもしれません。確かにその女性がその後どういう生き方をしたかは聖書に記述がないのでわかりません。ルカ福音書7章に登場する、罪を赦された感謝からイエス様の足に香油を塗った女性との関連性を指摘する人もいますが、確かなことは言えません。ただ、問題の女性は、コンクリ―トの破片のような大きな石を大勢の人から力いっぱい投げつけられるという残酷な刑罰から九死に一生を得たのです。イエス様に対する感謝の気持ちが強ければ強い程、もう神の意思に反する生き方はやめようという気持ちで一杯になると思います。
イエス様が罪びとを受け入れると、罪びとに方向転換が見える形で起こった例もあります。ルカ19章のザアカイの場合です。イエス様が受け入れるや否や、彼は不正で蓄えた富を捨てる決心をしたのです。イエス様が罪びとを受け入れて一緒に食事をしたというのは、神の意思に反する生き方を認めたのではありません。それは、罪びとに方向転換をもたらす行動であり、一緒の食事は方向転換が生まれたことを喜び合うお祝いだったのです。宗教エリートたちにとって、イエス様に受け入れられた罪びとたち、彼に罪を赦された人たちの内に方向転換が起こったなど思いもよらないことでした。彼らにとって、神に受け入れられるとか罪を赦さるというのは、律法の掟を守ること、エルサレムの神殿で様々な生贄を捧げることによって可能でした。簡単に言うと、人間の側で何かをして、それで神に受け入れられ認められるという考えです。
ところが、イエス様の場合は逆で先に神の方が罪びとを受け入れて、受け入れられた罪びとの中に方向転換の悔い改めが生まれるという流れなのです。どうしてそんな違いが生まれたかと言うと、宗教エリートの場合は、律法の掟を外面的に守ればOK、殺人を犯さなければ十戒の第五の掟を守れている、不倫を犯さなければ第六の掟を守れている、ということでした。ところがイエス様は、掟は外面的な行為行動で守っても意味なし、心の中でも守れていなければならないと教えたのです。他人を心の中で罵ったら第五の掟を破ったことになる、女性をみだらな目で見たら心の中で第六の掟を破ったことになるというのです。全ての掟を心の有り様にまで適用したら、神の意思に沿える人など誰もいなくなります。宗教エリートも罪びとです。だから、聖書は真に全ての人間は罪びとであるという立場なのです。そして、心の中も含めて十戒の掟を完全に守れる人は誰もいないのです。
そのため、人間が神に背を向けた生き方を方向転換させて神を向いて生きられるようになるために、神やイエス様が先に私たちを受け入れなければならなかったのです。見失われた羊や銀貨はまさに神に背を向けて生きる罪びとを意味します。それらが必死に探されて見つけられることは、罪びとが神やイエス様に受け入れられたことを意味します。それで、見つけ出された羊や銀貨は悔い改めた罪びととイコールなのです。イエス様は一緒に食事をする者たちはこうなのだと言うのです。もし、神やイエス様の先回りの受け入れを考えないで人間の努力や達成で悔い改めを考えたら、このたとえは成り立ちません。
そう言うと、じゃ、次に来る放蕩息子のたとえはどうなんだ?放蕩息子は自分の行いを反省して父親の元に戻って受け入れられたではないか、羊や銀貨の場合と違って父親は捜しに行かなかった、息子が自分で帰って来たではないか、彼は方向転換の悔い改めをしたから父親に受け入れられたのではないか等々の批判が起きるかもしれません。しかし、放蕩息子のたとえも実は、父親に受け入れたから方向転換の悔い改めが起こったことを暗示しているのです。確かに父親は捜しに出かけませんでしたが、はっきり言います、息子は見失われていたのに見つかったのだ、と二回も繰り返して言います(15章24節、32節)。だから、お祝いをするのは当然なのだと。まさに、羊と銀貨のたとえと同じ主題です。もう少し詳しく見てみましょう。
放蕩息子は異国の地で飢え死にしそうになり故国の父親のもとに帰る決心をします。それは、父親のもとには食べ物が豊富にあるというのが動機になっています。しかし、帰っても父親は呆れかえって怒るだろう、お前など息子ではないと言われてしまうのがオチだろう。だから、ちゃんと自分の愚行は神に対する罪でしたと告白して、もう息子と呼ばれる資格はないです、雇い人でいいですからおいて下さい、そうお願いしよう。そんなふうに父親の前で言うべき言葉を考えて帰国の途につきます。ところが帰ってみると、父親は怒りもせず呆れ返りもせず、ただただ息子の帰郷を心から喜び彼を両手で抱きしめて受け入れたのです。息子は考えていた言葉を罪の告白まで言いますが、その後は遮られました。父親は、その後はもう言わなくてもいいと言わんばかりに召使いたちに祝宴の準備を命じたのです。その言葉とは、雇い人にしておいて下さいというお願いでした。それを言わないで済んだということは、父親は息子として受け入れることを示したのです。
息子が最初に帰国を決心したのは、もちろん自分の行いは愚かだったと後悔したことがあります。ただ、後悔するようになったのは、飢え死にしそうになって父親のもとなら食べ物に困らないとわかったからでした。それで父親に受け入れてもらえるために雇い人という条件を考えたのでした。そういうふうに最初の後悔と帰国の決心にはいろんな動機や打算が混じっていたのです。ところが、父親は無条件で受け入れたのです。その瞬間、最初の後悔と方向転換から余計な混ざり物が削ぎ落されて純粋な後悔と方向転換が生まれたのです。息子に「父親に無条件で受け入れられた息子」というアイデンティティーが確立したのです。神やイエス様の受け入れには同じ力が働くという教えです。
それなので、放蕩息子の帰郷を祝う祝宴は、まさに受け入れられたことで純粋な方向転換の悔い改めが起こったことをお祝いするものでした。このお祝いに対して異議を唱えたのが兄でした。つまり、彼は無条件の受け入れには純粋な方向転換など生み出す力はないという立場です。これはまさに、宗教エリートたちがイエス様の無条件の受け入れを意味なしと見なしたことに対応します。彼らは、イエス様と一緒に食事していた者たちの内面にそのような方向転換が生まれたことを信じられなかったのです。実に、このたとえを聞いたエリートたちは自分たちを映しだす鏡を示されたのでした。
イエス様に受け入れられた当時の罪びとたちは神を向いて生きるように方向転換の悔い改めが起こった人たちでした。それでは今の時代を生きる私たちはどうしたら自分の内にも同じような方向転換が生まれて新しいアイデンティティー、「神に無条件で受け入れられた神の子」のアイデンティティーが確立するでしょうか?当時のように受け入れをしてくれる肝心のイエス様は身近にいません。
実は、全ての人間はあと少しでイエス様に受け入れられるところに来ているのです。ただ、受け入れが完結していないので方向転換が起きていないのです。どういうことかと言うと、イエス様は神の意思に従いゴルゴタの丘で十字架にかけられて死なれました。これによって人間の罪が神に対して償われました。本当は人間が受けなければいけなかった神罰を、イエス様が全部引き受けて下さったのです。罪を償うために私たち人間は何もしていないのに、まるで先を越されたように償いが歴史の中で起こったのです。神とイエス様に先手を打たれたのです。
あとは私たち人間が、ゴルゴタの十字架の出来事は聖書に記されている通り起こった、そこでは私の神の意思に反する罪の償いが果たされたとわかって、それでイエス様は本当に救い主と信じて洗礼を受ければ、イエス様が果たしてくれた罪の償いがその人に効力を発します。実に信仰とは、神がイエス様を用いて編み出した罪の赦しという恵みを受け取って自分のものにすることです。あとは、受け取った恵みを手放さないようにしっかり携えて生きていくことができるように、聖書の神の御言葉に聞きイエス様が設定された聖餐式に与かります。信仰が人間の業でなく、神の業であるというのはこのためです。
このように罪の赦しの恵みを受け取って自分のものにして生きる者は、所有者に見出だされて担いで連れ帰ってもらう羊と同じです。また、女性に見出だされた銀貨と同じです。そして、石打の刑を免れた女性のように、また父親に抱きしめられた放蕩息子のように純粋な方向転換の悔い改めが起こった者です。それは、「神に無条件で受け入れられた神の子」のアイデンティティーを持って人生を歩む者です。このように悔い改めも人間の業ではなく、神の業なのです。
主にあって兄弟姉妹でおられる皆さん、この世にはまだ神に先手を打たれて神が両手をひろげて待っていてくれていることに気づかないでいる人たちが大勢います。神がイエス様を用いて準備してくれた罪の赦しの恵みも、せっかく神がどうぞと言って提供してくれているのに、受け取らないでいると、恵みは人の外側によそよそしくあるだけです。多くの人たちには、信仰とか悔い改めというものは人間の方で何かしなければいけないものという思いがあると思います。しかし、キリスト信仰では、それらは人間の業ではなく神の業で、人間は神が成し遂げたものを畏れ多く受け取るだけなのです。受け取ることで神の意思に沿う生き方を志向する心が生まれ強まっていくのです。神に認めてもらうために何かをするんだ、ではなく、一足先に認めてもらったから、あとはそれに相応しい者に変えてもらおう、相応しくないものを取り除いてもらおうということなのです。なので、既に受け取った私たちは、まだ受け取っていない人たちがすぐそばにある恵みに気づいて受け取ることができるように働きかけることが求められています。神は一人でも多くの人を、所有者に見つけてもらった羊のように、女性に見つけてもらった銀貨のように、本来いるべき場所に連れ帰ってそこで天使と一緒に盛大にお祝いしたいからです。